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No.378 - クロテンの毛皮の女性:源氏物語 [文化]

Parmigianino - Antea_2.jpg
パルミジャニーノ
「アンテア」
No.332「クロテンの毛皮の女性」のテーマは、16世紀イタリアの画家・パルミジャニーノの『アンテア』(ナポリ・カポディモンテ美術館)でした。女性の全身像を描いた絵です。この絵の大きなポイントは、超高級品であるクロテンの毛皮で、しかもその毛皮にクロテンの頭部の剥製がついている(当時の流行らしい)、そのことによる "象徴性" でした。それは、描かれた女性の気性きしょうと感情を暗示している(と、絵を見る人が感じる)のでした。

ところで『アンテア』とは何の関係もないのですが、日本文学史上で著名な、"クロテンの毛皮を身につけた女性" がいます。源氏物語の登場人物の一人である "末摘花すえつむはな" です。以下、源氏物語でクロテンの毛皮がどのように扱われているかをみていきます。漢字で書くと、クロテン = 黒貂 です。


末摘花


源氏物語の第六帖は「末摘花」と題されています。末摘花は、赤色染料に利用する紅花べにばなの別名で、同時に、源氏がある姫君につけた "あだ名" です。名前の理由は物語の中で明かされます。

第六帖「末摘花」において源氏は18歳(数え年)す。この年齢では、物語の先々まで影響する重要な出来事が起こります。まず、父(桐壺帝)の妃である藤壺との密通があり、藤壺が懐妊します。また、不遇の身である紫の上(藤壺の姪)を見い出し、二条院(源氏の邸宅)に引き取ります。これらの出来事は第五帖の「若紫」で語られますが、同時並行で進むのが「末摘花」です。

大輔たいふ命婦みようぶという女官がいました。彼女の母親は源氏の乳母です。つまり、大輔の命婦と源氏は一緒に育てられたわけで、兄妹も同然であり、二人は何でも言い合える間柄です。

あるとき、大輔の命婦がふと源氏にもらしたことがありました。故常陸宮ひたちのみやの姫君が一人残されていて、常陸宮邸でひっそりと暮らしている。誰とも会わず、琴だけを友としているとのことです。源氏は俄然、この "深窓の姫君" に興味を持ちました。故常陸宮は琴の名手として知られていたので、姫君も上手ではとの思いもありました。

源氏は、今は荒れた常陸宮邸の庭に忍び込み、姫君が奏でる琴の音を聴きました。そのあと姫君に恋文を送ります。しかし姫君からは何の返事もありません。

らちがあかないので、源氏は大輔の命婦に手引きをさせ、八月のある日、ついに姫君と結ばれます。しかし、姫君のあまりに初心うぶでぎこちない様子に源氏は失望しました。翌朝すぐに出すべき後朝の手紙も気が乗らず、夕方になってやっと書く始末で、それっきり姫君を訪ねる気にはなりませんでした。

手引きをした大輔の命婦は責任を感じ、姫君を訪ねようとしない源氏を責めます。それもあって源氏は秋になってから、上皇への行幸に関連した公務が一段落したあと、何度か姫君を訪ねます。しかし姫君の様子には不満が残りました。

やがて冬を迎え、源氏は久々に常陸宮邸で一夜を明かしました。翌朝は一面の雪景色です。雪の美しい景色を見るように誘った源氏の声に、姫君はやっと部屋の外に出てきました。その雪明かりの中で、源氏は初めて姫君の顔をよく見るのです。その描写が次です。瀬戸内寂聴の現代語訳で引用します。


源氏の君は、姫君を見ぬふりをしながら、外の方を眺めていらっしゃいますが、横目でしきりに御覧になります。さて、どうだろうか、こうして打ちとけた時に見て少しでもよく見えるようだったらどんなに嬉しいだろうとお考えになるのも、身勝手なお心というものです。

何よりもまず、座高がいやに高くて、胴長なのが目に映りましたので、やはり思った通りだと、お胸もつぶれるお気持でした。その次に、ああ、みっともないと思われたのは、お鼻でした。ふとそこに目がとまってしまいます。普賢菩薩ふげんぼさつのお乗り物の象の鼻のようです。あきれるばかり高く長くのびている上に、先の方が少し垂れ下がって、赤く色づいているのが、ことのほかいやな感じでした。

顔色は雪も恥ずかしいほど白くて青味を帯びています。額つきはむやみにおでこで広く、それでもまだ顔の下の方が長く見えるのは、たぶん恐ろしく長いお顔立ちなのでしょう。痩せていらっしゃることといったら、お気の毒なほど骨ばっていて、肩のあたりなどは、痛そうなほどごつごつしているのが、お召物の上からでもありありと見えます。

源氏の君は、どうして何もかもすっかり見てしまったのだろうと思いながら、姫君があまりにも珍しい御器量なので、やはりついお目がそちらへよせつけられてしまうのでした。

頭の格好や、髪の顔に垂れかかった様子だけは、申し分なく美しいとお思いになっていらっしゃる女君たちにも、おさおさ劣らないくらいに見えます。うちきの裾に長い黒髪がたまって、なお床にあふれている部分は、一尺にあまるだろうと思われます。

お召物のことまで言いたてるのは口さがないようですが、昔物語にも、まず人物の着ている衣裳について語っているようです。それにならっていえば、姫君は薄紅うすくれないの、ひどく古びて表面が白っぽく色褪せた一襲ひとかさねの上に、色目も見えないほどすっかり黒ずんだ紫色の袿を重ねて、表着うわぎには黒貂くろてん皮衣かわぎぬの、たいそう艶やかで香をたきしめてあるのを着ていらっしゃいます。古風な由緒ある御衣裳ですけれど、やはり若い姫君のお召物としては不似合いで、ものものしすぎるところがとりわけ目につきます。けれども、やはりこの皮衣がなくてはさぞお寒いことだろうと思われる姫君のお顔色なので、お気の毒だと同情なさって御覧になるのでした。

紫式部『源氏物語』
第六帖「末摘花」
瀬戸内寂聴・訳(講談社 1997)

瀬戸内寂聴・源氏物語・巻二.jpg
瀬戸内寂聴・訳「源氏物語 巻二」
(講談社 1997)
第六帖「末摘花」から、第十一帖「花散里」までが収められている。

何度か一夜を共にしたにもかかわらず、雪の朝に初めて姫君の顔をよく見たというのは、当時の夜の照明事情を反映しているのでしょう。その、源氏がびっくりしてしまった末摘花の様子をまとめると、

・ 座高が高くて、胴長
・ 鼻が高くて長い。鼻先が少し垂れて赤く色づいている
・ 雪も恥ずかしいほどの色白
・ おでこで広く、面長の顔
・ 痩せていて骨ばっている
・ 頭の格好はよい
・ 床に届いてなお余る長い黒髪

となるでしょう。要するに、プラスポイントである頭の格好と長い黒髪は別にして、源氏が見なければ良かったと後悔するぐらい "不器量な" 女性であり、紫式部はそれを、これでもかと言わんばかりに描写しているわけです。源氏がのちに姫君を末摘花(= 紅花)と呼んだのは、"鼻先が赤い" ことによります(= ベニバナ)。源氏は後に二条院で、鼻に紅を塗って幼い紫の上とたわむれるという、人としてどうかと思える行為をしています。その末摘花の召し物は、

・ 色褪せた薄紅の一襲(ひとかさね)
・ 黒ずんだ紫色の袿(うちき)
・ 黒貂の毛皮

です。この召し物の描写で、"荒廃した邸宅に住む、没落した宮家の姫君" が表現されています。黒貂の毛皮は、当時の渤海国(現在の極東ロシア南部から朝鮮半島の国。698-926)からの輸入品でした。渤海国と日本の関係は深く、30回以上も "渤海使" が日本に派遣されています。日本からも使者が送られました。

瀬戸内寂聴・訳「源氏物語」の注釈によると、黒貂の毛皮は高級品で、主として貴族の男性の召し物であり、村上天皇のころには流行したが、一条天皇(在位 986-1011)の頃には時代遅れであったらしい、とあります。紫式部が「源氏物語」を執筆したのは一条天皇の頃です。その頃、渤海国はすでに滅んでいて、渤海使も途絶えていました。要は、黒貂の毛皮が象徴するのは、

・ 輸入された高級品 = 皇族や上位貴族
・ 少々時代遅れ
・ 女性が着るには不適

ということです。黒貂の毛皮は故・常陸宮の遺品と想定されているはずです。このあたり、末摘花の容姿の記述と合わせて、"没落した宮家の不器量な姫君" を "意地悪く" "丹念に" 描く紫式部の筆力が冴えています。紫式部が「源氏物語」を書いた当時、"黒貂の毛皮を着た女性" がどういう意味をもつのか、同時代の読者にはすぐに分かったのでしょう。それを知った上で、わざわざ「黒貂の毛皮というレアなアイテム」を女性に着せた紫式部の技量を感じます。もちろん、源氏物語の女君で黒貂の毛皮を着ているのは末摘花だけです。

クロテンの毛皮は、現在でもミンクの毛皮より高級品です。絵画や小説の登場人物で「クロテン(黒貂)の毛皮を着た女性」というと、最高級の毛皮ということから「裕福」「富裕層」「上位階級」が連想されます。さらに女性のイメージとしては「美人」とか「意思の強さ」などでしょう。パルミジャニーノの『アンテア』はまさにそのような象徴性もった絵画でした。

それに対して、紫式部が「末摘花」に着せたクロテンの毛皮は、全く逆の象徴性で使われています。姫君の容貌と召し物をネガティブに描写するなかで、トドメを刺すように使われている。そこがおもしろいところです。「荒れた邸宅なので毛皮なしでは寒いのだろう」と源氏が思うのも、不適切な召し物を通り越して同情を誘うレベルだということでしょう。



姫君に同情した源氏は、その後姫君を援助し、手紙のやりとりをし、何度か姫君を訪れました。



常陸宮の姫君・末摘花のその後は、第十六帖「蓬生よもぎう」で語られます。蓬生とは、蓬などの雑草が茂る荒れた場所の意味です。

須磨、明石と、流離の生活を送った源氏は、その後、都への復帰を果たしました。ある都の通りを源氏が過ぎると、藤の咲いている荒れ果てた邸宅が目にとまります。見覚えがある気がしたのですが、それは末摘花の常陸宮邸だと思い出しました。流離の身であった間、源氏からの援助は途絶えていて、荒れ放題だったのです。源氏は、生い茂った雑草をかきわけて邸に入っていき、久しぶりに末摘花と再開します。

実は末摘花は、ずっと源氏のこと一途に想い、源氏との再会を信じて常陸宮邸で暮らしていたのでした。困窮の生活でしたが、邸を人手に渡さず、調度品を売ることもなく、使用人が離反していく中で、宮家の誇りをもって邸を守ってきたのです。内気で不器用なのは以前の通りですが、その純情さ、身のこなしの優雅さ、気品、皇族としての矜持に、源氏はいたく感動します。源氏は薄情だった自分を深く恥じ、人をやって雑草を刈らせ、邸の修理もさせて、末摘花の生活の面倒をみました。

そして再会の2年後、源氏は末摘花を別邸である二条東院にじょうひがしのいんへ引き取り、末摘花はそこで安寧に暮らしたのでした。ここで第十六帖「蓬生」は終わります。



この末摘花について、別の解釈をされる方がいます。以降はその話を続けます。


ウェイリー版・源氏物語


NHK Eテレの「100分 de 名著」は、2024年9月2日から23日の4週にわたって「ウェイリー版・源氏物語」をとりあげました。イギリスの東洋学者・詩人のアーサー・ウェイリー(1889-1966)が英訳した「源氏物語」(1925~1933 出版)を再び現代日本語に "戻し訳" した「ウェイリー版・源氏物語」(2017)がテーマです。戻し訳をしたのは、毬矢まりやまりえ(俳人、評論家)、森山 恵(詩人、翻訳家)の姉妹です。

ちなみにアーサー・ウェイリーの英訳は世界に「源氏物語」を知らしめ "世界文学の傑作" との評価を得るに至った意義あるものです。故・ドナルド・キーンさんも、ウェイリー訳のとりこになって日本文学研究を志したといいます。

与謝野晶子が現代日本語に訳した「源氏物語」が出版されたのは1912年~13年で、これによって多くの日本人が「源氏物語」に接することになりました。原文で読める日本人はごく少なかったからです。ウェイリー訳の出版は与謝野晶子のわずか13年後です。一般の日本人がじかに「源氏物語」に触れた時期と、イギリス人が「源氏物語」に読んだ時期がほとんど同じだった ・・・・・・。この事実もってしても、アーサー・ウェイリーの仕事の偉大さが分かります。

ウェイリー版・源氏物語1.jpg
「ウェイリー版・源氏物語 1」
毬矢まりえ・森山恵訳
(左右社 2017)

第六帖「末摘花」が収められている。表紙はクリムトの「接吻」(1908)だが、「源氏物語」のすべての発端となった "桐壺の更衣を寵愛する桐壺帝" を象徴している。
「100分 de 名著」の番組 MC は、伊集院光さんと、NHKの安部みちこアナウンサーで、テーマとする名著ごとにゲストが招かれます。「ウェイリー版・源氏物語」のゲストは能楽師の安田登氏でした。安田氏は古典の魅力を伝える本を数々出版されています。

そして、2024年9月23日に放送の第4回(最終回)には「ウェイリー版・源氏物語」を戻し訳した毬矢・森山姉妹が出演しました。この回に末摘花の話題が出てきました。ウェイリーの英訳で読むと、紫式部の原典に比べて最も印象が変化した人物が末摘花だと、姉妹は口を揃えて言います。そのあたりを文字で引用します。

以下の引用で、"ナレーション" は毬矢・森山訳「ウェイリー版・源氏物語」を要約している部分、"朗読" はそのまま朗読している部分です。朗読中の( ...... )はウェイリー版にある記号で、【 ...... 】は朗読では省略された部分です。また、〈 ...... 〉はこの引用をする上での補足です。


ナレーション
スエツムハナは皇族、常陸宮の姫。しかし父をなくし、今は荒れ果てた家にひっそりと暮らすロンリー・プリンセス。そのシチュエーションに深く惹かれたゲンジは、引っ込み思案で顔も見せない彼女と関係をもちます。しかしある朝、その姿をはっきり見て、ゲンジは仰天するのです。

朗読(松永玲子)
ああ、それにしても、なんという馬鹿げた間違いを犯したのだろう。この姫君がとにかく背丈がとても高いのは座高でわかります。これほどの胴長の女性がこの世にいるとは。やにわに、最大の欠点に目が引きつけられました。

鼻です。鼻から目が離せません。まさにサマンタバドラ〈漢字のルビで "普賢菩薩"〉さまの白象の鼻! 驚くほど長く目立つうえに、(なんとも不思議なことに)少し下向き加減に垂れたその鼻先はピンク色で、雪の白さもかすむほどの色白な肌と、奇妙なコントラストを成しています。【額が並外れて迫り上がっていて、顔全体は(うつむいているので一部隠れていますが)とてつもなく長いようです。】たいそう痩せて骨ばり、とりわけ肩の骨が痛ましくドレスの下で突き出ています。こんな惨めな姿をさらさせてしまったとは。申し訳ない気もしますが、あまりに奇っ怪な姿に、どうにも目が釘付けになってしまいます。

ナレーション
髪はどの姫よりも素晴らしく長いけれど、その時代の姫は誰も着ないような古めかしいクロテン、セーブルの毛皮マントを身にまとったスエツムハナ。その姿にゲンジは、驚きと同情を禁じ得ないのでした。

安部アナウンサー
ひどい書き方 !

伊集院 光
ひどいってことなんだ。ひどいってことを手数を尽くして書いている。

森山 恵
初めは原典を読んで、普通にこういう姫君だと思っていたのですけれども、英語で読んだときに、あらっ、これって、そんなに悪くないんじゃないって思ったんですよ。驚くような誇張表現をしているけれども、「鼻が長い」っていうのも英語で読むと「鼻筋が通っている」って聞こえるんですよ。いま、座高が高いってあったけれども、それって背が高いってことで、骨が浮き出てるって、細いっていうことですよね。そして色が白い。雪のように白い。だからこそ、ちょっと寒い雪の朝に鼻の先が赤くなってしまった。髪が長くて ・・・。素敵なんじゃないと、二人でなったんですね。

伊集院 光
ちょっと思うんですよ。この無国籍になった〈ウェイリー版「源氏物語」をさす〉あとでこの表現が入ってくると、この国でははやらないのかも知れないけれども、美とは何かとか、綺麗な人とは誰かみたいなことが〈頭の中で〉くるくる回り始める。

毬矢まりえ
彼女はもしかして外国にルーツがあるのではないかなと思ったんですね。クロテンのマントを着ているというのを、実は英語ではセーブルって訳してるんですね。セーブルの毛皮ってミンクよりも高級な ・・・

伊集院 光
いいモノなんだ

毬矢まりえ
今で言う朝鮮半島からロシアにかけて、渤海国っていう広大な国があって、そこから日本に入ってきてたそうなんです。紫式部は越前にいたことがあって、そこは当時の国際都市なので、港からいろんなモノが入ってくるから、彼女は外国人を見ていたかもしれないし、クロテン、セーブルも見てたのかな、と。

安田 登
この前の時代、「今昔物語」のシーンにですね、重明しげあきら親王という方がいて、この方が渤海国の使者の前にクロテンのマントを何枚も着て出たという話があるんですよ。しかも、重明親王の息子〈かもしれない人〉が〈スエツムハナに〉そっくりなんですよ。描写が ・・・。顔が白くて、鼻が高くて ・・・。ひょっとしたら重明親王の奥さんが渤海国の人で、だからいっぱいセーブルのマントをもらえて ・・・・・・。で、宮の子供がその子だったとしたら、これがそのまま常陸宮とスエツムハナの関係になるのかもしれないなんて、いろんな妄想が膨らむんですよ。

100分 de 名著  
「ウェイリー版・源氏物語」(4)
(NHK E テレ。2024年9月23日)

毬矢さんの「紫式部は外国人を見ていたかもしれない(= その記憶をもとに末摘花を造形したのではという含意)」とか、安田さんの重明親王の息子うんぬんの話は、"妄想" のレベルでしょう(安田さん自身、妄想が膨らむと言っています)。しかし歴史談義で妄想するのは別に悪いことではありません。この引用でのポイントは森山さんの発言で、

源氏物語の末摘花の描写を英語で読むと、末摘花は素敵な人と思えてくる

というところです。そして伊集院さんの発言が示唆しているように、

紫式部が誇張表現で描写した末摘花の容貌は、その時代の日本の貴族社会の基準では不器量の典型だったけれど、20世紀以降のイギリス人の基準では、そして現代日本の基準では素敵な人(かもしれない)

ということです。たとえば、鼻筋が通って鼻先が垂れている、という様子ですが、現代の日本の女優さんでもそういう人はいます。たとえば松雪泰子さんです。彼女を不器量だと思う日本人はいないでしょう。北川景子さんでもよい。もちろん現代では女性について鼻先が垂れていると表現はしません。そういうことは全く意識しなくなった、つまり "美" の規準が変わったのです。つまり規準は時代によって、また文化によって変化する。あたりまえのことですが改めてそう思います。

そして、もし英訳された「ウェイリー版・源氏物語」を読んだ英国人や英語を母語とする人が、スエツムハナは素敵な人だと思ったとしたら、それは紫式部の意図とは違うことになります。さらに、素敵な人であるにもかかわらず、"欠点" とか、"惨めな" と出てくるので、英語版の読者としては少々違和感を抱くかも知れません。

しかしこれは「世界文学としての源氏物語」にとって、当然そういうことはありうるのでしょう。それは逆もまたしかりで、我々が外国の作品で世界文学となっているもの、たとえばシェイクスピアや、19世紀のフランスやロシアの小説(バルザックやドストエフスキーなど)を日本語訳で読むときも同じことが言えるはずです。

そういう些細な "誤解" のいろいろを乗り越えて、また1000年の時を乗り越えて小説としての深みと魅力を感じさせるのが「世界文学としての源氏物語」である。そういうことだと思います。読んだ人の人生を変える力を持った小説は、そうないはずです。


The Tale of Genji - The Saffron Flower


アーサー・ウェイリー訳の「源氏物語」とはどういうものなのでしょうか。興味がわいたので、瀬戸内寂聴訳で引用した部分だけを読んでみました。

レディ・ムラサキのティーパーティー.jpg
「レディ・ムラサキの
ティーパーティー」
毬矢まりえ・森山恵
(講談社 2024)
アーサー・ウェイリー訳では、第六帖の「末摘花」は "The Saffron Flower"= "サフランの花" と英訳されています。毬矢・森山訳では「サフラン姫」です。サフランはパエリアやブイヤベースの香辛料としてなじみのあるものです。末摘花=紅花(キク科)とサフラン(アヤメ科)は違いますが、両方とも色づけに使われるので、より英国でなじみのあるサフランにしたと考えられます。英語では「赤い鼻」→「赤い花」→「紅花」という連想が働きようがないので、直訳する意味はないのでしょう。

なお、毬矢・森山姉妹の著書「レディ・ムラサキのティーパーティー」(講談社 2024)では、ギリシアの古典『イリアス』に「バラ色の指をもつ曙の女神(オーロラ)がサフラン色の衣をまとっている」とあることから、ギリシャ神話に詳しいウェイリーがそのイメージを重ねたのではという推測がされています。

瀬戸内寂聴訳で引用した部分のウェイリーによる英訳を次に掲げます。この部分のウェイリー訳には本来段落がありませんが、瀬戸内寂聴訳となるべく合致するように段落をつけました。【・・・】の部分は「100分 de 名著」で(一部省略して)朗読された部分です。


THE TALE OF GENJI
By LADY MURASAKI

CHAPTER VI
THE SAFFRON-FLOWER

TRANSLATED FROM THE JAPANESE BY
ARTHUR WALEY
1925

Genji pretended to be still looking out of the window, but presently he managed to glance back into the room. His first impression was that her manner, had it been a little less diffident, would have been extremely pleasing. 【What an absurd mistake he had made.

She was certainly very tall as was shown by the length of her back when she took her seat; he could hardly believe that such a back could belong to a woman. A moment afterwards he suddenly became aware of her main defect. It was her nose. He could not help looking at it. It reminded him of the trunk of Samantabhadra's steed ! Not only was it amazingly prominent, but (strangest of all) the tip which drooped downwards a little was tinged with pink, contrasting in the oddest manner with the rest of her complexion which was of a whiteness that would have put snow to shame. Her forehead was unusually high, so that altogether (though this was partly concealed by the forward tilt of her head) her face must be hugely long. She was very thin, her bones showing in the most painful manner, particularly her shoulder-bones which jutted out pitiably above her dress.

He was sorry now that he had exacted from her this distressing exhibition, but so extraordinary a spectacle did she provide that he could not help continuing to gaze upon her.】

In one point at least she yielded nothing to the greatest beauties of the Capital. Her hair was magnificent; she was wearing it loose and it hung a foot or more below the skirt of her gown.

A complete description of people's costumes is apt to be tedious, but as in stories the first thing that is said about the characters is invariably what they wore, I shall once in a way attempt such a description. Over a terribly faded bodice of imperial purple she wore a gown of which the purple had turned definitely black with age. Her mantle was of sable-skins heavily perfumed with scent. Such a garment as this mantle was considered very smart several generations ago, but it struck him as the most extraordinary costume for a comparatively young girl. However as a matter of fact she looked as though without this monstrous wrapping she would perish with cold and he could not help feeling sorry for her.

(Project Gutenberg のサイトより)

全体的に原典に沿った、流れるような文章ですが、一つだけ "意訳" というか "超意訳" があります。それは上の引用の第1段落のところです。原典、現代日本語訳、ウェイリー訳を対比すると次の通りです。太字をつけたところが違います。

原文(岩波文庫版。2017)
見ぬやうにてかたをながめ給へれど、しり目はたゞならず、いかにぞ、うちとけまさりのいさゝかもあらばうれしからむとおぼすも、あながちなる御心なりや

瀬戸内寂聴・訳
源氏の君は、姫君を見ぬふりをしながら、外の方を眺めていらっしゃいますが、横目でしきりに御覧になります。さて、どうだろうか、こうして打ちとけた時に見て少しでもよく見えるようだったらどんなに嬉しいだろうとお考えになるのも、身勝手なお心というものです

ウェイリー・訳
Genji pretended to be still looking out of the window, but presently he managed to glance back into the room. His first impression was that her manner, had it been a little less diffident, would have been extremely pleasing. What an absurd mistake he had made.

「あながちなる御心」は、岩波文庫版の注釈によると「身勝手なお心」ということであり、瀬戸内訳もその通りになっています。しかしウェイリー訳は、朗読の最初に出てきた、

What an absurd mistake he had made(毬矢・森山訳「ああ、それにしても、なんという馬鹿げた間違いを犯したのだろう」)。

で、かなり違っている。実はこのシーンには伏線があります。冬を迎えて源氏は久々に常陸宮邸で一夜を明かすのですが、そこに至る直前の文章は次のようです(瀬戸内寂聴・訳)。

姫君の異常なほどのはにかみぶりの正体を、みとどけてやろうというほどの好奇心も殊更にはなくて、月日が過ぎていくのでした。それでも気を変えて、よく見直したら、いいところもあるかもしれない。いつも暗闇の手探りのもどかしさのせいか、なんだか妙に納得しないところがあるのかもしれない。この目で一度はっきりたしかめてみたいものだ、とお思いになりますが、かといって、あまり明るい灯の下でまざまざ御覧になるのも、気恥ずかしいとお思いになります。

つまり源氏は、姫君の異常なほどのはにかみように「妙に納得できない、なぜだろう、暗闇の手探りのせいか」と思っていたところ、雪の朝に姫君をはっきりと見て「ああ、やっぱり、悪い予感が当たった。私は間違った行為をしてしまった !」と思うわけです。そのときの源氏の心境をダイレクトに表したのがウェイリー訳ということになります。"超意訳" ですが、ここで文脈の転換が起こるので、その方が次の段落にスムーズにつながり、読者に分かりやすいということでしょう。

原典にはない補足も同じです。源氏は姫君の顔全体を見ることは無かったのですが、その理由として「うつむいているので一部隠れていますが(毬矢・森山訳)」とウェイリーは補足しています(岩波文庫版の注釈では、扇で顔の半分を隠しているから)。姫君はめったに男性に顔を見せたりはしないという当時の貴族の風習と、英語読者の(暗黙の)想定のギャップを埋めて分かりやすくする工夫でしょう。



そういった差異は除いて、全体的に原典を正確に、また言葉を重ねて丁寧に訳しています。かつ、流麗で読みやすい。問題はこの英文を読んで、森山さんが言うように「末摘花は素敵な女性」と思えるかどうかです。英語話者ではないので確かなことはわかりませんが、

main defect(一番の欠点)
distressing exhibition(惨めな姿)

などの "他人の(源氏の)評価" を無視して、客観的に容貌だけの記述をシンプルに読むと、確かにそうかもしれないでしょう。



ウェイリーは大英博物館の版画・素描部門に勤務しながら、独学で日本の古典語を勉強し、源氏物語の原典を日本から取り寄せて英訳したそうです。それも、満足な辞書がない100年以上前の話です。上の短い英文を読んだだけでも、すごいものだと思いました。

「レディ・ムラサキのティーパーティー」によると、ウェイリーは大英博物館に就職したのは1913年、24歳の時ですが、その時点ですでに、楽に読める言語はイタリア、オランダ、ポルトガル、フランス、ドイツ、スペイン語で、流暢に話せるのはフランス、ドイツ、スペイン語だったそうです。また就職後は、日本語、中国語の古典語を独学で習得しました。まさに語学の天才です。ウェイリーは大英博物館で、たまたま源氏物語の1シーンを描いた浮世絵版画を見て原典を読んでみたくなった、それが英訳に至る第一歩だったと言います。

「源氏物語」にとって(紫式部にとって)、900年後にこういう人に巡り会えたのはまことにラッキーだったと思いました。




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No.377 - 私には恋人があるの [文化]

このブログでは「言葉の使い方が時とともに変化する」という視点の記事をいくつか書きました。多くは「語彙や意味の変化」に関するもので、

  No.144 - 全然OK
  No.145 - とても嬉しい
  No.147 - 超、気持ちいい
  No.362 - ボロクソほめられた

が相当します。ここでは、"全然"、"とても"、"超"、"めちゃ"、"ぼろくそ" などをとりあげました。それ以外に「文法の歴史的変遷」に関する記事もあって、

  No.146「お粥なら食べれる」

です。この記事の中では "可能" を示す表現の変遷をたどりました。

我々は言葉によって考えています。その結果、言葉は人の認知能力に影響を与えます(No49, No.50, No.139, No.140, No.141, No.142, No.143)。また、風景や絵を見るときも、その全体や部分に言葉を割り当て、その言葉によっても記憶します。言葉は我々の認識・思考・発想・記憶を豊かにすると同時に、制約します。言葉には関心を持たざるを得ないのです。

今回は、そういった一連の記事の継続で、「文法の歴史的変遷」の例を取り上げます。


日本経済新聞の "春秋"


2024年8月11日の日本経済新聞の朝刊コラム "春秋" は、日本国語大辞典(小学館。1972年刊行開始)の改訂作業が始まるというテーマでした。2032年を目指した改訂とのことです。日本国語大辞典は、略称 "日国(ニッコク)" で、全13巻、収録語数50万、記紀から現代文学までの用例100万という大規模なものです。市立図書館には必ずあるので、私も何回かお世話になっています。

日本経済新聞のコラムの出だしは「私には、恋人があるの」という文学作品の引用から始まっていました。前半の部分を引用します。


「私には、恋人があるの」。太宰治の「斜陽」に、こんなセリフが出てくる。「恋人がいるの」ではなく「恋人があるの」。いまはちょっと違和感を持つが、昔の小説や映画にこの表現は珍しくない。「病気の母がある」「誰かいい人ある?」などとよく使われたのだ。

「いる」と「ある」は、生物か無生物かで使い分けることになっているが、どうやら近年の常識に過ぎないらしい。気になって「日本国語大辞典」(日国)をひもといてみると、古事記から竹取物語、枕草子、徒然草、さらには江戸時代前期の歌舞伎まで、「いる」の意味の用例がずらりと並ぶ。さすが、ニッコクである。

日本経済新聞 "春秋"
(2024年8月11日)

要するに、現代では生物について「いる」と言うが、生物に「ある」を使った例が古事記から歌舞伎まで、日本国語大辞典にはズラッとあり、太宰治の文章もそれにつながるもの、というわけです。

コラムはこの前半に続いて、ニッコクの改訂が始まるという本題に移るのですが、上の引用にある「いる」「ある」の使い分けに興味を惹かれました。

「恋人があるの」に "ちょっと違和感をもつ"、とコラムの筆者は書いています。確かに違和感があって、「恋人がいるの」が今では普通でしょう。しかし現代でも「人がある」という言い方が許容される、ないしは「いる」より「ある」の方が適切なケースがあると考えられます。たとえば、コラムにある「病気の母がある」ですが、

彼女は病気の母があるので、泊まりがけの旅行には行かないでしょう。

の「ある」は許容範囲ではないでしょうか。事実を "客観的に、淡々と" 言うには「ある」が適している場合があると思うのです。もちろん「いる」も OK です。しかし「いる」だと、「介護のことがあるので ・・・・・・」とか、「いつ何時、呼び出しがあるかわからないので ・・・・・・」といった、"病気という事実以上の、母との関係性についての含意" が匂うと思うのです。

彼には男の子が1人、女の子が3人あって、全員が小学生です。

これは許容できる思います。シンプルに家族構成を述べている文だからです。

文化庁の調査によると、本を全く読まない人が6割以上ある。

調査結果をそのまま述べています。価値判断なしに "存在するという事実" を言っている。しかし、"6割の人が本を全く読まないのは全く嘆かわしい" という含意があるなら、

文化庁の調査によると、本を全く読まない人が、何と、6割以上もいる。

の方がより適切な感じがします。



個人の言語感覚で書きましたが、以上のケースでも「ある」はおかしい、「いる」にすべきとの感覚の人もいるでしょう。また、「いる」にすべきとまでは思わなくても、「ある」には違和感を感じるという人もいると思います。

今回はこの「ある・いる」について書きます。実はこの使い分けの背景には、数百年にわたる日本語文法の変化の歴史があるのです。


日本語の存在文


ヒトやモノが存在することを示す文を「存在文」と言います。「私には、恋人があるの」は存在文の一種です。「ある・いる」を存在動詞と言います。そして存在文について考察するとき、主語となる名詞(例では "恋人")が関係してきます。

日本語の文法では、名詞について「有生」か「無生」かという区別があります。有生とは「生きている(と感じられる)」ということであり、無生はその反対です。一般に人や動物は有生であり(=有生物)、モノは無生(=無生物)です。植物は無生物とするのが一般的です。

「有情」と「無情」という言い方もあります。有情とは「感情をもつ」というこで、無情はその反対です。この方が一般的かもしれませんが、後で引用する金水先生の本に「有生・無生」とあるので、以降、それを使います。日本語の(現代の)存在文では、

  有生物主語では「いる」
  無生物主語では「ある」

を使うのが普通です。否定まで含めると「いる・いない」と「ある・ない」です。日本経済新聞のコラムで「生物か無生物かで使い分ける」となっていたところです。人や動物は有生と書きましたが、必ずしもそれだけではありません。たとえば、

  駅に着くと、運良くタクシーがいた

のような言い方は普通です。特にタクシーは動くし、運転手さんが乗っているので、有生物と見なすのが容易です。



以上の日本語文法の原則を適用すると、現代では「私には、恋人がいるの」となります。太宰治の「斜陽」が雑誌に掲載され本として刊行されたのは1947年で、今から75年以上前です。つまり、

・ 1947年の時点では「私には、恋人があるの」が普通の言い方、ないしは十分許容される言い方だったが、

・ 現在では「私には、恋人がいるの」が普通である

というわけです。つまり歴史的に文法が変化した。しかし、コトはそう単純ではありません。現代でも有生物主語に「ある」が許容される例があるからです。たとえば、

・ 私には娘がいる
・ 私には娘がある(?)

とすると、このケースの「ある」には確かに違和感があります。しかし、

・ 彼女は40歳そこそこだけど、もう、お孫さんがあるのよ
・ 彼女は40歳そこそこだけど、もう、お孫さんがいるのよ

は、両者が許されるのではないでしょうか。この会話文は、孫が「いる・いない」というより、「彼女は若くして結婚し子供を生んだ」ということに(暗黙に)焦点が当たっています。だから「ある」の許容度が高いのだと思われます。

また、年代によって違うと思いますが、「私には、恋人があるの」に違和感がないという人が現在でもいるはずです。

とにかく「ある・いる」の使い分けのような基本的な文法は、75年程度で完全に変化するわけではなく、徐々に進んでいくはずです。それでは、75年程度の時間軸ではなく、数百年の長いスパンで見たらどうなるか。実は、その長いスパンにおける文法の変遷が、現代の「ある」「いる」の使い分けや、「違和感がある・違和感がない」につながっています。これが今回の主題です。


日本語存在表現の歴史


以降は、金水きんすい 敏・著「日本語存在表現の歴史」(ひつじ書房 2006。以下「本書」)に沿って、「ある」と「いる」の歴史を要約します。金水 敏氏は大阪大学教授(出版当時)で、以前、このブログの No.324「役割語というバーチャル日本語」でも登場いただきました。「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(岩波書店 2003)という著書があるように役割語の研究で有名ですが、日本語文法の歴史の研究者でもあり「日本語存在表現の歴史」はその研究成果をまとめられたものです。



なお、日本語の存在動詞には「ある」「いる」以外に、「いる」の意味で使われる「おる」があります。「おる」は、現代の共通語では単独で使われることはなく、

・ おれらます(尊敬語)
「 社長は、今、役員会議室におられます」
・ おります(丁寧語、謙譲語)
「 月曜は定休日ですが、本日は祝日なので営業しております」

日本語存在表現の歴史.jpg
金水 敏
「日本語存在表現の歴史」
(ひつじ書房 2006)
などに残るだけですが、地域語(いわゆる方言)では存在動詞として普通に使われます。すでに 1967年の段階で国立国語研究所は「あそこに人が ◯◯」という文型おける存在動詞の地域分布を調査しました。それによると、東日本(静岡・長野・新潟より東)は「いる」、西日本(愛知・岐阜・富山より西)は「おる」で、「いる」「おる」は東西で分布が分かれる典型的な例です。ただし西日本でも、大阪、京都南部、滋賀の一部には「いる」が分布しています(大阪で実際に多く使われるのは変化形の「いてる」)。また和歌山の一部では「ある」を使います。つまり有生物主語の存在動詞に「ある」を使う地域もあるということです。

このように「いる」と「おる」は、日本語の存在表現を研究する上での重要な問題であり、本書でも多くのページが割かれていますが、今回は現代の共通語である「ある・いる」に絞ります。


存在表現の分類


「ある・いる」の使い分けを歴史的にみるとき、存在表現を3つに分類するのが妥当です。空間的存在文、限量的存在文、所有文の3つです。

 空間的存在文 

主語が指示する存在対象と物理空間の結びつきを表現する存在表現です。

  子供が公園にいる

空間的存在文では、有生物主語で「ある」は認められません。

  子供が公園にある(×)

もちろん、無生物主語では「ある」です。

 限量的存在文 

"限量的存在文" とは難しそうな言葉ですが、集合の中に、限られた量の部分集合が存在することを示す文です。

  授業中に寝ている学生がいる

これは、授業に出席している学生(=集合)の中に、寝ている学生(=部分集合)が存在すること言っています。"部分集合文" といった方がわかりやすいかもしれません。限量的存在文では有生物主語であっても「ある」が許される、というのが本書の著者の言語感覚です。

  授業中に寝ている学生がある

ただし、そうではない、「いる」でないとおかしいとの言語感覚をもつ人が、特に若い人を中心に多くなったと著者は言っています。

 所有文 

  (人は)◯◯ をもっている

という意味内容を、

  (人には)◯◯ が{ある/いる}

というように、◯◯ を主語にした存在表現で表すのが所有文です。◯◯ には親族・友人・仲間・恋人などの人(=有生物)や、身体の部位、罹患している病気、精神のありよう(気概とかプライド、勇気など)が入ります。人を "所有" というのは違和感がありますが、あくまで文法用語です。日本経済新聞のコラムの「私には、恋人があるの」は、まさしく所有文でした。

所有文では、主語(ガ格の名詞)が有生であっても、「ある・ない」も「いる・いない」も使えるのが特徴です。

  私は子供がいません
  子供がいない夫婦も多い。

  私は子供がありません
  子供がない夫婦も多い。

ただし、「私には、恋人があるの」に違和感をもつ人がいるのも事実であり、また文型によっては「ある」が許容し難いケースがあります。たとえば、場所を示す修飾語がつくような場合です。

  私には婚約者がいる
  私には婚約者がある
  私には北海道に婚約者がある(×)

最後の例は、「いる」だけが許される空間的存在文との類似が顕著だからでしょう。

本書の考察によると、「ある・いる」の使い分け、ないしは有生物の主語について「ある」が許容できるかに関しては、所有文は限量的存在文と非常に近い関係にあります。そのため、以降の歴史的変遷の表では所有文は限量的存在文に含めます。



これ以降は、本書よる「ある・いる」の歴史的変遷の要約です。この使い分けは5段階で変化してきたというのが本書の眼目です。


第1段階:古代から鎌倉時代まで


そもそも鎌倉時代までは、すべての存在表現は「あり」(現代の "ある")を使っていました。表にすると次の通りです。

  第1段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 あり あり
無生物主語 あり あり

あえて2×2の表を使うのは、以降の第5段階までを統一的に表すためです。この形の表では、所有文の「ある・いる」の使い分けは限量的存在文のところに含めて表現します。


第2段階:「いる」の出現


日本語では古代から「ゐる」という言葉がありました。「ゐる」を人に使うとき、典型的な意味は「座る」で、「立つ」の対立概念です。つまり、

 「立つ」
   運動が始動し、対象が移動を始める

 「ゐる」
   運動が平静化し、対象がその場に固着する

というのが基本的な意味です。これらは "変化動詞" であり、単独の動詞だけでは継続的な意味を表しません。また、有生物、無生物の両方に使えました。

現代の共通語でも「立つ」は運動が始動する意味で使います。また、人だけでなく無生物にも使います。

霧がたつ、波がたつ、塵がたつ、煙がたつ、匂いがたつ、噂がたつ

などです。「風立ちぬ」という堀辰雄の有名な小説もありました。

一方の「ゐる(いる)」は、現代共通語では「運動が平静化し、対象がその場に固着する」という意味では使いません。つまり、主語が人の場合、"座る" の意味の "変化動詞" としては使わない。しかし慣用句には残っていて「いてもたっても」がそうです。これは「座っても、立っても」の意味です。

この「ゐる(いる)」が、室町時代の15世紀~16世紀に継続的な存在を意味するように変化し、存在動詞として使われるようになりました。

「天草版平家物語」という文献があります。これは1593年にイエズス会が出版したキリシタン資料で、平家物語を当時の口語に翻訳したものです。ポルトガル式のローマ字で書かれています。本書ではこの「天草版・平家物語」を原本の平家物語と付き合わせて、存在動詞を詳細に分析しています。それによると、

◆ 有生物主語の空間的存在文に「いる」が多く使われている。ただし、「ある」も使われていて、その使用回数は「いる」より少ない(いる:53。ある:15)

◆ 限量的存在文に「いる」が使われることはなく、「ある」だけが使われている。

ということが分かりました。表にすると次の通りです。

  第2段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 いるある ある
無生物主語 ある ある

つまり、有生物主語の空間的存在文に「いる」が入り込み、この領域を「ある」と分け合ったということになります。なお「ある」は「あり」の連用形を終止形にも使うように変化したものです。


第3段階:「いる」の拡大1


江戸時代前期の存在表現を調べるために、著者は近松門左衛門の浄瑠璃を分析しました。「曾根崎心中」「心中天の網島」「女殺油地獄」などの13作品(1703年~1722年に発表)です。これらの近松作品では、有生物の空間的存在文だけで「いる」「ある」が併用され、他は「ある」でした。つまり、第2段階(天草版平家物語)と同じ使い方です。

次に、江戸時代後期の上方の洒落本、20作品(1756年~1826年)を分析すると、有生物の空間的存在文では「いる」だけが使われていました。限量的存在文(と所有文)では第2段階と同じ「ある」だけです。表にすると次の通りです。

  第3段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 いる ある
無生物主語 ある ある

さらに江戸後期の資料として、本居宣長が1797年に著した「古今集遠鏡」も分析しました。この資料は、古今集のすべての歌を当時の京都の口語に翻訳したものです。この資料でも第3段階の使い方(上表)がされていました。

つまり、室町時代に存在表現に使われ出した「いる」は、江戸後期に至って有生物の空間的存在文は「いる」との使い方が固まったことになります。


第4段階:「いる」の拡大2


明治時代になってからの資料として、夏目漱石の「三四郎」(1908)が分析されています。次の表は有生物主語の存在動詞を分析したもので、所有文を別立てにし、また「ある」の否定形の「ない」の使用回数も数えられています。

空間的
存在文
限量的
存在文
所有文
いる 80 18 1 99
ある 0 39 3 42
ない 0 8 1 9
80 65 5 150

第3段階からさらに進んで、限量的存在文に「いる」がかなり入り込んでいるのがわかります。マクロ的には次の表のようになります。

  第4段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 いる あるいる
無生物主語 ある ある


第5段階:現代共通語


次に分析さているのは、向田邦子のテレビドラマの脚本「阿修羅のごとく」(1979 - 80年 放送)です。この脚本における、有生物主語の存在動詞の使用統計は次の通りです。

空間的
存在文
限量的
存在文
所有文
いる 43 25 40 108
ある 0 1 4 5
ない 0 3 3 6
43 29 47 119

これをみると、限量的存在文と所有文における「ある」の使用が激減し、「いる」にとって代わられていることがわかります。ちなみに激減した「ある」ですが、所有文でなおかつ「ある」が使われている例の一つが次です。

綱子「あの人、だれ。いつからつきあってるの。妻子のある人じゃないの」

さらに、2000年に発表された「関西・若年層における対話データ集」(大阪大学の真田信治教授)では、「ある」の使用が皆無になり「いる」だけになっています。つまり、次表で示す第5段階へと進んだわけです。向田邦子の「阿修羅のごとく」は "ほぼ第5段階" と言えます。

  第5段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 いる いる
無生物主語 ある ある

著者は、現在(=本書の出版時点。2006年)の「ある」と「いる」について次のように述べています。


現在は、東京も京阪も、第4段階の話者と第5段階の話者が入り交じって、後者が圧倒しつつある状況と見てよいであろう。筆者自身は第4段階、すなわち、限量的存在文で「ある」が使用可能であるという直感があるが、学生の間ではこの直感はほとんど共有されていない。文章語に親しんでいるかいないかによっても、この感覚は異なるようである。

金水 敏  
「日本語存在表現の歴史」
(ひつじ書房 2006)

「文章語に親しんでいるかいないかによっても、この感覚は異なる」と書かれていますが、例えば、日常の口頭語としては「いる」を使っている人が、小説を読むのが好きで、半世紀前の作家の小説をよく読むとします。そこで「ある」が多用されていたとしたら、それに影響されて「ある」を使った文を書く、というようなことは大いにありうるはずです。

人の言語感覚は、家庭環境、小さいときからの教育、地域の人とのコミュニケーション、各種のメディア、読書など、多様なソースからの影響の中で形成されます。人それぞれに多様な言語感覚がある中で、日本語の変遷が徐々に進んでいくということでしょう。


存在表現の変遷


今まで、存在表現の分析を歴史順にあげましたが、これは本書の分析の一部を引用したに過ぎません。また本書では数々の先行研究の成果を調べ、それを踏まえて存在表現の変遷がまとめられています。それをごくマクロ的に表したのが、第1段階第5段階でした。改めて順に掲げると次の通りです。

第1段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 あり あり
無生物主語 あり あり

第2段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 いるある ある
無生物主語 ある ある

第3段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 いる ある
無生物主語 ある ある

第4段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 いる あるいる
無生物主語 ある ある

第5段階
空間的存在文 限量的存在文
有生物主語 いる いる
無生物主語 ある ある

もちろん、同時期に複数の段階の話者が混在します。直線的に進むわけでもないし、地域差もあります。しかし大づかみにとらえると、このような歴史的段階を経て文法が変化してきたわけです。

冒頭の日本経済新聞のコラムに戻ると、太宰治の「斜陽」に出てくる「私には、恋人があるの」という存在表現(所有文)は、第4段階ということになります。また、

日本国語大辞典に)古事記から竹取物語、枕草子、徒然草、さらには江戸時代前期の歌舞伎まで、「いる」の意味の用例がずらりと並ぶ

とコラムにあるのは、古事記から江戸の歌舞伎までは第1段階から第3段階なので、「(人が)いる」の意味で「ある」を使うのは当然なのでした。


存在表現の変遷:その推進力


このような存在表現の変遷をもたらした推進力は何でしょうか。著者は2つの要因をあげています。一つは、言葉というものは「人間を特別扱いする傾向」があることです。日本語では、たとえば目的語によって、

  つれていく(人)
  もっていく(人以外)

のように動詞を使い分けます。副詞では、

  おおぜい(人専用)
  たくさん(人・モノ兼用)

と使い分けます。このような「人間を特別扱いする言語現象」は世界各地の言語にあります。

ただ日本語では、最も基本的な語彙である "存在動詞" において「人間の特別扱い」があるわけです。このような言語は、日本語以外ではシンハラ語(スリランカの公用語の一つ)ぐらいだと言われています。つまり非常に少ないのですが、「人間を特別扱いする言語現象」という観点に立てば、存在表現に有生・無生の使い分けがあってもよい。有生物は人間の拡大と考えればそうなります。

2番目は「体系の単純化」です。第2段階で有生物の空間的存在文に「いる」が入り込んで以降、「ある・いる」の混在を単純化する推進力が働き、最終的に第5段階で有生物は「いる」に統一され単純化された、と考えることができます。

この「人間の特別扱い」と「単純化」によって、現在の「ある・いる」の使い分けができたというのが著者の考えです。鎌倉時代までの「あり(ある)」だけの存在表現から、現在の「ある・いる」の使い分けまでは、およそ500年の時が流れています。この間、マクロ的に見れば1方向に "文法を変える推進力" が働いて今の姿になった、とまとめられるでしょう。

ここまでで、金水 敏・著「日本語存在表現の歴史」からの紹介を終わります。


日本語文法の一方向変化


金水 敏・著『日本語存在表現の歴史』の「ある・いる」の使い分けの変遷を読んで、以前に書いたこのブログの記事を思い出しました。No.146「お粥なら食べれる」です。

この記事では、井上史雄・著『日本語ウォッチング』(岩波新書 1998)に従って、「見れる、食べれる」などの "可能動詞" の歴史を紹介しました。それを復習すると以下の通りです。



日本語ウォッチング.jpg
井上史雄
「日本語ウォッチング」
(岩波新書 1998)
日本語では動詞の「可能」を表現するのに「れる・られる」(古文では「る・らる」)を使うのが奈良時代以来の伝統です。その「れる・られる」は学校で習ったように、自発・受け身・尊敬・可能の4つの意味を持っています。しかし「可能」については「れる・られる」以外に、専用の形である「可能動詞」が発達してきました。

まず室町時代以降、「読む」などの五段活用動詞(以下、五段動詞。古文では四段活用)の一部で「読める」という言い方が出始めました。この動きは江戸時代に他の五段動詞、「走れる」「書ける」「動ける」などに広がり、明治時代を経て大正時代までには、多くの五段動詞において可能動詞が定着しました(もちろん可能動詞が不要な動詞もあるわけで、五段動詞全部というわけではありません)。

次に、カ行変格活用の動詞「来る」にこの動きが及び、可能動詞「来れる」が定着しました。

さらに昭和初期から「見る」「食べる」などの一段活用動詞(以下、一段動詞)に広まり、「見れる」「食べれる」という表現が出てきました。現代は一段動詞における可能動詞の形成の途中(初期)にあたる、というわけです。もちろん現在でも「見られる・食べられる」が正しい日本語とされ、「見れる・食べれる」は俗用とされています。

井上史雄・著『日本語ウォッチング』には、可能動詞の拡大過程を示す次の図が載っています。

ラ抜きことばの拡大過程.jpg
可能動詞の拡大過程
井上史雄「日本語ウォッチング」より。可能動詞の成立は数百年にわたる日本語の変化のプロセスであり、現在は一段動詞の初期段階にあたる。この図は、動詞によって成立時期が違うことも表している。

この図の横軸は2100年より先までになっています。井上教授は「五段動詞での数百年単位のゆっくりした拡大ペースを考えると、一段動詞のすべてに "ラ抜き言葉 "が普及するには、かなり長い年数が必要だろう」と述べています。



可能動詞を形成してきた推進力は「意味の明晰化」でしょう。「単純化」の一つと言ってもよいと思います。この、可能動詞の形成過程と、存在表現における「ある・いる」の使い分けの2つは、

室町時代に始まった日本語文法の変化が、ある一定の方向に進み、当初とはかなり違った姿になって現代に至っている

という点でそっくりです。現在、有生物に使う「ある」や、「見れる、食べれる」という言い方について、ある人はすんなりと受け入れ、ある人は違和感を覚え(ないしは間違いだと断定し)、それは世代によって違うことも多いわけです。その大きな理由は、背景に数百年にわたる日本語の変遷の歴史があるからでしょう。

誰がコントロールしたわけでもないのに、ある一定方向への変化が 500年にわたって脈々と続く ・・・・・・。こういう事実を前にすると、改めて言葉(日本語)は極めて大切な文化だという感を持ちます。

と同時に、変化を許容する必要性も感じます。新しい言葉使いや言葉の意味の変化は、出現したそれなりの理由があります。そういった新しい語彙や使い方は、自然と使われなくなってすたれるもの、長期間にわたって残るもの、日本語の体系に組み込まれて定着するものなどがあります。それは文化のありようによって、誰がコントロールしたわけでもないのに決まっていくのです。




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No.367 - 南部鉄器のティーポット [文化]

これまでの記事で、NHK総合で定期的に放映されているフランスの警察ドラマ「アストリッドとラファエル」から連想した話題を2つ書きました。

No.346「アストリッドが推理した呪われた家の秘密」(シーズン1 第2話「呪われた家」より)

No.363「自閉スペクトラム症と生成AI」(シーズン2 第6話「ゴーレム」より)

の2つです。今回もその継続で、このドラマに出てくるティーポットの話を書きます。


ダマン・フレール


パリのマレ地区のヴォージュ広場を囲む回廊の一角に、紅茶専門店、ダマン・フレール(Dammann Frères)の本店があります。ダマン・フレールは、17世紀のルイ14世の時代にフランスにおける紅茶の独占販売権を得たという老舗しにせで、ホームページには次のようにあります。


フランス王室に認められた
随一のティーブランド

ダマンフレールの歴史は、1692年、フランス国王ルイ14世によりフランス国内での紅茶の独占販売権を許可されたことから始まりました。それはまた、フランスにおける紅茶の歴史の始まりとも言えます。1925年には紅茶を愛してやまないダマン兄弟により紅茶専門のダマン・フレール社が立ち上げられ、上流階級の嗜好品としての紅茶文化が開花しました。

ダマン・フレールの日本語公式サイトより

ちなみに、フレールとはフランス語で兄弟の意味で、屋号は「ダマン兄弟」です。緑茶や中国茶も扱っているので「お茶専門店」というのが正確でしょう。

パリには4回ほど個人旅行をしましたが、2000年代初頭にダマン・フレールの本店に行ったことがあります。私の配偶者が是非行きたいということで、紅茶のティーバッグをお土産(いわゆる "バラマキ")にするためだったと思います。

Dammann_Freres Paris.jpg
ダマン・フレール本店の店内
(ダマンの公式ホームページより)

店内に入ってみると、いかにも老舗という内装で、その "重厚感" が印象的でした。当時は日本人の店員さんがいたと思います。パリでも日本人観光客がメジャーな時代でした。

そして私が最も印象的だったのは、明らかに日本の南部鉄器と思われる "ティーポット"(日本で言う "急須")が売られていたことです。ただし、黒い鉄色ではなく、色がついていました。このような鉄器の "カラー急須" を見たのは初めてだったので、ちょっとびっくりしたわけです。

南部鉄器の急須.jpg
南部鉄器のカラーのティーポット
ダマンで売られていたものではありません。「ダイアモンド・オンライン」のページより。


アストリッドの愛用品


「アストリッドとラファエル」には、アストリッドの愛用品として鉄器のカラーのティーポットが出てきます。次の画像は、シーズン1の第2話「呪われた家」のもので、アストリッドが勤務する犯罪資料局の執務机の様子です。上の図では、彼女が青色の鉄器のティーポットを取り出して机に置いています。茶筒と湯呑み茶碗もあるので、緑茶(日本茶)を入れるためのものでしょう。その下の画像では、実際にお茶を入れています。

Astrid and Teapot-a.jpg
アストリッドの青のティーポット
シーズン1・第2話「呪われた家 前編」(2022.8.14)より

Astrid and Teapot-b.jpg
お茶を入れるアストリッド
シーズン1・第2話「呪われた家 後編」(2022.8.21)より

アストリッドの自宅の様子が次の画像です。このティーポットも青色ですが、犯罪資料局に持ち込んだものとはデザインが違うようです。

Astrid and Teapot-c.jpg
アストリッドの自宅のティーポット(1)
シーズン1・第6話「存在しない男」(2022.9.18)より

次の画像もアストリッドの自宅ですが、このティーポットは緑っぽい色です。

Astrid and Teapot-d.jpg
アストリッドの自宅のティーポット(2)
シーズン4・第3話「密猟者」(2024.1.28)より

そもそもこのドラマには、日本関連のものが数々登場します。アストリッドが常連客である日本食材店や、犯罪資料局にアストリッドが持ち込んだ半畳ほどの畳、箱根細工(と思われる)"からくり箱" などです。また、アストリッドの "恋人" はテツオ・タナカという日本からの留学生です。ドラマの制作サイドが日本市場を意識しているのでしょう。

しかし南部鉄器のティーポットに関して言うと、それがパリでいつでも買えるものだからこそ、ドラマに登場するのだと思います。20年ほど前にダマン・フレールで見た南部鉄器のカラーのティーポットは、現在でもフランスに愛好者がいることが分かります。

南部鉄器は鋳造なので、ガラスや磁器のティーポットに比べると熱容量が大きく、お茶が冷めにくい。おそらくそこが評価されているのだと思います。また、ヨーロッパにとっては、紅茶や緑茶はもともと東洋からの輸入品です。南部鉄器という "アジアン・テイスト" のアイテムが、お茶にマッチすると考える人もいそうです。


岩鋳


ところで、南部鉄器をヨーロッパに輸出した先駆者は、岩手県盛岡市の「岩鋳いわちゅう」という会社です。南部鉄器といえば江戸時代が発祥の由緒ある工芸品で、盛岡と水沢(奥州市)が生産の中心地です。水沢の会社では "及源おいげん" が有名です。

その岩鋳の鉄器が海外進出した経緯が「ダイアモンド・オンライン」(ダイアモンド社)に出ていました。興味深い話だったので、是非それを紹介したいと思います。「飛び立て、世界へ! 中小企業の海外進出奮闘記」と題する一連の記事の中の一つで、記事のタイトルは、

日本人が知らない南部鉄器の海外人気、フランスから世界へ急拡大(2018.2.8)
 ルポライター:吉村克己
 https://diamond.jp/articles/-/158955

です。まず、少々意外だったのは、岩鋳の製品の半分は海外に販売され、ヨーロッパでは「イワチュー」(IWACHU)が鉄器の代名詞になっていることです。


年間100万点生産し半数が海外へ
欧州で南部鉄器の代名詞となった会社

南部鉄器と言えば、約400年の歴史を持つ岩手県の伝統工芸だ。かつて、日本の家庭には鋳物の鉄瓶や急須が1つはあったものだが、いまでは姿を見かけなくなった。

と思ったら、日本伝統の鉄瓶や急須が欧米や中国・東南アジアで人気になっている。それが日本に逆輸入されて、いま若い女性や主婦などが伝統の良さを再発見しているのだ。

その古くて新しい南部鉄器を生み出したのが、盛岡市に本社を置く岩鋳だ。いまやヨーロッパで「イワチュー」と言えば鉄器の代名詞である。

4代目を継ぐ同社副社長(引用注:現、社長)の岩清水弥生(48歳)はこう語る。

「海外に出て行ってなかったら、今の岩鋳はなかったでしょうし、技術の向上もなかったと思います。海外で売れるようになったからこそ社員の士気も高まったし、若い職人志望者も増えた。当初はつくっても売れるのかなと思ったのですが、やはり自分たちだけでお客様が求めるものを決めつけてはいけませんね」

岩鋳では現在、伝統的な鉄瓶や急須だけではなく、鋳物製の鍋やフライパンなどのキッチンウェアなども手がけ、年間約100万点の鉄器を生産している。これは南部鉄器としては最大規模だ。なんと、その半数が海外で販売されている。世界20ヵ国程度に広がり、国・地域ごとに代理店を通して売っている。

欧米市場では急須が主な商品だ。昔ながらの黒い鉄器ではなく、赤やピンク、青、緑、オレンジなどカラフルで、いわゆる南部鉄器のイメージとは全く違う。その形も、楕円形で注ぎ口が細長いものなどデザインにも工夫を凝らしている。

海外では国内より価格が約2倍半ほど高くなる。国内で6000円ほどの売れ筋の急須でも、1万5000円ほどになるから、決して安いものではないが、紅茶などのティーポットとして使われている。

