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No.289 - 夜のカフェ [アート]

前回の No.288「ナイトホークス」の続きです。前回はエドワード・ホッパー(1882-1967)の代表作『ナイトホークス』(1942。シカゴ美術館所蔵)が、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』(1982公開)に影響を与えたという話でした。

この『ナイトホークス』ですが、2016年3月26日のTV東京の「美の巨人たち」でとりあげられました。その中で美術史家のゲイル・レヴィン(Gail Levin。1948- )の説が紹介されていました。ゲイル・レヴィンは、ホッパー作品を多数所蔵しているニューヨークのホイットニー美術館のキュレーター(ホッパー担当)の経験があり、ホッパーの没後初めての回顧展のキュレーターもつとめた人です。いわば「ホッパー研究の第1人者」です。その彼女が「Edward Hopper : An Intimate Biography」(1995)というホッパーの伝記に、

『ナイトホークス』はゴッホの『夜のカフェ』から着想を得ている。『夜のカフェ』は『ナイトホークス』が描かれた年(1942年)の1月にニューヨークで展示されていた

との主旨を書いているのです。今回はその話です。


夜のカフェ


ゴッホはアルルの時代に夜のカフェの様子を2枚の絵画に描いています。一つは、オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵する『夜のカフェテラス』です。この絵は大変に有名で、ゴッホの代表作の1つでしょう。画像を No.158「クレラー・ミュラー美術館」No.284「絵を見る技術」で引用しました。

夜のカフェテラス.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
(1853-1890)
夜のカフェテラス」(1888)
クレラー・ミュラー美術館所蔵

もう一枚は、少々紛らわしいのですが『夜のカフェ』と呼ばれている絵で、アメリカのイェール大学アートギャラリーが所蔵しています。同じアルルですが『夜のカフェテラス』とは別のカフェで、しかも室内を描いたものです。この絵がホッパーの『ナイトホークス』に影響を与えたというのがゲイル・レヴィンの指摘なのです。

夜のカフェ.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
夜のカフェ」(1888)
イェール大学アートギャラリー所蔵

この絵を所蔵しているイェール大学アートギャラリー(米・コネティカット州)のウェブサイトの解説を引用します(段落を追加しました)。


In a letter to his brother written from Arles in the south of France, van Gogh described the Cafe de l'Alcazar, where he took his meals, as "blood red and dull yellow with a green billiard table in the center, four lemon yellow lamps with an orange and green glow. Everywhere there is a clash and contrast of the most disparate reds and greens." The clashing colors were also meant to express the "terrible passions of humanity" found in this all-night haunt, populated by vagrants and prostitutes.

Van Gogh also felt that colors took on an intriguing quality at night, especially by gaslight: in this painting, he wanted to show how “the white clothing of the cafe owner, keeping watch in a corner of this furnace, becomes lemon yellow, pale and luminous green.”

Yale University Art Gallery
https://artgallery.yale.edu/

試訳

ファン・ゴッホは、南フランスのアルルから出した弟への手紙の中で、食事をするカフェ・ド・アルカザールの様子を書いている。「血のような赤色と、くすんだ黄色、真ん中には緑のビリヤード台、橙と緑の炎が輝くレモンイエローの4つのランプ。そこには至るところに、最もかけ離れた色である赤と緑の衝突と対比がある」。衝突する色と色は、浮浪者や売春婦がたむろする深夜のたまり場に感じる「人間の恐ろしい情熱」を表現しているようだ、と。

またファン・ゴッホは、夜、特にガス灯の下では、色が面白い効果を生むとも感じていた。この絵で彼は「この坩堝るつぼの角で見つめているカフェのオーナーの白い服が、レモンイエローになったり薄くて明るい緑になったりする」のを示そうとした。


このイェール大学の解説にはゴッホの弟(テオ)への手紙が出てきますが、その日本語訳は次の通りです。いずれも手紙の中のこの絵に関係する部分です(日付はゴッホ美術館のサイトに公開されている手紙全文による)。


ゴッホのテオ宛の手紙

1888年8月6日

今日は多分、いつも食事をするガス燈の灯ったカフェの室内を描き始めるはずだ。ここは土地の人々が「夜のカフェ」といっているところで(人々は足繁く出入りするが)夜るっぴで開いている。「夜の放浪者たち」が宿賃がなかったり、呑み過ぎてしきいが高いときには、そこで夜明かしをするわけだ。



1888年9月8日

ぼくは人間の恐ろしい情熱を赤と緑で表現しようと勤めた。広間は血紅色と鈍い黄、中央に緑の玉突台があり、オレンジと緑の光線を放つレモン黄のランプが四つある。眠りこけている与太者とか菫と青のがらんとした侘しい広間とか、あらゆるところで緑と赤との衝突があり対立があるのだ。たとえば、玉突台の血紅色と黄みどりはバラの花束のあるカウンターの、ルイ十五世風の柔らかな小緑と対照をつくっているのだ。この料理場の片隅で番をしている主人の白い服は、レモン黄と薄い光った緑になってゆく。

ぼくは水彩の色調トーンでそのデッサンをこれから描いて、明日きみに送り、およその感じをわかって貰おうを思う。

( 引用注:上の訳における「料理場」は、次の手紙の訳にある「坩堝 - るつぼ」の方が適当だと思われる。英訳は両方とも "furnace = かまど・炉" で、イェール大学の解説にも出てくるが、このカフェの室内の形容と考えられる。絵に「料理場」が描かれているわけではない)



1888年9月9日

ぼくは「夜のカフェ」で、カフェとは人が身を持ち崩し、気狂いになり、罪を犯すところだということを表現しようと努めた。ともあれ、柔らかいピンクや鮮紅色の葡萄の絞り糟ようの赤、堅い黄緑色と青緑色にうつりあったルイ十五世風、ヴェロネーズ風の柔らかな緑、地獄の坩堝、青白い硫黄色の雰囲気の雰囲気のなかにあるこれらすべてのもの、それを対照させて、何か居酒屋のやみの力のようなものを表現しようとした。

ファン・ゴッホ書簡全集 第5巻
宇佐見英治訳
みすず書房 1970, 1984改版

この手紙を読んで思うのは、ゴッホらしい "色彩への強いこだわり" です。ゴッホは絵のテーマを色で表現しようとしたことが良くわかります。


『夜のカフェ』と『夜のカフェテラス』


『夜のカフェ』は『夜のカフェテラス』と比べて鑑賞すべきでしょう。『夜のカフェテラス』は「夜の "カフェのテラス"」という意味です。ここには客とウェイター、通りを行く人々が描かれ、客は強い光に照らされたテラス席で楽しく談笑をしている感じです。全体として「人々が健全なナイトライフを楽しんでいる絵」です。青で塗られた空もその感じを演出しています。

一方『夜のカフェ』は、アルルの地元の人が "夜のカフェ" と呼んでいた深夜営業をするカフェで、『夜のカフェテラス』とは真逆の雰囲気です。光が充満していますが、何となく "陰気" な感じがする。天井とビリヤード台の緑、壁の赤という補色関係の色の対比で、不調和ないしは不安定な雰囲気が漂っています。

描かれている人物を見ると、白っぽい服のカフェのオーナーと、客が3組、2人連れが2組と、1人客です。客は帽子を被るか腕を組むかして "黙りこくっている" ようです。左手前に片づけていない飲みさしのグラスが乗ったテーブルがありますが、ついさっきまで別の客がいたはずです。イェール大学の解説にあるように、客の中にはこのカフェをたまり場とする浮浪者や売春婦もいるのでしょう。描かれている時計からすると、時刻は深夜0時過ぎのようです。

室内には4つのガス灯の強い光が充満していますが、不思議なのは影がビリヤード台にしかないことです。この構図だとテーブルや人物にも影ができるはずですが、それは全く省略されている。緑と赤の強烈な対比とあいまって、この「ビリヤード台だけの影」が何となく現実感を希薄にしています。

全体的に『夜のカフェ』は、『夜のカフェテラス』の "健全なナイトライフ" とは真逆の、健康的だとはとても言えない深夜のカフェの状況です。


ナイトホークス


Nighthawks - Edward_Hopper.jpg
エドワード・ホッパー(1882-1967)
ナイトホークス - Nighthawks」(1942)
シカゴ美術館

そこで改めてホッパーの『ナイトホークス』を見ると、『夜のカフェ』との類似性に気づきます。まず「アルルのカフェ」と「ニューヨークのダイナー」という場面設定です。カフェもダイナーも(そして南欧だとバルやバールも)、昼間の時間とか夜のディナータイムでは、気の置けない者同士が談笑しながらコーヒーやお酒、軽食を楽しむ場所です。それはまさにゴッホが『夜のカフェテラス』で描いた光景です。

しかし描かれたアルルの "夜のカフェ" とニューヨークのダイナーは深夜営業をしていて、ディナータイムが終わって深夜になると様子が一変する。その様子が一変したあとのカフェとダイナーを舞台としているのが、まず2枚の絵の共通点です。

また、店には客がいるが会話をしているようには見えず、みな孤独で、それぞれの時間を過ごしている。店のオーナーないしはウェイターとおぼしき人物が1人だけいて、その人物は白っぽい服を着ています。さっきまで別の客がいたかのように、片づけられていないコップが置かれたままになっている。そういったことも似ています。

さらに「強烈な光」です。時代が半世紀以上離れているので、光の強烈さは違います。特にホッパーの絵(1942年作)は、当時実用化が始まった蛍光灯の光がダイナーに充満しています。しかし2枚の絵とも黄白色の強い光が絵の全体を支配しています。ゴッホの場合はビリヤードの影で、ホッパーの場合は影とダイナーの外に漏れる光で、その強い光が表現されています。

加えて色使いです。ゴッホは赤・緑・黄、ホッパーは赤系・青緑系・黄白色という色の組み合わせで画面を構成している。特に、補色関係にある赤と緑の "色の衝突" で不安感を作り出しているところが似ています。

ここまでは絵の外見でわかることですが、さらに外見を越えたところにも注目すべきでしょう。つまりゴッホの方は、手紙に書かれた「恐ろしい情熱」「身を持ち崩す」「気が狂う」「罪を犯す」という表現にあるように「人間の精神の暗い部分、ダークサイド」を絵で表そうとしています。一方、ホッパーの方ですが、「ナイトホークス」から感じる人間の心情を簡潔に言うと「都会の孤独」でしょう。それは衆目が一致するところだと思います。つまりこの2作品は、単なる深夜の店の情景を越えて、"人間の精神のありよう" を表現しようとしたところに類似性を感じます。



画家が、過去の画家の絵からインスパイアされて、ないしは過去の絵を "踏まえて" 作品を作ることはよくあります。このブログに書いた記事だけでも、

◆ ベラスケス『ラス・メニーナス』⇒⇒⇒ サージェント『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(No.36「ベラスケスへのオマージュ」

◆ ベラスケス『道化師パブロ・デ・パリャドリード』⇒⇒⇒ マネ『笛を吹く少年』(No.36

◆ アングル『モワテシエ婦人の肖像』⇒⇒⇒ ピカソ『マリー・テレーズの肖像』(No.157「ノートン・サイモン美術館」

◆ 円山応挙『保津川図屏風』⇒⇒⇒ 鈴木其一『夏秋渓流図屏風』(No.275「円山応挙:保津川図屏風」

の例がありました。こういった動きが一つの潮流となったのが、19世紀ヨーロッパのジャポニズムです(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)。

ホッパーの『ナイトホークス』も、そういった数ある例の一つなのでしょう。ホッパーはニューヨークの美術学校を卒業した後、3度もヨーロッパに絵の勉強に行っています(No.288「ナイトホークス」)。ゴッホの絵から着想を得るのは、ホッパーにとってごく自然なことだったに違いありません。



しかし改めて『ナイトホークス』を見て感じるのは、確かにこの絵はゴッホからインスピレーションを得たのかもしれないけれど、完全にホッパーの独自世界の絵として描いていることです。

『ナイトホークス』は、何だか "ドキッと" する絵です。何かを予見しているようでもある。この絵に感じ入って、リドリー・スコット監督は『ブレードランナー』の "暗い未来" の「様子とムード」(look and mood)を作りました(No.288)。それほど感染力が強い絵を創作したホッパーの画才は素晴らしいと、改めて思いました。


ヘミングウェイ


ここからは『ナイトホークス』についての補足です。冒頭にあげたゲイル・レヴィンの「Edward Hopper : An Intimate Biography」に、ホッパーはゴッホの『夜のカフェ』から着想を得たと同時に、ヘミングウェイ(1899-1961)の短篇小説『殺し屋』(The Killers)に影響を受けたと書いてあります。『殺し屋』は1927年にアメリカの雑誌、スクリブナーズ・マガジンに発表されました。ホッパーはその雑誌を購読していて『殺し屋』に感激し、わざわざ雑誌の編集長に手紙を書いたそうです。「甘ったるい感傷的な小説が大量に溢れるなかで、アメリカの雑誌でこのような実直な(honest)作品に出会うのは爽快です(refreshing)・・・・・・(試訳。以下略)」。

ちなみに『殺し屋』はニューヨークではなくシカゴの話だと思わせるのですが、舞台は夕暮れどきの "lunchroom" です。簡易食堂と訳せばいいのでしょうか。『ナイトホークス』のダイナー(diner)は食堂車をまねた、主として通り沿いの店ですが、大まかにいって "lunchroom" も "diner" も似たようなものでしょう。

短篇小説『殺し屋』の文章は、ほとんどが会話で一部が状況説明です。心理描写はなく、無駄をそぎ落とした簡潔な文章が続きます。ホッパーはこれを "honest" と表現しているのですが、"honest" は「正直な、実直な、率直な、誠実な、偽りの無い」というような意味です。上の試訳では "実直な" としましたが、"虚飾を排した" ぐらいがいいのかもしれない。

こういったヘミングウェイの文章がハードボイルド小説のお手本になったことは有名です。そのヘミングウェイに感激したホッパーが『ナイトホークス』を描いた。『ナイトホークス』は "ハードボイルド絵画" であるとは中野京子さんの言ですが(No.288「ナイトホークス」)、まさに図星だと思いました。




nice!(0) 

No.288 - ナイトホークス [アート]

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、フランスの画家・ジェロームが古代ローマの剣闘士を描いた『差しろされた親指』(1904)がハリウッド映画『グラディエーター』(2000)の誕生に一役買ったという話を書きました。そのあたりを復習すると次のようです。



20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は ・・・・・・。


制作サイドは監督にリドリー・スコットを望んだ。『エイリアン』『ブレードランナー』『ブラック・レイン』『白い嵐』など、芸術性とエンターテインメント性を合体させたヒット作を連打していたスコットなら、古代ローマものを再創造してくれるに違いない、と。

だがスコットは最初はあまり乗り気ではなかったらしい。そこで制作総指揮者は彼に『差し下された親指』を見せた。フランスのジェロームが百年以上も昔に発表した歴史画である。後にスコット曰く、「ローマ帝国の栄光と邪悪じゃあくを物語るこの絵を目にした途端、わたしはこの時代のとりこになった」(映画パンフレットより)。

こうして完成された『グラディエーター』(2000年公開)は、アカデミー賞作品賞、主演男優賞(ラッセル・クロウ)、衣装デザイン賞などいくつも獲得し、全世界で大ヒットを記録した。剣闘士同士の息もつかせぬ戦闘シーンとリアルな迫力に、一枚の絵が運命的な役割を果たしたということになる。

中野京子『運命の絵』
(文藝春秋 2017)

Pollice Verso (Gerome).jpg
ジャン = レオン・ジェローム
(1824-1904)
差し下ろされた親指」(1904)
フェニックス美術館(米・アリゾナ州)

ちなみに cinemareview.com の記事によると、『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサはスコット監督に脚本を見せる前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそも、プロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だそうです。

Gladiator.jpg



この経緯をみると、ジェロームの『差し下ろされた親指』にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるようです。リドリー・スコット監督もその魔力にハマった ・・・・・・。

ところで、ここからが本題ですが、リドリー・スコット監督(1937 - )は『グラディエーター』(2000年公開)よりだいぶ前に(部分的にせよ)絵画からインスパイアされた映画を作っています。それが上の引用にも出てきた『ブレードランナー』(1982年公開)です。今回はその話です。


ブレードランナー


ブレードランナー.jpg

1982年公開の『ブレードランナー(Blade Runner)』は SF作家、フィリップ・K・ディック(1928-1982)の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)を原作とする映画です。リドリー・スコットが監督し、ハリソン・フォードが主演しました。そのストーリーをかいつまんで箇条書きにすると以下のようです。

◆ 時代は21世紀。ロサンジェルスのタイレル社が "レプリカント"と呼ばれる人造人間(=原作で言う "アンドロイド")を発明し、独占的に供給していた。レプリカントは優れた体力と知能をもっている(レプリカントはこの映画の造語)。

◆ そのころの地球は環境破壊が進み、人類の多くは宇宙の植民地に住んでいた。レプリカントは宇宙開発の最前線での奴隷的労働に従事していた。

◆ レプリカントはバイオテクノロジーで作られており、人間とは区別できない。ただ、唯一区別可能な専門の分析装置がある。被験者は、人間なら感情を大きく揺さぶられるような質問を受け、それに対する体の反応を分析装置にかけることでレプリカントか人間かが判定できる。

◆ レプリカントは製造から数年たつと感情が芽生えて、人間に反旗を翻すものが出てきた。そのため最新の「ネクサス6型」レプリカントは寿命が4年に設定されていた。しかし脱走して人間社会に紛れ込むレプリカントが後を絶たなかった。人間社会から彼らを見つけだして「解任(retire)」(=射殺)する任務を担うのが、警察の専任捜査官・ブレードランナーであった(ブレードランナー:Blade Runner は過去の小説からの借用。もともと医薬品密売業者を指す)。

◆ 物語の舞台はロサンジェルス。地球に残った人類は環境破壊による酸性雨が降りしきる中、高層ビルが立ち並ぶ人口過密の大都市での生活を強いられていた。そのころ、ネクサス6型のレプリカントが宇宙植民地で反乱を起こし、23人の人間を殺害して逃走、宇宙船を奪って密かに地球に帰還し、ロサンジェルスに4人が潜伏した。

◆ 捜査にあたるロサンジェルス市警は4人の「解任」が容易でないことを悟り、退職していたブレードランナーのデッカート(=ハリソン・フォード)を呼び戻して捜査に当たらせる。デッカートは情報を得るため、レプリカントの開発者であるタイレル博士に面会した。そのとき彼は、博士の秘書のレイチェル(=ショーン・ヤング)がレプリカントであることを見抜く。レイチェルは博士が姪の記憶を移植して作ったレプリカントであった。レイチェルは激しく動揺するが、デッカートはそんなレイチェルに惹かれていく。

◆ デッカートは捜査の結果、踊り子に扮していたレプリカント(ゾーラ)を発見し、追跡の上「解任」する。その現場に急行したデッカートの上司は、レイチェルがタイレ博士のもとを脱走したことを告げ、レイチェルも「解任」するようにと命じた。

◆ その後、デッカートはゾーラの復讐に燃えるレプリカント(レオン)に襲われるが、駆けつけたレイチェルが射殺して命拾いする。デッカートはレイチェルを自宅に招く。彼女が、自分も「解任」するのか問うと、デッカートは「自分はやらないが、誰かがやる」と答えた。2人は熱く抱擁するのだった。

◆ 一方、潜伏レプリカントのリーダのバッティは、タイレル社の技師に近づき、彼を仲介にしてタイレル社の本社ビルの最上階に住むタイレル博士と対面した。バッティは、残り少ない自分たちの寿命を伸ばすように博士に要求する。これが彼らの地球潜入の目的であった。しかし博士は技術的に不可能であると告げ、絶望したバッティは博士と技師を殺す。

◆ タイレル博士と技師の殺害の報を聞いたデッカートは、技師の高層アパートに踏み込み、そこに潜んでいた3人目のレプリカント(プリス)を「解任」する。そこにリーダのバッティが戻ってきてデッカートと最後の対決となる。デッカートは優れた戦闘能力を持つバッティに追い立てられ、高層アパートの屋上に逃れるが、転落寸前となる。しかしバッティは自らの寿命の到来を悟り、デッカートを助けて、こと切れた。

◆ デッカートはレイチェルにも同じ運命が待っているのではと慌てて自宅に戻るが、レイチェルは生きていた。2人は互いの愛を確認すると、デッカートはレイチェルを連れだし、逃避行へと旅立った。

さて、この映画『ブレードランナー』と絵画の関係ですが、アメリカの画家、エドワード・ホッパーの絵画『ナイトホークス(Nighthawks)』の解説(Wikipedia)に、次のような記述があります。


『ナイトホークス』はまた、『ブレードランナー』の「黒い未来」("future noir")の様子に影響を及ぼした。監督リドリー・スコットは言った、「わたしが追い求めている様子と気分を例証するためにプロダクション・チームの鼻先にこの絵の複製をいつも振り動かしていた」。

Wikipedia(2020.6.27現在)

ここで引用されているリドリー・スコット監督の発言の原文とその出典は以下の通りです。


(Ridley Scott)

"I was constantly waving a reproduction of this painting under the noses of the production team to illustrate the look and mood I was after".

Paul M.Sammon
「Future Noir : the Making of Blade Runner」
(HarperPrism, New York: 1996)


Future Noir : the Making of Blade Runner」という本は、アメリカの映画プロデューサで映画評論家・作家のポール・M・サモンが『ブレードランナー』の制作過程を洗いざらい明かし、公開後の状況や各種のトリヴィアまでを網羅した「ブレードランナー全書」とも言うべき本です。そのキーワードは、本のタイトルにもなっている "Future Noir" = "暗い未来" です。

リドリー・スコット監督は、彼が『ブレードランナー』に求めた "様子と気分(look and mood)" を例示(illustrate)するために、ホッパーの『ナイトホークス』の複製画を制作スタッフ(アート・ディレクター、デザイナー、美術スタッフなどでしょう)に見せ続けたわけです。"私の狙っている雰囲気はこの絵のとおりだ" というように ・・・・・・。そのホッパーの『ナイトホークス』が次です。


ホッパー『ナイトホークス』


Nighthawks - Edward_Hopper.jpg
エドワード・ホッパー(1882-1967)
ナイトホークス - Nighthawks」(1942)
シカゴ美術館

まず例によって、この絵を中野京子さんの解説でみていきます。中野さんは『名画の謎:対決編』(文藝春秋 2015)で、モンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』を解説したあとに『ナイトホークス』を説明しています。まずエドワード・ホッパーの経歴です。


服地屋の息子として生まれた彼は、早い時期から画家を志し、ニューヨークの美術学校を卒業した後、三度もヨーロッパに勉強に行っている。しかし流行の抽象画は肌に合わず、帰国して発表したリアリズム絵画は古臭いと酷評された。仕方なく広告のイラストで生計を立てるかたわら水彩画を描き、40代で大成功を収め(個展に出品した水彩画は即完売)、ようやく経済的に落ち着いて好きなものを描ける身となった。それでも生前の彼はあくまで水彩画家であり、油彩画はほとんど売れなかった。アメリカを代表する画家という名声は、死後のものである。


ホッパーの油彩画は、なにげない日常を描く中で、いかにもアメリカという文明の一面を鋭利に切り取った感じの作品が多々あります。まさにアメリカ絵画の代表ですが、その名声が死後のものだったとは意外です。その代表作が『ナイトホークス』です。


ホッパーのもっとも有名な『ナイトホークス(=ヨタカ、転じて夜更よふかしする人々の意)』は、偶然にも『ブロードウェイ・ブギウギ』と同じ1942年作。同年にはハリウッド映画『カサブランカ』(ハンフリー・ボガード主演)も製作された(引用注:1942年公開)。またこの前後はアーネスト・ヘミングウェイ、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドなどの小説がベストセラーになっている。つまりブギウギの時代のアメリカは、ハードボイルドの世界でもあったのだ!

ホッパーは『ナイトホークス』の舞台設定を、ニューヨークはダウンタウンの、二股に分かれた角に立つ深夜営業のダイナー(列車の食堂車を模した、街道沿いの簡易食堂)に借りたという。それだけでももうハードボイルドの雰囲気が漂うところへもってきて、ここの店内にいるのは、中折れ帽をかぶったスーツ姿の男と、若くはないが赤毛のセクシーな女とくれば、二人の間で、

「夕べはどこにいたの?」
「そんな昔のことは覚えていない」
「今夜、会える?」
「そんな先のことはわからない」

という会話が交わされている可能性も、無きにしもあらず。女の左手が微妙に伸びて、煙草を持つ男の指に触れかけているのも、いかにも意味ありげ(原注:会話は映画『カサブランカ』からの引用)。

こうしたダイナーはとうに街から消え、今となっては懐かしい風物詩だ。さらに言えば、外から丸見えのガラス張りの店で、(青少年ではなく)成熟した大人がコーヒーを飲みつつ「夜更かし」したり、場末の路上をそぞろ歩く(絵の視点はその人物のもの)ことができたのは、まだニューヨークの、それも下町の深夜が安全だったあかしでもある。

古き良き時代。

中野京子 
『名画の謎:対決編』

名画の謎・対決篇.jpg
中野京子
「名画の謎:対決編」
ホッパーの絵の特徴の一つを端的に言うと "物語性" です。すべての絵がそうだとは言いませんが、何らかの "物語" を感じる絵が多い。つまり中野さんが上の引用に書いているように「中折れ帽をかぶったスーツ姿の男と、若くはないが赤毛のセクシーな女」から、映画「カサブランカ」のせりふを連想するというようにです。ホッパーの絵はよく「映画のワンシーンのようだ」と言われますが、この絵がまさにそうです。

さらに、後ろ向きの表情が分からない男性も、こういう配置で描かれると何だか "いわくありげ" です。顔を意識的に上げたように見えるウェイターは、なぜ顔をあげたのでしょうか。男女の "カップル" の方から何か声が聞こえたからなのか ・・・・・・。よく見るとカウンターの手前にはコップが一つ置かれています。ということは、さっきまで別の客が居たに違いない ・・・・・・。

Nighthawks - Man.jpg
背中だけのこの男性客は画面の中央付近に描かれている。ということは、この絵のフォーカルポイント(焦点)はこの男性なのか。ホッパーの自画像(?)という説もある。

Nighthawks - Master.jpg
ふと顔をあげたように見えるウェイター。一見、客から声がかかったように思えるが、この絵の4人の登場人物は視線を合わせてはいない。店の外から物音がしたのだろうか。背後にあるのは当時のコーヒー・マシン。

Nighthawks - Register.jpg
通りの向かいの店は閉店しているが、あえて白いレジスターだけが目立つように描かれている。レジスターが表すものは「お金」で、当時のニューヨークを象徴しているのかもしれない。

『ナイトホークス』はホッパーの代表作と言われるだけあって、映画のワンシーンのような "物語性" を感じるのですが、中野さんはさらに限定して、物語の中でも「ハードボイルド」だと言っています。


ハードボイルド絵画


中野京子さんはこの絵を「ハードボイルド絵画」と呼んでいます。そのハードボイルド小説・映画では、主人公の直接的な心理描写はなく、行動や会話のみの記述ですべてを描こうとします。ホッパーの絵に登場する人物も無表情、またはそれに近く描かれることが多く、表情から心理を読みとることはできません。あくまで場面設定(場所、時刻、ライティングなど)と人物の外見・態度・配置だけからテーマを浮かび上がらせようとする。『ナイトホークス』もその雰囲気が横溢する絵画です。

ハードボイルド小説・映画に欠かせなかったのが "煙草" で、『ナイトホークス』にも描かれています。つまりカップルとおぼしき男女のうち、男は煙草を手にし、女はブックマッチ(二つ折りのカバーに紙マッチを挟み込んだもの)を持っている。ダイナーの上部には看板があり、そこには葉巻が描かれていて、その下に「only 5¢」(たった5セント)、横には「PHILLIES」(=フィリーズ)とメーカー名が記されています。文藝春秋の連載から引用します。


ここでも説明は最小限、登場人物の心理描写はなく、行動だけが描かれる。深夜の街。コーヒーカップを脇に煙草を吸う男とブックマッチを見つめる赤いドレスの女の微妙な距離感、ふと顔を上げる店のマスター、背を向けた男。誰も視線を交わさない。明るいカプセルに閉じ込められた四人に、これから何が起こるのか。

このようなハードボイルド的雰囲気に、なくてはならぬ小道具が煙草だった。大昔はペストにすら効く万能薬と有難がられた煙草だが、当時すでにニコチンの害が明らかになり、ヒトラーは健康帝国を謳ってドイツから煙草を一掃していた。ところがアメリカの煙草産業界は、むしろ逆に大々的な宣伝攻勢をかけ始める。とりわけ効果的だったのは映画界との共同戦線であり、ハリウッドの大スターたちは莫大な報酬をもらってスクリーンで喫煙しまくった。

観客はハンサムな男優や美人女優たちの煙草を吸う仕草に憧れた。おまけに煙草を吸うから素敵なのだと錯覚し、自分も煙草を吸えば彼らに近づけると、とんでもない思い込みにまで至ったのだから恐れ入る。かくしてアメリカ中に紫煙が漂った。

名画が語る西洋史67
「ハードボイルド絵画」
(文藝春秋 2018年3月号)

Nighthawks - Man and Woman.jpg
「ナイトホークス」に描かれた男女の "カップル"。男は煙草を手にし、女はブックマッチを見つめている。女の左手がさりげなく男の手に触れている。


現実世界ではない


ここからが『ナイトホークス』の核心です。中野さんは、ホッパーが描いた絵は、一見ありふれた情景を描いているように見えるが現実そのものではないと指摘しています。


『ナイトホークス』でいえば、第一の違和感は道路だ。ちり一つ落ちていないどころか、人ひとり、猫一匹通り過ぎたようには思えない。むしろ舞台の床だ。だからなおのこと、ダイナーの向こうの建物が書割に見える。一階の窓際にぽつんとレジスター機が置かれているので店舗てんぽであろうが、店名は ── カウンターの背後のガラスに映るはずの影がないのと同様 ── 省略されている。一方、ダイナーの屋根の安葉巻の広告(「たった五セント、フィリーズ」)はしっかり描き込んである。

本作の不思議なムードは、全体が舞台のセットのように感じられるところから来ていよう。もともと暗い夜の通りから明るい室内をのぞけば、リアル感が欠如して見え、幻のように消えてゆくかに錯覚しがちだが、ここではさらにその外側までが非現実性を帯びている。となると、外側の視点、つまりこれを見ている人物、ひいては我々鑑賞者の存在までも揺らぎはじめる。なさは、登場人物だけではないのだ。

ホッパーの作品はどれも印刷で見るより実物のほうが、はるかに索漠さくばくとしている。ある意味、未完成のようにさえ感じられる。それは心理を描かず感情表現も排し、ただ行動と会話のみを簡潔に叙述して読者に投げかけるハードボイルド小説と通底する。アメリカ人によるアメリカ的絵画。リアリズムにのっとった描写にだまされるが、決して現実世界ではない。そこに異様さが生まれる。

中野京子 
『名画の謎:対決編』


『ブレードランナー』とハードボイルド


ここから『ブレードランナー』と『ナイトホークス』の関係です。まず、この2作品に共通して影響を与えたのが "ハードボイルド" というエンターテインメントのジャンルです。『ナイトホークス』とハードボイルドの関係は中野京子さんが詳述していますが、では映画『ブレードランナー』もそうなのか。

映画評論家の町山智浩ともひろ氏が書いた「ブレードランナーの未来世紀」(洋泉社 2006。新潮文庫 2017)という本があります。町山氏はこの本の中で、原作(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)と『ブレードランナー』の脚本の大きな違いを述べています。

つまり『ブレードランナー』の脚本を最初に書いたハンプトン・ファンチャーは、原作にある2つの要素をカットしました。一つは "電気羊" です。核戦争で動物がほとんど死滅した世界では、人々はロボットの "電気羊" をペットとして飼うの一般的で、本物の動物は富裕層にしか飼えない。その、原作の題名にもなっている "電気羊" が脚本ではカットされています。2つ目はデッカートの妻です。原作ではデッカートには妻がいて、最後は妻に迎えられるというエンディングですが、映画脚本のデッカートは妻に逃げられた男になっている。

そして、ファンチャーは "電気羊" と "妻" を切り捨てたかわりに、ハードボイルドの要素を強調したと、町山氏は書いています。以下、町山氏の文章を引用します。


ファンチャーが強調したのは、ハードボイルド探偵ものの要素だ。

『電気羊』(引用注:ディックの原作小説を指す)はいちおう刑事が犯罪者を追う話だが、デッカートはフィリップ・K・ディックの他の小説の主人公と同じく泣き言ばかり言ってるしょぼくれた小役人だ。しかしファンチャーは、彼をレイモンド・チャンドラーが描く私立探偵フィリップ・マーロウのようなヒーローとした。舞台をサンフランシスコから、マーロウが活躍したロサンジェルスに移し、マーロウと同じソフト帽とトレンチコートを着せたのだ。ファンチャーのイメージは『さらば愛しき女よ』(75年)でマーロウを演じたロバート・ミッチャムだったという。そして、マーロウ調の自嘲的な独白でストーリーを進めることにした。これはハリウッドのフィルム・ノワールの手法だ。

町山智浩 
「ブレードランナーの未来世紀」
(洋泉社 2006)

ちなみに、この映画は脚本家が途中で交代し、完成版の映画では「マーロウ調の自嘲的な独白でストーリーを進める」ようにはなっていません。ただ重要なのは、主人公のデッカートがフィリップ・マーロウに重ねられていることと、上の引用の最後に出てくる "フィルム・ノワール(film noir)" です。

フィリップ・マーロウはチャンドラーの重要な小説に出てくる私立探偵です。元々は検察の捜査官だったが上司に反抗したため免職になり私立探偵をしているという設定で、もとより権威・権力には媚びない姿勢です。安い料金(実費+25ドル/日)で仕事を引きうけ、ボロ自動車に乗り、トレンチコートにキャメルのタバコがトレードマークの「足で稼ぐ探偵」です。その一方で、弱いものには優しく、センチメンタルなところがあります。孤独を愛し、アンニュイ(物憂さ、気だるさ)の雰囲気を漂わせ、少々 "影" がある。

こういった人物造型は『ブレードランナー』のデッカートに重なります。デッカートが "未来のフィリップ・マーロウ" だと考えると納得がいく。さらに町山氏の解説です。


スコットはファンチャーの脚本の「未来のフィリップ・マーロウ」というアイデアに興奮した。彼はロマン・ポランスキー監督の『チャイナタウン』(74年)のようなフィルム・ノワールを撮りたいと思っていたからだ。

フィルム・ノワールとは、おもに1930年代のハードボイルド小説を原作として、40年代にハリウッドで作られた白黒の犯罪映画を指す。最大の特徴は闇だ。夜の闇に、雨に濡れた舗道、ネオンサイン、吹き上がる蒸気、タバコの煙、ブラインドや換気扇越しの光が白く切り抜かれる。フィルム・ノワールはたいてい主人公の憂鬱が独白で始まる。彼は謎めいた美女に誘われ、愛も情も踏みにじられる暗黒の世界へと入っていく。

フィルム・ノワールは、明るく勧善懲悪のハッピーエンドを描き続けたハリウッド映画史上の異端児だ。その厭世主義の原因は二度の世界大戦で残酷な現実を体験したせいだといわれている。「フィルム・ノワール」という呼び名は、それらの映画がフランスで上映されたときにつけられたもので、「フィルム・ノワール」という言葉がアメリカに逆輸入された50年代には、ハリウッドはすでにそういった暗くネガティヴな映画を作るのをやめて、明るく健全で保守的なハッピーエンドの映画が主流になっていた。

しかし、60年代終わりから、ヴェトナム戦争を背景に、ハリウッドでは再びアンハッピーエンドの映画が作られた。いわゆるアメリカン・ニューシネマである。ハリウッド映画が描かなかったアメリカのダークサイドを描こうとしたニューシネマは、ハリウッドが闇を描いていた40年代のフィルム・ノワールを再生した。それがスコットの愛する『チャイナタウン』であり、ファンチャーが愛する『さらば愛しき女よ』なのだ。

「『ブレードランナー』の設定は(製作時から)40年後の未来だが、映画のムードは40年前の1940年代に作られたフィルム・ノワールを模した」とスコットは言っている。当初、デッカートはフィリップ・マーロウ風にトレンチコートにソフト帽を被る予定だったが、ハリソン・フォードが『レイダース/失われたアーク』(81年)で先にソフト帽を使ったのでコートだけになった。

町山智浩 
「ブレードランナーの未来世紀」

やはりデッカートは未来世界のフィリップ・マーロウであり、『ブレードランナー』はハードボイルド小説を映画化した「フィルム・ノアール」の後継なのです。さらに付け加えると、フィルム・ノワールが最初に作られたのは第二次世界大戦中であり、ホッパーの『ナイトホークス』(1942)もまさにその時期に描かれました。


Future Nior(暗い未来)


Nighthawks - Edward_Hopper.jpg
エドワード・ホッパー
ナイトホークス - Nighthawks」(1942)

ここからが話の核心で、『ナイトホークス』が『ブレードランナー』に影響したという、その内容です。リドリー・スコット監督は、

わたしが追い求めている様子と気分を例証するためにプロダクション・チームの鼻先にこの絵(=ナイトホークス)の複製をいつも振り動かしていた」

と語ったのでした。キーワードは、ポール・サモンの本の題名にもなっていた「Future Nior(暗い未来)」です。Future Noir とは、フィルム・ノワール(film noir)をサイエンス・フィクション(SF)の手法で未来世界に移したものと言えるでしょう。Tech Noir や(tech は科学技術の意味)、SF(Science Fiction)Noirという言い方もあります。その代表格は『ブレードランナー』とともに、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(1984)です。

『ターミネーター』を思い返してみると、スカイネットと呼ばれる人工知能が反乱を起こし、人間に核戦争を仕掛ける。その戦争後の荒廃した地球では、人間軍と機械軍の死闘が繰り広げられている。この状況を前提としたストーリー展開が『ターミネーター』でした。

『ブレードランナー』と『ターミネーター』に共通するのは、文明と科学技術の進歩が、世界を人間にとってのディストピアに向かわせるというコンセプトです。人間は自らが創り出したものに逆襲され、窮地に陥る。『ブレードランナー』にある地球環境破壊もその一つでしょう。さらには、人間が延々と築いてきた人間性が喪失、ないしは希薄になってゆく。文明の進歩が、人間らしさを謳歌できる "明るい未来" をもたらすのではなく、それとは真逆の荒涼とした "暗い未来" を招く。そのイメージが Future Noir = 暗い未来です。

前に引用した町山氏は「60年代終わりから、ヴェトナム戦争を背景に、ハリウッドでは再びアンハッピーエンドの映画が作られた」とし、その流れに『ブレードランナー』があると書いていました。しかし、背景はそれだけではないと思います。No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」で紹介したように、評論家の内田たつる氏は、米ソの冷戦時代(1960年代~80年代)には核戦争が起きるのではという "黙示録的な不安" が、潜在的・暗黙に世界を覆っていたと指摘しています。誰も口には出さなかったけれど、人々は心の奥底でそれを感じとっていた。そもそもサイエンス・フィクションというジャンルが隆盛を極めた要因はそれだと ・・・・・・。Future Noir はまさにそういった潜在意識をも背景とするものでしょう。



この Future Noir とホッパーの『ナイトホークス』(1942)がどう関係しているのでしょうか。『ナイトホークス』が描かれた1942年は真珠湾攻撃(1941)の翌年であり、アメリカは既に第二次世界大戦に参戦しています。ヨーロッパ大陸と太平洋で戦争が行われていて、アメリカの兵士が出征して戦っている。

しかし、アメリカ本土で戦闘が行われているわけではありません。このブログの過去の記事を思い起こすと、1942年はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」のアメリカ初演がニューヨークで行われた年です。アメリカの大衆は熱狂し、"共にドイツと戦っているソ連" の作曲家(=ショスタコーヴィチ)の曲を熱狂的に支持しました(No.281 参照)。そのニューヨークには摩天楼が建ち並び、街にはブギウギのリズムが流れ、映画も演劇も盛んで、まさにモンドリアンが『ブロードウェイ・ブギウギ』で描こうとした世界がそこにあった。

その喧噪がニューヨークの "表の顔" だとすると『ナイトホークス』に描かれたのは "裏の顔" です。ここで描かれた深夜のダイナーの風景から受ける(個人的な)感じは、

◆ 現実の風景なのだろうけれど、リアルな感じがしない。現実感が希薄で、道路の描き方に典型的にみられるように非常に "無機質な感じ" がする。

◆ シュルレアリズム絵画のような雰囲気があり、"どこにも無い街" を描いているようでもある。

といったものです。シュルレアリズム絵画と書きましたが、デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」に画像を引用)に一脈通じるものを感じます。さらに『ナイトホークス』の登場人物である4人の心象を想像してみると、

◆ 索漠としていて、心が満たされない。

◆ 人間関係が希薄で、荒涼としている。

◆ 大都会の孤独と寄る辺なさが身に染みている。

などでしょう。「索漠さくばく」と「なさ」は、中野京子さんの文章からもってきました。的確な日本語だと思います。

まさにこのような "look and mood"(様子と気分)が、リドリー・スコット監督が『ブレードランナー』のスタッフ、特に美術やビジュアル関係のスタッフに一貫して求め続けたものだと思います。『ナイトホークス』は見るからに "感染力の強い" 絵です。その絵に監督もスタッフも "感染" し、そして『ブレードランナー』の各種ビジュアルの "look and mood" に統一感を生む一助となった。さらに一歩進んで推測すると、

リドリー・スコットはホッパーの『ナイトホークス』を見たとき、近代化と大都市化が進んでいくその末にある "Future Noir的なもの"、極端に言うと "ディストピアへの入り口" を垣間見たような気がした

のではないでしょうか。つまり、この絵がある種の "予見性" を持っていると感じた。全くの想像ですが ・・・・・・。

リドリー・スコットはイギリスの名門の国立美術大学、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA。Royal College of Art)の出身です。卒業後にBBCで美術デザイナーとして働いたあと、1967年にCMプロダクションを設立し、当時は商品の宣伝に過ぎなかったテレビCMをアートの域にまで高め、数々の賞に輝きました。その後、念願の映画監督に転身した。

彼は自分で絵を描くし、映画の絵コンテも描きます。そういう経歴から考えると『ナイトホークス』からインスピレーションを得て『ブレードランナー』のビジュアルに生かすことはごく自然だったのでしょう。


アーティストとインスピレーション


『ナイトホークス』と『ブレードランナー』という、少々意外な取り合わせから思うことがあります。画家と映画監督を "アーティスト" と考えると、アーティストが作品(アート)を通して他のアーティストに影響し、その影響が別の作品を生み出すというプロセスは、誠に微妙だと思います。

『ナイトホークス』は『ブレードランナー』の40年も前の作品です。エドワード・ホッパーはサイエンス・フィクションとは全く無関係にニューヨークを描いた。しかしリドリー・スコットはその絵に "何か" を感じて、全く別のジャンルの作品に生かした。作品(アート)はいったん完成すれば、それをどう解釈するかは鑑賞者の自由です。『ナイトホークス』から『ブレードランナー』の "暗い未来" を思い描くのは "飛躍のしすぎ" とも思えるのですが、リドリー・スコット監督の感性はそうなのです。この意外性こそアートです。

鑑賞者の自由度は極めて大きく、見る人の感性に依存する。そこにこそアートの威力があるのだと思います。『ナイトホークス』はそのことを実証しているのでした。




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No.287 - モディリアーニのミューズ [アート]

このブログでは中野京子さんの絵画評論から数々の引用をしてきましたが、今回は『画家とモデル』(新潮社 2020。以降「本書」と書くことがあります)からモディリアーニを紹介したいと思います。本書の「あとがき」で中野さんは次のように書いています。


「画家とモデル」といえば、男性画家と彼に愛された女性モデルを想起しがちです。実際、シーレとヴァリ、ピカソと愛人たちなどが、評論、伝記、映画といったさまざまな媒体で幾度も取り上げられ、美術ファン以外にもよく知られているようです。本書では、そこにはあまりこだわりませんでした。もちろんそうした範疇はんちゅうにあるシャガールやモディリアーニも扱いましたが、むしろこれまであまり触れられることがなかった画家とモデルの関係に、できるだけ焦点を当てたいと思いました。


中野京子「画家とモデル」.jpg
表紙はワイエスが描いたヘルガ
この「あとがき」どおり、本書には "これまであまり触れられることがなかった" クラーナハとマルティン・ルター、同性愛を公言できなかったサージェントと男性モデル、女性画家・フォンターナと多毛症の少女、ピエロ・デラ・フランチェスカと傭兵隊長(ウルビーノ公)など、全部で18のエピソードトが取り上げられています。全く知らなかった話もいろいろあって、大いに参考になりました。

その18のエピソードの中からえてモディリアーニなのですが、"男性画家と彼に愛された女性モデル" の典型であり、よく知られているモディリアーニをわざわざ取り上げる理由は、

① 女性モデルとして、有名なジャンヌだけでなくベアトリスのことも書かれている。

  モディリアーニを題材 にしたフランス映画『モンパルナスの』の話があり、これが秀逸だった。

③ 個人的に「この画家が好き」と初めて思えたのがモディリアーニ(随分前ですが)。

の3つです。『画家とモデル』のモディリアーニに関する章は、

破滅型の芸術家に全てを捧げて
モディリアーニと《ジャンヌ・エビュテルヌ》

で、いかにも "それらしい" タイトルになっています。以降、この章の要点を、本書には引用されていない絵画も含めて紹介します。


イタリアのリヴォルノに生まれる


モディリアーニ(1884-1920)の生い立ちや生涯は各種の本にさんざん書かれていますが、改めて中野さんの解説で振り返りたいと思います。引用では漢数字を算用数字に改めたところがあります。下線は原文にはありません。


生誕地はイタリアの港町、リヴォルノ。母親が産気づいたその時、父親の破産により家具が差し押さえられている最中だったというから、誕生、即、不運の幕開けでもあった。モディリアーニは第四子にして末っ子。母から溺愛され、病気がちだったので家族中から大切にされて、ままに育つ。兄二人と姉がいた(生涯独身だったこの姉が、後年モディリアーニの一人娘の養母となる)。

最初の重篤じゅうとくな病は11歳での肋膜炎、続いて14歳には腸チフスから肺炎を併発へいはつ、16歳で結核にかかり、翌年に温暖な南イタリアで静養した。抗生物質ストレプトマイシンが発見されるのはモディリアーニの死後20年以上先なので、結局この病気が命取りとなる。

中野京子『画家とモデル』
(新潮社 2020)

リヴォルノはトスカーナ州の港町で、ピサの南南西 20km程度の場所です。フィレンツェからちょうど西の方角で、ティレニア海に面しています。

モディリアーニが病弱だったことは有名ですが、16歳のときに結核に罹患したとあります。No.121「結核はなぜ大流行したのか」で、19世紀以降に結核が大流行したことを書きました。画家で言うと、ムンク(1863-1944)とホドラー(1853-1918)は家族を次々と結核で亡くし、それが画風に影響を与えています。幸い2人は結核を発症しなかったのですが、モディリアーニの場合は本人が結核患者だったわけです。

現在のような特効薬があるわけではありません。モディリアーニは結核性脳膜炎で37歳の短い生涯を終えます。元々の虚弱体質に加えてこのような病歴があると当然 "死" を意識するだろうし、そのことがモディリアーニの芸術に影響を与えたと考えるのが妥当でしょう。


それでも若いうちはまだ病状を抑えることができ、彫刻家になる夢を抱いて21歳でパリへ行く。当時はパリこそが芸術世界の中心だった。同じ野心を抱く仲間もおおぜいいて、誰もが己の芸術と真摯しんしに向き合い、少しでも良い作品を仕上げてパトロンや専属の画商を得、世に出たいと切望していた。創造し、恋し、夜になるとカフェに集まって芸術論を戦わせ、酒を飲み、時に酔いつぶれて警察の世話になった。

だがそうした生活を長く続けるには、モディリアーニは虚弱すぎた。そもそも彫刻制作そのものが体力勝負で負担が大きく、そのうえ材料費がかさむ。家からの仕送りは十分ではなく、絵画との二本立てでいくつかの展覧会へ出品したものの、はかばかしい反響はなかった。30歳を迎えるころには彫刻をほぼ完全に諦める(無念さは長くあとをひいたが)。

中野京子『画家とモデル』

モディリアーニの芸術で重要なことは、もともと彫刻家志望だったことで、フィレンツェやヴェネツィアの美術学校のときからそうだったようです。パリに出てからも彫刻の制作をしていて、これがのちの絵画作品に影響を与えています。


ベアトリス・ヘイスティングス



そのころ強烈な出会いが待っていた。五歳年上の裕福なイギリス人女性ジャーナリスト、ベアトリス・ヘイスティングスだ。モディリアーニはそれまでにも娼婦や下働きの女たちなど数多くと関係してきた ─── モデルの数が愛人の数と言われた ─── が、どれも遊び以上のものではなかった。ベアトリスとは会ってすぐ生活を共にする。

二人のなれそめについて、ベアトリスは次のように書いている。いわく、初対面のモディリアーニは物欲しげで身なりもひどく、嫌な男だと思ったのに、二度目に会った時にはひげも剃り、きちんとした格好で魅力的に見えた。彼は恥じらいながら、自作を見てほしいとアトリエに私をさそった、と。この短い文からだけでも、モディリアーニのエロティシズムと手管てくだが伝わってくるようだ。

中野京子『画家とモデル』

この引用の後半、ベアトリスとモディリアーニの "なれそめ" を紹介した中野さんの文章には、最後に "エロティシズム"と "手管" という言葉が使われていて、これは女性にしか書けない感じがします。─── 男に再び会うと、最初の印象とのギャップに驚く。それが "手練手管" だとしても、美貌の男の "色気" には抗しがたく、恥じらいながらアトリエに誘われたりすると、ついて行くしかない ─── といった感じでしょうか。


ロンドン生まれのベアトリスは父親の仕事の関係で子供時代を南アフリカで過ごし、帰国してからオックスフォードのクィーンズ・カレッジで学んだ。その後「新時代」誌の特派員となり、パリのボヘミアンたちの動向をこの雑誌に寄稿するためにモンパルナスに来ていた。モディリアーニが、知的で個性的な彼女に惹かれたのは当然だし、時に嫉妬に狂ったのも彼女に対してだけだった。

一方、ベアトリスといえば、モディリアーニの群を抜く美貌に夢中になっただけで、彼女の作品をさほど評価していたわけではなかった、と言われる。別れたあとの彼女の淡泊さからするとそのとおりかもしれないが、たとえそうだったとしても、まがりなりにも2年にわたり同棲を続けたのだ。派手な口喧嘩や殴り合いを人前で幾度も繰り広げ、また幾度も仲直りし、彼のモデルとして肖像を十点以上生み出させた。

間違いなくベアトリスは彼に詩的霊感を与えたミューズであり、運命の人だった。そのことは美術市場においても証拠だてられる。モディリアーニ作品の高評価と需要は、ベアトリス登場の1914年以降に集中しているのだ。彼女との関わりと共にデッサンはより鋭くなり、単純化した形態でありながら彫刻的なボリューム感は増し、優美さが獲得された。

中野京子『画家とモデル』

画家としてのモディリアーニの最初の "ミューズ" になったのがベアトリス・ヘイスティングスだったというのは、まさにその通りだと思います。それは、モディリアーニがベアトリスを描いた絵を見れば良くわかります。ベアトリスの肖像画は油彩だけでも10数点ありますが、『画家とモデル』にはありません。そこで、いったん『画家とモデル』を離れ、ベアトリスの肖像の何点かを引用します。以下の(A)(B)などは、作品の識別のために便宜上つけた符号です。


ベアトリス・ヘイスティングスの肖像


01 Beatrice Hastings 1914.jpg
(A)「ベアトリス・ヘイスティングス」(1914)
ハイ美術館(米・アトランタ)

ベアトリスの肖像画としては最も初期の作品です。変わった絵の具の塗り方ですが、この頃(1914)には点描風に描いた別人の肖像画があるので、それと関係しているのかもしれません。

長い鼻、アーモンド形の目、引き伸ばされた首など、後年の「モディリアーニ・スタイル」の肖像の特徴が現れています。1914年の時点でこのようなスタイルの絵は他に見あたりません。モディリアーニはベアトリスの肖像を描く過程で、自らのスタイルを確立していったという気がします。

02 Beatrice Hastings 1915.jpg
(B)「ベアトリス・ヘイスティングス」(1915)
オンタリオ美術館(カナダ)

ベアトリスの肖像としてはめずらしく帽子を被っていません。この絵になると(A)よりもはっきりとモディリアーニのスタイルになります。全くの無表情ですが、そもそもこの絵でモデルの表情や内面を描くことに興味はないようです。あくまで造形をどうするかが追求されています。

少々奇妙なのは、椅子の背が右側にしか描かれていないことで、この配置だと左にも見えるはずです。もし椅子の背が全くなかったとしたら、シンプルな線による形態の追求だけの絵になってしまうので、バランスをとるために半分だけ描き込んだのでしょうか。

03 Beatrice Hastings 1915.jpg
(C)「ベアトリス・ヘイスティングス」(1915)
個人蔵

ベアトリスの絵では最も "肖像画らしい" ものでしょう。(B)と顔の形が似ていて、ベアトリスの特徴をとらえているのだと思います。めずらしく右目にだけに瞳が描かれています。

04 Madame Pompadour 1915.jpg
(D)「マダム・ポンパドール」(1915)
シカゴ美術館

多くの美術史家の意見によると、この絵のモデルはベアトリス・ヘイスティングスです。マダム・ポンパドールとは、ルイ15世の寵姫ちょうき(=公妾。国王の "正式の" 愛人)だったポンパドール夫人のことです。モディリアーニ自身が絵にマダム・ポンパドールと書き込んでいますが、その理由は明らかではないようです。モディリアーニがベアトリスのことを(ふざけて)マダム・ポンパドールと呼んでいたのか、それともこの肖像を描いたあとに、豪華な帽子と衣装の彼女を少々の皮肉を込めてマダム・ポンパドールとしたのかもしれません。"マダム" が英語綴りになっているのは(最後に e がない)、ベアトリスの国籍から "イギリスのポンパドール夫人" という意味を込めたのかもしれません。

05 Beatrice Hastings 1916.jpg
(E)「ベアトリス・ヘイスティングス」(1915)
バーンズ・コレクション

バーンズ・コレクションの Room 19 South Wall にある絵です(No.95「バーンズ・コレクション」)。ちなみにアルバート・バーンズはモディリアーニに最も早く "目を付けた" コレクターの一人で、バーンズ・コレクションにはモディリアーニの名品が揃っています。

この肖像は、顔から首にかけてが円錐のような形になっています。一つ前の「マダム・ポンパドール」では頭がラグビーのボールのような形でモデリングされていました。このように形態を極度に単純化・抽象化してとらえるのはキュビズムに少し近づいている感じがします。

この絵のベアトリスも無表情です。1915~1919年に描かれたモディリアーニの他の肖像画は、いかにもモデルの性格や内面を的確に捕らえたと思える絵が多いわけです。たとえ瞳が描かれていなくても、そう感じる絵が多い。しかしこの絵は(というより A~E は)違って、モデルの内面を表した感じがしません。ベアトリスを素材に描き方の探求をしている感じがします。

なお、上に引用した画像(E)ではわかりにくいのですが、この絵の右上の "BEATRICE" の字の下あたりに新聞紙がコラージュされています。



(A)~(E)の5つの肖像を見て思うのは、モディリアーニの彫刻作品との類似性です。その彫刻の2つの例を下に掲げます。左がバーンズ・コレクションの作品、右がグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)の所蔵作品です。

Head - Barmes ang Guggenheim.jpg
左がバーンズ・コレクション(フィラデルフィア)、右がグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)の所蔵作品。モディリアーニの彫刻は大理石ではなく、石灰岩を彫って作られている。

ベアトリスの肖像とこれらの彫刻作品の共通点を書き出すと、

・ 長い鼻筋
・ アーモンドの形の目
・ 瞳がない
・ 頭部は単純化された立体形状
・ 長く引き伸ばされた首

などでしょう。モディリアーニは彫刻で実現したかった "美" のイメージを絵画に投影したという感じがします。中野さんも、


彼にとって絵画はいよいよ彫刻の代わりとなる。3次元の彫像に瞳が刻印されると不気味なように、2次元の絵画に瞳のない目は違和感がある。えてそうすることで画家の個性は際だつし、さらには瞳を描かずしてなおモデルの個性を輝かせる腕を披瀝ひれきできる。

中野京子『画家とモデル』

と書いていました。このあたりから、モディリアーニが独特のスタイルを確立していくのだと思います。それはあくまで出発点なのだろうけど、重要な出発点だと感じます。



さらに別の絵画を引用します。ロンドンのコートールド・ギャラリー(No.155 参照)が所蔵する『座る裸婦』という作品です。日本ではこの名前で呼ばれることが多いのですが、コートールド・ギャラリーは単に「Female Nude = 裸婦」として展示しています。

06 Female Nude 1916.jpg
(F)「座る裸婦」(1916)
コートールド・ギャラリー

スコットランド国立近代美術館のキュレーターをつとめたダクラス・ホール(1926-2019)は、この絵のモデルがベアトリスではないかと推測しています。


全ての裸婦の中でも、この作品はモディリアーニの最初の愛人だったベアトリス・ヘースティングスをモデルにして描いた可能性が非常に高い。顔立ちは一般化され、構図の必要に応じて変形されてはいるが、彼女の顔立ちと似ている。彼女の他の肖像画と比べて髪が黒いのは、モディリアーニが黒い髪の色を構図の一部として考えていたからに違いない。全裸に近いベアトリスを描いた素描があり、それがモディリアーニと彼女の関係を示す唯一の確実な記録であるが、その体型や心理的・性的な態度は、この絵の女性と符号する。

ダグラス・ホール
「モディリアーニ」
森田義之・上月祐子訳
西村書店(1994)

「全裸に近いベアトリスを描いた素描」とは、下の "BEATRICE" と書き込まれた素描で、ダグラス・ホールの本にも引用されています。下着を脱ぎ終わる寸前のベアトリスを描いているようですが、確かにコートールドの裸婦像と顔立ちが良く似ています。

07 Beatrice Hastings 1916.jpg
(G)「ベアトリス」(1916)
個人蔵

モディリアーニは数多くの裸婦像を描いていますが、(F)はその最も初期の作品です。その後に描かれる裸婦と違って、輪郭線の様式化はあまりなく、リアルに、かつ繊細で優雅な線で描かれている。これはモディリアーニの描いた裸婦像では最も美しい作品だと思います。さらに感じるのは、これ以降のモディリアーニの裸婦は「プロのモデル」を使ったと思える絵がほとんどなのに比較して、この絵のモデルは "アマチュア" のモデルだと思えることです。

そして、ダグラス・ホールの推測のようにこの絵のモデルがベアトリス・ヘイスティングスだとしたら、「ベアトリスを描く」という行為が、モディリアーニの芸術の重要なジャンルである "裸婦" の先鞭をつけたことになります。その意味でもベアトリスは "ミューズ" なのでした。


ジャンヌ・エビュテルヌ


『画家とモデル』に戻ります。モディリアーニの2人目の "ミューズ" であるジャンヌ・エビュテルヌのことは多数の本に書かれ、映画まで作られたので、『画家とモデル』のその部分の紹介は割愛したいと思います。要するに画学生だったジャンヌがモディリアーニと出会い、同棲し、モデルになり、女の子を生み(同じジャンヌという名)、モディリアーニの死後2日目に身重の身で投身自殺をする、というストーリです。

ここでは『画家とモデル』に引用されているジャンヌの肖像、2作品を掲げます。

08 Jeanne Hebuterne.jpg
(H)「ジャンヌ・エビュテルヌ」(1918)
個人蔵


ジャンヌの写真が残されている。強い眼差しの、生真面目そうな美しい女性で、1918年に制作された肖像画(引用注:上の画像)のイメージに近い。目鼻立ちは写真の方がはるかに整っているが、画面からひたとこちらを見つめるこの彫像的な彼女であれば、確かに親を捨て家を捨て、思い定めた相手をひたすら愛し抜くであろう。破滅してまでついてゆくであろう。そう思わせる。

中野京子『画家とモデル』

この絵のポイントはジャンヌの目、ないしは目力めぢからです。モディリアーニの肖像画の "目" は、瞳を描いたものと、描かずに塗りつぶしたものがありますが(次の画像)、この絵では瞳を描いています。ところが、実際のジャンヌの瞳は青であり、他の「瞳を描いたジャンヌの肖像」には青く描いたものもあるのですが、この作品は実際とは違う "黒い瞳" です。

おそらくモディリアーニは "ひたとこちらを見つめる彫像的なジャヌ" の表現のためには黒い瞳が適当だと思ったのでしょう。

09 Jeanne Hebuterne.jpg
(I)「ジャンヌ・エビュテルヌ」(1919)
個人蔵


(この)肖像は妊娠7ヶ月ころの彼女だ。背景はキュビズムの手法で描かれている。ドアを背に、おなかの大きなジャンヌが、ひねった姿勢で椅子に座る。この最晩年の作品がどこかいたましく感じられるのは、見る側がこの先の展開を知っているからだろうか ・・・・・・。

中野京子『画家とモデル』

モディリアーニが亡くなったのは1920年1月24日です。この作品は死の前に描かれたもので、1919年だとしたら12月、1920年1月の作という可能性もあります。モディリアーニの唯一の『自画像』とともに、遺作と言ってもいいでしょう。

ドアを後にしたジャンヌを描いていますが、ドアとその両側の壁の描き方がちょっと複雑です。中野さんは「背景はキュビズムの手法で描かれている」と書いていますが、複数の視点から描いているというか、まるで部屋の隅にドアがあるような(それはあり得ない)描き方です。

その "複雑な" 背景の前のジャンヌの衣装は、少々くすんだ色合いのトリコロールです。この赤いショールと紺青のスカートの組み合わせは、ラファエロの描く聖母マリア(ルーブルの「美しき女庭師」など)を意識したのかもしれません。

しかし、ジャンヌの顔は彫像のように無表情で(H)とは全く違って空虚な感じです。ただ、妊娠7ヶ月の身体からだだけがモデルとしての彼女の存在を主張している。そういう感じがします。


我々は「報われない芸術家」を求める


中野京子さんの『画家とモデル』のモディリアーニの章には、その最後に、映画『モンパルナスの』のことが書かれています。モディリアーニを主人公にした映画なので、それを紹介するのかと思って読むと、目的は全然別のところにありました。


ここでどうしても触れておきたいのが、古いフランス映画『モンパルナスの灯』(ジャック・ベッケル監督、1958年公開)。モディリアーニとジャンヌの出会いから死までを描いた作品で、必ずしも事実に忠実ではない。しかしこの映画には、報われない画家と大儲けする画商の構図、また芸術家がその私生活ごと大衆に消費される時代の残酷さや胸をえぐる悲しみがあり、忘れがたい余韻よいんを残す。

