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No.271 - 「天気の子」が描いた異常気象 [映画]

この「クラバートの樹」というブログは、少年が主人公の小説『クラバート』から始めました。それもあって、今までに少年・少女を主人公にした物語を何回かとりあげました。

 『クラバート』(No.1, 2)
 『千と千尋の神隠し』(No.2)
 『小公女』(No.40)
 『ベラスケスの十字の謎』(No.45)
 『赤毛のアン』(No.77, 78)

の5つです。今回はその継続で、新海誠監督の『天気の子』(2019年7月19日公開)をとりあげます。

『天気の子』は、主人公の少年と少女(森嶋帆高ほだかと天野陽菜ひな)が「運命に翻弄されながらも、自分たちの生き方を選択する物語」(=映画のキャッチコピー)ですが、今回は映画に描かれた "気象"(特に異常気象)を中心に考えてみたいと思います。


気象監修


この映画で描かれた気象や自然現象については、気象庁気象研究所の研究官、荒木健太郎博士がアドバイザーとなって助言をしています。映画のエンドロールでも「気象監修:荒木健太郎」となっていました。

この荒木博士が監修した気象について、最近の「日経サイエンス」(2019年10月号)が特集記事を組んでいました。この記事の内容を中心に「天気の子が描いた異常気象」を紹介したいと思います。ちなみ荒木博士は映画の最初の方で「気象研究所の荒木研究員」として登場します。帆高が都市伝説(=100%晴れ女)の取材で出会う人物です。荒木博士は声の出演もされていました。

新海監督と荒木博士.jpg
新海誠監督と荒木健太郎博士(気象庁 気象研究所 研究官)
(日経サイエンス 2019年10月号)

気象研究所・荒木研究員.jpg
「天気の子」の最初の方に出てくる、気象研究所 気象・雲研究室の荒木研究員。
(日経サイエンス 2019年10月号)


積乱雲


まず、この映画で大変重要な役割をもっているのが積乱雲です。もちろん積乱雲は異常気象ではありません。積乱雲は、映画の冒頭のところで出てきます。離島から東京に向かうフェリーの船内で、家出した高校1年生の森嶋帆高は船内放送を耳にします。『小説 天気の子』から以下に引用します。帆高の1人称で書かれています。なお以降の引用では段落を増やした(ないしは減らした)ところが一部あります。また下線は原文にはありません。


『まもなく、海上にて非常に激しい雨が予想されます。甲板にいらっしゃる方は、安全のために船内にお戻りください。繰り返します、まもなく海上にて ・・・・・・ 』

やった、と僕は小さく声に出した。今なら甲板を独り占めできるかも。しりの痛い二等船室にもいいかげん飽きてきたところだし、他の乗客が戻ってくる前に甲板に出て雨の降る瞬間を眺めよう。スマホをジーンズのポケットにしまい、僕は駆け足で階段に向かった。

新海 誠『小説 天気の子』
角川文庫(2019)

帆高が駆け上がったときの甲板の様子は「日経サイエンス」の解説記事から引用しましょう。


人々が船室に戻り、がらんとした甲板は日に照らされて輝き、強い風が吹いている。空を見上げると、灰色の雲がみるみる青空を埋め尽くし、轟音とともに大粒の雨が降り注ぐ ───。

フェリーは灰色の雲の下に入っていくため、甲板上に帆高には、その雲の全貌を見ることはできない。しかし、遠くの海上からフェリーを眺めたら、フェリーの上空には巨大なカリフラワーのような白い雲が立ち上がっていることだろう。「積乱雲」だ。

中島 林彦(日本経済新聞)
協力:荒木 健太郎(気象庁 気象研究所)
「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)

帆高の乗ったフェリーが遭遇したのは積乱雲でした。「日経サイエンス」では、積乱雲が発生してから衰退するまでの一生が絵で説明してありました。この図は気象監修をした荒木博士によるものです。

積乱雲の一生.jpg
積乱雲の一生
(日経サイエンス 2019年10月号)

 発達期 

夏の強い日差しで地面が熱せられたり、暖かく湿った空気が流入するなど大気が不安定になった状態で、暖かい空気が上空に持ち上げられます。高度500m~1kmになると水蒸気が凝結して水滴(=雲粒)ができ、その雲粒が集まると「積雲」ができます。

積雲が発達していくと「雄大積雲」になります。雄大積雲は雲の頂点が坊主頭のように盛り上がるので「入道雲」とも呼ばれます。

 成熟期 

積雲が発達すると、雲の上部が羽毛状になり、雷を伴って「積乱雲」になります。積乱雲がさらに発達すると高度10km~15kmにある「対流圏界面」に到達します。地上から対流圏界面までの「対流圏」では温度が上に行くほど下がるので暖かい雲は浮力を得ていますが、対流圏界面より上の「成層圏」では逆に温度が上に行くほど上がるので、積乱雲は浮力を失い、見えない壁に当たったように横へと広がります。これが「かなとこ雲」です。

積乱雲の内部では、雲粒がもとになって雨粒、氷晶、霰(あられ)、雹(ひょう)などの降水粒子ができます。それらが形成される過程で周囲の熱を奪って空気が冷やされ、下降気流が生まれて雨が降り始めます。

 衰弱期 

積乱雲内部では下降気流が支配的になり、雲は次第に衰弱してゆきます。雨を含む下降気流は、時に「ダウンバースト」や「マイクロバースト」と呼ばれる強い流れになり、地表にぶつかって突風をもたらします。


マイクロバースト


日経サイエンス 2019-10.jpg
「日経サイエンス」2019.10
積乱雲の衰退期に発生する下降気流は、地面に衝突して四方に広がったときに災害をもたらすほど強くなることがあります。これがダウンバーストです。この突風は、風速 50m を越えることがあると言います。ダウンバーストは、特に航空機にとって深刻な問題です。着陸直前の航空機は失速速度に近い速さで飛んでいて、このときにダウンバーストに遭遇すると墜落事故に直結するからです。このため、気象用のレーダーでダウンバーストを検知する技術が発達してきました。

ダウンバーストが局所的に発生するのがマイクロバーストです。『天気の子』の冒頭では、フェリーの甲板に出た帆高がマイクロバーストに遭遇する場面が描かれています(以下の「日経サイエンス」からの引用は敬称略)。


ダウンバーストのうち、水平方向のスケールが 4km 以下のものも方が一般的に勢いが強い。これがマイクロバーストで、雨粒を含む冷たい空気の塊が高速で地面に激突するイメージだ。「帆高が乗ったフェリーはマイクロバーストの直撃を受けたようだ」(荒木)。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)


目を疑った。巨大なプールを逆さにしたようなものすごい量の水が、空から落ちてくる。それはとぐろを巻く ── まるでりゅうだ。そう思った直後、ドンッという激しい衝撃で僕は甲板に叩きつけられた。滝壺たきつぼの下にいるかのように、背中が重い水に叩かれ続ける。フェリーがきしんだ音を立てながら大きく揺れる。

やばい! そう思った時には、僕の体は甲板を滑り落ちていた。フェリーの傾きが増していく。滑りながら僕は手を伸ばす。どこかをつかもうとする。でもそんな場所はどこにもない。だめだ、落ちる ── その瞬間、誰かに手首を掴まれた。がくん、と体が止まる。フェリーの傾きが、ゆっくりと元に戻っていく。

新海 誠『小説 天気の子』

『小説 天気の子』から引用したのは帆高と須賀圭介の出会いの場面です。この場面はマイクロバーストの直撃に逢った帆高を須賀さんが救うというシーンなのでした。『天気の子』は冒頭から気象現象と人との関わりが現れます。


かなとこ雲


成熟期の積乱雲は、雲の上が対流圏界面に到達すると横へと広がっていきます。これが「かなとこ雲」です。金属加工を行うときに使う金床かなとこに形が似た雲という意味です。

かなとこ雲(実写).jpg
積乱雲が発達してできた "かなとこ雲"(荒木健太郎博士撮影)。積乱雲は対流圏界面に達すると横に広がる。
(日経サイエンス 2019年10月号)

かなとこ.jpg
かなとこ(金床)
このかなとこ雲が『天気の子』に出てきます。次の画像は夏美が帆高に「積乱雲一つに湖くらいの水が含まれていて、未知の生態系があってもおかしくない」と話す場面に映し出されたものです。上の写真のかなとこ雲をみると、下層の方は雲がもくもくしていますが、上層は刷毛で掃いたようになめらかです。こういった特徴がアニメーションでもよくとらえられています。

かなとこ雲(映画).jpg
「天気の子」の "かなとこ雲"
(日経サイエンス 2019年10月号)

さらに「かなとこ雲」は『天気の子』において大変に重要な役割をもっています。以下の『小説 天気の子』の引用は、陽菜に聞いた話として帆高が語る、小説の冒頭部分です。陽菜はもう何ヶ月も目を覚まさない母親の病室で、再び家族一緒に青空の下を歩けますようにと祈っていました。ある雨の日、陽菜は何かに導かれるように病院を抜けだし、そこだけ陽が差している廃ビルの屋上に行き、その場にあった鳥居を目を閉じて祈りながらくぐります。すると、ふいに空気が変わりました。


目を開くと ── そこは青空の真ん中だった。

彼女は強い風に吹かれながら、そらのずっと高いところに浮かんでいた。いや、風を切り裂いて落ちていた。聞いたこともないような低くて深い風の音が周囲に渦巻いていた。息は吐くたびに白く凍り、濃紺の中でキラキラと瞬いた。それなのに、恐怖はなかった。目覚めたまま夢を見ているような奇妙な感覚だった。

足元を見下ろすと、巨大なカリフラワーのような積乱雲がいくつも浮かんでいた。一つひとつがきっと何キロメートルの大きさの、それは壮麗な雲の森のようだった。

ふと、雲の色が変化していることに彼女は気づいた。雲の頂上、大気の境目で平らになっている平野のような場所に、ぽつりぽつりと緑が生まれ始めている。彼女は目をみはる。

それは、まるで草原だった。地上からは決して見えない雲の頭頂に、さざめく緑が生まれては消えているのだ。そしてその周囲に、気づけば生き物のような微細ななにかが群がっていた。

新海 誠『小説 天気の子』

その「微細ななにか」は、映画では "魚" と表現されていました。そして「まるで草原のようなところ」が "彼岸" に比定されています。この引用部分のシーンは映画のポスターに採用されました。

「天気の子」ポスター画像.jpg
「天気の子」ポスターの "かなとこ雲"

かなとこ雲の頂上に緑の草原のようなところが見える。魚らしきものが群れ、龍のようなものが周りを泳いでいる。
(日経サイエンス 2019年10月号)


8月の豪雨と降雪


ここからが異常気象の話です。『天気の子』に描かれた異常気象は何ヶ月も降り続く雨です。須賀さんの事務所での気象情報のシーンがあります。


バーカウンターには時代遅れのブラウン管テレビが置いてあり、ぼやけた画質のお天気キャスターがさっきからしやべっている。

『既に連続降水日数は二ヶ月以上を記録し、今後の一ヶ月予報でも、降水量が多く雨が続くとみられています。気象庁は「極めて異例の事態」との見解を発表し、土砂災害などに最大級の警戒をするようにと ─── 』

新海 誠『小説 天気の子』

さらに映画の後半では異常な大雨になり、都心の交通機関が麻痺し、8月だというのに気温が急激に下がって雪が舞い始める場面が登場します。次の引用は夏美の一人称の部分です。


圭ちゃんの事務所に着く頃には、信じられないことに雨は雪に変わっていた。

事務所裏にカブを停め、油断してショートパンツで来てしまったことを後悔しながら、私は事務所の階段を駆け下りた。ドアを開けて中に入る。

「寒ーっ! ちょっと圭ちゃん、八月に雪だよ!」
肩にのった雪を払いながら言う。

「あれ?」
返事がない。見ると、バーカウンターに圭ちゃんはつっぷしていた。カウンターの上のテレビが、小さなボリュームでしゃべっている。

『都心にまさかの雪が降っております。本日夕方からの激しい豪雨は各地に浸水被害をもたらしましたが、午後九時現在、雨は広い地域で雪に変わっています。予報では、深夜過ぎからはふたたび雨に変わる見込みで ─── 』

新海 誠『小説 天気の子』

8月の降雪.jpg
「天気の子」で8月の都心に雪が舞うシーン。渋谷のスクランブル交差点の北西方向(センター街の方向)の光景である。電光掲示板にその時の天気図が映し出されている。
(日経サイエンス 2019年10月号)

実際に、夏に東京で雨が雪に変わったことはありません。しかし冬なら関東地方が豪雨と豪雪に同時に見舞われたことがありました。


荒木が参考にしたのは、関東で大雪警報と大雨警報が同時に出るという異様な事態となった2014年2月15日の天気図だ(下図)。その前日から関東甲信地方の内陸部は豪雪になった。最深積雪は山梨県甲府市で114cm、群馬県前橋市で73cm、埼玉県熊谷市でも62cmと「信じがたい値が観測された」(荒木)。東京でも15日未明に27cmの積雪となり交通機関が大きく乱れた。

一方、関東東部は大雨で、日降水量は茨城県つくば市で110cm、千葉県成田市で124cmと2月としては記録的な豪雨になった。

天気図を見ると、本州の南海上を発達しながら進んできた、前線を伴う温帯低気圧が2月15日朝、関東平野を通過して、北東の海上に抜けたいったことがわかる。日本の南岸を東ないし北東の方向に進むこうした温帯低気圧を「南岸低気圧」という。

南岸低気圧には南から湿った暖気が入り、寒冷前線と温暖前線に乗り上げ、雨や雪を降らす積乱雲や乱層雲が発生する。積乱雲は局地的に大雨を降らす雲なのに対し、乱層雲は広範囲にしとしと雨や雪を降らせる雨雲・雪雲だ。

「当時、関東の南海上に南岸低気圧があったので、基本的に低気圧北側にある乱層雲など層状性の雲の降水になっていたが、関東平野に沿岸前線(局地的な前線)が形成され、その東の暖気側で大雨、西の寒気側で大雪となった」(荒木)。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)

南岸低気圧(事例).jpg
2014年2月15日9時の天気図。緑の折れ線は南岸低気圧が進んだ経路を表す。
(日経サイエンス 2019年10月号)


この2014年2月15日の天気図を参考に荒木は、陽菜や帆高が雪の夜をさまよった日の天気図を作った(下図)。

関東の南にある低気圧は2月15日のものより発達、中心気圧はさらに下がっているが、これは普通の温帯低気圧とは異なる。作中、その日の晩のテレビの気象情報では、「この異常な天候が今後も数週間続く」との見通しを伝えているので停滞性の低気圧ということになるが、「普通、南岸低気圧は移動性で、関東の南に停滞することはない」(荒木)からだ。

そこで荒木は、こうした状況にマッチするような日本上空の気流や気圧配置を考えた。「ロシア・カムチャッカ半島東方のアリューシャン列島付近などに進んだ温帯低気圧が閉塞し、上空の渦と相互作用するような状況では、停滞性の低気圧ができることがある」と荒木は話す。

「閉塞」とは温帯低気圧の温暖前線と寒冷前線が重なり、暖かい気団が冷たい気団に閉め出されて上方に押し上げられた状態のこと)

南岸低気圧の場合、雨から雪に変わるのは、低気圧の移動にともなう変化と考えることもできるが、停滞性の低気圧の場合、雨から雪の変化は、新たな寒気が流入することを意味する。作中、テレビの気象情報では、キャスターが次のように話している。

『八月としては異例の寒気です。現在、都内の気温は十度を下回っており ─── 』

『低気圧の北側から、都心部に強い寒気が流入しています。この一時間で気温は十五度以上も低下し、この先もさらに下がっていく可能性が ─── 』

荒木によると、創作した天気図のように関東の南に低気圧、その北方に高気圧がある場合、寒気の流入が通常より強まる場合がある。北関東から東北にかけて山脈が南北に走っているが、こうした気圧配置だと、東風が山脈にぶつかり、南向きに流れを変えて関東に吹き込む。これによって、関東に流れ込む北よりの冷たい風が強まる。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)

南岸低気圧(映画).jpg
2014年2月15日の天気図を参考に荒木博士が映画用に創作した天気図。アリューシャン列島付近にできることがある「閉塞性の温帯低気圧」が関東の南部にできて居座り、オホーツク海にある高気圧から寒気が流れ込むという想定。「天気の子」で雪が舞うシーン(上に引用)で電光掲示板に表示されたのがこの天気図である。
(日経サイエンス 2019年10月号)


地球温暖化による異常気象


『天気の子』では、1時間に80mmを越すような豪雨が描かれていますが、アメダスのデータを調べると、そうした豪雨の発生頻度は過去40年間で有意に増えているそうです(荒木博士による)。

そしてIPCC(国連の気象変動に関する政府間パネル)は、地球温暖化による気象変動はもう起きていて、異常気象はその現れだと警告しています。しかし、温暖化が気象にどれほどの影響を及ぼし、どのように異常気象をもららすのかは、よく分かっていなかったのが実状でした。現在、その状況が変わりつつあり、温暖化が気象変動に及ぼす影響度合いが解明されつつあります。


研究は着実に進展している。昨年7月上旬、瀬戸内地方を中心に大きな被害が出た広域豪雨は、発達した積乱雲の群によってもたらされたが、その総降水量は温暖化の影響で6%前後増えていた可能性があることが判明。同じく昨年7月、各地で起きた記録的猛暑は、温暖化していなければ生じ得なかったこともわかってきた。いずれも気象研究所のシミュレーション研究の成果だ。温暖化による異常気象は海外の遠い話ではなく、身近で起きている。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)

日経サイエンスには新海監督と荒木博士の対談も掲載されていますが、その中にも次のようなくだりがあります。


新海】 気象変動が起きているとうのは随分昔から言われていましたし、温暖化によって異常気象になるというのは、子どものころから科学誌などで読んでいました。なので二酸化炭素の排出量規制をしなくちゃいけないとか、対策のための国際会議もいくつかありましたから、人間は何とかしていくのかな、と10代、20代のころは思っていました。

でも数年前から、気づいたら気象変動を実感、体感するようになっていて、それは僕にとっては結構ショックなことだったんです。昔から言われていたことなのに、結局警鐘がそのまま現実になってしまった。人間ってやっぱり、そんなに賢くいろんなことを回避したりできないんだな、人間って結構どうしようもないなと思ったりもしたんです。

それが今回の映画の発想につながっているんですが、それは科学のコミュニティーではどういう受け止め方をされているんですか。やっっぱりこう、ずっとそうなると言われてきたことが起きてしまった、という受け止め方なんでしょうか。

荒木】 確かに以前から気象変動とか異常気象に関する研究は行われてきたんですけれども、おそらく新海さんが当時聞かれていたことは、かなり荒い計算に基づいていたと思います。本当にここ最近なんですよ。スーパーコンピュータの性能が格段に上がって、うまくシミュレーションできるようになったのは。実際に起こっている異常気象に対して、温暖化がどれくらい影響を及ぼしているかを突き止める研究が、まさ今進められているところなんです。この先どうなっていくのかについては、さらに長期的な視点で研究が進められていくと思います。

「『天気の子』の空はこうして生まれた」
(日経サイエンス 2019年10月号)

荒木博士は「新海さんが今まさに感じられている "気象が極端になっている" というのは、まさにその通り」と述べ、その例として西日本の豪雨や猛暑をあげています。『天気の子』に地球温暖化という言葉は全く出てきませんが、この映画の隠れた背景が地球温暖化なのです。温暖化が極端な気象(熱波、豪雨、台風の巨大化・・・)を招き、映画ではその「極端」を数ヶ月も降り続く雨や夏の東京での降雪で表現した。そういうことだと思います。


『天気の子』のテーマ


「天気の子」パンフレット.jpg

以下は「日経サイエンス」の記事から少々離れて『天気の子』の感想をいくつかの視点で書きます。

 天気 

帆高が映画の中で「ただの空模様に、こんなにも気持ちは動く。人の心は空とつながっている」と語っているように、天気は人々の感情と深い関わりをもっています。また、単に感情だけでなく、我々は毎日気象情報をみて行動を決めています。もちろん個人の行動だけでなく、天気は農業やビジネスの多くを左右します。災害レベルの天候となると人の命にかかわる。この社会と深い関わりを持っているのが天気です。

映画の題名になった『天気の子』とは、第1義的には、祈ることで空を晴れにできる能力をもった少女 = 陽菜を意味するのでしょう。それと同時に「天気の子=人類」をも示しています。この映画は "天気" をテーマの中心に据えた、まれな映画だと言えるでしょう。

 異常気象 

さらに、この映画で描かれるのは、延々と降り続く雨、豪雨、真夏の東京での降雪といった異常気象です。もう少し一般化して言うと「極端になった世界」「何かが狂ってしまった世界」「調和が戻せそうにない世界」が描かれています。

この映画に「地球温暖化」という言葉はいっさい出てきませんが、「日経サイエンス」の記事にあるように、現在の世界で起こっている異常気象の原因が地球温暖化であることを新海監督は認識しているし、気象監修の荒木博士もそう解説しています。この映画は、

地球温暖化が招く異常気象の一つの帰結をリアルに描き出した

と言えるでしょう。その一方で、この映画には異常気象と対比するかたちで、青空、雲、雲間から差す太陽の光などの美しい描写がふんだんに出てきます。実写ではできない、アニメーション(絵)だからこその表現です。

映画体験が人に与えるインパクトは大きいものがあります。異常気象と美しい自然の両方を対比的に体験することで、この映画は見た人に強い印象を残すものになりました。

 主人公 

「小説 天気の子」のほとんどが帆高の1人称で書かれているように、物語の主人公は森嶋帆高です。そしてこの映画は「帆高と社会の対立」がストーリの軸となっています。そもそも発端からして帆高の家出から始まっています。警官から職務質問をうけ、追跡され、逃走するのも、帆高と社会との対立の象徴です。

その社会の良識や常識を代表しているのが、帆高を雇う須賀さんです。須賀さんは一見 "悪ぶって" 見えますが、実の子と再び一緒に暮らせる日を熱望している常識人です。映画の後半では帆高が須賀さんに銃を向ける場面もあります。

その2人の中に登場するのが天野陽菜です。病気の母親の回復を強く祈った陽菜は、天とつながり、晴れ間を作り出せる能力をもった。「一時的・部分的にせよ、異常気象を解消する力」を彼女は得たわけです。陽菜は多数の人々の幸福を実現する少女であり、それは陽菜個人の犠牲の上に成り立っています。

帆高はそういう陽菜を、最終的に普通の少女に連れ戻します。その時の帆高の「天気なんて ── 狂ったままでいいんんだ!」という "開き直り" のような叫びは、多数の人々の幸福(=社会)と対立します。いいか悪いかは別にして、それが帆高の選択でした。

監督の新海さんは、「君の名は。」が大ヒットしたあと、さまざまな意見や批判をもらった、それらもふまえて『天気の子』を企画する時に決心したことがあると語っています。


自分なりに心に決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」ということだ。映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを ── 例えば人に知られたらまゆをひそめられてしまうようなひそかな願いを ── 語るべきだと、僕は今さらにあらめて思ったのだ。

新海 誠
『小説 天気の子』あとがき

「映画は教科書ではない」。それを象徴するような帆高の行動ですが、それをどう受け止めるかは観客にゆだねられていると言えるでしょう。

 暗示 

この映画には、余韻というか、これからの主人公を暗示するような表現が盛り込まれています。まず帆高についてですが、エピローグの帆高について「日経サイエンス」は次のように書いています。


新海は「調和が戻らない世界で、むしろその中で新しい何かを生み出す物語を描きたいというのが、企画の最初の思いでした」と映画パンフレットのインタビューで語っている。

家出当初の帆高の愛読書はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』だったが、エピローグでは帆高が「アントロポセン(人新世)」に関心を示していることがさりげなく示されている。人類の営みが地球に恒久的な痕跡を残し始めたことを示す新しい地質時代の呼称として、ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンが2000年に提唱した言葉だ。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)



また陽菜について言うと、エピローグで帆高と再会するとき彼女は両手を組んで何かを祈っています。そのあたりを『小説 天気の子』から引用してみます。


突然に、水鳥が飛び立った。僕は思わず目で行方を追う。
すると、心臓が大きく跳ねた。

彼女が、そこにいた。
坂の上で、傘も差さず、両手を組んでいた。
目をつむったまま、祈っていた。

降りしきる雨の中で、陽菜さんは沈んだ街に向かい、なにかを祈っていた。なにかを願っていた。

─── 違ったんだ、と、目が覚めるように僕は思う。

違った、そうじゃなかった。世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ●●●●●●●●●。あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。そして僕たちは願ったんだ。世界がどんなかたちだろうとそんなことは関係なく、ただ、ともに生きていくことを。

新海 誠『小説 天気の子』

映画を見ると、エピローグで陽菜が祈っている姿は「晴れ間を作るときに祈った姿」とそっくりでした。彼女が何を祈っていたかについての説明はなく、解釈は映画を見る人にまかされています。しかし自然な解釈は、陽菜が水没した東京の街を前にして "再び世界が調和をとりもどしますように" と祈っていた、というものでしょう。もちろん陽菜にかつてのような天候を変える力はありません。しかし一人の少女として祈る。そういうことだと思います。



さらに暗示的なのは、この映画の英語題名「Weathering With You」です。weather は普通「天気・天候」という名詞ですが、ここでは動詞として使ってあります。動詞の weather は「風雨にさらす」という意味ですが、「(困難なことを)乗り越える」という意味もあって、英語題名はまさにその意味です。

「Weathering With You」の you を陽菜(あるいは帆高)のことだとしたら「2人で困難を乗り越えよう」という意味になるし、you が人々一般を示すのなら(=総称の you )「皆で困難を乗り越えよう」と解釈できます。

この映画は、日本語と英語の題名を合わせて「我々はすべて天気の子であり、皆で困難を乗り越えていこう」と言っているように思えます。これが映画の最大の暗示でしょう。



スウェーデンの少女、グレタ・トゥーンベリさんがスウェーデン議会の前で「気候のための学校ストライキ」を始めたのは15歳の時です(2018年8月)。つまり彼女は帆高や陽菜と同世代であり、偶然ですが "学校ストライキ" は『天気の子』の制作時期と重なりました。グレタさんの行動を肯定するにせよ否定するにせよ、彼女が強調しているように、地球温暖化の影響を最も強く受けるのは現在の少年・少女の世代です。

『天気の子』は、地球温暖化による異常気象のもとで生きる少年・少女を描いています。この映画によって天気や気候、さらには地球環境により関心をもつ人が増えれば、新海監督の意図(の一つ)が達成されたことになると思いました。


ホンダのカブと本田翼


ここからは映画のテーマや異常気象とは全く関係がない蛇足で、『天気の子』のキャスティングのことです。

『天気の子』のキャスティングで興味深かったのは、本田翼さんが夏美の声を担当したことでした。この映画の声の担当は、オーディションで選ばれた主人公の2人(帆高:醍醐虎汰朗、陽菜:森七菜)は別として、小栗旬(須賀圭介)、倍賞千恵子(冨美)、平泉成(安井刑事)など、重要人物にベテラン(ないしは演技派)俳優が配されています。

しかし夏美を担当した本田翼さんは(失礼ながら)演技力のある女優とは見なされていないと思います。どちらかと言うと "アイドル" に近い(と思っていました)。その彼女が演じた夏美は、映画のテーマとプロットの展開に直結している大変に重要な役です。本田翼さんで大丈夫なのか。

と思って実際に映画を見ると、そんな "心配" はまったく不要なことがよく分かりました。本田翼さんは全く違和感なく夏美役を演じていた。俳優を(ないしは人を)見かけとか、イメージとか、思いこみで判断するのは良くないことが改めて分かりました。その前提で、さらによくよく考えてみると、「本田翼」と「夏美」は次のようにつながっているのですね。

① 本田翼が夏美を演じた
② 夏美の愛車はピンク色のホンダのカブ
③ カブを含むホンダの2輪車の統一マークは、ウィング・マーク
④ 本田翼は本名で、ウィング・マークにちなんで父親が命名した。

④は、かつて本田翼さん自身がそう語っていました。父がつけてくれたこの名前が大好きだと ・・・・・・。確か、名前の縁でホンダのCMに出ることが決まったときの会見映像だったと記憶しています。

① ② ③ ④ の4つが揃っているのは偶然ではないでしょう。本田翼 → 夏美 → ホンダのカブ → ウィング・マーク → 本田翼 ときれいにつながっている。そいういう風に仕組まれているようです。本田翼さんを夏美役にキャスティングしたのは単なる話題づくりではないと思いました。




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No.270 - 綴プロジェクトによる北斎の肉筆画 [アート]


高精度複製画による日本美術の展示会


No.85「洛中洛外図と群鶴図」で、2013年に京都府で開催された「文化財デジタル複製品展覧会 - 日本の美」を見学した話を書きました。この展覧会には、キヤノン株式会社が社会貢献活動として京都文化協会と共同で行っている「つづりプロジェクト」(正式名称:文化財未来継承プロジェクト)で作られた高精度複製画が展示されていました。その原画の多くが国宝・重要文化財です。No.85 のタイトルにしたのは展示作品の中から、狩野永徳の『上杉本・洛中洛外図屏風』(国宝)と、尾形光琳の『群鶴図屏風』でした。

綴プロジェクトの高精度複製画は、複製と言っても非常にレベルが高いものです。高精度のデジタルカメラで日本画を撮影し、高精細のインクジェット・プリンタで専用の和紙や絹本に印刷します。それだけではなく、金箔や金泥、雲母(きら)の部分は本物を使い、表装は実物そっくりに新たに作成します。もちろん、金箔・金泥・雲母・表装は、その道のプロフェッショナルの方がやるわけです。つまり単にデジタル撮影・印刷技術だけで作成しているのではありません。「キヤノンのデジタル技術 + 京都の伝統工芸」が綴プロジェクトです。その制作過程を、キヤノンのホームページの画像から掲載しておきます。

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綴プロジェクトの制作過程(1)入力
デジタル1眼レフカメラによる多分割撮影で、高精度のデジタル画像を取得する。

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綴プロジェクトの制作過程(2)色合わせ
オリジナル作品とプリント出力の結果を合わせるためのカラー・マッチング処理を行う。

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綴プロジェクトの制作過程(3)出力
12色の顔料を用いた大型インクジェットプリンタで、専用の和紙や絹本に印刷する。

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綴プロジェクトの制作過程(4)金箔
京都の伝統工芸士が、金箔・金泥、雲母(きら)を施す。

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綴プロジェクトの制作過程(5)表装
京都の伝統工芸士の表具師表装を行い、最終的に複製を仕上げる。

京都での「日本の美」展覧会を見て、「高精度複製画展示会」には次のようなメリットがあることがよく分かりました。

◆接近して鑑賞できる

我々は普通、国宝・重文クラスの屏風や襖絵を、たとえば30cm程度まで近づいて鑑賞することはできません。そういう作品は、No.85「洛中洛外図と群鶴図」で感想を書いた『上杉本・洛中洛外図屏風』のようにガラスケースの中に展示されているのが通例です(所蔵している米沢市の上杉博物館の例)。

しかし屏風や襖絵は本来、家屋の中のしつらえであって、数メートル離れて見てもよいし、近くで正座して眺めてもよく、また30cm程度まで近づいて目を凝らして鑑賞してもよいわけです。尾形光琳の『群鶴図屏風』などは、実際に近づいて斜めの位置からみると異様な迫力でした。狩野永徳の『洛中洛外図屏風』は、六曲一双に約2500人が描かれています。30cm程度まで近づいて細部を見ることにこそ意義があるわけです。もちろん短時間で細部すべてを見ることはできませんが、そういう鑑賞方法でないとこの屏風の真価の一端にさえ触れられない。

しかし高精度複製画であれば鑑賞上の制約事項がほとんどなく、近接して鑑賞するのも自由です。これは大きなメリットです。また日本画は油絵と違って絵の具や墨を厚塗りすることがないので、高精細インクジェット・プリンタでの複製であっても違和感がないところが好都合です。

◆門外不出の作品を鑑賞できる

尾形光琳の『群鶴図屏風』を所蔵しているのはアメリカのワシントンD.C.にあるフリーア美術館ですが、この美術館は所蔵全作品が門外不出です。従って、たとえば日本で「尾形光琳大回顧展」をやったとしても、そこに『群鶴図屏風』が出展されることはありません。

それでは、ワシントンD.C.まで行ったら見られるのかというと、そんなこともありません。私は1度だけフリーア美術館を訪問したことがあるのですが『群鶴図屏風』は展示されていませんでした。今回のテーマである北斎の肉筆画もなかった。フリーア美術館は「比較的小規模な東洋美術の美術館」なので、日本美術を展示するスペースには限りがあります。

もちろん展示替えはあるのでしょうが、フリーア美術館を気楽に訪問できるのはワシントンD.C.やその周辺州に居住している人か、せいぜいアメリカ東海岸に住んでいる人でしょう。所蔵品リストを見ると、フリーア美術館は "日本美術の聖地" と言えるところなのですが、その所蔵品は日本美術ファンからみると実質的に "死蔵" されていることになります。

しかし高精度複製画なら、その "死蔵美術品" を鑑賞できることになります。

この「綴プロジェクト」で作成された複製画の展覧会が、最近、東京でありました。今回はその話です。


高精細複製画で綴るフリーア美術館の北斎展


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すみだ北斎美術館
2019年6月25日~8月25日、すみだ北斎美術館で、フリーア美術館が所蔵する北斎の肉筆画、13点を高精細複製画で再現した展示会が開催されました。高精細複製画による日本画の展覧会は私にとっては6年ぶりで、しかも北斎の肉筆画です。これは絶対に行くしかないと思って、7月30日からの後期の展示会に行ってきました。

その後期で展示されていた作品から4点を以下に紹介します。最初は『玉川六景図』と『富士田園景図』ですが、この2作品は北斎の六曲一双の屏風絵という、滅多に見ることができないものです。しかも高精度複製画ならではの展示方法でした。

次に北斎の最晩年(87歳)の作品、『雷神図』と『波濤図』をとりあげます。90歳近くにもなってこのような大迫力の絵を描けるというのは驚きでした。


『玉川六景図』(北斎74歳)


『玉川六景図』は、歌枕(和歌に繰り返し取り上げられたテーマ)となっている全国各地の6つの玉川(=六玉川。多摩川=玉川)を取り上げ、その風景と川にちなむ人物(川の風物を読んだ歌人、川原で働く人、旅人など)を描いた六曲一双の屏風です。

フリーア美術館が所蔵する原本では、右隻に風景、左隻に人物が配置されています。しかし明治28年(1895年)に発行された雑誌「日本美術画報」に掲載された写真では、風景とそれにちなむ人物の2扇をペアにし、右隻に3つ、左隻に3つのペアが配置されています。またその写真の表装は現在のものとは違っている。フリーア(=チャールズ・フリーア。1854-1919)が『玉川六景図』を購入したのは明治の末期です。つまり、フリーアが購入する前か後のどこかの時点で表装が改装され、配置が変更されたことになります。その理由は分かっていません。

なお、フリーア美術館は Web サイトで「右隻に風景、左隻に人物」となっている画像を公開していますが、「高精細複製画で綴るフリーア美術館の北斎展」の Web サイトやカタログでは「右隻に人物、左隻に風景」となっています。おそらく北斎展の情報が正しいのでしょうが、以下ではフリーア美術館の Web サイトどおりの画像にしておきます。

玉川六景図・右隻・フリーア.jpg
葛飾北斎(1760-1849)
「玉川六景図」(右隻)
(フリーア美術館)

玉川六景図・左隻・フリーア.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(左隻)
(フリーア美術館)

今回の展示会では『玉川六景図』がオリジナルの配置で展示されていました。ごくシンプルに考えて、風景とそれにちなむ人物をペアにした配置の方が屏風としての納得性が高いわけです。配置の変更は、おそらく風景と人物の関係性が理解できなかった誰かがやったと考えられます。綴プロジェクトによる『玉川六景図』の配置が次です。

玉川六景図・右隻・綴.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(右隻)
(綴プロジェクト)

玉川六景図・左隻・綴.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(左隻)
(綴プロジェクト)

このオリジナル配置による『玉川六景図』の展示は、高精度複製画による展示会のメリットを最大限に生かしたものと言えます。北斎の本物の屏風を所有している美術館がその配置を組み替えるなど、たとえそれが本来の配置であったとしても絶対に出来ないでしょう。複製画ならではの展示でした。



以下に、綴プロジェクト配置による『玉川六景図』の画像を、右から順に2扇ずつ掲載します。玉川の説明については、

朝日新聞デジタル
 「ことばマガジン・アーカイブ・観字紀行」
 「多摩」か「玉」か 六玉川へ (2011/05/27)

を参考にしました。なお、"玉" とは "美しい" という意味で(玉虫の玉)、玉川は「美しい川、清流」という意味になります。

 摂津の国 三島の玉川:右隻 第1・2扇 

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葛飾北斎「玉川六景図」
摂津の国 三島の玉川
(右隻 第1・2扇:綴プロジェクト)

大阪府高槻市の川で、淀川の近くにあります。描かれている人物は、この川を詠んだ平安時代後期(11世紀)の歌人、相模です。

見わたせば 波のしがらみ かけてけり
卯の花咲ける 玉川の里
相模(後拾遺和歌集)

の歌のように、三島の玉川は卯の花の名所として知られていました。現在でも高槻市の花は卯の花です。北斎の風景にはその卯の花ときぬたが描かれています。砧は布を叩いて柔らかくする木製の道具なので、この付近は布の産地でもあったのでしょう。

 山城の国 井手の玉川 

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葛飾北斎「玉川六景図」
山城の国 井手の玉川
(右隻 第3・4扇:綴プロジェクト)

京都府綴喜つづき郡井手町を流れる川で、京都府南部を貫流している木津川の支流です。山吹の名所として知られ、代表的な歌は、

駒とめて なほ水飼はん 山吹の
花の露添ふ 井手の玉川
藤原俊成(新古今和歌集)

です("水飼う" とは、馬などに水を飲ませる意味)。貴族の子供を背負った従者とともに山吹が描かれています。川の中には鯉も描かれています。

 紀伊の国 高野こうやの玉川 

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葛飾北斎「玉川六景図」
紀伊の国 高野の玉川
(右隻 第5・6扇:綴プロジェクト)

和歌山県高野町の川で、高野山の奥院の弘法大師廟の近くの清流です。霊峰である柳山から湧き流れている神聖な川で、禊の場となっています。高野の玉川を詠んだ歌にちなんで、旅人や僧侶が玉川を眺める姿がよく描かれますが、北斎は樵と滝で表現しています。

忘れても 汲みやしつらん 旅人の
高野の奥の 玉川の水
弘法大師(風雅和歌集)

 近江の国 野路のじの玉川 

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葛飾北斎「玉川六景図」
近江の国 野路の玉川
(左隻 第1・2扇:綴プロジェクト)

滋賀県草津市野路にあった川ですが現在はなく、かつて玉川があった旨を記した碑が整備されています。この川は「萩の玉川」とも言わる萩の名所でした。描かれた人物はこの川を詠んだ平安時代後期の歌人、源俊頼としよりです。

あすも来む 野路の玉川 萩こえて
色なる波に 月やどりけり
源俊頼(千載和歌集)

「萩の花の色が映って色づいたかに見える川面の波に、月が映っている」という光景を詠んだ歌です。北斎は「源俊頼・月・川面を覆う萩・玉川」の4つをストレートに描いています。

 武蔵の国 調布の玉川 

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葛飾北斎「玉川六景図」
武蔵の国 調布の玉川
(左隻 第3・4扇:綴プロジェクト)

東京都調布市付近を流れる玉川(多摩川)です。古来、この付近は布の産地でした。そもそも調布とは、租税の一種である "調"("租庸調" の "調")として納める布の意味です。万葉集の東歌にも、

多摩川に さらす手作り さらさらに
なにぞこの児の ここだかなしき
作者不詳(万葉集)

という歌があります(古語で "かなしき" はいとおしいの意味)。この歌のように、調布付近の多摩川は布さらしの名所として知られていました。北斎の作品では、河原に布を並べて干している風景と、きぬたを打つ女性が描かれています。

 陸奥の国 野田の玉川 

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葛飾北斎「玉川六景図」
陸奥の国 野田の玉川
(左隻 第5・6扇:綴プロジェクト)

宮城県多賀城市の玉川です。芭蕉の「奥の細道」にも出てきます。この川を詠んだ能因法師(11世紀)の歌にちなんで、旅の僧侶と千鳥が描かれています。

ゆふされば 潮風越して みちのくの
野田の玉川 ちどりなくなり
能因法師(新古今和歌集)


『富士田園景図』(北斎70歳頃)


富士田園景図・右隻.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻)
(フリーア美術館)

富士田園景図・左隻.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻)
(フリーア美術館)

富士山を望む田園の風景を描いた六曲一双の屏風です。描かれているのは庶民の暮しぶりで、茅葺かやぶきの屋根を葺き替える人やきぬたを打つ人、石臼を回す人(以上、右隻)、張り手で張った布に刷毛で染色する(ないしは糊付けする)人、獅子舞とそれに見入る人(左隻)などが描かれています。さらには、旅人や商人らしき人たちが道を行き交ってっています。富士山を望む街道沿いの田園風景といった風情です。

『富嶽三十六景』と同時期の作品ですが、すみだ北斎美術館の展示では、この絵とあわせて『富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二』が展示されていました。確かに『富士田園景図』の右隻と『駿州片倉茶園』は良く似ています。家があり、木があり、蛇行する道の向こうに富士山があり、その中で庶民や農民の生活が展開されるところがそっくりです。

富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二.jpg
葛飾 北斎
「富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二」

このように今回の展覧会では、綴プロジェクトによる北斎の肉筆画と併せて、構図やモチーフが類似している北斎の浮世絵版画や北斎漫画のカットが展示されていて、北斎の画業をわかりやすく示していました。

さらに、この『富士田園景図』だけは特別な展示がしてありました。つまり会場に台座を作り、その上に畳を敷き詰め、そこに『富士田園景図』を展示するというやりかたです。見学者は靴を脱ぎ、畳の上に座って『富士田園景図』を鑑賞します。これは「高精度複製画」ならではの展示方法で、本物をこのように展示するのは無理というものでしょう。この "畳の上展示" の様子を掲載したブログがあったので、それを以下に引用します。この画像は前期の『十二か月花鳥図』ですが、後期では『富士田園景図』がこの展示方法でした。

北斎の屏風絵・畳の上展示.jpg
「十二か月花鳥図」(前期)の展示。畳の上に座って鑑賞できるようになっている。「富士田園景図」(後期)も同じ展示であった。Tak(たけ)さんのブログ「青い日記帳」より画像を引用。

富士田園景図・右隻・部分1.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

富士田園景図・右隻・部分2.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

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葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

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葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)

富士田園景図・左隻・部分2.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)

富士田園景図・左隻・部分3.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)


雷神図(北斎 87歳)


雷神図(表装なし).jpg
葛飾北斎
「雷神図」
(フリーア美術館)

落款から、北斎が数え年88歳の1847年(弘化4年)、最晩年の作であることがわかります。背中の太鼓を打ち鳴らす雷神の頭上からは、2本の赤い閃光が走っています。たらし込みの技法で描かれた渦巻く暗雲には、墨の飛沫が散らしてあります。この飛沫は嵐の予兆の雨なのか、それとも雷神の神通力のようなものかも知れません。

雷神は古来より日本人になじみが深く、特に絵画では俵屋宗達の『風神雷神図屏風』にはじまる淋派の一連の作品が有名です。その宗達の雷神は、どちらかと言うと "ユーモラス" と表現してもいいほど親しみを感じさせるものです。

しかし北斎のこの作品は宗達とは違って、明らかに "畏怖の対象としての雷神" を描いています。雷は、落雷とそれに伴う火災によって人間界に災いをもたらします。その恐ろしいものが恐ろしい姿として描かれている。

キヤノンの綴プロジェクトのホームページによると、この絵はフリーアがアーネスト・フェノロサから購入しました。そのフェノロサはこの絵について

これまでに見た日本美術の『雷神』を題材とした作品の中で、最も優れた作である」

と言ったそうです。なるほど ・・・・・・。フェノロサにとって宗達的な雷神には違和感があったのかもしません。

この肉筆画は、題材、構図、筆の運び、技法のどれをとっても "覇気" がみなぎり、米寿を迎えた老画家の作とはとても思えない作品です。


波濤図(北斎 87歳)


波濤図.jpg
葛飾北斎
「波濤図」
(フリーア美術館)

雷神図と同じく、北斎 87歳の最晩年の作品です。この作品は

① 激しくうねって押し寄せる荒波
② 屹立している岸壁
③ 遙か先にある集落

の3つの要素で構成されています。①荒波と②岸壁は、互いに激しく攻めぎ合っている感じであり、遠景の集落はその "戦い" とは全く無関係な静けさです。岸壁が荒波から集落を守っているようにも見える。動と静の対比というところでしょうか。

荒波の鉤爪かぎづめ状の波頭の表現は、明らかに『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』と通じるものを感じます(No.156「世界で2番目に有名な絵」に画像を掲載)。また動と静の対比も『神奈川沖浪裏』と似ている。ただ肉筆画と版画の違いがあって、一番明らかなのは波の周りの水しぶきの表現です。『神奈川沖浪裏』の水しぶきは、あたりまえですが版木で印刷したものですが、『波濤図』では白い顔料の飛沫を散らした表現になっています。ちょうど『雷神図』の墨を散らしたところと似ています。

フリーアが美術館に寄贈した作品に浮世絵版画はありません。浮世絵版画は、絵師と彫師と摺師の分業で作成されるものであり、その点をフリーアが嫌ったものと言われます。肉筆画は画家の筆の勢いや運びをダイレクトに伝えます。その意味で、この展覧会は貴重でした。


北斎の肉筆画と綴プロジェクト


初めにも書いたようにフリーア美術館は「日本美術の聖地」ですが、所蔵品のすべてが門外不出です。また、フリーアがこの美術館に寄贈した作品は肉筆絵画と彫刻(仏像)で、江戸期日本美術の一大ジャンルである浮世絵版画はありません。その結果、ここの北斎はすべて肉筆画であり、「世界最大級の北斎肉筆画コレクション」なのです。まとめると、今回の美術展は、

① 門外不出の美術館の作品(=フリーア美術館)
② 北斎の肉筆画(=世界最大級のコレクション)
③ 肉筆画の高精度複製(=綴プロジェクト)

という3つの要素が交わるところで成立したものです。キヤノン株式会社は「綴プロジェクト」に技術と人材とお金をつぎ込んでいると思うのですが、「門外不出の北斎の肉筆画展」を開催できるまでに至ったキヤノン株式会社の社会貢献活動に感謝したいと思います。




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No.269 - アンドロクレスとライオン [歴史]

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で古代ローマの円形闘技場で行われた剣闘士の闘技会のことを書いたのですが、その時に思い出した話がありました。今回は No.203 の補足としてその話を書きます。

まず No.203 の復習ですが、紀元2世紀ごろのローマ帝国の闘技会はふつう午後に行われ、午前中にはその "前座" が開催されました。1日のスケジュールは次のようです。

◆ 野獣狩り(午前)
ライオン、ヒョウ、クマ、鹿、ガゼル、ダチョウなどを闘獣士が狩る(殺す)ショー。猛獣の中には小さいときから人間を襲うように訓練されたものあり、そういう猛獣と闘獣士は互角に戦った。

◆ 公開処刑(午前)
死刑判決を受けた罪人の公開処刑。処刑の方法はショーとしての演出があった。罪人が猛獣に喰い殺される "猛獣刑" もあった。

◆ 闘技会(午後)
剣闘士同士の試合(殺し合い)。剣闘士には、武器と防具、戦い方によって、魚剣闘士、投網剣闘士、追撃剣闘士などの様々な種類があった。

No.203 では、アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(河出書房新社 2010)を引用してそれぞれの様子を紹介しました。この本は最新のローマ研究にもとづき、紀元115年のトラヤヌス帝の時代の首都ローマの1日を実況中継風に描いたものです。その中の野獣狩り・公開処刑のところで思い出した話がありました。「アンドロクレスとライオン」という話です。それを以下に書きます。


アンドロクレスとライオンの話


「アンドロクレスとライオン」は、手短かに要約すると次のような話です。


アンドロクレスとライオン

逃亡奴隷のアンドロクレスが闘技場でライオンの餌食になりかけたとき、ライオンは彼を認識し、抱擁を交わして再会を喜び合った。

不審に思った皇帝が事情を尋ねると、奴隷はかつてそのライオンの足の棘を抜いてやったことがあるという。ライオンはその恩を忘れずに彼を助けたのである。

この話に感銘を受けた皇帝はアンドロクレスをゆるし、ライオンともども自由の身にした。


アッティカの夜.jpg
アウルス・ゲッリウス
「アッティカの夜 1」
大西 英文 訳
京都大学学術出版会
これは、いわゆる「動物の恩返し」ですね。この手の話は日本の民話や昔話にもいろいろあります。「鶴の恩返し」が有名ですが「キツネの恩返し」という話もありました。おそらく世界中にこのタイプの説話があるのでしょう。

「動物の恩返し寓話」として「アンドロクレスとライオン」を考えると、その教訓は「ライオンでさえ人から親切にしてもらったことを忘れないのだから、人は他人から受けた恩を忘れてはいけない」ということでしょう。ないしは「どんな相手に対しても良いことをすれば、それは何らかの利得となって返ってくる」でしょう。

この話の原典は、紀元2世紀の古代ローマの文法学者で著述家、アウルス・ゲッリウスが著した『アッティカの夜』(アッティカ夜話)の一節です。そして原典では寓話やフィクションではなく、実話として書かれているのです。そこで、以下にその原典を引用してみまず。


アンドロクレスとライオン(『アッティカの夜』より)


『アッティカの夜』はゲッリウスがギリシャ滞在中に執筆を始めた書物で、彼が読んだり聞いたりした数々の事項が列記されています。内容も文法、哲学、歴史、逸話とさまざまです。ちなみに "アッティカ" とはギリシャのアテネ周辺を指す地名です。この本の第5巻 14節が「アンドロクレスとライオン」の話です。話は次のように始まります。

なお、以下に引用する日本語訳の人名はラテン語読みで "アンドロクルス" となっています。また、段落を増やしたところや漢数字を算用数字にしたところ、ルビを追加したところがあります。


14、プレイストニケスの異名をもつ博学者アピオンが、ローマで見た、と記している、ライオンと人が、古い交情を思いだし、再び互いを認め合ったという話

プレイストニケスと呼ばれたアピオンは、文学に通暁し、ギリシアの文物の該博な知識を有する人であった。彼には、知る人ぞ知ると言われる書があり、そこには、エジプトで見聞できる、ありとあらゆると言ってもよい、不思議の話が収められている。

もっとも、彼が聞いたり読んだりしたと語っているものに限っては、悪い癖の、博識を誇示しようとする熱意のあまり、話が饒舌にすぎるが ── 実際、アピオンは、学識を誇示することでは、極端な自己宣伝家なのである ──、しかし、『エジプト誌』第五巻に記している次の話は、聞いたり読んだりしたものではなく、自ら、都ローマで、自分の目で見た、と確言している話である。

アウルス・ゲッリウス
『アッティカの夜 1』第5巻 14節
訳:大西 英文(神戸市外大名誉教授)
京都大学学術出版会(2016.1.30)

ここまでが "前置き" です。ここに出てくるアピオンという人物は、紀元1世紀のアレクサンドリア(エジプト)に在住のギリシャ人で、文法学者・ホメロス研究家でした。そのアピオンの著書『エジプト誌』は散逸して現存しません。しかし、ゲッリウスがそこから引用した文が現存している。『アッティカの夜』にはこういった例が多々あり、そういう意味で貴重な本なのです。

余談ですが、"アレクサンドリア"、"書物の散逸" と聞いて連想する話があります。No.27「ローマ人の物語(4)帝国の末路」で塩野七生さんの本から引用したように、ローマ帝国では4世紀のキリスト教の国教化にともなって図書館が閉鎖され、書物が散逸しました。図書館の蔵書が "異教の本" だったからです。この図書館の一つが有名なアレクサンドリアの図書館でした。アピオンの著書『エジプト誌』の散逸が図書館の閉鎖と関係あるかは知りませんが、とにかくローマ帝国の末期には文化の破壊と断絶が起こり、残った書物もあるが、失われたものも多い。そういうことかと理解しました。

ゲッリウスが伝える「アンドロクレスとライオン」の話は、闘技場でアンドロクレスとライオンが再会する前半と、過去にアンドロクレスがライオンを助けた話の後半に分かれています。その前半が以下です。


アンドロクレスとライオン(前半)



彼はこう語る。「大円形競技場キクルス・マクシムスで、実に大規模な野獣狩りの見世物が民衆に供されていた。たまたまローマに滞在していた私も、その見世物の観客の一人であった。そこには、凶暴な野獣が多数いて、野獣の大きさは群を抜き、その姿形や狂暴さは、どれも尋常ではなかった。

しかし、他の何にもまさって、ライオンの巨大さは驚異の的で、中でも一頭のライオンはのライオンすべてを凌駕していた。その一頭のライオンは、身体の動きや巨大さ、辺りに響き渡る恐ろしい咆哮ほうこう、盛り上がった筋肉、首回りになびたてがみで、観衆皆の心と目を一身に釘付けにしていた。

獣との闘いに連れ出された他の多くの剣闘士らにまじって、さる執政官格元老員議員の、一人の奴隷が闘いに引き出されてきた。奴隷の名はアンドロクルスと言った。くだんのライオンは、遠くからこの奴隷を目にすると、突然、まるで驚いたかのように立ち止まり、それから、ゆっくりと、穏やかに、あたかも何かに気づいたとでも言わんばかりのていで、その男に近づいていった。それから、じゃれつく犬同然、媚びるように、そっと尻尾を振りながら、男の身体に身をすり寄せ、すでに恐怖で肝を潰している、その男のすねや手を舌で優しくぺろぺろと舐め始めたのである。

人間のアンドロクルスは、これほど狂暴な獣が、そうして媚びるような仕草をしているあいだに、魂消たまげていた心の落ち着きを取り戻すと、様子を見ようと、おもむろにライオンに目をやった。その時、見れば、まるで再び互いを認め合ったといった風情で、人間とライオンが、嬉しそうに [再会を] 祝い合っていると思われたことであろう」。

「同上」


アンドロクレスとライオン(後半)


ライオンがアンドロクレスを認識し、近づいて身をすり寄せたのは、過去にアンドロクレスがそのライオンを助けたからでした。後半はその話です。冒頭に「ガイウス・カエサル」という名が出てきますが、Wikipedia によると、これはおそらく第3代ローマ帝国皇帝・カリグラ(在位37年~41年)だろう、とのことです。


これほど驚くべき出来事に、人々は興奮して大喚声を上げ、アンドロクルスはガイウス・カエサルに呼び出されて、狂暴極まりないライオンが、なぜ彼一人だけを容赦したのか、訳を尋ねられた、とアピオンは言う。その時、アンドロクルスは驚嘆すべき不思議な話を、こう語った。

「私の主人が、執政官格最高指揮権をもって、属州アフリカを統治していた時、そこに同行していた私は、理不尽にも、主人に毎日鞭打たれることに耐えきれず、やむなく逃亡し、その地の総督である主人から、できるだけ身の安全な隠れを求めて、人気ひとけない平原や砂漠に逃げ込み、食べ物がなければ、どうにかして命を絶とうという考えでおりました。

その時、激しく燃えさかるが頭上にかかる真昼頃、人里遠く離れ、隠れ処に格好の、とある洞穴ほらあなを、私は見つけ、そこに入って、身を潜めました。それからほどなくして、その同じ洞穴に、このライオンが近づいてきたのです。足の一本はびっこを引き、血が流れて、傷の痛みと苦しみを訴えるようなうめきと唸り声を発しておりました」。

洞穴に近づいてくるライオンが最初に目に入った時には、確かに、恐怖し、心は怯えた、と彼は語っている。

「しかし、ライオンが、状況か明らかなように、自分のものである、その住処すみかに入ってきたあと、距離を置いて、身を潜めている私に気付くと、穏やかに、人なつっこい様子で近づいてきて、足を上げ、それを私の方に差し出して、まるで助けを求めているかのようなそぶりを見せたのです。

そこで、私は、足裏に刺さっていた大きな、木のとげを抜いてやり、傷深くにたまった膿を絞り出して、もはや大きな恐れを抱くこともなく、丁寧に傷口の血をすっかり拭ってやったのです。すると、私のその尽力と治療で傷の痛みが和らいだのか、ライオンは傷ついた足を私の手の上に置いたまま、横たわって、眠りにつきました。

その日以来、丸三年のあいだ、私とライオンは、その同じ洞穴で、同じ食べ物を共にして暮らしたのです。といいますのも、狩りをして獣を仕留めると、脂ののった獲物の四肢を洞穴の私の所にまで、ライオンが運んでくれたからです。その肉を、私は、火とおこすべがなかったものですから、真昼の日差しで焼いて、食べたものでした。

しかし、そんな、獣のような暮らしがもう嫌になり、ある日、ライオンが狩りに出かけていったおりに、私は洞穴をあとにして、ほぼ三日間、道を辿っていく内に、兵士らに見つかり、捕らえられて、アフリカからローマの主人のもとに連れ戻されたのです。

主人は、ただちに、私を極刑で罰しようと、野獣の相手になるように手配したという次第です。私には分かります。このライオンも、私と離ればなれになったあと、捕らえられたものでしょうが、今、私に、あの時の親切と治療の恩返しをしてくれているのだ、と」。

「同上」

アンドロクレスが語るライオンを助けた話は以上ですが、その後アンドクレスとライオンがどうなったかで、全体の話が終わります。


アピオンが伝える、アンドロクルスの語った言葉は以上のようなものである。アピオンに拠れば、この話は、すべて記録され、記録された書板しょばんは国民の間に周知されて、その結果、国民全員の嘆願によって、アンドロクルスは [奴隷身分から] 解放され、罰を免除された上に、国民投票によって件のライオンを与えられたという。

「その後」とアピオンは続ける。「アンドロクルスと、細い紐に繋がれたライオンは、ローマのの都中を、店から店へと連れだって歩き回り、アンドロクルスにはかねが贈られ、ライオンには花吹雪が浴びせかけられて、出会った人々が、至るところで、口々に、こう語る姿が見かけられた、『これが人間の賓客ひんきゃくのライオンだ。この人がライオンの医者だ』と」。

「同上」

Androcles (Jean-LeonGerome).jpg
ジャン = レオン・ジェローム(1824-1904)
アンドロクレス」(1902頃)

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、ローマの闘技会を描いたジェロームの絵を引用したが(「差し下ろされた親指」と「皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち」)、そのジェロームはアンドロクレスの絵も描いている。晩年の78歳頃の作品で、No.203 の2作(30~40歳台)と比べると筆致の衰えを感じるが、ゲッリウスの「アッティカの夜」の場面を忠実に表現している。画像は Wikimedia Commons より引用した。
(アルゼンチン国立美術館)


イソップ/バーナード・ショー/ハリウッド映画


この「アンドロクレスとライオン」の話は、後世にイソップ寓話集に取り入れられました。イソップ寓話集を編纂したペリーによる、ペリー・インデックス:563の「羊飼いとライオン」です。

ちなみにイソップ(アイソーポス)は紀元前6世紀ごろのギリシャ人ですが、イソップ寓話というのは、イソップ自身が作った(とされる)寓話や、ギリシャの民話、後世に作られた寓話などの集大成です。イソップ寓話集は「イソップ風の寓話を集めたもの」です。

さらに現代になると、イギリスの作家、ジョージ・バーナード・ショーが『アンドロクレスとライオン』という戯曲を創作しました。ここではアンドロクレスはギリシャ人の仕立屋で、キリスト教徒であったため宗教迫害でライオンの餌食になりかけた、というストーリーになっています。もちろん、オリジナルの話は紀元1世紀であり、キリスト教が広まる以前です。

そしてこのショーの戯曲を原作として『アンドロクレスと獅子』というハリウッド映画が1952年に制作されました。

以上のように「アンドロクレスとライオン」は延々と語りつがれてきたということになります。よくある「動物の恩返し寓話」に思えるのに、この話には文豪やハリウッドの映画人までを引き付ける魅力があるのでしょう。


実話か


「アンドクレスとライオン」に戻ります。この話は、アレクサンドリア在住のホメロス学者、アピオンがローマで実際に体験した話を『エジプト誌』に書き、それをゲッリウスが『アッティカの夜』に転載したという形になっています。あくまで実話という立場で書かれています。

しかし本当に実話なのか、疑問が多々あります。話を良く読むと、次のような "不審点" が自然と浮かびます。

◆ ゲッリウスが引用しているアピオンは著書で「この話は聞いたり読んだりしたものではなく、ローマで自分の目で見た」と書いている。伝聞ではなく、自ら体験した実話だと強調しているところが、かえって怪しい。

◆ ゲッリウスはアピオンを評して「話が饒舌にすぎ、極端な自己宣伝家」と言っている。「アンドクレスとライオン」の話も "誇大にゆがめられている" のではないか。

◆ アンドロクレスが語る「ライオンを助けた経緯」が詳細すぎる。その話を書板(木、または石)に記述してローマ市民に公開したとなっているが、そんなことが本当にあるのだろうか。アピオンは少なくとも尾鰭おひれをつけて大げさに書いたのではないか。

◆ 傷ついて住処の洞穴に戻ってきたライオンは、初めから人間(アンドロクレス)に馴れ馴れしくしている。野生動物の行動とも思えない。アンドロクレスがライオンから肉をもらいつつ、3年も洞穴で生活したというのも信じがたい。

