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No.310 - 高校数学で理解するRSA暗号の数理(1) [科学]

No.235「三角関数を学ぶ理由」では、私たちが学校で勉強を学ぶ目的の一つが「論理的に考える力を養う」こととし、その典型例として数学をとりあげました。数学は「論理のみで成り立っている」からです。そのことを改めて示すために sin θ の微分が cos θ になることを、三角関数のそもそもの定義に立ち返って証明しました。

今回はその継続・発展で、別の数学の問題を取り上げます。現代社会で広く使われている公開鍵暗号(その中の RSA暗号)です。これを取り上げる理由は、

◆ 2000年にわたる数学(数論 = 整数論)の基礎の上に作られた暗号である。

◆ インターネットの重要技術の一つであり、現代社会のインフラとなっている。

◆ 高校生程度の前提知識があれば、論理的思考を積み重ねることで十分に理解できる(= タイトルの「高校数学で理解する」の意味)。

の3点です。以下の文章は元々別の目的のために作ったものですが、ここに掲載することにします。


公開鍵暗号


公開鍵暗号とは、

◆ 暗号化の手順と、そこで使用する暗号化のための "鍵" が公開されている(その鍵が "公開鍵")。

◆ 暗号文を解読するための手順も公開されているが、それに使う "鍵" は秘匿されている(その鍵が "秘密鍵")。

というタイプの暗号です。公開鍵暗号のメリットは多々ありますが、一番のメリットは「鍵を配送するコストがかからない」ことです。全ての鍵を秘匿する暗号だと、その鍵をどうやって配送して暗号化をしたい人に届けるかが大きな問題となります。暗号化通信で配送するというのは解決になりません。その暗号化通信の暗号鍵をどうやって配送するかという問題が残るからです。

公開鍵暗号では暗号化のための鍵がオープンなので、配送のコストはゼロです。暗号文を受け取りたい人が公開鍵と秘密鍵を生成し、公開鍵をオープンにすると誰でもその人に暗号文を送ることができます。

公開鍵暗号の設計の最大のポイントは、あたりまえですが、公開鍵から秘密鍵を推定したり導出したりできないことです。まさにそこに数学が使われていて、暗号文を解読できないようになっています。この「暗号化の鍵を公開してしまう」という革新的なアイデアというか、まさに "究極の逆転の発想" を論文として発表したのは、当時スタンフォード大学の研究者だったディフィー(米)とヘルマン(米)で、1976年のことでした。

Turing Award 2015.jpg
ディフィーとヘルマンは公開鍵暗号の発明の功績で、コンピュータ・サイエンス分野のノーベル賞といわれるチューリング賞を 2015年に受賞した。

そのディフィーとヘルマンのアイデアに基づいた最初の暗号が RSA暗号で、現代でも盛んに使われています。これは 1978年に MIT のリベスト(米)、シャミア(イスラエル)、エーデルマン(米)の3人のよって発明され、3人の頭文字をとってRSAと呼ばれています。

実はこの RSA暗号は、実用として何に使ったらいいのか、発表当時は使い道が分からなかったといいます。それが現代ではインターネットによる通信の重要技術として広く使われている。これにはコンピュータの処理速度の飛躍的向上も貢献しています。革新的な技術は、その応用環境が整った時点で、後から実用化される。よくあることです。

Turing Award 2002.jpg
RSA暗号を発明した3人は、チューリング賞を 2002年に受賞している。

以下、このRSA暗号の数理を順に見ていきます。


RSA暗号の例題


まずRSA暗号はどういうものか、それを極めて簡単な例題で説明します。

平文ひらぶん(=暗号化する文)を P で、またそれを暗号化した暗号文を C で表します。例題として平文は1文字だけの英字で、それを整数に変換したものとします。RSA暗号にちなんで大文字の R が平文です。コンピュータで使われる ASCII(アスキー)コードでは、英大文字・英小文字・数字・特殊記号を 1128 の数で表すので、それを使って数字化すると R は 82 です。つまり、

P = 82

が例題の平文です。

公開鍵は2つの数字のペア en 、秘密鍵は一つの数字 d で、例題としては、

公開鍵 : e=133 n=143
秘密鍵 : d=37

とします。この公開鍵と秘密鍵の作り方は後で述べます。平文から暗号文への変換(=暗号化)と、暗号文から平文への変換(=復号化)を次の計算で行います。以降の記述では、ab で割った余り(=剰余)を a mod b と書きます(プログラム言語やEXCELで mod ab と書くのと同じ意味です)。

暗号化 : C = P e modn
復号化 : P = C d modn

例題の平文を暗号化の式に入れると、

C = 82 133 mod143 =4

となり、平文 "82" に対する暗号文は "4" です。 82 133 は巨大な数ですが、剰余を求めるときにこの巨大数を計算する必要は全くありません。上の程度の計算なら電卓でも簡単にできます。そのやり方は後ほど示します(「4. RSA暗号の証明」)。暗号文の復号化は、暗号文 "4" を復号化の式に入れると、

P = 4 37 mod 143 = 82

となり、元の平文である "82" が復元できました。なお、この例では平文をわずか1文字( 27 以下の数字)としましたが、実際に使われる暗号では 2 1024 程度(10進で約300桁程度)の数字です(= 平文を数字化したもの。平文が長い場合は複数に分割)。また、公開鍵 en と秘密鍵 d も同程度の大きさの数字です。

この計算で暗号化と復号化が可能なのは、公開鍵と秘密鍵の作り方に工夫があるからです。まず n は2つの素数 p=11 q=13 の積です。

また e は、e p-1q-1=120 との最大公約数が 1 であるように決めてあります。 e=133=7·19 なので、133120 との共通の約数は 1 だけです。さらに秘密鍵である d は、

d·e mod p-1q-1 = 1

となるように決めてあります。 37·133=4921=41·120+1 なので成り立っています。このように鍵を仕込んでおくと暗号化と復号化が可能になる。そのことを証明するのが、本記事の目的です。その証明を、前提とする数学知識を最小限にしてやってみたいと思います。



公開鍵暗号は「公開鍵から秘密鍵が導出できない」ことが必須です。RSA暗号では、 n=p·q と素因数分解ができれば、

d·e mod p-1q-1 = 1

の式を解いて d が求まります。しかし実用で使われるRSA暗号は最低でも n の桁数が10進数で300桁程度です(2進数で 1024ビット程度。平文も同等の長さ)。この程度の大きさの整数の素因数分解は、超高速コンピュータをもってしても困難です。もしコンピュータの速度がさらに向上するなら、鍵の桁数をさらに大きくすればよい。この素因数分解の困難性が、RSA暗号が成り立つ理由です。



以降でRSA暗号の暗号化と復号化の式が成り立つことの証明を行います。さらに、単に成り立つことだけでなく、RSA暗号に関わる各種の式が計算可能であることの説明をします。"式が正しい" ことと、その "式が実用的に計算可能である" ことは違うからです。素因数分解がまさにその例です。

まず、整数の性質についての用語の定義からです。用語は RSA暗号の式の証明に必要なものだけに絞ります。以降に現れる "数" やそれを表す記号は、ほとんど場合は整数のことですが、自然数(1以上の整数)を意味する場合もあります。どちらかは文脈から明らかなので、いちいち断りなく使います。


準備:用語の定義


割り切る・約数・因数・最大公約数

整数 Na で割ったときの余りがゼロのとき、Na で割り切れると言い、また、aN を割り切ると言います。このことを記号を使って、

a|N

と書きます。またこのときの aN約数と呼びます。 N|N 1|N は常に成り立つので、1NN の約数です。

N が 2つ以上の数の積で表されるとき、そのおのおのの数を N因数と呼びます。因数は約数と同じものですが、見方の違いと言えるでしょう。

2つの数、NM があったとき、共通の約数を公約数と言います。また、公約数のうち最大のものを最大公約数と呼び、 gcd NM で表します。

素数と素因数分解

2以上の整数 N の約数が 1 と N のみのとき、N素数と言い、そうでない数を合成数と言います。合成数は 1 と N 以外の約数を持ちます。約数(=因数)が素数のとき、それを素因数と呼びます。N が素数の場合は N が素因数です。

合成数は素因数の積で表現できます(=素因数分解)。なぜなら、定義によって合成数 N は、1 でも N でもない数 ab を使って N=a·b と表現(=分解)できますが、ab が合成数なら、さらに分解を繰り返すことによって最終的には素数の積にたどり着くからです。なお便宜上、素数はそれ自身が素因数分解であるとします。

「素数」と「大きな数の素因数分解の困難性」が RSA暗号の基礎になっているのは、例題で説明した通りです。

素因数分解の一意性

素因数分解は、かけ算の順序を無視して一意に決まります(=素因数分解の一意性)。これは自明のように思えますが、証明をすると次の通りです。

いま(かけ算の順序は無視して)異なった2種類の素数列の積で表現できる合成数がある(=素因数分解が一意ではない)と仮定します。すると、そのような最小の数、N があるはずです。このとき N は、 pi qi を素数として、

N= p1 p2 p3 pr = q1 q2 q3 qs

と表現できます。ここで p1 に着目すると p1|N なので、 p1|qi となる qi があるはずです。かけ算の順序は無視するので、 p1|q1 として一般性を失いません。ところが q1 は素数なので、 q1=p1 しかあり得ない。そこで式の全体を p1 で割ると、

N p 1 =p2 p3 pr =q2 q3 qs

となります。これは N p 1 が2つの異なった形に素因数分解できることを示しています。ところが N p 1 N より小さい数なので「 N が2つの異なった形に素因数分解できる最小の数」ということに矛盾します。従って「2つの異なった形で素因数分解できる数がある」という仮定が誤りであり、素因数分解の一意性が示されました。

互いに素

整数 N と 整数 M の最大公約数が 1 のとき、つまり gcd NM = 1 のとき、「NM互いに素である」と言います。これは NM が共通の素因数を持たないことと同じです。なお、 gcd N1 = 1 は常に成り立つので、1 は他の数と互いに素です。

以降の、RSA暗号の証明に至るプロセスでは「互いに素」に関連した数々の定理や証明が出てきます。RSA暗号は「素数」と「互いに素」の上に構築された暗号です。



用語の定義はここまでです。以降はRSA暗号の成立性の証明に入ります。まず、数の "合同" の概念からです。


1. 合同


合同の概念はRSA暗号の根幹の一つです。m を 2 以上の整数とするとき、2つの整数 a, b について

・ am で割ったときの余りと、bm で割ったときの余りが等しいとき、

あるいは同じことで、

・  a-b m で割り切れるとき、つまり m| a-b のとき、

abm を法として合同であると言い、

ab mod m

と書きます。少々ややこしいですが、はじめに書いたように amod b とすると「ab で割った余り」の意味です。以下に、合同の性質でRSA暗号の証明に必要なものをあげます。


1.1  

ab mod m  かつ、
cd mod m  のとき、

1.1a  a+cb+d mod m

1.1b  a-cb-d mod m

1.1c  acbd mod m


これらの性質は、それぞれの数を、

a=ka·m+r1 b=kb·m+r1 c=kc·m+r2 d=kd·m+r2

というように書いて計算をすればすぐにわかります。たとえば 1.1c(合同式の乗算)を証明するには、ac の式をかけ算し、bd の式をかけ算して、

m | ac-r1r2 m | bd-r1r2

が得られますが、2つの数が共に m で割り切れると、その差も m で割り切れます。従って、

m | ac-r1r2 - bd-r1r2 m | ac-bd acbd mod m

となります。


1.2  合同式の累乗(冪乗)

ab mod m なら、2以上の r について、

ar br mod m である。


これは 1.1c で、 c=a d=b とおいて 1.1c を "繰り返して使う" ことでわかります。"繰り返して使う" ことを証明として書くなら数学的帰納法になるでしょう。以降は「互いに素」に関連した合同の性質です。


1.3  互いに素(1)

axbx mod m かつ、
xm が互いに素なら、

ab mod m


合同の定義により

m | ax-bx m | xa-b

となります。ここで一般的に次の 1.3a が成り立つことに注意します。

1.3a  

mx と互いに素とする。

m|xn ならば m|n


mx は互いに素なので、mx に共通の素因数はありません。従って、m を素因数分解したときに現れる素因数は、すべて n の素因数のはずです。でないと、 m|xn とはならないからです。従って m|n となります。このことを m|xa-b に適用すると、

m | a-b a b mod m

となり、1.3 が証明されました。1.3 は以降の証明にたびたび出てくる重要な定理です。1.3 を一般化したのが次の 1.4 です。


1.4  互いに素(2)

axby mod m かつ、
axby mod m かつ、
xym と互いに素なら、

ab mod m


a, b, x, y を、m と 剰余 r を使って次のように表します。

a =ka·m+ra b =kb·m+rb x =kx·m+r y =ky·m+r   0 ra rb r < m

このようにおくと、 axby mod m より、

r·rar·rb mod m

となります。一方、rm は互いに素です。なぜなら、もし rm1 ではない共通の約数 c をもつとすると、上の x の式から cx の約数にもなり、xm が互いに素ではなくなるからです。また、y の式から cy の約数でもあり、ym が互いに素という前提にも反します。このように rm は互いに素なので 1.3 を使って、

rarb mod m

となりますが、 0 rarb<m なので、 ra=rb となり、

ab mod m

が示されました。


1.5  互いに素(3)

mn は互いに素とする。

ab mod m かつ、
ab mod n なら、

ab mod mn


ab mod m なので、合同の定義から m|a-b です。また、 ab mod n なので、合同の定義から n|a-b であり、 a-b=k1n と表せます。この式の a-b m|a-b に代入すると、

m|k1n

となります。mn は互いに素なので 1.3a を使うと、

m|k1

となり、従って k1=k2m と表せることになります。この k1 a-b=k1n に代入すると、

a-b=k2mn mn|a-b ab mod mn

となって 1.5 が証明できました。



合同には数々の性質や定理がありますが、RSA暗号の証明に必要なものは以上です。次に、2つの数の最大公約数を求める「ユークリッドの互除法」です。これは最大公約数を求める計算方法というだけでなく、RSA暗号において公開鍵と秘密鍵を生成する際に必須のものです。


2. ユークリッドの互除法


ユークリッドの互除法は 2つの自然数(ab a > b とします)の最大公約数を求める計算方法です。これはユークリッドの数学書である『原論』にあります。『原論』は紀元前 300年頃の成立といいますから、2300年ほど前の書物ということになります。

この計算方法では、割り算(除算)を何ステップか繰り返します。割り算において被除数(=割られる数)と除数(=割る数)、(=答)、剰余(=余り)の関係は、

被除数 = 商 × 除数 + 剰余

ですが、まず第1ステップとして、

被除数1 a
除数1b

とおき、

被除数1 = 商1 × 除数1 + 剰余1

の計算をして、商1と剰余1を求めます。次に第2ステップとして、

被除数2 = 除数1
除数2= 剰余1

とおいて割り算を行い、商2と剰余2を求めます。つまり、

被除数2 = 商2 × 除数2 + 剰余2

です。この「除数と剰余を新たな被除数と除数にして割り算をする」ステップを次々と繰り返して行くと、剰余は次第に小さくなっていき、ついには剰余がゼロ(= 被除数が除数で割り切れる)となります。この時点での除数(= 一つ前のステップの剰余)が ab最大公約数です。

なぜそうなるのかが以下ですが、ポイントは割り算の式から明らかなように「被除数と除数の公約数は、剰余の約数でもある」ことです。つまり ab の約数であるという性質が剰余に引き継がれ、それは割り算のステップを繰り返してもずっと続きます。しかも、剰余はステップが進むにつれて小さくなっていくので、最大公約数に近づく。そして割り切れたときの除数(一つ前のステップの剰余)は、約数であると同時に最大の約数である。おおまかにはそのような理解です。


2.1  ユークリッドの互除法

ab を自然数とし、 a > b とする。

a=q1·b1+r1 ⋯(1) b=q2·r1+r2 ⋯(2) r1=q3·r2+r3 ⋯(3) r2=q4·r3+r4 ⋯(4) ri-4=qi-2·ri-3+ri-2 ⋯(i−2) ri-3=qi-1·ri-2+ri-1 ⋯(i−1) ri-2=qi-0·ri-1+ri-0 ⋯(i) ri-1=qi+1·ri ⋯(i+1)

となったとき、

gcd ab = ri

である。


ab a > b )の公約数を x とします。すると、 x|a かつ x|b なので、 (1) 式から x|r1 になります。この x|r1 x|b から (2) 式を使って x|r2 が得られます。

その次には x|r1 x|r2 、(3) 式から x|r3 になる。以上を最後まで繰り返すと、次のようになります。

x|a,x|b,(1)式  x|r1 x|b,x|r1,(2)式  x|r2 x|r1,x|r2,(3)式  x|r3 x|ri-4,x|ri-3,(i−2)式  x|ri-2 x|ri-3,x|ri-2,(i−1)式  x|ri-1 x|ri-2,x|ri-1,(i)式  x|ri

以上のように、最終的には x|ri となり、

ab の公約数は ri の約数である

ことが示せました。同時に、

ab の公約数の最大値は ri である

ことも分かります。



次に、ユークリッドの互除法の最終プロセスに現れる剰余は、全てのステップの剰余の約数になっていることを示します。このことを最終ステップから順に遡って検証すると、

(i+1)式  ri|ri-1 ri|ri-1,(i)式  ri|ri-2 ri|ri-2, ri|ri-1,(i−1)式  ri|ri-3 ri|ri-3, ri|ri-2,(i−2)式  ri|ri-4 ri|r2, ri|r3,(3)式  ri|r1 ri|r1, ri|r2,(2)式  ri|b ri|b, ri|r1,(1)式  ri|a

となり、 ri|b かつ ri|a 、つまり、

ri ab の公約数である

ことが示せました。



従って、

◆  ri ab の公約数である
◆ ab の公約数の最大値は ri である

の2つから、 gcdab=ri が証明できました。

 計算量 

RSA暗号にとってのユークリッドの互除法の意味ですが、次の2つが重要です。まず第1に「2つの数の最大公約数は、素因数分解なしに計算できる」ことです。これはすなわち「2つの数が互いに素であることが素因数分解なしに示せる」ことも意味します。

我々が普通、学校で習う最大公約数の求め方は、2つの数を素因数分解して共通の素因数を探すというものでした。共通のものがなければ最大公約数は 1(=互いに素)です。しかし、数が巨大になると素因数分解が困難になります(それがRSA暗号が成り立つゆえんです)。ユークリッドの互除法を使うと「最大公約数」や「互いに素」が素因数分解なしに示せるのです。

第2は、ユークリッドの互除法が高速に計算できることです。ユークリッドの互除法では、一つのステップの剰余が次のステップの除数になります。次のステップの剰余は除数より小さいので、

0 < ri+1 < ri

となりますが、 ri+1 0 に近いと計算は急速に収束します。また ri+1 ri に近い場合でも、その次のステップの商が大きくなり、 ri+2 0 に近くなるので、計算は収束することになります。従って、最も計算が長引くのは、 ri+1 ri の半分程度で、それが連続する場合だと推測できます。

実は、ユークリッドの互除法のステップが最も長くなるケースが知られています。それは 割り算の商が常に 1 になるケースで、ab が(たまたま)フィボナッチ数列の隣り合う2項だとそうなります。フィボナッチ数列とは、

F0 = 0 ,  F1 = 1 Fn+2 = Fn+1 + Fn

で定義される数列で、実際に書いてみると、

0 1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89

です。いま、 a=144 b=89 としてユークリッドの互除法の計算をしてみると

144=1·89+55 89=1·55+34 55=1·34+21 34=1·21+13 21=1·13+8 13=1·8+5 8=1·5+3 5=1·3+2 3=1·2+1 2=2·1

となって、10ステップかかります。剰余が減る割合が常に 0.6 倍程度で、なかなか減りません。商が常に 1 なのでこうなります。しかし、なかなか減らないが毎回 0.6 倍程度にはなり、マクロ的には急速に小さくなる。証明は省略しますが、ab が10進で N 桁の数字でフィボナッチ数列の隣り合う2項だった場合でも、ユークリッドの互除法は 5 N ステップ以下で終了します。

これは ab が300桁程度の数字のとき、それが偶然にもフィボナッチ級数の隣り合う2項であるという最悪の最悪の場合でも 1500回の割り算で終了することを意味します。この程度の計算はもちろんコンピュータで可能です。



本題に戻ります。最初の「RSA暗号の例題」のところで公開鍵の作り方を書きました。まず2つの素数、pq を選び、 n=p·q とします。次に、 p-1q-1 との最大公約数が 1 であるような数(=互いに素)を選び、それを e とします。その en のペアを公開鍵とするのでした。

n と同程度の大きさの数、e をランダムに選んだとき、その e p-1q-1 と互いに素であるかどうかは、ユークリッドの互除法で検証可能です。そしてこの検証は pq が巨大な数であっても可能です。つまりユークリッドの互除法は公開鍵が現実に作成できるという数学的根拠になっています。

 アルゴリズム 

2.1 において、ab の最大公約数は ri でしたが、この ri は (1)式における b r1 の最大公約数にもなります。なぜなら、b r1 の最大公約数を求めるためには (2)式から互除法の計算を始めればよく、その結果は ri になるからです。これは次を意味します。

2.1a  

ab を自然数とし、 a>b とする。a

a = q·b+r 1q 0<r

と書き表せるとき、

gcd ab = gcd br

である。


つまり、ユークリッドの互除法は

ab の最大公約数を求める問題」を「より小さな数である br の最大公約数を求める問題」に置き換える

ものといえます。この置き換えは次々と可能で、置き換えるたびに問題がより "小さく" なっていく。これがユークリッドの互除法の本質です。

そのユークリッドの互除法は "世界最古のアルゴリズム" と言われています。そして、アルゴリズムを記述するのに最適な言語はプログラミング言語です。2.1a の考え方に基づき、ユークリッドの互除法で最大公約数を計算するプログラムを掲げます。

2.1b  アルゴリズム

ユークリッドの互除法で a と b の最大公約数を求める関数 EUCLID(Javascriptで記述)

function EUCLID( a, b ) {
 if( a % b == 0 )  // ①
  return b;
 else
  return EUCLID( b, a % b );
}


①の "%" は Javascript の剰余演算子で、"a % b" は "a を b で割った余り" という意味です(a mod b と同じ)。なお、このプログラムは a<b でも動作します。

もちろん、Javascript でなくても、C++ でも Python でも記述できます。このようにプログラムで書くと簡潔になって、ユークリッドの互除法というアルゴリズムの本質がクリアにわかります。

 拡張ユークリッドの互除法 

ユークリッドの互除法の "副産物" として、次の定理が成り立ちます。

2.2  

ab を自然数とする。このとき適当な整数 uv をとって、

gcd ab=u·a+v·b

と表せる。


この定理の証明ですが、ユークリッドの互除法の計算過程を振り返ると、

a=q1·b1+r1 ⋯(1) b=q2·r1+r2 ⋯(2) r1=q3·r2+r3 ⋯(3) r2=q4·r3+r4 ⋯(4) ri-3=qi-1·ri-2+ri-1 ⋯(i−1) ri-2=qi-0·ri-1+ri-0 ⋯(i) ri-1=qi+1·ri ⋯(i+1)

でした。ここで (1) を変形して、

r1 = u1 ·a + v1 ·b

とします。 u1 = 1 ,   v1 = -q1 です。次に、今求めた r1 (2) を使うと、

r2 = u2 ·a + v2 ·b

の形に表せることになります。 u2 = -q2 ,   v2 = 1 + q1 q2 です。さらに、求まった r1 r2 (3) を使って、

r3 = u3 ·a + v3 ·b

と表せることが分かります。このステップを順に続けていって (i) まで到達すると、

ri =u ·a+v·b
 u, v qj 1ji の式

となることがわかります。 ri = gcdab だったので、2.2 が証明できました。uv のうち、一つは正の整数、もう一つはゼロか負の整数です。一つがゼロであるのは、 a=b のときです。なお、2.2 を満たす uv に、

u·a+v·b=0

を満たす uv をそれぞれ足し込んでも 2.2 が成立することが明白です。つまり 2.2 を満たす uv は1組というわけではありません。

なお、2.2 は次のように言い換えることができます。

2.2a  不定方程式の整数解

ab を自然数とする。このとき、不定方程式

ax+by=gcd ab

は整数解をもつ。



 拡張ユークリッドの互除法のアルゴリズム 

ユークリッドの互除法を拡張して、ab が与えられたとき、 gcdab と、

au+bv=gcdab

を満たす uv(=無数にある解のうちの一つのペア)を同時に計算してしまうアルゴリズムを考えてみます。

考え方は 2.1b のユークリッドの互除法と同じで、解くべき問題を「等価でより小さな問題」に置き換えます。そのために a=qb+r とおくと、2.1a より、

gcdab=gcdbr

なので、問題は次のように書き換えられます。

qb+ru+bv=gcdbr

ここで、未知数の uv を次のように変換します。

u=V v=U-qV

これを代入して式を整理すると

bU+rV=gcdbr

となり、"小さな問題" に変換することができました。この考え方でアルゴリズムを記述すると次のとおりです。

2.2b  拡張ユークリッドの互除法

a と b から拡張ユークリッドの互除法で(u, v, 最大公約数)の3つを同時に求める関数 extdEUCLID(Javascriptで記述)

function extdEUCLID( a, b ) {
 var r = a % b;  // ①
 if( r == 0 )
  return { u : 0, v : 1, gcd : b };  // ②
 else {
  var q = Math.floor( a / b );  // ③
  var s = extdEUCLID( b, r );  // ④
  return {
   u : s.v,  // ⑤
   v : (s.u - q * s.v),  //
   gcd : s.gcd  //
  };
 }
}


以下は、このアルゴリズムの補足説明です。

① var:変数の宣言。%:剰余演算子。

② a が b で割り切れるなら解が求まる。自然な解を関数値として返す。関数値は3つの変数(u, v, gcd)をひとまとめにしたオブジェクト。

③ 商を求め、小数点以下を切り捨て整数化する。Javascript には実数・整数の区別がないので整数化(組み込み関数の Math.floor)が必要。

④ 小さな問題として計算する。

⑤ 変数を元に戻して、関数値(u, v, gcd)を返す。

この拡張ユークリッドの互除法のアルゴリズムは、2.1b のユークリッドのアルゴリズムとほぼ同じです。ただし、uv の計算のために変数を変換しているので、最大公約数を計算したあとに元の変数値を求める必要があります(=⑤)。そこが違います。

このことから、拡張ユークリッドの互除法の計算量は、ユークリッドの互除法のほぼ2倍だと推測できます。計算は少々複雑になりますが、たとえ ab が巨大な数であっても、コンピュータで高速に計算できる。このことは次の「整数の逆数」の項で述べるように、RSA暗号にとっての重要ポイントになります。

 整数の逆数 

2.2 から導かれる次の定理は、RSA暗号にとって重要です。

2.3  逆数の存在定理

gcdam=1 なら(= am が互いに素なら)、

a·b1 modm

となる b が存在する。この b 1b<m の範囲では一意に定まる(= m を法として唯一)。


2.2 において aと互いに素な数 m を選び、 b=m とおくと、 gcd am=1 なので、適当な uv をとることにより、

u·a+v·m=1

とすることができます。すなわち、

a·u1 modm

となり、2.3 が示されました。2.3 において b1 b2 の2つの解があるとすると、

a·b11 mod m a·b21 mod m ab1-b20 mod m m|ab1-b2

となり、am は互いに素なので 1.3a より、

m | b1-b2 b1b2 mod m

となります。従って、 1b<m の範囲に b があり、かつ、この範囲で b は一意に定まります。m を法として b と合同な数も解であることは明白ですが、それらの解は m を法として唯一です。



2.3 の "逆数" を計算するアルゴリズムは、拡張ユークリッドの互除法2.2 のアルゴリズム(2.2b)と基本的に同じです。

2.3  逆数の計算アルゴリズム

m を法とする a の逆数を求める関数 INVERSE(Javascriptで記述)

function INVERSE( a, m ) {
 var b = extdEUCLID( a, m ).u % m; // ①
 if( b < 0 ) b = b + m;
 return b;
//
 function extdEUCLID( a, b ) {
  var r = a % b;
  if( r == 0 )
   return { u : 0, v : 1, gcd : b };
  else {
   var q = Math.floor( a / b );
   var s = extdEUCLID( b, r );
   return {
    u : s.v,
    v : (s.u - q * s.v),
    gcd : s.gcd
   };
  }
 } // extdEUCLID 終わり
//
} // INVERSE 終わり


①で、extdEUCLID のアルゴリズム(2.2b)を使って u を求め、それを m 未満の自然数に直して答えの b を求めています。このアルゴリズムは正確に言うと、am が与えられたとき、

a·bgcdam mod m

となる b を求めるアルゴリズムです。am が互いに素でなくても成立します。



この "逆数の存在定理" は RSA暗号において秘密鍵の算出に使われています。冒頭の「RSA暗号の例題」に書いたように、RSA暗号の公開鍵と秘密鍵は、まず秘密の2つの素数 pq を決め、

n=p·q

とします。そして e を、

gcde p-1q-1=1

となるように決め、ne を公開鍵とするのでした。そして秘密鍵 d を、

d·e1 mod p-1q-1

を満たす数とします。この秘密鍵 d の計算は、 mod p-1 q-1 の世界で e の逆数を求めていることに他なりません。逆数の存在が保証されるのは、e p-1 q-1 と互いに素という条件で決めたからです。さらに、この逆数の計算アルゴリズムは 2.2b の拡張ユークリッドの互除法と同じなので高速に計算できることが重要ポイントです。



普通、整数の "逆数"は(整数の範囲で)定義できません(1以外は)。しかし、" modm の合同の世界" では、m と互いに素な数 a に対して逆数が定義できることになります。つまり整数の範囲で「割り算」が定義できる。

たとえば mod10 の世界では 7×3 = 1 であり、7 の逆数は 3 です。割り算は逆数のかけ算なので、たとえば 8÷7 = 8×3 = 4 mod10 の世界)といった演算が定義できます。"検算" をすると 4×7 = 8 mod10 の世界)なので合っています。

mod10 の場合は実用的な意味はありませんが、p を素数としたとき「 modp の世界」は大変重要です。というのも p 未満の自然数はすべて p と互いに素だからです。つまり p 未満の全ての自然数に対して "逆数" が定義できる。ということは、p 未満の2つの自然数の "除算" が定義できます。さらに、0p 未満の自然数を合わせると加減乗除が行えることになります。

加減乗除が定義された集合を「体(Field)」と呼びます。有理数、実数、複素数は「体」ですが、「0p 未満の自然数」も体になります。これを F p と表記します。この集合の要素の数は有限個なので「有限体」です。 F 13 の場合( mod13 )で "逆数" の計算をしてみると、

1 ·1 1mod13 2 ·7 1mod13 3 ·9 1mod13 4 ·101mod13 5 ·8 1mod13 6 ·111mod13 7 ·2 1mod13 8 ·5 1mod13 9 ·3 1mod13 10·4 1mod13 11·6 1mod13 12·121mod13

となり、0 以外の F 13 の要素は、その逆数(=逆元)と1対1に対応していることがわかります。

F p においては "整数 "の加減乗除を "自由かつ厳密に" 行うことができます。これは、全ての情報を2進数に帰着させて扱うデジタル・コンピュータとの相性がよい。このため、公開鍵暗号の中には F p の演算を利用したものがあります。

なお、p を素数としたとき「p 未満の自然数はすべて p と互いに素」ということは「 p-1! p は互いに素」ということです(" ! " は階乗記号)。これは次の「フェルマの小定理」の証明に出てきます。


3. フェルマの小定理


フェルマの小定理は RSA暗号の根幹にかかわるものです。フェルマは17世紀フランスの大数学者(1607-1665)で、有名なフェルマの最終定理(大定理)と区別するために「小定理」の名があります。


3.1  フェルマの小定理

p を素数とし、ap とは素な数とすると、

a p-1 1 mod p

が成り立つ。


これは少々意外な定理です。我々が学校で習う素数は、自身と 1 以外の約数を持たない数という定義か、素因数分解の定理か、そういうものです。「素数がもつ性質」に言及した定理はあまり思い浮かばない。しかしフェルマの小定理は、素数であれば必ずこうなると言っているわけです。これは次のように証明できます。

1 2 3 p - 1 のそれぞれに a をかけて、

a 2 a 3 a p - 1 a

という数列を作ります。そして、それぞれの数を p で割った剰余を bi とします。つまり、

a b 1 mod p 2 a b 2 mod p 3 a b 3 mod p p-1 a b p-1 mod p

です。p は素数なので 1 から p-1 までの数は p と素であり、また a は仮定により p と素です。従って bi 0 になることはなく、 1 bi   p-1 です。このとき、 1 i ,   j   p-1 である ij について、

i j であれば、必ず bi bj

になります。なぜなら、もし bi = bj とすると、1.1b(合同式の減算)より、

i-j a 0 mod p

です。仮定より ap と互いに素なので、1.3 により(1.3 で b=0 の場合)、

i-j 0 mod p

となりますが、 1 i ,   j   p-1 なので、

i=j

となり仮定に反します。つまり i j であれば、必ず bi bj です。ということは、 p-1 個の数、 bi 1 i p-1 は全て違う数であり、つまり、 1 2 3 p - 1 を並び替えたものです。従って、 bi を全部かけ算すると、

b1 b2 b3 bp-1 = p-1 !

となります。そこで、1.1c(合同式の乗算)を上の p-1 個の合同式に適用して左辺と右辺を全てかけ合わせてしまうと、

p-1 ! · ap-1    b1 b2 b3 bp-1 mod p    p-1 ! mod p

となります。ここで、p は素数なので p p-1 ! は互いに素です。すると 1.3 により、

a p-1 1 mod p

となり、証明が完成しました。

(次回に続く)


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No.309 - 川合玉堂:荒波・早乙女・石楠花 [アート]

東京・広尾の山種美術館で「開館55周年記念特別展 川合玉堂 ── 山﨑種二が愛した日本画の巨匠」と題した展覧会が、2021年2月6日~4月4日の会期で開催されたので、行ってきました。

山種美術館の創立者の山﨑種二(1893-1983)は川合玉堂(1873-1957)と懇意で、この美術館は71点もの玉堂作品を所蔵しています。そういうわけで、広尾に移転(2009年)からも何回かの川合玉堂展が開催されましたが(2013年、2017年など)、今回は所蔵作品の展示でした。

このブログでは、過去に川合玉堂の作品を何点か引用しました。制作年順にあげると次のとおりです。

『冬嶺孤鹿』(1898。25歳)
『吹雪』(1926。53歳)
『藤』(1929。56歳)
『鵜飼』(1931。58歳。東京藝術大学所蔵)

これらはいずれも補足的なトピックとしての玉堂作品でしたが、今回はメインテーマにします。とは言え、展示されていた作品は多数あり、この場で取り上げるにはセレクトする必要があります。今回は "玉堂作品としてはちょっと異質" という観点から、『荒海』『早乙女さおとめ』『石楠花しゃくなげ』の3作品のことを書きます。


荒海


川合玉堂「荒海」.jpg
川合玉堂(1873-1957)
荒海」(1944)
85.8cm × 117.6cm
(山種美術館)

この絵については、2021年3月2日の朝日新聞に紹介記事がありました。執筆は朝日新聞・文化くらし報道部の西田健作記者です。的確な内容だと思ったので、まずそれを引用します。

美の履歴書 686

繰り返すリズムに何をを見た
荒海」 川合玉堂

荒々しい波が磯の岩肌にぶつかる。しぶきが舞い、水が流れ落ちる。眺めていると、その音までが聞こえてきそうだ。日本画の大家・川合玉堂は終生、日本の四季や田園風景を卓越した筆さばきで描いた。目を凝らしてみると、道行く人々がごく小さく描かれているなど、人々の営みへの温かい視線を感じさせるものが多い。だが、この「荒海」は異質だ。

その理由は、この絵の発表の場となった展覧会にある。1944年の文部省戦時特別美術展には以下の出品条件が付いていた。「国体の精華、国土、国風」をたたえるもの、戦争を主題とするもの、戦意の高揚に資するもの ── などだ。

おそらく、玉堂は荒波で難局を、磯で揺るがぬ大日本帝国を表そうとしたのだろう。だが、それだけに収まらないのがこの絵の面白さだ。玉堂は10年以上前の「水に映る自然」と題した文章(32年)にこう書いている。「波などしばらく見詰めていると、同じリズムを繰り返し、そこにおのずと波の線が見えて来るようになるものである」

山種美術館の山崎妙子館長は「難局を描く一方で、描きたかったものを描いている。だから単なる戦争画にとどまらず、絵としてすばらしい作品になった」。

玉堂は現在の横浜市金沢区にあった別荘を拠点に、波を観察し、写生を繰り返すことでこの絵を完成させた。32年の文章にはこうも記している。「絹紙に写す場合は水と気合を一にすることはうまでもない」。その言葉通り、「自ずと見える」波の線を、気合と共に描いてみせたのだ。(西田健作)

朝日新聞 2021年3月2日(夕刊)

この文章を要約すると、以下のようになるでしょう。

◆ この絵は1944年(昭和19年)の文部省戦時特別美術展に出品された。この美術展には「戦意の高揚に資する」という出品の条件がついていた。

◆ この絵も、難局(=荒波)に立ち向かい、微動だにしない日本(=磯の岩場)という象徴性があるのだろう。

◆ しかし玉堂は画題の制約条件に従いつつも、描きたいものを描いた。それは荒海の波そのものである。

◆ 玉堂は実際の海を徹底的に観察して描いた。波は日本画の特徴である "線を駆使した表現" で描かれていて、そこには画家の "気合" が注入されているようだ。

玉堂は "何でも描ける画家" だと思うのですが、その中でも典型的な "玉堂スタイル" の絵というと「日本らしい、季節感あふれる自然や風景があり、その中に人物が点景として配置されている絵」です。その自然は山河であることが多く、また田園地帯のこともある。

しかしこの絵に人物はなく、さらに風景は海です。そこが "ちょっと異質" です。もちろんこれは、文部省戦時特別美術展に出品するという制約下で描かれたからです。特別美術展でこの絵を観た人は、おそらく全員が「岩 = 日本」と考えたはずです。

しかし、そうであっても "玉堂らしさ全開の絵" という印象を受けるのは、引用した記事にある通りです。朝日新聞の西田記者は同じ記事で、この絵の「見どころ」として次の3点をあげていました。

・ 遠くの海ほど群青の色が濃くなっている。
  胡粉ごふんを使った手前のしぶきには薄墨で輪郭線が描かれている。
・ 波がぶつかる瞬間と、波が引いて水が流れ落ちる瞬間が同時に描かれているようにも見える。

全体は黒(墨)と白(胡粉)の水墨画のような感じですが、淡い群青が使ってあります。群青=海、胡粉=波しぶきであり、その全体が各種の線で表現されています。ジグザク状の線で視線を誘導するダイナミックな構図と相まって、白い波しぶきが鑑賞者に迫ってくるような印象を受けます。海の群青が近くになるほど薄まって白一色になっていくのも、その印象を強めている。

この絵で玉堂は "海の波の5態" を描いたように見えます。遠景から近景までを順に書くと次のとおりです。

① 海の波の一般的なかたちである遠方の波。静かな海だとほとんど波が立たないこともあるが、描かれているのは荒れた海であり、波も大きい。

② その波が陸地の浅瀬に近づくと、波頭が立ち上がる。

③ 波が磯の岩場にぶつかり、砕けて飛び散る。その水しぶきは離れて見ると霧のようにも見える。

④ 岩場からは、ぶつかった波の "残骸" がしたたり落ちる。

⑤ さらに波頭は岩場を越えてくるが、それが引くときには寄せる波とぶつかって激しい水沫が立ち上がる。それは③の "霧" ではなく、あくまで "水のしぶき" として見える。

さきほど「鑑賞者に迫ってくるような」と書きましたが、このような荒海の水の5態を描き分けることで、数秒~十数秒程度の時間の経緯までが画面に凝縮されているかのようです。川合玉堂の透徹した眼、観察眼を感じさせる素晴らしい作品だと思います。



この『荒海』とほぼ同じ時期に、玉堂は全く違った画題と雰囲気をもつ絵を描いています。それが次の絵で、『荒海』と対比して鑑賞すると興味深い作品です。


早乙女さおとめ


川合玉堂「早乙女」.jpg
川合玉堂
早乙女」(1945)
53.6cm × 87.1cm
(山種美術館)

『荒海』が描かれて以降の玉堂の軌跡をたどると次のようです。

1944年(昭和19年。71歳)
 7月、東京都下西多摩郡三田村御岳(現、青梅市御岳)に疎開。
10月、文部省戦時特別美術展に『荒海』を出品。
12月、下西多摩郡古里村白丸(現、奥多摩町白丸)に転居。

1945年(昭和20年。72歳)
 5月、東京都牛込区(現、新宿区)若宮町にあった自宅が空襲で焼失。
 8月、敗戦。
12月、 御岳に戻る。ここがつい住処すみかとなる。

『早乙女』は、古里村白丸で描かれた絵です。この絵について、2013年6月30日のNHKの日曜美術館では「自宅が焼失して意気消沈した時期に描かれた」という意味の説明がありました。田植えの時期は地域によるとは思いますが、関東では5月から6月といったところです。まさにその時期の光景と考えてよいでしょう。

山を少し上ったところから水田を見下ろしたような構図です。画面のほどんどを水田が占め、右上には水路が流れていて舟が浮かんでいます。極めて単純化された画面の中で、5人の早乙女が田植えにいそしんでいる。その表情は楽しそうにも見えます。色数の少ない画面の中で、鮮やかな緑の"たらし込み" で描かれたあぜ道が印象的です。

戦時下の厳しい時期です。東京も大空襲で焼け野原になった年です。それでもこの絵の人々は、従来と変わらず田植えをしている。まさに、そこを描きたかったのだと思います。稲作は長期に渡る一連のプロセスで成立します。田起こし → 代掻き → 田植え → 雑草取り → 稲刈り → 脱穀 → 精米 と、半年以上にわたる作業が続きます。その他にも、あぜ道や水路の維持などが必要で、この絵はバックにあるそういった生活サイクルを暗示しています。

川合玉堂は(現)東京藝大の教授になり(1915年。大正4年。42歳)、文化勲章を受け(1940年。昭和15年。67歳)、皇后陛下の絵の指導までした人です。日本の画壇では、いわば "功成り名を遂げた" 日本画の大家です。その人が、72歳で自宅を完全に失ってしまった。さぞかし茫然とし、落胆したでしょう。

しかし疎開先の奥多摩の農民は、変わることなく日々の作業にいそしんでいる。玉堂は奥多摩で毎日、スケッチブックを持って散歩に出かけ、山道を歩き、野山や植物のスケッチを繰り返したと言います。そして帰ってきて画室で絵を描く。

川合玉堂「田植図」.jpg
川合玉堂
「田植図」(1945/1954)
54.5×72.4cm
(静岡県立美術館)
この絵は "玉堂スタイル" からするとちょっと異質です。"玉堂スタイル" の多くの絵は、山河や農村、田園地帯の風景があり、そこで働く人々が点景として描かれています。田植えを描いた絵として静岡県立美術館が所蔵する『田植図』がありますが、この絵のような構図が典型でしょう。人物は風景の一部になっている。

しかし『早乙女』は働く人々がクローズアップされていて、田植えという「人の営み」が中心的な画題です。「人の営み」というと、玉堂が多数描いた『鵜飼』の絵を思い出しますが、それは故郷の岐阜の光景です。それに対し『早乙女』には、日本のどこにでもある「普通の人の普通の営み」が描かれている。

玉堂は『早乙女』の制作以降も、1957年(昭和32年)に83歳で亡くなるまで御岳みたけに住んで描き続け、その創作意欲が衰えることありませんでした。玉堂は『早乙女』に描かれた農民の姿、毎年のサイクルでつつましく生きる人々の姿に、自らの画家としてのあるべき姿を重ね合わせたのだと思います。


石楠花しゃくなげ


川合玉堂「石楠花」.jpg
川合玉堂
石楠花」(1930)
72.0cm × 101.5cm
(山種美術館)

この絵が実際に経験した情景だとすると、山道を歩いていて、ふと石楠花が目に付く。それを凝視してから眼をそらすと、遠くに残雪をいだいた険しい連峰が見える。そういった光景でしょう。

この絵の特徴は、花卉かき図と山水図を合体させたような描き方にあります。題名にあるように近景に描かれた石楠花がメインのモチーフなのだろうけれど、中景の崖と木々から遠景の連峰までがちゃんと描き込まれています。このような構図は玉堂作品としては "ちょっと異質" だと思います。

この構図で直感的に思い浮かべるのが歌川広重です。広重の風景画には「近景の事物を大写しにし、そこから遠方を望む」という構図が多々あります。有名な作品で言うと「名所江戸百景」の『深川洲崎十万坪』(近景に鷹、遠景に深川の雪景色と筑波山を配した有名な絵)や、『亀戸梅屋敷』(ゴッホが模写した作品。近景に梅の古木が画面いっぱいにあり、その向こうに梅園が見える)があります。

歌川広重「隅田川水神の森真崎」.jpg
歌川広重
「隅田川水神の森真崎」
(名所江戸百景 第35景)
この "広重好みの構図" をさらに絞り込んで「近景に花、遠景に山」という作品を選ぶと、例えば「名所江戸百景」の『隅田川 水神の森 真崎まさき』です。この絵は近景に八重桜を配し、その向こうに水神の森から隅田川とその対岸の真崎地区を描き、遠景には筑波山という構図です。これによって遠近感が際だちます。八重桜は極端にクローズアップされ、幹、枝、花の全てがカットアウトされている。いかにも広重らしい描き方です。

これと玉堂の『石楠花』は、構図のコンセプトがそっくりです。もちろん玉堂が広重に影響されたかどうかは分かりません。しかし玉堂は過去からの日本の絵の伝統を熟知している画家です。無意識にせよ江戸後期の風景画を踏まえたということがありうるのではないか。我々は19世紀後半のフランス絵画を見て「これは浮世絵の影響だ」とか、よく言います(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)。だとしたら、ほかでもない日本の画家の絵を見て浮世絵の影響を感じるのは当然ではないかと思うのです。

当たり前ですが『石楠花』は広重と違ってリアルです。まるで山道を歩いていて、ふと立ち止まって見たシーンのようです。しかし考えてみると、人間の眼にこの絵のような光景は見えません。実際に現場に立ったとしたら、我々の眼は石楠花と連峰に交互にピントを合わせて見るしかない。このように近景と遠景の差を極端にとり、その両方をリアルに同一平面に描くのは、絵画ならではの表現です。展覧会にある幾多の玉堂の絵の中で、この絵の前に立つとその「絵画ならでは」にハッとさせられる。そう感じました。




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No.308 - 人体の9割は細菌(2)生態系の保全 [科学]

前回から続く)

あなたの体は9割が細菌.jpg
アランナ・コリン
「あなたの体は9割が細菌」

(矢野真千子 訳。河出文庫 2020)
前回の No.307「人体の9割は細菌(1)」は、アランナ・コリン著「あなたの体は9割が細菌」(訳:矢野真千子。河出書房 2016。河出文庫 2020。原題 "10% Human"。以下「本書」と書きます)の紹介でした。この本は大きく分けて次の2つのことが書かれています。

◆ 21世紀病
20世紀後半に激増して21世紀には当たり前になってしまった免疫関連疾患、自閉症、肥満などを、著者は「21世紀病」と呼んでいます。これと、ヒトと共生している微生物の関係を明らかにしています。

◆ 生態系の保全
ヒトと微生物が共生する「人体生態系」を正常に維持するためは何をすべきか。またその逆で、人体生態系に対するリスクは何かを明らかにしています。

前回は「21世紀病」の部分の紹介でしたが、今回は「生態系の保全」の部分から「抗生物質」「自然出産と母乳」「食物繊維」の内容を紹介します。なお本書で「生態系の保全」という言い方をしているわけではありません。


抗生物質のリスク


ペニシリンの発見(1928年)以降、抗生物質は人類に多大な恩恵を与えてきました。実は本書の著者も2005年、22歳のとき、マレーシアでコウモリの調査中に熱帯病に感染し、一時まともな生活が送れないようになりましたが、抗生物質による治療で回復しました。

しかし著者は、抗生物質の意義とメリットを十分に認識しつつも、その使用にはリスクがあることを説明しています。つまり、投与された抗生物質が感染症の原因菌だけでなく、ヒトと共生している微生物も殺してしまい、マイクロバイオータの様相が変わってしまうというリスクです。

その抗生物質が、現代社会においては感染症の治療以外に過剰に使用されているのが現実で、その一つが畜産業です。


1940年代後期、アメリカの科学者たちは思いがけず、ニワトリに抗生物質を与えると成長が50%近く促進されることを見出した。当時、アメリカでは都市に人口が流入し、市民は生活費の高さに辟易していた。戦後の「欲しいものリスト」の上位に安価な食肉が挙がった。抗生物質によるニワトリへの成長促進効果はまさに天からの贈り物で、農家はウシやブタ、ヒツジ、7面鳥の飼料に毎日少量の薬を混ぜるだけで食肉家畜がどんどん大きくなるのを見て上機嫌だった。

農家は、薬が成長を促すメカニズムについても、その結果についても知らなかった。食料不足で価格が高騰していたこの時代、薬の費用よりもニワトリが太ることで得られる利益が大幅に上回った。以来、「治療量以下」の抗生物質を投与するのは畜産業での日常業務となった。

ざっと推定すると、アメリカでは抗生物質の70%が家畜用に使われているという。おまけに、抗生物質を使えば感染症を心配せずに狭い場所に多くの家畜をつめこむことが可能だ。アメリカでは、この成長促進剤なしに同じ重量の食肉を出荷しようとすると、4億5200万羽のニワトリと、2300万頭のウシ、1200万頭のブタが毎年余分に必要になる。

アランナ・コリン
『あなたの体は9割が細菌』
(矢野真千子 訳。河出文庫 2020)p.218

ここで懸念が出てきます。家畜が抗生物質で太るなら人間も太るのではないかという点と、家畜の肉に残留した抗生物質が人間に悪影響を与えるのではという懸念です。

また家畜の糞は有機農業に使われますが、家畜に投与された抗生物質のおよそ75%は糞となって排出されます。家畜の肉に残留している抗生物質の規制はありますが、農地に撒かれる肥料に含まれる抗生物質の規制はありません。つまり、動物由来の肥料で有機栽培された野菜は安全なのかという疑問も出てくるのです。

さらに家畜だけでなく、ヒトに対しても、本来の感染症治療を越えた抗生物質の投与がされる現実があります。


抗生物質による治療はぜったいに必要なものではない。アメリカの疾病管理予防センター(CDC)の推定によれば、同国で処方されている抗生物質の半分は不必要または不適切なものだという。その多くは、風邪またはインフルエンザを1日でも早く治したいと切望する患者に、半ば気休めで処方されている。風邪もインフルエンザも細菌ではなくウイルスによる病気であり、抗生物質は効かない。それに、ほとんどの風邪は命を危険にさらすことはなく、数日か数週間で治る。

「同上」p.223


アメリカで1998年に行われた調査によると、プライマリケア医が処方した抗生物質の4分の3が、5種類の呼吸器系感染症への治療目的だった。耳感染症、副鼻腔炎、咽頭炎、気管支炎、上気道感染症だ。上気道感染症で医者を訪れた2500万人のうち、30%に抗生物質が処方された。そんなに多くないとあなたは感じたかもしれないが、細菌が原因の上気道感染症はたったの5%しかない。咽頭炎も同様で、同じ年にそう診断された1400万人のうち62%に抗生物質が処方された。細菌性が原因の咽頭炎は10%しかないにもかわらず。全体でみるとその年に処方された抗生物質の55%は不必要なものだった。

「同上」p.224

抗生物質が殺すのは細菌であって、ウイルスではありません。従ってウイルスが原因の病気に抗生物質は利きませんが、このことを知っている患者は少ない。患者はどうしても薬の処方を医者に求める傾向にあり、医者も細菌による感染症を防ぐために "念のため" 抗生物質を処方するという現実があるのです。



抗生物質の多用が生み出す問題点の一つは耐性菌の出現です。ペニシリンが感染症の治療に使われ始めたのは1940年代前半ですが。数年後には早くもペニシリン耐性菌が見つかり、1950年代にはごく一般的な黄色ブドウ球菌がペニシリン耐性を持つようになりました。

1959年、イギリスでペニシリン耐性の黄色ブドウ球菌を治療するためにメチシリンという新しい抗生物質が使われ始めましたが、早くも3ヶ月後にはペニシリンとメシチリンの両方に耐性をもつ黄色ブドウ球菌の新株が出現しました。これが MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)です。以来、MRSAは全世界で毎年数万人から数十万人の命を奪っています。もちろん耐性菌はMRSAのほかにもあります。

さらに問題点は、抗生物質が病気の原因菌だけでなく、広範囲の細菌を殺すということです。もちろんヒトと共生している微生物も影響を受けるわけで、ここが本書の眼目です。


抗生物質は細菌の単一種だけを標的にすることはできない。ほとんどの抗生物質は、広範囲の細菌種を殺す「広域抗生物質」だ。このタイプの薬は問題を引き起こしている細菌の種類を特定することなくあらゆる感染症に使えるため、医者にとっては好都合だ。原因菌を特定するには培養と同定の作業が必要で、それにはお金も時間もかかるうえ、ときには不可能なこともある。

標的を絞った「狭域抗生物質」でさえ、病気の直接原因となっている菌種だけを選んで殺すことはできない。同じグループに属する細菌すべてを標的としてしまう。こうした大量破壊兵器がもたらす結果はアレクサンダー・フレミング(引用注:ペニシリンの発見者)でさえ予測できなかった。

「同上」p.229

抗生物質は大量破壊兵器というか、無差別爆撃をしているようなものです。目標とする病原菌以外の細菌も広範囲に殺してしまう。この悪影響が極端に現れたのが「クロストリジウム・ディフィシル感染症」です。


耐性獲得と大量破壊という抗生物質の両方のマイナス面が重なって出現した危険な病気に、クロストリジウム・ディフィシル感染症がある。クロストリジウム・ディフィシルという細菌が引き起こすこの感染症は、1999年にイギリスで500人の死者を出した。その多くは抗生物質の治療を受けた患者だった。2007年には、同じ感染症で4000人近くが死亡した。

できることならこの病気では死にたくない。腸内に棲むクロストリジウム・ディフィシルは毒素を産生し、悪臭をともなう絶え間ない水状の下痢を引き起こす。それにより、脱水症状、重篤な腹痛、急激な体重減少が生じる。クロストリジウム・ディフィシル感染症の患者は、たとえ腎不全を免れたとしても、中毒性の巨大結腸症を生き延びなければならない。巨大結腸症とは読んで字のごとく、腸内で発生した余分なガスが結腸を異常に膨らませてしまう症状だ。虫垂炎と同じく破裂の危険があり、破裂したときの危険性は虫垂炎どころではない。腹腔内に糞便とあらゆる種類の細菌がばらまかれることになるため、生存率は著しく下がる。

クロストリジウム・ディフィシル感染症の発生件数および死亡者数の上昇は、抗生物質耐性菌の進化と歩調を合わせている部分がある。1990年代に、クロストリジウム・ディフィシルは危険な新株に進化し、病院内で広まった。この株は耐性が強いだけでなく、毒性も強かった。そして、もう一方の原因である抗生物質の過剰使用の問題をくっきりと浮かび上がらせた。

クロストリジウム・ディフィシルは一部の人の腸内においては、さほどトラブルを起こさず、かといって役に立つこともせずに無為に過ごしている。だが、ほんのちょっとしたきっかけで牙をむく。そのきっかけをつくるのは抗生物質だ。腸内マイクロバイオータが健康でバランスがとれているあいだは、クロストリジウム・ディフィシルは小さなくぼみに押しこめられて身動きがとれないから、悪さをすることもできない。だが、抗生物質、とりわけ広域抗生物質がマイクロバイオータを攪乱すると、クロストリジウム・ディフィシルが勢力を広げる「余地」ができる。

「同上」p.229

広域抗生物質がマイクロバイオータを攪乱すると、クロストリジウム・ディフィシル感染症だけでなく様々な副作用が出てくると想定できます。

では「21世紀病」と「抗生物質の多用」は関係しているのでしょうか。たとえば肥満です。統計によると抗生物質の使用量の増加と肥満の増加には相関関係があります。しかし相関関係があるからといって因果関係を断定できません。

実は、抗生物質の投与でヒトの体重が増えるという結果は、既に1950年代に出ていました。もちろん倫理的な理由により実験はできませんが「意図せずに行った実験」があるのです。


1953年にアメリカ海軍は新兵に抗生物質で治療する試験を開始した。連鎖球菌の感染症を減らすのに、オーレオマイシン(引用注:現在ではヒトに対しては皮膚の化膿性感染症の治療に使われる抗生物質)を予防的に使えるかどうかを調べたのだ。新兵の若者たちは軍の規定により身長と体重を記録されていたため、それがのちに予定外のテーマを研究するときのデータとなった。抗生物質を投与された新兵は、見た目はそっくりのプラセボを投与された新兵より著しく体重を増やした。このときも、抗生物質の投与は栄養価を高める潜在力があるとして好意的に受けとられ、懸念材料とみなされることはなかった。

「同上」p.235

抗生物質が体重を増やすとして、では現在の肥満(BMIが30超)の広がりは抗生物質と関係しているのでしょうか。抗生物質がマイクロバイオータにおける細菌の構成比を変え、それが肥満につながるという「仮説」については数々の研究があります。仮説が正しいとする研究もあるのですが、著者はまだ断定するのは早いと言っています。



抗生物質と自閉症についても議論の最中ですが、全く無関係とは思えないと著者は書いています。エレン・ボルトの息子のアンドリューが自閉症を発症したのは抗生物質での治療中でした(No.307「人体の90%は細菌(1)」の「21世紀病:自閉症」の項)。

また抗生物質がアレルギーのリスクを高めることについては、数々のエビデンスがあります。さらに、1型糖尿病は感染症にかかったあとに発症することが多いことが知られていますが、これは感染症の治療に使われた抗生物質が原因ではないかと疑われています。



著者はマレーシアでのフィールドワークでダニから熱帯病に感染し、抗生物質の投与で治癒しました(前述)。しかし治癒したあとに別の体の不調に悩まされるようになりました。発疹ができたり、胃腸が弱くなったり、感染症にかかりやすくなったりです。このことが、まさに著者が本書を執筆した動機でした。21世紀病との関係で言うと、今まで展開してきた2つの議論、つまり、

・ マイクロバイオータの変調が21世紀病の一因になっている
・ 抗生物質がマイクロバイオータを攪乱する

を結びつけると「抗生物質の多用が21世紀病の一因になっている」というのは蓋然性が高いと考えられます。現在、さまざまな研究・議論が行われているところです。とにかく、感染症の治療以外の目的での抗生物質の使用(食肉生産のコスト削減が代表的)は無くすべきでしょう。


自然出産と母乳の意味


マイクロバイオータが体内で発達する第1段階は、出産と授乳のプロセスにあります。母親の体内の胎児は無菌状態です。その子が共生する微生物を受け取るのは、まず母親からです。それは第1に出産のときであり、第2に母乳からです。

 自然出産 


細胞の数だけで言うなら、赤ん坊はこの世に生まれて最初の数時間で「大半がヒト」の状態から「大半が微生物」の状態に切り替わる。子宮内部の羊水につかっているとき、胎児は外界の微生物からも母親の微生物からも守られている。だが、破水と同時に微生物の入植がはじまる。赤ん坊は産道を通るとき、微生物のシャワーを浴びる。ほぼ無菌状態だった赤ん坊を、膣の微生物が覆っていく。

産道から顔を出すとき、赤ん坊は膣の微生物とはまた別のタイプの微生物を受けとる。そう、誕生直後に母親の糞便を摂取するのはコアラだけではないのだ。子宮収縮ホルモンの作用と降りてくる胎児の圧力を受けて、陣痛中や出産時にほとんどの女性は排便する。赤ん坊は顔を母親のお尻の側に向けて頭から先に出てくる。そして母親がつぎの陣痛に備えて体を休めているあいだ、赤ん坊の頭と口はうってつけの位置に来る。あなたは本能的に顔をしかめるかもしれないが、これは幸先のいいスタートだ。母から子への最初の贈り物、糞便と膣の微生物が無事に届けられることになるのだから。

これは進化的に「適応した」誕生だ。肛門が膣口のすぐそばにあるのも、子宮収縮ホルモンが直腸を刺激して排便を促すのも、別段悪いことではない。自然選択は、それが赤ん坊の役に立つから選んだのだろう。あるいは、少なくとも害にはならないから排除しなかった。微生物とその遺伝子 ── 母のゲノムとうまく調和して働いていた遺伝子 ── を受けとった赤ん坊は、希望に満ちた人生のスタートを切る。

「同上」p.300

このプロセスをみると、帝王切開で生まれた子どもは母親からの最初の微生物を受け取らないことになります。従来、帝王切開のリスクとして赤ん坊の皮膚に傷がつくことがあるとか、一時的な呼吸障害などの短期的なリスクが指摘されてきました。


しかし、帝王切開で生まれた子の長期的な影響まで言及されることはめったにない。以前はさして害のない代替手段と思われていた帝王切開だが、母子ともに健康リスクがあることが徐々に明らかになってきた。早くにわかったこととして、帝王切開で生まれた赤ん坊は感染症になりやすいというのがある。メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に感染した新生児の80%は帝王切開で生まれている。帝王切開で生まれた子は幼児期にアレルギーを発症しやすい。母親がアレルギーで(おそらく遺伝因子があり)、なおかつ帝王切開で生まれた子は、そうでない子より7倍もアレルギーになりやすい。

「同上」p.308

その他、自閉症、強迫性障害、1型糖尿病、セリアック病などの発症リスクが、経膣出産(自然出産)よりも高まることが指摘されています。肥満でさえ、帝王切開との関連を指摘するデータがあります。


すでにお気づきのとおり、これらはどれも21世紀病だ。細かく見れば、それぞれに環境要因や遺伝因子など幅広い要素が関係しているものの、帝王切開が21世紀病のリスクを高めているのは明らかだ。

赤ん坊の腸のマイクロバイオータを採取・分析すると、生後数か月が経過していても、その子が帝王切開で生まれたか経膣出産で生まれたかがわかる。産道をとおって生まれた赤ん坊の体外と体内にできている膣由来微生物のコロニーが、帝王切開で生まれた赤ん坊にはできていないのだ。

母親のお腹の「サンルーフ」から(引用注:帝王切開で)出てきた赤ん坊が最初に出合うのは環境中の微生物だ。手袋をはめた手で引っぱり出され、母親の腹部の皮膚をさっとかすめ、不安そうな両親に少しばかり挨拶し、そそくさと手術室から連れ出され、タオルにくるまれ詳細な検査を受ける。消毒が徹底された手術室で生まれる赤ん坊にとってはじめて出合う微生物は、母親と父親、医療スタッフの皮膚の細菌だ(運が悪ければ連鎖球菌や緑膿菌やクロストリジウム・ディフィシルなど強靭な細菌と出合ってしまう)。帝王切開で生まれた赤ん坊の腸のマイクロバイオータは、皮膚の細菌が基礎となって形成される。

「同上」p.308

本書に「いまでは開腹手術で最も多い手術が帝王切開」とあります。それほど帝王切開が広まっている。もちろん帝王切開は医療上の重要な手段です。一部の女性にとってはこの方法しか子どもを生む手段がありません。しかしWHOは帝王切開の実施率を全出産の10~15%に収めるべきだとしています。「出産の危険から母子を守る」ことと「帝王切開によるリスクを避ける」ことのバランスをとるためには、この程度の数字が妥当なのです。

 母乳 

赤ちゃんが母親から受け継ぐ微生物環境の第2番目は、母乳由来のものです。

オリゴ糖と総称される糖類があります。これはブドウ糖などの単糖類が数個~10個程度結合したものです。母乳にはオリゴ糖が含まれていますが、ヒトの消化酵素はオリゴ糖を分解できません。実は、母乳のオリゴ糖は細菌の餌です。1983年に、ジェニー・ブランド=ミラー教授とその夫が行った研究が「母乳に含まれるオリゴ糖の意味」を明らかにしました。


オリゴ糖は単糖が数個結合した炭水化物の総称で、ヒトの母乳には130種類ほどが含まれている。この種類の多さはヒトに特有な性質であり、たとえばウシの乳には数種類のオリゴ糖しか含まれていない。私たちは大人になってからオリゴ糖を含む食品を食べることはない。それなのに、妊娠期と授乳期に女性の乳房組織でつくられる。機能のないものをわざわざつくるのは、そこに重要な何かがあるからだと2人は思った。