─── カフェで泥酔するモディリアーニを、じっと観察する死神のような画商モレルがいる。彼は先述したモディリアーニの個展にも顔を出し(引用注:画商・ズボロフスキーが開いたモディリアーニ初の個展のこと)、店番をしていたズボロフスキーに言う、「いい絵だが、生きているうちは売れない。」「なぜ」と色をなすズボロフスキーに、「彼は運がないから」と平然と返す。

モレルは虎視眈々こしたんたんとモディリアーニの死を待っていたのだ。当夜、寂しい道をモディリアーニがふらつきながら歩く後をずっとつけてゆき、倒れると病院に運ぶが、医者から身許みもとを問われても、通りすがりだからわからないと答える。そして死を見届けるや、モディリアーニのアパートまで馬車を走らせ、何も知らないジャンヌに絵を買いたいと申し出る。喜ぶジャンヌが並べて見せるモディリアーニ作品を、彼はあれもこれもと大量に、安価に手に入れるのだった ───。

モレルはもちろん架空の人物である。創り手が血を吐く思いで完成させたものを単なる商品とみなし、買い時と売り時を正確に見定める冷酷な商人であり、同時にまた彼は我々大衆そのものだ。我々が芸術家へ寄せる憧れやねたみや夢や復讐心といったねじれた思いは、時に「報われない芸術家」を求め、その伝説を消費しようとする。モレルはそれをよく知っていた。この映画を見る我々もそれに気づかされる。

中野京子『画家とモデル』

絵を見る我々は、実は心の中のある部分で「報われない芸術家」を求めていて、芸術を鑑賞する行為の一部としてその伝説を "消費" している ・・・・・・。まさにその通りだと思います。代表的な画家がゴッホでしょう。生前は絵が(ほとんど)売れず、37歳でピストル自殺をしてしまう。「周囲の無理解にもかかわらず独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という強いイメージが定着し、それを補強する伝説や物語が流布しています。

モディリアーニはゴッホと違い生前に絵が売れましたが、爆発的に売れ出して高値で取引されるのは死後です。生来の虚弱体質で結核に罹患しているにもかかわらず "破滅型の" 生活(過度の飲酒、麻薬 ・・・)を送り、誰とも似ていない独自の芸術を創り出したが、若くして死に、その直後に身重のパートナーが後追い自殺する ・・・・・・。「報われない芸術家」に "求められる要素" が揃っています。

夭折した芸術家も「報われない芸術家」の範疇でしょう。日本の画家の例を没年齢とともに書くと、関根正二(20歳)、村山槐多(22歳)、青木繁(28歳)、佐伯祐三(30歳)などです。ちなみに関根正二、青木繁、佐伯祐三は結核患者であり、関根正二、青木繁の直接の死因は結核でした。ヨーロッパの画家でいうと、スペイン・インフルエンザで亡くなったエゴン・シーレ(28歳)がいます。おそらく我々が知らないだけで、各国には「知る人ぞ知る夭折の画家」がいるのだと思います。

芸術家としての本格的なキャリアがこれからという時に死んでしまうのだから "報われない" というイメージです。今あげた4人の日本の画家も、それにまつわる "伝説" が広まっています。そして、展覧会などで決まって言われるのが「夭折の天才」ですが、本来 "夭折" と "天才" は別の概念です。つまり、芸術の消費者である我々が「夭折 = 天才」という図式を求め、「報われない芸術家」を欲しているのだと思います。

しかし、我々が暗黙に(ないしは無意識に)求める「報われない芸術家像」は、その芸術家の作品の価値とは別です。中野さんのモディリアーニについての文章で、そのことにあらためて気づかされました。




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No.286 - 運動が記憶力を改善する [科学]

No.272「ヒトは運動をするように進化した」の続きです。No.272 は、アメリカ・デューク大学のポンツァー准教授の「運動しなければならない進化上の理由」(日経サイエンス 2019年4月号)を紹介したものでした。この論文の結論を一言で言うと、

運動は自由選択ではなく、必須

ということです。人は、より健康に過ごすために運動(=身体活動)をするのではなく、普通の健康状態で過ごすためには運動が必要なのです。論文の中では、運動が人の生理機能に良い影響を与えることがいろいろと書かれていましたが、その中に次の文章がありました。


運動は神経新生と脳の成長を促す神経栄養分子の放出を引き起こす。また、記憶力を改善し、加齢による認知機能の低下を防ぐことでも知られている。

ハーマン・ポンツァー
「運動しなければならない進化上の理由」
(日経サイエンス 2019年4月号)

我々は、運動が身体に及ぼす良い影響というと暗黙に、呼吸器系・循環器系(心肺機能)、体脂肪や筋肉、関節や骨密度、免疫機能つまり病気に対する抵抗力などを考えます。ざっくりと言うと、我々が「体力」という言葉で考える範疇についての運動の好影響です。

日経サイエンス 2020年5月号.jpg
「日経サイエンス」
(2020年5月号)
それは全くその通りなのですが、忘れてならないのは「脳に対する運動の影響」です。それは既に常識のはずで、たとえば介護施設などでは認知症予防のために(軽い)身体活動をやっています。しかし、話は介護施設や高齢者にとどまりません。もっと一般的に年齢や健康状態にかかわらず、身体活動は脳に良い影響を与えます。つまり運動は体力だけでなく「知力」にも関係している。我々は往々にして忘れがちなのだけれど、そこがポイントです。

最近の「日経サイエンス」に、「運動しなければならない進化上の理由」を継続するかたちで、ポンツァー准教授の共同研究者でもあるライクレン教授(David Raichlen。南カリフォルニア大学)の解説が掲載されました。「運動が記憶力を改善する理由わけ」という論文です。今回は是非、それを紹介したいと思います。

運動が記憶力を改善する理由.jpg


成体脳もニューロンを生み出せる


我々は、脳の神経細胞は成人になると増えない、減っていくばかりだと思っています。皆ではないかもしれないが、何となくそう思っている人が多いのではないでしょうか。そういうことを読んだ記憶があるし、年齢を重ねて「昔と違ってモノ忘れをするようになったな」と感じたとき「やっぱり」と思う人もいるはずです。

しかし最新の科学的知見によると、それは違います。ライクレン教授の論文では、まずそのことが強調されています。


1990年代、神経科学の基本原則を覆すことになる一連の発見が報告された。長い間、成体の脳ではニューロンが新たに育つことはないと考えられていた。むしろ減り始めるというのが定説だった。だが、成体脳が新たにニューロンを生み出せることを示す証拠が積み上がりつつあった。ある衝撃的な実験で、マウスが回し車の中を走るだけでその海馬(記憶に関係している脳領域)でニューロンが新たに生まれることが明らかになった。

以来、運動が人間の脳に(特に年を取るにつれて)好影響を与えること、そしてアルツハイマー病などの神経変異性疾患のリスクを低下させる助けにさえなりうることが立証されてきた。

デビッド・ラルクレン(南カリフォルニア大学)
ジーン・アレクサンダー(アリゾナ大学)
「運動が記憶力を改善する理由わけ
(日経サイエンス 2020年5月号)

では、なぜ運動が脳に良い影響を与えるのでしょうか。


負荷に対する応答で機能が改善する


我々は「体に適度の負荷をかけると体が丈夫になる」ということを直感的に理解しています。つまり「負荷に対する応答」として体の機能が改善されたり、より良くなるわけです。


身体活動は多くの臓器系の機能を改善するが、その効果は通常、運動能力の向上と関係がある。例えば、歩いたり走ったりするとき筋肉はより多くの酸素を必要とするので、そのような運動を繰り返すと心臓のサイズが徐々に大きくなり、新しい血管が作られる。こうした心血管系の変化は主に体の運動負荷に対する応答であり、これによって持久力が高まる。

「同上」

ウォーキングやランニング、各種のエクササイズで肺や心臓に負荷をかけると、肺活量が増え、酸素取り込み機能が向上し、脈拍数は低下し、心臓機能が向上し、疲れにくくなり、風邪をひきにくくなって病気からの回復力も増す。これは非常に分かりやすい話です。

このことから類推すると、運動が脳に良い影響を与えるとしたら、「運動は脳への負荷でもあり、その負荷に対する脳の応答として機能が向上する」と考えるのが自然です。しかし我々は「脳への負荷」というと、勉強をしたり、問題を解いたり、読書をしたり、パズルを考えたり、ゲームをしたり、いわゆる「脳トレ」をやったり ・・・・・・ といった、"頭を使う" ことを考えてしまいます。単なる運動が脳に負荷をかけるとは直感的には思えない

そこが「違う」というのが著者の指摘です。脳の応答を引き出す負荷とは何かという疑問に答えるためには、運動に対する我々の考え方を変えるべきだと言います。


この疑問に答えるためには、運動に対する考え方を見直す必要がある。私たちは、歩いたり走ったりするのは体が自動的に動いているように考えがちだ。しかし、過去10年間に私たちや他の研究チームが行った研究は、こうした考え方が間違っていることを示しているように思える。むしろ、運動は身体的活動であるのと同じくらい認知的活動であるようだ。

「同上」

「思える」とか「ようだ」という表現になっているのは、運動の脳への影響の研究は比較的最近(この10年程度)のものであり、影響のメカニズムが生理学的、脳神経学的に完全には解明されていないからです。しかしこれが詳しくわかると、たとえば年齢を重ねても認知能力を低下させない運動とはどういうものか、といったことも明らかになるでしょう。以下、現在までにわかっていることを論文から引用します。


運動と脳の可塑性:動物実験



運動が脳によい理由を探るには、まず、脳のどの部分とどんな認知機能が運動に最も強く応答するかを考える必要がある。1990年代、ゲイジ(Fred Gage)とファン・プラーグ(Henriette Van Praag)が率いるカリフォルニア州ラホヤのソーク生物学研究所のチームが、新しい海馬ニューロンの発生がランニングによって促進されることをマウス実験で示したとき、彼らはこの過程が脳由来神経栄養因子(BDNF)と呼ばれるタンパク質の産生と関係があることに気づいた。

BDNFは脳を含め全身で作られ、新生ニューロンの成長と生存の両方を促す。ソーク研究所のチームや他のチームはさらに、齧歯動物では運動が引き起こしたニューロン新生によって記憶関連課題の成績が向上することを示した。

「同上」

主として人間の脳を念頭に補足しますと、まずタイトルの「脳の可塑性」とは、特に発達期の脳においてニューロンの新生が起こったり、ニューロン間の接続が増えたり、逆に減ったり(使わない場合)が起こることを言います。ざっくり言うと「脳が変化すること」です。

「BDNF」(Brain-derived neurotropic factor。脳由来神経栄養因子)は神経細胞の成長を促すタンパク質で、学習・記憶・判断などの高度な脳機能を担当する部位に作用します。何種類かある神経栄養因子の中では最も強力なものです。引用にあるように、BDNFは網膜、腎臓、唾液腺、前立腺、歯の関連細胞などでも作られ、それらの機能の回復や向上を促すことも知られています。

さらに「海馬かいば」(Hippocampus)です。Hippocampus はタツノオトシゴをも意味する言葉で、その名の通り、脳の海馬の形はタツノオトシゴと似ています。海馬は近時記憶を担い、また大脳皮質に蓄えられる長期記憶を形成します。いわば記憶の司令塔です。海馬は加齢とともに萎縮する傾向にあり、特にアルツハイマー病の患者は顕著です。また強いストレスで起こる「心的外傷後ストレス障害。PTSD。Post Traumatic Stress Disorder)」の患者も、海馬の萎縮が見られることが分かっています。

Hippocampus.jpg
ヒトの海馬の位置。右脳と左脳に一つずつあり、小指ほどの大きさである。左の図は側面図(左が前)、右の図は正面図である。Wikipediaより。

海馬は記憶だけでなく多様な機能を果たします。このブログで海馬に触れたことが3回ありました。一つは英国のディープマインド社(グーグルの子会社。AIの専門家集団)のCEOであるデミス・ハサビスの経歴で、彼は海馬の研究者です。No.174「ディープマインド」から再掲します。


ディープマインドの共同創業者の一人であるデミス・ハッサビス氏は英ケンブリッジ大学でコンピュータ科学の学位を取得した後、1998年にゲーム会社を設立。このビジネスで成功を収めた後、2005年にロンドン大学の博士課程に再入学し、神経科学(脳科学)を学び始めました。その研究テーマが脳の一部領域である「海馬かいば」でした。

それまで海馬は「記憶」など過去の出来事を保存する領域と見られてきました。しかし、ハッサビス氏は記憶喪失の患者の脳を研究することにより、海馬を損傷した患者が未来も想像できなくなることを発見しました。つまり海馬は過去の出来事から未来を思い描くための、橋渡しの役割を果たしていることが分かったのです。この研究成果は2007年に、世界的な科学論文誌「サイエンス」における「今年最大のブレークスルー(Breakthrough of the Year)に選ばれました。

やがてディープマインド社を設立(引用注:2011年)したハッサビス氏は、この研究成果を生かして「過去の経験から何かを学んで、それを未来の行動に反映させるニューラルネット」を開発しました。

小林雅一『AIの衝撃』
(講談社 現代新書 2015)

2つ目のの海馬についての記事は、No.184「脳の中のGPS」です。人間(を含む哺乳類)の脳は "ナビゲーション機能" を持っています。つまり「自己の位置を把握する能力」で、この機能をになっているのが海馬です。これを発見した英国・ロンドン大学のオキーフ教授とノルウェー科学技術大学のモーザー夫妻は、2014年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

3番目は、No.211「狐は犬になれる」の「補記」に書いた話です。ロシアでは60年に渡ってキツネをイヌ化する(=家畜化する)交配実験が続けられてきました。イヌ化したキツネ、つまり人間になついて友好関係を持とうとするキツネの特徴はいろいろありますが、その一つは「海馬の神経細胞の新生スピードが普通のキツネの2倍」だということです。これは子どものキツネの特徴がそのまま残ったことを示します。



人間の脳は酸素が十分に供給されないと機能不全を起こし、場合によっては回復不可能になります。その酸素不足でまずダメージを受けるのは海馬だと言われています。つまりそれだけ重要な役割を果たしていることが想像できます。


運動と脳の可塑性:人での調査


動物実験によって、運動が海馬のニューロンの発生を促進することが分かってきたのですが、では人間ではどうなのか。それが次の引用です。


動物研究に続き、人間でも有酸素運動がBDNFの産生につながり、海馬などの重要な脳領域の拡大や結合性の強化をもたらすのかどうかが調べられた。エリクソン(Kirk Erickson)とクレイマー(Arthur Kramer)がイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で行ったランダム化試験では(引用注:RCT = Randomized Controlled Trial = ランダム化比較試験のこと。No.223「因果関係を見極める」参照)、12ヶ月の有酸素運動が高齢者のBDNFレベルの上昇と海馬の拡大、記憶力の改善につながった。

運動と海馬の関係は様々な観察研究でも確認されている。英国の中高年7000人以上を対象とした私たちの研究では、適度あるいは激しい身体活動に従事する時間が長い人の海馬が大きいことがわかった(2019年に Brain Imaging and Behavior 誌に発表)。人間におけるこのような効果がニューロンの新生や既存のニューロン間の接続の増加など脳の可塑性に関連しているかどうかはまだわからないが、運動が海馬とその認知機能にとって有益であることは明らかだ。

「同上」

「適度あるいは激しい身体活動に従事する時間が長い人の海馬が大きい」としつつも、「このような効果がニューロンの新生や既存のニューロン間の接続の増加など脳の可塑性に関連しているかどうかはまだわからない」と、慎重に書かれています。マウスと違って人間の脳を解剖して調べるのは出来ないので、「人間でも、運動をするとニューロンの新生や既存のニューロン間の接続の増加が起こる」と断言はできないということでしょう。断言するためには高度な機器を使った実験が必要なはずです。

しかし、海馬の物理的な萎縮が記憶障害やPTSDと関係していることは明らかなので、逆に物理的な海馬の増大が認知機能の向上と結びつくことは容易に推定できます。さらに、運動が脳に与える良い影響は海馬だけではないようです。


有酸素運動と、前頭前皮質(額の真後ろに位置する脳領域)の拡大など、海馬以外の脳領域への好影響との明確な関わりも実証されている。

前頭前皮質の拡大は鋭敏な実効性認知機能と結びついている。実効性認知機能には計画や意志決定、マルチタスクなどが含まれ、こうした能力は記憶と同様に老化によっ伴って衰えていく傾向にあり、アルツハイマー病患者ではさらに低下している。

科学者たちは、前頭前皮質などの海馬以外の脳領域に運動がもたらす効果は新たなニューロンの発生よりも既存のニューロン間の接続の増加によると考えている。

「同上」

「前頭前皮質」とは「前頭葉」の前の部分(額の方向)で、「前頭前野」とも呼ばれます。ここは「実行機能」をつかさどる部分です。つまり、対立する考えや葛藤を識別したり、現在の行動によってどのような結果が生じるかを予測したり、行動を切り替えたり、ルールを維持しつつ課題を遂行したり、新しい行動パターンの習得したりといったことを行います。一言でいうと「思考」と「行動」の制御であり、ヒトをヒトたらしめている部分とも言えるでしょう。その「前頭前皮質」を運動(有酸素運動)が強化するというのは、大変に重要なことです。


運動が脳に良い理由:進化人類学の見解


次に著者は、運動が脳に良い影響を与える理由を進化人類学の観点から説明しています。理由には2つあって「2足歩行」と「狩猟採集」です。


1つ目は、四足歩行をやめて直立二足歩行を始めたことだ。二足歩行では1本足でバランスを取らねばならないときがある。この課題を実行するには、脳は多くの情報を統合し、その過程で全身の筋肉活動を調節してバランスを維持しなければならない。また、これらの動作を調整しながら周囲の障害物に注意を払わなければならない。つまり、二足歩行であるというただそれだけの理由で、私たちの脳には四足歩行をしていた祖先の脳よりも多くの認知的負荷がかかっていると考えられる。

「同上」

「歩行が脳に負荷を与える」とは、我々は普通考えません。何も考えることなく歩けるからです。しかし歩行が脳の複雑な制御の結果であることは、2足歩行ロボットを考えれば類推できます。1996年に本田技研が2足歩行ロボット、ASIMO を発表したとき、その完成度の高さに我々はびっくりしたわけですが(我々だけでなく世界のロボット研究者が仰天したわけですが)、なぜかと言うと2足歩行ロボットの制御が非常に難しく、それまで誰も ASIMO レベルの自然な歩行が実現できなかったからです。



進化人類学からみた、運動が脳に良い影響を与える理由の2つ目は「狩猟採集」です。以下の引用に出てくる "ホミニン" とは、絶滅種を含む人類(ホモ属)の総称です(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。


2つ目の変化は、ホミニンの生活様式が変わり、より高いレベルの有酸素活動を必要とするようになったことだ。化石証拠によると、人類進化の初期段階において私たちの祖先は二足歩行をしていたもののたいした移動はせず、主に植物を食べていた。

しかし、約200万年前に気候の寒冷化によって生息地が乾燥化すると、私たちの祖先の少なくとも1つのグループが新しい方法で食物を調達し始めた。動物を狩り、植物性食物を採集し始めたのだ。狩猟採集は、約1万年前に農耕と牧畜が始まるまでの約200万年間、人類の主要な生存戦略だった。

私たちはデューク大学のポンツァー(Herman Pontzer)とカリフォルニア大学ロサンゼルス校のウッド(Brian Wood)とともに、狩猟採集生活では食物を求めて長距離を移動するため類人猿よりもはるかに多くの有酸素活動が必要になることを示した。

「同上」

狩猟採集に必要な「2足歩行による長距離移動」のためには長時間の有酸素運動が必要です。狙った動物をどこまでも追いつめていって、動物が弱ったところを仕留める "持久狩猟" などはその典型です(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。「ヒトは有酸素運動に適応した種」であり、「ヒトの体は多くの有酸素運動を行うことを前提にしている」とも言えるでしょう。さらに狩猟採集のときの有酸素運動は、次の説明にあるように「認知活動を行いながらの有酸素運動」です。


体を動かす生活様式への移行に伴い、脳に体する要求も高まった。食物を調達するために遠方へ出かけるときには、周囲を見渡して自分たちがいる位置を確認しなければならない。この種の空間ナビゲーションが頼るのは海馬だ(引用注:No.184「脳の中のGPS」参照)。海馬は先述したように運動から恩恵を得る脳領域であり、年齢とともに萎縮する傾向がある。

加えて、食物の手がかりを得るために、視覚系と聴覚系からの感覚情報を使って周囲を詳しく調べなければならない。また、自分たちが以前いた場所や、ある種の食物がいつ入手できたかを覚えていなければならない。脳が短期記憶と長期記憶から得られるこうした情報を使うことによって、人々は意志決定をしたり進むべきルートを計画したりできる。これらの認知課題に対応しているのは海馬や前頭前皮質などの脳領域だ。

狩猟採集民は集団で食物を調達することも多く、その場合、彼らの脳は体のバランスを保ち環境中で自分の位置を把握しながら、会話することになる。このマルチタスクのいずれもが前頭前皮質によって部分的に制御されている。前頭前皮質もまた年齢とともに縮小する傾向がある。

「同上」

認知機能を担う脳の発達は、長時間の有酸素運動を行えるという身体能力の発達と並行して起こった。このことが「運動が認知能力の向上の役立つ」ことの進化人類学的な見方です。

著者は「加齢に伴って進む脳の萎縮とそれに付随する認知機能の低下は、運動不足になりがちな生活習慣に関連している可能性がある」とまで言っています。我々は生活習慣病と言うと、動脈硬化、高血圧、糖尿病などを思い浮かべますが、「認知症(のある部分)も生活習慣病(の可能性がある)」ということでしょう。


「頭を使いながらの運動」仮説


上の引用にあるように、人類が200万年間続けてきた狩猟採集は「認知機能を働かせながらの有酸素運動」が必要でした。このことから類推すると、現代人が行う健康維持のための運動について、

認知機能を働かせながらの運動の方が、そうでない単純な運動よりも、より脳への良い影響(脳神経の新生、ニューロン間の結合強化)がある

との考えが浮かびます。これを「頭を使いながらの運動仮説」と呼ぶとします(著者の言葉ではなく、いま仮につけた名前です)。著者はこの仮説を立証しようとしています。まだ研究の端緒ですが、次のような例が報告されています。


独ドレスデン再生治療センターのケンパーマン(Gred Kempermann)らは、運動だけを行わせたマウスと、認知的刺激の多い環境へのアクセスを運動と組み合わせたマウスで海馬でのニューロンの成長と生存を比較し、後者に付加的な効果があることを確認した。

運動だけでも海馬によい効果があったが、刺激的な環境における認知的な要求を身体活動と組み合わせるとさらによい効果が得られ、より多くのニューロンが新たに発生したのだ。

「同上」

「認知的刺激の多い環境へのアクセスを運動と組み合わせたマウス」の具体的な説明がないので、どいういう実験かは不明です。迷路を抜けることと、回し車を交互にやるのでしょうか。それはできそうもないので、もっと複雑な実験でしょう。実験内容は分かりませんが、マウスで認知的刺激と運動が関係する結果が得られたということです。さらに人間でも研究もされています。


ニューヨーク州スケネクタディにあるユニオンカレッジのアンダーソン=ハンリーは(Cay Anderson-Hanley)は、軽度認知障害(アルツハイマー病のリスクが高い)の人に対して運動と認知的な介入の組み合わせがどのような効果があるかを調べてきた。確かな結論を出すにはもっと多くの研究が必要ではあるが、これまでに得られた結果は、認知機能がいくぶん低下している人が知的能力を必要とするビデオゲームをプレイしながら運動すると、好結果が得られる可能性を示唆している。

アンダーソン=ハンリーらは成人健常者を対象とした研究も行い、認知能力を必要とするビデオゲームをプレイしながら運動すると、運動だけを行った場合よりも循環血液中のBDNFの増加が大きくなる可能性を示した。

「同上」

Nintendo Swich のソフトには「体を動かしながらゲームをする」タイプがいろいろあります(たとえば新垣結衣さんがCMをやった、"リングフィット アドベンチャー")。この手のゲームソフトは、認知症予防に最適なのかもしれません。「頭を使いながらの運動仮説」が立証されたとすると、面白いことになってくるでしょう。


ランニングをするなら


以降はこの論文の感想です。運動が脳に良いとは比較的言われることなので、運動が記憶力などの認知機能を高めるという主旨は理解しやすく、納得できました。

議論は最後に書かれている「頭を使いながらの運動仮説」です。これが正しいとすると、今後、たとえばフィットネスクラブでのエアロバイク(自転車こぎ)はゲームと組み合わせることになるでしょう。つまりバイクの前にビデオ画面があり、バイクのハンドルがゲームの操作機能を持つというイメージです。

そこまで考えなくても、ランニングやジョギングではどうでしょうか。最も頭を使いそうにないのは、ジムや自宅でランニングマシン(=トレッドミル)を使ってやるランです。何も考えなくてもできます。

逆に最も認知機能を働かせならのランニングは「クロスカントリー・ラン」です。舗装されていない野原や丘の小道を駆けめぐり、かつ怪我をせずに安全にやるには、無意識にせよ、かなり頭を使いそうです。

しかしクロスカントリー・ランを日常的にするわけにはいきません。日頃の運動となると、自宅の近辺で、公園の中や歩道、遊歩道、自転車・歩行者専用道をランすることになります。こういったランでも、人とぶつからないように注意が必要だし、タイムを計測しながらスピードやフォームを調整するとなると、それなりに頭を使っていそうです。コースを頻繁に変えると、もっと良いかも知れない。

ただ「頭を使いながらの運動仮説」が正しいと立証されたとしても、それが単純運動と比較してどの程度効果があるかが問題でしょう。解説の最初に書かれていたように「運動はそれだけで認知活動」なのです。ここが一番大切な気もします。



我々人間は高度な文明社会を築き上げ、世界を支配していると思っているけれど、その一方で DNA に継承されている「生理的な枠組み」に支配されています。その生理的な枠組みは進化の結果であり、人間の進化の最終段階であるこの200万年間は「狩猟採集」のライフスタイルでした。

農業が始まったのは約1万年前ですが(日本では3000年程度前)、その農業もかなりの身体活動が必要です。運動不足でも生活していける都市生活は高々100年程度の歴史しかなく、そんな短時間で人間の生理的枠組みは変わりようがありません。我々は、チンパンジーやゴリラのように(人間基準からすると)運動不足の生活を送っても生活習慣病とは無縁で健康に生きられる、というわけにはいかないのです(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。

そのことは、実は昔から理解されていたはずです。文武両道という言葉はそれに近いし、現代では学校における「勉学とスポーツの両立」でしょう。勉学=知的活動・認知的活動、スポーツ=身体活動、と置き換えれば、それは労働年齢のすべての人に言えることだし、高齢になっても当てはまります。そのことを改めて認識すべきだと思いました。




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No.285 - ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲 第1番 [音楽]

No.281~No.283 の記事でショスタコーヴィチの3作品を取り上げました。


ですが、今回はその継続としてショスタコーヴィチの別の作品をとりあげます。ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77(1948)です。

実は No.9~No.11で、20世紀に書かれた3曲のヴァイオリン協奏曲について書きました。作曲された年の順に、シベリウス(1903/1905。No.11)、バーバー(1939。No.10)、コルンゴルト(1945。No.9)です。

しかし思うのですが、20世紀のヴァイオリン協奏曲ではショスタコーヴィチの1番が最高傑作でしょう。それどころか、これは個人的な感想ですが、この曲がヴァイオリン協奏曲のベストです。ベートーベン(1806)、メンデルスゾーン(1844)、ブラームス(1878)、チャイコフスキー(1878)の作品が「4大ヴァイオリン協奏曲」などと言われ、またチャイコフスキーを除いて「3大ヴァイオリン協奏曲」との呼び方もあります。しかしこれらは「19世紀のヴァイオリン協奏曲」であり、20世紀まで含めればショスタコーヴィチが一番だと(個人的には)思うのです。

というわけで以下、譜例とともにショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲 第1番を振り返ってみたいと思います。

Shostakovich and Oistrakh.jpg
ショスタコーヴィチとヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフ、ショスタコーヴィチの息子のマキシム(指揮者)。1973年にリリースされたLPレコードのジャケットがオリジナルである。ショスタコーヴィチはヴァイオリン協奏曲 第1番をオイストラフに献呈した。初演をしたのもオイストラフである。


2つの背景


まず曲の内容に入る前に、この曲を語る上で重要な「政治との確執」と「DSCH音型」について記しておきます。

 政治との確執 

No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」で書いたように、

スターリンはショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を気に入らず、すぐさま共産党の機関誌・プラウダは批判を展開した。

という "事件"(1936)がありました。この結果『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は上演不可能になります。このオペラが再演されたのは改訂版の『カテリーナ・イズマイロヴァ』であり、四半世紀後の1963年のことです。

実はヴァイオリン協奏曲 第1番にも類似の経緯があります。この曲は1948年3月に完成しましたが、時を同じくして1948年2月から「ジダーノフ批判」が始まります。これはソヴィエト共産党の中央委員会書記だったアンドレイ・ジダーノフ(1896-1948)が主導したもので、前衛芸術に対する批判と統制を行ったものでした。音楽ではショスタコーヴィチも批判の標的の一人です。このため、ショスタコーヴィチはヴァイオリン協奏曲第1番の初演を保留しました。初演されたのは、ジダーノフ批判がほぼ収まった1955年10月です。曲の完成から7年半後の初演ということになります。オイストラフの独奏、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団でした。

ちなみに、ジダーノフは第2次世界大戦中のレニングラード攻防戦で、ドイツ軍に包囲されたレニングラードの防衛の総指揮をとった人物です。ショスタコーヴィチの交響曲 第7番のレニングラード初演にも関係があります(No.281 参照)。

『マクベス夫人』と違って、ヴァイオリン協奏曲 第1番が政府から直接批判されたわけではありません。しかし、ショスタコーヴィチは初演をしない方がよいと判断したわけです。現代の我々がヴァイオリン協奏曲 第1番を聴いても、曲の作りとしてはノーマルだし、民族舞踊の要素もあるし、しかも作品として傑作です。初演したところで政府に批判されるいわれはないと思うのですが、当時のソ連の芸術家が置かれていた環境は我々の想像を越えているのですね。

ショスタコーヴィチが初演を取り下げた理由をあえて推測してみると、特に第1楽章にみられる "半音を多用した旋律の進行" だと思います(後述)。なかには、12音が全部現れるパッセージがあったりもする。もちろん、ヴァイオリン協奏曲 第1番は無調性音楽ではありません。れっきとした調性音楽ですが、その範囲で新しい音階(というか旋律の進行の "ありよう")や和声が試されている部分がある。それは芸術家として立派な態度だと思います。

ともかく、このヴァイオリン協奏曲 第1番も『マクベス夫人』のように、「芸術や音楽を一定の型に押し込めようとする独裁政治の圧力」と「新たな作品の創造にかける芸術家の情熱」の間の軋轢や確執に巻き込まれた曲だったわけです。

 DSCH音型 

ヴァイオリン協奏曲 第1番には、ショスタコーヴィチの「音楽的署名」ともいうべき「DSCH音型」が出てきます。ショスタコーヴィチの名前を、ロシア語・英語・ドイツ語・日本語で記述すると、

ロシア語  Дмитрий Шостакович
英語  Dmitri Shostakovich
ドイツ語  Dmitri Schostakowitsch
日本語  ドミトリ・ショスタコーヴィチ

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です。名前のロシア語イニシャル「ДШ」のドイツ語表記は「DSch」であり、この4文字をドイツ語の音名として読んだのが「DSCH音型」です。ドイツ音名では "ミ♭" が "Es" ですが、これは "S" と同じ発音です。またドイツ音名で "H" は "シ" の音です(英語音名と違い、ドイツ音名で "B" は "シ♭")。ということで、"DSCH" の音型が "レ・ミ♭・ド・シ" を表すことになる。逆にいうと "レ・ミ♭・ド・シ" という音の並びがあるとすると、そこに隠された "音楽暗号"は、

"レ・ミ♭・ド・シ"
 → D・Es・C・H → DSCH → DSch
 → Dmitri Schostakowitsch

となります。ドイツ音名を元に暗号を作る際には「ABCDEFGHS」の9文字が使えるわけで、英語音名の「ABCDEFG」よりは自由度があり、ここをうまく利用するわけです。

ちなみに、こういった音楽暗号を最初に用いたのがバッハで、『フーガの技法』に "BACH音型" が出てくることで有名です。また、これを大々的にやったのがシューマンで、自分のイニシャルはもとより、元恋人や奥さん(クララ)、架空の女性名までの音楽暗号を楽曲に忍び込ませています。

そのショスタコーヴィチの音楽的署名であるDSCH音型は、交響曲 第10番(1953)の第3・第4楽章や、弦楽4重奏曲 第8番(1960。冒頭から全曲に渡って現れる)など、作品に繰り返し何度も出てきますが、最も早いDSCH音型の使用例がヴァイオリン協奏曲 第1番(1948)なのです。それは第2楽章に出てきますが、楽章の最後になって現れ、それより前は "DSCH音型の変化形" で現れます。また第3楽章のカデンツァでもDSCH音型が回想されます。このあたりは後述します。



ヴァイオリン協奏曲 第1番は4つの楽章から成り、それぞれに "題名" がついています。演奏時間は合計40分程度です。

 第1楽章 : ノクターン
 第2楽章 : スケルツォ
 第3楽章 : パッサカリア
 第4楽章 : ブルレスケ

第3楽章のパッサカリアの後には長大なカデンツァがあり、休むことなくそのまま第4楽章に突入します。


第1楽章:ノクターン


第1楽章には「ノクターン:夜想曲」という名が付けられています。夜想曲(ノクターン、ノクチュルヌ、ノットゥルノ)という名前のついた曲は、普通は独立した楽曲です。ショパンのピアノ曲(21曲。1831頃~1845頃)が有名だし、フォーレもピアノで夜想曲を書いています(13曲。1870頃~1921)。ドビュッシーの「夜想曲」(1899)は管弦楽作品、ドヴォルサークの「ノットゥルノ」(1883)は弦楽合奏ですが(=弦楽4重奏曲 第4番 第2楽章の編曲)、独立曲であることには変わりません。

つまりショスタコーヴィチのように、楽曲の一部の楽章に「ノクターン」と名付けるのはめずらしいのですが、そのめずらしい中にも大変有名な曲があります。ボロディンの弦楽4重奏曲 第2番(1881)の第3楽章は有名な旋律で始まりますが、この楽章が「ノットゥルノ」と題されています。ショスタコーヴィチはロシアの作曲家としての先輩に習い、自分はヴァイオリン協奏曲でと考えたのかもしれません。さらに、マーラーの交響曲 第7番(1904)の第2・第4楽章も「夜曲(Nachtmusik)」との名前があり、関係があるのかもしれません。

そのノクターンですが、特に形式上の決まりはありません。静かで、夢想的で、甘美で、瞑想しているような気分の曲が多い。このショスタコーヴィチの第1楽章もまさにそういう気分に満ちています。

第1楽章は、第1部(提示)、第2部(展開)、第3部(再現)の3つの部分に分けると考えやすいでしょう。提示・展開・再現という「ソナタ形式」の用語を使いましたが、もちろん厳密な形式ではなく、自由に構成された楽章です。4分の4拍子でModeratoの指示があります。

 第1部(提示) 

曲はチェロとコントラバスが奏でる 譜例168 で始まります。この楽想を「主題1A」としておきます。第1主題 とも言えるでしょう。「主題1A」は連続する「符点4分音符+8分音符」の組み合わせが特徴で、このリズムが第1楽章全般に現れます。以下の「数字-数字」は譜例の小節番号です。

譜例168 (1-5:主題1A)
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5小節目から、独奏ヴァイオリンが 譜例169 で入ってきます。「主題1A」の変奏ですが、音が引き延ばされ、変形したものになっています。

譜例169 (5-9)
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その次の 譜例170 になると、はっきりと「主題1A」になります。ここはヴァイオリンの G線で演奏され、冒頭のチェロ(譜例168)の1オクターブ上になります。

譜例170 (10-13:主題1A)
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さらにその次の14小節では、独奏ヴァイオリンが4つの8分音符を含む旋律を奏でます(譜例171)。これを「主題1B」としておきますが、もちろん「主題1A」の変化形です。この「主題1B」の形も第1楽章の全域に現れます。

譜例171 (14-17:主題1B)
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最初に で始まった第1楽章が一気に強まり、この楽章の最初の ƒ になるのが 譜例172 です。この部分は「主題1A」と「主題1B」からできています。

譜例172 (22-25)
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ディミネンドがかかって静かになったあと、クレッシェンドが始まり、譜例173 で2度目の ƒ になります。

譜例173 (38-43)
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51小節の2拍目から新たな主題が出てきます(譜例174)。「主題1C」としましたが、第2主題 と呼んでもよいでしょう。この「主題1C」の後にも「主題1B」が続き、2つが融合して進んでいきます。

譜例174 (51-54:主題1C)
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独奏ヴァイオリンが再び「主題1C」を静かに演奏するところになると、第1部が終わります。ここまで独奏ヴァイオリンは休むことなく弾き続けてきました。

 第2部(展開) 

79小節から第2部(展開部に相当)に入ります。その最初が 譜例175 で、独奏ヴァイオリンは弱音器を付けて演奏されます。ここは「主題1B」の変奏です。80小節の最初は「シ♭」で、84小節の3拍目の裏にも「シ♭」があります。この2つの「シ♭」の間には12音が全部揃っています。5小節の中に12音が揃うというのは、意図的にそうなっているのでしょう。12音技法ではありませんが、ショスタコーヴィチの新しい試みです。

譜例175 (79-85)
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84小節のシ♭までをドイツ音名(赤色)で書くと(重複は黒色)、"B-G-Ges-Es-D-H-G-Ges-Es-C-Ces-As-G-Es-C-Ces-As-F-E-D-C-H-A-H-C-D-Des-B" となり、"C-Des-D-Es-E-F-Ges-G-As-A-B-H(Ces)" の12音が揃っている。

93小節からは、独奏ヴァイオリンが1弦の「ド」の音を引き伸ばすなか、チェレスタとハープが 譜例176 を演奏します。これと似た部分が交響曲 第5番の第3楽章、Largo にありました。なお 譜例176 は、ここ以前に第1部の終わりの部分でバス・クラリネットの低音で演奏されました。

譜例176 (93-97)
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独奏ヴァイオリンが1弦の高い方の「ド」の音を保持したまま、リテヌートがかかり、ア・テンポで3連符を多用した新たな展開になります(譜例177)。ここは「主題1C」との関連性を感じるところです。99小節の最初の「ド」は前の小節から続く音ですが、ここから103小節の最後の「シ♭」までの5小節の間に12音が全部出てきます譜例175 とそっくりですが、展開されている主題が違います。このあたりはショスタコーヴィチの工夫を感じるところです。なお 譜例177 の音の運びは、第1楽章 第3部のコーダの部分で再現されます。

譜例177 (99-103)
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103小節のシ♭までをドイツ音名(赤色)で書くと(重複は黒色)、"C-H-C-A-H-G-A-H-Gis-A-Fis-Gis-F-G-E-Cis-C-A-As-F-E-Es-C-A-As-F-E-Es-C-A-As-F-E-Es-D-H-Es-D-H-Es-D-H-G-As-B" となり、"C-Cis-D-Es-E-F-Fis-G-Gis(As)-A-B-H" の12音が揃っている。

再びリテヌートがかかり、ア・テンポとなるところで、ファゴットが4分の3拍子に変化させた「主題1A」を演奏します(譜例178)。

譜例178 (108-111:主題1A)
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これを契機に、弱音器をはずした独奏ヴァイオリンが3連符と重音を多用して音楽を盛り上げていきます。その頂点で演奏されるのが「主題1C」です(譜例179)。譜例174 のときと同じように「主題1B」が続き、第2部のクライマックスになります。第2部はフォルテのまま、次の第3部に入ります。

譜例179 (120-123:主題1C)
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 第3部(再現) 

チューバに導かれて独奏ヴァイオリンが「主題1A」(の変化形)を演奏し、第3部(再現部に相当)になります(譜例180)。ここは 譜例170 と同じように G線で演奏されます。このあとにはコントラバスとバス・クラリネットが、第1楽章の独奏ヴァイオリンの出だしの部分(譜例169)を模倣します。

譜例180 (131-137)
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独奏ヴァイオリンによる「主題1C」の再現が続きます(譜例181)。譜例174譜例179 のときと同じように、「主題1B」が伴っています。

譜例181 (142-145)
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リテヌートがかかったあと、ア・テンポとなる164小節からが第1楽章の終結部です(譜例182)。この部分は「主題1C」の変奏で、第2部の 譜例177(12音が揃っているところ)の再現ともなっています。

譜例182 (164-167)
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第1楽章は、独奏ヴァイオリンが1弦の4倍音の「ミ」の音をハーモニクスで伸ばすなか、チェレスタとハープが第2部の 譜例176 を演奏して終わります。



第1楽章は Moderato のゆったりとした楽章ですが、その特徴は独奏ヴァイオリンの旋律が♭や♯、特に♭で揺れ動くことです。次の音は「ソ」かと(無意識に)思っていると「ソ♭」が演奏され、聴いていると、かすかな違和感というか独特のムードを感じ、その感じが持続するなかでまた次の半音下がった音が出てくる、それが連続していきます。これを仮に旋律の「半音進行」と呼ぶとすると、第1楽章は半音進行に満ちています。

そのため、第2部の 譜例175譜例177 のように、12音全部が出てくる旋律の展開があっても違和感はありません。ごく自然に聞こえます。いや、自然などころか、このあたりがまさに聴く人を "のめり込ませる" というか、"しびれる" ところになっています。ショスタコーヴィチはここで新しい音楽のありようを追求したのだと思います。

さらに、半音進行と関係しますが「いつとどまるともしれない独奏ヴァイオリンの進行」も特徴でしょう。たとえば第1部は、第2部に移るまで独奏ヴァイオリンが71小節を弾きっぱなしです。聴いていると無限に続くのではないかとも感じてしまう。ハマるとやみつきになるような雰囲気です。

全体として「静かで、夢想的で、甘美で、瞑想しているような気分」の曲です。思索にふけっている人間の意識の流れを映した感じもあります。


第2楽章:スケルツォ


複合3部形式

第2楽章は「スケルツォ」と題されていて、終結部がついた3部形式になっています。つまり「A B A′ C」の形で、中間部のBは普通「トリオ」と呼ばれます。Cが終結部(コーダ)です。以下、次のように記述します。

◆第1部  = A
◆第2部  = B
◆第3部  = A′
◆終結部  = C

さらに、第1部、第2部、終結部はそれぞれ2つに分かれています。つまり「終結部付きの複合3部形式」です。ここでは、2つに分かれているそれぞれを「前半」「後半」と呼びます。

DSCH音型

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DSCH
最初に書いたように、第2楽章にはDSCH音型が出てきます。但し、完全なDSCH音型は終結部で初めて出現し、それ以前には「変形されたDSCH音型」が出てきます。DSCH音型は、音程で言うと「短2度↑ ・ 短3度↓ ・ 短2度↓」ですが(↑↓は上昇下降の意味)、それが少々違った形で現れます。

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DSCB
まず第1部の後半に現れるのは「短2度↑ ・ 短3度↓ ・ 長2度↓」の形で、これはDSCH音型と違ってピアノの白鍵だけで弾けます(「ミ・ファ・レ・ド」ないしは「シ・ド・ラ・ソ」)。DSCH音型の開始音である「レ」(D)から始めると「レ・ミ♭・ド・シ♭」(ドイツ音名でD・Es・C・B = D・S・C・B)になるので、これを「DSCB音型」と書くことにします。

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DECisH
さらに第3部で現れるのは「長2度↑ ・ 短3度↓ ・ 長2度↓」の形で、これもピアノの白鍵だけで弾けますが(「ド・レ・シ・ラ」ないしは「ファ・ソ・ミ・レ」)、レ(D)から始めると「レ・ミ・ド♯・シ」(D・E・Cis・H)となり、これを「DECisH音型」と呼ぶことにします。

DSCB音型からDECisH音型になり、第2楽章の最後である終結部の後半で "正式のDSCH音型"(=ショスタコーヴィチの音楽的署名)になるというのが、この動機の展開です。実際に聴いていると、この3つの音型は大変に似通ってきこえます。

 第1部:A 

前半

冒頭からフルートとバス・クラリネットがスケルツォのメインの主題である「主題2A」(譜例183)を Allegro で演奏します。変ロ短調の8分の3拍子です。その裏で、独奏ヴァイオリンが「主題2B」(譜例183)を演奏します。これは第2部(トリオ)前半の主要主題となるものですが、この時点では独奏ヴァイオリンが木管の伴奏に回ります。

譜例183 (1-8:主題2A)
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譜例184 (1-8:主題2B)
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木管による「主題2A」の提示がひと通り終わると、独奏ヴァイオリンが序奏を経て、33小節から「主題2A」を演奏します(譜例185)。その後、この主題が展開されていきます。

譜例185 (33-40:主題2A)
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99小節になると独奏ヴァイオリンが「主題2B」をはっきりとした形で演奏し(譜例186)、そのあと「主題2A」が続きます。このあたりにはフォルテシモの指示があり、前半のヤマ場です。

譜例186 (99-106:主題2B)
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後半

135小節になると、それまでの変ロ短調(♭5つ)から、嬰ト短調(♯5つ)になり、第1部の後半に入ります。後半の最初は、木管で演奏される「DSCB音型」です(譜例187)。実際の音はDSCBより半音高い「Dis→E→Cis→H」です。DSCH音型とその変化形(DSCB, DECisH)をまとめて「主題2C」とします。

譜例187 (135-142:主題2C - DSCB音型)
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その後「主題2C」は独奏ヴァイオリンでも繰り返されます。162小節の 譜例188 と、177小節の 譜例189 です。曲は疾走感を保ったまま、第2部のトリオへと突入します。

譜例188 (162-169:主題2C - DSCB音型)
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譜例189 (177-183:主題2C - DSCB音型)
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 第2部:B(トリオ) 

前半

普通、スケルツォの中間部のトリオというと、速度を落とした穏やかな感じにして前後との対比を明確にしますが、ショスタコーヴィチは全く逆です。トリオには Poco piu mosso の指示があり、第1部よりさらに速くなります。また、それまでの8分の3拍子から突如、4分の2拍子に変わり、調性は第1部の前半と同じ変ロ短調(♭5つ)に戻ります。

最初は独奏ヴァイオリンの「主題2B」(譜例190)です。「主題2B」は第1部の前半にも出てきましたが(譜例184譜例186)ここで完全な形で提示されます。このような進行でスケルツォ全体の統一性がはかられています。

譜例190 (198-205:主題2B)
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後半

トリオの後半は同じ4分の2拍子ですが、ホ短調に変わります。ここでは新しい「主題2D」(譜例191)が木管と木琴で提示されます。これは民族舞踊を思わせる旋律です。この「主題2D」は第2楽章の終結部や、後の第3楽章のカデンツァでも回想され、曲全体の統一感を生みます。独奏ヴァイオリンがこの主題を展開して曲が進んでいきます。

譜例191 (255-262:主題2D)
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独奏ヴァイオリンとファゴットの掛け合いのところになると、第2部(トリオ)も終わりです。

 第3部:A′(第1部の再現) 

第1部の 変ロ短調、8分の3拍子、Allegro に戻り、独奏ヴァイオリンが「主題2A」を再現します(譜例192)。

譜例192 (328-335:主題2A)
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ここからは独奏ヴァイオリンと木管の掛け合いが始まります。そこにヴィオラなどの弦楽器も加わり、独奏とオーケストラが "協奏" が続きます。「主題2B」が聞こえ、管楽器には「主題2C -DECisH音型」が現れます。369小節まできて独奏ヴァイオリンが 譜例193 を演奏しますが、これはトリオの後半の「主題2D」にもとづきます。

譜例193 (369-376:主題2D)
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独奏ヴァイオリンと木管の掛け合いが続きますが、427小節に出てくるオーボエの「主題2C」を 譜例194 に示しました。第1部の後半の「主題2C」は「DSCB音型」でしたが、第3部では「DECisH音型」になっています。ここでの実際の音は「F→G→E→D」です。

譜例194 (427-434:主題2C - DECisH音型)
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「主題2C」(DECisH音型)は、449小節からの独奏ヴァイオリンにも現れます。実際の音は「Ces→Des→B→As」です。

譜例195 (449-456:主題2C - DECisH音型)
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独奏ヴァイオリンによる「主題2A」の展開とオーケストラとの協奏は続き、激しい動きやグリッサンドがあったあと、曲はさらに速度を早めて終結部へと進みます。

 終結部:C 

前半

終結部は4分の2拍子、ト短調で、トリオの後半の「主題2D」で始まります(譜例196)。

譜例196 (546-549:主題2D)
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後半

さらに進むと8分の3拍子に変わり、独奏ヴァイオリンが「DSCH音型」を強烈に演奏します(譜例197)。実際の音は「As→A→Ges→F」です。ここに至って、ショスタコーヴィチの「音楽的署名」が完成したことになります。なお、「DSCH音型」は第3楽章のカデンツァで回想されます。譜例197 のあと、独奏ヴァイオリンが激しい動きを繰り返すなかで、第2楽章は終了します。

譜例197 (567-574:主題2C - DSCH音型)
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第2楽章は、第1楽章の気分とは全く違った "高速スケルツォ" です。スケルツォは日本語で「諧謔曲」と言うそうですが、諧謔とは "冗談" の意味です。その通り、独奏ヴァイオリンの動きには冗談のような、"おどけた" 感じや "ひょうきんな" 動きがいろいろとあります。こういった曲はショスタコーヴィチが最も得意とするものの一つです。

最後の最後で "DCSH = ドミトリ・ショスタコーヴィチ" が高らかに演奏されます。しかも変遷を重ねてたどり着いた "DCSH" です。この意味は「ショスタコーヴィチはここにあり」ということでしょう。まさにそれがピッタリの音楽だと思います。


第3楽章:パッサカリア


パッサカリアは古くからある3拍子のゆるやかな舞曲です。第3楽章ではまず「パッサカリアの主題」がチェロとコントラバスで提示され、その後に「9つの変奏」が続きます。9つの変奏は、基本的には低音部が主題を演奏し、独奏ヴァイオリンが対旋律を演奏する形ですが、一部、独奏ヴァイオリンが主題を演奏することもあります。

主題と各変奏は、それぞれ17小節から成ります。但し第8変奏は18小節、カデンツァへの橋渡しとなる第9変奏は11小節です。

 主題:1-17 

まずチェロとコントラバス、ティンパニが 譜例198 の「主題3A」を提示します。これがパッサカリアの主題です。それと同時にホルンが 譜例199 の副主題(主題3B)で続き、この2つのパートの掛け合いで主題の提示が進みます。副主題にもティンパニが加わり、荘厳な雰囲気を作り出します。

譜例198 (1-8:主題3A - パッサカリアの主題)
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譜例199 (1-8:主題3B - 副主題)
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このパッサカリアの主題(主題3A)は第4楽章にも出てきます(譜例221譜例224)。

 第1変奏:18-34 

第1変奏において主題はファゴットとチューバが演奏します。それに乗っかってイングリッシュ・ホルンとクラリネット、ファゴットが、コラール風の 譜例200 を奏でます。

譜例200 (18-27)
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 第2変奏:35-51 

主題はチェロとコントラバスに移ります。35小節のアウフタクトから独奏ヴァイオリンが入ってきて対旋律を演奏します(譜例201)。この旋律は最初は「ド」と「レ♭」の半音の間を揺れ動きますが、次第に変イ長調の性格を帯び、変イ音のオクターブの跳躍でそれが明確になります。

譜例201 (34-43)
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 第3変奏:52-68 

第2変奏に続いて主題はチェロとコントラバスにあります。対旋律の独奏ヴァイオリンも第2変奏から連続しています。以降、第6変奏のクライマックスまで、独奏ヴァイオリンは途切れることなく続けて演奏されます。

譜例202 は、第3変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律ですが、同時にイングリッシュ・ホルンとファゴットが第2変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律を演奏します。この、チェロとコントラバスの主題の上に乗った2種の対旋律の動きは、パッサカリアの第1の聴きどころでしょう。

譜例202 (52-57)
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 第4変奏:69-85 

主題はホルンに移ります。譜例203 は独奏ヴァイオリンの対旋律ですが、同時にチェロとコントラバスが第3変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律を演奏します。つまり第3変奏と同じ手法です。そしてクレッシェンドがかかって第5変奏へと続きます。第3・第4変奏において、2つのパートの掛け合いで次第に音楽を盛り上げていく手法は見事です。

譜例203 (69-74)
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 第5変奏:86-102 

主題はホルン、チューバ、チェロ、コントラバスです。その上で独奏ヴァイオリンが演奏する対旋律が 譜例204 です。3小節目からの3連符が連続するところでは、非常に明晰な変イ長調の音階を上昇していきます。パッサカリアの第2の聴きどころでしょう。この高揚の行き着く先は、クライマックスの第6変奏です。

譜例204 (86-95)
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 第6変奏:103-119 

第5変奏までは低音部が主題、独奏ヴァイオリンが対旋律という組み立てでしたが、クライマックスの第6変奏に至ってそれが逆転します。第6変奏では、この楽章で初めて独奏ヴァイオリンが主題を演奏し(譜例205)、チェロとコントラバスが対旋律に回ります(譜例206)。

譜例205 (103-110:主題3A)
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譜例206 (103-110)
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 第7変奏:120-136 

第7変奏は第2変奏の再現で、主題はファゴットとチューバです。メゾピアノ・モルト・エスプレシーボの指示がある独奏ヴァイオリンの対旋律(譜例207)は、第2変奏のオクターブ下で、すべて G線で演奏されます。第5変奏から第6変奏にかけての高揚は第7変奏で鎮まり、緊張が緩和されます。

譜例207 (120-128)
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 第8変奏:137-154 

曲は静かになり、チェロとコントラバスがピッツィカートで主題を演奏します。独奏ヴァイオリンが演奏する 譜例208 は副主題(譜例199)の再現です。

譜例208 (137-142:主題3B - 副主題)
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 第9変奏:155-165 

第9変奏は次のカデンツァへの橋渡しとなる部分です。独奏ヴァイオリンだけが主題の変奏を弾きます(譜例209)。ずっと聞こえるティンパニのトレモロは、曲が新しいステージへと進むことを予感させます。

譜例209 (155-160:主題3A)
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 カデンツァ:166-284 

パッサカリアのあとのカデンツァは119小節に及ぶ長大なもので、これだけで1つの楽章と呼んでもいほどです。パッサカリアの「主題3B」(副主題)で始まります(譜例210)。

譜例210 (166-170:主題3B)
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この主題を出発点として曲は発展していき、重音やハーモニクスも使いながらシンフォニックに進行していきます。途中からアッチェルランドがかかってスピードを速め、「さらに速く」の 譜例211 になります。ここの曲想(このリズムを「主題3C」とします)は、後の第4楽章でも何回か出現します(譜例215 など)。

譜例211 (237-240:主題3C)
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このすぐ後で 第2楽章の終結部に出てきたDSCH音型が回想されます(譜例212)。実際の音は、242小節の2拍目から「Cis→D→H→B」 です。最後の B の音が3連符の一部なので分かりにくいのですが、DSCH音型そのものです。合計2回出てきます。

譜例212 (242-243:主題2C - DSCH音型)
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さらに曲が進行し、第2楽章の第2部(トリオ)の後半の「主題2D」(譜例191)が出てくるころになると、カデンツァも終わりに近づきます(譜例213)。

譜例213 (263-265:主題2D)
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この「主題2D」を合図に曲の速度は一段と速まり、重音のグリッサンドが4つ弾かれて、そのまま第4楽章に突入します。


第4楽章:ブルレスケ


ブルレスケとは「道化」を意味し、滑稽でおどけた性格の曲を言います。「道化曲」との日本語訳もあるようです。

楽曲の一部の楽章に "ブルレスケ" の名前があることで思い出すのがマーラーの交響曲 第9番(1909)で、第3楽章に「ロンド・ブルレスケ」の題がついています。ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲の第4楽章もロンド形式なので、マーラーを意識したのかもしれません。ちなみに最初の方に書いたように、第1楽章の「夜想曲」も、マーラーの交響曲 第7番(1904)の第2・第4楽章(夜曲)と関係があるのかもと思います。

それはともかく、ショスタコーヴィチの "ブルレスケ" で感じるのは「祭り」の雰囲気です。祭りで人々が激しい動きの踊りを楽しみ、そこに道化が乱入してくる。そういう感じがします。

カデンツァから続く第4楽章は、ティンパニの導入部で始まります。この協奏曲は、ティンパニが要所要所で効果的に使われているのが印象的です。すぐに木管と木琴がこの楽章の主要主題である「主題4A」を演奏します(譜例214)。これがロンド主題で、この主題(の変奏)は以降たびたび現れることになります。

譜例214 (4-12:主題4A - ロンド主題)
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オーケストラがロンド主題を展開したあと、独奏ヴァイオリンがおどけた感じで入ってきて、クラリネットと競演します。そのあとに独奏ヴァイオリンがロンド主題を演奏します(譜例215)。譜例215 の5小節目以降は、カデンツァの「主題3C」(譜例211)と同じ曲想です。つまり 譜例215 は「主題4A」+「主題3C」になっています。「主題3C」は以降の第4楽章に何回か現れます。

譜例215 (45-53:主題4A + 主題3C)
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さらに独奏ヴァイオリンは G線でロンド主題を弾きます(譜例216)。これは第4楽章の最初の 譜例214 とほぼ同じです。

譜例216 (64-71:主題4A - ロンド主題)
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独奏ヴァイオリンの展開が続いたあと、今度は新しい「主題4B」が出てきます(譜例217)。シンコペーションがかかったリズムは、民族舞踊のテーマという感じを強く受けます。

譜例217 (90-97:主題4B)
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この「主題4B」が展開されたあと、独奏ヴァイオリンにロンド主題が回帰しますが、今度は 譜例218 のように変奏された形です。このあとには独奏ヴァイオリンが「主題3C」を、4弦全部のピッツィカートで演奏するところがあります。

譜例218 (134-141:主題4A - ロンド主題)
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さらに独奏ヴァイオリンによる展開が続きますが、一段落したところで管楽器が新たな「主題4C」を演奏します(譜例219)。この主題も「主題4B」と同じく民族舞踊の感じがします。これは弦のパートに引き継がれ、しばらく管楽器と弦楽器の掛け合いが続きますが、遅れて独奏ヴァイオリンも「主題4C」を模倣して入ってきます(譜例220)。

譜例219 (176-182:主題4C)
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譜例220 (215-221:主題4C)
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そうこうしているうちに曲は4分の2拍子から4分の3拍子に変わってしまい、突然という感じでクラリネット・木琴とホルンが第3楽章「パッサカリア」の「主題3A」を演奏します。ホルン(譜例221)はクラリネット・木琴の1小節遅れで、ここはカノンになっています。

譜例221 (240-247:主題3A - パッサカリアの主題)
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独奏ヴァイオリンの激しい動きが続いたあとにロンド主題が回帰しますが、今度は3拍子になっています(譜例222)。

譜例222 (257-262:主題4A - ロンド主題)
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3拍子による独奏ヴァイオリンの展開が続いたあと、再び4分の2拍子に戻ってコーダに突入します。Presto の指定があるコーダの最初が 譜例223 です。曲想がここでガラッと変わり、曲の最後が近いことが予感されます。

譜例223 (299-306)
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これ以降、オーケストラと独奏ヴァイオリンは最後までまっしぐらに進みますが、途中、独奏ヴァイオリンが「主題3C」を弾いた直後、譜例221 と同じようにホルンがパッサカリアの主題を鳴らします(譜例224)。

譜例224 (338-344:主題3A - パッサカリアの主題)
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もちろん、それとは関係なくオーケストラと独奏ヴァイオリンは突き進み、「祭り」が最高潮に達して第4楽章が終わります。


曲全体を通して


ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲 第1番の全曲を聴いて思うのは "対比の妙" です。まず第1楽章・第2楽章の「静かで瞑想的」と、第2楽章・第4楽章の「疾走するお祭り騒ぎ」の対比です。

その「静かで瞑想的」な第1楽章と第3楽章は性格が違い、これも対比されています。第1楽章の「夜想曲」は、半音進行を多用した20世紀の作品ならではのものです。一方の第3楽章の「パッサカリア」ですが、パッサカリアと聞いてまず思い浮かぶのはバッハの「パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582」です。ショスタコーヴィチのパッサカリアはバッハへのオマージュでしょう。調性は♭4つのへ短調、ないしは変イ長調をずっと維持し、目立った半音進行はありません。そこで繰り広げられる対位法音楽は、西洋音楽の伝統の再現を強く意識しているはずです。

さらにこの曲は、ヴァイオリンという楽器が持つ幅広い表現力を引き出しています。クラシック音楽では「ヴァイオリン」ですが、同じ楽器を(同等の楽器を)民族音楽に使うと「フィドル」です。第2楽章(スケルツォ=諧謔=冗談)と第4楽章(ブルレスケ=道化)は、祝祭の音楽に使うフィドルを想起させます。たとえばロシアにも影響が大きいロマ音楽のフィドルの使い方です。これはショスタコーヴィチが影響されたという意味ではなく、そこまでヴァイオリンの多彩な表現を駆使しているということです。

この記事の最初の方に「数あるヴァイオリン協奏曲の中ではこれがベスト」と書いた理由の一つは、"伝統的" と "斬新さ" が共存し、また "芸術" と "祝祭" が調和的に一体化しているからでした。


演奏


最後に、この曲の極め付きの演奏(LIVE録画映像)を紹介します。日・場所・演奏者は次の通りです。

◆日・場所:
 2000年11月26日(日)
 サントリー・ホール(東京)
 「サントリー・ホール30周年記念演奏会」
◆オーケストラ:
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
◆指揮:
 マリス・ヤンソンス
◆ヴァイオリン独奏:
 ヒラリー・ハーン

https://www.youtube.com/watch?v=8HZVQyD9rsY
(2020年5月16日現在のurl)

ヒラリー・ハーン.jpg
2000年11月26日のサントリー・ホールでの演奏会を紹介したベルリン・フィルのサイト、"Berliner Philharmoniker Digital Concert Hall" より画像を引用。ちなみに、ヒラリー・ハーンの誕生日は1979年11月27日なので、彼女の20歳最後の日の演奏である。




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No.284 - 絵を見る技術 [アート]

このブログでは今までに絵画について、本から多数の引用をしてきました。まず『怖い絵』を始めとする中野京子さんの一連の著書です。中野さんの著作全体に流れている主張は、