◆ アンドロクレスがライオンと別れてから闘技場で再会するまでの経過時間が書いていないが、たとえば1年だとすると、1年間離れたあとでライオンが人間の顔を覚えているのだろうか。

というような不審点です。直感的にはこの話はフィクションと思えます。百歩譲ったとしても、闘技場で丸腰の人間を襲わなかったライオンがいて、それが話の発端になった創作ではと思います。


ライオン、"クリスティアン" の物語


とは言うものの、実話だという可能性もあるわけです。アンドロクレスはエジプトでライオンと "何らかの交流" があり、ローマの闘技場でそのライオンと再会し、ライオンはアンドロクレスを認識したという可能性です。

そして "不審点" としてあげた最後の点、つまり「かつての恩人をライオンが認識した」ということに関して、実際に現代にそのようなことがあったことを知りました。

ゲッリウス著・大西英文訳『アッティカの夜』は京都大学学術出版会の西洋古典叢書の中の1冊ですが、この西洋古典叢書の「月報 119」に和歌山県立医科大学教授の西村賀子よしこ氏が次の文章を書いています。


ライオンが人を覚えていて愛情を示すことなどあるのだろうか。

ところが、これが実際にある。しかもその光景を「自分の目で見る」ことさえできる。動画サイトの YouTube で Christian the Lion を一度ご覧いただきたい。常識的にはありえないと思われる光景を見て、最初は驚き、これは本当にドキュメンタリーかと一瞬、疑うが、事実のようだ。

ことの起こりは 1969年、生後間もない赤ちゃんライオンが有名デパートのハロッズで売られていた。ロンドン在住の2人のオーストラリア青年が不憫に思って買い求め、自宅で飼い始めた。ライオンはクリスティアンと名付けられ、1年も経つと体も大きくなって運動量も食事量も増えたため、人といっしょに都会で暮らすのが難しくなった。

そこで彼らは、周到な計画の下に彼を野生に戻すことを選び、ケニアの野生保護活動家の援助を受けながら自然の中に放した。そして1年後の1971年、2人の若者はふたたび野生保護区を訪れた。

ライオンは最初はゆっくりと近づき、次第に足早に駆け寄り、最後は彼らに跳びついて後ろ足で立ち上がって抱擁する。ライオンが再会の喜びを体全体で表現するさまは感動をさそう。アンドロクルスとライオンの闘技場での発見的再認の場面もかくや。

西村賀子
西洋古典叢書「月報 119」(2015)
京都大学学術出版会

補足しますと「ケニアの野生保護活動家の援助を受けながら自然の中に放した」と書いてある "野生保護活動家" とは、『野生のエルザ』(ノンフィクション作品。後に映画。原題 "Born Free")を書いたジョイ・アダムゾンの夫であるジョージ・アダムソンです。彼はケニアで自然保護区の管理をしており、そこに野生復帰のリハビリをしたクリスティアンを放したわけです。アダムソン夫妻はライオンのエルザを野生に戻したことがあり、その経験も生きたのでしょう。

実際に YouTube の動画を見ると、2人の青年がクリスティアンと再会する場面は確かに感動的です。そこでのクリスティアンの振る舞いは、まるで人にじゃれつく猫のようで、こういう姿を見るとライオンも "猫科" の動物だと感じてしまいます。この「実話・クリスティアン」で分かることは

少なくとも幼少期の1年を人間に育てられたライオンは、1年間離れていても育ての親を認識できて、愛情を示す

ということです。これはアンドロクレスのライオンとはシチュエーションが少々違います。しかしライオンの認識能力を示す話であり、「アンドロクロスとライオン」の話の不審点の一つが少し緩和された気がします。一つだけですが。

Christian - Reunion.jpg
2人の青年、アンソニー・バーク(Anthony Bourke)、ジョン・レンダル(John Rendall)と再開して飛びつくクリスティアン。左はジョージ・アダムソン(George Adamson)。まだタテガミがないクリスティアンは幼獣であり、このような無邪気な行動はその特徴だという。


野獣狩りと猛獣刑


「アンドロクロスとライオン」の話が実話かどうかという議論はひとまず置いて、この話から判明することを考えてみたいと思います。この物語の根幹は、

ローマの闘技場でかつての恩人と再会したライオンが、その恩人を認識し、愛情を示した

というところにあり、これが実話かどうかが疑わしいわけです。もちろんその他、ライオンの洞穴で刺を抜いてやったというのも怪しいし、3年間の共同生活も疑わしい。しかし根幹のところはさておき、この物語の背景・バックグラウンドになっているのは次のような事項です。

① 紀元1世紀ごろにはエジプトにライオンが生息していた(現在はいない)。そのライオンを捕獲してローマに運び、猛獣狩りのショーが行われた。

② ローマの大円形競技場(フォロ・ロマーノの近く)では、ライオンを筆頭とする多数の狂暴そうな猛獣が集められ、剣闘士(闘獣士)がそれと戦う「猛獣狩り」のショーが開催された。

③ そのショーと併せて、罪人を猛獣の餌食にする「猛獣刑」も行われた。

④ 執政官の経験があり、エジプト総督を勤めた元老院議員(=ローマ帝国では高位の貴族)は、所有していた奴隷が逃亡して捕まると、その逃亡奴隷をショーの余興として猛獣刑にしようとした。

仮に「アンドロクレスとライオン」の根幹部分が創作物語だとしても、創作者はその背景となっている ① ~ ④ のような事項を出来るだけリアルに書いたはずです。常識的に考えて根幹部分は「驚くべき話、一見、眉唾ものの話」なのだから、少なくとも話の背景は紀元1世紀の誰もにとって自然なはずであり、そうでないと全体が完全に嘘っぽくなってしまいます。「真実は細部に宿る」というわけです。



最初に書いたように、No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」では、アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』によって、古代ローマの円形闘技場で行われた「野獣狩り」や「公開処刑」の様子を紹介しました。それらは最新の "ローマ研究" にもとづく著者の想像だったのですが、紀元1世紀の人物が書いた「アンドロクレスとライオン」の話と併せて考えると、闘技場の様子が極めてリアルに感じられたのでした。




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No.268 - 青森は日本一の「短命県」 [社会]

No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」で、都道府県の "幸福度" を数値化する指標の一つである平均寿命を取り上げました。この「都道府県別の平均寿命」は青森県が最下位です。そのことを指して、

青森県民が塩気の利いた食品(漬け物など)を好むからだという説を聞いたことがありますが、青森県当局としてはその原因を追求し対策をとるべきでしょう。

と書きました。私は知らなかったのですが、実は「青森は日本一の短命県」という "汚名" を返上すべく、2005年から大がかりなプロジェクトが進んでいます。そのことは最近の新聞で初めて知りました。その認識不足の反省も込めて、今回は進行中のプロジェクトの話を書きます。まず、No.247 で取り上げた「都道府県別の平均寿命」の復習です。


都道府県別の平均寿命


厚生労働省は5年に1回、「生命表」を公表しています。最新は2015年のデータで、ここでは男女別の平均余命が全国および都道府県別に集計されています。ゼロ歳の平均余命が、いわゆる「平均寿命」です。

No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」は、「2018年版 都道府県幸福度ランキング」(日本総合研究所編)の内容を紹介したものでしたが、ここで指標の一つとして使われた平均寿命は、厚生労働省の「道府県別平均寿命データ(2015年)」の男女の平均値でした。つまり男と女の平均寿命を単純平均したもの(小数点以下1桁)です。

今回は、厚生労働省の原データ(小数点以下2桁)から再計算した結果を掲げます。No.247 の表とは微妙に違っていますが、有効数字の違いであり、大筋では同じです。もちろん都道府県の順位は変わりません。表の用語の意味は以下の通りです。

◆ 平均寿命
男性の平均寿命と女性の平均寿命を単純平均したもの。
◆ 偏差
平均値からのズレ。正か負の値。
◆ 標準偏差
偏差の2乗を平均したものが分散で、分散の平方根が標準偏差(正の値)
◆ 標準化変量
偏差を標準偏差で割ったもの(正または負)。つまり標準化変量は、平均がゼロ、標準偏差が1になるようにデータを正規化したもの。
◆ 偏差値
標準化変量を10倍し、50を足したもの。偏差値は平均が50、標準偏差が10になるようにデータを正規化したもの。大学入試などに使われる学力偏差値と同じ。

平均寿命のランキング

原データ都道府県別生命表(厚生労働省)。調査年は2015年
平均寿命男性平均寿命と女性平均寿命の平均

順位 都府県 平均 寿命 偏差 標準化 変量 偏差値
1長野 84.7125 0.8753 1.9129 69
2滋賀 84.6750 0.8378 1.8309 68
3福井 84.4050 0.5678 1.2409 62
4京都 84.3750 0.5378 1.1753 62
5熊本 84.3550 0.5178 1.1316 61
6岡山 84.3515 0.5143 1.1239 61
7奈良 84.3050 0.4678 1.0223 60
8神奈川84.2800 0.4428 0.9677 60
9島根 84.2150 0.3778 0.8256 58
10広島 84.2050 0.3678 0.8038 58
11大分 84.1950 0.3578 0.7819 58
12東京 84.1650 0.3278 0.7164 57
13石川 84.1600 0.3228 0.7054 57
14宮城 84.0750 0.2378 0.5197 55
15山梨 84.0350 0.1978 0.4323 54
16香川 84.0300 0.1928 0.4213 54
17静岡 84.0250 0.1878 0.4104 54
18富山 84.0150 0.1778 0.3886 54
19新潟 84.0050 0.1678 0.3667 54
20兵庫 83.9950 0.1578 0.3449 53
21愛知 83.9800 0.1428 0.3121 53
22千葉 83.9350 0.0978 0.2137 52
23三重 83.9250 0.0878 0.1919 52
24岐阜 83.9100 0.0728 0.1591 52
25福岡 83.9000 0.0628 0.1372 51
26佐賀 83.8850 0.0478 0.1045 51
27沖縄 83.8550 0.0178 0.0389 50
28山形 83.7400-0.0972-0.2124 48
28埼玉 83.7400-0.0972-0.2124 48
30宮崎 83.7300-0.1072-0.2343 48
31群馬 83.7250-0.1122-0.2452 48
32鳥取 83.7200-0.1172-0.2561 47
33山口 83.6950-0.1422-0.3108 47
34長崎 83.6750-0.1622-0.3545 46
35高知 83.6350-0.2022-0.4419 46
36北海道83.5250-0.3122-0.6823 43
37徳島 83.4900-0.3472-0.7588 42
37愛媛 83.4900-0.3472-0.7588 42
39大阪 83.4800-0.3572-0.7806 42
40鹿児島83.4000-0.4372-0.9554 40
41茨城 83.3050-0.5322-1.1631 38
42福島 83.2600-0.5772-1.2614 37
43和歌山83.2050-0.6322-1.3816 36
44栃木 83.1700-0.6672-1.4581 35
45岩手 83.1500-0.6872-1.5018 35
46秋田 82.9450-0.8922-1.9498 31
47青森 82.3000-1.5372-3.3594 16

◆平均83.8372(歳)
◆標準偏差0.4576(歳)

最後に掲げた「平均」は、もちろん「都道府県別平均寿命の平均」です。厚生労働省の原データにおける全国の平均寿命(2015年)は、男:80.77歳、女:87.01歳で、日本人の平均寿命という場合の値がこれです。男女の平均寿命の単純平均は83.89歳になります。


都道府県別の平均寿命を眺めてみると ・・・・・・


表には分かりやすいように「偏差値」を併記しました。大学入試における偏差値の感覚からいうと、

◆ 長野県(69)と滋賀県(68)は素晴らしい成績。3位を6ポイント以上、引き離している。
◆ 偏差値50以下では、岩手県(35)ぐらいまでが、何とか大学に入れるレベル(ボーダー・フリーの大学は別として)。
◆ 岩手県より4ポイント低い秋田県(31)は入学不適格。
◆ 青森県(16)は論外。

ということになります。「青森は日本一の短命県」とタイトルに書きましたが、その認識は甘いのです。「ダントツの、飛び抜けた短命県」というのが正しい。1位の長野県と47位の青森県の平均寿命の差は約2.4歳なので、大したことないと思えるかもしれません。しかし数値の中身を調べると青森県だけが異常値であることがわかります。

ちなみに、上表は男女の平均値ですが、厚生労働省の原データをみると男女とも青森県が最下位です。男性の1位の滋賀県(81.78歳)と青森県(78.67歳)の寿命の差は3.11歳、女性の1位の長野県(87.67歳)と青森県(85.93)の寿命の差は1.74歳です。



1位の長野県と最下位の青森県が日本におけるリンゴの2大産地なのも気になります。生産量では青森が全国の約60%、長野が約20%で、この2県で日本のリンゴ生産の大半を占めています。英語の有名な諺(ことわざ)に

An apple a day keeps the doctor away.(1日1個のリンゴは医者を遠ざける)

というのがあります。長野県の平均寿命をみると正しい諺に思えますが、青森県をみると "本当か?" という気になる。もっとも、リンゴに多くの栄養成分が含まれていることは確かな事実ですが ・・・・・・。


岩木健康増進プロジェクト


2019年7月27日の朝日新聞(土曜版)に「岩木健康増進プロジェクト」が紹介されていました。このプロジェクトは弘前大学の特任教授・中路なかじ重之しげゆき氏をリーダとする弘前大学のチームが中心となり、「日本一の短命県」という "汚名" を返上すべく、県や自治体、市民団体とも連携して推進しているプロジェクトです。


田植えの進む青森・津軽平野。6月の日曜日、雪の残る岩木山にほど近い弘前市岩木文化センターには午前5時半ごろから人が続々とやってきた。弘前大学COI(センター・オブ・イノベーション)などが年に1度実施する大規模健康診断「岩木健康増進プロジェクト」に参加するためだ。

1日に住民約100人ずつ、10日間で計約千人が受ける。アンケートや検便・採血、体力測定などを駆使し、労働環境や経済力といった社会科学分野からゲノムなどの遺伝学分野まで、2千項目に及ぶ大量のデータを集める。

1人5時間ほどもかかる大事業を(引用注:中路教授は)2005年から引っ張る。

青森県は日本一の短命県である。

朝日新聞(2019年7月27日・土曜版)

健診測定の結果は当日のうちに、生活上の改善点とともに受検者に伝えられ伝えられます。詳細結果は後日、受検者に郵送されます。これは一般的な健康診断と同じで、要するに健康増進を通じて「短命県」を返上しようとする試みです。

ただし「毎年、10日間で、1000人に対し、2000項目のデータをとる」という大規模診断であることが特色で、この規模の調査は世界でも例がないとのことです。実施するのは大変なはずですが、自治体の検診とも連動しており、1日に約300人が検診の対応にあたります。弘前大学の教職員・学生、弘前市の保健職員、企業からの応援、市民の健康リーダーなどです。


短命県である理由


中路教授がこの「岩木健康増進プロジェクト」を立ち上げるまでには数々の苦労があったようです。


「最下位でいいんですか!」と言って県内を回ると、「2、3歳長生きして何になる」「若い人に迷惑をかけるだけじゃないか」と反発を買った。

それではと、長寿の長野県と年代別に比べて見せるようにした。ほとんどの年齢層で死亡率が大きく上回り、男の30~60代では2~6割も高い

高齢になって急に死亡が増えるのではない。働き盛りを含めた死亡率の高さが平均寿命の差を生じさせている

子どもを残して若い親が亡くなる、そんな不幸を減らすことでもあると「目からウロコ」の話を繰り返し、ようやく「短命県返上」の機運が生まれた。

朝日新聞(2019年7月27日・土曜版)

「長寿の長野県と比べると、ほとんどの年齢層で青森県の死亡率が大きく上回っている」という主旨が書かれています。この原因は何でしょうか。中路教授は記者のインタビューに次のように答えています。


「1日1個のリンゴで医者いらず」という英語のことわざがありますが、同じように冬の寒さが厳しく、リンゴの産地でもある長野県は長寿です。リンゴは関係なく、ほかの点で負けているのだろう、ということになります。

「塩分の取りすぎ」という人もいます。確かに塩分摂取量は多く、血圧を高くして良くないのですが、これも長野県の方がむしろ多いぐらいです。

青森県でも、がん、脳卒中、心臓病という3大生活習慣病による死亡が多いのですが、長寿県に比べ若死にが多い。死に至る前の20~30年の生活習慣に大きな問題があるわけです。

調べてみると、喫煙や多量飲酒、野菜や塩分の摂取量、運動量、肥満などの生活習慣にかかわる数値が軒並み悪い。子どものころからです。それだけなく、健康診断の受診率が低いし、病院に行くのも遅い。

長野県は逆に塩分以外はだいたい良い。つまり、平均寿命の差は経済や健康教育も含めた社会の総合力の差なんです。

中路 重之(弘前大学・特任教授)
朝日新聞(2019年7月27日・土曜版)

No.247 に「塩分の取りすぎだと聞いたことがある」と書きましたが、そんな単純な話ではないのですね。「社会の総合力の差」です。それを変えていくには、市民全体の健康意識を増進するしかない。これが「岩木健康増進プロジェクト」の主旨です。


健康ビッグデータの意義


記事には詳しく書いてなかったのですが、15年にわたり1000人の2000項目の健康データが蓄積されているということは、そのビッグデータを解析することで、健康(ないしは疾病)と各種項目の因果関係がデジタル数値で分かることになります。こういったビッグデータの分析が一般に使われる例が「予測」や「予兆の発見」です。つまり疾病の予兆が発見ができ、疾病を回避するための詳細なアドバイスにつながる可能性がある。これは単に岩木地区の弘前市民や青森県民のためだけでもなく、一般的な健康増進に役立つ新たな知見を得ようとするプロジェクトということになります。

このようなプロジェクトの性格上、健康関連の企業が強い関心をもち、プロジェクトに参加しています。


2013年に文部科学省のCOI拠点に選ばれると有力企業から共同研究の打診が相次いだ。企業が自らのテーマを加えれば、即座に2千項目との関連を千人規模で調べられるからだ。サントリーは水分摂取、ライオンは歯科・口腔衛生、花王は内蔵脂肪、カゴメは野菜関連といった具合に、参加企業は40を超えた。

朝日新聞(2019年7月27日・土曜版)

このプロジェクトは、内閣府の「第1回 日本オープンイノベーション大賞(2018年度)」で最高賞(内閣総理大臣賞)を受けました。高齢化社会を迎え、医療費の適正な社会配分を行う為にも健康寿命を伸ばすことが必要です。「岩木健康増進プロジェクト」の "健康ビッグデータ" は、そのための重要データになる可能性が大なのです。弘前大学COIのホームページには、プロジェクトの意義と蓄積しているデータ(の一部)が紹介されています。以下に引用します

健康ビッグデータ.jpg
(弘前大学COIのホームページより)

「岩木健康増進プロジェクト」は、青森県が「ダントツで最下位の短命県」であるからこそ組織できたものでしょう。他県ではここまでの大プロジェクトを起こすモチベーションを得にくいと思います。しかも青森県がダントツで最下位ということは、もし平均寿命の改善ができたとしたら、その理由と過程が "見える化" しやすいわけです。

中路教授と弘前大学は青森県が日本一の短命県であるということを逆手にとって、世界に類のない「健康ビッグデータ・プロジェクト」を組織化し、地域の健康増進・活性化のみならず、少子高齢化が進む日本全体への貢献をも目指している。その姿勢と努力に感心しました。


健康ビッグデータと倫理規定


上に「岩木健康増進プロジェクト」を推進している弘前大学COIのホームページから図を引用しましたが、このホームページを見て気になることがありました。それは、

健康ビッグデータをどのように扱うべきか、その際の倫理規定やルールが書かれていない、特に、健康ビッグデータから得られた知見をもとにして「やっていいこと」と「やってはいけないこと」が書かれていない

という点です。No.240「破壊兵器としての数学」No.250「データ階層社会の到来」に書いたように、一般的に言って個人に関するビッグデータの解析と分析は、使いようによっては "社会として不都合な状態" を作り出すことになりかねません。つまり、差別を助長したり、プライバシーを侵害したり、人々を階層化したり、一方的な経済的不利益をもたらしたりといった、社会的正義に反する状態です。

たとえば弘前大学COIのホームページによると「岩木健康増進プロジェクト」参加している企業の一つが明治安田生命で、その目的は「未病予測モデルの開発」だとあります。「未病予測モデルの開発」は良いことだと思うし、そのモデルが「疾病の予測」→「疾病の未然防止」→「保険会社の収益向上」→「保険料の引き下げ」→「保険加入者の利益」というような良い循環になれば、社会全体の利益につながります。保険加入者と保険会社の双方が Win-Win になる。

しかしこの「未病予測モデル」が、「疾病の予測」→「疾病のリスクの判明」→「特定個人の保険料のアップ(ないしは保険加入の拒否)」というように保険会社によって使われたとしたら、"皆で助け合う" という保険の本来の主旨を逸脱することになります。もちろん明治安田生命はこういうことをしないでしょうが、No.240 で紹介したキャシー・オニールが力説している通り、数学モデルはこのように使われるリスクが常にあり、その数学モデルへのインプットがビッグデータだということは忘れてはならないと思います。"健康階層社会" や "健康スコア化社会" の到来はまっぴらです。

さらに "コスト" の問題があります。例えば「疾病の予測」が可能になったとして、その為の検査データの取得に高額な費用がかかるとしたら、貧困層はその検査ができないということになりかねません。あるいは健康保険でカバーできるのは「ラフな予測」だが、高額な個人負担をすると「精密な予測」ができるということもありうる。

「疾病の予測」ができたとして、その後の問題もあります。つまり疾病を回避するためにどうするかです。その回避手段が "生活習慣の改善" であれば問題ありません。しかし、ある高額な "治療" をすると疾病が回避できるとなったとき、その "治療" は医療ではないので保険がきかず、個人負担になるはずです。とすると、富裕層しか "治療" が受けられないということも考えられます。

以上はあくまで例ですが、弘前大学としては最低限、健康ビッグデータの利用に関する次のような「原則」を確立する必要かあると思います。つまり、

健康ビッグデータを利用して得られた成果が個人に恩恵をもたらすとき、その恩恵はすべての人が平等に受けられる機会が与えられ、またすべての人が平等な個人負担で受けられる

という原則です。これ以外にも「健康ビッグデータ倫理規定」は、いろいろ必要でしょう。

当然のことならがら弘前大学は、個人データのセキュリティの確保(必須の必須)とともに、倫理規定の検討を十分に行っていると思います。しかし、それがホームページを見る限り分かりません(2019-9-20 現在)。「岩木健康増進プロジェクト」が世界に例を見ない先進的なプロジェクトと言うなら、「健康ビッグデータの倫理規定、データ処理のルール、公的な規制のあり方」についても情報を発信し、世界をリードして欲しいと思いました。




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No.267 - ウナギの商用・完全養殖 [技術]

No.107「天然・鮮魚・国産への信仰」の続きです。No.107 で魚介類の「天然」と「養殖」の話の中で、ウナギの養殖に使うシラスウナギ(=天然のウナギの稚魚)の漁獲量が激減している(従って価格が高騰している)ことを書きました。

そのウナギですが、最近の日経サイエンス(2019年8月号)に完全養殖の商用化についての現状がレポートされていました。そこで、これを機会に魚介類の「天然・養殖」についてもう一度振り返り、日経サイエンスの記事からウナギの商用・完全養殖の状況を紹介したいと思います。


「天然信仰」からの脱却


No.107で書いたように、世間一般には「素朴な天然信仰」があり、まずそこから脱却する必要があるでしょう。そもそも魚介類について「天然もの」の方が「養殖もの」よりおいしいとか、品質が良いと決めつけるのがおかしいわけです。一つの例として No.107 でミシュランの3つ星店「すきやばし次郎」の小野二郎氏(現代の名工)の発言を紹介しました。次のような要旨でした。


【要旨】

鮨ネタに関しては、一般的に天然のほうが旨い。しかし、シマアジに関しては養殖ものの方が旨いという客もいる(好みによる)。またクルマエビは、養殖の方が香りと濃厚さで勝っている。

小野二郎
(文藝春秋 2013.8)

「すきやばし次郎」は、一部の例外や入手困難なネタを除いて、天然ものを使うのが基本で、それは立派な見識です。しかし上の要旨にあるように、シマアジに関しては天然と養殖で客の好みが分かれるのですね。「すきやばし次郎」に通う客は相当な食通のはずですが、その人たちの意見が分かれているということです。またクルマエビについては小野氏自身が養殖が勝っていると認めています。「ミシュランの3つ星店基準」で判断しても「天然ものにひけをとらない養殖の鮨ネタ」があることを、まず覚えておくべきでしょう。

さらに「普通のレストラン基準」ないしは「家庭料理基準」では、天然ものと養殖ものはほとんど変わらないというのが大多数だと思います。それに一般的に言って、料理は素材だけでは決まりません。「素材 + 調理技術」が料理です。さらに長い目で見ると、品種改良と養殖技術の発展で、そのうちに養殖ものの方がおいしくなるのは目に見えています。ちょうど野生の動物や穀類・果物より、飼育された牛・豚、農業で作った米やフルーツの方が美味しいようにです。

天然の魚介類は「すきやばし次郎」のような店にこそ回すべきであり、我々としては「素朴な天然信仰」から脱却して、天然と養殖があれば養殖を選ぶぐらいの見識を持つべきでしょう。その大きな理由は、天然ものの魚介類は「自然の収奪」であることに違いはなく、資源量によほど注意して漁獲を行わないと、ウナギのように絶滅の危機に瀕するからです。


人類最後の狩猟採集:漁業


現生人類であるホモ・サピエンスが誕生してからでも20万年程度、2足歩行する初期人類(猿人)の誕生から数えると500万年程度たっています。この間、人類は狩猟・採集で生きてきました。現代でもアフリカや南米には狩猟・採集民がいます(No.221「なぜ痩せられないのか」で書いたハッザ族など)。

しかし1万年ほど前に農業が始まり、定住化が進み、これが文明の始まりになったとは、我々が世界史の最初で習うところです。またその後に牧畜や遊牧も始まった。つまり「狩猟・採集から脱却」によって今の人類の文明が存在するわけです。ところが、現代に残った最後の狩猟・採集が(養殖ではない)漁業です。

もちろん、漁業以外の狩猟・採集がないわけではありません。人工栽培ができない高価格野菜、日本の松茸や欧州のトリュフなどは、その採集を生業としている人がいます。しかしこれは野菜のごく一部です。山菜を採集する人もたくさんいますが、これは趣味か、せいぜい副業の部類でしょう。

野生動物で言うと、イノシシや鹿を狩った一部が食肉として出回っていますが、これも副業です。ハンターが少なくなったから鹿の食害が増えて困っているという話も聞きます。ヨーロッパでは、パリのマルシェなどに行くと野生動物がそのまま売られています。いわゆるジビエですが、これは「ご馳走」のたぐいであり、その狩猟で生活している人は少ないでしょう。以上のように考えると、現代のスーパーマーケットに並んでいる商品で狩猟採集で得られたものは、天然ものの魚介類だけということになります。

なぜ人類最後の狩猟・採集としての漁業が残っているのかというと、現代においても産業として成立するほど、漁業の生産性が高いからです(No.232「定住生活という革命」参照)。しかし生産性が高いということは裏を返すと、狩猟・採集の対象となる動植物の絶滅を招きかねないという地球環境上のリスクがあるわけです。

人類史をひもとくと、ユーラシア大陸や南北アメリカに生息していた数々の大型哺乳類(マンモス、サーベルタイガー、・・・・・・)が絶滅したのは人類の狩猟によるものという学説が有力です(No.127「捕食者なき世界(2)」の「大型捕食動物はヒトが絶滅させた」の項)。また歴史上の出来事をみても、地中海や大西洋にいた鯨は絶滅しました(No.20「鯨と人間(1)」)。幕末にペリー提督が日本にやってきて開国を迫った理由の一つがアメリカの捕鯨船の補給だったというのは有名な話ですが、なぜ大西洋沿岸のボストン付近の捕鯨船が日本近海にまでやってきたかというと、大西洋に(産業として成立する程度の数の)鯨がいなくなったからです。

そして、このような大型哺乳類だけでなく、魚介類にも人間の乱獲で絶滅危惧種になってしまったものがあるのです。その中で、我々日本人に最も広くなじみがあるのがウナギです。


養殖の発展


現代人にとっての本来の漁業の姿は養殖であり、魚介類の絶滅を回避するためにも養殖が重要です。そして現代では数々の魚介類の養殖が進んでいて、プリ類(ハマチなど)、タイ、マス、フグ、ヒラメ、シマアジ、牡蠣、ホタテ、クルマエビなどがすぐに思いつきます。クロマグロ(本マグロ)も養殖されるようになりました。

先日、NHKの情報番組を見ていたら、サバの養殖の研究のレポートをやっていました。サバの養殖のネックは、稚魚の攻撃性が強く、共食いをすることだそうです。稚魚の生存率は10%程度と言います。そこでゲノム編集技術を使って攻撃性を押さえるように遺伝子を改変すると、稚魚の生存率が40%に向上したそうです。こういった最新のバイオ・テクノロジーも養殖技術に使われ始めています。

もちろん養殖は、そのコストに見合う "高級魚" でないと成り立たないわけです。サンマやイワシを養殖しようとする人はいません。

もっとも近年はサンマの水揚げ量が激減し、日本政府は国際的な漁獲量の上限設定に動いています。そのうちサンマも値段が高騰し、養殖が見合うようになるのかもしれません。

そして本題のウナギですが、ウナギは "高級魚" であり、養殖にうってつけのはずです。しかしウナギの "養殖" といわれるものは、ウナギの稚魚である天然シラスウナギを捕獲し、それを養殖池で成魚に育てる「蓄養」です。これは本来の意味での養殖ではありません。そのシラスウナギの漁獲量が最近激減しています。


国産ウナギの99%は養殖ものだが、元となるシラスウナギは海や川で天然ものを捕る必要がある。水産庁によると、今漁期(2018年11月~2019年4月)の国内推計量は過去最低の 3.7トンで、20トン台が珍しくなかった2000年代から激減した。輸入した11.5トンで補ったが、養殖業者がシラスウナギを購入する価格は今シーズン、1キロあたり219万円。25万円だった2004年の9倍近い。

朝日新聞(2019.7.27 夕刊)

シラスウナギの漁獲量の激減は、この10~15年の現象です。ちなみに「シラスウナギの価格は、1キロあたり219万円」とありますが、シラスウナギの1匹の重さは0.2グラム程度なので、シラスウナギ1匹の価格は概算440円ということになります。

シラスウナギ.jpg
シラスウナギ
日経BP社「未来コトハジメ」のサイトより

2014年6月、国際自然保護連合(IUCN)はニホンウナギを絶滅危惧種に指定しました(ヨーロッパウナギは2008年に絶滅危惧種に指定)。一刻も早く、蓄養ではない本来の意味での養殖(=完全養殖)の商用化をする必要があるのですが、まだ成功していません。その大きな理由は、自然界におけるウナギの生活史が極めて特異だからです。


ウナギの生活史


ニホンウナギの産卵地がどこかは長いあいだ分からなかったのですが、1991年に日本の水産関係者によってその場所が特定されました。グアム島の北西、西マリアナ海嶺(=海中の山脈)の南部で、孵化したニホンウナギの幼生であるレプトセファルスが採取されたからです。

レプトセファルス.jpg
レプトセファルス
日経BP社「未来コトハジメ」のサイトより

レプトとはラテン語で「薄っぺらい、小さな」という意味で、セファルスは「~の頭をした」ということなので、「薄い頭」「小さな頭」という意味になります。「葉形幼生」という日本語もあります。

さらに2009年には同一海域でニホンウナギの親魚しんぎょと卵が採取され、産卵地が確定しました。その付近の海底地形図が以下の図です。

フィリピン海プレートの海底地形.jpg
フィリピン海プレートの中央部から東部の海底地形図。
「旅するウナギ」(東海大学出版会。2011)より

フィリピン海プレートの東南にはグアム島があり、プレートの北は日本列島の手前まで続く。この図の左上に日本列島が書いてあるが、東南海地震を引き起こしたり、伊豆半島を本州に押しつけるているのはフィリピン海プレートである。

グアム島の南には世界最深のマリアナ海溝(約11,000m)があり、北西部には西マリアナ海嶺(=海底の山脈)が連なる。西マリアナ海領に「パスファインダー」「アラカネ」「スルガ」の3つの白丸が付けてあるが、これらはいずれも海山(=海中の山)である。ニホンウナギの産卵地は、この3つの海山から西マリアナ海嶺の南端にかけてのエリアにある。産卵地は10km四方程度の極めて狭いエリアのようだが、年によって変動する。このあたりは、東京から直線距離で約2500km離れている。

西マリアナ海嶺の南端で生まれたレプトセファルスは西向きの北赤道海流にただよってフィリピン沖へ向かいます。柳の葉のような独特の形は漂うのに都合のよい形です。そしてフィリピン沖で黒潮に乗りかえます(黒潮に乗れなかったものは死滅)。約6cmに成長したレプトセファルスは、2~3週間でシラスウナギに変態します。

レプトセファルスからシラスウナギへの変態.jpg
シラスウナギへの変態
虫明敬一他「うなぎ・謎の生物」
(築地書館 2012)より

人工飼育されたレプトセファルスがシラスウナギに変態していく様子。この図の矢印は背ビレの始まりの位置、三角は肛門の位置である。数字は孵化後の日数を表す。孵化後1年以上でシラスウナギになっているが、日経サイエンス(2019.8)によると、現在(2019年)の人工飼育では300日程度でシラスウナギになる。しかし自然界では130日~150日程度であり、人工飼育の技術開発はまだ発展途上にある。

その黒潮に乗ったシラスウナギは日本列島(を含む東アジア)の河口に到着します。西マリアナ海嶺南部で孵化してから日本の河口に到達するまでは約半年です。関東地方の河川だと、産卵場から5000km程度の旅になります。シラスウナギは河川を遡上し(海や汽水域に残る個体もある)定着生活を始め、そこで成魚になります。

オスは数年間、メス約10年間の淡水生活をした後、ウナギは川を下り(=下りウナギ)、海に出て、西マリアナ海嶺の産卵場に向かいます。そして雌雄のウナギが産卵場で落ち合って産卵・受精します。

ニホンウナギの生活史.jpg
ウナギの生活史
日経サイエンス(2019.8)

上図には日本から産卵場のルートが単純な直線で描かれていますが、これはどいういう経路で産卵場にたどりつくのかが不明だからです。日本付近から西マリアナ海嶺の南端までに黒潮のような海流があるわけではありません。しかし川から海に出て産卵の旅についたウナギは、2500km離れた極めて狭いエリアに集結し、オスとメスが出会って産卵・受精します。いったいどうやってこんなことができるのかは不明です。ウナギはまだ「謎の魚」なのです。

なお、ニホンウナギという学名が付いているために日本固有種と思いがちですが、そうではありません。東アジアのウナギはすべてニホンウナギであり、その産卵地は西マリアナ海嶺南端の海中です。遺伝的には同一の種です。


ウナギの完全養殖


実は、2010年にウナギの完全養殖が達成されました。完全養殖とは下の図のように、卵 → 人工シラスウナギ → 人工成魚 → 卵 というサイクルを回すことです。

完全養殖のサイクル.jpg
ウナギの完全養殖
水産庁「ウナギをめぐる状況と対策について」(2016.7)より

シラスウナギを成魚にする蓄養は明治時代以来の歴史があり、技術が確立されています。問題は受精卵から孵化したレプトセフェルスをシラスウナギに育てる部分で、完全養殖ができたということはこれに成功したわけです。

しかし2010年に成功した完全養殖は水産試験場での成功であり、それがすぐに商用になるわけではありません。つまり製造業における「試作」と「量産」の違いのようなものです。新型車を開発するときに2年の歳月をかけて数10台の試作車を1台あたり数千万円の費用をかけて作る「試作」と、数百万円の販売価格に見合うコストで毎日数百~数千台のクルマを作る「量産」は違います。量産のためには、量産するための技術開発が必要です。

同じように、シラスウナギの量産が可能な技術開発できて始めて、ウナギの商用・完全養殖が実現するのです。その商用・完全養殖の研究現場のルポを次に紹介します。


ウナギの絶滅は回避できるか


日経サイエンス 201908.jpg
日経サイエンスの2019年8月号に、伊豆半島の石廊崎にある「国立・水産研究教育機構 増養殖研究所」の「ウナギ種苗量産研究センター」(山野センター長:以下敬称略)を、日経サイエンス編集部が訪問したルポが掲載されていました。このセンターは2002年に世界で初めて、卵からシラスウナギを育てることに成功しました。その時のシラスウナギの個体数は、わずか24匹だったそうです。

その後、2013年からシラスウナギの量産の研究を進めています。あまたの試行錯誤を繰り返した結果、ようやく年間数千匹のシラスウナギが育つようになったとのことです。その難しさはどこにあるのでしょうか。


変態前のレプトセファルスは育てるのが非常に難しい。自分でエサを探そうとしないため、給餌に工夫がいる。そのうえ、水が濁ると死んでしまう。生後すぐの個体は数ミリしかなく、表面張力で水面に張り付いて、体が空気に曝されるため死ぬこともある。「自然界では数十万個の卵からたった2匹の成魚が育つ程度」(山野)。その生存率の低さからも養殖の難しさが見て取れる。

出村政彬(編集部)
「ウナギ絶滅回避なるか」
日経サイエンス(2019年8月号)

レプトセファルスの飼育1.jpg
ウナギ種苗量産研究センターで人工飼育されているレプトセファルス。体長は1cm~6cm程度である。
サイエンス(2019年8月号)

レプトセファルスは、
① 自分ではエサを探そうとしない
② 水が濁ると死んでしまう
③ 自然界では数十万分の1の生存率
というあたりに、人工飼育の難しさがうかがわれます。日経サイエンスには具体的な飼育の研究の様子がありました。


飼育室は一日中暗くしてある。特別に電気を点けてもらうと、そこには様々な形の水槽がずらりと並んでいた。金魚鉢のような「ボウル型」は第1世代。2002年の人工飼育実験には、この形の水槽が使われた。その後、様々な形が考案され、2つの水槽がパイプでつながったニ槽式の水槽や、ピーナッツ型の水槽、大型の100リットル水槽などが開発された。それぞれ水の交換法や与えるエサの種類が異なり、効率的な飼育法を調べている。水温は25℃で年中一定だ。



水槽を見学していると、エサやりを担当する職員らが室内に入ってきた。それぞれ、どろっとした液状のエサが入った容器と、長さ数十センチの大きなスポイトを持っている。

職員らはスポイトでエサを吸い、水槽の底の方へ静かに流し込む。通常はこのエサやりの時だけ電気を点けている。レプトセファルスは光を嫌うので底へ向かって泳ぎ、自然とエサにありつく仕組みだ。



エサは1日5回、8時から16時にかけて2時間ごとに与えている。15分間のエサの時間が終わると、水槽は真っ白の濁った。水槽にはポンプが取り付けられており、濁った水を捨てながらきれいな水を継ぎ足していく。2時間かけて水槽が透明に戻ったところで、また次の食事タイムだ。清潔な環境を保つため、一日の終わりには別のきれいな水槽へレプトセファルスを水ごと移し替える。二槽式の水槽や、2つの窪みを持つピーナッツ型水槽が作られたのはこのためだ。

「同上」

レプトセファルスの飼育2.jpg
人工飼育しているレプトセファルスに給餌している様子。ピーナッツ型水槽は交互に使用する。
サイエンス(2019年8月号)

エサは液体状をしていて、水を清潔に保つために数々の工夫や試行錯誤がされているようです。スポイトを使った人手による給餌ではコストがかかることが目に見えていますが、最適なやりかたを探るための過程なのでしょう。


エサの中身はここ数年で変わりつつある。以前は、アブラツノザメと呼ぶサメの卵の粉末に複数の栄養素を加えたものを使っていた。ところが、実はこのサメ自体も希少種。いつまでも頼っていては持続可能な養殖法にならない。

そこで、センターではサメ卵の代替飼料作りに取り組んできた。レプトセファルスの生育地の前半については、既に「同等かそれ以上の飼料ができている」(山野)という。ただ後半では、サメ卵を与えないと成長の遅れや変態がうまくいかないなどの問題が生じる。「約300日かけて育つレプトセファルスは、その間に要求する栄養の種類も変わるのだろう」と山野はみる。後半に適した代替飼料は現在も研究中だ。

「同上」

この引用中に、従来の餌の主体が「アブラツノザメと呼ぶサメの卵の粉末」という箇所があります。なぜこのような "特殊な" 餌なのかと言うと、2010年に完全養殖に成功するまでの過程で数々の試行錯誤の結果、この餌が最適となったからです。しかし量産のためには別の餌を探す必要がある。それはまだ完全には見つかっていないようです。

ただし、ウナギの完全養殖に使う餌の種類と配合方法は "国家レベルの機密事項" だと、どこかで読んだ記憶があります。オープンにできない話も多いのだと想像します。


山野は「今のままですぐに商用化、というわけにはいかない」と話す。避けて通れないのが、コストの問題だ。現在天然のシラスウナギは1匹あたり数百円程度で取引されている。人工飼育のシラスウナギは色々な条件を仮定しても、1匹あたり5000円から6000円になるとみられる。

また、日本全体で養殖のために必要なシラスウナギの量は年間で1億匹ともいわれる。もとっと安く、大量に生産する必要があるのだ。

「同上」

初めの方で引用した朝日新聞(2019.7.27 夕刊)の記事から計算すると、天然シラスウナギ1匹の最新の価格は概算で440円程度でした。それと比べて、人工シラスウナギは現状で10倍以上の価格ということになります。

また「日本全体で養殖のために必要なシラスウナギの量は年間で1億匹ともいわれる」とありますが、日経BP社「未来コトハジメ」のサイトによると、2006年から2018年のシラスウナギの池入量(養殖池に投入した重量)の平均は21.2トンだそうです。これを20トンとしてシラスウナギ1匹を0.2gとすると、1億匹という計算になります。「ウナギ種苗量産研究センター」で "量産" できるのは年間数千匹と書かれているので、必要量からすると1万分の1以下ということになります。

根幹は「コスト」でしょう。天然シラスウナギの価格に対抗できるコストで人工シラスウナギの量産が可能になったとすると、全国の企業が「商用・完全養殖」に向けた投資をするはずであり、生産量はグッと増えると考えられます。しかし、コストダウンのために大量生産を狙って、例えば水槽を大型化しようとしてもそう簡単ではないようです。


レプトセファルスの水槽を大量生産のために大型化すると、水質をきれいに保つために入れ替える水の量が大幅に増えてしまう。また、生存率にも影響が出る。小さなボウル型水槽では最大10%程度の生存率が、大型水槽に移し替えると、1%程度にまで落ち込んでしまう。水槽が深く、底のエサにたどり着けない個体が出てくるようだ。

「同上」

製造業と違って生き物が相手の量産は、その試行錯誤のプロセスも長い時間がかかることが分かります。


高次捕食者としてのウナギ


仮にウナギの商用・完全養殖が可能になったとします。そうするとシラスウナギの漁獲量が減少し、天然ウナギの絶滅が回避できそうに見えます。しかしさらに問題があって、それは天然ウナギが生涯の大半を過ごす河川の環境です。つまりこの数十年で国内の河川にはせきやダムなどの構造物が増え、ウナギがこのような構造物を超えられず、生育環境が減少していると考えられるのです。この減少がシラスウナギの漁獲量の激減の一因になっていると推測されています。

つまり、ウナギを守るためには天然シラスウナギの漁獲量を減らすと同時に、ウナギの生育環境を守る必要があります。この生育環境について日経サイエンスのルポの最後に気になる話が書いてありました。ウナギは河川の生態系における「高次捕食者」という話です。


ウナギは広い地域に分布し、生態系ピラミッドの上位にいる高次捕食者だ。ウナギの育つ環境を維持してウナギを絶やさないことで、ピラミッドの土台を支える多くの生物の育つ環境が守られる。もちろん、食文化を受け継ぐという点にも大きな意義がある。

「同上」

No.126-127「捕食者なき世界」で書いたように、生態系ピラミッドの頂点や上位にいる捕食者が絶滅すると、生態系のバランスがくずれ、それはピラミッドの土台を支える多くの生物の絶滅を引き起こしかねません。ウナギの絶滅を回避するということは、単にウナギだけの問題ではなく、河川の生態系全体の問題でもあるようです。




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No.266 - ローザ・ボヌール [アート]

No.93「生物が主題の絵」の続きです。ここで言う "生物" とは、生きている動物、鳥、樹木、植物、魚、昆虫などの総称です。日本画では定番の絵の主題ですが、No.93 で取り上げたのは西欧絵画における静物画ならぬ "生物画" でした。

その中でフランスの画家、ローザ・ボヌールが描いた「馬の市場の絵」と「牛による耕作の絵」を引用しました。この2作品はいずれも19世紀フランスの日常風景や風俗を描いていますが、実際に見ると画家の第一の目的は馬と牛を描くことだと直感できる絵です。

Rosa Bonheur - The Horse Fair.jpg
ローザ・ボヌール(1822-1899)
馬市」(1853)
(244.5cm × 506.7cm)
メトロポリタン美術館

Rosa Bonheur - Labourage nivernais.jpg
ローザ・ボヌール
ニヴェルネー地方の耕作」(1849)
(133.0cm × 260.0cm)
オルセー美術館

日本人がニューヨークやパリに観光に行くとき、メトロポリタン美術館とオルセー美術館を訪れる方は多いのではないでしょうか。ローザ・ボヌールのこの2枚の絵は大きな絵なので、記憶に残っているかどうかは別にして、両美術館に行った多くの人が目にしていると思います(展示替えがないという前提ですが)。メトロポリタン美術館は巨大すぎて観光客が半日~1日程度で全部をまわるは不可能ですが、『馬市』は "人気コーナー" であるヨーロッパ近代絵画の展示室群の中にあり、しかも幅が5メートルという巨大な絵なので、多くの人が目にしているはずです。

多くの人が目にしているはずなのに話題になるのがほとんどないのがこの2作品だと思います。メトロポリタン美術館とオルセー美術館には有名アーティストの著名作品がキラ星のごとくあるので、それもやむを得ないのかもしれません。

しかしこの2作品は "生命力" をダイレクトに描いたと感じさせる点で非常に優れています。ちょうど伊藤若冲のにわとりの絵のようにです。対象となった "生物" は全く違いますが ・・・・・・。一般的に言って、日本画の動植物の傑作絵画を評価する人は多いのに(たとえば若冲)、西欧絵画の動物の絵を評価する人は少ないのではと思います。これは(現代の)西欧画壇の評価をそのまま日本に持ち込んでいるだけではないでしょうか。我々日本人としては、また別の見方があってもよいはずです。

今まで何回か文章を引用した中野京子さんは、2019年に出版された本でローザ・ボヌールの生涯とともに『馬市』の解説を書いていました。これを機会にその解説の一部を紹介したいと思います。以下の引用では漢数字を算用数字にしました。下線は原文にはありません。また、段落を増やしたところがあります。


馬市


Rosa Bonheur - The Horse Fair.jpg


遠くにサルペトリエール病院付属礼拝堂の丸屋根が見える。ここはオピタル大通りのパリ定期馬市。時は19世紀半ば、まだ自動車普及前とあって、馬のり市場は活気にあふれている。

幅 5メートルの大画面を、白、黒、茶、ぶちと、さまざまな毛色の馬たちがダイナミックに駆け抜けてゆく。サラブレッドではなく、ノルマンディ産ペルシュロン種。大きくたくましい胴体と太く頑丈な脚を餅、荷馬や軍馬として使われる。右端に集まった馬喰ばくろうたち(仲買人や鑑定人)へのお披露目ひろめだ。


サルペトリエール病院もオピタル通りも、パリ13区にあります。セーヌ側の南側、ノートルダム寺院からみると南東方向で、そこで19世紀の当時に定期的に開かれていた馬の市を描いた絵です。

Percheron.jpg
現代のペルシュロン種。「馬市」とは150年の時代差があり、その間に品種改良が進んでいるはずである。
(Wikipedia)
この絵の一つのポイントは、描かれている馬がペルシュロンであることでしょう。脚が太く短く、胴も太い。大きな個体では1トン程度、サラブレッドの倍の重さになると言います。非常に力が強く、馬車馬、荷馬、軍馬などに使われます。北海道の "ばんえい競馬" でも活躍するのがペルシュロンです。ばんえい競馬の動画を見たことのある人は多いと思いますが、それを想像すればペルシュロンのイメージが浮かぶでしょう。

馬を描いた西洋絵画はたくさんありますが、多くはサラブレッドを中心とする競走馬で、いかにも脚が早そうなスラッとした体型です。No.93「生物が主題の絵」に引用したスタッブスの絵(ロンドン・ナショナルギャラリー)やポッテルの絵(ルーブル美術館)の馬がそうでした。エドガー・ドガは多数の馬の絵を描いていますが、競馬場か郊外の野原での競馬風景がほとんどです。サラブレッドの "形" や "ポーズ" や "動き" の美しさがドガを引きつけたのでしょう。

もちろん "動物画家" のボヌールもそういうサラブレッド的な馬を多く描いています。しかしこの絵は違って、"ずんぐりむっくり" のペシュロンという「労働馬」を描いています。まずここが注目点です。


数頭の白馬の尻尾がひもでくるくる巻かれ、めすとわかる。尾骨びこつ(尻尾の半ばまで骨がある)先端部から毛を折り返して結び、さらにまた折り返して中を通して結ぶので、なにやら中途半端な編み上げヘアに見えなくもないが、もちろんお洒落のためではない。妊娠の有無うむを調べる際、肛門こうもんから腕を入れなけらばならず、長い尻尾を振り回されては困るから一時的に縛ってあるのだ。

体型や毛並み、目の表情や一瞬の動き、全てが透徹とうてつした観察力によって捉えられ、それぞれ個性豊かに描き分けられている。眉間みけんに白い菱形ひしがた模様の馬、落ち武者のざんばら髪のごときたてがみを持つ馬、軽やかに、また隣と歩調を合わせて走る馬。中央左よりの黒馬は、いきなり後ろ脚で立ち上がり、前脚で空中をって荒々しい野生を噴出させる。からわらの白馬まで、つられたのか目をき、長い首を左右に激しく振る。

土煙、掛け声、いななき、ひづめの音、鼻息、汗、におい ・・・・・・ なんという臨場感、なんという躍動美。単なる写実を越えた真実がここにはある

中野京子「同上」

白馬の尻尾が紐で巻かれている(=牝馬)理由が書かれていますが、それを含めてこの絵には、馬市の様子が極めてリアルに描かれています。しかし単にリアルというのではなく、上の引用の最後にあるように、まさに現場に立ち会っているという "臨場感" と、馬たちのヴィヴィッドな "躍動感" を表現しえたことが、この絵の最大のポイントでしょう。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part1.jpg
「馬市」の中央右の部分図。2頭の牝の白馬が尻尾を紐で巻かれている。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part2.jpg
中央左の部分図。黒馬が後ろ脚で立ち上がり、右側の白馬もそれにつられたのか立ち上がって眼を剥き、首を左右に振っている。


発表後たちまち国際的評価を得、画家に確固たる名声をもたらしたのも当然だろう。画面の真ん中、混沌こんとんを束ねるかのごとき静かなたたずまいで馬をぎよし、控えめながら誇らしげにこちらを見つめている青いスモック姿こそ、画家その人だと言われている。黒い帽子のひさしで目元は影になっているが、ふっくらした女らしい唇は微笑みを浮かべているようだ。

画家は女性だった。

迫力あるこの絵を初めて目にする人の、いったい何人がそれに気づくだろう ?

中野京子「同上」

ローザ・ボヌールは目立たないように男装をし、馬市に何度も通ってスケッチを繰り返してこの絵を完成させたと言われています。もちろん、この絵の中の自画像のように乗馬姿で馬の中に入ったわけではないでしょうが、画家が作品の中に自画像をそっと忍ばせるのはよくあることです。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part3.jpg
眼を剥く白馬の右に描かれた人物が画家本人だとされている。顔は影になっていて表情がわかりにくいが、口元は確かに微笑んでいるようにも見える。

そのボヌールの自画像は上半身しか描かれていません。そういう構図にしてあります。それには理由があると中野さんは書いています。


ボヌールは乗馬の際、女性座り(両足を片側に寄せる)ではなく、男と同じようにまたががった。 【中略】 ただし『馬市』では、はしたないと酷評されるのを避け、上半身しか見えないように巧みな配置で描いている。

中野京子「同上」

馬に跨がって乗るためにはズボンを着用しているはずです。なぜローザ・ボヌールが "女性座り" をせず、ズボンをはいて跨がったのか。それは彼女の生涯と関係しています。中野さんはその生涯を解説していました。


画家:ローザ・ボヌール



ローザ・ボヌールは1822年、南仏ボルドーで生まれた。2年後、この地にはスペインから78歳のゴヤが亡命してくる。巨匠と幼女が短期間であれ同じ空気を吸っていたことに時代を感じる。ナポレオンはすでにぼつしていたが、彼が強化した男尊女卑のさまざま規定はまだ生きていたし、芸術創造において女性は劣っているとの考えも根強かった。

ボヌールの父は絵の教師で、4人の子を持つ貧しい一家はやがてパリに引っ越す。父は娘の画才に気づいて手ほどきしたが(当時、女性は美術学校へ入れなかった)、それは単に自分の画塾を手伝わせるのが目的だった。母は死去し、父は再婚。自作が父より売れるようになったボヌールは自立を目指すも、家父長的権威をふりかざす父との戦いは熾烈しれつで、19歳で何とか半自立にこぎつけた。昼だけ自分のアトリエで仕事をし、夜は帰宅、売った絵のお金の大部分を父に渡す、というものだ。それでも彼女の喜びは大きかった。アトリエ食事の世話など家事いっさいは、以前から近所づきあいのあった二歳下のナタリーとその母がやってくれた。

意志が強く、早くから自分の道を見定めていたボヌールだが、その彼女でさえ、父親とたもとを分かつことができたのは 27歳、しかもそれは父がコレラで急死したからだった。ようやくにして実家を離れた彼女は、ナタリーとその母との三人暮らしを始める。ナタリーとはおそらく恋人関係だったのだろう。彼女が亡くなるまで、40年も仲良く暮らした(知り合ってからは通算半世紀にわたる)。

中野京子「同上」

「ボヌールの父は絵の教師」とありますが、19世紀以前の著名な女性の職業画家のほとんどは、父親が画家か、絵の先生です。No.118「マグダラのマリア」に作品の画像を掲載した17世紀イタリアの画家、アルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1652)がそうだし、18~19世紀フランスの有名な画家、エリザベート・ヴィジェ = ルブラン(1755-1842)も父親は画家でした。父親に絵の手ほどきを受けなければ、女性が絵画を修得できる機会などほとんど無かったということでしょう。そういえば、葛飾応為(1800-1866。No.256「絵画の中の光と影」に作品の画像を掲載)の父親も画家なのでした。


新たな家族を得たボヌールは、心置きなく好きなテーマに邁進まいしんできるようになった。動物だ。子どものころから大の動物好きだった彼女は、リス、ウサギ、アヒルなどを飼い、大型の家畜は本や博物館、牧場などで観察を続けていた。しかしリアルさを追求するには、動物の体の内部構造を知らねばならない。解剖学的知識を得たい。学校で学べないなら、実地で身につけよう。食肉処理場へ通おう。

ここから彼女の男装がはじまる。



短髪、青いスモック、ビロードのズボンが、ボヌールのお気に入りのスタイルとなる。小柄だったので若い頃は少年のように見えたらしい。荒くれ者の多かった職場の労働者らは、最初こそ彼女をからかったり嫌がらせをしたというが、次第にスケッチの見事さに感銘かんめいを受ける者も出てきて、仕事ははかどってゆく。

中野京子「同上」

「青いスモックがお気に入りの姿」というところが、「馬市」に描かれた青いスモックの人物を自画像とするゆえんでしょう。当時のボヌールをよく知る人たちは「馬市」を見て、ボルールだと直感したのではないでしょうか。

中野さんは "食肉処理場" と書いていますが、これはもちろん屠殺場のことです。レオナルド・ダ・ヴィンチは人体の解剖学的知識を得るために死体の解剖を行って数々のデッサンを残したわけですが、動物を描きたいボヌールは解剖学的知識を得るために屠殺場に通ったわけです。

ここで思うのは、ボヌールの代表作である『馬市』と『ニヴェルネー地方の耕作』(オルセー美術館。冒頭に引用)において、馬と牛がテーマになっていることです。その馬も牛も屠殺場で解剖学的知識を得られる動物です。牛肉を食べる文化はヒンドゥー教圏以外で世界的ですが、馬肉を食べない文化は多く、アメリカ、イギリス、ドイツなどはそうです。逆にヨーロッパで馬肉を食べる文化の中心がフランスです。フランスでは馬の解剖学的知識も屠殺場で得られると想像できます。

ひょっとしたら『馬市』の馬の描写の迫真性の理由の一つは、ボヌールが屠殺場で得た「馬の解剖学的知識」が絵の微妙なタッチに(それとは分からずに)生きているからではと想像しました。

このようなボヌールの画家としての活動には困難がありました。当時のフランス社会は男社会であり、女性が男装をするのさえ厳しい規制があったと、中野さんは以下のように書いています。


19世紀フランスの "男装規制"



当時のフランスでは、女性の男装(とりわけズボン)は禁じられていた。これは1800年に発布された警察令をもとに、1804年のナポレオン法典で明文化された法律で、違反者には罰金や禁固刑が科せられた。例外は健康上の理由などの特殊な場合のみで、警察に申請して「異性装許可証」を取得する必要があった。1850年代の取得女性はわずか12人というから、ハードルは高い。

現代人にとっては、何ゆえそこまでズボンにこだわるのかとあきれるが、フランス革命時に女性市民が政治に大きく関与したことを苦々にがにがしく思っていたのも一因をされる。ナポレオン法典には、妻は夫に絶対服従と明記されているばかりか、妻の収入は夫の財産であり、離婚も中絶も避妊も禁止なのだから、女がズボンを穿くことが男の権利簒奪さんだつ見做みなされて何の不思議があろう。

そうした逆風の中、ボヌールは比較的すんなり許可証をもらえた。サロン(官展)での入賞経験もある優れた画家が、職業上の必要にかられて男の職場たる危険な馬市などへ出入りする ─── やむなき理由と認められたのだ。ただし、劇場などの公共の場での男装は相変わらず不可、また許可証は半年という期限付きなので、死ぬまで幾度も幾度も更新し直さねばならなかった。

中野京子「同上」

ボヌールが生きたフランス社会はこのような状況だったわけです。あくまでフランスの事情であり、ドイツや英国では女性がズボンを着用するに許可証が必要などということはありません。そのフランス社会の中で彼女は、画家としての成功を勝ち取っていきます。ボヌール(1822年生)より1世代あとになると、女性画家が "輩出"してきます(数は少ないですが)。ベルト・モリゾ(1841年生)、メアリー・カサット(1844年生)、エヴァ・ゴンザレス(1849年生)などです。このあたりが転換期だったのでしょう。


『馬市』は完成までに1年半かかった。先述したように、この大作で彼女の名は国際的になった。特にイギリスとアメリカ(『馬市』は現在ニューヨークのメトロポリタン美術館蔵)で人気を博し、注文が殺到して富裕層の仲間入りもした。

38歳のとき、フォンテーヌブローの禁猟区域の一角にある城付きの土地を購入し、念願の動物王国を作っている。小さなものだと、犬、猫、イタチ、リス、ウミガメ、トカゲ、カワウソなど。大きなものだと、各種の馬、ヤク、サル、カモシカ、イノシシ、鹿、ヤギ、牛、羊など。野獣だとライオンまで。

次第にほとんどの時間を男装で過ごすようになり、酒を飲み、煙草を吸い、時に男の女装と間違えられ、ナタリーと同棲し続けたが、スキャンダルにはならなかった。動物画家であり、動物との特殊な暮らしも知れ渡っていたので、「男装は必要に迫られてのもの、奇矯ききょうな性癖(レズビアン)ではないい」と世間は納得していたようだ。それでも「フォンテーヌブローのディアナ」というあだ名は付けられた。ディアナは言わずと知れた月と狩猟の女神。処女神にして男嫌い。周りには女性しかはべらせなかったことで知られる。

中野京子「同上」

ローザ・ボヌールは43歳でレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを、72歳でレジオンドヌール勲章のオフィシエを授与されるという栄誉に輝きました。シュヴァリエのときは、ナポレオン3世妃のウジェニーがわざわざボヌールの城までやってきて手渡し、オフィシエでは時のカルノー大統領が城を訪れて叙勲したそうです。女性アーティストで最初にシュヴァリエを授与されたのがボヌールであり、女性で最初にレジオンドヌール勲章・オフィシエを授与されたのがボヌールでした。

ちなみに女性画家では、メアリー・カサットも1904年(60歳)でレジオンドヌール勲章・シュヴァリエを授与されています(No.86「ドガとメアリー・カサット」参照)。なお、レジオンドヌール勲章には等級があり、
・ 1等:グランクロワ(大十字)
・ 2等:グラントフィシエ(大将校)
・ 3等:コマンドール(司令官)
・ 4等:オフィシエ(将校)
・ 5等:シュヴァリエ(騎士)
です。フランス人だけでなく、政治、ビジネス、芸術などでフランスに関係の深い外国人にも授与されます。上の等級を得るためには下の等級を持っていることが必要ですが、外国人の場合はその限りではありません(たとえば板東玉三郎はコマンドール、北野武はオフィシエ)。