ブランド=ミラーと夫は仮説を確かめようと試験をした。赤ん坊にグルコースを水に溶かして与えたときと、精製したオリゴ糖を水に溶かして与えたときの、呼気に含まれる水素量を測定した。グルコースでは水素量が増えなかった。グルコースは小腸で吸収されてしまい、腸内細菌の餌にならなかったということだ。だが、オリゴ糖を与えたときの呼気には水素が大量にあった。オリゴ糖の分子は小腸をそのまま通過して、消化酵素ではなく腸内細菌に分解されていたということだ。

いまでこそ周知されているが、オリゴ糖は赤ん坊の腸の「苗床」で正しい細菌種を栄えさせる役目を果たしている。母乳で育つ赤ん坊には、ラクトバチルス属とビクテリウム属が優勢なマイクロバイオータが育っている。ヒトはオリゴ糖を消化できないが、ビフィドバクテリウム属の細菌は特殊な酵素を生成して、オリゴ糖を唯一の食料源にする。その廃棄物として出るのが短鎖脂肪酸だ。酪酸、酢酸、プロピオン酸は3大短鎖脂肪酸だが、このとき4番目の短鎖脂肪酸である乳酸塩(単に乳酸と呼ばれることもある)が放出される。これが赤ん坊にとって貴重な物質となる。乳酸塩は大腸の細胞に吸収され、赤ん坊の免疫系の発達に重要な役割を果たす。簡単に言うと、大人に食物繊維が必要なように、赤ん坊には母乳に含まれるオリゴ糖が必要なのだ

細菌の餌となることだけが母乳に含まれるオリゴ糖の役目ではない。人生最初の数日と数週間、赤ん坊の腸のマイクロバイオータはとても単純で不安定だ。特定の細菌がいきなり増えたかと思うと、忽然と消える。肺炎連鎖球菌のような病原性の細菌が1つ入ってきただけで大混乱を起こし、多くの有益な細菌が破壊されることもある。オリゴ糖は混乱した腸内環境を平常に戻す働きをする。病原性細菌はなんらかの破壊行為をする前に、まず腸壁に付着する。そのためには細菌表面にある特別な結合部を使わなければならない。オリゴ糖はその結合部にぴったりはまって、病原性細菌が足場を築くのを阻止する。母乳に含まれる130種類のオリゴ糖のうち、数十種類は特定の病原体に鍵と鍵穴のように結合することがわかっている。

「同上」p.314

しかも、母乳のオリゴ糖の量は赤ちゃんの発達とともに変化します。これは赤ちゃんの腸内細菌の変化に対応しています。


母乳の成分は、赤ん坊の成長段階に応じて変わる。出産直後に出る初乳は免疫細胞と抗体に富んでいて、母乳1リットルあたりに小さじ4杯相当のオリゴ糖をたっぷり含んでいる

数週間たって赤ん坊のマイクロバイオータが安定してくるころ、母乳の中のオリゴ糖含有量は減ってくる。出産後4か月になると1リットルあたり小さじ3杯未満となり、子どもが1歳の誕生日を迎えるころには小さじ1杯未満となる。

「同上」p.315

上の引用にもあるように、母乳には免疫細胞と抗体など、オリゴ糖以外の多様なものが含まれています。その一つが細菌です。これが最初に分かったのは "母乳バンク" でした。母乳バンクを運用する病院は、母親からの献乳を受け、それを母乳育児が困難な赤ちゃんに与えます。このとき、どんなに消毒をして採乳しても献乳の中に細菌が見つかるのです。


消毒の精度を極限まで上げた採乳技術とDNA解析技術を使って調べたところ、献乳の際に見つかる細菌は、もとから母乳にいた細菌だった。赤ん坊の口や母親の乳首から乗り移って混入したのではなく、乳房組織の中に入りこんでいた。いったいどこから? 乳房組織にいる細菌の多くは皮膚によくいる細菌とは違った。つまり、乳房の皮膚から乳汁に侵入したわけではない。乳房組織にいる細菌は、通常は膣や腸にいる乳酸菌だった。母親の糞便を解析すると、腸と母乳にいる細菌は同じだった。これらの微生物は大腸から乳房へと移動したようだ。

血液を調べて移動ルートがわかった。樹状細胞と呼ばれる免疫細胞の中に入って移動していたのだ。樹状細胞は細菌の密入国を手助けすることで知られている。腸を取り囲む厚い免疫組織の中にある樹状細胞は、長い腕(樹状突起)を伸ばして腸内にどんな細菌がいるかをチェックする。そして通常は、病原体を見つけたらそれを飲みこみ、別の免疫細胞(ナチュラルキラー細胞)の軍団がやってきて退治してくれるのを待つ。ところがなんと、樹状細胞は害のない有益な細菌までつかまえて飲みこみ、血流に乗って乳房に運ぶ。

「同上」p.317

オリゴ糖だけでなく、母乳に含まれる細菌も時間の経過とともに変化します。


赤ん坊の成長に合わせて母乳のオリゴ糖含有量が変わるように、母乳に含まれる細菌も変わる。生後1日目に必要な微生物は、1か月後、2か月後、6か月後に必要な微生物とは違う。

出産直後の数日に出る初乳には数百種の微生物が入っている。ラクトバチルス属、連鎖球菌属、エンテロコックス属、ブドウ球菌属の細菌はすべて含まれており、その数は1ミリリットルあたり1000個体にもなる。赤ん坊は1日およそ80万個の細菌を母乳のみで摂取していることになる。

やがて母乳に含まれる微生物は数を減らしながら種類を変えていく。出産から数か月たった母乳には、成人の口内にいるのと同じ微生物が入っている。赤ん坊の離乳に備えてのことだろう

「同上」p.318

まとめると、赤ちゃんは母乳から細菌を受け取ると同時に、その細菌の餌になるオリゴ糖も摂取します。その両方が赤ちゃんの成長に従って変化していく。となると、粉ミルクだけで育つ赤ちゃんにはリスクがあることが推定できます。現代の粉ミルクには重要な栄養成分がたくさん加えられていますが、免疫細胞や抗体、オリゴ糖、なまの細菌までは入っていないのです


まず、粉ミルクで育つ赤ん坊は感染症にかかりやすい。母乳だけの赤ん坊に比べ、粉ミルクだけの赤ん坊は、耳感染症になるリスクが2倍、呼吸器感染症で入院するリスクが4倍、胃腸感染症になるリスクが3倍、そして腸の組織が死ぬ壊死性腸炎になるリスクが2.5倍とそれぞれ高くなる。乳幼児突然死症候群で死亡するリスクも2倍だ。

アメリカでの乳児死亡率(1歳未満で死亡する割合)は、母乳で育つ赤ん坊より粉ミルクで育つ赤ん坊のほうが1.3倍も高い。なお、この数字は、妊娠中の喫煙や貧困、教育など多方面の要素を考慮し、また赤ん坊自身の病気のために母乳育児が困難だったケースを除外している。先進国では乳児死亡率はすでに低くなっているので、1歳になる前に死亡する乳児を人数で見ると、母乳育児で1000人のうち2.1人、粉ミルク育児では2.7人である。もちろんこの程度で親が大騒ぎして心配する必要はないが、アメリカで毎年、400万人の赤ん坊が生まれていることを思えば、そのうち720人は、落とさずにすんだ命を落としているのかもしれない。

「同上」p.322

母親か赤ちゃん、または両方の理由で母乳育児が不可能な場合があります。その場合は粉ミルクが必要ですが、これはあくまで "やむをえない場合の策" と考えるべきでしょう。


食物繊維の重要性


本書には「あなたはあなたの微生物が食べたものでできている」と題した章があります(第6章)。よく言われるのは「あなたはあなたの食べたものでできている」で、 これはバランスの良い食事が大切だという意味です。そして、ヒトは微生物と共生している以上、微生物に必要な "餌やり" も重要なのです。

イタリアの研究者の調査結果が紹介されています。彼らはブルキナファソ(西アフリカの国)のある村の子どもと、フィレンツェの子どもの比較研究をしました。


ブルキナファソとイタリアの子どもの食事を改めて比べてみると、摂取量が明らかに違う栄養成分が見つかる。それは食物繊維だ。ブルキナファソの食事に大きな割合を占めている野菜、穀類、豆類はどれも繊維質を多く含んでいる。2歳から6歳までのイタリアの子どもが食事で摂取する食物繊維は2%に満たない。ブルキナファソでは3倍以上の6.5%である。

「同上」p.278

著者は、先進国では食物繊維の摂取が減っているとし、それをイギリスの具体例で説明しています。

・ イギリスの成人は、1940年代に1日およそ70グラムの食物繊維を摂取していたが、いまでは20グラムに落ちこんだ。

・ 1942年には、食料供給が限られていた戦時中だったにもかかわらず、現在のほぼ2倍の野菜を食べていた。

・ 典型的な1日の食事でとる新鮮な緑の野菜は、1940年代に7Oグラムだったが、2000年代には27グラムだ。

・ 食物繊維に富む豆類、穀類(パンを含む)、ジャガイモも、1940年代以降は減っている。

などです。国によって違うとは思いますが、60年程度の長いレンジでみると、このような傾向は日本も同じではないでしょうか。


ブルキナファソの子どもたちのマイクロバイオームを遺伝子解析すると、プレボテラ属とキシラニバクテル属の細菌が75%という高い割合で見つかる。この両グループの細菌には、植物の細胞壁を形成しているキシランとセルロースを分解する酵素をつくる遺伝子がある。ブルキナファソの子どもはプレボテラとキシラニバクテルを腸に棲まわせているおかげで、食事の大半を占める穀類や豆類、野菜から、より多くの栄養を引き出すことができる。

一方、イタリアの子どもの腸にはプレボテラもキシラニバクテルもいない。植物性の餌が常時なければ生き残れない両グループの細菌は、イタリア人の腸内では適応できないからだ。そのかわり、イタリアの子どもの腸内ではフィルミクテス門の細菌が繁栄している。フィルミクテス門は、いくつかのアメリカの研究で肥満に関連していることがわかった分類群である。痩せた人の腸に多いのはバクテロイデーテス門の細菌だ。フィルミクテスとバクテロイデーテスの比率は、イタリアの子どもでは3対1だったのに対し、ブルキナファソの子どもでは1対1であった。

「同上」p.279

マイクロバイオータの細菌の種類は食生活によって変化します。アメリカで行われたボランティアによる実験のことが本書に書かれています。この実験では、肉や卵、チーズなど動物性食品を食べるグループと、穀類や豆類、果物、野菜など植物性食品を食べるグループに分けて、腸内微生物がどう変化するかを観察しました。予想どおり、腸内細菌の組成比が変わりました。植物食のグループは植物の細胞壁を分解できるタイプの細菌を急速に増やした一方、動物食のグループは植物好きの細菌を失い、蛋白質を分解し、ビタミンを合成し、炭化した肉に含まれる発癌物質を解毒するタイプの細菌を増やしました。

このように、食生活によってマイクロバイオータは変化します。そして著者は、このことが「異例なものを食べる集団にはとりわけ役に立つ」と書いていて、そこで日本人のことあげています。


たとえば、寿司好きの日本人にとって海苔は食生活の大きな部分を占める。日本人の多くは、海藻に含まれる炭水化物を分解するポルフィラナーゼという酵素をつくる遺伝子をもつ細菌(バクテロイデス・プレビウス)を腸内に棲まわせている。この遺伝子は元来、海藻の共生菌であるゾベリア・ガラクタニボランスの遺伝子だ。日本人の腸内にいるバクテロイデス・プレビウスは、過去のいつかの時点でゾベリア・ガラクタニボランスの遺伝子を盗み取ったようだ。

「同上」p.280

日本に住むヨーロッパ人で海苔や海藻が苦手な人は多いようです。生まれ育ったヨーロッパで海藻を食べる文化がないからですが、それは単なる好き嫌いだけではなく、海藻を分解する細菌を腸に持っていないからなのでしょう。そして多くの日本人がもつこの細菌の遺伝子は、もともと海藻と共生していた細菌から来たものだった ・・・・・・。こういうところにも、進化の速度が速い細菌と共生している意義が認められます。

余談ですが、著者(英国人のアランナ・コリン)は海苔を食べる日本人を「異質なものを食べる」例として書いていますが、ウェールズの海岸地方では(ヨーロッパでは珍しく)海藻を食べます(Wikipediaの「ウェールズ料理」および「レイヴァーブレッド」の項参照)。アランナ・コリンはイングランド出身なのでしょう。もう少し英国の食文化に詳しければこういう表現にはならなかったと思います。



話を食物繊維に戻します。植物性食品に富む食生活は、痩せ型のマイクロバイオータを育てます。なぜそうなるのか。

No.307「人体の9割は細菌(1)」の「21世紀病:肥満」の項で、アッカーマンシア・ムニシフィラという細菌が腸壁の粘膜層を厚くし、細菌由来のリポ多糖(LPS)が血液中に入り込んで脂肪細胞に炎症を起こすのを防ぐ(=従って肥満を防ぐ)ことを書きました。食物繊維の一種であるオリゴフルクトース(=フルクラオリゴ糖)は、腸内のアッカーマンシアを大増殖させることが分かってきました。

さらに微生物が食物繊維を分解するときに出す短鎖脂肪酸が重要な働きを持っています。


じつのところ、重要なのは微生物そのものではなく微生物が食物繊維を分解するときに出す物質、短鎖脂肪酸(SCFA)だ。第3章でも述べたように(引用注:No.307「人体の9割は細菌(1)」の「21世紀病:自閉症」の項)、代表的な3つの短鎖脂肪酸は酢酸、プロピオン酸、酪酸で、微生物が食物繊維を分解したあと大腸に大量にたまる。この微生物の消化活動による副産物は、さまざまな作用の「鍵穴」にぴたりとはまる「鍵」となる。だが、短鎖脂肪酸の働きが私たちの健康に与える影響は、何十年ものあいだ過小評価されてきた。

そんな鍵穴の1つにG蛋白質共役受容体(GPR43)がある。これは免疫細胞の表面にある受容体で、短鎖脂肪酸の鍵がやってきて解錠されるのを待っている。だが、GPR43は何をするためのものなのか? こういうとき生物学では、この受容体をつくる遺伝子の機能を失わせたノックアウト動物がどうなるのかを観察するのが早道だ。

ある研究チームは、GPR43のノックアウト・マウスを使った実験に取り出した。そして、この受容体をもたないマウスはひどい炎症を起こすこと、大腸炎や関節炎、喘息を発症しやすいことを突き止めた。受容体(鍵穴)は正常で、短鎖脂肪酸(鍵)がない場合はどうだろう。無菌マウスの腸には食物繊維を分解する微生物がいないので、鍵をつくることができない。鍵穴はあるのに解錠されない無菌マウスは、やはり炎症系の病気になりやすかった。

この実験結果は、GPR43が微生物とヒト免疫系のコミュニケーション経路であることを意味している。食物繊維好きの微生物は短鎖脂肪酸という鍵をつくって免疫細胞のドアを開け、自分たちを攻撃しないようにというメッセージを伝える(引用注:その結果、炎症が起きない)。GPR43は免疫細胞だけでなく脂肪細胞にもついている。短鎖脂肪酸の鍵が脂肪細胞のGPR43を解錠すると、脂肪細胞は肥大するのをやめて分裂する。脂肪細胞にとっては細胞分裂するのが健全なエネルギー蓄積法だ。さらに、短鎖脂肪酸の鍵でGPR43を解錠するとレプチンが放出され、満腹中枢が刺激される。食物繊維を食べると満腹感が得られるのはこのためだ。

「同上」p.284

また、短鎖脂肪酸一つである酪酸は、腸壁の細胞を結合している蛋白質の鎖を強め、腸壁を強固にします。


不健全な微生物集団は、腸壁の上皮細胞を結合させている鎖をゆるめる方向に働く。ゆるんだ腸壁にはすき間ができ、本来な血液中に入ってはいけない物質を通してしまう。その過程で免疫系が刺激されて起こる炎症が、21世紀病のいくつかの原因になっている。酪酸の働きはそのすき間をふさぐことだ。

腸の細胞を結合させている蛋白質の鎖は、人体のあらゆる作用を担っている蛋白質がそうであるように、遺伝子の指示で作られる。だが、ヒトはそうした遺伝子のコントロール権の一部を微生物の譲渡してしまった。腸壁の蛋白質の鎖をつくる遺伝子の発現量を決めているのは微生物だ。酪酸はそのメッセージを伝える。微生物が酪酸を多く出せば出すほど、ヒトの遺伝子は多くの蛋白質の鎖をつくり、腸壁は堅固になる。腸壁を堅固にするのに必要な条件は2つある。まずは正しい微生物だ(特定の食物繊維を小さな分子に分解するビフィイドバクテリウムや、その小さな分子を酪酸に変換するフィーカリバクテリウム・プラウスニッツィ、ロセッブリア・インテスチナリス、エウバクテリウム・レクタレなど)。そしてもう一つは、そうした微生物の餌となる食物繊維をあなたが多く食べることだ。そうすれば、あとは勝手にやってくれる。

「同上」p.286

短鎖脂肪酸が、腸内細菌とヒトの細胞のあいだの情報伝達物質になっているわけです。これはちょうど腸内細菌が出すPSAが制御性T細胞を誘導する話(No.307「人体の9割は細菌(1)」の「21世紀病:免疫関連疾患」の項)とそっくりです。

ヒトが自らの消化酵素で消化できない食物繊維が腸内細菌の餌になり、腸内細菌が食物繊維を消化した「余り」の脂肪酸が重要なメッセージ物質となって炎症などの免疫反応やや脂肪の蓄積がコントロールされる ・・・・・・。ヒトは細菌と共生し、メリットを与え合い、互いに最適化してきたことがよく分かります。



ここまでで、アランナ・コリン著「あなたの体は9割が細菌」の "さわり" の紹介は終わりです。本書には以上のほかにも、皮膚常在菌や腸疾患、糞便移植(=マイクロバイオータを正常に回復させる)など、興味深い話題があるのですが、省略したいと思います。以降は本書を通読した感想です。

10% Human.jpg
本書の原題は「10% Human」で、副題を直訳すると「あなたの体の微生物が、いかに健康と幸福の鍵を握っているか」となる。


本書の感想


ヒトと共生している常在菌、特に腸内細菌とそれがヒトにあたえる影響については研究が進み、一般にも知識が広まってきました(NHKでも近年、特集が組まれた)。本書の多くはその "広まりつつある知識" ですが、それを包括的にまとめて記述したところに意義があると思いました。特に、個々の研究テーマについて、その発端から研究の進展を取材してストーリーを追って書いた構成が優れています。また、巻末にあげられている多数の参考文献・論文は、サイエンス・ライターとしての著者の姿勢を明確にしています。

本書のメッセージをシンプルに要約すると、

ヒトは細菌と共生している。それを前提に考えよう

ということだと思います。ヒトは細菌にメリットを与え、細菌はヒトにメリットを与える。その関係が最適化されて進化してきたのが人体であるということです。この前提に立つと、以下の様なことが見えてきます。

・ すぐに分かることは、ヒトが細菌に与えるメリットとは食べ物だということです。ということは、バランスの良い食事が重要だと理解できます。特に野菜を食べないのはまずい。なぜなら腸内細菌の餌を絶つことになるからです。もちろん、野菜に限らず餌を与えすぎてもいけない。「何事も適度に」です。

・ 細菌がヒトに与えているメリットは実感できませんが、我々が健康に過ごすということの多くが共生している細菌と関係していると想像できます。

・ 従って、共生細菌を殺してしまう行為はまずい。抗生物質の使用は感染症の原因菌を殺すという本来の目的にとどめないと(それでさえ副作用が考えられる)、何が起こるか分かりません。畜産や養殖のコスト削減のためだけに抗生物質を使うなど論外ということになります。

・ 食品添加物は大丈夫でしょうか。許可されている添加物はヒトにとって安全という検証がされているはずですが、ヒトと共生している細菌に影響は無いのか、そこまで配慮されているのかが疑問です。食品添加物を一切とらない生活は不可能だと思いますが、なるべく少なくするのが重要でしょう。

・ 抗生物質が腸内の細菌を殺すものなら、体につける各種の抗菌剤入り商品は皮膚の常在菌を殺すことになります。抗菌剤のヒトにとってのメリットはない(=メリットよりデメリットが大きい)でしょう。手を洗うなら石鹸で十分です(本書でも指摘してあります)。

・ 共生細菌はヒトが外界から取り入れたものです。ということは、自然出産や母乳による育児が大切なことが理解できるし、清潔過ぎる環境で生活するのは問題です。

以上のようなことは、「ヒトは細菌と共生するのが前提」と考えれば、最新科学の知識がなくても理解、ないしは推測ができます。本書の訳者の矢野真千子氏は「訳者あとがき」で次のように書いていました。


自分の体を生態系として眺めれば、森林伐採、外来種の持ちこみ、農薬の使用、肥料のやりすぎを警戒すべき理由はいくらでもみつかる。

矢野真千子「訳者あとがき」
「あなたの体は9割が細菌」p.425

自然生態系と同じように、人体生態系(ヒト + 共生微生物)を破壊してはならないし、人体生態系が持続可能なようにするのが、すなわち我々が生きていくということである ・・・・・・。そう理解できるでしょう。



本書を読んで、ヒトは微生物と共生しているという時の "共生" の意味を深く理解できたと感じました。普通 "共生" と言うと、上に書いたように「互いにメリットを与え合っている」という風に理解します。それは正しいのですが、それだけではありません。本書に次のような例が出てきます。

◆ アッカーマンシア・ムシニフィラという細菌が腸壁を覆う粘膜層の表面に棲んでいる。この細菌はヒトの遺伝子に化学信号を送って粘液の分泌を促し、それによって自分たちの棲み処を確保する。そうすると粘膜層が厚くなり、細菌由来のリポ多糖が血液中に入り込むのが阻止される。この結果、脂肪細胞に過剰な脂肪が詰め込まれなくなる(=肥満を防ぐなどの効果)。

◆ 腸壁の上皮細胞は蛋白質の鎖でつながっている。この鎖がゆるむと、本来、血液中に入ってはいけない物質が透過し、免疫系を刺激して炎症を起こし、21世紀病の原因の一つになる。

細菌が食物繊維を分解したあとにできる酪酸(短鎖脂肪酸の一つ)は、腸壁の蛋白質の鎖を作る遺伝子の発現量を決めている。微生物が酪酸を多く出せば出すほど、ヒトの遺伝子は多くの蛋白質の鎖を作り、腸壁は堅固になる。
No.308「人体の9割は細菌(2)」の「食物繊維の重要性」

◆ バクテロイデス・フラジリスという細菌は、多糖類A(PSA)という物質を産生し、それを微小なカプセルに入れて細胞表面から放出する。このカプセルが大腸で免疫細胞に貪食されると、PSAが制御性T細胞を起動させる。制御性T細胞は他の免疫細胞に、バクテロイデス・フラジリスを攻撃しないようメッセージを送る。

◆ 細菌が食物繊維を分解したあと、大腸には短鎖脂肪酸(酢酸、プロピオン酸、酪酸)が大量にたまる。短鎖脂肪酸は免疫細胞の表面にあるG蛋白質共役受容体(GPR43)に結合し、それが細菌を攻撃しないようにというメッセージになる。そのGPR43は脂肪細胞の表面にもあり、そこに短鎖脂肪酸が結合すると脂肪細胞は肥大するのをやめて分裂する(=肥満を防ぐ)。
No.308「人体の9割は細菌(2)」の「食物繊維の重要性」

つまりヒトと共生している細菌は、腸の壁を厚くし、腸壁の透過性を減少させ、過剰な免疫反応を防ぎ、脂肪細胞の肥大化を防ぐわけです。これはすなわち、

ヒトはヒトのからだのコントロールの一部を共生微生物にゆだねている

ことを意味します。「ヒトと微生物は共生するように進化してきた」とはそういうことです。改めて共生微生物の重要性を認識させられました。



本書には研究途中の事項もたくさん含まれています。著者も「確かな話はここまでで、ここからは推測である」「断定はできない」「相関関係があるからといって因果関係があるとは限らない」などの表現で、"確実に判明しているのではないこと" を明確にしています。このような記述態度には好感を持ちました。

最後に、本書の大きな特長は文章が優れていることです。おそらく著者と訳者の両方の力量だと思いますが、科学書としては珍しいような出来映えです。科学的知見を一般向けにどう平易に記述し、読者に訴えることができるか。やはり文章力は大切だと感じました。




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No.307 - 人体の9割は細菌(1)21世紀病 [科学]

このブログの過去の記事で、人体に共生している微生物(主として細菌)がヒトにとって重要な役割を果たしていることを、本や雑誌の内容をもとに書いてきました。


の5つの記事です。共生している微生物("常在菌" と総称される)が不在になったり、微生物の種類のバランスが崩れるとヒトは変調をきたします。上の記事は微生物と免疫との関連でしたが、この場合の変調とは免疫関連疾患(=アレルギーや自己免疫疾患)の発症です。

この、"人体は微生物との共生で成り立っている" ことを書いた別の本を紹介したいと思います。アランナ・コリン著「あなたの体は9割が細菌」(矢野真千子・訳。河出書房 2016。河出文庫 2020。原題 "10% Human"。以下「本書」と記述)です。この本は免疫関連疾患だけなく、ヒトと共生微生物の関係を幅広く取り上げています。そこポイントです。

著者のアランナ・コリンは進化生物学の博士号をもつ英国人で、専門はコウモリのエコロケーション(超音波による物体位置認識)です。また、サイエンス・ライターとしても活躍しています。

以下、本書の内容の "さわり" を紹介しますが、本書では「マイクロバイオータ(microbiota)」と「マイクロバイオーム(microbiome)」を区別して使ってあります。

マイクロバイオータ   微生物そう。人体と共生する微生物の総体。
マイクロバイオーム   微生物そうがもつ遺伝子の総体。

です。一般には「マイクロバイオーム」で微生物そうも表すことがあります。


人体 = ヒトと微生物との共生系


一般に生命体は微生物と共生していることが多く、高等生物である哺乳類でもよくあります。たとえば反芻動物であるウシです。ウシは4つの胃があり、そこに植物のセルロースを分解する細菌を住まわせていて、食べた草が4つの胃を行ったり来たりしているあいだに微生物が消化してくれる ・・・・・・。これは広く知られていると思います。本書では同様の話としてジャイアントパンダの例が書いてありました。そこを引用してみます。

以降の引用では漢数字を算用数字に直し、また、段落を増やしたところがあります。下線は原文にはありません。


ジャイアントパンダは食肉目(ネコ目)クマ科に属する動物だ。クマ科にはグリズリーやホッキョクグマなどの仲間がいて、食肉目にはライオンやオオカミといった獰猛な動物が加わる。だが食肉目という分類群の名称に似合わず、ジャイアントパンダは肉食をしない。進化の過去に背くように竹を食べることに喜びを見出す。ジャイアントパンダには、ウシやヒツジなどの草食動物にあるような複雑で長い消化管はない。それに代わって大腸とそこに棲む微生物がいろいろな働きをする。

パンダのゲノムは食肉目のゲノムだ。肉の成分である蛋白質を分解する酵素をつくることのできる遺伝子はたくさんあるが、頑丈な植物性多糖類(炭水化物)を分解する酵素をつくることのできる遺伝子は一つもない。パンダは毎日およそ12キログラムの竹の茎をむさぼり食うが、そのうち2キロしか消化できない。腸内微生物がいなければ、その2キロでさえかぎりなくゼロに近づく。

しかし、解析されたパンダのマイクロバイオームからは、セルロースを分解する遺伝子が見つかった。これは本来ならウシやワラビー、シロアリなど草食動物のマイクロバイオームに見られる遺伝子だ。この遺伝子をもつ微生物を体内に棲まわせているおかげで、ジャイアントパンダは肉食動物だった過去の制約から自由になることができた。

アランナ・コリン
『あなたの体は9割が細菌』
(矢野真千子 訳。河出文庫 2020)p.265

引用にあるように、パンダ(ジャイアントパンダ)は食肉目(=ネコ目)クマ科の動物です。食肉目はネコやライオン、クマ、イヌ、アザラシなどを含む分類で、その名のとおり肉食動物がほとんどです。しかしパンダは食肉目でありながら草食で、しかも竹を食べて生きている。それを可能にするのが共生微生物の働きなのです。

そして我々人間も哺乳類の一部であり、パンダと同様の話が当てはまります。たとえば、我々が食べる野菜にはヒトの消化酵素では消化されにくい炭水化物(=難消化性の炭水化物)が含まれていて、それは「食物繊維」と総称されています。上の引用に出てきたセルロースもその一つです。食物繊維は胃から小腸まででは消化されずに大腸に至り、大腸に共生している微生物はそれを分解してエネルギー物質にしたり、必須ビタミンを合成したりします。

そういった共生微生物は、もちろん大腸だけでなく、皮膚、口腔、鼻腔、消化器系、膣などに生息していて、その数はヒトの細胞の数よりよほど多いのです。


あなたの体のうち、ヒトの部分は10%しかない。あなたが「自分の体」と呼んでいる容器を構成している細胞1個につき、そこに乗っかっているヒッチハイカーの細胞は9個ある。あなたという存在には、血と肉と筋肉と骨、脳と皮膚だけでなく、細菌と菌類が含まれている。あなたの体はあなたのものである以上に、微生物のものでもあるのだ。

微生物は腸管内だけで100兆個存在し、海のサンゴ礁のように生態系をつくっている。およそ4000種の微生物がそれぞれ独自の棲息地(ニッチ)を開拓し、長さ1.5メートルの大腸表面を覆うひだに隠れるようにして暮らしている。あなたは生まれた日から死ぬ日まで、アフリカゾウ5頭分の重量に匹敵する微生物の「宿主」となる。微生物はあなたの皮膚の上にもいる。あなたの指先には、イギリスの人口(引用注:約6700万)を上回る数の微生物が付着している。

「同上」p.15

ヒトの細胞の数は、最近の研究では約37兆個と言われています。そのうちの26兆は酸素を運ぶことだけに特化した赤血球です。赤血球にはDNAがなく、DNAをもつ通常の細胞という意味では11兆個程度です(No.225「手を洗いすぎてはいけない」参照)。一方、数だけからすると常在菌のほとんどは腸内細菌で、その数を100兆とすると、上の引用にあるように「ヒトの部分は10%しかない」ことになります。

人の消化管.jpg
ヒトの消化管(本書)

胃は強酸性で、ふつう微生物は棲めないが、ヘコバクター・ピロリ菌だけが生息している。

小腸は全長7メートルほどあり、食物が消化酵素で分解されて血液中に吸収される。ここには微生物も多く生息していて、小腸の出発点では1ミリリットルあたり約1万個、終点では1ミリリットルあたり1000万個の微生物がいる。

盲腸はテニスボール大の器官で、微生物の種類と数が一挙に増える。ここには4000種類、数兆個の微生物がひしめく。また虫垂は、食物の流れからはずれた位置にあり、微生物の「隠れ家」になっている。

大腸の殆どを占める結腸には1ミリリットルあたり1兆個の微生物が生息していて、消化されなかった食物を分解する。この副産物がヒトに有益かつ必須の影響を与える。なお図にはないが、口腔にも多様な微生物が生息している。

2000年に始まった「ヒトゲノム・プロジェクト」でヒトの全DNAが解読されました。そこで分かったことは、ヒトの遺伝子(=蛋白質の製造指示)の数は線虫とほぼ同じ21,000個だということです。これは植物のイネの半分程度しかなく、31,000個の遺伝子を有するミジンコにも遙かに及びません。

もちろん、遺伝子の数だけで生物の複雑さを議論できません。生物の複雑さは遺伝子が作る蛋白質の組み合わせで決まります。ヒトもほかの動物も、ゲノムから引き出せる機能の数は遺伝子の数よりずっと多い。

とは言うものの、ここで見落としているのはヒトと共生している微生物の遺伝子です。ヒトの遺伝子にそれが加わると複雑さが格段に増す。この共生微生物の遺伝子を解読するプロジェクトが、2007年に開始された「ヒトマイクロバイオーム・プロジェクト」でした。


世紀の変わり目に私たちが見落としていたのは、2万1000個の遺伝子がすべてではないということだった。ヒトゲノム・プロジェクトの最中に生まれたDNA解析技術は、もう1つのゲノムの解析計画を可能にした。ヒトマイクロバイオーム・プロジェクトである。当初それほどメディアの注目を集めなかったヒトマイクロバイオーム・プロジェクトは、私たち自身のゲノムを調べるのではなく、人体に棲む微生物のゲノムの総体 ── マイクロバイオーム ── を調べて、どんな微生物種が存在しているのかを見つけ出そうという計画だった。

培養の困難さと酸素が研究の障害となることはなくなった。1億7000万ドルの予算と5年の期間をもってスタートしたヒトマイクロバイオーム・プロジェクトは、人体18か所の微生物共同体を解析することになった。解読するDNAの量はヒトゲノム・プロジェクトの数千倍にもなったが、ヒトと微生物の遺伝子を両方調べるということは、一人の人間をより包括的に理解することになる。

2012年にヒトマイクロバイオーム・プロジェクトの第1段階が終了したときは、大統領や首相が勝利宣言することはなく、そのニュースを記事にした新聞もごくわずかだった。だが、ヒトマイクロバイオームの解読は、ヒトゲノムの解読以上に、「ヒトとはどんな存在であるか」を明らかにしつつある。

「同上」p.26

ヒトマイクロバイオーム・プロジェクトが明らかにした共生微生物の遺伝子の総数は440万と本書にあります。つまりヒトの遺伝子の約200倍であり、遺伝子の数だけからすると人体におけるヒトの部分は0.5%しかないのです。しかも共生微生物のほとんどは単細胞生物であり、進化のスピードがヒトと比べものにならないぐらい速い。これらの(腸管だけで100兆の)共生微生物(=マイクロバイオータ)と一緒に進化してきたのがヒトです。

この「人体 = ヒトと微生物の共生系」という視点で考えると新たな事実や研究課題が見えてきます。そこを展開するのが本書の目的で、特に、

・ "21世紀病" とマイクロバイオータの関係
・ マイクロバイオータを正常に維持するために

という観点から数々の解説がされています。以下にその一部を紹介します。まず「21世紀病とマイクロバイオータ」の関係です。


「ふつう」でないことの急増 = 21世紀病


19世紀末から20世紀初頭に増加の兆候が見え、1950年ごろから有病率が激増し、21世紀にはすっかり "定着" してしまった(=あたりまえになってしまった)病気や疾患、症状があります。アレルギー、自己免疫疾患、心の病気(自閉症など)、肥満、腸の疾患などで、著者はこれらを「21世紀病」と呼んでいます。

たとえばアレルギーは、花粉、ホコリ、ペットの毛、牛乳、卵、ナッツ類などにヒトの免疫系が過剰反応して起こりますが、20世紀の後半に急増しました。アレルギーを起こす物質はどこにでもある平凡なものにもかかわらず、ヒトの免疫系が敵と見なして攻撃してしまいます。これはヒトにとっての「ふつう」だとは言えません。アトピー性皮膚炎と花粉症は、現在では人生の一部になってしまった人が多数いますが、これも「ふつう」の状態とは言えないでしょう。喘息もそうです。呼吸は生きていく上で欠かせないものなのに、薬に頼らないと息ができない子どもたちがたくさんいる。

では、自己免疫疾患はどうでしょうか。本書から引用します。


自己免疫疾患はどうだろう。1000人のうち4人が1型糖尿病を患っている現在、あなたの義妹がインスリン注射をしているのは別段めずらしいことではない。あなたの妻とその叔母の神経を破壊している多発性硬化症の名前もあちこちで見聞きする。

自己免疫疾患にはほかに、関節炎を生じさせる関節リウマチ、腸を襲うセリアック病、筋線維を変性させる筋炎、細胞をその中心から崩壊させる狼瘡(引用注:ろうそう。全身性エリテマトーデス。SLEと略される)、その他およそ80種類がある。アレルギー同様、免疫系が暴走して病原体だけでなく自分自身の細胞まで攻撃してしまう自己免疫疾患に苦しむ人は、先進国では人口の10%近くに達している。

「同上」p.64

著者は1型糖尿病の増加の例を詳しく書いています。1型糖尿病は遺伝子変異で引き起こされる自己免疫疾患で、膵臓の細胞が破壊されてインスリンが分泌されなくなります。通常10代などの若年期に発症し、ブドウ糖が血液中にどんどんたまり、喉の渇きや多尿をもたらします。患者は日に日に衰弱し、腎不全で数週間後か数か月後に死亡します。唯一の治療はインスリンの注射ですが、インスリンが発見されて患者への投与が始まったのは1920年代であり、20世紀初頭までは死が避けられない病気でした。

この1型糖尿病は19世紀以前でも簡単に診断がついたという特徴があります。自己免疫疾患の有病率の長期の傾向をみるには最適の病気です。


1型糖尿病はほかの病気に比べていまも昔も診断がつきやすいという特徴がある。最近では空腹時に血糖値をちょっと測るだけでわかる。100年前でも調べる気になれば簡単に調べることができた。調べる気になれば、と言ったのは、その調べ方というのが患者の尿を舐めるという方法だからだ。口の中で甘みが広がれば、腎臓で血液から尿に排出されたブドウ糖の量が多いということになる。もちろん現在より過去のほうが見過ごされるケースは多かっただろうし、記録に残されていないものもあっただろうが、1型糖尿病の有病率の変化は自己免疫疾患全般の有病率の変化を知る目安として信頼に足りうる。

欧米ではおよそ250人に1人が1型糖尿病で、ブドウ糖がたまるのを防ぐために自分に必要なインスリン量を計算し、それを注射している。だが、ここまで有病率が高くなったのは最近の話だ。1型糖尿病は19世紀にはほとんどなかった。アメリカのマサチューセッツ総合病院が1898年まで75年以上保管していた記録によれば、同院を訪れたおよそ50万人患者のうち小児期に糖尿病と診断されたケースは21件しかなかった。昔は診断されなかったから見逃されていたのでは、という疑いは排除していい。尿を舐めて調べる検査、急激な体重減少、そして死が避けられないというわかりやすい診断基準で、この病気は当時から簡単に見分けられていたからだ。

第2次世界大戦の直前に公的な記録制度が整うと、それ以降の1型糖尿病の有病率の推移をたどるのは簡単になった。第2次世界大戦前、アメリカ、イギリス、スカンディナビアで1型糖尿病の小児患者は5000人に1人だった。有病率は戦争中は変わらなかったが戦後に上がりはじめ、1973年には1930年代の6倍から7倍になった。1980年代に現在と同じ250人に1人となり、その後は横ばいを続けている

「同上」p.65

1898年以前は25,000人に1人(50万人中の21人)だった有病率が、1980年代には 250人に1人になったわけです。1型糖尿病は約100年間で100倍に増加したことになります。

1型糖尿病の増加と連動するかのように、ほかの自己免疫疾患も増加しました。神経系が破壊される多発性硬化症は、2000年の時点でその20年前の2倍になりました。セリアック病(小麦に含まれるグルテンの摂取が引き金になって免疫系が小腸細胞を攻撃する自己免疫疾患)は、現在、1950年代と比べて30倍から40倍に増えました。炎症性腸疾患や関節リウマチなども増えています。



さらに、肥満も20世紀後半に急増したものです。本書ではBMIが25以上を「過体重」、30以上を「肥満」と定義しています。現在、欧米人の半数以上は過体重または肥満です。しかし、かつてはそうではありませんでした。


現在の私たちから見ると、1930年代や1940年代の懐かしの白黒写真に見られる短パン姿や水着姿で夏を楽しむ若い男女の体格は、肋骨が浮き出て腹部がへこみ、いかにも貧弱だ。だが、彼らは不健康でも何でもなく、単に現代人の悩みを抱えていないだけである。20世紀初頭には、ヒトの体重に個人差はそれほどなく、記録をとる必要がないほどだった。

「同上」p.67

「20世紀初頭には、ヒトの体重に個人差はそれほどなく」とありますが、個人差があまりないと同時に、それ以前の人類史と比較しても差があまりなかったのです。この状況が20世紀半ばから変化します。


ところが1950年代に、肥満病の震源地アメリカで突如、体重増加が目立つようになり、政府は記録をとりはじめた。1960年代初期に実施された初の全国調査では、成人の13%が肥満(BMI値が30を超える)で、30%が過体重(BMI値が25~30)だった。BMIとは、体重(kg)を身長(m)の2乗で割って出た数値、ボディ・マス・インデックスのことである。

1999年には、成人のアメリカ人の肥満率は倍増して30%となり、過体重のゾーンに入る人は34%となった。合わせると過体重または肥満は64%になる。イギリスも少し遅れて同じ傾向を追いかけた。1966年には成人イギリス人の肥満の割合は1.5%、過体重は11%だった。1999年になると肥満は24%、過体重は43%、合わせて67%だ。

肥満の問題は単に太っていることだけではない。肥満は2型糖尿病や心臓病、一部の癌の原因ともなり、実際、これらの病気は着実に増えている。

「同上」p.67



自閉症をはじめとする "心の病気" はどうでしょうか。


自閉症の患者は、かつてないほど多くなっていて、68人に1人の子ども(男児では42人に1人)が自閉症スペクトラムと診断されている。1940年代には自閉症はあまりに希少で病名さえついていなかった。

記録をとりはじめた2000年でさえ、現在の半分以下だった。患者数が増えた背景に、自閉症への認識率の高まりや過剰診断があることは否定できない。だが、それを差し引いても自閉症の有病率が増加しているのは事実であり、昔とは明らかに違うと大半の専門家は認めている。注意欠陥障害やトゥーレット症候群、強迫性障害も増加している。うつ病と不安障害もだ。

心の病気がこんなに増加しているのは「ふつう」ではない。

「同上」p.68

アレルギー、自己免疫疾患、自閉症、肥満などは、あまりに常態化しているため、曾祖父母とそれ以前の世代にはほとんどなかった新しい病気や症状だということに我々は気づきません。それは医者も同じで、現代の医者は現代の知見をベースにした教育を受けています。昔はなかった病気だと言われても、ピンと来ないでしょう。

何が状況を変えてしまったのか、じっくりと考えてみる必要があります。本書の眼目は、これらの "21世紀病" がヒトのマイクロバイオータの "変調"(=ディスバイオシス)に関係しているのではということです。その研究は21世紀から盛んに行われるようになり、その最新の情報をもとに書かれたのが本書です。まだ研究途中のテーマが多いのですが、その一端を、以下に紹介します。


21世紀病:肥満


20世紀は、人類が誕生してこのかた、最も体型が変化した時代です。著者は「後世からすると20世紀は肥満の時代と定義されるだろう」とまで言っています。


ヒトの体型を5万年前と1950年代とで比べてもそれほど違いはないだろうが、こんにちの平均的な体型は明らかに違う。狩猟採集民のころから続いてきた筋肉質でひきしまった体格は、たった60年かそこらでぶくぶくになってしまった。これほど大規模な変化は人類史において過去に一度も起こったことはない。いや、ヒト以外の動物(ペットと家畜を除く)でも、体型をこれほど変えてしまう病気が広がったことはない。

地球上の成人は、3人に1人が過体重(引用注:25 < BMI < 30)で、9人に1人が肥満(引用注:30 < BMI)だ。なおこの比率は、過体重より栄養不良のほうが心配な地域を含めた全世界の平均値である。肥満率の高さで上位にいる国の現実は想像を絶する。たとえば南太平洋の島国ナウルでは、成人のおよそ70%が肥満で、そのほかに過体重が23%いる。この小国の人口は1万人だから、まともな体型は700人しかいないことになる。ナウルは太った人が世界一多い国家と認定されている。南太平洋のほかの国々や中東諸国の多くが僅差で続く。

欧米でも、太った人がいると目立ったのは過去の話となってしまった。いまや、痩せた人を数えるほうが早い。成人の3人に2人は過体重で、さらにその半分は単なる過体重ではなく肥満だ。アメリカは肥満国家という印象があるが、意外にも世界ランキングでは17位で、過体重または肥満の割合は71%にとどまる。イギリスは世界ランキング39位で、成人の62%が過体重(25%の肥満を含む)と西ヨーロッパで最も高い。恐ろしいことに、欧米世界では子どもにまで太りすぎが蔓延し、12歳未満の小児の3分の1が過体重でその半数が肥満である。

「同上」p.89

肥満は、糖尿病などのいわゆる生活習慣病の原因になり、ある種の癌のリスク要因にもなることが確実視されています(たとえば大腸癌)。肥満はこの50年程度で急速に進み、多くの人が太りすぎの状況に慣れてしまいました。このため我々は、太るのは欲望(=食欲に負ける)と怠け癖(=運動不足)の結果であり、肥満は人間のさがたと思い込んでしまった。

もちろん、過食と運動不足が肥満の原因になるのは間違いありません。特に過食です(No.221「なぜ痩せられないのか」に書いたように、運動による減量の効果は限定的)。しかしそれだけでしょうか。

ちなみに本書には書いてありませんが、ストレスが肥満の(2次的な)原因になるとうのはよく言われることです。ストレスが満腹中枢を刺激するホルモンの分泌を低下させ、そのために過食になり、肥満になるという理屈です。

肥満の他の理由は遺伝的要因です。体重増加に作用している遺伝子は32個ほど発見されています。しかしこれらによる体重増加は、最大限に見積もっても約8kgです。それに、ヒトの遺伝子は60年程度では変わりようがありません。遺伝的に太りやすい人がいるのは事実ですが、多くの人がスリムだった60年前と現在で遺伝子の全体的な状況は同じはずです。



過食と運動不足、遺伝的要因だけで肥満を説明することはできません。ここで我々が見落としていたのが微生物の影響です。ヒトが食物から吸収するエネルギー量は体内の微生物に関係しているようなのです。

スウェーデンのヨーテボリ大学のバークヘッド教授は、肥満の研究をしてきました。彼が2004年から行った無菌マウスを使った実験が本書に出てきます。マイクロバイオーム研究の世界的第1人者、ジェフリー・ゴードン(アメリカ・ミズーリ州ワシントン大学教授)との共同研究です。


フレドリク・バークヘッドはヨーテボリ大学の微生物学教授だ。彼の実験室にあるのは、微生物学という言葉から連想されるペトリ皿や顕微鏡ではなく、数十匹のマウスだ。マウスはヒトと同じく多種多様な微生物を腸内に棲まわせている。だが、バークヘッドのマウスは違う。帝王切開で生まれたのち無菌室で育てられているため、体内に微生物がまったくいない。この「白いカンバス」のようなマウスに、バークヘッドの研究チームは思いのままに特定の微生物を植えつけることができる。

バークヘッドは2004年に、マイクロバイオーム研究の世界的第1人者ジェフリー・ゴードンとの共同研究に乗り出した。ゴードンは実験で使っている無菌マウスがひどく痩せていることに目をとめ、バークヘッドと共にその理由を腸内細菌が不在だからではないかと考えた。このとき2人は、腸内細菌が宿主動物の代謝に与える作用について、ごく基礎的な研究でさえまったくなされていないことに気がついた。そこで、バークヘッドは第1弾として、腸内細菌がいるとマウスは太るのか、というシンプルな疑問を研究することにした。

この疑問に答えるため、バークヘッドは無菌マウスを成体まで育てたあと、そのマウスの毛に、通常マウスの盲腸の内容物をなすりつけた。無菌マウスが自分の毛をなめると、腸内に通常マウスと同じ微生物が棲みつく。結果は大当たりで、元無菌マウスは太ってきた。少し太った程度ではなく、14日間で体重を60%も増やした。餌を食べる量は逆に減っていた。

「同上」p.100

腸内に棲む微生物が、宿主に消化できない食べ物を食べていることは科学者が皆知っていました。つまり微生物は宿主から恩恵を受けています。しかし微生物による消化作用が宿主のエネルギー摂取にどれほど貢献しているのか、つまり微生物が宿主に与える恩恵については、誰も知らなかった。マウスによる実験によると、明らかにマウスも恩恵を受けているのです。

さらに、ゴードンの研究室で研究員だったピーター・ターンバウの実験があります。彼は遺伝的に肥満のマウスの腸内細菌と通常のマウスの腸内細菌を、それぞれ別の無菌マウスに移植し、同じ餌で飼育する実験をしました。案の定、肥満マウスのマイクロバイオータを移植されたマウスは太り、通常マウスのマイクロバイオータを移植されたマウスは太らなかった。


腸内細菌の何が私たちを太らせているのだろう。ターンバウが肥満マウスの微生物を移して太らせたマウスは、フィルミクテス門の細菌が多くバクテロイデーテス門の細菌が少ないマイクロバイオータを有しており、それにより食べ物から多くのエネルギーを吸収しているようだった。

これは「カロリーイン、カロリーアウト」の法則を根底から覆す。単に食事のカロリー計算をするだけでなく、そこから吸収するエネルギーの量を知らなければならないのだ。ターンバウは、肥満型のマイクロバイオータを移されたマウスは餌から 2% 多くカロリーを吸収していると算出した。同じ量の餌に対し、通常マウスが100キロカロリーを得るところを、太ったマウスは102キロカロリーを得る。

なんだ、たいしたことはないと思うかもしれないが、1年以上たつと差はどんどん開く。身長163センチ、体重62キロ、BMI値23.5という平均的な女性を例にとってみよう。この女性は1日に2000キロカロリーを摂取するが、肥満型のマイクロバイオータを有していると2%余分にカロリーを吸収する、つまり1日に40キロカロリーが加わる。エネルギーの消費量がいつもどおりであれば、この余分な40キロカロリーは理論上、1年で1.9キロの体重増になる。10年で19キロ増え、彼女の体重は81キロに、BMI値は肥満レペルの30.7になる。腸内細菌が食べ物から2%余分にカロリーを引き出すだけで、10年で肥満になるということだ。

「同上」p.104

アトウォーター係数というエネルギー換算係数があります。タンパク質:4kcal/g、脂質:9kal/g、炭水化物:4kcal/g という係数ですが、これはもちろん標準値であって、同じ栄養素でもその物理的組成や食品としての加工の程度、調理方法によって吸収されるエネルギーは違ってきます。

それに加えて、ヒトのマイクロバイオータもエネルギー吸収に関与している。これはヒトそれぞれでエネルギー吸収量が違うということを意味します。


ターンバウの実験は、ヒトの栄養についての考え方に革命をもたらした。食品ラベルに表示してあるカロリー量は、炭水化物1グラムは4キロカロリー、脂肪1グラムは9キロカロリーというように、標準的な換算表で計算されたものだ。食品の品目ごとに「このヨーグルトは137キロカロリー」「このパン1枚は69キロカロリー」と、だれが食べても同じカロリーになることを前提としている。

だが、事はそれほど単純ではない。そのヨーグルトはふつうの体重の人には137キロカロリーでも、太った人には140キロカロリーになる。別のマイクロバイオータを抱えた人ならまた別のカロリー量になるかもしれない。そして、このわずかな差は積もり積もって大きな差となる。

「同上」p.105

さらに本書では、肥満の人はより多くのエネルギーを脂肪細胞に蓄えることが示されています。これに影響しているのも微生物です。たとえば、マーモット(小型のサル)での実験では、アデノウイルス36(AD36)に感染するとマーモットは太りました。このウイルスに感染すると脂肪組織はエネルギーが余っていなくても脂肪の貯蔵に励むようになります。ヒトでの実験は倫理上の問題もあってできませんが、AD36の感染履歴があるかを抗体検査で調べた結果があります。それによると肥満者の30%が過去にAD36に感染していました。太っていない人では10%です。

そのヒトでの研究ですが、腸内細菌の中には表面にリポ多糖(=LPS。No.122「自己と非自己の科学:自然免疫」の "グラム陰性菌" の説明参照)を付けているものがいます。そして腸内にアッカーマンシア・ムシニフィラという細菌が少なくなるとリポ多糖が腸壁を通過して血液中に入り込み、その結果、脂肪細胞に過剰な脂肪が詰め込まれることが分かりました。


痩せたヒトと太った人の腸内での存在量の違いが見られる微生物に、アッカーマンシア・ムシニフィラという細菌がいる。痩せた人はこの細菌が多くいて、この細菌が少ない人ほどBMI値が高い。この細菌は、痩せた人では腸内微生物全体の4%を占めているのに対し、太った人ではほとんどゼロだ。

アッカーマンシア・ムシニフィラは腸壁を覆う厚い粘膜層の表面に棲んでいる(ムニシフィラとは粘膜好きという意味だ)。腸壁の粘膜層は、腸内微生物が血液中に入り込んで悪さをするのを防ぐ障壁となっている。アッカーマンシア・ムシニフィラの存在量はBMI値に関係するだけではない。この細菌が少ないと粘膜層が薄くなり、リポ多糖が血液中に入り込みやすくなる。

アッカーマンシアが痩せた人の腸内に多いのは、この細菌が粘膜好きで、粘膜層が厚いほど繁栄するからだと思うだろう。実態はその逆で、この細菌が腸壁細胞に働きかけて、より多くの粘液を分泌させている。アッカーマンシアはヒトの遺伝子に化学信号を送って粘液の分泌を促し、それによって自分たちの棲み処を得て、結果的にリポ多糖分が血液中に入り込むのを阻止している

「同上」p.118

リポ多糖は脂肪細胞に炎症を起こし、また新しい脂肪細胞の形成を妨げます。その結果、既存の脂肪細胞に過剰な脂肪が詰め込まれることになるのです。

腸壁の構造.jpg
腸壁の断面図(本書)

この図で上の方の「移動性微生物」が生息しているのが腸の内腔で、その下に描かれている「粘液好きの微生物」の一つがアッカーマンシア・ムシニフィラである。アッカーマンシアはヒトの遺伝子に化学信号を送って粘液の分泌を促し、それによって自分たちの棲み処を得て、リポ多糖が血液中に入り込むのを阻止している。この結果、脂肪細胞に過剰な脂肪が詰め込まれることがなくなる。

従来、肥満は過食と運動不足が原因であり、要するに生活習慣病であるとされてきました。しかしそれに加えて微生物が関係していることが次第に分かってきました。

微生物とは無関係だとされていた症状・病気が、実は違ったことが分かった先例があります。1982年、2人のオーストラリア人科学者、ロビン・ウォレンとバリー・マーシャルが、胃潰瘍を引き起こしているのはヘリコバクター・ピロリ菌だと解明しました。この功績により、2人は2005年のノーベル医学生理学賞を受賞しました。胃潰瘍は感染症の一種だったのです。

胃潰瘍と同じように、肥満も微生物が原因の感染症という一面があるようです。


21世紀病:自閉症


自閉症(=自閉症スペクトラム障害)は、1943年にアメリカの精神科医が初めて命名した症状です。この症状に共通するのは人づき合いが困難だということです。生後の早い時期から外界に無関心で、他者の真意、冗談、皮肉、比喩などが理解できません。他者との共感を抱けず、社会生活のルールを身につけることができません。決まりきった行動を好み、単一の考えや対象物の執着します。

自閉症は遺伝的なものだというのが一般的な見方で、それは1990年代もそうでした。しかし、それに疑問を持った人がいました。アメリカのコネティカット州のエレン・ボルトです。1992年に生まれた彼女の第4子であるアンドリューは、生後15ヶ月ごろに耳の感染症のために抗生物質の投与をうけ、再発を繰り返したため、抗生物質の種類を変えて何回もの治療が続きました。そして治療の途中からアンドルーの振る舞いが変わりはじめ、2歳のころには自閉症と診断されました。エレン・ボルトは疑いを持ちます。アンドリューの自閉症は抗生物質の投与が引き起こしたのではないかと ・・・・・・。

エレン・ボルトは文献を読みあさり、ある仮説をたてます。それは腸内における破傷風菌の増殖が原因ではないかという仮説です。破傷風菌は普通、血液に入って筋肉に感染しますが、アンドルーの場合は腸に入った。通常、腸内での増殖は起こらないのですが、抗生物質治療が腸内細菌を殺していたために破傷風菌が増殖し、その毒素が脳に影響を与えたのではとエレンは考えたのです。破傷風菌が筋肉に感染するとその毒素が筋収縮を起こしますが、腸に感染した場合は毒素が脳に影響しうることを示す論文もありました。そして実際に検査してみると、アンドリューの破傷風菌の抗体値は異常に高かったのです。

エレンが相談した37番目の医師は、シカゴの小児胃腸科専門医のリチャード・サンドラーでした。彼はエレンの話を注意深く聞いてくれ、破傷風菌を殺すために抗生物質を投与するというエレンのアイデアを実行してみることにしました。2日後、4歳半になっていたアンドリューの行動は落ち着き始めました。2週間後にはトイレ訓練が可能になり、言葉をたくさん覚えるようになり、着替えを嫌がらなくなりました。脳の発達期に受けたダメージのため、自閉症が完治したわけではありません。しかしアンドリューの変化は誰の目にも明らかでした。

アンドリューの事例に興味を示してくれたのが、高名な微生物学者、シドニー・ファインゴールド(米・カリフォルニア大学)です。ファインゴールドは嫌気性微生物研究の第一人者であり、破傷風菌を含むクロストリジウム属の細菌も嫌気性微生物の仲間です。エレン・ボルトの話に興味を惹かれたファインゴールドは実験を開始しました。


破傷風菌仮説がひらめいてから6年後の2001年、エレン・ボルトはついに自分が正しかったことを知る。シドニー・ファインゴールドは、自閉症児13名と健康児8名で、大腸内にいる微生物を比較する対照試験をした。当時、マイクロバイオータのすべてを調べるにはDNA解析技術はまだ高価すぎたが、ファインゴールドは無酸素状態で細菌を培養する特殊な技能を有していたため、クロストリジウム属の細菌種をカウントすることができた。

破傷風菌そのものは見つからなかったが、重要なことがわかった。自閉症児は健康児に比べて、平均すると腸内にクロストリジウム属の細菌が10倍も多くいたのだ。おそらく、破傷風菌の仲間の菌種も幼い脳にダメージを与えるような神経毒素を出すのだろう。エレン・ボルトの仮説は原因菌種を狭く特定していただけで、考え方の方向性としては合致していたことがこの段階で示された。

「同上」p.140


ファインゴールドはその後、自閉症児と健常児のマイクロバイオータを比較する研究を何度かくり返した。そして、自閉症児の多くに共通して見つかる疑わしい細菌種を発見し、エレン・ボルトにちなんでクロストリジウム・ボルテアエという名をつけた。自閉症児と健常児では腸内細菌のバランスが異なり、その違いとしてクロストリジウムが浮上することが多い。だが、これらの細菌は、どのようにして幼い脳を改変し、重度の自閉症を発症させてしまうのだろうか。

「同上」p.154

カナダのオンタリオ州ロンドンにあるウェスタン・オンタリオ大学にデリック・マクフェイブという研究者がいました。彼は過去に自閉症に似た症状を示す男性に抗生物質を投与したところ症状が改善したことから、脳と腸の関係を信じるようになっていました。彼は自分の脳卒中の研究でプロピオン酸という分子を調べていて、これが自閉症と関係しているのではとの疑いをもちました。


プロピオン酸は、消化されなかった食べ物を腸のマイクロバイオータが分解するときできる物質、短鎖脂肪酸(SCFA)の1つだ。代表的な短鎖脂肪酸は酢酸、酪酸、プロピオン酸で、どれも私たちの健康と幸福に欠かせない物質だ。マクフェイブが注目したのは、プロピオン酸は人体に重要な物質であると同時に、パン製品の防腐剤にも使われていることだ。パン製品は、多くの自閉症児が好む食べ物だ。さらに、プロピオン酸を産生するのはクロストリジウム属の細菌だということが知られている。プロピオン酸そのものは有害な物質ではないが、ひょっとすると自閉症児の体内にはこの物質が過剰にあるのではないかとマクフェイブは考えた。

「同上」p.155

自閉症児の脳内にはプロピオン酸が脳内に過剰にあるのではないかという仮説を実証するため、マクフェイブはまずマウスでプロピオン酸の脳に対する影響を確かめる実験を開始しました。


自閉症児のマイクロバイオータはプロピオン酸を過剰生産していて、そのプロピオン酸がふるまいに影響しているのだろうか。それを確かめるため、マクフェイブは一連の実験に乗り出した。生きたラットの脊柱に小さなカニューレを挿入し、そこから微量のプロピオン酸を脳脊髄液に注入した。数分後、ラットは奇妙にふるまいはじめた。その場でぐるぐる回ったり、単一の物体に固着したり、突発的に走ったりするようになったのだ。2匹のラットを同じケージに入れてプロピオン酸を注入すると、立ち止まって互いの匂いを嗅ぎ合うことをせず、相手を無視してケージの中をぐるぐる走り続けた。

ラットのふるまいが変わったのは明白で、しかもそれは自閉症患者のふるまいに似ている。そのようすはインターネットの動画で見ることができる。仲間のラットよりモノに興味を示し、一定の動きをくり返し、チックや多動を示すという自閉症患者と同じ特徴が、脳へのプロピオン酸の作用で出現したのは明らかだ。プロピオン酸の効果が半時間ほどで消えるとラットのふるまいは元に戻る。プラセボとして生理食塩水を注入したラットには変化は見られなかった。逆に本物のプロピオン酸であれば、ラットの皮膚下に注射したり食べさせたりした場合でも、同じ変化が現れた。

この小さな分子はラットの脳をハイジャックし、宿主に異常な行動をさせていた。

「同上」p.156


プロピオン酸はラットの脳に与えたと同じようなダメージを自閉症患者の脳にも与えていたのだろうか。その疑問を解くため、マクファイブの研究チームはラットの脳と、検死解剖された自閉症患者の脳を比べた。その結果、どちらの脳にも免疫細胞が大量にあることが確認された。統合失調症や多動性障害の場合と同じく、やはり炎症の痕跡があったのだ。

「同上」p.157

免疫細胞が大量にあるということは、脳内で炎症が起こっていたということです。腸内細菌の "ありよう" が結果として脳にダメージを与えて自閉症を発症するというのは仮説であり、マクファイブの研究チームはまだ慎重な姿勢を崩していません。現在も研究が続いているところです。なおエレン・ボルトの娘のエリン・ボルトは、この分野の研究者の道を歩んでいます。



20世紀には微生物が引き起こす病気が次々と明らかになりましたが、脳の不具合だけは微生物と無関係なものとされてきました。脳以外の器官がおかしくなった時、我々は外部要因を考えます。しかし脳(心)の病気だけは、本人や親、遺伝、ストレス、生活習慣のせいにされる。

ところが、感染症も脳に影響することが分かってきました。たとえば、トキソプラズマに感染すると性格が変わります。反応が鈍くなり、集中力が失われる。男性は陰気になり、ルールや道徳を無視するようになります。女性は逆に明るくおおらかになる。

腎臓や心臓の不具合をカンウセリングで直そうとする人がいないと同じように、心の病気をカンセリングだけで直そうとするのは時代遅れなのです。


21世紀病:免疫関連疾患


免疫関連疾患とは、どこにでもあるありふれた物質に免疫が過剰に反応したり(=アレルギー)、免疫が自己の細胞を攻撃したり(=自己免疫疾患)することを言います。これについては No.119-120「"不在" という伝染病」に詳述しましたが、もちろん本書でも書かれています。

20世紀までの免疫に対する理解は「自己と非自己を区別し、非自己を排除することで自己の一貫性を保つ」というものでした(No.69-70「自己と非自己の科学」参照)。しかし腸内細菌は免疫の働きの最前線に生息しているにもかかわらずヒトと共生し、互いに利益を与えあっています。ヒトからみると完全に "非自己" であるはずの腸内細菌が共生できる秘密は何なのでしょうか。この理由が、大阪大学の坂口教授が1995年に発見した "制御性T細胞" です。


免疫細胞ならすべての細胞が敵の破壊と脅威の検知にしのぎを削っていると思われがちだが、人体のあらゆる仕組みがそうであるように、免疫系においても、炎症反応を促進する指示と、炎症を抑制する指示の釣り合いを保たなければならない。このとき炎症抑制の役目を担っているのが、最近知られるようになった制御性T細胞だ。略してTレグ細胞とも呼ばれる制御性T細胞は、軍隊でいうと准将のような位置づけで、興奮して息巻いている兵士を鎮めて落ち着かせる。この細胞が多ければ免疫系はあまり反応せず、少なければ過剰に反応する。