1枚の絵の "背景"、つまり画家が描くに至った経緯や画家の個人史、制作された時代の状況などを知ると、より興味深く鑑賞できる

ということでしょう。絵画は「パッとみて感じればよい、というだけではない」という観点です。

また、絵画の鑑賞は視覚によるわけですが、その視覚は脳が行う情報処理の結果です。次の3つの記事、


は「視覚心理学と絵画」というテーマでした。No.243, No.256 は心理学者の三浦佳世・九州大学名誉教授の本、ないしは新聞コラムによります。脳の情報処理には錯視にみられるような独特の "クセ" があり、画家は意識的・無意識的にそのクセを利用して絵を描いています。つまり、

視覚心理学が明らかにした人間の脳の働きを知っておくと、より興味深く絵画を鑑賞できる

のです。もちろん絵画の鑑賞においては、その絵をパッと見て「いいな」とか「好きだ」とかを "感じる" のが出発点であり、それが最も重要なことは言うまでもありません。前提知識がなくても鑑賞は全く可能です。しかし前提知識があると鑑賞の面白味が増すということなのです。

ところで、前提知識を問題にするなら「絵の背景」や「視覚心理学」もありますが、「線・形・色などの造形的要素を配置する一般的な原理や方法」こそ、知っておいた方がよい最も基本的な知識のはずです。

2019年に出版された秋田麻早まさ子著『絵を見る技術 ── 名画の構造を読み解く』(朝日出版社 2019)は、まさにそういった知識をまとめたものです。分かりやすくコンパクトに整理された良い本だと思ったので、以下にその内容の一部というか、"さわり" を紹介します。著者の秋田氏はテキサス大学で美術史を専攻し、現在はフリーの美術史研究家として「絵の見方」についてのセミナーを開催している方です。

以下『絵を見る技術』を "本書" と書くことがあります。また本からの引用において、下線は原文にはありません。


フォーカルポイント


『絵を見る技術』でまず最初に説明されているのが "フォーカルポイント" です。フォーカルポイントとは「焦点」という意味で、絵の中で最も重要な箇所を言います。絵の主役であり、画家が一番見て欲しいところです。秋田氏は絵の見方として、


どうしてその部分が「絵の主役」なのか? その理由を考えながら見ると、絵の目立つところだけをみて終わってしまう、ということがなくなり、絵の全体を楽しむことができるようになります。

秋田麻早子
『絵を見る技術』
(朝日出版社 2019)

と書いています。フォーカルポイントの特徴は、

① 画面にそれ一つしかない
② 顔などの見慣れたもの
③ そこだけ色が違う
④ 他と比べて一番大きい
⑤ 画面のド真ん中にある
⑥ コントラスト(明暗差)が目立つところ

などです。このようにフォーカルポイントは(②を除いて)周囲との関係、絵全体の中での関係性で決まります。我々が絵を見るとき、パッと見て一番目立つところがフォーカルポイントであることが多いわけです。しかしその一番目立つところだけに注目するのではなく、それがなぜフォーカルポイントなのかを(①~⑥などを踏まえて)考えることが絵の全体を見ることにつながる。上の引用はそのことを言っています。



さらに、フォーカルポイントの別の示し方があります。西欧の宗教画ではキリストによく後光が描かれますが、その後光は集中する線で表される。これは線を一点に集めることで重要さを表せることを示しています。

人間の目は線状のものを追う性質があります。これを利用して視線を誘導する線のことを "リーディングライン" と呼びます。リーディングラインは、はっきりとした線とは限りません。"線状に見えるもの" や、"線を示唆するもの" もリーディングラインの働きをします。また人は似たようなものが並んでいると "線状のものとしてつなげて認識" するので、それもリーディングラインになります。さらに、"グラディエーションや筆遣い" でも線状の向きを示すことができます。

加えて、絵の中の人物の "身振りや手振り" によっても方向を示すことができる。また人は、絵の中の人物がある方向を見ているとき、その人物の視線方向を追ってしまいます。つまり、画面に直接的には描かれていない "視線" もリーディングラインになります。

以上のような各種のリーディングラインを一カ所に集めることで、重要な箇所であるフォーカルポイントを作れるわけです。



各種の手法でフォーカルポイントを強調した代表例が、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』です。

ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)
最後の晩餐」(1495/98)
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ)

キリストが描かれている絵画なので、フォーカルポイントはもちろんキリストです。そのフォーカルポイントを『最後の晩餐』では次のような手段で強調しています。

① キリストをど真ん中に描く。
② 一点透視図法の消失点がキリストの頭にあるので、リーディングラインがキリストに集まる。
③ 背景の窓の外を明るくすることによって、キリストのコントラストを際だたせる。
④ 弟子の手振り・身振りのリーディングラインでキリストを示す。
⑤ 弟子の視線の方向でキリストを示す。

秋田氏は「ダメ押しの波状攻撃でフォーカルポイントを明確にしている」と述べています。



『絵を見る技術』をいったん離れて、以前にこのブログで引用した絵のフォーカルポイントをみたいと思います。ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵するメアリー・カサットの『舟遊び』という作品です(No.87「メアリー・カサットの少女」で引用)。

カサット「舟遊び」.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
舟遊び」(1893/94)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

この絵はメアリー・カサットの弟の一家を描いたものですが、フォーカルポイントは明らかに子どもです。その理由は、

① 子どもがど真ん中(画面の中心線上)に描かれている。
② 人物では子どもだけに日光があたっている(明暗差)。
③ リーディングラインが放射状に子どもに集中している。

の3点です。No.87 で、この絵は西欧キリスト教絵画の古典的画題である「聖家族」(幼子キリスト、聖母マリア、父ヨセフ)を踏まえているのではないかとしましたが、その理由はこの絵が "やけに子どもを強調している" からで、特に「リーディングラインが放射状に子どもに集中している」ところです。メアリー・カサットは「聖母子と洗礼者ヨハネ」を踏まえたと考えられる『家族』(1893)という絵も描いているので(No.187「メアリー・カサット展」に画像を引用)、『舟遊び』が「聖家族」を意識したのも十分ありうるのと思います。

カサット「舟遊び」説明.jpg
「舟遊び」のリーディングラインは、放射状に子どもに集中している。また子どもの顔は画面の中央に描かれ、顔に光が当たっている。



『絵を見る技術』に戻ります。フォーカルポイントは一つとは限りません。フォーカルポイントが2つあって、それらが対等な絵、あるいは主と従の関係にある絵もあります。

また1つや2つのフォーカルポイントを作る「集中型」ではなく、あえて意図的にフォーカルポイントを数個に分散させる「分散型」の絵もあります。さらにはフォーカルポイントを作らない絵もあり、この究極がジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングだと秋田氏は指摘しています。本書にはありませんが、そのポロックの作品は No.244「ポロック作品に潜むフラクタル」に書いたように、部分が全体と同じ構造を持つ自己相似形(フラクタル)になっているのでした。すべての部分がフォーカルポイントだとも言えるでしょう。


視線誘導による経路生成


リーディングラインはフォーカルポイントを作る手段の一つですが、もう一つの重要な役目は、絵を鑑賞する人の視線を誘導する経路を作ることです。絵画には「こういう流れで絵を見て欲しい」と画家が意図した経路があります。その経路をリーディングラインで作ります。

 周回型の経路 

もっとも一般的な経路は「周回型」の経路です。円形や "の" の字型のリーディングラインで画面を周回するように視線を誘導し、画面全体を見てもらうという方法です。画面全体を周回できばよいので、3角や4角、8の字型(ないしは ∞ 型)でも可能です。そして経路のどこかにフォーカルポイントを置きます。

 ジグザク型の経路とストッパー 

画面を上下(ないしは左右)にジグザグに進む経路もあります。この経路の場合には "視線の折り返し点" が発生しますが、そこに描かれる造形物を秋田氏は "ストッパー" と呼んでいます。アムステルダムのゴッホ美術館が所蔵するゴッホの『収穫』(1888)がその典型例です。

ゴッホ「収穫」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
収穫」(1888)
ゴッホ美術館(アムステルダム)

この絵のフォーカルポイントは、一応、画面の真ん中に描かれている手押し車と考えられますが、そんなに目立つものではありません。手押し車より大きい積み藁が左にあるし、右の方には手押し車よりコントラストが目立つ建物がある。つまりこの絵は「フォーカルポイント分散型」の絵だと言えます。

ということは、画面全体に視線を誘導する経路が欲しいわけで、それがジグザグ型のリーディングラインです。そしてリーディングラインの端、視線の押し返し点にはストッパーがうまく配置されています。

ゴッホ「収穫」説明.jpg

この絵で分かるように、ジグザグ型の経路は風景画に最適です。ちなみに、畑を描いたゴッホの絵で下から上へのジグザクの経路をもつ作品は他にもありますが、経路が途絶えていたり、ストッパーがなかったりします。この絵が有名で名画とされているのは、画面全体を覆う経路が慎重に考えられているからでしょう。

 放射型の経路 

画面のある1点から放射状に広がるリーディングラインを作ることでも、画面全体を覆うことができます。この例が有名なミレーの『落穂拾い』だと、秋田氏は指摘しています。

ミレー「落穂拾い」.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
オルセー美術館


きっと誰でも目にしたことがある『落穂ひろい』は、どの登場人物もこちらを見ていないし、際だった要素はないのに、不思議と惹きつけられる、まとまりの良い絵です。どうしてでしょうか? その秘密は視線の経路にあります。

どうして惹きつけられるかというと、地平線の一点を中心にして、すべての線が傘状に広がっている求心性の高い絵だからです。どこから見始めても、その一点に引き戻されるような感覚があり、また、一つ屋根の下にあるような収まりのよさを感じます。

「同上」

ミレー「落穂拾い」説明.jpg

この絵で、放射状に作られたリーディングラインが集中する所にあるのは積み藁ですが、それがフォーカルポイントではありません。この絵のフォーカルポイントはパッと見てわかる手前の3人の女性であり、リーディングラインは視線を誘導する経路を作っているのです。

秋田氏の説明に付け加えると、No.200「落穂拾いと共産党宣言」で書いたように、この絵の上の方の明るい部分は農地を所有している農民の刈り入れ作業です。一方、手前の少し暗く描かれた3人の女性は、農地に無断で入って刈り取りから漏れた小麦(=落穂)を拾っています。上の方が農民の世界、下の方は最下層の貧農の世界です。

ということは、この絵の傘状の経路に込めた画家の意図は、手前の一人の女性をみて上の明るい世界を見る、別の手前の女性を見て明るい世界を見るというように、落穂を拾う貧農女性と農民が収穫にいそしむ農村を対比的に見て欲しいということでしょう。「人間の目は線状のものを追う性質があり、これを利用して視線を誘導する線がリーディングライン」という原理を考えると、そう推察できます。

この絵が素晴らしい理由はいろいろあり、特に全く顔が見えない3人の女性のモデリングというか、立体感、ボリューム感、存在感は格別なものがあります。それは絵画でしか成し得ない表現でしょう。加えて、画面全体を覆う傘状の視線誘導経路があり、見る人は無意識にしろそれを感じてこの絵に惹かれる。「名画には理由がある」ことがよく理解できるのでした。


バランス


"フォーカルポイント" と "経路" に続いて『絵を見る技術』で説明されているのは、絵画の "バランス" です。バランスとは何か、本書では次のように説明されています。


どんな人でも、絵と見れば、思い切った大胆なバランスだな、とか、安定しているな、とか感じています。でも、どこでバランスの良し悪しを判断しているのかは説明できないもの。

これが彫刻なら、バランスを確かめるのは簡単。立たせてみて、立つかどうかです。倒れたら、バランスが悪いと分かります。でも絵の場合は平面なので目で確認するしかありません。

名画は必ず、線的にも量的にもバランスが取れています。

「同上」

この引用の最後にある「線のバランス」と「量のバランス」が本書で説明されています。

 構造線のバランス 

線のバランスは、具体的に言うと「構造線のバランス」のことです。構造線とは、絵の「軸になる線」「柱となる線」です。塑像の彫刻なら最初に芯を作り、粘土をその回りに付けていって作品に仕上げます。その芯が構造線に相当します。しかし絵画は塑像のような描き方をするわけではないので、構造線は実際に絵を見る人が "感じる" しかありません。構造線はリーディングラインとは違い、線そのものが絵に現れているとは限りません。塑像の芯のように、完成した作品からは見えないことも多い。しかし「絵の軸である、柱である」と感じられる線が構造線です。基本の構造線はシンプルに3つで、

 ①縦
 ②横
 ③斜め

です。縦の構造線は「そのまま立っている感じ」、横の構造線は「寝ている動きのない感じ」、斜めの構造線は「起きあがりそう、もしくは倒れそうという動き」を感じさせます。

縦の構造線と斜めの構造線は、それだけでは不安定な感じをうけるので、別の角度のサブの構造線で "支える" 必要があります。そうすることでバランスがとれた絵だと感じます。線を線で支えるやり方を「リニア・スキーム」と呼びます。『絵を見る技術』ではこの代表例として、上村松園の『序の舞』(東京芸術大学美術館所蔵)と『娘深雪みゆき』(足立美術館所蔵)が引用されていました。『娘深雪』の右下にさりげなく描かれている文箱ふばこは、斜めのサブの構造線を作ってメインの構造線を支えるという重要な働きをしています。ちなみに、この絵のサブの構造線はメインの構造線とほぼ直角に交わっています。

上村松園「序の舞」.jpg
上村松園(1875-1949)
序の舞」(1936)
東京芸術大学美術館

上村松園「序の舞」説明.jpg

上村松園「娘深雪」.jpg
上村松園
娘深雪」(1914)
足立美術館

上村松園「娘深雪」説明.jpg


上村松園の2作品を例としてあるのは、この2作品が極めてシンプルに「線のバランス」を体現しているからでしょう。特に『序の舞』の垂直と水平という分かりやすい構造線は、簡素だけど印象に残るものです。



『絵を見る技術』にはありませんが、『序の舞』の線のバランスで思い出す絵があります。ドレスデン古典絵画館が所蔵するスイスの画家、リオタールの『チョコレートを運ぶ娘』です。

リオタール「チョコレートを運ぶ娘」.jpg
ジャン = エティエンヌ・リオタール
(1702-1789)
チョコレートを運ぶ娘」(1744/45)
ドレスデン古典絵画館

ドレスデン古典絵画館というと、ラファエロ(システィーナの聖母)やフェルメール(窓辺で手紙を読む女)などの名画が並んでいますが、この絵も妙に印象に残ります。その理由は『序の舞』と同じで、"一目瞭然のシンプルな構造線が持つ力強さ" なのでしょう。『序の舞』と『チョコレートを運ぶ娘』を同一の視点で論じられるというところが、絵画の面白さだと思います。余談ですが、リオタールの絵が成り立つ理由は「チョコレートは貴重だった」ということでしょう。



『絵を見る技術』に戻ります。メインの構造線が横線の場合は安定していますが、それだけだと視線が横にスッと抜けてしまって、かえってバランスを欠きます。この場合、縦方向のサブの線を配置すると視線を縦横に動かす楽しみが出てきます。『絵を見る技術』では横の構造線の例をエドワード・ホッパーの『日曜日の早朝』を例に説明されていますが、ここではバーンズ・コレクション(No.95)が所蔵するアンリ・ルソーの作品を引用しておきます。この絵はバーンズ・コレクションのメイン・ルームの West Wall にありますが、この壁全体が「絵の見方の解説」のような展示になっています。

ルソー「木の幹がある運河と風景」.jpg
アンリ・ルソー(1844-1910)
木の幹がある運河と風景」(1900)
バーンズ・コレクション
バーンズ・コレクションがWebサイトに掲載している題名は「The Canal and Landscape with Tree Trunks」であり、それを直訳した。Tree Trunks とあるが、切られた丸太も描かれている。モノの大きさの関係が変だが、ルソー作品ではよくある。

なお、構造線は縦・横・斜め以外に、放物線、円(円弧)、S字などがあることが『絵を見る技術』に述べられています。上記の「バーンズ・コレクションのメイン・ルームの West Wall」にあるセザンヌの2作品(静物画と "レダと白鳥"の絵)は放物線の例です。

 量のバランス 

私たちは絵画の中のそれぞれの作画要素に「見かけ上の重さ」を感じています。感じる要因の一つは現実の重さからの類推です。たとえば素材が羽や藁だと軽く、鉄や石だと重い。また大きいものは重く、小さいものは軽いと受け止めています。それだけでなく、絵画においては「目立つものほど重い」とも感じています。

この「見かけ上の重さ」を画面全体で均衡させ、左右のどちらかに偏りすぎないようにするのが「量のバランス」です。最も古典的な方法は、フォーカルポイントとなる主役を中心付近に置き、2つの脇役を左右に配置するものです。いわば "釈迦三尊形式" とも呼べるもので、このやりかたでバランスをとるのが「フォーマル・バランス」です。

しかし、主役を画面のど真ん中に置いてバランスをとるのは難しい。なぜなら、主役の右方と左方に描かれるものが違うからで、主役を中心にして「見かけ上の重さ」を調節して量のバランスをとるのが難しいのです。

その「主役ど真ん中」でバランスをとる名人がラファエロだと秋田氏は言っています。その典型例が、ドレスデン古典絵画館が所蔵するラファエロの有名作品『システィーナの聖母』です。この絵では、ちょうど中央に聖母子、左に聖シクストゥス、右に聖バルバラ、下に2人の可愛らしい天使が描かれています。典型的なフォーマル・バランスの絵です。

ラファエロ「システィーナの聖母」.jpg
ラファエロ・サンティ(1483-1520)
システィーナの聖母」(1513/14)
ドレスデン古典絵画館


この絵は、聖母子を真ん中に、両脇にそれぞれ聖シクストゥス、聖バルバラを置いた左右対称の構図になっています。こんな風に主役が脇役を左右に従えると、とてもバランス良く感じられます。

ここで仮に、両隣の聖人を天秤にかけてみたらどうなるかを想像してみましょう。きっと釣り合うのではないでしょうか。人間は、絵の中の各要素に「見かけ上の重さ」を感じていると言いましたが、さらに言うと、その重さが画面の中で、ちょうど天秤にかけたかのように、支軸の左右で釣り合っているかどうかを感じ取っているのです。バランスが良いとか悪いとかは、この均衡きんこうを達成しているかどうかを指して言っていたのです。

『システィーナの聖母』の場合、真ん中に聖母がいます。吊り下げている軸のところにいるのとおなじ。そうすると、両方のお皿に同じ重さがないと、バランスが崩れるということです。主役を真ん中に置いたら、必然的に両側に同じ重さを必要とするものなのです。

左右対称と言っても、左右全く同じではなく、左右で少しずつ変化が見られます。例えば、左側で聖シクストゥスが長い袖をらしている分だけ右側では聖母のヴェールが大きくはために、聖バルバラの横にカーテンが下がっているので釣り合います。

「同上」

ちなみに『システィーナの聖母』の「線のバランス」を見ると、構造線は聖母から天使の間に至る垂直線であり、それを支えるリニア・スキームは聖母から聖シクストゥスへの斜めの線と、聖母から聖バルバラへの斜めの線ということになります。

またこの絵の経路は、聖バルバラから反時計回りのリーディングラインで下の2人の天使に至っています。天使と聖バルバラが途切れているように見えますが、絵をよく見ると聖バルバラと2人の天使はアイコンタクトをとっている。登場人物の視線はリーディングラインになるという原則に従って、この絵の経路は周回していることになります。従って、聖バルバラから時計回りに周回していると言ってもよいわけです。

この有名な絵の2人の天使は大変に愛らしく、この部分だけがポスターになったりします。その愛らしさの大きな要因は、普通の宗教画の子どもをモデルにした天使像にはあまりない「上の方を見ている目線」です。しかしその目線にはちゃんと意味があって、右上を向いている(=聖バルバラを見ている)のがポイントなのでした。なぜここに、ちょっと唐突な感じの天使がいるのか、それには理由があったのです。また、あえてこの部分だけアイコンタクトで経路を作ったのが、ラファエロの粋なところでしょう。

ラファエロ「システィーナの聖母」の天使.jpg



『システィーナの聖母』はフォーカルポイントが中央にありましたが、フォーカルポイントを端の方、例えば右端に寄せた絵を描きたい場合はどうするのか。その場合はフォーカルポイントの要素と釣り合うような「バランサー」を左端に寄せた位置に配置するのがよくある手法で、これで量のバランスをとります。この例として『絵を見る技術』で引用してあったのが、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵するメアリー・カサットの『青い肘掛け椅子の少女』です。この絵は No.86, No.87, No.125 で引用しました。

カサット「青い肘掛け椅子の少女」.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
青い肘掛け椅子の少女」(1878)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

この絵の少女はエドガー・ドガの友人の娘、犬はカサットの愛犬のベルギー産グリフォン犬ですが、寝ている犬が極端に左端に描かれています。こう描くことによって少女との量のバランスをとっているのです。

本書には書いてありませんが、この「犬が極端に左」ということで改めてこの絵を見てみると、少女が寝そべっている肘掛け椅子はほぼ全容が描かれているのに対し、犬が寝ている肘掛け椅子は半分にぶった切られています。ということは、見る人は画面のさらに左までに椅子全体が広がっていると想像する。この想像まで含めた椅子と犬が、少女と少女の椅子とバランスしている。そうも考えられると思いました。

画面の外を想像させる例として『絵を見る技術』では、画面を一端飛び出し、再び画面に入ってくる経路の絵が引用されていました。菱田春草の『黒き猫図』(1910)です。秋田氏は「視線誘導は画面の中だけで起きるとは限らない」と書いていましたが、だとしたら「量のバランスは画面の中だけで起こるとは限らない」とするのが妥当でしょう。



以上がバランスの話の "さわり" ですが、秋田氏は結論として、ちょっとした "どんでん返し" のようなことを書いています。しかしこれは絵画の本質に迫る話なので次に引用しておきます。


最後に身も蓋もない話をすると、どうして絵のバランスを取らないといけないのかは、あまり分かっていないんです。はっきりしているのは、名画が必ずバランスを取っているということだけ。

もちろん、バランスが不安定だと見ていて不安になるからとか、そんなことは言われています。ですが私にはルドルフ・アルンハイムの言葉のほうがしっくりきます。彼は絵画のバランス問題に取り組んだ美術に造詣ぞうけいの深い心理学者で、先の説明では不十分とし、以下のような主旨のことを述べています ─── 世の中でバランスが取れている状態というのは、部分的、もしくは一瞬しかなく、世界はつねに有為転変ういてんぺんしている。そして芸術というのは、そういう中で、バランスが取れた、一瞬の理想的な瞬間を絵の中に組織化しようとする試み。絵は単にバランスをとることが目的なのではなく、その方法は無限にあり、どうバランスを取っているかという点に意味が込めてある、と。

「同上」

「バランスが取れた、一瞬の理想的な瞬間を組織化しようとする試み」というのは、絵画だけではなさそうです。たとえば写真がそうでしょう。絵画と違って写真の被写体はあくまで "現実の何か" ですが、その現実は場所・時刻・見る方向で有為転変している。その中のバランスがとれた一瞬を切り取るのが写真家である。そう言えると思います。さらに彫刻などの視覚芸術や、建築の視覚に関係したデザインも同じだと思いました。





絵画で我々の目に最も直接的に飛び込んでくる要素は「色」ですが、その色について『絵を見る技術』では多方面からの議論されています。ここでは2つの点だけを紹介します。

 アース・カラーから極彩色へ 

『絵を見る技術』には、ベラスケスなどの17世紀の画家が使っていた絵の具とその材料が書いてあります。

    鉛白、カルサイト(方解石)
    チャコールブラック(木炭)、ボーンブラック(骨炭)
    ブラウンオーカー(土)、アンバー(土)、レッドオーカー(土)
    レッドオーキ(セイヨウアカネから抽出したマダーなどの染料由来)、ヴァーミリオン(水銀朱)
    リード・ティン・イエロー(鉛錫黄)、イエローオーカー(土)
    アズライト(藍銅鉱)、スマルト(色ガラス)、ウルトラマリン(ラピスラズリ)
    マラカイト(孔雀石)、ヴェルディグリ(緑青)、グリーンアース(土)

一見して分かることは、土由来の色(アース・カラー)が多いことです。これと炭由来の黒の絵の具を使えば、安価に油絵が製作できることになります。ベラスケスの時代の古典絵画に暗い色調のくすんだ絵が多いのも、絵の具の制約という面が大きいのです。

これらの色の中で特に高価だったのが青です。青の絵の具に使える天然素材はごくわずかです。ウルトラマリンは同じ重さの金と同じくらいの価格だったし、アズライトも高価です(スマルトは耐久性に問題があった)。

従って青い色を使うのは「高価な絵の具を使って豪華に見せたい」という意図がありました。聖母マリアやキリストの衣装に青を使うのは理由があるのです。No.18「ブルーの世界」で、国立西洋美術館に常設展示されているドルチの『悲しみの聖母』(1655頃)を引用しましたが、ウルトラマリンの青の色が素晴らしく、高貴だという印象を強く受けます。

このウルトラマリンを駆使したのがフェルメールでした。No.18 では『牛乳を注ぐ女』(1660頃)を引用しましたが、『真珠の耳飾りの少女』(1665頃)のターバンの青も有名です。これらの絵は良く知られていますが、『絵を見る技術』ではちょっと意外なフェルメール作品が引用されていて、意外な説明がありました。英国王室が所蔵する『音楽の稽古』という作品です。

フェルメール「音楽の稽古」.jpg
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
音楽の稽古」(1660年代前半)
英国王室所蔵


まず気づくのが、右よりにある青い椅子でしょう。もちろん、そこにも使っています。左の壁とか、床の青みがかった黒石部分。ぜんぶ天然のウルトラマリンを使っています。

まだあります。なんと天井の茶色い部分、少し青みがありますが、この茶色にウルトラマリンを使っているんです。つまり、青っぽいところ全てにウルトラマリンを使っていたのです。

金よりも高い絵の具を、天井の茶色に混ぜて使ったなんて! フェルメールが人を引きつけるのは、こういう、ちょっと尋常じゃないところがあるからかもしれません。

「同上」

これは少々驚きです。隠し味ならぬ "隠し絵の具" にウルトラマリン ・・・・・・。フェルメールは居酒屋兼宿屋の主人だったはずですが、パトロンに恵まれていたということでしょう。惜しげもなくウルトラマリンを使う(使えた)画家がフェルメールであり、ウルトラマリンを「フェルメール・ブルー」と言う理由が理解できました。



高価な感じということでは、金色きんいろも高価に見えます。ただし金箔を貼ったり金泥・金砂子を遣うのではなく「金のように輝く黄色」という意味での金色です。青にその金色を加えた「青+金」が生み出す高級感の魔力は現在までも続いていて、秋田氏はプレミアム・モルツの缶がその例だと言っています。なるほど ・・・・・・。ここでプレミアム・モルツを持ち出すということは、秋田氏はビール好きなのでしょう。

高級なイメージを与える色は、青のほかに「赤、白、黒」があります。これらの絵の具は青ほど高価ではないのですが、なぜ高級感が出るのかと言うと、これらの色で布をきれいに染めるのが難しかったからです。絵の登場人物が赤・白・黒の衣装を着ていたら、当時の人たちは高級だと一目で分かった。この例として秋田氏は、No.19「ベラスケスの怖い絵」で引用した、ベラスケスの『インノケンティウス十世の肖像』(1650)をあげています。教皇が身につけている赤と白はその地位の象徴なのです。



以上ことを考えると、18世紀初頭に開発された世界最初の人工顔料であるプルシアン・ブルーはまさに画期的でした(No.18「ブルーの世界」No.215「伊藤若冲のプルシアン・ブルー」参照)。そして青については、その後セルリアン・ブルーやコバルト・ブルーなどの人工顔料が開発され、ウルトラマリンも合成できるようになった。もちろん他の色の人工顔料も開発され、画家はチューブから絵の具を出すだけで極彩色の絵を描けるようになったわけです。

我々はそうした状況に慣れっこになっているのですが、どんな色でも同じ値段で自由に使えるという現代の感覚で古典絵画を見てはダメなのですね。昔の画家は極めて少ない色数で絵を描いていて、その工夫も見所の一つだということが理解できました。

 セザンヌの色使い 

お互いに引き立て合う2色の色を「補色」と言います。これは理論によって差はありますが、最も伝統的で、かつ多くの画家が採用したのが「青・だいだい」「赤・緑」「黄・紫」の組み合わせです。ドラクロワやモネ、ゴッホなども使っていますが、『絵を見る技術』ではセザンヌの絵の解説がしてありました。フィラデルフィア美術館が所蔵する『大水浴図』(1898/1905)です(No.96「フィラデルフィア美術館」)。

セザンヌ「大水浴図」.jpg
ポール・セザンヌ(1839-1906)
大水浴図」(1898/1905)
フィラデルフィア美術館


青、緑、オレンジを使った絵ですが、上半分は青が支配的でオレンジがサブ、下半分はオレンジが支配的で青がサブに回るという配置になっています。セザンヌは、こんな風に、ある場所で使った色を別の場所にも忍ばせることで統一感を出します。

オレンジ色が全体を三角形に囲い込むことで、さらに統一感が高まっています。その上に、緑がアクセント的に置かれています。

セザンヌの絵は、一見すると下手っぽく見えるのですが、こういう計算を分析的にとらえると、全く見飽きないし、すごいんだと分かります。

「同上」

秋田氏は「セザンヌの風景画の多くは、青・緑・オレンジを使い、最も明るい色にオレンジをあて、暗い色に青をあてている。この特徴がセザンヌっぽさの一因」という主旨のことを書いています。なるほどと思います。

『絵を見る技術』からは離れますが、この「セザンヌっぽさ」で思い出すことがあります。セザンヌの友人でもあったルノワールの晩年の裸婦像には「青・緑・オレンジ」という色使いの絵がいろいろあることです。この時期のルノワールとセザンヌを対比させた展示が、バーンズ・コレクションの Room 8 South Wall にありました。


構図


画面のどの部分にどういった作画要素を配置するか、そのプランが構図です。画家はさまざまな構図を考えますか、それらの基本となるものがあります。『絵を見る技術』ではこれを構図の「マスター・パターン」と呼んでいます。

マスター・パターンの出発点は、長方形のカンヴァスの真ん中に引いた十字の線と対角線です。この線上に作画要素を配置したり、線にそって要素を描いたり、また線が囲む領域に要素を配置したりします。

これを拡張したのが「等分割パターン」です。画面の縦(ないしは横、あるいはその両方)を 1/2, 1/3, 1/4, 1/5 などに等分割し、分割してできた小領域に斜線を引く。そういった線や領域を活用して配置を決めます。

『絵画を見る技術』では等分割パターンとして、上に引用した上村松園やラファエロのほかに、フリードリヒの『氷海』(1823/24)、ドラローシュの『レディ・ジェーン・グレイの処刑』(1833)、ヴァロットンの『ボール』(1899)、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『ダイヤのエースを持ついかさま師』(1635)などで説明してありました。それらの紹介は省略し、以下では等分割以外の画面分割パターンを紹介します。


構図 その1:ラバットメント


長方形の短辺を90°回転させて長辺に一致させ、回転した短辺の端から対向する長辺に向かって垂線を引くと、短辺を1辺の長さとする正方形ができます。この垂線を「ラバットメント・ライン」、この垂線による長方形の分割を「ラバットメント・パターン」と呼びます。言い換えると「長方形の中に短辺を1辺とする正方形を、短辺に寄せて作る」ということです。短辺への寄せ方は2通りあるので、1つの長方形でラバットメント・ラインは2本存在します。なお、ラバットメント(rabatment)とは回転という意味です

ラバットメント・ライン.jpg
ラバットメント・ライン

このラバットメント・ライン(ないしはパターン)を利用して構図を決めることができます。つまり、

◆ ラバットメント・ラインに重要なものを配置する
◆ ラバットメント・ラインで画面を分割し、その分割画面をもとに作画要素の配置決める
◆ ラバットメント・ラインに構図上の重要な意味を持たせる

などの方法です。ラバットメント・ラインは長方形の短辺と正方形を作るので、安定観のあるリズムの生むのだと思います。ラバットメント・ラインの使用例を何点かあげます。

 ゴッホの『ひまわり』 

「花瓶に十数本のひまわりがある絵」をゴッホは何点か描いていて、現在、美術館で見られる絵は5点です。ロンドン、アムステルダム、ミュンヘン、フィラデルフィア、東京の美術館にあります(No.156「世界で2番目に有名な絵」参照)。『絵を見る技術』では "ロンドン版ひまわり" の例が掲げられていますが、ここでは最後に描かれた "フィラデルフィア版ひまわり" を引用しておきます。5点の "ひまわり" は、いずれもテーブルの端の水平線がラバットメント・ラインのごく近くにありますが、この "フィラデルフィア版ひまわり" ではほとんど同一の線になっています。

ゴッホ「ひまわり(フィラデルフィア版)」説明.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
ひまわり」(1889)
フィラデルフィア美術館

 ゴッホの『星月夜』 

MoMAが所蔵する『星月夜』もゴッホの代表作ですが、フォーカルポイントである糸杉の中心がピタッとラバットメント・ラインに乗っていて、このラインが構造線になっています。

ゴッホ「星月夜」説明.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
星月夜」(1889)
ニューヨーク近代美術館

 ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』 

ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』はルーブル美術館の有名絵画ですが、構図にラバットメント・ラインが使われています。画面の中央上端から2つのラバットメント・ラインの端点に斜線を引くと、その斜線が、三色旗の持ち手と女神の腕の角度を作っています。

ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」説明.jpg
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)
民衆を導く自由の女神」(1830)
ルーブル美術館

秋田氏によると、画家のダビッドはよくラバットメント・ラインを使い、弟子のアングルや、そのまた弟子のドラクロワやドラローシュもよくラバットメント・ラインを使うそうです。「一見画風が違って見えても、弟子は師匠の構図法に大きな影響を受けているものです」と、秋田氏は述べています。

 ゴッホの『糸杉のある道』 

ラバットメント・ラインは「主役をまん中に置かないという選択をするとき、微妙にセンター・ラインをはずすための基準線として使える」と、秋田氏は指摘しています。『絵を見る技術』では、このことをワトーの『ピエロ』(ルーブル美術館)で説明しているのですが、以下はゴッホつながりで、クレラー・ミュラー美術館所蔵の『糸杉のある道』(No.158「クレラー・ミュラー美術館」で引用)で "微妙にセンター・ラインをはずす方法" を図示します。この絵はゴッホのサン・レミ時代の最後に描かれた絵です。星と月が描かれているので "もう一枚の「星月夜」" と言えるでしょう。『糸杉と星の見える道』という言い方もあります。

ゴッホ「糸杉のある道」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
糸杉のある道」(1890)
クレラー・ミュラー美術館

この絵の構造線は、フォーカルポイントとなっている糸杉の中心を通る垂直線で、絵の中心付近にありますが、中心よりは少し右です。また垂直の構造線を支えているのが地平線の横のラインですが、その地平線も中心から少し下に描かれています。この2つの構造線はどうやって決まっているのでしょうか。それはラバットメント・ラインに基づいています。

ゴッホ「糸杉のある道」説明.jpg

この絵にラバットメント・ラインを2本引き(黄)、ラインの端点と画面の角を結ぶ2本の線を引きます(赤)。この2本の線と、画面の右上から左下を結ぶ対角線(青)の交点は2つ出来ますが、1つの交点を通る垂直線を描き(白)、もう1つの交点を通る水平線(白)を描くと、それがこの絵の2つの構造線になります。かつ糸杉の根元がラバットメント・ラインと一致します。

ゴッホ「糸杉」説明.jpg
ゴッホ
糸杉」(1889)
メトロポリタン美術館
なお、メトロポリタン美術館にある『糸杉』は、『糸杉のある道』とは対照的にサン・レミの病院に入院した直後に描かれた絵ですが、垂直の構造線(フォーカルポイントになっている手前の糸杉の中心)は同じ構図をとっています。

構造線を真ん中付近に置きたい、しかしど真ん中は避けて微妙にずらしたいというとき、微妙にずれてはいるが "安定感のあるずれ方" がこの構図だと思います。我々はゴッホというと「独特の感性のままに描いた炎の画家」みたいなイメージでとらえがちなのだけれど、画家である以上、構図はきっちりと計画するわけです。あたりまえかも知れませんが ・・・・・・。『ひまわり』『星月夜』『糸杉のある道』の3作品はそのことをよく示しているのでした。


構図 その2:直交パターン


『絵を見る技術』に戻ります。長方形に対角線を引き、それに直交する線を描きます。長方形の一つの辺を直径とする半円と対角線の交点を求めることで直交する線が描けます(下図左)。これを構図の基本とするのを『絵を見る技術』では「直交パターン」と呼んでいます。この2直線の交点を「長方形の眼」と呼びます。一つの長方形は合計4つの眼を持ちます(下図右)。

直交パターン1.jpg

クレラー・ミュラー美術館が所蔵するゴッホの『夜のカフェテラス』は、直交パターンを構図に生かした例です。

ゴッホ「夜のカフェテラス」説明.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
夜のカフェテラス」(1888)
クレラー・ミュラー美術館

この絵はフォーカルポイントが長方形の眼にあり、また透視図法の消失点もその近くにあります。これによってカフェテラスの奥に吸い込まれていくような感覚を生んでいます。

長方形の眼は長方形の2つのかどとの3点で直角三角形を作れて、しかもその直角三角形は2種類できます。脳神経科学的に言うと、人間の目は暗黙に直角を見ようとする「直角好き」です(No.238「我々は脳に裏切られる」参照)。カンヴァスに直角が明示されているわけではありませんが、人間は何となくそれを感じる。直交パターンの心地よさというか "リズム" は、そこからくるのではと思いました。



さらに秋田氏は、直交パターンを利用して長方形の内部に渦巻き状に長方形を作り、もとの長方形を入れ子式に分割できることを述べています(下図)。

直交パターン2.jpg

この分割パターンを利用して描かれているのが、プラド美術館にあるベラスケスの『ラス・メニーナス』です。この絵では長方形の眼のところにフェリペ4世夫妻が映り込んだ鏡があり、『夜のカフェテラス』と同じように、そこに向かって吸い込まれるような感覚があります。また「入れ子式の分割パターン」が絵の構図に生かされているのがよく分かります。

ベラスケス「ラス・メニーナス」.jpg
ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)
ラス・メニーナス」(1656)
プラド美術館

ベラスケス「ラス・メニーナス」説明.jpg


構図 その3:黄金比・黄金分割


黄金比や黄金分割という言葉は多くの人が聞いたことがあると思います。絵画でもいろいろ使われていると考えるかもしれません。しかし秋田氏は「説明に困る」と書いています。


「黄金比」という言葉は聞いたことがある人も多いでしょう。絵画に黄金比が使われているかどうか? 気になる人が多いテーマですが、これが絶妙に説明に困る問題なのです。

結論から言うと、今まで「黄金比が使われている!」と言われてきたものは、ほとんどが決定打に欠け、そうと言われればそう見える、心霊写真のようなところがあります。黄金比が使われているという主張の多くは、測り方が恣意的すぎるのです。これは黄金比が芸術に使われていない、という意味ではありません。ただ、もう少し造詣的な必然性であるとか、技術面からの議論、文献の後押しが必要ではないかと思います。

「同上」

その「心霊写真のようなもの」が多いなかで、秋田氏は意図的に黄金比を使ったと考えられる3作品をあげています。レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』(1472頃)、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』(1483頃)、ローレンス・アルマ=タデマの『ヘリオガバルスの薔薇』(1888)です。この中から『受胎告知』を以下に紹介します。まずその前提として、黄金比・黄金分割とは何かです。



線分ABをG点で分割するとき、AG:GB = GB:AB となるGがABの黄金分割です。AG=1, GB=ϕ とおいて計算すると、ϕは無理数で、約1.618程度の数になります。「1:ϕ」が黄金比です。ϕの逆数は ϕ-1(約0.618)に等しくなります。

黄金比1.jpg

辺の比が「1:ϕ」の黄金比の長方形を「黄金長方形」と言います。また、1/ϕ = ϕ-1 なので、辺の比が「1:ϕ-1」の長方形も黄金長方形です。

黄金比2.jpg

黄金長方形には特別な性質があります(下図)。黄金長方形のラバットメントライン(黄色の線)は、黄金長方形を「正方形と小さい黄金長方形に黄金分割」します。またラバットメントラインの端点と黄金長方形の角を結ぶと直交パターンになります(青と赤の線)。大きな黄金長方形と小さな黄金長方形は相似なので、2つ線は直交するわけです。

黄金比3.jpg

一辺の長さ 1 の正方形の両サイドに黄金長方形をくっつけた横長の長方形を考えると、この長方形の長辺の長さは √5 になります。これは「√5長方形」と呼ばれるものです。

黄金比4.jpg



実は、ウフィツィ美術館が所蔵するレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』のカンヴァスは √5長方形です。このカンヴァスの縦横の長さは 98cm × 217cm で、縦横比は 2.214 となり √5(≒ 2.236)と極めて近い値なのです。こんな特別な形の横長カンヴァスは何らかの意図がないと選ぶはずがないのです。

もちろん西欧絵画全般を見ると、カンヴァスを使った絵で横が縦の2倍を超える絵はあります。このブログで引用した絵で言うと、ピカソの『ゲルニカ』(349.3cm×776.6 cm。縦横比:2.223。画像:No.46)がそうだし、ローザ・ボヌールの『馬市』(244.5cm×506.7cm。縦横比;2.072。画像:No.266)も2倍を超えています。しかし、キリスト教絵画で多数描かれた『受胎告知』のテーマでダ・ヴィンチの『受胎告知』ほど横長のカンヴァスはないのではと思います。

ちなみに、『ゲルニカ』は『受胎告知』よりさらに「√5長方形」に近い縦横比です。ピカソはそれを意識したのでしょう。

次図は『絵を見る技術』に掲載されている画像を再掲したものです。合わせて秋田氏の解説も引用します。

ダ・ヴィンチ「受胎告知」2.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)
受胎告知」(1472頃)
ウフィツィ美術館

ダ・ヴィンチ「受胎告知」説明.jpg


図の白い線を見てください。これが黄金長方形と正方形の分割線で、右のマリアと左の大天使ガブリエルは、図のように黄金長方形の対角線で規定されています。

次に図の青い点線を見てください。これは上下左右を黄金比 ϕ で分割するラインです。背景の水平線がこのライン付近を走っています。強調されたこの水平線によって、まるで何かエネルギーのようなものが、大天使ガブリエルからマリアめがけて噴き出しているように見えませんか。二人の手もこのラインに乗っています。

ガブリエル側に水平線が目立つ一方、マリア側は垂直線が目立ちます。マリア側にある壁は、ガブリエルから来る水平線を手前で受け止める役割があります。その縦線も ϕ ラインあたりにあるのです。黄金分割が効果的に使われた例と言えるのではないでしょうか。

「同上」

この解説を読んで思ったことです。レオナルド・ダ・ヴィンチと言うと、芸術家、特に画家として技量が飛び抜けているのですが、その一方で工学や解剖学などをどん欲に探求したことが知れられています。つまり「画家ではあるが、理系人間」というイメージが強い。そのダ・ヴィンチが、数学的根拠にもとづく黄金比を使って描いたというは、いかにも雰囲気が出ていると思います。
 


以上、『絵を見る技術』を紹介しましたが、取り上げたのはこの本のごく一部です。他にも多くの話題がありますが、それは本書を読んでいただくしかありません。一つだけ追加で紹介すると、秋田氏はミュシャの『ダンス』(1898)という作品について、「反復する円を多用する構図を使ってダンスの動きを表現している」と説明し、次のように続けています。


ミュシャの絵は、解剖学的に正しく、自然に描かれているのに、その上に怖いくらいの幾何学的正確さも備えています。【中略】

ミュシャを模倣する人が多いわりに、似たものが作れないのは、この幾何学的統一と正確なデッサンが両立できないからでしょう。

「同上」

この文章は、ミュシャそっくりの絵を描けない理由の説明であると同時に、模倣できない割にはミュシャ作品が20世紀のポップアートやサブカルチャーに多大な影響を与えた、その理由を言い当てていると思いました。



以上、私なりにまとめると『絵を見る技術』で解説されている "技術" は、どの絵にも共通で、かつ基本的な「絵を描く技術 = 絵を見る技術」です。菱田春草や上村松園が引用してあることからも分かるように、それは日本画にも共通です。

もちろん、こういった技術をわざと無視した絵もあって、特に近代以降に多い。しかしそういう絵を見るとき、「一般的なやり方を、どう意図的に無視しているか」を理解するためには「一般的なやり方」を知らないといけないわけです。

考えてみると、日本画には『絵を見る技術』と相反する絵がいろいろあります。リーディングラインが画面から飛び出して戻ってこない絵とか、量のバランスを全く無視した絵などです。思うに、19世紀の欧州画壇のジャポニズムの要因の一つは、そういった絵にヨーロッパの画家が感じた "新鮮さ" だったのではないでしょうか。

「何かをこわした」ことを理解するためには、もともとの「何か」を知っている必要があり、知らないと壊したことさえ分からない。そう思います。


『絵を見る技術』の結論


最後に『絵を見る技術』の最終章に書かれている話です。最終章ではティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』(1538。ウフィツィ美術館)と、ルーベンスの『十字架降架』(1612/14。アントワープのノートルダム大聖堂)を例に、総合的な分析がされています。

そして『十字架降架』を詳しく分析したあと秋田氏は「よくできている、すごい絵」としつつも、「正直に言うと、この絵は好きとまでは言えない」との主旨を書いています。つまり、

好き嫌いを感じることと、造形が成功しているかどうかを理解することは別

なのです。そして秋田氏は好きなルーベンス作品の例として『クララ・セレーナの肖像』をあげています。この絵はリヒテンシュタイン侯爵家が所蔵していて、日本でも何回か展示さたことがあるので実物を見た人もいると思います。

ルーベンス「クララ・セレーナの肖像」.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス
(1577-1640)
クララ・セレーナの肖像」(1616頃)
リヒテンシュタイン侯爵家所蔵


ルーベンスの壮大なテーマをおおらかに描いたものは、素晴らしいのは分かるけど、少しコッテリに感じてしまいます。

ですからルーベンスの作品でも、娘の肖像画などは私も大好きです。ルーベンスの活力みなぎる肉体表現は大がかりな歴史画や祭壇画で発揮されていますが、その技量を、身近な小さな存在を描くのに注ぎこむという、才能の無駄遣いともいえるギャップに魅力を感じます。そして、この絵の生命力みなぎる少女が夭折ようせつしたと知ると、この絵がとどめた一瞬が、どれほどもろはかないものだったかと気づくのです。

こんなふうに、「自分の好き・嫌い」と「作品の客観的な特徴」が分けられるようになると、楽しみ方の幅がぐっと広がると思います。

「同上」

こういう文章を読むと何だかホッとします。つまり秋田氏は『絵を見る技術』という著書の最後の最後で、

・ ルーベンスの『クララ・セレーナの肖像』が大好き、とし
・ 夭折した娘の肖像であるという、絵を見ただけでは分からない事実を念頭に自らの思いを書いている

わけです。つまり、さんざん説明してきた "絵を見る技術" とは全く違う絵の見方も大いにアリということを、秋田氏自身が語っている。「生命力漲る少女が夭折したと知ると、この絵がとどめた一瞬が、どれほど脆く儚いものだったかと気づく」というような "思い入れたっぷりの文章" になるのは、要するにそういうことです。

そして、上の引用の最後の文章が『絵を見る技術』という本の結論なのでした。




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No.283 - ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 [音楽]

前回の No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」の続きです。以下の "番組" とは、音楽サスペンス紀行「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)のことです(No.281 参照)。


プラウダ批判


1936年1月26日、スターリンはモスクワのボリショイ劇場でオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を観ましたが、第3幕が終わったところで席を立ちました。翌々日の1月28日、共産党機関誌「プラウダ」は『マクベス夫人』を批判する記事を掲載しました。いわゆる「プラウダ批判」です。

Shostakovich04.jpg
画面の左下の記事がいわゆる「プラウダ批判」。「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)より。

私はロシア語を読めないので英訳にあたってみると、記事の見出しは "Muddle instead of Music" です。"Chaos insted of Music" との訳もあるようです。日本語に直訳すると「音楽ではなく混乱」ぐらいでしょう。番組にあったように "支離滅裂" というのもあると思います。

いったい『マクベス夫人』の何が批判されたのでしょうか。番組において、サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長のラリサ・ミレル氏は次のように語っていました(No.281 で引用)。


【ラリサ・ミレル】(サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長)

スターリンが聴いたこのオペラは、かなり革新的なものでした。「大衆が理解できない」とスターリンは批判したんです。彼にとって音楽とはシンプルで分かりやすく、大衆的なものでなくてはならなかったからです。政治と音楽は渾然一体でした。人々を一つの「型」に押し込めようとしたんです。

音楽サスペンス紀行
ショスタコーヴィチ
死の街を照らしたレニングラード交響曲
(NHK BS プレミアム。2020年1月16日)

この引用の下線のところが批判の要約ですが、もう少し詳しく言うとどういうことなのか。「プラウダ批判」の英訳版から、その前半を試訳してみると次の通りです。


「プラウダ批判」試訳



28 January 1936, Pravda
Muddle instead of Music

With the general cultural development of our country there grew also the necessity for good music. At no time and in no other place has the composer had a more appreciative audience. The people expect good songs, but also good instrumental works, and good operas.

1936年1月28日、プラウダ
音楽でなくて混乱

我が国の文化の一層の発展のため、良い音楽の必要性が高まっている。作曲家にとってこれほど鑑賞眼のある聴衆がいた時代や国は他にない。人々は良い歌を期待すると同時に、良い器楽曲やオペラを要望している。

Certain theatres are presenting to the new culturally mature Soviet public Shostakovich's opera Lady MacBeth as an innovation and achievement. Musical criticism, always ready to serve, has praised the opera to the skies, and given it resounding glory. The young composer, instead of hearing serious criticism, which could have helped him in his future work, hears only enthusiastic compliments.

現在、いくつかの劇場はショスタコーヴィチのオペラ『マクベス夫人』を革新的な業績として、新しい教養あふれるソヴィエトの聴衆に向けて公演している。用意周到な音楽批評家はこのオペラを高く賞賛し、彼らが与えた栄誉は鳴り響いている。オペラの若い作曲家は熱狂的なお世辞ばかりを聞き、将来の作品の助けになるかもしれない批判を聞こうとはしない。

From the first minute, the listener is shocked by deliberate dissonance, by a confused stream of sound. Snatches of melody, the beginnings of a musical phrase, are drowned, emerge again, and disappear in a grinding and squealing roar. To follow this "music" is most difficult; to remember it, impossible.

聴衆は最初の1分から、意図的な不協和音や、混迷した音の流れにショックを受ける。音楽フレーズの始まりの断片的なメロディーは、浮き沈みするうちに、きしんだ金切り音の唸りの中に消えてしまう。この "音楽" をたどるのは極めて難しく、記憶するのは不可能である。

Thus it goes, practically throughout the entire opera. The singing on the stage is replaced by shrieks. If the composer chances to come upon the path of a clear and simple melody, he throws himself back into a wilderness of musical chaos - in places becoming cacaphony. The expression which the listener expects is supplanted by wild rhythm. Passion is here supposed to be expressed by noise.

このようにしてオペラのほとんどすべてが進んでいく。舞台での歌唱は、金切り声に変わってしまう。作曲家は、明快で簡潔なメロディーの道に遭遇したとしても、すぐにきびすを返し、不協和音の地に似つかわしい音楽的カオスの荒野へと向かう。聴衆が期待する表現は、野蛮なリズムに取って替わられる。ここでは情熱を騒音で表現しようとしているようだ。

All this is not due to lack of talent, or lack of ability to depict strong and simple emotions in music. Here is music turned deliberately inside out in order that nothing will be reminiscent of classical opera, or have anything in common with symphonic music or with simple and popular musical language accessible to all.

これらすべては音楽の才能の欠如でもなければ、音楽で強くシンプルに感情を表現する能力の欠如でもない。ここでは音楽が意図的に裏返えしにされ、伝統的なオペラを連想するものが無いように、また、シンフォニックな音楽との共通性や、誰もが理解できる簡素でポピュラーな音楽の言葉との共通性が無いようにしてある。

This music is built on the basis of rejecting opera - the same basis on which "Leftist" Art rejects in the theatre simplicity, realism, clarity of image, and the unaffected spoken word - which carries into the theatre and into music the most negative features of "Meyerholdism" infinitely multiplied. Here we have "leftist" confusion instead of natural human music. The power of good music to infect the masses has been sacrificed to a petty-bourgeois, "formalist" attempt to create originality through cheap clowning. It is a game of clever ingenuity that may end very badly.

この音楽はオペラを拒否する前提で作られている。それは演劇における革新派の芸術が、簡潔さ、リアリズム、明晰なイメージ、素朴な発話を拒否するのと根が同じである。それはメイエルホリド主義の最も否定的な面を演劇と音楽に持ち込み、無限に増殖させた。ここに我々は自然で人間的な音楽ではなく、革新派の混乱を見る。大衆に感染する良い音楽の力が、小ブルジョア的で、独自性を安っぽい道化で作ろうとする形式主義者への捧げ物になった。これは如才ない巧妙なゲームであるが、最悪の結末になるかもしれない。

《メイエルホリド主義》:メイエルホリドは演劇革新運動を起こしたロシアの演出家で俳優。ショスタコーヴィチとも交流があった。スターリンの大粛清の犠牲になり、銃殺された。

《革新派》:英語はleftist。直訳すると左翼であるが、社会主義国家の中の文化的左翼のことなので、革新派とした。

《形式主義》:内容より形式を重視する文学や演劇、音楽を指す言葉だが、当時のソ連では大衆に奉仕しない音楽を糾弾する言葉として使われた。

The danger of this trend to Soviet music is clear. Leftist distortion in opera stems from the same source as Leftist distortion in painting, poetry, teaching, and science. Petty-bourgeois "innovations" lead to a break with real art, real science and real literature.

