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No.305 - フリック・コレクション [アート]
過去の記事で、13の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名を冠した美術館です。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、ニューヨークにあるフリック・コレクションのことを書きます。
ニューヨーク
ニューヨークはパリと並ぶ美術館の集積都市です。海外の美術館めぐりをしたい人にとって、パリの次に行くべき都市はニューヨークでしょう。そのニューヨークの美術館めぐりをする人が、まず間違いなく訪れるのがメトロポリタン美術館とニューヨーク近代美術館(正式名称:The Museum of Modern Art : MoMA)だと思います。この2つの美術館を訪れることで、古今東西の多数の美術品やアートにふれることができます。
この2つの大美術館は、マンハッタンの5th アベニュー(南北の通り)に近接していますが(メトロポリタンは面している)、2つのちょうど中間点付近にあるのがフリック・コレクションです。フリックコレクションも 5th アベニューに面していて、MoMAやメトロポリタンから歩いて行こうと思えば可能な距離です(直線距離1キロ程度)。

邸宅美術館
フリック・コレクションは、鉄鋼業などに携わった実業家、ヘンリー・クレイ・フリック(1849-1919)の個人コレクションを自宅に展示したものです。つまり、ワシントン D.C.のフィリップス・コレクション(No.216)やミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(No.217)、ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館(No.263)と同様の「邸宅美術館」です。ただし"邸宅" といっても石造りの大規模かつ豪勢な建物であり、普通に想像する住居というイメージではありません。ここを訪問したなら、まず建築そのものや内部の装飾、調度品を鑑賞し、それと併せて美術品を見るというのが正しい態度でしょう。
コレクションを収集したヘンリー・フリックは1919年に亡くなりましたが、その後も親族よって拡張が続けられ、1935年から美術館として一般公開が始まりました。所蔵する絵画の約 1/3 はヘンリー・フリックの没後に購入されたものですが、著名作品のほどんどはヘンリー・フリック自身が購入したものです。
2010年、美術館は開館75周年を記念して紹介動画を作成しました。ナレーションは英語ですが、美術館の内部も撮影されていて、その様子がよく分かります。YouTube で見ることができます。
Introduction to The Frick Collection
https://www.youtube.com/watch?v=LEyC8g94MZE
この美術館は内部の撮影は禁止であり、かつ所蔵美術品は門外不出です。従って、現物を見るためにはここに行くしかないのですが、逆に言うと、お目当ての作品があったとして、それが貸し出しなどで不在ということはありません。フィラデルフィアのバーンズ・コレクションと同じで、これはメリットだと考えることもできるでしょう。
このコレクションは、ヨーロッパの19世紀以前の、特に "古典絵画" が主体です。絵画について、主な所蔵品の画家をあげると、
なとです。以降は、これらの所蔵絵画から上に画像を引用した2作品を紹介したいと思います。一つは宗教画で、ベッリーニの『荒野の聖フランチェスコ』、もう一つは3枚もある(!)フェルメールの中の1枚、『士官と笑う娘』です。まず『荒野の聖フランチェスコ』からです。
聖フランチェスコ
聖フランチェスコはカトリック教会における聖人の一人で、12~13世紀のイタリアの人です。数多の聖人の中でも最も人気が高く、よく知られた人でしょう。いや、世界のほとんど人がこの名前を知っているはずです。
というのも、アメリカのカリフォルニア州のサンフランシスコ(San Francisco)は、スペイン語で「聖フランチェスコ」の意味だからです。つまりフランチェスコはイタリア語ですが、スペイン語・ポルトガル語ではフランシスコです。なお、英語ではフランシス、フランス語ではフランソワ、ドイツ語ではフランツであり、現代の欧米人の男性名としてもよくあります。
2013年に即位したアルセンチン出身のローマ教皇・フランシスコの名前も、もちろん聖フランチェスコにちなんでいます。意外にもフランチェスコを名乗った教皇は初めてです。あまりにも有名な聖人の名前なので、それまでの教皇が名乗らなかったのかもしれません。聖フランチェスコは貧しい人々に寄り添う人だったので、教皇としてはそこが名前の意図なのでしょう。
なお、イタリア語の原音に近いのは「フランチェスコ」ですが、日本のカトリック教会では伝統的に「フランシスコ」と呼ぶ習わしです。日本と関係が深い聖フランシスコ・ザビエル(スペイン人、バスク出身)と関係しているのかもしれません。
聖フランチェスコの生涯
聖フランチェスコの生涯と、フリック・コレクションが所蔵する『荒野の聖フランチェスコ』については、中野京子さんの解説があるので、それを引用しましょう。
「小さき兄弟の会」(のちのフランシスコ会)をヴァチカンが公認したは異例だったと言います。当時の「放浪説教師」のほとんどは元司祭であり、説教に人気があったとしても "ヴァチカン批判勢力" で、カトリック教会とは無縁だとされていました。しかしフランチェスコは違いました。
聖フランチェスコはまた、数々の奇蹟のエピソードとともに語り継がれています。
聖フランチェスコは生前から神聖視され、現代までに美術作品、伝記、小説、映画と多岐にわたって取り上げられました。その聖フランチェスコを描いた絵画から2点を引用しておきます。
フランツ・リストが作曲したピアノ曲「伝説」の第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」は、上のフレスコ画に描かれた言い伝えにもとづいています。次の絵は、聖フランチェスコを多数描いたエル・グレコの作品です。
ベッリーニ:荒野の聖フランチェスコ
本題のフリック・コレクション所蔵のベッリーニ『荒野の聖フランチェスコ』です。絵の画像と中野さんの解説を引用します。
確かにこの絵には「神々しい光」はありません。ただし、左の方から何となく神秘的な光が聖フランチェスコとその周辺に当たっています。左上のオリーブの木の葉の描き方も、その光を示しているようです。また、聖フランチェスコのみならず、岩や植物、動物、空が細密にリアルに描かれています。聖フランチェスコの思想の中に「自然も兄弟」という考え方があったようですが、それを表しているのかもしれません。
ちなみに「トンスラ」というヘアスタイルは、上に引用したジョットとエル・グレコの作品でクリアに分かります。
おそらくこの絵は「すべての細部に意味がある」のでしょう。中野さんの解説はその一部だと想像されます。カトリックのフランチェスコ会の人ならば、この絵の説明を何10分とできるのでしょう。
キリスト教絵画が西欧の絵画の発展の原動力になったことは間違いないありません。それは文字の読めない人にキリスト教を教える重要なツールでもあった。西欧絵画を理解するためには、その背景にある宗教画を知っておいた方がよいわけです。
しかし非キリスト教である我々にとって、宗教画の理解はハードルが高いものです。よく、聖書(とギリシャ・ローマ神話)を知らないと西欧絵画は理解できないと言いますが、たとえ聖書を知っていたとしても分からない絵がいっぱいあります。典型的なのが「マグダラのマリア」関係の絵で、キリストと極めて近い人物であるにもかかわらず、往々にして聖書とは無関係なストーリーが図像化されます(No.118「マグダラのマリア」参照)。No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用したカニャッチの絵など、欧米に流布している "マグダラのマリア物語" を知らないと意味不明でしょう。カトリック教徒なら常識かも知れないけれど ・・・・・・。
さらなるハードルは「聖人」についての絵画です。これが意外に多い。キリストと同時代の聖人はともかく、古代ローマから中世に至る数々の聖人の図像化は、その聖人の事跡を全く知らないのでは意味がとれません。ちょうど『荒野の聖フランチェスコ』のようにです。
逆に言うと『荒野の聖フランチェスコ』が描かれた時代、一般の人で文字が読める人は少数だったことを思うと、この絵は聖フランチェスコの事跡(の一部)を説明するための絵と考えることができます。我々としても『荒野の聖フランチェスコ』という絵を知るなかで、「アッシジの聖フランチェスコ」を知り、西洋史の一端を理解すればいいのだと思います。
たとえば聖フランチェスコの思想は、小鳥や狼のみならず、あらゆる動植物も含めて、父なる神のもとの兄弟であるという考え(=万物兄弟の思想)だったようです。「小鳥に説教」も、奇蹟のエピソードというよりは万物兄弟の思想の現れなのでしょう。そういったことから、1980年に当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世はフランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定したといいます(Wikipediaによる)。つまり聖フランチェスコの(=フランシスコ会の)思想は、少々意外なことに我々が思う西洋の「神→人間→動物」という階層の考え方と違います。このような「学び」が、絵をきっかけにしてありうるのかなと思いました。
フェルメール:士官と笑う娘
寡作で有名なフェルメールの真筆とされる絵はわずか35点です(35の数え方は No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照。もちろん異説がある)。ほとんどは欧米の美術館に収蔵されていますが、複数のフェルメール作品をもつ美術館は次のとおりです。
別に「フェルメール作品の所有数が美術館のグレードを示す」わけではないのですが、このリストを見て分かることが2つあります、一つは「アメリカの美術館が健闘している」ことです。フェルメールの "母国" であるオランダの2つの美術館を別格として、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとルーブル美術館がアメリカの3つの美術館の後塵を拝している。これは、フェルメールが19世紀後半から評価されはじめ、その時期にアメリカの資本主義の発展が重なって富が集積するようになり、アメリカの富豪コレクターがフェルメールを買ったということでしょう。ボストンのガードナー夫人もその一人でした(絵は盗まれてしまいましたが ・・・・・・。No.263「イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館」参照)。
このリストから分かる2つ目ですが、「フリック・コレクションは個人コレクションであるにもかかわらずフェルメールの真筆を3作品も持っている」ことです。メトロポリタンやワシントン・ナショナル・ギャラリーにはアメリカの富豪美術コレクターが寄贈した作品がヤマのようにあって、美術館自体が "個人コレクションの複合体" という面があります。しかしフリック・コレクションは一人のコレクションなのです。そこは特筆すべきでしょう。そのフリック・コレクションにあるフェルメールは、
◆士官と笑う娘
◆中断されたレッスン
◆婦人と召使い
の3点ですが、この中の『士官と笑う娘』を取り上げます。『兵士と笑う娘』という日本語表記もありますが、フリック・コレクションの英語表記は "Officer" なので「士官」とします。
士官と娘と地図
この絵については、フランスの科学雑誌「Pour la Science」の副編集長、ロイク・マンジャンが書いた『科学でアートを見てみたら』(原書房 2019)に興味深い記述があったので、それに沿って紹介したいと思います。まず、この絵が描かれた当時のオランダの状況です。
フェルメールの絵によくある「左の窓から差し込む柔らかな光に包まれた室内」の情景です。手前に描かれた男性の表情はほとんで分かりません。ただ「赤い制服」「つば付きの大きな帽子(=高級なビーバー・ハット)」「黒い弾帯(ガンベルト)」といういでたちから、この男性は単なる兵士ではなく、それなりの地位の士官であることがわかります。この士官を大きく手前に描くことで、室内の奥行き感が強調されています。上の引用にあるように、士官は女性と "親密な会話" をしているのでしょう。
その会話相手の女性は笑顔を浮かべ、堂々と士官と会話をしています。口説かれて困っているとか、とまどっているとか、そいういう気配はなく、男と会話を楽しんでいる。何となく、しっかりしていて自立した女性という雰囲気であり、この雰囲気はフェメールが描いた女性像の中でも際だっているのではないでしょうか。
さらにこの絵にはもうひとつ、重要そうなアイテムが描かれています。後の壁にかかっている "意味ありげな" 地図です。
解説にあるように、この地図は通常の地図ではありません。上が北ではなく、ネーデルラントにとっての海の方向、つまり西です。これは引用にあるように「ネーデルラント連邦共和国が外海である北海を向いているのは、世界を征服した海洋民族にとって当然のこと」なのかもしれません。さらにもう一つ、陸が青く、海が茶色に塗られているのも通常の地図とは違います。
「平和の回復によって軍人の社会的立場が一変したことを暗示」とは抽象的な言い方ですが、分かりやすく言うと「軍人は戦争をするのではなく、女性を口説くようになった」ということでしょう。フリック・コレクションの公式カタログ(日本語版)には、この地図について次の主旨の説明がありました。
すべては推測ですが、こういった "謎" も、フェルメール作品が人々を引きつける要因になっているのでしょう。
ビーバー・ハット
「科学でアートを見てみたら」には、士官がかぶっている帽子に関する話がありました。絵の鑑賞とは直接関係がありませんが、興味深い話なので余談として引用します。
ビーバーは水中(=川)を活動する哺乳類なので、下毛は短い毛が密集していて防水性にも優れています。そのため、かつてのヨーロッパでは高級帽子の素材として有名だったようです。シルクハットは、現在は毛ばだてたシルクで作りますが、昔はビーバーの下毛で作られていました。
上の引用の中に『不思議の国のアリス』が出てきます。言葉遊びでキャラクターを作り出すのが得意なルイス・キャロルは、「帽子屋のように狂っている(as mad as a hatter)」という英語の慣用句から "Mad Hatter = 気狂い帽子屋" というキャラクターを作り出しました。そして慣用句においてなぜ hatter が mad なのかというと、一つの推測がビーバー・フェルトの加工をする人の「職業病」とも言える水銀中毒なのですね。マーチン・ガードナーの「The Annoted Alice」にも同じ推測が書かれていました。
ビーバーの下毛が帽子に最適だったために、ビーバーの乱獲を招いたわけです。ビーバーの生息域はヨーロッパと北米ですが、ヨーロッパのビーバーは19世紀に絶滅状態になりました。これはまずいということで近縁種の北米のビーバーを輸入して、現在では生息数がそれなりに増えつつあるそうです。
毛皮をとるために水生哺乳類が乱獲され、絶滅ないしは絶滅危惧種になるというのは、ラッコがそうです(No.126「捕食者なき世界(1)」参照)。人間のやることは昔から変わらないようです。
フェルメールの "テイスト"
話を『士官と笑う娘』に戻します。この絵が一つの典型なのですが、フェルメールの絵の題材は「何気ない日常の室内風景」が多いわけです。しかも男性と女性が談笑している(男が女を口説いている)この絵のように、いかにもありそうなシーンを描いている絵が多い。しかしそれでいて絵全体からは、
といった印象を受けます。つまり「チープな感じとは対極の印象」を受ける。フェルメールの絵からは、何やら教訓めいたしかけを感じることもあります。この絵もそうで、社会的地位の高い男に安易に気を許してはいけないという教訓絵かもしれない。しかし "チープな感じ" はしません。
この不思議な "感じ、"味わい"、"テイスト" はフェルメール独特のものであり、それは画面の構図、明暗のつけかた、光の描き方、顔料の使い方などのすべてからくるものなのでしょう。そこがフェルメールの人気の秘密だと思います。フリック・コレクションの『士官と笑う娘』もそれを体現しているのでした。
No. 95 | バーンズ・コレクション | 米:フィラデルフィア | |||
No.155 | コートールド・コレクション | 英:ロンドン | |||
No.157 | ノートン・サイモン美術館 | 米:カリフォルニア | |||
No.158 | クレラー・ミュラー美術館 | オランダ:オッテルロー | |||
No.167 | ティッセン・ボルネミッサ美術館 | スペイン:マドリード | |||
No.192 | グルベンキアン美術館 | ポルトガル:リスボン | |||
No.202 | ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 | オランダ:ロッテルダム | |||
No.216 | フィリップス・コレクション | 米:ワシントンDC | |||
No.217 | ポルディ・ペッツォーリ美術館 | イタリア:ミラノ | |||
No.242 | ホキ美術館 | 千葉市 | |||
No.263 | イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 | 米:ボストン | |||
No.279 | 笠間日動美術館 | 茨城県笠間市 | |||
No.303 | 松下美術館 | 鹿児島県霧島市 |
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名を冠した美術館です。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、ニューヨークにあるフリック・コレクションのことを書きます。
ニューヨーク
ニューヨークはパリと並ぶ美術館の集積都市です。海外の美術館めぐりをしたい人にとって、パリの次に行くべき都市はニューヨークでしょう。そのニューヨークの美術館めぐりをする人が、まず間違いなく訪れるのがメトロポリタン美術館とニューヨーク近代美術館(正式名称:The Museum of Modern Art : MoMA)だと思います。この2つの美術館を訪れることで、古今東西の多数の美術品やアートにふれることができます。
この2つの大美術館は、マンハッタンの5th アベニュー(南北の通り)に近接していますが(メトロポリタンは面している)、2つのちょうど中間点付近にあるのがフリック・コレクションです。フリックコレクションも 5th アベニューに面していて、MoMAやメトロポリタンから歩いて行こうと思えば可能な距離です(直線距離1キロ程度)。
なお、5th アベニュー沿いにはグッゲンハイム美術館やノイエ・ギャラリー(クリムトの『アデーレ・ブロッホバウアーの肖像』がある。No.164「黄金のアデーレ」参照)もあり、この通りは "美術館通り" と言っていでしょう。

