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No.350 - 寄生生物が行動をあやつる [科学]

No.348No.349 に続いて寄生の話です。No.348「蚊の嗅覚は超高性能」では、

ある種のウイルスは、宿主(= ウイルスが感染している生物)を、蚊の嗅覚に感知されやすいように変化させ、蚊の媒介によるウイルスの拡散が起こりやすくしている

との主旨を書きました。ウイルスの生き残り(ないしはコピーの拡散)戦略は誠に巧妙です。また、No.349「蜂殺し遺伝子」は、

ウイルスが芋虫に感染すると、その芋虫は寄生バチの卵や幼虫を死滅させるタンパク質を生成し、これによってハチに寄生される確率が下がる。このタンパク質を生成する「蜂殺し遺伝子」はウイルスがもたらす

との主旨でした。ウイルスにとって寄生パチは宿主(=芋虫)をめぐる競争相手です。従って競争相手を排除する仕組みを発達させたのです。

こういったウイルス、もっと広くとらえると「寄生体」は、この2例のように宿主の "体質" を変えることがあり、さらにそれだけでなく、宿主の行動をコントロールするケースがあることが知られています。そのような「宿主の行動をあやつる寄生体」として、カマキリにの寄生するハリガネムシの例を紹介します。ハリガネムシ(針金虫)とは、その名のとおり針金のような形の虫で、カマキリをはじめとする各種の昆虫に寄生します。


最強ハンター カマキリ


2022年11月7日のNHK BSプレミアムの番組、ワイルドライフ「鳥を襲う最強ハンター カマキリ 究極の技」で、驚きの映像が2つ紹介されました。一つは、カマキリが小鳥のベニヒワを襲う(=狩る)映像です。

能登半島の北、約50kmの位置にある舳倉へぐら島(石川県輪島市)は、世界的にも有名な渡り鳥の中継地で、その季節になるとバード・ウォッチャーの人たちで賑わいます。この島に生息するカマキリは、小鳥の一種であるベニヒワを襲うことがあるのです。放映された映像では、カマキリは草の上の方でじっと待ち、たまたま近くにベニヒワがとまると、そっとベニヒワの死角から忍び寄って、ベニヒワの後頭部に "カマ" を突き立てる。

映像ではカマキリが "狩り" に失敗したケースと成功したケースの両方が映し出されていました。成功したケースでは、ベニヒワはカマキリと一緒に地上に墜落して羽をバタつかせています。誠に驚くべき映像(=世界初)で、これを撮影した番組スタッフの執念に感心しました。

しかし、この番組ではもう一つの驚くべき映像がありました。泳げないカマキリが川に飛び込んで "自殺" する瞬間をとらえた映像です。このカマキリの行動は以前から知られていましたが、動画でとらえたのは初めてのようです。これは寄生体にからんでいるので、以下、この部分をそのまま紹介します。


カマキリの "自殺"


【ナレーション(首藤奈知子アナウンサー)】

昆虫界最強ハンター、カマキリ。でも、意外な原因で命を落とすことがあります。私たちは、その驚きの瞬間を目撃しました。

川に近づくハラビロカマキリ。水面をじっと見つめ ・・・・・・ なんと、飛び込んでしまいました。泳げないカマキリが自ら水に飛び込むなんて ・・・・・・ 。いったいなぜ、こんなことが起きたんでしょうか。

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川に飛び込むハラビロカマキリ(番組より)

この謎の行動について研究を続けている佐藤拓哉博士。実はカマキリはある動物にあやつられているのだと言います。

佐藤博士が手のひらに乗せているヒモのようなもの。寄生虫のハリガネムシです。これがカマキリの体内に入り込んで動きを操っていたんです。

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佐藤博士が川で採取したハリガネムシを示している(番組より)

【佐藤拓哉博士(京都大学生態学研究センター、准教授)】

ハリガネムシは、普段はあまり歩かないカマキリを、活動量が上がるようなタンパク質を出したり、光に応答してしまうようなタンパク質を出したりして、川や池に飛び込ませる。いわば洗脳してしまうような状態になると言われています。

【ナレーション】

何とも恐ろしいハリガネムシ。でも、なぜ水に飛び込むよう、仕向けるのでしょうか。

その理由はハリガネムシの暮らしにあります。ハリガネムシの一生は川の中で始まります。春、卵からかえった幼生は、川底にひそんで暮らします。カゲロウなどの幼虫が川底で食事をするとき、偶然、口から吸い込まれると、殻に包まれた状態に変化し、休眠状態に入ります。

やがて幼虫は羽化して森へ。それを待ち受けるのがカマキリ ・・・・・・ つかまえました(カマキリがカゲロウをつかまえるシーンが挿入される) ・・・・・・。するとハリガネムシはカマキリの体内へ移動。眠りから覚め、成長していきます。

でも、子孫を残すためには水中で産卵しなければなりません。そこで、神経を混乱させる物質を出してカマキリを操ります。こうして乗っ取られた状態になったカマキリは、川へ飛び込んでしまうんです。ハリガネムシは水に入るとカマキリの体から出て行きます。

BSP - ハリガネムシ2.jpg
水中でカマキリの体内から出てくるハリガネムシ(番組より)

最近の研究で、カマキリは飛び込む場所までハリガネムシにコントロールされているという、衝撃の事実が明らかになりました。

【佐藤拓哉博士】

これまでは、ハリガネムシに寄生されたカマキリは、水の反射光のキラキラ、明るさですね、明るさに引き寄せられると言われていたんですけれども、実際には自然界には水たまりとか、葉っぱに反射するキラキラ明るい所とか、いろんなものがあるわけですけど、そういう所にいちいち感染したカマキリが引き寄せられていると、川に戻れないというふうになってしまいます。

【ナレーション】

ハリガネムシに寄生されたカマキリが飛び込むのは、きまって川の深い所。佐藤博士たちは長年の研究の末、この謎をついに解き明かしました。

【佐藤拓哉博士】

ハリガネムシに感染したカマキリは、深い水辺に反射した光の中に含まれる「水平偏光」に引き寄せられて川に飛び込んでいるというようなことが分かってきました。

【ナレーション】

水平偏光とは、深い水中からの反射光に多く含まれる光の一種です。肉眼では見ることができませんが、特殊なカメラで覗いてみると、水平偏光が強い場所は赤っぽく写ります。浅い川では一見キラキラして見えますが、赤い部分はほとんどありません。一方、深い川は暗く見えますが、赤い部分が多いことが分かります。

ハリガネムシの繁殖に適しているのは深い川の中。寄生されたカマキリは、水平偏光の強い深い川に引き寄せられ、飛び込んでいたんです。

カマキリの命の奪う寄生虫、ハリガネムシ。研究を進めるうち、意外な事実も見えてきました。

【佐藤拓哉博士】

ハリガネムシは森の虫をつれて川に入ると、産卵をして死んでいくんですが、その過程で大量に入った森の虫が川の魚の餌になっている。つまり、ハリガネムシがいると森から川に大きなエネルギーの流れが起きるというようなことに気づいたんです。

【ナレーション】

寄生されたカマキリなどの昆虫は、川に飛び込んだあと魚に食べられることがよくあります。そうした昆虫たちが川の生態系に大きな役割を果たしているのです。

【佐藤拓哉博士】

調べてみると、調査した川に棲んでいる渓流魚が1年間に消費するエネルギーの約6割を、ハリガネムシが森から連れてきた虫によって担われているということが分かってきました。1年の6割をハリガネムシが担っているというのは、これは森と川がものすごく強くハリガネムシのおかげで繋がっているというようなことで、すごく驚きでした。

【ナレーション】

陸と川との思わぬ繋がり。それを支えているのは、カマキリなどの昆虫たちだったのです。



カマキリに寄生したハリガネムシが、カマキリの神経を混乱させ、川の深いところを選んで飛び込むようにあやつっている、というのは驚きの事実です。さらにもう一つの驚きは、こうしたハリガネムシの生活史が渓流魚の餌の供給を支えていて、エネルギー・ベースでは餌の6割にも相当する、ということです。



このカマキリとハリガネムシの話は、2022年12月4日の日本経済新聞にも載っていました。ただし記事のメインは「オオカミを操る寄生体」です。次にそれを紹介します。


オオカミ、寄生体がボス指名


その日本経済新聞のコラム記事は、

オオカミ、寄生体がボス指名
感染で脳操作、野心かきたてる


と題するものです。寄生体が操るのは、カマキリといった昆虫ではななく、なんとオオカミだというのです。


大自然を生きる動物たちは生存競争を勝ち抜き、次代にバトンをつなぐための行動力を磨き上げてきた。奔放で勇猛果敢な振る舞いは自由の象徴でもある。だが、その行動が自らの意思ではなく、誰かの手のひらで転がされているだけだったとしたら景色は一変する。みえてきたのは、自然界を陰で操る存在だった。

オオカミにとって群れのリーダーに名乗りを上げるのは大きな決断だ。才覚のあるものだけが務まる地位だからだ。

米国イエローストン国立公園にすむハイイロオオカミにもリーダーがいる。トップにたつ資質をひもといた米国モンタナ大学などのチームが11月末に発表した論文は、目を疑うような内容を伝えていた。

「群れのリーダーになる可能性は46倍以上に高まる」。チームのコナー・マイヤー氏は続ける。ある種の寄生体を宿すオオカミは「リーダーになりやすい。リスクを冒す傾向が強い」。寄生体がボスを指名するのか。リーダー像が覆った。

日本経済新聞(2022年12月4日)

オオカミは群れる.jpg
オオカミは群れる.
(日本経済新聞より)

記事でいう「目を疑うような内容」とは「ある種の寄生体を宿すオオカミはリスクを冒す傾向が強くリーダーになりやすい」という調査結果です。その寄生体が次に書いてあります。


1995~2020年に採取したオオカミ229匹の血液から、トキソプラズマという小さな寄生虫が感染した痕跡を調べた。この寄生虫はネコ科動物の腸を生まれ故郷とし、他の動物も渡り歩く。同公園にいる大型ネコ科動物ピューマは故郷の一つだ。健康であれば症状はほとんど出ないが、脳や筋肉に巣くう。

寄生体がオオカミに何をしたのかはよくわからないというが、チームの一人は「脳を操っている気がする。ホルモンの分泌を変え、リスクの高い行動を促しているのかもしれない」と疑う。

そこから浮かぶ仮説はこうだ。寄生体はピューマのフンなどを口にしたオオカミに感染し、やがて脳に居座る。脳を乱して攻撃性を高め、野心をかきたてる。こうした気質がリーダーへと導いていく。

日本経済新聞(2022年12月4日)

この研究はオオカミが「トキソプラズマに感染する」ことと「群れのリーダーになる」ことの間に強い相関関係があることを示したものです。しかし、相関関係があるからといって因果関係があるとは限りません。上に引用にもあるように、「トキソプラズマがオオカミを操って攻撃性を高める」というのはあくまで仮説です。しかし、あとで出てきますが、トキソプラズマが感染した動物の性格を変える例はほかにもあり、このオオカミの例は因果関係を疑わせるものなのです。

この寄生体の介入が、オオカミのボスを決めるだけならまだしも、それによる影響がオオカミの群に及ぶのでは、というのが研究チームの懸念です。


感染の痕跡が見つかるのは2000年以降だ。チームが気にかけるのは、寄生体の介入が招く影響だ。オオカミの死因には、狩猟や交通事故、けんかや獲物を襲う際のケガがある。恐れを知らぬリーダーが誕生すると仲間も大胆になる。大きなリスクをとる行動は繁殖や勢力拡大で時に幸運をもたらすが、同時に慎重な気質によって救われてきた命を危険にさらす。

気が大きくなったリーダーは、ピューマのそばにも群れを連れていく。ネコ科動物に近づけば、仲間にも寄生する危険がある。寄生体は身ごもった子や弱った体には悪さをする。

日本経済新聞(2022年12月4日)


トキソプラズマが感染したネズミは


トキソプラズマ(単細胞の原生生物)は、ネコ科の動物の腸が本来の住処であり、有性生殖するのはそこだけです。他の動物にも感染しますが、無性生殖しかできない。

トキソプラズマが感染したネズミがどうなるか、という話が次に出てきます。


自然界は動物たちが生き残りや子孫繁栄をかけて独自の生き方を貫き、それこそが生命の輝きと称されてきた。ところが寄生体が君臨するもう一つの世界が存在し、自分らしく生きる動物を見えざる力で操っているとしたら、世界の見方は変わる

陰の支配者は存在の根拠が実験で積み上がっている。「トキソプラズマに感染したネズミはネコのにおいにも恐れずに近づく」と帯広畜産大学の西川義文教授は話す。感染したばかりの急性期や再活動期は鬱に似た症状が出る。慢性期は記憶障害を起こす。脳のへんとう体や大脳で生体物質の調整がうまくいかない。

西川教授はいう。「恐怖はどうでもいいとネズミに思わせてネコが食べてくれたら、ネコの体で有性生殖をするトキソプラズマにとって都合がよい」

日本経済新聞(2022年12月4日)

ネズミがネコに食べられやすくなったら、ネズミの体内のトキソプラズマは「故郷」に帰れるし、ネコにとっては食料が増えて好都合です。そういうふうにトキソプラズマがネズミを操っているのです。

「この世界には様々な陰の支配者がおり、予想以上に大きな力を振るっている」と記事にもありました。その別の例が、NHK の番組にあった「カマキリを操るハリガネムシ」です。


カマキリを操るハリガネムシ



京都大学の佐藤拓哉准教授はカマキリが川や池に次々と飛び込む現象を追っている。21年、カマキリの光を感じる力をおなかに寄生したハリガネムシが惑わしているらしいと佐藤准教授(当時は神戸大)らは突き止めた。この仕組みは100年以上前から謎だった。

「指令」を受けたカマキリは水面の反射光が含む水平偏光に魅入り、水の中に落ちる。ハリガネムシは水中で繁殖し、複数の虫を巡り歩く。水中に戻るには生涯の終盤ですみ着いた陸の虫を水辺に誘う必要があった。水死した虫は多くの魚を育み、生態系を支える。寄生体の影響力は絶大だ。

日本経済新聞(2022年12月4日)

「ハリガネムシが寄生したカマキリ」は、さきほどの「トキソプラズマが寄生したネズミ = ネコに食べられやすい」とそっくりです。両方とも、寄生体にとって都合のよいように宿主の行動が変わるという意味でそっくりなのです。

寄生生物が行動を操る.jpg
寄生生物が行動を操る
(日本経済新聞より)


人間とトキソプラズマ


「この世界には様々な陰の支配者がおり、予想以上に大きな力を振るっている」としたら、人間も無関係ではありえません。


その力は人間にも向かう。ストックホルム大学のアントニオ・バラガン博士は、トキソプラズマが動物を支配下におけるのは「免疫細胞を乗っ取り、タクシーを使うように腸から血管、臓器へと動き回れるからだ。人間の免疫系を私たちよりも熟知する」という。脳にも入り、健康を損ねずに息を潜める。既に人類の3分の1以上に寄生しているとの情報もある。

科学者の関心事は人間の神経や精神の病気に関わるかだ。しかし、あれほど知的なオオカミが影響を受けるとした研究成果は「人類の普段の行動も左右しているのではないか」とさらなる好奇心をそそる。(サイエンスエディター 加藤宏志)

日本経済新聞(2022年12月4日)

従来、精神疾患は、遺伝的な要因や、本人が受けた精神的ストレスの要因が研究されてきましたが、最近注目されているのは微生物との関係です。一つは腸内細菌が脳に与える影響であり、もう一つは脳に潜む微生物・寄生体です。

最近の NHK BSプレミアムの番組ですが、2022年10月4日放送の「ヒューマニエンス」で、東京慈恵会医科大学のウイルス学者・近藤一博教授が、

ヒトに潜伏感染するヘルペス・ウイルスの一種、ヒトヘルペスウイルス6型(HHV-6)が、鬱病の発症リスクを高める

との主旨を語っておられました。HHV-6 は赤ちゃんに突発性発疹を起こすウイルスで、ヒトに対する影響はそれしかないと思われてきましたが、実は成人にも影響し、鬱病のリスク増大要因になるのです。

「自然界における寄生体は、予想以上に大きな力をもっている」のかもしれません。ヒトに寄生する生物が、ヒトの性格や行動、精神的な傾向に与える影響は、今後研究が進む分野だと思いました。



 補記:ハリガネムシとカマキリ 

本文中に書いた、

カマキリに寄生したハリガネムシが、カマキリの神経を混乱させ、川の深いところを選んで飛び込むようにあやつ

ことについて、その行動の謎を遺伝子レベルで解明しようとする研究がされています。日本経済新聞の記事から引用します。


カマキリ操る寄生虫ハリガネムシ
「盗んだ遺伝子」利用か
理研・京大など発見

理化学研究所と京都大学などの研究チームは、カマキリの行動を操る寄生虫として知られるハリガネムシのDNAに、カマキリとよく似た遺伝子が多数あることを発見した。ハリガネムシはカマキリから「盗んだ遺伝子」を巧みに利用して行動を操作している可能性が高いという。

ハリガネムシに寄生されたカマキリが池や川に飛び込む奇妙な「入水行動」は古くから知られていた。ハリガネムシが水辺で繁殖するためにカマキリの行動を操作しているが、遺伝子などの詳しい仕組みは謎だった。

理研の三品達平客員研究員や京大の佐藤拓哉准教授らは、カマキリの脳内やハリガネムシの体内で働いている遺伝子を網羅的に調べた。行動操作の最中にカマキリの遺伝子の働き方はほとんど変化しなかった一方、ハリガネムシでは約5000の遺伝子の働きが活発になったり、低下したりしていた。

ハリガネムシの遺伝子のDNA配列を解析すると、カマキリの遺伝子と配列が非常によく似ているものが約1300個見つかった。進化の過程でカマキリのDNAの一部がハリガネムシのDNAに取り込まれた結果とみられる。このカマキリから「盗んだ遺伝子」は行動操作の最中に働き方が変化するものが多かった。

三品氏は「大規模に遺伝子が移った驚くべき例だ。ハリガネムシは獲得した遺伝子によってカマキリの生体システムに効果的に介入し、入水行動を実現している可能性がある」と話す。国立台湾大学などとの共同研究で、米科学誌カレントバイオロジーに掲載された。

昆虫に感染するバキュロウイルスが幼虫の行動を操って木に登らせる現象など、寄生体が宿主の行動を操作する事例は自然界で広く見つかっている。バキュロウイルスは宿主とよく似た遺伝子を行動操作に利用することが分かりつつあるが、ハリガネムシのような多細胞生物の仕組みは大きな謎だった。

日本経済新聞(2023-10-20 夕刊)




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No.349 - 蜂殺し遺伝子 [科学]

前回の No.348「蚊の嗅覚は超高性能」で、

ある種のウイルスは、宿主(= ウイルスが感染している生物)を "蚊の嗅覚に感知されやすいように" 変化させ、蚊の媒介によるウイルスの拡散が起こりやすくしている

との主旨を書きました。ウイルスの生き残り(ないしはコピーの拡散)戦略は誠に巧妙です。

これは、2022年9月17日の日本経済新聞の記事から紹介したものですが、その1年ほど前の日経新聞にも「ウイルスの巧妙な戦略」の記事があったことを思い出しました。今回はその内容を紹介します。

ウイルスの脅威、競合相手にも
「感染者」横取り阻む
日本経済新聞(2021年8日22日)

と題した記事です。以下の引用は、日経デジタル(2021年8月21日 2:00)からです。


補食寄生


まず、この記事の前提は「補食寄生」です。ほとんどの寄生者は宿主(= 寄生する相手)と共存しますが、補食寄生とは最終的に宿主を殺してしまう寄生です。

エメラルドゴキブリバチ.jpg
エメラルドゴキブリバチの成虫(Wikipedia)
蜂の仲間には補食寄生を行う種が多々ありますが、最も "高度な" 寄生者として「エメラルドゴキブリバチ」が知られています。多くの補食寄生者は特定の1種の昆虫を宿主とします。エメラルドゴキブリバチの宿主は、ゴキブリの1種のワモンゴキブリ(輪紋ゴキブリ)です。日経サイエンス 2021年7月号の記事「エメラルドゴキブリバチは3度毒針を刺す」(K.C.カタニア:バンダービルト大学・米 テネシー州)によると、エメラルドゴキブリバチは次のように行動します。

① エメラルドゴキブリバチのメスは、ワモンゴキブリを見つけると、ゴキブリの腹にある「第1胸神経節」に針を刺し、毒素を注入する。これによってゴキブリの前足が一時的に麻痺する。

② エメラルドゴキブリバチは前足が麻痺したゴキブリの喉から2度目の針を刺し、脳に毒素を注入する。これによってゴキブリは動けなくなる(ゾンビ化する)。

③ ハチはゴキブリを閉じ込めるための適当な穴を探しに出かける。見つけたあと、ゴキブリを引っ張って穴の中に入れる。

④ ハチはゴキブリの「第2胸神経節」に3度目の針を刺し、毒素を注入する。これによってゴキブリの運動神経が活性化し、中足が開く。

⑤ ハチは、開いた中足の関節のつけ根にある薄い膜の上に卵を産みつける。その後、穴から出て石などで蓋をする。

⑥ 孵化した幼虫は、進入可能な唯一の部分である薄い膜を破ってゴキブリの体内に潜り込む。そしてゴキブリの体を食べて成長し、繭を作る。40~60日後に成虫がゴキブリの体から出てくる。

誠に驚くべき "高度な" 補食寄生者です。動きが活発なゴキブリの成虫に寄生する(卵を産みつける)ため、神経毒を3回注入し、しかもそれぞれ目的が違うというのは、ちょっと信じ難いような進化の結果です。

これほどまでの蜂はエメラルドゴキブリバチしか知られていないようです。つまり、ほとんどの補食寄生者はもっと "簡単な" やりかたをします。つまり、寄生する相手は昆虫の、

・ 
・ さなぎ
・ 幼虫(芋虫)

が普通で、動かないものか、動きがにぶいものです。そして日経新聞にあったのは幼虫(芋虫)のケースで、そこに、蜂だけなくウイルスが絡んできます。


蜂殺し遺伝子の発見


以上の「補食寄生」を踏まえて、日本経済新聞 2021年8日22日 の「蜂殺し遺伝子」の話を紹介します。蜂と芋虫の「寄生・被寄生」関係に割って入るウイルスがあるのです。


ガやチョウになる芋虫にとって寄生バチは厄介な存在だ。寄生バチが産みつけた卵からかえった幼虫は芋虫を食べて育ち、やがて巣立っていく。

芋虫とハチの対立だけならよくみる光景だ。東京農工大学の仲井まどか教授らがスペインやカナダの大学などと突き止めたのは、昆虫同士の争いに介入するウイルスの姿だった。

このウイルスは昆虫のみに感染する。芋虫がいなくなれば増殖できない。最大の関心事は「自分が感染する芋虫をいかに生き永らえさせるか」。ハチは目の上のたんこぶだ。

日本経済新聞 
(2021年8日22日)

図3.jpg
アワヨトウの幼虫に卵を産みつける寄生バチ「カリヤコマユバチ」。東京農工大学提供。
日本経済新聞(2021年8日22日)より

ウイルスと芋虫とハチの種が書いてないのですが、当然、昆虫のみに感染する、ある特定のウイルスです。そのウイルスは多種の芋虫に感染するのでしょう。芋虫・ハチの補食寄生の関係は特定の種同士かもしれないが、補食寄生は多くのハチにみられる現象なので、ウイルスが感染した芋虫もハチが卵を産みつける可能性が高い。そう理解できます。


アポトーシス


補食寄生に続く第2のキーワードは「アポトーシス」です。アポトーシスとは、いわば細胞の "自殺" ですが、ウイルスがもたらした遺伝子が、ハチの卵のアポトーシスを引き起こしているようなのです。


ウイルスがいる芋虫では寄生バチの卵や幼虫がなぜか育たない。3者の不思議な力関係は今でこそウイルスの策略だとわかったが、一線の研究者ですらこれまで頭を悩ましてきた。

感染した芋虫の体液から見つかった毒となるたんぱく質は、「アポトーシス」と呼ぶ作用で寄生バチの卵や幼虫を死滅させていた。この毒をつくるのが蜂殺し遺伝子だ。遺伝子が無いと寄生の成功率は上がる。

仲井教授は「蜂殺し遺伝子は進化の過程で芋虫とウイルスを行き来した可能性がある」とみる。

日本経済新聞 
(2021年8日22日)

図1.jpg
芋虫をめぐる2つの寄生者の競争イメージ
日本経済新聞(2021年8日22日)より

よく知られているように、ウイルスは自分の遺伝子を宿主の細胞に送り込み、その遺伝子は細胞が本来持っていなかった "モノ" 作り出します。それは普通、ウイルスの複製ですが、この場合は「寄生バチの卵や幼虫のアポトーシスを引き起こすタンパク質」も作り出す。そう理解できます。

芋虫にとっては「命を奪う寄生バチよりも体調不良で済むウイルスの方がマシ」なのでしょう。またウイルスからすると「助け舟を出しながら、芋虫を増殖に利用するのが狙い」です。仲井教授は仮説としてそう考えています。


進化的軍拡競争


さらに第3のキーワードは「進化的軍拡競争」です。つまり、生物が競争関係や敵対関係になると、互いに相手の形質を上回るような "進化の競争" が始まります。

図4.jpg
「進化的軍拡競争」の例
日本経済新聞(2021年8日22日)より


寄生のように生物同士が敵対関係になると、相手を上回る形質の獲得をめざす「進化的軍拡競争」が起きる。ウイルスは構造が単純で生物と認めない研究者もいるが「寄生バチとウイルスは全く階層が違うモノ同士だが、芋虫という同じ資源を巡って競争関係が生まれた」と仲井教授は話す。

自然界の進化的軍拡競争は一対一の敵対関係で説明されてきた。ウイルスを含む三つどもえの関係が明らかになり、「今後はより複雑な競争関係を論じる必要がある」(国際チーム)。

新たな競争関係の誕生はウイルスの怖さとしたたかさを改めて印象づけた。

感染の脅威なら新型コロナウイルスが明白に物語る。ヒトの細胞に取り付き、機能不全に陥れて健康を脅かす。だが今回、誰かが一線を越えて自らの利益を横取りしようとすれば、「第三者」であっても対抗手段を取り得ることが明らかになった。相手は「感染者」ではない。

日本経済新聞 
(2021年8日22日)

ウイルスと芋虫は、互いにメリットを与え合う「共存関係」にある、と理解できます。


ウイルスと生物


記事の最後には、ウイルスと生物の関係についてのマクロ的な解説があり、安定状態では共存が保たれるが、不安定な競合関係ではウイルスは脅威になるということが説明されていました。


今回の研究には参加していないが、ウイルスに詳しい東京農工大学の水谷哲也教授は「歴史が古いウイルスは理想の感染相手を見つけ、長い付き合いができている」と話す。

ヒトが間に分け入って感染や増殖のための安住の地を侵すと、ヒトとも不安定な関係が生まれる。

マダニが媒介する「重症熱性血小板減少症候群(SFTS)」はヒトでは致死率が1~3割程度だがシカやイノシシは平気だ。SFTSウイルスはマダニにひそむ。マダニがかんだ動物で増え、再びマダニに入る。ウイルスにヒトをあやめる利点はないが、山野を開発して野生生物を危機にさらすヒトとは競合する。

エボラウイルスもコウモリとは良好な関係だが、ヒトでは致死率が最大90%に達する。安定が揺らぐとき、ウイルスは脅威となる。

水谷教授はこうもいう。「新型コロナはまだ理想の相手に会えていないように思う。コウモリかもしれないが、少なくともヒトはいい相手ではない。だから暴れてしまうのではないか」

私たちはウイルスとの一対一の対決に力を注ぎがちだが、ウイルスの策略を知るには多くの生物が織りなす生態系への理解が不可欠だと芋虫の研究は物語っている。(下野谷涼子)

日本経済新聞 
(2021年8日22日)



以下は記事の感想です。この「蜂殺し遺伝子」の話は、前回の No.348「蚊の嗅覚は超高性能」に書いた、東京慈恵会医科大学の近藤教授の発言を思い起こさせます。再掲すると以下です。


昔からウイルス学者の言い伝えになっている言葉は「最も頭の悪いウイルスでも、最も頭のいいウイルス学者より賢い。」

ウイルスは自分の力で増えることができない。必ず寄生しないといけないので、ヒトに寄生しているウイルスは、生存戦略としてヒトの体のことをものすごくよく知っている。我々がいくらヒトの体を研究してても、ウイルスの命がけの戦略にはまだまだ勝てない。

東京慈恵会医科大学 ウイルス学講座 近藤一博教授
「ヒューマニエンス 49億年のたくらみ」より
(NHK BSP 2022年10月4日 22:00~23:00)

「ウイルスの策略を知るには多くの生物が織りなす生態系への理解が不可欠」と、日経新聞の記事の最後にありました。人間のウイルスについての理解は、マクロ的にみると "始まったばかり" か、それが言い過ぎなら "初期段階にある" と言えるのでしょう。




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No.348 - 蚊の嗅覚は超高性能 [科学]

今まで何回か生物の "共生" について書きました。たとえば、
では、アフリカのサバンナにすむノドグロミツオシエという鳥が動物を蜂の巣へ誘導する行動が、かつてアフリカにいた絶滅人類との共生関係で成立したのではないかとする、ハーバード大学のランガム教授の仮説を紹介しました。また、
では、人体に住む常在菌(特に腸内細菌)が、人体に数々のメリットを与えていることをみました。

生物界における共生、ないしは依存関係で最も知られているのは、植物と昆虫の関係でしょう。植物は昆虫によって受粉・交配し、昆虫は蜜などを得る(=栄養として子孫を残すことに役立つ)という関係です。植物は昆虫にきてもらう為にいろんな手を尽くします。

オーストラリアに自生するある種のランは、特定の蜂のメスに擬態し、その蜂のオスが間違えて交尾にやってくると、可動する雄蕊おしべで花粉を蜂の背中につけるものがあります。こうなると、ランが蜂を「利用している」という印象になりますが、進化のプロセスが作り出したしくみは誠に奥深いというか、非常に巧妙だと思わざるを得ません。

ところで最近、植物と昆虫の関係に似た話が日本経済新聞に載っていました。それは「ウイルス」と、ウイルスを動物間で媒介する「蚊」の関係です。ちょっと信じがたいような内容だったので、それを紹介したいと思います。中国の清華大学のチームの成果です。


ウイルスが蚊をおびき寄せる


以下は、日本経済新聞のサイエンスエディター、加藤宏志氏の署名がある記事です。


ウイルスは私たちの体を蚊が舌なめずりするようなごちそうに仕上げる ──。中国の清華大学が率いるチームが暴いたウイルスの策略は信じ難い内容だった。

実験でウイルスに感染したネズミは体の一部のたんぱく質の働きが弱まり、皮膚にすむ微生物の均衡が崩れた。アセトフェノンと呼ぶ成分を作る微生物が増え、おいしそうなにおいが体から漂い始める。このにおいが多くの蚊を呼び寄せる。子どもたちの前に焼きたてのクッキーを持ってきた状況と同じだという。

血液に紛れたウイルスは血を吸う蚊に乗り移り、次の人へと渡る。訪れる蚊の数が多いと、ウイルスの乗り物は増える。感染を広げるには好都合だ。

出来すぎた話に思えるが「患者のにおい成分も蚊を引き寄せた。動物実験では、におい成分を抑えると近づく蚊が減った」とチームの一人はいう。この種のウイルスが頼りにしていたのは、蚊の鋭い嗅覚だった。

日本経済新聞 
(2022年9月18日)

蚊の嗅覚.jpg
上の内容を図に表したもの。ウイルスが蚊を宿主におびき寄せ、他の宿主に感染を広げるチャンスを増やす。日本経済新聞(2022年9月18日)より。

記事を書いた加藤氏は「信じ難い内容」としていますが、確かにそうです。内容は主に動物実験ですが、「患者のにおい成分も蚊を引き寄せた」とあるように、ウイルスに感染した患者のにおい成分は、普通の人のにおい成分よりも蚊を引きつけた(そういう実験をした)ということでしょう。記事には実験(検証)に使ったウイルスの種類が書いてありませんが、特定のウイルスで実験したのだと推測します。特定のウイルスだとしても巧妙なしくみです。

しかし、冒頭に書いた「特定のランと特定の蜂」の関係のように、ウイルスも含めた生命体が子孫を残す、ないしは子孫を増やすやりかたは巧妙です。しかもウイルスは単独では死滅するしかなく、宿主に寄生して数を増やすしかない。ということは、現在生き残っているウイルスは "極めて巧妙精緻な" やりかたで数を増やしてきた、ないしは、生き残ってきた、死滅しなかったと想像できます。上の記事のような状況があったとしても、不思議ではありません。

そして、このウイルスの "策略" が成り立つ要因は、「蚊の嗅覚が異常に鋭い」ということなのです。


世界保健機関(WHO)によると、蚊が病原体を運ぶマラリアは2020年に推定で62万7千人をあやめた。デング熱は毎年約1億人が発症するとされる。途上国は医療体制が整わないとはいえ、全ての元凶は蚊が人間のにおいや呼気の二酸化炭素を嗅ぐ能力の高さに行き着く。

日本経済新聞 
(2022年9月18日)

記事によると蚊の嗅覚は、「生物界の共通原則」を逸脱しているようです。


嗅覚を惑わしさえすれば刺されない。こんな希望は最新の研究で落胆に変わる。米ロックフェラー大学などのチームは8月、蚊の嗅覚は型破りだったとする論文を発表した。蚊は、においを察するセンサー(受容体)が通常の生物に比べて不釣り合いに多かった。

生物の鼻は、においの情報を脳に伝える細胞ごとに1つのセンサーがある。センサーが同じ細胞同士は先で1点につながる。この「1対1対1」となる嗅覚の原則は機能面で理にかない、生物では常に成り立つとチームは考えていた。

だが蚊は原則から外れる。センサーが多い理由はまだよくわからないとマーガレット・ヘレ博士はいう。「多くのセンサーがあれば、一部が壊れても人間のにおいを嗅げる。人間のにおいは数百種類が混ざり合う。微妙に異なるタイプの人間のにおいを検知できるのかもしれない」

日本経済新聞 
(2022年9月18日)

書いてある内容がちょっと専門的でわかりにくいのですが、調べてみると、生物界に共通する嗅覚のしくみは、まず臭いを検知する1つの受容体をもつ嗅細胞があり、そこからニューロン(神経繊維)が出て、臭いを判断して脳に送る嗅覚糸球体へと繋がっている。この対応は「1:1:1」が原則である。しかし蚊は複数の受容体を嗅細胞が持っているので原則からはずれる。そう解釈できます。これが蚊の鋭い嗅覚にどうつながるのか、その解明はこれからのようです。

蚊の嗅覚の鋭さについては、記事に次のような例が書いてありました。


蚊のすごみに関する話は事欠かない。東京慈恵会医科大学の嘉糠洋陸教授は「A 氏を好む蚊は B 氏が同席していても『無き者』として扱い、A 氏の血を吸う。その場に1人なら、好みにはこだわらない」と語る。

「殺虫剤を浴びて命拾いした蚊はネガティブな経験を感覚で学び、次から殺虫剤をかけた場所を避ける」。英キール大学のフレデリック・トリペ博士が突き止めたのは修正能力だ。

日本経済新聞 
(2022年9月18日)

BSテレ東「居間からサイエンス」(2022年10月17日)によると、人間を殺す生物ランキング(年間死者数)は、

1位 72万人
2位 人間 47万人
3位 ヘビ 5万人
 (出典:ビル&メリンダ・ゲイツ財団)

だそうです。もちろん、感染症の流行や戦争で死者数は変動するでしょうが、この数字はそういうことがない "定常状態" の値だと推測します。日本経済新聞の記事もこう結ばれていました。


世界で最も人を殺す動物は? かつてこんなクイズがあったが、今も答えは蚊のままだ。好ましからざる小さな相手に世界中の科学者らが熱い視線を送る現状が対策の難しさを物語る。(サイエンスエディター 加藤宏志)

日本経済新聞 
(2022年9月18日)


蚊の能力


記事に登場した東京慈恵会医科大学の嘉糠かぬか洋陸ひろたか教授は、NHK Eテレの、サイエンス ZERO「恐ろしくも華麗な "蚊" - 秘められた力を解明せよ」(2022年9月25日)に出演されました。

この番組ではまず、世界で最も人の命を奪っている生物は蚊、だとし、蚊が媒介する感染症で奪われる命は、年間、世界で72万人と紹介しています(ビル&メリンダ・ゲイツ財団の値と同じ)。感染症としてはマラリア、デング熱が代表的で、そのほかに日本脳炎や西ナイル熱もあります。最も人の命を奪っている生物だからこそ、蚊は世界中で研究されているのです。この番組の中で嘉糠教授は次のような内容を語っておられました。

◆ 全ての蚊が血を吸うのではない。日本にいる蚊で血を吸うのは 110種類中の3割である。またオスの蚊は血を吸わない。血を吸わない蚊は花の蜜などで栄養をとる。

◆ メスの蚊で、しかも交配済みのメスが血を吸う。未交配のメスは血を吸わない。

◆ 血液は栄養豊富なサプリメントである。蚊は血液を濃縮して濾しとったタンパク質で卵を作る。そうすることで効率良く、迅速に卵を作れる。つまり次の世代をどんどん作れる。

◆ 吸血する蚊の一種、ヒトスジシマカは、1回の吸血で200個前後の卵を生む。血を吸わない蚊はだいたい40~50個である。

◆ 人間は蚊に刺される運命にある。動物はたくさんの毛で覆われていて皮膚も厚く、蚊にとっては刺しにくい生き物だ。人間は毛が少なくて皮膚も薄く、蚊にとっては「どうぞ血を吸ってください」という生き物である。

◆ 現代は歴史上、人口が最も多い時期にある。従って蚊も生命の歴史上、最も数が多い時期にある。

◆ 蚊が人間を感知する仕組みは、距離によって4種ある。
① ヒトの呼吸中の二酸化炭素を感知する。これは10メートル離れていても可能である。
② 3~4メートルにくると、ヒトの臭いを感知する。
③ 1メートルの範囲では熱を察知する。
④ 最終的には、色でヒトの皮膚を判断する。

◆ 血液型が O型の人は、他の血液型の人より2倍程度、蚊に刺されやすい。我々も野外で研究用の蚊を集めるときに、O型の大学院生を "おとり" にして、その学生に寄ってくる蚊を捕獲したりする。なぜ O型が刺され易いのかは最新科学でもまだ謎である。

1メートル以内に蚊をおびき寄せるもののうち、① 二酸化炭素、③ 熱(赤外線)は、ヒトによる違いがないはずです。問題は ② の「臭い」で、これはヒトによって微妙に違うはずです。

日本経済新聞にあった嘉糠教授の「A 氏を好む蚊は B 氏が同席していても『無き者』として扱い、A 氏の血を吸う。その場に1人なら、好みにはこだわらない」との発言をみても、蚊が臭い(= ヒトが放出する化学物質)の微妙な違いを検知していることをうかがわせます。なお、10メートル離れても感知できる ① 二酸化炭素 も、嗅覚の働きです。


蚊を忌避する新戦略


「嗅覚を惑わしさえすれば刺されない。こんな希望は最新の研究で落胆に変わる。」と記事にあるように、蚊の臭いを感知する能力は極めて鋭敏なため、嗅覚を混乱させて蚊から逃れようとするのは困難なようです。

しかし最近、全く新しい原理で蚊を忌避する方法が開発されました。サイエンス ZEROに登場した、花王・パーソナルヘルスケア研究所の仲川喬雄たかお氏が次のような内容を語っていました。

◆ 蚊の足には微細構造があり、超撥水性がある。つまり、微細構造の中に空気が入り込み、水に浮くことができる。そのような超撥水性の足は、逆に、水と正反対の性質をもつオイルに馴染みやすい。

◆ 化粧品や日用品に使われる低粘度のシリコンオイルを肌に塗布すると、蚊が肌にとまったとき、毛細管現象で微細構造の中にオイルが吸い上げられる。その結果、オイルの表面張力で蚊の足を下に引き込む力が発生する(蚊に作用する重力の80%以上)。

◆ この力を蚊は敏感に感知し、一瞬で肌から離れる。

◆ この原理を使った忌避剤を、すでにタイで商品化した。

物理的作用で蚊を忌避する発想、蚊が肌にとまってもよいが刺されないとする考え方が斬新です。肌につける各種の液を長年研究してきた花王の技術力がベースにあるのでしょう。この花王の新商品は、ひょっとしたらマラリア蔓延国にとっての救世主になるかもしれません。


ウイルスの策略


話を最初のウイルスに戻します。蚊は人間を利用して子孫を残そうとし、そのために人間を感知する能力を高度に発達させました。一方、"蚊に刺される運命にある" 人間は、何とかそれを回避しようと(蚊が媒介する感染症による死者を減らそうと)知恵を絞っている。しかし、この "人間と蚊の戦い" の上を行くのがウイルスかもしれません。

同じ NHK の番組ですが、2022年10月4日放送の「ヒューマニエンス」(BSプレミアム)で、東京慈恵会医科大学のウイルス学者・近藤教授が次のように語っていました。


昔からウイルス学者の言い伝えになっている言葉は「最も頭の悪いウイルスでも、最も頭のいいウイルス学者より賢い。」

ウイルスは自分の力で増えることができない。必ず寄生しないといけないので、ヒトに寄生しているウイルスは、生存戦略としてヒトの体のことをものすごくよく知っている。我々がいくらヒトの体を研究してても、ウイルスの命がけの戦略にはまだまだ勝てない。

東京慈恵会医科大学 ウイルス学講座 近藤一博教授
「ヒューマニエンス 49億年のたくらみ」より
(NHK BSP 2022年10月4日 22:00~23:00)

新型コロナウイルスとの "戦い" に人間がてこずるのはあたりまえなのでしょう。また、完全撲滅は難しいのでしょう。ただ、近藤教授は「まだまだ勝てない」と言っていて「勝てない」という表現ではありません。ウイルスには(そしてヒトには)未解明のことが多々あるということだと思います。もちろん蚊についても ・・・・・・。




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No.347 - 少なくともひとりは火曜日生まれの女の子 [科学]

No.149「我々は直感に裏切られる」No.325「高校数学で理解する誕生日のパラドックス」でとりあげた「誕生日のパラドックス」から話を始めます。

有名な「誕生日のパラドックス」は「バースデー・パラドックス」とも言われ、

23人のクラスで同じ誕生日のペアがいる確率は 0.5 を超える

というものです。これは正確に言うとパラドックスではなく "疑似パラドックス" です。パラドックスとは「一見すると妥当そうに思える推論から、受け入れがたい結論が導かれること」ですが、疑似パラドックスは「数学的には全く正しいが、人間の直感に反するように感じられる結論」です。

この "疑似パラドックス" が成り立つ理由を一般化して言うと、「確率が直感に反することが多々ある」でしょう。さらにもっと一般化すると「確率は難しい」ということだと思います。裏から言うと「誤った確率の使い方は人を誤解に導く」ともなるでしょう。誤っていることが往々にして分からないからです。

我々は「コインを投げたとき、表が出る確率は 1/2」とか「サイコロを振ったとき 1の目が出る確率は 1/6」のように、"確率を理解している" と思っているかもしれません。「2つのサイコロを振ったとき、2つとも 1 の目が出る確率は 1/36」もよいでしょう。しかし、我々が常識の範囲で理解できるのは、せいぜいこのあたりまでで、ちょっと込み入ってくると手に負えなくなってしまうようなのです。

イアン・スチュアート著「不確実性を飼いならす ── 予測不能な世界を読み解く科学」(徳田 功訳。白揚社 2021)を読んでいたら、確率に関することがいろいろ出ていました。イアン・スチュアートは世界的に著名なイギリスの数学者です。その本の文章をちょっと紹介します。


確率に対する人間の直感は絶望的だ

偶然の出来事が起こる確率をすばやく推定するように促されると、たいていはまったく間違った答えを出す。プロの賭博師や数学者のように鍛錬を積めば改善はできるが、時間も労力も必要だ。何かが起こる確率を即断しなければならないとき、私たちの答えは誤っていることが多い。

イアン・スチュアート
「不確実性を飼いならす」
第6章 誤謬とパラドックス
(徳田 功・訳。白揚社 2021)

イアン・スチュアートは「確率に対する人間の直感は絶望的」の典型例として、まず、モンティ・ホール問題をあげています。


モンティ・ホール問題


モンティ・ホール問題は確率に関する有名な問題です。モンティ・ホールとは、かつてのアメリカのテレビのゲーム・ショー番組「取引しよう」の初代司会者の名前です。

そのテレビ番組で行われたのは次のようなゲームです。3つの独立した部屋があり、前面にドアがあって閉じられています。3つの部屋のうちの1つには特別賞のクルマが、残りの2つには残念賞のヤギが隠されています。