現代風とは言え、生産はすべて本社で、職人の技を大切にしている。色とりどりながらも鋳物らしい風合い、いわゆる「鋳肌(いはだ)」(鉄の素材感)が活きている

着色はウレタン樹脂を使っているので、無害かつ安全。顧客の要望さえあれば130色ほども再現できるという。内部はホーロー引きでメンテナンスしやすい。つまり、伝統の良さを活かしながらも、南部鉄器の使い方を知らない現代の外国人にも使いやすくしているのだ。

ルポライター:吉村克己
「日本人が知らない南部鉄器の海外人気
フランスから世界へ急拡大」
ダイアモンド・オンライン(2018.2.8)

南部鉄器の急須.jpg
岩鋳のカラーの急須
「ダイアモンド・オンライン」より。

ポイントを何点かにまとめると、次のようになるでしょう。

① 岩鋳は、伝統的な鉄瓶や急須だけではなく、鍋やフライパンなどのキッチンウエアなど、年間約100万点の鉄器を生産していて、南部鉄器としては最大規模である。かつ、その半数が海外20ヵ国で販売されている。

② 欧米市場では、赤やピンク、青、緑、オレンジなどのカラフルな急須が主力商品である。ヨーロッパでは「イワチュー」が鉄器の代名詞になっている。

ちなみに、岩鋳の海外ブランドは "IWACHU" であり、最初に人気に火がついたフランスでは、フランス語読みで「イワシュー」で通っているそうです。

③ 急須の着色はウレタン樹脂を使うが、鋳物らしい風合い = 鋳肌(いはだ、鉄の素材感)を活かしている。また内部はホーローをコーティングしている。

日本古来の急須とちがって、着色するのみならず、急須の内部にはホーロー加工がしてあります。鉄器の急須は、鉄分が溶けだして体にいいとか、お茶がまろやかになると言いますが、そういう効果は期待できないわけです。しかしこれは欧米のニーズに合わせた製品なのです。

もちろん、鋳肌いはだが活きていると書いてあるように、ダマン・フレールで見たときも、一目でアラレ模様の南部鉄器だと分かるものでした。着色も、日本の伝統色を思わせる中間色で、鉄器にマッチしています。

なお、中国や東南アジアでは、欧米とは違い、日本で伝統的な黒い急須や鉄瓶が売れるようです。

その岩鋳の海外進出は 1960年代から始まりました。そして本格的な販売がスタートしたのは、パリの紅茶専門店からの依頼が契機だったのです。


パリの紅茶専門店からの
依頼でつくった急須が大ヒット

岩鋳の創業は明治35年で、115年を迎える老舗だが、南部鉄器の工房としては若い方だ。岩清水の祖父である弥吉は進歩的な人物で、鉄瓶だけでは将来がないと新製品を積極的に開発した。1960年代から手作業以外の工程の機械化を進め、すき焼き鍋や企業向けなどの記念品として灰皿も開発した。

周囲はそうした弥吉の方針に対して、南部鉄器の伝統をないがしろにするものだと批判的だったが、「仕事がなくなったら伝統も何もないし、職人を守れない」と、鉄器を広く知ってもらうように努めた。

海外進出もこうした弥吉の先進性から始まった。1960年代後半には、当時専務だった弥吉の弟が製品を抱えて船に乗り、ヨーロッパに渡って1ヵ月間売り歩いた。微々たる量だったが、日本の文化や鉄器に興味を持つヨーロッパ人が鉄瓶や急須を買ってくれた。

「当時は国内も好景気で、観光客も多く、売り上げが伸びていたので、海外販売にはそれほど力を入れていませんでした」と岩清水。

本格的な海外展開のきっかけとなったのは、パリの紅茶専門店からの1つの依頼だった。カラフルな急須がほしいというのだ。1996年のことである

鉄器は黒いのが当たり前で、それが一番美しいと考えられていた。岩鋳の経営陣も職人も戸惑った。しかし、せっかく頼まれたものを断るのもしゃくだった。

「他の工房と違って、父(岩清水晃社長)も私も職人ではありません。そのため、いい意味でこだわりがないし柔軟で、新しいことにチャレンジするのに抵抗がないのです。それでもカラフルな急須とは驚きました。工場長や職人からも反発はありませんでしたが、せっかくつくっても本当に売れるのか不安だったようです」

鋳肌を活かしながら着色することは予想以上に難関だった。工場長と着色担当の職人に塗料メーカーの協力も得て、3年かけて着色法を開発した。ウレタン樹脂を吹き付けた後、カラフルな塗料を重ね塗りすることで、色合いを表現した

パリの紅茶店に製品を送ると、たちまち人気になり、ヨーロッパ中に口コミで広がっていった。展示会にも出展し、カラフルな急須の売れ行きが伸びた。さらにアメリカに伝播し、アジアにも拡大した。

(同上)

岩鋳にカラフルなティーポットの製作を依頼したパリの紅茶専門店は、マリアージュ・フレールだそうです。マリアージュもパリのマレ地区に本店があり、ダマンから近い距離です。南部鉄器のカラフルなティーポットは、マリアージュでまずヒットし、それがダマンを含む店に広まったということでしょう。

鉄にホーローをコーティングするのは従来からある技術です(各種のホーロー製品)。しかし、鋳造した鉄への着色は従来からの技術ではありません。「3年かけて着色法を開発した」とあるように、かなりの苦労の末に開発した製品だったようです。

そして、記事の最後にある、岩鋳の岩清水社長のコメントが印象的でした。


現地のニーズをよく調べる、
そして必ず足を運ぶのが基本

岩清水はパリの紅茶店オーナーに、なぜ鉄器に興味を持ったのかと聞いたことがある。

男性が使ってもさまになるティーポットがほしかったと、オーナーは言いました。ガラスや陶器は女性っぽいので、カラフルな鉄器なら重厚感があり男性にぴったりだというのです

つくり手側が思いもよらないニーズがあるものだ。それに対して愚直に応えたからこそ、現在の岩鋳がある。海外進出する際に何を心がけるべきか岩清水に聞くと、こう答えた。

「自分たちの商品をそのまま外国に持って行っても、通用しません。私たちは鉄器は黒が最高だと思っていたのに、たまたまお客様の要望で色をつけたら売れた。私たちの押しつけではなく、相手の要望を聞き、現地に足を運ぶことが重要です」

自社の製品や技術力にいかに自信があろうとも、海外でも日本と同じように売れるわけではない。市場の声に耳を澄まし、そこに自慢の技術を投入することが肝要だ。

(同上)

カラフルな鉄器の急須は、我々日本人からすると、女性客を狙ったのだろうと、暗黙に考えてしまいます。無骨な感じの黒の鉄器ではパリジェンヌにはウケないだろうと ・・・・・。依頼を受けた岩鋳の人たちも、おそらくそう考えたのではないでしょうか。

しかしそうではないのですね。岩鋳に依頼したパリの紅茶専門店のオーナーの考えでは「カラフルな鉄器なら重厚感があり男性にぴったり」なのです。少なくとも当初の発想はそうだった。

かなり意外ですが、まさに岩清水社長の言うように「市場の声に耳を澄まし、そこに自慢の技術を投入することが肝要」です。お茶を飲むのは日本(を含む東アジアの)文化であり、南部鉄器の急須もその文化の一部です。しかし、ダマン・フレールを見ても分かるように、フランスにおいても、お茶は数百年の伝統をもつ伝統文化なのです。文化の "押し売り" はうまく行かない。岩鋳はパリの紅茶専門店に導かれて、ニーズと技術のベストなマッチングを作り上げたことになります。



ドラマ「アストリッドとラファエル」に戻ると、アストリッドが愛用する青いティーポットは、実はフランスと日本の2つの文化の接点を示している象徴的なアイテムなのでした。



 補記:大谷翔平 

岩手県が生んだスポーツ界のスーパースターと言えば大谷翔平選手ですが、大谷選手は2024年5月9日、自身のインスタグラムのストーリーズに「ありがとうございます」の文字とともに、深い青色の鉄瓶とふたつの湯飲み茶碗の写真を投稿しました。その鉄瓶の写真が次です。これは奥州市水沢地区の及富おいとみ(江戸時代後期1848年創業)で作られたものです。ドジャーズのチームカラーと自身の出身地をかけて、両方に「ありがとう」と言っているような投稿でした。

大谷翔平 Instagram.jpg
及富の鉄瓶。鮮やかな青が美しい。かつ、伝統的な形ではない斬新なデザインである。

(2024.6.10)



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No.362 - ボロクソほめられた [文化]

先日の朝日新聞の「天声人語」で、以前に書いた記事、No.145「とても嬉しい」に関連した "言葉づかい" がテーマになっていました。今回は、No.145 の振り返りを含めて、その言葉づかいについて書きます。


「天声人語」:2023年 6月 11日


「天声人語」は例によって6段落の文章で、段落の区切りは▼で示されています。以下、段落の区切りを1行あけで引用します。


夕方のバス停でのこと。中学生らしき制服姿の女の子たちの会話が耳に入ってきた。「きのうさー、先生にさあ、ボロクソほめられちゃったんだ」。えっと驚いて振り向くと、楽しげな笑顔があった。若者が使う表現は何とも面白い。

「前髪の治安が悪い」「気分はアゲアゲ」。もっと奇妙な言い方も闊歩かっぽする昨今だ。多くの人が使えば、それが当たり前になっていく。「ボロクソ」は否定的な文脈で使うのだと、彼女らを諭すのはつまらない。言葉は生き物である。

大正の時代、芥川龍之介は『澄江堂ちょうこうどう雑記』に書いている。東京では「とても」という言葉は「とてもかなはない」などと否定形で使われてきた。だが、最近はどうしたことか。「とても安い」などと肯定文でも使われている、と。時が変われば、正しい日本語も変化する。

今どきの若者は、SNSの文章に句点を記さないとも聞いた。「。」を付けると冷たい感じがするらしい。元々、日本語に句読点がなかったのを思えば、こちらは先祖返りのような話か。

新しさ古さに関係なく、気をつけるべきは居心地の悪さを感じさせる表現なのだろう。先日の小欄で「腹に落ちない」と書いたら、間違いでは、との投書をいただいた。きちんと辞書にある言葉だが、腑に落ちない方もいるようだ。

新語は生まれても、多くが廃れ消えてゆく。さて「ボロクソ」はどうなることか。それにしても、あの女の子、うれしそうだったなあ。いったい何をそんなにほめられたのだろう。

朝日新聞「天声人語」
(2023年6月11日)


前例としての "とても"


注目したいのは、前半の3つの段落にある「ボロクソ」と「とても」です。女子中学生の「ボロクソほめられちゃった」という会話に驚いた天声人語子ですが(当然でしょう)、否定的な文脈で使う言葉を肯定的に使うのは過去に例があり、それが「とても」である。「とても」は、昔は否定的文脈で使われていて、そのエビデンスが芥川龍之介の文章にある。時が変われば正しい日本語も変化する、としているところです。

「天声人語」にあるように、「とても嬉しい」というような言い方が(東京地方で)広まった時期について、芥川龍之介が短文エッセイ集『澄江堂ちょうこうどう雑記』(1923 大正13)に書いています。「澄江堂」とは芥川龍之介自身の号です。


二十三 「とても」

「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつたわけではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とてもまとまらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。

肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河みかはの国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄げんろく四年に上梓じやうしされた「猿蓑さるみの」の中に残つてゐる。

秋風あきかぜやとてもすすきはうごくはず  三河みかは、 子尹しゐん

すると「とても」は三河の国から江戸へ移住するあひだに二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。

芥川龍之介『澄江堂雑記』
「芥川龍之介全集第四巻」(筑摩書房 1971)
「青空文庫」より引用

江戸時代の古典の(少々マニアックな)知識をさりげなく披露しつつ、三河言葉(=芥川の想像)が東京で使われるまでに200年かかったから「とても手間取つた」とのオチで終わるあたり、文章の芸が冴えています。ちなみに『猿蓑』は芭蕉一門の句集で、引用にあるように子尹しゐんは三河地方出身の俳人です。

それはともかく、芥川龍之介は「肯定的とても」が数年以前から東京で言われ出したと書いています。ということは、大正時代か明治末期からとなります。芥川龍之介は1892年(明治25年)に東京に生まれた人です。当然、小さい時から慣れた親しんだのは「とても出来ない」のような "否定的とても" であり、それが正しい標準語としての言葉使いと思っていたと想像できます。それは「とても嬉しい」のような "肯定的とても" が「田舎ことば」だとする書き方に暗示されています。



「とても」は否定的文脈で使うものだという言葉の規範意識は、芥川以降も続いていたようです。評論家・劇作家の山崎正和氏(1934-2020 。昭和9年-令和2年)は、丸谷まるや才一氏との対談で次のように発言しています。


山崎正和

私の父方の祖母は、落合直文などと一緒に若い頃短歌をつくっていたという、いささか文学少女だった年寄りでした。私が子供のころ「とても」を肯定的に使ったら、それはいけないって非常に叱られた。なるほどと感心しました。しかし、もういま「とても」を肯定的に使う人を私は批判できませんよ。それほど圧倒的になっているでしょう。

山崎正和・丸谷才一 
『日本語の21世紀のために』
(文春新書 2002)

山崎正和氏が子供の頃というのは、昭和10年代から20年代半ばです。つまり、そのころ生きていた明治生まれの人(父方の祖母)には、「とても嬉しい」というような肯定的な使い方は誤用であるという規範意識が強くあった、ということなのです。少なくとも山崎家ではそうだった。今となっては想像できませんが ・・・・・・。



ところで、芥川龍之介のエッセイによって分かるのは「とても嬉しい」が明治末期、ないしは大正時代から東京で広まったことです。しかし、専門家の研究によると、遙か昔においては肯定的「とても」が一般的でした。

梅光学院大学・准教授の播磨桂子氏の論文に、『「とても」「全然」などにみられる副詞の用法変遷の一類型』(九州大学付属図書館)があり、そこに「とても」の歴史の研究があります。この論文によると「とても」の歴史は以下のように要約できます。

① 「とても」は「とてもかくても」から生じたと考えられている。「とても」は平安時代から使われていて「どうしてもこうしても、どうせ、結局」という意味をもち、肯定表現にも否定表現にも用いられた。『平家物語』『太平記』『御伽草子』『好色一代女』などでの使用例がある。

② しかし江戸時代になると否定語と呼応する使い方が増え、明治時代になると、もっぱら否定語と呼応するようになった

③ さらに大正時代になると、肯定表現で程度を強調する使い方が広まり、否定語と呼応する使い方と共存するようになった

④ 「否定」にも「肯定」にも使われる言葉が、ある時期から「否定」が優勢になり、その後「肯定」が復活する。このような「3段階」の歴史をもつ日本語の副詞は他にもあり、「全然」「断然」「なかなか」がそうである。

"肯定的とても" は、芥川龍之介が推測する三河方言ではなく、『平家物語』『太平記』『御伽草子』『好色一代女』にもある "由緒正しい" 言い方だったわけです。もちろん、由緒正しい言い方が方言だけに残るということもあり得ます。

ひょっとしたら、芥川はそれを知っていたのかもしれません。知っていながら「とても手間取つた」というオチに導くためにあえて『猿蓑』を持ち出した、つまり一種のジョークということも考えられると思います。


超・鬼・めちゃくちゃ


「とても」をいったん離れて、強調のための言葉について考えてみます。形容詞、動詞、名詞などを修飾して「程度が強いさま」を表す言葉を「強調詞」と呼ぶことにします。強調詞にはさまざまなもがあります。大変、非常に、全然、すごく、などがそのごく一部です。

漢字で書くと1字の「超」も、今ではあたりまえになりました。もちろんこれは超特急、超伝導など、名詞の接頭辞として由緒ある言葉で、「通常のレベルを遙かに超えた」という意味です。これが「超たのしい」「超カワイイ」などと使われるようになった(1960年代から広がったと言われています)。その「超」は、"本場" の中国に「逆輸出」され、「超好(超いい)」などと日常用語化しているといいます(日本経済新聞「NIKKEI プラス 1」2022年6月11日 による)。「超」はかなり "威力がある" 強調詞のようです。

漢字1字を訓読みで使う接頭辞もあって「鬼」がそうです。「鬼」はもともと名詞の接頭辞として「無慈悲」「冷酷」「恐ろしい」「巨大」「異形」「勇猛」「強い」などの意味を付加するものでした。「鬼将軍」「鬼軍曹」「鬼コーチ」「鬼検事」「鬼編集長」などです。栗の外皮を「鬼皮」と言いますが、強いという意味です。また「鬼」は動植物・生物の名前にも長らく使われてきました。同類と思われている生物同士の比較で、大きいものは「大・おお・オオ」を接頭辞として使いますが、それをさらに凌駕する大型種は「鬼・おに・オニ」を冠して呼びます。オニグモ(鬼蜘蛛)、オニユリ(鬼百合)、オニバス(鬼蓮)といった例です。

しかしこの数年、さらに進んで「鬼」を強調詞とする言い方が若者の間に出てきました。オニの部分をあえて漢字書くと、
 ・鬼かわいい
 ・鬼きれい
 ・鬼うまい(鬼おいしい)
 ・鬼むかつく
といった言い方です。もともとの「無慈悲」「冷酷」「恐ろしい」」「異形」などの否定的な意味はなくなり、「通常を凌駕するレベルである」ことだけが強調されています。これは「超」の使い方とそっくりです。この使い方が定着するのか、ないしは今後消えてしまうのかは分かりません。

さらに、もともと否定的文脈で使う「めちゃくちゃ」「めちゃめちゃ」「めっちゃ」「めちゃ」があります。「むちゃくちゃ」とも言います。これも江戸時代からある言葉で、漢字で書くと「滅茶苦茶」です。"混乱して、筋道がたたず、全く悪い状態" を指します言が、強調詞として使って「めちゃくちゃカワイイ」などと言います。

もともと否定的文脈で使う言葉という意味では、形容詞の「ものすごい(物凄い)」もそうです。これはもとは恐ろしいものに対してしか使わない言葉でした(西江雅之「ことばの課外授業」洋泉社 2003による)。確かに、青空文庫でこの言葉を検索すると、恐ろしいものの形容に使った文例しかありません。青空文庫は著作権が切れた(死後50年以上たった)作家の作品しかないので、「ものすごい美人」というような使い方は、少なくとも文章語としてはこの半世紀程度の間に広まった使い方であることは確実です(話し言葉としてはそれ以前から使われていたかもしれません)。



そこで「天声人語」の「ボロクソほめられた」です。これはもともと否定的文脈で使う言葉を、程度が大きいさまを表す強調詞とした典型的な例です。その意味で「とても」「めちゃくちゃ」「ものすごく」の系列につながっています。特に「めちゃくちゃ」に似ています。
・ 彼は A氏のことをメチャクチャに言っていた。
と使うけども、
・ メチャクチャうれしかった
とも言います。であれば、
・ 彼の A氏についての評価はボロクソだった。
と使う一方で、
・ ボロクソうれしかった
と言うのも、一般的ではないけれども、アリということでしょう。


強調詞の宿命


「とても」の変遷や、その他の言葉を見ていると、強調詞の "宿命" があるように思います。つまり、ある強調詞が広まってあたりまえに使われるようになると、それが "あまり強調しているようには感じられなくなる" という宿命です。

従って、新しい言葉が登場する。そのとき、否定的文脈で使われる言葉を肯定的に使ったり、名詞の接頭辞を形容詞を修飾する副詞に使ったりすると(超・鬼)、インパクトが強いわけです。特に、自分の思いや感情を吐露したい場合の話し言葉には、そういうインパクトが欲しい。そうして新語が使われだし、その結果一般的になってしまうと強調性が薄れ、また別の新語が使われ出す。

「天声人語」に引用された女子中学生の発言、「きのうさー、先生にさあ、ボロクソほめられちゃったんだ」も、よほど嬉しかったゆえの発言でしょう。天声人語子は「それにしても、あの女の子、うれしそうだったなあ」と書いていますが、今まで先生に誉められたことがなかったとか、あるいは、一生懸命努力して作ったモノとか努力して成し遂げたことを誉められたとか、内容は分からないけれど、そういうことが背景にあるのかも知れません。もちろん先生も言葉を重ねて誉めた。その子にとって「メッチャ、ほめられちゃった」や「チョー、ほめられちゃった」では、自分の感動を伝えるには不足なのです。

「ボロクソほめられた」は、一般的に広まることはないかもしれないけれど、個人的な言葉としては大いにアリだし、それは言葉の可能性の広さを表しているのだと思いました。




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No.324 - 役割語というバーチャル日本語 [文化]

このブログの第1回目は、


でした。宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』には、ドイツの作家・プロイスラーの小説『クラバート』に影響を受けた部分があるという話から始まって、『クラバート』のあらすじを紹介し、『千と千尋の神隠し』との関係を探ったものです。

その発端の『千と千尋の神隠し』ですが、最近の新聞に登場人物の言葉使いについての興味深い話題が載っていました。今回は是非ともそれを紹介したいと思います。

なお、以下に掲げる引用において下線は原文にはありません。また段落を増やしたところがあります。


役割語


キーワードは、大阪大学教授で日本語学者の金水きんすいさとし氏が提唱した概念である "役割語" です。役割語とは何か、朝日新聞の記事から引用します。


「千と千尋」セリフが作る世界観
  キャラ印象づける「役割語」

「そうじゃ、わしが知っておるんじゃ」
「そうですわよ、わたくしが存じておりますわ」

こんな話し言葉を聴くと、私たちは自然に、おじいさんとお嬢様の姿を思い浮かべる。特定の人物像と結びついた特徴ある言葉遣いを、大阪大学大学院文学研究科の金水敏教授(65)は「役割語」と名付けた。役割語からアニメの世界を読み解くことで、見えてくるものとは。


金水さんは3年前から、「ジブリアニメのキャラクターと言語」と題した講義を始め、毎回200人以上の学生が受講している。講義では、「風の谷のナウシカ」や「魔女の宅急便」など、宮崎駿監督が手がけた6つのジブリアニメと使い、セリフを分析する。「ジブリでは、役割語が特にうまくストーリーを引き立てている」と金水さん。どういうことなのか、「千と千尋の神隠し」を例に、解説してもらった。

朝日新聞(2021.9.23)

小説、漫画、アニメ、戯曲(演劇)、童話、外国人の発言の翻訳などにおいては、

特定の人物像と結びついた特徴ある言葉遣い

が使われることが多いわけです。これが役割語で、金水教授が提唱して研究されてきた概念です。金水教授は『千と千尋の神隠し』を例に、次のように説明しています。


作品は、10歳の少女・千尋が不思議な神々の世界に迷い込み、湯屋で働きながら成長していくストーリーだ。湯屋の経営主の魔女・湯婆婆は、「~ かね」「~ おくれ」などの「おばあさん語」を多用する。千尋を助ける少年で、川の神様・ハクは、「そなた」といった「神様語」を話すことで、時間を超越した存在感を出しているという。

金水さんが注目するのが、湯屋で働く少女・リンの言葉だ。リンは千尋の先輩で、「いつか湯屋を出たい」という強い意志を持っているキャラクター。「メシだよ」「~ かよ」など、男性語を話す。金水さんは、「強い少女像を際だたせるために、あえてジェンダー観をずらした役割語が使われている」と指摘する。

一方、主人公の千尋の言葉は、「特徴がないことが特徴」だという。ヒーローやヒロインは、視聴者が自分自身と重ね合わせ、共感できるようにするために、標準語を話すことが多いという。金水さんは「特徴的なキャラクターが役割語によって印象づけられている。同時に私たちは無意識に千尋の目線に引き込まれ、作品の世界を旅している感覚になっている」と話す。

「同上」

金水教授は、湯婆婆が「おばあさん語」を使うと言っています。新聞記事にはありませんが、その一例をあげます。千尋が初めて湯婆婆の "執務室" で湯婆婆と対峙する場面です。

千と千尋の神隠し:湯婆婆.jpg


【千尋】
「ここで働かせてください!」

【湯婆婆】
「まだそれを言うのかい

【千尋】
「ここで働きたいんです!」

【湯婆婆】
「だまれ。なんであたしがおまえを雇わなきゃならないんだい。見るからにグズで、甘ったれで、泣き虫で、頭の悪い小娘に、仕事なんかあるもんかね。お断りだね。これ以上ごくつぶしを増やして、どうしろって言うんだい。それとも、一番つらい、きつい仕事を死ぬまでやらせてやろうか」


「男性語」を使うリンの言葉遣いの一例は次です。湯屋で働くことになった千尋を、先輩であるリンが部屋に案内する場面です。

千と千尋の神隠し:リン.jpg


【リン】
「こいよ。おまえうまくやったなあ」

【千尋】
「えっ」

【リン】
おまえとろいからさ、心配してたん。油断するな。分かんないことはおれに聞け、

【千尋】
「うん」

【リン】
「ふん? どうした?」

【千尋】
「足がふらふらする」

【リン】
「ここがおれたちの部屋だよ。食って寝りゃあ、元気になる


せりふだけを読むと千尋は男性と会話しているかようですが、リンは女性です。この言葉遣いについて金水教授は「強い少女像を際だたせるために、あえてジェンダー観をずらした役割語が使われている」と分析しているのでした。


お茶の水博士の「知っておる」


金水さんの役割語という概念の発端は、手塚治虫の「鉄腕アトム」に出てくるお茶の水博士の言葉遣いだったと言います。


金水さんが「役割語」の研究を本格的に始めたのは、20年ほど前。大阪大学で助教授として、「いる」「おる」「ある」などの「存在表現」の研究をしていた際、手塚治虫の「鉄腕アトム」のお茶の水博士が「わしはアトムの親がわりになっとるわい!」など、「おる」の表現を使っていることに気づいた。

「おる」は西日本の方言に多く見られるが、博士の言葉は方言ではない。実際に博士の立場にいる人が「知っておる」などと話すわけでもない。「今までにない概念で説明が必要だ」と研究を進めると、江戸時代までさかのぼった。

当時、京都で学問を学んだ医者や学者は言葉遣いに保守的で、上方風の話し方をしていた。それが誇張されて戯作げさくや歌舞伎に描かれ、現在にまで受け継がれていったのだと分析した。たとえば、明治初期の戯作者・仮名垣魯文ろぶんの「安愚楽鍋」のなかの「藪医生の不養生」には、「診察しておる処え親類共から ・・・・・・」という記述がある。

博士のほかにも「そうよ」「~だわ」などの女性語、「~なのさ」などの男性語など、必ずしも現実とは一致しないのに、特定のキャラクターと結びつく表現に気づいた。こうした言葉を、2000年の論文で「役割語」と名付けた。

朝日新聞(2021.9.23)

ここに至って、宮崎駿監督がアニメで「役割語」を多用する背景が分かります。「役割語」は漫画の "神様" である手塚治虫が使っている。だから当然使う。しかもそれは江戸時代にルーツをもつ長い文化的伝統があり、手塚治虫以前の漫画家も多々使ってきた。そういうことだと思います。


ステレオタイプとしての役割語


我々は日常生活の中で、人間を性別、職業、年齢、人種などで分類しがちですが、その分類(=カテゴリー)に属する人間が共通して持っていると信じられている特徴を "ステレオタイプ" と言います。役割語はこのステレオタイプの概念と密接に関係しています。


その人物「らしさ」に当てはめた表現であり、現実とも異なる場合が多い役割語は、言語上のステレオタイプだ。特に性差が強調されるたため、翻訳業界では最近、役割語の用い方が議論になっているという。映画、小説、演劇などのフィクションのほか、外国人のインタビューの翻訳でも多用される。

海外の人名になじみのないことから、小説などでは人物像をつかみやすくするために「~ だわ」「~ なのよ」といった女性語が強調されてきた。そういった慣習は、女性俳優のインタビューの翻訳でも続いてきたが、「英語では標準的な表現なのに、女性語に翻訳するのはおかしいのではないか」という意見が、読者や通訳者から上がっているという。金水さんは「時代に合わない役割語に違和感に気づいている人は多い。次第になくなる役割語がある一方、新しい役割語が生まれる可能性もある」と話す。

「同上」

上の引用に、

役割語は)外国人のインタビューの翻訳でも多用される

とあります。役割語の理解を深めるために「外国人のインタビューの翻訳」の想定例を一つ作ってみます。アメリカのある地方の伝統的なハロウィーン事情を取材した日本のTV番組があったとします。自宅の台所でクッキーを焼いている女性にカメラ・インタビューをし、その女性の発言を翻訳し、女性アナウンサーが "吹き替え"をするとします。その翻訳は次のようになるはずです。

こうやって毎年クッキーを自分で焼いて、ハロウィーンの日にやってくる子どもたちにあげるの。子どもたちの喜ぶ顔を見るのが楽しみなのよ。この地区の住人の親睦にも役だっていると思うわ

女性アナウンサーはこのような「女性語の語尾」で、思い入れたっぷりに(少々の "演技" を交えながら)アナウンスするでしょう。アメリカ人女性を日本の女性アナウンサーが吹き替えるのは自然です。しかし言葉遣いに関しては、インタビューされた人が英語で女性語を使っているはずがないのです。

お菓子を作るのが趣味の男性もいるので、クッキーを焼いているのが男性だとします。それを翻訳して日本の男性アナウンサーが吹き替えると、

こうやって毎年クッキーを自分で焼いて、ハロウィーンの日にやってくる子どもたちにあげるんだ。子どもたちの喜ぶ顔を見るのが楽しみなのさ。この地区の住人の親睦にも役だっていると思うよ

この程度の "事実や意見ををすらすら述べる英語"では形容詞や間投詞はなく、また外国TV局のインタビューなのでスラングもなく、従って女性だろうと男性だろうとほぼ同じ英語のはずです。しかし日本語では、男性なら上のような男性語の語尾で翻訳される。

こういった翻訳は日本のリアル社会で使われる言葉とは必ずしも一致しません。たとえば、上の女性の翻訳で使った「なのよ」「あげるの」という語尾ですが、リアル社会では男性も使います。特に東京中心の地方です。ちなみに私は男性ですが、明らかに使っています。しかし創作物では女性が使う。例外はいろいろあるでしょうが、この語尾は "役割語としての女性語" と言ってよいと思います。つまり、女性「らしさ」の強調ための言葉です。

以上のように、日本語の創作物においては、リアル会話とは必ずしも一致しない「女性語」「男性語」という役割語があります。役割語は、リアル社会で話される日常語とは別次元の「ヴァーチャル日本語」です。これが上の引用で「役割語は言語上のステレオタイプ」と言っている意味です。つまり

・ 女性語を使う人 → 女性
・ 女性 → 女性語を使う → 女性らしい

という概念が創作物の中で形作られ、それが暗黙に根付いています。それは手っ取り早くキャラクターを造形するのに役立つかもしれないが、時代の要請にマッチしないステレオタイプとなることもある。上の引用はそう言っているのでした。



ところで、金水教授は役割語について一冊の本を書いています。

金水敏「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(岩波書店 2003)

です。以降はこの本(以下「本書」と記述)に沿って、朝日新聞の記事をもう一度振り返ってみます。


お茶の水博士の「博士語」


手塚治虫の「鉄腕アトム」に出てくるお茶の水博士は、つぎのようにしゃべります。

じゃと? わしはアトムの親がわりになっとるわい!」

アトムどうじゃ

人間のふりをして煙にとっつかれてみか」

このようなじゃべり方は、お茶の水博士だけでなく、作家も発表年も違う多くの漫画に認められます。これを仮に「博士語」としておきます。「博士語」を標準語と比較すると次の通りです。

  博士語標準語
断定親代わりじゃ親代わりだ
打ち消し知らん、知らぬ知らない
人間の存在おるいる
進行、状態知っておる
知っとる
知っている
知ってる

この博士語と標準語の対比は、日本の東西方言の対立とよく重なります。日本の方言をさまざまな特徴で分類していくと、多くの特徴が東西に分かれて分布します。分布の境界線は、北は富山県と新潟県の境あたりで、そこから日本アルプス(岐阜と富山の県境)を経由し、南は(言葉によって違うが)愛知県から静岡県東部に抜ける線です。この境界線で分かれる「西日本方言」と「東日本方言」の特徴を対比すると次の通りです。

  西日本方言東日本方言
断定雨じゃ、雨や雨だ
打ち消し知らん
知らへん
知らない
知らねえ
人間の存在おるいる
進行、状態降っておる
降っとる
降りよる
降っている
降ってる
形容詞連用形あこうなる くなる
一段動詞命令形起きい起きろ
サ変動詞命令形せえ、などしろ、など

この表と「博士語:標準語の対応表」をみると、博士語は西日本方言よく似ています。ただし違いもある。本書では博士語について、西日本方言との違いを次のように指摘しています。

◆ お茶の水博士は断定に「じゃ」を使うが、「だ」を使うこともかなり多い。つまりフレーバー的に時々「じゃ」を使う。

  形容詞連用形の「あこうなる」などの、いわゆるウ音便はあまり用いない。

◆ 西日本方言の中でも、断定の「雨や」、打ち消しの「知らへん」は用いない。

つまり博士語は、文法的に現代西日本方言の特徴を部分的にもっていると言えます。もちろん、お茶の水博士をはじめとする漫画に登場する博士が西日本出身のキャラクターと想定されているわけではありません。ではなぜ、漫画の博士は西日本方言を(部分的に)しゃべるのでしょうか。


老人語


役割語の謎.jpg
金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」
(岩波書店 2003)
実は、漫画の中の博士の言葉を調べていくと、博士語を使わない博士もいることに気づきます。この相違を調べると、博士語を使う博士は "老人的特徴" がはっきりした博士(頭が禿げている、白髪など)だと分かります。その反対に、髪が黒い比較的若い博士は博士語をしゃべらない。つまり、博士語は老人語の一種だったのです。

老人語には、上の博士語であげた例のほかに、「お前も働いとるしのう」というときの「のう」といった終助詞も含まれます。ちなみに「のう」も西日本方言です。こういった老人語(と、その一種としての博士語)のルーツをさかのぼると江戸時代の言語事情に行き着くというのが金水教授の研究で、それは朝日新聞の記事にあるとおりです。本書には次のように書かれています。


「老人語」の起源は18世紀後半から19世紀にかけての江戸における言語の状況にさかのぼるということがわかった。当時の江戸において、江戸の人たちの中でも、年輩の人の多くは上方風の言葉づかいをしていたのであろう。特に、医者や学者などの職業を持つ人物は、言葉使いに保守的であり、古めかしい話し方が目立ったと思われる。そのような現実の状況が誇張されて、歌舞伎や戯作などに描かれてたのである。

それ以降、現実の方は動いていって、江戸でも江戸語を話す人々が増加していった。そして明治に入ると、江戸語の文法を受けついで新しい「標準語」が形成されていく。ところが文芸作品、演劇作品の中では、伝統的に「老人」=上方風の話し方という構図がそのまま受け継がれていくのである。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」
(岩波書店 2003)

金水教授は「言葉づかいをしていたのであろう」や「目立ったと思われる」というように、断定を避けた言い方をしていますが、これは戯作や歌舞伎の文献の言葉遣いから話されていた言葉を推定しているからでしょう。

こうした経緯をもつ老人語の "文化的伝統" の現れが、『千と千尋の神隠し』の湯婆婆なのでした。



老人語について、金水教授はさらに深く分析しています。つまり創作物語の中において、


役割語としての老人語の話し手は、単に年齢が高いという属性を持っているのではなく、ストーリーの中で老人であるということに結びついた特別な役割を担っていることが普通

金水敏「同上」

です。その "特別な役割" とは何か。教授の分析によると、老人語の話し手はおおむね次の3つの類型に分けられます。

a. 主人公に知恵と教訓を授け、教え、導く助言者
b. 悪知恵と不思議な力によって主人公を陥れ、苦しめる悪の化身(例:白雪姫の女王や眠り姫の魔女)
c.  老耄ろうもうゆえの勘違いや失敗を繰り返し、主人公やその周辺の人物を混乱させ、時に和ませ、関係調整役として働く人物(例:「ちびまる子ちゃん」のともぞうじいさん)

この類型からすると、博士語はまさに a. の役割を表すものと言えるでしょう。老人語の話し手は物語の中で特定の役割を与えられた人物である ・・・・・・。これが老人語の(ひいては役割語の)根幹です。そして金水教授は神話学者、ジョセフ・キャンベルの「ヒーローの旅」との関連を指摘しています。

キャンベルは世界各国の神話を分析し、ヒーロー(男性・女性を含む)が出会う "一定の役割をもった人物" と、その "人物との出会いを含む出来事" の時間的配置に一定の類型があることを見い出しました。これが「ヒーローの旅」で、次のようなものです。〈〉が一定の役割をもった人物、「」が出来事です。

◆ 「普通の生活」をしていた〈ヒーロー〉が、ある日、異界の〈使者〉から「冒険への呼び出し」を受ける。

◆ 〈ヒーロー〉はいったんこの「呼び出しを拒絶」するが、老人の〈助言者〉に導かれ、励まされ、力を授かり、旅立つ。

◆ 〈ヒーロー〉は「最初の関門」にさしかかり、〈関門の番人〉に「試練」を与えられる。その過程で〈味方〉と〈敵〉が明らかになる。

◆ 〈敵〉は〈ヒーロー〉を呪い、苦しめようとする〈影〉の部下であったり、〈影〉そのものであったりする。

◆ 〈トリックスター〉は、いたずらや失敗で〈ヒーロー〉たちを混乱させ、笑わせ、変化の必要性に気づかせる。

◆ 〈変容する者〉は〈ヒーロー〉にとって異性の誘惑者で、〈ヒーロー〉は彼/彼女の心を読み取ることができず、疑惑に悩まされる。

◆ やがて〈ヒーロー〉は「深奥の洞窟への進入」を試み、「苦難」をくぐり抜け、宝の「剣(報酬)をつかみ取る」。

◆ 〈ヒーロー〉は「帰還への道」をたどるが、その途中で死に直面し、そして「再生」を果たす。その後「神秘の妙薬を携えて帰還」する。

この「ヒーローの旅」という物語の構造は、映画、演劇、小説などで、冒険活劇、SF、ミステリー、ラブロマンスなどのジャンルを問わずに活用されてきました。逆に言うと、人気を博した物語は「ヒーローの旅」の構造を全面的、ないしは部分的に持っています。端的な例は「スター・ウォーズ」です。

そして金水教授の指摘は、「ヒーローの旅」の "一定の役割をもった人物" と "日本の物語における老人語の話し手の類型" が、次のような対応関係にあることです。

a. → 〈助言者〉
b. → 〈影〉
c. → 〈トリックスター〉

『千と千尋の神隠し』に即していうと、「ヒーローの旅」における〈影〉=「b. 悪知恵と不思議な力によって主人公を陥れ、苦しめる悪の化身」= 湯婆婆、ということでしょう。湯婆婆を "悪の化身" とは言い過ぎでしょうが、物語の類型におけるポジションとしてはそういうことです。

言うまでもなく「ヒーローの旅」という物語の構造は(日本を含む)世界共通のものです。従って、外国の物語で「ヒーローの旅」の構造をもち、そこに年配の〈助言者〉か〈影〉か〈トリックスター〉が出てきたときは、日本語では老人語で翻訳されることになります。本書では「ハリーポッター」のダンブルドアが〈助言者〉の典型としてあげられています。次はダンブルドアのハリーに対する発言です。


「君の母上は、君を守るために死んだ。ヴォルデモートに理解できないことがあるとすれば、それは愛じゃ。君の母上の愛情が、その愛の印を君に残していくほど強いものだったことに、彼は気づかなかった。傷跡のことではない。目に見える印ではない ・・・・・・ それほどまでに深く愛を注いだということが、たとえ愛したその人がいなくなっても、永久に愛されたものを守る力になるのじゃ。それが君の肌に残っておる。クィレルのように憎しみ、欲望、野望に満ちた者、ヴォルデモートと魂を分け合うような者は、それがために君に触れることができじゃ。かくもすばらしいものによって刻印された君のような者に触れるのは、苦痛でしかなかったのじゃ

J.K.ローリング
松岡祐子・訳
「ハリー・ポッターと賢者の石」
第17章 "二つの顔を持つ男" 440ページ
(静山社 1999)

ハリー・ポッター:Dumbledore.jpg
映画版「ハリー・ポッターと賢者の石」(2001)に登場するアルバス・ダンブルドア。演じたのはリチャード・ハリスである。なお、リチャード・ハリスは次作の「ハリー・ポッターと秘密の部屋」(2002)でもダンブルドアを演じたが、それが遺作となった。

このように日本語訳のハリー・ポッターにおいて、魔法学校の校長・ダンブルドアは老人語で訳されています。



ちなみに、本書にはありませんが、上に引用したダンブルドアの発言は、原書では以下です。


‘Your mother died to save you. If there is one thing Voldemort cannot understand, it is love. He didn't realize that love as powerful as your mother's for you leaves its own mark. Not a scar, no visible sign ... to have been loved so deeply, even though the person who loved us is gone, will give us some protection for ever. It is in your very skin. Quirrell, full of hatred, greed and ambition, sharing his soul with Voldemort, could not touch you for this reason. It was agony to touch a person marked by something so good.’

J.K.Rowling
「HARRY POTTER and the philosopher's stone」
Chapter 17 'The Man with Two Faces'
(Bloomsbury Publishing 1997)

「ハリー・ポッター」は若年層も対象とするファンタジーであり、非常に分かりやすい "標準の" 英語です。念のために、ハリーの発話がどう訳されているかを見てみます。上のダンブルドアの発言の後の方で、出典にあるルビは省略しました。


「ううん、そうじゃないさ」

ハリーが考えをまとめながら答えた。

「ダンブルドアって、おかしな人なんだ。たぶん、僕にチャンスを与えたいって気持ちがあったんだと思う。あの人はここで何が起きているか、ほとんどすべて知っているんだと思う。僕たちがやろうとしていたことを、相当知っていたんじゃないのかな。僕たちを止めないで、むしろ僕たちの役に立つよう必要なことだけを教えてくれたんだ。鏡の仕組みがわかるように仕向けてくれたのも偶然じゃなかったんだ。僕にそのつもりがあるのなら、ヴォルデモートと対決する権利があるって、あの人はそう考えていたような気がする ・・・・・・」

J.K.ローリング
松岡祐子・訳
「ハリー・ポッターと賢者の石」
第17章 "二つの顔を持つ男" 445ページ

原書のこの部分の英語は次の通りです。


‘No, it isn't,’ said Harry thoughtfully. ‘He's a funny man, Dumbledore. I think he sort of wanted to give me a chance. I think he knows more or less everything that goes on here, you know. I reckon he had a pretty good idea we were going to try, and instead of stopping us, he just taught us enough to help. I don't think it was an accident he let me find out how the Mirror worked. It's almost like he thought I had the right to face Voldemort if I could ...’

J.K.Rowling
「HARRY POTTER and the philosopher's stone」
Chapter 17 'The Man with Two Faces'

この引用で分かるように、ハリーの英語とダンブルドアの英語は "同質" です。文法的にも同じだし、特徴ある単語を使うわけでもない。同質だけど、ダンブルドアと違ってハリーの日本語訳はストレートな標準語です。"僕" にみられるような男性語がありますが、それはリアルな会話でも男性が使うので役割語ではありません。

それと比較して、日本語訳されたダンブルドアは「じゃ」「のう」「おる」などの西日本方言の特徴を部分的に使うのです。しかも、現実に日本の老人が使う言葉ではありません。断定に「じゃ」を使う地域が日本にありまりすが、老人が「じゃ」を使う地域なら老若男女を問わず「じゃ」を使います。高齢者になったら「じゃ」を使い出すなんてことはあり得ない。

完全な蛇足ですが、私の配偶者(女性)は広島出身で、高校まで広島で育ち、関西の大学に入学しました。すると、周りの男子学生(ほとんどが関西出身)から「じゃろ の ◎◎ ちゃん」(◎◎ は彼女の名前)とのあだ名を付けられたそうです。関西の男子学生にとって、20歳前の若い女性が「じゃろ」を連発するのは印象的だったに違いありません(= "カワイーイ!")。もちろん彼女の両親も「じゃろ」を使っていました。ちなみに断定の「じゃ」には、地域によって「じゃろ」「じゃん」「じゃけん」などの変化形があります。

「ハリー・ポッター」のダンブルドアは、物語の中では〈助言者〉のポジションの高齢者です。だから日本語訳では西日本方言の特徴を部分的にもつ老人語が割り当てられる。役割語の典型といえるでしょう。

そして、我々はそのことに疑問をもつことはありません。読んでも、何の違和感も抱かない。その理由は、そういう風に "教育されてきた" からです。もちろん学校で習ったわけではありません。絵本、童話、マンガ、アニメなど、子どもが接するメディアにおいて、キャラクターを際だたせる言葉としての役割語が多用されていて、そのことによって「暗黙の教育」を受けてきたわけです。

子どもが接するメディアにおいて役割語が多用されるという事実は、ステレオタイプで人物を描くという役割語の性格を表しています。そのため、大人向けの小説やリアルなTVドラマ、映画などで役割語(たとえば老人語や博士語)が使われることはあまりありません。役割語を多用すると、人物描写が重要な文学や脚本としての価値が薄くなるからです。

我々は日本語を学ぶと同時に、リアルな会話では使わない「ヴァーチャル日本語」を学んできたと言えるでしょう。



本書に戻ります。「ハリー・ポッター」の日本語訳では、老人語を話すダンブルドアとは対照的に、ハリーは標準語で訳されていました。このことは、標準語が一般的な日本語だからという以上の意味があるようです。


では、読み手・聞き手が自分を同一化する〈ヒーロー〉は、どのような言葉を話すのか。それは、典型的には〈標準語〉である。むろん、例外はいくらでも見つかるが、その場合は十分な背景の説明と人物描写を重ねることでそれが可能になるのであり、そうでなければ、非〈標準語〉話者に我々は容易に自己同一化をすることができない。逆に、〈標準語〉話者ならば、我々は無条件に自己同一化する準備ができている。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

当然、ハリー・ポッターは日本語の標準語で翻訳されるし、千尋の言葉は「特徴がないことが特徴」となるわけです。

この "標準語" の対立概念は "非標準語" = 方言ですが、本書では「田舎ことば」という役割語が説明されています。それが次です。


田舎ことば


劇作家・木下順二(1914-2006)の代表作に『夕鶴』があります。昔話の「鶴の恩返し」に題材をとった物語で、登場人物は、

つう : 鶴の化身
ひょう  を助けた農民
うんず、そうど  ひょうの悪友

です。この劇において、与ひょう、運ず、惣どの3人は、次のような「田舎ことば」を話します。


[与ひょう]
もうあれでおしまいとつうがいうもん。

[運ず]
そげなおめえ。また儲けさしてやるに。

[与ひょう]
うふん ・・・・・・ おら つうがいとしゅうてなら

[惣ど]
いとしかろが? でどんどんと布を織らせて金を溜める

木下順二「夕鶴」より

この引用にある「だ」は東日本方言の特徴ですが、「いとしゅうて」と打ち消しの「ん」は西日本方言の特徴です。また「そげな」は九州でよく聞かれる言い方です。つまりこの3人の会話は、どこの方言ということもない、いかにも田舎くさい言葉に聞こえる表現をまぜて作った「ニセ方言」なのです。

一方、つうのせりふは次のように完璧な標準語(の女性語)というべき表現になっています。


[つう]
与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの? あんたはだんだん変わっていく。何だかわからないけれど、あたしとは別な世界の人になって行ってしまう、あの、あたしには言葉も分からない人たち、いつかあたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの? あんたは。どうすればいいの? あたしは一体どうすればいいの?

木下順二「夕鶴」より

実は、劇作家の木下順二は、3人の男たちが使う「ニセ方言」を意図的に使っているのです。次のように発言しています。


つまり、結果からいえば、いろんな地方のことばの中からおもしろい効果的なことばを拾って来てそれらを組み合わせまぜ合わせたということになりますが、最初は自然にそうであったものがだんだん意識的になり、そしてこのせりふの書き方を少々立体的に使ってみたのが『夕鶴』(1949年)ということになりましょうか。

三人の男たちが使うこの種類のことばとつう●●という女性のことば(これを自分では "純粋日本語" と呼んでいるのですが)とによって、彼らと彼女の持つ世界の共通性と違いとを、そしてやがて二つの世界の断絶を表現してみようとしたわけです。

木下順二「戯曲の日本語」より

金水教授は次のように分析しています。


ここで、木下順二は、〈田舎ことば〉と〈標準語〉の効果を、作品の構造に重ね合わせて、非常に端的に語っている。この作品の受容者(戯曲の読み手、あるいは劇の観客)は、誰に感情移入するであろうか。それは、「つう」である。

つまり木下順二が〈標準語〉を "純粋日本語" と呼んだのは、受容者である日本人が一切の抵抗なく、その言葉に自分の心理を重ね合わせることができるからである。その結果として、「つう」はヒロインの資格を手に入れる。

これに対し、三人の男たちの言葉は、受容者の感情移入を妨げ、したがって彼らは周辺的、あるいは背景的役割しか担えないのだ。男たちの言葉が感情移入を阻害するのは、東西各地の方言がまぜこぜになっているせいばかりではない(それも効果のうちであろうが)。男たちの言葉が仮に純粋な東関東方言であったり、九州方言であったりしても、基本的な効果はさして変わらないだろう。しかもその効果は、受容者が日常的しゃべる方言とも一切関係がない。

受容者が日本で育った日本語話者であるなら、使用する方言にかかわらず、まず〈標準語〉話者に感情移入し、非〈標準語〉話者は周辺的ないし背景的に扱われる。逆に言えば、作者は登場人物に〈田舎ことば〉を使用させることによって、それを話す人物を周辺的・背景的人物と位置づけるのである。そのためには、東日本型か、西日本型かというような差異はさして問題にならない。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

この〈田舎ことば〉は、外国文学の翻訳にも使われます。その例は物語に白人と黒人が登場する場合で、金水教授は『風と共に去りぬ』をあげています。


物語に白人が登場する場合、白人には〈標準語〉が割り当てられるのが普通である。次に示すのは、大久保康雄訳の『風と共に去りぬ』から黒人の侍女ディルシーとスカーレット・オハラの対話である。

ありがとうディルシー。母さんが帰ったら、相談してみるわ」
ありがとうごぜえます、お嬢さま。では、お休みなせえまし」

マーガレット・ミッチェル
大久保泰男・訳
「風と共に去りぬ」

ここでも次のような図式が成り立っている。

白人    教養あるもの・支配するもの・読者の自己同一化の対象 =〈標準語

黒人    教養のないもの・支配されるもの・読者の自己同一化から除外されるもの =〈田舎ことば

むろん、描写を重ね、人物像を書き込めば、〈田舎ことば〉であっても自己同一化の対象となることはできる。しかし、読者が最初に読んだときの反応は決して変えることはできないであろう。このような言葉の投影は、日本人の〈田舎ことば〉に対するまなざしと、黒人に対するまなざしが重なり合うことによって成立しているのである。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

ちなみに「ハリー・ポッター」と違って「風と共に去りぬ」の場合、スカーレットは標準英語を話すのに対して、ディルシーは黒人英語というか、南北戦争当時の黒人奴隷が話す英語です。マーガレット・ミッチェルはそこを "ちゃんと" 書いているのです。たとえば、上に引用した会話の原文は次の通りです。


"Thank you, Dilcey, we'll see about it when Mother comes home."
"Thankee, Ma'm. I gives you a good night,"

Margaret Mitchell
「Gone with the Wind」
Part 1, Chapter 4

ディルシーの Thankee は Thank you だし、gives は 正しくは give です。従って日本語訳において、スカーレットとディルシーの発話を "違うことばで" 訳するのは合理性があると言えます。しかしその「黒人英語」を日本語の「田舎ことば」で訳する背景は、まさに金水教授の示した図式どおりでしょう。


役割語に偏見と差別が忍び込む


新聞記事の紹介のところで書いた "ステレオタイプ" をもう一度とりあげます。我々は日常生活の中で人間を性別、職業、年齢、人種などで分類しがちですが、その分類(=カテゴリー)に属する人間が共通して持っていると信じられている特徴を "ステレオタイプ" と言います。


人間に限らず、我々は日々新たな事物と出会って暮らしている。その事物をいちいちじっくり観察して対処していては、とても間に合わない。そこで、本能や文化によってあらかじめ用意されたカテゴリーに目の前の対象を当てはめ、そのカテゴリーとセットになった特徴、すなわちステレオタイプを目の前の対象も持っているはずだと仮定してかかって、行動するのである。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

カテゴリーによる認識は、我々が生活する上で必須だと言えるでしょう。役割語は "言語上のステレオタイプ" であり、"カテゴリー・ベース" の発話記述です。役割語が子ども向けの創作物にしばしば使われるのは、カテゴリー・ベースの記述で人物像を分かりやすく子どもに伝えられるからです。しかしその一方で、ステレオタイプには偏見や差別が忍び込みます。


しかし、人間が人間を分類、カテゴリー化する場合には、とたんにさまざまな問題が出てきてしまう。すなわち、人間の多様な個別性に注意を払わず、見た目や性別、国籍といった表面的な特徴で分類し、ステレオタイプに当てはめ、それに基づいて行動するときに、偏見や差別が生じる。たとえば、「女性は知的能力において男性に劣る上に感情的で、組織的行動になじまない」などというステレタイプに結びついた偏見によって、女性の就職が妨げられる、といったように。

整理しておくと、ステレオタイプとは、混沌とした外界を整理しながら把握していく人間の認知特性と結びついた現象であると言えよう。認知とはすなわち外界に関する知識の処理のことをいうのである。一方、ステレオタイプに関する知識が一定の感情(主として否定的感情)と結びつくとき、その知識と感情のセットこそが「偏見」であると言える。また、偏見が特定の行動と結びついて、偏見を持たれた人間にとって不当な結果を招くとき、その行動を「差別」と言う。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

本書には、役割語が偏見と差別に結びついた典型例として〈アルヨことば〉が分析されています。〈アルヨことば〉とは、

隊長たいへんあるよ 日本軍がきたある
   こんにちは わたちたち こんどひっこちてきた摘(つん)一家ある

のように文末述語に直接「ある」または「あるよ」がつく言い方です。本書では、この〈アルヨことば〉が、日清戦争から日中戦争に至る過程において中国人に対する偏見・差別とセットで発達し(前者の例)、それが戦後にも引き継がれた(後者の例 = Dr.スランプ)ことが明らかにされています。金水教授は本書の最後のページで次のように述べています。


役割語の知識は、日本で生活する日本人にとって必須の知識であるが、役割語の知識が本当の日本語の多様性や豊かさを覆い隠し、その可能性を貧しいものにしている一面、あるいは、役割語の使用の中に、偏見や差別が自然に忍び込んでくる一面に気づかなければならない。



ヴァーチャル日本語の仕組みを知り、時にはヴァーチャル日本語をうち破り、リアルな日本語をつかみ取ろう。それが、日本語を真に豊かで実り多いものにしていくための大事なステップとなるのである。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」


まとめ


以上が金水教授の著書「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」の "さわり" ですが、さらに要約すると次のようになるでしょう。

◆ 役割語とは、各種の創作物で使われる「特定の人物像と結びついた特徴ある言葉遣い」である。

◆ これには、老人語、男性語、女性語、上司語( "見積書を作ってくれたまえ" )、お嬢様ことば( "そうですわよ、わたくしが存じておりますわ" )、田舎ことば、異人ことば(アルヨことば、など)などがある。

◆ 役割語は必ずしも現実とは一致しない。それどころか、老人語のように現実には決して話されない言葉もある。方言をまぜこぜにした田舎ことばも、現実に話す人はいない。

◆ 役割語を使うと "手っ取り早く" 人物像を提示できる。つまり、人物像の詳細な書き込みや描写の必要がない。そのため、子ども向けの創作物に多用される。大人向けの創作物で多用されるとしたら、その創作物は "B級作品" である。

◆ 役割語は学校で習ったわけではなく、誰かに教えてもらったのでもない。しかし、日本で日本語で生活する皆が理解している。それは絵本から始まって、小さいときから役割語を刷り込まれてきたからである。

◆ 人間(および事物)をカテゴリーに分類し、カテゴリーに属する集団がある特徴を共通して持っていると信じられているとき、それをステレオタイプと言う。役割語は言語上のステレオタイプである。役割語による発話は、カテゴリー・ベースの記述である。

◆ カテゴリーによる人間や事物の認識は、我々が生活していく上で必須のものであるが、反面、そこに偏見や差別が忍び込む。我々は役割語による人物認識を見直し、暗黙に偏った見方に陥っているのではないかを反省し、豊かな言葉と認識を取り戻すべきである。


我々はヴァーチャルとリアルを区別できない


以下は役割語について、特に金水教授の著書「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」についての感想です。

最近、IT技術を使ったヴァーチャル・リアリティ(VR。Virtual Reality。仮想現実)が、ゲーム、エンターテインメント、ビジネスにおける 3D シミュレータなどで広まっています。金水教授は本書の "はしがき" のところで「現実」と「仮想現実」について次のように述べています。


重要なのは、我々にとって「ほんとの現実」(リアリティ)と「にせ物の現実(ヴァーチャル・リアリティ)は本質的に区別できない、という点です。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

我々は「現実」と「仮想現実」を本誌的に区別できない ・・・・・・。これは真実を突いています。

実生活で使う言葉や、アナウンサーが使う言葉を「リアル言語」だとすると、役割語は「ヴァーチャル言語」です。従って、役割語で作られるキャラクターの世界は「仮想現実」です。「仮想現実」だけれど、我々はそれを「現実」と区別できず、暗黙に(あくまで暗黙に)現実だと思ってしまう。

この "区別できない" ことは、どういう効果を生むでしょうか。役割語としての「男性語」と「女性語」の例で考えてみると、『千と千尋の神隠し』に登場する少女・リンは男性語を使うのでした。金水教授は「リンは "いつか湯屋を出たい" という強い意志を持っているキャラクター」であり「強い少女像を際だたせるために、あえてジェンダー観をずらした役割語が使われている」と指摘していました。

つまり我々は「男性語を使う = 強い意志をもつ存在」というキャラクター像を暗黙に受け入れていて、それに何の疑問も感じないのです。そのことを大前提として、リンのせりふが成り立っている。もちろん宮崎監督は、強い少女像を際だたせるためにリンに男性語を割り当てたのでしょう。それは、子どもを対象とするアニメのキャラクター設定としては自然だし、まっとうだと思います。

しかしアニメを含む創作物において、男性語を使う少女・リンのような存在はまれであり、男性語を使い手のほとんどは少年や男性です。つまり我々は「男性 = 強い意志をもった自立する存在」というようなイメージを、役割語が使われる仮想現実の世界で受け入れてしまっているのではないでしょうか。それと反対に、女性語を使うのは「保護すべき弱い存在」というキャラクターだと、無意識に感じているのではないか。それを役割語が補強している。

これが仮想現実の世界に閉じていればよいのですが、我々は「現実」と「仮想現実」を本誌的に区別できないのです。従って、役割語によるキャラクター像が現実においてもそうだと無意識に思ってしまう。本質的に区別できないのだから ・・・・・・。

そのような認識が現実の実態とは違うのは明白です。強い意志の女性もいれば、弱い男性もいる。しかし実態とは全く別に、役割語は「男性は男性らしく、女性は女性らしく」とか「男性は論理的で女性は感情的」とか「男性と女性は社会的役割が違う」といった考えや概念が暗黙に忍び込む素地を作っているのではないでしょうか。

そうなると、男性・女性という生物学的な差異を越えて偏見につながるだろうし、ひいては差別を生む誘因になりかねない。ここまで「男性語」と「女性語」の例で書きましたが、ほかの役割語も、その役割語で与えられたキャラクター像(仮想現実)によっては同じ効果を生むでしょう。

我々は言葉によって世界を切り取り、言葉によって世界の構造の認識しています。と同時に、我々は仮想現実と現実を本質的に区別できません。この2つが重なると、物語の中の言葉によるキャラクター像が偏見や差別を助長するという "不都合" を生むことがありうる。しかもその言葉(=役割語)は、日本人である限り幼少の頃から刷り込まれたものです。