19世紀の当時のフランスは完全な男社会で、美術界もそうでした。画家の教師も購買者も批評家も、ほとんどが男性です。数少ない女性画家は常に過小評価される傾向にあり、そのような中で「ボヌールは例外中の例外」だったと中野さんは書いています。そして次のように結んでいます。


困難な時代にあって、生きたいように生き、十全に報われた77年の稀有けうな生涯だった。

中野京子「同上」


ニヴェルネー地方の耕作


No.93「生物が主題の絵」でも引用したローザ・ボヌールのもう一つの代表作、『ニヴェルネー地方の耕作』を見てみます。この絵はオルセー美術館にあり(確か1階)、『馬市』ほどではないが、それでも幅2.6メートルという大きな絵です。オルセーに行った人の多くが目にしている絵だと思います。

Rosa Bonheur - Labourage nivernais.jpg

この絵は一見「農村風景」を描いたように見えるかもしれません。19世紀フランス絵画には「都会の喧噪に疲れた近代人があこがれる、自然に囲まれた、のどかな農村の風景」的な絵がよくあります。しかしこの絵は違います。この絵の前に立つとすぐにわかるのは、これが "牛を描くことを目的にした絵" だということです。単に農村風景を描くのではなく、しかもミレー(1814-1875)のように農民に関心が行くのではなく、動物に焦点が当たっている。

この絵については、大阪府立大学の村田京子教授の研究報告「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」(2013)の中に評論があるので、それを引用したいと思います。この研究報告はネットに公開されています。


フランス政府から作品の注文を受けたローザ・ボヌールは、1848年9月にナタリー(引用注:ボヌールの身の回りの世話をしていたナタリー・ミカ)と一緒に、ニエーヴル地方の父の友人の彫刻家ジュスタン・マチューの屋敷に滞在し、絵画の制作にとりかかる。その完成作が翌年のサロンに出品した《ニヴェルネー地方の耕作》であった。

この作品は縦 1.34m、横 2.60m の大きなキャンヴァスに描かれた大作で、秋の青空の下、畑に初めて鍬を入れる作業の場面が描かれている。鎖でつながれたモルヴァン牛の群と、その後ろに続く牛の群が3人の牛飼いに導かれて、大地を力強く踏みしめている。この絵によって、優れた動物画家としてのボヌールの評価が確立する。

村田京子
「男装の動物画家ローザ・ボヌール:
その生涯と作品」
(大阪府立大学 学術情報リポジトリ 2013.3)

Charolais Bull.jpg
現代のシャロレー牛。主に肉牛である。ニエーヴル地方が原産地とされている。
(Wikipedia)
ローザ・ボヌールは26歳の時にフランス政府から絵の注文を受けたことになります。いかに若いときからフランス画壇に認められていたかのあかしです。しかも女性画家です。「ボヌールは例外中の例外」とした中野さんの言が思い出されます。

固有名詞について補足しますと、ニエーヴルはパリから見て南東方向、ブルゴーニュ地方の県で、ワイン産地で有名なコート・ドール県(ディジョンやボーヌがある県)の西側になります。ニヴェルネーはこのあたりの以前の地名です。ニエーヴルとコート・ドールの間にはモルヴァン山地(現在は自然公園になっている)が広がっています。

村田教授が書いている「モルヴァン牛」ですが、Googleで "モルヴァン牛" の完全一致検索をしても村田教授の論文が出てくるだけです。つまりネットに公開されている日本語ドキュメントでは村田教授しか使っていない。とすると、これは「モルヴァン地方の牛」という意味であり、品種としては「シャロレー牛」でしょう。シャロレー牛はブルゴーニュの名物料理、ブブ・ブルギニヨン(牛肉の赤ワイン煮込み)で有名なように現在は肉牛ですが、もともとは役牛・農耕牛でした(Wikipediaによる)。

描かれたのは6頭立てで引く鍬のようです。横並びの2頭の牛の角が2頭の間の棒と結ばれ、前後の棒が鎖で結ばれて最後尾の鍬を引っ張っています。後方にはさらに一団が続いている。牛は、喉の下に垂れた "肉垂にくすい" や "よだれ" までがリアルに描かれ、前へ前へと鍬を引っ張っていくエネルギーに満ちた姿です。


ローザ・ボヌールは、解剖学的な視点から動物の筋肉組織を詳細に描き、エネルギッシュな牛の動きを捉えたばかりか、畑の畝の光の反映など、一見、写真と見間違うほど正確に描き出している。実際、彼女は晩年にナダールの影響で写真に興味を持ち、自ら写真を撮っただけでなく、動物の写真を多く収集し、絵画制作の基礎資料とした。ただし彼女は、主観性を排し極度に写実的に描くハイパーリアリズムの先駆けというわけではない。動物には「魂」があると信じていたボヌールは、動物の眼を「魂の鏡」とみなして次のように述べている。

私が特別な関心をもって観察していたのは、彼ら(動物たち)の視線の表現であった。生きているあらゆる被造物にとって、眼は魂の鏡ではないだろうか。自らの考えを表現する他の手段を自然から与えられなかった存在の意思や感情が、まさにそこに明瞭に現れるのではないだろうか。

このようにローザ・ボヌールは、視線を通して動物の「魂」を絵筆の力で表そうとした。したがって、彼女の描く動物画のどれをとっても動物の眼が印象的である。《ニヴェルネー地方の耕作》においても、複数の牛の個性がそれぞれ、表情豊かな眼に凝縮されている。

村田京子「同上」

今までそういう視点で見たことはなかったのですが、「ローザ・ボヌールは視線を通して動物の魂を絵筆の力で表そうとした」と村田教授が書いているのは、なるほどと思います。『ニヴェルネー地方の耕作』で言うと、特に2列目の牛の眼です。

Rosa Bonheur - Ploughing in Nevers - Part 1.jpg
「ニヴェルネ地方の耕作」の部分図。2列目の2頭の牛。牛の間には前後を繋ぐ鎖が見える。

こちが側の牛の、大きくカッと見開いてこちらを見ているような眼が、ボヌールの言うように "動物の魂の表現" だとしたら、そこに込められたものは何でしょうか。労働の苦しみなのか、または解放への期待なのか。そういう風に擬人化するのは良くないのかもしれませんが、何か訴えているような眼です。その向こう側の牛はまた違う表情を見せています。



この "動物の眼" という視点で『馬市』を振り返ってみると、カンヴァスの中央付近、後ろ脚で高く立っている黒馬の右に白馬が描かれています。画家本人の左の「眼を剥いている」白馬です。この白馬の眼が注目ポイントで、これは一瞬の驚きの表情でしょう(上に引用した部分図を再掲)。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part3.jpg

絵を鑑賞する場合、どういう視点で見るかによって絵の印象が変わってくることがよくあります。ローザ・ボヌールが「私が特別な関心をもって観察していたのは、動物たちの視線の表現であった」と語ったということを知ると、「動物の眼の表現」という視点で絵を見るようになります。メトロポリタン美術館とオルセー美術館を再び訪問する機会があったら、その視点でボヌール作品を見たいと思います。

余談になりますが、動物の眼で思い出すのが、ベラスケスの『鹿の頭部』(プラド美術館所蔵。No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で引用)です。"野獣としての鹿" を描いたと感じさせる絵ですが、見る人がそう思うのは、"野生の魂を映し出すように描かれた眼" なのでしょう。


「ローザ・ボヌールの生涯」より


『ニヴェルネー地方の耕作』の解説は、大阪府立大学の村田京子教授の「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」(大阪府立大学 学術情報リポジトリ 2013.3。ネットで公開されている)から引用したものでした。

この研究報告ではボヌールの生涯が詳細に記述され、作品との関係が解説されています。特に父親(絵の教師)との確執や女性画家としての自立の過程が詳しく述べられています。ローザ・ボヌールの生涯を知るには最適のドキュメントでしょう。全体は40ページに渡るものですが、その中から数個の文章を補足として引用します。まず、1834年~36年あたり(ローザが12歳~14歳頃)の様子を記した文章です。


父親のレーモンは娘の絵に対する情熱に早くから気づいていたが、女性の仕事としてお針子に娘を仕立て上げようとした。しかし、娘の頑固な抵抗にあい、伝統的な女子教育を施すことを断念した彼は、ロザリー(引用注:ローザのこと)に絵を教えることになる。

当時、女性は正規の美術学校に入ることが許されておらず(女性が入学を許可されるのは1897年)、彼女は父の元で絵の修行をする傍ら、ルーヴル美術館に通いつめ、絵や彫刻の模写をする。その模写が売れてお金になると、父も娘の画才を認め、「マリー・アントワネットの肖像画家」として有名なエリザベト・ヴィジェ = ルブランを越えるよう娘を激励する。

村田京子「同上」

ローザ・ボヌールは10代半ばで、模写とはいえ絵が売れはじめたようです。早くから絵の才能を発揮したということです。また(フランスでは)女性が正規の美術学校に入学が許可されるのは1897年、というのもポイントです。

上の引用にロザリーと書かれているように、ローザは本名ではありません。彼女の本名はロザリー = マリー・ボヌールです。事実、1841年のサロンに初めて出品したときには(19歳)「ロザリー・ボヌール」を使っています。ところがその後「ローザ・ボヌール」を使うようになります。その経緯は以下のようです。


1841年と43年のサロンのカタログには「ロザリー・ボヌール」の名前で、42年のカタログでは「ロザリー・R・ボヌール」の名前で出ていたが、父親のレーモンは今後、自分の名前「レーモン」のサインをすうように彼女に命じる。ロザリーはそれを拒否し母親のソフィの記憶を永遠に留めるために(引用注:母親はロザリーが11歳のときに死去)、母が幼い彼女につけてくれた愛称「ローザ(Rosa)」をそれ以降使うことにする。

しかし、レーモンが娘にとった行動は稀な例ではない。ジャーメイン・グリア(引用注:オーストラリアの作家・ジャーナリスト。1939~)が指摘しているように、19世紀末までは女性が絵を学ぶ正規の美術学校がなかったため、職業画家になった女性のうちほとんどが、父親や夫が画家という家系に属していた。

こうした画家の家系で息子が自分より優れた才能を見せた時には、ラファエロの父親のように自分よりレベルの高い師匠につくよう勧めることはあっても、娘の場合はそうではなかった。父親は娘に彼のスタイルが描くこと、すなわち彼の絵を模倣することを強制し、その絵に彼の名前でサインをさせた。

その顕著な例が、ティントレットの娘マリエッタである。彼女は父に認められるほど優れた才能を発揮したが、結局、ティントレットの共同制作者として彼の絵と区別できない絵しか描いていない。そのため、現在ティントレットの絵とされる作品の中に彼女の絵、そして彼女の存在自体が埋もれてしまった。

したがって、父の命令を拒否したローザ・ボヌールの方が、むしろ例外であった。また、先にみたように、彼女が父のアトリエから独立して自分のアトリエを持ち、ミカ夫人と娘のナタリーが家事を引き受けることで、絵の制作に集中できたのも「才能ある未婚の女性年鑑でほとんど類のない」環境に恵まれたと言える。

村田京子「同上」

1836年(ローザ、14歳)のころ、カバーやケースの製造業者、ルイ = フレデリック・ミカが娘の肖像をローザの父のレーモンに依頼したのが縁で、ボヌール家とミカ家は家族ぐるみの付き合いをすることになります。1841年(ローザ、19歳)ごろになると、ローザの絵は良く売れて、ボヌール一家の生活費のほとんどをローザが賄うまでになっていました。ローザは父の大反対を押し切って、自宅から離れた専用のアトリエを持ちます。絵で稼いだお金は父に渡すという条件です。この専用アトリエを手配したのがミカ夫妻で、ミカ夫人と娘のナタリーが家事を引き受けることになったわけです。

この1841年にローザは初めてサロンに自作を出品しますが、この頃について次のような記述があります。


当時を振り返って彼女は次のように言っている。「私は私の小さなアトリエで、筋肉解剖学、骨学、生理学という3つの観点からあらゆる種類の動物を次々に研究した。それは、後に芸術への愛に駆られて屠殺場をたびたび訪れるようになった時に行った、解剖の予行演習となった」。

村田京子「同上」

上の引用のローザの言葉は、ローザの最晩年を共にしたアメリカの肖像画家、アンナ・クランプクが書いた伝記からとられたものです。中野京子さんが『馬市』を紹介した文章の中に、ローザは解剖学的知識を得るため食肉処理場(=屠殺場)へ通ったとありましたが、単に見学するだけでなく屠殺場で解剖までしたことになります。

調べてみると、当時のパリには幾つかの屠殺場がありました。もともと無人地区にあった屠殺場も人口集中により街中になったわけです。ローザが通ったのはミロメニル通り(現在ではパリのど真ん中)の "ルール屠殺場" だそうです。男ばかりの職場である屠殺場に入り、見学・スケッチをするだけでなく、解剖までする。動物のありのままを描き尽くそうとするボヌールの執念を感じるエピソードです。



最後に、ローザ・ボヌールの肖像画を引用しておきます。これは、ボヌールの伝記を書いたアメリカの肖像画家、アンナ・クランプクの作品で、ボヌールの最晩年、76歳の時です。めずらしくスカート姿のボヌールが描かれていますが、胸にレジオンドヌール勲章・オフィシエの徽章をつけているので、これは "女性として正装をした姿" ということでしょう。

Anna Klumpke - Portrait of Rosa Bonheur.jpg
アンナ・クランプク(1856-1942)
ローザ・ボヌールの肖像」(1898)
(メトロポリタン美術館)

アメリカの肖像画家、アンナ・クランプクは、ボヌールに手紙を出して肖像画を描く了承をとりつける。そして1898年にボヌールの住居であるフォンテーヌブローの近くのビー城(Chateau de By)に滞在し、この肖像画を描いた。この制作の過程で2人は大変親密になった。ボヌールはクランプクに「死ぬまで一緒に暮らして欲しい」と頼み、クランプクはそれを了承して生活を共にする。ボヌールはクランプクに自らの生涯を語り、クランプクがメモをする日々が続いた。

1899年、ボヌールはパリの公証人役場でクランプクを遺産の包括受遺者に指定し、ビー城をクランプクに生前贈与する。ボヌールの意図はビー城と作品の保存であった。ボヌールは元気に制作を続けていたが、その年の5月に肺炎で急死する。最後はクランプクの腕に抱かれての死去であった(享年 77歳)。

ボヌールの死後、クランプクはボヌールの親族との争いも含めて、作品の保存や散逸防止に尽力した。また、1908年にはボヌールの伝記を完成させた。さらにボヌールの生誕100年にあたる1922年には回顧展を開催した。これらを含んで、クランプクがボヌールを記念するために行った数々の功績に対し、フランス政府は1924年にレジオンドヌール勲章・シュヴァリエを授与し、さらに1936年にはレジオンドヌール勲章・オフィシエに昇格させた。

クランプクは1942年に本国のアメリカで死去したが、その相続人はビー城とボヌールのアトリエを保存し、1982年からはローザ・ボヌール美術館として一般公開されている。

── 村田京子「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」より要約




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No.265 - AI時代の生き残り術 [社会]

今回は No.234「教科書が読めない子どもたち」と、No.235「三角関数を学ぶ理由」の続きで、「AI時代に我々はどう対応していけばよいのか」というテーマです。まず、今までにAIについて書いた記事を振り返ってみたいと思います。次の15の記事です。

◆No.165 - データの見えざる手(1)
◆No.166 - データの見えざる手(2)
◆No.173 - インフルエンザの流行はGoogleが予測する
◆No.174 - ディープマインド
◆No.175 - 半沢直樹は機械化できる
◆No.176 - 将棋電王戦が暗示するロボット産業の未来
◆No.180 - アルファ碁の着手決定ロジック(1)
◆No.181 - アルファ碁の着手決定ロジック(2)
◆No.196 - 東ロボにみるAIの可能性と限界
◆No.197 - 囲碁とAI:趙治勲 名誉名人の意見
◆No.233 - AI vs.教科書が読めない子どもたち
◆No.234 - 教科書が読めない子どもたち
◆No.237 - フランスのAI立国宣言
◆No.240 - 破壊兵器としての数学
◆No.250 - データ階層社会の到来

これらの15の記事をテーマごとに分類してみると、次のようになるでしょう。

 ゲーム : No.174, 176, 180, 181, 197 

取りあげたゲームは囲碁と将棋ですが、この分野におけるAIの進歩は目覚ましいものがあります。2016年に英国・ディープマインド社の "アルファ碁" が世界トップクラスの棋士に勝って大きな話題になりましたが、その後のAIの進歩で名人といえどもAIに勝てなくなりました。囲碁と将棋は "完全情報ゲーム(すべての意思決定の過程が全員にオープンにされているゲーム)" の代表格であり、しかも最も複雑な部類です。この領域ではAIが人間を凌駕したわけです。

AIの特長は進化のスピードが速いことです。特に囲碁や将棋ではAI同士の自己対戦や強化学習で、人間同士の対戦では考えられないほどの対局をこなすことができます。AIの打ち手(指し手)の最適化が猛烈なスピードで進む。No.181「アルファ碁の着手決定ロジック(2)」で、アルファ碁(2015年末の時点の技術)が ① 囲碁の常識をあらかじめ人間がインプットし、かつ ② 人間同士の対局データの機械学習で開発されたことを指して「道は遠い」と書きましたが、その予想はハズレでした。その後2年程度で ① ② が不要なアルファ碁・ゼロ(2017年末)が登場したからです。想像を遙かに越える進化のスピードです。趙治勲 名誉名人が「人間の天才棋士が20年かかるところを、AIは2ヶ月で進歩した」という意味の発言をしていましたが(No.197)まったくその通りです。

要するに、ルールが明快で情報が完全に把握できる領域では AI は人間を凌駕することが明確になったわけです。もちろん実社会ではルールが曖昧であったり、人の感情に左右されたり、あるいは情報が不完全な中での意思決定が必要です。完全情報ゲームのようにはいきません。ゲームのAIは、あくまで非常に "狭い" 世界での話です。

しかしその一方で、ゲームはIT技術の進歩と深く関わってきました。1970年代後半のインベーダー・ゲームは(電卓とともに)マイクロ・プロセッサーの発達を促したし、現在のAIにおける深層学習を効率的に行うGPUという超並列プロセッサーは、ゲームの3D表示で発達してきました。2019年になって、5Gを見据えて Google などが発表した Cloudゲームや、今後広まりそうな VR(ヴァーチャル・リアリティ)を使ったゲームも、IT技術・コンピュータ技術の発達の結果です。ゲームが革新を導くことがよくあります。ゲームをあなどってはいけないのです。

 ビッグデータ + 統計分析 : No.165, 166, 173 

No.165,166「データの見えざる手」と、No.173「インフルエンザの流行はGoogleが予測する」は、いわゆるビッグデータを収集し、それを統計理論を主体とする数学手法で分析することで、データに含まれる法則や規則性、関係性を見いだし、それを予測や推定や意志決定に役立てるというものでした。これが2010年代にブレイクしたAIの主流の方法論です。文字・画像認識、機械の故障予測、X線・CT画像からの病巣の発見などは、すべてこの方法論によっています。

 AIと倫理 : No.237, 240, 250 

AI技術は、使い方によっては社会にデメリットをもたらします。つまり格差を助長・固定化したり、不平等をもたらしたり、プライバシーを侵害したり、といった不都合点です。No.237「フランスのAI立国宣言」No.240「破壊兵器としての数学」No.250「データ階層社会の到来」は、そういったAI(広くいうと数学、ないしは数学モデル)の危険性と、それを克服するための社会倫理の構築が必要という話でした。

 AIの可能性と限界 : No.196, 233 

ロボットは東大に入れるか.jpg
「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを特集した国立情報学研究所(NII)の広報誌(2013.6)。
No.196「東ロボにみるAIの可能性と限界」No.233「AI vs.教科書が読めない子どもたち」は、"ロボットは東大に入れるか。" プロジェクト(略称:東ロボ)を通して分かった、AIの得意と不得意の話でした。東ロボくんは、MARCH・関関同立の特定学部であれば合格ラインに達しました。ただし東大合格は無理で、今後も無理だろうと推測されます。それは、東ロボくんに不得意課目があるからです。

ちなみに No.196の「補記」に東ロボくんが全くできなかった英語のリスニング問題(=バースデーケーキの問題)を掲載しました。なぜ受験生ができる問題がAIにとって困難なのか(研究者によると "絶対に無理"とのこと)の一例が良く理解できます。

一般的に「AIが不得意なもの、AIの限界」について語られることが少ないのですが、東ロボはそれを実証的に見極めたという意味で貴重なプロジェクトでした。それは大学入試という限られたものだけれども、大学入試は10代後半の若者の知力が試される普遍的な場です。そこにAIで挑戦したという意義がありました。

 AIによる雇用の変化 : No.175 

No.175「半沢直樹は機械化できる」は、AIの時代における雇用の変化です。特に、2013年にオックスフォード大学の教授が出した「雇用の未来:我々の仕事はどこまでコンピュータに奪われるか?」では、現存する職種の47%がAIに奪われるという推定があり、それがセンセーショナルに報道されました(AIの専門家による70職種の推測を、数学モデルで700職種に拡大したもの)。

題名の「半沢直樹」は銀行マンで「融資の妥当性を判断する業務」の担当です。この仕事は機械化できるという予測が2013年頃に立てられたのですが、それから6年後の現在では「AIによる融資判断」が花盛りの状態です。予測通りに事態が進行して来ているようです。

 AIの時代に必要なスキル : No.234, 235 

No.234「教科書が読めない子どもたち」は東ロボのプロジェクトを主導した国立情報学研究所の新井紀子教授が実施したリーディング・スキル・テスト(Reading Skill Test。RST)で判明した驚くべき事実でした。RSTの "ミソ" は、

東ロボ・プロジェクトで分かった読解力についてのAIの得意・不得意が、小中高校生ならどうかが分析できるようにテスト設計がされている

ことです。AIが不得意な分野こそ人間が優位に立てるはずなのに、意外にもその分野では人間も正解率が悪いことが分かった。このままではAI時代についていけない人が多数発生する、というのが新井教授の危機感でした。それを受けて No.235「三角関数を学ぶ理由」は、小中高校の勉強はこれからのAIの時代に増々大切になるということを主張したものでした(三角関数は一例です)。



今回はその No.234「教科書が読めない子どもたち」と、No.235「三角関数を学ぶ理由」の続きです。2019年6月の日本経済新聞に、東ロボと RST のプロジェクトを主導した新井教授のインタビュー、「AI時代の生き残り術」が掲載されました。このインタビューの内容は極めて妥当だと思ったので、その一部をネタに「生き残り術」を考えてみたいと思います。


読解力・論理力・コミュニケーション能力


このインタビューは日本経済新聞の玉利編集委員が行ったものですが、玉利氏の「人工知能(AI)が仕事を奪うことについての不安が広がっている。若い世代ほど将来不安が強いようだ」という問題提起に対し、新井教授は次のように答えています。


どのみち想像をはるかに超えることが起こる。どの職業がAIに置き換わるか誰にも予想できない。どの進路が安全かと考えることは、もっとも意味がない。公務員になれば大丈夫だとか、医師なら問題ないといった考え方は一番ダメな選択の方法だと思います。

新井紀子
日本経済新聞(2019.6.17)

新井教授の話の最後に出てくる「医師」は、"最もAIに取って換わることがなさそうな職業" であることは確かでしょう。オックスフォード大学の予測でもそうなっていました。しかし、医師の仕事のある部分はAIで置き換えられることもまた確かです。

しばしば経験することですが、病院に行くとまず検査に回され、医者はその検査結果のパソコン画面の数字を見ながら、患者の方には目も向けずに、また質問など無しに、あれこれと "診断" をするということがあります。こういった "診断" は機械化・ロボット化できるわけです。将来は血液1滴だけの分析で(ないしは、ごく少量の生体サンプルの分析で)、その人がどういう病気になっているか、その予兆も含めてすべての診断できるようになるでしょう。こうなれば「パソコン画面を見つめるだけの医師」は不要です。

要は「医師」とか「公務員」というのは、今までの社会の枠組みにおける職種であり、今後予想される激動期においては、その職種が無くならないまでも、職種に求められるスキルがガラッと変わりうるわけです。人が仕事をするということは社会にとってどういう意味と価値があるのか、そこを考えないといけない。


どうすればいいか。どんな状況でも、常に求められるのは有能な人材です。卒業した学部や特技などとは関わりなく、基本的なスキルが高い、生産性が高い人です。つきつめると、それは読解力と論理力です。他の人と働くのであれば、コミュニケーション能力がそれなりにあれば、どんな世の中になっても怖いものはない。この3つの基本さえできれば、機械との競争には負けない。機械は意味を理解しませんから。労働市場で引く手あまたでしょう。

「同上」

新井教授は、求められるのは ① 読解力、② 論理力、③ コミュニケーション能力、の3つだと言っています。この3つの内容を具体的に言うと次のようになるでしょう。

① 読解力は、主として文章で表現された意味内容を正確に把握できる力です。実社会では文章表現を補足するものとして、図や表やグラフが使われることが多々ありますが、これらの読解も含みます。

読解力は、社会におけるすべての仕事、研究、タスク、作業の基本となるものと言えます。また、自分が表現したいことを他者に間違いなく伝わる形で文章や図にする力(=表現力)は、読解力があってこそのものです。表現力はあるが読解力がない、というのはありえないというか、矛盾しています。

② 論理力は「論理的にものごとを考えられる力」です。学校の勉強で言うと、数学は論理だけでできあがっています。その他の理系科目や文系科目の多くも、論理的に考えることが重要なのは言うまでもありません。

③ コミュニケーション能力は、対人関係において相手の意向を読みとり、相手の言わんとしていることを理解し、また自分の主張を相手に伝わるように述べ、さらには相手を説得したり、妥協点を見つける能力でしょう。

① ② ③ が「AI時代における有能さ」の最もべーシックなスキルだというのは、大変納得性が高いわけです。それはおそらく、小学生ころから始まる訓練でつちかわれるはずです。

私の知り合いで小・中・高校生に勉強を教えている塾の講師の方がいます。その人によると、中学受験をするような小学生に最も必要なのは「読解力」と「計算力」と「集中力」だそうです。受験そのものにコミュニケーション能力は不要なので、「計算力=論理力の一部」と考えると新井教授の説に似ています。さらに、集中力が "生産性"(= 正確に速く作業を遂行する)を左右するのはその通りでしょう。



その小学校にも近年、英語やプログラミングを取り入れる動きが進み、また大学や企業はAI人材の育成に力を入れ始めています。こういった社会情勢の中で、しかも先が読めない時代だから学生も親も企業も不安にかられ、すべての能力を備えようと焦る。あれやこれやに手を伸ばし「英語ができて、AIのプログラミングが出来て、コミュニケーション能力も高い」というような理想像を描いてしまう、と新井教授は言っています。しかし本当に必要なスキルは何なのか。プログラミングを例にとってそれが説明されています。


高度プログラミングに最も必要な力は、正確な仕様書を書き、仕様通りに実装すること。要は読解力と記述力です。

加えてAIを使うプログラマーに欠かせないのは、確率と統計と行列、微積分などの数学です。数学は苦手だけれど、プログラミングを少し勉強しましたでは、早晩淘汰されるでしょう。

「同上」

新井教授の発言にある「高度プログラミング」を、「実社会で実務に使用するプログラムを作ること」と考えます。そこでまず必要なのは、プログラムが果たすべき機能を正確に漏れなく記述した仕様書です。それは、例外ケースにおいてプログラム(=コード)がどう振る舞うべきかというところまで記述しなればなりません。

次に、その仕様にもとづいて、何らかのプログラミング言語を用いて機能をコンピュータが処理できる形に実装する必要があります。このフェーズおいては C++ や Java や Python などの(例です)プログラミング言語を使うわけですが、言語の修得は勉強すればできます。それよりも、論理的に考えるとか、集中力を発揮してケアレスミスのない(バグがない)コードを書けることが大切です。

仕様書は別の人が書き、その仕様に沿って自分が実装するということもあるでしょう。そこで必要なのは読解力です。さらに論理力も必要です。往々にして仕様書には曖昧なところやヌケ・モレ、記述不足、不整合などの不具合があります。その不具合を見抜く力が必要で、そのためには「不具合がなく首尾一貫している仕様とは何か」を想定できる論理力が必要です。論理的にものごとを考える力があってこそ論理的におかしいという指摘ができるのです。

顧客から受託して、顧客の要望で仕様書を書き、コードを実装することもあるでしょう。この時に必要なのはコミュニケーション能力です。顧客の真の要望や意図を理解しないと始まりません。限られた予算と納期のなかでのプログラム開発では顧客の説得も必要だし、優先度を考えて落とし所をさぐることも必要です。まさに対人的なコミュニケーション能力が必要な場です。



新井教授は「AIを使うプログラマーに欠かせないのは数学」という趣旨の発言をしていますが、まさにその通りです。現代のAIは徹頭徹尾、数学でできています。回帰分析、クラスター分析、主成分分析、深層学習、トピック分析など、現代のAIと言われるものの中身は数学です。「数学は嫌いだがAIのプログラミングは好き」というのは矛盾しています。

最近は「AIプラットフォーム」と呼ばれる "AIプログラムのライブラリ" が無料公開されていて、それを使えば比較的簡単にAIプログラムが開発できます。プリファード・ネットワークス社の Chainer や、Google社の Tensorflow などが有名です。しかしこれらのプラットフォームを使っているだけの自称 "プログラマー" は、新井教授が言うように早晩淘汰されるでしょう。


乱世こそ地道に


このインタビューを行った日本経済新聞の玉利編集委員は、全体を "乱世こそ地道に" とまとめています。それを次に引用します。


「乱世」こそ地道に

新井教授はこれからの世界を乱世と見ている。人間の仕事の多くがAIに置きかわるような世界では、世の中を動かすしくみがすっかり変わる。

変化に合わせ、働き方も劇的に変わると予想される。進学や就職への影響が大きい学び方も例外ではない。技術進歩に対応した最新の手法や奇抜なアイデアが求められる、と思われがちだ。

だが、そうではないという。乱世こそ地道なやり方しか通用しなくなると指摘する。

世の中が安定しているときは、いろんな条件も動かない。その中では、変わった方法でもうまくやっていける。だが、乱世には前提となる様々なしくみが崩れてしまう。普遍性のある、どこでも通用するものしか生き残れないそうだ。

急がば回れ。AIに負けないためには、一人ひとりの基礎基本となる読解力、論理力などの力を地道に鍛えるのが近道ということになる。

玉利伸吾(編集委員)
日本経済新聞(2019.6.17)

玉利編集委員がインタビューのまとめとして書いていることで重要なポイントは、

◆ 乱世こそ地道なやり方しか通用しなくなる。

◆ 乱世では普遍性のある、どこでも通用するものしか生き残れない。

の2つです。これはまさにその通りでしょう。この2つを逆の視点から言うと、

◆ 安定した世の中で作られた枠組みに沿って、専門特化した領域だけしか知らない・知ろうとしない人は、ひとたび乱世になると足元を掬われて行き場を失う(ことになりかねない)。

となるでしょう。専門特化した人材が一見、生産性が高いように見えるのは、本人が「基本的なスキルが高い有能な人材であるから」ではなく、「その専門領域で先人たちが過去から蓄積し継承してきた経験や知識があるから」かもしれないのです。その経験や知識がデジタル化されてしまうと、自称 "スペシャリスト" は一気に行き場を失うはずです。



以上の日本経済新聞の記事を読んで改めて思うのは、教育の大切さです。特に小学校・中学校・高校における教育で、それは No.235「三角関数を学ぶ理由」に書いたような勉強と、学校というミニ社会における共同生活です。我々はそこで、読解力・論理力・コミュニケーション能力といった「普遍性のある、どこでも通用するスキル」を育成していると考えられます。勉学の課目はいわゆる文系から理系までいろいろありますが、その勉強によって我々は、たとえば「読解力・論理力のさまざまなパターン」を修得できるのです。

AIによる機械化が進もうとしている時代、小学校から英語やプログラミングを取り入れようとしている時代にこそ「普遍性のある、どこでも通用するスキル」の大切さに眼を向けるべきだと思いました。




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No.264 - ベラスケス:アラクネの寓話 [アート]

前回の No.263「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」で、この美術館の至宝、ティツィアーノ作『エウロペの略奪』について中野京子さんが次のように書いていることを紹介しました。


本作は、後代の著名な王侯御用達画家ふたりに取り上げられた。ひとりはルーベンスで、外交官としてスペインを訪れた機会にこれを丁寧に模写している。ティツィアーノに心酔していただけであり、自らの筆致を極力抑えて写しに徹した、すばらしい作品に仕上がった。

もうひとつはベラスケス。フェリペ2世の孫にあたるフェリペ4世の宮廷画家だった彼は、『たち』の中で、アラクネが織り上げたタペストリーの主題として、このエウロペをいわば画中画の形で描き出した。


ルーベンスによる『エウロパの略奪』の模写は No.263 に引用したので、今回はもう一つの『織り女たち』を取り上げます。前回と同じく中野京子さんの解説から始めます。


ベラスケス『織り女たち』


The Spinners or the Fable of Arachne.jpg
ディエゴ・ベラスケス
アラクネの寓話織り女たち)」(1657頃)
(220cm × 289cm)
プラド美術館


本作は、通称『たち』、正式には『マドリード、サンタ・イザベル綴織つづれおり工場』と呼ばれてきた。王立タペストリー工場内部を描いたもので、前景にいるのは糸紡いとつむぎする女性たち、後景は買い物にやってきた高貴な女性たち、一番奥の壁に飾られているのは、売り物のタペストリーとされたのだ。いつごろからそれが定説になったかは不明だが、たぶん一時売却されたこと(1700年の王宮財産目録には記載されていない)、王宮を転々としたことなどが理由だろう。

いずれにせよ、プラド美術館蔵となった19世紀前半からは、工場で働く織り女たちという解釈に誰も異議をはさまず、ベラスケスの筆さばきの超絶技巧ばかりがたたえられた。光の実在感、糸車のスピード感などが、とりわけ印象派の画家たちを熱狂させた(何が描かれているかわからなくとも、どのように描かれているかだけで感動できる時代の幕開けのような気が ・・・・・・)。

こうしてベラスケスの死後 3世紀ちかくたつ、1948年、ひとりのスペイン人研究者が、1664年の財産目録に『アラクネの訓話』という項目を見つけた。見つけただけでなく、それをこの作品と結びつけた。そこから『織り女たち』は魅力的な変貌へんぼうげる。


「ベラスケスの筆さばきの超絶技巧」とありますが、糸を巻き取っている右手前の女性の "左手指先の表現" も付け加えていいでしょう。糸車と同じく "動体描写" というのでしょうか、あえてぼやっとしか描かれていません。

超絶技巧はその通りですが、よく見るとこの絵は変です。後景の "舞台" のようなところに鉄兜をかぶった女性がいます。王立タペストリー工場ならこんな鉄兜の女性はいないはずです。しかも女性は右手を振り上げている。何のポーズでしょうか。またその女性の手前にはチェロのような楽器が描かれ、さらにその手前の左、"舞台" の下あたりには梯子はしごが立て掛けてある。チェロも梯子もタペストリー工場には相応ふさわしくないアイテムです。

スペインの研究者の発見の通り、実はこの絵はギリシャ神話における「女神・パラスとアラクネの物語」を描いているのです。その物語を以下に引用します。まず、パラスのことからです。


女神・パラス


女神・パラスと書きましたが、パラスは女神・アテネのことで、ローマ神話ではミネルヴァです。そのアテネは、知恵・学問・工芸・医療の神であると同時に、戦いの神です。なぜ "学芸の神" が "戦いの神" なのかが分かりにくいのですが、女神・アテネはアテナイを含む数都市のまもり神です。都市を護るためには戦わなければならない、そういう理屈です。そのアテナの別名がパラスで、パラス・アテナという形で "添え名" としても使われます。その由来の一説を中野京子さんが別の本に書いていました。


パラスは女性名。一説によれば、槍の師匠パラスと闘技練習中、アテナは誤って彼女を殺してしまい、それをやんでパラスをえ名にするようになったと言う。つまりアテナと聞けば知恵や文化を含むイメージだが、パラス・アテナだと戦いに特化した印象を与える。


グスタフ・クリムトが武具で身を固めた迫力満点の女神の姿を描いていますが、その絵の題名は『パラス・アテナ』です。


オウィディウス「変身物語」


そこで「パラスとアラクネの物語」です。古代ローマの詩人、オウィディウス(B.C.43 - A.D.18)「変身物語」はギリシャ神話の "原典" の一つですが、アラクネの物語が語られています。その話の始めの方に次のような記述があります。以下の「女神」とはもちろんパラス = ミネルヴァです。原文に下線はありません。


女神は、リュディアの女アラクネを破滅におとしいれることを考えていたのだ。アラクネが、かねがね、はた織り上手じょうずのほまれにかけては自分に一歩も譲ろうとはしないのを耳にしていたからだ。



ひとは、彼女に技術をさずけたのはミネルウァ女神だとさとるだろう。けれども、アラクネ自身はそれを否定し、かくもりっぱな師匠の名にいきどおりをおぼえて、こういう。「女神さまも、わたしとわざをきそわれたらよいのだ、わたしが負けたら、わたしをお好きなようになさるがいい!」


オウィディウス「変身物語」.jpg
オウィディウスは古代ローマ人なので、神の名前はローマ式です。またこの岩波文庫はラテン語からの訳で、固有名詞はラテン語表記になっています。ミネルウァ = ミネルヴァ(英語)です。

話を続けますと、パラスは老婆に変身してアラクネのもとを訪れます。そして「年の功ということもある。わたしの忠告を無にしてはならないよ。世にはた織りの高名を求めるのもよい。が、女神には一歩を譲らなければ!」と忠告します。パラスはアラクネを破滅させるつもりだったと物語の最初にあるのですが、この忠告は "改心の最後のチャンス" を与えたということでしょう。しかしアラクネは聞き入れません。


アラクネは、彼女をにらみすえると、手にしていた糸を放し、振りあげかけた手をとどめかねながら、怒りの色を顔にあらわにして、こう女神に答えた。「よくもいらしたのね。そんなにももうろく●●●●して、老いさらばえていながら! 長生きしすぎるのも、どうかと思うわ。嫁か、娘さんはいないの? そんなお説教は、その人たちにするがいいわ! わたしに忠告ですってね。それなら、いくらでも自分で出来るの。お説教が役に立ったなんて、思わないで! わたしの考えには、変わりがないのだから。でも、女神さまは、どうしてご自分で来ないの? わざ比べを避けるのは、なぜなの?」

そこで女神は、「もうおいでになっているのだよ!」といいながら、老婆の姿をぬぎ捨てて、女神の姿を現した。

オウィディウス「変身物語」

こうしてパラスとアラクネの、運命の "機織り競技" が開始されます。パラスが織った柄は、ユピテル(=ゼウス)を中心にアクロポリスの丘にいる12の神々であり、パラスがネプトゥーヌス(= ポセイドン)との争いに勝って、自分の名前が都市名(つまり、アテナイ)になったシーンを描きました。そして四隅には念を押すように、神に反抗して罰をうけた者たちの姿を織り込みました。それに対してアラクネは何を織ったのか。「変身物語」の記述が以下です。


いっぽう、アラクネが織っているのは、まず、雄牛姿のユピテルにあざむかれたエウロペの図だ。雄牛も、海も、まるでほんものとおもえるぐらいだ。エウロペ自身は、うしろに残した陸地を見やりながら、仲間たちに呼びかけている風情ふぜいだ。寄せる波に濡れないように、おずおずと足を引っこめている。

つぎに、アステリエ。彼女は、身をくねらせたわしにつかまえられている。それから、レダ。これは、白鳥の翼のしたに臥している。

アラクネは、織り進む。ユピテルが、こんどは獣神サテユロスに身をやつして、美しいアンティオペアに双生児を身ごもらせたこと、アンピトリオンになりすまして、その妻アルクメネを欺いたこと、黄金の雨となってダナエを、火炎となってアイギナを、羊飼いとなってムネモシュネを、まだらの蛇となってプロセルピナをだましたこと ─── そんな場面が加えられていく。

オウィディウス「変身物語」

まるで "ゼウスの悪行一覧" のような織り柄で、神(ゼウス)がいかに人間を騙したかを織り込んでいます。しかし「変身物語」の記述はこれだけでは終わりません。さらに、ネプトゥーヌス(= ポセイドン)、アポロン、バッコス、サトゥルヌスの "不良行為" が織り込まれたとあります。この織り柄にパラス(ミネルウァ女神)は怒ります。


ミネルウァ女神も、「悪意」の神も、この作品に難癖なんくせをつけることはできなかったろう。男まさりの、金髪の女神には、その出来ばえがしゃくにさわった。神々の非行を描いたこの織物を引きちぎると、手にしていたキュトロス産の黄楊つげで、三度、四度と、アラクネのひたいを打った。かわいそうなアラクネは、こらえきれないで、ひと思いに首をくくった。

哀れを催したミネルウァは、ぶらさがっている彼女を抱き上げて、こういった。「腹黒い娘さん、生きてだけはおいで! でも、ぶらさがったままでいるのよ! 先のことも、安心してはならないね。おまえさんの一族には、末ながく、同じ懲罰を残しておくのだから」

オウィディウス「変身物語」

パラスはアラクネに魔法の草の汁をふりかけ、蜘蛛の姿に変えます。そこで話は終わります。

補足しますと、上の引用で "" となっているのは、"" という漢字をあてることが多く、織機で横糸を交互に通すための木製の道具です。左右同型の舟形をしていて、中央にある横棒に横糸を結びつけて使います。

これは不思議な物語です。神と争っても人間に勝ち目はなく破滅が待っているだけなのに、アラクネはパラスへの挑発を繰り返します。

◆ 地元のリュディアでアラクネは、自分の機織りの腕はパラスより上で、パラスと勝負したいと言いふらした。

◆ 訪れた老婆に蔑むような言葉を投げつけ、なぜパラスは自分と直接勝負しないのかと挑発した。

◆ パラスとの機織り競争になったとき、ゼウスを中心とする "神々の非行" の柄を織り込んだ。

などです。パラスは老婆に変身してアラクネをさとすことで改心の "最後のチャンス" を与えるわけですが、アラクネは完全に無視してしまいます。こうなると、その後のストーリーで明らかなように、"機織り競技" で勝とうが負けようがアラクネには破滅が待っているだけです。

しかし考えてみると、これは「動物起源譚」の一種なのですね。アラクネは "蜘蛛の擬人化" です。古代の人は蜘蛛が精緻な巣を作ることを観察して驚いたのでしょう。何も古代人だけではありません。現代の我々が見ても、蜘蛛が巣を作る過程とそれが獲物を捕らえる "しかけ" を知るとビックリです。古代ギリシャ人がそんな蜘蛛の起源として "学芸の神をも凌駕する機織りの名手" を仮定する ・・・・・・。いかにもありうる起源譚だと思います。それが「不思議な物語」になったのだと想定できます。

もちろん、起源譚という以前に「寓話」として考えると「傲慢は身の破滅を招く」というのが、誰もが考えるシンプルな教訓でしょう。これに類するギリシャ神話は、ほかにも「アポロンに音楽競技を挑んだマルシュアス」がありました。「傲慢は身の破滅」的な話はイソップ寓話にもあるし、日本の民話にもあります。世界共通の寓話のパターンでしょう。・・・・・・ とは言うものの、アラクネの物語をよく読むと次の2点が分かります。

◆ 結局、機織りの技量はパラスよりアラクネの方が上で、それがさらにパラスの怒りをかったと読み取れる。

◆ アラクネは自ら死を選んだ。

の2点です。この2点が、よくある「傲慢は身の破滅的な寓話」と違うところです。これを考えると、アラクネは命を賭けて自らの機織り技術が最高のものであることを証明したとの解釈も可能なのです。


アラクネの寓話


本題のベラスケスの『アラクネの寓話』です。少々長いですが、中野さんによるこの絵の解説を以下に引用します。

The Spinners or the Fable of Arachne.jpg


単なる仕事場の風景とばかり思われていた『織り女たち』が、アラクネの物語ではないかと示唆しさされた途端、みるみる画面が精彩をびはじめる。だまし絵を見つめているうち、隠されたものの存在が浮かび上がるのと似ている。

前景、左から2人目、白いヴェールで髪をおおい、糸車を廻しているのが、人間に化けたミネルヴァだとわかる。ただひとり若くない女性であり、背後には梯子はしご ── 天と地を結ぶ ── が立てかけられているからだ。

女神と表裏の関係ということを表すため、右から2人目の女性は後ろ向きに座っている。すなわちアラクネだ。一心に糸をあやつる手の表情が美しい。顔が見えないので想像力がふくらむ。

見物人はいない。カーテンを開けたり、糸玉を拾ったり、布を用意する娘たちは、みな質素な身なりで腕まくりし、日々の厳しい労働をうかがわせる。糸埃いとぼこりの舞う、貧しい、雑然たる仕事場で、神と人間の死闘が無言でくりひろげられている。

一方、後景は舞台さながらだ。前景より床が2段も高く、非現実感が強調される。この演劇的な要素のおかげで一種の異化効果が生まれ、前景の糸巻き仕事が、どこかいつもの日常とは違った様相を呈してくる。『ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)』にも通じる、ベラスケスらしい手の込んだ仕掛けだ。

舞台では着飾った3人の女性に囲まれ、兜をかぶった鎧姿の人物が、何事か言い渡すかのように、右腕を大きく振りあげたところだ。ミネルヴァ以外にはありえない。ご丁寧に、そがには大きなチェロ。彼女が音楽の守護神でもある証拠として置かれている。となると、3人の脇役は、ミネルヴァと関係の深いムーサたち(芸術に霊感を与える女神)であろう。そして舞台正面に立つのがアラクネ ── 前景の彼女と衣装が違うが ── ということになる。仕草は、ミネルヴァの怒りに呼応する。

本来、このシーンには緊迫感きんぱくかんがなければならないのだが、右端のムーサが我々鑑賞者の方へ目を向けているため、いっそう素人しろうと芝居がかって見える。画面全体がたくらみに満ち、奇妙な感覚を与えるようになっている。まるで神話自体は虚構きょこうだが、織物競争は現実だとでもいうような。

後景の、壁にかかったタペストリーは、絵画好きなら一目で気づく、ティツィアーノ作『エウロペの略奪』である。ゼウスが牡牛おうりけて美女エウロパを略奪する神話画で、アラクネが織ったとされる完成品のテーマの一つがこれだった(この後ミネルヴァに引き裂かれるわけだが)。

中野 京子『名画の謎 ギリシャ神話篇』

中野さんは後景の "舞台" の様子を「素人芝居」と書いていますが、ピッタリの言葉だと思います。前景だけをとると「パラスとアラクネ」を描いた神話画、後景はその「パラスとアラクネ」を舞台で演じるアマチュア演劇グループという感じなのです。一つ世界に別の世界が "入れ子" になっていて、その2つの世界の雰囲気がかなり違うという構図です。

引用の最後の方に「アラクネが織ったテーマの一つがエウロペの略奪」とあり、この記述は正確なのですが、オウィディウスの「変身物語」のパラスとアラクネの物語で、最初に詳しく記述されている織物のテーマは「エウロペの略奪」です(上の方の「変身物語」の引用参照)。それに、No.263「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」で書いたように、ティツィアーノ作『エウロペの略奪』はベラスケスの時代にはスペイン王宮にあったわけです。タペストリーの絵柄は是非とも『エウロペの略奪』でなくてはならない。

古典を知っている教養人なら「アラクネ」→「エウロペ」の連想はすぐに働いたに違いないのです。いや、話は逆かも知れません。ベラスケスはスペイン王宮にあった「エウロペ」を見て「アラクネ」への連想が働いた。その方があり得たでしょう。

No.263 で触れたように、ティツィアーノはオウィディウスの「変身物語」に基づく7枚の連作絵画 "ポエジア" をスペイン王家からの注文で描き、その中の1枚が『エウロペの略奪』でした。当時の宮廷人は "ポエジア" に何が描かれているのかがすぐに分かったはずだし、ティツィアーノも「すぐに分かる」ことを想定して描いたはずです。「変身物語」は王侯・貴族や宮廷人の "一般教養" であったに違いないのです。

しかし、ここで話が広がります。実は「エウロペ」と「アラクネ」を結びつけた絵を、ベラスケス以前にルーベンスが描いているのです。それは、ベラスケスが仕えたスペイン王・フェリペ4世の注文によるものでした。


ルーベンス


2012年7月7日のTV東京の「美の巨人たち」で『アラクネの寓話』が取り上げられました。そこで展開されたのは『アラクネの寓話』にはルーベンスが隠されているという説です。

No.230「消えたベラスケス(1)」の『ヴィラ・メディチの庭園』の項に書いたのですが、1628年から29年にかけてフランドルの画家・ルーベンスがスペイン宮廷を訪れて8ヶ月間滞在し、30枚もの絵画を制作しました。そのルーベンスはベラスケスに「ローマに行き、芸術の都をその目で確かめてくるように」とアドバイスしました。No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」のルーベンスの項に書いたように、ルーベンスは1608年から8年間もイタリアに滞在し(23歳~31歳)、数々の美術品を見て廻り、絵の制作と研鑽に励みました。ルーベンスは自分の画家としての原点がイタリアにあると自覚していたに違いありません。それがベラスケスへのアドバイスになった。

スペイン王宮を訪れたとき、ルーベンスはヨーロッパ随一の大画家で(51歳頃)、ベラスケスは若手の宮廷画家です(29歳頃)。ベラスケスはこの大先輩と芸術上の交流をしたはずです。事実、ベラスケスの第1回目のイタリア滞在は、ルーベンスがスペイン宮廷を去ってからわずか2ヶ月後からで(No.230 参照)、ベラスケスは尊敬する先輩の "アドバイス" を即刻実行に移したことがわかります。

そのルーベンスがスペイン王宮滞在中に制作した絵画の中の一点が、ティツィアーノの『エウロパの略奪』の模写です(No.263「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」に、ティツィアーノ作品とともに画像を掲載)。宮廷画家のベラスケスはこの模写の制作過程も見ていたに違いありません。見ていないとか、知らなかったと考える方が不自然です。

本題の『アラクネの寓話』ですが、ルーベンスはスペイン滞在の数年後にベラスケスの主人であるフェリペ4世の注文を受けて『パラスとアラクネ』を描きました。次の絵です。

Rubens - Pallas and Arachne.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)
パラスとアラクネ」(1636/37)
(27cm × 38cm)
ヴァージニア美術館(米)

この絵を所蔵しているヴァージニア美術館の説明によると、この作品は、フェリペ4世が "狩猟の塔(トーレ・デ・ラ・パラーダ)" を増改築した際に(1636~38頃)ルーベンスに発注した神話画の中の1枚であり、その油彩による下絵です。また研究によると、ルーベンスが受注した "狩猟の塔" の内部装飾画は数10点にのぼり、ルーベンスが下絵をすべて描き、ルーベンスの工房ないしは協力者の画家が制作したようです。これは当時の一般的な制作方法でした。その中の1枚である「パラスとアラクネ」の完成作は現在所在不明ですが、下絵が現存しているというわけです。

当然のことながら、宮廷画家であったベラスケスも "狩猟の塔" の内部装飾画を制作しています。No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で引用した『鹿の頭部』もその中の1枚でした。ベラスケスは、ルーベンス(とその工房)作の『パラスとアラクネ』を知っていたと考えられます。この、ルーベンス作『パラスとアラクネ』を見て分かることが2つあります。1つは、オウィディウスの「変身物語」に、

(パラスは)手にしていたキュトロス産の黄楊つげで、三度、四度と、アラクネのひたいを打った。

とある、その(=)で額を打つ直前を描いていることです。つまり「パラスとアラクネの物語」における最も決定的な瞬間を描いた絵です。劇的瞬間をとらえるルーベンスらしい筆だと言えるでしょう。パラスの鉄兜姿も、アラクネの額をで打つという "暴力行為" の場面にふさわしいものです。

2つ目は、後方にあるアラクネの織ったタペストリーの柄には牛と女性が描かれていて、明らかに『エウロペの略奪』だと分かることです。ただしティツィアーノ作『エウロペの略奪』の模写ではありません。女性が牛に跨がる格好で乗っているからです。

ベラスケスはこのルーベンスの絵を踏まえ、かつ、タペストリーの柄をルーベンスが模写したティツィアーノ作『エウロペの略奪』にすることで『アラクネの寓話』を描いたというのが「美の巨人たち」で展開されていた説でした。それはルーベンスに対する尊敬の念からであり、さらにはその先人のティツィアーノへの敬愛の念からです。ベラスケスはイタリアに2度も滞在しているし、そもそも当時のスペイン王宮には『エウロペの略奪』を始めとするティツィアーノ作品がいろいろあったわけです。

ではなぜ「ルーベンスの絵を踏まえた」と断言できるのでしょうか。オウィディウス「変身物語」はよく知られた古典であり、教養人ならアラクネとエウロペを結びつけるのは容易なはずです。ベラスケスはルーベンスとは無関係に『アラクネの寓話』を発想したとも十分に考えられる。

しかしここで、ベラスケスがルーベンスを踏まえて『アラクネの寓話』を描いたと考えられる強力な証拠があります。それが『ラス・メニーナス』です。


ラス・メニーナス


『ラス・メニーナス』については、今まで数々の評論がされてきました。このブログでも、


で『ラス・メニーナス』を取り上げましたが、そのテーマは「描かれた人物」「描き方や筆さばき」「空間構成や構図」などでした。それは幾多の評論の一般的な傾向だと思います。しかし、後方の壁にかかっている大きな絵(=画中画)に言及されるのは比較的少ないと思います。

No.19-6 LasMeninas.jpg
ベラスケス
ラス・メニーナス」(1656)
プラド美術館

暗くて分かりづらいのですが、研究によると後方の壁の大きな絵のうち、左の方がルーベンスの『パラスとアラクネ』です。

Pallas and Arachne in Las Meninas.jpg
「ラス・メニーナス」の画中画
後方の壁にある大きな絵の左の方。ルーベンスの「パラスとアラクネ」の、パラスが振り上げた右腕がうっすらとわかる。

『ラス・メニーナス』が描かれたのは1656年であり、『アラクネの寓話』は1657年頃に描かれたとされています。つまり『ラス・メニーナス』を描いた時点でベラスケスはルーベンスの『パラスとアラクネ』を意識していたことになります。このような事情を考えると、

ベラスケスは『ラス・メニーナス』で『アラクネの寓話』を予告した。あるいは、『アラクネの寓話』は『ラス・メニーナス』の続編である。

との見方が成り立つし、さらにもっと踏み込んで、

『ラス・メニーナス』と『アラクネの寓話』はワンセットの作品である。

とも考えられるわけです。『アラクネの寓話』の制作時期については不明な点もあるので、この最後の言い方が正しいのでしょう。そして、2つの作品の接点になるのがルーベンスの『パラスとアラクネ』です。



ちなみに、マルコ・カルミナーティ著「ベラスケス ラス・メニーナス」(佐藤 幸広 訳。西村書店 2016)をみると、後方の壁の大きな絵の左側がルーベンスの『パラスとアラクネ』としてあるのに加えて、右側の絵はヤーコブ・ヨルダーンスの『アポロンとパン』だと書いてあります。ヨルダーンスはルーベンスとおなじフランドルの画家で、ルーベンスより16歳年下です。

Jordaens - Apollo as Victor over Pan.jpg
ヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)
アポロンとパン」(1636/38)
(180cm × 270cm)
プラド美術館

この右側の絵のテーマもまたギリシャ神話です。"主役" のアポロンはゼウスの息子で、オリンポス12神の一人です。牧畜と予言の神であり、また竪琴の名手で、音楽と文芸の神でもある。そのアポロンと半人半獣の牧神パンが、山の神・トモロスを審判役に音楽競技をする話です。アポロンは竪琴を奏し、パンは笛を吹きます。その結果、トモロスはアポロンの勝ちとしました。しかしその場に居合わせたパンの崇拝者であるプリギアのミダス王は異議を唱えます。それに怒ったアポロンは "堕落した耳" だということで、ミダス王の耳をロバの耳に変えてしまいます。「王様の耳はロバの耳」という話の発端です(ロバの耳になった理由には別バージョンの神話もある)。

ヨルダーンスの絵の登場人物は4人で、左からアポロン、トモロス、パン、ミダス王です。トモロスは勝者のアポロンに月桂樹の冠を授けようとしていて、そのアポロンが異議を唱えたミダス王の耳をロバの耳に変えた瞬間を描いています。ちなみにこの絵もフェリペ4世が増改築した "狩猟の塔" の装飾画でした。

以上のことから、『ラス・メニーナス』の後方壁の2つの画中画には明らかな共通点があることになります。つまり2つの絵とも、

技能の神が、その技能の名手である他の誰か(人間、半人半獣)と競技をする

というテーマなのです。ベラスケスは意図的に "そういうテーマの絵" を選んで画中画にしたと考えられます。そして、左側の絵には尊敬するルーベンスを配した ・・・・・・。というような背景からすると『ラス・メニーナス』と『アラクネの寓話』はワンセットの作品と考えるのが自然でしょう。


『アラクネの寓話』のテーマ


以上の背景を踏まえて『アラクネの寓話』のテーマを推測すると、どうなるでしょうか。テーマの一つは明らかに「ティツィアーノ → ルーベンス → ベラスケス」という芸術の系譜です。この3人は出身国が違い、また時代も相違していますが、芸術で繋がっている。ベラスケスは偉大な先人2人への敬意と連帯を『アラクネの寓話』で表したのだと考えられます。

もう一つのテーマは、アラクネの物語そのものが示唆するように「神の領域へも挑戦しようとする芸術家の本性」でしょう。それは『ラス・メニーナス』と『アラクネの寓話』をワンセットの作品だと考えると鮮明です。『ラス・メニーナス』で描かれた場所はスペイン王宮の中のベラスケスのアトリエであり、画家の自画像があり、王女と国王夫妻(鏡の中)がいて、宮廷の使用人たちがいる。この絵の主題は「宮廷画家としてのベラスケス」でしょう。絵の中のベラスケスは絵の観客をはっきりと見据えています。

それに対して『アラクネの寓話』は「芸術を突き詰めるベラスケス」です。後景はルーベンスを踏まえていて、機織り競争直後のシーンを描いています。しかし前景はパラスとアラクネの "運命の死闘" であり、ここにこそ絵の主題があります。つまり、身の破滅をかえりみずに最高のタペストリーを織ったアラクネのように、ベラスケスはここに技量のすいを盛り込んだ。そのことは前景の細部を順に見ていくとわかります。そして後景でこの絵が『アラクネの寓話』だと明らかにして、絵のテーマを示唆した。

この絵で最も強い光が当たっているのは、前景の右手の女性と後景の中央の人物 、つまり2人のアラクネです。後景のアラクネはまるで劇の主役のようにハイライトが当たっていて、絵のテーマを示しているようです。その "主役" のアラクネの右の方、一人だけ正面を見ている人物がいます。パラス(=アテネ)の周辺に配置されたこの女性はムーサ(英語ではミューズ)の一人に違いありません。ミューズは芸術の霊感をもたらす女神であり、この絵においては "芸術の擬人化"、ないしは "芸術そのもの" でしょう。このミューズは「この絵の意味が分かりますか ?」と、絵の鑑賞者に問いかけているように見えます。そして、その問いかけの答えは「芸術家の魂」なのだと思います。


関連する5枚の絵


ここで、今までの話に登場した、

ティツィアーノ  『エウロペの略奪』
ルーベンス  『エウロペの略奪(模写)』
ルーベンス  『パラスとアラクネ(下絵)』
ベラスケス  『ラス・メニーナス』
ベラスケス  『アラクネの寓話』

の5作品を、上から下へ、左から右へと年代が進むように配置し、その関係を矢印で表すと次のようになるでしょう。5枚の絵を結びつけているのが(= 5枚の絵すべてに関係するのが)、ギリシャ神話の「アラクネの物語」です。

5作品.jpg

「美の巨人たち」のナレーションでは、『アラクネの寓話』を画家の最高傑作だとする人もいるとのことでした。確かにそうかもしれません。絵画技法、テーマ、たくらみに満ちた構成、制作時期から考えて、この絵がベラスケスの到達点だという評価は正当だと思います。




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No.263 - イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館 [アート]

今までに10回書いた「個人美術館」の続きです。正確に言うと、コレクターの個人名を冠した「個人コレクション美術館」で、今回はアメリカのボストンにある「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」です。


イザベラ・ステュワート・ガードナーと美術館の設立


イザベラ・ステュワート・ガードナー(1840-1924)は、ニューヨークの裕福な実業家の娘として生まれ、20歳のときにボストンのジョン・ガードナーと結婚しました。彼女は富豪であり、"クイーン" と呼ばれたボストン社交界の名士でした。1991年(51歳)の時に父親が死んで遺産を相続したのを契機に、本格的に美術品の蒐集を始めました(ステュワートは旧姓)。そして夫の死後、蒐集したコレクションを飾るために建てた個人美術館が、1903年にオープンしたイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館です。彼女は4階の住居スペースで余生を送ったそうです。

Isabella Stewart Gardner Museum - Original Building.jpg

Isabella Stewart Gardner Museum - Courtyard.jpg
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の外観(上図)と中庭(下図)。現在は建物の横に新館が建てられているが、美術品はすべてガードナー夫人が1903年に建てた上図の美術館の内部にある。また、美しい中庭とそこから見る建物の景観も鑑賞のポイントである。上図の外観写真では、左下の方にサージェントの「エル・ハレオ」(後述)の図像が掲げられている。

美術館は、ボストン美術館の西、歩いてすぐのところにあります。15世紀ヴェネチアの大邸宅を模して建築されており、いわゆる「邸宅美術館」です。その意味では、ワシントン D.C.のフィリップス・コレクション(No.216)や、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(No.217)と同じですが、美術館用に建てた大邸宅というところが違います。とは言え、内部はいかにも貴族の邸宅という雰囲気であり、その環境の中で美術品を鑑賞できます。建物は中庭(Court)を囲むように建てられていて、その中庭とそこからの建物の景観も鑑賞のポイントです。

ちなみに、イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館のチーフ・キュレーター、Hillard Goldfarb が書いた美術館の紹介本 "The Isabella Stewart Gardner Museum"(1995)によると、イザベラは10代後半にパリに留学していたときに両親とイタリアに旅行し、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館を訪れたそうです。そして友人に「もし私が自由にできるお金を相続したなら、あのような家を建て、美しい絵や美術品を収集し、人々に来てもらって楽しんでほしい」と語ったそうです。イザベラは50歳を過ぎて、その通りのことを実行したことになります。美術館の内部の雰囲気はポルディ・ペッツォーリと大変よく似ていますが、それには理由があるのです。

蒐集された美術品のコアはイタリア美術ですが、ヨーロッパ、東洋、日本、イスラム、エジプト美術にも及び、絵画だけでなく彫刻、陶磁器、家具調度品、タペストリーなども展示されています。



ちなみに、ガードナー夫人は岡倉天心(1863-1913)の友人であり、ボストンにおける天心の擁護者でした。岡倉天心は1904年(明治37年)にボストン美術館の東洋・日本部に迎えられ、明治末期の10年程度(1904~1911年頃)は日本とボストンを往復する生活を送りました。天心がガードナー夫人に初めて面会したのは、美術館の開館直後になる 1904年です。美術評論家の瀬木慎一氏は次のように書いています。


ガードナー夫人の天心に対する庇護は、絶大なものがあり、単に、一人の学者に対するものにとどまらず、個人生活にまで及んでいる。たとえば1910年から翌年にかけての1年ちかくのボストン滞在の折りには、天心は、異郷での孤独な生活の慰めにと、一匹の雪白のアンゴラ猫を貰っている。

瀬木慎一 「イザベラ・ステュワート・ガードナー
:イタリアに傾倒したボストンの女王」
「日本の名随筆 別巻34 蒐集」所載
(作品社 1993)

イザベラ・ガードナーと岡倉天心.jpg
イザベラ・ガードナー(後列右)と岡倉天心(前列左端)が写っている写真。マサチューセッツ州選出の下院議員、ピアット・アンドリュー(後列左)の邸宅で撮られたもの。美術館のチーフ・キュレーター、Hillard Goldfarb が書いた "The Isabella Stewart Gardner Museum"(1995)より引用。



John Singer Sargent - Isabella Stewart Gardner - 1888 - part.jpg
サージェントが描いたイザベラ・ステュワート・ガードナーの肖像(1888年。部分)。
この美術館を語るときにフェルメールは欠かせないでしょう。1990年3月、美術界を揺るがす盗難事件が起こりました。この美術館が所有するフェルメールの『合奏』、レンブラントの『ガラリアの海の嵐』など13点の絵画が盗まれたのです。この事件は現在でも未解決で、FBIが捜査中です。

ガードナー夫人はそのフェルメールの『合奏』を1892年にパリのオークションで購入しました。今でこそフェルメールは超有名ですが、一時は完全に忘れ去られた画家でした。その再評価が始まったのは19世紀の後半です。ガードナー夫人はコレクター人生の最初期に、やっと評価され始めたフェルメールを買ったことになります。コレクターとしての彼女の慧眼が分かります。



以降、この美術館の "顔" となっているティツィアーノとサージェントの絵画を取り上げます。ティツィアーノ作品は、美術館が現在所有している最も貴重な作品です(フェルメールが無いという前提で)。またサージェントの作品は公式サイトに "美術館のアイコン(icon = 象徴する図像)" と書いてあります。


ティツィアーノ『エウロペの略奪』


Titian - Rape of Europa.jpg
ティツィアーノ・ヴェチェリオ(1488頃-1576)
エウロペの略奪」(1562)
(178cm × 205cm)
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館

この絵については中野京子さんの解説があるので、それを引用します(引用中の下線は原文にはありません。一部、段落を増やしたところがあります)。まずギリシャ神話における「エウロペの略奪」の物語の解説です。ギリシャ神話における主神・ゼウスは、目をつけた女性を自分のものにするときに必ず何かの姿に変身して現れるという紹介のあと、中野さんは次のように続けています。


フェニキア(現レバノン)の王女エウロペを見初みそめたゼウスは、さっそく彼女がお供のものたちと海辺で遊んでいるところに現れる。さて何に変身していたか ?