このような傾向がソヴィエトの音楽にもたらす危険性は明らかである。革新派によるオペラの歪曲は、絵画、詩、教育、科学における革新派の歪曲と同根である。小ブルジョア的な "革新" が、真の芸術、真の科学、真の文学を毀損するに至っている。

■■■ 以下、略 ■■■

【英語訳の出典】
https://sutalkmusic.files.wordpress.com/2012/11/muddle-instead-of-music.pdf
(2020.4.18 現在のurl)


『マクベス夫人』の何を批判したのか


試訳は、ロシア語 → 英語 → 日本語の重訳なので、原文からは意味にズレがあるかもしれません。また英訳自体に意味のとりにくい部分もあるので、訳として不自然なところがあります。しかし大筋では「プラウダ批判」が何を言っているのかが理解できます。

訳出したのは「プラウダ批判」の前半だけですが、この前半で「言いたいこと」は尽きています。読むとすごい文章です。『マクベス夫人』を徹底的にこき下ろしているし、それどころか「粛清するぞ」という脅しととれるような発言もある。

分かるのは、『マクベス夫人』を批判するといっても、それは『マクベス夫人』の音楽を批判していることです。実は、訳出しなかった後半には「カテリーナをブルジョア社会の犠牲者のように描いているが、レスコフの原作はそうではない」とか(これは正しい。No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」参照)、ダブルベットを舞台に置くような演出に対して「下品だ」というような批判があります。しかしこのような台本や演出に関することは全体からするとわずかであり、ほとんどがショスタコーヴィチの音楽に対する批判です。

その音楽について「プラウダ批判」が言いたいことを、私なりに少々の補足を加えてまとめると、ソ連におけるオペラ音楽のあるべき姿は、

・ 明快で簡潔なメロディーがあり、聴衆は音楽をたどれるし、記憶できる。
・ 人間の感情が朗々とした歌唱で表現されている。
・ シンフォニックな音楽や伝統的なオペラとの共通性もある。
・ ポピュラー音楽の愛好者も理解可能である。
・ 全般的に言うと「自然で人間的な音楽」である。

ということでしょう。要するに「分かりやすく平明な音楽」ということです。しかし『マクベス夫人』の音楽は、あるべき姿とは正反対で、つまり、

・ 不協和音や野蛮なリズムに満ちている。
・ 歌唱は金切り声で、軋んだオーケストラの唸りは騒音のようだ。
・ メロディーは断片的で、混迷した音の流れの中に埋没する。
・ 音楽をたどるのは困難であり、記憶するのは到底不可能だ。

ということだと思います。プラウダの記事の筆者は、ショスタコーヴィチに才能がないからそうなったと言っているのではありません。この音楽は才能のある作曲家が意図的に作ったものだと言っている。つまり『マクベス夫人』は1930年代の音楽としては前衛的であり、番組でのサンクトペテルブルク音楽院・学術研究課長の言葉を借りれば「かなり革新的な音楽」なのです。そこが批判のポイントです。



しかし「プラウダ批判」に反論(?)すると、まず "騒音" とか "金切り音" とかは、この音楽を否定するための罵声に近いものであって、ショスタコーヴィチの音楽を聴くとそんなことは全くありません。

それどころか、ショスタコーヴィチの音楽スタイルは『マクベス夫人』という "ドラマ" と良くマッチしています。このオペラは主人公のカテリーナがどこまでも転落していく物語であり、"救いのない物語" です。そこで描かれるのは、"愛の暗黒面" や "ゆがんだ愛" であり、暴力的な行為であり、連続犯罪とそれによる死です。この普通ではない、異常とも言えるドラマの進行とそこでの人間感情の表現には、ショスタコーヴィチの「かなり革新的な音楽」がピッタリなのです。

例をあげると、プラウダ批判は「最初の1分から、意図的な不協和音や、混迷した音の流れにショックを受ける」としています。最初の1分に現れるのはカテリーナの歌唱ですが、島田雅彦氏はこの部分を「冒頭のカテリーナのアリアは、ワーグナーの影響を強く受けたショスタコーヴィチによって『トリスタンとイゾルデ』風のやるせない和音で彩られる」と書いています(No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」参照)。さすがに作家は的確な日本語を繰り出すと思うのですが、「冒頭のトリスタン風の不協和音 = カテリーナやるせなさ」なのです。

「プラウダ批判」に "野蛮なリズム" とありますが、これは当たっています。だけど、このオペラにはレイプ・シーンを始めとして "野蛮な" シーンがいろいろあります。それは物理的な暴力だけでなく、たとえば第1幕で舅のボリスが「結婚して4年になるのにまだ子ができない」とカテリーナをネチネチと責めるような "精神的な野蛮さ" もある。そういった状況での音楽は "野蛮なリズム" がピッタリなのです。

絵画の比喩で言うと、このブログで引用した絵にピカソの『泣く女』と『ゲルニカ』がありました(いずれも No.46「ピカソは天才か」で画像を引用)。この両方の絵とも人間(や動物)の姿を要素に分解し、それをデフォルメし、再構成・再配置していて、具象とはかけ離れた絵画です。これは、激しく慟哭する人やそれを目の当たりにした人の感情、無差別爆撃にさらされた住民の恐怖やそれを知った人の怒りを表現するにはピッタリの手法です。この2作が傑作である大きな理由は、絵画のテーマと絵画手法がマッチしていることだと思います。

絵画とオペラは芸術のジャンルが違うので一概なことは言えませんが、『マクベス夫人』もこのピカソの絵の例と似ていると思います。ドラマの内容と使われた音楽手法が不可分に一体化しているのです。

しかし、そんなことはプラウダ紙(=ソ連の共産党独裁政権の機関誌)にとっては関係ないのですね。「プラウダ批判」は『マクベス夫人』の批判であると同時に、ショスタコーヴィチの初期作品にみられる "前衛的・実験的傾向" の批判であり、また、当時のソ連の芸術(音楽、演劇、文学)における革新派を攻撃したものだからです。それは一読すれば明瞭です。



ここで改めて「プラウダ批判」が主張する「音楽のあるべき姿」を考えてみたいと思います。前提として当時のソ連の政治状況は全く考慮しないものとします。つまり、共産党独裁政権、スターリン体制、音楽(芸術)は共産主義社会の建設に貢献すべきという指針などの、当時のソ連の芸術と政治の関係を一切抜きにし、純粋に音楽についての議論とします。とすると、プラウダが言っている「オペラの音楽のあるべき姿」つまり、

・ 明快で簡潔なメロディーがあり、聴衆は音楽をたどれるし、記憶できる。
・ 人間の感情が朗々とした歌唱で表現されている。
・ シンフォニックな音楽や伝統的なオペラとの共通性もある。
・ ポピュラー音楽の愛好者も理解可能である。
・ 全般的に言うと「自然で人間的な音楽」である。

などは、それはそれで的ハズレではないと思うのです。少なくとも一理も二理もある。これはオペラの音楽のみならず、いわゆる "芸術音楽" 全般に言えます。音楽は人間の感覚に直接訴えるものであり、自然で人間的なものであるべきだ。要はそういうことです。

ショスタコーヴィチはこの「プラウダ批判」に答える形で交響曲第5番(1937)を作曲し、それはソ連政府のみならず聴衆からも支持され、また現在も世界中で演奏されていて、幾多の交響曲の中でも屈指の名曲となっています。それはとりもなおさず「プラウダ批判」が的ハズレではないことを意味しています。その交響曲第5番はどういう音楽なのでしょうか。


交響曲第5番


ショスタコーヴィチは「プラウダ批判」に答える形で交響曲第5番(1937)を発表したのですが、番組では次のように解説されていました。


批判の嵐と粛清の波。親類や友人たちが次々と逮捕されていた。そしてショスタコーヴィチもついに尋問に呼び出される。生き延びるためにできることは限られていた。

尋問のあと、新たに発表した交響曲第5番は、持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品となった。この曲は政府からも評価され、粛清の危険を脱した彼は、息をひそめるように作曲活動を続けたという。

ショスタコーヴィチ:
死の街を照らしたレニングラード交響曲
(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)

確かに交響曲第5番は、分かりやすく平明な曲です。全体は4楽章で、ソナタ形式のオープニング(第1楽章)に始まり、スケルツォ(第2楽章)、緩徐楽章(第3楽章)、フィナーレ(第4楽章)と続く構成は、19世紀の交響曲の最盛期の構成そのものです。

記憶に残りやすい主題や旋律が全曲に散りばめられているのも特徴です。特に4つの楽章それぞれの冒頭の主題が印象的で、楽章の最初から聴衆を引き込むようにできている。全体に繰り返しが多く、聴衆としては音楽の構成をたどりやすい。

また印象的という以上に、音楽の歴史や先人を踏まえていると思われるところが多々あります。全体的にマーラーの交響曲との類似性を感じるし、ビゼーのオペラ『カルメン』からの引用らしきところもある。この第5番は「19世紀末に作曲されたといってもおかしくない曲」です。

さらに全曲の開始の部分、つまり第1楽章の冒頭のリズムは、ベートーベンの交響曲第9番の冒頭を踏まえているのではないでしょうか。ないしは、ブルックナーの交響曲第8番の冒頭のリズムです(譜例167)。そもそもブルックナーはベートーベンを意識したと考えられます。つまりショスタコーヴィチの交響曲第5番は、「第9」と似たリズムで交響曲を開始することで先人(ベートーベン)を踏まえたと同時に、ベートーベンの「第9」と似たリズムで交響曲を開始するということそれ自体が先人(ブルックナー)を踏まえているのだと思います。

譜例167: ベートーベン/ブルックナー/ショスタコーヴィチ
Beethoven-Bruckner-Shostakovich.jpg
ベートーベンの「交響曲第9番」、ブルックナーの「交響曲第8番」、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」の冒頭数小節。2つのパートだけを抜き出した。ブルックナーとショスタコーヴィチはベートーベンを踏まえていると同時に、ショスタコーヴィチはブルックナーも踏まえていると考えられる。またショスタコーヴィチはカノンで始めているが、カノンはベートーベンの時代よりも古い音楽形式である。

しかし、そういった中にも "ショスタコーヴィチらしさ" が全開です。特にショスタコーヴィチ独特の個性を感じる天性のリズム感です。比喩で言うと「体操やアイススケートで妙技を連続して見る感じ」、または「警句やウィットに満ちた小説家の文章を読む感じ」です。

まとめると、交響曲第5番はまさに「持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品」です。絵画の比喩で言うと、今までキュビズムの絵を描いていた画家が、急に印象派のような作品を製作した。もちろんこれは作品の良し悪しとは全く関係がありません。この交響曲第5番は音楽としては傑作です。そのポイントを一つだけあげるとすると、第3楽章の "壮絶な美しさ" です。この音楽は、交響曲という範疇で最も美しい楽章の一つでしょう。プラウダ批判が言う「音楽のあるべき姿 = 分かりやすく平明」という範囲で、これだけの傑作を書けるというショスタコーヴィチの才能はすごいと思います。


第5番は作曲家の本意ではない


しかし作曲の経緯をみると、交響曲第5番は「無理いされて作った音楽、やむを得ずに作った音楽、極端に言うと粛清で投獄されたり銃殺されないために作った音楽」です。それまでにショスタコーヴィチが作ってきた音楽(たとえば『マクベス夫人』)とは明らかに異質です。これは「作曲家が本来やりたかった音楽ではない」と考えるのが妥当でしょう。



全く唐突に話が飛びますが、司馬遼太郎の本に織田信長に仕えた坪内という姓の料理の名人の話が出てきます(名前は伝わっていません)。坪内は信長の御賄頭おんまかないがしら、つまりコック長でした。以下、本から引用します。


坪内は、織田家につかえる前には三好氏のコック長であった。三好氏は戦国末期に京を占領していた大名だから、坪内がそのコック長である以上、その腕の確かさはむろんのこと、室町風のうるさい儀典料理にも通じていておそらく当時日本一という定評ががったはずである。信長が三好氏を追ったとき、このコック長は捕虜になって岐阜に送られた。

岐阜で四、五年、「放し囚人めしゆうど」として暮らしたと「続武者物語」などにはあるから捕虜とはいえ、多少の自由はあったのであろう。ただ、包丁は持っていない。それを惜しいとおもったのは織田家の御賄頭の市原五右衛門で、坪内ほどの名人にものをつくらせぬということはありますまい、ぜひ上様の御膳はかれの包丁にてつかまつればいかがでございましょう、と献策した。

信長は、物の味にさほどの関心のあった男ではなさそうで、坪内をそれほど珍重する気はなかったらしい。

ひとまず、承知した。ただし、
── 膳はつくらせる。しかしまずければ殺す。
というのが、信長の条件であった。

坪内は夕餉ゆうがれい(引用注:夕食のこと。ゆうげと読むのが普通)をつくった。

試食し、信長は激怒した。このように薄味の水くさいものが食えるか、というのである。

坪内はおどろかず、いまひとたびの機会をあたえてもらいたい、翌朝の餉をつくらせてもらいたい、それにてもなお上様のお舌にあわぬとあれば自分は切腹なりともなんなりともする、といった。その言葉が信長にとどけられた。信長はゆるした。

その翌朝の朝餉で信長は満足した。「信長公 御感 ナナメナラズシテ 坪内ヲ御家人ニ召シ出サル旨 オホセ出サル」。

「あたりまえのことさ」
と、坪内はあとで料理人仲間にいったらしい。最初につくった膳は京風の味だから信長公のお舌にあわなかったのさ、二度目の味はあれは田舎味だ、塩梅を辛ごしらえでやったのだ、「故ニ御意ニ入リ候ト言フ。信長公ニ恥辱を与ヘ参ラセシト笑ヒケルト也」。


まさに "面従腹背" を地でいく話です。表面的にはうやうやしく従うように見せかけながら、裏では "アッカンベー" をしている。しかしこの話がすごいのは単なる面従腹背ではないところです。つまり、

◆ 料理人・坪内は、自らの命を賭けて夕食を京風味にし、朝食は田舎味にした。

◆ 彼はこの賭に勝ち、御家人の地位を得ると同時に、歴史書に残る "恥" を信長にかかせた。

というところです。自分の "生殺与奪権" を握っている信長が激怒することを承知の上で、あえて京風の味付けの料理を出すというところに、天下一の料理人の凄みがある。

歴史書にはないようですが、御家人に取り立てられた坪内はその後どうしたのでしょうか。もし信長が満足する味の料理を作り続けたのだとしたら、技量は確かに日本一かもしれないが、プライドが勝ちすぎていて料理人としては修行が足りないと思います。

もし坪内が真に "料理という芸術" を理解した料理人なら、信長の怒りを買わない範囲で、徐々に信長を「京風の味」に慣らしていくと思います。当時の優秀な戦国武将をみても、天下一の武人が文化人でもある例はいろいろあります。「田舎味に慣れた武将をもとりこにする京料理の奥の深さ」を発揮してこそ、料理という芸術がわかった料理人のはずです。



ショスタコーヴィチとは全く関係がありませんが、思い出したので司馬遼太郎の本から引用しました。この話がショスタコーヴィチの創作過程と似ていると思ったからです。

ショスタコーヴィチは『マクベス夫人』に至るまで、革新的な(前衛的で実験的な)音楽を作っていました。それを評価する評論家や音楽家仲間も多かったようですが、反対する人たちもいた。そしてショスタコーヴィチは、政府の意向が革新的とは正反対の「分かりやすく平明な音楽」であることは十分に承知していたはずです。芸術は政治と合致するものでなければならないというのが共産党独裁政権の考えです。しかしショスタコーヴィチは "確信犯的に" 前衛的な音楽を作った。

その状況下での「プラウダ批判」という "脅迫文" です。これによってショスタコーヴィチは音楽家生命を絶たれかねないと同時に、命さえ危うくなった。

そこでショスタコーヴィチは交響曲第5番を作り、これには共産党指導部も大満足し、またソ連の聴衆も喝采を浴びせたというのが経緯です。



しかし、ショスタコーヴィチの本領はこれ以降にあります。交響曲第5番(1937)以降、ショスタコーヴィチは "政府に迎合する作品" もいろいろ発表しましたが、そればかりではありません。第2次世界大戦のさなかに交響曲 第7番(1941)を発表したショスタコーヴィチは、続いて交響曲 第8番(1943)を発表します。これはスターリングラード攻防戦の犠牲者への追悼の曲で、暗く、悲劇的なものです。当時はソ連軍が大反攻に転じていたころであり、もっと明るい作品はできないのかとの非難を浴びました。

さらに第2次世界大戦がソ連の勝利で終わり、戦勝を記念して発表した交響曲 第9番(1945)は、第7番、第8番とは全く違う軽妙洒脱な作品であり、ベートーベンの第9のような壮大な作品を望んでいた政府関係者の意向とはかけ離れたものでした。これによってショスタコーヴィチは政府から、いわゆる「ジダーノフ批判」を受け、苦境に立たされることになります。

スターリンの死(1953)とスターリン批判(1956)の後も、政府にとっての "問題作" を作ります。その典型が、交響曲第13番「バービ・ヤール」(1962)です。この交響曲は、ユダヤ人虐殺にからむ反体制的な内容の詩による合唱をもっています。

さらに「プラウダ批判」(1936)でやり玉にあがった『マクベス夫人』です。ショスタコーヴィチは『マクベス夫人』の台本とオーケストレーションの一部を変更し、間奏曲を追加した改訂版のオペラ『カテリーナ・イズマイロヴァ』を作ります。そして1963年に上演許可をとってモスクワで上演します。なぜショスタコーヴィチは四半世紀もたって『マクベス夫人』の実質的な再演にこだわったのでしょうか。考えられる理由としては、

◆ ショスタコーヴィチとして思い入れのある作品であり、オペラとしての自信作だった。

◆ スターリン体制下で批判を受けて上演禁止になり、創作の方向を転換せざるを得なくなった "因縁の" 作品である。是非とも再演してけじめをつけたかった。

などでしょう。しかし、より大きな理由はソヴィエトの体制批判ではないでしょうか。前回の No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」に書いたように、このオペラは19世紀後半の帝政ロシア時代の作家、レスコフの同名の小説を原作としています。

◆ 原作は19世紀後半、帝政ロシアの現実の閉塞感と悲劇的な雰囲気を感じる小説であり、

◆ その閉塞感や悲劇的な雰囲気をソヴィエトの政治体制になぞらえた

と考えるのが妥当でしょう。No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番」で引用したように、ショスタコーヴィチの同時代人の回想録に、

第7番はファシズムはもちろん、私たち自身の社会システム、すなわち全体主義体制、すべてを描いている」

という作曲家の発言がありました。純粋器楽でそうなのだから、台本があり、ストーリーがあり、ドラマが演じられるオペラに "体制批判" が隠されていることは十分に考えられると思います。時系列にみると『バービ・ヤール』(1962)の次が『カテリーナ・イズマイロヴァ』(1963)というのも暗示的です。


ショスタコーヴィチがアメリカ人なら


「歴史に if はない」という言葉がありますが、「歴史の if」を想定することは、現実に起こった出来事の意味を考えるときに有用です。それは音楽史でもそうです。

ショスタコーヴィチがもしアメリカに生まれていたら、という if を考えてみると、ショスタコーヴィチは自分の内心から湧き出てくる芸術的感性をもとに自由に作品を作れたはずです。また「他の何ものにも似ていない独自性」を追求するという、芸術家の本性を発揮したことでしょう。その結果、新しい音楽手法を次々と生み出し、音楽評論家からは賞賛され、20世紀の音楽史において、今以上に燦然と輝く存在になったと思います。

しかしそうであれば、交響曲第5番のような作品は生まれなかったのではないでしょうか。

ショスタコーヴィチは、彼にとっては不運な国の不運な時代に生まれたのですが、全く皮肉なことにソ連の共産党独裁政権からの圧力が、広く受け入れられるショスタコーヴィチの名曲を生み出したと思います。少なくとも交響曲第5番はそうです。

このことは交響曲第7番と似ています。第7番は「レニングラードを完全包囲するドイツ軍の圧力」の下で書かれた始めた音楽です。ないしは「ロシア民族の勝利の称える曲を作るようにとの政府の圧力」の下で完成した音楽です。この2つとも芸術家が普通に作品を作るという状況では全くありません。そこで要請されたのは「分かりやすく平明な音楽で、できるだけ多くの市民・大衆が理解できること」です。そうだからこそ、第7番ができた。ここが第5番と似通っています。

ショスタコーヴィチは、当時のソ連の政治体制という、芸術家にとっては最悪の社会環境で生きたロシア人だったからこそ名曲を生み出すことになった。そう思います。



前々回から今回までの3つの記事は、NHKのTV番組・音楽サスペンス紀行「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)の内容の紹介から始まったものでした。とりあげたショスタコーヴィチの作品は、


でした。この3作品の成立過程をみると、ショスタコーヴィチの苦悩や戦いがよく理解できます。それはとりも直さず、芸術家と社会の関係はどうあるべきかという問いであり、それが極端な形で現れたのだと思いました。




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No.282 - ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人 [音楽]

前回の No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番」の続きです。前回は、ショスタコーヴィチの交響曲第7番に関するドキュメンタリー番組、

音楽サスペンス紀行
ショスタコーヴィチ
死の街を照らしたレニングラード交響曲
NHK BS プレミアム
2020年1月16日

の内容から、交響曲第7番に関するところを紹介し、所感を書きました。この番組の最初の方、第7番の作曲に至るまでのショスタコーヴィチの経歴の紹介で、

スターリンはショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を気に入らず、すぐさま共産党の機関誌・プラウダは批判を展開した。ショスタコーヴィチはそれに答える形で『交響曲第5番』を書いた

という主旨の説明がありました。この件は20世紀音楽史では有名な事件なのですが、ショスタコーヴィチと政治の関係に関わる重要な話だと思うので、以降はそれについて書きます。

『交響曲第5番』(初演:1937。30歳)はショスタコーヴィチ(1906-1975)の最も有名な曲でしょう。聴いた人は多数いるはずです。しかし『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(初演:1934。27歳)を劇場やDVD/BDで観た人は、交響曲第5番に比べれば少数だと思います。そこでまず、これがどういうオペラかを書きます。その内容と音楽がプラウダ紙の批判と密接にからんでいるからです。


ムツェンスク郡のマクベス夫人


『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(以下『マクベス夫人』とも記述)がどういうオペラか、ここでは是非とも作家の島田雅彦氏の解説で見ていきましょう。島田氏はオペラを「命をかけるべき最高の遊戯」と言ってはばからない人で、オペラの台本まで書いています(『忠臣蔵』と『Jr. バタフライ』)。その島田氏の著書である「オペラ・シンドローム」(NHKブックス 2009)から引用します。この本はNHK教育で2008年6月~7月に放映された「知るを楽しむ この人この世界:オペラ偏愛主義」の番組テキストに大幅に加筆したものです。

『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、ロシアの作家、ニコライ・レスコフ(1831-1895)が、その作家生活の初期(1864)に書いた同名の小説が原作です。帝政ロシア時代の小説をソ連時代のショスタコーヴィチがオペラ化したわけで、まずこのことに留意しておきましょう。1934年にレニングラード(現、サンクトペテルブルク)で初演されました。

以下、島田雅彦氏によるこのオペラの紹介です。この紹介の部分は「残酷で救いのない物語」とのタイトルがあります。島田氏は作家らしく、まずオペラの冒頭で歌われるアリアのキーワードを取り上げます。

以下の引用では漢数字を算用数字に改めたところがあります。段落を増やしたところもあります。下線は原文にはありません。


「残酷で救いのない物語」

ロシア語には「タスカー」という言葉があります。直訳すると「もの悲しい」とか「滅入る」といった意味で、死にたくなるところまではいかない暗い気分、要はメランコリーです。てついた空気の、1年のうちの3分の2が曇っているような土地に根づいている感情なのでしょう。

ロシアの人々はそれを否定するでもなく、「タスカー」を歌に歌ったりする。憂いの感情と戯れているのです。そうしなきゃやってられないよ、ということなのでしょう。鬱々とした気分をうまく飼い馴らし、「タスカー」を死なないための知恵に高めている。

憂いを心に秘めている段階ではわだかまりでしかない。けれど、それを発語したり、人に聞いてもらうことで悩みや苦しみを実体化することができる。そうすれば、吐き出すのも容易になる。自分の悩みや苦しみを語ったり、書いたり、歌ったりすることは精神分析と同じ効果があるのです。

島田雅彦
「オペラ・シンドローム」
(NHKブックス 2009)

物語の舞台であるムツェンスクは、モスクワの南西、約300kmにある町です。この田舎町の裕福な商家が舞台です。


地方の裕福なイズマイロフ家に嫁いだカテリーナ。商売にしか関心がなく、外出がちの夫ジノーヴィと、多くの使用人、そして好色のまなざしとともにカテリーナを観察しつづける意地の悪いしゅうとボリスとの暮らしは、憂鬱で退屈極まりないものです。「スクーカ(退屈だわ)、タスカー(気が滅入るわ)」と歌い出される冒頭のカテリーナのアリアは、ワーグナーの影響を強く受けたショスタコーヴィチによって『トリスタンとイゾルデ』風のやるせない和音で彩られますが、描写される内容といえば、なにも楽しいことのない主婦の心に溜まった愚痴です。

一転して、庭先では使用人たちが騒いでいます。新米の下男セルゲイが女中にちょっかいをだし、まわりがはやし立てている。打楽器を多用した迫力満点の扇情的な音楽が響くなか、カテリーナが登場し、セルゲイをたしなめる。セルゲイは、どうやら前に雇われていた家でも女問題でクビになった、流れ者の不良です。セルゲイはカテリーナの顔を一目見て「こいつは欲求不満」と嗅ぎとったのかもしれない。またカテリーナも、セルゲイを「あ、いい男」と感じたのかもしれません。

島田雅彦「同上」

ムツェンスク郡のマクベス夫人1.jpg
2006年、アムステルダムにおけるネーデルランド・オペラの公演をライヴ収録したDVD。エカテリーナ:エヴァ=マリア・ウェストブロック、セルゲイ:クリストファー・ヴェントリス、マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、マルティン・クシェイ演出。

このパッケージの画像は、第1幕第2場でセルゲイがカテリーナにレスリングをしようと持ちかけ、押し倒したところ。

ここまでが第1幕の第1場(イズマイロフ家の居間)と第2場(イズマイロフ家の庭先)です。次が、第1幕第3場のカテリーナの寝室の場面です。


いずれにせよ、その夜、セルゲイが一人寝のカテリーナの部屋を訪れ、「何か本でも借りようかと思って」という。字が読めるのかよ、とツッコミを入れたくなるような男が本を借りに来る本当の目的は一つです。押し問答をするうち、セルゲイはなかば強引にカテリーナをものにします。このシーンの曲想は話題になりました。物語の題材が反政府的、道徳破壊的であることは想像できても、音楽自体が物議をかもすことは非常に珍しい。

私は、ハリー・クプファーの演出のものを観ましたが、ソプラノ歌手の下着をとり、セルゲイ役も下着を脱いでいく場面が、打楽器が扇情的に盛り上げていくその音楽と、フラッシュを多用した照明の効果もあいまって、きわめてリアルに描かれていました。しかも、行為が終わったあとの白けた感じを、まだ20代だったショスタコーヴィチが、トロンボーンの響きによって見事に表現しているのも聴きどころです。

この作品は初演後に大きな話題を読んで人気演目になったのですが、スターリンの逆鱗げきりんに触れ、20年以上にわたって上演禁止になります。20世紀オペラのなかで上演不可能になった作品はもう一つ ── シェーンベルクの『モーセとアロン』がありますが、こちらは内容、音楽ともに難解すぎたことが原因です。しかし『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、とりわけこのシーンの露骨すぎる描写がその理由の最たるものでした。時間的にはそう長くないこのシーンの話題性ばかりが一人歩きし、「ポルノフォニー」というあだ名がつけられたりもしたのです。

島田雅彦「同上」

1936年1月26日、モスクワのボリショイ劇場でこのオペラを観たスターリンは、オペラの終幕を待たずに席を立ちました。そして2日後の1月28日のプラウダ紙に、ショスタコーヴィチを批判する社説が掲載されました。いわゆる「プラウダ批判」です。その引き金になったのは、スターリンが第1幕第3場のレイプ・シーンに激怒したからだと(一般には)言われています。

オペラは第2幕へと進行します。同じイズマイロフ家の庭先とカテリーナの寝室です。


さて、物語に戻りますと、もはやカテリーナはセルゲイにぞっこんです。カテリーナを監視する舅はめざとく二人の関係を見抜きます。セルゲイを捕まえて鞭打ちするボリスに、恨み骨髄のカテリーナ。鞭打ちに疲れたボリスがキノコ入りのカーシャという蕎麦そばの実を使った家庭料理を所望したところで、カテリーナは毒を盛ります。最初の殺しが舅殺しなのです。レスコフの原作のエピグラフには「毒をくらわば皿まで」とあります。

邪魔者がいなくなったセルゲイとカテリーナは、再び愛欲におぼれますが、そこへ夫のジノーヴィが帰宅し、不倫の現場が露見します。すると、これはもう仕方ないとばかりにジノーヴィも殺害。間髪を容れずに、連続殺人が決行されたのです。

島田雅彦「同上」

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カテリーナはセルゲイとともに、夫のジノーヴィを殺害する。そしてセルゲイにキスしてと言い、彼を抱きしめ、これであなたは私の夫と言う。ネーデルランド・オペラより。

第3幕は、イズマイロフ家の納屋の前(結婚式の宴会場になる)と警察署です。


第三幕では、カテリーナとセルゲイの結婚パーディが行われます。演出によっては、華やかな結婚式のシーンと結婚式に招待されなかった警察の退屈な様が、同時二元中継的に演じられることもよくあります。ここで事件が起きる。酔っぱらった使用人のひとりが、地下室でジノーヴィの死体を発見し、警官を呼びに行ってしまうのです。式場に警官たちばなだれ込み、二人は逮捕されます。

島田雅彦「同上」

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カテリーナとセルゲイの結婚式の祝宴が中庭で開かれているが、そこに警官たちがなだれ込み、2人は逮捕される。ネーデルランド・オペラより。

この作品には第4幕があります。第4幕はそれまでと違いシベリアに向かう街道で、橋の近くにある徒刑囚の宿営地です。


この作品が陰惨なのは、三幕で終わらないことです。第四幕がある。場面は変わり、流刑地シベリアに流刑される徒刑囚のなかにふたりの姿があります。寒く閑散とした原野を歩いていく。ここで流れるショスタコーヴィチの音楽は、その暗さにおいて、交響曲第十番かこれかというほどです。ちなみに、シベリア流刑とは、いわゆる収監ではありません。原野に小屋を建て、普通に生活する。そこには塀も柵もない。脱走したら死ぬからです。シベリアが「天然の牢獄」と呼ばれるゆえんです。

だからすべてを失ったカテリーナも、セルゲイが一緒だということに、唯一の希望を見出している。しかし、セルゲイという男は骨の随まで淫蕩であり、流刑先までの途中、カテリーナより若い女囚ソニェートカと懇意になります。ここからのディテールは残酷です。

カテリーナが素っ気ない態度のセルゲイに「どうしたの?」と問うと、「足が冷たくてやってられねぇんだよ」との答え。そこで、自分がはいている靴下をあげると「すまねぇな」と受け取るのだけれども、その靴下はセルゲイがソニェートカを口説くためのプレゼントになってしまう。当然、ソニェートカが自分の靴下をはいている見たカテリーナは逆上し、まわりの囚人に囃されながら取っ組み合いの喧嘩となる。そしてついには、ソニェートカに抱きつき、ふたりして凍てつく川に飛び込むのです。

役人たちはあきれ顔で「痴話喧嘩か。それも仕方ない。さあ出発だ」と声をかける。演出によっては、セルゲイが「二人とも死んだか、でも、女はいくらでもいるさ」という顔をし、水死者を一瞥いちべつする。そして、もの悲しい歌を歌いながら、徒刑囚たちは船に乗り流刑地へと向かっていく ───。物語の、どうしようもない救いのなさは、ヴェルディの『運命の力』といい勝負です。

島田雅彦「同上」

まさに「ディテールが残酷で、どうしようもなく救いのないオペラ」です。ちなみに最後のシーンの台本は、カテリーナがソニェートカを橋の欄干から川へ突き落とし、自分も川に飛び込む、そして徒刑囚たちは流刑地へと行進していく、というものです。島田氏が書いている「船に乗り流刑地へと向かっていく」というのは、そういう演出もあるということでしょう。


モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』


島田氏の『マクベス夫人』についての説明がユニークなのは、オペラの実質的な創始者であるモンテヴェルディ(1567-1643)の作品と関連づけているところです。それは『ポッペアの戴冠』(1642)というオペラです。ショスタコーヴィチの約300年前に作られたオペラのルーツとも言うべき作品と『マクベス夫人』がどう関係するのか。


ここであえて、時代をぐっとさかのぼり、オペラ草創期の立役者、モンテヴェルディが1642年に作った『ポッペアの戴冠』という作品を思い起こしたいのです。この、古代ローマの暴君ネロにまつわる物語もテーマ的に『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と重なるところがあるからです。

島田雅彦「同上」

以下、島田氏による『ポッペアの戴冠』のあらすじを引用しますが、登場人物だけを抜き出すと以下のようになります。時代は古代はローマ帝国です。

◆ 皇帝ネロ
◆ ネロの妃・オッターヴィア
◆ ネロの侍女・ドルジッラ
◆ ネロの家庭教師・セネカ
◆ ネロに仕える軍人・オットーネ
◆ オットーネの妻・ポッペア
◆ 愛の神


ざっとあらすじを述べましょう。プロローグとして、幸福の神と美徳の神と愛の神が現れ、人間にとって一番大切なものは何かを議論します。愛の神が「それは愛であることをこれから説明してみせます」といい、人事に介入する。答えは「愛」でよいとしても、その展開はなかなか予想外です。

幕があくとそこは、主人公のポッペアの屋敷です。彼女には、暴君ネロに仕える軍人のオットーネという夫がいますが、その夫に隠れてネロと密通している。現場にいる(ネロの)衛兵たちは「奥さんがかわいそう」と、ネロの妃オッターヴィアの心を案じている。ネロは去り際、ポッペアに「妻と別れ、きみを皇后にする」といいます。

場面は変わり、皇帝の宮殿です。皇后オッターヴィアの乳母は「夫の不倫に復讐するために浮気はいかが」と勧めますが、彼女は「私は貞節を守る」と伝える。オッターヴィアの純真な心に動かされた乳母は、ネロの家庭教師であるセネカに皇帝をいさめるように願い出ます。セネカは、運命の神から「ネロはもうじき死ぬ」と神託されるが、おのが信義に従い、皇帝に浮気をやめるように諫める。そんな彼を煙たく思ったネロとポッペアは、セネカに自決を求めます。

一方、オットーネは、腹いせのように皇帝の侍女ドルジッラと関係を持ちますが、妻を殺すという決断もできず、ぐずぐずと優柔不断に過ごしている。皇后オッターヴィアは利害が一致するオットーネに、妻を殺すように命じます。仕方なくドルジッラの服を借りて妻のもとに接近するオットーネ。

そのとき、人類にとっていちばん大事なのは愛だと説く神が、眠っているポッペアに「逃げよ」と忠告し、彼女は危機を脱します。愛こそ正義と考え、夫と離縁してでもネロと寄り添うことを決意するポッペアには、愛の神が味方し、その後の行動を後押しするのです。

着ていた服のせいで、ポッペア殺害未遂の下手人としてドルジッラが捕らえられますが、オットーネは真実をすべて告白し、その結果、ネロによってドルジッラ、皇后オッターヴィアとともに追放されます。皇帝に妻を寝取られたあげく、やることなすことが不首尾に終わるオットーネは、気の毒なキャラクターです。復讐に暴君ネロの妃を寝取ってやればよかったのにと思いますが、そんなアドバイスは意味がありません。そして、邪魔者をすべて追放したネロは、ポッペアを正式に妃にする。華々しく戴冠式が開催され、二人の歓喜の二重唱のなか、幕が下りる ───。

島田雅彦「同上」

一言でいうと、全く不条理な物語です。不倫をしたオッペアとネロが結ばれ、2人にとってのハッピーエンドで終わる。しかし、セネカが自害させられるという歴史的事実を除いたとしても、"善人" であるはずの妃・オッターヴィア、侍女・ドルジッラ、軍人・オットーネは追放されてしまう。しかも不倫を成就させるのが "愛の神" である ・・・・・・。


以上のようにストーリーだけを追うと、正義はどこにあるのかと憤りたくなるし、道徳的に許せない気持ちでいっぱいになるところです。しかし改めて、この作品が近代オペラの元祖であることを思い出していただきたいのです。

つまり、この時代においてはオペラが大衆社会への啓蒙をほどこすメディアには、まだなっていない。その後のオペラは、しばしば検閲下におかれ、道徳や信仰や救済を作品主題とすることが多くなりますが、モンテヴェルディの時代には不道徳な内容であれ、なんの問題もなかったのです。社会の道徳的規範から、完全に自由でいられた。別の言い方をすれば、古代の原則は、近代社会における道徳観念とは無縁なのです。実際、古代ギリシャ神話の神々ほど、不道徳な存在はありません。善悪の彼岸にいるものこそ、神と呼んだのです。

その神の介入を受けた者は、いくら人間社会の道徳規範からは外れていようが、すべてが許されます。私は、この『ポッペアの戴冠』を紀尾井ホールで観ることができたのですが、なるほど、オペラは善悪を超越していてもよいのだと、合点しました。

ショスタコーヴィチの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、おおよそ考えられる範囲で最も不道徳な内容をもつオペラ作品ですが、この『ポッペアの戴冠』と対比すれば、オペラ草創期の流れを忠実に汲んだものと考えることができるわけです。

島田雅彦「同上」

島田氏は「オペラでは、すべてが許される」とし、観客としてオペラを観る意味を次のように書いています。


オペラは決して、高尚な一部の人間のための娯楽などではありありません。人間が一生かけて味わう喜怒哀楽を、数時間に集約して舞台にのせてくれるのですから、そした激しい感情の起伏と接することによって、ともすれば磨耗しがちな自らの喜怒哀楽に揺さぶりをかけてやればいいのです。

島田雅彦「同上」

島田氏は

・ オペラは現代人に精神のリハビリテーションを促す儀式
・ 私がオペラを観るのをやめられないのは、自分の感情や本能をつねにギラギラさせておきたいから

と述べています。「オペラで表現される激しい感情の起伏が、観客に精神のリハビリテーションを促す。オペラではすべてが許される」との主旨を島田氏は書いているのですが、これはまさに『マクベス夫人』でも言えることなのです。


ヴェルディの "救いのないオペラ"


島田氏が『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を紹介した文章の最後に、

どうしようもない救いのなさは、ヴェルディの『運命の力』といい勝負

とありました。実は、島田氏は「オペラ・シンドローム」のなかで、ヴェルディ(1813-1901)の "救いのないオペラ" として『イル・トロヴァトーレ』と『運命の力』を取り上げています。この2つのオペラは、その救いのなさにおいて『マクベス夫人』とそっくりです。ここであらすじの紹介は省略しますが、2つのオペラとも、

・ 不幸なものがより不幸になっていき、最後は死んでしまう
・ 生き残ったものには何の救いもない
・ 結末は残酷

といった内容です。ヴェルディはなぜこのようなオペラを書いたのでしょうか。

実は『運命の力』の初演はイタリアではなく、何と、当時のロシアの首都であったペテルブルグ(ソ連時代のレニングラード)のマリインスキー劇場でした(1862年)。それはヴェルディのオペラがロシアで人気だったことに加え、当時のヴェルディをとりまくイタリアの状況を反映したものです。島田氏は次のように書いています。


当時、ハプスブルク家の支配下にあった北イタリアは検閲が非常に厳しく、ヴェルディの人生は検閲との戦いでもありました。彼は若い頃から、イタリア統一の闘士であり、その独立運動とともに生きていた。また VERDI の名前は「Vittorio Emauele Re D'Italia」(ヴィットリオ・エマヌエーレ)の略として、イタリア独立の合い言葉にもなっていたのです。だから、彼にとって、オペラは、観客に向け、強烈な政治的メッセージを発信する基地でもありました。観客はそのオペラに熱狂し、「Viva Verdi !」と叫ぶことで、イタリア独立の悲願を重ね合わせることができた。その隠れたメッセージは『運命の力』にも盛り込まれていて、個々の登場人物が辿ってきた苦難の歴史はその一端を表してもいます。

しかし、あからさまなメッセージを発信したのでは、検閲の目を免れない。レブレットの段階で、たびたび削除や改変を求められた経験から、露骨にイタリア独立運動を描くことを回避したのです。

島田雅彦「同上」

『運命の力』の初演が帝政ロシアの首都・ペテルブルグで行われたのは、検閲を筆頭とする当時のイタリアの社会情勢があったわけです。そして島田氏は『運命の力』および『イル・トロヴァトーレ』のあらすじを紹介したあとで、オペラを小説と対比させつつ、次のように書いています。


以上、『イル・トロヴァトーレ』と『運命の力』を駆け足で紹介してきましたが、なぜヴェルディが救いのないストーリーを描いたのかという謎が、ここにきてだんだんと見えてきたと思います。これらの作品には19世紀末の世界の、あらゆる不合理や不幸をオペラという器ののなかに引き受けようという彼の覚悟が見え隠れします。

小説にもまた、この世の不合理を引き受け、民衆にサバイバルの知恵を授けようという啓蒙性があった。19世紀は小説とオペラの時代であると述べたとおり、ヴェルディにいたって、ようやくオペラにも波瀾万丈のディテールや生きることの不合理が盛り込まれるようになるのです。

ヴェルディは、オペラを「大衆啓蒙装置としてのメディア」と考えていたと思います。悲劇的な結末を迎える物語によって、「いかにナンセンスであろうと、これが現実なのだ」というメッセージを確信犯的に発信する ───。もし彼が20世紀の人間であれば、映画で行っていたでしょう。

逆にいえば、支配者側は、被支配者たち従順に暮らすことを望むからこそ、大衆の日々の辛い生活を忘れさせる薬として、ハッピーエンドの物語ばかりを供給したがった。検閲とはまさにそのような働きを担っていた。対してヴェルディは、大衆に現実を思い起こさせ、向けどころのない憤懣ふんまんを支配者に向けよとメッセージを送ったのです。その不吉さ、その野蛮さ。ロッシーニとヴェルディの決定的な違いが、ここにあります。

島田雅彦「同上」

「ヴェルディの人生は検閲との戦い」というところは、ショスタコーヴィチを思い出させます。ショスタコーヴィチも「芸術家としての思い」と「ソ連共産党からの圧力」という2つの間で苦悩した作曲家だったからです。

そして『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に関していうと、これは支配者の望むであろうハッピーエンドとは真逆の物語です。スターリンがオペラの第3幕が終わった段階で席を立ったのは、ひょっとしたらこのオペラに "隠されたソ連体制批判" を感じ取ったからかもしれません。そいう疑いが出てくるのです。そこを考えるために、このオペラのリブレット(台本)の成立を振り返ってみます。


なぜ『マクベス夫人』をオペラ化したのか


『マクベス夫人』はショスタコーヴィチの2作目のオペラです。第1作目はロシアの文豪・ゴーゴリ(1809-1852)の短編小説『鼻』(1836)をミニ・オペラ化したもので、ストーリーは喜劇的・幻想的なものです。

そして第2作として選んだのが、これもロシアの作家、ニコライ・レスコフ(1831-1895)の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1864)でした。ショスタコーヴィチは友人の協力を得つつ、台本も自ら書いています。なぜ彼はこの小説をオペラ化しようと思ったのでしょうか。

この物語は主人公のカテリーナがセルゲイに惚れたことを契機にどこまでも転落していく話です。次々と殺人を犯し、シベリア送りのときにはセルゲイにも見捨てられ、生きる意味を見失って自殺してしまう。希望とか明るさ、活気、楽しさ、喜びなどの感情を全く感じられない陰惨で暗澹たるストーリーです。これはレスコフが生きた帝政ロシアの時代の社会の雰囲気を反映していると考えられます。つまり、

19世紀後半、帝政ロシアの現実の閉塞感と悲劇的な雰囲気を感じる小説

です。ちなみに『ムツェンスク郡のマクベス夫人』において主要な登場人物であるボリス、セルゲイ、カテリーナ(=エカテリーナ)は、3人ともロシア人の最も一般的な名前であることも示唆的です。このような原作を考えると、ショスタコーヴィチは、

帝政ロシアの現実の閉塞感と悲劇的な雰囲気を、ショスタコーヴィチが作曲家として世に出た当時のソ連の政治体制になぞらえた

ということも十分考えられるでしょう。島田雅彦氏はヴェルディの "救いのないオペラ" について、

悲劇的な結末を迎える物語によって「いかにナンセンスであろうと、これが現実なのだ」というメッセージを確信犯的に発信した

と書いていましたが(上に引用)、そのヴェルディと同じことをショスタコーヴィチはやったとも考えられる。



もっとダイレクトに『マクベス夫人』はスターリン批判だと言っている人がいます。ドイツ文学者の中野京子さんです。彼女は美術評論で有名ですが、大のオペラファンであり(大の映画ファンでもある)、次のように書いています。


カテリーナの転落は本人のせいよりむしろ、抑圧的なイズマイロフ家という環境が原因だったのではないか。そしてこのイズマイロフ家は、社会主義国家ソヴィエトそのものを指しているのではないか。さらには、ほしいままに権力をふるう舅ボリスは、国家最高権力者と二重写しではないのか。

「骨のかれたシベリアの道よ、血にはぐくまれ、死のうめき声に彩られた道よ」という老囚の歌も、政府に対する批判ではないのか ・・・・・・。

こうした嫌疑をかけられた『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が、スターリン下で息の根を止められたのも必然であった。


引用中の「国家最高権力者」とは、言うまでもなくスターリンのことです。また「老囚の歌」というのは第4幕の冒頭、シベリアの流刑地に連行されていく囚人の中の老人の歌唱です。島田雅彦氏はこのあたりの音楽について「ここで流れるショスタコーヴィチの音楽は、その暗さにおいて、交響曲第十番かこれかというほどです」と書いていました(上に引用)。ちなみに「橋をめぐる物語」という題名の本に『マクベス夫人』が出てくるのは、オペラの最後のシーンでカテリーナがソニェートカを橋から川へ突き落とし、自分も川に飛び込むからです。

ショスタコーヴィチが帝政ロシアの現実の悲劇的な雰囲気を、作曲家として世に出た当時のソ連の政治体制になぞらえただけでなく、中野さんが言うように国家最高権力者への批判を込めたことも十分考えられるでしょう。もちろん、それを匂わすような台詞は一切ありません。これは70年前のロシアの作家・レスコフの小説のオペラ化なのだから ・・・・・・。



その、70年前のロシアの小説のオペラ化が、なぜソ連の政治体制批判になりうるのでしょうか。実は、このオペラはレスコフの小説とは大きな違いがあります。

オペラでは第2幕でカテリーナがセルゲイと2人で夫のジノーヴィを殺してその死体を隠し、次の第3幕ではカテリーナとセルゲイの結婚式の日の話になる。この展開には違和感を感じます。ジノーヴィは外面的には失踪したわけですが、法的な失踪宣告がされて死亡したと見なされ婚姻関係が解消するまでには(従って再婚できるまでには)、たとえば今の日本だと7年かかります。帝政期のロシアがどうだったかは知りませんが、それなりの時間の経過が必要ということは容易に想像できます。つまり第2幕と第3幕の間には比較的長い時間経過があるはずなのに、その説明がなく、ストーリーが破綻しているように感じます。もっとも、こういうことをいちいち気にしていたらオペラの鑑賞はできません。これは小説ではなくオペラです。「オペラではすべてが許される」(島田雅彦)のです。

しかし、レスコフの原作小説は違います。カテリーナの夫、ジノーヴィには、実はフョードルという従兄弟いとこがあり(父親のボリスの甥で少年)、ボリスの財産相続権を持っているのです。そのフョードルは親につれられてカテリーナの商家に現れ、一緒に生活を始めます。そして、ボリスの財産を独占できなくなったと悟ったカテリーナは、セルゲイを引き込んでフョードルも殺してしまいます。この少年殺しはすぐに発覚し、それがもとでジノーヴィ殺しもあからさまになり、カテリーナとセルゲイは逮捕されて鞭打ちの刑を受け、シベリア送りになる。これがレスコフの小説です。ストーリーの破綻はありません。オペラの第3幕は、原作にはないショスタコーヴィチの創作です。

さらにもう一つ、原作小説とオペラの違いがあります。オペラでは、カテリーナの舅のボリスが第1幕の最初からカテリーナを見張り、いびって暴言を吐き、抑圧します。カテリーナはこの段階からボリスに殺意を抱く。しかし、レスコフの小説ではこういったボリス像が全くありません。ボリスがカテリーナ(息子の嫁)とセルゲイ(使用人)の密会を発見してセルゲイを鞭打ち(それは当然です)、そのためにカテリーナに毒殺されるのはオペラも小説も同じですが、小説はボリスを陰険で抑圧的な人間として描いているわけではありません。

つまり、ショスタコーヴィチは原作のレスコフの小説に2つの変更を加えました。

① カテリーナが私利私欲のためにやった少年殺しをカットする。
② 舅のボリスを陰険で抑圧的な人間として描く。

の2つです。これは物語の根幹にかかわる変更です。この変更によりオペラは、カテリーナを "犯罪者に転落する女" というより "悲劇の主人公" として描くことになった。そして「カテリーナを閉じこめて抑圧するイズマイロフ家」というイメージを作り出した。そのことがソ連の政治体制に見立てることも可能にしたのだと思います。

そしてオペラを観て感じるのは、カテリーナにシンパシー感じるようなドラマの進行であることです。抑圧的なイズマイロフ家に "閉じこめられた" カテリーナは、外面的にはどれほど異常に見えても、周囲から嘲笑されても、身の破滅をかえりみずに自分の信じる愛に突き進んでいく ・・・・・・。ショスタコーヴィチは、カテリーナをソ連の政治体制の中での音楽家としての自分に重ねたのではと思います。いや、それは不正確で、自分に重ねられるようにレスコフの小説を改変してオペラ化したのだと思います。


オペラの本質を熟知した作品


今までの話の全体をまとめると、ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』は "オペラの本質を熟知した作品" だと思います。ショスタコーヴィチがモンテヴェルディを意識したのかは分かりませんが、島田雅彦氏が指摘するように『マクベス夫人』という「おおよそ考えられる範囲で最も不道徳な内容をもつオペラ作品」が、オペラ草創期からの流れにあることは確かでしょう。つまり "道徳を完全に超越した愛の姿" です。

余談になりますが、No.220「メト・ライブのノルマ」でとりあげたベッリーニのオペラ『ノルマ』は、ガリアの被征服民族の巫女の長のノルマが、こともあろうに征服者であるローマの将軍と愛し合って子供までもうけているというストーリーでした。道徳や社会規範とは全く相容れない愛です。

加えてヴェルディです。ヴェルディの作品はロシアで大いに人気があったと言います。それは『運命の力』の世界初演が帝政ロシアの首都・ペテルブルク(=レニングラード。=サンクトペテルブルク)で行われたことに如実に現れています。ショスタコーヴィチがヴェルディの "救いのないオペラ" に影響されたことは十分に考えられると思います。またイタリア・オペラで言うと『カヴァレリア・ルスティカーナ』や『道化師』などの、人間や社会の暗部を描いたオペラ(いわゆる "ヴェリズモ")の系譜と考えることもできるでしょう。

さらに、このオペラのストーリーでは、オペラの王道といえる「愛と死」が扱われています。主要登場人物は3人で、その3人を簡潔にまとめると、

好色で陰険で強圧的なカテリーナの舅・ボリス、骨の随まで淫蕩で「女の敵、男のクズ」のセルゲイ、そして、その「女の敵」に一途いちずになり破滅への道をまっしぐらに進むカテリーナ

となるでしょう。「愛」の表現の中心はカテリーナです。自分を強姦したセルゲイに惚れ、それをどこまでも突き通す。シベリア送りの最後の場面でセルゲイに完全に裏切られたと知っても、その怒りは愛人に向けられる。いかにも極端な愛の姿ですが、これこそオペラなのです。一方、男2人(セルゲイ、ボリス)については "好色"、"淫蕩"、"性欲" といった感じで、"愛のダークサイド" や、"むき出しの性" を表現しています。男2人の、少々グロテスクでどぎつい人物像がいかにもオペラ的です。

さらに「死」については、第2幕で2つの殺人が起こり、第4幕で生きる意味がないと悟ったエカテリーナは、第3の殺人を行うと同時に自殺してしまう。そこでオペラは終わりですが、仮にその後を作るとしたら、セルゲイが女をめぐるトラブルから別の囚人に撲殺されるといった展開が似つかわしいでしょう。

また、第2幕では殺されたボリスの亡霊が出てくるし、第4幕の冒頭のシベリア送りになる老囚は、まさに "真っ暗" という感じの "死出の旅" を歌います(上に引用した中野京子さんの文章にある)。とにかくオペラ全体に「死」のイメージが充満しています。

『マクベス夫人』の「愛や性、死」はいかにも極端で、そこで演じられるのは普通の生活ではまず経験しないし、接することもないような激しい人間感情です。しかし観客にとってはそれが「精神のリハビリテーション」(島田雅彦)になる。そういう意味でも『マクベス夫人』はオペラの王道を行った作品だと言えるでしょう。



以上のようにドラマとしては19世紀までのオペラの「王道」ですが、しかし音楽は違います。このオペラの音楽はまさに20世紀音楽であり、不協和音もあれば、アリアでも半音階的進行が多用されます。

『マクベス夫人』の音楽の最大の特長は、オーケストラと舞台が完全に一体化してドラマが進んでいくことでしょう。その端的な例ですが、このオペラには暴力的なシーンがいくつかあります。第1幕第2場でイズマイロフ家の使用人たちが女使用人のアクシーニャを輪姦しようとするシーンや、有名な第1幕第3場のレイプ・シーン、第2幕第1場でボリスがセルゲイを鞭打つシーンなどです。これらのシーンでオーケストラは、激しくグロテスクなリズムの、扇情的で野蛮な音楽をせき立てるように演奏します。音楽でシーンそのものを描こうとしてるようであり、またある種の映画における音楽の使い方と似通ったものも感じます。このあたりはショスタコーヴィチの独壇場と言っていいでしょう。オーケストラを駆使する能力が際だっています。

もちろんこういった "激しい" 音楽だけでなく、第1幕第3場でカテリーナが自分の不運を嘆くアリアとか、第2幕第1場でボリスが毒殺されたあとの第2場へと続くパッサカリア風の荘厳な間奏曲(「悲劇の幕は開いた!」という感じの音楽)など、聴き所はいろいろあります。

音楽はいかにもショスタコーヴィチ的であり、ドラマはオペラの王道 ・・・・・・。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、ショスタコーヴィチが最もやりたかった作品であり、会心作だと思います。



この『マクベス夫人』が共産党機関誌・プラウダに痛烈に批判されたのです。その「プラウダ批判」と、それを受けて作曲された交響曲第5番のことは次回にします。



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No.281 - ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」 [音楽]

今回は「音楽家、ないしは芸術家と社会」というテーマです。No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で書いたことを振り返えると、次のようなことでした。

◆ ウィーンで活躍した作曲家のコルンゴルト(チェコ出身。1897-1957)は、ユダヤ人迫害を逃れるためアメリカに亡命し、ロサンジェルスに住んだ。

◆ コルンゴルトはハリウッドの映画音楽を多数作曲し、アカデミー賞の作曲賞まで受けた(1938年)。

◆ 彼はその映画音楽から主要な主題をとって「ヴァイオリン協奏曲」を書いた(1945年)。この曲はコルンゴルトの音楽のルーツであるウィーンの後期ロマン派の雰囲気を濃厚に伝えている。この曲は50年前の1895年に書かれたとしても全くおかしくない曲であった。

◆ 「ヴァイオリン協奏曲」はハイフェッツの独奏で全米各地で演奏され、聴衆からの反応は非常に良かった。

◆ しかしアメリカの音楽批評家からは「時代錯誤」、「ハリウッド協奏曲である」と酷評された。またヨーロッパからは「ハリウッドに魂を売った男」と見なされ評価されなかった。

アメリカの聴衆からは好評だったにもかかわらず、なぜ批評家から酷評されたかというと、「20世紀音楽でなく、旧態依然」と見なされたからです。

20世紀前半の音楽というと、オーストリア出身のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンが無調性音楽や12音音楽を作り出しました。またヨーロッパの各国では、ヒンデミット(独)、バルトーク(ハンガリー)、ミヨー(仏)、ストラヴィンスキー(露→仏・米)などが独自の新しい音楽を作っていました。もちろんそこには無調性音楽の影響もあった。それらに比べるとコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」は "芸術音楽" とは見なされなかったということでしょう。しかし、次の2つのこと、

◆ 芸術が「革新性」や「独自性」、「何者にも似ていない個性」をもつこと

◆ 芸術が社会に受け入れられること

は同じではありません。20世紀の作曲家は多かれ少なかれこの2つの折り合いをどうつけるか、その葛藤があったはずです。

旧ソ連の作曲家、ショスタコーヴィチ(1906-1975)においては、この「葛藤」が鮮明でした。というのも、普通、作曲家にとっての "社会" とは、音楽の聴衆である一般市民とメディア(批評家や音楽産業)ですが、旧ソ連の場合のメディアとは、すなわち共産党独裁政権だったからです。そこでは芸術が政治と不可分の関係にあった。ショスタコーヴィチにとっては、その状況下で自らが信じる芸術をどう実現するかという戦いがあったわけです。



2020年1月16日に、ショスタコーヴィチの交響曲第7番についてのドキュメンタリー番組がTV放映されました。この番組は、芸術と社会の関係について深く考えさせられるものでした。そこで番組内容を以下に紹介し、最後に所感を書きたいと思います。


レニングラード交響曲


ショスタコーヴィチの交響曲第7番に関するドキュメンタリー番組の名前は、

音楽サスペンス紀行
ショスタコーヴィチ
死の街を照らしたレニングラード交響曲
NHK BS プレミアム
2020年1月16日

です。交響曲第7番は "レニングラード" という副題で呼ばれるので、この番組タイトルがあります。実はこの番組は、2019年1月2日に放映されたものの再放送だったのですが、2019年の時は全く知りませんでした。今回は録画をしたので、その内容を以下に紹介します。ショスタコーヴィチの交響曲第7番の作曲の経緯と、その世界への広がりを扱ったドキュメンタリーです。以下の(注)は番組にはなかった補足です。

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画像は「音楽サスペンス紀行 ショスタコーヴィチ 死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム 2020年1月16日)から。以下同じ。


早熟の天才、ショスタコーヴィチ


ショスタコーヴィチは1906年、レニングラード(現、サンクトペテルブルク)に生まれました。1919年、13歳で地元の名門音楽校、ペテルブルク音楽院に進学します。音楽院の学長が「過去最高」と絶賛した早熟の天才でした。

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ペテルブルク音楽院に入学した当時のショスタコーヴィチ

ショスタコーヴィチはピアノを学ぶ一方、作曲にズバ抜けた能力を発揮します。彼が音楽院の卒業制作として18歳で作曲した交響曲第1番は高く評価されました。ベルリン・フィルも演奏したほどです。

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そのあとも、交響曲第2、第3番、第4番と、西ヨーロッパの影響を受けたモダンで斬新な作風がソ連の音楽会に新風を吹き込みました。

注: 第4番の交響曲(1936)は、あとで出てくる "プラウダ批判" のためにショスタコーヴィチ自身が初演を取り下げました。初演は4半世紀後の1961年です。


サッカーを愛したショスタコーヴィチ


ショスタコーヴィチがレニングラードで最も愛した場所は、サッカースタジアムであるペトロフスキー・スタジアムでした。彼はここに通いつめます。

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【ナレーション】(玉木 宏)

ふるさとのプロチームを応援し、試合のスコアブックや選手のデータなど、独自に記録していたほどだった。異常なまでの細かさに、どれほどのめり込んでいたかが伝わってくる。なぜそこまで、と理由を問われると、こう答えたという。

スタジアムでしか、自分を自由に表現できる場所はない。強制ではなく、みな、本当のうれしさから喜びの声をあげることができる」

それは、この国の政治に翻弄された芸術家の葛藤だった。

音楽サスペンス紀行
NHK BS プレミアム
(2020.1.16)


大粛清とショスタコーヴィチ


最高権力者として君臨してたスターリン(ソ連共産党書記長)が大粛清を進めたのは1930年代半ばでした。国家に刃向かったとして、政府関係者、軍人、芸術家、文化人のおよそ140万人が逮捕され、70万人近くが処刑されました。そのやいばはショスタコーヴィチにも向けられたのです。


【ナレーション】

発端は、当時大ヒットしてた彼のオペラ、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』だった。客席で観ていたスターリンが作品を気に入らす、途中で退席したのだ。共産党機関誌、プラウダはすぐさま批判を展開した。「・・・・・ 支離滅裂 ・・・・」。

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1936年1月26日、スターリンはモスクワのボリショイ劇場で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観たが、途中で席を立った。翌々日の1月28日、共産党機関誌「プラウダ」は批判記事を掲載した。いわゆる「プラウダ批判」である(上図の左下の記事)。この記事の見出しの英訳は「Muddle Instead of Music」ないしは「Chaos Insted of Music」とされるので、直訳すると「音楽ではなく、混乱」。

オペラの何がスターリンの神経を逆なでしたのか。ショスタコーヴィチの研究者はこう説明してくれた。

【ラリサ・ミレル】(サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長)

スターリンが聴いたこのオペラは、かなり革新的なものでした。「大衆が理解できない」とスターリンは批判したんです。彼にとって音楽とはシンプルで分かりやすく、大衆的なものでなくてはならなかったからです。政治と音楽は渾然一体でした。人々を一つの「型」に押し込めようとしたんです。

【ナレーション】

批判の嵐と粛清の波。親類や友人たちが次々と逮捕されていた。そしてショスタコーヴィチもついに尋問に呼び出される。生き延びるためにできることは限られていた。

尋問のあと、新たに発表した交響曲第5番は、持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品となった。この曲は政府からも評価され、粛清の危険を脱した彼は、息をひそめるように作曲活動を続けたという。

「同上」

レニングラードにドイツ軍が迫ったは、交響曲第5番を発表した数年後でした(注:第5番の初演は1937年。独ソ戦の開始はその4年後)。


レニングラード包囲戦


1941年6月22日、ソ連と不可侵条約を結んでいたドイツが奇襲攻撃をかけ、独ソ戦が始まりました。ドイツ軍はほどなくレニングラードに迫り、レニングラード包囲戦になります。開戦2ヶ月でレニングラード市内への砲撃も始まりました。

レニングラードピスカリョフ墓地の資料館には、ヒトラーの命令書の現物が展示されています。そこには「レニングラードの街を地球上から消滅させる」とあります。この宣言はドイツのラジオで全ヨーロッパに向けて放送されました。

レニングラードがドイツ軍に包囲されたのは、その特異な地形によります。北はナチスの影響下にあるフィンランド軍の支配地域です。西はバルト海、東はラトガ湖です。南から来たドイツ軍が街を包囲したのです。

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赤がレニングラード市を示す。北はナチスの影響下にあるフィンランド軍の支配地域、西はバルト海、東はラトガ湖で、南から来たドイツ軍が街を包囲した。なお真冬にはラトガ湖が氷結するので、湖の上に輸送路を作ることは可能である。この輸送路をめぐるソ連とドイツの攻防が番組に出てきた。

疎開する市民が多いなか、ショスタコーヴィチは妻と子供2人とともにレニングラードにとどまりました。

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ショスタコーヴィチ一家。妻(ニーナ)と2人の子供(長女:ガリーナ、長男:マキシム)。長男のマキシムは後に音楽家(指揮者・ピアニスト)になった。

そしてショスタコーヴィチはレニングラードのラジオ局(ドム・ラジオ)に行き、ラジオでスピーチをしました。その音源は今でも残っています。


【ショスタコーヴィチのメッセージ】

親愛なる市民の皆さん。すぐ近くで敵との壮絶な戦いが行われているレニングラードで話しています。

私は昨日の朝、新作の第2楽章を書き終えました。完成したあかつきには、交響曲第7番になるでしょう。私たちの生活はいつもどおり続いています。我々芸術家も皆さんと共に戦っています。それがよい芸術であればあるほど、誰も破壊などできないと私は信じています。あと少しで第7番を書き上げます。親愛なる皆さん、それでは ・・・・・・。

「同上」

交響曲第7番を書き上げて市民に届ける。その目的でショスタコーヴィチは街にとどまっていました。そのかたわらショスタコーヴィチは街の消防隊に参加しています。彼は自ら街を守ろうとするほどにふるさとを愛していました。

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その、まだ書き上がってもいない交響曲第7番に目をつけたのがスターリンでした。ショスタコーヴィチがラジオでスピーチをした直後、ショスタコーヴィチは政府によってレニングラードから連れ出されてしまいます。安全な場所で第7番を完成させるようにとの指示です。場所は、モスクワの東方、レニングラードからは1300kmも離れたクイビシェフ(注:現在のサマーラ。独ソ戦当時はソ連の臨時首都の候補)という街でした。第7番をめぐって国家が動きだしたのです。


死の街、レニングラード


1941年9月8日、ドイツの爆撃機が初めてレニングラードに飛来し、食料備蓄倉庫を爆撃しました。ヒトラーはレニングラードを飢え死にさせようとしていました。

1941年10月、例年になく早い初雪が降りました。そして、その冬のレニングラードは地獄絵図となります。犬猫を食べるのはもちろん、壁紙をはがして小麦粉から作られている糊を食べる人もいました。道路には行き倒れの死体が放置され、人肉を食べて逮捕された件数は300を越えたと言います。

独ソ戦でドイツ軍は奇襲攻撃のあとに進撃を続け、1942年4月の時点では、一時、モスクワの10数キロに迫るという勢いでした、ソ連政府としてもレニングラードに援軍を送る余裕はありませんでした。


交響曲第7番の完成


1941年末、ショスタコーヴィチはクイビシェフで第7番を完成させます。彼はスコアの表紙に「レニングラードの街にささげる」と書き添えました。

1942年3月、クイビシェフで交響曲第7番の初演が行われます。プラウダは「ファシズムに対するロシア民族の戦いと勝利を描いている」と高く評価し、世界に向けて宣伝しました。ショスタコーヴィチは政府の宣伝映画に出演しましたが、そこで彼は、


【ショスタコーヴィチ】(政府のビデオ)

・・・・・・ ファシズムと戦い、その勝利を信じて、この作品をささげます。今から交響曲第7番第1楽章の一部を弾きます。


と語り、第1楽章をピアノで演奏しました。第7番の利用価値を熟知していたスターリンには、たくらみがありました。スターリンはショスタコーヴィチに対し「スターリン章 第1席」(国家最高章)を与えましたが(注:1942年1月)、それは第7番の価値を高めるためでした。


アメリカ


そのころアメリカでは、ルーズベルト大統領が戦時下を理由に史上初の3選目に入っていました(1941年1月~)。またアメリカは真珠湾攻撃(1941年12月)を契機として第2次世界大戦に参戦しました。

交響曲第7番がソ連で初演された当時、ルーズベルトには悩みがありました。アメリカはソ連に対して無償の武器援助をしていましたが、「ソ連に利用されるだけだ、サンタクロースはやめよう、見返りを求めよう」という意見が政府内部にも高まり、また世論でも高まっていたのです。


【タミー・ビドル教授】(アメリカ陸軍戦争大学)

1941年3月、ルーズベルトはレンドリース法(LEND-LEASE)を成立させました。アメリカの防衛にとって重要な国、あるいは大統領が重要だと判断した国に対し、武器など軍需物資を援助できるという法律です。ルーズベルトはヒトラーとの戦いが世界規模で、無関係でいることはできないと考えていました。そして1941年、ドイツがソ連に侵攻すると、ルーズベルトはその法律をソ連にも適用し、軍需物資の支援を行うと決断します。

「同上」

ルーズベルトの決断以来、戦闘機、戦車、トラックなど、膨大な量の武器や軍需物資がソ連に送られました。費用はすべてアメリカの負担です。スターリンにとっては願ってもないプレゼントであり、それがドイツ軍と戦うための生命線でした。

しかしアメリカ国民にとって共産主義は脅威であり、以前からソ連を敵視していました。世論調査では、ソ連への援助に賛成は35%であり、反対は54%にもなったのです。

大局的見地からソ連への援助が必要と考えていたルーズベルトは、これまで以上に慎重にことを進める必要がありました。また次の選挙に向けて世論を味方につけたいとの思いもありました。

クイビシェフで初演されたショスタコーヴィチの交響曲第7番のことはアメリカにも伝わっていました。その第7番のアメリカ初演で世論を味方につける、それがルーズベルトの考えたことでした。スターリンのもくろみは「第7番でアメリカの世論を変え、ソ連への共感を広げる」ことです。水面下でアメリカとソ連は手を結んだのです。

ソ連政府は第7番のスコアをマイクロフィルムに収め、アメリカに送ることにします。アメリカとソ連の両政府は共同で、ドイツ軍を避けならが密かにフィルムの輸送する作戦を行います。

時を同じくして、モスクワでは交響曲第7番の2回目の演奏会が開催されました。

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トスカニーニによる第7番のアメリカ初演


交響曲第7番の252ページのスコアはマイクロフィルムに収められ、ドイツ軍を避けつつ、アメリカに輸送されました。ソ連を出発したフィルムは、テヘラン → カイロ → アフリカ大陸横断 → 大西洋横断 → ブラジル → マイアミ、というルートでアメリカに輸送されました。そして1942年5月30日、アメリカ国務省に到着しました。

初演コンサートの開催を任されたのは、音楽プロモータのユージーン・ワイントロウブでした。彼はカーネギーホールのすぐそばのアム・ラス・ミュージック社でロシア音楽に関する著作権を一手に扱っていました。彼は、まるでスパイ映画のような輸送ルートを宣伝に使います。

そして第7番のアメリカ初演には3人の大指揮者が名乗りをあげ、これもメディアで格好の話題になりました。
 ・セルゲイ・クーセヴィツキー
 ・レオポルド・ストコフスキー
 ・アルトゥール・ロジンスキー
の3人です。しかし、ワイントロウブの考えは違いました。第7番で一儲けするための最高の指揮者として彼が選んだのは、アルトゥーロ・トスカニーニです。トスカニーニは、ナチスと手を組んだ祖国イタリアを嫌い、アメリカに亡命した指揮者です。反ファシズムの曲として第7番を売り出すには、これ以上ない人選でした。

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アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)。20世紀の指揮法の大きな流れを作った偉大な指揮者である。

ワイントロウブのもくろみ通り、第7番はアメリカで大ブームを巻き起こします。アメリカの「タイム」誌は、レニングラードの消防団の写真をもとにショスタコーヴィチの肖像画を描き、表紙に使いました。ナチスと戦う英雄としてショスタコーヴィチを紹介したのです。

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1942年7月20日付の Time 誌の表紙。絵の下には「消防士ショスタコーヴィチ。レニングラードに砲弾が炸裂する中で、彼は勝利の響きを聴いた」と書かれている。

1942年7月19日、マンハッタンのNBCスタジオで、ショスタコーヴィチの交響曲第7番のアメリカ初演が、トスカニーニ指揮・NBC交響楽団の演奏で行われました。これはラジオで全米生中継され、メディアの反応は爆発的でした。