そういった不都合を回避する第一歩は、刷り込まれていることの認識である。そう思いました。


役割語としての方言


以降は余談で、役割語という概念について気付いた点です。金水教授の本には「田舎言葉としての"ニセ方言"」が出てきますが、以下は "真の" 方言の話です。

もちろん方言は「それを話す人が該当地方に住んでいる」、もしくは「該当地方の出身である」ということを示します。たとえば、関西地方が舞台のドラマでは役者が関西弁を話し、関東が舞台のドラマで関西弁を話す人がいたとしたらその人は関西出身であることを示す、といった具合です。

しかし、こと関西弁・関西言葉については、単なる方言以上の役割があるように感じます。その理由は、戦国時代を扱った歴史ドラマの配役では、関西人だけが方言(=関西言葉)を使うからです。しかも使うのは、文化人(たとえば千利休)、商人(たとえば堺の豪商)、京の公家に限られます。関西出身の武士、例えば明智光秀(近江)や黒田官兵衛(播磨)が関西言葉を使うドラマの記憶はありません。

もちろん戦国歴史ドラマにおいて、武士は標準語(をベースにしたドラマ用の武家言葉)で話すのが普通です。徳川家康や羽柴秀吉は三河弁を使わないし、織田信長は尾張弁を使わない。と同時に、三河や尾張の有力商人が登場したとして、その人たちも方言(=三河弁や尾張弁)を使うことはないと思うのです。

明智光秀や黒田官兵衛がドラマにおける "武士としての言葉" を使ったとしてもおかしくはありません。その一方で、堺の豪商や茶人は関西言葉を話すのです。

戦国歴史ドラマにおいて、関西言葉は特別なポジションを与えられているのではないでしょうか。つまり「文化と経済を担う人物が使う言葉」という位置づけで、これも役割語といってよいと思います。

 特定の人物と結びついた言葉 

さらに「幕末から明治維新にかけての歴史ドラマ」では、別のタイプの役割語があると思います。「特定の人物像と結びついた特徴ある言葉遣い」ではなく、「特定の人物と結びついた特徴ある言葉遣い」です。

つまり、幕末の歴史ドラマで「おいどん」とか「ごわす」という言葉遣いをする人物がいたとしたら、それは間違いなく西郷隆盛です。「おいどん」は鹿児島弁の1人称ですね。だとすると、大久保利道も村田新八も自分のことを「おいどん」と言っていいはずなのに、そうは言わない感じがします。「おいどん」という自称は西郷隆盛という特定の人物を示す役割語となっているのではないでしょうか。

同様に、語尾に「ぜよ」を使う人物がいたとしたら、それは確実に坂本龍馬でしょう。これは土佐弁なので、土佐藩の中岡慎太郎や後藤象二郎も「ぜよ」を使うはずなのに、龍馬だけが「ぜよ」と言う気がします。

最近は歴史ドラマをあまり見なくなったので、近年の役者・俳優のせりふがどうなっているのか、確定的なことはわかりません。ただ、「特定の人物と結びついた」タイプの役割語もあるのではと思います。




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No.304 - オークは樫ではない [文化]

No. 93「生物が主題の絵」の「補記4」で、「西洋でオークと呼ばれる木は日本の "ナラ" に相当し、"カシ" ではない」という話を書きました。日本では樫と訳されることが多く、このブログで過去に引用した数枚のオークの絵の日本語題名も「樫」となっています。

たとえば国立西洋美術館(上野)の常設展示室にある、ロヴィス・コリントの「樫の木」です。コリントはドイツ人で、この絵の原題は Der Eichbaum です。Eiche はドイツ語のオーク、Baum は木なので「オークの木」ということになります。しかし美術館が掲げる日本語タイトルは「樫の木」となっている。一見、些細なことのように思えますが、「樫の木」とするのはこの絵を鑑賞する上でマイナスになると思うのです。今回はそのことを順序だてて書いてみたいのですが、まず西欧における "オーク" がどいういう樹木か、そこから始めたいと思います。


オーク


ヨーロッパでオーク(英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche)と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、日本語に訳す場合はナラとすべきだと書きました。オークも楢もコナラ属の落葉樹です。コナラ属の常緑樹を日本ではカシと言いますが、たとえばイタリアなどには常緑樹のオークがあり、英語では live oak、ないしは evergreen oak と言うそうです(Wikipedia による)。

つまり Oak はコナラ属の樹木全般を指すが、普通は落葉樹の楢(=ヨーロッパナラ)のことであり、特に常緑樹を示すときには live などの形容詞をつけるということなのです。

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オークの葉と実
(Wikipedia)

フレーザーの『金枝篇』によると、古代からヨーロッパではオークを薪や住居の材料、食料(果実=どんぐり)として利用してきました。と同時に、オークには神が宿るとして崇拝されてきました。最高神であるゼウス(古代ギリシャ)やユピテル(古代ローマ)は、天空神であり雷神であり、かつオークの神でもあった。古代ゲルマンでも、オーク神 = 雷神でした。また、ケルト民族もケルト人もオークを崇拝していました。『金枝篇』には次のようにあります。


ガリアのケルト人の場合、ドルイド教の祭司はヤドリギの生えているオークの樹をなによりも神聖だとみなした。彼らはオークの森を荘厳は礼拝の場とし、儀式には必ずオークの葉を用いた。「ケルト人はゼウスと崇め、ケルト人のゼウスを表す偶像はオークの高木である」と、あるギリシャ人が記している。


上に引用にある "ゼウス" はギリシャ人の表現で、つまり "最高神" という意味です。引用したフレーザーの『金枝篇』の "金枝"(Golden bough)とはヤドリギのことです。ヤドリギは他の樹木に寄生する常緑樹で、伐採すると幹が金色に見えるようになることから "Golden bough" と言うそうです。そしてオークの木に生えるヤドリギは神聖なものとされた。なぜなら、冬にオークが葉を全部落としても常緑樹のヤドリギは緑のままであり、オークの神がそこに宿ったように見えるからです。こういうところからもオークが落葉樹であることが分かります。

No.220「メト・ライブの "ノルマ"」で書いたベッリーニのオペラ『ノルマ』は、まさに古代ローマ時代におけるガリアのケルト人の話でした。そこではガリアの人々がオークの巨木の前につどい、巫女であるノルマが伝える神のお告げを聴くのでした。

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メトロリタン・オペラによる「ノルマ」の舞台(2017)。オークの森の中に大木があり、巫女のノルマはそのオークの前で神のお告げを伝える。No.220で引用した画像を再掲。

『金枝篇』に「ケルト人は儀式には必ずオークの葉を用いた」とありますが、このオークの葉(オークリーフ)のデザインは、現代でも生活用品などのデザインに使われます。また、イギリス、フランス、イタリア、エストニアの国章(国を代表する紋章)にはオークの葉の絵が使われています。次の画像はイギリスの国章(イギリス王室の紋章)ですが、ライオン(=イングランド)と一角獣(=スコットランド)の間の上の方にオークの葉がデザインされています。この紋章では比較的目立ちにくいオークの葉が、あたかもイングランドとスコットランドの統合の象徴のように使われています。国を代表する紋章にオークの葉を使うということは、それだけオークという樹に象徴性があるということでしょう。

イギリスの国章.jpg
イギリスの国章
(Wikipedia)


日本のブナ科コナラ属の樹木


一方、日本ではコナラ属の落葉樹を総称して「楢」、常緑樹を総称して「樫」と呼んでいます。その代表的な樹種を葉の写真とともに掲げます。これ以外にも落葉樹ではアベマキやナラガシワ、常緑樹ではウバメガシ(備長炭の原料)などがあります。

落葉樹
(楢)
コナラ
(小楢)
楢1 - コナラ.jpg
クヌギ
(椚・橡)
楢2 - クヌギ.jpg
ミズナラ
(水楢)
楢3 - ミズナラ.jpg
カシワ
(柏)
楢4 - カシワ.jpg
常緑樹
(樫)
シラカシ
(白樫)
樫1 - シラカシ.jpg
アラカシ
(粗樫)
樫3 - アラカシ.jpg
アカガシ
(赤樫)
樫2 - アカガシ.jpg
ブナ科コナラ属の主な樹木

こうして見ると、ヨーロッパナラ(オーク)は、葉の形だけからするとカシワに近い形です。

日本で "ドングリ" と呼ばれるもののほとんどは、コナラ属の落葉樹・常緑樹の果実です。そしてドングリは森の生物の重要な食料です。「今年はドングリが不作で熊が人里に出没する」といった話があるのは、その重要性の象徴でしょう。ということは、昔は人間にとっても保存が利く大切な食料だったはずです(栗も同様)。その状況は、森林に覆われていた古代のヨーロッパでも同じはずであり、そういうこともオークが神聖視される一因になったのでしょう。


オークを樫とする誤訳


オークが楢であることの説明を、鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」から引用します。鳥飼氏は日本における同時通訳の草分け的存在でもあり、翻訳や通訳、異文化コミュニケーションに関する数々の著作があります。


日本語の中にすっかり定着している言葉で、じつはそもそもが誤訳だった、という例がある。「樫」という木の名称である。

英語に oak という単語がある。オークの家具といえば、がっしりした上質の家具である。この「オーク」は日本語では「樫」と訳されている。しかし、この「樫」という木は固すぎて、家具に加工するのはむずかしいのだそうだ。日本ではとうていできない、と長いこと思われていて、英国などオーク家具の本場から輸入されてきた。輸入ものだから値段は非常に高い。「これは本物のオークです」となれば高級家具である。

ところが、北海道にある「水楢みずなら」という木を見て、ヨーロッパ人が「これは良質のオークだ」といったとのこと。日本では雑木扱いの木である。そこで安い値段でヨーロッパに輸出され、かの地で立派な「オーク家具」に変身したという。

つまり、英語の「オーク」は日本の「楢」なのだった。最初に誰かが「樫」と誤訳し、それら長らく定着し、辞書でも踏襲されてきたという。岐阜県清見村で、20年以上も前から木と取り組んでいる集団「オーク・ヴィレッジ」代表者、稲本正氏の指摘である(1997年3月2日付朝日新聞「天声人語」)。

誤訳がもとで、本来なら日本で安くできるはずの家具の、高い値段で輸入してきたことになるわけだ。罪な話である。

いつ、誰が、なぜ「樫」という訳語をあてたのかは、不明である。


「樫」という木は固すぎて家具に加工するのは難しいとありますが、確かにその通りです。樫がよく使われるのは、たとえば道具類の柄で、金槌やスコップの柄を木で作る場合、その堅さを生かして樫が使われます。木偏にかたいという字の通りです。

鳥飼氏の文章に「オーク・ヴィレッジ」主宰者、稲本正氏のことが出てきました。稲本氏が家具製作を行う岐阜の工芸村に "オーク" という名前をつけた理由は、楢が家具の素材の本命だからです。稲本氏の本から引用します。


私が楢を家具の主力材に使おうとした理由は二つある。一つは、楢は魅力ある材なのに、日本では雑木として蔑まれてきたからだ。楢はヨーロッパではオークと呼ばれ、特にイギリスにおいては1500~1660年の間を「エイジ・オブ・オーク」と呼び、当時の材種の中でもっとも家具材に適した材として貴重がられていた。ところが、日本で明治の初期、オークを「かし」と訳したことも影響し、ほとんど評価されなかった。もちろん、ロンドンは日本の札幌より北に位置し、常緑樹である樫は育たず、イギリスで言うオークは日本のミズナラにもっとも近い。

稲本正
「森の形 森の仕事」
(世界文化社 1994)

森の形 森の仕事.jpg
稲本正
「森の形 森の仕事」
(世界文化社 1994)
稲本氏によると、ミズナラは水分を吸い上げる力が強く、結果として重くて堅く、かつ粘りけがある木質になります。また木目も変化に富んでいて、このような特徴が家具として最適な理由です。

家具以外で伝統的にオーク材が使われるのが、スコッチ・ウィスキーを熟成させるための樽です。サントリーでは樽に北米産のホワイト・オーク材を使っていますが、北海道産のミズナラ材も使っているそうです。それが原酒の多様性を生み出す一つの要因になっている(No.43「サントリー白州蒸留所」参照)。樽を何の木で作るかは、ウィスキー独特の味と香りを作り出す上で極めて重要なはずです。ウィスキー発祥の地であるスコットランドの伝統であるオーク材の樽の "代わりに" ミズナラ材を使うということは、「オーク = ナラ」を象徴していると思います。


蝶と蛾の混乱


以上のように一般的にオークは落葉性の木で、日本の楢に相当するのですが、ただヨーロッパではブナ科コナラ属の樹木全般もオークと呼ぶわけです。しかし日本では楢(落葉性)と樫(常緑性)という二つの名称に使い分けられます。

このように西欧で同一の名称で呼ばれるモノが、日本では2種類の名称で呼んで使い分けるという例が他にもあります。蝶と蛾です。そして蝶と蛾は、時として訳が混乱することがあります。

No.49 「蝶と蛾は別の昆虫か」で紹介したように、慶応大学名誉教授の鈴木孝夫氏は、ドイツ語では(そしてフランス語でも)蝶と蛾を区別しないことを述べていました。ドイツ語で蝶を意味する Schmetterling(シュメッタリンク)という語は蛾も表す言葉であり、つまり鱗翅類全体を示すのです。フランス語の papillon(パピヨン)も同様です。

そして、こういった言葉の問題をおろそかにしておくと、文学作品の理解に関して思わぬ「つまづき」に出会うと、鈴木氏は注意していました。その例としてあげられていたのが、ゲーテの詩の翻訳です。鈴木氏の本から引用します。


ドイツの大詩人ゲーテは、かつては日本の知識人にとって、忘れることのできない名作の数々を残した文学者であり、その作品はほとんど日本語に翻訳されている。彼の詩作の中に日本では『西東詩集』の名で知られる、イスラム神秘主義の思想に間接的な影響を受けて書かれたものがある。

その中でも特に stirb und werde!(死して成れ)の句を含む Selige Sehnsucht(至福への憧れ)と題した詩は、広く知られた名品である。そこでは暗闇の中に燃えさかる真実(在)の焔に魅せられ、引き寄せられた一匹の蛾(Schmettering)が、炎に焼きつくされるという、死と再生のイメージが描かれている。ここでの Schmettering を、もしうっかり蝶だと思ったら、この詩の理解は全く不可能となってしまう。しかし、これを蝶だと思った人も実際にいるのだ。次の訳をみていただきたい。

Keine Ferne macht dich schwierig,
 隔たりも汝は物ともせず
Kommst geflogen und gebannt,
 追われるごとく飛びきたる
Und zuletzt, des Lichts begierig,
 ついには光をこがれしたいて
Bist du Schmetterling verbrannt.
 蝶なる汝は焼けほろびぬ

闇夜に燃えるランプの光にさそわれて、飛んできた一匹の蛾が、焔に焼き尽くされて死ぬ情景を、このように間違って蝶とすれば、日本語としての意味、イメージは全くおかしなものになってしまう。この解釈では、原詩のもつプラトニズム的なイスラム神秘主義の《蛾→焔→死→再生》という、美しくも哀しい詩の意(こころ)が全く伝わらないと言わざるを得ない。正確なことばの知識がないと、文学の鑑賞もままならぬことを、蝶と蛾の区別は教えてくれるのである。

鈴木孝夫『日本語と外国語』
(岩波新書。1990)

鈴木氏が引用している訳は岩波文庫のものですが、『日本語と外国語』の注釈にあるように、他の訳では正確に「蛾」と訳されているようです。

確かに鈴木氏の言う通りで、蝶ではイメージが湧かないと言うか、なんだか変だという違和感が残ります。それは絵画に置き換えて考えてみると、より鮮明です。炎に蛾が誘われる夜の情景を描いた絵に、速水御舟の『炎舞』という有名な作品があります(1925/大正14年。山種美術館所蔵。重要文化財)。速水御舟はこの絵で蛾を精緻にデッサンして描いているのですが、ここに蛾ではなくアゲハチョウやモンシロチョウが舞っていたとしたら、完全なシュルレアリスムの作品になってしまいます。絵として成立しないとは言いませんが、全く別の解釈が必要な絵になるでしょう。岩波文庫のゲーテの訳は、それと同じことが文学で起こっているわけです。



以上は文学作品の翻訳における「蝶と蛾」の話ですが、これと瓜二つの状況が "絵画の題名の訳における「樫と楢」" でも起きます。それが次です。


コリントの「樫の木」(国立西洋美術館)


ここからが、No.93「生物が主題の絵」の補記で引用したロヴィス・コリントの『樫の木』(国立西洋美術館)の話ですが、その前に比較対照のために、同じNo.93 で引用したクールベの作品を観てみます。

Courbet - フラジェの樫の木.jpg
ギュスターヴ・クールベ
フラジェの樫の木」(1864)
(クールベ美術館)

この絵は以前は日本の美術館(八王子の村内美術館)が所蔵していましたが、現在はクールベの故郷であるフランスのオルナンにあるクールベ美術館(生家を改装した美術館)にあります。

この絵のフランス語の題は「Le Chêne de Flagey」で、Chêne は 英語の Oak に相当する語です。直訳すると「フラジェのオークの木」です。従って、日本語題名としてよく使われる「樫」は誤訳ということになります。但し、この絵の場合は "誤訳" が絵を鑑賞する上で、大きな妨げにはならないでしょう。

というのも、この絵は太い木の幹とそこからダイナミックに広がる枝に焦点が当たっているからです。この絵を観て強く感じるのは巨木の圧倒的な存在感です。おそらく樹齢は数百年でしょう。どっしりと単独で大地に屹立しています。人間の寿命より遙かに長い年月を自然の中で生き抜いてきた、その生命力に感じ入ります。画家の意図がどうであれ、少なくとも我々鑑賞者としてはそう感じる。



このクールベの絵と対比したいのが次の絵です。上野の国立西洋美術館は2019年にドイツの印象派を代表する画家、ロヴィス・コリント(1858-1925)の『樫の木』(1907)を購入しました。その絵は常設展示室に展示してあります。

Lovis Corinth - Der Eichbaum.jpg
ロヴィス・コリント(1858-1925)
樫の木」(1907)
- Der Eichbaum -
(国立西洋美術館)

クールベの作品と違って、この絵は地表に屹立する幹を描いていません。画面いっぱいに大量に広がる緑の葉が印象的な絵です。

国立西洋美術館はこの絵の展示でドイツ語の原題を "Der Eichbaum" と表記しています。最初に書いたように、英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、落葉樹です。一般にオークと呼ばれている木です。

冬に葉を落として幹と枝だけになっていた木(= オーク = 楢)が、新緑の季節に芽吹き、やがて大木が一面の葉に覆われて、真冬には想像できないような姿になる。その生命の息吹きを強く感じる絵です。そのイメージでこの絵を鑑賞すべきだと思います。

我々は楢を街なかで見かけることはないのですが、落葉性の高木でよくあるのは、街路樹に使われるケヤキ(欅)やイチョウ(銀杏)です。青葉の季節になると、ケヤキやイチョウの並木が、数ヶ月前の冬や春先とは全く違った様相を呈する。その光景を想像してみてもいいと思います。

クールベの絵もコリントの絵も、そこから感じるのは樹の生命力ですが、生命力の意味が違います。クールベの絵は悠久の年月を生きるという意味の生命力ですが、コリントの絵は毎年春から青葉の季節に樹木が再生する、その生命力です。そして再生のイメージは落葉樹だからこそ成り立つのです。常緑樹ではそうはいかない。

国立西洋美術館がロヴィス・コリントの『Der Eichbaum』を『樫の木』としたのは、辞書にそうあるからでしょうが、芸術作品を所蔵している美術館の責任として「楢の木」ないしは「オークの木」とすべきでしょう。



 補記 

本文中にサントリーがウイスキーの熟成のために、伝統的なオーク材だけでなくミズナラ材の樽を使っていることを書きましたが、本場のスコッチ・ウイスキーのメーカもミズナラ材を使っていることを思い出しました。シーバス・リーガル「ミズナラ 12年」で、2013年10月に発売されました。現在では18年ものも発売されています。

Chivas Regal Mizunara - aged 12 years.jpg

Chivas Regal Mizunara - Label.jpg
シーバス・リーガル
「ミズナラ 12年」

ボトルのラベルには5葉のミズナラの葉がデザインされている

ボトルのラベルには次のように書かれています。

Selectively Finished in Mizunara Oak Casks

訳すと、「ミズナラ・オークの樽でフィニッシュしたりすぐりの一品」ぐらいでしょうか。フィニッシュとは、ブレンドしたあとのウイスキーを安定させるため樽に詰めて熟成させることを言います。後熟と言うこともあります。

もちろんシーバス・リーガルとしては日本マーケットの拡大のための商品なのでしょうが、基本的に言えることは、日本のミズナラはスコットランドのオークと "ほぼ同じ" だということです。でないと、ウイスキー発祥の地の伝統のオーク材の代わりにミズナラを使うことはできません。もちろん、材が違うと微妙な香りや味の違いが出てくるはずで、それを楽しむという商品だと思います。

あくまでウイスキーの熟成の観点ですが、この商品もまた「オーク = ナラ」を示しているのでした。




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No.278 - エリチェの死者の日 [文化]

No.29「レッチェンタールの謝肉祭」の話から始めます。レッチェンタールはスイスのアルプスの谷にある小さな村ですが、この村の謝肉祭では「チェゲッテ」と呼ばれる鬼の面(ないしは "妖怪" の面)をつけた村人が練り歩きます。これは日本の秋田県男鹿地方の「ナマハゲ」に酷似した祭りです。つまり、謝肉祭というキリスト教の祭りと「チェゲッテ」というキリスト教以前の習俗が融合しているところに特徴があります。レッチェンタールにキリスト教が布教されたのは16世紀と言いますから、ヨーロッパの中でも極めて遅いことになります。だから「チェゲッテ」が生き延びたのでしょう。

さらに「レッチェンタールの謝肉祭」で印象的だったのは、この謝肉祭を取材したNHKの番組で語られていた村人の言葉でした。つまり、

祭りのときに先祖の霊が戻ってきて、終われば帰っていく。先祖が我々を守る

という意味の発言です。いわゆる先祖信仰、ないしは先祖祭祀ですが、これもキリスト教とは無縁のコンセプトです。こういった日本のお盆にも似た信仰は宗教にかかわらず世界共通ではないかと、そのとき思いました。



ところで、先祖信仰のイタリアでの例が先日のNHKの番組で紹介されました。2019年12月24日に放送された「世界ふれあい街歩き スペシャル」(NHK BS1)の中の「エリチェ」です。「レッチェンタールの謝肉祭」の続きとして、その内容を以下に掲載したいと思います。以下は番組をテキスト化したもの、ないしは番組内容の要約です。ちなみに「世界ふれあい街歩き」というと "カメラをもって街を歩き回る" という作りの番組ですが、「エリチェ」は違っていて、「死者の日」を取材したものでした。


死者の日


まず「世界ふれあい街歩き」の内容に入る前に「死者の日」についてです。

キリスト教(カトリック教会)においては、11月1日が「諸聖人の日」(万聖節)です。これは過去の全ての聖人と殉教者に祈りを捧げる日で、カトリックの祝日になっています。ちなみに代表的な聖人は1年のそれぞれの日に記念日が割り当てられています("聖人カレンダー" がある)。カトリック教徒にとっては自分の誕生日の聖人が守護聖人になったりします。

「諸聖人の日」の次の日、11月2日が「死者の日」(万霊節)です。この日は全ての死者のために祈る日で、それが今回のテーマです。

ちなみに、ハロウィンは「諸聖人の日」の前日の10月31日ですが、これはもちろんキリスト教とは関係がなく、ヨーロッパ固有の古い伝統です。カトリック教会は「諸聖人の日」を11月1日に設定することで、ハロウィンをその "前夜祭" にしようとしたとの説があります。

イタリアでは「死者の日」にお墓参りをします。またイタリア各地には「死者の日に食べる特別のお菓子」が地域ごとにあります。これはエリチェの死者の日にも出てきます。



以下、「世界ふれあい街歩き」スペシャル "イタリアの小さな街"(NHK BS1。2019年12月24日)で放映された内容から、エリチェの部分を紹介します。


エリチェ


シチリア島の西の端、地中海のすぐそばに標高 751メートルの「エリチェ山」があります。エリチェ(Erice)はそのいただきに作られた天空の街で、2時間ほどで一周できる小さな街です。

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エリチェ山。シチリア島の西端にある。この山の上にエリチェの街がある。「世界ふれあい街歩き」スペシャル(NHK BS1。2019年12月24日)より。以下同じ。

Erice02 エリチェ山から地中海を望む.jpg
エリチェ山から地中海を望む。エリチェ山は地中海に近接した位置にあるる。

Erice03 山頂に作られた街.jpg
エリチェの街並み。山頂に作られた都市である。地図で示してあるように、シチリア島の西端にある。

エリチェは山の上に作られた街で、標高が高く、秋に入ると霧が立つ日が増えます。その霧で街は幻想的な雰囲気に包まれます。また冬になると湿気で道が凍り、滑りやすくなります。そためエリチェの街の道は、ごつごつした石を並べて滑りにくくしてあります。この美しい石畳がエリチェのシンボルです。

Erice04 エリチェの街路.jpg
エリチェの街の路地。秋以降は地中海からの湿った空気で霧に覆われ、幻想的な雰囲気になる。この画像も霧がかかっている。

Erice05 エリチェの石畳.jpg
エリチェのシンボルになっている石畳。冬に凍っても滑りにくくするため、平らな石の間にごつごつした石が敷き詰められている。

エリチェは霧の立ちこめる肌寒い街です。そのため、40年前には900人が住んでいましたが、麓の街に移住する人が増えました。現在の住人は約200人で、ほとんどの人が顔なじみです。この街を愛する人に支えられているのがエリチェです。


エリチェのフェスタ・デイ・モルティ


 街の空き地 

番組の主人公は 7才の女の子、サーラと、その母親のシルヴァーナです。2人は街はずれの空き地で小石を拾って空き缶に入れ、それを鳴らしています。大切なお祭りで使う道具を準備しているのです。

Erice06 サーラ.jpg
番組の主人公のサーラ。7歳。小石を拾って空き缶につめ、それを振って鳴らしている。

Erice07 シルヴァーナ.jpg
サーラの母親のシルヴァーナ。叔母とともにエリチェの「死者の日」の継承に熱心である。


ナレーション(黒島 結菜)】
まもなく、その大切な日を迎えようとしています。エリチェでは毎年11月のある夜、子供たちが缶を鳴らしながら街を練り歩きます。これは、お祭りの日の到来を知らせる行列。

フェスタ・デイ・モルティ。死者の日。ご先祖さまが家に帰ってくる日とされています。まるで日本のお盆とそっくりですね。でも、エリチェの街はちょっと特別。何と、ご先祖さまは戻ってきた証拠に子どもたちにプレゼントを置いていってくれるのです。

"エリチェ"
「世界ふれあい街歩き」スペシャル
(NHK BS1 2019年12月24日)
[以下同じ]

 サーラの家 


シルヴァーナ
子どもの時に、一番覚えているプレゼントはぬいぐるみ。背丈ほどもある、それはそれは大きなぬいぐるみだったの。大きくなるまで、ずーっと大切に持っていたわ。プレゼントしてくれたのはおじいさん。これこれ、この写真のおじいさんよ。私のことをとても可愛がってくれた、父方のニーノおじいさん。


シルヴァーナが、ニーノおじいさんと子どもの頃のシルヴァーナが写った写真を見せます。


シルヴァーナ
おじいさんはいつも私に素敵な洋服を着せてくれたの。それでカーニバルの写真コンクールに出場しては、何度も賞をもらっていたものよ。

でもある日突然おじいさんは、私のところへ来なくなってしまったの。すると母は私にこう言ったの。「大丈夫よ、おじいさんはいつもあなたのそばで見守ってくれている」って。そうしたら、その年のフェスタ・デイ・モルティにニーノおじいさんから大きなぬいぐるみが届いたの。今でも忘れられない、心に残る思い出よ。

ナレーション
シルヴァーナにとってフェスタ・デイ・モルティは思い出が詰まった特別な一日です。娘のサーラは、ご先祖さまに手紙を書きました。


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ご先祖さまに手紙を書いたサーラ。番組で彼女はその手紙を朗読した。


サーラ
「親愛なるご先祖さま。私は子犬・・・白くてブチのある子犬が欲しいです。あとは自由に選んでください。あっ、弟のミケーレのことを忘れていました。ミケーレにはご先祖さまが良いと思うぬいぐるみをください。チャオ」

この手紙をここに置いて写真を立てておくの。そうしたらご先祖さまは手紙を読んで私が何を欲しいと思っているか分かるのよ。

ナレーション
サンタさんへのお手紙みたいね。

サーラ
サンタクロースはツリーの下だけど、ご先祖さまはもっと難しいところに隠すの。私が大きくなって上手に探せるから毎年むずかしくなってるのよ。探すのは大変なのよ。うまく隠してあっても見つけることもあるし、これで終わりと思っていたら次の日に出てくることもあるの。前の日にうまく探せなかった場合はね。


 街のレストラン 


ナレーション
街の広場に小さなレストランがあります。ここはサーラたち家族の行きつけのお店。フェスタ・デイ・モルティを前に、シェフのジャンビートは特別メニューを作りました。そら豆で作ったソースにショートパスタを入れたシチリアの家庭料理です。


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マッコソースのパスタ。マッコ(= Maccu di Fave、マッコ・ディ・ファーヴェ)は、そら豆(Fave)をどろどろになるまで煮込んだスープ。パスタのカヴァトゥエッダ(= カヴァティエッダ、cavatiedda)は、カヴァテッリ(cavatelli、小さく切ってくぼみをつけたパスタ)と同様のパスタ。

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シェフのジャンビートがサーラの一家にマッコソースのパスタを給仕する。


ジャンビート
これはマッコ・クリームだよ。フェスタ・デイ・モルティの時期に昔から作られているんだ。そら豆にはご先祖さまの魂が宿ると信じられているからね。

サーラ
じゃあ、ご先祖さまを食べちゃうのね!

シルヴァーナ
そら豆の中にご先祖さまが宿るって想像してごらん。つまりご先祖さまは土から生える作物を介してもやってくるのね。食べてみる?

サーラ
うん!


 街のお土産屋さん 

観光客に人気のお土産屋さんがあります。ここはシルヴァーナの叔母のティッティのお店です。


シルヴァーナ
ティッティはこの街のフェスタ・デイ・モルティの盛り上げよ。フェスタ・デイ・モルティの行事のまとめ役。私たちを引っ張ってくれる存在なの。


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土産物店でのティッティ叔母さんとシルヴァーナ。右端はサーラ。

ティッティ叔母さんはお祭りの中心的存在です。彼女は近所の人たちを集めてビスケット作りをします。フェスタ・デイ・モルティの日に子どもたちにプレゼントするのです。ブドウの果汁を煮詰めた、甘いヴィーノ・コットを使います。ビスケットは、そのブドウの風味とシナモンが利いた優しい味です。その昔、ビスケットはフェスタ・デイ・モルティの朝にバスケットに入っているご馳走でした。

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ティッティ叔母さんと街の人たちが作ったビスケット。フェスタ・デイ・モルティの日に子どもたちにプレゼントする。

 山麓を一望できる場所で 

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ティッティ叔母さんが墓地を見下ろせる場所で、子どもの頃のフェスタ・デイ・モルティの思い出を語る。


ナレーション
ご先祖さまが帰ってくる死者の日、フェスタ・デイ・モルティ。ティッティ叔母さんにも、幼いころの心ときめかせた素敵な思い出があります。

ティッティ
子どもの頃、フェスタ・デイ・モルティが近づくとよくここへ来て、ご先祖さまにどんなプレゼントが欲しいか、お願いしたものよ。祖母にはこの美しい場所に来たら、ご先祖さまに必ずご挨拶するように言われていたわ。あっちへ行きましょう、この下にお墓があるの。


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エリチェの共同墓地。エリチェの街からすこし下ったところにある。


ティッティ
ここよ、見て。私たちの街の小さな墓地よ。子どものころはね、ご先祖さまはこのお墓から上がってきて、ドアの鍵穴から家の中に入って、プレゼントを持ってきてくれるんじゃないかと想像していたの。そして朝には至る所に隠されているプレゼントをわくわくして探したものよ。自転車が天井にくくり付けられていたり、思いつかないような場所にプレゼントはあったのよ。ほんとにそこらじゅう。

だからフェスタ・デイ・モルティの日にプレゼントをくれたご先祖さまの名前は、今でもみんな覚えてる。この街でフェスタ・デイ・モルティは、クリスマスよりずっと重要なの。クリスマスは飾りの隣に小さなプレゼントが置いてあるだけだったけど、ご先祖さまは、子ども心にもっと素敵なプレゼントを持ってきてくれるんだもの。

ナレーション
エリチェの人にとってクリスマスよりも楽しみな死者の日、フェスタ・デイ・モルティはもうすぐです。


 エリチェの幼稚園 


ナレーション
街では心待ちにしている死者の日、フェスタ・デイ・モルティが近づいてきました。街で唯一の幼稚園では、お祭りの準備中。園児は全部で11人。いったい何をしているのかな。

幼稚園の保育士
フェスタ・デイ・モルティのことをもっと身近に感じるための工作をしているのよ。できあがったらみんな家に持ち帰るわ。

ナレーション
黄色の紙を切って子どもたちが作っているのは菊の花。こちらは(菊の花の)塗り絵だね。イタリアでもお墓参りに行くときは菊の花を持って行くんですって。こちらも日本と似ていますね。

幼稚園の保育士
菊の花をなぜお墓に持って行くのか、伝説もあるから、その話もして聞かせるのよ。そしたら子どもたちにも分かりやすいから。

ナレーション
君も菊の花をもってご先祖さまに会いにいくの?

幼稚園の男の子
ご先祖さまはそばで見ているよ。いつも。ぼくがミニカーで遊んでいるところなんかをね。

ナレーション
ご先祖さまはいつも見守ってくれているんだものね。


 エリチェのお菓子屋さん 

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マリア(左下)が営むエリチェの菓子店。フェスタ・デイ・モルティが近づくとフルッタ・マルトラーナを求めるお客さんがたくさんやって来る。


ナレーション
一方、こちらは街のお菓子屋さん。フェスタ・デイ・モルティに欠かせないお菓子作りに大忙しです。果物の形をしたフルッタ・マルトラーナ。シチリアの特産、アーモンドの粉で作るお菓子です。フェスタ・デイ・モルティが近づくとフルッタ・マルトラーナを求めるお客さんがたくさんやって来ます。ここはエリチェで55年前からマリアが営むお店。

マリア
フルッタ・マルトラーナはご先祖さまに捧げるもの。修道院で生まれたお菓子なのよ。昔ね、修道院には大きなお庭があって、11月の1日と2日にお祭りが行われていたの。そのお祭りのとき、修道院に司教さまが来ることになった。でもその時期、庭は枯れていて、とても寂しかったから、修道女たちは果物形のお菓子を作って、庭の木をカラフルに飾って、司教さまをお迎えして喜ばせたの。それがフルッタ・マルトラーナの始まりよ。


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フルッタ・マルトラーナはアーモンドの粉で作るお菓子(=マジパン、ないしはマルチパン)。果物(フルッタ)の形で本物そっくりの彩色がしてある。お供え物ではなく、食後に皆で食べる。マルトラーナはシチリアの州都・パレルモのマルトラーナ教会のことで、マリアが言うように以前は修道院が併設されていた。

 エリチェの広場 


ナレーション
いよいよフェスタ・デイ・モルティ前夜。夜7時、街の人たちが街の広場に集まりました。サーラの母親のシルヴァーナです。子どもたちの手には、あの音が鳴る缶。みんな手作り。サーラもやってきました。

ティッティ
これから街の中を練り歩いて、街中に、今夜プレゼントを持ってご先祖さまがやって来るって伝えるのよ。

シルヴァーナ
さぁ、静かに。ルールを伝えるわ。歌を歌っている間は缶を鳴らさないこと。歌を歌い終わったら缶を鳴らすのよ。やってみるわよ。1・2・3。

「月曜 火曜 水曜 木曜 金曜 土曜。扉を開けて。ご先祖さまが来るから。」

(子どもたちは缶を鳴らす)

ナレーション
いつも決まって歌われる歌です。行列にはエリチェの街のほとんどの子どもたちが集まりました。


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子供たちは歌を歌い、缶を鳴らしながら街を練り歩く。大人たちがサポートにまわる。

子供たちとそれをサポートする大人の行列は、歌を歌い、缶を鳴らしながら街を練り歩きます。そして民家の前にくると大きな声で歌を歌い、缶を鳴らします。それに応えて家から出てきた人は、子どもたちにお菓子を配ったり、手作りのケーキを振る舞ったりします。


ナレーション
かつて行列した人も、今はささえる側に。この街の伝統がいつまでも続くようにと盛り上げます。手作りのお菓子を準備した女性も。170年以上、毎年繰り返えされてきた伝統です。


 サーラの家 

サーラが去年のフェスタ・デイ・モルティの日に自分のベッドの下で見つけた "宝物" を見せます。


ナレーション
誰からかな?

サーラ
たぶんシルヴァーナおばあちゃんから。私のママのことを大好きだったおばあちゃんだし、ママにはイヤリングをくれたから、私にもこれを持って来てくれたんだと思うの。

ナレーション
寝る前には大切な準備があります。


シーラとお母さんのシルヴァーナは、シルヴァーナおばあちゃん、ニーノおじいちゃん、ササおじいちゃん、アンナおばちゃんの写真を飾ります。サーラが5歳のときに亡くなったおばあちゃんや、会ったこともないご先祖さまの写真もあります。そしてろうそくに火を灯します。


シルヴァーナ
ろうろくは消さないのよ。じゃないとご先祖さまがここへ来る道が分からなくなっちゃうから。

ミケーレ
ご先祖さまが来るの? いま?

シルヴァーナ
みんなが寝たら来るのよ。寝ないとご先祖さまは来ないわ。さぁ、寝るわよ。

サーラ
おやすみ。(子どもたちは寝室に去ります)

ナレーション
おやすみ。それにしても行列に街中の人が参加していてびっくりしたな。



シルヴァーナ
フェスタ・デイ・モルティってね、私たちエリチェの人たちにとってすごく大切で愛着のある行事なの。私たちがいる限りこのお祭りは続いていくわ。それはつまりエリチェ山の住人ね。実はエリチェってね、本当はとても広くて山の裾野も含んでいるけど、このお祭りを行っているのはこの山の上だけ。エリチェ山に人が住む限り守っていくつもりよ。だって私たち山の住人はみんなこのお祭りを愛しているんだもの。

フェスタ・デイ・モルティってね、人生で何が大切か、自分がこの世に生まれてきた意味みたいなことを考えるきっかけにもなるわ。心がこもっているから。このお祭りがなくなることは決してないわね。

ナレーション
いよいよ死者の日、フェスタ・デイ・モルティ。サーラたちのところにご先祖さま、ちゃんと帰ってきてくれるかな。


 サーラの家:フェスタ・デイ・モルティ当日の朝 

朝起きたサーラとミケーレは家じゅう、プレゼントを探し回ります。見つけたのはお菓子、靴下、猫のベッド、・・・・・・。そしてサーラは机の上にペンのケースを見つけます。


サーラ
これって・・・。私が大好きなペンよ。ママ、これ本当に欲しかったやつ。私が大好きなペンよ。インクがなくなっても一生大切にするわ。これはご先祖さまにお願いしてなかったの。でも本当に欲しかったペンなの。

ナレーション
どうしてお手紙に書いていないのに、このペンが欲しいと、ご先祖さまは分かったのかな。

サーラ
学校の友達がこのペンを1本くれたの。それをとっても気に入ったことをご先祖さまは見ていたんだと思うわ。

シルヴァーナ
そうよ、いつもそばにいるのよ。亡くなってもそばで見守ってくれてるの。

ミケーレ
ご先祖さまは死ぬの?

シルヴァーナ
亡くなったらどこへ行くの? お空でしょ。キリストさまと一緒に。そして何になるの? 天使? 天使はどんな風に飛ぶんだっけ?

(ミケーレが飛ぶまねをします)

シルヴァーナ
そう、ご先祖さまもそんな風に飛ぶのよ。ろうそくをつけたでしょ。だからご先祖さまが昨日の夜、ここにプレゼントを持ってきてくれたのよ。ほらあそこ。(写真を指さして)ニーノおじいちゃん、シリヴァーナおばあちゃん。ササおじいちゃんとアンナおばあちゃん。

ナレーション
ご先祖さまはちゃんとプレゼントを持って来てくれました。会ったことがないご先祖さまのことが子どもたちの心に刻まれていきます。


ご先祖さまは親戚の家にもプレゼントを届けてくれます。サーラたちは、いとこたちと一緒にティッティ叔母さんお店に行きます。そこには子どもたちの名前といっしょにおもちゃのプレゼントが家のあちこちにありました。子どもたちは大喜びです。

 街の共同墓地 

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エリチェの街の共同墓地。壁に墓碑がはめ込んである。フェスタ・デイ・モルティの日、街の人々は墓地を訪れる。


ナレーション
プレゼントを受け取ったあとは、ご先祖さまのお墓へと向かいます。お墓の前にはお花屋さんも。

シルヴァーナ
これは菊の花。この季節に咲く花で、お墓に持って行くのよ。

ナレーション
カラフルで綺麗。ご先祖さまも喜びそう。街じゅうの人たちがお墓を訪れます。ご先祖さまは子どもたちの成長も見つめています。


欲しいと思っていたおもちゃをもらったサーラは、ご先祖さまのお墓に菊の花を供えます。

Erice21 菊の花を供えるサーラ.jpg
墓地には花屋が出店している。そこで買った菊の花をサーラがご先祖さまの墓碑に供える。


ナレーション
ご先祖さまが帰ってくるフェスタ・デイ・モルティ、死者の日。また一年後の再会を約束します。


 教会:フェスタ・デイ・モルティの日の夜 

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エリチェの街の教会。フェスタ・デイ・モルティの日の夜にミサが行われる。


ナレーション
エリチェは深い霧に包まれていました。死者の日、フェスタ・デイ・モルティのあと、人々は教会のミサへ。

あっ、ティッティ叔母さん。ということは ・・・・・・。やっぱりサーラ。そして隣にはお母さんのシルヴァーナ。

これからもエリチェの人たちはご先祖さまに温かく見守られながら、暮らしていくんだろうな。

[終]


番組の感想


以下はこのNHKの「世界ふれあい街歩き」スペシャルを見た感想です。まとめると、エリチェの「死者の日(フェスタ・デイ・モルティ)」は、大人から子どもまでの住民が次のような考えと行動を共有することで成り立っています。

① ご先祖さまは、いつもそばで子どもたちを見守っていてくれる。

② ご先祖さまは年に一回、フェスタ・デイ・モルティの日に家に帰ってくる。住民たちはご先祖さまが迷わないように、一晩中、ろうろくを灯しておく。

③ ご先祖さまが帰ってくることを告げるため、子どもたちは前日の晩に街を練り歩く。

④ ご先祖さまは家に帰ってきた "あかし" として、子どもたちにプレゼントを残していく。

⑤ フェスタ・デイ・モルティの日、住民たちはお墓にお参りし、菊の花を供え、ご先祖さまを偲ぶ。

⑥ フェスタ・デイ・モルティの日には教会でのミサに参加する。

このうち、① ② ③ ④ は先祖崇拝、ないしは先祖祭祀です。④ のサンタクロースばりのプレゼントはエリチェ独特だと思いますが、それも「先祖が家に帰ってくる」という概念の一貫で、それをより強く継承していくための "しかけ" でしょう。

このような先祖崇拝は本来、キリスト教とは無縁です。現在のキリスト教の宗派のなかには先祖祭祀に寛容なところもあるようですが、たとえば ② の「先祖の霊がこの世に帰ってくる」ところなどは、明らかにキリスト教のコンセプトと対立します。

そういえば日本のお盆も、本来の仏教にはないものです。それが仏教行事の一部として取り入れられ、お盆には帰ってきた先祖さま(仏さま)のためのお膳を仏壇に用意し、そして、送り火で先祖の霊があの世に戻っていくのを送る。

エリチェ(イタリア)、日本、そして No.29 のレッチェンタール(スイス)に共通しているのは、自分たちは先祖と繋がっているという感覚であり、それはグローバルなものでしょう。それがキリスト教や仏教と習合して息づいています。

ヨーロッパと言うとキリスト教文化が根幹にあり、特にイタリアは "おおもと" であるカトリックの総本山です。そのキリスト教の考え方は、キリスト教徒ではない大部分の日本人にとっては非常にわかりにくいものです(No.41-42「ふしぎなキリスト教」)。しかし民衆レベルの死生観は意外と日本とも似ているのではないか、世界共通の要素が多分にあるのではないか。この番組を見てそう思いました。




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No.252 - Yes・Noと、はい・いいえ [文化]


言葉で認識し、言葉で思考する


このブログで今まで日本語と英語(ないしは外国語)の対比について何回か書いてきました。今回もそのテーマなのですが、本題に入る前に以前に書いたことを振り返ってみたいと思います。なぜ日本語と英語を対比させるのかです。

人間は言葉で外界を認識し、言葉で考え、言葉で感情や意見を述べています。我々にとってその言葉は日本語なので、日本語の特徴とか特質によって外界の認識が影響を受け、思考の方法にも影響が及ぶことが容易に想像できます。

それは単に影響するというレベルに留まらず、日本語によって外界の認識が制限され、思考方法も暗黙の制約を受けると思います。どんな言語でもそうだと思うので仕方がないのですが、我々としては言葉による束縛からのがれて、なるべく制限や制約なしに認識し、思い込みを排して自由に考えたいし、発想したい。

それには暗黙に我々を "支配" している日本語の特徴とか特質や "くせ" を知っておく必要があります。知るためには日本語だけを考えていてはだめで、日本語以外のもの = 外国語と対比する必要があります。日本人にとって(私にとって)一番身近な外国語は英語なので、必然的に英語と対比することになります。

英語(ないしは外国語)との対比ということで過去のブログを振り返ってみますと、まず語彙レベルの話がありました。

 蝶と蛾 

No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」で書いたのですが、日本語(と英語)では蝶と蛾を区別しますが、ドイツ語では区別をせずに "シュメッタリンク"(=鱗翅類)と呼びます。フランス語でも "パピヨン"(=鱗翅類)です。そして「日本で蝶は好きだけれど蛾は嫌いという人が多いのは、蝶と蛾を言葉で区別するからではないか」と書きました。同じことをドイツ語で言うと「シュメッタリンクは好きだけれど、シュメッタリンクは嫌い」になり、それは非文(言葉として意味を成さない文)になります。人は、言葉として意味をなさない内容を考えることは難しいのです。

 食感を表す語彙 

No.108「UMAMIのちから」で書いたのは、料理や食材の「味」や「香り」を表現する日本語は少ないが「食感(触感)」を表す語彙は非常に発達していることでした。そのほとんどは擬態語です。たとえば「ほくほく」は「熱を加えることで柔らかくなった食材が口の中で崩れる感じ」であり、特定の食材(根菜類など)にしか使いません。さらに「ほかほか」という言い方もあって、それは「ほくほく」とは僅かに違った意味合いに使われる。こういったスペシャル・ユースの語彙がたくさんあります。我々は料理や食材を味わった感じを表現するときに、知らず知らずのうちに食感(歯ごたえ、舌触り、喉ごし ・・・・・・)に偏った表現になっています。

 雪国実験 

No.139「"雪国" が描いた風景」では、言語学者・池上嘉彦よしひこ氏の秀逸な実験がテーマでした。川端康成の『雪国』の冒頭の文章を、日本語話者には日本語で、英語話者には英語で読んでもらいます。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。[川端康成]

The train came out of the long tunnel into the snow country. [サイデンステッカー訳]

そして、どういう情景をイメージしたか、それを絵に描いてもらいます。すると日本語話者は(図1)のような情景を描き、英語話者は(図2)のような情景を描きました。

雪国 - 図1.jpg
(図1)日本語話者が描いた情景

雪国 - 図2.jpg
(図2)英語話者が描いた情景

これはかなりショッキングな事実です。同じ意味と思われる文章を読んでも頭に描くイメージが違う。日本語話者は誰から指示されたわけもでもないのに(図1)のように受けとってしまうのですね。それが世界共通ではないことを知って愕然とする。

サイデンステッカー訳には川端康成の文章にはない train という subject(主語)が現れています(英語ではそう訳すしかない)。だから(図2)のような絵になるのだろうと思う人がいるかもしれません。しかしそれは違うのではないか。たとえば、日本語話者にサイデンステッカー訳を直訳した次の文章を読んでもらい、絵を描いてもらったらどうか。

列車は長いトンネルを抜けて雪国へと入った。

日本語話者の多数は、なおかつ(図1)を描くのではないでしょうか。この "雪国実験" が示しているのは視点の違いです。つまり(図1)は「地上の視点」であり(図2)は「俯瞰する視点」です。どちらが正しいということはありません。しかし言葉が暗黙に視点を規定することは、自由な発想をするためには考えておいた方がよいと思います。

 他動詞構文と自動詞構文 

No.50「絶対方位言語と里山」で書いたのはスタンフォード大学のボロディツキー助教授(認知心理学)の「英語・スペイン語・日本語の対比実験」でした。

英語は他動詞構文を好む言語です。偶発的事故でも、たとえば「ジョンが花瓶を壊した」というような表現を好みます。一方、日本語では偶発的事故の場合は「花瓶が壊れた」となり、スペイン語では直訳すると「花瓶がそれ自体を壊した(=いわゆる再帰構文)」となって、行為者を明示することがありません。

そこで、次の6種のビデオ映像を用意します。映像に写っているのはそれぞれ、男Aか男Bのどちらかが、

故意に
 ①風船を割る
 ②卵を割る
 ③飲み物をこぼす

偶発的事故で
 ④風船を割る
 ⑤卵を割る
 ⑥飲み物をこぼす

のどれかです。英語話者、スペイン語話者、日本語話者の被験者に、実験の意図は示さずにビデオを見てもらいます。ビデオを見たあと、被験者に男Aと男Bの写真を見せ、6種の行為を行ったのはどの男かを答えてもらいます。そうすると、意図的行為(故意)については3つの話者とも正しく答えられました。しかし偶発的事故に関しては、スペイン語話者と日本語話者は英語話者に比べて正答率が低かったのです。言葉によって認知するのだから、記憶は言葉に影響されるわけです。

 自動詞と他動詞 

No.140-141「自動詞と他動詞」で書いたのは、日本語には基本的な動詞において「意味として対になる自動詞と他動詞のペア」が極めて豊富に揃っていることです(たとえば "変える" と "変わる")。自動詞は「自然の成り行きとしてそうなった」と状況をとらえ、他動詞は「人為的行為の結果でそうなった」と把握します。同じ状況を「自然」と考えるのか「人為」ととらえるのかは「見方の違い」「視点の違い」です。日本語話者はこの動詞のペアを使い分けてニュアンスの違いを作っています。その例を No.141 でたくさんあげました。2つだけ再掲すると、

(自)木々の葉は、すっかり落ちていた。
(他)木々は、すっかり葉を落としていた。

(自)の方は「自然現象(=季節の移り変わり)として葉が落ちた」という感じであり、(他)の方では「木々が冬支度のために意図的に葉を落とした」というニュアンスが生まれます。

スーパー・マーケットが近隣の農家からその日の朝に穫れた野菜を仕入れて販売することがあります。

(自)今朝、穫れた野菜
(他)今朝、穫った野菜

(自)で強調されるのは「極めて新鮮な大地の恵み」であり、(他)になると「新鮮な野菜を消費者に届けようとする農家の努力」というニュアンスが入ってきます。

このように「自然」と「人為」を行き来できることで日本語の表現は豊かになっているのですが、その一方で問題点もありそうです。「会議で決めた」ことについては会議参加者に責任が発生するはずですが、同じことを「会議で決まった」と表現することによって、何となく自分には責任がないような気分になってしまう。そういうことがあると思うのです。我々としては言葉に引きずられないように注意すべきだと思います。

ちなみに英語について言うと、たとえば "change" を "変わる" と "変える" の両方の意味に使う言葉の "ありよう" に、今だに(かすかな)違和感を覚えてしまいます。それだけ日本語が "染み付いて" いるということでしょう。


「Yes・No」と「はい・いいえ」


ここまでは前置き(振り返り)で、以降が本題です。タイトルに書いた「Yes・No」と「はい・いいえ」がテーマです。

さっき書いた「英語に対する違和感」は、多かれ少なかれ誰にでもあると思うのですが、英語を学びたての生徒がまず感じる違和感は、否定疑問文に対する答え方ではないでしょうか。前回の No.251「マリー・テレーズ」でピカソの作品をとりあげたので、美術館での会話を想定した例文を作ってみます。

「Don't you like Picasso ?」
「Yes. I like blue Picasso very much.」

「ピカソは好きではないのですか?」
「いいえ。青の時代は大好きです。」

英語の初学者にとって、それまで「Yes = はい」「No = いいえ」だと何の疑いもなく学んできたはずが、ここに至って覆されてしまうわけです。中学校の先生は「英語では、否定疑問文に対する答え方が日本語とは逆になります」と説明し、教科書や参考書にもそう書いてあります。生徒としては、試験で×をつけられないためのテクニックとして「否定疑問の答えは日本語と逆」と覚え、その通りにしてテストでは間違えないわけです。何となく割り切れない気持ちをいだきつつ ・・・・・・。

しかし学校のテストはともかく、現実社会で英語を使わざるを得ないシチュエーションで否定疑問文に正しく答えられる日本人は少ないのではないでしょうか。英語国に在住している人や、日常的に英語を使っている人ならともかく ・・・・・・。否定疑問文はそんなに出てくるものではないので "助かっている" のが現実だと思います。

そして次のような、ちょっと "ひねった" 設定にすると、もうこれは絶対に無理という感じがします。たとえば、日本人のあなた(男性)が、日本でアメリカ人の女性と親しい仲になったとします。彼女は日本語がほんのカタコトなので、2人の会話は英語でやっていたとします。さて、経緯があって、ある状況になり、彼女があなたに、

 「もう私を好きじゃないんでしょう?」

と言ったとします。あなたはちょっとびっくりして、「いや、好きだよ!」と即座に言いたい。その英語の会話はこうです。

 「You don't love me anymore, do you ?
 「Yes !

ここで「Yes !」 と言える人は、果たしているでしょうか。ほぼいないのではと思います。少なくとも私には無理です(= 無理だと想像されます)。絶対に「No !」と言いそうな感じがする。女性から「もう私を好きじゃないんでしょう?」などと言われてしまう状況は、ある種の "緊迫感" に満ちているはずです。そんな時に学校の教科書や英語の先生の注意は思い出せるはずがないのです。

さらにこういう状況を考えてみます。出張ないしは観光でアメリカに旅行し、レンタカーを運転する時の話です。最大の注意点は(あたりまえですが)右側通行だということです。そこで最初は「右側、右側、右側、・・・・・・」と頭の中で反復しながら慎重に運転することになります。特に交差点での左折が問題で、左側車線に入ってしまって正面衝突した日本人がいるとアメリカ人の知人におどされたあなたは、「右側車線、右側車線、・・・・・・」と反復しながら左折することになります。アメリカの道路は片側4車線などはザラなので、うっかりしやすいのです。

右側通行は誰でもわかりますが、もう少しマイナーな交通規則で日本との違いもあります。交差点で「赤信号であっても、左からのクルマに注意しつつ、右折してよい」のも違いの一つです。アメリカ全土でどうかは知りませんが、少なくともカリフォルニアではそうです。右車線の一番右側で、右折のウィンカーを点滅させて赤信号で止まったままだと、後ろにつけたクルマから "プップッ" とクラクションを鳴らされることとなります。

さて、あなたにアメリカ人の友人がいるとします。その友人がアメリカの交通規則に関して、あなたのアメリカ出張(旅行)を前にテストしてくれることになったとします。友人は次のような意味の質問を英語でします。

 「はい・いいえで答えてください。
   "赤信号で右折してはいけません"
  答えは .... ?」

この質問に英語で正しく "いいえ" と答えられるでしょうか。

 「Answer at "Yes" or "No", please.
   "You must not turn right at red light"
  The answer is .... ?」
 「Yes.