答えは牡牛。

そんなものに化けたって女性の心をつかめるわけがなかろう、と言いたいところだけど、古代の牡牛崇拝に見られるように、この動物のシンボル性はあなどれない。「強い生命力」と「男性的な力」の体現が牡牛なのだ。ただしその野性的なエネルギーは女性に恐怖をも与えるため、ゼウスは一計を案じ、優しげな目をした美しい真っ白な牡牛となって、人畜無害を装った。

まあ、なんて綺麗きれいな牛でしょう、角に花輪を飾ってあげましょう、馬のかわりに乗ってみましょう、とすっかり油断したエウロペが背に乗ると、そやつはのっしのっしと波打ち際まで進み、そこから突如スピードを出して海に飛び込むなり、猛然と泳ぎだした。エウロペが悲鳴をあげ、浜辺で皆が騒いだときにはもう遅い。ゼウスの美女誘拐は成功していた。海を渡り、クレタ島まで連れてゆき、そこで子どもを3人も生ませるのだった。

実はこれはヨーロッパ起源たん。エウロペを連れたゼウス牛はクレタ島まで延々遠回りし、その巡った地域をヨーロッパと呼ぶようになったのだ。その証拠には、エウロペはギリシャ語でΕΥΡΩΠΗ、すなわち europa、ヨーロッパ(europe)の語源である。


ティツィアーノの『エウロペの略奪』ですが、この絵は16世紀スペインのフェリペ2世がイタリアのヴェネチアのティツィアーノに発注した絵で、制作年は1559~1562年です(美術館では1562年としている)。スペインの無敵艦隊が英国に破れるのは1588年(=アルマダの海戦)であり、つまりこの絵が描かれた時期はスペイン帝国の絶頂期です。


エウロペの物語は多くの画家の創作意欲を刺激し、連綿として描かれ続けてきたが、最高峰はティツィアーノ作品であろう。これはスペインを「陽の沈まぬ国」にしたハプスブルク家のフェリペ2世が、自らの私室を飾るために発注した連作『ポエジア』の1点。

連作はどれもフェリペの好みを反映し、神話中の官能的裸体像が扱われている。そこに従来の表現とは異なった、ティツィアーノ独自の工夫が施されているのが特徴だ(芸術家も注文主によって、リキの入れ方が違う)。

(同上)

「ポエジア」は "詩想画" という訳があり、ティツィアーノがフェリペ2世の発注によって7点の連作として描きました。いずれも古代ローマのオウィディウスの『変身物語』からテーマを採った神話画です。ちなみに「ポエジア」の連作7点のうち、現在プラド美術館にあるのは2点だけで、4点はイギリスにあり、残りの1点がアメリカにあるこの絵です。スペインの国力の盛衰を反映しているようです。


ほとんどの先行作品でエウロペは牛にまたがるか、いわゆる女性乗り(横座り)した姿で描かれてきたのに、本作では牛の背中に仰向あおむけ状態で、太股ふとももをむき出しにして、足裏まで見せるというあられもなさ。エロティシズム満開である。しかも真っ赤な布(ドレスの一部?)を片手で大きく振る様子は、岸辺の人たちに助けを求めるというより、彼女自身の歓喜が炎のようにひるがえっているようだ。夕焼けの赤とも呼応する。周りをむっちりしたクピド、即ち愛の天使たちが囲んでいるのも、これが一種の恋のエピソードだと告げるためだ

ゼウスが思いを寄せただけでなく、エウロペもまた驚愕きょうがくのうちに、主神に選ばれた誇らしさと喜びに打ち震えているということだろう。いかにも王侯が満足しそうな解釈ではある。

それかあらぬか本作は、後代の著名な王侯御用達画家ふたりに取り上げられた。ひとりはルーベンスで、外交官としてスペインを訪れた機会にこれを丁寧に模写している。ティツィアーノに心酔していただけであり、自らの筆致を極力抑えて写しに徹した、すばらしい作品に仕上がった。

もうひとつはベラスケス。フェリペ2世の孫にあたるフェリペ4世の宮廷画家だった彼は、『たち』の中で、アラクネが織り上げたタペストリーの主題として、このエウロペをいわば画中画の形で描き出した。

(同上)

ルーベンスによるこの絵の模写は、ルーベンスの死後、フェリペ4世がフランドルから購入し、現在はプラド美術館にあります。

Rubens - Rape of Europe.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)
エウロペの略奪(模写)」(1628/29)
(183cm × 202cm)
プラド美術館

Rape of Europa - Display.jpg
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の「エウロペの略奪」の展示。
つまりフェリペ4世の時代にはティツィアーノの『エウロペの略奪』とルーベンスによる模写が同じ王宮にあったことなります。ところが、後のスペイン王家はティツィアーノを手放し、その後は持ち主の変遷を重ねたあと、最終的にボストンのガードナー夫人が手に入れた。近代以前において権力の集中した絶対王政の存在は芸術の発展に大きな貢献をしたわけですが、国が繁栄し、かつ芸術に造詣の深い君主が続かない限り貢献は無理とのことかと思います。


サージェント『エル・ハレオ』


John Singer Sargent - El Jaleo.jpg
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)
エル・ハレオ」(1879/82)
(232cm × 348cm)
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館

サージェントは1879年(23歳)にスペインに旅行しました。その時の体験をもとにしたのがこの絵です。20歳台半ばの作品ということになります。

絵の題名になっている "ハレオ" は、フラメンコにおける "掛け声" のことです。スペイン語では "騒ぎ" というような意味ですが、フラメンコでは "ハレオ" で通っています。フラメンコの音楽の構成要素は、歌、ギター、手拍子、掛け声(ハレオ)の4つです。その掛け声にもいろいろあり、有名なのは "オレ!" でしょう。その掛け声がかかった瞬間を描いた絵、そういう風に考えられます。

El Jaleo - Display.jpg
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の「エル・ハレオ」。スパニッシュ・クロイスター(スペイン風回廊)と呼ばれる部屋に展示されている。
ただしガードナー美術館の公式サイトの説明によると、題名のハレオは "ハレオ・デ・ヘレス(Jaleo de Jerez)" という踊りの名称をも意味するとあります。ということは、サージェントがスペイン旅行で特に印象に残った踊りの光景ということでしょう。

232cm × 348cm という大きな絵ですが、ほとんどモノクロームのような色使いです。その中で右奥の女性の赤い衣装が強いアクセントになっています。

造形で目を引くのはフラメンコ特有のダンサーのポーズと、彼女のショールです。普通ではないように大きく広がったショールは、動きのスピード感を表現しているのでしょう。

さらに影です。光源は、フットライトというのでしょうか、床の上にあり、ちょうどダンサーの手前にある感じです。下方からの光で描かれた絵はめずらしく、No.256「絵画の中の光と影」でとりあげたエドガー・ドガ「手袋をした歌手」がそうでした。『エル・ハレオ』も下方からの光が独特の効果を作り出しています。特に、ダンサーの影が彼女を包み込むように、異様に大きく描かれています。下からのライトで後方上にできる影だけでなく、ダンサーの周りを黒いものが取り巻いている。これは単にダンサーに付随する影というより、何か "別もの" という雰囲気です。ダンサーが憑依している "舞踏の精霊" が彼女と一緒に踊っているような感じがします。

フラメンコ特有のダンサーの動きと、歌・ギター・手拍子・掛け声が作り出す「現実ではない異世界」を描いた絵、という印象を強く受ける絵です。



この絵に関連した話ですが、サージェントは1879年のスペイン旅行でプラド美術館に立ち寄り、ベラスケスの『ラス・メニーナス』を模写しました。そして後日、『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描いた絵が『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882)です(No.36「ベラスケスへのオマージュ」参照)。222.5cmの正方形のカンヴァスに描かれた大作で、現在、ボストン美術館にあります。

ということは、サージェントの20歳代のスペイン旅行の "成果" と言える2つの大作、『エル・ハレオ』と『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』が、ボストンの地で目と鼻の先にあることになります。この2つの大作はテーマが違うし、絵の雰囲気も全く違います。しかし、両方ともインスピレーションの源泉がスペインにある。ボストンで美術鑑賞をする機会があったら、その視点でサージェントの2作品を見比べるのも良いでしょう。



最後にイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館のフロアプランを掲載しておきます。出典は、Hillard Goldfarb "The Isabella Stewart Gardner Museum"(1995)です。

ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ラファエロの名を冠した部屋があるように、イタリア美術がコレクションの中心です(ボッティチェリもある)。『エウロペの略奪』は3階の Titian Room にあります。また2階の Dutch Room にはオランダ絵画が集められています(フェルメールはここにあった)。

『エル・ハレオ』は1階の Spanish Cloister です。同じ1階の Yellow Room や Blue Room には近代絵画(マネやマティス、サージェントなど)もあります。Macknight Room には、アメリカの画家、Dodge Macknight の水彩画が集められています。

Isabella Stewart Gardner Museum.jpg
Isabella Stewart Gardner Museum



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No.262 - ヴュイユマンのカンティレーヌ [音楽]

今回は "音楽のデジャヴュ(既視感)" についての個人的な体験の話です。題名にあげた「ヴュイユマンのカンティレーヌ」はそのデジャヴュを引き起こした曲なのですが、その曲については後で説明します。デジャヴュとは何か。Wikipedia には次のような主旨の説明がしてあります。

実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したように感じる現象。フランス語由来の言葉。デジャヴ、デジャブなどとも呼ばれる。

日本語では普通「既視感」ですが、聴覚、触覚などの視覚以外による体験も含みます。「既知感」との言い方もあります。今回は音楽(=聴覚)の話なので、以降は "デジャヴュ" で通します。


サン・サーンスのクラリネット・ソナタ


"音楽のデジャヴュ" については以前に書いたことがあります。No.91「サン・サーンスの室内楽」で、サン・サーンス最晩年の作品、「クラリネット・ソナタ」について、次の主旨のことを書きました。

◆ サン・サーンスのクラリネット・ソナタを初めて聴いたとき、この曲の冒頭の旋律は以前にどこかで聴いたことがあると思った。

◆ それは、フランス映画かイタリア映画の映画音楽だろうと強く感じた。

◆ しかし調べてみても、サン・サーンスのクラリネット・ソナタが映画に使われたという事実は見つからなかった。どうも違うようだ。

◆ いろいろと考えてみて、この "音楽のデジャヴュ" を引き起こしたのは『ニュー・シネマ・パラダイス』の「愛のテーマ」ではないかと考えた。「愛のテーマ」の最初はクラリネットで始まる。

「クラリネット・ソナタ」第1楽章の冒頭のメロディーと、『ニュー・シネマ・パラダイス』の「愛のテーマ」のメロディーが似ているというわけではありせん。テンポも違います。しかし、クラリネット特有の "哀愁を帯びて" "何か訴えかけるような" 感じが "音楽のデジャヴュ" につながったのではないかと考えたのです。


カフェ・ベローチェのBGM


その "音楽のデジャヴュ" について、最近の別の経験を書きます。No.236「村上春樹のシューベルト論」の「補記2」(2018.11.28)に、カフェ・ベローチェのA店の BGM でシューベルトの「ピアノソナタ 第17番 二長調」の第2楽章が流れてきたという話を書きました。No.236 の主題は村上春樹さんの「二長調 ピアノソナタ論」であり、それもあってこの曲は何回も聴いていたので、すぐにわかりました。

しかし、他のカフェでもそうですが、カフェ・ベローチェの BGM で流れる曲は "知らない曲" のほうが多いわけです。中には "誰もが知っている曲" もありますが(サン・サーンスつながりで言うと、たとえば『白鳥』)、そういう曲は比較的少数です。BGMは "店の雰囲気づくり" が主眼なので、多くの人にとって "特に意識せずに聞き流せる" のが BGM の役割でしょう。もちろんその中に "誰もが知っている曲" を少し配置することで BGM の「存在感」が増すわけです。しかしそういった曲はあくまで少数であり、我々は大多数の知らない曲を聴き流しています。

カフェ・ベローチェの BGM は、詳しいことは知りませんが、数日とか十数日という単位で繰り返し放送されています。そして聴き流している知らないはずの曲の中に、ときどき妙に印象に残る曲があるのです。先日もA店の BGM で、あるピアノ曲が印象に残りました。数日たってまたその曲が出てくると印象が強まり、メロディーを覚えてしまいました。その時思ったのですが、この曲は必ずどこかで聴いたことがあり、それはシューマンのピアノ曲ではないか、と強く感じたのです。

シューマンのピアノ曲の多くは、個人所有の iPod Touch に入っています。そこで、順にそれらしいものを調べていったのですが、どうも該当する曲がありません。もちろん、シューマンの全部のピアノ曲が iPod Touch にあるわけではないので、結論は出ません。

No.236「補記2」にも書きましたが、カフェ・ベローチェは USEN と契約して BGM を流しています。USEN は幅広いジャンルの多数のチャネルを配給していて、USENのホームページではチャネルを指定すると今流れている曲が特定できるようになっています。問題の「印象に残るピアノ曲」が流れてきたときにホームページをいろいろ検索しましたが、どうも該当する曲がないようなのです。

そこでカフェ・ベローチェの運営会社に直接問い合わせてみることしました。


シャノアール


カフェ・ベローチェを運営しているのはシャノアールという会社です。そこでシャノアールの「お客様相談室」にメールで以下のような主旨の問い合わせをしてみました。

カフェ・ベローチェの A 店で XX月 YY日の午前に流れたBGMの曲名を知りたい。USENと契約されているようだが、チャネル番号がわかれば教えてほしい。

この問い合わせに対して比較的速くレスポンスが返ってきました。その内容を要約すると以下の2点です。

① カフェ・ベローチェのBGMは、専用にUSENに作成してもらっている。一般のチャネルではない。

② 曲が流れた詳しい時刻を教えてもらえれば、調査しましょう。

答えの ① については "なるほど" という感じです。カフェ・ベローチェのような大手カフェ・チェーンで重要なのは、提供する商品、店の内装、スタッフの教育、各種販促による顧客とのコネクション作りなどと思いますが、BGMも店づくりの重要な要素なのですね。それは店の雰囲気作りのポイントの一つです。おそらくシャノアールは USEN と綿密に打ち合わせて BGM の方針を決めているのでしょう。USEN が「専用BGMビジネス」をしていることを初めて知りましたが、これは私が知らなかっただけで "BGM業界" では常識なのだと思います。とにかく ① は納得できる回答でした。

少々意外だったのは ② です。「調査してみましょう」という申し出が、えらく親切だと思ったのです。そういった問い合わせをする人は滅多にいないからだとも考えられますが ・・・・・・。そこで早速、つぎのようなメールを送りました。

題名を知りたい曲は、カフェ・ベローチェの A 店で XX月 YY日の hh時 mm分に流れたピアノ曲です。調査をよろしくお願いします。

というメールです。すると数日後に「調査結果」が返ってきました。私が指定した時刻、およびその前後に流れた合計4曲のリストで、曲名と演奏者とBGMの開始時刻が書かれています。このリストをもとにネットで調べたところ、すぐに分かりました。私にとって "音楽のデジャヴュ" を引き起こしたピアノ曲はシューマンではなく、次でした。

作曲者  :  ルイ・ビュイユマン
曲名  :  「3つの易しい小品」より、第2曲「カンティレーヌ」
演奏  :  フィリップ・コレ、エドゥアルド・エセルジャン
(4手のための連弾曲)

すぐにシャノアールにお礼のメールを出したのは言うまでもありません。これではっきりしたことが2つあります。

① これは知らなかった曲である。作曲家(ビュイユマン)も曲名(カンティレーヌ)も知らない。

② どこかでこの曲を聴いたとしたら、それは無意識に聴いたカフェ・ベローチェの BGM だと強く推測できる。

の2点です。


ビュイユマンのカンティレーヌ


調べてみると、ルイ・ビュイユマン(1879~1929)はフランスの作曲家・音楽評論家です。よく知られた作曲家でいうと、モーリス・ラヴェル(1875~1937)とほぼ同時代人ということになります。Wikipedia の情報によると、ブルターニュ地方の中核都市のナントで生まれ、フォーレに作曲を習い、オペレッタやバレエ音楽、室内楽、ピアノ曲、歌曲と、幅広いジャンルの作品を残したようです。特にブルターニュ地方のケルト系民族、ブルトン人の伝統を取り入れた音楽に特色があるということです。

ちなみに「3つの易しい小品」(Trio Bluttes Faciles)はピアノ連弾曲で、次のような構成です。

・第1曲 間奏曲(Intermezzo)
・第2曲 カンティレーヌ(Cantilene)
・第3曲 ワルツ(Valse)

この第2曲の「カンティレーヌ」が問題のBGMでした。題名の "カンティレーヌ" はもともイタリア語で、"カント=歌" という語が入っているように「歌のような旋律をもった器楽曲」の意味です。固有名詞ではなく、Intermezzo や Valse と同じような一般名称です。

実はこの「カンティレーヌ」の楽譜は、IMSLP(International Music Score Library Project)のサイトに掲載されています。そのピアノ譜から主旋律だけを抜き出したものが、次の譜例165です。カフェの BGM で "聞き流している" 曲が印象に残ったということは、その曲のメインの旋律が記憶されたわけなので、主旋律だけの譜にしました。その音声データも併せて掲載します。

譜例165: ビュイユマンのカンティレーヌ(主旋律)
Vuillemin - Cantilene.jpg


全体のピアノ譜を見ると、「3つの易しい小品」という題名が示すように演奏は容易なようです。ちょうど「子供ピアノ教室」の発表会で小中学生の生徒と先生が連弾をするのに良いような感じがします。その意味で、BGM 以外でそれと知らずに聴いた可能性が無いわけではありません。しかし「子供ピアノ教室の発表会」に行った経験は2~3回しかなく、その可能性は極めて薄いでしょう。あくまでカフェ・ベローチェの BGM で何回か聴き流しているうちに、それが無意識にうちに脳にこびりついてしまって "音楽のデジャヴュ" を引き起こしたと考えられます。


2つの疑問


以上のようなことが分かってくると、2つの疑問が沸いてきました。

① BGMに使われる "多数の知らない曲" の中で「カンティレーヌ」だけがデジャヴュを引き起こしたのは何故なのか。

② 「カンティレーヌ」の旋律を聴いてシューマンの曲だと思ったのは何故なのか。

の2つの疑問です。① については、いまだもって謎です。ビュイユマンの「カンティレーヌ」は「クラシック音楽:ピアノ曲」のジャンルですが、USENのホームページでこのジャンルの曲を調べてみると、全く知らない作曲家の、全く知らない曲がいろいろと並んでいます(もちろんショパンやシューベルトなどの著名作曲家の作品もある)。いったいどうやってそういう曲を "発掘" するのだろうと不思議に思えるほどで、"BGMビジネスの奥深さ" を感じることにもなります。そういった多数の曲の中で、なぜ「カンティレーヌ」だけがデジャヴュを起こしたのかが大いに疑問です。

② のシューマンについては次のように考えました。つまり、シューマンのピアノ曲の中に、何らかの意味で「カンティレーヌ」と似ている曲があるのではないか。メロディーとか、雰囲気とか、曲のテンポ感とか、そういった点です。和声進行かもしれません。そういういった "何か" が似ている曲があるのではと思ったのです。


デジャヴュを引き起こした曲


その視点で、改めてシューマンのピアノ曲を調べていくと、どうもこの曲ではないかと思ったものがありました。それは有名な曲で、『謝肉祭 作品9』の第20曲(終曲)の「フィリシテ人と闘うダヴィット同盟の行進」です。その出だしの8小節(繰り返して16小節)のピアノ譜が譜例166です。『謝肉祭』はじっくり何回も聴いた曲なので、完全なスコアを掲載します。

譜例166: 『謝肉祭』終曲
Schumann - Marche_des_Davidsbundler.jpg

この「フィリシテ人と闘うダヴィット同盟の行進」と「カンティレーヌ」はかなり違います。まず「カンティレーヌ」は8分の6拍子の2拍子系リズムですが、「フィリシテ人と闘うダヴィット同盟の行進」は、行進という題名にもかかわらず4分の3拍子です。また「カンティレーヌ」は "可愛らしい" という雰囲気の曲であるのに対し、「ダヴィッド同盟」の方はいかにも『謝肉祭』の "締め" に相応ふさわしい "堂々として壮麗な" 曲です。

しかし"可愛らしい" と "堂々として壮麗な" という雰囲気の違いは、だからといって似ていないとは限りません。たとえば「カンティレーヌ」のメロディーを編曲し "堂々として壮麗な曲" に仕立てるのは十分可能だし、逆もまたしかりです。

次のように思っています。『謝肉祭』は何度も聴いた曲なので、それは頭の中に染み着いていた。「カンティレーヌ」をBGMで何回か聞き流しているうちに、何らか類似性を発見する脳の作用で『謝肉祭』へのリンクができ、それが「どこかで聴いたことがある」「それはシューマンだ」というデジャヴュを引き起こした ・・・・・・。そして、多数ある BGM の曲の中で「カンティレーヌ」が印象に残った理由が、まさにこのことではないかと思うのです。

「ダヴィット同盟」と「カンティレーヌ」の何が似ているのか説明して下さいと言われると困るのですが、とにかくそういう風に脳が働いたのではと思っています。



音楽を離れて少々飛躍しますが、「全く関係のないはずの2つのものの間に何らかの意味での類似性を見いだすという、無意識下での脳の働き」が、"ひらめき" を起こす一つの要素ではないでしょうか。解決すべき課題や問題をずっと考えていて、あるときふっとアイデアが浮かぶということがあります。頭の中に蓄積されている過去の経験の中から、いま考えている課題と何らかの意味で "同型" の問題へのリンクができ、それがアイデアを生み出す ・・・・・・。もちろんアイデアが発現する理由はこれだけではないと思いますが、経験に照らしてみても、そういう感じがします。もっとも「カンティレーヌ」と「ダヴィット同盟」の関係(それが正しいとして)は、別にメリットもないわけですが。


音楽の謎


No.62「音楽の不思議」に書いたのですが、我々の身の回りには音楽があふれていて、小さいときから何らかの音楽に親しんで成長してきたのだけれど、音楽には今だに "謎めいた" ところが多々あります。No.62 で書いた「頭の中に染み込んで記憶している旋律は、長い時間がたっても忘れない」のもその一つです。

別の "謎" を書きますと、ある時ふと気がつくと頭の中でメロディーを無意識に思い浮かべている、ということがあるわけです。もちろん昨日見た映画の主題歌とか、先日のコンサートの曲とか、そいういう「時間的に近接した音楽体験」のメロディーが浮かぶということはよくあります。時には知らず知らずに "鼻歌" になっていることもある。

しかしそういう音楽体験とは関係なく、全くランダムに頭の中でメロディーを無意識に思い浮かべていることがあります。先日も、気がつくとあるメロディーを頭で反復していて、「えっ! これはビートルズの "P.S. I Love You" じゃないの」と気がついて、自分でもびっくりしたことがあります。曲が作られたのは1960年代初頭だし、初めてこの曲を聴いたのがいつで、最後に聴いたのがいつかも分かりません。すべては記憶の彼方にあります。しかしその記憶の底から、何らかの拍子にメロディーが引き出されてくる。

こういった体験は何度もあります。そういったメロディーは全くランダムに想起されるように見えます。子どものころにはやった歌もありし、数年前の曲もある。ジャンルもいろいろです。夢の中で忘れていたはずの昔の記憶が再現されることがありますが、それと似ています。

とにかく、音楽には "謎めいたところ" があります。それは人間の脳の働きの奥深いところと密接に関係しているようであり、それが音楽に引きつけられる大きな要因ではないか。"音楽のデジャヴュ" のことも含めて、そう感じます。




nice!(1) 

No.261 - "ニーベルングの指環" 入門(5)複合 [EX.162-193] [音楽]

2019.6.21
前回より続く

これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。

今回の(5)が最終回で、EX.162 ~ EX.193 の 32種 のライトモティーフです。まず、今まで取り上げなかった副次的なモティーフの中から、人物や自然の活動に関係したものなどが解説されます。

そして「"ニーベルングの指環" 入門」の締めくくりとして、複数のモティーフを組み合わせてドラマを進行させる "複合モティーフ" が解説されます。


ショルティ「神々の黄昏」.jpg
リヒャルト・ワーグナー
神々の黄昏
ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(新リマスター版CD 1997。録音 1964)


CD2-Track12


There're one or two motives which lie outside the main families, representing simple characters rather than symbols. One of these is the motive attached to Hunding which we heard right at the start. Another is the brass motive associated with the Giants in Rheingold which is appropriately heavy and forceful.

主要なモティーフのファミリーとは別に、シンボルではなく単にキャラクターを表す1つないしは2つのモティーフがあります。一つは《フンディング》に付けられたもので、この解説の最初に聴いたものです。もう1つは『ラインの黄金』において《巨人族》を表す金管のモティーフです。巨人らしく、重々しく力強いものです。

 EX.162: 《巨人族》 

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This motive of the Giants takes on a more sinister form of the timpani in Act 2 of Siegfried to represent Fafner, the Giant who has survived and turned himself into a Dragon.

《巨人族》のモティーフは『ジークフリート』の第2幕でティンパニによるもっと不吉な形になり、ファフナーを表します。ファフナーは生き残った巨人で、大蛇に姿を変えています。

訳注:  EX.163 は『ジークフリート』第2幕のオーケストラ前奏の冒頭。このあとに EX.55 《大蛇としてのファフナー》が続く。

 EX.163: 《大蛇に変身した巨人、ファフナー》 

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It might be wondered, perhaps, why some characters seem to have no personal motive at all. There is a Siegfried motive, for example, and a Brunnhilde motive. But the commentators list no Alberich motive. Alberich is, of course, efficiently represented by the symbolic motives attached to him, those of the Ring, the Power of the Ring, Resentment, Murder and so on.

But in fact he does have a personal motive of his own. When Alberich enters in Scene 1 of Rheingold, we hear some uneasy music in the depths of the orchestra, portraying his awkward attempt to clamber up out of Nibelheim into the waters of the Rhine.

おそらく、個人を表すモティーフが全くないように見える登場人物があることが不思議に思えるかもしれません。たとえば《ジークフリート》のモティーフがあり、《ブリュンヒルデ》のモティーフもあります。しかしアルベリヒのモティーフを取り上げた解説者はありません。もちろんアルベリヒは、彼と結びつくシンボルのモティーフで十分に表現されています。《指環》、《指環の力》、《怨念》、《殺害》などなどです。

しかし実際は、アルベリヒは個人のモティーフをしっかりともっています。『ラインの黄金』の第1場で彼が登場するとき、我々はオーケストラの奥底に何か不安な音楽を聴きます。それは、ニーベルハイムからよじ登ってラインの水中に至るアルベリヒのぎこちない動きを描写しています。

 EX.164: 《アルベリヒ》 

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Those furious little descending figures on the cellos are in fact Alberich's personal motive. We can hear more clearly from a special illustration played by the cellos alone, a little more slowly.

これらのチェロによる短い怒り狂うような下降音形が、実は《アルベリヒ》個人のモティーフです。特別の例示でそれをもっと明瞭に聴けます。チェロだけで少し遅く演奏してみましょう。

 EX.165: 《アルベリヒ》 チェロ 

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This personal motive of Alberich's forms part of the general transformation of the music of Scene 1 of Rheingold into that of Scene 3, which we noticed earlier. When Alberich enters in the Nibelheim scene, this furious descending motive of his accompanies the blows he inflicts on Mime. Once more, the music reveals that the thwarting of his desire for the Rhinemaidens has been transformed into a sadistic lust to get his own back on everybody.

このアルベリヒの個人モティーフは、以前に述べた『ラインの黄金』の第1場から第3場への全般的な音楽の転換の一部となります。アルベリヒがニーベルハイムのシーンに登場すると、この彼の怒り狂った下降するモティーフは、彼がミーメに一撃を与えるときの伴奏になります。アルベリヒのラインの乙女に対する願いが拒絶されたことが、あらゆる者に怒りをぶちまけるサディスティックな欲望に転換したことを、再び音楽で示しているのです。

訳注:  『ラインの黄金』の第1場から第3場への音楽の転換については、EX.34《指環の力》や、EX.95《逃亡》からの数個のモティーフの解説を参照。

 EX.166: 《アルベリヒ》 ニーベルハイムのシーン 

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Mime too has his personal motive, even several of them. The most important is a whining one, the kind of insidious transformation of the furious descending one of Alberich. He introduces this vocally when he sings what Siegfried calls his 'Starling Song' about how he brought the boy up as a baby.

ミーメもまた個人のモティーフを持っていて、それも数個あります。最も重要なのは "泣き言" のモティーフで、これ怒り狂って下降する《アルベリヒ》のモティーフの、言わば潜在的な変形です。ミーメはこれを歌で導入します。ジークフリートが《養育の歌》と呼ぶもので、赤ん坊からどのように少年まで育て上げたかの歌です(訳注:『ジークフリート』第1幕 第1場)。

 EX.167: 《ミーメの養育の歌》 

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Incidentally, this whining motive of Mime and the furious motive of Alberich of which it is a transformation, are both distorted minor versions of the bold descending major motive of Siegfried's Mission which is, of course, directly opposed to the machinations of the two dwarfs.

ところで、このミーメの "泣き言" のモティーフとその元になったアルベリヒの怒り狂うモティーフは両方とも、力強く長調で下降する《ジークフリートの使命》のモティーフを短調のゆがめた形にしたものです。もちろん《使命》は、2人の小人こびとの陰謀とはちょうど正反対のものです(訳注:EX.141《ジークフリートの使命》参照)。

 EX.168: 《ジークフリートの使命》 

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CD2-Track13


These motives of Alberich and Mime are only two of the many subsidiary motives in The Ring. These are too numerous for every single one to be enumerated, but some of them claim our attention.

Sometimes, and especially in Gotterdammerung, subsidiary motives are introduced and then developed in such a subtle way that they have no simple primary meaning but gather meaning as they proceed. One example of many is the motive representing the Dawn in Act 2 of Gotterdammerung, when Hagen wakes up after his nocturnal communion with his father Alberich. As first introduced by the bass clarinette, this motive's arpeggio shape proclaims it an offshoot of the Nature family.

これらのアルベリヒとミーメのモティーフは、『指環』における数多くの副次的なモティーフの中の2つに過ぎません。副次的なモティーフはあまりに多いので一つ一つ数え上げることはできませんが、中には私たちの注意を引くものがあります。

特に『神々の黄昏』においてですが、副次的なモティーフが巧妙に導入され、初めはあまり意味がないが段々と意味を持つということが時々あります。この一つの例が『神々の黄昏』の第2幕で《日の出》を表現するモティーフです。ハーゲンが父のアルベリヒと夢の中で会話をしたあとに目覚めた時、そのモティーフは現れます。最初にバス・クラリネットで導入されるとき、このモティーフはアルペジオの形をしており、《自然》のファミリーから生まれたことを示しています。

訳注:  以降の EX.169, EX.170, EX.171は『神々の黄昏』第2幕 第2場。

 EX.169: 《日の出》 

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Soon, however, this Dawn motive is developed forcibly by the horns, and its main figure eventually assumes a rather brutal character much more in keeping with the personality of Hagen than with the simple natural phenomenon of Dawn. The day that is dawning is going to be Hargen's day.

しかしすぐにこの《日の出》モティーフはホルンによって力強く展開され、その主要な形が次第に凶暴な性格を帯びてきます。つまり単なる日の出という自然現象ではなく、ハーゲンの性格を帯びてくるのです。日の出で明けるその日は、ハーゲンにとっての良き日です。

 EX.170: 《日の出》 ハーゲンの日 

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Later this motive forms the coral song of the vassels as they sing Hagen's praises and declare themselves ready to stand by him. By now, it clearly is Hargen's Day.

その後、このモティーフは家臣たちの合唱になります。彼らがハーゲンを称え、ハーゲンに忠誠を誓う歌です。ここでこのモティーフは明確に "ハーゲンの日" となります。

 EX.171: 《家臣たちの歌》 

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CD2-Track14


Quite a number of the subsidiary motives are not so much recurrent themes representing symbols as recurrent figurations portraying movement and activity. There's one group in particular which is a kind of family representing various aspects of Nature in Motion. The starting point is a swift rising and falling major key figuration on the violins in Scene 1 of Rheingold. It's repeated over and over to portray the waters of the Rhine, rippling around the swimming Rhinemaidens.

副次的なモティーフの多くは、シンボルを表現するために繰り返される旋律というよりは、動きや行動を描写して繰り返される音形です。その中でも特に "自然の活動" のさまざまな側面を表すファミリーと言える一つのグループがあります。その出発点は『ラインの黄金』の第1場でヴァイオリンが演奏する、上昇して下降する速いテンポの長調の音形です。これは何度も繰り返されることにより、ラインの乙女が泳ぐ周りで波立つライン河の水を描写します。

 EX.172: 《波の動き》 ライン版 

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We can identify the shape of this motive more clearly if we have it played by the violins alone and a little more slowly. It's a swift surge upwards followed by a longer and not quite so swift descent, like the flow and ebb of a wave.

このモティーフをヴァイオリンだけで少し遅めに演奏すると、その形がはっきりと分かるでしょう。それは素速く上昇して寄せ、その後で引き潮の波のように速さを押さえて下降します。

 EX.173: 《波の動き》 ライン版 

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In Scene 2 of Rheingold when Loge refers to the universal burgeoning of Nature, the orchestra transforms this flowing and ebbing wave motion shape into a much slower undulation, more appropriate to the earth.

『ラインの黄金』の第2場でローゲが世界における自然の生成を語るとき、オーケストラはこの寄せては返す波の形をもっとゆるやな "うねる形" にし、大地を表現するのに適した姿にします。

 EX.174: 《波の動き》 確定形 

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This is the definitive form of the motive of Nature in Motion, the form in which it will usually recur. We hear it when Siegfried is in the forest feeling Nature all around him, and when Wotan addresses Erda as the wise woman who knows all the secrets of Nature. And it transforms itself to generate other motives, portraying different aspects of Nature in Motion.

A notable case is its swift minor key transformation as the motive of the Storm which opens Walkure. The actual notes of the motive, as we heard earlier, are derived from the Spear motive. But the molodic and rhythmic pattern in which they're deployed is that of the Wave Motion motive, surging swiftly upwards on the cellos and basses and less swiftly down again.

これが《自然の活動》のモティーフの確定形で、この形でよく再現します。それはジークフリートが森で、まわりのすべてに自然を感じるときに聞こえてきます。またヴォータンがエルダに、自然の秘密を何でも知っている賢い女性だと話しかけるときにも聴かれます。そしてこの形自身が、自然の活動の違った側面を描写する別のモティーフを生み出します。

特筆すべき一つは、このモティーフのテンポの速い短調の変形が『ワルキューレ』の開始を告げる《嵐》のモティーフであることです。以前に聴いたように、《嵐》の実際の音符は《槍》のモティーフから派生したものでした(訳注:EX.70 参照)。しかしそこに込められた旋律とリズムのパターンは《波の動き》と同じです。つまりチェロとコントラバスが素速く上昇し、テンポを落として再び下降します。

 EX.175: 《嵐》 

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The final transformation of the motive of Nature in Motion occurs in the last Act of Gotterdammerung. Here, it changes back into something like its original watery form on the violins to portray the Rhine rippling around Rhinemaidens again.

《自然の活動》の最後の変形は『神々の黄昏』の最終幕に出てきます(訳注:第3幕 第1場)。ここではヴァイオリンによる元々の水の表現に近い形に立ち帰り、再びラインの乙女の周りで波立つライン河を描写します。

 EX.176: 《波の動き》神々の黄昏 

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CD2-Track15


Besides this family of motives representing Nature in Motion, there are a considerable number portraying various physical activities. But it will be obvious by now that to account for every last subsidiary motive in The Ring and to indicate its position in the general scheme of things would be an almost endless task. And so, we may end by examining one or two instances of the way in which Wagner builds up his motives into larger wholes. And we may consider first three examples of what might be called 'Composite Motives'.

The first is a combination of elements from two motives which could hardly be in greater contrast with each other, those of Valhalla and Loge. It occurs in Scene 3 of Rheingold when Loge is pretending to be impressed by Alberich's ambitions to rule the world instead of Wotan. Let's remind ourselves first of the main segment of Valhalla motive and notice how it precedes by repeating a short phrase over and over.

以上の《自然の活動》を表現するモティーフのファミリーのほかにも、さまざまな自然の活動を描写する相当数の副次的モティーフがあります。しかし今までで明らかなように、『指環』の副次的モティーフを一つ残らず数えあげて全体の体系の中に位置づけようとしたら、ほとんど終わりのない仕事になるでしょう。そこで私たちは、ワーグナーが複数のモティーフから大きな統一体を構成する方法の1つか2つの例を調べるだけにとどめておきます。まず最初に、"複合モティーフ" と呼べる3つの例を考察してみましょう。

最初の例は2つのモティーフからの要素を結合したもので、互いにこれ以上のコントラストはないに違いないものです。つまり《ヴァルハラ》と《ローゲ》のモティーフです。それは『ラインの黄金』の第3場に出てきます。ローゲが、ヴォータンの代わりに世界を支配しようとするアルベリヒの野望に感銘を受けたふりをする場面です。まず最初に《ヴァルハラ》のモティーフの主セグメントを思い出してみましょう。短いフレーズが何度も繰り返されて進行することに注意して下さい。

 EX.177: 《ヴァルハラ》 

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And now, let's hear one of the many segments of Loge's motive, one at first enters when he's making fun of Alberich in Scene 3 of Rheingold.

今度は《ローゲ》のモティーフの多数のセグメントのうちの一つを聴いてみましょう。『ラインの黄金』の第3場でローゲがアルベリヒをからかう時に最初に出てくるものです。

 EX.178: 《アルベリヒをあざけるローゲ》 

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By combining, at top speed, the repeated figure of the Valhalla motive with this segment of Loge's motive, Wagner evolves the flippant composite motive which acompanies Loge's mockery of Alberich's ambitions.

《ヴァルハラ》のモティーフの繰り返しの音形と《ローゲ》のモティーフのこのセグメントを非常に速いテンポで結合することで、ワーグナーはアルベリヒの野望をあざけるローゲの伴奏になる、軽薄な感じの複合モティーフを作り出します。

 EX.179: 《ヴァルハラ - ローゲ》 複合モティーフ 

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Our second example of a composite motive is connected with Siegfried. It combines the motives of the Sword and Siegfried's Horn, at top speed, to represent Siegfried's indomitable vitality. Here first, the Sword motive again.

複合モティーフの第2の例はジークフリートに結びついたものです。それは《剣》と《ジークフリートの角笛》のモティーフを非常に速いテンポで結合したもので、ジークフリートの不屈の生命力を表します。ここでまず《剣》のモティーフを再度聴きましょう。

 『ジークフリート』における《剣》: EX.21 

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And here's the motive of Siegfried's Horn-Call.

そして次が《ジークフリートの角笛》のモティーフです。

 《ジークフリートの角笛》: EX.137 

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And now, here's the composite motive, combining the two, as Siegfried plays it on his horn and awakens the sleeping dragon, Fafner.

そして次が、2つを結合した複合モティーフです。ジークフリートが角笛で吹き、眠っている大蛇、ファフナーを起こすときのものです。

訳注:  EX.180 は『ジークフリート』第2幕 第2場の EX.120 《ジークフリート》の直後。ここから、ジークフリートが剣でファフナーを倒すシーンになる。

 EX.180: 《剣 + 角笛》 複合モティーフ 

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CD2-Track16


Our final example of a composite motive is a longer and more subtle one connected with Wotan which first apperars in Act 2 of Walkure. It's generally known as the Need of the Gods and it represents Wotan's search for a way out of his frustration. Tormented both by Erda's warning about the end of the Gods and by the thwarting of his will by his wife Fricka, he wonders how he can find a free hero who will achieve what he is prevented from achieving by his responsibility to the law.

As he reflects on this problem, we hear a composite motive of the Need of the Gods which is a speeded up combination of the single motives of Erda, the Twilight of the Gods and Wotan's Frustration. Here first is the motive of Erda followed by the motive of the Twilight of the Gods, a juxtaposition which ocurs as we've heard during Wotan's first encounter with Erda in Scene 4 of Rheingold.

複合モティーフの最後のものはヴォータンに関連した長くて巧妙なもので、『ワルキューレ』の第2幕で現れます。一般には《神々の危機》として知られるものですが、ヴォータンが挫折から抜け出す道を探していることを表現します。ヴォータンは、神々の終末についてのエルダの警告と、妻のフリッカによって意図がくじかれたことの両方に苦しんでいます。そして、掟に従う責任から達成を妨げられたことを可能にしてくれる "自由な英雄" をいかに見つけようかと思案しています。

彼がこの問題を思案しているとき、《神々の危機》の複合モティーフが出てきます。それは《エルダ》《神々の黄昏》《ヴォータンの挫折感》という単独のモティーフをテンポを速めて結合したものです。まずここで《エルダ》のモティーフと、それに続く《神々の黄昏》のモティーフを聴きましょう。『ラインの黄金』の第4場でヴォータンが初めてエルダに会ったときに我々が聴いたように、並んで現れます。

 《エルダ》 / 《神々の黄昏》: EX.10 

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And here's the motive of Wotan's Frustration again.

そして次に《ヴォータンの挫折感》のモティーフを再び聴いてみましょう。

 《ヴォータンの挫折感》: EX.73 

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And now, here's the combination of those two ideas, speeded up, the composite motive of the Need of the Gods, as it enters in the bass and is developed at length.

そして、以上の2つの楽想をテンポを速めて結合した《神々の危機》の複合モティーフが次です。それは低音部に現れ、十分に展開されます。

訳注:  EX.181は『ワルキューレ』第2幕 第2場のヴォータンの歌唱、「神に逆らって私のために戦うという、友にして敵ともいうべき男を、どうやって私は見い出せるのであろうか」のところ。複合モティーフを強調するため歌唱はカットしてある。

 EX.181: 《神々の危機》 複合モティーフ 

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These are three of the several composite motives which continue as motives in their own right. But there're many cases where single motives are brought into conjunction once or twice for a special purpose. And we may consider the most mastery of these. First, here's a part of the motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold again, their cry of "Rhinegold !".

以上は幾つかある複合モティーフのうちの3つの例で、これらはモティーフとしての独自の意味を持ち続けます。しかし、一つのモティーフ群が特別の目的のために1度か2度だけ組み合されるケースも多くあります。その最も巧妙な例を見てみましょう。まず次は《ラインの乙女の黄金の喜び》のモティーフの一部で、"ラインの黄金!" という叫びの部分です。

 《ラインの黄金》: EX.35 

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And here's the second segment of the Valhalla motive again, or rather the part of it which consists of alternating chords.

そして次が《ヴァルハラ》のモティーフの第2セグメント、つまり交替する和音の部分です。

訳注:  デリック・クックは "the second segment of the Valhalla motive" と言っているが、"the third segment" が正しい。次の譜例も "VALHALLA (THIRD SEGMENT)" となっている。EX.57 EX.60 にあるように《ヴァルハラ》のモティーフは4つのセグメントに分かれていて、和音が交替する部分は第3セグメントである。

 《ヴァルハラ》 第3セグメント: EX.58 

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These two motives are brought into conjunction in Act 1 of Gotterdammerung. It happens when Waltraute comes to Brunnhilde to tell her of Wotan's wish that the Ring should be returned to the Rhinemaidens and that Valhalla shall be destroyed. When Waltraute sings the words "That would redeem the God and the World", the horns refer very slowly and quietly to the Rhinemaidens' cry of Rhinegold, and the brass follow this with the alternating chords of the Valhalla motive.

この2つのモティーフは『神々の黄昏』の第1幕で結びつけられます(訳注:第3場)。それはヴァルトラウテがブリュンヒルデのところに来て、ヴォータンの望みは指環をラインの乙女に返し、ヴァルハラを破壊することだと告げるときに現れます。ヴァルトラウテが「それが世界と神を救うだろう」と歌うとき、ホルンは非常にゆっくりと静かに《ラインの黄金》というラインの乙女の叫びを参照します。そして金管楽器が《ヴァルハラ》のモティーフの交替する和音で続きます。

 EX.182: 《ラインの黄金 + ヴァルハラ》 複合モティーフ 

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CD2-Track17


In the Final Scene of Gotterdammerung, when Brunnhilde decides to carry out Wotan's wish, this combination of motives is heard again, but now with further motives added. The first of these is the bass theme of the Need of the Gods which we heard a little earlier. Here it is again.

『神々の黄昏』の最終場面においてブリュンヒルデがヴォータンの望みを遂行しようと決めたとき、このモティーフの組み合わせが再び現れます。しかし今度はさらに複数のモティーフが付加されます。その最初は低音部の《神々の危機》の旋律です。少し前に聴きましたが、もう一度聴いてみましょう。

 《神々の危機》: EX.181 

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And here's the final cadence of the Valhalla motive again, the phrase that sets the seal of nobility on the motive.

そして次が《ヴァルハラ》のモティーフの最後の終止形です。このフレーズはモティーフに高貴さの印を与えます。

訳注:  "the final cadence" は "the final segment" と同じ意味。《ヴァルハラ》のモティーフの最終セグメントは他のモティーフにくっついて終止形を作る性質があるので cadence( = 終止形)となっている。EX.61 参照。

 《ヴァルハラ》 最後の終止形: EX.60 

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Now we can turn to the Final Scene of Gotterdammerung where Brunnhilde apostrophizes Wotan assuring him that she will now carry out his wish and adding the solemn words "Rest, Rest, Thou God". Accompanying these words in the orchestra, we hear the same quiet reference to the Rhinemaidens' cry of Rhinegold, followed by the alternating chords of the Valhalla motive that we heard in Act 1 when Waltraute told Brunnhilde of Wotan's wish.

But now, these are followed by a slowed down reference to the motive of the Need of the Gods, itself as we know a combination of the motives of Erda, the Twilight of the Gods and Wotan's Frustration, and lastly, the final cadence of the Valhalla motive setting its seal of nobility on the whole. Here's the entire passage.

さて『神々の黄昏』の最終場面に戻りましょう。ブリュンヒルデは、そこには居ないヴォータンに呼びかけ、ヴォータンの望みを遂行することを確約します。そしておごそかに "憩え、憩え、神よ" と付け加えます。この台詞のオーケストラ伴奏で聴けるのは、前と同じラインの乙女の《ラインの黄金》という叫びへの参照であり、次に《ヴァルハラ》のモティーフの交替する和音です。それは第1幕でヴァルトラウテがブリュンヒルデにヴォータンの希望を告げたときに聴いたものでした。

しかし今度は、これらに《神々の危機》のモティーフへの参照がテンポを落として続きます。その《神々の危機》は、《エルダ》と《神々の黄昏》と《ヴォータンの挫折感》の複合体でした。そして最後に《ヴァルハラ》のモティーフの最後の終止形が続き、全体に高貴な印を加えます。全部のパッセージを聴いてみましょう。

 EX.183: 《憩え、憩え、神よ》 

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And so, Wagner compresses the essence of six different motives into a single brief passage to look back over the Wotan's whole stormy existence and to indicate that it is now, at last, being brought to a pieceful and noble conclusion.

このようにしてワーグナーは、6つの違ったモティーフのエッセンスを一つの短いパッセージに集約し、そのことでヴォータンという波乱に満ちた存在のすべてを振り返ります。と同時に、今ついに、平和で気高い結末に向かいつつあることを示しているのです。


CD2-Track18


Even more masterly is the way that Wagner weaves his motives together on a large symphonic scale, and we may consider two final examples of this type. The first is the Prelude to Act 3 of Siegfried which prepares the way for the great scene between Wotan and Erda. This is build up as symphonic development of nine different motives. The first of these is one that we have not yet heard, a subsidiary one portraying the activity of Riding, originally attached to the Valkyries, but by this time associated with Wotan in his role of the Wanderer. Here it is, as it first enters to introduce the Ride of the Valkyries.

ワーグナーのもっと熟練した技は、複数のモティーフを一緒にして大きな交響的スケールに仕立てる、そのやり方です。最後にこのタイプの例を2つ見てみましょう。最初は『ジークフリート』第3幕への前奏曲で、ヴォータンとエルダの素晴らしい場面に繋がっていくものです。これは9つのモティーフの交響的展開で築き上げられています。最初は、我々がまだ聴いていない副次的なモティーフで、《騎行》の動作を描写するものです。これは元々ワルキューレに結びついたものですが、ここでは "さすらい人" の役割になるヴォータンに関係づけられます。次に《ワルキューレの騎行》が最初に導入されるときの《騎行》を聴いてみましょう。

 EX.184: 《騎行》 

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This Riding motive, in more continuous form, is the whole texture and rhythmic basis of the Prelude to Act 3 of Siegfried. Now, let's recall the dark motive of Erda.

この《騎行》のモティーフは、もっと連続的な形になって『ジークフリート』の第3幕への前奏曲全体の風合いとリズムの基礎となります。その次に、《エルダ》の暗いモティーフを思い出してみましょう。

 《エルダ》: EX.8 

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The Prelude to Act 3 of Siegfried begins with two speeded up statements of Erda's motive in the bass against the pulsating rhythm of the Riding motive.

『ジークフリート』第3幕への前奏曲は、低音部に示されるテンポを速めた2つの《エルダ》のモティーフと、それに対比される《騎行》の鼓動するモティーフで始まります。

 EX.185: 《エルダ》 / 《騎行》のモティーフ 

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Earlier as we know, Erda's motive has been combined with the motives of the Twilight of the Gods and Wotan's Frustration to form a composite motive of the Need of the Gods. And so, in the Prelude to Act 3 of Siegfried which represents Wotan riding to meet Erda in need of counsel, the statements of Erda's motive with which it opens, naturally merge into a statement of the motive of the Need of the Gods.

既に我々が知っているように《エルダ》のモティーフは、《神々の黄昏》のモティーフと《ヴォータンの挫折感》のモティーフとに結びついて《神々の危機》の複合モティーフになったのでした。『ジークフリート』第3幕への前奏曲は、エルダに相談をしに会いに行くヴォータンの騎行を表現していますが、《エルダ》のモティーフで開始されたあとは、自然に《神々の危機》のモティーフの提示へと繋がっていきます。

 EX.186: 《エルダ》 / 《神々の危機》 

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At this point, the music goes on to remind us of Wotan's dominating will with fiece development of the Spear motive by the brass.

この時点で音楽は、ヴォータンの支配の意志を思い起こさせるように進行します。つまり《槍》のモティーフが金管楽器によって荒々しく展開されるのです。

 EX.187: 《エルダ》 / 《槍》 

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And now, Wagner begins a lengthy development of a particular combination of two motives which has not been heard since Wotan's first meeting with Erda in Scene 4 of Rheingold. This is the combination of Erda's own motive with that of the Twilight of the Gods, which we'll hear again now.

そして次にワーグナーは、特別に結合する2つのモティーフの長い展開を始めます。それはヴォータンがエルダに初めて会った『ラインの黄金』の第4場以降は現れなかったもので、《エルダ》自身のモティーフと《神々の黄昏》のモティーフの組み合わせです。もう一度、それを聴いてみましょう。

 《エルダ》 / 《神々の黄昏》: EX.10 

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This slow and quiet combination of motives is developed swiftly and loudly in the Prelude to Act 3 of Siegfried.

このゆるやかで静かなモティーフの組み合わせが、『ジークフリート』第3幕への前奏曲ではテンポを速め、高らかに展開されます。

 EX.188: 《エルダ》 / 《神々の黄昏》 

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What is fascinating here is that this fast development of the combination of the two motives is built on the slow moving harmonic basis of another motive, that of the Wanderer which is a role played by Wotan in Siegfried. Let's remind ourselves of the Wanderer motive.

ここで魅力的なのは、2つのモティーフの組み合わせの速い展開が、ゆっくりとした別のモティーフの和声進行の上に築かれていることです。その別のモティーフとは《さすらい人》で、これは『ジークフリート』でヴォータンが演じたものでした。《さすらい人》のモティーフを思い出してみましょう。

 《さすらい人》: EX.157 

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CD2-Track19


Now, if we return to the passage in the Prelude to Act 3 of Siegfried which we just heard, we find that behind the swift development of the combined motives of Erda and the Twilight of the Gods, the brass are playing, very broadly, the chord progressions which is the motive of the Wanderer.

ここでさっき聴いた『ジークフリート』第3幕への前奏曲のパッセージに戻ります。《エルダ》と《神々の黄昏》の組み合わせの速い展開の背後には、金管楽器が堂々とした和音の連なりを演奏していることに気づきます。それが《さすらい人》のモティーフの和音です。

 EX.189: 《エルダ》 / 《神々の黄昏》 / 《さすらい人》 

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For the climax of this far ranging development and the whole Prelude, Wagner uses a motive, which overshadows all the others in a sense, since the symbol it represents threatens everything else with destruction. This is the motive of the Power of the Ring which we recall now.

この遠大な展開と前奏曲全体のクライマックスのために、ワーグナーは1つのモティーフを持ち出します。それはある意味で、他のモティーフを見劣りさせるかのようです。なぜなら、そのモティーフが表現するものがすべてを破壊の危機にさらすからです。それは《指環の力》のモティーフです。それを思い出してみましょう。

 《指環の力》: EX.34 

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That's only the first half of the motive and that's all Wagner uses of it for the climax of the Prelude to Act 3 of Siegfried. It's quite sufficient.

これは《指環の力》のモティーフの前半に過ぎません。しかし『ジークフリート』第3幕への前奏曲のクライマックスでワーグナーが用いたのはこの前半だけです。それで全く十分なのです。

 EX.190: 《指環の力》 / 《エルダ》 

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Those descending chords are powerful version of the motive of the Magic Sleep, the sleep into which Brunnhilde has been plunged, the sleep from which Erda will soon be awakening. Here's the Magic Sleep motive again as a reminder.

ここでの下降する和音は《魔の眠り》のモティーフをパワフルにしたものです。《魔の眠り》は、ブリュンヒルデが閉じこめられた眠りであり、また、エルダがそこから目覚めようとしている眠りです。その《魔の眠り》のモティーフをリマインドのために再び聴いてみましょう。

 《魔の眠り》: EX.156 

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Now if we listen again to the climax of the Prelude to Act 3 of Siegfried, we hear the loud desending chords quieten down and become a simple restatement of the Magic Sleep motive.

そして『ジークフリート』第3幕への前奏曲のクライマックスをもう一度聴いてみると、大きな音で下降する和音が静かになったあとに《魔の眠り》をシンプルに再提示しているのがわかります。

 EX.191: 《魔の眠り》 

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CD2-Track20


This masterly way of weaving several motives together into a large scale symphonic development is a constant feature of The Ring and nowhere is it used with greater mastery than in the closing pages of the work. During the final orchestral culmination, the music is woven from a combination of four motives.

First, the woodwind introduces the flowing motive of the Rhinemaidens who are swimming on the surface of the Rhine, holding aloft the Ring in triumph. At the same time, the strings are playing the rippling motive of the Rhine itself. Next, the brass weave in the majestic main segments of the motive of Valhalla, as the great castle begins to glow in the distance, preparatory to going up in flames. Then, when the motive of the Rhinemaidens and the Rhine return, they're surmounted by the soaring motive of Redemption, high up on the flutes and violins.

いくつかのモティーフを組み合わせて大きなスケールの交響的展開に仕立てる巧妙な技は『指環』で始終みられる特徴です。しかしこの作品の最終ページほど、その技が高度に使われたところはありません。最後にオーケストラが最高潮に達する時、音楽は4つのモティーフの組み合わせで織りなされます。

まず木管楽器が、ラインの川面かわもを泳ぐ《ラインの乙女》の流れるようなモティーフを導入します。乙女たちは誇らしげに指環を握りしめ、高く掲げています。同時に弦楽器は波だつ《ライン河》のモティーフそのものを演奏します。次に金管楽器は、遠くで巨大な城が炎に包まれる前に輝き始めるとき、《ヴァルハラ》のモティーフの壮麗な主セグメントを合奏します。そして《ラインの乙女》と《ライン河》のモティーフが戻ってきたとき、その上には高音のフルートとヴァイオリンによる《救済》のモティーフが舞い上がるように響きます。

 EX.192: 《ラインの乙女》/《ライン》/《ヴァルハラ》/《救済》 

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At the very end of the work, the music reaches its ultimate climax with a combination of the motives of Valhalla on the brass and the Power of the Gods in the bass, as both are consumed in the flames. Then, the motive of the dead Siegfried bursts in for the last time as a glorious memory, but it gives way to a last statement of the motive of the Twilight of the Gods which is now accomplished, and all the motives disappear except one. This is the motive of Redemption which remains alone at the end, to set upon the whole vast stormy world of the drama its final seal of benediction.