ロシア人の戦争交響曲に喝采の嵐」(NYタイムズ)
今世紀最高の交響曲の一つ」(NYデイリー・ニュース)
普遍的な戦争の音楽 人種や国境を越えた戦士の言葉」(LAタイムズ)

などの見出しが紙面に踊ったのです。第7番は、その後数ヶ月の間にアメリカ全土で62回のコンサートが行われ、演奏を流したラジオ局は2000に上りました。熱狂のすざましさを、ある雑誌は、

今やショスタコーヴィチが嫌いだというものはアメリカ人にはあらず」

とまで書いています。ショスタコーヴィチと第7番は社会現象になったのです。ショスタコーヴィチの伝記を書いたアメリカ人作家のM.T.アンダーソンは次のように分析します。


【M.T.アンダーソン】

第7番は今で言うなら大ヒット映画のようなものでした。ストリップ劇場のような場末でも第7番の音楽が使われたほどです。アメリカの大衆にとっても分かりやすく、ファシズムの侵略を感じられる音楽だったと思います。ですから、勝利のイメージで終わるこの曲は、まさにアメリカ人が求めていたものでもあったんです。人々は勝利の物語を渇望していましたからね。

「同上」

そして第7番は、何と、ヨーロッパの戦地に赴くアメリカ人兵の慰問コンサートでも演奏されました。その冒頭でスピーチに立ったのはソ連大使夫人です。「ともに戦いましょう」というロシア人の言葉にアメリカ兵たちは熱狂しました。

ショスタコーヴィチの交響曲第7番のアメリカ初演は国家がしかけた物語でした。世論を味方につけたルーズベルトは、その後の4度目の大統領選挙(1944年11月)にも勝利します。そしてアメリカからソ連へのの武器・軍事物資の支援は続き、スターリンは独ソ戦に勝利します。これこそ、スターリンが利用した「音楽の力」でした。


レニングラード・ラジオ・シンフォニー


レニングラードには、地元のラジオ局である「ドム・ラジオ」所属のオーケストラ、レニングラード・ラジオ・シンフォニーがありました。このオーケストラは1931年に設立され、指揮者のカール・エリアスベルクに率いられて多くの演奏会を開いていました。レニングラード攻防戦の当時、街に残った(=疎開できずに取り残された)唯一のオーケストラでした。

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レニングラード・ラジオ・シンフォニーの指揮者、カール・エリアスベルクと、レニングラード戦争博物館に展示されている彼の愛用品。指揮棒が見える。

しかし楽団員の多くは徴兵され、また徴兵されなかった者も軍需工場での労働や塹壕堀りに駆り出されました。さらに、レニングラードの共産党指導部は音楽を中止すると決定し、オーケストラは活動休止になってしまいます。ドム・ラジオも放送休止になり、ラジオからはメトロノームの音だけが流れていました。

そのメトロノームの音が小さな奇跡を生み出します。レニングラードの総司令部のトップ、アンドレイ・ジダーノフは、ドイツ軍に完全包囲されて追い込まれていました。そしてラジオのメトロノームの音を聴いていらだった彼は「音楽でも放送しろ」と命令したのです。

注: アンドレイ・ジダーノフは戦後に共産党中央委員になり、ショスタコーヴィチを含む "前衛的な" 音楽を攻撃する「ジダーノフ批判」を展開した人物です。

エリアスベルクたちは、共産党の芸術局に呼び出されました。そしてオーケストラの再開要請を受けました。楽団員不足で再開は無理というエリアスベルクに対し、芸術局は「すぐでなくてもよいから、再開を」とのことです。

エリアスベルクたちは、レニングラード在住の音楽家を新たに集め、残った楽団員とともに大変な苦労をしてオーケストラの練習を再開しました。食料不足とエネルギー不足の中での練習は大変でしたが、1942年4月5日、久しぶりのコンサートにこぎつけます。ラジオでの音楽放送も再開しました。


交響曲第7番のレニングラード初演


モスクワでショスタコーヴィチの交響曲第7番の演奏会があったことは、ラジオ・シンフォニーの楽団員にも届いていました。ラジオ・シンフォニーの音楽監督、バープシキンはエリアスベルクに「第7番をやりたい」と相談を持ちかけます。エリアスベルクは即答をためらいました。ショスタコーヴィチの曲はどれも複雑で高度な技術が必要だったからです。

バープシキンは「スコアは何とか手に入れる」と言い、「レニングラードに捧げるとショスタコーヴィチがラジオで言ったことを皆が覚えている」と、エリアスベルクを説得します。



交響曲第7番のスコアは、1942年7月2日にソ連空軍の飛行機で運ばれてラジオ局に届きました。エリアスベルクは届いたスコアを見て、演奏は無理だと思いました。100~120人の演奏家が必要なスコアだったからです。それでもエリアスベルクは80人でやろうとしました。しかし80人には、まだ20人以上足りません。

そこでエリアスベルクたちは、徴兵された元楽団員から届いた手紙を調べました。手紙には軍事郵便番号が書かれているので、元楽団員がどの部隊にいるのか特定できるのです。そして、レニングラードの軍指令部にかけあい、元楽団員の帰還を説得しました。初めは難色を示していた軍指令部も、トップのジダーノフも賛成するはずとエリアスベルクが言うと認めてくれました。



第7番のレニングラード初演は、1942年8月9日に決まりました。これはラジオで繰り返し宣伝されました。これがラジオを傍聴していたドイツ軍に伝わります。ドイツ軍はレニングラード軍司令部のジダーノフに、初演と合わせるかのように「8月9日にレニングラードの占領攻撃を開始する」と通告してきました。

1942年8月9日、エリアスベルクたちの演奏会の日です。会場は、レニングラードで最も格式のあるコンサートホール、レニングラード・フィルハーモニアです。1500人収容の客席は、市民たちで埋め尽くされました。夜7時に幕が上がりました。

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交響曲第7番のレニングラード初演。唯一現存する写真。

第7番の演奏はラジオで生中継されただけでなく、街角のスピーカを通してレニングラード市内に流されました。またスピーカーは前線にも設置され、それは戦場のドイツ軍にも流れていきました。その音を聴いたあるドイツ兵は、戦後に次のように語ったといいます。「あの曲を聴いた時、私たちには絶対、レニングラードを倒せないと思いました」。

結局、ドイツ軍の砲弾が演奏会場に届くことはありませんでした。当日、レニングラードを防衛する兵士たちは、ありったけの砲弾を集めてドイツ軍に先制攻撃をしかけていたのです。



演奏会の終了後、エリアスベルクは一人の少女から花束を贈られました。家族で育てた花だと言います。添えられたカードには「レニングラードの音楽をお守りくださり、ありがとうございます」とあります。エリアスベルクは、食べ物も満足に得られないなかで花を育てる人がいることを知りました。少女の母親は少女に次のように言ったそうです。「たとえ何が起きても普通の生活を忘れないように」。

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レニングラード戦争博物館に展示されている少女の写真と、エリアスベルクが受け取ったカード(写真の右上)。カードの左下に 42年8月9日の文字が見える。


市民の証言


実際に演奏を聴いたタマラ・コーロレケーヴィチさん(98歳)は、番組のインタビューに次のように答えています。


【タマラ・コーロレケーヴィチ】(初演時の聴衆)

演奏された第7番は、レニングラード出身のショスタコーヴィチが私たちの街のために書いてくれた曲でした。その音楽は、包囲の恐怖で傷ついた心を癒してくれる薬のように感じました。まるで平和な日常に戻ったようでした。コンサートが終わっても、戦争中なのを忘れてしまったほどです。あの夜から私たちは強い心を持てるようになった気がします。他人にパンを分け与えるような強い心を ・・・・・・。

「同上」

レニングラード戦争博物館のオリガ・プロートゥ館長は、生前の楽団員から聴いた話を人々に伝えています。彼女は次のように語ります。


【オリガ・プロートゥ】(レニングラード戦争博物館・館長)

ある楽団員が教えてくれたのですが、活動を再開したときは皆シラミだらけ。鏡なんか見ないので顔も真っ黒。つまり、人は簡単に堕落してしまうんだって ・・・・・・。身体を洗うことだってかなりの労力が必要ですし、ましてや花を摘みにいってわざわざ花束にするなんて、そんなこと考えられないほど悲惨な状況だったんです。

しかしその楽団員は言っていました。音楽が自分たちを正気に戻してくれたんだと。演奏することは彼ら自身にとっても救いだったんです。

「同上」


レニングラード解放


交響曲第7番のレニングラード初演から1年半後の1944年1月、ソ連軍はドイツ軍に攻勢をかけ、レニングラードを完全に解放しました。この間、320万人のレニングラードの人口のうち67万人が死ぬという膨大な被害が出ましたが、残った市民は900日の包囲戦を生き抜いたのです。



演奏会から20年の時を経て、レニングラード・ラジオ・シンフォニーの面々が再び集まった写真があります。そこにはショスタコーヴィチの姿もありました。

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ショスタコーヴィチの向かって左横がエリアスベルク。


ショスタコーヴィチ:交響曲第7番の意味


以下は番組を見た感想です。この番組は音楽についてのいろんな思いを想起させるものでした。それを何点かに分けて書きます。

 レニングラード市民に音楽を届ける 

ショスタコーヴィチが交響曲第7番を書いた第1義の目的は「レニングラード市民に、市民の為に新たに書いた音楽を届ける」ことでした。それは彼がラジオのメッセージで言っていた通りであり、その目的はエリアスベルクの演奏会とその市内実況中継で十分に達成されたようです。

番組のなかで、この演奏会を直接・間接に聴いた人たちの発言にあったように、演奏会の "効果" は一言で言うと「普通の生活」ということでしょう。ドイツ軍に完全包囲されて餓死者が続出する中での「普通の生活」は、まずできません。しかし演奏会は人々に "普通" を思い起こさせた。時には演奏会に行き、場合によっては自宅の花壇から花束を造って演奏者に届ける。それが普通です。また、飢えている人を見かけたらパンをあげる、それが普通ですが、全員が飢えている中で自分よりも "ひもじい" と見える人にパンをあげるのは容易ではない。よほど強い心がないとそれはできない。しかし、その強い心は平時では普通なのです。

その「普通の心」を音楽が呼び覚ました。音楽が人々の心に与える影響は時としてものすごく強いのです。しかもその音楽は、レニングラード市始まって以来の音楽の天才がレニングラード市民の為に書いたものだった。このことは聴衆に強烈なインパクトを与えたに違いありません。

 ファシズムとの戦い 

交響曲第7番が「過酷な状況にあるレニングラード市民への贈り物」だったことは間違いないのですが、さらにこの曲は「ファシズムと戦って勝利するレニングラード」という意図で書かれたとされています。第7番が完成したときの政府の宣伝映画でショスタコーヴィチは「ファシズムと戦い、その勝利を信じて、この作品を捧げる」と言いました。もちろんそう言うしかない状況ですが、本当はどうなのか。「ファシズムと戦って勝利する」意図だと思って聴けば、それらしく聞こえることは確かですが、ショスタコーヴィチの意図は何でしょうか。

NHK交響楽団の首席指揮者で、世界的指揮者のパーヴォ・ヤルヴィは番組で次のように語っていました。


【パーヴォ・ヤルヴィ】

あらゆる面でスケールが大きく、他の作品とは全く別の存在です。一聴して受ける印象は、ある種の「重さ」です。それが徐々に勢いを増していき、耐え難いほどの音の大きさまで膨らんでいったあげく、自分の頭の上に、まるで戦車のような重たい何かが乗っかってくるように感じます。

この交響曲は、私たちの社会に「巨大な悪」が存在するという現実、そしてその悪が、人々の人間性を破壊しようとしていく様を描いているんです。

「同上」

その「巨大な悪」に人々が勝利するイメージに向かって曲は進んで行くとヤルヴィは言います。


【パーヴォ・ヤルヴィ】

表面的にはショスタコーヴィチ特有の洗練さとはかけ離れた音楽に聞こえますが、作品を深く見つめていけばいくほど、まるで魔法のようにとりこになってしまう曲です。第7番は謎に満ちていますね

「同上」

要約すると、

巨大な悪」が人々の人間性を破壊しようとしていく様と、その「巨大な悪」に向かって人々が勝利するイメージを描いた

ということでしょう。ヤルヴィは「ファシズム」とは言わずに「巨大な悪」と言っています。ヤルヴィは旧ソ連のエストニア出身です。彼の言う「巨大な悪」にはスターリン体制を含んでいるのは間違いありません。。

このことに関連して、番組では次のような話が紹介されました。第7番が完成したとき、クイビシェフでショスタコーヴィチと同じマンションに住んでいた知人の女性、フローラ・リトヴィノヴァは回想録を書いたのですが、そこには第7番の完成を祝う席で、宴が終わったあとのショスタコーヴィチとフローラの会話が記されています。


会話は自然と7番の話になりました。ショスタコーヴィチは考え込むように静かに言いました。「この音楽は、恐怖、奴隷制度、魂の束縛、それらすべてについての曲なんだ。」

やがて私を信用してくれたのか、こんな風にも言いました。「第7番はファシズムはもちろん、私たち自身の社会システム、すなわち全体主義体制、すべてを描いている

フローラ・リトヴィノヴァ
「ショスタコーヴィチ:ア・ライフ・リメンバード」
(番組より)

こういう回想録には注意が必要です。どうしても著者の主観が入り込むし、記憶違いがあるかもしれない。ショスタコーヴィチの言葉そのものではなく、著者が(善意で)解釈した結果かもしれない。もし「第7番はファシズムやソ連を含むすべての全体主義を描いた」のなら「ファシズムとの戦うための第7番」であると同時に「スターリン体制(ないしは共産主義体制)と戦うための第7番」にもなってしまいます。こんなことが外に漏れたらソ連政府の面目は丸潰れであり、ショスタコーヴィチの命は危うくなるでしょう。いくらショスタコーヴィチがフローラを信用したとしても、こんなことを他人に言うものでしょうか。

詮索しても無駄なので、とりあえず第7番は「全体主義(狭義にはファシズム、広くはスターリン体制を含む)に立ち向かう姿を描いた」ものとしましょう。しかし、作曲者の意図がどうであれ、一つの音楽をこのように受け取ることは非常に "あやうい" と思います。

事実、第7番は番組で詳述していたように、スターリンとルーズベルトによって(=ソ連政府と米国政府によって)政治的に利用され、その経緯が番組の大きな軸でした。ここで、ナチス・ドイツという「巨大な悪」との戦いに勝利するためだからいいのでは、と思うのは甘いのです。番組の中でパーヴォ・ヤルヴィは次のような的確なコメントを述べていました


【パーヴォ・ヤルヴィ】

音楽と芸術を自身の目的のために利用する方法を知っていたのが、20世紀最大の大量殺戮を行った巨大な悪、スターリンとヒトラーでした。実際、彼らは2人とも音楽をよく知っていました。賢い政治家は芸術を政治に利用することに長けています。どんな時代にあっても。

「同上」

その、もう一人の "賢い政治家" だったヒトラーは誰の音楽をどういう風に利用したのか。それは、よく知られているようにワーグナーの音楽です。

ヒトラーがワーグナー好きということもあって、ナチスはワーグナーの音楽を政治集会や宣伝映画で徹底的に使いました。それはドイツ民族(ナチスの言うゲルマン民族)の優秀性とも関連づけられ、ユダヤ人排斥にも利用された。『ローエングリン』の第3幕にドイツ国王、ハインリヒの言葉として次があります。


ドイツの剣をとってドイツの国土を守れ!
帝国の力はこうして保たれよ!

リヒャルト・ワグナー
『ローエングリン』第3幕
(高辻友義訳。新書館 1985)

『ローエングリン』はドイツの西のはずれ、ブラバント公爵領の話であり、ハンガリー軍を迎え撃つ軍団の組織化を訴えるために国王が公爵領に来るのが背景となっているオペラです。従って上に引用したような発言になるのですが、ナチスはそいういうところも巧みに利用しました。

確かにワーグナーは "ユダヤ人嫌い" だったようですが、反ユダヤの考えはキリスト教が西洋に定着した頃から根強くありました。ナチスによる "ユダヤ人狩り" も、ドイツおよびドイツ占領下の国々(オーストリア、フランス、オランダなど)の一般市民の自発的な協力のもとに行われました。ヨーロッパ人としてワーグナーが特別だったわけではありません。しかもワーグナーの作品の中に反ユダヤのメッセージがあるわけではないのです。

しかし、ナチスの政治利用によってワーグナーの音楽はイスラエルでは長年にわたってタブーとなりました。ワーグナーの音楽を「ドイツ民族の優秀性を示す音楽だから、そう聞きなさい」と命令されて聴けば、そう思えるわけです。音楽は人間の感情に直接的に働きかけるので、そうなってしまう。音楽の怖いところです。

結局のところ、スターリンとルーズベルトにとっての第7番と、ヒトラーにとってのワーグナーは、同じことの表と裏です。

番組で紹介されたように、第7番は第二次世界大戦中に、ヨーロッパ戦線に出征するアメリカ兵の慰問コンサートでも演奏されました。しかし戦後、冷戦の時代になると、第7番は「ソ連のプロパガンダである愚作」という評価にもなった。同じ曲が「ファシズムと戦う曲」から「プロパガンダの愚作」になってしまう。これが、音楽を政治利用すること、もっと広く一般化すると「音楽の力」を信じることの "あやうさ" だと思います。

 ショスタコーヴィチとしては異質 

もう一度、第7番を別の視点から振り返ってみます。確実に言えることは、これは異常な状況下で作られた音楽だと言うことです。自分のふるさとであり現に居住している街が敵の軍隊に完全包囲され、明日どうなるかもわからないとう状況は、人間が一生に一度あるかないか、ほとんどの人はそういう経験をしない状況です。その異常な状況下で "やむにやまれず(ないしは、いてもたってもいられず)作った音楽"、レニングラード市民に届けるという明確な目的のもとに作った音楽が第7番だった。

このことが第7番を、ショスタコーヴィチにしては異質な音楽にしていると思います。番組では、第7番の演奏はヤルヴィ指揮のNHK交響楽団で、ほんの "さわり" しかありませんでしたが、私自身はこの音楽を高校生の時から聞いています。第7番の音楽の特色を一言で言うと、

誰にでも分かりやすい音楽手法で書かれている

ということです。まず、明確で親しみやすく、耳に残りやすい主題がいろいろあります。第1楽章の冒頭の主題(レニングラードを表すものでしょう)や、第1楽章の途中から執拗に繰り返され、次第に轟音となっていく行進曲風の主題(敵の軍隊を表すものでしょう)がその典型です。他にもいろいろある。

和声は19世紀末音楽という感じであり、20世紀音楽という感じはしません。ショスタコーヴィチ特有の斬新さや革新性はあまりない。上に引用したように、パーヴォ・ヤルヴィは「ショスタコーヴィチ特有の洗練さとはかけ離れた音楽」と言っていますが、その通りです。

その理由は、この音楽が「レニングラード市民に届ける」という目的だからと推察します。レニングラード市民といってもいろいろのはずです。音楽の好みから言っても、ショスタコーヴィチが好きな人もいればべートーベンが好きな人もいるだろうし、そういったたぐいの音楽は聞かず、いわゆるポピュラー・ミュージックしか聞かない人もいるはずです。「市民に届ける」ためにはできるだけ分かりやすい音楽にする必要がある、そういうことだと思います。

加えてこの曲は、ショスタコーヴィチにしては "冗長" という感じがします。第1楽章と第4楽章だけを聞いていると、レニングラードの街とそこに迫り来る敵軍隊、市民の苦しみ・悲しみ・祈りと、それを突き抜けて勝利へという感じがしなくもないが、では第2楽章・第3楽章はどうなのか。演奏には1時間10分程度もかかりますが、果たしてそこまで必要なのか。

"冗長" が悪いと言っているのではありません。このブログで書いた例で言うと、村上春樹さんは、シューベルトのピアノソナタの中では「第17番二長調」が最も好きだと語っていました(No.236「村上春樹のシューベルト論」)。この曲はシューマンが「天国的に冗長」と評した曲です。また交響曲で言うと、マーラーには "冗長な" 交響曲がいろいろあります。しかし私が最も好きなマーラーの交響曲は、一般には冗長と言われている曲です。

しかし、普通のショスタコーヴィチの音楽は、もっときびきびしていて、筋肉質で、構造的にもコンパクトなものです。それと比べると冗長である、そういうことです。

全体をまとめると、第7番はショスタコーヴィチにしては異質な音楽です。作曲家の持っている個性が希薄です。もっと言うと第7番は、あえて作曲家本来の芸術性を殺して作った音楽でしょう。

第7番はショスタコーヴィチが(レニングラードが置かれた状況下で)是非ともやりたかった音楽だったけれど、ショスタコーヴィチがやりたかった芸術ではないと思います。だからこそスターリンが気に入ったし、プラウダは絶賛したし、ヨーロッパに出征するアメリカ兵まで熱狂した。


"音楽の力" という落とし穴


以下の「音楽」とは、言葉がない器楽だけの曲で、別の芸術の付随曲(映画、バレエ、劇などのための音楽)でないものとします。

本来、音楽をどう受け取るか、聴いて何を思うかは聴く人に任されているはずです。もちろん音楽を聴いて多くの人が同様の感情を持つことがあります。つまり、

癒される、悲しみ、楽しい、うきうき、快活、悲哀、静かだ、激しい、高揚感、美しい、洗練された

などの感情、ないしは音楽を聴いて受ける感じです。作曲家はそういう感情を喚起する意図で曲を作る場合も多いでしょう。しかし、こういった感情を超えたレベルの "物語" をどう描くかは、音楽を聴いた人それぞれの個別の問題のはずです。第7番を、

押し寄せるファシズム・全体主義の圧力に屈することなく、勝利へと向かう音楽

と考えるのは、まずいわけではありませんが、それはあくまで一つの物語です。これをもっと一般化して、

・ 継続的で次第に高まっていく圧力があり
・ そのもとで味わう不安や悲しみ、苦しみがあり
・ それを突破して解決に至る、ないしは解決への希望を得る

という風にとらえると、それは「病気を克服する物語」でもいいし「困難な仕事に立ち向かう物語」でもよいはずです。しかしそれもまた一つの物語に過ぎません。



私はショスタコーヴィチの第7番を高校生の頃から聴いていますが、その頃からどうしてもドイツ軍(またはファシズム)と戦う曲だとは思えなかった。それは今でも続いています。

上に引用した指揮者のヤルヴィの言葉に「巨大な悪」を描いたとありましたが、同時に「第7番は謎」ともありました。なぜ「謎」なのかを推察すると「ファシズムと戦う曲」という先入感があるから謎めいて感じるのだと思います。ヤルヴィは旧ソ連のエストニア出身なので、どうしてもバイアスがかかってしまうのでしょう。

思うのですが、第7番はショスタコーヴィチが、自分のふるさとであり愛する街であるレニングラードの全体像を描いたのではないでしょうか。もちろんその全体像の中では「ドイツ軍に完全包囲されたレニングラードと、敵との戦い」が大きな比重を占めています。しかしそれだけではない。レニングラードの町並みや自然、人々の普通の生活、そこでの市民同士の交歓など、ショスタコーヴィチが愛している多くのものが表現されていると感じます。



番組では「音楽の力」が何回か使われていました。「音楽の力で ・・・・・・ する」という表現です。しかし「音楽の力」によって一定の物語を作り出せると信じることはすべきでないと思います。第7番についての、

◆ すべての全体主義を告発する傑作
◆ ソ連のプロパガンダであり、壮大な愚作

という2つの極端に違う評価は、「音楽の力」を信じることによる必然の帰結です。

ちょっと唐突ですが、ミュージシャンの坂本龍一さんは、東日本大震災の被災3県の子供たちで作る「東北ユースオーケストラ」を組織し(2014年)、その音楽監督を努めています。先日の新聞に、新聞記者が坂本さんにインタビューした記事があり、そこに「音楽の力」が出てきました。引用してみます。


復興を祈る公演などを通じて、「音楽の力」で社会に影響を与えてきたのでは、と質問しようと話を向けると、強い拒否反応が返ってきた。「音楽の力」は「僕、一番嫌いな言葉なんですよ」と言う。

「もちろん、僕も、ニューヨークが同時多発テロで緊張状態にあった時、音楽に癒されたことはあります。だけど『この音楽には、絶対的に癒しの力がある』みたいな物理的なものではない。音楽を使ってとか、音楽にメッセージを込めてとか、音楽の社会利用、政治利用が僕は本当に嫌いです」



日本社会ではとりわけ近年、メディアなどが「音楽の力」という言葉を万能薬のように使う傾向がある。「災害後にそういう言葉、よく聞かれますよね。テレビで目にすると大変不愉快。音楽に限らずスポーツもそう。プレーする側、例えば、子どもたちが『勇気を与えたい』とか言うじゃない? そんな恥ずべきことを、少年たちが言っている。大人が言うからまねをしているわけで。僕は悲しい」

音楽の感動というのは「基本的に個人個人の誤解」だとも語る。「感動するかしないかは、勝手なこと。あるときにある音楽と出会って気持ちが和んでも、同じ曲を別の時に聞いて気持ちが動かないことはある。音楽に何か力があるのではない。音楽を作る側がそういう力を及ぼしてやろうと思って作るのは、言語道断でおこがましい」

坂本龍一氏へのインタビュー
朝日新聞(河村能宏記者)
(2020.2.2)

坂本さんは「音楽は好きだからやる、それを聞いてくれる人や一緒にやってくれる人がいると楽しい、それに尽きる」という意味の発言もしていました。

坂本さんのこの考えは、極めてまっとうだと思います。ショスタコーヴィチの交響曲第7番を描いたNHK BSの番組は、よい意味でも(=レニングラード市民を鼓舞する)、また悪い意味でも(=ソ連とアメリカによる政治利用)「音楽の力」をテーマにしようとしたのでしょうが、そもそもそういうレベルの議論がおかしい。番組の中で交響曲第7番のレニングラード初演を実際に聞いた人が「普通の生活、普通の心を取り戻せた」という主旨の発言をしていましたが、まさにそれこそ交響曲第7番の演奏会の効果だったし、音楽が果たす役割だったと思いました。


『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と『交響曲第5番』


ところで話は変わるのですが、「芸術と社会の関係」について第7番と同じように(いや、それ以上に)気になったショスタコーヴィチの作品があります。番組に出てきたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と『交響曲第5番』です。

番組の最初の方のショスタコーヴィチの経歴の紹介の中で「スターリンはマクベス夫人を気に入らす、すぐさまプラウダ紙は批判を展開した。ショスタコーヴィチはそれに答える形で交響曲第5番を書いた」とありました。そのことですが、長くなるので次回に書きます。



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No.280 - 円山応挙:国宝・雪松図屏風 [アート]

No.275「円山応挙:保津川図屏風」の続きで、応挙の唯一の国宝である『雪松図屏風』(三井記念美術館・所蔵)について書きます。私は今までこの作品を見たことがありませんでした。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』(2016年11月3日~12月18日。No.199「円山応挙の朝顔」参照)でも前期に展示されましたが、私が行ったのは後期だったので見逃してしまいました。

国宝雪松図と明治天皇への献茶.jpg
『雪松図屏風』は、三井記念美術館の年末年始の展覧会で公開されるのが恒例です。今度こそはと思って、2020年の1月に日本橋へ行ってきました。「国宝 雪松図と明治天皇への献茶」(2019.12.14 - 2020.1.30。三井記念美術館)という展覧会です。雪松図と茶道具がセットになった展覧会ですが、その理由は、明治20年(1887年)に三井家が京都御所で明治天皇に献茶を行ったときに『雪松図屏風』が使われたからです。

この屏風は今までTVやデジタル画像で何回も見ましたが、そういったデジタル画像ではわからない点、実際に見て初めてわかる点があることがよく理解できました。ないしは、実際に見ると "なるほど" と強く感じる点です。それを4つの切り口から以下に書きます。

雪松図屏風.jpg
円山応挙(1733-1796)
「雪松図屏風」

雪松図屏風(右隻).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」右隻

雪松図屏風(左隻).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」左隻


松の葉が描き分けられている


『雪松図屏風』は右隻に1本、左隻に2本の、合計3本の松が描かれています。詳細に見ると、これらの松の "葉" の描き方が右隻と左隻で違います。右隻の松葉は墨の黒が濃く、長さは長い。一方、左隻の松葉は右隻と比較すると墨が薄く、長さは短く描かれています。

各種の解説にありますが、この松はクロマツ(黒松。=雄松。右隻)とアカマツ(赤松。=雌松。左隻)です。このような一対の雄松・雌松は長寿の象徴で、縁起がよいとされています。正月の門松がまさにそうで、左(向かって右)にクロマツ、右(向かって左)にアカマツを配するのが正式です。

戸外で見るクロマツ・アカマツは、幹の木肌を見るとその区別が一目瞭然です。クロマツは黒灰色、アカマツは赤褐色の木肌をしています。しかし墨で描かれたこの応挙の屏風では、色の違いが分かりません。あとは葉の違いですが、我々は普通、2種類の松の葉を見比べることなどないので、『雪松図屏風』がクロマツ・アカマツだとは、ざっと眺めているだけでは気づかないのです。

そのクロマツ・アカマツの違いですが、植物図鑑によるとアカマツの方が葉が短いとあります。そして『雪松図屏風』を子細に見ると、違いが描き分けられています。そこは納得できました。

しかし『雪松図屏風』を実際に見た感じでは、松の葉の濃淡の方が印象的でした。ここから受ける感じは、右隻のクロマツは老木で、左隻のアカマツは若木だということです。若木の方が鮮やかな緑色にふさわしく、墨で描くとしたらより薄い色になるでしょう。

以上のような松の葉の描き方の微妙な違いは、実際の屏風を見てわかるのでした。


塗り残し


これは有名なことですが、『雪松図屏風』の雪は "塗り残し" で描かれています。つまり紙の表面をそのまま見せることで、六曲一双の雪の全部を表現している。ここまでくると超絶技巧と言っていと思いますが、これは単に技巧を誇示したものではないと感じます。この雪の描き方(=描かない "描き方")から受ける印象は、水分が少ない、降ったばかりの雪で、ふわっとした柔らかい感じの雪、という感じです。

No.199「円山応挙の朝顔」に、同じように塗り残しで雪を表現した『雪中水禽図』を引用しました。柔らかい綿のような感じの雪です。同じ No.199 には雪ではありませんが、白い狐(=神獣)を描いた『白狐図』も引用しました。薄暗がりの中にボーッと浮かび上がるような、独特の感じを出しています。狐の白い毛に『雪中水禽図』の雪と似たものを感じました。

『雪松図屏風』の「柔らかい、綿のような雪」の感じは、塗り残しでしか表現できないのではないでしょうか。というのが言い過ぎなら、塗り残しで最もうまく表現できる雪です。応挙はそれを狙った。そう思いました。

ちなみに『雪松図屏風』に使われている紙は、紙継ぎのない超特大の1枚紙だそうです。この屏風のために(おそらく三井家が)特注したものでしょう。雪松図は "塗り残し" が六曲一双のほとんどに渡って使われています。従って1枚紙でないと、紙の表面がそのまま見えている雪のどこかに継ぎ目があからさまになってしまう。それを避けたのだと思いました。

雪松図屏風(右隻・第5扇).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」
右隻・第5扇(部分)

雪松図屏風(左隻・第3扇).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」
左隻・第3扇(部分)


3次元表現


『雪松図屏風』は松の幹や枝と3本の木の配置で、応挙の3次元的な写実表現を味わうことができます。

まず、松の幹と枝が丸みを帯びて見えます。雪で覆われていない木肌の部分は墨で描かれていますが、その墨の黒がまるで影のように見える。影を描いた日本画は江戸後期の絵にありますが、普通は影を描くことはありません。応挙もその伝統に従ってはいますが、影のように見えることを意図して描いたと感じました。これによって松の幹や太い枝のボリューム感が表現されています。狩野派の松とは全く違う写実性があります。

また3本の松の配置は、左隻の2本の松が右隻の松より遠くにある感じがします。特に左隻の左側の松は明らかに奥にある。全体の3本の松は右から左へ行くに従って、だんだんと "小ぶりに" なっています。遠くのものは小さく見えるという原理によって、空間的な奥行きを感じるのだと思います。

さらに、描かれた松の枝は横に延びたり、前にせり出したり、後ろに後退したりと、いろいろだと感じます。特に実際に立てて展示されている屏風を見ると、屏風の折り目の前に出た部分に描かれている松の枝が、後ろから前に延びてきているように見えます(下図)。あくまで相対的な前後関係ですが、こういう効果も狙って構図が決められているのだと思いました。

雪松図屏風(3次元).jpg
屏風は立てて置かれるので、折り目のところで前に出た部分と、奥に後退した部分ができる。この図の丸で囲んだところの枝は、前に出ているように感じられる。


金泥と金砂子の効果


この屏風には全体的に金泥が塗られ、六曲一双の中央に近い部分には薄い金泥が塗られています。この薄い部分が日の光のようです。明け方に朝日が差し込んだか、ないしは霧が立ちこめる中、その霧が晴れてきて陽光が差し込む。そんな感じです。

そして全体の下の部分、地面に積もった雪を表す薄い金泥には、その上に金砂子(金箔を粉状にしたもの)が散らされています。陽光が差し込んで地上の雪がきらめく感じがよく出ています。

この金砂子の効果は解説書によく書かれていますが、実際に屏風を見て、なるほどと実感できました。

雪松図屏風(右隻・第3・4扇)部分.jpg
「雪松図屏風」右隻の第3・第4扇の部分図。下の方に砂子が散らしてある。金箔と同様、この視覚効果は実際に見て初めてわかる。




全体のまとめですが、『雪松図屏風』の前に立つと "その場にいるよう臨場感" を感じます。その臨場感の中で、"厳粛な雰囲気" と "すがすがしく、晴れやかな感じ" を受けます。それはまさに、我々が実際に「雪が降ったあとの庭に陽光が差し込む光景」を見たときの感覚を思い起こさせるものでした。




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No.279 - 笠間日動美術館 [アート]

今まで、バーンズ・コレクションからはじまって11の "個人コレクション美術館" について書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム
  No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC
  No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ
  No.242ホキ美術館千葉市
  No.263イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館米:ボストン

の11の美術館です。これらはいずれも19世紀から20世紀にかけての実業家か富裕層の美術愛好家が、自分が得た財産をもとに蒐集したコレクションが発端になっていました。美術館の名前にはコレクターの名が冠されています。もちろんコレクターが亡くなったあとは、コレクションを継承した親族やNPO財団、国や市が美術館として発展させ、所蔵品を充実させてきたケースが多々あります。

今回はその "個人コレクション美術館" の12番目として「笠間日動美術館」のことを書きます。この美術館は今までの11の美術館と違い、画商が創設した美術館です。


笠間日動美術館


笠間日動美術館は茨城県笠間市にあり、東京・銀座に本社がある日動画廊の創業者、長谷川じん(1897-1975)・林子りんこ(1896-1985)夫妻が1972年に創設しました。現在は息子の長谷川 徳七と智恵子夫妻が運営しています。美術館のある笠間市は長谷川仁の出身地です。

ちなみに "日動" という名称は、長谷川 仁が日本動産火災保険(現・東京海上日動火災保険)の本社ビルに間借りして画廊を開いたことによります。

コレクションの中心は、フランス絵画を中心とする西洋絵画、20世紀のアメリカ絵画、日本の洋画、彫刻です。

この美術館は「画商が開設した美術館」ですが、こういった例は世界的にも珍しいのではないでしょうか。パリのオランジュリー美術館には画商のポール・ギヨームのコレクションが多数ありますが、これはフランス政府に寄贈されたコレクションをここに展示したものです。

言うまでもなく画商はアーティストとコレクターや美術愛好家の間を仲介する職業であり、画商が買った美術品は売るのがあたりまえです。もちろん著名アーティストだけでなく、まだ世の中に知られていないアーティストを発掘し、その作品をメジャーにして美術界に貢献するといった使命もあるでしょう。しかし「美術品を売る商売」であることには変わりがない。

その「画商のコレクション」とはどういうものかを考えると、アーティストから購入したがどうしても売りたくなかった作品か、ないしは諸般の事情で買い手がつかずに売れなかった作品でしょう。さらには、画商は幅広いアーティストやコレクターとの親交があるはずで、この人間関係をベースに集めた(ないしは集まった)作品もあるでしょう。これらの点は「画商のコレクション」ならではの特性です。

いずれにせよ、笠間日動美術館には他の個人コレクション美術館にはない独自性があると想定されます。以下、この美術を4つのポイントで紹介します。

笠間日動美術館(企画展示館).jpg
笠間日動美術館の企画展示館。美術館のエントランスはこの建物にある。


フランス絵画


笠間日動美術館は主要な3つの建物がありますが、そのうちの一つは「フランス館」と名付けられています(あとの2つは企画展示館とパレット館。そのほかに野外彫刻庭園がある)。つまりフランス人やフランスに渡って活躍した人の絵画・彫刻が、この美術館の "売り" になっています。

笠間日動美術館(パンフレット).jpg
右の図は笠間日動美術館のパンフレットの表紙(2019年現在)ですが、絵はルノワール(『泉のそばの少女』1887)とゴッホ(『サン=レミの道』1889/90)です。ルノワールの絵の右にはアーティストの名前が書いてあって、

・ドガ
・モネ
・セザンヌ
・スーラ
・カンディンスキー
・ボナール
・マティス
・クレー
・ピカソ
・シャガール
・ミロ
・レジェ
・ジャコメッティ
・フジタ
・ウォーホル

とあります。こういったパンフレットの表紙には「誰もが知っていそうなアーティストの名前」を載せるはずで、数ある所蔵品からこの選択になったと思いますが、少なくともこの美術館がアッピールしたい点、その最大のポイントが理解できます。その所蔵品から、出身がフランス以外の画家の3作品を下に掲げます。

 ゴッホ 

ゴッホ「サン=レミの道」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
サン=レミの道」(1889/90)
(笠間日動美術館)

ゴッホのサン・レミ時代の絵です。道があって、両側には木立と藪があり、女性が一人歩いていて、道の向こうには家屋があるという風景です。形が崩れているというか溶解していくようで、荒すぎる筆のタッチが目立ちます。ただし使われている色彩が美しい。そこがこの絵のポイントでしょう。

ゴッホがサン・レミの病院にいたのは1989年の5月から1900年の5月までの1年間です。このブログでも、その間の作品を何点か取り上げました。最も初期と最も後期の作品が『サン・ポール病院の庭:1889.5』と『糸杉のある道:1890.5』(いずれも No.158「クレラー・ミュラー美術館」)でした。また、その間に描いた作品として『雨:1889』(No.97「ミレー最後の絵」)、『桑の木:1889』(No.157「ノートン・サイモン美術館」)、『道路工たち:1889』(No.216「フィリップス・コレクション」)がありました。

これらの絵を見ると、画法がさまざまです。もちろん「ゴッホの絵」という個性は共通ですが、描き方がいろいろと "振れて" いる。笠間日動美術館のゴッホは、その中でも一つの "典型" と言えるものかと思います。

 ピカソ 

ピカソ「女の顔」.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
女の顔」(1901)
(笠間日動美術館)

Femme assise a la terrasse d'un cafe.jpg
パブロ・ピカソ
「カフェのテラスに座る女」
(ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館)
ピカソは1900年にパリに出て以降、いわゆる "青の時代"(1901-1904)にはいるまでに、パリの風俗に関係した絵を描いています。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1900。No.163「ピカソは天才か・続」で引用)は、その最初期の作品でした。

この『女の顔』という作品で直感的に連想するのが、オランダのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館が所蔵する『カフェのテラスに座る女』(1901。No.202「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」で引用)です。

2枚の絵とも、描かれた女性は羽かざりのある大きな帽子を着用し、豪華な衣装を着ています。ポスト・印象派風の筆致が使われ、何よりも様々な色彩が駆使されています。

しかし笠間日動美術館の絵は女性の肖像であり、ボイマンスの絵とはそこが違います。何となく意志の強そうな、人生経験豊かな女性という感じがして、そういった女性の内面に迫ろうとした絵かと思いました。

 エルンスト 

エルンスト「夢創りの達人」.jpg
マックス・エルンスト(1891-1976)
夢創りの達人」(1959)
(笠間日動美術館)

マックス・エルンストはドイツ出身ですが、1922年にパリに移り、戦後はフランスの市民権を得てパリで亡くなりました。シュルレアリズムの代表的な画家です。

この絵は青と無彩色の混沌とした世界の中に、奇っ怪な鳥のようなもの、魚のようなもの、その他、正体不明の怪物たちが重なり合っています。左上方の怪物はタツノオトシゴを連想してしまいました。「夢創りの達人」(英語題名は Illustrious Dream Maker)という題に従うと、これは夢の中の世界ということになります。達人とは画家自身のことでしょう。

ヒエロニムス・ボスの作品に怪物たちがうごめいている絵がありますが、それを連想してしました。ただ、ボスの絵はそれなりの秩序感があります。しかしこの絵は形が曖昧で、怪物の存在感も薄く、全く混沌としています。夢というより、画家が折に触れて抱く幻想のイメージを絵画にしたと感じました。



パンフレットの表紙に名前のある画家や上に引用した画家以外では、マルケ、ルドン、ルオー、モランディ、マッソン、サム・フランシスなどの作品があります。また彫刻では、ザツキン、ムーア、マリーニ、コールダー、デビュッフェなどの作品があります。


金山平三・佐竹徳 記念室


笠間日動美術館のパレット館の3階に「金山平三・佐竹徳 記念室」があります。金山 平三かなやまへいぞう(神戸出身。1883-1964)と佐竹 徳さたけとく(大阪出身。1897-1998)は、いずれも日本の風土や四季を描いた洋画家です。私は笠間日動美術館に行くまで佐竹 徳の名前は知りませんでした。佐竹は20代で金山 平三と出会って以来、金山が没するまでの40年以上に渡って交流を続けたそうです。金山 平三を敬愛した画家が佐竹 徳でした。

笠間日動美術館の金山 平三の絵は、山形県大石田(銀山温泉の入り口の町)の開業医だった金子 阿岐夫氏(2013年逝去)の旧コレクションです。金山 平三は大石田に画室をもっていました。一方、佐竹徳の絵は、長女の佐竹 美知子氏(2014年逝去)の旧コレクションです。美知子氏は父親の画業を残すため、地方に埋もれた作品の発見や、市場の佐竹作品の購入に努められました。

この「金子コレクション」と「佐竹コレクション」をもとに、2015年に開設されたのが「金山平三・佐竹徳 記念室」です。2人の画家ともに伝統的な油絵技法を使い、主として自然をリアリズムの筆致で描いています。また戸外にイーゼルを持ち出して制作する "戸外派" でした。以下、金山 平三の2作品、佐竹 徳の1作品を掲載します。

金山平三「雪深し」.jpg
金山 平三(1897-1998)
雪深し」(1945-56)
(笠間日動美術館)

金山 平三は自然の風景を得意とした画家ですが、なかでも雪景色が得意で「雪の金山」と言われた人です。この作品も画面の多くを占める雪の白さが印象的です。全体に落ち着いた、シックな色が使われていて、この配色はいかにも日本的だと思います。加えて、構図が完璧です。対角線を基本とし、交点の付近に垂直に立つ木立が配置されている。この構図の安定感が色彩表現とあいまって、雪景色の静かで凛として落ち着いた雰囲気を表現しています。

金山平三「甘鯛」.jpg
金山 平三
甘鯛」(1945/56)
(笠間日動美術館)

金山 平三にしてはめずらしいテーマの静物画です。説明によると、この絵は金山が北陸の漁村に滞在したとき、吹雪で戸外での制作ができず、漁村であがった甘鯛を描いたものとのことです。

こういった "単純な" 素材をリアリズムの筆致で描くのは画家の技量が出るところです。「横たわる魚」と「技量」ということで、マネの『魚とエビのある静物』(No.157「ノートン・サイモン美術館」)を思い出してしまいました。金山の甘鯛の "テカリ" や "ヌメリ" のある質感は、画家の観察眼と油絵技術の確かさを証明しています。

甘鯛は、福井・京都では "ぐじ" と呼ばれていて、京料理では高級食材です。皮は堅いが、身に独特の甘味があります。この作品は実際に見ると「いかにもおいしそう」と感じる絵ですが、それも金山 平三の技量のなせることでしょう。

佐竹徳「牛窓」.jpg
佐竹 徳(1897-1998)
牛窓」(1978)
(笠間日動美術館)

牛窓うしまどは岡山県の瀬戸内海沿岸の地名で(現、瀬戸内市)、佐竹 徳は1963年からこの地に画室を構えました。この絵はピサロへのオマージュとして描かれたようです。『牛窓』の展示のそばに、佐竹徳がピサロについて語った言葉がありました(読点と段落を増やしたところがあります)。


大原美術館に収められているピサロの《林檎採り》という作品を東京から大阪まで見に行きました。そして僕はしつこく、しがみつくように見ました。それから僕の絵が変わったのです。画面が点描で見事に埋め尽くされている絵ですが、それだけを真似してみようと思いました。

しかし幾ら絵具を重ねてみても、点描があんなに綺麗につかないのです。これはただごとではないと思いました ・・・・・・ それ以来、僕の頭の中からピサロが抜けません。

笠間日動美術館の
解説パネルより

ピサロ「林檎採り」.jpg
カミーユ・ピサロ
「林檎採り」
(大原美術館)
その、ピサロの『林檎採り』(大原美術館)が右の画像です。大原美術館は昭和初期(1930年)という時期に、倉敷紡績の大原 孫三郎が画家の児島 虎次郎をアドバイザとして設立した美術館です。その目的は「海外に行けない日本の画家に西洋絵画の実物を見せることによって、日本の美術の発展に寄与する」ことだったそうです。その設立者の "思い" は、少なくとも佐竹 徳には通じたようです。

佐竹 徳の『牛窓』ですが、遠景の瀬戸内海と島々(最遠景は小豆島 ?)をバックに、画面のほとんどが木で埋め尽くされています。おそらくオリーブの木でしょう。ただ、この絵の光は逆光です。正午の前後に南を見た風景だと思います。その逆光のもとでの木立の美しさを描くのがこの絵の主眼だと感じました。点描で描かれた、緑系の落ち着いた色彩が美しい作品です。


鴨居玲の部屋


笠間日動美術館のエントランスは企画展示館にありますが、ここの1階に、2015年に開設された「鴨居玲の部屋」があります。鴨居玲(1928-1985)の最初の個展は1968年、40歳のときですが、それは日動画廊で開かれました。美術館の解説パネルを引用します。


当館では、コレクションの柱のひとつして、自画像の画家と称される鴨居玲の作品の収集に力を注いでまいりました。これまで「勲章」や「サイコロ」、「私の村の酔っ払い」などの代表作を含め、39点の作品を収蔵しておりましたが、没後30年を迎え、その画業を永遠に顕彰するため作品、資料等を収集し「鴨居玲の部屋」を開設しました。

この部屋では、没後アトリエに残されていた未完の自画像やデッサン帳、キリストの「最後の晩餐」の構想のため晩年に手に入れた大型のテーブルをはじめ、大切に使っていた英国製のアンティーク家具、身の回りに置いていた愛用品など、初公開の品々を展示しています。作品完成に至るまでの過程や画家の心の軌跡をたどり、鴨居玲の魅力をあらためて感じていただければ幸いです。

2015年7月1日

鴨居 玲「勲章」.jpg
鴨居 玲(1928-1985)
勲章」(1985)
(笠間日動美術館)



笠間日動美術館で「特別室」が設けられているのは、今まで書いた金山 平三、佐竹 徳、鴨居 玲の3画家ですが、もちろん他の日本の洋画家の作品も数所蔵しています。主な画家の名前をあげると、高橋 由一、五姓田 義松、藤島 武二、岡田 三郎助、岸田 劉生、安井 曾太郎、梅原 龍三郎、熊谷 守一、村山 槐多、佐伯 祐三、萬 鉄五郎、林 武、東郷 青児、岡 鹿之助、中川 一政、向井 潤吉、宮本 三郎、などです。


パレットの展示


他の美術館にはない笠間日動美術館の特長は、パレット館の1階に画家から譲り受けたパレットが多数展示されていることです。多くは日本の画家ですが、中にはピカソもダリもあります。

こうして並べて見学すると、パレットは百人百様であることがわかります。形がさまざまであるのに加えて、山のように絵の具を盛り上げたものもあれば、薄い絵の具もある。画家自身が小さな絵を描いているパレットが多いのですが、その絵も画家の特長を表す個性的なものです。

もちろんパレットは鑑賞を目的としたものではありませんが、画家がどういう絵の具を使っていたかがわかるので、たとえば美術品の鑑定には貴重な資料となるそうです。我々は鑑定とは関係ありませんが、もし好きな画家のパレットを見つけたら、画家の絵を思い浮かべながらパレットを眺めてみるのも一興でしょう。



最初に書いたように、笠間日動美術館は「画商が開設した美術館」であり、他にはない独自性があります(パレットの展示がその典型)。実際に訪れてみるとそれが実感できるのでした。




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No.278 - エリチェの死者の日 [文化]

No.29「レッチェンタールの謝肉祭」の話から始めます。レッチェンタールはスイスのアルプスの谷にある小さな村ですが、この村の謝肉祭では「チェゲッテ」と呼ばれる鬼の面(ないしは "妖怪" の面)をつけた村人が練り歩きます。これは日本の秋田県男鹿地方の「ナマハゲ」に酷似した祭りです。つまり、謝肉祭というキリスト教の祭りと「チェゲッテ」というキリスト教以前の習俗が融合しているところに特徴があります。レッチェンタールにキリスト教が布教されたのは16世紀と言いますから、ヨーロッパの中でも極めて遅いことになります。だから「チェゲッテ」が生き延びたのでしょう。

さらに「レッチェンタールの謝肉祭」で印象的だったのは、この謝肉祭を取材したNHKの番組で語られていた村人の言葉でした。つまり、

祭りのときに先祖の霊が戻ってきて、終われば帰っていく。先祖が我々を守る

という意味の発言です。いわゆる先祖信仰、ないしは先祖祭祀ですが、これもキリスト教とは無縁のコンセプトです。こういった日本のお盆にも似た信仰は宗教にかかわらず世界共通ではないかと、そのとき思いました。



ところで、先祖信仰のイタリアでの例が先日のNHKの番組で紹介されました。2019年12月24日に放送された「世界ふれあい街歩き スペシャル」(NHK BS1)の中の「エリチェ」です。「レッチェンタールの謝肉祭」の続きとして、その内容を以下に掲載したいと思います。以下は番組をテキスト化したもの、ないしは番組内容の要約です。ちなみに「世界ふれあい街歩き」というと "カメラをもって街を歩き回る" という作りの番組ですが、「エリチェ」は違っていて、「死者の日」を取材したものでした。


死者の日


まず「世界ふれあい街歩き」の内容に入る前に「死者の日」についてです。

キリスト教(カトリック教会)においては、11月1日が「諸聖人の日」(万聖節)です。これは過去の全ての聖人と殉教者に祈りを捧げる日で、カトリックの祝日になっています。ちなみに代表的な聖人は1年のそれぞれの日に記念日が割り当てられています("聖人カレンダー" がある)。カトリック教徒にとっては自分の誕生日の聖人が守護聖人になったりします。

「諸聖人の日」の次の日、11月2日が「死者の日」(万霊節)です。この日は全ての死者のために祈る日で、それが今回のテーマです。

ちなみに、ハロウィンは「諸聖人の日」の前日の10月31日ですが、これはもちろんキリスト教とは関係がなく、ヨーロッパ固有の古い伝統です。カトリック教会は「諸聖人の日」を11月1日に設定することで、ハロウィンをその "前夜祭" にしようとしたとの説があります。

イタリアでは「死者の日」にお墓参りをします。またイタリア各地には「死者の日に食べる特別のお菓子」が地域ごとにあります。これはエリチェの死者の日にも出てきます。



以下、「世界ふれあい街歩き」スペシャル "イタリアの小さな街"(NHK BS1。2019年12月24日)で放映された内容から、エリチェの部分を紹介します。


エリチェ


シチリア島の西の端、地中海のすぐそばに標高 751メートルの「エリチェ山」があります。エリチェ(Erice)はそのいただきに作られた天空の街で、2時間ほどで一周できる小さな街です。

Erice01 エリチェ山.jpg
エリチェ山。シチリア島の西端にある。この山の上にエリチェの街がある。「世界ふれあい街歩き」スペシャル(NHK BS1。2019年12月24日)より。以下同じ。

Erice02 エリチェ山から地中海を望む.jpg
エリチェ山から地中海を望む。エリチェ山は地中海に近接した位置にあるる。

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エリチェの街並み。山頂に作られた都市である。地図で示してあるように、シチリア島の西端にある。

エリチェは山の上に作られた街で、標高が高く、秋に入ると霧が立つ日が増えます。その霧で街は幻想的な雰囲気に包まれます。また冬になると湿気で道が凍り、滑りやすくなります。そためエリチェの街の道は、ごつごつした石を並べて滑りにくくしてあります。この美しい石畳がエリチェのシンボルです。

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エリチェの街の路地。秋以降は地中海からの湿った空気で霧に覆われ、幻想的な雰囲気になる。この画像も霧がかかっている。

Erice05 エリチェの石畳.jpg
エリチェのシンボルになっている石畳。冬に凍っても滑りにくくするため、平らな石の間にごつごつした石が敷き詰められている。

エリチェは霧の立ちこめる肌寒い街です。そのため、40年前には900人が住んでいましたが、麓の街に移住する人が増えました。現在の住人は約200人で、ほとんどの人が顔なじみです。この街を愛する人に支えられているのがエリチェです。


エリチェのフェスタ・デイ・モルティ


 街の空き地 

番組の主人公は 7才の女の子、サーラと、その母親のシルヴァーナです。2人は街はずれの空き地で小石を拾って空き缶に入れ、それを鳴らしています。大切なお祭りで使う道具を準備しているのです。

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番組の主人公のサーラ。7歳。小石を拾って空き缶につめ、それを振って鳴らしている。

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サーラの母親のシルヴァーナ。叔母とともにエリチェの「死者の日」の継承に熱心である。


ナレーション(黒島 結菜)】
まもなく、その大切な日を迎えようとしています。エリチェでは毎年11月のある夜、子供たちが缶を鳴らしながら街を練り歩きます。これは、お祭りの日の到来を知らせる行列。

フェスタ・デイ・モルティ。死者の日。ご先祖さまが家に帰ってくる日とされています。まるで日本のお盆とそっくりですね。でも、エリチェの街はちょっと特別。何と、ご先祖さまは戻ってきた証拠に子どもたちにプレゼントを置いていってくれるのです。

"エリチェ"
「世界ふれあい街歩き」スペシャル
(NHK BS1 2019年12月24日)
[以下同じ]

 サーラの家 


シルヴァーナ
子どもの時に、一番覚えているプレゼントはぬいぐるみ。背丈ほどもある、それはそれは大きなぬいぐるみだったの。大きくなるまで、ずーっと大切に持っていたわ。プレゼントしてくれたのはおじいさん。これこれ、この写真のおじいさんよ。私のことをとても可愛がってくれた、父方のニーノおじいさん。


シルヴァーナが、ニーノおじいさんと子どもの頃のシルヴァーナが写った写真を見せます。


シルヴァーナ
おじいさんはいつも私に素敵な洋服を着せてくれたの。それでカーニバルの写真コンクールに出場しては、何度も賞をもらっていたものよ。

でもある日突然おじいさんは、私のところへ来なくなってしまったの。すると母は私にこう言ったの。「大丈夫よ、おじいさんはいつもあなたのそばで見守ってくれている」って。そうしたら、その年のフェスタ・デイ・モルティにニーノおじいさんから大きなぬいぐるみが届いたの。今でも忘れられない、心に残る思い出よ。

ナレーション
シルヴァーナにとってフェスタ・デイ・モルティは思い出が詰まった特別な一日です。娘のサーラは、ご先祖さまに手紙を書きました。


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ご先祖さまに手紙を書いたサーラ。番組で彼女はその手紙を朗読した。


サーラ
「親愛なるご先祖さま。私は子犬・・・白くてブチのある子犬が欲しいです。あとは自由に選んでください。あっ、弟のミケーレのことを忘れていました。ミケーレにはご先祖さまが良いと思うぬいぐるみをください。チャオ」

この手紙をここに置いて写真を立てておくの。そうしたらご先祖さまは手紙を読んで私が何を欲しいと思っているか分かるのよ。

ナレーション
サンタさんへのお手紙みたいね。

サーラ
サンタクロースはツリーの下だけど、ご先祖さまはもっと難しいところに隠すの。私が大きくなって上手に探せるから毎年むずかしくなってるのよ。探すのは大変なのよ。うまく隠してあっても見つけることもあるし、これで終わりと思っていたら次の日に出てくることもあるの。前の日にうまく探せなかった場合はね。


 街のレストラン 


ナレーション
街の広場に小さなレストランがあります。ここはサーラたち家族の行きつけのお店。フェスタ・デイ・モルティを前に、シェフのジャンビートは特別メニューを作りました。そら豆で作ったソースにショートパスタを入れたシチリアの家庭料理です。


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マッコソースのパスタ。マッコ(= Maccu di Fave、マッコ・ディ・ファーヴェ)は、そら豆(Fave)をどろどろになるまで煮込んだスープ。パスタのカヴァトゥエッダ(= カヴァティエッダ、cavatiedda)は、カヴァテッリ(cavatelli、小さく切ってくぼみをつけたパスタ)と同様のパスタ。

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シェフのジャンビートがサーラの一家にマッコソースのパスタを給仕する。


ジャンビート
これはマッコ・クリームだよ。フェスタ・デイ・モルティの時期に昔から作られているんだ。そら豆にはご先祖さまの魂が宿ると信じられているからね。

サーラ
じゃあ、ご先祖さまを食べちゃうのね!

シルヴァーナ
そら豆の中にご先祖さまが宿るって想像してごらん。つまりご先祖さまは土から生える作物を介してもやってくるのね。食べてみる?

サーラ
うん!


 街のお土産屋さん 

観光客に人気のお土産屋さんがあります。ここはシルヴァーナの叔母のティッティのお店です。


シルヴァーナ
ティッティはこの街のフェスタ・デイ・モルティの盛り上げよ。フェスタ・デイ・モルティの行事のまとめ役。私たちを引っ張ってくれる存在なの。


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土産物店でのティッティ叔母さんとシルヴァーナ。右端はサーラ。

ティッティ叔母さんはお祭りの中心的存在です。彼女は近所の人たちを集めてビスケット作りをします。フェスタ・デイ・モルティの日に子どもたちにプレゼントするのです。ブドウの果汁を煮詰めた、甘いヴィーノ・コットを使います。ビスケットは、そのブドウの風味とシナモンが利いた優しい味です。その昔、ビスケットはフェスタ・デイ・モルティの朝にバスケットに入っているご馳走でした。

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ティッティ叔母さんと街の人たちが作ったビスケット。フェスタ・デイ・モルティの日に子どもたちにプレゼントする。

 山麓を一望できる場所で 

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ティッティ叔母さんが墓地を見下ろせる場所で、子どもの頃のフェスタ・デイ・モルティの思い出を語る。


ナレーション
ご先祖さまが帰ってくる死者の日、フェスタ・デイ・モルティ。ティッティ叔母さんにも、幼いころの心ときめかせた素敵な思い出があります。

ティッティ
子どもの頃、フェスタ・デイ・モルティが近づくとよくここへ来て、ご先祖さまにどんなプレゼントが欲しいか、お願いしたものよ。祖母にはこの美しい場所に来たら、ご先祖さまに必ずご挨拶するように言われていたわ。あっちへ行きましょう、この下にお墓があるの。


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エリチェの共同墓地。エリチェの街からすこし下ったところにある。


ティッティ
ここよ、見て。私たちの街の小さな墓地よ。子どものころはね、ご先祖さまはこのお墓から上がってきて、ドアの鍵穴から家の中に入って、プレゼントを持ってきてくれるんじゃないかと想像していたの。そして朝には至る所に隠されているプレゼントをわくわくして探したものよ。自転車が天井にくくり付けられていたり、思いつかないような場所にプレゼントはあったのよ。ほんとにそこらじゅう。

だからフェスタ・デイ・モルティの日にプレゼントをくれたご先祖さまの名前は、今でもみんな覚えてる。この街でフェスタ・デイ・モルティは、クリスマスよりずっと重要なの。クリスマスは飾りの隣に小さなプレゼントが置いてあるだけだったけど、ご先祖さまは、子ども心にもっと素敵なプレゼントを持ってきてくれるんだもの。

ナレーション
エリチェの人にとってクリスマスよりも楽しみな死者の日、フェスタ・デイ・モルティはもうすぐです。


 エリチェの幼稚園 


ナレーション
街では心待ちにしている死者の日、フェスタ・デイ・モルティが近づいてきました。街で唯一の幼稚園では、お祭りの準備中。園児は全部で11人。いったい何をしているのかな。

幼稚園の保育士
フェスタ・デイ・モルティのことをもっと身近に感じるための工作をしているのよ。できあがったらみんな家に持ち帰るわ。

ナレーション
黄色の紙を切って子どもたちが作っているのは菊の花。こちらは(菊の花の)塗り絵だね。イタリアでもお墓参りに行くときは菊の花を持って行くんですって。こちらも日本と似ていますね。

幼稚園の保育士
菊の花をなぜお墓に持って行くのか、伝説もあるから、その話もして聞かせるのよ。そしたら子どもたちにも分かりやすいから。

ナレーション
君も菊の花をもってご先祖さまに会いにいくの?