さきほどの「もう私を好きじゃないんでしょう?」と彼女に言われるような緊迫した状況ではないにせよ、ここで Yes とは答えられないのではと思います。いくらアメリカの交通規則の知識があったとしても、日本人としては厳しいのではないでしょうか。内心シメシメと思って No と答えそうな気がする。そして、アメリカ人の友人はあなたがアメリカの交通規則を知っていることがわかっていて、あなたの英語力を試す質問をしたのだと、後になって悟るわけです。


「Yes・No」は「はい・いいえ」ではない


我々が学校で「英語では、否定疑問文に対する答え方が日本語とは逆になる」と覚えたのは、テストで×にならないためにはそれでよいのかも知れないけれど、言葉の本質とは無縁です。本質的で大切なことは、

  英語の「Yes・No」は、日本語の「はい・いいえ」と意味が違う言葉である

という点でしょう。通常の疑問文に対する「Yes・No」の日本語訳は「はい・いいえ」でよいのですが、それは "たまたま" そうなるだけなのです。そう考えるしかない。この、日本語と「意味が違う」ことを「Yes・No 問題」と呼ぶことにします。

日本語では「会話相手の陳述」や「その場に提示された叙述」について、それが正しい場合(= true)は「はい」、違っている場合(= false)は「いいえ」となります。つまり、相手の陳述や叙述全体を肯定するか否定するかで「はい・いいえ」が決まります。英語なら「That's right.」や「That's wrong.」が意味的に相当するでしょう(ほかに It's true. / It's not true. など)。

Yes・No はそうではありません。Yes は、「会話相手の陳述」や「その場に提示された叙述」の全体像ではなく、その中の "動詞" に反応し、その動詞を肯定します。No は逆に否定します。

ここで、動詞の「肯定・否定」と言ってしまうと、陳述全体の「肯定・否定」と紛らわしくなるので、別の言い方をすると、

  動詞(ないしは動詞+補語)で示された状態が
  存在する場合は Yes
  存在しない場合は No

という風に理解すると、be動詞の疑問文や否定疑問文まで含めてわかりやすいと思っています。

 「So, I don't have to go ?」 (疑問調で)
 「No.」

 「では、行く必要ない?」
 「はい」 (=行く必要ないよ)

行く必要性(have to go)が存在しないから No です。上の方で掲げた例文だと、ピカソが好きということが存在するから Yes、彼女への愛が存在するから Yes、赤信号で右折することが存在するから Yes です。「存在する・存在しない」というのは変な言い方ですが、そう受け取るのが一番しっくりすると思っています。上の方に掲げた「ピカソは好きじゃないの?」という例文を「存在する・存在しない」を使って解釈すると、次のようになります。

 「Don't you like Picasso ?」
 「Yes.」

 「"ピカソが好き" は存在しませんか?」
 「存在します」

ちなみに「So, I don't have to go ?」の例で、質問したのが私でアメリカ人の相手が Yes と答えたら「行く必要ないんだ」と判断してしまいそうです。実はこのようなことを、それとは気づかずに過去にやってしまったのではと、内心疑っています。ひょっとしたらビジネスのシーンでこういうことがあったのではないか。日本人との会話の経験が多い英米人なら、それなりに気をまわしてくれそうですが ・・・・・・。


視点が違う


「Yes・No」と「はい・いいえ」の違いは、会話における視点の違いだと言えそうです。最初の「ピカソは好きではありませんか?」という否定疑問文で考えると、もし「ピカソが好きか嫌いかわからないから聞いてみよう」と思うなら「ピカソは好きですか?」と質問するはずです。「嫌いなのでは?」という気持ちがあるから「ピカソは好きではありませんか?」という否定疑問文になる。

ピカソが好きだとすると、2種類の問いかけに対する日本語の答えは「はい、好きです」か「いいえ、好きです」のどちらかになります。つまり日本語では、会話相手の思惑とか、提示された質問内容によって答え方が違ってきます。会話相手との関係性によって答え方を変化させている。

それに対して英語では、ピカソが好きなら疑問文でも否定疑問文でも「Yes, I like Picasso.」です。会話相手との関係性ではなく、自分の意志や考えだけで答え方が決まります。

このことは、このブログの最初の振り返りのところで書いた "雪国実験" と関連すると思います。雪国実験であぶり出されたのは、日本語話者の「地上の視点」と英語話者の「俯瞰する視点」でした。つまり、会話相手との2者関係で答が決まる「はい・いいえ」は「地上の視点」であり、2者関係を脱して "存在する・存在しない" を答える「Yes・No」は「俯瞰する視点」だと言えるでしょう。言い換えると「主観的」と「客観的」の違いに近いかもしれません。

「雪国実験」や「Yes・No 問題」を踏まえると、日本語で考える以上、「地上の視点」や「主観的視点」の方に、モノの考え方のバイアスがかかるのではと思います。一方、英語は英語なりのバイアスがかかります。我々はものごとを考える上で、新たな発想を得るためにも、できるだけ多様なモノの見方をしてみたいわけです。そこはよく考えておくべきだと思います。



ところで「Yes・No 問題」についてですが、鮮明に記憶している映画の1シーンがあります。次にそれを書きます。


ヒューゴの不思議な発明


『ヒューゴの不思議な発明』はマーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画で、2011年に公開されました。日本での公開は2012年です(原題は "Hugo")。

HOGO 2011.jpg
舞台は1931年のパリで、主人公はヒューゴ・カブレという12歳の少年です。彼は孤児で、モンパルナス駅の駅舎を住処すみかとしています。というのも、駅の大時計の守をしている叔父と一緒に暮らしているからで、叔父の仕事を手伝ったりしています。

ヒューゴの心の支えは亡き父が遺した壊れた自動人形(=機械人形、オートマタ。日本で言う "からくり人形")と、その修復の手がかりになる手帳でした。父との思い出の自動人形の修理がヒューゴの目標なのです。彼はあるとき、駅の片隅にあるおもちゃ屋で人形の修復に使う部品をくすねようとし、主人のジョルジュに捕まってしまいます。そして重要な手帳を取り上げられてしまいました。ヒューゴは店じまいした後でジョルジュを尾行し、彼のアパルトマンにたどりつきます。そこにはジョルジュ夫妻とともに養女のイザベルが住んでいて、ヒューゴはイザベルと知り合いになります。彼女は本が大好きな女の子でした ・・・・・・。



ストーリーの紹介はこの程度でやめておきます。ポイントはジョルジュが "ジョルジュ・メリエス" という人物であることです。メリエスは、20世紀初頭の映画の黎明期における映画制作者で、数々の映画技術(ストップモーション、多重露光、微速度撮影、SFX、・・・・・・)を開発した人です。いわば、映画というものを作り上げた人物(の一人)なのです。

  ちなみに、メリエスが映画を制作したのは1896年から第1次世界大戦の始まる前(1913年)までですが、この映画の黎明期にサン・サーンスが世界初の映画音楽を作曲しています(1908年。No.91「サン・サーンスの室内楽」参照)。

映画は「ヒューゴ少年の発明・冒険物語」を予感させるように始まりますが(実際そうなのですが)、次第に映画の話になってきます。メリエス時代の本物の映画がいろいろと出てくる。修復された自動人形がどう動くかもメリエスが作った映画と関係しています。メリエスは映画制作者と同時に自動人形収集家ですが、映画と自動人形は共通点があります。つまり、それまで動かなかったもの(絵画、人形)が動くという共通点です。それが当時の人々には驚きだった。従って興行師の手腕が発揮される「見せ物」としての価値がある。もちろん、映画は「見せ物」として始まったわけです。

要するに『ヒューゴの不思議な発明』は "映画へのオマージュ" であり、スコセッシ監督の映画愛に溢れた "映画賛歌" なのです。さらに "映画についての映画" とも言えるでしょう。部分的に3Dが使われているのですが(駅のホームのシーンなど)、わざわざ3Dを使ったのは「観客に驚きを与える」という映画の本来の姿をしのんでのことでしょう。"映画についての映画" の傑作は、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年、イタリア)ですが、スコセッシ監督はそれを強く意識したと考えられます。



この映画で、私が一つだけ覚えている英語の台詞せりふがあります。それは映画のストーリーで重要なものでは全くなく、また名言でもありません。強く覚えているのは "アレッ" と思ったからです。

上に書いたように、ヒューゴはイザベルと知り合いますが、初めて名乗りあったのはジョルジュのアパルトマンの書斎でした。イザベルは "本の虫" ともいえる少女ですが、ヒューゴは本が好きなようには見えません。イザベルはヒューゴに質問します。


Isabelle :
  Don't you like books ?
Hugo :
  No... No,I do. My father and I used to read Jules Verne together.

「Hugo」(2012)

【試訳】
イザベル
  本は好きでないの?
ヒューゴ
  いや、好きだよ。お父さんと一緒によくジュール・ヴェルヌを読んだ。


アレッ、と思ったのは、ヒューゴが言う "No" です。ここは "Yes" でないといけないはずです。そういう風に言うべきだし、我々も中学の英語の授業以来 "Yes" だと教えられてきたわけです。"No,I do" というような言い方は、英語としてはおかしい。否定疑問に対する答えなのに「No = 日本語の "いいえ"」になってしまっています。

Hugo0.jpg
(Isabelle) By the way, my name is Isabelle.

このあとイザベルはヒューゴに「本を借りてあげよう」と言うが、ヒューゴが否定的なので次の会話になる。

Hugo1.jpg
(Isabelle) Don't you like books ?

Hugo2.jpg
(Hugo) No... No,I do. My father and I used to read Jules Verne together.

なぜ映画の脚本で "No" としたのでしょうか。推測するに、これは「子供らしい、言い間違い」ではと思います。ヒューゴは12歳です。12歳の子供なら言い間違ってもおかしくはないので、脚本がそうなった。これも推測ですが、子供は家庭内での会話で親から、"Noではないですよ。Yes です。そう言いなさい" と言葉のしつけをされて、「Don't you like books ?」に「Yes,I do.」と正しく答えられるようになるのではと思います。

思いあたるのはヒューゴが孤児だということです。父親は事故で死んでしまいました。父親と一緒に暮らしているときも母親不在状態だったはずです。でないと孤児にはなりません。そういう家庭環境も考えた脚本なのではと想像しました。



言葉の意味は、その言葉を使う文化の中で規定されます。子供は生まれてから成人するまでのあいだ、家庭や社会で成長していく中で言葉が何を意味するのかを体得していきます。ヒューゴの "No, I do." はそのことを示していると思います。

疑問文と否定疑問文に対する答え方で言うと「同じ答え方をするのが英語、違う答え方をするのが日本語」でした。これは "言葉のありよう" の2つの面です。どっちもありうるし、どちらでも一貫した言葉の体系として成立します。しかし子供は育った文化の中でどちらかの意味合いを体得していき、それが "モノの見方" を規定することになる ・・・・・・。

そのように考えてみると『ヒューゴの不思議な発明』での会話は、言葉の重要性が理解できるシーンなのでした。



 補記:IE 11 

否定疑問文について軽く思い出したことがあるので書いておきます。Windows7/10で Internet Explorer 11 を使ってページを開いたとき、次のメッセージが出ることがあります。


このページの ActiveX コントロールは、安全でない可能性があり、ページのほかの部分に影響する可能性があります。ほかの部分に影響しても問題ありませんか ?

「はい」    「いいえ」

(Internet Explorer 11 のメッセージ)

ネット上のちゃんとしたページにアクセスしてこのメッセージが出た経験はありませんが、たとえば個人の PC の中に作った HTML文書の中に Javascript があったりすると、その内容によっては上記メッセージが出ることなります。もちろん自分で作った文書だと問題ないので「はい」をクリックするわけです。

しかし、考えてみるとこのメッセージは意味的に否定疑問です。これを英語に直訳して次のようなメッセージにしたらどうでしょうか。


【直訳】

An ActiveX Control on this page might be unsafe to interact with other parts of this page. Isn't there any problem with this interation ?

「YES」    「NO」


このメッセージだと、問題ないのなら「NO」をクリックすることになります。本文中に書いた、YES = 存在、NO = 非存在、という言い方からすると、問題が存在しないから「NO」です。・・・・・・ ということから類推すると、日本の企業に勤務している英米人で、まだ日本語経験が少なく、かつ、仕事で日本語版 Windowsを使わざるをえない人は、上記の Internet Explorer 11 の日本語メッセージに戸惑うこともあるのではないでしょうか(想像ですが)。

ちなみに、英語版Windows の実際のメッセージを調べてみると、「直訳」のようなメッセージではなく、


【英語版 Windows】

An ActiveX Control on this page might be unsafe to interact with other parts of this page. Do you want to allow this interation ?

「YES」    「NO」


でした。第1センテンスは「英語版の直訳が日本語版」ですが、第2センテンスは違います。英語版は否定疑問文ではなく、allow という語が使ってあって明快です。これなら米国勤務の日本人が使っても間違えようがありません。

では、日本語版 Windows で、なぜ英語版を直訳して「この影響を容認しますか ?」としなかったのでしょうか。マイクロソフトの開発担当者に聞いてみないとわかりませんが、何となく「英語と日本語の感性の違い」が現れたように思いました。

つまり「他動詞構文を好む英語」と、この手のメッセージにおいては「他動詞構文に違和感を感じる日本語」の違いです。マイクロソフトは Windows を多数の言語で世界中に展開しています。それぞれの言語にとって自然な表現にすることに注力しているのだと考えられます。

ただし「それぞれの言語にとって自然な表現」はよいとして、メッセージが「コンピュータのことを(Windowsのことを)よく知らない人にとって自然な表現ではない」のが困ったものです。ActiveX といっても何のことか分からない人が大多数ではないでしょうか(このメッセージに限ったことではありません)。Windowsが「一般消費財」になる日は遠いと思います。




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No.207 - 大陸を渡った農作物 [文化]

前回のNo.206「大陸を渡ったジャガイモ」の続きです。アンデス高地が原産のジャガイモは16世紀以降、世界に広まりました。もちろん日本でもジャガイモ料理は親しまれていて、肉じゃがやポテトサラダ、ポテトコロッケなどがすぐに浮かびます。ジャガイモはドイツの「国民食」であり、ジャガイモのないドイツ料理など想像もできないわけですが、ドイツだけでなく世界中の食卓にあがっています。

フライド・ポテト(アメリカでフレンチ・フライ、英国でチップス)とその仲間も世界中で食べられています。ベルギーに初めて旅行したとき、食事のときにもベルギー・ビールのつまみにも、現地の人はフライド・ポテト(ベルギーで言う "フリッツ")にマヨネーズをつけて食べていました。極めて一般的な食べ物のようで、それもそのはず、フライド・ポテトはベルギーが発祥のようです。

ムール貝とフリッツ.jpg
ムール貝の白ワイン蒸しとフリッツ。これを食べないとベルギーに行ったことにならない(?)、代表的なベルギー料理(Wikipedia)。

ジャガイモと同じようにアメリカ大陸が原産地で、16世紀以降に世界に広まった農作物や食品はたくさんあります。No.206「大陸を渡ったジャガイモ」で、世界で作付け面積が多い農作物は、小麦、トウモロコシ、稲、ジャガイモだと書きましたが、そのトウモロコシもアメリカ原産で、その栽培種は中央アメリカのマヤ文明・アステカ文明で作り出されたものです。


トウモロコシ


トウモロコシは食用にしますが、それよりも重要なのは飼料用穀物としてのトウモロコシです。日本の畜産業で使われる飼料は、そのほとんどがアメリカなどからの輸入で、その飼料の重要な穀物はトウモロコシです。日本はヨーロッパや南北アメリカ、オーストラリアなどと違って、家畜を放牧する広大な草地が少ないわけです。マクロ的に言うと(輸入)トウモロコシが日本の畜産を成り立たせています。

司馬遼太郎氏は小説家であると同時に、日本や世界の文明についての思索を巡らせ、数々のエッセイや旅行記、対談集を発表されました。その対談集の中に次のような文章があります。


遊牧という地球規模のスペースを必要とした生産が消えていった原因の一つは、15世紀末にコロンブスが新大陸で発見したトウモロコシでした。トウモロコシの原種というのはつまらないものだったらしいですけど、ああいうふうにふっくらさせたのはアメリカ人だそうで、それができて、濃縮飼料というか、濃密飼料というか、濃密の食べ物ですから、動物が移動しなくてもよくなった。だから、スペインなどでも、大きな牧場を必要とせずに、トウモロコシ畑を作っておけばたくさんの家畜を飼うことができる。

司馬遼太郎
対談集「日本人への遺言」
(朝日文庫 1999)

司馬氏はモンゴルや遊牧文化に造詣が深く、遊牧の視点からの発言です。トウモロコシが遊牧、ないしは牧畜の "ありよう" を変えてしまったという主旨です。

ヨーロッパ大陸を列車やバスで旅行するとします。日本と違って都市部を離れると一面の田園地帯になることが多いわけです。フランスなどは国土の70%が農地だと言います。車窓から何が植えられているかを見ていると、しばしばトウモロコシを見かけるのですね。牧草も見かけるがトウモロコシ畑も多い。トウモロコシが牧畜を変えたことを実感できます。

Field of maize in Liechtenstein - Wikipedia.jpg
オーストリアとスイスの間にある小国、リヒテンシュタインのトウモロコシ畑(Wikipedia)

トウモロコシは牧畜を変えただけでなく、肉質も変えたと言えるのではないでしょうか。オーストラリア産の牛肉は "赤み肉" が多いわけです。放牧で草を食べて育った牛は脂身が少なく赤み肉が多くなるからです。それが牛の自然な姿です。一方、牛舎で飼料だけで育てると脂身が多くなる。オーストラリアは日本への輸出のために牛舎での肥育も取り入れてきていると言います。

和牛は輸入飼料(トウモロコシ、大豆、大麦が主)があって成立するものです。その頂点として、世界に名をとどろかせている "神戸ビーフ"(No.98「大統領の料理人」参照)をはじめとする日本各地の "ブランド牛" がある。日本では「脂身が多い牛肉を前提とした食文化」が出来上がったのですが、その陰には飼料としてのトウモロコシがあることも覚えておくべきでしょう。


サツマイモとカボチャ


サツマイモとカボチャもアメリカ大陸原産です。サツマイモの原産地は南米のペルー付近と言われています。痩せた土地でもよく育ち、ジャガイモと同じで初心者でも育てやすい。日本では江戸時代以降、飢饉対策として広く栽培されました(教科書で習った記憶があります)。食糧難に陥ったときにそれを救う意味で栽培される食物を「救荒食物」と呼びますが、その代表的なものです。太平洋戦争中、戦後の食料難の時代にも栽培が広がりました。国会議事堂の前を耕地にしてサツマイモを作っている写真を見たことがあります。

カボチャも、トウモロコシと同じく中央アメリカ原産の野菜です。野菜の中でも生命力が強く、栽培が比較的容易です。江戸時代以降は救荒食物としても重要でした。

Japanese_diet_outside_Kokkaigijido-1946(Wikimedia).jpg
国会議事堂の前が耕地になり、サツマイモが栽培された。1946年の画像(Wikimedia)


トマト


トマトは南米のアンデス高地が原産で、中央アメリカのアステカ文明で栽培種が作られました。トマトはサラダなどで生食すると同時に、トマトソースなどにして料理に使います。特にイタリア料理です。ジャガイモがないドイツ料理が想像できないように、トマトがないイタリア料理も考えられないわけです(まずピザが成り立たない)。またトルコ料理もトマトを使うことで有名です。生食するとともに、煮込み料理にトマトを多用します。これらは17-18世紀かそれ以降に本格的に広まったことに注意すべきでしょう。

少々意外なことに、トマトは世界の野菜で最も収穫量の多い野菜(重量ベース)のようです。これはトマトケチャップなども含む調味用食材としての利用が多いからです。その理由ですが、トマトはズバ抜けてグルタミン酸の含有量が多い野菜です。No.108「UMAMIのちから」で書いたように、グルタミン酸は「第5の味覚」である "UMAMI" の主要成分です。だからトマトなのでしょう。それに加えて爽やかな酸味がある。

以前、テレビの紀行番組で見たのですが、南イタリアでは今でも自家製のトマトの瓶詰めを作る家庭があるようです。収穫されたイタリアン・トマトを少々熟成し、煮込んだあと潰して瓶に詰める。それを大量に作る。北イタリアに別居している息子夫婦も帰省して手伝う、それがマンマの味を支えている・・・・・・みたいな。

サンマルツァーノ.jpg
調理用イタリアン・トマトの代表的な品種、サンマルツァーノ
(site : natural-harvest.ocnk.net)

日本人は昆布からグルタミン酸を抽出したダシを料理に使うわけですが、イタリア人は類似のことをトマトでやったという見方ができると思います。もちろん日本でも料理にトマトは使うわけで、和製洋食ともいえるオムライスやナポリタンはトマト(ケチャップ)の味付けが必須です。カゴメ株式会社はトマトで成り立っています。


トウガラシ


トウガラシ(唐辛子)も中央アメリカ原産の野菜です。日本へは16世紀末から17世紀初頭に伝えられました。その日本を経由して朝鮮半島に伝わったというのが定説です。朝鮮半島では以降、200年かけてトウガラシが広まりました。つまり日本の江戸時代に広まったわけです。それまでのキムチは辛くなかった(と考えるしかない)。

鷹の爪.jpg
日本で栽培されているトウガラシの品種の一つ「鷹の爪」。熊本県人吉市のホームページより
(site : www.city.hitoyoshi.lg.jp)

今となってはトウガラシを使わない韓国料理は想像できないわけです。キムチは言うに及ばず、鍋にトウガラシ、スープにトウガラシ、刺身にもトウガラシです(!!)。少々古いですが1975年の統計で、韓国人一人あたりの平均一日のトウガラシの使用量は5~6グラム、それに対して日本の使用量は一人年間1グラムだそうです(丸谷才一「猫だって夢を見る」より。元ネタはハウス食品が発行した『唐辛子遍路』という本)。韓国料理だけでなく中国の四川料理や(麻婆豆腐、豆板醤・・・・・・)、タイ料理でもトウガラシを多用します。トウガラシの辛みに魅了される、ないしは "やみつき" になるのは何となく分かる気がします。

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ハンガリー産のパプリカ。ハンガリー食品・雑貨輸入販売店「コツカマチカ」のホームページより
(site : www.kockamacska.com)

ピーマンとパプリカは、辛み成分(=カプサイシン)が少ないトウガラシの栽培品種です。ハンガリーに行くと、やたらとパプリカが目につきます。そもそもハンガリーで作り出されたもので、パプリカはハンガリー語(マジャール語)です。パプリカのないハンガリー料理も考えられない。これらはいずれも日本でいうと江戸時代以降に広まったことに注意すべきでしょう。


カカオ


カカオは中南米原産の植物です。カカオの果実の中の種子(カカオ豆)がココアやチョコレートの原料になります。

カカオ-4.jpg
カカオの実とカカオ豆(Wikipedia)

チョコレートは菓子の中でも独特のポジションにあります。つまり菓子職人の中でもチョコレート(ショコラ)職人はショコラティエと呼ばれていて、その地位が確立しています。このブログの記事では No.117「ディジョン滞在記」で、フランスのディジョンにあるファブリス・ジロットの本店のことを書きました。

アメリカのギラデリ社は、世界のチョコレート・メーカーの中でも最も古い会社の一つです。その創業は1850年頃で、日本で言うと江戸時代です。160年以上続く会社というのは世界でもそう多くはないわけで、チョコレート文化の強さを感じます。ギラデリ社はサンフランシスコが発祥で、その歴史的な工場跡やショップ群は "ギラデリ・スクウェア" と呼ばれていて、観光スポットになっています。かつての工場跡などを見学するとチョコレート産業の歴史を感じます。

Ghirardelli Square.jpg
ギラデリ・スクウェア(サンフランシスコ)
(site : www.destination360.com)

チョコレートは人間が食べると何ともないが、動物が食べると中毒を起こすそうです。コロンブス到達するはるか以前からのアメリカ大陸の住人が人類に与えてくれた「贈り物」だと言えるでしょう。


落花生


落花生も南米、ペルーが原産地です。落花生は「地中で実を結ぶ」という特異な豆です。花をつけたあと、花の根元から "つる" が伸び、それが地中に潜り込んで、地中に鞘ができ、その中に実ができる。よくよく考えると奇想天外な植物です。

落花生の成長.jpg
落花生のできかた。千葉県八街市のホームページより引用。
(www.city.yachimata.lg.jp)

栄養価が高く、ピーナッツ油をとったりもできます。すりつぶしてピーナッツバターにしても独特のうま味がある。

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Peanutsの50年の歴史をたどった、作者・シュルツ氏の本


スヌーピーやチャーリー・ブラウンが登場する、シュルツ作の漫画のタイトルは「ピーナッツ」です。「ピーナッツでも食べながら気楽に読める漫画」という意味だと言われていますが、Wikipedia によると、この題名は作者のシュルツが決めたものではなく出版エージェントが決めたもののようです。英語の peanuts には「つまらないもの、とるに足らないもの」という意味があり、シュルツはこのタイトルが不満だったと・・・・・・。

しかし「ピーナッツでも食べながら」とか「とるに足らない」と言われるということは、裏を返せば、それだけ広まっていて愛されている証拠です。あたりまえ過ぎて、愛されていること自体があまり意識されていないということでしょう。シュルツさんはこのタイトルに誇りを持ってもよかったと思います。


タバコ


タバコもアンデス地方原産の植物ですが、世界中に広まってタバコ文化を形成してしまいました。紙巻きタバコ、キセル、パイプと、喫煙方法も多彩です。

宮崎市のタバコ畑.jpg
葉たばこの栽培。宮崎市のホームページより
(site : www.city.miyazaki.miyazaki.jp)

この数十年、タバコを吸うことによる肺ガンの発症や、受動喫煙による健康被害に関する知識が広まり、喫煙人口は減少してきました。受動喫煙だけをとってみても、日本国内で受動喫煙が原因で年間約15,000人が亡くなっており(国立がん研究センターの推計)、受動喫煙による医療費の増加は年間3200億円にのぼるそうです(厚生労働省研究班の推計)。

この状況に対応するためタバコ会社は "電子タバコ" に力を入れています。液体ないしはペースト状の "専用タバコ" を加熱して蒸気を発生させる電子機器ですが、日本ではフィリップ・モリス社のアイコス(iQOS)がブレイクしていて、現在は入手困難らしい。

そこまでして "タバコもどき" を吸う必要があるのかと思いますが、中毒性のある文化を変えるのでは容易ではないということでしょう。アメリカでは30年ほど前から「建物の中は全部禁煙」というケースがよくありました。禁煙文化が最も進んでいるのはアメリカではないかと思います。肥満と同じで「禁煙できないのは意志薄弱な証拠」のように見なされている感じもあります。

とにかく、アメリカ大陸原産で世界に広まり、歴史に影響を与え、その程度が大だった農作物としては、タバコが一番かもしれません。


ヒマワリ


ヒマワリ(向日葵)原産は北アメリカの西部です。日本では農作物というイメージは薄いと思いますが、世界的にみると種子を食用にしたり、またヒマワリ油をとったりと、重要な農作物です。

ヒマワリの大産地はロシアとウクライナで、この2国の国花はヒマワリです。このことを如実に示したのが、1970年公開のイタリア・フランス・ソ連(当時)合作映画『ひまわり』でした。とにかく、あたり一面、見渡す限りのヒマワリ畑は極めて強い印象を残しました。ヒマワリは農作物ということを実感できます。

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映画「ひまわり」のタイトルバック。文字はイタリア語のヒマワリ。

前回の No.206「大陸を渡ったジャガイモ」で、ジャガイモを描いた名画としてミレーの『晩鐘』とゴッホの『ジャガイモを食べる人々』を引用しました。そのゴッホはヒマワリを連作で描いたことで有名です。(No.156「世界で2番目に有名な絵」参照)。しかしゴッホとともにヒマワリを描いた有名な絵は、アンソニー・ヴァン・ダイクの『ひまわりのある自画像』でしょう。

Anthony-van-Dyck-Autoritratto-con-Girasole.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)
ひまわりのある自画像」(1633)

強い印象を残す不思議な自画像です。シュール・レアリズムの絵の感じがないでもない。まるでダリが描いたような・・・・・・。いわゆる "ヴァンダイク髭" を蓄えた姿が、髭の画家・ダリを連想させるのでしょう。

ヴァン・ダイクはイングランドの宮廷画家で、主人はチャールズ1世です。絵に描かれた金の鎖はチャールズ1世から贈られたものです。そして画家が指さしているヒマワリは、チャールズ1世ないしはイングランド王室を象徴していると言われています。だとすると、左手に持った金の鎖は国王にもらったのだと誇示しているような・・・・・・。ヴァン・ダイクは若い時に「いかにもナルシスト」という感じの自画像を描いていますが(=エルミタージュ美術館にある自画像)、この絵もその系統にあたると思います。振り向いた姿を描いていることも。

注目すべきは、ここにヒマワリがあることです。この絵はコロンブスのアメリカ大陸発見から140年後に描かれました。スペイン人が本国に種を持ち帰ってから100年間は、ヒマワリはスペイン本国外には出なかったといいます。ということは、ヒマワリがヨーロッパに普及しはじめて20~30年後にこの絵が描かれたということになります。

その時すでにイングランド宮廷ではヒマワリが栽培されていて、画家はその大柄でインパクトの強い花を見て、ある種の象徴性を感じたものと想像されます。また、イングランド王室の伝統とは無縁な "新参者の植物" を持ち出したところに意味があるのかもしれません。つまり、ヴァン・ダイクはフランドル人であり、外国人である自分がイングランド宮廷で成功したことをひまわりに重ね合わせたとも考えられます。



以上のほかにも、アメリカ大陸原産で世界に広まった農作物はいろいろあります。パイナップル、インゲンマメ、アボガド、パパイヤ、ゴム、バニラ(香料)などがそうです。


食文化は変化する


ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トウモロコシ、トマト、トウガラシ、チョコレート(原料のカカオ)、ピーナッツ、喫煙の習慣などは、16世紀にアメリカ大陸からもたらされ、17-18世紀に広まったものです。それぞれの国で時期は違うものの、長くても200年~300年の歴史のものです。国によっては100年程度の歴史しかない作物もある。

「ジャガイモとドイツ料理」「トウガラシと韓国料理・ハンガリー料理」「トマトとイタリア料理・トルコ料理」は切っても切れないものであり、それが昔からの伝統だと暗黙に思われています。しかしそんなに古いものではない。一般的に言って食習慣は想像以上に迅速に変化します。「昔からの伝統的な ・・・・・・ 料理」といっても、その「昔」とはせいぜい数十年のこともあります。

そして「大陸を渡った農作物」をながめて見ると、食文化は日本の江戸時代の頃からずっと「グローバル化」の影響を受けてきた、そのこともまた理解できるのでした。




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No.206 - 大陸を渡ったジャガイモ [文化]

前回の No.205「ミレーの蕎麦とジャガイモ」で、ミレーの『晩鐘』に描かれた作物がジャガイモであることを書きました。小麦が穫れないような寒冷で痩せた土地でもジャガイモは収穫できるので、貧しい農民の食料や換金作物だったという話です。今回はそのジャガイモの歴史を振り返ってみたいと思います。

ジャガイモは、小麦、トウモロコシ、稲、に次いで世界4位の作付面積がある農作物です。1位~3位の「小麦・トウモロコシ・稲」は穀類で、保存が比較的容易です。一方、ジャガイモは "イモ" であり、そのままでは長期保存ができません。それにもかかわらず世界4位の作付面積というのは、寒冷な気候でも育つという特質にあります。これは、ジャガイモの原産地が南米・アンデス山脈の高地だからです。

そのアンデス高地でジャガイモはどのように作られているのでしょうか。以下、山本紀夫氏の著作「ジャガイモとインカ帝国」(東京大学出版会。2004)からたどってみたいと思います。

  山本紀夫氏は国立民族学博物館(大阪府・吹田市)の教授を勤められた方です。植物学と文化人類学の両方が専門で、ペルーのマルカパタという村に住み込んで農耕文化の調査をされました。また家族帯同でペルーに3年間滞在し、ペルーの首都・リマの郊外にある国際ポテトセンター(ジャガイモの研究機関)で研究されました。ジャガイモを語るには最適の人物です。


ジャガイモとインカ帝国.jpg


インカ文明を支えたジャガイモ


ジャガイモ文化をはぐくんだのは南米のインカ文明です。最盛期のインカ帝国の時代、その人口は1000万人以上と見積もられていますが、半分以上は3000メートル以上の高地に住んでいました。帝国の首都のクスコの標高は3400メートルです。3000メートル以上の高地で発達した高度文明は、世界史でも他に例がありません

文明の基盤となる産業は、近代以前はもちろん農業です。その農作物では、南北アメリカ原産のトウモロコシが有名です。トウモロコシは南北アメリカ大陸の広い範囲で見られる作物で、もちろんアンデス地方でも栽培されています。しかし、トウモロコシは温暖な気候に適した作物です。寒冷な高地では栽培できません。現在のアンデス地方でもトウモロコシは主に山麓や海岸地帯で栽培されています。

一方、ジャガイモは寒冷な気候に強く、3000メートル以上の高地でも栽培が可能です。ジャガイモは南米・アンデス高地を原産地とし、アンデスの民が育ててきた作物なのです。アンデス高地が原産地である証拠に、現在でもジャガイモの野生種が自生しています。野生種の "イモ" は小指ほどの大きさしかなく、ソラニンという毒が含まれるため食用には向きません。

この野生種から栽培種を作り出したのがアンデスの人々です。栽培種は、芽の部分にはソラニンがありますが、基本的に煮るだけで食べられます。ジャガイモの栽培種は植物学的には(= 学名がついた種は)7種ありますが、現在のアンデス地方にはこれら全部が揃っていて、その品種は数千種あると言われています。現在、アンデス以外の世界中で栽培されているのは7種のうちの1種(トゥベローサム種)だけであり、この1種からさまざまな品種("男爵" とか "メイクイーン" とか)が作り出されました。

野生種が存在し、かつ、現在知られている栽培種がすべて揃っていることは、ジャガイモを食料として育ててきたのがアンデスの民であることを物語っています。



そのジャガイモを、現在のアンデスの人々はどのように利用しているのでしょうか。特に、インディオと呼ばれる、伝統農業を守っている人々のジャガイモ作りです。山本紀夫氏がペルーのマルカパタという村で現地調査した結果を以下に紹介します。マルカパタ村はかつてのインカ帝国の首都であるクスコから東に100kmほどにあり、人口は約6000人、村の中心地(=プエブロ・マルカパタ。ヤクタとも言う)の標高は 3100メートルです。


高度差利用農業


次の図はマルカパタ村の「断面図」で、高度による農業の違いを示しています。まず、標高4500メートル程度の高地では農業ができないので、リャマ、アルパカ、ヒツジなどの放牧が行われます。こういった家畜の糞は肥料としてジャガイモ栽培に活用されます。

アンデスの高度差利用農業.jpg
マルカパタ村の高度差利用農業。上から順に、牧畜、ジャガイモ、トウモロコシ、熱帯植物の農業が営まれる。村の中心部(プエブロ、ないしはヤクタ)は、ジャガイモ地区とトウモロコシ地区の間にある。「ジャガイモとインカ帝国」より

その下がジャガイモを栽培する地区で、高度によって「ルキ」「プナ」「チャウピ・マワイ」「ワマイ」という耕地名で呼ばれます。インディオたちの家は「プナ」にありますが、「出作り小屋」や「家畜番小屋」があり、これらを利用して放牧や農業が行われています。インディオの言葉は昔からのケチュア語です。

高度3000メートルから2000メートルはトウモロコシの栽培地区です。マルカパタの中心部(プエブロ、ないしはヤクタ)は、ジャガイモ地区とトウモロコシ地区の間にあり、ミスティ(=スペイン人との混血の人たち。スペイン語を話す)たちの家があります。2000メートルより下は熱帯作物の栽培地区です。

ジャガイモに着目すると、高度差1000メートルの中に4つの耕地ありますが、インディオの1家族は、この4つの耕地それぞれでジャガイモを栽培します。つまり1000メートルもの大きな高度差に分散してジャガイモの栽培をしているわけです。このため、植え付けの時期を変えることによって、年4回収穫することができます。つまり、新鮮なジャガイモが長く食べられるわけですが、分散には他にも理由があります。


もうひとつの理由がある。それは収穫の危険を分散するためである。もともとジャガイモは寒冷な気候に適した作物であるが、そのような高地は作物を栽培するうえでは厳しい環境、すなわち収穫の危険性が大きい環境である。そして、この危険性は高度の増加とともに大きくなる。高地ほど気温が低く、雨量も少なくなるからである。とくに乏しい降雨はジャガイモ栽培に深刻な影響を与える。アンデスではジャガイモは伝統的に自然の降水のみに頼って栽培しているからである。

それでは、このような危険性を回避したり、減少させるためにはどうすればよいのか。その方法の一つが、大きな高度差のなかで生じる気温や雨量の違いを利用して、少しずつ時期をずらして植え付けることである。具体的には、標高の低いところほど早く植え付け、高地にいくほど植え付け時期を遅らせるのである。実際に、マワイの耕地での植え付けは8月であるのに対して、もっとも高いところにあるルキの耕地での植え付けは10月末ごろと、そのあいだには2~3ヶ月のズレがある。

山本紀夫「ジャガイモとインカ帝国」
(東京大学出版会。2004)


休耕システム


ジャガイモの耕地は垂直方向に分散すると同時に、水平方向にも分散しています。つまり4つの耕地のそれぞれを5つの耕区に分け、そのうちの一つだけを使い、残りは休耕しています。こういった休耕は地力を回復するためと考えるのが普通ですが、しかし山本さんが現地で調査したところ、4年間休耕しても土壌養分はほとんど変わらないことが分かりました。4年間休耕してもその土壌養分だけでジャガイモの栽培はできず、リャマ、アルパカ、ヒツジなどの家畜の糞を肥料として与える必要があるのです。


それでは、ジャガイモ耕地は何のために休閑しているのであろうか。その最大の目的は病虫害の防除にあるとわたしはみている。じつは、ジャガイモは病虫害に弱い作物であり、特に連作すると病虫害の発生率は高くなる。その病虫害で最大のものがアンデスではセンチュウによるものであり、その有効な駆除策として知られるのが休閑なのである。しかも、「センチュウの生息密度が高いときにジャガイモの収量を確実にするためには5年間に一度だけ栽培するようなローテーションが必要である」とされるのである [Hooker 1981]。

このような事実は、いずれも休閑の最大の目的が地力の回復よりも、ジャガイモの病虫害の防除にあることを強く示唆するであろう。もちろん、このような方法では、毎年使われる耕地が全体の数分の一でしかないため、生産性という点ではきわめて低いレベルにとどまらざるを得ない。しかし、このことはまた、アンデスの農民が生産性よりも安定的な収穫を最大の目的にしていることを物語る。

山本紀夫
「ジャガイモとインカ帝国」


ジャガイモの品種は100種類


マルカパタ村のジャガイモ栽培で驚かされるのは、きわめて多くの品種があることです。マルカパタ村全体では約100種類のジャガイモの品種があり、村人はそれぞれに品種名をつけています。その一部の例が下図です。

アンデスのジャガイモの品種の例.jpg
マルパカタ村で栽培されているジャガイモの品種の例。村全体では100種ほどあり、すべてに名前がついている。「ジャガイモとインカ帝国」より

しかもマルカパタの人々は、一つの畑に20~30種類もの品種を混ぜて栽培します。いったい何のためなのでしょうか。


その理由のひとつとして考えられるのが、多様な品種の栽培による危険の分散である。さきにマルカパタのジャガイモは形態や色などが異なっていることを指摘したが、これらの品種は形態が異なっているだけでなく、病虫害や気候、さらに環境などに対する適応性も異なっていると判断される。実際に、マルパカタの村びとは、イモの形態の違いだけでなく、それぞれの品種による栽培特性の違いにつていもよく知っている。この点の調査は十分ではないが、少なくとも耐寒性や耐病性、そして雨の多少などに対する適性について熟知している品種が少なくなかった。

したがって、一枚のジャガイモ畑に多様な品種を栽培するのは、やはり収穫の危険性を回避するためであると考えてよさそうである。耐寒性や耐病性などの点で様々に異なる品種を混植することで、天候の異変や病虫害の発生に対して収穫の減少を少しでも防ぐ工夫と考えられるのである。

山本紀夫
「ジャガイモとインカ帝国」

ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。



以上、マルカパタ村のジャガイモ栽培は、まとめると次の3つの特徴をもっています。

高度差利用栽培
1000メートルの高度差を4つの耕地にわけ、時期をずらせてジャガイモを植え付ける。

休耕
一つの耕地をさらに5つの耕区にわけ、5年に一度のローテーションでジャガイモを栽培する。

数10品種のジャガイモを混植
一つの畑に20~30品種のジャガイモを混植する。マルパカタ村全体では約100品種のジャガイモがある。

マルパカタの村人に聞いても「昔からそうやっているから」との答えしか返ってきません。従って栽培方法の「理由」については山本さんの推測が入っていますが、それはやむをえないと思います。

とにかく、アンデスのジャガイモ栽培は、寒冷な土地で食料を確保するための知恵と工夫の積み重ねの上に成り立っていることは間違いないでしょう。もちろん、食料にできない野生種から栽培種を作りだしたのがアンデスの民の「知恵と工夫」の第1歩だったわけです。


世界への伝搬


アンデスの民が育てたジャガイモは16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰り、徐々に世界中に広まっていきました。その本格的な普及は18世紀あたりからのようです。アンデス高地が原産ということで何よりも寒冷な気候に強く、また地下茎にイモをつけるので鳥に食べられる心配がありません。特に、飢饉や戦争での荒廃を契機にジャガイモ栽培が広まることが多かったようです。

ジャガイモの普及に関しては数々のエピソードがありますす。たとえば第二次世界大戦後の日本人捕虜のシベリア抑留(=強制労働)では、ジャガイモに助けられたという声が多々あります(助かった人は、という前提ですが)。伊藤章治「ジャガイモの世界史」(中公文庫 2008)にはそのあたりの事情が書かれています。また20世紀になるとネパールのシェルパ族にもジャガイモ栽培が広まり、人口が急増しました(山本紀夫「ジャガイモのきた道」岩波新書 2008)。

ジャガイモを題材にした絵画作品で最も有名なのは、ゴッホがオランダ時代に描いた『ジャガイモを食べる人たち』でしょう。この絵を見ると、食卓にはジャガイモしかないのですね。そこがポイントです。従って絵の題名は「ジャガイモだけを食べる人たち」が正確です。ジャガイモは炭水化物のほかにビタミンCなどの栄養素も多い食物です。ジャガイモが当時のヨーロッパの貧しい農民たちの "命綱" だったことがよく分かります。

ジャガイモを食べる人たち.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
ジャガイモを食べる人たち」(1885)
(アムステルダム・ゴッホ美術館)

ジャガイモに関する数々のエピソードで非常に有名なのが、アイルランドの「ジャガイモ飢饉」です。それを伊藤章治・著「ジャガイモの世界史」と山本紀夫・著「ジャガイモのきた道」からたどってみます。


アイルランドのジャガイモ飢饉


イギリス英語でfamine(飢饉)に定冠詞をつけてThe Great Famine(=大飢饉)というと、19世紀半ば、1845年から起こったアイルランドのジャガイモ飢饉のことを指します。


16世紀末、アイルランドにもたらされたとされるジャガイモは、岩盤だらけのアイルランドの土地でも「貧者のパン」としての役割を十二分に果たす。ほとんど手入れなしでも1ヘクタールの畑で17トンものイモが生産されるため、ときにはジャガイモ畑は「怠け者のベッド」と呼ばれたほどだ。

ジャガイモからのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保証されたため、この国の人口は1760年の150万人から、1841年には約800万人に膨れ上がった。そこに襲いかかったのが「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」と呼ばれるジャガイモ飢饉(アイルランド語 An Gorta Mor。英語 The Great Famine)である。

伊藤章治「ジャガイモの世界史」
(中公文庫 2008)

ジャガイモの世界史.jpg
上の引用にあるように、アイルランドにジャガイモが本格的に普及したのは、18世紀半ばから約100年かけてのことでした。そこに「大飢饉」が襲った。

ジャガイモ飢饉の原因は1845年に始まった「ジャガイモ疫病」の発生で、英語で "Potato Blight" と呼ばれているものです(Blightは "枯れる" という意味)。この病気の原因は、フィトフトラ・インフェスタンスという真菌類です。アメリカ起源といわれているこの病気は、1845年の6月にイギリス南部のワイト島に発生し、イギリス本土、ベルギー、フランス、ドイツなどに広がり、そして8月末にアイルランドに上陸しました。この真菌の胞子はものすごいスピードで広がり、ジャガイモの葉や茎で発芽すると葉は斑点ができて黒く変化し、イモは腐って悪臭を放つようになります。


1845年、ジャガイモ疫病によるアイルランドの損害は平均で約40パーセントに達した。この年夏の湿気の多い天候と変わりやすい風が、ジャガイモ疫病の胞子を各地の畑に飛散させたのだ。

翌1846年は、ジャガイモの植え付け面積が三分の一ほど縮小する。人々が種イモまで食べつくしたからだ。その年もジャガイモ疫病は8月のはじめには姿を現し、卓越風に乗って瞬く間に広がった。さらに収穫期には豪雨が降り、霧が出た。ロンドンの『タイムズ』紙が、「ジャガイモ全滅」と報じたのがこの年である。

1847年は見事な収穫に恵まれたものの種イモの不足で通常の五分の一しか植えられず、飢饉は続く。1848年は2月に大雪が降ったが、5月、6月の天候は順調で、人々に期待を持たせた。しかし7月には雨ばかりの天候となり、またもジャガイモ疫病は一気に拡散した。結果は1846年と並ぶほどの凶作だった。収穫が皆無となるなか、働き手はこぞって米国などに海外移民、残された者たちはペットを食べ、雑草を食べ、さらには人肉までも口にしたという話が伝わるほどの地獄絵図が現出した。

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

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ジャガイモ疫病
ジャガイモ疫病にかかると、まず葉に病斑ができ、たちまち葉全体に広がって、地中のジャガイモは腐る。ビル・プライス「世界を変えた50の食物」(原書房 2015)より引用。

ダブリンの飢饉追悼碑.jpg
アイルランド、ダブリン市内にある「飢饉追悼碑」(Wikipedia)

ジャガイモのきた道.jpg
人口調査によると、アイルランドの人口は1841年には817万人でしたが、1851年には655万人にまで減少してしまいました。飢饉がないと1851年には900万人程度になったはずという見積りがあります。つまり250万人の人口が失われたことになり、そのうち約100万人が海外へ移住、残りは死んだといわれています。死因には栄養失調や餓死もありますが、それより多かったのが栄養不足で病気にかかることによる病死でした。

この大飢饉のダメージは大きく、アイルランドの人口はその後も減り続け、現在でも人口は450万人程度です。一方、"アイルランド系"の人口はアメリカで4300万人、全世界では7000万人と言われています。有名な話ですが、この「アイルランド系アメリカ人」から、大統領が2人出ています。ケネディ大統領とレーガン大統領です。どちらも大飢饉の時代にアメリカに移民したアイルランド人の子孫です。


飢饉をもたらしたもの


1845年のジャガイモ疫病はアイルランドだけではなく、ヨーロッパ各国で発生しました。しかし大飢饉はアイルランドだけで起こった。それはなぜでしょうか。


なぜ、アイルランドだけでジャガイモ疫病が大飢饉を引きおこしたのだろうか。それは、一口にいえばアイルランド人が「ジャガイモ好き」だったからである。つまり、あまりにもジャガイモに依存しすぎたせいで、飢饉のような非常時に代替作物がなかったからである。

さらに、この状態に拍車をかけたのが、単一品種ばかりを栽培したことである。ジャガイモには数多くの品種があるが、アリルランドでは19世紀の初め頃からもっぱらランパーとよばれる品種のみを栽培するようになっていた。この品種は、栄養価では他の品種にくらべて劣っているが、少ない肥料と貧弱な土壌でも栽培ができたため、アイルランド全土に普及していたのである。しかし、ジャガイモは塊茎で増える、いわゆるクローンであるため、単一品種の栽培は遺伝的多様性を失わせることになる。したがって、ある病気が発生すれば、それに抵抗性をもたない品種はすべての個体が同じ被害を受けることになる。アイルランドの大飢饉は、まさしくこうして生じたのであった。

山本紀夫「ジャガイモのきた道」
(岩波新書 2008)

しかし、ここでよく考えてみる必要があります。ヨーロッパ各国に比べてなぜアイルランドだけが「ジャガイモに依存しすぎた」のでしょうか。その背景にはアイルランドと英国の長い抗争の歴史がありました。


英国が作り出した大飢饉


12世紀から始まった英国のアイルランド支配は、プロテスタント(英国)によるカトリック(アイルランド)の弾圧の歴史でした。


その抗争の歴史に「苛斂誅求かれんちゅうきゅう」というほかない苛酷な支配を持ち込んだのが、熱烈な清教徒で、わずかな年数で宗教改革を成し遂げ、英国国王チャールズ一世を処刑して共和制を築いたオリヴァー・クロムウェル(1599-1658)である。

1641年、英国支配に対するアイルランド側の反乱、「カトリック一揆」が起こる。英国本土には、混乱のなかで2000人以上の新教徒入植者が殺されたと誇張して伝えられたといわれる。その「新教徒虐殺」への報復、見せしめとして、二万人の精鋭を率いて攻め入ったクロムウェルは、カトリック教徒であるアイルランド人を大虐殺した。カトリック教会組織は手当たり次第に破壊され、教徒の資産は没収された。農地もまたそのほとんどが没収され、アイルランド人は英国人地主の小作人に転落する。17世紀初頭には59パーセントだったカトリック教徒の所有地は、18世紀初頭にはわずか」14パーセントとなった。そしてアイルランド人は岩盤と石ころだらけの西部の土地へと追いやられたのだった。

「アイルランド人は地獄かコノートに行け」とクロムウェルは、公言したといわれる。アイルランドの西部に位置するコノートは、アイルランドのなかでも最も生活条件の厳しい土地だ。

・・・・・・・・・・

小作人となったアイルランド農民は、農地の三分の二に小麦を植え、その収穫のほぼすべてを英国人地主に納めた。ではどうやって彼らは生き延びることができたのか。彼らは残りの三分の一の劣悪な条件の土地にジャガイモを植え、主食としたのである。

・・・・・・・・・・

アイルランドのジャガイモ飢饉は、ジャガイモ単作(モノカルチャー)のゆえに起こったのだといわれる。しかし、英国による土地と作物の厳しい収奪のもと、残された石と岩盤だらけの狭隘きょうあいな土地でアイルランド国民が生き残るには、ジャガイモ単作という選択しかなかったのだ。

ヨーロッパの他の国々でもジャガイモは全滅したが、他の作物で補い、飢饉を回避している。さらに、飢饉がもっとも深刻なときでさえ、穀物を満載したアイルランドの船が英国に向かっていた

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

伊藤氏は「社会構造が生んだ飢饉」「英国によってつくられた飢饉」と呼ぶしかないと書いていますが、その通りでしょう。

農作物の発育不全を引き起こすのは天候不順(冷害、干魃など)や病害虫です。しかしそれを飢饉にまでしてしまうのは、一言でいうと "政治" です。それは現代でも同じですで、「国民の20%が飢餓状態なのに、80%は何ともない」というような例があります。国連が食料の緊急援助に乗り出したりしますが、要するに国全体としては食料は足りているわけです。また国民のすべてに最低限の所得があると(所得が保証されると)、食料を買うことができます。

アイルランドの悲劇がなぜ起こったかをまとめると、アイルランドは、

英国に植民地的支配を受けており、
英国=支配者から「アイルランド人は死んでもよい」と思われていて、
食料をジャガイモに頼っており、
そのジャガイモを壊滅させる病気が蔓延した

ということでしょう。③④の条件に当てはまるヨーロッパの地域はほかにもあったはずです。しかしそれと同時に①②の条件にも当てはまるのがアイルランドだけだった。そういうことだと思います。②に関して言うと、ジャガイモ飢饉は、カトリック教徒絶滅を狙った「不作為によるジェノサイド」という見方もアイルランドにはあるようです。当時、アイルランドは英国の一部であったわけであり、そういう見方が出てくるのも当然でしょう。

  飢饉が "政治" で起こるというのは、江戸時代に何回か起こった "大飢饉" をみてもそう思います。過度の稲作の奨励はいったん冷害になると恐ろしいし(稲は本来、亜熱帯の作物です)、米の代用になる食物も日本古来の稗や粟からはじまって、サツマイモなどの "外来食物" も(江戸後期では)あったはずです。経済的に破綻している藩では何ら有効な手が打てないこともあった。餓死者が続出した藩もあれば、一人の餓死者も出さなかった藩もある、というのが実態でした。


現代のジャガイモ


ジャガイモは寒冷地で痩せた土地でも育ち、また栽培に手間がかからないというメリットがあります。これらの特質があるからこそ、アンデスの民が作り出したジャガイモが全世界に広まったわけです。しかしアイルランドの例にみられるように、ジャガイモの弱点は病気に弱いことです。この弱点をカバーするため、現代日本では種イモが厳重に管理されています。


ジャガイモの弱点は病気に弱いことだ。ウイルスによる葉巻病やYモザイク病、菌類や細菌が原因のジャガイモ疫病、軟腐病、さらには虫が引き起こすジャガイモシストセンチュウなどが難敵だ。アイルランドのジャガイモ飢饉を引き起こしたのがジャガイモ疫病、人間の病気にたとえれば「コレラより恐ろしい」といわれるのがジャガイモシストセンチュウである。

ジャガイモの栽培は、種イモを地中に植え付けることから始まる。万一、種イモがウイルスや病害虫に侵されていれば、収穫されるジャガイモは全滅となる。このためわが国では指定種苗制度により、種イモの生産と流通は独立行政法人種苗管理センターによって、厳重に管理されている。

種イモの元になるのが原原種。「元ダネ」と呼ばれるこの原原種がジャガイモ生産の出発点だから、管理は厳格をきわめる。人里離れた、種苗管理センターの八つの農場でだけ隔離栽培される。それが特定の原種農家で増殖され、採種農家におろされるほか、余裕のあるときは種イモとして一般農家にも出荷される。採種農家で増殖されたものはすべて種イモとして一般農家に出荷される仕組みだ。

原種農家、採種農家が増殖した種イモも、植物防疫官の厳しい検査を受ける。合格したイモだけが、「種馬鈴しょ検査合格証」が添付され、種イモとして販売できることになるのだ。

合格した種イモで一般農家はジャガイモ栽培を行うのだが、そこでできたイモを次のシーズンの種イモにすることは「同一県内で自家栽培に利用する」場合のみ、検査なしで許される。他県向けなどのケースでは植物防疫官による厳しい検査を受けなくてはならない。

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

現代の我々が容易にジャガイモを入手できるのには、このような厳密な管理体制があるわけです。そして、その前史としてアイルランド大飢饉のような悲惨な経験があったことを忘れてはならないでしょう。

北海道更別村のジャガイモ畑.jpg

北あかり.jpg
北海道十勝平野の更別村のジャガイモ畑。下のジャガイモは "北あかり"。


モノカルチャーの怖さ


もう一度、アンデス高地のインディオの人々の農業を振り返ってみると、

アンデス高地のジャガイモ栽培は、
高度差を変えた3つの耕地で栽培
5つの耕区をローテーションで休耕
20~30種類の品種を混植
という特徴をもつ。
主要作物はジャガイモとトウモロコシ

とまとめられるでしょう。山本氏の著書には主要作物以外にも、各種の農作物の記述が出てきます。そのほとんどは、我々になじみがないものです。一言でいうと「多様性を維持した農業」だと言えます。

このような農業形態は、生産性の観点からはマイナスです。山本氏の本には「アンデス高地のジャガイモの生産性は、現代アメリカのジャガイモ生産の 1/10」という意味の記述が出てきます(休耕はカウントせずに、です)。その生産性の低さと引き替えに、食料の安定生産が維持され、悪天候や病害虫による被害リスクが回避されている。

対照的な風景が、19世紀半ばのアイルランドのジャガイモ畑です。そこは遺伝的に均一な単一品種の畑が広がっていました。ジャガイモは種イモから増殖させるので(いわゆる "クローン")、これを続ける限り遺伝子が全く同じになります。19世紀のアイルランドでは「見渡す限りの畑のジャガイモのDNAが全く同じ」という状況があったと想像できます。多様性とは真逆の人工的な世界であり、これは極めて危険な状況です。

もちろん現代日本のジャガイモ生産の8割を占める北海道のジャガイモ畑も、似たような状況です。それが危険だからこそ、国の機関による種イモの厳重な管理がされているわけです。それによって高い生産性が維持されている。

この話の教訓は、生命体は多様性が "命" だということでしょう。振り返ってみると、No.56「強い者は生き残れない」で書いた生命の進化のメカニズムの根幹は「多様性」でした。多様性の中から新しい環境に即した生命が生き残って進化していく。

No.69-70「自己と非自己の科学」で書いた人間の免疫システムも、多様性が根幹にありました。病原菌に対する防御反応は人それぞれに違っている。だからこそ人類は生き延びてきました。アイルランドのジャガイモ飢饉は「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」だそうです(伊藤章治「ジャガイモの世界史」)。その14世紀の黒死病(ペスト)の惨禍では人口の1/3が死んだ地域がヨーロッパのあちこちにあったといいます。考えられないほどの膨大な死者の数です。しかしペスト患者に接しても何ともなかった人も、また多かった。当時はペスト菌が原因という知識は全く無いわけです。だけど死なない(人も多かった)。



モノカルチャーは "単一文化" という意味ですが、もともとカルチャーとは耕作の意味です。"単一作物耕作" という意味でもある。そしてモノカルチャーは本質的にまずいし、危険なのですね。それは生命体だけでなく文化もそうでしょう。

アンデス高地のジャガイモ耕作のスタイルを、現代の農業が踏襲することはできません。膨れ上がった地球の人口を養うために、農業の生産性は非常に大切だからです。しかしアンデス高地の人々が何千年という期間で作り出してきたジャガイモとその耕作スタイルには学ぶものが多いと思いました。

続く


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No.182 - 日本酒を大切にする [文化]

No.89「酒を大切にする文化」の続きです。No.89 で、神奈川県海老名市にある泉橋いづみばし酒造という蔵元を紹介しました。「いづみ橋」というブランドの日本酒を醸造しています。この蔵元の特長は、

  酒造りに使う酒米さかまいを自社の農地で栽培するか、周辺の農家に委託して栽培してもらっている。

栽培するのは「山田錦」や「雄町」などの酒米として一般的なものもあるが、「亀の尾」や「神力しんりき」といった、いったんはすたれた品種を復活させて使っている(いわゆる復古米)。

精米も自社で行う。つまりこの蔵元は、米の栽培から精米、醸造という一連の過程をすべて自社で行う、「栽培醸造」をやっている。

いづみ橋 恵.jpg
いづみ橋の定番商品、恵(めぐみ)の青ラベル(純米吟醸酒)と赤ラベル(純米酒)。泉橋酒造周辺の海老名産の山田錦を使用。日本酒度は +8 ~ +10 と辛口である。
という点です。「酒を大切にする文化」は、酒の造り手、流通業者、飲食サービス業、消費者の全部が関係して成立するものです。しかし文化を育成するためには、まず造り手の責任が大きいはずです。この記事で言いたかったことは、ワインは世界でも日本でも「栽培醸造」があたりまえだが、日本酒では非常に少ない。こんなことで「日本酒を大切にする文化」が日本にあると言えるのだろうか、ということでした。

このことに関してですが、最近、朝日新聞の小山田研慈けんじ・編集委員が「栽培醸造」を行っている酒造会社を取材した新聞記事を書いていました。「日本酒を大切にする」という観点から意義のある記事だと思ったので、以下に紹介したいと思います。

余談ですが、No.172「鴻海を見下す人たち」で朝日新聞の別の編集委員(山中季広氏)が、シャープを買収した鴻海精密工業を見下みくだすような "不当な" 記事を書いていたことを紹介しました。今回の小山田・編集委員の記事は大変にまともで、さすがによく社会を見ていると思いました。朝日新聞の編集委員ともなれば、きっと小山田氏の方が普通なのでしょう(と信じたい)。

記事は「新発想で挑む 地方の現場から」と題されたシリーズの一環です。まず、秋田県のある酒蔵の話から始まります。以下の引用で下線は原文にはありません。


酒米 蔵から5キロ圏産だけ



酒米 蔵から5キロ圏産だけ
 地元の素材にこだわる

秋田県の横手盆地は今年、例年より早く桜の季節を迎えた。「あま」銘柄で知られる浅舞あさまい酒造(横手市)では、毎年冬に行う酒造りを4月15日に終えた。「今年の冬に使う酒米の苗作りを自分たちで始めています」。杜氏とうじの森谷康市さん(58)は話す。

酒蔵は一般的に、農協などを通じて酒米を仕入れる。地元で酒米作りに直接かかわるのは珍しい。

「酒蔵から半径5キロ以内で作られたコメだけを使う」。浅舞酒造は1997年から、こんな酒造りの方針を掲げる。2011年には、造る酒の全てを地元のコメの純米酒にした。大事な水も、蔵から約50メートルのところにあるわき水を使う。

小山田 研慈(編集委員)
朝日新聞(2016.5.9)

あとで出てくるのですが、浅舞酒造は半径5キロ圏内にある19の農家に委託してコメを栽培しています。上の引用によると、苗は自前でも作っているようです。

半径5キロ圏内ということは、浅舞酒造はコメ作りの過程に常時関与できるか、少なくともその過程を詳しく知ることができるということです。農家ごとの土壌もわかるし、その年の気温や降雨もつぶさにわかる。このことがおいしい酒造りには重要です(No.89「酒を大切にする文化」で紹介した泉橋酒造のホームページ参照)。


意識したのは、原料の産地にこだわるワインだ。フランスでは、法律に基づくAOC(原産地呼称統制)という制度がある。「シャンパーニュ」「ボルドー」といった名称は、その産地のフドウを使うなど一定の基準を満たさないと使えない。ブドウ畑の格付けも決まっていて、消費者からみて価値が分かりやすい。

こうしたワイン造りに考え方をフランス語で「テロワール」と言う。「その土地の特徴」という意味だ。


天の戸 吟泉.jpg
フランスのワインについて付け加えますと、AOCはブドウの産地や畑を規定しているだけでなく、醸造方法も規定しています。日本酒なら、さしずめ
 ・酒米の品種
 ・酒米の生産地区
 ・使用する水
 ・精米度合い
 ・醸造方法
を規定するようなものです。

日本のワインにAOCのような国家規定はないのですが、日本のワイン醸造所も自社のブドウ畑を持つか、契約農家にブドウを栽培してもらうかのどちらか、あるいは両方をやっています。甲府盆地とその周辺にはたくさんの醸造所がありますが、私の知っている限り、皆そうです。サントリーやメルシャンなどの大手メーカーも自社のブドウ畑を持っている。「栽培醸造を全くやっていないワインメーカー」というのは、ちょっと考えにくいわけです。

ちなみにフランスのネゴシアンと呼ばれるワイン流通業者は、シャトーやドメーヌから仕入れたワイン原酒をブレンドして瓶詰めし、販売しています。そのネゴシアンの中には、ブドウの果汁を仕入れて自社で醸造して販売する業者もあるといいます。このケースでは「栽培」と「醸造」が分離していることになりますが、知っての通りフランスは「ワイン大国」であって、そこまでワイン産業が発達していると言うべきでしょう。