そして作品の最終段階において音楽は、金管の《ヴァルハラ》と低音部の《神々の力》の2つのモティーフの組み合わせによる究極のクライマックスに到達します。この2つが炎で焼き尽くされるからです。そして突如として、亡き《ジークフリート》のモティーフが最後の輝かしい追憶のように現れます。しかし《ジークフリート》は《神々の黄昏》の最後の提示に道を譲ります。"神々の黄昏" が今、完遂されたのです。そしてこれらすべてのモティーフが消え去ったあと、一つのモティーフが残ります。それが《救済》のモティーフです。これは一つだけで最後まで残り、このドラマの巨大で激動の世界全体に祝福の印をつけるのです。

 EX.193: 《ヴァルハラ》/《神々の力》/《ジークフリート》/《神々の黄昏》/《救済》 

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対訳 完
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終わりに


以上で、デリック・クックによる『指環』のライトモティーフの解説は終わりです。音楽学者らしい大変に精緻な解説で、『指環』を知っている人にとっても教えられたり、また新たな発見があったのではないでしょうか。

ここで、序論のところでデリック・クックが述べている解説の方針を振り返ってみましょう(= CD1-Track01。No.257「ニーベルングの指環" 入門(1)序論・自然」参照)。そのポイントは、

◆  一つの基本モティーフから出発し、そこから作られるファミリーを『指環』全体を通して追跡する。

◆  真に重要なモティーフを識別し、それが直接的に示しているドラマのシンボルを指摘する。

という2点です。まず第1のポイントは、デリック・クックが基本的なモティーフの変形(transformation)の過程を追い、それが作り出すファミリーを明らかにしているところです。音楽的に全く独立したモティーフは、何らかのファミリーと意味的に関連があるときにだけ解説されます。逆に、変形の結果としてファミリーに属するモティーフは、1回しか現れないもの、つまり本来の意味でのライトモティーフでないものも解説されています。この「変形の追跡」が解説の主軸になっています。

もちろん中には違和感を覚える部分とか、納得できないこともあるでしょう。たとえば、No.14「ニーベルンクの指環(1)」に書いたことですが、

《呪い》のモティーフ(EX.50。短調。初出は『ラインの黄金』第4場)と、《ジークフリート》のモティーフ(EX.120。長調。初出は『ワルキューレ』第3幕 第1場)は大変良く似ている。《ジークフリート》を "縮小変形" して短調にしたのが《呪い》だと考えられる(またはその逆)。"呪い" の内容は「指環を持つものは死ぬ」ということなので、これはその後のドラマの展開を予告する重要な "変形" である

と思うのですが、しかしそういった指摘はありません。デリック・クックによると《呪い》は《指環》のモティーフの4音の下降音形を上昇音形に反転したものであり、《ジークフリート》は《エルダ》のモティーフの最後の3音から発展したものとなります(=ファミリーが違う)。音楽理論的にはそれが正しいのかも知れませんが、オペラを鑑賞するときの "耳で聴く感じ" とはちょっとズレています。

とはいえ、デリック・クックの多くの指摘は納得性が高く、また教えられることが多いわけです。たとえばこの解説の白眉(の一つ)とも言えるところですが、

愛を表す《フライア》のモティーフの後半(= 第2セグメント)は、従来から《逃亡》と名付けられているが、それは間違っている。これはあくまで愛を表す《フライア》のモティーフの第2セグメントであり、『指環』全体を見渡すとそれは "愛のモティーフ" として機能している。かつ、この第2セグメントの起源はフライア登場以前のアルベリヒの歌唱にある

と指摘している点です。アルベリヒまで持ち出しているのが意外なところです。もちろん別の解釈としては、モティーフの意味を多義的にとらえて「《フライア》の第2セグメントは愛のモティーフであるが、それが初めて登場した経緯から《逃亡》を意味することもある」との考え方もあるでしょう。ただ確実に言えることは、デリック・クックが『指環』を広範囲に眺め、本質を突いた指摘をしようとしていることです。

たとえば《フライア》に関していうと、《フライア》の第2セグメントの "長調で、速く、縮められた形"(EX.104)が『ワルキューレ』の第1幕 第3場の終了部に現れ、さらにそれが変形されて『ジークフリート』第3幕 第3場の《愛の決心》(EX.105)になる、としているところです。この2つの場は『指環』における男女2組のカップルの愛の表現が最高潮に達する場面です。《フライア》のモティーフの4部作をまたがる長い変遷は、たとえばそういう風に仕組まれているということなのです。

とにかく、デリック・クックが "4部作を広範囲に眺めた本質的な指摘" をしようとしたことは、他のモティーフやファミリーの解説も含めて明らかでしょう。



第2のポイントは「重要なモティーフを識別し、それが直接的に示しているドラマのシンボルを指摘」している点です。この "直接的" というところがポイントです。モティーフはその使われ方によって裏の意味があったり、その後の進行を予告したり、多義的であったりということがあります。たとえば『指環』の最後の最後にたった1つだけで残る《救済》のモティーフです。No.15「ニーベルンクの指環(2)」に書きましたが、

《救済》のモティーフは、それが初めて現れる状況から(=『ワルキューレ』第3幕 第1場)"次世代への継承" をも意味すると考えられる。つまり『指環』の最終場面は、それで終わりということではなく、また新たな時代が始まるという暗示である

というような "解釈" ができるでしょう。こういったたぐいの解釈については、デリック・クックはあまり踏み込んで説明していません。少しはありますが、多くはない。あくまでモティーフを識別した上で、それが直接的に示しているドラマのシンボルや感情だけを指摘するという態度に徹しています。

従って、個々の場面でドラマの進行から考えてモティーフがどういう意味をもつのか、その解釈の多くは『指環』の鑑賞者に任されていると言えるでしょう。デリック・クックの解説のタイトルは "Introduction" です。当然ですが、イントロダクションの次には真の意味での作品の鑑賞が待っています。デリック・クックの解説はあくまで『指環』の迷宮を探索するための "とっかかり" です。

付け加えると、この解説のタイトルを「"ニーベルングの指環" のライトモティーフ」ではなく「"ニーベルングの指環" 入門」としたのは、この作品を鑑賞する糸口として最適なのが、ストーリーや登場人物を知ることよりもライトモティーフの種類と構造を知ることだという意味を込めたもの推察されます。その狙いは成功していると思いました。

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No.260 - "ニーベルングの指環" 入門(4)英雄・神秘 [EX.115-161] [音楽]

2019.6.07
前回より続く

これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。

第4回は、EX.115 ~ EX.161 の 47種 のライトモティーフです。ここでは『指環』に登場する "英雄" たちに関するモティーフをとりあげます。《剣》のモティーフとそこから派生するファミリーもその一部です。そのあとに "魔法と神秘" に関係したモティーフが解説されます。


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リヒャルト・ワーグナー
ジークフリート
ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(新リマスター版CD 1997。録音 1962)


CD2-Track03


The characters, in whose lives love plays such an important part, Siegmund and Sieglinde, Siegfried and Brunnhilde, are heroic figures, fighting to establish the claims of love in the loveless world of the Ring and the Spear. And these figures, taken together, form another of the central symbols of the drama, the symbol of heroic humanity. They are all offspring of Erda by Wotan in one way or another. Brunnhilde is literally so, and the Volsungs, though born to Wotan by a mortal woman, are begotten by him out of the inspiration of his first encounter with Erda in Scene 4 the Rheingold.

And the basic motive, or basic phrase, which generates the family of motives associated with these heroic characters is the last three notes' segment of the motive of Erda herself. Erda's motive is in the minor key and so are the heroic motives derived from it. But they are all powerful brass motives and so the minor key here is an expression not so much of pure tragedy as of tragic heroism.

These motives all begin where Erda's climbing motive leaves off, as it were. They take the last three notes of it as a starting point. We'll hear first another special illustration, Erda's motive played by the cellos with a solo horn emphasizing the last three notes.

生涯において "愛" がとりわけ重要な意味をもつ登場人物、つまりジークムント、ジークリンデ、ジークフリート、ブリュンヒルデは英雄的な存在です。彼らは "指環" と "槍" という "愛なき世界" の中で、愛への主張を確立しようと戦っています。そしてこれらの登場人物はまとめて "英雄的な人間性" という、もう一つのドラマの中心的シンボルを作ります。彼らは皆、何らかの意味でヴォータンとエルダの子孫であり、ブリュンヒルデは文字通りそうです。ヴェルズング族はヴォータンと人間の女性の子孫ですが、それは『ラインの黄金』の第4場におけるエルダとの最初の出会いでヴォータンが得た霊感から生まれたのでした。

そして、これらの英雄的な人物に関連するモティーフのファミリーを作り出す基本モティーフ、ないしは基本フレーズは、《エルダ》のモティーフの最後の3つの音のセグメントです。《エルダ》のモティーフは短調で、そこから派生する英雄的なモティーフも短調です。しかしそれらは全て力強い金管楽器のモティーフであり、ここでの短調は単なる悲劇の表現ではなく、悲劇的なヒロイズムを表しています。

これらのモティーフはすべて《エルダ》のモティーフの上昇音形が終わるところから始まると言えるでしょう。つまり《エルダ》のモティーフの最後の3音が出発点になります。まず特別の例示で《エルダ》のモティーフを聴いてみましょう。チェロで演奏し、ソロのホルンが加わって最後の3音を強調します。

 EX.115: 《エルダ》 

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The leaping motive of the Valkyries, associated particularly with Brunnhilde springs boldly out of the last three notes Erda's motive.

《ワルキューレ》の跳躍するモティーフは特にブリュンヒルデに関連づけられますが、これはエルダのモティーフの最後の3音から力強く出てきたものです(訳注:『ワルキューレ』第3幕への前奏曲)。

 EX.116: 《ワルキューレ》 

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The second heroic motive, generated by the final segment of Erda's motive, is the one associated with the Volsung Race and more paticularlly with Siegmund. It enters in Act 1 of Walkure when Siegmund has finished describing his unhappy fate. Here's the special illustration of Erda's motive again.

《エルダ》のモティーフの最後のセグメントから作られる英雄的なモティーフの2番目は《ヴェルズング族》に結び付くもので、特にジークムントに関係します。これは『ワルキューレ』の第1幕でジークムントが自分の不幸な運命を語り終えたときに出てきます。もう一度《エルダ》のモティーフを特別の例示で聴いてみましょう。

 《エルダ》: EX.115 

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And here's the motive of the Volsung Race which rises slowly out of the last segment of Erda's motive.

そして次が《ヴェルズング族》のモティーフです。《エルダ》のモティーフの最後のセグメントからゆっくりと立ち上がります(訳注:『ワルキューレ』第1幕 第2場)。

 EX.117: 《ヴェルズング族》 主セグメント 

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Incidentally, it should be noted that this motive of the Volsung Race has another segment expressing a sense of infinite sorrow rather than dark tragedy. It's sung by Siegmund to introduce the main part of the motive which we've just heard.

ちなみに《ヴェルズング族》のモティーフには別のセグメントがあることに触れておくべきでしょう。それは暗い悲劇というより深い悲しみを表すもので、ジークムントが歌い、今聴いた《ヴェルズング族》の主要部分へと繋がっていきます。

 EX.118: 《ヴェルズング族》 第1セグメント 

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The final segment of Erda's motive generates another heroic motive associated with the Volsungs. This is the dark one introduced in Act 2 of Walkure, when Brunnhilde warns Siegmund of his impending death. It's later attached to Siegfried as doomed hero in Gotterdammerung. Here's the special illustration of Erda's motive again.

《エルダ》のモティーフの最後のセグメントから生成されるモティーフには、ヴェルズング族と結びつく別の英雄的なモティーフがあります。これは『ワルキューレ』の第2幕で導入される暗いモティーフで、ブリュンヒルデがジークフリートに死が差し迫っていることを警告するときに使われます。それは後の『神々の黄昏』において、破滅する英雄としてのジークフリートも表します。《エルダ》のモティーフの特別の例示を再度聴きましょう。

 《エルダ》: EX.115 

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And here's the motive of the Annunciation of Death, as it recurs on the orchestra near the end of Gotterdammerung when Brunnhilde calls for a funeral lamentation worthy of the dead Siegfried. It too rises slowly out of the final segment of Erda's motive.

そして次が《死の布告》のモティーフで、『神々の黄昏』の最終場面近くでオーケストラに再現するものです。そのときブリュンヒルデは、死んだジークフリートに相応ふさわしい葬儀の哀悼を呼びかけます。これもまた《エルダ》のモティーフの最後のセグメントからゆっくりと立ち上がります。

訳注:  EX.119は『神々の黄昏』第3幕 第3場。解説にあるように《死の布告》が最初に出るのは『ワルキューレ』第2幕 第4場。

 EX.119: 《死の布告》 

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The culminating heroic motive generated by the last segment of Erda's motive is the indomitable one of Siegfried. Here's the special illustration of Erda's motive once more.

《エルダ》のモティーフの最後のセグメントから作られる英雄的なモティーフの頂点にあるのが、不屈のジークフリートを表すものです。《エルダ》のモティーフの特別の例示をもう一度聴きましょう。

 《エルダ》: EX.115 

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And here's Siegfried motive, like the Valkyries motive, it rises boldly out of the last segment of Erda's motive.

そして次が《ジークフリート》のモティーフで、《ワルキューレ》のモティーフと同じように《エルダ》のモティーフの最後のセグメントから力強く立ち上がります。

訳注:  EX.120 は『ジークフリート』第2幕 第2場で、ジークフリートと森の小鳥の "交流" のあと、ホルンの長いソロの中に出てくるもの。このモティーフが最初に出るのは『ワルキューレ』第3幕 第1場でのブリュンヒルデの歌唱。

 EX.120: 《ジークフリート》 

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CD2-Track04


One further motive belongs to this heroic family, perhaps surprisingly, this is the motive of Gunther in Gotterdammerung. Gunther does not belong to the offspring of Wotan and Erda in any sense, yet he too is a hero who in his own way tries to establish the claims of love, an attempt which takes a warped form, only because of his weakness which makes him a pawn in the evil plot of his half brother, Hagen. His motive belongs unmistakably, if less than magnificently, to the same heroic family as those associated with the Valkyries and the Volsungs.

このような英雄的なモティーフのファミリーに属するもう一つのモティーフは、たぶん驚かれるでしょうが『神々の黄昏』における《グンター》のモティーフです。グンターは、いかなる意味においてもヴォータンとエルダの子孫ではありません。しかし彼もまた一人の英雄であり、彼なりの方法で愛への要求を確立しようと努めています。しかしこの試みは彼の弱さのためにゆがんだ形にしかなりません。この弱さのために、異父兄弟であるハーゲンの邪悪な計画にかかって手先になってしまうのです。彼のモティーフは堂々としたものではありませんが、間違いなくワルキューレやヴェルズング族に関係した英雄的なモティーフのファミリーに属しています。

訳注:  EX.121 は『神々の黄昏』第1幕 第1場の冒頭、グンターの歌唱のところ。

 EX.121: 《グンター》 

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So much for the heroic characters of the drama.

The two central male ones are Siegmund and Siegfried, and the dynamic symbol of their heroism is the Sword created by Wotan which each of them makes his own. And just as the motive is associated with the heroes themselves stem from the motive of Erda which is a form of the Nature motive, so the motive representing the Sword springs from the Nature motive itself. Indeed, we heard earlier that it's a member of the Nature family, being almost identical with the original arpeggio form of the Nature motive.

ドラマの英雄的な登場人物についてはここまでです。

男性の中心的な登場人物はジークムントとジークフリートの2人であり、そのヒロイズムの動的なシンボルは、ヴォータンが作り2人が自分のものとした "剣" です。そして、彼ら英雄自身に結びついたモティーフが《自然》の変形である《エルダ》のモティーフから生成されたように、《剣》を表すモティーフの起源も《自然》のモティーフそのものにあります。実際、すでに聴いたように《剣》は《自然》のファミリーの一員であり、《自然》の原形であるアルペジオの形とほとんど同じでした。

訳注:  EX.20 《自然の原形》、および EX.21 《剣》参照。


CD2-Track05


The Sword motive recurs many times in the drama, but now we must consider it as another of the basic motives which generates a whole family of motives associated with heroism in action. It first enters on the trumpet in Scene 4 of Rheingold when Wotan conceives the idea of the Sword and of the hero who shall wield it. And we may notice that the musical interval on which it revolves is a downward leaping octave.

《剣》のモティーフはドラマでたびたび現れますが、ここにおいて《剣》は、行動的なヒロイズムに結びつく一連のモティーフのファミリーを作り出す基本モティーフだと考えるべきです。《剣》が最初に現れるのは『ラインの黄金』の第4場でヴォータンが剣のアイデアを思いつき、それを扱うべき英雄を考えるときで、トランペットで演奏されます。それは下向きに跳躍するオクターヴの音程に基づくことに気づくでしょう。

 EX.122: 《剣》 

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This is merely the first segment of the Sword motive. And the much fiercer is the second one, following immediately, and this too is based on the interval of a downward leaping octave. It's sung by Wotan as he explains the purpose of the Sword to secure Valhalla against any attack by enemies, and like the first segment, it recurs later in the drama. Siegmund sings it in Act 1 of Walkure when he remembers that his father Walse, who is of course Wotan, had promised him a Sword in his hour of need.

Here first is the second segment of the Sword motive with its downward leaping octave as sung by Wotan in Scene 4 of Rheingold to indicate the Purpose of the Sword.

これは《剣》のモティーフの第1セグメントだけです。そしてすぐに続く第2セグメントはもっと激しいもので、これも下向きに跳躍するオクターヴの音程に基づきます。それは、剣の目的がヴァルハラを敵の攻撃から守ることだとヴォータンが説明する時の歌唱で使われます。そして第1セグメントと同じくドラマの後の方で再現し、『ワルキューレ』の第1幕のジークムントの歌で使われます。父親のヴェルゼ、つまりヴォータンが、危急の時のための剣を贈ると約束した記憶を語るときです。

まず最初に『ラインの黄金』の第4場で《剣の目的》を語るヴォータンの歌を聴いてみましょう。これは《剣》のモティーフの第2セグメントで、下向きに跳躍するオクターヴがあります。

 EX.123: 《剣の目的》 

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And here's the same segment of the Sword motive as sung more quickly by Siegmund in Act 1 of Walkure.

そして次が《剣》のモティーフの同じセグメントで、『ワルキューレ』の第1幕でジークムントがより速いテンポで歌います。

訳注:  以降の EX.124, EX.125, EX.126 は第1幕 第3場。

 EX.124: 《剣の目的》 ジークムント 

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When Siegmund goes on to apostrophize his father, asking him where the Sword is, his voice isolates the downward leaping octave, common to both segments of Sword motive, and it becomes a motive in its own right.

ジークムントが剣の場所を尋ねるため、そこには居ない父に呼びかけをするとき、彼の声は《剣》の2つのセグメントの共通項である下向きに跳躍するオクターヴだけを分離して歌い、それは別のモティーフになります。

 EX.125: 《ヴェルゼ》 

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Near the end of Act 1 of Walkure, when Siegmund draws the Sword from the Tree and names it Nothung, or Need, the new motive of the simple downward leaping octave attaches itself to the name.

『ワルキューレ』の第1幕の終わり近くでジークムントが樹から剣を引き抜き、それをノートゥング、つまり "危急の時" と名付けるとき、単純に下向きに跳躍するオクターヴがノートゥングという名前と結びつきます。

訳注:  ノートゥングの説明にある "Need" は "必要" ではなく、もっと激しい "難局"、"困窮"、"危機" という意味と解釈できる。「英雄が難局に陥ったときに必要なものがノートゥング」という意味で、ここでは "Need" を "危急の時" とした。EX.123《剣の目的》の "hour of need" の訳も参照。なお、デリック・クックは《The Need of the Gods - 神々の危機》(EX.181)という複合モティーフを取り上げている(後述)。

 EX.126: 《ノートゥング》 

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This Nothung motive, associated with the heroes' need for the Sword, recurs in another form in Act 1 of Siegfried. Siegfried sings it when he reforges the Sword and renames it Nothung.

この《ノートゥング》のモティーフは英雄の剣への欲求に関連づけられ、違った形で『ジークフリート』の第1幕で再現します。ジークフリートが剣を鍛え直し、ノートゥングと再命名するときにき歌います(訳注:第1幕 第3場)。

 EX.127: 《ノートゥング》 ジークフリートによる 

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This downard leaping octave, stemming from the Sword motive, is used to generate another heroic motive in Act 1 of Gotterdammerung. This is the terse motive of Honor which enters on the orchestra when Siegfried draws the Sword to lay it between himself and Brunnhilde to keep faith with Gunther.

この《剣》から生成された下向きに跳躍するオクターヴは、『神々の黄昏』の第1幕で別の英雄的なモティーフを生み出すのに使われます。それは《名誉》という簡潔なモティーフで、ジークフリートが剣を抜き、彼とブリュンヒルデの間に置いてグンターとの信義を守ろうとするとき、オーケストラに入ってきます。

訳注:  EX.128は第3場の最終場面。《名誉》が初めて出てくるのは第2場の EX.52 《贖罪の誓い》のところ。

 EX.128: 《名誉》 

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Another important phrase of the Sword motive is the latter half of its second segment referring to the preservation of Valhalla through the Sword. The important interval here is a downward leap of a fifth followed by two steps upward. Let Wotan remind us of this phrase.

《剣》のモティーフの他の重要なフレーズは第2セグメントの後半の部分で、これは剣でヴァルハラを守ることに関係します。ここでの重要な音程は下向きに跳躍する5度と、それに続く2ステップの上昇です。ヴォータンの歌唱でそのところを再確認しましょう。

訳注:  デリック・クックの説明がややこしいが、《剣》には2つのセグメントがあり、その第2セグメントが《剣の目的》のモティーフと考えているため上のような説明になる。EX.123《剣の目的》参照。

 EX.129: 《剣の目的》 後半 

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This phrase is also taken up by Siegmund in Act 1 of Walkure. He sings it twice over as he grasps the Sword to draw it from the Tree, still remembering his father's promise.

このフレーズもまた『ワルキューレ』の第1幕においてジークムントによって取り上げられます。彼は父との約束を思い出し、剣を握って樹から引き抜こうとするときに2度、このモティーフを歌います。

訳注:  EX.130は『ワルキューレ』第1幕 第3場の最終場面。なお、この第3場は EX.124《剣の目的》ジークムント版で始まる。

 EX.130: 《剣の目的》後半、ジークムント 

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CD2-Track06


Ironically, this phrase, with its downward leap of a fifth followed by two steps upwards, generates a number of motives associated with the various characters and events which stand in the way of Wotan's plans to ensure the safety of Valhalla. In the first place, it forms the basis of the orchestral motive attached to Fricka in Act 2 of Walkure when she argues Wotan into abandoning Siegmund and the Sword and also the purpose for which both were conceived.

皮肉なことに、下向きに跳躍する5度とそれに続く2ステップの上昇というこのフレーズは、ヴァルハラの安全を確保しようとするヴォータンの計画の前に立ちはだかる、さまざまな人物や事件に関連したモティーフのいくつかを生み出します。まず第1に、『ワルキューレ』の第2幕においてフリッカと結びつくオーケストラのモティーフの基礎を形づくります。フリッカがヴォータンを論駁し、ヴォータンがジークムントと剣、およびそれらに与えようとした目的を放棄する時です(訳注:第2幕 第1場)。

 EX.131: 『ワルキューレ』の 《フリッカ》 

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In Act 1 of Gotterdammerung, the same phrase with its downward leap of a fifth, generates further new motive associated with the Gibichungs, who stand in the way of the new possessor of the Sword, Siegfried. The first is the motive of Friendship, the illusory friendship between Siegfried and Gunther.

さらに『神々の黄昏』の第1幕において下向きの5度の跳躍をもつ同じフレーズが、剣の新しい持ち主であるジークフリートに立ちはだかるギビフング族に関連した新しいモティーフを作り出します。その最初は《友情》で、これはジークフリートとグンターのまぼろしの友情を表します(訳注:第1幕 第2場)。

 EX.132: 《友情》 

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Behind the illusory friendship between Siegfried and Gunther stands Hagen and his own personal motive isolates the downward leap of a fifth in its sinister diminished form. It usually enters in the bass as here in Hagen's 'Watch Song'.

この幻の友情の背後には《ハーゲン》がいますが、彼個人を表すモティーフは下向きの5度の跳躍だけを取り出し、不吉な減5度にしたものです。それは普通、次のハーゲンの "見張りの歌" のように低音部に入ってきます。

訳注:  EX.133 は『神々の黄昏』第1幕 第2場の最終場面。EX.47 の《指環の力》も同じシーン。

 EX.133: 《ハーゲン》 

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Hagen's plan is to use the friendship between Siegfried and Gunther to seduce Siegfried away from Brunnhilde into a marriage with Gutrune. And the motive associated with this Seduction is a freer transformation of the original phrase with the downward leap, altered from a fifth to a seventh, but with the two steps upwards restored. Hagen introduces it vocally when he refers to the "Magic Potion" which is to be the agent of seduction.

ハーゲンの計画は、ジークフリートとグンターの友情を利用し、ジークフリートを誘惑してブリュンヒルデから遠ざけ、グートルーネとの結婚に持ち込むことです。そして次の《誘惑》のモティーフは、元々の下向きの跳躍の自由な変形です。音程は5度から7度に変えられていますが、2ステップの上昇は残っています。これはハーゲンが誘惑の仕掛けとなる "魔法の酒" について語るときの歌に登場します(訳注:『神々の黄昏』第1幕 第1場)。

 EX.134: 《誘惑》 

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The half unwitting instrument of the seduction, Gutrune, has her own personal motive. And this practically returns to the original form of the phrase, for this downward leap of a fifth followed by two steps upward, but now with much sweeter harmonies.

誘惑について半ば無自覚のグートルーネは、彼女自身のモティーフをもっています。これは事実上、下向きの5度の跳躍と2ステップの上昇という元々の形に戻っていますが、和声はもっと甘美です。

訳注:  EX.135 は再び『神々の黄昏』第1幕 第2場。ジークフリートに紹介されたグートルーネが広間から去っていくところ。

 EX.135: 《グートルーネ》 

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CD2-Track07


Closely associated with Gutrune's motive is the Horn-Call of the Gibichungs which punctuates Hagen's rallying calls to vassals in Act 2 of Gotterdammerung.

《グートルーネ》のモティーフと密接な関係にあるのが《ギビフング族の角笛》のモティーフです。『神々の黄昏』の第2幕においてハーゲンが家臣に集会で呼びかけるとき、その呼応として使われます(訳注:第2幕 第3場)。

 EX.136: 《ギビフングの角笛》 

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A further motive belonging to this family is that of Siegfried's Horn. This is a direct antithesis of the Gibichung's Horn-Call which we've just heard. It begins with an upward leap of a fifth instead of a downward one.

さらに、このモティーフのファミリーに属するのが《ジークフリートの角笛》です。これは、今聴いた《ギビフングの角笛》の直接的な対照物です。下向きの跳躍の代わりに上向きの5度の跳躍で始まります。

 EX.137: 《ジークフリートの角笛》 

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In the Prelude to Gotterdammerung, this original fast version of the Horn motive takes on the more majestic form, representing Siegfried's new stature as the active hero inspired by the love of Brunnhilde.

『神々の黄昏』の序幕では、このテンポの速い《角笛》のモティーフの原形がもっと壮大な形になり、ジークフリートの新しい姿を表現します。ブリュンヒルデの愛によって鼓舞された行動的な英雄としての姿です。

 EX.138: 《ジークフリートの角笛》 第2形 

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During the great scene in Act 2 of Gotterdammerung, in which Siegfried and Brunnhilde both swear on Hagen's spear, there's a tremendous conflict between the upward and downward leaping fifths. The result is the motive known as the Swearing of the Oath.

ジークフリートとブリュンヒルデがハーゲンの槍のもとで誓う『神々の黄昏』第2幕の荘厳なシーンでは、上昇と下降の5度が激しくぶつかります。その結果、《誓約の宣誓》として知られるモティーフになります。

訳注:  "The Swearing of the Oath" となっているモティーフは《槍の誓約》とも呼ばれる。『神々の黄昏』第2幕 第4場でのジークフリートの歌唱のところに出てくる。

 EX.139: 《誓約の宣誓》 

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One other motive belonging to this family should be mentioned is that of the World's Inheritance, which enters in Act 3 of Siegfried. This motive, in which the salient interval is a downward leaping sixth followed by several steps of upwards, bursts in on the orchestra to round off Wotan's statement to Erda that he intends to Siegfried and Brunhilde inherit the world.

このファミリーに属するもう一つのモティーフに触れておくべきでしょう。それは『ジークフリート』の第3幕で出てくる《世界の遺産》のモティーフです。このモティーフの顕著な特徴は、下降する6度の跳躍とそれに続く数ステップの上昇です。ジークフリートとブリュンヒルデに世界を継がせるという意図をヴォータンがエルダに語るとき、オーケストラに急に入ってきます(訳注:第3幕 第1場)。

 EX.140: 《世界の遺産》 

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CD2-Track08


Here we come to the end of the family of heroic motives generated by the motive of the Sword with its downward leaping octave and fifth.

But the symbol of heroism, like the symbol of love, has other independent motives attached to it. One of the most important of these is that of Siegfried's Mission which consists of a descending phrase of four notes, repeated in falling sequence. It follows him on the orchestra as he dashes away into the forest in Act 1 of Siegfried, on discovering, to his delight, that he can be free of Mime who has no claim on him at all.

これで英雄的なモティーフのファミリーは終わります。これらは《剣》のモティーフから生成したもので、下向きのオクターヴや5度の跳躍をもっていました。

しかし愛のシンボルと同じように、ヒロイズムのシンボルもそれに結びつく独立したモティーフを持っています。その中で最も重要なのが《ジークフリートの使命》で、下降する4つの音から成り、それが順に下降する形で繰り返されます。それは『ジークフリート』の第1幕でジークフリートが森に突き進むときのオーケストラに出てきます。ジークフリートは、彼に対して何の権利もないミーメから解放される喜びを見出します(訳注:第1幕 第1場 終了近く)。

 EX.141: 《ジークフリートの使命》 第1形 

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This motive of Siegfried's Mission achieves its definitive broad form in the Prelude to Gotterdammerung. He himself sings it in his duet with Brunnhilde when he declares that he is no longer Siegfried but Brunnhilde's arm.

この《ジークフリートの使命》のモティーフは『神々の黄昏』の序幕で堂々とした確定形に到達します。ジークフリート自身がブリュンヒルデとの2重唱でそれを歌います。もはやジークフリートではなく、ブリュンヒルデの腕だと宣言する時です。

 EX.142: 《ジークフリートの使命》 確定形 

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Another form of this motive, with the falling phrases in rising sequence is introduced by Wotan in Act 2 of Siegfried. He sings it when he assures Alberich that Siegfried is an entirely free agent who must stand or fall by his own powers.

徐々に上昇していく下降フレーズを持った別の形のモティーフを『ジークフリート』の第2幕でヴォータンが導入します(訳注:第2幕 第1場)。ジークフリートは完全に自由の身であり、立つにしろ倒れるにしろ自らの力によるべきことを、ヴォータンがアルベリヒに確約するときに歌われます。

 EX.143: 《ジークフリートの使命》 ヴォータン形 

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In this form, the motive of Siegfried's Mission forms the basis of the Blood Brotherhood duet in Act 1 of Gotterdammerung. It enters when they sing of their freedom in swearing the oath, and the effect is one of the dramatic irony, since they're both acting as mere pawns in Hagen's plot.

この形の《ジークフリートの使命》のモティーフは『神々の黄昏』の第1幕における《兄弟の血の誓い》の2重唱の基礎となります。これは2人が誓約の自由を歌うときに出てきますが、その効果はドラマとしてのアイロニーです。なぜなら、2人ともハーゲンの陰謀のもとで単なる駒として動いているからです。

訳注:  EX.144 とその次の EX.145 は、第1幕 第2場の「兄弟の血の誓い」の場面。EX.145 《兄弟の血の誓い》、EX.144 《ジークフリートの使命》、EX.52 《贖罪の誓い》、EX.128 《名誉》 がこの順で登場する。

 EX.144: 《ジークフリートの使命》 アイロニー 

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The relationship of this passage to the motive of Siegfried's Mission makes clear that the descending main theme of the Blood Brotherhood duet itself is generated by that motive.

このパッセージと《ジークフリートの使命》の関係から明らかなのは、《兄弟の血の誓い》の下降する主旋律が《ジークフリートの使命》から生成していることです。

 EX.145: 《兄弟の血の誓い》 

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This main theme of the Blood Brotherhood duet itself occurs with great dramatic irony in Act 2 of Gotterdammerung. It enters powerfully on the horns when Gunther, finding himself inextricably involved in Hagen's plot to kill Siegfried, remembers the oath of Blood Brotherhood he swore with him.

《兄弟の血の誓い》の2重唱の主旋律は、『神々の黄昏』の第2幕でドラマとしての大きなアイロニーとして出現します。グンターはジークフリートを殺害しようとするハーゲンの計画にのがれようなく巻き込まれていることを悟りますが、そのときジークフリートと交わした "兄弟の血の誓い" を思い出します。その場面でこのモティーフがホルンに強く現れます。

訳注:  EX.146 は『神々の黄昏』第2幕 第5場。EX.75 《ヴォータンの挫折感(ハーゲン形)》と同じ場面。

 EX.146: 《兄弟の血の誓い》 アイロニー 

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This completes the large number of motives associated with the symbol of heroism in connection with Wotan, Siegmund and Siegfried.

これでヒロイズムというシンボルに関係した、ヴォータン、ジークムント、ジークフリートと結びつく多数のモティーフを終わります。


CD2-Track09


Complementary to this symbol is that of the inspiration given to heroes by women which is represented by the main female characters of the drama, Fricka, Sieglinde and Brunnhilde, each of whom has a motive of this kind. As with the symbol of love, the symbol of woman's inspiring power begins on the subdued level in the power ridden world of Rheingold. The basic motive is the one introduced by Fricka in Scene 2. She sings it when she holds out to Wotan the lure of a comfortable life of Domestic Bliss in Valhalla as a satisfying ideal in itself without any need of further striving. The basis of the motive is two falling intervals, a seventh and a fifth.

以上のシンボルを補足するものとして、女性が "英雄を鼓舞する力" を表すシンボルがあります。つまりドラマの主要な女性キャラクターであるフリッカ、ジークリンデ、そしてブリュンヒルデで表現されるもので、それぞれこの種のモティーフをもっています。愛のシンボルと同じように、"女性の鼓舞する力" のシンボルは『ラインの黄金』という力が支配する世界において控えめに入ってきます。その基本モティーフは、第2場でフリッカが導入します。彼女がヴァルハラ城での家庭的な喜びに満ちた快適な生活の魅力をヴォータンに力説するとき、それを歌います。その生活は、それ以上の努力がいらないという理想を満たすものです。モティーフの基本は5度と7度で下降する2つの音程です。

 EX.147:《家庭の喜び》 

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Little more is heard of this motive. But in Act 3 of Walkure, where the struggle between love and power reaches its height, it's suddenly transformed and lifted onto the heroic plane. Sieglinde, when she learns that she is to bear Siegfried, the hero of the future, sings the ecstatic motive of Redemption. This is also characterized by two falling intervals, both being falling sevenths.

このモティーフはしばらくは出てきません。しかし『ワルキューレ』の第3幕において愛と力の葛藤が最高潮に達するとき、このモティーフは突如変形して英雄的なレベルに引き上げられます(訳注:第1場)。ジークリンデが将来の英雄であるジークフリートを身ごもっていることを知るとき、彼女は《救済》という陶酔的なモティーフを歌います。このモティーフの特徴も2つの下降音程で、ここでは2つとも7度です。

 EX.148:《救済》 

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The third motive associated with the inspiring power of woman is Brunnhilde's personal motive in Gotterdammerung, when she has been transformed from a Valkyrie into a Mortal Woman and Siegfried's wife. Again, we notice the falling seventh.

女性の鼓舞する力の3番目は『神々の黄昏』においてブリュンヒルデ個人を表すもので、彼女がワルキューレから《人間の女》に変身しジークフリートの妻になったときのモティーフです。再び、下降する7度に気づきます。

訳注:  EX.149 は、EX138《ジークフリートの角笛》第2形と同じく『神々の黄昏』の序幕の途中のオーケストラ間奏曲に出てくる。普通、単に《ブリュンヒルデ》のモティーフと言うと EX.149 を指すが、このモティーフは『神々の黄昏』にしか現れないので、デリック・クック流の "こだわった" 命名がある。

 EX.149:《人間の女としてのブリュンヒルデ》 

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This ends the family of motives associated with the inspiring power of woman. Although few, they are extremely powerful.

これで、女性の鼓舞する力に関連したモティーフのファミリーは終わりです。数は少ないものの、大変に強力なモティーフです。


CD2-Track10


One last central symbol remains to be considered, the sense of the mysterious and inscrutable that surrounds human life. The central character here is Loge, the central symbol is Magic Fire. And his flickering chromatic motive is the basic one which generates the rest of this family. It enters on orchestra in Scene 2 of Rheingold when he himself makes his long awaited entry, much to Wotan's relief.

中心的なシンボルで最後に考慮が必要なのは、人間の生活をとりまく神秘的で不可思議な感覚です。ここでの中心的なキャラクターはローゲで、中心的シンボルは "魔の炎" です。そして、ローゲの点滅するような半音階のモティーフが基本モティーフとなって、このファミリーの他のモティーフを作り出します。《ローゲ》のモティーフは『ラインの黄金』の第2場でオーケストラに出てきます。待ちに待ったローゲが登場し、ヴォータンが安堵する場面です。

 EX.150: 《ローゲ》 

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Loge's motive consists of several segments. The most important one is that associated with the Magic Fire which we can hear clearly from a special illustration, the segment played by the orchestra alone.

《ローゲ》のモティーフは数個のセグメントから成っています。最も重要なのは《魔の炎》に関連したセグメントで、それは特別の例示ではっきりと聴けます。このセグメントをオーケストラだけで演奏してみましょう。

 EX.151: 《魔の炎》 

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This is the segment of Loge's motive which dominates the Final Scene of Walkure where Wotan calls on Loge to surround the sleeping Brunnhilde with a wall of Magic Fire.
《ローゲ》のモティーフのこのセグメントが『ワルキューレ』の最終場面を支配します。そこではヴォータンがローゲを呼びつけ、眠るブリュンヒルデを魔の炎で囲むように命じます。

 EX.152: 《魔の炎》 ワルキューレ最終場面 

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In the meantime, this segment of Loge's motive has already generated a new motive of Magic that of the Tarnhelm introduced by muted horns in Scene 3 of Rheingold. This is based on the harmonic progression of the Magic Fire segment of Loge's motive, slowed down, in the minor, and without its flickering figuration.

その前に既に、この《ローゲ》のモティーフのセグメントは魔法に関係した新たなモティーフを生み出しています。それは『ラインの黄金』の第3場で弱音器付きのホルンで導入される《隠れ兜》のモティーフです。これは《ローゲ》の《魔の炎》のセグメントの和声進行が基礎になっていて、それをゆっくりとした短調にして点滅するような音符の形を取り除いたものです。

 EX.153: 《隠れ兜》 

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The Tarnhelm motive itself becomes the starting point of another new motive of Magic in Gotterdammerung. In Act 1, when Hagen explains the powers of the Magic Potion to Gutrune, we hear the Tarnhelm motive in the background with two statements of the sensuous segment of Freia's motive in the foreground. And after the second statement of Freia's motive, the Tarnhelm motive straight away transforms itself into the elusive new motive of the Potion.

その《隠れ兜》のモティーフ自体が『神々の黄昏』において魔法に関係した別の新しいモティーフの起点となります。第1幕でハーゲンがグートルーネに "魔法の酒" の威力を説明するとき、《フライア》のモティーフの官能的なセグメントが2度提示されますが、その背後に《隠れ兜》のモティーフを聴くことができます。そして《フライア》のモティーフの2度目の提示のあとで《隠れ兜》のモティーフはすぐに、つかみどころのない新しいモティーフ、《魔法の酒》に変形します。

訳注:  EX.154は『神々の黄昏』第1幕 第1場。EX.134 《誘惑》の直後。

 EX.154: 《魔法の酒》 

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The other important segment of Loge's motive is a series of first inversion chords running up and down the chromatic scale. The version that generates other motive is the descending one.

《ローゲ》のモティーフの重要なセグメントのもう一つは、半音階を上昇して下降する一連の "第1転回和音" です。他のモティーフを生み出すのはその下降する部分です。

 EX.155: 《ローゲ》 半音階セグメント 

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This segment also slows down and loses its flickering figurations to produce the motive of the Magic Sleep which descends on Brunnhilde in the Final Scene of Walkure.

このセグメントもまたテンポを落とし点滅するような形を失って、《魔の眠り》のモティーフを生み出します。それは『ワルキューレ』の最終場面でブリュンヒルデに降臨します。

 EX.156: 《魔の眠り》 

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This same segment of Loge's motive is more freely transformed to generate the mysterious motive associated with Wotan in his role as the Wanderer in Siegfried. It first appears on the orchestra when he enters Mime's hut in Act 1.

《ローゲ》のモティーフのこの同じセグメントはもっと自由な変形を加えられ、『ジークフリート』でヴォータンが演じる《さすらい人》に結びつく神秘的なモティーフを生み出します。それは、第1幕においてヴォータンがミーメの小屋を訪れるとき、オーケストラに初めて現れます(訳注:第1場)。

 EX.157: 《さすらい人》 

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CD2-Track11


One further motive connected with Magic and Mystery is not directly derived from Loge's motive, but is related to its general chromatic character. It's one of the shortest, yet one of the most important in The Ring, a chromatic progression of two chords only, which is associated with the inscrutable workings of Fate. It first enters on tubas when Brunnhilde comes to Siegmund in Act 2 of Walkure to warn him that he is to die.

魔法と神秘に結びつくもう一つのモティーフは《ローゲ》のモティーフから直接的に導かれるものではありません。しかし、全体的な半音階の特徴が《ローゲ》に関係しています。それは『指環』の中では最も短いモティーフの一つですが、最も重要なものの一つで、《運命》の不気味な働きに関連した2つの和音だけの半音階的進行です。それは『ワルキューレ』の第2幕において、ブリュンヒルデがジークムントのところに来て死が迫っていることを警告するときに、チューバに初めて現れます。

訳注:  EX.158は『ワルキューレ』第2幕 第4場。同じ場で EX.119《死の布告》も初めて現れる。

 EX.158: 《運命》 

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This motive of of two chords suggests the workings of Fate by moving mysteriously from one key to another with each repetition. But the very end of Walkure, Fate is suspended, as it were, while Brunnhilde sleeps, and so the Fate motive, in spite of the repetitons, is held fixed in the key in which the Opera ends.

この2つの和音のモティーフは繰り返しごとに2つの調性の間を神秘的に動き、それによって運命の働きを暗示します。しかし『ワルキューレ』の最終場面においてブリュンヒルデが眠りにつくと《運命》はいわば中断され、繰り返しは残っているものの、調性が楽劇の終わりまで固定されたままになります。

 EX.159: 《運命》 ワルキューレ最終場面 

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When Brunnhilde is awoken in Act 3 of Siegfried, almost her first words are "Long was my sleep", and she sings this suspended version of the Fate motive which we've just heard. Then, she sings "I am awake", the Fate motive returns to its original form, moving into a new key, to suggest that, from this point onwards, Fate is at work again.

『ジークフリート』の第3幕においてブリュンヒルデが目覚めたとき、最初の言葉は「眠りは長かった」です。そして彼女は、私たちが今聴いたばかりの《運命》のモティーフの固定された形を歌います。そして次に彼女が「目覚めました」と歌うとき、《運命》のモティーフは新しい調性に移って元々の形に戻ります。これ以降、再び運命が働き出すことを暗示しているのです。

 EX.160: 《運命》 ブリュンヒルデ 

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This passage makes clear that the bright motive of two chords to which Brunnhilde actually awakes is itself generated by the Fate motive suggesting the working of Fate towards a more happy end, at least for the time being.

このパッセージで明らかなことは、ブリュンヒルデが実際に目覚めたときの明るい2つの和音のモティーフ自体が《運命》のモティーフから生成されていることです。そして少なくともしばらくの間は、運命の働きがより幸せな結果に向かうことを暗示しています。

 EX.161: 《ブリュンヒルデの目覚め》 

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This brings to an end the family of motives associated with the symbol of Magic and Mystery.

これで、魔法と神秘に関係したモティーフのファミリーは終わりです。


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No.259 - "ニーベルングの指環" 入門(3)愛 [EX.80-114] [音楽]

2019.5.24
前回より続く

これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。

第3回は EX.80 ~ EX.114 の 35種のライトモティーフです。第2回の権力のモティーフ("指環" や "槍")とは正反対の関係にある "愛" に関連したモティーフ全般を扱います。


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リヒャルト・ワーグナー
ワルキューレ
ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(新リマスター版CD 1997。録音 1965)


CD1-Track15


Love is another of the central symbols of the drama, standing in direct opposition to the two central symbols of power, the Ring and the Spear. In the first place, it stands naturally in opposition to the Ring because the crucial condition attached to the making of the Ring is the Renunciation of Love. And this condition has its own motive, a tragic one in the minor key. It enters in Scene 1 of Rheingold. It's sung by the Rhinemaiden, Woglinde, when she tells Alberich that only the man who is prepared to renounce love can make the Ring from the Gold.

"愛" はドラマのもう一つの中心的なシンボルであり、それは "力" の中心的シンボルの2つ、"指環" と "槍" のちょうど正反対の位置にあります。そもそも "愛" が "指環" の対極にあるのは当然でしょう。なぜなら、指環を作る際の絶対の条件が《愛の断念》だからです。この条件は、それ自身を表す悲劇的な短調のモティーフを持っています。これは『ラインの黄金』の第1場で導入され、ラインの乙女のヴォークリンデによって歌われます。彼女がアルベリヒに、愛を断念する用意がある者だけが黄金から指環を作れる、と告げる場面です。

 EX.80: 《愛の断念》 

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This motive of the Renunciation of Love recurs at various points in the drama, most surprisingly perhaps, in Act 1 of Walkure. Siegmund sings it as he draws the Sword from the Tree, the decisive action which proclaims his identity as the brother of Sieglinde and her true lover.

《愛の断念》のモティーフはドラマの数々の時点で再現します。驚くことに『ワルキューレ』の第1幕でもジークムントが剣を樹から抜く時に歌います。彼はこの決断の行動で、ジークリンデの兄であると同時に真の恋人である自覚を宣言するのです(訳注:第1幕 第3場の最終場面)。

 EX.81: 《愛の断念》 ジークムント形 

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Siegmund's words refer to the need for which he has drawn the Sword, the deepest need of holiest love. From the total symbolic point to view, the whole drama, The Ring has begun in the world without love, and this is symbolized by the Renunciation motive. The claims of love only begin to assert themselves in Act 1 of Walkure, and they're only established in Act 3 in the Compassionate Love of Brunnhilde represented by the motive we heard a little earlier.

Wotan himself, in his own way, has renounced love as decisively as Alberich by offering Freia, the Goddess of Love, as a wage to the Giants for building Valhalla. And so the Renunciation motive is also associated with him, though in a different form. This stems from the second of the two phrases in the original motive. And the agent of transformation is Fricka in Scene 2 of Rheingold, when she tells Wotan that his bartering away of Freia shows his contempt for love. Here's the second phrase of the Renunciation motive as sung originally by Woglinde.

ジークムントは剣を抜く理由になった崇高な愛への深い欲求を語ります。象徴性の視点からドラマ全体を見ると『指環』は "愛なき世界" で始まり、《断念》のモティーフがそれを象徴します。愛への要求は『ワルキューレ』の第1幕でようやく主張され、第3幕の《ブリュンヒルデの哀れみの愛》で確立されます。そのモティーフは少し前に聴きました(訳注:EX.79)。

ヴォータンもアルベリヒと同様、彼なりのやり方で完全に愛を断念しました。つまり、ヴァルハラを建てた労賃として愛の女神であるフライアを巨人たちに差し出したからです。従って《断念》のモティーフは、少し違った形ですがヴォータンとも結びつきます。これは元々のモティーフの2つあるセグメントの2番目から生じます。そのモティーフの変形を担当するのが『ラインの黄金』第2場でのフリッカです。そのときフリッカは、ヴォータンがフライアを交換で手放したのは愛への侮辱だとヴォータンに言います。次が、ヴォークリンデが歌う元々の《断念》のモティーフの第2セグメントです。

 EX.82: 《愛の断念》 第2セグメント 

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When Fricka accuses Wotan of despising love, the orchestra plays the first phrase of the Renunciation motive, but her utterance ends by hinting harmonically at this second one.

フリッカがヴォータンの愛への侮辱を責めるとき、オーケストラは《断念》のモティーフの第1セグメントを演奏します。しかし彼女の歌唱はこの第2セグメントの和声を暗示して終わります。

 EX.83: 《愛の断念》 第2形への移行 

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CD1-Track16


Later in the same Scene, Loge acts as a final agent of transformation when he says that, in all the world, he's been unable to find anything valuable enough to serve as a substitute wage for the Giants instead of the Goddess of Love, Freia. Here, he adapts the phrase of Fricka, which we've just heard, into the second form of the Renunciation motive which is to be associated with Wotan, and later with other characters.

同じ『ラインの黄金』第2場の後の方で、ローゲが《断念》の最後の変形を担当します。世界中を探したが、巨人たちへの報酬として愛の女神フライアの代わりなる価値あるものは見つけられなかったと彼が言う場面です。ここでローゲは先ほど聴いたフリッカのフレーズを《断念》のモティーフの第2形へと改変します。これはヴォータンに関連づけられ、後には他の登場人物とも結びつきます。

 EX.84: 《愛の断念》 第2形 

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This second form of the Renunciation motive often recurs as a mournful cadence expressing futility. One of the many examples is to be found in Act 2 of Walkure when Wotan, having realized his own lovelessness, describes himself as the unhappiest of men. Here's the whole passage, leading up to the use of the Renunciation motive as a cadence.

この《断念》のモティーフの第2形は、しばしば無益な行為を表現する "嘆きの終止形" として再現します。その多数の例の中の一つは、『ワルキューレ』の第2幕でヴォータンが愛の欠如を自覚し、最も不幸な男だと自身を表現するときに認められます。ここで《断念》のモティーフを終止形として使うに至る全体のパッセージを聴いてみましょう(第2幕 第2場。EX.76 の直後)。

 EX.85: 《愛の断念》 ヴォータンによる第2形 

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But the Renunciation motive in both its forms only represents love in a negative light, it stands for the general lovelessness prevailing in the power ridden world of the drama.

The basic love motive, positive, dynamic motive of love in action, in opposition to absolute power, is the one associated with the central symbol of love in the drama, the Goddess of Love herself, Freia. Her motive first enters on the orchestra in Scene 2 of Rheingold when she runs on persued by the Giants. Fricka describes her approach and Freia enters her motive introduced by the violins.

しかし《断念》のモティーフの2つの形とも "愛" の否定的側面だけを表しており、"力" が支配する世界に蔓延する愛の欠如を表現しています。

その絶対的な "力" に対抗し、肯定的で、実際の愛のように動的な基本モティーフがあります。それは、このドラマの中心的な愛のシンボル、愛の女神・フライア自身に関連づけられたモティーフです。フライアのモティーフは最初に『ラインの黄金』の第2場でオーケストラに現れます。そのとき彼女は巨人たちの追跡から逃れてきます。フリッカが彼女の接近を告げ、フライアが登場するときに、彼女のモティーフがヴァイオリンに導入されます。

 EX.86: 《フライア》 

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We can hear Freia's swift motive more clearly from another special illustration, the violin part played on its own, a little more slowly.

《フライア》のテンポの速いモティーフは、特別の例示でもっと明確に聴けます。ヴァイオリンのパートだけを少しゆっくりと演奏してみましょう。

 EX.87: 《フライア》 ヴァイオリン・パート 

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CD1-Track17


Freia's motive has two independent segments and we may begin by considering the first, the rising one.

《フライア》のモティーフは独立した2つのセグメントを持っています。まず、最初の上昇するセグメントから考察してみましょう。

 EX.88: 《フライア》 第1セグメント 

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This first segment of Freia's motive is swift here and in the minor to portray Freia's agitation as she flees from the Giants. But it soon establishes its definitive slow major form. This stands out clearly for the first time when it introduces Loge's 'Hymn to Love', a little further along in the same Scene.

この《フライア》のモティーフの第1セグメントは速いテンポの短調で、巨人たちから逃走するフライアの切迫感を描いています。しかしまもなく、ゆっくりとした長調の確定形になります。これは同じ場の少し後でローゲが "愛の賛歌" を歌うとき、初めてはっきりと目立つ形で現れます(訳注:第2場の EX.84 の直後)。

 EX.89: 《フライア》 第1セグメント - 確定形 

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This definitive sinuous form of the first segment of Freia's motive recurs on its own throughout The Ring in association with the sensuous aspect of love between man and woman. For example, in Act 1 of Walkure, after Siegmund's first fully impassioned utterance to Sieglinde, it ascends sweetly on the violins.

このしなやかな《フライア》の第1セグメントの確定形は『指環』全体で再現します。それは男女の愛の官能的な側面に関連づけられます。例えば『ワルキューレ』の第1幕でジークムントがジークリンデに最初の情熱的な言葉を口にするとき、このモティーフがヴァイオリンで甘美に上昇します(訳注:第1幕 第3場)。

 EX.90: 《フライア》 第1セグメント - ジークムントとジークリンデ 

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No new motives are generated from this first segment of Freia's motive. It remains itself throughout The Ring. The whole family of motives representing the various aspect of love is generated by the second segment of her motive which we'll recall now.

《フライア》のモティーフの第1セグメントから新しいモティーフは生成されません。これは『指環』全体を通してそのままの形で残ります。愛のさまざまな側面を表すモティーフのファミリー全体は、《フライア》のモティーフの第2セグメントから生成されます。第2セグメントを思い出してみましょう。

 EX.91: 《フライア》 第2セグメント 

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This second segment of Freia's motive was identified wrongly by the very first commentator on The Ring, Hans von Wolzogen. He labeled it Flight. And every commentator since has followed him unthinkingly.

The whole motive enters in conjunction with Freia, and as with many other motives, its segments apply equally to the symbol it's attached to. It was not Wagner's practice to detach segments of his motives from the symbols that are initially associated with, and give them quite different meanings.

この《フライア》のモティーフの第2セグメントは、『指環』の最初の解説者であるハンス・フォン・ヴォルツォーゲンによって間違った認識がされました。彼は《逃亡》と名づけたのです。そして後世の全ての解説者は、考えなしにそれに従いました。

しかしモティーフ全体がフライアと結びついて登場しており、他のモティーフと同様、全てのセグメントが表現しているシンボルに等しく適用されるはずです。あるモティーフが最初にシンボルに関連づけられたあとで、モティーフのセグメントを切り離して全く違った意味を与えるというのは、ワーグナーの流儀ではありません。


CD1-Track18


The label Flight might at times seem to be justified, since the segment does recur in something like its original form when various characters are in flight. For example, it portrays Siegmund and Sieglinde fleeing from Hunding in the Prelude to Act 2 of Walkure.

《逃亡》という名前は、時に正当化できるように思えるかも知れません。というのもこの第2セグメントは原形に近い形で、さまざまな登場人物が逃げているときに出てくるからです。例えば『ワルキューレ』の第2幕への前奏曲では、フンディングから逃げるジークムントとジークリンデを描写します。

 EX.92: 《逃亡》 

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However, the characters in flight here, Siegmund and Sieglinde, are symbols of love, as Freia herself is, even when fleeing from the Giants. And if we examine the second segment of Freia's motive, we find that it functions exactly like the first segment as a love motive. In conjunction with the first segment, it soon establishes a definitive slow major form. Here's the original Freia's motive, again, complete.

しかし、ここで逃亡している登場人物のジークムントとジークリンデは愛のシンボルです。それは、たとえ巨人たちから逃げているときでもフライアが愛のシンボルであるのと同じです。そして《フライア》のモティーフの第2セグメントを調べてみると、第1セグメントと全く同じように愛のモティーフとして機能していることがわかります。それはすぐに第1セグメントと結合した形で、ゆっくりとした長調の確定形になります。《フライア》のモティーフの原形を、もう一度完全な形で聴いてみましょう。

 《フライア》 ヴァイオリン・パート: EX.87 

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CD1-Track19


When Fasolt, in Scene 2 of Rheingold, explains Wotan that he looks forward to having Freia as a wife in his home, the oboe accompanies his vocal line with the whole of Freia's motive, both first and second segments, in the definitive slow major form.

『ラインの黄金』の第2場においてファゾルトがヴォータンに、フライアを妻として家に迎えるのを楽しみにしていると説明するとき、彼の歌唱にオーボエが伴奏します。それは《フライア》のモティーフの第1、第2セグメントを含む全体の形で、ゆっくりとした長調の確定形です。

 EX.93: 《完全なフライア》 確定形 

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And the second segment of Freia's motive, in exactly the same way as the first, detaches itself in its definitive slow major form and recurs as a pure love motive in association with Siegmund and Sieglinde in Act 1 of Walkure. Here's the second segment again in its original swift minor form.

そして《フライア》のモティーフの第2セグメントは第1セグメントと全く同じように、ゆっくりとした長調の確定形で分離されます。その分離したセグメントは『ワルキューレ』の第1幕でジークムントとジークリンデに関連づけられた、純粋な愛のモティーフとして再現します。第2セグメントを、原形の速い短調の形で再度聴いてみましょう。

 《フライア》 第2セグメント: EX.91 

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When Siegmund drinks the mead which Sieglinde has brought him and they stare into one another's eyes and fall in love, this second segment of Freia's motive enters in its definitive slow major form as their basic love motive.

ジークリンデが用意した蜂蜜酒をジークムントが飲むとき、2人は眼を見つめ合い、恋に落ちます。そのとき、この《フライア》のモティーフの第2セグメントがゆっくりとした長調の確定形で入ってきて、それは2人の愛の基本モティーフになります(訳注:第1幕 第1場)。

 EX.94: 《フライア》 第2セグメント - ジークムントとジークリンデ 

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This basic love motive represents the compassionate aspect of love as opposed to its sensuous aspect which is expressed by the first segment of Freia's motive. It recurs in many different forms. Two main ones are slow and in the major, as here, and swift and in the minor, as at first, to represent love being driven out and pursued, hence the mistaken label of Flight.

There are certain passages where the swift minor form of the motive might seem to imply Flight, or at least pursuit, devoid of any associations with love. But these have been misunderstood. An example is the descent of Wotan and Loge to Nibelheim between Scenes 2 and 3 of Rheingold. Here, the second segment of Freia's motive is repeated over and over very swiftly in the minor. And a suggestion is that Wotan and Loge are in flight in some abstruse sense, or at least that they're in swift pursuit of Albrecht and the Ring.

この愛の基本モティーフは、《フライア》のモティーフの第1セグメントで表現される愛の官能的な側面とは対照的に、愛の哀れみの側面を表現しています。このモティーフは様々な形で再現します。その中心的なものは2つで、一つはここにみられるゆっくりとした長調です。もう一つは短調の速いテンポのもので、それはせき立てられ、追いかけられている愛を表現します。そのため《逃亡》という間違った名前がついたのです。

確かにこのモティーフの速い短調の形が、愛と関係がなく《逃亡》を含意するように見える、または少なくとも "追跡" と見えるパッセージもあります。しかしこれも誤解されてきました。その例は『ラインの黄金の』の第2場と第3場の間でヴォータンとローゲがニーベルハイムに下っていくシーンです。ここでは《フライア》のモティーフの第2セグメントが大変テンポの速い短調の形で何度も繰り返されます。ここでの意味は、ヴォータンとローゲが何らかの深い意味での逃亡状態にあることか、あるいは少なくとも2人がアルベリヒと指環を急いで追い求めているとも見えます。

 EX.95: ニーベルハイムへの下降における《逃亡》 

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To understand the true significance of this passage, we have to realize that the origin of the second segment of Freia's motive, the basic love motive, goes back beyond Freia herself to Scene 1 of Rheingold. Here, a short embryonic form of it is introduced in association with the thwarting of Alberich passion by the Rhinemaidens. When Alberich is finally rejected by the third Rhinemaiden, Flosshilde, he introduces this embryonic form of the basic love motive rather slowly and in the minor to express his grief over the frustration of his wooing.

このパッセージの真の意味を理解するためには、愛の基本モティーフである《フライア》のモティーフの第2セグメントの起源が、『ラインの黄金』でのフライアの登場より前の第1場にあることを理解しなければなりません。つまりアルベリヒのラインの乙女に対する熱情が挫折することに関連して、愛のモティーフの短い萌芽形が出てくるのです。アルベリヒが最終的に第3のラインの乙女・フロスヒルデによって拒絶されたとき、彼は愛の基本モティーフの萌芽形を導入します。それは幾分ゆっくりとした短調で、求婚が挫折に終わった嘆きを表現しています。

 EX.96: 《フライア》 第2セグメント - アルベリヒ 

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It's this short embryonic version of the basic love motive which is developed in the descent to Nibelheim. To make this absolutely clear, let's hear Alberich's lament in Scene 1 again, picking up the music a little earlier beginning with his cries of "Woe is me" which lead to his embryonic version of the basic love motive.

ニーベルハイムへの下降のシーンで展開されるのは、この愛の基本モティーフの短い萌芽形です。このことを完全に明確にするために、第1場でのアルベリヒの嘆きを再度聴いてみましょう。少し前のアルベリヒの "ああ情けない" という叫びのところの音楽から取り上げますが、それが愛の基本モティーフの萌芽形へと導きます。

 EX.97: 《アルベリヒの嘆き》 

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The descent to Nibelheim takes this passage as its starting point. It restates Alberich's cries of "Woe is me" more quickly and then it develops his short embryonic version of the love motive furiously, in the way made possible by the definitive continuous form of it, now associated with Freia.