クルマを当てたい回答者が一つのドアを選びます。ドアが開けられた時点で、そこにあるものはクルマであれヤギであれ、回答者のものになります。

そのとき司会者は、回答者が選ばなかった2つのドアのうち、ヤギがいる一つのドアを開けてヤギを見せます。そして回答者に「選ぶドアを変更してもよい」と言って、選び直しの機会を与えます。

クルマが欲しい回答者はどうすべきでしょうか。これが問題です。

クルマがあるのは、最初に回答者が選んだドアか、まだ開けられていないもう一つのドアか、そのどちらかです。従って「選び直しても、選び直さなかったとしても、クルマが当たる確率は同じ」と考えてしまいそうです。実際に回答者になって現場にいたとしたら、直感はそうでしょう。

さらに回答者としては「心理的な」直感も働く可能性が高い。つまり、司会者がわざわざ一つのドアをあけて「選び直してもよい」と言ったということは、選び直すように誘導しているに違いないと思う直感です。この2つの直感によって、回答者は選び直さない可能性の方が大きいと考えられます。



しかし真実は全く違います。クルマが当たる確率は、選び直した方が、選び直さないよりが2倍高いのが正解です。

これは次のように考えると分かります。ドアを A、B、C の3つとし、最初に回答者が A を選んだとします。クルマがあるのは A、B、C のどれかであり、この3つのケースの確率は全く同じです。

クルマが A にある確率は 1/3 です。この場合は「選び直さない方がよい」わけです。司会者が B か C のドアをあけてヤギを見せたとしても「選び直さない方がよい」のは変わらない。司会者がドアをあけたことでクルマは移動しないからです。

クルマが B にある確率は 1/3 であり、この場合は「選び直した方がよい」わけです。司会者が C のドアをあけてヤギを見せたとしても「選び直した方がよい」のは変わらない。選び直すとしたら B しかありません。つまり、この場合は選び直すと必ずクルマをゲットできることになります。

クルマが C にある確率も 1/3 で、この場合も「選び直した方がよい」わけです。司会者が B のドアをあけてヤギを見せたとしても「選び直した方がよい」のは変わらないし、選び直すと必ずクルマをゲットできます。司会者が、わざわざ選び直しの対象としての B を除外してくれたのだから ・・・・・・。

以上で「選び直さない方がよい」ケースは3回に1回起こり、「選び直した方がよい」ケースは3回に2回起こります。この状況は、最初に回答者が選んだドアが B でも C でも全く同じです。

従って、クルマが当たる確率は、選び直した方が、選び直さないよりが2倍高い、となります。



納得できたでしょうか。

NHK総合の「笑わない数学」の「確率論」(2022年9月21日放送)では、この問題を実際に実験していました。3つの箱の一つに景品を隠す実験です。回答者役と司会者役を2組用意し、一方の回答者は「必ず選び直す」、もう一方の回答者は「必ず選び直さない」とします。それぞれ100回の試行した結果、景品をゲットできた数は、

必ず選び直す回答者  : 70回
必ず選び直さない回答者  : 33回

でした。選び直した方が2倍有利という確率論の結果が(実験であるがゆえの誤差を含みつつ)実証されたわけです。実験は大切です。



それでも、なぜそうなるのか納得できないという人もいるのではないでしょうか。


ドアが10個だとしたら


イアン・スチュアートの本では、それでも納得できないという人のために、ある仮想実験による説明をしています。トランプの52枚のカードを使ったものですが、同じことなので「10個のドア」に焼き直して紹介します。もちろん、実際にはあり得ない仮想実験です。

モンティ・ホール問題と基本的に同じです。ただしドアは10個あります。そのうちの一つにクルマが隠されていて、残りの9個には何もありません(ヤギを9匹用意するのは大変なので)。

あなたは司会者から1つのドアを選ぶように言われます。もしそこにクルマがあったとしたら、あなたのものになります。何もなければ、賞品は無しです。

1つのドアを選んだあなたはどう考えるでしょうか。「クルマが隠されているドアを選ぶ確率は 1/10 である。これは、まず当たらないな」と考えるのが普通でしょう。10回チャレンジしてようやく1回当たるかどうかという確率です。ほとんど無理と思うでしょう。

ところがです。司会者はあなたが選ばなかった9個ドアから8個を選び、それを次々と空けて、そこには何もないことを示したのです。そしてこう宣告します。「あなたが選んだドアのほかに、まだ閉じらているドアが1つあります。今からドアの選択を変えるチャンスをあげましょう。変えても、変えなくてもどちらでもよい。どうしますか?」



・・・・・・ という状況だったら、あなたは間違いなくドアの選択を変えるはずです。だってそうでしょう。最初に選択したドアにクルマがある確率は 1/10 で、ほぼハズレです。選択しなかった9個のドアのどれかにクルマがある確率は 9/10 です。ほどんどの場合、その9個のうちのどれかにクルマがあると、誰にでもわかる。

しかし、その9個のドアのうちの8個にはクルマがないことが分かってしまった。わざわざ司会者がそう示してくれたのです。とすると、残りの1個に高い確率でクルマがあるに違いない。確率的には、選択を変えた方が変えないよりも9倍、クルマをゲットできる可能性が高いことになります。



この「10枚のドア」の状況は、モンティ・ホール問題の「3枚のドア」と全く同じ構造をしています。「10枚のドア」ではなく「100枚のドア」でも問題の構造は同じです。100枚のドアだと、ドアの選択を変えると 99% の確率でクルマがゲットできる。つまり、ほぼ確実にクルマがもらえることになります。


2人とも女の子の確率


イアン・スチュアートの本ではさらに「確率と人間の直感」を考える問題として、


スミス夫妻には2人の子どもがいます。2人とも女の子である確率はどれだけですか。


という問題と、その変形問題が示されています。まず前提として、子どもがいたとき、それが「男の子」か「女の子」かはどちらかに決まっているとします。常識的にはあたりまえなのですが、生物学的には男女の区別が曖昧というケースもあって、必ずしも正しくはない。しかしこういった生物学的な議論は無しにして、男か女のどちらであるとします。

さらに一番重要なのは、男の子が生まれる確率と女の子が生まれる確率は全く同じ、という前提です。これも生物学的にはそうではなく、人間においても男が生まれる確率がわずかに大きいことが知られています。また「男女の産み分け」も行われていて、そうなると半々だとはますます言えなくなります。しかしそういったことは一切抜きにして「男の子が生まれる確率と女の子が生まれる確率は全く同じ」が前提です。

さらに以下の説明で使うのでコメントしますが、2人の子どもを「第1子」と「第2子」と表現します。同時に生まれた双子だったとしても、兄・姉/弟・妹の区別をするので、兄・姉と呼ばれている子を「第1子」とします。

以上の前提のもと「スミス夫妻には2人の子どもがいます。2人とも女の子である確率はどれだけですか」という質問に対する答えは 1/4 が正解です。これは多くの人が納得でしょう。

高校などで、確率を習い始めの生徒がよくやる間違いは、子どもの組み合わせは「2人とも男」「男女一人ずつ」「2人とも女」の3つだから、答えは 1/3 とする間違いです。

この手の間違いを防止するために、ちょっと数学的になりますが、イアン・スチュアートの本にある「標本空間」と「標的事象」で考えてみます。

「標本空間」とは「起こりうる全ての事象をもれなく集めた集合」であり、「標的事象」とは、いま確率を問題にしている事象のことです。スミス夫妻の問題の場合の「標本空間」と「標的事象」を図で表すと、次のようになります。左側の青が「標本空間」、右側の赤が「標的事象」です。

標本空間・標的事象1.jpg
「2人の子どもがいます」の標本空間(左、青)と「2人とも女の子」に相当する標的事象(右、赤)

図で分かるように、標本空間には4つの事象があり、その確率は同じです。標的事象(2人とも女の子)は1つですから、答えは 1/4 です。


少なくともひとりは女の子


問題を少し変えます。


スミス夫妻には2人の子どもがいて、少なくともひとりは女の子です。2人とも女の子である確率はどれだけですか。


この問題では、標的事象(2人とも女の子)は前の問題と同じですが「少なくともひとりは女の子」という情報が追加されたため、標本空間が変化します。標本空間は3つ、標的事象は1つですから、答えは 1/3 です。

標本空間・標的事象2.jpg
「2人の子どもがいて、少なくともひとりは女の子」の標本空間(左、青)と「2人とも女の子」に相当する標的事象(右、赤)



ここまでは納得の範囲ではないでしょうか。少なくともひとりは女の子という情報が追加されたために、2人とも女の子の確率が上がった。最初の問題では 1/4 だった確率が 1/3 になる。直感とも合っているはずです。しかし問題になるのはこの次です。


少なくともひとりは火曜日生まれの女の子


さらに問題を少し変えます。


スミス夫妻には2人の子どもがいて、少なくともひとりは火曜日生まれの女の子です。2人とも女の子である確率はどれだけですか。


前提として「子どもが生まれる曜日はどの曜日も同じ確率」とします。この前提は現実社会では必ずしも正しくなく、「どの曜日もほぼ同じ確率」が正しいのですが、問題としては「同じ」とします。

この問題の答えは 13/27 です。えっ! と思うでしょう。"火曜日生まれの" という "些細な" 情報が追加されただけで、確率は劇的に変わってしまった。13/27 というと、ほぼ 1/2 の値です。1/4 が 1/3 になったよりも変化が大きい。全く直感に反しています。

そして、全く直感に反しているため、これは理にかなっていない、間違っている、と感じるのではないでしょうか。生まれた曜日など確率に関係ないと考える方が理にかなっている ・・・・・・。

しかし 13/27 は正しいのです。それは標本空間と標的事象を作ってみればわかります。この問題の標本空間を作るため、男女のそれぞれを曜日で7分割した図を用意します。

標本空間3a.jpg
男女のそれぞれを曜日で7分割した図。これは「2人の子どもがいます」という条件だけなら、この 14 × 14 = 196 のマス目の確率は全く同じである。

この図には 14 × 14 = 196 のマス目があります。もし単に「2人の子どもがいます」なら、この196の事象が起きる確率は全く同じです。

この図に「少なくともひとりは火曜日生まれの女の子」という条件を加味した標本空間を青く塗ってみると次の通りとなります。

標本空間3b.jpg
「2人の子どもがいます。少なくとも一人は火曜日生まれの女の子」の標本空間。マス目は 27 になる。

さらに、この標本空間の中に含まれる標的事象(=2人も女の子)を赤で塗ると、次の図になります。

標的事象3.jpg
標本空間の中で「2人とも女の子」に相当する標的事象。マス目は 13 である。

標本空間のマス目の数は 27、標本空間の中の標的事象のマス目の数は 13 なので、問題の解答は 13/27 です。問題には「火曜日」としましたが、これが何曜日であっても答は同じです。

これは、いわゆる「条件付き確率」です。

少なくとも一人は女の子

の条件では、女の子は「ひとりの可能性」と「2人の可能性」があって、2人の可能性は 1/3 です。この場合、2人の女の子を区別できる情報はありません。

これに「女の子が2人だった場合に、その2人を区別できる可能性を高める情報」が付け加えられると、その区別可能性が高いほど2人である確率は高まります。たとえば、"火曜日に生まれた" より区別可能性が高い情報を付け加えた例ですが、


スミス夫妻には2人の子どもがいて、少なくとも一人は第1子の女の子です。2人とも女の子である確率はどれだけですか。


という問題にすると、第1子はひとりしかいないので、答えは 1/2 となります。"火曜日生まれ" だと、2人とも火曜日生まれの可能性があって、必ずしも2人を区別できない。"第1子" は2人の女の子を区別するのに絶対に確実な情報です。

少なくともひとりは女の子だけれど、それが第1子か第2子かという情報(やその他の情報)が全くない状況では、確率が 1/3 に減ってしまうのです。

"火曜日に生まれた" より区別可能性が低い情報を付け加えた例を作ってみます(これはイアン・ステュアートの本にはありません)。男女とも血液型が A 型である確率を統計的に 50% とすると、


スミス夫妻には2人の子どもがいて、少なくとも一人は血液型がA型の女の子です。2人とも女の子である確率はどれだけですか。


の答えは、3/7 になり、13/27 と 1/3 の間の数になります。


確率は直感に反する


最初の「モンティ・ホール問題」は直感に反するように思えます。ただ、3つのドアではなく「10個のドア」とか「100個のドア」で説明されると、なるほどそうかという気にもなる。

しかし「少なくともひとりは火曜日生まれの女の子」問題は、いくら理論的に説明されても直感的には納得できません。

この話の教訓は「"正しい確率" は理解が難しい」ということであり、「"正しい確率" が直感に反するのは、むしろ当然」ぐらいに思った方がよいということだと思います。

このことを全く逆から言うと、「確率を持ち出して、そこからいかにも直感に合致する結論を主張する言説」があったとしたら、サイコロの目とかコインの裏表のように誰がみても明らかなものを除いて、そもそもその持ち出された "確率" なるものが怪しいのでは、と疑ってみた方がよいと言えるでしょう。

なぜなら、イアン・ステュアートが言っているように「確率に対する人間の直感は絶望的」であり、平たく言うと "正しい確率は直感と合致しない" のだから ・・・・・・。




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No.346 - アストリッドが推理した呪われた家の秘密 [アート]

このブログでは数々の絵画について書きましたが、その最初は、No.19「ベラスケスの "怖い絵"」で取り上げた「インノケンティウス10世の肖像」で、中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある解説を引用しました。この絵はローマで実際に見たことがあり、また中野さんの解説が秀逸で、印象的だったのです。

『怖い絵』には興味深々の解説が多く、読み返すこともあるのですが、最近、あるテレビドラマを見ていて『怖い絵』にあった別の絵を思い出しました。15~16世紀のドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』です。今回はそのことを書きます。

テレビドラマとは、NHK総合で放映中の「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」です。


アストリッドとラファエル


「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」は、NHK総合 日曜日 23:00~ の枠で放映されているフランスの警察ドラマです。

アストリッドはパリの犯罪資料局に勤務する文書係の女性(俳優はサラ・モーテンセン)、ラファエルはパリ警視庁の刑事(警視)です(俳優はローラ・ドヴェール)。アストリッドは自閉スペクトラム症ですが、過去の犯罪資料に精通していて、また抜群の洞察力があります。一方のラファエルは、思い立ったらすぐに(捜査規律違反もいとわず)行動に移すタイプです。しかし正義感は人一倍強く、人間としての包容力もある女性刑事です。この全く対照的な2人がペアになって難事件を解決していくドラマです(サラ・モーテンセンの演技が素晴らしいと思います。彼女の演技だけでも番組を見る価値があります)。


呪われた家


このドラマのシリーズで「呪われた家」というストーリーが2回に分けて放映されました(前編:2022年8月14日、後編:8月21日)。このストーリーでの重要な舞台は、パリにある "呪われた家" との噂がある屋敷です。この屋敷の歴史について、アストリッドが過去の資料を調べてラファエルに説明するシーンがあります。台詞を抜き出すと以下です。以下に出てくる "リボー" とは、突然、行方不明になった屋敷の主です。


アストリッド
家の件です。あなたが置いていったファイルに、リボーの住所がありました。同じ住所で数件の資料があります。アーカイブも調べました。

ラファエル
アーカイブ ?。50年以上昔の資料がある場所 ?

アストリッド
その通りです。1905年にパン職人、エミリアン・ポポンが建てた家です。その6年後、最初の殺人事件が起きました。パン職人の使用人が火掻き棒で刺されて死亡。

ラファエル
素敵。

アストリッド
素敵じゃないです。じわじわ苦しんで死んだはず。

ラファエル
そりゃそうだ。

アストリッド
この事件は未解決です。さらに7年後の1918年9月、パン職人は原因不明の死をとげました。次の所有者は1942年、46歳の若さで就寝中に死亡し、不審死として捜査されましたが、検視報告書には急死とだけ。説明はありません。

ラファエル
まさか。呪われた家だって言いたいの ?

アストリッド
いいえ。ただ、これらの事件の共通点がフロッシュ通り32番地の家だというだけです。

1995年、家庭内殺人が起きました。当時18歳のロール・ガナが、就寝中の両親と8歳の弟を刺し殺しました。しかし彼女は刑事責任能力がないと判断され、無罪になりました。あっ!さわらないで下さい。さわると ・・・。

以来、空き家でしたが、1998年7月にマックス・リボーが購入。

ラファエル
ロール・ガナは? どうなったの?

アストリッド
訴訟のあとは精神科病院に収容され、今もそちらで療養中です。施設名はエスペリト・サント。

"アストリッドとラファエル"
「呪われた家 前編」
(NHK 総合 2022年8月14日)


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呪われた家の秘密


実は、"呪われた家" には隠されていた地下室がありました。ラファエルが封印を破って地下室に最初に入ったとき、ラファエルは幻影を見ます。

その後、ラファエルとアストリッドが地下室を詳しく調ているときです。アストリッドは地下室の隅に放置されたままの袋を見つけました。


アストリッド
小麦粉の袋です。

ラファエル
ああ、そうかもね。最初の所有者はパン職人だった。100年以上前の袋。

アストリッド
離れます。強烈な臭いで。

ラファエル
感じないけど。湿気とか地下室の臭いじゃない ?

アストリッド
いいえ。私は外の刺激に敏感なんです。強い光とか、うるさい場所とか、刺激臭とか。これは地下室の臭いではありません。とてもきつくて、強烈な臭いです。長くは居られません。ここを出なければ。

"アストリッドとラファエル"
「呪われた家 後編」
(NHK 総合 2022年8月21日)

"呪われた家" を出たアストリッドは、あることがひらめいたようで、「犯罪資料局に戻らなければ。今すぐに」と言います。ラファエルも同行しました。


アストリッド
ポン・サン・テスプリの事件をご存じですか。

ラファエル
知ってる、って言いたいけど、知らない。聞いたことない。

アストリッド
1951年、7人が死亡、50人が精神科病院へ、250人に症状が起きました。たった一つの村で。あっ、これです(事件のファイルを見つけて取り出す)。

被害者は同じパン屋でパンを購入していました。中毒と結論づけられました。

ラファエル
寝る前に子どもにお話してあげたくなる話。事件と関係ある ?

アストリッド
その村で精神疾患が蔓延した原因は菌によるものでした。その菌がライ麦粉に付着すると強烈な刺激臭を発します。

ラファエル
地下室の袋も?

アストリッド
その通り。(ラファエルにファイルを渡す)。丁寧に扱って。

麦角ばっかく菌と呼ばれるものですが、そこからリゼルギン酸ジエチルアミドが生成されました。

ラファエル
LSD !

アストリッド
その通り。

ラファエル
だからあの屋敷は様子が変だった。地下室で見たのも ・・・・・・。

アストリッド
警視は強い向精神薬の影響を受けていたのだと、説明がつきます。

ラファエル
ロール・ガナは? ずっとあそこをたまり場にしてた。大量に吸ってたはずだ。

アストリッド
麦角菌を。

ラファエル
それ。

アストリッド
彼女の犯行も、これまでの謎の行動も説明がつきます。もしも幻覚剤によるフラッシュバックだったすれば。

ラファエル
今も影響を受けてる。幽霊でもなく、呪いでもなく、バッド・トリップね。

アストリッド
バッド ・・・。バッド・トリップですか。それがもし中枢神経系の不具合と関係する感覚の変化のことを言ってるのだとしたら、正しいです。そうでしょ。

ラファエル
ええ。そうだよ。

アストリッド
バッド・トリップ。警視はバッド・トリップ状態だった。

"アストリッドとラファエル"
「呪われた家 後編」

キーワードは麦角菌です。その麦角菌と関係する有名な絵画がフランスにあります。


麦角菌


LSD(Lysergic acid diethylamid)は強い幻覚作用をもち、日本をはじめ各国で麻薬として禁止されている薬物です。ラファエルが「リゼルギン酸ジエチルアミド」とアストリッドから聞いてすぐ LSD だと分かったのは、それが刑事の必須知識である禁止薬物だからです。

LSDは人工的に合成されますが、もともと麦角菌に含まれる「麦角アルカロイド」の研究から生まれたものでした。麦角アルカロイドの中のリゼルギン酸から LSD が生成されることもあります。

アルカロイドとは、主に植物や菌が生成する有機化合物の総称ですが、麦角アルカロイドの人への影響は幻覚だけでありません。Wikipedia から引用すると、次のとおりです。


(麦角アルカロイドは)循環器系や神経系に対してさまざまな毒性を示す。神経系に対しては、手足が燃えるような感覚を与える。循環器系に対しては、血管収縮を引き起こし、手足の壊死に至ることもある。脳の血流が不足して精神異常、痙攣、意識不明、さらに死に至ることもある。さらに子宮収縮による流産なども起こる。

Wikipedia(2022.9.6 現在)

麦角アルカロイドが人にもたらすさまざまな症状を「麦角中毒」といいます。そして「麦角中毒」は、アストリッドが指摘した1951年のポン・サン・テスプリ(Pont-Saint-Esprit。南フランスの小さな町)での事件(実際にあった事件です)より遙か昔から、ヨーロッパでしばしば起こっていました。そして中世ヨーロッパでは、麦角中毒のことを人々は「聖アントニウス病」ないしは「聖アントニウスの火」と呼んでいました。

その「聖アントニウス病」と密接に関係した絵が、ドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』(1515年頃)です。イエスの磔刑を描いていますが、イエスを最もむごい姿で描いた絵として有名です。


イーゼンハイムの祭壇画


中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある『イーゼンハイムの祭壇画』の解説を紹介します。

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マティアス・グリューネヴァルト(1470/75 - 1528)
イーゼンハイムの祭壇画 第1面」(1515年頃)
ウンターリンデン美術館(仏)


中世三大疫病といえば、ペスト、ハンセン病、聖アントニウス病だが、最後にあげた聖アントニウス病については、発症地がアルプス以北にほぼ限定されているた め、あまり知られていないのではないか。

これは麦角ばつかくアルカロイドによる中毒が原因で起こり、細菌感染したライ麦でパンを作って食べると発症した(ただしそうとわかるのは、ようやく17世紀も終わり近くなってからだ)。神経をやられるので痙攣性けいれんせいの発作に襲われたり、四肢ししの末端がけつくように痛んでふくれあがり、進行すると壊疽えそになって崩れ落ち、果ては死に至る難病である。手足が変形するのは、ハンセン病の重篤な場合と似ているので、どちらに罹患しているのかわからない場合もあったようだ。

中野京子『怖い絵』
(朝日出版社 2007)

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中野京子「怖い絵」
(朝日出版社 2007)
上に引用にあるように、聖アントニウス病が麦角中毒だと分かるのは17世紀終わりです。ということは、それ以前の中世、たとえば『イーゼンハイムの祭壇画』が描かれた16世紀では、そんなことは誰も知らない。当時、聖アントニウス病を治すには、転地療養や旅(巡礼)が良いとされたようですが、それは食事が変わって、いつも食べている「麦角菌入りのライ麦パン」を食べなくなったからなのでしょう。

では、麦角中毒がなぜ「聖アントニウス病」と呼ばれたのか。そして、イーゼンハイム(現在のストラスブール近郊の町)の修道院にあった『イーゼンハイムの祭壇画』が、なぜ「聖アントニウス病」と関係するのか。中野さんの解説が続きます。


当時は教養のあるなしに関わらず誰もが悪魔の存在を信じていたから、原因不明の激しい苦痛と肉体の崩壊を伴うこれらの病気を、犯した罪への神罰しんばつと見なして差別したり、地域によっては悪魔のしるとして魔女裁判にかけて火炙ひあぶりにすることさえあった。いずれにせよ患者は住む家を追われ、死に場所を求めて放浪するしかない。その際でも、ハンセン病にかかっていることを周りに知らせるため、切り裂いた衣服を着たり、あるいはガラガラを持って鳴らし続けながら歩かねばならなかった。

どこにも救いはなかったのだろうか ?

いや、ささやかだがあった。かつてひとりの病人が、聖アントニウスの聖遺骨せいいこつに祈りを捧げて健康を取りもどしたのだという。おそらく軽症だったため、長い巡礼の行程でライ麦パンを口にしなくなっただけで治ってしまったのであろうが、この言い伝えを信じた人々は、聖アントニウスゆかりの各地へ巡礼するようになる。とりわけストラスブール近郊イーゼンハイムの聖アントニウス修道会へは、人々が殺到した。というのもここには治療院も併設され、修道士たちが薬草をせんじてくれたり、重病人には優れた技術で四肢しし切断を施し、末期まつごの場合でも信仰による慰めを与えてくれたからだ。

中野京子『怖い絵』

このあと中野さんは、当時、聖アントニウス病にかかった村人が、同じ症状の人をさそって、5人でイーゼンハイムへ巡礼に出かける旅路を、村人目線で、想像で書いています。同行の人は次々と行き倒れ、イーゼンハイムに近づいたときには、村人一人になっていました。


ある日、道づれが増えはじめたのに気づく。みんな同じような姿の巡礼者たちで、同じ方向を目指して歩いている。あなたは興奮し、聖アントニウス修道会が近いのですか、とかたわらの人に声をかけると、あそこに屋根の十字架が見えるでしょう、と言われた。

あなたには見えないが、それも道理で、両足はすでに腐り、しばらく前から使える左腕だけを頼りに、あぶら汗を流すほどの痛みに耐えながら、膝でいざりつつ進んでいたのだ。子どもの背丈でしか周りが見えず、高いはずの教会も木々にさえぎられていた。でもそれが何だろう。もうイーゼンハイムに着いたのだ。

あなたは勇気づけられ、ミミズのように角を曲がる。教会だ。戸口にいた修道士があなたのひどい様子に気づき、駆け寄ってくる。その人に抱きかかえられ、薄暗く、ひんやりした堂の中へ入れてもらった。祭壇の前へ連れてゆかれると、ロウソクの炎のゆらめく中に浮かび上がったのが ─── この絵だ。

長い辛い旅路の果てに、あなたは今この絵を目にしている。

十字架上のイエスのねじれ、よじれ、伸びきった身体、肉体と精神の苦痛に激しくゆがむ顔、干からびた昆虫のような指、醜い皮膚の斑点はんてんとげの刺さった痛々しい傷跡、流れる血。

何と怖ろしい! 何と凄惨な! 何と痛い! 痛すぎる!

これでは仲間の死に際と同じではないか。いや、自分の今の姿そのものではないか!

あなたは衝撃に震え、やがて声にならない声をあげて泣くだろう ・・・・・・。

中野京子『怖い絵』

要するに『イーゼンハイムの祭壇画』は、たとえば、当時、聖アントニウス病に罹患し、イーゼンハイムの修道院にやっとの思いでたどり着いた巡礼者の気持ちを想像してみないと、その価値の一端すら分からないと言っているのですね。


ふつうの人が絵を見る機会などほとんどなかった時代、優れた絵画が心に及ぼす影響がいかに大きかったか、眼の刺激に慣れすぎた現代人にはとうてい想像もつかない

小説ではあるが、『フランダースの犬』の中で主人公の少年ネロが、ルーベンスの『キリスト昇架しょうか』を見たくてたまらず、ついに無断で教会へもぐり込んでこの傑作を目の当たりにしたとき、「ああ、神さま、もうぼくは死んでもいい」とまで思う。それほどの深い満足を与える力が、かつて絵画にはあったのだ。

イーゼンハイムの祭壇画さいだんがも同じだ。ましてこの作品は特権階級の眼を悦ばせるためではなく、業病ごうびょうに苦しむ一般庶民の癒しになるよう救いを与えるようにと、聖アントニウス修道会がグリューネヴァルトに依頼したものである。彼は約四年かけ、これまでのどんな磔刑図たつけいずよりむごい、見る者に直接肉体の苦痛を感じさせるような、心底恐ろしい作品に仕上げた。ほの暗い聖所でこの絵は物凄まじい吸引力を発揮し、病人たちは思わず絵の前にひざまずき、手を合わせて祈らずにいられなかったという。

中野京子『怖い絵』

このあとは、祭壇画の詳細な解説です。登場人物はイエス、聖母マリア、イエスの弟子の聖ヨハネ、マグダラのマリア、洗礼者聖ヨハネ、聖セバスティアヌス、聖アントニウスなどです。

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マティアス・グリューネヴァルト
「イーゼンハイムの祭壇画 第1面」


─── 中央パネルの背景は闇である(磔刑のこの日この時間、日蝕があったからだ)。十字架の横木がイエスの身体の重みでしなり、いばらの冠はまさしく拷問の具であることを示して、頭部を血みどろにしている。磔刑図を描く際の決まりどおり、イエスは頭を右にかしげ、右脇腹のえぐられた箇所からは血を流す。

左には、気を失いかける聖母マリアと、それを支える福音書書記聖ヨハネがいる。彼の右腕と指が現実性を欠いた長さなのが目を惹く。いったいに人体各部の比率が正しくないのと、線描になめらかさを欠いていることが、この絵の異様な迫力の一因といえよう。またイエスの足もとで歎くマグダラのマリアのサイズがおかしいが、これは重要度が低い人物は小さく描くというゴシック絵画の約束ごとである。

右側で書を持って立つのは洗礼者聖ヨハネで、彼はイエスの死よりずっと前にヘロデ王に首をられたから、本来ここにいるべきではない。しかし彼が指さすそばには、「あの方(= イエス)は栄え、わたしは衰えなければなりません」と文字が記されており、このヨハネがわば幻像だとわかる。足元の仔羊こひつじはいうまでもなく「犠牲の仔羊」だ。

左の細長いパネルに描かれているのは、ペストの守護神、聖セバスティアヌス。右パネルは聖アントニウス。中央パネル下にあるパネルをプレデッラというが、ここにはイエスの埋葬シーンが描かれている。

この五枚一組は、実は祭壇画の扉である。平日は扉が閉まった状態にあるので、病人や信者たちはこの磔刑図を見る。だが日曜日になると、中央パネルが真ん中、十字架のあたりから観音開きに分かれ、下のパネルがあらわれる。そこには左から順に、『受胎告知』『奏楽そうがくの天使』『聖母子像』『復活』の図が並んでいる。さらにこれも観音開きできるようになっており、特別な日だけ開帳するのだが、内部中央は絵画ではなく聖アントニウスの彫刻座像が収められ、両翼りょうよくには『聖アントニウスの誘惑』と『訪問』図が描かれている。

つまり絵だけで11枚もある、8メートルの高さの、実に複雑な多翼たよく祭壇画なのだ。当時の病人や信者たちは、平日は無惨な生の苦しみを受けるイエスに涙し、日曜になって扉がギーッという音とともに開くと、復活したイエスのすこやかで輝かしい姿を見る。どれほど救われた気持ちになったことか。

中野京子『怖い絵』

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マティアス・グリューネヴァルト
イーゼンハイムの祭壇画 第2面
ウンターリンデン美術館(仏)


修道士が大きな扉絵をおごそかに開けるとき、磔刑図の暗い陰惨な絵の陰から、明るい色彩の復活したイエスや天使が少しずつ見えてきて、それはまるで天国のまばゆい光がこぼれ出るようなものだったに違いない。その瞬間、病人たちは痛みも苦しみも忘れたであろう。堂のそこかしこから、溜め息や声が洩れたであろう。

それと同じ感動を、我々はもはや共有することはできない。

しかし一方で、感じる人には感じられようが、この磔刑図には、数百年前のそうした人々の強い念が取り込まれており、それがこれを、絵画を超えた、一種、生きものの如きものに見せている。

中野京子『怖い絵』


コルマールのウンターリンデン美術館


「イーゼンハイムの祭壇画」は現在、解体された状態で、フランスのアルザス地方の都市、コルマールにあるウンターリンデン美術館にあります。

コルマールは一度だけ行ったことがありますが、その時はツアー旅行だったので、美術館のところまで来たときには閉館時間を過ぎていました。残念でしたが、ツアー旅行なので仕方ありません。なお、コルマールは、ジブリ映画『ハウルの動く城』のモデルになったとも言われる美しい街です。ウンターリンデン美術館とは関係なく、十分に訪問する価値がある街です。




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No.345 - "恐怖" による生態系の復活 [科学]

No.126-127「捕食者なき世界」の続きです。No.126-127は、生態系における捕食者の重要性を、ウィリアム・ソウルゼンバーグ著「捕食者なき世界」(文春文庫 2014)に沿って紹介したものでした。

生態系において捕食者(例えば肉食獣)が、乱獲などの何らかの原因で不在になると、被捕食者(例えば草食動物)が増え過ぎ、そのことによって植物相が減少する。最悪の場合は草食動物もかえって数が減って生態系の荒廃が起こり得る。このようなことが、豊富な実例とともに示されていました。

生態系における「捕食・被捕食」の関係は、動植物の種が複雑に絡み合うネットワークを形成していて、そのネットワークには「不在になると他の種に連鎖的な影響を及ぼす種」(= キーストーン種。キーストーンは "要石かなめいし" の意味)があります。食物連鎖の頂点に位置する肉食獣は代表的なキーストーン種なのでした。

ところで、最近の NHK BS1 のドキュメンタリーで、人的要因によって激変してしまった生態系を、捕食者の再導入によって元に戻そうとするプロジェクトが放映されました。その番組は、

NHK BS1 BS世界のドキュメンタリー
2022年8月9日 15:00~15:45)

"恐怖" でよみがえる野生の王国」
Nature's Fear Factor)
 制作:Tangled Bank Studios(米国 2020)

です。今回はこの番組の概要を紹介します。日本語題名に「"恐怖" でよみがえる」とあり、また原題の意味は「自然の要素としての "恐怖"」です。つまり "恐怖" が重要なテーマになっています。これは、

捕食者は、単に被捕食者を殺して食べるだけでなく、被捕食者に常に "恐怖" を与えており、そのことによって被捕食者の行動は制限され、これが生態系維持の重要な要素になっている」

という意味です。このことは以降の概要で詳しく出てきます。プロジェクトの主役 = 捕食者は、アフリカに住むイヌに似た肉食獣の "リカオン" です。


ゴロンゴーザ国立公園とその荒廃


東アフリカのモザンビークにあるゴロンゴーザ国立公園は、アフリカの国立公園の中でも特に豊かな自然に恵まれている公園です。

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ゴロンゴーザ国立公園
サバンナ、林、氾濫原、湖、川、熱帯雨林などが複雑に入り組んだ自然生態系を成している。番組より。

モザンビークでは独立後、1970年代から15年以上ものあいだ、政府軍と反政府勢力の激しい内戦が続きました。この内戦による犠牲者は 100万人にのぼるとされています。

この内戦のあいだ、ゴロンゴーザ国立公園は反政府勢力の格好の隠れ家になり、戦場にもなったので、荒廃してしまいました。戦乱と密猟によって大型の哺乳類の数が激減してしまったのです。20年前の調査では、大型の哺乳類の数が内戦前に比べて 1/10 以下に減少していました。たとえば、

象 :  2500 → 250
カバ :  3500 → 100未満
ライオン :   200 → 10
シマウマ :  3500 → 0
ヌー :  6500 → 0
アフリカ水牛 : 14000 → 0

といった悲惨な状況です。ゴロンゴーザ国立公園の復活は不可能だと思われました。

しかし希望がありました。それは豊かな自然環境です。ゴロンゴーザ国立公園は、サバンナ、林、氾濫原、湖、川、熱帯雨林などがモザイク状に入り組んでいます。この自然環境がそのまま残っていたのです。


ゴロンゴーザ再生プロジェクト


世界各地からも専門家が集まって官民共同の「ゴロンゴーザ再生プロジェクト」が結成されました。このプロジェクトによって、大きく数を減らした動物の一部は他の地域から持ち込まれました。こうした努力の結果、動物の生息数は回復しつつあります。特に、草食動物の生息数は内戦前に近づきつつあります。

素晴らしいことのよう思えますが、専門家の判断によると健全な生態系の回復ではありません。動物によって増え方に偏りがあり、以前のような多様性が失われたのです。たとえば、一部の動物だけが急速に数を増やしています。中でも、ウォーターバックの数が爆発的に増えました。生息総数は6万頭に迫る勢いで、これは内戦前の10倍以上です。

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ウォーターバック(雌)
(Wikipedia)

「多種多様な生き物がそれぞれに適した場所で生息し、全体として安定した生態系を作っている」という、本来あるべき姿ではないのです。なぜ動物の数が偏るのでしょうか。この問題の解決策を探るべく、ゴロンゴーザ再生プロジェクトでは生態系の地道な調査をはじめました。


ブッシュバックの奇妙な行動


生態系の調査で判明したことの一つに、アンテロープ(=レイヨウ)の一種で、本来警戒心が強いブッシュバックの奇妙な行動があります。ブッシュバックはその名のとおり、本来なら茂みに隠れて暮らします。しかし林を離れて、開けた氾濫原に行動範囲を広げていました。より栄養がある食べ物を求めて氾濫原に踏み出したと考えられました。

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ブッシュバック(雌)
(Wikipedia)

草食動物がどの種類の草を食べているのか、糞を採取して調べること可能です。3年間で3000以上ものブッシュバックの糞が集められ、アメリカのプリンストン大学に送られました。含まれる植物のDNA分析の結果、氾濫原のブッシュバックは林の中の個体より栄養価の高い草を食べていることが分かりました。その結果、氾濫原に踏み出したブッシュバックは体が大きくなり、子どももたくさん作れるのです。


草食動物の食性変化


プロジェクトではさらに、ゴロンゴーザ国立の主な草食動物が何を食べているかを分析し、ケニアの似たような国立公園と比較しました。ケニアの草食動物は、種によって食べるものがはっきり分かれていました。一方、ゴロンゴーザでは複数の種が同じ物を食べていました。

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草食動物の食性の比較
[ケニア(左)とゴロンゴーザ(右)]
色の違いは草食動物の種を表し、ブッシュバック、ウォーターバック、リードバック、インパラ、オリビの5種である。点は個体で、個体が食べた草の種類によって3次元グラフにプロットし、それをある方向から2次元的に見たのが上の図である。ケニアの5種の草食動物は食性が分離しているが、ゴロンゴーザでは食性が重なっている。番組より。

動物たちがあらゆる場所に進出し好きなものを食べるようになった結果、食性における "種の境界線" が崩壊していたのです。こうなると過度の争いが起き、生態系が崩れてきます。


捕食者の不足


根本原因は2つの不足でした。「捕食者」と「恐怖」です。ゴロンゴーザにおける捕食者は、ライオン、ハイエナ、ヒョウ、チータ、リカオンでしたが、内戦が続いた結果、わずかなライオンを除いて姿を消しました。この結果、草食動物が "恐怖心"、つまり「他の動物の餌食になることを恐れる気持ち」を忘れたのです。


捕食者の役割は獲物をとって食べること、それ以外の側面は最近まで検証されてきませんでした。でもそれでは捕食者の存在意義の過小評価することになります。自然を俯瞰して見れば、捕食者たちが遙かに大きな役割を担っていることが分かります。

天敵の攻撃を避けるには、常に周囲を警戒していなければなりません。そうすることで生き延びるチャンスを増えますが、好きなだけ草を食べることはなかなかできなくなります。天敵のいない環境と比べると、警戒を強いられる環境では栄養状態が劣り、子どもの数も少なくなります。

リアナ・ザネット
ウェスタン大学 生態学者

本来、動物は捕食者の存在を意識し、襲われたときに不利になるような環境や地形を避けて行動範囲を決めています

このことを昆虫で明らかにした実験があります。森の中の草地に2種のネットを設置し、1種のネットにはバッタだけ、もう1種のネットにはバッタとその天敵の蜘蛛をいれます。そうすると、蜘蛛がいるネットのバッタは天敵から身を隠すのに適した植物を食べるので、体が小さくなりました。一方、蜘蛛がいないネットのバッタは、栄養が豊富な植物を食べるので体が大きくなり、繁殖数を増やしました。つまり「捕食されにくい行動」と「子孫を多く残す行動」のトレードオフ関係がみられたのです。



プロジェクトでは、ゴロンゴーザの生態系の荒廃を回復させるため、捕食者の再導入が計画されました。実は25年前、米国のイエローストーン国立公園ににオオカミが再導入され、成果をあげていました(No.126-127「捕食者なき世界」参照)。

しかしゴロンゴーザの動物は、もう何世代も捕食者のいない環境が続いています。果たして、今でも捕食者を恐れる行動をとるのでしょうか。

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氾濫原に進出したブッシュバック。番組より。

そこでまず、氾濫原のブッシュバックがヒョウの声に反応するかどうかの実験が行われました。ヒョウの声を録音し、氾濫原にスピーカーを設置して、何日かはただの雑音を流し、別の日にヒョウの声を流しました。すると、ヒョウの声でブッシュバックの行動が一変し、生息域を変えてヒョウの声を避けるようになったのです。

声だけで変化を起こせるのなら、本物の捕食者はもっと大きな変化を起こせるはずです。これで捕食者の再導入が決まりました。捕食者として選ばれたのはリカオンです。


リカオンの再導入


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リカオン
(Wikipedia)

リカオンは体にまだら模様があり、格好はイヌに似ています。しかし約150万年前にオオカミから枝分かれしてアフリカ大陸で独自の進化をとげた動物で、イヌやオオカミとは全く別の動物です。その生息数はアフリカ全土で7000頭以下に減少していて、絶滅の危機にあります。リカオンがゴロンゴーザ国立公園で最後に確認されたのは30年以上も前でした。

ゴロンゴーザ国立公園から800キロ離れた南アフリカの動物保護区から、14頭のリカオンが運ばれました。遺伝的な多様性を重視して、これらのリカオンは異なる群から選ばれた14頭です。

14頭のリカオンは、まず、ゴロンゴーザ国立公園に作られた囲いの中で共に過ごしました。この過程で群としての一体感が醸成され、リーダーのリカオンも決まっていきました。そして8週間後、囲いの扉が開けられ、公園に放たれました。

リカオンには発信器がつけられ、行動をつぶさに追跡できます。またブッシュバックにも多くの発信器がつけらています。リカオンとブッシュバックの糞の分析すると何を食べたかが分かる。つまり、リカオンの再導入による生態系の変化が詳細に分析できるのです。その意味で、この再導入は生態学における歴史的な実験です。また、順調にいけば、絶滅危惧種であるリカオンの繁殖につながる可能性もあります。


ゴロンゴーザ国立公園でのリカオン


プロジェクトの努力で、ライオンの生息数は150頭にまで回復していました。ゴロンゴーザにおけるライオンの狩りの基本は「待ち伏せ」です。ライオンは林と氾濫原の間の背の高い草が茂るところに単独で潜み、そこを通る動物を狙うのです。

一方、リカオンの狩りは集団による狩りです。氾濫原のような開けた場所で草食動物を狙います。かつ、リカオンはライオンを避けます。ライオンに殺されることもあるからです。生態系の回復のためには、異なったテリトリーで獲物をねらう複数の捕食者が必要です。

リカオンの群は、平均で1日2頭以上のアンテロープ(ブッシュバックなど)をしとめます。ゴロンゴーザの今の状況では、食べ物に全く困らないはずです。



ゴロンゴーザの14頭のリカオンを追跡する過程で、繁殖が確認できました。まず、11頭の子どもが生まれました。その次には8頭の子どもが生まれました。さらに群の一部が独立して別の群ができ、その別の群でも8頭の子どもが生まれました。ゴロンゴーザのリカオンは、総計40頭以上の2つの群になり、存在感を増しました。

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ゴロンゴーザ国立公園で数を増やしたリカオン。親にまじって子どもが写っている。番組より。

さらに、ライオンがあまり狙わない動物をしとめていることも分かってきました。そのため、動物の警戒心が強くなり、動物の行動が変わりました。

リカオンの糞を分析すると、狩りの獲物の半分以上はブッシュバックだとわかりました。ブッシュバックはいずれ氾濫原から撤退し、今よりも栄養状態が劣るようになると想定できます。プロジェクトの成果は数年経たないと確定できませんが、希望がもてるスタートです。

さらに、プロジェクトのメンバーにとって嬉しい知らせがありました。ゴロンゴーザ国立公園では10年以上目撃されていなかったヒョウが目撃されたのです。それだけ、ゴロンゴーザには自然が残っていたということです。ヒョウは自力で復活を果たすかもしれません。



14頭のリカオンが放たれてから1年後、さらに15頭が到着しました。これはリカオンの遺伝的な偏りを防ぎ、ゴロンゴーザにさらなる "恐怖" をもたらすためです。将来的には他の捕食者の導入も検討されています。