制御性T細胞を生産できない突然変異をもって生まれた子は、IPEX症候群(X連鎖免疫調節異常・多発性内分泌障害腸症候群)という致死的な病気になる。免疫系のバランスが傾いて、炎症を促進する免疫細胞を大量に産出し、リンパ節と脾臓を肥大させてしまう病気だ。過剰に攻撃的になった細胞は自身の臓器を破壊し、患者は小児期に1型糖尿病や皮膚炎、食物アレルギー、炎症性腸疾患、難治性の下痢といった一連の自己免疫疾患とアレルギー疾患に見舞われる。そして多臓器不全で早すぎる死を迎える。

ところが、最近になって驚くべき事実が明るみに出た。准将の制御性T細胞に命令を出している最高司令官は、人体にとっていつも最善の利益を追求する「精鋭のヒト細胞」ではない、というのだ。制御性T細胞を使って命令を流しているのはマイクロバイオータだ。微生物は抑制系の免疫細胞の数を操作することにより、微生物自身の生存を確実なものにする。微生物にとっては、ヒトの免疫系は穏やかで寛容なほうがありがたい。攻撃されたり追い出されたりする心配がなくなるからだ。

では、微生物は自身の利益のためにヒト免疫系を鈍くさせるよう進化して、ヒトが昔からの敵と出合ったとき始動すべき安全装置を改ざんしてしまったのかといえば、そういうことではない。ヒトとマイクロバイオータの長い共進化の歴史は、どちらにとっても最善の利益となるよう免疫系のバランスを微調整してきたからだ。

「同上」p.198

上の引用の最後のセンテンス、「ヒトとマイクロバイオータの長い共進化の歴史は、どちらにとっても最善の利益となるよう免疫系のバランスを微調整してきた」というところがキモです。マイクロバイオータにとって免疫の働きが強すぎるとヒトの体に生息できなくなり、それはまずい。だからといって免疫の働きが弱いと病原菌がはびこってヒトの体が不調をきたし、マイクロバイオータの生息環境そのものがおびやかされる。この微妙なバランスの上で、ヒトとマイクロバイオータが共進化してきたわけです。


マイクロバイオータの構成員はどのようにして免疫系をなだめているのだろう。通常の腸内細菌は、細胞表面を病原体と同じように赤い旗で覆っているが、免疫系を苛立たせることがない。どうやらこうした味方の細菌は、自分たちと免疫系だけが知っているパスワードをもっているようだ。

カリフォルニア工科大学のサルキス・マズマニアン教授は、バクテロイデス・フラジリスという細菌が提示するパスワードを発見した。この細菌はマイクロバイオータの中でもとくに数の多さを誇っており、出生直後に腸内に入植する細菌の1つだ。この細菌は多糖類A(PSA)という物質を産生し、それを微小なカプセルに入れて細胞表面から放出する。このカプセルが大腸で免疫細胞に貪食されると、いっしょに飲みこまれたPSAが制御性T細胞を起動させる。制御性T細胞は他の免疫細胞に、バクテロイデス・フラジリスを攻撃しないようメッセージを送る。

バクテロイデス・フラジリスはPSAをパスワードとして使って、免疫系を炎症型から抗炎症型に変える。免疫反応をおだやかなものにし、アレルギーを防ぐには、初期にコロニーをつくる細菌が産生するPSAのようなパスワードが重要なのだろう。さまざまな形をとるこうしたパスワードもまた、それぞれの微生物株が人体の「高級クラブ」の会員として受け入れられるよう進化してきたものに違いない。

致死的な免疫疾患であるIPEX症候群の患者に制御性T細胞が欠けているのと同じように、アレルギーをもつペット動物にも制御性T細胞の不足が見られる。制御性T細胞の抑制効果がないと、ハンドブレーキが解除され、免疫系は無害な物質にまでフルスピードで突進してしまうようだ。

「同上」p.200

バクテロイデス・フラジリスが出すPSA(多糖類A。PolySaccharide A)が制御性T細胞を誘導する(= 未分化のT細胞を制御性T細胞に分化させる。つまり制御性T細胞を増やす)しくみについては、No.70「自己と非自己の科学(2)」で日経サイエンスの記事から引用しました。人体において細胞間の情報伝達の役割を果たすタンパク質を総称して "サイトカイン" と言いますが、PSAは共生微生物とヒトの間の情報伝達に使われる「サイトカイン相当物質」(著者の表現では "パスワード")と言えそうです。

要するに、ヒトは微生物と共生することを前提として成り立っています。従って、微生物の数や種類に変調をきたして「共生」の前提が崩れると免疫の暴走も起きる。それが自己免疫疾患につながるわけです。

なお、「21世紀病」のところで自己免疫疾患の例として1型糖尿病が激増したことを引用しましたが、No.229「糖尿病の発症をウイルスが抑止する」で、ある種のウイルスに感染していることで1型糖尿病の発症が抑えられる(制御性T細胞ができ、それが膵臓に留まって、自己の免疫の攻撃から膵臓が守られる)ことを書きました。



以上、著者が「21世紀病」と呼んでいるもののうち、肥満、自閉症、免疫関連疾患とマイクロバイオータの関係を紹介しました。では、ヒトがマイクロバイオータを正常に保つために必要なことは何でしょうか。本書では「抗生物質」「自然出産と母乳」「食物繊維」の観点から述べられています。

次回に続く)


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No.306 - プーランク:カルメル会修道女の対話 [音楽]


フランス革命

今回は No.42 「ふしぎなキリスト教(2)」No.138「フランスの "自由"」で触れた、フランシス・プーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」(1957)について書きます。このオペラは実話にもとづいています。つまり、

フランス革命のさなかの 1794年7月17日、カトリックの修道会の一つである "カルメル会" の修道女・16人が、反革命の罪によりパリで処刑された

という歴史事実を題材にしたオペラです。フランス革命の勃発(バスティーユ襲撃、1789年7月14日)から5年後、マリー・アントワネットの処刑(1793年10月16日)からは9ヶ月後、ということになります。

フランス革命は現在のフランス共和国の原点ですが、重要なのは、貴族とともに聖職者(カトリック)が打倒されて市民(=ブルジョアジー)が権力を握ったことです。この「フランスの "国のかたち" は宗教を打倒してできた」という歴史から理解できることがあります。No.138「フランスの "自由"」に書いたように、フランスの伝統的な自由の考え方は、

・ 宗教といえども、イデオロギーや思想の一つである。他のさまざまな思想と横並びで同等である。

・ 従って「言論の自由」の中には「宗教を批判する自由」も含まれる。これはフランス国民の権利である。

というものです。従って、キリストやムハンマド(イスラム教)を戯画化して描いた風刺画を雑誌や新聞に載せるのはかまわない。いわば "フランス的自由" です。

2015年1月7日、フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリの本社に2人のテロリストが乱入して銃を乱射し、編集長、編集関係者、風刺画家、警官の12人が射殺されました。また2020年10月16日、ムハンマドの風刺画を授業で使った中学校教師がパリ郊外で首を切断して殺されました。

2つとも卑劣極まりない犯罪ですが、その誘因になったのが "フランス的自由" でしょう。しかしこの "自由" をフランスは絶対に守るはずです。でないと、神に祈りを捧げるだけの存在だった16人の修道女たちを何のためにギロチンにかけたのか分からなくなる ・・・・・・。大袈裟に言うと、そういうことではないでしょうか。



そしてプーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」ですが、実は、カルメル会修道女の(カトリック教会からみた)"殉教" は、絵画になり、小説に取り上げられ、舞台劇になり、そしてプーランクがオペラ化しました(さらに映画化もされた)。その、殉教からオペラ作曲に至る経緯を中野京子さんが書いていました。まずそれを順に紹介したいと思います。


宣誓忌避派の聖職者を処刑

カルメル会修道女、16人は、フランス革命のさなかに死刑宣告をうけ、ギロチンで処刑されました。なぜこういうことになったのか。それは革命の経緯と関係しています。


フランス革命期は人命の価値が低く、また犠牲者の数を安易に増やした要因が新発明のギロチンだったことは、よく知られている。ギロチン以前は貴賤きせんによって処刑法が異なり、前者は苦痛の少ない(と信じられた)斬首、後者は絞首こうしゅと決まっていた。斬首は斧や剣を振るっての処刑だったから首切り人の負担が重く、一度におおぜいは無理がある。それを劇的に変えたのが、この簡便かんべん且つ恐ろしい大量処刑装置だったのだ。

ギロチン刑はすみやかに死をもたらすので人道的とされ、革命政府の称揚する「平等」とも結びついて、王侯貴族から最下層の平民まで全階級にわたって使われるようになった。もちろん第一身分の聖職者も例外ではないが、それでもなお、なぜ修道女までがと、異国の我々は驚きを禁じ得ない。

しかし革命は、腐敗しきった高位聖職者(ほとんどが貴族出身)による富と権力の占有、及び教会の汚職への抗議という形で始まったのだ。やがて運動拡大につれ、教会や修道院の所有地と財産が没収された。そして「恐怖政治」開始とともに王政廃止、国王夫妻処刑、歴代ブルボン家が依拠する国教カトリックそのものの無力化が進められる。フランス全土に四万近くあった教会は、内部の破壊、閉鎖、売却、転用と、機能不全にされてしまう。


フランス革命の過程においては、国教であったカトリックの無力化、教会の機能不全化が進められました。No.42「ふしぎなキリスト教(2)」 に書きましたが、現在の世界遺産、モン・サン=ミシェルの修道院が監獄に転用されたのが象徴的です。


聖職者は二分された。革命政府に忠誠を誓った宣誓せんせい派と、誓いを拒否した宣誓忌避きひ派だ。忌避派は身分を剥奪はくだつされるか、フランス領ギアナなどへ追放され(その数、3万という)、抵抗した場合はギロチンにかけられた。アントワネットの処刑当日、懺悔ざんげを聴きに司祭が監房へやってきたが、彼女は宣誓忌避派以外は認めないからと告げて断っている。王家への裏切り者に懺悔などできるわけがない。

革命裁判で斬首された者の内訳は、聖職者6パーセント、貴族8パーセント、中産階級14パーセント、農民を含む労働者70パーセントと推計されている。下層民が大多数なのは道理で、もともと全人口の8割を占めていたのと、有罪の理由に徴兵ちょうへい逃れや通常の布罪までも含まれていたからだ。したがって反革命者として殺された者の割合が圧倒的に多かったのは聖職者と貴族である。何しろ彼らは全人口のわずか1パーセントでしかなかったのだ。

この中に、くだんの修道女たちも含まれていた。

中野京子「同上」

宣誓忌避派の聖職者からすると、自分が帰依して忠誠を誓うのは神のみであり、革命政府ではないということでしょう。


コンピエーニュの女子カルメル修道会

コンピエーニュはパリの北東、約80kmにある町です。ここにあったカルメル会の女子修道会が舞台です。


12世紀パレスチナのカルメル山を発祥の地とするカトリックの修道会カルメル会は、13世紀にはフランスにも伝わり、15世紀になると女子カルメル会もできた。厳しい戒律で知られるが、最盛期の18世紀には男女合わせて修道士が1万5千を数えている。そんな中で革命は勃発した。

パリからそう遠くない町コンピエーニュの女子カルメル修道会は、修道院長や助修道女を入れて17人の所帯で、冬でも裸足はだしの、清貧を絵に描いたような祈りの日々を送っていた。そんな閉じた世界であっても、不穏ふおんな革命の足音はれ聞こえてくる。いずれここにも、と予想していたので革命政府の委員が下層民の一群(院内の隠し財産を手に入れようとついてきたのだ)とともに現れて、修道院の解散と財産没収を言い渡した時も慌てなかった。前もって用意していた俗世の服に着がえ、当座用のわずかな金だけを持ってそれぞれの行き場(実家や友人宅)へ散っていった。

だが彼女たちはこっそり連絡を取り合い、禁じられていたミサをあげ、讃美歌をうたった。まもなく密告され、反逆者として死刑台へ送られる。ドラローシュの絵と違い(引用注:ドラローシュの絵は次項に掲載)、実際には彼女らは簡素な白い服を着て、ヴェールも被っていなかったという。

若い平修道女コンスタンスが真っ先に斬首、最後は院長のマザー・テレサ(聖アウグスチヌスのマザー・テレサ)だった。後世、この16人は教皇庁により列福され、「福者」となっている。

中野京子「同上」

上の引用の最後のパラグラフで、修道院長が「聖アウグスチヌスのマザー・テレサ」とあるのはシスター名(修道名)です。プーランクのオペラでは "新修道院長" となっている修道女です。また修道女・コンスタンスもオペラに出てきます。


ドラローシュが描いた『ギロチン』

カルメル会修道女の殉教の場面は、19世紀のフランスの画家、ポール・ドラローシュ(1797-1856)によって描かれました。ドラローシュといえば、英国史を題材とした『レディ・ジェーン・グレイの処刑』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)がつとに有名ですが、もちろん自国の歴史を題材にした作品も描いています。『ギロチン』はその1枚です。

ドラローシュ「ギロチン」.jpg
ポール・ドラローシュ(1797-1856)
ギロチン
(Private Collection)

縦長の画面。

印象派の風景画のようにのどかな青い夏空と白い雲に、斬首ざんしゅ装置ギロチンが突き刺さる。何と高いギロチン柱だろう。紐一本で吊り下げられた鋭い斜めの角度を持つ大きな重い刃は、どんなに落下スピードが速いことか。

狭苦しい処刑台の上には、十人もの修道女がひしめく。彼女たちは口を開けている。自分の番がくるまで、讃美歌をうたい続けているのだ。最初に犠牲になる若い修道女がこの絵のヒロインだ。両手を胸の上で交差し、瞳を天へ向けている。心はすでに主のもとにあり、落ち着き払った様子だ。その背後で処刑人が準備をしている。ギロチンの刃がすべらないようヴェールを外そうとしているのか。

画面左下に荷馬車が停まり、そこからも次々に修道女が降りてくる。そばで泣きじゃくる少女たちと、青白赤(自由・平等・博愛)というフランス国旗模様の帽子をかぶった少年が目をく。一方、右手には椅子にふんぞりかえる革命側の官吏や長い髪を無造作にたらしたロマ風の女性(修道女と聖俗対比させるためか)。さらに処刑を見に集まったおおぜいの群衆が、背景を埋め尽くす。

処刑台へ導くのは、8段の短い階段だ。その下から一筋の細い血が流れ出し、手前の排水溝へ吸い込まれる。処刑台の向こう側に置いてあるはずの貯血槽からあふれ出たのに違いない。これからさらに16人もの首が飛ぶのだ。石畳を走る血は真っ赤な川と化すだろう。

中野京子「同上」

「縦長のカンヴァス」が怖いし、「凄惨な場面らしからぬ青空」も怖い絵です。しかし、その青空に描かれた白い雲は円を描くよう浮かんでいて、これは修道女たち全員のための大きな光輪のように見える。青空はこの雲を描くためのものであり、同時に天国の暗示なのでしょう。画家はそう意図したのだと思います。


小説『断頭台下の最後の女』

さらにこの修道女の殉教は、20世紀のドイツの作家、ル・フォールによって小説化されました。素材になったのは、唯一、殉教をまぬがれた修道女、マザー・マリーの手記です。


ところでコンピエーニュのカルメル会に、修道女は17人いたのではなかったか? そのとおり。

一人だけ逮捕を免れた修道女がいた。彼女、マザー・マリーは、その日たまたま集会へ行くことができず、仲間の逮捕を後で知る。これも運命であろう。彼女は断頭台へ駆けつけることより、唯一の生き残りとして手記を残す道を選んだ。

手記は大切に保存され、20世紀ドイツ・カトリック文学を代表する作家ゲルトルート・フォン・ル・フォールの目にとまる。そこから生まれたのが、『断頭台下の最後の女』(1931年刊)という小説だ。

ゲルトルート・フォン・ル・フォールという名前からは、3つのことがわかる。まず「ゲルトルート」はドイツ女性の名だ。「フォン」は貴族をあらわす前置詞(父親はプロイセンの軍人にして男爵)で、「ル・フォール」はフランス姓。つまりフランス系ドイツ人。先祖は宗教弾圧を逃れてフランスからドイツへ亡命してきたユグノー(カルヴァン派プロテスタント)だった。以来、彼ら一族は敬虔けいけんなプロテスタントのドイツ人として、アイデンティティーを形成した。

ル・フォールは大学で神学や哲学を専攻し、神を見失った時代への警告の書と評される文学作品を精力的に発表する。カトリックへ改宗して皆を驚かせたのは、50歳を迎えてからのことだ。出自を思えば、さらにまたカトリックとプロテスタントの血みどろの歴史を思えば、改宗にはそうとう葛藤があったに違いない。その後まもなく『断頭台下の最後の女』を発表した。

物語の流れは史実に沿っているが、主人公として、作者その人を彷彿とさせる架空のヒロイン、ブランシュを登場させている。貴族の令嬢だったブランシュは周りの反対を押し切り、贅沢な生活を捨てて修道院へ入る。ただ彼女には弱点があった。信仰への思いこそ揺るぎないものの、極度に臆病なため命を惜しみ、いったんは仲間を裏切って逃げまわる。だが最後は、自分の魂にそぐわない生き方をするよりはと、断頭台への階段を心穏やかに上ってゆく・・・・・・。

ル・フォールがこの小説を執筆したのは、ナチスが急速に台頭し、フランス革命時と同じように信仰が抑圧され始めた時期だった。そうした風潮に危機感を抱き、信仰とは何か、運命とは何か、人はどう生き、どう死ぬべきか、究極の選択を迫られた修道女たちに、ナチス時代の自分たちを重ねたのだ。

中野京子「同上」

ル・フォールが創作した架空のヒロイン、ブランシュは、プーランクのオペラにも引き継がれることになります。


プーランクによるオペラ化

ル・フォールの『断頭台下の最後の女』は映画化が計画され、フランスの文学者・思想家のジョルジュ・ベルナノス(1888-1948)によってシナリオが作成されました。しかし映画化より前に、このシナリオを戯曲として舞台劇が上演されます。プーランク(1899-1963)はこの戯曲を読み、また実際に舞台劇も観てオペラ化を決心します。


この小説は評判を呼び、別の作家の手で映画化のためのシナリオが作成されたが、映画より先にまず舞台化された。タイトルは変えられ、『カルメル会修道女の対話』となる。

オペラ好きならピンとこよう。

フランスの作曲家フランシス・プーランク(彼もカトリック)が、戦後の1957年にこれを3幕のオペラに仕上げた。ル・フォールはこの時まだ存命で80歳だったが、初演はミラノのスカラ座でイタリア語上演だったから、見てはいないようだ。次いでパリ(フランス語)、アメリカとイギリス(英語)と続いた。

このオペラは現代フランスオペラの傑作として、最近もニューヨークのメトロポリタンオペラで上演されて大評判になった。美しいメロディー、観る者に迫る崇高すうこうな人間性、タイトルから誤解されやすいが、ヒロインの父や兄、革命派の面々といった男声も思った以上に多く、女声ばかりで単調な音楽なのではないかという心配は不要だ。

特筆すべきは衝撃のラスト。

─── 16人の修道女たちは、断頭台の下で讃美歌をうたい続ける。そして一人、また一人と消えてゆく。演出は抽象的で、ギロチンに首をさしのべるところは舞台上で見せないことが多いが、シュッ、ドン、という戦慄的な音は異様にリアルだ。刃と首がほとんど同時に落下する機械的な音。それが讃美歌をバックに16回繰り返される。

コーラスの歌声も一つ、また一つと減って、最後は独唱、それまたシュッ、ドンと、かき消されて幕が下りる。あらゆるオペラの中でもっとも生理的に恐怖を呼び起こす作品かもしれない。

中野京子「同上」

「最近もニューヨークのメトロポリタンオペラで上演されて大評判になった」とありますが、日本では、2019年5月11日のメトでの公演がMETライブビューイングで上映されました(2019.6.7 ~ 6.13)。

カルメル会修道女の対話:METライブビューイング.jpg
メトロポリタン・オペラ
「カルメル会修道女の対話」

METライブビューイングの公式ホームページにあるリハーサルの動画の画像。最後の殉教の場面である。「シュッ、ドン、という戦慄的な音」が舞台に響く。


プーランク:カルメル会修道女の対話

そのプーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」の概要を、人物を中心に書いておきます。舞台は1789年のフランスです。登場人物の6人だけを書きますが、この6人のうちド・ラ・フォルス家の騎士とブランシュは架空の人物です。以下に出てくる訳語は、最後に掲げたオペラのリブレット(台本)と合わせました。

ド・ラ・フォルス騎士

このオペラはド・ラ・フォルス騎士と父親のド・ラ・フォルス伯爵が屋敷で会話するところから始まります。ド・ラ・フォルス騎士は、極端に臆病で恐怖を感じやすい妹、ブランシュの行く末を心配しています(第1幕 第1場)。

革命が進行するなかで、彼は外国へ逃れる決意を固め、ブランシュに別れを告げようと密かに修道院を訪れます。身の安全のために修道院を離れるようにブランシュに言いますが、それは拒否されました(第2幕 第3場)。

なお、ド・ラ・フォルス家ですが、後の進行で、伯爵は捕らえられて処刑されたことが語られます(第3幕 第2場)。屋敷は荒らされ、部外者に占拠されてしまいます。

ブランシュ・ド・ラ・フォルス

このオペラのヒロインです。小さいときから内気でおびえやすく、恐怖を感じやすい女性です。この性格では普通の生活ができないと感じた彼女は、コンピエーニュのカルメル修道会に入会します。シスター名は「キリストの聖なる臨終のブランシュ」を選びました(第1幕 第2場)。

修道院では若いシスターのコンスタンスとともに祈りの生活を送りますが(第2幕)、革命が進行し、修道院が解散を命じられ、修道女たちが殉教の誓いをかわす事態になって、恐怖を感じた彼女はパリの自宅屋敷に逃げ帰ってしまいます(第3幕 第1場)。

屋敷の占拠者たちの召使いとして働いているところへ、副修道院長のマザー・マリーが訪ねてきて、コンピエーニュへ戻るように説得しますが、それは拒否します(第3幕 第2場)。

しかしブランシュは、街で会った人からカルメル会の修道女たちが逮捕されたことを知りました。いったんは仲間を裏切ったものの、自分の魂にそぐわない生き方をするよりはと、彼女は処刑場と向かいます。そして人々が驚く中、心安らかに断頭台へと登っていきました(第3幕 第4場)。

修道院長(ド・クロワシー夫人)

貴族出身の修道院長で、ブランシュを修道院に受け入れます。そのときにはブランシュの動機を確かめ、世の中から逃れたい気持ちで修道院に入るのはよくない、カルメル会は祈りを目的とした修道会であるといましめました(第1幕 第2場)。

院長は病気にかかり、死の恐怖と闘いながらも、ブランシュのことを気にかけ、行く末を案じてマザー・マリーにブランシュを託しました。そして、苦しみと絶望のうちに亡くなります(第1幕 第4場)。

新修道院長(リドワーヌ夫人)

シスター名は「聖アウグスチヌスのマザー・テレサ」です。平民出身の新修道院長は、平易で率直な言葉で修道女たちに語ります。安全で平和な時代は終わり、これから修道女たちはいつ告発されるか分からない。しかし、どんな危険が身に迫ろうとも、自分たちの務めである祈り以外のことに気を取られてはならないと、彼女は修道女たちを戒めました(第2幕 第2場)。

修道女たちといっしょに逮捕され、パリの監獄に投獄されたときも修道女たちを励ま続け、自ら殉教の誓願を立てます(第3幕 第3場)。そして最初に断頭台へと登っていきました(第3幕 第4場)。

マザー・マリー

副修道院長で、シスター名は「托身のマザー・マリー」です(託身=受肉=Incarnation)。死のベッドにあるド・クロワシー夫人からブランシュを託されました(第1幕 第4場)。

革命が進行するなかで、マザー・マリーはカルメル会修道女たちに、殉教者になるよう呼びかけます。そして、革命政府の人民委員がやってきて修道院の没収と修道会の解散を言い渡したた時には、冷静に毅然とした態度で応対しました(第2幕 第4場)。

マザー・マリーはパリの自宅に戻ったブランシュを訪ね、コンピエーニュに戻るように説得しますが、恐怖心から逃れられないブランシュは、そっとしてくれるように頼みます。マザー・マリーはパリでの安全な連絡先をブランシュに教えて去ります(第3幕 第2場)。

マザー・マリーはパリに出て修道院付きの司祭と落ち合ったとき、修道女たちに逮捕され死刑が宣告されたことを聞かされます。マザー・マリーは自分だけが死を免れたことを非常に恥じますが、司祭はそれも神のご意志だと告げました(第3幕 第3場のあとの幕間)。

シスター・コンスタンス

若い修道女で、ブランシュと親しくなります。シスター名は「聖ドニのシスター・コンスタンス」です。

コンスタンスは、ブランシュと自分の命を神に捧げようと言い、2人が若くして同じ日に死ぬだろうと予言します(第1幕 第3場)。

また彼女は修道院長の苦しみながらの死について自分なりの考えを言います。つまり、神が死を与える相手を間違えたのであり、そのため、あまり徳が高くない別の誰かが修道院長に与えられるはずだった臨終を享受し、死がとても心安らかで快いものであることにびっくりするはずだと言うのです(第2幕 第1場のあとの幕間)。

マザー・マリーが殉教を提案し、修道女全員が秘密投票をしたときには、唯一、反対票を投じました。しかし彼女は名乗り出てて翻意を懇願し、認められます(第3幕 第1場)。ブランシュが修道院から去ったあとは気がかりで仕方ありませんが、監獄に入れられたときもブランシュが必ず自分たちのもとへ戻ってくると信じていました(第3幕 第3場)。

断頭台では、修道女たちは聖母マリアを讃える Salve Regina(めでたし女王)を歌いながら、一人ずつ修道院長を先頭に階段を登ります。しんがりを務めていたコンスタンスは、断頭台に登りかけ、群衆の中にブランシュを見つけて顔を輝かせました(第3幕 第4場)。



このオペラは「カルメル会修道女の対話」というタイトルのため、ソプラノやアルトの女声が延々と続くと誤解されそうですが、そうではありません。そもそもオペラの冒頭はド・ラ・フォルス家での伯爵(バリトン)と騎士(テノール)の対話です。騎士は修道院にもやってきます。さらに司祭や革命政府側の人物などの男声もあり、変化があります。

とはいえ、メインストリームは修道女たちの対話であることは間違いありません。では、彼女たちは運命を受け入れ、殉教に向かって粛々と進んでいくのかというと、そう単純ではないのです。

たとえばヒロインのブランシュは、殉教の誓願が行われるなか、怖くなって修道院から逃げ出してしまいます(第3幕 第1場)。自宅までやってきたマザー・マリーの説得にも応じません(第3幕 第2場)。最後の最後に思い直して断頭台へ向かいます。

修道院長は苦しみと死の恐怖のなかで亡くなります。死ぬ前に彼女は「神は私たちを守ってくださらない! 神は私たちを見捨てた!」と、"神への冒涜" ともとれる発言をします(第1幕 第4場)。修道院長というと何十年も祈りの生活を送ってきた高潔な人物のはずですが、この死は修道女たちにショックを与えます。

殉教の誓願についての秘密投票では一人、反対票を投じた修道女がいました。コンスタンスは自分だと名乗り出て、翻意(賛成にまわる)ことを懇願します(第3幕 第1場)。

以上のように、修道院の財産の没収、修道会は解散、そして死刑判決という過酷過ぎる状況のなかで、修道女たちの心も揺れ動くのです。そのドラマが見所の一つだと思います。



このオペラができた経緯を振り返ると、小説を書いたル・フォール、戯曲を書いたベルナノス、オペラ化したプーランクはカトリック教徒です。そしてオペラのテーマは、一言で言うと「殉教」です。特に、修道院から逃げ出したブランシュが最後に殉教の道を選び、殉教を主導していたマザー・マリーが結果として生き延びるという展開は、テーマと密接に関係しているのでしょう。カトリック教徒ならすんなりと理解し共感できるのだと思います。

しかし非クリスチャンの立場からみると、どうしても "不可解さ" が残ります。つまり、純粋に祈りの生活を送っていただけの女性たちが断頭台で死刑になるという、そのプロセスや理由が理解しにくいのです。

もちろんこれには革命政府側の要因と、修道女側の要因があります。フランス革命の歴史を知ると、革命によって教会、修道院、聖職者が "打倒された" ことがわかるし、またキリスト教の歴史をみると、キリストの弟子から始まってローマ帝国時代や中世ヨーロッパまで "殉教者" に満ちています。日本でも殉教者が出ました。

そういう "知識による理解" はできたとしても、このオペラの進行は心理的に納得ができない面があります。なぜそのようにコトが進むのか、その理由がわからない不条理劇のようにも思える。

しかしひるがえって考えてみると、宗教とは離れて一般的に(コトの大小は別にして)不条理な出来ごとに遭遇することは人生においてあります。まったく理由がないのに長く苦しまないといけないことがある。そういう不条理に遭遇したとき、人はどう生きるべきか。苦しみや悲痛、もがきや葛藤のなかから、どうやって人間の崇高さを示して心の平安を見いだせるのか、そういったドラマとしてこのオペラを観てもよいと思います。



何と言っても、このオペラの魅力はプーランクの音楽でしょう。実は「カルメル会修道女の会話」は、プーランク(1899年生まれ)の生誕100年を記念して、1998年9月のサイトウ・キネン・フェスティバルで上演されました(松本文化会館)。パリ・オペラ座との共同製作です。この公演について、作家の村上春樹さんが次のように書いていました。


松本文化会館で小澤征爾=サイトウ・キネンによって公演されたプーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」は実に質の高い、そして心を打たれるステージだった。きわめて地味でシリアスな内容のオペラだが、その音楽は一貫していかにもプーランク的なメスメライジング(催眠術的)な美しさたたえていた。擬古性と革新性、テキストの晦渋かいじゅうとテクスチャーの滑らかさという、この作曲家にはつきものの二義性が、オペラという規模の大きな容れ物をもって、見事に描きあげられている。


メスメライジング(mesmerizing)という難しい言葉が使ってありますが、メスメライズ(mesmerize)とは「魅惑する」「催眠術にかける」という意味です。ここから mesmerizing は「魅惑的な」という意味になりますが、こでは「催眠術にかけられたように魅了される」意味で使ってあります。村上さんは「テキストの晦渋かいじゅうとテクスチャーの滑らかさ」と書いていますが、

・テキスト  :  台本・言葉
・テクスチャー  :  肌触り = メロディーやオーケストレーション = 音楽

と考えると、「台本は難解だが、音楽から感じる "肌触り" は滑らかで美しい」ということでしょう。的確な表現だと思います。



以下、「メスメライジング(催眠術的)な美しさをたたえた音楽」をここにアップすることはできないので、テキスト(台本)を掲載しておきます。このオペラを "深堀り" したいと思う方に参考になると思います。


オペラ「カルメル会修道女の対話」のリブレット

今後「カルメル会修道女の対話」を鑑賞する人のための参考として、このオペラのリブレット(台本)を掲載します。これは、次の2枚組CDのブックレットのものです。

ケント・ナガノ指揮
リヨン・オペラ座管弦楽団
カトリーヌ・デュポス(ソプラノ、ブランシュ役)他
 (録音:1990年。東芝EMI)

以下にある「Disc1-Track1」などは、このCDの「ディスク番号ートラック番号」なので、台本を読む上では無視してください。

カルメル会修道女の対話
 (Dialogues des Carmélites

台本  ジョルジュ・ベルナノス(原作)
フランシス・プーランク
フランス語訳  橋口久子
ラテン語訳  宮崎晴代

第1幕    
 第1場    ド・ラ・フォルス侯爵の書斎、1789年4月
 第2場    コンピエーニュのカルメル修道会の面会所
 第3場    修道院内の塔
 第4場    医務室の独居房

第2幕    
 第1場    カルメル会の礼拝堂
 第1幕間    修道院の庭
 第2場    修道院修士会室
 第2幕間    修道院の一室
 第3場    面会室
 第4場    カルメル会の聖具室

第3幕    
 第1場    礼拝堂
 第1幕間    修道院の前の通り
 第2場    ド・ラ・フォルス侯爵の書斎
 第2幕間    バスティーユ地区の通り
 第3場    コンシエルジュリーの監獄の一室
 第3幕間    バスティーユ地区の通り
 第4場    革命広場

Disc1-Track1
第1幕

第1幕 第1場

ド・ラ・フォルス侯爵の書斎、1789年4月

《豪華でエレガントな調度品で飾られた部屋。侯爵は大きな寝椅子でうたた寝をしている。息子のド・ラ・フォルス騎士が部屋に突然入ってくる。入り口の大きな扉は、開けっ放しのままだ。》

騎士
ブランシュは?

侯爵
《不意を打たれて》
いや、知らないよ。侍女たちに聞いたらどうかね、トルコ人のごとく私の部屋に 闖入してくる代わりに。

騎士
申し訳ありません。

侯爵
あなたの歳では血気盛んなのも無理からぬこと、私の歳になると自分の習慣にこだわるのが当たり前のようにね。あなたのおじさんが来ていたので、いつもの午睡が出来なかった。それで、正直なところ、少しうとうとしていたのだ。だが、いったいブランシュに何の用があるのだね?

騎士
ロジェ・ド・ダマがここを出ようとしたところ、群衆を避けるために2度も道を引き返さなくてはならなかったそうです。噂では、奴らがグレーヴ広場でレヴェイヨンの絵を焼き払おうとしているとか。

侯爵
燃やしてしまえばいい! 酒が2スーで手に入るとあっては、春の陽気で人々が少しのぼせ上がるのも仕方あるまい。そのうち冷めるさ。

騎士
こんなことはあまり申し上げたくないのですが、妹の馬車に関する限り、父上の予言は外れる恐れがありますぞ。ダマが目撃したのですが、妹の馬車がビュシの四つ角で群衆に止められたそうです。

侯爵
馬車……群衆……失礼、このような光景にうなされたことが幾夜あったことか……最近になって、暴動だ、いや革命だと噂が飛び交っているが、パニック状態に陥った群衆を見たことがない者にはなにも分かるまい……唇をゆがめた幾多の顔。幾千、幾千もの目……あれは王太子の婚礼の晩のことだった。花火がはじまると、突然、打ち上げ花火の束に火が燃え移り、群衆がパニックに陥った。あなたのお母さんは馬車の扉にかんぬきをかけ、御者は馬をむち打って走らせようとした。だが馬車は群衆に取り囲まれ、窓ガラスが一枚、叩き割られた……

《侯爵は顔を手で覆った。》

Disc1-Track2

運良く兵士たちがやってきて、我々を救い出してくれた。数時間後、この家に戻ったあなたのお母さんは、ブランシュを産み落とすと亡くなった。

騎士
父上、申し訳ありません。もっと自重すべきでした……またしても、軽率な発言をしてしまいました。

侯爵
いやいいんだ。私の古い頭もすぐ血が上るたちでね……馬車は頑丈だし、老馬たちは決して驚かない。アントワーヌは20年前からこの家に仕えている。あなたの妹に悪いことなどなにも起こるはずがない。

騎士
妹に危害が加えられることを恐れているのではありません。心配しているのはあのおびえやすい性格のことです。

侯爵
ブランシュは確かに感受性が強すぎるようだ。ちゃんとした結婚をすれば落ち着くだろう。さあ、さあ! きれいな娘が少々臆病でも悪いことはあるまい。どうせ、腕白な甥っ子たちに手を焼くようになるまでの辛抱さ。

騎士
私は真剣に言っているのです。ブランシュの健康がおびやかされ、もしかしたら命さえ落とすことになるかもしれない原因は単に臆病なことではありません。魂という樹の芯が凍り付いてしまっているのです……

侯爵
まったく、あなたは迷信深い村人のようなしゃべり方をするね。ブランシュはごく普通の娘だと思うよ。はしゃいでいるときもあるではないか。

騎士
そうでしょうとも。私も妹の態度について惑わされ、妹か不幸な宿命から逃れられたのかと思いかける時もあるのですが、そのまなざしにやはり不吉なものを感じるのです。

侯爵
ブランシュはお付きの女性と一緒に、もう今にでも戻ってくるだろう。そうしたら、あなたの取り越し苦労だったことが分かるだろうし、ブランシュもほっとするさ。

騎士
ブランシュはいつものようにちょっと怖い思いをしただけで、それ以上のことはなにもないとおっしゃりたいのですか? それ以上のことはなにもない! ことブランシュに関しては、心配でなりません。あんなに気高くて誇り高いんですから! 果物に巣くう虫のようにじわじわと、悪は妹の中に入り込んでいるのです。

侯爵
たわごとにすぎん!

《開けてあった扉からブランシュが不意に姿を現す。あまりにも唐突だったので、二人の最後の言葉をブランシュが耳にしたかどうか、よく分からない。》

Disc1-Track3

ブランシュ、お兄さんはあなたのことを待ちかねていたよ。

ブランシュ
お兄さまは哀れな野ウサギである私に親切すぎますわ……

騎士
私たち二人だけの冗談をところ構わず言うのはやめなさい。

ブランシュ
《陽気に振る舞おうと務めながら》
野ウサギは巣の外で一日を過ごす習慣がありません。私は自分の巣と一緒に移動していましたけれど。ですが、臆病な私とあの群衆を隔てるものがたった一枚のガラスとあって、一時はほんとうに心細く思いましたわ。きっと、とてもばかげた振る舞いをしていたに違いありません。

騎士
ビュシの四つ角であなたを見かけたダマ氏から聞いたのだが、ガラス越しに見えたあなたは非常に落ち着いた態度だったそうだ……

ブランシュ
まあ! ダマ氏はきっと、ご自分がご覧になりたいものしかご覧になっていらっしゃらなかったのですわ……私が落ち着いた態度に見えたと本当におっしゃったんですか? 危ない目に遭うのは冷たい水に入るようなものかもしれませんわね。最初、息が止まる思いがしても、肩まで浸かると楽になりますもの。

《気が遠くなりかけ、椅子の背につかまる。》

聖母訪問修道女会の儀式はとても長くて、すっかりくたびれてしまいました。きっとだからこんなばかげた発言をしているのですわ。お父様のお許しをいただいて、夕食まで少し休むことにします。あら! 今日は日の暮れるのが早いこと。

侯爵
一雨来そうな空模様だ。

《ブランシュ、戸口へ向かう。》

騎士
部屋に戻るのなら、すぐに明かりを持ってこさせて、誰か一緒にいてもらいなさい。薄暗くなるともの悲しい気分になるのだろう。小さい頃よく私にこう言っていたじゃないか。「私は毎晩死んで、毎朝生き返るのよ」って。

ブランシュ
なぜなら、朝と呼べるものは復活祭の朝しかないからです。でも毎晩がキリストの聖なる臨終の晩なのですよ……

《戸を開け放ったまま、ブランシュは出ていく。侯爵と騎士は呆然と見送る。》

Disc1-Track4

侯爵
《気を取り直そうと努めて》
相変わらず極端だな。いったい、あの最後の言葉はどんな意味なのだ?

《侯爵、寝椅子に再び腰をおろす。》

騎士
分かりませんがそんなことは問題ではない! あの眼と声が胸に突き刺さるんです……
《重苦しい雰囲気を断ち切るように突然、口調を変えて》
もう馬を馬車から外し終わった頃でしょう。ひとつアントワーヌに、どんな様子だったのか訊ねてきますよ。

《騎士は出ていく。侯爵はうたた寝をしている。》

ブランシュ
《別な部屋で》
きゃあ!

騎士
《びっくりして》
ティエリー、お前か?
《戸へ走り寄って呼ぶ》
おい、なにが起こった?

《ティエリー登場。ちょっと頭の悪そうな従僕だ。》

ティエリー
《縮み上がっている》
ロウソクの火をつけていたところにブランシュ様が部屋に入ってこられて……壁に映った私の影にびっくりされたのだと思います。カーテンがもう閉めてありましたもので。

《真っ青な顔をしたブランシュが戸口に現れる。声や態度、顔の表情からは絶望とあきらめ、そしてなにやら決断した様子がうかがえる。》

Disc1-Track5

侯爵
《努めて陽気そうに》
何ごともなくてよかったじゃないか。

ブランシュ
お父様はとても寛大で優しい心をお持ちです……

侯爵
とるにたらないことはもう忘れよう。

ブランシュ
お父様、どんなにとるにたらないことでも、そこには神様のご意志が働いていらっしゃるのです。たった一滴の雨に広大な空が凝縮されているように。私はご許可を得て、カルメル会の修道女になりたいと思います。

侯爵
カルメル会だと!

ブランシュ
ほんとうはそれほど驚いていらっしゃらないでしょう。

侯爵
あなたのように貞淑な娘には、熱心な信仰の教えも心配の種だよ。そんなに誇り高くなかったら、悲鳴を上げたぐらいのことでくよくよしないだろう。世の中がいやになったからと修道院に入るのはいかがなものかね。

ブランシュ
世の中を軽蔑しているのではありません。ただ、私はここで生きられないと思うのです。お父様、うるさい音や騒ぎに、私は肉体的に耐えられません。神経の休まる場所へ行かせていただければ、自分になにが出来るのか、分かると思います。

Disc1-Track6

侯爵
日々の試練にあなたが耐えられないかどうか決めるのはあなた自身だ……

《ブランシュは、寝椅子に座っている父の足下に身を投げかける。》

ブランシュ
お父様、お願いですから言い逃れはもうやめてください。お願いですから、私の人生を台無しにしているこのひどい欠点を直す術があると信じさせてください! これが天のご意志だという希望を抱いていなかったら、今、あなたの足下で不名誉を恥じて死にましょう。お父様のおっしゃる通り、試練はまだ終わっていないのかもしれません。

ですが神は私を恨んだりしないでしょう。神が名誉を返してくださるよう、すべてを神に捧げ、すべてを捨て、すべてを諦めましょう。

《侯爵は物思いに耽りながら、自分の膝に突っ伏したブランシュの頭を静かになでる。》



Disc1-Track7
第1幕 第2場

前奏曲

Disc1-Track8

コンピエーニュのカルメル修道会の面会所

《数週間後。修道院長とブランシュは、二重格子を隔てて話し合っている。修道院長のクロワッシー夫人は老いた女性で、明らかに体の具合が悪そうだ。》

修道院長
《格子に自分の椅子を近づけようと不器用に試みながら》
地位の特権として、ひじかけ椅子にすわっていると思わないでください。国王の面前で腰をかけることを許された貴族とは違うのです! 私の看病を熱心にしてくれる修道女たちのためにも、ここにゆったりと腰掛けていられたらと思います。ですがずっと昔に忘れてしまった古い習慣を取り戻すのは難しいものです。楽しみであるべきものが私にとっては、辛いけれど必要なこととしか、もう決して感じられません。

ブランシュ
院長様のように、もう元に戻ることがないほど深く解き放たれている自分を感じるのは、さぞかし素晴らしいことでしょう。

修道院長
習慣は一切のものから解き放してくれるものですよ。ですが、修道女にとってそれがなにになりましょう。自分自身から解き放たれる、つまり自己解脱ができないのなら?……

Disc1-Track9

ここの厳しい規則にも、あなたはひるむ様子がありませんね!

ブランシュ
厳しいことに惹かれます。

修道院長
あなたが高潔な魂の持ち主であることは分かります……なぜカルメル修道会を選んだのですか?

ブランシュ
すべてを正直におはなしせよとおっしゃるのですか?

修道院長
そうです。

ブランシュ
それでは申しますが、栄光にみちた生活に惹かれたのです。

修道院長
栄光にみちた生活に、でしょうか、それとも栄光をたやすく、いわば、すぐ手の届くものだという思いこみをあなたに抱かせるような、ある種の生活に惹かれたのでしょうか。

ブランシュ
院長様、そのような計算をしたことは決してありません。

修道院長
もっとも危険な計算には、幻想という名がついています。

ブランシュ
私も幻想を抱くことがあるかもしれません。それを取り除いていただくことこそ、私の切なる願いです。

修道院長
《言葉をかみしめるように》
あなたからそれが取り除かれますように……それはあなた一人でやるべきことです。ここにいる誰もが、自分自身の幻想で手一杯なのですから。

Disc1-Track10

あの修道女たちは何の役に立っているのか、と人々は私たちのことを不思議がります。それも結局、無理からぬことなのです。ここの修道会は苦行したり徳を守るための場所ではありません。ここは祈りの場であり、祈りだけが私たちの存在を正当化するのです。祈りを信じない人は、私たちを詐欺師か、人にたかる存在と見るでしょう。神の信仰が普遍的なものならば、祈りもそうあるべきではありませんか? ですから、どの祈りも、たとえ群を守る牧童の祈りであっても、それは人類の祈りなのです。牧童が気が向いたときに行うことを、ここの修道会では昼夜行わなくてはなりません。カルメル修道会の精神からすれば、同情は禁物なのですが、年老いて病気を患い、終わりをもうすぐ迎える私があなたに同情しても構いますまい。たいへんな試練があなたを待ち受けているのですよ。

ブランシュ
神が力をお与えくだされば構いません。

修道院長
神が試されるのはあなたの力ではなく弱さです……

Disc1-Track11

泣いているのですか?

ブランシュ
悲しいからというよりむしろ、嬉しいから泣いているのです。きついお言葉ですが、もっときつい言葉をかけられたとしても、私の決意を鈍らせることはできないでしょう。ここしか頼るところがないのです。

修道院長
修道会の戒律を頼るべきではありません。戒律が私たちを守ってくれるのではなく、私たちが戒律を守るのです。もう一つ聞きたいのですが、ひょっとして、修道会への入会を許された場合に備えて、カルメル会での修道女名を選んでいますか? きっとまだ全く考えていないと思いますが?

ブランシュ
そんなことはありません。キリストの聖なる臨終のブランシュの名を希望します。

《修道院長はほんのかすかにびくっとした。すぐに平静を取り戻すときっぱり言った。》

修道院長
心安らかにお帰りなさい。

《ブランシュはひざまずいて挨拶すると、出ていった。》



Disc1-Track12
第1幕 第3場

前奏曲

修道院内の塔

《ブランシュはとても若い修道女、聖ドゥニのコンスタンスと共に渉外担当修道女から食料品や日用品を受け取りにやってきた。》

Disc1-Track13

コンスタンス
またこのいまいましいソラマメだわ!

ブランシュ
小麦を買い占める人がいて、もうじきパリではパンが手入らなくなるらしいわ……

コンスタンス
あら! 長いこと待たされたアイロンがやってきた。ほら、取っ手がきちんと付け替えられている……これでもう、聖なる御子のシスター・ジャンヌも指をやけどしながら叫ばなくなるでしょうよ。「こんなアイロンではとてもかけられないだ!!」って。あの「だ」を聞く度に、笑い出さないよう、舌をかんでいるの。でもバカにしているわけじゃなくってよ! あの「だ」は私の田舎の、ティリーの村人たちを思い出させてくれるんですもの。ねえ、シスター・ブランシュ、私がここに入る6週間前、その村で兄の結婚を祝ったの。農民たちがみんな集まり、20人の女の子がバイオリンの音に合わせて、兄に花束を一つ持ってきてくれた。盛大なミサとお城での宴会があり、みんなで一日中踊ったの。私はコントルダンスを5回、心から楽しんで踊ったわ。あそこの素朴な人たちに私はとても受けたのよ。陽気で、自分たちと同じぐらい上手に飛び跳ねるって。

Disc1-Track14

ブランシュ
そんな風にしゃべっても恥ずかしくないの、だって院長様が……

コンスタンス
あら、院長様の命を助けるためなら、私のちっぽけでどうでもいい命を喜んで差し上げるわ、そうよ、差し上げるわ……でも59歳となると、亡くなられてもおかしくない年齢じゃないこと?

ブランシュ
死をこわいと思ったことはないの?

コンスタンス
ないと思うわ……いえ、そうね……ずっと昔、それがどんなものか知らなかった頃は。

ブランシュ
その後は……

コンスタンス
ああ、人生はとても愉快なことにすぐ気づいたの! だから死もそうに違いないと思って……

ブランシュ
今は?

コンスタンス
今は死についてよく分からなくなってしまったけれど、人生は相変わらず愉快ね。言いつけられたことは、誠心誠意務めているわ。でも言いつけられること自体が愉快なんですもの……神に仕えることが愉快だからといって非難されるべきかしら?

ブランシュ
あまり楽しそうにしていると、神様がうんざりなさると心配にならない?

《シスター・コンスタンスは言葉を失ってブランシュを見つめた。子どもっぽい顔がゆがむと苦しそうな表情になった。》

コンスタンス
シスター・ブランシュ、もうしわけないけれど、あなたがわざと私に意地悪を言ったのだと思ってしまったわ。

ブランシュ
そうなのよ……あなたがうらやましくて……

コンスタンス
私がうらやましい! そんな。これまで聞いたなかで、もっとも奇妙な話だわ。院長様の死をあんなにも軽々しく喋った私はむち打たれても当然なのに!

Disc1-Track15

シスター・ブランシュ、先ほどあんなに軽はずみな発言をした償いをするお手伝いをしてくださらないかしら。ひざまずいて、院長様のために私たち二人の哀れな命を捧げましょうよ。

ブランシュ
子どもっぽいわ……

コンスタンス
そんなことないわよ。シスター・ブランシュ、素晴らしい思いつきだと思うんだけれど。

ブランシュ
冗談を言っているのね。

コンスタンス
突然ひらめいたの。全然悪いことではないと思うわ。昔から若死にしたかったし。

ブランシュ
この茶番劇の中で私はなにを演じればいいの?

コンスタンス
初めてお会いしたとき、私は願いが聞き届けられたことを悟ったの。

ブランシュ
願いって?

コンスタンス
それは……

ブランシュ
その滑稽なアイロンを置いて、答えてくださいな。

《コンスタンスは言われたとおり、アイロンをテーブルに置く。》

コンスタンス
それは……年を取りたくないという私の願いを神が聞き届けてくださり、私たち二人は一緒に同じ日に召されるということを感じたの。どこで、どんな風に、というようなことは分からなかったし、今でも分からないけれど……

ブランシュ
なんて下らないばかげた考えなんでしょう! あなたの命で、他のどんな命であろうと、贖えると考えるなんて恥ずかしくないの? あなたは悪魔のようにうぬぼれているわ……あなたは……あなたは……もうやめて……

コンスタンス
あなたを傷つけるつもりじゃなかった。



Disc1-Track16
第1幕 第4場

前奏曲

医務室の独居房

《託身のマザー・マリーが修道院長のベッドの傍らに付き添っている。》

Disc1-Track17

修道院長
どうかこのクッションを起こしてください……ジャヴリノさんは、私がひじかけ椅子に座ることを許してくださるでしょうか? まるで水に溺れて救い出されたばかりの人のように横たわっている姿を、修道女たちに見せるのは非常に辛いことです。頭はとてもはっきりしているというのに。誰もごまかそうとは思っていませんよ。でも勇気が情けないぐらい欠けているとき、せめて平静を装わなくては。

マザー・マリー
今晩はご不安が収まったものと思っておりましたのに。

修道院長
ひとときの魂の安らぎにすぎなかったのです。ですが神に感謝しなくては! 死に逝く自分の姿を忘れさせてくれたのですから。「死に逝く自分の姿」ともったいぶったような言い方をしたのは……ほんとうに死に逝く自分の姿を見ているからなのです。それ以外、なにも目に入らない。私は孤独です。どうしようもなく孤独で、なんの慰めもありません。正直に話してください。ジャヴリノさんは、私があと、どのくらい生きられるとおっしゃっていますか?

《マザー・マリーはベッドの枕元にひざまずき、修道院長の唇にそっと自分の十字架を押し当てた。》

マザー・マリー
これまで診た患者の中で、もっとも頑丈な体質をお持ちだとおっしゃっています。あなたが長い間苦しまなくてはならないのではないかとおそれていらっしゃるのです。ですが神は……

修道院長
神は自ら影をお作りになった……ああ、30年間修道女として暮らしてきて、12年間修道院長を務めました。死について瞑想しない時はなかったのに、それが今、なんの役にも立たない! ……

Disc1-Track18

剛毅のブランシュはなかなかやってこないですね! 昨日の話し合いの後もまだ、自分で選んだ名前にこだわっているのでしょうか?

マザー・マリー
ええ。あなたのお気に触りさえしなければ、キリストの聖なる臨終のシスター・ブランシュの名をいつまでも希望しています。彼女の選択にひどく動揺されているようですね。

修道院長
かつての私の修道女名でしたから。当時、修道院長のアルヌー夫人は80歳でした。院長からこう言われたものです。「ご自分に力があるか、考えてみてください。ゲッセマネに入る者はもうそこから出られません。あなたは生涯、聖なる臨終の虜でいられる勇気を持っていると感じますか?」……

キリストの聖なる臨終のシスター・ブランシュをここに入れたのは私です。他のどの修道女よりも彼女のことが気がかりです。あの娘をあなたに委ねようかと思いましたが、考えなおしました。神がそうお望みになるなら、これが修道院長として、私の最後の務めとなるでしょう。マザー・マリー……

マザー・マリー
院長様?

修道院長
従順の名において、あなたに剛毅のブランシュを託します。神の御前で彼女のために私の代わりを務めてください。

マザー・マリー
分かりました。

修道院長
毅然とした判断と性格が必要となるでしょう。それはまさしく彼女に欠けていて、しかもあなたが持ち合わせているものです。

マザー・マリー
ほんとうにそうです。いつものように、お見通しでいらっしゃる。

《扉を叩く音。》

修道院長
やってきた。どうか中へ入れてください。

《マザー・マリーは戸を開けると、ブランシュを招き入れ、自分は出ていく。ブランシュはベッドの傍らにひざまずく。》

Disc1-Track19

お立ちなさい。いろいろなことをお話する心づもりだったのですが、いましがたの会話でとても疲れてしまいました。この修道会にもっとも新しく入った修道女として、あなたのことは一番心にかけています。ええ、どの修道女よりも心にかけているのですよ。まるで老いてから出来た子どものように。誰よりも危なっかしくてはらはらします。あなたを危険から守るためなら、私の哀れな命を喜んで捧げたでしょう。ええ、そうですとも、捧げたでしょう。いまではもう、私には死しか捧げるものがありません。とても哀れな死しか……

《ブランシュは再びひざまずくと、泣きじゃくる。修道院長は彼女の頭に手をやる。》

Disc1-Track20

神は聖者や英雄、殉教者を誇らしくお思いです。神はまた、貧者のことも誇らしく思ってくださいます。

ブランシュ
私は貧しさを恐れません。

修道院長
ああ、貧しさにもいろいろあるのですよ。もっとも惨めな貧しさに、あなたは浸ることになるでしょう。なにが起きようとも、素直さを忘れないでください。神の手の中でいつまでも、従順で優しい存在であり続けてください! 聖者たちは、誘惑とかたくなに闘うことも、自分自身に反発することもありませんでした。反発は常に悪魔のものです。そしてくれぐれも自分のことを卑下しないでください。神はあなたの名誉を引き受けられました。その方が、あなた自身で守るよりもずっと安全なのです。さあ、今度こそちゃんとお立ちなさい。神の前で、あなたを祝福します。愛しい子どもよ……

《ブランシュは部屋を出る。託身のマザー・マリーが医者と、十字架のシスター・アンヌを連れて戻ってくる。》

Disc1-Track21

ジャヴリノさん、あの薬をもう一度飲ませてください。

ジャヴリノ
お体がもう耐えられますまい。

修道院長
ジャヴリノさん、院長が修道院の人々にお別れの挨拶をしなくてはならないのが慣習であることはご存じでしょう。マザー・マリー、ジャヴリノさんを説得してください。あのお薬でも他の薬でもなんでもよいのです。ああ、ご覧なさい。修道女たちにこれからこんな顔を見せなくてはならないのでしょうか?

マザー・マリー
院長様、私たちのことはもう心配なさらないでください。神のことだけをお考えになってください。

修道院長
哀れな私をこんな時に神のことを考えてどうなるというのです? 神の方にこそ、私のことを考えて欲しいわ!

マザー・マリー
《ほとんどとがめるように》
院長様、うわごとをおっしゃっておいでですね。

《修道院長の頭ががくんと枕に落ち、すぐにぜいぜいあえぎ始めた。》

マザー・マリー
《十字架のシスター・アンヌに向かって》
その窓をぴったり閉めておしまいなさい。院長様はご自分の言葉に責任が持てる状態ではありません。でも、誰にも聞かれない方がいいでしょう……

《シスター・アンヌ、気を失いそうな素振りを見せる。》

ほらほら! 十字架のシスター・アンヌ、女々しく気絶なんかしないでください。ひざまずいて祈りなさい! 気付け薬よりも効果がありますよ!

《マザー・マリーが話している間、修道院長が上体を起こし、ベッドにほぼ座った状態になった。一点を凝視し、話し終える度に下顎ががくっと落ちる。》

Disc1-Track22

修道院長
託身のマザー・マリー! マザー・マリー……

マザー・マリー
院長様?

修道院長
私たちの礼拝堂が荒らされ、空っぽになった光景をいま見ました。祭壇はまっぷたつに割れ、床にはわらと血がまき散らされている……おお! 神は私たちを守ってくださらない! 神は私たちを見捨てた!

マザー・マリー
院長様はご自分の舌を押さえることがお出来にならないでしょうが、どうかなにもおっしゃらないでください、そのような……

修道院長
なにも言わない……なにも言わない……私がなにを言おうと、構わない! 舌も顔も、もう自分の思い通りにならない。

《ベッドの上で起きあがろうとする》

まるでロウの仮面のように、不安が顔に貼り付いている……ああ、この仮面を爪ではがすことができたなら!

《修道院長は再び枕に沈み込む。》

マザー・マリー
《十字架のシスター・アンヌに向かって》
院長様には今日お会いになれませんと他の修道女に知らせてください。10時には、いつものように休憩します。

《十字架のシスター・アンヌが出ていく。すると、なにもかも聞いていた修道院長が起きあがる。》

修道院長
託身のマザー・マリー、尊ぶべき服従の名のもとに、あなたに命じます……

《疲れ果てて修道院長は倒れ込み、またぜいぜい言い始める。扉かそっと開くとブランシュが夢遊病者のような足取りで入ってくる。修道院長はブランシュに気づき、そばへ来て欲しいそぶりをする。ブランシュは凍り付いたように立ちすくんでいる。》

Disc1-Track23

マザー・マリー
院長様は、あなたがベッドのそばに来ることを望んでおいでです。

《ブランシュはふらふらとベッドに近づくと、ひざまずいた。修道院長はブランシュの額に手をあてた。》

修道院長
ブランシュ……

《修道院長はブランシュになにか言いかけ、突然せき込む。》

マザー・マリー
とんでもないことです……こんなことが許されてはなりません……

修道院長
どうかお許しを……死……恐れ……死への恐れ。

《修道院長は倒れ、亡くなる。》

ブランシュ
院長様は望んでおられます……院長様は望んでおられました……きっとお望みになられたのでしょう……

《ブランシュは泣きじゃくりながら膝をがっくりつくとベッドに顔を突っ伏した。》



Disc1-Track24
第2幕

第2幕 第1場

カルメル会の礼拝堂

《亡くなった修道院長の棺は蓋を開けたまま、礼拝堂中央に置かれている。今は夜。礼拝堂を照らすのは、棺の周りに置かれた6本の大きなロウソクのみ、ブランシュと聖ドゥニのコンスタンスは亡骸の番をしている。》

コンスタンス
そのお方は、ラザロの墓より復活を成されました。

ブランシュ
主よ、あなたはその者に安息と慈悲の御心をお与えください。

コンスタンス
そのお方は生ける人と死せる人とを、そして炎を持って永久の時をお裁きになるために来られたのです。

ブランシュ
主よ、あなたはその者に安息と、

コンスタンス
慈悲の御心をお与えください。

《時計が鳴った。コンスタンスは立ち上がると交代の修道女を呼びに行った。ブランシュは一人残り、祈ろうとしたが、遺体から目をそらすことが出来ない。ブランシュは立ち上がると戸口へ向かった。扉が開き、マザー・マリーが現れた。》

Disc1-Track25

マザー・マリー
なにをしているのです? 当番ではないのですか?

ブランシュ
その……あの……もう時間は過ぎました。

マザー・マリー
なにが言いたいのですか? 交代の人は来ているのですか?

ブランシュ
つまりその……シスター・コンスタンスが呼びに行っています……ですから……

マザー・マリー
ですからあなたは怖くなり、そして……

ブランシュ
戸口まで行っても構わないと思ったものですから。

《ブランシュは棺のそばへ戻るそぶりを見せる。》

マザー・マリー
おやめなさい! もとの場所に戻るのは……任務をまっとうできなかったことは事実なのですから、もう考えないことです。顔色が悪いですね! 夜は冷え込みますから、あなたが震えているのは怖いからではなく、寒さからなのでしょう。あなたの独居房まで一緒に行ってあげます。ちょっとしたことにいつまでもくよくよしないで……横になり、十字を切り、お休みなさい。それ以外の祈りはすべて免除します。明日になったら、自分の罪に恥じらい、苦しむでしょう。その時初めて、これ以上罪を重ねることなく神に許しを請うことが出来るのです。

《マザー・マリーはブランシュの肩に手を置くと、戸口へ誘った。》

Disc1-Track26
第2幕 第1幕間

修道院の庭
《ブランシュとコンスタンスは、故クロワッシー修道院長の墓に飾る花の十字架を作り終えたところだ。》

コンスタンス
シスター・ブランシュ、この十字架は大きすぎる気がするわ。かわいそうな院長様のお墓はあんなに小さいんですもの!

ブランシュ
残ったお花はどうしましょう?

コンスタンス
新しい修道院長様に花束を作って差し上げましょうよ。

ブランシュ
託身のマザー・マリーはお花がお好きかしら?

コンスタンス
ああ! そうであって欲しいわ!

ブランシュ
お花がお好きかどうかということ?

コンスタンス
シスター・ブランシュ、そうじゃなくて、あの方が修道院長に選ばれて欲しいということよ。

ブランシュ
神があなたの願いを聞き届けてくださると今もお思いなの?

コンスタンス
そうなるかもしれないじゃない? 私たちが偶然と呼ぶものは神の必然なのかもしれなくてよ。

Disc1-Track27

院長様が亡くなった時のご様子を思い出してごらんなさい、シスター・ブランシュ! 院長様があれほど苦しんでお亡くなりになり、あれほど後味の悪い亡くなり方をされるとは、誰が予想したでしょう。! まるで神が死を与える相手をお間違えになったようだわ。ちょうど、別な人の洋服と取り違えてしまったみたいに。そうよ、あれは他の人の死だったに違いないわ。院長様には小さすぎる死だったのよ。だから袖を通すことさえできなかった……

ブランシュ
他の人の死とはどういう意味なの、シスター・コンスタンス?

コンスタンス
その人は死を迎えた時、とてもやすやすと迎えることが出来、死を心地よく感じて驚くでしょうよ。人はそれぞれが自分の死を迎えるのではなく、互いのために死を迎えるの。だから他の人の代わりに亡くなる場合だってあるんじゃないかしら?