一方、日本酒の原産地の表記には、フランスほど厳密なルールがない。コメはブドウと違い、運搬や貯蔵が簡単にできる。別の地域のコメで造っても「地酒」と名乗れる。

酒米は全国的に生産量が少なく、他県のコメを仕入れることも珍しくない。酒米の王者と言われる「山田錦」の主産地は関西だ。

日本酒もワインのように、もっと原料の産地にこだわって造れないか ──── 。

そう考えた森谷さん。地元で酒米を作る農家の研究会にいれてもらい、自ら酒米作りを始めた。


小山田氏が指摘しているように、コメはブドウと違って運搬や貯蔵が容易にできます。そのため「栽培醸造」が普及しなかった(ないしはすたれた)というのはわかります。しかしだからといって、他県のコメを仕入れるだけで安住しているのは怠慢でしょう。さっき書いたようにコメの品質は、山田錦であればいいというのではなく、稲が育った環境(土壌、水、栽培方法)と、その年の気温・降雨によって変化するはずです。それを知った上で最適な精米の具合と醸造方法を決める。そうであってこそ "醸造家" です。

酒造りには水が大切です。そのため地下水などの「自前の水源」を確保している酒蔵も多い。しかしそういう酒蔵でも、米を自前で確保しようとしないのは不思議です。コメよりも水の方が大切なのでしょうか。そんなことはないはずです。記事にある浅舞酒造は「蔵から約50メートルのところにあるわき水」を使うと同時に、自前で酒米の確保を始めました。


酒米は、稲の背が高くなるため倒れやすく、育てるのが難しい。「農家に感謝するべきなのに。こんなんじゃだめだ」。買い入れる酒米の批評ばかりしている自分に気づいた。

市町村合併が進み、名前が消える町や村も多いなか、「狭い産地をアピールした方が、蔵の存在感を出せるのでは」。そう思うようにもなった。

いまは周辺の契約農家19戸に限ってコメを買い入れている。10アールあたり5千円の「補助金」を農家に払い、種もみの補助などもする。すべて自腹で、「毎年の総額は、うちの社長の給料より多い」(森谷さん)というが、最近5年間の売り上げ高は毎年2ケタのペースで伸びている。

昨年8月、全国の得意客50人と契約農家を集めて「半径5キロ以内」の酒米の田んぼを訪ねるイベントを開いた。田んぼを一望できる道満どうまん峠に向かい、ワイングラスに注いだ純米酒で乾杯した。


記事の下線を引いたところに「自腹の補助金」の話がでてきます。日本政府もコメ作りに補助金を出すなら、こういう農家に(手厚く)出してほしいものです。

横手盆地.jpg
朝舞酒造のホームページに掲載されている横手盆地の風景。このような写真を見ると「半径5キロ圏内の酒造り」という実感が湧く。
(site : www.amanoto.co.jp)



別の蔵元の取材です。地元にある酒米の品種を使って成功した蔵元と、自社栽培をはじめた蔵元の話です。


「水尾」の銘柄で知られる田中屋酒造店(長野県飯田市)も、蔵から半径5キロ以内の契約農家などからコメを買って純米酒を作っている。6代目の田中隆太さん(51)は青山学院大学を卒業後、システムエンジニアを経て1990年に家業を継いだ。

高齢の得意客が1人亡くなると、売り上げが年に100本減ることも。「日本酒を飲む人を増やすためにいいものを造らないと大変なことになる」と痛感し、試行錯誤を繰り返した。

モノや情報がたやすく入手できる東京暮らしをやめて戻ったからには「地元でしかできないことをしよう」と思ってきた。地元の酒米「金紋錦きんもんにしき」を使うと、とても良い酒ができた。4合瓶の値段を1200円から100円上げたが、前よりもよく売れた。

売り方も変えた。酒屋任せにはせず、ファンを少しずつ着実に増やすように心がけた。観光客が多い近くの野沢温泉や、百貨店などで試飲会を繰り返し、ここ10年間で売り上げ高は7割増えたという。



自ら酒米作りをする酒蔵も増えている。渡辺酒造店(新潟県糸魚川市)の渡辺吉樹社長(55)は「自分たちでつくるしか選択肢はなかった」と話す。良い純米酒を造るには良い酒米がたくさん必要だが、コメ農家が年々減り、良い酒米を安定的に確保するのが難しくなっているからだ。




No.89「酒を大切にする文化」で紹介した、神奈川県海老名市の泉橋いづみばし酒造も記事に出てきました。海外への販売を見据えた話です。


日本酒の輸出もアジアや米国向けを中心に伸びていて、15年の輸出額は140億円。5年前から6割強増えた。環太平洋宇経済連携協定(TPP)が発効すれば、日本酒の酒税は撤廃される。これも追い風とみて、輸出に本格的に期待する酒蔵も出てきた。

泉橋酒造(神奈川県海老名市)もその一つ。橋場友一社長(47)は「アジアで日本酒に関心がある人は、ワインを飲んでいる人。『(原料の産地にこだわる)ワインと同じです』というと良さを分かってくれる」と話す。地元の酒米にこだわって、海外にも通用する「SAKE」を造っていくつもりだ。



純米酒


以上のように、小山田・編集委員の取材記事は「栽培醸造」ないしは「地元産の酒米にこだわる酒造り」「蔵から5キロ圏内で栽培された酒米による酒造り」がポイントなのですが、もう一つポイントがあって、それは純米酒です。

記事によると日本酒の生産は長期低落傾向にあり、2014年度の生産量の56万キロリットルは、ピーク時の30%という深刻な状況です。しかしその中でも純米酒は2010年度から5年連続で伸びている。2014年度の純米酒の生産量は9.7万キロリットルで、これは前年比106%とのことです。このデータから計算すると、日本酒全体の17%が純米酒ということになります。記事にあったグラフを引用しておきます。

日本酒と純米酒の生産量の推移.jpg
朝日新聞(2016.5.9)より

長期低落傾向にある日本酒の中で、純米酒だけは伸びている・・・・・・。これは大変喜ばしいことだと思います。しかし、上のグラフを別の視点からみると、

  日本酒の83%には添加用アルコールが入っている

ということなのですね。これはいくらなんでも多すぎはしないでしょうか。日本酒生産の長期低落傾向がまだ止まらない2014年度でさえこうなのだから、昔の日本酒のほとんどには添加用アルコールが入っていたということになります。

添加用アルコールとは、各種の糖蜜(サトウキビなど)や穀物(米、サツマイモ、トウモロコシ)を発酵させて蒸留したものです。添加用アルコールとは、つまり蒸留酒なのです。日本酒は醸造酒と思っている人がいるかもしれませんが、それは違います。

  83%の日本酒は、醸造酒と蒸留酒の混合酒

というのが正しい。添加用アルコールを「醸造アルコール」などと言うことがありますが、この言い方は「醸造酒を造るために使う蒸留酒」という、矛盾した言い方です。

ウイスキーにもモルト・ウイスキー(大麦の麦芽から造る)とグレーン・ウイスキー(穀物から造る)があり、ブレンディッド・ウイスキーはこの両者がブレンドされています(No.43「サントリー白州蒸留所」参照)。しかしこれは蒸留酒に蒸留酒を添加しているのであって、日本酒(醸造酒)に添加用アルコール(蒸留酒)を加えるとは意味が違います。

現在、ビールと総称されているお酒は、「ビール」と「発泡酒」と「第3のビール(リキュールなど)」があります。リキュールに分類されているものには添加用アルコールが加えられています。この例に従って、清酒(日本酒)もたとえば、

清酒(=純米酒)
添加清酒(=添加用アルコール入りの日本酒)

と、はっきり区別すべきだと思います。上に引用したグラフは日本酒の長期低落傾向ではなく「添加清酒」の長期低落傾向を示しているのです。

醸造酒に添加用アルコールを混ぜるのは、別に悪いことではありません。スッキリした飲み口にしたいときや、コストを安く押さえたいときには、選択肢の一つだと思います。それは「第3のビール」と同じことです。しかし、日本酒の83%が「添加清酒」というのは、いかにも多すぎはしないでしょうか。こんなことでは日本酒が長期低落傾向になるのは必然だと思いました。


地元産のコメにこだわる主な酒蔵


小山田・編集委員の取材記事に戻ります。この記事には、地元産のコメにこだわる主な酒蔵という表がありました。その表を引用しておきます。

銘柄 酒蔵 特徴
根知男山
(ねちおとこやま)
渡辺酒造
糸魚川市(新潟)
地元産米を使い、昨年度は8割が自社生産。「田んぼのすてを見せられるのが強み」
いづみ橋 泉橋酒造
海老名市(神奈川)
地元産米を使い、地元農家のコメが8割。自社生産も。今は純米酒のみ生産。
日置桜純米酒
(ひおきざくら)
山根酒造
鳥取市
全量が県内農家の契約米。農家ごとにタンクを分け、ラベルに農家の名前を入れる。
会津娘純米酒 高橋庄作酒造
会津若松市(福島)
地元の酒米が9割弱。うち自社田が25%。
紀土
(きっど)
平和酒造
海南市(和歌山)
紀州の風土を表現するため、自社田で栽培も。全国の蔵元が味を競う「酒-1グランプリ」で優勝。


山根酒造場の「日置桜ひおきざくら純米酒」がユニークです。酒のラベルに酒米を栽培した農家の名前を入れる・・・・・。酒米がいかに大切かを言っているわけだし、こうなると酒米農家も張り切らざるを得ないでしょう。ウイスキーに「Single Malt Whisky」があります。これに習い「Single Farmer SAKE」と銘打って輸出をしたらどうでしょうか。そうすると商品に強い「物語性」を付与できます。そういった物語性はブランド作りのための基本です。また、泉橋酒造の橋場社長のコメントにもあったように、SAKEは海外進出のチャンスです。おりしも和食がユネスコの無形文化遺産になりました(2013.12登録)。橋場社長の言うアジアだけでなく、欧米にもチャンスはあると思うのです。

余談はさておき、要は、酒造りにもいろいろな創意工夫があるということだと思います。

日置桜純米酒.jpg
(右の写真のラベルに酒米生産者の氏名が明記してある)


日本酒を大切にする文化


誤解されないように言いますと、日本酒は栽培醸造の純米酒であるべき、と主張しているわけでは全くありません。酒の好みは人によって多様だし、飲酒のシチュエーションも多様です。一人ないしは二人でじっくり味わう場合もあるし、多人数で楽しく盛り上がりたい時もある。値段も多様であるべきだと思います。他県から酒米を調達してもよいし、純米酒でなくてもかまわない。しかし、醸造酒作りの基本は、

  自社農地で栽培された原料、ないしは、目の届く範囲の契約農家で栽培された原料を使い、添加アルコールを入れないで醸造する

ことだと思います。その「基本の酒づくり」が非常に少ないことが問題だと思うのです。「基本の酒づくり」でどこまでおいしい日本酒ができるかを極めないと、応用は無理だと思います。応用とは、添加物を加えるとか、全国から酒米を調達するとかです。

朝日新聞の小山田編集委員が「蔵から5キロ圏産だけの酒米」を用いる酒造会社を取材した記事は、「新発想で挑む 地方の現場から」というシリーズの一環でした。醸造酒作りの基本であるばずのものが「新発想」というのは、大変悲しむべきことだと感じます。また、この記事がまるで "地方再生の活動を紹介するような" 印象を与えるのも、本当は異常なことです。もちろん、記事そのものは良いと思いますが。

こういった「地方の現場の新発想」が、新発想でも何でもなく、全国のいたるところの酒蔵と大手酒造会社で行われるようになったとき、日本酒を大切にする文化が真に復活し、日本酒の長期低落傾向が止まるのだと思います。



 補記:日本酒の参入規制 

2020年2月8日の日本経済新聞に、日本酒の参入規制の解説記事が掲載されました。日本酒醸造への新規参入は70年間も認められていないとの記事です。日本酒の今後の発展(ないしは、今後の衰退)についての重要な話だと思うので、以下に引用します。下線は元記事にはありません。


日本酒、国内参入の壁高く
税制改正、輸出に限り規制緩和
残る天下り、大手は反発

2020年度の税制改正大綱に、輸出に限って日本酒製造への新規参入を認める制度改正が盛り込まれた。日本酒への参入では事実上、戦後初めての規制緩和となる。だが、新規参入者が造る日本酒は国内では販売できない。旧大蔵省の天下りを受け入れている業界団体が既存事業者の保護を強く訴え、中途半端な規制緩和にとどまった

東京・世田谷で住宅が並ぶ三軒茶屋の一角に18年、店内で「どぶろく」を造るバーができた。ボストン・コンサルティング・グループ出身の稲川琢磨氏が立ち上げたWAKAZE(山形県鶴岡市)が運営し、庄内地方の食材に合うお酒を出す。

日本では飲めず

どぶろくはコメが混じった状態で、液体を分離すれば日本酒になる。だが、その免許は出ない。今回の規制緩和で輸出に限れば参入できるが、稲川氏は疑問が拭えない。「日本の消費者が飲めないお酒を輸出するのは現実的なのだろうか」

19年12月に政府・与党がまとめた税制改正大綱は、輸出に限り最低製造量(年60キロリットル)の規制を適用しないことを盛り込んだ。日本酒輸出は19年に234億円と過去最高を更新している。海外市場を取り込むため、新規参入が認められた形だ。

規制緩和を主導した一人が、内閣官房の平田竹男参与だ。日本サッカー協会の専務理事を務めた経験がある。「Jリーグは地域間の競争がプレーの質を高め、ファン拡大につながった」。日本酒も新規参入があれば醸造所が競い合い、多様な製品ができてファンが広がると考えた。

政府が規制緩和の方針を業界に伝えたのは19年夏。大手は反発した。

70年以上認めず

「競争相手が増えるのは困る」。12月までに国税庁が非公開で開いた日本酒の戦略検討会では、大手酒造からあけすけな発言が出た。日本酒の出荷量は1973年のピークに比べて3割程度の年49万キロリットルに縮んだ。特に60代以上の経営者ほど抵抗が強かった。

日本酒製造の新規参入は少なくとも約70年、認められていない。参入にはM&A(合併・買収)や事業承継などの手法しかなく、17年に設立され人気の上川大雪酒造(北海道上川町)は三重県の蔵を承継して移転した。

参入が規制されてきたのは市場の縮小だけが理由ではない。業界団体の日本酒造組合中央会(東京・港)が新規参入に慎重な姿勢を示してきたこともある。

旧大蔵省のOBを受け入れている中央会は政治家や財務省との間合いが近い。今回も旧大蔵省出身の政治家がいる自民党税調の幹部らへ懸念を訴えて回った。国税庁の星野次彦長官には実質反対の意見書を出した。

大手を押し切るのは難しいと感じていた政府は当初から「まず輸出に限ることにした」(関係者)。国内市場で売らないことを条件に新規参入を認める奇策でなんとか形をつけた。

「ビール大手が日本酒に参入したら価格が崩れる」。中央会の篠原成行会長はこう語る。だが、酒造業界が反対一色だったわけではない。

海外でも人気がある「醸し人九平次」を醸造する萬乗醸造(名古屋市)の久野九平治社長は「新規参入を閉ざす業界は未来も閉ざされてしまう」と語る。醸造用アルコールを大量に混ぜる三倍増醸酒が06年に禁止になったのを機に、製法を磨き上げてブランド力を高めた蔵は少なくない。

一橋大学の都留康特任教授は「クラフトビールは醸造所が競い、市場が活気づいた」と話す。ビールの醸造所は過去30年で12倍に増えた。縮む国内市場で生き残るには、個性も欠かせない。

だが、特色のある地酒とは異なり大量生産が中心の大手酒造は、こうした意見とは距離を置く。むしろ業界の一部には、21年4月からの規制緩和の延期を働きかけようとする動きもある。

かつて銀行は旧大蔵省ともたれ合い、「護送船団方式」の中で競争力を落としていった。競争を制限して新規参入を遠ざけていても、展望は開けない。(小太刀久雄)

日本経済新聞 「真相深層」欄
(2020年2月8日)

この記事に出てくる日本酒ベンチャーの WAKAZE については、以下の写真が掲載されていました。

WAKAZEの稲川氏.jpg
WAKAZEは東京で「どぶろく」を造るが、日本酒は規制が壁に
日本経済新聞(2020年2月8日)

WAKAZEは東京の三軒茶屋に自前の醸造所を持っていますが、記事にあるようにそこでは "どぶろく" しか醸造できません。そういう規制がかかっているからです。ではどうやって日本酒を造るのかというと「委託醸造」です。つまりレシピを WAKAZE が作り、そのレシピでの醸造を既存の日本酒メーカーに委託する。日本酒醸造に新規参入するにはこの手法か、ないしは記事にあるように既存の日本酒メーカーの M&A しかないわけです。

そのWAKAZEは、フランスに自前の醸造所をつくり、フランスの米と水を使った "SAKE" の醸造に乗り出しています。

(プレスリリース)

日本酒スタートアップ 株式会社WAKAZE(本社:山形県鶴岡市 代表取締役CEO:稲川琢磨)は、フランス・パリ近郊フレンヌ市に酒蔵「Kura Grand Paris(クラ・グラン・パリ)」を設立し、11月15日(金)より現地の水・南仏カマルグ地方の米を用いて醸造を開始しました。今後欧州でのワインイベントにも醸造酒を出品し、ヨーロッパ内でのSAKE認知向上を目指します。

株式会社WAKAZE
2019年11月20日

WAKAZEは日本酒醸造への新規参入を、日本ではなくフランスで果たしたわけです。おそらく WAKAZE の稲川CEO は、日本の素材で日本で造った "和食に合う日本酒" をフランスに輸出することもしたいはずです。フランスで日本料理を出す店は、パリを中心にたくさんあるからです。しかしその日本酒は日本では売れない。「日本で売られていない "和食に合う日本酒" をフランスで売る意味があるのか」というのが、日経新聞に書かれている稲川CEOの疑問でしょう。

日本酒の大手メーカーは既得権益を守るために、天下り官僚を使って新規参入を阻止する。おそらく、そのことよって日本酒の出荷量はますます低下し、負のスパイラルに陥る ・・・・・・。記事にある萬乗醸造の社長が言うように、まさに新規参入を閉ざす業界は未来も閉ざされてしまうのですね。

この日本酒の話は、構造改革ができずに経済の停滞(ないしは凋落)を招いている日本の象徴だと思いました。

(2020.2.17)



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No.171 - 日本人向けの英語教育 [文化]

前回の No.170「赤ちゃんはRとLを聞き分ける」を書いていて強く思ったことがあります。

  赤ちゃんは誰でもRとLを聞き分ける能力があるが(6月齢~8月齢)、日本人の赤ちゃんは10月齢になるとその能力が低下する(もちろんアメリカ人の赤ちゃんは上昇する)

と聞くと、なるほど日本人にとって英語の習得は難しいはずと再認識しました。その "象徴的な例" だと感じたのです。と同時に、だからこそ「日本人向けの英語の教育法」が大切だとも思いました。今回はその話です。


日本人は英語が苦手


学校で英語が必修になっているにもかかわらず、日本人で英語が苦手な人は多いわけです。中学から高校と、少なくとも6年間は英語を学んだはずなのに簡単な会話すらできない、これは英語教育に問題があると、昔からよく言われています。

これはその通りですが、英会話ができないのは当然の帰結でしょう。基礎的な会話ができることを目指すなら、会話が必要なシチュエーションをいろいろとあげ(たとえば自己紹介)、そこでの会話に必要な文型と単語を覚えていくべきですが、そういう教育や教科書、特にテストはあまりない感じがします。また、ホームルームの一部を英語でやるとか、ないしは一部の英語以外の授業を英語でやるといったことも必要だと思いますが、それもない。そもそも学校英語は(一部の私立を除いて)基礎的な会話ができるようになることを目指していないのだと思います。

では、学校英語に意味がないのかというと、そうでもない。No.142-143「日本語による科学」で書いたように、ノーベル賞を受賞した物理学者の益川教授は「英語は "読む" の一芸しかできない」と言っています。益川先生はノーベル賞の受賞記念講演も日本語でやった。それでも世界のトップレベルの科学者です。そういう例もあるわけです。その「英文を読む」ための基礎は学校教育だったはずで、学校英語にも意味はあります。

しかし英語による会話について言うと「学校英語は基礎的な会話ができることを目指していない」というより以前に、もっと根本的なところで英語教育の不備があると思うのです。その一つの象徴的な例が、この文章の最初に書いた「RとLの聞き取り」だと思います。なぜそう思うのかを順に書きます。


RとLの聞き取り


日本語における「ら・り・る・れ・ろ」は、使用頻度が少なく、特に単語の先頭は少ない。従って「尻取り遊び」をするときには、相手が「ら・り・る・れ・ろ」で始まるように誘導するわけです。それが「尻取り遊び」に勝つ一つの作戦です。しかし英語のRとLは違います。英語は、

RとLを使った単語が多い。
しかも、基礎的な単語にRとLがよく出てくる。
さらに、RとLの相違で意味がガラッと変わることがある。

という特性がある言語です。ちょっと考えてみても、

raw - law
read - lead
right - light
river - liver(肝臓)
road - load
rock - lock
crowd - cloud
crown - clown(道化)
fright - flight
free - flea(蚤の市の"蚤")
fry - fly
pray - play
wrist - list
wrong - long

など、いろいろあります。rice(米)- lice(しらみ)という "古典的な" 例もありました。これらの中には日常語として多用される語があることが、例を見ても明らかです。

上に掲げた例の一つですが、日本人の中にはデッドロックを「暗礁」のことだと誤解している人がいるようです。デッドロックとは「にっちもさっちもいかない」状況を言いますが、日本語にも「暗礁に乗り上げる」という表現があって、その連想かもしれません。しかし誤解の一番の理由は、デッドロックを dead rock と誤解してしまうことでしょう。もちろん正しくは dead lock であり、錆び付いて開かない鍵のことです。rock と lock を耳で同一視してしまう、ここに誤解の理由があるのだと思います。flea market(蚤の市)を free market(自由市場?)と誤解している人も多数いるようです。

また、上にあげた例に関する有名な話ですが、日本人のキャビン・アテンダントが機内で、

We hope you have a nice fright.
(素敵な恐怖を味わってくださいますように)

とアナウンスした、というのがあります。これはもちろんflight(飛行、空の旅)の L の発音ができなかったわけですが、あまりに良くできた話なので、作られたジョークでしょう。ひょっとしたら、日本の航空会社がキャビン・アテンダントの英語教育用に作ったジョークかもしれません。もし新人キャビン・アテンダントがこのジョークを聞かされたとしたら強く印象に残るでしょうから。

もっと "古典的な" ジョークでは、日本人男性がアメリカ人女性に、

I rub you.
(君をこするよ)

と告白したというのがありました。L に加えて V の発音もできなかったというわけですが、これこそ完全なジョークでしょうね。しかし我々日本人としては、こういった「英米人が(ないしは英語に達者な日本人が)作ったと思われる "日本人ジョーク"」を気にすることはありません。外国語の発音が難しいのはどこにでもあるわけで、英語基準で考えると、たとえば韓国人(および中国人)には P と B をごっちゃにする人がいるし(この区別は日本人にとっては簡単です)、ドイツ人にとっては W と V の区別が難しいわけです。



R と L の話に戻ります。前回の No.170「赤ちゃんはRとLを聞き分ける」を思い出すと、R と L を聞き分ける能力は、生後1年以内にできているわけです。つまりそれだけ脳に "染み付いて" いる。従って学校教育でその聞き分け能力をつけるには、それなりのハードルがあるはずです。いま、

英語の R と L は別の音素だと認識する非英語文化
英語の R と L は同じ音素だと認識する非英語文化

があったとします。はたとえばヨーロッパの多くの国であり、はたとえば日本です。そうすると、こので英語の教育法は(少なくとも R と L の聞き取り・発音については)違ってしかるべきです。つまり日本人に対する英語教育としては

R と Lの発音の違いを示す。
R と Lの違いが英語では重要あること(基本語に多く、頻度が高いこと)を認識させる。
日本語の「ラ行」の発音との違いを示す。

の「3点セット」があるべきでしょう。これはのタイプの国ではあまり必要がないはずです。しかしのタイプの国では必須です。はたして日本の英語教育はそうなっているでしょうか。

音の違いが聞き取れないと、違った音として発音ができません。同じ音と認識しているものは、同じ音で発音してしまう。これは当然です。No.170 にあるように、人の言葉を覚える最初は「音の違いの認識」です。幼児を見ていると、言葉を発しない段階から親の言うことをかなり理解していることが分かります。言葉をしゃべりはじめた頃は、言いたいことがあるのに言えずにイラついたりする。言葉が出るようになっても、たとえば "か" と "さ" と "た" が全部 "た" になったりします。貝(かい)が鯛(たい)になったりする。その "たどたどしい" ところが可愛いわけですが、子どもは貝と鯛の違いを頭では完全に理解しています。発音が追いついていないけれど、脳は違う音だと認識していて、意味も分かっているのです。

言葉を覚えるのは、まず聞き取り(リスニング)が最初でしょう。その一つの象徴的な例が「R と Lの違い」なのです。


二重母音 ou


英語の発音の聞き取りの話のついでに付け加えると、日本人にとってハードルが高い英語の発音に、二重母音の ou があると思います。そもそも二重母音は日本語にはありません。"owe" という英単語は、"おう"(負う、追う)と同じではない。日本語の "おう" はあくまで "o" と "u" の「二つの母音」です。そこがまず難しいのですが、加えて、

  学校 がっこう

とは書くものの、その発音の実態は、

  ガッコー、ないしは、ガッコゥー

であり、ウとは発音されないか、発音されたとしてもごく弱いわけです。つまり日本人としては無意識に、「オウとオーを同一視する」傾向にあります。この日本語感覚でたとえば、

  go という英単語の発音を "gou" というように覚えていると、実際の発音は "ゴー" になってしまう

わけです。さらに英語の日本語カタカナ表記では

  ゴール(goal)×ゴウル
  ゴー(go)×ゴウ
  オー(oh)×オウ
  オープン(open)×オウプン

のように、長母音で書かれるのが普通です(ボウリングのような例もありますが)。つまり、あれやこれやで、

  二重母音 ou を、長母音 o: と同じように聞き取ってしまい、従って二重母音 ou を、長母音 o: と同じように発音する日本人が多い

わけです。しかし英語では二重母音 ou と長母音 o: で意味が違う単語が多々あります。

bowl - ball
boat - bought(buyの過去・過去分詞形)
cold - called(callの過去・過去分詞形)
coat - caught(catchの過去・過去分詞形)
coal - call
load - lord
loan - lawn
row - raw
so - saw(seeの過去形。または鋸)

などです。この発音の言い分けも、日本人としては意識して勉強しないと難しいでしょう。

野球で「コールド・ゲーム」というのがありますね。悪天候や日没、逆転できないような大差で、審判が「試合終了」を宣告するものです。大差による宣告は高校野球の予選などにあります。日本人で、これを暗黙に cold game と誤解している人がいるようです。凍結した(cold)試合だからそう呼ぶのだと・・・・・・。これはもちろん called game であり「宣告試合」のことです。cold(冷たい)は "コウルド" であり、called(呼ばれた・宣告された) は「コールド」です(アバウトですが)。この違いが日本人の耳には分かりにくいことが誤解の原因だと思います。ちょうどデッドロックを dead rock と誤解するようなものです。この二重母音の件でもまた、

日本人には二重母音が難しい
日本語の発音はこうだが、英語はこうだ

と明白に指摘した教育が大切だと思います。


英語の名詞の難しさ


発音を離れて英語の単語を考えてみると、英語の「名詞」の使い方は日本人にとって難しいと思います。ここでいう名詞は、英語にはあるが日本語にはない概念とか、またはその逆といった "高度な" 話ではありません。英語にも日本語にも(そしてどの言語にも)ある基本的は単語の話です。たとえば

  school   学校

という単語があったとき、「school=学校」と理解するのは全くかまわないと思います。細かいことを言うと使い方や意味内容の微細な違いがあると思うのですが、まず最初の学習としては全くかまわない。

しかし日本人にとって英語の名詞が難しいのは、その次の段階です。つまり、英語では一つの名詞が6種類に変化することで、このようなことは日本語にはありません。

まず、一つの単語に可算用法(Countable)と不可算用法(Uncountable)があります。Countableとしてしか使わない(またはUncountableとしてしか使わない)名詞は「可算名詞(不可算名詞)」というわけですが、基本的な単語にそういうのは少ないので、一つの単語の「可算用法・不可算用法」ということで統一します。

次に、可算用法には単数と複数の区別があり、一般には語形が変化します。

さらに、定冠詞(the)をつけない用法、つまり無冠詞か不定冠詞の a/an をつける「不定用法(Indefinite)」と、定冠詞をつける「限定用法(Definite)」があります。なお、可算・限定用法では the の代わりに所有格(my など)でもよいわけです。

chicken(鶏)という単語を例にとって「6つの変化」を図示すると次のようになるでしょう。

可算:鶏
Countable
形がある
数えられる
像を結べる
絵に描ける
非可算:鶏肉
Uncountable
不定形
数えられない
像を結べない
絵に描けない
不定
Indefinite
話者だけが
情報を認知
している
a chicken chickens chicken
限定
Definite
情報が共有
され特定で
きる
the chicken
 (my)
the chickens
 (my)
the chicken

単数
Single
複数
Plural

chicken という一つの単語をとってみたとき、実際に会話の中で使うとか文章に書くときには、これら6つの(形態としては5つの)どれかにしなければならないわけです。従って、たとえばレストランで「水を一杯ください」という時には、

× Give me water,
Give me a water.
(= Give me a cup of water)

なのですね。つまり water という単語を「可算・単数・不定」の用法で使うわけです。一つの例ですが。

もちろんすべての単語に6つの使い方があるわけではありません。可算用法でしか使わない名詞もあるし、その逆もあります。一方で chicken のような語もある。英語の名詞はこういう「枠組み」であることは確かです。

これを英文法に従って、名詞、冠詞(定冠詞・不定冠詞)、単数・複数、可算・不可算と順番に説明していくのは、英文法には沿っているかもしれなが、日本人向きではない。それは「枠組み」を既に理解している人向けの詳細説明です。日本語に慣れた親しんだ人には、「日本語では1つの単語を、英語では6つの形で使うという風に統一的に説明する」のが、英語の名詞を理解する道でしょう。

  蛇足になりますが、英語の名詞のこういった変化は、ヨーロッパの言語の中では非常に簡単な方ですね。他の言語では、名詞に男性名詞・女性名詞(さらには中性名詞)の区別があったり、名詞が格によって変化したり、それとともに冠詞も変化したりと、(日本人からすると)やけに複雑なことになっています。英語の "簡単さ" が、実質的な国際標準語になりえた一つの理由なのだと思います(もちろん一番の理由は19世紀から20世紀にかけての英国・米国の世界覇権)。しかしこの "簡単な英語" も、こと名詞については日本人からすると難しいのです。


英文法書は「翻訳書」


そもそも、日本の学校における英語教育の大きな問題点は、英文法書が「翻訳書」だということです。英米人が書いた英語の英文法書が「ネタ」になっている。説明のしかたや、説明の組立て、構造がそうなっています。しかし、英米人の学者が書いた英文法は英語の研究のためのものであって、日本人に英語を教える目的ではないわけです。また日本の英文学者や英語学者が日本人向けの英文法教科書を書くのも変です。英文学者や英語学者は、英語や英文学の研究をする人であって、日本人に英語を教育する人ではないからです。

ある言語の文法は、その言語のネイティブ・スピーカーが言葉を使う上では不要です。我々は現代日本語の文法を知らなくてもしゃべれるし、読み書きができます。我々が学校で現代日本語の文法をどれだけ習ったかというと、あまりないわけです。五段活用とか一段活用とか、それぐらいしか印象にない。我々が学校で日本語の文法をしつこく勉強したとしたら、それは古典文法(古文)です。そこでは「係り結び」などの文法を知らないと文の意味が理解できないわけです。しかし現代日本語については、動詞の活用を知らなくても日本語はしゃべれるし読み書きができます。もちろん正しい言葉づかいを習得するのは大切だし、学校でも教えます。家庭でもしつけられる。しかし体系的な「文法」の知識は必要ではない。

一方、日本にやってきた英米人(ないしは英語を母語とする人)に日本語を教えるとすると、文法(言葉の構成規則)は必須です。そして英米人に日本語を教える時の「日本語文法」は、日本の学校で日本人が学ぶ「日本語文法」とは違ったものになるはずです。

たとえば、No.140-141「自動詞と他動詞」に書いたように日本語では「自動詞と他動詞のペア」が動詞の基本的は構造になっています。「変える」と「変わる」のように・・・・・・。英語ではこういうことは(一部の単語を除いては)ありません。英語では一つの言葉(たとえば change)が、日本語では二つの形(変える・変わる)をとる。これは、名詞のところで書いた「日本語では一つの言葉が英語では6つの形をとる」のと正反対の状況です。この「自動詞と他動詞のペア」を言い分けないと「変な日本語」なります。

あそこの角を左に曲がると駅です。
× あそこの角を左に曲げると駅です。

というようにです。この例文では×の意味は通じますが・・・・・・。

英語が母語の人が日本語を学ぶとき、この「自動詞と他動詞のペア」は、意識して学習しないと難しいと思います。英語にはない言語システムだし、さらに自動詞と他動詞のペアは、一見したところ規則性が無いように見えるからです。No.140「自動詞と他動詞(1)」に、その規則性を図にしたものをあげました(下図)。

自動詞と他動詞.jpg
自動詞と他動詞のペアの構成規則」(ローマ字は連用形の語尾)

この図はよく見るとちょっと複雑です。その "複雑さ" は、

五段動詞=自動詞、一段動詞=他動詞、のペア
五段動詞=他動詞、一段動詞=自動詞、のペア

の両方があり、五段動詞が自動詞になるのか他動詞になるのかが、動詞の形だけでは不明なことです。No.140「自動詞と他動詞(1)」で書いたその規則は、

五段動詞が自動詞か他動詞かは、つぎの原則で決まる。

自動詞
内部からの成長や変化など、自然にそうなるのが普通の状態だと見なせる動詞

他動詞
外部に影響を与える動詞。または人為が普通の状態だとみなせる動詞。

ということでした。確かにその通りですが、「自然にそうなるのが普通の状態」なのか「人為的にそうなるのが普通の状態」なのか、それは文化によって相違するはずです。結局、この「自動詞と他動詞のペア」の使い分けは、そういう言語体系を持たない人にとっては、意識して念入りに習得する必要があるはずです。

日本語を母語とする人にとっては、こういったルールを全く知らなくても動詞の使い分けが自然とできます。もちろん No.146「お粥なら食べれる」で書いたように、現代日本語にも文法的に "揺れ動いている" 言葉があって「見れる」と「見られる」が混在しています。しかし「自動詞と他動詞のペア」については非常に安定していて、たとえば「そこの角を曲げると駅です」という人には会ったことがありません。

従って上図に掲げたような「文法」の知識は全く不要であり、「日本人向け」にこのような「文法」が語られることはまずないのです。しかし外国人が日本語を習得する時には必須になる。ここが重要なところです。



日本人が英語を習得しようとするときには、これと全く正反対の状況が出現します。その一つの例が、前に掲げた「日本語では一つである名詞が、英語では6つの形をとる」ということであり、また発音で言うと、RとLの聞き分け、言い分けなのです。英米人にとってはあたりまえだが、日本語には全くない状況なので、意識して習得しないと難しい。漫然と勉強していたのでは、いつまでたっても身に付かないのです。


日本人のための英語教育


No.143「日本語による科学(2)」に「日本語・英語の自動同時通訳が将来あたりまえになるだろう」と書きました。この「自動同時通訳」ついて補足すると、スペイン語と英語の自動同時通訳はすでに実現されているのですね。マイクロソフトが Skype でこのサービスを提供してます。2014年末に始まった「Skype Translator」です。使ったことがないので「使いものになる程度」は分からないのですが、とにかくそういうサービスを天下のマイクロソフトが提供している。これは「スペイン語と英語の関係は、現在の技術で自動同時通訳ができるほど近い関係にある」ことを示しています。

しかし「日本語と英語の自動同時通訳」は、現在の技術ではできません。言葉の構造が全く違うからです。これからも分かることは、スペイン語の話者が英語を習得するより、日本語の話者が英語を習得する方が格段に難しいということです。だからこそ、その障壁をできるだけ小さくする教育方法が大切です。

たとえ将来「日本語と英語の自動同時通訳」ができたとししても、外国の方と言葉で直接コミュニケーションをとることの重要性はなくなりません。日本人のための(=日本人に特化した)英語教育の大切さは続くでしょう。そのためには、まず中学・高校の英語教育から、

日本人にとって英語習得の難しさしさはどこにあるのかを検討し
その日本人の難しいところの(英語における)重要度を判断し
重要なところから、日本人が克服するための最適な教え方を確立する

ことが必要だと思います。




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No.147 - 超、気持ちいい [文化]

No.144 / 145 / 146 に続き、日本語の話題を取り上げます。No.144「全然OK」で、朝日新聞(2015年4月7日)に掲載された「"全然OK" は言葉の乱れ」との主旨の投書を取り上げましたが、再び朝日新聞の投書欄からです。


"めっちゃ" と "超(ちょう)"


2015年5月17日の朝日新聞の投書欄に、以下のような投書が掲載されました。


日本語と方言の豊かさ知って
東京都・無職・76歳(男性)

若者を中心に「めっちゃ」「超」という言葉が使われています。同じ意味の言葉は、ほかにもこんなにあります。

とても。非常に。大変。大層。甚だ。すこぶる。うんと。大いに。それはそれは。何とも。めっぽう。とびきり。べらぼうに。無上の。えも言われぬ。4月1日の本誌朝刊「折々のことば」にも「はてない」という、すてきな言葉がありました。日本語は何と豊かなことか。

方言も宝物です。昔聞いた、みそ会社のコマーシャルも忘れられません。亡くなった歌手の淡谷のり子さんが「たいすたたまげた!」と言っていました。みそ汁の香りまで連想させます。

中学生、高校生のみなさん、使う言葉の幅を広げ、方言も仲間に加えてみてはいかがですか。

朝日新聞(2015.5.17)

実はこの投書の横には別の投書があって「"半端じゃない" を "ぱない" と言う若者言葉は略しすぎで、言葉の乱れ」という主旨の、14歳の少女(福岡県・中学生)の投書が載っていました。言葉遣いに関心がある人は年齢を問わずに多いようで(私もそうですが)、たて続けに(定期的に)このような投書を採用する朝日の編集部にも、ずいぶん日本語に関心がある人がいるようです。新聞社ならあたりまえかもしれませんが。

東京都・76歳氏の投書に話を戻して、この投書に列挙されている16個の言葉が、話ことば(口頭語)として「めっちゃ」や「超」の替わりになるかどうかは大いに疑問です。この種の言葉は「役割語」としての性格を帯びていて、若者・老人・サラリーマン・男・女などの、社会における「役割」に応じて使う言葉に特色があることが多いからです。使う言葉によって「役割」を再確認し合っている。意味が同じだからといって代替できるとは限りません。

その、列挙されている「豊かな日本語」の筆頭は「とても」(= 肯定的に使う "とても")です。No.145「とても嬉しい」で書いたように、明治時代から(おそらく)昭和10年代まで、"とても" は「とても出来ない」というように否定語と組み合わせて使うべき、という言葉の規範意識がありました。実際、作家の丸谷まるや才一氏(1925。大正14年生まれ)は "とても" を「なるべく否定のときに使うようにしている」言っています。評論家の山崎正和氏(昭和9年生まれ)の祖母は、山崎氏が子供のころ「とても嬉しい」というような言い方をすると厳しく叱ったといいます(以上、No.145)。

東京都・76歳氏が小学校から10歳台を過ごしたのは昭和20年代から昭和30年代はじめ(1945-1958年あたり)なので、この頃にはすでに肯定的に使う "とても" は一般的だったということでしょう。もし内心、少しでも違和感があるのなら「豊かな日本語」の筆頭とはしないはずです。肯定的に使う "とても" は「使ってはいけない言葉」から「豊かな日本語」へと大変身したわけです。



それはさておき、この投書は「言葉遣いの乱れを指摘する投書の一般的なパターン」ではないことが特徴です。つまり No.144「全然OK」で指摘したように、一般的なパターンとは、

最近(ないしは、最近の若者に)「・・・・・・」という言い方が目立つ。
これは言葉遣いの乱れである。
正しい言葉を使おう

という論旨展開を言っています。一見、論理的なようなのですが、No.144「全然OK」でみたように の前提が違っていることがあり、たとえば「全然いい」のような「肯定的に使う全然」は、最近言われ出したどころか明治時代からあったりするのでした。

さきほど触れた福岡県・14歳嬢の投書はこの「一般的なパターン」に沿っているのですが、東京都・76歳氏の投書は違います。その特徴は2点あって、

「めっちゃ」と「超」を話題にしているが、それを「言葉遣いの乱れ」とか「日本語の乱れ」だとはしていない。ほかにもっと言葉がありますよ、と若者をさとしている。

「方言は宝物」だと主張している。方言にも( "めっちゃ" や "超" に相当する)多様な言葉があると言っている。

の二点です。②の「方言は宝物」という発言に関してですが、日本近代史を振り返ると「方言撲滅運動」や「方言矯正運動」がいろいろありました。沖縄の「方言札」が有名です。学校で方言を言うと首に札をぶらさげるという・・・・・・・。関東地方でも「ねさよ運動」がありました。そういう歴史からすると、方言は貴重という意識は日本の文化の成熟を感じます。

しかし、ここで問題にしたのは です。 は「若者の単調な言葉遣い」、きつく言うと「若者のボキャブラリーの貧困」を指摘しているのですが、想像するに東京都・76歳氏は「めっちゃ・超」という言葉そのものに違和感を感じるのだろうと思います。それは「はてない」という、まず普通の日本人は話し言葉で使わないだろうし、文章語としても(プロの文筆家は別にして)まず使わない言葉を引き合いに出していることに現れていると思います。「めっちゃ・超」とは全くの対極にある言葉を持ち出すことで「めっちゃ・超」に対する違和感をにじませている。

しかし思うのですが、「めっちゃ」「超」は日本語の伝統に沿った、大変に "まともな" 言葉だと思います。そしてこういう言葉の存在こそ「日本語の豊かさ」を実証していると思うのです。その理由を以下に書きます。


めっちゃ、楽しい


"めっちゃ" ないしは "めちゃ" が滅茶苦茶(目茶苦茶、メチャクチャ)から来ているとは誰しも認めると思います。

  滅茶苦茶(めちゃくちゃ)、楽しい

という使い方がオリジナルでしょう。この言葉は日本語大辞典(小学館)では、次のように解説されています。


めちゃ-くちゃ 【滅茶苦茶・目茶苦茶】

「くちゃ」は語調を整えるために添えたもの。「滅茶苦茶」「目茶苦茶」はあて字)

①全く筋道のたたないこと。非常に度はずれていること。また、そのさま。めちゃめちゃ。めちゃ。むちゃくちゃ。(田山花袋、夏目漱石からの引用 - 省略)

②どうにもならないほどこわれること。まったく悪い状態になること。また、そのさま。めちゃめちゃ。めちゃ。むちゃくちゃ。(有島武郎などからの引用 - 省略)

日本語大辞典 第10巻
(小学館 1976)

「くちゃ」は語調を整えるために添えたもの、とありますが、添えられる前の言葉である「滅茶・目茶」の解説もあります。


めちゃ 【滅茶・目茶】

「むちゃ」の変化したものか。「滅茶」「目茶」はあて字)

①「めちゃくちゃ(滅茶苦茶)①」に同じ。

②「めちゃくちゃ(滅茶苦茶)②」に同じ。(樋口一葉などからの引用 - 省略)

日本語大辞典 第10巻
(小学館 1976)

この語義解説をまとめると「めちゃ(滅茶)」も「めちゃくちゃ(滅茶苦茶)」も同じ意味であり、明治時代からある言葉であって、書き言葉としては著名作家が使っているということになります。また「めちゃ」の語源と推測されている「むちゃ」は江戸時代からある言葉です(日本語大辞典)。むちゃ(無茶)→ めちゃ(滅茶)→ めちゃくちゃ(滅茶苦茶)という、言葉の形成過程が推測できます。

最新の『広辞苑 第6版』(2008)には、もちろん「めちゃ」も「めちゃくちゃ」もあります。ただし「程度が非常に大きいさま」という語義は「めちゃくちゃ」にしかありません。従って「めちゃ、楽しい」は "俗な言い方" ということになりそうです(あくまで "広辞苑基準" ですが)。

言葉の使われ方には栄枯盛衰があり、ある言葉がメジャーになったりマイナーになったりします。推測ですが、おそらく口頭語としての「めちゃ」は明治時代以来、綿々と使われていていて、それが現代で「目立つ」ようになった。特に「程度が非常に大きいさま」にも使われるようになった。だから「目立たない」時代に幼少期を過ごした人は違和感を感じる。そういうことではないでしょうか。

めちゃ(滅茶)のような "由緒ある" 言葉を、現代の若者が「めっちゃ、楽しい」と、副詞としてリユースするのは全く問題がないと思います。問題がないどころか、日本語を豊かにする "さきがけ" となっていると思います。


超 (ちょう)


「滅茶(目茶、めちゃ、めっちゃ)」と違って、副詞としての「超(ちょう)」は昔からある言い方ではありません。Wikipediaの記事によると、1950年代から使われ出して、1968年の東映映画には実例があるということなので、まだ60年ほどの歴史しかありません。

近年(と言っても、10年以上前ですが)「超(ちょう)」を有名にしたのは、水泳の北島康介選手です。2004年のアテネオリンピックで北島選手は100メートル平泳ぎと200メートル平泳ぎで金メダルをとりましたが、その100メートル平泳ぎで優勝した直後の発言です。


北島 悲願の金 「ちょー気持ちいい」

<アテネ五輪競泳:男子100メートル平泳ぎ>◇15日

勝った。泣いた。叫んだ。北島が悲願の金メダルを獲得した。競泳男子100メートル平泳ぎで、日本のエース北島康介(21=日体大)が1分0秒08のタイムで優勝。世界記録保持者ブレンダン・ハンセン(23=米国)を退け、表彰台の中央に立った。ケガや体調不良に苦しみ、大会直前には世界記録も更新されたが、大舞台で逆転。競泳では92年バルセロナ大会の岩崎恭子以来、男子では88年ソウル大会の鈴木大地以来の栄冠を日本にもたらした。

最後はやはりハンセンとの争いだった。猛追してくるライバルから、必死に逃げる。持ち前の大きな泳ぎは崩れない。最後のタッチは流れたものの、0秒17差勝った。金メダルを確認すると、水面を右こぶしで思い切り叩く。激しい水しぶきの中に最高の笑顔。体を震わせて、何度も雄叫びを上げる。日の丸が激しく揺れるスタンドに手を挙げ、ど派手なガッツポーズ。追い求めてきた夢をかなえ、体中から喜びがあふれた。

「ちょー、気持ちいい。やる前からハンセンとの勝負と思っていた。気持ちで絶対に勝つと思い、スタート台に立った。どこで勝ったかは覚えていない」と一気に話した。「(金メダルは)鳥肌ものですね。気持ちいい~」。緊張感から完全に開放されると、ひと目も気にせずに号泣した。感動的な男泣きだった。

2004/8/16/09:35
nikkansports.com(紙面から)

北島選手・アテネ五輪.jpg
(nikkansports.com より)
試合後のインタビューは繰り返しテレビで放映されたので、多数の(大多数の)の日本人が見たはずです。「ちょー、気持ちいい」は、2004年の「新語・流行語大賞」の「年間大賞」になりました。「超(ちょう)」が完全に "市民権" を得たということでしょう。北島選手のこの発言は、オリンピックでの金メダルというスポーツ選手の最高峰に立った喜びを爆発させた発言として、多くの日本人が感動したのではと思います。中には(おそらく東京都・76歳氏のように)違和感を感じた人がいたかもしれないけれど。


「超」の使い方の拡大


「超」の基本の使い方は、名詞の接頭語(接頭辞)として既存の名詞の前に付加し「その名詞が表す通常の概念を越えた存在」であることを示す新たな名詞を作る、というものです。これには、

  超特急、超大国、超高層(ビル)、超自然(現象)、超人、超能力、超新星、超音波、超伝導

など多数あります。英語の super- や ultra- の訳としても使われます。superconductivity の訳は超伝導、のたぐいです。上にリストした単語は明らかに「一語の名詞」として発音されています。

しかし「超」は既存の言葉だけではなく、新たな言葉を作り出す接頭語としても使われてきました。1980年代ですが、小説家、シドニー・シェルダンの「ゲームの達人」(1987)を翻訳出版したアカデミー出版は、この日本語訳を「超訳」と称しました。これは「日本語としての読みやすさ・分かりやすさを最優先させるため、徹底した意訳を行い、省略や構成の組み替えも辞さない訳」だそうです。この翻訳方針が妥当かどうかは別にして、「超」を使って新語(=広告のためのキャッチ・コピー)と作った例です。

また1990年代ですが、一橋大学の野口悠紀雄教授(当時)は『「超」整理法』(1993)を出版しました。これは内容による分類を全く捨て去り、書類や文書にアクセスした日時によって時系列に整理するという手法です。題名としては『新整理法』でもいいはずですが、「従来の整理の概念を根本から変える」という意味を込めて「超」をつけたのだと思います。この本の題名は「超」を括弧にいれることで、整理を修飾する独立した形容詞のイメージにしています。

もちろん野口教授は言葉遣いの怪しい若者ではなく、実績のあるれっきとした経済学者です。これは、社会的地位が高い(と考えられている)人物が「超」を独立句として使った(使わされた?) "画期的な" 本だと思います。

このような伝統からか、現在においても『超訳 日本国憲法』(池上彰。新潮新書。2015)や『超・知的生産法』(角川新書。2015)などがあり、「超」は出版界に定着したようです。



ここまでの「超」は「名詞の前につける語」でした。しかし「超」が「程度を表す名詞」の前つくと微妙になってきます。「超」が形容詞(形容動詞)を修飾する副詞的になってくるのです。

「超満員」という言葉があります。これは一見「超特急」と同じようですが、少し違います。実際の使われ方は、

新幹線の自由席は「超満員」だった。
新幹線の自由席は「超」「満員」だった。

の2種あります。 は「超満員」という一語であり、アクセントを「超」だけにつけます。「超音波」「超伝導」と同じ発音です。一方 は「超」でいったん語を区切る言い方です(発音のピッチを下げ、満で再び上げる)。おそらくNHKのアナウンサーは必ず でしょうが、普通の会話では もよく聞きます。そうだとすると が許されるという前提で、

新幹線の自由席は「超」混んでいた。

と言いたくなるのは不思議ではありません。

さらに「超一流」というような言葉になると、もっと微妙になります。これは「超満員」とはまた違って、

彼のシェフとしての腕前は「超」一流だ。

というように「超」を独立語として発音するのが普通です。「超」で発音のピッチをいったん下げ、「一流」でピッチを上げる。ということは、

彼が出すフレンチは「超」旨い。

という言い方があってもおかしくはない。

さらに現代社会では、家電量販店のチラシ、ディスカウント・ストアやスーパーの店頭のPOP広告、CMのキャッチ・コピー、ネットショッピングのサイトなどに「超」のつく言葉が溢れています。超安値、超新鮮、超快適、超人気、超レア、などです。これらの言葉を日常会話で使うとすると、

このテレビは超安値で買った
このテレビは「超」安かった

となります。

の言い方と、北島選手の「超、気持ちいい」はごく近いわけです。北島選手の発言は、確かに日本語の昔からある用法ではないかも知れないけれど(高々、使われ出してから60年です)、言葉の使用法の拡大としては、自然な流れの中にあると言えるでしょう。


「極」「即」という前例


「超、気持ちいい」という言い方は、「漢字一字を音読みにして副詞として使う」ものです。実は、日本語にはこの前例があります。今しがた使った「極(ごく)、近い」という表現です。

「極」は熟語として、極上、極悪、極悪人、極意、極秘、極道、極彩色、極薄、などと使います。また名詞に付加する接頭語として、専門用語になりますが「極紫外線」というようにも使う。しかし「極(ごく)」は、

極、親しい間柄
極、まれに起こる
極、わずかしかない

というように、独立した副詞としても使うのですね。

さらに「即」という前例もあります。熟語としは、即断、即決、即興、即答、即席、などですが、

即、電話して!

のようにも使います。



まとめると「超、気持ちいい」という言い方は、超特急 → 超満員 → 超一流 → 超安い → 超気持ちいい、という使用法の拡大の流れの中にあり、かつ「極」「即」という前例にも沿っています。これは「とても嬉しい」と同じように、日本語の語彙をより豊かにする変化だと思います。


強調表現の宿命


北島康介選手のインタビューに戻ります。北島選手はなぜ「ちょー」と言ったかを推測すると、オリンピックでの金メダルという、スポーツ選手としての「究極の目標」を達成し、しかも「宿敵」のハンセン選手に僅差で勝ったという状況の中で、他に適当な言葉が見つからないということではないでしょうか。もし北島選手が、

とても気持ちいい
大変、嬉しい

とか言うと、おそらくテレビを見ている人は「おやっ。喜びも "ほどほど" なのか」と暗黙に受け取ってしまうでしょう。つまり、このようなシチュエーションでの「普通の言葉」や「正しい日本語」は、かえってそぐわない。

  その意味で、水泳つながりですが、1992年のバルセロナ・オリンピックの女子200メートル平泳ぎで金メダルをとった岩崎恭子さん(当時14歳になったばかり)の「今まで生きてきた中で一番幸せです」という発言は名言と言えるでしょう。「今まで生きてきた中で」という表現は、黒柳徹子さんが言うのならともかく、14歳の女の子の発言としては聞く方がドキッとします。まるで不治の病と戦う少女が病院のベッドで言うような言葉だからです。このギャップ感が名言たるゆえんです。ただし、こういう言い方は誰でも咄嗟に出るわけではないでしょう。

本題に戻って、「普通の言葉はそぐわない」というのは、程度を強調する "強調表現" の宿命を象徴しているように思えます。あまりに一般化してしまった強調表現は、強調の度合いが少ないように感じられてしまうわけです。振り返ってみると、No.144「全然OK」の "全然"も No.145「とても嬉しい」の "とても" も、否定とペアで使うのが(一時期)メジャーだった言葉を、強調のための副詞として使うものでした。

副詞以外の強調表現もそうです。冒頭で触れた「半端じゃない」という言い方も、わざわざ「半端」を持ち出して「ない」で否定している。あえて「ない」を使う方がより強調を表すように人は感じるからだと思います。言語学・文化人類学者の西江雅之氏の著書に、次のような一節があります。


「ものすごい」などというのも、かつては恐ろしいものに対してしか使わなかったのが、今やまったく普通に「ものすごい美人を見た」と言いますよね。昔だったら、それではもう怪獣かお化けみたいになってしまいますけど。形容詞などにはそういう例が多いんです。

西江雅之
『「ことば」の課外授業』
(洋泉社。2003)

青空文庫の用例で「ものすごい(物凄い)」を検索すると、夏目漱石、正岡子規、寺田寅彦、島崎藤村、宮沢賢治、梶井基次郎、太宰治、などの著名作家の文章が続々と出てきますが、確かに「恐ろしいもの」にしか使っていませんね。青空文庫は著作権が切れた(死後、50年以上たった)作家の作品しかありません。「ものすごい美人」という表現は、この50年の間に広まったことは間違いないでしょう。そういう、日本語の語彙変化の中で「めっちゃ」も「超」も考えるべきだと思います。



少々余談になりますが、思い出したので書いておきます。従来「・・・・・・ すぎ(過ぎ)」「・・・・・・ すぎだ」「・・・・・・ すぎる ・・・・・・」という表現は、形容詞・形容動詞の語幹について「程度が許容の範囲を越えている」という意味に使われてきました。「このTシャツは、私には大きすぎます」というようにです。

ところが、2000年代からこの表現は「程度が通常の想定を上回っていて好ましい」という意味にも使われ出しました。これを広めたのが、2007年に八戸市の市議会議員に当選した藤川優里議員を「美人すぎる市議」と形容したメディアの報道です。以降、「可愛いすぎ」「面白すぎ」「楽しすぎ」「うれしすぎ」というような使い方が続々とされるようになった。こういった使い方は「超」と似ています。「超可愛い」「超面白い」「超楽しい」「超うれしい」とも言えるからです。

今後も強調表現の "進化" は続くのでしょう。


「超」に続くのは?