感想


ゴロンゴーザ再生プロジェクトに関わる生態学者、動物学者の地道な努力の積み重ねが印象的でした。たとえば、本文に引用した「ゴロンゴーザとケニアにおける草食動物(5種)の食性の違い」ですが、各種の草食動物の糞を多数に集め、植物のサンプルも大量に集め、それらをDNA分析して、食性の違いを明らかにしています。大変な作業です。こういうことを地道に、かつ定期的にやることが、ゴロンゴーザ再生プロジェクト(リカオンの再導入はその一つ)の成果を、エビデンスとともに示せるということでしょう。

いったん崩れた生態系を元に戻すのは、おいそれとできるものではなく、時間とコストがかかります。しかしそれにチャレンジする学者がいる。そのことが実感できたドキュメンタリーでした。




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No.344 - 算数文章題が解けない子どもたち [社会]

No.234「教科書が読めない子どもたち」は、国立情報学研究所の新井紀子教授が中心になって実施した「全国読解力調査」(対象は中学・高校生)を紹介したものでした。

この調査の経緯ですが、新井教授は日本数学会の教育委員長として、大学1年生を対象に「大学生数学基本調査」を実施しました。というのも、大学に勤める数学系の教員の多くが、入学してくる学生の学力低下を肌で感じていたからです。この数学基本調査で浮かび上がったのは、そもそも「誤答する学生の多くは問題文の意味を理解できていないのでは」という疑問だったのです。

そこで本格的に子どもたちの読解力を調べたのが「全国読解力調査」でした。その結果は No.234 に概要を紹介した通りです。



ところで最近、小学生の学力の実態を詳細に調べた本が出版されました。慶応義塾大学 環境情報学部教授の今井むつみ氏(他6名)の「算数文章題が解けない子どもたち ── ことば・思考の力と学力不振」(岩波書店 2022年6月)です(以下「本書」と記述)。新井教授の本とよく似た(文法構造が全く同じの)題名ですが、触発されたのかもしれません。

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新井教授は数学者ですが、本書の今井教授は心理学者であり、認知科学(特に言語の発達)や教育心理学が専門です。いわば、読解力を含む「学力」とは何かを研究するプロフェッショナルです。そのテーマは「算数文章題」で、対象は小学3年生・4年生・5年生です。

私は教育関係者ではないし、小学生ないしは就学前の子どもがあるわけでもありません。しかしこの本を大変に興味深く読みました。その理由は、

小学生の「算数文章題における学力とは何か」の探求を通して、「人間の思考力とは何か」や「考える力の本質は何か」という問題に迫っている

と感じたからです。著者にそこまでの意図はなかったと思いますが、そういう風にも読める。ということは、要するに "良い本" だということです。そこで是非とも、本書の "さわり" を紹介したいと思います。以下の引用では、原文にはない下線や段落を追加したところがあります。また引用した問題文の漢字には、本書ではルビがふってありますが、省略しました。


問題意識


まず、本書の冒頭に次のように書いてあります。


学校での勉強についていけない子どもがいる。学びを楽しいと思い得ない子どもがいる。この子たちを支援することは社会の義務である。待ったなしで解決しなければならない問題である。支援するために何が必要か。その子どもたちの学力不振の原因を明らかにし、そのうえで、手だてを講じなければならない。

今井むつみ・他 著
「算数文章題が解けない子どもたち」
岩波書店(2022年6月)

著者(たち)は広島県教育委員会から「小学生の学力のベースとなる能力を測定し、学力不振の原因を明らかにすることができるアセスメントテストの作成」を依頼されました。県教委からは次のようにあったそうです(この引用の太字と下線は原文通りです)。


これまでも教科の習熟度を測るテストを行ってきた。しかし、わかるのは、問題ごとの通過率だけである。その学年で学んだはずの内容を問う問題に正答できる子どももいれば、できない子どももいる、ということはわかる。どの問題の出来がよくて、どの問題は出来が悪いか、どの子どもがよくできて、どの子どもができないかもわかる。しかし、つまずいている子どもがなぜつまずいているのかはそのテストからはわからない

「同上」

その「つまずいている子どもが なぜつまずいているのか」を知る目的で、著者は認知科学と教育心理学の長年の研究成果をもとに、2種類の「たつじんテスト」を開発しました。

ことばのたつじん
→ ことばに関する知識を測る
かず・かたち・かんがえるたつじん
略称「かんがえるたつじん」)
→ 数と図形に関する知識と推論能力を測る

の2つです。そして

算数文章題テスト
主として教科書にある算数文章題)
国語・算数の標準学力テスト

の成績と「たつじんテスト」の成績の相関関係を統計的に明らかにしました。また、相関関係をみるだけでなく、子どもたちの誤答を詳細に分析し「なぜつまずいているのか」を明らかにしました。この詳細分析が最も重要な点だと言えるでしょう。

本書には「算数文章題テスト」と、2つの「たつじんテスト」の内容、誤答の分析、「算数文章題テスト」と「たつじんテスト」の相関関係、学力を育てる家庭環境とは何かなどが書かれています。それを順に紹介します。


算数文章題テスト


算数文章題テストは、広島県福山市の3つの小学校の3・4・5年生を対象に行われました。調査参加人数は、3年生:167人、4年生:148人、5年生:173人でした。問題は3・4年生用と5年生用に分かれています。

 3・4年生:問題とテスト結果 

3・4年生用の算数文章題は8問です。いずれも教科書からとられたもので、

問題1:1年生の教科書
問題2~8:3年生の教科書

です。具体的な問題は次の通りでした。

問題1
列の並び順
(順番)
子どもが 14 人、1れつにならんでいます。ことねさんの前に7人います。ことねさんの後ろには、何人いますか。
問題2
必要ケーキ数
(かけ算)
ケーキを4こずつ入れたはこを、1人に2はこずつ3人にくばります。ケーキは、全部で何こいりますか。
問題3
遊園地への所要時間
(時間の引き算1)
けんさんは、午前9時 20 分に家を出て、午前10時40分に遊園地へ着きました。家から遊園地まで、何時間何分かかりましたか。
問題4
山下りの所要時間
(時間の引き算2)
えりさんは、山道を5時間10分歩きました。山をのぼるのに歩いた時間は、2時間 50 分です。山をくだるのに歩いた時間は、何時間何分ですか。
問題5
必要画用紙数
(割り算)
1まいの画用紙から、カードが8まい作れます。45まいのカードを作るには、画用紙は何まいいりますか。
問題6
ジュースの元の量
(分数)
りんさんが、ジュースを37L(リットル)のんだので、残りは27L(リットル)になりました。 はじめにジュースは、何 L(リットル)ありましたか。
問題7
リボンの切り取り
(小数)
リボンが4m ありました。けんたさんが、何m か切り取ったので、リボンは1.7m になりました。けんたさんは、何m 切り取りましたか。
問題8
テープの長さ
(倍率)
なおきさんのテープの長さは、えりさんのテープの長さの4 倍で、48 cm です。えりさんのテープの長さは何cm ですか。

これらの問題の正答率は次の通りでした。

3年生4年生
問題1 順番28.1% 53.4%
問題2 かけ算57.5% 72.5%
問題3 時間の引き算156.0% 63.4%
問題4 時間の引き算217.7% 26.0%
問題5 割り算41.1% 48.9%
問題6 分数84.4% 87.0%
問題7 小数48.2% 63.4%
問題8 倍率45.0% 62.6%

本書では、このような全体の成績だけでなく、誤答を個別に分析し、誤答を導いた要因(= 子どもの認知のあり方)を推測しています。その例を2つ紹介します。

問題1(列の並び順)


子どもが 14 人、1れつにならんでいます。ことねさんの前に7人います。ことねさんの後ろには、何人いますか。


問題1は小学1年の教科書から採られた問題ですが、正答率が衝撃的に低くなりました。3年生の正答率は30%を切り、4年生でも半分程度しか正解できていません

ちなみに、同じ問題を5年生もやりましたが、正答率は72.3% でした。つまり5年生になっても3割の子どもが間違えたわけで、これも衝撃的です。3・4年生の代表的な誤答を調べると次のようになります。まず、


(式)14 × 7 = 98 (答)98人


という回答をした子がいます。2桁と1桁の掛け算は正確にできていますが、このタイプの子どもは「文の意味を深く考えず、問題文にある数字を全部使って式を立て、計算をして、何でもよいから答えを出そうという文章題解決に対する考え方を子どもがもっている可能性が高い」(本書)わけです。

そもそも「問題文の状況のイメージを式にできない」子どもがいることも分かりました。問題文のイメージをつかむために、回答用紙に図を描いた子どもはたくさんいます。つまり、14人の列の一人一人を ○ で描いた子どもです。しかしそれをやっても、問題文を正しく絵に出来ない子どもがいる。文章に書かれていることの意味を読み取れないのです。さらに、誤答の中に、


(式)14 - 7 = 7 (答)7人


というのがありました。問題文に現れる人数を表す数字は 14 と 7 の2つだけです。従って上のような式になった。この子は「文章に現れる数字(だけ)を使って回答しなければならないという誤ったスキーマ」を持っていると考えられます。

ここで言うスキーマとは認知心理学の用語で「人が経験から一般化、抽象化した、無意識に働く思考の枠組み」のことです。言うまでもなく正しい式は、


14 - 7 - 1 = 6


ですが、式には人数として 1 という、文章には現れない数字が必要であり、それを文章から読み取る必要があるわけです。

また、14 - 7 = 7 (答)7人 という回答をした子どもの中には、正しい図を描いた子もいました。このような誤答は「メタ認知能力」が働いていないと考えられます。

メタ認知能力とは「自分をちょっと離れたところから俯瞰的に眺め、自分の知識の状態や行動を客観的に認知する能力」のことです。批判的思考ができる能力と言ってもよいでしょう。7人が正しい答えかどうか、正しい図を書いているのだから「振り返ってみれば」分かるはずなのです。

問題2(必要ケーキ数)


ケーキを4こずつ入れたはこを、1人に2はこずつ3人にくばります。ケーキは、全部で何こいりますか。


この問題で多かった誤答の例を2つあげると次のようです。まず、


(式)4 - 2 = 2 (答)2こ


という答です。この回答は、問題文にある最初の2つの数字だけをみて、しかも問題文を勝手に読み替えています。つまり「ケーキを 4つ入れた箱から 2つを配ると何個残りますか」というような問題に読み替えている。問題文の読み取りが全くできていません。


(式)4 × 3 = 12 (答)12こ


という答もありました。もちろん問題2の正答は、


(式)4 × 2 × 3 = 24 (答)24こ


ですが、4 × 2 = 8、8 × 3 = 24 という2段階の思考が必要です。このような「マルチステップの認知処理上の負荷を回避する」傾向が誤答を招いた例がよくありした。

本書に「作業記憶と実行機能をうまく働かせられていない」と書いてあります。この問題に正答するためには、4 × 2 = 8 の「8こ」をいったん「作業記憶」にいれ、次には作業記憶の 8 と問題文の 3 だけに着目して(4 と 2 は忘れて)掛け算をする必要があります。心理学で言う「実行機能」の重要な側面は「必要な情報だけに集中し、余計な情報を無視できる認知機能」です。誤答する子どもはこれができないと考えられます。

 5年生:問題とテスト結果 

5年生用の算数文章題は8問です。このうち問題1、4、5、6は3・4年生用の問題と共通です。まとめると次の通りです。

問題 1:1年生の教科書
問題 4, 5, 6:3年生の教科書
問題 9, 10, 11, 12:5年生の教科書、および作問したもの

問題1
列の並び順
(順番)
子どもが 14 人、1れつにならんでいます。ことねさんの前に7人います。ことねさんの後ろには、何人いますか。
問題4
山下りの所要時間
(時間の引き算2)
えりさんは、山道を5時間10分歩きました。山をのぼるのに歩いた時間は、2時間 50 分です。山をくだるのに歩いた時間は、何時間何分ですか。
問題5
必要画用紙数
(割り算)
1まいの画用紙から、カードが8まい作れます。45まいのカードを作るには、画用紙は何まいいりますか。
問題6
ジュースの元の量
(分数)
りんさんが、ジュースを37 L(リットル)のんだので、残りは27L(リットル)になりました。 はじめにジュースは、何 L(リットル)ありましたか。
問題9
学校までの距離
(距離の計算)
えみさんの家から学校までの距離は 3.6km で、あきらさんの家から学校までの距離より35km 遠いそうです。あきらさんの家から学校までは、何km ですか。
問題10
10年前の児童数
(倍率、割り戻し)
こうたさんの学校の今年の児童数は 476人で、10年前の 200% に当たります。10年前の児童数は何人ですか。
問題11
電車の距離
(速さと距離の計算)
2時間で108km 走る電車があります。この電車は、3時間で何km 進みますか。
問題12
お菓子の量
(倍率・増量)
250g入りのお菓子が、30%増量して売られるそうです。お菓子の量は、何gになりますか。

正答率は次の通りでした。

5年生
問題1 順番72.3%
問題4 時間の引き算253.9%
問題5 割り算59.6%
問題6 分数87.2%
問題9 距離の計算17.7%
問題10 倍率・割り戻し55.3%
問題11 速さと距離の計算66.7%
問題12 倍率・増量37.6%


問題12:お菓子の量の問題


250g入りのお菓子が、30%増量して売られるそうです。お菓子の量は、何gになりますか。


誤答の分析から1つだけを紹介します。問題12「お菓子の量の問題」に次のような回答がありました。以下の(図)は、回答用紙の(図)欄に子どもが書いたコメントです。


(式)250 ÷ 0.3 = 800 (答え)800g

(図)
ふつうならかけだけど かけにしてしまうと逆に減ってしまうので(0.3だから)÷ にしてふやす


この回答を書いた子どもは増量の意味が分かっています。30% が 0.3 だということも分かっている。「答は増えるはずだ」という「メタ認知」もちゃんと働いています。しかも、小数での割り算(250 ÷ 0.3)もできて、おおよそですが合っています。何と、本当は掛け算にすべきだということまで分かっている!! そこまで分かっているにも関わらず、正しい立式ができていません。言うまでもなく正しい式は、


 250 × 1.3 = 325

ないしは、

 250 × 0.3 = 75
 250 + 75 = 325


ですが、この問題の文章に 1.3 という数字はありません。この子は 30% 増量が 1.3 倍だということが思いつかなかったのです。ないしは2番目の立式のような「マルチステップの思考」ができなかったのです。

この例のように、算数文章題が苦手な子どもは「文章に書かれていない数字を常識で補って推論する」ことがとても苦手です。読解力で大切なのは「文章で使われている言葉の意味をきちんと理解し、常識を含む自分の知識で "行間を補う"」ことなのですが、誤答した多くの子どもはそれができないのです。


算数文章題の誤答分析


以上は3つの誤答の例ですが、3・4・5年生の誤答の全体を分析すると次のようになります。

まず、典型的な誤答では、小数や分数などの数の概念が理解できていないことが顕著でした。小数や分数を理解するためには、整数・分数・小数という演算間の関係性の理解、つまり「数」という "システム" の理解が必要ですが、それが全くできていないのです。つまり「数」の知識が「システム化された数の知識」になっていない。

また時間の計算においては「秒・分・時間・日」の単位変換が苦手なことが顕著でした(3・4・5年生の問題4の正解率参照)。これも「秒・分・時間・日」の概念をバラバラに覚えているだけで「システム化された知識」になっていないのが原因と考えられます。

また、しばしばある誤答の理由は、文章の読みとり(=読解)ができず、従って文章に描かれている状況がイメージできないという点です。その「読解ができない」ことの最大の要因は、推論能力が足りないことです。文章に書かれていないことを、自分のスキーマに従って補って推論する力が足りないのです。

さらに、多くの子供たちが「足し算とかけ算は数を大きくする、引き算と割り算は数を小さくするという誤ったスキーマ」をもっていることが見て取れました。

「誤ったスキーマ」の最たるものが「数はモノを数えるためにある」というスキーマです。数学用語を使うと「すべての数は自然数である」というスキーマです。このスキーマをもっていると、分数・小数の理解が阻害され、その結果として誤答を生み出す。

以上のような要因に加え、作業記憶が必要なマルチステップの問題や、実行機能(ある部分だけを注視して他を無視するなど)が必要な問題では、それによる「認知的負荷」が複合的に加わって、それが誤答を生み出しています。認知的負荷が高いと誤ったスキーマが顔を出す傾向も顕著でした。


ことばのたつじん


「ことばのたつじん」は、算数文章題に答えるための "基礎的な学力" と想定できる「言語力」の測定をするものです。これには、

① 「語彙の深さと広さ」
② 「空間・時間のことば」
③ 「動作のことば」

の3つがあります。

 ①「語彙の深さと広さ」 

これは "一般的な語彙力" をみるテストで、

「 ことばのいみ」
「 にていることば」
「 あてはまることば」

の3種があります。「ことばの意味」は30問からなり、そのうちの25問は3つの選択肢から1つの正解を選ぶ「標準問題」、5問は4つの選択肢から2つの正解を選ぶ「チャレンジ問題」です。その例をあげます。

標準問題の例


ねんどなどを 力を 入れて よく まぜること

1. まぶす
2. たたく
3. こねる


チャレンジ問題の例


おゆが じゅうぶんに あつくなること

1. ほてる
2. ふっとうする
3. わく
4. こみあげる


「にていることば」も30問からなり、25問は3つの選択肢から1つの正解を選ぶ「標準問題」、5問は4つの選択肢から2つの正解を選ぶ「チャレンジ問題」です。

標準問題の例


ひかくする : もちものを ひかくします。

1. ならべます
2. くらべます
3. しらべます


チャレンジ問題の例


まず : まず 手を あらいましょう

1. 後で
2. 先に
3. はじめに
4. いちどに


「あてはまることば」は、慣用句や慣習的な比喩表現、一つの語から連想される "共起語" の知識をみるものです。29問の「標準問題」(3つの選択肢から1つの正解を選ぶ)と、5問の「チャレンジ問題」(4つの選択肢から2つの正解を選ぶ)から成ります。その例をあげます。

標準問題の例


あつい(    )を よせています。

1. しんらい
2. 親切
3. しんじつ


チャレンジ問題の例


(    )が 広いです。

1. 顔
2. かかと
3. きもち
4. 心


特に成績が悪かった問題の一つは、「ことばのいみ」の中の「期間」を正解とする、次の標準問題でした。


ある日から そのあとの ある日まで 何かが つづくこと

1. きげん
2. きかん
3. しゅるい


3年生の正答率は「きかん(=正解)」が64%、「きげん」が26%、4年生では「きかん(=正解)」が75%、「きげん」が23% でした。「きかん」と「きげん」と誤答するのは、

・ 発音の類似
・ 意味の類似
・ 漢語である
・ 抽象名詞である
・ そもそも時間の概念が抽象概念である

といった要因が複合していると推測されます。これらの要因があると正答率が下がるのは「にていることば」でも同様でした。本書に次のような記述があります。


接続詞や副詞は大人にとっては日常的に使う語で、あまり抽象的な意味をもつという感覚はないが、文の前後の関係や修飾される語との関係を理解する必要があるため、子どもにとっては意味がつかみにくいことばである。

漢語は、ことばが指し示す概念そのものが抽象的である場合がほとんどなので、副詞や接続詞とは別の意味で子どもにとっては意味の理解が難しい。漢語を漢字で学習していれば漢字から意味を推測することがある程度可能であるが、漢字を知らず、耳から聞いて漢語を覚えた場合には、状況から意味の推論をすることがとても難しい。実際、低学年の子どもは特に漢語の問題の正答率が低かった。

低学年の子どもの語彙は主に耳から覚えたことばからできているので、音が似ている単語を混同していることが多いこともわかった。「きげん」と「きかん」のように、音が似ていて、概念も似ている場合、多くの子どもが誤って覚えていたのではないかと考えられる。

逆にいえば、ここから個人差の原因が見えてくる。幼児期にはことばを耳から覚えるだけだったのが、小学生になって読むことを学習すると、ことばに触れるチャンネルが格段に増える。耳からだけでなく教科書からも学ぶ。そしてなにより読書からことばを学ぶことで語彙が広がる。読書によって文字からどれだけのことばを学び、語彙を広げるかが個人差を生むのである。

抽象的な概念は、その概念に関連したさまざまなことばを知らないと、その意味を推論することができない。小学校では各教科で学ぶ概念がどんどん抽象的になる。その抽象性についていけなくなって、学校での学びが辛くなる子どもが急増するのが3~4年生、9歳のころなので、「9歳の壁」ということばも学校関係者の間で使われている。すでに述べたように、ことばの「生きた知識」を習得するためには、語彙の広さも深さも必要なのである。

今井むつみ・他 著
「算数文章題が解けない子どもたち」

 ②「空間・時間のことば」 

①「語彙の深さと広さ」は一般的な語彙の知識のテストでしたが、②「空間・時間のことば」は、"空間ことば"(前後左右など)と "時間ことば"(2日前、5日後、1週間先など)に絞って、それらを状況に応じて柔軟かつ的確に運用できるかをみるテストです。その例を引用します。

宝物さがし問題(自分と同じ視点)


あなたは 友だちと いっしょに 町に 来ました

算数文章題-p83.jpg

あなたが ほんやの 手前の 道を 右に まがると たからものがあります。 たからものは どこですか。

1ばん 2ばん 3ばん 4ばん


宝物さがし問題(自分と逆の視点)


あなたは 友だちと いっしょに 町に 来ました

算数文章題-p84.jpg

あなたが さいしょの こうさてんで 右に まがると たからものがあります。 たからものは どこですか。

1ばん 2ばん 3ばん 4ばん


この2つの問題の正答率は

同じ視点逆の視点
3年生59.1%42.7%
4年生72.8%55.0%

でした。全般的に「空間ことば」の問題では、単純な質問では正しく答えられる子どもが多いのですが、上に引用した「宝探し問題」、特に「自分と逆の視点」では正答率が下がります。

「自分と逆の視点」に正解するためには、「視点変更能力」(= 自分以外の視点でものごとを見る力)や、「作業記憶」を使う認知能力、自分の視点を抑制する「実行機能」が必要です。つまり問題解決に必要な情報全体に目配りをしつつ部分を統合する必要があり、それが、部分部分の知識を「生きた知識」として活用できることなのです。

「生きた知識」を持っているかどうかは、他の情報との統合を必要とする "認知の負荷が高い状況" で、個々のことばの知識を本当に使えるのかを評価する必要があることがわかります。

カレンダー問題


りんちゃんの たん生日は 3月14日です。たん生日の ちょうど 一週間後は おわかれ会です。カレンダーの 中から おわかれ会の日を 一つ えらび ○をしましょう。

算数文章題-p87.jpg


上の例では「ちょうど一週間後」を聞いていますが、問題の全体では「あした・ちょうど一週間後・きのう・2日前・5日後・来週の月曜日・ちょうど1週間前・先週の月曜日・5日先・2日後・1週間先・2日先・5日前」の13種の日が、カレンダーでどの日に当たるかを質問しました。

著者は「この問題の正答率の低さに驚いた」と書いています。正答率の低い原因は、時間の関係を表す「前」「後」「先」が "分かりにくい" からです。その理由を著者は次のように書いています。


空間での「前」「後」「先」の難しさよりも時間での使用がさらに難しいことには理由がある。「前」と「後」が時間の関係を表すとき、空間と時間の対応関係は直感と反対になっているのである。

直感的には、私たちは未来に向いているイメージをもつ。過去は後ろだ。実際「過去を振り返らず、未来を向いていこう」という表現をよく耳にする。つまり、自分は時間を過去から未来に向かって進んでいるというモデルを私たちは心の中に共有している。

しかし、「1週間前」「1週間後」はそのイメージとは逆に、すでに起こったこと、時間的に古いできごとが「前」で、これから起こることや時間的に新しいできごとが「後」になる。言語では(少なくとも日本語では)、時間は、直感とは逆に、未来から過去に流れるモデルで「前」「後」が使われているのである(下図)。

「何十年も前のできごとを振り返らず、未来を向いて前進していこう」というようなことを大人はよく言うし、聞いても特に違和感をもたない。しかし、この1つの文に、矛盾した時間モデルが使われていることに読者はお気づきだろうか。「何十年も前」というときには時間が未来から過去に流れているモデルを使っているのだが、後半の「振り返らず...」以下の部分は、自分が未来に向かって進んでいるモデルを使っているのである。

大人は2つの対立しているモデルをほとんど意識することなく言語の慣習として使っている。しかし、この慣習が子どもに混乱を引き起こすことは想像に難くない。

今井むつみ・他 著
「算数文章題が解けない子どもたち」

算数文章題-p89.jpg
2つの時間モデル
上のモデルでは、過去から未来への時の流れに乗って、自分が未来に向かって進んでいく。下のモデルは、未来から過去に流れる時の流れを、自分が客観的視点から観察している。この2つのモデルで「前」の意味は逆転する。日本語では2つのモデルを混在して使う。

「先」ということばも曲者です。「さっき言ったでしょう」の「先」は過去ですが、「1週間さき」の「先」は未来です。また、同じ漢字を使う「先週」は過去です。耳からの言葉で覚えた子どもが「さっき」と「さき」を混同するのは分かるし、同じ「先」を使う「先週」を未来だと誤認するのも分かるのです。ちなみに、日本語を母語としない外国人にとって「先」にはとても苦労するそうです。

時間は目に見えない抽象概念であり、もともと子どもには理解しづらいものです。それに加え、日本語では「未来 → 過去」と「過去 → 未来」という2種のモデルが存在し、大人はそれを混在して使っています。子どもが "時間ことば" の理解や使用に苦労するのは当然なのです。

 ③「動作のことば」 

日常的な動作を表す動詞について、システム化された「生きた知識」をもっているかをテストするものです。たとえば、


何をしていますか。

算数文章題-p91.jpg

ぼうしを 頭に(    )います。


というような、(   )を埋める問題です。このタイプの問題に正答するためには、類似概念を日本語がどのように分割しているかを知っていなければなりません。たとえば身につける動作は、帽子なら「かぶる」、上着なら「きる」、パンツや靴なら「はく」です。かつ、動詞の活用の形(=文法)と統合して答える必要があります。システム化された「生きた知識」があってこそ正答できるのです。

「動作のことば」の回答を分析すると、問題ごとに正解率が大きく違うことがわかります。そして正解率が低いのは「チーズを縦に(裂いて)います」「草を鎌で(刈って)います」などの問題です。これらの動作は、小学生が日常生活で見たり、自分で行ったりすることが少ない動詞です。だから正答率が低い。

逆に、これらの動作の動詞を知っていて的確に使える子どもは、日常会話だけでなく、本などから語彙を学んでいると考えられるのです。


「ことばのたつじん」と学力の関係


「ことばのたつじん」と「算数文章題」の得点の相関係数は次のとおりでした。

3年生4年生5年生
①語彙の深さと広さ0.490.580.44
②空間・時間のことば0.580.670.47
③動作のことば0.340.350.30


この相関係数はすべて 0.1% の水準で統計的に有意(その値が偶然によってもたらされる確率が0.1% 以下)でした。

この表を見ると「ことばのたつじん」と学力(この場合は算数文章題)とが、極めて強い相関関係にあることがわかります。特に「空間・時間のことば」です。この傾向は標準学力テスト(国語・算数)との相関係数と同様でした。


正確な機械を用いれば正確に(客観的に)測定することができる数量と異なり、心理学で測る概念(たとえば「学力」「思考力」「言語力」など)は、常にぶれなく客観的に測ることが難しく、個人差も大きいので、0.5 を越える相関係数というのは、かなり高い数字である。

その中でも「ことばのたつじん②」(空間・時間のことば)は、広島県調査(引用注:標準学力テストを学力指標としたもの)、福山市調査(引用注:算数文章題を学力指標としたもの)のどちらでも、3つのテストの中で学力ともっとも相関が高い。

「空間・時間のことば」テストが測ることばの運用能力、特に文脈で求められている他者の視点を取って心の中で地図上を進んだり、その場のイメージを作ったりする能力や、時間という抽象概念に対して今を基準にとしてそれよりも前か後かという、言語が求めるメンタルイメージを対応づけたりする能力が、国語にも算数にも深く関わり、学力の大事な基盤になっていることが読みとれる。

今井むつみ・他 著
「算数文章題が解けない子どもたち」


かんがえるたつじん


「かず・かたち・かんがえるたつじん」(略称:かんがえるたつじん)は、子どもの思考力のアセスメントです。

① 整数・分数・小数の概念
② 図形イメージの心的操作
③ 推論の力

の3部から構成されています。

 ①整数・分数・小数の概念 

大問1:整数の数直線上の相対位置

0 から 100 までの数直線の上に、与えられた数のだいたいの位置の目印を書き込む問題です。たとえば 18 と提示されたら、それは 20 に近いので、数直線をだいたい 5 分割して、それよりちょっと 0 に近いところに目印をつける、といった感じです。4つの小問(提示数:18, 71, 4, 23)があります。

これは「整数は相対的な大きさを示す」というスキーマを子どもたちが持っているかどうかを見るものです。このスキーマを理解していない子どもは、18 と提示されると定規を取り出して 18mm のところに目印をつけたりします。誤答をする少なからぬ子どもがそうしていました。

大問2:小数・分数の大小関係

どちらが大きいかを問う問題です。12の小問があります。5年生の平均正答率とともに引用します。

小問1132394.0%
小問2121349.7%
小問3231285.9%
小問40.3 と 0.196.6%
小問51 と 0.998.7%
小問61.5 と 299.3%
小問70.5 と1342.3%
小問812と 0.754.4%
小問90.2 と1282.6%
小問10121378.5%
小問11132371.8%
小問12131469.1%

小問10、小問11、小問12 は「ケーキの12こ分と13こ分ではどちらがたくさん食べることができますか」のような "文章題" になっています。

特に正答率が悪いのは、小問2, 7, 8 です。小問2 と「同程度に難しいはず」の小問3 の正答率が高いのは(小問2 の正答率より 35% も跳ね上がっている)、小問3では「たまたま分母の数も分子の数も大きい方が大きい」からだと考えられます。

このデータは、少なからぬ子どもが分数や小数の概念的理解ができていないことを示しています。また分数や小数が、いかに直感的にとらえどころがないものかも示しています。

大問3:心的数直線上での小数・分数の相対位置

0 から 1 までの数直線があり、10分割した目盛りがついています。与えられた小数や分数が数直線上のどの位置にあるかの目印をつける問題です。6つの小問があります。

特に成績の悪かったのは、1225でした。5年生の平均正答率では、12が 46.0%、25が 31.3% でした。

12は日常生活で頻繁に使われます。しかし正答できない子どもは、「ケーキ」のような具体的なモノが与えられずに、「1を基準にしたときにそれに対してどの割合の量なのか」という純粋な「数」としての理解ができていないのです。

25の正答率が異様に低いのは、0 から 1 の数直線に10分割した目盛りが振ってあるからです。つまり正答するためには「2目盛りを1単位としてそれが2つ」という心的操作をしなければならない。これが問題を特に難しくしています。



「1」には、モノを数えるときに「1個ある」という意味と、任意のモノを「1」として、それを分割したり比較のしたりするときの基準の意味があります。「数はモノを数えるもの」という誤ったスキーマを持っていると「基準としての1」が理解できません。この理解なしに分数や小数の意味は理解できないのです。

また大問2・大問3の誤答分析からは、誤答する子どもたちが整数・分数・小数をバラバラに理解していて、それらの関連付けがされていないことがわかります。分数の単元で分数だけ、小数の単元で小数だけという現在の小学校の教え方では「システム化」された知識の習得は難しいのです。

 ②図形イメージの心的操作 

図形の問題です。図形を折る、隠す、回転させるという操作を心の中でできるかどうかです。具体的な問題の例をあげます。

大問4:図形を折ったときのイメージ

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大問5:図形の隠れた部分のイメージ

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大問6:図形を回転させたときのイメージ

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これらの問題に正解するためには「複数のことを同時に処理しなければない」わけです。誤答を分析すると、一つの状況なら楽にできる心的操作が、複数のことを同時に処理しなければらない状況では破綻してしまい、その結果、問題解決に失敗する傾向が見て取れました。

また大問6に顕著ですが、正答する子どもは図形に補助線を引き、補助線が回転後にどうなるかを考えて答を出しています。つまり、図形の回転は認知的負荷が高いのを直感し、負荷を軽減する方略を自分で考えられたので正解できたのです。問題解決のための方略を自分で考えられるのが "できる" 子どもの特徴だと言えます。

 ③推論の力 

「推論」が学力と関係しているという分析は本書のこれまでにもにありましたが、ここでは推論だけを純粋にとりあげます。問題の例を以下にあげます。

大問7:推移的推論

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大問8:複数次元の変化を伴う類推

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大問9:実行機能を伴う拡張的類推

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大問9の例に関してですが、この場合の実行機能とは、注意点を取捨選択し、不要な注意点を抑制し、必要に応じて注意点を切り替えられる機能です。またこの例では見本のペアとその向きを常に短期記憶におきつつ、図の中から同じ関係のペアを見いだす必要があります。

絵の中には関係するものが複数あります。たとえば、木は葉っぱや鳥や鋸と関係がある。また糸だと、関係するのはハサミと針です。つまり「見本のペアの関係ではない関係への注意」を抑制する必要がある。これができて正解することができます。



以上の「かんがえるたつじん」と「算数文章題」の得点の相関係数は、0.37~0.48 で、高いものでした。最も高かったのが大問8(複数次元の変化を伴う類推)で、その次が 大問2(小数・分数の大小関係)でした。


算数文章題と「たつじん」テストの相関


本書には、次の6つの「たつじんテスト」、

「ことばのたつじん」
① 語彙の深さと広さ
② 空間・時間のことば
③ 動作のことば
「かず・かたち・かんがえるたつじん」
① 整数・分数・小数の概念
② 図形イメージの心的操作
③ 推論の力

の成績と、算数文章題の成績の相関係数を計算した表が本書にあります。それをみると、3・4年生では6つのテスト中5つが0.5を超え(「動作のことば」だけが0.38)、5年生では5つが 0.39~0.47の範囲になっています(「動作のことば」だけが0.3)。またすべてにおいて、0.1% 水準で有意(=全く偶然にその相関係数になるのは 0.1% 以下の確率)になっています。

ただ、6つの「たつじんテスト」は相互に相関関係があるはずなので、1つのテストが算数文章題と相関をもつと、それにつられて関係のある他のテストも算数文章題と相関します。つまり、どの「たつじんテスト」が算数文章題の成績に "利いて" いるのかは、相関係数だけでは分かりません。

そこで本書には、重回帰分析(説明変数=「たつじんテスト」の成績6種、被説明変数=算数文章題の成績)の結果が載っています。それによると、算数文章題の成績に最も寄与しているのが「空間・時間のことば」でした。これは国語と算数の標準学力テストでも同じでした。

従来からの心理学の研究で、言語能力が学力と深い関わりを持っていることが分かっていて、このことは広く受け入れられています。しかし想定されている「言語能力」とは「語彙のサイズ」(=どれだけ多くの言葉を知っているか)でした。

しかし今回の研究から、「語彙の広さと深さ」よりも「空間・時間のことばの運用」の方が頑健に「学力」を説明することがわかりました。このことは、教育現場で当たり前のようにして使われいている「言語能力」の考え方を見直す必要があることを示しています。

重回帰分析の結果から、「空間・時間のことば」の次には「推論の力」が算数文章題の成績に寄与していることも分かりました。その次が「整数・分数・小数の概念」です。


つまづきの原因


本書では全体の「まとめ」として「第6章:学習のつまずきの原因」と題した章があり、各種のテストでの誤答を分析した結果を総括し、これをもとに教育関係者への提言がされています。この中から「つまずきの原因」の何点かを紹介します。まず、

知識が断片的でシステムの一部になっていない

ことです。これは「たし算・引き算・かけ算・割り算」の関係性が理解できず、それぞれの計算手続きは分かるものの、問題解決に有効に使える知識になってないという意味です。それぞれの単元での学習結果が断片的な知識となっていて「数の世界の、計算というシステム」としての理解になっていない。また、

誤ったスキーマをもっている

のもつまずきの原因です。算数文章題の場合、誤ったスキーマの根は一つです。それは「数はモノを数えるためのもの」というスキーマです。このスキーマをもっていると「1」が「全体を表すもの」あるいは「単位を表すもの」という概念が受け入れられません。

「足し算とかけ算は数を増やす計算」と「引き算と割り算は数を減らす計算」という誤ったスキーマもよく見られたものです。これは、まず「増やす計算」と「減らす計算」でそれぞれを教えるからだと考えれます。子どもたちは誤ったスキーマを自分で作り出してしまうのです。

似ているのが「割り算は必ず割り切れる」というスキーマです。これも 12÷4 のような割り切れる数の計算が最初に導入されるからです。誤ったスキーマをもってしまうと、答えが整数にならない割り算を教えられても、なかなか受け入れることができません。本書には「永遠の後出しじゃんけん」という表現を使って次のように書いてあります。


抽象的な概念を単純でわかりやすい例だけを使って教えることにより子どもが誤ったスキーマを作ってしまうというのは、算数でもそれ以外の概念の学習でもよく見られることである。いつも易しい計算、易しい概念から順番に教えていくと、子どもにとっては永遠の後出しじゃんけんが続くことになる可能性があることを教育者は知ってほしい。

今井むつみ・他 著
「算数文章題が解けない子どもたち」

さらに、

相対的にものごとを見ることができない

のも、つまづきの要因です。「たつじんテスト」で最も強く学力を予測していたのは「空間・時間ことば」でしたが、前・後・左・右はまさに相対的であり、誰を基準にするか、どの点を基準にするかで変わってきます。

また、数直線上に与えられた数の位置を示すには、0~100 あるいは 0~1 というスケールの中で相対的に考える必要がありますが、これができない子どもが多数いました。著者は「驚くほど多かったのはショックだった」と書いています。これは「数」という概念の核である「数の相対性」が理解できていないことを端的に示しています。

「相対的にものごとを見る」ことは「視点を柔軟に変更・変換できる」ことと深い関係があります。そして視点変更の柔軟性は、ことばの多義性の理解につながります。「1」はモノが1個のことであるというスキーマをもった子どもが、「1」は「子ども 140人」でも「水 50リットル」でもよい、「全体」ないしは「単位」を表すものだという認識に進むためには、過去のスキーマの抜本的な修正が必要です。「相対的にものごとを見る能力」=「視点変更の柔軟性」は、誤ったスキーマを修正できる力に関わっています。そして誤ったスキーマを自ら修正できる力は、知識を発展させるための最重要の能力なのです。



その他、本書では

・ 認知処理能力をコントロールしながら推論する力が弱い、また推論で行間を埋められない

・ メタ知識が働かず、答えのモニタリングができない

・ 学習無力感をもっている。何のために算数を学ぶのか分からず、算数の意味を感じ取れていない

などが総括としてまとめられています。


ほんものの学力を生む家庭環境


本書では付録として、テストをうけた児童の保護者に44項目のアンケート調査をし、その結果と子どもの学力(たつじんテストと、国語・算数の標準学力テスト)の相関を示した大変に興味深い表が載っています。44項目の質問は、子どもの基本的生活習慣、家庭学習、しつけの考え方、読書習慣、小学校に入る前のひらがな・数字への関心、小学校に入る前の時間・ひらがな・数字の家庭教育など、多岐にわたります。

これらの中で、最も学力との相関が強かったのは「読書習慣・読み聞かせ」に関する3項目と、「家庭内の本の冊数」に関する2項目でした。その次に相関が強かったのは小学校入学前の「ひらがな・数字への興味・関心」の2項目と「時間・ひらがな・数字の教育」3項目でした。この結果から著者は次のように記しています。


以上の保護者アンケートと「たつじんテスト」と教科学力テストの関連を分析した結果から、「ほんものの学力を生む家庭環境」を考えるときに大切なことが3点明らかにされた。

第1は、本のある家庭環境である。ここには、子どものための本はもちろんのこと、家庭にあるすべての本があてはまり、図書館で借りてきた本も含まれる。身近に本のある家庭環境は、家族が本を読んでいることを目にすることになる。それは、子どもがいつでも本を手にして読むことが容易になることを意味し、それはさらに読書習慣につながると考えられる。そして、本のある家庭環境は、ことばの力とともに、数の抽象的な概念理解(スキーマ)、関係や類推関係の理解を支える認知処理能力と推論力を育み、さらに、国語と算数の学力を高めていた。

第2は、読書習慣である。子どもが小さいころに絵本の読み聞かせをすること、そして、現在、子どもがよく本を読んでいることは、ことばの力はもちろんのこと、数や形の力を育み、国語と算数の学力を向上させていた。なお、過去の読み聞かせ経験よりも現在の子どもの読書習慣のほうが、学力への影響はやや強い。したがって、子どもが本を読む習慣が、これからも持続するようにすることが大切である。

第3は、もっとも強調したい点である。就学前に、子どもが自ら関心をもって、ひらがなに興味を示して読んだり書いたり、数を数えたりしていたことが、「ことばのたつじん」「かんがえるたつじん」の得点、さらに国語と算数の学力テストの得点を向上させていた。また、就学前に、生活の中で、時計を見て時間を意識させることも、学力に影響を与えていた。それに比べて就学前に、子どもにひらがなや数字を教えることによる学力への影響は、子どもが自発的にことばや数字に興味や関心を示すことよりも、弱いものであった。つまり、ことばや数字を直接教えるより、子どもがことばや数に自ら自然に興味をもつように環境を整えることが、就学後の学力を高めることにつながるということが示されたわけである。

今井むつみ・他 著
「算数文章題が解けない子どもたち」


本書の感想


最初に書いたように、本書は、

小学生の「算数文章題における学力とは何か」の探求を通して、「人間の思考力とは何か」や「考える力の本質は何か」という問題に迫っている

と思いました。つまり我々大人が社会で生きていく際に必要な思考力の重要な要素を示しているように感じたのです。

たとえばその一つは、「ある目的や機能を遂行する何か」を「システムとしてみる力」です。「システム」として捉えるということは、「何か」が複数のサブシステムからなり、それぞれのサブシステムは固有の目的や機能を持っている。それが有機的かつ相互依存的に結合してシステムとしての目的や機能を果たす。そのサブシステムは、さらに下位の要素からなる、という見方です。これは社会におけるさまざまな組織、自治体、ハードウェア、サービスの仕組み、プロジェクト、学問体系 ・・・・・ などなどを理解し、それらを構築・運用・発展させていく上で必須でしょう。

「相対的に考える」のも重要です。他者からみてどう見えるか、第3者の視点ではどうか、全体を俯瞰するとどうなるのか、対立項が何なのか、全体との対比で部分をみるとどうなるのか、という視点です。

そして、相対的に考える思考力は「スキーマを修正する力」につながります。本書のキーワードの一つである "スキーマ" とは「人が経験から一般化、抽象化した、無意識に働く思考の枠組み」のことです。人は必ず何らかのスキーマに基づいて判断します。そして社会において個人が持つ「誤ったスキーマ」の典型は「自らの成功体験からくるスキーマ」です。社会環境が変化すると、そのスキーマには捨てなければならない部分や付け加えなければならないものが出てくる。本書に「スキーマを自ら修正できる力は、知識を発展させるための最重要の能力」とありますが、全くその通りです。

さらに「抽象的に考える」ことの重要性です。"良く練られた" 抽象的考えは、より一般性があり、より普遍的で、従ってよりパワーを発揮します。「抽象的でよく分からない、具体的にはどういうことか」というリクエストに答えて具体例を提示することは重要ですが、それは抽象的考えを理解する手だてとして重要なのです。

子どもは小学校から(公式に)抽象の世界に踏み出します。「言葉・語彙」がそうだし「数」がそうです。本書からの引用を再掲しますと、


抽象的な概念は、その概念に関連したさまざまなことばを知らないと、その意味を推論することができない。小学校では各教科で学ぶ概念がどんどん抽象的になる。その抽象性についていけなくなって、学校での学びが辛くなる子どもが急増するのが3~4年生、9歳のころなので、「9歳の壁」ということばも学校関係者の間で使われている。

今井むつみ・他 著
「算数文章題が解けない子どもたち」

とありました。抽象性の大きな壁である「9歳の壁」を乗り越えた子どもは、その次の段階へと行けます。これは中学校・高校・大学と「学び」を続ける限り、抽象性の壁を乗り越えることが繰り返されるはずです。だとすると、社会に出てからも繰り返されるはずだし、学校での「学び」はその訓練とも考えられます。