邸宅美術館
フリック・コレクションは、鉄鋼業などに携わった実業家、ヘンリー・クレイ・フリック(1849-1919)の個人コレクションを自宅に展示したものです。つまり、ワシントン D.C.のフィリップス・コレクション(No.216)やミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(No.217)、ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館(No.263)と同様の「邸宅美術館」です。ただし"邸宅" といっても石造りの大規模かつ豪勢な建物であり、普通に想像する住居というイメージではありません。ここを訪問したなら、まず建築そのものや内部の装飾、調度品を鑑賞し、それと併せて美術品を見るというのが正しい態度でしょう。
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5th Avenue.からみたフリックの邸宅 |
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フリック・コレクションのエントランスは建物の南側にあり、70th Street に面している。 |
コレクションを収集したヘンリー・フリックは1919年に亡くなりましたが、その後も親族よって拡張が続けられ、1935年から美術館として一般公開が始まりました。所蔵する絵画の約 1/3 はヘンリー・フリックの没後に購入されたものですが、著名作品のほどんどはヘンリー・フリック自身が購入したものです。
2010年、美術館は開館75周年を記念して紹介動画を作成しました。ナレーションは英語ですが、美術館の内部も撮影されていて、その様子がよく分かります。YouTube で見ることができます。
Introduction to The Frick Collection
https://www.youtube.com/watch?v=LEyC8g94MZE
この美術館は内部の撮影は禁止であり、かつ所蔵美術品は門外不出です。従って、現物を見るためにはここに行くしかないのですが、逆に言うと、お目当ての作品があったとして、それが貸し出しなどで不在ということはありません。フィラデルフィアのバーンズ・コレクションと同じで、これはメリットだと考えることもできるでしょう。
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フリック・コレクションの西ギャラリー (site : www.inexhibit.com) |
このコレクションは、ヨーロッパの19世紀以前の、特に "古典絵画" が主体です。絵画について、主な所蔵品の画家をあげると、
・ベッリーニ ・ティツィアーノ ・ブロンズィーノ ・ホルバイン ・エル・グレコ ・ヴァン・ダイク ・ベラスケス ・レンブラント ・フェルメール ・ハルス ・ゲインズバラ ・ゴヤ ・フラゴナール ・ターナー ・コンスタブル ・アングル ・マネ ・ドガ ・ルノワール ・ホイッスラー |
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ベッリーニ 「荒野の聖フランチェスコ」 ![]()
フェルメール
「士官と笑う娘」 |
なとです。以降は、これらの所蔵絵画から上に画像を引用した2作品を紹介したいと思います。一つは宗教画で、ベッリーニの『荒野の聖フランチェスコ』、もう一つは3枚もある(!)フェルメールの中の1枚、『士官と笑う娘』です。まず『荒野の聖フランチェスコ』からです。
聖フランチェスコ
聖フランチェスコはカトリック教会における聖人の一人で、12~13世紀のイタリアの人です。数多の聖人の中でも最も人気が高く、よく知られた人でしょう。いや、世界のほとんど人がこの名前を知っているはずです。
というのも、アメリカのカリフォルニア州のサンフランシスコ(San Francisco)は、スペイン語で「聖フランチェスコ」の意味だからです。つまりフランチェスコはイタリア語ですが、スペイン語・ポルトガル語ではフランシスコです。なお、英語ではフランシス、フランス語ではフランソワ、ドイツ語ではフランツであり、現代の欧米人の男性名としてもよくあります。
2013年に即位したアルセンチン出身のローマ教皇・フランシスコの名前も、もちろん聖フランチェスコにちなんでいます。意外にもフランチェスコを名乗った教皇は初めてです。あまりにも有名な聖人の名前なので、それまでの教皇が名乗らなかったのかもしれません。聖フランチェスコは貧しい人々に寄り添う人だったので、教皇としてはそこが名前の意図なのでしょう。
なお、イタリア語の原音に近いのは「フランチェスコ」ですが、日本のカトリック教会では伝統的に「フランシスコ」と呼ぶ習わしです。日本と関係が深い聖フランシスコ・ザビエル(スペイン人、バスク出身)と関係しているのかもしれません。
聖フランチェスコの生涯
聖フランチェスコの生涯と、フリック・コレクションが所蔵する『荒野の聖フランチェスコ』については、中野京子さんの解説があるので、それを引用しましょう。
|
「小さき兄弟の会」(のちのフランシスコ会)をヴァチカンが公認したは異例だったと言います。当時の「放浪説教師」のほとんどは元司祭であり、説教に人気があったとしても "ヴァチカン批判勢力" で、カトリック教会とは無縁だとされていました。しかしフランチェスコは違いました。
|
聖フランチェスコはまた、数々の奇蹟のエピソードとともに語り継がれています。
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聖フランチェスコは生前から神聖視され、現代までに美術作品、伝記、小説、映画と多岐にわたって取り上げられました。その聖フランチェスコを描いた絵画から2点を引用しておきます。
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ジョット(1266/7-1337) 「小鳥に説教をする聖フランチェスコ」(1305頃) |
アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の内部の壁には、聖フランチェスコの生涯を描いた28枚のフレスコ画があるが、その中の1枚。 |
フランツ・リストが作曲したピアノ曲「伝説」の第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」は、上のフレスコ画に描かれた言い伝えにもとづいています。次の絵は、聖フランチェスコを多数描いたエル・グレコの作品です。
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エル・グレコ(1541-1614) 「聖フランチェスコ」(1604/14) |
(プラド美術館) |
ラヴェルナ山中の洞窟での断食修行の様子を描いている。手に持った頭蓋骨は "死" について瞑想していることを表す。右手には聖痕が描かれている。左下で両手を組んで祈りを捧げているのは、修行を共にした修道士のレオ。レオの頭はフランシスコ会独特の「トンスラ」というヘアスタイルである(上のジョットの聖フランチェスコも同様)。 |
ベッリーニ:荒野の聖フランチェスコ
本題のフリック・コレクション所蔵のベッリーニ『荒野の聖フランチェスコ』です。絵の画像と中野さんの解説を引用します。
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ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430-1516) 『荒野の聖フランチェスコ』(1480頃) |
(フリック・コレクション) |
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確かにこの絵には「神々しい光」はありません。ただし、左の方から何となく神秘的な光が聖フランチェスコとその周辺に当たっています。左上のオリーブの木の葉の描き方も、その光を示しているようです。また、聖フランチェスコのみならず、岩や植物、動物、空が細密にリアルに描かれています。聖フランチェスコの思想の中に「自然も兄弟」という考え方があったようですが、それを表しているのかもしれません。
ちなみに「トンスラ」というヘアスタイルは、上に引用したジョットとエル・グレコの作品でクリアに分かります。
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聖フランチェスコの部分。何かにうたれたような表情である。 |
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中景に描かれたサギとロバ。サギは清貧、ロバは童貞を表す。描かれたサギは、日本のアオサギのような姿をしている。 |
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聖フランチェスコの向かって左に描かれたウサギ。ウサギは服従を表す。フランチェスコの紐には三つの結び目があり「清貧・童貞・服従」を示す。右手には聖痕が描かれている。 |
おそらくこの絵は「すべての細部に意味がある」のでしょう。中野さんの解説はその一部だと想像されます。カトリックのフランチェスコ会の人ならば、この絵の説明を何10分とできるのでしょう。
キリスト教絵画が西欧の絵画の発展の原動力になったことは間違いないありません。それは文字の読めない人にキリスト教を教える重要なツールでもあった。西欧絵画を理解するためには、その背景にある宗教画を知っておいた方がよいわけです。
しかし非キリスト教である我々にとって、宗教画の理解はハードルが高いものです。よく、聖書(とギリシャ・ローマ神話)を知らないと西欧絵画は理解できないと言いますが、たとえ聖書を知っていたとしても分からない絵がいっぱいあります。典型的なのが「マグダラのマリア」関係の絵で、キリストと極めて近い人物であるにもかかわらず、往々にして聖書とは無関係なストーリーが図像化されます(No.118「マグダラのマリア」参照)。No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用したカニャッチの絵など、欧米に流布している "マグダラのマリア物語" を知らないと意味不明でしょう。カトリック教徒なら常識かも知れないけれど ・・・・・・。
さらなるハードルは「聖人」についての絵画です。これが意外に多い。キリストと同時代の聖人はともかく、古代ローマから中世に至る数々の聖人の図像化は、その聖人の事跡を全く知らないのでは意味がとれません。ちょうど『荒野の聖フランチェスコ』のようにです。
逆に言うと『荒野の聖フランチェスコ』が描かれた時代、一般の人で文字が読める人は少数だったことを思うと、この絵は聖フランチェスコの事跡(の一部)を説明するための絵と考えることができます。我々としても『荒野の聖フランチェスコ』という絵を知るなかで、「アッシジの聖フランチェスコ」を知り、西洋史の一端を理解すればいいのだと思います。
たとえば聖フランチェスコの思想は、小鳥や狼のみならず、あらゆる動植物も含めて、父なる神のもとの兄弟であるという考え(=万物兄弟の思想)だったようです。「小鳥に説教」も、奇蹟のエピソードというよりは万物兄弟の思想の現れなのでしょう。そういったことから、1980年に当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世はフランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定したといいます(Wikipediaによる)。つまり聖フランチェスコの(=フランシスコ会の)思想は、少々意外なことに我々が思う西洋の「神→人間→動物」という階層の考え方と違います。このような「学び」が、絵をきっかけにしてありうるのかなと思いました。
フェルメール:士官と笑う娘
寡作で有名なフェルメールの真筆とされる絵はわずか35点です(35の数え方は No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照。もちろん異説がある)。ほとんどは欧米の美術館に収蔵されていますが、複数のフェルメール作品をもつ美術館は次のとおりです。
メトロポリタン美術館 | |
アムステルダム国立美術館 | |
マウリッツハイス美術館(デン・ハーグ) | |
フリック・コレクション | |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー | |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー | |
ルーブル美術館 | |
ベルリン絵画館 | |
アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン) |
別に「フェルメール作品の所有数が美術館のグレードを示す」わけではないのですが、このリストを見て分かることが2つあります、一つは「アメリカの美術館が健闘している」ことです。フェルメールの "母国" であるオランダの2つの美術館を別格として、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとルーブル美術館がアメリカの3つの美術館の後塵を拝している。これは、フェルメールが19世紀後半から評価されはじめ、その時期にアメリカの資本主義の発展が重なって富が集積するようになり、アメリカの富豪コレクターがフェルメールを買ったということでしょう。ボストンのガードナー夫人もその一人でした(絵は盗まれてしまいましたが ・・・・・・。No.263「イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館」参照)。
このリストから分かる2つ目ですが、「フリック・コレクションは個人コレクションであるにもかかわらずフェルメールの真筆を3作品も持っている」ことです。メトロポリタンやワシントン・ナショナル・ギャラリーにはアメリカの富豪美術コレクターが寄贈した作品がヤマのようにあって、美術館自体が "個人コレクションの複合体" という面があります。しかしフリック・コレクションは一人のコレクションなのです。そこは特筆すべきでしょう。そのフリック・コレクションにあるフェルメールは、
◆士官と笑う娘
◆中断されたレッスン
◆婦人と召使い
の3点ですが、この中の『士官と笑う娘』を取り上げます。『兵士と笑う娘』という日本語表記もありますが、フリック・コレクションの英語表記は "Officer" なので「士官」とします。
士官と娘と地図
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ヨハネス・フェルメール(1632-1675) 『士官と笑う娘』(1657頃) |
(フリック・コレクション) |
この絵については、フランスの科学雑誌「Pour la Science」の副編集長、ロイク・マンジャンが書いた『科学でアートを見てみたら』(原書房 2019)に興味深い記述があったので、それに沿って紹介したいと思います。まず、この絵が描かれた当時のオランダの状況です。
|
フェルメールの絵によくある「左の窓から差し込む柔らかな光に包まれた室内」の情景です。手前に描かれた男性の表情はほとんで分かりません。ただ「赤い制服」「つば付きの大きな帽子(=高級なビーバー・ハット)」「黒い弾帯(ガンベルト)」といういでたちから、この男性は単なる兵士ではなく、それなりの地位の士官であることがわかります。この士官を大きく手前に描くことで、室内の奥行き感が強調されています。上の引用にあるように、士官は女性と "親密な会話" をしているのでしょう。
その会話相手の女性は笑顔を浮かべ、堂々と士官と会話をしています。口説かれて困っているとか、とまどっているとか、そいういう気配はなく、男と会話を楽しんでいる。何となく、しっかりしていて自立した女性という雰囲気であり、この雰囲気はフェメールが描いた女性像の中でも際だっているのではないでしょうか。
さらにこの絵にはもうひとつ、重要そうなアイテムが描かれています。後の壁にかかっている "意味ありげな" 地図です。
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解説にあるように、この地図は通常の地図ではありません。上が北ではなく、ネーデルラントにとっての海の方向、つまり西です。これは引用にあるように「ネーデルラント連邦共和国が外海である北海を向いているのは、世界を征服した海洋民族にとって当然のこと」なのかもしれません。さらにもう一つ、陸が青く、海が茶色に塗られているのも通常の地図とは違います。
|
「平和の回復によって軍人の社会的立場が一変したことを暗示」とは抽象的な言い方ですが、分かりやすく言うと「軍人は戦争をするのではなく、女性を口説くようになった」ということでしょう。フリック・コレクションの公式カタログ(日本語版)には、この地図について次の主旨の説明がありました。
地図は、祖国を守るという軍人の役目を表す。 | |
それと同時に、軍人の "領土的野心" をほのめかしている(のではないか)。 | |
その地図を女性の頭の上に描くことで、彼女を "征服の対象" に擬している(のかもしれない)。 |
すべては推測ですが、こういった "謎" も、フェルメール作品が人々を引きつける要因になっているのでしょう。
ビーバー・ハット
「科学でアートを見てみたら」には、士官がかぶっている帽子に関する話がありました。絵の鑑賞とは直接関係がありませんが、興味深い話なので余談として引用します。
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上の引用にもあるように、下毛とは毛皮の上毛(=刺し毛)の下に生えている短くて柔らかい毛のことで、綿毛とも言います。英語は underfur です。一般的に、動物の毛皮は上毛(刺し毛)と下毛(綿毛)の2層構造になっています。
上の引用の中に『不思議の国のアリス』が出てきます。言葉遊びでキャラクターを作り出すのが得意なルイス・キャロルは、「帽子屋のように狂っている(as mad as a hatter)」という英語の慣用句から "Mad Hatter = 気狂い帽子屋" というキャラクターを作り出しました。そして慣用句においてなぜ hatter が mad なのかというと、一つの推測がビーバー・フェルトの加工をする人の「職業病」とも言える水銀中毒なのですね。マーチン・ガードナーの「The Annoted Alice」にも同じ推測が書かれていました。
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「不思議の国のアリス」のためにテニエルが描いたさし絵。第7章で、アリスと三月ウサギと眠りネズミと帽子屋が "お茶会(A Mad Tea-Party)"を開く。この絵で帽子屋はシルクハットをかぶっているが、もとはビーバー・フェルトで作られていた。画像はマーチン・ガードナーの「The Annoted Alice」より。 |
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ビーバーの下毛が帽子に最適だったために、ビーバーの乱獲を招いたわけです。ビーバーの生息域はヨーロッパと北米ですが、ヨーロッパのビーバーは19世紀に絶滅状態になりました。これはまずいということで近縁種の北米のビーバーを輸入して、現在では生息数がそれなりに増えつつあるそうです。
毛皮をとるために水生哺乳類が乱獲され、絶滅ないしは絶滅危惧種になるというのは、ラッコがそうです(No.126「捕食者なき世界(1)」参照)。人間のやることは昔から変わらないようです。
フェルメールの "テイスト"
話を『士官と笑う娘』に戻します。この絵が一つの典型なのですが、フェルメールの絵の題材は「何気ない日常の室内風景」が多いわけです。しかも男性と女性が談笑している(男が女を口説いている)この絵のように、いかにもありそうなシーンを描いている絵が多い。しかしそれでいて絵全体からは、
柔らかな光の中で | |
厳粛で | |
静謐で | |
気品があり | |
美しく整った感じ |
といった印象を受けます。つまり「チープな感じとは対極の印象」を受ける。フェルメールの絵からは、何やら教訓めいたしかけを感じることもあります。この絵もそうで、社会的地位の高い男に安易に気を許してはいけないという教訓絵かもしれない。しかし "チープな感じ" はしません。
この不思議な "感じ、"味わい"、"テイスト" はフェルメール独特のものであり、それは画面の構図、明暗のつけかた、光の描き方、顔料の使い方などのすべてからくるものなのでしょう。そこがフェルメールの人気の秘密だと思います。フリック・コレクションの『士官と笑う娘』もそれを体現しているのでした。
2021-02-20 12:56
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No.304 - オークは樫ではない [文化]
No. 93「生物が主題の絵」の「補記4」で、「西洋でオークと呼ばれる木は日本の "楢" に相当し、"樫" ではない」という話を書きました。日本では樫と訳されることが多く、このブログで過去に引用した数枚のオークの絵の日本語題名も「樫」となっています。
たとえば国立西洋美術館(上野)の常設展示室にある、ロヴィス・コリントの「樫の木」です。コリントはドイツ人で、この絵の原題は Der Eichbaum です。Eiche はドイツ語のオーク、Baum は木なので「オークの木」ということになります。しかし美術館が掲げる日本語タイトルは「樫の木」となっている。一見、些細なことのように思えますが、「樫の木」とするのはこの絵を鑑賞する上でマイナスになると思うのです。今回はそのことを順序だてて書いてみたいのですが、まず西欧における "オーク" がどいういう樹木か、そこから始めたいと思います。
オーク
ヨーロッパでオーク(英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche)と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、日本語に訳す場合は楢とすべきだと書きました。オークも楢もコナラ属の落葉樹です。コナラ属の常緑樹を日本では樫と言いますが、たとえばイタリアなどには常緑樹のオークがあり、英語では live oak、ないしは evergreen oak と言うそうです(Wikipedia による)。
つまり Oak はコナラ属の樹木全般を指すが、普通は落葉樹の楢(=ヨーロッパナラ)のことであり、特に常緑樹を示すときには live などの形容詞をつけるということなのです。
フレーザーの『金枝篇』によると、古代からヨーロッパではオークを薪や住居の材料、食料(果実=どんぐり)として利用してきました。と同時に、オークには神が宿るとして崇拝されてきました。最高神であるゼウス(古代ギリシャ)やユピテル(古代ローマ)は、天空神であり雷神であり、かつオークの神でもあった。古代ゲルマンでも、オーク神 = 雷神でした。また、ケルト民族もケルト人もオークを崇拝していました。『金枝篇』には次のようにあります。
上に引用にある "ゼウス" はギリシャ人の表現で、つまり "最高神" という意味です。引用したフレーザーの『金枝篇』の "金枝"(Golden bough)とはヤドリギのことです。ヤドリギは他の樹木に寄生する常緑樹で、伐採すると幹が金色に見えるようになることから "Golden bough" と言うそうです。そしてオークの木に生えるヤドリギは神聖なものとされた。なぜなら、冬にオークが葉を全部落としても常緑樹のヤドリギは緑のままであり、オークの神がそこに宿ったように見えるからです。こういうところからもオークが落葉樹であることが分かります。
No.220「メト・ライブの "ノルマ"」で書いたベッリーニのオペラ『ノルマ』は、まさに古代ローマ時代におけるガリアのケルト人の話でした。そこではガリアの人々がオークの巨木の前に集い、巫女であるノルマが伝える神のお告げを聴くのでした。
『金枝篇』に「ケルト人は儀式には必ずオークの葉を用いた」とありますが、このオークの葉(オークリーフ)のデザインは、現代でも生活用品などのデザインに使われます。また、イギリス、フランス、イタリア、エストニアの国章(国を代表する紋章)にはオークの葉の絵が使われています。次の画像はイギリスの国章(イギリス王室の紋章)ですが、ライオン(=イングランド)と一角獣(=スコットランド)の間の上の方にオークの葉がデザインされています。この紋章では比較的目立ちにくいオークの葉が、あたかもイングランドとスコットランドの統合の象徴のように使われています。国を代表する紋章にオークの葉を使うということは、それだけオークという樹に象徴性があるということでしょう。
日本のブナ科コナラ属の樹木
一方、日本ではコナラ属の落葉樹を総称して「楢」、常緑樹を総称して「樫」と呼んでいます。その代表的な樹種を葉の写真とともに掲げます。これ以外にも落葉樹ではアベマキやナラガシワ、常緑樹ではウバメガシ(備長炭の原料)などがあります。
こうして見ると、ヨーロッパナラ(オーク)は、葉の形だけからするとカシワに近い形です。
日本で "ドングリ" と呼ばれるもののほとんどは、コナラ属の落葉樹・常緑樹の果実です。そしてドングリは森の生物の重要な食料です。「今年はドングリが不作で熊が人里に出没する」といった話があるのは、その重要性の象徴でしょう。ということは、昔は人間にとっても保存が利く大切な食料だったはずです(栗も同様)。その状況は、森林に覆われていた古代のヨーロッパでも同じはずであり、そういうこともオークが神聖視される一因になったのでしょう。
オークを樫とする誤訳
オークが楢であることの説明を、鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」から引用します。鳥飼氏は日本における同時通訳の草分け的存在でもあり、翻訳や通訳、異文化コミュニケーションに関する数々の著作があります。
「樫」という木は固すぎて家具に加工するのは難しいとありますが、確かにその通りです。樫がよく使われるのは、たとえば道具類の柄で、金槌やスコップの柄を木で作る場合、その堅さを生かして樫が使われます。木偏に堅いという字の通りです。
鳥飼氏の文章に「オーク・ヴィレッジ」主宰者、稲本正氏のことが出てきました。稲本氏が家具製作を行う岐阜の工芸村に "オーク" という名前をつけた理由は、楢が家具の素材の本命だからです。稲本氏の本から引用します。
稲本氏によると、ミズナラは水分を吸い上げる力が強く、結果として重くて堅く、かつ粘りけがある木質になります。また木目も変化に富んでいて、このような特徴が家具として最適な理由です。
家具以外で伝統的にオーク材が使われるのが、スコッチ・ウィスキーを熟成させるための樽です。サントリーでは樽に北米産のホワイト・オーク材を使っていますが、北海道産のミズナラ材も使っているそうです。それが原酒の多様性を生み出す一つの要因になっている(No.43「サントリー白州蒸留所」参照)。樽を何の木で作るかは、ウィスキー独特の味と香りを作り出す上で極めて重要なはずです。ウィスキー発祥の地であるスコットランドの伝統であるオーク材の樽の "代わりに" ミズナラ材を使うということは、「オーク = ナラ」を象徴していると思います。
蝶と蛾の混乱
以上のように一般的にオークは落葉性の木で、日本の楢に相当するのですが、ただヨーロッパではブナ科コナラ属の樹木全般もオークと呼ぶわけです。しかし日本では楢(落葉性)と樫(常緑性)という二つの名称に使い分けられます。
このように西欧で同一の名称で呼ばれるモノが、日本では2種類の名称で呼んで使い分けるという例が他にもあります。蝶と蛾です。そして蝶と蛾は、時として訳が混乱することがあります。
No.49 「蝶と蛾は別の昆虫か」で紹介したように、慶応大学名誉教授の鈴木孝夫氏は、ドイツ語では(そしてフランス語でも)蝶と蛾を区別しないことを述べていました。ドイツ語で蝶を意味する Schmetterling(シュメッタリンク)という語は蛾も表す言葉であり、つまり鱗翅類全体を示すのです。フランス語の papillon(パピヨン)も同様です。
そして、こういった言葉の問題をおろそかにしておくと、文学作品の理解に関して思わぬ「つまづき」に出会うと、鈴木氏は注意していました。その例としてあげられていたのが、ゲーテの詩の翻訳です。鈴木氏の本から引用します。
鈴木氏が引用している訳は岩波文庫のものですが、『日本語と外国語』の注釈にあるように、他の訳では正確に「蛾」と訳されているようです。
確かに鈴木氏の言う通りで、蝶ではイメージが湧かないと言うか、なんだか変だという違和感が残ります。それは絵画に置き換えて考えてみると、より鮮明です。炎に蛾が誘われる夜の情景を描いた絵に、速水御舟の『炎舞』という有名な作品があります(1925/大正14年。山種美術館所蔵。重要文化財)。速水御舟はこの絵で蛾を精緻にデッサンして描いているのですが、ここに蛾ではなくアゲハチョウやモンシロチョウが舞っていたとしたら、完全なシュルレアリスムの作品になってしまいます。絵として成立しないとは言いませんが、全く別の解釈が必要な絵になるでしょう。岩波文庫のゲーテの訳は、それと同じことが文学で起こっているわけです。
以上は文学作品の翻訳における「蝶と蛾」の話ですが、これと瓜二つの状況が "絵画の題名の訳における「樫と楢」" でも起きます。それが次です。
コリントの「樫の木」(国立西洋美術館)
ここからが、No.93「生物が主題の絵」の補記で引用したロヴィス・コリントの『樫の木』(国立西洋美術館)の話ですが、その前に比較対照のために、同じNo.93 で引用したクールベの作品を観てみます。
この絵は以前は日本の美術館(八王子の村内美術館)が所蔵していましたが、現在はクールベの故郷であるフランスのオルナンにあるクールベ美術館(生家を改装した美術館)にあります。
この絵のフランス語の題は「Le Chêne de Flagey」で、Chêne は 英語の Oak に相当する語です。直訳すると「フラジェのオークの木」です。従って、日本語題名としてよく使われる「樫」は誤訳ということになります。但し、この絵の場合は "誤訳" が絵を鑑賞する上で、大きな妨げにはならないでしょう。
というのも、この絵は太い木の幹とそこからダイナミックに広がる枝に焦点が当たっているからです。この絵を観て強く感じるのは巨木の圧倒的な存在感です。おそらく樹齢は数百年でしょう。どっしりと単独で大地に屹立しています。人間の寿命より遙かに長い年月を自然の中で生き抜いてきた、その生命力に感じ入ります。画家の意図がどうであれ、少なくとも我々鑑賞者としてはそう感じる。
このクールベの絵と対比したいのが次の絵です。上野の国立西洋美術館は2019年にドイツの印象派を代表する画家、ロヴィス・コリント(1858-1925)の『樫の木』(1907)を購入しました。その絵は常設展示室に展示してあります。
クールベの作品と違って、この絵は地表に屹立する幹を描いていません。画面いっぱいに大量に広がる緑の葉が印象的な絵です。
国立西洋美術館はこの絵の展示でドイツ語の原題を "Der Eichbaum" と表記しています。最初に書いたように、英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、落葉樹です。一般にオークと呼ばれている木です。
冬に葉を落として幹と枝だけになっていた木(= オーク = 楢)が、新緑の季節に芽吹き、やがて大木が一面の葉に覆われて、真冬には想像できないような姿になる。その生命の息吹きを強く感じる絵です。そのイメージでこの絵を鑑賞すべきだと思います。
我々は楢を街なかで見かけることはないのですが、落葉性の高木でよくあるのは、街路樹に使われるケヤキ(欅)やイチョウ(銀杏)です。青葉の季節になると、ケヤキやイチョウの並木が、数ヶ月前の冬や春先とは全く違った様相を呈する。その光景を想像してみてもいいと思います。
クールベの絵もコリントの絵も、そこから感じるのは樹の生命力ですが、生命力の意味が違います。クールベの絵は悠久の年月を生きるという意味の生命力ですが、コリントの絵は毎年春から青葉の季節に樹木が再生する、その生命力です。そして再生のイメージは落葉樹だからこそ成り立つのです。常緑樹ではそうはいかない。
国立西洋美術館がロヴィス・コリントの『Der Eichbaum』を『樫の木』としたのは、辞書にそうあるからでしょうが、芸術作品を所蔵している美術館の責任として「楢の木」ないしは「オークの木」とすべきでしょう。
たとえば国立西洋美術館(上野)の常設展示室にある、ロヴィス・コリントの「樫の木」です。コリントはドイツ人で、この絵の原題は Der Eichbaum です。Eiche はドイツ語のオーク、Baum は木なので「オークの木」ということになります。しかし美術館が掲げる日本語タイトルは「樫の木」となっている。一見、些細なことのように思えますが、「樫の木」とするのはこの絵を鑑賞する上でマイナスになると思うのです。今回はそのことを順序だてて書いてみたいのですが、まず西欧における "オーク" がどいういう樹木か、そこから始めたいと思います。
オーク
ヨーロッパでオーク(英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche)と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、日本語に訳す場合は楢とすべきだと書きました。オークも楢もコナラ属の落葉樹です。コナラ属の常緑樹を日本では樫と言いますが、たとえばイタリアなどには常緑樹のオークがあり、英語では live oak、ないしは evergreen oak と言うそうです(Wikipedia による)。
つまり Oak はコナラ属の樹木全般を指すが、普通は落葉樹の楢(=ヨーロッパナラ)のことであり、特に常緑樹を示すときには live などの形容詞をつけるということなのです。
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オークの葉と実 |
(Wikipedia) |
フレーザーの『金枝篇』によると、古代からヨーロッパではオークを薪や住居の材料、食料(果実=どんぐり)として利用してきました。と同時に、オークには神が宿るとして崇拝されてきました。最高神であるゼウス(古代ギリシャ)やユピテル(古代ローマ)は、天空神であり雷神であり、かつオークの神でもあった。古代ゲルマンでも、オーク神 = 雷神でした。また、ケルト民族もケルト人もオークを崇拝していました。『金枝篇』には次のようにあります。
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上に引用にある "ゼウス" はギリシャ人の表現で、つまり "最高神" という意味です。引用したフレーザーの『金枝篇』の "金枝"(Golden bough)とはヤドリギのことです。ヤドリギは他の樹木に寄生する常緑樹で、伐採すると幹が金色に見えるようになることから "Golden bough" と言うそうです。そしてオークの木に生えるヤドリギは神聖なものとされた。なぜなら、冬にオークが葉を全部落としても常緑樹のヤドリギは緑のままであり、オークの神がそこに宿ったように見えるからです。こういうところからもオークが落葉樹であることが分かります。
No.220「メト・ライブの "ノルマ"」で書いたベッリーニのオペラ『ノルマ』は、まさに古代ローマ時代におけるガリアのケルト人の話でした。そこではガリアの人々がオークの巨木の前に集い、巫女であるノルマが伝える神のお告げを聴くのでした。
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メトロリタン・オペラによる「ノルマ」の舞台(2017)。オークの森の中に大木があり、巫女のノルマはそのオークの前で神のお告げを伝える。No.220で引用した画像を再掲。 |
『金枝篇』に「ケルト人は儀式には必ずオークの葉を用いた」とありますが、このオークの葉(オークリーフ)のデザインは、現代でも生活用品などのデザインに使われます。また、イギリス、フランス、イタリア、エストニアの国章(国を代表する紋章)にはオークの葉の絵が使われています。次の画像はイギリスの国章(イギリス王室の紋章)ですが、ライオン(=イングランド)と一角獣(=スコットランド)の間の上の方にオークの葉がデザインされています。この紋章では比較的目立ちにくいオークの葉が、あたかもイングランドとスコットランドの統合の象徴のように使われています。国を代表する紋章にオークの葉を使うということは、それだけオークという樹に象徴性があるということでしょう。
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イギリスの国章 |
(Wikipedia) |
日本のブナ科コナラ属の樹木
一方、日本ではコナラ属の落葉樹を総称して「楢」、常緑樹を総称して「樫」と呼んでいます。その代表的な樹種を葉の写真とともに掲げます。これ以外にも落葉樹ではアベマキやナラガシワ、常緑樹ではウバメガシ(備長炭の原料)などがあります。
落葉樹 (楢) |
コナラ (小楢) |
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クヌギ (椚・橡) |
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ミズナラ (水楢) |
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カシワ (柏) |
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常緑樹 (樫) |
シラカシ (白樫) |
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アラカシ (粗樫) |
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アカガシ (赤樫) |
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ブナ科コナラ属の主な樹木
こうして見ると、ヨーロッパナラ(オーク)は、葉の形だけからするとカシワに近い形です。
日本で "ドングリ" と呼ばれるもののほとんどは、コナラ属の落葉樹・常緑樹の果実です。そしてドングリは森の生物の重要な食料です。「今年はドングリが不作で熊が人里に出没する」といった話があるのは、その重要性の象徴でしょう。ということは、昔は人間にとっても保存が利く大切な食料だったはずです(栗も同様)。その状況は、森林に覆われていた古代のヨーロッパでも同じはずであり、そういうこともオークが神聖視される一因になったのでしょう。
オークを樫とする誤訳
オークが楢であることの説明を、鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」から引用します。鳥飼氏は日本における同時通訳の草分け的存在でもあり、翻訳や通訳、異文化コミュニケーションに関する数々の著作があります。
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「樫」という木は固すぎて家具に加工するのは難しいとありますが、確かにその通りです。樫がよく使われるのは、たとえば道具類の柄で、金槌やスコップの柄を木で作る場合、その堅さを生かして樫が使われます。木偏に堅いという字の通りです。
鳥飼氏の文章に「オーク・ヴィレッジ」主宰者、稲本正氏のことが出てきました。稲本氏が家具製作を行う岐阜の工芸村に "オーク" という名前をつけた理由は、楢が家具の素材の本命だからです。稲本氏の本から引用します。
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家具以外で伝統的にオーク材が使われるのが、スコッチ・ウィスキーを熟成させるための樽です。サントリーでは樽に北米産のホワイト・オーク材を使っていますが、北海道産のミズナラ材も使っているそうです。それが原酒の多様性を生み出す一つの要因になっている(No.43「サントリー白州蒸留所」参照)。樽を何の木で作るかは、ウィスキー独特の味と香りを作り出す上で極めて重要なはずです。ウィスキー発祥の地であるスコットランドの伝統であるオーク材の樽の "代わりに" ミズナラ材を使うということは、「オーク = ナラ」を象徴していると思います。
蝶と蛾の混乱
以上のように一般的にオークは落葉性の木で、日本の楢に相当するのですが、ただヨーロッパではブナ科コナラ属の樹木全般もオークと呼ぶわけです。しかし日本では楢(落葉性)と樫(常緑性)という二つの名称に使い分けられます。
このように西欧で同一の名称で呼ばれるモノが、日本では2種類の名称で呼んで使い分けるという例が他にもあります。蝶と蛾です。そして蝶と蛾は、時として訳が混乱することがあります。
No.49 「蝶と蛾は別の昆虫か」で紹介したように、慶応大学名誉教授の鈴木孝夫氏は、ドイツ語では(そしてフランス語でも)蝶と蛾を区別しないことを述べていました。ドイツ語で蝶を意味する Schmetterling(シュメッタリンク)という語は蛾も表す言葉であり、つまり鱗翅類全体を示すのです。フランス語の papillon(パピヨン)も同様です。
そして、こういった言葉の問題をおろそかにしておくと、文学作品の理解に関して思わぬ「つまづき」に出会うと、鈴木氏は注意していました。その例としてあげられていたのが、ゲーテの詩の翻訳です。鈴木氏の本から引用します。
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鈴木氏が引用している訳は岩波文庫のものですが、『日本語と外国語』の注釈にあるように、他の訳では正確に「蛾」と訳されているようです。
確かに鈴木氏の言う通りで、蝶ではイメージが湧かないと言うか、なんだか変だという違和感が残ります。それは絵画に置き換えて考えてみると、より鮮明です。炎に蛾が誘われる夜の情景を描いた絵に、速水御舟の『炎舞』という有名な作品があります(1925/大正14年。山種美術館所蔵。重要文化財)。速水御舟はこの絵で蛾を精緻にデッサンして描いているのですが、ここに蛾ではなくアゲハチョウやモンシロチョウが舞っていたとしたら、完全なシュルレアリスムの作品になってしまいます。絵として成立しないとは言いませんが、全く別の解釈が必要な絵になるでしょう。岩波文庫のゲーテの訳は、それと同じことが文学で起こっているわけです。
以上は文学作品の翻訳における「蝶と蛾」の話ですが、これと瓜二つの状況が "絵画の題名の訳における「樫と楢」" でも起きます。それが次です。
コリントの「樫の木」(国立西洋美術館)
ここからが、No.93「生物が主題の絵」の補記で引用したロヴィス・コリントの『樫の木』(国立西洋美術館)の話ですが、その前に比較対照のために、同じNo.93 で引用したクールベの作品を観てみます。
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ギュスターヴ・クールベ 「フラジェの樫の木」(1864) |
(クールベ美術館) |
この絵は以前は日本の美術館(八王子の村内美術館)が所蔵していましたが、現在はクールベの故郷であるフランスのオルナンにあるクールベ美術館(生家を改装した美術館)にあります。
この絵のフランス語の題は「Le Chêne de Flagey」で、Chêne は 英語の Oak に相当する語です。直訳すると「フラジェのオークの木」です。従って、日本語題名としてよく使われる「樫」は誤訳ということになります。但し、この絵の場合は "誤訳" が絵を鑑賞する上で、大きな妨げにはならないでしょう。
というのも、この絵は太い木の幹とそこからダイナミックに広がる枝に焦点が当たっているからです。この絵を観て強く感じるのは巨木の圧倒的な存在感です。おそらく樹齢は数百年でしょう。どっしりと単独で大地に屹立しています。人間の寿命より遙かに長い年月を自然の中で生き抜いてきた、その生命力に感じ入ります。画家の意図がどうであれ、少なくとも我々鑑賞者としてはそう感じる。
このクールベの絵と対比したいのが次の絵です。上野の国立西洋美術館は2019年にドイツの印象派を代表する画家、ロヴィス・コリント(1858-1925)の『樫の木』(1907)を購入しました。その絵は常設展示室に展示してあります。
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ロヴィス・コリント(1858-1925) 「樫の木」(1907) |
- Der Eichbaum - (国立西洋美術館) |
クールベの作品と違って、この絵は地表に屹立する幹を描いていません。画面いっぱいに大量に広がる緑の葉が印象的な絵です。
国立西洋美術館はこの絵の展示でドイツ語の原題を "Der Eichbaum" と表記しています。最初に書いたように、英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、落葉樹です。一般にオークと呼ばれている木です。
冬に葉を落として幹と枝だけになっていた木(= オーク = 楢)が、新緑の季節に芽吹き、やがて大木が一面の葉に覆われて、真冬には想像できないような姿になる。その生命の息吹きを強く感じる絵です。そのイメージでこの絵を鑑賞すべきだと思います。
我々は楢を街なかで見かけることはないのですが、落葉性の高木でよくあるのは、街路樹に使われるケヤキ(欅)やイチョウ(銀杏)です。青葉の季節になると、ケヤキやイチョウの並木が、数ヶ月前の冬や春先とは全く違った様相を呈する。その光景を想像してみてもいいと思います。
クールベの絵もコリントの絵も、そこから感じるのは樹の生命力ですが、生命力の意味が違います。クールベの絵は悠久の年月を生きるという意味の生命力ですが、コリントの絵は毎年春から青葉の季節に樹木が再生する、その生命力です。そして再生のイメージは落葉樹だからこそ成り立つのです。常緑樹ではそうはいかない。
国立西洋美術館がロヴィス・コリントの『Der Eichbaum』を『樫の木』としたのは、辞書にそうあるからでしょうが、芸術作品を所蔵している美術館の責任として「楢の木」ないしは「オークの木」とすべきでしょう。
2021-02-06 11:19
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No.303 - 松下美術館 [アート]
過去の記事で、12の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、鹿児島県にある松下美術館のことを書きます。
松下美術館の場所
松下美術館(鹿児島県霧島市福山町)は、鹿児島の錦江湾に面して東側にあります。鹿児島市内からみると桜島の反対側(大隅半島側)にあたります。
大隅半島にJRはないので、公共交通機関で行くとすると日豊本線の国分駅で降り(国分は京セラの最大の工場があるところ)、そこからバスに乗り換えて30分程度です。ただ、バスの回数が必ずしも多くないので、クルマ(旅行者であればレンタカーなど)が適当でしょう。南九州自動車道の国分インターから15分程度です。
ちなみに、霧島市福山町は黒酢の製造で有名なところです(=福山黒酢)。大きな壷に入れた黒酢を戸外の敷地で熟成させる「壷畑」が見られます。
設立の経緯
松下美術館は、松下幸之助やパナソニック・グループとは関係ありません。福山町出身の精神科医、松下兼知(1905-1989)が設立した美術館です。
松下兼知は長崎医科大学(現、長崎大学医学部)の助教授だった1945年に被爆しました。九死に一生を得た彼は、後遺症に苦しみながらも1949年に故郷の福山町に戻り、1950年に父親が経営していたみかん畑の中に精神科の診療所を開設しました。現在の福山病院です。そして1983年に病院のそばに開いたのが松下美術館です。
松下兼知は幼少の頃から絵が好きで、美術学校に進んで画家になるのが夢だったようです。旧制高校(鹿児島の七高)の時代には自分の描いた絵を文化祭に出品したりしていました。長崎医科大に進んだあともプロの画家に絵の指導を受けたことがあります。彼はアマチュア画家として絵を描き、それは松下美術館にも展示されています。自らの被爆体験をもとにした『長崎原爆15分後』という作品も描きました。
美術館設立の趣旨について、パンフレットに次のように記載されています。
この美術館は、福山町の小・中学生は無料で見学できます。松下兼知は自分が果たせなかった夢を次の世代に託したようです。
6館に分かれた美術館
松下美術館は上図のように6館に分かれています。1号館はエントランスで、鹿児島にゆかりのある画家(黒田清輝、和田英作、東郷青児など)の絵と、西欧の画家(ムリーリョ、コロー、クールベ、ルノワールなど)の絵が展示されています。
2号館は薩摩切子やヴェネチアン・グラスなどのガラス器が展示され、また絵画の企画展示も行われます。この2号館の展示室は地下に造られていて、核シェルターになっています。原爆を経験した松下兼知の思いがこもっているのでしょう。
3号館は古代オリエント資料館で、エジプトやギリシャ文明の出土品が展示されています。ミイラを包んでいた「マミーマスク」もあります。
4号館は日本画の展示館です。松下美術館は雪舟の山水画や棟方志巧などを所蔵しています。
5号館は民俗資料館で、南九州を中心とする各種の仮面が展示されています。信仰のための仮面(魔除けのために家に飾るなど)と、舞踊に使う仮面があります。また、6号館には、設立者である松下兼知の作品が展示されています。
以下、松下美術館が所蔵する絵画作品を何点かピックアップして紹介します。
所蔵する絵画作品
このムリーリョの肖像画は "松下美術館の顔" になっている作品です。松下美術館が入館者に配布しているパンフレットの表紙が、この肖像画です。
スペイン17世紀の画家・ムリーリョというと、宗教画が多く(プラド美術館の「無原罪の御宿り」など)、その次には風俗画でしょう(ルーブル美術館の「蚤をとる少年」は有名)。これらに加えてムリーリョは肖像画も描いたようです。この松下美術館の作品は「初めて観たムリーリョの肖像画」でした。
さらに、日本の美術館にあるムリーリョの作品は極くわずかのはずです。ネットで調べると、三重県立美術館には宗教画があるようですが(アレクサンドリアの聖カタリナ)私は観たことがありません。というわけで、松下美術館のこの作品は「初めて観た日本にあるムリーリョ」でした。
描かれた女性は、身につけた服装や装飾品から高貴な身分のようです。その印象をキーワードで表すと、「優しい」「おだやか」「落ち着いた」という感じでしょうか。ムリーリョ独特の薄い靄がかかったような表現も、その印象を強めています。
松下美術館には鹿児島出身の画家の絵が蒐集されています。鹿児島出身というと黒田清輝、藤島武二、東郷青児が有名ですが、和田英作(1874-1959)も鹿児島出身で、後半生は洋画界の重鎮でした。東京美術学校(現、東京芸術大学)の校長にまでなった人です。
和田英作は画業の人生の折に触れて富士を描いています。晩年には富士を描きたいという思いで、静岡市三保に居を構えたようです。次の絵は、朝日を受けて輝き出した富士の様子がとらえられています。
大原女とは、現在の京都市左京区大原地区から京都市内へ行商に出た女性です。商材は主に薪で、戦前までは残っていたようです。江戸時代以降、大原女は美人画の画題になりました。
この小磯良平の絵は、アトリエにモデルを招き、大原女の格好をさせて描いたと想像します。白と黒と朱という色使いと、画家の確かなデッサンの技量が印象的な作品です。
モネは何回か英国を訪問して絵を描いています。画題は「国会議事堂」「チャリング・クロス橋」「ウォータールー橋」で、それぞれ多数の連作があります。ロンドン特有の霧(およびスモッグ)が立ちこめる中に光が差す効果を、場所を変え、時間を変えて描いたようです。
この絵の画題のウォータールー橋も、約40点ほどの作品があると言います。上野の国立西洋美術館にもその中の1枚があります。空・向こう岸の街並み・橋・水面・小舟が、霧に差し込む陽光の中で渾然一体となっている光景が描かれています。
椅子に座った女性を正面から描いた作品です。これがリアルな光景だとしたら、どういう場面でしょうか。いろいろ想像できると思いますが、たとえば「外出から帰宅した女性が椅子に座って一息ついたところで、ある気がかりができて気持ちが少々沈んでいる」というような光景です。
伏し目の顔を除いて、服装や帽子、椅子、背景は平面的に近い感じで描かれています。紫色の服、白(と濃紺)の帽子、ピンクのコサージュ、金色の髪といったおだやかな色彩でまとめた画面がいいと思います。
"色彩の魔術師" と呼ばれる画家は、マティスをはじめ何人かいますが(上のボナールもそう)、デュフィもその一人です。この作品は、青と緑で埋まった落ち着いた色調の中にピンクがかった暖色が所々に配置されています。デュフィらしく、色は形の中に閉じ込められていないで、周りに広がっています。この自由闊達な感じが魅力でしょう。
次世代に託す
設立の経緯から分かるように、この美術館は、美術愛好家の医師が医院を運営しつつコレクションを続けて設立したものです。これは冒頭にあげた個人コレクション美術館とは少々違います。冒頭の12の美術館は、事業や商売で成功した人(ないしはその一族)が、その成功で得た資金をもとにコレクションした美術品を展示したスペースです。
しかし松下兼知の本業は医師であり、病院経営です。言うまでもなく医療法人は利益をあげることを第一の目的にはしていません。一般の事業やビジネスのように "当たれば" 莫大な利益が得られるというわけではない。そういう立場の人が作った美術館でありながら、実際に現地に行くと「よくこれだけのものを作ったものだ」と感心させられます。松下家はみかん畑を経営していたということなので、そこからの資産があったのかもしれません。
もっとも収蔵品の各ジャンルを見ると、比較的こじんまりとしていて、系統的に集めたという感じはあまりしません。国立や県立の美術館のようにはいかない。また冒頭にあげた欧米の富豪が建てた美術館のように大規模なコレクションでもありません。
しかしここは「本当は画家になりたかった医者が、その夢を次世代に託すため、子供たちに本物の美術品(含む、古代美術や民俗芸術)を見せるために作った場所」です。そういった設立者の考えに思いを馳せながら松下美術館を訪れて鑑賞する。それが正しい態度でしょう。我々はここで、芸術や美術が一人の人間の心に与えた影響力の強さを知ることになるのです。
No. 95 | バーンズ・コレクション | 米:フィラデルフィア | |||
No.155 | コートールド・コレクション | 英:ロンドン | |||
No.157 | ノートン・サイモン美術館 | 米:カリフォルニア | |||
No.158 | クレラー・ミュラー美術館 | オランダ:オッテルロー | |||
No.167 | ティッセン・ボルネミッサ美術館 | スペイン:マドリード | |||
No.192 | グルベンキアン美術館 | ポルトガル:リスボン | |||
No.202 | ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 | オランダ:ロッテルダム | |||
No.216 | フィリップス・コレクション | 米:ワシントンDC | |||
No.217 | ポルディ・ペッツォーリ美術館 | イタリア:ミラノ | |||
No.242 | ホキ美術館 | 千葉市 | |||
No.263 | イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 | 米:ボストン | |||
No.279 | 笠間日動美術館 | 茨城県笠間市 |
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、鹿児島県にある松下美術館のことを書きます。
松下美術館の場所
松下美術館(鹿児島県霧島市福山町)は、鹿児島の錦江湾に面して東側にあります。鹿児島市内からみると桜島の反対側(大隅半島側)にあたります。
大隅半島にJRはないので、公共交通機関で行くとすると日豊本線の国分駅で降り(国分は京セラの最大の工場があるところ)、そこからバスに乗り換えて30分程度です。ただ、バスの回数が必ずしも多くないので、クルマ(旅行者であればレンタカーなど)が適当でしょう。南九州自動車道の国分インターから15分程度です。
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(Google Map より) |
ちなみに、霧島市福山町は黒酢の製造で有名なところです(=福山黒酢)。大きな壷に入れた黒酢を戸外の敷地で熟成させる「壷畑」が見られます。
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福山町の坂元醸造の壷畑。桜島を望む。 |
設立の経緯
松下美術館は、松下幸之助やパナソニック・グループとは関係ありません。福山町出身の精神科医、松下兼知(1905-1989)が設立した美術館です。
松下兼知は長崎医科大学(現、長崎大学医学部)の助教授だった1945年に被爆しました。九死に一生を得た彼は、後遺症に苦しみながらも1949年に故郷の福山町に戻り、1950年に父親が経営していたみかん畑の中に精神科の診療所を開設しました。現在の福山病院です。そして1983年に病院のそばに開いたのが松下美術館です。
松下兼知は幼少の頃から絵が好きで、美術学校に進んで画家になるのが夢だったようです。旧制高校(鹿児島の七高)の時代には自分の描いた絵を文化祭に出品したりしていました。長崎医科大に進んだあともプロの画家に絵の指導を受けたことがあります。彼はアマチュア画家として絵を描き、それは松下美術館にも展示されています。自らの被爆体験をもとにした『長崎原爆15分後』という作品も描きました。
美術館設立の趣旨について、パンフレットに次のように記載されています。
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この美術館は、福山町の小・中学生は無料で見学できます。松下兼知は自分が果たせなかった夢を次の世代に託したようです。
6館に分かれた美術館
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松下美術館は斜面に建つ6つの館からなっている。この図では上が東、下が西(錦江湾の方向)である。 |
松下美術館は上図のように6館に分かれています。1号館はエントランスで、鹿児島にゆかりのある画家(黒田清輝、和田英作、東郷青児など)の絵と、西欧の画家(ムリーリョ、コロー、クールベ、ルノワールなど)の絵が展示されています。
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松下美術館(1号館) |
2号館は薩摩切子やヴェネチアン・グラスなどのガラス器が展示され、また絵画の企画展示も行われます。この2号館の展示室は地下に造られていて、核シェルターになっています。原爆を経験した松下兼知の思いがこもっているのでしょう。
3号館は古代オリエント資料館で、エジプトやギリシャ文明の出土品が展示されています。ミイラを包んでいた「マミーマスク」もあります。
4号館は日本画の展示館です。松下美術館は雪舟の山水画や棟方志巧などを所蔵しています。
5号館は民俗資料館で、南九州を中心とする各種の仮面が展示されています。信仰のための仮面(魔除けのために家に飾るなど)と、舞踊に使う仮面があります。また、6号館には、設立者である松下兼知の作品が展示されています。
以下、松下美術館が所蔵する絵画作品を何点かピックアップして紹介します。
所蔵する絵画作品
 ムリーリョ  |
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バルトロメ・ムリーリョ(1617-1682) 「婦人の肖像」 |
(松下美術館) |
このムリーリョの肖像画は "松下美術館の顔" になっている作品です。松下美術館が入館者に配布しているパンフレットの表紙が、この肖像画です。
スペイン17世紀の画家・ムリーリョというと、宗教画が多く(プラド美術館の「無原罪の御宿り」など)、その次には風俗画でしょう(ルーブル美術館の「蚤をとる少年」は有名)。これらに加えてムリーリョは肖像画も描いたようです。この松下美術館の作品は「初めて観たムリーリョの肖像画」でした。
さらに、日本の美術館にあるムリーリョの作品は極くわずかのはずです。ネットで調べると、三重県立美術館には宗教画があるようですが(アレクサンドリアの聖カタリナ)私は観たことがありません。というわけで、松下美術館のこの作品は「初めて観た日本にあるムリーリョ」でした。
描かれた女性は、身につけた服装や装飾品から高貴な身分のようです。その印象をキーワードで表すと、「優しい」「おだやか」「落ち着いた」という感じでしょうか。ムリーリョ独特の薄い靄がかかったような表現も、その印象を強めています。
 和田英作  |
松下美術館には鹿児島出身の画家の絵が蒐集されています。鹿児島出身というと黒田清輝、藤島武二、東郷青児が有名ですが、和田英作(1874-1959)も鹿児島出身で、後半生は洋画界の重鎮でした。東京美術学校(現、東京芸術大学)の校長にまでなった人です。
和田英作は画業の人生の折に触れて富士を描いています。晩年には富士を描きたいという思いで、静岡市三保に居を構えたようです。次の絵は、朝日を受けて輝き出した富士の様子がとらえられています。
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和田英作(1874-1959) 「富士(夜明け)」(1939) |
(松下美術館) |
 小磯良平  |
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小磯良平(1903-1988) 「大原女」 |
(松下美術館) |
大原女とは、現在の京都市左京区大原地区から京都市内へ行商に出た女性です。商材は主に薪で、戦前までは残っていたようです。江戸時代以降、大原女は美人画の画題になりました。
この小磯良平の絵は、アトリエにモデルを招き、大原女の格好をさせて描いたと想像します。白と黒と朱という色使いと、画家の確かなデッサンの技量が印象的な作品です。
 モネ  |
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クロード・モネ(1840-1926) 「ウォータールー橋」 |
(松下美術館) |
モネは何回か英国を訪問して絵を描いています。画題は「国会議事堂」「チャリング・クロス橋」「ウォータールー橋」で、それぞれ多数の連作があります。ロンドン特有の霧(およびスモッグ)が立ちこめる中に光が差す効果を、場所を変え、時間を変えて描いたようです。
この絵の画題のウォータールー橋も、約40点ほどの作品があると言います。上野の国立西洋美術館にもその中の1枚があります。空・向こう岸の街並み・橋・水面・小舟が、霧に差し込む陽光の中で渾然一体となっている光景が描かれています。
 ボナール  |
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ピエール・ボナール(1867-1947) 「座せる婦人」 |
(松下美術館) |
椅子に座った女性を正面から描いた作品です。これがリアルな光景だとしたら、どういう場面でしょうか。いろいろ想像できると思いますが、たとえば「外出から帰宅した女性が椅子に座って一息ついたところで、ある気がかりができて気持ちが少々沈んでいる」というような光景です。
伏し目の顔を除いて、服装や帽子、椅子、背景は平面的に近い感じで描かれています。紫色の服、白(と濃紺)の帽子、ピンクのコサージュ、金色の髪といったおだやかな色彩でまとめた画面がいいと思います。
 デュフィ  |
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ラウル・デュフィ(1877-1953) 「ノルマンディーの風景」 |
(松下美術館) |
"色彩の魔術師" と呼ばれる画家は、マティスをはじめ何人かいますが(上のボナールもそう)、デュフィもその一人です。この作品は、青と緑で埋まった落ち着いた色調の中にピンクがかった暖色が所々に配置されています。デュフィらしく、色は形の中に閉じ込められていないで、周りに広がっています。この自由闊達な感じが魅力でしょう。
次世代に託す
設立の経緯から分かるように、この美術館は、美術愛好家の医師が医院を運営しつつコレクションを続けて設立したものです。これは冒頭にあげた個人コレクション美術館とは少々違います。冒頭の12の美術館は、事業や商売で成功した人(ないしはその一族)が、その成功で得た資金をもとにコレクションした美術品を展示したスペースです。
しかし松下兼知の本業は医師であり、病院経営です。言うまでもなく医療法人は利益をあげることを第一の目的にはしていません。一般の事業やビジネスのように "当たれば" 莫大な利益が得られるというわけではない。そういう立場の人が作った美術館でありながら、実際に現地に行くと「よくこれだけのものを作ったものだ」と感心させられます。松下家はみかん畑を経営していたということなので、そこからの資産があったのかもしれません。
もっとも収蔵品の各ジャンルを見ると、比較的こじんまりとしていて、系統的に集めたという感じはあまりしません。国立や県立の美術館のようにはいかない。また冒頭にあげた欧米の富豪が建てた美術館のように大規模なコレクションでもありません。
しかしここは「本当は画家になりたかった医者が、その夢を次世代に託すため、子供たちに本物の美術品(含む、古代美術や民俗芸術)を見せるために作った場所」です。そういった設立者の考えに思いを馳せながら松下美術館を訪れて鑑賞する。それが正しい態度でしょう。我々はここで、芸術や美術が一人の人間の心に与えた影響力の強さを知ることになるのです。
(続く)
2021-01-23 08:40
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No.302 - ワクチン接種の推奨中止で4000人が死亡 [科学]
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『まどわされない思考』(="本書")では、世界で広まる "反ワクチン運動" について書かれていました。WHOは2019年に初めて、全世界の健康に対する脅威のトップ10の中にワクチン接種への抵抗を入れたともあります。確かに "ワクチン接種に反対する運動" は、感染症の蔓延防止や病気の撲滅にとって大きな脅威です。
実は、No.296では省略したのですが『まどわされない思考』には日本のワクチン接種に関する状況が出てきます。それは「ヒトパピローマウイルス(HPV)」のワクチンで、今回はその話です。
ヒトパピローマウイルス(HPV)
まず著者はヒトパピローマウイルス(HPV, Human papilloma virus。papilloma = 乳頭腫)と、それに対するワクチンについて次のように説明しています。以下の引用で下線は原文にありません。また段落を増やしたところがあります。
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癌はさまざまな原因で起こりますが、その一つがウイルスです。そして癌を引き起こすウイルスの代表的なものが HPV です。上の引用にあるオーストラリアの例でわかるように、HPVワクチンの接種が進めば人類は初めて一種の癌の撲滅に成功し、子宮頸癌で死亡する毎年27万人の人たちの命を救える道が見えてきたのです。
ところが事態はそう簡単には進みませんでした。まず、アメリカでワクチンに対する反対運動が起こったのです。
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成人のほとんどが性行為をするということを考えると「ワクチン接種が奔放なセックスへの扉を開く」というのは言いがかりもいいところです。このような言説はすぐに否定されるのですが、次には、HPVワクチンには副反応(治療薬の副作用に相当。『まどわされない思考』では副作用と書かれている)があると言い出す人が出てきました。
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この反ワクチン運動の被害を最も大きく受けたのが、実は日本でした。
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「ワクチンの承認を一時停止」と書かれているのは誤り、ないしは不正確です(原文か訳か、どちらかの誤り)。正確には「ワクチン接種の積極的推奨の一時停止(2013年6月)」です。この "一時停止" は今も続いています(2020年末現在)。一方、ワクチンは承認されたままであり、公的助成による接種を受けることができます(=定期接種の対象)。
『まどわされない思考』では次にデンマークとアイルランドの状況が書かれています。2014年、デンマークでも反ワクチン運動が起こり、被害を受けたとする証言がメディアで流されました。この結果、接種率は79%から17%に低下しました(デンマーク政府は一貫して安全性を主張)。
2015年、パニックは著者の母国であるアイルランドへ波及しました。しかしアイルランド政府の保険局も一貫して安全性を主張し、反ワクチン運動と戦いました。著者も科学ジャーナリストとしてワクチンの安全性を訴えた一人です。
このアイルランドでの戦いに最も功績があったのは、ローラ・ブレナンという女性でした。彼女は24歳のとき転移性子宮頸癌(ステージ2B)の診断をうけましたが、その彼女が保険局のキャンペーンに参加し、接種を訴えたのです(ローラは癌の転移により、2019年3月20日に26歳で他界)。アイルランドでは反ワクチン運動により、2014年で87%だった接種率が2016年には50%程度に落ち込みました。しかしローラがキャンペーンに参加した18ヶ月で接種率は20%も上昇したのです。
以上が『まどわされない思考』に書かれていた HPVワクチンに関する状況です。以降は、本書で触れらていた日本の状況を整理します。
反HPVワクチン運動の発生源となった日本
HPVワクチンには2種類あり、日本ではグラクソ・スミスクラインが2009年12月から「サーバリックス」を、またMSD(米国の製薬大手、メルクの日本法人)が2011年8月から「ガーダシル」を販売しています。このワクチンは、日本では2013年4月に "定期接種化" されました。
本書に「日本でパニックが起こった」という意味の説明がありました。日本では「70パーセントだった接種率が2017年までに1パーセント以下までに下がった」のですが、このような国は日本しかありません。まさに "パニック" という表現が当てはまるでしょう。このパニックはどのように起こったのでしょうか。HPVワクチンの日本における経緯を詳述した、村中璃子・著『10万個の子宮』(平凡社 2018)より引用します。村中氏は医師で京都大学大学院講師、科学ジャーナリストです。
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その間、2016年に日本で、国と製薬会社2社を相手に、ワクチン接種によって被害を受けたとして賠償を求める世界初の集団訴訟が起こされました。また続いて2017年、世界で2番目にコロンビアで集団訴訟が起きています。
子宮頸がんワクチンの副反応の件ですが、そもそもワクチンには副反応がつきものです。現在(2020年末)、世界で大きな話題となっているのはファイザー社などが開発した新型コロナウイルスのワクチン(メッセンジャーRNAワクチン)ですが、ファイザー社は倦怠感、頭痛、発熱などの副反応が起こり得ると公表しています。
子宮頸がんワクチンの副反応とされた「身体表現性障害」ですが、これは子宮頸がんワクチンが初めて世に出た2006年より以前から知られていた症状でした。上に引用した村中氏の本によると、世界の精神医療のスタンダードとなっているDSM-IV(米国精神医学会発行の「精神障害の診断・統計マニュアル Diagostic and Statistical Manual of Mental Disorder-IV」。最新版は2013年発行の DSM-5)では、身体表現性障害の症状として、
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と、多彩な症状があげられています。DSM-IVが発行されたのは1994年であり、子宮頸がんワクチンの接種が始まる10年以上前ということになります。
身体表現性障害は、痛みや恐怖、不安、プレッシャーなどをきっかけに生じるので、「子宮頸がんワクチンを接種した」ことによる不安が引き金になったことは考えられます。
しかしそれよりも可能性が高いのは、子宮頸がんワクチンは思春期の女性(日本では小学6年~高校1年相当の女性)に接種するワクチンであり、もともと若い女性に多い身体表現性障害と接種が重なったということでしょう。
ここで思い出すのが No.296「まどわされない思考」で紹介したイギリスのワクチン騒動です。1998年、ある医師が「三種混合ワクチン(通称 MMR。麻疹・おたふく風邪・風疹ワクチン)が自閉症を引き起こすデータを見つけた」と発表し大騒動になりました。後にこれはデータが捏造されたものと判明し、医師は医師免許を剥奪されました。しかし多くの人がこの説を信じました。その理由は、MMRを接種する時期と自閉症を発症する時期(ともに2~3歳の幼児期)が近かったことです。
『まどわされない思考』の著者のグライムスは、これを「前後即因果の誤謬」と言っています。「前後即因果の誤謬」とは「一つの事象のあとにもう一つの事象が続いたという事実だけにもとづいて両者間の因果関係を認めてしまう飛躍した考えた方」です。
以上の状況をみると、日本は「反 HPV ワクチン」の中心的な国になってしまったようです。では、最新の日本の状況はどうでしょうか。その最新状況を概説した記事が2020年11月の日本経済新聞に掲載されたので、以降はそれを紹介します。
日本の最新状況
2020年11月16日の日本経済新聞にHPVワクチンに関する記事が掲載されました。見出しは、
子宮頸がん 予防効果高く
ワクチンの有効性 複数の研究が証明
低い接種率の向上に課題
です。以下、この記事の概要を紹介します。まず子宮頸がんの状況です。
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子宮頸がんの発症は20代から増え始め、30代後半から40代でピークに達します。その代表的な治療は子宮の摘出です。上の記事にわざわざ「30代までに治療で子宮を失う人も毎年約1200人にのぼる」とあるのは、今後の妊娠・出産の可能性が高い30代かそれ以前の女性が子宮を失っていることを示したかったからです。40代以降も含めると、毎年1万人ほどの子宮摘出手術が行われています(上に引用した村中氏の本による)。
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日経新聞には子宮頸がんの進行の過程が図示されていました(下図)。この過程において、HPVワクチンが「HPVへの感染を防ぐこと」と「前がん病変への移行を防ぐこと」は証明されていました。つまり「子宮頸がんを防ぐ効果がある」ことが "間接的に" 証明されていた。しかし、ワクチンが子宮頸がんを予防する直接的な効果データはありませんでした。そのようなデータを得るには、ワクチンを承認するときの治験(数万人)だけでは無理であり、実際にワクチンを国民に接種して何百万、何千万の実績をつくり、その経過を観察する必要があるからです。
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日本経済新聞・デジタル版 (2020.11.16) |
ところが最近、HPVワクチンの効果を証明するデータがそろってきました。
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「10~16歳に(接種した人に)限ると発症リスクは88%減っていた」とあります。日本の定期接種は小学6年~高校1年の女性で、ほぼこの記事の年齢にあたります。これは定期接種の接種率をあげると子宮頸がんの発症を9割減らせることを意味します。しかし前にも引用したように、日本の接種率はほぼゼロという異常事態になっています。
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日本経済新聞・デジタル版 (2020.11.16) |
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このまま接種率が実質ゼロという状況をほおっておくと、子宮頸がんで子宮を失ったり、死亡したりする女性が増えるだけです。
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この大阪大学の研究チームの報告は、10月22日の日本経済新聞・デジタル版に詳しく掲載されていました。
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避けられたはずの死者が4000人発生するだろう、という予測は相当なものですが、その死者の倍以上の数の女性が子宮を失うことも大問題です。この状況を改善するため、積極的勧奨を再開すべきだという意見が医療界に根強くあります。しかし再開には至っていません。
ワクチン接種後に障害とみられる反応があったとき、積極的勧奨を中止し、いったん立ち止まるという判断はあり得るでしょう。しかし立ち止まったあとに因果関係が見いだせなかったとき、再び積極的勧奨を行うべきであり、それが国民の命を守る政府の責任です。
厚生労働省は2020年10月からHPVワクチンのリーフレットを改訂し、各自治体を通して接種対象者に配布することを決めました。このような施策を先行して行っている自治体もあります。
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ワクチンへの理解
現在(2021年・年初時点)、新型コロナウイルスによる感染者・重症者・死亡者の減少の切り札として、ファイザー社などのワクチンが期待されています。こういう時だからこそ、ワクチンに対する国民の理解と正しい国の政策が必須です。HPVワクチンで起こった日本の "パニック" は、大いに参考にすべき事例だと考えられます。
まず、ワクチンには副反応がつきものです。上にも書きましたが、ファイザー社は新型コロナウイルスのワクチン(メッセンジャーRNAワクチン)の接種で、倦怠感、頭痛、発熱などの副反応が起こり得ると公表しています。もちろん後遺症が残る残るような重篤な副反応が起きてはならないのですが、もしその疑いがある症例が出た時には、それがワクチン接種と因果関係があるのか、科学的に見極めるべきでしょう。
さらに、HPVワクチンで起こったような疑似的な副反応=身体表現性障害が観察されることも予想されます。こういった疑似的な副反応は、それがワクチンのせいだという思い込みがあると、症状が長く続いたり改善しないことがある。逆にワクチンが原因ではないと医者に断定的に言われると、症状が解消したという例が報告されています。
政府の一貫性のある対応も重要です。HPVワクチンの "副反応パニック" が起こったアイルランド、デンマークでは、政府が一貫して安全性を主張しました。ところが日本政府は、報告された症状が身体表現性障害だと結論づけたにもかかわらず(2013年)、ワクチン接種の積極的勧奨をいまだに再開していません(2020年現在)。この結果、救えるはずの数千人の命が失われると推測されているのです。政府の責任は大きいと思います。
人間の免疫機能は人によって多様だという認識も必要でしょう。ワクチンは人間の獲得免疫を利用して感染しても発病しないようにするものですが、その獲得免疫の機能の強さや個別の病原体に対する有効性は人によって違います(No.69, No.70「自己と非自己の科学」参照)。個人的な経験ですが、私はインフルエンザワクチンを接種しても全く変化はありません。しかし私の配偶者は接種した付近が大きく赤く腫れます。炎症反応が目に見える形で起こっているのですが、このように免疫反応は人によって違います。
新型コロナウイルスのメッセンジャーRNAワクチンも、最初に接種が始まった英国では、数千人に接種した段階でアナフィラキシー・ショックを起こした医療従事者が2名出たと報道されました(2020年12月。治療で回復。2人は過去にアナフィラキシー・ショックの経験あり)。メッセンジャーRNAワクチンの第3段階の治験は万の単位の人に対して行っているはずですが、それでも副反応が起きるわけです。
ワクチンに限りませんが、現代社会はノー・リスクを求めてはいけないのです。またノー・リスクを政府に要求していけない。ノー・リスクを求める限り、別の大きなリスクを招き入れることを理解しなければなりません。
ワクチン問題に関しては「前後即因果の誤謬」も注意すべきことでしょう。本文に書いたように「前後即因果の誤謬」とは「一つの事象のあとにもう一つの事象が続いたという事実だけにもとづいて両者間の因果関係を認めてしまう飛躍した考えた方」です。ワクチンは病気の治療薬と違って何百万人、何千万人に接種するものです。従ってワクチン接種後に、ワクチン接種と因果関係が全くない症状が発現することが確率的に出てくるわけです。
ためしに、新型コロナウイルス・ワクチン接種直後に心臓突然死が日本でどれだけ起こるかを計算してみましょう。このワクチンをどれだけの人が接種するか(対象者の範囲とその接種率)は、現在のところ不明です。どれぐらいの期間で接種が完了するかも不明です。そこで仮の値として、2年間かかって4000万人が接種したとしましょう。1年間に2000万人です。
日本における突然死のほとんどは心臓突然死(心室細動や心筋梗塞などによる)です。この死者の数は年間7.9万人です。実際にはゼロ歳児と65歳以上が多いのですが、簡単のために年齢は均等にバラついているとします。7.9万人を日本の人口(1.26億人)で割ると、ある人が1年の間に心臓突然死する確率(α)が求まり、
α = 0.000627
となります。そうすると、ある人がワクチン接種を受けた72時間以内(3日間)に心臓突然死する確率(β)は、
β = ( α / 365 ) * 3
となります。1年の間に2000万人がワクチン接種を受けるのですから、日本人全体では、
20,000,000 × β = 103(人)
という計算が成り立ち、ワクチン接種を受けてから72時間以内(3日間)に心臓突然死する日本人は、1年間に103人発生することになります。年間200万人に接種としても10人です。あくまで概算の概算ですが、数のオーダーは理解できると思います。広範囲にワクチンを接種するということは、確率的にこういうことが起きることを認識しておかなければなりません。
心臓突然死は極端な例ですが、「死には至らないが、前兆が全くなく突如起こる体の不調」はたくさんあります。「生まれて初めて新型コロナウイルスワクチンの接種を受けた」という記憶は深く脳裏に刻み込まれるでしょう。従ってそのあとに近接して起こる "前兆なしの体の不調" をワクチン接種と関連づける人が出てくる可能性が高い。それにワクチン反対運動を展開している人が飛びつく。このあたりはよくよく注意すべきだと思います。
さらに、ワクチン接種の恩恵はワクチンを接種しない人にも及ぶことが重要です。新型コロナウイルス感染症の蔓延で、我々は今まで知らなかった感染症の専門用語を理解しました。一つは「実効再生産数」です。一人の感染者が何人に感染症をうつすかという平均値で、これが1を切ると感染症の流行は下火に向かう。
もう一つは「集団免疫」です。集団の60%とか70%の人が感染症に対する免疫を持つと、実効再生産数が下がり、感染症の流行が押さえられる。もちろん、国民に広くワクチンを接種するは集団免疫を得るためです。
ある程度のリスクを覚悟の上でワクチンの接種を受けたとすると、それは自分が感染症にかからないため(ないしはかかったとしても重症化しないため)であると同時に、社会で新型コロナウイルスが蔓延しないようにするためでもあるのです。ウイルスが蔓延しなくなると、ワクチンを接種していない人の感染リスクも低下する。従ってワクチン接種の恩恵はワクチンを接種しない人にも及びます。ワクチン接種をすることは、集団の中で皆が助け合って生きていこうという(暗黙の)意志表明でもあるわけです。ここはよく考えておくべきだと思います。
2021-01-09 08:25
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No.301 - 線路脇の家 [アート]
No.288「ナイトホークス」に続いて、アメリカの画家、エドワード・ホッパーの絵画とその影響についての話です。No.288 は、ホッパーの『ナイトホークス』(1942)が、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』(1982公開)のアート・デザインやビジュアルに影響を与えたという話でした。『ナイトホークス』の複製画を映画の美術スタッフに見せ続けたと、スコット監督自身が述懐しているのです。
その『ブレードランナー』を始め、ホッパーの絵画は多数の映画に影響を与えました。最近のアメリカ映画でいうと、2015年に制作された『キャロル』(日本公開:2016年2月)はホッパーの多数の作品から場面作りの影響を受けています(アートのブログサイト:https://www.sartle.com/blog/post/todd-haynes-channels-edward-hopper-in-the-film-carol)。トッド・へインズ監督がホッパーの大のファンのようです。そのためか、映画の日本公開に先立って出版されたパトリシア・ハイスミスの原作の表紙には、ホッパーの「オートマット」が使われています(河出文庫。2015.12)。
そういった映画への影響で昔から最も有名なのは、アルフレッド・ヒチコック監督の『サイコ』(1960年公開)でしょう。これは "サイコ・サスペンス" とでも言うべきジャンルを切り開いた映画史に残る傑作です。この映画で、モーテルを経営している主人公の男性が母親と2人で住んでいる家のモデルとなったのがホッパーの『線路脇の家』でした。この『線路脇の家』はホッパー作品の中でも最も有名なものの一つです。
ホッパーの絵は映画だけでなく文学にも影響を与えました。No.288の『ナイトホークス』もそうですが、ホッパーの絵は "背後に物語があると感じてしまう絵" が多いのです。
このホッパーの絵の "特質" を利用して編まれた短編小説集があります。ローレンス・ブロック編『短編画廊』(ハーパーコリンズ・ジャパン 2019。原題は「In Sunlight or In Shadow : stories inspired by the paintings of Edward Hopper」)です。
この本は、小説家のブロックがアメリカの16人の小説家に呼びかけて「ホッパーの絵画にインスパイアされた短編小説」を書いてもらい、それをまとめたものです。17人(ブロック自身を含む)が選んだ絵画は全部違っていて(もちろん調整もあったのでしょう)、本のページをめくるとまずホッパーの絵の画像があり、その後に小説が続き、それが17回繰り返されるという洒落た短編集になっています。
その17枚の絵を見ると、『ナイトホークス』はありますが『線路脇の家』はありません。2枚ともアメリカのメジャーな美術館が所蔵している(それぞれシカゴ美術館とニューヨーク近代美術館)大変有名な絵です。ホッパーの代表作を10枚選べと言われたら必ず入る2枚だと思います。なぜ『線路脇の家』がないのでしょうか。
それには理由があるのかも知れません。つまり、ブロックの呼びかけに応じた小説家からすると『線路脇の家』からはどうしても『サイコ』を連想してしまう。しかし『サイコ』を凌駕するストーリーを語るのは難しそうだ、やめておこう、となるのではないでしょうか。アメリカ人の小説家ならそう思うに違いないと思います。
しかし日本人の小説家である恩田陸さんは、ホッパーの『線路脇の家』から(楽々と)一つの短編小説を書き上げました。短編小説集『歩道橋シネマ』(新潮社。2019)に収録された『線路脇の家』(雑誌の初出は2015年)です。
以降は、このホッパーの絵と恩田さんの短編を "同時に紹介" したいと思います。この恩田さんの短編は「私」の一人称であり、最初のところに「私」が初めて『線路脇の家』を見たときの感想が書かれているのですが、その文章が絵の評論にもなっていて、"同時に紹介" が可能なのです。
恩田さんの文章は、No.209「リスト:ピアノソナタ ロ短調」で『蜜蜂と遠雷』の中のリストの部分だけを引用しました。それは音楽についての文章でしたが、今度は絵画です。
エドワード・ホッパー「線路脇の家」
エドワード・ホッパーの『線路脇の家』はニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。MoMAは1929年に設立者のプライベート・コレクションを基盤に開館しますが、1930年に最初の作品群を購入しました。その中の一つが『線路脇の家』でした。
以降は、この絵をふまえて恩田陸さんが書いた短編小説「線路脇の家」を紹介します。この小説の冒頭にはホッパーの絵から受ける印象が語られています。
恩田 陸「線路脇の家」(1)
恩田 陸さんの「線路脇の家」の冒頭部分から引用します。以下の引用では漢数字を算用数字にしたところがあります。また、段落の切れ目を空行で表し、段落の最初の字下げは省略しました。
恩田さんの「線路脇の家」は「私」の一人称の小説です。従ってこの冒頭部分は「私」が初めてホッパーの『線路脇の家』を見たときに感じた印象であり、その前提で読む必要があります。
上の引用の中に「何様式というのだろう。・・・・・ 19世紀の終わり、あるいは20世紀初頭に流行ったスタイルと思われる。」とありますが、この建物はイギリスのヴィクトリア朝時代の様式です。横浜の山手に洋館が立ち並ぶエリアがありますが、その中にもヴィクトリア様式の建物があります。
小説「線路脇の家」では次に、ヒチコックの『サイコ』との関係が語られます。
ここで引用した部分は、ホッパーの絵、および『線路脇の家』についての的確な評論になっていると思います。「作り物感があると同時に生々しさがある」としたところなど、全くその通りという感じがします。
補足しますと、上の引用の多くは『線路脇の絵』と『サイコ』に出てくる家との関係を語っているのですが、その中に、
とあります。ホッパー研究の第一人者であるゲイル・レヴィン(ニューヨーク市立大学教授・美術評論家)によると、往年の名画『ジャイアンツ』(Giant。1956年公開)に出てくる家は『線路脇の家』を模しているそうです(ゲイル・レヴィン「エドワード・ホッパーと映画」による)。『ジャイアンツ』は、テキサスに広大な牧場をもつ牧場主(ロック・ハドゾン)のもとに東部から名門の娘(エリザベス・テイラー)が嫁いでくる。その彼女に若い牧童(ジェームス・ディーン。この映画が遺作)が密かに好意を寄せる ・・・・・・、というシチュエーションです。この映画で、広大な牧場(レアータ牧場)の中にポツンと建つ屋敷が『線路脇の家』とそっくりです。
恩田 陸「線路脇の家」(2)
ここまでの引用は「私」が『線路脇の家』を初めて見たときの印象でした。このあと、物語が動き出します。そのキーワードは "既視感" です。
『線路脇の家』を見たときの既視感は、決して『サイコ』だけのものではない。「私」はそう気づいたのですが、それが何なのかをある時、ひょっと思い出します。「私」は友人と東京の東の方で落ち合って飲む約束をしたのですが、そこへ向かうために駅のホームにいた時です。
電車からは家の中がよく見えました。もちろん家の中の人は電車から見えているとは思っていないのでしょう。そういうことはよくあります。そしてその家が「私の」記憶に残ったのは、単に人がいたからではあません。家の中の人は3人で、電車で通るたびにいつも同じ3人だったからです。
ちょっと不思議な光景です。「私」が電車でお客さんのところへ向かうのは平日の昼間です。高齢の女性はともかく、比較的若そうな男女は働いていないのでしょうか。また、大きな家なのに3人が必ず2階の同じ部屋にいるのはなぜか。
こういう不思議さが記憶に残った原因のようです。ホッパーの『線路脇の家』を見たときの既視感はヒチコックの『サイコ』だけではないと「私」は感じていたのですが、その原因がはっきりしました。しかし話はまだ続きます。
「私」は知り合いの法事に呼ばれ、東京の東の方にある初めての駅で降り、住宅街の奥にある寺までいって法事を終えました。その帰り道、知り合いといっしょに住宅街を歩いていると、いつのまにか小高い丘の麓に出ました。そしてふと見ると、そこに廃墟と化した「線路脇の家」があったのです。「私」は、しばし立ち止まって感慨にふけりました。そしてその洋館を振り返りつつ、知り合いに追いつきます。知り合いはこのあたりの住人なので洋館のことを教えてくれました ・・・・・・。
ここから結末までのストーリーを明かすのはまずいと思うので、以降は割愛します。『サイコ』とは全く違った、『サイコ』の対極にあるような話の展開になっています。この短編小説の最後は次のような記述で終わります。
恩田陸さんの小説の紹介・引用はここまでで、以降はこの小説を読んだ感想です。
鳥籠
ホッパーの『線路脇の家』を見た印象というか、イメージを言葉で表すと、
といった感じが普通かと思います。しかし恩田さんの小説では「鳥籠を連想させる」としたところがポイントでしょう。つまり、中に人が住んでいると考えたとき、その住人からするとどうだろうか。この家は、出るに出られない "鳥籠" である ・・・・・・。このイメージが『線路脇の家』という絵の印象の中心になっていて、またこのイメージで物語が結末へと進んでいきます。「鳥籠」がこの小説のキーワードになっていると思いました。
恩田さんは『サイコ』の主人公を "鳥籠に閉じこめられた鳥" になぞらえた文章を書いていました。その連想から言うと、エリザベス・テイラー演じる『ジャイアンツ』の女主人公も、東部の都会からテキサスの広大な牧場の中にポツンとある「線路脇の家」風の屋敷に嫁いできたわけです。そこはまさに彼女からすると「鳥籠」だったのではないでしょうか。
ということからすると、「線路脇の家」=「鳥籠」というイメージは恩田さんの感覚という以上に、ある種の普遍性のあるものだと思いました。
ここではないどこか
さらにこの小説で「鳥籠」と並んで重要なキーワードは「ここではないどこか」です。これは2箇所に出てきます。最初はホッパーの『線路脇の家』を見た印象を語った最初の部分、2回目は一番最後の部分です。その2つのセンテンスは次の通りです。
No.298「中島みゆきの詩(16)ここではないどこか」で書いたように「ここではないどこか」はボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中の詩に端を発する概念です(No.298 に詩を引用)。そのボードレールの詩では、この世で生きることを病院に入院して治療をうけている病人になぞらえていました。恩田さんがボードレールを意識したのかどうかは分かりませんが、出るに出られないという意味で「鳥籠」と「病院」のイメージはかぶっています。この小説に「ここではないどこか」という言い方が用いられているのは、そういう暗示かと思いました。
「線路脇の家」=「鳥籠」(= 病院)であり、具体的に言うと「社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴」しているというのが、ホッパーの絵を恩田さんなりに解釈したものです。またそれが同時に小説の構成のキモになっていると感じました。
この小説は18の短編小説からなる『歩道橋シネマ』の冒頭に置かれています(最後の小説は「歩道橋シネマ」)。つまり、作者としても自信作なのでしょう。『サイコ』とは全く違った "軽い" ストーリーだけれど、ホッパーの『線路脇の絵』から受ける印象の記述と絵の解釈が非常に的確です。そこに感心しました。
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そういった映画への影響で昔から最も有名なのは、アルフレッド・ヒチコック監督の『サイコ』(1960年公開)でしょう。これは "サイコ・サスペンス" とでも言うべきジャンルを切り開いた映画史に残る傑作です。この映画で、モーテルを経営している主人公の男性が母親と2人で住んでいる家のモデルとなったのがホッパーの『線路脇の家』でした。この『線路脇の家』はホッパー作品の中でも最も有名なものの一つです。
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ホッパーの「線路脇の家」(1925。左)と、ヒチコック監督の「サイコ」(1960)に登場する家(右)。 |
ホッパーの絵は映画だけでなく文学にも影響を与えました。No.288の『ナイトホークス』もそうですが、ホッパーの絵は "背後に物語があると感じてしまう絵" が多いのです。
このホッパーの絵の "特質" を利用して編まれた短編小説集があります。ローレンス・ブロック編『短編画廊』(ハーパーコリンズ・ジャパン 2019。原題は「In Sunlight or In Shadow : stories inspired by the paintings of Edward Hopper」)です。
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その17枚の絵を見ると、『ナイトホークス』はありますが『線路脇の家』はありません。2枚ともアメリカのメジャーな美術館が所蔵している(それぞれシカゴ美術館とニューヨーク近代美術館)大変有名な絵です。ホッパーの代表作を10枚選べと言われたら必ず入る2枚だと思います。なぜ『線路脇の家』がないのでしょうか。
それには理由があるのかも知れません。つまり、ブロックの呼びかけに応じた小説家からすると『線路脇の家』からはどうしても『サイコ』を連想してしまう。しかし『サイコ』を凌駕するストーリーを語るのは難しそうだ、やめておこう、となるのではないでしょうか。アメリカ人の小説家ならそう思うに違いないと思います。
以降は、このホッパーの絵と恩田さんの短編を "同時に紹介" したいと思います。この恩田さんの短編は「私」の一人称であり、最初のところに「私」が初めて『線路脇の家』を見たときの感想が書かれているのですが、その文章が絵の評論にもなっていて、"同時に紹介" が可能なのです。
恩田さんの文章は、No.209「リスト:ピアノソナタ ロ短調」で『蜜蜂と遠雷』の中のリストの部分だけを引用しました。それは音楽についての文章でしたが、今度は絵画です。
エドワード・ホッパー「線路脇の家」
エドワード・ホッパーの『線路脇の家』はニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。MoMAは1929年に設立者のプライベート・コレクションを基盤に開館しますが、1930年に最初の作品群を購入しました。その中の一つが『線路脇の家』でした。
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エドワード・ホッパー(1882-1967) 「線路脇の家」(1925) (ニューヨーク近代美術館:MoMA) |
MoMAのサイトより画像を引用 |
以降は、この絵をふまえて恩田陸さんが書いた短編小説「線路脇の家」を紹介します。この小説の冒頭にはホッパーの絵から受ける印象が語られています。
恩田 陸「線路脇の家」(1)
恩田 陸さんの「線路脇の家」の冒頭部分から引用します。以下の引用では漢数字を算用数字にしたところがあります。また、段落の切れ目を空行で表し、段落の最初の字下げは省略しました。
|
恩田さんの「線路脇の家」は「私」の一人称の小説です。従ってこの冒頭部分は「私」が初めてホッパーの『線路脇の家』を見たときに感じた印象であり、その前提で読む必要があります。
上の引用の中に「何様式というのだろう。・・・・・ 19世紀の終わり、あるいは20世紀初頭に流行ったスタイルと思われる。」とありますが、この建物はイギリスのヴィクトリア朝時代の様式です。横浜の山手に洋館が立ち並ぶエリアがありますが、その中にもヴィクトリア様式の建物があります。
小説「線路脇の家」では次に、ヒチコックの『サイコ』との関係が語られます。
|
ここで引用した部分は、ホッパーの絵、および『線路脇の家』についての的確な評論になっていると思います。「作り物感があると同時に生々しさがある」としたところなど、全くその通りという感じがします。
補足しますと、上の引用の多くは『線路脇の絵』と『サイコ』に出てくる家との関係を語っているのですが、その中に、
『サイコ』のみならず、この家を模した家を登場させた映画が複数あるという
とあります。ホッパー研究の第一人者であるゲイル・レヴィン(ニューヨーク市立大学教授・美術評論家)によると、往年の名画『ジャイアンツ』(Giant。1956年公開)に出てくる家は『線路脇の家』を模しているそうです(ゲイル・レヴィン「エドワード・ホッパーと映画」による)。『ジャイアンツ』は、テキサスに広大な牧場をもつ牧場主(ロック・ハドゾン)のもとに東部から名門の娘(エリザベス・テイラー)が嫁いでくる。その彼女に若い牧童(ジェームス・ディーン。この映画が遺作)が密かに好意を寄せる ・・・・・・、というシチュエーションです。この映画で、広大な牧場(レアータ牧場)の中にポツンと建つ屋敷が『線路脇の家』とそっくりです。
![]() |
映画「ジャイアンツ」のロケ地におけるジョージ・スティーブンス監督とジェームス・ディーン。後ろにレアータ屋敷(Reata mansion)のセットが見える。 |
恩田 陸「線路脇の家」(2)
ここまでの引用は「私」が『線路脇の家』を初めて見たときの印象でした。このあと、物語が動き出します。そのキーワードは "既視感" です。
|
『線路脇の家』を見たときの既視感は、決して『サイコ』だけのものではない。「私」はそう気づいたのですが、それが何なのかをある時、ひょっと思い出します。「私」は友人と東京の東の方で落ち合って飲む約束をしたのですが、そこへ向かうために駅のホームにいた時です。
|
電車からは家の中がよく見えました。もちろん家の中の人は電車から見えているとは思っていないのでしょう。そういうことはよくあります。そしてその家が「私の」記憶に残ったのは、単に人がいたからではあません。家の中の人は3人で、電車で通るたびにいつも同じ3人だったからです。
|
ちょっと不思議な光景です。「私」が電車でお客さんのところへ向かうのは平日の昼間です。高齢の女性はともかく、比較的若そうな男女は働いていないのでしょうか。また、大きな家なのに3人が必ず2階の同じ部屋にいるのはなぜか。
こういう不思議さが記憶に残った原因のようです。ホッパーの『線路脇の家』を見たときの既視感はヒチコックの『サイコ』だけではないと「私」は感じていたのですが、その原因がはっきりしました。しかし話はまだ続きます。
|
「私」は知り合いの法事に呼ばれ、東京の東の方にある初めての駅で降り、住宅街の奥にある寺までいって法事を終えました。その帰り道、知り合いといっしょに住宅街を歩いていると、いつのまにか小高い丘の麓に出ました。そしてふと見ると、そこに廃墟と化した「線路脇の家」があったのです。「私」は、しばし立ち止まって感慨にふけりました。そしてその洋館を振り返りつつ、知り合いに追いつきます。知り合いはこのあたりの住人なので洋館のことを教えてくれました ・・・・・・。
ここから結末までのストーリーを明かすのはまずいと思うので、以降は割愛します。『サイコ』とは全く違った、『サイコ』の対極にあるような話の展開になっています。この短編小説の最後は次のような記述で終わります。
|
恩田陸さんの小説の紹介・引用はここまでで、以降はこの小説を読んだ感想です。
鳥籠
ホッパーの『線路脇の家』を見た印象というか、イメージを言葉で表すと、
空虚 | |
放棄された | |
取り残された | |
近寄りがたい | |
ミステリアス |
といった感じが普通かと思います。しかし恩田さんの小説では「鳥籠を連想させる」としたところがポイントでしょう。つまり、中に人が住んでいると考えたとき、その住人からするとどうだろうか。この家は、出るに出られない "鳥籠" である ・・・・・・。このイメージが『線路脇の家』という絵の印象の中心になっていて、またこのイメージで物語が結末へと進んでいきます。「鳥籠」がこの小説のキーワードになっていると思いました。
恩田さんは『サイコ』の主人公を "鳥籠に閉じこめられた鳥" になぞらえた文章を書いていました。その連想から言うと、エリザベス・テイラー演じる『ジャイアンツ』の女主人公も、東部の都会からテキサスの広大な牧場の中にポツンとある「線路脇の家」風の屋敷に嫁いできたわけです。そこはまさに彼女からすると「鳥籠」だったのではないでしょうか。
ということからすると、「線路脇の家」=「鳥籠」というイメージは恩田さんの感覚という以上に、ある種の普遍性のあるものだと思いました。
ここではないどこか
さらにこの小説で「鳥籠」と並んで重要なキーワードは「ここではないどこか」です。これは2箇所に出てきます。最初はホッパーの『線路脇の家』を見た印象を語った最初の部分、2回目は一番最後の部分です。その2つのセンテンスは次の通りです。
社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴しているように思えるのである。
あのあと、彼らはどこに行ったのだろう。「ここではないどこか」に行けたのだろうか。
あのあと、彼らはどこに行ったのだろう。「ここではないどこか」に行けたのだろうか。
No.298「中島みゆきの詩(16)ここではないどこか」で書いたように「ここではないどこか」はボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中の詩に端を発する概念です(No.298 に詩を引用)。そのボードレールの詩では、この世で生きることを病院に入院して治療をうけている病人になぞらえていました。恩田さんがボードレールを意識したのかどうかは分かりませんが、出るに出られないという意味で「鳥籠」と「病院」のイメージはかぶっています。この小説に「ここではないどこか」という言い方が用いられているのは、そういう暗示かと思いました。
「線路脇の家」=「鳥籠」(= 病院)であり、具体的に言うと「社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴」しているというのが、ホッパーの絵を恩田さんなりに解釈したものです。またそれが同時に小説の構成のキモになっていると感じました。
この小説は18の短編小説からなる『歩道橋シネマ』の冒頭に置かれています(最後の小説は「歩道橋シネマ」)。つまり、作者としても自信作なのでしょう。『サイコ』とは全く違った "軽い" ストーリーだけれど、ホッパーの『線路脇の絵』から受ける印象の記述と絵の解釈が非常に的確です。そこに感心しました。
2020-12-26 11:29
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No.300 - 中島みゆきの詩(17)EAST ASIA [音楽]
No.298「中島みゆきの詩(16)ここではないどこか」は、1992年のアルバム『EAST ASIA』に収録された《此処じゃない何処かへ》のことでした。その No.298 最後に、このアルバムの冒頭の曲でアルバムのタイトルにもなっている《EAST ASIA》について、最重要の曲のはずだから別途書くとしました。今回はその話です。
EAST ASIA
中島みゆきさんの 《EAST ASIA》は次のような詩です。全文を引用します。
これは1992年のアルバムに収録されたものですが、それまでの中島作品からすると、あまりないタイプだと思います。それまでの詩はざっくりというと「人と人との関係の詩」や「人生に関わる詩」、ないしは「社会と人との関係性」が多かったわけです。
しかし、この詩はちょっと違って、East Asia = 東アジアという固有名詞がテーマ、ないしはキーワードになっています。以前の作品にも東京や札幌、南三条(札幌の地区名)、横浜などの地名が出てきましたが、今回は国を越えた地域名です。そこが違います。
もちろん東京や札幌が出てきたところで、詩の内容が日本に関わることというわけではなく、人の普遍的な感情とか人間関係がテーマでした。しかし「東アジア」となると国とか国境がテーマの重要部分を占めるはずであり、その前提で何か普遍的なものが表現されているはずです。以下、この詩の重要なキーワードや概念を順にみていきたいと思います。
東アジア
まずタイトルの意味を確認しておくと、East Asia = 東アジアとはユーラシア大陸の東端の周辺地域です。国名でいうと、日本、朝鮮半島(韓国、北朝鮮)、中国、香港、台湾(中華民国)、モンゴルでしょう。もちろん厳密な意味ではなく、はっきりと線引きできるものではありません。
その東アジアを表現する詩の内容は、雨が多く、地表は地平線まで霞んでいることがある。そこにはモンスーン(=季節風)がある。つまり気候風土まで含めると、ここでの東アジアは、ユーラシア大陸の内陸部(中国のモンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、モンゴルなど)の草原地帯や砂漠地帯を含まない、海洋に面している地域という雰囲気です。
また、植物としては「柳」で代表されています。自生する柳は水辺に多い植物です。「柳」はさらに「柳の枝で編んだゆりかご」と「柳絮 = 柳の種子」へとイメージが広がっていきます。
この詩の題名は英語です。英語の題名なのは、そもそものこの詩の発想からくるのでしょう。つまり詩の中に、
とあるように、たとえばヨーロッパの人が日常的に見ている世界地図では、東アジアは一番右の方、ユーラシア大陸の東端付近です。その付近が East Asia ということでしょう。
その東アジアに昔から住んできた人たちの人種的特徴は、「くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに」とあるように黒い瞳であり、詩にはありませんが、黒い瞳とペアになる直毛の黒い髪です。我々は日本人であって韓国人、中国人ではないと思っていますが、ヨーロッパを旅行していると Korean、Chinese と間違われることがあります。それもそのはずで、日本人からみても区別がつかない場合がある。実際、日本人が形成された考古学的考察からすると、我々は日本人という以前に東アジア人なのです。
壁を越える
この East Asia の中には、人と人とを隔てる「壁」があります。詩の中に、
とあるように、「壁」という言葉で象徴される "人々を分断するもの" です。もちろんその最大のものは国境です。同一民族が国境で分断されている例もあります。さらに国の中にも民族の違いなどの「壁」がある。《EAST ASIA》という詩では、その「境を越えて生きる」というイメージがいくつかのキーワードで表現されています。
一つは「旅人」です。「旅人一人歩いてゆく 星をたずねて」とあるように、ボーダーレスに旅をする人のイメージです。その旅人にとって重要なのは、どこにいても、誰もからも共通に見える「星」です。
壁を越えて生きることの二つ目は「鳩」です。No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」でまとめたように、中島作品における鳥は、自由とか、すべてを見渡すとか、そういったイメージで使われることが多いわけです。ただし「スズメ」とか「アホウ鳥」など、鳥に固有のイメージを重ねた詩もあって、この《EAST ASIA》の「鳩」も固有のイメージです。
とあります。鳩が「地を這いならが、どこにでも住み、生きていく」ことの象徴になっていますが、それは我々が経験的に、暗黙に思っていることです。鳩は都会の広場でも郊外の公園でも人々のそばで見かけます。日本だけでなく海外にいってもそうです。この詩の鳩のイメージにピッタリです。
3番目は「柳絮(りゅうじょ)」です。柳絮とは、ヤナギ、ポプラ、ドロノキなどのヤナギ科の植物の花が咲いたあとにできる "綿毛のついた種子" のことです。またその綿毛が風に乗って飛ぶことも柳絮と言います。ちなみに「絮」という漢字の意味は「綿・わた」です。
とあるように、風で浮遊する綿毛がついた種は、遠く離れたどこかに落ち、そこが適切な場所だと芽をふく。そのイメージが詩になっています。
日本で柳絮を見た記憶がないのですが、海外旅行では経験があります(イギリスのウィンザーと、ハンガリーのブダペスト)。ヨーロッパの5月や6月頃にはよく見られる現象のようです。綿毛が風で飛ぶというと、我々がよく思い浮かべるのはタンポポの綿毛がついた種子ですが、しかしこれは数個が野原に舞う光景が一般的でしょう。しかし私が経験したのは街のいたる所に綿毛が浮いている光景で、大変に印象的でした。タンポポと違って、たくさんある街路樹から綿毛が飛ぶと、街のあちこちに浮遊するのです。発生源の木は、どうもポプラのようでした。
柳絮は、柳(やポプラ)の品種によってその程度が違うようで、日本は見る機会は少ないのですが、東アジアでは北京の春の風物詩とてして有名です。街中に柳絮が飛び、地表に落ちて道路が白く覆われ、車がそれを巻き上げたりする。吸い込んでアレルギーを起こす人もいるほどだと言います。
その中国の古典からきた言葉に「柳絮の才」があります。文才がある女性を言う言葉ですが、むかしある方の妻が、降る雪を柳絮の綿毛にたとえたことに由来するそうです。これから分かることは、柳絮が粉雪のように降ってくる光景が中国では昔から一般的だったことです。
この柳絮が、《EAST ASIA》では "壁を越える" ことの最も重要な象徴物でしょう。「りゅうじょ」という言葉は、歌を聴いただけでは何のことだか分かりません。普通の人はそうだと思います。詩を読んで、調べて、「りゅうじょ」=「柳絮」=「柳の綿毛が付いた種子」だと分かる。そういう漢語をあえて《EAST ASIA》に使ったのは、中島さんとしてはどうしてもこの言葉を使いたかったのだと思います。何となく "こだわり" を感る。東アジアの歴史を意識したのかもしれません。
さらにこの詩では「くに」という表現が、壁を越えることのキーワードになっています。今まで「国」とか「国境」と書いてきましたが、詩で明らかなように「国」は一切使われていません。「くに」と表記されています。これも歌を聴いているだけでは分からず、文字として書かれた詩を読んで初めて理解できます。
「くに」は「国」の意味に使いますが、もっと広く「故郷」の意味でも使います。「くにはどこですか?」という質問は、時と場合によって出身地を質問していることもあれば、国籍を聞いている場合もある。
「国」なら日本しかないが、「くに」は、生まれ育った場所、出身地・故郷、日本などの柔軟性があります。従って「くに」は東アジアでもよい。それが「くにの名はEAST ASIA」という詩が成立するゆえんになっています。
以上の「旅人」「鳩」「柳絮」「くに」というキーワードで "壁を越える" ことが象徴されています。
壁を越える愛
壁を越えるものを具体的に言うと、それは「人と人のとの関係」であり、特に「愛」です。
「あの人」に抱く愛情は、壁を越えて「あの人」のもとに行く。その「あの人」とは、人生におけるパートナーか恋人か、それに相当する人でしょう。またこの詩では、
とあります。「心はあの人のもと帰りゆく」というときの「心」は、パートナーへの(男女の)愛情だけではないと感じられます。家族や友人や仲間といった親しい人に対する親愛の情も指していると考えられる。この引用のところの「柔らかな風」という表現は「柳絮」をダイレクトに想起させます。このことからも「柳絮」がこの詩の最も大切な象徴語という感じを受けます。結局、この詩は、
ということを言っているのだと思います。
暗示
さらに、この詩の印象的な言い回しである、
のところを "深読み" すると、次のような意味が込められているのではないでしょうか。つまり、
という意味合いです。「壁」の存在によって人間関係や人生の選択の面で "思い" が遂げられない人は多いはずだからです。そして、もっと踏み込んで考えると、
という暗示があるようにも思えます。「大きな力」という言葉がそう感じさせます。それは、個人では如何ともしがたい「大きな力」なのでしょう。
ふと思ったことがあります。この詩は1992年に発表されたものです。もし仮に2019年か2020年に発表されていたとしたら、「民主化運動により困難に陥っている香港の人たちへの連帯感を綴った詩」と考えても通用するのではないでしょうか。
そのように思わせるところに、中島作品の普遍性というか "大きさ" があるのだと、《EAST ASIA》を読み返してみて(聴き直してみて)改めて思いました。
『EAST ASIA』(1992年) |
1. EAST ASIA 2. やばい恋 3. 浅い眠り 4. 萩野原 5. 誕生 6. 此処じゃない何処かへ(No.298) 7. 妹じゃあるまいし 8. ニ隻の舟 9. 糸 |
![]() |
なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。
EAST ASIA
中島みゆきさんの 《EAST ASIA》は次のような詩です。全文を引用します。
|
これは1992年のアルバムに収録されたものですが、それまでの中島作品からすると、あまりないタイプだと思います。それまでの詩はざっくりというと「人と人との関係の詩」や「人生に関わる詩」、ないしは「社会と人との関係性」が多かったわけです。
しかし、この詩はちょっと違って、East Asia = 東アジアという固有名詞がテーマ、ないしはキーワードになっています。以前の作品にも東京や札幌、南三条(札幌の地区名)、横浜などの地名が出てきましたが、今回は国を越えた地域名です。そこが違います。
もちろん東京や札幌が出てきたところで、詩の内容が日本に関わることというわけではなく、人の普遍的な感情とか人間関係がテーマでした。しかし「東アジア」となると国とか国境がテーマの重要部分を占めるはずであり、その前提で何か普遍的なものが表現されているはずです。以下、この詩の重要なキーワードや概念を順にみていきたいと思います。
東アジア
まずタイトルの意味を確認しておくと、East Asia = 東アジアとはユーラシア大陸の東端の周辺地域です。国名でいうと、日本、朝鮮半島(韓国、北朝鮮)、中国、香港、台湾(中華民国)、モンゴルでしょう。もちろん厳密な意味ではなく、はっきりと線引きできるものではありません。
その東アジアを表現する詩の内容は、雨が多く、地表は地平線まで霞んでいることがある。そこにはモンスーン(=季節風)がある。つまり気候風土まで含めると、ここでの東アジアは、ユーラシア大陸の内陸部(中国のモンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、モンゴルなど)の草原地帯や砂漠地帯を含まない、海洋に面している地域という雰囲気です。
また、植物としては「柳」で代表されています。自生する柳は水辺に多い植物です。「柳」はさらに「柳の枝で編んだゆりかご」と「柳絮 = 柳の種子」へとイメージが広がっていきます。
この詩の題名は英語です。英語の題名なのは、そもそものこの詩の発想からくるのでしょう。つまり詩の中に、
世界の場所を教える地図は
誰でも自分が真ん中だと言い張る
私のくにをどこかに乗せて
地球はくすくす笑いながら回ってゆく
誰でも自分が真ん中だと言い張る
私のくにをどこかに乗せて
地球はくすくす笑いながら回ってゆく
とあるように、たとえばヨーロッパの人が日常的に見ている世界地図では、東アジアは一番右の方、ユーラシア大陸の東端付近です。その付近が East Asia ということでしょう。
その東アジアに昔から住んできた人たちの人種的特徴は、「くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに」とあるように黒い瞳であり、詩にはありませんが、黒い瞳とペアになる直毛の黒い髪です。我々は日本人であって韓国人、中国人ではないと思っていますが、ヨーロッパを旅行していると Korean、Chinese と間違われることがあります。それもそのはずで、日本人からみても区別がつかない場合がある。実際、日本人が形成された考古学的考察からすると、我々は日本人という以前に東アジア人なのです。
壁を越える
この East Asia の中には、人と人とを隔てる「壁」があります。詩の中に、
山より高い壁が築きあげられても
とあるように、「壁」という言葉で象徴される "人々を分断するもの" です。もちろんその最大のものは国境です。同一民族が国境で分断されている例もあります。さらに国の中にも民族の違いなどの「壁」がある。《EAST ASIA》という詩では、その「境を越えて生きる」というイメージがいくつかのキーワードで表現されています。
一つは「旅人」です。「旅人一人歩いてゆく 星をたずねて」とあるように、ボーダーレスに旅をする人のイメージです。その旅人にとって重要なのは、どこにいても、誰もからも共通に見える「星」です。
壁を越えて生きることの二つ目は「鳩」です。No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」でまとめたように、中島作品における鳥は、自由とか、すべてを見渡すとか、そういったイメージで使われることが多いわけです。ただし「スズメ」とか「アホウ鳥」など、鳥に固有のイメージを重ねた詩もあって、この《EAST ASIA》の「鳩」も固有のイメージです。
どこにでも住む鳩のように 地を這いながら
誰とでもきっと合わせて 生きてゆくことができる
誰とでもきっと合わせて 生きてゆくことができる
とあります。鳩が「地を這いならが、どこにでも住み、生きていく」ことの象徴になっていますが、それは我々が経験的に、暗黙に思っていることです。鳩は都会の広場でも郊外の公園でも人々のそばで見かけます。日本だけでなく海外にいってもそうです。この詩の鳩のイメージにピッタリです。
3番目は「柳絮(りゅうじょ)」です。柳絮とは、ヤナギ、ポプラ、ドロノキなどのヤナギ科の植物の花が咲いたあとにできる "綿毛のついた種子" のことです。またその綿毛が風に乗って飛ぶことも柳絮と言います。ちなみに「絮」という漢字の意味は「綿・わた」です。
どこにでもゆく柳絮に 姿を変えて
どんな大地でもきっと 生きてゆくことができる
どんな大地でもきっと 生きてゆくことができる
とあるように、風で浮遊する綿毛がついた種は、遠く離れたどこかに落ち、そこが適切な場所だと芽をふく。そのイメージが詩になっています。
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5月の埼玉・北本自然観察公園の柳絮。湿地の柳の木の画像である。埼玉県自然学習センターのYouTubeより。 |
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上高地で、梅雨の合間の晴れた日に、柳の木から柳絮が一斉に飛ぶ様子。「一休コンシェルジュ」(一休.comのWebマガジン)のサイトより。 |
日本で柳絮を見た記憶がないのですが、海外旅行では経験があります(イギリスのウィンザーと、ハンガリーのブダペスト)。ヨーロッパの5月や6月頃にはよく見られる現象のようです。綿毛が風で飛ぶというと、我々がよく思い浮かべるのはタンポポの綿毛がついた種子ですが、しかしこれは数個が野原に舞う光景が一般的でしょう。しかし私が経験したのは街のいたる所に綿毛が浮いている光景で、大変に印象的でした。タンポポと違って、たくさんある街路樹から綿毛が飛ぶと、街のあちこちに浮遊するのです。発生源の木は、どうもポプラのようでした。
柳絮は、柳(やポプラ)の品種によってその程度が違うようで、日本は見る機会は少ないのですが、東アジアでは北京の春の風物詩とてして有名です。街中に柳絮が飛び、地表に落ちて道路が白く覆われ、車がそれを巻き上げたりする。吸い込んでアレルギーを起こす人もいるほどだと言います。
その中国の古典からきた言葉に「柳絮の才」があります。文才がある女性を言う言葉ですが、むかしある方の妻が、降る雪を柳絮の綿毛にたとえたことに由来するそうです。これから分かることは、柳絮が粉雪のように降ってくる光景が中国では昔から一般的だったことです。
この柳絮が、《EAST ASIA》では "壁を越える" ことの最も重要な象徴物でしょう。「りゅうじょ」という言葉は、歌を聴いただけでは何のことだか分かりません。普通の人はそうだと思います。詩を読んで、調べて、「りゅうじょ」=「柳絮」=「柳の綿毛が付いた種子」だと分かる。そういう漢語をあえて《EAST ASIA》に使ったのは、中島さんとしてはどうしてもこの言葉を使いたかったのだと思います。何となく "こだわり" を感る。東アジアの歴史を意識したのかもしれません。
さらにこの詩では「くに」という表現が、壁を越えることのキーワードになっています。今まで「国」とか「国境」と書いてきましたが、詩で明らかなように「国」は一切使われていません。「くに」と表記されています。これも歌を聴いているだけでは分からず、文字として書かれた詩を読んで初めて理解できます。
「くに」は「国」の意味に使いますが、もっと広く「故郷」の意味でも使います。「くにはどこですか?」という質問は、時と場合によって出身地を質問していることもあれば、国籍を聞いている場合もある。
「国」なら日本しかないが、「くに」は、生まれ育った場所、出身地・故郷、日本などの柔軟性があります。従って「くに」は東アジアでもよい。それが「くにの名はEAST ASIA」という詩が成立するゆえんになっています。
以上の「旅人」「鳩」「柳絮」「くに」というキーワードで "壁を越える" ことが象徴されています。
壁を越える愛
壁を越えるものを具体的に言うと、それは「人と人のとの関係」であり、特に「愛」です。
心はあの人のもの
心はあの人のもと帰りゆく
心はあの人のもと帰りゆく
「あの人」に抱く愛情は、壁を越えて「あの人」のもとに行く。その「あの人」とは、人生におけるパートナーか恋人か、それに相当する人でしょう。またこの詩では、
大きな力に従わされても
力だけで心まで縛れはしない
高い壁が築きあげられても
柔らかな風は越えてゆく
力だけで心まで縛れはしない
高い壁が築きあげられても
柔らかな風は越えてゆく
とあります。「心はあの人のもと帰りゆく」というときの「心」は、パートナーへの(男女の)愛情だけではないと感じられます。家族や友人や仲間といった親しい人に対する親愛の情も指していると考えられる。この引用のところの「柔らかな風」という表現は「柳絮」をダイレクトに想起させます。このことからも「柳絮」がこの詩の最も大切な象徴語という感じを受けます。結局、この詩は、
生きるということのベーシックな部分や、人間の本質的な感情や心のあり様においては「壁」は関係ない。特に愛情や親愛の情は、壁を越えて大きく広がっていくもの
ということを言っているのだと思います。
暗示
さらに、この詩の印象的な言い回しである、
大きな力に従わされても、心まで縛れはしない | |
高い壁が築きあげられても、柔らかな風は越えてゆく |
のところを "深読み" すると、次のような意味が込められているのではないでしょうか。つまり、
壁」の存在で困難に陥っている人たちに対する共感の表現 |
という意味合いです。「壁」の存在によって人間関係や人生の選択の面で "思い" が遂げられない人は多いはずだからです。そして、もっと踏み込んで考えると、
自分の意志とは違う "大きな力" に従わざるを得ない人に対する、国境を越えた連帯のメッセージ
という暗示があるようにも思えます。「大きな力」という言葉がそう感じさせます。それは、個人では如何ともしがたい「大きな力」なのでしょう。
ふと思ったことがあります。この詩は1992年に発表されたものです。もし仮に2019年か2020年に発表されていたとしたら、「民主化運動により困難に陥っている香港の人たちへの連帯感を綴った詩」と考えても通用するのではないでしょうか。
そのように思わせるところに、中島作品の普遍性というか "大きさ" があるのだと、《EAST ASIA》を読み返してみて(聴き直してみて)改めて思いました。
2020-12-12 12:13
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No.299 - 優しさが生き残りの条件だった [科学]
No.211「狐は犬になれる」の続きです。今回の記事の目的は、現生人類(=ホモ・サピエンス)が地球上で生き残り、かつ繁栄できた理由を説明する「自己家畜化仮説」のことを書くのが目的ですが、この仮説は No.211 で紹介した「キツネの家畜化実験」と密接に関係しています。そこでまず、No.211 の振り返りから始めたいと思います。
キツネの家畜化実験
No.211「狐は犬になれる」で、ロシアの遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフ(1917-1985)が始め、現在も続いている「キツネの家畜化実験」の経過を書きました。ベリャーエフは人がオオカミを飼い慣らしてイヌにした経緯、もっと広くは野生動物を飼い慣らして家畜にした経緯を知りたいと考え、それを "早回しに" 再現する実験を1958年に開始しました。
ベリャーエフが着目したのは「家畜は従順である」という事実です。人間が家畜に期待するものは、ミルク、肉、乗り物、護衛、牧畜や狩猟の補助、仲間付き合い、癒し(ペット)などさまざまですが、すべての家畜に共通しているのは人間に対して従順、ないしは友好的ということです。
ベリャーエフはこの事実を逆転させ、人間が従順で友好的な野生動物を選別して育種してきたから家畜ができたとの仮説をたてました。そして実験を始めます。
彼は、ロシア各地の毛皮生産工場からキツネを数百頭購入し、その中から人間に友好的な個体を選別して交配をしました。もちろん、野生のキツネの中に初めから人間に慣れ慣れしい個体がいるわけではありません。彼がやったのはキツネの点数付けです。つまり、
とし、個々のキツネごとにこの程度を観察して点数を付けます。そして点数が高いキツネを選別し、交配を繰り返しました。
すると第6世代の子ギツネに、イヌがするように人を舐めるなど人間との接触を積極的に求める個体が現れ始めました。No.211 の記事の時点でキツネは第58世代目ですが、70% のキツネは「イヌのようなキツネ」になりました。このキツネたちの特徴は以下のようです。
外見
行動
頭蓋骨
ホルモン
脳細胞
重要なことは、「人間に対して友好的という、たった一つの基準」で選択・交配を繰り返すと、当初は思ってもみなかったような多様な変化が現れてイヌのようなキツネになったことです。ここまでが No.211 の振り返りです。
オオカミがイヌになったプロセス
では、オオカミの家畜化は過去にどのように進んだと推定できるでしょうか。
ここからは、日経サイエンス 2020年11月号に掲載された論文を紹介します。米・デューク大学のブライアン・ヘア(Brian Hare)とヴァネッサ・ウッズ(Vanessa Woods)による「優しくなければ生き残れない」と題した論文の紹介です。以下、この論文の執筆者を「著者」と書きます。
現在のオオカミとイヌには、氷河期に生きていた共通の祖先があります。この祖先を「氷河期オオカミ」と呼ぶとすると、氷河期オオカミが分かれて進化して、現在のオオカミとイヌになったわけです。
では、どうやって氷河期オオカミがイヌになったのか。従来の説明は「人間がオオカミの子どもを野営地に連れ帰って家畜化した」とか、「人間がオオカミを飼い慣らして家畜化し、最終的には選抜育種を行ってイヌができた」というものでした。
しかしこの説明は筋が通っていません。氷河期オオカミを飼い慣らしたとしても、それは1代きりです。一方、キツネの家畜化実験でも分かるように、家畜化は何世代もの選択の過程を経て起こる現象です。また、家畜化されたキツネは遺伝子(DNA)レベルで野生のキツネと違うことが判明していますが、単なる飼い慣らしで遺伝子の変化は起きません。
現在のオオカミは肉食で、1回の食事で食べる肉の量は約9kgもあります。そして氷河期オオカミは現在のオオカミより体がさらに大きかった。氷河期オオカミを "飼い慣らした" とされる当時の人間は、狩猟採集の生活です。体の大きな肉食獣と、たとえば人間の子どもを野営地に残して狩りや採集に出かけるという生活は考えにくい。
以上のような考察を踏まえて著者は、氷河期オオカミがイヌになったプロセスを次のように推定しています。
この引用の最後のところ、「最も友好的なオオカミが自らを家畜化した」のが "自己家畜化" です。普通、家畜化というと、人間が野生動物(の子ども)を捕らえて育て、飼い慣らして家畜にすることを言います。そうではなくて「自然選択を通して起こる家畜化」が "自己家畜化" です。
この自己家畜化がヒトの進化の過程でも起こったという仮説が以下の話です。
なぜホモ・サピエンスが生き残ったのか
まず出発点は、なぜ現生人類(=ホモ・サピエンス)だけが生き残り、繁栄できたかという疑問に答えようとすることです。「優秀だから生き残った」というような単純な話ではないようなのです。
「少なくとも4種の人類と地球を共有」とありますが、その4種を具体的に書くと、
となるでしょう。最後のフロレシエンシスは2000年代になってジャワ島で骨格が発見され、研究が進められている人類です。ホモ・サピエンスは少なくともこの4種と同時に生きていた時代がある。特にネアンデルタール人は、アフリカを出たホモ・サピエンスがヨーロッパで遭遇した人類です。
著者は、10万年前に戻ってどの人類種が今後生き延びるかを考えたら、ホモ・サピエンスよりもネアンデルタール人の方が有望に思えただろうと書いています。
ホモ・サピエンスは、ヒトに最も近縁の霊長類であるチンパンジーやボノボに比べて、遺伝的変異が少ないという事実があります。これは、ホモ・サピエンスの個体数がある時期に深刻なレベルにまで細ったことをうかがわせます。著者は「絶滅寸前に陥った」と書いています。
ではなぜ、最も屈強でもなく、最も賢くもなく、絶滅寸前にまで陥った(と推測される)ホモ・サピエンスが(=ホモ・サピエンスだけが)生き残れたのでしょうか。
ヒトに生じた自己家畜化
なぜホモ・サピエンスだけが生き残れたのか、それは一言で言うとホモ・サピエンスが「協力の達人」だったことによります。
その「協力の達人」に向けてホモ・サピエンスを進化させたのが「自己家畜化」でした。
家畜化は友好性に対する強い選択を伴う過程であり、互いにまるで無関係に思える多くの変化が起こる ・・・・・・。ここが自己家畜化仮説の核心です。それは冒頭にあげた「キツネの家畜化実験」で実証されている通りです。
ちなみにこの自己家畜化仮説は著者の2人と、ハーバード大学の人類学者・ランガム(Richard Wrangham)、デューク大学の心理学者・トマセロ(Michael Tomasello)の20年にわたる共同研究で作られたものです。ランガム博士は、いわゆる「料理仮説」を提唱した学者です(No.105 参照)。またトマセロ博士はヒトとチンパンジーの認知能力の違いの研究を先導してきた学者で、ヒトが "意図の共有" という能力を生まれながらに持っていること(=協力上手)を証明しました。
自己家畜化を検証する
ホモ・サピエンスは自己家畜化のプロセスで友好的な性質を獲得したという仮説は、何らかの方法で検証できるのでしょうか。ここで思い出すのが、冒頭で振り返った「キツネの家畜化実験」です。あの実験ではキツネの2つのタイプの変化、つまり、
が同時に起こりました。人類の進化史を研究する上で、行動は化石に残りません。しかし頭蓋骨は化石に残ります。著者が注目したのは、行動を制御する神経ホルモンがヒトの骨格に影響を及ぼすという事実です。
要するに、現在までに発見されているホモ・サピエンスの頭蓋骨の形状を調べることで、神経ホルモンの変化(従って行動の変化)を推定しようというわけです。
さらに、テストステロンとは別の神経ホルモン、セロトニンが頭蓋骨に与える影響もあります。
テストステロンとセロトニンといった神経ホルモンは、頭蓋骨の形状に変化を与えるだけでなく、行動に変化を及ぼします。
このような、仲間を識別して友好性を示す性質を獲得したホモ・サピエンスは、集団による高度な協力が可能になりました。これが文化や社会の発展につながり、進化の時間スケールからすると "瞬く間に" 世界を席巻しました。
攻撃性という逆説
しかし人類は、他者に対して友好性を示すと同時に、攻撃性を示して残酷にもなります。これはどうしてでしょうか。
協力する集団は変えられる
以上のような攻撃性は、仲間ではないと認識した他者に示されるものです。しかし人間は交流を通して、どの範囲が仲間なのかという認識を柔軟に変えることができます。
この最後のあたりの、集団間の人的交流の重要性が、著者が論文で最も言いたかったことです。
以上をまとめると、次のようになるでしょう。
著者の考える「人間とは何かという問いに対する答え」がここに示されているのでした。付け加えると、この論文は日経サイエンスと提携関係にある Scientific American誌の2020年8月号に掲載されたものです。日経サイエンスの編集部も指摘していますが、この論文の掲載は、分断と差別と対立が続く社会に対するメッセージという意図があった。そういうことだと思います。
「キツネの家畜化実験」再考
実は、著者はロシアで行われているキツネの家畜化実験の現場を訪れて調査をしています。
「キツネの家畜化実験」では、「人に友好的」「知能が高い」「丸っこい顔(その他多数の形状変化)」の3つの変化がワンセットで起こりました。これが、ホモ・サピエンスの「自己家畜化仮説」の大きな傍証となったようです。
ロシアの遺伝学者、ベリャーエフの「キツネの家畜化実験」は「人が野生動物を飼い慣らして家畜にした経緯を知りたい」ということから始まりました。ベリャーエフは、人に従順な個体を選別・育種するという、たった一つの規準で家畜化はできるだろうと考えた。この洞察が非凡だったと思います。
彼が「キツネの家畜化実験」の意義について、どこまで見通していたのかは分かりません。しかし少々意外なことに、この実験はホモ・サピエンスが地球上で生き残って繁栄した理由(=仮説)につながり、もっと大きく言うと「人間とは何か」という問いに答えるための材料にもなった。
家畜化実験のキツネの遺伝子は DNA レベルで詳しく分析されているようです。ということは、たとえばの例ですが、人間の自閉症の研究にも役立つかもしれない。「キツネの遺伝子を DNA レベルで詳しく分析する」などは、ベリャーエフが実験を始めた1958年には考えもできなかったことです。それが現在では可能になっている。
「キツネの家畜化実験」は、いわゆる基礎研究の一つです。何かに役に立つことを目的としたものではありません。しかし基礎を押さえることで、そこから発展や応用の道が開ける(ことがある)。基礎研究の意義を改めて思いました。
優しくなければ生き残れない
ここからは日経サイエンスの論文の題名に関した余談です。米・デューク大学の2人の論文の原題は、
Survival of the Friendliest
で、「最も友好的な(friedlyな)ものが生き残る」という意味です。この題はもちろん、ダーウィンの進化論に関して言われる、
Survival of the Fittest
つまり「最適者が生き残る(=適者生存)」の "もじり" ないしは "パロディ" です。一方、日経サイエンス編集部が訳した日本語題名は、
優しくなければ生き残れない
で、これはアメリカの小説に登場する有名な台詞の "もじり" になっています。それは、レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の中の、私立探偵のフィリップ・マーロウの台詞で、マーロウの尾行対象の女性、ベティー・メイフィールドとの会話に出てきます。最も新しい村上春樹訳では、次のようになっています。
ちなみに、マーロウの台詞の原文は、
です。この台詞には2つの文がありますが、最初の文の「生きのびてはいけない」の部分と、2番目の文の「優しくなれないようなら」の部分を切り取って合わせてしまったのが、論文の日本語題名ということになります。原題の "もじり" には "もじり" で訳すということでしょう。
村上春樹さんが『プレイバック』の「訳者あとがき」で書いていました。チャンドラーに関する英米の書籍を読んでいても、この台詞に関する記述は全く出てこないし、知り合いのアメリカ人に聞いてみても、誰もそんな台詞があるとは知らなかったと ・・・・・・。これは日本でだけ有名な台詞のようです。
論文の原題はホモ・サピエンスの生き残りの要因を "friendly(友好的)" というキーワードで表現していますが、"優しい(gentle)" となると少々意味が違います。従って「優しくなければ生き残れない」というタイトルは原題を正確には伝えていません。とはいうものの、このタイトルは「日本でしか有名でない、アメリカの小説の台詞のパロディ」になっていて、これはこれでピッタリという感じがしました。
キツネの家畜化実験
No.211「狐は犬になれる」で、ロシアの遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフ(1917-1985)が始め、現在も続いている「キツネの家畜化実験」の経過を書きました。ベリャーエフは人がオオカミを飼い慣らしてイヌにした経緯、もっと広くは野生動物を飼い慣らして家畜にした経緯を知りたいと考え、それを "早回しに" 再現する実験を1958年に開始しました。
ベリャーエフが着目したのは「家畜は従順である」という事実です。人間が家畜に期待するものは、ミルク、肉、乗り物、護衛、牧畜や狩猟の補助、仲間付き合い、癒し(ペット)などさまざまですが、すべての家畜に共通しているのは人間に対して従順、ないしは友好的ということです。
ベリャーエフはこの事実を逆転させ、人間が従順で友好的な野生動物を選別して育種してきたから家畜ができたとの仮説をたてました。そして実験を始めます。
彼は、ロシア各地の毛皮生産工場からキツネを数百頭購入し、その中から人間に友好的な個体を選別して交配をしました。もちろん、野生のキツネの中に初めから人間に慣れ慣れしい個体がいるわけではありません。彼がやったのはキツネの点数付けです。つまり、
人間に対しておだやかで、おとなしいキツネは点数が高い。 | |
人間に対して攻撃的なキツネ、あるいは人間を恐れるキツネは点数が低い |
とし、個々のキツネごとにこの程度を観察して点数を付けます。そして点数が高いキツネを選別し、交配を繰り返しました。
すると第6世代の子ギツネに、イヌがするように人を舐めるなど人間との接触を積極的に求める個体が現れ始めました。No.211 の記事の時点でキツネは第58世代目ですが、70% のキツネは「イヌのようなキツネ」になりました。このキツネたちの特徴は以下のようです。
外見
成長しても顔つきが幼い。 | |
本来は尖っている鼻が丸く変化している。 | |
尻尾がフサフサで巻き上がっている。 | |
垂れ耳になった個体もある。 | |
毛皮に "ぶち" がはいる。 |
行動
生まれつき人間の視線と身振りを眼で追う。 | |
人間を慕って交流を望んでいるように見える。 | |
人間と親密な関係になる。また人間に対して忠誠心を示す。 | |
人間の指示を理解し、イヌのような行動をとる。 |
頭蓋骨
頭蓋骨の長さが短く、幅は長くなる。全体的に丸っこくなる。 |
ホルモン
ストレスホルモンの値が低い |
脳細胞
記憶や学習をつかさどる海馬で、新生する細胞が通常のキツネの倍である。 |
重要なことは、「人間に対して友好的という、たった一つの基準」で選択・交配を繰り返すと、当初は思ってもみなかったような多様な変化が現れてイヌのようなキツネになったことです。ここまでが No.211 の振り返りです。
![]() |
ロシアの家畜化実験でイヌ化したキツネ。鼻は丸くなり、毛皮にはぶちが入っている。2017年現在、実験施設で飼われているキツネの70%はこのようなキツネである。No.211 の画像を再掲。 |
(日経サイエンス 2017年8月号 より) |
オオカミがイヌになったプロセス
では、オオカミの家畜化は過去にどのように進んだと推定できるでしょうか。
ここからは、日経サイエンス 2020年11月号に掲載された論文を紹介します。米・デューク大学のブライアン・ヘア(Brian Hare)とヴァネッサ・ウッズ(Vanessa Woods)による「優しくなければ生き残れない」と題した論文の紹介です。以下、この論文の執筆者を「著者」と書きます。
|
では、どうやって氷河期オオカミがイヌになったのか。従来の説明は「人間がオオカミの子どもを野営地に連れ帰って家畜化した」とか、「人間がオオカミを飼い慣らして家畜化し、最終的には選抜育種を行ってイヌができた」というものでした。
しかしこの説明は筋が通っていません。氷河期オオカミを飼い慣らしたとしても、それは1代きりです。一方、キツネの家畜化実験でも分かるように、家畜化は何世代もの選択の過程を経て起こる現象です。また、家畜化されたキツネは遺伝子(DNA)レベルで野生のキツネと違うことが判明していますが、単なる飼い慣らしで遺伝子の変化は起きません。
現在のオオカミは肉食で、1回の食事で食べる肉の量は約9kgもあります。そして氷河期オオカミは現在のオオカミより体がさらに大きかった。氷河期オオカミを "飼い慣らした" とされる当時の人間は、狩猟採集の生活です。体の大きな肉食獣と、たとえば人間の子どもを野営地に残して狩りや採集に出かけるという生活は考えにくい。
以上のような考察を踏まえて著者は、氷河期オオカミがイヌになったプロセスを次のように推定しています。
なお、以下の引用では段落を変更したところがあります。また下線は原文にはありません。
|
この引用の最後のところ、「最も友好的なオオカミが自らを家畜化した」のが "自己家畜化" です。普通、家畜化というと、人間が野生動物(の子ども)を捕らえて育て、飼い慣らして家畜にすることを言います。そうではなくて「自然選択を通して起こる家畜化」が "自己家畜化" です。
この自己家畜化がヒトの進化の過程でも起こったという仮説が以下の話です。
なぜホモ・サピエンスが生き残ったのか
まず出発点は、なぜ現生人類(=ホモ・サピエンス)だけが生き残り、繁栄できたかという疑問に答えようとすることです。「優秀だから生き残った」というような単純な話ではないようなのです。
|
「少なくとも4種の人類と地球を共有」とありますが、その4種を具体的に書くと、
ホモ・エレクトス | |
ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人) | |
ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人) | |
ホモ・フロレシエンシス |
となるでしょう。最後のフロレシエンシスは2000年代になってジャワ島で骨格が発見され、研究が進められている人類です。ホモ・サピエンスは少なくともこの4種と同時に生きていた時代がある。特にネアンデルタール人は、アフリカを出たホモ・サピエンスがヨーロッパで遭遇した人類です。
|
著者は、10万年前に戻ってどの人類種が今後生き延びるかを考えたら、ホモ・サピエンスよりもネアンデルタール人の方が有望に思えただろうと書いています。
ホモ・サピエンスは、ヒトに最も近縁の霊長類であるチンパンジーやボノボに比べて、遺伝的変異が少ないという事実があります。これは、ホモ・サピエンスの個体数がある時期に深刻なレベルにまで細ったことをうかがわせます。著者は「絶滅寸前に陥った」と書いています。
ではなぜ、最も屈強でもなく、最も賢くもなく、絶滅寸前にまで陥った(と推測される)ホモ・サピエンスが(=ホモ・サピエンスだけが)生き残れたのでしょうか。
ヒトに生じた自己家畜化
なぜホモ・サピエンスだけが生き残れたのか、それは一言で言うとホモ・サピエンスが「協力の達人」だったことによります。
|
その「協力の達人」に向けてホモ・サピエンスを進化させたのが「自己家畜化」でした。
|
家畜化は友好性に対する強い選択を伴う過程であり、互いにまるで無関係に思える多くの変化が起こる ・・・・・・。ここが自己家畜化仮説の核心です。それは冒頭にあげた「キツネの家畜化実験」で実証されている通りです。
ちなみにこの自己家畜化仮説は著者の2人と、ハーバード大学の人類学者・ランガム(Richard Wrangham)、デューク大学の心理学者・トマセロ(Michael Tomasello)の20年にわたる共同研究で作られたものです。ランガム博士は、いわゆる「料理仮説」を提唱した学者です(No.105 参照)。またトマセロ博士はヒトとチンパンジーの認知能力の違いの研究を先導してきた学者で、ヒトが "意図の共有" という能力を生まれながらに持っていること(=協力上手)を証明しました。
自己家畜化を検証する
ホモ・サピエンスは自己家畜化のプロセスで友好的な性質を獲得したという仮説は、何らかの方法で検証できるのでしょうか。ここで思い出すのが、冒頭で振り返った「キツネの家畜化実験」です。あの実験ではキツネの2つのタイプの変化、つまり、
行動の変化(=人なつっこくなる、人と意志疎通ができるようになる) | |
形態の変化(=顔が丸くなる、頭蓋骨が短く幅広になる) |
が同時に起こりました。人類の進化史を研究する上で、行動は化石に残りません。しかし頭蓋骨は化石に残ります。著者が注目したのは、行動を制御する神経ホルモンがヒトの骨格に影響を及ぼすという事実です。
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要するに、現在までに発見されているホモ・サピエンスの頭蓋骨の形状を調べることで、神経ホルモンの変化(従って行動の変化)を推定しようというわけです。
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さらに、テストステロンとは別の神経ホルモン、セロトニンが頭蓋骨に与える影響もあります。
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ホモ・サピエンス(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨を比較した図。"球形" と "ラグビーボール" の違いがよく分かる(Wikipediaより)。 |
テストステロンとセロトニンといった神経ホルモンは、頭蓋骨の形状に変化を与えるだけでなく、行動に変化を及ぼします。
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このような、仲間を識別して友好性を示す性質を獲得したホモ・サピエンスは、集団による高度な協力が可能になりました。これが文化や社会の発展につながり、進化の時間スケールからすると "瞬く間に" 世界を席巻しました。
攻撃性という逆説
しかし人類は、他者に対して友好性を示すと同時に、攻撃性を示して残酷にもなります。これはどうしてでしょうか。
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協力する集団は変えられる
以上のような攻撃性は、仲間ではないと認識した他者に示されるものです。しかし人間は交流を通して、どの範囲が仲間なのかという認識を柔軟に変えることができます。
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この最後のあたりの、集団間の人的交流の重要性が、著者が論文で最も言いたかったことです。
以上をまとめると、次のようになるでしょう。
ホモ・サピエンスは、友好性をもつ個体ほど生き残りやすいという自然選択の過程を経験した。 | |
友好性により集団での協力が可能になり、これがホモ・サピエンスに大きなパワーを与え、地球上で生き残り、繁栄できた要因となった。 | |
個体の友好性は神経ホルモンの変化に起因するが、それは同時に頭蓋骨形状の変化をもたらす。化石資料を調べると、確かに想定される変化が起きている。 | |
このプロセスは野生動物の家畜化と本質的に同じである。ただし人間が家畜化したのではなく、自然選択による家畜化であり、それは「自己家畜化」と呼べる。 | |
集団内の他者に対する友好性を発揮する神経ホルモンは、同時に集団外の人間に対する攻撃性をもたらした。 | |
しかし人間は集団の定義を柔軟に変えることができる。集団間の対立を解消し、集団の定義を変えるのに最も有効なのは、人的接触をするという行動変化だ。 |
著者の考える「人間とは何かという問いに対する答え」がここに示されているのでした。付け加えると、この論文は日経サイエンスと提携関係にある Scientific American誌の2020年8月号に掲載されたものです。日経サイエンスの編集部も指摘していますが、この論文の掲載は、分断と差別と対立が続く社会に対するメッセージという意図があった。そういうことだと思います。
「キツネの家畜化実験」再考
実は、著者はロシアで行われているキツネの家畜化実験の現場を訪れて調査をしています。
|
「キツネの家畜化実験」では、「人に友好的」「知能が高い」「丸っこい顔(その他多数の形状変化)」の3つの変化がワンセットで起こりました。これが、ホモ・サピエンスの「自己家畜化仮説」の大きな傍証となったようです。
ロシアの遺伝学者、ベリャーエフの「キツネの家畜化実験」は「人が野生動物を飼い慣らして家畜にした経緯を知りたい」ということから始まりました。ベリャーエフは、人に従順な個体を選別・育種するという、たった一つの規準で家畜化はできるだろうと考えた。この洞察が非凡だったと思います。
彼が「キツネの家畜化実験」の意義について、どこまで見通していたのかは分かりません。しかし少々意外なことに、この実験はホモ・サピエンスが地球上で生き残って繁栄した理由(=仮説)につながり、もっと大きく言うと「人間とは何か」という問いに答えるための材料にもなった。
家畜化実験のキツネの遺伝子は DNA レベルで詳しく分析されているようです。ということは、たとえばの例ですが、人間の自閉症の研究にも役立つかもしれない。「キツネの遺伝子を DNA レベルで詳しく分析する」などは、ベリャーエフが実験を始めた1958年には考えもできなかったことです。それが現在では可能になっている。
「キツネの家畜化実験」は、いわゆる基礎研究の一つです。何かに役に立つことを目的としたものではありません。しかし基礎を押さえることで、そこから発展や応用の道が開ける(ことがある)。基礎研究の意義を改めて思いました。
優しくなければ生き残れない
ここからは日経サイエンスの論文の題名に関した余談です。米・デューク大学の2人の論文の原題は、
Survival of the Friendliest
で、「最も友好的な(friedlyな)ものが生き残る」という意味です。この題はもちろん、ダーウィンの進化論に関して言われる、
Survival of the Fittest
つまり「最適者が生き残る(=適者生存)」の "もじり" ないしは "パロディ" です。一方、日経サイエンス編集部が訳した日本語題名は、
優しくなければ生き残れない
で、これはアメリカの小説に登場する有名な台詞の "もじり" になっています。それは、レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の中の、私立探偵のフィリップ・マーロウの台詞で、マーロウの尾行対象の女性、ベティー・メイフィールドとの会話に出てきます。最も新しい村上春樹訳では、次のようになっています。
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ちなみに、マーロウの台詞の原文は、
If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't be gentle, I wouldn't deserve to be alive.
村上春樹さんが『プレイバック』の「訳者あとがき」で書いていました。チャンドラーに関する英米の書籍を読んでいても、この台詞に関する記述は全く出てこないし、知り合いのアメリカ人に聞いてみても、誰もそんな台詞があるとは知らなかったと ・・・・・・。これは日本でだけ有名な台詞のようです。
論文の原題はホモ・サピエンスの生き残りの要因を "friendly(友好的)" というキーワードで表現していますが、"優しい(gentle)" となると少々意味が違います。従って「優しくなければ生き残れない」というタイトルは原題を正確には伝えていません。とはいうものの、このタイトルは「日本でしか有名でない、アメリカの小説の台詞のパロディ」になっていて、これはこれでピッタリという感じがしました。
2020-11-28 13:13
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No.298 - 中島みゆきの詩(16)ここではないどこか [音楽]
No.35「中島みゆき:時代」から始まって16回書いた "中島みゆきの詩" シリーズですが、今回は絵画の話から始めます。
モネとマティス ── もうひとつの楽園
箱根のポーラ美術館で2020年4月末から半年間、ある展覧会が開催されました。
と題した展覧会です。ポーラ美術館のサイトにはこの展覧会の概要が次のように説明してありました。
2020年9月6日のNHK「日曜美術館」では、この展覧会の企画の意図をさらに詳しく紹介していました。番組の内容を要約すると次の通りです。
以上が番組の要約(従って、ポーラ美術館の展覧会の主旨)ですが、これを簡潔に1文でまとめると次のようになるでしょう。
モネとマティスが「ここではないどこか」を自ら作り出したという視点は、なるほどそうかも知れません。番組MCの小野正嗣さんは、ゴーギャンにとっての「どこか」はタヒチだったと言っていました。ということになると、ゴッホにとってのアルルもそうかもと思いました。
モネとマティスの芸術論はここまでにして、以降はこの展覧会と番組のキーワードになっていたボードレールの「ここではないどこか」という概念について書きます。
ここではないどこか
"ここではないどこか"(英語では "Anywhere but here")という概念は、今まで数々の文芸作品やエンターテインメントに使われてきました。日本で言うと、GLAY が1999年にリリースした楽曲でミリオンセラーになった「ここではない、どこかへ」があります。漫画界の大御所である萩尾望都さんは「ここではない★どこか」と題した漫画のシリーズ(2006年~2012年)を発表しました。
海外では、アメリカの小説家、モナ・シンプソン(故スティーヴ・ジョブズの実妹)は「Anywhere but here」(1986)という小説を発表し、これは映画化されました。
その他、ヘヴィメタルのバンドのアルバム名になったり、アーティストの個展のタイトルになったりと、ネットで検索しても数々の例が出てきます。「ここではないどこか ── Anywhere but here」という言葉、ないしは概念は、クリエーターのイメージを喚起するものがあるのでしょう。
しかし、私にとっての「ここではないどこか」は、まず第一に中島みゆきさんの楽曲である《此処じゃない何処かへ》です。ここからが本題で、以降はその話です。
中島みゆき《此処じゃない何処かへ》
《此処じゃない何処かへ》は、1992年に発表されたアルバム『EAST ASIA』の第6曲として収められた曲です。その詩を次に掲げます。
語り手である「私」の自画像を描いた詩です。「私」は自分の無力感に苛まれています。何もできない自分、という自己嫌悪にも陥っている。
"何か" になりたいが、その "何か" が見つかりません。ここが自分の居場所という、その場所が分からない。心の中からは「此処じゃない何処かへ行ってみろ」と言う声が聞こえてきます。そうすれば "何か" が見つかるかもしれない。
「私」は内心の声に従って、あてもなく街を出ました。音楽好きなのでライブハウスの熱狂にホットになったけれど、それが自分の居場所がどうかはわからない。「此処じゃない何処かへ行ってみろ」という内心の声は今も続いている ・・・・・・。
人生の比較的若い段階、たとえば20代・30代で、人が誰しも一時は抱く感情をストレートに詩にしたものでしょう。もっと早く、10代での感情かもしれないし、30代より後かもしれない。「此処じゃない何処かへ行く」ことを具体的に実行するかどうかはともかく、ふと、そういうことが脳裏をよぎるのは誰にでもありそうです。
「此処じゃない何処かへ」という内心の声は、自分を追い立て、急かせるもので、それはしつこいくらいの繰り返されます。そのムードが、ロックの強いビートの曲とマッチしています。中島さんの "太い声でシャウトするような歌い方" も印象的です。
《此処じゃない何処かへ》は、人生のある時期、ないしは人生において折に触れて人が抱く感情をストレートに詩にし、歌ったものと考えられます。ただ、それ以上の意味があるのではとも思える。それがNHKの日曜美術館であったボードレールの詩との関係です。
《此処じゃない何処かへ》を "深読み" する
中島さんの《此処じゃない何処か》は、ボードレールの「ここではないどこかへ」を踏まえているのではないでしょうか。そんなことがあり得るのかと一瞬思ってしまいますが、十分にあることでしょう。
そもそも中島さんは詩人です。もちろんアーティストないしはクリエーターとしては数々の側面がありますが、第一級の詩人であることは確かでしょう。詩人が、過去の詩人の作品を大量に読む(読んできた)のはあたりまえです。ちょうど小説家が先人の小説を読むようにです。
中島さんは "詩のアンソロジー" の選者をしたことがあります。1985年に作品社から出版された「日本の恋歌 全3巻」の "第3巻" です。第1巻は"邂逅"がテーマで選者は谷川俊太郎氏、第2巻は "相聞" がテーマで選者は吉行和子氏、そして "別離" がテーマの第3巻の選者が中島さんです。ここでは、万葉集、古今・新古今の時代から、江戸期を経て、明治・大正・昭和の詩人、そして井上陽水や松任谷由実まで、100人の100作品がセレクトされています。これは彼女が多くの詩を読み込んでいることを示しています。でないと、できないでしょう。
この「日本の恋歌」は日本人の作品だけですが、当然、彼女は海外の作品にも親しんでいると想定できます。特にボードレールは現代詩の先駆者とされる詩人なので、中島さんは熟知しているのではないでしょうか。
ということで、「此処じゃない何処か」がボードレールの「ここではないどこかへ」を念頭に作られたとして、ではどのような解釈ができるかを考えたみたいと思います。まず、そのボードレールの詩です。
シャルル・ボードレール
少々意外なことに「ここではないどこかへ」と題したボードレールの詩はありません。その "概念" を表現した作品は、NHKの日曜美術館でも紹介していましたが、ボードレールの50篇からなる散文詩『パリの憂鬱』の第48篇です。
この詩は、題名だけが英語で「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」とあり、そのあとに「いずこなりとこの世の外へ」の意味のフランス語が続きます。訳者の阿部良雄氏によると、この英語題名はイギリスの詩人の作品からとられたもので、本来 "Anywhere" と綴るべきところを(これが正しい英語表記)、誤記か誤植で "Any Where" となったとのことです。
固有名詞の補足ですが、バタヴィアはインドネシアの首都・ジャカルタのオランダ植民地時代の名です。またトルネオは現代の表記ではトルニオです。スウェーデンとフィンランドの間の大きな湾をボスニア湾と言いますが、その一番奥に面したフィンランドの町がトルニオです。ボスニア湾の南はバルト海(バルティック海)なので「バルティック海の最果て」という表現になります。
最初の方に「今いるのでない場所へ行けば、かならず具合がよくなるだろうという気がする」とあり、「引っ越しの問題」とあります。「ここではないどこかへ」をストレートに表現している部分です。全体の大意をまとめると、次のようになるでしょう。
最後の「私の魂」の "この世の外ならどこでも!" というのは、いわゆる "キレた" 言い方です。それを言葉通りに実行するとなると、この世から去ること(= "死")になり、そうなると「ここではないどこか」に今より良い居場所を見つけたいという「私」の意図に反してしまいます。結局、この詩の自問自答は反語的に解釈すべきでしょう。その解釈を簡潔に言うと、次のようになると思います。
これが、ボードレールの散文詩の "含意" でしょう。冒頭で書いた画家、モネとマティスの場合は、その "ここではないどこか" がジヴェルニーの庭であり、ニースのアトリエであった。それがポーラ美術館の(従って NHK「日曜美術館」の)解釈だったわけです。
ボードレールの「ANY WHERE OUT OF THE WORLD いずこなりとこの世の外へ」という散文詩にこのような含意があるとすると、中島みゆきさんの《此処じゃない何処かへ》も、
というのが隠された意味でしょう。ちょうど、モネやマティスの "理想のアトリエ" のように ・・・・・・。《此処じゃない何処かへ》がボードレールの「ここではないどこかへ」を踏まえているとの前提にたつと、それが自然な解釈だと思います。
さらにこの詩は「この世界の中に自分で作るしかない」という以上のことを言っているように思えます。それは、曲が収められた『EAST ASIA』というアルバムの構成から推測できるものです。
EAST ASIA
『EAST ASIA』は1992年に発表されたアルバムで、「夜会」はすでに始まっている時期です。このアルバムには以下の9曲が収められています。
このアルバムの詩の全体を眺めてみると、大きく4つの部分に分かれていると考えられます。詩の内容を簡潔に一言で要約することなど本来はできないのですが、あえてやってみると次のようになるでしょう。
第1部は《EAST ASIA》という曲です。東アジアに住む人たち(ないしは特定の人)と心を通わせたいという思いや連帯感を綴ったものです。東アジアとは、通常の言葉使いとしては日本、朝鮮半島、中国、モンゴル、台湾、香港でしょう。これは従来の中島さんの詩には見られなかった発想のものです。
第2部は《やばい恋》《浅い眠り》《萩野原》《誕生》の4曲で、一言でいうと "別れ" が扱われています。《やばい恋》では、女は男をますます好きになりそうだが、男は別れの機会を窺っているという "やばい" 状況が語られます。《浅い眠り》は、男と分かれたあとに失ったものの大きさを感じて思案にくれている詩です。
《萩野原》では、昔に別れた恋人を偲び、懐かしんでいます。《誕生》は人生における別れの意味を探った内容です。別れはつらいが、出会ったからこそ別れがある。知り合えたことを大切にしよう。そもそも生まれてきたことが Welcome であり素晴らしいことだという、非常にポジティブな表現になっています。
第3部が《此処じゃない何処かへ》で、ここでアルバムの流れの転換が起こります。
第4部は《妹じゃあるまいし》《ニ隻の舟》《糸》の3曲で、ここで扱われているテーマはまとめると "二人" だと言えるでしょう。《妹じゃあるまいし》は、今はもう別れた女性を思い出し、追憶を巡らしているという内容です。語り手が女性だとも考えられます(= "妹" は同性の友人)。
夜会でも歌われた《ニ隻の舟》は、
のあたりが、詩としてのコアです。「おまえとわたし」は必ずしも男女ととらなくてもよいはずです。人生におけるパートナーの大切さを言った詩と考えられるでしょう。なお、日本語では二隻ですが、"中島みゆき用語" ではこれを二隻と読ませています。
数々のアーティストがカバーしている《糸》は、結ばれた男女の幸福を表現しています。この曲は結婚式ソングの定番になっていますが、それもそのはずで、そもそも曲の発表前に最初に歌われたのがある人の結婚式でした。
アルバム『EAST ASIA』の各曲の大意をごく簡単に書きましたが、細かいニュアンスは全く無視しました。ただ、アルバムの構造を明らかにするという意図でした。
以上の考察からすると、この『EAST ASIA』というアルバムは、詩の内容とその配列が意図的に工夫されていると感じます。ということを前提として「此処じゃない何処かへ」を考えるとどうなるかです。
『EAST ASIA』の多くの詩は、出会い・別れ・人と人とのつながり・パートナーシップを内容としています。しかし第3部の《此処じゃない何処かへ》だけは違って、何かを成し遂げないといけない、何かにならないといけないという内心のさし迫った声や、それにまつわる葛藤が言葉になっています。これは、次の第4部の "二人" というテーマ、人生におけるパートナーの大切さにダイレクトにつなげるための詩ではないでしょうか。
《此処じゃない何処かへ》がボードレールを踏まえているという前提で考えると、この詩の含意は、
ということだとしました。そして「此処じゃない何処かへ」が人生におけるパートナーシップの大切さにつながっているということは、
という意味を含んでいるのではと思います。考えすぎでしょうか? そうとも言えないと思います。というのは「ここではないどこかへ」という概念・表現を聞いたとき、非常に似た言葉として「遠くへ行きたい」を連想するからです。
遠くへ行きたい
「ここではないどこかへ」と「遠くへ行きたい」は、言葉の概念として非常に似ています。「遠くへ行きたい」という曲は、1962年、NHKの番組「夢であいましょう」の為に作られたものです。作詞は故・永六輔氏でした。
この曲は、1970年から始まって現在も続いている日本テレビ系の長寿番組「遠くへ行きたい」の主題歌になりました。番組は、有名芸能人や文化人が日本各地の風土、歴史、食、宿を訪ねるという「紀行番組」あるいは「旅番組」です。故・永 六輔氏も出演されました。
ということから、「遠くへ行きたい」は「旅をしたい」と同じ意味だと受け取られがちです。しかし、故・永六輔氏が書いた詞はそうではありません。
まず、語り手は今住んでいる場所を離れて、できるだけ距離を置きたいと願っています。今の場所に違和感を抱くか、自分の居場所ではないと感じているようでもある。中村八大氏がこの詞につけた曲は短調です。短調が生み出すムードが、そういう想像を膨らませます。
ここではない場所、今の町ではない知らない町に行きたい、何処とは決まっていないが、何処か遠くへ行きたい、この詞はそう言っている。まさに「ここではないどこか」です。旅をして旅先の風土や文化を体験し癒されたい(=紀行番組である「遠くへ行きたい」)というのではないのです。さらに重要な点は、
の2つがセットになっていることです。これは「一人旅でどこか知らない土地へ行き、その土地で愛する人とめぐり逢いたい」という意味ではありません。もちろん世の中には旅先でたまたま出会った人とカップルになった(そして結婚した)という例があるでしょうが、そういうことを言っている詞ではない。
この詞は「旅」のもつイメージを2重にとらえています。一つは知らない土地へ行ってそこの風土に触れるという、文字通りの意味での「旅」です。もう一つは「人生における人と人の出会いの遍歴」という意味での「旅」です。この詞の語り手は、いま一人です。だから「一人旅に出たい」し、一人なので「巡り会いたい」のです。この2つが同時進行で語られるのが大きな特徴です。
以上の「遠くへ行きたい」の詞の構造と、中島さんの『EAST ASIA』で示された、
のセットは大変よく似ています。もちろん影響されたわけではないでしょうが、そこに「人生の断面に現れる普遍的なもの」があるように思います。「遠くへ行きたい」という曲は、中島さんの《此処じゃない何処かへ》とアルバム『EAST ASIA』を解釈する上での一つの補助線となるでしょう。
聴き手としての解釈
以上をまとめると、中島みゆきさんの《此処じゃない何処かへ》と、それを含むアルバム『EAST ASIA』に "隠された" メッセージは、
ということでしょう。これは詩そのものでは言ってないことであり、明らかに "深読み" だと思いますが、聴き手には解釈の自由があります。特に中島みゆきさんの詩は、解釈をいろいろと膨らませられるような言葉の使い方に満ちています。そこが中島作品の魅力であり、《此処じゃない何処かへ》とアルバム『EAST ASIA』もそれを体現していると思いました。
ところで、アルバム『EAST ASIA』について言うと、冒頭に置かれている《EAST ASIA》という曲がアルバムのタイトルになっています(いわゆるタイトル・チューン)。従ってこれが最重要の曲のはずであり、詩の内容をどう解釈するかが問題です。これについては別の機会に書くことにします。
なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。
モネとマティス ── もうひとつの楽園
箱根のポーラ美術館で2020年4月末から半年間、ある展覧会が開催されました。
モネとマティス もうひとつの楽園 (2020年4月23日 ~ 11月3日) |
と題した展覧会です。ポーラ美術館のサイトにはこの展覧会の概要が次のように説明してありました。
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クロード・モネ「睡蓮の池」(1899)と、アンリ・マティス「リュート」(1943)。いずれもポーラ美術館所蔵。画像はポーラ美術館のサイトより引用。 |
2020年9月6日のNHK「日曜美術館」では、この展覧会の企画の意図をさらに詳しく紹介していました。番組の内容を要約すると次の通りです。
印象派の巨匠、クロード・モネと、色彩の魔術師と呼ばれたアンリ・マティスは、年齢は約30歳離れていて作風も対照的だが、この2人には共通点がある。それは、共に自らの好みを反映した理想の空間を作り上げ、そこに住み、そこをアトリエとして絵を描いたことである。 | |
モネは40代に、パリのおよそ70キロ北西に位置する農村、ジヴェルニーに邸宅を購入し、周囲の土地を買って花の庭を造成した。また、近くを流れるセーヌ川の支流から水を引き込み、池を作って太鼓橋をかけ、睡蓮を植えた。池の周囲には柳の木を植え、藤棚も作った。そしてここを「人工の野外アトリエ」として絵画の制作を行った。 | |
マティスもまた40代後半になってパリを離れ、南フランスのニースでホテルなどの一室を借り上げてアトリエを構え、そこを自分なりに飾り立てた。 好みだった中東やアフリカなどのエキゾティックなテキスタイルを買い求め、それで壁面を覆った。気に入ったモデルだけを使い、モデルの衣装にもこだわって、時には自ら縫った服を着せた。モデルにはくつろいだポーズをとらせ、安らぎを感じる空間を作り出そうとした。こういった演劇の舞台さながらのアトリエ = 理想の空間で、マティスは絵の制作をした。 | |
2人が生きた19世紀後半から20世紀初頭には、社会の大きな変化があった。産業が発展し、ブルジョワジーと呼ばれた資本家階級が台頭した。経済中心の社会になり、功利主義的な価値観が行き渡った。 また、人々は戦争と疫病に苦しんだ。1870年に勃発した普仏戦争にはモネの画家仲間たちが次々と従軍し、モネの親しい友人だったバジールは戦死した。マティスの友人だった詩人アポリネールは第1次世界大戦に従軍し、その後、スペイン・インフルエンザで死亡した。 | |
社会の価値観の変化と、戦争と疫病。こうした時代の中で芸術家たちの共感を呼んだのがシャルル・ボードレールの作品だった。詩人であり美術評論家でもあったボードレールは、近代化で変貌する時代を生きる苦悩を詩の中に吐露した。散文詩集「パリの憂鬱」に次のようにある。
生きるとは病院に入っているようなものだ
どこへでもいい、ここではないどこかへ | |
マネとマティスは「ここではないどこか」を、この世界の中に作った。マネはジヴェルニーに、マティスはニースのアトリエに。そこで2人が目指したのは人々に安らぎと慰安を与える芸術である。これが2人にとっては、この時代における芸術家のあるべき姿だった。 | |
2人が作った理想の空間(= 楽園)はプライベート空間だが、ありがたいことに、その空間は2人が創造した絵画作品を通して万人に開かれたものになっている。 |
以上が番組の要約(従って、ポーラ美術館の展覧会の主旨)ですが、これを簡潔に1文でまとめると次のようになるでしょう。
モネとマティスは、芸術家たちの共感を呼んだボードレールの「ここではないどこか」を、この世界の中に理想のプライベート空間として作り出し(ジヴェルニーとニース)、そこをアトリエとして人々に安らぎと慰安を与える芸術を創造した。
モネとマティスが「ここではないどこか」を自ら作り出したという視点は、なるほどそうかも知れません。番組MCの小野正嗣さんは、ゴーギャンにとっての「どこか」はタヒチだったと言っていました。ということになると、ゴッホにとってのアルルもそうかもと思いました。
モネとマティスの芸術論はここまでにして、以降はこの展覧会と番組のキーワードになっていたボードレールの「ここではないどこか」という概念について書きます。
ここではないどこか
"ここではないどこか"(英語では "Anywhere but here")という概念は、今まで数々の文芸作品やエンターテインメントに使われてきました。日本で言うと、GLAY が1999年にリリースした楽曲でミリオンセラーになった「ここではない、どこかへ」があります。漫画界の大御所である萩尾望都さんは「ここではない★どこか」と題した漫画のシリーズ(2006年~2012年)を発表しました。
海外では、アメリカの小説家、モナ・シンプソン(故スティーヴ・ジョブズの実妹)は「Anywhere but here」(1986)という小説を発表し、これは映画化されました。
その他、ヘヴィメタルのバンドのアルバム名になったり、アーティストの個展のタイトルになったりと、ネットで検索しても数々の例が出てきます。「ここではないどこか ── Anywhere but here」という言葉、ないしは概念は、クリエーターのイメージを喚起するものがあるのでしょう。
しかし、私にとっての「ここではないどこか」は、まず第一に中島みゆきさんの楽曲である《此処じゃない何処かへ》です。ここからが本題で、以降はその話です。
中島みゆき《此処じゃない何処かへ》
《此処じゃない何処かへ》は、1992年に発表されたアルバム『EAST ASIA』の第6曲として収められた曲です。その詩を次に掲げます。
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①EAST ASIA ②やばい恋 ③浅い眠り ④萩野原 ⑤誕生 ⑥此処じゃない何処かへ ⑦妹じゃあるまいし ⑧ニ隻(そう)の舟 ⑨糸 |
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語り手である「私」の自画像を描いた詩です。「私」は自分の無力感に苛まれています。何もできない自分、という自己嫌悪にも陥っている。
"何か" になりたいが、その "何か" が見つかりません。ここが自分の居場所という、その場所が分からない。心の中からは「此処じゃない何処かへ行ってみろ」と言う声が聞こえてきます。そうすれば "何か" が見つかるかもしれない。
「私」は内心の声に従って、あてもなく街を出ました。音楽好きなのでライブハウスの熱狂にホットになったけれど、それが自分の居場所がどうかはわからない。「此処じゃない何処かへ行ってみろ」という内心の声は今も続いている ・・・・・・。
人生の比較的若い段階、たとえば20代・30代で、人が誰しも一時は抱く感情をストレートに詩にしたものでしょう。もっと早く、10代での感情かもしれないし、30代より後かもしれない。「此処じゃない何処かへ行く」ことを具体的に実行するかどうかはともかく、ふと、そういうことが脳裏をよぎるのは誰にでもありそうです。
「此処じゃない何処かへ」という内心の声は、自分を追い立て、急かせるもので、それはしつこいくらいの繰り返されます。そのムードが、ロックの強いビートの曲とマッチしています。中島さんの "太い声でシャウトするような歌い方" も印象的です。
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《此処じゃない何処かへ》は、人生のある時期、ないしは人生において折に触れて人が抱く感情をストレートに詩にし、歌ったものと考えられます。ただ、それ以上の意味があるのではとも思える。それがNHKの日曜美術館であったボードレールの詩との関係です。
《此処じゃない何処かへ》を "深読み" する
中島さんの《此処じゃない何処か》は、ボードレールの「ここではないどこかへ」を踏まえているのではないでしょうか。そんなことがあり得るのかと一瞬思ってしまいますが、十分にあることでしょう。
そもそも中島さんは詩人です。もちろんアーティストないしはクリエーターとしては数々の側面がありますが、第一級の詩人であることは確かでしょう。詩人が、過去の詩人の作品を大量に読む(読んできた)のはあたりまえです。ちょうど小説家が先人の小説を読むようにです。
中島さんは "詩のアンソロジー" の選者をしたことがあります。1985年に作品社から出版された「日本の恋歌 全3巻」の "第3巻" です。第1巻は"邂逅"がテーマで選者は谷川俊太郎氏、第2巻は "相聞" がテーマで選者は吉行和子氏、そして "別離" がテーマの第3巻の選者が中島さんです。ここでは、万葉集、古今・新古今の時代から、江戸期を経て、明治・大正・昭和の詩人、そして井上陽水や松任谷由実まで、100人の100作品がセレクトされています。これは彼女が多くの詩を読み込んでいることを示しています。でないと、できないでしょう。
この「日本の恋歌」は日本人の作品だけですが、当然、彼女は海外の作品にも親しんでいると想定できます。特にボードレールは現代詩の先駆者とされる詩人なので、中島さんは熟知しているのではないでしょうか。
ということで、「此処じゃない何処か」がボードレールの「ここではないどこかへ」を念頭に作られたとして、ではどのような解釈ができるかを考えたみたいと思います。まず、そのボードレールの詩です。
シャルル・ボードレール
少々意外なことに「ここではないどこかへ」と題したボードレールの詩はありません。その "概念" を表現した作品は、NHKの日曜美術館でも紹介していましたが、ボードレールの50篇からなる散文詩『パリの憂鬱』の第48篇です。
この詩は、題名だけが英語で「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」とあり、そのあとに「いずこなりとこの世の外へ」の意味のフランス語が続きます。訳者の阿部良雄氏によると、この英語題名はイギリスの詩人の作品からとられたもので、本来 "Anywhere" と綴るべきところを(これが正しい英語表記)、誤記か誤植で "Any Where" となったとのことです。
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最初の方に「今いるのでない場所へ行けば、かならず具合がよくなるだろうという気がする」とあり、「引っ越しの問題」とあります。「ここではないどこかへ」をストレートに表現している部分です。全体の大意をまとめると、次のようになるでしょう。
私は "ここではないどこか" へ行くと、今より良くなるという気がいつもしている。ちょうど、病院で病人がベッドの場所を変えると病状が良くなる、ないしは苦しみが和らぐと考えるように。 |
それではどこへ行くのか。私は、私の憧れの地をもとに、私の魂との自問自答を繰り返す。 | |
「ポルトガルのリスボンはどうだ?」 ・・・・・・ 私の魂は無言(=「違う!」)。 | |
「オランダのロッテルダムはどうだろう?」 ・・・・・・ 私の魂は無言。 | |
「インドネシアのジャカルタはどうか?」 ・・・・・・ 私の魂は無言。 | |
私はいらだって、私の魂を挑発しにかかる。「それならいっそ <生> の果て、白夜とオーロラの北極圏へ行こう!」 | |
ついに私の魂は堪忍袋の緒が切れて叫ぶ。「この世の外ならどこでもいい!」 |
最後の「私の魂」の "この世の外ならどこでも!" というのは、いわゆる "キレた" 言い方です。それを言葉通りに実行するとなると、この世から去ること(= "死")になり、そうなると「ここではないどこか」に今より良い居場所を見つけたいという「私」の意図に反してしまいます。結局、この詩の自問自答は反語的に解釈すべきでしょう。その解釈を簡潔に言うと、次のようになると思います。
私は "ここではないどこか" へ行くと、今より良くなるという気がいつもしている。 | |
それではどこへ行くのか。自問自答を繰り返してみても、適切な「どこか」は見つからないし、思いつかない。 | |
結局、我々は自分の居場所となる "ここではないどこか" を、今いる場所も含めて、この世界のどこかに自ら作り出すしかないのだ。 |
これが、ボードレールの散文詩の "含意" でしょう。冒頭で書いた画家、モネとマティスの場合は、その "ここではないどこか" がジヴェルニーの庭であり、ニースのアトリエであった。それがポーラ美術館の(従って NHK「日曜美術館」の)解釈だったわけです。
ボードレールの「ANY WHERE OUT OF THE WORLD いずこなりとこの世の外へ」という散文詩にこのような含意があるとすると、中島みゆきさんの《此処じゃない何処かへ》も、
その "何処か" は、この世界の中に自分で作るしかない
というのが隠された意味でしょう。ちょうど、モネやマティスの "理想のアトリエ" のように ・・・・・・。《此処じゃない何処かへ》がボードレールの「ここではないどこかへ」を踏まえているとの前提にたつと、それが自然な解釈だと思います。
さらにこの詩は「この世界の中に自分で作るしかない」という以上のことを言っているように思えます。それは、曲が収められた『EAST ASIA』というアルバムの構成から推測できるものです。
EAST ASIA
『EAST ASIA』は1992年に発表されたアルバムで、「夜会」はすでに始まっている時期です。このアルバムには以下の9曲が収められています。
1. EAST ASIA
2. やばい恋
3. 浅い眠り
4. 萩野原
5. 誕生
6. 此処じゃない何処かへ
7. 妹じゃあるまいし
8. ニ隻の舟
9. 糸
2. やばい恋
3. 浅い眠り
4. 萩野原
5. 誕生
6. 此処じゃない何処かへ
7. 妹じゃあるまいし
8. ニ隻の舟
9. 糸
このアルバムの詩の全体を眺めてみると、大きく4つの部分に分かれていると考えられます。詩の内容を簡潔に一言で要約することなど本来はできないのですが、あえてやってみると次のようになるでしょう。
第1部は《EAST ASIA》という曲です。東アジアに住む人たち(ないしは特定の人)と心を通わせたいという思いや連帯感を綴ったものです。東アジアとは、通常の言葉使いとしては日本、朝鮮半島、中国、モンゴル、台湾、香港でしょう。これは従来の中島さんの詩には見られなかった発想のものです。
第2部は《やばい恋》《浅い眠り》《萩野原》《誕生》の4曲で、一言でいうと "別れ" が扱われています。《やばい恋》では、女は男をますます好きになりそうだが、男は別れの機会を窺っているという "やばい" 状況が語られます。《浅い眠り》は、男と分かれたあとに失ったものの大きさを感じて思案にくれている詩です。
《萩野原》では、昔に別れた恋人を偲び、懐かしんでいます。《誕生》は人生における別れの意味を探った内容です。別れはつらいが、出会ったからこそ別れがある。知り合えたことを大切にしよう。そもそも生まれてきたことが Welcome であり素晴らしいことだという、非常にポジティブな表現になっています。
第3部が《此処じゃない何処かへ》で、ここでアルバムの流れの転換が起こります。
第4部は《妹じゃあるまいし》《ニ隻の舟》《糸》の3曲で、ここで扱われているテーマはまとめると "二人" だと言えるでしょう。《妹じゃあるまいし》は、今はもう別れた女性を思い出し、追憶を巡らしているという内容です。語り手が女性だとも考えられます(= "妹" は同性の友人)。
夜会でも歌われた《ニ隻の舟》は、
|
のあたりが、詩としてのコアです。「おまえとわたし」は必ずしも男女ととらなくてもよいはずです。人生におけるパートナーの大切さを言った詩と考えられるでしょう。なお、日本語では二隻ですが、"中島みゆき用語" ではこれを二隻と読ませています。
数々のアーティストがカバーしている《糸》は、結ばれた男女の幸福を表現しています。この曲は結婚式ソングの定番になっていますが、それもそのはずで、そもそも曲の発表前に最初に歌われたのがある人の結婚式でした。
|
アルバム『EAST ASIA』の各曲の大意をごく簡単に書きましたが、細かいニュアンスは全く無視しました。ただ、アルバムの構造を明らかにするという意図でした。
以上の考察からすると、この『EAST ASIA』というアルバムは、詩の内容とその配列が意図的に工夫されていると感じます。ということを前提として「此処じゃない何処かへ」を考えるとどうなるかです。
『EAST ASIA』の多くの詩は、出会い・別れ・人と人とのつながり・パートナーシップを内容としています。しかし第3部の《此処じゃない何処かへ》だけは違って、何かを成し遂げないといけない、何かにならないといけないという内心のさし迫った声や、それにまつわる葛藤が言葉になっています。これは、次の第4部の "二人" というテーマ、人生におけるパートナーの大切さにダイレクトにつなげるための詩ではないでしょうか。
《此処じゃない何処かへ》がボードレールを踏まえているという前提で考えると、この詩の含意は、
人は「ここではないどこか」を自分の居場所として求めるけれど、結局それはこの世界の中に自分で作り出すしかない
ということだとしました。そして「此処じゃない何処かへ」が人生におけるパートナーシップの大切さにつながっているということは、
自分の居場所(=ここではないどこか)をこの世界の中に作るとき、一番の助けになるのは、人生におけるパートナーだ
という意味を含んでいるのではと思います。考えすぎでしょうか? そうとも言えないと思います。というのは「ここではないどこかへ」という概念・表現を聞いたとき、非常に似た言葉として「遠くへ行きたい」を連想するからです。
遠くへ行きたい
「ここではないどこかへ」と「遠くへ行きたい」は、言葉の概念として非常に似ています。「遠くへ行きたい」という曲は、1962年、NHKの番組「夢であいましょう」の為に作られたものです。作詞は故・永六輔氏でした。
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この曲は、1970年から始まって現在も続いている日本テレビ系の長寿番組「遠くへ行きたい」の主題歌になりました。番組は、有名芸能人や文化人が日本各地の風土、歴史、食、宿を訪ねるという「紀行番組」あるいは「旅番組」です。故・永 六輔氏も出演されました。
ということから、「遠くへ行きたい」は「旅をしたい」と同じ意味だと受け取られがちです。しかし、故・永六輔氏が書いた詞はそうではありません。
まず、語り手は今住んでいる場所を離れて、できるだけ距離を置きたいと願っています。今の場所に違和感を抱くか、自分の居場所ではないと感じているようでもある。中村八大氏がこの詞につけた曲は短調です。短調が生み出すムードが、そういう想像を膨らませます。
ここではない場所、今の町ではない知らない町に行きたい、何処とは決まっていないが、何処か遠くへ行きたい、この詞はそう言っている。まさに「ここではないどこか」です。旅をして旅先の風土や文化を体験し癒されたい(=紀行番組である「遠くへ行きたい」)というのではないのです。さらに重要な点は、
どこか遠くへ行きたい」 | |
愛する人とめぐり逢いたい」 |
の2つがセットになっていることです。これは「一人旅でどこか知らない土地へ行き、その土地で愛する人とめぐり逢いたい」という意味ではありません。もちろん世の中には旅先でたまたま出会った人とカップルになった(そして結婚した)という例があるでしょうが、そういうことを言っている詞ではない。
この詞は「旅」のもつイメージを2重にとらえています。一つは知らない土地へ行ってそこの風土に触れるという、文字通りの意味での「旅」です。もう一つは「人生における人と人の出会いの遍歴」という意味での「旅」です。この詞の語り手は、いま一人です。だから「一人旅に出たい」し、一人なので「巡り会いたい」のです。この2つが同時進行で語られるのが大きな特徴です。
以上の「遠くへ行きたい」の詞の構造と、中島さんの『EAST ASIA』で示された、
ここではないどこかへ」(第6曲) | |
人生におけるパートナーシップ」(第7~9曲) |
のセットは大変よく似ています。もちろん影響されたわけではないでしょうが、そこに「人生の断面に現れる普遍的なもの」があるように思います。「遠くへ行きたい」という曲は、中島さんの《此処じゃない何処かへ》とアルバム『EAST ASIA』を解釈する上での一つの補助線となるでしょう。
聴き手としての解釈
以上をまとめると、中島みゆきさんの《此処じゃない何処かへ》と、それを含むアルバム『EAST ASIA』に "隠された" メッセージは、
人は「ここではないどこか」を自分の居場所として求めるけれど、結局それはこの世界の中に自分で作り出すしかない。 | |
自分の居場所(ここではないどこか)をこの世界の中に作るとき、一番の助けになるのは、人生におけるパートナーだ。 |
ということでしょう。これは詩そのものでは言ってないことであり、明らかに "深読み" だと思いますが、聴き手には解釈の自由があります。特に中島みゆきさんの詩は、解釈をいろいろと膨らませられるような言葉の使い方に満ちています。そこが中島作品の魅力であり、《此処じゃない何処かへ》とアルバム『EAST ASIA』もそれを体現していると思いました。
ところで、アルバム『EAST ASIA』について言うと、冒頭に置かれている《EAST ASIA》という曲がアルバムのタイトルになっています(いわゆるタイトル・チューン)。従ってこれが最重要の曲のはずであり、詩の内容をどう解釈するかが問題です。これについては別の機会に書くことにします。
(続く)
2020-11-14 09:07
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No.297 - チョコレートを運ぶ娘 [アート]
No.284「絵を見る技術」は、秋田麻早子 著『絵を見る技術 ── 名画の構造を読み解く』(朝日出版社 2019)の内容をかいつまんで紹介したものでした。この中の「線のバランス」のところで、縦と横だけのシンプルな構造線をもつ絵の例として、秋田氏は上村松園の『序の舞』(1936)をあげていました。扇を持つ右手の袖の表現で分かるように、"静" と "動" のはざまの一瞬をとらえた傑作(重要文化財)です。
そして、線のバランスが『序の舞』とそっくりな絵として連想したのが、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館にあるリオタールのパステル画『チョコレートを運ぶ娘』で、そのことは No284 に書きました。
この絵は、構図(縦と横のシンプルな構造線)が『序の舞』とそっくりです。ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館には一度行ったことがありますが、実は現地に行くまでこの絵を全く知りませんでした。アルテ・マイスター絵画館の必見の名画というと、
でしょう。フェルメールの『取り持ち女』(自画像を描き込んだと言われる絵)もこの絵画館にあります。また、それ以外にもファン・エイク、ルーベンス、レンブラント、ヴァン・ダイク、ホルバイン、デューラー、ベラスケス、ムリーリョ、エル・グレコ、ティツィアーノなど、西洋古典絵画史のビッグ・ネームが揃っています。
そういった名画群の中で、全く知らなかった『チョコレートを運ぶ娘』に目が止まりました。大変に印象的だったので、記念にミュージアム・ショップでこの絵のマグネットを購入し、それは今でも自宅に張ってあります。
なぜ『チョコレートを運ぶ娘』が印象的だったのか。それは「一目瞭然のシンプルな構造線が作り出す強さ」だろうと、秋田氏の本を読んで思いました。もちろん、おだやかな色のパステルで精緻に描かれた "美しさ" もあると思います。これも、構図と並んでパッと見て分かる。しかし最近の新聞を読んでいて、どうもそれだけではないぞと思いました。そのことを以降に書きます。
リオタール『チョコレートを運ぶ娘』
2020年9月11日の日本経済新聞の最終面で、美術史家の幸福輝氏(国立西洋美術館学芸員)が『チョコレートを運ぶ娘』を解説されていました。構図とは全く違う視点からの解説ですが、興味深い内容だったので以下に引用します。少々意外なことに「描かれたアジア」というシリーズの最終回です。
このコラムで着目すべきは、次の4点でしょう。
このコラムに触発されて、改めて詳しくこの絵を画集で眺めてみました。それが以降です。
娘が持っているもの
娘が持っているものを拡大したのが次の図です。コラムにはカップがマイセンの磁器(おそらく)、トレーが漆器とありましたが、もう少し詳しく見ていきます。
まずチョコレート・カップとソーサーですが、これは普通の "カップ・アンド・ソーサー" ではありません。"トランブルーズ"(Trembleuse)と呼ばれるタイプのものです。
Wikipediaによると、トランブルーズは1690年代のパリが発祥で、フランス語で「震える」という意味のようです。つまり、手が震えてもチョコレートをこぼさない仕掛けがしてあるカップ・アンド・ソーサーで、ソーサーにカップを固定するための "ホールダー" が作り付けてあります。トランブルーズは現代でも製作されていて、マイセンの実例が次の画像です。
上の画像のマイセンはすべて磁器製ですが、『チョコレートを運ぶ娘』に描かれているトランブルーズはソーサーが銀製です。銀製のソーサーはアンティークとして流通しているようで、その例を次にあげます。
『チョコレートを運ぶ娘』のトランブルーズは、銀の輪のようなホールダーがソーサーに立つように作ってあります。また、ソーサーには取っ手が付いている。親指をここにかけ、ソーサーを持って飲むためのものです。
他の注目点としては、銀のソーサーの上に置かれたビスケットでしょう。またチョコレート・カップに蓋がなく、ホット・チョコレートがギリギリ一杯に注がれているのもポイントです。
絵の娘はチョコレート・カップとソーサーの他に、水が入ったグラスを運んでいます。このグラスは、良く見るとカットで模様がつけてあるようです。これはボヘミアのガラス器でしょう。
このグラスには、窓の形の反射が2つ描かれています。この娘は2つの窓からの光の中にいることを示しています。
日経新聞のコラムに、娘が運んでいるトレーは漆器だとありました。アートについてのウェブ・マガジン、"www.apollo.com" のこの絵の解説(2018.11.20。筆者:Tessa Murdock)には、この漆器は日本製だと書いてあります。娘が持っているものでは唯一の東洋からの輸入品ということになります(輸入品としては、他にカカオ)。この漆器が一番高価かもしれません。同じ解説には、チョコレート・カップは当然のようにマイセンの磁器と書いてありました。
この絵は、画家のリオタールはウィーン滞在中(1743~45)に描かれました。場所はウィーンの貴族の館でしょう。メイドの彼女が朝、女主人にチョコレートを運びます。女主人はベッドの上で、ソーサーを手に持ちながらチョコレートをゆっくりと飲む。そして苦さを緩和するため甘いビスケットを食べ、水を飲む。それを繰り返す ・・・・・・。そういった情景が浮かびます。
描かれているのはすべて高価なもので、マイセンの磁器、銀のトランブルーズ、ボヘミアン・グラス、そして日本製の漆器です。いかにも貴族の邸宅の光景という感じがします。
そして、この絵がとらえた瞬間を考えてみると、メイドの彼女はチョコレート・カップを慎重に、静かに運んでいるはずです。18世紀のチョコレートは貴重なものです。しかも絵のカップには蓋がなく、チョコレートがなみなみと注がれている。彼女はこぼさないよう、そろりそろりと運んでいるに違いありません。
精緻に仕上げられたパステル画
全体を見渡すと、この絵の大きなポイントは "パステル画" だということです。日本経済新聞のコラムに、
とありました。このブログでもパステル画を引用したことが何回かあります。それはドガとカサットの作品で、いかにも「粉状の脆弱感と自然な即興性」との印象を受ける絵です(No.86, No.87, No.97, No.157)。それは一般的なパステル画のイメージでしょう。
しかしこの絵は違って、細部まで精緻に仕上げられています。また明るい色で、かつ中間色が使われている。ファッションなどの世界で "パステル・カラー" という言い方をしますが、赤・青・緑などの原色ではない "中間色" という意味です。『チョコレートを運ぶ娘』はまさにパステル・カラーの絵です。この絵は「最も美しいパステル画」と評されることがあるそうですが、まさにそういう感じがします。
しかも、展示してあるのがドレスデンの "アルテ・マイスター絵画館" です。英語に直訳すると "Old Masters' Gallery" で、18世紀かそれ以前の古典絵画の展示館です。名画が並んでいますが、それらに使われている多くの色はいわゆる "アースカラー" で、岩石や土が原料の顔料です。全般的に暗い色が多い。その中で、明るいパステル・カラーのこの絵は "目立つ絵" です。全く知らなかったこの絵に目が止まったのは、そういう理由もあるのだと思いました。
"中国的" とは ?
日本経済新聞に幸福輝氏が書いたコラムは「描かれたアジア」というシリーズで、その最終回が『チョコレートを運ぶ娘』でした。その文章の最後の方に、この絵を評して「中国的」との表現がありました。だから「描かれたアジア」なのでしょう。なぜ中国的なのか、コラムのその部分を再度引用すると次の通りです。
これを読むと、「瞬間の生動感を狙ったようには見えないから中国的」と読み取れます。確かに、慎重にチョコレートを運んでいる姿からは "動き" があまり感じられません。この静的な雰囲気が中国的ということでしょう。もちろん、その他に「磁器のチョコレート・カップに漆器のトレー」というアジア由来のアイテムがあることも「描かれたアジア」なのだろうと思います。
しかし、アルテ・マイスター絵画館の公式カタログ「ドレスデンの名画:アルテ・マイスター絵画館」(2006。日本語版)には、別の説明がありました。