"強調表現の宿命" を考えると、「超」が完全に一般化したあかつきには、別の漢字一字の音読み(字音)で「程度が強い」ことを表す言葉が出現すると予想しています。

最近マスコミで、中国人観光客を中心とした「爆買い」が話題になっていますが、この「爆」はどうでしょうか。

もともと「爆」は、爆弾、爆発、爆撃、空爆、など、何かが破裂するイメージです。ところが「爆笑」という言葉があります。破裂のイメージを大笑いに拡張したものだと考えられます。ここまではよいのですが「爆睡」となると怪しくなってくる。これは長時間、死んだように眠ることなので、破裂のイメージほとんどなく「睡」を強調する語としての使い方です。これが「爆買い」となると、短時間にお金をつぎ込んでたくさん買う意味であり、「爆」には強調の意味しかないことが明白です。もともとの言葉のイメージが完全に変化しています。

しかし「爆」は、現段階では形容詞的な言葉にはつながらないと思います(爆安?)。独立した副詞とするには、まだ不十分でしょう。



やはり「超」に続く最有力候補は「激」ではないかと思います。この語は、激化、激務、激減、激増、激震、激賞、激痛、激怒、激動、激突、激変、激流、激励、激論、などと使い、また二字熟語の後ろとしては、過激、刺激、感激、急激、などで使われます。

ところが「激」は新語を作る接頭語としても使われるのですね。その代表は、写真家・篠山紀信氏の、女性をモデルにした写真集につけられた「激写」(1975~)です(その最初は、山口百恵さんのグラビア写真)。ちなみに「激写」は小学館が商標登録しているそうです。つまり「激写」と銘打った写真集は小学館しか出せません。

この「激写」が引き金になったのだと思いますが、「激走」「激太り」「激せ」などと言われ出しました。さらにここが重要ですが、形容詞的な語とも結合して、激安、激から、激うま、激、激レア、激ワル、激カワ、などと使われます。このうち「激辛」は1986年の新語・流行語大賞の新語部門で銀賞をとった言葉で、つまり1986年から広まった言葉です。しか今や「激辛」はトウガラシ、スパイスなどの香辛料の刺激味を表現する言葉として完全に定着してしまった感があります。そういう前提で次の3つの文、

あの店の麻婆豆腐は激辛だ。
あの店の麻婆豆腐は「激」辛い。
あの店の麻婆豆腐は「激」うまい。

を考えてみると、 が許されるなら があってもよい感じがするし、それなら将来 が出てくるように思えるのです。



いずれ死語になってしまうような新語・流行語・省略語は別にして、"正しい" とされる言葉も徐々に変化し、使い方が拡大していきます。あれっ、と思うような言葉でも、日本語の変化の大きな流れとして理解できることが多い。また前回の No.146「お粥なら食べれる」で書いたように、言葉の基本的な部分はそう易々やすやすとは(100年程度では)変わらないものです。言葉遣いの問題は、少し長期の視野から見て議論するべきだと思います。



 補記1:シュールレアリスム 

ゴルコンダ.jpg
ルネ・マグリット
「コルコンダ」
(美術展の公式サイトより)
2015年3月25日から6月29日まで、東京・六本木の国立新美術館でルネ・マグリット展が開催されています(その後、京都市美術館に巡回)。この展覧会を見ると、マグリットの作風はさまざまに変化してきたことが分かるのですが、有名なのは、いわゆる「シュールレアリスム」の作品群でしょう。

朝日新聞・2015年6月14日の紙面で「はじめてのシュールレアリスム」という見出しで、フランスの詩人、アンドレ・ブルトンが1920年代のパリで開始したシュールレアリスムの文化運動が解説されていました。マグリットの「ゴルコンダ」が、シュールレアリスムの代表的な作品として紹介されています。その記事の最後で、日本語との関連があったので引用します。


シュールレアリスムの日本語訳は「超現実主義」。仏文学者の巌谷いわや國士くにおさんは「超現実の『超』は『超かわいい』という時に近い」という。フランス語で言う「シュルレアリスム」の「シュル」は「強度の」という意味。「超現実」は「真の現実」なのだ。

朝日新聞(2015年6月14日)

確かに仏和辞典をみると、接頭語としてのシュル(sur)の意味は「・・・の上に、・・・を超えて、極度の、過度の」とあります。シュールレアリスム運動が始まったのは、日本で言うと昭和の時代の初め頃です。従って「超現実主義」という日本語訳は "現実ではない" というニュアンスになってしまい、フランス語本来の意味をとらえていないものだった。しかし「超かわいい」という言い方が日本でも1950年代から使われ出して、現代ではかなりメジャーになった。となると、意外にも「超現実主義」という日本語訳が本来のフランス語の意味とマッチするようになった・・・・・・。

シュールレアリスムは、日本の若者言葉風に「ちょー現実主義」と受けとるべきなのですね。それが文化・芸術運動としての本来の意味です。フランス語の「シュル」と日本語の「超」の意外な関係が理解できました。



 補記2:鬼 

本文中で、「超」と同じように「漢字1字を音読みにして副詞として使う」言い方の次の候補は「激」ではないかと予想しました。しかし「超」と類似の新顔が現れて、すでに使われています。それが「鬼・おに・オニ」です。これは漢字1字の音読みではなく、訓読み=古来の日本語です。しかし使われ出した経緯が「超」と極めて似ています。

「鬼」はもともと名詞の接頭辞として「無慈悲」「冷酷」「恐ろしい」「巨大」「異形」「勇猛」「強い」などの意味を付加するものでした。「鬼将軍・鬼軍曹」「鬼監督・鬼コーチ」「鬼検事」「鬼編集長」「鬼上司」などです。栗の外皮を「鬼皮」と言いますが、強いという意味です。

さらに「鬼」は動植物・生物の名前にも長らく使われてきました。同類と思われている生物同士の比較において、大きいとされているものは「大・おお・オオ」を接頭辞として使いますが、それをさらに凌駕する大型種は「鬼・おに・オニ」を冠して呼びます。オニグモ(鬼蜘蛛)、オニユリ(鬼百合)、オニバス(鬼蓮)といった例です。

しかしこの数年、さらに進んで、鬼を副詞として、ないしは形容詞・形容動詞の接頭辞として使って意味を強める言い方が若者の間に出てきました。オニの部分をあえて漢字書くと、

 ・鬼かわいい
 ・鬼きれい
 ・鬼うまい(鬼おいしい)
 ・鬼むかつく

といった言い方です。これは「超」の使い方とそっくりです。この使い方が定着するのか、ないしは今後消えてしまうのかは分かりません。ただ、強調表現の宿命として常に新しい表現が求められる、その格好の実例だと思います。

(2020.6.12)

2021年に創業されたネットスーパー、OniGO(オニゴー)があります。この会社のキャッチは、

鬼速で届く宅配スーパー

です。最速 10分で届くというのがうたい文句です。もちろん、社名の Oni は「鬼」なのでしょう。

(2024.4.6)


 補記3:逆輸出 

2022年6月11日(土)の 日本経済新聞「NIKKEI プラス 1」に漢字の話題が載っていました。

漢字、日本で使うのは 4% だけ
本当は 6万字 ・・・ 広くて深い世界

との見出しのコラムです。この中では、

・ 中国の包括的な漢字の字典「漢語大字典」に載っている漢字は約6万。しかし、清朝時代の役人でも使う漢字は約2000と言われていて、ほとんどは死語ならぬ「死字」である。

・ 日本の常用漢字表(2010年改訂)に載っている漢字は2136。日常的に使われる漢字の96~97%をカバーしている(文化庁 国語課)。

・ 中国では、約1万3000の簡体字のうち、小学校で教える常用漢字は約2500、中学校で習う準常用漢字は約1000、合計3500字で普段の生活や仕事の大体はカバーできる。

・ 台湾では、常用字は4808で、日常生活の大半をカバーできる。

などの説明があり、記事の最後に次のようにありました。


翻って日本。漢字の流入によって万葉仮名ができ、ひらがなやカタカナに発展していった。江戸末期には教育の普及のため廃止論も唱えられたが、今なお漢字は日本の文化、生活に欠かせない。最近は「超おいしい」など「とてつもなく」という意味を持つ日本の俗語「超」が中国語にも「逆輸出」され、「超好(超いい)」などと日常用語化しているという。

日本経済新聞「NIKKEI プラス 1」
2022年6月11日

「超」という漢字の使い方の "威力" を再認識した記事でした。

(2022.6.12)



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No.146 - お粥なら食べれる [文化]

前回の No.145「とても嬉しい」で、丸谷才一・山崎正和の両氏の対談本『日本語の21世紀のために』から「とても」と「全然」の使い方を取り上げました。この本では "有名な"「見れる」「来れる」という言葉遣いについても話題にしています。「とても」「全然」は個々の単語の問題ですが、「見れる」「来れる」に代表される、いわゆる "ラ抜き言葉" は、動詞の可能形をどう表現するかという日本語の根幹に関わっているので重要です。

日本語の21世紀のために.jpg
丸谷才一・山崎正和
「日本語の21世紀のために」
(文春新書)
「・・・・・・ することが出来る」という "可能" の意味で、

来られる
見られる
食べられる

と言わずに、

来れる
見れる
食べれる

とするのが、俗に言う "ラ抜き言葉" です。文法用語で言うと「来る」はカ行変格活用動詞、「見る」は上一段活用動詞、「食べる」は下一段活用動詞ということになります。 "ラ抜き言葉" が日本語の乱れか、そうでないのか、今でもまだ議論があると思います。これについて丸谷才一氏は次のように語っています。


丸谷才一
僕は「来れる」は使いませんね。「来られる」「来られない」でやっています。「見れる」も使わない。ただしこれは「見られる」とは言わずに「見ることができる」「──できない」と言っている気がします。

僕はしかし、自分では使わないけれども、「見れる」「来れる」を使うからといって、それを咎めたり、非難したりする気はないんですよ。いや、昔は非難したかな ?

丸谷才一・山崎正和
『日本語の21世紀のために』
(文春新書 2002)

自分では使わないが、使っている人を非難はしない、いや昔は非難したかもれない、とのあたりに、言葉の規範意識の変化が現れていると思います。言葉を職業にしている小説家でさえそうなのだから、普通の人の規範意識はもっと変化すると考えられます。

丸谷才一氏は、いわゆる "ラ抜き言葉" と文学の関係についても言及しています。それは川端康成が自分の作品に「見れる」を使っていることで、『日本国語大辞典』(小学館)にちゃんと例文が載っているという指摘です。さらに川端康成と "ラ抜き言葉" について、丸谷氏自身のおもしろい経験談が披露されています(原文に段落はありません)。


丸谷才一
伊藤整さんが、あるとき「川端さんはひどいですよ」と、僕に言うんです。何がひどいのかと思ったら、サイデンステッカーさんが伊藤整さんに向かって、「伊藤さん、あなたの日本語はおかしいですよ」と言ったんですって。あの人らしいよね。「あなたの作品の中に『見れる』とありました。あれは北海道の言葉です」。

そのとき横に川端康成がいたんだけど、黙っていて、ちっとも伊藤さんをかばってくれない。「ところが川端さんは『見れる』を使ってるんです」と伊藤さんは言ったんです。で、「川端さんというのはそういう人ですよ」(笑)。

山崎正和
なんだかありそうな感じがしますね。

丸谷才一・山崎正和
『日本語の21世紀のために』

サイデンステッカーは「見れる」を誤用(方言)だと確信しているし、伊藤整と川端康成は「見れる」を自分の作品に使っていて、そのことを自覚しているという構図です。黙っていた川端康成を "弁護" するなら、アメリカ人に日本語の誤用を指摘された文学者をかばうのは気が進まないでしょうね。自分も文学者であるだけに。


川端康成『二十歳』


『日本国語大辞典』があげている「見れる」の例文は、川端康成の短編小説『二十歳』からのものです。この小説は角川文庫の短編集『伊豆の踊子』に収録されています。

伊豆の踊子.jpg
川端康成「伊豆の踊子」
(角川文庫)
この文庫は短編小説集であり「二十歳」が収められている。
『二十歳』は、静岡県清水の歯医者の息子である "銀作" の20年という短い生涯の話です。銀作の母は "お霜" といい、清水の博徒の娘です。お霜は、銀作の弟の芳二が赤ん坊のころに離婚し(離縁され)、銀作の父親は清水の芸妓の "梅子" を後妻として迎え入れます。

その後お霜は測量技師と結婚し、夫とともに「出稼ぎ」に台湾に渡って、宿屋兼女郎部屋を経営しました。お霜は一時帰国したときに清水に立ち寄り、銀作を自分の元へと連れて帰ります。お霜の父親の里である大阪に立ち寄って売春婦を買い出し、船で台湾へと向かいました。

しかしお霜と銀作の台湾での生活は半年で幕を閉じます。結核にかかったお霜は先が長くないことを悟り、銀作に清水へ帰るように、また自分や自分の父と違ってまっとうな道を選ぶようにと強く遺言したからでした。

清水に戻った銀作はほどなく、帰国したお霜が危篤だという電報を大阪から受け取ります。銀作が面会に行ったそのすぐ後で、お霜は亡くなります。その次の文章です。


産みの母の死は銀作に、継母の家を出る決心をかためさせた。実の母の遺言は強く響き、台湾で激しく働くということを見て来たので、商売で身を立てようと、大胆な野心に燃えてもいたが、彼も出稼人でかせぎにんの根性に染まって帰ったのであった。お霜と暮らした半年は、梅子を継母と実にはっきり感じさせた。産みの母の死を悲しむことを知らず、梅子を継母ということもしかとは分らぬ、弟の芳二をふびんと思えるほどに、銀作は一家を離れて見れるようになっていた。船の中で売られていく女達と継母の話をし、それを繰り返して台湾へ着く頃には、梅子が鬼のような女にされていたことなどを思いだしても、今度はもう弟にうちあけなかった。

川端康成『二十歳』(1933 昭和8)
『伊豆の踊子』(角川文庫。1951初版)所載。

ここまでで『二十歳』という小説の約3分の1です。この小説は主人公の短いが波瀾万丈の生涯を短編の中に詰め込んでいて、会話文は一切ありません。引用部分の後も次から次へと色々なことが起こり、行く末が全く見通せない。いわゆる「ジェットコースター小説」の "はしり" のような作品です。しかし、最後の最後でテーマが浮かび上がるという仕掛けになっています。

余談ですが、母親だけでなく主人公の銀作も結核を発症するという設定です。銀作の場合は回復しますが、当時の結核の「国民病」ぶりがうかがえます(No.121「結核はなぜ大流行したのか」参照)。



話は「見れる」という日本語の使い方についてでした。引用した『二十歳』における川端康成の「見れる」の使い方は「見ることができる」という意味に間違いはないので、いわゆる "ラ抜き言葉" です。この部分が(サイデンステッカー氏に批判されつつ)『日本国語大辞典』に取り上げられてしまったのは、大作家であることの有名税のようなものかも知れません。

ところで、いわゆる "ラ抜き言葉" について非常に的確に解説しているのが、井上史雄ふみお・東京外国語大学教授(当時)の『日本語ウォッチング』(岩波新書 1998)です。この本に沿って "ラ抜き言葉" の歴史をまとめてみたいと思います。


「可能動詞」の歴史


日本語ウォッチング.jpg
井上史雄
「日本語ウォッチング」
(岩波新書)
日本語では動詞の「可能」を表現するのに「れる・られる」(古文では「る・らる」)を使うのが奈良時代以来の伝統です。その「れる・られる」は学校で習ったように、自発・受け身・尊敬・可能の4つの意味を持っています。しかし「可能」については「れる・られる」以外に、専用の形である「可能動詞」が発達してきました。

まず室町時代以降、「読む」などの五段活用動詞(以下、五段動詞。古文では四段活用)の一部で「読める」という言い方が出始めました。この動きは江戸時代に他の五段動詞、「走れる」「書ける」「動ける」などに広がり、明治時代を経て大正時代までには、多くの五段動詞において可能動詞が定着しました(もちろん可能動詞が不要な動詞もあるわけで、五段動詞全部というわけではありません)。

次に、カ行変格活用の動詞「来る」にこの動きが及び、可能動詞「来れる」が定着しました。

さらに昭和初期から「見る」「食べる」などの一段活用動詞(以下、一段動詞)に広まり、「見れる」「食べれる」という表現が出てきました。現代は一段動詞における可能動詞の形成の途中(初期)にあたる、というわけです。もちろん現在でも「見られる・食べられる」が正しい日本語とされ、「見れる・食べれる」は俗用とされています。

井上史雄・著『日本語ウォッチング』には、次のような図が載っています。
ラ抜きことばの拡大過程.jpg
可能動詞の拡大過程
井上史雄「日本語ウォッチング」より。可能動詞の成立は数百年にわたる日本語の変化のプロセスであり、現在は一段動詞の初期段階にあたる。この図は、動詞によって成立時期が違うことも表している。

この図の横軸は2100年より先までになっています。井上教授は「五段動詞での数百年単位のゆっくりした拡大ペースを考えると、一段動詞のすべてに "ラ抜き言葉 "が普及するには、かなり長い年数が必要だろう」と述べています。

補足になりますが、川端康成の『二十歳』における「見れる」の使用例は昭和8年(1933年)なので、「見れる」が広まり始めた頃ということになります。つまり当時の"最先端の" 言葉遣いだったはずです。『二十歳』の事例はあくまで文章語としての(少ない)例ですが、口頭語(話ことば)としては、当時からそれなりに広まっていたと考えられます。


「可能動詞」の広まりかた


『日本語ウォッチング』には可能動詞が広まったプロセスについての興味深いエピソードが何点かあります。以下、一段動詞の可能動詞を「見れる・食べれる」で代表させることにします。

 行ける 

五段動詞である「行く」の可能動詞は「行ける」ですが、東京では今でも「今度の集まりには行かれなくなりました」という人がいます。普通の言い方は「行けなくなりました」です。なぜでしょうか。

実は、五段動詞でも「行ける」の成立は遅れたそうです。というのも「イケル」が、一足早く「酒が飲める」の意味になり、またその否定形の「イケナイ」が「だめだ、悪い」という意味で使われるようになったからです。しかし「行かれる」と同じ発音の「イカレル」が、頭がおかしくなるという意味で使われるに至って、可能動詞としての「行ける」が一般化したとのことです。この成立の遅れが、現代でも「行かれなくなりました」と言う人がいる理由なのです。

 来れる 

カ行変格活用の「来る」の可能動詞「来れる」の成立は五段動詞よりも遅れた、というのも重要な事実です。可能性を問う言い方として、

今度の集まりに来れますか ?
今度の集まりに来られますか ?

のどちらが多いかというと、現代では だと思います。 は可能性ではなく尊敬表現ととるのが普通でしょう(状況によりますが)。

しかし最初に引用したように、丸谷才一氏は「来れる」は使わないと言っています。丸谷氏は1925年(大正14年)生まれですが、同世代の人には に違和感を抱く人がいるのでしょう。これも「来れる」の成立が遅れたことに原因があるようです。

 見れる・食べれる、は方言から 

一段動詞の可能動詞、見れる・食べれる は方言から始まったというのも興味深い事実です。この言い方は近畿地方を取り囲む地域(特に中部地方と中国地方)、および北海道で広まりました。その後、近畿と首都圏に波及し、全国に広がって現代に至っています。

最初に引用したように、サイデンステッカー氏が「見れるは北海道の言葉です」と言ったのも一理あるわけです。流行語は都会からと考えがちですが、見れる・食べれる は違います。

 一段動詞の中にも温度差 

いわゆる "ラ抜き言葉" が、一段動詞の中でも音節数が少ない語から始まったというのも、なるほどと思います。「見る」「着る」「出る」「寝る」などから普及したというわけです。そう言えば、5音節の「整える」「考える」「位置づける」「確かめる」や、6音節の「積み重ねる」などは、整えられる、考えられる、位置づけられる、確かめられる、積み重ねられる、がメジャーなような気がします。

そんなこと、とても考えられないよ
そんなこと、とても考えれないよ

を比較すると、確かに口頭語としても前者の方が多いような気がする。もっとも『日本語ウォッチング』によると、北海道、中部地方などの "ラ抜き言葉先進地域" では、すべての一段動詞が "ラ抜き言葉" になっていて、「考えれる」「位置づけれる」と言うようです。



『日本語ウォッチング』には書いてないのですが、「漢字 + じる」という一段動詞はどうでしょうか。「案じる」「演じる」「応じる」「感じる」「きょうじる」「禁じる」「減じる」「講じる」「仕損じる」「準じる」「しょうじる」「じょうじる」「信じる」「転じる」「動じる」「念じる」「封じる」「報じる」「命じる」「免じる」「論じる」などです。このうちのあるものは可能動詞としても使いたいわけですが、

秋の気配が感じられた
秋の気配が感じれた

そんなこと、信じられない
そんなこと、信じれない

どんな役でも演じられる
どんな役でも演じれる

の2つの言い方を比較すると、(個人的には)それぞれ前者が普通のように "感じられます"。若い人の仲間うちでの言い方で、「しんじらーれなーい !」という風に、むしろ「ラ」を強調して言うこともありますね。 "ラ抜き" ならぬ "ラ強調" というわけです。

「漢字 + じる」は相対的に "ラ抜き言葉" になりにくいのではと思います。もっとも「すべての一段動詞が "ラ抜き言葉" になっている(本書)」北海道や中部地方では「感じれる・信じれる・演じれる」なのでしょう。



要するに、言葉によって "ラ抜き言葉" が広まったものとそうでないものがあると言えそうです。「見れる」を使う人でも、また "ラ抜き言葉" を正式に認めるべきだと主張する人でも「考えれる」「感じれる」「演じれる」を使うとは(現段階では)限らない。そういうことだと思います。

 「する」の可能動詞は ? 

サ行変格活用の動詞「する」は、日本語における最も基本的な動詞の一つです。しかし「する」には、来れる・見れる・食べれる に相当する可能動詞がありません。「する」の可能形は、別系統の言葉の「できる」です。

一方、「する」は他の語と結びついて新たな語を作る造語機能をもっています。4音節の言葉だけでも「愛する」「察する」「制する」などがあるし、もっと長い音節では「利用する」「同情する」など多数あります。これらの言葉の可能動詞を作りたいときには「利用できる」「同情できる」とするのが一般的です。「・・・できる」と言えないものは「察せられる」というように「れる・られる形」で可能を表現するしかない。

ところが『日本語ウォッチング』で指摘してあるのは、「愛する」だけは「愛せる」という可能動詞があることです。逆に「愛できる」とは言えません。ということは、この動きが将来広まり「せる」が「する」の可能動詞に絶対にならないとは言えない。「利用できる」という意味で「利用せる」、「同情できる」という意味で「同情せる」という風にです。しかし、それにはあと何百年後かかるか分からないと『日本語ウォッチング』の井上教授は言っています。

しかしながら「同情せる」という "先端的表現" を東北地方の一部では可能表現として使っているとも本書に書いてあるのですね。日本語の変化にとって方言は要注意なのです。

 単純化と明晰化 

よく言われることですが『日本語ウォッチング』でも指摘してあるのは、「れる・られる」の4つの意味である「自発・受身・尊敬・可能」のうちの "可能" を "ラ抜き言葉" として分離することによって、言葉がより単純化し、明晰化する効果があることです。

4つうちの "自発" は主として "感情" や "感覚" や "思い" を表す動詞で使われ、あたかもその行為が自然に起こったかのごとく表現するものです。「見る」でいうと「あの新人は当選確実だと見られる」というような使い方です。その他、「・・・・・・ と思われる」「・・・・・・ と感じられる」などがよく使われます。"自発" を使う動詞は比較的少数であり、"自発" 以外の他の使い方と混同することは少ないと "考えられます"。

従って「見れる・食べれる」という可能動詞を作ると、「見られる・食べられる」を "尊敬" と "受け身" にほぼ限定する効果があることになります。つまり、尊敬と可能、受け身と可能を混同することがなくなるわけです。このうち "受け身" ついては「畑のトマトを鳥に食べられた」のように主格と目的格とが逆転するので、そもそも文脈から "可能" とは区別しやすいはずです。

実生活の上でまずいのは "尊敬" と "可能" の混同です。『日本語ウォッチング』には載っていないのですが「食べる」で例文を作ってみると、

先生は納豆を食べられますか?

という質問を「先生は納豆を食べますか ? の敬語表現」だと受け取ると、それは食習慣についての質問だから、いたって普通の質問になります。

しかし「先生は納豆を食べることが出来ますか」という質問だと受け取ってしまうと、先生としては「失礼だ」と感じるでしょう。外国人に対してならともかく、日本人対する質問としてはそう感じる。たとえ食習慣として納豆を食べないとしても、どうしても納豆を食べることが出来ないとは、普通の日本人なら考えにくいからです(そいういう人もいるでしょうが)。「俺は日本人だぞ!」「子供じゃないんだぞ!」と言いたくなる。ということは、

食べられる(尊敬、受け身)
食べれる(可能)

を分離してしまうと、こういった混同は無くなるわけです。例としてあげた「先生は納豆を食べられますか ?」なら敬語と受け取るのが普通でしょう。しかし、もっと混同の恐れの高いケースがあるのだと思います。我々は(おそらく)無意識に混同のリスクを感じ取っていて、それが可能動詞の成立へと誘導するわけです。

ちなみに、日本語における敬語の中の尊敬表現( = 上位者の行為についての敬語)は、「食べる」を例にとると、

お食べになる
(お + 動詞 + になる、の形)
召し上がる
(尊敬表現専用の動詞を使う)
食べられる
(れる・られる形)

の3種類が伝統的にありますが、"ラ抜き言葉"を先に使いはじめた地域と、尊敬表現に「れる・られる形」を多く使う地域は分布が重なっていることが『日本語ウォッチング』で指摘されています。これは尊敬と可能の混同を避けるために「見れる・食べれる」が発達したという傍証になっています。

 調査と実態の違い 

井上教授の『日本語ウォッチング』は、各種の言語調査をもとに "ラ抜き言葉" が広まってきた経緯が解説されています。これらの調査はアンケートか聞き取り調査によるものです。しかし、それが言語の実態を正しく反映しているとは必ずしも言えない。特に日本語の誤用だという規範意識がある言葉についての調査は微妙です。自分で使っているにもかかわらず「使わない」と答える傾向にあるからです。

それは著者の井上教授自身がそうだと告白しているのです。この率直な告白が本書で一番おもしろいところでした。そこを引用します(原文に段落はありません)。


筆者はラ抜きことばを使っていないつもりだった。相手につられて「見れる」と言いそうになっても、mir- のあたりでなんとか切り替えて areru を付けてごまかしていた。

ところが、同僚が研究データとして録画した自分の講義のビデオテープをあとで見たら、なんと自分でも使っていた。講義のときは次に何をどう話すかを考えながらしゃべるので、自分の使っていることばのモニターが十分でなくなるらしい。「見れる」とはっきり言っていて、すっかり自信をなくした。

そういえば、方言や俗語についての意識調査で、自分で使っているのに、「使いますか」と問いただされると「使わない」と答える人がいる。方言調査で「のう」と言うかどうか聞かれて「「のう」なんて言わんのう」と答えるたぐいである。自分も同類とは思ってもみなかった。

井上史雄『日本語ウォッチング』
(岩波新書 1998)

こういった調査の落とし穴は No.83-84「社会調査のウソ」で詳述した通りです。「あなたはこの前の選挙で投票に行きましたか?」という質問に対して 60% の人が「選挙に行きました」と答える。しかし実際の投票率は 40% だったりする。それと同じです。日本語の誤用だという規範意識がある言葉については、自分で使っているにもかかわらず「使わない」と答える傾向があることは覚えておいた方が良いと思います。各種メディアが「言語調査」をすることがありますが、要注意でしょう。

それと、井上教授の「告白」で思ったことは、言語学者・国語学者も職業上のストレスにさらされているということでした。



いわゆる "ラ抜き言葉"、もっと広くは "可能動詞" について『日本語ウォッチング』はよくまとまった本だと思いました。以下はこの本の感想です。


「ラ抜き」が「乱れ」になる


本書で井上教授は一貫して "ラ抜きことば" と書いているのですが、この俗称が「日本語の乱れ」という感じを倍加させたのではと思いました。つまり「抜く」には「本来発音すべき音を "怠けて" 抜いた言い方」というマイナス・イメージが付きまとっていて、「良くないことば」と無意識に思ってしまうのではと思います。ひょっとしたらこの俗称は「見れる・食べれる」を苦々しく思っている人のネーミングなのかもしれません。

ところが『日本語ウォッチング』にも書いてあるのですが、五段動詞の可能動詞、たとえば「読める」は「読み・得る」が縮まったものという説が有力です。つまり「読める」は「読まれる」という「れる・られる形」から派生したのではなく、可能動詞として独立に発達したと考えられているのです。

ということは「食べれる」も「食べ・得る tabe-eru」であり、母音の重複を避けるために間に r を入れて tabereru となった、と考えてもよいはずです。カナだけをみても「食べる」に「れ」を入れたのが「食べれる」です。必ずしも「食べられる」から「ら」を抜いたものと考えなくてもよい。事実、「食べれる」は「食べられる」の代用とはなり得えません。あくまで "可能" に限定した動詞です。

もし "ラ抜き言葉" でなく "レ付き言葉"、あるいはもっとポジティブに "可能言葉" というネーミングなら、日本語の乱れだという反発は少ないのではないでしょうか。


「する」の "可能動詞"は「せる」?


「見れる・食べれる」の問題とは直接の関係はありませんが、本書で大変興味深く読んだ部分です。

本書にもあるように、サ行変格活用(サ変)の動詞「する」には、直接的な可能動詞がありません。「できる」を代用として使っています。一方、造語要素としての「する」は、漢語や外来語と共に「複合・サ変動詞」を作る強いパワーをもっていて、これが日本語を豊かにしています。

「漢字1字 + する」をあげてみても、「愛する」「解する」「期する」「ぐうする」「くみする」「決する」「察する」「資する」「制する」「接する」「託する」「達する」「徹する」「涙する」「反する」「ふんする」「発する」「ほっする」など、多数あります。

「漢字2字 + する」は、日常使うものだけでも極めて数が多く、「結婚する」「質問する」「消費する」「処理する」「整理する」「同情する」「繁盛する」「理解する」「利用する」など、あげていったらキリがありません。

さらに外来語とも結びついて「オープンする」「ゴールする」「スカウトする」「ストップする」「プレーする」「ミスする」などと言います。これもキリがありません。擬声語と結びついた「チンする」というような言い方もあるし、さらに進んで、広告のキャッチ・コピーに「セコムする」などと使われる。

これだけ広く使われると、必要に応じて「複合・サ変動詞の可能動詞」を作りたくなるのが "人情" というものでしょう。『日本語ウォッチング』で指摘してあったのは「愛せる」がその第1号だということでした。

しかし「愛せる」に近いポジションと思われる語句はあります。たとえば「託する ⇒ 託せる」です。「託することができる」という意味で「託せる」と言ったとしても、ほとんどの日本人は違和感がないのではと思います。「このプロジェクトは彼に託せると判断します」という具合です。ちょっと堅い言い方ですが。

「愛する・託する」の可能動詞がなぜ違和感がない(少ない)かと言うと、「愛する・託する」を五段動詞化した「愛す・託す」が一般的に使われるからですね。そうすると「愛せる・託せる」は "正式の" 可能動詞ということになります。これを現象的には「愛する・託する」が可能動詞化して「愛せる・託せる」になったと考えてもよいわけです。

さらに "微妙な" 言葉に「解する(かいする)」があります。「あの人は風流をかいする人だ」というように使いますが、この可能動詞として「せる」があるのですね。主に否定形を伴って「あの人の行動はどうもせない」というように使います。これを「かいせる」と読むこともできるわけで(現時点では誤用だと思いますが)、そうすると「解する ⇒ 解せる」の可能動詞化が、発音も含めて完成することになります。

もっと言うと、これも現時点では誤用だと思いますが、「達する」「察する」「徹する」を可能動詞化して「達せる」「察せる」「徹せる」という人がいます。ネットで検索すると、それなりの数がヒットします。「徹する」の例文を作ってみると、

選手として成功したいのなら、まず基本に徹することだ
彼の選手としての成功は、基本に徹せるかどうかにかかっている

の、後者のような言い方です。このような語は、ほかにもあると思います。「利用する」なら「利用できる」が可能動詞として使えます。しかし「徹できる」とは言えない以上、可能表現は「徹せられる」しかない。しかしそれではちょっと長いし、可能の意味だけでは無くなる。「徹することができる」では長すぎる。この状況は「徹せる」に誘導されていく動機になると思います。



さらに、以上のことに加えて『日本語ウォッチング』では「同情せる」という使い方、つまり「せる」を「する」の可能動詞として使う言い方が、東北地方の一部地域で(方言として)あることが指摘してあるのでした。これらをまとめると

(普通に使われる) 愛せる、(託せる)
(一部で使うが誤用) 達せる、察せる、徹せる
(特定地域の方言) 同情せる、などの全て

となるわけですが、これはよくよく考えると、一段動詞の可能動詞「見れる・食べれる」が出現し始めた昭和初期とよく似た状況だと思うのです。

五段動詞 → カ変(来る)→ 一段動詞 という流れで可能動詞が形成されてきたことを考えると、サ行変格活用「する」の可能動詞が作られていくのは必然と思えました。「する」は「来る」よりも活躍の範囲が広い言葉だからです。


「見られる」の意味


"本題" の一段動詞の可能動詞についてです。「見れる・食べれる」は明晰化と単純化という、500年以上前から進行してきた可能動詞の成立プロセスの一環です。この流れはもう止まらないでしょう。

この明晰化・単純化の流れの原点に立ち返って考えてみると、そもそも「れる・られる」が「自発・受身・尊敬・可能」の、4つもの意味になぜ使われるのかという問題があるわけです。「見られる」で例文を作ってみると、

自発 今度出た新人は当選確実と見られる
受身 この姿を誰かに見られるのは嫌だ。
尊敬 先生はオペラを見られるのですか。
可能 水族館ではウミガメの泳ぐ姿が見られる

という具合です。4つもの意味に使うから文脈によっては曖昧になるわけで、明晰化・単純化に向かうというのも分からないではありません。ただし一般論ですが、曖昧で複雑なのが文化だとも言えます。一概に明晰で単純がいいとは限らない。

言葉の原則の一つは「たとえ違った意味に使うのでも、同じ言葉なら共通の(潜在的な)意味がある」というものです。上の4つの例文は、全く同じ「見られる」という語を使っています。その潜在的な共通の意味は何でしょうか。それは「ある行為が人のコントロールを越えたところでなされる」という意味だと、日本語学では指摘されています。ここでは同様の意味で「意志・意図の不在」としたいと思います。

まず "自発" ですが、「私は、今度出た新人を当選確実だと見ます」なら、自己の意見・意思を明確に述べています。それを「見られる」とすることによって、あたかもその意見が「自然と起こったように」表現している。あえて意図や意志を消し去り、主体性を後退させた表現になっています。

"受身" の「誰かに見られる」という場合、見られるのは自分の意図や意志とは無関係なことは言うまでもありません。もちろん自己のコントロールを越えています。また、「見る」のような他動詞だけではなく、自動詞でも同じです。No.140「自動詞と他動詞(1)」で、いわゆる "自動詞の受け身" の例をあげました。

彼女は遊ばれている」
昨日のハイキングは雨に降られた」
親に死なれた」
先に行かれてしまった」
彼に上がられた」(ゲームで)
こんな場所で寝られては困るよ」
釣った魚に逃げられた」

ですが、すべてに共通している意味は「コントロールを越えている」、ないしは「意志や意図からではない」ということです。その派生として「受け身」があるからこそ "自動詞の受け身" が成立するわけです。

さらに "尊敬" ですが、「オペラを見る」というのは個人の趣味なので「意志的行動」です。その行動から意志を除外してしまい、あたかも自然とそうするかのように言うことによって、上位者への尊敬を表しているのですね。

では「見れる」という表現が広まってきた "可能" はどうでしょうか。例文にあげた「ウミガメの泳ぐ姿が見られる」は、周囲の条件や環境に起因する「可能」であって、典型的な「状況可能」です。これは、見る人の意図や意志とは無関係です。しかし「可能」はこれだけではなく、人の能力を問題にする「能力可能」があります。それはまさに最初に引用した川端康成の『二十歳』の中の文章、

  銀作は一家を離れて見れるようになっていた。

がそうです。これが「意志・意図」とどう関係しているでしょうか。

分かりやすいように「英語がしゃべれる」という文章で言うと、しゃべれるようになるまでには本人の勉強や努力が続いたのでしょう。つまり意思や意図にもとづいて「英語がしゃべれるようなった」のです。しかし今の状態はどうかというと「自然と英語がしゃべれる能力」を持っているのですね。自分の意思、ないしはコントロールで、しゃべれたりじゃべれなかったりするのではない。

川端康成の文章も同じです。それは「家族を客観的に見ることができる」という意味であり、銀作は昔はそうではなかったが、産みの母と台湾で暮らすという経験を経て、家族を「自然と」客観視できるようになったわけです。



以上のように「れる・られる」のベーシックな意味は、「ある行為が人のコントロールを越えたところでなされる」、ないしは「意志・意図の不在」であることが分かります。


「見られる」と「見れる」は同じ意味か


以上を踏まえて「見られる」の可能用法と「見れる」は同じ意味かどうかを考えてみたいと思います。

  たとえ違った意味に使うのでも、同じ言葉なら共通の(潜在的な)意味がある

のなら、その逆である、

  言葉が違うのなら、完全に同じ意味というわけではない

も正しいことになります。可能動詞の「見れる」は、「見られる(可能用法)」と何らかの違いがあるでしょうか。そのヒントが『日本語ウォッチング』にあります。本書の中で井上教授は、各地に「状況可能」と「能力可能」を言い分ける方言があると書いています。つまり、

状況可能
  この服は小さくなったけどまだ着られる
能力可能
  この子は幼いけど一人で着れる

の二つを言い分けるのです。そして「見れる」が発達した一つの理由として、能力可能を言い分ける目的があると示唆されています。なるほどと思います。この文章のタイトルした「お粥なら食べれる」を例にとり、病気がまだ完全には直っていない人の言葉として、

お粥なら食べられる。
お粥なら食べれる。

を考えてみると、これは典型的な能力可能です。一方、山菜採りの達人の言葉として、

  このきのこは食べられる
  このきのこは食べれる

を考えると、これは「毒キノコではない」と主張する文なので、状況可能です。では、「お粥文」と「キノコ文」ではどちらが「食べれる」の使用率が多いでしょうか。もちろん人によって、年齢によって、また地域によって違うでしょうが、ひょっとしたら「お粥文」の方が「食べれる」の率が多く「キノコ文」の方は「食べられる」が多いのではと思うのです(個人的印象ですが)。

「言葉が違うのなら、完全に同じ意味というわけではない」という原則からすると、「見られる・食べられる(可能用法)」と「見れる・食べれる」は、我々はほとんど意識しないのだけれど微妙に意味が違うと考えた方がよいと思います。つまり「見られる・食べられる」は「意志や意図にかかわらず自然にという意味の、本来の可能」であり、「見れる・食べれる」は「意思的行為に関連した可能、ないしは能力可能」のニュアンスがより強いのではないでしょうか。少なくとも個人的にはそう感じます。


言葉は人々のモノの見方を規定する


これが正しいとすると、可能を表す「見られる」が将来完全に無くなるということは、「・・・・・・することができる」という "可能" のとらえ方、日本語話者が暗黙に感じている "可能" の意味が(微妙に)変化することだと思います。もちろんこの変化は個々の言葉ごとに進行していきます。

ここで考えるべきは、可能動詞の形成は、五段動詞において最初に始まってから500年近くが経過しているのに、いまだに動詞全部に広がっていないことだと思います。井上教授の想定でも、一段動詞の可能動詞の完成までには、あと100年、200年とかかります。ということは、言葉使いの根元的なところは、そう易々やすやすとは変わらないということなのでしょう。

文化は継承であり、継承をベースに新しいものが加わります。文化の最大のものである言葉もそうです。その言葉は、人々のモノのとらえかた、世界の見方を暗黙に規定しています。「見れる・食べれる」が誤用だとか、認めてよいという論議は、言葉の乱れや変化を表すようですが、実はそういった議論がまだ続いていること自体、日本語話者の「モノのとらえかた」がそう簡単には(100年程度では)変わらないことを示しているのだと思います。

次回に続く)


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No.145 - とても嬉しい [文化]

前回の No.144「全然OK」を書いていて、ある本の一節を思い出しました。丸谷才一氏と山崎正和氏の対談本です。


日本語の21世紀のために


作家・評論家の丸谷まるや才一氏(1925-2012。大正14-平成24年)と評論家・劇作家の山崎正和氏(1934- 。昭和9年-)が、日本語をテーマに対談した本があります。『日本語の21世紀のために』(文春新書 2002)です。この本に「全然」と関係した一節がありました。引用してみます。


山崎正和
私の父方の祖母は、落合直文などと一緒に若い頃短歌をつくっていたという、いささか文学少女だった年寄りでした。私が子供のころ「とても」を肯定的に使ったら、それはいけないって非常に叱られた。なるほどと感心しました。しかし、もういま「とても」を肯定的に使う人を私は批判できませんよ。それほど圧倒的になっているでしょう。

丸谷才一
そうですね

山崎正和
そうするとね、たとえば「全然」はどうでしょう。若い人で「全然いい」とか、「全然平気」というふうに使う人がいますね。これには私は抵抗があります。抵抗はあるけど、それじゃお前は「とても」を肯定的に使っているではないかと言われると、たしかにたじろぎますね。

丸谷才一
ぼくは「とても」はなるべく否定のときに使うようにしてるけれども、「とても」を肯定的に使うと具合がいいときがあるんですよ。「非常に」ではうまくいかないときがやっぱりありますね。

丸谷才一・山崎正和
『日本語の21世紀のために』
(文春新書 2002)

山崎・丸谷両氏の言語感覚をまとめると、

  山崎正和
小さいころは(祖母の躾もあって)「とても」を否定的に使っていた。しかし今は肯定的に使っている。
「全然いい」という使い方には抵抗がある(自分は使わない)。

丸谷才一
「とても」は、なるべく否定的に使うようにしている。
しかし「とても」を肯定的に使うこともある。「とても」でしか表現できないニュアンスがあるから。

日本語の21世紀のために.jpg
丸谷才一・山崎正和
「日本語の21世紀のために」
(文春新書 2002)
ということでしょう。この一節を読んで(私には)意外だったのは、

「とても」は、「とても出来ない」というように否定的に使うのものであり、

「とても嬉しい」というような肯定的な使い方は誤用である

という言葉の規範意識が、山崎正和氏の祖母の時代(おそらく明治の後半から昭和20年代頃まで)には強くあった、ということなのです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・

『日本語の21世紀のために』は2002年に出版された本です。しかし調べてみると、すでに1964年(昭和39年)の段階で山崎氏とほぼ同じ主旨を書いている新聞記事があるのです。

  以下、否定表現に使われる「とても」を、文章としては「とても出来ない」で代表させ、肯定表現で使われる「とても」を「とても嬉しい」で代表させることにします。


昭和39年の新聞記事


1964年(昭和39年)10月6日の朝日新聞に、次のようなコラムが掲載されました。ちなみにこの日付は、東海道新幹線の開業(1964.10.1)と東京オリンピックの開幕(1964.10.10)の間にあたります。


全然

このごろの若い人たちは「あの映画は全然いいんだ」とか「あそこの食事は全然うまいよ」とかいう。この場合の「全然」は「非常に」「大変」という意味である。

しかし、「全然」は、本来は「全然出来ない」「全然感心しない」のように、否定の言い方を伴う副詞で、意味は「まるっきり」である。それを「全然いい」「全然うまい」と肯定表現に使うものだから、年寄りたちからは、とんでもない使い方だと非難される。

ただし、このような使い方は、前例がないわけではない。今、東京では「とてもきれいだ」「とてもうまい」のように、「非常に」「たいへん」の意味で「とても」を使う。しかし、本来は「とても出来ない」「とても動けない」のように、「とても」は「どうしても」の意味であり、否定表現を伴う言い方なのだ。それが、明治四十年代ごろから、学生たちの間に愛用されて、今では、東京の口頭語としては普通の使い方となってしまっている。

朝日新聞「言葉のしおり」
(1964年10月6日。朝刊。9面)

このコラムは、

  「全然いい」が批判されるが、「とてもいい」が広まったという "前例" がある。かつて「とても」は否定表現を伴う言い方だった

という点で、40年近くあとの山崎正和氏の発言とそっくりです。この記事には2つのポイントがあると思います。前回の No.144「全然OK」で、

  最近「全然いい」という言い方を聞くようになったが、これは日本語の誤用である

という主旨の投書(新潟県・会社員・49歳)が2015年4月7日の朝日新聞に掲載されたことを書きましたが、「その種の意見は少なくとも30年以上前からあったと推定できる」としました(辞書の記述からの推定)。しかし上の朝日新聞のコラムから明らかなことは、その種の意見は少なくとも50年以上前からあったということです。つまり新潟県・会社員氏が生まれる前からあり、それが綿々と今まで続いているわけです。

もう一つのポイントは、昭和39年の段階では全く普通になっていた「とても嬉しい」という表現が「明治四十年代ごろから広まった」としていることです。その根拠は書いていないのですが、朝日新聞の校閲部門の人が書いたと思われるコラムなので、何らかの研究ないしは調査をもとにしたと想像できます。

この「とても嬉しい」が広まった時期については、芥川龍之介のエッセイにもでてきます。


芥川龍之介 『澄江堂ちょうこうどう雑記』


芥川龍之介の短文エッセイ集『澄江堂ちょうこうどう雑記』(1923 大正13)に「とても嬉しい」が広まった時期が出てきます。ちなみに「澄江堂」とは芥川龍之介自身の号です。


二十三 「とても」

「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつたわけではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とてもまとまらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。

肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河みかはの国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄げんろく四年に上梓じやうしされた「猿蓑さるみの」の中に残つてゐる。

  秋風あきかぜやとてもすすきはうごくはず  三河みかは子尹しゐん

すると「とても」は三河の国から江戸へ移住するあひだに二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。

芥川龍之介『澄江堂雑記』
「芥川龍之介全集第四巻」(筑摩書房 1971)
「青空文庫」より引用

このエッセイで芥川龍之介は、肯定の「とても」が数年以前から東京で言われ出したと書いています。ということは大正時代かそれ以前からということであり、これは朝日新聞の明治40年代からとの記述とほぼイコールということになります。

芥川龍之介は、江戸時代の芭蕉一門の句集『猿蓑』におさめられた三河出身の俳人の句に "肯定の「とても」" が出てくることを引き合いに出して、それが「三河ことば」であり、東京で使われるまでに二百年かかったと書いているのですが、もちろんその根拠はないはずです。これは「とても手間取つた」という "オチ" につなげるための、一種のジョークでしょう。

芥川龍之介は1892年(明治25年)に東京に生まれた人です。当然、小さい時から慣れた親しんだ言い方は「とても出来ない」であり、それが正しいと思っていたと想像できます。それは「とても嬉しい」が三河地方の方言、つまり「田舎ことば」だという書き方に暗示されていると思います。



しかし私は、三河方言だろうという芥川龍之介の説に "とても" 関心があります。というのは、個人的な経験ですが、私の知っているAさんを思い出してしまうからです。

Aさんは関西出身ですが、名古屋の大学を出て三河地方の企業に就職し、豊田市に自宅をかまえました。そして20年後に転職し、家と家族を豊田市に残したまま首都圏に単身赴任しました。その単身赴任のときの約6年間、Aさんと付き合ったのですが、彼の口癖が「とっても」だったのです。「それは、とっても難しいですね」というような言い方を、Aさんはよくしていました。

ひょっとしたら三河地方の人は、今でも口頭語としての「とても(とっても)」を、平均的な日本人より多く使うのではないでしょうか。違うかもしれない。あくまでAさんの個人的な口癖のような気もします。しかし「芥川龍之介説」がちょっと気になります。現在、三河地方出身の知人がいないので確かめられませんが、今度新たに付き合う機会があったら観察してみたいと思います。


「全然」の前例としての「とても」


芥川龍之介のエッセイによって分かるのは「とても嬉しい」が明治末期、ないしは大正時代から東京で広まったことです。しかし実は、肯定的「とても」が遙か昔においては一般的だったのです。梅光学院大学・准教授の播磨桂子氏の論文に、『「とても」「全然」などにみられる副詞の用法変遷の一類型』(九州大学付属図書館)があり、そこに「とても」の歴史が調査研究されていました(実は引用した朝日新聞のコラムの存在も、この論文で知りました)。この論文によると「とても」の歴史は以下のように要約できます。

「とても」は「とてもかくても」から生じたと考えられている。「とても」は平安時代から使われていて「どうしてもこうしても、どうせ、結局」という意味をもち、肯定表現にも否定表現にも用いられた。『平家物語』『太平記』『御伽草子』『好色一代女』などでの使用例がある。

しかし江戸時代になると否定語と呼応する使い方が増え、明治時代になると、もっぱら否定語と呼応するようになった。

さらに大正時代になると、肯定表現で程度を強調する使い方(=とても嬉しい)が広まり、否定語と呼応する使い方と共存するようになった。

この播磨論文を踏まえて芥川龍之介のエッセイが書かれた背景を振り返ると、次のようになるでしょう。

芥川龍之介は「とても」を否定的に使うものと思っており、大正時代から東京で言われだした「とても嬉しい」のような表現に違和感をもっていた。

彼は江戸時代の発句に「肯定的とても」があることを発見し、方言だろうと推測した。その方言が東京にまで波及したと考え、それをエッセイにした。

ところが、実は「肯定的とても」は江戸時代以前から伝統的にある言い方であり、江戸時代に「否定的とても」が広まったとはいえ、まだ残っていた。

「否定」にも「肯定」にも使われる言葉だったが、ある時期から「否定」が優勢になり、その後「肯定」が復活する・・・・・・。この状況は、江戸時代に "輸入" された漢語である「全然」の歴史と大変によく似ています。さらに播磨論文は、このような「3段階」の歴史をもつ日本語の副詞は他にもあり、「断然」と「なかなか」がそうだと指摘しています。なお、以上のことは主に(特に①②は)「文章語」の調査であることに注意すべきだと思います。



"「とても」は否定語と呼応すべきだ" という規範意識は江戸末期から明治初期に確立し、朝日新聞のコラムが書かれた昭和30年代には完全に無くなっていた、と考えられます。この規範意識が「生きていた」期間を、仮に明治元年(1868年)から昭和35年(1960年)とすると、それは約90年間ということになります。

一方、「とても」の "後継" である「全然」を考えてみると、"「全然」は否定語と呼応すべきだ" という規範意識が生まれたのは昭和20年代後半でした(前回の、No.144「全然OK」参照)。仮にそれが昭和25年(1950年)だとし、規範意識が存続する期間が「とても」と同じだと仮定すると、2040年には規範意識が完全になくなるということになります(あと25年かかる)。メディアの発達度合いが違うので一概には言えませんが・・・・・・。

このように考えると、2015年の段階で "「全然いい」は誤用" という投書が新聞に載る(前回)のは当然なのかもしれません。誤用という規範意識ができてからまだ60数年した経っていないのだから。


「とても」と「全然」の次にくるのは ?


「とても」と「全然」の使われ方の歴史を振り返ってみて気がつくことがあります。「とてもは否定で使うべき」という規範意識が世の中から完全に無くなった時期(昭和20年代と推定できる)とほぼ同じくして「全然は否定で使うべき」という規範意識が生まれたことです。これは全くの偶然でしょうか。

偶然でないとしたら「打消しと呼応して完全否定を表す副詞」を日本語は必要としている、ということかもしれません。英語の not at all に相当する語ということです(前回の、No.144「全然OK」参照)。現代語では「まるっきり」がそうだと思いますが、ちょっと会話調過ぎる言い方です。「からっきし」もあるが、あまり使いません。ひょっとしたら将来、「全然OK」「全然いい」という表現に違和感を持つ人が全くいなくなったとき(2040年頃 ?)、「もっぱら打消しと呼応する、文章語としても使える新たな副詞」が出現してくるのかもしれまんせん。

次回に続く)


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No.144 - 全然OK [文化]

No.139-143 の5回連続で「言葉(日本語)」をテーマに書いたのですが、今回もそれを続けます。今までに書いたのは「言葉が人間の思考と行動に影響を与える」という観点でしたが(No.49, 50, 139, 140, 141, 142, 143)、今回は視点を変えて「言葉の使い方が時とともに変化する」という視点です。その例として、最近の新聞の投書欄に載った「全然」という言葉の使い方を取り上げます。


「全然OK」の表現はOK?


約1ヶ月前の、2015年4月7日の朝日新聞の投書欄に、以下のような投書が掲載されました。


「全然OK」の表現はOKなの?
会社員(新潟県 49歳 男性)

このごろ気になる言葉がある。「全然」である。この全然という言葉の使い方が、多様化しているのだ。

本来なら、全然のあとには否定する言葉が続くはずだ。「全然おもしろくない」「全然おいしくない」などだ。

ところが、「全然、大丈夫」「全然、平気」などと、肯定する使い方をしている人がいる。「あの映画、全然おもしろかった」「この料理、全然おいしい」などと、何のためらいもない。極めつきは「全然OK」だろう。

言葉は、時代によって変化するものだということは分かる。しかし、「全然、良い」などと言われると、条件反射のように「おやっ、変だな」と思ってしまう。私の感覚は、現代では通用しないのだろうか。「言葉遣いの乱れは文化の乱れ」などと言ったところで、意味はないのだろうか。

朝日新聞(2015.4.7)

この投書で気になったのは「言葉遣いの乱れ」という一言です。確かに辞書には「全然 + 肯定」を "俗な言い方" と書いてあります(たとえば『広辞苑』第6版)。しかし辞書の "俗な言い方" を「言葉遣いの乱れ」だと言ってしまうと、現代の日本は「言葉が乱れきっている」ことになってしまいます。

「言葉の乱れ」を問題にするときに注意すべきは "文章語"(書き言葉)と "口頭語"(口語。話し言葉)の違いです。口頭語としてはよく使うが、文章語としては使わない言葉(またはその逆の言葉)はたくさんあります。文章語としては使わない口頭語を「言葉の乱れ」とは即断できません。

私は「肯定する使い方の "全然"」に(少なくとも口頭語としては)違和感はないのですが、新潟県・会社員氏は話し言葉としても「変だ」と感じるようです。そして思ったのは、新聞社に投書するほど「肯定する使い方の "全然"」に強い違和感を抱く人がいるという事実です。そして「なぜ朝日新聞がこの投書をわざわざ取り上げたのか」にも興味を抱きました。そのことはあとで分析するとして、まず投書の内容を吟味したいと思います。

新潟県・会社員氏の意見をもう一度まとめると、

(A) "全然" の本来の使い方は「全然・・・・・・ない」という使い方である。

(B) 「全然・・・・・・ない」という形ではなく、かつ "全然" のあとに肯定的なニュアンスの言葉、たとえば大丈夫、平気、おもしろい、おいしい、OK、良い、などを続けるのは "全然" の本来の使い方ではなく、違和感を感じる。これは日本語の乱れの一つである。

ということでしょう。言葉を使う感覚は個人によって違うので、これは一人の意見としては "全くOK" だと思います(全然OKとは、あえて書かないようにします)。

しかし思うのですが、(A)(B)だけでは "全然" の使い方のすべてを尽くしてはいません。たとえば、

(C) 「全然・・・・・・ない」という形ではなく、かつ "全然" のあとに否定的なニュアンスの言葉、たとえば「駄目(だめ)」とか「悪い」などを続ける使い方

はどうでしょう。話し言葉を想定して例文を作ってみると、

そんなバットの構え方ではボールにかすりもしない。全然だめだ。
そりゃあ、彼の方が全然悪いと思うよ。

という感じです。こういう使い方について、新潟県・会社員氏は「条件反射のように、おやっ、変だな」と思うか、それとも思わないか、どちらでしょうか。さらに、

(D) 「全然・・・・・・ない」という形ではなく、"全然" のあとに肯定的とも否定的とも言えない "相違" を表す言葉、たとえば「違う」や「別」を続ける使い方

はどうでしょう。これも例文を作ってみると、

彼が趣味の陶芸にうち込んでいる時の表情は真剣そのもので、目つきも普段とは全然違った
彼はいわゆる「プロの経営者」であり、全然別の業種の社長を4回も経験している。

という感じです。実はこのブログでも過去にこのタイプの「全然」を何回か使っています。


確かに「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風・左隻」には共通点があります。それは「戦争に一般市民が巻き込まれ、多数の死傷者が出た状況を念頭に描かれた絵」という共通点です。しかし、共通点はこの1点でしかありません。あとの点は全然違っている


というようにです。

もし新潟県・会社員氏が(B)だけに違和感を感じるなら「肯定的表現に使う "全然" はおかしい」と考えているのであり、そうではなくて(B)(C)(D)のすべてに違和感を感じるなら(A)の「全然・・・・・・ない」という使い方だけが正しい、と考えているわけです。投書からそのどちらかは分かりませんが、人の言葉の感覚は微妙なので、違和感の境目はもっと違うのかもしれません。

しかし歴史的にみると "全然" という言葉は「ない」が続く場合も続かない場合もあったし、また肯定的意味と否定的な意味の両方で使われてきました。つまり(A)(B)(C)(D)の "全てで" 使われてきたわけです。このことを、日本語史が専門の学者の方の本で紹介します。


"全然" の用法


日本語はどんな言語か.jpg
小池清治
「日本語はどんな言語か」
(ちくま新書 1994)
宇都宮大学教授(当時)の小池清治せいじ氏の書いた『日本語はどんな言語か』(ちくま新書 1994)に、明治時代からの "全然"(副詞)の使い方が、文学作品からの例を引いて説明されています。ここであげられている例を紹介したいと思います。この中で「情態副詞」「程度副詞」「呼応副詞」という "難しい" 文法用語が出てきますが、言っていることは比較的単純なので、そのまま紹介します。

  以下の引用で下線は原文にはありません。また引用のうちの2点は「青空文庫」から引用しました。「青空文庫」に結集されている方々に感謝します。

 情態副詞としての "全然" 

動作・行為を表す語を修飾し「完全に」「すっかり」「まったく」という意味を与える "全然" の使い方です。

小説の神様と言われた志賀直哉の代表作の一つに『暗夜行路』(1921-1937。大正10-昭和12年)があります。主人公の時任ときとう謙作けんさくは、幼なじみの愛子に結婚を申し込みますが、なかなか返事をもらえません。そこで謙作は、大阪に赴任している愛子の長兄の慶太郎が東京に帰省している時に電話をかけ、会う約束をとりつけます。愛子の父はすでに亡くなっているので、慶太郎に結婚の返事を聞こうとしたのです(今と違って家同士の結婚です)。ところが行ってみると2人の先客がいました。その時の慶太郎の発言です。


実は昼間両君と会うはずだったが、急に用事ができて会えなかったもので、晩に来てもらった。しかし僕ももう二三日で全然暇になるから、そうしたら、僕のほうから出よう。

志賀直哉『暗夜行路』
(岩波文庫。1962)

そして後日、慶太郎から断りの手紙がきます。愛子の結婚については先約があると言うのです。その手紙の要約に以下のくだりがあります。


もともと結婚の問題は全然僕に任せるという愛子の言葉をそのままに僕が実行して、よく相談もせずに、だいたいの約束を決めてしまったのが悪かったが、こうなっては僕としてはやはり君の話をお断りして先約を守るよりしかたありません。

志賀直哉『暗夜行路』



森鷗外に『半日』(1909。明治42年)という短編小説があります。大学教授(文科の博士)とその妻、7才の娘(玉ちゃん)、教授の母親という一家の、ある日の午前中を描いた小説です。奥さんと母親(姑)の折り合いが悪いというのが話のポイントになっていて、食事は教授・娘・母親でとり、奥さんは後で食事をするという状況にまでなっています。要するに、森鷗外の実生活での愚痴を小説化したような作品です。その中の一節です(ルビを付け加えました)。


奧さんの望どほりに行けば、夫婦と娘とで食事をして、母君を茶の間に出さない樣にしたいのであるが、それは博士が承知しない。妻を迎へて一家團樂の樂を得ようとして、全然失敗した博士も、このだけは落されまいといふので、どうしても母君と一しよに食事をする。玉ちやんは子供で、食事を待つてはゐないから、おとうさんとおばあさんと食べるとき、一しよに出て食べる。そこで奧さんが一人跡へ殘ることになつてゐるのである。

「鴎外全集 第四卷」
(岩波書店 1972)
「青空文庫」より引用



夏目漱石の『三四郎』(1908。明治41年)の例もあります。次の引用中の「二人」とは、主人公の小川三四郎、および佐々木与次郎のことです。


二人は玄関をのぼって、教室へ這入はいって、机についた。やがて先生が来る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇」が気にかかるので、帳面ノートわきに『文芸時評』をけたまま、筆記の相間あいま々々に先生に知られないように読み出した。先生は幸い近眼である。のみならず自己の講義のうちに全然埋没している。三四郎の不心得にはまるで関係しない。

夏目漱石『三四郎』
漱石文学作品集 7
(岩波書店。1990)



次の例は、夏目漱石の弟子である芥川龍之介の『羅生門』(1915。大正4年)からの引用で、この小説のいわばクライマックスのところです。


下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払つて、白いはがねの色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙つている。両手をわなわなふるはせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球めだままぶたの外へ出さうになる程、見開いて、唖のように執拗しうねく黙つてゐる。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されてゐると云ふ事を意識した。さうしてこの意識は、今までけはしく燃えてゐた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまつた。あとに残つたのは、唯、或仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。

芥川龍之介『羅生門』
(岩波書店「芥川龍之介全集 第一巻」1995)

 程度副詞としての "全然" 

形容詞や形容動詞を修飾し、修飾される言葉が表している「程度がはなはだしい」ことを意味します。夏目漱石は『坊っちゃん』(1906。明治39年)で、以下の引用のように使っています。生徒が悪ふざけで坊っちゃんの宿直の寝床にバッタを入れるという「バッタ事件」を起こすのですが、その生徒の処分についての先生たちの会議の場面です。


おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちにち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」といったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢とんちんかんな、処分は大嫌です」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全然悪るいです。どうしてもあやまらせなくっちゃあ、癖になります。退校さしても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席した。

夏目漱石『坊っちゃん』
漱石文学全集 3(岩波書店。1990)

ここでの「全然悪い」は、地の文ではなく会話の中に出てきます。つまり最低限言えることは、「全然悪い」を東京人(坊っちゃん)が口頭語(口語)として使うのは自然だと、漱石が思っていたということです。

 呼応副詞としての "全然" 

「全然・・・・・・ない」というように、打消しを表す「ない」と "呼応" する("ない" という陳述部を予告する)使い方です。

芥川龍之介の『戯作三昧』(1917。大正6年)は、江戸時代の天保年間の滝沢馬琴を主人公としています。下の引用は銭湯での会話ですが、彼とは馬琴、近江屋平吉とは発句が趣味の小間物屋、「性に合はない」とは「発句が性に合はない」という意味です。


彼が「性に合はない」と云ふことばに力を入れたうしろには、かう云ふ軽蔑が潜んでゐた。が、不幸にして近江屋平吉には、全然さう云ふ意味が通じなかつたものらしい。

芥川龍之介『戯作三昧』
「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」
(筑摩書房。1968)
「青空文庫」より引用