幼稚園の男の子
ご先祖さまはそばで見ているよ。いつも。ぼくがミニカーで遊んでいるところなんかをね。

ナレーション
ご先祖さまはいつも見守ってくれているんだものね。


 エリチェのお菓子屋さん 

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マリア(左下)が営むエリチェの菓子店。フェスタ・デイ・モルティが近づくとフルッタ・マルトラーナを求めるお客さんがたくさんやって来る。


ナレーション
一方、こちらは街のお菓子屋さん。フェスタ・デイ・モルティに欠かせないお菓子作りに大忙しです。果物の形をしたフルッタ・マルトラーナ。シチリアの特産、アーモンドの粉で作るお菓子です。フェスタ・デイ・モルティが近づくとフルッタ・マルトラーナを求めるお客さんがたくさんやって来ます。ここはエリチェで55年前からマリアが営むお店。

マリア
フルッタ・マルトラーナはご先祖さまに捧げるもの。修道院で生まれたお菓子なのよ。昔ね、修道院には大きなお庭があって、11月の1日と2日にお祭りが行われていたの。そのお祭りのとき、修道院に司教さまが来ることになった。でもその時期、庭は枯れていて、とても寂しかったから、修道女たちは果物形のお菓子を作って、庭の木をカラフルに飾って、司教さまをお迎えして喜ばせたの。それがフルッタ・マルトラーナの始まりよ。


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フルッタ・マルトラーナはアーモンドの粉で作るお菓子(=マジパン、ないしはマルチパン)。果物(フルッタ)の形で本物そっくりの彩色がしてある。お供え物ではなく、食後に皆で食べる。マルトラーナはシチリアの州都・パレルモのマルトラーナ教会のことで、マリアが言うように以前は修道院が併設されていた。

 エリチェの広場 


ナレーション
いよいよフェスタ・デイ・モルティ前夜。夜7時、街の人たちが街の広場に集まりました。サーラの母親のシルヴァーナです。子どもたちの手には、あの音が鳴る缶。みんな手作り。サーラもやってきました。

ティッティ
これから街の中を練り歩いて、街中に、今夜プレゼントを持ってご先祖さまがやって来るって伝えるのよ。

シルヴァーナ
さぁ、静かに。ルールを伝えるわ。歌を歌っている間は缶を鳴らさないこと。歌を歌い終わったら缶を鳴らすのよ。やってみるわよ。1・2・3。

「月曜 火曜 水曜 木曜 金曜 土曜。扉を開けて。ご先祖さまが来るから。」

(子どもたちは缶を鳴らす)

ナレーション
いつも決まって歌われる歌です。行列にはエリチェの街のほとんどの子どもたちが集まりました。


Erice18 街を練り歩く.jpg
子供たちは歌を歌い、缶を鳴らしながら街を練り歩く。大人たちがサポートにまわる。

子供たちとそれをサポートする大人の行列は、歌を歌い、缶を鳴らしながら街を練り歩きます。そして民家の前にくると大きな声で歌を歌い、缶を鳴らします。それに応えて家から出てきた人は、子どもたちにお菓子を配ったり、手作りのケーキを振る舞ったりします。


ナレーション
かつて行列した人も、今はささえる側に。この街の伝統がいつまでも続くようにと盛り上げます。手作りのお菓子を準備した女性も。170年以上、毎年繰り返えされてきた伝統です。


 サーラの家 

サーラが去年のフェスタ・デイ・モルティの日に自分のベッドの下で見つけた "宝物" を見せます。


ナレーション
誰からかな?

サーラ
たぶんシルヴァーナおばあちゃんから。私のママのことを大好きだったおばあちゃんだし、ママにはイヤリングをくれたから、私にもこれを持って来てくれたんだと思うの。

ナレーション
寝る前には大切な準備があります。


シーラとお母さんのシルヴァーナは、シルヴァーナおばあちゃん、ニーノおじいちゃん、ササおじいちゃん、アンナおばちゃんの写真を飾ります。サーラが5歳のときに亡くなったおばあちゃんや、会ったこともないご先祖さまの写真もあります。そしてろうそくに火を灯します。


シルヴァーナ
ろうろくは消さないのよ。じゃないとご先祖さまがここへ来る道が分からなくなっちゃうから。

ミケーレ
ご先祖さまが来るの? いま?

シルヴァーナ
みんなが寝たら来るのよ。寝ないとご先祖さまは来ないわ。さぁ、寝るわよ。

サーラ
おやすみ。(子どもたちは寝室に去ります)

ナレーション
おやすみ。それにしても行列に街中の人が参加していてびっくりしたな。



シルヴァーナ
フェスタ・デイ・モルティってね、私たちエリチェの人たちにとってすごく大切で愛着のある行事なの。私たちがいる限りこのお祭りは続いていくわ。それはつまりエリチェ山の住人ね。実はエリチェってね、本当はとても広くて山の裾野も含んでいるけど、このお祭りを行っているのはこの山の上だけ。エリチェ山に人が住む限り守っていくつもりよ。だって私たち山の住人はみんなこのお祭りを愛しているんだもの。

フェスタ・デイ・モルティってね、人生で何が大切か、自分がこの世に生まれてきた意味みたいなことを考えるきっかけにもなるわ。心がこもっているから。このお祭りがなくなることは決してないわね。

ナレーション
いよいよ死者の日、フェスタ・デイ・モルティ。サーラたちのところにご先祖さま、ちゃんと帰ってきてくれるかな。


 サーラの家:フェスタ・デイ・モルティ当日の朝 

朝起きたサーラとミケーレは家じゅう、プレゼントを探し回ります。見つけたのはお菓子、靴下、猫のベッド、・・・・・・。そしてサーラは机の上にペンのケースを見つけます。


サーラ
これって・・・。私が大好きなペンよ。ママ、これ本当に欲しかったやつ。私が大好きなペンよ。インクがなくなっても一生大切にするわ。これはご先祖さまにお願いしてなかったの。でも本当に欲しかったペンなの。

ナレーション
どうしてお手紙に書いていないのに、このペンが欲しいと、ご先祖さまは分かったのかな。

サーラ
学校の友達がこのペンを1本くれたの。それをとっても気に入ったことをご先祖さまは見ていたんだと思うわ。

シルヴァーナ
そうよ、いつもそばにいるのよ。亡くなってもそばで見守ってくれてるの。

ミケーレ
ご先祖さまは死ぬの?

シルヴァーナ
亡くなったらどこへ行くの? お空でしょ。キリストさまと一緒に。そして何になるの? 天使? 天使はどんな風に飛ぶんだっけ?

(ミケーレが飛ぶまねをします)

シルヴァーナ
そう、ご先祖さまもそんな風に飛ぶのよ。ろうそくをつけたでしょ。だからご先祖さまが昨日の夜、ここにプレゼントを持ってきてくれたのよ。ほらあそこ。(写真を指さして)ニーノおじいちゃん、シリヴァーナおばあちゃん。ササおじいちゃんとアンナおばあちゃん。

ナレーション
ご先祖さまはちゃんとプレゼントを持って来てくれました。会ったことがないご先祖さまのことが子どもたちの心に刻まれていきます。


ご先祖さまは親戚の家にもプレゼントを届けてくれます。サーラたちは、いとこたちと一緒にティッティ叔母さんお店に行きます。そこには子どもたちの名前といっしょにおもちゃのプレゼントが家のあちこちにありました。子どもたちは大喜びです。

 街の共同墓地 

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エリチェの街の共同墓地。壁に墓碑がはめ込んである。フェスタ・デイ・モルティの日、街の人々は墓地を訪れる。


ナレーション
プレゼントを受け取ったあとは、ご先祖さまのお墓へと向かいます。お墓の前にはお花屋さんも。

シルヴァーナ
これは菊の花。この季節に咲く花で、お墓に持って行くのよ。

ナレーション
カラフルで綺麗。ご先祖さまも喜びそう。街じゅうの人たちがお墓を訪れます。ご先祖さまは子どもたちの成長も見つめています。


欲しいと思っていたおもちゃをもらったサーラは、ご先祖さまのお墓に菊の花を供えます。

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墓地には花屋が出店している。そこで買った菊の花をサーラがご先祖さまの墓碑に供える。


ナレーション
ご先祖さまが帰ってくるフェスタ・デイ・モルティ、死者の日。また一年後の再会を約束します。


 教会:フェスタ・デイ・モルティの日の夜 

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エリチェの街の教会。フェスタ・デイ・モルティの日の夜にミサが行われる。


ナレーション
エリチェは深い霧に包まれていました。死者の日、フェスタ・デイ・モルティのあと、人々は教会のミサへ。

あっ、ティッティ叔母さん。ということは ・・・・・・。やっぱりサーラ。そして隣にはお母さんのシルヴァーナ。

これからもエリチェの人たちはご先祖さまに温かく見守られながら、暮らしていくんだろうな。

[終]


番組の感想


以下はこのNHKの「世界ふれあい街歩き」スペシャルを見た感想です。まとめると、エリチェの「死者の日(フェスタ・デイ・モルティ)」は、大人から子どもまでの住民が次のような考えと行動を共有することで成り立っています。

① ご先祖さまは、いつもそばで子どもたちを見守っていてくれる。

② ご先祖さまは年に一回、フェスタ・デイ・モルティの日に家に帰ってくる。住民たちはご先祖さまが迷わないように、一晩中、ろうろくを灯しておく。

③ ご先祖さまが帰ってくることを告げるため、子どもたちは前日の晩に街を練り歩く。

④ ご先祖さまは家に帰ってきた "あかし" として、子どもたちにプレゼントを残していく。

⑤ フェスタ・デイ・モルティの日、住民たちはお墓にお参りし、菊の花を供え、ご先祖さまを偲ぶ。

⑥ フェスタ・デイ・モルティの日には教会でのミサに参加する。

このうち、① ② ③ ④ は先祖崇拝、ないしは先祖祭祀です。④ のサンタクロースばりのプレゼントはエリチェ独特だと思いますが、それも「先祖が家に帰ってくる」という概念の一貫で、それをより強く継承していくための "しかけ" でしょう。

このような先祖崇拝は本来、キリスト教とは無縁です。現在のキリスト教の宗派のなかには先祖祭祀に寛容なところもあるようですが、たとえば ② の「先祖の霊がこの世に帰ってくる」ところなどは、明らかにキリスト教のコンセプトと対立します。

そういえば日本のお盆も、本来の仏教にはないものです。それが仏教行事の一部として取り入れられ、お盆には帰ってきた先祖さま(仏さま)のためのお膳を仏壇に用意し、そして、送り火で先祖の霊があの世に戻っていくのを送る。

エリチェ(イタリア)、日本、そして No.29 のレッチェンタール(スイス)に共通しているのは、自分たちは先祖と繋がっているという感覚であり、それはグローバルなものでしょう。それがキリスト教や仏教と習合して息づいています。

ヨーロッパと言うとキリスト教文化が根幹にあり、特にイタリアは "おおもと" であるカトリックの総本山です。そのキリスト教の考え方は、キリスト教徒ではない大部分の日本人にとっては非常にわかりにくいものです(No.41-42「ふしぎなキリスト教」)。しかし民衆レベルの死生観は意外と日本とも似ているのではないか、世界共通の要素が多分にあるのではないか。この番組を見てそう思いました。




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No.277 - 視覚心理学と絵画 [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」No.256「絵画の中の光と影」で、九州大学名誉教授の三浦佳世氏が書かれた「視覚心理学が明かす名画の秘密」(岩波書店 2018)と「絵画の中の光と影 十選」(日本経済新聞。2019年3月。10回連載のエッセイ)の "さわり" を紹介しました。今回はその「視覚心理学と絵画」というテーマの補足です。

2013年にアメリカの「Scientific American誌 特別版」として発行された、

Scientific American Mind 187 Illusions
マルティネス = コンデ(Susana Martinez-Conde)、マクニック(Stephen Macknik)著

という本があります。著者の2人はアメリカのバロー神経学研究所に所属する神経科学者で、本の日本語訳は、

脳が生み出すイルージョン ── 神経科学が解き明かす錯視の世界」(別冊日経サイエンス 198)

です(以下「本書」と記述)。本書は20のトピックごとの章に分かれていて、その中に合計187の錯視・錯覚・イルージョンが紹介されています。ここから絵画に関係したものの一部を紹介したいと思います。

なおタイトルに「視覚心理学」と書きましたが、もっと一般的には「知覚心理学」です。さらに医学・生理学からのアプローチでは「神経生理学」であり、広くは「神経科学」でしょう。どの用語でもいいと思うのですが、三浦佳世氏の著書からの継続で「視覚心理学」としました。


視覚は脳の情報処理


まず具体的な絵画に入る前に、人間の視覚の本質の話です。人間の視覚は「脳が行う情報処理の結果」だと言えるでしょう。本書にも、はじめの方に次のように書いてあります。


私たちが経験しているすべてが、実は自分の想像力が生み出した虚構である ── これは神経科学の事実だ。自分の感覚は正確で現実そのままだと感じられるものの、それらが外界の物理的実在を再現しているとは限らない。



脳はどのように現実感を生み出しているのか。それを理解するために神経科学者が使う最も重要な手段の一つが錯覚だ。画家も研究者も、昔から錯覚を利用して視覚系の奥深い働きに関する知見を得てきた。画家は科学者がニューロンの特性を研究するよりもずっと前に、平らなキャンバスが3次元であり絵筆で描かれたものが本物の静物であると脳を欺いて思い込ませる一連の技法を考案ずみだった。

マルティネス = コンデ、マクニック
「脳が生み出すイルージョン ── 神経科学が解き明かす錯視の世界」(別冊日経サイエンス198)

脳が生み出すイルージョン.jpg
脳が生み出すイルージョン(別冊日経サイエンス198)
我々はどうしても「眼」と「カメラ」のアナロジーで考えてしまいます。水晶体がレンズの役割をにない、網膜がフィルム(ないしは半導体センサー)に相当していて、そこに像が結ばれ、その像がすなわち視覚だと ・・・・・・。

しかしそのあとがあります。脳は網膜の像をもとに様々な処理を加えて視覚という認識ができあがる。カメラの画像でも、デジタル画像であればアプリでさまざまな加工が可能です。たとえば顔を若く見せたり、小顔にしたり、肌を綺麗にしたりといったことができる。人間の「眼球」は確かに「カメラ」かもしれないが、「視覚」は「カメラ + 画像加工アプリ」に相当するのです。

その、脳が網膜の画像をどのように "加工して" 視覚を生み出すのか、その結果が現実の物理的実体とずれているのが錯視です。以下に絵画に関係した錯視を2つあげます。


脳が生み出す輝度と色


 エーデルソン錯視 

まず、No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」でも取りあげた "エーデルソン錯視" です。この錯視において A のマス目と B のマス目は違った明るさ(=輝度)に見えますが、実は全く同じ明るさです。2つのマス目の間に無理矢理ブリッジを作ると、同じ明るさであることがわかります。

Adelson illusion.png
Adelson illusion_proof.png
エーデルソン錯視
マサチューセッツ工科大学の視覚研究者、エーデルソン(Edward H. Adelson)が作成した錯視。A と B は同じ輝度であるが、そうは絶対に見えない(上の図)。Wikipediaより。

なぜこの錯視が生まれるのでしょうか。まず、A は白っぽいマス目に囲まれていて、B は黒っぽいマス目に囲まれています。人間の脳は周囲が白いと対象をより黒く、周囲が黒いと対象をより白く認識するのです。

さらに大きな理由は B は「影の中にある」と認識できることです。人間の脳は、影の中にあるものについては本来の輝度を復元しようとして輝度を上乗せして認識するのです。

無理矢理ブリッジを作った図を見て同じ輝度だとわかったとしても、エーデルソン錯視を再び眺めると同じ輝度だとは絶対に感じられません。白と黒としか見えない。これは知識ではコントロールできない脳の視覚系の情報処理であり、極めて強固な情報処理だということがわかります。

 ロット・パーベス錯視 

エーデルソン錯視は物体の明るさ(輝度)に関するものですが、同様の錯視は色についても起こります。その例を次にあげます。名称にした「ロット・パーベス錯視」は一般的ではないし本書にも載っていませんが、発見者(錯視の作成者)の名前をとって便宜上そう呼ぶことにします。

ロット・パーベス錯視(説明).jpg
ロット・パーベス錯視
ロンドン大学のロット(R. Beau Lotto)とデューク大学のパーベス(Dale Purves)が作成した錯視。矢印で示した2つのタイルは全く同じ色である。本書より。

この図において矢印を付けた、上面の茶色に見える正方形と側面のオレンジ色に見える正方形は、実は全く同じ色です。しかし人間の眼には、同系統の色には違いないが全く異なった色に見えます。これもエーデルソン錯視と同じで、周りの色の状況と影の中かそうでないかの違いで起こります。



エーデルソン錯視とロット・パーベス錯視でわかることは、物体の輝度や色は周囲との関係によって知覚され、その場の状況や前後関係で変わって認識されるということです。それはちょうど、文章における単語の意味が文脈によって変わることに似ています。話言葉だと「話し方」によっても同じ単語の意味が変わる。

優秀な画家はこのような視覚における脳の働きを(意識的に、または無意識に)熟知していて、色の配置を決め、影の表現をしています。


脳が生み出す遠近感


脳は遠くにあるものと近くのものをどうやって認識しているのでしょうか。実際に眼で現実の風景を見る場合は両眼視ができるので、視差から距離の判別が可能です。では、2次元の絵画や写真の「奥行き」はどうやって感じるのか。

絵画で有名なのは遠近法(線遠近法)です。実世界で平行なもの(平行だと想定できるもの)が画面上で次第に狭まっていくと、狭まる方向が「遠い」「深い」と認識できます。

また、遠くのものは小さく、近くのものは大きく見えるという原理もあります。常識的に考えて同程度の大きさのものが2つあり、その大きさが違うと遠近感が出ます。さらに、遠くのものがぼやけて見え、近くのものがはっきり見えることで遠近感を感じることもあります。絵画では空気遠近法(大気遠近法)と呼ばれます。

もちろんそれ以前に、遠くの物体が近くの物体の陰になって見えないという「遮蔽」も、当然ですが遠近感を生み出します。

 斜塔の錯視 

以上のように脳はさまざまな方法で遠近感を知覚していますが、これらの中で、平行線による遠近法に関連してで起こる脳の錯覚が「斜塔の錯視」です。

ピサの斜塔.jpg
ピサの斜塔
(本書より)

この画像はイタリアの有名な「ピサの斜塔」で、下から斜塔を見上げて撮影したものです。従って画像の上の方がより遠くにあると認識されます。斜塔の2つの側面は実世界では平行ですが、写真では遠くになるにつれて狭く見える。これはストレートな遠近法による奥行きの知覚です。

しかしこの写真を2枚左右に並べると、右の写真の斜塔がより右に傾いて見えます。明らかに錯視です。なぜそうなるのかと言うと、左右の斜塔が画面上で平行だからです。斜塔の右側の線も左側の線も、同一の写真なのだから2枚で平行なのはあたりまえです。一方で脳は、写真の上の方が遠くにあると認識している。ということは、遠くになるほど2つ斜塔は広がっていないと画面上で平行にならない。このため、右の斜塔が左の斜塔よりも右の方に傾いて見えるわけです。

斜塔の錯視.jpg
斜塔の錯視
全く写真を2枚左右に並べると、右の写真の斜塔がより右に傾いて見える。本書より。

この錯視は「ピサの斜塔」の写真を用いて初めて発表されたので「斜塔の錯視」と呼ばれていますが、斜塔でなくても起こります。次の画像は線路の写真での例です。線路によって人間の眼は左上に向かって遠くになっていると強く認識します。そのため、左の写真の線路と右の写真の線路は斜めの角度が違って見えます。右の写真の線路の傾きがよりゆるく見える。

斜塔の錯視(線路).jpg
斜塔の錯視
(線路の写真での例)
2枚の写真の線路は同じ傾きであるが、そうだとは絶対に見えない。本書より。

この線路の写真は、地面上の2本の平行線が左右にありますが、平行線は上下にあっても斜塔の錯視が起こります。本書にはありませんが、次の図は No.112No.123 に画像を掲載した古代ローマの水道橋、ポン・デュ・ガール(フランス)です。遠近感がはっきりした写真を上下に並べると、水道橋の傾きが違って見えます。

ポン・デュ・ガール.jpg
ポン・デュ・ガール.jpg
斜塔の錯視
(ポン・デュ・ガールの例)

斜塔の錯視は「遠近感がない」と認識できる絵や写真では起こりません。次の絵は本書に掲げられているものですが、2人の女の子は同一の角度で傾いています。

斜塔の錯視が起こらない例.jpg
奥行き感がないイラスト画
女の子の「赤い服らしきもの」は左上に向かって狭まっているが、曲線が含まれていて平行線ではない。また、狭まった先にあるのは顔であり、これでは奥行きは感じない。従って2枚を並べても「斜塔の錯視」は起こらない。本書より。

斜塔の錯視でわかるのは、2次元平面(絵画、写真、イラストなど)の遠近感は、平行線による遠近法の効果が強烈であることです。実世界において平行と想定できる2つの線が次第に狭くなっていくと奥行きを強く感じる。もちろん画家は、これを最大限に活用して3次元空間を絵の中に閉じこめてきたわけです。それは消失点が1つの「1点透視」による遠近法でなくてもかまわない。No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」に "1点に収斂しない透視図法" の例として、フェルメール『ミルクを注ぐ女』とデ・キリコ『街の神秘と憂鬱』を引用しました。



以上、視覚は脳の情報処理であることを例とともにあげましたが、以降は本書に示されている「視覚と絵画」に関係したトピックを4つだけ紹介します。


輝度の秘密:モネ


下の画像はモネの『印象・日の出』(1872。パリのマルモッタン美術館蔵)です。ルアーブルの港の風景を描いたこの絵は、印象派の名前の由来になった絵で、誰もが知っている超有名絵画です。この絵画にはある秘密があります。


描かれているのはモネが窓から見たルアーブルの入り江だが、彼自身が後に述べているように、それは見たままの風景ではなく、タイトルにもあるように彼の "印象" だ。

実際、この作品は現実を正確には表していない。この絵の太陽は実物と同様に周囲の空よりもずっと明るく見えるが、それは錯覚だ。モネはこの太陽と空を、輝度(明るさ)は同じだが色合いの異なる絵の具を用いて表現している。

ハーバード大学の神経生物学者リビングストン(Margaret S. Livingstone)は、背景と同じ明るさで描かれているという輝度の同一性によって、この絵の太陽があたかも現れたり消えたりするように見え、生き物のような神秘性が生じているのだと提唱している。色合いを除いた白黒バージョン(下)を見ると、この太陽が背景の雲と物理的には同じ輝度であることがわかる。

「本書」

印象・日の出(グレイスケールとの対比).jpg
モネ「印象・日の出」
カラー画像とグレイスケール画像を対比させたもの。グレイスケール画像では太陽とその海面への反映が判別しづらくなる。本書より。

引用で「太陽があたかも現れたり消えたりするように見える」とあります。もちろん絵の全体を眺めているときは「現れたり消えたりする」ことはないでしょう。しかし、この絵の左下にあるモネのサインのあたりを中心視でじっと見つめると、周辺視している太陽が消えてしまうように感じないでしょうか。

一般的に言って「輝度が同じものは、やや判別しにくい」(本書)のです。この絵は「日の出」というタイトルどおり太陽がアクセントになっています。しかし "全体に漂うボーッとして混沌とした雰囲気" を作り出している一つの要因が「太陽と朝の空が同じ輝度」ということでしょう。


ピカソの色拡散


"色拡散" とは聞き慣れない言葉ですが、色が本来あるべき形をはみ出し、滲み出して、周りに拡散している状況を言っています。次のピカソの絵について、本書では次のように解説されています。


ピカソによるこの絵は、色を線の内側にきっちりととどめておく必要はないことを示している。たとえまばらな線で形がかろうじて描かれているだけでも、私たちの脳は正しい形にちゃんと色を割り当てる。

「本書」

Mother and Child.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
母と子」(1922)
(ボルチモア美術館)

この絵は「形」がいろいろと省略されていると同時に、子どもの足が典型ですが、形が単純化されています。しかし省略や単純化をしても、我々の視覚は本来あるべき線を補い、本来の形を想像して受け取ります。絵画ではよくあることです。

それに加えてこの絵の特徴は、形に付随しているはずの色が、形から滲み出し、はみ出し、あたりにボーッと広がっている(拡散している)ことです。こうなっても我々の視覚は全く違和感を感じません。解説にあるように、形にちゃんと色を割り当てて見ているのです。

これは水彩画によくある手法ですが、ピカソのこの絵は油絵です。油絵ではあるが、水彩のような淡い色調が使ってある。それが "色拡散" で違和感を感じない原因の一つになっているのでしょう。

しかしこの絵は単に「水彩の技法で描いた油絵」ではありません。"色拡散" で描くことによって「母が子を優しく包み込んでいる感じ」や「母と子が融合して一体化している感じ」がよく出ています。画家が表現したかった精神性と使った絵画手法が不可分にマッチしているところが、この作品の価値だと思います。


顔を認識する脳の働き


イタリア出身でウィーンで活躍したジュゼッペ・アルチンボルドは、果物、野菜、動植物などを寄せ集めた肖像画を描いたことで有名です。


イタリアの画家アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo, 1527~1593)によるこの静物画(左)は彼の好物であるミネストローネスープの材料を描いた作品だ。上下をひっくりかえすと(右)、一盛りの野菜は男の奇妙な顔となり、ボウルが山高帽となる。

この絵はいくつかの興味深い疑問を提起する。まず私たちはこれがら野菜の集まりにすぎないと知っているのに、なぜ顔を見て取るのだろうか? それは私たちの脳が、わずかなデータに基づいて顔の造作と表情を検知し、認識し、見分けるようにできているからだ。この能力は他人と関係を結ぶのに必須であり、雑なつくりの仮面から自動車のフロントエンドまで、あらゆるものに私たちが人の顔を表情を認める理由でもある。

次の疑問は、なぜ絵をさかさまにしたときに顔がはっきり見えるのかだ。その答えは、顔の認識を素早くやすやすと処理している脳のメカニズムが、上下正しい顔を処理するように最適化されているため、さかさまだと認識がずっと難しくなるからだ。

「本書」

庭師(対比).jpg
ジュゼッペ・アルチンボルド(1527~1593)
庭師
(クレモナ市立 アラ・ポンツォーネ美術館)

この絵は「ボウルの野菜、あるいは庭師」と呼ばれることもある。クレモナの美術館では「野菜」の見え方で壁に展示し、その下に鏡を置いて「庭師」が分かるようにしてある。

人間の眼は顔の認識に特に敏感で、顔ではないものにも顔を見つけようとします。よく "人面魚" などの「動物の模様が顔に見える」のが話題になったりします。いわゆる "心霊写真" もそうだし、月や火星のクレーターの写真が顔に見えることもある。「私たちの脳が、わずかなデータに基づいて顔の造作と表情を検知し、認識し、見分けるようにできている」と引用にありますが、まさにその通りで、それこそが人間の社会生活にとって必須の能力だからでしょう。


モナリザの微笑みの秘密


モナ・リザ.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)
モナ・リザ」(11503-1519頃)
(ルーブル美術館)

本書には "世界で一番有名な絵" である、ルーブル美術館の『モナ・リザ』についての解説もありました。モナ・リザの「謎の微笑」についての神経科学からの説明です。微笑んでいるのか、いないのか、そのはざまにあるような微妙な表情ですが、次のように解説してあります。


モナリザの魅惑的な微笑は、おそらく古今東西で最も有名な芸術の謎だ。ハーバード大学医学部の神経生物学者リビングストン(Margaret S. Livingstone)は、モナリザの微笑が現れたり消えたりして見えるのは、視野の中央と周辺の情報を知覚するのに脳が用いている処理が異なるためであることを示した。

モナリザの唇を直視すると、その微笑がとてもかすかであって、実質的にほとんど存在していないことに気づく。次に、口もとに注意を払いながら、彼女の目や髪を見てみよう。微笑は先ほどよりもはっきりと広がる。モナリザの顔を見つめる際の私たちの目の動きによって、微笑が浮かんだり消えたりするように知覚され、モナリザの微笑に命が生まれている。

視野の中心部と周辺部で知覚に及ぼす影響が異なるのは、視野中央部のニューロンが視野のごく狭い範囲について解像度の高い映像を見ているからだ。視野周辺部のニューロンはこれとは逆に、より広い範囲を見ているので解像度は低い。

「本書」

要約すると、

モナリザの口もとを中心視でみると微笑ほほえみはかすかだが、周辺視で見ると明らかに微笑んでいるように見える

ということでしょう。本書には参考のために次の図が提示してあります。これは周辺視を疑似する目的でモナ・リザを画像処理でぼかしたものです。右が視野の周辺での見え方で、左が視野の端の方での見え方に相当します。視野の端に行くにつれて、我々はより微笑んでいるように感じている。これが「謎の微笑」を生み出しているという分析でした。

視野の周辺で見たモナリザ.jpg
モナリザをぼかした画像
右の画像は視野の周辺で見たモナリザを模擬した画像。左の画像は視野の端で見たモナリザを模擬している。視野の周辺から端に行くにつれてモナリザはより微笑んでいるように見える。本書より。

モナリザが "世界で一番有名な絵" になった理由は、まさに「謎めいた表情」だと思います。その「謎」に人々は引き込まれる。この「謎」を作り出している絵画技法が、スフマートというのでしょうか、絵の具の薄い層を幾重ともなく塗り重ねて、全く境目がない色と輝度の変化を作り出したことでしょう。ダ・ヴィンチの天才が神経科学の面からも裏付けられたということだと思います。




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No.276 - AIの "知能" は人間とは違う [科学]

いままで合計16回書いたAI(人工知能)についての記事の続きです。まず、No.196「東ロボにみるAIの可能性と限界」を振り返るところから始めます。No.196 で紹介した「ロボットは東大に入れるか」プロジェクト(略称:東ロボ)の結論は、

◆ 東ロボくんは、"MARCH"、"関関同立" の特定学部に合格できるレベル
◆ ただし、東大合格は無理

というものでした(MARCH = 明治、青山学院、立教、中央、法政。関関同立 = 関西、関西かんせい学院、同志社、立命館)。つまりこのプロジェクトは「AIの可能性と限界を実証的に示したもの」と言えるでしょう。あくまで大学入試という限られた範囲です。しかし大学入試は10代後半の人間の知的活動の成果を試す重要な場であり、その結果で人生が左右されることもあるわけです。"人工知能" の実力を試すにはうってつけのテーマだったと思います。

では、なぜ東大合格は無理なのか。それは東ロボくんには得意科目もあるが、不得意科目があるからです。たとえば数学では、東大理科3類を受験する子なみの偏差値を出しました。しかし不得意もあって、その典型が英語のリスニング、「バースデーケーキの問題」でした(No.196 の「補記」参照)。この問題において東ロボくんは、英語を聞くことは完璧にできました(=音声認識技術)。しかし質問が「できあがったケーキはどれか、4つのイラストから選びなさい」だったため、そこが全くできなかった。国立情報学研究所の方の「絶対に無理」とのコメントがありました。「今のAIの方法論では今後とも絶対に無理」の意味です。要するに No.196 の「バースデーケーキ問題は」、

① 英語のリスニング
② イラストを見て答える常識推論

の複合問題であり、東ロボくんは ① が完璧、② が手も足も出ないという状況だったわけです。AIの可能性と限界を示す象徴的な例です。



そこで次の段階として、疑問が出てきます。

AIが人間と同等にできる、あるいは人間以上にできることについて、AIと人間の違いがあるのか、あるとしたらそれは何か

という疑問です。AIを "人工知能" と言うなら、その "知能" は "人間の知能" と似たようなものか、あるいは異質なものなのか ・・・・・・。

No.196 で東ロボ・プロジェクトのリーダの新井教授は「AIは意味を理解しない」と言っていました。人間が無意識にやっている「意味を理解する」とは非常に広範囲なことですが、たとえば、ある内容の記述を読んだり、発言を聞いたりしたときに、

・ 何を言っているのかが理解できることを前提として
・ その記述や発言に至った理由や背景、意図、目的が理解できる。
・ 内容の価値判断ができる。重要か、自分に関係あるか、一般的なことか、意義があるのか、本当のことか、正しいことか、応用できるか ・・・・・ 等々。

などでしょう。もっとあると思います。もちろんその全部ではないでしょうが、人は多かれ少なかれ、そういうことを暗黙に想定しつつ記述を読み、発言を聞き、コミュニケーションをしています。意味を理解することこそ人間の価値であり、逆に言うと「意味を理解しないで過ごしているばかりだと、いずれ AI に取って代わられる」という警告でした。



では、「AIは意味を理解しない」こと以外に、AIの "知能" が人間と違うところはあるのでしょうか。そのことについて、理化学研究所・上級研究員の瀧 雅人氏が最近の雑誌に大変わかりやすい解説を書かれていましたので、是非、それを紹介したいと思います。「騙されるAI」(日経サイエンス 2020年1月号)という記事で、「騙す・騙される」という切り口から人間とAIの相違、人間にとってのAIの意味を明らかにしたものです。

以降の話は、AIに使われる各種の手法(ないしは数学モデル、アルゴリズム)のうち、ディープラーニングに話を絞ります。ディープラーニングは、2010年代の「AIブーム」の火付け役となったものです。まず、瀧 雅人氏の解説を紹介する前に、ディープラーニングの概要を振り返ってみたいと思います。各種メディアで大量に流されている情報ですが、あとの瀧氏の解説に関係する部分を要約します。

なお、No.180「アルファ碁の着手決定ロジック(1)」で、英国・ディープマインド社の「アルファ碁」(2015年末当時)で使われているディープラーニングの内部構造(アーキテクチャ)を解説しました。これは、画像認識によく使われる「畳み込みニューラルネットワーク(Convolutional Neural Network。CNN)」と呼ばれるタイプのものです。ただし碁のゲーム用に特化したCNNです。


深層学習(ディープラーニング)の発展


AIに使われる手法は各種ありますが、現在のAIのブレークのきっかけになったのは深層学習(ディープラーニング)の実用化に成功したことでした。この技術革新をもたらしたのが、業界では "カナディアン・マフィア" と呼ばれるモントリオール大学教授のヨシュア・ベンジオ、トロント大学名誉教授のジェフリー・ヒントン、現フェイスブックのチーフAIサイエンティストのヤン・ルカンでした。彼らは "AIの冬の時代" にも地道に研究を重ね、ディープラーニングに関する数々の技術的困難を克服してきました。

画像認識】 業界が衝撃を受けたのは2012年のILSVRC(Image-net Large-scale Visual Recognition Challenge)です。これは与えられた画像に何が写っているかを1000種の中から答えるというものです(= 一般物体認識)。このコンテストに参加したトロント大学のヒントン教授のチームは、ディープラーニングを使い、それまでの誤認識率を一挙に10ポイントも改善する 16% という値を達成しました。それまでは数年で1~2%の改善だったことを思うと、これは革新的です。その後も精度は急激に向上し、2015年あたりでは 5% 程度にまで低下しました。これは人間の画像認識能力の平均値を越えています。

音声認識】 画像認識とともにディープラーニングの成果が最初に現れたのは音声認識です。これについては瀧 雅人氏の解説を引用します。


ディープラーニングの初期の成果の一つは、人間の話し言葉を文字に変換する音声認識技術の革新的な進歩である。2011年、ヒントンの研究室に所属する大学院生が、夏休みにインターンとして滞在したマイクロソフトで、ディープラーニングを利用した音声認識手法を開発した。この手法は、大企業マイクロソフトの音声認識システムの性能を一気に向上させた。

2012年10月、中国・天津でマイクロソフトの研究統括責任者がスピーチを行ったが、その音声はリアルタイムでテキスト化されてスクリーン上に映し出され、音声認識のブレークスルーを象徴するデモンストレーションとなった。

瀧 雅人「騙されるAI」
日経サイエンス(2020年1月号)

自動翻訳】 ディープラーニングが発展したもう一つが自然言語処理(Natural Language Processing。NLP)の分野で、その典型的な例は自動翻訳です。自動翻訳にディープラーニングを取り入れたのはグーグル翻訳が最初ですが、その精度は年々向上し、多くの自動翻訳システムがディープラーニングを取り入れるようになりました。

読解力】 その自動翻訳のための基礎技術の一つが読解力です。No.234「教科書が読めない子どもたち」で、国立情報学研究所の新井教授が主導した RST(Reading Skill Test)を紹介しましたが、RSTは読解力(基礎的読解力)判定するものです。RSTは基礎的読解力を「係り受け」「照応解決」「同義文判定」「推論」「イメージ同定」「具体例同定」にわけて測定するものですが、「推論」「イメージ同定」「具体例同定」の3つはまだまだAIにとって困難な問題です。しかし「係り受け」「照応解決」についてはAIが好成績をあげています。

読解力をテストするベンチマーク問題に SQuAD(Stanford Question and Answer Dataset)があります。これはスタンフォード大学が整備しているデータベースで、Wikipediaの例文をもとに、例文に関する質問と答(すべて英文のテキスト)が集積されています。RSTの基礎的読解力で言うと「係り受け」と「照応解決」に相当しますが、ある程度の「推論」が必要な問題もあるようです。

2018年1月、マイクロソフト・リサーチのディープラーニング・システムが、SQuADのベンチマークで(その当時の)人間の平均値(82.3点)を初めて上回りました。その後、2019年に至って90点に迫るディープラーニング・システムも出現しています。あくまで基礎的読解力の一部の範囲ですが、AIはそういう実力だということです。



以上の画像認識、音声認識、自動翻訳だけでなく、ディープラーニングは多くの分野で突出した成果をあげています。それは商用だけでなく、医療、創薬、新素材開発、天文学などの研究開発分野にも広がっています。


ディープラーニングは説明可能ではない


ディープラーニングで重要なことは、問題から正解を導く方法や筋道、アルゴリズムを人間が教えたのではないことです。あくまで「問題と正解のデータ」を大量に集め、それをディープラーニングを実装したコンピュータ・システムに学習させたものです。

ここから言えることは、ディープラーニングが答えを出したとしても、なぜそうなるのかの理由が説明できないということです。その例として、No.180「アルファ碁の着手決定ロジック」で取り上げた英国・ディープマインド社のアルファ碁(=2015年末当時のアルファ碁)で言いますと、policy newtwork によって碁のエキスパートが次に打つだろう点の確率を計算し、A点が 0.6、その1路横のB点が 0.2 になったとき、なぜA点の方が有力かの説明をアルファ碁はしないわけです。人間ならたとえば「B点は相手の厚みに近寄り過ぎているので、ここは1路控えたA点が正解」というように理由を説明するわけです。さらには「敗勢なら一歩踏み込んだB点で勝負をかけるのもありだが、今は状勢が拮抗しているのでA点に打つべき」と付け加えるかも知れません。そういった「説明」がAIはできない。

これは、ディープラーニングはブラックボックスだから、というのではありません。アルファ碁のアーキテクチャは明確であり、そこでどういうパラメータが使われているのか、(アルファ碁の開発者なら)調べようと思えばいくらでも調べられるからです。しかしアルファ碁のパラメータは No.180 で試算したように約388万個もあります。それがどのように影響し合って答えを導くのか、膨大すぎて人間には理解しがたいのです。

要するにディープラーニングは「なぜだか明確には説明できないが、答は結構正確」なのです。もちろんそれで有益な場合があることは確かです。人間が思いつかないような(ないしは見落としているような)答を出し、それを人間が検証して有効活用できればよい。しかしこのままでは真に重要な決定をディープラーニングに任せてしまうことはできません。この点を克服するため、現在「説明可能なAI」が世界の研究者の間でのホットな研究テーマになっています。


ディープラーニングを騙す


日経サイエンス 2020年1月号.jpg
日経サイエンス
(2020年1月号)
以上のことを踏まえて、瀧 雅人氏の「騙されるAI」(日経サイエンス 2020年1月号)を見ていきたいと思います。ディープラーニングがブレイクするきっかけとなった画像認識(一般物体認識)の話です。

瀧氏の解説ではまず、一般物体認識を行うディープラーニングを "騙せる" ことが述べられています。意図的に作ったデータでディープラーニングを騙すことを「敵対的攻撃」と言い、騙されたデータを「敵対的事例」と言います。瀧氏はそれを、自ら中国で撮影したパンダの画像とオックスフォード大学が開発したディープラーニングでやってみました。

まず、元の画像をディープラーニングに入力すると「パンダである確率が99.997%」が出力されました。これは妥当な結果です。

次に、元の画像にディープラーニングを騙す目的で作った「敵対的ノイズ」を薄くかぶせると「81.576%の確率で雄羊」と判断されました(敵対的事例 ①)。

さらに、画像の一部に別の画像を張り付けても「89.445%の確率で雄羊」と判断しました(敵対的事例 ②)。

画像全体の色調を変化させるという敵対的攻撃もあります。この例では「51.0706%の確率でテディベア」と判断するようになりました(敵対的事例 ③)。

元の画像.jpg
元の画像
AIの判定 = パンダ(99.997%)
(日経サイエンス 2020.1 より。以下同様)

敵対的ノイズ.jpg
敵対的ノイズ
敵対的事例 ① を作り出すためのノイズ。このノイズを薄く元の画像にかぶせる。

敵対的事例1.jpg
敵対的事例 ①
AIの判定 = 雄羊(81.576%)
元の画像に上の敵対的ノイズを薄くかぶせた画像。人間の目では元の画像との違いが全くわからないが、AIは高い確率で雄羊と判定した。

敵対的事例2.jpg
敵対的事例 ②
AIの判定 = 雄羊(89.445%)
画像の一部に、AIを騙す目的で作った別の画像を張り付けたもの。他の部分は元の画像と変わらないが、AIはこれも高い確率で雄羊と判定した。

敵対的事例3.jpg
敵対的事例 ③
AIの判定 = テディベア(51.0706%)
画像全体の色調を変化させたもの。人間の目にはパンダであることに変わりがないが、AIが最も確率的に高いとしたのはテディベアであった。

もし人間が「敵対的事例 ① ② ③」の画像を見たとしたら、たとえ保育園児であっても全員が口をそろえて「パンダ!!」と答えるに違いありません。ここから類推できることは、

ディープラーニングは人間のように "考えて" いるのではない

ということです。保育園児でも簡単に答えられることに間違ってしまうのだから ・・・・・・。

ディープラーニングは、いかにも人間がモノを認識しているように認識するように見えます。しかも人間より優れている面も多いわけです。たとえば自動車の運転を考えると、人間が 0.1 秒で障害物を認識できたとして、ディープラーニングが 0.01 秒だと、この差は事故回避行動の観点からクリティカルになるでしょう。さらにディープラーニングは疲れないし、意識レベルが下がることもないし、意識が一瞬飛ぶこともない。この技術を今後の社会に有効に活用しない手はないのです。

しかし、ディープラーニングはどうも人間が認識しているように認識しているのではなさそうです。このことが悪影響を及ぼさないのか、何らかの副作用につながらないのか。ディープラーニングは結構正確だが突如誤った答えを出さないのか。この点をよく研究しておく必要があるわけです。


騙す方法


どうすれば敵対的攻撃でディープラーニングを騙せるのでしょうか。瀧氏の解説では一般物体認識を例に「騙す方法」の簡単な例が書かれています。

今、画像のサイズを 100 × 100 ピクセル、合計 10,000 ピクセルの白黒画像だとします。各ピクセルは、たとえば 0(白)~255(黒)の256階調の値が指定されているわけです。ここにパンダの顔の画像があり、この画像はディープラーニングで 99.9% の確率で「パンダ」と判定されるとします。

この画像にノイズを加えます。このノイズは 100 × 100 ピクセルで、各ピクセルは +3 か -3 のどちらかです。このノイズを元の画像に足し合わせるわけです(もちろん 0~255 の範囲に収めるような補正が必要)。この程度のノイズを加えても人間の眼にとっては元の画像と全く区別がつきません。このノイズの中で「ディープラーニングがパンダとかけ離れた判定をするノイズ」を探索するというのが眼目です。

ノイズは10,000 の各ピクセルが +3 か -3 のどちらかの値をとります。従ってノイズのパターンは 210000 種類あり、これは3,000桁を越える超天文学的に巨大な数です。全部のパターンを調べるのは到底不可能です。しかし敵対的攻撃をするためには、全部のパターンを調べる必要は全くありません。瀧氏は次のように解説しています。


膨大な候補の中から最もズレの大きな1つを正確に探し当てることは事実上不可能であるし、その必要もない。ある程度の間違いを引き起こすノイズさえ見つけられれば、攻撃する側にとって実用上十分である。

FGSM(Fast Gradient Sign Method)と呼ばれる敵対的ノイズの作成アルゴリズムでは、出力が一番おかしな方向にずれていくようなノイズを、微分法を利用して近似的に計算する。入力の変化に対して出力の変化率が最大となるようなノイズのパターンを探索するのである。微分を計算する数学的なアルゴリズムはすでにあり、しらみつぶしにノイズを試すよりもはるかに高速に計算できる。

瀧 雅人「騙されるAI」
日経サイエンス(2020年1月号)

つまり、数学的に言うと大変にシンプルなやり方で敵対的攻撃ができることになります。

しかし、FGSMは「出力が一番おかしな方向にずれていくようなノイズを、微分法を利用して近似的に計算」するものであり、このためにはディープラーニングの内部構造とパラメータを知らなければなりません。内部を知った上の攻撃という意味で、このような攻撃を「ホワイトボックス攻撃」と呼んでいます。

「ホワイトボックス攻撃」を防ぐためには、ディープラーニングの内部構造を隠してしまい、入力・出力のインターフェース仕様(API。Application Program Interface)だけを公開すればよいわけです。グーグルや日本のプリファード・ネットワークスが一般公開しているディープラーニングは APIの公開方式になっています。しかしこれでも騙せるのです。


ところが最近では、ディープラーニングの詳細が隠されていても敵対的事例の作成が可能なアルゴリズムも多数発見されている。「ブラックボックス攻撃」と呼ばれるこの種の攻撃は、APIを用いたサービスの信頼性を毀損するなど、より深刻な事態を引き起こしうる。2016年にはペンシルベニア州立大学の研究者らがアマゾンやグーグルなどがウェブサービスとして提供しているディープラーニングにAPIを通じてリモートで敵対的攻撃をしかけて成功させ、サイバー空間での敵対的攻撃のリスクを如実に示した。

「同上」

もちろん、攻撃をかわすための防御アルゴリズムも研究されています。たとえば敵対的事例も含めて予測できるように学習するという「敵対的学習」です。こうすることによって、あらかじめ学習させた敵対的事例については間違いが起こらなくなります。

しかし敵対的学習を行ったあとのディープラーニングに対して、新たな敵対的攻撃アルゴリズムを使ってノイズを生成することは可能であり、新たな敵対的事例ができることになります。新手の敵対的事例では再び間違いが起こる。

その他、数々の防御アルゴリズムが開発されていますが、それぞれに対する攻撃手法もまた開発されています。要するに「いたちごっこ」であり、現時点では完璧な防御策はありません。現在、世界の研究者がより幅広い攻撃を効果的に防ぐことができるアルゴリズムを探求しているところです。


騙される理由が分からない


なぜディープラーニングは騙されてしまうのでしょうか。これについて瀧氏は次のように書いています。


高性能なはずのディープラーニングが敵対的事例によってなぜ容易に騙されてしまうのか。その理由は、実は現在でもよくわかっていない。にもかかわらず、敵対的事例はコンピュータで簡単に作れてしまう。しかも作成のためのアルゴリズムは、今でも次々と新しいものが見つかっている。

動作メカニズムが理解されていないにもかかわらず敵対的事例が作れてしまう理由は、その作成方法にある。作成時にはディープラーニングの予測が何らかのおかしな方向に転んでいくことだけを要請して、あとの計算は計算機に任せる。したがって敵対的事例の動作プロセスの詳細を我々が一切指定しなくても、うまく機能する敵対的事例が作れてしまうのだ。

入力側を見ると、ほんの小さな敵対的ノイズによってピクセル値が少しずらされたにすぎない。にもかかわらず、出力側で得られる予測結果は大きく変わってしまう。このノイズに対する鋭敏さが何に起因しているのかがわかっていないのだ。敵対的攻撃に対する防御が難しいのは、まさにこのためだ。なぜディープラーニングが誤った判断を下すのか、そのメカニズムが不明なので、根本的な対策が立てられない。

「同上」

ディープラーニングついて「動作メカニズムがわかっていないにもかかわらず敵対的事例が作れてしまう」ことは、実は「動作メカニズムがわかっていないにもかかわらず結構正しい答を出す」ことの裏返しの関係にあるのですね。

上の引用にあるように、騙される理由はわかっていないのが現状です。ただし、確定的なことは言えないけれども「次元の呪い」が関係しているというのが多くの研究者の共通認識です。


次元の呪い


「次元の呪い」とは、高次元空間で我々の幾何学的な直感が破綻する現象を指します。これを瀧氏は以下のように説明しています。

辺が6の正方形.jpg
まず2次元の場合で、1辺の長さが6の正方形を考えます。座標上に描いたのが右図です。正方形の中心から頂点までの距離はピタゴラスの定理より

(2次元) 3√2 = 4.24

となります。次に3次元の立方体(1辺の長さが6)を考えると、立方体の中心から頂点までの距離は、直角を挟む2辺の長さが 3√2 と 3 の直角三角形の斜辺の長さなので、

(3次元) 3√3 = 5.20

となります。つまり、2次元の場合より距離が少し長くなります。座標で計算すると、3次元の場合、8つの頂点の座標は(±3, ±3, ±3)なので、原点である (0, 0, 0) との距離は 32 * 3 の平方根であり、3√3 となるわけです。

これを拡張し、高次元空間(N 次元)の1辺6の超立方体ではどうなるでしょうか。図形的には計算できないので座標で考えると、3次元の場合を拡張し、中心と頂点の距離は 32 * N の平方根となります。つまり、

(N次元) 3√N

です。もし N = 10000 だとすると、距離は

(10000次元) 3√10000 = 300

となります。低次元では中心からそう遠くない距離にあった頂点が、高次元では格段に遠くなってしまう。これが典型的な「次元の呪い」です。この「次元の呪い」によって敵対的ノイズが結果に大きく影響すると考えられているのです。


先ほどのFGSMによる攻撃の例では、画像のピクセルが合計10000個あった。それぞれを座標とみなすと、1枚の画像は、数学的には10000次元空間のある1点に相当する。ノイズが作る元画像とのズレは(各次元ごとに) +3 か -3 なので、生成した敵対的事例は、元画像から距離3ずつ、次元の数の回数だけ様々な方向に動いた位置にくる。数学的に言えば、敵対的事例は元画像を中心にした一辺が6の超立方体の角の上に位置する。そのため、各ピクセルは3しか動いていないにもかかわらず、元画像と敵対的画像の距離は300という極めて大きい値になる。これは小さな敵対的ノイズから大きなズレが生み出されたことを意味する。

このズレがディープラーニングの内部における計算過程に大きな影響を与える場合、最終的な出力も大きく変動してしまう可能性がある。

次元の呪いが大きな効果を生み出しうることは確かだが、本当にディープラーニングの内部で本質的な役割を果たしているかどうかは、まだはっきりとはしていない。現在も多くの研究者が数学モデルを使って、次元の呪いによって敵対的事例のメカニズムを説明しようと試みている。

「同上」

次元の呪い.jpg
次元の呪い
「次元の呪い」を概念的に表した図。10,000次元というような高次元空間の超立方体では、原点(=元の画像)と頂点(=元の画像に敵対的ノイズを薄くかぶせた画像)の距離は極端に大きくなってしまう。
(日経サイエンス 2020.1 より)


ディープラーニングは人間の思考とは違う


ディープラーニングが騙される本質的な理由は現状では解明されていません。しかし、理由はともかくここから分かることは、どうもディープラーニングは人間とは違うようだ、ということです。


敵対的攻撃は、ディープラーニングと人間の認識プロセスが大きく異なることを浮かびあがらせた。もともと神経細胞や脳の視覚野の構造をヒントにして作られたニューラルネットが独自の進歩を遂げて人間の認識能力に匹敵するようになったものだが、それはディープラーニングが人間い近づいたことを意味するわけではない。両者ともに高い認識能力を備えてはいるが、ディープラーニングは人間とは別の方法で認識し、理解している。我々はその表層に現れる結果を見て、ニューラルネットが人間に近づいたかのように感じているが、その背後にあるのは、全く異なるシステムだ。

「同上」

ディープラーニングは人間とは別の方法で認識し、理解していて、その認識方法・理解方法が解明されていない。ことことはディープラーニングの社会応用に深刻な障害となります。これを瀧氏は、

もし現在でも地動説が確立していなかったら

という "寓話" で説明しています。卓抜な比喩だと思ったので、次に紹介します。


ディープラーニングで惑星の運動を予測する


天動説と地動説に関する歴史の振り返りです。コぺルニクス以前の天動説では、地球が中心にあり、その周りを太陽と惑星が回っているという宇宙像でした。もちろん、惑星の位置を詳しく観測すると単純に回っているのではない結果が得られます。つまり惑星は天球上を立ち止まったり、バックしたり、再び方向を変えて進むというような不規則な運動をするのです(惑星の "惑" とはそういう意味です)。

天動説では、この惑星の不規則な運動を「周転円」で説明していました。つまり惑星はそれ自身がある中心の周りを回っており、その中心が地球の周りを回っているという説明です(これ以外にも人為的な仮説がいろいろある)。

これに対してコペルニクスは、地球を含む惑星が太陽の周りを回っているという地動説を唱えました。これによって惑星の不規則な動きを説明したのです。ただしコペルニクスは惑星の軌道を円と考えていたため、その説明には限界がありました。

それを解決したのがケプラーです。ケプラーは精密な観測データをもとに、惑星の軌道が円ではなく楕円であることを証明しました(ケプラーの第1法則)。これによって惑星の動きは完全に説明できたのです。

さらにニュートンは万有引力の法則を発見し、2つの物体には質量に比例し距離の2乗に反比例する引力が働くことを示しました。この法則と運動方程式を組み合わせることで、惑星は太陽の周りを楕円軌道で回り、太陽は楕円の焦点にあることが数学的に証明できます。以上の、コペルニクス → ケプラー → ニュートンの発見は、科学史の偉大な成果であることは言うまでもありません。



そこでもし、現代においても地動説が確立していず、惑星の運動の予測にディープラーニングを使ったらどうなるかです。もちろん、過去の惑星の「時刻・位置データ」が膨大に蓄積されているという前提です。これをディープラーニングに学習させ、そして直近の惑星の運動を入力して今後の運動を予測する。

これは画像認識のためのディープラーニングとは種類が違います。時系列の数値データを入力し、そこから予測をしたり、傾向を把握したりするタイプのディープラーニングです。現代では音声認識、株価の予測、機械の動作状況からの異常検知などに使われています。このディープラーニングで惑星の運動を予測したらどうなるか。


仮にディープラーニングやコンピュータが発達した現代でもいまだに地動説が確立していないというSF的な状況を考えてみよう。そして、ディープラーニングに惑星が夜空を動く軌跡などの天体観測データを学習させたとする。良質なデータと十分に速いコンピュータがあれば、ディープラーニングは一見不規則に見える惑星の軌道を精度よく予測することだろう。

では、それで惑星の運動を理解できたことになるのだろうか? 否、単に予言が天下り的に与えられるだけで、何ら科学的な理解だけにはつながらない。科学的な理解のためには、「地球も惑星も太陽の周りを楕円軌道を描いて公転しているため惑星が不規則な運動をしているように見える」というシンプルな理屈が抽出できなくてはならない。だがディープラーニングの中で行われている推論のプロセスが見えないため、そうした理屈を引き出すことができない。人間のような推論プロセスに従っているのかどうかすら不明だ。

ディープラーニングの予言がいくら正しく当たっても、利用者はそれだけでシステムを信頼することはできないだろう。敵対的事例に対する反応のような異常な結果が突然表れないとの保証はないからだ。推論の過程を理解して、その正当性を直感的に理解できなくては、システムへの信頼性は担保されない。

「同上」

惑星の軌道を精緻に予測するディープラーニングの中身をいくら調べてみても「惑星は太陽の周りを楕円軌道で公転する」という知見は得られないでしょう。コペルニクス以前の学者のように「周転円」のような人為的な仮説を満載した天動説で強引に計算しているだけかもしれないのです。


AIと人間の共存


以上のようなディープラーニングの現状を踏まえて、瀧氏は次のように総括しています。


ディープラーニングの行き着く先は人間を越える人工知能ではなく、我々人間とは全く異なる方式で推論する、もう一つの「知性」なのかもしれない。その思考のプロセスをたどることができるようになれば、これまで人間には考えもつかなかったひらめきや、物事の理解の仕方につながる可能性もあるだろう。

科学はこれまで、できる限りシンプルなモデルによって全てを説明・理解しようとする還元主義的方法論、いわゆる「オッカムの剃刀」によって発展してきた。だがディープラーニングという新たな「知性」の登場で、ホーリズムのような非還元主義的な立場が、精密科学の方法として発展する可能性さえ否定できない

ただし、それは遠い先の話だ。現時点ではディープラーニングはまだまだ発展途上のテクノロジーであり、完璧からはほど遠い。それを顧みずに、研究者による安易で一見華やかな応用ばかりが進むとしたら残念である。この技術は、いまだ地味だが深い未解決問題がたくさん残っている未開の領野である。応用研究だけでなく、ディープラーニングの深い理解に繋がる基礎研究によって、この地を切り開くことが求められている

「同上」


上の引用に出てくる「オッカムの剃刀」とは、「あることを説明するためには、必要以上に多くの仮定をすべきでない」という指針ですね。オッカムは中世ヨーロッパの哲学者の名前、剃刀かみそりとは説明に不要なものを切り落とすことの比喩です。

シンプルな原理によって全てを説明するというのが科学の立場(ないしは野望)ですが、ディープラーニングはそれとは違う立場の科学の発展の可能性がある、というが瀧氏の予感です。あくまで、そういう可能性も考えられるということなのですが、これがディープラーニングがもつ重要な意味でしょう。


AIは人間の知能を上回る?


以下は瀧氏の解説を読んだ感想です。

よく「20XX年にはAIの知能が人間を上回る」というようなことを言う人がいます。しかし、この手の発言がどのような実証的研究に基づいてなされているのか、はなはだ不明です。人を驚かせようとする無責任な発言に思える。

こういうこと言うためには、最低限、① 人間の知能とはなにか、それはどういう原理やプロセスで生み出されるのか、② AIの知能とは何か、それが生み出されるプロセスは人間と同じなのか、それとも違っているのか、という2点の説明がなければなりません。

しかし現時点において、① の人間の知能が解明されているわけでは全くありません。また ② の(現在における)AIの知能は瀧氏が解説しているように、人間の知能とは別種のものである可能性が極めて高いわけです。「人間とは別種のものが人間を追い越す」というは奇妙な言説です。

もちろん特定のエリアでは、AIの方が人間より遙かに速く、正確に答えを出すことがあるでしょう。しかしそれは、たとえて言うと「走るスピードではクルマが人間を追い越す」というのに近い。クルマが走る原理は人間と全く違います。人間はそのスピードを最大限に利用して現代生活が成り立っている。もちろんクルマに頼り過ぎると運動不足に陥り、生活習慣病を発症したりしてまずいことになるわけで、その配慮が必要なことは言うまでもありません。同様のことはAIについても言えるでしょう。

瀧氏の文章は、ディープラーニングという範囲でAIと人間の違いを明らかにしたよい解説だと思いました。ディープラーニングの本質を見極める基礎研究や、ディープラーニングの答の理由を「説明可能にする」研究によって、人間のAIとのつきあい方が決まっていくし、人間とAIの共存方法が見えてくるのだと思いました。



 補記1:SQuAD 

この記事の本文で、米国のスタンフォード大学が AIのベンチマークのために作成している SQuAD(The Stanford Question Answering Dataset)のことを書きました。これは「例文・質問・回答データベース」です。まず例文があり、それについての質問と回答が複数あります。すべて英文のテキストデータです。回答の中には "No Answer"、つまり答えがない(=例文の情報だけでは答えられない)ものもあります。

この SQuAD がどういうものか、その問題例を以下に掲載します。最新の「SQuAD 2.0」の問題の一つで、ライン河に関するものです(2020.1. 現在。https://rajpurkar.github.io/SQuAD-explorer/)。単位系の記述を分かりやすいように修正しました。


SQuAD 2.0 問題例

例文
The Rhine (Romansh : Rein, German : Rhein, French : le Rhin, Dutch : Rijn) is a European river that begins in the Swiss canton of Graubünden in the southeastern Swiss Alps, forms part of the Swiss-Austrian, Swiss-Liechtenstein border, Swiss-German and then the Franco-German border, then flows through the Rhineland and eventually empties into the North Sea in the Netherlands. The biggest city on the river Rhine is Cologne, Germany with a population of more than 1,050,000 people. It is the second-longest river in Central and Western Europe (after the Danube), at about 1,230 km (760 mile), with an average discharge of about 2,900 m3/s (100,000 ft3/s).

質問1
What country does the Rhine empty ?
正解1
the Netherlands

質問2
What river is larger than the Rhine ?
正解2
the Danube


自然言語処理を行うAIシステムとしては、質問1では北海(the North Sea)とオランダ(the Netherlands)の関係を把握しなければなりません。また質問2では「after the Danube」という記述をもとに、ライン河より長いのがドナウ河と判断する必要があります。

なお、この例文には12の質問が設定されていますが、そのうちの5つは「No Answer」が正解です。



 補記2:イラストで答えるリスニング問題 

この記事の本文で、AIが不得意な大学入試問題の典型が「英語のリスニングの結果をイラストの選択で答える」ものだとしました。その実際の問題を掲げます。2019年度 センター本試験、英語リスニング問題の「第1問 問1」です。


2019年度 センター本試験
英語リスニング問題 第1問 問1

リスニング台本(M:男性、W:女性)

M : We need an idea for a new cartoon character.
W : I agree. How about a vegetable ?
M : That sounds OK. But, for a stronger impact, give it wings to fly.
W : Good idea.

質問

What might the character look like ?