ニーベルハイムへの下降は、このパッセージが出発点になっています。まずアルベリヒの "ああ情けない" という叫びが素早く繰り返され、短い愛のモティーフの萌芽形へと激しく展開します。それが、フライアに関連づけられる確定形へと変わっていくことを可能にします。

 EX.98: 《フライア》 第2セグメント - ニーベルハイムへの下降 

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It's clear that when this passage begins, just after the music associated with Loge in Scene 2, Wagner employs a flashback technique which he often uses in orchestral interludes. He turns away from Wotan and Loge and their descent to Nibelheim, and picks up Alberich on his descent to Nibelheim from the Rhine after Scene 1. Alberich's thwarted desire a love has turned bitter, and is being transformed into a fierce lust of power,a familiar psychological phenomenon which is the true underlying meaning of the dependence of absolute power on the renunciation of love.

第2場のローゲが関係する音楽のすぐあとでこのパッセージが始まるとき、明らかにワーグナーはオーケストラ間奏曲でよく用いるフラッシュバックの技法を使っているです。ワーグナーは、ヴォータンとローゲと彼らのニーベルハイムへの下降はひとまず置いておき、第1場の最後でアルベリヒがライン河からニーベルハイムに下降するときの音楽を取り上げます。アルベリヒの愛への欲望の挫折は苦いものになり、それは力に対する激しい欲望へと変化しつつあります。愛を放棄するに当たって絶対的な力に頼るというのがその背景の意味であり、それはよくある心理現象だと言えるでしょう。


CD1-Track20


A little later in this interlude, the basic love motive enters in the new and more powerful form on the brass. It's still in the minor, but now it's slow and drawn out like the lament of love itself expelled from this world of naked power.
この間奏曲の少しあとで、新しい形の愛の基本モティーフがもっと力強く金管に入ってきます。それはまだ短調ですが、ゆっくりと引き伸ばされていて、むき出しの "力" の世界から追放されてしまった "愛" を嘆くようです。

 EX.99: 《フライア》 第2セグメント - ゆっくりとした短調 

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This powerful form of the basic love motive, slow and in the minor, attaches itself to Wotan in Act 2 of Walkure when he realizes his own lovelessness. He sings it at the beginning of the passage we heard earlier, the one illustrating the use of the second form of the Renunciation motive as a cadence expressing futility.

この力強く、ゆっくりとした短調の愛の基本モティーフは『ワルキューレ』の第2幕においてヴォータンに割り当てられます。彼が自分の愛の欠如を自覚するときです。彼は以前に聴いたパッセージの最初でそれを歌い、またこれは《愛の断念》のモティーフの第2形を、無益さを表す終止形として使う例になっています。

訳注:  EX.100 は第2幕 第2場で、EX.85 《愛の断念・第2形》と同じ箇所。

 EX.100: 《フライア》 第2セグメント - ゆっくりとした短調 

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This lamenting form of the basic love motive also attaches itself to Siegmund and Sieglinde in a more lyrical way. In Act 1 of Walkure when Siegmund momentarily feels that his love of Sieglinde is a forlorn hope, the definitive slow major form of the basic love motive which has been associated with their falling in love, now turns sadly to its minor form.

この愛の基本モティーフの "嘆きの形" は、もっと叙情的な形で『ワルキューレ』第1幕のジークムントとジークリンデに結びつきます。ジークリンデへの恋が絶望的なのではとジークムントが一瞬感じるとき、恋に落ちることに関連した愛の基本モティーフのゆっくりとした長調の確定形が、悲しげな短調の形に変わります(訳注:第1幕 第1場。EX.94 と同じ場面)。

 EX.101: 《フライア》 第2セグメント - ゆっくりとした短調 

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The definitive slow major form of the basic love motive later transformed itself freely to generate two new motives associated with the love of Siegfried and Brunnhilde in Act 3 of Siegfried. First, it forms the basis of the exultant theme known as the motive of Love's Greeting. They introduce this vocally when they hail the memory of Sieglinde as the mother of Siegfried.

ゆっくりとした長調の愛のモティーフの確定形は(訳注:EX.94)のちに自由な変形を遂げ、『ジークフリート』の第3幕においてジークフリートとブリュンヒルデの愛に結びつく新たな2つのモティーフを生み出します(訳注:第3幕 第3場)。まず《愛の挨拶》のモティーフとして知られる、喜びに溢れた旋律の基本を形づくります。2人がジークフリートの母のジーリンデの思い出を讃えるとき、歌唱でこのモティーフが導入されます。

 EX.102: 《愛の挨拶》 

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The relationship between this new motive of Love's Greeting and the basic love motive becomes entirely clear in a later passage when Brunhilde tells Siegfried that she was destined for him before he was born. This new motive enters on the woodwind, but Brunhilde immediately continues it in the shape of the basic love motive.

この新しいモティーフ《愛の挨拶》と愛の基本モティーフの関係は、後の歌唱で明らかになります。ブリュンヒルデがジークフリートに、彼が生まれる前から自分の運命づけられた人だったと告げるときです。この新しいモティーフが木管に入ってきますが、ブリュンヒルデはすぐに愛の基本モティーフの形で続きます。

 EX.103: 《愛の挨拶》 と 《フライア》の第2セグメント 

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CD2-Track01


The other new motive generated by the basic love motive, is the bold one known as Love's Resolution. It strikes in nearly at the end of Siegfried to sum up the supremely confident character of the love of Siegfried and Brunnhilde. This motive is again a free transformation of the of the basic love motive. Its origin is the brilliant orchestral passage at the end of Act 1 of Walkure when Siegmund and Sieglinde fall into one another's arms. The basic love motive enters here in the major but quickly. That is developed to the swift telescoped form to express the joyful passion of the two lovers.

愛の基本モティーフから作り出される他の新しいモティーフは《愛の決心》として知られる堂々としたモティーフです。それは『ジークフリート』の終わり近くで登場し、ジークフリートとブリュンヒルデの愛が最大限に強いことを総括します。このモティーフもまた、愛の基本モティーフの自由な変形です。その原形は『ワルキューレ』の第1幕の終わりにおいて、ジークムントとジークリンデがお互いの両腕で抱き合うときにオーケストラに入ってくる輝かしいパッセージです。ここに出てくる愛の基本モティーフは長調ですが、テンポは速いものです。それは2人の恋人の喜びの情熱を表現するため、速く、縮められた形で展開されます。

訳注:  EX.104 は『ワルキューレ』第1幕 第3場で EX.81 のジークムントの歌唱のあと、幕が降りる直前のオーケストラ演奏。

 EX.104: 《フライア》 第2セグメント - 速い長調 

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It's this swift telescoped form of the basic love motive that broadens out majestically on the horns at the end of Siegfried to become the motive of Love's Resolution.

この、速くて縮められた形の愛の基本モティーフが『ジークフリート』の最終場面でホルンによって壮麗に展開され、《愛の決心》のモティーフとなります。

 EX.105: 《愛の決心》 

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This ends the family of motives generated by the basic love motive. But there are several other motives associated with the symbol of love which are quite independent.

First, there's the moving motive which represents the Bond of Sympathy between the Volsungs, Siegmund, Sieglinde and later it attaches itself to their son, Siegfried. It's first heard in Act 1 of Walkure. It enters in the bass with Sieglinde's motive above it when Siegmund and Sieglinde find themselves partners in distress.

これで愛の基本モティーフから作り出されたモティーフのファミリーは終わりですが、愛のシンボルに関連した、全く独立した数個のモティーフがあります。

まず《ヴェルズング族の共感の絆》を表す感動的なモティーフで、これはジークムントとジークリンデを表し、後には彼らの息子のジークフリートに結びつきます。このモティーフは最初に『ワルキューレ』の第1幕で聴かれます。ジークムントとジークリンデが互いに悩みをもつ仲間だと悟るとき、このモティーフが低音部に入ってきます。その上には《ジークリンデ》のモティーフを伴っています。

訳注:  《ジークリンデ》のモティーフについては EX.72 《ジークムントとジークリンデ》参照。《ジークリンデ》だけの解説はない。EX.106 は『ワルキューレ』第1幕 第1場の最終場面。

 EX.106: 《ヴェルズング族の共感の絆》 

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This motive is developed in several different ways throughout the whole drama. But when it later attaches itself to Siegfried, it takes on a quick excited form to express his agitation during his love scene with Brunnhilde.

このモティーフはドラマ全体を通していくつかの違った形で展開されます。しかし後にこれがジークフリートに結びつくとき、テンポを速め、興奮した形をとります。それはブリュンヒルデとの愛の場におけるジークフリートの高揚感を表しています(訳注:『ジークフリート』第3幕 第3場)。

 EX.107: 《ヴェルズング族の共感の絆》 第2形 

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Another independent love motives associated with Siegmund and Sieglinde is the melody of Siegmund song of spring, Wintersturme.

ジークムントとジークリンデに関連づけられた別の独立したモティーフがあります。それはジークムントが歌う春の歌、《冬の嵐》の旋律です(訳注:『ワルキューレ』第1幕 第3場)。

 EX.108: 《冬の嵐》 

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One of the independent love motive is associated with Wotan's Affection for Brunnhilde. He sings it near the end of Walkure just before he plunges Brunnhilde into her magic sleep.

独立した愛のモティーフの一つは、ヴォータンのブリュンヒルデへの愛情に関係しています。『ワルキューレ』の終幕近く、ブリュンヒルデを "魔の眠り" につかせる直前にヴォータンが歌います。

訳注:  このモティーフは《告別》ないしは《ヴォータンの告別》とも呼ばれる。

 EX.109: 《ヴォータンのブリュンヒルデへの愛情》 

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CD2-Track02


There are several independent love motives attached to Siegfried and the love between him and Brunnhilde. First, there's a yearning one associated with Siegfried's longing for human love and companionship. He is to replace Wotan in Brunnhilde's affections. And this motive begins with the same three rising chromatic notes as the one we've just heard associated with Wotan's affections for her. It enters in Act 1 of Siegfried, while Siegfried describes to Mime how he has watch the wooing and mating of the birds in the forest. It's worth noting that this motive goes straight over into the basic love motive.

さらに、ジークフリートおよび彼とブリュンヒルデの愛に結びつく数個の独立したモティーフがあります。第1に、人間愛と友情を切望するジークフリートに関連づけられる《憧れ》のモティーフです。ブリュンヒルデの愛情は、ヴォータンからジークフリート移ることになります。そしてこのモティーフは、さっき聴いた《ヴォータンのブリュンヒルデへの愛情》のモティーフと全く同じように、3つの上昇する半音階で始まります。このモティーフは『ジークフリート』の第1幕において、ジークフリートが森の小鳥たちの求愛と交尾を観察したことをミーメに語るときに入ってきます(訳注:第1幕 第1場)。このモティーフが愛の基本モティーフと直接的につながっていることに注目すべきでしょう。

 EX.110: 《ジークフリートの愛への憧れ》 

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There are four further independent love motives associated with Siegfried and Brunnhilde. The first is a jubilant leaping one which enters when Brunnhilde is fully awake and is generally known as the motive of Love's Ecstasy.

ジークフリートとブリュンヒルデに関連づけられる独立した愛のモティーフがさらに4つあります。その第1はブリュンヒルデが完全に目覚めたときに登場する、喜びに飛び跳ねるようなモティーフで、これは《愛の陶酔》のモティーフとして知られています。

訳注:  以降の EX.111, EX.112, EX.113 は『ジークフリート』第3幕 第3場。

 EX.111: 《愛の陶酔》 

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Two of the other independent love motives attached to Siegfried and Brunnhilde are simply two of the themes that belong to the 'Siegfried Idyll'. The first, which is not a motive in the strict sense in that it never recurs, is the opening theme of that work which is introduced to represent Brunnhilde as the Immortal Beloved.

ジークフリートとブリュンヒルデに結びつく独立した愛のモティーフのうちの2つは、「ジークフリート牧歌」の2つの旋律と同じものです。一つは「ジークフリート牧歌」の冒頭の主題で、ブリュンヒルデを表現する《不滅の愛されし人》です。もっともこれは1回しか現れないので、厳密な意味でのモティーフだとは言えません。

 EX.112: 《不滅の愛されし人》 

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The other motive is the second theme of the 'Siegfried Idyll' which is sung by Brunnhilde to the words, 'Oh Siegfried, Treasure of the World', and has become known in consequence as the motive of the World's Treasure.

2つ目は「ジークフリート牧歌」の第2主題で、ブリュンヒルデが「おお、ジークフリート、世界の宝」と歌うときのものです。それにより《世界の宝》のモティーフとして知られています。

 EX.113: 《世界の宝》 

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This motive does recur and derived from it is the final independent love motive, the one associated with Siegfried and Brunnhilde in Gottterdammerung, and known as the motive of Heroic Love.

このモティーフは再現し、そこから独立した愛のモティーフの最後のものが派生します。《英雄的な愛》として知られるモティーフで、『神々の黄昏』においてジークフリートとブリュンヒルデに関連づけられます。

訳注:  EX.114 は『神々の黄昏』の序幕のオーケストラ間奏のあとでブリュンヒルデが登場する場面。

 EX.114: 《英雄的な愛》 

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Here, we finish with the motives associated with the central symbol of love.

これで、"愛" という中心的シンボルに関連づけられたモティーフを終わります。


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No.258 - "ニーベルングの指環" 入門(2)指環・槍 [EX.39-79] [音楽]

2019.5.10
前回より続く

これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。

第2回は EX.37EX.79 の 43種のライトモティーフの解説です。ここでは『ニーベルングの指環』において "権力" や "力" のシンボルとなる2つの基本モティーフ、《指環》と《槍》、およびそこから派生するモティーフのファミリーを扱います。


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リヒャルト・ワーグナー
ラインの黄金
ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(新リマスター版CD:1997。録音:1958)


CD1-Track07


The cause of the deterioration of the Gold from a life giving inspiration to an agent of misery and death is, of course, the Ring of absolute power which Alberich makes from the Gold and puts the such evil use. Alberich's Ring is a central symbol of the drama, one of the two central symbols of power.

And so it has its own basic motive which enters Scene 1 of Rheingold and later generates the whole family of motives. The first embryonic form of the Ring motive is the undulating vocal line of the Rhinemaiden Wellgunde in the major key when she tells Alberich that anyone who can make a Ring from the Gold will be able to dominate the world.

黄金が命を生む創造的存在から苦痛と死の使者へと堕落した原因は、もちろん絶対的な力を持つ "指環" にあります。それはアルベリヒが黄金から作って悪用したものでした。アルベリヒの指環はこのドラマの中心的シンボルであり、それは2つある "力" のシンボルの一つです。

従って指環はそれ自身の基本モティーフを持っています。それは『ラインの黄金』の第1場で導入され、後にモティーフのファミリー全体を作り出します。《指環》のモティーフの萌芽形は、ラインの乙女のヴェルグンデの波のようにうねる長調の歌です。その歌でヴェルグンデは「黄金から指環を作れるものは世界を支配できるだろう」とアルベリヒに告げます。

 EX.39: 《指環》 萌芽形 

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When Alberich reflects on Wellgunde's words, the orchestra repeats her vocal line. And then he sings the tauter version of it in the minor key as he soliloquize on the possibility of absolute power.

アルベリヒがヴェルグンデの言葉を思案しているとき、オーケストラは彼女の歌を反復します。そしてアルベリヒが絶対的な力の可能性を独白するとき、彼はもっと緊張した形を短調で歌います。

 EX.40: 《指環》 中間形 

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This is almost the definitive form of the sinister Ring motive. And it soon emerges clearly on clarinets and horns near the end of the orchestral interlude leading to the next Scene.

これは不吉な《指環》のモティーフの確定形とほとんど同じです。その確定形は、次の場へと続くオーケストラの間奏曲の最後の付近で、クラリネットとホルンに明確な形で現れます。

 EX.41: 《指環》 確定形 

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The Ring motive is a melodic form of a chord, just as the original Nature motive is. But whereas the notes of the Nature motive make up a major chord, those of a the Ring motive make up a complex chromatic dissonance in the minor key composed of superimposed thirds. We can hear this sinister harmonic basis of the Ring motive by means of a special illustration, the motive played by woodwind with all its notes sustained and kept sounding as a chord.

《指環》のモティーフは、《自然》のモティーフがそうであるように和音の旋律形です。しかし《自然》のモティーフが長調の和音であるのに対し、《指環》は短調の複雑な半音階的不協和音で、3度の音程が重ねられています。特別の例示で《指環》のモティーフの不吉な和声を聴くことができます。木管楽器でモティーフの全ての音を和音として響くように引き伸ばしてみましょう。

 EX.42: 《指環》 基本和声 

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This special illustration helps us to follow the evolution of two important motives belonging to the Ring's family. First, the motive of Scheming which is mainly associated with the efforts of the Niebelungs to get possession of the Ring. This is a kind of groping outline of the Ring's harmony. This can be heard from another special illustration. Here's the Ring motive played by the cellos' pizzicato with two bassoons holding the upper third and then fall into the lower third.

この特別の例示は、《指環》のファミリーに属する2つの重要なモティーフへの変形をたどる助けになります。第1は《思案》のモティーフで、これは主に指環を保持しようとするニーベルング族の労働に関連づけられます。このモティーフは《指環》の和声の骨格のようなものです。これを別の特別の例示で聴いてみましょう。次は《指環》のモティーフをチェロのピチカートで演奏したもので、伴奏する2本のファゴットは上の3度を保持したあと、下の3度に下がります。

 EX.43: 《指環》 骨格 

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The bassoons' outline of the Ring motive's harmony in that special illustration is the motive of Scheming as it appears definitively at the beginning of Siegfried in association with the plotting of Mime.

この例示のファゴットで示された《指環》の和声の骨格は《思案》のモティーフの確定形になります。それは『ジークフリート』の冒頭でミーメのたくらみに関連づけられます(訳注:第1幕 第1場)。

 EX.44: 《思案》 

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CD1-Track08


The other transformation of the Ring motive's sinister homony is the motive of Resentment which is introduced in Scene 4 of Rheingold to accompany Alberich's first bitter remarks when he is set free after having been robbed of the Ring by Wotan. One further special instruction will make this clear. Here's the Ring motive played by the clarinets with the central 3 notes of its harmonic basis left sounding the end of the chord.

《指環》の不吉な和声のもう一つの変形は『ラインの黄金』の第4場で導入される《怨念》のモティーフです。それはアルベリヒがヴォータンに指環を奪われたあと、解放された時に最初に言う毒舌の伴奏に出てきます。もう一つの特別の例示で、このことを明確にしましょう。次はクラリネットで演奏した《指環》のモティーフで、和声の中心の3つの音を和音として終わりまで響かせます。

 EX.45: 《指環》 減3和音 

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This diminished triad which lies at the heart of the Ring motive's sinister harmonic basis, is the starting point of the syncopated motive of Resentment.

《指環》のモティーフの根幹にあるこの不吉な響きの減3和音は、シンコペーションのモティーフである《怨念》の出発点になります。

 EX.46: 《怨念》 

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There's one further important effect of the harmonic basis of the Ring motives which should be mentioned, this is a case not of generating a new motive but of generating a new form of an already existing one. The already existing one is that of the Power of the Ring associated with Alberich in Rheingold and later. We hear it again as a reminder.

ここで《指環》のモティーフの和声の重要な効果について指摘すべき点があります。それは新しいモティーフが作られるのではなく、既存のモティーフの新しい形が作られるケースです。その既存のモティーフとは『ラインの黄金』やそれ以降のアルベリヒに関連づけられた《指環の力》です。リマインドのために《指環の力》をもう一度聴いてみましょう。

 《指環の力》: EX.34 

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When this motive attaches itself to Hagen in Gotterdammerung, it takes on a slightly different harmonic form. It now begins with a pungent dissonance.

この《指環の力》のモティーフが『神々の黄昏』でハーゲンに割り当てられると、少し違った和声をとります。今度は鋭い不協和音で始まります。

訳注:  EX.47 は『神々の黄昏』第1幕 第2場の最終場面、ハーゲンの歌唱のところ。

 EX.47: 《指環の力》 ハーゲン形 

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The dissonance which begins this form of the motive is quite simply the full harmonic basis of the Ring motive which our first special illustration will recall to us.

この形のモティーフの出だしの不協和音は、シンプルに《指環》のモティーフの和声の全部です。最初の例示で聴いたのを思い出してみましょう。

 《指環》 基本和声: EX.42 

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As can be heared, this is the exact dissonance which begins the motive of the Power of the Ring in the form associated with Hagen.

聴き取れるように、これはハーゲンと関連づけられた《指環の力》の始めの不協和音と同じです。

 《指環の力》 ハーゲン形: EX.47 

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The dissonance which begins this form of the motive permeates Gotterdammerung and generates a new motive in Act 2. It acts as starting point of savage theme known as the motive of Murder which is heared in the orchestra when Alberich incites Hagen to kill Siegfried and get back the Ring.

このモティーフの出だしの不協和音は『神々の黄昏』の各所で出現し、第2幕で新しいモティーフを生み出します(訳注:第2幕 第1場)。それは《殺害》として知られている残忍な旋律の開始部分で、オーケストラに聴き取れます。アルベリヒがハーゲンに、ジークフリートを殺して指環を取り戻せと促す場面です。

 EX.48: 《殺害》 

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So this dissonance permeates Gotterdammerung, creating an atmosphere of progressive dissolution. Wagner made the sinister harmony of the Ring motive eat its way more and more into the fabric of the score to reflect the fact that the sinister symbol of the Ring itself eats its way more and more into the fabric of the drama.

そしてこの不協和音は『神々の黄昏』に染み渡っていき、次第に崩壊していく雰囲気を作り出します。ワーグナーは《指環》の不吉なハーモニーがスコアという織物に徐々に浸透するようにしています。それは不吉のシンボルである指環がドラマという織物に浸透することを反映しているのです。


CD1-Track09


Several other motives representing various aspects of the symbol of the Ring are generated by the melody of the Ring motive. Three of these stem from its first segment of four descending notes. The most important is the motive associated with the Curse which Alberich puts on the Ring in Scene 4 of Rheingold after having been robbed of it by Wotan. Here are the first four descending notes of the Ring motive.

シンボルとしての指環のさまざまな側面を表現するモティーフのいくつかは、《指環》のモティーフの旋律から作り出されます。このうちの3つは《指環》の最初のセグメントである下降する4つの音から生じます。最も重要なのは『ラインの黄金』の第4場で、指環をヴォータンに奪われたあとにアルベリヒが指環にかける "呪い" に関連したモティーフです。次が《指環》のモティーフの最初の4つの下降音です。

 EX.49: 《指環》 最初の4音符 

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These four notes are turned upside down to form the menacing motive of the Curse. This is introduced vocally by Alberich but its definitive form is established by the trombones a little later in Scene 4 of Rheingold, immediately after the first effect of the Curse, the murder of Fasolt by Fafner.

この4つの音は上昇下降を逆転させ、威嚇するような《呪い》のモティーフを形づくります。これはアルベリヒの歌唱で導入されますが、少し後の『ラインの黄金』の第4場でトロンボーンがこのモティーフの確定形を提示します。ファゾルトがファフナーに殺されるという、"呪い" の最初の発現の直後です。

 EX.50: 《呪い》 

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The other two motives generated from the first four notes of the Ring motive are those of Hunding's Rights in Walkure and the Vow of Atonement in Gotterdammerung. Hunding, if he is ignorant of the existence of the actual Ring, is nevertheless a wielder of the kind of ruthless power it symbolizes.

And as for the Vow of Atonement which forms part of the oath of blood brotherhood sworn by Siegfried and Gunther, the significance of the Ring shaped motive here is one of tragic irony. Through the vow, Siegfried puts himself entirely in the power of Hagen who uses it as a pretext for murdering him to get possession of the Ring.

Both these motives are direct transformations of the first four notes of the Ring motive which we'll hear again now.

《指環》のモティーフの最初の4つの音から生成される他の2つのモティーフは『ワルキューレ』の《フンディングの正義》と、『神々の黄昏』の《贖罪の誓い》です。フンディングは指環の存在については無関係だとしても、指環が象徴するある種の冷酷な力を持っています。

また《贖罪の誓い》はジークフリートとグンターの "兄弟の血の誓い" の構成要素です。ここで重要なのは《指環》から作られるモティーフが "皮肉な悲劇" を示すことです。つまり "誓い" によってジークフリートは、指環を手に入れるために彼を殺そうとしているハーゲンの術中にはまってしまいます。ハーゲンは "誓い" を口実にするのです。

この2つのモティーフとも《指環》の最初の4つの音の直接的な変形です。4つの音をもう一度聴いてみましょう。

 《指環》 最初の4音符: EX.49 

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Now here is the stern motive of the Hunding's Rights which is introduced vocally by Hunding himself to the words "Sacred is my hearth, sacred to you be my home".

さて次が厳粛な《フンディングの正義》のモティーフです。これはフンディング自身の歌唱で導入され、歌詞は「私の炉は神聖だ。私の家は君にとっても神聖だ」です(訳注:『ワルキューレ』第1幕 第2場)。

 EX.51: 《フンディングの正義》 

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And here's the tragic motive of the Vow of Atonement as introduced by Gunther and Siegfried in Act 1 of Gotterdammerung.

そして次が、悲劇的な《贖罪の誓い》のモティーフです。これは『神々の黄昏』の第1幕(訳注:第2場)でグンターとジークフリートによって導入されます。

 EX.52: 《贖罪の誓い》 

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CD1-Track10


Two further motives are evolved from the other segments of the Ring motive, its last three rising notes. Both enter in Scene 3 of Rheingold. The first is that of the Hoard of treasure which apears when Alberich tells Wotan about the Hoard and how he will use it to make himself master of the world.

The second is that of the Dragon which enters when Alberich transformed himself into a huge serpent ostensibly to demonstrate the powers of the Tarnhelm but really to warn Wotan and Loge of his power to guard the Ring in the Hoard.

Both motives are built out of repetitions of the rising third which ends the Ring motive, a note higher each time. And both are given into the tubas to suggest some monstrous evil rising from the depths to engulf the world. Here's the Ring motive again as a reminder.

他に2つのモティーフが《指環》の別のセグメントから派生します。それは《指環》の最後の上昇する3音から派生するもので、2つとも『ラインの黄金』の第3場に出てきます。第1は《財宝》のモティーフです。これはアルベリヒがヴォータンに財宝のことを話し、世界を支配するためにどう使うかを語るところで出てきます。

第2は《大蛇》のモティーフで、アルベリヒ自身が大きな蛇に変身するところで現れます。その変身は、表向きは "隠れ兜" の威力を誇示するためですが、本当は財宝の中の指環を守る力が自分にあることをヴォータンとローゲに警告しているのです。

2つのモティーフとも《指環》のモティーフの最後の上昇する3度を繰り返すことで作られていて、繰り返すたびに音は高くなります。また2つともチューバに割り当てられており、怪物級の "悪" が深淵から立ち上がって世界を巻き込むかのようです。リマインドのために《指環》のモティーフを再度聴きましょう。

 《指環》: EX.41 

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The last three notes of the Ring motive, repeated over and over by the tubas, generate the motive of the Hoard. Here it is as it occurs definitively in the Prelude to Siegfried with the Servitude motive repeated above it.

《指環》の最後の3音はチューバで何度も繰り返され、《財宝》のモティーフを生み出します。次は『ジークフリート』の前奏曲で確定的に現れる《財宝》です。その上で繰り返される《苦役》のモティーフと一緒です。

訳注:  Hoard of treasure という説明があるように、モティーフ名の hoard は "秘蔵物" の意味である。ここでは財宝と等価なので《財宝》とした。普通このモティーフは《財宝》と呼ばれている。

 EX.53: 《財宝》 

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The motive of the Dragon is a rather freer development of the last three notes of the Ring motive, but again it consists of repetitions by the tubas of a phrase revolving round a third, each repetition a note higher than the one before.

《大蛇》のモティーフは《指環》の最後の3音のいくぶん自由な展開です。しかしまたもチューバによる繰り返しで、3度の周りを巡回し、繰り返すごとに音程が高くなっていきます。

 EX.54: 《大蛇》 

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This Dragon motive later takes on a slightly different form on solo tuba to represent Fafner in Act 2 of Siegfried, when he has turned himself into a Dragon to guard the Ring and the Hoard.

《大蛇》のモティーフは『ジークフリート』の第2幕において少々違った形でチューバのソロに現れ、ファフナーを表現します。指環と財宝を守るために彼自身が大蛇に変身している場面です。

訳注:  EX.55 は『ジークフリート』第2幕のオーケストラ前奏曲の冒頭。

 EX.55: 《大蛇としてのファフナー》 

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This is the last of the dark family of motive generated by the basic power motive of the Ring.

But there's one separate bright transformation of the Ring motive, the first and simplest of all. This emerges soon after the motive has found its definitive form in the orchestral interlude leading from Scene 1 of Rheingold to Scene 2. Eventually, the newly established Ring motive begins to take on a less inimical form. Its sinister harmonic basis becomes much more genial on the horns.

これが "力" を表す基本モティーフ《指環》から作られる暗いモティーフのファミリーの最後です。

しかし《指環》のモティーフの別の明るい変形が一つあります。最も単純な変形の最初のものです。これは『ラインの黄金』の第1場から第2場へのオーケストラの間奏において、《指環》の確定形(訳注:EX.41)が提示されたすぐ後に出てきます。新しく確立した《指環》のモティーフは次第に敵意のない形になっていきます。不吉な和声はホルンによって断然穏やかになります。

 EX.56: 《指環》 ヴァルハラへ変化 

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Immediately after this, at the very beginning of Scene 2, the Ring motive changes its harmonic basis a little further to simple major harmonies, and in so doing, it transforms itself into the majestic brass motive to be associated with Wotan's catsle, Valhalla.

この直後の第2場の冒頭で《指環》のモティーフは和声をさらに変え、シンプルな長調のハーモニーになります。こうすることでヴォータンの城である《ヴァルハラ》と結びついた、堂々とした金管のモティーフになります。

 EX.57: 《ヴァルハラ》 第1セグメント 

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The melodic similarity between the Valhalla motive and the Ring motive establishes the near identity of the ultimate aims of Alberich and Wotan, absolute power in each case. And the harmonic contrast between them expresses much noble character of a Wotan conception of absolute power, compared with the Alberich's.

But the phrase we've just heard is only the first segment of the Valhalla motive, though the most important one. There are other segments which are also to recur on their own. Two of these soon follow the first one, a repeated falling phrase and a series of alternating chords.

《ヴァルハラ》と《指環》のメロディーの類似性は、アルベリヒとヴォータンの究極の目的がほとんど同じであることを明確にしています。両方とも絶対的な "力" です。そして2つのモティーフの和声の対比は、ヴォータンにおける絶対的な力の概念がアルベリヒに比べて格段に高貴であることを表現しています。

いま聴いたフレーズは《ヴァルハラ》のモティーフの最も重要なものですが、第1セグメントだけに過ぎません。他に、何度もそれ自体が再現する別のセグメントがあります。このうちの2つは第1セグメントにすぐに続きます。下降するフレーズの繰り返しと、一連の交替する和音です。

 EX.58: 《ヴァルハラ》 第2・第3セグメント 

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The final segment of the Valhalla motive, which is a kind of summing up of its noble character, doesn't enter until the end of the Wotan's actual apostrophe to Valhalla itself. It appears on the trumpet at the words "Noble Splendid Fortress".

《ヴァルハラ》のモティーフの最後のセグメントは、このモティーフの高貴な性格をまとめたもので、ヴォータンがヴァルハラそのものへの呼びかけを終えたときに導入されます。これはトランペットに現れ、せりふは「気高く輝く砦」です。

 EX.59: 《ヴァルハラ》 最終セグメント 

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We can hear this final segment of the Valhalla motive more clearly by having the passage played by the orchestra alone.

このパッセージをオーケストラだけで演奏することで、《ヴァルハラ》の最終セグメントをよりはっきりと聴くことができます。

 EX.60: 《ヴァルハラ》 最終セグメント 

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This final segment of the Valhalla motive also occurs frequently on its own. It has a habit of attaching itself to the ends of other motive as a cadence. For example, when Wotan conceives the idea of the Sword in Scene 4 of Rheingold, it rounds off the trumpet's Sword motive with the effect of setting a seal of majesty on the new conception.

この《ヴァルハラ》のモティーフの最終セグメントは、それ自体でしばしば現れます。そして、他のモティーフの終わりに付加されて終止形を作る性質があります。たとえば『ラインの黄金』の第4場においてヴォータンが "剣" のアイデアを抱くとき、このモティーフはトランペットの《剣》のモティーフを整え、その新しい考えに威厳を与える効果を発揮します。

 EX.61: 《剣》 と《ヴァルハラ》の最終セグメント 

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Although the complete Valhalla motive and its various segments recur throughout the whole work, the motive does not generate a family of motives. This is because Wotan's catsle is only a static symbol of his power, not a dynamic symbol of the agency of his power, akin to Alberich's Ring.

The agency of Wotan's power is his Spear. This is the other central power symbol of the drama and it has its own basic motive which does generate a whole family of motives.

こういった《ヴァルハラ》のモティーフ全体とそのさまざまなセグメントは『指環』を通して再現しますが、モティーフのファミリーを作ることはありません。その理由は、ヴォータンの城がアルベリヒの "指環" のような "力の動的なシンボル" ではなく、"力の静的なシンボル" に過ぎないからです。

ヴォータンの力を代表するのは彼の "槍" です。これはドラマのもう一つの力の中心的なシンボルであり、基本モティーフを持ち、そこからモティーフのファミリーが生み出されます。


CD1-Track11


The basic motive associated with the Spear has always been labelled the Treaty or Bargain motive, because Wotan's power resides in the treaties sworn on the Spear and engraved on it. But these treaties which are actually the laws whereby Wotan governs the world, are really maintained by his will. And this is what the power of the Spear represents. Wotan's Spear is the symbol of his will towards controlled, lawful world domination, just as Alberich's Ring is the symbol of his will towards uncontrolled, unlawful world domination.

And so the basic power motive associated with the Spear should take the name of the symbol itself, just as the basic power motive associated with the Ring is called the Ring motive. The Spear motive which is a stern descending minor scale, first appears in Scene 2 of Rheingold. It enters quietly on the bass when Fricka reminds Wotan that he will have to fulfil his contract with the Giants and give them the promised payment for building Valhalla, the Goddess Freia.

"槍" に関連づけられた基本モティーフは、従来から《契約》とか《取引》のモティーフと呼ばれてきました。というのもヴォータンの力の源泉は、ヴォータンが "槍" に誓い、"槍" に刻み込んだ契約にあるからです。この契約はヴォータンが世界を支配するための "おきて" ですが、実際はヴォータンの意志によって支えられています。"槍" の力が表現しているのは、その意志です。ヴォータンの "槍" は秩序のある統制された世界に君臨する意志の象徴です。それはアルベリヒの "指環" が無秩序で統制のない世界に君臨する意志を象徴しているのと同様です。

従って "槍" に関連づけられた力の基本モティーフにはシンボルの名前そのものを採用すべきです。ちょうど "指環" に関連づけられた力の基本モティーフが《指環》のモティーフと呼ばれるようにです。《槍》のモティーフは厳粛に下降する短調の音階で、最初に『ラインの黄金』の第2場で現れます。フリッカはヴォータンに、巨人たちと交わした契約を履行してヴァルハラを建てる報酬の約束、つまり女神・フライアを差し出すべきことを思い起こさせますが、そのときモティーフが低音部に静かに入ってきます。

 EX.62: 《槍》 第1形 

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Later in the same Scene when Donner lifts his hammer to crush the Giants, Wotan stretches out his Spear and imposes the law by the main force of his will. And here the definitive form of the Spear motive beginning on a strong beat enters powerfully on the trombones.

そのあと同じ第2場でドンナーが巨人たちを粉砕しようとハンマーを振り上げるとき、ヴォータンは槍を振るって意志の力で "掟" を強制します。ここが《槍》のモティーフの確定形で、強いビートで始まり、トロンボーンで力強く演奏されます。

 EX.63: 《槍》 確定形 

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Before considering the family of motives generated by this main Spear motive, we should notice that it has another segment, concerned specifically with the irrevocable character of the treaties sworn on the Spear. This is introduced vocally by Fasolt when he warns Wotan that he must keep faith.

この《槍》から作られるモティーフのファミリーを考察する前に、このモティーフが別のセグメントを持っていることに注意すべきでしょう。それは "槍" にかけて誓われた契約は取り消しできない性質であることに関連します。これはファゾルトの歌唱で導入されます。彼がヴォータンに信義を守れと警告する場面です(訳注:第2場。EX63 の前)。

 EX.64: 《取り消しできない掟》 

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The first new motive generated by the descending scale of the main Spear motive, is a subsidiary one which represents Wotan's actual contract with the Giants. This is the real Treaty motive. Fasolt introduces it vocally, echoed by the cellos and basses, when he warns Wotan to fulfil the contract.

《槍》の下降音階から最初に作り出される新たなモティーフは、ヴォータンが巨人たちと交わした契約を表す副次的なモティーフです。これが本当の《契約》のモティーフです。ファゾルトがヴォータンに契約を履行するように警告するときに歌唱で導入され、チェロとコントラバスがそれに続きます(訳注:第2場。EX64 の直後)。

 EX.65: 《契約》 

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A more important transformation of the Spear motive follows immediately. This is the embryonic form of the majestic motive of the Power of the Gods which should perhaps be called the power of Wotan. When Fasolt goes on to warn Wotan that his whole power resides in the laws engraved on the Spear, the Spear motive enters in the bass, bellow a series of pulsating chords. This is the embryonic form of the motive of the Power of the Gods.

もっと重要な《槍》のモティーフの変形がすぐに続きます。これは威厳のある《神々の力》のモティーフの萌芽形で「ヴォータンの力」と呼んでもいいものです。ファゾルトがヴォータンに、彼の全ての力は槍に刻まれた契約にあるのだと警告するとき、鼓動する和音の下の低音部に《槍》のモティーフが入ってきます。ここが《神々の力》のモティーフの萌芽形です。

 EX.66: 《神々の力》 萌芽形 

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An intermediate form of this motive enters on the orchestra in Act 1 of Siegfried when Wotan tells Mime how he rules the world with the Spear which he cut from the World Ash Tree. This time, underneath the pulsating chords, the descending scale of the Spear motive alternates with its inversion, a rising scale.

『ジークフリート』の第1幕で、このモティーフの中間形がオーケストラに現れます。ヴォータンがミーメに、世界のトネリコの樹から切り出した槍でどのように世界を支配するかを説明するシーンです(訳注:第2場)。今度は鼓動する和音の下で、《槍》の下降音階がその反転形の上昇音階に変化します。

 EX.67: 《神々の力》 中間形 

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In Gotterdammerung, the rising scale detaches itself from the descending one to become the definitive form of the motive of the Power of the Gods. This enters during the Norns' scene in the Prelude, but it rises to its full strength in the Final Scene of the work, when Brunnhilde orders the funeral pyre to be built for Siegfried which will finally bring the Power of the Gods to an end.

『神々の黄昏』において、この上昇音階は下降音階から切り離され《神々の力》の確定形になります。これは序幕のノルンのシーンで現れますが、その威力がフルに発揮されるのは作品の最後のシーンです。そこではブリュンヒルデがジークフリートの葬儀の薪を積み上げるように命じ、それが最終的に神々の力の終焉をもたらします。

 EX.68: 《神々の力》 確定形 

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CD1-Track12


Along another more complex line of transformation, the Spear motive continually generates new motives throughout Walkure. These are derived from the opening 6 notes segment of the Spear motive. They are those of the Storm and of Siegmund, Wotan's son, unwitting agent, who at the beginning of Walkure is running through the storm for his life.

In each of these motives, the descending scale motion of the complete Spear motive is checked and opposed. After the first descending 6 notes segment, a rising motion contradicts it. Indeed, throughout Walkure, the repressive authority of Wotan's will is to be continually challenged by the other characters and eventually neutralized. Here, first of all, is another special illustration presenting the first descending 6 notes segment of the Spear motive.

《槍》のモティーフは、別のもっと複雑な変形の過程をだどって『ワルキューレ』の全体で新たなモティーフを継続的に生み出します。これらは《槍》の最初の6つの音のセグメントから派生したもので、《嵐》と《ジークムント》のモティーフです。ジークムントはヴォータンの息子で、ヴォータンの無意識の使者であり、『ワルキューレ』の冒頭では命を守るために嵐の中を逃げてきます。

そしてそれぞれのモティーフにおいて、完全な《槍》のモティーフの下降音階の動きは抑制され、妨げられます。最初の下降する6音のあとは、対照的な上昇する動きになるのです。実際『ワルキューレ』を通して、ヴォータンの意志が示す抑圧的な権威は他の登場人物からの挑戦を受けて次第に無力化します。ではまず最初に、特別の例示で《槍》のモティーフの冒頭の下降する6音を聴いてみましょう。

 EX.69: 《槍》 第1セグメント 

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Now here's the Storm motive. It consists of the first descending 6 notes segment of the Spear motive, played swiftly in alternation with its inversion, the same notes rising upwards.

さて《嵐》のモティーフです(訳注:『ワルキューレ』前奏曲の冒頭)。これは《槍》の最初の下降する6音のセグメントと、それに素早く替わって演奏される反転形、つまり同じ音の上昇形からできています。

 EX.70: 《嵐》 

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Out of the Storm motive emerges very similar motive of Siegmund who is to rebel against Wotan's authority. This also enters in the bass, and again, the first descending segment of Spear motive is checked and contradicted by a rising motion.

《嵐》のモティーフから、非常に似た《ジークムント》のモティーフが出てきます。ジークムントはヴォータンの権威に反逆しようとしています。このモティーフもまた低音部に導入され、《槍》のモティーフの最初の下降するセグメントは再び抑止されて上昇する動きが対比されます。

訳注:  EX.71は『ワルキューレ』前奏曲の終わりのあたりで、《嵐》が《ジークムント》のモティーフに変化するところ。

 EX.71: 《ジークムント》 

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A little later in Act 1 of Walkure, Siegmund's falling and rising motive is joined by the rising and falling one of Sieglinde. As the mood grows more tender, the upward motion, contradicting the Spear motive's descent, grows stronger.

『ワルキューレ』第1幕の少し後で《ジークムント》の下降して上昇するモティーフは、《ジークリンデ》の上昇し下降するモティーフと結びつきます。そして雰囲気が次第に優しくなるにつれ、《槍》のモティーフの下降音とは対照的な上昇する動きが強くなってきます。

訳注:  EX.72は『ワルキューレ』第1幕の冒頭、ジークリンデの最初の歌唱。

 EX.72: 《ジークムントとジークリンデ》 

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CD1-Track13


In Act 2 of Walkure, Wotan's authority is effectively thwarted by Fricka who argues him into abandoning Siegmund and the plan of which Siegmund is the unwitting agent. The gloomy motive associated with Wotan here is generally known as Discouragement. But it might be called the "frustration of Wotan's will", since it's a twisted form of the first descending 6 note segment of the Spear motive. Here's the segment again as a reminder.

『ワルキューレ』の第2幕においてヴォータンはフリッカに論駁され、その権威は失墜します。その結果ジークムントを見捨てることになり、ジークムントを無意識の使者にする計画もなくなります(訳注:第2幕 第1場)。このシーンでのヴォータンに関連づけられた陰気なモティーフは、一般的には《不機嫌》として知られています。しかしそれは "ヴォータンの意図の挫折" と呼べるでしょう。なぜなら、このモティーフは《槍》のモティーフの最初の6つの下降音のねじれた形だからです。リマインドのため《槍》の最初のセグメントを聴いてみましょう。

 《槍》 第1セグメント: EX.69 

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This segment, freely transformed, generates the motive of Wotan's Frustration. The motive begins with a little turn twisting moodily around the first note. And not only is the descending motion opposed by a rising one, but it's also hindered by being turned around on itself.

このセグメントは自由に変形され《ヴォータンの挫折感》のモティーフを生み出します。そのモティーフは、最初の音の周りに陰気によじれるターン(=回音)で始まります。そして《槍》の下降音が対照的な上昇音に妨げられるだけでなく、それ自体も揺れ動きます。

訳注:  frustration は「苛立ち」とも訳せるが、一つ前の説明でデリック・クックは "frustration of Wotan's will" と言っているので「挫折」が適当。またモティーフの名称としては "心理的側面を重視する" という観点から「挫折感」とした。

 EX.73: 《ヴォータンの挫折感》 

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Incidentally this motive, like several others, takes on a new form in Gotterdammerung. The tragic happenings in that work are felt to be at least partly the result of Wotan's change of mind after his humiliation by Siegfried. His sense of frustration which disappears in the opera Siegfried returns in Gotterdammerung, and grows more acute as we learn from Waltraute. And this is expressed by a new leaping and falling form of the motive of his Frustration. We hear it in the orchestra after the Waltraute has told Brunhilde of Wotan's indifference to everything except the idea of restoring the Gold to Rhinemaidens.

さらに言うとこのモティーフは、他の数個のモティーフと同じように『神々の黄昏』で新たな形をとります。この楽劇の悲劇的な出来事の少なくとも一つの原因は、ジークフリートから受けた屈辱によってヴォータンが心変わりしたことだと感じられます。楽劇『ジークフリート』では消えていたヴォータンの挫折感は『神々の黄昏』で戻ってきて、より鮮明になっていることがヴァルトラウテの言葉からわかります。この挫折感は、跳躍して落ちる新しいモティーフで表現され、ヴァルトラウテがブリュンヒルデにヴォータンの無関心について語る時のオーケストラに聴くことができます。ヴォータンは黄金をラインの乙女に返すこと以外には関心が無くなっているのです。

訳注:  EX.74 は『神々の黄昏』第1幕 第3場のヴァルトラウテの歌唱のところ。

 EX.74: 《ヴォータンの挫折感》 第2形 

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This motive recurs many times in Gotterdammerung, especially in conjunction with Hagen's plotting to destroy Siegfried, since this act will set in motion the series of events that is to lead to the restoration of the Gold to the Rhinemaidens.

このモティーフは『神々の黄昏』でたびたび再現し、特にジークフリートを殺害しようとするハーゲンの陰謀に関して現れます。というのも、黄金をラインの乙女に戻すことになる一連の出来事が、この陰謀に起因しているからです。

訳注:  EX.75 は『神々の黄昏』第2幕 第5場のハーゲンの歌唱のところで、ハーゲンがジークフリートの殺害に言及してグンターが驚く場面。

 EX.75: 《ヴォータンの挫折感》 ハーゲン形 

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CD1-Track14


Returning now to Act 2 of Walkure, after Fricka's exit, Wotan rages against her thwarting of his will, and here, the motive of his Frustration is inverted moving upwards instead of downwards. Moreover, it moves straight upwards without convolutions. And in doing so, it generates the furious motive of Wotan's Revolt which is thus a free inversion of the whole original Spear motive. It always merges into the motive of Curse as here on its first appearance.

『ワルキューレ』の第2幕に戻りましょう。フリッカが退場したあと、ヴォータンは彼女に意図を砕かれたことに怒り狂います。ここで《挫折感》のモティーフは下降から上昇へと反転します。しかも回音はなしでストレートに上昇し、その結果《ヴォータンの反抗》という怒りのモティーフを生み出します(訳注:第2幕 第2場)。これは元々の《槍》のモティーフを自由に反転させたものです。このモティーフは常に《呪い》のモティーフと融合しますが、その最初の現れがここです。

 EX.76: 《ヴォータンの反抗》 

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In Act 3 of Walkure, the twisted motive of Wotan's Frustration evolves gradually into the motive associated with Brunnhilde's rebellion against him, the motive of the Reproach she addresses to him. At the beginning of this scene, we hear the transformation take place. The motive of Wotan's Frustration on the bass strings is answered by a free transformation of it on the bass clarinet in which the descending motion of the original Spear motive is now opposed by a wide leap to the upper octave.

『ワルキューレ』の第3幕において《ヴォータンの挫折感》の "捻れた" モティーフは、次第にブリュンヒルデのヴォータンに対する反抗に関連するモティーフへと進化します。それはブリュンヒルデのヴォータンに対する《非難》のモティーフです。このシーンの出だしのところで変形が起こっていることが聴き取れます。低音弦の《ヴォータンの挫折感》のモティーフは、自由に変形されてバス・クラリネットにも現れ、そこでは元々の《槍》の下降する動きが1オクターブ上への大きな跳躍と対比されます。

訳注:  《ブリュンヒルデの非難》は、《ブリュンヒルデの哀願》とか《訴え》とも呼ばれるが、デリック・クックが使っている reproach という言葉に「哀願」や「訴え」のニュアンスはない。EX.77, EX.78, EX.79 は第3幕 第3場。

 EX.77: 《ヴォータンの挫折感》 / 《ブリュンヒルデの非難》 

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This bass clarinet phrase is taken up by Brunnhilde as she reroaches Wotan for condemning her disobedience, her attempt to carry out his original plan which she knew he had countermanded in spite of his deepest wishes. Her Reproach motive presents the full descending scale of the Spear motive continually opposed by leaps to the upper octave.

このバス・クラリネットのフレーズは、彼女の不従順を責めるヴォータンを非難するブリュンヒルデに移ります。彼女はヴォータンの元々の計画を遂行するよう試みましたが、ヴォータンは強い希望とは裏腹に計画を撤回したことを彼女は知っているのです。彼女の《非難》のモティーフでは《槍》の下降音階と、それに対比されるオクターブ上への跳躍が連続します。

 EX.78: 《ブリュンヒルデの非難》 

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Later on, in this Act, this motive of Brunnhilde's Reproach turns to the major to become a new motive representing the positive symbol she is opposing to the authority of Wotan's Spear, Compassionate Love. The motive enters on the orchestra as Brunnhilde tells Wotan what has made her defy his orders was the feeling of love which he himself had breathed into her and which had been awakened by her realization of Siegmund's love for Sieglinde.

この幕の後の方で《ブリュンヒルデの非難》のモティーフは長調に転換し、新たなモティーフになります。それはヴォータンの "槍" の権威に対抗する彼女のポジティブなシンボルとなる《哀れみの愛》です。このモティーフがオーケストラに入ってくるときブリュンヒルデはヴォータンに、命令に逆らったのは愛の感情だったと語ります。その愛の感情はヴォータン自身がブリュンヒルデに吹き込んだものであり、ジークムントのジークリンデに対する愛を彼女が認識したことで呼び覚まされたのでした。

 EX.79: 《ブリュンヒルデの哀れみの愛》 

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So the repressive descending minor scale of the Spear motive is finally transformed into the expansive soaring motive associated with Brunnhilde's Compassionate Love. And this is the last of the family of motive generated by the basic motives of the Spear.

このようにして、短調の抑圧的な下降音階である《槍》のモティーフは、最終的に《ブリュンヒルデの哀れみの愛》を表す、広がって高く舞い上がるようなモティーフに変形しました。これが基本モティーフ《槍》から作り出されたファミリーの最後です。


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No.257 - "ニーベルングの指環" 入門(1)序論・自然 [EX.1-38] [音楽]

2019.4.26
Last update:2019.5.10

No.14-15「ニーベルングの指環(1)(2)」で、リヒャルト・ワーグナーのオペラ(楽劇)『ニーベルングの指環』で使われているライトモティーフ(示導動機)について書きました。この長大なオペラにおいてドラマを進行させるのは、登場人物の歌唱と演技、舞台装置、オーケストラの演奏だけではなく、それに加えてライトモティーフです。つまり、ライトモティーフだけでドラマの今後の進行を予告したり、ライトモティーフだけで歌唱と演技の裏に隠された真の意味を説明するようなことが多々あります。従って『ニーベルングの指環』を真に "味わう" ためには、ライトモティーフを知ることが必須になってきます。

もちろん No.14-15 で書いたのはライトモティーフのごくごく一部です。ライトモティーフの全貌を知るにはどうすればよいか。一番参考になるのは、ショルティ指揮・ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の『ニーベルングの指環』全集(輸入盤・日本盤)に付けられた英国の音楽学者、デリック・クック(1919-1978)によるライトモティーフ解説でしょう。特に、日本盤CD(POCL9943-9956。14枚組)には日本語音声による解説CD(DCI-1043-1045。3枚組)が付録としてついていたので、この全集を入手できる人はそれを聴くのが一番です。

日本語の解説CDがついた全集を入手できない場合は、そのライトモティーフ解説だけを独立させて販売されている2枚組CD(英語版)があります。

  An Introduction to Der Ring Des Nibelungen("ニーベルングの指環" 入門)

です。これは現在でも通販などで入手できます。また、デリック・クックの英語解説の音源は、YouTube で Part1~3 の3つに分けて公開されています(2019.4.26 現在)。タイトルは、

  An Introduction to Richard Wagner's Ring Cycle Part 1, 2, 3

です。つまり、英語解説なら容易に入手、ないしは試聴することができるわけです。そこで、以下は2枚組CD(英語版)を基準に話を進めます。

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An Introduction to Der Ring Des Nibelungen

2枚組CDで、合計約140分のコンテンツである。イギリスの音楽学者、デリック・クックがライトモティーフの解説を行い、ショルティの「ニーベルングの指環全集」の音源が続く。それが221回、繰り返される。音楽の録音は1958年~1965年で、解説の録音は1967年。

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Deryck Cooke
(1919-1976)

デリック・クックはマーラーの交響曲第10番を補筆・完成させたことで有名。今日CDで発売されているマーラー第10番のほとんどはクック版である。
(site : www.bbc.co.uk)
この CD ではデリック・クックがライトモティーフの解説を行い、ウィーンフィルと歌手の演奏が続き、それが221回繰り返されます。この「解説と演奏が交互に繰り返される」という形式が、ライトモティーフを理解するのには最適です。2枚組CD で合計40トラックあり、全部を聞くとなると2時間20分ほどになります。

ライトモティーフの解説だけで2時間20分、というのも相当なものですが、『指環』を続けて演奏したとすると15時間程度にはなるので、それと比べると大したことはないとも言える。

大したことはないが、それでも2時間20分です。『指環』の迷宮構造を理解するつもりで聴き始めたとしても、この2時間20分だけでライトモティーフの迷宮にさまよい込んだ気持ちになる可能性が大です。『指環』に "のめり込む" には、そこを突破する根気としつこさが必要なのです。

とりあえず、2時間20分はよしとしましょう。しかし大きな問題は英語です。つまり、デリック・クックの英語による解説のリスニングに集中する必要があり、これは非常に疲れます。英語が得意という人を除いて、おそらく大多数の人はそうだと思います。しかもライトモティーフの迷宮をさまよいつつのリスニングであり、疲れ倍増です。解説と演奏が交互にあるので、本来なら主役であるワーグナーの音楽を聴く方により集中したいのですが、どうしてもリスニングに集中せざるを得ず、音楽は頭を休める休憩時間になってしまう。これでは本末転倒です。

さらに問題は、デリック・クックの英語による解説文がCDのブックレットに載っていないことです。つまり解説内容を(英和辞典などで)確かめる手段がありません(あまり使わないような単語もキーワードとして出てきます)。オリジナルの LP版『指環 全集』には解説書があったようなのですが、2枚組CD のような小さなパッケージにぶ厚いブックレットをつけるのは、どだい無理ということでしょう。

そこで、これから『指環』に "のめり込みたい" という殊勝な人のために、デリック・クックの英語解説の対訳(試訳)とライトモティーフの譜例(これは CD のブックレットに載っています)を掲載したいと思います。CD(ないしは英語音源)を聴くときの、あるいは CD を持ってはいるがリスニングが苦手な人の参考になると思います。いわば "デジタル版 対訳付き ブックレット" です。


訳語、記号など


まず、対訳に当たってのいくつかの訳語や記述方法を書いておきます。

 motive: モティーフ 

デリック・クックの解説では、ライトモティーフ(独:leitmotiv、英:leading motive もしくは leitmotif。leitmotive と言うこともある)のことを単に "motive" と呼んでいます。従って日本語訳も "モティーフ" としました。



もちろん、ライトモティーフを識別して名前を付けるやり方は解説者によってまちまちです。特に、デリック・クックの流儀は一般的なものと相違する面があります。またすべてのライトモティーフを解説したのでもありません。しかしそういう些細なところは抜きにして、この CD が目指している、真に重要なライトモティーフとその変遷をたどり『指環』の構成原理を知ることに集中すればよいと思います。その構成原理をたどる中から、『指環』4部作という長大な楽劇のテーマが自然と浮かび上がってきます。

 記号など 

《》はモティーフ名、『』は楽劇の名称、何も無いのは人物名などの名詞です。たとえば、

ジークフリート》 : ジークフリートのモティーフ
ジークフリート』 : 楽劇 "ジークフリート"
ジークフリート : 登場人物名

です。また、すでに使っていますが『指環』=『ニーベルングの指環』です。なおドイツ語表記におけるウムラウトは単に省略しました(Walkure, Brunnhilde, Gotterdammerung などと表記)。

 definitive form: 確定形 

『指環』の1つのライトモティーフは変形されて別の形になったり、またモティーフがその断片から次第に形づくられるといったことがあります。これらの中で、最もはっきりした形で、オペラの中で繰り返し現れる形が "definitive form" です。

いわばモティーフが完成した姿なので、"完成形" あるいは "完全形" とすることも考えられますが、ここでは "確定形" としました。完成とか完全とすると「そこで終わり」のようなイメージですが、そこからまた変遷を繰り返すといったことが多々あります。

 embryonic form: 萌芽形 

embryonic とはあまり聞かない言葉ですが、動植物の発生の初期段階の "胚" を意味する英語、embryo の形容詞形です。つまりモティーフが確定形になる前の、発生段階の形を言っています。原始形とか原形といった訳も考えられますが、embryonic のもともとの意味を尊重して "萌芽形" としました。

 tansformation: 変形 

一つのモティーフは形を変えて、隣接した意味の(あるいは正反対の意味の)モティーフになります。このことをデリック・クックは tansformation と言っています。変形、変換、変質、転換というような意味ですが、"変形" としました。音楽なので変奏としたいところですが、通常言われる変奏とは少々意味が違います。

A → B とモティーフが変形されるとき、B からみた A が original form です。「原形」「元々の形」などとしました。またこの変形の途中で中間的な形があるとき、つまり A → C → B となるとき、A → B の変形からみた C が intermediate form です。"中間形" としました。



デリック・クックは、こういった変形のプロセスを重要視してモティーフに名前をつけています。たとえば『指環』の冒頭のホルンの上昇和音は、普通は《自然の生成》、ないしは《生成》と呼ばれ、そのあとに出てくる弦楽器のうねるようなモティーフが《自然》と呼ばれています。しかしデリック・クックの表現では、前者が《自然》の原形(original form)で、後者が《自然》の確定形(definitive form)です。

 family / basic motive: ファミリー / 基本モティーフ 

変形のプロセスで作り出されたモティーフの一団が family です。訳すとしたら「族」「一族」などでしょうが、何となくそぐわないのでそのまま "ファミリー" としました。ファミリーを作り出す出発点となるモティーフが basic motive =基本モティーフです。これは確定形のこともあり、そうでないこともあります。

 segment: セグメント 

モティーフの1部分を言います。たとえば上昇し下降するモティーフがあったとき、上昇部分が第1セグメント、下降部分が第2セグメントなどと使います。"部分" とか "断片" というのもピッタリしないので、そのまま "セグメント" としました。もちろんセグメントは2つとは限りません。《ヴァルハラ》のモティーフなどは4つのセグメントから成っています。

 arppegio: アルペジオ 

和音を同時に鳴らすのではなく数個の音に分けて鳴らすのを「分散和音」、分散和音の中で上昇(ないしは下降)するものを「アルペジオ」と定義すると、デリック・クックは後者の意味で arppegio を使っているようです。そのまま「アルペジオ」としました。たとえば『指環』の冒頭の上昇するホルンの分散和音がアルペジオの例です。

 special illustration: 特別の例示 

演奏のほとんどはショルティ版『指環』の音源の一部を切り取ったものですが、中にはこの CD のために特別に演奏したものもあります。音を伸ばして和音として響かせるとか、あえてゆっくり演奏するとかの、ワーグナーのスコアどおりではない演奏です。これをデリック・クックは special illustration と言っています。ここでの illustration は「例をあげて説明する、例証する」ことの意味なので "特別の例示" とか "ここだけの例示" としました。

 EX番号 

デリック・クックはライトモティーフに通し番号をつけていて、EX.nnn と表記されます。2枚組の CD では合計193個のライトモティーフがあり、ブックレットにその楽譜が記載されています。ただし重複して出てくるものがあるので、ライトモティーフは延べ 221 回出てきます。2枚組 CD は、

  CD1 EX.1 ~  EX.103
  CD2 EX.104 ~  EX.193

という構成です。YouTubeに公開されている音源は、

  Part1 EX.1 ~  EX.78
  Part2 EX.79 ~  EX.167
  Part3 EX.168 ~  EX.193

です(2019.4.26 現在)。また以下の対訳は「"ニーベルングの指環" 入門」(1)~(5)の5回に分ける予定なので、

  (1) EX.1 ~  EX.38
  (2) EX.39 ~  EX.79
  (3) EX.80 ~  EX.114
  (4) EX.115 ~  EX.161
  (5) EX.162 ~  EX.193

となります。


以下の「"ニーベルングの指環" 入門」(1)では、序論に続いて、EX.1EX.38 のモティーフが解説されます。まず《自然》のモティーフのファミリー、次に《自然》から派生した《剣》と《黄金》のモティーフ、さらにそこから展開される一連のモティーフの説明です。いわば《自然》のモティーフの "大ファミリー" の解説です。



CD1-Track01


Of all great musical compositions, Der Ring des Niebelungen is by far the largest. A consecutive performance of its four separate parts would last for some 15 hours. To confer unity on this vast scheme, Wagner built his score out of a number of recurrent themes, each one associated with some element in the drama and developed in conjunction with that element throughout the work.