ともかく、10歳前後の小学生の誤答分析から明らかになった「学力」や「思考力」の源泉は、大人の社会に直結していると思いました。


分数は直感的に理解しづらい


最後に一つ、「分数は直感的に理解しづらい」ということの実例を書いておきます。

本書の「かんがえるたつじん ① 整数・分数・小数の概念」の「大問2:小数・分数の大小関係」のところで、テストの結果データの分析として「多くの子どもたちが、分数や小数の概念的な理解ができていない」と書かれていました。そして「これは、正答できない子どもたちの努力が足りないと片づけてよい問題ではない。分数・小数がいかに直感的に捉えどころがないものかを示すデータなのである」とも書いてありました。

分数で言うと、1213は「任意の」モノを「1」としたとき、それを「均等に」2分割、あるいは3分割した数です。この「任意の」と「均等に」が非常に抽象的で、捉えどころがないのです。

我々大人は分数を理解していると思っているし、それを使えると思っています。大小関係も分かると自信を持っている。しかし本来「分数は直感的に捉えどころがない」のなら、それは大人にとってもそうであり、ほとんどの場合は正しく使えたとしても、何かの拍子に「捉えどころのなさ」が顔を出すはずです。

そのことを実例で示したような記述が本書にありました。「かんがえるたつじん ① 整数・分数・小数の概念」の「大問1:整数の数直線上の相対的位置」の説明のところです。どのような問題かを著者が説明した文章です。


たとえば 18 なら、20 に近いから、目分量で 100 を 4分割して、それよりもちょっとだけ 0 に近いところに線を引く。

今井むつみ・他 著
「算数文章題が解けない子どもたち」
岩波書店(2022年6月14日 第1刷)

えっ! と思いましたが、何度読み直しても、これでは 23 あたりに目印をつけることになります。本書に書いてある採点方法だと、5点満点の 3点(ないしは4点)です。

本書の著者は大学教授の方々、計7名で、原稿は著者の間で何回もレビューし、見直し、確認したはずです。岩波書店に渡った後も、原稿や校正刷りの各段階での何回ものチェックがされたはずです。それでも「100を4分割すると20」になってしまう。どの段階でこうなったかは不明ですが ・・・・・・。

これは単にケアレスミスというより、そもそも「14が分かりにくいから、ないしは1520100が分かりにくいから」、つまり「分数は抽象的で理解しづらい概念」ということを示していると思います。子どもが算数文章題につまずく理由、その理由の一端を本書が "身をもって" 示しているのでした。




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No.343 - マルタとマリア [アート]

No.341「ベラスケス:卵を料理する老婆」は、スコットランド国立美術館が所蔵するベラスケスの「卵を料理する老婆」(2022年に初来日。東京都美術館)の感想を書いたものでした。ベラスケスが10代で描いた作品ですが(19歳頃)、リアリズムの描法も全体構図も完璧で、かつ、後のベラスケス作品に見られる「人間の尊厳を描く」という、画家の最良の特質が早くも現れている作品でした。

この「卵を料理する老婆」で思い出した作品があるので、今回はそのことを書きます。ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する「マルタとマリアの家のキリスト」です。この絵もベラスケスが10代の作品で、また、2020年に日本で開催された「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」で展示されました。


新約聖書のマルタとマリア


まず絵の題についてです。「マルタとマリアの家のキリスト」は新約聖書に出てくる話で、聖書から引用すると次のようです。原文にあるルビは最小限に省略にしました。


一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言みことばに聞き入っていた。ところがマルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った。「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、ひとつだけである。マリヤはそのよい方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

日本聖書協会
口語 新約聖書(1954年版)
「ルカによる福音書」第10章 38-42

このエピソードには不可解なところがあります。以前の記事(No.41)でとりあげましたが、社会学者の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対談本「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書 2011)には次のように出てきます。


[大澤]
まだまだあるんですが、よろしいですか?福音書の中ではすごく些細な箇所なんですけど、ここはいくらなんでもひどいと思うところが一つあって ・・・・・・。

[橋爪]
どうぞ、どうぞ。

[大澤]
それは「マリアとマルタ」の話です(ルカ10章)。

ある村で、イエスたち一行がマリアとマルタという姉妹の家に招かれた。ところが、妹のマリアのほうはイエスの話をただ聞いているだけ。マルタはだんだん腹が立ってきて、イエスに「マリアは私を全然手伝おうとしない」「一言、マリアに言ってやってください」と告げ口した。

そうしたらイエスは、マルタに「お前はどうでもいいことばっかり気にしている」「大事なことは一つだけだ、マリアはいいほうをとったのだ」などと言うわけです。あたかもマルタはよくないほうをとって、マリアはいいほうをとったかのように。

これはどうでしょう? だって、自分たちを歓待しようと一生懸命やってくれている人に対して、イエスの言い方はいくらなんでもないでしょう。

一般的な解釈だと、マルタとマリアの姉妹は日常のプラクティカルな生活と宗教的で観想的な生活とをそれぞれ寓話的に表現していて、イエスの話に集中していたマリアが後者で、マルタは日常の瑣末さまつなことに気をとられていた、とされています。でも、状況をすなおに見れば、こんな面倒な解釈をする必要はない。ここでイエスが言っていることは、はっきり言って間違っていると僕は思います。

「ふしぎなキリスト教」
(講談社現代新書 2011)

この箇所に違和感を持った人は多いらしく、大澤氏によると、中世の大神学者・エックハルトもそうで、強引な解釈をしているようです。普通のキリスト教徒が読んでも不可解に思えるのは間違いありません。

この大澤氏の問いかけに対して、橋爪氏は次のように答えています。これは橋爪氏の独自解釈というわけではなく、一般的なようです。


[橋爪]
あのね、それは、マルタが怒ったからいけないんだ。

[大澤]
なるほど。

[橋爪]
マルタは炊事場で準備したり、水を汲んできたり、掃除をしたりしていることを喜びとしてやっていればよかった。そうじゃなくて、内心、マリアのほうがいいと思っていたんだよ。しかもそれをマリアに対する怒りとしてぶつけたんだ。もしも、イエスを本当に歓迎しているんだったら、マリアの役割とマルタの役割が両方必要だと理解できるから、自分の役割に満足したし、そういうマリアに対する嫉妬の感情が出てくるはずもない。だから怒られた。

「ふしぎなキリスト教」
(講談社現代新書 2011)

これもちょっと強引な、ないしは一面的な解釈で、上の引用に続く部分を読むと、大澤氏も納得していないようです。なぜ強引かというと「イエスを本当に歓迎しているんだったら、マリアの役割とマルタの役割が両方必要だと理解できる」というのはマリアに対しても言えるからです。だとしたら、「いいほうをとった」マリアの方に、マルタに対する「気遣い」があってもよいはずです。一言、マルタに言葉をかけるとか ・・・・・・。両方の役割が必要だと理解していなかったという点では、マリアもマルタも同じなのです。

もちろん、「世俗的仕事」と「信仰」のどちらかを取れと二者択一で言われたなら「信仰」とすべきなのでしょう。イエスは「無くてはならぬものは多くはない。いや、ひとつだけである」と言っています。信仰に生きることの重要性です。ただ、二者択一でない "解決策" もあるはずで、たとえばマルタとマリアの2人で接待の準備をし、そのあと2人でイエスの言葉を聴くこともできる。別に現代人ではなくても、そう考えるはずです。

というわけで、違和感が残るというか、不可解さがぬぐえないのは当然で、従って、この話をもとに絵画を制作する場合もさまざまな立場がありうることが想定されます。

ここからが本題です。ベラスケスはどう図像化したのか。


ベラスケス:マルタとマリアの家のキリスト


マリアとマルタの家のキリスト(ベラスケス)2.jpg
デイエゴ・ベラスケス(1599-1660)
マルタとマリアの家のキリスト」(1618頃)
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

まずこの絵の特徴は「二重空間」の絵だということです。手前の "空間" には厨房で働く娘と老婆がいます。老婆は明らかに「卵を料理する老婆」と同じモデルです。娘は何となく泣きそうな感じで、老婆は後ろの "空間" を指さして娘に何かを言っています。

一方、後ろの "空間" にはキリストとマルタとマリアが描かれています。マリアは座ってキリストの言葉を聴いています。立っているのがマルタでしょうが、彼女がどういう態度を示しているのか、絵を見ただけでは判然としません。この後ろの "空間" については、

・ 隣の別の部屋
・ 壁に掛けられた鏡
・ 

という3つの解釈があるそうです。ただ "鏡" という解釈には無理があると思われます。というのも、このような大きな鏡、しかも四角い平面鏡は、キリストの時代にも、この絵が描かれた17世紀にも稀少、ないしはまずないからです。平面鏡のためには平面ガラスが必要ですが、作るためには高度な技術が必要です。それは、ベラスケスの「ラス・メニーナス」に描かれたスペイン宮殿の鏡も "小ぶりで丸みを帯びている" ことからも分かります。仮に四角い平面鏡があったとしても、国王の宮殿ならともかく、庶民の厨房に掛けるようなものではないでしょう。

隣の別の部屋という解釈はどうでしょうか。後ろの "空間" が別の部屋ということは、厨房に四角い "窓" があいていて、そこから向こうの部屋が見えるということになります。このような作りの厨房は考えにくいと思います。

ということで、後ろの "空間" は絵とするのが妥当でしょう。この絵が描かれた17世紀には、新約聖書の「マルタとマリア」の解釈として「世俗的な生」と「信仰の生」の両方が大切だと考えられていたようです。ということは、厨房を手伝わないマリアの態度に不平をもらしたマルタはよくない、厨房の仕事も大切だという "戒め" として絵が掛けてあると解釈できます。

娘はなんだか涙目で、不満そうな顔をしています。ニンニクを金属製器具ですりつぶしているようですが、老婆に厨房での仕事について何らかの厳しい注意、ないしは叱責ををされた。それで不満そうな涙目になった。それを見た老婆は「マルタとマリア」の絵を指さして、不満をもつのはよくない、調理は大切で立派な仕事だとさとしている、そういう光景に見えます。



とは言うものの、後ろの "空間" が「鏡」か「別の部屋」か「絵」かは、画家にとってはどうでもよいのでしょう。つまり、後ろの "空間" はこの絵が「マルタとマリアの家のキリスト」を描いたと言うための "口実" であって、画家の本当の狙いは「厨房を描く」ことだったと考えられるのです。特に、前景にある「金属製の器具」「4匹の魚」「2つの卵」、その他、器具の前にあるニンニクなどです。これらのリアリズムに徹した描写が、この絵の最大のポイントと思えます。魚の部分図を以下に掲げます。

マリアとマルタの家のキリスト(ベラスケス)3.jpg

絵の最大の狙いが静物の描写にあることは、この魚を描いた部分を見るだけでも一目瞭然だと思います。そして画家の第2の狙いをあげるとすると、庶民の労働を描くことでしょう。

さまざまな解釈を生む絵がありますが、絵そのものが画家の意図を雄弁に語っているケースがあります。この絵もそうだと思います。



余談ですが、このベラスケスの作品から、ある浮世絵を思い出しました。歌川国貞の「江戸百景の内 三廻みめぐり」です(No.295「タンギー爺さんの画中画」の「補記」に画像を掲載)。題名だけを見ると風景画です。しかし、隅田川河畔の三廻みめぐり神社が描かれているのは画面の左上の小さな四角(浮世絵の用語では "こま")の中だけで、本当の画題は中央に大きく描かれている女性、つまり美人画である、という浮世絵(いわゆる "こま絵")です。

この状況はベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト」にそっくりです。世の東西に関わらず、似たような発想の絵があるものです。


フェルメール


ベラスケスを離れて、同じ新約聖書のシーンを描いた作品を振り返ってみます。その有名作品として、「卵を料理する老婆」と同じくスコットランド国立美術館が所蔵するフェルメールの「マルタとマリアの家のキリスト」があります。この絵も 2018年のフェルメール展で展示されました(上野の森美術館)。

マリアとマルタの家のキリスト(フェルメール).jpg
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
マルタとマリアの家のキリスト」(1654/55)
スコットランド国立美術館

フェルメールが20代前半の初期の作品です。フェルメールは画家としての初期に宗教画を描き、その後は宗教画を離れて風俗画(と風景画)を描くようになったことで知られています。

この絵はベラスケスと違って、聖書に登場する3者だけを描いています。左に描かれているのがマリアで、キリストの話に聞き入っています。中央に描かれているのはマルタで、キリストにパンを差し出しています。聖書通りだとマルタはここでキリストに不平を言い、キリストはマリアを指さしつつマルタを諭しているはずです。

しかしそうだとしても、マルタの不平の表現は抑制されています。それよりも、パンを差し出す、つまりキリストを接待している表現の方を強く感じる。また、マルタは三角形の安定した構図の中心に描かれています。光の当て方も含めて、彼女が構図の焦点のように感じられます。

この絵は、聖書のストーリーを忠実に再現したと説明されれば、そう見えないことはない。しかし聖書とは裏腹に、マリアはキリストの話に聴き入り、マルタは厨房で仕事をしたあと(ないしは仕事の途中で)キリストを接待するという "調和的な状況" が描かれているとも見える。つまり「活動的なマルタ」と「瞑想的なマリア」が人間の両面を表し、かつ、構図の焦点であるマルタの重要性 = 世俗的な労働の大切さが強調されているようです。

おそらくこれは画家の(ないしは当時のオランダ社会の)聖書解釈を反映しているのだと思います。


ウテワール


そのフェルメールの絵より約70年前に描かれた「マルタとマリア」を主題にした絵があります。同じオランダの画家、ウテワールの「台所のメイド」です。

ウテワール「台所のメイド」.jpg
ヨアヒム・ウテワール(1566-1638)
台所のメイド」(1620/25)
ユトレヒト中央美術館(オランダ)

この絵については、東京都美術館の学芸員、高城靖之氏が日本経済新聞に解説を書いていました。それを引用します。


ネーデルラント 日常の発見(4)

ウテヴァール「台所の女中」
東京都美術館学芸員 高城靖之

日本経済新聞(2021年2月4日)

ヨアヒム・ウテヴァールは、16世紀末から17世紀初頭にユトレヒトで活躍した。彼は聖書や神話を題材とした作品を多く残したが、晩年に制作したこの作品では台所の情景を大きく描いている。

鑑賞者を見つめ返す女中は、鳥を2羽、串に刺して調理の準備をしている。そばには魚や肉、野菜、チーズにパンといった食材のほか、ワインの注がれたグラス、陶器や金属製の食器といった、質感の異なるさまざまな物が置かれている。これらの質感や色彩を巧みに描き分けている画家の描写力は見事である。

台所の奥の部屋に描かれているのは「マルタとマリアの家のキリスト」という聖書の一場面である。したがってこの作品は宗教画と言えなくもないが、主役が台所の描写であることは明らかだろう。このように聖書の場面と卑俗な台所を逆転させて描いたのは彼が初めてではない。しかし、17世紀初めに宗教画や神話画を描いていた画家が、晩年にこのような表現をとったことは、描かれる対象が宗教や神話の物語から、日常の場面へと移行していくことを象徴しているようである。(1620~25年ごろ、油彩、カンバス、103.2×72.3センチ、ユトレヒト中央美術館蔵)


この絵で奥の部屋に描かれているマルタ、マリア、キリストは、まさに聖書の記述に従っています。というのも、マルタがマリアの態度に怒っているそぶりだからです。彼女は鍋を持ったまま、キリストとマリアのところに出てきて怒っている。

しかしベラスケスと同じで、この絵の主題はマルタとマリアの家のメイドを主人公にした前景の厨房です。そこには「静物」として、鳥、串、魚、肉、野菜、チーズ、パン、ワインの注がれたグラス、陶器、金属食器といった、質感の異なるさまざまなものがあり、高城氏が書いているように「質感や色彩を巧みに描き分けている画家の描写力」が見事です。その "静物の質感表現" こそ、この絵の第1のポイントでしょう。

そして第2のポイントは、鳥を串に刺しているメイド(高城氏の文章では女中)の表現です。腕と指を見ても分かるように、彼女はいかにもたくましく、働き者で、厨房での仕事を次々とこなし、家の食卓を一手に引き受けているような感じです。しかも調理に喜びをもって取り組んでいるように見える。労働は尊い、というメッセージ性を感じます。



以上の「マルタとマリア」の3作品に共通するのは、

・ 労働は大切という考え(3作品)
・ 聖書を "引き合いに" して厨房を描く。特に、静物の質感を油絵の技術を駆使して描き分ける(ウテワールとベラスケス)

と言えるでしょう。一見して "不可解" な新約聖書のエピソードを画題にすることで、宗教画の変貌がわかる3作品だと思います。




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No.342 - ヒトは自己家畜化で進化した [科学]

No.299「優しさが生き残りの条件だった」は、雑誌・日経サイエンス2020年11月号に掲載された、米・デューク大学のブライアン・ヘア(Brian Hare)とヴァネッサ・ウッズ(Vanessa Woods)による「優しくなければ生き残れない」と題した論文の紹介でした。これは、人類(=ホモ族)の中でホモ・サピエンス(=現生人類)だけが生き残って地球上で繁栄した理由を説明する "自己家畜化仮説" を紹介したものです。

"自己家畜化仮説" の有力な証拠となったのは、旧ソ連の遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフ(1917-1985)が始め、現在も続いている「キツネの家畜化実験」です。この実験のことは No.211「狐は犬になれる」に書きました。この実験がなければ "自己家畜化仮説" は生まれなかったと思われます。"自己家畜化" というと、なんだか "おどろおどろしい" 語感がありますが、進化人類学で定義された言葉です。

ところで、ブライアン・ヘアとヴァネッサ・ウッズ(以下「著者」と記述)の論文の原題は「Survival of the Friendliest」(Scientific American誌)です。直訳すると「最も友好的なものが生き残る」という意味です。これはもちろん、進化論で言われる "Survival of the Fittest"(適者生存)の "もじり" です。適者生存とは、自然環境・生存環境に最も適した生物が生き残ることで生物が変化(=進化)し、多様化してきたという、進化論の原理を表現しています。それをもじって "the friendliest=最も友好的な者" としたわけです。

その著者は論文と同じ題名の本を2020年に出版し、2022年に日本語訳が出版されました。

Brian Hare & Vanessa Woods
"Survival of the Friendliest"
・ Understanding Our Origins and Rediscovering Our Common Humanity(我々の起源を理解し、我々に共通な人間性を再発見する)

ブライアン・ヘア、ヴァネッサ・ウッズ
ヒトは <家畜化> して進化した
・ 私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか
藤原多伽夫 訳(白揚社 2022.6)

です(以下「本書」と記述)。今回はこの本の内容の一部を紹介します。もちろん、論文と基本のところの主旨は同じなのですが、単行本ならではの詳細な記述もあります。

以下の引用では原則として漢数字を算用数字に直しました。また段落を増やしたところがあります。


問題提起:ホモ・サピエンスの大変化


現生人類(=ホモ・サピエンス。以下ヒト、または人間)がアフリカで誕生したのは、およそ20万年~30万年前です。その時、すでに少なくとも4種の人類が生存していて世界に拡散していました。その中で最も古いのはホモ・エレクトスで、180万年前にはアフリカを出てユーラシア大陸に散らばっていました。ホモ・サピエンスが誕生したときに使った道具にハンドアックス(握斧あくふ)がありますが、それは150万年前にホモ・エレクトスが考案したものとほぼ同様の石器でした。

75,000年前(氷河期)の時点で考えると、当時最も繁栄していた人類はネアンデルタール人です。ネアンデルタール人の脳はヒトと同じかそれより大きく、身長はヒトと同じくらいでしたが、体重はヒトより重かった。彼らは長い槍で獲物を狩る優秀なハンターでした。


ネアンデルタール人は決して、うなり声しか上げられない原始人などではなかった。ヒトとネアンデルタール人はどちらも、発話に必要な運動筋肉の細かな動きをつかさどるFOXP2遺伝子のバリアントをもっている。ネアンデルタール人は死者を埋葬し、病人やけが人の世話をするし、自分の体に色素を塗り、貝殻や羽根、骨でできた装身具でみずからを飾る。

ネアンデルタール人のある男性は動物の皮でできた衣服を身にまとって埋葬されていた。その衣服は巧みに伸ばした皮を縫い合わせてできており、3000個近くの真珠で飾られていネアンデルタール人が洞窟に残した壁画には、架空の生き物が描かれている。

ブライアン・ヘア、ヴァネッサ・ウッズ
「ヒトは <家畜化> して進化した」
藤原多伽夫訳(白揚社2022.6)p.19

著者は「75,000年前に、どの人類がその後の不確かな気候のもとで生き残れるかについて賭けをしたなら、ネアンデルタール人が本命だっただろう」と書いています。しかし、5万年前になると状況は明らかにヒトに有利になってきました。著者はその例として、ヒトが作り出した道具を紹介しています。


ネアンデルタール人は木製の槍を手で持って突き刺すだけだったが、ヒトはそれを改良して、投射する武器を開発したのだ。それは長さ60センチほどの木製の投槍器で、長さおよそ1.8メートルの矢のような槍を投げる。槍は鋭くとがらせた石か骨を穂先に取り付けることが多く、反対側の末端にはくぼみを作り、木製の投槍器の突起にはめる。これは、愛犬家がボールを投げるときに使う「チャキット」という製品と同じ原理だ。

強肩の持ち主であっても、標準的な槍を手で投げると短い距離しか飛ばせない。しかし、投槍器を使うと、柄に蓄えられたエネルギーによって、槍を時速160キロ以上の速さで90メートル以上も飛ばすことができる。

投槍器は狩猟に革命をもたらした。人間と同じくらいの大きさの草食動物だけでなく、飛んだり、泳いだり、木に登ったりする獲物も狩ることができるようになったのだ。マンモスを捕らえるときも、足で踏みつけられたり、牙で突き刺されたりする心配がなくなった。投槍器の登場で身の守り方も一変した。襲ってくるサーベルタイガーや敵の人間に向けて安全な場所から槍を投げて、重傷を負わせることもできるようになった。

武器に使う鋭い穂先、石器を作る道具、切断用の刃、穴を開ける錐も作り出した。骨で作った銛、漁に使う網や罠、そして、鳥や小型の哺乳類を捕らえるための罠も生み出した。ネアンデルタール人は狩猟の能力は優れていたが、捕食者としては並の域を出ることはなかった。一方、新たな技術をつくり出したホモ・サピエンスは究極の捕食者となり、ほかの生き物に捕食されることは少なくなった。

「同上」p.20

ヒトはアフリカを出て、またたく間にユーラシア大陸に拡散し、さらに東南アジアの島からオーストラリア大陸に到達しました。


ヒトはアフリカを出てから、あっという間にユーラシア大陸全域に拡散した。数千年のうちに、オーストラリア大陸まで到達したとの説もある。

大海原を渡る困難な冒険に挑むためには、いつ終わるとも知れない旅に向けての計画と食料の荷造りが必要だ。さらには、想定外の損傷を修復する道具や見たこともない獲物でも捕獲できる道具を準備しなければならないし、海上で飲み水を補給するなど、旅の途中で起こりうる問題を解決する必要もある。こうした旅に挑んだ当時の船乗りは、仲間と細かくコミュニケーションをとらなければならない。このことから、ヒトはその頃にはすでに成熟した言語を使っていたと考える人類学者もいる。

ここで特に注目したいのは、船乗りたちは水平線の向こうに何かがあると推測しなければならないという点だ。ひょっとして渡り鳥の行動パターンを調べたのか、それとも、はるか遠くで自然に起きた森林火災の煙が見えたのか。仮にそうだったとしても、向かうべき土地があると想像しなければならない。

「同上」p.20-21

25,000年前までに、ヒトは数百人規模で野営地に定住し、調理用の道具やかまどを作り、骨製の細い針を使って毛皮で防寒用の衣服を作りました。また、海から何百キロも離れたところで貝殻の装飾品が見つかりますが、これは社会的ネットワークの存在を示しています。定住地の岩には生き生きとした動物の絵を描きました。

これらをまとめて著者は「行動が現代化した」と書いています。つまり当時のヒトは現代人と同じようなみかけであり、似たような行動をとっていたわけです。

5万年前以降のヒトの大変化はどのようにして起きたのでしょうか。なぜヒト(現世人類)だけに起きたのでしょうか。これが本書の問題提起です。その一番の理由を、著者はヒトが獲得した「協力的コミュニケーション」の能力だとしています。


ほかの人類が絶滅する一方で、ヒトが繁栄できたのは、ある種の並外れた認知能力があったからだ。それは「協力的コミュニケーション」と呼ばれる、特殊なタイプの友好性である。ヒトは見知らぬ人との共同作業であっても巧みにこなすことができる。これまで一度も会ったことがない人と共通の目標についてコミュニケーションをとり、力を合わせてそれを達成できるのだ。

チンパンジーもまた、多くの面でヒトのように高度な認知能力をもっている。ただ、ヒトと数多くの類似点があると言っても、チンパンジーは共通の目標の達成を助けるコミュニケーションを理解するのが得意でない。チンパンジーほど賢くても、他者の動きに合わせて行動したり、さまざまな役割を連携させたり、自分が考え出した新しい技術を他者に伝えたり、いくつかの初歩的な要求以上のコミュニケーションをとったりする能力はほとんどないのだ。

ヒトはこれらすべての能力を、歩行や会話ができる年齢になる前に発達させる。それは洗練された社会や文化を築くための入り口だ。この能力があるからこそ、ヒトは他者の気持ちを理解でき、前世代からの知識を受け継ぐことができる。その能力は、高度な言語をはじめとする、あらゆる形の文化や学習の礎だ。そうした文化をもった人がたくさんいる集団が、優れた技術を考え出した。ホモ・サピエンスは独特な共同作業に長けているおかげで、ほかの賢い人類が繁栄できなかった場所でも繁栄できたのだ。

「同上」p.23-24

著者の言う「協力的コミュニケーション」とは、他者に対する(特殊なタイプの)友好性です。この友好性が進化した要因が「自己家畜化」です。


こうした友好性は自己家畜化によって進化した。家畜化は、人間が動物を選抜して交配する人為淘汰だけで生じたわけではない。自然淘汰の結果でもある。ここで淘汰圧となったのは、異なる種や同じ種に対する友好性という性質だった。

私たちは自然淘汰で生じた家畜化を「自己家畜化」と呼んでいる。ヒトは自己家畜化によって友好的な性質という強みを獲得したからこそ、ほかの人類が絶滅するなかで繁栄することができた。

これまでのところ、私たちがこの性質の存在を確認できたのは、ヒトと、イヌ、そしてヒトに最も近縁な種であるボノボだ。本書ではこれら3つの種を結びつける発見、そして、ヒトがどのように現在のヒトになったのかを理解する助けになる発見について述べていく。

「同上」p.24-25

しかしながら、友好性を獲得すると同時にヒトは "非人間化した他者" に対する残虐性も発揮するようになりました。日本語訳の副題に「私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか」とあるのはそのことです。


しかし、人間の友好性には負の側面もある。自分の愛する集団がほかの社会集団に脅かされていると感じると、人間はその集団を自分の心のネットワークから除外し、人間扱いしない(非人間化する)ようにできるのだ。共感や思いやりは消え去ってしまう。脅威をもたらすよそ者に共感できなくなると、私たちは彼らを同じ人間だと見なせなくなり、極悪非道な行為ができるようになる。人間は地球上で最も寛容であると同時に、最も残酷な種でもある。

「同上」p.25

以上が全体の主旨ですが、以降は自己家畜化仮説を裏付けるエビデンスです。その一つは、ヒトが生来持っている「協力的コミュニケーション」で、それは "他者の考えについて考える" 能力です。


"他者の考えについて考える" 能力


ヒトの「協力的コミュニケーション」の最初の発揮として、著者は赤ちゃんの頃から始まる "指さし" 行動を取り上げています。


ヒトは生後9ヶ月頃になると、歩いたり話したりできるようになる前に、指さしを始める。もちろん、生まれてすぐであっても指さしはできるのだが、9ヶ月ぐらいになると、それが何らかの意味をもち始める。興味深いジェスチャーだ。ほかの動物は手があっても、このジェスチャーをしない。

指さしの意味を理解するには、心を読み取る高度な能力が必要だ。たいていの場合、指さしは「あそこを見れば、私の言いたいことがわかる」ということを意味する。しかし、あなたがあなたの頭を指でさすのを私が見た場合、さまざまな意味が考えられる。あなた自身のことを言っているのか? 私の頭がおかしいという意味なのか? 私が帽子を忘れたのか? 指さしは未来の何かを示すことも、過去にあって今はない何かを示すこともある。

生後9ヶ月までは、母親が指さしをすると、赤ちゃんはたいていその指を見てしまう。しかし9ヶ月を過ぎると、指から伸びる架空の線をたどるようになる。1歳4ヶ月になる頃には、指さしをする前に母親が自分を見ているか確認するようになる。母親が自分に注意を向けていないと指さしをしても通じないことがわかっているのだ。2歳までには、他者が見ているものや考えていることがわかってくる。他者の行動が偶然なのか意図したものなのかが区別できるようになる。4歳になると他者の考えを巧みに推測することが可能になり、人生で初めて嘘をつけるようになる。誰かがだまされたときに助けることもできるようになる。

「同上」p.33-34

心理学では「心の理論(Theory of Mind)」という用語が使われます。これは他者の心や意図を推察する能力のことです。指さしは「心の理論」の入り口です。


指さしは他者の心を読むこと、つまり、心理学者が言う「心の理論」への入り口だ。指さしを始めると、それ以降の人生は他者が考えていることに思いをめぐらしながら過ごすことになる。暗闇で誰かの手が自分の手に軽く触れたとき、それは何を意味するのか。部屋に入ったとき、そこにいた人が眉をひそめたのはどうしてなのか。他者の本当の考えを知ることはできないから、それは必ず推測になる。他者も同じ能力をもっているので、見せかけたり、偽装したり、嘘をついたりできる。

「心の理論」という能力があるおかげで、人間は地球上で最も高度な協力行動やコミュニケーションができる。この能力は人生で直面するほぼすべての問題を解決するうえで欠かせない。過去にさかのぼって、何百年も何千年も前に生きた人々から学ぶことができるのも、この能力のおかげだ。

「同上」p.34


イヌは "指さし" の意図を読める


「他者が行う指さしを見て、その意図を推察できる能力」は、他の動物ではどうなのでしょうか。たとえば、人間に最も近いとされるチンパンジーです。著者がマイケル(マイク)・トマセロ博士のもとで行った研究が書かれています。


チンパンジーには、他者の心を読み取る能力がいくつかある。私たちの実験で、チンパンジーは他者が見たものや知っていることがわかるだけでなく、他者が覚えていそうなことを推測できるうえ、他者の目的や意図を理解していることが明らかになった。チンパンジーはさらに、他者がいつ嘘をついたかすらわかっていた。

チンパンジーがこれらすべてのことをできるという事実から、チンパンジーにできないことがくっきりと浮かび上がってくる。チンパンジーは他者と協力し、コミュニケーションをとることはできる。しかし、その両方を同時にこなすのは苦手だ

私はマイクの指示で、2個のカップの一方に食べ物のかけらを隠した。チンパンジーは私が食べ物を隠したことを知っているが、どちらに隠したかは知らない。その後、私は食べ物を隠したカップを指さして、チンパンジーに教えようとした。だが、意外なことに、チンパンジーは何度やっても私の有益なジェスチャーを無視し、当てずっぽうの推測しかできなかった。何十回も失敗してようやく、食べ物を見つけることができた。だが、ジェスチャーを少しでも変えると、また失敗してしまう。

「同上」p.37

チンパンジーが食べ物を得るためには「人間との協調」と「人間とのコミュニケーション」が同時にできなければなりません。チンパンジーにとってはこれが難しい。

しかしイヌはできるのです。著者は自分の愛犬(名はオレオ)で実験したときのことが書かれています。


オレオを相手にした実験では、2個のカップを1メートルほど離れた地面に逆さまに置くだけだ。
「お座り」
私はカップの1つに餌のかけらを隠した。そして、餌を隠したカップを指さす。オレオは一発で餌を見つけた。その後の17回の実験でも見つけた。「オレオ」と私は言って、彼の耳をかくと、オレオは私の両脚にしがみついて全体重をかけてきた。「おまえは天才だよ」

私がチンパンジーにジェスチャーする実験で何も成果を得られなかった何ヶ月ものあいだ、オレオは裏庭にずっと座って、私がチャンスをくれるのを待っていたのだ。

「同上」p.43-44

著者はイヌが「指さしの意図を理解している」のではない可能性(たとえば餌の臭いを感知している)を調べるため、さまざまな実験を繰り返しました。もちろん自分の愛犬以外にも、イヌの一時預かり所に出向いて実験を繰り返しましたが、いずれの場合もイヌはパスしました。イヌはチンパンジーと違って、試行錯誤で指の方向に餌があることを学ぶのではないのです。


人間の赤ちゃんが特別なのは、指さしのジェスチャーで伝えようとしていることを本当に理解していることだ。これはつまり、役に立つジェスチャーであればどんなものでも理解することを意味する。

これを人間の母親と赤ちゃんで実証するために、マイクは正解のカップにブロックを入れるよう、母親に頼んだ。赤ちゃんは母親がこのジェスチャーをするのを一度も見たことがなかったが、母親が助けようとしてくれていると推測して、ブロックの入ったカップを選んだ。

私がこの同じゲームをイヌに対して行なうと、イヌたちは同じように振る舞った。人間の赤ちゃんと同じように、イヌは私が助けようとしていることを理解し、初めて見るジェスチャーであっても、助ける意図があると思ったらすべて利用したのだ。

「同上」p.47

人間の赤ちゃんとイヌに共通するこの「協力的コミュニケーション」の能力は、どのようにして発達したのでしょうか。イヌは氷河期にオオカミの先祖をヒトが家畜化したものと考えられています。この家畜化の過程で能力を獲得した(能力が進化した)と考えることができます。

実は、このことを検証するのに格好の素材があります。それは旧ソ連の遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフが始めた "キツネを家畜化する実験" です。この実験は No.211「狐は犬になれる」で紹介しましたが、もちろん本書にも詳しく書かれています。


友好的であることの力:キツネの家畜化実験


著書はドミトリ・ベリャーエフの実験の記述の前に、兄のニコライのことから始めています。兄のことは初めて知りました。


スターリンの大粛清のただなかにあった1937年に、ニコライ・ベリャーエフは遺伝学者だからという理由で秘密警察に逮捕され、裁判にもかけられずに射殺された。

スターリンはだいたいにおいて誰に対しても疑り深かったが、とりわけ遺伝学者が嫌いだった。遺伝学者は「適者生存」という考え方を世間に広めるので、共産党の方針に逆らっているように思われたからだ。スターリンは、適者生存とはそもそもアメリカの資本主義者の考えであり、力や知能に優れた者が富を蓄える一方で、労働者が貧しい暮らしをするという状況を正当化するものだと見なしていた。そんなスターリンが出した解決策は、遺伝学そのものをすべて禁止することだった。遺伝学は学校や大学のカリキュラムから除外され、教科書からはそのページが破り捨てられた。遺伝学者は国家の敵であると宣言され、強制収容所に送られるか、ニコライのように殺された。

ニコライが処刑された1年後、その弟であるドミトリ・ベリャーエフも遺伝学者になった。1948年、ドミトリはモスクワにある中央研究所の毛皮動物繁殖部の職を解かれたが、身を潜めておとなしく過ごし、1959年になると政治の中心であるモスクワから遠く離れたノボシビルスクに移った。こうして安全な距離をとれたおかげで、彼は20世紀の行動遺伝学の金字塔となる実験ができたのだ。

「同上」p.53-54

著者はベリャーエフの実験を「20世紀の行動遺伝学の金字塔」と書いていますが、まさにその通りでしょう。


ベリャーエフは野心的な目標を掲げた。動物がどのように家畜化されてきたかを推測するのではなく、動物をゼロから家畜化し、自分自身の目でその結果を確かめたいと考えたのだ。実験対象として選んだのは、イヌに近縁で家畜化されてない動物、キツネだった。キツネは手で触れられるともがいて噛んでくることがあるので、キツネを扱う人は厚さ5センチもある手袋をはめなければならなかった。とはいえ、キツネは秘密の実験をするのにうってつけだった。毛皮目的でキツネを繁殖させることはロシアの経済にとって重要だったので、疑り深い政府の役人をかわすことができたからだ。

それはエレガントな実験だった。ベリャーエフの教え子であるリュドミラ・トルートは、キツネの集団を2つのグループに分けた。両者はまったく同じ条件下に置かれていたが、彼女はある一つの基準を使って両者を分けていった。

第1グループは、人間に対する反応にもとづいて交配された。このグループでは、キツネが生後7ヶ月になると、リュドミラがキツネの前に立ってやさしく触ろうとする。そのとき近づいてくるか、怖がらなかったキツネを選び出して、同様の反応を示したほかのキツネと交配する。それぞれの世代で最も人なつこい友好的な個体を選んで交配したので、第1グループのキツネは友好的になった。

一方、第2グループは人間への反応とは関係なく交配した。つまり、2つのグループに差違が生じたならば、それは「人間に対して友好的である」という選択基準だけからもたらされたということになる。

「同上」p.54-55

ベリャーエフ(1917-1985)は人生のあいだこの実験を続け、彼の死後はリュドミラ・トルート(1933 -)が実験を引き継ぎました。



動物は家畜化すると、さまざまな形質が共通して現れることが知られています。これらは、人間の都合によってそれぞれの形質が選別されてきたと考えられてきました。

家畜化症候群.jpg
家畜化による変化と特徴
動物を家畜化することで、さざまな形質、特徴が共通して現れる。これらを「家畜化症候群」と呼ぶことがある。図は本書の p.58-59 から引用。


家畜化はしばしば、外見によって定義されてきた。身体の大きさは変わりやすい形質であり、イヌではチワワのような超小型犬から、グレート・デーンのような超大型犬までさまざまだ。

イヌは野生の近縁種より頭部が小さく、鼻づら(口吻部)が短く、犬歯が小さい傾向にある。毛の色は家畜化によって変化し、野生種がもっていた天然のカムフラージュ効果は失われる。イヌの被毛には不規則なぶち模様が現れることもあり、なかには、突然変異で額に星形のぶちが現れるイヌもいる。尻尾は上向きにカールし、ハスキーのように丸く円を描く尻尾もあれば、家畜のブタの尻尾のように数回巻いた尻尾もある。イヌの耳は垂れていることが多い。繁殖期は年に一度ではなく、年間を通して繁殖できる。

これらの形質群はイヌに固有というわけではない。どの家畜種にも、こうした形質がまとまって現れる

一見ランダムなこうした形質を結びつけているのは何なのか、あるいは、そもそもこれらの形質どうしにつながりがあるのかどうかは、わかっていなかった。人間がこのような変化を求めて意図的に交配したのだという見方もあった。

「同上」p.55-56

家畜化にともなって、一見ランダムに見えるさまざまな形質がまとまって現れます。これらを「家畜化症候群」と呼ぶことがあります。ベリャーエフは、たった一つの条件でこのような家畜化が起こると考えたのです。それは、ダーウィン以来、誰一人として思いつかなかった天才的な考えであり、それが正しいことが実験で明らかになったのです。



著者は、ベリャーエフの弟子であるリュドミラ・トルートが現在も行っているシベリアの実験場を訪問しました。その時のことが書かれています。


人なつこいキツネは美しく、かつ奇妙だった。ネコのように優美なのに、吠える声はイヌみたいだ。ボーダーコリーのように黒と白のぶち模様で、青い目をしているものもいれば、ダルメシアンのように小さな斑点をもつものもいる。なかには、ビーグルのように、赤と白と黒の模様をもつキツネもいる。

リュドミラに施設を案内してもらっていると、どのキツネも立ち上がり、尻尾を振って、くんくん鳴いたり、興奮した声を上げたりしながら、私に走り寄ってきた。リュドミラが飼育舎の一つに通じるドアを開けると、赤茶色の雌が私の腕に飛び込んできて、顔をなめ、嬉しそうに放尿した。脚は黒で、額に白い星模様がある。

友好的なキツネの個体群に最初に現れた変化の一つは、被毛の色だった。もともと黒と白のぶち模様だった被毛には、赤茶色がだんだん頻繁に現れるようになった。20世代を経ると、友好的なキツネのほとんどが簡単に見分けられるようになった。額に白い星模様がある個体も当初は数匹だけだったが、あるとき一気に増えた。

次に現れたのが、垂れ耳と巻き尾だ。友好的なキツネは歯が小さく、鼻づらが短くなる一方で、雄と雌の頭骨の形は互いに似通ってきた。これらと同じ変化は、イヌの家畜化の初期にも現れた。

変わったのは、キツネの外見だけではなかった。普通のキツネは年に1回しか繁殖しないが、多くの友好的なキツネは繁殖期が長くなったのだ。友好的なキツネのなかには、繁殖周期が年に2回、つまり1年のうち8ヶ月繁殖できるものも現れ始めた。友好的なキツネは性的に成熟するのが普通のキツネより1ヶ月早く、1度に産む子の数が増えた。

普通のキツネはオオカミと同様に、人間に馴れることのできる社会化期は非常に短く、その期間は生後16日から6週までだ。一方、友好的なキツネはイヌのように社会化期が長く、生後14日から始まって10週まで続く。

普通のキツネでは、ストレスホルモンと呼ばれるコルチコステロイドの分泌が生後2~4ヶ月のあいだに増え、生後8ヶ月でおとなの濃度に達する。だが、キツネが友好的になるほど、このコルチコステロイドの濃度が急上昇する時期が遅くなった。12世代を経ると、友好的なキツネのコルチコステロイドの濃度は半減していた。30世代を経ると、さらに半減した

そして50世代を経ると、友好的なキツネは普通のキツネに比べて、脳内のセロトニン(捕食や防御にかかわる攻撃行動の低下に関連する神経伝達物質)の濃度が5倍に増えていた

「同上」p.60-62

友好的というキツネの行動が遺伝的なものであることを示すために、ベリャーエフとリュドミラは次のような実験をしました。

・ 友好的なキツネの子を、誕生時に普通のキツネの子と取り替え、普通のキツネの子が友好的な母親の行動に影響されるかどうかを見る。
・ 友好的なキツネの受精卵を普通のキツネの子宮に移植する。
・ 普通のキツネの受精卵を、友好的なキツネの子宮に移植する。

しかし、産んだ母親も育てた母親も結果には影響しませんでした。友好的なキツネは受精したときから、普通のキツネよりも友好的だったのです。"友好的という行動が遺伝する" わけです。


キツネの指さし実験


実は、著者がキツネの飼育施設を訪問したのは見学だけが目的ではありませんでした。イヌでやったような「指さし実験」をするためだったのです。

その実験をするために「友好的な子キツネのグループ」と「普通の子キツネのグループ」を用意します。まず、生後数週間の普通の子キツネを10匹程度選び、著者の助手(ナタリー)に慣れさせます。この時期の子キツネは人間を恐れる機構が発達していないので、慣れさせることができます。そしてボウル状の容器の下に餌を隠し、その餌を見つけられるように訓練します。これが「普通の子キツネのグループ」とします。

また「友好的な子キツネのグループ」としては、生後3~4ヶ月の、友好的として選別されたばかりのキツネを選びました。


ナタリーが9週間にわたってハグと訓練をしたおかげで、普通の子ギッネのグループは、ボウル状の容器の下に隠した餌を見つけられるようになった。そろそろテストしてもいい頃だ。

ナタリーは2つある容器のうちの一つに餌を隠し、餌のあるほうの容器を指さした。普通のキツネの場合、チンパンジーやオオカミと同様に、結果は偶然をわずかに上回るものでしかなかった。たいていは当てずっぽうに選んでいた。

「同上」p.67

9週間に渡ってヒトに慣れさせる(=社会化)訓練をしたにもかかわらず、普通のキツネは指さしジェスチャーの意図を理解できなかったのです。一方、友好的なキツネはどうだったか。


次に、ナタリーが一度も会ったことがない友好的な子ギツネをテストした。ナタリーは囲いにやって来ると、子ギツネたちを外に出し、2つの容器のうちの1つに餌を隠した。

人間が協力的コミュニケーションの能力だけにもとづいてイヌを選抜してきたのなら、この友好的なキツネは、友好性という形質だけにもとづいて選抜されてきたのだから、私のジェスチャーに従えるだけの協力的コミュニケーションの能力はもっていないだろう。しかし、彼らはこの能力をもっていた。友好的なキツネはこのテストで子イヌと同じどころか、わずかに上回る成績を上げたのだ。