Disc2-Track1
第2幕 第2場

修道院修士会室

《新しい修道院長を迎え、服従の儀式のために修道女たちが集まっている。正面の壁には大きくて立派な十字架が飾られている。十字架の下に修道院長の椅子が置かれている。両壁沿いのベンチには修道女たちが座っている。服従の儀式が終わろうとしている。》

新修道院長
もう一つみなさんに申し上げたいのは、その存在が私たちにもっとも必要な時に、前の院長様がお亡くなりになったということです。平和で穏やかな日々は過ぎ去ったようです。今はもう、私たちとて決して悪に対して安全でいられません。常に神の手の中にいることを、のんきに忘れ去ることが出来た時代は終わりました。これからどんな時代を生きることになるのかは分かりません。ただ、天の神がささやかな徳をお与えくださいますように、金持ちや権力者が軽蔑しがちな徳である、熱意、忍耐、協調精神をお与えくださいますようにと願います。私たちのようなつましい女性にこそ、このような徳は似合うのです。なぜなら勇気にもいろいろあり、つましい身分の者が世の王侯貴族と同じ勇気を持っていても生き延びられないからです。主人の徳の幾つかは、召使いにとってなんの役にも立たないものです。私たちが食べるキャベツ添えのウサギ料理に、タイムやマヨラナの香辛料を効かせても合わないように、そうした徳は召使いに不釣り合いなものなのです。繰り返しますが、私たちは、神に祈りを捧げるため集まったつましい女性です。祈りから気がそれてしまう一切のことに用心しましょう。殉教も用心しなくてはなりません。祈りは義務であり、殉教は褒美です。偉大な王が宮廷の人々の目前で、自分と一緒に女王然と王座に座るよう下女を手招きしたら、下女はまず自分の耳や目を疑い、家具を磨き続けた方がいいのです。つい癖で、ざっくばらんにお話してしまいました。託身のマザー・マリー、どうか私の言葉をうまく締めくくってください……

Disc2-Track2

マザー・マリー
院長様がおっしゃったのは、私たちの第一の務めは祈りだということです。ですから口で言うだけでなく、心から院長様のご意志に沿うようにいたしましょう。

《マザー・マリーが合図すると、カルメル会修道女たちがひざまずく》

マザー・マリー
めでたし、マリアよ

カルメル会修道女たち
恵みに満ちたるもの

マザー・マリー、カルメル会修道女たち
神はあなたとともにあり、幸いは女のあなたと……。

カルメル会修道女たち
そして幸いは、あなたの御胎からお生まれになった

マザー・マリー、カルメル会修道女たち
イエスに。

新修道院長
聖なるマリアよ。

カルメル会修道女たち
神の御母。

新修道院長、カルメル会修道女たち
罪深き私たちのためにお祈りください。

カルメル会修道女たち
今もそして私たちの死の時にも

新修道院長、マザー・マリー、カルメル会修道女たち
アーメン。

《カルメル会修道女たちは立ち上がるとゆっくり部屋から出ていく。》

Disc2-Track3
第2幕 第2幕間

修道院の一室
《呼び鈴が激しく鳴る。修道院長とマザー・マリーがあわただしく入ってくる。コンスタンスも別なところから姿を現す。》

新修道院長
何事です?

コンスタンス
馬に乗った男の方が小門にいらして、院長様に面会を申し込まれています。

新修道院長
どの門ですか?

コンスタンス
小道の門です。

新修道院長
こっそりと訪れてきているのですから、敵ではありえない。マザー、見てきてください。

《マザー・マリーとコンスタンスは出ていく。修道院長は平然としているようだが、唇がかすかに震えている。マザー・マリーが急ぎ足で戻ってくる。》

マザー・マリー
院長様、いらしたのはド・ラ・フォルス氏で、外国へ発つ前に妹への面会を希望されています。

新修道院長
ブランシュ・ド・ラ・フォルスを呼びにやりなさい。規則違反ですがやむをえないでしょう。

《出ていこうとするマザー・マリーを呼び止める。》

二人の会見に同席してもらえますか。

マザー・マリー
院長様がご許可くださいますならば……

新修道院長
あなた以外の人ではだめなのです。

《マザー・マリーは急ぎ足で出ていく。》



Disc2-Track4
第2幕 第3場

前奏曲

面会室

《ブランシュは顔を露わにしている。託身のマザー・マリーは顔をヴェールで覆い、目につかない場所で面会に立ち会っている。》

Disc2-Track5

騎士
もう20分も、目を伏せたきり、ほとんど答えない。なぜだ? それが兄を迎える態度なのか?

ブランシュ
お兄さまに不愉快な思いをさせようなど、思っていないことは神がご存じです。

騎士
まわりくどいことはやめて単刀直入に言おう。父上は、ここがもう、あなたにとって安全な場所ではないと判断している。

ブランシュ
そうかもしれませんが、ここにいると安心するのです。それで十分です。

騎士
ずいぶん感じが変わってしまったな。今のあなたは、どことなく無理をしているようだ。

ブランシュ
私が無理をしているように見えるのは、不器用なためにまだ慣れないからです。解放された幸せな生活にとまどっているのです。

騎士
幸せかも知れないが、解放されてはいないな。本性を乗り越えることは、あなたの力の及ぶところではない。

ブランシュ
あら! カルメル会修道女の生活はそんなに本性に適っているように見えます?

Disc2-Track6

騎士
今のような時代では、かつて誰からもうらやましがられた女性の多くが、あなたと立場を交換したいと思っていることだろう。ブランシュ、私の言い方はきついかも知れない。それは、召使いに囲まれてひとりぼっちの父上の姿が思い浮かんでしまうからだ。

ブランシュ
私がここにとどまっているのは恐怖心からだと思っていらっしゃるのですか?

騎士
恐怖への恐怖心というべきだろう。恐怖心に優劣はない。どれも恐怖心であることには変わりない。死の危険に身をさらすように、恐怖の危険に身をさらすことを覚えなくては。それこそ本物の勇気だ。

ブランシュ
ここではもう、私は全能なる神のちっぽけで哀れな生贄に過ぎません。

騎士
ブランシュ、先ほど私が入ってきた時、あなたは今にも気絶しそうだった。粗末なオイルランプの灯りに照らされながら、私たちの子供時代がすべて、一瞬のうちに蘇った気がした。今、ひどい言葉を投げ合ってしまったのも、私たちのぎこちなさのせいだろう。それとも、私の小さなウサギは変わってしまったのだろうか?

ブランシュ
お兄さまはなぜ、私のなかに疑いという毒を植え付けようとされるのですか? この毒のせいで私は死にかけました。確かに私は別人に生まれ変わったのです。

騎士
もうなにも怖くないのか?

ブランシュ
ええ。なにからも、傷つけられることはありません。

騎士
かくなる上は、さらばだ、かわいい妹よ。

《騎士は部屋を出ていこうとする。それを見てブランシュは急に心細くなり、格子を両手でつかむ。》

Disc2-Track7

ブランシュ
お兄さま! 腹を立てたままで行ってしまわないでください! ああ! お兄さまはずっと私に同情し続けていらしたから、同情する代わりにほんの少しでも、私を認めてくださることがなかなかおできにならないのです。どんなお友達に対してもお出来になるでしょうに。

騎士
ブランシュ、今度はあなたがずいぶんきついことを言うんだな。

ブランシュ
お兄さまのことは心から愛しています。ですが私はもう小さなウサギではありません。あなたのために苦しみを背負う、カルメル会の修道女なのです。どうか私のことは戦友とみなしてください。私たちはこれから各々、それぞれのやり方で戦っていくでしょう。私の戦いもお兄さまのと同じように、危険や罠に満ちたものなのです。

《騎士は形容しがたいまなざしでブランシュをしばらくじっと見つめると、出ていく。ブランシュは倒れまいとして格子にしがみつく。託身のマザー・マリーが進み出る。》

Disc2-Track8

マザー・マリー
シスター・ブランシュ、しっかりなさい。

ブランシュ
ああマザー、嘘をついてしまいました。自分がどんな人間か承知しているはずなのに。でも、あの人たちから憐れみを受け続けて、精根尽き果ててしまったのです! 神よお許しください! もう優しくされるのはうんざりです。あの人たちにとって、私はいつまでもただの子どもなのでしょうか?

マザー・マリー
さあ、もう行きましょう。

ブランシュ
私の高慢は罰せられるでしょう。

マザー・マリー
高慢に勝つ方法はただ一つ、高慢よりも高いところに昇ることです。
《前かがみになっていたブランシュのウエストを支えると》
誇り高くありなさい。

《二人は部屋を出る。》



Disc2-Track9
第2幕 第4場

前奏曲

カルメル会の聖具室

《修道女に取り囲まれた司祭が祭服を戸棚にしまいながら、いとまごいをしている。》

Disc2-Track10

司祭
みなさん、これから申し上げることは、みなさんの何人かがもうご存じのことです。私は解任され、追放されました。先ほどのミサが最後のミサです。教会は空っぽとなりました。初期キリスト教会の教父たちと同じ道を今日から私は歩むでしょう。今日はカルメル会にとって偉大な日です。さようなら。みなさんを祝福します。一緒に歌いましょう。

《修道女全員、ひざまずく。》

司祭
乙女マリアよりお生まれになった真の御体よ、めでたし。

カルメル会修道女たち
人のために、十字架につけられ犠牲となられました。

司祭
その脇腹を刺し抜かれ、水と血があふれたのです。

カルメル会修道女
死の審判に際し、私たちのために、先に味わわれました。

司祭
おお、慈悲深きお方!

カルメル会修道女
おお、敬虔なるお方!

司祭
おお、マリアの御子、イエスよ、アーメン。

《修道女たちは立ち上がる。ブランシュはいつの間にか司祭の隣にいる。》

Disc2-Track11

ブランシュ
これからどうなさるのですか?

司祭
今の瞬間もこれからも、追放者として生き続けるだけです。

ブランシュ
《恐怖におののきながら》
でも、噂が真実ならば、殺されますわ、身分が知れた途端。

司祭
そうならないかもしれないじゃありませんか。

ブランシュ
変装なさるのですか?

司祭
ええ。そのような命を受けています。シスター・ブランシュ、あなたの想像力はいつも先走りしすぎますよ。どうか、怖がらないでください。修道院の近くにとどまりますから。

《司祭は戸口でブランシュを祝福するしぐさをする。》

出来るだけ頻繁に立ち寄るようにしましょう。

《司祭は立ち去った。マザー・マリーは落ち着いて大扉の重いかんぬきをかける。》

コンスタンス
キリスト教国で司祭がこんな風に迫害されるなんて信じられる? フランス人は卑怯者になりさがってしまったのかしら?

シスター・マチルド
みんな怖いのよ。誰もが怖いわ。互いに恐怖をまき散らしている。ペストやコレラが流行ったときのようにね。

ブランシュ
《心ならずも喋っているように、抑揚のない声で》
恐怖は確かに病気の一つかも知れないわ。

コンスタンス
司祭様たちの味方をしてくれる、良きフランス人はいないの?

新修道院長
司祭が足りなくなると殉教者が溢れかえり、こうして神の恵みはバランスが取れるのです。

マザー・マリー
《情熱を抑えようとするあまり、強い口調で》
聖霊が院長様の口を借りてお話しになったような気がします。フランスの司祭たちのために、カルメル会修道女は命を捧げるまでです。

新修道院長
私の言葉を聞き違えたか、少なくとも誤解なさいましたね。私たちのつつましい名前が殉教者として唱えられるか。どうかは、私たちが決めることではありません。

《修道院長はマザー・ジャンヌと共に退出する。修道女たちは皆、言葉を失ってマザー・マリーを見つめる。塔の鐘が激しく鳴る。》

Disc2-Track12

コンスタンス
鐘が鳴っている!

シスター・マチルド
洗濯場の戸口をすぐ見に行かなくては。

《司祭が現れる。》

群衆
《通りで》
わあ!

司祭
巡回兵士と群衆の間に挟まれ、ここに逃げ戻るしか手だてがなかったのです。

コンスタンス
私たちと一緒にとどまってください。

司祭
それではあなた方を危険にさらすばかりです。ここにはいられません。人々が市役所広場に集結したら、通りは空くでしょう。

群衆
わあ!

コンスタンス
お聞きなさい!

シスター・マチルド
お聞きなさい!

カルメル会修道女全員
彼らがやってきた!

司祭
長居しすぎたようです。ここで私が捕まったら、あなた方はいったいどうなるでしょう?

《司祭は修道女たちを祝福すると姿を消す。》

群衆
扉を開けろ! 扉を開けろ!

《修道女たちはマザー・マリー以外、みんな隅で肩を寄せ合う。》

カルメル会修道女たち
開けないで! 開けないで!

《扉をどんどん叩く音。》

群衆
扉を開けろ! 扉を開けろ!

カルメル会修道女たち
開けないで! 開けないで!

マザー・マリー
《コンスタンスに》
開けてきなさい。

《しっかりした足取りで、コンスタンスはかんぬきを開けに行く。4人の人民委員が入ってくる。2人は扉付近にとどまる。群衆は、長い槍を持った番兵に押しとどめられている。》

Disc2-Track13

第1の人民委員
修道女たちはどこだ?

マザー・マリー
あそこにいます。

第1の人民委員
我々の任務は、修道女たちに強制立ち退き令を布告することだ。

マザー・マリー
どうぞお好きなように。

第2の人民委員
《読み上げる》
「かくして、立法議会は1792年8月17日に以下の通り、決定した。来る10月1日に、現在修道院として使用されている建物はすべて、修道女および修道士を立ち退かせ、行政当局の申し出により、売却されるものとする。」

第1の人民委員
異議申し立てはあるかな?

マザー・マリー
どうして申し立てることが出来ましょう。なにも持たない私たちに? ですが、私たちは服を手に入れなくてはなりません。この格好が禁じられるのでしたら。

第1の人民委員
いいだろう!
《不満げに》
あなた方は、いそいそとそのぼろを脱いで、みんなと同じ格好をするんだな?

マザー・マリー
制服を脱いでも兵士は兵士です。どんな格好をしていようと、私たちはいつまでも下婢かひなのです。

第1の人民委員
民衆はそんなものを必要としていない。

マザー・マリー
ですが殉教者は大いに必要でしょう。私たちならばその役目を引き受けられます。

第1の人民委員
こんな時勢では、死ぬなんて大したことじゃない。

マザー・マリー
生の価値がばかばかしいほどに下がり、あなた方革命政府の紙幣よりも安っぽいものになった今、生きるなんて大したことではありません。

第1の人民委員
私以外の人が聞いたら高くつく言葉だぞ。

《マザー・マリーだけに聞こえるように》

血に飢えた輩の同類だとお思いか? 私はシェルの小教区で聖具室係を務めていた男。司祭代理の領主とは乳兄弟の仲だった。でも今はオオカミどもと一緒に吠えていなければいかんのだ!

《平静さを失わないマザー・マリーを前に、人民委員は落ち着かない。》

マザー・マリー
あなたが善意である証拠をお願いすることをお許しください。

第1の人民委員
他の役人と巡回兵たちをここから連れ出そう。夜まで残るのは職人たちだけだ。鍛冶屋のブランカールには気をつけろ。密告者だからな。

《人民委員たちと群衆は立ち去る。マザー・マリーは大扉を閉める。修道女たちは戸惑い、おろおろするばかり。何人かは一心に祈っている。ブランシュは傷ついた哀れな小鳥のごとく、小さな腰掛けにうずくまっている。マザー・ジャンヌが塀の小さな戸から入ってくる。》

Disc2-Track14

マザー・ジャンヌ
みなさん、院長様はまもなくお別れの挨拶にやってきます。院長様はパリへ行かなくてはなりません。

《マザー・ジャンヌはシスター・ブランシュに憐れみのこもった一瞥をやると戸棚の一つから小さなキリスト像を出し、おもちゃを与えるかのようにブランシュに差し出した。》

シスター・ブランシュ、ご存じのようにクリスマスの夜、私たちはこの小さな栄光の王を持ってすべての独房を回ります。この像があなたに勇気を与えますように。

ブランシュ
《像を腕に抱きながら》
なんて小さくて、か弱いんでしょう!

マザー・マリー
いいえ! 小さいけれど、とても強いのです!

群衆
《表の通りで》
いいぞ! いいぞ! いいぞ!

ブランシュ
まあ!

《ブランシュが思わず手を離したので、像は石の床に落ち、頭が砕け散る。》

ブランシュ
《恐ろしい罪を犯した者のようにぞっとした表情で》
小さな王が死んでしまった! もう神の子羊しか私たちには残されていません。

群衆
いいぞ! いいぞ!



Disc2-Track15
第3幕

第3幕 第1場

礼拝堂

《略奪されて空っぽになった礼拝堂に修道女たちは集まっている。辺りには藁や壁の一部が散乱し、聖歌隊席の格子が一部外れている。灯りは数本のロウソクのみ。一人の修道女が戸口で見張りをしている。司祭の粗末な平服も靴も泥だらけだ。片方の袖は破れ、だらんとぶら下がっている。毅然としたマザー・マリーは修道女たちに囲まれている。コンスタンスとブランシュは肩を並べている。シスター・マチルドが一人の修道女と少し離れたところにたたずんでいる。》

マザー・マリー
お話しください、司祭様。修道女たちはこれから自分たちが行おうとしている誓約に対して心構えがとうに出来ています。

司祭
これは私の務めというわけではありません。ですから、院長様が召還されていらっしゃらない以上、あなたが話されるのが適当だと思います。

マザー・マリー
みなさん、私が提案するのは、みなで殉教の誓願をし、カルメル会の存続と祖国の救済をお願いすることです。

《修道女たちは顔を見合わせる。》

神のおかげでこのことを思いついた私とおなじくらい、あなた方が平静に私の提案を受け止めてくださって嬉しく思います。私たちの哀れな生を差し出すからと言って、その価値について思い上がってはなりません。

マザー・ジャンヌ
正確には、なにを私たちは誓うのでしょう? こうした特別な誓願の欠点は、人々の心をばらばらにし、信仰心を対立させてしまうことです。

マザー・マリー
だからこそ、このような誓願の原理と妥当性を全員が納得する必要があると常々思ってきました。たった一人でも反対があれば私は即座に締めましょう。秘密投票を提案します。司祭様に一人一人の答えを聞いていただくのです。誰がなにを答えたかは司祭様の胸の内です。マザー、このようなやり方でしたらご満足いただけますか?

マザー・ジャンヌ
少なくとも、安心します。

司祭
一人ずつ順に、祭壇の後ろに来てくださればよろしい。

シスター・マチルド
《シスター・ブランシュを指しながら、別な修道女に》
一人反対する人がいることに賭けてもいいわ。

《修道女たちは次々と祭壇の後ろへ行き、すぐに戻ってくる。ブランシュの番になった。ブランシュは取り乱した様子で戻ってくる。ブランシュをじっと見つめるコンスタンス。司祭はマザー・マリーに近づくと、低い声で何言かしゃべった。》

Disc2-Track16

マザー・マリー
一人反対する者がいました。それで十分です。

シスター・マチルド
《隣の修道女に向かって》
誰だか分かるわよ……

コンスタンス
私よ!

《一同唖然とする。ブランシュは頭を手に抱え、泣き始める。》

私が真実を言ったことは司祭様がご存じです……でも……でも……今ここで、あなた方全員に賛同することにします、そして……私……私、お願いします……この誓願を私に言わせてください……神の名にかけて、お願いします。

司祭
私が許しましょう。みなさんのもとへお戻りなさい。二人ずつ、私のもとへいらっしゃい。

《司祭は祭服を着た。》

聖具係のシスター、福音書を開き、祈構台に載せてください。若い人順に行きましょう。シスター・ブランシュとシスター・コンスタンス、どうぞ。

《ブランシュとコンスタンスは肩を並べてひざまずき、神に命を捧げた。他の修道女たちは列を作ろうと、右往左往する。混乱に乗じてブランシュは逃げ出した。》

Disc2-Track17
第3幕 第1幕間

修道院の前の通り
《カルメル会修道女たちは新修道院長を先頭に、市の役人と向き合っている。修道女たちは平服を着ており、身の回り品をまとめた小さな包みを手に持っている。》

第1の役人
市民諸君、みなさんが規律を守り、市民らしい振る舞いをしたことに敬意を表する。もっとも、国家が今後みなさんから目を離さないことをここに告げておく。集団生活をしないこと、共和国の敵と通じないこと、共和国への宣誓を拒否した司祭とも、法王や暴君どもの手先とも関係しないこと。10分後に一人ずつ、事務所に身分証明書を取りに来るように。これによって、法の監視のもとで、自由の恩恵を新たに受けることができるようになるであろう。

《役人たちは出ていく。新修道院長はカルメル会修道女たちを引き留める。》

Disc2-Track18

新修道院長
シスター・ジェラルド、司祭様になにがなんでもご連絡をしなくては。今日、ミサをあげてくださる予定でしたが、このような状況では司祭様にも私たちにも危険すぎます。そうではありませんか、マザー・マリー?

《シスター・ジェラルド、立ち去る。》

マザー・マリー
私が信ずべき、あるいは信じざるべきことに関しては、今後すべて院長様にお任せいたします。あのような振る舞いをしたことが誤りだったにせよ、やってしまったことはやってしまったことです。このような用心と、私たちの誓願の真髄は相容れないのではないですか?

《マザー・マリー、立ち去る。》

修道院長
《修道女たちに向かって》
あなた方一人一人は神に対して誓願を果たす責任を負っているかも知れませんが、あなた方全員の責任は私が負っているのです。どのように振る舞うべきなのか分かるぐらい、私は歳を取っています。



Disc2-Track19
第3幕 第2場

前奏曲

ド・ラ・フォルス侯爵の書斎

《書斎はなにもかも略奪され、家具はすべて壊されている。大きな暖炉の炉床に背の低いストーブが置かれ、粗末な土鍋が載せてある。部屋の真ん中に折り畳み式のベッドが一台。粗末な身なりをしたブランシュが水の番をしている。平服を着たマザー・マリーが突然、中央の戸口から入ってくる。》

Disc2-Track20

ブランシュ
あなたですか……

マザー・マリー
そうです。迎えに来ました。時がやってきたのです。

ブランシュ
《おろおろしながら》
今はまだ、あなた方についていくことはできません……ですが、もう少ししたら……多分。

マザー・マリー
いいえ、もう少ししたらではなく、今すぐにです。数日後にはもう手遅れになってしまう。

ブランシュ
なにがですか?

マザー・マリー
あなたの救済が、です。

ブランシュ
私の救済……あそこで私の安全が守られるというのですか?

マザー・マリー
ここよりも危険は少ないでしょう。ブランシュ……

ブランシュ
あなたの言葉は信じられません。こんな時代に、自分で身を守る以外、なにができましょう? ここなら、誰も私を探そうなどと思わないでしょう。死はもっと高いところしか狙わないのですから……マザー・マリー、私はすっかりくたびれてしまいました! ……シチューが焦げてしまう! あなたのせいですわ。ああ! 神よ! これからいったいどうなるんでしょう?

《ブランシュは泣きながら火の前でひざまずき、鍋の蓋を取った。マザー・マリーもひざまずき、急いで別な鍋にシチューを移した。》

マザー・マリー
大丈夫ですよ、ブランシュ、もうちゃんとしましたから。なぜ泣いているのです?

ブランシュ
あなたが親切だからです。でも、泣いていること自体恥ずかしい。私のことは放っておいて、誰も構わないで……

《突然はげしく》
私がなにをしたというのです? 私のなにがいけないのです? 私は神に背いたりしていません。恐怖心があるからといって神に背いたことにはならない。私は恐怖の中に生まれ、育ち、今もその中にいます。誰もが恐怖心を軽蔑するから、私も軽蔑されながら生きていくのが正しいのでしょう。もうずっと前から考えていたことです。口にするのをはばかっていたのは、父がいたからです。でも死んでしまった。数日前、首をはねられて。

《ベッドに身を投げかけて》
自分の家にいながら、父にも父の名にも値しない私には、みじめな下女以外どんな役割があるというのです? 昨日、あの人たちは私をぶちました……ええ、ぶったんです。

マザー・マリー
不幸なのは軽蔑されることではなく、自分自身を軽蔑することだけなのですよ。

Disc2-Track21

キリストの聖なる臨終のシスター・ブランシュ!

《ブランシュは飛び起き、直立の姿勢をとった。涙は乾いている。》

ブランシュ
マザー?

マザー・マリー
ある連絡先を教えましょう。よく覚えておきなさい。マドモワゼル・ローズ・デュコール、サン・ドゥニ通り2番地です。彼女のところなら安全です。ローズ・デュコール、サン・ドゥニ通り2番地ですよ。明日の晩までそこであなたを待っています。

ブランシュ
行きません。行けないんです。

マザー・マリー
来ますよ。あなたは来ると分かっています。シスター。

女性の声
《部屋の外から》
ブランシュ、お使いにお行き!

《ブランシュは小さな扉から逃げ去る。一瞬びっくりしたマザー・マリーは、入ってきた扉から出ていく。》

Disc2-Track22
第3幕 第2幕間

前奏曲

バスティーユ地区の通り
《老婆二人と老紳士一人がやってくる。》

Disc2-Track23

第1の老女
まだまだこれから大変さね。

老紳士
まったくもって、パリ暮らしはきつくなる一方だ!

《ブランシュがやってくる。手に持った買い物かごから菜類がはみ出ている。》

第2の老女
よそだって同じようなもんですよ。

第1の老女
さもなきゃもっとひどいか。ナンテールからやってきたんですがね……

第2の老女
あたしゃコンピエーニュさ。

ブランシュ
《詰まったような声で》
コンピエーニュからやってきたんですか?

第2の老女
そうさ、きのう野菜の荷車に乗ってやってきたさ。あそこじゃ、2ダースほどの悪党が互いに怖がっていてね、安心するためにやたらと騒ぎ立てているのさ。おとといはカルメル会のご婦人方を逮捕していたっけ。

《ブランシュの動転した顔を見て》
ご親戚がいるのかね?

ブランシュ
いえ、奥様、とんでもございません。それに、コンピエーニュには一度も行ったことがありません。パリにやってまだ1週間なんですよ。ロッシュ=シュール=ヨンからご主人様たちとやってきたんで。

第1の老女
ちょいと、この召使い、変わっているね。

《ブランシュは足早に立ち去る。》



Disc2-Track24
第3幕 第3場

コンシエルジュリーの監獄の一室

《カルメル会修道女たちは一つの監獄に押し込められている。粗末なテーブルに白いハンカチを敷き、キリスト像を飾っているが、ハンカチが小さすぎてテーブルが見えている。欠けた水差しに枯れた花が数本さしてある。数台のベンチ、そして唯一の粗末な椅子には修道院長が座っている。格子のはまった窓越しに、薄暗い中庭が見える。重そうな扉。夜明けだ。》

新修道院長
みなさん、監獄で最初の晩が過ぎようとしています。最初の晩が一番辛いものです。ですがなんとか切り抜けました。次の晩には、新しい環境にすっかりなじんでいることでしょう。それに新しいと言えるでしょうか。つきつめれば背景が変わったに過ぎないのですから。私たちがずっと以前に捨て去った自由をまた奪うことなど、誰にも出来ません。みなさんが殉教の誓願を立てたとき、私はいませんでした。誓願が適切であったかどうかはさておき、これほど寛大な行為が今やあなた方の良心を苛むものでしかないなど、神はお許しにならないでしょう。ですから、この誓願の責任は私がとります。これからなにがおきようとも、誓願が成就したかどうかは私一人が責任もって判断します。そうですとも、私が責任を果たし、功績はあなた方に差し上げましょう。私自身は誓願をたてなかったのですからそれができるのです。これまでこの世であなた方の責任を私は負ってきました。今になって、責任を逃れる気はさらさらありません。ご安心なさい!

マザー・ジャンヌ
院長様となら、なにも怖くはありません。

新修道院長
オリブ山でキリストは自制心を失いました。死を恐れたのです。

コンスタンス
シスター・ブランシュはどうなったのでしょう?

新修道院長
あなた同様、私にも分からないのですよ。

コンスタンス
きっと戻ってきますわ。

シスター・マチルド
なぜそんなに自信があるのです、シスター・コンスタンス?

コンスタンス
なぜって……なぜって……そういう夢を見たからです。

《院長以外の修道女は全員、爆笑する。そのとき、扉が急に開くと看守が入ってきた。そして書類を広げた。》

Disc2-Track25

看守
《読み上げる》
「革命裁判所は申し渡す。オワーズ県コンピエーニュ在住の元カルメル会修道女こと、マドレーヌ・リドワヌ、アンヌ・ペルラ、マドレーヌ・トゥーレ、マリー=アンヌ・アニゼ、マリー=アンヌ・ピエクール、マリー=アンヌ・ブリド、マリー=シプリエンヌ・ブラル、ローズ・クレチアン、マリー・デュフール、アンジェリク・ルッセル、マリー=ガブリエル・トレゼル、マリー=ジュヌヴィエーヴ・ムニエ、カトリーヌ・ソワロン、テレーズ・ソワロン、エリザベス・ヴゾロは反革命的秘密集会を開き、狂信的な書簡を交わし、自由を侵害する内容の文書を保管した。上記の者たちは、邪悪な希望と欲望を胸に抱いた謀反者、扇動者であり、フランス国民を暴君の支配下に再び置き、神の名の下に、多くの血を流して自由を消し去るべく、卑劣な陰謀を企てた。よって革命裁判所は上記の者全員を死刑に処することを宣言する。」

《看守が判決文を畳むと、修道女たちは全員頭をたれた。看守は出ていく。》

Disc2-Track26

新修道院長
みなさんを助けたいと心から思っていたのですが……あなた方から苦難が遠ざかりますようにと願っていました。この修道院にやってきた最初の日から、母親のような自然な気持ちでみなさんを愛していたのです。たとえ神に対してであっても、自分の子どもをいそいそと犠牲に捧げる母親がどこにおりましょう? もし私が間違っていたのなら、神が正してくださるでしょう。今の私にとって、あなたがたは私の宝です。そして私は自分の宝を窓から投げ捨てるような人間ではありません。あなた方に母親の祝福を授け、最後に、あなた方から従順の誓いをここに受けましょう。

Disc2-Track27
第3幕 第3幕間

バスティーユ地区の通り

《司祭が突然姿を現す。待っていたマザー・マリーが物陰から出てくる。》

司祭
死刑判決が下りました。

マザー・マリー
全員ですか?

司祭
全員です!

マザー・マリー
神よ! それに……

司祭
おそらく今日か、明日でしょう……

《マザー・マリーは身を引いた。》

どうなさったのです、マザー?

マザー・マリー
私なしで死なせるわけにはいきません!

司祭
あなたがどう思おうと、誰が選ばれ、誰が退けられるかは神のご意志なのです。

マザー・マリー
私は殉教の誓願をしたのに……

司祭
神に対して誓ったのですから、あなたが責任を負うのは神に対してであって、他の修道女たちに対してではないはずです。あなたの誓いを解くかどうかは神の自由であり、神は自分の所有にあるものしかお取りにならない。

マザー・マリー
なんて不名誉な! あの人たちは死ぬ間際に私の姿をむなしく探すでしょう。

司祭
神の目のことだけ気にすればいいのです。あなたは神だけを見つめていなくては。

《二人は退場する。》



Disc2-Track28
第3幕 第4場

前奏曲

革命広場

《カルメル会修道女たちが死刑囚護送馬車から降りてきた。年老いたマザー・ジャンヌは手助けが必要だ。最後のコンスタンスはほとんど楽しげに飛び降りる。カルメル会修道女たちは、修道院長を先頭に、聖歌を歌いながら断頭台へと向かっていった。見物人は押し合いながらびっしり群がっている。第一列に、赤い縁なし帽をかぶった司祭がいる。修道女たちが断頭台にのぼり始めると、司祭は臨終の者に与える赦免の言葉をつぶやき、こっそり十字を切ると足早に立ち去る。》

群衆
おお! おお!

《最初に断頭台にのぼったのは修道院長だった。修道女は一人ずつ消えていき、歌声は徐々に小さくなる。》

Disc2-Track29

新修道院長、マザー・ジャンヌ、シスター・マチルド、コンスタンス、修道女たち
めでたし女王、慈悲深きみ母、私たちの命、喜び、希望よ、なんとめでたいことでしょう。めでたし女王、慈悲深きみ母、私たちの命、喜び、希望よ、なんとめでたいことでしょう。めでたし女王、慈悲深きみ母、私たちの命、喜び、希望よ、なんとめでたいことでしょう。あなたに向かって、私たちは声をあげるのです。追放されしエヴァの子らは。この涙の谷で、嘆き、泣きながら、私たちはあなたを仰ぎ見るのです。ゆえに今、私たちの弁護者、あなたの慈悲深き目を、私たちにお向けください。そして、あなたの胎内の祝福されし御子、イエスを。この追放の果てに、私たちにお示しください。おお、いつくしみ深き、敬虔なる、恵みの満てる乙女マリアよ!

《最後の修道女、コンスタンスが断頭台へのぼる。ブランシュが、群衆を通り抜けようとする姿が見えるが、また群衆の中に姿が隠れてしまう。ブランシュの顔に恐れの表情はまったく見あたらない。》

コンスタンス
慈しみ深き、

《コンスタンスはブランシュを見つけ、幸せに顔を輝かせる。思わず足を止めたコンスタンスは、また歩み始めながらやさしくブランシュに微笑む。》

敬虔なる、恵みに満ちた乙女マ……。

《信じられないほど平静に、ブランシュは、驚く群衆を後目に断頭台へとあがっていく。》

ブランシュ
栄光は、父なる主に
そして死からよみがえられた
慰め主キリストに、
永遠に、永遠に……。

《群衆はゆっくりと散っていく。》


カルメル会修道女の対話:完




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No.305 - フリック・コレクション [アート]

過去の記事で、13の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。

No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム
No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC
No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ
No.242ホキ美術館千葉市
No.263イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館米:ボストン
No.279笠間日動美術館茨城県笠間市
No.303松下美術館鹿児島県霧島市

笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名を冠した美術館です。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、ニューヨークにあるフリック・コレクションのことを書きます。


ニューヨーク


ニューヨークはパリと並ぶ美術館の集積都市です。海外の美術館めぐりをしたい人にとって、パリの次に行くべき都市はニューヨークでしょう。そのニューヨークの美術館めぐりをする人が、まず間違いなく訪れるのがメトロポリタン美術館とニューヨーク近代美術館(正式名称:The Museum of Modern Art : MoMA)だと思います。この2つの美術館を訪れることで、古今東西の多数の美術品やアートにふれることができます。

この2つの大美術館は、マンハッタンの5th アベニュー(南北の通り)に近接していますが(メトロポリタンは面している)、2つのちょうど中間点付近にあるのがフリック・コレクションです。フリックコレクションも 5th アベニューに面していて、MoMAやメトロポリタンから歩いて行こうと思えば可能な距離です(直線距離1キロ程度)。

なお、5th アベニュー沿いにはグッゲンハイム美術館やノイエ・ギャラリー(クリムトの『アデーレ・ブロッホバウアーの肖像』がある。No.164「黄金のアデーレ」参照)もあり、この通りは "美術館通り" と言っていでしょう。

Manhattan - Museum.jpg


邸宅美術館


フリック・コレクションは、鉄鋼業などに携わった実業家、ヘンリー・クレイ・フリック(1849-1919)の個人コレクションを自宅に展示したものです。つまり、ワシントン D.C.のフィリップス・コレクション(No.216)やミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(No.217)、ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館(No.263)と同様の「邸宅美術館」です。ただし"邸宅" といっても石造りの大規模かつ豪勢な建物であり、普通に想像する住居というイメージではありません。ここを訪問したなら、まず建築そのものや内部の装飾、調度品を鑑賞し、それと併せて美術品を見るというのが正しい態度でしょう。

Frick Collection - Facade 5th Avenue.jpg
5th Avenue.からみたフリックの邸宅

Frick Collection - Entrance.jpg
フリック・コレクションのエントランスは建物の南側にあり、70th Street に面している。

コレクションを収集したヘンリー・フリックは1919年に亡くなりましたが、その後も親族よって拡張が続けられ、1935年から美術館として一般公開が始まりました。所蔵する絵画の約 1/3 はヘンリー・フリックの没後に購入されたものですが、著名作品のほどんどはヘンリー・フリック自身が購入したものです。

2010年、美術館は開館75周年を記念して紹介動画を作成しました。ナレーションは英語ですが、美術館の内部も撮影されていて、その様子がよく分かります。YouTube で見ることができます。

Introduction to The Frick Collection
https://www.youtube.com/watch?v=LEyC8g94MZE

この美術館は内部の撮影は禁止であり、かつ所蔵美術品は門外不出です。従って、現物を見るためにはここに行くしかないのですが、逆に言うと、お目当ての作品があったとして、それが貸し出しなどで不在ということはありません。フィラデルフィアのバーンズ・コレクションと同じで、これはメリットだと考えることもできるでしょう。

Frick Collection - West Gallery.jpg
フリック・コレクションの西ギャラリー
(site : www.inexhibit.com)



このコレクションは、ヨーロッパの19世紀以前の、特に "古典絵画" が主体です。絵画について、主な所蔵品の画家をあげると、

・ベッリーニ
・ティツィアーノ
・ブロンズィーノ
・ホルバイン
・エル・グレコ
・ヴァン・ダイク
・ベラスケス
・レンブラント
・フェルメール
・ハルス
・ゲインズバラ
・ゴヤ
・フラゴナール
・ターナー
・コンスタブル
・アングル
・マネ
・ドガ
・ルノワール
・ホイッスラー
ベッリーニ「荒野の聖フランチェスコ」サムネイル.jpg
ベッリーニ
「荒野の聖フランチェスコ」

フェルメール「士官と笑う娘」サムネイル.jpg
フェルメール
「士官と笑う娘」

なとです。以降は、これらの所蔵絵画から上に画像を引用した2作品を紹介したいと思います。一つは宗教画で、ベッリーニの『荒野の聖フランチェスコ』、もう一つは3枚もある(!)フェルメールの中の1枚、『士官と笑う娘』です。まず『荒野の聖フランチェスコ』からです。


聖フランチェスコ


聖フランチェスコはカトリック教会における聖人の一人で、12~13世紀のイタリアの人です。数多あまたの聖人の中でも最も人気が高く、よく知られた人でしょう。いや、世界のほとんど人がこの名前を知っているはずです。

というのも、アメリカのカリフォルニア州のサンフランシスコ(San Francisco)は、スペイン語で「聖フランチェスコ」の意味だからです。つまりフランチェスコはイタリア語ですが、スペイン語・ポルトガル語ではフランシスコです。なお、英語ではフランシス、フランス語ではフランソワ、ドイツ語ではフランツであり、現代の欧米人の男性名としてもよくあります。

2013年に即位したアルセンチン出身のローマ教皇・フランシスコの名前も、もちろん聖フランチェスコにちなんでいます。意外にもフランチェスコを名乗った教皇は初めてです。あまりにも有名な聖人の名前なので、それまでの教皇が名乗らなかったのかもしれません。聖フランチェスコは貧しい人々に寄り添う人だったので、教皇としてはそこが名前の意図なのでしょう。

なお、イタリア語の原音に近いのは「フランチェスコ」ですが、日本のカトリック教会では伝統的に「フランシスコ」と呼ぶ習わしです。日本と関係が深い聖フランシスコ・ザビエル(スペイン人、バスク出身)と関係しているのかもしれません。


聖フランチェスコの生涯


聖フランチェスコの生涯と、フリック・コレクションが所蔵する『荒野の聖フランチェスコ』については、中野京子さんの解説があるので、それを引用しましょう。


1181年(日本では平清盛没年)、フランチェスコはイタリア中部ウンブリア州のアッシジに生をうけた。高原や平野、渓谷など、変化に富む美しい土地だ。父親は織物を扱う豪商で、町の有力者でもあった。ひとりっ子のおぼっちゃまフランチェスコは、常に華やかな衣服に身を包み、貴族然とした立ち居振る舞い、家業の手伝いもそこそこに、おおぜいの仲間と豪勢に遊び歩いていた。

そんな気楽な暮らしも、しかし二十歳ころ突如終わりがくる。当時イタリアでは各都市間における戦が頻発しており、アッシジも隣のペルージャと紛糾ふんきゅうしたため、フランチェスコは戦闘に参加した。そして捕虜になってしまう。牢獄生活は一年余り続き、父親が莫大な保釈金を支払ってくれたおかげでようやく帰郷できたものの、しばらく療養が必要なほど心身が弱っていた。もはや自然の美しさにも遊興にも関心は持てず、深く考え込むことが多くなるが、周りは病気が治れば元通りほがらかになると信じた。

健康が完全に回復した1205年、今度はイタリア南部で戦争がはじまり、父親は息子が騎士として叙勲じょくんされるよう、立派な鎧冑よろいかぶとを用意して送り出した。しかしフランチェスコは途中で引き返す。「わたしの家を建て直しなさい」という神の声を聞いたからだ。彼はアッシジ近郊で廃墟はいきょとなっていた古い教会を修理し、家の金を持ち出して貧者やハンセン病患者の世話をし始めた。怒った父に勘当かんどうされるが、ほんとうの父は天にいると答え、永久に家族との縁を切る。

現世の歓びを味わい尽くした末の転身である(釈迦しゃかもそうだった)。個人の財産を持たず、労働による自給自足で清貧に暮らし、必要とあらば托鉢たくはつもする。聖書の教えに従い、純潔(童貞)を貫き、世の中からはじき出された弱者へ奉仕する ─── フランチェスコのこの思想と行動は、共鳴する仲間を続々増やした。1209年、「小さき兄弟の会」が設立され会則も定められる。さらにその翌年、フランチェスコはローマへおもむき、ついに教皇インノケンティウス3世の公認を得た。


「小さき兄弟の会」(のちのフランシスコ会)をヴァチカンが公認したは異例だったと言います。当時の「放浪説教師」のほとんどは元司祭であり、説教に人気があったとしても "ヴァチカン批判勢力" で、カトリック教会とは無縁だとされていました。しかしフランチェスコは違いました。


放浪説教師のほとんどは、階級制度からこぼれ落ちた元司祭だった。彼らの活動は個々ばらばらで、行く先々の喜捨きしゃにすがり、結束しようなどとは思いもよらなかった。そこへ全く新しいタイプのフランチェスコが登場する。

食い詰めて説教師になったのではなく、富豪の父を持つ、育ちの良い若者で、教育もユーモアもあり、自作の歌や踊りを添えた巧みな説教にそれがにじみ出ていた。愛と瞑想めいそうの神秘家としても知られ、組織運営能力まである。いや、何より圧倒的カリスマ性の持ち主だ。

彼の団体(後に「フランシスコ会」として知られる)を公認したインノケンティウス3世には、もちろんヴァチカン批判派の取り込みという思惑があったが、それにしてもフランチェスコ本人の魅力がなかったら起こり得ないことだった。

中野京子「同上」

聖フランチェスコはまた、数々の奇蹟のエピソードとともに語り継がれています。


フランチェスコには奇蹟のエピソードが事欠かない。鳥や動物との意思疎通そつう(小鳥へ説教し、狼を回心させた)、悪魔との戦い、石からの泉噴出、両腕に幼子イエスの出現。また1224年ラヴェルナ山中の洞窟にこもって40日間の断食だんじき修行の際、イエスと同じ痛みをと祈るうち天使が出現し、磔刑たっけい時に釘打たれた両手両足、やりで突かれた右脇腹の五箇所に聖痕せいこんが与えられた。これは男性に出現した聖痕の最初の事例とされる。

この大いなる奇蹟後、フランチェスコに残された余命はわずか2年。激しい労働、きつい説教の旅、極端に質素な暮らし、目はほとんど見えなくなり、また聖遺物せいいぶつを欲しがる人々に歯をねだられ、一本ずつ与えているうち、ついに歯無しになってしまい(崇敬されるのも大変なことなのだ)、おそらく栄養不良も加わってだろう、45歳(生年1182年説あり、その場合は44歳)で衰弱死した。墓には人々が押しかけ、遺骸が惹き起こしたさまざまな奇蹟を言い立てた。

ヴァチカンの反応は驚くほど素早かった。教皇はグレゴリウス9世に代わっていたが、フランチェスコ死去からわずか2年足らずで聖人指定を発表、アッシジに聖フランチェスコ大聖堂を建設して聖遺物を移した。またフランチェスコが創設したフランシスコ会も、分裂や多少の衰退はありながら宗教改革時代にも信者を増やし、今に続いている(女子修道会もある)。

中野京子「同上」

聖フランチェスコは生前から神聖視され、現代までに美術作品、伝記、小説、映画と多岐たきにわたって取り上げられました。その聖フランチェスコを描いた絵画から2点を引用しておきます。

小鳥に説教をする聖フランチェスコ.jpg
ジョット(1266/7-1337)
小鳥に説教をする聖フランチェスコ」(1305頃)

アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の内部の壁には、聖フランチェスコの生涯を描いた28枚のフレスコ画があるが、その中の1枚。

フランツ・リストが作曲したピアノ曲「伝説」の第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」は、上のフレスコ画に描かれた言い伝えにもとづいています。次の絵は、聖フランチェスコを多数描いたエル・グレコの作品です。

エル・グレッコ「聖フランチェスコ」.jpg
エル・グレコ(1541-1614)
聖フランチェスコ」(1604/14)
プラド美術館

ラヴェルナ山中の洞窟での断食修行の様子を描いている。手に持った頭蓋骨は "死" について瞑想していることを表す。右手には聖痕が描かれている。左下で両手を組んで祈りを捧げているのは、修行を共にした修道士のレオ。レオの頭はフランシスコ会独特の「トンスラ」というヘアスタイルである(上のジョットの聖フランチェスコも同様)。


ベッリーニ:荒野の聖フランチェスコ


本題のフリック・コレクション所蔵のベッリーニ『荒野の聖フランチェスコ』です。絵の画像と中野さんの解説を引用します。

ベッリーニ「荒野の聖フランチェスコ」.jpg
ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430-1516)
荒野の聖フランチェスコ』(1480頃)
(フリック・コレクション)


天使もいなければ神々こうごうしい光もなく、洞窟の前でフランチェスコが恍惚こうこつと立ちすくんでいるだけだが、両てのひらの真ん中にはかずかに赤い点が見える。聖痕があらわれた奇蹟の瞬間なのだ。

石の一つ一つ、葉の一枚一枚まで細密に描く、執拗しつようかつ克明な自然描写は、主役の存在感を希薄にさせており、絵画的に成功しているかどうかの判断は難しいところだ。とはいえ何や知らん、異様なまでの岩石の迫力には有無を言わせぬものがある。しかもこれだけ粘着質の画家だから、画面に意味を盛り込むことにおいても抜かりはない。

まずはファッション。さまざまな宗派の僧服のうち、フランシスコ会のはかなり見分けやすい。禁欲的精神が着る物にもあらわれるのは当然で、フード付き長衣は染色されていない、すなわち茶かグレイの粗布。さぞかしゴワゴワし、着心地よろしくなかったであろう。だが肌触りの良い衣服を着て、身体を清潔に保つのは罪深い考えと見做みなされていたので、この恰好とさらには汚れた身体によって、世俗的快適さへの蔑視べっしを表明しているわけだ(日本人の考える清浄感とはずいぶん違う)。ベルトも単なる縄紐で、縛って前へ長く垂らす。この紐には三つの結び目を作り、「清貧・童貞・服従」という会の戒律かいりつをアピール。地味ながらけっこう目立つ、エコ・ファッションなのだ。この絵では茶系の服、紐の結び目もきちんと描かれている。

ヘアスタイルは、「トンスラ」(鉢巻き状に髪の毛を残してあとは剃る)の形に整えるが、ベッリーニのフランチェスコは四十日に及ぶ修行で髪が伸びているらしく、たこの鉢巻き風にはなっていない。ちなみにトンスラという奇妙な形は、磔刑のイエスが茨の冠をかぶされたところからきたと言われるが、まだ定説はない。

画面右は、洞窟に作った簡易のいおりで、書見台と座り心地の悪そうな椅子がある。書見台の上には聖書と、頭蓋骨ずがいこつ。後者はメメント・モリ(=死を忘れるな)の代表的なアイコンだ。反対側の左下に、細長い紙片が岩にへばりついている。そこには「ジョヴァンニ・ベッリーニ」と、画家の署名。

後景には都市の街並みが連なるが、中央の山上に描かれているのはエルサレムの建物だ。これはどうやらフランチェスコの幻視、ということらしい。イエスはエルサレムで磔刑されたので、聖痕とともにエルサレムもあらわれたのだろう。

中野京子「同上」

確かにこの絵には「神々こうごうしい光」はありません。ただし、左の方から何となく神秘的な光が聖フランチェスコとその周辺に当たっています。左上のオリーブの木の葉の描き方も、その光を示しているようです。また、聖フランチェスコのみならず、岩や植物、動物、空が細密にリアルに描かれています。聖フランチェスコの思想の中に「自然も兄弟」という考え方があったようですが、それを表しているのかもしれません。

ちなみに「トンスラ」というヘアスタイルは、上に引用したジョットとエル・グレコの作品でクリアに分かります。


この絵はっていて、紐による「清貧・童貞・服従」がさらに動物たちによっても補強されている。各々の動物が何を象徴するかは、中世に広く読まれた教本『フィシオロゴス』が典拠となった。

まず中景ですぐ目立つ野生ロバ。すさまじい言い伝えがあるそうで、雄が生まれると父口バがその性器を噛み切ってしまう。ここから導かれる教訓が、「禁欲して精神的子孫を残すほうが尊い」─── つまり童貞を示すものとして登場している。ロバの少し離れた左に(故意に見つけにくく描かれている)、さぎがいる。この鳥は寝るのも食べるのも同じ場所だというところから「全ての鳥の中で一番つつましい」─── 清貧そのもの。

最後の「服従」は茶色の野ウサギで示される。無防備で逃げ足が早いだけの野ウサギは、神だけを頼る人間の象徴だという ─── 神に服従せねばならない。野ウサギはどこに隠れているかって? 岩場から顔を出しています。

中野京子「同上」

ベッリーニ「荒野の聖フランチェスコ」部分3.jpg
聖フランチェスコの部分。何かにうたれたような表情である。

ベッリーニ「荒野の聖フランチェスコ」部分1.jpg
中景に描かれたサギとロバ。サギは清貧、ロバは童貞を表す。描かれたサギは、日本のアオサギのような姿をしている。

ベッリーニ「荒野の聖フランチェスコ」部分2.jpg
聖フランチェスコの向かって左に描かれたウサギ。ウサギは服従を表す。フランチェスコの紐には三つの結び目があり「清貧・童貞・服従」を示す。右手には聖痕が描かれている。

おそらくこの絵は「すべての細部に意味がある」のでしょう。中野さんの解説はその一部だと想像されます。カトリックのフランチェスコ会の人ならば、この絵の説明を何10分とできるのでしょう。



キリスト教絵画が西欧の絵画の発展の原動力になったことは間違いないありません。それは文字の読めない人にキリスト教を教える重要なツールでもあった。西欧絵画を理解するためには、その背景にある宗教画を知っておいた方がよいわけです。

しかし非キリスト教である我々にとって、宗教画の理解はハードルが高いものです。よく、聖書(とギリシャ・ローマ神話)を知らないと西欧絵画は理解できないと言いますが、たとえ聖書を知っていたとしても分からない絵がいっぱいあります。典型的なのが「マグダラのマリア」関係の絵で、キリストと極めて近い人物であるにもかかわらず、往々にして聖書とは無関係なストーリーが図像化されます(No.118「マグダラのマリア」参照)。No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用したカニャッチの絵など、欧米に流布している "マグダラのマリア物語" を知らないと意味不明でしょう。カトリック教徒なら常識かも知れないけれど ・・・・・・。

さらなるハードルは「聖人」についての絵画です。これが意外に多い。キリストと同時代の聖人はともかく、古代ローマから中世に至る数々の聖人の図像化は、その聖人の事跡を全く知らないのでは意味がとれません。ちょうど『荒野の聖フランチェスコ』のようにです。

逆に言うと『荒野の聖フランチェスコ』が描かれた時代、一般の人で文字が読める人は少数だったことを思うと、この絵は聖フランチェスコの事跡(の一部)を説明するための絵と考えることができます。我々としても『荒野の聖フランチェスコ』という絵を知るなかで、「アッシジの聖フランチェスコ」を知り、西洋史の一端を理解すればいいのだと思います。

たとえば聖フランチェスコの思想は、小鳥や狼のみならず、あらゆる動植物も含めて、父なる神のもとの兄弟であるという考え(=万物兄弟の思想)だったようです。「小鳥に説教」も、奇蹟のエピソードというよりは万物兄弟の思想の現れなのでしょう。そういったことから、1980年に当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世はフランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定したといいます(Wikipediaによる)。つまり聖フランチェスコの(=フランシスコ会の)思想は、少々意外なことに我々が思う西洋の「神→人間→動物」という階層の考え方と違います。このような「学び」が、絵をきっかけにしてありうるのかなと思いました。


フェルメール:士官と笑う娘


寡作で有名なフェルメールの真筆とされる絵はわずか35点です(35の数え方は No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照。もちろん異説がある)。ほとんどは欧米の美術館に収蔵されていますが、複数のフェルメール作品をもつ美術館は次のとおりです。

5点:(米)メトロポリタン美術館
4点:(蘭)アムステルダム国立美術館
3点:(蘭)マウリッツハイス美術館(デン・ハーグ)
3点:(米)フリック・コレクション
3点:(米)ワシントン・ナショナル・ギャラリー
2点:(英)ロンドン・ナショナル・ギャラリー
2点:(仏)ルーブル美術館
2点:(独)ベルリン絵画館
2点:(独)アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン)

別に「フェルメール作品の所有数が美術館のグレードを示す」わけではないのですが、このリストを見て分かることが2つあります、一つは「アメリカの美術館が健闘している」ことです。フェルメールの "母国" であるオランダの2つの美術館を別格として、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとルーブル美術館がアメリカの3つの美術館の後塵を拝している。これは、フェルメールが19世紀後半から評価されはじめ、その時期にアメリカの資本主義の発展が重なって富が集積するようになり、アメリカの富豪コレクターがフェルメールを買ったということでしょう。ボストンのガードナー夫人もその一人でした(絵は盗まれてしまいましたが ・・・・・・。No.263「イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館」参照)。

このリストから分かる2つ目ですが、「フリック・コレクションは個人コレクションであるにもかかわらずフェルメールの真筆を3作品も持っている」ことです。メトロポリタンやワシントン・ナショナル・ギャラリーにはアメリカの富豪美術コレクターが寄贈した作品がヤマのようにあって、美術館自体が "個人コレクションの複合体" という面があります。しかしフリック・コレクションは一人のコレクションなのです。そこは特筆すべきでしょう。そのフリック・コレクションにあるフェルメールは、

 ◆士官と笑う娘
 ◆中断されたレッスン
 ◆婦人と召使い

の3点ですが、この中の『士官と笑う娘』を取り上げます。『兵士と笑う娘』という日本語表記もありますが、フリック・コレクションの英語表記は "Officer" なので「士官」とします。


士官と娘と地図


フェルメール「士官と笑う娘」.jpg
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
士官と笑う娘』(1657頃)
(フリック・コレクション)

この絵については、フランスの科学雑誌「Pour la Science」の副編集長、ロイク・マンジャンが書いた『科学でアートを見てみたら』(原書房 2019)に興味深い記述があったので、それに沿って紹介したいと思います。まず、この絵が描かれた当時のオランダの状況です。


1658年頃のオランダ。80年近く前にスペイン王国からの独立を宣言したネーデルラント連邦共和国(オランダの旧名)は、1609年に実質的な独立を勝ち取った。そして1648年に独立戦争が完全に終結すると、市民生活に戻った兵士たちは、せっせと女性を口説き始めた。

この地方では1568年に宗主国スペインに対する反乱が勃発し、1581年に北部七州が独立を宣言した。1609年に12年間の休戦条約が結ばれ、その後1648年のウェストファリア条約で、ネーデルラント連邦共和国の独立が国際的に承認された。この独立のための戦いは80年戦争と呼ばれる。

画家ヨハネス・フェルメール(1632-1675)が、《士官と笑う娘》(ニューヨーク、フリック・コレクション所蔵)に描いたのも、そんな情景である。

作品では鮮やかな赤い制服を着て大きな黒い帽子をかぶった ── この帽子については後述 ── 士官がこちらに背中を向け、若い女性と談笑している。想いを寄せる女性の家を訪問中なのだろう。当時、女性の前で帽子を取る習慣はまだなかった。


フェルメールの絵によくある「左の窓から差し込む柔らかな光に包まれた室内」の情景です。手前に描かれた男性の表情はほとんで分かりません。ただ「赤い制服」「つば付きの大きな帽子(=高級なビーバー・ハット)」「黒い弾帯(ガンベルト)」といういでたちから、この男性は単なる兵士ではなく、それなりの地位の士官であることがわかります。この士官を大きく手前に描くことで、室内の奥行き感が強調されています。上の引用にあるように、士官は女性と "親密な会話" をしているのでしょう。

その会話相手の女性は笑顔を浮かべ、堂々と士官と会話をしています。口説かれて困っているとか、とまどっているとか、そいういう気配はなく、男と会話を楽しんでいる。何となく、しっかりしていて自立した女性という雰囲気であり、この雰囲気はフェメールが描いた女性像の中でも際だっているのではないでしょうか。

さらにこの絵にはもうひとつ、重要そうなアイテムが描かれています。後の壁にかかっている "意味ありげな" 地図です。


後方の壁に掛かった、大変興味深い地図には「ホラント州全域と西フリースラントの非常に正確な新地図」という題名がついている。新たに独立したネーデルラント連邦共和国のうち、海に面した西部地方(ホラント州とフリースラント州を含む)が描かれており、北ではなく西が上にくる。

この方位の置き方は、当時の人々の関心を反映しているのかもしれない。ネーデルラント連邦共和国が外海である北海を向いているのは、世界を征服した海洋民族にとって当然のことなのだから。同じ地図は《青衣の女》など、フェルメールの他の作品にも登場する。

ロイク・マンジャン「同上」

解説にあるように、この地図は通常の地図ではありません。上が北ではなく、ネーデルラントにとっての海の方向、つまり西です。これは引用にあるように「ネーデルラント連邦共和国が外海である北海を向いているのは、世界を征服した海洋民族にとって当然のこと」なのかもしれません。さらにもう一つ、陸が青く、海が茶色に塗られているのも通常の地図とは違います。


また陸が青く、海は茶色に塗られていることも目をひく。なぜフェルメールは通常とは逆の色遣いにしたのだろう? 理由は解明されていないが、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学の歴史学者ティモシー・ブルックは、次のように考えている。画家は、陸と海の色が入れかわるように、平和の回復によって軍人の社会的立場が一変したことを暗示しているのではないだろうか。

ロイク・マンジャン「同上」

「平和の回復によって軍人の社会的立場が一変したことを暗示」とは抽象的な言い方ですが、分かりやすく言うと「軍人は戦争をするのではなく、女性を口説くようになった」ということでしょう。フリック・コレクションの公式カタログ(日本語版)には、この地図について次の主旨の説明がありました。

◆ 地図は、祖国を守るという軍人の役目を表す。
◆ それと同時に、軍人の "領土的野心" をほのめかしている(のではないか)。
◆ その地図を女性の頭の上に描くことで、彼女を "征服の対象" に擬している(のかもしれない)。

すべては推測ですが、こういった "謎" も、フェルメール作品が人々を引きつける要因になっているのでしょう。


ビーバー・ハット


「科学でアートを見てみたら」には、士官がかぶっている帽子に関する話がありました。絵の鑑賞とは直接関係がありませんが、興味深い話なので余談として引用します。


次に帽子を見てみよう。17世紀中頃というこの時代、ネーデルラント人は誰でも帽子をかぶっていた。それはクラプムッツと呼ばれる素朴な柔らかい縁なし帽から、ここで士官がかぶっているようなもっと高価なものまで、様々な種類があった。絵に見られる帽子は、動物の密集した毛から作ったフェルト生地を用いたものだ。当時特に好まれていた素材がビーバーの毛で、上流階級に属する人間なら誰でも、この素材から作られた帽子を持っていた。その歴史は非常に興味深い。

このフェルト生地に使用されるのはビーバーの全身の毛ではなく、下毛(刺し毛の下に短く密集して生えている綿毛)だけである。顕微鏡で眺めると、下毛の表面をびっしりと覆ううろこ状の組織が確認できる。このざらつきのおかげで毛が絡み合い、フェルト状になる。ビーバーフェルトは耐久性に優れ、しなやかで、濡れても型くずれしにくい。

帽子職人がビーバーの下毛を酢酸銅、アラビアゴム、水銀の混合液の中で煮込み、圧縮して乾燥させると、最高級の帽子にふさわしい上等なフェルトになる。しかしこの作業には危険が伴う。加熱した混合液から有毒な蒸気が発生するのだ。『不思議の国のアリス』に登場する帽子屋のように、帽子職人がしばしば狂っているとされたのは、このためだったかもしれない。英語には「帽子屋のように狂っている(as mad as a hatter)」という言い回しがある。

ロイク・マンジャン「同上」

ヨーロッパ・ビーバー.jpg
ヨーロッパ・ビーバー
(Wikipedia)
ビーバーは水中(=川)を活動する哺乳類なので、下毛は短い毛が密集していて防水性にも優れています。そのため、かつてのヨーロッパでは高級帽子の素材として有名だったようです。シルクハットは、現在は毛ばだてたシルクで作りますが、昔はビーバーの下毛で作られていました。

上の引用にもあるように、下毛かもうとは毛皮の上毛じょうもう(=刺し毛さしげ)の下に生えている短くて柔らかい毛のことで、綿毛とも言います。英語は underfur です。一般的に、動物の毛皮は上毛(刺し毛)と下毛(綿毛)の2層構造になっています。

上の引用の中に『不思議の国のアリス』が出てきます。言葉遊びでキャラクターを作り出すのが得意なルイス・キャロルは、「帽子屋のように狂っている(as mad as a hatter)」という英語の慣用句から "Mad Hatter = 気狂い帽子屋" というキャラクターを作り出しました。そして慣用句においてなぜ hatter が mad なのかというと、一つの推測がビーバー・フェルトの加工をする人の「職業病」とも言える水銀中毒なのですね。マーチン・ガードナーの「The Annoted Alice」にも同じ推測が書かれていました。

Mad Tea Party.jpg
「不思議の国のアリス」のためにテニエルが描いたさし絵。第7章で、アリスと三月ウサギと眠りネズミと帽子屋が "お茶会(A Mad Tea-Party)"を開く。この絵で帽子屋はシルクハットをかぶっているが、もとはビーバー・フェルトで作られていた。画像はマーチン・ガードナーの「The Annoted Alice」より。


15世紀までは西ヨーロッパに生息するビーバーの毛が利用されていたが、帽子の流行による乱獲と生息地域の減少によって、個体数が激減した。次に狙われたスカンジナビア地方のビーバーも同じ運命をたどり、こうしてビーバーフェルトの帽子の流行は終わりを告げた。

16世紀に帽子職人が利用できたのは、ビーバーより目の粗い羊毛フェルトだけだった。時には圧縮しやすくするためにウサギの毛が加えられたが、その結果できたフェルトは破れやすかった。そのうえ、ビーバーフェルトとは対照的に、羊毛フェルトは水を吸収し、濡れると型くずれしやすい。ネーデルラントの下層民がかぶっていたクラプムッツは羊毛フェルト製だった。

アメリカ先住民との通商が活発になった16世紀末に、再びビーバーをめぐる状況は変わる。市場を開拓した一人が、フランス人サミュエル・ド・シャンプラン(1567頃-1635)だった。1580年代に最初のアメリカ産ビーバーの毛皮がヨーロッパに到着すると、需要が急増し、ビーバーフェルトの帽子が再び大流行した。非常に高値で売買されたため、「中古のビーバーフェルト帽」まで活発に取引されたほどである。しかしこの市場は、シラミが介する伝染病の流行を恐れた当局によって直ちに規制を受けた。

デルフト(オランダ南西部の都市)の名士だったフェルメールもまた、ビーバーフェルトの帽子を持っていただろう。もしかしたらこの作品に描かれた帽子は、彼自身の所有物だったのかもしれない !