すべての偉大な音楽作品の中でも『ニーベルングの指環』は突出して大規模なものです。4部作を連続して演奏するとしたら15時間程度はかかるでしょう。この巨大な体系に統一感を与えるため、ワーグナーは何度も現れる一連の旋律を用いてスコアを構築しました。それぞれの旋律はドラマの何らかの要素と関連づけられ、要素と結びつきながら作品全体の中で発展していきます。

These themes or Leading Motives, as they've come to be called, are not mere identification tags, nor is the score a simple patchwork made up by introducing each motive at the appropriate point in the stage action. Wagner's own description of his themes was "melodic moments of feeling". And writing about his intentions beforehand, he said these melodic moments will be made by the orchestra into a kind of emotional guide throughout the labyrinthine structure of the drama. Wagner's motives have in reality a fundamentally psychological significance, and his score is a continuous symphonic development of them, reflecting the continuous psychological development of the stage action.

このような旋律を "示導動機" と呼ぶようになりましたが、この動機(モティーフ)は単なる識別用の印ではありません。また、舞台演技の適切な時点にそれぞれモティーフを割り当てて単純なパッチワークのスコアを作ったのでもありません。ワーグナー自身によると、これらの旋律は感情の旋律的な表現です。そして彼はその意図について、オーケストラによるこれらの旋律的表現がドラマの迷宮構造の情緒的なガイドになるだろう、とも書きしるしています。事実、ワーグナーのモティーフは基本的に心理的な意味を持っています。そしてスコアは、モティーフを絶えずシンフォニックに発展させて作られています。それは、舞台演技が絶えず心理的に発展することを反映しています。

In consequence, a comprehensive analysis of The Ring would be an enormous task. It would involve clarifying the psychological implications of all the motives and tracing their changing significance throughout the whole of the long and complex development. Nevertheless, understanding and enjoyment of the work can be greatly helped by simply establishing the identity of all the really important motives, and indicating what immediate dramatic symbols that stand for, which is all of this introduction is intended to do.

The motives are associated with four different types of dramatic symbol : characters, objects, events and emotions. An example of a motive representing a character is the stern fanfare which introduces Hunding in Act 1 of Die Walkure.

その結果、『指環』の全体像を分析するとなると膨大な仕事になります。そのためには、全てのモティーフの心理的な含意を明らかにし、長大で複雑な進行においてその意味がどう変わっていくかを追跡することになるでしょう。しかしながら、真に重要なモティーフだけを識別し、それが直接的に示しているドラマのシンボルを指摘するだけでも、この作品を理解し味わうための大きな助けとなります。この "手引き" が意図したすべてがそれです。

モティーフは4つの異なったタイプのドラマのシンボルと関連づけられています。人物、モノ、出来事、そして感情です。人物を表現するモティーフの例は『ワルキューレ』の第1幕において《フンディング》を表す厳粛なファンファーレです(訳注:第2場 冒頭)

 EX.1: 《フンディング》 

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An example of a motive representing an object is the genial theme associated with Freia's Golden Apples. This is introduced in Scene 2 of Das Rheingold. It's sung by Fafner as he explains the value of the Apples to Fasolt.

モノを表すモティーフの例は、フライアの《金の林檎》に関連づけられた優雅な旋律です。これは『ラインの黄金』の第2場で導入され、ファフナーがファゾルトに林檎の価値を説明するときに歌います。

 EX.2: 《金の林檎》 

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An example of a motive representing an event is the brief agitated figure on the woodwind which follows Alberich's Threat of violence against the Rhinemaidens in Scene 1 of Rheingold.

出来事を表すモティーフの例は『ラインの黄金』の第1場においてアルベリヒがラインの乙女を暴力で《威嚇》する時に木管楽器で演奏される、短い切迫した音符です。

 EX.3: 《アルベリヒの威嚇》 

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An example of a motive representing an emotion is the furious repeated figure on the orchestra which portrays Siegfried's Anger during Act 1 of Siegfried.

感情を表すモティーフの例は『ジークフリート』の第1幕においてオーケストラが激しく繰り返す音符で、《ジークフリートの怒り》を描写しています(訳注:第1場)。

 EX.4: 《ジークフリートの怒り》 

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These examples are only four of the almost innumerable motives in The Ring. But at the heart of this diversity there is a simple unity, practically all the motives arise from a few basic motives. Each of these basic motives represents one of the central symbols of the drama, and it generates a number of other motives by a process of Transformation to represent various aspects of the central symbol concerned.

And so we can thread our way through the jungle of motives in The Ring by grouping them into their different families. We can start from each basic motive in turn and trace the family of motives it generates throughout The Ring before continuing with the next basic motive.

これらの例は『指環』のほとんど数え切れないモティーフの、ほんの4つの例に過ぎません。しかしモティーフの多様性の根幹のところには、ある単純な統一性があります。つまり、実質的に全てのモティーフが数個の基本モティーフから生起していることです。基本モティーフのそれぞれはドラマの中心的シンボルの一つを表し、変形のプロセスで他の数多くのモティーフを作り出します。それによりモティーフに関連づけられた中心的シンボルのさまざまな側面を表すのです。

従って、モティーフを異なったファミリーに分類することで『指環』の "モティーフのジャングル" に分け入ることができます。そこで、一つの基本モティーフから出発し、そこから作られるファミリーを『指環』の全体を通して追跡することにします。それが終われば、次の基本モティーフというように繰り返します。


CD1-Track02


The fundamental symbol in The Ring is the World of Nature, from which everything arises, into which everything returns. And Wagner's basic motives for this ultimate source of existence is that fundamental element in music, the major chord. This chord, spread out melodically as a rising major arpeggio by the horns, forms the mysterious Nature motive which opens the whole work.

『指環』における最も基礎的なシンボルは "自然界" です。全てがそこから生まれ、全てがそこに帰っていく。そしてワーグナーは、この究極の "存在の根源" の基本モティーフとして、音楽の基本要素である長和音を当てました。この和音はホルンによる長調の上昇アルぺジオのメロディーとして広がり、神秘的な《自然》のモティーフを形作ります。これが作品全体の開始です。

 EX.5: 《自然》のモティーフ(原形) 

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This is the Original Form of the Nature motive. It soon undergoes a simple melodic transformation into a peacefully undulating string theme, and the result is what may be called the Definitive Form of the Nature motive, since this is the form in which it will recur throughout the whole work.

これが《自然》のモティーフの原形です。すぐにこれはシンプルなメロディーの変形が加えられ、穏やかにうねる弦の旋律になります。これが《自然》のモティーフの確定形と呼べるでしょう。なぜなら、この形が作品全体で再現するからです。

 EX.6: 《自然》のモティーフ(確定形) 

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The next transformation is that this definitive form of the Nature motive simply begins to move at twice the speed and in so doing it comes a new motive, the surging motive of the River Rhine.

《自然》の確定形の次の変形は、シンプルに2倍の速さへの移行で始まります。こうすることで新しいモティーフになります。波打つような《ライン河》のモティーフです。

 EX.7: 《ライン河》 

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Tracing further the family of motive generated by the basic Nature motive, we must pass on now to Scene 4 of Rheingold for the next transformation, Here the Nature motive by turning from major to minor, and from a flowing 6/8 to a slow 4/4 time, becomes the dark motive of Erda, the Earth Goddess.

《自然》の基本モティーフから生成されるファミリーをさらに追っていくと、『ラインの黄金』の第4場まで行って次の変形が出てきます。ここで《自然》のモティーフは長調から短調に変わり、また流れるような8分の6拍子からゆっくりとした4分の4拍子に変わって、大地の女神《エルダ》の暗いモティーフになります。

 EX.8: 《エルダ》 

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So far the transformations of the Nature motive have been simple ones, but the next is more radical. The motive turns upside down implying its own opposite. When Erda begins to warn Wotan of the end in store for the Gods, the orchestra accompanies her with her own motive, itself a simple transformation of the Nature motive as we have heard.

But as she comes to the point, the orchestra changes her rising motive into a falling one. The motive of life and growth becomes the motive of decay and death. Here's the whole passage. The orchestra has two statements of Erda's rising motive followed by its inversion, the falling motive of the Twilight of the Gods.

ここまでの《自然》の変形はシンプルなものでしたが、次はもっと大胆です。モティーフは上昇が下降になって反対の意味を暗示します。エルダが神々に降りかかる終末をヴォータンに警告するとき、オーケストラは彼女のモティーフを伴奏しますが、それ自身は今まで聴いた《自然》のシンプルな変形です。

しかし肝心な所にくると、オーケストラは上昇するモティーフを下降するモティーフに変えてしまいます。生命と成長のモティーフが、衰退と死のモティーフになるのです。次がそのパッセージで、オーケストラは2つを提示しています。上昇するエルダのモティーフと、それに続く反転形、下降する《神々の黄昏》のモティーフです。

 EX.9: 《エルダ》 / 《神々の黄昏》 

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The strings accompany Erda's voice very softly here, only hinting the Gods' mortality. We can hear what happens more clearly if we have the acompaniment played the orchestra alone. First the rising Erda motive and then immediately its inversion, the falling motive of the Twilight of the Gods.

ここでエルダの歌唱を伴奏する弦楽器は非常にやさしく、神々が死ぬ運命であることを暗示しています。オーケストラの伴奏だけを取り出して聴くと、何か起こっているかがもっと明確に聴き取れます。最初に上昇する《エルダ》のモティーフ、すぐに続くのがその反転形、下降する《神々の黄昏》のモティーフです。

 EX.10: 《エルダ》 / 《神々の黄昏》 

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This mysterious falling, fading motive, like so many of the others, recurs at many points in The Ring. Naturally, it permeates the final part of the work, The Twilight of the Gods or Gotterdammerung. And inevitably it introduces the final scene when Brunnhilde steps forward to perform the decisive actions that bring about the end of the Gods.

この神秘的で、下降して消えるモティーフは、他のモティーフと同様に『指環』の多くのところで再現します。当然、最後の作品である『神々の黄昏』にも出現します。そして最終場面、ブリュンヒルデが神々の終末をもたらす決定的な行動をとる場面は、必然的にこのモティーフで始まります。

 EX.11: 『神々の黄昏』の 《神々の黄昏》 

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CD1-Track03


Returning now to the Nature motive and its further transformations. After Erda on her warning in Rheingold, we have to wait until Act 1 of Siegfried for the next transformation, another simple one. This occurs when Wotan speaks to Mime of the all powerful Spear that he cut from the World's Great Ash Tree, the Tree of Life, guarded by Erda's daughters, the Norns. The orchestra acompanies his words with a new rhythmic variant of the Nature motive in the minor and in 3/4 time. Here first, the reminder is the Nature motive again.

《自然》のモティーフとその変形に戻りましょう。『ラインの黄金』においてエルダが警告を発したあと、次の変形は『ジークフリート』の第1幕まで待たねばなりません。それはもう一つのシンプルな変形で、ヴォータンがミーメに槍について話すときに出てきます。この槍は、エルダの娘であるノルンたちが守っている生命の木、世界のトネリコの樹から切り出したもので、万能の力を持っています。ヴォータンが話すとき、オーケストラは《自然》の新しい変奏、短調で4分の3拍子の変奏で伴奏します。まずリマインドのために、もう一度《自然》のモティーフです。

 《自然》のモティーフ(確定形): EX.6 

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And here's the swaying motive of the World Ash Tree as it's introduced to accompany Wotan in Act 1 of Siegfried. Listen to the orchestra.

そして『ジークフリート』の第1幕でヴォータンの伴奏に導入される揺れ動くモティーフ、《世界のトネリコの樹》が次です(訳注:第2場)。オーケストラのところを聴いてください。

 EX.12: 《世界のトネリコの樹》 

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This World Ash motive, which has a close kinship with Erda's motive, recurs in The Twilight of the Gods in conjunction with Wotan's cutting down of the Tree of Life to provide fuel to burn Valhalla. It permeates the scene of the Norns, Erda's daughters, who are bewilded by this fatal act of Wotan's.

この《世界のトネリコの樹》のモティーフは《エルダ》のモティーフと血縁関係にあり、『神々の黄昏』においては、ヴォータンがヴァルハラを焼く燃料にするために生命の樹を切り倒すことに関連して再現します。エルダの娘たちであるノルンが、ヴォータンの致命的行為に当惑するシーンに出現します。

訳注:  EX.13は『神々の黄昏』の序幕でオーケストラ前奏が終わった直後に入ってくるノルンたちの歌唱のところ。

 EX.13: 『神々の黄昏』の 《世界のトネリコの樹》 

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After the introduction of this World Ash motive in Act 1 of Siegfried, the next transformation of the Nature motive ocurs in the Second Act, where Siegfried is in the forest. Wagner takes a very slow, dark, minor version of it, akin to Erda's motive, and he superimposes on this slowly oscillating string figuration. The result is what may be called the Embryonic version of the motive of the Forest Murmurs.

『ジークフリート』第1幕で《世界のトネリコの樹》が導入されたあとで、次の《自然》のモティーフの変形は第2幕に出てきます(訳注:第2場)。ここでジークフリートは森にいます。ワーグナーは《エルダ》に似た、非常にゆっくりとした暗い短調のモティーフを採用し、そこにゆっくりと揺れ動く弦の音符を重ねています。その結果は《森の囁き》のモティーフの萌芽形と呼べるものになります。

 EX.14: 《森の囁き》 萌芽形 

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This embryonic version of the Forest Murmurs motive soon begins developing the oscillating figure freely without regard to the original Nature motive basis.

この《森の囁き》の萌芽形は、すぐに揺れ動く音形に発展します。オリジナルの《自然》を離れた自由な展開です。

 EX.15: 《森の囁き》 中間形 

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Out of this development by a process of increasing the speed of the oscillation in 6/8 time, Wagner eventually evolves the definitive shimmering major form of the Forest Murmurs motive, the one that has to be used entirely from here onward.

ワーグナーはこの展開を進め、8分の6拍子にして動きの速度を上げることで、長調のきらめくような《森の囁き》の確定形へと徐々に進化させます。これ以降は、すべてこの形が使われます。

訳注:  デリック・クックは8分の6拍子と言っているが、EX.16の譜例でも明らかなように、8分の9拍子が正しい。

 EX.16: 《森の囁き》 確定形 

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CD1-Track04


A number of further motives in the Nature family are evolved not from the definitive form of the Nature motive with which we've been concerned so far, but from its original form, the rising major arpeggio on the horns which opens The Ring and with which we started. These further motives are free transformations of the original Nature motive in that they themselves are forms of the rising major arpeggio. First, a reminder of the original Nature motive.

《自然》のファミリーに属するモティーフは、これまで見てきた《自然》の確定形から進化したものばかりではなく、《自然》の原形から進化したものもあります。つまり、この解説をスタートした『指環』の開始を告げるホルンの長調の上昇アルペジオから進化したものです。それらのモティーフは《自然》の原形の自由な変形であり、それ自体が長調の上昇アルペジオになっています。まず、リマインドのために《自然》のモティーフの原形です。

 《自然》のモティーフの原形: EX.5 

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The first free transformation of this original Nature motive is the important motive of the Gold which is introduced by the horns in Scene 1 of Rheingold.

《自然》の原形の自由な変形の最初は、《黄金》という重要なモティーフです。『ラインの黄金』の第1場でホルンによって示されます。

 EX.17: 《黄金》 

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The next free translation of the original Nature motive is the bold motive of Donner. He himself sings this as he calls up the storm in Scene 4 of Rheingold and he's echoed by the horns.

《自然》の原形の自由な変形の次は、力強い《ドンナー》のモティーフです。『ラインの黄金』の第4場においてドンナーが嵐を呼ぶときに彼自身が歌い、ホルンがそれを反復します。

 EX.18: 《ドンナー》 

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The third transformation of the original Nature motive is the rising and falling arpeggio of the theme representing the Rainbow Bridge again in Scene 4 of Rheingold, though this is hardly a motive in the strict sense since it never appears again.

《自然》の原形の自由な変形の3番目は、再び『ラインの黄金』の第4場のもので、《虹の橋》を表現する上昇して下降するアルペジオの旋律です。ただしこれは再び現れることがないので、厳密な意味でのモティーフとは言えません。

 EX.19: 《虹の橋》 

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A further transformation of the original Nature motive is the heroic trumpet motive of the Sword which is also introduced in Scene 4 of Rheingold. This major arpeggio is almost identical in shape with the arpeggio of the original Nature motive as we can hear clearly by comparing them in the same key. Here's the original Nature motive as it recurs for the only time near the beginning of Act 3 of The Twilight of the Gods.

さらに《自然》の原形の自由な変形があります。『ラインの黄金』の第4場に登場する勇ましいトランペットのモティーフ、《つるぎ》です。この長調のアルペジオは、その形が《自然》のモティーフの原形とほとんど同じです。2つを同じ調で比較して聴けるのでよくわかります。次は『神々の黄昏』の第3幕の冒頭で1回だけ再現する《自然》の原形です。

 EX.20: 『神々の黄昏』における 《自然》の原形 

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And here's the motive of the Sword as it recurs in Act 3 of Siegfried when Siegfried uses the Sword to cut away the steel breastplate from the sleeping Brunnhilde.

そして次が『ジークフリート』の第3幕で再現するときの《剣》のモティーフです(訳注:第3場)。ジークフリートが、眠っているブリュンヒルデの鋼鉄の胸当てを切断してしまうときに剣が使われます。

 EX.21: 《剣》 

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This completes the family of motives evolved from the Nature motive, either from its definitive flowing form or from its original arpeggio form.

これで、流れるような《自然》の確定形と、アルペジオの《自然》の原形から発展したモティーフのファミリーの説明を終わります。


CD1-Track05


A second much smaller family is closely associated with this, the pentatonic family of the Voices of Nature. The first vocal utterance in The Ring is the Voice of Nature that of the first Rhinemaiden, Woglinde. And her falling and rising pentatonic theme is the motive which is to be associated with the Rhinemaidens.

第2の、かなり小さなファミリーは《自然》のモティーフと密接な関係があります。5音音階の「自然の声」のファミリーです。『指環』で最初に現れる発声は「自然の声」であり、第1のラインの乙女・ヴォークリンデのものです。彼女の下降し上昇する5音音階の旋律は、ラインの乙女に関連したモティーフです。

 EX.22: 《ラインの乙女》 

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This Rhinemaidens' motive is slightly transformed and speed it up to produce the motive of the Woodbird in Act 2 of Siegfried. The Woodbird is evidently the first cousin to the Rhinemaidens.

《ラインの乙女》のモティーフは、『ジークフリート』の第2幕において少し変形され、テンポをあげて《森の小鳥》のモティーフを作り出します。《森の小鳥》は明らかに《ラインの乙女》の第1の親族です(訳注:EX.23 は第2幕 第3場)。

 EX.23: 《森の小鳥》 

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The Woodbird, unlike the Rhinemaidens, isn't represented by a single motive but by several other figures as well, each having the character that bird call. The most important of these is a phrase which is particularly associated with the woodbird's message to Siegfried about the sleeping Brunnhilde.

《森の小鳥》は《ラインの乙女》と違って単一のモティーフで表されるのではなく、数個の音形があって、それぞれが小鳥の鳴き声の特徴をもっています。その中で一番重要なのは、眠っているブリュンヒルデについてのジークフリートへのメッセージに結びついたものです。

 EX.24: 《森の小鳥》のセグメント 

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One other motive belongs to this small family, that of the Sleeping Brunnhilde in Act 3 of Walkure. Brunnhilde, in her magic sleep, may not be a Voice of Nature, but she's a latent inspiring force of Nature. And this motive of the Sleeping Brunnhilde is a rhythmic variant of the opening five notes of the motives of the Rhinemaidens and the Woodbird. Here's a reminder of the beginning of the Rhinemaidens' motive.

この小さなファミリーに属するもう一つのモティーフは、『ワルキューレ』第3幕での《眠るブリュンヒルデ》です。"魔の眠り" にあるブリュンヒルデは「自然の声」ではないかもしれませんが、彼女は潜在的に自然の鼓舞する力をもっています。そして《眠るブリュンヒルデ》のモティーフは、《ラインの乙女》と《森の小鳥》の最初の5つの音符のリズムを変奏したものです。リマインドのために《ラインの乙女》の最初の部分を聴いてみましょう。

 《ラインの乙女》のセグメント: EX.22 

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And here is a rhythmic variant of the first five notes of that motive which is the motive of the Sleeping Brunnhilde.

そして次のモティーフが、《ラインの乙女》の最初の5つの音符のリズムを変奏した《眠るブリュンヒルデ》です(訳注:ワルキューレ』第3幕 第3場)。

 EX.25: 《眠るブリュンヒルデ》 

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CD1-Track06


So much for Nature. Standing out against this background of Nature are the human actions that constitute the drama, and the intentions behind the various types of action are represented on the stage by several central symbols, Alberich's Ring, Wotan's Spear, Siegfried's Sword, and so on.

But prior to all these is the Gold, from which Alberich makes the Ring that sets the whole drama in motion. In itself, it's merely a symbol of mysterious potentialities lying dormant in Nature. And as we've heard, its motive belongs to the family of the Nature motive. But the various effects of the realization of the potentialities of the Gold are represented by a different family of motives.

And the basic motive here which generates the rest is the salient musical idea of the joyful major key trio sung by the Rhinemaidens in Scene 1 of Rheingold. The song in which they celebrate the glory of the Gold in its natural setting. This is their cry "Rhinegold! Rhinegold! Heiajaheia! Heiajaheia!".

《自然》についてはここまでです。この "自然" を背景とすることで、ドラマを構成する人物の演技が際立つことになります。そして、さまざまなタイプの演技の背後にある意図は、舞台においていくつかのシンボルで表現されます。アルベリヒの指環、ヴォータンの槍、ジークフリートの剣、などです。

しかしそれら全てに優先するのが "黄金" であり、アルベリヒはそこから "指環" を作り、それがドラマ全体に動きをもたらしたのでした。黄金それ自体は自然の中に眠る "神秘的な潜在力" のシンボルに過ぎません。そして既に聴いたように《黄金》のモティーフは《自然》のモティーフのファミリーに属しています(訳注:EX.17)。しかし黄金の潜在力が具現化することによるさまざまな効果は、別のモティーフのファミリーで表現されます。

そして他のモティーフを生み出す基本的モティーフが、『ラインの黄金』第1場でラインの乙女によって歌われる楽しげな長調の3重唱で、これは目立つ楽想をもっています。この歌では自然のままの黄金の輝きが讃えられます。これが「ラインの黄金! ラインの黄金! ハイアヤ・ハイア! ハイアヤ・ハイア!」という叫びです。

 EX.26: 《ラインの乙女の黄金の喜び》 

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Before we trace the many transformations of this motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold, we should notice that it will recur several times in something like this original form. Near the end of Rheingold, it's harmonically modified and melodically developed to form Rhinemaidens' Lament for the Gold after it has been stolen from them.

《ラインの乙女の黄金の喜び》のさまざまな変形を追いかける前に、このモティーフがほぼオリジナルの形で何回か現れることに注意しましょう。『ラインの黄金』の終わり近く、このモティーフは和声を変え、メロディーを変化させて、黄金が盗まれたことを嘆く《ラインの乙女の嘆き》になります。

 EX.27: 《ラインの乙女の嘆き》 

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In this version, the motive recurs again several times. In Act 2 of Siegfried for example, it enters on the horns when Siegfried comes out of Fafner's cave, holding the Ring and staring at it wondering what use can be to him. The horns remind us that it belongs ultimately to Rhinemaidens. We pick up the music at Alberich's final remark and exit.

この形のモティーフは何回か再現します。例えば『ジークフリート』の第2幕において、ジークフリートが指環を持ってファフナーの洞窟から出て来るとき、ホルンに現れます。ジークフリートは指環を見つめ、それをどう使おうかと思案しています。このホルンは、指環が最終的にラインの乙女に帰属することを思い起こさせます。アルベリヒの最後のせりふから退場までの音楽を取り上げてみます(訳注:第2幕 第3場。EX.23 の直前)。

 EX.28: 『ジークフリート』における 《ラインの乙女の嘆き》 

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These are simple recurrences of the basic motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold, but the two main segments of the motive continually transformed into new motives, representing the unhappy results of the realization of the Gold's potentialities. We may start with the second of these segments, the cry of "Heiajaheia!".

これらは、基本モティーフである《ラインの乙女の黄金の喜び》のシンプルな再現でした。しかし、このモティーフの2つの主要なセグメントは絶えず変形され、新しいモティーフになります。それは黄金の潜在力の不幸な実現を表します。まず第2のセグメントである「ハイアヤ・ハイア!」の叫びからみてみましょう。

 EX.29: 《ハイアヤ・ハイア》 

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In Scene 2 of Rheingold, Loge sings a dark minor version of this when he describes how the Rhinemaidens complained to him of Alberich's theft of the Gold.

『ラインの黄金』の第2場において、ローゲはこのモティーフを暗い短調の形で歌います。ラインの乙女がアルベリヒに黄金を盗まれたことを訴えた様子を、ローゲが説明するシーンです。

 EX.30: 《ハイアヤ・ハイア》 ローゲ版 

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This already begins to sound a little like the Nibelungs' motive in the next Scene. And Loge takes the transformation a step further when he repeats the music we've just heard to describe how the Nibelungs are already working on the Gold.

これは既に、次の場における《ニーベルング族》のモティーフに似た響きがします。そしてローゲが今聴いたモティーフを繰り返すとき、変形をさらに進めて、ニーベルング族が既に黄金に関した仕事をしていることを説明します。

 EX.31: 《ハイアヤ・ハイア》が 《ニーベルング族》に変化 

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Loge's embryonic version of the Nibelungs motive becomes reality in the orchestral interlude leading to the next Scene. Here the actual motive of Nibelungs emerges in the definitive form in conjunction with the sound of their hammering.

ローゲによる《ニーベルング族》の萌芽形は、次の場に続くオーケストラの間奏曲で具現化します。ここで実際に《ニーベルング族》のモティーフは確定形へと発展します。ニーベルング族のハンマーの音が一緒になっています。

 EX.32: 《ニーベルング族》 

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So the Rhinemaidens' Joy in the potentiality of the Gold has been transformed into the Nibelungs' misery in working on the Gold, musically as well as dramatically.

And the complete basic motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold is transformed in a similar way to produce another new motive. Again, Loge is the agent of this tranformation in Scene 2 of Rheingold. His dark, minor version of the Heiajaheia segment, in his account of the Rhinemaidens' complaint, is actually acompanied by the complete motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold. Here's a reminder of that motive.

このように、ラインの乙女が黄金の潜在力を喜ぶモティーフは、黄金を加工するニーベルング族の苦難へと変形しました。音楽的にも、ドラマとしてもです。

さらに同様にして《ラインの乙女の黄金の喜び》という基本モティーフは別のモティーフに変形されます。『ラインの黄金』の第2場でローゲが再びこの変形を担当します。ローゲ版《ハイアヤ・ハイア》のセグメントは、ライン乙女の訴えを反映した暗い短調ですが、実際は《ラインの乙女の黄金の喜び》のモティーフの完全な形を伴っています。次はその基本モティーフのリマインドです。

 《ラインの乙女の黄金の喜び》: EX.26 

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And here, played by the orchestra alone, is the accompaniment to Loge's account of the complaint of the Rhinemaidens.

そして次がオーケストラだけの演奏による、ラインの乙女の訴えを語るローゲの伴奏です。

 EX.33: 《ラインの乙女の黄金の喜び》 ローゲ版 

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This minor version of the Rhinemaidens' Joy in the Gold is further slowed down and transformed harmonically to produce the baleful motive of the Power of the Ring. This enters in Scene 3 and 4 of Rheingold when Alberich uses the Ring to compel Niebelungs to do his will.

この《ラインの乙女の黄金の喜び》の短調の形は、さらにゆっくりになり、和声が変形されて、不吉な《指環の力》のモティーフになります。これは『ラインの黄金』の第3場と第4場において、アルベリヒがニーベルング族に彼の意志を強要するために指環を使うときに出てきます。

 EX.34: 《指環の力》 

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Here, the Rhinemaidens' Joy in the Gold has become Alberich's sadistic pleasure in wielding all powerful Ring he has made from the Gold.

One further motive is generated by the basic motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold and this too is associated with the unhappy results of the exploitation of the Gold. Here the starting point is the first segments of the motive, the cry of "Rheingold !" which we'll hear again as a reminder.

ここに至って《ラインの乙女の黄金の喜び》のモティーフは、黄金で作られた全能の "指環" を振りかざすアルベリヒのサディスティックな喜びへと変化してしまいました。

《ラインの乙女の黄金の喜び》という基本モティーフから作り出されるもう一つのモティーフも、黄金の利己的利用の不幸な結果に関係しています。出発点は《ラインの乙女の黄金の喜び》の最初のセグメントである "ラインの黄金!" という叫びです。リマインドとして再度聴いてみましょう。

 EX.35: 《ラインの黄金》 

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A dark minor key version of this repeated phrase is associated with the Servitude of the Niebelungs in Scene 3 of Rheingold.

この繰り返されるフレーズを暗い短調にした形は『ラインの黄金』第3場でニーベルング族の《苦役》に関係づけられます。

 EX.36: 《苦役》 

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This time, the Rhinemaidens' joy in the potentiality of the Gold has become the Niebelungs' enslavement to the Ring that has been made from the Gold. Later, this Servitude motive settles down to more limping form, particularly associated with Mime in Act 1 of Siegfried.

今度は、ラインの乙女が黄金の潜在力を喜ぶモティーフが、黄金から作られた指環に隷属するニーベルング族の表現になりました。この《苦役》はのちに、もっとびっこをひくような形になり、特に『ジークフリート』の第1幕でミーメに関連づけられます(訳注:第1場)。

 EX.37: 《苦役》 ミーメ版 

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In Gotterdammerung, this Servitude motive attaches itself to Hagen who is himself enslaved to the power of the Ring through his desire to get possession of it. Here the motive takes the form of his fierce rallying call to the vassals in Act 2 of Gotterdammerung.

『神々の黄昏』において《苦役》のモティーフはハーゲンに割り当てられます。ハーゲンは指環を所有したいという欲望によって、指環の力の奴隷になっているからです。『神々の黄昏』の第2幕でハーゲンが家臣を集めて激しく呼びかけるときの形が次です(訳注:第3場)。

 EX.38: 《ハイホー》 

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Here we come to the end of the dark family of motives generated by the bright basic motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold.

明るい基本モティーフである《ラインの乙女の黄金の喜び》から生成された暗いモティーフのファミリーは、これで終わりです。



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No.256 - 絵画の中の光と影 [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で、三浦佳世氏の同名の本(岩波書店 2018)の "さわり" を紹介しました。その三浦氏が、2019年3月の日本経済新聞の最終面で「絵画の中の光と影 十選」と題するエッセイを連載されていました。日経の本紙なので読まれた方も多いと思いますが、「視覚心理学が明かす名画の秘密」の続編というか、補足のような内容だったので、是非、ここでその一部を紹介したいと思います。


左上からの光


「視覚心理学が明かす名画の秘密」であったように、フェルメールの室内画のほぼすべては左上からの光で描かれています。それは何もフェルメールだけでなく、西洋画の多くが左上からの光、それも30度から60度の光で描かれているのです。その理由について No.243 であげたのは次の点でした。

画家の多くは右利きのため、窓を左にしてイーゼルを立てる。描く手元が暗くならないためである。

そもそも人間にとっては左上からの光が自然である。影による凹凸判断も、真上からの光より左上30度から60度からの光のときが一番鋭敏である。

三浦氏の「絵画の中の光と影 十選」には、この前者の理由である「画家は窓を左にしてイーゼルを立てる」ことが、フェルメール自身の絵の引用で説明されていました。ウィーン美術史美術館にある『画家のアトリエ(絵画芸術)』という作品です。

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ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
画家のアトリエ」(1632-1675)
(ウィーン美術史美術館)

なるほど、これはそのものズバリの絵です。この絵において画家はマールスティック(腕鎮わんちん)の上に右手を乗せ、左上からの光でモデルの女性を描いています。現代ならともかく、照明が発達していない時代では描くときの採光が大きな問題だったと推察されます。そして、三浦氏は次のようにも書いています。


もっとも、画中の人物は右側からの光のもとで、牛乳を注ぎ、真珠をかざし、手紙を書いているのだ。右利きなら不自由なことだろう。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.4)

この文章を読んでハッとしました。No.243 にも掲載したフェルメールの「手紙を書く女と召使い」という絵を思い出したからです。

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フェルメール
手紙を書く女と召使い」(1670/71)
(アイルランド国立美術館)

2度も盗難にあったという有名な絵ですが、前々からこの絵にはある種の違和感というか、"ぎこちなさ" を薄々感じていました。この感じは何なんだろうと思っていたのですが、この絵は実は "不自然" なのです。女性がわざわざ手元を暗くして手紙を書いているからです。普通なら、座る向きを全く逆にして(ないしは窓に向かう位置で)手紙を書くでしょう。その方が明らかに書きやすい。三浦氏の文章で初めて、薄々感じていた "ぎこちなさ" の理由が分かりました。


教室の採光


「視覚心理学が明かす名画の秘密」に、学校の教室は左側に窓があり右側に廊下がある、これは多数を占める右利きの子供の手元が影にならないようにするためだろう、という話が書いてありました。この話について「絵画の中の光と影 十選」では次のようにありました。


日本でも、右利きの子供の手元が影にならないように、明治時代に『学校建築図説明及設計大要』が定められて以来、教室には左から光が入るようになっている。私たちも左上からの光に慣れているのだ。そのためフェルメールの光の方向は自然に感じられる。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.4)

「視覚心理学が明かす名画の秘密」には書いてなかったのですが、「教室の左からの採光」は明治時代からの政府方針で決まったいたのですね。これは初めて知りました。


右上からの光:レンブラント


左上からの光が自然だとすると、右上からの光は "自然ではない" ということになります。この "自然ではない光" を「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、カラヴァッジョの『マタイの召命』と、キリコの『街の神秘と憂鬱』を例にとって説明してありました(No.243)。今回の「絵画の中の光と影 十選」で示されたのはレンブラントです。

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レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)
ベルシャザルの酒宴」(1636-38)
(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)


この絵は旧約聖書の一場面を描いたものだそうだ。ベルシャザル王がエルサレムから略奪した器で酒を飲んでいると、虚空に右手が現れ、文字を描いた。不安にかられた王が捕囚の賢者ダニエルに意味を問うと、王の統治は長くないことが告げられ、その夜、彼は殺されたという。

フェルメールが穏やかな日々を左上からの光で描いたのに対し、レンブラントは穏やかならざる劇的な場面を右上からの光で描いた。

もっとも、キリスト教では左より右に価値が置かれ、神の右手がその働きを表すとされるので、画面右上に神の右手を描いたのだと解釈することもできる。しかし、そうだとしても、尋常ならざる強い光に慌てふためく人々の姿は、見慣れない右からの光に無意識に驚く私たちと重なるのかもしれない。そうだとすれば、右からの光はこの場面にぴったりだ。

光と影の画家レンブラントは効果的な構図を熟知していたに違いない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.5)

右上からの光が "尋常ならざる光" を表すとしたら、まさにこの絵はぴったりだと言えます。


右上からの光:応為


日本においても江戸後期になると西洋絵画の影響を受け、光と影の表現を用いる画家が出てきました。次の絵は北斎の三女の応為が描いた吉原の夜の光景です。明るい遊郭の遊女と、対比的に描かれる戸外の男たちの暗い背中、行灯あんどんの光も含めて、光と影が交錯する構図が大変に印象的です。

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葛飾応為(1800頃-1866頃)
吉原格子先の図」(1818-48)
(太田記念美術館)


江戸後期に活躍した応為は西洋美術に触れ、陰影表現に心動かされたのだろう。格子や人が地面に落とす投映影と、人々の体を立体的に表す付着影を描き分け、平面的な浮世絵とは一風異なる画風を確立している。

西洋の絵画理論に、絵は左下から右上へと読まれるというものがある。そうなると光源を左上に設定するのが、全体を見渡す視点としては効果的だ。一方、日本では絵巻物でも漫画でも右から左へ進むように描かれる。仮にそれらに光源を設定するなら、右上の方が自然だろう。応為も無意識のうちに光源を右に設定し、左に伸びる影を描いたのではないか。

今や私たちの日常生活でも横書きを左から右に読む機会が増えている。そうなると、応為の描いた左に伸びる影は非現実的な印象を与えるかもしれない。遊郭という非日常的な世界を描くにはぴったりの光と影の構図ということになる。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.18)

三浦氏の「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、左へ伸びる影が非現実的な印象を与える例として、キリコの『街の神秘と憂鬱』があげてありました(No.243)。応為とキリコの絵は、文化的背景もテーマも描き方も全く違う絵だけれども「影の描き方と、それが人間の感情に与える効果については似ているところがある」ということでしょう。


下からの光:ドガ


左上からの光が「自然」、右上からの光が「非自然」とすると、下からの光は「まずない」ということになります。しかし、その下からの光で描いた作品があります。

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エドガー・ドガ(1834-1917)
手袋をした歌手」(1878)
(フォッグ美術館)


19世紀の初頭、パリの劇場は社交場でもあった。そのため、観客席もシャンデリアで明るく照らされていたそうだ。だが、ドガがこの絵を描いた頃には、客席を暗くし、舞台を下から照らす演出が現れたという。

この絵の不自然な陰影は、舞台下から光が当たっていることを、一瞬にして私たちに分からせる。だが、視覚判断からすると、これは例外的なケースなのだ。

私たちは陰影の位置をもとに凹凸を判断している。上方から光が当たると、膨らんだ部分は上部が光り、下部に影ができる。このため、脳は上が明るく、下部が暗いものは凸、逆に、上部が暗く、下部が明るいものは凹だと判断する。太陽にせよ、人工照明にせよ、日常光の多くは上方からくるので、この推論でたいていの場合、問題ない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.14)

三浦氏が言っている「通常の上からの光による凹凸判断」が分かるのが次の図です。上の図は一つだけ凹のものがあると即断できます。一方、下の図は一つだけ凸のものがあると私たちは即断します。その下の図は、上の図の上下を反対にしただけです。我々の脳は上から光がくると暗黙に想定しているのです。地球上で生活している限りそれは自然です。

陰影による凹凸判断.jpg


ところが、この推論の前提を簡単にくつがえすケースがある。顔である。顔に限っては、上部が暗く、下部が明るい場合でも、鼻や頬が凹んでいるとは判断せず、下から光が当たっていると、仮説の方をひっくりかえすのだ。例外的とはそういう意味である。

特異な陰影をほどこし、背景を大胆に省略したドガのこの絵は臨場感にあふれ、とてもリアルだ。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.14)

人間が顔を認識するメカニズムは特別で、それは赤ちゃんのころから刷り込まれたものがあるということでしょう。

この絵ように下からの光で描かれた絵は、ほかには思い当たりません。しいて言うと、画面の下の方に置かれた蝋燭やランプだけを光源として人物を描いた場合、構図によっては人物の顔が下からの光で描かれることになります(たとえば、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品など)。しかしこれは鑑賞者に光源が分かります。この絵のように「光源が不明だけれど下からの光だと瞬時に判断できる」というのではない。

その意味でこの絵は、既成概念を破って数々の実験的な構図で描いたドガの面目躍如という感じがします。


投映影と付着影:マグリット


葛飾応為が「投映影」と「付着影」を描き分けたとありましたが、本家本元のヨーロッパでは、この2種類の影そのものをテーマにした絵があります。ルネ・マグリットの作品です。

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ルネ・マグリット(1898-1967)
ユークリッドの散歩道」(1955)
(ミネアポリス美術館)


絵の中央には、影の方向が逆の、2つの円錐えんすいが描かれている。円錐だけを取り出してみると、大きさも形も同一で、鏡像のようだ。だが、私たちはこれらを塔と道として認識する。このとき私たちは塔(立体)の付着影と、道(遠近)の投映影を区別していることになる。脳は円錐の周りの情報を統合して、最もありそうな見方を示すのだ。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.11)

この絵をさらに複雑にしているのは、イーゼルが窓の前にあり、どこまでが景色で、どこまでが絵なのか分からないことです。もちろん、景色も絵もすべてはマグリットが描いた2次元のカンヴァスの中にある。三浦氏は次のように書いています。


目の網膜という平面に映った像から3次元世界を知覚している私たちの日常もこれと似ている。見ている光景は、脳が選んだ見方の1つにすぎない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.11)


色の恒常性:モネの特別な目


「視覚心理学が明かす名画の秘密」には "色の恒常性" ということが書かれていました(No.243)。つまり物体に光が当たると影ができ、色が変化する。しかし、我々の眼はもともとの色を推測して見てしまう。これが "色の恒常性" です。

19世紀、その "色の恒常性" を無視して戸外の風景を描く画家が現れてきました。印象派の画家です。「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、ルノワールの『ブランコ』とモネの『ルーアン大聖堂』が例としてあげられていました。そのモネの『ルーアン大聖堂』が「絵画の中の光と影 十選」の最終回で解説されていました。

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クロード・モネ(1840-1926)
ルーアン大聖堂」(1892)
(ポーラ美術館)


モネはルーアン大聖堂を、さまざまな時刻や天候のもとで描き、33枚もの連作を残した。1枚として同じものはない。

日本にあるこの作品では、上部が夕日で赤く染まり、下部が前の建物の影が映り込んで灰色になっている。だがルーアンでこの建物を見た私たちは、晴れていようが曇っていようが、白い建物にしか見えないはずだ。視覚の性質で、影や陰りは無視するようになっているからだ。モネは特別な目と脳によって建物を異なる色で描き分けた。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.19)

このモネの絵は「絵画の中の光と影 十選」の最終回です。上に引用に続けて三浦氏はシリーズ全体のまとめとして次のように書いています。


優れた絵画は視覚の秘密を明らかにする。秘密に触れると私たちの見方も広がっていく。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.19)

絵画を見るひとつの視点として「視覚心理学」があり、そのことで絵画鑑賞の "幅" が広がるわけです。

画家は "見ることのプロ" です。その "見ること" とは、網膜の映像を解釈する人間の脳の働きです。その意味で、画家は「人間の脳の働きを究明するプロ」とも言えるでしょう。三浦氏の前著とあわせて、そのことがよく理解できるエッセイでした。




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No.255 - フォリー・ベルジェールのバー [アート]

No.155「コートールド・コレクション」で、エドゥアール・マネの傑作『フォリー・ベルジェールのバー』のことを書きました。この作品は、英国・ロンドンにあるコートールド・ギャラリーの代表作、つまりギャラリーの "顔"と言っていい作品です。

最近ですが、中野京子さんが『フォリー・ベルジェールのバー』の評論を含む本を出版されました。これを機会に再度、この絵をとりあげたいと思います。

A Bar at the Folies-Bergere.jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
フォリー・ベルジェールのバー」(1881-2)
(96×130cm)
コートールド・ギャラリー(ロンドン)


マネ最晩年の傑作


まず、中野京子さんの解説で本作を見ていきます。以下の引用で下線は原文にはありません。また漢数字を算用数字に直したところがあります。


『フォリー・ベルジェールのバー』は、エドゥアール・マネ最晩年の大作。画面左端にある酒瓶のラベルに、マネのサイン「Manet」と制作年「1882」が見える。この翌年、彼は51歳の若さで亡くなるのだ。

高級官僚の息子に生まれ、生涯、経済的に不自由せず、生活のため絵を売る必要もなく、生粋きっすいのパリジャン、人好きするダンディーで知られたマネだが、二十代で罹患りかんした梅毒ばいどくが進んで末期症状を迎え、壊死えしした片足を切断したものの、ついに回復できなかった。本作制作中も手足の麻痺まひや痛みに苦しみ、現地でデッサンした後はもはや外出できず、わざわざ自分のアトリエにカウンターをしつらえ、モデルをそこに立たせて描きついだ。少し絵筆を動かしてはソファで休む。その繰り返しだったという。

しかし完成作には脆弱ぜいじゃくさは感じられない。マネらしい力強い筆触と、くっきりしが黒は健在だ。構成もこれまでにない緊張感にあふれ、現実をそのまま写し取ったかに見せかけながら、実は絵画的たくらみに満ち、物語性も内包した玄人くろうと好みの絵になっている。ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』を意識したものであろう。


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コートールド・ギャラリーはロンドンのコヴェント・ガーデンに近い「サマセット・ハウス」という建物の一角にある美術館で、その中に英国の実業家、サミュエル・コートールド(1876-1947)のコレクションが展示されています。こじんまりしたコレクションで、印象派・ポスト印象派の絵画は、わずか2室程度にあるだけです。しかし収集された絵画の質は素晴らしく、傑作が目白押しに並んでいる部屋の光景は壮観です。その中でもひときわ目を引くのが『フォリー・ベルジェールのバー』です。中野さんの説明にあるように、この作品はマネが画家としての力を振り絞って描いた生涯最後の大作です。

上の引用の最後で、少々唐突に「ラス・メニーナスを意識したものであろう」とあるのですが、これについては後で書くことにします。


フォリー・ベルジェール


マネの本作を理解するためには、題名となっている "フォリー・ベルジェール" を知る必要があります。そもそも "フォリー・ベルジェール" とはどんな場所だったのか。中野さんの解説を聞きましょう。


ここはパリのミュージックホール、フォリー・ベルジェール。建物がベルジェール通り近くにあったことからの命名だが、おそらくそれだけはあるまい。「フォリー」(Folies)は「熱狂した、酩酊めいていした」、「ベルジェール」(Bergere)は「やわらかい安楽椅子」の意なので、暗に性的奉仕する女性を想起させるねらいもあったのではないか。

設立は1869年(現存)、さまざまな階級の人々に一夜の刺激を提供する歓楽施設として、またたく間に人気を集めた。豪華な内装、きらめくシャンデリア。演目はオペラレッタやシャンソンなどの歌や演奏、パントマイムや派手なレヴュー、サーカス風の曲芸、見せ物など、実に猥雑わいざつきわまりなかった。現代日本人がイメージする劇場と違い、全客席が舞台に向いているわけでも、全観客の意識が舞台に集中するわけでもない。ボックス席ではきちんとした食事ができたし、立ち見でもバーで買った酒を飲めた。歩き回り、じゃべりまくるもの自由で、ある種の社交場としても利用された。

中野京子「同上」

上の引用のようなフォリー・ベルジェールの状況を知ると、この絵のヒロインであるスタンドバーの売り子嬢の "意味" も理解できるようになります。

実は文豪のモーパッサン(1850-1893)は、マネと同様にフォリー・ベルジェールを熟知していました(ちなみに彼も梅毒が原因で42歳で死去)。モーパッサンはマネの死の2年後(1885)に長編小説『ベラミ』を刊行しました。野心的な貧しい若者が金持ちの女性を利用してのし上がってゆく物語です。この『ベラミ』にフォリー・ベルジェールが登場し、マネが描いたスタンドバーについても書かれています。


ホールは2層で、上階ボックス席にはもっと上流人士たちが座っていた(引用注:1階は中産階級の客が多かった)。どちらにも内部をぐるりとめぐる回廊かいろうがあり、1階の大回廊には3つのスタンドバーが設置されていた。これについてもモーパッサンの容赦ない描写があり、いわく、

  「それぞれのスタンドバーには、厚化粧のくたびれた売り子が陣取り、飲料水と春を売っている。うしろの背の高い鏡に彼女らの背中と通行人の顔が映っている
(モーパッサン『ベラミ』中村佳子訳・角川文庫)

スタンドバーの売り子嬢が提供するのは飲み物だけではない、彼女たちは娼婦とさして変わらない、そう見做みなされていたわけだ。本作におけるマネのヒロインが例外ということはあり得ないだろう。

中野京子「同上」

この絵の構図の特徴は、画面下部に描かれたスタンドバーのカウンターと、その背後の画面のほとんどを占める鏡です。これによってフォリー・ベルジェール内部を活写するというしかけになっています。


カウンターには、オレンジを盛ったガラスの器や薔薇ばらを二輪活けたグラス、富裕層向けの高級シャンパンから、低所得者用の安価なイギリス産ビール(三角のラベルに Bass の文字がかすかに見える)まで、雑多な客層にあわせて取りそろえられている。

ヒロインの腕輪のすぐ下あたりに、金色の太い鏡の額縁がオレンジの器のところまで続いている。モーパッサンが書いていた「うしろの背の高い鏡」がこれだ。つまりここから上に描かれているものはどれも鏡像だ。大理石のカウンターも酒瓶も、2階のバルコニーや、その後ろにひしめく人々も、天井から下がる巨大なシャンデリアも。

ホールは紫煙しえんにけむっている。男も女も(時に子どもまで)盛んに煙草を吸った時代なので、それらに香水やら酒、料理や汗の匂いも入り混じり、よどんだ空気は息苦しいほどだったろう。そこへ楽器の調べや歌声、ダンサーが床を踏みならすステップ音、絶えざるおしゃべり、グラスや食器の触れ合う音まで加わる混沌こんとん状態である。

中野京子「同上」


背の高い鏡


絵の構図の大きな特徴は、カンヴァスの多くを鏡像が占めていることです。そしてよく指摘されることですが、この鏡像は一見リアルに見えてそうではありません。

まず、売り子嬢の向かって左にある酒瓶の鏡像が奇妙です。カウンターと鏡はカンヴァスに平行なはずなのに、酒瓶の鏡像の位置は右に偏り過ぎています。このように映るためには、鏡がカウンターに対して斜め(=向かって左に奥行きがあり、右がせり出してきている)になっていなければなりません。また、位置だけではなく酒瓶の数が不一致だし、シャンパンとビールの位置関係が鏡像で逆転しています。

何より奇妙なのは、カンヴァスの右の方の女性の後ろ姿です。これは売り子嬢の鏡像と考えるしかないわけですが、だとすると酒瓶と同じで、鏡を斜めに設置しない限りこの位置に映ることはありえない。

その売り子嬢と話している髭を蓄えたシルクハットの紳士ですが、この紳士は左右の位置関係に加えて高さが変です。フォリー・ベルジェールのスタンドバーの床はホールの床より高いので、本来なら彼女の方が紳士を見下ろすはずですが、それが逆になっている。中野さんは「厳然たる階級の上下を示すごとく、見下ろしているのは紳士だ」と書いています。

マネは意図的な空間処理をして、アートとしての構図を目指しました。中野さんは次のようにまとめています。


ありない場所にヒロインの背中が映る ─── イルージョンなのだ。フォリー・ベルジェール自体が壮麗そうれいなイルージョンなのと同じように。

中野京子「同上」


空中ブランコ乗り


中野さんは『フォリー・ベルジェールのバー』に描かれている2人の女性のことを書いています。一人はもちろんスタンドバーの売り子嬢ですが、もう一人は空中ブランコ乗りです。このあたりが評論のコアの部分です。

まず空中ブランコ乗りですが、カンヴァスの左上に空中ブランコと青緑の靴を履いた小さな足(=女性の足)が描かれています。情報はこれだけなので、どんな女性かはわかりません。ただ、空中ブランコ乗りは当時の貧しい少女の憧れの職業だったといいます。


空中ブランコ乗りは ── オペラ座のバレリーナと同じく ── 貧しい少女の憧れだった。報酬は多く、金持ち連中の品定めの対象なので、チャンスをつかめばステップアップできる。しかし曲乗りには常に危険が伴い、怪我けがをしたら続けられない。

後年、著名な画家ユトリロの母となり、自らも画家として名をなすシュザンヌ・ヴァラドンも、少女の頃の夢は空中ブランコ乗りだった。11歳から働きづめに働いてついに15歳で夢をかなえるが、数年後に落下してモデル業へ転じた(ロートレックが意志的で個性的な彼女を描いている)。後の展開を考えれば、ブランコから離れざるを得なくなったのも不幸とばかりは言えないが、怪我をした当初のショックはいかばかりだったか。補償も何もなかったのだ。

中野京子「同上」

The Hangover (Suzanne Valadon).jpg
アンリ・トゥールーズ = ロートレック(1864-1901)
「二日酔い(シュザンヌ・ヴァラドン)」(1887/9)
(ハーバード美術館)

ユトリロは10代でアルコール中毒になるのですが、その治療の一貫で母は息子に絵を描くことを勧めます。母は、大画家になるような絵の才能が息子にあるとは思っていなかったようです。こういった話は、シュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロの "母子物語" によく出てきます。もし、ヴァラドンが空中ブランコで怪我をしなかったらモデルになることはなく、従って画家になることもなかったと推察できる。ヴァラドンとユトリロの親子関係の発端は、空中ブランコからの落下にあるとも言えそうです。


スタンドバーの売り子嬢


さて『フォリー・ベルジェールのバー』のヒロインである、スタンドバーの売り子嬢です。中野さんは彼女の境遇と心情を想像する文章を書いているのですが、そこが評論のキモの部分です。少々長くなりますが、そのあたりの文章を引用します。


大理石のカウンターに両手を乗せ、金髪の売り子嬢はまっすぐ正面を向いている。視線は定まらない。整った顔立ちとぼってりした官能的な唇。だが表情はうつろだ。ほんの一瞬、孤独が木枯こがらしのようによぎったとでもいうように。

当時の流行色は黒なので、ドレスもチョーカーも黒。肌の白さ、明るい髪の毛、そして頬紅の赤を引き立てる。レースで縁取りしたドレスの胸元はかなり大胆にあき、その谷間を隠すように生花が飾られている。上着のボタンがまっすぐ列をなし、ヒロインの存在感を強調する。

中野京子「同上」

A Bar at the Folies-Bergere.jpg
エドゥアール・マネ
「フォリー・ベルジェールのバー」
コートールド・ギャラリー(ロンドン)

"ありえない位置" に描かれた女性の後ろ姿が売り子嬢だとすると、彼女はシルクハットの紳士と向かい合っていることになります。はたしてそれは現実なのか、それともイルージョンなのか。フォリー・ベルジェールは現実世界であると同時に、客にイルージョンを提供しています。だとするとこの作品の鏡の向こうの世界も、現実の反映と同時に、その一部は幻影なのかもしれない ・・・・・・。


空虚なひとみの売り子嬢は、実際に今、紳士と向き合っているのだろうか、それとも想像の中でそう願っているだけなのか。あるいはすでにもう紳士と何か言葉をわし、期待はずれだったのか、約束はしたが心おどるものではないのか。

そもそも彼女に肝心かんじんな能力があるのだろうか。男に夢をみさせることによって、この世を乗り切る能力が ・・・・・・。

19世紀後半のパリ。あなたは貧民街に生まれた。父が誰か、知らない。母は病弱だ。あなたはろくに教育も受けられず、母と自分自身を養うために必死にかせがねばならなかった。花売り、走り使い、傘工場の工員、洗濯女、お針子、モデル、エトセトラ、エトセトラ。女性の働き口は極端に少なく、給金はすずめの涙。歌手やバレリーナになるだけの才能もない。唯一の救いは、若さと綺麗な顔。それだけを資本に短期間にい上がらねばならない。失敗したら街角に立つ老いた娼婦という末路まつろがあるのみだ。

フォリー・ベルジェールで売り子嬢の募集があった。口をきいてくれた男に何度か嫌な思いをさせられたが、耐えてようやく仕事を手に入れた。チップが多いので、実入りは悪くない。いろんな男が近づいてくる。目をみはるほどの美貌の青年にビールを売ったが、自分と同じ貧しさとギラギラした野心の匂いをぐ。用はない。相手もこちらに用はない。

やがてあなたが空中ブランコ乗りの少女と仲良くなり、ときどき言葉を交わす。似たり寄ったりの境遇だったが、観客をかす芸ができる少女をうらやむ。しかし少女は練習中にブランコから墜落し、足を痛めて店から去っていった。

数年たち、あなたはあせりだす。早く良きパトロンを見つけなければ、若い新人に仕事を奪われてしまう。髭の紳士が話しかけてきた。好きなタイプではない。しかしそんなことを言っている場合だろうか。妥協だきょうすべきではないのか。

運命の分岐点に立つあなたの前を、ふと孤独が木枯らしのようによぎった ・・・・・・。

中野京子「同上」

中野京子さんの絵画の評論は、画家が絵に込めた(ないしは秘めた)物語を解き明かす、というタイプが多いわけです。もしくは、制作の背景や画家の心情と絵画表現との関係性を明らかにするタイプです。しかし上の引用はそうではなく、絵から受ける印象をもとに物語を想像(創作)したものです。それもまた、絵画を鑑賞する一つの方法です。その中にさりげなくモーパッサンの『ベラミ』の主人公を思わせる表現(貧しいが美貌の青年)と、シュザンヌ・ヴァラドンの10代の経験(空中ブランコからの転落)を織り込んだのが、上に引用した文章なのでした。

最大のポイントは、売り子嬢の「空虚な瞳、虚ろな表情」です。引用しませんでしたが中野さんは「目の焦点はどこにも合っていない。虚無」とも書いています。もし彼女が今現在、シルクハットの紳士と会話しているのなら「虚ろな表情」はおかしいわけです。売り子嬢としての "仕事用のみ" を浮かべているはずです。しかしそうはなっていない。ということは、カンヴァスの右側に描かれた彼女と紳士の鏡像は、彼女の幻想(ないしは期待)かもしれないし、あるいは数10分前の回想かも知れない ・・・・・・。そう思わせるところがこの作品のポイントであり、そこから中野さんのような創作物語も生まれるわけです。

人は人の表情に敏感です。ちょっとした表情の変化、目や口や頬の微細な動きが作り出す "光" や "影" を感じ取ってしまいます。それは人がこの社会で生きていくために大切な能力です。マネの筆致は「空虚な瞳、虚ろな表情」とる人に感じさせるヒロインの表情を作り上げた。それがこの絵に物語性を付与した。そういうことだと思います。

この作品には何重ものたくらみや仕掛けが込められています。その仕掛けの中で、大都市パリの "今" を描き切ったものと言えるでしょう。


ラス・メニーナス


さて、『ラス・メニーナス』(No.19「ベラスケスの怖い絵」に画像を引用)のことです。中野さんは『フォリー・ベルジェールのバー』について、

  ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』を意識したものであろう。

と、さらりと書いているのですが、なぜそういった推測が出てきたのでしょうか。また、これは妥当なのかどうか。

一見すると『ラス・メニーナス』を意識したとは見えないのですが、おそらく「たくらみのある空間構成」という点が似ていて、そういう推測になったのだと考えられます。

一般に、画家が先人にインスピレーションを得て絵を描く場合、そのありようは多様で、かつ微妙です。思い出すのが「ラス・メニーナスへのオマージュ」として描かれた、ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)の『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館。以下「ボイト家の娘たち」)です。No.36「ベラスケスへのオマージュ」で紹介した絵ですが、しくも『フォリー・ベルジェールのバー』と同じ年に描かれました。No.36 にも書いたのですが、この絵は2010年にボストン美術館からプラド美術館に貸し出され、プラド美術館は招待作品として『ラス・メニーナス』と並べて展示しました。天下の2大美術館が「ボイト家の娘たち」はベラスケスを踏まえた絵だと認めたことになります。

一見しただけでは「ボイト家の娘たち」が『ラス・メニーナス』へのオマージュ作品とはわかりません。しかしよく見ると空間構成に類似性があります。まず手前に室内の光、その奥に闇、闇の向こうに窓の光という空間構成であることです。また、4人の姉妹を年齢順に手前から奥へと、ポーズを変えて配置して空間を演出しています。これによって一つの空間に「少女の成長 = 時間の流れ」を表現したかのように見える。2つ描かれている有田焼の大きな壷の配置も独特です。こういった「企みのある空間構成」が似ています(その他、No.36 参照)。

だとすると、マネの『フォリー・ベルジェールのバー』が『ラス・メニーナス』を意識したぐらいのことは十分にありうる。それに、マネは明白にベラスケスへのオマージュだとわかる作品を描いています。それが『悲劇役者(ハムレットに扮するルビエール)』(1866。ワシントン・ナショナル・ギャラリー)で、この絵がベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』に感銘を受けて描かれたことは、No.36「ベラスケスへのオマージュ」に書きました。

さらにマネは『ラス・メニーナス』を絶賛しています。No.230-1「消えたベラスケス」で紹介した、英国の美術ジャーナリスト、ローラ・カミングの本には、『ラス・メニーナス』を見たマネについて次のように書かれています。


ここが終着点だ。これを越えるものはない。プラド美術館でこの絵を見たマネは、そういった。この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人は ── 自分も含め ── この上さらに絵を描こうとするのだろう、と。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.334
(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)

そこまで絶賛する絵なのだから、画家人生の最後に『ラス・メニーナス』を意識した絵を描くことは十分考えられると思います。『悲劇役者』ならスペイン訪問(1865)のすぐあとに描けた(1866)。しかし『ラス・メニーナス』を踏まえた絵など、そう簡単に描けるものではない。マネはいろいろと構想を練り、やっと16年後に『フォリー・ベルジェールのバー』に辿たどりついた ・・・・・・ というような想像をしてもよいと思います。

そして『ラス・メニーナス』と『フォリー・ベルジェールのバー』の類似性を言うなら、やはり「鏡」です。『ラス・メニーナス』のキー・アイテムの一つは国王夫妻が映っている鏡です。ということは、鑑賞者の位置には国王夫妻がいることになります。そのアナロジーから言うと『フォリー・ベルジェールのバー』の鑑賞者の位置にはシルクハットの紳士がいることになる。いや、そんなことはありえない、あまりに位置関係が違い過ぎる。とすると、紳士の鏡像は幻影なのか ・・・・・・。

鏡を、19世紀の時点で最大限に効果的に使った絵、それが『フォリー・ベルジェールのバー』だと言えるでしょう。


鏡の中の世界


その鏡ですが、『ラス・メニーナス』の鏡は数十センチ程度の小さなものです。これは17世紀の絵であって、当時は完全に平面の大きな板ガラスを製造するのが困難でした。ところが19世紀のマネの時代になると、技術進歩によってヒトの背丈より高いような鏡が作れるようになった。