ヨーロッパの画法では、陰影を使って対象の3次元的造形をするのが伝統です。上に引用したコレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」がまさにその典型です。一方、中国や日本の伝統的な絵画は影を使いません。『序の舞』のように。
上の引用に「画法はヨーロッパのもの」とあるように、この絵は伝統的な画法を踏まえています。しかし影は(もちろんありますが)最小限に抑えてあります。2箇所からの明るい光を受けて、段階付けられた微妙な陰影で、浮き彫りのような効果を出しています。石や貝殻に浮き彫りをする技術を "カメオ" と言いますが、この絵はちょうど瑪瑙を素材にしたカメオのような効果を出しています。
このような "影を極力抑えた" 描き方が中国的だと、上の引用は言っています。おそらくヨーロッパ人からすると、この絵は「何か違うな、斬新だ」と感じるのでしょう。我々日本人からすると、この "中国的な" 描き方は自然で普通だと見えるのですが、その普通の絵がアルテ・マイスター絵画館の中では目立っているのです。この絵画館は西洋古典絵画の展示館です。そこでは光と影が交錯し、その強いコントラストで描かれている絵が多い。ないしは、ほとんど作画対象が暗い影の中にあり、その絵の焦点だけが明るい光に照らされて浮かび上がるような絵です。
そのような絵が多数ある中で『チョコレートを運ぶ娘』は、光と影のコントラストとは無縁であり、全体が明るく輝いています。そのことがこの絵を絵画館の中でも目立つものにしているのでしょう。
名画には理由がある
ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館の『チョコレートを運ぶ娘』について、以上の考察をまとめると次のようになるでしょう。
この絵を見て惹かれる要因の一つが、"東洋的" ということかもしれません。我々からすると全く違和感のない絵ですが、アルテ・マイスター絵画館においてはまさそこが際立っているということでしょう。
『序の舞』を引き合いに出したのは、秋田麻早子氏の著書『絵を見る技術』(No.284)からの連想でしたが、この本の結論として秋田氏は、
と書いていました。パッと見て "いいな" と思った『チョコレートを運ぶ娘』について、なぜそう思ったのかを探るために「作品の客観的な特徴」を考えてみましたが、なるほどそうすることで絵画の楽しみ方の幅が広がると実感しました。
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上村松園「序の舞」 |
「絵を見る技術」で著者の秋田氏は「縦の線とそれを支える横の線」という線のバランスをもつ絵画の例として、上村松園の「序の舞」をあげていた。 |
そして、線のバランスが『序の舞』とそっくりな絵として連想したのが、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館にあるリオタールのパステル画『チョコレートを運ぶ娘』で、そのことは No284 に書きました。
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リオタール 「チョコレートを運ぶ娘」 |
この絵は、構図(縦と横のシンプルな構造線)が『序の舞』とそっくりです。ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館には一度行ったことがありますが、実は現地に行くまでこの絵を全く知りませんでした。アルテ・マイスター絵画館の必見の名画というと、
ラファエロの『システィーナの聖母』 絵画館の "顔" となっている作品。No.284 に画像を引用。 | |
ジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』 数々の西洋絵画のルーツと言える作品。マネの『オランピア』の源流と考えられる。 | |
フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』 フェルメール作品の中でも傑作。No.295 に画像を引用。 |
でしょう。フェルメールの『取り持ち女』(自画像を描き込んだと言われる絵)もこの絵画館にあります。また、それ以外にもファン・エイク、ルーベンス、レンブラント、ヴァン・ダイク、ホルバイン、デューラー、ベラスケス、ムリーリョ、エル・グレコ、ティツィアーノなど、西洋古典絵画史のビッグ・ネームが揃っています。
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ドレスデン アルテ・マイスター絵画館 |
アルテ・マイスター絵画館は、ツヴィンガー宮殿の庭に面している。ほぼ横に一直線の建物で、展示室は40程度しかないが、古典絵画の名品が並んでいる。 |
そういった名画群の中で、全く知らなかった『チョコレートを運ぶ娘』に目が止まりました。大変に印象的だったので、記念にミュージアム・ショップでこの絵のマグネットを購入し、それは今でも自宅に張ってあります。
なぜ『チョコレートを運ぶ娘』が印象的だったのか。それは「一目瞭然のシンプルな構造線が作り出す強さ」だろうと、秋田氏の本を読んで思いました。もちろん、おだやかな色のパステルで精緻に描かれた "美しさ" もあると思います。これも、構図と並んでパッと見て分かる。しかし最近の新聞を読んでいて、どうもそれだけではないぞと思いました。そのことを以降に書きます。
リオタール『チョコレートを運ぶ娘』
2020年9月11日の日本経済新聞の最終面で、美術史家の幸福輝氏(国立西洋美術館学芸員)が『チョコレートを運ぶ娘』を解説されていました。構図とは全く違う視点からの解説ですが、興味深い内容だったので以下に引用します。少々意外なことに「描かれたアジア」というシリーズの最終回です。
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ジャン = エティエンヌ・リオタール (1702 - 1789) 「チョコレートを運ぶ娘」(1744/45) |
パステル 羊皮紙 (82.5×52.5cm) ドレスデン アルテ・マイスター絵画館 |
美の十選:描かれたアジア(10) |
このコラムで着目すべきは、次の4点でしょう。
チョコレート・カップはマイセンの磁器(だろう)。 | |
娘が持っているトレーは漆器である。 | |
リオタールはパステルの名手で、この絵は羊皮紙に描かれ、磁器を思わせる入念な仕上げが施されている。 | |
この絵は制作当時、"中国的" と評された。 |
このコラムに触発されて、改めて詳しくこの絵を画集で眺めてみました。それが以降です。
娘が持っているもの
娘が持っているものを拡大したのが次の図です。コラムにはカップがマイセンの磁器(おそらく)、トレーが漆器とありましたが、もう少し詳しく見ていきます。
![]() |
 チョコレート・カップとソーサー  |
まずチョコレート・カップとソーサーですが、これは普通の "カップ・アンド・ソーサー" ではありません。"トランブルーズ"(Trembleuse)と呼ばれるタイプのものです。
Wikipediaによると、トランブルーズは1690年代のパリが発祥で、フランス語で「震える」という意味のようです。つまり、手が震えてもチョコレートをこぼさない仕掛けがしてあるカップ・アンド・ソーサーで、ソーサーにカップを固定するための "ホールダー" が作り付けてあります。トランブルーズは現代でも製作されていて、マイセンの実例が次の画像です。
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マイセンの磁器製トランブルーズ (マイセンのサイトより) |
上の画像のマイセンはすべて磁器製ですが、『チョコレートを運ぶ娘』に描かれているトランブルーズはソーサーが銀製です。銀製のソーサーはアンティークとして流通しているようで、その例を次にあげます。
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1750年代にドイツのアウグスブルクで製作されたトランブルーズ。オークション・ハウス、ドロテウムのサイトより。 |
『チョコレートを運ぶ娘』のトランブルーズは、銀の輪のようなホールダーがソーサーに立つように作ってあります。また、ソーサーには取っ手が付いている。親指をここにかけ、ソーサーを持って飲むためのものです。
他の注目点としては、銀のソーサーの上に置かれたビスケットでしょう。またチョコレート・カップに蓋がなく、ホット・チョコレートがギリギリ一杯に注がれているのもポイントです。
 グラス  |
絵の娘はチョコレート・カップとソーサーの他に、水が入ったグラスを運んでいます。このグラスは、良く見るとカットで模様がつけてあるようです。これはボヘミアのガラス器でしょう。
このグラスには、窓の形の反射が2つ描かれています。この娘は2つの窓からの光の中にいることを示しています。
 トレー  |
日経新聞のコラムに、娘が運んでいるトレーは漆器だとありました。アートについてのウェブ・マガジン、"www.apollo.com" のこの絵の解説(2018.11.20。筆者:Tessa Murdock)には、この漆器は日本製だと書いてあります。娘が持っているものでは唯一の東洋からの輸入品ということになります(輸入品としては、他にカカオ)。この漆器が一番高価かもしれません。同じ解説には、チョコレート・カップは当然のようにマイセンの磁器と書いてありました。
この絵は、画家のリオタールはウィーン滞在中(1743~45)に描かれました。場所はウィーンの貴族の館でしょう。メイドの彼女が朝、女主人にチョコレートを運びます。女主人はベッドの上で、ソーサーを手に持ちながらチョコレートをゆっくりと飲む。そして苦さを緩和するため甘いビスケットを食べ、水を飲む。それを繰り返す ・・・・・・。そういった情景が浮かびます。
描かれているのはすべて高価なもので、マイセンの磁器、銀のトランブルーズ、ボヘミアン・グラス、そして日本製の漆器です。いかにも貴族の邸宅の光景という感じがします。
そして、この絵がとらえた瞬間を考えてみると、メイドの彼女はチョコレート・カップを慎重に、静かに運んでいるはずです。18世紀のチョコレートは貴重なものです。しかも絵のカップには蓋がなく、チョコレートがなみなみと注がれている。彼女はこぼさないよう、そろりそろりと運んでいるに違いありません。
精緻に仕上げられたパステル画
全体を見渡すと、この絵の大きなポイントは "パステル画" だということです。日本経済新聞のコラムに、
パステルは18世紀肖像画の主要技法で、リオタールはパステルの名手だった。粉状の脆弱感と自然な即興性が当時の趣味に合致したのか、パステルは貴族たちに好まれた。
とありました。このブログでもパステル画を引用したことが何回かあります。それはドガとカサットの作品で、いかにも「粉状の脆弱感と自然な即興性」との印象を受ける絵です(No.86, No.87, No.97, No.157)。それは一般的なパステル画のイメージでしょう。
しかしこの絵は違って、細部まで精緻に仕上げられています。また明るい色で、かつ中間色が使われている。ファッションなどの世界で "パステル・カラー" という言い方をしますが、赤・青・緑などの原色ではない "中間色" という意味です。『チョコレートを運ぶ娘』はまさにパステル・カラーの絵です。この絵は「最も美しいパステル画」と評されることがあるそうですが、まさにそういう感じがします。
しかも、展示してあるのがドレスデンの "アルテ・マイスター絵画館" です。英語に直訳すると "Old Masters' Gallery" で、18世紀かそれ以前の古典絵画の展示館です。名画が並んでいますが、それらに使われている多くの色はいわゆる "アースカラー" で、岩石や土が原料の顔料です。全般的に暗い色が多い。その中で、明るいパステル・カラーのこの絵は "目立つ絵" です。全く知らなかったこの絵に目が止まったのは、そういう理由もあるのだと思いました。
"中国的" とは ?
日本経済新聞に幸福輝氏が書いたコラムは「描かれたアジア」というシリーズで、その最終回が『チョコレートを運ぶ娘』でした。その文章の最後の方に、この絵を評して「中国的」との表現がありました。だから「描かれたアジア」なのでしょう。なぜ中国的なのか、コラムのその部分を再度引用すると次の通りです。
磁器を思わせる入念な仕上げが施された本作品は、通常のパステルとはどこか違う。ほぼプロフィールで描かれた娘の姿も、瞬間の生動感を狙ったようには見えない。制作当時、この作品は「中国的」と評されたとの記録が残っているが、そのあたりに、この画家が凝らした制作の機微が潜んでいるのかもしれない。
これを読むと、「瞬間の生動感を狙ったようには見えないから中国的」と読み取れます。確かに、慎重にチョコレートを運んでいる姿からは "動き" があまり感じられません。この静的な雰囲気が中国的ということでしょう。もちろん、その他に「磁器のチョコレート・カップに漆器のトレー」というアジア由来のアイテムがあることも「描かれたアジア」なのだろうと思います。
しかし、アルテ・マイスター絵画館の公式カタログ「ドレスデンの名画:アルテ・マイスター絵画館」(2006。日本語版)には、別の説明がありました。
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ドレスデンの名画 アルテ・マイスター絵画館 (公式カタログ) |
表紙の絵は、16世紀のイタリアのパルマで活躍したコレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」。厳粛な雰囲気とは対極にある宗教画である。光と影の効果で立体のモデリングをすると同時に、光で人物の重要度を表している。一番強い光が聖母子に当たり、その次が左の洗礼者ヨハネ(毛皮を着て杖を持っている)、最後に右の聖ゲオルギウスの順である。 |
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ヨーロッパの画法では、陰影を使って対象の3次元的造形をするのが伝統です。上に引用したコレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」がまさにその典型です。一方、中国や日本の伝統的な絵画は影を使いません。『序の舞』のように。
上の引用に「画法はヨーロッパのもの」とあるように、この絵は伝統的な画法を踏まえています。しかし影は(もちろんありますが)最小限に抑えてあります。2箇所からの明るい光を受けて、段階付けられた微妙な陰影で、浮き彫りのような効果を出しています。石や貝殻に浮き彫りをする技術を "カメオ" と言いますが、この絵はちょうど瑪瑙を素材にしたカメオのような効果を出しています。
このような "影を極力抑えた" 描き方が中国的だと、上の引用は言っています。おそらくヨーロッパ人からすると、この絵は「何か違うな、斬新だ」と感じるのでしょう。我々日本人からすると、この "中国的な" 描き方は自然で普通だと見えるのですが、その普通の絵がアルテ・マイスター絵画館の中では目立っているのです。この絵画館は西洋古典絵画の展示館です。そこでは光と影が交錯し、その強いコントラストで描かれている絵が多い。ないしは、ほとんど作画対象が暗い影の中にあり、その絵の焦点だけが明るい光に照らされて浮かび上がるような絵です。
そのような絵が多数ある中で『チョコレートを運ぶ娘』は、光と影のコントラストとは無縁であり、全体が明るく輝いています。そのことがこの絵を絵画館の中でも目立つものにしているのでしょう。
名画には理由がある
ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館の『チョコレートを運ぶ娘』について、以上の考察をまとめると次のようになるでしょう。
娘が運んでいるものはどれも高価で、いかにも貴族の館での光景である。またマイセンの磁器製チョコレート・カップと日本の漆器のトレーは、当時の上流階級の東洋趣味を反映している。 | |
全体が明るいパステル・カラーで精緻に仕上げられている。また陰影付けは最低限に抑えられている。これらの点が、アルテ・マイスター(=古典)絵画館の中でも異色の作品にしている。 | |
最初にあげた上村松園の『序の舞』との類似性という観点では、まず第一に「縦と横の、シンプルで強い構造線が作るバランス」である。この構図が大変に印象深い。 | |
さらに『序の舞』との類似性は、"静" と "動" のはざまを描いている、ないしは "静" のような "動" を描いているところである。 | |
この絵は『序の舞』との共通項があることから推測できるように、西欧人からすると "東洋的" な雰囲気を感じるのだろう。それが描かれた当時の「中国的」という評価につながった。 |
この絵を見て惹かれる要因の一つが、"東洋的" ということかもしれません。我々からすると全く違和感のない絵ですが、アルテ・マイスター絵画館においてはまさそこが際立っているということでしょう。
『序の舞』を引き合いに出したのは、秋田麻早子氏の著書『絵を見る技術』(No.284)からの連想でしたが、この本の結論として秋田氏は、
自分の好き・嫌い」と「作品の客観的な特徴」が分けられるようになると、楽しみ方の幅がぐっと広がる |
と書いていました。パッと見て "いいな" と思った『チョコレートを運ぶ娘』について、なぜそう思ったのかを探るために「作品の客観的な特徴」を考えてみましたが、なるほどそうすることで絵画の楽しみ方の幅が広がると実感しました。
2020-10-31 11:48
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No.296 - まどわされない思考 [科学]
このブログでは、我々の思考を誤らせる要因について何回か書きました。まず No.148「最適者の到来」と No.149「我々は直感に裏切られる」では、日常生活とは全くかけ離れた巨大な数は想像できないので、直感があてにならず、誤った判断をしてしまう例を書きました。組み合わせの数とか、分子の数とか、カジノにおけるゲーム(賭け)の勝率などです。No.293「"自由で機会均等" が格差を生む」も、膨大な回数の繰り返しが我々の直感に全く反する結果を招く例でしょう。
また、No.83-84「社会調査のウソ」では、現代において数限りなく実施されている社会調査は、その調査方法が杜撰だったり推定方法が誤っていると実態とはかけ離れた結論になることを見ました。この「社会調査のウソ」の一つが "偽りの因果関係" です。つまり、物事の間に相関関係があると即、それが因果関係だと判断してしまう誤りです。No.223「因果関係を見極める」ではその分析と、正しく因果関係を見極める方法を専門家の本から紹介しました。
さらに、No.290「科学が暴く "食べてはいけない" の嘘」は、食の安全性についての科学的根拠がない言説にまどわされてはいけないという話でした。
以上の「直感」「社会調査」「因果関係」「食べてはいけない」以外にも、我々を誤った思考に導きやすいものがいろいろとあります。特に今の社会はインターネットの発達もあって、人々をまどわす誤った主張や非論理的な説明に満ちているのが実態です。それらに惑わされないようにして現代社会を生きて行くには、どうすればよいのか ────。最近、このテーマに絞った本が出版されました。
『まどわされない思考』
デヴィッド・ロバート・グライムス 著
長谷川 圭 訳
角川書店 2020
です(以下「本書」)。著者はアイルランド出身の物理学者、科学ジャーナリストで、英国とアイルランドで現代社会の各種の問題を科学的見地から解説しています。本書の副題は、
で、批判的思考(=クリティカル・シンキング)がテーマになっています。また本書の原題は、
The Irrational Ape
(= 非理性的なサル)
です。「人間は理性的なサル」という言い方がありますが、実態は感情に支配される非理性的なサルだという、自戒を込めた題名です。これを乗り越えるのが批判的思考(=クリティカル・シンキング)というわけです。
本書は現代社会のさまざまな問題・課題を考える上で大いに参考になると思ったので、以下に内容の "さわり" を紹介します。
序章:批判的思考
本書の序章に、1950年代の中国の「大躍進政策」の一環として行われたスズメの駆除運動のことが書かれていました。当時の中国では、農業の近代化と国の躍進のために害虫・害獣の駆除が必須だと見なされていました。たとえば、蚊やネズミは疫病を広めていたからです。ちょっと長くなりますが、引用します。
これは「浅はかな考えで行動すると恐ろしい結果になる」ことの(極端な)例です。特に、中国を代表する鳥類学者の警告に耳をかさなかったのが、「批判的思考がないと起こる最悪の事例」になっています。
この「打麻雀運動」のくだりを読んで思ったのですが、これは「カリスマ独裁者が支配する共産党独裁政権で起こった特殊な出来事」なのでしょうか。そうとも言えないと思います。
現在日本で最も深刻な生態系被害をもたらしている外来動物はマングースです。マングースは毒ヘビのハブを退治するために、動物学の権威であった東大教授の提唱で1910年(明治43年)に沖縄本島に持ち込まれました。そして1979年には奄美大島にも導入されました。
しかし1980年代になって研究者がマングースの胃の内容物や糞を分析した結果、ハブを食べている個体はほとんどいないことが分かりました(この経緯は中国のスズメとそっくりです)。代わりに沖縄本島ではヤンバルクイナ、奄美大島ではアマミノクロウサギなどの沖縄の固有種(この2種は天然記念物で、かつ絶滅危惧種)が犠牲になっていることが分かったのです。マングースもバカではありません。命がけで毒ヘビを襲うより、飛べない鳥を食べた方がラクというものです。加えて、マングースは昼間に活動し、ハブは夜行性です。そもそもマングースとハブが自然界で出会うチャンスは少ないのです。
環境省は2000年からマングースの駆除をはじめました。これにかかる費用は年間数億円の規模です。マングースの個体数は減ってきたようですが、現在までに完全駆除できたわけはありません。これからも多額の予算が投下され続けるわけです。
この経緯は、スズメの駆除が一因となって飢饉に陥り、あわててスズメを外国から輸入した中国とは逆のパターンです。しかし「浅はかな考えで行動すると、とんでもないことになる」ことは共通しています。しかも、マングースの導入を提唱したのが最高学府のれっきとした動物学者というところが、中国よりも "浅はか" かもしれない。「本当に自然界でマングースがハブを補食するのか」という批判的思考をする学者や官僚が少しでもいたら、こうはならなかったでしょう。
本書に戻って、著者が「打麻雀運動」を例に出したのは、批判的に考えることの重要性を指摘したかったからでした。
この引用部分が本書のテーマになっています。「誤った考え方が生じやすい場面を知り、批判的に考える能力をつける」というところです。さらに著者は、そのときに重要な点をあげています。
これで明らかなように、批判的思考は自分の考えに対して批判的に考えることも含みます。
現代は特に「批判的に考える」ことが重要です。その理由は、新聞・テレビ・ラジオといった従来メディアを凌駕するインターネットの発達、特にソーシャル・メディアの浸透です。ここでは玉石混淆、真実から嘘までのあらゆる情報が飛び交っていて、しかも情報を拡散させるのが極めて容易です。著者は「ソーシャル・メディアで共有されている記事の 59% が記事を読んでもいない人によって拡散されていると言われる」と書いていますが、いかにもありそうな話です。要するに、何らかの知的作業を行うことは一切なしに(もちろん批判的思考など全くなしに)情報が飛び交っている。
著者は「オンラインでいちばん共有されやすいのは強い感情」だとも言っています。これは米国科学アカデミーが2017年に行った調査でも裏付けられたそうです。怒り、恐怖、嫌悪、感情的表現に溢れた情報ほど共有されやすい。このことが、デマ、虚言、フェイク、偽ニュースの拡散に一役買っています。
偽りの物語は、いちど広まると簡単には訂正できません。長く人々に意識に残ります。これをインターネットの "利点" と見なして、プロパガンダ目的で偽ニュースを大量に流したのが、2016年の米国大統領選挙でした。そこには外国勢力もからんでいたことが明らかになりました。
偽りの物語が長く人々の意識に残るのは、心理学者が「真理の錯誤効果」と呼んでいるものが一因です。
著者は、「いかに知能が優れていようとも、人間は感情的な動物に過ぎない。私たちは理性のないサル。疑わしい結論を信じ込み、軽率な行動を起こすことが多い」と書いています。だからこそ、本書のテーマである「批判的思考」が重要なのです。
本書は序章のあとに第1部から第6部までの構成になっています。以降、それぞれのセクションのさわりを紹介します。
第1部:形式的誤謬
本書の第1部は「理性の欠如」というタイトルがついていますが「形式的誤謬」を扱っています。主張の論理構造が誤っていたり矛盾している例です。これを意図的に行うのが「詭弁」です。何点か紹介します。
「後件肯定」とは論理学の用語で、日常生活では使いませんが、別に難しいことではありません。後件肯定の誤謬とは、
とする形式的誤謬です。「P は Q である」の P が「前件」、Q が「後件」です。紛らわしいのは「後件肯定」における結論が、結論だけをとると正しいことがあることです。
の結論は正しい。しかし人間のところを犬に置き換えると誤った結論になります。
著者は、世の中で広まっている「陰謀論」の根幹にはこの「後件肯定」があり「よこしまな論証があたかも正当であるかのような幻想を作り出す」と指摘しています。陰謀論とは「世の中で起こった大きな事件や事故、出来事が、実は隠れた勢力が裏で引き起こした陰謀である」という論ですが、その例として著者は「9.11事件」を取り上げています。
2001年9月11日、アメリカでイスラム過激派によって4機の旅客機が同時にハイジャックされました。まずアメリカン航空11便が、ニューヨークのツイン・タワーの北棟、93階と99階のあいだに時速790kmのスピードで突入しました。その数分後、ユナイテッド航空175便が南棟の77階と85階のあいだに時速960kmで突っ込んだ。この攻撃によりツインタワーは激しい炎に包まれ、タワーそのものが崩壊し、世界中の人々を愕然とさせました。
別の場所では、アメリカン航空77便のハイジャック犯が旅客機もろとも国防総省に突入しました。またユナイテッド航空93便では勇敢な乗客たちがハイジャック犯に反撃し、自らの命を投げうって目的地に到達する前に飛行機を墜落に導きました。この飛行機の攻撃の目的地はワシントンの政治中枢だと言われています。
このアメリカ史上最悪のテロによって2996人の命が失われました。世界で最も強大な国家の中枢に攻撃を仕掛けるという大胆さに世界は動揺し、ツインタワーが崩れ落ちるイメージが人々の意識に刻み込まれた。しかしツインタワー崩壊の煙が収まらない時から「陰謀論」が広まり始めたのです。
この事件後、インターネット上では陰謀論が大流行します。ビデオも大量にアップされました。「9.11テロの真実を求める運動」は "トゥルーサー" 運動と呼ばれ、次第に一般の人々に浸透していきます。これらの陰謀論には共通点がありました。それは「公式の説明は信用できない」という態度です。
この "陰謀論の火" に油を注いだのが、2003年のブッシュ政権のイラク侵攻でした。9.11テロを起こしたアルカイダとイラクのフセイン政権を結びつける証拠が何もない状況の中で、ブッシュ政権はイラクが大量破壊兵器を保有しているという "話" をもとにイラクに侵攻したのです。この「大量破壊兵器の保有」は、後に全くの捏造であることが分かりました。こういったブッシュ政権の不誠実な態度が「9.11テロ陰謀論」に拍車をかけたのです。
しかし、この種の陰謀論は簡単に論破できると著者は書いています。その例として「ジェット燃料が燃えたぐらいで鋼鉄の梁が溶けることはない」「人為的な爆発がタワーを崩壊させた」という主張を考えてみましょう。
しかし 9.11トゥルーサー運動はその後も続き、本書の執筆時点でアメリカ人のおよそ 15% が 9.11 は「内部の者による工作」だったと考え、国民の半数は事件後の歴代政権が事件の真相を隠蔽していると信じているそうです。事件後10数年が経過してもそのような考えが消えないのはどうしてでしょうか。
著者はその大きな理由が「後件肯定」にあると指摘しています。「後件肯定」は陰謀論者がナンセンスを物語に仕立てる常套手段です。つまり陰謀論者は、
という主張をします。これは「ソクラテスは犬だった」式の論理で、こじつけであることが明白です。しかしこのこじつけにより、陰謀論には証拠が欠けているという明白な事実でさえ、彼らの主張を裏付けるような印象を作り出すわけです。このこじつけに騙される人がいるのが、陰謀論が未だに消えない根幹の理由です。
媒概念不周延とは論理学の難しい用語ですが、この用語が重要なわけではありません。用語の説明は後に回します。この誤謬を使った詭弁はよくあり、著書はそれを「(携帯電話などに使われる)無線電波がある種の癌を誘発する」という論で説明しています。
携帯電話の使用と脳腫瘍(膠芽腫や髄膜種など)のリスクについては各国で疫学調査が行われましたが、今まで関係が見つかったことがありません。また他の腫瘍との関係が示されたこともありません。そもそも、1990年頃の携帯電話の普及率はほぼゼロでしたが、現在ではほぼ100%になっています。そして1990年代以降に脳腫瘍(ないしは他の腫瘍)が激増したことはないのです。しかしインターネット上には携帯電話の電波が癌を引き起こすという主張をするサイトが多数あります。
携帯電話に使われる無線電波は電磁波(Electromagnetic Wave)の一種ですが、電磁波を波長の短い方から(従ってエネルギーの強いものから)順に並べると以下のようになります。nm はナノ・メートル(10-9メートル)です。
電磁波の一部(放射線)は分子の化学結合を破り、原子から電子を弾き飛ばすほどのエネルギーを持っています。従って生体のDNAを傷つけ、結果として癌を引き起こすほどの力を秘めている。逆に、このことを利用して癌細胞を死滅させる医療に使われています(癌の放射線治療)。
しかし携帯電話に使われる無線はマイクロ波であり、波長は1mm~1m程度です。電磁波のエネルギーでみると、最もエネルギーの小さい可視光(700nm程度の赤色光)でさえ、最もエネルギーの大きい携帯電話用マイクロ波(波長 1mm程度)の1430倍ものエネルギーがあります。マイクロ波が癌を誘発するなら赤色光も癌を誘発するはずですが、そんなことはないのです。
「無線電波=癌のリスク」論者がわざわざ持ち出すのは、放射(Radiation)という単語が入った「電磁放射 Electromagnetic Radiation」という言葉です。ここでの Radiation は "媒体や空間を介したエネルギーの伝播" という意味ですが、単に Radiation と言うとアルファ線やX線などの放射線をも意味する。放射線は癌を誘発するリスクがあるので、そこがややこしいというか、言葉が曖昧なところです。この電磁放射という言葉を使って次のような論法が行われます。
これは典型的な「媒概念不周延の誤謬」です。媒概念とは前提にはあるが結論にはない概念のことで、上の論法では "電磁放射" がそれにあたります。また「周延」とは、概念 XXX について
すべての XXX は ・・・・・・ である
すべての XXX は ・・・・・・ でない
というように、XXX に属するものすべてについての命題が規定されていることです。それがされていない場合が「不周延」です。上の論法では「電磁放射」という媒概念が不周延なので「媒概念不周延の誤謬」となります。
上にように書いてみると論理的な誤りが明白ですが、演説などでは言葉をあやつって悪用されます。これは政治の世界でもよくあり、たとえば「共産主義者は増税を支持している。私の政敵は増税を支持している。従って、私の政敵は共産主義者だ」といった論法です。
生き残ったもの(残存しているもの)には、生き残っているということに起因する "偏り" があります。これが「生存者バイアス」です。
この半世紀ほどにおける癌の発生率の増加も「生存者バイアス」と言えるでしょう。癌の増加を大気中の化学物質の増加や食品添加物に関連づける言説がありますが、それは違います。癌の発生リスクは加齢とともに増加します。従って高齢になるまで "生き残った" 人たちには癌の発生リスクが高いという "バイアス" が存在する。医療が進歩し、感染症で死ぬ人が少なくなり、世の中が高齢化すると癌の発生率は高くなるのが当然です。
エビデンスの中から自分に都合のよいものだけを選び、その他のものは排除ないしは無視することを "チェリーピッキング" と呼びます。チェリーとは "さくらんぼ" のことですが、熟れたさくらんぼを選別して選ぶところからこの名前があります。
よく健康食品の販売コマーシャルに「お客様の声」があります。「これを食べ出してから(飲み出してから)元気になりました」という "声" ですが、それ自体はユーザの意見として嘘ではないのでしょう。しかし「健康状態は変わらない」「悪くなった」という声は採用されません。良かったという声だけをチェリーピッキングしてコマーシャルを打っているわけです。
代替医療というのがあります。現代の医学では治療法として認められていない民間療法や、あやしげな療法を言いますが、人間の体は複雑なので、そのような代替医療で治癒したように見えることはあるわけです。たまたまなのかも知れないし、プラセボ効果かもしれないし、人間の免疫機構が病気に勝ったのかも知れない。代替医療の推進者は、こういう例だけをチェリーピッキングして宣伝をします。
著者は、チェリーピッキングの典型例が霊能者だと言っています。たとえば、犯罪に使われた物品をもとに犯罪詳細を言い当てるといった例です。これは確率的に "当たる" ことがある。その当たった例だけをチェリーピッキングすると "霊能" があるように見せかけられます。
気候変動は起こっていないとする否定論もチェリーピッキングです。科学者の出した膨大なデータは気候変動を示していますが、中には(地域や測定項目によっては)起こっていないとするデータもある。そういったデータにしがみついているのが否定論者です。
ビジネスに成功した人をとりあげて、成功の要因をあげるのもチェリーピッキングに近いでしょう。同じようにやって成功しなかった多数の人がいると想定できるからです。
第2部:非形式的誤謬
「純粋で単純な真実?」と題された第2部は非形式的誤謬を扱っています。
著者は、世の中で非常に権威のある人が言っているから正しいと考えてしまう傾向、ないしは権威者がその権威を背景に論じることを「権威に訴える論証」と呼んでいます。これは典型的な非形式的誤謬です。
「ビタミンCをとれば風邪の予防になる」という噂を聞いた人は多いはずですが、この噂のもとをたどると米国のライナス・ポーリングに行き当たります。ポーリングは量子化学の権威で、1954年のノーベル化学賞に輝きました。また、核兵器に対する反対運動を主導したことで1962年にノーベル平和賞が授けられています。ノーベル賞を個人で2回受賞したのは数人いて、有名なのはキュリー夫人です(物理学賞と化学賞)。しかし化学賞と平和賞という異分野で受賞したのはポーリングだけです。
ポーリングは1960年代の講演で「科学の進歩を見届けるためにあと25年は生きたい」と発言ましたが、その聴衆の中のアーウィン・ストーンというい人物がいました。この人物はポーリングに手紙を書き、1日3000ミリグラムのビタミンCを活力の源として推奨しました。ここから話は変な方向に進み出します。
ポーリングはその後、ビタミンCの大量摂取は癌や蛇の毒、エイズまでに利く万能薬と主張し出したようです。
ビタミンCは体に必須なので(しかも体内で合成できない)、不足するとまずいことがいろいろ起こることは想定できます(ビタミンC欠乏症の代表は壊血病)。免疫力が低下して風邪をひきやすくなるかもしれない。しかし、1日の必要量(成人男性で100mg程度。厚生労働省の推奨量)を遙かに超える量を摂取しても排泄されるだけです。大量摂取による重篤な副作用はないようですが、重度の膨満感や下痢が起きやすくなることはあるようです。
ポーリングの例は、ある分野に精通しているからといって他の分野でも精通していたり知識があるわけではないことを示しています。ノーベル賞を2度もとった "権威" で判断してはいけないのです。
人間は、原因と結果がはっきりしている単純な物語を好みます。このことが起因して "問題を単純化する誤り" を犯しやすい。その一つが「単一原因の誤謬」です。これは物事の原因を一つに決めてしまう誤りです。
多くの事象は複数の原因や要因によって成立しています。物事をあまりに単純化することは何の役にもたちません。しかし政治やメディアの議論では、うんざりするほど「単一原因の誤謬」があるのが現状です。
「誤った二分法」も "問題を単純化する誤り" の一つです。他にもたくさんの選択肢があるにもかかわらず、2つの極端な項目しか選択の対象にしない。これは扇動政治家が好んで用いる論法です。「我々の提案に完全に同意しないのなら、君は敵だ」という論法です。
上の方の引用で9.11事件の後に巻き起こった陰謀論のことを書きましたが、その9.11のあとの米国議会の合同会議で、ジョージ・ブッシュ大統領は世界の国家に警告を発しました。「我々とともにあるか、それともテロリストとともにあるか」。これは典型的な「誤った二分法」です。
「誤った二分法」を使うと2極化が避けられません。また過激主義を助長します。建設的な議論を封じ、実用的な解決策を台無しにします。これはソーシャルメディアでも顕著です。著者は「数多くのニュアンスを含む複雑な話題が、正反対の解釈だけを許す2つの対立項にまで単純化されている」と書いています。
「前後即因果の誤謬」とは「一つの事象のあとにもう一つの事象が続いたという事実だけにもとづいて両者間の因果関係を認めてしまう飛躍した考えた方」を言います。著者はこれを幼児の予防接種と自閉症の関係で説明しています。
これをきっかけに報道機関は大々的にこの話題を取り上げ、イギリス中が騒動になりました。これは大きな犠牲を生みました。イギリスのみならず西ヨーロッパにおける予防接種の接種率が大幅に低下し、麻疹などへの感染率が上昇したのです。
しかしこの論文にはデータの改竄があることが判明し、『ランセット』は論文を撤回し、ウェイクフィールドは医師免許を剥奪されました。「自閉症的腸炎」は、ウェイクフィールドが捏造したエビデンスだけに裏付けられた作り話だったのです
しかしこの騒動の後遺症は大きく、いまだに多くの人はMMRが自閉症の原因だと信じていると言います。著者はその原因が「前後即因果の誤謬」にあると指摘しています。
MMRにかかわらず、ワクチン反対運動やワクチン接種率の低下はゆゆしき問題です。WHOは2019年に初めて、全世界の健康に対する脅威のトップ10の中にワクチン接種への抵抗を入れたそうです。
白人至上主義という思想をもつ人たちがいます。彼らは「白人に共通する本質的な性格があると仮定する誤り」を犯しています。このように「本質的な何かがある」との仮定のもとに主張することを著書は「本質に訴える論証」と呼んでいます。白人については、著者は次のように書いています。
白い肌はヨーロッパ大陸の最北部で始まり、ヨーロッパ大陸全体に爆発的に増えたのは5800年前に過ぎません。「白色人種」はフィクションです。白色人種に本質的な何かがあるとの仮定にたった論証は単純に誤っています。
この「本質に訴える論証」も、さまざまなところで聞かれます。「真の日本人にそのようなことをする人はいない」というような言い方も、その一つでしょう。
証拠もあげずに「・・・・・・ が自然だ」「・・・・・・ は不自然だ」と決めつけ、そこから論を展開するのが「自然に訴える論証」です。著者はこれを同性愛の例で説明しています。つまり「同姓愛は不自然、異性愛が自然」との前提から出発する論です。実際にカトリック教会では同性愛が極めて不自然な状態と見なされ「自然に反する罪」とされています。この考えは正しいのでしょうか。
「藁人形論法」とは、相手の主張の代わりになる何か(=藁人形。ストローマン)を設定し、それを攻撃して主張そのものを論破したかのような印象を与える言説です。
ダーウィンが進化論を発表したとき、イギリスで進化論を攻撃するのに使われたのが「藁人形論法」です。攻撃論者は「進化論は変化した猿を人間の起源とする説」だと言いふらし、ダーウィンの主張を歪めた「藁人形」を作って攻撃しました。もちろんダーウィンはそんなことは言っていません。現代風に言うと、人間と霊長類の共通の祖先から、突然変異と自然選択の繰り返しで段々と進化して人間ができたわけです。
第3部:思考の罠
第3部「思考の罠」では、我々が陥りやすい思考の落とし穴について述べられています。そのうち「確証バイアス」と「認知的不協和」について紹介します。
「自分がもとからもっている信念や世界観に一致する情報ばかりを集めたり組み立てたりして、反する情報は軽視する傾向」を「確証バイアス」と言います。
日本でもよく災害時の避難で「確証バイアス」が話題になります。自分は災害にあわないという "根拠のない思い込み" をしている人は、まだ避難しなくても大丈夫ということにつながる情報だけを採用し、危険が間近に迫っていることを裏付ける情報を軽視して、結果として災害死してしまう。そういったときに使います。
この「確証バイアス」は、次の「認知的不協和」と密接な関係があります。
心理学でいう「認知的不協和とその解消」については、No.129「音楽を愛でるサル(2)」で、イソップ寓話 "キツネとブドウ" をあげて説明しました。飢えたキツネが実ったブドウをみつけ、取ろうと飛び上がるがどうしても取れない。とうとうキツネは「あのブドウは酸っぱくて食えない」と言って立ち去ったという寓話です。「食べたい」のに「取れない」という "不協和" を、「あのブドウは酸っぱい」との "負け惜しみ" で現実を否定して "解消" したわけです。
本書ではこの認知的不協和とその解消を、次のように説明しています。
この認知的不協和の例として、本書は「気候変動の否定論」をあげています。保守的な考えをもち、自由主義市場を強く信じる政治家や有権者ほど気候変動を否定する傾向が強いのです。なぜでしょうか。
第4部:確率・統計の誤謬
第4部は「嘘、大嘘、そして統計」と題されています。この題はアメリカの文豪、マーク・トウェインの著述で広まったもので、「嘘には三種類ある。嘘、まっかな嘘、そして統計」という警句です。
相関関係は因果関係ではないことは、このブログでもNo.83-84「社会調査のウソ」、No.223「因果関係を見極める」で取り上げました。本書でもこの話題がありますが、端的に示すために、
と書いてあります。なるほど、これは分かりやすい例です。アイスクリームが売れると、そのことが原因で溺死事故が増える(=因果関係がある)とは誰も考えません。もちろんこれは「高温の晴れた日」が隠れた変数(=潜伏変数。交絡変数という言い方もある)になっていて、この変数が「アイスクリームの売り上げ」および「溺死件数」の2つと因果関係にあり、そのことで2つの間に相関関係が発生するわけです。
ある集団の統計と、その集団を部分に分割したときの統計は、矛盾する関係になることがあります。これを「シンプソンのパラドックス」と呼んでいます。
本書には数字の例が書いていないので、仮想的に作ってみます。いま、ある大学があって工学部と英語学部の2学部しかないとします。各学部の定員と男女別受験者数・合格者数を仮定して作ったのが次の表です。
工学部と英語学部とも女子の方が合格率が高いのに、全学では圧倒的に男子の合格率が高いことになります。一瞬、間違っているのではと疑ってしまいますが、計算は正確です。人数が少ない女子受験生が合格率の低い英語学部に集中すると、こういう結果になってもおかしくないのです。
本書には(偶然にもタイムリーな話題として)感染症の検査にかかわる統計・確率の話が出てきます。
ある感染症にかかっている人が検査で陽性と判断される確率を、その検査の「感度」と呼びます。また、感染症にかかっていない人が検査で「陰性」と判断される確率を、その検査の「特異度」と呼びます。
もちろん感度も特異度も100%が望ましいのですが、そうはなりません。つまり、検査で「陽性」と判断された人が実は感染していないということが起きる(=疑陽性)。その反対に、検査で陰性と判断された人が実は感染している(=疑陰性)ということも起こります。
検査で「陽性」と判断された人が、真に感染症にかかっている確率を「真陽性率」と呼びます。
エイズの検査(HIVウイルスのキャリアかどうかの検査)は感度も特異度も高いことで知られています。今、感度も特異度も 99.99% とします。実際はもう少し低いようですが、真陽性率の意味を明確にするためにこの値とします。つまりエイズ検査では 99.99% の高い精度で、その人がHIVウイルスに感染しているかどうかが(感染していても、していなくても)判定できるとします。
この仮定のもとで、真陽性率が 50%、つまりHIV陽性と判定された人が真にHIVに感染している確率が 50%ということが起こり得えます。それは検査した集団の感染率が非常に低い場合です。10,000人に1人が感染している例で表を作ってみると次のようになります。
1万人のうち1人が感染している場合
真陽性率 = 1/2 = 50% です。一方、感染率の高い集団の検査は様子が違ってきます。
1万人のうち150人が感染している場合
真陽性率は 150/151 = 99.34% になります。
ここで本書にはありませんが、新型コロナウイルスのPCR検査ではどうなるかを見てみます。新型コロナウイルスのPCR検査の感度と特異度は正確にはわからないの現状です。正確に知るためにはPCR検査以外の方法で感染者・非感染者を正確に判別し、その人たち多数のPCR検査をして調べる必要があります。しかし「新型」なのでPCR検査以上に正確に判定する手段がありません。また感染してからの時間経緯とともに感度が変わってくるということもあります。政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会は、
・感度 70%
・特異度 99.9%
と推定しています(日本経済新聞 2020年9月4日による)。これをとりあえずの値として「集団の感染率によって真陽性率がどう変化するか」を計算してみたのが次のグラフです。
このグラフから明らかなように、感染率0.14%の集団(1万人に14人の感染者)のPCR検査を実施すると真陽性率は50%です。つまり陽性と出ても感染しているかしていないかは全く不明です。感染率が1.27%の集団(1万人に127人の感染者)になって初めて真陽性率が90%になります。
新型コロナウイルスのPCR検査について専門家の多くの意見は「増やすべき。ただし増やすやりかたは慎重に」というものだと思います。その裏には上記のような感度・特異度の問題があるわけです。
第5部:メディアが人々を惑わす
「世界のニュース」と題されている第5部は、メディアが人々を惑わしている例です。この中kら「偽りのバランス」を紹介します。
「対立する見解を、それぞれの見解を裏付ける証拠に大きな違いがあるにもかかわらず、同等に扱う」ことを、本書では「偽りのバランス」と呼んでいます。これは報道機関が犯す典型的なあやまちです。著者によると、2016年の米国の大統領選挙(ドナルド・トランプ 対 ヒラリー・クリントン)では、トランプ陣営からの嘘やフェイク、根拠のない決めつけが圧倒的に多かったにもかかわらず、同等に扱ったのがその例です。
「偽りのバランス」の科学版も考えられます。喫煙が肺癌を引き起こすというデータは膨大にありますが、喫煙が肺癌を引き起こさないというデータはわずかしかありあません。この両者を対等に扱う報道やTV番組はおかしいのです。
気候変動もそうです。気候変動が起こっていることを示すデータは膨大にありますが、起こっていないことを示すデータはわずかです。この両者を対等に扱うべきではない。本書には、MITの科学ジャーナリズム・ナイト・センターの所長を務めるボイス・レンズバーガー(Boyce Rensberger)の意見として「バランスのとれた科学報道とは、議論の両見解を等しく重いものとして扱うことを意味していない。証拠のバランスに応じて、重みを配分することを意味している」と書かれています。全くその通りでしょう。
第6部:疑似科学
「暗闇に立つろうそく」と題された第6章は「疑似科学」を扱っています。たとえば次のような例です。
ホメオパシーはドイツ人医師ザムエル・ハーネマンが1807年に提唱したもので、"治療薬" を極端に薄めます。100倍の希釈を10数回から30回繰り返して "治療" に使います。100倍の希釈を30回も繰り返すと、もともとの "治療薬" の分子は1つも残らないことは明白なのですが、「水が記憶している」とするわけです。「ただの水」なので副作用はありませんが、プラセボ(偽薬)以上の効果はありません。
このような200年近く前の亡霊が、抗体の免疫反応という新たな装いで登場したわけです。このような論文をなぜ『ネイチャー』ともあろう雑誌が掲載したのか、その経緯と撤回の顛末が本書に書かれていますが、それは省略します。
この「溶液をしっかりと振ると免疫反応をみせた」というとことで、2014年に起こった「STAP細胞事件」を連想しました。分化が終わった細胞に熱や酸などの刺激を加えると再び分化する能力が獲得されたと、理化学研究所の研究者などが発表したものです。これは発表者でも再現実験ができず、第3者の調査委員会は実験室におけるES細胞の混入によるものと結論づけました。
これは科学者が意図的に、あるいは誤って作り出した疑似科学と呼べると思いますが、もっと一般的には、健康にかかわる商品である「マイナスイオンを発生させる家電商品」や「ゲルマニウムを使った健康器具」も、科学を装った疑似科学でしょう。
著者は、インターネット時代になり、一時廃れていた疑似科学が復活してきていると警告しています。たとえば、日本では行われていませんが、水道水にフッ素を混ぜるのは安全で虫歯予防に効果があることが確立してきましたが、インターネット時代になって反フッ素運動が復活し、癌や鬱病などの副作用があるとの主張がなされるようになりました。これらは一見、科学の装いをまっとっているので注意が必要です。
終わりに
本書のまとめである「終わりに」のセクションから2つの点を紹介します。一つはディベート(討論)の問題点です。
著者も指摘していますが、ディベートの問題点には「偽りのバランス」もあります。本来まったく重さの違う2つの見解が、討論の場では同じ価値をもつものとして扱われるという弊害です。
上の引用で思い出すのは高等教育などで行われるディベートの実習訓練で、本人の意志とは無関係にグループを賛成派と反対派に分け、それぞれの立場からディベートをするというやり方です。こういった訓練を何回も受けた人は、二分法でディベートを行うことに違和感がなくなり、たとえそれが「偽りの二分法」であっても知らず知らずのあいだに許容してしまうのでしょう。
最後に引用するのは、本書の序章に書かれていたことと同様の主旨が「人格を決めるのは考える能力」という言い方で再度強調されているところです。
「人格を決めるのは信念ではなく、考える能力」というのは良い言葉だと思います。信念も重要だが、それ以上に考える能力、という言い方もありだと思います。このあたりが本書の結論でしょう。
本書は、まどわされやすいパターンを分類・列記し、それに名前をつけています。「確証バイアス」や「誤った二分法」などです。世の中で公式に使われる用語もあれば、著者が名付けた言葉もあります。この「名前をつける」ということが重要だと思いました。
人間は事物や概念に「名前をつけて」自己に取り込みます。名前をつけることで、それを引き出し、応用できます。「いま自分は、自分の信念にマッチした都合のよい情報だけを拾い上げているのではないだろうか」と考えるより「確証バイアスでないか」と考える方が、思考方法としては効率的で有効性が高い。「確証バイアス」という言葉とその意味を知ってしまえば、その言葉を使って考えることができます。テレビの討論番組をみるときにも「あれは "誤った二分法" じゃないか」と批判的に考えることができます。
本書のテーマである「批判的思考」ができるようになるためには、このあたりが大切であり、そこが本書の価値だと思いました。
また、No.83-84「社会調査のウソ」では、現代において数限りなく実施されている社会調査は、その調査方法が杜撰だったり推定方法が誤っていると実態とはかけ離れた結論になることを見ました。この「社会調査のウソ」の一つが "偽りの因果関係" です。つまり、物事の間に相関関係があると即、それが因果関係だと判断してしまう誤りです。No.223「因果関係を見極める」ではその分析と、正しく因果関係を見極める方法を専門家の本から紹介しました。
さらに、No.290「科学が暴く "食べてはいけない" の嘘」は、食の安全性についての科学的根拠がない言説にまどわされてはいけないという話でした。
以上の「直感」「社会調査」「因果関係」「食べてはいけない」以外にも、我々を誤った思考に導きやすいものがいろいろとあります。特に今の社会はインターネットの発達もあって、人々をまどわす誤った主張や非論理的な説明に満ちているのが実態です。それらに惑わされないようにして現代社会を生きて行くには、どうすればよいのか ────。最近、このテーマに絞った本が出版されました。
『まどわされない思考』
デヴィッド・ロバート・グライムス 著
長谷川 圭 訳
角川書店 2020
非論理的な社会を批判的思考で生き抜くために
で、批判的思考(=クリティカル・シンキング)がテーマになっています。また本書の原題は、
The Irrational Ape
(= 非理性的なサル)
です。「人間は理性的なサル」という言い方がありますが、実態は感情に支配される非理性的なサルだという、自戒を込めた題名です。これを乗り越えるのが批判的思考(=クリティカル・シンキング)というわけです。
本書は現代社会のさまざまな問題・課題を考える上で大いに参考になると思ったので、以下に内容の "さわり" を紹介します。
序章:批判的思考
本書の序章に、1950年代の中国の「大躍進政策」の一環として行われたスズメの駆除運動のことが書かれていました。当時の中国では、農業の近代化と国の躍進のために害虫・害獣の駆除が必須だと見なされていました。たとえば、蚊やネズミは疫病を広めていたからです。ちょっと長くなりますが、引用します。
以降の本書からの引用では段落を増やしたところがあります。また、漢数字を算用数字に改めたところや、ルビを追加したところもあります。下線は原文にはありません。
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これは「浅はかな考えで行動すると恐ろしい結果になる」ことの(極端な)例です。特に、中国を代表する鳥類学者の警告に耳をかさなかったのが、「批判的思考がないと起こる最悪の事例」になっています。
この「打麻雀運動」のくだりを読んで思ったのですが、これは「カリスマ独裁者が支配する共産党独裁政権で起こった特殊な出来事」なのでしょうか。そうとも言えないと思います。
現在日本で最も深刻な生態系被害をもたらしている外来動物はマングースです。マングースは毒ヘビのハブを退治するために、動物学の権威であった東大教授の提唱で1910年(明治43年)に沖縄本島に持ち込まれました。そして1979年には奄美大島にも導入されました。
しかし1980年代になって研究者がマングースの胃の内容物や糞を分析した結果、ハブを食べている個体はほとんどいないことが分かりました(この経緯は中国のスズメとそっくりです)。代わりに沖縄本島ではヤンバルクイナ、奄美大島ではアマミノクロウサギなどの沖縄の固有種(この2種は天然記念物で、かつ絶滅危惧種)が犠牲になっていることが分かったのです。マングースもバカではありません。命がけで毒ヘビを襲うより、飛べない鳥を食べた方がラクというものです。加えて、マングースは昼間に活動し、ハブは夜行性です。そもそもマングースとハブが自然界で出会うチャンスは少ないのです。
環境省は2000年からマングースの駆除をはじめました。これにかかる費用は年間数億円の規模です。マングースの個体数は減ってきたようですが、現在までに完全駆除できたわけはありません。これからも多額の予算が投下され続けるわけです。
この経緯は、スズメの駆除が一因となって飢饉に陥り、あわててスズメを外国から輸入した中国とは逆のパターンです。しかし「浅はかな考えで行動すると、とんでもないことになる」ことは共通しています。しかも、マングースの導入を提唱したのが最高学府のれっきとした動物学者というところが、中国よりも "浅はか" かもしれない。「本当に自然界でマングースがハブを補食するのか」という批判的思考をする学者や官僚が少しでもいたら、こうはならなかったでしょう。
本書に戻って、著者が「打麻雀運動」を例に出したのは、批判的に考えることの重要性を指摘したかったからでした。
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この引用部分が本書のテーマになっています。「誤った考え方が生じやすい場面を知り、批判的に考える能力をつける」というところです。さらに著者は、そのときに重要な点をあげています。
思考の道筋を、いつも、最後まで、論理的にたどること。 | |
エビデンス、つまり明らかな事実を頼りにすること。 | |
自分の信念に対して、他人の信念と同じぐらいに厳しい疑いの目を向けること。 | |
間違った考えや信念を、それがどれだけ心地よいものであっても、捨てる覚悟を持つこと。 | |
導き出した結論が気に入るかどうか、自分の世界観に合っているかより、その結論がエビデンスと論理によって導き出されたものかどうかを重視すること。 |
これで明らかなように、批判的思考は自分の考えに対して批判的に考えることも含みます。
現代は特に「批判的に考える」ことが重要です。その理由は、新聞・テレビ・ラジオといった従来メディアを凌駕するインターネットの発達、特にソーシャル・メディアの浸透です。ここでは玉石混淆、真実から嘘までのあらゆる情報が飛び交っていて、しかも情報を拡散させるのが極めて容易です。著者は「ソーシャル・メディアで共有されている記事の 59% が記事を読んでもいない人によって拡散されていると言われる」と書いていますが、いかにもありそうな話です。要するに、何らかの知的作業を行うことは一切なしに(もちろん批判的思考など全くなしに)情報が飛び交っている。
著者は「オンラインでいちばん共有されやすいのは強い感情」だとも言っています。これは米国科学アカデミーが2017年に行った調査でも裏付けられたそうです。怒り、恐怖、嫌悪、感情的表現に溢れた情報ほど共有されやすい。このことが、デマ、虚言、フェイク、偽ニュースの拡散に一役買っています。
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偽りの物語は、いちど広まると簡単には訂正できません。長く人々に意識に残ります。これをインターネットの "利点" と見なして、プロパガンダ目的で偽ニュースを大量に流したのが、2016年の米国大統領選挙でした。そこには外国勢力もからんでいたことが明らかになりました。
偽りの物語が長く人々の意識に残るのは、心理学者が「真理の錯誤効果」と呼んでいるものが一因です。
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著者は、「いかに知能が優れていようとも、人間は感情的な動物に過ぎない。私たちは理性のないサル。疑わしい結論を信じ込み、軽率な行動を起こすことが多い」と書いています。だからこそ、本書のテーマである「批判的思考」が重要なのです。
本書は序章のあとに第1部から第6部までの構成になっています。以降、それぞれのセクションのさわりを紹介します。
第1部:形式的誤謬
本書の第1部は「理性の欠如」というタイトルがついていますが「形式的誤謬」を扱っています。主張の論理構造が誤っていたり矛盾している例です。これを意図的に行うのが「詭弁」です。何点か紹介します。
 後件肯定の誤謬と陰謀論  |
「後件肯定」とは論理学の用語で、日常生活では使いませんが、別に難しいことではありません。後件肯定の誤謬とは、
: | P は Q である。 | |
: | Q である。 | |
: | 従って、P である。 |
とする形式的誤謬です。「P は Q である」の P が「前件」、Q が「後件」です。紛らわしいのは「後件肯定」における結論が、結論だけをとると正しいことがあることです。
: | すべての人間は死ぬ。 | |
: | ソクラテスは死んだ。 | |
: | 従って、ソクラテスは人間だった。 |
の結論は正しい。しかし人間のところを犬に置き換えると誤った結論になります。
: | すべての犬は死ぬ。 | |
: | ソクラテスは死んだ。 | |
: | 従って、ソクラテスは犬だった。 |
著者は、世の中で広まっている「陰謀論」の根幹にはこの「後件肯定」があり「よこしまな論証があたかも正当であるかのような幻想を作り出す」と指摘しています。陰謀論とは「世の中で起こった大きな事件や事故、出来事が、実は隠れた勢力が裏で引き起こした陰謀である」という論ですが、その例として著者は「9.11事件」を取り上げています。
2001年9月11日、アメリカでイスラム過激派によって4機の旅客機が同時にハイジャックされました。まずアメリカン航空11便が、ニューヨークのツイン・タワーの北棟、93階と99階のあいだに時速790kmのスピードで突入しました。その数分後、ユナイテッド航空175便が南棟の77階と85階のあいだに時速960kmで突っ込んだ。この攻撃によりツインタワーは激しい炎に包まれ、タワーそのものが崩壊し、世界中の人々を愕然とさせました。
別の場所では、アメリカン航空77便のハイジャック犯が旅客機もろとも国防総省に突入しました。またユナイテッド航空93便では勇敢な乗客たちがハイジャック犯に反撃し、自らの命を投げうって目的地に到達する前に飛行機を墜落に導きました。この飛行機の攻撃の目的地はワシントンの政治中枢だと言われています。
このアメリカ史上最悪のテロによって2996人の命が失われました。世界で最も強大な国家の中枢に攻撃を仕掛けるという大胆さに世界は動揺し、ツインタワーが崩れ落ちるイメージが人々の意識に刻み込まれた。しかしツインタワー崩壊の煙が収まらない時から「陰謀論」が広まり始めたのです。
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この事件後、インターネット上では陰謀論が大流行します。ビデオも大量にアップされました。「9.11テロの真実を求める運動」は "トゥルーサー" 運動と呼ばれ、次第に一般の人々に浸透していきます。これらの陰謀論には共通点がありました。それは「公式の説明は信用できない」という態度です。
この "陰謀論の火" に油を注いだのが、2003年のブッシュ政権のイラク侵攻でした。9.11テロを起こしたアルカイダとイラクのフセイン政権を結びつける証拠が何もない状況の中で、ブッシュ政権はイラクが大量破壊兵器を保有しているという "話" をもとにイラクに侵攻したのです。この「大量破壊兵器の保有」は、後に全くの捏造であることが分かりました。こういったブッシュ政権の不誠実な態度が「9.11テロ陰謀論」に拍車をかけたのです。
しかし、この種の陰謀論は簡単に論破できると著者は書いています。その例として「ジェット燃料が燃えたぐらいで鋼鉄の梁が溶けることはない」「人為的な爆発がタワーを崩壊させた」という主張を考えてみましょう。
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しかし 9.11トゥルーサー運動はその後も続き、本書の執筆時点でアメリカ人のおよそ 15% が 9.11 は「内部の者による工作」だったと考え、国民の半数は事件後の歴代政権が事件の真相を隠蔽していると信じているそうです。事件後10数年が経過してもそのような考えが消えないのはどうしてでしょうか。
著者はその大きな理由が「後件肯定」にあると指摘しています。「後件肯定」は陰謀論者がナンセンスを物語に仕立てる常套手段です。つまり陰謀論者は、
: | 隠蔽工作がある場合、公式声明は我々の見解を否定するだろう。 | |
: | 公式声明は我々の主張を誤りだと証明した。 | |
: | 従って、隠蔽工作があった。 |
という主張をします。これは「ソクラテスは犬だった」式の論理で、こじつけであることが明白です。しかしこのこじつけにより、陰謀論には証拠が欠けているという明白な事実でさえ、彼らの主張を裏付けるような印象を作り出すわけです。このこじつけに騙される人がいるのが、陰謀論が未だに消えない根幹の理由です。
 媒概念不周延の誤謬  |
媒概念不周延とは論理学の難しい用語ですが、この用語が重要なわけではありません。用語の説明は後に回します。この誤謬を使った詭弁はよくあり、著書はそれを「(携帯電話などに使われる)無線電波がある種の癌を誘発する」という論で説明しています。
携帯電話の使用と脳腫瘍(膠芽腫や髄膜種など)のリスクについては各国で疫学調査が行われましたが、今まで関係が見つかったことがありません。また他の腫瘍との関係が示されたこともありません。そもそも、1990年頃の携帯電話の普及率はほぼゼロでしたが、現在ではほぼ100%になっています。そして1990年代以降に脳腫瘍(ないしは他の腫瘍)が激増したことはないのです。しかしインターネット上には携帯電話の電波が癌を引き起こすという主張をするサイトが多数あります。
携帯電話に使われる無線電波は電磁波(Electromagnetic Wave)の一種ですが、電磁波を波長の短い方から(従ってエネルギーの強いものから)順に並べると以下のようになります。nm はナノ・メートル(10-9メートル)です。
放射線(アルファ線やガンマ線やX線など):~ 10nm | |
紫外線:10nm ~ 380nm | |
可視光:380nm ~ 760nm | |
赤外線:760nm ~ 1mm | |
電波(マイクロ波):1mm ~ 1m | |
電波(短波、中波、長波など):1m ~ |
電磁波の一部(放射線)は分子の化学結合を破り、原子から電子を弾き飛ばすほどのエネルギーを持っています。従って生体のDNAを傷つけ、結果として癌を引き起こすほどの力を秘めている。逆に、このことを利用して癌細胞を死滅させる医療に使われています(癌の放射線治療)。
しかし携帯電話に使われる無線はマイクロ波であり、波長は1mm~1m程度です。電磁波のエネルギーでみると、最もエネルギーの小さい可視光(700nm程度の赤色光)でさえ、最もエネルギーの大きい携帯電話用マイクロ波(波長 1mm程度)の1430倍ものエネルギーがあります。マイクロ波が癌を誘発するなら赤色光も癌を誘発するはずですが、そんなことはないのです。
「無線電波=癌のリスク」論者がわざわざ持ち出すのは、放射(Radiation)という単語が入った「電磁放射 Electromagnetic Radiation」という言葉です。ここでの Radiation は "媒体や空間を介したエネルギーの伝播" という意味ですが、単に Radiation と言うとアルファ線やX線などの放射線をも意味する。放射線は癌を誘発するリスクがあるので、そこがややこしいというか、言葉が曖昧なところです。この電磁放射という言葉を使って次のような論法が行われます。
: | すべての無線波は電磁放射である。 | |
: | 一部の電磁放射は癌を誘発する。 | |
: | 従って、無線波は癌を誘発する。 |
これは典型的な「媒概念不周延の誤謬」です。媒概念とは前提にはあるが結論にはない概念のことで、上の論法では "電磁放射" がそれにあたります。また「周延」とは、概念 XXX について
すべての XXX は ・・・・・・ である
すべての XXX は ・・・・・・ でない
というように、XXX に属するものすべてについての命題が規定されていることです。それがされていない場合が「不周延」です。上の論法では「電磁放射」という媒概念が不周延なので「媒概念不周延の誤謬」となります。
上にように書いてみると論理的な誤りが明白ですが、演説などでは言葉をあやつって悪用されます。これは政治の世界でもよくあり、たとえば「共産主義者は増税を支持している。私の政敵は増税を支持している。従って、私の政敵は共産主義者だ」といった論法です。
 生存者バイアス  |
生き残ったもの(残存しているもの)には、生き残っているということに起因する "偏り" があります。これが「生存者バイアス」です。
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この半世紀ほどにおける癌の発生率の増加も「生存者バイアス」と言えるでしょう。癌の増加を大気中の化学物質の増加や食品添加物に関連づける言説がありますが、それは違います。癌の発生リスクは加齢とともに増加します。従って高齢になるまで "生き残った" 人たちには癌の発生リスクが高いという "バイアス" が存在する。医療が進歩し、感染症で死ぬ人が少なくなり、世の中が高齢化すると癌の発生率は高くなるのが当然です。
 チェリーピッキングの誤謬  |
エビデンスの中から自分に都合のよいものだけを選び、その他のものは排除ないしは無視することを "チェリーピッキング" と呼びます。チェリーとは "さくらんぼ" のことですが、熟れたさくらんぼを選別して選ぶところからこの名前があります。
よく健康食品の販売コマーシャルに「お客様の声」があります。「これを食べ出してから(飲み出してから)元気になりました」という "声" ですが、それ自体はユーザの意見として嘘ではないのでしょう。しかし「健康状態は変わらない」「悪くなった」という声は採用されません。良かったという声だけをチェリーピッキングしてコマーシャルを打っているわけです。
代替医療というのがあります。現代の医学では治療法として認められていない民間療法や、あやしげな療法を言いますが、人間の体は複雑なので、そのような代替医療で治癒したように見えることはあるわけです。たまたまなのかも知れないし、プラセボ効果かもしれないし、人間の免疫機構が病気に勝ったのかも知れない。代替医療の推進者は、こういう例だけをチェリーピッキングして宣伝をします。
著者は、チェリーピッキングの典型例が霊能者だと言っています。たとえば、犯罪に使われた物品をもとに犯罪詳細を言い当てるといった例です。これは確率的に "当たる" ことがある。その当たった例だけをチェリーピッキングすると "霊能" があるように見せかけられます。
気候変動は起こっていないとする否定論もチェリーピッキングです。科学者の出した膨大なデータは気候変動を示していますが、中には(地域や測定項目によっては)起こっていないとするデータもある。そういったデータにしがみついているのが否定論者です。
ビジネスに成功した人をとりあげて、成功の要因をあげるのもチェリーピッキングに近いでしょう。同じようにやって成功しなかった多数の人がいると想定できるからです。
第2部:非形式的誤謬
「純粋で単純な真実?」と題された第2部は非形式的誤謬を扱っています。
 権威に訴える論証  |
著者は、世の中で非常に権威のある人が言っているから正しいと考えてしまう傾向、ないしは権威者がその権威を背景に論じることを「権威に訴える論証」と呼んでいます。これは典型的な非形式的誤謬です。
「ビタミンCをとれば風邪の予防になる」という噂を聞いた人は多いはずですが、この噂のもとをたどると米国のライナス・ポーリングに行き当たります。ポーリングは量子化学の権威で、1954年のノーベル化学賞に輝きました。また、核兵器に対する反対運動を主導したことで1962年にノーベル平和賞が授けられています。ノーベル賞を個人で2回受賞したのは数人いて、有名なのはキュリー夫人です(物理学賞と化学賞)。しかし化学賞と平和賞という異分野で受賞したのはポーリングだけです。
ポーリングは1960年代の講演で「科学の進歩を見届けるためにあと25年は生きたい」と発言ましたが、その聴衆の中のアーウィン・ストーンというい人物がいました。この人物はポーリングに手紙を書き、1日3000ミリグラムのビタミンCを活力の源として推奨しました。ここから話は変な方向に進み出します。
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ポーリングはその後、ビタミンCの大量摂取は癌や蛇の毒、エイズまでに利く万能薬と主張し出したようです。
ビタミンCは体に必須なので(しかも体内で合成できない)、不足するとまずいことがいろいろ起こることは想定できます(ビタミンC欠乏症の代表は壊血病)。免疫力が低下して風邪をひきやすくなるかもしれない。しかし、1日の必要量(成人男性で100mg程度。厚生労働省の推奨量)を遙かに超える量を摂取しても排泄されるだけです。大量摂取による重篤な副作用はないようですが、重度の膨満感や下痢が起きやすくなることはあるようです。
ポーリングの例は、ある分野に精通しているからといって他の分野でも精通していたり知識があるわけではないことを示しています。ノーベル賞を2度もとった "権威" で判断してはいけないのです。
 単一原因の誤謬  |
人間は、原因と結果がはっきりしている単純な物語を好みます。このことが起因して "問題を単純化する誤り" を犯しやすい。その一つが「単一原因の誤謬」です。これは物事の原因を一つに決めてしまう誤りです。
多くの事象は複数の原因や要因によって成立しています。物事をあまりに単純化することは何の役にもたちません。しかし政治やメディアの議論では、うんざりするほど「単一原因の誤謬」があるのが現状です。
 誤った二分法  |
「誤った二分法」も "問題を単純化する誤り" の一つです。他にもたくさんの選択肢があるにもかかわらず、2つの極端な項目しか選択の対象にしない。これは扇動政治家が好んで用いる論法です。「我々の提案に完全に同意しないのなら、君は敵だ」という論法です。
上の方の引用で9.11事件の後に巻き起こった陰謀論のことを書きましたが、その9.11のあとの米国議会の合同会議で、ジョージ・ブッシュ大統領は世界の国家に警告を発しました。「我々とともにあるか、それともテロリストとともにあるか」。これは典型的な「誤った二分法」です。
「誤った二分法」を使うと2極化が避けられません。また過激主義を助長します。建設的な議論を封じ、実用的な解決策を台無しにします。これはソーシャルメディアでも顕著です。著者は「数多くのニュアンスを含む複雑な話題が、正反対の解釈だけを許す2つの対立項にまで単純化されている」と書いています。
 前後即因果の誤謬  |
「前後即因果の誤謬」とは「一つの事象のあとにもう一つの事象が続いたという事実だけにもとづいて両者間の因果関係を認めてしまう飛躍した考えた方」を言います。著者はこれを幼児の予防接種と自閉症の関係で説明しています。
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これをきっかけに報道機関は大々的にこの話題を取り上げ、イギリス中が騒動になりました。これは大きな犠牲を生みました。イギリスのみならず西ヨーロッパにおける予防接種の接種率が大幅に低下し、麻疹などへの感染率が上昇したのです。
しかしこの論文にはデータの改竄があることが判明し、『ランセット』は論文を撤回し、ウェイクフィールドは医師免許を剥奪されました。「自閉症的腸炎」は、ウェイクフィールドが捏造したエビデンスだけに裏付けられた作り話だったのです
ちなみに日本における3種混合ワクチンとは「ジフテリア・百日咳・破傷風ワクチン」であり、MMR(麻疹・おたふく風邪・風疹ワクチン)は「新・3種混合」と呼ばれたことがありました。ただしMMRは副作用の問題から(もちろん自閉症ではない軽度の副作用)、日本では接種が中断されています。
しかしこの騒動の後遺症は大きく、いまだに多くの人はMMRが自閉症の原因だと信じていると言います。著者はその原因が「前後即因果の誤謬」にあると指摘しています。
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MMRにかかわらず、ワクチン反対運動やワクチン接種率の低下はゆゆしき問題です。WHOは2019年に初めて、全世界の健康に対する脅威のトップ10の中にワクチン接種への抵抗を入れたそうです。
 本質に訴える論証  |
白人至上主義という思想をもつ人たちがいます。彼らは「白人に共通する本質的な性格があると仮定する誤り」を犯しています。このように「本質的な何かがある」との仮定のもとに主張することを著書は「本質に訴える論証」と呼んでいます。白人については、著者は次のように書いています。
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白い肌はヨーロッパ大陸の最北部で始まり、ヨーロッパ大陸全体に爆発的に増えたのは5800年前に過ぎません。「白色人種」はフィクションです。白色人種に本質的な何かがあるとの仮定にたった論証は単純に誤っています。
余談になりますが、フランスでは赤ちゃんや子どもにビタミンD入りのシロップを定期的に飲ませることが常識だと人から聞きました。我々日本人ではあまり考えられませんが、ビタミンDを獲得することは彼らにとっては切実な問題なのです。
この「本質に訴える論証」も、さまざまなところで聞かれます。「真の日本人にそのようなことをする人はいない」というような言い方も、その一つでしょう。
 自然に訴える論証  |
証拠もあげずに「・・・・・・ が自然だ」「・・・・・・ は不自然だ」と決めつけ、そこから論を展開するのが「自然に訴える論証」です。著者はこれを同性愛の例で説明しています。つまり「同姓愛は不自然、異性愛が自然」との前提から出発する論です。実際にカトリック教会では同性愛が極めて不自然な状態と見なされ「自然に反する罪」とされています。この考えは正しいのでしょうか。
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 藁人形論法  |
「藁人形論法」とは、相手の主張の代わりになる何か(=藁人形。ストローマン)を設定し、それを攻撃して主張そのものを論破したかのような印象を与える言説です。
ダーウィンが進化論を発表したとき、イギリスで進化論を攻撃するのに使われたのが「藁人形論法」です。攻撃論者は「進化論は変化した猿を人間の起源とする説」だと言いふらし、ダーウィンの主張を歪めた「藁人形」を作って攻撃しました。もちろんダーウィンはそんなことは言っていません。現代風に言うと、人間と霊長類の共通の祖先から、突然変異と自然選択の繰り返しで段々と進化して人間ができたわけです。
第3部:思考の罠
第3部「思考の罠」では、我々が陥りやすい思考の落とし穴について述べられています。そのうち「確証バイアス」と「認知的不協和」について紹介します。
 確証バイアス  |
「自分がもとからもっている信念や世界観に一致する情報ばかりを集めたり組み立てたりして、反する情報は軽視する傾向」を「確証バイアス」と言います。
日本でもよく災害時の避難で「確証バイアス」が話題になります。自分は災害にあわないという "根拠のない思い込み" をしている人は、まだ避難しなくても大丈夫ということにつながる情報だけを採用し、危険が間近に迫っていることを裏付ける情報を軽視して、結果として災害死してしまう。そういったときに使います。
この「確証バイアス」は、次の「認知的不協和」と密接な関係があります。
 認知的不協和  |
心理学でいう「認知的不協和とその解消」については、No.129「音楽を愛でるサル(2)」で、イソップ寓話 "キツネとブドウ" をあげて説明しました。飢えたキツネが実ったブドウをみつけ、取ろうと飛び上がるがどうしても取れない。とうとうキツネは「あのブドウは酸っぱくて食えない」と言って立ち去ったという寓話です。「食べたい」のに「取れない」という "不協和" を、「あのブドウは酸っぱい」との "負け惜しみ" で現実を否定して "解消" したわけです。
本書ではこの認知的不協和とその解消を、次のように説明しています。
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この認知的不協和の例として、本書は「気候変動の否定論」をあげています。保守的な考えをもち、自由主義市場を強く信じる政治家や有権者ほど気候変動を否定する傾向が強いのです。なぜでしょうか。
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第4部:確率・統計の誤謬
第4部は「嘘、大嘘、そして統計」と題されています。この題はアメリカの文豪、マーク・トウェインの著述で広まったもので、「嘘には三種類ある。嘘、まっかな嘘、そして統計」という警句です。
 相関関係は因果関係ではない  |
相関関係は因果関係ではないことは、このブログでもNo.83-84「社会調査のウソ」、No.223「因果関係を見極める」で取り上げました。本書でもこの話題がありますが、端的に示すために、
アイスクリームの売り上げと溺死件数には明白な相関関係がある
と書いてあります。なるほど、これは分かりやすい例です。アイスクリームが売れると、そのことが原因で溺死事故が増える(=因果関係がある)とは誰も考えません。もちろんこれは「高温の晴れた日」が隠れた変数(=潜伏変数。交絡変数という言い方もある)になっていて、この変数が「アイスクリームの売り上げ」および「溺死件数」の2つと因果関係にあり、そのことで2つの間に相関関係が発生するわけです。
 シンプソンのパラドックス  |
ある集団の統計と、その集団を部分に分割したときの統計は、矛盾する関係になることがあります。これを「シンプソンのパラドックス」と呼んでいます。
|
本書には数字の例が書いていないので、仮想的に作ってみます。いま、ある大学があって工学部と英語学部の2学部しかないとします。各学部の定員と男女別受験者数・合格者数を仮定して作ったのが次の表です。
シンプソンのパラドックス
工学部 | 英語学部 | 全学 | ||
定員 | 1000 | 100 | 1100 | |
男子 | 受験生 | 3000 | 625 | 3625 |
合格者 | 930 | 50 | 980 | |
合格率 | 31% | 8% | 27% | |
女子 | 受験生 | 200 | 500 | 700 |
合格者 | 70 | 50 | 120 | |
合格率 | 35% | 10% | 17% | |
計 | 受験生 | 3200 | 1125 | 4325 |
合格者 | 1000 | 100 | 1100 | |
合格率 | 31% | 9% | 25% |
工学部と英語学部とも女子の方が合格率が高いのに、全学では圧倒的に男子の合格率が高いことになります。一瞬、間違っているのではと疑ってしまいますが、計算は正確です。人数が少ない女子受験生が合格率の低い英語学部に集中すると、こういう結果になってもおかしくないのです。
 感度と特異度  |
本書には(偶然にもタイムリーな話題として)感染症の検査にかかわる統計・確率の話が出てきます。
ある感染症にかかっている人が検査で陽性と判断される確率を、その検査の「感度」と呼びます。また、感染症にかかっていない人が検査で「陰性」と判断される確率を、その検査の「特異度」と呼びます。
もちろん感度も特異度も100%が望ましいのですが、そうはなりません。つまり、検査で「陽性」と判断された人が実は感染していないということが起きる(=疑陽性)。その反対に、検査で陰性と判断された人が実は感染している(=疑陰性)ということも起こります。
検査で「陽性」と判断された人が、真に感染症にかかっている確率を「真陽性率」と呼びます。
エイズの検査(HIVウイルスのキャリアかどうかの検査)は感度も特異度も高いことで知られています。今、感度も特異度も 99.99% とします。実際はもう少し低いようですが、真陽性率の意味を明確にするためにこの値とします。つまりエイズ検査では 99.99% の高い精度で、その人がHIVウイルスに感染しているかどうかが(感染していても、していなくても)判定できるとします。
この仮定のもとで、真陽性率が 50%、つまりHIV陽性と判定された人が真にHIVに感染している確率が 50%ということが起こり得えます。それは検査した集団の感染率が非常に低い場合です。10,000人に1人が感染している例で表を作ってみると次のようになります。
1万人のうち1人が感染している場合
検査人数 | 陽性判定 | 陰性判定 | |
感染者 | 1 | 1 | 0 |
非感染者 | 9999 | 1 | 9998 |
合計 | 10000 | 2 | 9998 |
真陽性率 = 1/2 = 50% です。一方、感染率の高い集団の検査は様子が違ってきます。
1万人のうち150人が感染している場合
検査人数 | 陽性判定 | 陰性判定 | |
感染者 | 150 | 150 | 0 |
非感染者 | 9850 | 1 | 9849 |
合計 | 10000 | 151 | 9849 |
真陽性率は 150/151 = 99.34% になります。
ここで本書にはありませんが、新型コロナウイルスのPCR検査ではどうなるかを見てみます。新型コロナウイルスのPCR検査の感度と特異度は正確にはわからないの現状です。正確に知るためにはPCR検査以外の方法で感染者・非感染者を正確に判別し、その人たち多数のPCR検査をして調べる必要があります。しかし「新型」なのでPCR検査以上に正確に判定する手段がありません。また感染してからの時間経緯とともに感度が変わってくるということもあります。政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会は、
・感度 70%
・特異度 99.9%
と推定しています(日本経済新聞 2020年9月4日による)。これをとりあえずの値として「集団の感染率によって真陽性率がどう変化するか」を計算してみたのが次のグラフです。
![]() |
新型コロナウイルスのPCR検査の真陽性率 |
横軸は検査した集団の感染率。縦軸は陽性と判定された人が真に感染している確率(真陽性率)。感染率 0.14% の集団のPCR検査を実施すると真陽性率は50%である。感染率が 1.27% の集団になって真陽性率が 90% になる。PCR検査の感度は 70%、特異度は 99.9% とした。 |
このグラフから明らかなように、感染率0.14%の集団(1万人に14人の感染者)のPCR検査を実施すると真陽性率は50%です。つまり陽性と出ても感染しているかしていないかは全く不明です。感染率が1.27%の集団(1万人に127人の感染者)になって初めて真陽性率が90%になります。
新型コロナウイルスのPCR検査について専門家の多くの意見は「増やすべき。ただし増やすやりかたは慎重に」というものだと思います。その裏には上記のような感度・特異度の問題があるわけです。
第5部:メディアが人々を惑わす
「世界のニュース」と題されている第5部は、メディアが人々を惑わしている例です。この中kら「偽りのバランス」を紹介します。
 偽りのバランス  |
「対立する見解を、それぞれの見解を裏付ける証拠に大きな違いがあるにもかかわらず、同等に扱う」ことを、本書では「偽りのバランス」と呼んでいます。これは報道機関が犯す典型的なあやまちです。著者によると、2016年の米国の大統領選挙(ドナルド・トランプ 対 ヒラリー・クリントン)では、トランプ陣営からの嘘やフェイク、根拠のない決めつけが圧倒的に多かったにもかかわらず、同等に扱ったのがその例です。
「偽りのバランス」の科学版も考えられます。喫煙が肺癌を引き起こすというデータは膨大にありますが、喫煙が肺癌を引き起こさないというデータはわずかしかありあません。この両者を対等に扱う報道やTV番組はおかしいのです。
気候変動もそうです。気候変動が起こっていることを示すデータは膨大にありますが、起こっていないことを示すデータはわずかです。この両者を対等に扱うべきではない。本書には、MITの科学ジャーナリズム・ナイト・センターの所長を務めるボイス・レンズバーガー(Boyce Rensberger)の意見として「バランスのとれた科学報道とは、議論の両見解を等しく重いものとして扱うことを意味していない。証拠のバランスに応じて、重みを配分することを意味している」と書かれています。全くその通りでしょう。
第6部:疑似科学
「暗闇に立つろうそく」と題された第6章は「疑似科学」を扱っています。たとえば次のような例です。
|
ホメオパシーはドイツ人医師ザムエル・ハーネマンが1807年に提唱したもので、"治療薬" を極端に薄めます。100倍の希釈を10数回から30回繰り返して "治療" に使います。100倍の希釈を30回も繰り返すと、もともとの "治療薬" の分子は1つも残らないことは明白なのですが、「水が記憶している」とするわけです。「ただの水」なので副作用はありませんが、プラセボ(偽薬)以上の効果はありません。
このような200年近く前の亡霊が、抗体の免疫反応という新たな装いで登場したわけです。このような論文をなぜ『ネイチャー』ともあろう雑誌が掲載したのか、その経緯と撤回の顛末が本書に書かれていますが、それは省略します。
この「溶液をしっかりと振ると免疫反応をみせた」というとことで、2014年に起こった「STAP細胞事件」を連想しました。分化が終わった細胞に熱や酸などの刺激を加えると再び分化する能力が獲得されたと、理化学研究所の研究者などが発表したものです。これは発表者でも再現実験ができず、第3者の調査委員会は実験室におけるES細胞の混入によるものと結論づけました。
これは科学者が意図的に、あるいは誤って作り出した疑似科学と呼べると思いますが、もっと一般的には、健康にかかわる商品である「マイナスイオンを発生させる家電商品」や「ゲルマニウムを使った健康器具」も、科学を装った疑似科学でしょう。
著者は、インターネット時代になり、一時廃れていた疑似科学が復活してきていると警告しています。たとえば、日本では行われていませんが、水道水にフッ素を混ぜるのは安全で虫歯予防に効果があることが確立してきましたが、インターネット時代になって反フッ素運動が復活し、癌や鬱病などの副作用があるとの主張がなされるようになりました。これらは一見、科学の装いをまっとっているので注意が必要です。
終わりに
本書のまとめである「終わりに」のセクションから2つの点を紹介します。一つはディベート(討論)の問題点です。
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著者も指摘していますが、ディベートの問題点には「偽りのバランス」もあります。本来まったく重さの違う2つの見解が、討論の場では同じ価値をもつものとして扱われるという弊害です。
上の引用で思い出すのは高等教育などで行われるディベートの実習訓練で、本人の意志とは無関係にグループを賛成派と反対派に分け、それぞれの立場からディベートをするというやり方です。こういった訓練を何回も受けた人は、二分法でディベートを行うことに違和感がなくなり、たとえそれが「偽りの二分法」であっても知らず知らずのあいだに許容してしまうのでしょう。
最後に引用するのは、本書の序章に書かれていたことと同様の主旨が「人格を決めるのは考える能力」という言い方で再度強調されているところです。
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「人格を決めるのは信念ではなく、考える能力」というのは良い言葉だと思います。信念も重要だが、それ以上に考える能力、という言い方もありだと思います。このあたりが本書の結論でしょう。
本書は、まどわされやすいパターンを分類・列記し、それに名前をつけています。「確証バイアス」や「誤った二分法」などです。世の中で公式に使われる用語もあれば、著者が名付けた言葉もあります。この「名前をつける」ということが重要だと思いました。
人間は事物や概念に「名前をつけて」自己に取り込みます。名前をつけることで、それを引き出し、応用できます。「いま自分は、自分の信念にマッチした都合のよい情報だけを拾い上げているのではないだろうか」と考えるより「確証バイアスでないか」と考える方が、思考方法としては効率的で有効性が高い。「確証バイアス」という言葉とその意味を知ってしまえば、その言葉を使って考えることができます。テレビの討論番組をみるときにも「あれは "誤った二分法" じゃないか」と批判的に考えることができます。
本書のテーマである「批判的思考」ができるようになるためには、このあたりが大切であり、そこが本書の価値だと思いました。
2020-10-17 07:55
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No.295 - タンギー爺さんの画中画 [アート]
このブログでは過去にさまざまな絵画を取り上げましたが、その中に「絵の中の絵」、いわゆる "画中画" が描かれたものがありました。しかも、画中画が絵のテーマと密接な関係にあるものです。今回はそういった絵の一つであるゴッホの作品について書くのが目的ですが、その前に過去に取り上げた画中画を振り返ってみたいと思います。
フェルメール
フェルメールの作品には、室内に左上から光が差し込み、人物がいて、後ろの壁には絵がある、という構図が多くあります。その一つが No.248「フェルメール:牛乳を注ぐ女」で引用した『窓辺で手紙を読む女』(1657頃。ドレスデン アルテ・マイスター絵画館所蔵)です。この絵の後の壁には何も描かれていないのですが、実は後世の誰かが壁を塗りつぶしたことが分かっています。そして、オリジナル復元のための修復を進めると、後の壁から画中画が出現したというニュースが2019年の5月に報道されました。修復の途中ですが、明らかにキューピッドの姿が見て取れます。
ということは、描かれた女性は恋人からラヴ・レターを読んでいることになります。フェルメール作品によくあるように、絵のテーマを画中画で表している。しかし・・・。
まだ修復途中だということが気になります。画中画の全容が明らかになると、キューピッドの下に何か別のアイテムが描かれていて、トータルすると恋の破局を表しているのかも知れません。
なお、このブログで引用したフェルメールの作品では、No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の『天秤を持つ女』にも画中画が描かれています。後ろの壁の絵の画題は "最後の審判" であり、いかにも "意味ありげ" な雰囲気がひしひしと伝わってくるのでした。
ベラスケス
ベラスケスの『ラス・メニーナス』には、分かりにくいのですが、後ろの壁に2枚の大きな絵が描き込まれています。
No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」で書いたように、2枚の絵はギリシャ神話がテーマです。左の絵はルーベンスの『パラスとアラクネ』で、右の絵はヨールダンスの『アポロンとパン』です。
『パラスとアラクネ』の完成作の所在は不明ですが、ルーベンス自身が油彩で描いた下絵が現存しているので(上の引用)『ラス・メニーナス』の画中画だと特定できます。そして、この2つの絵には明らかな共通点があります。つまり、
という共通点です。アラクネは機織りでパラスに挑み、半人半獣の牧神パンは笛でアポロンと音楽競技をしたのでした。このことからして『ラス・メニーナス』の画中画は、「絵画の技量で神の領域に迫りたい」という画家の想いを表していると考えるのが妥当でしょう。
なお、ベラスケス作『アラクネの寓話』(プラド美術館)の中にも、画中画としてティツィアーノの『エウロペの略奪』(ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館所蔵)が描き込まれています。それによってこの絵の画題がギリシャ神話の "アラクネの物語" であることを暗示しているのでした(No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」)。
マネ
No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、マネがゾラを自宅に招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868)を引用しました。
この絵の右上には、画中画として3枚の複製画が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』ですが、残り2枚は、初代 歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右エ門』(1860)と、ベラスケスの『バッカスの勝利』です。なお2代目ではなく初代 歌川国明(2代目の兄)というのは、日本女子大名誉教授の及川茂氏の調査結果によります。
エミール・ゾラは、酷評されることも多かったマネの作品に好意的な批評を書きました。そのマネは浮世絵に学び、ベラスケスを絶賛しています(No.36「ベラスケスへのオマージュ」、No.231「消えたベラスケス(2)」)。『エミール・ゾラの肖像』は、自らが愛する浮世絵とベラスケスを画中画として配置することにより、ゾラに対する敬愛の念を表したものでしょう。
スーラ