回答(4択)

センター英語リスニング 2019 Q1-1.jpg

羽の生えた野菜を選べばよいので、正解は言うまでもなく ② です。受験生としては、ICレコーダから流れる英語音声を聞き取ることさえできれば(特に vegetable と wings)間違えようのない問題です。

一方、AIはどうかと言うと、英語音声をリスニング台本と質問文に変換するのは容易です。全く雑音がない環境での明瞭な英語なので、この程度の音声認識は現代のAI技術では完璧にできるのです(でないとAIスピーカなど実用化できません)。

しかしそのあとが無理です。これをディープラーニングで回答しようとすると「羽の生えた野菜」含むイラストデータを大量に用意し、それを学習しなければなりません。しかし、そんなイラストの学習データを大量に用意できるはずがないのです。

もちろんセンター試験の受験生にとっても「羽の生えた野菜」のイラストを見るのは生まれて初めてでしょう。全く初めてではないかもしれませんが、過去に(絵本などで)似たイラストを見たことなど忘れているはずで、「生まれて初めて」と同じことです。生まれて初めてではあるが、リスニングができた受験生は間違えることなく答えられるのです。

AIにとって「羽の生えた野菜」を識別するのが困難なら、では「野菜」と「羽」を識別してそれが含まれるイラストを答えたらどうか。しかし、これも難しいでしょう。「野菜」にはたくさんの種類があります。「野菜」か「野菜でない(たとえば果物)」を識別するのが簡単とは思えない。しかも、実物の画像ではなくイラストです。イラストはイラストレーターがモノの特徴をとらえて(ある場合はデフォルメをして)恣意的に描くものです。たとえイラストを大量に集めたとしても有効なディープラーニングの学習はできないでしょう。しかもセンター試験の問題にあるように、ニンジンに目・鼻・口・手・足があってもそれはなおかつニンジンなのであり、そんな "高度な" 認識がAIで簡単に行くとは思えません

100歩譲って「野菜」と「羽」のイラストを認識できるディープラーニングができたとしましょう。しかし苦労してそんなものを作ったとしても使い道がありません。なぜなら、センター試験に「羽の生えた野菜」が出るのは2019年度の1回きりだからです。次年度は「足の生えた飛行機」かもしれないし、そもそもマンガのキャラクターに関する会話がリスニングに出るのはこれっきりかもしれません(いや、センター試験なので "これっきり" のはずです)。

世の中に絶対に存在しないもののイラストは無限に考えられます。しかし受験生は常識推論でそれを理解します。常識推論で簡単に答えられるからこそ出題されるのであって、常識で簡単に答えられないようだとリスニング能力をテストするという主旨から逸脱してしまうのです。

センター試験の受験生が100%できることが、現代のAI技術では全く歯が立たない。そういう例なのでした。



 補記3:スマートスピーカーへの敵対的攻撃 

本文中にディープラーニングを使った画像認識を騙せることを書きましたが、同様の原理で音声認識も騙せるようです。アマゾンの「エコー」やグーグルの「グーグル・ホーム」は、ネットに繋がった音声認識技術によって人間の指示を理解し、サービスを提供します。筑波大学の佐久間淳教授(=理化学研究所・人工知能セキュリティ・プライバシーチーム リーダー)は社会に警鐘を鳴らすため、スマートスピーカーを騙す実験を行いました。


佐久間らが最近実証したのは、通常の音声にノイズの形で音声情報をこっそり埋め込み、スマートスピーカーを音声操作する技術だ。

佐久間らのハッキング実験は以下のように行われた。音声認識ソフトを入れたパソコンにマイクを接続し、人の話し言葉を入力できるようにしておく。そこにバッハの無伴奏チェロ組曲第1番の録音演奏を流す。話し言葉ではないので、当然パソコン反応しない。

ところが、同じ曲が再び流れると、今度はパソコンはすぐに反応し、「ハロー・ワールド」という言葉だと認識した。よく聞くと音楽に重なって、不規則なノイズのような音が響いている。ただ、音色が少しひずんで感じられるだけで、何か言葉が話されているようには聞こえない。

佐久間らはノイズを混ぜ込んだ音楽が「ハロー・ワールド」と認識されるように、機械学習による最適化手法を使って、ノイズを設計したのである。もちろん、おなじ手法で、様々な音声コマンドを、聞いている人間に気づかれることなく、音楽などに載せることができる。ラジオから音楽を流しただけで、家の中の機器のスイッチをオンオフしたり、特定の言葉をパソコンに表示するといったハッキングができてしまうのだ。

吉田和輝(日本経済新聞)
「加速するAI攻撃」
日経サイエンス(2020年6月号)

スマートスピーカへの敵対的攻撃.jpg
スマートスピーカーを騙す
元の音にうまく設計したノイズを載せると、スマートスピーカーの音声認識は「Hellow World」と言ったと誤認する。人間には元の音がひずんだようにしか聞こえない。
日経サイエンス(2020年6月号)より

この記事を読んでまず思ったのは、佐久間教授はクラシック音楽好きだということです。あるいは、人間の耳はチェロの音が最もノイズを判別しにくいということを試行から決めたのかもしれません。

それはともかく、この実験から直ちに「エコー」や「グーグル・ホーム」を騙せるということにはなりません。商用化されているスマートスピーカーは、ディープラーニングの内部構造が公開されていないからです。しかし最近のAI研究では、内部構造を知らなくても敵対的攻撃が可能な手法(=ブラックボックス攻撃)が開発されています。「警鐘を鳴らす」ための実験としては、大いに意味があると思いました。

そしてこの件もまた画像認識と同様、音声を認識するAIの "知能" が人間の知能とは違うことを示しているのでした。

(2020.6.4)



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No.275 - 円山応挙:保津川図屏風 [アート]

円山応挙から近代京都画壇へ.jpg
No.199「円山応挙の朝顔」で、東京の根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』という展覧会(2016年11月3日~12月18日)に出展された応挙の作品を何点かとりあげました。今回はその続きで、2019年夏に開催された応挙作品を含む展覧会の話を書きます。東京藝術大学美術館で開催された「円山応挙から近代京都画壇へ(東京展)」(2019年8月3日~9月29日)です。

今回は展示されていた応挙作品の中からピンポイントで『保津川図屏風』(重要文化財。後期展示)をとりあげ、併せて順路の最後に展示してあった川合玉堂の作品のことを書きます。まず、この展覧会の概要です。


円山応挙から近代京都画壇へ


この展覧会の内容については、主催者が発行したパンフレット(上の画像)に次のように記されていました。


18世紀、様々な流派が百花繚乱のごとく咲き乱れる京都で、円山応挙は写生画で一世を風靡し円山派を確立しました。また、与謝蕪村に学び応挙にも師事した呉春によって四条派が興り、写生画に瀟洒な情趣を加味して新たな一派が誕生します。この二派は円山・四条派としてその後の京都の主流となり、近代に至るまで京都画壇に大きな影響を及ぼしました。

本展は、応挙、呉春を起点として、長沢芦雪、渡辺南岳、岸駒がんく岸竹堂きしちくどう幸野楳嶺こうのばいれい塩川文麟しおかわぶんりん、竹内栖鳳、山元春挙、上村松園ら近世から近代へと引き継がれた画家たちの系譜を一挙にたどります。また、自然、人物、動物といったテーマを設定することによって、その表現の特徴を丁寧に追います。

日本美術史のなかで重要な位置を占める円山・四条派の系譜が、いかに近代日本画に継承されたのか。これまでにない最大規模でその全貌に迫る、圧巻の展覧会です。

「円山応挙から近代京都画壇へ」
パンフレット 

要するに「応挙に始まる円山・四条派の系譜を近代日本画までたどる展覧会」です。主催者が自ら "圧巻の展覧会" と誇らしげに書くのも珍しいと思いますが、確かにその文句に偽りはありませんでした。よい企画だったと思います。



この展覧会には、兵庫県・香住にある大乗寺(応挙寺という俗称がある)の襖絵の一部が公開されていました。それは特注のガラス・ケースの中に入れられていて、部屋の一部のように展示してあり、見学者はかなり接近して見ることができました。

私は大乗寺に行ったことがありますが、その時は襖絵の収蔵庫はまだなく、寺の客室に本物の襖絵がありました。従って見学は各部屋の外の廊下から中を眺めるというスタイルだった。全部が重要文化財の襖絵なので、それはやむをえないと思います。

しかし襖絵や屏風は本来、部屋のしつらえや間仕切りであり、そこに描かれた絵画は、座った目線で近接して鑑賞したり、また少し離れて眺めたりと自由にできるものです。その意味では、今回の展示方法は接近して細部を観察することも、また離れて全体を鑑賞することも自由で、工夫した展示方法だと思いました。

大乗寺屏風絵の展示.jpg
大乗寺の襖絵の展示
「円山応挙から近代京都画壇へ」より

以降、まず円山応挙の『保津川図屏風』のことを書きます。これは応挙の絶筆です。私は初めて実物を見ました。


保津川


まず題名の「保津川」ですが、これは京都市の嵐山の渡月橋の下を流れている桂川のことです。この川は、京都市の北西の亀岡盆地(=亀岡市)を通って嵐山に流れ込むという経路をとりますが、習慣的に3つの名前で呼ばれています。大堰おおい川、保津川、桂川の3つです。亀岡盆地の部分は主に大堰川と呼ばれ(大井という地名がある。大井=大堰)、亀岡盆地の南部の保津地区あたりから保津川と呼ばれる。そして山あいを縫って流れて、嵐山付近に至ると桂川と呼ばれるようになり、そのまま淀川に合流します。桂川が行政上の正式名です。

保津と嵐山の間は、川の両岸に山が迫り、川幅は狭く、急流ないしは激流になり、巨岩がごろごろしている間を流れていきます。この山峡(=保津峡)を舟で下るのが「保津川下り」で、現在では外国人にも人気の観光スポットになっています。

保津川下り.jpg
保津川下り
途中に現れる主な奇岩には「カエル岩」や「びょうぶ岩」などの名がついている。この写真は「小鮎の滝」と呼ばれる有名なスポットで、保津川で唯一「滝」の名がつけられている。ただし、垂直近くに落ちる通常の意味での「滝」というよりは「急流のスロープ」である。ここで舟は2メートル近くを急降下する。
(site : souda-kyoto.jp)

ところで円山応挙(1733~1795。江戸中期から後期)は、現在の亀岡市曽我部そがべ穴太あなお地区の農家に生まれ、10代に京都に出て絵師になった人です。つまり彼にとって保津川は幼いときから知っていた川です。さきほども書いたように、桂川を保津川と呼ぶのは亀岡と京都の間の部分(保津川下りの部分)です。円山応挙が生涯最後のテーマに保津川を選んだのは、自身の出自(亀岡)と絵師としての成功(京都)の2つを見据えてのことに違いありません。


千總(ちそう)


千總.jpg
千總本店
(京都・烏丸三条)
『保津川図屏風』を保有しているのは、京友禅の老舗「株式会社 千總(ちそう)」で、この会社に代々受け継がれてきたものです。千總のホームページを見ると創業は1555年(=室町時代)とのことで、464年前ということになります。『保津川図屏風』という国宝級の名画を友禅の老舗が保有しているというところが京都の "奥深さ" でしょう。

ただし、千總ちそうは応挙が生まれる178年も前に創業されているわけで、応挙が京に出てきて絵師として大成し、1000人もの弟子を抱えるようになり、そして亡くなるまでの約50年のあいだ、この店は応挙を見守ってきたことになります。国宝級の応挙の名画を保有しているのも自然なことなのでしょう。なお、展覧会には千總が保有する別の応挙作品(『写生図巻』=重要文化財)も展示されていました。


八曲一双の屏風


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円山応挙(1733~1795)
保津川図屏風」(1795)
千總蔵

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「保津川図屏風」右隻

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「保津川図屏風」左隻

『保津川図屏風』を初めて見てまず印象付けられたのは、その大きさです。八曲一双の屏風で、各隻はそれぞれ5メートルほどの幅があります。そもそも "八曲一双" というスタイルがあまり見ないというか、特殊なわけです。この特大サイズのワイドスクリーン画面に描かれた渓流風景の迫力が、この屏風の第一の特色です。

さらに渓流の描き方です。右隻の水は右上から現れ、左下に流れます。一方、左隻の水は左上から右下に流れている。水量は圧倒的に豊富です。右隻・左隻の間に立って屏風を眺めると、まるで川の中の岩の上に立って自分に迫ってくる流れを見ているような気持ちになります。

唐突に話が飛びますが、NHKはドローンを使って日本アルプスを撮影した番組を何回か放映しました。2019年には、黒部川の源流をさかのぼって撮影した映像を放送していました。渓流の流れの上にドローンを飛ばし、上流へと進んで撮った動画は迫力満点でした。『保津川図屏風』を見たとき、そのドローン映像を思い出しました。それほど臨場感に溢れた表現だと感じたのです。

この屏風は、右隻の右上と左隻の左上から水が流れ出してくる表現になっていて、特に右隻の右上は滝のように見えます。実際の(現代の)保津川に、このような規模で滝となって水が流れ込む場所は無いはずです。応挙の時代にはあったのかも知れませんが、これは岩の間を流れる急流の表現と考えてよいと思います(上に掲載した保津川下りの画像参照)。ただ、この "滝" によって、水が鑑賞者の方に押し寄せてくるような迫力が生まれています。絵画としての構図を熟慮した結果だと思いました。

その水流を取り巻いているのは、ごつごつした岩、松、そして "もや" です。これらがリアルに立体的に配置されている。さすがに日本の最初の写実画家と言われる応挙のことだけはあると思いました。


鈴木其一を連想させる


この『保津川図屏風』の実物を見て、直感的に鈴木其一の『夏秋渓流図屏風』(根津美術館。六曲一双)を連想しました。当然ですが、応挙(1733~1795)より其一(1795~1858)の方が後の時代の人で、其一の生年が応挙の没年と同じです。従って『夏秋渓流図屏風』を見て『保津川図屏風』を思い出すのが "正しい" のでしょうが、本物を初めて見たのは『保津川図屏風』があとだったので、そう感じたわけです。『夏秋渓流図屏風』が描かれたのは天保(1831-1845)の頃と言われているので『保津川図屏風』の約40年程度あとに描かれたことになります。

夏秋渓流図屏風.jpg
鈴木其一(1795~1858)
夏秋渓流図屏風
根津美術館蔵

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「夏秋渓流図屏風」右隻

夏秋渓流図屏風・左隻.jpg
「夏秋渓流図屏風」左隻

『夏秋渓流図屏風』は、渓流の描き方が『保津川図屏風』とそっくりです。水は右上から左下へ(右隻)、左上から右下へ(左隻)と流れています。背景は森か林の中の感じです。実際にこのような風景に出会うことはあまりないと思いますが、たとえば奥入瀬渓流の散策道だと似た雰囲気の場所はあるかも知れません。屏風の真ん中に立って鑑賞すると、渓流が向こうからこちらに押し寄せてくるように見えます。この感じが『保津川図屏風』の印象とそっくりです。

もう一つ類似点があります。上に掲載した画像では分かりにくいのですが、『夏秋渓流図屏風』には蝉が描かれています(右隻の第3扇の木の上の方)。実は『保津川図屏風』にも生物が描かれています。これも画像では分かりにくいのですが、左隻の第6扇・第7扇に計5匹の鮎が渓流をさかのぼっています。水と岩と木と植物が描かれていると思って、よくよく見ると小動物が描かれているという、その "仕掛け" も似ているのです。

鈴木其一は『保津川図屏風』を見たのでしょうか。伝記によると、其一は天保4年(1833年)に京都を訪れていて、その際の日記もあるようです(Wikipediaによる)。真相はわかりませんが、其一は応挙に影響されて『夏秋渓流図屏風』を描いたと考える方が、より深い鑑賞ができると思いました。


『保津川図屏風』の特別な置き方


『保津川図屏風』の話に戻ります。この作品は以前、TV番組「美の巨人たち」(TV東京 2012.1.28)で取り上げられました。この中で "『保津川図屏風』の特別な置き方" が紹介されていました。番組では、千總の美術品倉庫から屏風を取り出し、その「特別な置き方」を実演していました。それが次の画像です。

保津川図屏風の特別な置き方(1).jpg
「保津川図屏風」の特別な置き方
「美の巨人たち」(2012.1.28)より

つまり、鑑賞者の右側に右隻を置き、左隻を左側に置くという並べ方です。番組では美術史家の安村敏信氏が次のように説明していました。


「左右、両脇に並べて見ると、見る人はその保津川の流れと一緒にずーっと下へくだっていく、そういう臨場感があるんです。」

安村敏信
板橋区立美術館・館長(当時)
TV東京「美の巨人たち」
(2012.1.28)

二つの屏風に挟まれて鑑賞する ・・・・・・。おそらくこれは、屏風とともに千總に代々伝わってきた置き方なのでしょう。次の画像は安村氏の言う "臨場感" を、番組でビジュアルに示したものです。

保津川図屏風の特別な置き方(2).jpg
「特別な置き方」による臨場感
「美の巨人たち」(2012.1.28)より

さらに番組では、折って室内に立てるという屏風の特性にマッチする描き方がしてあると説明していました。


平置きでは間延びしたように見える川の流れ。凹凸を付けて折られることで構図が締まり、リズムが生まれ、見違えるような流れに変わるのです。

TV東京「美の巨人たち」
(2012.1.28)

保津川図屏風の折ることを前提にした描き方(右隻).jpg
屏風を折った状態と平置きとの比較(右隻)
「美の巨人たち」(2012.1.28)より

上に書いたように、今回、東京藝術大学美術館で初めて『保津川図屏風』を見た最初の印象は、八曲一双というその大きさでした。高さはそれほどでもないが、横に長い。この仕立てには、応挙の意図が隠されているようです。つまり、折った状態で「平置きの六曲一双」程度になるようにし(上の画像がまさにそうです)、折り目の凹凸を意識して渓流と岩と松を描く。そして、それを左右に平行に置くことによって、大迫力の臨場感を演出する ・・・・・・・。これは3次元空間を強く意識したアートなのです。まさに世界のどこにもない、一双の屏風ならではの空間表現です。

「美の巨人たち」(2012.1.28)でも紹介されていましたが、応挙が10代で京の町に出てきて初めての仕事は「眼鏡めがね絵」の制作だったそうです。これは西洋渡来の「覗き眼鏡」を通して見る絵で、バリバリの遠近法の絵です。その遠近法が「覗き眼鏡」によって非常にリアルに感じられる。その応挙作の眼鏡絵の実物が、2016年の『円山応挙 -「写生」を超えて』展(根津美術館。No.199)に展示されていました。

円山応挙の絵師としての出発点に遠近法を使った「眼鏡絵」があり、最後の最後に『保津川図屏風』がある。応挙の作品にも多様な表現がありますが、一つの軸は「写実+3次元」である。そう思いました。


川合玉堂:鵜飼


「円山応挙から近代京都画壇へ(東京展)」の順路の最後に、この展覧会の会場となった東京藝術大学が所蔵する川合玉堂の『鵜飼』が展示されていました。

鵜飼.jpg
川合玉堂(1873-1957)
鵜飼」(1931)
(東京藝術大学所蔵)

岐阜出身の川合玉堂は鵜飼をテーマにした作品を多数描いていますが、その中でも(私が知っている範囲では)この東京芸大所蔵の作品が最高傑作でしょう。何よりも、画面の中央に大きな岩をドカッと配置し、その両側を流れる川に鵜飼舟を合計3隻(岩の向こうに2隻)配置した構図が素晴らしい。

鵜飼の絵というと、どうしても「鵜を用いて魚を取る」という人間の営みに焦点が当たります。特に、現代の我々が知っている鵜飼は長良川などで行われる "観光鵜飼" です。ゆったりとした川の流れの中で「鵜をあやつって漁をする人間の技」を見て感心するわけです。

しかしこの玉堂の絵は、そのようなイメージとは対極にあります。まず、川の中の大きな岩にぶつかる水の流れという自然がある。その自然に対峙して、魚を取ろうとする人間の行為がある。その二つが攻めぎ合っていて、画面は緊迫感に溢れています。

あたりまえですが、鵜飼は本来はショーではありません。漁撈の手法の一つです。川と魚という自然を相手に戦いを挑む人間の営みです。成功するときもあれば、不首尾に終わることもある。そのギリギリのところを描いている感じをこの絵から受けました。躍動する鵜の表現や、篝火に照らされた水の表現(手前の舟の舳先あたり)も含めて、素晴らしいと思いました。



この展覧会は「応挙に始まる円山・四条派が継承された系譜を近代日本画までたどる展覧会」です。しかし不思議だったのは、川合玉堂の名前が展覧会のパンフレットにも、館内の各種展示パネルにも全く無かったことです。ただ『鵜飼』が最後にポツリと展示されていた。これは何故でしょうか。川合玉堂は円山・四条派の系譜に位置づけて説明するのが当然と思えるし、最後に東京芸大所蔵の『鵜飼』という傑作をもってくるぐらいなのに ・・・・・・。

今回の展示会で、やはり玉堂は応挙と似ていると思ったことがあります。それは、展示されていた応挙の『写生図巻』(千總 所蔵)です。鳥や動物、草花、昆虫が、博物学的なリアルさで写生されています。これと、奥多摩の玉堂美術館に展示されている『写生簿』(玉堂が10代に描いた鳥や草花の写生帳)が非常に似ていると思ったのです。二人とも「徹底して見る」ことと「自在に筆をあやつる」ことが出来ています。もちろん、10代の玉堂が応挙の『写生図巻』を知っていたのではないと思いますが、絵に取り組む姿勢の根幹の部分に共通したものを感じました。

さらに今回の展示会を離れると、玉堂は画家になってから "応挙を踏まえた" と思われる作品を描いています。岐阜県美術館が所蔵する『藤』で、これは明らかに根津美術館にある応挙の『藤棚図屏風』(No.199に画像を掲載)に習っています。絡みあった蔓は一気に描かれ、藤の花はリアルに精緻に描かれている。応挙の屏風にはない雀を三羽描いたのは、屏風絵と違ってこの一幅だけで絵として完結させるためでしょう。

川合玉堂「藤」.jpg
川合玉堂
」(1929)
(岐阜県美術館)

さらに思い出す点をあげると、応挙には "塗り残し" で雪を表現した作品がありますが、玉堂にもあります。No.199「円山応挙の朝顔」で、雪を塗り残しで表現した二人の作品を引用しました(応挙の「雪中水禽図」と、玉堂の「吹雪」)。三井記念美術館の国宝『雪松図屏風』があまりに有名なため、この技法は応挙の専売特許と思ってしまいますが、玉堂も駆使しているのです。応挙との類似性を感じるところです。

展覧会のパンフレットに上村松園の名前があり、展示もありましたが、川合玉堂は松園とほぼ同時代を生きた人です。円山応挙に始まる日本美術の流れの中に位置づけて欲しかったと思いました。




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No.274 - 蜂を静かにさせる方法 [技術]

今回は、No.105「鳥と人間の共生」の関連です。No.105 で書いたアフリカの狩猟採集民の「蜂の巣狩り」ですが、次の3つのポイントがありました。

◆ 狩猟採集民は火をおこし、煙でミツバチを麻痺させて蜂の巣を取り、ハチミツを採取する。

◆ ノドグロミツオシエ(漢字で書くと "喉黒蜜教え"。英名:Greater Honeyguide)という鳥は、人間をミツバチの巣に誘導する習性がある。この誘導行動には特有の鳴き声がある。狩猟採集民はこれを利用してミツバチの巣を見つける。

◆ ノドグロミツオシエは人間の "おこぼれ" にあずかる。たとえば蜂の巣そのものである(巣の蝋を消化できる細菌を体内に共生させている)。つまり、ノドグロミツオシエと人間は共生関係にある。

タンザニア北部の狩猟採集民、ハッザ族が「蜂の巣狩り」をする様子が YouTube に公開されています(https://www.youtube.com/watch?v=6ETvF9z8pc0)。それを見ると、ハッザ族の男たちは木をこすって火をおこし、火種を作って木片を燃やし、ノドグロミツオシエが示した木に登って蜂の巣がある樹洞じゅどうに煙を入れています。

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YouTube に公開されているハッザ族の「蜂の巣狩り」の様子。ノドグロミツオシエの誘導によりハチミツの在り処を知ると、火をおこして木片を燃やし、木に登って、蜂の巣がある樹洞に木片から出る煙を入れ、蜂の巣を採取する。このあと、ハチミツを採ったあとの蜂の巣は地上に捨てるが、それをノドグロミツオシエが食べる。

No.105 で紹介したように、ハーバード大学の人類学者、リチャード・ランガム教授は「アフリカの狩猟採集民は、チンパンジーの100~1000倍のハチミツを手に入れる」と語っていました。①火を使う(煙でミツバチを麻痺させる)、②ノドグロミツオシエの誘導行動を利用する、の2つでハチミツを効率的に採取できるわけです。

このタイプの「蜂の巣狩り」はいつから始まったのでしょうか。アフリカに残る狩猟採集民がやっているということで、人類史をさかのぼる遙か昔からと考えられます。人類が火を使った確かな証拠は約100万年前のものですが、それ以降のどこかで煙を使う「蜂の巣狩り」が始まったわけです。数万年前、いや数10万年前かもしれません。とにかく、大昔からアフリカの人類はそうしてきた。



ところで、煙でミツバチを麻痺させる方法は現代の養蜂農家も使っています。このための現代の道具が燻煙器です。Amazonでも売っています。

燻煙器.jpg
燻煙器

燻煙器は「燃焼室」と「ふいご」から成り、燃焼室の上部は吹き口のある蓋になっています。まず燃焼室に火種を入れ、その上から細かく裂いた麻布や籾殻などの自然由来の燃焼物を入れます。そして「ふいご」を使って吹き口から煙を出す。養蜂農家がミツバチの巣箱の世話をするときには、ミツバチに刺されないための必須の道具となっています。

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巣箱の蓋をあけ、燻煙器の煙を巣箱に入れてミツバチを静かにさせて、巣枠を取り出す。ハッザ族の「蜂の巣狩り」と現代の養蜂では状況が全く違うが、「煙を使ってミツバチの活動を押さえて刺されないようにする」という1点においては同じである。画像は岐阜県の渡辺養蜂場のサイトより。

燻煙器はステンレスなどで作られた現代の工業製品です。しかし「煙を使ってミツバチの活動を押さえて刺されないようにする」という1点においては、ハッザ族などのアフリカの狩猟採集民と現代の養蜂農家は全く同じなのです。



ところがごく最近、煙を全く使わすにミツバチを静かにさせるスプレーが開発されました。今回はその話を書くのが目的ですが、まずそのスプレーの発売を報じたニュース記事を引用します。


ミツバチの活動を抑えるスプレー



ミツバチの活動を抑えるスプレー 高知大発の企業

ミツバチをおとなしくさせるスプレー「ビーサイレント」を高知大学発のベンチャー企業「KINP(キンプ)」が開発した。昨年4月にはスズメバチの攻撃性を一時的に失わせるスプレーを発売しており、第2弾となる。

「ビーサイレント」は、「フェニルメタノール」を使った忌避剤「スズメバチサラバ」の応用版だ。開発者は、化学生態学が専門で同大農林海洋科学部の金哲史教授(61)。2016年9月に「KINP」を設立した(引用注:金哲史の読み方は "キム チョルサ")。

朝日新聞デジタル
(2019.9.21 03:00)

先日(2019年11月5日)、NHKの朝の情報番組で「ビーサイレント」を使い始めた関東の養蜂家を取材していました。その養蜂家は「火を起こして燻煙器をセットするのに10分~15分はかかる。ビーサイレントはスプレーなので手間が全然違う。養蜂家の必需品」と話していました。

ビーサイレントの噴射.jpg
「ビーサイレント」を巣箱に噴射する高知大学の金哲史教授。朝日新聞デジタル(2019.9.21)より。

早稲田大学を中心として運営されている国内最大の化学ポータルサイト「Chem-Station(ケムステ)」に、もう少し詳しい話が載っていました。


ミツバチの活動を抑えるスプレー 高知大発の企業が開発

KINPは、2016年に高知大学 教育研究部 総合科学系生命環境医学部門の金哲史教授によって設立されたベンチャー企業です。金先生は、化学生態学がご専門で昆虫や植物の生活活性物質を調べ、その構造式を明らかにし、農業の現場に応用できる技術の開発を行っているようです。

KINPでは、スズメバチ類・アシナガバチ類に対する忌避剤を開発してきました。秋になるとスズメバチの活動が活発になり、刺されたりした被害のニュースをよく聞きますが、よく使われている虫よけ剤はスズメバチに対して効果がなく確実な予防・防除手段はありませんでした。

そこでスズメバチが好む樹液と嫌う樹液を比較したところ、嫌う樹液には 2-Phenyl ethanol が含まれていることを発見しました。さらに類似の化学構造について効果を確認したところ、Benzyl alcohol や 3-Phenyl-1-propanol、1-Phenyl-2-propanol、Benzil acetate でも同様の効果を確認しました。Benzyl alcohol(引用注:ベンジルアルコール。別名フェニルメタノール)は香料として食品にも使われてている成分のため、これを使ってスズメバチ向けスプレータイプの忌避剤、「スズメバチサラバ」を2018年に商品化しました。

ケムステ・ニュース
(2019.10.01)

スズメバチサラバ.jpg
スズメバチサラバ
補足しますと、ススメバチもアシナガバチも「スズメバチ科」の蜂です。そして「スズメバチサラバ」はスズメバチ科の蜂に対して効果があります。

一つのポイントは、フェニルメタノールは香料として食品にも使われていることです。つまり人に対して安全であり、かつ農薬ではないので認可も不要です。

もう一つのポイントは、引用部分には書いてないのですが、養蜂で使うミツバチはミツバチ科であり「スズメバチサラバ」を忌避しないことです。ということは、巣箱のミツバチの出入り口付近で、フェニルメタノールを常に発生させるような「据え置き型スズメバチサラバ」を設置しておくと、スズメバチが巣箱に進入しないことになる。

人がスズメバチに刺されて死亡する事故は毎年起こっていますが、もう一つのスズメバチの被害は養蜂です。巣箱にスズメバチが進入してミツバチが全滅する事件が起こる。スズメバチは養蜂の大敵なのです。KINP社は「据え置き型スズメバチサラバ」を開発中のようで、これがうまくいくとさらに「スズメバチサラバ」の利用範囲が広がることになります。

この「スズメバチサラバ」と同様の効果をミツバチに対してもつのが、冒頭で紹介した「ミツバチの活動を抑えるスプレー」である「ビーサイレント」です。


今回開発したミツバチをおとなしくさせるスプレー「ビーサイレント」は、KINPが手がけた商品の第二弾で、ミツバチの巣箱を点検する際にこのスプレーを使うとミツバチが巣箱に沈んでいくものです。通常、西洋ミツバチの巣箱を取り扱う際には燻煙器で作った煙を吹きかけ、ミツバチの興奮を抑えてから巣箱に手を付けます。しかしながら、都会では煙を使うことが避けられるため、スズメバチサラバをミツバチ向けに配合や濃度を改良した本商品を開発したそうです。

ケムステ・ニュース
(2019.10.01)

Bee Silent.jpg
ビーサイレント
この引用部分のポイントは3つあります。一つは「西洋ミツバチ」と書いてあるところです。ニホンミツバチと違って西洋ミツバチは攻撃性が強く、燻煙器が必要になる。現代の養蜂のほとんどは西洋ミツバチによるものです。

2番目は「都会では煙を使うことが避けられる」というところです。最近、都会のビルの屋上で養蜂をすることが増えています。東京都心などは緑が多く、ミツバチが蜜を採集する場所には困らない。さらに都心のビルの屋上にはミツバチの天敵であるスズメバチがくることはないので好都合です。銀座のビルの屋上で採蜜されたハチミツが「銀座のはちみつ」というブランドで松屋銀座店で販売されているほどです。ところが、ビルの屋上で火を燃やすことは一般には禁止されていて、燻煙器が使えません。つまり火を使わない「ビーサイレント」は、手間が省けることに加えて養蜂家にとって大変有り難い製品なのです。

3つ目は「スズメバチサラバをミツバチ向けに配合や濃度を改良した」としてあるところです。スズメバチサラバの成分であるフェニルメタノールはスズメバチ科の蜂が忌避し、ミツバチは忌避しないので、ビーサイレントにはフェニルメタノールではない(おそらく類似の)別の成分が配合されていると考えられます。その詳細は書いてないので不明ですが、特許の関係があるのかも知れません。いずれ明らかになると考えられます。"ケムステ・ニュース" の記事は次のように結ばれています。


スズメバチは確かに脅威ですが、農林業分野では害虫を駆除してくれる益虫でもあります。単にスズメバチを殺してしまうだけでは生態系のバランスを崩すだけでなく、私たちの生活にも影響を及ぼします。理想的にはこのような忌避剤のみで農業ができればよいのですが、現実的には強い殺虫剤を使わないと十分な収穫が得られない食物もたくさんあります。技術の発展により、よりよい害虫との付き合い方が開発されることを願います。

ケムステ・ニュース
(2019.10.01)

スズメバチは農林業分野では害虫を駆除してくれる益虫でもあり、「よりよい害虫との付き合い方を開発」というところがまさに金哲史教授の狙いでしょう。


最大、年80人がスズメバチで死亡


ところで、そもそものスズメバチ忌避物質の発見はどういう経緯だったのでしょうか。国立科学技術振興機構(JST)が出している「産学官連携ジャーナル・2018年7月号」にその経緯が書かれていたので紹介します。まず、スズメバチによる被害の状況が解説してありました。


多い年では80人近くも死亡

スズメバチは、獲物となる昆虫が減ってくる夏の終わり頃から、ミツバチのコロニーを襲い、餌にする。養蜂農家にとっては迷惑な存在だ。また、非常に好戦的かつ攻撃的な性格で、巣の防御や樹液を分泌するクヌギなどの餌場付近では、他の生物を攻撃することもある。

その毒は、セロトニンやアセチルコリン、ヒスタミンなどの神経アミン系の痛みや痒みを引き起こす毒と、アナフィラキーショックを引き起こすペプチドや細胞膜とタンパク質を分解する酵素などの混合物で毒性が高い。また毒針は繰り返し構造がないので、ミツバチのように一度の攻撃では抜けず、何度も攻撃してくる。

森林の樹洞じゅどうや土中、民家の軒下や天井裏など人の活動範囲にも巣を作るので、養蜂農家だけでなく一般の住民にとっても厄介な害虫だ。スズメバチに襲われて死亡する人は年間20人程度、多い年では80人近いといわれ、熊の0~1人、マムシやハブの5人前後と比較してもその被害のほどは一目瞭然だ

産学官連携ジャーナル
(2018年7月号)
国立科学技術振興機構(JST)

樹液を吸うオオスズメバチ.jpg
樹液を吸うオオスズメバチ(Wikipedia)

よくメディアで、山菜採りなどで熊に遭遇して怪我をしたというニュースが流れることがあり、また熊に襲われて死亡という事故も起きています。しかし死亡事故ということで言うと、スズメバチは熊の20倍~80倍もの被害を出しているのですね。人が人以外の生物に襲われて死ぬ数は、明らかにススメバチが一番多いのです。

ちなみに、人が人に襲われて死亡する数(殺人事件による他殺数)は年間300人程度(2016年)です。それと比較してもススメバチによる死者は無視できない数なのです。つまりススメバチを撃退する方法は重要で、それを発見したのが高知大学の金 哲史キムチョルサ教授です。


スズメバチ忌避物質の発見


この発見は、スズメバチが好むクヌギと嫌うクヌギがあるということがヒントになりました。冒頭に書いたNHKの朝の情報番組では「金教授の同僚の教授からの示唆」だと言っていました。なぜ、スズメバチが好むクヌギと嫌うクヌギがあるのか、それは別の昆虫(=蛾)の意外な生態が関係していました。


ガの幼虫が出す成分にヒント

クヌギなどの木々から出る樹液に昆虫が集まることはよく知られているが、スズメバチも樹液を餌にする。金教授によると、オオスズメバチが木肌をかじると樹液が滲出し、そこへ働き蜂が集まり、口移しで樹液の糖分を受け取り巣へ運ぶという。

夜になり、スズメバチが巣に帰ると、ボクトウガの幼虫が現れ、スズメバチが開けた穴に進入し樹液滲出させる。ボクトウガの幼虫は、その樹液とボクトウガの幼虫が出すにおいに誘われてやってくる昆虫を捕食する。

しかしスズメバチが再びその樹液に集まろうとしても、その幼虫が放出するにおいのため、近づくことができないことが分かった。

産学官連携ジャーナル
(2018年7月号)

ボクトウガ.jpg
ボクトウガ
(site : mushinavi.com)

ボクトウガの幼虫.jpg
クヌギの木についているボクトウガの幼虫(上)。下は幼虫を取り出したもの。赤みを帯びた色をしている。産学官連携ジャーナル 2018年7月号より。

つまり、ボクトウガの幼虫が住み付いているクヌギはスズメバチが嫌い、そうでないクヌギはスズメバチが好む。ボクトウガは漢字で書くと「木蠹蛾」です。「蠹」とは難しい字ですが(Shift JIS にある字です)「むしばむ = 虫食む」という意味です。その名の通り幼虫はクヌギやコナラなどの樹肌をかじって穴をあけ、樹液を滲出させます。そして樹液に惹かれてやってくる昆虫を捕食する。つまり自ら「餌場」を開設する昆虫です。これだけでも少々驚きですが、さらに上に引用した記事によると、

◆ ボクトウガの幼虫はスズメバチが開けた木の穴をちゃっかり占有する。

◆ スズメバチが忌避する化学物質を放出してスズメバチを寄せ付けないようにする。

◆ 餌となる昆虫を誘因する化学物質も放出する。

というわけです。一般的に言って昆虫の "生き残り戦略" の中には驚くほど巧妙なものがありますが、ボクトウガの幼虫もそうです。この程度の "戦略" は昆虫の世界ではありうることと言えそうですが、巧妙であることには違いありません。

そこで問題は、ボクトウガ放出する「スズメバチが忌避する化学物質」とは何かです。金教授はその成分が「2-フェニルエタノール」であることを突き止めました。そしてさらに研究を続けました。


研究を重ねるうち 2-フェニルエタノールの近縁の「Benzyl alcohol(フェニルメタノール)」にも同様の活性があることが分かった。フェニルメタノールは、杏仁豆腐などにアーモンドの香りを付けるために食品添加物としても使用されている。スズメバチにフェニルメタノールをかけてみると、すごい勢いで嫌がることを発見した。

そこで、フェニルメタノールを使えばスズメバチの忌避剤を商品化できると、高知大学発ベンチャー「株式会社 KINP(キンプ)」を設立。昨年10月には、日本政策金融公庫高知支店から3,200万円の融資を受け、その資金を国際特許の取得や商品開発に充て、危険なスズメバチを殺さず追い払うスプレー「スズメバチサラバ」を製品化。今年4月から100ml缶を1,500円(税別)で販売開始した。加えて300ml缶の追加販売も5月から開始した。



最大有効噴射距離は4m程度。シュッとひと吹きしてスズメバチの攻撃本能を消失させ、その間に非難することを目的とした商品だ。食品添加物が主成分なので農薬登録の必要もなく、人はもちろんミツバチにも影響は少ない。さらにアシナガバチ類を含むスズメバチ科ハチ類全般に忌避行動が見られるという

草むらなど、作業する場所に散布して、スズメバチが飛び出してくれれば巣があることが事前に分かり、安全対策をして作業することができる。万一刺された場合、刺された火とや群がってくるスズメバチに散布することで、集中的な二次攻撃も防げそうだ。

産学官連携ジャーナル
(2018年7月号)

スズメバチサラバを噴射するとスズメバチは一時的に攻撃性を失いますが、その時間はおよそ5分間だそうです。スズメバチを殺さずに攻撃性だけを一時的に失わせる。これが忌避剤の意味です。

金教授はかなりユーモアのセンスがある方のようで、商品のネーミングについては次のような発言が紹介されていました。


「当初は、一目散に逃げるという言葉にかけて、『八目散』にしようと考えましたが、ミツバチも逃げてしまう印象を与えるのではないかと、最終的に『スズメバチサラバ』にしました。」

産学官連携ジャーナル
(2018年7月号)

『八目散』とは素晴らしいネーミングのセンスだと思います。『蜂目散』でないことがミソです。少々の誤解を招いたとしてもこのネーミングにしてほしかったと思いますが、科学者としてそれはできなかったのでしょう。実際に選ばれた『スズメバチサラバ』は、少々安易な感じもしますが、『ゴキブリホイホイ』や『ダニコナーズ』(=KINCHOのダニ除けスプレー)という例もあるので、これは殺虫剤・忌避剤の "王道の" ネーミングなのでしょう。


殺虫剤ではなく、忌避剤である意味


その忌避剤であることの意味、スズメバチを殺す殺虫剤ではない意義はどこにあるのでしょうか。産学官連携ジャーナルは次のように締めくくられていました。


スズメバチは人に被害をもたらし、養蜂農家にとっては「防除対象害虫」だが、青虫やガの幼虫などの農業害虫を駆除してくれる益虫でもある。

従って、一方的は防除は農業害虫を増加させ、その駆除のために殺虫剤散布が増え、環境汚染を起こしミツバチが減るという「マイナスのスパイラル」を生み出すと金教授は考えている。

逆にスズメバチの保護は、農業害虫を減少させ、その結果殺虫剤散布が減少し、環境の健全化が促進される。それはミツバチにとっても良いことで、減少しているミツバチの増加にもつながる。

「『プラス方向へのスパイラル』へかじを切ることで、回り回って人にとっても快適な世の中になるのでは」と金教授は語った。

(取材・構成:本誌編集長 山口泰博)
産学官連携ジャーナル
(2018年7月号)


人類史の転換点


「ビーサイレント」の話に戻ります。冒頭にも書いたように「煙を用いてミツバチを静かにさせる」という方法は、人類が有史以前の(おそらく)数万年前(ないしは数10万年前)という太古の昔から現代まで、綿々と受け継がれてきたものです。

このことからすると「ビーサイレント」は大発明であり、人類史における根本的な技術革新だと言えるでしょう。大袈裟にいうと、2019年の「ビーサイレント」の発売は「人類史の転換点」です。金哲史教授はそのことを誇ってよいと思うし、是非そういうアッピールをして欲しいと思いました。

さらに付け加えると、その「人類史の転換点」の契機になったのは、ボクトウガという蛾の幼虫が出すスズメバチ忌避物質だった。昆虫は人類や霊長類とは比較にならないぐらいの長い時間に渡って進化を続けてきたのです。人類はまだまだ自然に学ぶことが多いようです。


山口百恵


以下は「ビーサイレント」という商品名についての余談です。金哲史教授が開発したスズメバチ忌避剤の商品名は、

 スズメバチサラバ

でした。とすると、第2弾の商品であるミツバチ忌避剤の商品名は、

 ミツバチシズカ

とするのが自然です。スズバチサラバの姉妹品であるということが明確になるし、KINP社の商品ラインナップとしてもその方がインパクトが強い。マーケティングのセオリーからすると「ミツバチシズカ」が妥当であり、これしかないはずです。

ところが実際の商品名は「ビーサイレント(= Bee Silent)」です。ここでなぜ急に英語を持ち出すのでしょうか ・・・・・・。想像ですが、このネーミングは、山口百恵さんの

 美・サイレント

の "もじり" ではないでしょうか。阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲の楽曲で、1979年3月のリリースです。ちなみに百恵さんのファイナル・コンサートは翌年の1980年でした。

"もじり" だと想像するのは2つの理由によります。一つは「ビーサーレント」を開発した金哲史教授と百恵さんが同世代だということです。百恵さんの生年月日は1959年1月17日です。一方、高知大学のサイトにある「研究者情報」によると、金教授は1958年生まれとあります。ということは、中学・高校は百恵さんと同学年の可能性が強いわけです(金教授が1学年上という可能性もある)。

私の親類に1958年12月生まれの男性がいるのですが、彼は中学・高校と桜田淳子さんの熱烈なファンでした。山口百恵・桜田淳子・森昌子の同学年の3人は「花の中三トリオ」から始まって「花の高三トリオ」と言われた国民的アイドルでした。その彼女たちと同学年の男子は3人のうちの誰かのファンになるのが自然だし、そうなって当然だったのではないでしょうか。私の親類みたいに ・・・・・・。金教授もそうだったのではと思ったのです。

もう一つの理由は、金教授が第1弾の商品であるスズメバチ忌避剤を当初「八目散」と名付けようとしたことです("一目散" のもじり)。どうも金教授は、"もじり" というか "パロディ" というか "ダジャレ" で名付けるのが好きそうです。ということからすると、「美・サイレント」のパロディで「Bee Silent → ビーサイレント」というのは大いにあり得ると思うのです。そもそも「美・サイレント」が「Be silent」(「静かに」ないしは「言わないで」)の "もじり" です。

真相は分かりませんが、もしそうだとするとこれは「ネーミング大賞 2019」にノミネートしていい感じだし、殺虫剤・忌避剤のネーミングの新パターンを作ったのではと思いました。




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No.273 - ソ連がAIを駆使したなら [技術]

No.237「フランスのAI立国宣言」で、国立情報学研究所の新井紀子教授が朝日新聞(2018年4月18日)に寄稿した "メディア私評" の内容を紹介しました。タイトルは、

仏のAI立国宣言
何のための人工知能か 日本も示せ

で、AIと国家戦略の関係がテーマでした。その新井教授が最近の "メディア私評" で再び AI についてのコラムを書かれていました(2019年10月11日)。秀逸な内容だと思ったので、その内容を紹介したいと思います。

実はそのコラムは、朝日新聞 2019年9月21日に掲載された、ヘブライ大学教授・歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏へのインタビュー記事に触発されて書かれたものです。そこでまず、そのハラリ教授の記事の関連部分を紹介したいと思います。ハラリ教授は世界的なベストセラーになった「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の著者です。


AIが支配する世界


ユヴァル・ノア・ハラリ.jpg
ユヴァル・ノア・ハラリ氏
朝日新聞が行ったハラリ教授へのインタビューは「AIが支配する世界」と題されています。サブの見出しは、

国民は常に監視下
膨大な情報を持つ独裁政府が現れる

データを使われ操作されぬため
己を知り抵抗を

です。まずハラリ教授は、現代が直面する大きな課題には3つあって、それは、

 ① 核戦争を含む世界的な戦争
 ② 地球温暖化などの環境破壊
 ③ 破壊的な技術革新

だと言います。そして「③ 破壊的な技術革新」が最も複雑な課題であり、それはAIとバイオテクノロジーだとします。この2つは今後20~40年の間に経済や政治のしくみ、私たちの暮らしを完全に変えてしまうだろう、AIとロボットはどんどん人にとってかわり、雇用市場は激変すると予想します。そして以下に引用する部分が、新井教授のコラムの関係した部分です。


新たな監視技術の進歩で、歴史上存在したことのない全体主義的な政府の誕生につながるでしょう。AIとバイオテクノロジー、生体認証などの融合により、独裁政府が国民すべてを常に追跡できるようになります。20世紀のスターリンやヒットラーなどの全体主義体制よりもずっとひどい独裁政府が誕生する恐れがあります。

20世紀、中央集権的なシステムは非効率でした。中国やソ連の計画経済は情報を1カ所に集めようとしましたが、データを迅速に処理できず、極めて非効率で愚かな決定を下しました。

対照的に、西洋や日本では情報と権力は分散化されました。消費者や企業経営者は自分で決定を下すことができ、効率的でした。だから冷戦では、米国がソ連を打ち負かしました。しかし技術は進化している。いま、膨大な情報を集約し、AIを使って分析することは簡単で、情報が多ければ多いほどAIは有能になる。

例えば、遺伝学です。100万人のDNA情報を持つ小さな会社が多くあるより、10億人から集めた巨大なデータベースのほうが、より有能なアルゴリズム(計算方法)を得ることになる。危険なのは、計画経済や独裁的な政府が、民主主義国に対して技術的優位に立ってしまうことです。

「AIが支配する世界」
ユヴァル・ノア・ハラリ
(朝日新聞 2019.9.21)


ソ連がAIを駆使したなら


新井教授が朝日新聞の "メディア私評" に書かれた「ソ連がAIを駆使したなら」と題するコラムは、上に引用したハラリ教授の文章の趣旨を、わかりやすく、比喩を交え、背景も含めて詳しく展開したものと言っていいでしょう。その展開のしかたがうまいと思ったので引用します。まず「もしも」という問題設定からはじまります。


「もしも」から考える ソ連がAIを駆使したなら

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビュー「AIが支配する世界」(9月21日付本誌オピニオン面)を読んだ。

歴史に「もしも」は禁物だ。だが、その禁をあえて犯してみたい。もし、1989年にベルリンの壁が崩壊せず、91年にソ連が踏みとどまり、今日のAI時代を迎えていたなら、どうなっていただろう、と。

ハラリ氏は、ソ連の計画経済が失敗したのは、20世紀の技術では膨大な情報を中央政府が迅速の処理できず、需給バランスをうまく調整できなかったから、と指摘する。当時は、各個人が市場経済で自己の利益を追求する「見えざる手」(アダム・スミス)を信頼する方が、最適解に達しやすかった。

新井紀子のメディア私評
「"もしも" から考える ソ連がAIを駆使したなら」
(朝日新聞 2019.10.11)

しかし自由主義市場経済は、自己の利益を追求することで最適解に到達するという信憑(「見えざる手」論)によって行動した結果、解決困難に思える問題を抱え込んでしまったように見えます。それは21世紀になると顕著に認識されるようになりました。新井教授は以下のように続けます。


一方で、「見えざる手」は公害などの外部不経済も生んだ。地球規模の環境変化は深刻だ。SDGs(引用注:Sustainable Development Goals。持続可能な開発目標)が叫ばれ、国連やG20で議題に上がり続け、紙面をにぎわしてはいるが、解決される希望を私たちは持てずにいる。「国際協調」などという「民主的」で生ぬるい方法では、直面する大きすぎる課題に対応できないのではないか、と。

東京オリンピックや大阪万博の頃、「世界」という言葉には、高揚感を誘う夢の響きがあった。それだけ「世界」にリアリティーがなく、地球は大きかった。しかし、「見えざる手」に導かれて、人とモノが地球を高速かつ大規模に移動しながら自己の利益を追求した結果、海はマイクロプラスチックであふれかえり、アフリカ豚コレラは蔓延まんえんした。素朴に考えたほどには、地球は大きくなかったのである。

「同上」

日本の高度成長期も「自己の利益追求」をした結果、公害が蔓延しました。しかし当時の問題は日本の国の内部で解決可能でした。国民の利害の対立が激化すると(たとえば企業と住民)、メディアに取り上げられ、政府が調整に入り、民主的な手続きによって法律ができ、政府が法を強制することができたからです。

しかし21世紀に入って顕著になった課題(たとえば地球温暖化を筆頭とする環境破壊)はグローバルなものです。民主的な話合いで解決策を作ったとしても、それを強制する "グローバル政府" はありません。パリ協定から脱退したアメリカ(トランプ大統領と彼を支持する共和党)のように、協調はいやだ、勝手にやるんだと言えばそれを阻止はできない。

「見えざる手」論が国の内部に閉じているのらなまだしも、それをグローバルに拡大するのは無理が生じます。それでは、別の手段はないだろうか。「見えざる手」と真逆の経済運営をしたのが、旧ソ連の計画経済です。それは1980年代末で破綻したのだけれど、その時点ではなかった最新のAI技術を活用したらどうなるか。


そこで、もしも●●●、だ。ソ連が残り、現在のインターネットよりも中央集権的なネットワークを設計し、あらゆるものにセンサーをつけ情報をAIが理解できる形式で合理的に集め、21世紀初頭からデータサイエンスを高度化していたら、どうなっていただろうと。

実は、現在のAIの基盤である確率・統計の理論の多くがソ連発だ。コルモゴロフ、ヒンチンなどキラ星のごろく名前が並ぶ。これほど確率・統計学者が多いのは、計画経済を合理的に進めるための関心の高さゆえかもしれない。適切な刺激を与えることで特定の行動を導く「パブロフの犬」実験で知られるパブロフも、行動主義心理学に大きな影響を与えた。それらの理論は、現代の巨大テック企業のサービスの基礎になっている。

その結果、ソ連を中心とした東側諸国は、経済的に西側諸国を圧倒していたかもしれない。なにしろ、ソ連では西側と違って「人の配置の最適化」もいとわない。だからオリンピックも数学も強かった。子どもの行動や発達を生まれたときからモニタリングし、どんな職業に就かせるのが最適かを計算し、配置したことだろう。リクルートの内定辞退率予測どころではなく、グーグルのアルゴリズムですらトイ(玩具のようなプログラム)に見えていたかもしれない。

加えて、ソ連には、科学リテラシーに欠ける人物が、単に人気取りで大統領や首相に就くリスクがある民主的な選挙は、ない。ソ連だけでなく究極的には世界の人々を、平等に「幸せ」にするために、データサイエンスを、計画に基づき、段階的に正しく使いこなせる最も有能な人物が党大会で選出されるのである。それは現グーグルの最高経営責任者であるピチャイのような人物かもしれない。

そのとき、東側陣営は西側の敗北を見下してこう言っただろうか。「各人の自由な利益追求を野放しにすることで最適解にたどり着けるなど、『脳内お花畑』な資本主義は格差を拡大し、地球を危機に陥れた。次々とポピュリストが登場し、汚い言葉でののしり合っている。知的な政治とは程遠い」と。

「同上」

新井教授も「ソ連がAIを駆使したら、計画経済はうまくいっただろう」などとは全く思っていないはずです。膨大なデータを集めて蓄積しても、それはその時点より過去のデータです。そのデータからの予測でうまく行く場合も多いだろうが、過去のデータから推測できないことも多々あります。前例がないからこそ価値があることも多い。また現在のAIがやっていることは人間の知的活動のごく一部の代行に過ぎず、さらには、人間の脳の働きや知的活動の仕組みのすべてが解明されているわけでもありません。

もっとも、歴史学者のハラリ氏が「ホモ・デウス」で可能性を指摘するように、人々が「エリート」と「無用者階級」に分断され、「無用者階級」はエリートがAIを駆使して作った "計画経済" 通りに動く、ということはありうるかもしれません。過去のデータから予測できない革新的なことや新しいアイデアに関わることはエリートが担当するというわけです。

しかし、そういった計画経済が1国の最適化にとどまっていたなら、なおかつ地球環境の破壊は起こります。現代の我々が "解決の希望を持てないでいる問題" は、なおかつ起きる。

「ソ連がAIを駆使した計画経済を行ったら」という「もしも●●●」は、本当に言いたいことを言うためのレトリックです。その新井教授が言いたいことは、次の文章に書かれています。


この「もしも●●●話」の意味は何か。

一つは、AI技術が目指していること ── あらゆるデータを収集することで未来を予測するという誘惑 ── は、葬り去られたはずの全体主義、計画経済のそれと驚くほど似ているということだ。自由の旗を掲げるシリコンバレーがその発祥の地であるのは皮肉だ。

もう一つは、「幸せ」のような質に関わることを、数字という量に換算できると考えることの危険性だ。かつて、蓮實重彦元東大総長は入学式の式辞で、学問研究の「質の評価を数で行うというのは、哲学的な誤り」と批判した。質を数字に置き換え、数字を用いて分析しなければ、近代科学にはならない。近代科学によりテクノロジーは発展したし、社会の矛盾は可視化された。数値化と数学には効用がある。だが、それは手段に過ぎない。手段が目的化したとき、私たちは再び全体主義の足音を聞くことになるだろう

「同上」

世界的に著名な人物で「AI脅威論」を唱える方がいます。故スティーヴン・ホーキング博士や、テスラ社やSpaceXのCEOで起業家のイーロン・マスク氏などが有名です。その「AI脅威論」は、長期スパンでみると人間の知能を越えるAIが現れる可能性や、それが制御できなくなる可能性、悪用も含んでAIが社会に害毒を流す可能性、AIが人の雇用を決定的に奪ってしまう可能性などを指して言っているのでしょう。

ただ「AIが脅威」というなら、その直近の一番の脅威は、AIが全体主義を推進するツールとなる脅威だと考えられます。新井教授のコラムはそのことを言っているのだと思います。

全体主義者は、個々のモノや人の集合体に、独立した「全体」があると仮想します。その「全体」のために ・・・・ しようとか、「全体」の幸福を実現しようとか、そういう論法を吹聴する。その「全体」の中身は、よく見ると空虚なものであるわけです。しかし「全体」は「個」に優先され、「全体」のために「個」が犠牲になっていく。

AIは全体主義の強力なツールになりうる。現に中国がその方向に向かっているように ・・・・・(No.250「データ階層社会の到来」参照)。そのことを覚えておくべきでしょう。


数値化全体主義


このコラムは "メディア私評" と題するものです。では、どこがメディアを批評しているのでしょうか。

実はこのコラムは上に掲げた引用部分で終わっているのではなく、コラムの中に「ランキングの指標も」と題した囲み記事があります。その記事がメディアの批評になっています。


「ランキングの指標も」

アメリカの友人から嘆きのメールが届いた。大学に進学した息子の授業料が年5万2千ドル(約550万円)だという。日本の国立大学の標準授業料は年間約54万円。ざっと10倍だ。

彼が進学した大学は、英国誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」が毎秋発表する「世界大学ランキング(THE)」の上位校。論文の被引用数や留学生比率など「多様な」指標で大学を比較するが、なぜか授業料は考慮しない(引用注:THE は Times Higher Education の略)。

昨年の本誌「私の視点」で、安部憲明氏(現外務省企画官)は「ランキングの多くは統計家が処理した『作品』」に過ぎず、「客観的中立を装う数字の背後には、統計家や組織の、主張を証明したいという動機が潜」んでいるとした。

THEも、一商業誌による作品に過ぎない。それに一憂一喜するメディアは「数値化全体主義」にとって都合のよい幇間(ほうかん)といったところか

「同上」

No.240「破壊兵器としての数学」で紹介したように、アメリカの数学者、キャシー・オニールは、時事雑誌「USニューズ」が発表している大学ランキングを批判するなかで、このランキングは授業料を考慮していないことを指摘していました。THEも同じということです。

この自由主義市場経済の中で、大学は "教育サービス" を提供しているわけですが、一般的にいって製品・サービスはコストをかけるほど品質が高くなるのはあたりまえです。しかし、裕福な人を対象とした嗜好品は別にして、それでは経営にならない。最高の品質の製品やサービスを提供して倒産した企業は一杯あります。いかにリーズナブルなコストで品質を高め、顧客満足度を向上させるかが経営なのです。ランキングを上げるために授業料を上げて高給で教授を引き抜く大学経営者は(たとえばの例です。実例は No.240 参照)、経営を語る資格など無さそうです。

引用されている外務省の安部憲明のりあき氏の文章は、朝日新聞の2018年6月21日に掲載されたものです。そのときの安部氏の肩書きは外務省OECD代表部参事官でした。この中で安部氏は、経済協力開発機構(OECD)が2017年秋に出した国別の「幸福度指標」に言及していました。この指標で「日本は対象38ヶ国の中で23位」だったのですが、安部氏はこれについて各種の視点から注意喚起をしています。次のような文章があります。


ランキングは、データや指標を選ぶ段階から、一定の価値判断を逃れられない。「幸福度」を測るには「1人当たりの部屋数」のデータも用いるが、これで本当に幸せが測れるなら、「サザエさん」のカツオ君とワカメちゃんの相部屋は解消すべし、と提言されよう。

また「健康」は、自己申告の健康と、平均寿命という客観指標を併用するが、日本は寿命で1位、自己申告で37位というのが皮肉だ。

安部憲明 
(外務省OECD代表部参事官)
「私の視点」朝日新聞(2018.6.21)

No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」で、日本総合研究所が出している "都道府県幸福度ランキング" の算出方法を詳述しました。それを見ても「データや指標を選ぶ段階から価値判断が入っている」のが分かります。もちろん特定のデータを「選ばない」という価値判断も含みます。まさに新井教授が引用した安部氏の文章にあるように「ランキングの多くは統計家が処理した『作品』」です。

ランキングというのは、単一数値の比較であれば、それほど問題がないわけです。「一人当たりのGDPのランキング」というのは(各国がGDPを正しく算定しているという前提で)問題はない。それは事実を提示する一つの方法です。

しかし「幸福度」とか「大学の教育・研究の卓越性」などは、一つの数値では表しようがないし、蓮實重彦元東大総長が批判するように、そもそも数値では表せないものです。

しかし、各国の幸福度を比較しよう、各大学の教育・研究の卓越性を比較しようとする "数値化全体主義者" は、何らかの共通数値化をし、各国全体、各大学全体を貫く統一指標を作成しようとします。その指標の中身を見ると、そこに鎮座しているのは一つの数学モデル(数式)です。それは作成者のもっともらしい説明がついているけれど、それがどういう意味を持つのか、誰にも分からない。少なくとも共通の理解は得られない空虚なものです。

我々としてはランキングのもとになった個々のデータを(データの正確さも含めて)注視する必要があります。それを分析してわかりやすく解説するのはメディアの責任ですが、現在のメディアはそうはなっていません。新井教授の、

 (ランキングに)一憂一喜するメディアは「数値化全体主義」にとって都合のよい幇間ほうかん

という最後の一文が、このコラムの本来の主旨である「メディア私評」なのでした。




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No.272 - ヒトは運動をするように進化した [科学]

No.221「なぜ痩せられないのか」の続きです。No.221では「日経サイエンス」2017年4月号に掲載された進化人類学者、ハーマン・ポンツァー(ニューヨーク市立大学・当時)の論文を紹介したのですが、そこに書かれていた彼のフィールドワークの結果は、

アフリカで狩猟採集生活をしているハッザ族のエネルギー消費量は欧米の都市生活者と同じ

というものでした。言うまでもなく狩猟採集生活をしているハッザ族の人たちの身体活動レベルは、欧米の都市生活者よりも遥かに高いわけです(No.221)。それなのにエネルギー消費量は(ほとんど)変わらない。我々は「体をよく動かしている人の方がエネルギー消費量が多い」と、何の疑いもなく考えるのですが、それは「運動に関する誤解」なのです。ここから得られる「なぜ痩せられないのか」という問いに対する答は、

肥満の原因は運動不足より過食であり、運動のダイエット効果は限定的

ということでした。もちろん、運動は健康のために非常に重要です。No.221 にも「運動が、循環器系から免疫系、脳機能までに良い影響を及ぼすことはよく知られている通り。足の筋肉を鍛えることは膝の機能を正常に保つことになるし、健康に年を重ねるにも運動が大切」と運動の効用(の例)を書いたのですが、これは我々共通の認識だと思います。しかしそこに「運動に関する第2の誤解」がひそんでいそうです。つまり、

ヒトは適切な食事(= 過食にならない、栄養バランスのとれた食事)をとれば普通の健康状態で過ごせるが、運動をすることによってより健康に過ごせる

と考えてしまいそうです。しかしこれも大きな誤解なのです。正しい認識は、

ヒトが正常な健康状態を保つためには運動が必須である。体を活発に動かさないと健康を維持できない

日経サイエンス 2019-4.jpg
日経サイエンス
2019年4月号
というものです。このことをハーマン・ポンツァーは「日経サイエンス」2019年4月号で、進化人類学の視点から説明していました。以下にそれを紹介したいと思います。

なお、一般に「運動」というとジムに通ったり、テニスをしたり、ウォーキングやジョギングをしたりといった「スポーツやエクササイズで意識的に体を動かすこと」を思い浮かべますが、以下では「身体活動のすべて」を指します。従って、例えば「歩く」という行為は散歩・ウォーキングであれ、徒歩通勤であれ、営業マンの客先回りであれ、すべて「運動」です。「身体活動」の方がより正確な表現であり、そのように書くこともあります。

以下の引用における下線は原文にはありません。また段落を増やしたところがあります。


類人猿の生活


進化人類学の研究方法は、ハッザ族のように現代でも狩猟採集生活をやっている人々の調査と同時に、類人猿の研究です。ヒトは700万年とかそういった昔にチンパンジーとの共通の祖先から枝別れしたと推定されていて、類人猿の研究はヒトがヒトになった経緯を明かしてくれるだろうと考えられるからです。


人々は類人猿に引きつけられる。類人猿の中に私たちに似ている部分がたくさんあると感じるからだ。ヒトがオランウータンやゴリラ、チンパンジー、ボノボとDNAの97%以上を共有していることだけではない。

類人猿は賢く、道具を使い、けんかや仲直りをし、隠れてセックスをする。縄張りをめぐって近くにすむ個体を殺すものや、他の動物を狩って食べるものもいる。子供は母親から学び、他の子供とけんかや遊びをし、かんしゃくを起こす。そして、化石記録の時代をさかのぼるほど、私たちの祖先は類人猿にますます近づいていくように見える。