ロイク・マンジャン「同上」

ビーバーの下毛が帽子に最適だったために、ビーバーの乱獲を招いたわけです。ビーバーの生息域はヨーロッパと北米ですが、ヨーロッパのビーバーは19世紀に絶滅状態になりました。これはまずいということで近縁種の北米のビーバーを輸入して、現在では生息数がそれなりに増えつつあるそうです。

毛皮をとるために水生哺乳類が乱獲され、絶滅ないしは絶滅危惧種になるというのは、ラッコがそうです(No.126「捕食者なき世界(1)」参照)。人間のやることは昔から変わらないようです。


フェルメールの "テイスト"


話を『士官と笑う娘』に戻します。この絵が一つの典型なのですが、フェルメールの絵の題材は「何気ない日常の室内風景」が多いわけです。しかも男性と女性が談笑している(男が女を口説いている)この絵のように、いかにもありそうなシーンを描いている絵が多い。しかしそれでいて絵全体からは、

・ 柔らかな光の中で
・ 厳粛で
・ 静謐で
・ 気品があり
・ 美しく整った感じ

といった印象を受けます。つまり「チープな感じとは対極の印象」を受ける。フェルメールの絵からは、何やら教訓めいたしかけを感じることもあります。この絵もそうで、社会的地位の高い男に安易に気を許してはいけないという教訓絵かもしれない。しかし "チープな感じ" はしません。

この不思議な "感じ、"味わい"、"テイスト" はフェルメール独特のものであり、それは画面の構図、明暗のつけかた、光の描き方、顔料の使い方などのすべてからくるものなのでしょう。そこがフェルメールの人気の秘密だと思います。フリック・コレクションの『士官と笑う娘』もそれを体現しているのでした。




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No.304 - オークは樫ではない [文化]

No. 93「生物が主題の絵」の「補記4」で、「西洋でオークと呼ばれる木は日本の "ナラ" に相当し、"カシ" ではない」という話を書きました。日本では樫と訳されることが多く、このブログで過去に引用した数枚のオークの絵の日本語題名も「樫」となっています。

たとえば国立西洋美術館(上野)の常設展示室にある、ロヴィス・コリントの「樫の木」です。コリントはドイツ人で、この絵の原題は Der Eichbaum です。Eiche はドイツ語のオーク、Baum は木なので「オークの木」ということになります。しかし美術館が掲げる日本語タイトルは「樫の木」となっている。一見、些細なことのように思えますが、「樫の木」とするのはこの絵を鑑賞する上でマイナスになると思うのです。今回はそのことを順序だてて書いてみたいのですが、まず西欧における "オーク" がどいういう樹木か、そこから始めたいと思います。


オーク


ヨーロッパでオーク(英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche)と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、日本語に訳す場合はナラとすべきだと書きました。オークも楢もコナラ属の落葉樹です。コナラ属の常緑樹を日本ではカシと言いますが、たとえばイタリアなどには常緑樹のオークがあり、英語では live oak、ないしは evergreen oak と言うそうです(Wikipedia による)。

つまり Oak はコナラ属の樹木全般を指すが、普通は落葉樹の楢(=ヨーロッパナラ)のことであり、特に常緑樹を示すときには live などの形容詞をつけるということなのです。

ヨーロッパナラの葉と実.jpg
オークの葉と実
(Wikipedia)

フレーザーの『金枝篇』によると、古代からヨーロッパではオークを薪や住居の材料、食料(果実=どんぐり)として利用してきました。と同時に、オークには神が宿るとして崇拝されてきました。最高神であるゼウス(古代ギリシャ)やユピテル(古代ローマ)は、天空神であり雷神であり、かつオークの神でもあった。古代ゲルマンでも、オーク神 = 雷神でした。また、ケルト民族もケルト人もオークを崇拝していました。『金枝篇』には次のようにあります。


ガリアのケルト人の場合、ドルイド教の祭司はヤドリギの生えているオークの樹をなによりも神聖だとみなした。彼らはオークの森を荘厳は礼拝の場とし、儀式には必ずオークの葉を用いた。「ケルト人はゼウスと崇め、ケルト人のゼウスを表す偶像はオークの高木である」と、あるギリシャ人が記している。


上に引用にある "ゼウス" はギリシャ人の表現で、つまり "最高神" という意味です。引用したフレーザーの『金枝篇』の "金枝"(Golden bough)とはヤドリギのことです。ヤドリギは他の樹木に寄生する常緑樹で、伐採すると幹が金色に見えるようになることから "Golden bough" と言うそうです。そしてオークの木に生えるヤドリギは神聖なものとされた。なぜなら、冬にオークが葉を全部落としても常緑樹のヤドリギは緑のままであり、オークの神がそこに宿ったように見えるからです。こういうところからもオークが落葉樹であることが分かります。

No.220「メト・ライブの "ノルマ"」で書いたベッリーニのオペラ『ノルマ』は、まさに古代ローマ時代におけるガリアのケルト人の話でした。そこではガリアの人々がオークの巨木の前につどい、巫女であるノルマが伝える神のお告げを聴くのでした。

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Norma Act1 Scene1b.jpg
メトロリタン・オペラによる「ノルマ」の舞台(2017)。オークの森の中に大木があり、巫女のノルマはそのオークの前で神のお告げを伝える。No.220で引用した画像を再掲。

『金枝篇』に「ケルト人は儀式には必ずオークの葉を用いた」とありますが、このオークの葉(オークリーフ)のデザインは、現代でも生活用品などのデザインに使われます。また、イギリス、フランス、イタリア、エストニアの国章(国を代表する紋章)にはオークの葉の絵が使われています。次の画像はイギリスの国章(イギリス王室の紋章)ですが、ライオン(=イングランド)と一角獣(=スコットランド)の間の上の方にオークの葉がデザインされています。この紋章では比較的目立ちにくいオークの葉が、あたかもイングランドとスコットランドの統合の象徴のように使われています。国を代表する紋章にオークの葉を使うということは、それだけオークという樹に象徴性があるということでしょう。

イギリスの国章.jpg
イギリスの国章
(Wikipedia)


日本のブナ科コナラ属の樹木


一方、日本ではコナラ属の落葉樹を総称して「楢」、常緑樹を総称して「樫」と呼んでいます。その代表的な樹種を葉の写真とともに掲げます。これ以外にも落葉樹ではアベマキやナラガシワ、常緑樹ではウバメガシ(備長炭の原料)などがあります。

落葉樹
(楢)
コナラ
(小楢)
楢1 - コナラ.jpg
クヌギ
(椚・橡)
楢2 - クヌギ.jpg
ミズナラ
(水楢)
楢3 - ミズナラ.jpg
カシワ
(柏)
楢4 - カシワ.jpg
常緑樹
(樫)
シラカシ
(白樫)
樫1 - シラカシ.jpg
アラカシ
(粗樫)
樫3 - アラカシ.jpg
アカガシ
(赤樫)
樫2 - アカガシ.jpg
ブナ科コナラ属の主な樹木

こうして見ると、ヨーロッパナラ(オーク)は、葉の形だけからするとカシワに近い形です。

日本で "ドングリ" と呼ばれるもののほとんどは、コナラ属の落葉樹・常緑樹の果実です。そしてドングリは森の生物の重要な食料です。「今年はドングリが不作で熊が人里に出没する」といった話があるのは、その重要性の象徴でしょう。ということは、昔は人間にとっても保存が利く大切な食料だったはずです(栗も同様)。その状況は、森林に覆われていた古代のヨーロッパでも同じはずであり、そういうこともオークが神聖視される一因になったのでしょう。


オークを樫とする誤訳


オークが楢であることの説明を、鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」から引用します。鳥飼氏は日本における同時通訳の草分け的存在でもあり、翻訳や通訳、異文化コミュニケーションに関する数々の著作があります。


日本語の中にすっかり定着している言葉で、じつはそもそもが誤訳だった、という例がある。「樫」という木の名称である。

英語に oak という単語がある。オークの家具といえば、がっしりした上質の家具である。この「オーク」は日本語では「樫」と訳されている。しかし、この「樫」という木は固すぎて、家具に加工するのはむずかしいのだそうだ。日本ではとうていできない、と長いこと思われていて、英国などオーク家具の本場から輸入されてきた。輸入ものだから値段は非常に高い。「これは本物のオークです」となれば高級家具である。

ところが、北海道にある「水楢みずなら」という木を見て、ヨーロッパ人が「これは良質のオークだ」といったとのこと。日本では雑木扱いの木である。そこで安い値段でヨーロッパに輸出され、かの地で立派な「オーク家具」に変身したという。

つまり、英語の「オーク」は日本の「楢」なのだった。最初に誰かが「樫」と誤訳し、それら長らく定着し、辞書でも踏襲されてきたという。岐阜県清見村で、20年以上も前から木と取り組んでいる集団「オーク・ヴィレッジ」代表者、稲本正氏の指摘である(1997年3月2日付朝日新聞「天声人語」)。

誤訳がもとで、本来なら日本で安くできるはずの家具の、高い値段で輸入してきたことになるわけだ。罪な話である。

いつ、誰が、なぜ「樫」という訳語をあてたのかは、不明である。


「樫」という木は固すぎて家具に加工するのは難しいとありますが、確かにその通りです。樫がよく使われるのは、たとえば道具類の柄で、金槌やスコップの柄を木で作る場合、その堅さを生かして樫が使われます。木偏にかたいという字の通りです。

鳥飼氏の文章に「オーク・ヴィレッジ」主宰者、稲本正氏のことが出てきました。稲本氏が家具製作を行う岐阜の工芸村に "オーク" という名前をつけた理由は、楢が家具の素材の本命だからです。稲本氏の本から引用します。


私が楢を家具の主力材に使おうとした理由は二つある。一つは、楢は魅力ある材なのに、日本では雑木として蔑まれてきたからだ。楢はヨーロッパではオークと呼ばれ、特にイギリスにおいては1500~1660年の間を「エイジ・オブ・オーク」と呼び、当時の材種の中でもっとも家具材に適した材として貴重がられていた。ところが、日本で明治の初期、オークを「かし」と訳したことも影響し、ほとんど評価されなかった。もちろん、ロンドンは日本の札幌より北に位置し、常緑樹である樫は育たず、イギリスで言うオークは日本のミズナラにもっとも近い。

稲本正
「森の形 森の仕事」
(世界文化社 1994)

森の形 森の仕事.jpg
稲本正
「森の形 森の仕事」
(世界文化社 1994)
稲本氏によると、ミズナラは水分を吸い上げる力が強く、結果として重くて堅く、かつ粘りけがある木質になります。また木目も変化に富んでいて、このような特徴が家具として最適な理由です。

家具以外で伝統的にオーク材が使われるのが、スコッチ・ウィスキーを熟成させるための樽です。サントリーでは樽に北米産のホワイト・オーク材を使っていますが、北海道産のミズナラ材も使っているそうです。それが原酒の多様性を生み出す一つの要因になっている(No.43「サントリー白州蒸留所」参照)。樽を何の木で作るかは、ウィスキー独特の味と香りを作り出す上で極めて重要なはずです。ウィスキー発祥の地であるスコットランドの伝統であるオーク材の樽の "代わりに" ミズナラ材を使うということは、「オーク = ナラ」を象徴していると思います。


蝶と蛾の混乱


以上のように一般的にオークは落葉性の木で、日本の楢に相当するのですが、ただヨーロッパではブナ科コナラ属の樹木全般もオークと呼ぶわけです。しかし日本では楢(落葉性)と樫(常緑性)という二つの名称に使い分けられます。

このように西欧で同一の名称で呼ばれるモノが、日本では2種類の名称で呼んで使い分けるという例が他にもあります。蝶と蛾です。そして蝶と蛾は、時として訳が混乱することがあります。

No.49 「蝶と蛾は別の昆虫か」で紹介したように、慶応大学名誉教授の鈴木孝夫氏は、ドイツ語では(そしてフランス語でも)蝶と蛾を区別しないことを述べていました。ドイツ語で蝶を意味する Schmetterling(シュメッタリンク)という語は蛾も表す言葉であり、つまり鱗翅類全体を示すのです。フランス語の papillon(パピヨン)も同様です。

そして、こういった言葉の問題をおろそかにしておくと、文学作品の理解に関して思わぬ「つまづき」に出会うと、鈴木氏は注意していました。その例としてあげられていたのが、ゲーテの詩の翻訳です。鈴木氏の本から引用します。


ドイツの大詩人ゲーテは、かつては日本の知識人にとって、忘れることのできない名作の数々を残した文学者であり、その作品はほとんど日本語に翻訳されている。彼の詩作の中に日本では『西東詩集』の名で知られる、イスラム神秘主義の思想に間接的な影響を受けて書かれたものがある。

その中でも特に stirb und werde!(死して成れ)の句を含む Selige Sehnsucht(至福への憧れ)と題した詩は、広く知られた名品である。そこでは暗闇の中に燃えさかる真実(在)の焔に魅せられ、引き寄せられた一匹の蛾(Schmettering)が、炎に焼きつくされるという、死と再生のイメージが描かれている。ここでの Schmettering を、もしうっかり蝶だと思ったら、この詩の理解は全く不可能となってしまう。しかし、これを蝶だと思った人も実際にいるのだ。次の訳をみていただきたい。

Keine Ferne macht dich schwierig,
 隔たりも汝は物ともせず
Kommst geflogen und gebannt,
 追われるごとく飛びきたる
Und zuletzt, des Lichts begierig,
 ついには光をこがれしたいて
Bist du Schmetterling verbrannt.
 蝶なる汝は焼けほろびぬ

闇夜に燃えるランプの光にさそわれて、飛んできた一匹の蛾が、焔に焼き尽くされて死ぬ情景を、このように間違って蝶とすれば、日本語としての意味、イメージは全くおかしなものになってしまう。この解釈では、原詩のもつプラトニズム的なイスラム神秘主義の《蛾→焔→死→再生》という、美しくも哀しい詩の意(こころ)が全く伝わらないと言わざるを得ない。正確なことばの知識がないと、文学の鑑賞もままならぬことを、蝶と蛾の区別は教えてくれるのである。

鈴木孝夫『日本語と外国語』
(岩波新書。1990)

鈴木氏が引用している訳は岩波文庫のものですが、『日本語と外国語』の注釈にあるように、他の訳では正確に「蛾」と訳されているようです。

確かに鈴木氏の言う通りで、蝶ではイメージが湧かないと言うか、なんだか変だという違和感が残ります。それは絵画に置き換えて考えてみると、より鮮明です。炎に蛾が誘われる夜の情景を描いた絵に、速水御舟の『炎舞』という有名な作品があります(1925/大正14年。山種美術館所蔵。重要文化財)。速水御舟はこの絵で蛾を精緻にデッサンして描いているのですが、ここに蛾ではなくアゲハチョウやモンシロチョウが舞っていたとしたら、完全なシュルレアリスムの作品になってしまいます。絵として成立しないとは言いませんが、全く別の解釈が必要な絵になるでしょう。岩波文庫のゲーテの訳は、それと同じことが文学で起こっているわけです。



以上は文学作品の翻訳における「蝶と蛾」の話ですが、これと瓜二つの状況が "絵画の題名の訳における「樫と楢」" でも起きます。それが次です。


コリントの「樫の木」(国立西洋美術館)


ここからが、No.93「生物が主題の絵」の補記で引用したロヴィス・コリントの『樫の木』(国立西洋美術館)の話ですが、その前に比較対照のために、同じNo.93 で引用したクールベの作品を観てみます。

Courbet - フラジェの樫の木.jpg
ギュスターヴ・クールベ
フラジェの樫の木」(1864)
(クールベ美術館)

この絵は以前は日本の美術館(八王子の村内美術館)が所蔵していましたが、現在はクールベの故郷であるフランスのオルナンにあるクールベ美術館(生家を改装した美術館)にあります。

この絵のフランス語の題は「Le Chêne de Flagey」で、Chêne は 英語の Oak に相当する語です。直訳すると「フラジェのオークの木」です。従って、日本語題名としてよく使われる「樫」は誤訳ということになります。但し、この絵の場合は "誤訳" が絵を鑑賞する上で、大きな妨げにはならないでしょう。

というのも、この絵は太い木の幹とそこからダイナミックに広がる枝に焦点が当たっているからです。この絵を観て強く感じるのは巨木の圧倒的な存在感です。おそらく樹齢は数百年でしょう。どっしりと単独で大地に屹立しています。人間の寿命より遙かに長い年月を自然の中で生き抜いてきた、その生命力に感じ入ります。画家の意図がどうであれ、少なくとも我々鑑賞者としてはそう感じる。



このクールベの絵と対比したいのが次の絵です。上野の国立西洋美術館は2019年にドイツの印象派を代表する画家、ロヴィス・コリント(1858-1925)の『樫の木』(1907)を購入しました。その絵は常設展示室に展示してあります。

Lovis Corinth - Der Eichbaum.jpg
ロヴィス・コリント(1858-1925)
樫の木」(1907)
- Der Eichbaum -
(国立西洋美術館)

クールベの作品と違って、この絵は地表に屹立する幹を描いていません。画面いっぱいに大量に広がる緑の葉が印象的な絵です。

国立西洋美術館はこの絵の展示でドイツ語の原題を "Der Eichbaum" と表記しています。最初に書いたように、英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、落葉樹です。一般にオークと呼ばれている木です。

冬に葉を落として幹と枝だけになっていた木(= オーク = 楢)が、新緑の季節に芽吹き、やがて大木が一面の葉に覆われて、真冬には想像できないような姿になる。その生命の息吹きを強く感じる絵です。そのイメージでこの絵を鑑賞すべきだと思います。

我々は楢を街なかで見かけることはないのですが、落葉性の高木でよくあるのは、街路樹に使われるケヤキ(欅)やイチョウ(銀杏)です。青葉の季節になると、ケヤキやイチョウの並木が、数ヶ月前の冬や春先とは全く違った様相を呈する。その光景を想像してみてもいいと思います。

クールベの絵もコリントの絵も、そこから感じるのは樹の生命力ですが、生命力の意味が違います。クールベの絵は悠久の年月を生きるという意味の生命力ですが、コリントの絵は毎年春から青葉の季節に樹木が再生する、その生命力です。そして再生のイメージは落葉樹だからこそ成り立つのです。常緑樹ではそうはいかない。

国立西洋美術館がロヴィス・コリントの『Der Eichbaum』を『樫の木』としたのは、辞書にそうあるからでしょうが、芸術作品を所蔵している美術館の責任として「楢の木」ないしは「オークの木」とすべきでしょう。




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No.303 - 松下美術館 [アート]

過去の記事で、12の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。

No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム
No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC
No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ
No.242ホキ美術館千葉市
No.263イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館米:ボストン
No.279笠間日動美術館茨城県笠間市

笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、鹿児島県にある松下美術館のことを書きます。


松下美術館の場所


松下美術館(鹿児島県霧島市福山町)は、鹿児島の錦江湾に面して東側にあります。鹿児島市内からみると桜島の反対側(大隅半島側)にあたります。

大隅半島にJRはないので、公共交通機関で行くとすると日豊本線の国分駅で降り(国分は京セラの最大の工場があるところ)、そこからバスに乗り換えて30分程度です。ただ、バスの回数が必ずしも多くないので、クルマ(旅行者であればレンタカーなど)が適当でしょう。南九州自動車道の国分インターから15分程度です。

鹿児島地図.jpg
(Google Map より)

ちなみに、霧島市福山町は黒酢の製造で有名なところです(=福山黒酢)。大きな壷に入れた黒酢を戸外の敷地で熟成させる「壷畑つぼばたけ」が見られます。

坂元醸造の壺畑.jpg
福山町の坂元醸造の壷畑。桜島を望む。


設立の経緯


松下美術館は、松下幸之助やパナソニック・グループとは関係ありません。福山町出身の精神科医、松下兼知かねとも(1905-1989)が設立した美術館です。

松下兼知は長崎医科大学(現、長崎大学医学部)の助教授だった1945年に被爆しました。九死に一生を得た彼は、後遺症に苦しみながらも1949年に故郷の福山町に戻り、1950年に父親が経営していたみかん畑の中に精神科の診療所を開設しました。現在の福山病院です。そして1983年に病院のそばに開いたのが松下美術館です。

松下兼知は幼少の頃から絵が好きで、美術学校に進んで画家になるのが夢だったようです。旧制高校(鹿児島の七高)の時代には自分の描いた絵を文化祭に出品したりしていました。長崎医科大に進んだあともプロの画家に絵の指導を受けたことがあります。彼はアマチュア画家として絵を描き、それは松下美術館にも展示されています。自らの被爆体験をもとにした『長崎原爆15分後』という作品も描きました。

美術館設立の趣旨について、パンフレットに次のように記載されています。


長崎医大のころから絵画の収集を始め、医師の研修などで海外を訪れた時には海外の風景をスケッチしたりしていましたが、ヨーロッパではどんな小さな田舎町でも教会には宗教画がかけてあり、また小さな美術館があることに気付き、

ヨーロッパでは子供たちの身近に本物の作品がある。そしてそれらの絵を見て育った子供たちの中からまた有名が画家が生まれる。福山にも本物の絵を飾り子供たちが文化に触れる場所を作りたい。人々の心を潤し地域貢献したい」

と願いこの美術館を開設しました。

「松下美術館について」より
(一般財団法人 松下美術館)

この美術館は、福山町の小・中学生は無料で見学できます。松下兼知は自分が果たせなかった夢を次の世代に託したようです。


6館に分かれた美術館


松下美術館・配置図.jpg
松下美術館は斜面に建つ6つの館からなっている。この図では上が東、下が西(錦江湾の方向)である。

松下美術館は上図のように6館に分かれています。1号館はエントランスで、鹿児島にゆかりのある画家(黒田清輝、和田英作、東郷青児など)の絵と、西欧の画家(ムリーリョ、コロー、クールベ、ルノワールなど)の絵が展示されています。

松下美術館.jpg
松下美術館(1号館)

2号館は薩摩切子やヴェネチアン・グラスなどのガラス器が展示され、また絵画の企画展示も行われます。この2号館の展示室は地下に造られていて、核シェルターになっています。原爆を経験した松下兼知の思いがこもっているのでしょう。

3号館は古代オリエント資料館で、エジプトやギリシャ文明の出土品が展示されています。ミイラを包んでいた「マミーマスク」もあります。

4号館は日本画の展示館です。松下美術館は雪舟の山水画や棟方志巧などを所蔵しています。

5号館は民俗資料館で、南九州を中心とする各種の仮面が展示されています。信仰のための仮面(魔除けのために家に飾るなど)と、舞踊に使う仮面があります。また、6号館には、設立者である松下兼知の作品が展示されています。



以下、松下美術館が所蔵する絵画作品を何点かピックアップして紹介します。


所蔵する絵画作品


 ムリーリョ 

ムリーリョ「婦人の肖像」.jpg
バルトロメ・ムリーリョ(1617-1682)
婦人の肖像
(松下美術館)

このムリーリョの肖像画は "松下美術館の顔" になっている作品です。松下美術館が入館者に配布しているパンフレットの表紙が、この肖像画です。

スペイン17世紀の画家・ムリーリョというと、宗教画が多く(プラド美術館の「無原罪の御宿り」など)、その次には風俗画でしょう(ルーブル美術館の「蚤をとる少年」は有名)。これらに加えてムリーリョは肖像画も描いたようです。この松下美術館の作品は「初めて観たムリーリョの肖像画」でした。

さらに、日本の美術館にあるムリーリョの作品は極くわずかのはずです。ネットで調べると、三重県立美術館には宗教画があるようですが(アレクサンドリアの聖カタリナ)私は観たことがありません。というわけで、松下美術館のこの作品は「初めて観た日本にあるムリーリョ」でした。

描かれた女性は、身につけた服装や装飾品から高貴な身分のようです。その印象をキーワードで表すと、「優しい」「おだやか」「落ち着いた」という感じでしょうか。ムリーリョ独特の薄いもやがかかったような表現も、その印象を強めています。

 和田英作 

松下美術館には鹿児島出身の画家の絵が蒐集されています。鹿児島出身というと黒田清輝、藤島武二、東郷青児が有名ですが、和田英作(1874-1959)も鹿児島出身で、後半生は洋画界の重鎮でした。東京美術学校(現、東京芸術大学)の校長にまでなった人です。

和田英作は画業の人生の折に触れて富士を描いています。晩年には富士を描きたいという思いで、静岡市三保に居を構えたようです。次の絵は、朝日を受けて輝き出した富士の様子がとらえられています。

和田英作「富士(夜明け)」.jpg
和田英作(1874-1959)
富士(夜明け)」(1939)
(松下美術館)

 小磯良平 

小磯良平「大原女」.jpg
小磯良平(1903-1988)
大原女
(松下美術館)

大原女おおはらめとは、現在の京都市左京区大原地区から京都市内へ行商に出た女性です。商材は主に薪で、戦前までは残っていたようです。江戸時代以降、大原女は美人画の画題になりました。

この小磯良平の絵は、アトリエにモデルを招き、大原女の格好をさせて描いたと想像します。白と黒と朱という色使いと、画家の確かなデッサンの技量が印象的な作品です。

 モネ 

モネ「ウォータールー橋」.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
ウォータールー橋
(松下美術館)

モネは何回か英国を訪問して絵を描いています。画題は「国会議事堂」「チャリング・クロス橋」「ウォータールー橋」で、それぞれ多数の連作があります。ロンドン特有の霧(およびスモッグ)が立ちこめる中に光が差す効果を、場所を変え、時間を変えて描いたようです。

この絵の画題のウォータールー橋も、約40点ほどの作品があると言います。上野の国立西洋美術館にもその中の1枚があります。空・向こう岸の街並み・橋・水面みなも・小舟が、霧に差し込む陽光の中で渾然一体となっている光景が描かれています。

 ボナール 

ボナール「座せる婦人」.jpg
ピエール・ボナール(1867-1947)
座せる婦人
(松下美術館)

椅子に座った女性を正面から描いた作品です。これがリアルな光景だとしたら、どういう場面でしょうか。いろいろ想像できると思いますが、たとえば「外出から帰宅した女性が椅子に座って一息ついたところで、ある気がかりができて気持ちが少々沈んでいる」というような光景です。

伏し目の顔を除いて、服装や帽子、椅子、背景は平面的に近い感じで描かれています。紫色の服、白(と濃紺)の帽子、ピンクのコサージュ、金色の髪といったおだやかな色彩でまとめた画面がいいと思います。

 デュフィ 

デュフィ「ノルマンディーの風景」.jpg
ラウル・デュフィ(1877-1953)
ノルマンディーの風景
(松下美術館)

"色彩の魔術師" と呼ばれる画家は、マティスをはじめ何人かいますが(上のボナールもそう)、デュフィもその一人です。この作品は、青と緑で埋まった落ち着いた色調の中にピンクがかった暖色が所々に配置されています。デュフィらしく、色は形の中に閉じ込められていないで、周りに広がっています。この自由闊達な感じが魅力でしょう。


次世代に託す


設立の経緯から分かるように、この美術館は、美術愛好家の医師が医院を運営しつつコレクションを続けて設立したものです。これは冒頭にあげた個人コレクション美術館とは少々違います。冒頭の12の美術館は、事業や商売で成功した人(ないしはその一族)が、その成功で得た資金をもとにコレクションした美術品を展示したスペースです。

しかし松下兼知の本業は医師であり、病院経営です。言うまでもなく医療法人は利益をあげることを第一の目的にはしていません。一般の事業やビジネスのように "当たれば" 莫大な利益が得られるというわけではない。そういう立場の人が作った美術館でありながら、実際に現地に行くと「よくこれだけのものを作ったものだ」と感心させられます。松下家はみかん畑を経営していたということなので、そこからの資産があったのかもしれません。

もっとも収蔵品の各ジャンルを見ると、比較的こじんまりとしていて、系統的に集めたという感じはあまりしません。国立や県立の美術館のようにはいかない。また冒頭にあげた欧米の富豪が建てた美術館のように大規模なコレクションでもありません。

しかしここは「本当は画家になりたかった医者が、その夢を次世代に託すため、子供たちに本物の美術品(含む、古代美術や民俗芸術)を見せるために作った場所」です。そういった設立者の考えに思いを馳せながら松下美術館を訪れて鑑賞する。それが正しい態度でしょう。我々はここで、芸術や美術が一人の人間の心に与えた影響力の強さを知ることになるのです。

続く



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No.302 - ワクチン接種の推奨中止で4000人が死亡 [科学]

No.296「まどわされない思考」で、アイルランド出身の物理学者・科学ジャーナリストのデヴィッド・グライムス(以下 "著者" と記述)が書いた同名の本(角川書店 2020)の "さわり" を紹介しました。今回はその続きというか、補足です。

『まどわされない思考』(="本書")では、世界で広まる "反ワクチン運動" について書かれていました。WHOは2019年に初めて、全世界の健康に対する脅威のトップ10の中にワクチン接種への抵抗を入れたともあります。確かに "ワクチン接種に反対する運動" は、感染症の蔓延防止や病気の撲滅にとって大きな脅威です。

実は、No.296では省略したのですが『まどわされない思考』には日本のワクチン接種に関する状況が出てきます。それは「ヒトパピローマウイルス(HPV)」のワクチンで、今回はその話です。


ヒトパピローマウイルス(HPV)


まず著者はヒトパピローマウイルス(HPV, Human papilloma virus。papilloma = 乳頭腫)と、それに対するワクチンについて次のように説明しています。以下の引用で下線は原文にありません。また段落を増やしたところがあります。


HPVの恐怖に人類ははるか昔からおびえつづけている。おそらく、人の本能一つ、性欲と関係していることもその一因だろう。HPVは性的な接触の際に伝染する。170を超えるウイルス株が知られているが、事実上、性的活動を行うすべての成人がその一部を保有している。その大部分は無害か、免疫の働きですぐに除去される。しかし、いくつかの亜種は有害で、16型と18型は癌を引き起こす恐れがある。

全世界で発生する癌のおよそ5パーセントがHPV感染に起因していると考えられていて、子宮頸癌にいたっては90パーセントを超え、毎年およそ27万人の命が失われている。その救世主として登場したのがHPVワクチンだ。これをもって、悪霊を記憶の暗闇のなかに永久に追放することができるはずだった。有害株のほとんどをワクチン「ガーダシル」で防ぐことができる。

同薬品は2007年までに80を超える国で承認された。その成果は素晴らしかった。2013年時点で、14歳から19歳のアメリカ人女性でHPVの感染率が88パーセントも減ったのである。2018年時点で、オーストラリアでは若い女性におけるHPVをほぼ根絶することに成功していた。史上初めて、人類は癌の一種を根絶しようとしていたのだ。

デヴィッド・ロバート・グライムス
『まどわされない思考』 p.429
長谷川 圭 訳(角川書店 2020)

癌はさまざまな原因で起こりますが、その一つがウイルスです。そして癌を引き起こすウイルスの代表的なものが HPV です。上の引用にあるオーストラリアの例でわかるように、HPVワクチンの接種が進めば人類は初めて一種の癌の撲滅に成功し、子宮頸癌で死亡する毎年27万人の人たちの命を救える道が見えてきたのです。

ところが事態はそう簡単には進みませんでした。まず、アメリカでワクチンに対する反対運動が起こったのです。


しかし、ワクチンで人の愚かさを防ぐことはできない。アメリカで、信心深い保守層が全国的なワクチン接種を妨害した。ワクチンで癌の心配がなくなると、みだらな性行為を行う人が増えると恐れたからだ。しかし、ワクチン接種が奔放なセックスへの扉を開くというのは、あまりに浅はかな考えだ。ワクチンを接種した人々のグループで性的活動が増えることはないというエビデンスがすでに見つかっている。

『まどわされない思考』 p.430

成人のほとんどが性行為をするということを考えると「ワクチン接種が奔放なセックスへの扉を開く」というのは言いがかりもいいところです。このような言説はすぐに否定されるのですが、次には、HPVワクチンには副反応(治療薬の副作用に相当。『まどわされない思考』では副作用と書かれている)があると言い出す人が出てきました。


反ワクチン運動が引き起こした問題はそれだけではない。まもなく、反ワクチン運動家はガーダシルに数多くの副作用があると主張しはじめた。その副作用には、一貫しない漠然とした主観的な症状が多く含まれている。しかしそれらはどれも、疫学データではまったく確認されていない。

全世界でワクチン接種が行われ、何百万人もの女性のその後が調査されたにもかかわらず、だ。これだけの量のデータがあれば、稀な副作用でさえも数になって現れるに違いない。しかし、すべてのエビデンスが、HPVワクチンは安全で、副作用を起こさず、HPV感染の予防に効果的であることを示している。

それなのに反ワクチン派は現実を見ようとせず、イデオロギーだけを押しつけてくる。新たな大義名分を得た少数ながら声の大きい人が、ソーシャルメディアを通じて、世界の政治家と親に誤った情報を発信したのだ。

『まどわされない思考』 p.430

この反ワクチン運動の被害を最も大きく受けたのが、実は日本でした。


その結果は深刻だった。2013年、日本でパニックが起こり、厚生大臣がワクチンの承認を一時停止した。その後の調査を通じて、取り沙汰される症状とワクチンの間に何ら関係がないことがわかったのだが、ワクチン問題は政治の世界を毒しつづけた。結果、70パーセントだった接種率が2017年までに1パーセント以下までに下がったのである。

『まどわされない思考』 p.431

「ワクチンの承認を一時停止」と書かれているのは誤り、ないしは不正確です(原文か訳か、どちらかの誤り)。正確には「ワクチン接種の積極的推奨の一時停止(2013年6月)」です。この "一時停止" は今も続いています(2020年末現在)。一方、ワクチンは承認されたままであり、公的助成による接種を受けることができます(=定期接種の対象)。

『まどわされない思考』では次にデンマークとアイルランドの状況が書かれています。2014年、デンマークでも反ワクチン運動が起こり、被害を受けたとする証言がメディアで流されました。この結果、接種率は79%から17%に低下しました(デンマーク政府は一貫して安全性を主張)。

2015年、パニックは著者の母国であるアイルランドへ波及しました。しかしアイルランド政府の保険局も一貫して安全性を主張し、反ワクチン運動と戦いました。著者も科学ジャーナリストとしてワクチンの安全性を訴えた一人です。

このアイルランドでの戦いに最も功績があったのは、ローラ・ブレナンという女性でした。彼女は24歳のとき転移性子宮頸癌(ステージ2B)の診断をうけましたが、その彼女が保険局のキャンペーンに参加し、接種を訴えたのです(ローラは癌の転移により、2019年3月20日に26歳で他界)。アイルランドでは反ワクチン運動により、2014年で87%だった接種率が2016年には50%程度に落ち込みました。しかしローラがキャンペーンに参加した18ヶ月で接種率は20%も上昇したのです。



以上が『まどわされない思考』に書かれていた HPVワクチンに関する状況です。以降は、本書で触れらていた日本の状況を整理します。


反HPVワクチン運動の発生源となった日本


HPVワクチンには2種類あり、日本ではグラクソ・スミスクラインが2009年12月から「サーバリックス」を、またMSD(米国の製薬大手、メルクの日本法人)が2011年8月から「ガーダシル」を販売しています。このワクチンは、日本では2013年4月に "定期接種化" されました。

本書に「日本でパニックが起こった」という意味の説明がありました。日本では「70パーセントだった接種率が2017年までに1パーセント以下までに下がった」のですが、このような国は日本しかありません。まさに "パニック" という表現が当てはまるでしょう。このパニックはどのように起こったのでしょうか。HPVワクチンの日本における経緯を詳述した、村中璃子・著『10万個の子宮』(平凡社 2018)より引用します。村中氏は医師で京都大学大学院講師、科学ジャーナリストです。


「人類初のがん予防ワクチン」という期待感の中、医者、政治家、行政が協力して、多くの市町村では接種年齢の女子に対する補助金制度を導入した。そのため2013年4月の定期接種以前でも、接種対象年齢の少女たちはこのワクチンを無料で接種することができ、接種率は全国で約70%を実現していた。この時、相当の資金が投じられ、ワクチン製造企業と政治家、学会が協力して導入に動いたことが、現在、薬害を主張する人たちが陰謀論を唱える根拠にもなっている。

ところが、定期接種化からわずか2ヶ月後の6月14日、日本政府は子宮頸がんワクチンの「積極的な接種勧奨の一時差し控え」という、突飛な政策決定を下した。接種後に、けいれんする、歩けない、慢性の痛みがある、記憶力が落ちたといった、神経の異常を思わせる様々な症状を訴える人が相次いだからだ。

定期接種は英語では「recommended vaccine(接種が勧奨されるワクチン)」とも表現される。「勧奨しているワクチンの積極的勧奨は行わない」とはいかなる意味なのか。現場は混乱した。

厚生労働省は全国の専門家を集め、予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会で子宮頸がんワクチンの安全性について様々な角度から検討。同年12月25日には、痛みの強いワクチンであること、そして検査結果や接種年齢を総合的に評価すると、ワクチン接種後の症状は「身体表現性障害」の可能性が高いという見解が発表された。

身体表現性障害とは、身体的な異常はないのに、痛みや恐怖、不安、プレッシャーなどをきっかけに生じる身体の症状のことである。その後、政府は引き続きモニタリングを行い、評価が変わることはなかったが、「積極的な接種勧奨の一時差し控え」を継続。その結果、定期接種前には各自治体の接種費用補助制度によって約7割の実現していた接種率は軒並み1%に落ち込み、事実上の接種停止状態となった。

村中璃子
『10万個の子宮』
(平凡社 2018)

10万個の子宮.jpg
村中璃子
「10万個の子宮」
(平凡社 2018)
「積極的な接種勧奨」とは、広報誌やポスターなどで接種するように広報することに加え、標準的な接種期間の前に各家庭に接種を促すハガキを送ることなどを指します。それが "一時" 停止されました。子宮頸がんワクチンは現在も定期接種のままです。希望すれば公費で接種を受けられる。しかし一時停止は続いています。

その間、2016年に日本で、国と製薬会社2社を相手に、ワクチン接種によって被害を受けたとして賠償を求める世界初の集団訴訟が起こされました。また続いて2017年、世界で2番目にコロンビアで集団訴訟が起きています。

子宮頸がんワクチンの副反応の件ですが、そもそもワクチンには副反応がつきものです。現在(2020年末)、世界で大きな話題となっているのはファイザー社などが開発した新型コロナウイルスのワクチン(メッセンジャーRNAワクチン)ですが、ファイザー社は倦怠感、頭痛、発熱などの副反応が起こり得ると公表しています。

子宮頸がんワクチンの副反応とされた「身体表現性障害」ですが、これは子宮頸がんワクチンが初めて世に出た2006年より以前から知られていた症状でした。上に引用した村中氏の本によると、世界の精神医療のスタンダードとなっているDSM-IV(米国精神医学会発行の「精神障害の診断・統計マニュアル Diagostic and Statistical Manual of Mental Disorder-IV」。最新版は2013年発行の DSM-5)では、身体表現性障害の症状として、


異なる部位の体の痛み、下痢・嘔吐・便秘などの消化器症状、月経不順の含む性的症状、運動麻痺・平衡障害・麻痺・脱力・けいれんなどの転換性障害、記憶障害などの解離性症状、意識喪失・幻覚などの偽神経学的症状など

「同上」

と、多彩な症状があげられています。DSM-IVが発行されたのは1994年であり、子宮頸がんワクチンの接種が始まる10年以上前ということになります。

身体表現性障害は、痛みや恐怖、不安、プレッシャーなどをきっかけに生じるので、「子宮頸がんワクチンを接種した」ことによる不安が引き金になったことは考えられます。

しかしそれよりも可能性が高いのは、子宮頸がんワクチンは思春期の女性(日本では小学6年~高校1年相当の女性)に接種するワクチンであり、もともと若い女性に多い身体表現性障害と接種が重なったということでしょう。

ここで思い出すのが No.296「まどわされない思考」で紹介したイギリスのワクチン騒動です。1998年、ある医師が「三種混合ワクチン(通称 MMR。麻疹・おたふく風邪・風疹ワクチン)が自閉症を引き起こすデータを見つけた」と発表し大騒動になりました。後にこれはデータが捏造されたものと判明し、医師は医師免許を剥奪されました。しかし多くの人がこの説を信じました。その理由は、MMRを接種する時期と自閉症を発症する時期(ともに2~3歳の幼児期)が近かったことです。

『まどわされない思考』の著者のグライムスは、これを「前後即因果の誤謬」と言っています。「前後即因果の誤謬」とは「一つの事象のあとにもう一つの事象が続いたという事実だけにもとづいて両者間の因果関係を認めてしまう飛躍した考えた方」です。



以上の状況をみると、日本は「反 HPV ワクチン」の中心的な国になってしまったようです。では、最新の日本の状況はどうでしょうか。その最新状況を概説した記事が2020年11月の日本経済新聞に掲載されたので、以降はそれを紹介します。


日本の最新状況


2020年11月16日の日本経済新聞にHPVワクチンに関する記事が掲載されました。見出しは、

子宮頸がん 予防効果高く
 ワクチンの有効性 複数の研究が証明
 低い接種率の向上に課題

です。以下、この記事の概要を紹介します。まず子宮頸がんの状況です。


子宮頸がんは子宮の出口近くにでき、若い女性のがんの多くを占める。日本では毎年約1万1千人の女性がかかり、毎年2800人が死亡する。30代までに治療で子宮を失う人も毎年約1200人にのぼる。

日本経済新聞(2020.11.16)

子宮頸がんの発症は20代から増え始め、30代後半から40代でピークに達します。その代表的な治療は子宮の摘出です。上の記事にわざわざ「30代までに治療で子宮を失う人も毎年約1200人にのぼる」とあるのは、今後の妊娠・出産の可能性が高い30代かそれ以前の女性が子宮を失っていることを示したかったからです。40代以降も含めると、毎年1万人ほどの子宮摘出手術が行われています(上に引用した村中氏の本による)。


原因のほとんどはヒトパピローマウイルス(HPV)だ。性交渉を通じて感染する。ウイルスには複数の種類があるが、ワクチン接種で主なウイルスへの感染を防げる。がんの前段階である「前がん病変」を予防する効果がある。

日本経済新聞(2020.11.16)

日経新聞には子宮頸がんの進行の過程が図示されていました(下図)。この過程において、HPVワクチンが「HPVへの感染を防ぐこと」と「前がん病変への移行を防ぐこと」は証明されていました。つまり「子宮頸がんを防ぐ効果がある」ことが "間接的に" 証明されていた。しかし、ワクチンが子宮頸がんを予防する直接的な効果データはありませんでした。そのようなデータを得るには、ワクチンを承認するときの治験(数万人)だけでは無理であり、実際にワクチンを国民に接種して何百万、何千万の実績をつくり、その経過を観察する必要があるからです。

子宮頸がんの進行.jpg
日本経済新聞・デジタル版
(2020.11.16)

ところが最近、HPVワクチンの効果を証明するデータがそろってきました。


スウェーデンのカロリンスカ研究所は10月、10~30歳の女性が接種すると、子宮頸がんの発症リスクが63%減るとの研究成果を発表した。約167万人の女性について、接種の有無で発症リスクが異なるかを調べた。10~16歳に限ると発症リスクは88%減っていた。

ほとんどは前がん病変を経て発症するためワクチンのがん予防効果は間接的に説明されてきた。がん自体の予防効果を明確に示すデータは今までなかった。

日本産婦人科学会の宮城悦子特任理事は「がんの予防効果が示されるのはもうすこし先だと思っていた」と話す。ワクチンは2006年にできたばかりでデータがそろうのに時間がかかっていた。

日本経済新聞(2020.11.16)

「10~16歳に(接種した人に)限ると発症リスクは88%減っていた」とあります。日本の定期接種は小学6年~高校1年の女性で、ほぼこの記事の年齢にあたります。これは定期接種の接種率をあげると子宮頸がんの発症を9割減らせることを意味します。しかし前にも引用したように、日本の接種率はほぼゼロという異常事態になっています。


世界保健機構(WHO)の推計によると、19年に15歳の女性のうちHPVワクチンの接種を完了した割合は英国やオーストラリアで8割、米国で55%だ。しかし日本は突出して低く 0.3% となっている。

HPVワクチンは日本では予防接種法に基づき小学6年~高校1年相当の女子は公費で接種できる。ただ厚労省は13年6月から対象者に個別に接種を呼びかける「積極的勧奨」を中止している。接種率を下げる大きな要因と見なされている。

日本経済新聞(2020.11.16)

日本の接種率は突出して低い.jpg
日本経済新聞・デジタル版
(2020.11.16)


積極的勧奨の中止は、接種後に持続的な痛みが出るなどの報告が出てワクチンの副反応が疑われた経緯がある。その後、研究が進み、接種しても発症リスクは変わらないとの報告が相次いでいる。

名古屋市立大学の鈴木貞夫教授らは、名古屋市の約3万人の女性を対象に接種の有無ごとの発症リスクを比較し、18年に報告した。痛みや意図しない体の動きなどの接種後に報告された24の症状について、接種で発症リスクが上がるといった関係はみられなかった。

9月には(引用注:2020年9月)デンマークの研究チームが、慢性的な痛みが続く「複合性局所疼痛とうつう症候群」などと接種に因果関係はみられないと報告した。

日本経済新聞(2020.11.16)

このまま接種率が実質ゼロという状況をほおっておくと、子宮頸がんで子宮を失ったり、死亡したりする女性が増えるだけです。


大阪大学の研究チームは10月、接種率が激減した2000~03年度生まれの女性では将来の死者が計4000人増えるとの推計をまとめた。

日本経済新聞(2020.11.16)

この大阪大学の研究チームの報告は、10月22日の日本経済新聞・デジタル版に詳しく掲載されていました。


勧奨中止で死亡4000人増か
子宮頸がん予防ワクチン

2020.10.22
日本経済新聞・デジタル版

子宮頸(けい)がんを予防するヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチンの積極的な接種勧奨を厚生労働省が中止し接種率が激減したことで、無料で受けられる定期接種の対象を過ぎた2000~03年度生まれの女性では、避けられたはずの患者が計1万7千人、死者が計4千人発生するとの予測を、大阪大チームが22日までにまとめた。

成果は英科学誌サイエンティフィック・リポーツに掲載された。接種率が0%近い現状のままでは、その後も同じ年に生まれた女性の中で4千人以上の患者、千人以上の死者の発生が防げなくなるとした。

ワクチンは10年に公費助成が始まり、13年4月に小学6年~高校1年への定期接種となった。だが副作用の懸念から6月、接種は無料のまま勧奨が中止された。チームが接種率を算出すると、勧奨中止の影響が小さい1994~99年度生まれは55.5~78.8%だが、影響が大きい2000年度生まれは14.3%、01年度生まれが1.6%、以降は1%未満だった

ワクチンの安全性を巡っては18年、名古屋市立大チームが約3万人のデータを解析し、副作用とされそうな24種類の症状の発生率は接種の有無で違いがないとした。大阪大チームの八木麻未特任助教は「子宮頸がんはワクチンと検診でほとんどが予防可能。一刻も早くワクチンの積極的勧奨を再開する必要がある」とコメントした。

国立がん研究センターによると、17年に約1万1千人が子宮頸がんと診断され、18年に約3千人が死亡した。〔共同〕


避けられたはずの死者が4000人発生するだろう、という予測は相当なものですが、その死者の倍以上の数の女性が子宮を失うことも大問題です。この状況を改善するため、積極的勧奨を再開すべきだという意見が医療界に根強くあります。しかし再開には至っていません。

ワクチン接種後に障害とみられる反応があったとき、積極的勧奨を中止し、いったん立ち止まるという判断はあり得るでしょう。しかし立ち止まったあとに因果関係が見いだせなかったとき、再び積極的勧奨を行うべきであり、それが国民の命を守る政府の責任です。

厚生労働省は2020年10月からHPVワクチンのリーフレットを改訂し、各自治体を通して接種対象者に配布することを決めました。このような施策を先行して行っている自治体もあります。


国民の理解が不可欠

2020.11.16
日本経済新聞・デジタル版

HPVワクチンについての個別の情報提供は一部自治体が先行して始めている。千葉県いすみ市は2019年から高校1年を対象に通知を始めた。19年度は132人に資料を送り、14人が接種した。一定の効果はあったが、最も接種率が高かった1997年度生まれ(約81%)に及ばない。

市の担当者は「保護者の理解が必須」と話す。保護者世代はHPVワクチン接種を未経験で、理解を得にくい面がある。

厚生労働省は18年、約3000人を対象にHPVワクチンの理解度を調査した。ワクチンの意義や効果を「知らない、聞いたこともない」と答えた人が約34%に上った。接種率向上には、保護者をはじめ国民全体の理解が不可欠だ。



ワクチンへの理解


現在(2021年・年初時点)、新型コロナウイルスによる感染者・重症者・死亡者の減少の切り札として、ファイザー社などのワクチンが期待されています。こういう時だからこそ、ワクチンに対する国民の理解と正しい国の政策が必須です。HPVワクチンで起こった日本の "パニック" は、大いに参考にすべき事例だと考えられます。

まず、ワクチンには副反応がつきものです。上にも書きましたが、ファイザー社は新型コロナウイルスのワクチン(メッセンジャーRNAワクチン)の接種で、倦怠感、頭痛、発熱などの副反応が起こり得ると公表しています。もちろん後遺症が残る残るような重篤な副反応が起きてはならないのですが、もしその疑いがある症例が出た時には、それがワクチン接種と因果関係があるのか、科学的に見極めるべきでしょう。

さらに、HPVワクチンで起こったような疑似的な副反応=身体表現性障害が観察されることも予想されます。こういった疑似的な副反応は、それがワクチンのせいだという思い込みがあると、症状が長く続いたり改善しないことがある。逆にワクチンが原因ではないと医者に断定的に言われると、症状が解消したという例が報告されています。

政府の一貫性のある対応も重要です。HPVワクチンの "副反応パニック" が起こったアイルランド、デンマークでは、政府が一貫して安全性を主張しました。ところが日本政府は、報告された症状が身体表現性障害だと結論づけたにもかかわらず(2013年)、ワクチン接種の積極的勧奨をいまだに再開していません(2020年現在)。この結果、救えるはずの数千人の命が失われると推測されているのです。政府の責任は大きいと思います。

人間の免疫機能は人によって多様だという認識も必要でしょう。ワクチンは人間の獲得免疫を利用して感染しても発病しないようにするものですが、その獲得免疫の機能の強さや個別の病原体に対する有効性は人によって違います(No.69, No.70「自己と非自己の科学」参照)。個人的な経験ですが、私はインフルエンザワクチンを接種しても全く変化はありません。しかし私の配偶者は接種した付近が大きく赤く腫れます。炎症反応が目に見える形で起こっているのですが、このように免疫反応は人によって違います。

新型コロナウイルスのメッセンジャーRNAワクチンも、最初に接種が始まった英国では、数千人に接種した段階でアナフィラキシー・ショックを起こした医療従事者が2名出たと報道されました(2020年12月。治療で回復。2人は過去にアナフィラキシー・ショックの経験あり)。メッセンジャーRNAワクチンの第3段階の治験は万の単位の人に対して行っているはずですが、それでも副反応が起きるわけです。

ワクチンに限りませんが、現代社会はノー・リスクを求めてはいけないのです。またノー・リスクを政府に要求していけない。ノー・リスクを求める限り、別の大きなリスクを招き入れることを理解しなければなりません。



ワクチン問題に関しては「前後即因果の誤謬ごびゅう」も注意すべきことでしょう。本文に書いたように「前後即因果の誤謬」とは「一つの事象のあとにもう一つの事象が続いたという事実だけにもとづいて両者間の因果関係を認めてしまう飛躍した考えた方」です。ワクチンは病気の治療薬と違って何百万人、何千万人に接種するものです。従ってワクチン接種後に、ワクチン接種と因果関係が全くない症状が発現することが確率的に出てくるわけです。

ためしに、新型コロナウイルス・ワクチン接種直後に心臓突然死が日本でどれだけ起こるかを計算してみましょう。このワクチンをどれだけの人が接種するか(対象者の範囲とその接種率)は、現在のところ不明です。どれぐらいの期間で接種が完了するかも不明です。そこで仮の値として、2年間かかって4000万人が接種したとしましょう。1年間に2000万人です。

日本における突然死のほとんどは心臓突然死(心室細動や心筋梗塞などによる)です。この死者の数は年間7.9万人です。実際にはゼロ歳児と65歳以上が多いのですが、簡単のために年齢は均等にバラついているとします。7.9万人を日本の人口(1.26億人)で割ると、ある人が1年の間に心臓突然死する確率(α)が求まり、

 α = 0.000627

となります。そうすると、ある人がワクチン接種を受けた72時間以内(3日間)に心臓突然死する確率(β)は、

 β = ( α / 365 ) * 3

となります。1年の間に2000万人がワクチン接種を受けるのですから、日本人全体では、

 20,000,000 × β = 103(人)

という計算が成り立ち、ワクチン接種を受けてから72時間以内(3日間)に心臓突然死する日本人は、1年間に103人発生することになります。年間200万人に接種としても10人です。あくまで概算の概算ですが、数のオーダーは理解できると思います。広範囲にワクチンを接種するということは、確率的にこういうことが起きることを認識しておかなければなりません。

心臓突然死は極端な例ですが、「死には至らないが、前兆が全くなく突如起こる体の不調」はたくさんあります。「生まれて初めて新型コロナウイルスワクチンの接種を受けた」という記憶は深く脳裏に刻み込まれるでしょう。従ってそのあとに近接して起こる "前兆なしの体の不調" をワクチン接種と関連づける人が出てくる可能性が高い。それにワクチン反対運動を展開している人が飛びつく。このあたりはよくよく注意すべきだと思います。



さらに、ワクチン接種の恩恵はワクチンを接種しない人にも及ぶことが重要です。新型コロナウイルス感染症の蔓延で、我々は今まで知らなかった感染症の専門用語を理解しました。一つは「実効再生産数」です。一人の感染者が何人に感染症をうつすかという平均値で、これが1を切ると感染症の流行は下火に向かう。

もう一つは「集団免疫」です。集団の60%とか70%の人が感染症に対する免疫を持つと、実効再生産数が下がり、感染症の流行が押さえられる。もちろん、国民に広くワクチンを接種するは集団免疫を得るためです。

ある程度のリスクを覚悟の上でワクチンの接種を受けたとすると、それは自分が感染症にかからないため(ないしはかかったとしても重症化しないため)であると同時に、社会で新型コロナウイルスが蔓延しないようにするためでもあるのです。ウイルスが蔓延しなくなると、ワクチンを接種していない人の感染リスクも低下する。従ってワクチン接種の恩恵はワクチンを接種しない人にも及びます。ワクチン接種をすることは、集団の中で皆が助け合って生きていこうという(暗黙の)意志表明でもあるわけです。ここはよく考えておくべきだと思います。




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No.301 - 線路脇の家 [アート]

No.288「ナイトホークス」に続いて、アメリカの画家、エドワード・ホッパーの絵画とその影響についての話です。No.288 は、ホッパーの『ナイトホークス』(1942)が、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』(1982公開)のアート・デザインやビジュアルに影響を与えたという話でした。『ナイトホークス』の複製画を映画の美術スタッフに見せ続けたと、スコット監督自身が述懐しているのです。

パトリシア・ハイスミス「キャロル」.jpg
映画「キャロル」の原作となったパトリシア・ハイスミスの小説(河出文庫。2015.12)。表紙はホッパーの「オートマット」(1927)。オートマットとは自動販売機による軽食の施設。
その『ブレードランナー』を始め、ホッパーの絵画は多数の映画に影響を与えました。最近のアメリカ映画でいうと、2015年に制作された『キャロル』(日本公開:2016年2月)はホッパーの多数の作品から場面作りの影響を受けています(アートのブログサイト:https://www.sartle.com/blog/post/todd-haynes-channels-edward-hopper-in-the-film-carol)。トッド・へインズ監督がホッパーの大のファンのようです。そのためか、映画の日本公開に先立って出版されたパトリシア・ハイスミスの原作の表紙には、ホッパーの「オートマット」が使われています(河出文庫。2015.12)。

そういった映画への影響で昔から最も有名なのは、アルフレッド・ヒチコック監督の『サイコ』(1960年公開)でしょう。これは "サイコ・サスペンス" とでも言うべきジャンルを切り開いた映画史に残る傑作です。この映画で、モーテルを経営している主人公の男性が母親と2人で住んでいる家のモデルとなったのがホッパーの『線路脇の家』でした。この『線路脇の家』はホッパー作品の中でも最も有名なものの一つです。

「線路脇の家」と「サイコ」.jpg
ホッパーの「線路脇の家」(1925。左)と、ヒチコック監督の「サイコ」(1960)に登場する家(右)。

ホッパーの絵は映画だけでなく文学にも影響を与えました。No.288の『ナイトホークス』もそうですが、ホッパーの絵は "背後に物語があると感じてしまう絵" が多いのです。

このホッパーの絵の "特質" を利用してまれた短編小説集があります。ローレンス・ブロック編『短編画廊』(ハーパーコリンズ・ジャパン 2019。原題は「In Sunlight or In Shadow : stories inspired by the paintings of Edward Hopper」)です。

短編画廊.jpg
ローレンス・ブロック編
『短編画廊』

(ハーパーコリンズ・ジャパン 2019)
表紙の絵はホッパーの「ホテルのロビー」(1943)
この本は、小説家のブロックがアメリカの16人の小説家に呼びかけて「ホッパーの絵画にインスパイアされた短編小説」を書いてもらい、それをまとめたものです。17人(ブロック自身を含む)が選んだ絵画は全部違っていて(もちろん調整もあったのでしょう)、本のページをめくるとまずホッパーの絵の画像があり、その後に小説が続き、それが17回繰り返されるという洒落た短編集になっています。

その17枚の絵を見ると、『ナイトホークス』はありますが『線路脇の家』はありません。2枚ともアメリカのメジャーな美術館が所蔵している(それぞれシカゴ美術館とニューヨーク近代美術館)大変有名な絵です。ホッパーの代表作を10枚選べと言われたら必ず入る2枚だと思います。なぜ『線路脇の家』がないのでしょうか。

それには理由があるのかも知れません。つまり、ブロックの呼びかけに応じた小説家からすると『線路脇の家』からはどうしても『サイコ』を連想してしまう。しかし『サイコ』を凌駕するストーリーを語るのは難しそうだ、やめておこう、となるのではないでしょうか。アメリカ人の小説家ならそう思うに違いないと思います。

しかし日本人の小説家である恩田陸さんは、ホッパーの『線路脇の家』から(楽々と)一つの短編小説を書き上げました。短編小説集『歩道橋シネマ』(新潮社。2019)に収録された『線路脇の家』(雑誌の初出は2015年)です。

以降は、このホッパーの絵と恩田さんの短編を "同時に紹介" したいと思います。この恩田さんの短編は「私」の一人称であり、最初のところに「私」が初めて『線路脇の家』を見たときの感想が書かれているのですが、その文章が絵の評論にもなっていて、"同時に紹介" が可能なのです。

恩田さんの文章は、No.209「リスト:ピアノソナタ ロ短調」で『蜜蜂と遠雷』の中のリストの部分だけを引用しました。それは音楽についての文章でしたが、今度は絵画です。


エドワード・ホッパー「線路脇の家」


エドワード・ホッパーの『線路脇の家』はニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。MoMAは1929年に設立者のプライベート・コレクションを基盤に開館しますが、1930年に最初の作品群を購入しました。その中の一つが『線路脇の家』でした。

Edward Hopper - House by the Railroad 1925.jpg
エドワード・ホッパー(1882-1967)
線路脇の家」(1925)
(ニューヨーク近代美術館:MoMA)
MoMAのサイトより画像を引用

以降は、この絵をふまえて恩田陸さんが書いた短編小説「線路脇の家」を紹介します。この小説の冒頭にはホッパーの絵から受ける印象が語られています。


恩田 陸「線路脇の家」(1)


恩田 陸さんの「線路脇の家」の冒頭部分から引用します。以下の引用では漢数字を算用数字にしたところがあります。また、段落の切れ目を空行で表し、段落の最初の字下げは省略しました。


その絵には「線路脇の家」というタイトルが付いていた。

ほぼ正方形に近い油絵である。

絵の画面の手前には線路のものとおぼしき枕木が並んでいる。

その手前の線路を見上げるようにして、線路の向こう側にある家を見ているという構図である。そのため、線路の下の枕木と砂利を真横から見ている形になり、上に載っているレールは片方しか見えない。

家の全景も見えない。一階の窓が切れている状態である。

何様式というのだろう。いささかクラシックな造りの建築だ。木造だろうが、壁は白く塗りつぶされていて羽目板が見えない。

19世紀の終わり、あるいは20世紀初頭に流行ったスタイルと思われる。左側は二階建てだが屋根裏部屋があるようだ。右側は三階建て。左側よりも一階分高く、塔のような屋根裏部屋があることがうかがえる。

実際、この絵は1925年に描かれたことが分かっている。

家の向こうには何もない。がらんとした空が見えるだけ。画面上部にはわずかな青空。あとは灰色の雲。

絵を見た限りでは、描かれた季節も、一日のうちの何時頃なのかもよく分からない。

家には左から光が当たっていて、左側の側面は窓や壁もくっきり見えているが、陰になった正面部分はよく見えないのである。

モノトーンの家であるが、赤い煙突がアクセントのように屋根の上に載っている。

一見、のどかな絵だと言えないこともない。

明るい陽射し。開けた空間。手前の鉄路。

しかし、極力単純化された描写の中には、いいようのない不穏さと虚無感が漂っている。どことなく突き放したような、乾いた空気に満ちているのだ。

恩田 陸「線路脇の家」
短編小説集『歩道橋シネマ』より
(新潮社 2019)

恩田さんの「線路脇の家」は「私」の一人称の小説です。従ってこの冒頭部分は「私」が初めてホッパーの『線路脇の家』を見たときに感じた印象であり、その前提で読む必要があります。

上の引用の中に「何様式というのだろう。・・・・・ 19世紀の終わり、あるいは20世紀初頭に流行ったスタイルと思われる。」とありますが、この建物はイギリスのヴィクトリア朝時代の様式です。横浜の山手に洋館が立ち並ぶエリアがありますが、その中にもヴィクトリア様式の建物があります。

小説「線路脇の家」では次に、ヒチコックの『サイコ』との関係が語られます。


もし、映画好きの人ならば、この絵に既視感を覚える人も少なくないだろう。

この作品、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画、『サイコ』に出てくる家のモデルになったことでも有名なのである。

『サイコ』はエンターテインメントのジャンルで、いわゆる「サイコサスペンス」と呼ばれるものの草分けである。トリッキーな構成や、辺鄙へんぴな田舎町のモーテルに泊まった若い女性がシャワーを浴びているあいだに進入してきた何者かに刺し殺されるというショッキングな場面、斬新な音楽などで、あっというまにこのジャンルでの古典的名作になった。

その映画に登場するノーマン・ベイツという男が、モーテル経営の傍ら母親と二人で住んでいるという家のモデルが、この「線路脇の家」なのである。

『サイコ』のみならず、この家を模した家を登場させた映画が複数あるというが、何がそんなにも彼らを惹き付けたのだろう。

確かに、エドワード・ホッパーの絵には、妙に書き割りめいた「作り物」感がある。人間が存在していない世界のような、裏に回ったらはりぼてで出来ているのではないかという雰囲気がある。だが、その一方で、妙な生々しさ ── 壁紙をべろりとめくったら、何かとんでもないおぞましいものが隠れているような予感が漂っている。

この「線路脇の家」も、窓は固く閉ざされ、家の中は暗く、人の気配が全くない。

明るく開放的な風景ではあるが、正面の影になった部分 ── そこには玄関があるはずなのだ ── は真っ暗で何も見えない。いや、はっきりいえば、この家には出入り口がない。

限りなく閉じた家。入れない家。出られない家。なのである。

『サイコ』のノーマン・ベイツは、身体が不自由な母親の面倒をみるため、家を出られないと説明する。

実際、彼はこの家を出て行くことはない。車で町を通過していく旅行客の相手をしつつも、彼には旅行の経験もない。モーテルを経営しながら、この家に閉じこめられている。

私は、この家がなんとなく鳥籠を連想させるような気がする。

『サイコ』の中にも、動物や鳥の剥製が多数飾られている部屋が出てくるが、それもどことなくおりの中を連想させるのだ。

「線路脇の家」。それは目の前を鉄路が走っているのに、どこにも行くことなく、そこにじっととどまり、檻のような家の中に閉じこもっている誰か。社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴しているように思えるのである。

恩田 陸「線路脇の家」

ここで引用した部分は、ホッパーの絵、および『線路脇の家』についての的確な評論になっていると思います。「作り物感があると同時に生々しさがある」としたところなど、全くその通りという感じがします。

補足しますと、上の引用の多くは『線路脇の絵』と『サイコ』に出てくる家との関係を語っているのですが、その中に、

『サイコ』のみならず、この家を模した家を登場させた映画が複数あるという

とあります。ホッパー研究の第一人者であるゲイル・レヴィン(ニューヨーク市立大学教授・美術評論家)によると、往年の名画『ジャイアンツ』(Giant。1956年公開)に出てくる家は『線路脇の家』を模しているそうです(ゲイル・レヴィン「エドワード・ホッパーと映画」による)。『ジャイアンツ』は、テキサスに広大な牧場をもつ牧場主(ロック・ハドゾン)のもとに東部から名門の娘(エリザベス・テイラー)が嫁いでくる。その彼女に若い牧童(ジェームス・ディーン。この映画が遺作)が密かに好意を寄せる ・・・・・・、というシチュエーションです。この映画で、広大な牧場(レアータ牧場)の中にポツンと建つ屋敷が『線路脇の家』とそっくりです。

Giant - George Stevens and James Dean.jpg
映画「ジャイアンツ」のロケ地におけるジョージ・スティーブンス監督とジェームス・ディーン。後ろにレアータ屋敷(Reata mansion)のセットが見える。


恩田 陸「線路脇の家」(2)


ここまでの引用は「私」が『線路脇の家』を初めて見たときの印象でした。このあと、物語が動き出します。そのキーワードは "既視感" です。


さて、私がこの絵の存在を知ったのは比較的最近のことだった。

むろん『サイコ』は観ていたから、当然既視感を覚えた。妙に記憶に残る、気になる家だと思い、何度も繰り返しながめていたのだが、だんだん、この既視感が決して『サイコ』だけのものではないことに気がついたのだ。

私はどこかでこの家を見たことがある。

いったいどこでだろう?