「同上」p.68

友好的なキツネは、"指さしに反応して餌を見つける" というゲームを一度もやったことがなかったにもかかわらず、イヌ並みの成績をあげたのです。このことは、

ヒトに対して友好的という、たった一つの基準で選別してきたキツネは、数々の家畜化症候群を発現させるとともに、協力的コミュニケーションの能力を獲得した

ということを意味します。


オオカミがやってきてイヌになった


以上を踏まえて、オオカミが家畜化されてイヌになったプロセスはどのように推測できるでしょうか。

一般に想定されているシナリオでは、農耕民がオオカミの子を何匹か捕まえて住居に持ち帰り、従順な子を繁殖させてイヌにした、というものです。しかしこのシナリオは非現実的です。というのも、遺伝子の研究からオオカミの家畜化は農耕の開始より前、遅くとも1万年前には始まっていたからです。つまりオオカミの家畜化が始まったのは氷河時代と考えられるのです。

著者が考える「オオカミがイヌになったシナリオ」は次の通りで、これが "自己家畜化" です。


氷河時代にオオカミを意図的に家畜化したと考えると、想定されるシナリオは非現実的だ。人間は最も友好的で、かつ最も攻撃的でないオオカミだけを何十世代にもわたって交配しなければならなかっただろう。だとすれば、狩猟採集生活を送る人々は、最長でも数百年にわたり、いきなり攻撃してくるかもしれない大きなオオカミといっしょに暮らし、手に入れにくい肉を毎日おとなのオオカミに分け与えていたことになる。それよりも、人間が手なづける前に家畜化の一段階、つまり自己家畜化の期間があったと考えるほうが、可能性が高いのではないか。

人間が何かしら関与したとすれば、それは大量のごみを出したことだ。現代でも、狩猟採集民は野営地の外に残った食べ物を捨てるし、排泄もする。人間の集団が定住生活に移行するにつれ、腹をすかせたオオカミが夜な夜な食べたくなるような食物が増えていった。捨てられた骨もよかったが、人間は食材を調理するし、消化が速いため、その大便は骨と同じぐらい栄養に富んでいた。人間の排泄物は、野営地に近づけるほど勇敢で落ち着いたオオカミには、たまらない食料だっただろう。

そして、そうしたオオカミは繁殖するうえで優位に立ったことだろう。いっしょに食物をあさっただろうし、子づくりしやすくもなったのではないか。友好的なオオカミと人を怖がるオオカミのあいだで遺伝子がやり取りされる機会は少なくなり、人間が意図的に選ばなくても、より友好的な新しい種が進化した可能性がある。

友好的な性質が数世代にわたって選ばれただけで、この特殊なオオカミの集団では外見に違いが出始めただろう。被毛の色、耳、尾。これらすべてが、おそらく変化し始めた。人間は食べ物をあさる奇妙な見かけのオオカミをだんだん許容するようになり、この原始的なイヌに人間のジェスチャーを読み取る独特な能力があることを、まもなく発見したのではないか。

オオカミはほかのオオカミの社会的なジェスチャーを理解し、それに応答できていただろうが、人間のジェスチャーに対しては、人間から逃げることにばかり気をとられ、注意を払う余裕はなかっただろう。だが、いったん人間への恐怖心が興味に変わると、オオカミは社会的な能力を新たな形で利用して、人間とコミュニケーションをとれるようになった。人間のジェスチャーや声に反応できる動物は、狩猟の相棒や見張り役として大いに役立っただろう。そうした動物はまた、心温まる親しい仲間としても貴重な存在になり、野営地の外から炉端へ近づくのを徐々に許されることになった。人間がイヌを家畜化したのではない。最も友好的なオオカミがみずから家畜化したのだ。

こうした友好的なオオカミは、地球上で最も繁栄した種の一つとなった。その子孫は今や何千万匹にもなり、あらゆる大陸で人間とともに暮らしている。その一方で、生き残った数少ないオオカミの集団は、残念ながら常に絶滅の危機にさらされている。

「同上」p.72-73

そして、このような家畜化がヒトにも起こった。つまり、

・ 友好的な個体が選別されていくと(=家畜化すると)、社会的能力(協力的コミュニケーションなど)が発達する。

・ 社会的能力をもつ個体がより有利で生き残りやすくなる条件があると、自然選択による家畜化、つまり自己家畜化が起きる。

・ ホモ・サピエンスは自己家畜化の過程を経て生き残り、繁栄した。

とするのが「自己家畜化仮説」です。


自己家畜化仮説の証拠はあるか


では、ホモ・サピエンスに自己家畜化のプロセスがあったという証拠はあるのでしょうか。

家畜化された動物は、ヒトに友好的になると同時に身体に特徴的な変化が現れます。ロシアの友好的なキツネでは、選抜によってホルモンに変化が生じました。こうしたホルモンがキツネの成長の仕方(身体と行動)を変えたのです。

ヒトにも外見や行動の発達を調整するホルモンがあります。その一つのテストステロンは、濃度が高いと他のホルモンとの相互作用で攻撃性が高まります。同時に、成長期にテストステロンの濃度が高いと眉弓びきゅう(眉のところの弓形の骨。眉弓骨)の突起が高くなります。

ホモ・サピエンスの頭蓋骨の化石、1421点を調査したところ、更新世後期(38000年前~1万年前)の眉弓の突起は、更新世中期(20万年前~9万年前)のものより 平均で 40% 低くなっていました。



アンドロゲンというホルモンがあります。妊娠中にこのホルモンの濃度が高いと、人差し指の長さに対する薬指の長さ(= 2D:4D 比)が長くなる傾向にあります。2D:4D 比が小さいと「男性化した」と見なせて、危険を冒す度合いや攻撃性が高まります。

研究によると、更新世中期のホモ・サピエンスの2D:4D 比は現代人より小さく、より「男性的」であったことが分かりました。またそれよりさらに男性的なのがネアンデルタール人でした。つまりホモ・サピエンスは現代人になる過程において、2D:4D 比が高まり、より女性的になったと言えます。



家畜化が身体に与える影響の一つが「脳の小型化」です。脳が小型化すれば頭蓋骨も小さくなります。ヒトの知能が最も発達したのは過去2万年です。農耕が始まる前の1万年と始まって以降の1万年を比較すると、平均で頭蓋骨容量が 5% 小さくなっていました。

家畜化された動物の脳を小さくする最大の要因は、セロトニンというホルモンです。キツネの家畜化実験でもわかるように、家畜化された動物の攻撃性が低下するにつて、体内のセロトニン濃度が増加します。このホルモンが高まると友好的な感情が高まることが知られています。



以上が、化石資料がら類推できる家畜化=友好性の発達の例ですが、著者はこれとは別に、ヒトの「協力的コミュニケーション」を発達させた要因として「白い強膜きょうまく」をあげています。強膜とは眼球の外側の白い皮膜のことで、眼球の前方で角膜とつながっています。いわゆる「しろ目」のことです。

強膜が白いのはヒトの特徴です。霊長類の中で白い強膜をもっている(=強膜を黒くする色素を失った)のは、ヒトだけです。白い強膜だと視線を感じることができ、アイコンタクトが可能で、他者の視線を追うこともでき、「協力的コミュニケーション」にピッタリなのです。


友好性が新たな攻撃性を生んだ


ヒトは自己家畜化の過程において、自分の属する集団を想定し、その集団を家族のように感じる能力を発達させました。一度も合ったことがない他者でも、その他者が仲間かどうかを見分け、同じ集団に属していると認識するこができます。著者は、こういった集団アイデンティティーの発達を促したのが、オキシトシンというホルモンだと推定しています。


オキシトシンはセロトニンおよびテストステロンの可用性と密接に関連している。これら2つは、ヒトの自己家畜化の結果として変化したと私たちが推定したホルモンだ。

セロトニンの分泌が増えると、オキシトシンが影響を受ける。セロトニン神経とその受容体の活動が、オキシトシンの効果に影響を及ぼすからだ。簡単に言ってしまうなら、セロトニンはオキシトシンの効果を高めるということである。

また、テストステロンの分泌が減少しても、オキシトシンがニューロンと結合しやすくなり、行動が変わる。ヒトが自己家畜化する過程でセロトニンの分泌が増え、テストステロンが減少すると、オキシトシンの効果が高まると予測される。このようにして、ヒトの行動に与えるオキシトシンの効果が増大したと考えれば、自分が属する集団を家族のように感じるヒトの能力がどのように進化したのかを説明できそうだ。

「同上」p.147

しかし、このことは「集団に属さないと認識した他者」への、新たな攻撃性を生むことになりました。


オキシトシンは親の行動に欠かせないように見えるので、「ハグ・ホルモン」と呼ばれることもある。だが、私は「お母さんグマのホルモン」と呼ぶのを好んでいる。赤ちゃんが生まれたときに母親の体内に放出されるホルモンが、誰かが赤ちゃんに危害を加えようとしたときに母親が感じる怒りも引き起こすからだ。

たとえば、ハムスターの母親にオキシトシンを余分に投与すると、脅威をもたらす雄を攻撃して噛みつく傾向が強まる。オキシトシンはまた、雄の攻撃性にも関与している。ラットの雄は交尾相手の雌と仲良くなると、オキシトシンの分泌が増える。そうすると、雌を大切にする行動が強まる一方で、雌を脅かすよそ者を攻撃する傾向も強まる。

社会的な絆とオキシトシンと攻撃性とのこうした関係は、哺乳類全体で見られる。ということは、ホッキョクグマの母親が最も愛情に満ちているとき、つまり自分の子といっしょにいるときは、母親が最も危険なときでもあるということだ。たとえ故意でなくても、子が誰かに脅かされれば、母親は恐ろしい生き物に豹変する。わが子を愛するあまり、子を守るためなら死んでもいいと思うようになるのだ。

ヒトが自己家畜化によって形成されていくなかで、友好性の高まりが新たな形の攻撃性をもたらした。脳の成長中に利用できるセロトニンが増えたために、行動に対するオキシトシンの影響が強まった。集団のメンバーは互いに親しくつながるようになり、その絆はあまりにも強いので、互いに家族のように感じる。発達の初期に脳の「心の理論」ネットワークの接続がわずかに変化することによって、世話行動の対象が近親者から、さまざまな社会的パートナーまで広がった。

このように他者に対して新たな関心をもつようになると、血縁関係のない集団のメンバーや、さらには自分の集団内の見知らぬ人を守るために暴力をふるうこともいとわない気持ちが芽生えた。進化によってより強く愛するようになった人が脅かされたときに、人間はより激しく暴力をふるうようになった。

「同上」p.163-164

人間は、自分の集団ではないと認識した他者を「非人間化」できます。そして非人間化した他者に対してはどんな暴力をふるうこともできる。これは今までもそうだったし、現在、その傾向がますます高まっています。

しかし、集団のアイデンティティー認識は、生物学的根拠のあるものではありません。その認識は人間が変えられる。著者は、同じ集団であると認識する一番の鍵は "接触" だと主張しています。人と人の接触がまず必要で、それが第1歩です。


本書全体を通して


本書は次の2つの論を並行して進めるという体裁をとっています。

① ヒトは自己家畜化(=友好性をもつ個体が自然選択される)の過程を経て生き残り、社会を作り、繁栄した。と同時に、他者に対する新たな攻撃性を持ってしまった。

② 現在、世界で起こっている(特にアメリカで起こっている)暴力、差別、分断を憂い、それを解決する提言を行う。

の2点です。今まで紹介したのは ① の部分です。しかし著者が本を書いた意図は ② の部分も大いにあるのです。

進化人類学の立場から ② に踏み込むことは、論を広げすぎのように感じます。しかし「友好性をもつ人間が集まったとき、最大のパフォーマンスを発揮できる」というのは全くの事実です。それが、進化人類学の視点からも裏付けられて、友好性をもつからこそヒトはヒトになったと言える。そうであれば、現在の世界の状況に対して是非とも発言したいと思ったのは理解できます。

本書の原題は、最初に書いたように、

Survival of the Friendliest

ですが、これはヒトが生き残って繁栄した理由であると同時に、現在の人類が今後地球上で "サバイバル" できる鍵である。そう著者は言いたいのだと思いました。




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No.341 - ベラスケス:卵を料理する老婆 [アート]

今まで何回か書いたベラスケスについての記事の続きです。2022年4月22日 ~ 7月3日まで、東京都美術館で「スコットランド国立美術館展」が開催され、ベラスケスの「卵を料理する老婆」が展示されました。初来日です。今回はこの絵について書きます。



卵を料理する老婆


An Old Woman Cooking Eggs.jpg
ディエゴ・ベラスケス
卵を料理する老婆」(1618)
(100.5cm × 119.5cm)
スコットランド国立美術館

この絵は、No.230「消えたベラスケス(1)」で紹介しました。No.230 は、英国の美術評論家、ローラ・カミングの著書「消えたベラスケス」の内容を紹介したものです。この中で著者は、8歳のときに両親に連れられて行ったエディンバラのスコットランド国立美術館で見たのがこの絵だった、と書いていました。彼女の父親は画家です。画家はこの絵を8歳になった娘に見せた。8歳であればこの絵の素晴らしさが理解できると信じたのでしょう。案の定、これはローラ・カミングにとっての特別な体験だったようで、ここから彼女の "ベラスケス愛" が始まった。そして後年、「消えたベラスケス」のような本を書くに至った。そいういうことだと思います。

No.230 に続いて、「卵を料理する老婆」について書かれたローラ・カミングの文章再度引用します。


描かれた場面は、薄暗い居酒屋。その場にあふれる物のひとつひとつにスポットライトが当てられている。赤タマネギ、卵、白い鉢と、そこに危ういバランスで置かれた銀のナイフ、光を反射する真鍮しんちゅうの容器。どれもみな非凡で、まるで祭壇にでも並んでいるかのように、神聖かつ神秘的に見える。ベラスケスはありふれたものに最上級の敬意を払い、ひとつひとつが、まばゆいばかりに美しく描写されている。左側の少年が抱えるひもで縛ったメロンまでが、この世に与えられた新たな賜物たまもののように神々しい光を放つ。

卵を料理する老女と少年は、聖書に出てくる人物でもなければ、ただのモデルでもなく、まだ18歳だったベラスケスがこの傑作を描いた地、セビーリャの庶民だ。イングマール・ベルイマン(スウェーデンの映画監督)の映画に出てくる常連役者のように、二人は別の絵にも登場する。初期に描かれたこの絵では、人物どうしの交流や対話はなく、最低限の演出しかない。老女と少年がじっと物思いにふけっているポーズをとっているのは、描いている若き天才画家と同じ役割を二人が担っているからだ。目的は物を目立たせること ─── つまり、卵やメロン、反射するガラス瓶などを光にかざし、そこに人の注目を集めることなのだ。

この絵全体が人を魅了するために描かれたのは明らかで、目的は達成されている。真っ先に目を奪うのは、驚くべき精緻さだ。きらりと光る鍋の中で、透明な流体と不透明な白い流体が混じり合う卵。液体が一瞬にして個体に変わり、目に見える形を得る。それはちょうど、絵というものが見せる不思議な幻影に似ている。これぞまさに、ベラスケスの象徴と言える絵かもしれない。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.37-38

老婆が作っている卵料理は「ウエボ・フリート」(Huevo frito。スペイン風目玉焼き)です。「ウエボ」が "卵"、「フリート」は "揚げた" という意味で、現代のスペインでも作ります。ニンニクを入れたオリーブオイルを鍋にたっぷり入れ、卵を割って、上からスプーンでオリーブオイルをかけながら揚げるように焼きます。この絵の真鍮の容器と道具はニンニクを磨り潰すためのものでしょう。「目玉焼き」よりは「目玉揚げ」「揚げ卵」と言った方が実態に即しているでしょう。

An Old Woman Cooking Eggs(Part).jpg
驚くべき精緻さで描かれた物たちの中でも、ひときわ目立つのがこのウエボ・フリートの卵です。液体から半液体、半固体、固体へと変化する様子がとらえられています。絵には数々の "静物" が描かれていますが、鍋の中で固まりつつある卵は、その "静物" の一つです。しかしそれは、変化しつつある "動的実体" です。まるで時間の経過を画面に捉えたようです。一般に絵画では人物やモノ、自然の「動き」を描くことで時間経過を捉えるのはよくありますが、この絵は動かないものの動き =「物体が変質するという動き」が描かれている。そこがポイントです。

そのウエボ・フリートを作っている老婆は、3個目の卵を鍋に入れようとしています。少年はガラス瓶を持っていますが、おそらくオリーブオイルが入っているのでしょう。それをこれから老婆のスプーンの注ごうとしている(ないしは指示があれば注ごうと待ち構えている)ようです。この調理の動作が2つめの「動き」です。それに加えて、絵には数々のアイテムが描かれています。つまり、

・ ニンニク
・ タマネギ
・ 茶色の鍋
・ 陶器のコンロ(わずかに火が見える)
・ 白い鉢と壷
・ 銀のナイフ
・ 真鍮の容器と器具
・ 鉄の容器
・ メロン
・ ガラス容器
・ 

などで、それぞれの質感が完璧に描き分けられています。もちろん、質感表現と言うなら最初にあげた「固まりつつある卵」がその筆頭です。モノの質感表現に挑んだ絵画は過去から現在までヤマほどありますが、「熱によって変質しつあるタンパク質の表現」をやってのけた絵画は(そしてそれに成功した絵画は)、これが唯一ではないでしょうか。

一方、構図をみると、この絵の構造線は、

・ 老婆の体の中心を通る縦の線
・ 左上からスロープ状に曲線を描いて右下に至る放物線

の2つです。数々の事物と人物が描かれているものの、この2つの構造線によって安定感のある画面構成になっています。また、左からの光によるコントラストの強い明暗の使い方はカラヴァッジョを思わせます。


人間の尊厳を描く


「卵を料理する老婆」を特徴づけるのは、まずそれぞれの事物のリアルな描写であり、次に、構図と光の使い方ですが、されにこれらを越えて「人間を描く」という視点で見ても傑作です。この点について、朝日新聞に的確な紹介があったので引用します。

An Old Woman Cooking Eggs.jpg
ディエゴ・ベラスケス
卵を料理する老婆」(1618)


美の履歴書 750
朝日新聞(2022.6.14 夕刊)

神々しさ 感じるわけは

「卵を料理する老婆」
 ディエゴ・ベラスケス

24歳から3年以上にわたりスペイン王室の宮廷画家として活躍したベラスケスは、生涯で120点ほどの作品を残した。そのうち9点は宮廷画家になる以前に描いた、台所や酒場を舞台にした「ボデゴン」と呼ばれる厨房ちゅうぼう画だ。8歳か9歳で手がけた本作は、その中でも「頂点」と言えるほどに完成度の高い自然主義作品で、10代にして才能が開花していたことを示している。

質素な服を着た老女が、火鉢にかけた鍋で料理をしている。油で熱せられた卵の、今まさに固まりつつある瞬間の描写は、表現技法はもとより、その発想自体に、修業を終えて独立したばかりの、若き職業画家としての自信がにじむ。さらにタマネギや唐辛子などの食材、陶器や金属の器、ガラスの瓶といった日用品の数々も質感の違いを描き分けた。その筆致は「一目見て肌触りがわかるほど完璧」(東京都美術館・高城靖之学芸員)。

制作したのは、スペインが世界の覇権を失い、斜陽化する時代。交易国際都市として栄えたセビリアでも貧富の差は拡大していた。画家の家族か隣人をモデルにしたとされる画中の2人も明らかに身分は低い。だがベラスケスが描いたのは、そうした人々へのあざけりや非難といった卑俗的要素ではなく、威厳をも感じさせる姿。身近な生活にも神は宿るという当時の教えを写し込み、人間の存在や尊厳をありのままにとらえるこの技量こそ、ベラスケスが同時代の他の画家と一線を画すゆえんだろう。栄華去りゆく時代に、単なるリアリズムを超えて清貧な暮らしの神聖さをたたえるメッセージを残したと感じずにはいられない。(松沢奈々子)


松沢記者(文化くらし報道部)の文章を要約すると、この絵から感じられるのは、

・ 油で熱せられた卵が固まりつつある瞬間の描写や、数々の食材や日用品の質感の違いを描き分ける、完璧なリアリズム

・ 単なるリアリズムを超え、人間の存在や尊厳をありのままにとらえる技量

の2つということでしょう。人間の存在や尊厳をありのままにとらえた絵、というのは、まさにその通りだと思います。


画家が10代で描いた絵


この絵は画家が10代の時に描いた作品です。ローラ・カミングの本には18歳とありますが、19歳という説もあります。しかし10代であることには違いない。そして、ベラスケスの10代の絵にはもう1つの傑作があります。No.230 で画像を引用した、

セビーリャの水売り
ウェリントン・コレクション:英国)

です。この絵にはモデルとして「卵を料理する老婆」と同じ少年が登場します。

No.190「画家が10代で描いた絵」で、日本の美術館の絵を中心に10代の作品を取り上げましたが、「作品として完成している」「完璧なリアリズム」「人間の尊厳を描く」という3点で、このベラスケスの2作品に勝るものはないでしょう。ピカソもかなわない感じがします。

No.230 にあったように、これらの作品は画家が自分の技量を誇示するために描いたものと推定されます。じっさい「セビーリャの水売り」は、ベラスケスがマドリードを訪問する際に持参しています(No.230)。つまり「売り込み」です。しかし、たとえ目的がそうだったにせよ、鑑賞者の心をうつ作品になる。技量はもちろんだが、それだけではないと感じさせる一枚になる。アートとは不思議なものだと思います。




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No.340 - 中島みゆきの詩(20)キツネ狩りの歌 [音楽]

今回は「中島みゆきの詩」シリーズの続きですが、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」の中で一部を引用した《キツネ狩りの歌》を取り上げます。この詩は、数ある中島作品の中でも最も "不思議な" というか、解釈にとまどう詩の一つだと思うからです。

なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。


キツネ狩りの歌


《キツネ狩りの歌》は、7作目のオリジナルアルバム「生きていてもいいですか」(1980)第3曲として収録されている楽曲で、その詩は次のようです。


キツネ狩りの歌

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
あとは君のその腕次第

もしも見事射とめたら
君は今夜の英雄
さあ走れ夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず
見事手柄たてたら乾杯もしたくなる
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
仲間たちとグラスあけたら

そいつの顔を見てみろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
グラスあげているのがキツネだったりするから
君と駆けた君の仲間は
君の弓で倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら、ね

A1980「生きていてもいいですか」

生きていてもいいですか(表).jpg

生きていてもいいですか(裏).jpg
中島みゆき
生きていてもいいですか」(1980)
(画像は表と裏のジャケット)

① うらみ・ます ② 泣きたい夜に ③ キツネ狩りの歌 ④ 蕎麦屋 ⑤ 船を出すのなら九月 ⑥ ~インストゥルメンタル~ ⑦ エレーン ⑧ 異国


《キツネ狩りの歌》をめぐる3つの層


この詩の解釈ですが、「タイトル」「寓話」「象徴」の3つの層で考えてみたいと思います。

まず第1は「タイトル」です。"キツネ狩り" が何を意味するかですが、言葉をそのまま素直に受け取ると、これはイギリス伝統のキツネ狩り(Fox hunting)でしょう。イギリスの貴族が赤い派手な狩猟服を着込み、多数の猟犬を引きつれて、馬を駆って野生のキツネを追いたてる。銃は使わず、あくまで馬と猟犬でキツネを追い詰め、最後はキツネが猟犬に食い殺される ・・・・・・。いわゆる "スポーツ・ハンティング" の一種ですが、イギリスでは動物愛護の精神にもとる残酷な行為ということで2004年に禁止されました。

ということは、《キツネ狩りの歌》が発表された当時(1980年)では堂々と行われていたということになります。ちなみに《キツネ狩りの歌》の曲は、トランペットのファンファーレのような響きで始まります。これは実際のキツネ狩りで合図に使われるラッパ(Fox hunting horn)を模したように聞こえます。

第2の層は「寓話」で、それも日本の民話か昔話風のものです。日本では昔からキツネやタヌキが "別のものに化ける" ないしは "人を化かす" という伝承があります。その一方で、キツネに関しては "神獣・霊的動物" としてうやまう伝統もある(全国にある稲荷神社が典型)。その "別のものに化ける" ないしは "人を化かす" という伝承の中に、次のような骨子の民話がなかったでしょうか(タヌキを例にとります)。

数人の仲間と一緒に、野山にタヌキ狩りに出かけた。運良くタヌキをしとめ、それをタヌキ汁にして食べようとした。仲間たちが鍋と火の準備をしているが、何だか様子がおかしい。ふと見ると、仲間の後ろ姿から尻尾しっぽがのぞいている。実は "仲間" はタヌキが化けたもので、自分を鍋で食べようとしていたのだ。恐怖に駆られて一目散に逃げ出した。里の近くで本当の仲間と合流したが、自分の慌てた姿を見て怪訝けげんな顔をされた ・・・・・・。

このような骨子の話を読んだ記憶があります。どこだったか思い出せないのですが、ともかく、こういったたぐいの(= これに近いストーリーの)民話はいかにもありそうです。《キツネ狩りの歌》にある、

・ ただ生きて戻れたら、ね
・ 妙にひげは長くないか
・ グラスあげているのがキツネだったりするから

などの表現から感じるのは「民話・昔話仕立ての寓話」という雰囲気です。

第3の層は「象徴」です。「キツネ狩り」や、その他、この詩に現れるさまざまな言葉が "何かの象徴になっている" という雰囲気です。思い出すのが《あぶな坂》です。


あぶな坂

あぶな坂を越えたところに
あたしは住んでいる
坂を越えてくる人たちは
みんな けがをしてくる

橋をこわした おまえのせいと
口をそろえて なじるけど

遠いふるさとで 傷ついた言いわけに
坂を落ちてくるのが ここからは見える

・・・・・・

A1976「私の声が聞こえますか」

《あぶな坂》は、中島さんの第1作のアルバムである「私の声が聞こえますか」(1976)の第1曲です。当時、中島さんは24歳ですが、詩の内容は新進気鋭のシンガーソングライターのファーストアルバムの第1曲とはとても思えないほど不思議で、異次元的で、一種異様な感じがしないでもない。

No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」ではこの詩を「象徴詩」という文脈でとらえました。つまり「あぶな坂」「坂」「越える」「橋」「こわす」「なじる」「落ちる」などの言葉は、何らかの象徴になっているわけです。当然、作者がこの詩を書いたときの "思い" はあるのだろうけれど、象徴である以上、聴く人がどう受け取るかは自由である。そういった詩です。思い返すと、中島さんは「中島みゆき 全歌集」の序文に、次のように書いていました。


これらの詞は、すでに私のものではない。

何故ならばその一語一語は、読まれた途端にそのもつ意味がすでに読み手の解釈する、解釈できる、解釈したい etc ・・・・・・ 意味へととって変わられるのだから。

「語」は、コミュニケーションの手段でありつつ、それ自体が人類の共通項でもなければ審判でもない。したがって、これらの詞はすでに私のものではない。

─── という言い方もできる。ところが同じ理由によって次のような言い方もできてしまう。

したがって、これらの詞は、ついに私一人のものでしかない ・・・・・・ と。

中島みゆき
「中島みゆき 全歌集」序文
"詞を書かせるもの" より
(朝日新聞社 1986)

「私一人のものでしかない」のだけれど「すでに私のものではない」という二面性を綴った文章です。平たく言うと「詩を書いたときの思いやこだわりはあるのだけれど(それは作者一人の全く個人的なものだけれど)、詩をどう受け取るかは受け取る側の解釈に任されている」ということでしょう。これは「中島みゆき 全歌集」全体についての文章ですが、《あぶな坂》はまさにそういう感じの詩になっています。

《キツネ狩りの歌》も同じでしょう。キツネ狩りという「イギリス貴族の遊び」を背景に「寓話仕立ての詩」を作り上げていますが、そこに配置されている数々の言葉は、総体として "何かの" 象徴になっている。それが何かは、受け取る側の解釈に依存している ・・・・・・。そういうことだと思います。



では、"何かの" 象徴だとすると、それは何でしょうか。受け手としては解釈の自由があるわけで、それを考える上で参考にしたいのが、この詩を読む(ないしは楽曲として聴く)たびに連想する童話、宮沢賢治の「注文の多い料理店」です。


宮沢賢治「注文の多い料理店」


「注文の多い料理店」は、宮沢賢治の生前に出版された唯一の童話集である『注文の多い料理店』(大正13年。1924)の9編の中の1つです。童話集のタイトルになっていることから、賢治にとっては "思いのこもった" 作品なのでしょう。

以下にあらすじを書きますが、この童話は "ミステリー仕立て" です。従って本来、あらすじや結末を明かすべきではないとも思いますが、非常に有名な作品なので、引用とともに書くことにします。まず、冒頭は次のように始まります。

注文の多い料理店(中扉).jpg
童話「注文の多い料理店」の中扉(初版本)
(角川文庫 1996)


注文の多い料理店

 二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊しろくまのような犬を二ひきつれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことをいながら、あるいておりました。
「ぜんたい、ここらの山はしからんね。鳥もけものも一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やってみたいもんだなあ。」
鹿しかの黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞もうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねえ。」
 それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。

宮沢 賢治「注文の多い料理店」
角川文庫 1996

引用した角川文庫では、初版本の旧仮名使いを新仮名遣いに直してあります。なお上の引用で、ルビは「宮沢賢治全集 8」(筑摩文庫 1986)による初版本のルビに従いました。以下、同じです。

主人公は2人の紳士です。上の引用では分かりませんが、2人は東京からやってきたことが最後に明かされます。その2人がイギリス風の格好をして山にやってきた。どの山とは書いていませんが、宮沢賢治の故郷、岩手(賢治の言い方だとイーハトヴ)の山を想定するのがよいでしょう。その山奥で地元の猟師をガイドとして雇ってスポーツ・ハンティングをする。そういった情景です。

ところが上の引用の最後にあるように、2人の紳士はガイドの猟師とはぐれてしまった。戻ろうとしますが、戻り道が分からなくなります。そしてふと見ると、立派な西洋風の家があったのです。その玄関に近づくと、表札がかかっていました。


RESTAURANT
西洋料理店
WILDCAT HOUSE
山猫軒


注文の多い料理店(挿画).jpg
童話「注文の多い料理店」の挿画(初版本)
(角川文庫 1996)

2人はホッとして、ちょうどよかった、ここで食事をしようと玄関の扉に近づくと、そこには、
どなたでもどうかお入りください。決してご遠慮はありません。」
との掲示がありました。玄関をあけると扉の内側には、
ことに太ったお方や若いお方は、大歓迎いたします。」
とあります。中は廊下になっていて、進むとまた扉があり、
当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
とあります。その扉の内側には、
注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえてください」
とありました。さらに廊下は続き、次の扉には、
お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください。」
と書いてあります。廊下と扉はさらに続きます。それぞれの扉には、
 鉄砲と弾丸たまをここへ置いてください。」
 どうか帽子と外套がいとうと靴をおとり下さい。」
 ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡めがね、財布、その他金物類、ことにとがったものは、みんなここに置いてください。」
と、順に書いてありました。さらに次の扉には、
壷の中のクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。」
とあり、その裏側には、
クリームをよく塗りましたか。耳にもよく塗りましたか。」
とあります。2人はこれらの注文について、それぞれに合理的な理由を考え、一応のところ納得した上で従ってきました。この次からは宮沢賢治の文章を引用します。


 するとすぐその前に次の戸がありました。
「料理はもうすぐできます。
 十五分とお待たせはいたしません。
 すぐたべられます。
 早くあなたの頭にびんの中の香水をよく振りかけてください。」
 そして戸の前には金ピカの香水の瓶が置いてありました。
 二人はその香水を、頭へぱちゃぱちゃ振りかけました。
 ところがその香水は、どうも酢のようなにおいがするのでした。
「この香水はへんに酢くさい。どうしたんだろう。」
「まちがえたんだ。下女が風邪かぜでも引いてまちがえて入れたんだ。」
 二人は扉をあけて中にはいりました。
 扉の裏側には、大きな字で斯う書いてありました。
「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。
 もうこれだけです。どうかからだ中に、つぼの中の塩をたくさん
 よくもみ込んでください。」
 なるほど立派な青い瀬戸の塩壺は置いてありましたが、こんどというこんどは二人ともぎょっとしてお互にクリームをたくさん塗った顔を見合せました。
「どうもおかしいぜ。」
「ぼくもおかしいとおもう。」
「沢山の注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ。」
「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやるうちとこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが ……。」がたがたがたがた、ふるえだしてもうものが言えませんでした。

宮沢 賢治「注文の多い料理店」
角川文庫 1996

2人は逃げだそうと入ってきた扉を開けようとしますが、扉は堅く閉まっていて動きません。おまけに前方の扉のかぎ穴からは、2つの目玉が2人の方を覗いています。


「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。
 ふたりは泣き出しました。
 すると戸の中では、こそこそこんなことを云っています。
「だめだよ。もう気がついたよ。塩をもみこまないようだよ。」
「あたりまえさ。親分の書きようがまずいんだ。あすこへ、いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう、お気の毒でしたなんて、間抜けたことを書いたもんだ。」
「どっちでもいいよ。どうせぼくらには、骨も分けてくれやしないんだ。」
「それはそうだ。けれどももしここへあいつらがはいって来なかったら、それはぼくらの責任だぜ。」
「呼ぼうか、呼ぼう。おい、お客さん方、早くいらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい。おさらも洗ってありますし、菜っ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜っ葉をうまくとりあわせて、まっ白なお皿にのせるだけです。はやくいらっしゃい。」
「へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それともサラドはお嫌いですか。そんならこれから火を起してフライにしてあげましょうか。とにかくはやくいらっしゃい。」
 二人はあんまり心を痛めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑かみくずのようになり、お互にその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。
 中ではふっふっとわらってまた叫んでいます。
「いらっしゃい、いらっしゃい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるじゃありませんか。へい、ただいま。じきもってまいります。さあ、早くいらっしゃい。」
「早くいらっしゃい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもって、舌なめずりして、お客さま方を待っていられます。」
 二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました。

宮沢 賢治「注文の多い料理店」
角川文庫 1996

その時です。後ろの扉を突き破って、あの白熊のような2匹の犬が飛び込んできました。かぎ穴の目玉はたちまちなくなり、2匹の犬は前の扉に飛びつきます。扉は開き、犬はその中に駆け込んでいきました。


 その扉の向うのまっくらやみのなかで、
「にゃあお、くゎあ、ごろごろ。」という声がして、それからがさがさ鳴りました。
 室はけむりのように消え、二人は寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立っていました。
 見ると、上着や靴や財布やネクタイピンは、あっちの枝にぶらさがったり、こっちの根もとにちらばったりしています。風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
 犬がふうとうなって戻ってきました。
 そしてうしろからは、
旦那だんなあ、旦那あ、」と叫ぶものがあります。
 二人はにわかに元気がついて
「おおい、おおい、ここだぞ、早く来い。」と叫びました。
 簔帽子みのぼうしをかぶった専門の猟師が、草をざわざわ分けてやってきました。

宮沢 賢治「注文の多い料理店」
角川文庫 1996

2人はやっと安心し、猟師の持ってきた団子を食べました。そして東京へと帰っていきました。しかし、恐怖で紙屑のようにくしゃくしゃになった2人の顔は元の通りにはなりませんでした。


都市文明への反感


宮沢賢治は童話集『注文の多い料理店』の出版にあたって、宣伝のためのちらしを書いています。 "『注文の多い料理店』新刊案内" と題したものですが、その中で童話「注文の多い料理店」について次のようにあります。


『注文の多い料理店』新刊案内

4 注文の多い料理店

二人の青年紳士が猟に出て路を迷い、「注文の多い料理店」にはいり、その途方もない経営者からかえって注文されていたはなし。糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感です。

宮沢 賢治「注文の多い料理店」
角川文庫 1996

その通りなのでしょう。都市文明とそこに暮らす富裕層を代表するのが、東京からイーハトーヴにやってきた2人の紳士です。イギリス風の(つまり日本ではあまり見かけない)狩猟服に身を包み、地元の猟師(= 生活のかてとして猟をする人)を雇ってガイドにつけ、スポーツ・ハンティングをする。鹿の横腹に銃弾を命中させればクルクルまわってドタッと倒れる、それが痛快だなどと話しています。

しかしそんな富裕層の紳士も、ガイドを見失い、山猫軒の "親方"(経営者のことを宮沢賢治は "親方" と書いています)の策略で無防備な姿にされ、我が身の危機が迫っていると分かると、恐怖に顔をひきつらせて泣き叫ぶだけなのです。「二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました」などの "戯画的" な表現は、文明の力、金の力で強そうにしている人間も、その内実は中身のない自立できない人間であり、それが真実の姿であるといったところでしょう。

それを徹底的に揶揄したような話の組み立てが、賢治の言う「都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感」だと思います。もっと大きな構えで言うと、都会と地方、文明と自然の対立であり、権力や資産に乏しい「地方・自然」サイドからの「都会・文明」への反撃が「注文の多い料理店」だと思います。

ただ、根底がそうだとしても、この童話には物語としての工夫があります。それは料理店サイドから客に注文を次々出すという、少々奇想天外なストーリーです。また、親方の策略は "やりすぎ" が高じてボロが出て、それを子分に批判されるのもちょっと予想外の展開です。"策に溺れる" と言ったらいいのでしょうか。さらに物語のクライマックスでは、すべてが霧散解消し、話の全体は2人の紳士が見た幻影のような書き方がされています。都市文明と富裕層への反感とは言いながら、これらの点が不思議な魅力を物語に与え、名作とされているのだと思います。


連想の理由


《キツネ狩りの歌》から「注文の多い料理店」を連想するのには理由があります。まず、

動物を狩る人間が、狩られるはずの動物にだまされて命が危うくなる

という作品の基本的なコンセプトが非常に似ていることです。これは一目瞭然でしょう。さらに共通するのは、ちょっと意外なキーワードとしての、

イギリス

です。キツネ狩りはイギリスの伝統だし、「注文の多い料理店」の冒頭の最初の文章には "イギリス" が出てきます。そこには「イギリスの兵隊のかたちをして」とありますが、この「兵隊」はイギリスの近衛兵だと想定します。つまり、バッキンガム宮殿で見かける赤い軍服の兵隊です。これはキツネ狩りで貴族が着込む狩猟服にそっくりです。この共通する "イギリス" は偶然なのでしょうか。

付け加えるなら、「注文の多い料理店」は "言葉の多義性" あるいは "ダブル・ミーニング" を巧みに取り入れた童話です。タイトルの「注文」がそうだし、上の引用中にある「すぐたべられます」も、日本語では「可能」と「受け身」が同一表現(レル・ラレル)ということを利用したダブル・ミーニングになっています。このような多義性を利用することは、まさしく中島さんが詩を書く上で得意とするところです。宮沢賢治の「注文の多い料理店」は "中島みゆき好み" の作品という気がします。

中島さんが《キツネ狩りの歌》を書くときに「注文の多い料理店」が念頭にあったのか、ないしは意識したのか、それは分かりません。しかし、受け手には "解釈の自由" があります。その前提で、「注文の多い料理店」を念頭に置いて《キツネ狩りの歌》を解釈したらどうなるかです。


「キツネ狩りの歌」の主題


「注文の多い料理店」を "補助線" として《キツネ狩りの歌》を解釈したらどうなるでしょうか。それを簡潔に言うと、

自分の力(権力、権威、地位、財力など)を過信して行動し、享楽にふけっていると、その力の犠牲になるものたちからの "しっぺ返し" を食らう

という "警句" と考えたいと思います。ここで "享楽" としたのは「酒」「乾杯」などの言葉が詩にあるからです。

「力を過信して行動する人」と「その犠牲なるものたち」の対比は、それを具体化すると、大きなものから小さなものまで、社会のさまざまな側面にあるでしょう。「富める者」と「貧しい者」もそうだし、「男性社会」における「弱い立場としての女性」と考えてもよい。最も大きくとらえれば「文明化を押し進める人類」と、それによって「収奪される自然環境」です。



ここで《キツネ狩りの歌》が「生きていてもいいですか」というアルバムの収録曲だという点から考えてみます。"生きていてもいいですか" という表現は、アルバムの第7曲である《エレーン》の詩の中に出てきます。つまり《エレーン》がアルバム「生きていてもいいですか」のタイトル・チューンになっている。その《エレーン》は、中島みゆきさんの知り合いだった外国人娼婦をモデルにした曲です。この女性のことは、小説集「女歌おんなうた」の中の「街の女」に書かれていて、最後は惨殺されるという衝撃的な話です。ちょうどキツネ狩りにおけるキツネのように ・・・・・・。

また、アルバムの最終曲は「異国」で、詩には "二度と来るなと唾を吐く町 / 私がそこで生きてたことさえ / 覚えもないねと町が云うなら / 臨終の際にもそこは異国だ" といったたぐいの表現に満ちています。この詩が《エレーン》と関係していることは明白でしょう。

といったことから考えると、《キツネ狩りの歌》の「犠牲になるもの」は「弱い立場としての女性」かつ「社会のアウトサイダー」と受け取るのが最もしっくりきます。アルバムの最初の曲が「うらみ・ます」で、そこには "ふられたての女くらい だましやすいものはないんだってね / あんた誰と賭けていたの あたしの心はいくらだったの" という、一度聴いたら忘れられないフレーズがあって、それはアルバム全体におけるの "女性の視点" を強調しているようです。

とはいえ、中島さんの詩を "狭く受け取る" と誤解してしまうことがあります。《キツネ狩りの歌》はあくまで「力を過信して行動する人」と「その犠牲なるものたち」の対比という構図でとらえ、具体的に何を想定するかは多様な解釈ができるとしておくのがよいのでしょう。



ただ、一つ確実に言えることは《キツネ狩りの歌》で強く感じる、キツネを狩る人 = 力を過信して行動する人に対するシニカルな目です。浮かれていると自滅しますよ、墓穴を掘ることになりますよ、誰も助けてくれないけどいいんですか ・・・・・ というような「突き放した見方」を感じる。

中島さんの詩には「小さなもの」や「弱い存在」、「マイナーなもの」「疎外されたもの」の側に立って、世の中の真実を見据えた作品がいろいろあります。この詩もその一つでしょう。それをシニカルに言語化した作品、それが《キツネ狩りの歌》だと思います。



おそらく、宮沢賢治をリスペクトする文学者やアーティスト、クリエーターは大変多いと想像されます。中島さんがその一人であっても何の不思議もありません。しかし中島さんは、単にリスペクトするだけでなく、宮沢賢治にインスパイアされた作品を作っているのですね。夜会「24時着 0時発」(2004年初演)です。

この作品の基本テーマは、題名の「24時着 0時発」=「1日の終わりは始まり」=「地球の自転」で明確なように "永劫回帰" であり、それはすでに『時代』で示されているものです。そして、この作品のもう一つ発想の源泉が『銀河鉄道の夜』です。YAMAHA のサイトでの「24時着 0時発」(DVD作品)の紹介コピーは次のようになっています。

舞台は、主人公“あかり”が、過労のため生死をさまよう間に不思議な夢を見るところから物語が始まる。河を上る鮭の遡上を宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」になぞらえ、そこに主人公の人生を重ね合わせてゆく。

『銀河鉄道の夜』を愛するアーティストは多数いるでしょうが、それをもとに作品まで作った人はそう多くはないと思います。何となく、中島さんの "宮沢賢治愛" が伝わってくるような感じがする。

だとすると、《キツネ狩りの歌》が『注文の多い料理店』を踏まえているというのは、単なる憶測を超えていると思います。



 補記:24時着 0時発 

中島みゆきさんが、夜会「24時着 0時発」と宮沢賢治との関係を語った発言があるので、それを紹介します。以下の内容はすべて、Webサイト「中島みゆき研究所」からのものです。この個人サイトを運営されている阿部忠義氏に感謝します。



2011年10月29日、NHK BSプレミアムで「宮沢賢治の音楽会 ~ 3.11との協奏曲 ~」が放映されました。内容は「中島みゆき研究所」の解説によると、

2011年10月22日(土)~ 10月30日(日)まで、NHK BSプレミアムで放送される特集「きらり!東北の秋」の3週目に放送される特別番組。宮沢賢治が生涯に残した20曲あまりの歌の魅力を現代のミュージシャン、アーティストたちの歌と朗読で堪能する。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフにした「夜会VOL.14 ─ 24時着00時発」から、中島みゆきのコメント(B.G.M.『サヨナラ・コンニチハ』)と中島みゆきが少年 "ジョバンニ" に扮し『命のリレー』を唄った映像が流れた。

です。その "中島みゆきのコメント"(声の出演) が以下です。


中島みゆきです。『24時着00時発』という舞台をやりました。

あの舞台は、もともとは。あの、単純にね。サケの・・サケという魚ね。
アレの遡上。アレをですね。人間たちの都合による護岸工事があって、サケたちが行く手を妨げられてですね。サケたち故郷へ・・故郷の川へ帰れない。よって、サケたちが "次の世代に命を繋げることができないよー" というお話だったんですね。