現世のどんな生物種も過去の種の完全なモデルではない。すべての系統は時間とともに変化するからだ。だが、私たちがどこから来たのかを知り、私たちのうちのどれくらいの部分が古代のままで変わらずにいるのかを理解するには、現世の類人猿を調べるのが最上の方法だ。

ハーマン・ポンツァー
(デューク大学准教授)
「運動しなければならない進化上の理由」
「日経サイエンス」2019年4月号

「類人猿を調べるのが最上の方法」という進化人類学のセオリーどおり、著者のポンツァーも20年前の博士課程のときにウガンダのキバレ国立公園でチンパンジーの野外調査を行いました。そのとき著者が強く印象づけられたことがあります。


ヒトと類人猿の進化について研究する博士課程の学生だった私は、その夏、キバレ国立公園でチンパンジーが毎日どれくらい木に登るのかを測定していた。私は当時、チンパンジーが木登りに費やすエネルギーは彼らの生態と進化に重要な要因であり、彼らの解剖学的構造は木登りを最も効率的に行えるように作り上げられているので、繁殖などの最重要タスクにカロリーを割くことができると考えていた。

その数ヶ月前、私は雪の積もったハーバード大学で机に向かって夏の研究計画を練りながら、チンパンジーが生きるために雄々しく戦い、日々の糧を得るために懸命に頑張っている姿を想像していた

だがあの夏、夜明けから夕暮れまでチンパンジーを追跡するという野外研究の生活リズムに慣れていくうちに、チンパンジーは怠け者であるというまったく異なる結論に達した

「同上」

「チンパンジーは怠け者である」という結論に至った観察結果とはどういうものだったのでしょうか。著者の次のように書いています。


野生のチンパンジーの典型的な1日のスケジュールは、カリブ海クルーズでのんびり過ごす退職者の1日のようだ。ただし、予定されている活動は少ない。

チンパンジーは夜明けとともに起き、朝食(果物)を食べに出かける。満腹になったら昼寝にぴったりの場所を見つける。昼寝前に軽くグルーミングをすることも。

およそ1時間後(慌てない!)、イチジクの実がなる日当たりの良い木を見つけ、腹いっぱい詰め込む。それから友達に会いに行き、もう少しグルーミングをして昼寝。17時頃、早めの夕食(たくさんの果物とたぶん葉っぱも少々)を取る。眠るのに良さそうな木を見つけて寝床をつくり、おやすみなさい。

もちろん、果物がとてもおいしいときには声をそろえて熱狂的に叫ぶし、つかみ合いをすることも、サル狩りをすることもある。そして、アルファ雄は毎日時間を割いて群れの雄に乱暴を働いて強さを誇示する必要がある。

だが、総じてチンパンジーの生活はとてもゆったりしている

「同上」

チンパンジーだけではありません。ゴリラ、オランウータン、ボノボといった大型類人猿は、人間から見ると "怠惰な" 生活を送っています。著者は「子供に聞かせる寓話や、高校の麻薬撲滅プログラムで良くないとされるたぐいの生活」と書いています。「高校の麻薬撲滅プログラム」というのはアメリカならではですが、寓話ならすぐに思いつきます。「アリとキリギリス」です。キリギリスのような生活を類人猿はしているというわけです(あくまで寓話としてのキリギリスです)。

実際に大型類人猿がどの程度の身体活動をしているのか、その具体的な数値が書かれています。


大型類人猿は日中の8~10時間を休憩とグルーミング、食事にあて、一晩に9~10時間の睡眠をとる。チンパンジーとボノボは1日に約3km歩くが、ゴリラとオランウータンの1日あたりの移動距離はもっと少ない。

木登りはどうだろう? 私のあの夏の調査によると、チンパンジーは1日に約100m登り、1.5kmのウォーキングに相当するカロリーを消費する。オランウータンは同じぐらい木登りをする。ゴリラの木登りはまだ測定されていないが、チンパンジーよりも少ないことは確実だ。

「同上」

歩行だけに着目して人間とチンパンジーの身体活動を比較したらどうなるしょうか。「チンパンジーは1日に約3km歩き、1.5kmのウォーキングに相当するカロリーを消費」とあります。人間は(普通は)木登りをしないので、人間に置き換えて「1日に3km+1.5km = 4.5km 歩く」と考えます。人間の歩幅を仮に75cmとすると、これは6000歩に相当します。あくまで比較のための仮の概算値です。

1日に6000歩の歩行というと、現代人によくある(運動不足の人の)身体活動レベルです。"チンパンジーは怠惰だ" と言っても、「チンンパンジーが生きるために雄々しく戦い、日々の糧を得るために懸命に頑張っている姿」を想像するからそう見えるのであって「1日に6000歩」程度の運動はしていることになります。


人間がチンパンジー的生活をしたら ・・・・・・


人間がチンパンジーと同じ程度の身体活動レベルの生活をしたとしたら、それはまずいことになります。


人間がこのような活動レベルの生活をしていたら深刻な健康問題につならるだろう。人間の場合、1日に1万歩以上歩かないと心血管疾患や代謝疾患のリスクが高まる。米国では成人の典型的な1日の歩数は約5000歩で、このことは2型糖尿病(米国人の10人に1人が罹患)と心疾患(米国の全死因の1/4を占める)の憂慮すべき罹患率の高さの原因になっている。

「同上」

著者は「世界的に身体活動度の低さは健康上のリスク要因として喫煙と同程度と考えられており、毎年500万人以上の命を奪ってる。」と書いています。

以上のことから考えると、類人猿は病気になってもおかしくはありません。先ほどの概算だと、最も身体活動度の高そうなチンパンジーでさえ1日に6000歩の歩行相当です。類人猿の身体活動レベルについて、著者は研究成果として、


種間での比較を可能にするために類人猿の歩行と木登りを歩数に換算したところ、大型類人猿の歩数は運動不足の人の歩数に届くことさえまれで、人間での健康の基準とされる1万歩には到底満たないことがわかった。

「同上」

と書いています。しかしチンパンジーなどの大型類人猿は "運動不足" にもかかわらず、いわゆる生活習慣病とは無縁であり、健康的な毎日を送っています。動物園にいる類人猿でさえそうなのです。


だが、チンパンジーなどの類人猿は習慣的に身体活動度が低いのに驚くほど健康だ。飼育下でも糖尿病にかかることはまれで、年齢とともに血圧が上がることもない。コレステロール値はもともと高いが、チンパンジーの動脈は硬化することも詰まることもない。その結果、チンパンジーは人間とは違って心臓病にならず、冠動脈閉塞による心臓発作も起こさない

また彼らは肥満とは無縁だ。2016年に私はシカゴのリンカーンパーク動物園のロス(Steve Ross)らとともに、全米の動物園で飼育されている類人猿の代謝率と体組成を計測した。結果は驚くべきものだった。飼育下であっても、ゴリラとオランウータンの平均体脂肪率は14~23%、チンパンジーに至っては10%未満で、オリンピック選手と同等だった。

「同上」

類人猿も人間も生物学的には霊長類ですが、霊長類の中で人間だけが特殊なのです。類人猿と比べると遙かに高い身体活動レベルを維持しないと健康を保てない。逆にいうと、人間は身体活動レベルの高い生活スタイルに適合するように進化してきたのです。そのことを著者は最新の化石研究から以降のように解説しています。


ヒトの進化史


絶滅種を含む人類の総称を "ホミニン" と言います。著者はホミニンの進化史を記述しているのですが、それを要約すると次のようです。

◆ 進化の系統樹において、約700~600万年前のころ、チンパンジーとボノボの枝からホミニンの枝が分かれた。

◆ 初期ホミニンの化石は3種が発見されている。その研究によると、初期ホミニンは直立2足歩行ができた。ただし長い腕と手指、モノを握れる足をもっており、地上と樹上の両方の生活に適応していた。歯の特徴から果物などの植物性食物を食べ、現在の類人猿に近い暮らし方をしていたと推測できる。

◆ 約400~200万年前のホミニンの化石はアウストラロピテクス属で占められている(5つの種が発見されている)。アウストラロピテクスも樹上生活に適した長い腕と手指をもっていた。ただし、足指はモノを握れない。また脚が長くなり、大股での二足歩行で効率的に地上を移動できた。歯の磨耗パターンから、初期ホミニンと同じく植物性食物を食べていたと推測できる。

◆ 約200万年前になると、新しいホミニン(=ホモ属、ないしはヒト属)が登場した。260万年前のエチオピアとケニアの遺跡からは石器と、石器でつけられた窪みや傷がある動物の骨の化石が発見された。180万年前の遺跡になるとカットマーク(石器による切断痕)がついた動物の骨の化石が普通に見つかる。

またホモ属は180万年前までにアフリカを出てユーラシア大陸に広がり、カフカス山脈の山麓からインドネシアの熱帯雨林にまで達した。つまり、ほぼどこでも繁栄できる能力を持っていた。

この「狩猟を行うホモ属」の出現が人類の生き方を変えたと、著者は次のように書いています。


私たち人類を類人猿から遠ざけ、私たちの生き方を決定的に変えたのは、石器づくりと肉食に手を出し、狩猟採集戦略の構築に至る100万年がかりのこの変化だった。

「同上」

動くことに適応した体.jpg
動くことに適応してきた人類
「ホミニンは直立歩行を容易にする解剖学的構造を進化させたことで、より少ないカロリーでより広い範囲を移動できるようになり、新たな土地へ広がっていくことができた。その後、狩猟を行うようになると、獲物を見つけるためにさらに遠くまで移動する必要が生じ、ホミニンの活動レベルはさらに上昇した。私たちの生理機能はこのような肉体的に活発な生き方に適応しており、健康を維持するためには運動しなければならない」(日経サイエンスより引用)。

ホミニンはチンパンジーを除く現生人類と絶滅人類を指す言葉。図の左端のアルディピテクス属は初期ホミニンの代表的な属である。

(日経サイエンス 2019年4月号)


狩猟採集がヒトをつくった


石器による狩猟(と肉食)がヒトの進化に果たした役割はどのようなものだったのでしょうか。著者は何点かに分けて解説しています。

 長距離移動の能力 


生態と進化では食事によって運命が決まる。動物が食べる食物は彼らの腸だけでなく、生理的機能全般や生活スタイルも形づくる。

豊富に存在して動かない食物を食べるように進化した種は遠くまで移動する必要はなく、あまり賢くなくても腹を満たすことができる。草は隠れることも逃げることもしないからだ。

一方、発見や捕獲が困難な食物を食べる動物は、もっと長い距離を移動しなければならないし、認知能力の向上がみられる。例えば、中南米の森林地帯に生息し果実を食べるクモザルは、同じ森林にすみ葉のみを食べるホエザルに比べて脳が大きく、1日あたり5倍の距離を移動する。アフリカのサバンナの肉食動物の1日の移動距離は獲物となる草食動物の移動距離の3倍だ。

「同上」

 協力 


類人猿や初期ホミニンの採集生活からホモ属の特徴である狩猟採集戦略への移行は大きな波及効果をもたらした。この移行によって社会的な霊長類であるホモ属の結束はさらに強まった。肉を食べるには協力と共有が必要だ。その理由は、1人ではシマウマを仕留められないからだけではない。肉は入手しにくいため、もっと予測のつく植物性食物を分け合って初めて、狩猟採集戦略が成立するのだ。

現代の狩猟採集民は毎日のカロリーの約半分を植物から摂取している。化石化した歯石に含まれる食物についての最近の解析から、優れたハンターで野菜を食べないホミニンの筆頭にも思えるネアンデルタール人でさえ、穀類などの多くの植物性食物を含むバランスのとれた食事をしていたことが明らかになっている。

「同上」

現代の狩猟採集民が肉食と植物食を併用していることについては、著者のポンツァーがアフリカのハッザ族を調査した結果を、No.221「なぜ痩せられないのか」で紹介しました。

 知能の向上 


狩猟採集生活はまた、知能の進化を促した。技術革新と創造性はより多くのカロリーをもたらすとともに、より多くの子孫を残すことにつながった。協調とコミュニケーションがホミニンの戦略において抜き難い要素になるにつれ、社会的知性がとても重要になったのだろう。

2018年に発表されたジョージ・ワシントン大学のブルックス(Alison Brooks)や米国立スミソニアン自然史博物館のポッツ(Rick Potts)らによるケニアのオロルゲサイリー盆地の遺跡の発見は、ホミニンの認知能力が32万年までに現世人類に見られる程度にまで高まっていたことを示している。視覚表現に黒と赤の顔料が用いられ、上質な石器の材料を得るために遠隔地との交易ネットワークが作られていたのだ。この時期は、現時点で最古のホモ・サピエンスの化石(モロッコにある30万年前の遺跡ジェベリルーで発見されたと2017年に発表)の年代によく一致している。

「同上」

 身体活動量の増加 


さらに、狩猟採集生活に移行したことで、食料を得るためにより懸命に働かねばならなくなった。食物連鎖での地位が上がると食物を見つけるのがそれだけ難しくなる。地上には、動物性のカロリー源よりも植物性のカロリー源のほうがずっと豊富に存在する。

狩猟採集民は著しく活動的で、1日に通常9~14km、歩数にして1万2000歩~1万8000歩移動する。私がアリゾナ大学のライクレン(David Raichlen)と現在カリフォルニア大学ロサンゼルス校にいるウッド(Brian Wood)と行ったタンザニア北部の狩猟採集民ハッザ族についての研究で、彼らの1日の身体活動量は男女ともに米国人の典型的な1週間分の身体活動量よりも多く、毎日の移動距離は大型類人猿の3~5倍に及ぶことが明らかになった。

「同上」

 長距離走の能力 


初期のホモ属は弓矢などの技術革新の恩恵を受けていなかったので、もっと活動的だったのだろう。ユタ大学のブランブル(Dennis Bramble)とハーバード大学のリーバーマン(Daniel Lieberman)は2004年に発表した画期的な論文で、ホモ・エレクトスの骨格に持久走に向いた特徴がいくつか見られることを指摘し、私たちホモ属は進化によって獲物を疲れ果てるまで走らせることができるようになったと主張した。

「同上」

ここで書かれているのはいわゆる「持久狩猟」で、現代でもアフリカの狩猟採集民がやっています。狩猟には必ず動物を追いかけるという行動が必要ですが、動物は人が追いかけるにはあまりに速い。そこで持久戦に持ち込みます。足跡を参考にしながら、狙った獲物をどこまでも追いかけていく。そうすると動物はいずれ弱ってしまい、そこを仕留める。

そのためには長距離を走れることが必要で、そのため能力の筆頭は汗をかくことです。ヒトは汗腺を発達させ、体毛を少なくし、気流で直接に体を冷やせるようになった。ヒトを含む哺乳類は深部体温が一定以上になると生命が危険にさらされます。"効率的なラジエーター" を備えたヒトは長距離走に有利です。

狩猟の対象となる動物は(一般には)汗をかく能力がありません。体毛もあります。つまり、追われる動物はいずれ木陰などに立ち止まって体温を下げる必要が出てきます。そこに人間が追ってくる。動物はまた逃げて、あるところまで行くと立ち止まる。するとまた人間が追いついてくる。これを繰り返すと動物はいずれ動けなくなります。人間はそこで動物を仕留める。持久狩猟に弓矢や槍といった "高度" な道具は不要です。毒矢のような技術革新も不要で、棍棒があればよいわけです。

著者が紹介しているブランブルとリーバーマンの "画期的な論文"(2004年)ですが、「日経サイエンス」の同じ号(2019年4月号)にその概要が紹介してありました。ヒトが走るために進化した証拠は20ほどあるそうですが、その一つがうなじ靱帯です。

うなじ靱帯とは、首筋にそって頭骨と脊椎をつないでいる靱帯で、これがないと走ったときに頭がグラグラ揺れてしまいます。馬や犬やウサギなど、速く走る動物には項靱帯があり、現世人類も持っています。しかしチンパンジーにはありません。「日経サイエンス」には次のように書かれています。


リーバーマンらが私たちの先祖にあたる猿人のアウストラロピテクス・アファレンシス(約400万年前~300万年前に生息)の頭骨化石を調べると、項靱帯を骨に固定するための溝が見つからなかった。

一方で、アウストラロピテクスより私たちに近縁の原人、ホモ・ハビリス(約240万年前~140万年前)では、項靱帯の痕跡が見つかった。人類の祖先は約700万年前にチンパンジーの祖先と分岐したのち、走るために都合がよいように進化していたのだ。

出村 政彬(日経サイエンス編集部)
「バイオメカニクスからみた走りの人類史」
「日経サイエンス」2019年4月号

一般には2足歩行こそが人類を進化させたものであり、「走り」は2足歩行の後に獲得した "おまけ" のようなものだと考えられていました。しかしリーバーマンらは「走り」を人類進化の重要な要素と位置付けたわけです。著者のポンツァーが「画期的」と書いているのはその意味でしょう。


ヒトは運動に適応した


ここからがやっと運動と生理機能の関係です。


どんな形質でも単独で進化することはない。脳は頭蓋骨の中に、歯は顎の中にそれぞれぴったりと収まらなければならず、筋肉と神経、骨は調和して機能しなければならない。行動に関わる形質も同じだ。ある行動戦略(たとえば狩猟採集)が標準となれば、生理学的性質もそれに合わせて変わり、さらには依存さえするようになる



運動が私たち人間にとって良いことは以前から知られていたが、私たちの生理機能が狩猟採集に求められる肉体的に活発な生活スタイルに適応した方法については解明が始まったばかりだ。ほぼあらゆる器官系が影響を受け、細胞レベルにまで及んでいる。

ハーマン・ポンツァー
(デューク大学准教授)
「運動しなければならない進化上の理由」
「日経サイエンス」2019年4月号

人間の生理機能が、狩猟採集に必要な活発な身体活動にどう適応したかについて、著者は何点かに分けて説明しています。

  


この分野で最も興味深い研究のいくつかは脳に焦点を当てたものだ。例えば、私たちの脳は少ない睡眠で事足りるように進化した。これは、これは人工照明や現代的な夜の娯楽がない社会にも当てはまる。アフリカのサバンナに暮らすハッザ族であろうと、アマゾンの熱帯雨林に暮らす農業も行う狩猟採集民のチマネ族であろうと、ニューヨークの都市生活者であろうと、世界中の人々の一晩あたりの睡眠時間は約7時間で、類人猿よりもはるかに少ない。

「同上」

ライクレンらは、私たちの脳が長時間にわたる身体活動に対して報酬を与えるように進化してきたことを示している。脳はジョギングなどの有酸素運動に応答してエンドカンナビノイド(脳内マリファナ類似物質)を産出する(いわゆるランナーズハイを生み出す)。

ライクレンは、運動が人間の脳の大規模な拡大を助け、脳が正常に発達するには身体活動が必要となるように私たちは進化してきたとまで主張している。

運動は神経新生と脳の成長を促す神経栄養分子の放出を引き起こす。また、記憶力を改善し、加齢による認知機能の低下を防ぐことでも知られている。

「同上」

 代謝 


私たちの代謝エンジンも活動量の増加に応えて進化した。人間の最大酸素摂取量(VO2max:体重1kgあたり1分間に取り込むことのできる最大の酸素量)はチンパンジーの少なくとも4倍だ。この増加は主に私たちの脚の筋肉の変化による。人間の脚の筋肉は類人猿よりも 50% 大きく、対疲労性の「遅筋繊維」の割合がはるかに高い。また、人間はより多くの赤血球を持ち、活動中の筋肉に酸素を運ぶことができる。

だが、運動への適用はもっと深くまで入り込んでいるようで、私たちの細胞が働いてカロリーを燃やす速度が速くなった。私はロスやライクレンらとともに、ヒトはより速い代謝を進化させたことで、増加する身体活動や大きな脳など人間特有のエネルギーを食う形質に必要な燃料を供給できるようになったことを示した。

「同上」

 運動が全身に影響 


メタボロミクス(代謝産物の網羅的研究)の最近の進展から、活動中の筋肉が何百種ものシグナル分子を体内の放出することが示されているが、そうした分子の生理学的な影響の全貌についてはわかり始めたばかりだ。

持久力を要する運動は、心血管疾患の重大なリスク因子である慢性炎症を抑える。また、ステロイドホルモンであるテストステロンとエストロゲン、プロゲステロンの安静時レベルを下げる。よく運動している成人で生殖器系のがんの発生率が低い理由だ。

運動はストレス・ホルモンであるコルチゾールの朝の上昇を鈍らせる可能性がある。また2型糖尿病の直接原因であるインスリン抵抗性を低下させることが知られており、ブドウ糖を脂肪に変換する代わりに筋グリコーゲンとして貯蔵するのを助ける。

定期的な運動は免疫系の機能を改善して感染を防ぐ効果があり、この効果は年齢とともに高まる。座るのではなく立つといった軽い活動を行うだけで、筋肉は循環血液から脂肪を除去するのを助ける酵素を産生する。

「同上」


運動は自由選択ではない


著者のポンツァー准教授は、ヒトと運動の関係について端的に、

運動は自由選択ではなく、必須

と書いています。より健康に過ごすために運動するのではなく、普通の健康状態で過ごすためには運動が必要なのです。


ハッザ族などが心臓病や糖尿病といった先進国の人々を苦しめる疾患にかからないのも当然だ。しかし、私たちが進化的な知識に基づく生活の恩恵に浴するには、狩猟採集民の格好をしたりマラソンをしたりする必要はない。

ハッザ族やチマネ族などから得られた教訓は、重要なのは運動の激しさよりも量であるということだ。彼らは夜明けから夕暮れまで立ちっぱなしで移動している。1日2時間以上を身体活動に費やすが、その多くは歩行だ。

「同上」

ハッザ族と同等レベルの身体活動をしている現代人の研究をした結果が書かれています。


英グラスゴーの郵便局員を対象とした最近の研究が良い実例だ。彼らは練習に打ち込むアスリートではないが、郵便物を取り扱うために1日中動き続けている。1日の歩数が1万5000歩の人や1日あたり7時間を立って過ごす人(ハッザ族の人々とほぼ同等)は心血管系が最も健康で、代謝疾患にかかっていなかった。

「同上」

郵便局員にも多様な仕事があると思いますが、その中でも1日の歩数が1万5000歩の人(郵便配達担当)や、1日あたり7時間を立って過ごす人(郵便物の仕訳け担当でしょう)は健康だったわけです。注意すべきは「1日中動き続けている」という人の中に「1日あたり7時間を立って過ごす人」が入っていることです。「立って過ごす」というのも軽い運動=身体活動なのです。

ただし、我々はハッザ族やグラスゴーの郵便局員と同等の身体活動をする必要はないようです。「1日に1万歩以上歩かないと心血管疾患や代謝疾患のリスクが高まる」と前の方にあったように、その程度でよい。著者は次のように書いています。


車に乗る代わりに歩くか自転車に乗る、階段を使う、立ったままで仕事をしたり遊んだりする方法を見つけることで、私たちは彼らと同じ習慣を身につけることができる。

「同上」

アメリカ人には想像できないと思いますが、「通勤電車に1時間立つ(往復で2時間立つ)」というのも、運動量を確保するために役立つのでしょう。


進化人類学の視点からの "運動"


以下はポンツァー准教授の解説を読んだ感想です。

これは、進化人類学の観点から運動の必要性を説くという「壮大な解説」でした。もちろん「運動が必要」ということを我々は知識として理解しています。健康診断の結果数値で生活習慣病のリスクがあると判断されると、医者は必ず「運動しなさい」と言います。しかし重々分かってはいるが、忙しいとか時間がないという理由で「身体活動レベル」が低い人も多いのではないでしょうか。

ポンツァー准教授の「進化人類学の視点からの解説」は説得力があると思いました。要するに、運動をするのがヒトであって、運動をしないとヒトでなくなる。シンプルに言うとそういうことでしょう。ヒトとは、ヒト属(ホモ属)であり、ホモ・サピエンスであり、つまり現生人類である我々人間です。



ここで No.221「なぜ痩せられないのか」を再度振り返ってみます。No.221 で書いた「運動による減量効果は限定的」ということについて、なぜそうなのかを進化人類学の視点から言うと、

◆ 運動したからといって痩せては困る

からでしょう。つまり人類の進化の過程から考えると、

◆ 高い身体活動でどんどん痩せていくようだと、狩猟採集生活は成り立たない。

◆ 運動しても大して痩せないからこそ、人類は狩猟採集で生き延びた。

と理解できると思いました。人類が狩猟採集を始めてから少なくとも200万年が経っています。農業は高々1万年程度の歴史しかありません。また、現代の農業を知っている人なら分かると思いますが、農業はそれなりの身体活動を伴います。機械化以前の農業ならなおさらです。身体活動量の少ない都市生活はこの100年程度のごく最近の話であり、200万年からすると無いに等しい短い期間です。

人間は200万年かけて運動に適応し、進化した。それが今の我々である。従って運動をしないと、いろいろとまずいことが起こる。そう理解できると思います。



人類学者は絶滅人類や類人猿の研究をします。それは「人とは何か」を探求するためだと言われます。では具体的に、探求の結果の答とはどういうものか。大学の研究者がアフリカに行き、絶滅人類の化石を発掘して、そこからどういう答が得られるのか。

ポンツァー准教授の解説には、絶滅人類や類人猿の研究から得られた「人とは何か」という問いに対する答の1つが書かれていて、その答は我々の日々の生活やライフスタイルと密接に関係しています。そのことが印象的でした。




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No.271 - 「天気の子」が描いた異常気象 [映画]

この「クラバートの樹」というブログは、少年が主人公の小説『クラバート』から始めました。それもあって、今までに少年・少女を主人公にした物語を何回かとりあげました。

 『クラバート』(No.1, 2)
 『千と千尋の神隠し』(No.2)
 『小公女』(No.40)
 『ベラスケスの十字の謎』(No.45)
 『赤毛のアン』(No.77, 78)

の5つです。今回はその継続で、新海誠監督の『天気の子』(2019年7月19日公開)をとりあげます。

『天気の子』は、主人公の少年と少女(森嶋帆高ほだかと天野陽菜ひな)が「運命に翻弄されながらも、自分たちの生き方を選択する物語」(=映画のキャッチコピー)ですが、今回は映画に描かれた "気象"(特に異常気象)を中心に考えてみたいと思います。


気象監修


この映画で描かれた気象や自然現象については、気象庁気象研究所の研究官、荒木健太郎博士がアドバイザーとなって助言をしています。映画のエンドロールでも「気象監修:荒木健太郎」となっていました。

この荒木博士が監修した気象について、最近の「日経サイエンス」(2019年10月号)が特集記事を組んでいました。この記事の内容を中心に「天気の子が描いた異常気象」を紹介したいと思います。ちなみ荒木博士は映画の最初の方で「気象研究所の荒木研究員」として登場します。帆高が都市伝説(=100%晴れ女)の取材で出会う人物です。荒木博士は声の出演もされていました。

新海監督と荒木博士.jpg
新海誠監督と荒木健太郎博士(気象庁 気象研究所 研究官)
(日経サイエンス 2019年10月号)

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「天気の子」の最初の方に出てくる、気象研究所 気象・雲研究室の荒木研究員。
(日経サイエンス 2019年10月号)


積乱雲


まず、この映画で大変重要な役割をもっているのが積乱雲です。もちろん積乱雲は異常気象ではありません。積乱雲は、映画の冒頭のところで出てきます。離島から東京に向かうフェリーの船内で、家出した高校1年生の森嶋帆高は船内放送を耳にします。『小説 天気の子』から以下に引用します。帆高の1人称で書かれています。なお以降の引用では段落を増やした(ないしは減らした)ところが一部あります。また下線は原文にはありません。


『まもなく、海上にて非常に激しい雨が予想されます。甲板にいらっしゃる方は、安全のために船内にお戻りください。繰り返します、まもなく海上にて ・・・・・・ 』

やった、と僕は小さく声に出した。今なら甲板を独り占めできるかも。しりの痛い二等船室にもいいかげん飽きてきたところだし、他の乗客が戻ってくる前に甲板に出て雨の降る瞬間を眺めよう。スマホをジーンズのポケットにしまい、僕は駆け足で階段に向かった。

新海 誠『小説 天気の子』
角川文庫(2019)

帆高が駆け上がったときの甲板の様子は「日経サイエンス」の解説記事から引用しましょう。


人々が船室に戻り、がらんとした甲板は日に照らされて輝き、強い風が吹いている。空を見上げると、灰色の雲がみるみる青空を埋め尽くし、轟音とともに大粒の雨が降り注ぐ ───。

フェリーは灰色の雲の下に入っていくため、甲板上に帆高には、その雲の全貌を見ることはできない。しかし、遠くの海上からフェリーを眺めたら、フェリーの上空には巨大なカリフラワーのような白い雲が立ち上がっていることだろう。「積乱雲」だ。

中島 林彦(日本経済新聞)
協力:荒木 健太郎(気象庁 気象研究所)
「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)

帆高の乗ったフェリーが遭遇したのは積乱雲でした。「日経サイエンス」では、積乱雲が発生してから衰退するまでの一生が絵で説明してありました。この図は気象監修をした荒木博士によるものです。

積乱雲の一生.jpg
積乱雲の一生
(日経サイエンス 2019年10月号)

 発達期 

夏の強い日差しで地面が熱せられたり、暖かく湿った空気が流入するなど大気が不安定になった状態で、暖かい空気が上空に持ち上げられます。高度500m~1kmになると水蒸気が凝結して水滴(=雲粒)ができ、その雲粒が集まると「積雲」ができます。

積雲が発達していくと「雄大積雲」になります。雄大積雲は雲の頂点が坊主頭のように盛り上がるので「入道雲」とも呼ばれます。

 成熟期 

積雲が発達すると、雲の上部が羽毛状になり、雷を伴って「積乱雲」になります。積乱雲がさらに発達すると高度10km~15kmにある「対流圏界面」に到達します。地上から対流圏界面までの「対流圏」では温度が上に行くほど下がるので暖かい雲は浮力を得ていますが、対流圏界面より上の「成層圏」では逆に温度が上に行くほど上がるので、積乱雲は浮力を失い、見えない壁に当たったように横へと広がります。これが「かなとこ雲」です。

積乱雲の内部では、雲粒がもとになって雨粒、氷晶、霰(あられ)、雹(ひょう)などの降水粒子ができます。それらが形成される過程で周囲の熱を奪って空気が冷やされ、下降気流が生まれて雨が降り始めます。

 衰弱期 

積乱雲内部では下降気流が支配的になり、雲は次第に衰弱してゆきます。雨を含む下降気流は、時に「ダウンバースト」や「マイクロバースト」と呼ばれる強い流れになり、地表にぶつかって突風をもたらします。


マイクロバースト


日経サイエンス 2019-10.jpg
「日経サイエンス」2019.10
積乱雲の衰退期に発生する下降気流は、地面に衝突して四方に広がったときに災害をもたらすほど強くなることがあります。これがダウンバーストです。この突風は、風速 50m を越えることがあると言います。ダウンバーストは、特に航空機にとって深刻な問題です。着陸直前の航空機は失速速度に近い速さで飛んでいて、このときにダウンバーストに遭遇すると墜落事故に直結するからです。このため、気象用のレーダーでダウンバーストを検知する技術が発達してきました。

ダウンバーストが局所的に発生するのがマイクロバーストです。『天気の子』の冒頭では、フェリーの甲板に出た帆高がマイクロバーストに遭遇する場面が描かれています(以下の「日経サイエンス」からの引用は敬称略)。


ダウンバーストのうち、水平方向のスケールが 4km 以下のものも方が一般的に勢いが強い。これがマイクロバーストで、雨粒を含む冷たい空気の塊が高速で地面に激突するイメージだ。「帆高が乗ったフェリーはマイクロバーストの直撃を受けたようだ」(荒木)。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)


目を疑った。巨大なプールを逆さにしたようなものすごい量の水が、空から落ちてくる。それはとぐろを巻く ── まるでりゅうだ。そう思った直後、ドンッという激しい衝撃で僕は甲板に叩きつけられた。滝壺たきつぼの下にいるかのように、背中が重い水に叩かれ続ける。フェリーがきしんだ音を立てながら大きく揺れる。

やばい! そう思った時には、僕の体は甲板を滑り落ちていた。フェリーの傾きが増していく。滑りながら僕は手を伸ばす。どこかをつかもうとする。でもそんな場所はどこにもない。だめだ、落ちる ── その瞬間、誰かに手首を掴まれた。がくん、と体が止まる。フェリーの傾きが、ゆっくりと元に戻っていく。

新海 誠『小説 天気の子』

『小説 天気の子』から引用したのは帆高と須賀圭介の出会いの場面です。この場面はマイクロバーストの直撃に逢った帆高を須賀さんが救うというシーンなのでした。『天気の子』は冒頭から気象現象と人との関わりが現れます。


かなとこ雲


成熟期の積乱雲は、雲の上が対流圏界面に到達すると横へと広がっていきます。これが「かなとこ雲」です。金属加工を行うときに使う金床かなとこに形が似た雲という意味です。

かなとこ雲(実写).jpg
積乱雲が発達してできた "かなとこ雲"(荒木健太郎博士撮影)。積乱雲は対流圏界面に達すると横に広がる。
(日経サイエンス 2019年10月号)

かなとこ.jpg
かなとこ(金床)
このかなとこ雲が『天気の子』に出てきます。次の画像は夏美が帆高に「積乱雲一つに湖くらいの水が含まれていて、未知の生態系があってもおかしくない」と話す場面に映し出されたものです。上の写真のかなとこ雲をみると、下層の方は雲がもくもくしていますが、上層は刷毛で掃いたようになめらかです。こういった特徴がアニメーションでもよくとらえられています。

かなとこ雲(映画).jpg
「天気の子」の "かなとこ雲"
(日経サイエンス 2019年10月号)

さらに「かなとこ雲」は『天気の子』において大変に重要な役割をもっています。以下の『小説 天気の子』の引用は、陽菜に聞いた話として帆高が語る、小説の冒頭部分です。陽菜はもう何ヶ月も目を覚まさない母親の病室で、再び家族一緒に青空の下を歩けますようにと祈っていました。ある雨の日、陽菜は何かに導かれるように病院を抜けだし、そこだけ陽が差している廃ビルの屋上に行き、その場にあった鳥居を目を閉じて祈りながらくぐります。すると、ふいに空気が変わりました。


目を開くと ── そこは青空の真ん中だった。

彼女は強い風に吹かれながら、そらのずっと高いところに浮かんでいた。いや、風を切り裂いて落ちていた。聞いたこともないような低くて深い風の音が周囲に渦巻いていた。息は吐くたびに白く凍り、濃紺の中でキラキラと瞬いた。それなのに、恐怖はなかった。目覚めたまま夢を見ているような奇妙な感覚だった。

足元を見下ろすと、巨大なカリフラワーのような積乱雲がいくつも浮かんでいた。一つひとつがきっと何キロメートルの大きさの、それは壮麗な雲の森のようだった。

ふと、雲の色が変化していることに彼女は気づいた。雲の頂上、大気の境目で平らになっている平野のような場所に、ぽつりぽつりと緑が生まれ始めている。彼女は目をみはる。

それは、まるで草原だった。地上からは決して見えない雲の頭頂に、さざめく緑が生まれては消えているのだ。そしてその周囲に、気づけば生き物のような微細ななにかが群がっていた。

新海 誠『小説 天気の子』

その「微細ななにか」は、映画では "魚" と表現されていました。そして「まるで草原のようなところ」が "彼岸" に比定されています。この引用部分のシーンは映画のポスターに採用されました。

「天気の子」ポスター画像.jpg
「天気の子」ポスターの "かなとこ雲"

かなとこ雲の頂上に緑の草原のようなところが見える。魚らしきものが群れ、龍のようなものが周りを泳いでいる。
(日経サイエンス 2019年10月号)


8月の豪雨と降雪


ここからが異常気象の話です。『天気の子』に描かれた異常気象は何ヶ月も降り続く雨です。須賀さんの事務所での気象情報のシーンがあります。


バーカウンターには時代遅れのブラウン管テレビが置いてあり、ぼやけた画質のお天気キャスターがさっきからしやべっている。

『既に連続降水日数は二ヶ月以上を記録し、今後の一ヶ月予報でも、降水量が多く雨が続くとみられています。気象庁は「極めて異例の事態」との見解を発表し、土砂災害などに最大級の警戒をするようにと ─── 』

新海 誠『小説 天気の子』

さらに映画の後半では異常な大雨になり、都心の交通機関が麻痺し、8月だというのに気温が急激に下がって雪が舞い始める場面が登場します。次の引用は夏美の一人称の部分です。


圭ちゃんの事務所に着く頃には、信じられないことに雨は雪に変わっていた。

事務所裏にカブを停め、油断してショートパンツで来てしまったことを後悔しながら、私は事務所の階段を駆け下りた。ドアを開けて中に入る。

「寒ーっ! ちょっと圭ちゃん、八月に雪だよ!」
肩にのった雪を払いながら言う。

「あれ?」
返事がない。見ると、バーカウンターに圭ちゃんはつっぷしていた。カウンターの上のテレビが、小さなボリュームでしゃべっている。

『都心にまさかの雪が降っております。本日夕方からの激しい豪雨は各地に浸水被害をもたらしましたが、午後九時現在、雨は広い地域で雪に変わっています。予報では、深夜過ぎからはふたたび雨に変わる見込みで ─── 』

新海 誠『小説 天気の子』

8月の降雪.jpg
「天気の子」で8月の都心に雪が舞うシーン。渋谷のスクランブル交差点の北西方向(センター街の方向)の光景である。電光掲示板にその時の天気図が映し出されている。
(日経サイエンス 2019年10月号)

実際に、夏に東京で雨が雪に変わったことはありません。しかし冬なら関東地方が豪雨と豪雪に同時に見舞われたことがありました。


荒木が参考にしたのは、関東で大雪警報と大雨警報が同時に出るという異様な事態となった2014年2月15日の天気図だ(下図)。その前日から関東甲信地方の内陸部は豪雪になった。最深積雪は山梨県甲府市で114cm、群馬県前橋市で73cm、埼玉県熊谷市でも62cmと「信じがたい値が観測された」(荒木)。東京でも15日未明に27cmの積雪となり交通機関が大きく乱れた。

一方、関東東部は大雨で、日降水量は茨城県つくば市で110cm、千葉県成田市で124cmと2月としては記録的な豪雨になった。

天気図を見ると、本州の南海上を発達しながら進んできた、前線を伴う温帯低気圧が2月15日朝、関東平野を通過して、北東の海上に抜けたいったことがわかる。日本の南岸を東ないし北東の方向に進むこうした温帯低気圧を「南岸低気圧」という。

南岸低気圧には南から湿った暖気が入り、寒冷前線と温暖前線に乗り上げ、雨や雪を降らす積乱雲や乱層雲が発生する。積乱雲は局地的に大雨を降らす雲なのに対し、乱層雲は広範囲にしとしと雨や雪を降らせる雨雲・雪雲だ。

「当時、関東の南海上に南岸低気圧があったので、基本的に低気圧北側にある乱層雲など層状性の雲の降水になっていたが、関東平野に沿岸前線(局地的な前線)が形成され、その東の暖気側で大雨、西の寒気側で大雪となった」(荒木)。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)

南岸低気圧(事例).jpg
2014年2月15日9時の天気図。緑の折れ線は南岸低気圧が進んだ経路を表す。
(日経サイエンス 2019年10月号)


この2014年2月15日の天気図を参考に荒木は、陽菜や帆高が雪の夜をさまよった日の天気図を作った(下図)。

関東の南にある低気圧は2月15日のものより発達、中心気圧はさらに下がっているが、これは普通の温帯低気圧とは異なる。作中、その日の晩のテレビの気象情報では、「この異常な天候が今後も数週間続く」との見通しを伝えているので停滞性の低気圧ということになるが、「普通、南岸低気圧は移動性で、関東の南に停滞することはない」(荒木)からだ。

そこで荒木は、こうした状況にマッチするような日本上空の気流や気圧配置を考えた。「ロシア・カムチャッカ半島東方のアリューシャン列島付近などに進んだ温帯低気圧が閉塞し、上空の渦と相互作用するような状況では、停滞性の低気圧ができることがある」と荒木は話す。

「閉塞」とは温帯低気圧の温暖前線と寒冷前線が重なり、暖かい気団が冷たい気団に閉め出されて上方に押し上げられた状態のこと)

南岸低気圧の場合、雨から雪に変わるのは、低気圧の移動にともなう変化と考えることもできるが、停滞性の低気圧の場合、雨から雪の変化は、新たな寒気が流入することを意味する。作中、テレビの気象情報では、キャスターが次のように話している。

『八月としては異例の寒気です。現在、都内の気温は十度を下回っており ─── 』

『低気圧の北側から、都心部に強い寒気が流入しています。この一時間で気温は十五度以上も低下し、この先もさらに下がっていく可能性が ─── 』

荒木によると、創作した天気図のように関東の南に低気圧、その北方に高気圧がある場合、寒気の流入が通常より強まる場合がある。北関東から東北にかけて山脈が南北に走っているが、こうした気圧配置だと、東風が山脈にぶつかり、南向きに流れを変えて関東に吹き込む。これによって、関東に流れ込む北よりの冷たい風が強まる。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)

南岸低気圧(映画).jpg
2014年2月15日の天気図を参考に荒木博士が映画用に創作した天気図。アリューシャン列島付近にできることがある「閉塞性の温帯低気圧」が関東の南部にできて居座り、オホーツク海にある高気圧から寒気が流れ込むという想定。「天気の子」で雪が舞うシーン(上に引用)で電光掲示板に表示されたのがこの天気図である。
(日経サイエンス 2019年10月号)


地球温暖化による異常気象


『天気の子』では、1時間に80mmを越すような豪雨が描かれていますが、アメダスのデータを調べると、そうした豪雨の発生頻度は過去40年間で有意に増えているそうです(荒木博士による)。

そしてIPCC(国連の気象変動に関する政府間パネル)は、地球温暖化による気象変動はもう起きていて、異常気象はその現れだと警告しています。しかし、温暖化が気象にどれほどの影響を及ぼし、どのように異常気象をもららすのかは、よく分かっていなかったのが実状でした。現在、その状況が変わりつつあり、温暖化が気象変動に及ぼす影響度合いが解明されつつあります。


研究は着実に進展している。昨年7月上旬、瀬戸内地方を中心に大きな被害が出た広域豪雨は、発達した積乱雲の群によってもたらされたが、その総降水量は温暖化の影響で6%前後増えていた可能性があることが判明。同じく昨年7月、各地で起きた記録的猛暑は、温暖化していなければ生じ得なかったこともわかってきた。いずれも気象研究所のシミュレーション研究の成果だ。温暖化による異常気象は海外の遠い話ではなく、身近で起きている。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)

日経サイエンスには新海監督と荒木博士の対談も掲載されていますが、その中にも次のようなくだりがあります。


新海】 気象変動が起きているとうのは随分昔から言われていましたし、温暖化によって異常気象になるというのは、子どものころから科学誌などで読んでいました。なので二酸化炭素の排出量規制をしなくちゃいけないとか、対策のための国際会議もいくつかありましたから、人間は何とかしていくのかな、と10代、20代のころは思っていました。

でも数年前から、気づいたら気象変動を実感、体感するようになっていて、それは僕にとっては結構ショックなことだったんです。昔から言われていたことなのに、結局警鐘がそのまま現実になってしまった。人間ってやっぱり、そんなに賢くいろんなことを回避したりできないんだな、人間って結構どうしようもないなと思ったりもしたんです。

それが今回の映画の発想につながっているんですが、それは科学のコミュニティーではどういう受け止め方をされているんですか。やっっぱりこう、ずっとそうなると言われてきたことが起きてしまった、という受け止め方なんでしょうか。

荒木】 確かに以前から気象変動とか異常気象に関する研究は行われてきたんですけれども、おそらく新海さんが当時聞かれていたことは、かなり荒い計算に基づいていたと思います。本当にここ最近なんですよ。スーパーコンピュータの性能が格段に上がって、うまくシミュレーションできるようになったのは。実際に起こっている異常気象に対して、温暖化がどれくらい影響を及ぼしているかを突き止める研究が、まさ今進められているところなんです。この先どうなっていくのかについては、さらに長期的な視点で研究が進められていくと思います。

「『天気の子』の空はこうして生まれた」
(日経サイエンス 2019年10月号)

荒木博士は「新海さんが今まさに感じられている "気象が極端になっている" というのは、まさにその通り」と述べ、その例として西日本の豪雨や猛暑をあげています。『天気の子』に地球温暖化という言葉は全く出てきませんが、この映画の隠れた背景が地球温暖化なのです。温暖化が極端な気象(熱波、豪雨、台風の巨大化・・・)を招き、映画ではその「極端」を数ヶ月も降り続く雨や夏の東京での降雪で表現した。そういうことだと思います。


『天気の子』のテーマ


「天気の子」パンフレット.jpg

以下は「日経サイエンス」の記事から少々離れて『天気の子』の感想をいくつかの視点で書きます。

 天気 

帆高が映画の中で「ただの空模様に、こんなにも気持ちは動く。人の心は空とつながっている」と語っているように、天気は人々の感情と深い関わりをもっています。また、単に感情だけでなく、我々は毎日気象情報をみて行動を決めています。もちろん個人の行動だけでなく、天気は農業やビジネスの多くを左右します。災害レベルの天候となると人の命にかかわる。この社会と深い関わりを持っているのが天気です。

映画の題名になった『天気の子』とは、第1義的には、祈ることで空を晴れにできる能力をもった少女 = 陽菜を意味するのでしょう。それと同時に「天気の子=人類」をも示しています。この映画は "天気" をテーマの中心に据えた、まれな映画だと言えるでしょう。

 異常気象 

さらに、この映画で描かれるのは、延々と降り続く雨、豪雨、真夏の東京での降雪といった異常気象です。もう少し一般化して言うと「極端になった世界」「何かが狂ってしまった世界」「調和が戻せそうにない世界」が描かれています。

この映画に「地球温暖化」という言葉はいっさい出てきませんが、「日経サイエンス」の記事にあるように、現在の世界で起こっている異常気象の原因が地球温暖化であることを新海監督は認識しているし、気象監修の荒木博士もそう解説しています。この映画は、

地球温暖化が招く異常気象の一つの帰結をリアルに描き出した

と言えるでしょう。その一方で、この映画には異常気象と対比するかたちで、青空、雲、雲間から差す太陽の光などの美しい描写がふんだんに出てきます。実写ではできない、アニメーション(絵)だからこその表現です。

映画体験が人に与えるインパクトは大きいものがあります。異常気象と美しい自然の両方を対比的に体験することで、この映画は見た人に強い印象を残すものになりました。

 主人公 

「小説 天気の子」のほとんどが帆高の1人称で書かれているように、物語の主人公は森嶋帆高です。そしてこの映画は「帆高と社会の対立」がストーリの軸となっています。そもそも発端からして帆高の家出から始まっています。警官から職務質問をうけ、追跡され、逃走するのも、帆高と社会との対立の象徴です。

その社会の良識や常識を代表しているのが、帆高を雇う須賀さんです。須賀さんは一見 "悪ぶって" 見えますが、実の子と再び一緒に暮らせる日を熱望している常識人です。映画の後半では帆高が須賀さんに銃を向ける場面もあります。

その2人の中に登場するのが天野陽菜です。病気の母親の回復を強く祈った陽菜は、天とつながり、晴れ間を作り出せる能力をもった。「一時的・部分的にせよ、異常気象を解消する力」を彼女は得たわけです。陽菜は多数の人々の幸福を実現する少女であり、それは陽菜個人の犠牲の上に成り立っています。

帆高はそういう陽菜を、最終的に普通の少女に連れ戻します。その時の帆高の「天気なんて ── 狂ったままでいいんんだ!」という "開き直り" のような叫びは、多数の人々の幸福(=社会)と対立します。いいか悪いかは別にして、それが帆高の選択でした。

監督の新海さんは、「君の名は。」が大ヒットしたあと、さまざまな意見や批判をもらった、それらもふまえて『天気の子』を企画する時に決心したことがあると語っています。


自分なりに心に決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」ということだ。映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを ── 例えば人に知られたらまゆをひそめられてしまうようなひそかな願いを ── 語るべきだと、僕は今さらにあらめて思ったのだ。

新海 誠
『小説 天気の子』あとがき

「映画は教科書ではない」。それを象徴するような帆高の行動ですが、それをどう受け止めるかは観客にゆだねられていると言えるでしょう。

 暗示 

この映画には、余韻というか、これからの主人公を暗示するような表現が盛り込まれています。まず帆高についてですが、エピローグの帆高について「日経サイエンス」は次のように書いています。


新海は「調和が戻らない世界で、むしろその中で新しい何かを生み出す物語を描きたいというのが、企画の最初の思いでした」と映画パンフレットのインタビューで語っている。

家出当初の帆高の愛読書はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』だったが、エピローグでは帆高が「アントロポセン(人新世)」に関心を示していることがさりげなく示されている。人類の営みが地球に恒久的な痕跡を残し始めたことを示す新しい地質時代の呼称として、ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンが2000年に提唱した言葉だ。

「映画に描かれた東京の異常気象」
(日経サイエンス 2019年10月号)



また陽菜について言うと、エピローグで帆高と再会するとき彼女は両手を組んで何かを祈っています。そのあたりを『小説 天気の子』から引用してみます。


突然に、水鳥が飛び立った。僕は思わず目で行方を追う。
すると、心臓が大きく跳ねた。

彼女が、そこにいた。
坂の上で、傘も差さず、両手を組んでいた。
目をつむったまま、祈っていた。

降りしきる雨の中で、陽菜さんは沈んだ街に向かい、なにかを祈っていた。なにかを願っていた。

─── 違ったんだ、と、目が覚めるように僕は思う。

違った、そうじゃなかった。世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ●●●●●●●●●。あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。そして僕たちは願ったんだ。世界がどんなかたちだろうとそんなことは関係なく、ただ、ともに生きていくことを。

新海 誠『小説 天気の子』

映画を見ると、エピローグで陽菜が祈っている姿は「晴れ間を作るときに祈った姿」とそっくりでした。彼女が何を祈っていたかについての説明はなく、解釈は映画を見る人にまかされています。しかし自然な解釈は、陽菜が水没した東京の街を前にして "再び世界が調和をとりもどしますように" と祈っていた、というものでしょう。もちろん陽菜にかつてのような天候を変える力はありません。しかし一人の少女として祈る。そういうことだと思います。



さらに暗示的なのは、この映画の英語題名「Weathering With You」です。weather は普通「天気・天候」という名詞ですが、ここでは動詞として使ってあります。動詞の weather は「風雨にさらす」という意味ですが、「(困難なことを)乗り越える」という意味もあって、英語題名はまさにその意味です。

「Weathering With You」の you を陽菜(あるいは帆高)のことだとしたら「2人で困難を乗り越えよう」という意味になるし、you が人々一般を示すのなら(=総称の you )「皆で困難を乗り越えよう」と解釈できます。

この映画は、日本語と英語の題名を合わせて「我々はすべて天気の子であり、皆で困難を乗り越えていこう」と言っているように思えます。これが映画の最大の暗示でしょう。



スウェーデンの少女、グレタ・トゥーンベリさんがスウェーデン議会の前で「気候のための学校ストライキ」を始めたのは15歳の時です(2018年8月)。つまり彼女は帆高や陽菜と同世代であり、偶然ですが "学校ストライキ" は『天気の子』の制作時期と重なりました。グレタさんの行動を肯定するにせよ否定するにせよ、彼女が強調しているように、地球温暖化の影響を最も強く受けるのは現在の少年・少女の世代です。

『天気の子』は、地球温暖化による異常気象のもとで生きる少年・少女を描いています。この映画によって天気や気候、さらには地球環境により関心をもつ人が増えれば、新海監督の意図(の一つ)が達成されたことになると思いました。


ホンダのカブと本田翼


ここからは映画のテーマや異常気象とは全く関係がない蛇足で、『天気の子』のキャスティングのことです。

『天気の子』のキャスティングで興味深かったのは、本田翼さんが夏美の声を担当したことでした。この映画の声の担当は、オーディションで選ばれた主人公の2人(帆高:醍醐虎汰朗、陽菜:森七菜)は別として、小栗旬(須賀圭介)、倍賞千恵子(冨美)、平泉成(安井刑事)など、重要人物にベテラン(ないしは演技派)俳優が配されています。

しかし夏美を担当した本田翼さんは(失礼ながら)演技力のある女優とは見なされていないと思います。どちらかと言うと "アイドル" に近い(と思っていました)。その彼女が演じた夏美は、映画のテーマとプロットの展開に直結している大変に重要な役です。本田翼さんで大丈夫なのか。

と思って実際に映画を見ると、そんな "心配" はまったく不要なことがよく分かりました。本田翼さんは全く違和感なく夏美役を演じていた。俳優を(ないしは人を)見かけとか、イメージとか、思いこみで判断するのは良くないことが改めて分かりました。その前提で、さらによくよく考えてみると、「本田翼」と「夏美」は次のようにつながっているのですね。

① 本田翼が夏美を演じた
② 夏美の愛車はピンク色のホンダのカブ
③ カブを含むホンダの2輪車の統一マークは、ウィング・マーク
④ 本田翼は本名で、ウィング・マークにちなんで父親が命名した。

④は、かつて本田翼さん自身がそう語っていました。父がつけてくれたこの名前が大好きだと ・・・・・・。確か、名前の縁でホンダのCMに出ることが決まったときの会見映像だったと記憶しています。

① ② ③ ④ の4つが揃っているのは偶然ではないでしょう。本田翼 → 夏美 → ホンダのカブ → ウィング・マーク → 本田翼 ときれいにつながっている。そいういう風に仕組まれているようです。本田翼さんを夏美役にキャスティングしたのは単なる話題づくりではないと思いました。




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No.270 - 綴プロジェクトによる北斎の肉筆画 [アート]


高精度複製画による日本美術の展示会


No.85「洛中洛外図と群鶴図」で、2013年に京都府で開催された「文化財デジタル複製品展覧会 - 日本の美」を見学した話を書きました。この展覧会には、キヤノン株式会社が社会貢献活動として京都文化協会と共同で行っている「つづりプロジェクト」(正式名称:文化財未来継承プロジェクト)で作られた高精度複製画が展示されていました。その原画の多くが国宝・重要文化財です。No.85 のタイトルにしたのは展示作品の中から、狩野永徳の『上杉本・洛中洛外図屏風』(国宝)と、尾形光琳の『群鶴図屏風』でした。

綴プロジェクトの高精度複製画は、複製と言っても非常にレベルが高いものです。高精度のデジタルカメラで日本画を撮影し、高精細のインクジェット・プリンタで専用の和紙や絹本に印刷します。それだけではなく、金箔や金泥、雲母(きら)の部分は本物を使い、表装は実物そっくりに新たに作成します。もちろん、金箔・金泥・雲母・表装は、その道のプロフェッショナルの方がやるわけです。つまり単にデジタル撮影・印刷技術だけで作成しているのではありません。「キヤノンのデジタル技術 + 京都の伝統工芸」が綴プロジェクトです。その制作過程を、キヤノンのホームページの画像から掲載しておきます。

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綴プロジェクトの制作過程(1)入力
デジタル1眼レフカメラによる多分割撮影で、高精度のデジタル画像を取得する。

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綴プロジェクトの制作過程(2)色合わせ
オリジナル作品とプリント出力の結果を合わせるためのカラー・マッチング処理を行う。

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綴プロジェクトの制作過程(3)出力
12色の顔料を用いた大型インクジェットプリンタで、専用の和紙や絹本に印刷する。

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綴プロジェクトの制作過程(4)金箔
京都の伝統工芸士が、金箔・金泥、雲母(きら)を施す。

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綴プロジェクトの制作過程(5)表装
京都の伝統工芸士の表具師表装を行い、最終的に複製を仕上げる。

京都での「日本の美」展覧会を見て、「高精度複製画展示会」には次のようなメリットがあることがよく分かりました。

◆接近して鑑賞できる

我々は普通、国宝・重文クラスの屏風や襖絵を、たとえば30cm程度まで近づいて鑑賞することはできません。そういう作品は、No.85「洛中洛外図と群鶴図」で感想を書いた『上杉本・洛中洛外図屏風』のようにガラスケースの中に展示されているのが通例です(所蔵している米沢市の上杉博物館の例)。

しかし屏風や襖絵は本来、家屋の中のしつらえであって、数メートル離れて見てもよいし、近くで正座して眺めてもよく、また30cm程度まで近づいて目を凝らして鑑賞してもよいわけです。尾形光琳の『群鶴図屏風』などは、実際に近づいて斜めの位置からみると異様な迫力でした。狩野永徳の『洛中洛外図屏風』は、六曲一双に約2500人が描かれています。30cm程度まで近づいて細部を見ることにこそ意義があるわけです。もちろん短時間で細部すべてを見ることはできませんが、そういう鑑賞方法でないとこの屏風の真価の一端にさえ触れられない。

しかし高精度複製画であれば鑑賞上の制約事項がほとんどなく、近接して鑑賞するのも自由です。これは大きなメリットです。また日本画は油絵と違って絵の具や墨を厚塗りすることがないので、高精細インクジェット・プリンタでの複製であっても違和感がないところが好都合です。

◆門外不出の作品を鑑賞できる

尾形光琳の『群鶴図屏風』を所蔵しているのはアメリカのワシントンD.C.にあるフリーア美術館ですが、この美術館は所蔵全作品が門外不出です。従って、たとえば日本で「尾形光琳大回顧展」をやったとしても、そこに『群鶴図屏風』が出展されることはありません。

それでは、ワシントンD.C.まで行ったら見られるのかというと、そんなこともありません。私は1度だけフリーア美術館を訪問したことがあるのですが『群鶴図屏風』は展示されていませんでした。今回のテーマである北斎の肉筆画もなかった。フリーア美術館は「比較的小規模な東洋美術の美術館」なので、日本美術を展示するスペースには限りがあります。

もちろん展示替えはあるのでしょうが、フリーア美術館を気楽に訪問できるのはワシントンD.C.やその周辺州に居住している人か、せいぜいアメリカ東海岸に住んでいる人でしょう。所蔵品リストを見ると、フリーア美術館は "日本美術の聖地" と言えるところなのですが、その所蔵品は日本美術ファンからみると実質的に "死蔵" されていることになります。

しかし高精度複製画なら、その "死蔵美術品" を鑑賞できることになります。

この「綴プロジェクト」で作成された複製画の展覧会が、最近、東京でありました。今回はその話です。


高精細複製画で綴るフリーア美術館の北斎展


すみだ北斎美術館.jpg
すみだ北斎美術館
2019年6月25日~8月25日、すみだ北斎美術館で、フリーア美術館が所蔵する北斎の肉筆画、13点を高精細複製画で再現した展示会が開催されました。高精細複製画による日本画の展覧会は私にとっては6年ぶりで、しかも北斎の肉筆画です。これは絶対に行くしかないと思って、7月30日からの後期の展示会に行ってきました。

その後期で展示されていた作品から4点を以下に紹介します。最初は『玉川六景図』と『富士田園景図』ですが、この2作品は北斎の六曲一双の屏風絵という、滅多に見ることができないものです。しかも高精度複製画ならではの展示方法でした。

次に北斎の最晩年(87歳)の作品、『雷神図』と『波濤図』をとりあげます。90歳近くにもなってこのような大迫力の絵を描けるというのは驚きでした。


『玉川六景図』(北斎74歳)


『玉川六景図』は、歌枕(和歌に繰り返し取り上げられたテーマ)となっている全国各地の6つの玉川(=六玉川。多摩川=玉川)を取り上げ、その風景と川にちなむ人物(川の風物を読んだ歌人、川原で働く人、旅人など)を描いた六曲一双の屏風です。

フリーア美術館が所蔵する原本では、右隻に風景、左隻に人物が配置されています。しかし明治28年(1895年)に発行された雑誌「日本美術画報」に掲載された写真では、風景とそれにちなむ人物の2扇をペアにし、右隻に3つ、左隻に3つのペアが配置されています。またその写真の表装は現在のものとは違っている。フリーア(=チャールズ・フリーア。1854-1919)が『玉川六景図』を購入したのは明治の末期です。つまり、フリーアが購入する前か後のどこかの時点で表装が改装され、配置が変更されたことになります。その理由は分かっていません。

なお、フリーア美術館は Web サイトで「右隻に風景、左隻に人物」となっている画像を公開していますが、「高精細複製画で綴るフリーア美術館の北斎展」の Web サイトやカタログでは「右隻に人物、左隻に風景」となっています。おそらく北斎展の情報が正しいのでしょうが、以下ではフリーア美術館の Web サイトどおりの画像にしておきます。

玉川六景図・右隻・フリーア.jpg
葛飾北斎(1760-1849)
「玉川六景図」(右隻)
(フリーア美術館)

玉川六景図・左隻・フリーア.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(左隻)
(フリーア美術館)

今回の展示会では『玉川六景図』がオリジナルの配置で展示されていました。ごくシンプルに考えて、風景とそれにちなむ人物をペアにした配置の方が屏風としての納得性が高いわけです。配置の変更は、おそらく風景と人物の関係性が理解できなかった誰かがやったと考えられます。綴プロジェクトによる『玉川六景図』の配置が次です。

玉川六景図・右隻・綴.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(右隻)
(綴プロジェクト)

玉川六景図・左隻・綴.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(左隻)
(綴プロジェクト)

このオリジナル配置による『玉川六景図』の展示は、高精度複製画による展示会のメリットを最大限に生かしたものと言えます。北斎の本物の屏風を所有している美術館がその配置を組み替えるなど、たとえそれが本来の配置であったとしても絶対に出来ないでしょう。複製画ならではの展示でした。



以下に、綴プロジェクト配置による『玉川六景図』の画像を、右から順に2扇ずつ掲載します。玉川の説明については、

朝日新聞デジタル
 「ことばマガジン・アーカイブ・観字紀行」
 「多摩」か「玉」か 六玉川へ (2011/05/27)

を参考にしました。なお、"玉" とは "美しい" という意味で(玉虫の玉)、玉川は「美しい川、清流」という意味になります。

 摂津の国 三島の玉川:右隻 第1・2扇 

玉川六景図・右隻 第1・2扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
摂津の国 三島の玉川
(右隻 第1・2扇:綴プロジェクト)

大阪府高槻市の川で、淀川の近くにあります。描かれている人物は、この川を詠んだ平安時代後期(11世紀)の歌人、相模です。

見わたせば 波のしがらみ かけてけり
卯の花咲ける 玉川の里
相模(後拾遺和歌集)

の歌のように、三島の玉川は卯の花の名所として知られていました。現在でも高槻市の花は卯の花です。北斎の風景にはその卯の花ときぬたが描かれています。砧は布を叩いて柔らかくする木製の道具なので、この付近は布の産地でもあったのでしょう。

 山城の国 井手の玉川 

玉川六景図・右隻 第3・4扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
山城の国 井手の玉川
(右隻 第3・4扇:綴プロジェクト)