以上のような「全然」の使い方を、小池教授は次のように総括しています。


「全然」にはこのように、三つの用法がある。明治・大正期では、呼応副詞(引用注:全然・・・・・・ない)の「全然」は少数派であり、時代が現在に近づくにつれて多数派を形成する。多数派であるが、「絶対的正しさ」を獲得しているわけではない。「情態副詞→程度副詞→呼応副詞」、このように「全然」は用法を拡大してきたのである。

引用注: 原文には「呼応副詞・陳述副詞」と書いてありますが、「呼応副詞または陳述副詞」の意味なので「陳述副詞」を省略しました。

小池清治『日本語はどんな言語か』
(ちくま新書 1994)


なぜ「誤用」という人がいるのか


そこで疑問が生じます。

全然伝わらない(呼応副詞)
全然悪い
全然失敗した

というような「全然」の使い方の中で、

  「全然」は呼応副詞(例:全然伝わらない)というように使うのが一般的ではあるが、形容詞の程度を強めたり(全然悪い)、"完全に"という意味(例:全然失敗した)でも使われる

とは考えずに

  「全然」は呼応副詞(例:全然伝わらない)として使うのが正しい日本語であり、その他の用法は誤用である

と考える人がいるのはなぜか

という疑問です。最初に紹介した投書を書いた人はもちろんですが、投書を採用した朝日新聞の編集部も「誤用」と考えているからこそ、日本語を正しく使おうという「問題提起」のために掲載したわけです(おそらく)。この疑問に答える記事を書いているのが(投書を掲載した朝日新聞ではなく)日本経済新聞です。その内容を次に紹介します。


「全然いい」は誤用、という迷信


日本経済新聞・電子版(PC版)に「ことばオンライン」とい連載記事があります(トップページライフ くらしことばオンライン)。この中の記事で「全然いい」は誤用、という説が広まった経緯が報告されています。

なぜ広まった?「『全然いい』は誤用」という迷信(2011.12.13)
「『全然いい』は誤用」という迷信 辞書が広めた?(2012.6.26)

の二つの記事です。これを読むと、まず、2011年12月13日の記事の先頭に、

  「全然は本来否定をともなうべき副詞である」というのは国語史上の迷信であることが、研究者の間では常識

とあります。なるほど。上で紹介した小池清治教授(日本語史)の『日本語はどんな言語か』にも、あたりまえのように否定を伴う場合・伴わない場合の事例が書かれていたのですが、これは「国語研究者の常識」なのですね。朝日新聞編集部では "非・常識" のようですが。

記事によると、国立国語研究所の新野・准教授を中心とする研究班は、この「迷信」がいつ頃に広まったのかを研究し、2011年10月22日の日本語学会で発表しました。研究班は、昭和10年代(1935-1944)における日本の代表的な国語学・国語教育の研究誌、3誌に研究者が書いた論文・記事を網羅的に調べ、「全然」がどういう使い方をされているのかを調査しました。その結果が次の表です。

昭和10年代の代表的な国語学誌・国語教育誌、
3誌における "全然" の使い方
否定語を
伴う
形容詞「ない」64 232
助動詞「ない」「ず(ん)」161
動詞「なくなる」「なくす」7
肯定を
伴う
①否定の意味の接頭語として使われる漢字を含む語51 354
②二つ以上の事物の差異を表す語134
③否定的意味・マイナス評価の語84
④否定的意味・マイナス評価でない語85
判別が難しい4
合計590
日本経済新聞・電子版「ことばオンライン」(2011.12.13)より引用(一部簡略化)。
調査対象は「コトバ」「綴り方学校」「日本語」の3つの国語研究誌。

ちなみに「肯定を伴う」のところの、①~④の例文を作ってみると、

全然不愉快だ。
全然違う。
全然駄目だ。
全然いい。

となるでしょう。この表で一目瞭然なのは、

全体の6割(590例のうち354例)は否定語を伴わず、
そのうちの約4分の1(354例のうちの85例)は「否定的意味やマイナス評価でない語」を伴う

ということです。この調査のポイントは「国語学者が、専門誌上で、本来の用法からはずれた言葉の使い方をするはずがない」ということですね。それはそうでしょう。「あいつは国語学者のくせに言葉の使い方を知らない」と "後ろ指" を指されたくないでしょうから・・・・・・。従ってこの表にみられる「全然」の使い方は、昭和10年代に「標準語として正しい」と考えられていたものと推測できます。

このうち、④の「肯定的な全然」については、高名な国語学者も使っているようです。記事(2011.12.13)には、


「前者は無限の個別性から成り、後者は全然普遍性からなる」

金田一京助
雑誌「日本語」(日本語教育振興会)より

という「全然」の使用例があげられていました。ちなみに、このブログで「全然違っている」という使い方をしたと上の方に書きましたが、これは②に相当し、昭和10年代から続く伝統的な日本語の使い方であったわけです。

一方、昭和28年~昭和29年(1953-1954)に学術誌「言語生活」(筑摩書房)に「最近 "全然" が正しく使われていない、"全然"は本来否定を伴う」といった趣旨の記事が集中的にみられます。このことから研究班は、

  "全然"は本来否定を伴うべきだという、言葉の使用実態とはかけ離れた「規範意識」が、昭和20年代後半に急速に広まった

と結論づけています。研究班は、規範意識が急速に広まった理由については「今後の研究」としたのですが、この理由を探るべく各年代の国語辞書の記述を調査した方がいます。日本経済新聞 電子版「ことばオンライン」(2012.6.26)から紹介します。


「全然」についての辞書の記述


日本近代語研究会・会長の飛田良文氏(元、国立国語研究所)は、明治から現代までの代表的な辞書における「全然」の使い方を調べました。それが次の表です。

「全然」に関する主な辞書(初版本)の語義記述

刊年書名(発行元)語義
の数
打消との
呼応
"全然いい"
への判断
1907明治40辞林(三省堂書店)1
1908明治41ことばの泉補遺(大倉書店)1
1911明治44辞林44年版(三省堂書店)1
1912明治45大辞典(嵩山堂)1
1912大正1新式辞典(大倉書店)1
1915大正4ローマ字で引く国語辞典(冨山房)1
1916大正5発音横引国語辞典(京華堂)1
1916大正5袖珍国語辞典(有朋堂)1
1917大正6ABCびき日本辞典(三省堂)1
1917大正6大日本国語辞典(金港堂/冨山房)1
1934昭和9大言海(冨山房)1
1935昭和10大辞典(平凡社)1
1935昭和10辞苑(博文館)1
1938昭和13言苑(博文館)1
1943昭和18明解国語辞典(三省堂)1
1952昭和27ローマ字で引く国語新辞典(研究社)2(注3)
1952昭和27辞海(三省堂)1(必ず)
1955昭和30広辞苑(岩波書店)1(注4)
1956昭和31例解国語辞典(中教出版)2俗語
1956昭和31角川国語辞典(角川書店)1(必ず)
1958昭和33旺文社版学生国語辞典(旺文社)1(正しくは)
1959昭和34新選国語辞典(小学館)1
1960昭和35三省堂国語辞典(三省堂)2[俗]
1963昭和38岩波国語辞典(岩波書店)1くずれた用法
1965昭和40新潮国語辞典(新潮社)1
1966昭和41講談社国語辞典(講談社)1
1972昭和47新明解国語辞典(三省堂)1俗に
1973昭和48角川国語中辞典(角川書店)2[俗に]
1972~昭和49~日本国語大辞典12巻(小学館)3(口頭語で)
1978昭和53学研国語大辞典(学習研究社)3[俗]
1981昭和56角川新国語辞典(角川書店)2[俗]
1984昭和59例解新国語辞典(三省堂)1新しい使い方
1985昭和60新潮現代国語辞典(新潮社)2
1985昭和60現代国語例解辞典(小学館)1俗に
1986昭和61言泉(小学館)1俗語的
1988昭和63大辞林(三省堂)3俗な言い方
1988昭和63三省堂現代国語辞典(三省堂)3[俗]
1989平成1福武国語辞典(福武書店)2
1993平成5集英社国語辞典(集英社)1俗に
1995平成7角川必携国語辞典(角川書店)1俗な言い方
1995平成7大辞泉(小学館)3俗な言い方
2002平成14明鏡国語辞典(大修館書店)3[俗]
2005平成17小学館日本語新辞典(小学館)2俗に

(注1) 飛田良文氏の調査を基に日経新聞電子版が作成した表(2012.6.26)を引用した。色付けや(注)は引用者。
(注2) 濃い色は「必ず(正しくは)打消しと対応」か「全然いいは俗用」としている辞書。
(注3) 語義で「下に打消しを伴わない」のを「くずれた用法」と記述している。
(注4) 最新版の「広辞苑 第6版」では、肯定的に使う全然を「俗な用法」としている。

「全然」と打消しとの呼応について、この調査の結果を要約すると次のようになります。

明治時代から昭和10年代までに発行された代表的な辞書においては、そもそも「全然・・・・・・ない」といった "打消しとの呼応" について触れているものが全くない。1907年(明治40年)から1943年(昭和18年)に発行された15種の辞書すべてがそうである。

1952年(昭和27年)刊行の『辞海』(三省堂。金田一京助編)において初めて「下必ずに打消を伴う」と記述された。これ以降、「必ず打消しを伴う」とする辞書や、必ずとはしないまでも「全然+肯定」を「俗用」や「崩れた用法」とした辞書が増えていく。

1952年(昭和27年)から2005年(平成17年)までに発行された28種の辞書では、26種が "打消しとの呼応" について触れており、このうち3種は "必ず(正しくは)打消しと呼応" とし、19種は「全然いい」を "俗な言い方"、"崩れた言い方"、"口頭語" などとしている。

『例解新国語辞典』(三省堂 1984 昭和59)に至っては「全然いい」を「新しい使い方」としている。

この調査は「昭和20年代の後半に "全然" は打消しを伴うとの規範意識が、世の中に急速に広まった」とする国立国語研究所の推定と一致してます。

ちなみに「全然いい」は新しい使い方、という「例解新国語辞典(1984)」の記述から強く推測できることは、「全然+肯定」という使い方が「最近」広まってきたが、これは本来の使い方ではないという意見が30年以上前から(1984年以前から)あっただろう、ということですね。

流行語や外来語は別にして、一般に "日本語の乱れ" を指摘する言説には、一定のパターンがあります

最近(または、このごろ)「・・・・・・」との言い方が目立つ。
これは日本語本来の使い方ではない。
正しい日本語を使おう。

というパターンです。「② 本来の使い方ではない」と言いたいがために「① 最近、目立つ」を持ち出すわけです。「昔から使われているが、正しい日本語ではない」では論理的に破綻します。「言葉の実態がずっとそうであったのなら、それは "正しい言葉" だろう」となるからです。ところが実は「・・・・・・」は昔から綿々とある言い方だったり、明治時代から使われていたりすることがある。「全然」ががまさにそのケースです。

ちなみに "①最近「・・・・・・」との言い方が目立つ" のところは "①若い人に「・・・・・・」との言い方が目立つ" になることが多々あり、これも典型的な「日本語の乱れ批判パターン」となっています。



この文章の冒頭から順に「文芸作品での使用例」「昭和10年代の国語雑誌の調査」「明治以来の国語辞書の調査」の3つを取り上げました。これらをまとめると、

「全然+肯定」は明治時代から綿々と、途切れることがなく使われてきた。もちろん、時代によってメジャーな使い方は変化した。

ところが(理由は明らかではないが)昭和20年代後半から「全然+肯定」は誤用だという規範意識が広まった。

しかしその規範意識は言語の実態を無視したものであった。従って「規範意識」が「言語の実態」を駆逐することはなかった。

その状況が長く続き「全然+肯定」は誤用という意見が折りに触れて言われるようになった。それが今でも(朝日新聞の投書欄のように)続いている。

ということだと思います。そして飛田良文氏は「全然+肯定」は誤用だという "規範意識" を広めたのは辞書だという「仮説」を述べています。


学校教育、特に辞典が日本語に対する規範意識に影響を与えるのは当然です。例えば、小学生用の国語辞典に「下に必ず打ち消しを伴う」とあれば、自然にそのような意識が根付くでしょう。今後、小学生用の国語辞典の記述を戦前から戦後までくまなく調べたり、英和辞典や和英辞典を調べたりするなどの研究を進めれば、決定的な事実、意外な事実が見えてくるかもしれません。

日経電子版「ことばオンライン」
(2012.6.26)


『ローマ字で引く国語新辞典』


さらに、日本経済新聞 電子版の記事では、ちょっと意外な事実が明らかにされています。最初に「必ず打消しを伴う」とした 1952年(昭和27年)の『辞海』の1ヶ月前に『ローマ字で引く国語新辞典』(研究社。1952)が刊行されたのですが、そこでは「全然」について、

1. 全く、まるで(普通、下に打消を伴う) [(not) at all]
(例)全然見当がつかない。

2. すっかり、全く(前者のくずれた用法で、下に打消を伴わない) [wholly]
(例)全然間違っている。

と説明されているのです。「必ず打消しを伴う」とした『辞海』ほど強い規則ではないのですが、この辞書が、日本の辞書で初めて "打消しとの呼応" に触れ、かつ語義を2つに分類し、「全然+肯定」を "崩れた用法" としたのです。この辞書の編纂には英文学者の福原麟太郎が参加しており、日本語の語義に英語を対応させています。辞書を調査した飛田良文氏は次のように言っています。


「ローマ字で引く国語新辞典」が、「全然」は「普通、下に否定を伴う」とした決まりの契機になっているのは英語です。福原麟太郎が「全然」を英語「not at all」と「wholly」に対訳したわけです。

日経電子版「ことばオンライン」
(2012.6.26)

飛田良文氏は、福原麟太郎が「全然」を英語「not at all」と「wholly」に対訳した、とだけ言っているのですが、これはどういう理由からでしょうか。なぜ、打消しを伴う場合とそうでない場合の2つに語義を分けたのでしょうか。

『ローマ字で引く国語新辞典』の編集方針はかなりユニークです。まず見出し語をヘボン式のローマ字表記にしたことです。これについては『ローマ字で引く国語新辞典』の初版のカバーに次のように解説されています。


日本語の発音を正確にあらわす方法は、ローマ字を用いることである。本辞典はローマ字によって見出し語を並べやすく引きやすくした。

『ローマ字で引く国語新辞典』復刻版
を紹介する研究社のホームページより

ローマ字で引く国語新辞典(復刻版).jpg
「ローマ字で引く国語新辞典」
(研究社 1952。復刻版)
今では想像しにくいのですが、当時は旧仮名遣いと新仮名遣いの問題がありました。つまり、現代の「言う」の発音は iu ですが、当時の文字表記は「言う」と「言ふ」(旧仮名遣い)の両方がありうるわけで、それを平仮名にすると「いう」と「いふ」になり、あいうえお順では離れた位置に配置されることになります。もし、新仮名遣いで配列された辞書で iu と発音する単語を旧仮名遣いの「いふ」で引こうとすると混乱します。ローマ字で見出しを配列するということは「発音で見出しを配列する」ということで、これはこれで意味があるわけです。ちなみに、ローマ字見出しの国語辞書はそれ以前にもありました。

この辞書が真にユニークなのは、国文学者(山岸徳平)だけでなく、英文学者の福原麟太郎が辞典の編纂に加わり、日本語の語義解説のあとに相当する英語を記述したことです。全然についていうと (not) at all と wholly です。この理由については、初版のカバーに、


日本語を正確に理解するために、外国語に訳してみるという対照的方法を用いた。本辞典は各語句の分析された各項目ごとに一つずつ最近似の英語句を与えてある。

(研究社のホームページ)

とあります。これはかなりユニークな辞書の編纂方針ですが、この方針は果たして妥当なのでしょうか。簡単な和英辞典として使えるために、というのなら分からないでもないのですが、「日本語を正確に理解するために英語に訳す」というのは明らかに話が逆です。その「話が逆」が顕著になったのが「全然」の語義解説だと思うのです。

必ず英語を付加するという制約のもとに、日本語の副詞である「全然」の語義解説を書こうとしたらどうなるでしょうか。「まったく」「すっかり」「完全に」という意味の英語の副詞を考えてみると、

  at all, wholly, completely

などが浮かびます。このうち at all は否定と相性のいい言葉です。

  She was not satisfied at all.
(彼女は全然満足しなかった)

というようにです。at all を肯定に使う場合もあるようですが、それこそ崩れた用法です(辞書にはない)。辞書にある否定文以外の使い方は、疑問文や if 節ですが、たとえば疑問文では、

  Is there any truth at all ?
(そこに少しでも真実があるのか?)

のように、日本語の「全然」とは違った意味になります。at all が日本語の「全然」に相当するのは否定文で使われるときだけなのです。

一方、wholly / completely は肯定文に使います。

  She was wholly satisfied.
(彼女は完全に満足した)

というようにです。ところが at all と違って、wholly / completely を否定文に使うと、今度は日本語の「全然」と同じ意味にはならないのです。

  She was not completely satisfied.

を、学校の英語のテストで「彼女は全然満足しなかった」と訳したら、先生はここぞとばかりに × にするでしょう。これは英文法でいう「部分否定」であって「彼女は完全には満足しなかった」という意味です。満足した部分もあったが、完全に満足したわけではなかった。学校英文法では、この「部分否定」がかなり丁寧に説明してあったと記憶しています。

このような背景から「最近似の英語句」をつけるという前提で「全然」の語義を一つで説明しようとすると困ったことになります。つまり、

  zenzen(全然)
まったく、すっかり、完全に、の意味 [at all]

とすると「全然+肯定」のケースが at all には当てはまらなくなります。しかし、だからと言って、

  zenzen(全然)
まったく、すっかり、完全に、の意味 [wholly]

とすると、今度は「打消しと呼応する全然」が wholly では表せなくなります。not wholly は部分否定であって「全然・・・・・・ない」(=完全否定)ではないからです。つまり「最近似の英語句を対応させた」とは言えなくなる。

従って英語と対応させるという前提である限り、全然の語義を「打消しが伴う場合」と「肯定が続く場合」の2つに分けざるを得なくなります。英語を熟知した人ほどそう思うでしょう。もちろん辞典の編纂者の一人である福原麟太郎は、日本の英文学学会の会長までつとめた、英語に精通した学者です。

英語には「否定文に使うと "全然" と同じ意味になる言葉」(at all)と、「肯定文に使うと "全然" と同じ意味になる言葉」(wholly / completely など)がある・・・・・・。『ローマ字で引く国語新辞典』は日本で初めて「全然」を2つの語義に分けた辞書ですが、その「分けた」理由は英語にあったのです。「全然」という言葉の語義のルーツ(の一つ)をたどっていくと、英語の「完全否定」と「部分否定」の違いが関係してくる・・・・・・。これはまったく意外な話なのですが、太平洋戦争の敗戦直後である昭和20年代という時代の気分が背景にあるのでしょう。



しかし『ローマ字で引く国語新辞典』は語義を2つに分けただけでなく「打消しを伴う全然」が「普通」としています。また、1ヶ月後に刊行された『辞海』は「必ず打消しを伴う」としています。この規範意識がなぜ生まれたのか、それはまだ解明されていません。

その研究手段として、飛田良文氏は前に引用したところで「英和辞典や和英辞典を調べたりするなどの研究を進めれば」と言っています。ここで暗に匂わされているのは、英和辞典ないしは和英辞典に影響された可能性です。そうなのかもしれません。英語に影響されて「全然」を「(not) at all」と同一視したということも考えられると思います。


言葉は進化する


「全然」という言葉が使われてきた歴史から言えることは、

言葉の使い方が「正しい」「正しくない」という「規範意識」は時代とともに変わる。しかも10-20年というレベルで、かなり急に変わることがある。

しかし言葉が使われている実態は、そう急には変化しない。言葉の使用実態は「積み重なって」進化する。

ということだと思います。もちろん、はやり言葉、流行語、外来語などを除いた「基本語としての言葉」についてです。

「言葉」は「文化」を構成する最大の要素だと思いますが、新規性や革新を取り入れると同時に「積み重ねで進化する」のが文化であり、言葉だと思います。

次回に続く)


 補記 

この記事の本文で

  最近、全然+肯定という使い方が広まってきたが、これは本来の使い方ではない」という意見が30年以上前からあったと推定できる

との主旨を書きました。しかし30年以上前どころか少なくとも50年以上前からあったようです。そのことが分かる新聞記事を引用します。この記事は No.145「とても嬉しい」で引用したものですが「全然+肯定」に言及しているので、その部分を再掲します。朝日新聞社の記者(ないしは校閲関係の人)が書いたと推測されるコラム記事です。原文に下線はありません。


全然

このごろの若い人たちは「あの映画は全然いいんだ」とか「あそこの食事は全然うまいよ」とかいう。この場合の「全然」は「非常に」「大変」という意味である。

しかし、「全然」は本来は「全然出来ない」「全然感心しない」のように、否定の言い方を伴う副詞で、意味は「まるっきり」である。それを「全然いい」「全然うまい」と肯定表現に使うものだから、年寄りたちからは、とんでもない使い方だと非難されている

「言葉のしおり」
朝日新聞(1964年10月6日。朝刊。9面)

ちなみにこのコラム記事が掲載された日付は、東海道新幹線の開業(1964.10.1)と東京オリンピックの開幕(1964.10.10)の間にあたります。

ブログの記事本文に書いたように「全然+肯定は誤用という迷信」が広まったのは昭和20年代後半(1950年~1954年)と推定されるのでした。上記の朝日新聞の記事はそれから10年程度たっていて、そのときすでに「全然+肯定はとんでもない使い方だ」と非難する "年寄りたち" がいたことになります。しかしその "年寄りたち" が10代~50代の頃は「全然+肯定」が正しい言葉として使われていた(使っていた)わけです。

以上をまとめると、

  「全然+肯定」に関して
最近「全然+肯定」をよく聞く("最近" が誤り)
これは誤用である("誤用" は迷信)
正しい日本語を使おう
という言説が1964年以前から現在まで50年以上にわたってずっとあり、今また2015年4月7日の朝日新聞の投書欄に出現した

わけです。朝日新聞に投書された方は49歳なので、その方が生まれる前から延々と続いているということになります。まさに世代を越えて迷信が受け継がれているわけです。今後もまだ続くのでしょう。




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No.143 - 日本語による科学(2) [文化]

前回より続く)

分類学は分類の科学である(ドーキンス)


英語の "高級語彙" は普通の人には分かりにくい(前回参照)という事情から、英米の科学者が一般向けに書いた本の日本語訳を読んでいると、ときどき「あれっ」と思う表現に出会うことがあります。

リチャード・ドーキンス(1941 - )は英国の進化生物学者・動物行動学者で、世界的に大変著名な方です。特に、著書である『利己的な遺伝子』(1976)はベストセラーになりました。これは巧みな比喩を駆使して現代の進化学を概説した本です。その続編の一つが『ブラインド・ウォッチメーカー』(1986)ですが、この本の中に次のような一節が出てきます。


分類学タクソノミーは分類の科学である。ある人々にとっては、分類学はどうにもならぬくらい退屈だという評判であったり、ほこりっぽい博物館や保存液の匂いを思わず連想させたりするものであり、ほとんど剥製術タクシダーミーと混同されているかのようだ。だが、実際には、決して退屈どころではない。

リチャード・ドーキンス
中嶋康裕・他訳
『ブラインド・ウォッチメーカー』第10章
(早川書房 1993)

「分類学は分類の科学である」とは、分かりきったことを言う奇妙な文章です。しかし原文に当たってみるとその理由が分かります。


Taxonomy is the science of classification.

Richard Dawkins
"The Blind Watchmaker"(1986)

盲目の時計職人.jpg
リチャード・ドーキンス
「ブラインド・ウォッチメーカー」
(早川書房 1993初版)
ドーキンスは taxonomy が、英語を母語する一般人にとって難しい言葉だと認識していて、それを説明する文章を書いているわけですね。classify(分類する)は分かるし、classification(分類)も分かる。しかし taxonomy は難しい。一方、日本語訳の「分類学」は、そういう学問があることを全く知らなかった人にとっても何をするものかが一目瞭然です。

この文章のあとの方に出てくる "タクシダーミー(taxidermy, 剥製術)" は、日本語の意味は明快ですが、英語としては taxonomy に輪をかけて難しい言葉です。この言葉を知っている普通の日本人はいないだろうし、英米人も非常に少ないはずです。普通、博物館にある「剥製」は stuffed animals とか stuffed birds と言うからです。そういう日常語と taxidermy は全く結びつかない。ではなぜドーキンスは「taxonomy が taxidermy と混同されている」と書いているのでしょうか。そんなことありえないはずなのに。

これはドーキンス流のウィットだと思われます。辞書を引くと taxonomy の taxo- も taxidermy の taxi- もギリシャ語の taxis に由来していて、「配列」「順序」「整理」という意味だとあります。まさに前回にもあった「ギリシャ語由来の造語要素」なのです。博覧強記のドーキンスはそれを理解していて「混同」という "ありえないこと" を書いたのでしょう(たぶん)。



余談になりますが、ドーキンスという人は科学(彼の場合は進化学)のキモのところを適切な自然言語(英語)に置き換えてイメージ膨らませる技に長けています。The Selfish Gene(利己的な遺伝子)という題も、遺伝子を擬人化した selfish(利己的)という言葉を使って、現代進化論の基礎をうまく言い表しています。

盲目の時計職人(新版).jpg
リチャード・ドーキンス
「盲目の時計職人」
(早川書房 2004新版)
The Blind Watchmaker もそうです。我々は「盲目のピアニスト」や「盲目のヴァイオリニスト」がいることを知っています。しかし「盲目の時計職人」は知らない(いない)。えっ!と思わせる題で、現代進化論が結論づける「進化の機構」を言い表している。

この本の日本語訳を「ブラインド・ウォッチメーカー」とするのは、全くいただけません。"ブラインド" も "ウォッチメーカー" も一般的なカタカナ英語ではないし、"ブラインド"は別の意味の言葉として一般的です。「盲目の時計職人」の方がよほといい。この本の訳者は、言葉(自然言語)が持つ「イメージの喚起力」が理解できていなかったようです。著者のドーキンスは科学における言葉の重要性を十分に理解して題をつけているというのに ・・・・・・。

なお、このことを反省したのか、2004年に「盲目の時計職人」と改題され、新装版で発売されました。本の表紙を見ただけで、なじみのある日本語(漢字)が持つイメージの喚起力が明白です。それは前回に紹介したように、鈴木・慶応大学名誉教授が強調していることでした。


漢字による造語のデメリット


今まで造語要素としての漢字の意義を書いてきたのですが、漢字による造語と引き替えに同音異義語が多数発生したことは確かです。特に「同じジャンルやカテゴリーの同音意義語」が混乱のもとになる。典型的なのは「しりつ(市立いちりつ)」と「しりつ(私立わたくしりつ)」ですね。学校の経営主体を表す用語が同音だと、言い分けをせざるを得なくなります。

何か売り買いするという「売」と「買」が同じ音であるのも、同じカテゴリーなので混乱のもとです。従って「ばいしゅん(売春)」と「ばいしゅん(買春かいしゅん)」というように区別せざえるを得なくなります。そもそも「日本語による科学」というテーマの、その「かがく(科学)」と「かがく(化学ばけがく)」が同じカテゴリーの同音意義語なのです。

しかし考えてみると、日本語の音節の数は100程度であり、これは世界の言語の中でも極めて数が少ない方です。英語は数千から(数え方によっては)1万以上と言われています。日本語で同音意義語が発生するのはやむをえないとも言えるでしょう。さらに、同音意義語と言えども「同じジャンルでない同音意義語は意外と問題にならない」とも言えます。

また漢字の問題点として、アルファベットに比べると数が多いため(文科省の常用漢字だけで約2136字)、印刷物の作成が大変だ(素人にはむずかしい)ということがありました。しかしこれは、コンピュータ技術の発展で劇的に変わりました。いわゆる「日本語ワープロ」の発達と、その後のパソコンの「ワープロ・ソフト」の普及です。今やワープロという言葉は死語になっていて、パソコンやスマホを使う人は各種アプリの入力画面で、ごく自然に日本語入力をしています。

  ちなみに、松尾義之氏の『日本語の科学が世界を変える』(以下『前掲書』)に指摘してあるのですが、韓国はハングル優先で漢字を棄てました。これは韓国の将来にとって良いことなのか悪いことなのか。100年・200年というレンジで考えたときに禍根を残すことになるやしれません。漢字が広まった東アジア文化圏ではベトナムも漢字を捨てました。本家本元の中国(および台湾)と日本だけが漢字に固執している。

つまり日本は「中国語とは全く違う言語体系でありながら、なおかつ漢字=表意文字を使っている国」です。漢字はもともと中国からの輸入品ですが、完全に日本化しています。これこそが日本文化の独自性の最大のものの一つだと思います。これを生かさない手はないのです。

さらに補足すると、漢字は「偏」や「つくり」という「文字を構成する部品」が意味をもっていることが多いわけです。正確に言うと、漢字は「表意部品文字」です。


日本語で科学する


科学における日本語環境(もっと広くは、学問、政治、経済、社会全般の日本語)を作る上で漢字が果たした役割の話が長くなりました。それを含めて「日本語と科学」について、前回(No.142 - 日本語による科学(1))から今までの議論を振り返ってまとめると、以下のようになります。

科学の領域では、日本語で思考することがマイナス要因にはならない
  ノーベル賞(サイエンス分野)で言うと、21世紀になってから現在まで(2001~2014)に日本人受賞者は13人います(功績をあげた時点で日本国籍だった南部博士、中村教授を含む)。平均すると毎年1人の割合で受賞者を出しているわけで、これは欧米以外では日本だけです。この中で最も "日本語べったり" なのが「外国に行ったことがなく、英語が全くしゃべれない」益川博士でした(前回参照)。

日本語で論理的思考が十分に可能である
  日本語のネイティブ・スピーカーである日本の科学者は、日本語で思考をしています。科学は論理的思考が必要な人間活動の最たるものです。日本語で論理的思考が十分に可能であるからこそ、ノーベル賞受賞者を輩出するまでになるのです。

日本語で最先端の研究ができるまでになれる「日本語環境」が揃っている
  日本語で最先端の研究をするためには、そこまでに至る勉強、知識の修得、思考の訓練が必要です。日本にはそのために必要な言葉(専門用語)と日本語テキストがそろっています。

音読みと訓読みの二重構造をもつ日本の漢字が、科学における日本語環境(学術用語・科学用語)を作り上げる上で多大な貢献をした

この最後の点に関して、前回(No.142 - 日本語による科学(1))で何度か引用した鈴木・慶應義塾大学名誉教授は、次のように言っています。


たしかに漢字の学習には時間がかかるかもしれない。しかしひとたび学習された漢字は、日本人の日常卑近な生活のレベルに必要な安定したことばと、抽象度の高い高級な概念とを連結する真に貴重な言語媒体としての機能があったことを、改めて認識する必要があるのではないだろうか。

鈴木孝夫『閉ざされた言語・日本語の世界』
(新潮選書。1975)

この鈴木教授( = 言語学者)のコメントと類似性を感じるのが、物理学者のハイゼンベルクの考えです。ハイゼンベルク(1901-1976)は、現代物理学の基礎となっている量子力学を作りあげた一人で、20世紀の理論物理学の巨人です。彼は『現代物理学の思想』で、言葉( = 自然言語)と物理学の探求の関係を次のように言っています。


現代物理学の発展と分析のもっとも重要な特徴の一つは、自然言語の概念は漠然と定義されているが、知識を発展させる際には、制限された現象の群からの理想化として作られた科学言語の明確な言葉よりも、いっそう安定しているように思われるという経験である。これは事実、驚くに当たらない。というのは自然言語の概念はリアリティと直接結びついて形成されているからで、これらはリアリティを表している。

ハイゼンベルク著 河野・富山訳
『現代物理学の思想』
第11章「人間の思考における現代物理学の役割」
(みすず書房。1989。1967初版)
(原書の出版は1958年)

関係代名詞をそのまま訳したような、分かりにくい日本語訳ですが、要約すると、

  自然言語は知識を発展させる土台となる安定した言語である。それはリアリティと直結しているからこそ安定している。

ということです。自然言語に対比されるのが「科学言語」で、それは数式や化学式、論理式のたぐいです(特に物理学においては数式)。さらにハイゼンベルクは次のように述べています。


我々が既知のものから未知のものへと進むとき、いつでも我々は理解したいと望むであろうが、しかし同時に「理解」という語の新たな意味を学ばなければならない。いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならないことを我々は知っている。

ハイゼンベルク『同上』

現代物理学の思想.jpg
ハイゼンベルク
「現代物理学の思想」(新版)
(みすず書房。1967初版)
ハイゼンベルクの前に引用したの鈴木教授の言う「抽象度の高い高級な概念」とは、前に挙げた語句のリストでも分かるように、主として学術用語です。鈴木先生は「日常卑近な、生活のレベルに必要な、安定したことば」と学術用語の関係を述べているわけです。一方のハイゼンベルクは、物理学の探求における言葉(自然言語)の果たす役割を考えている。言語学と物理学という全くジャンルが違う学者ですが、二人の言っていることには非常に共通するものがあるように見えます。それは、

  日常使う、リアルなイメージをもった言葉による「理解」の重要性

です。引用した二人の文章に共通しているのは「安定」というキーワードですね。安定した言葉による知的活動の重要性を、二人は言いたかったのだと思います。

ハイゼンベルクの言葉には、さらに二つのキーワードがあります。一つは「リアリティ」です。これは外界の事物、社会概念、身体感覚、感情などのすべて指していると思います。もう一つは、自然言語が「漠然と定義されている」ということです。かみ砕いて言うと、自然言語のもつ「曖昧性」と「多義性」だと思います。言葉の意味は境界線が厳密に引かれているわけではないし、一つの言葉は多様な意味に使われる。実は「リアリティ」にもとづくからこそ、自然言語には曖昧性・多義性があるのです。「リアリティ」は変化するし、人によってとらえ方が違う。「リアリティ」にもとづかない、たとえば数学用語などはいくらでも厳密に、一意に定義できます(そうでないとまずい)。さらに、曖昧性や多義性があるからこそ、自然言語は安定していると言えます。言葉のコアの意味を保持しつつ、「リアリティ」の変化や解釈の相違に柔軟に追従していける。最も安定した建造物とは、大地の揺れに最も "しなやかに" 追従できる建物(例:五重の塔)、という事実に似ています。

「リアリティ」に根拠をもち、曖昧性・多義性があり、かつ安定している自然言語を用いるからこそ、人間は深く考えられるし、新たな発想を生み出せる・・・・・・。ハイゼンベルクの言葉はそう解釈できると思います。そしてこのような性質を強くもった自然言語とは「母語」であることは言うまでもないでしょう。外国語として習得した言語では(外国で生活しているのでない限り)限界がある。それが「母語で考える」ことの意味だと思います。



ところで、ハイゼンベルクは言葉と科学の関係について、さらに次のように述べています。


この前の大戦以来(引用注:第二次世界大戦)、日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的実体の間に、なんらかの関係があることを示しているのではあるまいか。今世紀(引用注:20世紀)の始め頃にヨーロッパでまだ広く行われていた素朴な唯物的な思考法を通ってこなかった人たちの方が、量子論的なリアリティの概念に適応することがかえって容易であるかもしれない。

ハイゼンベルク『同上書』

極東( = 日本)の文化的伝統があったからこそ、日本の学者は理論物理学に大きな貢献ができたのではないか」という主旨の推測(ないしは仮説、予想)ですが、次にこのことを考えてみたいと思います。


「日本語による科学」は有利か


「日本語による科学」が「マイナス要因にはならない」ということを通り越して「積極的に有利だ」ということがあるのでしょうか。

これは非常に難しい質問です。というのは、仮に日本語が有利だ(有利な面がある)としても、それを証拠とともに証明することは困難だと考えられるからです。益川博士がもしアメリカで生まれて英語環境で育っていたらノーベル賞をとれたか、というような質問には答えられません。

また仮に「日本語による科学」が他言語(たとえば英語)より有利な面があるとしたら、「英語による科学」も日本語より有利なことがあると想定できます。人間の思考の道具となっている言語の違いが発想の違いを生むはずだからです。

以上を踏まえつつ「日本語による科学は有利か」ということを考えてみると、一つは鈴木名誉教授が指摘する、漢字の造語要素としての優秀性でしょう。つまり「日常卑近な、生活のレベルに必要な安定したことばと、抽象度の高い高級な概念とを連結する、真に貴重な言語媒体としての漢字」(著書より再度引用)です。

これ以外に「有利」と想定できる要素が日本語にあるでしょうか。それを示唆する話が、松尾義之・著『日本語の科学が世界を変える』にあります。それは、「日本語には英語で表現しきれない科学の概念がある」という指摘で、その一つが「物性」という言葉です。


(日本語では普通に使われているのに、英語には翻訳できない科学用語の)例の一つが「物性」という言葉である。東京大学には物性研究所という素晴らしい研究機関があるし、日本の物理学の中には物性論という明確なジャンルも存在している。「物質の性質を原子論的立場から研究する科学」である。ところが「外国語にはこれに相当する適切な言葉はない」と『理化学辞典』(岩波書店)にも書いてあるのだ。アメリカでは近い言葉に condenced matter physics があるが、これはほぼ100%、凝縮系物理学と翻訳されており、物性という言葉にはなりえない。

一時期、固体物理学(solid state physics)というジャンルが物性物理学に近いことがあった。エレクトロニクスなどを支えた学問分野である。材料科学(material science)もかなり物性論に近い言葉だ。それでも、超伝導などは物性論以外には入れにくい。まさにハイゼンベルク博士の言う自然言語としての「物性」は、このように間口の広い言葉なのだ。それは決して悪いことではない。

松尾義之『前掲書』

日本における物理学の領域を研究対象のスケールに応じて大まかに分けると「素粒子」「物性」「地球物理」「宇宙物理」というのが一般的でしょう。特に「物性」の研究者が多い。この「物性」が日本語独自の概念だというのは、ちょっと意外です。

さらに別の科学概念の話を、松尾氏は編集者としての経験から書いています。


日本の生物物理学を作り上げた大沢文夫おおさわふみお博士(1922~、名古屋大学・大阪大学名誉教授)とは『瓢々楽学』という単行本を作ったが、その時も、「英語では表現しきれない概念があるのですよ」という話が出てきた。その一例が「生き物らしさ」だという。これは「生物のような」という意味ではなく、「生物の生物たる根本の欠くことのできない必須条件でありながら、ある種のしなやかな漠然とした一面も含んだ特徴」とでもいうようなことだ。大沢博士は、「生き物らしさという日本語表現は、英語では決して表現できない。それを追い求めるのが真の生物物理学だ」とおっしゃっていた。

松尾義之『前掲書』

「生き物らしさ」が英語では表現できない、とは重要な指摘だと思います。もし、ある日本の研究者がいて「私のライフワークは生き物らしさの追求だ、すべての研究はそこにつながるようにしよう」と思ったとしたら、そういう研究者は日本以外にはいないことになるからです。その研究者を突き動かしているのは、実は「言葉」なのではないでしょうか。

  ちなみに「生物の必須条件でありながら、しなやかな漠然とした一面も含んだ特徴」という「生き物らしさ」の "定義" で直感的に連想するのが、No.69-70「自己と非自己の科学」で述べた人間の免疫(獲得免疫)のシステムですね。免疫は生物に必須の精緻なシステムですが、同時に柔軟で、冗長で、かつ曖昧なものでした。

さきほどの「物性」もそうです。私の専門は「物性」だと意識している研究者は、もちろん個々の研究は物性の中の極く一部なのだろうけれども、折に触れて「物性という間口の広い視野」で思索にふけるでしょう。東京大学の物性研究所に集結している科学者たちは、一人一人の研究分野は狭いはずですが、研究所仲間の内部情報に自然に接しているはずです。その内部情報は、物性という、英語化できない日本語によってひとくくりにされた情報なのです。

言葉は人間の思考と行動に影響を与えます。そのことを軽く考えてはならいと思います。


日本語こそ武器


以上のことから推測できることがあります。英語では表現し難い日本語の科学概念があるということは、英語にも日本語にしにくい科学概念があるだろう、ということです。そう考えるのが自然です。

そして、ここまでくると気づくのは、日本の科学者は日本語と英語の科学概念の両方に接している、という事実です。前回(No.142 - 日本語による科学(1))の冒頭の益川博士のインタビューにあったように、日本の科学者は英語論文を読まないと研究ができません。もちろん英語と日本語の科学概念は、同一意味内容のものが大多数でしょう。科学なのだから、そうでないとまずいわけです。しかし「生き物らしさ」にみられるように「日常語に近い概念や思考方法を表すことば」や「まだ世界的にも定まっていない新しい概念」は、言語による微妙な相違が多いのではないでしょうか。

日本の科学者は、科学の探求において日本語と英語の両方に接している・・・・・・。これとは全く対照的なのがアメリカ生まれのアメリカ人科学者です。アメリカの科学者は最も自国内に「引きこもる」率が高いと言われています。日本人科学者はよくアメリカに留学するが、アメリカ人科学者はあまり外国に留学したりしない。なぜなら、自国で世界最先端の研究に接することが十分にできるからです。しかも生まれてから研究生活までずっと英語です。すべてが英語でこと足りるのです。

以上のような考察からすると、日本人科学者にとって英語は必要条件だが十分条件ではないと言えるでしょう。英語をいくら頑張ってみても「よくできたとして英米人なみ」なのです。著書を引用した科学ジャーナリストの松尾義之氏は、次のように表現しています。


再認識すべきは、少なくとも日本の創造的な科学者にとって、英語は必要ではあっても十分な武器ではない、ということだ。最大の武器、それは日本語による思考なのだ。

松尾義之『前掲書』

これは「そこにしかないもの、その人しかできないことがまずあり、それをいかに強みに転化できるかが勝負である」という、世の中の通例と同じだと思います。それは国の経済発展から地方再生まで、さらには個人の社会に対する貢献までを貫いている原理です。


日本語の将来:ハンディキャップの克服


前にワープロの発明が日本語のハンディキャップを劇的に解消した、その証拠にワープロという言葉自体が死語になってしまった、と言いました。このように、技術で日本語のハンディキャップを解消する努力は今後も続くはずです。この面で将来あたりまえになるだろうと確信できるのが「日本語・英語の自動同時通訳」です。自動同時通訳に必要な要素技術は、

音声認識
自然言語認識(文脈解析)
自動翻訳
音声合成
以上を超高速に処理する技術

などですが、すでにGoogleなどでは無料の自動翻訳ができます。Googleの翻訳が使いものになるかどうかは議論があると思いますが、ビジネス・ユースの有料の翻訳ソフトはもっと精度が高い。専門用語の辞書も各種揃っています。また、スマホに向かってしゃべれば答えを返してくれるところまできている。

は、いわゆる人工知能(AI)の研究の一分野ですが、人工知能研究は最近急激に進歩しています。IBMの「ワトソン」というコンピュータはクイズ番組で人間に勝ったことで有名ですが、日本の大手銀行ではコールセンターの質問回答業務に「ワトソン」の導入が始まりました。

日本でも国立情報学研究所の新井紀子教授が主導する「ロボットは東大に入れるか?」プロジェクト(略称:東ロボ)が有名です。ロボットに東大入試問題を解かせようとするプロジェクトですが、これが20年前なら新井教授は「正気ではない」と見なされたでしょう。ちなみに、東ロボ君が完成するということは「東大入試レベルの英文和訳と和文英訳が、合格点をとれる程度に、機械で可能になる」ということです。東ロボ君が英語を「捨てて」いるのなら別ですが。

最近の人工知能研究の発展は、大量のサンプル・データを集め、それを "機械学習" でコンピュータに学習させる手法の進歩に負うところが大きい。「日本語・英語の自動同時通訳」でも、今後「プロによる同時通訳のデータ蓄積」がものすごく貴重になると思います。日本の文部科学省も「科学技術立国・日本」を標榜するなら、小学校での英語教育だけでなく「日本語・英語 自動同時通訳」の研究開発を主導してもらいたいと思います。これは日本しかできない(日本しか絶対にやらない)研究です。

実用性の高い「日本語・英語の自動同時通訳」が将来できることは確実だと思います。そうなったとき、日本人は改めて "何が本当に貴重なのか" に気づくと思います。


日本語論の必要性


現在までに多くの「日本語論」が書かれてきましたが、そのほとんどは文科系の学者や評論家、作家などによるものであり、対象とする日本語は「普段使いの日本語」か、文芸作品(小説、評論、詩歌など)がほとんどでした。これはこれでよいのですが、問題は、学問を探求する言葉としての日本語、特に科学技術を探求する言葉としての日本語を論じた日本語論がほとんどないことです。この視点からの日本語論は「科学技術立国・日本」としては、十分、論ずるに値すると思います。

今の日本には「カタカナ英語」や「カタカナの英語もどき」が氾濫しています。ジャーナリズム、官庁の文書、スポーツ、ファッション、サービス業、ブランド名などに蔓延している。これらの中には十分日本語で表現可能なものが多々あります。

マスメディアは今だに「ぜ書き」をしていますね。「腹くう鏡手術」を「腹くう鏡手術」( = NHK)とあえて書く意味は何かあるのでしょうか(2010-2014年に群馬大学病院で肝臓切除手術を受けた8人が死亡した事件などの報道)。漢字にルビを振ることなど、今の技術では簡単です。「ふくくうきょう」でカナ漢字変換すれば一発で「腹腔鏡」と出てくる時代です(たった今その操作をしました)。マスメディアが時代錯誤なことを続けていると「腔」という字がもつ「体に関係したことで何らかの空洞を示す」というイメージが失われていくでしょう。漢字は "偏" や "つくり" に意味があることが多く、つまり「表意部品文字」でもあるのです。「腔」を学校で教えなくても、また書けなくてもかまいません。見たときに音と意味が分かればいいのです。これは「腔」という字の問題でなく「一事が万事」ということです。

こういったジャーナリズムはさておき、せめて科学技術の世界だけは、英語を英語として尊重にすると同時に、日本の科学技術の武器としての日本語を大切にして欲しいと思います。新しい科学の概念が出てきたら、漢字の造語機能を生かして新しい語を創り出し、日本語で深く考える環境を維持して欲しいと思うわけです。

「科学する言葉としての日本語論」に、今後期待したいと思います。




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No.142 - 日本語による科学(1) [文化]

いままでに、言語が人の思考方法や思考の内容に影響を与えるというテーマで何回か書きました。

No. 49 - 蝶と蛾は別の昆虫か
No. 50 - 絶対方位言語と里山
No.139 - 「雪国」が描いた情景
No.140 - 自動詞と他動詞(1)
No.141 - 自動詞と他動詞(2)

の5つです。今回もその継続で、科学の研究と日本語の関係がテーマです。なお以下の文章は、

  松尾義之『日本語の科学が世界を変える』
筑摩書房(筑摩選書)2015

を参考にした部分があり、この本からの引用もあります。著者の松尾氏は『日経サイエンス』副編集長、日本経済新聞出版局編集委員、『ネイチャー・ダイジェスト』編集長などを勤めた科学ジャーナリストです。以下で『前掲書』とは、この松尾氏の本のことです。


益川敏英 博士


益川敏英.jpg
益川敏英
2008年12月7日、スウェーデン王立科学アカデミーにて
(Wikipedia)
科学ということで、ノーベル物理学賞の話から始めます。ノーベル物理学賞と言えば、2014年に日本の赤崎勇・天野浩・中村修二の3氏が青色LEDの開発で受賞したことが記憶に新しいところです。しかしその6年前にも日本の3氏が受賞しました。2008年に素粒子研究で受賞した南部陽一郎・小林誠・益川敏英の3氏です。これも日本人の記憶にまだ残っているのではないでしょうか(中村、南部の両氏の受賞時の国籍はアメリカ)。

この2008年のノーベル物理学賞で大変に驚いたことがあります。それは益川敏英としひで博士に関することです。先生は世界最高クラスの物理学者でありながら、

今まで外国に行ったことがなく
受賞が決まったときにはパスポートを持っていなかった

というのです(朝日新聞デジタル版 2008.10.8 など)。

世界レベルの学者なら、学会で海外に行き、発表・講演を(英語で)行い、海外の学者と議論をし・・・・・・というのが普通でしょう。しかし益川博士はこういった「外まわり」のことは共同研究者の小林博士にまかせ、ご自分は日本に「引きこもって」おられたようです。ノーベル賞の受賞式では受賞者が英語でスピーチをするのが恒例ですが、益川博士は日本語で行いました。朝日新聞の2014年11月26日の紙面に益川博士のインタビュー記事が載っているのですが、「僕は語学が大嫌い」と語ったあとで、次のようにおっしゃっています。


ちなみにノーベル賞受賞記念のスピーチも、恒例の英語ではなく日本語で済ませました。英語の字幕付きで。英語でやれと言われたら、行く気はなかったですよ。

益川敏英としひで
朝日新聞(2014.11.26)
17面(オピニオン面)

確か、ノーベル文学賞を受賞した川端康成氏(No.139「雪国が描いた情景」参照)は日本語でスピーチをされたはずで、それは日本文学の作家としてありうると思います(ただし大江健三郎氏は英語だったはず)。しかしサイエンス分野のノーベル賞での日本語スピーチというのは益川博士が初めてです。

英語でスピーチをやれと言われたのなら受賞式には行かなかった、と言う益川博士の「語学嫌い」は若い時からのようです。


僕は語学が大嫌いです。学生時代もまったく勉強しませんでした。物理の本を読んでいるほうが、はるかに楽しかった。

こんな生き方も、かつてはギリギリ許されました。大学院の入試で僕が苦手のドイツ語を白紙で出して問題にされたときも、「語学は入ってからやればいい。後から何とでもなる」といって通してくれた先生がいた。電子顕微鏡の世界的権威の先生でした。

朝日新聞(2014.11.26)

もちろん益川博士は英語の論文を読みます。そうしないと世界の最先端の研究動向、研究成果を知ることはできないからです。


こんな僕でも、実は英語は読めます。「読む」の1技能です。だって興味のある論文は、自分で読むより仕方がない。いちいち誰かに訳してもらえませんから。

ただし、いんちきをします。漢字がわかる日本人なら漢文が読めるのと同じです。物理の世界だったら基本的な英単語は知っています。あとは文法を調整すればわかる。行間まで読めます。小説だとチンプンカンプンですが。

朝日新聞(2014.11.26)

学者としての研究成果を発表するときには、世界共通語である英語で論文を書く必要があります。益川博士の英語論文を書く力はどうなのでしょうか。推測できることは、全く英文を書けないということはないにしても、書くのは大の苦手ということです。なぜかと言うと、インタビューの中で "「読む」の1技能" と語っているからです。「1技能」とは「話す・聞く・読む・書く」の4技能のうちの1技能ということですね。つまり基本的に英語を「読む」以外はできない、と言っている。

しかしたとえ英文を書くのが大の苦手でも、日本語で論文を書いて専門家に英訳してもらうことは出来るし、"ブロークンな" 英文をネイティブ・スピーカーにチェックしてもらうこともできる。益川博士は名古屋大学や京都大学に在籍されてきたので、そういった環境は十分あると推測できます。



ところで、益川博士のノーベル物理学賞受賞で明確に分かったことは、

  英語がまったくしゃべれないのに、世界の第1級の科学研究をした日本人がいる

という事実です。「そんなこと別に不思議でも何でもない」と、多くの日本人は考えると思います。つまり、益川博士は天賦の才に恵まれ、ものごとを深く考える力があり、発想も豊かで、勉強家で、努力家だったのでノーベル物理学賞に値する仕事をした、英語ができなくても不思議ではないという風に(無意識に)思うのではないでしょうか。

しかし日本以外からの目でみると大変に不思議なことかもしれないのです。特に中国や韓国の科学者からみると「驚くべきこと」である可能性が大です。それはインタビューの中に出てきます。「大学院入試のドイツ語答案を白紙で出した」という、益川博士の "華麗な" 経歴が目に付くインタビューですが、核心は以下のところです。


ノーベル物理学賞をもらった後、招かれて旅した中国と韓国で発見がありました。彼らは「どうやったらノーベル賞が取れるか」を真剣に考えていた。国力にそう違いがないはずの日本が次々に取るのはなぜか、と。その答えが、日本語で最先端のところまで勉強できるからではないか、というのです。自国語で深く考えることができるのはすごいことだ、と。

彼らは英語のテキストに頼らざるを得ない。なまじ英語ができるから、国を出ていく研究者も後を絶たない。日本語で十分に間に合うこの国はアジアでは珍しい存在なんだ、と知ったのです。

朝日新聞(2014.11.26)

益川博士の発言の「自国語」は、母語( = Mother Tongue. ないしは、ネイティブ・ランゲージ)と言った方が、より意味がはっきりすると思います。生まれて初めて覚えた言葉、社会に出るまでに自然と習得し、毎日の日常生活に使い、ものごとを考えるときに無意識に使っている言葉、それが母語です。日本人は「母語で最先端の科学的内容までを深く考えられる」わけです。それは世界でみると必ずしも一般的ではなく、むしろ少ないのです。特に東アジアでは・・・・・・。


日本人学者は日本語で科学する


一般に、日本で生まれ日本に在住している日本人科学者の「研究と言葉の関係」を整理すると次のようになると思います。

英語の論文を読む。
日本語で考え、仲間と日本語で議論する。
研究成果を英語の論文で発表する。
学会で英語のスピーチをし、議論する。

もちろんは日本語の論文もあるだろうし、の英語で話すについては、流暢な人からカタコトの人まで、さまざまだと思います。しかし大多数の科学者はからまでをやっているわけです。益川博士は特別で、を全くやってこなかったということになります。

とは言うものの、科学の研究でもっとも重要なのは新しい発見や発想、独創性であり、その一番大切なところはの「考える」であることは言うまでもないでしょう。我々は通常気にも留めないのですが、益川博士に代表される日本人科学者の活躍から言えることは、

日本語で科学的思考ができる
日本語で科学の問題について深く考えることができる

ということです。さらに、日本語で科学的思考ができる学者になるためには、中学・高校・大学と、成長の過程において日本語で学習できる環境がなければなりません。

日本語で最先端の研究ができるまでになれる「日本語環境」がそろっている

からこそノーベル賞にまで到達できるわけです。科学を自由自在に理解するための用語・概念・知識・思考法が日本語で十二分に用意されている。それは、欧米以外の国では珍しいことなのです。『前掲書』で著者の松尾氏は次のように言っています。


世界を見渡しても、欧米の言語と全く異質な母国語を使って科学をしている国など、聞いたことがない。

松尾義之『前掲書』

ちなみに、サイエンス系のノーベル賞(物理学賞、化学賞、医学・生理学賞)において、母語が非欧米言語というのは日本人がほとんどです。中国出身者(益川先生とおなじ素粒子論です)がいますが、大学時代にアメリカに移住しアメリカで研究成果をあげた、いわゆる中国系アメリカ人です。

以上のことから論理的に導かれる結論があります。

科学の領域では、日本語がマイナス要因にはならない
日本語で論理的思考が十分に可能である

の2つです。少なくともこの2つは確実です。後者に関して言うと、人間のあらゆる活動の中で、科学は「論理的思考」が必要な最たるものです。日本語での論理的思考ができるからこそノーベル賞にまで到達できるのです。


科学の日本語環境を作った先人


振り返ってみると、日本語で学問の研究ができる環境をまず作ったのは、江戸後期の先人たちの努力でした。江戸後期の蘭学では大量の書物が日本語に訳されました。杉田玄白に代表される「医学」は、日本人なら誰でも知っているところです。「神経」「軟骨」「動脈」などの、現代日本人になじみの深い医学用語は、杉田らが作り出したものです。

これを引継ぎ、組織的・大々的にやったのが江戸幕府と明治政府です。そして、学問に関する数々の日本語を作り出したことで有名なのが西にしあまねです。西周は津和野藩の出身で、森鷗外の親戚です。彼は江戸幕府が設置した蛮書調所ばんしょしらべしょの教授手伝(今でいう準教授)に任命され、西欧の学問を日本に吸収するセンターとしての存在になりました。蛮書調所は明治時代になって開成学校となり、やがて東京帝国大学へとつながっていきます。

西にしあまね(1829-1897。文政12年-明治30年)は現在も使われている多くの学術用語、政治・法律・経済・社会用語を作り出しました。その学術用語のごく一部をランダムにあげると、数学哲学天文学心理技術芸術命題規則関係権利定義真理存在分数積分微分物質分子重力圧力摩擦子音母音、などがあります(小泉 たかし・慶應大学名誉教授の研究による)。そもそも「科学」という言葉も西周の創造だと強く推定されています。また西周だけでなく、同時代に活躍した数々の人たちが近代日本の発展をささえる日本語を作り出していきました。これらの言葉の多くは中国・朝鮮に「逆輸出」されました。



ところで、上に述べた学術用語は漢字を用いて構成されています。漢字の存在が、科学のための日本語環境を作り出す上で極めて重要な役割を果たしたのです。


漢字の効果


No.17-6 日本語と外国語.jpg
鈴木孝夫
「日本語と外国語」
(岩波新書 1990)
日本語の漢字は「音」と「訓」があり、「訓」は漢字の意味を表す読み方です。日本語は音節数が極めて少ないので、漢字の「音」だけでは同音異義語が多数発生します。日本人は耳から言葉を聞いたとき、それがどういう漢字に相当するかを想像して(=文字表記を思い浮かべて)意味を把握するという頭の活動を、無意識に、瞬間的にやっています。この脳の働きは、日本人なら小学校から訓練されているわけです。この「音と訓の二重性」という漢字の特性が、日本語における学術用語・科学用語を作り出す上で多大な貢献をしました。

これを現代の「世界共通語」である英語と比較してみると、英語の学術用語において日本語の漢字に相当するのがギリシャ語・ラテン語に由来する造語要素です。このあたりの事情を、慶應義塾大学名誉教授の鈴木孝夫氏が『日本語と外国語』(岩波新書 1990)で解説されていました。『日本語と外国語』という本は過去に2回引用しましたが、そこでとりあげた鈴木名誉教授の指摘は、

"虹の色を何色と数えるかは国によって違う。必ずしも7色ではない" ── No.17「ニーベルングの指環(見る音楽)」
"フランスとドイツでは、蝶と我を同じ言葉であらわす" ── No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」

の2つでした。今回で3回目ということになりますが「日本語による科学」を考える上で重要なことなので、以下に引用します。


英語を少しでも深く学んだ人ならば、誰でも経験することの一つに、いくら覚えても切りがないほど、難しい単語が次から次へと出てくるということがある。

たとえば読書中に osmotic pressure という表現に出会って、辞書を引くと《浸(滲)透圧》のことだと書いてある。次に exudation とあって、これも調べてみると《浸(滲)出(液)》という訳語がついている。このような難しい単語は、物理化学や医学が専門の人ならば、専門用語として頻繁ひんぱんに使うから、いつしか頭に入ってしまうものだが、普通の人にはなかなか覚えにくいものである。

その理由は、一般にこの種の英語は辞書によってその意味を知ったあとで、改めて字面じづらを見直してみても、なるほどそうかと思う手がかりが、どこにもないからである。自分がそれまで知っている普通の英語の、たとえば ooze、soak、pierce(引用注:それぞれ "しみ出る" "ひたす" "穴をあける" の意)などのどれとも、ことばの上で関係づけることが出来ないから、ただ全体をそのまま丸暗記するほかはない。だからすぐ意味を忘れてしまい、次に出てきたとき、再び辞書を引き直す羽目になるのである。困ったことに英語ではこのような《難しい》単語が何百、何千とある。

ところが日本語の場合だと、たとえ浸透圧とか浸出液などという、あまり日常的でない用語を初めて見ても、文章の前後関係などから、大体の意味の見当がつくことが多いと思う。仮に辞書を引く必要があった人でも、説明を読んでしまえば、なるほどそうかと、今更のように意味の理解が字面と対応する場合がしばしばある。

なぜこのような違いが日本語と英語の間にみられるかと言えば、それは日本語では、日常的でない難しいことばや専門語の多くが、少なくともこれまでは、それ自体としては日常普通に用いられている基本的な漢字の組み合わせで造られているのに、英語では高級な語彙ごいのほとんとすべてが、古典語であるラテン語あるいはギリシャ語に由来する造語要素から成り立っているからなのである。

鈴木孝夫『日本語と外国語』
(岩波新書 1990)

鈴木教授は「古典語であるラテン語あるいはギリシャ語に由来する造語要素」という部分の注釈で、英語における

  It's all Greek to me.