恩田 陸「線路脇の家」

『線路脇の家』を見たときの既視感は、決して『サイコ』だけのものではない。「私」はそう気づいたのですが、それが何なのかをある時、ひょっと思い出します。「私」は友人と東京の東の方で落ち合って飲む約束をしたのですが、そこへ向かうために駅のホームにいた時です。


普段はめったに乗ることのない鉄道路線で、いったいいつ以来だろう、とホームできょろきょろしている時に、突然、「線路脇の家」の姿がよみがえり、思わず「あっ」と叫んでしまったのだ。

そうだ、私は昔、この路線に乗っていてあの家を見たのだ。

以前勤めていた会社で、この沿線に住むお客さんのところにしばしば通っていた。その時にいつも電車の中から見かける家だったのである。

そうだ ── あの家は、確かに「線路脇の家」に似ていた。

なにしろ、ここは狭い日本であるから、同じ「線路脇」でも周りにどっさり家が建っていたのだけれど、あの家はちょとした高台のはしっこに建っていて、洋館だったこともあり、車窓の外を見ていると必ず目についたのだ。

ホッパーの絵と同じく、その家には一階分高い、塔にあたる部分があり、その二階部分が、高架線の電車の中から見ると、ちょうど真正面に見えるのである。

ホッパーの絵と異なるのは、きちんと住人がいたことだった。

恩田 陸「線路脇の家」

電車からは家の中がよく見えました。もちろん家の中の人は電車から見えているとは思っていないのでしょう。そういうことはよくあります。そしてその家が「私の」記憶に残ったのは、単に人がいたからではあません。家の中の人は3人で、電車で通るたびにいつも同じ3人だったからです。


そこには三人の人間がいた。

一人は、いつも縫い物らしきものをしているおばあさん。いや、おばあさんというにはまだ若かったかもしれない。白髪が多く、背中を丸めていたのでそう感じたのかもしれないが、彼女は窓辺でいつもせっっせと手を動かし、縫い物だかなんだか、針仕事のようなものをしていた。

そして、奥にはいつも新聞を読んでいる男がいた。こちらは五十代くらいか。がっちりとした男で、日焼けしていた。

違和感を覚えたのは、明らかに肉体労働者という風情だったので、なんとなく典雅な洋館の住人に似つかわしくないように思ったからだろう。かなり年季が入った家だったから、祖父母の代の家だったのかもしれない。

もう一人、女がいた。

こちらは若い ── と感じたが、今にして思えば落ち着いていたし、四十代くらいだったのではないか。この女は、いつもぼんやりしているように見えた。窓辺にもたれて、外を見ていた。

窓辺に鳥籠があった。

あの家は、鳥を飼っていた。黄色っぽい鳥がいたので、インコか何かだろう。

私はあの三人の姿をはっきりと思い出していた。

家の中は薄暗かったものの、電車の中からはっきり見えた。レースのカーテンが半分だけ閉められていて、ひっそりと過ごしていた三人。

女の色白の、表情に乏しい顔まで思い出した。

そうなのだ、印象に残っていたのは、いつあの家を見ても、窓辺にあの三人がいたせいなのである。

そのお客さんのところに行くのは、月に一度か二度。必ずその路線に乗り、いつも車窓からその家を見る。

すると、どんな時も必ず、その三人が二階のその部屋にいるのだ。

恩田 陸「線路脇の家」

ちょっと不思議な光景です。「私」が電車でお客さんのところへ向かうのは平日の昼間です。高齢の女性はともかく、比較的若そうな男女は働いていないのでしょうか。また、大きな家なのに3人が必ず2階の同じ部屋にいるのはなぜか。

こういう不思議さが記憶に残った原因のようです。ホッパーの『線路脇の家』を見たときの既視感はヒチコックの『サイコ』だけではないと「私」は感じていたのですが、その原因がはっきりしました。しかし話はまだ続きます。


ともあれ、「線路脇の家」を思い出したところで私はすっきりした。そのまま友人と呑みに行き、再びこの件についてはすっかり忘れていたのである。

しかしこの話にはまだ続きがあるのだ。

つい先日、私はその「線路脇の家」を偶然発見してしまったのである。

まさか、本物のある場所に出くわすとは到底想像していなかった。

恩田 陸「線路脇の家」

「私」は知り合いの法事に呼ばれ、東京の東の方にある初めての駅で降り、住宅街の奥にある寺までいって法事を終えました。その帰り道、知り合いといっしょに住宅街を歩いていると、いつのまにか小高い丘の麓に出ました。そしてふと見ると、そこに廃墟と化した「線路脇の家」があったのです。「私」は、しばし立ち止まって感慨にふけりました。そしてその洋館を振り返りつつ、知り合いに追いつきます。知り合いはこのあたりの住人なので洋館のことを教えてくれました ・・・・・・。

ここから結末までのストーリーを明かすのはまずいと思うので、以降は割愛します。『サイコ』とは全く違った、『サイコ』の対極にあるような話の展開になっています。この短編小説の最後は次のような記述で終わります。


あのあと、彼らはどこに行ったのだろう。

「ここではないどこか」に行けたのだろうか。

私はもう一度振り返ってみた。

だが、曲がりくねった道の奥にあった高台のあの家は、今はどこにも見ることができなかった。

恩田 陸「線路脇の家」

恩田陸さんの小説の紹介・引用はここまでで、以降はこの小説を読んだ感想です。


鳥籠


ホッパーの『線路脇の家』を見た印象というか、イメージを言葉で表すと、

・ 空虚
・ 放棄された
・ 取り残された
・ 近寄りがたい
・ ミステリアス

といった感じが普通かと思います。しかし恩田さんの小説では「鳥籠を連想させる」としたところがポイントでしょう。つまり、中に人が住んでいると考えたとき、その住人からするとどうだろうか。この家は、出るに出られない "鳥籠" である ・・・・・・。このイメージが『線路脇の家』という絵の印象の中心になっていて、またこのイメージで物語が結末へと進んでいきます。「鳥籠」がこの小説のキーワードになっていると思いました。

恩田さんは『サイコ』の主人公を "鳥籠に閉じこめられた鳥" になぞらえた文章を書いていました。その連想から言うと、エリザベス・テイラー演じる『ジャイアンツ』の女主人公も、東部の都会からテキサスの広大な牧場の中にポツンとある「線路脇の家」風の屋敷に嫁いできたわけです。そこはまさに彼女からすると「鳥籠」だったのではないでしょうか。

ということからすると、「線路脇の家」=「鳥籠」というイメージは恩田さんの感覚という以上に、ある種の普遍性のあるものだと思いました。


ここではないどこか


さらにこの小説で「鳥籠」と並んで重要なキーワードは「ここではないどこか」です。これは2箇所に出てきます。最初はホッパーの『線路脇の家』を見た印象を語った最初の部分、2回目は一番最後の部分です。その2つのセンテンスは次の通りです。

社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴しているように思えるのである。

あのあと、彼らはどこに行ったのだろう。「ここではないどこか」に行けたのだろうか。

No.298「中島みゆきの詩(16)ここではないどこか」で書いたように「ここではないどこか」はボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中の詩に端を発する概念です(No.298 に詩を引用)。そのボードレールの詩では、この世で生きることを病院に入院して治療をうけている病人になぞらえていました。恩田さんがボードレールを意識したのかどうかは分かりませんが、出るに出られないという意味で「鳥籠」と「病院」のイメージはかぶっています。この小説に「ここではないどこか」という言い方が用いられているのは、そういう暗示かと思いました。

「線路脇の家」=「鳥籠」(= 病院)であり、具体的に言うと「社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴」しているというのが、ホッパーの絵を恩田さんなりに解釈したものです。またそれが同時に小説の構成のキモになっていると感じました。

この小説は18の短編小説からなる『歩道橋シネマ』の冒頭に置かれています(最後の小説は「歩道橋シネマ」)。つまり、作者としても自信作なのでしょう。『サイコ』とは全く違った "軽い" ストーリーだけれど、ホッパーの『線路脇の絵』から受ける印象の記述と絵の解釈が非常に的確です。そこに感心しました。




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No.300 - 中島みゆきの詩(17)EAST ASIA [音楽]

No.298「中島みゆきの詩(16)ここではないどこか」は、1992年のアルバム『EAST ASIA』に収録された《此処じゃない何処かへ》のことでした。その No.298 最後に、このアルバムの冒頭の曲でアルバムのタイトルにもなっている《EAST ASIA》について、最重要の曲のはずだから別途書くとしました。今回はその話です。

EAST ASIA』(1992年)
1. EAST ASIA
2. やばい恋
3. 浅い眠り
4. 萩野原
5. 誕生
6. 此処じゃない何処かへ(No.298)
7. 妹じゃあるまいし
8. ニ隻の舟
9. 糸

EAST ASIA-1.jpg

なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。


EAST ASIA


中島みゆきさんの 《EAST ASIA》は次のような詩です。全文を引用します。


EAST ASIA

降りしきる雨は霞み 地平は空まで
旅人一人歩いてゆく 星をたずねて
どこにでも住む鳩のように 地を這いながら
誰とでもきっと合わせて 生きてゆくことができる

でも心は誰のもの 心はあの人のもの
大きな力に いつも従わされても
私の心は笑っている
こんな力だけで心まで 縛れはしない

くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
むずかしくは知らない ただEAST ASIA
くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
むずかしくは知らない ただEAST ASIA

モンスーンに抱かれて 柳は揺れる
その枝を編んだゆりかごで 悲しみ揺らそう
どこにでもゆく柳絮(りゅうじょ)に 姿を変えて
どんな大地でもきっと 生きてゆくことができる

でも心は帰りゆく 心はあの人のもと
山より高い 壁が築きあげられても
柔らかな風は 笑って越えてゆく
力だけで心まで 縛れはしない

くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
むずかしくは知らない ただEAST ASIA
くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
むずかしくは知らない ただEAST ASIA

世界の場所を教える地図は
誰でも自分が真ん中だと言い張る
私のくにをどこかに乗せて
地球はくすくす笑いながら回ってゆく

くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
むずかしくは知らない ただEAST ASIA

A1992『EAST ASIA

これは1992年のアルバムに収録されたものですが、それまでの中島作品からすると、あまりないタイプだと思います。それまでの詩はざっくりというと「人と人との関係の詩」や「人生に関わる詩」、ないしは「社会と人との関係性」が多かったわけです。

しかし、この詩はちょっと違って、East Asia = 東アジアという固有名詞がテーマ、ないしはキーワードになっています。以前の作品にも東京や札幌、南三条(札幌の地区名)、横浜などの地名が出てきましたが、今回は国を越えた地域名です。そこが違います。

もちろん東京や札幌が出てきたところで、詩の内容が日本に関わることというわけではなく、人の普遍的な感情とか人間関係がテーマでした。しかし「東アジア」となると国とか国境がテーマの重要部分を占めるはずであり、その前提で何か普遍的なものが表現されているはずです。以下、この詩の重要なキーワードや概念を順にみていきたいと思います。


東アジア


まずタイトルの意味を確認しておくと、East Asia = 東アジアとはユーラシア大陸の東端の周辺地域です。国名でいうと、日本、朝鮮半島(韓国、北朝鮮)、中国、香港、台湾(中華民国)、モンゴルでしょう。もちろん厳密な意味ではなく、はっきりと線引きできるものではありません。

その東アジアを表現する詩の内容は、雨が多く、地表は地平線まで霞んでいることがある。そこにはモンスーン(=季節風)がある。つまり気候風土まで含めると、ここでの東アジアは、ユーラシア大陸の内陸部(中国のモンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、モンゴルなど)の草原地帯や砂漠地帯を含まない、海洋に面している地域という雰囲気です。

また、植物としては「柳」で代表されています。自生する柳は水辺に多い植物です。「柳」はさらに「柳の枝で編んだゆりかご」と「柳絮りゅうじょ = 柳の種子」へとイメージが広がっていきます。

この詩の題名は英語です。英語の題名なのは、そもそものこの詩の発想からくるのでしょう。つまり詩の中に、

世界の場所を教える地図は
誰でも自分が真ん中だと言い張る
私のくにをどこかに乗せて
地球はくすくす笑いながら回ってゆく

とあるように、たとえばヨーロッパの人が日常的に見ている世界地図では、東アジアは一番右の方、ユーラシア大陸の東端付近です。その付近が East Asia ということでしょう。

その東アジアに昔から住んできた人たちの人種的特徴は、「くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに」とあるように黒い瞳であり、詩にはありませんが、黒い瞳とペアになる直毛の黒い髪です。我々は日本人であって韓国人、中国人ではないと思っていますが、ヨーロッパを旅行していると Korean、Chinese と間違われることがあります。それもそのはずで、日本人からみても区別がつかない場合がある。実際、日本人が形成された考古学的考察からすると、我々は日本人という以前に東アジア人なのです。


壁を越える


この East Asia の中には、人と人とを隔てる「壁」があります。詩の中に、

山より高い壁が築きあげられても

とあるように、「壁」という言葉で象徴される "人々を分断するもの" です。もちろんその最大のものは国境です。同一民族が国境で分断されている例もあります。さらに国の中にも民族の違いなどの「壁」がある。《EAST ASIA》という詩では、その「境を越えて生きる」というイメージがいくつかのキーワードで表現されています。

一つは「旅人」です。「旅人一人歩いてゆく 星をたずねて」とあるように、ボーダーレスに旅をする人のイメージです。その旅人にとって重要なのは、どこにいても、誰もからも共通に見える「星」です。

壁を越えて生きることの二つ目は「」です。No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」でまとめたように、中島作品における鳥は、自由とか、すべてを見渡すとか、そういったイメージで使われることが多いわけです。ただし「スズメ」とか「アホウ鳥」など、鳥に固有のイメージを重ねた詩もあって、この《EAST ASIA》の「鳩」も固有のイメージです。

どこにでも住む鳩のように 地を這いながら
誰とでもきっと合わせて 生きてゆくことができる

とあります。鳩が「地を這いならが、どこにでも住み、生きていく」ことの象徴になっていますが、それは我々が経験的に、暗黙に思っていることです。鳩は都会の広場でも郊外の公園でも人々のそばで見かけます。日本だけでなく海外にいってもそうです。この詩の鳩のイメージにピッタリです。



3番目は「柳絮(りゅうじょ)」です。柳絮りゅうじょとは、ヤナギ、ポプラ、ドロノキなどのヤナギ科の植物の花が咲いたあとにできる "綿毛のついた種子" のことです。またその綿毛が風に乗って飛ぶことも柳絮と言います。ちなみに「絮」という漢字の意味は「綿・わた」です。

どこにでもゆく柳絮りゅうじょに 姿を変えて
どんな大地でもきっと 生きてゆくことができる

とあるように、風で浮遊する綿毛がついた種は、遠く離れたどこかに落ち、そこが適切な場所だと芽をふく。そのイメージが詩になっています。

柳絮(北本自然観察公園).jpg
5月の埼玉・北本自然観察公園の柳絮。湿地の柳の木の画像である。埼玉県自然学習センターのYouTubeより。

柳絮(上高地).jpg
上高地で、梅雨の合間の晴れた日に、柳の木から柳絮が一斉に飛ぶ様子。「一休コンシェルジュ」(一休.comのWebマガジン)のサイトより。

日本で柳絮を見た記憶がないのですが、海外旅行では経験があります(イギリスのウィンザーと、ハンガリーのブダペスト)。ヨーロッパの5月や6月頃にはよく見られる現象のようです。綿毛が風で飛ぶというと、我々がよく思い浮かべるのはタンポポの綿毛がついた種子ですが、しかしこれは数個が野原に舞う光景が一般的でしょう。しかし私が経験したのは街のいたる所に綿毛が浮いている光景で、大変に印象的でした。タンポポと違って、たくさんある街路樹から綿毛が飛ぶと、街のあちこちに浮遊するのです。発生源の木は、どうもポプラのようでした。

柳絮は、柳(やポプラ)の品種によってその程度が違うようで、日本は見る機会は少ないのですが、東アジアでは北京の春の風物詩とてして有名です。街中に柳絮が飛び、地表に落ちて道路が白く覆われ、車がそれを巻き上げたりする。吸い込んでアレルギーを起こす人もいるほどだと言います。

その中国の古典からきた言葉に「柳絮の才」があります。文才がある女性を言う言葉ですが、むかしある方の妻が、降る雪を柳絮の綿毛にたとえたことに由来するそうです。これから分かることは、柳絮が粉雪のように降ってくる光景が中国では昔から一般的だったことです。

この柳絮が、《EAST ASIA》では "壁を越える" ことの最も重要な象徴物でしょう。「りゅうじょ」という言葉は、歌を聴いただけでは何のことだか分かりません。普通の人はそうだと思います。詩を読んで、調べて、「りゅうじょ」=「柳絮」=「柳の綿毛が付いた種子」だと分かる。そういう漢語をあえて《EAST ASIA》に使ったのは、中島さんとしてはどうしてもこの言葉を使いたかったのだと思います。何となく "こだわり" を感る。東アジアの歴史を意識したのかもしれません。



さらにこの詩では「くに」という表現が、壁を越えることのキーワードになっています。今まで「国」とか「国境」と書いてきましたが、詩で明らかなように「国」は一切使われていません。「くに」と表記されています。これも歌を聴いているだけでは分からず、文字として書かれた詩を読んで初めて理解できます。

「くに」は「国」の意味に使いますが、もっと広く「故郷くに」の意味でも使います。「くにはどこですか?」という質問は、時と場合によって出身地を質問していることもあれば、国籍を聞いている場合もある。

「国」なら日本しかないが、「くに」は、生まれ育った場所、出身地・故郷、日本などの柔軟性があります。従って「くに」は東アジアでもよい。それが「くにの名はEAST ASIA」という詩が成立するゆえんになっています。

以上の「旅人」「鳩」「柳絮」「くに」というキーワードで "壁を越える" ことが象徴されています。


壁を越える愛


壁を越えるものを具体的に言うと、それは「人と人のとの関係」であり、特に「愛」です。

心はあの人のもの
心はあの人のもと帰りゆく

「あの人」に抱く愛情は、壁を越えて「あの人」のもとに行く。その「あの人」とは、人生におけるパートナーか恋人か、それに相当する人でしょう。またこの詩では、

大きな力に従わされても
力だけで心まで縛れはしない

高い壁が築きあげられても
柔らかな風は越えてゆく

とあります。「心はあの人のもと帰りゆく」というときの「心」は、パートナーへの(男女の)愛情だけではないと感じられます。家族や友人や仲間といった親しい人に対する親愛の情も指していると考えられる。この引用のところの「柔らかな風」という表現は「柳絮」をダイレクトに想起させます。このことからも「柳絮」がこの詩の最も大切な象徴語という感じを受けます。結局、この詩は、

生きるということのベーシックな部分や、人間の本質的な感情や心のあり様においては「壁」は関係ない。特に愛情や親愛の情は、壁を越えて大きく広がっていくもの

ということを言っているのだと思います。


暗示


さらに、この詩の印象的な言い回しである、

・ 大きな力に従わされても、心まで縛れはしない
・ 高い壁が築きあげられても、柔らかな風は越えてゆく

のところを "深読み" すると、次のような意味が込められているのではないでしょうか。つまり、

壁」の存在で困難に陥っている人たちに対する共感の表現

という意味合いです。「壁」の存在によって人間関係や人生の選択の面で "思い" が遂げられない人は多いはずだからです。そして、もっと踏み込んで考えると、

自分の意志とは違う "大きな力" に従わざるを得ない人に対する、国境を越えた連帯のメッセージ

という暗示があるようにも思えます。「大きな力」という言葉がそう感じさせます。それは、個人では如何ともしがたい「大きな力」なのでしょう。

ふと思ったことがあります。この詩は1992年に発表されたものです。もし仮に2019年か2020年に発表されていたとしたら、「民主化運動により困難に陥っている香港の人たちへの連帯感を綴った詩」と考えても通用するのではないでしょうか。

そのように思わせるところに、中島作品の普遍性というか "大きさ" があるのだと、《EAST ASIA》を読み返してみて(聴き直してみて)改めて思いました。




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No.299 - 優しさが生き残りの条件だった [科学]

No.211「狐は犬になれる」の続きです。今回の記事の目的は、現生人類(=ホモ・サピエンス)が地球上で生き残り、かつ繁栄できた理由を説明する「自己家畜化仮説」のことを書くのが目的ですが、この仮説は No.211 で紹介した「キツネの家畜化実験」と密接に関係しています。そこでまず、No.211 の振り返りから始めたいと思います。


キツネの家畜化実験


No.211「狐は犬になれる」で、ロシアの遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフ(1917-1985)が始め、現在も続いている「キツネの家畜化実験」の経過を書きました。ベリャーエフは人がオオカミを飼い慣らしてイヌにした経緯、もっと広くは野生動物を飼い慣らして家畜にした経緯を知りたいと考え、それを "早回しに" 再現する実験を1958年に開始しました。

ベリャーエフが着目したのは「家畜は従順である」という事実です。人間が家畜に期待するものは、ミルク、肉、乗り物、護衛、牧畜や狩猟の補助、仲間付き合い、癒し(ペット)などさまざまですが、すべての家畜に共通しているのは人間に対して従順、ないしは友好的ということです。

ベリャーエフはこの事実を逆転させ、人間が従順で友好的な野生動物を選別して育種してきたから家畜ができたとの仮説をたてました。そして実験を始めます。

彼は、ロシア各地の毛皮生産工場からキツネを数百頭購入し、その中から人間に友好的な個体を選別して交配をしました。もちろん、野生のキツネの中に初めから人間に慣れ慣れしい個体がいるわけではありません。彼がやったのはキツネの点数付けです。つまり、

・ 人間に対しておだやかで、おとなしいキツネは点数が高い。
・ 人間に対して攻撃的なキツネ、あるいは人間を恐れるキツネは点数が低い

とし、個々のキツネごとにこの程度を観察して点数を付けます。そして点数が高いキツネを選別し、交配を繰り返しました。

すると第6世代の子ギツネに、イヌがするように人を舐めるなど人間との接触を積極的に求める個体が現れ始めました。No.211 の記事の時点でキツネは第58世代目ですが、70% のキツネは「イヌのようなキツネ」になりました。このキツネたちの特徴は以下のようです。

外見

・ 成長しても顔つきが幼い。
・ 本来は尖っている鼻が丸く変化している。
・ 尻尾がフサフサで巻き上がっている。
・ 垂れ耳になった個体もある。
・ 毛皮に "ぶち" がはいる。

行動

・ 生まれつき人間の視線と身振りを眼で追う。
・ 人間を慕って交流を望んでいるように見える。
・ 人間と親密な関係になる。また人間に対して忠誠心を示す。
・ 人間の指示を理解し、イヌのような行動をとる。

頭蓋骨

・ 頭蓋骨の長さが短く、幅は長くなる。全体的に丸っこくなる。

ホルモン

・ ストレスホルモンの値が低い

脳細胞

・ 記憶や学習をつかさどる海馬で、新生する細胞が通常のキツネの倍である。

重要なことは、「人間に対して友好的という、たった一つの基準」で選択・交配を繰り返すと、当初は思ってもみなかったような多様な変化が現れてイヌのようなキツネになったことです。ここまでが No.211 の振り返りです。

キツネの家畜化実験-2.jpg
ロシアの家畜化実験でイヌ化したキツネ。鼻は丸くなり、毛皮にはぶちが入っている。2017年現在、実験施設で飼われているキツネの70%はこのようなキツネである。No.211 の画像を再掲。
(日経サイエンス 2017年8月号 より)


オオカミがイヌになったプロセス


では、オオカミの家畜化は過去にどのように進んだと推定できるでしょうか。

ここからは、日経サイエンス 2020年11月号に掲載された論文を紹介します。米・デューク大学のブライアン・ヘア(Brian Hare)とヴァネッサ・ウッズ(Vanessa Woods)による「優しくなければ生き残れない」と題した論文の紹介です。以下、この論文の執筆者を「著者」と書きます。

日経サイエンス 2020年11月号.jpg
日経サイエンス
2020年11月号
現在のオオカミとイヌには、氷河期に生きていた共通の祖先があります。この祖先を「氷河期オオカミ」と呼ぶとすると、氷河期オオカミが分かれて進化して、現在のオオカミとイヌになったわけです。

では、どうやって氷河期オオカミがイヌになったのか。従来の説明は「人間がオオカミの子どもを野営地に連れ帰って家畜化した」とか、「人間がオオカミを飼い慣らして家畜化し、最終的には選抜育種を行ってイヌができた」というものでした。

しかしこの説明は筋が通っていません。氷河期オオカミを飼い慣らしたとしても、それは1代きりです。一方、キツネの家畜化実験でも分かるように、家畜化は何世代もの選択の過程を経て起こる現象です。また、家畜化されたキツネは遺伝子(DNA)レベルで野生のキツネと違うことが判明していますが、単なる飼い慣らしで遺伝子の変化は起きません。

現在のオオカミは肉食で、1回の食事で食べる肉の量は約9kgもあります。そして氷河期オオカミは現在のオオカミより体がさらに大きかった。氷河期オオカミを "飼い慣らした" とされる当時の人間は、狩猟採集の生活です。体の大きな肉食獣と、たとえば人間の子どもを野営地に残して狩りや採集に出かけるという生活は考えにくい。

以上のような考察を踏まえて著者は、氷河期オオカミがイヌになったプロセスを次のように推定しています。

なお、以下の引用では段落を変更したところがあります。また下線は原文にはありません。


氷河期に人間集団が定住するようになり、増えたゴミを野営地の外に捨てていたと思われる。こうした残り物には空腹のオオカミの食欲をそそるものが含まれていた。だがこれをあさることができたのは、人間を怖がらない最も友好的なオオカミだけだった。人間に攻撃性を示していたら殺されていただろう。

こうした友好的なオオカミは繁殖上で優位に立ち、仲間と一緒に食べ物をあさっていたので子育ても一緒に行ったと思われる。人間が意図的に選抜しなくても、友好的な形質が選択される過程が何世代も続いた末、この特殊な個体群の外見は変わり始めたのだろう。毛皮の色、耳、尾など、おそらくすべてが変わり始めた。これら奇妙な見た目のゴミをあさるオオカミに対して人間はますます寛容になり、彼らが人間の身振りを理解するユニークな能力をもっていることにすぐ気づいた。

人間の身振りや声に反応できる動物は、狩りのパートナーや護衛としてもとても便利だった。そのぬくもりと人懐っこさも有益だったため、人はこれらが焚き火の近くにやってくるのを徐々に許すようになった。人間が家畜のイヌを作り出したのではない。最も友好的なオオカミが自らを家畜化したのだ。

ブライアン・ヘア(Brian Hare)
ヴァネッサ・ウッズ(Vanessa Woods)
(米・デューク大学)
「優しくなければ生き残れない」
日経サイエンス 2020年11月号

この引用の最後のところ、「最も友好的なオオカミが自らを家畜化した」のが "自己家畜化" です。普通、家畜化というと、人間が野生動物(の子ども)を捕らえて育て、飼い慣らして家畜にすることを言います。そうではなくて「自然選択を通して起こる家畜化」が "自己家畜化" です。

この自己家畜化がヒトの進化の過程でも起こったという仮説が以下の話です。


なぜホモ・サピエンスが生き残ったのか


まず出発点は、なぜ現生人類(=ホモ・サピエンス)だけが生き残り、繁栄できたかという疑問に答えようとすることです。「優秀だから生き残った」というような単純な話ではないようなのです。


私たちは現世の唯一の人類だが、少し前までは同類がいた。ホモ・サピエンスは約30万年前に出現して以来、少なくとも4種の人類と地球を共有してきた。

なぜ私たちが勝ち残ったのか、その理由はいまにしてみれば明白に思える。私たちホモ・サピエンスは最も優れたハンターであり、最も賢く、最も技術に精通していた。だが、これは手前勝手な見方に過ぎない。

他の人類のなかにはホモ・サピエンスよりも進んだ技術を持っていた例があり、より長い期間にわたって存続したものや(100万年間)、脳のサイズが同等以上だった人類がいた。

「同上」

「少なくとも4種の人類と地球を共有」とありますが、その4種を具体的に書くと、

◆ ホモ・エレクトス
◆ ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)
◆ ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)
◆ ホモ・フロレシエンシス

となるでしょう。最後のフロレシエンシスは2000年代になってジャワ島で骨格が発見され、研究が進められている人類です。ホモ・サピエンスは少なくともこの4種と同時に生きていた時代がある。特にネアンデルタール人は、アフリカを出たホモ・サピエンスがヨーロッパで遭遇した人類です。


ネアンデルタール人は私たちよりも筋骨たくましく屈強だった。武器の扱いに長け、氷河期にあらゆる大型哺乳動物を狩っていた。さらに FOXP2 という遺伝子のタイプが私たちと同じだった。言葉を話すのに必要な精密に調整された運動に関与していると考えられている遺伝子だ。

またネアンデルタール人は高度に洗練された文化を持っていた。死者を埋葬し、病人や怪我人を介護し、体に顔料を塗り、貝殻や羽や骨でできた装飾品で身を飾っていた。

ヨーロッパに最初に到達したホモ・サピエンスは、寒冷な気候にうまく適応したネアンデルタール人の比較的大きな集団と遭遇した。後に氷河が発達すると現世人類はこれを逃れて去ったが、ネアンデルタール人はとどまって繁栄した。

「同上」

著者は、10万年前に戻ってどの人類種が今後生き延びるかを考えたら、ホモ・サピエンスよりもネアンデルタール人の方が有望に思えただろうと書いています。

ホモ・サピエンスは、ヒトに最も近縁の霊長類であるチンパンジーやボノボに比べて、遺伝的変異が少ないという事実があります。これは、ホモ・サピエンスの個体数がある時期に深刻なレベルにまで細ったことをうかがわせます。著者は「絶滅寸前に陥った」と書いています。

ではなぜ、最も屈強でもなく、最も賢くもなく、絶滅寸前にまで陥った(と推測される)ホモ・サピエンスが(=ホモ・サピエンスだけが)生き残れたのでしょうか。


ヒトに生じた自己家畜化


なぜホモ・サピエンスだけが生き残れたのか、それは一言で言うとホモ・サピエンスが「協力の達人」だったことによります。


私たちホモ・サピエンスを他の人類と比べると、最も友好的な種であったことがわかる。私たちが繁栄できたのは、ある種の認知的スーパーパワーのおかげだった。「協力的コミュニケーション」と呼ばれる一種独特の温和な気質である。

私たちは見知らぬ人とも一緒に働ける協力の達人だ。初対面の人と共通の目標について意志疎通し、協力して目標を達成する。このスーパーパワーはまだ歩行も会話もできない赤ん坊のうちの発達し、社会的・文化的に高度な世界への入り口となっている。他者と心を通わせ、代々伝えられてきた知識を受け継ぐことを可能にしている。高度な言語も含め、あらゆる形の文化と学習の基礎となっている。

「同上」

その「協力の達人」に向けてホモ・サピエンスを進化させたのが「自己家畜化」でした。


この友好性は「自己家畜化」を通じて進化した。家畜化は友好性に対する強い選択を伴う過程だ。ある動物が家畜化されると、互いにまるで無関係に思える多くの変化が起こる。「家畜化症候群」と呼ばれるこの一連の変化は、顔の形や歯の大きさ、身体各部や体毛の着色に現れるほか、ホルモンや繁殖周期、神経系も変化する。家畜化は人間が動物に対して行うことだと考えられているものの、自然選択を通じて起こることもある。それが自己家畜化だ。

「同上」

家畜化は友好性に対する強い選択を伴う過程であり、互いにまるで無関係に思える多くの変化が起こる ・・・・・・。ここが自己家畜化仮説の核心です。それは冒頭にあげた「キツネの家畜化実験」で実証されている通りです。

ちなみにこの自己家畜化仮説は著者の2人と、ハーバード大学の人類学者・ランガム(Richard Wrangham)、デューク大学の心理学者・トマセロ(Michael Tomasello)の20年にわたる共同研究で作られたものです。ランガム博士は、いわゆる「料理仮説」を提唱した学者です(No.105 参照)。またトマセロ博士はヒトとチンパンジーの認知能力の違いの研究を先導してきた学者で、ヒトが "意図の共有" という能力を生まれながらに持っていること(=協力上手)を証明しました。


自己家畜化を検証する


ホモ・サピエンスは自己家畜化のプロセスで友好的な性質を獲得したという仮説は、何らかの方法で検証できるのでしょうか。ここで思い出すのが、冒頭で振り返った「キツネの家畜化実験」です。あの実験ではキツネの2つのタイプの変化、つまり、

・ 行動の変化(=人なつっこくなる、人と意志疎通ができるようになる)
・ 形態の変化(=顔が丸くなる、頭蓋骨が短く幅広になる)

が同時に起こりました。人類の進化史を研究する上で、行動は化石に残りません。しかし頭蓋骨は化石に残ります。著者が注目したのは、行動を制御する神経ホルモンがヒトの骨格に影響を及ぼすという事実です。


思春期にテストステロンの量が多いほど眉上弓が太くなり、顔は長くなる。(もともと)男性は女性よりも眉上弓が厚く突出し、顔がわずかに長くなる傾向があるため、こうした特徴の顔は男性的だと言われる。

テストステロンはヒトの攻撃性の直接の原因でないが、テストステロンの濃度と他のホルモンとの相互作用が攻撃的な性格を調節しているのは確かだ。

旧石器時代を通じてヒトの眉上弓が低くなり、顔が短くなり、頭が小さくなったことは、人類学者によってたびたび言及されてきた。私たちは、そうした変化をたどれば、ヒトの行動と身体を同時に形作った生理的な変化が生じた時期を特定できることに気づいた。

「同上」

要するに、現在までに発見されているホモ・サピエンスの頭蓋骨の形状を調べることで、神経ホルモンの変化(従って行動の変化)を推定しようというわけです。


私たちは当時デューク大学にいたチャーチル(Steven Churchill)およびシエリ(Robert Cieri)とともに、8万年前を区分点として、それ以前のホモ・サピエンスは以降の後期更新世のヒトに比べて顔が長く眉上弓がずっと大きかったことを見いだした。8万年前よりも新しい頭蓋骨は、顔面から突き出た眉上弓の高さが平均で40%低く、頭蓋骨の長さは10%短く、幅は5%狭かった。

パターンにばらつきはあったもののこの変化は続き、後に狩猟採集民の顔はさらに優雅が見かけになった。この変化はテストステロンの減少を示している。

「同上」

さらに、テストステロンとは別の神経ホルモン、セロトニンが頭蓋骨に与える影響もあります。


脳が利用できるセロトニンを増やす薬が人を協力的にし、他者を傷つけようとする意志を抑えることが、倫理的ジレンマと協力を調べた社会科学の実験で示されている。

セロトニンは行動を変えるだけではない。発達初期にセロトニンにさらされると頭蓋骨の形も変化するようだ。妊娠中のマウスにSSRI(引用注:選択的セロトニン再取り込み阻害薬。脳が利用できるセロトニンを増やす。うつ病治療などに使われる)を投与したところ、生まれた子は鼻づらが短くて細く、頭蓋骨が球形になった。

ホモ・サピエンス以外の人類種はすべて、額が平らで低い位置にあり、頭蓋は分厚つかった。ネアンデルタール人の頭はラグビーボールのような形だった。風船のような頭蓋骨を持つのは私たちホモ・サピエンスだけで、人類学者はこの頭蓋形状を球形と呼んでいる。この形はホモ・サピエンスの進化の過程でセロトニンの利用可能性が増えた可能性を示している。

「同上」
Neandertal vs Sapiens.jpg
ホモ・サピエンス(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨を比較した図。"球形" と "ラグビーボール" の違いがよく分かる(Wikipediaより)。

テストステロンとセロトニンといった神経ホルモンは、頭蓋骨の形状に変化を与えるだけでなく、行動に変化を及ぼします。


ホモ・サピエンスの家畜化のなかで、テストステロンとセロトニンの濃度が変わったのなら、別の分子も同様に変化しただろう。テストステロンが低下し、セロトニンが上昇すると、オキシトシンというホルモンが社会的結びつきに及ぼす効果が強まる。

オキシトシンは出産時に母親の体内で急激に増えて母乳の分泌を促し、母乳から赤ちゃんに移行する。親と赤ちゃんが目を合わせるとオキシトシンによる相互作用のループが生じ、互いに愛し愛されていると感じるようになる。蘭ライデン大学のデドルー(Carsten DeDreu)が金銭ゲームや社会ゲームの実験で被験者にオキシトシンを吸入してもらったところ、より協力的で共感しやすく、相手を信頼するようになる傾向が生じた。

「同上」

このような、仲間を識別して友好性を示す性質を獲得したホモ・サピエンスは、集団による高度な協力が可能になりました。これが文化や社会の発展につながり、進化の時間スケールからすると "瞬く間に" 世界を席巻しました。


攻撃性という逆説


しかし人類は、他者に対して友好性を示すと同時に、攻撃性を示して残酷にもなります。これはどうしてでしょうか。


有効性の基盤となる神経ホルモンの変化が、同時に恐ろしい暴力の下地になっている場合がある。オキシトシンは子育て行動に極めて重要だとみられ、"抱擁ホルモン" とも呼ばれている。だがむしろ "母熊" ホルモンと呼んだほうがよいだろう。わが子を生んだときに母親の全身に満ちあふれるのと同じオキシトシンが、その子が脅かされたときには母親の怒りの火に油をそそぐ。



自己家畜化によってヒトという人種が形作られるなかで、増大した友好性は新たな形の攻撃性をもたらすことにもなった。脳が発達する間に利用できるセロトニンが増え、オキシトシンが私たちの行動に及ぼす影響が強まった。集団のメンバーが互いに強く結びつくことが可能になり、そのきずなは非常に強く、家族のように感じるようになった。

こうして新たに他者を気にかけるようになったが、同時に血縁関係のないそうした仲間を守るために暴力を使うのをいとわなくなった。人は進化によって他者をより強く愛するようになったが、その愛する人が脅かされたときの攻撃性も強まったのだ。

「同上」


協力する集団は変えられる


以上のような攻撃性は、仲間ではないと認識した他者に示されるものです。しかし人間は交流を通して、どの範囲が仲間なのかという認識を柔軟に変えることができます。


人間性に関してこうした進化上の逆説的な側面はあるものの、誰が自分の集団に属しているかの認識は柔軟に変えられるものだ。種としてのホモ・サピエンスは、集団の概念を数千人あるいは数百万人に拡張する能力をすでに示してきた。さらに拡大可能だろう。

集団間の対立の解消する最善の方法は、感じられている脅威を社会的交流を通じて和らげることだ。脅威の感覚がもとになって自分の集団内の他者を守ろうとするなら、集団どうしが接触して脅威を生じなければ、自分が属する集団が何であるかの定義を拡張できる。



集団間の対立の場合、考え方を変化させる可能性が最も高いのは行動の変化、人的接触という行動の変化だ。

「同上」

この最後のあたりの、集団間の人的交流の重要性が、著者が論文で最も言いたかったことです。



以上をまとめると、次のようになるでしょう。

◆ ホモ・サピエンスは、友好性をもつ個体ほど生き残りやすいという自然選択の過程を経験した。

◆ 友好性により集団での協力が可能になり、これがホモ・サピエンスに大きなパワーを与え、地球上で生き残り、繁栄できた要因となった。

◆ 個体の友好性は神経ホルモンの変化に起因するが、それは同時に頭蓋骨形状の変化をもたらす。化石資料を調べると、確かに想定される変化が起きている。

◆ このプロセスは野生動物の家畜化と本質的に同じである。ただし人間が家畜化したのではなく、自然選択による家畜化であり、それは「自己家畜化」と呼べる。

◆ 集団内の他者に対する友好性を発揮する神経ホルモンは、同時に集団外の人間に対する攻撃性をもたらした。

◆ しかし人間は集団の定義を柔軟に変えることができる。集団間の対立を解消し、集団の定義を変えるのに最も有効なのは、人的接触をするという行動変化だ。

著者の考える「人間とは何かという問いに対する答え」がここに示されているのでした。付け加えると、この論文は日経サイエンスと提携関係にある Scientific American誌の2020年8月号に掲載されたものです。日経サイエンスの編集部も指摘していますが、この論文の掲載は、分断と差別と対立が続く社会に対するメッセージという意図があった。そういうことだと思います。


「キツネの家畜化実験」再考


実は、著者はロシアで行われているキツネの家畜化実験の現場を訪れて調査をしています。


私たちのチームがこれらのキツネを調べたところ、イヌと同様に人間の身振りから意図を読みとるのがうまいことがわかった。人を恐れず人にひかれるキツネを育てただけなのに、社会的知能の向上など、意図せぬその他の変化が生じた。

「同上」

「キツネの家畜化実験」では、「人に友好的」「知能が高い」「丸っこい顔(その他多数の形状変化)」の3つの変化がワンセットで起こりました。これが、ホモ・サピエンスの「自己家畜化仮説」の大きな傍証となったようです。

ロシアの遺伝学者、ベリャーエフの「キツネの家畜化実験」は「人が野生動物を飼い慣らして家畜にした経緯を知りたい」ということから始まりました。ベリャーエフは、人に従順な個体を選別・育種するという、たった一つの規準で家畜化はできるだろうと考えた。この洞察が非凡だったと思います。

彼が「キツネの家畜化実験」の意義について、どこまで見通していたのかは分かりません。しかし少々意外なことに、この実験はホモ・サピエンスが地球上で生き残って繁栄した理由(=仮説)につながり、もっと大きく言うと「人間とは何か」という問いに答えるための材料にもなった。

家畜化実験のキツネの遺伝子は DNA レベルで詳しく分析されているようです。ということは、たとえばの例ですが、人間の自閉症の研究にも役立つかもしれない。「キツネの遺伝子を DNA レベルで詳しく分析する」などは、ベリャーエフが実験を始めた1958年には考えもできなかったことです。それが現在では可能になっている。

「キツネの家畜化実験」は、いわゆる基礎研究の一つです。何かに役に立つことを目的としたものではありません。しかし基礎を押さえることで、そこから発展や応用の道が開ける(ことがある)。基礎研究の意義を改めて思いました。


優しくなければ生き残れない


ここからは日経サイエンスの論文の題名に関した余談です。米・デューク大学の2人の論文の原題は、

 Survival of the Friendliest

で、「最も友好的な(friedlyな)ものが生き残る」という意味です。この題はもちろん、ダーウィンの進化論に関して言われる、

 Survival of the Fittest

つまり「最適者が生き残る(=適者生存)」の "もじり" ないしは "パロディ" です。一方、日経サイエンス編集部が訳した日本語題名は、

 優しくなければ生き残れない

で、これはアメリカの小説に登場する有名な台詞せりふの "もじり" になっています。それは、レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の中の、私立探偵のフィリップ・マーロウの台詞で、マーロウの尾行対象の女性、ベティー・メイフィールドとの会話に出てきます。最も新しい村上春樹訳では、次のようになっています。


「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」、彼女は感心したように尋ねた。

「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」

私は彼女にコートを着せかけてやり、我々は車のあるところまで歩いた。

レイモンド・チャンドラー
村上 春樹 訳
「プレイバック」第25章
(早川書房 2016)

ちなみに、マーロウの台詞の原文は、

If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

です。この台詞には2つの文がありますが、最初の文の「生きのびてはいけない」の部分と、2番目の文の「優しくなれないようなら」の部分を切り取って合わせてしまったのが、論文の日本語題名ということになります。原題の "もじり" には "もじり" で訳すということでしょう。

村上春樹さんが『プレイバック』の「訳者あとがき」で書いていました。チャンドラーに関する英米の書籍を読んでいても、この台詞に関する記述は全く出てこないし、知り合いのアメリカ人に聞いてみても、誰もそんな台詞があるとは知らなかったと ・・・・・・。これは日本でだけ有名な台詞のようです。

論文の原題はホモ・サピエンスの生き残りの要因を "friendly(友好的)" というキーワードで表現していますが、"優しい(gentle)" となると少々意味が違います。従って「優しくなければ生き残れない」というタイトルは原題を正確には伝えていません。とはいうものの、このタイトルは「日本でしか有名でない、アメリカの小説の台詞のパロディ」になっていて、これはこれでピッタリという感じがしました。




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No.298 - 中島みゆきの詩(16)ここではないどこか [音楽]

No.35「中島みゆき:時代」から始まって16回書いた "中島みゆきの詩" シリーズですが、今回は絵画の話から始めます。

なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。


モネとマティス ── もうひとつの楽園


箱根のポーラ美術館で2020年4月末から半年間、ある展覧会が開催されました。

モネとマティス
もうひとつの楽園
(2020年4月23日 ~ 11月3日)

と題した展覧会です。ポーラ美術館のサイトにはこの展覧会の概要が次のように説明してありました。


19世紀から20世紀にかけて、急速な近代化や度重なる戦争といった混乱した社会状況のなか、「ここではないどこか」への憧れが、文学や美術のなかに表れます。なかでもクロード・モネ(1840-1926)とアンリ・マティス(1869-1954)は、庭や室内の空間を自らの思うままに構成し、現実世界のなかに「楽園」を創り出した点において、深く通じ合う芸術家であると言えます。

モネは19世紀末、近代化するパリを離れ、ジヴェルニーに終の住処を構えます。邸宅の庭で植物を育て、池を造成し、理想の庭を造りあげたモネは、そこに日々暮らしながら、睡蓮を主題とした連作を制作しました。一方、南仏に居を構えたマティスもまた、テキスタイルや調度品を自在に組み合わせ、室内を演劇の舞台さながらに飾り立てて描きました。こうしたモティーフは、南仏の光とともにマティスのアトリエと作品を彩ったのです。

ポーラ美術館の公式サイト
(2020年4月27日付)

「睡蓮の池」と「リュート」.jpg
クロード・モネ「睡蓮の池」(1899)と、アンリ・マティス「リュート」(1943)。いずれもポーラ美術館所蔵。画像はポーラ美術館のサイトより引用。

2020年9月6日のNHK「日曜美術館」では、この展覧会の企画の意図をさらに詳しく紹介していました。番組の内容を要約すると次の通りです。

◆ 印象派の巨匠、クロード・モネと、色彩の魔術師と呼ばれたアンリ・マティスは、年齢は約30歳離れていて作風も対照的だが、この2人には共通点がある。それは、共に自らの好みを反映した理想の空間を作り上げ、そこに住み、そこをアトリエとして絵を描いたことである。

◆ モネは40代に、パリのおよそ70キロ北西に位置する農村、ジヴェルニーに邸宅を購入し、周囲の土地を買って花の庭を造成した。また、近くを流れるセーヌ川の支流から水を引き込み、池を作って太鼓橋をかけ、睡蓮を植えた。池の周囲には柳の木を植え、藤棚も作った。そしてここを「人工の野外アトリエ」として絵画の制作を行った。

◆ マティスもまた40代後半になってパリを離れ、南フランスのニースでホテルなどの一室を借り上げてアトリエを構え、そこを自分なりに飾り立てた。

好みだった中東やアフリカなどのエキゾティックなテキスタイルを買い求め、それで壁面を覆った。気に入ったモデルだけを使い、モデルの衣装にもこだわって、時には自ら縫った服を着せた。モデルにはくつろいだポーズをとらせ、安らぎを感じる空間を作り出そうとした。こういった演劇の舞台さながらのアトリエ = 理想の空間で、マティスは絵の制作をした。

◆ 2人が生きた19世紀後半から20世紀初頭には、社会の大きな変化があった。産業が発展し、ブルジョワジーと呼ばれた資本家階級が台頭した。経済中心の社会になり、功利主義的な価値観が行き渡った。

また、人々は戦争と疫病に苦しんだ。1870年に勃発した普仏戦争にはモネの画家仲間たちが次々と従軍し、モネの親しい友人だったバジールは戦死した。マティスの友人だった詩人アポリネールは第1次世界大戦に従軍し、その後、スペイン・インフルエンザで死亡した。

◆ 社会の価値観の変化と、戦争と疫病。こうした時代の中で芸術家たちの共感を呼んだのがシャルル・ボードレールの作品だった。詩人であり美術評論家でもあったボードレールは、近代化で変貌する時代を生きる苦悩を詩の中に吐露した。散文詩集「パリの憂鬱」に次のようにある。

生きるとは病院に入っているようなものだ

どこへでもいい、ここではないどこかへ

◆ マネとマティスは「ここではないどこか」を、この世界の中に作った。マネはジヴェルニーに、マティスはニースのアトリエに。そこで2人が目指したのは人々に安らぎと慰安を与える芸術である。これが2人にとっては、この時代における芸術家のあるべき姿だった。

◆ 2人が作った理想の空間(= 楽園)はプライベート空間だが、ありがたいことに、その空間は2人が創造した絵画作品を通して万人に開かれたものになっている。

以上が番組の要約(従って、ポーラ美術館の展覧会の主旨)ですが、これを簡潔に1文でまとめると次のようになるでしょう。

モネとマティスは、芸術家たちの共感を呼んだボードレールの「ここではないどこか」を、この世界の中に理想のプライベート空間として作り出し(ジヴェルニーとニース)、そこをアトリエとして人々に安らぎと慰安を与える芸術を創造した。

モネとマティスが「ここではないどこか」を自ら作り出したという視点は、なるほどそうかも知れません。番組MCの小野正嗣さんは、ゴーギャンにとっての「どこか」はタヒチだったと言っていました。ということになると、ゴッホにとってのアルルもそうかもと思いました。

モネとマティスの芸術論はここまでにして、以降はこの展覧会と番組のキーワードになっていたボードレールの「ここではないどこか」という概念について書きます。


ここではないどこか


"ここではないどこか"(英語では "Anywhere but here")という概念は、今まで数々の文芸作品やエンターテインメントに使われてきました。日本で言うと、GLAY が1999年にリリースした楽曲でミリオンセラーになった「ここではない、どこかへ」があります。漫画界の大御所である萩尾望都さんは「ここではない★どこか」と題した漫画のシリーズ(2006年~2012年)を発表しました。

海外では、アメリカの小説家、モナ・シンプソン(故スティーヴ・ジョブズの実妹)は「Anywhere but here」(1986)という小説を発表し、これは映画化されました。

その他、ヘヴィメタルのバンドのアルバム名になったり、アーティストの個展のタイトルになったりと、ネットで検索しても数々の例が出てきます。「ここではないどこか ── Anywhere but here」という言葉、ないしは概念は、クリエーターのイメージを喚起するものがあるのでしょう。



しかし、私にとっての「ここではないどこか」は、まず第一に中島みゆきさんの楽曲である《此処ここじゃない何処どこかへ》です。ここからが本題で、以降はその話です。


中島みゆき《此処じゃない何処かへ》


《此処じゃない何処かへ》は、1992年に発表されたアルバム『EAST ASIA』の第6曲として収められた曲です。その詩を次に掲げます。

EAST ASIA-1.jpg

①EAST ASIA ②やばい恋 ③浅い眠り ④萩野原 ⑤誕生 ⑥此処じゃない何処かへ ⑦妹じゃあるまいし ⑧ニ隻(そう)の舟 ⑨糸


此処じゃない何処かへ

拾ってきたラジカセだけが
たったひとつの窓だった
教科書よりずっとはるかに
真実に聴こえたラヴソング

手当たりしだいムカついてた
実は自分にムカついていた

追われるように街を離れて
行くあても理由(わけ)もなく
急(せか)かされる気がした
心の中で磁石のように
何処かから絶え間なく
呼ぶ声が聴こえた

此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ

此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ

もぐりこんだライヴハウスは
帰りも一人だったけど
握りしめたグラスの氷
溶かす何かの熱を見た

何もできない自分のこと
ずっと嫌いになりかけていた

追われるように街を離れて
行くあても理由もなく
急かされる気がした
何かになれる約束もなく
ただ風が吹くように
ころがりだしたのさ

此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ

此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ

此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ

此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ
此処じゃない何処かへ

A1992『EAST ASIA

語り手である「私」の自画像を描いた詩です。「私」は自分の無力感にさいなまれています。何もできない自分、という自己嫌悪にも陥っている。

"何か" になりたいが、その "何か" が見つかりません。ここが自分の居場所という、その場所が分からない。心の中からは「此処じゃない何処かへ行ってみろ」と言う声が聞こえてきます。そうすれば "何か" が見つかるかもしれない。

「私」は内心の声に従って、あてもなく街を出ました。音楽好きなのでライブハウスの熱狂にホットになったけれど、それが自分の居場所がどうかはわからない。「此処じゃない何処かへ行ってみろ」という内心の声は今も続いている ・・・・・・。



人生の比較的若い段階、たとえば20代・30代で、人が誰しも一時は抱く感情をストレートに詩にしたものでしょう。もっと早く、10代での感情かもしれないし、30代より後かもしれない。「此処じゃない何処かへ行く」ことを具体的に実行するかどうかはともかく、ふと、そういうことが脳裏をよぎるのは誰にでもありそうです。

「此処じゃない何処かへ」という内心の声は、自分を追い立て、かせるもので、それはしつこいくらいの繰り返されます。そのムードが、ロックの強いビートの曲とマッチしています。中島さんの "太い声でシャウトするような歌い方" も印象的です。

EAST ASIA-2.jpg

《此処じゃない何処かへ》は、人生のある時期、ないしは人生において折に触れて人が抱く感情をストレートに詩にし、歌ったものと考えられます。ただ、それ以上の意味があるのではとも思える。それがNHKの日曜美術館であったボードレールの詩との関係です。


《此処じゃない何処かへ》を "深読み" する


中島さんの《此処じゃない何処か》は、ボードレールの「ここではないどこかへ」を踏まえているのではないでしょうか。そんなことがあり得るのかと一瞬思ってしまいますが、十分にあることでしょう。

そもそも中島さんは詩人です。もちろんアーティストないしはクリエーターとしては数々の側面がありますが、第一級の詩人であることは確かでしょう。詩人が、過去の詩人の作品を大量に読む(読んできた)のはあたりまえです。ちょうど小説家が先人の小説を読むようにです。

中島さんは "詩のアンソロジー" の選者をしたことがあります。1985年に作品社から出版された「日本の恋歌 全3巻」の "第3巻" です。第1巻は"邂逅"がテーマで選者は谷川俊太郎氏、第2巻は "相聞" がテーマで選者は吉行和子氏、そして "別離" がテーマの第3巻の選者が中島さんです。ここでは、万葉集、古今・新古今の時代から、江戸期を経て、明治・大正・昭和の詩人、そして井上陽水や松任谷由実まで、100人の100作品がセレクトされています。これは彼女が多くの詩を読み込んでいることを示しています。でないと、できないでしょう。

この「日本の恋歌」は日本人の作品だけですが、当然、彼女は海外の作品にも親しんでいると想定できます。特にボードレールは現代詩の先駆者とされる詩人なので、中島さんは熟知しているのではないでしょうか。

ということで、「此処じゃない何処か」がボードレールの「ここではないどこかへ」を念頭に作られたとして、ではどのような解釈ができるかを考えたみたいと思います。まず、そのボードレールの詩です。


シャルル・ボードレール


少々意外なことに「ここではないどこかへ」と題したボードレールの詩はありません。その "概念" を表現した作品は、NHKの日曜美術館でも紹介していましたが、ボードレールの50篇からなる散文詩『パリの憂鬱』の第48篇です。

この詩は、題名だけが英語で「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」とあり、そのあとに「いずこなりとこの世の外へ」の意味のフランス語が続きます。訳者の阿部良雄氏によると、この英語題名はイギリスの詩人の作品からとられたもので、本来 "Anywhere" と綴るべきところを(これが正しい英語表記)、誤記か誤植で "Any Where" となったとのことです。


48   ANY WHERE OUT OF THE WORLD いずこなりとこの世の外へ

この生は、病人のめいめいが寝台を代えたい欲望に取りかれている、一個の病院だ。せめてストーヴの正面で苦しみたいと思っている者もあれば、窓のそばならなおるだろうと思っている者もある。

私は、今いるのでない場所へ行けば、かならず具合がよくなるだろうという気がするのであり、この引っ越しの問題は、私が絶えず自分の魂を相手に議論する問題の一つである。

「答えてくれ、わが魂よ、冷えてしまった哀れな魂よ、リスボンに住むのはどうだと思うかね? 陽気はきっと暖かだし、きみもそこなら蜥蜴とかげのように精気溌溂はつらつとしてくるだろう。この都市は水のほとりにある。大理石で建てられていて、住民は植物を忌みきらうことはなはだしく、あらゆる樹木を引き抜いてしまうとか言うことだ。これこそきみの好みにかなう風景ではないか。光と鉱物と、それを映すための液体、それだけで出来た風景!」

私の魂は答えない。

「きみは運動をするものを眺めながら休息するのが大好きだから、オランダへ行って住みたくはないか。人を浄福につつむあの土地へ? きみがよく美術館でその画像イマージュを見て感激したこの国でなら、ひょっとしてきみも気晴らしができるだろう。帆柱マストの森や、家々の足もとにつながれた船などの好きなきみは、ロッテルダムなどをどう思うかね?」

私の魂は無言のままだ。

「バタヴィアの方がひょっとしてもっときみの気に入るだろうか? そもそもあそこでは、ヨーロッパの精神が熱帯の美しさと結び合っているのが見られるだろうし。」

一言も返ってこない。── 私の魂は死んだのだろうか?