フィラデルフィアのバーンズ・コレクションのメインルームには、スーラの大作『ポーズする女たち』があります(No.95「バーンズ・コレクション」)。この絵には、スーラ自身の『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(No.115「日曜日の午後に無いもの」)が画中画として描き込まれています。
この画中画の意図についてはさまざまな説や憶測が提示されていますが、決定的なものは無いようです。ただ一つ言えることは、「点描の手法で風景・風俗だけでなく、裸婦像も描けるのだと宣言した」ことでしょう。さらに一歩進んで『ポーズする女たち』が『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を凌駕する作品だと言いたかったのかもしれません。
以上のフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの作品をを見てくると、
ことがわかります。つまり画中画にはメッセージ性があります。そのメッセージ性を最も強く押し出したのが、フィンセント・ファン・ゴッホの『タンギー爺さん』だと思います。以下、このゴッホの有名な作品について書きます。
ゴッホ『タンギー爺さん』
2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」で、ゴッホの『タンギー爺さん』が特集されていました。以下、その番組内容を踏まえてこの絵について書きますが、「新・美の巨人たち」では無かった事項も含みます。
『タンギー爺さん』はパリのロダン美術館が所蔵しています。オーギュスト・ロダンその人がこの絵を購入しました。この肖像画のタンギー爺さんとは、パリで画材屋をしていたジュリアン・フランソワ・タンギーという人です。
この絵に描かれている浮世絵の画中画は、上に引用したフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの画中画とは異質です。フェルメール以下の作品は、室内ないしは画家のアトリエの光景であり、その室内やアトリエに実際にある絵として画中画が描かれています。実際にはなかったとしても、あたかもそこに絵が掲げられているかように描かれている。
しかしゴッホの『タンギー爺さん』は違います。タンギーは画材屋であり、浮世絵を扱う画商ではありません。この絵の浮世絵の背景はゴッホが肖像の後ろに恣意的に描き込んだものです。現代で言うとパソコンの壁紙、スマホの待ち受け画面、ZOOMのバーチャル背景といったところでしょう。
なぜ実際にはそこにない浮世絵を描き込んだのか、それがこの絵のポイントなのですが、まず、描かれている6枚の浮世絵のオリジナル画像を順に見ていきます。
画中画の浮世絵
ゴッホは400点以上の浮世絵を集めていた "浮世絵コレクター" でした。『タンギー爺さん』には、風景が4枚、花魁が2枚の浮世絵が描かれていますが、まず風景の4枚です。
上右の風景は、歌川広重『五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら 範頼の祠』です。広重が晩年(59歳)の作品で、有名な「東海道五十三次」とは違って縦型の版であり、「竪絵東海道」とも呼ばれるシリーズの1枚です。
石薬師は東海道53次の44番目の宿で、現在の三重県鈴鹿市です。また題名の範頼は、義経の異母兄弟の源範頼です。平氏追討に向かう源範頼が、戦勝祈願のために桜の枝を地面に刺したところ、そこから芽が出て桜の木になったという伝説があります。その後いつしか「義経桜」とも呼ばれるようになりました。この広重の絵の桜は、現在でも「石薬師の蒲桜」という名で、花を咲かせているそうです(蒲とは範頼のこと)。
これは言うまでもなく春の風景です。ゴッホは桜の周辺の色を濃く、中を薄く描いています。
上の真ん中の富士山が見える浮世絵の元絵は、石薬師と同じく広重の『富士三十六景 さがみ川』です。相模川は現在の神奈川県平塚市と茅ヶ崎市の間を流れて相模湾に注ぐ川です。富士の手前の山は丹沢山系の大山でしょうか。
元絵と比較すると、ゴッホは空の色を茜色に変えています。さらに重要なポイントは、川の芦を茶色く枯れかかった色にしていることです。これによって、この画中画は秋の風景を思わせるものになりました。
この雪景色の絵の元絵は特定されていません。現在は知られていない無名の浮世絵師の絵か、ないしは、元絵にゴッホが雪を描き加えたという説もあります。いずれにせよ、ゴッホはここに冬の光景を配置しました。
この左下の朝顔の絵は、長らく二代目歌川広重の「東都名所 三十六花撰 入谷朝顔」ではないかとされてきましたが、1999年に無名の作者の縮緬絵(ちりめん絵。フランス語でクレポン)であることが特定されました。
『タンギー爺さん』と『東京名所 以里屋』を比較してみると、ゴッホはつぼみも含めて朝顔の花の位置を忠実にコピーしていることがわかります。ファン・ゴッホ美術館は縮緬絵を次のように解説しています。
縮緬絵の「東京名所 以里屋」は、その現物が1999年にパリで発見され、山口県立萩美術館・浦上記念館が買い取って所蔵しています。ちなみに版元は「伊勢屋辰五郎」ですが、現在も台東区の「いせ辰」の屋号で江戸千代紙や風呂敷の店として続いています。その台東区・入谷の朝顔市(7月上旬)は、現在も続く夏の風物詩です。
まとめると、風景の4枚は「春夏秋冬」の日本の四季です。さらに「桜」と「富士山」という、日本を代表する画題が含まれています。元絵が不明な冬を除いた春・夏・秋は、現代の日本にも受け継がれた光景です。
左の花魁の絵は、歌川国貞の「三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」です。吉原の遊郭の一つである三浦屋は、遊女のトップを代々 "高尾太夫" という名で呼ぶ習わしでした。この絵はいわゆる役者絵で、女形の岩井粂三郎が高尾太夫を演じる姿が描かれています。
元絵は、1886年の「パリ・イリュストレ誌」の日本特集号の表紙です。この号では浮世絵が特集され、ゴッホは繰り返し読んだと言います。表紙は、渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』の反転画像です。ゴッホは反転の状態でそのまま描いています。なお、この表紙の花魁を模写した油絵作品がファン・ゴッホ美術館に残されています。
まとめると、画中画の6枚の浮世絵は「桜と富士と日本の四季のうつろい、日本女性のあで姿」ということになります。ゴッホが浮世絵の画題として最も惹かれたものだったのでしょう。
ジュリアン・タンギー
2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」では、この6枚の浮世絵には画家のメッセージが隠されていると説明されていました。それを以下に紹介します。発言しているのは、フランスの小説家・美術評論家・美術史家のパスカル・ボナフー(Pascal Bonafoux. 1949 - )です。ゴッホに関する著作もある人です。
なぜこのように言えるのか。それはこの肖像画の主人公、ジュリアン・タンギーのことを知る必要があります。
タンギーは腕利きの絵の具職人でした。モンマルトルのクローゼル街に画材屋を開いており、ゴッホはその常連客でした。ここは貧しい画家のたまり場でもあった。タンギーは食うや食わずの画家に絵の具を貸し、作品をショーウィンドーに飾りました。ゴッホもその恩恵にあずかった一人です。
実はタンギーは、画材屋を開く前は監獄にいました。発端は1870年に勃発したプロイセン・フランス間の普仏戦争です。この戦争に惨敗したフランスは、プロイセンと講和条約を結び、膨大な賠償金を支払うともにアルザス・ロレーヌを割譲しました。しかし徹底抗戦を主張した市民は1871年に自治政府、パリ・コミューンを結成します。その自治政府にタンギーも加わったのです。
1871年5月、パリ・コミューンは政府軍によって鎮圧されました(多数の市民が惨殺された。No.13「バベットの晩餐会(2)」参照)。タンギーは逮捕され、監獄送りになしました。そして出所してから画材屋をはじめたわけです。肖像を描いたゴッホはその事実を知っていました。
背景に "イコン" としての浮世絵を描いた絵がもう一枚あります。ロンドンのコートールド・ギャラリー(No.155「コートールド・コレクション」参照)が所蔵する「耳に包帯をした自画像」です。
アルルで発作的に耳を切りつけたあと、ゴッホは復活するつもりだったと推測できます。それをこの絵が表しています。その証拠に、背後に浮世絵と新しいカンヴァスとイーゼルが描かれています。「もっと描くぞ」と宣言しているようです。
ちなみに、コートールド・ギャラリーのサイトでは、この絵の画中画の元絵を佐藤虎清の「芸者(Geishas in a Landscape)」としています。
『タンギー爺さん』を描いた3年後、ゴッホはパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズで自殺しました。タンギー爺さんは、ゴッホの葬儀に参列した10数名のうちの一人でした。
『タンギー爺さん』の背景に描かれている浮世絵については数々のことが言われてきました。それらの中で「ゴッホは感謝の念を込めて、タンギーの肖像を描くと同時に6枚の浮世絵を画中画として描き込んだ」というパスカル・ボナフー氏の説明は、非常に納得性の高いものだと思いました。その意味では、ゾラの肖像の後ろに浮世絵とベラスケスを描いたマネに似ています。
ゴッホにとって、画家としての自分を導いてくれた2つの存在が、この肖像画にダイレクトに表現されている。そういうことだと思います。
本文で画中画が描かれたマネの『エミール・ゾラの肖像』のことを書きましたが、別のマネの作品を思い出したので書いておきます。ベルド・モリゾを描いた『休息』という作品です。
この作品は背後に画中画が描かれていますが、これは歌川国芳の『龍宮玉取姫之図』です。
「龍宮玉取姫之図」の画題は、讃岐の士度寺の縁起物語であり、能の「海人」にも取り入れられた伝説です。詳しいことは省略しますが、一言で言うと「海女が龍神に取られた玉を取り戻す」という話です。
問題は、ベルド・モリゾの後ろになぜ浮世絵をもってきたかです。作家で美術史家の木々康子氏(19世紀後半のパリで活躍した画商、林忠正の孫の妻にあたる)は、この絵の構図が浮世絵の "こま絵" に習ったものではないか、と推測しています(木々康子「春画と印象派」筑摩書房 2015)。こま絵の例を次に掲げます。
木々氏が言うように、浮世絵愛好家のマネとしては "こま絵" の構図を採用してこの絵を描いたのかもしれません。しかしここでなぜコマの中が(西洋画ではなく)浮世絵で、しかも「龍宮玉取姫之図」なのでしょうか。私の推測は次のどちらか、ないしは両方です。
絵を見てどう解釈するかは鑑賞者の自由です。それは、"鑑賞者の権利" であると言ってもよいでしょう。
フェルメール
フェルメールの作品には、室内に左上から光が差し込み、人物がいて、後ろの壁には絵がある、という構図が多くあります。その一つが No.248「フェルメール:牛乳を注ぐ女」で引用した『窓辺で手紙を読む女』(1657頃。ドレスデン アルテ・マイスター絵画館所蔵)です。この絵の後の壁には何も描かれていないのですが、実は後世の誰かが壁を塗りつぶしたことが分かっています。そして、オリジナル復元のための修復を進めると、後の壁から画中画が出現したというニュースが2019年の5月に報道されました。修復の途中ですが、明らかにキューピッドの姿が見て取れます。
ということは、描かれた女性は恋人からラヴ・レターを読んでいることになります。フェルメール作品によくあるように、絵のテーマを画中画で表している。しかし・・・。
まだ修復途中だということが気になります。画中画の全容が明らかになると、キューピッドの下に何か別のアイテムが描かれていて、トータルすると恋の破局を表しているのかも知れません。
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フェルメール(1632-1675) 「窓辺で手紙を読む女」(1657頃) - 修復中の画像 - |
ドレスデン アルテ・マイスター絵画館 |
なお、このブログで引用したフェルメールの作品では、No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の『天秤を持つ女』にも画中画が描かれています。後ろの壁の絵の画題は "最後の審判" であり、いかにも "意味ありげ" な雰囲気がひしひしと伝わってくるのでした。
ベラスケス
ベラスケスの『ラス・メニーナス』には、分かりにくいのですが、後ろの壁に2枚の大きな絵が描き込まれています。
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ベラスケス(1599-1660) 「ラス・メニーナス」(1656) |
プラド美術館 |
No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」で書いたように、2枚の絵はギリシャ神話がテーマです。左の絵はルーベンスの『パラスとアラクネ』で、右の絵はヨールダンスの『アポロンとパン』です。
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ルーベンス(1577-1640) 「パラスとアラクネ」(1636/37) |
ヴァージニア美術館 |
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ヨルダーンス(1593-1678) 「アポロンとパン」(1636/38) |
プラド美術館 |
『パラスとアラクネ』の完成作の所在は不明ですが、ルーベンス自身が油彩で描いた下絵が現存しているので(上の引用)『ラス・メニーナス』の画中画だと特定できます。そして、この2つの絵には明らかな共通点があります。つまり、
技能の名手(人間・半人半獣)が、その技能を司る神と競技をする
という共通点です。アラクネは機織りでパラスに挑み、半人半獣の牧神パンは笛でアポロンと音楽競技をしたのでした。このことからして『ラス・メニーナス』の画中画は、「絵画の技量で神の領域に迫りたい」という画家の想いを表していると考えるのが妥当でしょう。
なお、ベラスケス作『アラクネの寓話』(プラド美術館)の中にも、画中画としてティツィアーノの『エウロペの略奪』(ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館所蔵)が描き込まれています。それによってこの絵の画題がギリシャ神話の "アラクネの物語" であることを暗示しているのでした(No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」)。
マネ
No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、マネがゾラを自宅に招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868)を引用しました。
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マネ(1832-1883) 「エミール・ゾラの肖像」(1868) |
オルセー美術館 |
この絵の右上には、画中画として3枚の複製画が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』ですが、残り2枚は、初代 歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右エ門』(1860)と、ベラスケスの『バッカスの勝利』です。なお2代目ではなく初代 歌川国明(2代目の兄)というのは、日本女子大名誉教授の及川茂氏の調査結果によります。
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初代 歌川国明 「大鳴門灘右エ門」(1860) |
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ベラスケス 「バッカスの勝利」(1628/29) |
プラド美術館 |
エミール・ゾラは、酷評されることも多かったマネの作品に好意的な批評を書きました。そのマネは浮世絵に学び、ベラスケスを絶賛しています(No.36「ベラスケスへのオマージュ」、No.231「消えたベラスケス(2)」)。『エミール・ゾラの肖像』は、自らが愛する浮世絵とベラスケスを画中画として配置することにより、ゾラに対する敬愛の念を表したものでしょう。
スーラ
フィラデルフィアのバーンズ・コレクションのメインルームには、スーラの大作『ポーズする女たち』があります(No.95「バーンズ・コレクション」)。この絵には、スーラ自身の『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(No.115「日曜日の午後に無いもの」)が画中画として描き込まれています。
![]() |
ジョルジュ・スーラ(1859-1891) 「ポーズする女たち」(1888) |
バーンズ・コレクション |
この画中画の意図についてはさまざまな説や憶測が提示されていますが、決定的なものは無いようです。ただ一つ言えることは、「点描の手法で風景・風俗だけでなく、裸婦像も描けるのだと宣言した」ことでしょう。さらに一歩進んで『ポーズする女たち』が『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を凌駕する作品だと言いたかったのかもしれません。
以上のフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの作品をを見てくると、
画中画には画家が込めた思いがあり、その思いは(スーラを除いては)かなり明白で、鑑賞者にも理解できる
ことがわかります。つまり画中画にはメッセージ性があります。そのメッセージ性を最も強く押し出したのが、フィンセント・ファン・ゴッホの『タンギー爺さん』だと思います。以下、このゴッホの有名な作品について書きます。
ゴッホ『タンギー爺さん』
2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」で、ゴッホの『タンギー爺さん』が特集されていました。以下、その番組内容を踏まえてこの絵について書きますが、「新・美の巨人たち」では無かった事項も含みます。
『タンギー爺さん』はパリのロダン美術館が所蔵しています。オーギュスト・ロダンその人がこの絵を購入しました。この肖像画のタンギー爺さんとは、パリで画材屋をしていたジュリアン・フランソワ・タンギーという人です。
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フィンセント・ファン・ゴッホ (1853-1890) 「タンギー爺さん」(1887) |
ロダン美術館 |
この絵に描かれている浮世絵の画中画は、上に引用したフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの画中画とは異質です。フェルメール以下の作品は、室内ないしは画家のアトリエの光景であり、その室内やアトリエに実際にある絵として画中画が描かれています。実際にはなかったとしても、あたかもそこに絵が掲げられているかように描かれている。
しかしゴッホの『タンギー爺さん』は違います。タンギーは画材屋であり、浮世絵を扱う画商ではありません。この絵の浮世絵の背景はゴッホが肖像の後ろに恣意的に描き込んだものです。現代で言うとパソコンの壁紙、スマホの待ち受け画面、ZOOMのバーチャル背景といったところでしょう。
なぜ実際にはそこにない浮世絵を描き込んだのか、それがこの絵のポイントなのですが、まず、描かれている6枚の浮世絵のオリジナル画像を順に見ていきます。
画中画の浮世絵
ゴッホは400点以上の浮世絵を集めていた "浮世絵コレクター" でした。『タンギー爺さん』には、風景が4枚、花魁が2枚の浮世絵が描かれていますが、まず風景の4枚です。
 風景:上の右  |
上右の風景は、歌川広重『五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら 範頼の祠』です。広重が晩年(59歳)の作品で、有名な「東海道五十三次」とは違って縦型の版であり、「竪絵東海道」とも呼ばれるシリーズの1枚です。
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歌川広重(1797-1858) 「五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら 範頼の祠」(1855) |
山口県立萩美術館・浦上記念館 |
石薬師は東海道53次の44番目の宿で、現在の三重県鈴鹿市です。また題名の範頼は、義経の異母兄弟の源範頼です。平氏追討に向かう源範頼が、戦勝祈願のために桜の枝を地面に刺したところ、そこから芽が出て桜の木になったという伝説があります。その後いつしか「義経桜」とも呼ばれるようになりました。この広重の絵の桜は、現在でも「石薬師の蒲桜」という名で、花を咲かせているそうです(蒲とは範頼のこと)。
これは言うまでもなく春の風景です。ゴッホは桜の周辺の色を濃く、中を薄く描いています。
 風景:上の中  |
上の真ん中の富士山が見える浮世絵の元絵は、石薬師と同じく広重の『富士三十六景 さがみ川』です。相模川は現在の神奈川県平塚市と茅ヶ崎市の間を流れて相模湾に注ぐ川です。富士の手前の山は丹沢山系の大山でしょうか。
元絵と比較すると、ゴッホは空の色を茜色に変えています。さらに重要なポイントは、川の芦を茶色く枯れかかった色にしていることです。これによって、この画中画は秋の風景を思わせるものになりました。
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歌川広重 「富士三十六景 さがみ川」(1858) |
山口県立萩美術館・浦上記念館 |
 風景:上の左  |
この雪景色の絵の元絵は特定されていません。現在は知られていない無名の浮世絵師の絵か、ないしは、元絵にゴッホが雪を描き加えたという説もあります。いずれにせよ、ゴッホはここに冬の光景を配置しました。
 風景:左下  |
この左下の朝顔の絵は、長らく二代目歌川広重の「東都名所 三十六花撰 入谷朝顔」ではないかとされてきましたが、1999年に無名の作者の縮緬絵(ちりめん絵。フランス語でクレポン)であることが特定されました。
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作者不詳 「東京名所 以里屋(=入谷)」 |
山口県立萩美術館・浦上記念館 |
『タンギー爺さん』と『東京名所 以里屋』を比較してみると、ゴッホはつぼみも含めて朝顔の花の位置を忠実にコピーしていることがわかります。ファン・ゴッホ美術館は縮緬絵を次のように解説しています。
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縮緬絵の「東京名所 以里屋」は、その現物が1999年にパリで発見され、山口県立萩美術館・浦上記念館が買い取って所蔵しています。ちなみに版元は「伊勢屋辰五郎」ですが、現在も台東区の「いせ辰」の屋号で江戸千代紙や風呂敷の店として続いています。その台東区・入谷の朝顔市(7月上旬)は、現在も続く夏の風物詩です。
まとめると、風景の4枚は「春夏秋冬」の日本の四季です。さらに「桜」と「富士山」という、日本を代表する画題が含まれています。元絵が不明な冬を除いた春・夏・秋は、現代の日本にも受け継がれた光景です。
 花魁・左  |
左の花魁の絵は、歌川国貞の「三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」です。吉原の遊郭の一つである三浦屋は、遊女のトップを代々 "高尾太夫" という名で呼ぶ習わしでした。この絵はいわゆる役者絵で、女形の岩井粂三郎が高尾太夫を演じる姿が描かれています。
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歌川国貞 「三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」(1861) |
山口県立萩美術館・浦上記念館 |
 花魁・右  |
元絵は、1886年の「パリ・イリュストレ誌」の日本特集号の表紙です。この号では浮世絵が特集され、ゴッホは繰り返し読んだと言います。表紙は、渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』の反転画像です。ゴッホは反転の状態でそのまま描いています。なお、この表紙の花魁を模写した油絵作品がファン・ゴッホ美術館に残されています。
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パリ・イリュストレ誌 日本特集号(1886年5月)の表紙 |
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渓斎英泉(1798-1848) 「雲龍打掛の花魁」 |
千葉市美術館 |
まとめると、画中画の6枚の浮世絵は「桜と富士と日本の四季のうつろい、日本女性のあで姿」ということになります。ゴッホが浮世絵の画題として最も惹かれたものだったのでしょう。
ジュリアン・タンギー
2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」では、この6枚の浮世絵には画家のメッセージが隠されていると説明されていました。それを以下に紹介します。発言しているのは、フランスの小説家・美術評論家・美術史家のパスカル・ボナフー(Pascal Bonafoux. 1949 - )です。ゴッホに関する著作もある人です。
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なぜこのように言えるのか。それはこの肖像画の主人公、ジュリアン・タンギーのことを知る必要があります。
タンギーは腕利きの絵の具職人でした。モンマルトルのクローゼル街に画材屋を開いており、ゴッホはその常連客でした。ここは貧しい画家のたまり場でもあった。タンギーは食うや食わずの画家に絵の具を貸し、作品をショーウィンドーに飾りました。ゴッホもその恩恵にあずかった一人です。
実はタンギーは、画材屋を開く前は監獄にいました。発端は1870年に勃発したプロイセン・フランス間の普仏戦争です。この戦争に惨敗したフランスは、プロイセンと講和条約を結び、膨大な賠償金を支払うともにアルザス・ロレーヌを割譲しました。しかし徹底抗戦を主張した市民は1871年に自治政府、パリ・コミューンを結成します。その自治政府にタンギーも加わったのです。
1871年5月、パリ・コミューンは政府軍によって鎮圧されました(多数の市民が惨殺された。No.13「バベットの晩餐会(2)」参照)。タンギーは逮捕され、監獄送りになしました。そして出所してから画材屋をはじめたわけです。肖像を描いたゴッホはその事実を知っていました。
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背景に "イコン" としての浮世絵を描いた絵がもう一枚あります。ロンドンのコートールド・ギャラリー(No.155「コートールド・コレクション」参照)が所蔵する「耳に包帯をした自画像」です。
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フィンセント・ファン・ゴッホ 「耳に包帯をした自画像」(1889) |
コートールド・ギャラリー |
アルルで発作的に耳を切りつけたあと、ゴッホは復活するつもりだったと推測できます。それをこの絵が表しています。その証拠に、背後に浮世絵と新しいカンヴァスとイーゼルが描かれています。「もっと描くぞ」と宣言しているようです。
ちなみに、コートールド・ギャラリーのサイトでは、この絵の画中画の元絵を佐藤虎清の「芸者(Geishas in a Landscape)」としています。
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佐藤虎清 「Geishas in a Landscape」 (芸者) |
コートールド・ギャラリー |
『タンギー爺さん』を描いた3年後、ゴッホはパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズで自殺しました。タンギー爺さんは、ゴッホの葬儀に参列した10数名のうちの一人でした。
『タンギー爺さん』の背景に描かれている浮世絵については数々のことが言われてきました。それらの中で「ゴッホは感謝の念を込めて、タンギーの肖像を描くと同時に6枚の浮世絵を画中画として描き込んだ」というパスカル・ボナフー氏の説明は、非常に納得性の高いものだと思いました。その意味では、ゾラの肖像の後ろに浮世絵とベラスケスを描いたマネに似ています。
ゴッホにとって、画家としての自分を導いてくれた2つの存在が、この肖像画にダイレクトに表現されている。そういうことだと思います。
 補記:マネの「休息」  |
本文で画中画が描かれたマネの『エミール・ゾラの肖像』のことを書きましたが、別のマネの作品を思い出したので書いておきます。ベルド・モリゾを描いた『休息』という作品です。
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エドゥアール・マネ 「休息」(1871) |
(ベルト・モリゾの肖像) ロードアイランド・デザイン・スクール(米) (Rhode Island School of Design) |
この作品は背後に画中画が描かれていますが、これは歌川国芳の『龍宮玉取姫之図』です。
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歌川国芳 「龍宮玉取姫之図」(1853) |
「龍宮玉取姫之図」の画題は、讃岐の士度寺の縁起物語であり、能の「海人」にも取り入れられた伝説です。詳しいことは省略しますが、一言で言うと「海女が龍神に取られた玉を取り戻す」という話です。
問題は、ベルド・モリゾの後ろになぜ浮世絵をもってきたかです。作家で美術史家の木々康子氏(19世紀後半のパリで活躍した画商、林忠正の孫の妻にあたる)は、この絵の構図が浮世絵の "こま絵" に習ったものではないか、と推測しています(木々康子「春画と印象派」筑摩書房 2015)。こま絵の例を次に掲げます。
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歌川国貞 「江戸八景の内 三廻」 |
一見すると美人画だが、絵の中の四角い "コマ" に、隅田川河畔の三囲(みめぐり)神社の風景が描かれていて、これが画題になっている。三囲神社は向島(隅田川の左岸、東側)にあり、右岸から見るとちょうど鳥居の上だけが見えた。江戸庶民はこの光景から三囲神社だとすぐに分かったという。これを利用して「江戸八景」という画題を美人画にしてしまう趣向である。 "コマ" には四角のほか、丸形や扇形など多様なものがあった。また描かれる内容も、絵の補足、絵の隠れた意味の説明、本作のような画題そのものなど多様だった。漫画のコマ割りのように多数のコマを配置したものもあり、ゴッホの「タンギー爺さん」を連想させる。 |
木々氏が言うように、浮世絵愛好家のマネとしては "こま絵" の構図を採用してこの絵を描いたのかもしれません。しかしここでなぜコマの中が(西洋画ではなく)浮世絵で、しかも「龍宮玉取姫之図」なのでしょうか。私の推測は次のどちらか、ないしは両方です。
マネは自分の弟子であるベルトの肖像を描き、そこに自分が愛する浮世絵を画中画として配置することで、ベルトが "愛すべき弟子" だというメッセージを込めた(一時、恋仲=不倫だったという説がある)。つまりエミール・ゾラの肖像の横に浮世絵とベラスケスを描き込んだのと同じ意味である。 | |
もちろん、マネが玉取姫の伝説を知っていたとは思えない。なぜこんな場面が描かれたのか、マネには全く分からなかったに違いない。しかし伝説を知らなくても、国芳の絵を見て一目瞭然なのは「一人の女性が、ドラゴンやタコや魚の一群と戦っている絵」だということである。 西洋では「男性が怪物と戦う、ないしは怪物を退治する」という絵画は、ギリシャ神話のヘラクレスやペルセウス、キリスト教の聖ゲオルギウスなど多数ある。しかし「女性が怪物と戦う絵画」は見当たらない。マネは「龍宮玉取姫之図」を、完全に男性中心である当時のフランス画壇の中の女性画家、ベルトの状況になぞらえた。 |
絵を見てどう解釈するかは鑑賞者の自由です。それは、"鑑賞者の権利" であると言ってもよいでしょう。
2020-10-03 08:16
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No.294 - 鳥が恐竜の子孫という直感 [科学]
No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」で、鳥が恐竜の子孫であることが定説となった経緯を日経サイエンスの論文から紹介しました。特に、1990年代以降に発見された「羽毛恐竜」の化石が決定打になったという話でした。
その「鳥は恐竜の子孫」に関係した話を、歌人で情報科学者(東京大学教授)の坂井修一氏が日本経済新聞に連載中のコラム、"うたごころは科学する" に書かれていました。坂井氏の奥様のことなのですが、興味深い内容だったのでそのコラムを引用して感想を書きたいと思います。
見ればわかる
40年前に「鳥は恐竜の子孫」と直感した坂井氏の奥様は、歌人の米川千嘉子さんです。コラムには名前が書いていないので、以下「彼女」と記述します。
40年前というと1980年です。坂井氏は1958年生まれで、彼女は1歳年下ということなので、二人とも20~22歳頃の話です。ということは、2人は東京の大学の大学生です。2人の学生が東京で知り合い、井の頭公園にデートに行く。いかにもありそうな情景です。井の頭公園は現在でも定番のデート・スポットなので、おそらく40年前もそうだったのでしょう。
よくありそうな情景には違いないが、そのデートの場で彼女が「池で泳いでいる鴨を見て、鳥は恐竜の直系の子孫であると強く主張」したのは、確かにちょっと変わっています。デートの場でどんな会話をしようと全くかまわないのですが、「鳥は恐竜の直系の子孫」という話題は、井の頭公園での男女の語らいとしては大変に斬新です。デート相手の女性にそんな主張を強くされたとしたら、男性としては一瞬、たじろぐでしょう。
しかも、その理由は「見ればわかる」ということのようなのです。これは一般的な意味での "理由" になっていません。男性としては一層不安になる。まして坂井氏は科学者(をめざす学生)です。帰納と演繹を繰り返して確認してからでないと不安、とコラムにある通りです。「見ればわかる」というのでは "帰納" の部分がゼロです。
そこで、今となっては科学的に全く正しい「鳥は恐竜の直系の子孫」という説を、1980年の時点でなぜ彼女が強く主張できたのか、その理由を何点か推測してみたいと思います。
鳥が恐竜の子孫という直感の理由
推測の1番目は歴史的経緯です。No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」に書いたように、"鳥は恐竜の子孫ではないか" という考えは、実は19世紀半ばからありました。その契機になったのは1860年代にドイツで発見された、いわゆる「始祖鳥」の化石です。イギリスの高名な生物学者ハクスリーはこの化石が小型肉食恐竜に似ていることに気づき、鳥は恐竜の子孫という説を発表しました。当時、この説を支持する学者もいたようですが、多くの学者は反対しました。その後、議論は行ったり来たりの状態でした。
この説に決着がついたのは、1960年代以降に鳥類と酷似した恐竜化石が発見されたことであり、特に決定的だったのが1990年代以降の "羽毛付き恐竜化石" の発見でした。羽毛の化石は普通は残らないのですが、奇跡的な条件で化石になったものが中国で発見されたのです。
この経緯からすると「始祖鳥」の化石発見から100数十年の間、「鳥は恐竜の子孫説」が潜在していたことになります。つまり、これは大変に由緒ある説なのです。従って本などに書かれていた可能性が高い。ひょっとして「始祖鳥」の復元図とともに「鳥は恐竜の子孫説」を紹介した文章があったかもしれません。
井の頭公園で「鳥は恐竜の子孫」と主張した彼女も、そういった記述にどこかで触れ、それに惹かれ、そのことが潜在意識として残り、その潜在意識がデートの場で鴨を見てひょっと浮かび上がった。そういう可能性があると思うのです。これが第1の推測です。
第2の推測は鳥の骨格です。坂井氏は「駝鳥や海鵜を見ると、まあそれもありかなと思うが、彼女は公園の鴨や鳩を見てもそう感じるのだそうだ」と書いています。「鴨や鳩を見ても恐竜の子孫だと感じる」のがポイントですが、その理由は骨格ではないでしょうか。
まず、恐竜の骨格標本は子供の時代に多くの人が見たことがあると思います。恐竜の実物の(ないしは実物大レプリカの)骨格標本は、全国の博物館の超人気アイテムです。小学校高学年以上の子供であれば、その恐竜の姿に心を踊らせるのは当然でしょう。たとえ実物やレプリカを見たことがなくても、恐竜の骨格の写真は雑誌を始めとする各種メディアにあるので、それを見たことが無いという人はまずいないと思います。
一方、鴨や鳩の骨格標本を見る機会はあまりないと思いますが、博物館にはあります。彼女は、鴨か鳩の骨格標本をどこかで見たのではないでしょうか。実物を見たことがないにしても、写真とかイラストで見たのではと思います。ごく一般的な鳩の写真と、鳥の解剖学的イラストを掲げます。イラストは No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」の図を再掲したものです。
解剖学的イラストを見て気づくのは、鳥の首の骨が異様に長いことです。羽とか胸のあたりとか足とか、そういう骨は想像どおりだが、首の骨は鳩の外見からは想像しにくい。鳥の頸椎(首の骨)は、11~25個もあります(種類によって違う)。人間を含む哺乳類は、普通は7個です。キリンでも7個です。それに対して鳥は多い。
フクロウは首を270度回転することができますが(1回転できるというのは誤解)、こんなことは哺乳類では絶対に無理です。なぜフクロウが可能かというと、頸椎が多いからです(14個)。従って少しづつ回転させると270度になる。フクロウは外見上は首長に見えないのですが、骨格からみるとそうなのです。上の画像の鳩もそうです。外形からは首が長いように見えないが、頸椎は13個あって、首の骨格はひょろっと長い。
もちろん、外見上、明らかに首長だと見える鶴とか鵜、鷺、ダチョウの頸椎は長いのですが、一見そうは見えない鳩とか鴨も意外に長いのです。そしてこの鳥の骨格(頸椎)の姿は暗黙に、恐竜の中で首の長い種類(草食の4つ足の恐竜。専門的には竜脚類)の骨格を連想させないでしょうか。
どこかで見た鳥の骨格標本(ないしは骨格のイラスト図)が、子供のころに親しんだ竜脚類の骨格と無意識下で結びつき、それが井の頭公園でのデートで鴨を見たときにフッと浮かび上がった。これが第2の推測です。
第3の推測は人間の潜在意識です。往年の名監督、アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)の映画に『鳥』(1963)がありました。あらゆる種類の鳥が人間を襲い出すというパニック映画(かつホラー映画)です。大挙して部屋に進入してきた鳥に襲われて人が血まみれになるなど、衝撃的なシーンがいろいろありました。
これはイギリスの作家、ダフネ・デュ・モーリア(1907-1989。原音に近く "ダフニ・デュ・モーリエ" とも書かれる)の短編小説、"The Birds"(1952)が原作です。ダフネ・デュ・モーリアは畑で農夫がカモメに襲われるのを見て小説のインスピレーションを得たそうですが(Wikipedia による)、なぜそのことが小説を書く契機になったのでしょうか。また、ヒッチコックはなぜ映画化しようと考えたのでしょうか。なぜ、鳥が人間を襲うという小説や映画が "ホラー" として成立するのでしょうか。
ある説を読んだことがあります。いつだったか、誰の説だったか全く忘れましたが、哺乳類と恐竜の関係です。哺乳類の起源は恐竜と同程度に古いことが知られています。そして地球上で恐竜が全盛期のとき、哺乳類は体も小さく、恐竜から隠れるように "ひっそりと" 暮らしていた。肉食恐竜などはまさに哺乳類の恐れの対象だった。そして6500万年前に非鳥型恐竜が滅びた後も鳥型恐竜(=鳥)は生き残り、その飛行能力で世界中に広がった。そして哺乳類に刷り込まれていた "恐竜への恐れ" は、その恐れの対象が鳥へと引き継がれた。哺乳類の一種であるヒトも、無意識下でその遙か昔の感情がある。だから映画『鳥』がホラーとして成り立つ ───。
この説がまじめなものなのか、ジョークなのか、あるいは鳥が恐竜の子孫という最新の知識をひけらかしただけのものなのか、それは分かりません。科学的には大いにクエスチョンがつく説でしょう。しかし鳩やカラスが "本能的に" 猛禽類(鷹など)を恐れるということもあるので、これはこれで興味深い。そして人間の隠された潜在意識として鳥への恐れがあるのなら、鳥と恐竜を同一視する潜在意識もまたあると思うのです。それが、ある時、あるタイミングで、ある人の意識上にフッと浮上する。これが井の頭公園で池を泳ぐ鴨を見たときの彼女だった ───。これが第3の推測です。
何らかの類似性を直感できる能力
以上の歴史的経緯、骨格、潜在意識の3つは、科学的知識なしに「鳥が恐竜の子孫」と直感できた理由を推測したものです。もちろん当たっているかどうかは分かりません。ただ思うのですが、このような説明より、彼女は「歴史的経緯・骨格・潜在意識」などとは全く関係なく、
と考えた方が、より本質に迫っているのかもしれません。坂井氏は彼女が、
と強調することで彼女の意外な直感力に感心していますが、文系人間どうのこうのは全く関係ないと思います。それは理系人間的な偏見です。つまり、
だと思うのです。いわゆる "ひらめき" や "フッと浮かぶアイデア" です。あるいは、"突然思い付いた着想" や "発想の不連続的な飛躍" です。
文学の世界(小説、戯曲、詩、短歌など)で多用される "比喩" もその一つでしょう。一見、何の関係もなさそうなモノを本体を表す比喩表現として使う。それは作者が論理的に考えたものでないはずです。論理的に考えたものがあるかもしれないが、そういう比喩はおもしろくない。やはり直感で出てきたものにこそ意外性があって、価値がある。読者としても読んだときにはエッと思うが、よくよく考えてみると "当たっている" と思えるし、あるいは最後までその比喩表現の理由は不明だとしても(変な喩えだな!)そこに作者の感性を感じる。論理的な説明はできないけれど、文章に作者独特のムードが漂い、読者としてはそれに浸る。そういうことって、文学作品にはあると思うのです。
サイエンスに目を向けると「ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した」という有名な話があります。後世の作り話だと思いますが、作り話だとしてもよくできています。ニュートンの時代、重力はすでに知られていました。しかし「リンゴが地表に落ちる」ことと「惑星が太陽に引かれる」(ないしは月が地球に引かれる)ことという、全く関係がなさそうな事象が相似形だと気づいたとき、重力を越えた「万有引力」に発想が至るわけです。科学におけるインスピレーションの典型例を一つの寓話に仕立てたものだと思います。
要するに、何らかの抽象化をすれば2つのモノや概念が「同一の構造をしている」とか「そのモノや概念を成り立たせている基本のところが同型である、同一のフォルムである」というのは、文系・理系を問わず発想や創造の源泉の一つだと思います。
こういった発想や "ひらめき" は、根を詰めて解決策を探っている真っ最中には浮かびません。文章表現を絞り出しながらモノを書いているときにも出てこない。出てきたとしても斬新さがなく、面白味のないものになってしまうでしょう。なぜなら考えているフレームが決まっていて、フレームを越えた飛躍ができないからです。こうだからこうなるという論理的な文章や推論ならそれでよいが、それは "ひらめき" ではない。
発想や "ひらめき" は、解決策を探っている中でいったん頭を休め、ボーッとしている時に現れるとよく言われます。中国の古典に「三上」という言葉があります。文章を練るのに適した場所が、馬に乗っているとき(馬上)、寝床に入っているとき(枕上)、厠(便所)にいるとき(厠上)とするものですが、これは文章だけのことではないでしょう。散歩やそぞろ歩きの時に科学的発見のアイデアが浮かんだという話もよく聞きます。
最新の脳科学によると、人間はボーッとしているときにも脳が活発に活動していて、さまざまな記憶の断片をつなぎ合わせています。例えば、解決策を模索している問題に、あるとき(意外な時に)フッとアイデアがひらめくのは、脳が同一構造の過去の問題とその解決策をもとに、無意識下にアイデアを提示したのではと思います。ボーッとしているときに脳は「異質なモノ」や「かけ離れた記憶」の間にリンクをつけ、そのリンクがアイデアや直感やひらめきになるのでしょう。
本題に戻ります。ボーッとしているときに脳は「異質なモノ」の間にリンクをつけるのだとすると、井の頭公園の池で泳ぐ鴨を見て「鳥は恐竜の直系の子孫である」と直感した彼女は、その直感を別の機会に得たはずです。デートの時に "ボーッとしている" とは考えにくいからです。坂井氏のコラムから推測すると、彼女が1人で公園で鴨か鳩を "ボーッと" 眺めているときに突然ひらめいた。以降、公園で鴨や鳩を見るたびにそれを思い出す。井の頭公園でのデートで鴨を見たときもそうだった、ということでしょう。
理由は分からないが「鳥が恐竜の子孫」と直感し、確信できるのは人間の素晴らしいところだと思います。彼女の場合は "たまたま" 科学的に正しいことだったが、"科学的には間違っている" ことでもかまいません。その人にとっての直感はそうなのだし、小説家であればダフネ・デュ・モーリアのように、鳥が人間を襲い始めるというホラー小説を書けるかもしれません。
井の頭公園でのデートの最中に「鳥が恐竜の子孫だと、見ればわかった」坂井氏の奥様は、現在の人工知能(AI)の枠組みでは及ばない人間の価値を具現化していた、そのように思えました。
その「鳥は恐竜の子孫」に関係した話を、歌人で情報科学者(東京大学教授)の坂井修一氏が日本経済新聞に連載中のコラム、"うたごころは科学する" に書かれていました。坂井氏の奥様のことなのですが、興味深い内容だったのでそのコラムを引用して感想を書きたいと思います。
見ればわかる
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40年前に「鳥は恐竜の子孫」と直感した坂井氏の奥様は、歌人の米川千嘉子さんです。コラムには名前が書いていないので、以下「彼女」と記述します。
40年前というと1980年です。坂井氏は1958年生まれで、彼女は1歳年下ということなので、二人とも20~22歳頃の話です。ということは、2人は東京の大学の大学生です。2人の学生が東京で知り合い、井の頭公園にデートに行く。いかにもありそうな情景です。井の頭公園は現在でも定番のデート・スポットなので、おそらく40年前もそうだったのでしょう。
よくありそうな情景には違いないが、そのデートの場で彼女が「池で泳いでいる鴨を見て、鳥は恐竜の直系の子孫であると強く主張」したのは、確かにちょっと変わっています。デートの場でどんな会話をしようと全くかまわないのですが、「鳥は恐竜の直系の子孫」という話題は、井の頭公園での男女の語らいとしては大変に斬新です。デート相手の女性にそんな主張を強くされたとしたら、男性としては一瞬、たじろぐでしょう。
しかも、その理由は「見ればわかる」ということのようなのです。これは一般的な意味での "理由" になっていません。男性としては一層不安になる。まして坂井氏は科学者(をめざす学生)です。帰納と演繹を繰り返して確認してからでないと不安、とコラムにある通りです。「見ればわかる」というのでは "帰納" の部分がゼロです。
そこで、今となっては科学的に全く正しい「鳥は恐竜の直系の子孫」という説を、1980年の時点でなぜ彼女が強く主張できたのか、その理由を何点か推測してみたいと思います。
鳥が恐竜の子孫という直感の理由
推測の1番目は歴史的経緯です。No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」に書いたように、"鳥は恐竜の子孫ではないか" という考えは、実は19世紀半ばからありました。その契機になったのは1860年代にドイツで発見された、いわゆる「始祖鳥」の化石です。イギリスの高名な生物学者ハクスリーはこの化石が小型肉食恐竜に似ていることに気づき、鳥は恐竜の子孫という説を発表しました。当時、この説を支持する学者もいたようですが、多くの学者は反対しました。その後、議論は行ったり来たりの状態でした。
この説に決着がついたのは、1960年代以降に鳥類と酷似した恐竜化石が発見されたことであり、特に決定的だったのが1990年代以降の "羽毛付き恐竜化石" の発見でした。羽毛の化石は普通は残らないのですが、奇跡的な条件で化石になったものが中国で発見されたのです。
この経緯からすると「始祖鳥」の化石発見から100数十年の間、「鳥は恐竜の子孫説」が潜在していたことになります。つまり、これは大変に由緒ある説なのです。従って本などに書かれていた可能性が高い。ひょっとして「始祖鳥」の復元図とともに「鳥は恐竜の子孫説」を紹介した文章があったかもしれません。
井の頭公園で「鳥は恐竜の子孫」と主張した彼女も、そういった記述にどこかで触れ、それに惹かれ、そのことが潜在意識として残り、その潜在意識がデートの場で鴨を見てひょっと浮かび上がった。そういう可能性があると思うのです。これが第1の推測です。
第2の推測は鳥の骨格です。坂井氏は「駝鳥や海鵜を見ると、まあそれもありかなと思うが、彼女は公園の鴨や鳩を見てもそう感じるのだそうだ」と書いています。「鴨や鳩を見ても恐竜の子孫だと感じる」のがポイントですが、その理由は骨格ではないでしょうか。
まず、恐竜の骨格標本は子供の時代に多くの人が見たことがあると思います。恐竜の実物の(ないしは実物大レプリカの)骨格標本は、全国の博物館の超人気アイテムです。小学校高学年以上の子供であれば、その恐竜の姿に心を踊らせるのは当然でしょう。たとえ実物やレプリカを見たことがなくても、恐竜の骨格の写真は雑誌を始めとする各種メディアにあるので、それを見たことが無いという人はまずいないと思います。
一方、鴨や鳩の骨格標本を見る機会はあまりないと思いますが、博物館にはあります。彼女は、鴨か鳩の骨格標本をどこかで見たのではないでしょうか。実物を見たことがないにしても、写真とかイラストで見たのではと思います。ごく一般的な鳩の写真と、鳥の解剖学的イラストを掲げます。イラストは No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」の図を再掲したものです。
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飛行中の鳩 |
(Wikimedia Commoms) |
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鳥類の解剖学的特徴
翼、長い前肢、短い尾骨、竜骨、貫流式の肺、叉骨(さこつ)、大きな脳など、鳥類は他の現世動物にはない特徴がある。これら特徴のおかげで鳥類は飛行できる。
(日経サイエンス 2017年6月号より)
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解剖学的イラストを見て気づくのは、鳥の首の骨が異様に長いことです。羽とか胸のあたりとか足とか、そういう骨は想像どおりだが、首の骨は鳩の外見からは想像しにくい。鳥の頸椎(首の骨)は、11~25個もあります(種類によって違う)。人間を含む哺乳類は、普通は7個です。キリンでも7個です。それに対して鳥は多い。
フクロウは首を270度回転することができますが(1回転できるというのは誤解)、こんなことは哺乳類では絶対に無理です。なぜフクロウが可能かというと、頸椎が多いからです(14個)。従って少しづつ回転させると270度になる。フクロウは外見上は首長に見えないのですが、骨格からみるとそうなのです。上の画像の鳩もそうです。外形からは首が長いように見えないが、頸椎は13個あって、首の骨格はひょろっと長い。
もちろん、外見上、明らかに首長だと見える鶴とか鵜、鷺、ダチョウの頸椎は長いのですが、一見そうは見えない鳩とか鴨も意外に長いのです。そしてこの鳥の骨格(頸椎)の姿は暗黙に、恐竜の中で首の長い種類(草食の4つ足の恐竜。専門的には竜脚類)の骨格を連想させないでしょうか。
どこかで見た鳥の骨格標本(ないしは骨格のイラスト図)が、子供のころに親しんだ竜脚類の骨格と無意識下で結びつき、それが井の頭公園でのデートで鴨を見たときにフッと浮かび上がった。これが第2の推測です。
第3の推測は人間の潜在意識です。往年の名監督、アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)の映画に『鳥』(1963)がありました。あらゆる種類の鳥が人間を襲い出すというパニック映画(かつホラー映画)です。大挙して部屋に進入してきた鳥に襲われて人が血まみれになるなど、衝撃的なシーンがいろいろありました。
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ヒッチコック「鳥」(1963) |
主人公(ティッピ・ヘドレン)は大量の鳥が小学校の周りに集まっているのを見て子供たちを避難させるが、その途中で鳥の大群に襲われる。 |
これはイギリスの作家、ダフネ・デュ・モーリア(1907-1989。原音に近く "ダフニ・デュ・モーリエ" とも書かれる)の短編小説、"The Birds"(1952)が原作です。ダフネ・デュ・モーリアは畑で農夫がカモメに襲われるのを見て小説のインスピレーションを得たそうですが(Wikipedia による)、なぜそのことが小説を書く契機になったのでしょうか。また、ヒッチコックはなぜ映画化しようと考えたのでしょうか。なぜ、鳥が人間を襲うという小説や映画が "ホラー" として成立するのでしょうか。
ある説を読んだことがあります。いつだったか、誰の説だったか全く忘れましたが、哺乳類と恐竜の関係です。哺乳類の起源は恐竜と同程度に古いことが知られています。そして地球上で恐竜が全盛期のとき、哺乳類は体も小さく、恐竜から隠れるように "ひっそりと" 暮らしていた。肉食恐竜などはまさに哺乳類の恐れの対象だった。そして6500万年前に非鳥型恐竜が滅びた後も鳥型恐竜(=鳥)は生き残り、その飛行能力で世界中に広がった。そして哺乳類に刷り込まれていた "恐竜への恐れ" は、その恐れの対象が鳥へと引き継がれた。哺乳類の一種であるヒトも、無意識下でその遙か昔の感情がある。だから映画『鳥』がホラーとして成り立つ ───。
この説がまじめなものなのか、ジョークなのか、あるいは鳥が恐竜の子孫という最新の知識をひけらかしただけのものなのか、それは分かりません。科学的には大いにクエスチョンがつく説でしょう。しかし鳩やカラスが "本能的に" 猛禽類(鷹など)を恐れるということもあるので、これはこれで興味深い。そして人間の隠された潜在意識として鳥への恐れがあるのなら、鳥と恐竜を同一視する潜在意識もまたあると思うのです。それが、ある時、あるタイミングで、ある人の意識上にフッと浮上する。これが井の頭公園で池を泳ぐ鴨を見たときの彼女だった ───。これが第3の推測です。
何らかの類似性を直感できる能力
以上の歴史的経緯、骨格、潜在意識の3つは、科学的知識なしに「鳥が恐竜の子孫」と直感できた理由を推測したものです。もちろん当たっているかどうかは分かりません。ただ思うのですが、このような説明より、彼女は「歴史的経緯・骨格・潜在意識」などとは全く関係なく、
恐竜と井の頭公園の鴨との間に何らかの意味での類似性を感じ取り、鳥が恐竜の子孫と直感して、確信した
と考えた方が、より本質に迫っているのかもしれません。坂井氏は彼女が、
いわゆる文系人間であり | |
リモコンが使いこなせず | |
パソコンやスマホでのSNSも得意ではない |
と強調することで彼女の意外な直感力に感心していますが、文系人間どうのこうのは全く関係ないと思います。それは理系人間的な偏見です。つまり、
まったく違うと思える2つのモノや概念の間に何らかの意味での類似性を直感したり、相互に連想を働かせることは、文学や芸術における創造、サイエンスや工学分野での発見・発明、ビジネスにおける問題解決プロセスの導出などにおいて、とても重要なこと
だと思うのです。いわゆる "ひらめき" や "フッと浮かぶアイデア" です。あるいは、"突然思い付いた着想" や "発想の不連続的な飛躍" です。
文学の世界(小説、戯曲、詩、短歌など)で多用される "比喩" もその一つでしょう。一見、何の関係もなさそうなモノを本体を表す比喩表現として使う。それは作者が論理的に考えたものでないはずです。論理的に考えたものがあるかもしれないが、そういう比喩はおもしろくない。やはり直感で出てきたものにこそ意外性があって、価値がある。読者としても読んだときにはエッと思うが、よくよく考えてみると "当たっている" と思えるし、あるいは最後までその比喩表現の理由は不明だとしても(変な喩えだな!)そこに作者の感性を感じる。論理的な説明はできないけれど、文章に作者独特のムードが漂い、読者としてはそれに浸る。そういうことって、文学作品にはあると思うのです。
サイエンスに目を向けると「ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した」という有名な話があります。後世の作り話だと思いますが、作り話だとしてもよくできています。ニュートンの時代、重力はすでに知られていました。しかし「リンゴが地表に落ちる」ことと「惑星が太陽に引かれる」(ないしは月が地球に引かれる)ことという、全く関係がなさそうな事象が相似形だと気づいたとき、重力を越えた「万有引力」に発想が至るわけです。科学におけるインスピレーションの典型例を一つの寓話に仕立てたものだと思います。
要するに、何らかの抽象化をすれば2つのモノや概念が「同一の構造をしている」とか「そのモノや概念を成り立たせている基本のところが同型である、同一のフォルムである」というのは、文系・理系を問わず発想や創造の源泉の一つだと思います。
こういった発想や "ひらめき" は、根を詰めて解決策を探っている真っ最中には浮かびません。文章表現を絞り出しながらモノを書いているときにも出てこない。出てきたとしても斬新さがなく、面白味のないものになってしまうでしょう。なぜなら考えているフレームが決まっていて、フレームを越えた飛躍ができないからです。こうだからこうなるという論理的な文章や推論ならそれでよいが、それは "ひらめき" ではない。
発想や "ひらめき" は、解決策を探っている中でいったん頭を休め、ボーッとしている時に現れるとよく言われます。中国の古典に「三上」という言葉があります。文章を練るのに適した場所が、馬に乗っているとき(馬上)、寝床に入っているとき(枕上)、厠(便所)にいるとき(厠上)とするものですが、これは文章だけのことではないでしょう。散歩やそぞろ歩きの時に科学的発見のアイデアが浮かんだという話もよく聞きます。
最新の脳科学によると、人間はボーッとしているときにも脳が活発に活動していて、さまざまな記憶の断片をつなぎ合わせています。例えば、解決策を模索している問題に、あるとき(意外な時に)フッとアイデアがひらめくのは、脳が同一構造の過去の問題とその解決策をもとに、無意識下にアイデアを提示したのではと思います。ボーッとしているときに脳は「異質なモノ」や「かけ離れた記憶」の間にリンクをつけ、そのリンクがアイデアや直感やひらめきになるのでしょう。
ちょっと脱線しますが、こういった脳の働きに関連して「デジャヴュ」(=デジャヴ、既視感)を思いだしました。デジャヴュは「一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したように感じる現象」のことです。視覚だけでなく聴覚、触覚などについても言うので「既知感」と言うことあります。
個人的には視覚のデジャヴュ経験は記憶にないのですが、聴覚(=音楽)なら時々あります。その一つの例ですが、No.262「ヴュイユマンのカンティレーヌ」で、ヴュイユマン作曲の「カンティレーヌ」というピアノ曲を初めて聴いたとき、これはシューマンの曲に違いないと思ったが、しかしそれはシューマン作曲「謝肉祭」への連想だったという自己分析を書きました。「カンティレーヌ」と「謝肉祭」はかなり違った雰囲気の曲(そもそも拍子が違う)ですが、無意識に2つの曲の間に何らかのリンクがついたのだと思います。
個人的には視覚のデジャヴュ経験は記憶にないのですが、聴覚(=音楽)なら時々あります。その一つの例ですが、No.262「ヴュイユマンのカンティレーヌ」で、ヴュイユマン作曲の「カンティレーヌ」というピアノ曲を初めて聴いたとき、これはシューマンの曲に違いないと思ったが、しかしそれはシューマン作曲「謝肉祭」への連想だったという自己分析を書きました。「カンティレーヌ」と「謝肉祭」はかなり違った雰囲気の曲(そもそも拍子が違う)ですが、無意識に2つの曲の間に何らかのリンクがついたのだと思います。
本題に戻ります。ボーッとしているときに脳は「異質なモノ」の間にリンクをつけるのだとすると、井の頭公園の池で泳ぐ鴨を見て「鳥は恐竜の直系の子孫である」と直感した彼女は、その直感を別の機会に得たはずです。デートの時に "ボーッとしている" とは考えにくいからです。坂井氏のコラムから推測すると、彼女が1人で公園で鴨か鳩を "ボーッと" 眺めているときに突然ひらめいた。以降、公園で鴨や鳩を見るたびにそれを思い出す。井の頭公園でのデートで鴨を見たときもそうだった、ということでしょう。
理由は分からないが「鳥が恐竜の子孫」と直感し、確信できるのは人間の素晴らしいところだと思います。彼女の場合は "たまたま" 科学的に正しいことだったが、"科学的には間違っている" ことでもかまいません。その人にとっての直感はそうなのだし、小説家であればダフネ・デュ・モーリアのように、鳥が人間を襲い始めるというホラー小説を書けるかもしれません。
井の頭公園でのデートの最中に「鳥が恐竜の子孫だと、見ればわかった」坂井氏の奥様は、現在の人工知能(AI)の枠組みでは及ばない人間の価値を具現化していた、そのように思えました。
2020-09-19 11:52
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No.293 - "自由で機会均等" が格差を生む [科学]
今回は、日経サイエンス 2020年9月号に掲載された論文「数理が語る格差拡大のメカニズム」の内容を紹介するのが目的です。この論文は、自由主義経済においては公平でフェアな取引きを繰り返すと必然的に格差が拡大することを数理モデルで論証したものです。
なぜこの論文を取り上げるかというと、No.165「データの見えざる手(1)」で紹介した "玉の移動シミュレーション" と本質的に同じことを言っているからです。そこでまず、No.165のシミュレーションを復習してから本題に入りたいと思います。
コインの移動シミュレーション
No.165は、矢野和男・著「データのみえざる手」(草思社 2014)の内容の一部を紹介したものでした。この中に出てきたシミュレーションをここで再掲します。ただし本質をより明確にするため、シミュレーションの初期設定を変え、またシミュレーションの実行は繰り返し回数を変えて3種類にします。No.165では「玉」と書きましたが、本題につなげるために「コイン」とします(同じことです)。
まず 30 × 30 = 900 のセルを用意し、これらのセルに初期状態としてコインをそれぞれ 80 割り当てます。従って割り当てるコインの総数は、
80 × 900 = 72,000
です。900 とか 80 という数字は、No.165「データの見えざる手(1)」に合わせるためにそうしただけで、他意はありません。今回は別の数でもかまわないのですが、シミュレーション・プログラムをそのまま再利用するために、この値とします(ただし「データの見えざる手」ではこの値が実世界上の意味を持っていました。No.165 参照)。
以下、シミュレーションの各段階のセルの状態を図示するため、セルが保有するコインの数に応じてセルを色分け表示します。色分けのルールは、コインが初期値の80のセルを赤(ピュアな赤)とし、コインが少なくなるにつれて白っぽい赤になり、コインの数が50未満だと真っ白とします。逆にコインの数が80より増えるとセルの色は黒っぽくなり、コインの数が110以上になる真っ黒とします。色分けの凡例を示したのが左の「セルの色分け」図です。
シミュレーションの進展によってセルのコインの数は変化しますが、この色の塗り方では、平均値 = 80 の ±30 の範囲が赤のグラディエーションで、それ以下では白、それ以上は黒になります。この色塗りの閾値はNo.165での説明の都合上で決めた値で、他の値でもかまいません。
初期状態では各セルに均等に 80 のコインを割り当てるので、それを図示すると全部のセルが同じ色(ピュアな赤)で表示されます。
シミュレーションは以下のように進めます。
以上の ① ② ③ を多数繰り返します。今回の繰り返し回数は10万回、100万回、1000万回の3種とします。コインは単に移動するだけなので、セルがもつコインの平均値は初期値である80のままで変わりません。
この「移動の繰り返しシミュレーション」で各セルのコインの数はどのように変化するでしょうか。おそらくほとんどの人は次のようの推論するのではないでしょうか。
これはいかにも理性的というか、真っ当な推論であり、妥当な予想だと思います。しかし実際に移動シミュレーションを行ってみるとこの予想は大きくはずれ、全く違った様相になります。それが次です。
移動シミュレーションを10万回行う試行をして、その結果を凡例に従って色分け表示したのが次の図です。この結果では、全体のおよそ95%のセル(859のセル)のコイン数が50~109の範囲に収まっています。従ってほとんどが赤のグラディエーションで塗られています。一方、白のセル(コイン数が50未満)は17個、黒のセル(コイン数が110以上)は24個です。最も少ないセルのコイン数は40で、最も多いセルのコイン数は130です。
この10万回の移動シミュレーションの結果は、ほぼ予想どおりと言っていいでしょう。
もちろん乱数を使ってシミュレーションをしているので、毎回まったく同じ結果になるわけではありません。しかし10万回のシミュレーションを何度繰り返しても、ほぼ類似の結果になります。
シミュレーションを 100万回繰り返すと様相がかなり違ってきます(次図)。
このシミュレーションでは
です。10万回のシミュレーションではコイン数:50~109のセルがほどんどでしたが、100万回になるとそれは全体(900)の約半分になります。それ以上とそれ以下がほぼ同数あり、「格差」が広がっていることがわかります。また最多のコインを持っているセルのコインの数は平均(=80)の約3倍です。さらに、コインが無くなるセルが出現しました(4つのセル)。
移動の繰り返しが1000万回になると「格差」はもっと激しくなります(次図)。
このシミュレーションでは
でした。コイン数が110以上のセル(裕福なセル)の数(247)は 100万回のシミュレーションの場合(231)より増えますが、大して変わりません。しかし最大コイン数が 382であるように、コインは裕福なセルに集中してきます。これと相対応して、コイン数49以下のセル(貧しいセル)が増えていきます。結果の色分け表示を見ても全体が白っぽく表示されるようになります。
900のセルが「裕福」「中間」「貧困」に分かれましたが、どのセルがどの層にいくかはシミュレーションをするたびに異なります。あくまで偶然にそうなった、ないしは、たまたまそうなったということなのです。
ローレンツ曲線とジニ係数
以下、移動回数が1000万回の場合で考えます。各セルを「人」、コインを「その人が保有している資産」と考えると、
と見なせるわけです。ここで、この集団の格差の状況を1つの数値で表すことを考えます。このために昔から使われるのがローレンツ曲線とジニ係数です。ローレンツ曲線は、
の2次元 x-y平面に描かれます。まず900のセル(人)を、保有するコイン(資産)の数で小さい人から大きい人まで昇順に並べます。
ローレンツ曲線の x 軸は「累積人数比率(総人数を母数とする割合)」です。つまり x = 0.5 とは、資産の少ない方から数えて全体(900)の半分(450)までの人々を表します。
ローレンツ曲線の y 軸とは「累積資産比率」で、累積人数比率の人々が持つ資産総計の、全体(72,000)を母数とする割合です。
初期状態は各人は平等(資産は全員80)なので、この時のローレンツ曲線は (0, 0) と (1, 1) を結ぶ45°の直線になります。しかし格差が広がるにつれて、ローレンツ曲線は (0, 0) から始まってわずかずつ上昇し、最後は尻上がりに (1, 1) に至る曲線となります。上の 1000万回の移動シミュレーションの結果のローレンツ曲線を描いたのが次の図です。この図には初期状態の斜め45°の直線(点線)も描いてあります。
この図で「斜め45°の直線」と「ローレンツ曲線」で囲まれた半月状の形の面積を考えてみると、格差がない状態では面積=0、資産を一人が独占している状態では面積=0.5 となります。この面積の2倍が「ジニ係数」で、格差が全くない場合は 0、一人が資産を独占している場合は 1 です。上の例の1000万回の移動シミュレーションの場合、
ジニ係数=0.49
となりました。シミュレーションは乱数(正確に言うとパソコンで作り出す疑似乱数)をもとに計算しているので、1000万回の試行を何回かやるとジニ係数も変化します。しかし必ず 0.5付近の値になります。ちなみに10万回と100万回も含めてジニ係数をリストすると、
となりました。シミュレーションの回数が増えるに従って格差が拡大します。
以上のシミュレーションは何らかの意味があるのでしょうか。それとも単なるコンピュータを使った "遊び" でしょうか。
「データの見えざる手」において著者の矢野和男氏は次のように書いています。
セルを人、コインを資産とすると、このシミュレーションは2人の間で経済取引をするときの最も素朴なモデルになっています。経済取引とはモノやサービスの売買です。商品の販売や購入がそうだし、労働サービスを提供してその対価としての給料を得るのも経済取引です。株券の売買や、先物取引のような「売買する権利の売買」も経済取引です。
今の自由主義経済では、経済取引は自由に行ってよいわけです。もちろん独占禁止法とか最低賃金法があって「不当な利益」はあげられないようになっている。その各種の規制やルールの範囲内で、どんなモノやサービスをどんな価格で売買するかは自由です。
しかしモノやサービスの売買では、損をする人と得をする人が発生します。つまりモノやサービスがその時にもっている "真の価値" 以上の値段で買うと損になり、真の価値以下の価格で買うと得になります。損か得かは売買をする2人で逆転します。この「損得の発生」は「資産が2人の間で移動した」と考えられるわけです。ここでの「資産」は「保有しているモノとお金の価値合計」ぐらいに考えておきます。Aさんが100円の価値のものを110円でBさんに打ったとすると、10円の資産がBさんからAさんに移動したと考えるわけです。
大切なところは、AさんとBさんのどちらが損をするか得をするかは分からないいことです。特に取引の前に損得は分からない。なぜなら、モノやサービスの "真の価値" を知り得ないからです。従って損得はランダムに(確率的に)決まる。これは上のシミュレーションにおいてコインの移動方向をランダムに(確率的に)決めたことに相当します。
以上が、このシミュレーションが「自由な経済取引の素朴なモデル」になっている理由です。このモデルでは取引を重ねるほど格差が増大します。矢野氏の著書の名前である「データの見えざる手」は、もちろんアダム・スミスの「神の見えざる手」の "もじり" ですが、これは言い得て妙という感じがします。「見えざる手」論は、自由な市場が価格変動を調節して資源の最適配分に導くという主張ですが、実はこの「神の手」は取引の繰り返しによって格差を生み出すことに役だっているようなのです。
公正で機会均等な取引が格差を生む ────。このことを経済学の論文として明らかにした雑誌記事を次に紹介します。前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
数理が語る格差拡大のメカニズム
これ以降、日経サイエンス 2020年9月号に掲載された論文「数理が語る格差拡大のメカニズム」の内容を紹介します。この論文は、タフツ大学(米国・マサチューセッツ州)のブルース・ボゴシアン教授が執筆したものです。ボゴシアン教授は数学者で、論文の内容を一言で要約すると、
ことを数理モデルで論証したものです。論文ではまず、世界の様々な国で富の不平等が拡大していることが語られます。
このような富(資産)の集中がどうして起こるのか、それを数理モデルで解析しようするのがボゴシアン教授の目的です。
資産の分布とエージェントモデル
まず前提として資産とは何かですが、論文ではその定義が書いてありません(自明のこととしてあります)。従って一般的な理解で言いますと、これは個人が保有している資産(家計資産)のことです(法人や企業の資産ではない)。またその資産の内容は、金融資産(現金や株券・債権など)に非金融資産(不動産や貴金属などで換金可能なもの)を加え、そこから負債(借金)を引いたものです。従って資産はマイナスになり得ることに注意しましょう。ボゴシアン教授の数理モデルにもそれが出てきます。
資産の分布をモデル化する出発点は「エージェントベースの資産分布モデル」です。エージェントとは商取引を行う「主体」のことで、2人のエージェントが行う商取引がモデルのベースです。つまり2人のエージェントが自由意志で、互いに納得した価格で財貨を交換する。たとえば「商品を買う」「労働の対価として賃金を得る」などです。このエージェント同士が行う商取引を膨大に積み重ねた結果として社会全体の資産分布が決まるというのが、今回の数理モデルです。
この「自由意志で、互いに納得した価格で財貨を交換」するモデルは、現代社会において公正でフェアだと考えられています。また上に引用した「神の見えざる手」論のように、需要と供給をバランスを調整して安定した経済体系を作るとされていて、いかにも "自然な" モデルです。しかし、実はそこに格差を生み出すメカニズムが潜んでいるというのが、以下の論です。
ヤードセールモデル
2002年、インドのサハ核物理学研究所のチャクラボルティ(Aanirban Chakraborti)は、上記のエージェントモデルの一種である「ヤードセールモデル」を導入しました。ボゴシアン教授はこのモデルを出発点にしています。
「ヤードセール」とは、家の庭(yard)で行う不要品販売セールのことです。このモデルは「不要品販売セールにみられる1対1取引きの特徴」があるのでこの名前がつきました。次のようなモデルです。
このモデルはいかにも妥当に思えます。つまり「売り手・買い手のどちらに資産が移動するかはランダムにきまる。かつ資産の移動量(Δw)は貧しい方の人の資産の一部」というところは、実際の経済生活を通じてほとんどの人が経験してきたことであり、また自分に課している制限だと考えられるからです。
このヤードセールモデルによる取引を、例えば1000人の集団で行います。各人が最初に持っている資産は完全に同額です。ここからランダムに選ばれた2人が取引をします。これを何100万回、何億回と繰り返すシミュレーションをしたらどうなるか。
ここで、Δwを「貧しい方の人が保有している資産の20%」とする必然性はありません(明らかに20%は過大です)。数字は問題ではなく、2%でも何%でもよい。数字が少なくなるとシミュレーションの収束に時間がかかるだけで結果は同じだからです。それどころか、次のような「ヤードセールモデルの変種」でもよい。つまり、
とするわけです。つまり貧しい人が相対的に少し有利になる設定です。しかしこの設定でも結果は変わりません。論文から引用します。
論文にはありませんが、このシミュレーションを実際にやってみました。基礎数値は「データの見えざる手」のものを採用します。
このシミュレーションのローレンツ曲線とジニ係数が次の図です。きわめて極端な格差が生まれていることが分かります。
このシミュレーションを1000万回ではなくもっと多数繰り返していくと、資産が一人に集中する「寡頭支配」になります。論文に「他の999人にはほとんと何も残らない」と書いてあるのは、このシミュレーションではどの人も資産がゼロになることはないからです。しかし999人はゼロに極めて近い値になる。つまり「ほとんと何も残らない」のです。
ちなみに上のシミュレーションを1000万回で止めたのは、あまりやると極端な独占が進み、ローレンツ曲線が曲線らしくなくなるからでした。
論文に戻って、ボゴシアン教授の論を続けます。
"この種の現象を物理学者は「対称性の破れ」と呼んでいる" とありますが、日経サイエンスでは「対称性の破れ」を "相転移" の例で解説しています。たとえば磁石ですが、なぜ磁力が発生するかというと磁石の中の分子が極小の磁石となっていて、その磁力の向き(N極とS極)が揃っているからです。
ところが温度を上げて特定の温度(=キュリー温度)に達すると、突然、磁力がなくなります。キュリー温度以上では極小磁石の向きがバラバラになるからです。このバラバラになった状態では、どの方向から観察しても性質が同じなので「対称性がある」と表現されます。
逆に、キュリー温度以上から徐々に温度を下げると、キュリー温度のところで突如「対称性の破れ」が発生し、極小磁石は同じ向きに整列し、方向によって違う物理性質を示します。つまり磁石になります。
ボゴシアン教授の説明は続きます。
引用の最後のところにあるヤードセールモデルは、オリジナルのものです。つまり商取引で移動する資産は移動方向に関わらす同じ(例えば、貧しい主体の20%)というモデルです。一方、上のシミュレーション例は貧者が少しだけ有利な「ヤードセールモデルの変種」でした。もちろん「ヤードセールモデルの変種」よりも「ヤードセールモデル」の方が富の集中は急速に進みます。以下の議論は、オリジナルのヤードセールモデルに基づきます。
再分配パラメータの導入
ヤードセールモデルが社会の資産の偏在を表現しているというのではありません。このモデルではシミュレーションが進むにつれて資産が1人に独占されますが、現実社会はそうなっていないからです。
そこで「再分配パラメータ」を導入します。これは、各主体が取引を行うごとに、各主体の資産を社会全体の資産の平均値に少しだけ近づけるものです。これをコントールするパラメータを χ(カイ。ギリシャ文字)とし、
再分配 =
(資産の平均値 ー 取引主体の資産)× χ
だけの資産を各主体にプラスします。従って、平均値以下の主体の資産は増額され、平均値以上の主体の資産は減額されることになります。これは裕福な人に富裕税を課し、それを貧しい人に配分するということに相当します。
資産バイアス・パラメータの導入
ここまでの議論では、取引において資産が移動する方向は全くランダム(確率でいうと 0.5 / 0.5)としていました。しかし現実の社会では、富裕層が低金利融資や専門家による財産形成のアドバイスといった経済的恩恵を受けているのに対し、貧しい人々は高金利の借金をしたり最適価格の品を探す時間的余裕がないなど、経済的には不利な状況にあります。
そこでこの状況を模擬するために「資産バイアスパラメータ」の ζ(ゼータ。ギリシャ文字)を導入します。そして
資産バイアス =
(取引主体の資産差額 / 資産の平均額)× ζ
とし、資産バイアスの確率だけ裕福な者が有利になるようにします(取引主体の資産差額は絶対値)。論文には詳細が書いてありませんが、たとえば
裕福な者が得をする確率 =
0.5 + 資産バイアス / 2
貧しい者が得をする確率 =
0.5 - 資産バイアス / 2
とすれば、ちょうど資産バイアスだけの確率差がつくことになります。この定義の資産バイアスは1以上になる可能性があります。たとえば ζ を0.05 とすると、取引主体の資産差額が集団の資産の平均額の20倍あるとちょうど1になります。こうなると必ず裕福なものが得をすることになる。従って実際のシミュレーションでは資産バイアスが 1 以下になるような、何らかの調整が必要なはずです。
ともかく、再分配パラメータに加えて資産バイアスパラメータを考慮したモデルの解析結果が次です。
著者によると、ζ が χ を下回った場合は寡頭集中のない安定的な状態に落ち着くそうです。
ちなみに「米国と欧州諸国の資産分布の経験的データと誤差 x% で一致」という表現についてですが、χ や ζ といったパラメータを国ごとにどのように設定すれば資産分布の経験的データを最もよく表現できるかをサーベイし、その結果の最適値のときの誤差が x% という意味です。
マイナス資産の導入
さらにモデルの改良は続きます。これまでのモデルではシミュレーションをいくら繰り返しても資産がマイナスになることはありません。もちろん寡頭集中が起こったりすると多数の人の資産がゼロに近づくのですが、原理上マイナスにはなりません。
しかし実社会では資産がマイナスということが起こります。保有している現金や不動産などの額より負債額が多ければ資産はマイナスだからです。しかし資産がマイナスであっても商取引は可能であり、社会では実際に行われています。
この状況をモデル化するために、新たなパラメータ κ(カッパ。ギリシャ文字)を導入し、最大マイナス資産(=S)を次の式で計算します。
最大マイナス資産(S)=
資産の平均額 × κ
そして、拡張ヤードセールモデル(χ と ζ を入れたモデル)による取引をする前に、2つの取引主体の資産に S を加え、取引が終わったあとに2つの取引主体の資産から S を引くという操作をします。この操作によって、集団の中で最も資産が少ない人の資産額が -S となります。
いままで出てきた3つのパラメータ、χ と ζ と κ を導入したモデルが最終のもので、著者はこれを数学者らしく「アフィン型資産モデル(AWM)」と呼んでいます。
上に向かって流れる富
ボゴシアン教授の数理モデルは、欧米各国の資産分布モデルを極めて正確に再現できることがわかりました。これは今まで作られてきた各種モデルの中で現実に最もよく合致するものです。次が論文の結論部分です。
この論文の原題は「The Inescapable Casino」です。直訳すると「逃げ出せないカジノ」で、これは現代の自由主義経済の社会そのものを言っています。論文に出てきたヤードセールモデルは、カジノにおける客とディーラーの賭とそっくりです。客の資金は限られているがディーラー(=カジノの代表)の資金は客に比べると膨大です。賭を長く続ければ続けるほど客の資金は底をつく。カジノで損をしないためには一刻も早くカジノから出るしかありません。しかし現代の自由主義経済社会というカジノから逃げ出すことはできないのです。
この論文で展開されているのは「数理モデル」であって、現実の人間社会の経済活動ではありません。しかしこれだけ正確に各国の経済格差をモデル化できるということは、そこに何かしらの真実が含まれていると考えるべきでしょう。
公正でフェアで機会(チャンス)が均等な取引の積み重ねが富の格差を生み出す。しかも、社会に参加する時点で人が保有している富に差がついていると有利・不利が初めから決まってしまう。このことを警鐘として受け止めるべきだと思いました。
またこの論文は、我々にある種の思い込みがあることを明らかにしていると思います。それは "すべての結果には原因がある" という思い込みです。結果をもたらすに至った原因を追求することは社会活動の大原則です。なぜそうなったか、その根本原因を追求して対策を打つ。それで社会が成り立っています。
しかし、すべての結果に原因があるわけではないのです。裕福な者と貧しい者、その差は本人の能力や努力の結果であり、さらにはどういう家庭に生まれたかの差である。そう考えることは正しいが、そればかりではない。偶然に差がついたという要素もあるのです。
知らず知らずのあいだに我々の思考を束縛する "思い込み" は排除しなければならない。そう感じました。
さらに思ったことがあります。「公平で機会均等な取引の積み重ねが富の格差を生み出す」という結果はコンピュータがないとしたら絶対に発見できなかっただろう、ということです。手作業や紙と鉛筆だけでの思考では無理です。コンピュータがあるからこそ(私のように)家庭用パソコンでも簡単に検証できてしまう。その結果は、全く意外なものです。
ボゴシアン教授は論文で「ヤードセールモデルが富を貧者から富める者へと移動させることの数学的な証明を与えた」と説明していました。数学的な発見があって、結果がどうなるかを見い出したのではありません。コンピュータ・シミュレーションによる結果がまずあり、なぜそうなるのかという数学的証明を後から行ったわけです。この論文は、今さらながらですが、コンピュータの威力と可能性を示しているのでした。
なぜこの論文を取り上げるかというと、No.165「データの見えざる手(1)」で紹介した "玉の移動シミュレーション" と本質的に同じことを言っているからです。そこでまず、No.165のシミュレーションを復習してから本題に入りたいと思います。
コインの移動シミュレーション
No.165は、矢野和男・著「データのみえざる手」(草思社 2014)の内容の一部を紹介したものでした。この中に出てきたシミュレーションをここで再掲します。ただし本質をより明確にするため、シミュレーションの初期設定を変え、またシミュレーションの実行は繰り返し回数を変えて3種類にします。No.165では「玉」と書きましたが、本題につなげるために「コイン」とします(同じことです)。
まず 30 × 30 = 900 のセルを用意し、これらのセルに初期状態としてコインをそれぞれ 80 割り当てます。従って割り当てるコインの総数は、
80 × 900 = 72,000
|
以下、シミュレーションの各段階のセルの状態を図示するため、セルが保有するコインの数に応じてセルを色分け表示します。色分けのルールは、コインが初期値の80のセルを赤(ピュアな赤)とし、コインが少なくなるにつれて白っぽい赤になり、コインの数が50未満だと真っ白とします。逆にコインの数が80より増えるとセルの色は黒っぽくなり、コインの数が110以上になる真っ黒とします。色分けの凡例を示したのが左の「セルの色分け」図です。
シミュレーションの進展によってセルのコインの数は変化しますが、この色の塗り方では、平均値 = 80 の ±30 の範囲が赤のグラディエーションで、それ以下では白、それ以上は黒になります。この色塗りの閾値はNo.165での説明の都合上で決めた値で、他の値でもかまいません。
初期状態では各セルに均等に 80 のコインを割り当てるので、それを図示すると全部のセルが同じ色(ピュアな赤)で表示されます。
![]() |
初期状態 |
初期状態では30×30のセルにそれぞれ80のコインを割り当てる。 |
 シミュレーションの進め方  |
シミュレーションは以下のように進めます。
2つの異なるセルをランダムに選ぶ。 | |
選ばれた2つのセルについて、一方のセルからもう一方のセルにコインを1枚移す。つまり一方のセルのコインを1だけ増やし、他方を1だけ減らす。このとき、どちらからどちらへコインを移すかはランダムに決める。2つのセルのその時のコインの数は全く考慮しない。 | |
ただし、移動元となったセルのコインの数がゼロだった場合は何もしない。 |
以上の ① ② ③ を多数繰り返します。今回の繰り返し回数は10万回、100万回、1000万回の3種とします。コインは単に移動するだけなので、セルがもつコインの平均値は初期値である80のままで変わりません。
この「移動の繰り返しシミュレーション」で各セルのコインの数はどのように変化するでしょうか。おそらくほとんどの人は次のようの推論するのではないでしょうか。
1回の移動で選ばれるセルの数は2で、全体の 1/450 である。従って、たとえば10万回繰り返すとすると、一つのセルに注目した場合、100,000 / 450 = 約220回、移動の対象なるに違いない。もちろんランダムに選択するので220回ということはなく、180回からもしれないし、250回かもしれない。しかし極端なこと(数回しか選ばれないとか、1万回選ばれるとか)は起こらないはずだ。 | |
選ばれた各回において、セルが移動元となるか(コインが - 1)、移動先となるか(コインが + 1)は全くランダムに決まる。その時のセルのコイン数は全く考慮されない。従ってこれを220回程度繰り返すと、初期値の80に近い値になるだろう。各セルのコイン数は、80を中心として、せいぜい 50 ~ 110 程度(例えば)に収まるのではないか。 | |
この状況は、移動回数が100万回になっても、1000万回になっても変わらないはずだ。すべてはランダムに決まっているのだから。 |
これはいかにも理性的というか、真っ当な推論であり、妥当な予想だと思います。しかし実際に移動シミュレーションを行ってみるとこの予想は大きくはずれ、全く違った様相になります。それが次です。
 移動回数:10万回  |
移動シミュレーションを10万回行う試行をして、その結果を凡例に従って色分け表示したのが次の図です。この結果では、全体のおよそ95%のセル(859のセル)のコイン数が50~109の範囲に収まっています。従ってほとんどが赤のグラディエーションで塗られています。一方、白のセル(コイン数が50未満)は17個、黒のセル(コイン数が110以上)は24個です。最も少ないセルのコイン数は40で、最も多いセルのコイン数は130です。
この10万回の移動シミュレーションの結果は、ほぼ予想どおりと言っていいでしょう。
![]() |
移動回数:10万回 |
およそ95%のセルのコイン数が50~109の範囲(赤のグラディエーションの範囲)に収まっている。それ以下のセル(白)は17、それ以上のセル(黒)は24である。 |
もちろん乱数を使ってシミュレーションをしているので、毎回まったく同じ結果になるわけではありません。しかし10万回のシミュレーションを何度繰り返しても、ほぼ類似の結果になります。
 移動回数:100万回  |
シミュレーションを 100万回繰り返すと様相がかなり違ってきます(次図)。
![]() |
移動回数:100万回 |
コイン数が50~109のセルが全体の半分以下になった。それ以上とそれ以下がほぼ同数あり「格差」が広がることがわかる。最大のコイン数は平均の3倍以上で、コイン数ゼロのセルも現れた。 |
このシミュレーションでは
231 | |
423 | |
246 | |
| |
249 | |
0(4セル) |
です。10万回のシミュレーションではコイン数:50~109のセルがほどんどでしたが、100万回になるとそれは全体(900)の約半分になります。それ以上とそれ以下がほぼ同数あり、「格差」が広がっていることがわかります。また最多のコインを持っているセルのコインの数は平均(=80)の約3倍です。さらに、コインが無くなるセルが出現しました(4つのセル)。
 移動回数:1000万回  |
移動の繰り返しが1000万回になると「格差」はもっと激しくなります(次図)。
![]() |
移動回数:1000万回 |
格差がさらに広がる。白(コイン数49以下)のセルは400を越し、コインは「裕福な」セルに集中していく。 |
このシミュレーションでは
247 | |
247 | |
406 | |
| |
382 | |
0(12セル) |
でした。コイン数が110以上のセル(裕福なセル)の数(247)は 100万回のシミュレーションの場合(231)より増えますが、大して変わりません。しかし最大コイン数が 382であるように、コインは裕福なセルに集中してきます。これと相対応して、コイン数49以下のセル(貧しいセル)が増えていきます。結果の色分け表示を見ても全体が白っぽく表示されるようになります。
900のセルが「裕福」「中間」「貧困」に分かれましたが、どのセルがどの層にいくかはシミュレーションをするたびに異なります。あくまで偶然にそうなった、ないしは、たまたまそうなったということなのです。
ローレンツ曲線とジニ係数
以下、移動回数が1000万回の場合で考えます。各セルを「人」、コインを「その人が保有している資産」と考えると、
初期状態では各人は平等だったが(資産は全員80) | |
資産の移動を1000万回繰り返すと、資産格差が生まれた(最も少ない人は 0、最も多い人は382) |
と見なせるわけです。ここで、この集団の格差の状況を1つの数値で表すことを考えます。このために昔から使われるのがローレンツ曲線とジニ係数です。ローレンツ曲線は、
0 ≦ x ≦ 1
0 ≦ y ≦ 1
0 ≦ y ≦ 1
の2次元 x-y平面に描かれます。まず900のセル(人)を、保有するコイン(資産)の数で小さい人から大きい人まで昇順に並べます。
ローレンツ曲線の x 軸は「累積人数比率(総人数を母数とする割合)」です。つまり x = 0.5 とは、資産の少ない方から数えて全体(900)の半分(450)までの人々を表します。
ローレンツ曲線の y 軸とは「累積資産比率」で、累積人数比率の人々が持つ資産総計の、全体(72,000)を母数とする割合です。
初期状態は各人は平等(資産は全員80)なので、この時のローレンツ曲線は (0, 0) と (1, 1) を結ぶ45°の直線になります。しかし格差が広がるにつれて、ローレンツ曲線は (0, 0) から始まってわずかずつ上昇し、最後は尻上がりに (1, 1) に至る曲線となります。上の 1000万回の移動シミュレーションの結果のローレンツ曲線を描いたのが次の図です。この図には初期状態の斜め45°の直線(点線)も描いてあります。
![]() |
ローレンツ曲線 シミュレーション回数:10,000,000 ジニ係数=0.49 |
この図で「斜め45°の直線」と「ローレンツ曲線」で囲まれた半月状の形の面積を考えてみると、格差がない状態では面積=0、資産を一人が独占している状態では面積=0.5 となります。この面積の2倍が「ジニ係数」で、格差が全くない場合は 0、一人が資産を独占している場合は 1 です。上の例の1000万回の移動シミュレーションの場合、
ジニ係数=0.49
となりました。シミュレーションは乱数(正確に言うとパソコンで作り出す疑似乱数)をもとに計算しているので、1000万回の試行を何回かやるとジニ係数も変化します。しかし必ず 0.5付近の値になります。ちなみに10万回と100万回も含めてジニ係数をリストすると、
0.11 | |
0.31 | |
0.49 |
となりました。シミュレーションの回数が増えるに従って格差が拡大します。
以上のシミュレーションは何らかの意味があるのでしょうか。それとも単なるコンピュータを使った "遊び" でしょうか。
「データの見えざる手」において著者の矢野和男氏は次のように書いています。
|
セルを人、コインを資産とすると、このシミュレーションは2人の間で経済取引をするときの最も素朴なモデルになっています。経済取引とはモノやサービスの売買です。商品の販売や購入がそうだし、労働サービスを提供してその対価としての給料を得るのも経済取引です。株券の売買や、先物取引のような「売買する権利の売買」も経済取引です。
今の自由主義経済では、経済取引は自由に行ってよいわけです。もちろん独占禁止法とか最低賃金法があって「不当な利益」はあげられないようになっている。その各種の規制やルールの範囲内で、どんなモノやサービスをどんな価格で売買するかは自由です。
しかしモノやサービスの売買では、損をする人と得をする人が発生します。つまりモノやサービスがその時にもっている "真の価値" 以上の値段で買うと損になり、真の価値以下の価格で買うと得になります。損か得かは売買をする2人で逆転します。この「損得の発生」は「資産が2人の間で移動した」と考えられるわけです。ここでの「資産」は「保有しているモノとお金の価値合計」ぐらいに考えておきます。Aさんが100円の価値のものを110円でBさんに打ったとすると、10円の資産がBさんからAさんに移動したと考えるわけです。
大切なところは、AさんとBさんのどちらが損をするか得をするかは分からないいことです。特に取引の前に損得は分からない。なぜなら、モノやサービスの "真の価値" を知り得ないからです。従って損得はランダムに(確率的に)決まる。これは上のシミュレーションにおいてコインの移動方向をランダムに(確率的に)決めたことに相当します。
以上が、このシミュレーションが「自由な経済取引の素朴なモデル」になっている理由です。このモデルでは取引を重ねるほど格差が増大します。矢野氏の著書の名前である「データの見えざる手」は、もちろんアダム・スミスの「神の見えざる手」の "もじり" ですが、これは言い得て妙という感じがします。「見えざる手」論は、自由な市場が価格変動を調節して資源の最適配分に導くという主張ですが、実はこの「神の手」は取引の繰り返しによって格差を生み出すことに役だっているようなのです。