さらに考えてですね。あのー、サケが上る川の流れと、時間の流れと、もう一つ、線路ですね。これをトリプル・ミーニングにしてみよう。と、いうことにした訳です。つまり、転生・・生まれ変わりですね。これを繋いで走っていく列車と。

"う~ん、いいんじゃないかしら" と、思ったらばです。"何ンか、コレって、先に誰かが書いてたような気がするなぁ" と、よく思い出してみましたらば、"おお、何と、これは宮沢賢治さんは、とっくの昔に、『銀河鉄道の夜』で、描ききっちゃってるじゃないですかぁ"。なので、敬意を込めて、宮沢賢治さんと思しき人影を舞台上にチラッと登場させたりしつつ、上演いたしました。ありがとうございました。

 (http://miyuki-lab.jp/broad/tv/ap/msg/111029/index.html

"企画の途中で宮沢賢治と同じだと気づいた" との主旨を語っておられますが、これは本当なのでしょうか。ひょっとしたら、初めから『銀河鉄道の夜』へのオマージュを作りたかったのでは、とも思いました(たぶん、そうです)。

とにかく、中島さんの "宮沢賢治愛" を感じざるを得ないコメントであることは確かだと思います。




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No.339 - 千葉市美術館のジャポニズム展 [アート]

No.224 に引き続いてジャポニズムの話題です。No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」は、2017年に国立西洋美術館で開催された展覧会(= "北斎とジャポニズム" 2017年10月21日~2018年1月28日)の話でしたが、先日、千葉市美術館で「ジャポニズム ── 世界を魅了した浮世絵」と題する企画展が開かれました(2022年1月12日~3月6日)。見学してきたので、それについて書きます。

ジャポニズム展 ちらし.jpg
ジャポニズム
世界を魅了した浮世絵
(ちらし)

以下、引用などで『図録』としてあるのは、この展覧会のカタログです。

ジャポニズム展 図録.jpg
ジャポニズム
世界を魅了した浮世絵
(図録)


ジャポニズムを通して浮世絵を見る


『図録』の最初に、この展覧会の主旨を書いた文章が載っていました。それを引用します(段落を増やしたところがあります。また下線や太字は原文にはありません)。


浮世絵の魅力とはなんであろうか。この展覧会は、視覚的に浮世絵を見慣れてきた我々、特に日本人が無意識に感受しているその表現の特性を明らかにすることを主眼としている

周知のように、19世紀後半に至り、日本の鎖国は解かれ、欧米へと大量の文物がもたらされるようになる。それは視覚的驚きを持って迎え入れられ、幻想と言っても良いレベルの日本への憧れをも伴いつつ、ジャポニズムという熱狂的な動向を導いた。

とりわけ浮世絵版画は、古典主義、ロマン主義の中で形骸化しつつあった西洋絵画の表現に、新たな可能性を示したと言える。ジャポニズムの画家たちの作品を通して、西洋が浮世絵に初めて出会ったときの印象や感動を追体験できないだろうか。もはや潜在意識の中に埋もれようとしている浮世絵の特徴や魅力を、改めて意識し再認識しようというのが、本展の主旨である。

「ジャポニズムを通して浮世絵を見る」
田辺 昌子
(千葉市美術館 副館長、学芸課長)
展覧会の『図録』より

「日本文化とはなにか」という問いに答えるためには、日本文化を熟知していたとしても不足です。「日本文化でないもの」を知らないといけない。同様に「浮世絵とは何か」という質問に答えるためには、文化的伝統の全く違う絵を熟知している必要がある。その例として、19世紀後半に浮世絵に初めて接した欧米の画家がある。彼らの目に浮世絵がどう映ったかを感じることで、浮世絵の特徴や魅力を再認識しよう、というわけです。

我々は浮世絵をあまりに見慣れてしまっているので、何が特徴なのか、価値はどこにあるのかが分からなくなっています。そう断言するのは言い過ぎかもしれないが、分からなくなっている危惧がある。その "慣れきった" 感覚や感性をリフレッシュさせたい。そういう企画だと理解しました。この展覧会の英語タイトルは、

Ukiyoe wiewed through Japonisme

で、直訳すると「ジャポニズムを通してみた浮世絵」です。これが企画の主旨を一言で表しているのでした。さらに上の引用の少しあとで、田辺氏は次のように書いています。


明治時代後期より古い浮世絵の販売に携わり、大正期には「新版画」の版元として名を残す渡邊庄三郎(1885-1962)は、日本に残された浮世絵版画は全体の百分の一ぐらいだろうと言っていたという。

田辺 昌子「同上」
展覧会の『図録』より

江戸時代の浮世絵は明治初期に大量に海外へ流出しました。二束三文で売られたものも多いようです。輸出品の緩衝材として使われたというような話もありました。上の引用にある渡邊庄三郎の推測によると、浮世絵の 99% は海外にあるわけです(散逸も含めて)。この流出が何を意味するかと言うと、

あまりに見慣れたものは、価値がどこにあるのかが分からない以前に、そもそも価値があることすら分からない

ということだと思います。この企画展はそういうことも感じさせるものでした。


展覧会の構成


本展覧会は次の8つの切り口で構成されていました(『図録』の解説に沿って記述)。

① 大浪のインパクト
② 水の都・江戸 ─ 橋と船
③ 空飛ぶ浮世絵師 ─ 俯瞰の構図
④ 形・色・主題の抽象化
⑤ 黒という色彩
⑥ 木と花越しの景色
⑦ 四季に寄り添う ─ 雨と雪
⑧ 母と子の日常

の8つです。このうち ① は葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が西欧の画家に与えたインパクトです。このブログでも No.156「世界で2番目に有名な絵」で(絵画にとどまらない)影響の例をあげました。もちろん、北斎に続く日本の絵師に与えた影響も大きかったわけです。本展では大波を描いた北斎の別の作品もありました。

葛飾北斎「総州 銚子」.jpg
葛飾北斎
千絵の海 総州銚子
(千葉市美術館蔵)

「千絵の海」は、各地の漁をテーマとし、自然と人間の営みを描いた10図からなるシリーズです。この絵は大波に翻弄されながらも漁をする漁師を描いている点で「神奈川沖浪裏」との共通部分がありますが、空を全く描かない構図や泡立つような波頭の表現に、北斎の工夫というか、"革新を目指す姿勢" が現れています。



③ の「空飛ぶ浮世絵師」とは不思議な言い方ですが、要するに、

現実に見ることはできない "上空の視点" から、風景や事物を俯瞰した構図で描いた絵

です。「鳥の目」で描いた作品と言ってもよいでしょう。これが浮世絵の特徴だと言われると、なるほどと納得できます。その例を2作品、引用します。

歌川広重「両国花火」.jpg
歌川広重
名所江戸百景 両国花火
(山口県立萩美術館・
浦上記念館)

歌川広重「大はしあたけの夕立」.jpg
歌川広重
名所江戸百景 大はしあたけの夕立
(ホノルル美術館)

「大はしあたけの夕立」はゴッホが模写したことで有名です。一見して分かるように「雨を画題にし、雨を線で描く」という浮世絵の特徴を表していて、これは本展の「⑦ 四季に寄り添う ─ 雨と雪」のテーマにもなっていました。それもあって、我々はこの絵の「雨の表現」に注目しがちです。

しかし作品のもう一つの特色は、上空から橋(= 新大橋)と川(= 隅田川)を描くという「俯瞰の構図」なのですね。これもなるほどという感じがしました。

考えてみると、日本美術には俯瞰構図の伝統があります。源氏物語絵巻のような「吹抜ふきぬき屋台」(= 天井を描かずに室内を上からの構図で描く技法)や、多数描かれた「洛中洛外図屏風」がそうだし、雪舟の国宝「天橋立図」などは、現代人でさえ(ヘリコプターにでも乗らない限り)見ることができない構図で描かれています。そのため、浮世絵の絵師の俯瞰構図も我々にとっては違和感がありません。北斎の富嶽三十六景の(いわゆる)「赤富士」も、特に "俯瞰構図だ" ということを気に止めることは皆無です。

一方、西欧の風景画を振り返ってみると「鳥の目」で描かれたような風景画は思い当たらないのです。つまり、浮世絵の構図はジャポニズムの画家にとっては目新しいものだった。

本展覧会では、アンリ・リヴィエールの習作(セーヌ河とエッフェル塔)がありました。しかし、浮世絵の絵師とは少々違います。『図録』の解説にも、ジャポニズムの画家の俯瞰構図は「画家自身が何か高い建物にいるとの想定を感じさせ、現実感のある描写の範囲に収めようとしているように見える点は、日本の絵師との違いを感じさせる」とありました。



そのほかの、

・ 
・ 並木ごしの風景
・ 
・ 母と子の日常

などのテーマは、国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニズム展」(No.224)と共通のものです。「母と子の日常」では、喜多川歌麿「行水」とメアリー・カサットの母と子のデッサンが対比されていましたが、No.187「メアリー・カサット展」に、歌麿とカサットの版画「湯浴み」を並べて引用しました。



以降は、浮世絵の展示における「従来あまりなかった切り口」という意味で、「⑤黒という色彩」を中心に紹介します。


黒という色彩


田辺副館長は『図録』の解説で次のように書いています。


油絵において黒というのは扱いの悪い色である。多く立体感を重んじてきた西洋画の伝統的描写では、黒を単色で用いればくっきりと悪目立ちし、他の色と混ぜれば沈みすぎることがあって冴えない。

一方で絵も文字も墨が基調であり、平面性を美徳とする日本では、黒は形を明確に表現する輪郭線であり、彩色される色であり、常に絵師が意識する色である。色数が限られ、平面的な色の構成によって成立する浮世絵版画においては一番の利き色であり、特に色面として使われる場合は、最もインパクトのある色となる

田辺 昌子『図録』
第5章「黒という色彩」より

その黒を "利き色" につかった鈴木春信の2作品と、それと対比されていたヴァロットンとロートレックの作品を引用します。

鈴木春信「夜の梅」.jpg
鈴木春信
夜の梅
メトロポリタン美術館

ヴァロットン「外出」.jpg
フェリックス・ヴァロットン
外出
プーシキン美術館

鈴木春信の作品は、夜の漆黒の闇を表現する黒が強烈で、梅・振り袖・欄干の赤系の色の対比が目を引く作品です。

ヴァロットンの作品は木版画です。夜に外出するという、何らかのストーリーがありそうな場面ですが、最小限のシンプルな線と "白黒画像の対比の美" を感じる作品になっています。

鈴木春信「雪中相合傘」.jpg
鈴木春信
雪中相合傘
メトロポリタン美術館

ディヴァン・ジャポネ.jpg
アンリ・ロートレック
ディヴァン・ジャポネ
ジマーリ美術館

春信の作品は、雪の中の恋仲の男女を描いた有名な作品です。雪の白を基調とした画面の中に、男女の着物の黒と白の対比が際だっています。

ロートレックの作品は、「ディヴァン・ジャポネ」(=日本の長椅子の意味)という店名のカフェ・コンセール(ショーを見せる飲食店、ないしは音楽酒場)の開店ポスター(リトグラフ)です。舞台と楽団をバックに、中央にドンと描かれた実在のダンサー、ジャンヌ・アヴリルの量感が黒で表現されています。



こうしてみると「色彩としての黒」が浮世絵の特色であることが理解できます。そして、この文化的伝統を引き継いだ後世の日本画家も当然ながら「黒」を効果的に使います。すぐに思い出すのは、長年のあいだ所在不明で近年発見された、鏑木かぶらき清方(1875-1949)の「築地明石町」(1927)です。本展とは関係ありませんが画像を引用しておきます。

築地明石町.jpg
鏑木清方
築地明石町
東京国立近代美術館


マネ「エミール・ゾラの肖像」


いったん本展覧会を離れます。「黒という色彩」と「ジャポニズム」の2つの接点で思い出す絵があります。エドゥアール・マネの「エミール・ゾラの肖像」です(No.295「タンギー爺さんの画中画」に画像を掲載)。

マネ「エミール・ゾラの肖像」.jpg
エドゥアール・マネ
エミール・ゾラの肖像」(1868)
オルセー美術館

画題になっているエミール・ゾラの衣装が黒です。そして、この絵の画中画の一つが歌川国明の「大鳴門灘右エ門」ですが、まさに鏑木清方の「築地明石町」のように「黒い羽織を着た人物(=力士)」が描かれているのですね。この黒の使い方は浮世絵の典型と言ってよいでしょう。

歌川国明「大鳴門灘右エ門」.jpg
初代 歌川国明
大鳴門灘右エ門」(1860)

この「エミール・ゾラの肖像」について、昭和音楽大学の宮崎教授が日本経済新聞に次のように書いていました。


19世紀 日本ブームの裾野 十選(4)
マネ「エミール・ゾラの肖像」
昭和音楽大学教授 宮崎克己

日本経済新聞 2022年5月3日

画家エドワール・マネ、そして友人の文学者ゾラはいずれも、19世紀パリ市民たちの生活を生々しく描いた。画中の屏風、浮世絵はマネの所蔵だったと確認されているが、ゾラも日本美術を愛好していた。明治元年にあたる1868年に描かれたこの絵は、日本の物がこの時すでに生活環境の一部だったことを示している。

ゾラは、この時代に登場し、躍進した百貨店を舞台にした長編小説「ボヌール・デ・ダム」において、世界中から集められた魅力的な品々の中で、日本物は当初小さな台で売られるにすぎなかったのが、4年後には大きなスペースを占め、多くの客を魅惑するようになる様子を点景として描いた。

マネはもともと黒を色として画面に導入し、それによって画中の他の色を際立たせようとしていたのだが、その黒が日本の浮世絵の影響で、陰影のない完全に平坦へいたんな面になる。それが意識的だったことは、この絵においてゾラの黒いジャケットが右後ろの相撲絵の黒い羽織と向き合っていることから推測できる。色彩としての黒、そして平坦な色面は、絵画のジャポニスムの中で、以後重要な課題となっていった。


この引用にあるように、マネは「黒という色彩」の卓越した使い手です。「ベルト・モリゾの肖像」(オルセー美術館)とか「死せる闘牛士」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)といった、黒が大変印象的な作品があります。

その黒の使い方を誰かから学んだとしたら、一つはマネが尊敬するベラスケスでしょう(No.36「ベラスケスへのオマージュ」参照)。「エミール・ゾラの肖像」にもベラスケスの絵が画中画として描かれていました。

もうひとつは、オランダの画家、フランス・ハルスです。マネはオランダ旅行をしたあとに "ハルス風" の絵を描いてます(No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」参照)。確かゴッホは手紙の中で「ハルスは10種類の黒を使い分けている」という主旨のことを書いていたと思います("10種類"というのはウロ覚えです)。

そしてさらに「色彩としての黒」を学んだとしたら、それが浮世絵なのでしょう。「大鳴門灘右エ門」に描かれた黒い羽織は、我々にとってそういう色使いがあたりまえであるため、言われてみないと気付かないのです。

そして宮崎教授が上の引用で指摘している「ゾラの黒いジャケットが右後ろの相撲絵の黒い羽織と向き合っている」というのはまさに図星であって、そういう風に構図が意図されているのだと思いました。マネが親友・ゾラの後方に「大鳴門灘右エ門」を描き込んだのは、単なる浮世絵へのオマージュではなく、さらに深い意味があると理解できました。


喜多川歌麿の「両国橋納涼」


話を本展覧会に戻します。「② 水の都・江戸 ─ 橋と船」のテーマで展示されていた浮世絵の一つが、喜多川歌麿の「両国橋納涼」でした。一度、見たいと思っていた作品でしたが、初めて実物を目にすることができました。

喜多川歌麿「両国橋納涼」.jpg
喜多川歌麿
両国橋納涼
メトロポリタン美術館

「大判錦絵6枚続き」という、超豪華な大画面です。「大判錦絵3枚続き」はよく見ますが、それを上下に組み合わせた "滅多に見かけない" 構成の浮世絵です。

描かれているのは浮世絵の定番の画題である橋、船、女性ですが、それらがギッシリと詰め込まれていて、まさに "テンコ盛り" 状態です。遠方に小さく別の橋まで描かれていますが、これは両国橋より南側の新大橋でしょう(広重の「大はしあたけの夕立」の橋)。

ここで注目したいのは、上半分の「大判錦絵3枚続き」です。そもそも "続絵" は一枚にしても鑑賞できるものです。この絵もそうなるように、各枚には女性が3人づつ描かれています(その他、子どもや町人もいる)。そして ・・・・・・(これ以降の話は本展覧会とは関係ありません)



この「一枚に女性3人を描いた3枚続き」という構図が、ジャポニズムの観点から、ある作品を連想させます。アンリ・マティスの「三姉妹」(バーンズ・コレクション所蔵)です(No.95「バーンズ・コレクション」の Room 19 West Wall 参照)。このことは、No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」にも書きました。

Barnes Collection Room19 West Wall.jpg
アンリ・マティス
三姉妹(3連作)」(1917)
バーンズ・コレクション
(Room 19 West Wall)

「縦長のカンヴァスに3人の女性を描き、それが3連作になっている」作品です。単に「3人の女性を描いた絵」なら、ギリシャ神話を題材とする西洋絵画の定番モティーフ、"三美神" を意識したとも考えられるでしょう。実際にそういう絵が他の画家にあります。しかしこの作品は "三美神の3連作" です。こういった作例は、こと西洋絵画においては、後にも先にもこのマティス作品しかないと思います。

マティスが「両国橋納涼」を見たことがあるのかどうかは分かりません。ただ、喜多川歌麿は「1枚に女性3人を描いた3枚続き」という作品を他にも描いているし、ほかの絵師の浮世絵にもあります。マティスはそういった浮世絵のどれかが念頭ににあって、バーンズ・コレクション所蔵の作品を描いたのではないでしょうか。



ともかく、喜多川歌麿の「両国橋納涼」を鑑賞できたというのことは、私にとって思い出深いものになりました。




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No.338 - がん進化論にもとづく治療戦略 [科学]

No.336 と No.337 の続きです。No.336「ヒトはなぜ "がん" になるのか」No.337「がんは裏切る細胞である」は、

がんは体内で起きる細胞の進化である

という知見にもとづき、新たな治療方法の必要性を述べた2つの本を紹介したものでした。この2書に共通していたのは新たな方法である「適応療法」で、この療法を始めたアメリカの医師、ゲイトンビー(Robert Gatenby)の研究が紹介されていました。そのゲイトンビー本人による論文が2年前の日経サイエンスに掲載されました。

「がん進化論にもとづく治療戦略」
  J.デグレゴリ(コロラド大学)
  R.ゲートンビー(モフィットがんセンター)
日経サイエンス 2020年5月号

日経サイエンス 2020-5.jpg
日経サイエンス
2020年5月号
です。今回はこの内容を紹介します。No.336、No.337 と重複する部分が多々あるのですが、「進化論にもとづくがん治療」をそもそも言い出した研究者の発言は大いに意味があると思います。

注意点は、この論文がもともと「Scientific American 2019年8月号」に掲載されたものだということです(原題は "Darwin's Cancer Fix")。がん治療の研究は日進月歩であり、約3年前の論文ということに留意する必要があります。

とはいえ、進化論にもとづくがん治療のキモのところが端的に解説されていて、「がんとは何か」の理解が進むと思います。以下の引用では段落を増やしたところがあります。また、下線や太線は原文にはありません。


治癒困難ながん


まず論文は、前立腺がんを例に「治癒困難ながん」の説明がされています。


米国では年間に3万1000人を超える男性が、骨やリンパ節などへの転移がある前立腺がんと診断される。患者の多くは経験豊富な熟練の腫瘍医の治療を受けるだろう。前立腺がんの治療には52種類の薬が承認されており、使用できる。それでも最終的にはその 3/4 を超える患者がこの病で命を落とすことになる。

身体に広がってしまった転移がんが治癒することはまれだ。有効な治療薬があるのに患者が助からない理由はいろいろあるが、そのすべては1859年にダーウィン(Charles Darwin)が鳥やカメの種の盛衰の説明として発表したある考えに帰する。「進化」だ。

「がん進化論にもとづく治療戦略」
J.デグレゴリ(コロラド大学)
R.ゲートンビー(モフィットがんセンター)
日経サイエンス 2020年5月号

補足しますと、一般に前立腺がんは進行が遅く、かつ、PSAマーカー検査という有力な発見方法があります。ざっと言うと、転移を伴うステージ4になる前に治療をすれば、5年生存率は90%程度で、"治りやすいがん" と言えるでしょう。しかし、転移を伴うステージ4になると完全治癒は難しくなる。5年生存率は 50% を切り、上の引用にあるように 3/4 の人が命を失うことになります。

つまり著者が論文の筆頭にあげているのは「現代医学で比較的対処がしやすいがんでも、治癒が難しい、あるいは治癒できないケースがある」ということです。後の方にも何回か出てきますが、著者の問題意識は、こういったケースにどう対応するかです。あるいは、治癒不能に至らないようにどうするかです。


がんと進化


上の引用の最後でダーウィンの「進化」が出てきますが、有名なガラパゴス諸島に生息するフィンチ(小鳥の一種)を例に説明されています。


がん細胞をダーウィンのガラパゴスフィンチに例えよう。フィンチのくちばしは島々で微妙に異なっている。フィンチは種子を食べるが、種子の形やその他の特徴は島によって違う。ある島の種子に最も適したくちばしを持つ鳥は最も多くの食物を手に入れ、最も多くの子孫をもうけた。そしてその子孫もまた、同じ形のくちばしを受け継いだ。くちばしがそれほど適応していない鳥はそうはいかなかった。

この自然選択によって、くちばしの異なる様々なフィンチの種が各島で進化した。ここで重要なのは、2つの生物集団が同じ狭い空間で競争するとき、環境に適合した方が勝ち残るという点だ。

「同上」

ガラパゴス島のフィンチで起こったことと同じ力学が、体内の細胞の間で起こっているというの著者の考えです。


がん細胞も同じように進化する。正常組織ではがんでない普通の細胞がよく育つ。それは普通の細胞の方が周囲の健康な組織から受け取る生化学的な増殖因子や栄養素、物理的シグナルにうまく適合しているからだ。変異によってがん細胞が生じても、そのような環境にうまく適応していない細胞は初めは生き残れる見込みがあまりない。正常な細胞が資源競争に勝利するからだ。

しかし、周囲で炎症(がんの増殖自体が炎症を引き起こすこともある)や加齢によるダメージが増えると形勢が逆転し、がん細胞はそれまで自分たちを追いやっていた正常細胞を打ち負かすようになる。周囲の変化が最終的にがん細胞の命運を決定するのだ。

私たちはこれを「適応発がん」と呼んでおり、この説を裏付ける証拠も見いだしている。動物実験で細胞環境を変化させると、がん細胞は内部の機能に変化がなくても増殖を加速し始める。人間でも、炎症性腸疾患のような組織を傷める病気でこのようながんの加速が観察されている。

つまり、細胞の内部の変異だけに注目するよりも、その周囲の環境に目を向けた方ががんをよく理解できると思われる。炎症などによる組織の変化を抑えると、環境をより正常な状態に戻すことができ、私たちが動物実験で示したように、がんが競争力を獲得するのを防げる。

「同上」

がん細胞と正常細胞は体内で競争をしていて、がんの発生はその競争のあり方に依存しています。進化論によると個体の変異はランダムに起こりますが、その個体が生き残って子孫を残すかどうかは環境によって決まる(= 自然選択)。がんも同様です。上の引用に「細胞の内部の変異だけに注目するよりも、その周囲の環境に目を向けた方ががんをよく理解できる」とあるところがポイントです。

さらに体内では正常細胞とがん細胞が競争しているだけでなく、腫瘍の中において、抗がん剤が効く細胞(= 感受性がある細胞)と抗がん剤が効かない細胞が競争をしています。


化学療法は脅威を一掃するために大量の抗がん剤を使う。初めのうちはたいてい効いているように見える。腫瘍は縮小し、消えたりもする。しかしその後、再発し、かつてがん細胞を殺していた薬剤に抵抗力を持つようになる。作物を食い荒らす虫が殺虫剤への抵抗性を進化させるように。

著者の1人(ゲートンビー)は前立腺がん患者を対象とした臨床試験でこの焦土作戦に代わる手段を試みた。抗がん剤の投与量を腫瘍の縮小に必要十分な量にとどめ、がん細胞を完全には殺さないようにした。抗がん剤が効く(感受性のある)がん細胞をある程度維持しておくのが狙いだ。感受性細胞は望ましくない新しい特性(抗がん剤耐性)を持つがん細胞が腫瘍を乗っ取るのを防いでくれた。通常であれば13カ月で腫瘍が制御不能な増殖を始める患者グループに対し、この処方は標準用量の半分以下で平均34カ月間がんを抑えている。

「同上」

この引用に書かれているのが「適応療法」です。ここまでで著者の論文の全体が要約されています。以降は、さらに詳細な説明です。


がんの環境要因と予防


著者は、環境要因でがんが発生するプロセスを述べ、その環境要因を研究することが予防につながるという見通しを述べています。


医師やがん研究者に「加齢や喫煙、放射線被曝がどうしてがんにつながるのか」と尋ねれば、素っ気ない答えが返ってくるだろう。「変異を引き起こすから」。この考えは部分的には正しい。タバコの煙や放射線は確かにDNAに変異を引き起こすし、年齢が進めば変異は細胞に蓄積する。変異は細胞に新たな特性を付与し、細胞分裂を促す増殖信号を過剰に生じ、細胞死を抑えたり、周囲の組織に浸潤する能力を高めたりもする。

しかし、細胞の内部の変化だけに注目したこの単純な説明は、ある事実を見落としている。1つの細胞にせよ人間のような細胞の集まりにせよ、進化を促す主要因はその外、つまり細胞の周辺環境にあるという点だ。

「同上」

ダーウィンは「限られた資源をめぐる競争は、環境に最も適した形質を持つ個体の選択につながる」と唱えました。著者はがんの研究をするうちに、ダーウィンが唱えた「進化を加速する力」と「がんの発生や抗がん剤に対する患者の反応」の間に類似性があることに気づきました。


例えばがん研究では一般に、発がん性の変異は常にそれを獲得したがん細胞に有利に働くと考えられてきた。しかし私たちが仕事をしていて気づいたのは古典的な進化の原則だった。変異それ自体は生物にプラスにもマイナスにもならない。変異の影響はむしろ置かれた環境によって変わる。ダーウィンフィンチでは、くちばしの形自体に "優れた" ものが存在するのではなく、特定の条件で特定のくちばしが生存に有利になる。

同様に、遺伝子に生じた発がん性変異はがん細胞に先天的な優位性を付与するわけではなく、変異によって周囲の資源を利用しにくくなるような場合には不利にもなりえると私たちは考えた。

また、古生物学者のエルドリッジ(Niles Eldredge)とグールド(Stephen Jay Gould)の「断続平衡説」からもヒントを得た。化石記録において多くの生物種は何百万年にもわたって安定した特性を維持しているが、劇的な環境変化があったときにだけ突然、急速に進化するとエルドリッジらは指摘している。

「同上」

化石研究から分かったことは、生物は「劇的な環境変化があったときに急速に進化する」ということです。環境が安定しているときに急激に進化することはない。では、正常細胞やそれが変異したがん細胞にとっての「劇的な環境変化」は何かというと、その最たるものが「抗がん剤による治療」なのです。このことは後に出てきます。


私たちはそこからある考えを思いついた。ある組織が最初は変異した細胞に適していなくても、その組織に喫煙者の肺に見られる損傷や炎症のような変化が生じると、それが進化的変化を促し、ときに発がんにつながるのではないか。

このダイナミクスが働いている実例として私たちが最初に観察したのは、加齢に伴う骨髄の変化が白血病を引き起こすことだった。デグレゴリのコロラド大学の研究室での老齢および若齢マウスを使った研究で、現在はエモリー大学に所属するヘンリー(Curtis Henry)と現在モフィットがんセンターに所属するマルシク(Andriy Marusyk)は、マウスのいくつかの造血幹細胞に同じ発がん変異を導入した。その結果、同じ発がん変異が動物の年齢によって細胞の運命にまったく異なる影響を与えうることがわかった。この変異は老齢マウスでは導入した細胞の増殖を促進したが、若齢マウスでは促進しなかった。

そして、それを決定する要因は変異した細胞の内部ではなく周囲の正常な細胞の代謝と遺伝子の活性にあるようだった。例えば老齢マウスの骨髄の正常な幹細胞では細胞の分裂と増殖に重要な遺伝子群の活性が低下しているのだが、発がん変異を導入した細胞ではこれが回復した。しかし、これらの幹細胞を助けた変異は、マウスに悪影響をもたらした。造血幹細胞は通常、免疫系の重要な細胞を作り出すが、発がん変異を持つ細胞集団の爆発的増加は白血病につながった。

一方、若齢マウスの組織中の若い健康な幹細胞はもともと増殖能力とエネルギー消費が環境からの供給とちょうどつり合っていた。そのため発がん変異を導入した幹細胞が変異のない幹細胞よりも優位になることはなかった。変異した細胞集団は増殖しなかった。若い組織はそのままの状態ですでに腫瘍を生じにくい環境にあるのだ。

「同上」

以上のような知見をもとに、著者はがんの予防における環境要因の研究が重要なことを力説しています。


それがなぜ重要なのか。喫煙や変異を誘発する物事を避けるなどしてある程度の変異は回避できるが、生涯を通じて私たちの身体の細胞に蓄積する変異の多くは避けることができない。しかし、このように改めて組織環境に焦点を当てれば、がんを抑制する道が開ける。加齢や喫煙などで生じた組織変化を元に戻せば、変異した細胞が優位になるのを防げるだろう。それでも変異は起こるだろうが、変異した細胞が有利になる可能性はだいぶ低くなり、数が増えることはなくなる。

もちろん、老化を止めたり逆行させる若さの泉のようなものは存在しない。運動やバランスのとれた食事、禁煙などすべきことをすれば、身体の組織をよりよい状態に維持できる。それがさしあたり私たちにできる最良の戦略かもしれない。しかし、がんの増殖のカギを握る組織環境要因がわかれば、それらを変えて腫瘍を抑えることができるはずだ。

実際、私たちはマウスの実験で、老齢マウスで炎症を起こしたり組織を傷つけるタンパク質の活性を抑えると、発がん変異を持つ細胞は増殖せず、正常な細胞が優勢を維持することを示した。

「同上」

ここまでの研究は、すべてマウスで行ったものです。しかし、マウスで成功したからと言ってヒトでうまくいくとは限りません。しかも、引用にある「炎症」は人体に備わった免疫応答の一部です。炎症を押さえることでがんの予防につながるかもしれないが、たとえば感染予防の機能が低下することが当然考えられます。「私たちは慎重に進まなければならない」と著者は書いています。


がんの治療戦略:病害虫対策から学ぶ


がんは細胞の進化のプロセスであるという考え方にもとづくと、がん治療につきまとう "薬剤耐性" というやっかいな問題を回避できる可能性がでてきます。それは、農業における病害虫との戦いの歴史から学ぶことでわかります。


1世紀以上にわたって、殺虫剤メーカーは新製品を次々と発売してきたが、病害虫はいつも耐性を進化させてきた。そしてようやくメーカーは、大量の殺虫剤を畑に散布して病害虫の根絶を図ることが問題を悪化させているのに気づいた。原因は「競合解放」と呼ばれる進化的プロセスだ。

畑にいる虫の大集団では、どの個体も食物と空間をめぐって絶えず競争を続けている。そして個々の虫は、がん細胞がそうであるように、みな同じではない。実際、殺虫剤への感受性を含めほぼすべての形質は集団内で必ず個体差が見られる。大量の殺虫剤を散布(あるいは抗がん剤を大量投与)すれば、農家(あるいは腫瘍医)は大部分の虫(あるいはがん細胞)を殺せるだろう。

しかし少数の虫(あるいはがん細胞)は、そうした薬剤にやられにくい形質を持っている。そして抵抗力の非常に弱い個体(細胞)が排除されると抵抗力を持つものが増え始める。

この状況を何とかするため考えられたのが殺虫剤の使用を抑える「総合的病害虫管理」という農業戦略だ。病害虫の根絶を目指すのではなく、病害虫を抑制して作物の被害を低減できる程度に農薬の散布量を減らすことで、競合解放が起こらないようにする。こうすることで、害虫の殺虫剤への感受性は維持される。

「同上」

実は、医学界はすでに同様の教訓を抗生物質で学んできました。抗生物質の使用と耐性菌の発生という悪循環の繰り返しを止めるには、抗生物質の過剰な使用をやめなければならない。これが教訓です。しかし同じ医学界でも、がん治療の分野ではこういった教訓が生かされていないのです。


かつて大量の殺虫剤を畑に散布していた農家のように、医師は現在もがんが進行するまで「最大耐用量(MTD)」の抗がん剤を患者に投与し続けるのが一般的だ。ほぼすべての抗がん剤は身体の正常組織にダメージを与える。そしてこうした副作用は患者にとってまったく望ましくないものであり、命にかかわることさえある。MTDは、患者を殺すか耐え難い副作用を引き起こす一歩手前の用量で薬を投与することを意味する。

同じ治療を“進行するまで”続けるのは、従来の治療の奏功の判定基準が腫瘍サイズの変化にもとづいているからだ。腫瘍が縮小すれば薬剤が効いているとみなし、腫瘍が大きくなれば治療を中止する。

ほとんどの患者や医師にとって、できるだけ多くのがん細胞を殺せるよう致死的な薬剤を最大耐用量で容赦なく投与する治療は、最良の戦略のように思える。しかし害虫や感染症の対策と同様、治癒不能ながんにおいては、この戦略は進化論的には賢明とはいえない。耐性がん細胞の増殖を実際に加速する一連の事象を引き起こすからだ

「同上」

この引用の最後に「治癒不能ながんにおいては、この戦略(= 最大耐用量を投与)は進化論的には賢明とはいえない」とあるように、著者の眼は治癒不能ながんに向けられています。そこでは現在の標準的な方法は賢明ではないのです。

ではどうするか。それは農家がやっている「総合的病害虫管理」と同様の方法であり、望ましくない集団(= 病害虫・がん)を一定レベル以下に押さえる治療戦略(= 適応療法)です。その考え方、実験、臨床試験結果が述べられています。


適応療法



進化にもとづいた戦略では、1カ月間の抗がん剤治療後に腫瘍の大きさが 50% 縮小した患者に対して抗がん剤を中止する。この方法は、過去の経験から今ある治療法(化学療法、ホルモン療法、手術、免疫療法)ではがんを治せないことがわかっている患者に対してだけ用いる。治癒が望めない以上、できるだけ長い間、腫瘍の増殖と転移を食い止めることが目標となる。

投薬を中止することで、抗がん剤に感受性のあるがん細胞を多く残す。すると腫瘍は再び増殖し、最終的に元のサイズに戻る。しかしこの再増殖期間中は抗がん剤を使わないため、腫瘍細胞の大部分は依然として耐性を持たず抗がん剤が有効となる。つまり、制御可能な感受性細胞を使って、制御不能な耐性細胞の増殖を抑制するわけだ。

この方法なら結果的に、最大耐用量で抗がん剤を連続投与する従来法よりもはるかに長い期間、腫瘍を抑制しておけるだろう。そのうえ用量をかなり減らすので、毒性がはるかに少なく、生活の質も上がる。
「同上」

ここでも著者は「過去の経験から今ある治療法ではがんを治せないことがわかっている患者に対してだけ用いる」との前提条件をつけています。適応療法と従来療法を比較した分かりやすい絵が論文に載っていました。

従来法と適応療法.jpg

この図で茶色は抗がん剤に感受性をもつ(=抗がん剤が効く)がん細胞、緑色は抗がん剤に耐性をもつがん細胞を示す。

上段の従来法では、進行がんの治療に「焦土作戦」がとられ、患者が耐えられる最大耐用量の抗がん剤で腫瘍を攻撃する。しかし、生き残ったがん細胞は抗がん剤に耐性を持っており、焦土になった中で増殖して手が付けられなくなる。

それに対して下段が適応療法で、抗がん剤の用量を減らし、資源獲得競争において感受性細胞が耐性細胞を負かすように仕向ける。これによって腫瘍が完全な耐性を進化させるのを防ぐ。


ゲートンビーの研究室は数理モデルとコンピューターシミュレーションを使ってこのアプローチの研究を2006年に始めた。数理モデルががんの治療計画で使われることはほとんどなかったが、考えられる治療方法が何通りもあったため、成功する可能性が高い方法を数理的に絞り込むという、物理学でよく用いられている手法が必要となった

このモデルから、試験する薬剤の用量が決まった。その用量をマウスの実験で試した結果、進化にもとづいた戦略で腫瘍抑制が大きく改善されうることが確認された。

結果は非常によく、私たちは臨床へ、人間のがん患者を対象とした試験へ進んだ。モフィットがんセンターの腫瘍医で前立腺がん患者を診ているチャン(Jingsong Zhang)がこの取り組みに加わった。チャンほか複数の数学者と進化生物学者の協力を得て、私たちは前立腺がん細胞の治療中の進化動態のモデルを開発した。

私たちはこのモデルを使用して抗がん剤の各投与量に対する前立腺がんの反応をシミュレートした。そしてこのシミュレーションを何度も繰り返した末、耐性細胞の数を増やすことなく最も長くがんを抑えられる一連の投与量を特定した。

次に、ほかの部位にすでに転移が起きている(身体から完全に排除できない)進行前立腺がん患者たちに臨床試験の被験者になってもらった。これまでのところ、素晴らしい結果が得られている。

参加した18人のうち11人はまだ治療が続いている。標準治療で進行前立腺がんを抑制していられる期間は平均約13カ月なのに対し、私たちの臨床試験では平均で少なくとも34カ月だ。患者の半数以上がまだ実際に治療を続けているので、もっと延びる可能性もある。さらに、この腫瘍抑制効果は標準治療に使われる用量のわずか40%で得られている。

「同上」

この引用あるように、著者は、

・ 前立腺がん細胞の治療中の進化モデルを開発し
・ モデルを使用して抗がん剤の投与量に対する前立腺がんの反応をシミュレートし
・ そのシミュレーションを繰り返して最も長くがんを抑えられる一連の投与量を特定して

適応療法を行ったわけです。きわめて綿密な作戦のもとに治療を行ったことがうかがえます。この結果、引用のように良好な結果が得られました。しかし著者は、

・ 進化にもとづく治療戦略はまだ揺籃期
・ 前立腺がんでうまくいっていったからといって、胃がんなどでも有効かどうかはわからない

と、慎重にコメントしています。また、「最良の策がなるだけ多くのがん細胞を殺すことではなく、必要最小限を殺すことだ」と患者に納得してもらうのは、たとえ治癒不能ながん患者であったとしても難しいこともあるでしょう。こういった患者の心理的な障壁の解決も課題になります。


がん抑制に向けて


がんは、どうしようもなく複雑で異様な力を持つ存在に映ります。原因がはっきりしないことが多いうえに、非常に強力で毒性の強い抗がん剤治療にも打ち勝って再発する能力を備えているからです。

実際、1世紀以上にわたり「すべての正常細胞はそのままにすべてのがん細胞を排除できる特効薬」が研究・開発されてきましたが、がんは進化を利用してこうした薬剤をかわしてきました。

しかし逆に、がんが他のすべての生命システムと同様に進化のルールに従うという理解にたてば、がんを抑制する手段がありうるのです。そして、たとえ完全治癒はしなくても、がんの進化について学んだことを活かして戦略的な治療を行えば、最良の結果を得られるでしょう。さらに、がん細胞よりも正常細胞が有利になるように体内の組織環境を整える "予防戦略" も開発できそうです。がん細胞だけでなく、私たちも進化を利用できるのです。



以上が論文の内容です。冒頭の「治癒不能な前立腺がん」の話にもあったように、著者の問題意識は「標準治療では治癒できない(= 生存率が低い)ケースにどう対応するか」に向けられています。決して標準治療を否定するとか、抗がん剤を否定するとか、そういったものではありません。

治癒不能とされるケースでも、治療のやり方を見直すことで、完全治癒はできないかもしれないが、がんを人間のコントロール配下におき、患者にとっての最良の道を見つけたい。そういう主旨だと理解できます。そのベースになっているのが「"進化" の視点で生命現象を観察する」ことなのです。

紹介した論文の原題は "Darwin's Cancer Fix" です。名詞形での表現ですが、動詞形にして直訳すると「ダーウィンががんを治療する」でしょう。「およそすべての生命現象を研究するときには進化の視点が欠かせない」という意味のことを、20世紀の著名な生命科学者が言ったと記憶しますが、この原題はそのことを示唆しているのでした。




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No.337 - がんは裏切る細胞である [科学]

前回の No.336「ヒトはなぜ "がん" になるのか」は、英国のサイエンスライター、キャット・アーニー著の同名の本を紹介したものでした。内容は、がんを「体内で起きる細胞の進化」ととらえ、その視点で新たな治療戦略の必要性を説いたものでした。

今回は引き続き同じテーマの本を紹介します。アシーナ・アクティピス著「がんは裏切る細胞である ─ 進化生物学から治療戦略へ ─」(梶山あゆみ・訳。みすず書房 2021。以下 "本書")です(原題は "The Cheating Cell")。

前回の本と本書は、2021年の出版です。つまり「進化生物学の視点でがんの生態を研究し治療戦略をつくる」という同じテーマの本が、同じ年に2冊刊行されたことになります。ただし、今回の著者は現役のがん研究者で、そこが違います。

著者のアシーナ・アクティピス(Athena Aktipis)は米国のアリゾナ州立大学助教で、同大学の "進化・医学センター" に所属しています。またカリフォルニア大学サンフランシスコ校の進化・がん研究センターの設立者の一人です。進化生物学の観点からがんを研究する中心の一人といってよいでしょう。従って、自身や仲間の研究も盛り込まれ、また、がんの生態に関する詳細な記述もあります。専門的な内容も含みますが、あくまで一般読者を対象にした本です。専門性と一般性がうまくミックスされた好著だと思いました。

以下、本書の内容の "さわり" を紹介します。以降の本書からの引用は、原則として漢数字を算用数字に直し、段落を追加したところがあります。また、下線や太字は引用をする上でつけたもので原文にはありません。


がんと進化:2つの視点


本書の最初の4つの章は、

・ 第1章 はじめに
・ 第2章 がんはなぜ進化するのか
・ 第3章 細胞同士の協力を裏切る
・ 第4章 がんは胎内から墓場まで

と題されています。この4つの章の内容をごく短く要約すると、

・ がんは、多細胞生物の体内で起こる細胞レベルの進化である。
・ 一方、生物のレベルでは、がんを抑制するしくみが進化してきた。
・ "がんの進化" とそれを "抑制するしくみ" の2つは、胎内から墓場までのあいだ、体の中で攻めぎ合っている。

となるでしょう。まず、ここまでの内容を本書からの引用を含めて紹介します。



がんを「進化のプロセス」としてとらえるとき、その "進化" には2つの視点があります。一つは「体細胞の進化 = がん」です。2つ目は、体細胞が「生物」を構成している、その「生物の進化」です。がんを考えるとき、この2つの視点で見ることが重要です。


がんという存在は、進化に関してふたつの異なる切り口から捉えることができる。まずひとつは、私たちの体の細胞のあいだでは進化が起きており(これは「体細胞進化」と呼ばれることが多い)、それががんにつながるということである。生存と繁殖に関する有利不利は細胞によって度合いが異なり、たとえば増殖するスピードや、生きる長さなどに違いがある。結局、より速く増殖してより長く生きる細胞が次世代で数を増やしていき、最終的に集団内で大多数を占める。これが自然選択であり、自然界で生物進化の原動力となってきたプロセスと何ら変わるところはない。

進化論の視点からは、なぜがんが今なお地球上に生き残っているのかも理解できる。生物は長く生きて多くの子を残すために、気の遠くなるような時間をかけてがんを抑制する(つまり体細胞進化を抑える)方法を発達させてきた。そういう仕組みがあるからこそ、そもそも多細胞生物として生存することができている。ただし、このがん抑制メカニズムは完璧ではない。進化の見地からいって、がん化のおそれのある細胞を100パーセント制御するのは不可能だからである。

なぜ生物はがんを完全に抑え込む進化をしてこなかったのか。その理由は多岐にわたり、いずれもそれ自体として興味深いものばかりである。ひとつは、子孫を残すうえで有利になる別の形質とトレードオフ(何かの利益を得ると別の何かが犠牲になるような相容れない関係)になっていること。たとえば繁殖力などがそうした形質のひとつだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.11

がんという "体細胞進化" は、ヒトを含む生物の一生のうちに起こるものですが、がんを押さえ込むしくみは生命の長い歴史の中で "進化" してきたものです。2つの時間軸は全く違います。この違いを理解しておく必要があります。