「するときみは、きみの病の中でしか居心地よく感じないほどに、
麻痺し果ててしまったのか? いっそそれなら <死> の類縁物アナロジーである国々へ逃げて行こうではないか。── これで話はきまった、あわれな魂よ! 荷造りして、トルネオへ旅立つとしよう。もっと遠く。バルティック海の最果てへ行こう。できることなら、生を離れることさらに遠いところへ。極地に住みつこうではないか。そこでは太陽は斜めにしか地をかすめず、光と夜との緩慢な交代は変化を抹殺し、あの、虚無の半分ともいうべきもの、単調さを増大させる。かの地でわれわれは、漆黒の長い沐浴ゆあみにひたることができるだろう。そしてその間、われわれの気晴らしのために、北極光オーロラは時おり、<地獄> の花火の反映のような、その薔薇色の光の束を投げてよこすだろう!」

ついに、私の魂は爆発し、そして賢明にも私にこう叫ぶ、「いずこなりと! いずこなりと! この世の外でありさえすれば!」


パリの憂鬱.jpg

表紙カバーの絵はマネが描いたボードレールの肖像
固有名詞の補足ですが、バタヴィアはインドネシアの首都・ジャカルタのオランダ植民地時代の名です。またトルネオは現代の表記ではトルニオです。スウェーデンとフィンランドの間の大きな湾をボスニア湾と言いますが、その一番奥に面したフィンランドの町がトルニオです。ボスニア湾の南はバルト海(バルティック海)なので「バルティック海の最果て」という表現になります。

最初の方に「今いるのでない場所へ行けば、かならず具合がよくなるだろうという気がする」とあり、「引っ越しの問題」とあります。「ここではないどこかへ」をストレートに表現している部分です。全体の大意をまとめると、次のようになるでしょう。

・ 私は "ここではないどこか" へ行くと、今より良くなるという気がいつもしている。ちょうど、病院で病人がベッドの場所を変えると病状が良くなる、ないしは苦しみが和らぐと考えるように。

・ それではどこへ行くのか。私は、私の憧れの地をもとに、私の魂との自問自答を繰り返す。

・ 「ポルトガルのリスボンはどうだ?」
・・・・・・ 私の魂は無言(=「違う!」)。

・ 「オランダのロッテルダムはどうだろう?」
・・・・・・ 私の魂は無言。

・ 「インドネシアのジャカルタはどうか?」
・・・・・・ 私の魂は無言。

・ 私はいらだって、私の魂を挑発しにかかる。「それならいっそ <生> の果て、白夜とオーロラの北極圏へ行こう!」

・ ついに私の魂は堪忍袋の緒が切れて叫ぶ。「この世の外ならどこでもいい!」

最後の「私の魂」の "この世の外ならどこでも!" というのは、いわゆる "キレた" 言い方です。それを言葉通りに実行するとなると、この世から去ること(= "死")になり、そうなると「ここではないどこか」に今より良い居場所を見つけたいという「私」の意図に反してしまいます。結局、この詩の自問自答は反語的に解釈すべきでしょう。その解釈を簡潔に言うと、次のようになると思います。

・ 私は "ここではないどこか" へ行くと、今より良くなるという気がいつもしている。

・ それではどこへ行くのか。自問自答を繰り返してみても、適切な「どこか」は見つからないし、思いつかない。

・ 結局、我々は自分の居場所となる "ここではないどこか" を、今いる場所も含めて、この世界のどこかに自ら作り出すしかないのだ。

これが、ボードレールの散文詩の "含意" でしょう。冒頭で書いた画家、モネとマティスの場合は、その "ここではないどこか" がジヴェルニーの庭であり、ニースのアトリエであった。それがポーラ美術館の(従って NHK「日曜美術館」の)解釈だったわけです。



ボードレールの「ANY WHERE OUT OF THE WORLD いずこなりとこの世の外へ」という散文詩にこのような含意があるとすると、中島みゆきさんの《此処じゃない何処かへ》も、

その "何処か" は、この世界の中に自分で作るしかない

というのが隠された意味でしょう。ちょうど、モネやマティスの "理想のアトリエ" のように ・・・・・・。《此処じゃない何処かへ》がボードレールの「ここではないどこかへ」を踏まえているとの前提にたつと、それが自然な解釈だと思います。

さらにこの詩は「この世界の中に自分で作るしかない」という以上のことを言っているように思えます。それは、曲が収められた『EAST ASIA』というアルバムの構成から推測できるものです。


EAST ASIA


『EAST ASIA』は1992年に発表されたアルバムで、「夜会」はすでに始まっている時期です。このアルバムには以下の9曲が収められています。

1. EAST ASIA
2. やばい恋
3. 浅い眠り
4. 萩野原
5. 誕生
6. 此処じゃない何処かへ
7. 妹じゃあるまいし
8. ニ隻の舟
9. 糸

このアルバムの詩の全体を眺めてみると、大きく4つの部分に分かれていると考えられます。詩の内容を簡潔に一言で要約することなど本来はできないのですが、あえてやってみると次のようになるでしょう。

第1部は《EAST ASIA》という曲です。東アジアに住む人たち(ないしは特定の人)と心を通わせたいという思いや連帯感を綴ったものです。東アジアとは、通常の言葉使いとしては日本、朝鮮半島、中国、モンゴル、台湾、香港でしょう。これは従来の中島さんの詩には見られなかった発想のものです。

第2部は《やばい恋》《浅い眠り》《萩野原》《誕生》の4曲で、一言でいうと "別れ" が扱われています。《やばい恋》では、女は男をますます好きになりそうだが、男は別れの機会を窺っているという "やばい" 状況が語られます。《浅い眠り》は、男と分かれたあとに失ったものの大きさを感じて思案にくれている詩です。

《萩野原》では、昔に別れた恋人をしのび、懐かしんでいます。《誕生》は人生における別れの意味を探った内容です。別れはつらいが、出会ったからこそ別れがある。知り合えたことを大切にしよう。そもそも生まれてきたことが Welcome であり素晴らしいことだという、非常にポジティブな表現になっています。

第3部が《此処じゃない何処かへ》で、ここでアルバムの流れの転換が起こります。

第4部は《妹じゃあるまいし》《ニ隻の舟》《糸》の3曲で、ここで扱われているテーマはまとめると "二人" だと言えるでしょう。《妹じゃあるまいし》は、今はもう別れた女性を思い出し、追憶を巡らしているという内容です。語り手が女性だとも考えられます(= "妹" は同性の友人)。

夜会でも歌われた《ニ隻の舟》は、


おまえとわたしは たとえば二隻の舟
暗い海を渡ってゆく ひとつひとつの舟
互いの姿は波に隔てられても
同じ歌を歌いながらゆく 二隻の舟

《ニ隻の舟》

のあたりが、詩としてのコアです。「おまえとわたし」は必ずしも男女ととらなくてもよいはずです。人生におけるパートナーの大切さを言った詩と考えられるでしょう。なお、日本語では二隻にせきですが、"中島みゆき用語" ではこれを二隻にそうと読ませています。

数々のアーティストがカバーしている《糸》は、結ばれた男女の幸福を表現しています。この曲は結婚式ソングの定番になっていますが、それもそのはずで、そもそも曲の発表前に最初に歌われたのがある人の結婚式でした。


縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない

《糸》

アルバム『EAST ASIA』の各曲の大意をごく簡単に書きましたが、細かいニュアンスは全く無視しました。ただ、アルバムの構造を明らかにするという意図でした。



以上の考察からすると、この『EAST ASIA』というアルバムは、詩の内容とその配列が意図的に工夫されていると感じます。ということを前提として「此処じゃない何処かへ」を考えるとどうなるかです。

『EAST ASIA』の多くの詩は、出会い・別れ・人と人とのつながり・パートナーシップを内容としています。しかし第3部の《此処じゃない何処かへ》だけは違って、何かを成し遂げないといけない、何かにならないといけないという内心のさし迫った声や、それにまつわる葛藤が言葉になっています。これは、次の第4部の "二人" というテーマ、人生におけるパートナーの大切さにダイレクトにつなげるための詩ではないでしょうか。

《此処じゃない何処かへ》がボードレールを踏まえているという前提で考えると、この詩の含意は、

人は「ここではないどこか」を自分の居場所として求めるけれど、結局それはこの世界の中に自分で作り出すしかない

ということだとしました。そして「此処じゃない何処かへ」が人生におけるパートナーシップの大切さにつながっているということは、

自分の居場所(=ここではないどこか)をこの世界の中に作るとき、一番の助けになるのは、人生におけるパートナーだ

という意味を含んでいるのではと思います。考えすぎでしょうか? そうとも言えないと思います。というのは「ここではないどこかへ」という概念・表現を聞いたとき、非常に似た言葉として「遠くへ行きたい」を連想するからです。


遠くへ行きたい


「ここではないどこかへ」と「遠くへ行きたい」は、言葉の概念として非常に似ています。「遠くへ行きたい」という曲は、1962年、NHKの番組「夢であいましょう」の為に作られたものです。作詞は故・永六輔氏でした。


遠くへ行きたい》  永 六輔

知らない町を歩いてみたい
どこか遠くへ行きたい

知らない海を眺めていたい
どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人とめぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

愛し合い信じ合い
いつの日か幸せを

愛する人とめぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

(作曲・中村八大、唄・ジェリー藤尾)

この曲は、1970年から始まって現在も続いている日本テレビ系の長寿番組「遠くへ行きたい」の主題歌になりました。番組は、有名芸能人や文化人が日本各地の風土、歴史、食、宿を訪ねるという「紀行番組」あるいは「旅番組」です。故・永 六輔氏も出演されました。

ということから、「遠くへ行きたい」は「旅をしたい」と同じ意味だと受け取られがちです。しかし、故・永六輔氏が書いた詞はそうではありません。

まず、語り手は今住んでいる場所を離れて、できるだけ距離を置きたいと願っています。今の場所に違和感を抱くか、自分の居場所ではないと感じているようでもある。中村八大氏がこの詞につけた曲は短調です。短調が生み出すムードが、そういう想像を膨らませます。

ここではない場所、今の町ではない知らない町に行きたい、何処どことは決まっていないが、何処どこか遠くへ行きたい、この詞はそう言っている。まさに「ここではないどこか」です。旅をして旅先の風土や文化を体験し癒されたい(=紀行番組である「遠くへ行きたい」)というのではないのです。さらに重要な点は、

どこか遠くへ行きたい」
愛する人とめぐり逢いたい」

2つがセットになっていることです。これは「一人旅でどこか知らない土地へ行き、その土地で愛する人とめぐり逢いたい」という意味ではありません。もちろん世の中には旅先でたまたま出会った人とカップルになった(そして結婚した)という例があるでしょうが、そういうことを言っている詞ではない。

この詞は「旅」のもつイメージを2重にとらえています。一つは知らない土地へ行ってそこの風土に触れるという、文字通りの意味での「旅」です。もう一つは「人生における人と人の出会いの遍歴」という意味での「旅」です。この詞の語り手は、いま一人です。だから「一人旅に出たい」し、一人なので「巡り会いたい」のです。この2つが同時進行で語られるのが大きな特徴です。



以上の「遠くへ行きたい」の詞の構造と、中島さんの『EAST ASIA』で示された、

ここではないどこかへ」(第6曲)
人生におけるパートナーシップ」(第7~9曲)

のセットは大変よく似ています。もちろん影響されたわけではないでしょうが、そこに「人生の断面に現れる普遍的なもの」があるように思います。「遠くへ行きたい」という曲は、中島さんの《此処じゃない何処かへ》とアルバム『EAST ASIA』を解釈する上での一つの補助線となるでしょう。


聴き手としての解釈


以上をまとめると、中島みゆきさんの《此処じゃない何処かへ》と、それを含むアルバム『EAST ASIA』に "隠された" メッセージは、

・ 人は「ここではないどこか」を自分の居場所として求めるけれど、結局それはこの世界の中に自分で作り出すしかない。

・ 自分の居場所(ここではないどこか)をこの世界の中に作るとき、一番の助けになるのは、人生におけるパートナーだ。

ということでしょう。これは詩そのものでは言ってないことであり、明らかに "深読み" だと思いますが、聴き手には解釈の自由があります。特に中島みゆきさんの詩は、解釈をいろいろと膨らませられるような言葉の使い方に満ちています。そこが中島作品の魅力であり、《此処じゃない何処かへ》とアルバム『EAST ASIA』もそれを体現していると思いました。



ところで、アルバム『EAST ASIA』について言うと、冒頭に置かれている《EAST ASIA》という曲がアルバムのタイトルになっています(いわゆるタイトル・チューン)。従ってこれが最重要の曲のはずであり、詩の内容をどう解釈するかが問題です。これについては別の機会に書くことにします。

続く


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No.297 - チョコレートを運ぶ娘 [アート]

No.284「絵を見る技術」は、秋田麻早まさ子 著『絵を見る技術 ── 名画の構造を読み解く』(朝日出版社 2019)の内容をかいつまんで紹介したものでした。この中の「線のバランス」のところで、縦と横だけのシンプルな構造線をもつ絵の例として、秋田氏は上村松園の『序の舞』(1936)をあげていました。扇を持つ右手の袖の表現で分かるように、"静" と "動" のはざまの一瞬をとらえた傑作(重要文化財)です。

上村松園「序の舞」説明.jpg
上村松園「序の舞」
「絵を見る技術」で著者の秋田氏は「縦の線とそれを支える横の線」という線のバランスをもつ絵画の例として、上村松園の「序の舞」をあげていた。

そして、線のバランスが『序の舞』とそっくりな絵として連想したのが、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館にあるリオタールのパステル画『チョコレートを運ぶ娘』で、そのことは No284 に書きました。

チョコレートを運ぶ娘.jpg
リオタール
「チョコレートを運ぶ娘」

この絵は、構図(縦と横のシンプルな構造線)が『序の舞』とそっくりです。ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館には一度行ったことがありますが、実は現地に行くまでこの絵を全く知りませんでした。アルテ・マイスター絵画館の必見の名画というと、

◆ ラファエロの『システィーナの聖母』
絵画館の "顔" となっている作品。No.284 に画像を引用。

◆ ジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』
数々の西洋絵画のルーツと言える作品。マネの『オランピア』の源流と考えられる。

◆ フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』
フェルメール作品の中でも傑作。No.295 に画像を引用。

でしょう。フェルメールの『取り持ち女』(自画像を描き込んだと言われる絵)もこの絵画館にあります。また、それ以外にもファン・エイク、ルーベンス、レンブラント、ヴァン・ダイク、ホルバイン、デューラー、ベラスケス、ムリーリョ、エル・グレコ、ティツィアーノなど、西洋古典絵画史のビッグ・ネームが揃っています。

アルテ・マイスター絵画館.jpg
ドレスデン
アルテ・マイスター絵画館
アルテ・マイスター絵画館は、ツヴィンガー宮殿の庭に面している。ほぼ横に一直線の建物で、展示室は40程度しかないが、古典絵画の名品が並んでいる。

そういった名画群の中で、全く知らなかった『チョコレートを運ぶ娘』に目が止まりました。大変に印象的だったので、記念にミュージアム・ショップでこの絵のマグネットを購入し、それは今でも自宅に張ってあります。

なぜ『チョコレートを運ぶ娘』が印象的だったのか。それは「一目瞭然のシンプルな構造線が作り出す強さ」だろうと、秋田氏の本を読んで思いました。もちろん、おだやかな色のパステルで精緻に描かれた "美しさ" もあると思います。これも、構図と並んでパッと見て分かる。しかし最近の新聞を読んでいて、どうもそれだけではないぞと思いました。そのことを以降に書きます。


リオタール『チョコレートを運ぶ娘』


2020年9月11日の日本経済新聞の最終面で、美術史家の幸福輝こうふくあきら氏(国立西洋美術館学芸員)が『チョコレートを運ぶ娘』を解説されていました。構図とは全く違う視点からの解説ですが、興味深い内容だったので以下に引用します。少々意外なことに「描かれたアジア」というシリーズの最終回です。

チョコレートを運ぶ娘.jpg
ジャン = エティエンヌ・リオタール
(1702 - 1789)
チョコレートを運ぶ娘」(1744/45)
パステル 羊皮紙
(82.5×52.5cm)
ドレスデン アルテ・マイスター絵画館

美の十選:描かれたアジア(10)

ジャン = エティエンヌ・リオタール
「チョコレートを運ぶ娘」
美術史家 幸福輝

日本経済新聞
2020年9月11日

ジュネーヴ生まれのリオタールだが、パリ、ウィーン、ロンドン、アムステルダムなどを転々としながら制作を続けた。特筆すべきは、オスマン帝国治下のコンスタンティノープルにも長く滞在したことで、オリエンタリズムの先駆的存在でもあった。

チョークの一種であるパステルは18世紀肖像画の主要技法で、リオタールはパステルの名手だった。粉状の脆弱感と自然な即興性が当時の趣味に合致したのか、パステルは貴族たちに好まれた。

娘が持つ漆器のお盆には、チョコレート(ココア)の入った茶碗(ちゃわん)が置かれている。おそらくドレスデン近郊のマイセンでつくられた磁器であろう。長い間、西欧では磁器をつくることができなかったが、18世紀初め、ついにマイセンで成功した。オリエンタリスト・リオタールが漆器とともにマイセン磁器をここに描いたことは、決して偶然ではなかった。

羊皮紙を使い、磁器を思わせる入念な仕上げが施された本作品は、通常のパステルとはどこか違う。ほぼプロフィールで描かれた娘の姿も、瞬間の生動感を狙ったようには見えない。制作当時、この作品は「中国的」と評されたとの記録が残っているが、そのあたりに、この画家が凝らした制作の機微が潜んでいるのかもしれない。

(1744年頃、ドレスデン国立美術館蔵)

このコラムで着目すべきは、次の4点でしょう。

◆ チョコレート・カップはマイセンの磁器(だろう)。

◆ 娘が持っているトレーは漆器である。

◆ リオタールはパステルの名手で、この絵は羊皮紙に描かれ、磁器を思わせる入念な仕上げが施されている。

◆ この絵は制作当時、"中国的" と評された。

このコラムに触発されて、改めて詳しくこの絵を画集で眺めてみました。それが以降です。


娘が持っているもの


娘が持っているものを拡大したのが次の図です。コラムにはカップがマイセンの磁器(おそらく)、トレーが漆器とありましたが、もう少し詳しく見ていきます。

チョコレートを運ぶ娘:部分1.jpg

 チョコレート・カップとソーサー 

まずチョコレート・カップとソーサーですが、これは普通の "カップ・アンド・ソーサー" ではありません。"トランブルーズ"(Trembleuse)と呼ばれるタイプのものです。

Wikipediaによると、トランブルーズは1690年代のパリが発祥で、フランス語で「震える」という意味のようです。つまり、手が震えてもチョコレートをこぼさない仕掛けがしてあるカップ・アンド・ソーサーで、ソーサーにカップを固定するための "ホールダー" が作り付けてあります。トランブルーズは現代でも製作されていて、マイセンの実例が次の画像です。

Meissen Trembleuse with flower painting.jpg
マイセンの磁器製トランブルーズ
(マイセンのサイトより)

上の画像のマイセンはすべて磁器製ですが、『チョコレートを運ぶ娘』に描かれているトランブルーズはソーサーが銀製です。銀製のソーサーはアンティークとして流通しているようで、その例を次にあげます。

Augsburger Trembleuse1 (Dorotheum).jpg
1750年代にドイツのアウグスブルクで製作されたトランブルーズ。オークション・ハウス、ドロテウムのサイトより。

『チョコレートを運ぶ娘』のトランブルーズは、銀の輪のようなホールダーがソーサーに立つように作ってあります。また、ソーサーには取っ手が付いている。親指をここにかけ、ソーサーを持って飲むためのものです。

他の注目点としては、銀のソーサーの上に置かれたビスケットでしょう。またチョコレート・カップに蓋がなく、ホット・チョコレートがギリギリ一杯に注がれているのもポイントです。

 グラス 

絵の娘はチョコレート・カップとソーサーの他に、水が入ったグラスを運んでいます。このグラスは、良く見るとカットで模様がつけてあるようです。これはボヘミアのガラス器でしょう。

このグラスには、窓の形の反射が2つ描かれています。この娘は2つの窓からの光の中にいることを示しています。

 トレー 

日経新聞のコラムに、娘が運んでいるトレーは漆器だとありました。アートについてのウェブ・マガジン、"www.apollo.com" のこの絵の解説(2018.11.20。筆者:Tessa Murdock)には、この漆器は日本製だと書いてあります。娘が持っているものでは唯一の東洋からの輸入品ということになります(輸入品としては、他にカカオ)。この漆器が一番高価かもしれません。同じ解説には、チョコレート・カップは当然のようにマイセンの磁器と書いてありました。



この絵は、画家のリオタールはウィーン滞在中(1743~45)に描かれました。場所はウィーンの貴族の館でしょう。メイドの彼女が朝、女主人にチョコレートを運びます。女主人はベッドの上で、ソーサーを手に持ちながらチョコレートをゆっくりと飲む。そして苦さを緩和するため甘いビスケットを食べ、水を飲む。それを繰り返す ・・・・・・。そういった情景が浮かびます。

描かれているのはすべて高価なもので、マイセンの磁器、銀のトランブルーズ、ボヘミアン・グラス、そして日本製の漆器です。いかにも貴族の邸宅の光景という感じがします。

そして、この絵がとらえた瞬間を考えてみると、メイドの彼女はチョコレート・カップを慎重に、静かに運んでいるはずです。18世紀のチョコレートは貴重なものです。しかも絵のカップには蓋がなく、チョコレートがなみなみと注がれている。彼女はこぼさないよう、そろりそろりと運んでいるに違いありません。


精緻に仕上げられたパステル画


全体を見渡すと、この絵の大きなポイントは "パステル画" だということです。日本経済新聞のコラムに、

パステルは18世紀肖像画の主要技法で、リオタールはパステルの名手だった。粉状の脆弱感と自然な即興性が当時の趣味に合致したのか、パステルは貴族たちに好まれた。

とありました。このブログでもパステル画を引用したことが何回かあります。それはドガとカサットの作品で、いかにも「粉状の脆弱感と自然な即興性」との印象を受ける絵です(No.86, No.87, No.97, No.157)。それは一般的なパステル画のイメージでしょう。

しかしこの絵は違って、細部まで精緻に仕上げられています。また明るい色で、かつ中間色が使われている。ファッションなどの世界で "パステル・カラー" という言い方をしますが、赤・青・緑などの原色ではない "中間色" という意味です。『チョコレートを運ぶ娘』はまさにパステル・カラーの絵です。この絵は「最も美しいパステル画」と評されることがあるそうですが、まさにそういう感じがします。

しかも、展示してあるのがドレスデンの "アルテ・マイスター絵画館" です。英語に直訳すると "Old Masters' Gallery" で、18世紀かそれ以前の古典絵画の展示館です。名画が並んでいますが、それらに使われている多くの色はいわゆる "アースカラー" で、岩石や土が原料の顔料です。全般的に暗い色が多い。その中で、明るいパステル・カラーのこの絵は "目立つ絵" です。全く知らなかったこの絵に目が止まったのは、そういう理由もあるのだと思いました。


"中国的" とは ?


日本経済新聞に幸福輝こうふくあきら氏が書いたコラムは「描かれたアジア」というシリーズで、その最終回が『チョコレートを運ぶ娘』でした。その文章の最後の方に、この絵を評して「中国的」との表現がありました。だから「描かれたアジア」なのでしょう。なぜ中国的なのか、コラムのその部分を再度引用すると次の通りです。

磁器を思わせる入念な仕上げが施された本作品は、通常のパステルとはどこか違う。ほぼプロフィールで描かれた娘の姿も、瞬間の生動感を狙ったようには見えない。制作当時、この作品は「中国的」と評されたとの記録が残っているが、そのあたりに、この画家が凝らした制作の機微が潜んでいるのかもしれない。

これを読むと、「瞬間の生動感を狙ったようには見えないから中国的」と読み取れます。確かに、慎重にチョコレートを運んでいる姿からは "動き" があまり感じられません。この静的な雰囲気が中国的ということでしょう。もちろん、その他に「磁器のチョコレート・カップに漆器のトレー」というアジア由来のアイテムがあることも「描かれたアジア」なのだろうと思います。

しかし、アルテ・マイスター絵画館の公式カタログ「ドレスデンの名画:アルテ・マイスター絵画館」(2006。日本語版)には、別の説明がありました。

ドレスデンの名画:アルテ・マイスター絵画館.jpg
ドレスデンの名画
アルテ・マイスター絵画館
(公式カタログ)
表紙の絵は、16世紀のイタリアのパルマで活躍したコレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」。厳粛な雰囲気とは対極にある宗教画である。光と影の効果で立体のモデリングをすると同時に、光で人物の重要度を表している。一番強い光が聖母子に当たり、その次が左の洗礼者ヨハネ(毛皮を着て杖を持っている)、最後に右の聖ゲオルギウスの順である。


このパステル画は、ヴィーン滞在中の1743年と1745年の間に描かれたものである。フランチェスコ・アルガロッティ伯爵がドレスデンのコレクション用に買い取ったものだ。パリの友人ピエール・ジャン・マリエットへの1751年の手紙に次のように書いている。

「有名なリオタールの3フースくらいの高さのパステル画を買った。そこには、ドイツの小間使い娘の側面が描写されている。この絵には、特に明るい下地には影がほとんどないが、コップに反射しているように、この娘は、窓2箇所から光を受けている。光線の、知覚できない位の段階付けと、完全な浮き彫り効果をだしながら、中間色で描出されている。・・・・・・

この画法はヨーロッパのものなのに、中国人の好みとも言えそうだし、あなたにもわかるように、徹底した影の敵対者かもしれない。この作品の完璧さは、パステル画のホルバインと言い表していい位だ。」

「ドレスデンの名画:
アルテ・マイスター絵画館」
(2006。日本語版)

チョコレートを運ぶ娘:部分2.jpg



チョコレートを運ぶ娘:部分3.jpg

ヨーロッパの画法では、陰影を使って対象の3次元的造形をするのが伝統です。上に引用したコレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」がまさにその典型です。一方、中国や日本の伝統的な絵画は影を使いません。『序の舞』のように。

上の引用に「画法はヨーロッパのもの」とあるように、この絵は伝統的な画法を踏まえています。しかし影は(もちろんありますが)最小限に抑えてあります。2箇所からの明るい光を受けて、段階付けられた微妙な陰影で、浮き彫りのような効果を出しています。石や貝殻に浮き彫りをする技術を "カメオ" と言いますが、この絵はちょうど瑪瑙めのうを素材にしたカメオのような効果を出しています。

このような "影を極力抑えた" 描き方が中国的だと、上の引用は言っています。おそらくヨーロッパ人からすると、この絵は「何か違うな、斬新だ」と感じるのでしょう。我々日本人からすると、この "中国的な" 描き方は自然で普通だと見えるのですが、その普通の絵がアルテ・マイスター絵画館の中では目立っているのです。この絵画館は西洋古典絵画の展示館です。そこでは光と影が交錯し、その強いコントラストで描かれている絵が多い。ないしは、ほとんど作画対象が暗い影の中にあり、その絵の焦点だけが明るい光に照らされて浮かび上がるような絵です。

そのような絵が多数ある中で『チョコレートを運ぶ娘』は、光と影のコントラストとは無縁であり、全体が明るく輝いています。そのことがこの絵を絵画館の中でも目立つものにしているのでしょう。


名画には理由がある


ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館の『チョコレートを運ぶ娘』について、以上の考察をまとめると次のようになるでしょう。

◆ 娘が運んでいるものはどれも高価で、いかにも貴族の館での光景である。またマイセンの磁器製チョコレート・カップと日本の漆器のトレーは、当時の上流階級の東洋趣味を反映している。

◆ 全体が明るいパステル・カラーで精緻に仕上げられている。また陰影付けは最低限に抑えられている。これらの点が、アルテ・マイスター(=古典)絵画館の中でも異色の作品にしている。

◆ 最初にあげた上村松園の『序の舞』との類似性という観点では、まず第一に「縦と横の、シンプルで強い構造線が作るバランス」である。この構図が大変に印象深い。

◆ さらに『序の舞』との類似性は、"静" と "動" のはざまを描いている、ないしは "静" のような "動" を描いているところである。

◆ この絵は『序の舞』との共通項があることから推測できるように、西欧人からすると "東洋的" な雰囲気を感じるのだろう。それが描かれた当時の「中国的」という評価につながった。

この絵を見て惹かれる要因の一つが、"東洋的" ということかもしれません。我々からすると全く違和感のない絵ですが、アルテ・マイスター絵画館においてはまさそこが際立っているということでしょう。

『序の舞』を引き合いに出したのは、秋田麻早まさ子氏の著書『絵を見る技術』(No.284)からの連想でしたが、この本の結論として秋田氏は、

自分の好き・嫌い」と「作品の客観的な特徴」が分けられるようになると、楽しみ方の幅がぐっと広がる

と書いていました。パッと見て "いいな" と思った『チョコレートを運ぶ娘』について、なぜそう思ったのかを探るために「作品の客観的な特徴」を考えてみましたが、なるほどそうすることで絵画の楽しみ方の幅が広がると実感しました。




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No.296 - まどわされない思考 [科学]

このブログでは、我々の思考を誤らせる要因について何回か書きました。まず No.148「最適者の到来」No.149「我々は直感に裏切られる」では、日常生活とは全くかけ離れた巨大な数は想像できないので、直感があてにならず、誤った判断をしてしまう例を書きました。組み合わせの数とか、分子の数とか、カジノにおけるゲーム(賭け)の勝率などです。No.293「"自由で機会均等" が格差を生む」も、膨大な回数の繰り返しが我々の直感に全く反する結果を招く例でしょう。

また、No.83-84「社会調査のウソ」では、現代において数限りなく実施されている社会調査は、その調査方法が杜撰だったり推定方法が誤っていると実態とはかけ離れた結論になることを見ました。この「社会調査のウソ」の一つが "偽りの因果関係" です。つまり、物事の間に相関関係があると即、それが因果関係だと判断してしまう誤りです。No.223「因果関係を見極める」ではその分析と、正しく因果関係を見極める方法を専門家の本から紹介しました。

さらに、No.290「科学が暴く "食べてはいけない" の嘘」は、食の安全性についての科学的根拠がない言説にまどわされてはいけないという話でした。

以上の「直感」「社会調査」「因果関係」「食べてはいけない」以外にも、我々を誤った思考に導きやすいものがいろいろとあります。特に今の社会はインターネットの発達もあって、人々をまどわす誤った主張や非論理的な説明に満ちているのが実態です。それらに惑わされないようにして現代社会を生きて行くには、どうすればよいのか ────。最近、このテーマに絞った本が出版されました。

まどわされない思考
 デヴィッド・ロバート・グライムス 著
 長谷川 圭 訳
 角川書店 2020

です(以下「本書」)。著者はアイルランド出身の物理学者、科学ジャーナリストで、英国とアイルランドで現代社会の各種の問題を科学的見地から解説しています。本書の副題は、

非論理的な社会を批判的思考で生き抜くために

で、批判的思考(=クリティカル・シンキング)がテーマになっています。また本書の原題は、

 The Irrational Ape
 (= 非理性的なサル)

です。「人間は理性的なサル」という言い方がありますが、実態は感情に支配される非理性的なサルだという、自戒を込めた題名です。これを乗り越えるのが批判的思考(=クリティカル・シンキング)というわけです。

本書は現代社会のさまざまな問題・課題を考える上で大いに参考になると思ったので、以下に内容の "さわり" を紹介します。


序章:批判的思考


本書の序章に、1950年代の中国の「大躍進政策」の一環として行われたスズメの駆除運動のことが書かれていました。当時の中国では、農業の近代化と国の躍進のために害虫・害獣の駆除が必須だと見なされていました。たとえば、蚊やネズミは疫病を広めていたからです。ちょっと長くなりますが、引用します。

以降の本書からの引用では段落を増やしたところがあります。また、漢数字を算用数字に改めたところや、ルビを追加したところもあります。下線は原文にはありません。


無害でおとなしいスズメは病気を広めたりはしないが、農家が育てる穀物を食べてしまうのだ。まるで労働者を食い物にするブルジョア(資本家)階級ではないか。権力者たちはスズメの中に政治の縮図を見たのである。スズメを「資本主義の公的動物」と決めつけたうえで、革命を空から妨害しようとすつこの外敵を根絶やしにするために、「打麻雀運動」が1958年に始まった(引用注:麻雀は中国語でスズメのこと)。

『北京人民日報』は「すべての人民が戦いに参加する必要がある ・・・・・・ 我々も革命家たちの粘り強さを受け継がなければならない」と人々を鼓舞した。この呼びかけに民衆は熱烈に応じた。北京だけでも三百万人の人員がスズメの駆除に動員されたのである。スズメを撃ち落とすために、学生ライフル隊が組織され、巣はことごとく破壊され、卵は割られ、雛は殺された。騒音でスズメを追い払うために、鍋をたたく者もいた。着陸できないままずっと飛び続け、最後は力つきて空から落ちてくるスズメもたくさんいたそうだ。

おびえた小鳥は安全な場所を求めた。例えば北京のポーランド大使館。だが、大使館には彼らを難民として受け入れるつもりはなかったようだ。大使館も太鼓をたたくボランティア市民で取り囲まれたため、スズメたちはゆっくりと羽休めをすることができなかった。太鼓の音が鳴り続いた。二日後、死んだスズメを取り除くために、大使館員がシャベルを使わなけれればならなかったほどだ。一年以内におよそ十億羽のスズメが殺されたと言われている。実質的に、中国ではスズメが絶滅したと言えるだろう。

しかし、この破壊行為の発案者はスズメの大切な役割について何ひとつ考えを巡らせていなかったようだ。解剖してみたところ、スズメの主食は穀物ではなく昆虫だということがわかった。だが、これは予想できたことだ。中国を代表する鳥類学者である郑作新(引用注:Zheng Zuohin, 1906-1998)がすでに、スズメが害虫の駆除に欠かせない存在であると警告していたのだから。

これを批判と理解した毛沢東は郑作新を「反動的権威」と決めつけ、彼を再教育したうえで重労働に課した。1959年になって、党はようやく現実に屈したのだが、時すでに遅しだった。スズメはイナゴにとって唯一の天敵なのだが、そのスズメがいなくなったことで、イナゴの数が爆発的に増えたのである。中国全土で、イナゴは誰にも邪魔されずに作物を食い荒らした

この大失態により、中国は180度の方向転換を余儀なくされる。ソ連からスズメを輸入したのである。しかし、作物はすでに取り返しがつかないほど大きな損害を受けていた。そこに大躍進政策のほかの失政が重なって、状況はさらに悪化していった。この近視眼的政策がもたらしたのが1958年から1962年まで続いた「中国大飢饉」だ。この悲劇によって、1500万から4500万の罪のない人々が命を落としたと言われている。

デヴィッド・ロバート・グライムス
『まどわされない思考』 p.12
長谷川 圭 訳(角川書店 2020)

これは「浅はかな考えで行動すると恐ろしい結果になる」ことの(極端な)例です。特に、中国を代表する鳥類学者の警告に耳をかさなかったのが、「批判的思考がないと起こる最悪の事例」になっています。



この「打麻雀運動」のくだりを読んで思ったのですが、これは「カリスマ独裁者が支配する共産党独裁政権で起こった特殊な出来事」なのでしょうか。そうとも言えないと思います。

現在日本で最も深刻な生態系被害をもたらしている外来動物はマングースです。マングースは毒ヘビのハブを退治するために、動物学の権威であった東大教授の提唱で1910年(明治43年)に沖縄本島に持ち込まれました。そして1979年には奄美大島にも導入されました。

しかし1980年代になって研究者がマングースの胃の内容物や糞を分析した結果、ハブを食べている個体はほとんどいないことが分かりました(この経緯は中国のスズメとそっくりです)。代わりに沖縄本島ではヤンバルクイナ、奄美大島ではアマミノクロウサギなどの沖縄の固有種(この2種は天然記念物で、かつ絶滅危惧種)が犠牲になっていることが分かったのです。マングースもバカではありません。命がけで毒ヘビを襲うより、飛べない鳥を食べた方がラクというものです。加えて、マングースは昼間に活動し、ハブは夜行性です。そもそもマングースとハブが自然界で出会うチャンスは少ないのです。

環境省は2000年からマングースの駆除をはじめました。これにかかる費用は年間数億円の規模です。マングースの個体数は減ってきたようですが、現在までに完全駆除できたわけはありません。これからも多額の予算が投下され続けるわけです。

この経緯は、スズメの駆除が一因となって飢饉に陥り、あわててスズメを外国から輸入した中国とは逆のパターンです。しかし「浅はかな考えで行動すると、とんでもないことになる」ことは共通しています。しかも、マングースの導入を提唱したのが最高学府のれっきとした動物学者というところが、中国よりも "浅はか" かもしれない。「本当に自然界でマングースがハブを補食するのか」という批判的思考をする学者や官僚が少しでもいたら、こうはならなかったでしょう。



本書に戻って、著者が「打麻雀運動」を例に出したのは、批判的に考えることの重要性を指摘したかったからでした。


人の知性は確かに間違いを犯すこともあるが、同時にその誤りから学ぶというユニークな才能も備えている。どんな場面で間違えやすいかを知ることができれば、誤った考え方をしないで済む。

眉唾ものの話やあからさまな嘘が作り出す騒音 ─── 打麻雀運動で鍋をたたく音の現代版 ─── に取り囲まれた生活の中でも正しい決断を下したいと願うなら、私たちは誤った考え方が生じやすい場面を知り、騒音から意味あるシグナルを切り離す方法を学ばなくてはならない。難しいことのように思えるかもしれないが、私たちには強力な武器がある。批判的に考える能力だ。

『まどわされない思考』 p.16

この引用部分が本書のテーマになっています。「誤った考え方が生じやすい場面を知り、批判的に考える能力をつける」というところです。さらに著者は、そのときに重要な点をあげています。

◆ 思考の道筋を、いつも、最後まで、論理的にたどること。

◆ エビデンス、つまり明らかな事実を頼りにすること。

◆ 自分の信念に対して、他人の信念と同じぐらいに厳しい疑いの目を向けること。

◆ 間違った考えや信念を、それがどれだけ心地よいものであっても、捨てる覚悟を持つこと。

◆ 導き出した結論が気に入るかどうか、自分の世界観に合っているかより、その結論がエビデンスと論理によって導き出されたものかどうかを重視すること。

これで明らかなように、批判的思考は自分の考えに対して批判的に考えることも含みます。

現代は特に「批判的に考える」ことが重要です。その理由は、新聞・テレビ・ラジオといった従来メディアを凌駕するインターネットの発達、特にソーシャル・メディアの浸透です。ここでは玉石混淆、真実から嘘までのあらゆる情報が飛び交っていて、しかも情報を拡散させるのが極めて容易です。著者は「ソーシャル・メディアで共有されている記事の 59% が記事を読んでもいない人によって拡散されていると言われる」と書いていますが、いかにもありそうな話です。要するに、何らかの知的作業を行うことは一切なしに(もちろん批判的思考など全くなしに)情報が飛び交っている。

著者は「オンラインでいちばん共有されやすいのは強い感情」だとも言っています。これは米国科学アカデミーが2017年に行った調査でも裏付けられたそうです。怒り、恐怖、嫌悪、感情的表現に溢れた情報ほど共有されやすい。このことが、デマ、虚言、フェイク、偽ニュースの拡散に一役買っています。


ある大規模調査の結果が2018年に『サイエンス』誌で発表された。その調査では現代社会がいかに分断されているかを調べるために、2006年から2017年のあいだに激しい議論の対象となった12万6千件のニュース記事を分析したのだが、その結果を見て、おもわずハッとした。どの評価基準を用いても、デマとうわさが真実を完全に覆い隠し、どの話題でも虚言が支配的だったのだ。

「情報のあらゆるカテゴリーにおいて虚言は真実よりも圧倒的に遠く、速く、深く、そして広く拡散する。その効果はテロリズム、自然災害、科学、都市伝説、金融情報などよりも政治に関する偽ニュースではっきりしていた」。

この調査でもまた、コンテンツは感情的なものほど広く共有されることがわかった。そして偽りの物語は人々に嫌悪感、恐怖、あるいは直接的な怒りをわざと呼び起こすためにつくられていたのである。

『まどわされない思考』 p.19

偽りの物語は、いちど広まると簡単には訂正できません。長く人々に意識に残ります。これをインターネットの "利点" と見なして、プロパガンダ目的で偽ニュースを大量に流したのが、2016年の米国大統領選挙でした。そこには外国勢力もからんでいたことが明らかになりました。

偽りの物語が長く人々の意識に残るのは、心理学者が「真理の錯誤効果」と呼んでいるものが一因です。


ヒトラーは狡猾だっただけでなく優れた演説者でもあった。そして心理学者が「真理の錯誤効果」と呼ぶ現象に直感的に気づいていた。ある情報に何度もさらされると、人々はそれを真実だと信じやすくなるのである。

このことに気づいたのはヒトラーが最初だったわけではない。ナポレオン・ボナパルトは「話術において本当に重要なことはたった一つしかない。すなわち、繰り返しだ」と言ったとされている。

間違った話を何度も聞くと、人々は答えがわかっていない問題だけでなく、正確な答えを自分で知っている場合でも作り話のほうを信じてしまうことが、研究を通じて明らかにされている。

『まどわされない思考』 p.21

著者は、「いかに知能が優れていようとも、人間は感情的な動物に過ぎない。私たちは理性のないサル。疑わしい結論を信じ込み、軽率な行動を起こすことが多い」と書いています。だからこそ、本書のテーマである「批判的思考」が重要なのです。

本書は序章のあとに第1部から第6部までの構成になっています。以降、それぞれのセクションのさわりを紹介します。


第1部:形式的誤謬


本書の第1部は「理性の欠如」というタイトルがついていますが「形式的誤謬ごびゅう」を扱っています。主張の論理構造が誤っていたり矛盾している例です。これを意図的に行うのが「詭弁」です。何点か紹介します。

 後件肯定の誤謬と陰謀論 

「後件肯定」とは論理学の用語で、日常生活では使いませんが、別に難しいことではありません。後件肯定の誤謬とは、

前提1  :  P は Q である。
前提2  :  Q である。
結論  :  従って、P である。

とする形式的誤謬です。「P は Q である」の P が「前件」、Q が「後件」です。紛らわしいのは「後件肯定」における結論が、結論だけをとると正しいことがあることです。

前提1  :  すべての人間は死ぬ。
前提2  :  ソクラテスは死んだ。
結論  :  従って、ソクラテスは人間だった。

の結論は正しい。しかし人間のところを犬に置き換えると誤った結論になります。

前提1  :  すべての犬は死ぬ。
前提2  :  ソクラテスは死んだ。
結論  :  従って、ソクラテスは犬だった。

著者は、世の中で広まっている「陰謀論」の根幹にはこの「後件肯定」があり「よこしまな論証があたかも正当であるかのような幻想を作り出す」と指摘しています。陰謀論とは「世の中で起こった大きな事件や事故、出来事が、実は隠れた勢力が裏で引き起こした陰謀である」という論ですが、その例として著者は「9.11事件」を取り上げています。

2001年9月11日、アメリカでイスラム過激派によって4機の旅客機が同時にハイジャックされました。まずアメリカン航空11便が、ニューヨークのツイン・タワーの北棟、93階と99階のあいだに時速790kmのスピードで突入しました。その数分後、ユナイテッド航空175便が南棟の77階と85階のあいだに時速960kmで突っ込んだ。この攻撃によりツインタワーは激しい炎に包まれ、タワーそのものが崩壊し、世界中の人々を愕然とさせました。

別の場所では、アメリカン航空77便のハイジャック犯が旅客機もろとも国防総省に突入しました。またユナイテッド航空93便では勇敢な乗客たちがハイジャック犯に反撃し、自らの命を投げうって目的地に到達する前に飛行機を墜落に導きました。この飛行機の攻撃の目的地はワシントンの政治中枢だと言われています。

このアメリカ史上最悪のテロによって2996人の命が失われました。世界で最も強大な国家の中枢に攻撃を仕掛けるという大胆さに世界は動揺し、ツインタワーが崩れ落ちるイメージが人々の意識に刻み込まれた。しかしツインタワー崩壊の煙が収まらない時から「陰謀論」が広まり始めたのです。


しかし、まだ煙が収まっていないころから、陰謀を疑う声がすでにささやかれていた。残虐行為の余波のなか、簡単な答えが見つからない。その空白を埋めるように陰謀論が広まったのである。暗い憶測が盛んにささやかれ、すべてを網羅する手の込んだ物語が生まれた。多くの人が、ジェット燃料が燃えたぐらいで鋼鉄の梁(はり)が溶けることはないと主張した。ツインタワーは計画的に爆破されたのだと言う者もいた。

また、個人の先入観によって、事件の "真犯人" の正体についてもさまざまなバージョンが語られた。国内の政治的な流れを変えるために、攻撃は単純に黙認されていたと主張する者もいたほどだ。米国政府が秘密裏に行った作戦だ、あるいはモサドの仕業だという声も聞かれた。

『まどわされない思考』 p.41

この事件後、インターネット上では陰謀論が大流行します。ビデオも大量にアップされました。「9.11テロの真実を求める運動」は "トゥルーサー" 運動と呼ばれ、次第に一般の人々に浸透していきます。これらの陰謀論には共通点がありました。それは「公式の説明は信用できない」という態度です。

この "陰謀論の火" に油を注いだのが、2003年のブッシュ政権のイラク侵攻でした。9.11テロを起こしたアルカイダとイラクのフセイン政権を結びつける証拠が何もない状況の中で、ブッシュ政権はイラクが大量破壊兵器を保有しているという "話" をもとにイラクに侵攻したのです。この「大量破壊兵器の保有」は、後に全くの捏造であることが分かりました。こういったブッシュ政権の不誠実な態度が「9.11テロ陰謀論」に拍車をかけたのです。

しかし、この種の陰謀論は簡単に論破できると著者は書いています。その例として「ジェット燃料が燃えたぐらいで鋼鉄のはりが溶けることはない」「人為的な爆発がタワーを崩壊させた」という主張を考えてみましょう。


今もよく聞かれる流言を例にみてみよう。ジェット燃料には鉄骨を溶かす力がない、というのは真実だ。ジェット燃料の大部分は灯油でできていて、灯油はおよそ300度で燃えるのだが、スチールの融点はおよそ1510度なのだから。

9.11 トゥルーサーはこのちっぽけな真実に狂信的にしがみつくが、この態度こそが、彼らが力学の基本を完全に誤解している事実を明らかにしている。というのも、スチールは熱にさらされると急速に抗張力(引っ張り強さ)を失うのだ。590度で強度が通常の50%にまで下がる。当時のツインタワー内の温度では、いつもの10%程度の強度しかなかったと考えられる

地獄のような猛熱にさらされて、建物は単純に弱っていた。しかも構造そのものが大規模に破壊されていたため、床が落ち、それが下のフロアを破壊し、それが下の階へと連続して続く、俗に「パンケーキ効果」と呼ばれる現象が生じたのである。鉄骨は溶けなくても、単に強度を失うだけでタワーは崩れるのだ。このことはエンジニアや専門家が何度も繰り返し証明している。

連続する崩壊により大量の煙と空気が生じ、下の階に向けて順番に窓が砕け散った。燃えさかる灯油が階段やシャフトを流れ落ち、炎の塊がマンハッタンのスカイラインに噴出したものだから、「制御された爆発」がタワーを破壊したという憶測に火がついたのだろう。しかしながら、人の手による解体は下から上に行われるの普通で、その逆ではない。いずれにしても、そのようなシナリオを実行するには、誰にも見つからずに何トンもの爆発物を建物のなかに運び込まなければならなかったはずだ。

批判的なレンズを通してみると、9.11 トゥルーサー運動の信仰の柱は粉々に砕け散ったと言える。連邦緊急事態管理局、米国標準技術局、『ポピュラー・メカニクス』誌など、数多くの組織や機関がツインタワーの大惨事を包括的に調査し、陰謀論者のほぼすべての主張を覆している。9.11 委員会の調べでは、モハメド・アタが攻撃のリーダーで、ハイジャック犯の全員がビン・ラディンのアルカイダのメンバーだった。加えて委員会は、サダム・フセインとイラクは 9.11 にまったく関係していないと結論づけた。侵攻の口実として両者の関与を主張していた政治家たちは当惑したことだろう。

『まどわされない思考』 p.43

しかし 9.11トゥルーサー運動はその後も続き、本書の執筆時点でアメリカ人のおよそ 15% が 9.11 は「内部の者による工作」だったと考え、国民の半数は事件後の歴代政権が事件の真相を隠蔽していると信じているそうです。事件後10数年が経過してもそのような考えが消えないのはどうしてでしょうか。

著者はその大きな理由が「後件肯定」にあると指摘しています。「後件肯定」は陰謀論者がナンセンスを物語に仕立てる常套手段です。つまり陰謀論者は、

前提1  :  隠蔽工作がある場合、公式声明は我々の見解を否定するだろう。
前提2  :  公式声明は我々の主張を誤りだと証明した。
結論  :  従って、隠蔽工作があった。

という主張をします。これは「ソクラテスは犬だった」式の論理で、こじつけであることが明白です。しかしこのこじつけにより、陰謀論には証拠が欠けているという明白な事実でさえ、彼らの主張を裏付けるような印象を作り出すわけです。このこじつけに騙される人がいるのが、陰謀論が未だに消えない根幹の理由です。

 媒概念不周延の誤謬 

媒概念不周延とは論理学の難しい用語ですが、この用語が重要なわけではありません。用語の説明は後に回します。この誤謬を使った詭弁はよくあり、著書はそれを「(携帯電話などに使われる)無線電波がある種の癌を誘発する」という論で説明しています。

携帯電話の使用と脳腫瘍(膠芽腫こうがしゅ髄膜種ずいまくしゅなど)のリスクについては各国で疫学調査が行われましたが、今まで関係が見つかったことがありません。また他の腫瘍との関係が示されたこともありません。そもそも、1990年頃の携帯電話の普及率はほぼゼロでしたが、現在ではほぼ100%になっています。そして1990年代以降に脳腫瘍(ないしは他の腫瘍)が激増したことはないのです。しかしインターネット上には携帯電話の電波が癌を引き起こすという主張をするサイトが多数あります。

携帯電話に使われる無線電波は電磁波(Electromagnetic Wave)の一種ですが、電磁波を波長の短い方から(従ってエネルギーの強いものから)順に並べると以下のようになります。nm はナノ・メートル(10-9メートル)です。

・ 放射線(アルファ線やガンマ線やX線など):~ 10nm
・ 紫外線:10nm ~ 380nm
・ 可視光:380nm ~ 760nm
・ 赤外線:760nm ~ 1mm
・ 電波(マイクロ波):1mm ~ 1m
・ 電波(短波、中波、長波など):1m ~

電磁波の一部(放射線)は分子の化学結合を破り、原子から電子をはじき飛ばすほどのエネルギーを持っています。従って生体のDNAを傷つけ、結果として癌を引き起こすほどの力を秘めている。逆に、このことを利用して癌細胞を死滅させる医療に使われています(癌の放射線治療)。

しかし携帯電話に使われる無線はマイクロ波であり、波長は1mm~1m程度です。電磁波のエネルギーでみると、最もエネルギーの小さい可視光(700nm程度の赤色光)でさえ、最もエネルギーの大きい携帯電話用マイクロ波(波長 1mm程度)の1430倍ものエネルギーがあります。マイクロ波が癌を誘発するなら赤色光も癌を誘発するはずですが、そんなことはないのです。

「無線電波=癌のリスク」論者がわざわざ持ち出すのは、放射(Radiation)という単語が入った「電磁放射 Electromagnetic Radiation」という言葉です。ここでの Radiation は "媒体や空間を介したエネルギーの伝播" という意味ですが、単に Radiation と言うとアルファ線やX線などの放射線をも意味する。放射線は癌を誘発するリスクがあるので、そこがややこしいというか、言葉が曖昧なところです。この電磁放射という言葉を使って次のような論法が行われます。

前提1  :  すべての無線波は電磁放射である。
前提2  :  一部の電磁放射は癌を誘発する。
結論  :  従って、無線波は癌を誘発する。

これは典型的な「媒概念不周延の誤謬」です。媒概念とは前提にはあるが結論にはない概念のことで、上の論法では "電磁放射" がそれにあたります。また「周延」とは、概念 XXX について

すべての XXX は ・・・・・・ である
すべての XXX は ・・・・・・ でない

というように、XXX に属するものすべてについての命題が規定されていることです。それがされていない場合が「不周延」です。上の論法では「電磁放射」という媒概念が不周延なので「媒概念不周延の誤謬」となります。

上にように書いてみると論理的な誤りが明白ですが、演説などでは言葉をあやつって悪用されます。これは政治の世界でもよくあり、たとえば「共産主義者は増税を支持している。私の政敵は増税を支持している。従って、私の政敵は共産主義者だ」といった論法です。

 生存者バイアス 

生き残ったもの(残存しているもの)には、生き残っているということに起因する "偏り" があります。これが「生存者バイアス」です。


顕著な例を第二次世界大戦に見つけることができる。当時は致命的な高度で頻繁に空中戦が繰り広げられ、両陣営ともに多くの犠牲者を出していた。犠牲を減らすために、海軍分析センター(CNA)は戦闘機の弱点を特定することを目指して、帰還した穴だらけの機体を調査した。

被弾した機体から得たデータをつぶさに調べた分析官は、被害の広がりや場所をマッピングしてみた。機体の全域に被弾の跡が見られたのだが、不思議なことにいくつかの部位 ─── エンジンやコックピット ─── では大きな傷跡が見つからなかった。コックピットまわりのダメージを示すデータが少ないため、エンジニアはコックピット以外の部分を強化することを決めた。

しかし、エイブラハム・ウォルドという統計学者が、データが欠落している事実こそが重要であると気づき、まったく違うストーリーを語ったのだ。実際は、エンジンやコックピットにダメージを受けた戦闘機は炎に包まれて墜落したため、分析できるほどのデータが残っていなかったのだ。ウォルドの洞察が、CNAがそれまで苦労して積み重ねてきた仕事を真っ向から否定し、まったく違う結論にたどり着いたのだった。

『まどわされない思考』 p.77

この半世紀ほどにおける癌の発生率の増加も「生存者バイアス」と言えるでしょう。癌の増加を大気中の化学物質の増加や食品添加物に関連づける言説がありますが、それは違います。癌の発生リスクは加齢とともに増加します。従って高齢になるまで "生き残った" 人たちには癌の発生リスクが高いという "バイアス" が存在する。医療が進歩し、感染症で死ぬ人が少なくなり、世の中が高齢化すると癌の発生率は高くなるのが当然です。

 チェリーピッキングの誤謬 

エビデンスの中から自分に都合のよいものだけを選び、その他のものは排除ないしは無視することを "チェリーピッキング" と呼びます。チェリーとは "さくらんぼ" のことですが、熟れたさくらんぼを選別して選ぶところからこの名前があります。

よく健康食品の販売コマーシャルに「お客様の声」があります。「これを食べ出してから(飲み出してから)元気になりました」という "声" ですが、それ自体はユーザの意見として嘘ではないのでしょう。しかし「健康状態は変わらない」「悪くなった」という声は採用されません。良かったという声だけをチェリーピッキングしてコマーシャルを打っているわけです。

代替医療というのがあります。現代の医学では治療法として認められていない民間療法や、あやしげな療法を言いますが、人間の体は複雑なので、そのような代替医療で治癒したように見えることはあるわけです。たまたまなのかも知れないし、プラセボ効果かもしれないし、人間の免疫機構が病気に勝ったのかも知れない。代替医療の推進者は、こういう例だけをチェリーピッキングして宣伝をします。

著者は、チェリーピッキングの典型例が霊能者だと言っています。たとえば、犯罪に使われた物品をもとに犯罪詳細を言い当てるといった例です。これは確率的に "当たる" ことがある。その当たった例だけをチェリーピッキングすると "霊能" があるように見せかけられます。

気候変動は起こっていないとする否定論もチェリーピッキングです。科学者の出した膨大なデータは気候変動を示していますが、中には(地域や測定項目によっては)起こっていないとするデータもある。そういったデータにしがみついているのが否定論者です。

ビジネスに成功した人をとりあげて、成功の要因をあげるのもチェリーピッキングに近いでしょう。同じようにやって成功しなかった多数の人がいると想定できるからです。


第2部:非形式的誤謬


「純粋で単純な真実?」と題された第2部は非形式的誤謬を扱っています。

 権威に訴える論証 

著者は、世の中で非常に権威のある人が言っているから正しいと考えてしまう傾向、ないしは権威者がその権威を背景に論じることを「権威に訴える論証」と呼んでいます。これは典型的な非形式的誤謬です。

「ビタミンCをとれば風邪の予防になる」という噂を聞いた人は多いはずですが、この噂のもとをたどると米国のライナス・ポーリングに行き当たります。ポーリングは量子化学の権威で、1954年のノーベル化学賞に輝きました。また、核兵器に対する反対運動を主導したことで1962年にノーベル平和賞が授けられています。ノーベル賞を個人で2回受賞したのは数人いて、有名なのはキュリー夫人です(物理学賞と化学賞)。しかし化学賞と平和賞という異分野で受賞したのはポーリングだけです。

ポーリングは1960年代の講演で「科学の進歩を見届けるためにあと25年は生きたい」と発言ましたが、その聴衆の中のアーウィン・ストーンというい人物がいました。この人物はポーリングに手紙を書き、1日3000ミリグラムのビタミンCを活力の源として推奨しました。ここから話は変な方向に進み出します。


疑い深い人ならそのようなアドバイスをあやしげな、あるいはくだらないとみなして相手にしなかったかもしれない。しかし、ポーリングはストーンの助言に従うことにした。そしてその後すぐに、エネルギーが吹き込まれ、以前よりも風邪をひきにくくなった気がする、と報告したのである。夢中になったポーリングは、それから数年をかけて1日に1万8000ミリグラムという驚異的な量にたどりついた。熱烈なビタミンC信者になったといえるだろう。

1970年、ポーリングはこのテーマに関する初の大作『Vitamine C and the Common Cold(ライナス・ポーリングのビタミンCとかぜ、インフルエンザ)』を執筆し、ビタミンの大量摂取の素晴らしさを絶賛した。この本はベストセラーになった。一夜にして、風邪を予防できると信じた人々は大量のビタミンCを買うようになった。一部の地域では、年間の販売数が十倍にも増え、生産が追いつかなくなったほどだ。ビタミンCが病気の煩わしさを防いでくれるという安心のメッセージがアメリカから世界へと伝わっていった。何しろ、ノーベル賞を2度も受賞した男のアドバイスなのだから

だが、ポーリングの熱心な布教活動には、確かな根拠が欠けていたようだ。ほんの少しの逸話は別として、ビタミンCの大量摂取に明らかな利点があることを確実に示す証拠が、単純に存在しないのである。

『まどわされない思考』 p.88

ポーリングはその後、ビタミンCの大量摂取は癌や蛇の毒、エイズまでに利く万能薬と主張し出したようです。

ビタミンCは体に必須なので(しかも体内で合成できない)、不足するとまずいことがいろいろ起こることは想定できます(ビタミンC欠乏症の代表は壊血病)。免疫力が低下して風邪をひきやすくなるかもしれない。しかし、1日の必要量(成人男性で100mg程度。厚生労働省の推奨量)を遙かに超える量を摂取しても排泄されるだけです。大量摂取による重篤な副作用はないようですが、重度の膨満感や下痢が起きやすくなることはあるようです。

ポーリングの例は、ある分野に精通しているからといって他の分野でも精通していたり知識があるわけではないことを示しています。ノーベル賞を2度もとった "権威" で判断してはいけないのです。

 単一原因の誤謬 

人間は、原因と結果がはっきりしている単純な物語を好みます。このことが起因して "問題を単純化する誤り" を犯しやすい。その一つが「単一原因の誤謬」です。これは物事の原因を一つに決めてしまう誤りです。

多くの事象は複数の原因や要因によって成立しています。物事をあまりに単純化することは何の役にもたちません。しかし政治やメディアの議論では、うんざりするほど「単一原因の誤謬」があるのが現状です。

 誤った二分法 

「誤った二分法」も "問題を単純化する誤り" の一つです。他にもたくさんの選択肢があるにもかかわらず、2つの極端な項目しか選択の対象にしない。これは扇動政治家が好んで用いる論法です。「我々の提案に完全に同意しないのなら、君は敵だ」という論法です。

上の方の引用で9.11事件の後に巻き起こった陰謀論のことを書きましたが、その9.11のあとの米国議会の合同会議で、ジョージ・ブッシュ大統領は世界の国家に警告を発しました。「我々とともにあるか、それともテロリストとともにあるか」。これは典型的な「誤った二分法」です。

「誤った二分法」を使うと2極化が避けられません。また過激主義を助長します。建設的な議論を封じ、実用的な解決策を台無しにします。これはソーシャルメディアでも顕著です。著者は「数多くのニュアンスを含む複雑な話題が、正反対の解釈だけを許す2つの対立項にまで単純化されている」と書いています。

 前後即因果の誤謬 

「前後即因果の誤謬」とは「一つの事象のあとにもう一つの事象が続いたという事実だけにもとづいて両者間の因果関係を認めてしまう飛躍した考えた方」を言います。著者はこれを幼児の予防接種と自閉症の関係で説明しています。


1998年、ウェイクフィールド(引用注:イギリス人の胃腸科医)を筆頭とした共同執筆陣が高名な医学誌『ランセット』で自閉症を発症した12人の子供たちに関する論文を発表し、自閉症に関連する腸内症状のパターンを発見したと主張した。彼らはそれを「自閉症的腸炎」と名付けた一方で、論文の議論セクションの奥深くで、もしかすると麻疹のワクチン接種が関係しているのかもしれない、と示唆した。ただし、これは裏付けとなるデータがなかったので、ただの憶測あるいは仮定と呼ぶにふさわしい主張だった。普通なら、そのような薄っぺらな推測は根拠がないと否定されただろう。

ところがウェイクフィールドは異例の手段に出る ─── 記者会見を開いたのだ。学者として地道な研究をすることなく、ウェイクフィールドは通称MMRこと "麻疹・おたふく風邪・風疹ワクチン" が自閉症に関連している証拠を見つけたと発表し、この三種混合ワクチンは安全ではないと主張した。この主張が、増えつつある自閉症に対する人々の不安をあおったのである。

『まどわされない思考』 p.110

これをきっかけに報道機関は大々的にこの話題を取り上げ、イギリス中が騒動になりました。これは大きな犠牲を生みました。イギリスのみならず西ヨーロッパにおける予防接種の接種率が大幅に低下し、麻疹などへの感染率が上昇したのです。

しかしこの論文にはデータの改竄があることが判明し、『ランセット』は論文を撤回し、ウェイクフィールドは医師免許を剥奪されました。「自閉症的腸炎」は、ウェイクフィールドが捏造したエビデンスだけに裏付けられた作り話だったのです

ちなみに日本における3種混合ワクチンとは「ジフテリア・百日咳・破傷風ワクチン」であり、MMR(麻疹・おたふく風邪・風疹ワクチン)は「新・3種混合」と呼ばれたことがありました。ただしMMRは副作用の問題から(もちろん自閉症ではない軽度の副作用)、日本では接種が中断されています。

しかしこの騒動の後遺症は大きく、いまだに多くの人はMMRが自閉症の原因だと信じていると言います。著者はその原因が「前後即因果の誤謬」にあると指摘しています。


すべての証拠が詐欺を示しているにもかかわらず、いまだに数多くの人がウェイクフィールドを支持し、MMR が子供たちの自閉症の原因だと信じている。彼らがそう信じるようになったいちばんの理由は、その時間差はまちまちでも、とにかくワクチン接種のあとに子供たちが自閉症の兆候を示したことにある。これは「前後即因果の誤謬」の恐ろしく極端な例といえるだろう。

確かに、この誤謬は単純なので魅力的だが、結論が純粋に間違っているのである。ワクチン接種は自閉症の発症率の上昇と何ら関係がない。発症率が上がった本当の理由は、自閉症の診断基準が緩和されたことにあると考えて間違いないだろう。また、ワクチン接種のあとに自閉症が発症するという事実も驚きに値しない。自閉症の症状は幼児期に現れるものであり、主要な兆候であるコミュニケーション障害が明らかになるのは2歳から3歳ぐらい、予防接種を受けてまもない時期なのだ。しかし、今回の件では、人々が原因と結果を誤って結びつけた主張を信用し、パニックが広がってしまった。

『まどわされない思考』 p.114

MMRにかかわらず、ワクチン反対運動やワクチン接種率の低下はゆゆしき問題です。WHOは2019年に初めて、全世界の健康に対する脅威のトップ10の中にワクチン接種への抵抗を入れたそうです。

 本質に訴える論証 

白人至上主義という思想をもつ人たちがいます。彼らは「白人に共通する本質的な性格があると仮定する誤り」を犯しています。このように「本質的な何かがある」との仮定のもとに主張することを著書は「本質に訴える論証」と呼んでいます。白人については、著者は次のように書いています。


白い肌は典型的なヨーロッパ人種あるいはアーリア人種が有する特徴だ。しかし、白い肌は複雑な期限をもつとはいえ、つい最近起こった比較的単純な突然変異に過ぎない。

およそ4万年前にアフリカからやってきてヨーロッパに定住した最初の現世人類は肌の色が黒かった。日光が強い緯度で生活するのには、暗い肌のほうが適してうたからだ。8500年前もまだ、中央ヨーロッパでは黒っぽい肌が普通だった。大陸の北部では、自然淘汰がすでに始まり、明るい肌が増えていった。

スウェーデンのムータラにある移籍発掘現場で見つかった7700年前の人体を調べたところ、肌の色素を減らして明るい色にする SLC24A5 および SLC45A2 遺伝子が、加えて青い瞳と明るい髪になる HERC2/OCA2 遺伝子が見つかったのである。どれも光が少ない環境でもビタミンDの生成を最大限に確保するのに適した突然変異だ。

『まどわされない思考』 p.128

白い肌はヨーロッパ大陸の最北部で始まり、ヨーロッパ大陸全体に爆発的に増えたのは5800年前に過ぎません。「白色人種」はフィクションです。白色人種に本質的な何かがあるとの仮定にたった論証は単純に誤っています。

余談になりますが、フランスでは赤ちゃんや子どもにビタミンD入りのシロップを定期的に飲ませることが常識だと人から聞きました。我々日本人ではあまり考えられませんが、ビタミンDを獲得することは彼らにとっては切実な問題なのです。

この「本質に訴える論証」も、さまざまなところで聞かれます。「真の日本人にそのようなことをする人はいない」というような言い方も、その一つでしょう。

 自然に訴える論証 

証拠もあげずに「・・・・・・ が自然だ」「・・・・・・ は不自然だ」と決めつけ、そこから論を展開するのが「自然に訴える論証」です。著者はこれを同性愛の例で説明しています。つまり「同姓愛は不自然、異性愛が自然」との前提から出発する論です。実際にカトリック教会では同性愛が極めて不自然な状態と見なされ「自然に反する罪」とされています。この考えは正しいのでしょうか。


自然界をざっと見渡しただけでも、この考えが間違っていることがはっきりとわかる。

動物界では同性愛は多く見られる現象で、キリン、ゾウ、イルカ、果ては人間を含む霊長類にいたるまで1500種の動物種で確認されているのだ。その多くは排他的ではない、つまり異性との性交も行われるのだが、なかには同性愛だけを行う動物カップルも存在する。よく知られている例を挙げると、イギリス国内の雄ヒツジの8パーセントがほかの雄としか交尾せず、雌に興味を示さない。

自然界の "性癖" は人間に関係ない、などということはありえない。なぜなら、私たちが自分自身をいかに高く評価しようとも、人間も動物界の一部なのだから。唯一の違いは、私たちにはそのことを認識できる前頭前野が備わっていることだけだ。

『まどわされない思考』 p.136

 藁人形論法 

「藁人形論法」とは、相手の主張の代わりになる何か(=藁人形。ストローマン)を設定し、それを攻撃して主張そのものを論破したかのような印象を与える言説です。

ダーウィンが進化論を発表したとき、イギリスで進化論を攻撃するのに使われたのが「藁人形論法」です。攻撃論者は「進化論は変化した猿を人間の起源とする説」だと言いふらし、ダーウィンの主張を歪めた「藁人形」を作って攻撃しました。もちろんダーウィンはそんなことは言っていません。現代風に言うと、人間と霊長類の共通の祖先から、突然変異と自然選択の繰り返しで段々と進化して人間ができたわけです。


第3部:思考の罠


第3部「思考の罠」では、我々が陥りやすい思考の落とし穴について述べられています。そのうち「確証バイアス」と「認知的不協和」について紹介します。

 確証バイアス 

「自分がもとからもっている信念や世界観に一致する情報ばかりを集めたり組み立てたりして、反する情報は軽視する傾向」を「確証バイアス」と言います。

日本でもよく災害時の避難で「確証バイアス」が話題になります。自分は災害にあわないという "根拠のない思い込み" をしている人は、まだ避難しなくても大丈夫ということにつながる情報だけを採用し、危険が間近に迫っていることを裏付ける情報を軽視して、結果として災害死してしまう。そういったときに使います。

この「確証バイアス」は、次の「認知的不協和」と密接な関係があります。

 認知的不協和 

心理学でいう「認知的不協和とその解消」については、No.129「音楽を愛でるサル(2)」で、イソップ寓話 "キツネとブドウ" をあげて説明しました。飢えたキツネが実ったブドウをみつけ、取ろうと飛び上がるがどうしても取れない。とうとうキツネは「あのブドウは酸っぱくて食えない」と言って立ち去ったという寓話です。「食べたい」のに「取れない」という "不協和" を、「あのブドウは酸っぱい」との "負け惜しみ" で現実を否定して "解消" したわけです。

本書ではこの認知的不協和とその解消を、次のように説明しています。


相反する情報に直面したとき、私たちはその不快感を押さえようとする。その際、先入観の方が間違っていた、あるいは不完全だったのかもしれないと ─── 理想的な科学者のように ─── 考えて、新たなエビデンスに照らし合わせて自分の見方を再検討することができるだろう。

しかしながら、イデオロギー的傾向を変えるのは認知的にもとても大変な作業になる。だから簡単な道を選んで、自分の信念を守るために現実のほうを否定してしまうのだ。

『まどわされない思考』 p.170

この認知的不協和の例として、本書は「気候変動の否定論」をあげています。保守的な考えをもち、自由主義市場を強く信じる政治家や有権者ほど気候変動を否定する傾向が強いのです。なぜでしょうか。


自由主義市場をよしとする人々にとって、気候変動は信念に大きく矛盾する概念だ。人が気候変動を引き起こしているという説を受け入れてしまえば、それを抑制する行動を起こさなければならなくなる。しかし、自由を愛する者たちの多くにとって、規制という名の悪魔はとうてい受け入れられる存在ではない。

信じるか否定するかにかかわらず、気候変動は誰にでも影響する。つまり、天然資源を無制限に使いつづけることは、他人の財産権を侵害する行為と呼べる。不法侵入と同じようなものだ。したがって、財産権という幻想はもろくも崩れ去ってしまう。

このジレンマに気づいたとき、自由市場主義者の一部は認知的不協和を解消するために、自分の理念を見直したほうがいいかもしれないと考える代わりに、気候が変動しているという事実そのものを否定する手段を選んだのである。

『まどわされない思考』 p.178


第4部:確率・統計の誤謬


第4部は「嘘、大嘘、そして統計」と題されています。この題はアメリカの文豪、マーク・トウェインの著述で広まったもので、「嘘には三種類ある。嘘、まっかな嘘、そして統計」という警句です。

 相関関係は因果関係ではない 

相関関係は因果関係ではないことは、このブログでもNo.83-84「社会調査のウソ」No.223「因果関係を見極める」で取り上げました。本書でもこの話題がありますが、端的に示すために、

アイスクリームの売り上げと溺死件数には明白な相関関係がある

と書いてあります。なるほど、これは分かりやすい例です。アイスクリームが売れると、そのことが原因で溺死事故が増える(=因果関係がある)とは誰も考えません。もちろんこれは「高温の晴れた日」が隠れた変数(=潜伏変数。交絡変数という言い方もある)になっていて、この変数が「アイスクリームの売り上げ」および「溺死件数」の2つと因果関係にあり、そのことで2つの間に相関関係が発生するわけです。

 シンプソンのパラドックス 

ある集団の統計と、その集団を部分に分割したときの統計は、矛盾する関係になることがあります。これを「シンプソンのパラドックス」と呼んでいます。


1973年、カリフォルニア大学バークレー校が性的差別で訴えられた。見たところ、証拠も十分に思えた。同有名大学に志願した男性のうち 44% が入学許可を得たのだが、女性志願者で入学できたのは 35% に過ぎなかったのである。

こんなに差があるのはおかしい。入学プロセスで女性が差別されているに違いない。この主張のもと、差別の存在を暴いて、是正を求めるために大学を訴えたのである。

しかしその後の調査により、奇妙な事実が浮かび上がった。入学データを分析したところ、「ほとんどの学部において、小さいながらも明らかに有意な偏りがあり、女性が優遇されていた」事実が見つかったのである。

なぜ、対立する二つの見解が生じたのであろうか。各学部で女性の方が男性より受け入れやすいのだとしたら、なぜそれが最初の統計に反映されていないのだろう?