という表現が「チンプンカンプン」という意味だと書いています。そういえばこの表現は昔、学校で習った気がします。そして『日本語と外国語』では、英語における "It's all Greek to me 的な単語" のサンプル・リストが掲げられています。これを引用してみましょう。

1.claustrophobia 24.orthopedics
2.podiatrist 25.brachycephaly
3.otorhinology 26.gymnosperm
4.cephalothorax 27.apivorous
5.graminivorous 28.chlorophyll
6.heliotropism 29.pachyderm
7.seismograph 30.palindrome
8.centrifugal 31.ornithology
9.concatenation 32.ophthalmology
10.kleptomania 33.limnology
11.anthropophagy 34.photophobia
12.acrophobia 35.obstetrics
13.pediatrics 36.cephalopod
14.hydrocephalus 37.oesophagus
15.pithecanthrope 38.catalyst
16.piscivorous 39.labiodental
17.selenotropism 40.centripetal
18.gingival 41.procrastination
19.palingenesis 42.ichthyology
20.decapod 43.dolichocephaly
21.leukemia 44.hygrometer
22.prognostication 45.lactobacillus
23.hydrophobia   

おそらく普通の(専門家でない)日本人は、これらの単語の大多数が分からないと思います。中学から大学まで英語を学んだとしても分からない。私もそうです。かろうじて 23.hydrophobia と 28.chlorophyll だけは意味が分かります。28.はカタカナ英語としてもありうるからですが、23.はたまたま知っていたとしか言いようがありません(なぜ知っているのだろう?)。

しかし、分からないのは我々が日本人だからということではなく、鈴木教授によると普通の英米人にとってもこのリストの単語の意味は理解しづらい( = It's all Greek to me.)ということが後に出てきます。

この、普通の日本人にとって「ほとんどチンプンカンプンのリスト」も、日本語訳のリストにすると劇的に理解できるようになります。

1.閉所恐怖症 24.整形術
2.足病医 25.短頭
3.耳鼻科 26.裸子(植物)
4.頭胸部 27.蜂食性
5.草食性 28.葉緑素
6.向日性 29.厚皮獣
7.地震計 30.回文
8.遠心性 31.鳥類学
9.連鎖 32.眼科
10.盗癖 33.湖沼学
11.食人 34.羞明
12.高所恐怖症 35.産科
13.小児科 36.頭足類
14.水頭症 37.食道
15.猿人 38.触媒
16.魚食性 39.唇歯音
17.向月性 40.求心性
18.歯茎音 41.遅延
19.再生 42.魚類学
20.十足類 43.長頭
21.白血病 44.湿度計
22.予知 45.乳酸(菌)
23.狂水病   

なぜ日本人はこのリストの語句の意味が分かる(ないしは意味が推定できる)のか。その理由は「日本語だから」というのでは答えになっていません。真の理由は、

  日常使う漢字で表現された日本語だから

です。その証拠に、

  このリストには、今まで全く聞いたことも読んだこともない語句があるけれど、それにもかかわらず意味が推定できる

のです。たとえば 2.podiatrist(足病医)ですが、そんな医者がいるとは(私は)全く知りませんでした。日本にはないからです。しかし英国・米国では podiatrist がいて国家資格まであるそうです。では、そういった国家資格がない国の英語のネイティブ・スピーカーは podiatrist の意味が分かるでしょうか。分からないのではと思います。ところが日本語では「足の疾病を専門に扱う医者」だという推定ができるのですね。

28.蜂食性(apivorous)も、そんな言葉があるとは全く知らなかったけれど「蜂を食べる習性」だと推測できます。従ってもし本に「蜂食性の鳥」とあれば、その意味は明快です。しかし「apivorous birds」の意味が分かる一般の英米人はまずいない。生物学者だけが理解できる言葉だからです。鈴木先生も解説しています。


この日本語に対応する英語の apivorous とは、ラテン語の apis(蜂)と《食べる性質の》を表す vorus の組み合わせなのであって、その意味はまさに蜂食性なのである。この語はしかし、英語では生物学者にしか分からない専門語である。

つまり英語の高級語彙では、このようにほとんどの造語要素がギリシャ語かラテン語であるために、自分がそれまで知らなかった語の大体の意味を、ただ見ただけ聴いただけで察することは、古典語の素養のない一般の人にとっては非常に難しい。

しかし日本語のそれは造語要素のほとんどが、日常的な漢字であるために、たとえ初見の語でも、およその検討がつくのである。

鈴木孝夫『日本語と外国語』

鈴木先生は「造語要素」と書いています。それに習ってこの文章にも「造語要素」を使いました。この4文字熟語は今までに読んだ記憶がないし、まして使ったことは絶対にないと思います。それでも意味はパッと分かるし、また、誰もが理解できるだろうと思うからこそ使うわけです。漢字の威力の例です。あまりにあたりまえ過ぎて、それが「威力」だとは誰も意識しないだろうけれど。

英米人にとっては難しい単語(しかし日本人は理解できる単語)の解説を続けると、6.heliotropism、 17.selenotropism の例です。


植物の、太陽に向かって伸びていく性質が向日性で、月光を求めて成長する傾向が向月性だといわれても、日本人はあまり驚かない。ところが英語では、前者が heliotropism 、後者が selenotropism となる。ギリシャ語で「太陽」が helio(s) で、「月」が selen(e)、「動く」が tropein ということを知らなければ、自分で作ることはおろか、見ても分からないのである。

鈴木孝夫『日本語と外国語』

引用に出てくる「自分で作る」とは、たとえば「月光を求めて成長する傾向」という意味の単語を新たに "自分で作る" という意味です。日本語なら普通の人がそういう単語を作ることもできる、しかし英語では「作ることはおろか、見ても分からない」という文脈です。

今までに出てきた単語に使われていた漢字を列挙すると「足」「病」「医」「蜂」「食」「性」「向」「日」「月」です。これらは日常的に使う(見る)漢字です。専門用語と言えども、日常使う漢字で表現された日本語だから理解できることが明白です。

このことは裏を返すと、

  日常的に使わない漢字を使った語は、意味が推定しにくい

ということになります。鈴木先生のリストで言うと羞明しゅうめいがそれに当たるでしょう。「羞」という漢字はあまり使わないため、意味がとりにくい。辞書をみると「強い光によって眼に痛みや不快感が生じること」とあり、森鷗外の『青年』から「鈍い頭痛がして目に羞明を感じる」という文が例示してあります。「羞」は「恥じる」意味です。おそらくそのことを示すために、わざわざこの語句が入っているのではないでしょうか。



日本人は理解できるが、英米人にとっては難しい単語の例を、鈴木先生はご自身の体験をあげて説明しています。リストの 15. pithecanthrope にまつわる話です。


実を言うと、英語のこの難しさは、何も外国人である日本人にとってだけでなく、英語を母語とする人々にとっても厄介なのだ。私は米国のある著名な大学で、日本語の漢字のしくみについての講演を行った際に、黒板に pithecanthrope と大書きしてその意味を聴衆に尋ねたところ、誰一人として答えられなかった。これは日本語の猿人に当たる語で、pithec- の部分はギリシャ語の猿を意味する πίθηκος に由来し、-anthrope は人間を指す άνθρωπος である。

鈴木孝夫『日本語と外国語』

これがもし日本の大学だとすると、たとえ文系学科の学生を対象にした講演であれ「猿人」意味を知らない大学生がいるとは想像できません( ・・・・・・ と考えるのがノーマルなはずですが、最近の大学生は学力が低下したということなので、いるかもしれない !?)。"anthrope は人間を指す" ということに関係しているのですが、鈴木先生の別の体験談もありました。


私は先日ある小説の中で、若い女のタイピストが、anthropology(人類学)という言葉に出会って、はてこれなんのことだろうと考えるところに出会った。この女だけ教養がないためなのか、それとも一般のタイピストはこの程度の言葉も知らないのかを私は知りたいと思い、イギリス人の学者で、森鷗外の研究をしているケンブリッジ大学出身の知人に尋ねたところ、大学を出ていないタイピストならば、このような言葉を知らないのは当然だと教えてくれた。

ところが日本語ならばどうであろうか。「人類学」が、正確には何を研究する学問か分からなくても、「人類」が「ひとのたぐい」、「すべてのひと」を意味する言葉だということは、それこそ中学生でも知っているだろう。

しかし英語で anthropo- または -anthrope が、ギリシャ語の「人」を意味する言葉だということは、必ずしも普通人の知識ではないのである。

鈴木孝夫
『閉ざされた言語・日本語の世界』
(新潮選書。1975)

次回に続く)


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No.141 - 自動詞と他動詞(2) [文化]

前回から続く)

前回の No.140「自動詞と他動詞(1)」において、次の主旨を書きました。

日本語は同じ語幹を有する自動詞・他動詞のペア(対・つい)が極めて豊富に揃っていて、日常よく使う動詞を広範囲に網羅している。

日本語のネイティブ・スピーカーはこの動詞のペアをごく自然に、無意識に使い分けていて、表現したい意味内容を変え、また言葉に微妙なニュアンスを与えている。

このことが日本語の話者の思考方法や思考内容にまで影響している

前回は だけで終わり、言葉の使い分けや思考方法への影響まで話が進まなかったので、今回はそれを中心に書きます。いわば本題です。


ついになる自動詞と他動詞の使い分け


前回の「対になる自動詞と他動詞の分類」に従って、その使い分けを見たいと思います。前回、自動詞は「自然の流れとしてそうなる・そうなった」という意味合いであり、他動詞は「人為的に、意志的にそうなった」という意味だとしました。この「自然」と「人為」の使い分けがテーマです。

もちろん日本語のネイティブ・スピーカーなら誰でも使い分けができるので、言わば「分かりきった」ことなのですが、日頃は無意識に言葉を使っていることも多いので改めて振り返ってみる意味があると思います。ただしこの種の言葉の使い分けは人それぞれの言語感覚によって差異がでてくることは当然です。以下はあくまで典型的と思われる例です。前回に引き続いて、以下のローマ字は動詞の連用形の語尾です。

決まる (自動詞・五段 -ARI)
決める (他動詞・一段 -E)

-ARI の語尾をもつ自動詞(五段動詞)に対応する他動詞は一段動詞であることが多いのですが、その例です。

会議で決まった(自)
会議で決めた(他)

そもそも会議は人間の行為なので「決める」が適切なはずです。出席者の総意で決めるケースや、また多数決で決めたり、リーダーの裁定で決めることもあるでしょう。いずれにせよ、人為=他動詞的であることは間違いありません。しかしわれわれは「会議で決まった」とよく表現します。自動詞(自然)で表現すると、さまざまなニュアンスが生まれる感じがします。たとえば、

会議で決まったけれど自分は反対だ」
いまさら言うなよ。皆で決めたことじゃないか」

という会話が成立するように、自分はその決定に納得していない時には自動詞表現になります。従って「会議で決めたけれど自分は反対だ」という表現はちょっと変です。また、その場の流れで決まったとか、その場の空気でそう決まったというケースでは「決まる」しか使えないわけです。

閉まる (自動詞・五段 -ARI)
閉める (他動詞・一段 -E)

ドアが閉まります(自)
ドアを閉めます(他)

駅のアナウンスですが、このどちらが多いでしょうか。私が通勤に使っている4駅(首都圏。JRおよび私鉄)では「閉まります」が圧倒的に多い。ホームの駅員さんがワイヤレスマイクでアナウンスするときに「閉めます」ということが時々ある程度です。

電車のドアは、車掌さんが "乗客に最大限の注意を払って閉める" わけで、人為的行為の最たるものです。自然に「閉まる」のでは怪我人が出ます。従って「ドアを閉めます」(他動詞)でいいようですが、実際のアナウンスは「ドアが閉まります」(自動詞)の方が多い。これについて、少々古いですが興味深い新聞記事がありました。以下に引用します。


閉まります 閉めます!に
JRホーム 駆け込み乗車防げ
関西・首都圏 駅員の工夫ひろがる

「ドアを閉めます!」──。最近、JRなどの駅のホームで、これまでの「閉まります」との表現より、語気が若干強めのアナウンスが流れるようになった。背景にあるのは一向に減らない駆け込み乗車。関西の一駅長の試みをきっかけに駅員レベルで輪が広がり、首都圏でも実施する駅が出てきた。ささやかな「一言」がどれだけ効果を上げるか注目を集めそうだ。

「閉めます」との表現は、JR西日本福知山線の宝塚駅(兵庫県宝塚市)で2001年8月から始まった。発案者は当時の駅長とされる。同社はこれまでも安全や運行の妨げとなる駆け込み乗車の対策を実施。京阪神地区を中心に毎年ポスターを約四千枚作るなどしてきたが効果は乏しく、駅員レベルで「口調を強めて防止を図る」というユニークな対応を始めた。

結果は上々、無理な乗車が減り、乗降がスムーズになったという。管内では現在、宝塚駅のケースを参考に大阪、鶴橋、京橋、天王寺駅など数駅で同様のアナウンスが流れている。

首都圏でも一部の現場駅員から、こうした動きが広がりつつある。JR東日本の品川駅では一部駅員らが同様の放送を行っている。「無理な駆け込みがあった場合などに、語気を強め『閉めます!』ということがある」(同駅駅員)という。発車間際に「ドアは閉まっております」などとも放送し、駆け込み防止に努めているという。

アナウンスは社内で統一されているわけではない。JR西日本は「一部駅の『閉めます』とのアナウンスは把握しているが、会社としての指導ではない」と静観の構え。JR東日本も「テープ音声は『閉まります』。口頭でも基本はあくまでソフトな語感に」と話す。

首都圏では京浜急行が1973年から「閉めます」とのアナウンスを続ける。ただ、同社はこの年からワイヤレスマイクを導入、ドアの開閉を担当する車掌自らがアナウンスするようになったためで、JRの自主的な対応とは異なるという。

抜本的対策がない駆け込み乗車に、静かな試みが徐々に効果を上げるかもしれない。

日本経済新聞(2003-5-17)夕刊

この記事を自動詞と他動詞の関係で要約すると、

他動詞である「閉めます」は人為的・意図的行為を示すから、自動詞の「閉まります」よりは "強く" 響く。

ドアを閉める車掌自らがアナウンスをする京浜急行では、言葉の使い方として他動詞の「閉めます」になる。むしろそう言うしかない。

ということでしょう。JR西日本管内では「結果は上々、無理な乗車が減り、乗降がスムーズになった」とあります。人は「他動詞の人為性」を感じて駆け込むのを思い止まるようになったということでしょう。自動詞と他動詞の相違は、人の一瞬の判断と行動に微妙な影響を与えるようです。

またがる (自動詞・五段 -ARI)
またぐ (他動詞・五段 -I)

数は少ないですが -ARI の語尾をもつ自動詞に、五段動詞の他動詞が対応するケースがあります。またがる・またぐ、つながる・つなぐ、さる・す、などです。

隅田川にまたがる橋(自)
隅田川をまたぐ橋(他)

この二つはどう違うのでしょうか。仮に写真を撮ったとして、そこに遠景として橋が写っているときには「隅田川にまたがる橋」がより適切な感じがします。自然に溶け込んだ橋、風景の一部としての橋、という感じです。

しかし橋のたもとに立って、向こう岸までを見渡す構図で橋を撮ったとすると「隅田川をまたぐ橋」と言いたい感じがします。その方がよりダイナミックな表現であり、軽い擬人化とも言える。また、その橋の工事が難工事で、建設会社の方々の苦労をしのぶような文脈では「3年の歳月をかけて隅田川をまたぐ橋をかけた」となるでしょう。より静的で自然としてある感じの自動詞と、より動的で人為的な他動詞のニュアンスの違いだと思います。

たつ (自動詞・五段 -I)
たてる (他動詞・一段 -E)

前回の No.140「自動詞と他動詞(1)」で分類したように、連用形の語尾が -ARI でも -SI でもない五段動詞は、内部からの成長や変化など「自然にそうなる」が通常の意味の場合に自動詞になります。

腹がたつ(自)
腹をたてる(他)

の使い分けを考えてみると、「彼のあのモノの言い方には本当に腹がたつ」というように、普通の人であればおのずとその状態になることを示す場合は自動詞(=自然)の「たつ」が普通です。しかし「その発言を聞いて、彼は非常に腹をたてた」というように、立腹するのがその人の特別の事情であったり、その人だけであったり、また理不尽な立腹であったりという時には他動詞(=人為)の「たてる」を使った表現になるでしょう。もちろんこの二つの境目は厳密には決められません。人によって使い方にも差異があるでしょう。

浮かぶ (自動詞・五段 -I)
浮かべる (他動詞・一段 -E)

彼の目に涙が浮かんだ(自)
彼は目に涙を浮かべた(他)

3つのカナが違う2つの表現の違いです。「その状況なら誰しも涙を浮かべるだろう」と想定できるときは自動詞が適切でしょう。一方「彼は映画を見てすぐに涙を浮かべる」というように、個別の事情やその人の個性なら他動詞が適当です。もちろんこの二つの間にはさまざまシチュエーションがあるので厳密に分かれるわけではありませんが、使い分けの傾向としてはそうでしょう。

とれる (自動詞・一段 -E)
とる (他動詞・五段 -I)

五段動詞が他動詞になり一段動詞と対応するケースです。外部に影響を与える動詞や、人の行為が普通の状態と見なせる動詞は他動詞になります。

   れたてのビデオ(自)
   りたてのビデオ(他)

以前にNHKの朝の情報番組で「とれたてマイビデオ」というコーナーがありました。視聴者が撮って投稿したビデオ映像を紹介するコーナーです。今なら「とれたてマイ動画」になるのでしょうか。

ユニークな映像を撮影してテレビ局に投稿するのは極めて人為的な行為です。わざわざ投稿する視聴者は「狙って」しかるべき場所に行き、「狙って」撮っているのでしょう。コーナーの名前としては「とりたてマイビデオ」が適当なはずです。

しかしNHKとしては、視聴者が「たまたま」ユニークな事象の発生現場に居あわせ、「たまたま」ビデオを持っていたので「急いで」撮影したというような含意や "ものがたり" を前提に投稿ビデオを紹介したいのだと思います。だから「とれたてマイビデオ」というタイトルになる。つまり「人為」を排したものとして紹介したい。あくまでアマチュア・カメラマンなのだから・・・・・・。これがもしNHKのプロのカメラマンが今しがた送ってきた映像を紹介するのなら「撮りたてのビデオ」となるはずです。それが人為的・意図的な行為であることは放送する側も視聴者も了解しているからです。

   れたての野菜(自)
   りたての野菜(他)

同じ「とれる・とる」ですが、二つの表現の違いです。よくスーパー・マーケットが近隣の農家と契約し、その日の朝に収穫した野菜を販売したりします。その状況で考えると、どちらも野菜の新鮮さを強調する表現であることは同じです。

野菜を収穫するのはあくまで人間の行為です。しかし自動詞の「とれたて」を使うと、その人間の行為というよりも「大自然の恵み」「野菜そのものの生命力」というようなニュアンスを強く感じます。対する他動詞文は本来の「とる」行為であり、農家の方が新鮮な野菜を消費者に届けるために夜明け前から収穫し、日の出と同時に出荷してスーパーの開店に間に合わせた、というような「農家の方の努力」を暗黙に感じます。「朝どりの野菜」という場合もその例です。

とける (自動詞・一段 -E)
とく (他動詞・五段 -I)

あの数学の問題、解けたよ(自)
あの数学の問題、解いたよ(他)

難しい数学の問題を解くのは人の行為であり、他動詞である「解く」を使うのが妥当です。しかし上の他動詞文には自慢するようなニュアンスがあり、場合によっては「自分には難しい問題を解く能力が備わっているから、あの問題も解けた」という含意も出てくるでしょう。それはそれでかまわないし、努力した結果なら「解いた」と言って問題ありません。

一方、自動詞文の方は個人の能力というより「あれこれ考えて試行錯誤していたが、あるときフッとひらめいて問題が解けた」というような感じです。数学の問題を解くのは人間の考える力なのですが、それを越えた「啓示」があって解けたという感じもある(大袈裟に言うと)。努力したことには違いないが、同じ事象を表現するにしてもポイントの置き方が違ってきます。

冷える (自動詞・一段 -E)
冷やす (他動詞・五段 -SI)

五段動詞の連用形が -SI の語尾を持っていて、それが他動詞のサインになるケースです。

ビールが冷えてるわよ(自)
ビールが冷やしてあるわよ(他)

こういう時に他動詞文を使うのは、暗に「自分はよく気が付く人間だ」ということを匂わしている雰囲気があります。家庭内ならいいのですが、一般には自動詞文の方が相手を尊重し、自分の気遣いをほのめかすことなく、押しつけがましさがないという意味で適当でしょう。

こわれる (自動詞・一段 -E)
こわす (他動詞・五段 -SI)

おもちゃが壊れた(自)
おもちゃを壊した(他)

子供は親に「僕が壊したんじゃない、壊れたんだよ」と抗弁するでしょう。「壊れた」と「壊した」の境目は、

そのモノにとっては通常で自然な状態での出来事 = 自動詞
何かしらの通常ではなく自然とは言えない状態での出来事 = 他動詞

です。もし、おもちゃをボールのように投げ合っていたのであれれば「壊した」のでしょう。日本語においては「通常・自然」= 自動詞、「非通常・非自然」= 他動詞という例がいろいろあります。子供は、おもちゃが壊れたときにその言い訳をしながら、日本語の自動詞と他動詞の使い分けを学ぶというわけです。

落ちる (自動詞・一段 -I)
落とす (他動詞・五段 -SI)

-SIの語尾をもつ五段動詞(他動詞)に上一段動詞(-I)が対応するケースがあります。落とす・落ちる、伸ばす・伸びる、起こす・起きる、などです。

木立の葉は、すっかり落ちていた(自)
木立は葉をすっかり落としていた(他)

木は自然物なので、その描写は自動詞文が普通です。しかし木立を軽く擬人化し、冬支度のために自ら葉を落とすかのように表現することは可能です。

財布が落ちましたよ(自)
財布を落としましたよ(他)

自分が財布を紛失したことを他人に言うときには、他動詞文の「財布を落とした」です。財布を紛失しないようにすることは、財布を持つ者としての当然の注意義務です。自分に関して「財布が落ちた」とはまず言いません。

しかし他人に注意してあげるときは自動詞文(落ちましたよ)を使うことも多い。それは財布が落ちた事実を "ありのままに" 表現しています。人に対する「気遣い」と言えるでしょう。注意するときに他動詞文(落としましたよ)を使うと「本来やるべき注意を怠ったために落ちた」というようなかすかなニュアンスが出てきます。「落とす」のは意図的行為ではありませんが「注意を怠る」という人為です。

散らかる (自動詞・一段 -I)
散らかす (他動詞・五段 -SI)

-ARI の場合と同じように、五段動詞(他動詞 -SI)と五段動詞(自動詞)の対応もあります。

この部屋、ずいぶん散らかってるね(自)
この部屋、ずいぶん散らかしてるね(他)

これも、さっきの「財布が落ちる・財布を落とす」と似ています。1文字の違いですが、他動詞文(散らかしてるね)には「整理しないあなたが悪い」という非難のニュアンスがあります。しかし自動詞文は事実をそのまま言っていて、たとえ整理しないことを問題にするにせよ、それがマイルドになっている感じがします。



以上に書いたような「自動詞・他動詞の使い分け」が、日本語の話者にどういう影響を与えているのかを考えてみたいのですが、まずその前に、No.50「絶対方位言語と里山」で紹介したスタンフォード大学の実験を振り返りたいと思います。


言葉の構文が認知能力(記憶)に影響する


スタンフォード大学の実験とは、英語話者とスペイン語・日本語話者の認知プロセスの違いを示した実験です。一般に英語の話者は「誰かが何かをする」という形で物事を表現する傾向があります。たとえ偶発的事象であっても「男が花瓶を壊した」といった他動的構文を好みます。

それに対して日本語やスペイン語の話者は、偶発的事象を述べる際には行為の主体に言及することはあまりありません。「花瓶が壊れた」というように表現します。スペイン語では、直訳すると「花瓶がそれ自体を壊した」という、いわゆる「再帰動詞」の表現になりますが、行為の主体に言及しないことは同じです。

スタンフォード大学のグループは、次のような非常に巧妙な実験で言語の違いが記憶に与える影響を見い出しました。まず英語、スペイン語、日本語の話者に、男が故意または偶然のいずれかで風船を割り、卵を割り、飲み物をこぼすビデオを見せます。ビデオに登場する男は故意と偶然で違います。ビデオを見る目的はあらかじめ告知されていません。

ビデオを見せたあと、予告なしの記憶テストをします。つまり目撃したそれぞれの出来事について、警察での面通しのように2枚の顔写真のうちどちらの男が実行したかを指定させます。また、ビデオの出来事を自分の言葉で述べてもらいます。

この結果、予想どおりのことが判明しました。まず故意の出来事については、3つの言語の話者は皆「男が風船を割った」のように行為の主体を明示する形で述べ、誰がその意図的行為をしたかをよく覚えていました。

しかし偶発的事象に関しては、スペイン語と日本語の話者は英語を話す人に比べ、行為の主体を明示して述べることが少なく、これに対応して誰がそれをしたかに関する記憶が英語の話者に比べて弱いものでした。記憶力が悪いためではありません。意図的行為の主体については英語の話者と同様によく覚えていたからです。

この実験が示しているのは、記憶はその人の言語に影響されるということです。行為の主体を明示した構文を使う傾向が強い言語(英語)と、明示する構文・しない構文を使い分ける言語(日本語とスペイン語)では、認知力(記憶)の相違が生まれるのです。



以上のことも踏まえて、日本語の「自動詞・他動詞の使い分け」が日本語の話者にどういう影響を与えているのかを考えてみたいと思います。この記事であげた数少ない使い分けの例だけから一般論を言うことは出来ないのですが、もうちょっと広く、自分自身の振り返りや経験も含めての考えです。


日本語の「自動詞バイアス」


自動詞(自然)と他動詞(人為)のついは、コトを記述する「見方の違い」です。従って、

  木はすっかり葉を落として冬に備えていた。

というように、明らかに「自然」の範疇(落ちる)であるものを擬人化し、他動詞を使って表現することができます。

しかし言葉は人間社会についてのものが圧倒的に多いわけです。そこには「自然にそうなった」ものもあるが「人の意志・行為」に属することが大部分だと言えるでしょう。その「人為」を、日本語の話者は他動詞と自動詞の二つに言い分けています。人為を他動詞で表すのは普通です。しかし人為を自動詞(自然)で表す場合は、そうする暗黙の意図があると考えられます。そして、われわれ日本語の話者は人為を自動詞(自然)で表すことが実に多く、それが思考方法や思考の内容に影響していると思うのです。英語において「その考えが彼を鼓舞した」式の表現が多用されるのとは極めて対照的です。

ちょっと余談になりますが、「人為」を「自然の流れ」として表すことで象徴的なのは「する」と「なる」の使い分けです。少し改まった言い方で、

  《A》このたび下記住所に引っ越すことになりました。
  《B》このたび下記住所に引っ越すことにしました。

という表現を考えると、圧倒的に《A》が多いのではないでしょうか。引っ越しは、転勤のように自分の意志ではないこともありますが、新居の購入や、子供が大きくなったから広い住居に移るなど、自分の意志による転居も多いわけです。しかし、たとえ自分の意志にしろ《A》が普通でしょう。《B》のように言うと「引っ越しについての、何かしらの特別な理由」が裏にあるのではと感じてしまいます。たとえば「隣の家とのトラブルで」とか「交通機関が不便なので」とか「騒音などで住環境がよくないので」とかです。普通に持ち家を買ったとか、職場の近くへとか、広い住居に移るとかであれば《A》が無難です。

  《A》私たちは結婚することになりました。
  《B》私たちは結婚することにしました。

も同じです。両家の親が決めた人と結婚するというのは現代日本では皆無でしょうから、結婚は 100% 本人同士の意志の問題です。しかし《B》のように言うと「通常の結婚を越えた、何かしらの含意」をかすかに感じる。「親の反対を乗り越えて」とか「赤ちゃんができたから」とかです。従って、できちゃった婚と誤解されないためには(?)、《A》の「結婚することになりました」が無難です。

本題に戻ります。「人為」を自動詞(自然)で表すことは「ついになる自動詞と他動詞の使い分け」であげた例をみても、ある種の効果をもつことが分かります。自分の行為であれば、あえて動作主を消すことによって「押しつけがましさ」を排除し、相手を気遣い、尊重することになります。相手や第三者の行為であれば、状況を「無色透明」に言うことによってマイルドな表現になり、非難の口調を和らげたりもできる。

しかしそのことは同時に「責任や主体性の稀薄化や、曖昧な理由による意志決定」をもたらすことにもなると思います。その典型的な表現が、最初にあげた、

  《A》会議で決まった。
  《B》会議で決めた。

という例だと感じます。明らかに《B》の「決めた」ことなのに《A》のように表現することによって、無意識に「責任」や「主体性」が曖昧になるのではないでしょうか。意識せずにそういった曖昧性が忍び込むのではないでしょうか。ヒトは言葉で考えるのだから・・・・・・。

日本語では動詞の連用形をそのままの形で名詞として使います。「決まり事」「決め事」というようにです。しかし「決まり」はそれ単独で名詞として通用しますが、「決め」という形では名詞として使いません。こんな所にも日本語の「自動詞好き」の象徴のように思います。

  《A》ルールが変わった。
  《B》ルールを変えた。

も同じです。それなりの理由があって、総会(議会、理事会、委員会、・・・・・・)の決議で、あるいはリーダーの意志決定でルールを「変えた」のです《B》。または「ルールが変えられた」わけです。それを《A》のように言うことによって、または《A》という言葉で認識することによって「変えた主体」の希薄化が始まり、我々の思考を微妙に束縛していくのではないでしょうか。

ちょっと飛躍するようですが、ある本を連想しました。山本七平・著「空気の研究」(文藝春秋。1977)です。これは、日本でものごとを決めるのは「空気」であることを暴いた日本文化論です。この本の最初に、驚くべき日本現代史のエピソードが書かれています(原文にルビはありません)。


驚いたことに、「文藝春秋」昭和50年8月号の『戦艦大和』(吉田満監修構成)でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀ととする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至ないし根拠は全くなく、その正当性の根拠はもっぱら「空気」なのである。

山本七平『「空気」の研究』
(文春文庫。1983)

これを遠い昔の話とか、戦争中だけの話と思うのはまずいでしょう。現在でも「空気が読めない = KY」という嫌な言葉があるように、当然のごとくに「空気で決まる」という状況が綿々と続いています。

このような日本文化のありよう(のひとつ)は、歴史的な蓄積や教育やメディアなどの重層的な影響で培われ維持されていると思うですが、それをになっているものの一つに「日本語」があると思います。つまり「会議で決まった」「ルールが変わった」という言い方を容易に選べる日本語システムです。これが日本語の話者の思考パターンや思考の内容に「暗黙に」「微妙に」「話者が意識することなく」「知らず知らずのうちに」影響していると思うのです。

これは、いいとか悪いとかの話ではありません。ただ、日本語は「語幹を共有する自動詞と他動詞のつい」が豊富に揃っていることによって「人為(他動詞)を自然(自動詞)で容易に表現できる言語」であり、もっと言うと「人為を自然の成り行きと考えるバイアス」がかかる言語だと思います。日本語でものごとを考えるということは、そういった無意識のバイアスがかかりやすい。そのことを認識しておくことが重要だし、その認識は明らかに日本語で考える人たちのメリットになると思います。


補足 : 対になる自動詞と他動詞のリスト


以下に「対になる自動詞と他動詞のリスト」を掲げます。このリストを一瞥すると、日本語における「動詞の対のシステム」が網羅的かつ規則性をもってできていることが分かります。ここには約600の動詞を掲げましたが、おそらく(複合動詞を除いて)動詞の半分ぐらいをカバーしているのではないでしょうか。

青色は五段動詞 、茶色は一段動詞(下一段動詞上一段動詞)です。
ローマ字は動詞の連用形です。「 - 」は自動詞と他動詞で同じ部分を示します。
漢字表記は一例です。送り仮名は最小限にしました。
複合動詞は一部だけを掲げました(◆の動詞)。
もちろん、このリストがすべてではありません。日常使いそうなものをあげました。

自動詞他動詞






くるまる(包まる) -ARIくるむ(包む) -I
ささる(刺さる) -ARIさす(刺す) -I
つかまる(掴まる) -ARIつかむ(掴む) -I
つながる(繋がる) -ARIつなぐ(繋ぐ) -I
はさまる(挟まる) -ARIはさむ(挟む) -I
ふさがる(塞がる) -ARIふさぐ(塞ぐ) -I
またがる(跨る) -ARIまたぐ(跨ぐ) -I






おそわる(教わる)-owARIおしえる(教える) -iE
うわる(植わる) -wARIうえる(植える) -E
おわる(終わる) -wARIおえる(終える) -E
かわる(変わる) -wARIかえる(変える) -E
くわわる(加わる) -wARIくわえる(加える) -E
すわる(据わる) -wARIすえる(据える) -E
そなわる(備わる) -wARIそなえる(備える) -E
たずさわる(携わる) -wARIたずさえる(携える) -E
つたわる(伝わる) -wARIつたえる(伝える) -E
まじわる(交わる) -wARIまじえる(交える) -E
よこたわる(横たわる) -wARIよこたえる(横たえる) -E
あがる(上がる) -ARIあげる(上げる) -E
あずかる(預かる) -ARIあずける(預ける) -E
あたたまる(暖まる) -ARIあたためる(暖める) -E
あたる(当たる) -ARIあてる(当てる) -E
あつまる(集まる) -ARIあつめる(集める) -E
あらたまる(改まる) -ARIあらためる(改める) -E
あわさる(合わさる) -ARIあわせる(合わせる) -E
うかる(受かる) -ARIうける(受ける) -E
うすまる(薄まる) -ARIうすめる(薄める) -E
うずまる(埋まる) -ARIうずめる(埋める) -E
うまる(埋まる) -ARIうめる(埋める) -E
おさまる(納まる) -ARIおさめる(納める) -E
かかる(掛かる) -ARIかける(掛ける) -E
かさなる(重なる) -ARIかさねる(重ねる) -E
かたまる(固まる) -ARIかためる(固める) -E
かぶさる(被さる) -ARIかぶせる(被せる) -E
からまる(絡まる) -ARIからめる(絡める) -E
きまる(決まる) -ARIきめる(決める) -E
きわまる(極まる) -ARIきわめる(極める) -E
くるまる(包まる) -ARIくるめる(包める) -E
ことづかる(言付かる) -ARIことづける(言付ける) -E
さがる(下がる) -ARIさげる(下げる) -E
さずかる(授かる) -ARIさずける(授ける) -E
さだまる(定まる) -ARIさだめる(定める) -E
しかかる(仕掛かる) -ARIしかける(仕掛ける) -E ◆
じずまる(静まる) -ARIしずめる(静める) -E
しまる(閉まる) -ARIしめる(閉める) -E
すたる(廃る) -ARIすてる(棄てる) -E
せばまる(狭まる) -ARIせばめる(狭める) -E
そまる(染まる) -ARIそめる(染める) -E
たかまる(高まる) -ARIたかめる(高める) -E
たすかる(助かる) -ARIたすける(助ける) -E
たまる(貯まる) -ARIためる(貯める) -E
ちぢまる(縮まる) -ARIちぢめる(縮める) -E
つかる(漬かる) -ARIつける(漬ける) -E
つとまる(勤まる) -ARIつとめる(勤める) -E
つながる(繋がる) -ARIつなげる(繋げる) -E
つまる(詰まる) -ARIつめる(詰める) -E
つよまる(強まる) -ARIつよめる(強める) -E
つらなる(連なる) -ARIつらねる(連ねる) -E
とおざかる(遠ざかる) -ARIとおざける(遠ざける) -E
とどまる(留まる) -ARIとどめる(留める) -E
とまる(止まる) -ARIとめる(止める) -E
ぬくまる(温まる) -ARIぬくめる(温める) -E
のっかる(乗っかる) -ARIのっける(乗っける) -E
はじまる(始まる) -ARIはじめる(始める) -E
はまる(嵌まる) -ARIはめる(嵌める) -E
はやまる(早まる) -ARIはやめる(早める) -E
ひろがる(広がる) -ARIひろげる(広げる) -E
ひろまる(広まる) -ARIひろめる(広める) -E
ふかまる(深まる) -ARIふかめる(深める) -E
ぶつかる -ARIぶつける -E
へだたる(隔たる) -ARIへだてる(隔てる) -E
まがる(曲がる) -ARIまげる(曲げる) -E
まざる(混ざる) -ARIまぜる(混ぜる) -E
まとまる(纏まる) -ARIまとめる(纏める) -E
まるまる(丸まる) -ARIまるめる(丸める) -E
みつかる(見つかる) -ARIみつける(見つける) -E ◆
もうかる(儲かる) -ARIもうける(儲ける) -E
もとまる(求まる) -ARIもとめる(求める) -E
やすまる(休まる) -ARIやすめる(休める) -E
ゆだる(茹だる) -ARIゆでる(茹でる) -E
ゆるまる(緩まる) -ARIゆるめる(緩める) -E
よわまる(弱まる) -ARIよわめる(弱める) -E
わかる(分かる) -ARIわける(分ける) -E
こもる(篭もる) -orIこめる(篭める) -E
ぬくもる(温もる) -orIぬくめる(温める) -E
つかまる(捕まる) -rIつかまえる(捕まえる) -E
まじる(交じる) -rIまじえる(交じえる) -E
のる(乗る) -rIのせる(乗せる) -sE
よる(寄る) -rIよせる(寄せる) -sE
ほそる(細る) -rIほそめる(細める) -mE
よわる(弱る) -rIよわめる(弱める) -mE
あく(開く) -Iあける(開ける) -E
いたむ(痛む) -Iいためる(痛める) -E
いる(入る) -Iいれる(入れる) -E ☆
うかぶ(浮ぶ) -Iうかべる(浮べる) -E
うつむく(俯く) -Iうつむける(俯ける) -E
かがむ(屈む) -Iかがめる(屈める) -E
かたづく(片付く) -Iかたづける(片付ける) -E ◆
かたむく(傾く) -Iかたむける(傾ける) -E
かなう(叶う) -Iかなえる(叶える) -E
からむ(絡む) -Iからめる(絡める) -E
きずつく(傷つく) -Iきずつける(傷つける) -E ◆
くっつく -Iくっつける -E ◆
くるしむ(苦しむ) -Iくるしめる(苦しめる) -E
しずむ(沈む) -Iしずめる(沈める) -E
したがう(従う) -Iしたがえる(従える) -E
しりぞく(退く) -Iしりぞける(退ける) -E
すくむ(竦む) -Iすくめる(竦める) -E
すすむ(進む) -Iすすめる(進める) -E
すぼむ(窄む) -Iすぼめる(窄める) -E
そう(添う) -Iそえる(添える) -E
そだつ(育つ) -Iそだてる(育てる) -E
そむく(背く) -Iそむける(背ける) -E
そろう(揃う) -Iそろえる(揃える) -E
たつ(立つ) -Iたてる(立てる) -E
たるむ(弛む) -Iたるめる(弛める) -E
たわむ(撓む) -Iたわめる(撓める) -E
ちがう(違う) -Iちがえる(違える) -E
ちかづく(近づく) -Iちかづける(近づける) -E ◆
ちぢむ(縮む) -Iちぢめる(縮める) -E
つく(付く) -Iつける(付ける) -E
つづく(続く) -Iつづける(続ける) -E
とおのく(遠のく) -Iとおのける(遠のける) -E ◆
どく(退く) -Iどける(退ける) -E
とどく(届く) -Iとどける(届ける) -E
ととのう(整う) -Iととのえる(整える) -E
ならぶ(並ぶ) -Iならべる(並べる) -E
ぬるむ(温む) -Iぬるめる(温める) -E
のく(退く) -Iのける(退ける) -E
ひそむ(潜む) -Iひそめる(潜める) -E
ひっこむ(引込む) -Iひっこめる(引込める) -E
まちがう(間違う) -Iまちがえる(間違える) -E ◆
むく(向く) -Iむける(向ける) -E
やすむ(休む) -Iやすめる(休める) -E
やむ(止む) -Iやめる(止める) -E
やわらぐ(和らぐ) -Iやわらげる(和らげる) -E
ゆがむ(歪む) -Iゆがめる(歪める) -E
ゆるむ(弛む) -Iゆるめる(弛める) -E






うれる(売れる) -Eうる(売る) -I
えぐれる(抉れる) -Eえぐる(抉る) -I
おもえる(思える) -Eおもう(思う) -I
おれる(折れる) -Eおる(折る) -I
かける(欠ける) -Eかく(欠く) -I
きれる(切れる) -Eきる(切る) -I
くじける(挫ける) -Eくじく(挫く) -I
くだける(砕ける) -Eくだく(砕く) -I
こすれる(擦れる) -Eこする(擦る) -I
さける(裂ける) -Eさく(裂く) -I
さばける(捌ける) -Eさばく(捌く) -I
しれる(知れる) -Eしる(知る) -I
すれる(擦れる) -Eする(擦る) -I
そげる(削げる) -Eそぐ(削ぐ) -I
たける(炊ける) -Eたく(炊く) -I
つれる(釣れる) -Eつる(釣る) -I
ちぎれる(千切れる) -Eちぎる(千切る) -I ◆
とける(解ける) -Eとく(解く) -I
とれる(取れる) -Eとる(取る) -I
ぬける(抜ける) -Eぬく(抜く) -I
ぬげる(脱げる) -Eぬぐ(脱く) -I
ねじれる(捩れる) -Eねじる(捩る) -I
はける(捌ける) -Eはく(捌く) -I
はげる(剥げる) -Eはぐ(剥く) -I
はじける(弾ける) -Eはじく(弾く) -I
ひらける(開ける) -Eひらく(開く) -I
ふれる(振れる) -Eふる(振る) -I
ほどける(解ける) -Eほどく(解く) -I
まくれる(捲れる) -Eまくる(捲る) -I
むける(剥ける) -Eむく(剥く) -I
めくれる(捲れる) -Eめくる(捲る) -I
もげる -Eもぐ -I
やける(焼ける) -Eやく(焼く) -I
やぶける(破ける) -Eやぶく(破く) -I
やぶれる(破れる) -Eやぶる(破る) -I
よじれる(捩れる) -Eよじる(捩る) -I
よれる(撚れる) -Eよる(撚る) -I
われる(割れる) -Eわる(割る) -I
きこえる(聞こえる) -oEきく(聞く) -I
うまれる(生まれる) -arEうむ(生む) -I ★
めぐまれる(恵まれる) -arEめぐむ(恵む) -I ★
いえる(癒える) -Eいやす(癒やす) -yaSI
こえる(肥える) -Eこやす(肥やす) -yaSI
たえる(絶える) -Eたやす(絶やす) -yaSI
はえる(生える) -Eはやす(生やす) -yaSI
ひえる(冷える) -Eひやす(冷やす) -yaSI
ふえる(増える) -Eふやす(増やす) -yaSI
もえる(燃える) -Eもやす(燃やす) -yaSI
あける(明ける) -Eあかす(明かす) -aSI
あれる(荒れる) -Eあらす(荒らす) -aSI
おくれる(遅れる) -Eおくらす(遅らす) -aSI
かける(欠ける) -Eかかす(欠かす) -aSI
かれる(枯れる) -Eからす(枯らす) -aSI
こげる(焦げる) -Eこがす(焦がす) -aSI
こじれる(拗れる) -Eこじらす(拗らす) -aSI
さめる(冷める) -Eさます(冷ます) -aSI
じれる(焦れる) -Eじらす(焦らす) -aSI
すける(透ける) -Eすかす(透かす) -aSI
ずれる -Eずらす -aSI
それる(逸れる) -Eそらす(逸らす) -aSI
たれる(垂れる) -Eたらす(垂らす) -aSI
でる(出る) -Eだす(出す) -aSI
とける(溶ける) -Eとかす(溶かす) -aSI
にげる(逃げる) -Eにがす(逃がす) -aSI
なれる(慣れる) -Eならす(慣らす) -aSI
ぬける(抜ける) -Eぬかす(抜かす) -aSI
ぬれる(濡れる) -Eぬらす(濡らす) -aSI
ばける(化ける) -Eばかす(化かす) -aSI
はてる(果てる) -Eはたす(果たす) -aSI
はれる(晴れる) -Eはらす(晴らす) -aSI
ばれる -Eばらす -aSI
はてる(果てる) -Eはたす(果たす) -aSI
ふくれる(膨れる) -Eふくらす(膨らす) -aSI
ふける(更ける) -Eふかす(更かす) -aSI
ぼける(暈ける) -Eぼかす(暈かす) -aSI
ぼやける -Eぼやかす -aSI
まぎれる(紛れる) -Eまぎらす(紛らす) -aSI
まける(負ける) -Eまかす(負かす) -aSI
むれる(蒸れる) -Eむらす(蒸らす) -aSI
もれる(漏れる) -Eもらす(漏らす) -aSI
ゆれる(揺れる) -Eゆらす(揺らす) -aSI
こえる(越える) -Eこす(越す) -SI
きえる(消える) -iEけす(消す) -eSI
あらわれる(現れる) -rEあらわす(現す) -SI
かくれる(隠れる) -rEかくす(隠す) -SI
くずれる(崩れる) -rEくずす(崩す) -SI
けがれる(穢れる) -rEけがす(穢す) -SI
こがれる(焦がれる) -rEこがす(焦がす) -SI
こなれる -rEこなす -SI
こぼれる(零れる) -rEこぼす(零す) -SI
こわれる(壊れる) -rEこわす(壊す) -SI
たおれる(倒れる) -rEたおす(倒す) -SI
つぶれる(潰れる) -rEつぶす(潰す) -SI
ながれる(流れる) -rEながす(流す) -SI
はがれる(剥れる) -rEはがす(剥す) -SI
はずれる(外れる) -rEはずす(外す) -SI
はなれる(離れる) -rEはなす(離す) -SI
ほぐれる(解れる) -rEほぐす(解す) -SI
みだれる(乱れる) -rEみだす(乱す) -SI
よごれる(汚れる) -rEよごす(汚す) -SI
いきる(生きる) -Iいかす(生かす) -aSI
こりる(懲りる) -Iこらす(懲らす) -aSI
とじる(閉じる) -Iとざす(閉ざす) -aSI
みちる(満ちる) -Iみたす(満たす) -aSI
のびる(伸びる) -Iのばす(伸ばす) -aSI
つきる(尽きる) -Iつくす(尽くす) -uSI
おきる(起きる) -Iおこす(起こす) -oSI
おちる(落ちる) -Iおとす(落とす) -oSI
おりる(降りる) -Iおろす(降ろす) -oSI
すぎる(過ぎる) -Iすごす(過ごす) -oSI
ほろびる(滅びる) -Iほろぼす(滅ぼす) -oSI






うごく(動く) -Iうごかす(動かす) -aSI
かわく(乾く) -Iかわかす(乾かす) -aSI
こる(凝る) -Iこらす(凝らす) -aSI
ちる(散る) -Iちらす(散らす) -aSI
てる(照る) -Iてらす(照らす) -aSI
なやむ(悩む) -Iなやます(悩ます) -aSI
なる(鳴る) -Iならす(鳴らす) -aSI
はげむ(励む) -Iはげます(励ます) -aSI
ふく(吹く) -Iふかす(吹かす) -aSI
へる(減る) -Iへらす(減らす) -aSI
もる(漏る) -Iもらす(漏らす) -aSI
ゆらぐ(揺らぐ) -Iゆるがす(揺がす) -aSI
わく(沸く) -Iわかす(沸かす) -aSI
およぶ(及ぶ) -Iおよぼす(及ぼす) -oSI
ほろぶ(滅ぶ) -Iほろぼす(滅ぼす) -oSI
うるおう(潤う) -Iうるおす(潤おす) -SI
あまる(余る) -rIあます(余す) -SI
うつる(移る) -rIうつす(移す) -SI
うつる(映る) -rIうつす(映す) -SI
おこる(起こる) -rIおこす(起こす) -SI
かえる(帰る) -rIかえす(帰す) -SI
くさる(腐る) -rIくさす(腐す) -SI
くだる(下る) -rIくだす(下す) -SI
くつがえる(覆える) -rIくつがえす(覆えす) -SI
ころがる(転がる) -rIころがす(転がす) -SI
さとる(悟る) -rIさとす(悟す) -SI
たる(足る) -rIたす(足す) -SI
ちらかる(散かる) -rIちらかす(散かす) -SI
とおる(通る) -rIとおす(通す) -SI
ともる(灯る) -rIともす(灯す) -SI
なおる(直る) -rIなおす(直す) -SI
なる(成る) -rIなす(成す) -SI
にごる(濁る) -rIにごす(濁す) -SI
のこる(残る) -rIのこす(残す) -SI
ひたる(浸る) -rIひたす(浸す) -SI
ひるがえる(翻える) -rIひるがえす(翻えす) -SI
まわる(回る) -rIまわす(回す) -SI
もどる(戻る) -rIもどす(戻す) -SI
やどる(宿る) -rIやどす(宿す) -SI
わたる(渡る) -rIわたす(渡す) -SI






みえる(見える) -Eみる(見る) -I
にえる(煮える) -Eにる(煮る) -I

「生まれる」「恵まれる」は「生む」「恵む」の「れる・られる」形であるが、独立した自動詞として使われる。
「入る」(自)は「悦に入る」などの慣用句、「寝入る」などの複合動詞で使う。
複合動詞。


以上をまとめたのが、No.140に掲載した下図である。ただしこの図では一段動詞の間でペアになるケース(上表の末尾)は省略した。

自動詞と他動詞.jpg



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No.140 - 自動詞と他動詞(1) [文化]

前回の No.139「雪国が描いた情景」に続いて、言葉がヒトの思考に与えている影響の話です。前回、英語を比較対照の「鏡」として日本語を考えましたが、今回も英語にまつわる経験から始めます。


聞き取れなかった車内アナウンス


いつだったか忘れたのですが、東京を中心とするJRの車内アナウンスで英語での案内が始まりました。次の駅をアナウンスすると同時に、乗り換えが案内されます。たとえば次の駅で山手線に乗り換えてくださいというケースだと、

  Please change here for Yamanote line.

というアナウンスです。

実はこのアナウンスが始まったとき、here という単語が聞き取れませんでした。中学校で習うような基本的な英単語です。二・三回アナウンスを聞いてから、そうだ here だ、と分かったのですが、自分の英語のリスニング能力に疑問符がついたようで、軽いショックを受けたものです。それで記憶に残っています。

なぜ極めてベーシックな単語が(当初)分からなかったのか、それを考えてみると「電車を乗り換える」という英語表現を

  Please change trains for Yamanote line.

 ないしは

Please change trains here for Yamanote line.

という形で記憶していて、change のあとには trains もしくはそれ相当の目的語が続くものだというアタマになっていた。それで here が聞き取れなかったと自己分析しています。英語は「誰が・何を・どうする」という文型(いわゆるSVO文型)が非常に強い言語です。電車を乗り換えるという場合の change を他動詞として記憶していたので、目的語がない(いわゆるSV文型の)アナウンスが当初は聞き取れなかったのだと思います。さらに、日本語でも「乗り換える」と他動詞表現を使うので、英語も当然そうだという暗黙の意識があったのかもしれません。ちなみに、乗り換えてくださいというアナウンスでは transfer を使う鉄道会社もあります。"Please transfer for Yamanote line." というようにです。

この件で一つ明らかなことは、英語においては change という同じ単語で同一の意味内容( = 電車を乗り換える)を表す時でも、目的語があったりなかったりするということです。もちろん実用上メジャーな言い方はどちらかなのでしょう(なお、Please change trains here for ・・・・・・ というアナウンスも使われています。たとえば東海道新幹線)。



中学校から英語を学び始めてからずいぶん時間がたつのですが、日本語のネイティブ・スピーカーとして英語に抱いている "暗黙" の違和感は、change のように、英語では目的語をとらない自動詞と目的語をとる他動詞を同じ単語で表す(のが非常い多い)ことです。たとえば「破る」「こわす」「くだく」などの意味で使う break は極めて他動詞性が強い言葉だと思うのですが、それでも The cup broke.と言えば「コップが砕けた」という意味の自動詞として使っているのですね。

日本語はそうではありません。変わる・換わる(自動詞)と変える・換える(他動詞)、くだける(自動詞)とくだく(他動詞)というように、同じ語幹を有する別の単語を使って自動詞・他動詞を言い分けます。実は、日本語の大きな特徴は、

  同じ語幹を有する自動詞・他動詞のペアが極めて豊富に揃っていること

だと思っています。この動詞のペアは日常よく使う動詞を広範囲に網羅しています。われわれ日本語のネイティブ・スピーカーはこの自動詞・他動詞のペアをごく自然に、無意識に使い分けていて、表現したい意味内容を変え、また言葉に微妙なニュアンスを与えている。これは日本語の話者に染み付いていて、人の思考方法や思考内容にまで影響していると思うのです。今回はそのことについて書きたいと思います。


自動詞と他動詞


まず「自動詞・他動詞のペア」を考える前提として、自動詞と他動詞の「復習」をしておきたいと思います。

 他動詞 

学校で習った英語文法では、

目的語をもたない動詞が自動詞
目的語をもつ動詞が他動詞。受身表現になれる。

でした。一応それに習って、日本語で格助詞「を」を使った目的語をとれる動詞を "他動詞" とすると、次のような動詞があります。

  ・あたえる(与える)
  ・うしなう(失う)
  ・おぎなう(補う)
  ・かく(書く)
  ・くばる(配る)
  ・ける(蹴る)
  ・ことわる(断る)
  ・さける(避ける)
  ・しめす(示す)
  ・たずねる(尋ねる)
  ・つくる(作る)
  ・ひろう(拾う)
  ・ふむ(踏む)
  ・まつ(待つ)
  ・まなぶ(学ぶ)
  ・ゆずる(譲る)
  ・よぶ(呼ぶ)
  ・わすれる(忘れる)

ここにあげた他動詞は「変える→変わる」のようにペアになる自動詞がありません。「れる・られる」という助動詞を使い「あたえられる(与えられる)」という受身形を作って自動詞のように使うことはできますが(いわゆる "自発" の表現)、それはまた別問題です。「れる・られる」を使った「受身・可能・自発・尊敬」表現は、以下では話題の枠外です。

 自動詞 

他動詞に対して、「を格」の目的語を(普通は)とらない動詞を自動詞とすると、

  ・あそぶ(遊ぶ)
  ・あふれる(溢れる)
  ・いく(行く)
  ・おとろえる(衰える)
  ・くる(来る)
  ・こたえる(答える。応える)
  ・しげる(茂る)
  ・すむ(住む。澄む。済む)
  ・にぎわう(賑う)
  ・にじむ(滲む)
  ・ひびく(響く)
  ・ふとる(太る)
  ・むかう(向かう)
  ・やせる(痩せる)

などがあります。ここにあげた動詞もペアとなる他動詞がありません。他動詞化するには「せる・させる」という助動詞を使って「遊ばせる」「答えさせる」というように使役形にする必要があります。「せる・させる」を使った使役形も以下の話題の範疇外です。

 自動詞・他動詞のペア 

しかし日本語では初めに言ったように、自動詞・他動詞が同じ語幹を有するペアになっているものが非常に多いわけです。

◆変わる(自)変える(他)
◆破れる(自)破る(他)
まわる(自)  まわす(他)

などがほんの一例です。この「同じ語幹を有する自動詞・他動詞がペア」が今回のテーマです。


「人為」と「自然」


ここで注意すべきことは、

  他動詞は
格助詞「を」を使える(目的語をとれる)
受身(受動態)になれる
動詞であり、そうでないものが自動詞である、とは必ずしも言えない

ことです。たとえば「変える(他)」とペアになる「変わる(自)」について言うと、

最近、彼は変わったね。
最近、彼は会社を変わったよ。

の両方の表現が可能です。最初に、英語では change が「変わる」と「変える」の両方の意味になることを言いましたが、日本語では「変わる」が「・・・を」と言ったり言わなかったりする、というわけです。このように自動詞が「を格」の目的語をとるケースは、

   やっと子供をさずかった。 ── 授かる(自)・授ける(他)
そこの角を曲がったら、駅はすぐです。 ── 曲がる(自)・曲げる(他)
就職して家を出た。 ── 出る(自)・出す(他)

など、相当数をあげることができます。

またよく言われることですが、日本語では自動詞も「れる・られる」を使った受身(受動態)になります。「他動詞のペアがない自動詞」の最初にあげた「遊ぶ」を例にとると

涼子は噂の彼と付き合っているそうね。」
彼女、遊ばれているだけよ。」

という表現はまったく可能です。もちろん他動詞として使われる複合語「もて遊ぶ」は受身表現が可能で、

彼女はもて遊ばれた。」

となりますが、そうすると通常の男女の交際の範囲を越えた事態のニュアンスになり、場合によっては犯罪の臭いさえ感じる表現になります。

日本語の自動詞の "受身" は、

昨日のハイキングは雨に降られた」
親に死なれた」
先に行かれてしまった」
彼にあがられた」(ゲーム)
こんな場所で寝られては困るよ」
釣った魚に逃げられた」

など多様です。他動詞の受身は人に対する「直接的で重い影響」を暗示しますが、自動詞の "受身" は「間接的で軽い影響」を表すようです。考えてみると、日本語では、

南側に家を建てられた」
こんな所にクルマを止められたんじゃ困るよ」
彼に賞をとられてしまった」

といように、他動詞(建てる・止める・取る)の「れる・られる」形(建てられる・止められる・取られる)が "目的語" を伴うのはいくらでも可能であり、自動詞の "受身" と称される現象もこれとパラレルな言い方です。英語の受身とは意味が違います。しょせん、英語の文法概念を日本語に当てはめるのは無理があるのです。

  余談になりますが、英語にないものが日本語にあるからといって、それが日本語にしかないとか、ましてや日本文化の特質だということにはなりません。自動詞の "受身" で言うと、金田一春彦著『日本語・新版(下)』(岩波新書。1988)には、「自動詞の受動態は、東アジアの言語の緒言語によくみられる」とあります。たとえば中国語にもあるし、インドネシア語にいたっては「途中で太陽に沈まれた」という言い方が可能なようです。

ちなみに、以降のテーマである「自動詞と他動詞のペア」は朝鮮語にもあるそうなので、日本語だけの特質だとか、そういうつもりはありません。

日本語における自動詞・他動詞の違いは、他動詞についての "目的語" と "受身" という「英語基準」では不都合です。日本語に沿った自動詞・他動詞の違いは「意味的な違い」であり、同一の行為や現象を記述する「見方の違い」ないしは「とらえ方の違い」です。それは「人為」と「自然」というキーワードで表されるでしょう。

他動詞=人為
  動作主を明示し、ないしは動作主を意識し、人為的で意志的・意図的な行為としてものごとを記述する。"みずから" "外界に働きかける" ニュアンスであり、能動的意味合いが多い。「する」がその象徴。
自動詞=自然
  動作主を明示せず、ないしは動作主を隠し、自然の流れでそうなった・そうであるという見方でものごと記述する。"おのずから" "成り行きとして" "自発的に" というニュアンスであり、受動的意味合いが多い。「ある」「なる」がその象徴。

「同じ語幹を有する自動詞・他動詞のペア」では、この「人為」と「自然」の違いが本質的であり、これを利用して日本語のネイティブ・スピーカーは微妙なニュアンスを言い分けています。

なお、さずける・さずかる、のように、人と人の間での「モノ」や「行為」「情報」「サービス」のやりとり・授受を表す動詞は、

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