現代の我々は、人間の背丈より高い大きな鏡を見ても何とも思いません。そういう鏡をよく見かけるからです(私の家にもある)。しかし19世紀の時点で大きな鏡を目のあたりにした普通の市民は感激したのではないでしょうか。鏡の向こうにもうひとつの世界が展開しているようにリアルに思えるのだから。

鏡で思い出すことがあります。マネと同じ年に生まれた英国の学者で作家のルイス・キャロル(1832-1898)は、1865年に『不思議の国のアリス』を出版しました。これが大変に好評だったため、キャロルは続編の『鏡の国のアリス』(1871)を出版しました。『フォリー・ベルジェールのバー』が描かれる10年前です。この本の原題は『Through the Looking Glass - 鏡を通り抜けて』で、アリスが「鏡の向こうはどんな世界だろう」と空想するところから始まるファンタジーです。原書には、まさにアリスが鏡をすり抜ける挿し絵があります。『不思議の国のアリス』ではウサギの穴が異世界への入り口でしたが、今度は「姿見」が別世界への入り口なのです。

ThroughTheLookingGlass.jpg
鏡の国のアリス」より
Through the Looking Glass
初版本にジョン・テニエルが描いた挿し絵

キャロルにとっても、大きな鏡や姿見によって "こちらの世界" と "あちらの世界" が同居するようにリアルに感じられるのが、インスピレーションの源泉となったのではないでしょうか。『鏡の国のアリス』のストーリーのキー・コンセプトは、"逆転"、"あべこべ" です。鏡の向こうの世界は、現実(=真実)を映し出すものであると同時に、左右が反転した幻影の世界、イルージョンなのです。

おそらくマネもフォリー・ベルジェールのスタンドバーの後ろにしつえられた鏡に引きつけられるものがあったのだと思います。プラド美術館で見た『ラス・メニーナス』の記憶が戻ってきたのかもしれない。

『フォリー・ベルジェールのバー』は、近代文明の産物(鏡)と大都会の歓楽街(店)、その都会で必死に生きる女性という "現代" を描き切った傑作でしょう。もちろんそこに『ラス・メニーナス』に迫ってみたいという画家としての "野心" があったのかも知れません。


英国・BBCの調査


『フォリー・ベルジェールのバー』の評論は、中野京子さんの「運命の絵」シリーズの2作目(副題:もう逃れられない)に掲載されたものですが、1作目の「運命の絵」(文藝春秋。2017.3.10)に興味深い話がのっていました。ちょっと引用してみます。


面白い調査がある。

2005年に英BBCラジオが行った聴取者アンケート、「イギリス国内の美術館でることができる最も偉大な絵画は何か」に、12万人もが回答。結果は日本人にとって(いや、たぶん世界中でも)意外なものだ。

1位 『戦艦テレメール号』
ターナー(英)
2位 『干草車』
コンスタブル(英)
3位 『フォリー・ベルジェールのバー』
マネ(仏)
4位 『アルノルフィーニ夫妻の肖像』
ファン・エイク(フランドル)
5位 『クラーク夫妻と猫のパーシー』
ホックニー(英)
6位 『ひまわり』
ゴッホ(蘭)
7位 『スケートに興じるウォーカー師』
レイバーン(英)
8位 『イギリスの見納みおさめ』
ブラウン(英)
9位 『キリストの洗礼』
デラ・フランチェスカ(伊)
10位 『放蕩児一代記』
ホガーズ(英)

投票者の年齢性別は不明だが、ちょっとこれはないのでは ・・・・・・ と思う作品がいくつか混じっている。画家10人中、6人がイギリス人(スコットランドを含む。また一人はアメリカで活躍)というのも身贔屓みびいきすぎる。「最も偉大な絵画」ではなく、単に「お気に入りの絵」とすべきではなかったか。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー1館だけでも、ティツィアーノ、ルーベンス、ボッティチェリ、ブロンツィーンノ、ホルバインなど傑作ぞろいなのに見向きもしない。それなら我が国にゆずってほしい、とイタリア人が言いそうだ。イギリス人は視覚芸術がわかっていない、とフランス人が言いそうだ。

ただこのランキングには「文学の国」イギリスらしさが如実にょじつにあらわれており、肖像画や風景画にさえ物語性を求める傾向がうかがえる


運命の絵1.jpg
表紙の絵はシェフールの「パオロとフランチェスカ」
6人もランキング入りしたイギリス人画家の作品の中で、唯一、納得性が高いのは、1位のターナーの『戦艦テレメール号』でしょう。役目を終えた戦艦が解体のためにテムズ川を曳航されていく、夕陽を背景に、哀愁を帯びて ・・・・・・ という絵です。しかしその他の絵はあまり知らないし、名前さえ知らない画家がある。コンスタブルの『干草車』はどこかでた記憶があるのですが、忘れてしまいました(調べてみると、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)。

「自国の画家びいき」になってしまったのはやむを得ないのでしょう。逆のことを考えてみたらわかります。日本で NHK が同様の調査をしたとして、エル・グレコ(大原美術館)、ゴッホ(損保ジャパン日本興亜美術館)などに加え、長谷川等伯、円山応挙、伊藤若冲、葛飾北斎、横山大観、東山魁夷の傑作がランクインしたとしても(これは例です)、一般のイギリス人に理解できるのは北斎ぐらいに違いないからです。

「自国の画家びいき」はやむを得ない。それを認めたとして、だったらジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』(テート・ブリテン)が入っていないのは、いったいどういう訳なのでしょうか。「文学の国」イギリスでは絵画に物語性が求めらるとしたら、『オフィーリア』はイギリス人の誰もが知っている物語がテーマなのに ・・・・・・。やはり不思議なリストです。



不思議なリストではあるが、注目すべきは "外国画家" の作品です。ランクインした4作品のトップがマネの『フォリー・ベルジェールのバー』なのですね(しかも3位)。それも『アルノルフィーニ夫妻の肖像』や『ひまわり』といった "強豪"、その他の中野さんがあげている画家やピカソ(たとえばテート・ギャラリーの『泣く女』)などの "強豪" を押さえてのトップです。

その理由はというと、中野京子さんがあげたキーワードである "物語性" ではないでしょうか。『フォリー・ベルジェールのバー』以外の "外国画家" の作品もそうです。ファン・エイクの絵は、種々の解説にあるように明らかに物語性があります(またしても "鏡" が登場。No.93「生物が主題の絵」に画像を掲載)。デラ・フランチェスカの絵のような宗教画(や神話画)は、その背後に "物語" がべっとりと付着していることは言うまでもありません。ゴッホの『ひまわり』は、それ自体には物語性がありませんが、一般の鑑賞者は、あまりにも有名になってしまったゴッホの生涯、特にパリ→南仏→パリ近郊という約3年間の "ゴッホ物語" を意識するわけです(そう言えば、耳切り事件の直後の包帯をした自画像がコートールドにある)。

そういった中での『フォリー・ベルジェールのバー』です。この絵の前に立つと、まず "普通とはちょっと違う絵" だと直感できます。そして、売り子嬢や、カンヴァスに配置されたさまざまなアイテムを順にていくと、次第に "物語" を意識するようになる。

この絵が傑作たるゆえんは「現代を描き切ったこと」に加え、そこに込められた「物語性」である。そういうことだと思います。




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No.254 - 横顔の肖像画 [アート]

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」の続きです。No.217 ではルネサンス期の女性の横顔の肖像画で傑作だと思う作品を(実際に見たことのある絵で)あげました。次の4つです。

A: ピエロ・デル・ポッライオーロ
  若い貴婦人の肖像」(1470頃)
 ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ)

B: アントニオ・デル・ポッライオーロ
  若い女性の肖像」(1465頃)
 ベルリン絵画館

C: ドメニコ・ギルランダイヨ
  ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
 ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)

D: ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス
  ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

Profile.jpg

A と C はそれぞれ、ポルディ・ペッツォーリ美術館とティッセン・ボルネミッサ美術館の "顔" となっている作品です。そもそも横顔の4枚を引用したのは、ポルディ・ペッツォーリ美術館の "顔" が「A:若い貴婦人の肖像」だからでした。その A と B の作者は兄弟です。また D は、ミラノ時代のダ・ヴィンチの手が入っているのではないかとも言われている絵です。

これらはすべて「左向き」の横顔肖像画で、一般的に横顔を描く場合は左向きが圧倒的に多いわけです。もちろん「右向き」の肖像もあります。有名な例が、丸紅株式会社が所有しているボッティチェリの『美しきシモネッタ』です。これは日本にある唯一のボッティチェリですが、いつでも見れるわけではないのが残念です。

というように「右向き」もありますが、数としては「左向き」が遙かに多い。その「左向き」が多い理由ですが、No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で心理学者の三浦佳世氏の解説を紹介しました。左向きが多いのは、

顔の左側の方が右脳の支配によって豊かな表情を示す

画家が右利きの場合、右上から左下に筆を描きおろす方が簡単

西洋の絵では一般に光源を左上に設定するため、左向きの顔は光に照らされて明るく輝く

の3つで説明できると言います。そして、3番目の「西洋の絵では一般に光源を左上に設定する」理由は、

アトリエで画家は左側に窓があるようにイーゼルを立てることが多い。多くの画家は右利きだから

人間は左上からの光に最も鋭敏に反応する生理的性質がある

です。前者は、特に照明が発達していない近代以前ではそうでしょう。後者の「左上からの光に最も鋭敏に反応する」というのは心理学者らしい説明です。人間は左上からの光に照らされた状況で認知能力が最も良く働くようにできているそうです(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」参照)。



A,B,C,D はいずれも15世紀後半のイタリア人画家による作品です。ルネサンス期のイタリアで横顔の肖像が多数描かれたからですが、しかし近代になってからも横顔の肖像は描かれていて、その中には有名な作品もあります。今回はそういった中から何点かを取り上げたいと思います。


ホイッスラー


画家の母の肖像.jpg
ジェームス・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)
画家の母の肖像」(1871)
(オルセー美術館)

この絵はオルセー美術館にあるので、実際に見たことがある人も多いと思います。ホイッスラーの代表作(の一つ)とされている作品です。

この絵のように「全身の座像を真横から描く」肖像画は、あまりない構図だと思います。著名な画家の有名作品では、ちょっと思い当たりません。近いのは、フラゴナールの『読書する娘』(1769頃。No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)や、次のカサットの作品かと思います。ただしこれらは全身像ではありません。その意味でホイッスラー絵は西洋美術史でも際だっているのではないでしょうか。

この絵の当初の題名は「灰色と黒のアレンジメント 第1番」だったそうです。黒、灰色、茶色系で統一された、モノトーンっぽい色使いが印象的です。直感的に思い出すのは同じホイッスラーの「白のシンフォニー No.1:白衣の少女」です(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」)。こちらの方は、さまざまな種類の "白" で画面が構成されています。シンフォニーが音楽用語ということからすると、アレンジメントも「音楽用語としてのアレンジメント = 編曲」だと考えられます。

ホイッスラーの母親は敬虔なクリスチャンだったようです。この絵の全体に漂うのは「静かで」「落ち着いていて」「抑制が利いていて」「謙虚で」「質素で」「礼儀正しく」「穏和な」感じです。おそらく母親は神への信仰とともにまじめに働き、子を育て、コミュニティーの一員としての役割や義務を全うしてきたのでしょう。ホイッスラーの母親の経歴は全く知りませんが、そういうことを感じさせる絵です。

その感じを倍加させているのが「構図」と「色使い」です。構図について付け加えると、背景になっているカーテン・床・壁・額縁・椅子の足の直線群と「左向き全身座像」の曲線群が対比され、調和しています。この構図のとりかたと黒・灰・茶の色使いで、画家は母親の真の姿を、その生涯を含めて表現しようとした。と同時に、この絵には画家の母親に対する敬愛の念がにじみ出ているようです。いい絵だと思います。


カサット


Autumn - Portrait of Lydia.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
秋 - リディアの肖像」(1880)
(プティ・パレ美術館)

パリで活躍したアメリカ人画家、メアリー・カサットのことは、
 No.86「ドガとメアリー・カサット」
 No.87「メアリー・カサットの少女」
 No.125「カサットの少女再び」
 No.187「メアリー・カサット展」
の4回に渡って書きました。今回もカサットの作品を引用します。

描かれているのはメアリーの8歳上の姉、リディア・カサットです。この絵が描かれる3年前(1877年。メアリーがドガに初めて会った年)、メアリーの両親とリディアはアメリカを離れてパリに移り住み、メアリーと同居を始めました。メアリーは姉をモデルにかなりの作品を描いていて、このブログではリディアがドガの姪と馬車に乗っている絵を引用したことがあります(No.97「ミレー最後の絵:続フィラデルフィア美術館」)。またルーブル美術館におけるメアリーとリディアを描写したドガの版画もありました(No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」)。そのリディアはブライト病という腎臓疾患にかかっていて、1882年に亡くなります。ちなみにメアリーは父親も母親もパリで看取りました(それぞれ1891年と1895年)。

この絵はリディアが、おそらくパリの公園のベンチに座っている姿の描写だと考えられます。リアルに描かれたリディアの表情は、病気のせいか非常に固いものです。ただ、その周りには秋を感じさせるさまざまな色彩がちりばめられていて、リディアの服のあたりはまるで抽象画のようです。その対比が印象的な作品です。


クリムトの2作品


横顔を見せる少女.jpg
グスタフ・クリムト(1862-1918)
横顔を見せる少女」(1880頃)
(東京富士美術館)

制作年をみてもわかるように、クリムトが18歳の頃に描いた作品です。また 24cm × 17cm という小さな絵です。日本にある作品で、八王子の東京富士美術館が所蔵していています。

今まで引用した若い女性の絵とはうってかわって、大変に暗い色調です。黒と茶色系と少しの暗緑色しか使われていない。少女の表情は左の方にある何かを凝視している感じです。何かに挑もうとしているような、鋭い視線を投げかけています。

その中で強く印象付けられるのは、ハイライトがかかった薄青色の瞳と、赤いルージュをひいた唇と、首飾りの白いきらめきです。この3つのポイントが特に目立つ。東京富士美術館の解説では「後のクリムトの絵画を特徴づける装飾性の萌芽を感じることができる貴重な作品」とありました。この絵自体に装飾性はないので「装飾性の萌芽を感じることができる」とした美術館の意図はわかりませんが、瞳・唇・首飾りだけを浮かび上がらせるようにした描き方が "萌芽" ということかもしれません。



ヘレーネ・クリムトの肖像.jpg
グスタフ・クリムト
ヘレーネ・クリムトの肖像」(1898)
(ベルン美術館)

クリムトが36歳ごろの作品です。「横顔を見せる少女」とはうってかわった感じの絵で、愛らしい少女を描いています。

ヘレーネ・クリムトはクリムトの弟・エルンストの娘で、つまりクリムトの姪です。伝記によるとエルンストは1891年に結婚、同年にヘレーネが生まれますが、翌1892年にエルンストは急死してしまいます。クリムトは残された母娘を預かる身となり、ヘレーネの法律上の保護者になります。つまりヘレーネはクリムトにとって "娘同然の" 存在だったことになります。本作はヘレーネが6歳のときの作品です。

クリムトの絵というと、その特徴は装飾性です。神話などの空想の世界をを題材にした絵はもちろん、リアルな筆致で描いた肖像にも周りに花を配置したり、装飾模様や形と色のパターンを描き込んだりする(No.164「黄金のアデーレ」)。風景画も傑作が多数ありますが、いかにも装飾的です。

それに対して「ヘレーネ・クリムトの肖像」にはクリムトらしい装飾性が全くありません。リアルに描かれた少女は横顔だけですが、あくまで愛らしく、素早い筆で描かれた衣服の描写との対比が心地よい。

この絵は、画家が "自分の子供" を描いたと考えればよいのだと思います。一般に画家の子供がモデルという絵をときどき見かけますが、その画家の画風とは違っていて "アレッ" と思うことがあります。つまり画家の本来の姿の一端を覗いたような感じを受けることがある。この絵もそういった一枚だと思います。

付け加えるとこの絵の特徴は「上半身だけを描き、顔だけでなく体も真左を向いた絵」ということです。そこが「横顔を見せる少女」(やホイッスラー、カサットの絵)と違います。この特徴は、初めに引用したルネサンス期の肖像画と同じです。ひょっとしたらクリムトは、愛らしい姪を描くときに400年前のイタリアの肖像画を踏まえたのかも知れません。

この絵は、2019年4月23日から日本で開催される「クリムト展 ── ウィーンと日本」で展示されるようです(東京都美術館、豊田市美術館)。是非、鑑賞にいきたいと思います。

【補記:2019.4.28】 2019年4月23日から東京都美術館で開催されているクリムト展で「ヘレーネ・クリムトの肖像」が展示されているので行ってきました。初めて実物を見ましたが、想像していた以上に明るく、全体がバラ色に輝いているような印象でした。背景も含めて、ところどころの "赤み" がよく利いています。大変に写実的で丁寧に描かれたヘレーネの頭部(髪・顔)と、荒々しくスピード感溢れる筆致で描かれた衣装の対比が実際に見ると強烈で、グスタフ・クリムトが極めて確かな画力をもったアーティストであることがよくわかりました。


ワイエス


Gunning Rocks.jpg
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)
ガニング・ロックス」(1966)
(福島県立美術館)

ワイエスの絵は今まで、
 No.150「クリスティーナの世界」
 No.151「松ぼっくり男爵」
 No.152「ワイエス・ブルー」
の3回書きました。また、この絵を使ったワイエス展のポスターを No.151 で引用したことがあります。日本の福島県立美術館が所蔵している絵です。

題名となっている『ガニング・ロックス(Gunning Rocks)』とは何かですが、これはモデルの男性の名ではありません。ワイエスはペンシルヴァニア州のチャッズフォード(フィラデルフィア近郊)の生家と、メイン州の海岸地方であるクッシングの別荘を行き来していました。ガニング・ロックスとはクッシングにも近い、沖合いの小島の名前です。gunning とは "銃で撃つ" という意味なので、切り立った岩が突き出ているような風景を想像します。

描かれている男性はフィンランド移民とネイティヴ・アメリカンの血を等分に受け継いだウォルター・アンダーソンという人で、ワイエスは彼とよく小舟で海に漕ぎ出したそうです。

なぜ肖像画の題名を小島の名前にするのでしょうか。ワイエスの絵には、謎めいた題名が付けられていて、それが意味をもっていることがあります。福島県立美術館が所蔵する『松ぼっくり男爵』がその典型です(No.151「松ぼっくり男爵」参照)。おそらくワイエスとしては、この知人男性の今までの生涯、性格や人となり、日々の生き方を、海の中にポツンと存在する小島にたとえたのではないでしょうか。荒波にもまれても微動だにせず、厳然として屹立している小島にこの男性を重ねた ・・・・・・。あくまで想像ですが、そういう風に思います。

もう一つのこの絵のポイントは "民族" です。クッシングの近くにはフィンランド移民のコミュニティーがあったようで、そこの人たちをモデルにワイエスは絵を書いています。また『クリスティーナの世界』にも出てくるオルソン姉弟はスウェーデン移民の子です。『松ぼっくり男爵』のテーマであったカーナー夫妻はドイツ移民だし、その他、アフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカンの肖像や風俗を描いています。多様性こそアメリカの特質、というのはワイエスの信念だったようです。その一端が現れたのがこの絵だと思います。

さらに付け加えると、今まで引用してきた絵(=油絵)と違ってこの絵はドライブラッシュの技法を駆使した水彩で描かれています。ワイエスの作品は我々が暗黙に抱いている水彩のイメージを覆すものが多い。この絵もそうです。


横顔を描く


これらの肖像画を見て感じることがあります。No.217 にも書いたのですが、まず画家が表現しようとしたものは横顔の美しさ(特に女性)でしょう。また男女を含めて横顔にその人物の性格なり特徴が現れるということがあり、そこを描こうとした作品もありそうです。

しかし横顔は風貌の一部です。人物全体をとらえたという感じはしません。鑑賞者としては「正面から見た顔の輪郭」や、肖像画では一般的な「4分の3正面視のときの表情」を想像することになります。その「想像させる」ところが横顔肖像画の一つのポイントだと思います。

さらに振り返ってみると、傑作と言われる肖像画は描かれた人物の内面や性格を映し出した作品が多いわけです。少なくとも鑑賞者が人物の内面を感じてしまう絵が、名作と言われる肖像画です。この観点からすると、横顔だけの絵は画家にとって不利です。「目は口ほどに物をいい」と言うように、人は目線や目つきによってその時の人物の感情とか内面を推測するからです。しかし画家にとって不利だとはいいながら、引用した横顔肖像画は人物表現としても成功している。

横顔のモデルは画家(=鑑賞者)と視線を合わせることがありません。鑑賞者に何かを働きかけるとか、何かを訴えるような感じはしない。心理的に手前へ動き出す気配はなく、動きが止まったように感じます。人物は静かに絵の中にたたずんでいて、しかし、堂々とそこに存在している。この "感じ" が横顔の肖像画を見るポイントなのだと思います。




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No.253 - マッカーサー・パーク [音楽]

前回の No.252「Yes・Noと、はい・いいえ」で、2012年に日本で公開された映画『ヒューゴの不思議な発明』に出てくる、ある台詞せりふを覚えているという話を書きました。それは「本は好きではないの?」という問いに対するヒューゴ少年の、

  "No, I do."

という返事で、変な英語(= 中学校以来、間違いだと注意されてきた英語)だったので心に残ったわけです。ただし心に残っただけで、このせりふが映画のストーリーで重要だとか、そういうことでは全くありません。

「重要ではないが、ふとしたことで覚えている映画のせりふ」があるものです。No.98「大統領の料理人」で書いたのは、フランス大統領の専属料理人であるオルタンスが言う、

クタンシー産の牛肉は)"神戸ビーフに匹敵する"

というせりふでした。『大統領の料理人』は美食の国・フランスの威信をかけて制作された(かのように見える)映画で、その映画でフランスのエリート料理人がフランス産牛肉のおいしさを表現するのに神戸ビーフを持ち出したことで "エッ" と思ったわけです。フランスの著名シェフなら、たとえ心の中では思っていたとしても口には出さないと考えたのです。

今回は、こういった「ふとしたことで覚えている映画のせりふ」を、最近の映画から取りあげたいと思います。2018年に日本で公開されて大ヒットした(というより世界中で大ヒットした)『ボヘミアン・ラプソディー』の中のせりふです。

ボヘミアン・ラプソディ.jpg
「ボヘミアン・ラプソディー」の ”Radio Ga Ga” の場面。
(映画の予告編より)


ボヘミアン・ラプソディー(Bohemian Rhapsody)


この映画の中で、タイトルにもなった Queen の傑作、"Bohemian Rhapsody" に関するエピソードが出てきます。フレディ・マーキュリー(俳優:ラミ・マレック。2019年アカデミー賞・主演男優賞・受賞)をはじめ Queen のメンバーは、この曲をシングル・カットして売り出したい。ところが音楽会社 EMI の重役のレイ・フォスター(架空の人物。俳優はマイク・マイヤーズ)は認めようとはしません。"Bohemian Rhapsody" は約6分の楽曲で、長すぎるというわけです。シングル盤の標準は3分であり、ラジオで DJ がかけてくれないだろう6分の曲など、シングル盤には向かないというのがその言い分です。

これに対して、その場にいたフレディのマネージャーであるポール・プレンター(俳優:アラン・リーチ)が助け舟を出します。その字幕が次です。

  ”マッカーサー・パーク” は7分だが売れた。

国際線フライトの新作ビデオで見る機会があったので、このシーンを英語音声に注意して見たのですが、せりふは、

  MacArthur Park was seven minutes long. It was a hit.

でした。「売れた」つまり「ヒットした」と言っている。映画『ボヘミアン・ラプソディー』で今でもはっきりと覚えているせりふは、実はこれだけです。しいて他のせりふをあげるとすると、何回か出てきた「我々は家族」という意味の発言ですが、これは映画のストーリーで重要だから印象に残るのだと思います。せりふそのものが印象に残ったということでは、上のマッカーサー・パークのところでした。

"Bohemian Rhapsody" は1975年の楽曲(結局、シングル・カットされて発売された)ですが、『マッカーサー・パーク』は1968年にアメリカで発売された曲です。つまり、7年前の楽曲が「長い曲でも売れる」ことの引き合いに出されたわけです。そしてこのせりふが印象に残ったのは、『マッカーサー・パーク』がポップス史上に残る名曲であり、"Bohemian Rhapsody"と比較するのが "当たり" だと思ったからです。

そこでこの際、『マッカーサー・パーク』がどういう曲かを書き留めておきたいと思います。


マッカーサー・パーク(MacArthur Park)


"MacArthur Park" は1968年6月22日に全米ヒットチャート(Billboard)の2位にまでになり(イギリスでは最高4位)、映画のせりふどおりヒットしました。このヒットは当時のポップスとしては異例のことでした。

"MacArthur Park" とは、ロサンジェルスにある公園の名前です。ダウンタウンの西の方、ダウンタウンからそう遠くない所にあります。MacArthurとは、アメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)のことで、言うまでもなく第二次世界大戦の連合軍最高司令官であり、日本占領の総指揮をとった人物です。そのマッカーサー元帥の功績を称えて公園の名前にしたわけです。

MacArthur Park.jpg
現在の MacArthur Park。50年前はどんな景色だったのだろうか。

"MacArthur Park" を作詞・作曲したのはジミー・ウェッブ(Jimmy Webb。1946 - )です。彼は 1967年にフィフス・ディメンジョンの「ビートでジャンプ」をヒットさせました(グラミー賞受賞)。また同じ年にグレン・キャンベルは、1965年にジミー・ウェッブが書いた「恋はフェニックス」をカバーしてヒットさせ、これもグラミー賞を受賞したのでした。

つまり1967年の時点でジミー・ウェッブは、既に新進気鋭の注目すべきソング・ライター(21歳)だったわけです。では、その彼が書いた "MacArthur Park" はヒットして当然なのかというと、そうとも言えません。これは、かなり "異例の" 曲なのです。


リチャード・ハリス(Richard Harris)


1968年にシングル盤で発売された "MacArthur Park" を歌ったのは、リチャード・ハリス(1930 - 2002)です。リチャード・ハリスはアイルランドの俳優であり、歌手としては無名の存在でした。だだ彼は1967年に公開されたハリウッドのミュージカル映画に出演しました。No.53「ジュリエットからの手紙」の中で紹介した「キャメロット(Camelot)」です。

このミュージカル映画は「アーサー王と円卓の騎士」に題材をとったもので、アーサー王がリチャード・ハリス、グエナヴィア王妃がヴァネッサ・レッドグレーヴ、騎士・ランスロットがフランコ・ネロ(ヴァネッサ・レッドグレーヴの現在の夫)でした。リチャード・ハリスは映画の中で、"三角関係で苦悩する王" の気持ちなどを歌っています。その歌は大変に上手で、彼自身も歌手活動をしたいと思っていたようです。その彼がなぜジミー・ウェッブと出会って "MacArthur Park" をレコーディングすることになったかは Wikipedia で紹介されています(英語版Wikipedia の "MacArthur Park" の項)。

つまり、"MacArthur Park" は全米ヒットチャートの2位までになった曲ですが、歌ったのはリチャード・ハリスという、歌手としては無名のアイルランドの俳優だったことが、異例だった一つの点です。

MacArthur Park Single.jpg
"MacArthur Park" シングル盤(1968)のジャケット。リチャード・ハリス(左)とジミー・ウェッブ(右)の写真が使われている。

A Tramp Shining.jpg
"MacArthur Park" を含むリチャード・ハリスのアルバム "A Tramp Shining"(1968)。プロデュースしたのはジミー・ウェッブ。

なお、リチャード・ハリスは映画版「ハリー・ポッター」の第1作『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)と、第2作『ハリー・ポッターと秘密の部屋(2002)』で、ダンブルドア(ホグワーツ魔法学校の校長)を演じました。その「秘密の部屋」が彼の遺作になりました。



"MacArthur Park" はその後、数々の歌手によってカバーされています。有名なのがドナ・サマーで、1978年に全米ヒットチャート(Billboard)の1位になりました。


7分21秒


"MacArthur Park" がシングル盤のヒットとして異例だった2つ目は、映画「ボヘミアン・ラプソディー」でも言及があったその長さです。当時のシングル盤の楽曲は3~4分程度が普通であり、7分を越える曲は異例だった(正確には7分21秒)。

ただし、7分を越えるということで思い出す別の曲があります。"MacArthur Park" と同じ1968年にシングル盤で発売されたビートルズの「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」で、7分11秒の長さがあります。この曲は Billboard のチャートで9週連続1位になり(9月28日~11月23日)、1968年の年間ランキングでも1位になりました。

しかし、ビートルズは絶大な人気がありました。1963年(英)・1964年(米)のブレーク以来、シングル盤で発表した曲のほとんどすべてがヒットチャートの1位になり、全米チャートの1位~5位を独占したこともあったぐらいです。1968年当時も若者を中心に世界の音楽ファンを "とりこ" にしていたわけで、そういう状況での "7分11秒" です。その点が "MacArthur Park" とは違います。

それに「ヘイ・ジュード」は、後半の約4分が「na na na, na na na na, na na na na, Hey Jude」というリフレイン、繰り返しです。しかも最後はフェイドアウトしていく。これならラジオで放送するときにリフレインの部分を早めにフェイドアウトしても違和感がありません。当時の放送は「早めのフェイドアウト」が多かったのではないでしょうか。

ところが "MacArthur Park" は、あとの詩と曲のところで説明しますが、「最後で最高潮になる」という作りになっています。途中でフェイドアウトしてしまったのでは、この曲をかけた(聴いた)ことにはならない。そういう意味で、この7分超のシングル盤は大変に長くて異例なのです。

なお、アルバムの収録曲であれば6分とか7分はザラで、もっと長い曲もいろいろあります。ピンク・フロイドの "Atom Heart Mother(原子心母)"(1970)は24分弱です。日本で言うと(年代は下りますが)X JAPAN の "Art of Life"(1993)は29分です。アーティストが自分の "思い" にこだわって創造性を発揮するとき、この程度の時間になることも当然あるということでしょう。





3つ目の "異例" というか、この曲の大きな特徴と言った方がいいのは詩の内容です。その詩と、試訳を以下に掲げてみます。訳というより言葉の意味を日本語で記述した程度です。なお以下の 1.~ 4.ですが、この曲は4つの部分に分かれているので、それを示すための数字です。


「MacArthur Park」
     by Jimmy Webb

1.
Spring was never waiting for us, girl
It ran one step ahead
As we followed in the dance
Between the parted pages and were pressed
In love's hot, fevered iron
Like a striped pair of pants

MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !

I recall the yellow cotton dress
Foaming like a wave
On the ground around your knees
The birds, like tender babies in your hands
And the old men playing checkers by the trees

MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !

(short instrumental)

2.
There will be another song for me
For I will sing it
There will be another dream for me
Someone will bring it

I will drink the wine while it is warm
And never let you catch me looking at the sun
And after all the loves of my life
After all the loves of my life
You'll still be the one

I will take my life into my hands
and I will use it
I will win the worship in their eyes
and I will lose it

I will have the things that I desire
And my passion flow like rivers through the sky
And after all the loves of my life
Oh, after all the loves of my life
I'll be thinking of you
And wondering why

3.
(Instrumental)

4.
MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !
Oh no

No
Oh no



「マッカーサー・パーク」 【試訳】

1.
春は決して僕たちを待ってくれなかったんだよ
踊りながら追いかけていた時には
一歩だけ前を走っていたのに
愛という熱がこもったアイロンでプレスした
ストライプのズボンのように
僕らは本のページの間に挟まれていた

マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no !

黄色いコットンのドレスを思い出す
波のように仕立ててあって
地面の上で君のひざを包む
か弱い赤ん坊のような鳥が君の両手に収まり
老人たちは木のそばでチェッカーに興じている

マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no !

(short instrumental)

2.
僕にはまた別の歌があるだろう
僕はそれを歌おう
僕にはまた別の夢があるだろう
誰かがそれを運んできてくれる

僕は温かいうちにワインを飲む
そして太陽を見ている僕を
君に捕まえさせはしない
それでも結局のところ僕の人生の愛は
結局のところ僕の人生の愛は
君がたった一つの存在であり続けるだろう

自分の人生を自分の手の中に収め
うまくやってみせよう
皆から尊敬の眼差しを勝ち取り
そして失うのだ

本当に望むものを手に入れよう
僕の情熱は川のよう流れて空をめぐる
それでも結局のところ僕の人生の愛は
ああ、結局のところ僕の人生の愛は
君のことを考えているだろう
それを不思議に思いながら

3.
(Instrumental)

4.
マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no!
Oh no

No
Oh no


あたりまえですが、これは論理的な文章ではなく、詩です。人によって受け取り方は違って当然です。特にこの詩はいろんな解釈が可能な部分が多い。使われている単語は容易ですが、難解そうな言い回しが並んでいます。一つ確実なのは「恋人と別れた心情を綴った詩」だということです。これはジミー・ウェッブの実体験に基づいているそうで、マッカーサー・パーク(マッカーサー公園)は、その恋人とよくデートした場所とのことです。

さらに、別れたあとの心情、ないしは失恋の表現ということ以外に詩から読み取れるのは、次の3点です。

主人公(僕)はマッカーサー公園の情景を眺めながら、かつての恋人と過ごした時間をしのんでいる。

主人公は恋人の思い出を断ち切り、新たな自分の人生を歩みたいと強く考えている。

しかしその女性が忘れられない。想いはまだ続いていて、今後も続くのでは思う。自分でも "なぜ" と思うくらいだ。

個々の言葉の選択は別として、ほぼ ① ② ③ のような内容が展開されているのは確かでしょう。ここまではいいとして、それから先の詳細は多様な解釈ができます。それは、抽象的で何かを象徴するような言葉がちりばめられているからです。

  踊りながら春を追いかけていた
本のページに挟まれていた
雨の中の忘れられたケーキ
二度と手できないレシピ
温かいうちにワインを飲む
 ・
 ・

どう受け取るかは聴く人の自由です。難解な感じがしますが、解釈の自由があります。ポイントは3回繰り返される「マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく ~ レシピも二度と手できないから」のパラグラフで、3回も繰り返されるのだからこの部分に含まれるイメージが重要なはずです。その重要な一つは、やはり「暗闇が迫るマッカーサー・パーク」でしょう。昼間にあったさまざまな事物が闇の中に溶けてしまったような公園の情景のイメージです。もう一つは「雨の中の忘れられたケーキ」です。食べ残したケーキが公園のベンチ(かテーブル)にポツンと忘れて置かれていて、そのケーキにかけられたアイシング(icing。糖衣。訳では "砂糖" とした)が流れ出している。これは明らかに私と彼女の象徴でしょう。このケーキは2度と作れないのだから ・・・・・・。

以上のようにいろいろ見ていくと、"MacArthur Park" は「多様な解釈ができる象徴性の高い詩」といえます。





音楽としての流れを文章で説明するのは限界があるので、YouTube などで公開されている音源を聴くのが一番です。

この曲は、最初の「春は決して僕たちを待ってくれないんだよ / 踊りながら追いかけていた時には / 一歩だけ前を走っていたのに」のところのメロディーが繰り返され、また単に繰り返すだけでなく旋律が変化し、進んでいきます(=第1部)。

Short Instrumental のあとは、更に旋律が変奏され、何となく終りが見えない感じで続いていきます(=第2部)。そして第3部の Instrumental があったあと、第4部で再び初めの旋律と歌詞が戻り、高揚してクライマックスを迎えます。最後は、Oh no という "嘆き" が数回繰り返されて終わる。

これは、たとえば Aメロ → Bメロ → サビ、とか、1番 → 2番 みたいな曲の作り方とは全く違います。全体として類似の旋律が繰り返されますが、一般に音楽ではしつこく繰り返すことによって盛り上げていく手法があって、この曲ではそれが効果を発揮しています。別れた女性や自分の人生についてあれこれと想いをめぐらしている、その「堂々巡りの意識の流れ」を音楽化したようにも思えます。メロディーラインは美しく、詩で表現されている感情の起伏もうまく受け止められている。普通のポップスの作り方とは違いますが、強い印象を与える曲です。


「ボヘミアン・ラプソディー」と「マッカーサー・パーク」


以上のように "MacArthur Park" は "異例の" 曲ですが、これは冒頭に書いた Queen の "Bohemian Rhapsody" とよく似ていると思うのです。個別にみていくと詞と曲の構成要素は全く違いますが、全体としての類似性がある。

まず 6分~7分という、シングル盤では異例の長さです。また、長いことに関係しますが、曲の作り方が複雑、かつ斬新です。"MacArthur Park" は4部から成っていますが、"Bohemian Rhapsody" も、アカペラ→バラード→オペラ→ロック→(エンディング)の4部(ないしは5部)構成が斬新でした。さらに、詩の言葉に象徴性があっていろいろの解釈が可能です。そういう類似性がある。

この2曲とも "野心的な" ソング・ライター(ジミー・ウェッブと、フレディ・マーキュリーおよびQueenメンバー)が、かねてからのアーティストとしての "想い" や "こだわり" を具現化した作品でしょう。その野心は空回りすることはなく、多くの人に受け入れられ、そして名曲として残ることになった。

映画「ボヘミアン・ラプソディー」の中の「マッカーサー・パークは7分だが売れた」というせりふには、明らかに "曲の長さ比較" 以上のものがこめられています。そういう風に意図した脚本かどうかは別にして ・・・・・・。"Bohemian Rhapsody" を擁護するのに "MacArthur Park" を引き合いに出すのはいかにもピッタリである、そう思いました。

Bohemian Rhapsody.jpg
Queen
「Bohemian Rhapsody」(1975)
John Deacon/Freddie Mercury/Brian May/Roger Taylor




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No.252 - Yes・Noと、はい・いいえ [文化]


言葉で認識し、言葉で思考する


このブログで今まで日本語と英語(ないしは外国語)の対比について何回か書いてきました。今回もそのテーマなのですが、本題に入る前に以前に書いたことを振り返ってみたいと思います。なぜ日本語と英語を対比させるのかです。

人間は言葉で外界を認識し、言葉で考え、言葉で感情や意見を述べています。我々にとってその言葉は日本語なので、日本語の特徴とか特質によって外界の認識が影響を受け、思考の方法にも影響が及ぶことが容易に想像できます。

それは単に影響するというレベルに留まらず、日本語によって外界の認識が制限され、思考方法も暗黙の制約を受けると思います。どんな言語でもそうだと思うので仕方がないのですが、我々としては言葉による束縛からのがれて、なるべく制限や制約なしに認識し、思い込みを排して自由に考えたいし、発想したい。

それには暗黙に我々を "支配" している日本語の特徴とか特質や "くせ" を知っておく必要があります。知るためには日本語だけを考えていてはだめで、日本語以外のもの = 外国語と対比する必要があります。日本人にとって(私にとって)一番身近な外国語は英語なので、必然的に英語と対比することになります。

英語(ないしは外国語)との対比ということで過去のブログを振り返ってみますと、まず語彙レベルの話がありました。

 蝶と蛾 

No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」で書いたのですが、日本語(と英語)では蝶と蛾を区別しますが、ドイツ語では区別をせずに "シュメッタリンク"(=鱗翅類)と呼びます。フランス語でも "パピヨン"(=鱗翅類)です。そして「日本で蝶は好きだけれど蛾は嫌いという人が多いのは、蝶と蛾を言葉で区別するからではないか」と書きました。同じことをドイツ語で言うと「シュメッタリンクは好きだけれど、シュメッタリンクは嫌い」になり、それは非文(言葉として意味を成さない文)になります。人は、言葉として意味をなさない内容を考えることは難しいのです。

 食感を表す語彙 

No.108「UMAMIのちから」で書いたのは、料理や食材の「味」や「香り」を表現する日本語は少ないが「食感(触感)」を表す語彙は非常に発達していることでした。そのほとんどは擬態語です。たとえば「ほくほく」は「熱を加えることで柔らかくなった食材が口の中で崩れる感じ」であり、特定の食材(根菜類など)にしか使いません。さらに「ほかほか」という言い方もあって、それは「ほくほく」とは僅かに違った意味合いに使われる。こういったスペシャル・ユースの語彙がたくさんあります。我々は料理や食材を味わった感じを表現するときに、知らず知らずのうちに食感(歯ごたえ、舌触り、喉ごし ・・・・・・)に偏った表現になっています。

 雪国実験 

No.139「"雪国" が描いた風景」では、言語学者・池上嘉彦よしひこ氏の秀逸な実験がテーマでした。川端康成の『雪国』の冒頭の文章を、日本語話者には日本語で、英語話者には英語で読んでもらいます。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。[川端康成]

The train came out of the long tunnel into the snow country. [サイデンステッカー訳]

そして、どういう情景をイメージしたか、それを絵に描いてもらいます。すると日本語話者は(図1)のような情景を描き、英語話者は(図2)のような情景を描きました。

雪国 - 図1.jpg
(図1)日本語話者が描いた情景

雪国 - 図2.jpg
(図2)英語話者が描いた情景

これはかなりショッキングな事実です。同じ意味と思われる文章を読んでも頭に描くイメージが違う。日本語話者は誰から指示されたわけもでもないのに(図1)のように受けとってしまうのですね。それが世界共通ではないことを知って愕然とする。

サイデンステッカー訳には川端康成の文章にはない train という subject(主語)が現れています(英語ではそう訳すしかない)。だから(図2)のような絵になるのだろうと思う人がいるかもしれません。しかしそれは違うのではないか。たとえば、日本語話者にサイデンステッカー訳を直訳した次の文章を読んでもらい、絵を描いてもらったらどうか。

列車は長いトンネルを抜けて雪国へと入った。

日本語話者の多数は、なおかつ(図1)を描くのではないでしょうか。この "雪国実験" が示しているのは視点の違いです。つまり(図1)は「地上の視点」であり(図2)は「俯瞰する視点」です。どちらが正しいということはありません。しかし言葉が暗黙に視点を規定することは、自由な発想をするためには考えておいた方がよいと思います。

 他動詞構文と自動詞構文 

No.50「絶対方位言語と里山」で書いたのはスタンフォード大学のボロディツキー助教授(認知心理学)の「英語・スペイン語・日本語の対比実験」でした。

英語は他動詞構文を好む言語です。偶発的事故でも、たとえば「ジョンが花瓶を壊した」というような表現を好みます。一方、日本語では偶発的事故の場合は「花瓶が壊れた」となり、スペイン語では直訳すると「花瓶がそれ自体を壊した(=いわゆる再帰構文)」となって、行為者を明示することがありません。

そこで、次の6種のビデオ映像を用意します。映像に写っているのはそれぞれ、男Aか男Bのどちらかが、

故意に
 ①風船を割る
 ②卵を割る
 ③飲み物をこぼす

偶発的事故で
 ④風船を割る
 ⑤卵を割る
 ⑥飲み物をこぼす

のどれかです。英語話者、スペイン語話者、日本語話者の被験者に、実験の意図は示さずにビデオを見てもらいます。ビデオを見たあと、被験者に男Aと男Bの写真を見せ、6種の行為を行ったのはどの男かを答えてもらいます。そうすると、意図的行為(故意)については3つの話者とも正しく答えられました。しかし偶発的事故に関しては、スペイン語話者と日本語話者は英語話者に比べて正答率が低かったのです。言葉によって認知するのだから、記憶は言葉に影響されるわけです。

 自動詞と他動詞 

No.140-141「自動詞と他動詞」で書いたのは、日本語には基本的な動詞において「意味として対になる自動詞と他動詞のペア」が極めて豊富に揃っていることです(たとえば "変える" と "変わる")。自動詞は「自然の成り行きとしてそうなった」と状況をとらえ、他動詞は「人為的行為の結果でそうなった」と把握します。同じ状況を「自然」と考えるのか「人為」ととらえるのかは「見方の違い」「視点の違い」です。日本語話者はこの動詞のペアを使い分けてニュアンスの違いを作っています。その例を No.141 でたくさんあげました。2つだけ再掲すると、

(自)木々の葉は、すっかり落ちていた。
(他)木々は、すっかり葉を落としていた。

(自)の方は「自然現象(=季節の移り変わり)として葉が落ちた」という感じであり、(他)の方では「木々が冬支度のために意図的に葉を落とした」というニュアンスが生まれます。

スーパー・マーケットが近隣の農家からその日の朝に穫れた野菜を仕入れて販売することがあります。

(自)今朝、穫れた野菜
(他)今朝、穫った野菜

(自)で強調されるのは「極めて新鮮な大地の恵み」であり、(他)になると「新鮮な野菜を消費者に届けようとする農家の努力」というニュアンスが入ってきます。

このように「自然」と「人為」を行き来できることで日本語の表現は豊かになっているのですが、その一方で問題点もありそうです。「会議で決めた」ことについては会議参加者に責任が発生するはずですが、同じことを「会議で決まった」と表現することによって、何となく自分には責任がないような気分になってしまう。そういうことがあると思うのです。我々としては言葉に引きずられないように注意すべきだと思います。

ちなみに英語について言うと、たとえば "change" を "変わる" と "変える" の両方の意味に使う言葉の "ありよう" に、今だに(かすかな)違和感を覚えてしまいます。それだけ日本語が "染み付いて" いるということでしょう。


「Yes・No」と「はい・いいえ」


ここまでは前置き(振り返り)で、以降が本題です。タイトルに書いた「Yes・No」と「はい・いいえ」がテーマです。

さっき書いた「英語に対する違和感」は、多かれ少なかれ誰にでもあると思うのですが、英語を学びたての生徒がまず感じる違和感は、否定疑問文に対する答え方ではないでしょうか。前回の No.251「マリー・テレーズ」でピカソの作品をとりあげたので、美術館での会話を想定した例文を作ってみます。

「Don't you like Picasso ?」
「Yes. I like blue Picasso very much.」

「ピカソは好きではないのですか?」
「いいえ。青の時代は大好きです。」

英語の初学者にとって、それまで「Yes = はい」「No = いいえ」だと何の疑いもなく学んできたはずが、ここに至って覆されてしまうわけです。中学校の先生は「英語では、否定疑問文に対する答え方が日本語とは逆になります」と説明し、教科書や参考書にもそう書いてあります。生徒としては、試験で×をつけられないためのテクニックとして「否定疑問の答えは日本語と逆」と覚え、その通りにしてテストでは間違えないわけです。何となく割り切れない気持ちをいだきつつ ・・・・・・。

しかし学校のテストはともかく、現実社会で英語を使わざるを得ないシチュエーションで否定疑問文に正しく答えられる日本人は少ないのではないでしょうか。英語国に在住している人や、日常的に英語を使っている人ならともかく ・・・・・・。否定疑問文はそんなに出てくるものではないので "助かっている" のが現実だと思います。

そして次のような、ちょっと "ひねった" 設定にすると、もうこれは絶対に無理という感じがします。たとえば、日本人のあなた(男性)が、日本でアメリカ人の女性と親しい仲になったとします。彼女は日本語がほんのカタコトなので、2人の会話は英語でやっていたとします。さて、経緯があって、ある状況になり、彼女があなたに、

 「もう私を好きじゃないんでしょう?」

と言ったとします。あなたはちょっとびっくりして、「いや、好きだよ!」と即座に言いたい。その英語の会話はこうです。

 「You don't love me anymore, do you ?
 「Yes !

ここで「Yes !」 と言える人は、果たしているでしょうか。ほぼいないのではと思います。少なくとも私には無理です(= 無理だと想像されます)。絶対に「No !」と言いそうな感じがする。女性から「もう私を好きじゃないんでしょう?」などと言われてしまう状況は、ある種の "緊迫感" に満ちているはずです。そんな時に学校の教科書や英語の先生の注意は思い出せるはずがないのです。

さらにこういう状況を考えてみます。出張ないしは観光でアメリカに旅行し、レンタカーを運転する時の話です。最大の注意点は(あたりまえですが)右側通行だということです。そこで最初は「右側、右側、右側、・・・・・・」と頭の中で反復しながら慎重に運転することになります。特に交差点での左折が問題で、左側車線に入ってしまって正面衝突した日本人がいるとアメリカ人の知人におどされたあなたは、「右側車線、右側車線、・・・・・・」と反復しながら左折することになります。アメリカの道路は片側4車線などはザラなので、うっかりしやすいのです。

右側通行は誰でもわかりますが、もう少しマイナーな交通規則で日本との違いもあります。交差点で「赤信号であっても、左からのクルマに注意しつつ、右折してよい」のも違いの一つです。アメリカ全土でどうかは知りませんが、少なくともカリフォルニアではそうです。右車線の一番右側で、右折のウィンカーを点滅させて赤信号で止まったままだと、後ろにつけたクルマから "プップッ" とクラクションを鳴らされることとなります。

さて、あなたにアメリカ人の友人がいるとします。その友人がアメリカの交通規則に関して、あなたのアメリカ出張(旅行)を前にテストしてくれることになったとします。友人は次のような意味の質問を英語でします。

 「はい・いいえで答えてください。
   "赤信号で右折してはいけません"
  答えは .... ?」

この質問に英語で正しく "いいえ" と答えられるでしょうか。

 「Answer at "Yes" or "No", please.
   "You must not turn right at red light"
  The answer is .... ?」
 「Yes.

さきほどの「もう私を好きじゃないんでしょう?」と彼女に言われるような緊迫した状況ではないにせよ、ここで Yes とは答えられないのではと思います。いくらアメリカの交通規則の知識があったとしても、日本人としては厳しいのではないでしょうか。内心シメシメと思って No と答えそうな気がする。そして、アメリカ人の友人はあなたがアメリカの交通規則を知っていることがわかっていて、あなたの英語力を試す質問をしたのだと、後になって悟るわけです。


「Yes・No」は「はい・いいえ」ではない


我々が学校で「英語では、否定疑問文に対する答え方が日本語とは逆になる」と覚えたのは、テストで×にならないためにはそれでよいのかも知れないけれど、言葉の本質とは無縁です。本質的で大切なことは、

  英語の「Yes・No」は、日本語の「はい・いいえ」と意味が違う言葉である

という点でしょう。通常の疑問文に対する「Yes・No」の日本語訳は「はい・いいえ」でよいのですが、それは "たまたま" そうなるだけなのです。そう考えるしかない。この、日本語と「意味が違う」ことを「Yes・No 問題」と呼ぶことにします。

日本語では「会話相手の陳述」や「その場に提示された叙述」について、それが正しい場合(= true)は「はい」、違っている場合(= false)は「いいえ」となります。つまり、相手の陳述や叙述全体を肯定するか否定するかで「はい・いいえ」が決まります。英語なら「That's right.」や「That's wrong.」が意味的に相当するでしょう(ほかに It's true. / It's not true. など)。

Yes・No はそうではありません。Yes は、「会話相手の陳述」や「その場に提示された叙述」の全体像ではなく、その中の "動詞" に反応し、その動詞を肯定します。No は逆に否定します。

ここで、動詞の「肯定・否定」と言ってしまうと、陳述全体の「肯定・否定」と紛らわしくなるので、別の言い方をすると、

  動詞(ないしは動詞+補語)で示された状態が
  存在する場合は Yes
  存在しない場合は No

という風に理解すると、be動詞の疑問文や否定疑問文まで含めてわかりやすいと思っています。

 「So, I don't have to go ?」 (疑問調で)
 「No.」

 「では、行く必要ない?」
 「はい」 (=行く必要ないよ)

行く必要性(have to go)が存在しないから No です。上の方で掲げた例文だと、ピカソが好きということが存在するから Yes、彼女への愛が存在するから Yes、赤信号で右折することが存在するから Yes です。「存在する・存在しない」というのは変な言い方ですが、そう受け取るのが一番しっくりすると思っています。上の方に掲げた「ピカソは好きじゃないの?」という例文を「存在する・存在しない」を使って解釈すると、次のようになります。

 「Don't you like Picasso ?」
 「Yes.」

 「"ピカソが好き" は存在しませんか?」
 「存在します」

ちなみに「So, I don't have to go ?」の例で、質問したのが私でアメリカ人の相手が Yes と答えたら「行く必要ないんだ」と判断してしまいそうです。実はこのようなことを、それとは気づかずに過去にやってしまったのではと、内心疑っています。ひょっとしたらビジネスのシーンでこういうことがあったのではないか。日本人との会話の経験が多い英米人なら、それなりに気をまわしてくれそうですが ・・・・・・。


視点が違う


「Yes・No」と「はい・いいえ」の違いは、会話における視点の違いだと言えそうです。最初の「ピカソは好きではありませんか?」という否定疑問文で考えると、もし「ピカソが好きか嫌いかわからないから聞いてみよう」と思うなら「ピカソは好きですか?」と質問するはずです。「嫌いなのでは?」という気持ちがあるから「ピカソは好きではありませんか?」という否定疑問文になる。

ピカソが好きだとすると、2種類の問いかけに対する日本語の答えは「はい、好きです」か「いいえ、好きです」のどちらかになります。つまり日本語では、会話相手の思惑とか、提示された質問内容によって答え方が違ってきます。会話相手との関係性によって答え方を変化させている。

それに対して英語では、ピカソが好きなら疑問文でも否定疑問文でも「Yes, I like Picasso.」です。会話相手との関係性ではなく、自分の意志や考えだけで答え方が決まります。

このことは、このブログの最初の振り返りのところで書いた "雪国実験" と関連すると思います。雪国実験であぶり出されたのは、日本語話者の「地上の視点」と英語話者の「俯瞰する視点」でした。つまり、会話相手との2者関係で答が決まる「はい・いいえ」は「地上の視点」であり、2者関係を脱して "存在する・存在しない" を答える「Yes・No」は「俯瞰する視点」だと言えるでしょう。言い換えると「主観的」と「客観的」の違いに近いかもしれません。

「雪国実験」や「Yes・No 問題」を踏まえると、日本語で考える以上、「地上の視点」や「主観的視点」の方に、モノの考え方のバイアスがかかるのではと思います。一方、英語は英語なりのバイアスがかかります。我々はものごとを考える上で、新たな発想を得るためにも、できるだけ多様なモノの見方をしてみたいわけです。そこはよく考えておくべきだと思います。



ところで「Yes・No 問題」についてですが、鮮明に記憶している映画の1シーンがあります。次にそれを書きます。


ヒューゴの不思議な発明


『ヒューゴの不思議な発明』はマーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画で、2011年に公開されました。日本での公開は2012年です(原題は "Hugo")。

HOGO 2011.jpg
舞台は1931年のパリで、主人公はヒューゴ・カブレという12歳の少年です。彼は孤児で、モンパルナス駅の駅舎を住処すみかとしています。というのも、駅の大時計の守をしている叔父と一緒に暮らしているからで、叔父の仕事を手伝ったりしています。

ヒューゴの心の支えは亡き父が遺した壊れた自動人形(=機械人形、オートマタ。日本で言う "からくり人形")と、その修復の手がかりになる手帳でした。父との思い出の自動人形の修理がヒューゴの目標なのです。彼はあるとき、駅の片隅にあるおもちゃ屋で人形の修復に使う部品をくすねようとし、主人のジョルジュに捕まってしまいます。そして重要な手帳を取り上げられてしまいました。ヒューゴは店じまいした後でジョルジュを尾行し、彼をアパルトマンにたどりつきます。そこにはジョルジュ夫妻とともに養女のイザベルが住んでいて、ヒューゴはイザベルと知り合いになります。彼女は本が大好きな女の子でした ・・・・・・。



ストーリーの紹介はこの程度でやめておきます。ポイントはジョルジュが "ジョルジュ・メリエス" という人物であることです。メリエスは、20世紀初頭の映画の黎明期における映画制作者で、数々の映画技術(ストップモーション、多重露光、低速度撮影、SFX ・・・・・・)を開発した人です。いわば、映画というものを作り上げた人物(の一人)なのです。

  ちなみに、メリエスが映画を製作したのは1896年から第1次世界大戦の始まる前(1913年)までですが、この映画の黎明期にサン・サーンスが世界初の映画音楽を作曲しています(1908年。No.91「サン・サーンスの室内楽」参照)。

映画は「ヒューゴ少年の発明・冒険物語」を予感させるように始まりますが(実際そうなのですが)、次第に映画の話になってきます。メリエス時代の本物の映画がいろいろと出てくる。修復された自動人形がどう動くかもメリエスが作った映画と関係しています。メリエスは映画制作者と同時に自動人形収集家ですが、映画と自動人形は共通点があります。それは興行師の手腕が発揮される「見せ物」という共通点です。もちろん、映画は「見せ物」として始まったわけです。

要するに『ヒューゴの不思議な発明』は "映画へのオマージュ" であり、スコセッシ監督の映画愛に溢れた "映画賛歌" なのです。さらに "映画についての映画" とも言えるでしょう。部分的に3Dが使われているのですが(駅のホームのシーンなど)、わざわざ3Dを使ったのは「観客に驚きを与える」という映画の本来の姿をしのんでのことでしょう。"映画についての映画" の傑作は、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年、イタリア)ですが、スコセッシ監督はそれを強く意識したと考えられます。



この映画で、私が一つだけ覚えている英語の台詞せりふがあります。それは映画のストーリーで重要なものでは全くなく、また名言でもありません。強く覚えているのは "アレッ" と思ったからです。

上に書いたように、ヒューゴはイザベルと知り合いますが、初めて名乗りあったのはジョルジュのアパルトマンの書斎でした。イザベルは "本の虫" ともいえる少女ですが、ヒューゴは本が好きなようには見えません。イザベルはヒューゴに質問します。


Isabelle :
  Don't you like books ?
Hugo :
  No... No,I do. My father and I used to read Jules Verne together.

「Hugo」(2012)

【試訳】
イザベル
  本は好きでないの?
ヒューゴ
  いや、好きだよ。お父さんと一緒によくジュール・ヴェルヌを読んだ。


アレッ、と思ったのは、ヒューゴが言う "No" です。ここは "Yes" でないといけないはずです。そういう風に言うべきだし、我々も中学の英語の授業以来 "Yes" だと教えられてきたわけです。"No,I do" というような言い方は、英語としてはおかしい。否定疑問に対する答えなのに「No = 日本語の "いいえ"」になってしまっています。

Hugo0.jpg
(Isabelle) By the way, my name is Isabelle.

このあとイザベルはヒューゴに「本を借りてあげよう」と言うが、ヒューゴが否定的なので次の会話になる。

Hugo1.jpg
(Isabelle) Don't you like books ?

Hugo2.jpg
(Hugo) No... No,I do. My father and I used to read Jules Verne together.

なぜ映画の脚本で "No" としたのでしょうか。推測するに、これは「子供らしい、言い間違い」ではと思います。ヒューゴは12歳です。12歳の子供なら言い間違ってもおかしくはないので、脚本がそうなった。これも推測ですが、子供は家庭内での会話で親から、"Noではないですよ。Yes です。そう言いなさい" と言葉のしつけをされて、「Don't you like books ?」に「Yes,I do.」と正しく答えられるようになるのではと思います。

思いあたるのはヒューゴが孤児だということです。父親は事故で死んでしまいました。父親と一緒に暮らしているときも母親不在状態だったはずです。でないと孤児にはなりません。そういう家庭環境も考えた脚本なのではと想像しました。



言葉の意味は、その言葉を使う文化の中で規定されます。子供は生まれてから成人するまでのあいだ、家庭や社会で成長していく中で言葉が何を意味するのかを体得していきます。ヒューゴの "No, I do." はそのことを示していると思います。

疑問文と否定疑問文に対する答え方で言うと「同じ答え方をするのが英語、違う答え方をするのが日本語」でした。これは "言葉のありよう" の2つの面です。どっちもありうるし、どちらでも一貫した言葉の体系として成立します。しかし子供は育った文化の中でどちらかの意味合いを体得していき、それが "モノの見方" を規定することになる ・・・・・・。

そのように考えてみると『ヒューゴの不思議な発明』での会話は、言葉の重要性が理解できるシーンなのでした。



 補記:IE 11 

否定疑問文について軽く思い出したことがあるので書いておきます。Windows7/10で Internet Explorer 11 を使ってページを開いたとき、次のメッセージが出ることがあります。


このページの ActiveX コントロールは、安全でない可能性があり、ページのほかの部分に影響する可能性があります。ほかの部分に影響しても問題ありませんか ?

「はい」    「いいえ」

(Internet Explorer 11 のメッセージ)

ネット上のちゃんとしたページにアクセスしてこのメッセージが出た経験はありませんが、たとえば個人の PC の中に作った HTML文書の中に Javascript があったりすると、その内容によっては上記メッセージが出ることなります。もちろん自分で作った文書だと問題ないので「はい」をクリックするわけです。

しかし、考えてみるとこのメッセージは意味的に否定疑問です。これを英語に直訳して次のようなメッセージにしたらどうでしょうか。


【直訳】

An ActiveX Control on this page might be unsafe to interact with other parts of this page. Isn't there any problem with this interation ?

「YES」    「NO」


このメッセージだと、問題ないのなら「NO」をクリックすることになります。本文中に書いた、YES = 存在、NO = 非存在、という言い方からすると、問題が存在しないから「NO」です。・・・・・・ ということから類推すると、日本の企業に勤務している英米人で、まだ日本語経験が少なく、かつ、仕事で日本語版 Windowsを使わざるをえない人は、上記の Internet Explorer 11 の日本語メッセージに戸惑うこともあるのではないでしょうか(想像ですが)。

ちなみに、英語版Windows の実際のメッセージを調べてみると、「直訳」のようなメッセージではなく、


【英語版 Windows】

An ActiveX Control on this page might be unsafe to interact with other parts of this page. Do you want to allow this interation ?

「YES」    「NO」


でした。第1センテンスは「英語版の直訳が日本語版」ですが、第2センテンスは違います。英語版は否定疑問文ではなく、allow という語が使ってあって明快です。これなら