公正で機会均等な取引が格差を生む ────。このことを経済学の論文として明らかにした雑誌記事を次に紹介します。前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
数理が語る格差拡大のメカニズム
|
自由主義経済においては、公平でフェアな取引きを繰り返すと必然的に格差が拡大する
ことを数理モデルで論証したものです。論文ではまず、世界の様々な国で富の不平等が拡大していることが語られます。
以下の引用では段落を増やした(減らした)ところがあります。また下線は原文にはありません。
|
このような富(資産)の集中がどうして起こるのか、それを数理モデルで解析しようするのがボゴシアン教授の目的です。
資産の分布とエージェントモデル
まず前提として資産とは何かですが、論文ではその定義が書いてありません(自明のこととしてあります)。従って一般的な理解で言いますと、これは個人が保有している資産(家計資産)のことです(法人や企業の資産ではない)。またその資産の内容は、金融資産(現金や株券・債権など)に非金融資産(不動産や貴金属などで換金可能なもの)を加え、そこから負債(借金)を引いたものです。従って資産はマイナスになり得ることに注意しましょう。ボゴシアン教授の数理モデルにもそれが出てきます。
資産の分布をモデル化する出発点は「エージェントベースの資産分布モデル」です。エージェントとは商取引を行う「主体」のことで、2人のエージェントが行う商取引がモデルのベースです。つまり2人のエージェントが自由意志で、互いに納得した価格で財貨を交換する。たとえば「商品を買う」「労働の対価として賃金を得る」などです。このエージェント同士が行う商取引を膨大に積み重ねた結果として社会全体の資産分布が決まるというのが、今回の数理モデルです。
この「自由意志で、互いに納得した価格で財貨を交換」するモデルは、現代社会において公正でフェアだと考えられています。また上に引用した「神の見えざる手」論のように、需要と供給をバランスを調整して安定した経済体系を作るとされていて、いかにも "自然な" モデルです。しかし、実はそこに格差を生み出すメカニズムが潜んでいるというのが、以下の論です。
ヤードセールモデル
2002年、インドのサハ核物理学研究所のチャクラボルティ(Aanirban Chakraborti)は、上記のエージェントモデルの一種である「ヤードセールモデル」を導入しました。ボゴシアン教授はこのモデルを出発点にしています。
「ヤードセール」とは、家の庭(yard)で行う不要品販売セールのことです。このモデルは「不要品販売セールにみられる1対1取引きの特徴」があるのでこの名前がつきました。次のようなモデルです。
1対1取引を行う片方が "間違う" ことによって、資産が移動すると考える。 | |
取引した品物の価格が、その品物の価値と一致しているなら資産の移動は起こらない。 | |
しかし買い手が払いすぎたり(=買い手が間違う)、売り手の受領額が品物の価値より少ない(=売り手が間違う)場合は、売り手と買い手の間で資産(Δw)の移動が起こる。 | |
資産の移動(Δw)がどの方向に発生するか(買い手が間違うか、売り手が間違うか)は、ランダムに(=コイン投げで表が出るか裏が出るか)決まる。 | |
破産したいと望む人はいない。従って、資産の移動(Δw)は貧しい方の人が保有している資産の一部にとどまるとする。たとえば、貧しい方の人が保有している資産の20%がΔwと仮定する。 |
![]() |
ヤードセールモデル |
売り手が庭で不要品を販売している。タイプライターに $11 の値がついているが、買い手は $10 でどうかと交渉した。両者の自由意志での合意の上で、$10 で取引が成立した。買い手は $1 得をしたと思い、売り手は $1 損をしたと思っているが、果たして本当にそうなのかは分からない。日経サイエンス 2020年9月号より。 |
このモデルはいかにも妥当に思えます。つまり「売り手・買い手のどちらに資産が移動するかはランダムにきまる。かつ資産の移動量(Δw)は貧しい方の人の資産の一部」というところは、実際の経済生活を通じてほとんどの人が経験してきたことであり、また自分に課している制限だと考えられるからです。
このヤードセールモデルによる取引を、例えば1000人の集団で行います。各人が最初に持っている資産は完全に同額です。ここからランダムに選ばれた2人が取引をします。これを何100万回、何億回と繰り返すシミュレーションをしたらどうなるか。
ここで、Δwを「貧しい方の人が保有している資産の20%」とする必然性はありません(明らかに20%は過大です)。数字は問題ではなく、2%でも何%でもよい。数字が少なくなるとシミュレーションの収束に時間がかかるだけで結果は同じだからです。それどころか、次のような「ヤードセールモデルの変種」でもよい。つまり、
貧しい人が損をする場合は自己資産の17%の損 | |
貧しい人が得をする場合は自己資産の20%の得 |
とするわけです。つまり貧しい人が相対的に少し有利になる設定です。しかしこの設定でも結果は変わりません。論文から引用します。
|
論文にはありませんが、このシミュレーションを実際にやってみました。基礎数値は「データの見えざる手」のものを採用します。
集団は900人とする。初期状態では各人が80の資産を持つ。 | |
ランダムに選ばれた2人が商取引を行う。この結果として2人の間で資産が移動する。移動の方向はランダムに(確率0.5で)決まる。 | |
「貧しい人」から「金持ちの人」へと資産が移動する場合は「貧しい人の資産の17%」が移動する。逆に「金持ちの人」から「貧しい人」へと資産が移動する場合は「貧しい人の資産の20%」が移動する(=ヤードセールモデルの変種)。 | |
この商取引を1000万回繰り返す。 |
このシミュレーションのローレンツ曲線とジニ係数が次の図です。きわめて極端な格差が生まれていることが分かります。
![]() |
「ヤードセールモデルの変種」 シミュレーション回数:10,000,000 ジニ係数=0.984 |
このシミュレーションでは、人口の1%が全資産の74%を占め、人口の2%が全資産の89%を独占した。シミュレーション回数をさらに増やすと独占者が出現し、ジニ係数は 1 に近づく。オリジナルの「ヤードセールモデル」ではもっと急速に 1 に近づく。 |
このシミュレーションを1000万回ではなくもっと多数繰り返していくと、資産が一人に集中する「寡頭支配」になります。論文に「他の999人にはほとんと何も残らない」と書いてあるのは、このシミュレーションではどの人も資産がゼロになることはないからです。しかし999人はゼロに極めて近い値になる。つまり「ほとんと何も残らない」のです。
ちなみに上のシミュレーションを1000万回で止めたのは、あまりやると極端な独占が進み、ローレンツ曲線が曲線らしくなくなるからでした。
論文に戻って、ボゴシアン教授の論を続けます。
|
"この種の現象を物理学者は「対称性の破れ」と呼んでいる" とありますが、日経サイエンスでは「対称性の破れ」を "相転移" の例で解説しています。たとえば磁石ですが、なぜ磁力が発生するかというと磁石の中の分子が極小の磁石となっていて、その磁力の向き(N極とS極)が揃っているからです。
ところが温度を上げて特定の温度(=キュリー温度)に達すると、突然、磁力がなくなります。キュリー温度以上では極小磁石の向きがバラバラになるからです。このバラバラになった状態では、どの方向から観察しても性質が同じなので「対称性がある」と表現されます。
逆に、キュリー温度以上から徐々に温度を下げると、キュリー温度のところで突如「対称性の破れ」が発生し、極小磁石は同じ向きに整列し、方向によって違う物理性質を示します。つまり磁石になります。
ボゴシアン教授の説明は続きます。
|
引用の最後のところにあるヤードセールモデルは、オリジナルのものです。つまり商取引で移動する資産は移動方向に関わらす同じ(例えば、貧しい主体の20%)というモデルです。一方、上のシミュレーション例は貧者が少しだけ有利な「ヤードセールモデルの変種」でした。もちろん「ヤードセールモデルの変種」よりも「ヤードセールモデル」の方が富の集中は急速に進みます。以下の議論は、オリジナルのヤードセールモデルに基づきます。
再分配パラメータの導入
ヤードセールモデルが社会の資産の偏在を表現しているというのではありません。このモデルではシミュレーションが進むにつれて資産が1人に独占されますが、現実社会はそうなっていないからです。
そこで「再分配パラメータ」を導入します。これは、各主体が取引を行うごとに、各主体の資産を社会全体の資産の平均値に少しだけ近づけるものです。これをコントールするパラメータを χ(カイ。ギリシャ文字)とし、
再分配 =
(資産の平均値 ー 取引主体の資産)× χ
だけの資産を各主体にプラスします。従って、平均値以下の主体の資産は増額され、平均値以上の主体の資産は減額されることになります。これは裕福な人に富裕税を課し、それを貧しい人に配分するということに相当します。
|
資産バイアス・パラメータの導入
ここまでの議論では、取引において資産が移動する方向は全くランダム(確率でいうと 0.5 / 0.5)としていました。しかし現実の社会では、富裕層が低金利融資や専門家による財産形成のアドバイスといった経済的恩恵を受けているのに対し、貧しい人々は高金利の借金をしたり最適価格の品を探す時間的余裕がないなど、経済的には不利な状況にあります。
そこでこの状況を模擬するために「資産バイアスパラメータ」の ζ(ゼータ。ギリシャ文字)を導入します。そして
資産バイアス =
(取引主体の資産差額 / 資産の平均額)× ζ
とし、資産バイアスの確率だけ裕福な者が有利になるようにします(取引主体の資産差額は絶対値)。論文には詳細が書いてありませんが、たとえば
裕福な者が得をする確率 =
0.5 + 資産バイアス / 2
貧しい者が得をする確率 =
0.5 - 資産バイアス / 2
とすれば、ちょうど資産バイアスだけの確率差がつくことになります。この定義の資産バイアスは1以上になる可能性があります。たとえば ζ を0.05 とすると、取引主体の資産差額が集団の資産の平均額の20倍あるとちょうど1になります。こうなると必ず裕福なものが得をすることになる。従って実際のシミュレーションでは資産バイアスが 1 以下になるような、何らかの調整が必要なはずです。
ともかく、再分配パラメータに加えて資産バイアスパラメータを考慮したモデルの解析結果が次です。
|
著者によると、ζ が χ を下回った場合は寡頭集中のない安定的な状態に落ち着くそうです。
ちなみに「米国と欧州諸国の資産分布の経験的データと誤差 x% で一致」という表現についてですが、χ や ζ といったパラメータを国ごとにどのように設定すれば資産分布の経験的データを最もよく表現できるかをサーベイし、その結果の最適値のときの誤差が x% という意味です。
マイナス資産の導入
さらにモデルの改良は続きます。これまでのモデルではシミュレーションをいくら繰り返しても資産がマイナスになることはありません。もちろん寡頭集中が起こったりすると多数の人の資産がゼロに近づくのですが、原理上マイナスにはなりません。
しかし実社会では資産がマイナスということが起こります。保有している現金や不動産などの額より負債額が多ければ資産はマイナスだからです。しかし資産がマイナスであっても商取引は可能であり、社会では実際に行われています。
この状況をモデル化するために、新たなパラメータ κ(カッパ。ギリシャ文字)を導入し、最大マイナス資産(=S)を次の式で計算します。
最大マイナス資産(S)=
資産の平均額 × κ
そして、拡張ヤードセールモデル(χ と ζ を入れたモデル)による取引をする前に、2つの取引主体の資産に S を加え、取引が終わったあとに2つの取引主体の資産から S を引くという操作をします。この操作によって、集団の中で最も資産が少ない人の資産額が -S となります。
いままで出てきた3つのパラメータ、χ と ζ と κ を導入したモデルが最終のもので、著者はこれを数学者らしく「アフィン型資産モデル(AWM)」と呼んでいます。
この "アフィン" という用語ですが、「アフィン変換」が大学の数学で出てきます。これは、乗法(幾何イメージは拡大・縮小)と加法(幾何イメージは平行移動)の両方を含んだ変換を言います。著者のモデルは取引主体の保有資産から決まる量に(乗法的に)依存したやりとりと、集団の平均資産から決まる量に(加法的に)依存したやりとりの両方があります。それを "アフィン" という用語で表しています。
|
![]() |
米国(2016年)の保有資産のローレンツ曲線 ジニ係数=0.86 (日経サイエンス 2020年9月号より) |
![]() |
経験的データとアフィン型資産モデル(AWM)の比較 (日経サイエンス 2020年9月号より) |
上に向かって流れる富
ボゴシアン教授の数理モデルは、欧米各国の資産分布モデルを極めて正確に再現できることがわかりました。これは今まで作られてきた各種モデルの中で現実に最もよく合致するものです。次が論文の結論部分です。
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この論文の原題は「The Inescapable Casino」です。直訳すると「逃げ出せないカジノ」で、これは現代の自由主義経済の社会そのものを言っています。論文に出てきたヤードセールモデルは、カジノにおける客とディーラーの賭とそっくりです。客の資金は限られているがディーラー(=カジノの代表)の資金は客に比べると膨大です。賭を長く続ければ続けるほど客の資金は底をつく。カジノで損をしないためには一刻も早くカジノから出るしかありません。しかし現代の自由主義経済社会というカジノから逃げ出すことはできないのです。
この論文で展開されているのは「数理モデル」であって、現実の人間社会の経済活動ではありません。しかしこれだけ正確に各国の経済格差をモデル化できるということは、そこに何かしらの真実が含まれていると考えるべきでしょう。
公正でフェアで機会(チャンス)が均等な取引の積み重ねが富の格差を生み出す。しかも、社会に参加する時点で人が保有している富に差がついていると有利・不利が初めから決まってしまう。このことを警鐘として受け止めるべきだと思いました。
またこの論文は、我々にある種の思い込みがあることを明らかにしていると思います。それは "すべての結果には原因がある" という思い込みです。結果をもたらすに至った原因を追求することは社会活動の大原則です。なぜそうなったか、その根本原因を追求して対策を打つ。それで社会が成り立っています。
しかし、すべての結果に原因があるわけではないのです。裕福な者と貧しい者、その差は本人の能力や努力の結果であり、さらにはどういう家庭に生まれたかの差である。そう考えることは正しいが、そればかりではない。偶然に差がついたという要素もあるのです。
知らず知らずのあいだに我々の思考を束縛する "思い込み" は排除しなければならない。そう感じました。
さらに思ったことがあります。「公平で機会均等な取引の積み重ねが富の格差を生み出す」という結果はコンピュータがないとしたら絶対に発見できなかっただろう、ということです。手作業や紙と鉛筆だけでの思考では無理です。コンピュータがあるからこそ(私のように)家庭用パソコンでも簡単に検証できてしまう。その結果は、全く意外なものです。
ボゴシアン教授は論文で「ヤードセールモデルが富を貧者から富める者へと移動させることの数学的な証明を与えた」と説明していました。数学的な発見があって、結果がどうなるかを見い出したのではありません。コンピュータ・シミュレーションによる結果がまずあり、なぜそうなるのかという数学的証明を後から行ったわけです。この論文は、今さらながらですが、コンピュータの威力と可能性を示しているのでした。
2020-09-05 11:43
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No.292 - ゴッホの生物の絵 [アート]
No.93「生物が主題の絵」の続きです。No.93 でとりあげたのは、西洋絵画における "生物画" でした。ここでの "生物画" の定義は次の通りです。
西洋絵画の "静物画" は、フランス語で "nature morte"(死んだ自然)、英語で "still life"(動かない生命)と言うように、「死んだ」ないしは「動かない」状態を描いたものです。そうではなく「生物が生きている環境で生きている姿を描く」のが上の "生物画" の定義のポイントです。
この定義の "生物画" は日本画では大ジャンルを作っていますが、西洋の絵では少ない。もちろん、記録が主たる目的の「植物画」や「博物画」は除いて考えます。その少ない中でも生物を中心画題にした絵はあって、特に著名画家が描いた "生物画" を並べてみると何か見えてくるものがあるのでは、との考えで書いたのが、No.93「生物が主題の絵」でした。
その No.93 でゴッホの『アイリス』を引用しましたが、No.93 でも書いたようにゴッホは多数の生物を主題にした絵を描いています。つまり『アイリス』だけでは画家の本質を伝えられないと思うので、今回はゴッホの作品だけに注目し、描かれた "生物画" のテーマごとに取り上げてみます。従って制作された年月は前後します。
スモモ・果樹
ゴッホがパリからアルルに到着したのは1888年の2月ですが、その数週間後には近郊の果樹園で花が咲き始めました。その様子をゴッホは多数、描いています。ゴッホ美術館によると少なくとも14枚を描いたとのことです。
またゴッホは1年後の春にも果樹園の絵を描いていて、このブログで引用した絵だと、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにある絵(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)や、ロンドンのコートールド・ギャラリーにある絵(No.155「コートールド・コレクション」)がそうです。
1888年に描かれた果樹はモモ、スモモ、梨、アンズなどです。もちろん "果樹園風景" といった構図の絵もありますが、個々の果樹に焦点が当たっている絵もあり、上に引用したのはその中の1枚です。所蔵しているゴッホ美術館は英語題名を「白い果樹園(The White Orchard)」としていますが、解説をみると果樹はスモモ(plum)です。見上げるようなアングルで描かれています。
また解説によると、このスモモは枝が長く伸びていて、それは手入れが不十分なためとのことです。ただ、ゴッホは "古びた(timeworn)" 木を好んだとも書いてある。長い時間をかけて成長し風雪に耐えたきた樹木が画家の好みだったのでしょう。そういった古木でも、春になると一斉に白い花を咲かせる。その姿に感じるものがあったのだと思います。
アーモンド
青い空を背景に花が咲くアーモンドの木があり、その枝だけをクローズアップで描いたものです。この作品はゴッホがサン=レミの精神療養院で、弟・テオに息子が生まれたとの知らせを受け取り、その誕生祝いにと描いて送ったものです。この話から明確なことは、ゴッホが新しい生命の誕生を樹木の開花に重ね合わせていることです。人間と自然の "命" を同一視するような感覚を感じます。
青い空に樹木の白っぽい花が映えるという光景は、日本の花見シーズンの晴れた日にソメイヨシノが満開の様子を連想させます。樹木の開花を愛でるのが日本の文化的伝統です。それは第一に "桜" であり、奈良・平安の昔からあるのは(中国文化の影響をうけた)"梅" です。開花した梅林を訪れるのも伝統文化の一つになっている。
ゴッホの、花をつけたスモモ(および他の果樹)やアーモンドの絵は、そういった日本文化との親和性を感じます。
マロニエ
この絵は「花咲く栗の木」と言われることがありますが、絵を所蔵しているゴッホ美術館の解説では、描かれているのはセイヨウトチノキ(=フランス語でマロニエ。英語で Horse Chesnut = 馬栗)です。英語名にある "chesnut = 栗" は、トチノキが栗の仲間だという誤解から付けられたようです。
この絵はゴッホのパリ時代の作品です。パリには街路樹や公園樹としてマロニエがたくさん植えられていて、春に開花します。その光景を絵にしたものでしょう。
ゴッホはこのマロニエの花を、終焉の地となったオーヴェル・シュル・オワーズでも描いています。それが次の作品です
この作品も日本では「花咲く栗の木の枝」と呼ばれていますが、描かれているのは明らかに栗ではなくマロニエです。パリに近い地に転居した画家がパリ時代を思い出したのかもしれません。
糸杉
ゴッホはサン=レミの精神療養院の時代に8点程度の「糸杉の絵」ないしは「糸杉のある風景の絵」を描いています。No.284「絵を見る技術」ではそのうちの3作品を引用しました。上に引用したメトロポリタン美術館の絵は、それらの中でも糸杉に焦点が当たっている絵です。この絵が描かれた時期に、ゴッホは弟・テオに宛てた手紙で次のように書いています。
西洋絵画に糸杉が描かれることはあります。たとえばダ・ヴィンチの『受胎告知』には後景に糸杉が描かれている(No.284「絵を見る技術」に画像を引用)。しかしゴッホが言うように「糸杉を中心的な画題として描いた絵画」はないのではと思います。
糸杉の色は黒々とした緑ですが、美しいフォルムで、凛として地面から屹立している。そのオベリスクのような姿に画家は強く惹かれたようです。特にこの絵は、焦点となっている手前の糸杉の上部がカットアウトされています。それによって糸杉特有の尖った円錐状の先端が上の方に長く伸びていることを想像させます。あえて全容を描かないという画家の構図の工夫を感じさせます。
構図上の工夫と言えば、No.284 に書いたのですが、この手前の糸杉の縦の中心線は、画面の中心より少しだけ左にずれています。この "ずれ具合" は、カンヴァスの "ラバットメント・ライン" を元に決められています。かなりのデッサンと計画性で描かれた絵という感じがします。
なお、ゴッホがサン=レミで最後に描いた糸杉の絵をクレラー・ミュラー美術館が所蔵していますが、これについてのゴッホ自身の手紙を、No.158「クレラー・ミュラー美術館」に引用しました。
木の幹
この絵について、ゴッホはテオへの手紙に次のように書いています(日付はゴッホ美術館による)。
引用の最後に「それはこんな絵だ」とあるように、手紙には2枚の絵のスケッチが添えられています。それが次の画像です。
ゴッホが手紙でこの古木をイチイ(英語で yew)と書いているので、この絵の題はふつう「Trunk of an Old Yew Tree」(古いイチイの木の幹)とされています。しかし絵を見る限りこれはイチイではありません。イチイは常緑針葉樹ですが、この絵には木のものと思われる枯れ葉がついていて、落葉広葉樹のようです。ということは、この木はヨーロッパで一般的なオーク(=落葉性の樹木。和名はヨーロッパナラ)ではないでしょうか。
オークはヨーロッパでは神聖な木とされているので、畑の中にポツンと残されていることもあるのではと想像します。フレーザーの『金枝篇』に、次のようにあります。
引用中の "メーヌ県" はロワール河の沿岸で、フランスの中西部です。アルルとは違いますが、中西部にある風習は南フランスにあってもいいのではないかと思いました。ちなみにフレーザー(イギリス人の社会人類学者)は、ゴッホの1年後に生まれた同時代人です。
ともかく「イチイ」はゴッホの勘違いの可能性が強い。そういう事情もあるのでしょう、ゴッホ美術館はこの絵の題を「Ploughed field with a tree-trunk」(木の幹のある畑)としていて、木の名前をあげていません。妥当な判断だと思います。
木の種類の詮索はさておき、絵の話です。この絵は、畝が作られ種が蒔かれた畑に一本だけ立つ古木の幹だけをクローズアップで描いています。木の全体の様子は分かりません。この描き方がこの絵の特徴です。
画家は、長い年月を生きてきた樹木の本質が、幹とその木肌に現れると感じたのでしょう。最初に引用したスモモの絵(『白い果樹園』)についてのゴッホ美術館の説明で、「ゴッホは "古びた(timeworn)" 木を好んだ」というのがありました。この古木も、そういった画家の心情が現れているようです。
桑
この絵は No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用しました。桑(日本で言うヤマグワ)は、秋になると真っ黄色に色づきます。白っぽいゴツゴツした岩の上で、青い空に映える黄葉した桑の姿に画家は感じ入ったのだと思います。桑の木から垂れ下がるオレンジ色のものが描かれていますが、おそらく桑の実でしょう。大きさのバランスが変ですが、そんなことより、この大きさで、この色で、ここに描きたかったのだと思います。
桑の実はともかく、この絵は黄葉した桑の木を、まるで黄色い炎が噴き出しているように描いています。実際の桑の木を見ても、こんな風には目に映りません。これはリアリズムとは離れた、画家が黄葉を見たときの感情をダイレクトに表現したのだと思います。
オリーブ
ゴッホはオリーブの木やオリーブ畑の絵を多数描いています。この絵は "第2ゴッホ美術館" とも言うべきクレラー・ミュラー美術館が所蔵している作品です。
曲がりくねった幹は、これらのオリーブが古木であることを感じさせます。特に太い幹の2本の木です。しかし古木といえども緑の豊かな葉が茂り、実をつけ、人々の生活に役立っている。そういった生命力を暗示させる作品です。
木の幹と根
オーヴェル・シュル・オワーズでのゴッホ作品にみられる、縦横比率1:2の画面です。この形のカンヴァスでは「一面の麦畑に群青の空、そこにカラスが群れ飛ぶ」絵が有名ですが、この絵はそういう広々とした風景ではありません。クローズアップで、木とおぼしきものの一部が描かれています。
背景は黄銅色の傾斜地か崖のようであり、そこにむき出しの木の根と細い幹が絡まっています。所々に描かれた緑の葉は、木が生きている証拠です。幹と根は絡まり、曲がりくねっていて、どこがどうなっているのか判然としません。ほとんど抽象画といっていいでしょう。
ゴッホ美術館の解説によると、背景となっているのはオーヴェル・シュル・オワーズにあったマールの採掘場です。マール(泥灰土)とは粘土と石灰の混合土で、当時のコンクリートの原料になりました。
さらに解説によると、この絵はおそらくゴッホの絶筆とあります("probably Van Gogh's very last painting")。亡くなる日の朝に描かれたと匂わす解説もありました。
泥灰土(マール)の地質というと、木の生育にとっては厳しい環境のはずです。そこでも何とかして生き延び、緑の葉を付ける。画家はこの「幹と根が絡まり曲がりくねっている姿」に、木の生命力を見たのだと思います。
アイリス
ゴッホがサン=レミの精神療養院に入院したのは1889年5月ですが、その5月に6点の絵を描いています。そのうちの2点はアイリスの絵で、ゲティ・センター所蔵の有名な『アイリス』を No.93「生物が主題の絵」に引用しました。それを再掲するとともに、カナダ国立美術館が所蔵するもう一枚のアイリスを引用します。
ゴッホは『アイリス』の絵のことを、サン=レミの精神療養院に入院した直後のテオへの手紙に書いています。
アイリスはアヤメ属の植物を指します。従って和名でいうと、アヤメ(菖蒲)、カキツバタ(杜若)、ハナショウブ(花菖蒲)、イチハツ(鳶尾、一初)などが相当するでしょう。これらの花はよく似ています。
引用した日本語訳は鳶尾となっています。ゴッホの絵から鳶尾に近いという判断かもしれませんが、日本の鳶尾と全く同じ植物がサン=レミにあるわけではないので、"アイリス" か、ないしはアヤメ属の花という意味で "アヤメ" とするのが妥当だと思います。
それはともかく、この手紙でわかることは『アイリス』はゴッホがサン=レミの精神療養院に来て真っ先に描きはじめた絵ということです。さらに、手紙に "リラの木の茂み" とありますが、そのリラ(=ライラック)の絵が次です。
ライラック
1889年5月に描かれたアイリスとライラックの絵を見て、明らかにわかることがあります。それは、この3枚の絵は「いかにも生命の輝きに溢れた植物の姿を描いている」ということです。ゴッホが入った施設には、精神を病んだ人たちが入院・居住しています。しかしその庭に咲き誇る花は、病とは全くの対極の明るさと生命力に満ちている。画家はそこを描きたかったのだと思います。
薔薇
ゴッホのアルル時代の最後期に描かれた絵で、園芸種ではない野バラを描いています。この絵は上野の国立西洋美術館の常設展示室にあります。経験上、常設展に行くと必ずあるので、展示替えはないのだと思います。
小説家の原田マハさんは、この絵をもとに『薔薇色の人生』という短篇小説を書いています。主人公は、人からゴッホ展のチケットをもらって国立西洋美術館に行くが、展覧会は既に終了していた。そのチケットで常設展なら見学できると聞いた主人公が出会うのが、このゴッホの絵です。そのあたりの文章です。
ゴッホのサン=レミ時代の最後期の絵です。国立西洋美術館の絵と同様に野バラを描いていますが、この絵には一匹の甲虫が描かれています。ゴッホ美術館の説明によると、この甲虫はキンイロハナムグリ(漢字で書くと金色花潜。コガネムシ科ハナムグリ属。英名:rose chafer)で、カナブンの仲間です。ハナムグリとは「花に潜る」の意味ですが、この虫は花の中でもバラを好み、金色に輝く緑が美しいコガネムシです。まさにバラの花に潜って蜜を吸っている、その様子が描かれています。
ひなげし
モンシロチョウと思われる蝶がヒナゲシに寄ってきた図です。この絵は先にヒナゲシとモンシロチョウを描き、あとから青い背景を塗っています。その背景は未完で、カンヴァスの地が出ているとところがあります。
「ばらと甲虫」もそうですが、この絵の構図は日本の花鳥画の影響を感じます。ただし、ヒナゲシの茎と葉にはさまざまな緑が使われていて、花の朱色もさまざまな色がある。それによって立体感と奥行き感が創り出されています。
草
国立西洋美術館の「ばら」とほぼ同時期に描かれた作品です。「ばら」と同じような、地表を見下ろすアングルで描かれ、水平線や遠景は全くなく、地表の草だけを描いています。ゴッホはこういった構図の絵をサン=レミの時代に何点か描いています。
普通は画題にまずしないような、何でもない雑草です。花が咲くのでもなく、形がユニークでもなく、どこにでも見かける雑草を描こうと画家は考えたわけです。つつましく、しぶとく生きている草に感じるものがあったのでしょう。
「草むら」と同じように、地表を見下ろすアングルで描かれています。木の幹が立ち並び、地表は草で覆い尽くされています。また木の幹にもキヅタが絡みついている。あたり一面が草の世界で、その中のところどころに太陽の光が差し込んでいます。
振り返ってみると、「地表や人物に当たる木漏れ日を白っぽいスポット状に描く」というのは、印象派の絵にしばしばあります。有名なルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(オルセー美術館)がそうだし、同じオルセーには「ブランコ」という作品もありました(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」)。モネもそういう絵を描いているし、サージェントが印象派っぽく描いた「柳の下のパントで眠る母と子」(No.192「グルベンキアン美術館」)でもまさにその効果が使われていました。
しかしゴッホの絵で、この効果を使って直射日光の中での暗がりを表現した絵というのは、大変に珍しいのではないでしょうか。
下草とキヅタの表現をよく見ると、草の葉や茎を描くつもりは全くないようです。そこにあるのは、さまざまな色彩と方向の筆触だけであり、短い筆触の積み重ねで草とキヅタを表現しています。一方、木の幹には長めの線が使ってあり、木肌のごわごわした感じがよく出ていると思います。
一つ前の「下草とキヅタのある木の幹」と同じような見下ろす構図ですが、一段とクローズアップの表現です。そのため個々の草の茎や葉や花が描かれています。その草は、芽吹き、成長し、花をつけています。生命の輝きの真っ盛りを描いているようで、今までに引用した『果樹(スモモ、アーモンド)』『アイリス』『ライラック』と共通した感じを受けます。
一方、左の大きな木の幹は、クラレー・ミュラー美術館の解説によると松です。黒い縁取りの中に様々な色が重ねられていて、リアリズムとは離れた装飾的で抽象的な描き方です。これによって年月を経た松の幹の、ごつごつした感じが伝わってきます。草の描き方との対比によって、逆に草むらの若々しさが強調されているようです。
構図をみると、この絵は思い切ったクローズアップにより画面に独特の奥行き感が生まれています。また草むらには、一見すると気づかないかもしれないリーディングライン(視線を誘導する線)がジグザグ状に仕組まれている。これらを合わせて、画面に吸い込まれそうな感じを受けます。
余談ですが、この「草むらの中の幹」と一つ前の「下草とキヅタのある木の幹」の構図は、菱田春草の重要文化財「落葉」(1909)を思い起こさせます。絵の構図とかバランスは、西欧絵画でも日本画でも共通するところがあるということだと思います。
麦
この絵についてゴッホは、死後に発見されたゴーガン宛ての未完の手紙に次のように書いています。
「非常に生々とした、しかし静かな背景をもった肖像を描きたいと思っている」と手紙にあるように、ゴッホはこの絵とは別に「麦の穂を背景とする女性の肖像」を2枚、描いています。そのうちの1枚はワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています(「小麦を背景に立つ若い女性」)。上の引用で「その向こうに」との訳がありますが、手紙の英訳をみると "On it," となっているので「この絵をもとに」が正しい訳でしょう。
ゴッホはこの絵で、麦畑に分け入り、クローズアップで、麦の穂と茎だけに集中して描いています。ほとんどが緑系のさまざまな色で、その中に穂先の黄色があり、少々のピンク(右下。ヒルガオ)と青(左上。ゴッホ美術館の説明ではヤグルマギク)がある。こういった色の変化の総体で「微風に揺れる麦の穂の甘美なざわめき」をとらえようとしたわけです。ほとんど抽象画と思える描き方であり、ゴッホ以前にこんな絵を描いた人はいないでしょう。手紙を読むと、色彩の変化が人間感情に与える効果を探求する意気込みが伝わってきます。
蛾
一匹の大きな蛾が、ミズバショウのような形の花にとまっています。この絵に描かれた蛾について、ゴッホは弟・テオへの手紙に書いています。サン=レミの精神療養院に入院した月の手紙で、『アイリス』や『ライラック』と同時期です(手紙の日付はゴッホ美術館による)。
ゴッホが書いている「通称 "死の頭" という蛾」は、メンガタスズメ(面形雀蛾)という蛾です。これは "髑髏蛾" とも呼ばれます。メンガタスズメの一種、ヨーロッパメンガタスズメの画像を次に引用します。
画像でもわかるように、背中に "人の顔" ないしは "髑髏" のよう模様があります。ゴッホはテオへの手紙に蛾のスケッチを添えていますが、それが次の画像です。
このスケッチには "人の顔" のようなものがありますが、描かれている蛾はメンガタスズメではなくオオクジャクヤママユ(=和名。英名:Giant Peacock Moth)です。これはヨーロッパ最大の蛾で、オオクジャク蛾とも訳されます。ファーブルの『昆虫記』には、ファーブルが自宅で羽化させたオオクジャク蛾の雌の周りに、雄の蛾が外から数十匹も進入してきて大騒ぎになるという有名な記述があります(『昆虫記』第7巻 23章)。そう言えば、ファーブルの自宅があったセリニャンとゴッホがいたサン=レミは、同じプロヴァンス地方の近くです。
またこの蛾は、ヘッセの短編小説「少年の日の思い出」に出てきました(No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」の「補記1」参照。小説の蛾は中型のクジャクヤママユ)。
おそらくゴッホは "死の頭" という蛾がいることを知識として知っていて、サン=レミの精神療養院の庭で大きな蛾を見つけたとき、それが "死の顔" だと考えたのでしょう。背中のまだら模様のちょっとした乱れか何かが顔に見えてしまった。そういうことだと思います。
ちなみに、この絵に描かれている「ミズバショウのような形の花」は、同じサトイモ科のアルムでしょう。アルムだけを描いたゴッホの素描が残っています(ゴッホ美術館蔵)。ミズバショウと同じく、花と見えるのは花ではなく、仏炎苞と呼ばれる "苞"(=花のつけねにできる、葉が変化したもの)です。
カワセミ
カワセミが水辺のアシの茎に止まり、魚を狙っています。この絵を所蔵しているゴッホ美術館の説明を読むと、ゴッホはカワセミの剥製を持っていたとあります。カワセミは色が美しい鳥です。おそらくその色に惹かれて購入した(あるいは譲り受けた)のでしょう。
カワセミは日本でも一般的な鳥で、私が住んでいる市の住宅地のそばの川でも見かけたことがあります(市の鳥に指定されている)。オランダやパリでもよく見かける鳥だと想像されます。おそらくゴッホは剥製を参考に、それを水辺にのカワセミに移し替えて描いたのだと思います。野鳥を生息環境で描いた、めずらしい作品です。
ゴッホの生物の絵
以上に引用した絵は、傑作とされているものから習作や未完作までさまざまですが、共通する特徴を何点かあげると次のようになるでしょう。
生命の輝き
樹木の生命力
なにげない生物
色へのこだわり
ゴッホは多くのジャンルの画題で多数の絵を描いているので、"生物画" はごく一部に過ぎません。ただ、これだけ「各種の生物を生きている環境で描いた画家」は、西洋の画家ではあまり見あたらないでしょう。そこにゴッホという画家の特質を見ることができると思います。
生物画:
人間社会やその周辺に日常的に存在する動物・植物・生物の「生きている姿」を主題に描く絵。空想(龍、鳳凰)や伝聞(江戸時代以前の日本画の象・ライオン・獅子などの例)で描くのではない絵。生物だけ、ないしは生物を主役に描いたもので、風俗や風景が描かれていたとしてもそれは脇役である絵。
西洋絵画の "静物画" は、フランス語で "nature morte"(死んだ自然)、英語で "still life"(動かない生命)と言うように、「死んだ」ないしは「動かない」状態を描いたものです。そうではなく「生物が生きている環境で生きている姿を描く」のが上の "生物画" の定義のポイントです。
この定義の "生物画" は日本画では大ジャンルを作っていますが、西洋の絵では少ない。もちろん、記録が主たる目的の「植物画」や「博物画」は除いて考えます。その少ない中でも生物を中心画題にした絵はあって、特に著名画家が描いた "生物画" を並べてみると何か見えてくるものがあるのでは、との考えで書いたのが、No.93「生物が主題の絵」でした。
その No.93 でゴッホの『アイリス』を引用しましたが、No.93 でも書いたようにゴッホは多数の生物を主題にした絵を描いています。つまり『アイリス』だけでは画家の本質を伝えられないと思うので、今回はゴッホの作品だけに注目し、描かれた "生物画" のテーマごとに取り上げてみます。従って制作された年月は前後します。
以下に引用する絵画の制作年月と制作地は、ゴッホ美術館の公認を受けたサイト "Vincent van Gogh Gallery" に従っています。
スモモ・果樹
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"The White Orchard" 「花咲くスモモの木々のある果樹園」 |
1888年4月、アルル 60.0 cm × 81.0 cm ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム) |
ゴッホがパリからアルルに到着したのは1888年の2月ですが、その数週間後には近郊の果樹園で花が咲き始めました。その様子をゴッホは多数、描いています。ゴッホ美術館によると少なくとも14枚を描いたとのことです。
またゴッホは1年後の春にも果樹園の絵を描いていて、このブログで引用した絵だと、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにある絵(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)や、ロンドンのコートールド・ギャラリーにある絵(No.155「コートールド・コレクション」)がそうです。
1888年に描かれた果樹はモモ、スモモ、梨、アンズなどです。もちろん "果樹園風景" といった構図の絵もありますが、個々の果樹に焦点が当たっている絵もあり、上に引用したのはその中の1枚です。所蔵しているゴッホ美術館は英語題名を「白い果樹園(The White Orchard)」としていますが、解説をみると果樹はスモモ(plum)です。見上げるようなアングルで描かれています。
また解説によると、このスモモは枝が長く伸びていて、それは手入れが不十分なためとのことです。ただ、ゴッホは "古びた(timeworn)" 木を好んだとも書いてある。長い時間をかけて成長し風雪に耐えたきた樹木が画家の好みだったのでしょう。そういった古木でも、春になると一斉に白い花を咲かせる。その姿に感じるものがあったのだと思います。
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スモモの花。先端が丸い花びらはウメに似ている。実もウメとよく似ている。スモモの生産量が1位の南アルプス市のJAのサイトより。 |
アーモンド
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"Almond Blossom" 「花咲くアーモンドの木の枝」 |
1890年2月、サン=レミ 73.3 cm × 92.4 cm ファン・ゴッホ美術館 |
青い空を背景に花が咲くアーモンドの木があり、その枝だけをクローズアップで描いたものです。この作品はゴッホがサン=レミの精神療養院で、弟・テオに息子が生まれたとの知らせを受け取り、その誕生祝いにと描いて送ったものです。この話から明確なことは、ゴッホが新しい生命の誕生を樹木の開花に重ね合わせていることです。人間と自然の "命" を同一視するような感覚を感じます。
青い空に樹木の白っぽい花が映えるという光景は、日本の花見シーズンの晴れた日にソメイヨシノが満開の様子を連想させます。樹木の開花を愛でるのが日本の文化的伝統です。それは第一に "桜" であり、奈良・平安の昔からあるのは(中国文化の影響をうけた)"梅" です。開花した梅林を訪れるのも伝統文化の一つになっている。
ゴッホの、花をつけたスモモ(および他の果樹)やアーモンドの絵は、そういった日本文化との親和性を感じます。
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アーモンドの花(Wikipediaより)。花びらの先がくぼんでいるところはサクラと似ている。ウメ、スモモ、モモ、サクラ、アーモンドは、いずれもバラ科サクラ属(スモモ属)の植物であり、花は白っぽいものからピンクのものまである。 |
マロニエ
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"Horse Chestnut Tree in Blossom" 「花咲くマロニエの木」 |
1887年5月、パリ 55.8 cm × 46.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
この絵は「花咲く栗の木」と言われることがありますが、絵を所蔵しているゴッホ美術館の解説では、描かれているのはセイヨウトチノキ(=フランス語でマロニエ。英語で Horse Chesnut = 馬栗)です。英語名にある "chesnut = 栗" は、トチノキが栗の仲間だという誤解から付けられたようです。
この絵はゴッホのパリ時代の作品です。パリには街路樹や公園樹としてマロニエがたくさん植えられていて、春に開花します。その光景を絵にしたものでしょう。
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マロニエの花と実。花は房状になっている。日本のトチノキと違って実にはトゲがある。 |
ゴッホはこのマロニエの花を、終焉の地となったオーヴェル・シュル・オワーズでも描いています。それが次の作品です
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「花咲くマロニエの枝」 |
1890年5月、オーヴェル・シュル・オワーズ 72.0 cm × 91.0 cm ビュールレ・コレクション |
この作品も日本では「花咲く栗の木の枝」と呼ばれていますが、描かれているのは明らかに栗ではなくマロニエです。パリに近い地に転居した画家がパリ時代を思い出したのかもしれません。
糸杉
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"Cypresses" 「糸杉」 |
1889年6月、サン=レミ 93.4 cm × 74.0 cm メトロポリタン美術館 |
ゴッホはサン=レミの精神療養院の時代に8点程度の「糸杉の絵」ないしは「糸杉のある風景の絵」を描いています。No.284「絵を見る技術」ではそのうちの3作品を引用しました。上に引用したメトロポリタン美術館の絵は、それらの中でも糸杉に焦点が当たっている絵です。この絵が描かれた時期に、ゴッホは弟・テオに宛てた手紙で次のように書いています。
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西洋絵画に糸杉が描かれることはあります。たとえばダ・ヴィンチの『受胎告知』には後景に糸杉が描かれている(No.284「絵を見る技術」に画像を引用)。しかしゴッホが言うように「糸杉を中心的な画題として描いた絵画」はないのではと思います。
糸杉の色は黒々とした緑ですが、美しいフォルムで、凛として地面から屹立している。そのオベリスクのような姿に画家は強く惹かれたようです。特にこの絵は、焦点となっている手前の糸杉の上部がカットアウトされています。それによって糸杉特有の尖った円錐状の先端が上の方に長く伸びていることを想像させます。あえて全容を描かないという画家の構図の工夫を感じさせます。
構図上の工夫と言えば、No.284 に書いたのですが、この手前の糸杉の縦の中心線は、画面の中心より少しだけ左にずれています。この "ずれ具合" は、カンヴァスの "ラバットメント・ライン" を元に決められています。かなりのデッサンと計画性で描かれた絵という感じがします。
なお、ゴッホがサン=レミで最後に描いた糸杉の絵をクレラー・ミュラー美術館が所蔵していますが、これについてのゴッホ自身の手紙を、No.158「クレラー・ミュラー美術館」に引用しました。
木の幹
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"Ploughed field with a tree-trunk" 「木の幹のある畑」 |
1888年10月、アルル 91.0 cm × 71.0 cm Helly Nahmad Gallery(ロンドン) |
この絵について、ゴッホはテオへの手紙に次のように書いています(日付はゴッホ美術館による)。
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引用の最後に「それはこんな絵だ」とあるように、手紙には2枚の絵のスケッチが添えられています。それが次の画像です。
1888年10月27/28日のテオへの手紙に添えられたスケッチ。右が古木で、左は「種まく人」。ゴッホはミレーの模写を含めて多数の「種まく人」を描いているが、このスケッチに相当する油絵作品は、スイスのヴィンタートゥールにある私設美術館、ヴィラ・フローラが所有している。 |
ゴッホが手紙でこの古木をイチイ(英語で yew)と書いているので、この絵の題はふつう「Trunk of an Old Yew Tree」(古いイチイの木の幹)とされています。しかし絵を見る限りこれはイチイではありません。イチイは常緑針葉樹ですが、この絵には木のものと思われる枯れ葉がついていて、落葉広葉樹のようです。ということは、この木はヨーロッパで一般的なオーク(=落葉性の樹木。和名はヨーロッパナラ)ではないでしょうか。
オークはヨーロッパでは神聖な木とされているので、畑の中にポツンと残されていることもあるのではと想像します。フレーザーの『金枝篇』に、次のようにあります。
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引用中の "メーヌ県" はロワール河の沿岸で、フランスの中西部です。アルルとは違いますが、中西部にある風習は南フランスにあってもいいのではないかと思いました。ちなみにフレーザー(イギリス人の社会人類学者)は、ゴッホの1年後に生まれた同時代人です。
ちなみに日本語にすると、常緑性のオーク = 樫、落葉性のオーク = 楢ですが、伝統的にオーク = 樫と訳されることがあります。引用した日本語訳では漢字が「櫧」でルビが「いちい」ですが、「櫧」は「イチイ」ではありません。この字の読みは「カシ」で「樫」と同じ意味です。訳者は描かれた木がイチイではないことが分かっていて「櫧」としたのかもしれません。
ともかく「イチイ」はゴッホの勘違いの可能性が強い。そういう事情もあるのでしょう、ゴッホ美術館はこの絵の題を「Ploughed field with a tree-trunk」(木の幹のある畑)としていて、木の名前をあげていません。妥当な判断だと思います。
木の種類の詮索はさておき、絵の話です。この絵は、畝が作られ種が蒔かれた畑に一本だけ立つ古木の幹だけをクローズアップで描いています。木の全体の様子は分かりません。この描き方がこの絵の特徴です。
画家は、長い年月を生きてきた樹木の本質が、幹とその木肌に現れると感じたのでしょう。最初に引用したスモモの絵(『白い果樹園』)についてのゴッホ美術館の説明で、「ゴッホは "古びた(timeworn)" 木を好んだ」というのがありました。この古木も、そういった画家の心情が現れているようです。
桑
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"Mulberry Tree" 「桑の木」 |
1889年10月、サン=レミ 54.0 cm × 65.0 cm ノートン・サイモン美術館 (米・カリフォルニア州パサデナ) |
この絵は No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用しました。桑(日本で言うヤマグワ)は、秋になると真っ黄色に色づきます。白っぽいゴツゴツした岩の上で、青い空に映える黄葉した桑の姿に画家は感じ入ったのだと思います。桑の木から垂れ下がるオレンジ色のものが描かれていますが、おそらく桑の実でしょう。大きさのバランスが変ですが、そんなことより、この大きさで、この色で、ここに描きたかったのだと思います。
桑の実はともかく、この絵は黄葉した桑の木を、まるで黄色い炎が噴き出しているように描いています。実際の桑の木を見ても、こんな風には目に映りません。これはリアリズムとは離れた、画家が黄葉を見たときの感情をダイレクトに表現したのだと思います。
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ヤマグワの黄葉と実 |
オリーブ
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”Olive Grove” 「オリーブ畑」 |
1889年6月、サン=レミ 72.0 cm × 92.0 cm クレラー・ミュラー美術館 |
ゴッホはオリーブの木やオリーブ畑の絵を多数描いています。この絵は "第2ゴッホ美術館" とも言うべきクレラー・ミュラー美術館が所蔵している作品です。
曲がりくねった幹は、これらのオリーブが古木であることを感じさせます。特に太い幹の2本の木です。しかし古木といえども緑の豊かな葉が茂り、実をつけ、人々の生活に役立っている。そういった生命力を暗示させる作品です。
木の幹と根
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"Tree Roots" 「木の幹と根」 |
1890年7月、オーヴェル・シュル・オワーズ 50.3cm × 100.1cm ファン・ゴッホ美術館 |
ゴッホ美術館のサイトの英語題名は「Tree Roots」となっているが、一般には「木の幹と根」で知られる。ゴッホ美術館の解説でも木の幹と根を描いたものとある。 |
オーヴェル・シュル・オワーズでのゴッホ作品にみられる、縦横比率1:2の画面です。この形のカンヴァスでは「一面の麦畑に群青の空、そこにカラスが群れ飛ぶ」絵が有名ですが、この絵はそういう広々とした風景ではありません。クローズアップで、木とおぼしきものの一部が描かれています。
背景は黄銅色の傾斜地か崖のようであり、そこにむき出しの木の根と細い幹が絡まっています。所々に描かれた緑の葉は、木が生きている証拠です。幹と根は絡まり、曲がりくねっていて、どこがどうなっているのか判然としません。ほとんど抽象画といっていいでしょう。
ゴッホ美術館の解説によると、背景となっているのはオーヴェル・シュル・オワーズにあったマールの採掘場です。マール(泥灰土)とは粘土と石灰の混合土で、当時のコンクリートの原料になりました。
さらに解説によると、この絵はおそらくゴッホの絶筆とあります("probably Van Gogh's very last painting")。亡くなる日の朝に描かれたと匂わす解説もありました。
泥灰土(マール)の地質というと、木の生育にとっては厳しい環境のはずです。そこでも何とかして生き延び、緑の葉を付ける。画家はこの「幹と根が絡まり曲がりくねっている姿」に、木の生命力を見たのだと思います。
アイリス
ゴッホがサン=レミの精神療養院に入院したのは1889年5月ですが、その5月に6点の絵を描いています。そのうちの2点はアイリスの絵で、ゲティ・センター所蔵の有名な『アイリス』を No.93「生物が主題の絵」に引用しました。それを再掲するとともに、カナダ国立美術館が所蔵するもう一枚のアイリスを引用します。
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"Irises" 「アイリス」 |
1889年5月、サン=レミ 71.1 cm × 93.0 cm ゲティ・センター |
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"Iris" 「アイリス」 |
1889年5月、サン=レミ 62.2 cm × 48.3 cm カナダ国立美術館 |
ゴッホは『アイリス』の絵のことを、サン=レミの精神療養院に入院した直後のテオへの手紙に書いています。
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アイリスはアヤメ属の植物を指します。従って和名でいうと、アヤメ(菖蒲)、カキツバタ(杜若)、ハナショウブ(花菖蒲)、イチハツ(鳶尾、一初)などが相当するでしょう。これらの花はよく似ています。
引用した日本語訳は鳶尾となっています。ゴッホの絵から鳶尾に近いという判断かもしれませんが、日本の鳶尾と全く同じ植物がサン=レミにあるわけではないので、"アイリス" か、ないしはアヤメ属の花という意味で "アヤメ" とするのが妥当だと思います。
それはともかく、この手紙でわかることは『アイリス』はゴッホがサン=レミの精神療養院に来て真っ先に描きはじめた絵ということです。さらに、手紙に "リラの木の茂み" とありますが、そのリラ(=ライラック)の絵が次です。
ライラック
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"Lilac Bush" 「ライラックの茂み」 |
1889年5月、サン=レミ 73.0 cm × 92.0 cm エルミタージュ美術館 |
1889年5月に描かれたアイリスとライラックの絵を見て、明らかにわかることがあります。それは、この3枚の絵は「いかにも生命の輝きに溢れた植物の姿を描いている」ということです。ゴッホが入った施設には、精神を病んだ人たちが入院・居住しています。しかしその庭に咲き誇る花は、病とは全くの対極の明るさと生命力に満ちている。画家はそこを描きたかったのだと思います。
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ライラック(リラ)の花(Wikipediaより)。日本では北海道を代表する花である。 |
薔薇
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「ばら」 |
1889年4月、アルル 33.0 cm × 41.3 cm 国立西洋美術館 |
ゴッホのアルル時代の最後期に描かれた絵で、園芸種ではない野バラを描いています。この絵は上野の国立西洋美術館の常設展示室にあります。経験上、常設展に行くと必ずあるので、展示替えはないのだと思います。
小説家の原田マハさんは、この絵をもとに『薔薇色の人生』という短篇小説を書いています。主人公は、人からゴッホ展のチケットをもらって国立西洋美術館に行くが、展覧会は既に終了していた。そのチケットで常設展なら見学できると聞いた主人公が出会うのが、このゴッホの絵です。そのあたりの文章です。
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"Roses" 「ばらと甲虫」 |
1890年4月-5月、サン=レミ 33.5 cm × 24.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
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ゴッホのサン=レミ時代の最後期の絵です。国立西洋美術館の絵と同様に野バラを描いていますが、この絵には一匹の甲虫が描かれています。ゴッホ美術館の説明によると、この甲虫はキンイロハナムグリ(漢字で書くと金色花潜。コガネムシ科ハナムグリ属。英名:rose chafer)で、カナブンの仲間です。ハナムグリとは「花に潜る」の意味ですが、この虫は花の中でもバラを好み、金色に輝く緑が美しいコガネムシです。まさにバラの花に潜って蜜を吸っている、その様子が描かれています。
ひなげし
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"Butterflies and poppies" 「ひなげしと蝶」 |
1890年4月-5月、サン=レミ 34.5 cm × 25.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
モンシロチョウと思われる蝶がヒナゲシに寄ってきた図です。この絵は先にヒナゲシとモンシロチョウを描き、あとから青い背景を塗っています。その背景は未完で、カンヴァスの地が出ているとところがあります。
「ばらと甲虫」もそうですが、この絵の構図は日本の花鳥画の影響を感じます。ただし、ヒナゲシの茎と葉にはさまざまな緑が使われていて、花の朱色もさまざまな色がある。それによって立体感と奥行き感が創り出されています。
草
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「草むら」 |
1889年4月、アルル 45.1 cm × 48.8 cm ポーラ美術館 |
国立西洋美術館の「ばら」とほぼ同時期に描かれた作品です。「ばら」と同じような、地表を見下ろすアングルで描かれ、水平線や遠景は全くなく、地表の草だけを描いています。ゴッホはこういった構図の絵をサン=レミの時代に何点か描いています。
普通は画題にまずしないような、何でもない雑草です。花が咲くのでもなく、形がユニークでもなく、どこにでも見かける雑草を描こうと画家は考えたわけです。つつましく、しぶとく生きている草に感じるものがあったのでしょう。
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"Undergrowth" 「下草とキヅタのある木の幹」 |
1889年7月、サン=レミ 73.0 cm x 92.3 cm ファン・ゴッホ美術館 |
「草むら」と同じように、地表を見下ろすアングルで描かれています。木の幹が立ち並び、地表は草で覆い尽くされています。また木の幹にもキヅタが絡みついている。あたり一面が草の世界で、その中のところどころに太陽の光が差し込んでいます。
振り返ってみると、「地表や人物に当たる木漏れ日を白っぽいスポット状に描く」というのは、印象派の絵にしばしばあります。有名なルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(オルセー美術館)がそうだし、同じオルセーには「ブランコ」という作品もありました(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」)。モネもそういう絵を描いているし、サージェントが印象派っぽく描いた「柳の下のパントで眠る母と子」(No.192「グルベンキアン美術館」)でもまさにその効果が使われていました。
しかしゴッホの絵で、この効果を使って直射日光の中での暗がりを表現した絵というのは、大変に珍しいのではないでしょうか。
下草とキヅタの表現をよく見ると、草の葉や茎を描くつもりは全くないようです。そこにあるのは、さまざまな色彩と方向の筆触だけであり、短い筆触の積み重ねで草とキヅタを表現しています。一方、木の幹には長めの線が使ってあり、木肌のごわごわした感じがよく出ていると思います。
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"Tree trunks in the grass" 「草むらの中の幹」 |
1890年4月、サン=レミ 72,5 cm × 91,5 cm クラレー・ミュラー美術館 |
一つ前の「下草とキヅタのある木の幹」と同じような見下ろす構図ですが、一段とクローズアップの表現です。そのため個々の草の茎や葉や花が描かれています。その草は、芽吹き、成長し、花をつけています。生命の輝きの真っ盛りを描いているようで、今までに引用した『果樹(スモモ、アーモンド)』『アイリス』『ライラック』と共通した感じを受けます。
一方、左の大きな木の幹は、クラレー・ミュラー美術館の解説によると松です。黒い縁取りの中に様々な色が重ねられていて、リアリズムとは離れた装飾的で抽象的な描き方です。これによって年月を経た松の幹の、ごつごつした感じが伝わってきます。草の描き方との対比によって、逆に草むらの若々しさが強調されているようです。
構図をみると、この絵は思い切ったクローズアップにより画面に独特の奥行き感が生まれています。また草むらには、一見すると気づかないかもしれないリーディングライン(視線を誘導する線)がジグザグ状に仕組まれている。これらを合わせて、画面に吸い込まれそうな感じを受けます。
余談ですが、この「草むらの中の幹」と一つ前の「下草とキヅタのある木の幹」の構図は、菱田春草の重要文化財「落葉」(1909)を思い起こさせます。絵の構図とかバランスは、西欧絵画でも日本画でも共通するところがあるということだと思います。
麦
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"Ears of Wheat" 「麦の穂」 |
1890年7月、オーヴェル・シュル・オワーズ 64.5 cm × 48.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
この絵についてゴッホは、死後に発見されたゴーガン宛ての未完の手紙に次のように書いています。
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「非常に生々とした、しかし静かな背景をもった肖像を描きたいと思っている」と手紙にあるように、ゴッホはこの絵とは別に「麦の穂を背景とする女性の肖像」を2枚、描いています。そのうちの1枚はワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています(「小麦を背景に立つ若い女性」)。上の引用で「その向こうに」との訳がありますが、手紙の英訳をみると "On it," となっているので「この絵をもとに」が正しい訳でしょう。
ゴッホはこの絵で、麦畑に分け入り、クローズアップで、麦の穂と茎だけに集中して描いています。ほとんどが緑系のさまざまな色で、その中に穂先の黄色があり、少々のピンク(右下。ヒルガオ)と青(左上。ゴッホ美術館の説明ではヤグルマギク)がある。こういった色の変化の総体で「微風に揺れる麦の穂の甘美なざわめき」をとらえようとしたわけです。ほとんど抽象画と思える描き方であり、ゴッホ以前にこんな絵を描いた人はいないでしょう。手紙を読むと、色彩の変化が人間感情に与える効果を探求する意気込みが伝わってきます。
蛾
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"Giant Peacock Moth" 「オオクジャクヤママユ」 |
1889年5月-6月、サン=レミ 33.5 cm × 24.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
一匹の大きな蛾が、ミズバショウのような形の花にとまっています。この絵に描かれた蛾について、ゴッホは弟・テオへの手紙に書いています。サン=レミの精神療養院に入院した月の手紙で、『アイリス』や『ライラック』と同時期です(手紙の日付はゴッホ美術館による)。
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ゴッホが書いている「通称 "死の頭" という蛾」は、メンガタスズメ(面形雀蛾)という蛾です。これは "髑髏蛾" とも呼ばれます。メンガタスズメの一種、ヨーロッパメンガタスズメの画像を次に引用します。
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ヨーロッパメンガタスズメの画像(Wikipedia)。羽を広げると10cm以上になる大型の蛾である。メンガタスズメは映画「羊たちの沈黙」(1991年。ジョディー・フォスター、アンソニー・ホプキンス主演)で重要な役割をはたしたが、「ジョディー・フォスターの正面視の顔と "髑髏蛾" だけ」という宣伝ポスターが強烈な印象を与えた。 |
画像でもわかるように、背中に "人の顔" ないしは "髑髏" のよう模様があります。ゴッホはテオへの手紙に蛾のスケッチを添えていますが、それが次の画像です。
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このスケッチには "人の顔" のようなものがありますが、描かれている蛾はメンガタスズメではなくオオクジャクヤママユ(=和名。英名:Giant Peacock Moth)です。これはヨーロッパ最大の蛾で、オオクジャク蛾とも訳されます。ファーブルの『昆虫記』には、ファーブルが自宅で羽化させたオオクジャク蛾の雌の周りに、雄の蛾が外から数十匹も進入してきて大騒ぎになるという有名な記述があります(『昆虫記』第7巻 23章)。そう言えば、ファーブルの自宅があったセリニャンとゴッホがいたサン=レミは、同じプロヴァンス地方の近くです。
またこの蛾は、ヘッセの短編小説「少年の日の思い出」に出てきました(No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」の「補記1」参照。小説の蛾は中型のクジャクヤママユ)。
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オオクジャクヤママユの画像。羽を広げると15cm~20cmになるヨーロッパ最大の蛾である。ヘッセ「少年の日の思い出」(岡田朝雄訳。草思社 2010)の口絵より。 |
おそらくゴッホは "死の頭" という蛾がいることを知識として知っていて、サン=レミの精神療養院の庭で大きな蛾を見つけたとき、それが "死の顔" だと考えたのでしょう。背中のまだら模様のちょっとした乱れか何かが顔に見えてしまった。そういうことだと思います。
ちなみに、この絵に描かれている「ミズバショウのような形の花」は、同じサトイモ科のアルムでしょう。アルムだけを描いたゴッホの素描が残っています(ゴッホ美術館蔵)。ミズバショウと同じく、花と見えるのは花ではなく、仏炎苞と呼ばれる "苞"(=花のつけねにできる、葉が変化したもの)です。
カワセミ
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”Kingfisher by the Waterside" 「水辺のカワセミ」 |
1887年7月-8月、パリ 19.1 cm × 26.6 cm ファン・ゴッホ美術館 |
カワセミが水辺のアシの茎に止まり、魚を狙っています。この絵を所蔵しているゴッホ美術館の説明を読むと、ゴッホはカワセミの剥製を持っていたとあります。カワセミは色が美しい鳥です。おそらくその色に惹かれて購入した(あるいは譲り受けた)のでしょう。
カワセミは日本でも一般的な鳥で、私が住んでいる市の住宅地のそばの川でも見かけたことがあります(市の鳥に指定されている)。オランダやパリでもよく見かける鳥だと想像されます。おそらくゴッホは剥製を参考に、それを水辺にのカワセミに移し替えて描いたのだと思います。野鳥を生息環境で描いた、めずらしい作品です。
ゴッホの生物の絵
以上に引用した絵は、傑作とされているものから習作や未完作までさまざまですが、共通する特徴を何点かあげると次のようになるでしょう。
生命の輝き
画家は生物の姿に "命の輝き" を見ていたようです。その典型は、甥の誕生祝いに弟へ贈ったアーモンドの枝と花の絵です。また開花した果樹や、サン=レミの精神療養院に入院した直後のアイリスとライラックの絵もそうでしょう。
樹木の生命力
糸杉の絵や、畑に一本だけ立つ木の幹の絵、オリーブ畑の絵は、年月を経た木に命のたくましさ見ているのだと思います。
なにげない生物
雑草を描いた絵や、麦の穂だけを描いた絵、下草を描いた絵などは、普通の画家ならまず画題としない対象です。なにげない生物にも画家は観察の目を向けています。
色へのこだわり
画家であればあたりまえかもしれませんが、色彩に対する強いこだわりを感じます。多様な緑を使って画面を構成したり、色の対比にこだわったり、あえて現実とは乖離した色を使ったりということが随所にあります。
ゴッホは多くのジャンルの画題で多数の絵を描いているので、"生物画" はごく一部に過ぎません。ただ、これだけ「各種の生物を生きている環境で描いた画家」は、西洋の画家ではあまり見あたらないでしょう。そこにゴッホという画家の特質を見ることができると思います。
2020-08-22 07:26
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No.291 - ポーラ美術館のセザンヌ [アート]
No.150「クリスティーナの世界」で、箱根のポーラ美術館で開催されたセザンヌ展のことを書きました。今回はその展覧会に関連した短篇小説を紹介します。
セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで
まず No.150 で書いたセザンヌ展ですが、次のような経緯をたどりました。
ちなみにポーラ美術館が所蔵しているセザンヌ作品が9点というのは、日本の美術館で最多の数です。このブログでもそのうちの2点を引用したことがあります。それを次に掲げておきます。
日本最多のセザンヌを所蔵するポーラ美術館が、日本のセザンヌを一堂に集めた展覧会を開催したわけです。この開催には長期に渡る準備が必要なはずで、箱根山の噴火警戒レベルによる借用作品の展示中止は、企画した学芸員にとってはさぞかし無念だったことでしょう。
そもそも No.150「クリスティーナの世界」は、原田マハさんの短篇小説「中断された展覧会の記憶」(短篇小説集『モダン』所載。文藝春秋 2015)の内容を引用して、アンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』のことを書くのが目的でした。
その原田マハさんの短篇では、ニューヨーク近代美術館(MoMA)がワイエスの『クリスティーナの世界』を福島の美術館に貸し出し、展覧会が行われているそのさなか、東日本大震災と原発事故が勃発します。展覧会は中止になり、MoMAは『クリスティーナの世界』を即刻 "救出" することを決めます。絵の回収にあたるMoMAの学芸員と、返す側の福島の美術館の学芸員の2人の "想い" が交錯するのが小説の骨子でした。
MoMAが『クリスティーナの世界』を東日本大震災の時点で日本へ貸し出していたというのはフィクションです。しかし、この短篇は「ワイエスの絵に託して震災からの復興を祈った作品」であり(雑誌に発表されたのは2011年末です)、そこが大変印象に残りました。かつ、「借用した美術品の展示が災害によって中断される」というところから、ブログを書いたときに同時進行していた箱根山の噴火警戒レベル3を強く連想しました。そこでポーラ美術館の「セザンヌ借用作品の展示中止」のことを付け加えたわけです。
ところで、その「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」という展示会とそこに展示されたあるセザンヌ作品のことを、原田マハさんは別の小説にしています。短篇小説集「<あの絵>のまえで」(幻冬舎 2020)に収められた『檸檬』という作品です。今回はその小説のことを書きます。
原田マハ『檸檬』
短篇小説『檸檬』は主人公の女性の1人称で語られます。その「私」は小田急線の新百合ヶ丘が最寄り駅の自宅に、共働きの父母と一緒に住んでいます。この春に社会人になったばかりで、新宿の会社に勤めている。『檸檬』は3つの部分に分かれているので、ちょっと大げさですが、第1部・第2部・第3部とします。
第1部で「私」は、同期で入社した「彼女」からカフェに呼び出されます。「彼女」の目的は「私」に忠告することでした。つまり「私」の悪い噂が部内に蔓延していて "炎上" 状態だ、このままでは部内に身の置き場がなくなるよ、と ・・・・・・。
「ほとんど毎日、定時にあがって周りに仕事を押しつけている」「いつもネイルを綺麗にしているが、そんな時間があるなら残業してほしい」「毎日、手作り弁当で余裕のあるところを見せびらかしている」「袖ぐりからブラが見える脇の開いたノースリーブを着てきて部内の視線を釘付けにしたが、男子の気を引くためにやったに違いない」・・・・・・。
「私」は何も言うことができず、ようやく「・・・・・・ ありがとう」と声を絞りだしました。「彼女」は "超空気読まない"「私」に呆れていて、そそくさとカフェを後にしました。
第2部は「私」の小さい頃から高校時代までの回想です。「私」は昔から "誰かと一緒に何かをする" ということに興味がもてなかった。友達の輪に入っていけず、ぽつんとひとりだった。だけど、それが別に苦痛ではなかったのです。
そんな「私」が一番好きだったのが「お絵かき」です。マンガのキャラクターの模写からはじまり、自分でキャラクターを作るようになり、ノートの余白から始まってスケッチブックに描くようになります。そして次には自己流でアクリル画を描くようになった。絵の "先生" はもっぱらネットの動画サイトでした。中学3年になったときにはかなり上達し、ひたすら絵を描いていました。
神奈川県立高校の普通科にやっとのことで入学した「私」は、美術部に入り、そこで初めて油彩画に挑戦しました。美術部には1学年上に美大志望の「先輩」がいて、彼は神奈川県主催の絵画コンクールに何度も入選したことのある腕前でした。また下級生の面倒見もよく、「私」にも油彩画を丁寧に教えてくれました。「先輩」に会えるという思いで高校に通うのが楽しみになりました。
その高校1年生の秋です。「私」は美術部の顧問の先生に思いがけない言葉をかけられます。県主催の絵画コンクールに応募してみないかとのことです。コンクールには「先輩」だけが応募する予定で、すでに彼は部室に居残って制作を始めていました。「先輩」と2人で部室で制作できる。「私」はその思いで応募を決めました。
それ以降、「先輩」と「私」は部室で絵を描きます。「私」は応募作を静物画にしようと決め、机にテーブルクロス、皿、水差し、果物を乗せて描き始めました。「先輩」は抽象画を描いているようですが、「私」にはほとんど声を書けなくなりました。
そして制作が進んできたとき、あることがあって「先輩」が「私」に対して "仄暗い感情" を持っていることに気づくのです。そしてコンクールの締め切りが迫ったある日、決定的な "事件" が起こりました。「先輩」がそばにきて「私」の静物画のレモンの描き方をあからさまに批判したのです。そして絵筆を握っていた「私」の腕をとり、絵筆を動かしてレモンの上から大きな「×」印を描きました。
私は「先輩」の腕を振りほどき、絵筆を床に投げつけ、鞄をつかんで部屋を飛び出すと、駅まで走りました。その出来事があって以降、「私」は絵筆を握ったことがありません。
第3部は同期の彼女にカフェに呼び出された次の日です。また "望んでもいない" 朝がやってきました。特に昨日のことがあったのでなおさらです。「私」はあきらめの気持ちで新百合ヶ丘駅の新宿方面行きのホームに立っていました。そのとき、いつもと違う光景を目にします。向かいの小田原方面行きのホームに一人の女子高生が立っていたのです。制服から「私」の後輩だと分かりました。それ以上に目を引いたのは女子高生が "カンヴァスバッグ" を持っていたことです。それは「私」があのコンクール用の絵を描き出した時に持っていたものでした。明らかに彼女は後輩の美術部員のようです。さらにその女子高生はポケットからレモンを取り出してじっと眺めたのです。
「会社のことなんて、あとでどうにでもなる。今はあの子についていくべき」という内心の声に突き動かされて、「私」は反対側のホームへと渡り、女子高生の後を追いました。女子高生は小田原で電車を乗り換え、箱根湯本で箱根登山鉄道に乗り、強羅駅で降りてバスに乗り継ぎました。そして辿りついたのがポーラ美術館でした。小説を引用します。「私」の1人称です。
少女はポケットからレモンを取り出し、セザンヌの絵の前にかざしました。それで「私」は分かったのです。少女は今、絵を描いていて、セザンヌを制作の参考にしているのだということを。少女は絵と向き合い、セザンヌと対話しようとしていたのです。
その姿に打たれた「私」は、「もう一度、絵を描いてみよう。遅くなんかない、まだ間に合う」と決意したのでした。
原田マハ『檸檬』の概要の紹介はここまでです。以降は、小説の最後に出てくるセザンヌの静物画についてです。
セザンヌ『砂糖壷、梨とテーブルクロス』
ポーラ美術館が所蔵しているセザンヌ『砂糖壷、梨とテーブルクロス』は、特別展「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」(2015年4月4日 ~ 9月27日)のメイン・ヴィジュアルになった作品です。この記事の最初の方に引用した特別展のポスターもこの絵でした。
小説『檸檬』では、この絵を初めて見た「私」の感想として、次のように書かれています。
まずこの絵に何が描かれているかですが、左手に藤色の植物模様らしきテーブルクロスがあり、中央に白い砂糖壷と皿があります。そして11個の果物が右手の方まで並べられている。
右端の黄色い2個を除いた9個の果物は、奥の方の4個が形からしてリンゴです。緑を基調として赤く色づいた部分もある。
リンゴの手前の5個が、この絵の題名になっている梨(西洋梨)です。西洋梨の形をしているし、この5個には柄(=果柄)がついています。一番右のものだけが緑ですが、おそらく熟する前のものでしょう。
この9個の西洋梨とリンゴの右手、一番右下の黄色い果物が、原田マハさんの短篇小説のテーマになったレモンです。小説の女子高生は実物のレモンを手にしながらこの部分を熱心に眺めて絵の研究していたということになります。
レモンの上にある黄色い果物は何でしょうか。形はレモンとも西洋梨とも違います。黄色い果物で、この絵のように "ずんぐり" とした形はマルメロでしょう。まとめるとこの絵の果物は、リンゴ、梨、レモン、マルメロということになります。
全体を俯瞰すると、小説に「えもいわれぬ不思議な絵」とあったように、ちょっと奇妙な絵です。その一番の原因はテーブの稜線が斜めになっていて、テーブルがあたかも傾いているように見えることです。もちろん実際のテーブルが傾いているはずがなく、これは画家の工夫でしょう。この描き方によって、リンゴと西洋梨の一団が右の方に転げ落ちていくような感じを受けます。しかし右端には黄色のレモンとマルメロがあって、それが転げ落ちるのを受け止めるストッパーとなっているかのようです。つまり画面の右側を守っている。
そして画面の左側を守っているのがテーブルクロスですが、上の方が高く盛り上がっています。これが実際にテーブルの上に置かれているとしたら、どういう配置なのかは不明です。しかもテーブルクロスの後ろにはリンゴと思える12番目の果物が顔を覗かせています。明らかにテーブルの上に乗っているのではない、奇妙な位置関係です。
個々のオブジェはいかにもリアルっぽいけれど、それをもとに画家は全体の配置を再構成し、さらに色を工夫しています。一番コントラストが目立つ砂糖壷の強い白は、オブジェの全体を支配しているようで印象的です。小説『檸檬』の描写では、この絵のオブジェ群について、
となっていました。そして原田マハさんは「隅々まで輝く命が宿っている個々のオブジェ」の中でも、あえて(絵の題名にはない)右下隅のレモンに着目して小説にした。そのレモンは他の果物とは少し距離があるのですが、あくまでみずみずしい。それは「絵を描くためにポーラ美術館まで何回も通う女子高校生」の象徴であり、またこの小説の主人公である「私」が再び歩き出すことの象徴なのだと思いました。
原田マハ『<あの絵>のまえで』
『<あの絵>のまえで』(幻冬舎 2020)には6つの短篇小説が収められていて、日本の美術館が所蔵している次の6つの作品が <あの絵> になっています。
上の方に引用した本の表紙はピカソの『鳥籠』です。この絵は同じ原田マハさんの『楽園のカンヴァス』にも出てきました。主人公の娘が「大原美術館で一番好きな絵」と言って絵のポストカードを差し出す。主人公は改めて絵をよく見て、あること(=見逃してしまいそうな、この絵の秘密)に気づく ・・・・・・、というところです。その "気づき" が、『<あの絵>のまえで』では短篇小説のテーマと結びつけられています。同じ "ネタ" を再利用して今度は一つの短篇に仕立てるということは、著者はよほどこの絵が好きなのでしょう。
この本の帯のキャッチに「人生の脇道に佇む人々が、<あの絵> と出会い、再び歩き出す姿を描く」とありました。6篇の小説のうち5篇は「少々生きるのが下手な女性」が主人公で、絵と出会って新たな決意を抱く話です(『檸檬』もそうです)。
1つだけが少々違っていて、妻の1人称で語られる夫婦と一人息子の話です。個人的なことになりますが、この短篇が私の記憶を呼び起こしました。登山が好きな、かつての部下のことです。
彼は父親の影響で山が好きになり、大学時代は登山サークルに所属し、就職してからも大学時代の友人と一緒に山に登っていました。しかし彼は、ゴールデンウィークに鹿島槍ヶ岳で雪崩に巻き込まれて命を落としました。遺体が見つかったのは7月になってからです。もちろん葬儀に参列しましたが、「今回のことで会社にご迷惑をかけて申し訳ありません」とおっしゃる父上の姿に、いたたまれなかった。おそらく父上は「自分が山に引き込んだために息子は命を落とした」という強い自責の念にかられたでしょう。葬儀のときはもちろん、おそらくその後もずうっと ・・・・・・。
原田さんの小説では一枚の絵が鍵となって、登場人物にポジティブな "影響" を与えるのですが、私の部下の父親の場合はどうだったのだろう、何らかの心の平穏を得られたのだろうかと、一時の想いにふけりました。
セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで
まず No.150 で書いたセザンヌ展ですが、次のような経緯をたどりました。
ポーラ美術館で「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」と題した展覧会が、2015年4月4日~2015年9月27日の会期で開催された。 | |
この展覧会のポイントは、ポーラ美術館所蔵のセザンヌ作品9点と、日本の美術館から借り受けた12点を合わせ、計21点の日本にあるセザンヌが一堂に会することである。また合わせて、ポーラ美術館が所蔵するセザンヌの同時代、前後の時代の画家の作品も展示され、近代絵画におけるセザンヌのポジションが一望できるようになっている。 | |
ところが、開催直後の 2015年4月下旬になって、箱根山で不吉な火山性微動が観測されはじめた。 | |
借り受けたセザンヌ作品12点のうち、国立近代美術館所蔵の1点は6月7日で展示が終了した(当初からの予定どおり)。 | |
その後、火山性微動は頻発し、7月になって大湧谷周辺(ポーラ美術館の近く)の噴火警戒レベルが3に引き上げられた。 | |
これを受けてポーラ美術館は、借り受けたセザンヌ11点のうち7点の展示を中止した(2015年7月3日のアナウンス)。No.150 をアップしたのは 2015年7月18日なので、経緯はここまで。 | |
その後、7月27日になって、残りの借用作品4点の展示も中止になった。展覧会は、ポーラ美術館が所蔵する作品(セザンヌ9点と関連する画家の作品)だけで会期末まで続けられた。 |
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ポーラ美術館「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」の公式ポスター |
ちなみにポーラ美術館が所蔵しているセザンヌ作品が9点というのは、日本の美術館で最多の数です。このブログでもそのうちの2点を引用したことがあります。それを次に掲げておきます。
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「アルルカン」(1888/90) |
空間における人物の形態表現に取り組んだ作品で(=ポーラ美術館の解説)、モデルは息子のポールである。このアルルカンの絵は連作の一枚で、ワシントン・ナショナル・ギャラリーがほぼ同じ絵を所蔵している。No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」に、ポーラ美術館によるこの絵の解説を引用した。 |
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「ラム酒の瓶がある静物」(1890頃) |
ポーラ美術館の解説によると、この絵はかつてメアリー・カサットが所有していた(No.125「カサットの "少女" 再び」の「補記1」参照)。複数の視点が混在していることが明瞭にわかる作品である。ポーラ美術館は折に触れてこの絵を題材に「多視点」の解説をしている。 |
日本最多のセザンヌを所蔵するポーラ美術館が、日本のセザンヌを一堂に集めた展覧会を開催したわけです。この開催には長期に渡る準備が必要なはずで、箱根山の噴火警戒レベルによる借用作品の展示中止は、企画した学芸員にとってはさぞかし無念だったことでしょう。
そもそも No.150「クリスティーナの世界」は、原田マハさんの短篇小説「中断された展覧会の記憶」(短篇小説集『モダン』所載。文藝春秋 2015)の内容を引用して、アンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』のことを書くのが目的でした。
その原田マハさんの短篇では、ニューヨーク近代美術館(MoMA)がワイエスの『クリスティーナの世界』を福島の美術館に貸し出し、展覧会が行われているそのさなか、東日本大震災と原発事故が勃発します。展覧会は中止になり、MoMAは『クリスティーナの世界』を即刻 "救出" することを決めます。絵の回収にあたるMoMAの学芸員と、返す側の福島の美術館の学芸員の2人の "想い" が交錯するのが小説の骨子でした。
MoMAが『クリスティーナの世界』を東日本大震災の時点で日本へ貸し出していたというのはフィクションです。しかし、この短篇は「ワイエスの絵に託して震災からの復興を祈った作品」であり(雑誌に発表されたのは2011年末です)、そこが大変印象に残りました。かつ、「借用した美術品の展示が災害によって中断される」というところから、ブログを書いたときに同時進行していた箱根山の噴火警戒レベル3を強く連想しました。そこでポーラ美術館の「セザンヌ借用作品の展示中止」のことを付け加えたわけです。
ところで、その「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」という展示会とそこに展示されたあるセザンヌ作品のことを、原田マハさんは別の小説にしています。短篇小説集「<あの絵>のまえで」(幻冬舎 2020)に収められた『檸檬』という作品です。今回はその小説のことを書きます。
(以下に『檸檬』の概要が明かされています)
原田マハ『檸檬』
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第1部で「私」は、同期で入社した「彼女」からカフェに呼び出されます。「彼女」の目的は「私」に忠告することでした。つまり「私」の悪い噂が部内に蔓延していて "炎上" 状態だ、このままでは部内に身の置き場がなくなるよ、と ・・・・・・。
「ほとんど毎日、定時にあがって周りに仕事を押しつけている」「いつもネイルを綺麗にしているが、そんな時間があるなら残業してほしい」「毎日、手作り弁当で余裕のあるところを見せびらかしている」「袖ぐりからブラが見える脇の開いたノースリーブを着てきて部内の視線を釘付けにしたが、男子の気を引くためにやったに違いない」・・・・・・。
「私」は何も言うことができず、ようやく「・・・・・・ ありがとう」と声を絞りだしました。「彼女」は "超空気読まない"「私」に呆れていて、そそくさとカフェを後にしました。
要するに「私」は地味な性格で、人とのコミュニケーションをとるのが苦手です。それでいて一見 "女子力" が高そうに見える。もし「私」が活発で誰とでも話し合える性格だったら人気の新人になったかもしれません。しかし「私」はそれとは正反対です。
第2部は「私」の小さい頃から高校時代までの回想です。「私」は昔から "誰かと一緒に何かをする" ということに興味がもてなかった。友達の輪に入っていけず、ぽつんとひとりだった。だけど、それが別に苦痛ではなかったのです。
そんな「私」が一番好きだったのが「お絵かき」です。マンガのキャラクターの模写からはじまり、自分でキャラクターを作るようになり、ノートの余白から始まってスケッチブックに描くようになります。そして次には自己流でアクリル画を描くようになった。絵の "先生" はもっぱらネットの動画サイトでした。中学3年になったときにはかなり上達し、ひたすら絵を描いていました。
神奈川県立高校の普通科にやっとのことで入学した「私」は、美術部に入り、そこで初めて油彩画に挑戦しました。美術部には1学年上に美大志望の「先輩」がいて、彼は神奈川県主催の絵画コンクールに何度も入選したことのある腕前でした。また下級生の面倒見もよく、「私」にも油彩画を丁寧に教えてくれました。「先輩」に会えるという思いで高校に通うのが楽しみになりました。
その高校1年生の秋です。「私」は美術部の顧問の先生に思いがけない言葉をかけられます。県主催の絵画コンクールに応募してみないかとのことです。コンクールには「先輩」だけが応募する予定で、すでに彼は部室に居残って制作を始めていました。「先輩」と2人で部室で制作できる。「私」はその思いで応募を決めました。
それ以降、「先輩」と「私」は部室で絵を描きます。「私」は応募作を静物画にしようと決め、机にテーブルクロス、皿、水差し、果物を乗せて描き始めました。「先輩」は抽象画を描いているようですが、「私」にはほとんど声を書けなくなりました。
そして制作が進んできたとき、あることがあって「先輩」が「私」に対して "仄暗い感情" を持っていることに気づくのです。そしてコンクールの締め切りが迫ったある日、決定的な "事件" が起こりました。「先輩」がそばにきて「私」の静物画のレモンの描き方をあからさまに批判したのです。そして絵筆を握っていた「私」の腕をとり、絵筆を動かしてレモンの上から大きな「×」印を描きました。
私は「先輩」の腕を振りほどき、絵筆を床に投げつけ、鞄をつかんで部屋を飛び出すと、駅まで走りました。その出来事があって以降、「私」は絵筆を握ったことがありません。
美術部の顧問の先生が油絵初心者の「私」に絵画コンクールへの応募を勧めたのは、「私」の絵の才能を見込んでのことでしょう。そして美大志望の「先輩」は2人で絵の制作をするなかで、後輩の「私」の方が絵の才能があることを決定的に悟った。それは嫉妬心となり、やがては "どす暗い" 心になっていく。「私」はそれに気づくのが遅く、それなりの対応をすることもなく、そして決定的な事件を迎えてしまう。人とコミュニケートして適度な距離感を保つのが苦手な「私」を象徴するエピソードです。
第3部は同期の彼女にカフェに呼び出された次の日です。また "望んでもいない" 朝がやってきました。特に昨日のことがあったのでなおさらです。「私」はあきらめの気持ちで新百合ヶ丘駅の新宿方面行きのホームに立っていました。そのとき、いつもと違う光景を目にします。向かいの小田原方面行きのホームに一人の女子高生が立っていたのです。制服から「私」の後輩だと分かりました。それ以上に目を引いたのは女子高生が "カンヴァスバッグ" を持っていたことです。それは「私」があのコンクール用の絵を描き出した時に持っていたものでした。明らかに彼女は後輩の美術部員のようです。さらにその女子高生はポケットからレモンを取り出してじっと眺めたのです。
「会社のことなんて、あとでどうにでもなる。今はあの子についていくべき」という内心の声に突き動かされて、「私」は反対側のホームへと渡り、女子高生の後を追いました。女子高生は小田原で電車を乗り換え、箱根湯本で箱根登山鉄道に乗り、強羅駅で降りてバスに乗り継ぎました。そして辿りついたのがポーラ美術館でした。小説を引用します。「私」の1人称です。
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少女はポケットからレモンを取り出し、セザンヌの絵の前にかざしました。それで「私」は分かったのです。少女は今、絵を描いていて、セザンヌを制作の参考にしているのだということを。少女は絵と向き合い、セザンヌと対話しようとしていたのです。
その姿に打たれた「私」は、「もう一度、絵を描いてみよう。遅くなんかない、まだ間に合う」と決意したのでした。
原田マハ『檸檬』の概要の紹介はここまでです。以降は、小説の最後に出てくるセザンヌの静物画についてです。
セザンヌ『砂糖壷、梨とテーブルクロス』
ポーラ美術館が所蔵しているセザンヌ『砂糖壷、梨とテーブルクロス』は、特別展「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」(2015年4月4日 ~ 9月27日)のメイン・ヴィジュアルになった作品です。この記事の最初の方に引用した特別展のポスターもこの絵でした。
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ポール・セザンヌ(1839--1906) 「砂糖壷、梨とテーブルクロス」(1893/4) |
ポーラ美術館 |
小説『檸檬』では、この絵を初めて見た「私」の感想として、次のように書かれています。
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まずこの絵に何が描かれているかですが、左手に藤色の植物模様らしきテーブルクロスがあり、中央に白い砂糖壷と皿があります。そして11個の果物が右手の方まで並べられている。
右端の黄色い2個を除いた9個の果物は、奥の方の4個が形からしてリンゴです。緑を基調として赤く色づいた部分もある。
リンゴの手前の5個が、この絵の題名になっている梨(西洋梨)です。西洋梨の形をしているし、この5個には柄(=果柄)がついています。一番右のものだけが緑ですが、おそらく熟する前のものでしょう。
この9個の西洋梨とリンゴの右手、一番右下の黄色い果物が、原田マハさんの短篇小説のテーマになったレモンです。小説の女子高生は実物のレモンを手にしながらこの部分を熱心に眺めて絵の研究していたということになります。
レモンの上にある黄色い果物は何でしょうか。形はレモンとも西洋梨とも違います。黄色い果物で、この絵のように "ずんぐり" とした形はマルメロでしょう。まとめるとこの絵の果物は、リンゴ、梨、レモン、マルメロということになります。