がんの進化を理解しにくい理由のひとつは、自然選択がふたつのレベルで進行していて、それぞれの起きる空間と時間軸が異なるためである。

ひとつは体内の細胞のレベルであり、生物の一生という比較的短い時間で自然選択が生じる。もうひとつは自然界の生物のレベルであり、非常に長い時間をかけて自然選択が進む。がん細胞は体内で進化する。その一方で、がんを抑制する能力の高い体(つまり細胞の裏切りをうまく見つけて排除できるメカニズムをもつ体)のほうが、生存率が高いうえに子孫を多く残すという事実もある。

同じ生物でも、細胞と体という複数の(マルチの)レベルで自然選択が働いているわけだ。これを「マルチレベル選択」という(古典的な「群選択説」を現代的に改良した考え方)。がんの不可解な側面を理解するには、マルチレベル選択の視点に立つことが欠かせない。

「がんは裏切る細胞である」
p.51

がんを「体細胞の進化」ととらえるとき、その進化は生物を死に至らせる(ことがある)わけです。このような状況を「進化」と呼んでよいのでしょうか。著者は、それも進化のうちだと、「進化的自殺」という言葉を使って次のように述べています。


とはいえ、私たちが死んだらがんの進化はどうなるのだろう。がんが最終的に自らの宿主の命を奪うのなら、それを本当に「進化」と呼んでいいのだろうか。行く先に身の破滅が待っているのなら、その生物は進化したといえるのか。もちろん答えはイエスである。恐竜が結局は絶滅したからといって、「進化しなかった」などといい張る者はいない。何かの生物が進化の袋小路にはまり込んだとしても、それまでの進化がなかったことになるわけではない。

進化の果てに滅びる生物がいるように、がん細胞の集団も体内で進化したあげくに進化の袋小路に入り込む。こうした現象全般を進化生物学では「進化的自殺」と呼ぶ。進化的自殺が起きるのは、生物の集団が進化によって獲得した何らかの形質が、最終的に種全体を絶滅へと向かわせるときだ。たとえば、資源を消費する能力が高くなりすぎて、未来の世代に何も残さないケース。あるいは、求愛のための性的装飾が凝ったものになりすぎて、集団全体が悲惨なほど捕食されやすくなる、などがそれにあたる。

「がんは裏切る細胞である」
p.21

"進化" は "変化" であって、"良くなる" ことではありません。進化の袋小路に入り込んで、結果として環境変化についていけずに絶滅するようなことも起きる。これも進化です。


多細胞ルールブック


がんとは何かを知るためには、多細胞生物の "細胞レベルでの基本的な振る舞い" を理解する必要があります。多細胞生物は、膨大な数の細胞同士が、ルールにのっとって協力することで成り立っています。このルールを著者は「多細胞ルールブック」と表現しています。そのルールブックに記されている重要点は、次の5つです。


1.無秩序に分裂してはならない

1個のまとまりある多細胞の体として発達し、適切に機能するためには、細胞は勝手な増殖や分裂を抑えなければならない。このルールがなければ、多細胞生物としての構造や機能は損なわれ、際限なく大きくなり続けてしまう。

2.集団への脅威となったら自らを破壊せよ

細胞は、多細胞の体の生存能力を脅かす場合がある。細胞が遺伝子変異を起こして無秩序に分裂するというのが、そうした例のひとつである。あるいは、たとえば胎児の手指・足指のあいだにある水かきの細胞も、そのまま残っていたら正常な発達の妨げになる。アポトーシスというかたちで自死するメカニズムがあるからこそ、邪魔者の細胞がひそかに自らを消し去ることができる。

3.資源を共有し、輸送せよ

多細胞生物の体が二、三ミリより大きくなると、拡散(濃度の高いほうから低いほうへ物質が移動すること)だけでは酸素や栄養素が内側の細胞にまで行き渡らない。資源を能動的に輸送するための何らかの仕組みが必要になる。たとえば、私たちの消化器系と循環器系は複雑な資源輸送システムである。これがあるおかげで体内の細胞は栄養を手に入れ、生き続けるのに必要なすべての仕事をこなすことができる。

4.与えられた仕事をせよ

多細胞間の協力体制を支える柱のひとつが分業である。体内の細胞は数百種類に及び、それぞれが異なる仕事をしている。肝細胞は血液を解毒し、心臓の細胞は血液を送り出し、神経細胞は電気信号を伝達する。細胞が仕事をやめたり、仕事を正しくこなせなくなったりすると、多細胞の体にとっての脅威となり得る。間違ったときに間違った遺伝子を発現させ、広範な調節システムを大混乱に陥れかねず、そうなると多細胞の体はうまく機能することができない。

5.環境の世話をせよ

私たちの体はそれ自体が一個の世界だ。細胞は組織構造をつくってその中で暮らし、老廃物を蓄積させないように集めて除去するシステムをもっている。細胞は発達の過程で、そうした内なる世界を築いていき、私たちが生きているあいだじゅうそれを維持しながら、構造を保持して老廃物を取り除き続けている。組織構造があるおかげで、細胞は(周囲の組織に侵入することなく)本来の場所にとどまりやすくなっている。また、それによって個々の細胞は遺伝子発現の状態をあるべき姿に保ち、正しいタンパク質を製造して適切に自らの仕事を実行することができている。

「がんは裏切る細胞である」
p.47 - p.48

この "多細胞ルール" のどれか、あるいは全部を破る細胞が、がん細胞です。その発端は遺伝子の変異です。一般的に遺伝子が変異した細胞は死滅することが多く、また生存・死滅にかかわらない中立的な変異も多い。しかし(たまたま)多細胞ルールを破る細胞が現れ、それがその時の体内環境によって「選択」されることが起こります。


多細胞ルールブックの根底にある遺伝子のメカニズムは、ときに壊れることがある。原因は、DNAの塩基配列が変異したり、エピジェネティクスの変化(遺伝子発現の異常など)が生じたりするためであり、それによって細胞が異常をきたし、多細胞としての約束事に従わなくなる。すると、協力のルールをきちんと守っている細胞をいいように利用し、生存と繁殖において自分だけが得をする場合がある。

ひとつ指摘しておくが、普通であればそういうことはめったに起こらない。異常のせいで細胞の生存能力は低下するうえ、仮に何らかの利益が生まれる(増殖速度が上がるなど)にしても、その異常性が標的にされて破壊されるケースが多い。体には、がん化のおそれのある細胞を見つけ出して取り除くメカニズムが備わっている。このメカニズムのおかげで、変異した細胞が利益を得るおそれがあっても排除されるのが普通だ。にもかかわらず、変異した細胞のほうが正常な細胞よりも生き残るうえで有利になることがある。

「がんは裏切る細胞である」
p.48 - p.49

ここで述べられているように、多細胞ルールブックに反する遺伝子変異が、その細胞の生き残りと増殖にとって有利になる場合があります。たとえば、増殖の抑制が利かない、アポトーシス(=細胞の自死)が起きない、代謝異常のため資源を浪費する、といった変異です。またがんを抑制する遺伝子の変異もルール破りにつながる。

生物の集団全体でみると、多細胞ルールブックどおりに行動する《協力者細胞》の多い生物の方が、より長く生きて多くの子孫を残します。しかし局所的に見ると、自然選択が《裏切り者細胞》に有利に働くことがあるのです。


がん抑制のメカニズム


「進化」を「体細胞進化」と「生物進化」の2つのマルチレベルでとらえると、「生物進化」のレベルにおいて、生物は「がん抑制のメカニズム」を発達させてきました。著者はそれを「細胞の良心」「ご近所の目」「体内の警察隊」の3つのカテゴリーで説明しています。

 細胞の良心 

まず細胞内には、自身のがん化の兆候を認識し、しかるべき対応をとるように伝達する遺伝子の情報ネットワークが存在します。その代表が、TP53 という遺伝子(=がん抑制遺伝子)を中心とするネットワークです。


TP53などのがん抑制遺伝子と、そこに情報を送り込む情報ネットワークは、DNAの損傷や異常なタンパク質を発見するためにつくられている。また、細胞が何らかのかたちで正常な状態を逸脱し、もはや多細胞の体全体の適応度を高める役に立っていない場合も、そのことを示すシグナルを検出する。細胞内の情報が織り成す広大なネットワークにおいて、TP53は中心的な中継点ともいうべき存在であり、細胞版の中央情報局よろしく細胞の動向に目を光らせている(下図参照)。

さらには、細胞内と周辺から来るありとあらゆるシグナルをまとめ上げ、個々の細胞の運命がどうあるべきかを「決定」する。このことから、がん研究者はTP53を「ゲノムの守護者」と呼んできた。でも私は「ゲノムの《裏切り者》発見器」として捉えたい。TP53遺伝子は活性化されると、細胞の複製を止め、ただちにDNAの修復を開始させる。そして、細胞の損傷が大きすぎる場合は、アポトーシス(プログラム細胞死)のプロセスを始動させる。

「がんは裏切る細胞である」
p.56

TP53を中心とした情報ネットワーク.jpg
TP53 の遺伝子ネットワーク

がん抑制遺伝子TP53は遺伝子ネットワークの中心的な中継点であり、特定の細胞が生物の生存能力を脅かすかどうかを「判断」している。p53タンパク質を製造することにより、細胞機能の様々な側面から情報を集め、細胞の裏切り(代謝の異常,ゲノムの不安定化、不適切な移動など)の徴候が確認されたら細胞周期を停止したり、DNAを修復したり、必要であればアポトーシス(細胞の自死)を誘導したりもする。本書 p.57 の図3-3 より引用。

 ご近所の目 

次は近接した細胞同士が互いに監視しあい、周囲の細胞とは違う異常行動をする細胞を排除する仕組みです。


住民が近隣の様子に目を光らせるように、細胞も隣接する細胞のふるまいを監視している。この監視があるおかげで、細胞は自分たちの「地区」の只中で脅威が発生するのを防ぎ、周囲の細胞が多細胞の体の中で適切にふるまえるようにしている。具体的には、隣接細胞の遺伝子の発現状況を感知して、異常の起きた形跡がないかを確認しているのであり、そうした異常のひとつが細胞の裏切りである。

通常、細胞は周囲から発せられるシグナルに対してきわめて敏感だ。ニューヨークのスローン・ケタリング記念がんセンターのセンター長クレイグ・トンプソンは、この極端なまでの敏感さを次のようにたとえた ── あなたの体内の細胞という細胞が毎朝目覚めるたびに自殺を考えるが、周囲にうるさく説得されて思いとどまっているようなものだ、と。

実際、隣接する細胞間ではまさしくこれに似たようなことが起きていて、細胞同士は「生存せよ」というシグナルを絶えず交わし合っている。しかし、近くのいずれかの細胞から「気に食わない」とされたら、自死のプロセスを開始することができる。どこかの細胞が隣の細胞の急速な増殖に「気づいた」ら、その細胞は隣に向けて「生存せよ」の信号を送るのをやめたり、自死を促すシグナルを発したりする場合もある。こうした周辺監視システムも、がん細胞予備軍から全身を守る一助となっている。

「がんは裏切る細胞である」
p.58 - p.59

 体内の警察隊 

そして最後は免疫システムです。免疫はがん特有の抗原を感知し、その抗原を発現しているがん細胞を排除することができます。


細胞内部や近隣の監視メカニズムでは細胞の裏切りを抑え込めない場合、体には頼るべきもうひとつの防衛線がある。免疫系だ。免疫細胞は体内を巡回しながら全身のあらゆる領域に絶えず目を配り、異常な遺伝子発現がないかどうかを探している。それにより、細胞が正しくふるまっていないことを示す徴候(過剰増殖、過剰消費、不適切な細胞生存など)を間接的に監視している。

免疫細胞が具体的に標的にするのは「腫瘍抗原」である。腫瘍抗原とは、がん細胞が遺伝子を発現したときに生じるタンパク質のことだ。これが存在すると、細胞が不適切なふるまいをしている可能性があることに免疫細胞が「気づく」。腫瘍抗原タンパク質は、正常な細胞周期(細胞増殖においてDNA複製と細胞分裂が繰り返される周期)が乱されたり、隣接する細胞との結合が断たれたり、細胞のストレス応答が起きたりしているときにも分泌される。

免疫系は、あらゆる組織系、あらゆる器官系での細胞のふるまいに関する情報を集め、何らかの不具合を示すしるし(この腫瘍抗原の存在など)を見つけたら、その場所に免疫細胞を動員する。多細胞の体に害をなすものは何であれ、免疫細胞の捜索・破壊ミッションの対象となる。がん細胞も例外ではない。がん細胞を発見したらそれを排除する能力が免疫系にはあり、そうすることで体をがんの脅威から守っている。

「がんは裏切る細胞である」
p.59 - p.60


トレードオフ


以上のような「がん抑制メカニズム」があるにもかかわらず、なぜ、がんが発生するのでしょうか。生物レベルの進化の過程で「がんは完全に抑制できる」ようにならなかったのでしょうか。

その理由は、ヒトの(生物の)胎内から墓場まで、数々の場面で細胞が "がんのように振る舞う" 必要があるからです。つまり「がん抑制メカニズムを強くしすぎると、正常に生きていくことに支障をきたす」という "トレードオフ" の関係があるのです。


TP53遺伝子のようながん抑制メカニズムを通して、細胞の自由を抑え込む力を今より強めたらどうなるだろうか。《裏切り者》を有利にする進化のプロセスを遅らせたり、場合によっては完全に停止させたりすることも不可能ではない。

しかし、コントロールが強すぎると、私たちの健康や生存能力が損なわれるおそれがある。なぜかといえば、健康に生きることを助けてくれる重要な仕組みの多くは、細胞が「がんのように」ふるまうことを求めるからだ。急速に数を増やし、体内を動き回り、組織の中に入り込むといったふるまいがそれにあたる。

たとえばどこかに切り傷ができたとしよう。傷を治すには細胞が増殖し、移動して傷をふさがなくてはいけない。細胞のふるまいを制限しすぎたら、切り傷は治癒しなくなる。それだけではない。あとで見るように生殖能力が低下し、加齢とに組織を再生するのが不可能になるうえに、感染症にかかりやすくなるという結果にもつながる。

細胞をコントロールしすぎると不利益が生じることは、すでに胚の発達過程からはっきりと見てとれる。そもそも胚が無事に生育していけるかどうかは、細胞の増殖と移動にかかっている。そのため胎内では、細胞が無秩序に複製しないように抑制する必要がある一方で、適切な発達のためには細胞に相応の自由を与えて動き回れるようにしてやらないといけない。こうした綱渡りを考えると、たったひとりでも生きて子宮を出られることが奇跡に思えてくる。

「がんは裏切る細胞である」
p.72 - p.73

細胞が急激に増殖したり、細胞が移動したりするといった振る舞いは、胚の発達過程からはじまって生体の傷の修復まで、数々のシチュエーションで必要になります。しかしこのような振る舞いは、まさにがん細胞が得意とするものなのです。


皮膚の表面に切り傷ができた場合、傷をふさいで組織を再建するために、周囲の細胞は増殖して新しい細胞をつくることを求められる。この新しい細胞には移動する能力も必要だ。運動性細胞の最先端となり、接着し合って傷口を閉じるのである。傷を短時間で治すことができれば、正常な機能へ迅速に復することができるし、傷が細菌などに感染するリスクも下げられるので、生物にとっては利益が大きい。そのため、私たちは進化を通じて傷を速やかに治癒させられるようになった。

だが、これには代償が伴う。体が「傷を閉じろ」というシグナルを発したら、細胞はそれに呼応してすぐに増殖・移動しなくてはならないからである。増殖して移動するというのは、がん細胞が成長して体内の新しい場所にコロニーをつくるときに用いる能力と変わらない

しかもがん細胞は実際に傷が生じたわけでもないないのに、傷の治癒を促す「偽の」シグナル(炎症反応を亢進させる因子など)をつくり出す。こうなると、多細胞が正常にふるまうためのチェック機能やバランス機能の裏をかけるようになる。がんが「癒えない傷」と称されることもあるのはこのためだ。

このように、傷を治すために体がもともともっているメカニズムを、がん細胞は自分勝手な目的に悪用する場合がある。傷の治癒をもたらすシグナル伝達システムがある種のがんに利用されると、組織は絶えず炎症が持続した状態になる。

「がんは裏切る細胞である」
p.94 - p.95

がん抑制遺伝子であるTP53が過敏だと細胞の早期老化につながったり、炎症が過度に引き起こされることが分かっています。つまり、細胞を自由にさせ過ぎるとがんのリスクが高まるが、逆に細胞の自由度を抑制し過ぎれば、成長が止まったり生殖に失敗する恐れが出てくるのです。本書の第4章、「がんは胎内から墓場まで」では、こういった "トレードオフ" の例が詳細に語られています。



本書の第5章は「がんはあらゆる多細胞生物に」と題されていて、植物を含む多細胞生物全般に "がん類似の" 異常増殖が見られることが説明されています。

さらに第6章「がん細胞の知られざる生活」では、がんが体内でどのように進化し、生息し、転移するのかが、研究者の立場から詳細に述べられています。


がんをいかにコントロールするか


第7章(最終章)は「がんをいかにコントロールするか」と題されていて、今後のがん治療に必要な視点が述べられています。

「がん = 進化しつつある体内微小環境」であり、がん組織は治療(抗がん剤、放射線など)への抵抗性があるように進化します。治療により一時的に多くのがん細胞が死滅したとしても、そのあとに残った抵抗性のあるがん細胞が一挙に増大して、結果として手が着けられなくなることが多々あります。

がんは「本質的に体の一部」です。従ってそれを「攻撃する」とか「根絶やしにする」といった考え方はまずいのです。


がんに関しては、戦争で使うような言い回しがよく用いられる。たとえば患者はがんと「闘い」、「勝つ」か「負ける」かする。確かに戦争の比喩には大きな影響力と強い説得力があるので、がん研究に対する支援を取りつけるうえでも、人類を共通の目標に向けて団結させるうえでも効果はあるかもしれない。

その反面、誤解を招く表現だともいえる。本質的に自らの一部であるものを、完全に根絶やしにすることなどできない。そういう攻撃的なアプローチが名案に思えるのは、私たちが「滅ぼすべき敵」としてがんを捉えているからである。

だが実態はどうかといえば、多様な細胞からなる集団が、私たちから浴びせられるあらゆる治療法に呼応して進化している。それががんの本当の姿にほかならない。そういう見方をしない限り、私たちはひとつのリスクを冒すことになる。実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがあるのだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.13

「実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがある」と著者が書いているのは、「攻撃性の低い治療法の方が、結果として患者を延命させる効果が高い、ないしは治癒させる確率が高い」ことが十分に考えられるからです。医学界には「攻撃性が弱い」という理由で使われなくなった抗がん剤がいろいろありそうです。

では「がん = 進化しつつある体内微小環境」という視点にたつと、どのような治療方法が考えられるのでしょうか。そのヒントは「総合的病害虫管理」にあります。病害虫が農薬に対する耐性をつけることは常識化していますが、そのことを前提にしたのが総合的病害虫管理です。


総合的病害虫管理(IPM)は、化学農薬への抵抗性を農業病害虫に獲得させないことを目的とし、長期的な視点で病害虫を管理する手段のひとつだ。病害虫管理を効果的に行ううえでは、鍵となる考え方がある。化学農薬への抵抗性を得るために生物はコストをかけている、ということである。このため、化学農薬が存在しなければ、じつはそうした抵抗性をもつ生物のほうが不利になる

したがってIPMの取る第一の戦略は、何もしないことである。つまり、病害虫による損害が危険な閾値に達したときにのみ手を打てばいい。次なる戦略は病害虫の数を減らすこと。化学的な処置を用いてその数を閾値以下に戻し、病害虫による被害がそれほどひどくない状態にする。

IPMでは、病害虫の集団内にすでに抵抗性が存在しているという前提に立つ。そういう状況で一度に多すぎる量の農薬を使ったり、農薬を頻繁に散布しすぎたりしたらどうなるか。その処置への感受性のある病害虫はすべて駆除できても、それに抵抗力をもつものだけが残り、結果的に病害虫を長期的にコントロールするのは不可能になる。IPMはいずれこうした状況が生じ得るのを予期し、比較的低用量の農薬を使用する。それは、処置への感受性をもつ病害虫を根絶やしにするのではなく、長期的な個体数管理ができるようにするためである。

「がんは裏切る細胞である」
p.215 - p.216

ポイントは引用の最後にある「病害虫を根絶やしにするのではなく、長期的な個体数管理ができるようにする」というところです。この考え方をがん治療に応用できないか。

それを始めたのが、米国の腫瘍学者、ロバート・ゲイトンビーです。彼の治療は「適応療法」と呼ばれています。


IPMの論理にヒントを得てがんの新療法を開発したのが、フロリダ州タンパにあるモフィットがんセンターの放射線腫瘍学者ロバート・ゲイトンビーである。抵抗性を進化させないために病害虫を放っておくというIPMの戦略を知ったとき、その種のやり方をがん治療にも応用できないかとゲイトンビーは考えた。そして2008年、このアイデアをさらに深めるための一歩を踏み出した。私費を投じて、初めての前臨床研究をアリゾナ大学(当時そこで放射線学科の学科長を務めていた)で実施したのである。以来、病害虫管理の考え方をがん治療に用いる研究を続けている(現在は米国国立がん研究所をはじめとする様々な組織から助成金を得ている)。

農薬の場合がそうだったように、がん治療における最大の問題はがんが抵抗性を獲得してしまうことである。治療の最中にがん細胞が進化して治療への感受性を失い、治療が効かなくなる。化学療法に対して抵抗性が生じる問題は、これまでに試されたすべての抗がん剤で確認されている。たとえば、上皮成長因子受容体(EGFR)阻害剤や、ヒト上皮細胞増殖因子受容体2(HER-2)を標的にした療法などもそうだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.216 - p.217

本書ではゲイトンビーの「適応療法」のやり方が詳細に述べられています。


ゲイトンビーと同僚の開発した新たながん治療法は革命的なものであり、その狙いは腫瘍の一掃ではなく長期にわたる腫瘍のコントロールである。IPMの場合と同様にこの治療去が目旨すのは、腫瘍負荷(患者の体内にある腫瘍組織の総量)を限度以下に抑えつつも、治療に対するがん細胞の感受性を維持することにある。そうすれば同じ薬剤をいつまでも使い続けることができるうえに、環境(つまりこの場合は患者の体)へのダメージを拡大させることもない。

ゲイトンビーの手法は「適応療法」と呼ばれる。これは、腫瘍の状況に合わせて治療法自体を適応させる(変化させる)という意味から命名された。適応療法では、画像技術や血液検査によって腫瘍の状態を綿密にモニターする。腫瘍が成長しているのかいないのかがわかったら、その情報をもとに抗がん剤の用量を定める。どのように定めるかには何通りかのアルゴリズムがあるが、大原則は、腫瘍を安定した状態に保つとともに、患者へのダメージが大きくなりすぎないような腫瘍サイズを維持することである。管理する対象が腫瘍というだけで、本質的にはIPMと変わらない。

具体的な用量の決め方は研究によっていくらか異なるとはいえ、適応療法というプロセス自体の目指すところはひとつだ。つまり、腫瘍を安定させ、支配下に置くことである。まず最初に、腫瘍を小さくするために比較的高用量の抗がん剤を投与する(これによってがん性細胞集団の細胞数を減らすことで、その後の腫瘍内での進化のペースを遅らせる狙いがある)。

次に、腫瘍を定期的にモニターしながら、そのふるまいに応じた抗がん剤治療を行う。腫瘍のサイズに変化がなければ用量も変えない。腫瘍が成長したら用量を増やし(ただし最大耐量を超えないようにする)、大きくならなければ用量を減らす。腫瘍のサイズが所定の下限値を下回ったら、再びその一線を超えるまで投薬は停止する。あるいは、同じ用量を維持しながらも、腫瘍が当初の半分のサイズになったら投薬を中断するというやり方もある。

適応療法は、がんに対するこれまでの考え方を180度転換するものだ。破壊しようとするのではなく腫瘍が存在するのを許し、代わりにもっと手に負えるものに変える。これによりがんは急性の致死的な病から、扱いやすい慢性の病気へと変貌する。

投薬をしなかったり、低用量の投薬しか行わなかったりすれば、腫瘍内の細胞は薬剤への感受性を失わないので攻撃性が低下する。結果的に、同じ薬剤を使って治療を続けることができる。しかも、腫瘍が成長しつつあるときにしか治療の強度を上げないため、短期間で分裂する細胞が進化のうえで有利になることがない。むしろ、もっと時間をかけて増殖する細胞が選択されると考えられる。また、腫瘍内の細胞が進化する速度を遅くできる可能性も開ける。

もちろん、高用量の治療で完治させられることが明白なら(たとえば遺伝的に均一な細胞で構成されていて早期に発見された腫瘍などの場合)、適応療法が最善の選択肢とはいえないかもしれない。しかし、従来型の療法ではコントロールの難しい進行がんの場合には、適応療法が高用量療法に代わるものを与えてくれる。実際、のちに見ていくように、適応療法は後期のがんのコントロールに成果をあげてきた。

「がんは裏切る細胞である」
p.217 - p.218

引用の最後のパラグラフにあるように、「遺伝的に均一な細胞で構成されている早期に発見された腫瘍」の場合は、高用量の抗がん剤で完治できる可能性があるわけです。適用療法はあくまで腫瘍組織の精密な検査とセットで行うものです。

ゲイトンビーは数々の動物実験をしたあと、2016年に患者に対する臨床試験を始めました。


ゲイトンビーは2016年、同僚でがん専門医のジンソン・チャンと手を携え、適応療法をヒトに用いる初の臨床試験を実施した。試験に参加したのは転移性前立腺がんの患者11名であり、いずれももはやホルモン療法に反応しないことが予備試験で確認されていた。

通常、前立腺がん細胞は増殖のためにテストステロンを必要とするため、テストステロンの分泌を抑制するホルモン療法を行ってがん細胞が広がるのを防ぐ。ところが、前立腺がん細胞は往々にして自らテストステロンを産生することで、「去勢抵抗性」を獲得しやすい。アビラテロンという薬はテストステロンの合成を阻害するので、去勢抵抗性前立腺がんの治療によく処方される。

ただしそれも、がん細胞がアビラテロンへの抵抗性を進化させるまでのあいだにすぎない。治療を始めてからアビラテロンへの抵抗性が現れるまでの時間には個人差が大きい。通常の継続治療の場合、16.5か月経過した時点で患者の半数に腫瘍の進展が認められる(16.5か月というのは、去勢抵抗性前立腺がんが治療への抵抗性を得るまでの期間の中央値。このゲイトンビーの研究は対照群を含まない)。

ゲイトンビーによる適応療法の臨床試験では、腫瘍負荷を測定するのにPSA値を使用した。試験の手順は、試験開始時の50パーセント未満にまでPSA値が下がったら、アビラテロンの投与を中止するというものである。こうして、PSA値が低いときには腫瘍をそのまま放置しておき、PSA値が開始時の100パーセントを超えたときにのみ投薬を再開した。

ゲイトンビーはこのやり方により、標準治療よりはるかに長く腫瘍をコントロールし続けることができた。2017年10月(チャンとゲイトンビーの予備試験の論文掲載が受理された時期)の時点で、11人の患者のうちがんの進展が確認されたのはひとりのみ。これは驚異的な結果である。結局、応療法の臨床試験では、がんが進展するまでの期間の中央値は少なくとも27か月であり、典型的な16.5か月を大幅に上回った。それどころか、実際には27か月よりはるかに長かったと思われる(臨床試験中にがんが進展する患者の数があまりに少なかったため、本当の中央値を計算することができない)。しかも、適応療法の患者が投与されたアビラテロンの総用量は、推奨される標準治療の半分にも満たなかった。

「がんは裏切る細胞である」
p.220 - p.221

がんが「体細胞の進化」であるという視点にたつと、適応療法以外にも治療のアイデアが浮かびます。その一つが「おとり薬」です。


進化という視点に触発されたゲイトンビーのがんコントロール戦略には、がんを優位に立たせないための独創的で気の利いた発想がたくさんある。たとえば、抵抗性にはコストがかかる(薬剤に抵抗するために細胞は働いてエネルギーを消費しなくてはならない)という点を踏まえ、ゲイトンビーはひとつのアイデアを思いついた。抵抗性をもつ細胞にそのコストを費やさせながらも、それによってかならずしも利益を得られないような状況をつくってはどうか。多剤抵抗性を得ている細胞は薬剤排出ポンプをもっていることが多く、このポンプを運転するにはエネルギーを必要とする。

多剤抵抗性という特性はむしろ弱点であり、その弱みにつけ込むことができるとゲイトンビーは考えた。どうするのかというと、細胞に「おとりの薬」を与える。毒性がまったくないか、最小限の毒性しかないような物質だ。このおとりの薬ががん細胞に薬剤排出ポンプを稼働させてエネルギーを使わせるにもかかわらず、抵抗性のない細胞と比べて生存上の利点があるわけではない。ゲイトンビーはこの種の薬を「代用薬(ersatzdroges)」と呼んでいる。「おとりの薬」より響きがいいし、意味は変わらないからである。

ゲイトンビーと同僚は、培養した抵抗性細胞の増殖率を代用薬で下げられることと、代用薬を投与したモデルマウスの細胞のほうが(抵抗性をもたない類似の細胞株より)増殖率が低いことを見出した。この戦略によって抵抗性細胞は「只働き」をさせられ(分子モーターを動かして実際には薬剤ではない物質を汲み出し)、結果的に増殖に振り向けるエネルギーが減った。

「がんは裏切る細胞である」
p.230 - p.231

この「おとり薬」は、上の引用にあるように試験管レベルの研究ですが、こういう発想がでてくるのも「体細胞の進化」という視点でがんを見ているからです。次の「腫瘍に資源を与える」も、根本の見方は同じです。


腫瘍内部が低酸素状態だというのは、腫瘍微小環境の重要な要素である。酸素濃度が低い環境では、がん細胞は浸潤と転移を起こしやすい。資源が乏しいと、すぐに移動できるがん細胞が生存と繁殖のうえで有利になるからだ。これまでの研究からは、腫瘍への資源供給を正常化するとむしろ転移を減らすことができ、低用量の抗血管新生薬(腫瘍への血流の調節を助ける)を用いると治療への反応がよくなることが示唆されている。先にも触れたように、資源の流れが正常に近づくのは、適応療法でもたらされる結果のひとつでもある。適応療法が成果をあげている背景には、この資源の正常化があるのかもしれない。

腫瘍への資源の流れを正常にすれば、腫瘍内の細胞がどんな生活史戦略を進化させるかに影響を与えられる見込みが大きい。一般に、低レベルではあるが安定した資源を利用できるときには、遅い生活史戦略を採用する個体のほうが生存と繁殖において有利になる。腫瘍への資源供給を正常化した場合も、おそらく同じことが起きるだろう。つまり、より遅いペースで増殖し、分散しにくい細胞が選択されるということである。

安定した資源を腫瘍に供給するのは、直感に反する行為に思えるかもしれない。腫瘍というのは飢えさせるべきなのではないか、と。

だが、それをすれば、内部の細胞が遺伝子の発現状態を変えて移動性を得やすくなるうえ、すぐに移動できる細胞ほど選択されるという結果も招く。これが厄介な問題を引き起こすのはいうまでもない。むしろ腫瘍に(安定した低レベルの)資源を与えてやれば、腫瘍はその場にとどまったまま成長を続けてくれる可能性がある。全体として見れば、浸潤と転移を促すよりそちらのほうがはるかに好ましい。

「がんは裏切る細胞である」
p.232 - p.233

本書に「細胞版共有地の悲劇」という話が出てきます。「共有地の悲劇」とは、共有の牧草地で各人が銘々勝手に放牧すると草が食べ尽くされて共倒れに陥るという寓話です。

がん組織が組織周辺の資源を消費し尽くしたら「共有地の悲劇」が起こり、がん細胞は全滅します(資源不足、老廃物を解毒できない、など)。がんがこれをのがれるように進化するには、

・ もっと多くの資源を得るべくシグナルを送る
・ 新天地に移動する

ですが、このように進化するとまずい事態になります。そうなるよりも、がんに資源を与える方がよい。そういう考え方です。


体本来の機能によるコントロール


進化の視点からがんのコントロールを考えるとき、適応療法以外にもう一つ重要なポイントがあります。生物が進化の過程で得た「がんを抑制するメカニズム」を使う、つまり体本来の機能を使うことです。

がん細胞は、ヒトが本来もっている「がんを抑制するメカニズム」からのがれるための仕掛けを使います。この仕掛けを無効にするような治療です。一つの方法は、がん抑制遺伝子(TP53など)が変異しているとき、その機能を回復することです。これは研究段階にあります。さらに本書では「ご近所の目 = 地区レベルの監視システム」と「体内の警察隊 = 免疫」の活用があげられています。


体本来の《裏切り者》検出システムの能力を高めるもうひとつの方法は、「地区」レベルでの監視システムをあるべき姿に戻すことだ。つまり、近所の細胞同士で監視させることである。

がん細胞は創傷治癒因子を分泌して、周辺の正常な細胞を自分の目的のために利用することが多い。その種の因子のシグナルが何を意味しているかといえば、要は増殖や細胞の移動といったふるまいを黙認せよと周囲の細胞すべてに告げている(これには、周辺細胞に裏切り検出の閾値を上げさせることも含まれる)。

がん細胞は傷を治癒するというシグナルを発することで、近隣の細胞から見咎められずにたちの悪い活動にいそしむことができる。NSAIDs(引用注:非ステロイド系の抗炎症剤のこと)で炎症を減らすとがんのリスクが低下するのは、ここに理由の一端があるのかもしれない(炎症を軽減すると、DNAの変異と小規模欠失の直接原因となり得る活性酸素の減少にもつながる)。

炎症を抑えれば、シグナル伝達がなされる環境をきれいにする効果もある。そのおかげで、周辺でがんのような異常なふるまいが起きていることに正常な細胞が正しく気づけるようになるのかもしれない。また、炎症という「ノイズ(雑音)」が消えることで、免疫細胞が「本物のシグナル(信号)」(つまりがん細胞)に集中しやすくなるとも考えられる。

「がんは裏切る細胞である」
p.237

この引用部分から類推できることは、がん細胞が出す "傷を治癒するという偽のシグナル" をブロックできれば、周囲の細胞の監視によってがん細胞を排除できる可能性があるわけです(可能性の一例ですが)。こういったタイプのがん治療は、今後の研究に負うところが多いようです。



本書からは離れますが、2021年4月8日放送の NHK BSプレミアム「ヒューマニエンス "がん" それは宿命との戦い」に、京都大学の藤田恭之やすゆき教授が出演されました。藤田教授が示された映像は、腎臓の上皮細胞(表面の細胞)にできた"がん予備軍"(異常増殖)を、周囲の細胞が協力してはじき出し、それが尿といっしょに排出されるものでした。

番組では細胞のこういった機能を「細胞競合」と呼んでいましたが、藤田教授がなぜ細胞競合を研究されているかというと、もちろん、がんの治療に役立てたいからです。



2つ目は「体内の警察隊 = 免疫」の活用で、こちらの方は既に実用化されています。


がんをコントロールする方法はまだある。免疫系の働きを再度活発にして、がんを食い止めておけるようにすることだ。すでに見てきたように、がん性細胞は様々な戦略を編み出して免疫系に見つからないようにしている。しかし、免疫系ががんに反応し続けられるようにするだけでなく、がん細胞が免疫系から隠れられないようにすることは不可能ではない。それを目指すのががん免疫療法である。

がん細胞は自らの表面にあるタンパク質を変えることで、正常な細胞であるかのようなふりをすることがある。あるいは、免疫細胞をうまく利用して自らに有利なシグナルを出させ、何も異常がないから放っておいて大丈夫だと勘違いさせる場合もある。さらには、免疫系の武器である《裏切り者》検出システムをじかに妨害するケースもある。

正常な状態であれば、私たちの免疫系はチェックとバランスのシステムを通じて脅威(がん細胞や病原性微生物など)に対処している。その一方で、脅威が去れば警戒態勢を緩めることもできる。免疫系がどうやってそれを行っているかというと、「免疫チェックポイント」と呼ばれる機能を用いている。これは、脅威が存在しないという情報を受け取ったときに免疫応答を止める機能であり、環境中に《裏切り者》がいないことに気づいたら警戒態勢を解くよう免疫系に告げるシステムといっていい。

このようにして免疫系の警戒態勢を解除できることは、私たちの健康にとってきわめて重要な意味をもつ。そういう仕組みが備わっていなければ、私たちは自己免疫や過剰な炎症に苦しむ羽目になるからだ。ところが、これががんのつけ入る隙を生むことにもつながる。がん細胞がこの免疫チェックポイント機能をあざむく因子を分泌し、免疫応答を停止させる進化を遂げるからである。

現在、がん免疫療法で最も有望視されているのはまさにがんのこの能力を妨げるものであり、「免疫チェックポイント阻害療法」と呼ばれる。この療法ではがんのつくり出す分子の働きを妨げ、免疫系を不活性化できないようにする。結果的に免疫系は本来の働きを回復し、《裏切り者》細胞を発見できるようになる。おかげで、以前は治りにくかったがん(メラノーマや肺がんなど)についても、一部の患者では治療に成功している。

「がんは裏切る細胞である」
p.237 - p.238

「免疫チェックポイント阻害療法」は、本庶ほんじょたすく先生が開発の道を開かれたものです。先生が2018年のノーベル医学生理学賞を受賞されたのは、これが画期的だと認められたからでしょう。


未来へ向けて


がんは "やっかいなルームメイト" であり、我々はこのルームメイトと一緒に暮らしていくしかありません。目標とすべきは、

がんを対処可能な慢性疾患にする

ことです。著者は本書の最後の方で次のように述べています。


ヒトががんと共に進化してきたことを理解し、それを受け入れれば、人類の健康と幸福のためによりよい未来を形づくることができる。多細胞生物が誕生したときからがんは生命の一部であり、つねに私たちと一緒に進化の道のりを歩んできた。この世に人類が登場したときから、私たちはこの《ただ乗り》のルームメイトと暮らしてきたが、そうして招かざる道連れを伴いながらも、進化の見地からすれば成功を収めてきた。

進化はじつに強い力である。この惑星の生命に多様性を与えるとともに、体内のがん細胞の多様性と回復力を生む原動力ともなってきた。がんによる負荷を減らすうえで最も有望なのは、この進化の力を私たちの手中に収めること。つまり、私たちの命を奪う存在にさせないように、また、制御不能の存在にさせないように、腫瘍の進化の道筋を方向づけてやることである。私たちは自分で気づいている以上に、その進化の方向性を左右できるかもしれない。

「がんは裏切る細胞である」
p.245

最後に、著者が書いているギリシャ神話の神の話を紹介します。ギリシャ神話に登場する戦いの神、アレスとアテナの対照的な戦い方です。


アレス神は圧倒的な攻撃力で戦いに臨み、いかなる犠牲を払おうとも敵に最大限の損害を与えることを目指す。

「がんは裏切る細胞である」
p.15

戦いの神・アレス(アーレス)は男性神で、ローマ神話ではマルスです。一方、アテナは女性神で、古代ギリシャの中心都市、アテネ(アテナイ)の守護神です。


アテナは知恵と戦いの神だが、どんな戦い方でもいいわけではない。アテナは戦略の女神である。荒々しい力で勝利をもぎ取るのではなく、何のための戦いかを明確にしたうえで敵の弱みを把握する。そして相手の弱点を利用し、最小限の力で、しかも周辺に無用の被害が及ばないようにしながら勝利を手にする。

「がんは裏切る細胞である」
p.15

著者は子供の頃をアテネで暮らしたギリシャ系アメリカ人です。祖母はアテナという名前で、彼女の名前は祖母の名からとったものです。そのアテナの英語読みがアシーナ(Athena)です。著者は、未来に向けたがん治療のあり方を、自らの名前の由来になったギリシャ神話の神・アテナの戦い方になぞらえているのでした。




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No.336 - ヒトはなぜ「がん」になるのか [科学]

No.330「ウイルスでがんを治療する」に引き続いて、がんの話を書きます。今回は治療ではなく、そもそもがんがなぜできるのかという根本問題を詳説した本を紹介します。キャット・アーニー著 "ヒトはなぜ「がん」になるのか"(矢野真千子・訳。河出書房新社 2021。以下 "本書")です。

世の中にはがんに関する本が溢れていますが、なぜヒトはがんになるのか、がんはヒトにとってどういう意味を持つのかという根本のところを最新の医学の知識をベースにちゃんと書いた本は少ないと思います。本書はその数少ない例の一つであり、紹介する理由です。

著者のキャット・アーニー(Kat Arney)は英国のサイエンス・ライターで、ケンブリッジ大学で発生遺伝学の博士号を取得した人です。また、英国のがん研究基金「キャンサー・リサーチ・UK」の "科学コミュニケーション・チーム" で12年勤務した経験があります。最新の医学知識を分かりやすく一般向けに書くにはうってつけの人と言えるでしょう。

この本をとりあげる理由はもう一つあって、矢野真千子氏の日本語訳が素晴らしいことです。以前に、アランナ・コリン著「あなたの体は9割が細菌」を紹介したことがありましたが(No.307-308「人体の9割は細菌」)、この本も矢野氏の翻訳で、訳文が大変に優れていました。もちろん原書が論理的で明快な文章だからでしょうが、それにしても矢野氏の翻訳家としての力量(リズムがよい明晰な日本語を書く力)と科学知識(医学知識)の豊富さは明らかです。以下で本書の重要と思われる所を長めに引用しますが、それを読むと分かると思います。

なお引用は、原則として漢数字を算用数字に直し、段落を追加したところがあります。また下線や太字は引用をする上でつけたもので原文にはありません。


がんを進化の視点で見る


本書の内容をごく簡単に要約すると「がんは生物進化の縮図であり、その視点でがん医療のあり方を見直そう」というものです。このことは本書の「はじめに」で明確に書いてあります。


科学者たちはがんの進行を、自然界の生物進化の縮図として見るようになってきた。生物が突然変異で新しい形質を得たあと、その形質が自然選択で選ばれれば生き延び拡散するのと同じように、がん細胞も新しい変異を拾ったあと、自然選択で選ばれれば増殖して拡散する。ダーウィンが描いた進化系統樹のように、がん細胞も枝分かれしながら進化する。ここで私たちは、がんについてのもう一つの不都合な真実、治療自体ががんの悪性化に手を貸すという真実を知ることになる。

がんが育つとき私たちの体の中で働いているのは、地球上の生物進化を駆り立ててきたのと同じプロセスだ。がんの進化における自然選択の選択圧は、本来なら命を救うはずの治療薬という形でやってくることもある。薬は、その薬の効く(薬に反応する)細胞を死滅させ、薬の効かない(薬に耐性のある)細胞を栄えさせる。つまり、薬はがんを弱体化させるどころか増強させる。そうやって強力になったがんは再発という形で現れるが、そのときにはもう、何をどうしても止められなくなっている。進行したがんに現行の治療法が無力なのは不思議でも何でもない。

ともかく私たちは、がんの発生、予防、治療についての考え方を、進化の現実に即したものにアップデートする必要がある。がんは、変異のリストで語られるような静的な存在ではなく、刻一刻と進化し様相を変える動的な存在だ

キャット・アーニー
"ヒトはなぜ「がん」になるのか"
矢野真千子・訳 河出書房新社(2021)
p.12 - p.13

重要なキーワードは進化(evolution)と自然選択(natural selection)ですが、これは進化生物学の用語であり、普通の医学用語ではありません。これが、がんという病気やその治療とどう関係するのか、それを詳しく書いたのが本書だと言えるでしょう。以下、本書の "さわり" を順に紹介します。


がんは現代病ではない


がんという病気について「現代における環境汚染や現代人の食生活、生活習慣が引き起こしたもの」という説を唱える人がいます。「がんは現代病」というわけです、著者はまず、この言説に真っ向から反論しています。それは科学的なエビデンスとは違うというわけです。


がんのリスクを高める要素に現代のライフスタイルや習慣があるのは事実だ。と同時に、それは自然の中にもある。ウイルスや細菌、カビがそれにあたるし、植物から出る化学物質もそうだ(有機栽培の作物も毒を出す)。

放射性物質のラドンは世界各地で、とくに火山性の岩石が多いところで地面から漏れ出ている。アメリカ南西部で1000年前ごろ暮らしていた住民の遺骸に異常に多くのがんが見つかったが、それはおそらく放射性物質であるラドンのせいだ。

日光は、がんを誘発する紫外線を毎日私たちに浴びせている。料理や暖をとるために火をおこせば、そこから発がん物質を含んだ煙が出る。火おこしは人類が出現したころから日夜営んできた行為だ。