このパラドックスの原因は、入学データをもう少し詳しく見ると明らかになる。そのなかに、"入学のパーセンテージ統計" に直接現れないパターンが隠れているのだ。男性は平均的に、工学部などの入学許可率の高い、つまり競争の少ない学部に志願する傾向があった。その一方で女性は英語学部のような、優等生が集中する競争率の極めて高い学部に志願することが多かったのである。

『まどわされない思考』 p.257

本書には数字の例が書いていないので、仮想的に作ってみます。いま、ある大学があって工学部と英語学部の2学部しかないとします。各学部の定員と男女別受験者数・合格者数を仮定して作ったのが次の表です。

シンプソンのパラドックス
工学部 英語学部 全学
定員  1000   100   1100 
男子 受験生 3000  625  3625 
合格者  930   50   980 
合格率  31%   8%   27% 
女子 受験生  200   500   700 
合格者  70   50   120 
合格率  35%   10%   17% 
受験生  3200   1125   4325 
合格者  1000   100   1100 
合格率 31%  9%  25% 

工学部と英語学部とも女子の方が合格率が高いのに、全学では圧倒的に男子の合格率が高いことになります。一瞬、間違っているのではと疑ってしまいますが、計算は正確です。人数が少ない女子受験生が合格率の低い英語学部に集中すると、こういう結果になってもおかしくないのです。

 感度と特異度 

本書には(偶然にもタイムリーな話題として)感染症の検査にかかわる統計・確率の話が出てきます。

ある感染症にかかっている人が検査で陽性と判断される確率を、その検査の「感度」と呼びます。また、感染症にかかっていない人が検査で「陰性」と判断される確率を、その検査の「特異度」と呼びます。

もちろん感度も特異度も100%が望ましいのですが、そうはなりません。つまり、検査で「陽性」と判断された人が実は感染していないということが起きる(=疑陽性)。その反対に、検査で陰性と判断された人が実は感染している(=疑陰性)ということも起こります。

検査で「陽性」と判断された人が、真に感染症にかかっている確率を「真陽性率」と呼びます。

エイズの検査(HIVウイルスのキャリアかどうかの検査)は感度も特異度も高いことで知られています。今、感度も特異度も 99.99% とします。実際はもう少し低いようですが、真陽性率の意味を明確にするためにこの値とします。つまりエイズ検査では 99.99% の高い精度で、その人がHIVウイルスに感染しているかどうかが(感染していても、していなくても)判定できるとします。

この仮定のもとで、真陽性率が 50%、つまりHIV陽性と判定された人が真にHIVに感染している確率が 50%ということが起こり得えます。それは検査した集団の感染率が非常に低い場合です。10,000人に1人が感染している例で表を作ってみると次のようになります。

1万人のうち1人が感染している場合
検査人数 陽性判定 陰性判定
感染者  1   1   0 
非感染者  9999   1   9998 
合計  10000   2   9998 

真陽性率 = 1/2 = 50% です。一方、感染率の高い集団の検査は様子が違ってきます。

1万人のうち150人が感染している場合
検査人数 陽性判定 陰性判定
感染者  150   150   0 
非感染者  9850   1   9849 
合計  10000   151   9849 

真陽性率は 150/151 = 99.34% になります。



ここで本書にはありませんが、新型コロナウイルスのPCR検査ではどうなるかを見てみます。新型コロナウイルスのPCR検査の感度と特異度は正確にはわからないの現状です。正確に知るためにはPCR検査以外の方法で感染者・非感染者を正確に判別し、その人たち多数のPCR検査をして調べる必要があります。しかし「新型」なのでPCR検査以上に正確に判定する手段がありません。また感染してからの時間経緯とともに感度が変わってくるということもあります。政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会は、

・感度 70%
・特異度 99.9%

と推定しています(日本経済新聞 2020年9月4日による)。これをとりあえずの値として「集団の感染率によって真陽性率がどう変化するか」を計算してみたのが次のグラフです。

真陽性率.jpg
新型コロナウイルスのPCR検査の真陽性率
横軸は検査した集団の感染率。縦軸は陽性と判定された人が真に感染している確率(真陽性率)。感染率 0.14% の集団のPCR検査を実施すると真陽性率は50%である。感染率が 1.27% の集団になって真陽性率が 90% になる。PCR検査の感度は 70%、特異度は 99.9% とした。

このグラフから明らかなように、感染率0.14%の集団(1万人に14人の感染者)のPCR検査を実施すると真陽性率は50%です。つまり陽性と出ても感染しているかしていないかは全く不明です。感染率が1.27%の集団(1万人に127人の感染者)になって初めて真陽性率が90%になります。

新型コロナウイルスのPCR検査について専門家の多くの意見は「増やすべき。ただし増やすやりかたは慎重に」というものだと思います。その裏には上記のような感度・特異度の問題があるわけです。


第5部:メディアが人々を惑わす


「世界のニュース」と題されている第5部は、メディアが人々を惑わしている例です。この中kら「偽りのバランス」を紹介します。

 偽りのバランス 

「対立する見解を、それぞれの見解を裏付ける証拠に大きな違いがあるにもかかわらず、同等に扱う」ことを、本書では「偽りのバランス」と呼んでいます。これは報道機関が犯す典型的なあやまちです。著者によると、2016年の米国の大統領選挙(ドナルド・トランプ 対 ヒラリー・クリントン)では、トランプ陣営からの嘘やフェイク、根拠のない決めつけが圧倒的に多かったにもかかわらず、同等に扱ったのがその例です。

「偽りのバランス」の科学版も考えられます。喫煙が肺癌を引き起こすというデータは膨大にありますが、喫煙が肺癌を引き起こさないというデータはわずかしかありあません。この両者を対等に扱う報道やTV番組はおかしいのです。

気候変動もそうです。気候変動が起こっていることを示すデータは膨大にありますが、起こっていないことを示すデータはわずかです。この両者を対等に扱うべきではない。本書には、MITの科学ジャーナリズム・ナイト・センターの所長を務めるボイス・レンズバーガー(Boyce Rensberger)の意見として「バランスのとれた科学報道とは、議論の両見解を等しく重いものとして扱うことを意味していない。証拠のバランスに応じて、重みを配分することを意味している」と書かれています。全くその通りでしょう。


第6部:疑似科学


「暗闇に立つろうそく」と題された第6章は「疑似科学」を扱っています。たとえば次のような例です。


『ネイチャー』は世界で最も権威のある学術雑誌として知られる。この由緒正しい雑誌の神聖なページを埋める論文は、科学界の注目を浴びることになる。

1988年、フランス人免疫学者が発した驚くべき主張が、学術界を超えて大反響を呼んだ。ジャック・パンヴェニストが、人の抗体をその存在が完全に消えてなくなるほど薄く希釈したにもかかわらず、その溶液をしっかりと振ると免疫反応をみせた、と発表したのである。パンヴェニストにとって、それは水がかつて自分に含まれていた物質を何らかの形で記憶していることを意味していた。彼自身の言葉を借りると、「車の鍵で川の水をかき回したあと、数マイル下流で数滴の水を採取して、それを使って車を起動する」ような話だ。

一部の人はこの現象を「水の記憶」と呼んだが、実際にはすでに昔から名前が付けられていた。「ホメオパシー」だ。

『まどわされない思考』 p.366

ホメオパシーはドイツ人医師ザムエル・ハーネマンが1807年に提唱したもので、"治療薬" を極端に薄めます。100倍の希釈を10数回から30回繰り返して "治療" に使います。100倍の希釈を30回も繰り返すと、もともとの "治療薬" の分子は1つも残らないことは明白なのですが、「水が記憶している」とするわけです。「ただの水」なので副作用はありませんが、プラセボ(偽薬)以上の効果はありません。

このような200年近く前の亡霊が、抗体の免疫反応という新たな装いで登場したわけです。このような論文をなぜ『ネイチャー』ともあろう雑誌が掲載したのか、その経緯と撤回の顛末が本書に書かれていますが、それは省略します。



この「溶液をしっかりと振ると免疫反応をみせた」というとことで、2014年に起こった「STAP細胞事件」を連想しました。分化が終わった細胞に熱や酸などの刺激を加えると再び分化する能力が獲得されたと、理化学研究所の研究者などが発表したものです。これは発表者でも再現実験ができず、第3者の調査委員会は実験室におけるES細胞の混入によるものと結論づけました。

これは科学者が意図的に、あるいは誤って作り出した疑似科学と呼べると思いますが、もっと一般的には、健康にかかわる商品である「マイナスイオンを発生させる家電商品」や「ゲルマニウムを使った健康器具」も、科学を装った疑似科学でしょう。



著者は、インターネット時代になり、一時廃れていた疑似科学が復活してきていると警告しています。たとえば、日本では行われていませんが、水道水にフッ素を混ぜるのは安全で虫歯予防に効果があることが確立してきましたが、インターネット時代になって反フッ素運動が復活し、癌や鬱病などの副作用があるとの主張がなされるようになりました。これらは一見、科学の装いをまっとっているので注意が必要です。


終わりに


本書のまとめである「終わりに」のセクションから2つの点を紹介します。一つはディベート(討論)の問題点です。


人間社会はこれまでずっと、何が真実かを決める方法として討論ディベートを採用してきた。しかし、討論では最も理にかなった主張ではなく、雄弁に語られる不正な主張が勝つことも多い。意見が対立しているときは、言葉巧みな人や、人々の心に火を付けるのがうまい者が、明確な推論を行う人を打ち負かす。

討論そのものが誤った二分法に陥り、本来さまざまだったはずの意見を偽りの二極対立にまでそぎ落とし、私たちにそのどちらかで決断を迫ることもまれではない。現実はもっと複雑であるはずなのに。

この二極化により、考えを変えたり、熟考の末に妥協点を見つけたりするのは不可能になる。あまりに頻繁に討論をしたせいで人はさらに分裂し、多くの知を得ることができなくなっている。

『まどわされない思考』 p.445

著者も指摘していますが、ディベートの問題点には「偽りのバランス」もあります。本来まったく重さの違う2つの見解が、討論の場では同じ価値をもつものとして扱われるという弊害です。

上の引用で思い出すのは高等教育などで行われるディベートの実習訓練で、本人の意志とは無関係にグループを賛成派と反対派に分け、それぞれの立場からディベートをするというやり方です。こういった訓練を何回も受けた人は、二分法でディベートを行うことに違和感がなくなり、たとえそれが「偽りの二分法」であっても知らず知らずのあいだに許容してしまうのでしょう。

最後に引用するのは、本書の序章に書かれていたことと同様の主旨が「人格を決めるのは考える能力」という言い方で再度強調されているところです。


私たちの自我は価値観や信念と深く結びついているので見落としがちだが、私たちの根幹をなすのは、私たちの考えそのものではないのである。人格を決めるのは信念ではなく、考える能力なのだ。

人間は間違える生き物。だが同時に、間違いを正す能力にも恵まれている。恥ずべきは、間違えることではなく、過ちを正そうとしない態度のほうだ。新しい情報に直面したとき、必要ならば間違ってる信念を捨てて、信実を ─── たとえそれが不快なものであっても ─── 受け入れる能力を身につけなければならない。

『まどわされない思考』 p.444

「人格を決めるのは信念ではなく、考える能力」というのは良い言葉だと思います。信念も重要だが、それ以上に考える能力、という言い方もありだと思います。このあたりが本書の結論でしょう。



本書は、まどわされやすいパターンを分類・列記し、それに名前をつけています。「確証バイアス」や「誤った二分法」などです。世の中で公式に使われる用語もあれば、著者が名付けた言葉もあります。この「名前をつける」ということが重要だと思いました。

人間は事物や概念に「名前をつけて」自己に取り込みます。名前をつけることで、それを引き出し、応用できます。「いま自分は、自分の信念にマッチした都合のよい情報だけを拾い上げているのではないだろうか」と考えるより「確証バイアスでないか」と考える方が、思考方法としては効率的で有効性が高い。「確証バイアス」という言葉とその意味を知ってしまえば、その言葉を使って考えることができます。テレビの討論番組をみるときにも「あれは "誤った二分法" じゃないか」と批判的に考えることができます。

本書のテーマである「批判的思考」ができるようになるためには、このあたりが大切であり、そこが本書の価値だと思いました。




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No.295 - タンギー爺さんの画中画 [アート]

このブログでは過去にさまざまな絵画を取り上げましたが、その中に「絵の中の絵」、いわゆる "画中画" が描かれたものがありました。しかも、画中画が絵のテーマと密接な関係にあるものです。今回はそういった絵の一つであるゴッホの作品について書くのが目的ですが、その前に過去に取り上げた画中画を振り返ってみたいと思います。


フェルメール


フェルメールの作品には、室内に左上から光が差し込み、人物がいて、後ろの壁には絵がある、という構図が多くあります。その一つが No.248「フェルメール:牛乳を注ぐ女」で引用した『窓辺で手紙を読む女』(1657頃。ドレスデン アルテ・マイスター絵画館所蔵)です。この絵の後の壁には何も描かれていないのですが、実は後世の誰かが壁を塗りつぶしたことが分かっています。そして、オリジナル復元のための修復を進めると、後の壁から画中画が出現したというニュースが2019年の5月に報道されました。修復の途中ですが、明らかにキューピッドの姿が見て取れます。

ということは、描かれた女性は恋人からラヴ・レターを読んでいることになります。フェルメール作品によくあるように、絵のテーマを画中画で表している。しかし・・・。

まだ修復途中だということが気になります。画中画の全容が明らかになると、キューピッドの下に何か別のアイテムが描かれていて、トータルすると恋の破局を表しているのかも知れません。

フェルメール「窓辺で手紙を読む女」(修復途中).jpg
フェルメール(1632-1675)
窓辺で手紙を読む女」(1657頃)
- 修復中の画像 -
ドレスデン アルテ・マイスター絵画館

なお、このブログで引用したフェルメールの作品では、No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の『天秤を持つ女』にも画中画が描かれています。後ろの壁の絵の画題は "最後の審判" であり、いかにも "意味ありげ" な雰囲気がひしひしと伝わってくるのでした。


ベラスケス


ベラスケスの『ラス・メニーナス』には、分かりにくいのですが、後ろの壁に2枚の大きな絵が描き込まれています。

No.19-6 LasMeninas.jpg
ベラスケス(1599-1660)
ラス・メニーナス」(1656)
プラド美術館

No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」で書いたように、2枚の絵はギリシャ神話がテーマです。左の絵はルーベンスの『パラスとアラクネ』で、右の絵はヨールダンスの『アポロンとパン』です。

ルーベンス「パラスとアラクネ」.jpg
ルーベンス(1577-1640)
パラスとアラクネ」(1636/37)
ヴァージニア美術館

Jordaens - Apollo as Victor over Pan.jpg
ヨルダーンス(1593-1678)
アポロンとパン」(1636/38)
プラド美術館

『パラスとアラクネ』の完成作の所在は不明ですが、ルーベンス自身が油彩で描いた下絵が現存しているので(上の引用)『ラス・メニーナス』の画中画だと特定できます。そして、この2つの絵には明らかな共通点があります。つまり、

技能の名手(人間・半人半獣)が、その技能をつかさどる神と競技をする

という共通点です。アラクネは機織りでパラスに挑み、半人半獣の牧神パンは笛でアポロンと音楽競技をしたのでした。このことからして『ラス・メニーナス』の画中画は、「絵画の技量で神の領域に迫りたい」という画家の想いを表していると考えるのが妥当でしょう。



なお、ベラスケス作『アラクネの寓話』(プラド美術館)の中にも、画中画としてティツィアーノの『エウロペの略奪』(ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館所蔵)が描き込まれています。それによってこの絵の画題がギリシャ神話の "アラクネの物語" であることを暗示しているのでした(No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」)。


マネ


No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、マネがゾラを自宅に招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868)を引用しました。

マネ「エミール・ゾラの肖像」.jpg
マネ(1832-1883)
エミール・ゾラの肖像」(1868)
オルセー美術館

この絵の右上には、画中画として3枚の複製画が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』ですが、残り2枚は、初代 歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右エ門』(1860)と、ベラスケスの『バッカスの勝利』です。なお2代目ではなく初代 歌川国明(2代目の兄)というのは、日本女子大名誉教授の及川茂氏の調査結果によります。

歌川国明「大鳴門灘右エ門」.jpg
初代 歌川国明
大鳴門灘右エ門」(1860)

ベラスケス「バッカスの勝利」.jpg
ベラスケス
バッカスの勝利」(1628/29)
プラド美術館

エミール・ゾラは、酷評されることも多かったマネの作品に好意的な批評を書きました。そのマネは浮世絵に学び、ベラスケスを絶賛しています(No.36「ベラスケスへのオマージュ」No.231「消えたベラスケス(2)」)。『エミール・ゾラの肖像』は、自らが愛する浮世絵とベラスケスを画中画として配置することにより、ゾラに対する敬愛の念を表したものでしょう。


スーラ


フィラデルフィアのバーンズ・コレクションのメインルームには、スーラの大作『ポーズする女たち』があります(No.95「バーンズ・コレクション」)。この絵には、スーラ自身の『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(No.115「日曜日の午後に無いもの」)が画中画として描き込まれています。

スーラ「ポーズする女たち」.jpg
ジョルジュ・スーラ(1859-1891)
ポーズする女たち」(1888)
バーンズ・コレクション

この画中画の意図についてはさまざまな説や憶測が提示されていますが、決定的なものは無いようです。ただ一つ言えることは、「点描の手法で風景・風俗だけでなく、裸婦像も描けるのだと宣言した」ことでしょう。さらに一歩進んで『ポーズする女たち』が『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を凌駕する作品だと言いたかったのかもしれません。



以上のフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの作品をを見てくると、

画中画には画家が込めた思いがあり、その思いは(スーラを除いては)かなり明白で、鑑賞者にも理解できる

ことがわかります。つまり画中画にはメッセージ性があります。そのメッセージ性を最も強く押し出したのが、フィンセント・ファン・ゴッホの『タンギー爺さん』だと思います。以下、このゴッホの有名な作品について書きます。


ゴッホ『タンギー爺さん』


2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」で、ゴッホの『タンギー爺さん』が特集されていました。以下、その番組内容を踏まえてこの絵について書きますが、「新・美の巨人たち」では無かった事項も含みます。

『タンギー爺さん』はパリのロダン美術館が所蔵しています。オーギュスト・ロダンその人がこの絵を購入しました。この肖像画のタンギー爺さんとは、パリで画材屋をしていたジュリアン・フランソワ・タンギーという人です。

ゴッホ「タンギー爺さん」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
(1853-1890)
タンギー爺さん」(1887)
ロダン美術館

この絵に描かれている浮世絵の画中画は、上に引用したフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの画中画とは異質です。フェルメール以下の作品は、室内ないしは画家のアトリエの光景であり、その室内やアトリエに実際にある絵として画中画が描かれています。実際にはなかったとしても、あたかもそこに絵が掲げられているかように描かれている。

しかしゴッホの『タンギー爺さん』は違います。タンギーは画材屋であり、浮世絵を扱う画商ではありません。この絵の浮世絵の背景はゴッホが肖像の後ろに恣意的に描き込んだものです。現代で言うとパソコンの壁紙、スマホの待ち受け画面、ZOOMのバーチャル背景といったところでしょう。

なぜ実際にはそこにない浮世絵を描き込んだのか、それがこの絵のポイントなのですが、まず、描かれている6枚の浮世絵のオリジナル画像を順に見ていきます。


画中画の浮世絵


ゴッホは400点以上の浮世絵を集めていた "浮世絵コレクター" でした。『タンギー爺さん』には、風景が4枚、花魁おいらんが2枚の浮世絵が描かれていますが、まず風景の4枚です。

 風景:上の右 

上右の風景は、歌川広重『五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら 範頼のりよりほこら』です。広重が晩年(59歳)の作品で、有名な「東海道五十三次」とは違って縦型の版であり、「たて絵東海道」とも呼ばれるシリーズの1枚です。

歌川広重「五十三次名所図会 石薬師」.jpg
歌川広重(1797-1858)
五十三次名所図会 四十五 石薬師
 義経さくら 範頼の祠」(1855)
山口県立萩美術館・浦上記念館

石薬師は東海道53次の44番目の宿で、現在の三重県鈴鹿市です。また題名の範頼は、義経の異母兄弟の源範頼です。平氏追討に向かう源範頼が、戦勝祈願のために桜の枝を地面に刺したところ、そこから芽が出て桜の木になったという伝説があります。その後いつしか「義経桜」とも呼ばれるようになりました。この広重の絵の桜は、現在でも「石薬師のかば桜」という名で、花を咲かせているそうです(かばとは範頼のこと)。

これは言うまでもなく春の風景です。ゴッホは桜の周辺の色を濃く、中を薄く描いています。

 風景:上の中 

上の真ん中の富士山が見える浮世絵の元絵は、石薬師と同じく広重の『富士三十六景 さがみ川』です。相模川は現在の神奈川県平塚市と茅ヶ崎市の間を流れて相模湾に注ぐ川です。富士の手前の山は丹沢山系の大山おおやまでしょうか。

元絵と比較すると、ゴッホは空の色をあかね色に変えています。さらに重要なポイントは、川のあしを茶色く枯れかかった色にしていることです。これによって、この画中画は秋の風景を思わせるものになりました。

歌川広重「富士三十六景 さがみ川」.jpg
歌川広重
富士三十六景 さがみ川」(1858)
山口県立萩美術館・浦上記念館

 風景:上の左 

この雪景色の絵の元絵は特定されていません。現在は知られていない無名の浮世絵師の絵か、ないしは、元絵にゴッホが雪を描き加えたという説もあります。いずれにせよ、ゴッホはここに冬の光景を配置しました。

 風景:左下 

この左下の朝顔の絵は、長らく二代目歌川広重の「東都名所 三十六花撰 入谷朝顔」ではないかとされてきましたが、1999年に無名の作者の縮緬絵(ちりめん絵。フランス語でクレポン)であることが特定されました。

東京名所「以里屋(入谷)」.jpg
作者不詳
東京名所 以里屋(=入谷)」
山口県立萩美術館・浦上記念館

『タンギー爺さん』と『東京名所 以里屋』を比較してみると、ゴッホはつぼみも含めて朝顔の花の位置を忠実にコピーしていることがわかります。ファン・ゴッホ美術館は縮緬ちりめん絵を次のように解説しています。


縮緬絵

ファン・ゴッホの浮世絵コレクション中、いわゆるクレポン(ちりめん絵)と呼ばれる版画は17点ある。この浮世絵は和紙に刷られた普通の色刷り木版画であるが、刷った後に紙が縮んでしわができるようにプレスして加工される。このしわが布のように見える。クレポンはほとんどが日本で輸出用に生産された。主題は花と鳥かヨーロッパで売れそうな装飾的な図柄であった。

強烈な色彩

クレポンの多くが非常に派出な色彩であった。ファン・ゴッホのコレクションのクレポンがすでにかなり褪色していることを考えると当時は相当にどぎつい色であったはずである。クレポンに用いられたのは当時のヨーロッパの最新のインクで、明治時代(1868-1912年)に日本に輸入された。ファン・ゴッホは特にこの強烈な色彩の浮世絵に惹きつけられ、所蔵していたクレポンのほとんどをアトリエの壁に飾った。彼の作品をよく見てみると、カワセミなどが頻繁に描き込まれているのがわかる。

ファン・ゴッホ美術館の
日本語サイトより

縮緬ちりめん絵の「東京名所 以里屋」は、その現物が1999年にパリで発見され、山口県立萩美術館・浦上記念館が買い取って所蔵しています。ちなみに版元は「伊勢屋辰五郎」ですが、現在も台東区の「いせ辰」の屋号で江戸千代紙や風呂敷の店として続いています。その台東区・入谷の朝顔市(7月上旬)は、現在も続く夏の風物詩です。



まとめると、風景の4枚は「春夏秋冬」の日本の四季です。さらに「桜」と「富士山」という、日本を代表する画題が含まれています。元絵が不明な冬を除いた春・夏・秋は、現代の日本にも受け継がれた光景です。

 花魁・左 

左の花魁の絵は、歌川国貞の「三世岩井くめ三郎の三浦屋の高尾」です。吉原の遊郭の一つである三浦屋は、遊女のトップを代々 "高尾太夫" という名で呼ぶ習わしでした。この絵はいわゆる役者絵で、女形の岩井粂三郎が高尾太夫を演じる姿が描かれています。

歌川国貞「三世岩井粂三郎の三浦屋高尾」.jpg
歌川国貞
三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」(1861)
山口県立萩美術館・浦上記念館

 花魁・右 

元絵は、1886年の「パリ・イリュストレ誌」の日本特集号の表紙です。この号では浮世絵が特集され、ゴッホは繰り返し読んだと言います。表紙は、渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』の反転画像です。ゴッホは反転の状態でそのまま描いています。なお、この表紙の花魁を模写した油絵作品がファン・ゴッホ美術館に残されています。

パリ・イリュストレ誌 日本特集号.jpg
パリ・イリュストレ誌
日本特集号(1886年5月)の表紙

渓斎英泉「雲龍打掛の花魁」.jpg
渓斎英泉(1798-1848)
雲龍打掛の花魁
千葉市美術館



まとめると、画中画の6枚の浮世絵は「桜と富士と日本の四季のうつろい、日本女性のあで姿」ということになります。ゴッホが浮世絵の画題として最も惹かれたものだったのでしょう。


ジュリアン・タンギー


2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」では、この6枚の浮世絵には画家のメッセージが隠されていると説明されていました。それを以下に紹介します。発言しているのは、フランスの小説家・美術評論家・美術史家のパスカル・ボナフー(Pascal Bonafoux. 1949 - )です。ゴッホに関する著作もある人です。


【パスカル・ボナフー】

浮世絵と真摯に向かい合い新たな絵画表現をつかんだゴッホは、それを教えてくれた日本画への感謝、そして尊敬を、そのまま素直にこの6枚の浮世絵で伝えているのです。

TV東京「新・美の巨人たち」
2016年2月3日

なぜこのように言えるのか。それはこの肖像画の主人公、ジュリアン・タンギーのことを知る必要があります。

タンギーは腕利きの絵の具職人でした。モンマルトルのクローゼル街に画材屋を開いており、ゴッホはその常連客でした。ここは貧しい画家のたまり場でもあった。タンギーは食うや食わずの画家に絵の具を貸し、作品をショーウィンドーに飾りました。ゴッホもその恩恵にあずかった一人です。

実はタンギーは、画材屋を開く前は監獄にいました。発端は1870年に勃発したプロイセン・フランス間の普仏戦争です。この戦争に惨敗したフランスは、プロイセンと講和条約を結び、膨大な賠償金を支払うともにアルザス・ロレーヌを割譲しました。しかし徹底抗戦を主張した市民は1871年に自治政府、パリ・コミューンを結成します。その自治政府にタンギーも加わったのです。

1871年5月、パリ・コミューンは政府軍によって鎮圧されました(多数の市民が惨殺された。No.13「バベットの晩餐会(2)」参照)。タンギーは逮捕され、監獄送りになしました。そして出所してから画材屋をはじめたわけです。肖像を描いたゴッホはその事実を知っていました。


【パスカル・ボナフー】

社会的弱者を排除する世の中がタンギーには許せませんでした。ですから貧しい画家たちには画材だけではなく、時には食事や一夜の宿まで提供しました。そんな彼は画家たちにとって最大の理解者であり庇護者だったのでしょう。

【ナレーション】

弱者に寄り添うタンギーに、かつて聖職者を志していたゴッホは、己の理想を重ねていたのです。「もし僕がかなり高齢になるまで生きのびられたら、タンギー爺さんのようになるだろう。」

【パスカル・ボナフー】

ゴッホにとってこの作品は単なる肖像画ではありません。聖なる像、つまりイコンなのですから。

【ナレーション】

ゴッホがイコンとして描いたもの。それは、自分たち画家をやさしく見守るタンギー。その周囲にはまるで聖人を称えるかのごとく、己の芸術に決定的な影響を与えてくれた日本の浮世絵を。孤独な画家がやっとパリでみつけた芸術的恩恵。それに対する深い感謝がこの一枚だったのです。

TV東京「新・美の巨人たち」
2016年2月3日

背景に "イコン" としての浮世絵を描いた絵がもう一枚あります。ロンドンのコートールド・ギャラリー(No.155「コートールド・コレクション」参照)が所蔵する「耳に包帯をした自画像」です。

06 Self-Portrait with Bandaged Ear.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
耳に包帯をした自画像」(1889)
コートールド・ギャラリー

アルルで発作的に耳を切りつけたあと、ゴッホは復活するつもりだったと推測できます。それをこの絵が表しています。その証拠に、背後に浮世絵と新しいカンヴァスとイーゼルが描かれています。「もっと描くぞ」と宣言しているようです。

ちなみに、コートールド・ギャラリーのサイトでは、この絵の画中画の元絵を佐藤虎清の「芸者(Geishas in a Landscape)」としています。

Geishas in a Landscape(Courtauld).jpg
佐藤虎清
「Geishas in a Landscape」
(芸者)
コートールド・ギャラリー



『タンギー爺さん』を描いた3年後、ゴッホはパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズで自殺しました。タンギー爺さんは、ゴッホの葬儀に参列した10数名のうちの一人でした。



『タンギー爺さん』の背景に描かれている浮世絵については数々のことが言われてきました。それらの中で「ゴッホは感謝の念を込めて、タンギーの肖像を描くと同時に6枚の浮世絵を画中画として描き込んだ」というパスカル・ボナフー氏の説明は、非常に納得性の高いものだと思いました。その意味では、ゾラの肖像の後ろに浮世絵とベラスケスを描いたマネに似ています。

ゴッホにとって、画家としての自分を導いてくれた2つの存在が、この肖像画にダイレクトに表現されている。そういうことだと思います。



 補記:マネの「休息」 

本文で画中画が描かれたマネの『エミール・ゾラの肖像』のことを書きましたが、別のマネの作品を思い出したので書いておきます。ベルド・モリゾを描いた『休息』という作品です。

マネ「休息」.jpg
エドゥアール・マネ
休息」(1871)
(ベルト・モリゾの肖像)

ロードアイランド・デザイン・スクール(米)
(Rhode Island School of Design)

この作品は背後に画中画が描かれていますが、これは歌川国芳の『龍宮玉取姫之図』です。

歌川国芳「龍宮玉取姫之図」.jpg
歌川国芳
龍宮玉取姫之図」(1853)

「龍宮玉取姫之図」の画題は、讃岐の士度寺しどうじの縁起物語であり、能の「海人あま」にも取り入れられた伝説です。詳しいことは省略しますが、一言で言うと「海女あまが龍神に取られたぎょくを取り戻す」という話です。

問題は、ベルド・モリゾの後ろになぜ浮世絵をもってきたかです。作家で美術史家の木々康子氏(19世紀後半のパリで活躍した画商、林忠正の孫の妻にあたる)は、この絵の構図が浮世絵の "こま絵" に習ったものではないか、と推測しています(木々康子「春画と印象派」筑摩書房 2015)。こま絵の例を次に掲げます。

歌川国貞「江戸八景ノ内  三廻」.jpg
歌川国貞
「江戸八景の内 三廻みめぐり

一見すると美人画だが、絵の中の四角い "コマ" に、隅田川河畔の三囲(みめぐり)神社の風景が描かれていて、これが画題になっている。三囲神社は向島(隅田川の左岸、東側)にあり、右岸から見るとちょうど鳥居の上だけが見えた。江戸庶民はこの光景から三囲神社だとすぐに分かったという。これを利用して「江戸八景」という画題を美人画にしてしまう趣向である。

"コマ" には四角のほか、丸形や扇形など多様なものがあった。また描かれる内容も、絵の補足、絵の隠れた意味の説明、本作のような画題そのものなど多様だった。漫画のコマ割りのように多数のコマを配置したものもあり、ゴッホの「タンギー爺さん」を連想させる。

木々氏が言うように、浮世絵愛好家のマネとしては "こま絵" の構図を採用してこの絵を描いたのかもしれません。しかしここでなぜコマの中が(西洋画ではなく)浮世絵で、しかも「龍宮玉取姫之図」なのでしょうか。私の推測は次のどちらか、ないしは両方です。

◆ マネは自分の弟子であるベルトの肖像を描き、そこに自分が愛する浮世絵を画中画として配置することで、ベルトが "愛すべき弟子" だというメッセージを込めた(一時、恋仲=不倫だったという説がある)。つまりエミール・ゾラの肖像の横に浮世絵とベラスケスを描き込んだのと同じ意味である。

◆ もちろん、マネが玉取姫の伝説を知っていたとは思えない。なぜこんな場面が描かれたのか、マネには全く分からなかったに違いない。しかし伝説を知らなくても、国芳の絵を見て一目瞭然なのは「一人の女性が、ドラゴンやタコや魚の一群と戦っている絵」だということである。

西洋では「男性が怪物と戦う、ないしは怪物を退治する」という絵画は、ギリシャ神話のヘラクレスやペルセウス、キリスト教の聖ゲオルギウスなど多数ある。しかし「女性が怪物と戦う絵画」は見当たらない。マネは「龍宮玉取姫之図」を、完全に男性中心である当時のフランス画壇の中の女性画家、ベルトの状況になぞらえた。

絵を見てどう解釈するかは鑑賞者の自由です。それは、"鑑賞者の権利" であると言ってもよいでしょう。




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No.294 - 鳥が恐竜の子孫という直感 [科学]

No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」で、鳥が恐竜の子孫であることが定説となった経緯を日経サイエンスの論文から紹介しました。特に、1990年代以降に発見された「羽毛恐竜」の化石が決定打になったという話でした。

その「鳥は恐竜の子孫」に関係した話を、歌人で情報科学者(東京大学教授)の坂井修一氏が日本経済新聞に連載中のコラム、"うたごころは科学する" に書かれていました。坂井氏の奥様のことなのですが、興味深い内容だったのでそのコラムを引用して感想を書きたいと思います。


見ればわかる



 "うたごころは科学する"

見れば分かる

坂井修一

私の妻は文学部出身。科学や技術にはそれほど詳しくない。オーディオ装置のリモコンを使いこなせないし、パソコンやスマホでSNSするのも上手とは言えない。

でも、不思議な直感力をもっている。

40年前に彼女とつきあい始めたころ、井の頭公園で泳いでいるかもを見て、「鳥は恐竜の直系の子孫である」と強く主張したのだ。

これは今では定説となっているが、当時はそうでなかった。少なくとも、私は知らなかった。彼女も、むろん、学説として知っていたわけではない。でも、彼女は直感していた。犬がオオカミの親戚であるように、猫がライオンの親戚であるように、鳥は恐竜の進化形なのだと。

駝鳥だちょう海鵜うみうを見ると、まあそれもありかなと思うが、彼女は公園の鴨やはとを見てもそう感じるのだそうだ。そのときは文学部らしい感性だなと思ったが、後に本当に鳥は恐竜だという証拠がたくさん見つかって、あらためて彼女の直感力に感心(?)した。

最近、このことを思い出して妻に「鳥は恐竜の子孫って、どうしてわかったの?」と尋ねたところ、「あたりまえじゃない。見ればわかるのよ」と答えが返ってきた。

見ればわかるのよ、と言われても、彼女が確信した理由はさっぱりわからない。でも、それ以上の説明を求めても、「見ればわかる」以上の言葉はないのだった。

DNAや化石の類似性からこうした進化を推理するならわかる。私自身も、そうした論理を構築することで、どうにか研究者としての面目を保っているから。でも、「見ればわかる」だけで何かを言うことには慣れていない。帰納と演繹えんえきを何度も繰り返して確認してからでないと、不安で前に進めないのだ。

鳥 = 恐竜ばかりではない。妻の直感は、生活のさまざまな場面で使われている。そして、知らないうちに、私もこれに助けられているらしい。

どこでどう使われているのか? それは、ヒ・ミ・ツ、なのだそうだ。
(歌人・情報科学者)

日本経済新聞
2020年8月2日

40年前に「鳥は恐竜の子孫」と直感した坂井氏の奥様は、歌人の米川千嘉子さんです。コラムには名前が書いていないので、以下「彼女」と記述します。

40年前というと1980年です。坂井氏は1958年生まれで、彼女は1歳年下ということなので、二人とも20~22歳頃の話です。ということは、2人は東京の大学の大学生です。2人の学生が東京で知り合い、井の頭公園にデートに行く。いかにもありそうな情景です。井の頭公園は現在でも定番のデート・スポットなので、おそらく40年前もそうだったのでしょう。

よくありそうな情景には違いないが、そのデートの場で彼女が「池で泳いでいる鴨を見て、鳥は恐竜の直系の子孫であると強く主張」したのは、確かにちょっと変わっています。デートの場でどんな会話をしようと全くかまわないのですが、「鳥は恐竜の直系の子孫」という話題は、井の頭公園での男女の語らいとしては大変に斬新です。デート相手の女性にそんな主張を強くされたとしたら、男性としては一瞬、たじろぐでしょう。

しかも、その理由は「見ればわかる」ということのようなのです。これは一般的な意味での "理由" になっていません。男性としては一層不安になる。まして坂井氏は科学者(をめざす学生)です。帰納と演繹えんえきを繰り返して確認してからでないと不安、とコラムにある通りです。「見ればわかる」というのでは "帰納" の部分がゼロです。

そこで、今となっては科学的に全く正しい「鳥は恐竜の直系の子孫」という説を、1980年の時点でなぜ彼女が強く主張できたのか、その理由を何点か推測してみたいと思います。


鳥が恐竜の子孫という直感の理由


推測の1番目は歴史的経緯です。No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」に書いたように、"鳥は恐竜の子孫ではないか" という考えは、実は19世紀半ばからありました。その契機になったのは1860年代にドイツで発見された、いわゆる「始祖鳥」の化石です。イギリスの高名な生物学者ハクスリーはこの化石が小型肉食恐竜に似ていることに気づき、鳥は恐竜の子孫という説を発表しました。当時、この説を支持する学者もいたようですが、多くの学者は反対しました。その後、議論は行ったり来たりの状態でした。

この説に決着がついたのは、1960年代以降に鳥類と酷似した恐竜化石が発見されたことであり、特に決定的だったのが1990年代以降の "羽毛付き恐竜化石" の発見でした。羽毛の化石は普通は残らないのですが、奇跡的な条件で化石になったものが中国で発見されたのです。

この経緯からすると「始祖鳥」の化石発見から100数十年の間、「鳥は恐竜の子孫説」が潜在していたことになります。つまり、これは大変に由緒ある説なのです。従って本などに書かれていた可能性が高い。ひょっとして「始祖鳥」の復元図とともに「鳥は恐竜の子孫説」を紹介した文章があったかもしれません。

井の頭公園で「鳥は恐竜の子孫」と主張した彼女も、そういった記述にどこかで触れ、それに惹かれ、そのことが潜在意識として残り、その潜在意識がデートの場で鴨を見てひょっと浮かび上がった。そういう可能性があると思うのです。これが第1の推測です。



第2の推測は鳥の骨格です。坂井氏は「駝鳥だちょう海鵜うみうを見ると、まあそれもありかなと思うが、彼女は公園の鴨や鳩を見てもそう感じるのだそうだ」と書いています。「鴨や鳩を見ても恐竜の子孫だと感じる」のがポイントですが、その理由は骨格ではないでしょうか。

まず、恐竜の骨格標本は子供の時代に多くの人が見たことがあると思います。恐竜の実物の(ないしは実物大レプリカの)骨格標本は、全国の博物館の超人気アイテムです。小学校高学年以上の子供であれば、その恐竜の姿に心を踊らせるのは当然でしょう。たとえ実物やレプリカを見たことがなくても、恐竜の骨格の写真は雑誌を始めとする各種メディアにあるので、それを見たことが無いという人はまずいないと思います。

一方、鴨や鳩の骨格標本を見る機会はあまりないと思いますが、博物館にはあります。彼女は、鴨か鳩の骨格標本をどこかで見たのではないでしょうか。実物を見たことがないにしても、写真とかイラストで見たのではと思います。ごく一般的な鳩の写真と、鳥の解剖学的イラストを掲げます。イラストは No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」の図を再掲したものです。

鳩(Wikimedia Commons).jpg
飛行中の鳩
(Wikimedia Commoms)

鳥の特徴.jpg
鳥類の解剖学的特徴

翼、長い前肢、短い尾骨、竜骨、貫流式の肺、叉骨(さこつ)、大きな脳など、鳥類は他の現世動物にはない特徴がある。これら特徴のおかげで鳥類は飛行できる。
(日経サイエンス 2017年6月号より)


解剖学的イラストを見て気づくのは、鳥の首の骨が異様に長いことです。羽とか胸のあたりとか足とか、そういう骨は想像どおりだが、首の骨は鳩の外見からは想像しにくい。鳥の頸椎けいつい(首の骨)は、11~25個もあります(種類によって違う)。人間を含む哺乳類は、普通は7個です。キリンでも7個です。それに対して鳥は多い。

フクロウは首を270度回転することができますが(1回転できるというのは誤解)、こんなことは哺乳類では絶対に無理です。なぜフクロウが可能かというと、頸椎が多いからです(14個)。従って少しづつ回転させると270度になる。フクロウは外見上は首長に見えないのですが、骨格からみるとそうなのです。上の画像の鳩もそうです。外形からは首が長いように見えないが、頸椎は13個あって、首の骨格はひょろっと長い。

もちろん、外見上、明らかに首長だと見える鶴とかさぎ、ダチョウの頸椎は長いのですが、一見そうは見えない鳩とか鴨も意外に長いのです。そしてこの鳥の骨格(頸椎)の姿は暗黙に、恐竜の中で首の長い種類(草食の4つ足の恐竜。専門的には竜脚類)の骨格を連想させないでしょうか

どこかで見た鳥の骨格標本(ないしは骨格のイラスト図)が、子供のころに親しんだ竜脚類の骨格と無意識下で結びつき、それが井の頭公園でのデートで鴨を見たときにフッと浮かび上がった。これが第2の推測です。



第3の推測は人間の潜在意識です。往年の名監督、アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)の映画に『鳥』(1963)がありました。あらゆる種類の鳥が人間を襲い出すというパニック映画(かつホラー映画)です。大挙して部屋に進入してきた鳥に襲われて人が血まみれになるなど、衝撃的なシーンがいろいろありました。

Alfred Hitchcock - The Birds.jpg
ヒッチコック「鳥」(1963)
主人公(ティッピ・ヘドレン)は大量の鳥が小学校の周りに集まっているのを見て子供たちを避難させるが、その途中で鳥の大群に襲われる。

これはイギリスの作家、ダフネ・デュ・モーリア(1907-1989。原音に近く "ダフニ・デュ・モーリエ" とも書かれる)の短編小説、"The Birds"(1952)が原作です。ダフネ・デュ・モーリアは畑で農夫がカモメに襲われるのを見て小説のインスピレーションを得たそうですが(Wikipedia による)、なぜそのことが小説を書く契機になったのでしょうか。また、ヒッチコックはなぜ映画化しようと考えたのでしょうか。なぜ、鳥が人間を襲うという小説や映画が "ホラー" として成立するのでしょうか

ある説を読んだことがあります。いつだったか、誰の説だったか全く忘れましたが、哺乳類と恐竜の関係です。哺乳類の起源は恐竜と同程度に古いことが知られています。そして地球上で恐竜が全盛期のとき、哺乳類は体も小さく、恐竜から隠れるように "ひっそりと" 暮らしていた。肉食恐竜などはまさに哺乳類の恐れの対象だった。そして6500万年前に非鳥型恐竜が滅びた後も鳥型恐竜(=鳥)は生き残り、その飛行能力で世界中に広がった。そして哺乳類に刷り込まれていた "恐竜への恐れ" は、その恐れの対象が鳥へと引き継がれた。哺乳類の一種であるヒトも、無意識下でその遙か昔の感情がある。だから映画『鳥』がホラーとして成り立つ ───。

この説がまじめなものなのか、ジョークなのか、あるいは鳥が恐竜の子孫という最新の知識をひけらかしただけのものなのか、それは分かりません。科学的には大いにクエスチョンがつく説でしょう。しかし鳩やカラスが "本能的に" 猛禽類(鷹など)を恐れるということもあるので、これはこれで興味深い。そして人間の隠された潜在意識として鳥への恐れがあるのなら、鳥と恐竜を同一視する潜在意識もまたあると思うのです。それが、ある時、あるタイミングで、ある人の意識上にフッと浮上する。これが井の頭公園で池を泳ぐ鴨を見たときの彼女だった ───。これが第3の推測です。


何らかの類似性を直感できる能力


以上の歴史的経緯、骨格、潜在意識の3つは、科学的知識なしに「鳥が恐竜の子孫」と直感できた理由を推測したものです。もちろん当たっているかどうかは分かりません。ただ思うのですが、このような説明より、彼女は「歴史的経緯・骨格・潜在意識」などとは全く関係なく、

恐竜と井の頭公園の鴨との間に何らかの意味での類似性を感じ取り、鳥が恐竜の子孫と直感して、確信した

と考えた方が、より本質に迫っているのかもしれません。坂井氏は彼女が、

・ いわゆる文系人間であり
・ リモコンが使いこなせず
・ パソコンやスマホでのSNSも得意ではない

と強調することで彼女の意外な直感力に感心していますが、文系人間どうのこうのは全く関係ないと思います。それは理系人間的な偏見です。つまり、

まったく違うと思える2つのモノや概念の間に何らかの意味での類似性を直感したり、相互に連想を働かせることは、文学や芸術における創造、サイエンスや工学分野での発見・発明、ビジネスにおける問題解決プロセスの導出などにおいて、とても重要なこと

だと思うのです。いわゆる "ひらめき" や "フッと浮かぶアイデア" です。あるいは、"突然思い付いた着想" や "発想の不連続的な飛躍" です。

文学の世界(小説、戯曲、詩、短歌など)で多用される "比喩" もその一つでしょう。一見、何の関係もなさそうなモノを本体を表す比喩表現として使う。それは作者が論理的に考えたものでないはずです。論理的に考えたものがあるかもしれないが、そういう比喩はおもしろくない。やはり直感で出てきたものにこそ意外性があって、価値がある。読者としても読んだときにはエッと思うが、よくよく考えてみると "当たっている" と思えるし、あるいは最後までその比喩表現の理由は不明だとしても(変なたとえだな!)そこに作者の感性を感じる。論理的な説明はできないけれど、文章に作者独特のムードが漂い、読者としてはそれに浸る。そういうことって、文学作品にはあると思うのです。

サイエンスに目を向けると「ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した」という有名な話があります。後世の作り話だと思いますが、作り話だとしてもよくできています。ニュートンの時代、重力はすでに知られていました。しかし「リンゴが地表に落ちる」ことと「惑星が太陽に引かれる」(ないしは月が地球に引かれる)ことという、全く関係がなさそうな事象が相似形だと気づいたとき、重力を越えた「万有引力」に発想が至るわけです。科学におけるインスピレーションの典型例を一つの寓話に仕立てたものだと思います。

要するに、何らかの抽象化をすれば2つのモノや概念が「同一の構造をしている」とか「そのモノや概念を成り立たせている基本のところが同型である、同一のフォルムである」というのは、文系・理系を問わず発想や創造の源泉の一つだと思います。



こういった発想や "ひらめき" は、根を詰めて解決策を探っている真っ最中には浮かびません。文章表現を絞り出しながらモノを書いているときにも出てこない。出てきたとしても斬新さがなく、面白味のないものになってしまうでしょう。なぜなら考えているフレームが決まっていて、フレームを越えた飛躍ができないからです。こうだからこうなるという論理的な文章や推論ならそれでよいが、それは "ひらめき" ではない。

発想や "ひらめき" は、解決策を探っている中でいったん頭を休め、ボーッとしている時に現れるとよく言われます。中国の古典に「三上さんじょう」という言葉があります。文章を練るのに適した場所が、馬に乗っているとき(馬上)、寝床に入っているとき(枕上)、厠(便所)にいるとき(厠上しじょう)とするものですが、これは文章だけのことではないでしょう。散歩やそぞろ歩きの時に科学的発見のアイデアが浮かんだという話もよく聞きます。

最新の脳科学によると、人間はボーッとしているときにも脳が活発に活動していて、さまざまな記憶の断片をつなぎ合わせています。例えば、解決策を模索している問題に、あるとき(意外な時に)フッとアイデアがひらめくのは、脳が同一構造の過去の問題とその解決策をもとに、無意識下にアイデアを提示したのではと思います。ボーッとしているときに脳は「異質なモノ」や「かけ離れた記憶」の間にリンクをつけ、そのリンクがアイデアや直感やひらめきになるのでしょう。

ちょっと脱線しますが、こういった脳の働きに関連して「デジャヴュ」(=デジャヴ、既視感)を思いだしました。デジャヴュは「一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したように感じる現象」のことです。視覚だけでなく聴覚、触覚などについても言うので「既知感」と言うことあります。

個人的には視覚のデジャヴュ経験は記憶にないのですが、聴覚(=音楽)なら時々あります。その一つの例ですが、No.262「ヴュイユマンのカンティレーヌ」で、ヴュイユマン作曲の「カンティレーヌ」というピアノ曲を初めて聴いたとき、これはシューマンの曲に違いないと思ったが、しかしそれはシューマン作曲「謝肉祭」への連想だったという自己分析を書きました。「カンティレーヌ」と「謝肉祭」はかなり違った雰囲気の曲(そもそも拍子が違う)ですが、無意識に2つの曲の間に何らかのリンクがついたのだと思います。

本題に戻ります。ボーッとしているときに脳は「異質なモノ」の間にリンクをつけるのだとすると、井の頭公園の池で泳ぐ鴨を見て「鳥は恐竜の直系の子孫である」と直感した彼女は、その直感を別の機会に得たはずです。デートの時に "ボーッとしている" とは考えにくいからです。坂井氏のコラムから推測すると、彼女が1人で公園で鴨か鳩を "ボーッと" 眺めているときに突然ひらめいた。以降、公園で鴨や鳩を見るたびにそれを思い出す。井の頭公園でのデートで鴨を見たときもそうだった、ということでしょう。

理由は分からないが「鳥が恐竜の子孫」と直感し、確信できるのは人間の素晴らしいところだと思います。彼女の場合は "たまたま" 科学的に正しいことだったが、"科学的には間違っている" ことでもかまいません。その人にとっての直感はそうなのだし、小説家であればダフネ・デュ・モーリアのように、鳥が人間を襲い始めるというホラー小説を書けるかもしれません。

井の頭公園でのデートの最中に「鳥が恐竜の子孫だと、見ればわかった」坂井氏の奥様は、現在の人工知能(AI)の枠組みでは及ばない人間の価値を具現化していた、そのように思えました。




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No.293 - "自由で機会均等" が格差を生む [科学]

今回は、日経サイエンス 2020年9月号に掲載された論文「数理が語る格差拡大のメカニズム」の内容を紹介するのが目的です。この論文は、自由主義経済においては公平でフェアな取引きを繰り返すと必然的に格差が拡大することを数理モデルで論証したものです。

なぜこの論文を取り上げるかというと、No.165「データの見えざる手(1)」で紹介した "玉の移動シミュレーション" と本質的に同じことを言っているからです。そこでまず、No.165のシミュレーションを復習してから本題に入りたいと思います。


コインの移動シミュレーション


No.165は、矢野和男・著「データのみえざる手」(草思社 2014)の内容の一部を紹介したものでした。この中に出てきたシミュレーションをここで再掲します。ただし本質をより明確にするため、シミュレーションの初期設定を変え、またシミュレーションの実行は繰り返し回数を変えて3種類にします。No.165では「玉」と書きましたが、本題につなげるために「コイン」とします(同じことです)。

まず 30 × 30 = 900 のセルを用意し、これらのセルに初期状態としてコインをそれぞれ 80 割り当てます。従って割り当てるコインの総数は、

 80 × 900 = 72,000

凡例.jpg
セルの色分け
です。900 とか 80 という数字は、No.165「データの見えざる手(1)」に合わせるためにそうしただけで、他意はありません。今回は別の数でもかまわないのですが、シミュレーション・プログラムをそのまま再利用するために、この値とします(ただし「データの見えざる手」ではこの値が実世界上の意味を持っていました。No.165 参照)。

以下、シミュレーションの各段階のセルの状態を図示するため、セルが保有するコインの数に応じてセルを色分け表示します。色分けのルールは、コインが初期値の80のセルを赤(ピュアな赤)とし、コインが少なくなるにつれて白っぽい赤になり、コインの数が50未満だと真っ白とします。逆にコインの数が80より増えるとセルの色は黒っぽくなり、コインの数が110以上になる真っ黒とします。色分けの凡例を示したのが左の「セルの色分け」図です。

シミュレーションの進展によってセルのコインの数は変化しますが、この色の塗り方では、平均値 = 80 の ±30 の範囲が赤のグラディエーションで、それ以下では白、それ以上は黒になります。この色塗りの閾値はNo.165での説明の都合上で決めた値で、他の値でもかまいません。

初期状態では各セルに均等に 80 のコインを割り当てるので、それを図示すると全部のセルが同じ色(ピュアな赤)で表示されます。

Loop-0.jpg
初期状態
初期状態では30×30のセルにそれぞれ80のコインを割り当てる。

 シミュレーションの進め方 

シミュレーションは以下のように進めます。

① 2つの異なるセルをランダムに選ぶ

② 選ばれた2つのセルについて、一方のセルからもう一方のセルにコインを1枚移す。つまり一方のセルのコインを1だけ増やし、他方を1だけ減らす。このとき、どちらからどちらへコインを移すかはランダムに決める。2つのセルのその時のコインの数は全く考慮しない

③ ただし、移動元となったセルのコインの数がゼロだった場合は何もしない。

以上の ① ② ③ を多数繰り返します。今回の繰り返し回数は10万回、100万回、1000万回の3種とします。コインは単に移動するだけなので、セルがもつコインの平均値は初期値である80のままで変わりません。



この「移動の繰り返しシミュレーション」で各セルのコインの数はどのように変化するでしょうか。おそらくほとんどの人は次のようの推論するのではないでしょうか。

① 1回の移動で選ばれるセルの数は2で、全体の 1/450 である。従って、たとえば10万回繰り返すとすると、一つのセルに注目した場合、100,000 / 450 = 約220回、移動の対象なるに違いない。もちろんランダムに選択するので220回ということはなく、180回からもしれないし、250回かもしれない。しかし極端なこと(数回しか選ばれないとか、1万回選ばれるとか)は起こらないはずだ。

② 選ばれた各回において、セルが移動元となるか(コインが - 1)、移動先となるか(コインが + 1)は全くランダムに決まる。その時のセルのコイン数は全く考慮されない。従ってこれを220回程度繰り返すと、初期値の80に近い値になるだろう。各セルのコイン数は、80を中心として、せいぜい 50 ~ 110 程度(例えば)に収まるのではないか。

③ この状況は、移動回数が100万回になっても、1000万回になっても変わらないはずだ。すべてはランダムに決まっているのだから。

これはいかにも理性的というか、真っ当な推論であり、妥当な予想だと思います。しかし実際に移動シミュレーションを行ってみるとこの予想は大きくはずれ、全く違った様相になります。それが次です。

 移動回数:10万回 

移動シミュレーションを10万回行う試行をして、その結果を凡例に従って色分け表示したのが次の図です。この結果では、全体のおよそ95%のセル(859のセル)のコイン数が50~109の範囲に収まっています。従ってほとんどが赤のグラディエーションで塗られています。一方、白のセル(コイン数が50未満)は17個、黒のセル(コイン数が110以上)は24個です。最も少ないセルのコイン数は40で、最も多いセルのコイン数は130です。

この10万回の移動シミュレーションの結果は、ほぼ予想どおりと言っていいでしょう。

Loop-100000.jpg
移動回数:10万回
およそ95%のセルのコイン数が50~109の範囲(赤のグラディエーションの範囲)に収まっている。それ以下のセル(白)は17、それ以上のセル(黒)は24である。

もちろん乱数を使ってシミュレーションをしているので、毎回まったく同じ結果になるわけではありません。しかし10万回のシミュレーションを何度繰り返しても、ほぼ類似の結果になります。

 移動回数:100万回 

シミュレーションを 100万回繰り返すと様相がかなり違ってきます(次図)。

Loop-1000000.jpg
移動回数:100万回
コイン数が50~109のセルが全体の半分以下になった。それ以上とそれ以下がほぼ同数あり「格差」が広がることがわかる。最大のコイン数は平均の3倍以上で、コイン数ゼロのセルも現れた。

このシミュレーションでは

コイン数が110以上のセル  231
コイン数が50~109のセル  423
コイン数が49以下のセル  246
    
セルの最大コイン数  249
セルの最小コイン数      0(4セル)

です。10万回のシミュレーションではコイン数:50~109のセルがほどんどでしたが、100万回になるとそれは全体(900)の約半分になります。それ以上とそれ以下がほぼ同数あり、「格差」が広がっていることがわかります。また最多のコインを持っているセルのコインの数は平均(=80)の約3倍です。さらに、コインが無くなるセルが出現しました(4つのセル)。

 移動回数:1000万回 

移動の繰り返しが1000万回になると「格差」はもっと激しくなります(次図)。

Loop-10000000.jpg
移動回数:1000万回
格差がさらに広がる。白(コイン数49以下)のセルは400を越し、コインは「裕福な」セルに集中していく。

このシミュレーションでは

コイン数が110以上のセル  247
コイン数が50~109のセル  247
コイン数が49以下のセル  406
    
セルの最大コイン数  382
セルの最小コイン数      0(12セル)

でした。コイン数が110以上のセル(裕福なセル)の数(247)は 100万回のシミュレーションの場合(231)より増えますが、大して変わりません。しかし最大コイン数が 382であるように、コインは裕福なセルに集中してきます。これと相対応して、コイン数49以下のセル(貧しいセル)が増えていきます。結果の色分け表示を見ても全体が白っぽく表示されるようになります。

900のセルが「裕福」「中間」「貧困」に分かれましたが、どのセルがどの層にいくかはシミュレーションをするたびに異なります。あくまで偶然にそうなった、ないしは、たまたまそうなったということなのです。


ローレンツ曲線とジニ係数


以下、移動回数が1000万回の場合で考えます。各セルを「人」、コインを「その人が保有している資産」と考えると、

・ 初期状態では各人は平等だったが(資産は全員80)

・ 資産の移動を1000万回繰り返すと、資産格差が生まれた(最も少ない人は 0、最も多い人は382)

と見なせるわけです。ここで、この集団の格差の状況を1つの数値で表すことを考えます。このために昔から使われるのがローレンツ曲線とジニ係数です。ローレンツ曲線は、

0 ≦ x ≦ 1
0 ≦ y ≦ 1

の2次元 x-y平面に描かれます。まず900のセル(人)を、保有するコイン(資産)の数で小さい人から大きい人まで昇順に並べます。

ローレンツ曲線の x 軸は「累積人数比率(総人数を母数とする割合)」です。つまり x = 0.5 とは、資産の少ない方から数えて全体(900)の半分(450)までの人々を表します。

ローレンツ曲線の y 軸とは「累積資産比率」で、累積人数比率の人々が持つ資産総計の、全体(72,000)を母数とする割合です。

初期状態は各人は平等(資産は全員80)なので、この時のローレンツ曲線は (0, 0) と (1, 1) を結ぶ45°の直線になります。しかし格差が広がるにつれて、ローレンツ曲線は (0, 0) から始まってわずかずつ上昇し、最後は尻上がりに (1, 1) に至る曲線となります。上の 1000万回の移動シミュレーションの結果のローレンツ曲線を描いたのが次の図です。この図には初期状態の斜め45°の直線(点線)も描いてあります。

LorenztCurve1.jpg
ローレンツ曲線
シミュレーション回数:10,000,000
ジニ係数=0.49

この図で「斜め45°の直線」と「ローレンツ曲線」で囲まれた半月状の形の面積を考えてみると、格差がない状態では面積=0、資産を一人が独占している状態では面積=0.5 となります。この面積の2倍が「ジニ係数」で、格差が全くない場合は 0、一人が資産を独占している場合は 1 です。上の例の1000万回の移動シミュレーションの場合、

ジニ係数=0.49

となりました。シミュレーションは乱数(正確に言うとパソコンで作り出す疑似乱数)をもとに計算しているので、1000万回の試行を何回かやるとジニ係数も変化します。しかし必ず 0.5付近の値になります。ちなみに10万回と100万回も含めてジニ係数をリストすると、

移動回数 ジニ係数
100,000 0.11
1,000,000 0.31
10,000,000 0.49

となりました。シミュレーションの回数が増えるに従って格差が拡大します。



以上のシミュレーションは何らかの意味があるのでしょうか。それとも単なるコンピュータを使った "遊び" でしょうか。

「データの見えざる手」において著者の矢野和男氏は次のように書いています。


(このシミュレーションは)自給自足で生きていた人間が、経済取引をはじめることで、貧富の差が現れたことの素朴なモデルになっていると思われる。

矢野和男「データのみえざる手」
(草思社 2014)

セルを人、コインを資産とすると、このシミュレーションは2人の間で経済取引をするときの最も素朴なモデルになっています。経済取引とはモノやサービスの売買です。商品の販売や購入がそうだし、労働サービスを提供してその対価としての給料を得るのも経済取引です。株券の売買や、先物取引のような「売買する権利の売買」も経済取引です。

今の自由主義経済では、経済取引は自由に行ってよいわけです。もちろん独占禁止法とか最低賃金法があって「不当な利益」はあげられないようになっている。その各種の規制やルールの範囲内で、どんなモノやサービスをどんな価格で売買するかは自由です。

しかしモノやサービスの売買では、損をする人と得をする人が発生します。つまりモノやサービスがその時にもっている "真の価値" 以上の値段で買うと損になり、真の価値以下の価格で買うと得になります。損か得かは売買をする2人で逆転します。この「損得の発生」は「資産が2人の間で移動した」と考えられるわけです。ここでの「資産」は「保有しているモノとお金の価値合計」ぐらいに考えておきます。Aさんが100円の価値のものを110円でBさんに打ったとすると、10円の資産がBさんからAさんに移動したと考えるわけです。

大切なところは、AさんとBさんのどちらが損をするか得をするかは分からないいことです。特に取引の前に損得は分からない。なぜなら、モノやサービスの "真の価値" を知り得ないからです。従って損得はランダムに(確率的に)決まる。これは上のシミュレーションにおいてコインの移動方向をランダムに(確率的に)決めたことに相当します。

以上が、このシミュレーションが「自由な経済取引の素朴なモデル」になっている理由です。このモデルでは取引を重ねるほど格差が増大します。矢野氏の著書の名前である「データの見えざる手」は、もちろんアダム・スミスの「神の見えざる手」の "もじり" ですが、これは言い得て妙という感じがします。「見えざる手」論は、自由な市場が価格