全体を俯瞰すると、小説に「えもいわれぬ不思議な絵」とあったように、ちょっと奇妙な絵です。その一番の原因はテーブの稜線が斜めになっていて、テーブルがあたかも傾いているように見えることです。もちろん実際のテーブルが傾いているはずがなく、これは画家の工夫でしょう。この描き方によって、リンゴと西洋梨の一団が右の方に転げ落ちていくような感じを受けます。しかし右端には黄色のレモンとマルメロがあって、それが転げ落ちるのを受け止めるストッパーとなっているかのようです。つまり画面の右側を守っている。
そして画面の左側を守っているのがテーブルクロスですが、上の方が高く盛り上がっています。これが実際にテーブルの上に置かれているとしたら、どういう配置なのかは不明です。しかもテーブルクロスの後ろにはリンゴと思える12番目の果物が顔を覗かせています。明らかにテーブルの上に乗っているのではない、奇妙な位置関係です。
個々のオブジェはいかにもリアルっぽいけれど、それをもとに画家は全体の配置を再構成し、さらに色を工夫しています。一番コントラストが目立つ砂糖壷の強い白は、オブジェの全体を支配しているようで印象的です。小説『檸檬』の描写では、この絵のオブジェ群について、
まるでおしゃべりをしているかのようににぎやかで、転がり落ちそうな躍動感がある。 | |
静物画なのに、ちっとも静かではないし、止まってもいない。個々のオブジェの隅々まで輝く命が宿っている。 |
となっていました。そして原田マハさんは「隅々まで輝く命が宿っている個々のオブジェ」の中でも、あえて(絵の題名にはない)右下隅のレモンに着目して小説にした。そのレモンは他の果物とは少し距離があるのですが、あくまでみずみずしい。それは「絵を描くためにポーラ美術館まで何回も通う女子高校生」の象徴であり、またこの小説の主人公である「私」が再び歩き出すことの象徴なのだと思いました。
原田マハ『<あの絵>のまえで』
『<あの絵>のまえで』(幻冬舎 2020)には6つの短篇小説が収められていて、日本の美術館が所蔵している次の6つの作品が <あの絵> になっています。
フィンセント・ファン・ゴッホ 「ドービニーの庭」 ひろしま美術館(広島市) | |
パブロ・ピカソ 「鳥籠」 大原美術館(倉敷市) | |
ポール・セザンヌ 「砂糖壷、梨とテーブルクロス」 ポーラ美術館(箱根町) | |
グスタフ・クリムト 「オイゲニア・プリマフェージの肖像」 豊田市美術館 | |
東山 魁夷 「白馬の森」 長野県信濃美術館・東山魁夷館(長野市) | |
クロード・モネ 「睡蓮」シリーズ5点 地中美術館(香川県・直島) |
上の方に引用した本の表紙はピカソの『鳥籠』です。この絵は同じ原田マハさんの『楽園のカンヴァス』にも出てきました。主人公の娘が「大原美術館で一番好きな絵」と言って絵のポストカードを差し出す。主人公は改めて絵をよく見て、あること(=見逃してしまいそうな、この絵の秘密)に気づく ・・・・・・、というところです。その "気づき" が、『<あの絵>のまえで』では短篇小説のテーマと結びつけられています。同じ "ネタ" を再利用して今度は一つの短篇に仕立てるということは、著者はよほどこの絵が好きなのでしょう。
この本の帯のキャッチに「人生の脇道に佇む人々が、<あの絵> と出会い、再び歩き出す姿を描く」とありました。6篇の小説のうち5篇は「少々生きるのが下手な女性」が主人公で、絵と出会って新たな決意を抱く話です(『檸檬』もそうです)。
1つだけが少々違っていて、妻の1人称で語られる夫婦と一人息子の話です。個人的なことになりますが、この短篇が私の記憶を呼び起こしました。登山が好きな、かつての部下のことです。
彼は父親の影響で山が好きになり、大学時代は登山サークルに所属し、就職してからも大学時代の友人と一緒に山に登っていました。しかし彼は、ゴールデンウィークに鹿島槍ヶ岳で雪崩に巻き込まれて命を落としました。遺体が見つかったのは7月になってからです。もちろん葬儀に参列しましたが、「今回のことで会社にご迷惑をかけて申し訳ありません」とおっしゃる父上の姿に、いたたまれなかった。おそらく父上は「自分が山に引き込んだために息子は命を落とした」という強い自責の念にかられたでしょう。葬儀のときはもちろん、おそらくその後もずうっと ・・・・・・。
原田さんの小説では一枚の絵が鍵となって、登場人物にポジティブな "影響" を与えるのですが、私の部下の父親の場合はどうだったのだろう、何らかの心の平穏を得られたのだろうかと、一時の想いにふけりました。
2020-08-08 10:59
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No.290 - 科学が暴く「食べてはいけない」の嘘 [科学]
今回は No.92 の継続で、食と健康、ないしは食の安全性の話です。食とは "食べる" "飲む" に加えて、食品添加物など体内に摂取するものすべてを指します。
このブログの No.92「コーヒーは健康に悪い?」で、次のような話を書きました。
以上の No.92「コーヒーは健康に悪い?」で書いたことを簡潔にまとめると、次のようになるでしょう。
このコーヒーの話に見られるように、食については「健康に良い・悪い」「食べてもよい・食べてはいけない」という大量の情報が世の中に溢れています。困ったことにそれらの中には全く相反する見解があり、また科学的に根拠が薄い(根拠が無い)ものもある。とにかく "玉石混交" の状態なのです。
この状況の中で、2020年3月にある本が出版されました。アーロン・キャロル著・寺岡朋子訳『科学が暴く「食べてはいけない」の嘘 ─── エビデンスで示す食の新常識』(白楊社。2020.3.26)です。以下「本書」と記述します。今回はその内容を、感想をまじえて紹介したいと思います。コーヒーの話も出てきます。
The Bad Food Bible
本書の原題は『The Bad Food Bible』(2017)で、直訳すると「悪い食品バイブル」です。その内容は、世の中で(アメリカで)"健康に悪い" とされている食品について、その科学的根拠を精査すると "実は悪くない" ことを示したものです。市民を不安にさせている食の情報は大抵は科学的に間違っている、というわけです。
著者のアーロン・キャロルはインディアナ大学医学部小児科の教授ですが、栄養学に興味を持ち、過去の研究を調査・分析し、その成果をもとに食と健康についての啓蒙活動を行っています。ニューヨーク・タイムズをはじめとする各種のメディアにもコラムを書いています。
本書のキーワードは日本語題名の副題にある「エビデンス=科学的根拠」です。科学的根拠とは何か、何をもって科学的根拠があると言えるのか、それが本書では明確にされています。そこが大きなポイントです。
冒頭に書いたように、コーヒーの安全性についてはサウスカロライナ大学、世界保健機構、アメリカ国立保健研究所、厚生労働省が錯綜した見解を出していました。どれも立派な機関であり、これらすべては「それなりの科学的根拠」に基づいた発表だと考えられます。しかし本書が強調しているのは、
ということです。著者は各種の論文を地道に精査し、質の高い研究をセレクトして本書を書きました。では、質の高い研究とは何で、逆に質の低い研究は何かです。つまり本書のポイントである "科学的根拠" とは何でしょうか。
科学的根拠とは何か
実験室での研究
本書でまず強調してあるのは、試験管で培養した細胞や実験動物を使って食の安全性を検証するのは、それだけではダメだということです。
グルタミン酸ナトリウム(Monosodium Gultamate。MSG)は「味の素」以来、日本人にはなじみの "うま味調味料" ですが、アメリカでは安全性が問題視されたことがあり、今でも偏見が続いています。その MSG について、本書に次のような実験が出てきます。
本書には巻末に参考文献や出典が詳細にリストされているので、上の実験を調べてみると、弘前大学の大黒教授のグループの研究でした。「ラットの目に障害が起こる」とあるのは、網膜の神経細胞に MSG が蓄積し、網膜ニューロン層が薄くなることをラットで確認したとのことです。
しかしこの結果をもって「MSG の摂取が人間の目の健康を害する」などとは言えないわけです。そもそも実験の摂取量ですが、ラットの体重はオスで0.5kg程度です。人間の体重からすると、ざっと 1/100 です。つまり「1日に20グラムの MSG をラットに6ヶ月間食べさせる」ということは、人間で言うと「1日に20グラム×100 = 2キログラムの MSG を食べ続ける」という、絶対にありえない状況です。もちろん体重比で単純換算することの意味については科学的な検証が必要です。
さらに重要なのは、ラットで起こったことが人間にも起こるとは限らないことです。キャロル教授は「人間の健康について主張するためには、人間を対象とした研究・検証が必要だ」と主張しているわけです。
その「人間を対象とした研究」は大きく二つにわけられます。
の二つです。その「観察研究」を信頼性の低いものから高いものへと並べると次のようになります。
観察研究
症例報告は最も信頼性の低いものです。本書ではわかりやすく「私の曾祖母は大さじ一杯のタバスコを毎朝食べていました。それで100歳近くまで長生きしたんですよ」という例を書いています。これは確かな事実を述べているのでしょうが、一例にすぎません。
よくテレビの健康食品やサプリメントのコマーシャルで、その製品を愛用している人が出演して「これを飲み出してからとても元気になりました」という意味のことをしゃべります。そのとき、画面の隅には「個人の感想です」という文字が小さく表示されます。これがつまり症例報告です。症例報告は「ほぼ例外なく科学的価値はひとかけらもない」とキャロル教授は書いています。
症例シリーズは、いくつかの症例報告を並べて何かを言うものです。たとえば「タバスコを毎日食べていた10人が全員健康だった」と書かれているような論文です。あくまで少数の例にすぎず、要因同士に関係があるかどうかや、要因の相関の強さについての統計的検定はありません。症例シリーズも症例報告と同様に無視してよいものです。
横断研究は、結果をまじめに受け止めてよい最初のものです。これは、ある集団を対象とし、ある一時点で、一つの要因(例えば食習慣)が他の要因(例えば健康状態)とどう関係しているかを調べるものです。例えばある集団において「大さじ一杯のタバスコを毎朝食べる人」が何人いるかを調べ、その集団の健康状況を調査して関係を分析するのは横断研究になります。しかしこれは、あることをしている人・ある状態にいる人の数を明らかにする意義はありますが、それ以上のものではありません。
症例対照研究は、横断研究の上に位置づけられるものです。これは、ある症例(たとえば病気)を示す人(症例群)と、その症例を示さない人(対照群)を、諸条件が一致する前提で(たとえば年齢、性別、居住地域など)たくさん集めます。そして統計学を使って、症例を示す人と示さない人の違いを調べます。たとえば、胃がん患者の一群と胃がんではない人を集め、大さじ一杯のタバスコを食べるかどうか、食べるとしたらその頻度を尋ねて分析するというような例です。
キャロル教授は、食品における症例対照研究の落とし穴は「思い出しバイアス」だと言っています。例えば、希な病気にかかっている人は特定のものを食べたと報告することが健康な人に比べて多い。特にその食品が「体に悪い」と聞いたことがあれば、その食品を食べたことをよく覚えている傾向にあります。健康状態によって思いだし方に偏りが生じる。これが「思い出しバイアス」です。
コホート研究は症例対照研究よりも優れています。これは対象集団(コホート)を一定期間追跡し、特定の要因がどんな影響を及ぼすかをみる研究です。例えば、集団の中で大さじ一杯のタバスコを毎日食べる人々と、そうでない人々の経過を追い、健康状態にどういう影響が現れるかを調査する研究です。経過を追うところがポイントで、コホート研究は思い出しバイアスの影響を受けにくいのです。
以上の観察研究で、科学的根拠として意味があるのは症例対照研究とコホート研究です。これによって「異なる要因の間に相関関係がある」ことが示せます。しかし、「相関関係があるからといって、因果関係があるかどうかは不明」です。このことについて、このブログでは No.223「因果関係を見極める」に詳しく説明しました。因果関係を示すためには実験研究が必要です。
実験研究
実験研究では、人々を集めていくつかのグループにわけ、あるグループには特定の介入をし(特定の食事をしてもらうなど)、別のグループには別の介入を行い、その経過を観察します。つまり計画・設計された実験を行うわけです。このタイプの研究でもっとも信頼度が高いのが「ランダム化比較試験」です。
ランダム化比較試験(RCT。Randomized Controlled Trial)では、特定の介入を受けるグループと(介入群)と、介入を受けないグループ(対照群)をランダムに振り分けます。そしてグループ間の違いを追跡する。これによってグループ間に相違が見られると、その相違は介入によるものと推定できます。ランダムに振り分けるのがポイントで、こうすることで特定の介入以外の "結果に影響を与えるかもしれない条件(年齢、性別、食習慣 ・・・・・・)" が平均化されて相殺されるわけです。
さらに RCT 中でも最も信頼度が高いのは、対照群にプラセボ(=偽薬。疑似介入)を与えるものです。こうすることで研究者も被験者も誰が介入を受けているのかが分からず、より信頼度が高まります。
RCT の問題は多大な労力と費用がかかることです。追跡調査が必要なことに加えて、ランダムにグループを振り分けるので被験者の数が多いことが前提だからです。そのため実施例は少なく、このことも含めて一般に食の研究には優れたものが少ないのが現状です。なお RCT については、食の研究ではありませんが No.223「因果関係を見極める」に実例を紹介しました。
以上のように、研究には信頼度が高いものから信頼度ゼロまでがあります。これらを判別して質の高い研究を選ぶ必要がありますが、さらに「質の高い複数の研究を選択して総合する」ことで、より信頼度が高まります。
その一つのシステマティックレビューは、質の高い研究だけを集めて、そこに含まれる知見を要約するものです。またメタ分析は、複数の研究データを総合し、それらがあたかも一つの大規模な研究のデータであるかのようにまとめたものです。キャロル教授は本書で結論を導くために質の高い研究を選択していることはもちろんですが、できるだけシステマティックレビューやメタ分析を採用するようにしています。
さらにキャロル教授は介入の結果(=アウトカム)に関して、"プロセス指標"(血圧、コレステロール値、血糖値など)よりも、"真のアウトカム"(心臓発作の発生率や死亡率など)を分析した研究を重視しています。言うまでもなく一番大切なのは "真のアウトカム" であり、"プロセス指標" は "真のアウトカム" につながるかもしれないが、どうつながるかの知見が不十分なことがあるからです。
今までの話を簡潔にまとめると、キャロル教授が食に関する研究を調査するときの原則は次の通りです。
これが、キャロル教授が過去の研究を総合して食の安全性を評価するときの方法論です。この方法論に基づいて各種の "健康に悪い" とされている食品が本当にそうなのかを調べたのが本書です。食の安全性についての本は多数ありますが、本書はまず方法論が明示してあって、過去の研究の調査と分析があり、結論が導かれる。そこが違うところです。
以下、本書に書かれている10種の食品の安全性について、そのうちの6種を簡単にみていきます。
バター
1970年代から、動物性脂肪の成分である飽和脂肪酸は、心臓の健康に悪い(=心臓発作などの冠動脈性心疾患のリスクが高まる)という説が広まり、そのためバターよりも植物性脂肪を原料とするマーガリンが推奨されたことがありました。植物性脂肪の成分は不飽和脂肪酸です。
しかしキャロル教授は各種の研究を総合して「飽和脂肪酸は悪」は根拠十分であり、バターやクリームを食べても問題なしとしています。このことは現在の日本では常識だと思いますが、アメリカではまだ「飽和脂肪酸は悪」と思い込んでいる人が多いようです。
さらにキャロル教授はバターよりマーガリンに多く含まれるトランス脂肪酸が健康に悪いのは明白で、そのためアメリカでは成分量に規制が行われていることを述べています。ちなみに、日本で売られているバターとマーガリンの原材料を比較してみると次の通りです。
正確に言うと "ネオソフト" はマーガリン(油脂含有率 80%以上)ではなく、ファットスプレッド(油脂含有率 80%以下)に分類される商品です。
余談ですが、私の配偶者はバターは買いますが、マーガリンは買いません。それはマーガリンの原材料には各種の添加物があり、類似の機能の食品がある場合は添加物を少ない方を選ぶというのが彼女の原則だからです。これはマーガリンが安全でないとか、添加物はいけないと言っているのでは全くありません。売られているのは食品安全基準に則った立派な食品のはずだし、ネオソフトは発売開始以来60年を越えた由緒ある商品です。ただ個人としての「行動様式」がそうだということです。
卵
「卵に含まれるコレステロールは健康に悪い、卵は1日1個まで」とする風潮があります。しかしキャロル教授は、それは「ウソ」と明言しています。
コレステロールに関する知識は進んできました。体内のコレステロールは2種類あり、一つは HDL(高比重リポタンパク質)で "善玉コレステロール" です。もう一つは LDL(低比重リポタンパク質)で、これが高いと動脈硬化(=アテローム性動脈硬化)のリスクが高まります。いわゆる "悪玉コレステロール" です。
コレステロールは人体に必須の物質であり、特定のビタミンやホルモンを作ったり、細胞の部品を作ったり、脂肪を消化したりします。1日に約1000mg が肝臓で作られ、血液で全身に運ばれる。健康診断で測定するコレステロール値は、この「血中コレステロール」の値です。
では、卵に含まれるコレステロールのような「食事性コレステロール」は「血中コレステロール」にどの程度影響するのでしょうか。キャロル教授は2002年に行われたランダム化比較試験(RCT)の結果を紹介していますが、被験者の70%が食事性コレステロールへの "低応答" でした。低応答とは、食事性コレステロールは血中コレステロールにほとんど影響しないということです。また残りの被験者も、食事性コレステロールと血中コレステロールの関係は弱いものでした。
以上の研究からキャロル教授は「卵は我慢しなくてよい」と書いています。
コーヒー
本書には、この記事の冒頭に書いたコーヒーの安全性の話もあります。冒頭に示したように、WHO(世界保健機構)は1991年にコーヒーを発がん性がある物質にリストしました。その後の研究ではどうなのでしょうか。
確かに、いくつかの研究ではコーヒーが発がんリスクを高めましたが、逆にリスクを低めたり(肝臓がん)、発がんとは無関係(乳がん、前立腺がん)とする研究もあります。またコーヒーが肺がんのリスクを高めたとした研究もありますが、それは喫煙者に限定した話だったりします。逆に、コーヒーが心疾患や肝疾患のリスクを低下させるという研究が増えてきました。
これらを総合してキャロル教授は「コーヒーが健康に悪影響があるというのは根拠薄弱」と結論づけています。
ちなみに、WHOは2015年に「コーヒーの摂取による膵臓や女性の乳房、男性の前立腺に対する発がん作用はなく、肝臓や子宮内膜の発がんリスクの低下がみられた」として、コーヒーを発がん物質からはずしました。WHOがこのように見解を180度転換するのは珍しいようです。
人工甘味料
1980年代にアメリカではサッカリンを含む食品に「サッカリンは実験動物で発がん性が確認されています」との警告文が義務づけられました。これはラットに大量のサッカリンを食べさせると膀胱がんになったという実験によります。
しかしラットは膀胱がんになりやすい動物です。ラットに大量のビタミンCを食べさせても膀胱がんになりますが、だからといって「ビタミンCは実験動物で発がん性が認められた」という警告をオレンジジュースに貼るべきだという話にはなりません。
しかも、ラットが膀胱がんになったからと言って、人間もそうなるとは限らない。その後のイギリス、デンマーク、カナダ、アメリカで人間を対象に行われた研究で、サッカリンと膀胱がんの関係性は認められませんでした。2000年になってアメリカ政府はサッカリンを発がん性物質のリストからはずしました。
しかし「時すでに遅し」で、サッカリンの件は人工甘味料に対する不信感を人々に植え付けてしまいました。この結果、サッカリンにかわる人工甘味料のアスパルテームについても病気のリスクを高めるという論文が出されることになりました。キャロル教授によるとこれらはすべて根拠薄弱であり、質の高いランダム化比較試験(RCT)ではアスパルテームと病気のリスクには関係性が見られません。
また人工甘味料についての補足ですが、2008年、ダイエット飲料(低カロリー甘味料・人工甘味料)を多く飲む人の方が肥満が多いという研究結果が出されました。本書の草稿を書いた段階でも類似の研究が発表されています。しかしこれを、メディアで報道されたように「低カロリー甘味料を摂取すると肥満になる」と考えたとしたら、それは因果関係を逆にとっているのであって、「肥満の人ほど(ダイエットのために)低カロリー甘味料を多く摂取する傾向にある」のが正しい見方です。
キャロル教授は人工甘味料をとっても問題はなく、逆に、食品に添加される糖類(砂糖や転化糖など)こそ、過剰に摂取すると健康が害することが科学的に明白だと強調しています。
うま味調味料
アメリカではうま味調味料のグルタミン酸ナトリウム(MSG)が健康に悪いという不信感が根強いようです。それはラットに大量の MSG を食べさせる研究から始まったものでした。さらに MSG は「中華料理店症候群」(中華料理を食べたあとに感じるしびれや動悸)の "犯人" にされるという「風評被害」にあい、排除の動きが加速しました。
しかし MSG が悪とする研究には一貫性がありません。ランダム化比較試験(RCT)による質の高い研究では、健康に悪いという結果は出てこないのです。一部の学者は MSG過敏症の人がいて、その人たちには悪いとの説を唱えました。これに決着をつけるために、2000年に MSG過敏症だと訴える130人を集めた実験が行われましたが、MSG を与えた人とプラセボを与えた人に一貫性のある結果は見られませんでした。
キャロル教授は、グルタミン酸は人体に必須のアミノ酸であり、数々の食品に含まれていて母乳にも大量に含まれていることを力説しています。このあたりは、グルタミン酸ナトリウム(=味の素)を調味料として開発したのが池田菊苗博士であることもあって日本人にはなじみの話ですが、キャロル教授が長々と力説しているところをみると一般のアメリカ人には知識が行き渡っていないようです。
非有機食品
No.245「スーパー雑草とスーパー除草剤」で、アメリカの消費者はオーガニック(有機)食品になびいていて、そのトレンドを見越したアマゾン・ドット・コムは、オーガニックにこだわってきたスーパー・マーケット、ホールフーズを買収したことを書きました。
アメリカでは農務省(USDA)が決めたオーガニックについての基準があり、これに合致した食品は「USDA Organic」のラベルをつけて販売できます。本書ではその「USDA Organic」の基準が簡単に書いてあります(段落を追加しました)。
一つのポイントは「除草剤や殺虫剤は、自然のものか、許可された合成物質リストに掲載されているものに限定される」ことでしょう。つまり、農薬(除草剤や殺虫剤)を完全に禁止しているわけではありません。この点は日本の有機JAS認証と同様です。
その有機食品ですが、本書には各種の研究を総合して「有機食品が非有機食品より優れているという科学的根拠はほとんどない」としてあります。各種の分析をみても、栄養的には同じであるし、汚染物質について言うと、確かに残留殺虫剤は「有機」の方が少ないが「非有機」の濃度も安全性上認められている限度以下です。
「有機」か「非有機」かは栄養学の問題ではなく、むしろ環境や社会の問題です。キャロル教授はそこは専門の範囲ではないとして、判断は読者にゆだねるとしています。「非有機」のメリットはコストが安いこと、非有機農業のほうが土壌の浸食・流出が少ないことなどです。一方「有機」の方は、農薬が限定され使用量が少ないので環境によく、より肥沃な土壌が作られ、二酸化炭素をより多く土壌に閉じこめる傾向にあるとされています。
ただ、キャロル教授が文句なしに「有機」がよいとするのは、有機認証を受けた家畜は飼料に抗生物質が含まれないことです。FDA(アメリカ食品医薬品局)は、アメリカの抗生物質の販売量は人間用より家畜用の方が多いと推定していて、これはとりもなおさず薬剤耐性菌の出現を助長していることになるからです。キャロル教授が抗生物質不使用を「有機」の利点にあげるているのは医者らしい発言だと思いました。
それ以外にも ・・・・・・
以上、「バター」「卵」「コーヒー」「人工甘味料」「うま味調味料」「非有機食品」の6つの分析のごく概要を書きましたが、本書にはそれ以外にも次のような話が載っています。
本書の紹介はここまでで終わります。以下は本書を読んだ感想です。
本書の感想
最初の方に書いたように本書の特徴は、食の安全を議論するときの「科学的とは何か」を明確にしていることです。そこが本書の一番の意義です。
全10章に渡って分析されている「食べてはいけない」食品ですが、やはり食習慣は国によって違うと思いました。本書は「アメリカ人が書いた、アメリカの状況を念頭においた本」という感じがします。というのも、分析されている「食べてはいけない」の中には日本人があまり意識しないものもあるし、「食べてはいけないは嘘」の中には日本人にとっては既に常識的なものがあるからです。全般に、本書に書かれている10個の食品についての結論(=食べても大丈夫)は常識的です。逆に言うと、著名大学教授がこういう本を書かないといけないほどアメリカでは「食べてはいけない神話」が蔓延しているのかと想像しました。
とはいえ、この本からいくつかの教訓が得られると感じました。つまり我々が「信じやすい嘘 = 科学的根拠がないもの」や、「陥りやすい思考の落とし穴」があぶり出されていると思うからです。
その第1は「化学合成物は悪」とする考えです。我々は何となく化学的に合成した物質に対する不安を抱いてしまいます。グルタミン酸(MSG)に対する(アメリカでの)偏見も、人体に必須だと理解できても、それが工業的に合成されたものだと不安になる。グルタミン酸を作るプロセスは、ある特殊な細菌にブドウ糖などを "食料" として与え、細菌の老廃物として出てくるグルタミン酸を集めて精製するというものです。つまり工業的に合成といっても、根幹のところは生命活動で作られるものです。これは、糖から酵母の作用でアルコールを作る酒の醸造とそっくりです。市販されているグルタミン酸を「工業的に合成」というなら、あらゆる酒は工業的に合成したものになってしまいます。しかし、それでも偏見は消えない。
化学合成物に対する不安感は理由がないわけではありません。化学合成物によって環境が汚染され、人が死に、慢性疾患になり、また多数の生物が死に絶えた歴史があるからです。農薬による環境汚染は今でも続いています。
しかし、すべての化学合成物が悪ではありません。自然界に存在しない物質には確かに人体にとっての健康リスクがありますが、現代社会では安全性の厳格な評価がされています。不必要に恐れる必要はないのです。
第2は「植物性は動物性より良い」という、ボヤッとした、根拠のない思い込みです。「動物性タンパク質・脂肪」より「植物性タンパク質・脂肪」の方が体に良いと、何となく思っている人は多いのではないでしょうか。菜食主義者は聞くが肉食主義者は聞かないし、野菜を食べなさいというアドバイスはよくあるが、肉をもっと食べなさいとは言われない。「植物 = グリーン = エコ」といったイメージもあります。
しかし植物性と動物性はどちらが良いかという話ではなく、別種の食品の話です。本書に「赤身肉は健康に悪い」という風潮があることが紹介されていました(もちろんキャロル教授は否定しています)。しかし人類は "約250万年前に狩猟による肉食に手を出した霊長類" なのですね。人類は肉食と植物食で進化してきたわけです。「赤身肉は健康に悪い」のなら、人類は250万年間やってきたことは何だったのかということになります。
もちろん、植物食と肉食を環境問題としてとらえるなら話は分かります。牧畜は本来、人間が食べられないもの(草、雑穀など)から食べられるもの(肉や乳など)を得る手段でした。農場で育てたトウモロコシや大豆や大麦といった人間の食料になるものをわざわざ家畜に食べさせるのは、本末転倒と言えます。しかもこのプロセスはエネルギーや水などのコストが大で環境負荷が高いことが明らかです。
環境問題を考慮して菜食主義を貫くというのは立派な態度です。しかし環境問題と栄養学は違います。議論するなら、この2つを切り離して議論することが重要です。
第3に「食事による摂取と体内生産を同様に考えてしまう」のも陥りやすい誤りです。これは必ずしも正しくない。本書の「卵」のところで、コレステロールの多い食品(例えば卵)を食べても、血中コレステロール値はほとんど変わらないことが書かれていました。
これで思い出すのがコラーゲンです。コラーゲンが豊富な食品を食べたとしても、コラーゲンのタンパク質はアミノ酸に分解され、そのアミノ酸が人体維持にいろいろと使われる。皮膚や靱帯、腱、骨の重要な構成要素がコラーゲンであることは紛れもない事実ですが、「食事性コラーゲン」がそのまま皮膚などになるわけでは全くないのですね。
我々は、薬やビタミン剤などのサプリメントで特定の成分を摂取すると、それが直接、体に取り込まれて良い影響を与えることがあたりまえと思っています。しかし、摂取するすべての成分がそうだと考えたら大きな間違いです。食事による摂取と体内生産は分けて考えることが重要でしょう。騙されやすいところです。
我々は、科学的根拠の全くない「食べてはいけない神話」や、その反対の「食べると良い神話」を迂闊に信じないようにすべきである ─── これが本書から得られる教訓です。
野菜は毒だから体によい
この記事の冒頭で No.92「コーヒーは健康に悪い?」を振り返り、またキャロル教授の本書にもコーヒーの話が出てきました。コーヒーと健康の問題で常に議論になるのがカフェインです。本書のコーヒーについての議論も、結局のところ "カフェイン問題" なのです。
このカフェインについて、No.178「野菜は毒だから体によい」で書いたことを思い出しました。No.178 を要約すると、
となります。カフェインが "ホルミシス" を引き起こす物質としてあげられていました。カフェインが「良いか悪いか」という問題設定は単純過ぎます。摂取量が議論のポイントのはずです。
そういうことを考えると、欧米で一般的な「デカフェ」(カフェインを抜いたコーヒー)はどうなのでしょうか。もちろんカフェインには中枢神経を興奮させる作用があるので、普通のコーヒーを一杯飲めばその夜は眠られない、という人もいるでしょう。そういう人にはデカフェが有用です。しかし、そうではない人にはどうなのか。ひょっとしたらデカフェは、コーヒーの一番有用な部分を抜いてしまっている可能性もあるでしょう。
人間の体には「ストレスに抵抗する機能」や「損傷を修復する機能」や「異物を排除する機能」が備わっていて、これらは健康に過ごすために必須です。一言で言うと自らを守る「防衛機能」です。しかし当然ですが、使わない機能は衰える。衰えないためには、軽いストレスや軽い異物(微生物など)に常に接する環境で体の機能を "鍛える" 必要があります。もちろん「軽い」ことが大前提です。人間の体は極めて複雑であり、高度なのです。
食の話に戻ると、体に良いものだけを食べましょうといった単純な話ではありません。食で守るべきは、
が鉄則であり、その前提の上で、
ことでしょう。
このブログの No.92「コーヒーは健康に悪い?」で、次のような話を書きました。
2013年8月26日の朝日新聞によると、アメリカのサウスカロライナ大学のチームが米国人44,000人のコーヒーを飲む習慣を調査し、その後17年にわたって死亡記録を調べた。その結果、55歳未満に限ると、週に28杯以上コーヒーを飲む人の死亡率が男性で1.5倍、女性で2.1倍になった。55歳以上では変化がなかった。 | |
同じ記事によると、WHO(世界保健機構)は1991年にコーヒーを「膀胱がんの発がん性がある物質」に分類した。その一方で、アメリカ国立保健研究所(NIH)は2012年、50~71歳の男女40万人の疫学調査で、コーヒーを1日3杯以上飲む人の死亡率が1割ほど低いと発表している。 | |
2013年8月27日の朝日新聞の「天声人語」は前日の記事をうけて、「6年前に日本の厚生労働省はコーヒーが肝臓がんのリスクを下げると発表した。いったいコーヒーは健康にいいのか悪いのか」と書いた。 | |
コーヒーの健康調査について、大阪商業大学の学長の谷岡一郎氏は著書の「社会調査のウソ」(文春新書 2000)で次のように書いている。つまり、以前に関東地方の大学教授が「1日3倍以上コーヒーを飲む人は飲まない人にくらべて心臓病で死ぬ確率が3倍以上になる」と発表した。しかしこの調査は「コーヒーに砂糖を入れて飲む人」と「ブラックで飲む人」に分けないと意味がない。つまり調査から砂糖の影響を排除する必要がある。 | |
谷岡氏はまた、コーヒーを飲む人の方が飲まない人より喫煙率が高い傾向にあることを指摘している。 |
以上の No.92「コーヒーは健康に悪い?」で書いたことを簡潔にまとめると、次のようになるでしょう。
サウスカロライナ大学、世界保健機構(WHO)、アメリカ国立保健研究所(NIH)、日本の厚生労働省で、コーヒーが健康に良いか悪いかの見解が錯綜している。 | |
そもそも、調査・分析の方法が正しいのかどうか。特に、結果に影響を与えそうなコーヒー以外の因子(= "交絡因子")である「砂糖の摂取」と「喫煙」の影響を排除したのかが疑問である。 |
このコーヒーの話に見られるように、食については「健康に良い・悪い」「食べてもよい・食べてはいけない」という大量の情報が世の中に溢れています。困ったことにそれらの中には全く相反する見解があり、また科学的に根拠が薄い(根拠が無い)ものもある。とにかく "玉石混交" の状態なのです。
この状況の中で、2020年3月にある本が出版されました。アーロン・キャロル著・寺岡朋子訳『科学が暴く「食べてはいけない」の嘘 ─── エビデンスで示す食の新常識』(白楊社。2020.3.26)です。以下「本書」と記述します。今回はその内容を、感想をまじえて紹介したいと思います。コーヒーの話も出てきます。
The Bad Food Bible
本書の原題は『The Bad Food Bible』(2017)で、直訳すると「悪い食品バイブル」です。その内容は、世の中で(アメリカで)"健康に悪い" とされている食品について、その科学的根拠を精査すると "実は悪くない" ことを示したものです。市民を不安にさせている食の情報は大抵は科学的に間違っている、というわけです。
本書のキーワードは日本語題名の副題にある「エビデンス=科学的根拠」です。科学的根拠とは何か、何をもって科学的根拠があると言えるのか、それが本書では明確にされています。そこが大きなポイントです。
冒頭に書いたように、コーヒーの安全性についてはサウスカロライナ大学、世界保健機構、アメリカ国立保健研究所、厚生労働省が錯綜した見解を出していました。どれも立派な機関であり、これらすべては「それなりの科学的根拠」に基づいた発表だと考えられます。しかし本書が強調しているのは、
食の安全性についての研究は、質の高いものも低いものもある。つまりピンキリである。
ということです。著者は各種の論文を地道に精査し、質の高い研究をセレクトして本書を書きました。では、質の高い研究とは何で、逆に質の低い研究は何かです。つまり本書のポイントである "科学的根拠" とは何でしょうか。
科学的根拠とは何か
実験室での研究
本書でまず強調してあるのは、試験管で培養した細胞や実験動物を使って食の安全性を検証するのは、それだけではダメだということです。
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グルタミン酸ナトリウム(Monosodium Gultamate。MSG)は「味の素」以来、日本人にはなじみの "うま味調味料" ですが、アメリカでは安全性が問題視されたことがあり、今でも偏見が続いています。その MSG について、本書に次のような実験が出てきます。
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本書には巻末に参考文献や出典が詳細にリストされているので、上の実験を調べてみると、弘前大学の大黒教授のグループの研究でした。「ラットの目に障害が起こる」とあるのは、網膜の神経細胞に MSG が蓄積し、網膜ニューロン層が薄くなることをラットで確認したとのことです。
しかしこの結果をもって「MSG の摂取が人間の目の健康を害する」などとは言えないわけです。そもそも実験の摂取量ですが、ラットの体重はオスで0.5kg程度です。人間の体重からすると、ざっと 1/100 です。つまり「1日に20グラムの MSG をラットに6ヶ月間食べさせる」ということは、人間で言うと「1日に20グラム×100 = 2キログラムの MSG を食べ続ける」という、絶対にありえない状況です。もちろん体重比で単純換算することの意味については科学的な検証が必要です。
さらに重要なのは、ラットで起こったことが人間にも起こるとは限らないことです。キャロル教授は「人間の健康について主張するためには、人間を対象とした研究・検証が必要だ」と主張しているわけです。
その「人間を対象とした研究」は大きく二つにわけられます。
観察研究 | |
実験研究 |
の二つです。その「観察研究」を信頼性の低いものから高いものへと並べると次のようになります。
観察研究
症例報告は最も信頼性の低いものです。本書ではわかりやすく「私の曾祖母は大さじ一杯のタバスコを毎朝食べていました。それで100歳近くまで長生きしたんですよ」という例を書いています。これは確かな事実を述べているのでしょうが、一例にすぎません。
よくテレビの健康食品やサプリメントのコマーシャルで、その製品を愛用している人が出演して「これを飲み出してからとても元気になりました」という意味のことをしゃべります。そのとき、画面の隅には「個人の感想です」という文字が小さく表示されます。これがつまり症例報告です。症例報告は「ほぼ例外なく科学的価値はひとかけらもない」とキャロル教授は書いています。
症例シリーズは、いくつかの症例報告を並べて何かを言うものです。たとえば「タバスコを毎日食べていた10人が全員健康だった」と書かれているような論文です。あくまで少数の例にすぎず、要因同士に関係があるかどうかや、要因の相関の強さについての統計的検定はありません。症例シリーズも症例報告と同様に無視してよいものです。
横断研究は、結果をまじめに受け止めてよい最初のものです。これは、ある集団を対象とし、ある一時点で、一つの要因(例えば食習慣)が他の要因(例えば健康状態)とどう関係しているかを調べるものです。例えばある集団において「大さじ一杯のタバスコを毎朝食べる人」が何人いるかを調べ、その集団の健康状況を調査して関係を分析するのは横断研究になります。しかしこれは、あることをしている人・ある状態にいる人の数を明らかにする意義はありますが、それ以上のものではありません。
症例対照研究は、横断研究の上に位置づけられるものです。これは、ある症例(たとえば病気)を示す人(症例群)と、その症例を示さない人(対照群)を、諸条件が一致する前提で(たとえば年齢、性別、居住地域など)たくさん集めます。そして統計学を使って、症例を示す人と示さない人の違いを調べます。たとえば、胃がん患者の一群と胃がんではない人を集め、大さじ一杯のタバスコを食べるかどうか、食べるとしたらその頻度を尋ねて分析するというような例です。
キャロル教授は、食品における症例対照研究の落とし穴は「思い出しバイアス」だと言っています。例えば、希な病気にかかっている人は特定のものを食べたと報告することが健康な人に比べて多い。特にその食品が「体に悪い」と聞いたことがあれば、その食品を食べたことをよく覚えている傾向にあります。健康状態によって思いだし方に偏りが生じる。これが「思い出しバイアス」です。
コホート研究は症例対照研究よりも優れています。これは対象集団(コホート)を一定期間追跡し、特定の要因がどんな影響を及ぼすかをみる研究です。例えば、集団の中で大さじ一杯のタバスコを毎日食べる人々と、そうでない人々の経過を追い、健康状態にどういう影響が現れるかを調査する研究です。経過を追うところがポイントで、コホート研究は思い出しバイアスの影響を受けにくいのです。
以上の観察研究で、科学的根拠として意味があるのは症例対照研究とコホート研究です。これによって「異なる要因の間に相関関係がある」ことが示せます。しかし、「相関関係があるからといって、因果関係があるかどうかは不明」です。このことについて、このブログでは No.223「因果関係を見極める」に詳しく説明しました。因果関係を示すためには実験研究が必要です。
実験研究
実験研究では、人々を集めていくつかのグループにわけ、あるグループには特定の介入をし(特定の食事をしてもらうなど)、別のグループには別の介入を行い、その経過を観察します。つまり計画・設計された実験を行うわけです。このタイプの研究でもっとも信頼度が高いのが「ランダム化比較試験」です。
ランダム化比較試験(RCT。Randomized Controlled Trial)では、特定の介入を受けるグループと(介入群)と、介入を受けないグループ(対照群)をランダムに振り分けます。そしてグループ間の違いを追跡する。これによってグループ間に相違が見られると、その相違は介入によるものと推定できます。ランダムに振り分けるのがポイントで、こうすることで特定の介入以外の "結果に影響を与えるかもしれない条件(年齢、性別、食習慣 ・・・・・・)" が平均化されて相殺されるわけです。
さらに RCT 中でも最も信頼度が高いのは、対照群にプラセボ(=偽薬。疑似介入)を与えるものです。こうすることで研究者も被験者も誰が介入を受けているのかが分からず、より信頼度が高まります。
RCT の問題は多大な労力と費用がかかることです。追跡調査が必要なことに加えて、ランダムにグループを振り分けるので被験者の数が多いことが前提だからです。そのため実施例は少なく、このことも含めて一般に食の研究には優れたものが少ないのが現状です。なお RCT については、食の研究ではありませんが No.223「因果関係を見極める」に実例を紹介しました。
以上のように、研究には信頼度が高いものから信頼度ゼロまでがあります。これらを判別して質の高い研究を選ぶ必要がありますが、さらに「質の高い複数の研究を選択して総合する」ことで、より信頼度が高まります。
その一つのシステマティックレビューは、質の高い研究だけを集めて、そこに含まれる知見を要約するものです。またメタ分析は、複数の研究データを総合し、それらがあたかも一つの大規模な研究のデータであるかのようにまとめたものです。キャロル教授は本書で結論を導くために質の高い研究を選択していることはもちろんですが、できるだけシステマティックレビューやメタ分析を採用するようにしています。
さらにキャロル教授は介入の結果(=アウトカム)に関して、"プロセス指標"(血圧、コレステロール値、血糖値など)よりも、"真のアウトカム"(心臓発作の発生率や死亡率など)を分析した研究を重視しています。言うまでもなく一番大切なのは "真のアウトカム" であり、"プロセス指標" は "真のアウトカム" につながるかもしれないが、どうつながるかの知見が不十分なことがあるからです。
今までの話を簡潔にまとめると、キャロル教授が食に関する研究を調査するときの原則は次の通りです。
研究事例を、最も信頼性の高い RCT(ランダム化比較試験)から科学的根拠にはなり得ないものまでに分別し、信頼度の高いものを優先して採用する。 | |
システマティックレビューやメタ分析の事例があれば、さらに優先的に考慮する。 | |
プロセス指標ではなく真のアウトカムを分析結果とする研究を優先する。 |
これが、キャロル教授が過去の研究を総合して食の安全性を評価するときの方法論です。この方法論に基づいて各種の "健康に悪い" とされている食品が本当にそうなのかを調べたのが本書です。食の安全性についての本は多数ありますが、本書はまず方法論が明示してあって、過去の研究の調査と分析があり、結論が導かれる。そこが違うところです。
以下、本書に書かれている10種の食品の安全性について、そのうちの6種を簡単にみていきます。
バター
1970年代から、動物性脂肪の成分である飽和脂肪酸は、心臓の健康に悪い(=心臓発作などの冠動脈性心疾患のリスクが高まる)という説が広まり、そのためバターよりも植物性脂肪を原料とするマーガリンが推奨されたことがありました。植物性脂肪の成分は不飽和脂肪酸です。
しかしキャロル教授は各種の研究を総合して「飽和脂肪酸は悪」は根拠十分であり、バターやクリームを食べても問題なしとしています。このことは現在の日本では常識だと思いますが、アメリカではまだ「飽和脂肪酸は悪」と思い込んでいる人が多いようです。
さらにキャロル教授はバターよりマーガリンに多く含まれるトランス脂肪酸が健康に悪いのは明白で、そのためアメリカでは成分量に規制が行われていることを述べています。ちなみに、日本で売られているバターとマーガリンの原材料を比較してみると次の通りです。
バターの原材料
マーガリンの原材料(雪印メグミルクの "ネオソフト" の例)
生乳、食塩
マーガリンの原材料(雪印メグミルクの "ネオソフト" の例)
食用植物油脂(国内製造)、食用精製加工油脂、食塩、粉乳(乳化剤)、香料、着色料(カロテン)
正確に言うと "ネオソフト" はマーガリン(油脂含有率 80%以上)ではなく、ファットスプレッド(油脂含有率 80%以下)に分類される商品です。
余談ですが、私の配偶者はバターは買いますが、マーガリンは買いません。それはマーガリンの原材料には各種の添加物があり、類似の機能の食品がある場合は添加物を少ない方を選ぶというのが彼女の原則だからです。これはマーガリンが安全でないとか、添加物はいけないと言っているのでは全くありません。売られているのは食品安全基準に則った立派な食品のはずだし、ネオソフトは発売開始以来60年を越えた由緒ある商品です。ただ個人としての「行動様式」がそうだということです。
卵
「卵に含まれるコレステロールは健康に悪い、卵は1日1個まで」とする風潮があります。しかしキャロル教授は、それは「ウソ」と明言しています。
コレステロールに関する知識は進んできました。体内のコレステロールは2種類あり、一つは HDL(高比重リポタンパク質)で "善玉コレステロール" です。もう一つは LDL(低比重リポタンパク質)で、これが高いと動脈硬化(=アテローム性動脈硬化)のリスクが高まります。いわゆる "悪玉コレステロール" です。
コレステロールは人体に必須の物質であり、特定のビタミンやホルモンを作ったり、細胞の部品を作ったり、脂肪を消化したりします。1日に約1000mg が肝臓で作られ、血液で全身に運ばれる。健康診断で測定するコレステロール値は、この「血中コレステロール」の値です。
では、卵に含まれるコレステロールのような「食事性コレステロール」は「血中コレステロール」にどの程度影響するのでしょうか。キャロル教授は2002年に行われたランダム化比較試験(RCT)の結果を紹介していますが、被験者の70%が食事性コレステロールへの "低応答" でした。低応答とは、食事性コレステロールは血中コレステロールにほとんど影響しないということです。また残りの被験者も、食事性コレステロールと血中コレステロールの関係は弱いものでした。
以上の研究からキャロル教授は「卵は我慢しなくてよい」と書いています。
コーヒー
本書には、この記事の冒頭に書いたコーヒーの安全性の話もあります。冒頭に示したように、WHO(世界保健機構)は1991年にコーヒーを発がん性がある物質にリストしました。その後の研究ではどうなのでしょうか。
確かに、いくつかの研究ではコーヒーが発がんリスクを高めましたが、逆にリスクを低めたり(肝臓がん)、発がんとは無関係(乳がん、前立腺がん)とする研究もあります。またコーヒーが肺がんのリスクを高めたとした研究もありますが、それは喫煙者に限定した話だったりします。逆に、コーヒーが心疾患や肝疾患のリスクを低下させるという研究が増えてきました。
これらを総合してキャロル教授は「コーヒーが健康に悪影響があるというのは根拠薄弱」と結論づけています。
ちなみに、WHOは2015年に「コーヒーの摂取による膵臓や女性の乳房、男性の前立腺に対する発がん作用はなく、肝臓や子宮内膜の発がんリスクの低下がみられた」として、コーヒーを発がん物質からはずしました。WHOがこのように見解を180度転換するのは珍しいようです。
人工甘味料
1980年代にアメリカではサッカリンを含む食品に「サッカリンは実験動物で発がん性が確認されています」との警告文が義務づけられました。これはラットに大量のサッカリンを食べさせると膀胱がんになったという実験によります。
しかしラットは膀胱がんになりやすい動物です。ラットに大量のビタミンCを食べさせても膀胱がんになりますが、だからといって「ビタミンCは実験動物で発がん性が認められた」という警告をオレンジジュースに貼るべきだという話にはなりません。
しかも、ラットが膀胱がんになったからと言って、人間もそうなるとは限らない。その後のイギリス、デンマーク、カナダ、アメリカで人間を対象に行われた研究で、サッカリンと膀胱がんの関係性は認められませんでした。2000年になってアメリカ政府はサッカリンを発がん性物質のリストからはずしました。
しかし「時すでに遅し」で、サッカリンの件は人工甘味料に対する不信感を人々に植え付けてしまいました。この結果、サッカリンにかわる人工甘味料のアスパルテームについても病気のリスクを高めるという論文が出されることになりました。キャロル教授によるとこれらはすべて根拠薄弱であり、質の高いランダム化比較試験(RCT)ではアスパルテームと病気のリスクには関係性が見られません。
また人工甘味料についての補足ですが、2008年、ダイエット飲料(低カロリー甘味料・人工甘味料)を多く飲む人の方が肥満が多いという研究結果が出されました。本書の草稿を書いた段階でも類似の研究が発表されています。しかしこれを、メディアで報道されたように「低カロリー甘味料を摂取すると肥満になる」と考えたとしたら、それは因果関係を逆にとっているのであって、「肥満の人ほど(ダイエットのために)低カロリー甘味料を多く摂取する傾向にある」のが正しい見方です。
ちなみに、No.84「社会調査のウソ(2)」で紹介した、「カロリーオフ炭酸飲料を飲む人の方が、飲まない人より糖尿病の発症リスクが高い」とした金沢医科大学の研究(2013)も全く同じことでしょう。
つまり、被験者を「自分には糖尿病のリスクがあると自覚している人」と「自覚していない人」に分けたとします。リスクがあると自覚しているとは、毎年の健康診断で血糖値が基準をオーバーする人や、医者から "このままでは糖尿病になって一生透析をすることになりますよ" と脅された人、また親が糖尿病で苦しんでいる人などです。ここで、被験者がカロリーオフ炭酸飲料を飲む頻度を調査すると、糖尿病のリスクがあると自覚している人の方が頻度が高いはずです。
さらに10年後に被験者が糖尿病を発症したかどうかを調査すると、糖尿病のリスクがあると自覚している人の方が発症している可能性が高いはずです。つまり「カロリーオフ炭酸飲料を多く飲む人の方が糖尿病発症リスクが高い」となるわけで、これは当然です。
つまり、被験者を「自分には糖尿病のリスクがあると自覚している人」と「自覚していない人」に分けたとします。リスクがあると自覚しているとは、毎年の健康診断で血糖値が基準をオーバーする人や、医者から "このままでは糖尿病になって一生透析をすることになりますよ" と脅された人、また親が糖尿病で苦しんでいる人などです。ここで、被験者がカロリーオフ炭酸飲料を飲む頻度を調査すると、糖尿病のリスクがあると自覚している人の方が頻度が高いはずです。
さらに10年後に被験者が糖尿病を発症したかどうかを調査すると、糖尿病のリスクがあると自覚している人の方が発症している可能性が高いはずです。つまり「カロリーオフ炭酸飲料を多く飲む人の方が糖尿病発症リスクが高い」となるわけで、これは当然です。
キャロル教授は人工甘味料をとっても問題はなく、逆に、食品に添加される糖類(砂糖や転化糖など)こそ、過剰に摂取すると健康が害することが科学的に明白だと強調しています。
うま味調味料
アメリカではうま味調味料のグルタミン酸ナトリウム(MSG)が健康に悪いという不信感が根強いようです。それはラットに大量の MSG を食べさせる研究から始まったものでした。さらに MSG は「中華料理店症候群」(中華料理を食べたあとに感じるしびれや動悸)の "犯人" にされるという「風評被害」にあい、排除の動きが加速しました。
しかし MSG が悪とする研究には一貫性がありません。ランダム化比較試験(RCT)による質の高い研究では、健康に悪いという結果は出てこないのです。一部の学者は MSG過敏症の人がいて、その人たちには悪いとの説を唱えました。これに決着をつけるために、2000年に MSG過敏症だと訴える130人を集めた実験が行われましたが、MSG を与えた人とプラセボを与えた人に一貫性のある結果は見られませんでした。
キャロル教授は、グルタミン酸は人体に必須のアミノ酸であり、数々の食品に含まれていて母乳にも大量に含まれていることを力説しています。このあたりは、グルタミン酸ナトリウム(=味の素)を調味料として開発したのが池田菊苗博士であることもあって日本人にはなじみの話ですが、キャロル教授が長々と力説しているところをみると一般のアメリカ人には知識が行き渡っていないようです。
非有機食品
No.245「スーパー雑草とスーパー除草剤」で、アメリカの消費者はオーガニック(有機)食品になびいていて、そのトレンドを見越したアマゾン・ドット・コムは、オーガニックにこだわってきたスーパー・マーケット、ホールフーズを買収したことを書きました。
アメリカでは農務省(USDA)が決めたオーガニックについての基準があり、これに合致した食品は「USDA Organic」のラベルをつけて販売できます。本書ではその「USDA Organic」の基準が簡単に書いてあります(段落を追加しました)。
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一つのポイントは「除草剤や殺虫剤は、自然のものか、許可された合成物質リストに掲載されているものに限定される」ことでしょう。つまり、農薬(除草剤や殺虫剤)を完全に禁止しているわけではありません。この点は日本の有機JAS認証と同様です。
その有機食品ですが、本書には各種の研究を総合して「有機食品が非有機食品より優れているという科学的根拠はほとんどない」としてあります。各種の分析をみても、栄養的には同じであるし、汚染物質について言うと、確かに残留殺虫剤は「有機」の方が少ないが「非有機」の濃度も安全性上認められている限度以下です。
「有機」か「非有機」かは栄養学の問題ではなく、むしろ環境や社会の問題です。キャロル教授はそこは専門の範囲ではないとして、判断は読者にゆだねるとしています。「非有機」のメリットはコストが安いこと、非有機農業のほうが土壌の浸食・流出が少ないことなどです。一方「有機」の方は、農薬が限定され使用量が少ないので環境によく、より肥沃な土壌が作られ、二酸化炭素をより多く土壌に閉じこめる傾向にあるとされています。
ただ、キャロル教授が文句なしに「有機」がよいとするのは、有機認証を受けた家畜は飼料に抗生物質が含まれないことです。FDA(アメリカ食品医薬品局)は、アメリカの抗生物質の販売量は人間用より家畜用の方が多いと推定していて、これはとりもなおさず薬剤耐性菌の出現を助長していることになるからです。キャロル教授が抗生物質不使用を「有機」の利点にあげるているのは医者らしい発言だと思いました。
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自宅近くのスーパーで購入した乾燥イチジク。米国の Safe Food Corporation 社製で、イチジクはトルコ産。「USDA ORGANIC」と「NON GMO Project VERIFIED」のマークがついている。「USDA ORGANIC」は米国農務省の「有機認証」を受けたことを示す。「NON GMO Project」は米国のNPO団体で、GMO(=遺伝子組み換え作物。Genetically Modified Organism)不使用の認証を行っている。No.245 の画像を再掲。 |
それ以外にも ・・・・・・
以上、「バター」「卵」「コーヒー」「人工甘味料」「うま味調味料」「非有機食品」の6つの分析のごく概要を書きましたが、本書にはそれ以外にも次のような話が載っています。
赤身肉(牛肉、羊肉)を食べる人は寿命が縮まるという説は、調査結果の恣意的解釈に過ぎない。 | |
「牛乳は骨に良い」は根拠がない。もちろん、カルシウム不足の人が牛乳を飲むのは意味があるが、普通の人が牛乳を飲んだからといって骨折のリスクが減るわけではない。
そもそも人間を含む哺乳類は、乳児のときにはミルクで育ちますが、それ以降はミルクは飲みません(読んで字のごとくです)。授乳期が過ぎると乳糖(ラクトース)を分解する酵素・ラクターゼの活性が低下するからです。しかし人間はどういうわけかヨーロッパ人を中心に大人になってもラクターゼの活性が持続する人がいて、そういう人は牛乳を飲んでも消化不良や下痢を起こさない。だから大人になっても牛乳を飲む人がいるわけです。
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塩(塩化ナトリウム)について、高血圧の人は塩分摂取を控えるべきだが、逆に、どういう血圧であれ塩分摂取が少なすぎると、それは多すぎるより健康に悪い。 | |
酒については、もちろん飲み過ぎはよくないが、適度(1日に2杯程度)を飲むのは健康に良いという研究結果が積み上がってきた(常識的な結論でしょう)。 | |
「グルテンフリー」の食品が必要なのはセリアック病(グルテンの摂取が引き金となって小腸が損傷する、遺伝性の自己免疫疾患)や小麦アレルギーの人だけであり、普通の人は「グルテンフリー」など不要である。
グルテンは小麦や大麦に含まれているタンパク質で、弾力性があり、パンやピザやパスタやうどんの触感を作り出している成分です。欧米ではグルテンが健康に悪いという風潮が広まり、「グルテンフリー(グルテンを含まない)」と銘打った食品が多数売られています。
考えてみると、人類が最初に農業を始めたのは小麦であり、人は1万年に渡って小麦と(従ってグルテンと)付き合ってきたわけです。それが「体に悪い」というのは、科学的証拠を調べなくても嘘だと推測できます。もちろん、一部の人(セリアック病、小麦アレルギー)にとってはグルテンフリー食が必須です。 ちなみにセリアック病は、遺伝性の自己免疫疾患であるにもかかわらず20世紀後半から急増した病気です(No.119「不在という伝染病(1)」参照)。 |
本書の紹介はここまでで終わります。以下は本書を読んだ感想です。
本書の感想
最初の方に書いたように本書の特徴は、食の安全を議論するときの「科学的とは何か」を明確にしていることです。そこが本書の一番の意義です。
全10章に渡って分析されている「食べてはいけない」食品ですが、やはり食習慣は国によって違うと思いました。本書は「アメリカ人が書いた、アメリカの状況を念頭においた本」という感じがします。というのも、分析されている「食べてはいけない」の中には日本人があまり意識しないものもあるし、「食べてはいけないは嘘」の中には日本人にとっては既に常識的なものがあるからです。全般に、本書に書かれている10個の食品についての結論(=食べても大丈夫)は常識的です。逆に言うと、著名大学教授がこういう本を書かないといけないほどアメリカでは「食べてはいけない神話」が蔓延しているのかと想像しました。
とはいえ、この本からいくつかの教訓が得られると感じました。つまり我々が「信じやすい嘘 = 科学的根拠がないもの」や、「陥りやすい思考の落とし穴」があぶり出されていると思うからです。
その第1は「化学合成物は悪」とする考えです。我々は何となく化学的に合成した物質に対する不安を抱いてしまいます。グルタミン酸(MSG)に対する(アメリカでの)偏見も、人体に必須だと理解できても、それが工業的に合成されたものだと不安になる。グルタミン酸を作るプロセスは、ある特殊な細菌にブドウ糖などを "食料" として与え、細菌の老廃物として出てくるグルタミン酸を集めて精製するというものです。つまり工業的に合成といっても、根幹のところは生命活動で作られるものです。これは、糖から酵母の作用でアルコールを作る酒の醸造とそっくりです。市販されているグルタミン酸を「工業的に合成」というなら、あらゆる酒は工業的に合成したものになってしまいます。しかし、それでも偏見は消えない。
化学合成物に対する不安感は理由がないわけではありません。化学合成物によって環境が汚染され、人が死に、慢性疾患になり、また多数の生物が死に絶えた歴史があるからです。農薬による環境汚染は今でも続いています。
しかし、すべての化学合成物が悪ではありません。自然界に存在しない物質には確かに人体にとっての健康リスクがありますが、現代社会では安全性の厳格な評価がされています。不必要に恐れる必要はないのです。
第2は「植物性は動物性より良い」という、ボヤッとした、根拠のない思い込みです。「動物性タンパク質・脂肪」より「植物性タンパク質・脂肪」の方が体に良いと、何となく思っている人は多いのではないでしょうか。菜食主義者は聞くが肉食主義者は聞かないし、野菜を食べなさいというアドバイスはよくあるが、肉をもっと食べなさいとは言われない。「植物 = グリーン = エコ」といったイメージもあります。
しかし植物性と動物性はどちらが良いかという話ではなく、別種の食品の話です。本書に「赤身肉は健康に悪い」という風潮があることが紹介されていました(もちろんキャロル教授は否定しています)。しかし人類は "約250万年前に狩猟による肉食に手を出した霊長類" なのですね。人類は肉食と植物食で進化してきたわけです。「赤身肉は健康に悪い」のなら、人類は250万年間やってきたことは何だったのかということになります。
もちろん、植物食と肉食を環境問題としてとらえるなら話は分かります。牧畜は本来、人間が食べられないもの(草、雑穀など)から食べられるもの(肉や乳など)を得る手段でした。農場で育てたトウモロコシや大豆や大麦といった人間の食料になるものをわざわざ家畜に食べさせるのは、本末転倒と言えます。しかもこのプロセスはエネルギーや水などのコストが大で環境負荷が高いことが明らかです。
環境問題を考慮して菜食主義を貫くというのは立派な態度です。しかし環境問題と栄養学は違います。議論するなら、この2つを切り離して議論することが重要です。
第3に「食事による摂取と体内生産を同様に考えてしまう」のも陥りやすい誤りです。これは必ずしも正しくない。本書の「卵」のところで、コレステロールの多い食品(例えば卵)を食べても、血中コレステロール値はほとんど変わらないことが書かれていました。
これで思い出すのがコラーゲンです。コラーゲンが豊富な食品を食べたとしても、コラーゲンのタンパク質はアミノ酸に分解され、そのアミノ酸が人体維持にいろいろと使われる。皮膚や靱帯、腱、骨の重要な構成要素がコラーゲンであることは紛れもない事実ですが、「食事性コラーゲン」がそのまま皮膚などになるわけでは全くないのですね。
我々は、薬やビタミン剤などのサプリメントで特定の成分を摂取すると、それが直接、体に取り込まれて良い影響を与えることがあたりまえと思っています。しかし、摂取するすべての成分がそうだと考えたら大きな間違いです。食事による摂取と体内生産は分けて考えることが重要でしょう。騙されやすいところです。
我々は、科学的根拠の全くない「食べてはいけない神話」や、その反対の「食べると良い神話」を迂闊に信じないようにすべきである ─── これが本書から得られる教訓です。
野菜は毒だから体によい
この記事の冒頭で No.92「コーヒーは健康に悪い?」を振り返り、またキャロル教授の本書にもコーヒーの話が出てきました。コーヒーと健康の問題で常に議論になるのがカフェインです。本書のコーヒーについての議論も、結局のところ "カフェイン問題" なのです。
このカフェインについて、No.178「野菜は毒だから体によい」で書いたことを思い出しました。No.178 を要約すると、
植物は害虫から身を守るために微量の毒素を発達させてきた。 | |
この毒素には、人間が大量に食べると体に悪いが、逆に少量だと健康を増進するものがある。 | |
健康を増進する理由は、微量毒素が人間の体にストレスを与え、そのストレスに対抗するために、抗酸化酵素や解毒酵素(発がん物質の排除など)の生産が始まるといった体の機能が働くからである。微量毒素が抗酸化作用や解毒作用を持つわけではない。 | |
このように「少量なら有益だが、量が増えると有毒になる」現象を "ホルミシス" と呼ぶ。 | |
ホルミシスを引き起こす物質には、スルフォラファン(ブロッコリーに含まれる)、クルクミン(香辛料のターメリック)、カフェイン(コーヒー、茶)、カテキン(茶)、カプサイシン(唐辛子)などがある。 |
となります。カフェインが "ホルミシス" を引き起こす物質としてあげられていました。カフェインが「良いか悪いか」という問題設定は単純過ぎます。摂取量が議論のポイントのはずです。
そういうことを考えると、欧米で一般的な「デカフェ」(カフェインを抜いたコーヒー)はどうなのでしょうか。もちろんカフェインには中枢神経を興奮させる作用があるので、普通のコーヒーを一杯飲めばその夜は眠られない、という人もいるでしょう。そういう人にはデカフェが有用です。しかし、そうではない人にはどうなのか。ひょっとしたらデカフェは、コーヒーの一番有用な部分を抜いてしまっている可能性もあるでしょう。
人間の体には「ストレスに抵抗する機能」や「損傷を修復する機能」や「異物を排除する機能」が備わっていて、これらは健康に過ごすために必須です。一言で言うと自らを守る「防衛機能」です。しかし当然ですが、使わない機能は衰える。衰えないためには、軽いストレスや軽い異物(微生物など)に常に接する環境で体の機能を "鍛える" 必要があります。もちろん「軽い」ことが大前提です。人間の体は極めて複雑であり、高度なのです。
食の話に戻ると、体に良いものだけを食べましょうといった単純な話ではありません。食で守るべきは、
種類は「まんべんなく、バランスよく」 | |
量は「ほどほどに」 |
が鉄則であり、その前提の上で、
好きな食を存分に楽しむ |
ことでしょう。
2020-07-25 08:47
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No.289 - 夜のカフェ [アート]
前回の No.288「ナイトホークス」の続きです。前回はエドワード・ホッパー(1882-1967)の代表作『ナイトホークス』(1942。シカゴ美術館所蔵)が、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』(1982公開)に影響を与えたという話でした。
この『ナイトホークス』ですが、2016年3月26日のTV東京の「美の巨人たち」でとりあげられました。その中で、美術史家でニューヨーク市立大学教授のゲイル・レヴィン(Gail Levin。1948- )の説が紹介されていました。ゲイル・レヴィンは、ホッパー作品を多数所蔵しているニューヨークのホイットニー美術館のキュレーター(ホッパー担当。1976-1984)の経験があり、ホッパーの没後初めての回顧展のキュレーターもつとめた人です。1995年にはホッパーの作品総目録も編纂しました。いわば「ホッパー研究の第1人者」です。その彼女が「Edward Hopper : An Intimate Biography」(1995。「エドワード・ホッパー:親密な伝記」)というホッパーの伝記に、
との主旨を書いているのです。今回はその話です。
夜のカフェ
ゴッホはアルルの時代に夜のカフェの様子を2枚の絵画に描いています。一つは、オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵する『夜のカフェテラス』です。この絵は大変に有名で、ゴッホの代表作の1つでしょう。画像を No.158「クレラー・ミュラー美術館」と No.284「絵を見る技術」で引用しました。
もう一枚は、少々紛らわしいのですが『夜のカフェ』と呼ばれている絵で、アメリカのイェール大学アートギャラリーが所蔵しています。同じアルルですが『夜のカフェテラス』とは別のカフェで、しかも室内を描いたものです。この絵がホッパーの『ナイトホークス』に影響を与えたというのがゲイル・レヴィンの指摘なのです。
この絵を所蔵しているイェール大学アートギャラリー(米・コネティカット州)のウェブサイトの解説を引用します(段落を追加しました)。
このイェール大学の解説にはゴッホの弟(テオ)への手紙が出てきますが、その日本語訳は次の通りです。いずれも手紙の中のこの絵に関係する部分です(日付はゴッホ美術館のサイトに公開されている手紙全文による)。
この手紙を読んで思うのは、ゴッホらしい "色彩への強いこだわり" です。ゴッホは絵のテーマを色で表現しようとしたことが良くわかります。
『夜のカフェ』と『夜のカフェテラス』
『夜のカフェ』は『夜のカフェテラス』と比べて鑑賞すべきでしょう。『夜のカフェテラス』は「夜の "カフェのテラス"」という意味です。ここには客とウェイター、通りを行く人々が描かれ、客は強い光に照らされたテラス席で楽しく談笑をしている感じです。全体として「人々が健全なナイトライフを楽しんでいる絵」です。青で塗られた空もその感じを演出しています。
一方『夜のカフェ』は、アルルの地元の人が "夜のカフェ" と呼んでいた深夜営業をするカフェで、『夜のカフェテラス』とは真逆の雰囲気です。光が充満していますが、何となく "陰気" な感じがする。天井とビリヤード台の緑、壁の赤という補色関係の色の対比で、不調和ないしは不安定な雰囲気が漂っています。
描かれている人物を見ると、白っぽい服のカフェのオーナーと、客が3組、2人連れが2組と、1人客です。客は帽子を被るか腕を組むかして "黙りこくっている" ようです。左手前に片づけていない飲みさしのグラスが乗ったテーブルがありますが、ついさっきまで別の客がいたはずです。イェール大学の解説にあるように、客の中にはこのカフェをたまり場とする浮浪者や売春婦もいるのでしょう。描かれている時計からすると、時刻は深夜0時過ぎのようです。
室内には4つのガス灯の強い光が充満していますが、不思議なのは影がビリヤード台にしかないことです。この構図だとテーブルや人物にも影ができるはずですが、それは全く省略されている。緑と赤の強烈な対比とあいまって、この「ビリヤード台だけの影」が何となく現実感を希薄にしています。
全体的に『夜のカフェ』は、『夜のカフェテラス』の "健全なナイトライフ" とは真逆の、健康的だとはとても言えない深夜のカフェの状況です。
ナイトホークス
そこで改めてホッパーの『ナイトホークス』を見ると、『夜のカフェ』との類似性に気づきます。まず「アルルのカフェ」と「ニューヨークのダイナー」という場面設定です。カフェもダイナーも(そして南欧だとバルやバールも)、昼間の時間とか夜のディナータイムでは、気の置けない者同士が談笑しながらコーヒーやお酒、軽食を楽しむ場所です。それはまさにゴッホが『夜のカフェテラス』で描いた光景です。
しかし描かれたアルルの "夜のカフェ" とニューヨークのダイナーは深夜営業をしていて、ディナータイムが終わって深夜になると様子が一変する。その様子が一変したあとのカフェとダイナーを舞台としているのが、まず2枚の絵の共通点です。
また、店には客がいるが会話をしているようには見えず、みな孤独で、それぞれの時間を過ごしている。店のオーナーないしはウェイターとおぼしき人物が1人だけいて、その人物は白っぽい服を着ています。さっきまで別の客がいたかのように、片づけられていないコップが置かれたままになっている。そういったことも似ています。
さらに「強烈な光」です。時代が半世紀以上離れているので、光の強烈さは違います。特にホッパーの絵(1942年作)は、当時実用化が始まった蛍光灯の光がダイナーに充満しています。しかし2枚の絵とも黄白色の強い光が絵の全体を支配しています。ゴッホの場合はビリヤードの影で、ホッパーの場合は影とダイナーの外に漏れる光で、その強い光が表現されています。
加えて色使いです。ゴッホは赤・緑・黄、ホッパーは赤系・青緑系・黄白色という色の組み合わせで画面を構成している。特に、補色関係にある赤と緑の "色の衝突" で不安感を作り出しているところが似ています。
ここまでは絵の外見でわかることですが、さらに外見を越えたところにも注目すべきでしょう。つまりゴッホの方は、手紙に書かれた「恐ろしい情熱」「身を持ち崩す」「気が狂う」「罪を犯す」という表現にあるように「人間の精神の暗い部分、ダークサイド」を絵で表そうとしています。一方、ホッパーの方ですが、「ナイトホークス」から感じる人間の心情を簡潔に言うと「都会の孤独」でしょう。それは衆目が一致するところだと思います。つまりこの2作品は、単なる深夜の店の情景を越えて、"人間の精神のありよう" を表現しようとしたところに類似性を感じます。
画家が、過去の画家の絵からインスパイアされて、ないしは過去の絵を "踏まえて" 作品を作ることはよくあります。このブログに書いた記事だけでも、
の例がありました。こういった動きが一つの潮流となったのが、19世紀ヨーロッパのジャポニズムです(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)。
ホッパーの『ナイトホークス』も、そういった数ある例の一つなのでしょう。ホッパーはニューヨークの美術学校を卒業した後、3度もヨーロッパに絵の勉強に行っています(No.288「ナイトホークス」)。ゴッホの絵から着想を得るのは、ホッパーにとってごく自然なことだったに違いありません。
しかし改めて『ナイトホークス』を見て感じるのは、確かにこの絵はゴッホからインスピレーションを得たのかもしれないけれど、完全にホッパーの独自世界の絵として描いていることです。
『ナイトホークス』は、何だか "ドキッと" する絵です。何かを予見しているようでもある。この絵に感じ入って、リドリー・スコット監督は『ブレードランナー』の "暗い未来" の「様子とムード」(look and mood)を作りました(No.288)。それほど感染力が強い絵を創作したホッパーの画才は素晴らしいと、改めて思いました。
ヘミングウェイ
ここからは『ナイトホークス』についての補足です。冒頭にあげたゲイル・レヴィンの「Edward Hopper : An Intimate Biography」に、ホッパーはゴッホの『夜のカフェ』から着想を得たと同時に、ヘミングウェイ(1899-1961)の短篇小説『殺し屋』(The Killers)に影響を受けたと書いてあります。『殺し屋』は1927年にアメリカの雑誌、スクリブナーズ・マガジンに発表されました。ホッパーはその雑誌を購読していて『殺し屋』に感激し、わざわざ雑誌の編集長に手紙を書いたそうです。「甘ったるい感傷的な小説が大量に溢れるなかで、アメリカの雑誌でこのような実直な(honest)作品に出会うのは爽快です(refreshing)・・・・・・(試訳。以下略)」。
ちなみに『殺し屋』はニューヨークではなくシカゴの話だと思わせるのですが、舞台は夕暮れどきの "lunchroom" です。簡易食堂と訳せばいいのでしょうか。『ナイトホークス』のダイナー(diner)は食堂車をまねた、主として通り沿いの店ですが、大まかにいって "lunchroom" も "diner" も似たようなものでしょう。
短篇小説『殺し屋』の文章は、ほとんどが会話で一部が状況説明です。心理描写はなく、無駄をそぎ落とした簡潔な文章が続きます。ホッパーはこれを "honest" と表現しているのですが、"honest" は「正直な、実直な、率直な、誠実な、偽りの無い」というような意味です。上の試訳では "実直な" としましたが、"虚飾を排した" ぐらいがいいのかもしれない。
こういったヘミングウェイの文章がハードボイルド小説のお手本になったことは有名です。そのヘミングウェイに感激したホッパーが『ナイトホークス』を描いた。『ナイトホークス』は "ハードボイルド絵画" であるとは中野京子さんの言ですが(No.288「ナイトホークス」)、まさに図星だと思いました。
この『ナイトホークス』ですが、2016年3月26日のTV東京の「美の巨人たち」でとりあげられました。その中で、美術史家でニューヨーク市立大学教授のゲイル・レヴィン(Gail Levin。1948- )の説が紹介されていました。ゲイル・レヴィンは、ホッパー作品を多数所蔵しているニューヨークのホイットニー美術館のキュレーター(ホッパー担当。1976-1984)の経験があり、ホッパーの没後初めての回顧展のキュレーターもつとめた人です。1995年にはホッパーの作品総目録も編纂しました。いわば「ホッパー研究の第1人者」です。その彼女が「Edward Hopper : An Intimate Biography」(1995。「エドワード・ホッパー:親密な伝記」)というホッパーの伝記に、
『ナイトホークス』はゴッホの『夜のカフェ』から着想を得ている。『夜のカフェ』は『ナイトホークス』が描かれた年(1942年)の1月にニューヨークで展示されていた
との主旨を書いているのです。今回はその話です。
夜のカフェ
ゴッホはアルルの時代に夜のカフェの様子を2枚の絵画に描いています。一つは、オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵する『夜のカフェテラス』です。この絵は大変に有名で、ゴッホの代表作の1つでしょう。画像を No.158「クレラー・ミュラー美術館」と No.284「絵を見る技術」で引用しました。
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フィンセント・ファン・ゴッホ
(1853-1890) 「夜のカフェテラス」(1888)
クレラー・ミュラー美術館所蔵
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もう一枚は、少々紛らわしいのですが『夜のカフェ』と呼ばれている絵で、アメリカのイェール大学アートギャラリーが所蔵しています。同じアルルですが『夜のカフェテラス』とは別のカフェで、しかも室内を描いたものです。この絵がホッパーの『ナイトホークス』に影響を与えたというのがゲイル・レヴィンの指摘なのです。
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フィンセント・ファン・ゴッホ 「夜のカフェ」(1888) |
イェール大学アートギャラリー所蔵 |
この絵を所蔵しているイェール大学アートギャラリー(米・コネティカット州)のウェブサイトの解説を引用します(段落を追加しました)。
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このイェール大学の解説にはゴッホの弟(テオ)への手紙が出てきますが、その日本語訳は次の通りです。いずれも手紙の中のこの絵に関係する部分です(日付はゴッホ美術館のサイトに公開されている手紙全文による)。
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この手紙を読んで思うのは、ゴッホらしい "色彩への強いこだわり" です。ゴッホは絵のテーマを色で表現しようとしたことが良くわかります。
『夜のカフェ』と『夜のカフェテラス』
『夜のカフェ』は『夜のカフェテラス』と比べて鑑賞すべきでしょう。『夜のカフェテラス』は「夜の "カフェのテラス"」という意味です。ここには客とウェイター、通りを行く人々が描かれ、客は強い光に照らされたテラス席で楽しく談笑をしている感じです。全体として「人々が健全なナイトライフを楽しんでいる絵」です。青で塗られた空もその感じを演出しています。
一方『夜のカフェ』は、アルルの地元の人が "夜のカフェ" と呼んでいた深夜営業をするカフェで、『夜のカフェテラス』とは真逆の雰囲気です。光が充満していますが、何となく "陰気" な感じがする。天井とビリヤード台の緑、壁の赤という補色関係の色の対比で、不調和ないしは不安定な雰囲気が漂っています。
描かれている人物を見ると、白っぽい服のカフェのオーナーと、客が3組、2人連れが2組と、1人客です。客は帽子を被るか腕を組むかして "黙りこくっている" ようです。左手前に片づけていない飲みさしのグラスが乗ったテーブルがありますが、ついさっきまで別の客がいたはずです。イェール大学の解説にあるように、客の中にはこのカフェをたまり場とする浮浪者や売春婦もいるのでしょう。描かれている時計からすると、時刻は深夜0時過ぎのようです。
室内には4つのガス灯の強い光が充満していますが、不思議なのは影がビリヤード台にしかないことです。この構図だとテーブルや人物にも影ができるはずですが、それは全く省略されている。緑と赤の強烈な対比とあいまって、この「ビリヤード台だけの影」が何となく現実感を希薄にしています。
全体的に『夜のカフェ』は、『夜のカフェテラス』の "健全なナイトライフ" とは真逆の、健康的だとはとても言えない深夜のカフェの状況です。
ナイトホークス
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エドワード・ホッパー(1882-1967) 「ナイトホークス - Nighthawks」(1942) |
シカゴ美術館 |
そこで改めてホッパーの『ナイトホークス』を見ると、『夜のカフェ』との類似性に気づきます。まず「アルルのカフェ」と「ニューヨークのダイナー」という場面設定です。カフェもダイナーも(そして南欧だとバルやバールも)、昼間の時間とか夜のディナータイムでは、気の置けない者同士が談笑しながらコーヒーやお酒、軽食を楽しむ場所です。それはまさにゴッホが『夜のカフェテラス』で描いた光景です。
しかし描かれたアルルの "夜のカフェ" とニューヨークのダイナーは深夜営業をしていて、ディナータイムが終わって深夜になると様子が一変する。その様子が一変したあとのカフェとダイナーを舞台としているのが、まず2枚の絵の共通点です。
また、店には客がいるが会話をしているようには見えず、みな孤独で、それぞれの時間を過ごしている。店のオーナーないしはウェイターとおぼしき人物が1人だけいて、その人物は白っぽい服を着ています。さっきまで別の客がいたかのように、片づけられていないコップが置かれたままになっている。そういったことも似ています。
さらに「強烈な光」です。時代が半世紀以上離れているので、光の強烈さは違います。特にホッパーの絵(1942年作)は、当時実用化が始まった蛍光灯の光がダイナーに充満しています。しかし2枚の絵とも黄白色の強い光が絵の全体を支配しています。ゴッホの場合はビリヤードの影で、ホッパーの場合は影とダイナーの外に漏れる光で、その強い光が表現されています。
加えて色使いです。ゴッホは赤・緑・黄、ホッパーは赤系・青緑系・黄白色という色の組み合わせで画面を構成している。特に、補色関係にある赤と緑の "色の衝突" で不安感を作り出しているところが似ています。
ここまでは絵の外見でわかることですが、さらに外見を越えたところにも注目すべきでしょう。つまりゴッホの方は、手紙に書かれた「恐ろしい情熱」「身を持ち崩す」「気が狂う」「罪を犯す」という表現にあるように「人間の精神の暗い部分、ダークサイド」を絵で表そうとしています。一方、ホッパーの方ですが、「ナイトホークス」から感じる人間の心情を簡潔に言うと「都会の孤独」でしょう。それは衆目が一致するところだと思います。つまりこの2作品は、単なる深夜の店の情景を越えて、"人間の精神のありよう" を表現しようとしたところに類似性を感じます。
画家が、過去の画家の絵からインスパイアされて、ないしは過去の絵を "踏まえて" 作品を作ることはよくあります。このブログに書いた記事だけでも、
ベラスケス『ラス・メニーナス』⇒⇒⇒ サージェント『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(No.36「ベラスケスへのオマージュ」) | |
ベラスケス『道化師パブロ・デ・パリャドリード』⇒⇒⇒ マネ『笛を吹く少年』(No.36) | |
アングル『モワテシエ婦人の肖像』⇒⇒⇒ ピカソ『マリー・テレーズの肖像』(No.157「ノートン・サイモン美術館」) | |
円山応挙『保津川図屏風』⇒⇒⇒ 鈴木其一『夏秋渓流図屏風』(No.275「円山応挙:保津川図屏風」) |
の例がありました。こういった動きが一つの潮流となったのが、19世紀ヨーロッパのジャポニズムです(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)。
ホッパーの『ナイトホークス』も、そういった数ある例の一つなのでしょう。ホッパーはニューヨークの美術学校を卒業した後、3度もヨーロッパに絵の勉強に行っています(No.288「ナイトホークス」)。ゴッホの絵から着想を得るのは、ホッパーにとってごく自然なことだったに違いありません。
しかし改めて『ナイトホークス』を見て感じるのは、確かにこの絵はゴッホからインスピレーションを得たのかもしれないけれど、完全にホッパーの独自世界の絵として描いていることです。
『ナイトホークス』は、何だか "ドキッと" する絵です。何かを予見しているようでもある。この絵に感じ入って、リドリー・スコット監督は『ブレードランナー』の "暗い未来" の「様子とムード」(look and mood)を作りました(No.288)。それほど感染力が強い絵を創作したホッパーの画才は素晴らしいと、改めて思いました。
ヘミングウェイ
ここからは『ナイトホークス』についての補足です。冒頭にあげたゲイル・レヴィンの「Edward Hopper : An Intimate Biography」に、ホッパーはゴッホの『夜のカフェ』から着想を得たと同時に、ヘミングウェイ(1899-1961)の短篇小説『殺し屋』(The Killers)に影響を受けたと書いてあります。『殺し屋』は1927年にアメリカの雑誌、スクリブナーズ・マガジンに発表されました。ホッパーはその雑誌を購読していて『殺し屋』に感激し、わざわざ雑誌の編集長に手紙を書いたそうです。「甘ったるい感傷的な小説が大量に溢れるなかで、アメリカの雑誌でこのような実直な(honest)作品に出会うのは爽快です(refreshing)・・・・・・(試訳。以下略)」。
ちなみに『殺し屋』はニューヨークではなくシカゴの話だと思わせるのですが、舞台は夕暮れどきの "lunchroom" です。簡易食堂と訳せばいいのでしょうか。『ナイトホークス』のダイナー(diner)は食堂車をまねた、主として通り沿いの店ですが、大まかにいって "lunchroom" も "diner" も似たようなものでしょう。
短篇小説『殺し屋』の文章は、ほとんどが会話で一部が状況説明です。心理描写はなく、無駄をそぎ落とした簡潔な文章が続きます。ホッパーはこれを "honest" と表現しているのですが、"honest" は「正直な、実直な、率直な、誠実な、偽りの無い」というような意味です。上の試訳では "実直な" としましたが、"虚飾を排した" ぐらいがいいのかもしれない。
こういったヘミングウェイの文章がハードボイルド小説のお手本になったことは有名です。そのヘミングウェイに感激したホッパーが『ナイトホークス』を描いた。『ナイトホークス』は "ハードボイルド絵画" であるとは中野京子さんの言ですが(No.288「ナイトホークス」)、まさに図星だと思いました。
2020-07-11 11:55
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No.288 - ナイトホークス [アート]
No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、フランスの画家・ジェロームが古代ローマの剣闘士を描いた『差し下ろされた親指』(1904)がハリウッド映画『グラディエーター』(2000)の誕生に一役買ったという話を書きました。そのあたりを復習すると次のようです。
20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は ・・・・・・。
ちなみに cinemareview.com の記事によると、『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサはスコット監督に脚本を見せる前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそも、プロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だそうです。
この経緯をみると、ジェロームの『差し下ろされた親指』にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるようです。リドリー・スコット監督もその魔力にハマった ・・・・・・。
ところで、ここからが本題ですが、リドリー・スコット監督(1937 - )は『グラディエーター』(2000年公開)よりだいぶ前に(部分的にせよ)絵画からインスパイアされた映画を作っています。それが上の引用にも出てきた『ブレードランナー』(1982年公開)です。今回はその話です。
ブレードランナー
1982年公開の『ブレードランナー(Blade Runner)』は SF作家、フィリップ・K・ディック(1928-1982)の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)を原作とする映画です。リドリー・スコットが監督し、ハリソン・フォードが主演しました。そのストーリーをかいつまんで箇条書きにすると以下のようです。
さて、この映画『ブレードランナー』と絵画の関係ですが、アメリカの画家、エドワード・ホッパーの絵画『ナイトホークス(Nighthawks)』の解説(Wikipedia)に、次のような記述があります。
ここで引用されているリドリー・スコット監督の発言の原文とその出典は以下の通りです。
「Future Noir : the Making of Blade Runner」という本は、アメリカの映画プロデューサで映画評論家・作家のポール・M・サモンが『ブレードランナー』の制作過程を洗いざらい明かし、公開後の状況や各種のトリヴィアまでを網羅した「ブレードランナー全書」とも言うべき本です。そのキーワードは、本のタイトルにもなっている "Future Noir" = "暗い未来" です。
リドリー・スコット監督は、彼が『ブレードランナー』に求めた "様子と気分(look and mood)" を例示(illustrate)するために、ホッパーの『ナイトホークス』の複製画を制作スタッフ(アート・ディレクター、デザイナー、美術スタッフなどでしょう)に見せ続けたわけです。"私の狙っている雰囲気はこの絵のとおりだ" というように ・・・・・・。そのホッパーの『ナイトホークス』が次です。
ホッパー『ナイトホークス』
まず例によって、この絵を中野京子さんの解説でみていきます。中野さんは『名画の謎:対決編』(文藝春秋 2015)で、モンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』を解説したあとに『ナイトホークス』を説明しています。まずエドワード・ホッパーの経歴です。
ホッパーの油彩画は、なにげない日常を描く中で、いかにもアメリカという文明の一面を鋭利に切り取った感じの作品が多々あります。まさにアメリカ絵画の代表ですが、その名声が死後のものだったとは意外です。その代表作が『ナイトホークス』です。
ホッパーの絵の特徴の一つを端的に言うと "物語性" です。すべての絵がそうだとは言いませんが、何らかの "物語" を感じる絵が多い。つまり中野さんが上の引用に書いているように「中折れ帽をかぶったスーツ姿の男と、若くはないが赤毛のセクシーな女」から、映画「カサブランカ」のせりふを連想するというようにです。ホッパーの絵はよく「映画のワンシーンのようだ」と言われますが、この絵がまさにそうです。
さらに、後ろ向きの表情が分からない男性も、こういう配置で描かれると何だか "いわくありげ" です。顔を意識的に上げたように見えるウェイターは、なぜ顔をあげたのでしょうか。男女の "カップル" の方から何か声が聞こえたからなのか ・・・・・・。よく見るとカウンターの手前にはコップが一つ置かれています。ということは、さっきまで別の客が居たに違いない ・・・・・・。
『ナイトホークス』はホッパーの代表作と言われるだけあって、映画のワンシーンのような "物語性" を感じるのですが、中野さんはさらに限定して、物語の中でも「ハードボイルド」だと言っています。
ハードボイルド絵画
中野京子さんはこの絵を「ハードボイルド絵画」と呼んでいます。そのハードボイルド小説・映画では、主人公の直接的な心理描写はなく、行動や会話のみの記述ですべてを描こうとします。ホッパーの絵に登場する人物も無表情、またはそれに近く描かれることが多く、表情から心理を読みとることはできません。あくまで場面設定(場所、時刻、ライティングなど)と人物の外見・態度・配置だけからテーマを浮かび上がらせようとする。『ナイトホークス』もその雰囲気が横溢する絵画です。
ハードボイルド小説・映画に欠かせなかったのが "煙草" で、『ナイトホークス』にも描かれています。つまりカップルとおぼしき男女のうち、男は煙草を手にし、女はブックマッチ(二つ折りのカバーに紙マッチを挟み込んだもの)を持っている。ダイナーの上部には看板があり、そこには葉巻が描かれていて、その下に「only 5¢」(たった5セント)、横には「PHILLIES」(=フィリーズ)とメーカー名が記されています。文藝春秋の連載から引用します。
現実世界ではない
ここからが『ナイトホークス』の核心です。中野さんは、ホッパーが描いた絵は、一見ありふれた情景を描いているように見えるが現実そのものではないと指摘しています。
『ブレードランナー』とハードボイルド
ここから『ブレードランナー』と『ナイトホークス』の関係です。まず、この2作品に共通して影響を与えたのが "ハードボイルド" というエンターテインメントのジャンルです。『ナイトホークス』とハードボイルドの関係は中野京子さんが詳述していますが、では映画『ブレードランナー』もそうなのか。
映画評論家の町山智浩氏が書いた「ブレードランナーの未来世紀」(洋泉社 2006。新潮文庫 2017)という本があります。町山氏はこの本の中で、原作(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)と『ブレードランナー』の脚本の大きな違いを述べています。
つまり『ブレードランナー』の脚本を最初に書いたハンプトン・ファンチャーは、原作にある2つの要素をカットしました。一つは "電気羊" です。核戦争で動物がほとんど死滅した世界では、人々はロボットの "電気羊" をペットとして飼うの一般的で、本物の動物は富裕層にしか飼えない。その、原作の題名にもなっている "電気羊" が脚本ではカットされています。2つ目はデッカートの妻です。原作ではデッカートには妻がいて、最後は妻に迎えられるというエンディングですが、映画脚本のデッカートは妻に逃げられた男になっている。
そして、ファンチャーは "電気羊" と "妻" を切り捨てたかわりに、ハードボイルドの要素を強調したと、町山氏は書いています。以下、町山氏の文章を引用します。
ちなみに、この映画は脚本家が途中で交代し、完成版の映画では「マーロウ調の自嘲的な独白でストーリーを進める」ようにはなっていません。ただ重要なのは、主人公のデッカートがフィリップ・マーロウに重ねられていることと、上の引用の最後に出てくる "フィルム・ノワール(film noir)" です。
フィリップ・マーロウはチャンドラーの重要な小説に出てくる私立探偵です。元々は検察の捜査官だったが上司に反抗したため免職になり私立探偵をしているという設定で、もとより権威・権力には媚びない姿勢です。安い料金(実費+25ドル/日)で仕事を引きうけ、ボロ自動車に乗り、トレンチコートにキャメルのタバコがトレードマークの「足で稼ぐ探偵」です。その一方で、弱いものには優しく、センチメンタルなところがあります。孤独を愛し、アンニュイ(物憂さ、気だるさ)の雰囲気を漂わせ、少々 "影" がある。
こういった人物造型は『ブレードランナー』のデッカートに重なります。デッカートが "未来のフィリップ・マーロウ" だと考えると納得がいく。さらに町山氏の解説です。
やはりデッカートは未来世界のフィリップ・マーロウであり、『ブレードランナー』はハードボイルド小説を映画化した「フィルム・ノアール」の後継なのです。さらに付け加えると、フィルム・ノワールが最初に作られたのは第二次世界大戦中であり、ホッパーの『ナイトホークス』(1942)もまさにその時期に描かれました。
Future Nior(暗い未来)
ここからが話の核心で、『ナイトホークス』が『ブレードランナー』に影響したという、その内容です。リドリー・スコット監督は、
と語ったのでした。キーワードは、ポール・サモンの本の題名にもなっていた「Future Nior(暗い未来)」です。Future Noir とは、フィルム・ノワール(film noir)をサイエンス・フィクション(SF)の手法で未来世界に移したものと言えるでしょう。Tech Noir や(tech は科学技術の意味)、SF(Science Fiction)Noirという言い方もあります。その代表格は『ブレードランナー』とともに、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(1984)です。
『ターミネーター』を思い返してみると、スカイネットと呼ばれる人工知能が反乱を起こし、人間に核戦争を仕掛ける。その戦争後の荒廃した地球では、人間軍と機械軍の死闘が繰り広げられている。この状況を前提としたストーリー展開が『ターミネーター』でした。
『ブレードランナー』と『ターミネーター』に共通するのは、文明と科学技術の進歩が、世界を人間にとってのディストピアに向かわせるというコンセプトです。人間は自らが創り出したものに逆襲され、窮地に陥る。『ブレードランナー』にある地球環境破壊もその一つでしょう。さらには、人間が延々と築いてきた人間性が喪失、ないしは希薄になってゆく。文明の進歩が、人間らしさを謳歌できる "明るい未来" をもたらすのではなく、それとは真逆の荒涼とした "暗い未来" を招く。そのイメージが Future Noir = 暗い未来です。
前に引用した町山氏は「60年代終わりから、ヴェトナム戦争を背景に、ハリウッドでは再びアンハッピーエンドの映画が作られた」とし、その流れに『ブレードランナー』があると書いていました。しかし、背景はそれだけではないと思います。No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」で紹介したように、評論家の内田樹氏は、米ソの冷戦時代(1960年代~80年代)には核戦争が起きるのではという "黙示録的な不安" が、潜在的・暗黙に世界を覆っていたと指摘しています。誰も口には出さなかったけれど、人々は心の奥底でそれを感じとっていた。そもそもサイエンス・フィクションというジャンルが隆盛を極めた要因はそれだと ・・・・・・。Future Noir はまさにそういった潜在意識をも背景とするものでしょう。
この Future Noir とホッパーの『ナイトホークス』(1942)がどう関係しているのでしょうか。『ナイトホークス』が描かれた1942年は真珠湾攻撃(1941)の翌年であり、アメリカは既に第二次世界大戦に参戦しています。ヨーロッパ大陸と太平洋で戦争が行われていて、アメリカの兵士が出征して戦っている。
しかし、アメリカ本土で戦闘が行われているわけではありません。このブログの過去の記事を思い起こすと、1942年はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」のアメリカ初演がニューヨークで行われた年です。アメリカの大衆は熱狂し、"共にドイツと戦っているソ連" の作曲家(=ショスタコーヴィチ)の曲を熱狂的に支持しました(No.281 参照)。そのニューヨークには摩天楼が建ち並び、街にはブギウギのリズムが流れ、映画も演劇も盛んで、まさにモンドリアンが『ブロードウェイ・ブギウギ』で描こうとした世界がそこにあった。
その喧噪がニューヨークの "表の顔" だとすると『ナイトホークス』に描かれたのは "裏の顔" です。ここで描かれた深夜のダイナーの風景から受ける(個人的な)感じは、
といったものです。シュルレアリズム絵画と書きましたが、デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」に画像を引用)に一脈通じるものを感じます。さらに『ナイトホークス』の登場人物である4人の心象を想像してみると、
などでしょう。「索漠」と「寄る辺なさ」は、中野京子さんの文章からもってきました。的確な日本語だと思います。
まさにこのような "look and mood"(様子と気分)が、リドリー・スコット監督が『ブレードランナー』のスタッフ、特に美術やビジュアル関係のスタッフに一貫して求め続けたものだと思います。『ナイトホークス』は見るからに "感染力の強い" 絵です。その絵に監督もスタッフも "感染" し、そして『ブレードランナー』の各種ビジュアルの "look and mood" に統一感を生む一助となった。さらに一歩進んで推測すると、
のではないでしょうか。つまり、この絵がある種の "予見性" を持っていると感じた。全くの想像ですが ・・・・・・。
リドリー・スコットはイギリスの名門の国立美術大学、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA。Royal College of Art)の出身です。卒業後にBBCで美術デザイナーとして働いたあと、1967年にCMプロダクションを設立し、当時は商品の宣伝に過ぎなかったテレビCMをアートの域にまで高め、数々の賞に輝きました。その後、念願の映画監督に転身した。
彼は自分で絵を描くし、映画の絵コンテも描きます。そういう経歴から考えると『ナイトホークス』からインスピレーションを得て『ブレードランナー』のビジュアルに生かすことはごく自然だったのでしょう。
アーティストとインスピレーション
『ナイトホークス』と『ブレードランナー』という、少々意外な取り合わせから思うことがあります。画家と映画監督を "アーティスト" と考えると、アーティストが作品(アート)を通して他のアーティストに影響し、その影響が別の作品を生み出すというプロセスは、誠に微妙だと思います。
『ナイトホークス』は『ブレードランナー』の40年も前の作品です。エドワード・ホッパーはサイエンス・フィクションとは全く無関係にニューヨークを描いた。しかしリドリー・スコットはその絵に "何か" を感じて、全く別のジャンルの作品に生かした。作品(アート)はいったん完成すれば、それをどう解釈するかは鑑賞者の自由です。『ナイトホークス』から『ブレードランナー』の "暗い未来" を思い描くのは "飛躍のしすぎ" とも思えるのですが、リドリー・スコット監督の感性はそうなのです。この意外性こそアートです。
鑑賞者の自由度は極めて大きく、見る人の感性に依存する。そこにこそアートの威力があるのだと思います。『ナイトホークス』はそのことを実証しているのでした。
20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は ・・・・・・。
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ジャン = レオン・ジェローム (1824-1904) 「差し下ろされた親指」(1904) |
フェニックス美術館(米・アリゾナ州) |
ちなみに cinemareview.com の記事によると、『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサはスコット監督に脚本を見せる前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそも、プロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だそうです。
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この経緯をみると、ジェロームの『差し下ろされた親指』にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるようです。リドリー・スコット監督もその魔力にハマった ・・・・・・。
ところで、ここからが本題ですが、リドリー・スコット監督(1937 - )は『グラディエーター』(2000年公開)よりだいぶ前に(部分的にせよ)絵画からインスパイアされた映画を作っています。それが上の引用にも出てきた『ブレードランナー』(1982年公開)です。今回はその話です。
ブレードランナー
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1982年公開の『ブレードランナー(Blade Runner)』は SF作家、フィリップ・K・ディック(1928-1982)の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)を原作とする映画です。リドリー・スコットが監督し、ハリソン・フォードが主演しました。そのストーリーをかいつまんで箇条書きにすると以下のようです。
時代は21世紀。ロサンジェルスのタイレル社が "レプリカント"と呼ばれる人造人間(=原作で言う "アンドロイド")を発明し、独占的に供給していた。レプリカントは優れた体力と知能をもっている(レプリカントはこの映画の造語)。 | |
そのころの地球は環境破壊が進み、人類の多くは宇宙の植民地に住んでいた。レプリカントは宇宙開発の最前線での奴隷的労働に従事していた。 | |
レプリカントはバイオテクノロジーで作られており、人間とは区別できない。ただ、唯一区別可能な専門の分析装置がある。被験者は、人間なら感情を大きく揺さぶられるような質問を受け、それに対する体の反応を分析装置にかけることでレプリカントか人間かが判定できる。 | |
レプリカントは製造から数年たつと感情が芽生えて、人間に反旗を翻すものが出てきた。そのため最新の「ネクサス6型」レプリカントは寿命が4年に設定されていた。しかし脱走して人間社会に紛れ込むレプリカントが後を絶たなかった。人間社会から彼らを見つけだして「解任(retire)」(=射殺)する任務を担うのが、警察の専任捜査官・ブレードランナーであった(ブレードランナー:Blade Runner は過去の小説からの借用。もともと医薬品密売業者を指す)。 | |
物語の舞台はロサンジェルス。地球に残った人類は環境破壊による酸性雨が降りしきる中、高層ビルが立ち並ぶ人口過密の大都市での生活を強いられていた。そのころ、ネクサス6型のレプリカントが宇宙植民地で反乱を起こし、23人の人間を殺害して逃走、宇宙船を奪って密かに地球に帰還し、ロサンジェルスに4人が潜伏した。 | |
捜査にあたるロサンジェルス市警は4人の「解任」が容易でないことを悟り、退職していたブレードランナーのデッカート(=ハリソン・フォード)を呼び戻して捜査に当たらせる。デッカートは情報を得るため、レプリカントの開発者であるタイレル博士に面会した。そのとき彼は、博士の秘書のレイチェル(=ショーン・ヤング)がレプリカントであることを見抜く。レイチェルは博士が姪の記憶を移植して作ったレプリカントであった。レイチェルは激しく動揺するが、デッカートはそんなレイチェルに惹かれていく。 | |
デッカートは捜査の結果、踊り子に扮していたレプリカント(ゾーラ)を発見し、追跡の上「解任」する。その現場に急行したデッカートの上司は、レイチェルがタイレ博士のもとを脱走したことを告げ、レイチェルも「解任」するようにと命じた。 | |
その後、デッカートはゾーラの復讐に燃えるレプリカント(レオン)に襲われるが、駆けつけたレイチェルが射殺して命拾いする。デッカートはレイチェルを自宅に招く。彼女が、自分も「解任」するのか問うと、デッカートは「自分はやらないが、誰かがやる」と答えた。2人は熱く抱擁するのだった。 | |
一方、潜伏レプリカントのリーダのバッティは、タイレル社の技師に近づき、彼を仲介にしてタイレル社の本社ビルの最上階に住むタイレル博士と対面した。バッティは、残り少ない自分たちの寿命を伸ばすように博士に要求する。これが彼らの地球潜入の目的であった。しかし博士は技術的に不可能であると告げ、絶望したバッティは博士と技師を殺す。 | |
タイレル博士と技師の殺害の報を聞いたデッカートは、技師の高層アパートに踏み込み、そこに潜んでいた3人目のレプリカント(プリス)を「解任」する。そこにリーダのバッティが戻ってきてデッカートと最後の対決となる。デッカートは優れた戦闘能力を持つバッティに追い立てられ、高層アパートの屋上に逃れるが、転落寸前となる。しかしバッティは自らの寿命の到来を悟り、デッカートを助けて、こと切れた。 | |
デッカートはレイチェルにも同じ運命が待っているのではと慌てて自宅に戻るが、レイチェルは生きていた。2人は互いの愛を確認すると、デッカートはレイチェルを連れだし、逃避行へと旅立った。 |
さて、この映画『ブレードランナー』と絵画の関係ですが、アメリカの画家、エドワード・ホッパーの絵画『ナイトホークス(Nighthawks)』の解説(Wikipedia)に、次のような記述があります。
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ここで引用されているリドリー・スコット監督の発言の原文とその出典は以下の通りです。
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リドリー・スコット監督は、彼が『ブレードランナー』に求めた "様子と気分(look and mood)" を例示(illustrate)するために、ホッパーの『ナイトホークス』の複製画を制作スタッフ(アート・ディレクター、デザイナー、美術スタッフなどでしょう)に見せ続けたわけです。"私の狙っている雰囲気はこの絵のとおりだ" というように ・・・・・・。そのホッパーの『ナイトホークス』が次です。
ホッパー『ナイトホークス』
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エドワード・ホッパー(1882-1967) 「ナイトホークス - Nighthawks」(1942) |
シカゴ美術館 |
まず例によって、この絵を中野京子さんの解説でみていきます。中野さんは『名画の謎:対決編』(文藝春秋 2015)で、モンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』を解説したあとに『ナイトホークス』を説明しています。まずエドワード・ホッパーの経歴です。
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ホッパーの油彩画は、なにげない日常を描く中で、いかにもアメリカという文明の一面を鋭利に切り取った感じの作品が多々あります。まさにアメリカ絵画の代表ですが、その名声が死後のものだったとは意外です。その代表作が『ナイトホークス』です。
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さらに、後ろ向きの表情が分からない男性も、こういう配置で描かれると何だか "いわくありげ" です。顔を意識的に上げたように見えるウェイターは、なぜ顔をあげたのでしょうか。男女の "カップル" の方から何か声が聞こえたからなのか ・・・・・・。よく見るとカウンターの手前にはコップが一つ置かれています。ということは、さっきまで別の客が居たに違いない ・・・・・・。
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背中だけのこの男性客は画面の中央付近に描かれている。ということは、この絵のフォーカルポイント(焦点)はこの男性なのか。ホッパーの自画像(?)という説もある。 |
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ふと顔をあげたように見えるウェイター。一見、客から声がかかったように思えるが、この絵の4人の登場人物は視線を合わせてはいない。店の外から物音がしたのだろうか。背後にあるのは当時のコーヒー・マシン。 |
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通りの向かいの店は閉店しているが、あえて白いレジスターだけが目立つように描かれている。レジスターが表すものは「お金」で、当時のニューヨークを象徴しているのかもしれない。 |
『ナイトホークス』はホッパーの代表作と言われるだけあって、映画のワンシーンのような "物語性" を感じるのですが、中野さんはさらに限定して、物語の中でも「ハードボイルド」だと言っています。
ハードボイルド絵画
中野京子さんはこの絵を「ハードボイルド絵画」と呼んでいます。そのハードボイルド小説・映画では、主人公の直接的な心理描写はなく、行動や会話のみの記述ですべてを描こうとします。ホッパーの絵に登場する人物も無表情、またはそれに近く描かれることが多く、表情から心理を読みとることはできません。あくまで場面設定(場所、時刻、ライティングなど)と人物の外見・態度・配置だけからテーマを浮かび上がらせようとする。『ナイトホークス』もその雰囲気が横溢する絵画です。
ハードボイルド小説・映画に欠かせなかったのが "煙草" で、『ナイトホークス』にも描かれています。つまりカップルとおぼしき男女のうち、男は煙草を手にし、女はブックマッチ(二つ折りのカバーに紙マッチを挟み込んだもの)を持っている。ダイナーの上部には看板があり、そこには葉巻が描かれていて、その下に「only 5¢」(たった5セント)、横には「PHILLIES」(=フィリーズ)とメーカー名が記されています。文藝春秋の連載から引用します。
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「ナイトホークス」に描かれた男女の "カップル"。男は煙草を手にし、女はブックマッチを見つめている。女の左手がさりげなく男の手に触れている。 |
現実世界ではない
ここからが『ナイトホークス』の核心です。中野さんは、ホッパーが描いた絵は、一見ありふれた情景を描いているように見えるが現実そのものではないと指摘しています。
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『ブレードランナー』とハードボイルド
ここから『ブレードランナー』と『ナイトホークス』の関係です。まず、この2作品に共通して影響を与えたのが "ハードボイルド" というエンターテインメントのジャンルです。『ナイトホークス』とハードボイルドの関係は中野京子さんが詳述していますが、では映画『ブレードランナー』もそうなのか。
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つまり『ブレードランナー』の脚本を最初に書いたハンプトン・ファンチャーは、原作にある2つの要素をカットしました。一つは "電気羊" です。核戦争で動物がほとんど死滅した世界では、人々はロボットの "電気羊" をペットとして飼うの一般的で、本物の動物は富裕層にしか飼えない。その、原作の題名にもなっている "電気羊" が脚本ではカットされています。2つ目はデッカートの妻です。原作ではデッカートには妻がいて、最後は妻に迎えられるというエンディングですが、映画脚本のデッカートは妻に逃げられた男になっている。
そして、ファンチャーは "電気羊" と "妻" を切り捨てたかわりに、ハードボイルドの要素を強調したと、町山氏は書いています。以下、町山氏の文章を引用します。
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ちなみに、この映画は脚本家が途中で交代し、完成版の映画では「マーロウ調の自嘲的な独白でストーリーを進める」ようにはなっていません。ただ重要なのは、主人公のデッカートがフィリップ・マーロウに重ねられていることと、上の引用の最後に出てくる "フィルム・ノワール(film noir)" です。
フィリップ・マーロウはチャンドラーの重要な小説に出てくる私立探偵です。元々は検察の捜査官だったが上司に反抗したため免職になり私立探偵をしているという設定で、もとより権威・権力には媚びない姿勢です。安い料金(実費+25ドル/日)で仕事を引きうけ、ボロ自動車に乗り、トレンチコートにキャメルのタバコがトレードマークの「足で稼ぐ探偵」です。その一方で、弱いものには優しく、センチメンタルなところがあります。孤独を愛し、アンニュイ(物憂さ、気だるさ)の雰囲気を漂わせ、少々 "影" がある。
こういった人物造型は『ブレードランナー』のデッカートに重なります。デッカートが "未来のフィリップ・マーロウ" だと考えると納得がいく。さらに町山氏の解説です。
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やはりデッカートは未来世界のフィリップ・マーロウであり、『ブレードランナー』はハードボイルド小説を映画化した「フィルム・ノアール」の後継なのです。さらに付け加えると、フィルム・ノワールが最初に作られたのは第二次世界大戦中であり、ホッパーの『ナイトホークス』(1942)もまさにその時期に描かれました。
Future Nior(暗い未来)
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エドワード・ホッパー 「ナイトホークス - Nighthawks」(1942) |
ここからが話の核心で、『ナイトホークス』が『ブレードランナー』に影響したという、その内容です。リドリー・スコット監督は、
わたしが追い求めている様子と気分を例証するためにプロダクション・チームの鼻先にこの絵(=ナイトホークス)の複製をいつも振り動かしていた」 |
と語ったのでした。キーワードは、ポール・サモンの本の題名にもなっていた「Future Nior(暗い未来)」です。Future Noir とは、フィルム・ノワール(film noir)をサイエンス・フィクション(SF)の手法で未来世界に移したものと言えるでしょう。Tech Noir や(tech は科学技術の意味)、SF(Science Fiction)Noirという言い方もあります。その代表格は『ブレードランナー』とともに、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(1984)です。
『ターミネーター』を思い返してみると、スカイネットと呼ばれる人工知能が反乱を起こし、人間に核戦争を仕掛ける。その戦争後の荒廃した地球では、人間軍と機械軍の死闘が繰り広げられている。この状況を前提としたストーリー展開が『ターミネーター』でした。
『ブレードランナー』と『ターミネーター』に共通するのは、文明と科学技術の進歩が、世界を人間にとってのディストピアに向かわせるというコンセプトです。人間は自らが創り出したものに逆襲され、窮地に陥る。『ブレードランナー』にある地球環境破壊もその一つでしょう。さらには、人間が延々と築いてきた人間性が喪失、ないしは希薄になってゆく。文明の進歩が、人間らしさを謳歌できる "明るい未来" をもたらすのではなく、それとは真逆の荒涼とした "暗い未来" を招く。そのイメージが Future Noir = 暗い未来です。
前に引用した町山氏は「60年代終わりから、ヴェトナム戦争を背景に、ハリウッドでは再びアンハッピーエンドの映画が作られた」とし、その流れに『ブレードランナー』があると書いていました。しかし、背景はそれだけではないと思います。No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」で紹介したように、評論家の内田樹氏は、米ソの冷戦時代(1960年代~80年代)には核戦争が起きるのではという "黙示録的な不安" が、潜在的・暗黙に世界を覆っていたと指摘しています。誰も口には出さなかったけれど、人々は心の奥底でそれを感じとっていた。そもそもサイエンス・フィクションというジャンルが隆盛を極めた要因はそれだと ・・・・・・。Future Noir はまさにそういった潜在意識をも背景とするものでしょう。
この Future Noir とホッパーの『ナイトホークス』(1942)がどう関係しているのでしょうか。『ナイトホークス』が描かれた1942年は真珠湾攻撃(1941)の翌年であり、アメリカは既に第二次世界大戦に参戦しています。ヨーロッパ大陸と太平洋で戦争が行われていて、アメリカの兵士が出征して戦っている。
しかし、アメリカ本土で戦闘が行われているわけではありません。このブログの過去の記事を思い起こすと、1942年はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」のアメリカ初演がニューヨークで行われた年です。アメリカの大衆は熱狂し、"共にドイツと戦っているソ連" の作曲家(=ショスタコーヴィチ)の曲を熱狂的に支持しました(No.281 参照)。そのニューヨークには摩天楼が建ち並び、街にはブギウギのリズムが流れ、映画も演劇も盛んで、まさにモンドリアンが『ブロードウェイ・ブギウギ』で描こうとした世界がそこにあった。
その喧噪がニューヨークの "表の顔" だとすると『ナイトホークス』に描かれたのは "裏の顔" です。ここで描かれた深夜のダイナーの風景から受ける(個人的な)感じは、
現実の風景なのだろうけれど、リアルな感じがしない。現実感が希薄で、道路の描き方に典型的にみられるように非常に "無機質な感じ" がする。 | |
シュルレアリズム絵画のような雰囲気があり、"どこにも無い街" を描いているようでもある。 |
といったものです。シュルレアリズム絵画と書きましたが、デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」に画像を引用)に一脈通じるものを感じます。さらに『ナイトホークス』の登場人物である4人の心象を想像してみると、
索漠としていて、心が満たされない。 | |
人間関係が希薄で、荒涼としている。 | |
大都会の孤独と寄る辺なさが身に染みている。 |
などでしょう。「索漠」と「寄る辺なさ」は、中野京子さんの文章からもってきました。的確な日本語だと思います。
まさにこのような "look and mood"(様子と気分)が、リドリー・スコット監督が『ブレードランナー』のスタッフ、特に美術やビジュアル関係のスタッフに一貫して求め続けたものだと思います。『ナイトホークス』は見るからに "感染力の強い" 絵です。その絵に監督もスタッフも "感染" し、そして『ブレードランナー』の各種ビジュアルの "look and mood" に統一感を生む一助となった。さらに一歩進んで推測すると、
リドリー・スコットはホッパーの『ナイトホークス』を見たとき、近代化と大都市化が進んでいくその末にある "Future Noir的なもの"、極端に言うと "ディストピアへの入り口" を垣間見たような気がした
のではないでしょうか。つまり、この絵がある種の "予見性" を持っていると感じた。全くの想像ですが ・・・・・・。
リドリー・スコットはイギリスの名門の国立美術大学、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA。Royal College of Art)の出身です。卒業後にBBCで美術デザイナーとして働いたあと、1967年にCMプロダクションを設立し、当時は商品の宣伝に過ぎなかったテレビCMをアートの域にまで高め、数々の賞に輝きました。その後、念願の映画監督に転身した。
彼は自分で絵を描くし、映画の絵コンテも描きます。そういう経歴から考えると『ナイトホークス』からインスピレーションを得て『ブレードランナー』のビジュアルに生かすことはごく自然だったのでしょう。
アーティストとインスピレーション
『ナイトホークス』と『ブレードランナー』という、少々意外な取り合わせから思うことがあります。画家と映画監督を "アーティスト" と考えると、アーティストが作品(アート)を通して他のアーティストに影響し、その影響が別の作品を生み出すというプロセスは、誠に微妙だと思います。
『ナイトホークス』は『ブレードランナー』の40年も前の作品です。エドワード・ホッパーはサイエンス・フィクションとは全く無関係にニューヨークを描いた。しかしリドリー・スコットはその絵に "何か" を感じて、全く別のジャンルの作品に生かした。作品(アート)はいったん完成すれば、それをどう解釈するかは鑑賞者の自由です。『ナイトホークス』から『ブレードランナー』の "暗い未来" を思い描くのは "飛躍のしすぎ" とも思えるのですが、リドリー・スコット監督の感性はそうなのです。この意外性こそアートです。
鑑賞者の自由度は極めて大きく、見る人の感性に依存する。そこにこそアートの威力があるのだと思います。『ナイトホークス』はそのことを実証しているのでした。
(次回に続く)
2020-06-27 08:04
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No.287 - モディリアーニのミューズ [アート]
このブログでは中野京子さんの絵画評論から数々の引用をしてきましたが、今回は『画家とモデル』(新潮社 2020。以降「本書」と書くことがあります)からモディリアーニを紹介したいと思います。本書の「あとがき」で中野さんは次のように書いています。
この「あとがき」どおり、本書には "これまであまり触れられることがなかった" クラーナハとマルティン・ルター、同性愛を公言できなかったサージェントと男性モデル、女性画家・フォンターナと多毛症の少女、ピエロ・デラ・フランチェスカと傭兵隊長(ウルビーノ公)など、全部で18のエピソードトが取り上げられています。全く知らなかった話もいろいろあって、大いに参考になりました。
その18のエピソードの中から敢えてモディリアーニなのですが、"男性画家と彼に愛された女性モデル" の典型であり、よく知られているモディリアーニをわざわざ取り上げる理由は、
の3つです。『画家とモデル』のモディリアーニに関する章は、
で、いかにも "それらしい" タイトルになっています。以降、この章の要点を、本書には引用されていない絵画も含めて紹介します。
イタリアのリヴォルノに生まれる
モディリアーニ(1884-1920)の生い立ちや生涯は各種の本にさんざん書かれていますが、改めて中野さんの解説で振り返りたいと思います。引用では漢数字を算用数字に改めたところがあります。下線は原文にはありません。
リヴォルノはトスカーナ州の港町で、ピサの南南西 20km程度の場所です。フィレンツェからちょうど西の方角で、ティレニア海に面しています。
モディリアーニが病弱だったことは有名ですが、16歳のときに結核に罹患したとあります。No.121「結核はなぜ大流行したのか」で、19世紀以降に結核が大流行したことを書きました。画家で言うと、ムンク(1863-1944)とホドラー(1853-1918)は家族を次々と結核で亡くし、それが画風に影響を与えています。幸い2人は結核を発症しなかったのですが、モディリアーニの場合は本人が結核患者だったわけです。
現在のような特効薬があるわけではありません。モディリアーニは結核性脳膜炎で37歳の短い生涯を終えます。元々の虚弱体質に加えてこのような病歴があると当然 "死" を意識するだろうし、そのことがモディリアーニの芸術に影響を与えたと考えるのが妥当でしょう。
モディリアーニの芸術で重要なことは、もともと彫刻家志望だったことで、フィレンツェやヴェネツィアの美術学校のときからそうだったようです。パリに出てからも彫刻の制作をしていて、これがのちの絵画作品に影響を与えています。
ベアトリス・ヘイスティングス
この引用の後半、ベアトリスとモディリアーニの "なれそめ" を紹介した中野さんの文章には、最後に "エロティシズム"と "手管" という言葉が使われていて、これは女性にしか書けない感じがします。─── 男に再び会うと、最初の印象とのギャップに驚く。それが "手練手管" だとしても、美貌の男の "色気" には抗しがたく、恥じらいながらアトリエに誘われたりすると、ついて行くしかない ─── といった感じでしょうか。
画家としてのモディリアーニの最初の "ミューズ" になったのがベアトリス・ヘイスティングスだったというのは、まさにその通りだと思います。それは、モディリアーニがベアトリスを描いた絵を見れば良くわかります。ベアトリスの肖像画は油彩だけでも10数点ありますが、『画家とモデル』にはありません。そこで、いったん『画家とモデル』を離れ、ベアトリスの肖像の何点かを引用します。以下の(A)(B)などは、作品の識別のために便宜上つけた符号です。
ベアトリス・ヘイスティングスの肖像
ベアトリスの肖像画としては最も初期の作品です。変わった絵の具の塗り方ですが、この頃(1914)には点描風に描いた別人の肖像画があるので、それと関係しているのかもしれません。
長い鼻、アーモンド形の目、引き伸ばされた首など、後年の「モディリアーニ・スタイル」の肖像の特徴が現れています。1914年の時点でこのようなスタイルの絵は他に見あたりません。モディリアーニはベアトリスの肖像を描く過程で、自らのスタイルを確立していったという気がします。
ベアトリスの肖像としてはめずらしく帽子を被っていません。この絵になると(A)よりもはっきりとモディリアーニのスタイルになります。全くの無表情ですが、そもそもこの絵でモデルの表情や内面を描くことに興味はないようです。あくまで造形をどうするかが追求されています。
少々奇妙なのは、椅子の背が右側にしか描かれていないことで、この配置だと左にも見えるはずです。もし椅子の背が全くなかったとしたら、シンプルな線による形態の追求だけの絵になってしまうので、バランスをとるために半分だけ描き込んだのでしょうか。
ベアトリスの絵では最も "肖像画らしい" ものでしょう。(B)と顔の形が似ていて、ベアトリスの特徴をとらえているのだと思います。めずらしく右目にだけに瞳が描かれています。
多くの美術史家の意見によると、この絵のモデルはベアトリス・ヘイスティングスです。マダム・ポンパドールとは、ルイ15世の寵姫(=公妾。国王の "正式の" 愛人)だったポンパドール夫人のことです。モディリアーニ自身が絵にマダム・ポンパドールと書き込んでいますが、その理由は明らかではないようです。モディリアーニがベアトリスのことを(ふざけて)マダム・ポンパドールと呼んでいたのか、それともこの肖像を描いたあとに、豪華な帽子と衣装の彼女を少々の皮肉を込めてマダム・ポンパドールとしたのかもしれません。"マダム" が英語綴りになっているのは(最後に e がない)、ベアトリスの国籍から "イギリスのポンパドール夫人" という意味を込めたのかもしれません。
バーンズ・コレクションの Room 19 South Wall にある絵です(No.95「バーンズ・コレクション」)。ちなみにアルバート・バーンズはモディリアーニに最も早く "目を付けた" コレクターの一人で、バーンズ・コレクションにはモディリアーニの名品が揃っています。
この肖像は、顔から首にかけてが円錐のような形になっています。一つ前の「マダム・ポンパドール」では頭がラグビーのボールのような形でモデリングされていました。このように形態を極度に単純化・抽象化してとらえるのはキュビズムに少し近づいている感じがします。
この絵のベアトリスも無表情です。1915~1919年に描かれたモディリアーニの他の肖像画は、いかにもモデルの性格や内面を的確に捕らえたと思える絵が多いわけです。たとえ瞳が描かれていなくても、そう感じる絵が多い。しかしこの絵は(というより A~E は)違って、モデルの内面を表した感じがしません。ベアトリスを素材に描き方の探求をしている感じがします。
なお、上に引用した画像(E)ではわかりにくいのですが、この絵の右上の "BEATRICE" の字の下あたりに新聞紙がコラージュされています。
(A)~(E)の5つの肖像を見て思うのは、モディリアーニの彫刻作品との類似性です。その彫刻の2つの例を下に掲げます。左がバーンズ・コレクションの作品、右がグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)の所蔵作品です。
ベアトリスの肖像とこれらの彫刻作品の共通点を書き出すと、
などでしょう。モディリアーニは彫刻で実現したかった "美" のイメージを絵画に投影したという感じがします。中野さんも、
と書いていました。このあたりから、モディリアーニが独特のスタイルを確立していくのだと思います。それはあくまで出発点なのだろうけど、重要な出発点だと感じます。
さらに別の絵画を引用します。ロンドンのコートールド・ギャラリー(No.155 参照)が所蔵する『座る裸婦』という作品です。日本ではこの名前で呼ばれることが多いのですが、コートールド・ギャラリーは単に「Female Nude = 裸婦」として展示しています。
スコットランド国立近代美術館のキュレーターをつとめたダクラス・ホール(1926-2019)は、この絵のモデルがベアトリスではないかと推測しています。
「全裸に近いベアトリスを描いた素描」とは、下の "BEATRICE" と書き込まれた素描で、ダグラス・ホールの本にも引用されています。下着を脱ぎ終わる寸前のベアトリスを描いているようですが、確かにコートールドの裸婦像と顔立ちが良く似ています。
モディリアーニは数多くの裸婦像を描いていますが、(F)はその最も初期の作品です。その後に描かれる裸婦と違って、輪郭線の様式化はあまりなく、リアルに、かつ繊細で優雅な線で描かれている。これはモディリアーニの描いた裸婦像では最も美しい作品だと思います。さらに感じるのは、これ以降のモディリアーニの裸婦は「プロのモデル」を使ったと思える絵がほとんどなのに比較して、この絵のモデルは "アマチュア" のモデルだと思えることです。
そして、ダグラス・ホールの推測のようにこの絵のモデルがベアトリス・ヘイスティングスだとしたら、「ベアトリスを描く」という行為が、モディリアーニの芸術の重要なジャンルである "裸婦" の先鞭をつけたことになります。その意味でもベアトリスは "ミューズ" なのでした。
ジャンヌ・エビュテルヌ
『画家とモデル』に戻ります。モディリアーニの2人目の "ミューズ" であるジャンヌ・エビュテルヌのことは多数の本に書かれ、映画まで作られたので、『画家とモデル』のその部分の紹介は割愛したいと思います。要するに画学生だったジャンヌがモディリアーニと出会い、同棲し、モデルになり、女の子を生み(同じジャンヌという名)、モディリアーニの死後2日目に身重の身で投身自殺をする、というストーリです。
ここでは『画家とモデル』に引用されているジャンヌの肖像、2作品を掲げます。
この絵のポイントはジャンヌの目、ないしは目力です。モディリアーニの肖像画の "目" は、瞳を描いたものと、描かずに塗りつぶしたものがありますが(次の画像)、この絵では瞳を描いています。ところが、実際のジャンヌの瞳は青であり、他の「瞳を描いたジャンヌの肖像」には青く描いたものもあるのですが、この作品は実際とは違う "黒い瞳" です。
おそらくモディリアーニは "ひたとこちらを見つめる彫像的なジャヌ" の表現のためには黒い瞳が適当だと思ったのでしょう。
モディリアーニが亡くなったのは1920年1月24日です。この作品は死の前に描かれたもので、1919年だとしたら12月、1920年1月の作という可能性もあります。モディリアーニの唯一の『自画像』とともに、遺作と言ってもいいでしょう。
ドアを後にしたジャンヌを描いていますが、ドアとその両側の壁の描き方がちょっと複雑です。中野さんは「背景はキュビズムの手法で描かれている」と書いていますが、複数の視点から描いているというか、まるで部屋の隅にドアがあるような(それはあり得ない)描き方です。
その "複雑な" 背景の前のジャンヌの衣装は、少々くすんだ色合いのトリコロールです。この赤いショールと紺青のスカートの組み合わせは、ラファエロの描く聖母マリア(ルーブルの「美しき女庭師」など)を意識したのかもしれません。
しかし、ジャンヌの顔は彫像のように無表情で(H)とは全く違って空虚な感じです。ただ、妊娠7ヶ月の身体だけがモデルとしての彼女の存在を主張している。そういう感じがします。
我々は「報われない芸術家」を求める
中野京子さんの『画家とモデル』のモディリアーニの章には、その最後に、映画『モンパルナスの灯』のことが書かれています。モディリアーニを主人公にした映画なので、それを紹介するのかと思って読むと、目的は全然別のところにありました。
絵を見る我々は、実は心の中のある部分で「報われない芸術家」を求めていて、芸術を鑑賞する行為の一部としてその伝説を "消費" している ・・・・・・。まさにその通りだと思います。代表的な画家がゴッホでしょう。生前は絵が(ほとんど)売れず、37歳でピストル自殺をしてしまう。「周囲の無理解にもかかわらず独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という強いイメージが定着し、それを補強する伝説や物語が流布しています。
モディリアーニはゴッホと違い生前に絵が売れましたが、爆発的に売れ出して高値で取引されるのは死後です。生来の虚弱体質で結核に罹患しているにもかかわらず "破滅型の" 生活(過度の飲酒、麻薬 ・・・)を送り、誰とも似ていない独自の芸術を創り出したが、若くして死に、その直後に身重のパートナーが後追い自殺する ・・・・・・。「報われない芸術家」に "求められる要素" が揃っています。
夭折した芸術家も「報われない芸術家」の範疇でしょう。日本の画家の例を没年齢とともに書くと、関根正二(20歳)、村山槐多(22歳)、青木繁(28歳)、佐伯祐三(30歳)などです。ちなみに関根正二、青木繁、佐伯祐三は結核患者であり、関根正二、青木繁の直接の死因は結核でした。ヨーロッパの画家でいうと、スペイン・インフルエンザで亡くなったエゴン・シーレ(28歳)がいます。おそらく我々が知らないだけで、各国には「知る人ぞ知る夭折の画家」がいるのだと思います。
芸術家としての本格的なキャリアがこれからという時に死んでしまうのだから "報われない" というイメージです。今あげた4人の日本の画家も、それにまつわる "伝説" が広まっています。そして、展覧会などで決まって言われるのが「夭折の天才」ですが、本来 "夭折" と "天才" は別の概念です。つまり、芸術の消費者である我々が「夭折 = 天才」という図式を求め、「報われない芸術家」を欲しているのだと思います。
しかし、我々が暗黙に(ないしは無意識に)求める「報われない芸術家像」は、その芸術家の作品の価値とは別です。中野さんのモディリアーニについての文章で、そのことにあらためて気づかされました。
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その18のエピソードの中から敢えてモディリアーニなのですが、"男性画家と彼に愛された女性モデル" の典型であり、よく知られているモディリアーニをわざわざ取り上げる理由は、
女性モデルとして、有名なジャンヌだけでなくベアトリスのことも書かれている。 |
モディリアーニを題材にしたフランス映画『モンパルナスの灯』の話があり、これが秀逸だった。 |
個人的に「この画家が好き」と初めて思えたのがモディリアーニ(随分前ですが)。 |
の3つです。『画家とモデル』のモディリアーニに関する章は、
破滅型の芸術家に全てを捧げて
モディリアーニと《ジャンヌ・エビュテルヌ》
で、いかにも "それらしい" タイトルになっています。以降、この章の要点を、本書には引用されていない絵画も含めて紹介します。
イタリアのリヴォルノに生まれる
モディリアーニ(1884-1920)の生い立ちや生涯は各種の本にさんざん書かれていますが、改めて中野さんの解説で振り返りたいと思います。引用では漢数字を算用数字に改めたところがあります。下線は原文にはありません。
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リヴォルノはトスカーナ州の港町で、ピサの南南西 20km程度の場所です。フィレンツェからちょうど西の方角で、ティレニア海に面しています。
モディリアーニが病弱だったことは有名ですが、16歳のときに結核に罹患したとあります。No.121「結核はなぜ大流行したのか」で、19世紀以降に結核が大流行したことを書きました。画家で言うと、ムンク(1863-1944)とホドラー(1853-1918)は家族を次々と結核で亡くし、それが画風に影響を与えています。幸い2人は結核を発症しなかったのですが、モディリアーニの場合は本人が結核患者だったわけです。
現在のような特効薬があるわけではありません。モディリアーニは結核性脳膜炎で37歳の短い生涯を終えます。元々の虚弱体質に加えてこのような病歴があると当然 "死" を意識するだろうし、そのことがモディリアーニの芸術に影響を与えたと考えるのが妥当でしょう。
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モディリアーニの芸術で重要なことは、もともと彫刻家志望だったことで、フィレンツェやヴェネツィアの美術学校のときからそうだったようです。パリに出てからも彫刻の制作をしていて、これがのちの絵画作品に影響を与えています。
ベアトリス・ヘイスティングス
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この引用の後半、ベアトリスとモディリアーニの "なれそめ" を紹介した中野さんの文章には、最後に "エロティシズム"と "手管" という言葉が使われていて、これは女性にしか書けない感じがします。─── 男に再び会うと、最初の印象とのギャップに驚く。それが "手練手管" だとしても、美貌の男の "色気" には抗しがたく、恥じらいながらアトリエに誘われたりすると、ついて行くしかない ─── といった感じでしょうか。
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画家としてのモディリアーニの最初の "ミューズ" になったのがベアトリス・ヘイスティングスだったというのは、まさにその通りだと思います。それは、モディリアーニがベアトリスを描いた絵を見れば良くわかります。ベアトリスの肖像画は油彩だけでも10数点ありますが、『画家とモデル』にはありません。そこで、いったん『画家とモデル』を離れ、ベアトリスの肖像の何点かを引用します。以下の(A)(B)などは、作品の識別のために便宜上つけた符号です。
ベアトリス・ヘイスティングスの肖像
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(A)「ベアトリス・ヘイスティングス」(1914) |
ハイ美術館(米・アトランタ) |
ベアトリスの肖像画としては最も初期の作品です。変わった絵の具の塗り方ですが、この頃(1914)には点描風に描いた別人の肖像画があるので、それと関係しているのかもしれません。
長い鼻、アーモンド形の目、引き伸ばされた首など、後年の「モディリアーニ・スタイル」の肖像の特徴が現れています。1914年の時点でこのようなスタイルの絵は他に見あたりません。モディリアーニはベアトリスの肖像を描く過程で、自らのスタイルを確立していったという気がします。
![]() |
(B)「ベアトリス・ヘイスティングス」(1915) |
オンタリオ美術館(カナダ) |
ベアトリスの肖像としてはめずらしく帽子を被っていません。この絵になると(A)よりもはっきりとモディリアーニのスタイルになります。全くの無表情ですが、そもそもこの絵でモデルの表情や内面を描くことに興味はないようです。あくまで造形をどうするかが追求されています。
少々奇妙なのは、椅子の背が右側にしか描かれていないことで、この配置だと左にも見えるはずです。もし椅子の背が全くなかったとしたら、シンプルな線による形態の追求だけの絵になってしまうので、バランスをとるために半分だけ描き込んだのでしょうか。
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(C)「ベアトリス・ヘイスティングス」(1915) |
個人蔵 |
ベアトリスの絵では最も "肖像画らしい" ものでしょう。(B)と顔の形が似ていて、ベアトリスの特徴をとらえているのだと思います。めずらしく右目にだけに瞳が描かれています。
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(D)「マダム・ポンパドール」(1915) |
シカゴ美術館 |
多くの美術史家の意見によると、この絵のモデルはベアトリス・ヘイスティングスです。マダム・ポンパドールとは、ルイ15世の寵姫(=公妾。国王の "正式の" 愛人)だったポンパドール夫人のことです。モディリアーニ自身が絵にマダム・ポンパドールと書き込んでいますが、その理由は明らかではないようです。モディリアーニがベアトリスのことを(ふざけて)マダム・ポンパドールと呼んでいたのか、それともこの肖像を描いたあとに、豪華な帽子と衣装の彼女を少々の皮肉を込めてマダム・ポンパドールとしたのかもしれません。"マダム" が英語綴りになっているのは(最後に e がない)、ベアトリスの国籍から "イギリスのポンパドール夫人" という意味を込めたのかもしれません。
![]() |
(E)「ベアトリス・ヘイスティングス」(1915) |
バーンズ・コレクション |
バーンズ・コレクションの Room 19 South Wall にある絵です(No.95「バーンズ・コレクション」)。ちなみにアルバート・バーンズはモディリアーニに最も早く "目を付けた" コレクターの一人で、バーンズ・コレクションにはモディリアーニの名品が揃っています。
この肖像は、顔から首にかけてが円錐のような形になっています。一つ前の「マダム・ポンパドール」では頭がラグビーのボールのような形でモデリングされていました。このように形態を極度に単純化・抽象化してとらえるのはキュビズムに少し近づいている感じがします。
この絵のベアトリスも無表情です。1915~1919年に描かれたモディリアーニの他の肖像画は、いかにもモデルの性格や内面を的確に捕らえたと思える絵が多いわけです。たとえ瞳が描かれていなくても、そう感じる絵が多い。しかしこの絵は(というより A~E は)違って、モデルの内面を表した感じがしません。ベアトリスを素材に描き方の探求をしている感じがします。
なお、上に引用した画像(E)ではわかりにくいのですが、この絵の右上の "BEATRICE" の字の下あたりに新聞紙がコラージュされています。
(A)~(E)の5つの肖像を見て思うのは、モディリアーニの彫刻作品との類似性です。その彫刻の2つの例を下に掲げます。左がバーンズ・コレクションの作品、右がグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)の所蔵作品です。
![]() |
左がバーンズ・コレクション(フィラデルフィア)、右がグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)の所蔵作品。モディリアーニの彫刻は大理石ではなく、石灰岩を彫って作られている。 |
ベアトリスの肖像とこれらの彫刻作品の共通点を書き出すと、
長い鼻筋 | |
アーモンドの形の目 | |
瞳がない | |
頭部は単純化された立体形状 | |
長く引き伸ばされた首 |
などでしょう。モディリアーニは彫刻で実現したかった "美" のイメージを絵画に投影したという感じがします。中野さんも、
|
と書いていました。このあたりから、モディリアーニが独特のスタイルを確立していくのだと思います。それはあくまで出発点なのだろうけど、重要な出発点だと感じます。
さらに別の絵画を引用します。ロンドンのコートールド・ギャラリー(No.155 参照)が所蔵する『座る裸婦』という作品です。日本ではこの名前で呼ばれることが多いのですが、コートールド・ギャラリーは単に「Female Nude = 裸婦」として展示しています。
![]() |
(F)「座る裸婦」(1916) |
コートールド・ギャラリー |
スコットランド国立近代美術館のキュレーターをつとめたダクラス・ホール(1926-2019)は、この絵のモデルがベアトリスではないかと推測しています。
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「全裸に近いベアトリスを描いた素描」とは、下の "BEATRICE" と書き込まれた素描で、ダグラス・ホールの本にも引用されています。下着を脱ぎ終わる寸前のベアトリスを描いているようですが、確かにコートールドの裸婦像と顔立ちが良く似ています。
![]() |
(G)「ベアトリス」(1916) |
個人蔵 |
モディリアーニは数多くの裸婦像を描いていますが、(F)はその最も初期の作品です。その後に描かれる裸婦と違って、輪郭線の様式化はあまりなく、リアルに、かつ繊細で優雅な線で描かれている。これはモディリアーニの描いた裸婦像では最も美しい作品だと思います。さらに感じるのは、これ以降のモディリアーニの裸婦は「プロのモデル」を使ったと思える絵がほとんどなのに比較して、この絵のモデルは "アマチュア" のモデルだと思えることです。
そして、ダグラス・ホールの推測のようにこの絵のモデルがベアトリス・ヘイスティングスだとしたら、「ベアトリスを描く」という行為が、モディリアーニの芸術の重要なジャンルである "裸婦" の先鞭をつけたことになります。その意味でもベアトリスは "ミューズ" なのでした。
ジャンヌ・エビュテルヌ
『画家とモデル』に戻ります。モディリアーニの2人目の "ミューズ" であるジャンヌ・エビュテルヌのことは多数の本に書かれ、映画まで作られたので、『画家とモデル』のその部分の紹介は割愛したいと思います。要するに画学生だったジャンヌがモディリアーニと出会い、同棲し、モデルになり、女の子を生み(同じジャンヌという名)、モディリアーニの死後2日目に身重の身で投身自殺をする、というストーリです。
ここでは『画家とモデル』に引用されているジャンヌの肖像、2作品を掲げます。
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(H)「ジャンヌ・エビュテルヌ」(1918) |
個人蔵 |
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この絵のポイントはジャンヌの目、ないしは目力です。モディリアーニの肖像画の "目" は、瞳を描いたものと、描かずに塗りつぶしたものがありますが(次の画像)、この絵では瞳を描いています。ところが、実際のジャンヌの瞳は青であり、他の「瞳を描いたジャンヌの肖像」には青く描いたものもあるのですが、この作品は実際とは違う "黒い瞳" です。
おそらくモディリアーニは "ひたとこちらを見つめる彫像的なジャヌ" の表現のためには黒い瞳が適当だと思ったのでしょう。
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(I)「ジャンヌ・エビュテルヌ」(1919) |
個人蔵 |
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モディリアーニが亡くなったのは1920年1月24日です。この作品は死の前に描かれたもので、1919年だとしたら12月、1920年1月の作という可能性もあります。モディリアーニの唯一の『自画像』とともに、遺作と言ってもいいでしょう。
ドアを後にしたジャンヌを描いていますが、ドアとその両側の壁の描き方がちょっと複雑です。中野さんは「背景はキュビズムの手法で描かれている」と書いていますが、複数の視点から描いているというか、まるで部屋の隅にドアがあるような(それはあり得ない)描き方です。
その "複雑な" 背景の前のジャンヌの衣装は、少々くすんだ色合いのトリコロールです。この赤いショールと紺青のスカートの組み合わせは、ラファエロの描く聖母マリア(ルーブルの「美しき女庭師」など)を意識したのかもしれません。
しかし、ジャンヌの顔は彫像のように無表情で(H)とは全く違って空虚な感じです。ただ、妊娠7ヶ月の身体だけがモデルとしての彼女の存在を主張している。そういう感じがします。
我々は「報われない芸術家」を求める
中野京子さんの『画家とモデル』のモディリアーニの章には、その最後に、映画『モンパルナスの灯』のことが書かれています。モディリアーニを主人公にした映画なので、それを紹介するのかと思って読むと、目的は全然別のところにありました。
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絵を見る我々は、実は心の中のある部分で「報われない芸術家」を求めていて、芸術を鑑賞する行為の一部としてその伝説を "消費" している ・・・・・・。まさにその通りだと思います。代表的な画家がゴッホでしょう。生前は絵が(ほとんど)売れず、37歳でピストル自殺をしてしまう。「周囲の無理解にもかかわらず独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という強いイメージが定着し、それを補強する伝説や物語が流布しています。
モディリアーニはゴッホと違い生前に絵が売れましたが、爆発的に売れ出して高値で取引されるのは死後です。生来の虚弱体質で結核に罹患しているにもかかわらず "破滅型の" 生活(過度の飲酒、麻薬 ・・・)を送り、誰とも似ていない独自の芸術を創り出したが、若くして死に、その直後に身重のパートナーが後追い自殺する ・・・・・・。「報われない芸術家」に "求められる要素" が揃っています。
夭折した芸術家も「報われない芸術家」の範疇でしょう。日本の画家の例を没年齢とともに書くと、関根正二(20歳)、村山槐多(22歳)、青木繁(28歳)、佐伯祐三(30歳)などです。ちなみに関根正二、青木繁、佐伯祐三は結核患者であり、関根正二、青木繁の直接の死因は結核でした。ヨーロッパの画家でいうと、スペイン・インフルエンザで亡くなったエゴン・シーレ(28歳)がいます。おそらく我々が知らないだけで、各国には「知る人ぞ知る夭折の画家」がいるのだと思います。
芸術家としての本格的なキャリアがこれからという時に死んでしまうのだから "報われない" というイメージです。今あげた4人の日本の画家も、それにまつわる "伝説" が広まっています。そして、展覧会などで決まって言われるのが「夭折の天才」ですが、本来 "夭折" と "天才" は別の概念です。つまり、芸術の消費者である我々が「夭折 = 天才」という図式を求め、「報われない芸術家」を欲しているのだと思います。
しかし、我々が暗黙に(ないしは無意識に)求める「報われない芸術家像」は、その芸術家の作品の価値とは別です。中野さんのモディリアーニについての文章で、そのことにあらためて気づかされました。
2020-06-13 07:38
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No.286 - 運動が記憶力を改善する [科学]
No.272「ヒトは運動をするように進化した」の続きです。No.272 は、アメリカ・デューク大学のポンツァー准教授の「運動しなければならない進化上の理由」(日経サイエンス 2019年4月号)を紹介したものでした。この論文の結論を一言で言うと、
ということです。人は、より健康に過ごすために運動(=身体活動)をするのではなく、普通の健康状態で過ごすためには運動が必要なのです。論文の中では、運動が人の生理機能に良い影響を与えることがいろいろと書かれていましたが、その中に次の文章がありました。
我々は、運動が身体に及ぼす良い影響というと暗黙に、呼吸器系・循環器系(心肺機能)、体脂肪や筋肉、関節や骨密度、免疫機能つまり病気に対する抵抗力などを考えます。ざっくりと言うと、我々が「体力」という言葉で考える範疇についての運動の好影響です。
それは全くその通りなのですが、忘れてならないのは「脳に対する運動の影響」です。それは既に常識のはずで、たとえば介護施設などでは認知症予防のために(軽い)身体活動をやっています。しかし、話は介護施設や高齢者にとどまりません。もっと一般的に年齢や健康状態にかかわらず、身体活動は脳に良い影響を与えます。つまり運動は体力だけでなく「知力」にも関係している。我々は往々にして忘れがちなのだけれど、そこがポイントです。
最近の「日経サイエンス」に、「運動しなければならない進化上の理由」を継続するかたちで、ポンツァー准教授の共同研究者でもあるライクレン教授(David Raichlen。南カリフォルニア大学)の解説が掲載されました。「運動が記憶力を改善する理由」という論文です。今回は是非、それを紹介したいと思います。
成体脳もニューロンを生み出せる
我々は、脳の神経細胞は成人になると増えない、減っていくばかりだと思っています。皆ではないかもしれないが、何となくそう思っている人が多いのではないでしょうか。そういうことを読んだ記憶があるし、年齢を重ねて「昔と違ってモノ忘れをするようになったな」と感じたとき「やっぱり」と思う人もいるはずです。
しかし最新の科学的知見によると、それは違います。ライクレン教授の論文では、まずそのことが強調されています。
では、なぜ運動が脳に良い影響を与えるのでしょうか。
負荷に対する応答で機能が改善する
我々は「体に適度の負荷をかけると体が丈夫になる」ということを直感的に理解しています。つまり「負荷に対する応答」として体の機能が改善されたり、より良くなるわけです。
ウォーキングやランニング、各種のエクササイズで肺や心臓に負荷をかけると、肺活量が増え、酸素取り込み機能が向上し、脈拍数は低下し、心臓機能が向上し、疲れにくくなり、風邪をひきにくくなって病気からの回復力も増す。これは非常に分かりやすい話です。
このことから類推すると、運動が脳に良い影響を与えるとしたら、「運動は脳への負荷でもあり、その負荷に対する脳の応答として機能が向上する」と考えるのが自然です。しかし我々は「脳への負荷」というと、勉強をしたり、問題を解いたり、読書をしたり、パズルを考えたり、ゲームをしたり、いわゆる「脳トレ」をやったり ・・・・・・ といった、"頭を使う" ことを考えてしまいます。単なる運動が脳に負荷をかけるとは直感的には思えない。
そこが「違う」というのが著者の指摘です。脳の応答を引き出す負荷とは何かという疑問に答えるためには、運動に対する我々の考え方を変えるべきだと言います。
「思える」とか「ようだ」という表現になっているのは、運動の脳への影響の研究は比較的最近(この10年程度)のものであり、影響のメカニズムが生理学的、脳神経学的に完全には解明されていないからです。しかしこれが詳しくわかると、たとえば年齢を重ねても認知能力を低下させない運動とはどういうものか、といったことも明らかになるでしょう。以下、現在までにわかっていることを論文から引用します。
運動と脳の可塑性:動物実験
主として人間の脳を念頭に補足しますと、まずタイトルの「脳の可塑性」とは、特に発達期の脳においてニューロンの新生が起こったり、ニューロン間の接続が増えたり、逆に減ったり(使わない場合)が起こることを言います。ざっくり言うと「脳が変化すること」です。
「BDNF」(Brain-derived neurotropic factor。脳由来神経栄養因子)は神経細胞の成長を促すタンパク質で、学習・記憶・判断などの高度な脳機能を担当する部位に作用します。何種類かある神経栄養因子の中では最も強力なものです。引用にあるように、BDNFは網膜、腎臓、唾液腺、前立腺、歯の関連細胞などでも作られ、それらの機能の回復や向上を促すことも知られています。
さらに「海馬」(Hippocampus)です。Hippocampus はタツノオトシゴをも意味する言葉で、その名の通り、脳の海馬の形はタツノオトシゴと似ています。海馬は近時記憶を担い、また大脳皮質に蓄えられる長期記憶を形成します。いわば記憶の司令塔です。海馬は加齢とともに萎縮する傾向にあり、特にアルツハイマー病の患者は顕著です。また強いストレスで起こる「心的外傷後ストレス障害。PTSD。Post Traumatic Stress Disorder)」の患者も、海馬の萎縮が見られることが分かっています。
海馬は記憶だけでなく多様な機能を果たします。このブログで海馬に触れたことが3回ありました。一つは英国のディープマインド社(グーグルの子会社。AIの専門家集団)のCEOであるデミス・ハサビスの経歴で、彼は海馬の研究者です。No.174「ディープマインド」から再掲します。
2つ目のの海馬についての記事は、No.184「脳の中のGPS」です。人間(を含む哺乳類)の脳は "ナビゲーション機能" を持っています。つまり「自己の位置を把握する能力」で、この機能をになっているのが海馬です。これを発見した英国・ロンドン大学のオキーフ教授とノルウェー科学技術大学のモーザー夫妻は、2014年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
3番目は、No.211「狐は犬になれる」の「補記」に書いた話です。ロシアでは60年に渡ってキツネをイヌ化する(=家畜化する)交配実験が続けられてきました。イヌ化したキツネ、つまり人間になついて友好関係を持とうとするキツネの特徴はいろいろありますが、その一つは「海馬の神経細胞の新生スピードが普通のキツネの2倍」だということです。これは子どものキツネの特徴がそのまま残ったことを示します。
人間の脳は酸素が十分に供給されないと機能不全を起こし、場合によっては回復不可能になります。その酸素不足でまずダメージを受けるのは海馬だと言われています。つまりそれだけ重要な役割を果たしていることが想像できます。
運動と脳の可塑性:人での調査
動物実験によって、運動が海馬のニューロンの発生を促進することが分かってきたのですが、では人間ではどうなのか。それが次の引用です。
「適度あるいは激しい身体活動に従事する時間が長い人の海馬が大きい」としつつも、「このような効果がニューロンの新生や既存のニューロン間の接続の増加など脳の可塑性に関連しているかどうかはまだわからない」と、慎重に書かれています。マウスと違って人間の脳を解剖して調べるのは出来ないので、「人間でも、運動をするとニューロンの新生や既存のニューロン間の接続の増加が起こる」と断言はできないということでしょう。断言するためには高度な機器を使った実験が必要なはずです。
しかし、海馬の物理的な萎縮が記憶障害やPTSDと関係していることは明らかなので、逆に物理的な海馬の増大が認知機能の向上と結びつくことは容易に推定できます。さらに、運動が脳に与える良い影響は海馬だけではないようです。
「前頭前皮質」とは「前頭葉」の前の部分(額の方向)で、「前頭前野」とも呼ばれます。ここは「実行機能」をつかさどる部分です。つまり、対立する考えや葛藤を識別したり、現在の行動によってどのような結果が生じるかを予測したり、行動を切り替えたり、ルールを維持しつつ課題を遂行したり、新しい行動パターンの習得したりといったことを行います。一言でいうと「思考」と「行動」の制御であり、ヒトをヒトたらしめている部分とも言えるでしょう。その「前頭前皮質」を運動(有酸素運動)が強化するというのは、大変に重要なことです。
運動が脳に良い理由:進化人類学の見解
次に著者は、運動が脳に良い影響を与える理由を進化人類学の観点から説明しています。理由には2つあって「2足歩行」と「狩猟採集」です。
「歩行が脳に負荷を与える」とは、我々は普通考えません。何も考えることなく歩けるからです。しかし歩行が脳の複雑な制御の結果であることは、2足歩行ロボットを考えれば類推できます。1996年に本田技研が2足歩行ロボット、ASIMO を発表したとき、その完成度の高さに我々はびっくりしたわけですが(我々だけでなく世界のロボット研究者が仰天したわけですが)、なぜかと言うと2足歩行ロボットの制御が非常に難しく、それまで誰も ASIMO レベルの自然な歩行が実現できなかったからです。
進化人類学からみた、運動が脳に良い影響を与える理由の2つ目は「狩猟採集」です。以下の引用に出てくる "ホミニン" とは、絶滅種を含む人類(ホモ属)の総称です(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。
狩猟採集に必要な「2足歩行による長距離移動」のためには長時間の有酸素運動が必要です。狙った動物をどこまでも追いつめていって、動物が弱ったところを仕留める "持久狩猟" などはその典型です(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。「ヒトは有酸素運動に適応した種」であり、「ヒトの体は多くの有酸素運動を行うことを前提にしている」とも言えるでしょう。さらに狩猟採集のときの有酸素運動は、次の説明にあるように「認知活動を行いながらの有酸素運動」です。
認知機能を担う脳の発達は、長時間の有酸素運動を行えるという身体能力の発達と並行して起こった。このことが「運動が認知能力の向上の役立つ」ことの進化人類学的な見方です。
著者は「加齢に伴って進む脳の萎縮とそれに付随する認知機能の低下は、運動不足になりがちな生活習慣に関連している可能性がある」とまで言っています。我々は生活習慣病と言うと、動脈硬化、高血圧、糖尿病などを思い浮かべますが、「認知症(のある部分)も生活習慣病(の可能性がある)」ということでしょう。
「頭を使いながらの運動」仮説
上の引用にあるように、人類が200万年間続けてきた狩猟採集は「認知機能を働かせながらの有酸素運動」が必要でした。このことから類推すると、現代人が行う健康維持のための運動について、
との考えが浮かびます。これを「頭を使いながらの運動仮説」と呼ぶとします(著者の言葉ではなく、いま仮につけた名前です)。著者はこの仮説を立証しようとしています。まだ研究の端緒ですが、次のような例が報告されています。
「認知的刺激の多い環境へのアクセスを運動と組み合わせたマウス」の具体的な説明がないので、どいういう実験かは不明です。迷路を抜けることと、回し車を交互にやるのでしょうか。それはできそうもないので、もっと複雑な実験でしょう。実験内容は分かりませんが、マウスで認知的刺激と運動が関係する結果が得られたということです。さらに人間でも研究もされています。
Nintendo Swich のソフトには「体を動かしながらゲームをする」タイプがいろいろあります(たとえば新垣結衣さんがCMをやった、"リングフィット アドベンチャー")。この手のゲームソフトは、認知症予防に最適なのかもしれません。「頭を使いながらの運動仮説」が立証されたとすると、面白いことになってくるでしょう。
ランニングをするなら
以降はこの論文の感想です。運動が脳に良いとは比較的言われることなので、運動が記憶力などの認知機能を高めるという主旨は理解しやすく、納得できました。
議論は最後に書かれている「頭を使いながらの運動仮説」です。これが正しいとすると、今後、たとえばフィットネスクラブでのエアロバイク(自転車こぎ)はゲームと組み合わせることになるでしょう。つまりバイクの前にビデオ画面があり、バイクのハンドルがゲームの操作機能を持つというイメージです。
そこまで考えなくても、ランニングやジョギングではどうでしょうか。最も頭を使いそうにないのは、ジムや自宅でランニングマシン(=トレッドミル)を使ってやるランです。何も考えなくてもできます。
逆に最も認知機能を働かせならのランニングは「クロスカントリー・ラン」です。舗装されていない野原や丘の小道を駆けめぐり、かつ怪我をせずに安全にやるには、無意識にせよ、かなり頭を使いそうです。
しかしクロスカントリー・ランを日常的にするわけにはいきません。日頃の運動となると、自宅の近辺で、公園の中や歩道、遊歩道、自転車・歩行者専用道をランすることになります。こういったランでも、人とぶつからないように注意が必要だし、タイムを計測しながらスピードやフォームを調整するとなると、それなりに頭を使っていそうです。コースを頻繁に変えると、もっと良いかも知れない。
ただ「頭を使いながらの運動仮説」が正しいと立証されたとしても、それが単純運動と比較してどの程度効果があるかが問題でしょう。解説の最初に書かれていたように「運動はそれだけで認知活動」なのです。ここが一番大切な気もします。
我々人間は高度な文明社会を築き上げ、世界を支配していると思っているけれど、その一方で DNA に継承されている「生理的な枠組み」に支配されています。その生理的な枠組みは進化の結果であり、人間の進化の最終段階であるこの200万年間は「狩猟採集」のライフスタイルでした。
農業が始まったのは約1万年前ですが(日本では3000年程度前)、その農業もかなりの身体活動が必要です。運動不足でも生活していける都市生活は高々100年程度の歴史しかなく、そんな短時間で人間の生理的枠組みは変わりようがありません。我々は、チンパンジーやゴリラのように(人間基準からすると)運動不足の生活を送っても生活習慣病とは無縁で健康に生きられる、というわけにはいかないのです(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。
そのことは、実は昔から理解されていたはずです。文武両道という言葉はそれに近いし、現代では学校における「勉学とスポーツの両立」でしょう。勉学=知的活動・認知的活動、スポーツ=身体活動、と置き換えれば、それは労働年齢のすべての人に言えることだし、高齢になっても当てはまります。そのことを改めて認識すべきだと思いました。
運動は自由選択ではなく、必須
ということです。人は、より健康に過ごすために運動(=身体活動)をするのではなく、普通の健康状態で過ごすためには運動が必要なのです。論文の中では、運動が人の生理機能に良い影響を与えることがいろいろと書かれていましたが、その中に次の文章がありました。
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我々は、運動が身体に及ぼす良い影響というと暗黙に、呼吸器系・循環器系(心肺機能)、体脂肪や筋肉、関節や骨密度、免疫機能つまり病気に対する抵抗力などを考えます。ざっくりと言うと、我々が「体力」という言葉で考える範疇についての運動の好影響です。
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最近の「日経サイエンス」に、「運動しなければならない進化上の理由」を継続するかたちで、ポンツァー准教授の共同研究者でもあるライクレン教授(David Raichlen。南カリフォルニア大学)の解説が掲載されました。「運動が記憶力を改善する理由」という論文です。今回は是非、それを紹介したいと思います。
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成体脳もニューロンを生み出せる
我々は、脳の神経細胞は成人になると増えない、減っていくばかりだと思っています。皆ではないかもしれないが、何となくそう思っている人が多いのではないでしょうか。そういうことを読んだ記憶があるし、年齢を重ねて「昔と違ってモノ忘れをするようになったな」と感じたとき「やっぱり」と思う人もいるはずです。
しかし最新の科学的知見によると、それは違います。ライクレン教授の論文では、まずそのことが強調されています。
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では、なぜ運動が脳に良い影響を与えるのでしょうか。
負荷に対する応答で機能が改善する
我々は「体に適度の負荷をかけると体が丈夫になる」ということを直感的に理解しています。つまり「負荷に対する応答」として体の機能が改善されたり、より良くなるわけです。
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ウォーキングやランニング、各種のエクササイズで肺や心臓に負荷をかけると、肺活量が増え、酸素取り込み機能が向上し、脈拍数は低下し、心臓機能が向上し、疲れにくくなり、風邪をひきにくくなって病気からの回復力も増す。これは非常に分かりやすい話です。
このことから類推すると、運動が脳に良い影響を与えるとしたら、「運動は脳への負荷でもあり、その負荷に対する脳の応答として機能が向上する」と考えるのが自然です。しかし我々は「脳への負荷」というと、勉強をしたり、問題を解いたり、読書をしたり、パズルを考えたり、ゲームをしたり、いわゆる「脳トレ」をやったり ・・・・・・ といった、"頭を使う" ことを考えてしまいます。単なる運動が脳に負荷をかけるとは直感的には思えない。
そこが「違う」というのが著者の指摘です。脳の応答を引き出す負荷とは何かという疑問に答えるためには、運動に対する我々の考え方を変えるべきだと言います。
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「思える」とか「ようだ」という表現になっているのは、運動の脳への影響の研究は比較的最近(この10年程度)のものであり、影響のメカニズムが生理学的、脳神経学的に完全には解明されていないからです。しかしこれが詳しくわかると、たとえば年齢を重ねても認知能力を低下させない運動とはどういうものか、といったことも明らかになるでしょう。以下、現在までにわかっていることを論文から引用します。
運動と脳の可塑性:動物実験
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主として人間の脳を念頭に補足しますと、まずタイトルの「脳の可塑性」とは、特に発達期の脳においてニューロンの新生が起こったり、ニューロン間の接続が増えたり、逆に減ったり(使わない場合)が起こることを言います。ざっくり言うと「脳が変化すること」です。
「BDNF」(Brain-derived neurotropic factor。脳由来神経栄養因子)は神経細胞の成長を促すタンパク質で、学習・記憶・判断などの高度な脳機能を担当する部位に作用します。何種類かある神経栄養因子の中では最も強力なものです。引用にあるように、BDNFは網膜、腎臓、唾液腺、前立腺、歯の関連細胞などでも作られ、それらの機能の回復や向上を促すことも知られています。
さらに「海馬」(Hippocampus)です。Hippocampus はタツノオトシゴをも意味する言葉で、その名の通り、脳の海馬の形はタツノオトシゴと似ています。海馬は近時記憶を担い、また大脳皮質に蓄えられる長期記憶を形成します。いわば記憶の司令塔です。海馬は加齢とともに萎縮する傾向にあり、特にアルツハイマー病の患者は顕著です。また強いストレスで起こる「心的外傷後ストレス障害。PTSD。Post Traumatic Stress Disorder)」の患者も、海馬の萎縮が見られることが分かっています。
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ヒトの海馬の位置。右脳と左脳に一つずつあり、小指ほどの大きさである。左の図は側面図(左が前)、右の図は正面図である。Wikipediaより。 |
海馬は記憶だけでなく多様な機能を果たします。このブログで海馬に触れたことが3回ありました。一つは英国のディープマインド社(グーグルの子会社。AIの専門家集団)のCEOであるデミス・ハサビスの経歴で、彼は海馬の研究者です。No.174「ディープマインド」から再掲します。
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2つ目のの海馬についての記事は、No.184「脳の中のGPS」です。人間(を含む哺乳類)の脳は "ナビゲーション機能" を持っています。つまり「自己の位置を把握する能力」で、この機能をになっているのが海馬です。これを発見した英国・ロンドン大学のオキーフ教授とノルウェー科学技術大学のモーザー夫妻は、2014年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
3番目は、No.211「狐は犬になれる」の「補記」に書いた話です。ロシアでは60年に渡ってキツネをイヌ化する(=家畜化する)交配実験が続けられてきました。イヌ化したキツネ、つまり人間になついて友好関係を持とうとするキツネの特徴はいろいろありますが、その一つは「海馬の神経細胞の新生スピードが普通のキツネの2倍」だということです。これは子どものキツネの特徴がそのまま残ったことを示します。
人間の脳は酸素が十分に供給されないと機能不全を起こし、場合によっては回復不可能になります。その酸素不足でまずダメージを受けるのは海馬だと言われています。つまりそれだけ重要な役割を果たしていることが想像できます。
運動と脳の可塑性:人での調査
動物実験によって、運動が海馬のニューロンの発生を促進することが分かってきたのですが、では人間ではどうなのか。それが次の引用です。
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「適度あるいは激しい身体活動に従事する時間が長い人の海馬が大きい」としつつも、「このような効果がニューロンの新生や既存のニューロン間の接続の増加など脳の可塑性に関連しているかどうかはまだわからない」と、慎重に書かれています。マウスと違って人間の脳を解剖して調べるのは出来ないので、「人間でも、運動をするとニューロンの新生や既存のニューロン間の接続の増加が起こる」と断言はできないということでしょう。断言するためには高度な機器を使った実験が必要なはずです。
しかし、海馬の物理的な萎縮が記憶障害やPTSDと関係していることは明らかなので、逆に物理的な海馬の増大が認知機能の向上と結びつくことは容易に推定できます。さらに、運動が脳に与える良い影響は海馬だけではないようです。
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「前頭前皮質」とは「前頭葉」の前の部分(額の方向)で、「前頭前野」とも呼ばれます。ここは「実行機能」をつかさどる部分です。つまり、対立する考えや葛藤を識別したり、現在の行動によってどのような結果が生じるかを予測したり、行動を切り替えたり、ルールを維持しつつ課題を遂行したり、新しい行動パターンの習得したりといったことを行います。一言でいうと「思考」と「行動」の制御であり、ヒトをヒトたらしめている部分とも言えるでしょう。その「前頭前皮質」を運動(有酸素運動)が強化するというのは、大変に重要なことです。
運動が脳に良い理由:進化人類学の見解
次に著者は、運動が脳に良い影響を与える理由を進化人類学の観点から説明しています。理由には2つあって「2足歩行」と「狩猟採集」です。
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「歩行が脳に負荷を与える」とは、我々は普通考えません。何も考えることなく歩けるからです。しかし歩行が脳の複雑な制御の結果であることは、2足歩行ロボットを考えれば類推できます。1996年に本田技研が2足歩行ロボット、ASIMO を発表したとき、その完成度の高さに我々はびっくりしたわけですが(我々だけでなく世界のロボット研究者が仰天したわけですが)、なぜかと言うと2足歩行ロボットの制御が非常に難しく、それまで誰も ASIMO レベルの自然な歩行が実現できなかったからです。
進化人類学からみた、運動が脳に良い影響を与える理由の2つ目は「狩猟採集」です。以下の引用に出てくる "ホミニン" とは、絶滅種を含む人類(ホモ属)の総称です(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。
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狩猟採集に必要な「2足歩行による長距離移動」のためには長時間の有酸素運動が必要です。狙った動物をどこまでも追いつめていって、動物が弱ったところを仕留める "持久狩猟" などはその典型です(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。「ヒトは有酸素運動に適応した種」であり、「ヒトの体は多くの有酸素運動を行うことを前提にしている」とも言えるでしょう。さらに狩猟採集のときの有酸素運動は、次の説明にあるように「認知活動を行いながらの有酸素運動」です。
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認知機能を担う脳の発達は、長時間の有酸素運動を行えるという身体能力の発達と並行して起こった。このことが「運動が認知能力の向上の役立つ」ことの進化人類学的な見方です。
著者は「加齢に伴って進む脳の萎縮とそれに付随する認知機能の低下は、運動不足になりがちな生活習慣に関連している可能性がある」とまで言っています。我々は生活習慣病と言うと、動脈硬化、高血圧、糖尿病などを思い浮かべますが、「認知症(のある部分)も生活習慣病(の可能性がある)」ということでしょう。
「頭を使いながらの運動」仮説
上の引用にあるように、人類が200万年間続けてきた狩猟採集は「認知機能を働かせながらの有酸素運動」が必要でした。このことから類推すると、現代人が行う健康維持のための運動について、
認知機能を働かせながらの運動の方が、そうでない単純な運動よりも、より脳への良い影響(脳神経の新生、ニューロン間の結合強化)がある
との考えが浮かびます。これを「頭を使いながらの運動仮説」と呼ぶとします(著者の言葉ではなく、いま仮につけた名前です)。著者はこの仮説を立証しようとしています。まだ研究の端緒ですが、次のような例が報告されています。
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「認知的刺激の多い環境へのアクセスを運動と組み合わせたマウス」の具体的な説明がないので、どいういう実験かは不明です。迷路を抜けることと、回し車を交互にやるのでしょうか。それはできそうもないので、もっと複雑な実験でしょう。実験内容は分かりませんが、マウスで認知的刺激と運動が関係する結果が得られたということです。さらに人間でも研究もされています。
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Nintendo Swich のソフトには「体を動かしながらゲームをする」タイプがいろいろあります(たとえば新垣結衣さんがCMをやった、"リングフィット アドベンチャー")。この手のゲームソフトは、認知症予防に最適なのかもしれません。「頭を使いながらの運動仮説」が立証されたとすると、面白いことになってくるでしょう。
ランニングをするなら
以降はこの論文の感想です。運動が脳に良いとは比較的言われることなので、運動が記憶力などの認知機能を高めるという主旨は理解しやすく、納得できました。
議論は最後に書かれている「頭を使いながらの運動仮説」です。これが正しいとすると、今後、たとえばフィットネスクラブでのエアロバイク(自転車こぎ)はゲームと組み合わせることになるでしょう。つまりバイクの前にビデオ画面があり、バイクのハンドルがゲームの操作機能を持つというイメージです。
そこまで考えなくても、ランニングやジョギングではどうでしょうか。最も頭を使いそうにないのは、ジムや自宅でランニングマシン(=トレッドミル)を使ってやるランです。何も考えなくてもできます。
逆に最も認知機能を働かせならのランニングは「クロスカントリー・ラン」です。舗装されていない野原や丘の小道を駆けめぐり、かつ怪我をせずに安全にやるには、無意識にせよ、かなり頭を使いそうです。
しかしクロスカントリー・ランを日常的にするわけにはいきません。日頃の運動となると、自宅の近辺で、公園の中や歩道、遊歩道、自転車・歩行者専用道をランすることになります。こういったランでも、人とぶつからないように注意が必要だし、タイムを計測しながらスピードやフォームを調整するとなると、それなりに頭を使っていそうです。コースを頻繁に変えると、もっと良いかも知れない。
ただ「頭を使いながらの運動仮説」が正しいと立証されたとしても、それが単純運動と比較してどの程度効果があるかが問題でしょう。解説の最初に書かれていたように「運動はそれだけで認知活動」なのです。ここが一番大切な気もします。
我々人間は高度な文明社会を築き上げ、世界を支配していると思っているけれど、その一方で DNA に継承されている「生理的な枠組み」に支配されています。その生理的な枠組みは進化の結果であり、人間の進化の最終段階であるこの200万年間は「狩猟採集」のライフスタイルでした。
農業が始まったのは約1万年前ですが(日本では3000年程度前)、その農業もかなりの身体活動が必要です。運動不足でも生活していける都市生活は高々100年程度の歴史しかなく、そんな短時間で人間の生理的枠組みは変わりようがありません。我々は、チンパンジーやゴリラのように(人間基準からすると)運動不足の生活を送っても生活習慣病とは無縁で健康に生きられる、というわけにはいかないのです(No.272「ヒトは運動をするように進化した」参照)。
そのことは、実は昔から理解されていたはずです。文武両道という言葉はそれに近いし、現代では学校における「勉学とスポーツの両立」でしょう。勉学=知的活動・認知的活動、スポーツ=身体活動、と置き換えれば、それは労働年齢のすべての人に言えることだし、高齢になっても当てはまります。そのことを改めて認識すべきだと思いました。
2020-05-30 08:09
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No.285 - ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲 第1番 [音楽]
No.281~No.283 の記事でショスタコーヴィチの3作品を取り上げました。
ですが、今回はその継続としてショスタコーヴィチの別の作品をとりあげます。ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77(1948)です。
実は No.9~No.11で、20世紀に書かれた3曲のヴァイオリン協奏曲について書きました。作曲された年の順に、シベリウス(1903/1905。No.11)、バーバー(1939。No.10)、コルンゴルト(1945。No.9)です。
しかし思うのですが、20世紀のヴァイオリン協奏曲ではショスタコーヴィチの1番が最高傑作でしょう。それどころか、これは個人的な感想ですが、この曲がヴァイオリン協奏曲のベストです。ベートーベン(1806)、メンデルスゾーン(1844)、ブラームス(1878)、チャイコフスキー(1878)の作品が「4大ヴァイオリン協奏曲」などと言われ、またチャイコフスキーを除いて「3大ヴァイオリン協奏曲」との呼び方もあります。しかしこれらは「19世紀のヴァイオリン協奏曲」であり、20世紀まで含めればショスタコーヴィチが一番だと(個人的には)思うのです。
というわけで以下、譜例とともにショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲 第1番を振り返ってみたいと思います。
2つの背景
まず曲の内容に入る前に、この曲を語る上で重要な「政治との確執」と「DSCH音型」について記しておきます。
No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」で書いたように、
という "事件"(1936)がありました。この結果『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は上演不可能になります。このオペラが再演されたのは改訂版の『カテリーナ・イズマイロヴァ』であり、四半世紀後の1963年のことです。
実はヴァイオリン協奏曲 第1番にも類似の経緯があります。この曲は1948年3月に完成しましたが、時を同じくして1948年2月から「ジダーノフ批判」が始まります。これはソヴィエト共産党の中央委員会書記だったアンドレイ・ジダーノフ(1896-1948)が主導したもので、前衛芸術に対する批判と統制を行ったものでした。音楽ではショスタコーヴィチも批判の標的の一人です。このため、ショスタコーヴィチはヴァイオリン協奏曲第1番の初演を保留しました。初演されたのは、ジダーノフ批判がほぼ収まった1955年10月です。曲の完成から7年半後の初演ということになります。オイストラフの独奏、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団でした。
『マクベス夫人』と違って、ヴァイオリン協奏曲 第1番が政府から直接批判されたわけではありません。しかし、ショスタコーヴィチは初演をしない方がよいと判断したわけです。現代の我々がヴァイオリン協奏曲 第1番を聴いても、曲の作りとしてはノーマルだし、民族舞踊の要素もあるし、しかも作品として傑作です。初演したところで政府に批判されるいわれはないと思うのですが、当時のソ連の芸術家が置かれていた環境は我々の想像を越えているのですね。
ショスタコーヴィチが初演を取り下げた理由をあえて推測してみると、特に第1楽章にみられる "半音を多用した旋律の進行" だと思います(後述)。なかには、12音が全部現れるパッセージがあったりもする。もちろん、ヴァイオリン協奏曲 第1番は無調性音楽ではありません。れっきとした調性音楽ですが、その範囲で新しい音階(というか旋律の進行の "ありよう")や和声が試されている部分がある。それは芸術家として立派な態度だと思います。
ともかく、このヴァイオリン協奏曲 第1番も『マクベス夫人』のように、「芸術や音楽を一定の型に押し込めようとする独裁政治の圧力」と「新たな作品の創造にかける芸術家の情熱」の間の軋轢や確執に巻き込まれた曲だったわけです。
ヴァイオリン協奏曲 第1番には、ショスタコーヴィチの「音楽的署名」ともいうべき「DSCH音型」が出てきます。ショスタコーヴィチの名前を、ロシア語・英語・ドイツ語・日本語で記述すると、
です。名前のロシア語イニシャル「ДШ」のドイツ語表記は「DSch」であり、この4文字をドイツ語の音名として読んだのが「DSCH音型」です。ドイツ音名では "ミ♭" が "Es" ですが、これは "S" と同じ発音です。またドイツ音名で "H" は "シ" の音です(英語音名と違い、ドイツ音名で "B" は "シ♭")。ということで、"DSCH" の音型が "レ・ミ♭・ド・シ" を表すことになる。逆にいうと "レ・ミ♭・ド・シ" という音の並びがあるとすると、そこに隠された "音楽暗号"は、
となります。ドイツ音名を元に暗号を作る際には「ABCDEFGHS」の9文字が使えるわけで、英語音名の「ABCDEFG」よりは自由度があり、ここをうまく利用するわけです。
そのショスタコーヴィチの音楽的署名であるDSCH音型は、交響曲 第10番(1953)の第3・第4楽章や、弦楽4重奏曲 第8番(1960。冒頭から全曲に渡って現れる)など、作品に繰り返し何度も出てきますが、最も早いDSCH音型の使用例がヴァイオリン協奏曲 第1番(1948)なのです。それは第2楽章に出てきますが、楽章の最後になって現れ、それより前は "DSCH音型の変化形" で現れます。また第3楽章のカデンツァでもDSCH音型が回想されます。このあたりは後述します。
ヴァイオリン協奏曲 第1番は4つの楽章から成り、それぞれに "題名" がついています。演奏時間は合計40分程度です。
第1楽章 : ノクターン
第2楽章 : スケルツォ
第3楽章 : パッサカリア
第4楽章 : ブルレスケ
第3楽章のパッサカリアの後には長大なカデンツァがあり、休むことなくそのまま第4楽章に突入します。
第1楽章:ノクターン
第1楽章には「ノクターン:夜想曲」という名が付けられています。夜想曲(ノクターン、ノクチュルヌ、ノットゥルノ)という名前のついた曲は、普通は独立した楽曲です。ショパンのピアノ曲(21曲。1831頃~1845頃)が有名だし、フォーレもピアノで夜想曲を書いています(13曲。1870頃~1921)。ドビュッシーの「夜想曲」(1899)は管弦楽作品、ドヴォルサークの「ノットゥルノ」(1883)は弦楽合奏ですが(=弦楽4重奏曲 第4番 第2楽章の編曲)、独立曲であることには変わりません。
つまりショスタコーヴィチのように、楽曲の一部の楽章に「ノクターン」と名付けるのはめずらしいのですが、そのめずらしい中にも大変有名な曲があります。ボロディンの弦楽4重奏曲 第2番(1881)の第3楽章は有名な旋律で始まりますが、この楽章が「ノットゥルノ」と題されています。ショスタコーヴィチはロシアの作曲家としての先輩に習い、自分はヴァイオリン協奏曲でと考えたのかもしれません。さらに、マーラーの交響曲 第7番(1904)の第2・第4楽章も「夜曲(Nachtmusik)」との名前があり、関係があるのかもしれません。
そのノクターンですが、特に形式上の決まりはありません。静かで、夢想的で、甘美で、瞑想しているような気分の曲が多い。このショスタコーヴィチの第1楽章もまさにそういう気分に満ちています。
第1楽章は、第1部(提示)、第2部(展開)、第3部(再現)の3つの部分に分けると考えやすいでしょう。提示・展開・再現という「ソナタ形式」の用語を使いましたが、もちろん厳密な形式ではなく、自由に構成された楽章です。4分の4拍子でModeratoの指示があります。
曲はチェロとコントラバスが奏でる 譜例168 で始まります。この楽想を「主題1A」としておきます。第1主題 とも言えるでしょう。「主題1A」は連続する「符点4分音符+8分音符」の組み合わせが特徴で、このリズムが第1楽章全般に現れます。以下の「数字-数字」は譜例の小節番号です。

5小節目から、独奏ヴァイオリンが 譜例169 で入ってきます。「主題1A」の変奏ですが、音が引き延ばされ、変形したものになっています。

その次の 譜例170 になると、はっきりと「主題1A」になります。ここはヴァイオリンの G線で演奏され、冒頭のチェロ(譜例168)の1オクターブ上になります。

さらにその次の14小節では、独奏ヴァイオリンが4つの8分音符を含む旋律を奏でます(譜例171)。これを「主題1B」としておきますが、もちろん「主題1A」の変化形です。この「主題1B」の形も第1楽章の全域に現れます。

最初に p で始まった第1楽章が一気に強まり、この楽章の最初の ƒ になるのが 譜例172 です。この部分は「主題1A」と「主題1B」からできています。

ディミネンドがかかって静かになったあと、クレッシェンドが始まり、譜例173 で2度目の ƒ になります。

51小節の2拍目から新たな主題が出てきます(譜例174)。「主題1C」としましたが、第2主題 と呼んでもよいでしょう。この「主題1C」の後にも「主題1B」が続き、2つが融合して進んでいきます。

独奏ヴァイオリンが再び「主題1C」を静かに演奏するところになると、第1部が終わります。ここまで独奏ヴァイオリンは休むことなく弾き続けてきました。
79小節から第2部(展開部に相当)に入ります。その最初が 譜例175 で、独奏ヴァイオリンは弱音器を付けて演奏されます。ここは「主題1B」の変奏です。80小節の最初は「シ♭」で、84小節の3拍目の裏にも「シ♭」があります。この2つの「シ♭」の間には12音が全部揃っています。5小節の中に12音が揃うというのは、意図的にそうなっているのでしょう。12音技法ではありませんが、ショスタコーヴィチの新しい試みです。
93小節からは、独奏ヴァイオリンが1弦の「ド」の音を引き伸ばすなか、チェレスタとハープが 譜例176 を演奏します。これと似た部分が交響曲 第5番の第3楽章、Largo にありました。なお 譜例176 は、ここ以前に第1部の終わりの部分でバス・クラリネットの低音で演奏されました。

独奏ヴァイオリンが1弦の高い方の「ド」の音を保持したまま、リテヌートがかかり、ア・テンポで3連符を多用した新たな展開になります(譜例177)。ここは「主題1C」との関連性を感じるところです。99小節の最初の「ド」は前の小節から続く音ですが、ここから103小節の最後の「シ♭」までの5小節の間に12音が全部出てきます。譜例175 とそっくりですが、展開されている主題が違います。このあたりはショスタコーヴィチの工夫を感じるところです。なお 譜例177 の音の運びは、第1楽章 第3部のコーダの部分で再現されます。
再びリテヌートがかかり、ア・テンポとなるところで、ファゴットが4分の3拍子に変化させた「主題1A」を演奏します(譜例178)。

これを契機に、弱音器をはずした独奏ヴァイオリンが3連符と重音を多用して音楽を盛り上げていきます。その頂点で演奏されるのが「主題1C」です(譜例179)。譜例174 のときと同じように「主題1B」が続き、第2部のクライマックスになります。第2部はフォルテのまま、次の第3部に入ります。

チューバに導かれて独奏ヴァイオリンが「主題1A」(の変化形)を演奏し、第3部(再現部に相当)になります(譜例180)。ここは 譜例170 と同じように G線で演奏されます。このあとにはコントラバスとバス・クラリネットが、第1楽章の独奏ヴァイオリンの出だしの部分(譜例169)を模倣します。

独奏ヴァイオリンによる「主題1C」の再現が続きます(譜例181)。譜例174 や 譜例179 のときと同じように、「主題1B」が伴っています。

リテヌートがかかったあと、ア・テンポとなる164小節からが第1楽章の終結部です(譜例182)。この部分は「主題1C」の変奏で、第2部の 譜例177(12音が揃っているところ)の再現ともなっています。

第1楽章は、独奏ヴァイオリンが1弦の4倍音の「ミ」の音をハーモニクスで伸ばすなか、チェレスタとハープが第2部の 譜例176 を演奏して終わります。
第1楽章は Moderato のゆったりとした楽章ですが、その特徴は独奏ヴァイオリンの旋律が♭や♯、特に♭で揺れ動くことです。次の音は「ソ」かと(無意識に)思っていると「ソ♭」が演奏され、聴いていると、かすかな違和感というか独特のムードを感じ、その感じが持続するなかでまた次の半音下がった音が出てくる、それが連続していきます。これを仮に旋律の「半音進行」と呼ぶとすると、第1楽章は半音進行に満ちています。
そのため、第2部の 譜例175 や 譜例177 のように、12音全部が出てくる旋律の展開があっても違和感はありません。ごく自然に聞こえます。いや、自然などころか、このあたりがまさに聴く人を "のめり込ませる" というか、"しびれる" ところになっています。ショスタコーヴィチはここで新しい音楽のありようを追求したのだと思います。
さらに、半音進行と関係しますが「いつ止まるともしれない独奏ヴァイオリンの進行」も特徴でしょう。たとえば第1部は、第2部に移るまで独奏ヴァイオリンが71小節を弾きっぱなしです。聴いていると無限に続くのではないかとも感じてしまう。ハマるとやみつきになるような雰囲気です。
全体として「静かで、夢想的で、甘美で、瞑想しているような気分」の曲です。思索にふけっている人間の意識の流れを映した感じもあります。
第2楽章:スケルツォ
複合3部形式
第2楽章は「スケルツォ」と題されていて、終結部がついた3部形式になっています。つまり「A B A′ C」の形で、中間部のBは普通「トリオ」と呼ばれます。Cが終結部(コーダ)です。以下、次のように記述します。
さらに、第1部、第2部、終結部はそれぞれ2つに分かれています。つまり「終結部付きの複合3部形式」です。ここでは、2つに分かれているそれぞれを「前半」「後半」と呼びます。
DSCH音型
最初に書いたように、第2楽章にはDSCH音型が出てきます。但し、完全なDSCH音型は終結部で初めて出現し、それ以前には「変形されたDSCH音型」が出てきます。DSCH音型は、音程で言うと「短2度↑ ・ 短3度↓ ・ 短2度↓」ですが(↑↓は上昇下降の意味)、それが少々違った形で現れます。
まず第1部の後半に現れるのは「短2度↑ ・ 短3度↓ ・ 長2度↓」の形で、これはDSCH音型と違ってピアノの白鍵だけで弾けます(「ミ・ファ・レ・ド」ないしは「シ・ド・ラ・ソ」)。DSCH音型の開始音である「レ」(D)から始めると「レ・ミ♭・ド・シ♭」(ドイツ音名でD・Es・C・B = D・S・C・B)になるので、これを「DSCB音型」と書くことにします。
さらに第3部で現れるのは「長2度↑ ・ 短3度↓ ・ 長2度↓」の形で、これもピアノの白鍵だけで弾けますが(「ド・レ・シ・ラ」ないしは「ファ・ソ・ミ・レ」)、レ(D)から始めると「レ・ミ・ド♯・シ」(D・E・Cis・H)となり、これを「DECisH音型」と呼ぶことにします。
DSCB音型からDECisH音型になり、第2楽章の最後である終結部の後半で "正式のDSCH音型"(=ショスタコーヴィチの音楽的署名)になるというのが、この動機の展開です。実際に聴いていると、この3つの音型は大変に似通ってきこえます。
前半
冒頭からフルートとバス・クラリネットがスケルツォのメインの主題である「主題2A」(譜例183)を Allegro で演奏します。変ロ短調の8分の3拍子です。その裏で、独奏ヴァイオリンが「主題2B」(譜例183)を演奏します。これは第2部(トリオ)前半の主要主題となるものですが、この時点では独奏ヴァイオリンが木管の伴奏に回ります。


木管による「主題2A」の提示がひと通り終わると、独奏ヴァイオリンが序奏を経て、33小節から「主題2A」を演奏します(譜例185)。その後、この主題が展開されていきます。

99小節になると独奏ヴァイオリンが「主題2B」をはっきりとした形で演奏し(譜例186)、そのあと「主題2A」が続きます。このあたりにはフォルテシモの指示があり、前半のヤマ場です。

後半
135小節になると、それまでの変ロ短調(♭5つ)から、嬰ト短調(♯5つ)になり、第1部の後半に入ります。後半の最初は、木管で演奏される「DSCB音型」です(譜例187)。実際の音はDSCBより半音高い「Dis→E→Cis→H」です。DSCH音型とその変化形(DSCB, DECisH)をまとめて「主題2C」とします。

その後「主題2C」は独奏ヴァイオリンでも繰り返されます。162小節の 譜例188 と、177小節の 譜例189 です。曲は疾走感を保ったまま、第2部のトリオへと突入します。


前半
普通、スケルツォの中間部のトリオというと、速度を落とした穏やかな感じにして前後との対比を明確にしますが、ショスタコーヴィチは全く逆です。トリオには Poco piu mosso の指示があり、第1部よりさらに速くなります。また、それまでの8分の3拍子から突如、4分の2拍子に変わり、調性は第1部の前半と同じ変ロ短調(♭5つ)に戻ります。
最初は独奏ヴァイオリンの「主題2B」(譜例190)です。「主題2B」は第1部の前半にも出てきましたが(譜例184、譜例186)ここで完全な形で提示されます。このような進行でスケルツォ全体の統一性がはかられています。

後半
トリオの後半は同じ4分の2拍子ですが、ホ短調に変わります。ここでは新しい「主題2D」(譜例191)が木管と木琴で提示されます。これは民族舞踊を思わせる旋律です。この「主題2D」は第2楽章の終結部や、後の第3楽章のカデンツァでも回想され、曲全体の統一感を生みます。独奏ヴァイオリンがこの主題を展開して曲が進んでいきます。

独奏ヴァイオリンとファゴットの掛け合いのところになると、第2部(トリオ)も終わりです。
第1部の 変ロ短調、8分の3拍子、Allegro に戻り、独奏ヴァイオリンが「主題2A」を再現します(譜例192)。

ここからは独奏ヴァイオリンと木管の掛け合いが始まります。そこにヴィオラなどの弦楽器も加わり、独奏とオーケストラが "協奏" が続きます。「主題2B」が聞こえ、管楽器には「主題2C -DECisH音型」が現れます。369小節まできて独奏ヴァイオリンが 譜例193 を演奏しますが、これはトリオの後半の「主題2D」にもとづきます。

独奏ヴァイオリンと木管の掛け合いが続きますが、427小節に出てくるオーボエの「主題2C」を 譜例194 に示しました。第1部の後半の「主題2C」は「DSCB音型」でしたが、第3部では「DECisH音型」になっています。ここでの実際の音は「F→G→E→D」です。

「主題2C」(DECisH音型)は、449小節からの独奏ヴァイオリンにも現れます。実際の音は「Ces→Des→B→As」です。

独奏ヴァイオリンによる「主題2A」の展開とオーケストラとの協奏は続き、激しい動きやグリッサンドがあったあと、曲はさらに速度を早めて終結部へと進みます。
前半
終結部は4分の2拍子、ト短調で、トリオの後半の「主題2D」で始まります(譜例196)。

後半
さらに進むと8分の3拍子に変わり、独奏ヴァイオリンが「DSCH音型」を強烈に演奏します(譜例197)。実際の音は「As→A→Ges→F」です。ここに至って、ショスタコーヴィチの「音楽的署名」が完成したことになります。なお、「DSCH音型」は第3楽章のカデンツァで回想されます。譜例197 のあと、独奏ヴァイオリンが激しい動きを繰り返すなかで、第2楽章は終了します。

第2楽章は、第1楽章の気分とは全く違った "高速スケルツォ" です。スケルツォは日本語で「諧謔曲」と言うそうですが、諧謔とは "冗談" の意味です。その通り、独奏ヴァイオリンの動きには冗談のような、"おどけた" 感じや "ひょうきんな" 動きがいろいろとあります。こういった曲はショスタコーヴィチが最も得意とするものの一つです。
最後の最後で "DCSH = ドミトリ・ショスタコーヴィチ" が高らかに演奏されます。しかも変遷を重ねてたどり着いた "DCSH" です。この意味は「ショスタコーヴィチはここにあり」ということでしょう。まさにそれがピッタリの音楽だと思います。
第3楽章:パッサカリア
パッサカリアは古くからある3拍子のゆるやかな舞曲です。第3楽章ではまず「パッサカリアの主題」がチェロとコントラバスで提示され、その後に「9つの変奏」が続きます。9つの変奏は、基本的には低音部が主題を演奏し、独奏ヴァイオリンが対旋律を演奏する形ですが、一部、独奏ヴァイオリンが主題を演奏することもあります。
主題と各変奏は、それぞれ17小節から成ります。但し第8変奏は18小節、カデンツァへの橋渡しとなる第9変奏は11小節です。
まずチェロとコントラバス、ティンパニが 譜例198 の「主題3A」を提示します。これがパッサカリアの主題です。それと同時にホルンが 譜例199 の副主題(主題3B)で続き、この2つのパートの掛け合いで主題の提示が進みます。副主題にもティンパニが加わり、荘厳な雰囲気を作り出します。


このパッサカリアの主題(主題3A)は第4楽章にも出てきます(譜例221 と 譜例224)。
第1変奏において主題はファゴットとチューバが演奏します。それに乗っかってイングリッシュ・ホルンとクラリネット、ファゴットが、コラール風の 譜例200 を奏でます。

主題はチェロとコントラバスに移ります。35小節のアウフタクトから独奏ヴァイオリンが入ってきて対旋律を演奏します(譜例201)。この旋律は最初は「ド」と「レ♭」の半音の間を揺れ動きますが、次第に変イ長調の性格を帯び、変イ音のオクターブの跳躍でそれが明確になります。

第2変奏に続いて主題はチェロとコントラバスにあります。対旋律の独奏ヴァイオリンも第2変奏から連続しています。以降、第6変奏のクライマックスまで、独奏ヴァイオリンは途切れることなく続けて演奏されます。
譜例202 は、第3変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律ですが、同時にイングリッシュ・ホルンとファゴットが第2変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律を演奏します。この、チェロとコントラバスの主題の上に乗った2種の対旋律の動きは、パッサカリアの第1の聴きどころでしょう。

主題はホルンに移ります。譜例203 は独奏ヴァイオリンの対旋律ですが、同時にチェロとコントラバスが第3変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律を演奏します。つまり第3変奏と同じ手法です。そしてクレッシェンドがかかって第5変奏へと続きます。第3・第4変奏において、2つのパートの掛け合いで次第に音楽を盛り上げていく手法は見事です。
ですが、今回はその継続としてショスタコーヴィチの別の作品をとりあげます。ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77(1948)です。
実は No.9~No.11で、20世紀に書かれた3曲のヴァイオリン協奏曲について書きました。作曲された年の順に、シベリウス(1903/1905。No.11)、バーバー(1939。No.10)、コルンゴルト(1945。No.9)です。
しかし思うのですが、20世紀のヴァイオリン協奏曲ではショスタコーヴィチの1番が最高傑作でしょう。それどころか、これは個人的な感想ですが、この曲がヴァイオリン協奏曲のベストです。ベートーベン(1806)、メンデルスゾーン(1844)、ブラームス(1878)、チャイコフスキー(1878)の作品が「4大ヴァイオリン協奏曲」などと言われ、またチャイコフスキーを除いて「3大ヴァイオリン協奏曲」との呼び方もあります。しかしこれらは「19世紀のヴァイオリン協奏曲」であり、20世紀まで含めればショスタコーヴィチが一番だと(個人的には)思うのです。
というわけで以下、譜例とともにショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲 第1番を振り返ってみたいと思います。
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ショスタコーヴィチとヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフ、ショスタコーヴィチの息子のマキシム(指揮者)。1973年にリリースされたLPレコードのジャケットがオリジナルである。ショスタコーヴィチはヴァイオリン協奏曲 第1番をオイストラフに献呈した。初演をしたのもオイストラフである。 |
2つの背景
まず曲の内容に入る前に、この曲を語る上で重要な「政治との確執」と「DSCH音型」について記しておきます。
 政治との確執  |
No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」で書いたように、
スターリンはショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を気に入らず、すぐさま共産党の機関誌・プラウダは批判を展開した。
という "事件"(1936)がありました。この結果『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は上演不可能になります。このオペラが再演されたのは改訂版の『カテリーナ・イズマイロヴァ』であり、四半世紀後の1963年のことです。
実はヴァイオリン協奏曲 第1番にも類似の経緯があります。この曲は1948年3月に完成しましたが、時を同じくして1948年2月から「ジダーノフ批判」が始まります。これはソヴィエト共産党の中央委員会書記だったアンドレイ・ジダーノフ(1896-1948)が主導したもので、前衛芸術に対する批判と統制を行ったものでした。音楽ではショスタコーヴィチも批判の標的の一人です。このため、ショスタコーヴィチはヴァイオリン協奏曲第1番の初演を保留しました。初演されたのは、ジダーノフ批判がほぼ収まった1955年10月です。曲の完成から7年半後の初演ということになります。オイストラフの独奏、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団でした。
ちなみに、ジダーノフは第2次世界大戦中のレニングラード攻防戦で、ドイツ軍に包囲されたレニングラードの防衛の総指揮をとった人物です。ショスタコーヴィチの交響曲 第7番のレニングラード初演にも関係があります(No.281 参照)。
『マクベス夫人』と違って、ヴァイオリン協奏曲 第1番が政府から直接批判されたわけではありません。しかし、ショスタコーヴィチは初演をしない方がよいと判断したわけです。現代の我々がヴァイオリン協奏曲 第1番を聴いても、曲の作りとしてはノーマルだし、民族舞踊の要素もあるし、しかも作品として傑作です。初演したところで政府に批判されるいわれはないと思うのですが、当時のソ連の芸術家が置かれていた環境は我々の想像を越えているのですね。
ショスタコーヴィチが初演を取り下げた理由をあえて推測してみると、特に第1楽章にみられる "半音を多用した旋律の進行" だと思います(後述)。なかには、12音が全部現れるパッセージがあったりもする。もちろん、ヴァイオリン協奏曲 第1番は無調性音楽ではありません。れっきとした調性音楽ですが、その範囲で新しい音階(というか旋律の進行の "ありよう")や和声が試されている部分がある。それは芸術家として立派な態度だと思います。
ともかく、このヴァイオリン協奏曲 第1番も『マクベス夫人』のように、「芸術や音楽を一定の型に押し込めようとする独裁政治の圧力」と「新たな作品の創造にかける芸術家の情熱」の間の軋轢や確執に巻き込まれた曲だったわけです。
 DSCH音型  |
ヴァイオリン協奏曲 第1番には、ショスタコーヴィチの「音楽的署名」ともいうべき「DSCH音型」が出てきます。ショスタコーヴィチの名前を、ロシア語・英語・ドイツ語・日本語で記述すると、
Дмитрий Шостакович | |
Dmitri Shostakovich | |
Dmitri Schostakowitsch | |
ドミトリ・ショスタコーヴィチ |
|
"レ・ミ♭・ド・シ"
→ D・Es・C・H → DSCH → DSch
→ Dmitri Schostakowitsch
→ D・Es・C・H → DSCH → DSch
→ Dmitri Schostakowitsch
となります。ドイツ音名を元に暗号を作る際には「ABCDEFGHS」の9文字が使えるわけで、英語音名の「ABCDEFG」よりは自由度があり、ここをうまく利用するわけです。
ちなみに、こういった音楽暗号を最初に用いたのがバッハで、『フーガの技法』に "BACH音型" が出てくることで有名です。また、これを大々的にやったのがシューマンで、自分のイニシャルはもとより、元恋人や奥さん(クララ)、架空の女性名までの音楽暗号を楽曲に忍び込ませています。
そのショスタコーヴィチの音楽的署名であるDSCH音型は、交響曲 第10番(1953)の第3・第4楽章や、弦楽4重奏曲 第8番(1960。冒頭から全曲に渡って現れる)など、作品に繰り返し何度も出てきますが、最も早いDSCH音型の使用例がヴァイオリン協奏曲 第1番(1948)なのです。それは第2楽章に出てきますが、楽章の最後になって現れ、それより前は "DSCH音型の変化形" で現れます。また第3楽章のカデンツァでもDSCH音型が回想されます。このあたりは後述します。
ヴァイオリン協奏曲 第1番は4つの楽章から成り、それぞれに "題名" がついています。演奏時間は合計40分程度です。
第1楽章 : ノクターン
第2楽章 : スケルツォ
第3楽章 : パッサカリア
第4楽章 : ブルレスケ
第3楽章のパッサカリアの後には長大なカデンツァがあり、休むことなくそのまま第4楽章に突入します。
第1楽章:ノクターン
第1楽章には「ノクターン:夜想曲」という名が付けられています。夜想曲(ノクターン、ノクチュルヌ、ノットゥルノ)という名前のついた曲は、普通は独立した楽曲です。ショパンのピアノ曲(21曲。1831頃~1845頃)が有名だし、フォーレもピアノで夜想曲を書いています(13曲。1870頃~1921)。ドビュッシーの「夜想曲」(1899)は管弦楽作品、ドヴォルサークの「ノットゥルノ」(1883)は弦楽合奏ですが(=弦楽4重奏曲 第4番 第2楽章の編曲)、独立曲であることには変わりません。
つまりショスタコーヴィチのように、楽曲の一部の楽章に「ノクターン」と名付けるのはめずらしいのですが、そのめずらしい中にも大変有名な曲があります。ボロディンの弦楽4重奏曲 第2番(1881)の第3楽章は有名な旋律で始まりますが、この楽章が「ノットゥルノ」と題されています。ショスタコーヴィチはロシアの作曲家としての先輩に習い、自分はヴァイオリン協奏曲でと考えたのかもしれません。さらに、マーラーの交響曲 第7番(1904)の第2・第4楽章も「夜曲(Nachtmusik)」との名前があり、関係があるのかもしれません。
そのノクターンですが、特に形式上の決まりはありません。静かで、夢想的で、甘美で、瞑想しているような気分の曲が多い。このショスタコーヴィチの第1楽章もまさにそういう気分に満ちています。
第1楽章は、第1部(提示)、第2部(展開)、第3部(再現)の3つの部分に分けると考えやすいでしょう。提示・展開・再現という「ソナタ形式」の用語を使いましたが、もちろん厳密な形式ではなく、自由に構成された楽章です。4分の4拍子でModeratoの指示があります。
 第1部(提示)  |
曲はチェロとコントラバスが奏でる 譜例168 で始まります。この楽想を「主題1A」としておきます。第1主題 とも言えるでしょう。「主題1A」は連続する「符点4分音符+8分音符」の組み合わせが特徴で、このリズムが第1楽章全般に現れます。以下の「数字-数字」は譜例の小節番号です。
(1-5:主題1A) |

5小節目から、独奏ヴァイオリンが 譜例169 で入ってきます。「主題1A」の変奏ですが、音が引き延ばされ、変形したものになっています。
(5-9) |

その次の 譜例170 になると、はっきりと「主題1A」になります。ここはヴァイオリンの G線で演奏され、冒頭のチェロ(譜例168)の1オクターブ上になります。
(10-13:主題1A) |

さらにその次の14小節では、独奏ヴァイオリンが4つの8分音符を含む旋律を奏でます(譜例171)。これを「主題1B」としておきますが、もちろん「主題1A」の変化形です。この「主題1B」の形も第1楽章の全域に現れます。
(14-17:主題1B) |

最初に p で始まった第1楽章が一気に強まり、この楽章の最初の ƒ になるのが 譜例172 です。この部分は「主題1A」と「主題1B」からできています。
(22-25) |

ディミネンドがかかって静かになったあと、クレッシェンドが始まり、譜例173 で2度目の ƒ になります。
(38-43) |

51小節の2拍目から新たな主題が出てきます(譜例174)。「主題1C」としましたが、第2主題 と呼んでもよいでしょう。この「主題1C」の後にも「主題1B」が続き、2つが融合して進んでいきます。
(51-54:主題1C) |

独奏ヴァイオリンが再び「主題1C」を静かに演奏するところになると、第1部が終わります。ここまで独奏ヴァイオリンは休むことなく弾き続けてきました。
 第2部(展開)  |
79小節から第2部(展開部に相当)に入ります。その最初が 譜例175 で、独奏ヴァイオリンは弱音器を付けて演奏されます。ここは「主題1B」の変奏です。80小節の最初は「シ♭」で、84小節の3拍目の裏にも「シ♭」があります。この2つの「シ♭」の間には12音が全部揃っています。5小節の中に12音が揃うというのは、意図的にそうなっているのでしょう。12音技法ではありませんが、ショスタコーヴィチの新しい試みです。
(79-85) |
![]() |
84小節のシ♭までをドイツ音名(赤色)で書くと(重複は黒色)、"B-G-Ges-Es-D-H-G-Ges-Es-C-Ces-As-G-Es-C-Ces-As-F-E-D-C-H-A-H-C-D-Des-B" となり、"C-Des-D-Es-E-F-Ges-G-As-A-B-H(Ces)" の12音が揃っている。 |
93小節からは、独奏ヴァイオリンが1弦の「ド」の音を引き伸ばすなか、チェレスタとハープが 譜例176 を演奏します。これと似た部分が交響曲 第5番の第3楽章、Largo にありました。なお 譜例176 は、ここ以前に第1部の終わりの部分でバス・クラリネットの低音で演奏されました。
(93-97) |

独奏ヴァイオリンが1弦の高い方の「ド」の音を保持したまま、リテヌートがかかり、ア・テンポで3連符を多用した新たな展開になります(譜例177)。ここは「主題1C」との関連性を感じるところです。99小節の最初の「ド」は前の小節から続く音ですが、ここから103小節の最後の「シ♭」までの5小節の間に12音が全部出てきます。譜例175 とそっくりですが、展開されている主題が違います。このあたりはショスタコーヴィチの工夫を感じるところです。なお 譜例177 の音の運びは、第1楽章 第3部のコーダの部分で再現されます。
(99-103) |
![]() |
103小節のシ♭までをドイツ音名(赤色)で書くと(重複は黒色)、"C-H-C-A-H-G-A-H-Gis-A-Fis-Gis-F-G-E-Cis-C-A-As-F-E-Es-C-A-As-F-E-Es-C-A-As-F-E-Es-D-H-Es-D-H-Es-D-H-G-As-B" となり、"C-Cis-D-Es-E-F-Fis-G-Gis(As)-A-B-H" の12音が揃っている。 |
再びリテヌートがかかり、ア・テンポとなるところで、ファゴットが4分の3拍子に変化させた「主題1A」を演奏します(譜例178)。
(108-111:主題1A) |

これを契機に、弱音器をはずした独奏ヴァイオリンが3連符と重音を多用して音楽を盛り上げていきます。その頂点で演奏されるのが「主題1C」です(譜例179)。譜例174 のときと同じように「主題1B」が続き、第2部のクライマックスになります。第2部はフォルテのまま、次の第3部に入ります。
(120-123:主題1C) |

 第3部(再現)  |
チューバに導かれて独奏ヴァイオリンが「主題1A」(の変化形)を演奏し、第3部(再現部に相当)になります(譜例180)。ここは 譜例170 と同じように G線で演奏されます。このあとにはコントラバスとバス・クラリネットが、第1楽章の独奏ヴァイオリンの出だしの部分(譜例169)を模倣します。
(131-137) |

独奏ヴァイオリンによる「主題1C」の再現が続きます(譜例181)。譜例174 や 譜例179 のときと同じように、「主題1B」が伴っています。
(142-145) |

リテヌートがかかったあと、ア・テンポとなる164小節からが第1楽章の終結部です(譜例182)。この部分は「主題1C」の変奏で、第2部の 譜例177(12音が揃っているところ)の再現ともなっています。
(164-167) |

第1楽章は、独奏ヴァイオリンが1弦の4倍音の「ミ」の音をハーモニクスで伸ばすなか、チェレスタとハープが第2部の 譜例176 を演奏して終わります。
第1楽章は Moderato のゆったりとした楽章ですが、その特徴は独奏ヴァイオリンの旋律が♭や♯、特に♭で揺れ動くことです。次の音は「ソ」かと(無意識に)思っていると「ソ♭」が演奏され、聴いていると、かすかな違和感というか独特のムードを感じ、その感じが持続するなかでまた次の半音下がった音が出てくる、それが連続していきます。これを仮に旋律の「半音進行」と呼ぶとすると、第1楽章は半音進行に満ちています。
そのため、第2部の 譜例175 や 譜例177 のように、12音全部が出てくる旋律の展開があっても違和感はありません。ごく自然に聞こえます。いや、自然などころか、このあたりがまさに聴く人を "のめり込ませる" というか、"しびれる" ところになっています。ショスタコーヴィチはここで新しい音楽のありようを追求したのだと思います。
さらに、半音進行と関係しますが「いつ止まるともしれない独奏ヴァイオリンの進行」も特徴でしょう。たとえば第1部は、第2部に移るまで独奏ヴァイオリンが71小節を弾きっぱなしです。聴いていると無限に続くのではないかとも感じてしまう。ハマるとやみつきになるような雰囲気です。
全体として「静かで、夢想的で、甘美で、瞑想しているような気分」の曲です。思索にふけっている人間の意識の流れを映した感じもあります。
第2楽章:スケルツォ
複合3部形式
第2楽章は「スケルツォ」と題されていて、終結部がついた3部形式になっています。つまり「A B A′ C」の形で、中間部のBは普通「トリオ」と呼ばれます。Cが終結部(コーダ)です。以下、次のように記述します。
= A | |
= B | |
= A′ | |
= C |
さらに、第1部、第2部、終結部はそれぞれ2つに分かれています。つまり「終結部付きの複合3部形式」です。ここでは、2つに分かれているそれぞれを「前半」「後半」と呼びます。
DSCH音型
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|
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DSCB音型からDECisH音型になり、第2楽章の最後である終結部の後半で "正式のDSCH音型"(=ショスタコーヴィチの音楽的署名)になるというのが、この動機の展開です。実際に聴いていると、この3つの音型は大変に似通ってきこえます。
 第1部:A  |
前半
冒頭からフルートとバス・クラリネットがスケルツォのメインの主題である「主題2A」(譜例183)を Allegro で演奏します。変ロ短調の8分の3拍子です。その裏で、独奏ヴァイオリンが「主題2B」(譜例183)を演奏します。これは第2部(トリオ)前半の主要主題となるものですが、この時点では独奏ヴァイオリンが木管の伴奏に回ります。
(1-8:主題2A) |

(1-8:主題2B) |

木管による「主題2A」の提示がひと通り終わると、独奏ヴァイオリンが序奏を経て、33小節から「主題2A」を演奏します(譜例185)。その後、この主題が展開されていきます。
(33-40:主題2A) |

99小節になると独奏ヴァイオリンが「主題2B」をはっきりとした形で演奏し(譜例186)、そのあと「主題2A」が続きます。このあたりにはフォルテシモの指示があり、前半のヤマ場です。
(99-106:主題2B) |

後半
135小節になると、それまでの変ロ短調(♭5つ)から、嬰ト短調(♯5つ)になり、第1部の後半に入ります。後半の最初は、木管で演奏される「DSCB音型」です(譜例187)。実際の音はDSCBより半音高い「Dis→E→Cis→H」です。DSCH音型とその変化形(DSCB, DECisH)をまとめて「主題2C」とします。
(135-142:主題2C - DSCB音型) |

その後「主題2C」は独奏ヴァイオリンでも繰り返されます。162小節の 譜例188 と、177小節の 譜例189 です。曲は疾走感を保ったまま、第2部のトリオへと突入します。
(162-169:主題2C - DSCB音型) |

(177-183:主題2C - DSCB音型) |

 第2部:B(トリオ)  |
前半
普通、スケルツォの中間部のトリオというと、速度を落とした穏やかな感じにして前後との対比を明確にしますが、ショスタコーヴィチは全く逆です。トリオには Poco piu mosso の指示があり、第1部よりさらに速くなります。また、それまでの8分の3拍子から突如、4分の2拍子に変わり、調性は第1部の前半と同じ変ロ短調(♭5つ)に戻ります。
最初は独奏ヴァイオリンの「主題2B」(譜例190)です。「主題2B」は第1部の前半にも出てきましたが(譜例184、譜例186)ここで完全な形で提示されます。このような進行でスケルツォ全体の統一性がはかられています。
(198-205:主題2B) |

後半
トリオの後半は同じ4分の2拍子ですが、ホ短調に変わります。ここでは新しい「主題2D」(譜例191)が木管と木琴で提示されます。これは民族舞踊を思わせる旋律です。この「主題2D」は第2楽章の終結部や、後の第3楽章のカデンツァでも回想され、曲全体の統一感を生みます。独奏ヴァイオリンがこの主題を展開して曲が進んでいきます。
(255-262:主題2D) |

独奏ヴァイオリンとファゴットの掛け合いのところになると、第2部(トリオ)も終わりです。
 第3部:A′(第1部の再現)  |
第1部の 変ロ短調、8分の3拍子、Allegro に戻り、独奏ヴァイオリンが「主題2A」を再現します(譜例192)。
(328-335:主題2A) |

ここからは独奏ヴァイオリンと木管の掛け合いが始まります。そこにヴィオラなどの弦楽器も加わり、独奏とオーケストラが "協奏" が続きます。「主題2B」が聞こえ、管楽器には「主題2C -DECisH音型」が現れます。369小節まできて独奏ヴァイオリンが 譜例193 を演奏しますが、これはトリオの後半の「主題2D」にもとづきます。
(369-376:主題2D) |

独奏ヴァイオリンと木管の掛け合いが続きますが、427小節に出てくるオーボエの「主題2C」を 譜例194 に示しました。第1部の後半の「主題2C」は「DSCB音型」でしたが、第3部では「DECisH音型」になっています。ここでの実際の音は「F→G→E→D」です。
(427-434:主題2C - DECisH音型) |

「主題2C」(DECisH音型)は、449小節からの独奏ヴァイオリンにも現れます。実際の音は「Ces→Des→B→As」です。
(449-456:主題2C - DECisH音型) |

独奏ヴァイオリンによる「主題2A」の展開とオーケストラとの協奏は続き、激しい動きやグリッサンドがあったあと、曲はさらに速度を早めて終結部へと進みます。
 終結部:C  |
前半
終結部は4分の2拍子、ト短調で、トリオの後半の「主題2D」で始まります(譜例196)。
(546-549:主題2D) |

後半
さらに進むと8分の3拍子に変わり、独奏ヴァイオリンが「DSCH音型」を強烈に演奏します(譜例197)。実際の音は「As→A→Ges→F」です。ここに至って、ショスタコーヴィチの「音楽的署名」が完成したことになります。なお、「DSCH音型」は第3楽章のカデンツァで回想されます。譜例197 のあと、独奏ヴァイオリンが激しい動きを繰り返すなかで、第2楽章は終了します。
(567-574:主題2C - DSCH音型) |

第2楽章は、第1楽章の気分とは全く違った "高速スケルツォ" です。スケルツォは日本語で「諧謔曲」と言うそうですが、諧謔とは "冗談" の意味です。その通り、独奏ヴァイオリンの動きには冗談のような、"おどけた" 感じや "ひょうきんな" 動きがいろいろとあります。こういった曲はショスタコーヴィチが最も得意とするものの一つです。
最後の最後で "DCSH = ドミトリ・ショスタコーヴィチ" が高らかに演奏されます。しかも変遷を重ねてたどり着いた "DCSH" です。この意味は「ショスタコーヴィチはここにあり」ということでしょう。まさにそれがピッタリの音楽だと思います。
第3楽章:パッサカリア
パッサカリアは古くからある3拍子のゆるやかな舞曲です。第3楽章ではまず「パッサカリアの主題」がチェロとコントラバスで提示され、その後に「9つの変奏」が続きます。9つの変奏は、基本的には低音部が主題を演奏し、独奏ヴァイオリンが対旋律を演奏する形ですが、一部、独奏ヴァイオリンが主題を演奏することもあります。
主題と各変奏は、それぞれ17小節から成ります。但し第8変奏は18小節、カデンツァへの橋渡しとなる第9変奏は11小節です。
 主題:1-17  |
まずチェロとコントラバス、ティンパニが 譜例198 の「主題3A」を提示します。これがパッサカリアの主題です。それと同時にホルンが 譜例199 の副主題(主題3B)で続き、この2つのパートの掛け合いで主題の提示が進みます。副主題にもティンパニが加わり、荘厳な雰囲気を作り出します。
(1-8:主題3A - パッサカリアの主題) |

(1-8:主題3B - 副主題) |

このパッサカリアの主題(主題3A)は第4楽章にも出てきます(譜例221 と 譜例224)。
 第1変奏:18-34  |
第1変奏において主題はファゴットとチューバが演奏します。それに乗っかってイングリッシュ・ホルンとクラリネット、ファゴットが、コラール風の 譜例200 を奏でます。
(18-27) |

 第2変奏:35-51  |
主題はチェロとコントラバスに移ります。35小節のアウフタクトから独奏ヴァイオリンが入ってきて対旋律を演奏します(譜例201)。この旋律は最初は「ド」と「レ♭」の半音の間を揺れ動きますが、次第に変イ長調の性格を帯び、変イ音のオクターブの跳躍でそれが明確になります。
(34-43) |

 第3変奏:52-68  |
第2変奏に続いて主題はチェロとコントラバスにあります。対旋律の独奏ヴァイオリンも第2変奏から連続しています。以降、第6変奏のクライマックスまで、独奏ヴァイオリンは途切れることなく続けて演奏されます。
譜例202 は、第3変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律ですが、同時にイングリッシュ・ホルンとファゴットが第2変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律を演奏します。この、チェロとコントラバスの主題の上に乗った2種の対旋律の動きは、パッサカリアの第1の聴きどころでしょう。
(52-57) |

 第4変奏:69-85  |
主題はホルンに移ります。譜例203 は独奏ヴァイオリンの対旋律ですが、同時にチェロとコントラバスが第3変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律を演奏します。つまり第3変奏と同じ手法です。そしてクレッシェンドがかかって第5変奏へと続きます。第3・第4変奏において、2つのパートの掛け合いで次第に音楽を盛り上げていく手法は見事です。