そして、小児がんのほとんどは、胎内での発生過程が乱れたときに起こる。どれも断じて「人為的で現代的な要素」なんかではない。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.20

昔の人もがんになりました。その証拠を収集している研究者がいて、古代人や先史時代の人骨やミイラのがんの兆候を集めた「古代遺骸がん研究データベース」が作られています。一般に、人骨やミイラからがんを発見するのは難しい作業です。異常なこぶや隆起が見つかったとしても、悪性の腫瘍だとは断定できないからです。しかし骨に明らかな痕跡を残すがんもある。本書には、絶滅人類の骨の化石から骨肉腫や脳腫瘍の痕跡が見つかった事例が出てきます。


すべての生き物はがんになる


さらにヒトでだけでなく、ほとんどすべての生き物ががんになります。ここで、がんの定義が問題になります。ヒトの場合、基底膜(臓器を包んでいる薄い保護膜)を突き破るような細胞増殖をがんと定義しますが、ほとんどの生物にはその基底膜がありません。

しかし「異常な細胞増殖」は、菌類、藻類、植物をはじめ、魚類、両生類からほ乳類にいたる広範囲な動物に見られます。恐竜の骨の化石から異常が見つかったこともありました。すべての生き物ががんになりうる。この認識が重要です。

ただし、がんになりにくい動物がいることが知られています。動物は体細胞の数が多いほど(= 体が大きいほど)がんになるリスクが増しますが、アフリカ象やシロナガス鯨はヒトと比較して遙かにがんになりにくいことが分かっています。これは「がん抑制遺伝子」を大量に持っているからです。


多細胞生物における反逆者


すべての生き物はがんになる(なりうる)。この "すべて" とは実は多細胞生物のことです。ここからが本書の最も重要な話になります。多細胞生物にはそれぞれの細胞が従うべきルールがあります。


多細胞生物のライフスタイルは、細胞の分裂と機能が厳格にコントロールされていなければ成り立たない。細菌のような単細胞生物なら進化目標はただ一つ、増殖して遺伝子を次世代に手渡すことだけだ。単細胞生物は死んだらそこで進化の行き止まりになるから、生き続けることと複製し続けることさえ頑張ればいい。

多細胞生物の細胞の場合、勝手な複製は許されない。複製していいのは、赤ん坊から成人になるまでの発生期と成長期、または身体を定期メンテナンスしたり応急処置したりするときだけだ。多細胞生物の細胞は、決められていない仕事をするのも許されない。脳にある神経細胞は、すい臓にある島細胞のようにインスリンを生産したいと思ってもできないし、外界とのバリアをつくる皮膚細胞が血液細胞のように全身を旅したいと思ってもできない。そのままにしておけば問題になる故障した細胞や損傷した細胞は、自死するか免疫系に駆逐されるようあらかじめ決められている。

多細胞生物になれば、個々の細胞は生物全体の利益になるようふるまう義務が生じる。ところががん細胞はルールを無視し、好き勝手に増殖し、周囲の組織に侵入し、あちこちに移り住み、最終的には宿主もろとも死ぬ。がんがどこから来たのかを理解するには、まず多細胞生物の生き方のルールを知り、そのルールが破られたとき何が起こるのかを知る必要がある。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.48 - p.49

多細胞生物の細胞群が遵守しいるルールを破る細胞が出てきます。いわば「反逆者」ですが、これががん細胞です。


細胞の従うべき金科玉条はつぎの5つだ。増殖しすぎない、決められた仕事を遂行する、必要以上に資源を浪費しない、汚したら自分で始末する、死ぬときが来たら死ぬ。

この5つのルールがあれば、人間社会だろうがどんな社会だろうが、円滑に維持される。逆に、個々のメンバーが自分勝手にふるまうと問題が生じる。

がん細胞はこれらのルールすべてに逆らう。最初は一度に一つのルールを破る程度だが、定着して全身に広がるころには一斉にすべてのルールを破っている。無制限に増殖し、本来の仕事をせず、酸素と栄養素をむさぼり食い、周囲を酸性に毒し、断固として死なない。

多細胞生物は、細胞社会の仕組みを10億年以上かけて進化させてきた。それぞれのメンバーが共通の利益に向けて特化した役割をこなし、個々の細胞のニーズより種としての繁栄をめざす。この厳格な階層型組織は、祖先の単細胞生物が楽しんでいたような自由で気楽な生き方を許さない。細胞分裂は厳しく制限される。複雑で相互に絡み合う分子経路や遺伝子経路を通じて、いつ、どこで分裂するか細かく指示される。ルール破りは厳禁だ。損傷した細胞や服従しない細胞のための余地はない。トラブルを起こしたら、全体の善のために自殺するよう促される。年老いた細胞には安らかに眠ってもらう。冷酷に見えるかもしれないが、この厳格さが私たちの健康と生命を守っている。

とはいえ、ヒトの社会でも動物の社会でも細胞の社会でも、ルールを破る個人や個体はかならず出てくる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.53 - p.54

多細胞生物は生命を維持して子孫を残すために、「反逆者」を抑制する仕組みをもっています。それでも「反逆者」は生じる。そして「反逆者」が優勢になるような状態が起きるとがんになり、これが進展すると生命体の全体が崩壊に導かれるのです。


多細胞生物が健全であるためには、メンバーに不正行為を許してはならない。細胞数が多いほど、また寿命が長いほど、統制はむずかしい。多細胞生物が進化する過程では、裏切者を出さないよう多大な投資がされてきた。身体サイズが大きければ細胞社会のメンバーは多くなり、裏切りが発生する確率も高まるため、より強力な抑制システムが必要となる

個々の細胞にとって、大きな多細胞共同体の一員になれば自律性を失って自分の行く末を自分で決めることはできなくなるが、そのかわり自分の遺伝子を継承するという究極の目的を大きな組織に委ねることができる。それでもルール破りの誘惑はいつもあり、隙を見つけては勝手に増殖を始める者が出てくる。

ただし、裏切り行為はそれまで保たれていた社会のバランスを崩す。十分長く生きて繁殖するという生物としての長期的な目標より、自分だけ得をしたいという裏切者たちの短期的な欲望が勝って悪性腫瘍がどんどん育つと、最悪の場合は宿主もろともの死が待っている。裏切者の出現は不可避だが、社会が許容できる裏切者の数には限りがある。みなが裏切りをするようになれば、多細胞生物の社会はあっというまに『マッドマックス』のようなディストピアの世界となる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.54 - p.55

本書には、がん細胞で活性化している遺伝子は生命体にとって最も古い遺伝子だという、興味深い話が出てきます。その一つの例は、オーストラリアのメルボルンにあるピーター・マッカラムがん研究所のアンナ・トリゴスという研究者の発見です。


トリゴスは、がん細胞の中で最も活性化している遺伝子が最も古い時代の遺伝子であることを見出した。最も古い時代の遺伝子とは、細胞増殖や DNA修復といった基本機能を担う遺伝子で、最初期の単細胞生物のころから存在している。

一方、がん細胞の中でまったく活性化していない遺伝子は最近になって出現した遺伝子だった。それは哺乳類にしか見られないか多細胞動物にのみ存在しているような「若い」遺伝子で、特殊な器官の作成や細胞間コミュニケーションなど、より複雑な仕事を担っている。

そして彼女は、これまでに調べたがん細胞がどれも等しく「単細胞時代からの遺伝子が活発になり、多細胞時代以降の遺伝子が休眠している」ことを見出した。がん細胞が細胞社会で定められていた仕事を放棄して、利己的に自由にふるまっているということだ。これはがん細胞がアメーバのような生物に先祖返りしたわけではない。新たに獲得した変異により、多細胞時代以降にできたシステムを休止させるよう進化したのである

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.61 - p.62

がんは「先祖返り」ではなく「進化」である ・・・・・・。「進化」という言葉に "よりよいものに変わる" という意味を感じている人にとっては大いに違和感がある表現でしょうが、本書全体を読めばその意味がよくわかります。

ちなみに、今までの引用(p.48 - p.64)は本書の第2章からですが、第2章は「がんは生きるための代償である」と題されています.。この題が本書の趣旨を明瞭に表しています。

その第2章には「裏切り者」「反逆者」「誘惑」「ディストピア」などの「がんを擬人化した比喩」があります。サイエンスの本でこういった比喩は一般の読者に分かりやすくするために使われますが、その一方で誤解を招きかねません。なぜなら、比喩の対象となったものがあたかも人間のように意思をもっているとイメージされ、合目的的に振る舞っているような間違った印象を与えるからです。しかし著者は言っていますが、がんの場合はこういった比喩が本質をピッタリと表しているのです。


遺伝子の変異ががんの要因


多細胞生物における「反逆者の細胞」が生まれる理由は、遺伝子に起こる変異です。これはさまざまな原因で起こります。

まず、細胞が増殖するときの遺伝子(DNA)の複製エラーです。これは必然的に一定の確率で起こります。

また「発がん物質」と総称されるものを吸収したり、それに接触したりすることも遺伝子変異の要因になります。発がん物質には自然界に存在するものもあれば(すす、煙など)、人工の化学物質もあります(ベンツピレンなど)。喫煙をすると煙に含まれる発がん物質が肺がんのリスクを高めることはよく知られています。

紫外線や放射線被爆も遺伝子変異の原因になります。皮膚がんがまさにそうだし、放射線被曝と白血病(= 血液のがん)の関係も知られています。

さらに、ある種のウイルスは遺伝子変異を起こします。有名なのは HPV(ヒトパピローマウイルス)で、子宮頸がんの要因になります(従って、がん予防ワクチンが成り立つ)。

また遺伝性のがんがあります。これはがんを引き起こす遺伝子変異を親から子・孫へと受け継ぐ場合です。つまり、がんを発症しやすい家系があります。

もちろん遺伝子変異が起きたからといって、すぐがんになるわけではありません。変異は基本的にランダムに起きるので、生命維持にとってプラスにもマイナスにも働かない変異(= 中立変異)も多い。さらに、細胞には変異した隣の細胞を体から排除する仕組みをもっています。

しかし細胞増殖を促す遺伝子が変異したとき、がんになるリスクを抱え込んだことになります。また、遺伝子に中には異常な細胞増殖を押さえる働きをするものがあり(=がん抑制遺伝子)、その遺伝子が変異によって機能を失うとがんのリスクが発生します。細胞増殖のアクセルが踏みっぱなしでブレーキが壊れた状態は、がんが発生する典型的なパターンです。


遺伝子の変異だけではがんにならない


遺伝子が変異しただけではがんになりません。実は、私たちは幼少期から遺伝子の変異を体内に蓄積しています。


私たちはどのくらい心配すればいいのだろう ? ある程度歳をとれば、だれでも原因不明のしこりやこぶの2や3はできているものだ。40代の女性の少なくとも3人に1人は胸に小さな腫瘍を抱えているが、その年代で乳がんと診断されるのは100人に1人しかおらず、残りの多くは正式にがんと診断されることなく一生を終える。

前立腺がんも状況は同じで、このがんで死ぬ人より、このがんを抱えたまま死ぬ人のほうがはるかに多い

50歳から70歳の人ならほぼ全員、甲状腺に小さながんができているが、甲状腺がんと診断されるのは1000人に1人だ。全体的にならすと、私たちの半分かそれよりやや少ないくらいの人が、生涯のどこかの時点でがんと診断される。

がんの発生率は、がんの種類別によってばらつきがある。たとえば、小腸と大腸はどちらも消化管で生理的な条件はほぼ同じだが、小腸がんの発生率は低く、大腸がんのそれは30倍も高い。

また、重要なドライバー遺伝子に変異が一定数たまるとがんになるとは言うものの、それに必要な蓄積回数もがんの種別で異なる。肝臓がんは約4回、子宮がんや大腸がんは10回だが、精巣がんや甲状腺がんはたった1回だ。

こういう話をすると、必要な変異回数の少ないがんほど若いころ出現しそうな気がするが、小児がん以外の大半のがんは、種類にかかわらず60歳以前に発生することはあまりない。私たちの正常な組織は中年期に達するころ、すでに変異のパッチワークになっているにもかかわらず、50代まではまあまあ抑えられているのである。

60歳以降に変異が生じるペースが上がるわけでもない。意外かもしれないが、変異の発生ピークは人生の初期だ。DNAの複製エラーは細胞が増殖するたびにちょこちょこ起きるものだが、幹細胞に起きるエラーはとりわけ危険だ。身体を生涯維持する役目を担っている幹細胞は増殖力がひじょうに高いからだ。増殖力の高さがとくに求められるのは発生期から成長期である。卵細胞が成体になるまでに必要な増殖回数は、その後の人生を維持するのに必要な日々の増殖回数とは比較にならないくらい多い。私たちの細胞は最初の9か月で一個から数兆個にまで増え、その後も少しずつ増えていき、「成人」という完成形になる。じつのところ、あなたが70歳の時点で保有する変異の半分は、18歳の誕生日までに得てしまっている

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.118 - p.119

引用に「ドライバー遺伝子」という言葉が出てきます。一般的には「がん遺伝子」と言われますが、これは誤解されやすい言い方です。がんを発生させる "専用の" がん遺伝子があるわけではありません。がん遺伝子の多くは生命の維持や子孫を残すプロセスに必須の遺伝子です。それが変異するとがんのリスクが生じる。

ドライバー遺伝子とは「その遺伝子が変異することでがんの直接の原因(の一つ)になる遺伝子」です。このドライバー遺伝子に生じる変異が「ドライバー変異」です。本書では「ドライバー遺伝子」「ドライバー変異」という言葉が多用されています。

さらに上の引用に「幹細胞に起きるエラーはとりわけ危険だ」とありあります。「幹細胞」とは、分裂する能力があると同時に、分裂してできた娘細胞が別種の細胞になる能力をもった細胞です。有名なのは受精後の胚の ES 細胞ですが、各臓器系についてそれを作り出す幹細胞があります。たとえば血球やリンパ球のすべては骨髄の造血幹細胞から作られます(No.69「自己と非自己の科学(1)」参照)。この幹細胞を人工的に作り出したのが、山中教授の iPS 細胞(induced Pluripotent Stem cells = 人工多能性幹細胞)です。

幹細胞に関していうと、受精後の胚に生じる乱れが原因で発生するがんが小児がんです。従って小児がんの発生メカニズムは他のがんとは根本的に違います。



遺伝子変異が蓄積しただけではがんになりません。しかし生物の進化と同じで、環境が変わったとき、それが原因で変異した遺伝子をもつ細胞が優勢になります。これががんです。この体内環境の変化の第一は加齢です。


日々の細胞のメンテナンス作業は年齢とともに、とくに生殖年齢のピークを過ぎたあとは、雑になっていく。たとえば、若いときの肌の細胞はしっかり結合している。がん化しそうな不良細胞が出てきても、広がる余地を与えず、最終的には追い出してしまう。だが、歳をとると細胞の結合がゆるむ。不良細胞はその隙に入りこみ、やがてがん化し、拡大する。また、タバコの煙や紫外線のような発がん物質は、DNAに損傷を与えるだけでなく、細胞の結合組織となるコラーゲン分子を傷つけるので、不良細胞がのさばる余地をさらに与えてしまう。

老化によるゆっくりとした衰えは、遺伝子の収納状態やスイッチの作動にも影響する。若い細胞はDNAを、ヒストンというボール状のタンパク質のまわりにコイルのように巻きつけて、きっちり収納している。ヒストンには、遺伝子の活性・不活性をコントロールするためのエピジェネティック修飾と呼ばれる各種の分子タグがついている。老いた細胞では、この整然とした仕組みがうまく働かなくなる。DNAのコイルがほどけ、修飾が乱されると、遺伝子は間違ったタイミングや場所でスイッチをオンまたはオフにするようになる。老化はゲノム全体で同時多発的に進む。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.124

もう一つの重要な環境変化は、加齢とも大いに関係しますが、持続的な炎症です。


慢性炎症の原因は、持続感染、有害物質への長期曝露、自己免疫疾患などだが、もう一つ避けがたい最大の原因が加齢だ。歳をとるにつれて、私たちの組織の慢性炎症のレベルはじわじわと上がる。これは、細胞内で働く生化学プロセスから受ける経年劣化、体内に少しずつたまる有害物質、人生でそれまでに経験した感染や苦痛、全般的な体の衰えなどによる必然的な結果だ。性ホルモンの減少も関係しているかもしれない。エストロゲンやテストステロンには炎症を抑える役目があるからだ。お察しのとおり、喫煙も、肺に炎症性傷害を与えたり体の抗炎症反応を弱めたりする。過剰な体脂肪もリスク因子だ。体脂肪は、何もせずただ体についているだけのぜい肉ではない。脂肪を貯蔵する細胞は、慢性炎症を悪化させるさまざまな活性物質をつくり出す。

もう一つ慢性炎症の要因として、研究はあまり進んでいないが有力視されているものに、ストレスがある。私たちはストレスでがんになると聞くと、さもありなんと考えがちだが、実際のところ、近親者の死別や離婚といった強いストレスのかかる人生節目の出来事ががんの発生率を高めるという関連性はほとんど見出されていない。

しかし、生活苦や不安定な居住環境といった長期のストレスとの関連性はありそうだ。社会経済的な弱者ほど、がんを含むあらゆる病気で早く死ぬ傾向があることは、健康格差の問題としてよく知られている。社会的弱者が早く死ぬのは肥満、喫煙、飲酒、偏った食生活といったお決まりの容疑者のせいにされがちだが、これらの要素だけですべてを語ることはできない。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.126


進化の「るつぼ」としてのがん


では実際にがんが発生したとき、がん組織に中の遺伝子変異はどうなっているのでしょうか。そこでは、それぞれ違った変異をもつ細胞集団があちこちに散在していることが分かってきました。

2012年の論文に載った、キャンサー・リサーチ・UKのチャールズ・スワントン教授の研究があります。彼は DNA配列決定の技術を駆使し、がん組織の中の遺伝子マップを作り始めました。

以下の引用に「標的療法」という言葉がありますが、これはがんの要因となっている特定のドライバー遺伝子の働きを無効にするような治療(化学療法など)という意味です。


配列決定技術の精度が上がってくるにつれて、ものごとは複雑さを増してきた。2006年、研究者らは標的療法後に耐性がついてしまった EGFR 変異をもつ細胞を探していた。すると、標的療法を受ける前の肺腫瘍の一部に、その変異細胞がすでに存在していたことに気がついた(EGFR はがんドライバー遺伝子の一つである)。数年後、血中を漂う白血病細胞はどれも同じに見えて、じつはDNA配列の異なる細胞の集まりだったという発見もあった。

2010年にはまた別の発見があった。すい臓にあった最初の腫瘍(原発腫瘍)から転移した腫瘍(2次性腫瘍)が、転移の過程で原発腫瘍にあった変異とは別の新たな変異を大量に拾っていることがわかったのだ。そして2011年、中国の研究チームが、ひとかたまりの大きな肝臓腫瘍を薄くスライスしてそれぞれの切片を分析したところ、隣り合う切片どうしでさえ、そこに含まれるドライバー遺伝子の変異が違うことを見出した。同年、ニューヨークの科学者らが、乳房腫瘍の小片を100個の細胞に分けてそれぞれにDNA配列決定をしたところ、その100個の細胞は大きく3つのグループに分かれ、それぞれが遺伝的強みと弱みを別々の組み合わせで有していることがわかった。

もやもやしていた絵の輪郭が、だんだんはっきりしてきた。腫瘍というのはどれも、同じがん細胞でできているのではなく、遺伝子的に少しずつ違うがん細胞集団(クローン)の寄せ集めであり、その一部が転移しやすい変異をもつクローンだったり、治療に抵抗しやすい変異をもつクローンだったりする、ということだ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.154 - p.155

がん細胞集団(クローン)という表現がありますが、クローンとは「同じ1個の祖先細胞に由来し、同一の遺伝子変異をもつ細胞の集団」のことです。

この引用にあるように、腫瘍組織における遺伝子変異は「変異のパッチワーク状態」であり、しかも変異は "積み重なり"、かつ "枝分かれ" しつつ起きています。つまり「遺伝子変異の系統樹」が描けることが分かってきました。ここに至って、ダーウィンの「進化論」との類似性が明らかになってきました。


チャールズ・ダーウィンは新種の出現(種の起源)を、生物が選択圧に直面して適応と変化を迫られたことによる必然的な帰結だ、と論じた。チャールズ・スワントンの研究は、人体内のがんも同じであることを示した。がんは自然界の縮図であり、多種多様な変異をもつがん細胞クローンが多数集まってできた大家族だ。そこからは日々、枝分かれした小家族が生まれる。転移した腫瘍は、旅立った小家族がその後に独自の変異を重ねた「遠い親戚」だ。近縁のクローンも遠縁のクローンも、すべては一つの創始者細胞から始まり、途中で新しい変異を拾いながら枝分かれしてきた。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.158 - p.159

我々は「進化」を誤解しがちです。進化生物学でいう進化(evolution)とは、生物が別の種に分かれること(だけ)を意味します。その要因は、遺伝子の突然変異と環境変化の圧力による選択(自然選択)です。進化は「変化」であって「より良くなる」という意味は含みません。

さらに我々はどうしても「直線的な進化」を考えがちです。チンパンジーが猿人になり、ホモ族(ヒト族)になり、そのホモ族も原人からネアンデルタール人になって、ホモ・サピエンスに進歩してきた、というような ・・・・・・。しかし実態は、霊長類が分化してきたというのが正しい。

がんもそれと同じです。がんの本質は「枝分かれ進化」であり、適応と進化を繰り返す可変的なシステムなのです。実際、がん組織において「自然選択 = 環境による選択」が起こっているという証拠が集まってきました。


科学者らはもう一つ残念なことを発見した。標的療法への耐性を得られる変異は往々にして、ごく初期の段階ですでに存在しているのだ。骨髄腫(白血球のがん)の患者を詳細に調べた研究によると、骨髄の中で増殖したがん細胞は、最初期の段階から存在した小さな細胞集団に由来するものだったという。その細胞集団は、医者が投入したあらゆる治療をのらりくらりとかわしながら成長し、ついにはすべてを乗っ取ってしまったという。

2016年の別の論文からは、自然選択が作用している現実が容赦なく示された。研究者らは、30名を超える髄芽腫(小脳にできる脳腫瘍)の患者から治療前と治療後に採取したサンプルで、遺伝子組成を比較した。そして、治療後に再び増殖した耐性がん細胞は原発腫瘍にすでに存在していたこと、ただしそのときはひじょうに小さな集団だったことを見出した。

放射線療法で大量のがん細胞が殺されると、最初は小集団だった耐性細胞がそのあとを埋めるように急速に拡大した。治療前には危険だと思われていた(重要なドライバー変異をもつ)いくつかの細胞集団が、治療後には消えていたのである。これがギャング映画なら、大物連中が殺し合いをして全員いなくなったあと、こそこそしていたチンピラがのし上がってボスの座につくようなものだ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.164

がん細胞からすると、最大の環境変化はがん治療がもたらす環境変化です。つまり、がんの進化において、特に放射線療法と化学療法は、自然選択を加速させます。それらの治療に耐性をもつ遺伝子変異をもつがん細胞だけが生き残り、それ以外は死滅する。そして耐性がん細胞がまたたく間に増殖してしまうのです。

著者はがん組織を "進化の「るつぼ」" と形容しています。そしてこれは、生物の歴史を考えると不思議でも何でもないと書いています。


反逆者のがん細胞が多細胞社会から排斥されて単細胞的な暮らしに戻った細胞だとすると、こんどはその反逆者たちがチームを組んで、新たな多細胞社会を立ち上げようとしているようにも見える。それは生命進化史において過去にやってきたことなのだから、「進化のるつぼ」となったがんの中で同じことが起きていたとしてもおかしくない。

がんの分子的詳細を掘り下げれば掘り下げるほど、つぎつぎに奇妙なことが見つかる。ただ私には、それほど驚くことではないようにも思える。「進化」なら当然のことばかりだからだ。生命の歴史をざっと眺めればわかるように、進化は途方もない多様性をつくり出してきた。単細胞生物が多細胞生物になる進化は何度も起きた。セックスの発明も数回、起きた。生物種は増殖し、移住し、適応し、多様化する。増殖するものは増殖し続ける。変異するものは変異し続ける。生き物はただひたすらに、生き続ける。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.221 - p.222


がんの適応療法


がんが「進化のるつぼ」との認識にたつと、がん治療の新しい考え方が見えてきます。その一つが「適応療法」です。米国フロリダ州のモフィットがんセンターのロバート・ゲイトンビーの研究が紹介されています。


ゲイトンビーは、100年以上前から農家を悩ませていた害虫、コナガがすべての農薬に耐性をつけてしまったという記事を読んだとき、これはがんをめぐる状況と同じだと気がついた。がんも治療薬に耐性がつくよう進化したら、もう拡大は止められない。

ゲイトンビーが現行のがん治療で何より疑問に思うのは、薬が「最大耐用量」で処方されることだ。これは患者にとって耐えられないほどの副作用が出る直前の用量を投与し、一度にできるだけ多くのがん細胞を殺そうという考え方だ。薬の臨床試験の初期では、志願した被験者に、投与する薬の用量を少しずつ上げていき、重篤な副作用が出た瞬間にやめる、ということを試す。このテストで薬の最大耐用量が決まる。だが、遅かれ早かれ耐性がつくことを思えば、最大耐用量を投与するという方法はわずかな余命延長に対して害が大きすぎる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.276 - p.277

農薬に耐性をもつ雑草や害虫が出現することは常識になっています。抗生物質に耐性をもつ病原菌(= 耐性菌)が出現するのも同じです。上の引用に出てくるコナガは、キャベツなどのアブラナ科の食物に寄生する小さな蛾です。コナガは農薬に耐性をつけてしまいますが、農家はこの問題に対して次のように取り組んできました。


コナガが農薬に耐性をつけてしまう問題に対し、農家は数十年前から「総合的害虫管理」という方法をとってきた。がんが遺伝子的に多様な細胞集団でできていて、その一部が治療薬に耐性をつけるのと同じように、害虫の群れにも遺伝子的に多様な集団が交ざり合っている。農薬に屈しやすい集団もあれば、農薬に耐性をもつ集団もある。ここで重要なのは、虫に農薬への耐性をつけさせるような遺伝子変異は、食料の奪い合いや繁殖競争においてたいてい不利になることだ。そのため、農薬に耐性をもつ集団は、ふつうの状況下では農薬に屈しやすい集団より優勢になることはなく、小さな集団のまま推移する

そうした群れに大量の農薬を浴びせると、農薬に屈しやすい集団は全滅し、農薬に耐性をもつ集団だけが生き残ってライバルのいなくなった生息地で好きなだけ繁殖する。一方、農薬の量を少なくすれば、農薬に屈しやすい集団がそれなりに残って、耐性をもつ集団が増えすぎないよう抑制してくれる

農家は、害虫を一匹残らず殺すのをやめ、手なずける道を考えた。畑の状況を定期的にモニターし、作物がある程度食い荒らされることは容認する。限度を超えて食い荒らされるようになったときだけ農薬を使うことにしたのだ。現在では、雑草その他、望ましくない生物種をコントロールするときも似たような方法が使われているが、考え方はみな同じだ。根絶ではなく抑制をめざし、薬剤を与える場合は少量にして巻き添え被害を少なくする。この方法はまわりまわって、将来的に懸念されている超耐性株が出現する機会を減らすことにもつながる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.277 - p.278

適応療法とは、上の引用における "総合的害虫管理" と同様に、いわば「がんを手なずける」治療です。


ゲイトンビーは、腫瘍内にはいつも耐性細胞がいる、という前提からスタートすることにした。その耐性細胞は、増殖スピードが遅いので増えすぎることはなく目立たない。しかし、薬に反応するがん細胞が全滅すればそのあとを埋めるように勢力を広げるだろう。この場合、薬を最大耐用量にするのではなく逆に低用量にして、薬に反応するがん細胞の量をある程度保ち、そのがん細胞に耐性細胞を抑制させたほうがいい。もし、薬に反応するがん細胞が増えすぎたら、薬を増やして以前と同じバランスに戻す。ゲイトンビーはこの方法を「適応療法」と呼ぶ。敵がゲームに使っている適応進化プロセスで、敵にみずから失点させるよう誘う方法だ。

適応療法の基本戦略はこうだ。がん細胞にとって、薬に耐性をつけることは治療中こそ役に立つが、治療していないときには何の得にもならない。得にならないどころか、薬に耐性をつけたことが生物学的に重荷になる。たとえば薬を追い出すのに使う分子ポンプにエネルギーの3分の1を投じることになれば、そのぶん増殖に使えるエネルギーは減る。

耐性細胞が、薬への対処に専念する薬依存症になってしまうことさえある。たとえば、特定の標的薬に耐えるためにわざわざ生化学経路を変えてまで適応した細胞は、その標的薬がなくなれば生命維持さえおぼつかなくなる。治療をしていない通常の状況下では、耐性細胞はこうしたコストが重くのしかかり、増殖が遅れる。ゲイトンビーは薬剤耐性を、大きく頑丈な雨傘のようなものだと言う。雨が降っているときは便利だが、そうでないときは邪魔になり、あなたの行動の足かせとなる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.278 - p.279

適応療法とは、がんとの共存を目指すものと言えるでしょう。そして患者の生存期間をできるだけ延ばすことが目的です。もちろんこの戦略を実行するには、がん組織中のがん細胞の数の精密な測定と治療による変化予測が必須です。上記の引用にあるゲイントビーは数式モデルを使って予測をしたようです。



さらに「がんは進化のるつぼ」という認識にたつと、患者のがんを絶滅させる新たな戦略が見えてきます。これは地球上で過去に起こった "種の絶滅" に学んだものです。

種の絶滅というと、我々がすぐに思い浮かべるのは恐竜の絶滅です。6500万年~6600万年前、今のメキシコのユカタン半島付近に大隕石が衝突し、地球環境が激変し、恐竜が絶滅した(そして生き残った恐竜が鳥に進化した)という件です。

しかしこのような「一撃で起こる劇的な絶滅」はわずかです。ほとんどの種の絶滅は「数回の連続した打撃」によって起こる。この例として、絶滅の経緯が分かっているヒースヘンの絶滅が紹介されています。

ヒースヘンは、和名をニューイングランド・ソウゲンライチョウと言い、その名の通りライチョウに似た大型の鳥です。この鳥は北米大陸にヨーロッパ人が来たときには東海岸のあちこちにいました。ところが植民地の拡大と入植者による乱獲で、一つの島の50羽までに激減しました。その後の人々の努力で、島での生息数は2000羽までに回復しました。しかし、その繁殖地で火災が起こり、次には異常低温の冬が連続し、最終的には感染症の流行によって1932年に絶滅してしまいました。

ポイントは、ヒースヘンが数回の打撃で絶滅に至ったことと、一つの島に閉じこめられて50羽に激減するという「地理的ボトルネック」と「遺伝子のボトルネック」を経験したことです。こうなると遺伝子の多様性は失われ、感染症で全滅するようなことが起きる。かつ、一つの島で全滅してしまえばそれで種は終わりです。

この「種の絶滅モデル」を、がんの治療に応用できないでしょうか。実は、小児の急性リンパ性白血病の治療は、まさにこのような考え方だったのです。


ゲイトンビーとブラウン(引用注:ゲイントビーと共同研究をした進化生物学者)は論文で、同じような考え方がすでに小児の急性リンパ性白血病の治療法に使われていることを指摘した。その治療法は、死ぬのが確実だった病気を10人のうち9人を治せる病気に変えたが、いま話したような「種の絶滅」モデルから編み出されたものではない。医者らが試行錯誤しながら長年かけて見つけ出したものであり、それが偶然にも、ヒースヘンを絶滅に追いやったのと同じ方法だったのだ。

まず、集中的な化学療法による「第1の打撃」で大量にがん細胞を殺す。すると少数のがん細胞が生き残る。つぎに、別の作用機序の薬で「第2の打撃」を与え、最初の薬に耐性のある細胞を殺す。その後、第3、第4の打撃を与える。

ゲイトンビーらは、このモデルを使えば長年の試行錯誤をすっとばして、がんの絶滅を誘導する計画を立てることができるのではないかと説いている。自然界の種の絶滅と同じように、腫瘍内にあるがん細胞集団の個体数と遺伝子多様性をまず減らし、そこで生き残った小さい集団をつぎつぎと追いつめる。

残念ながら、現行のがん治療はそうなっていない。たとえば進行前立腺がんの場合、アビラテロンのようなホルモン阻害剤を最大耐用量で長期にわたって投与する。どのくらい長期かというと、腫瘍が縮小するまではもちろんのこと、それが再び拡大するまで、つまりアビラテロン耐性のがん細胞が出現して数を増やすまでだ。この段階で医者はやっと別の化学療法に切り替え、そのループをもういちどくり返す。

しかし、絶滅させることをめざすなら、がん細胞が耐性をつけて再び増えるまで待つのは無意味だ。がん細胞の数と多様性が減っているときに叩いたほうがいい。2番目の薬を使うのに最適のタイミングは、アビラテロンによる「第1の打撃」を与えた直後だ。そのとき生き残っているがん細胞は、アビラテロンを追い出すのに多大なエネルギーを使って消耗しているため、「第2の打撃」で息の根を止められる可能性が高い。この方法は直感的に理解しにくいため、「最初の薬が効いているのに、なぜ薬を変えるのか ?」と思う医者や患者は少なくない。だが、がんを根絶させるには従来の方法よりずっと効果的だ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.292 - p.293

こういった考え方は、がんを「進化のるつぼ」と認識することから生まれてきたものです。がん治療に新しい方法を持ち込むものと言えるしょう。


生きることと、がんになることは表裏一体


著者が最後に強調しているのは、生物に関するすべての研究は進化の視点なしには意味をなさないということです。がん研究も例外ではありません。


生物学のすべてが進化の視点なしに意味をなさないのと同じく、がんのすべても進化の視点なしには意味をなさない。このシンプルかつ厳然たる事実を認めないことが、進行転移がんの予後がほとんど改善しない理由だ。この病気の根底にある進化の性質に本気で向き合わないかぎり、今後も改善しないだろう。進化のプロセスなしに、地球の生命史は形づくられてこなかった。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.309

本書の最後に「がん研究・がん治療の最終ゴール」として目指すべきことが書かれています。以下の引用にある「ルカ」とは LUCA(Last Universal Common Ancestor = 最後の共通祖先)です。つまり地球上のすべての生命体の先祖をさかのぼると、生命の発生の起源となった1つの共通祖先に行き着くはずで、その最初に行き着いた共通祖先を言っています。


私はこの本を書くにあたり、50人以上もの研究者の話を聞き、数えきれないほどの書籍と論文を読んだ。その過程で、私たちがめざすものを最もよく表している言葉はこれだ、というのを見つけた。それは、ウェルカム・サンガー研究所の遺伝学者でがん研究の第一人者であるピーター・キャンベルが私に語ってくれた言葉だ。

私たちの最終ゴールって、何なのでしょう ? 十分長く生きてから、がんより先に死ぬことだと思いませんか ?」

現実の生活は夢でもおとぎ話でもない。だれもみな、いつかは死ぬ。私たちが望むのは不死ではない。いつかお迎えが来るときまで心身を平穏に保ちたい、それより前にがんに殺されたくはない、それが私たちの望みだ。それにもし、がんの診断後に20年も30年も生きる人が増えてくれば、薬の影響を穏やかにすることや、心理面でのサポートをすることに、よりいっそう重点が移っていくだろう。

人類の死亡率は100パーセントだが、「生命」そのものは生き続ける。細胞は増殖を止めない。全生物の共通祖先「ルカ」から始まった進化系統樹は伸び続ける。生きることと、がんになることは表裏一体だ

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.313 - p.314


感想


言うまでもありませんが、以上に紹介したのは本書のごく一部です。著者が最後に「この本を書くにあたり、50人以上もの研究者の話を聞き、数えきれないほどの書籍と論文を読んだ」と書いているとおり、サイエンス・ライター、なしは医学ジャーナリストとしての丹念な取材と調査にもとづく記述が本書の価値です。

主題となっている「がんはヒトの体内で起こる進化のプロセスである」という認識は、"なるほど" と納得性が高いと思いました。がんの標準治療である化学療法と放射線療法を見直すべきだという著者の主張は、「進化」の視点でがんを見ると当然そうなるでしょう。「がんを撲滅する」のではなく「がんを人のコントロール配下に置く」ことを目標にするわけです。

と同時に、本書には書いてありませんが、がんの免疫療法やウイルス療法の重要性も分かったと思いました。免疫療法とは、例えば本庶 佑ほんじょたすく先生(2018年ノーベル医学生理学賞)が開発の道を開いた "免疫チェックポイント阻害薬" による治療であり、ヒトが本来もつ免疫機能でがん細胞を攻撃するものです。またウイルス療法は、藤堂 具紀とうどうともき先生の "デリタクト注"(= 薬剤名。2021年に日本で承認)が代表的です(No.330「ウイルスでがんを治療する」)。

免疫機能もウイルスも、生命の歴史の中で進化ないしは共存してきたものです。従って、がんの撲滅はできないかもしれないが、そのコントロールに役立つでしょう。少なくとも、化学療法によって耐性がん細胞を出現させ、結果として手がつけられなくなるようなことは無いと思います。



「進化」という言葉を用いずに本書の内容を1文で要約すると、次の3つのどれかになるでしょう。

・ がんは多細胞生物の宿命である。
・ がんは生きるための代償である。
・ 生きることと、がんになることは表裏一体である。

どれも正しいと思いますが、「宿命」や「代償」という言葉には価値判断が入っています。その意味では、著者が最後に書いている「表裏一体」が最も適切な言葉だと思いました。




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No.335 - もう一つの「レニングラード」 [音楽]

No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 レニングラード」で、この交響曲が作曲された経緯とレニングラード初演に至るまでのプロセスを書きました。ショスタコーヴィチはレニングラード(現、サンクトペテルブルク)の人です。この曲は、独ソ戦(1941~)のさなか、レニングラードがドイツ軍に完全包囲される中で書き始められました。その後、政府の指示でショスタコーヴィチは安全な地に移され、そこで曲は完成し、レニングラードでの初演は1942年8月に行われました。

ところで最近、「レニングラード」と題した別の曲があることを思い出しました。ビリー・ジョエルの「レニングラード」です。なぜ思い出したのかというと、2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵略戦争です。この過程で種々の情報に接するうちに、思い出しました。そのことは最後に書きます。


ビリー・ジョエル「レニングラード」


ビリー・ジョエルは1987年にソ連(当時)で公演を行いました。その時に知り合ったロシア人のサーカスの道化、ヴィクトルとの交流を描いた楽曲が「レニングラード」です(1989年のアルバム「Storm Front」に収録)。ちなみにソ連の崩壊はその2年後の1991年でした。詩は次の通りです。試訳とともに掲げます。

なお人名の Victor は、英語圏ではヴィクターでビリー・ジョエルもそう歌っていますが、試訳ではロシア人名の一般的な日本語表記のヴィクトルとしました(ヴィクトールとすることもあります)。


Leningrad
Lyrics by Billy Joel

Victor was born in the spring of '44
And never saw his father anymore
A child of sacrifice, a child of war
Another son who never had a father
after Leningrad

Went off to school and learned to serve his state
Followed the rules and drank his vodka straight
The only way to live was drown the hate
A Russian life was very sad and such was life
in Leningrad

I was born in '49
A cold war kid in the McCarthy times
Stop 'em at the 38th parallel
Blast those yellow reds to hell
And cold war kids were hard to kill
Under their desks in an air raid drill
Haven't they heard we won the war
What do they keep on fighting for?

Victor was sent to some Red Army town
Served out his time, became a circus clown
The greatest happiness he'd ever found
Was making Russian children glad
And children lived in Leningrad.

But children lived in Levittown
hid in the shelters underground
'Til the Soviets turned their ships around
And tore the Cuban missiles down
And in that bright October sun
We knew our childhood days were done
I watched my friends go off to war
What do they keep on fighting for?

So my child and I came to this place
To meet him, eye to eye and face to face
He made my daughter laugh, then we embraced
We never knew what friends we had
Until we came to Leningrad



【試訳】

レニングラード
詩:ビリー・ジョエル

ヴィクトルは1944年の春に生まれ
父に会ったことがない
戦争中に生まれた、犠牲者の子
もう一人の息子も
レニングラード後は父親がいない

学校に行き、国に尽くすことを学んだ
規則に従い、ウォッカをストレートで飲んだ
唯一の生きる道は、嫌なことを紛らせること
ロシア人の一生はとても悲しい
レニングラードでの暮らしも

僕は1949年に生まれた
マッカーシー時代の冷戦の子
38度線でくい止めろ
黄色い共産主義者を打ちのめせ
だけど、冷戦時代の子供たちは殺しはしない
防空訓練で机の下に隠れるだけ
彼らは戦争に勝ったとは聞かなかったのか
何のため戦い続けるのだろう

ヴィクトルは赤軍の町に送られ
兵役を務め上げると、サーカスの道化になった
そこで見つけた最大の幸せは
ロシアの子供たちを喜ばせること
そしてレニングラードに住む子供たちも

レヴィットタウンに暮らす子どもたちは
地下のシェルターに身を隠した
ソヴィエトの船団が引き返して
キューバのミサイルが取り壊されるまで
そして晴れやかな10月の太陽の中
僕らは子供時代が終わったことを知った
僕は友人が戦争に出征するのを見届けた
彼らは何のため戦い続けるのだろう

そして僕と娘はこの地にやってきて
彼と会い、顔と顔、目と目を合わせた
彼は娘を笑わせ、僕らは抱擁を交わした
そこに友がいようとは思いもしなかった
レニングラードに来るまでは


STORM FRONT.jpg
ビリー・ジョエル
ストーム・フロント」(1989)
アルバムの7曲目に「レニングラード」が収録されている。画像は CD のジャケットより。


ヴィクトルとビリー


詩を読んで明らかにように、これはビリー・ジョエルの経験をもとに、米ソ冷戦時代のロシア人・ヴィクトルとビリーの半生を描いています。何点かポイントを書きます。

 1944年春 

ヴィクトルが生まれたのは1944年春とあります。

ヒットラーの率いるドイツ軍がポーランド侵略を始めたのは1939年9月でしたが、1941年6月にはソ連に侵攻しました。そして1941年9月にはレニングラードを包囲し、ここからレニングラード包囲戦が始まりました。ソ連軍が反撃に転じて最終的にレニングラードが解放されたのは 1944年1月です。

ということは、ヴィクトルの母が身ごもったのは包囲戦の最中で、レニングラード解放後すぐにヴィクトルが誕生したことになります。この間にヴィクトルの父親は亡くなった。だから父親を知らない。ヴィクトルは奇跡的に生まれた子といってよいでしょう。

また詩によると、ヴィクトルには兄弟がいます。この兄弟はおそらく兄で、その兄は父親を知っていると考えられます。レニングラード包囲戦より以前に生まれたのかもしれない。詩に「Another son who never had a father after Leningrad」とあります。"レニングラード後の" 父親を知らないというのは、そういう意味でしょう。

 冷戦 

アメリカとソ連の冷戦は、主としてビリーの眼を通して語られます。まず、ビリーは米国におけるマッカーシズム(いわゆる "赤狩り")の時代に生まれました。朝鮮戦争(1950-1953)があり、核戦争に最も近づいたといわれるキューバ危機(1962)があった。子供時代のあとは「友人が出征するのを見届けた」とあるので、これはベトナム戦争(1955-1975)でしょう。そういった中で、学校での防空訓練やシェルターに避難した経験が語られています。

ビリー・ジョエルはニューヨークのブロンクスの生まれですが、ニューヨークの東に位置するロングアイランドで育ちました。レヴィットタウンはそのロングアイランドの街の名前です。

  

ビリー・ジョエルにはアレクサという娘がいて、1987年のソ連公演には当時1歳だった彼女を連れていったそうです。それが詩の最後のパラグラフに反映されています。

1987年といえば、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカがすでに始まっています。とはいえ、アメリカとソ連の冷戦はまだ続いています。アメリカ人の歌手がソ連でコンサートをするのは異例だった。その中でビリーが家族を連れていったというのは、音楽を通して両国民の融和に寄与したいという思いからでしょう。

そして詩の最後にあるように、冷戦時代を生きてきたロシアの道化とアメリカのミュージシャンの人生は、レニングラードで交わった。ヴィクトルはアメリカからやって来た女の子を笑わせました。あたりまえと言えばあたりまえです。しかしその "あたりまえ" が障害なしにできる世界、ビリー・ジョエルの「レニングラード」はそれを願って作られた作品だと思います。


2022年 2月 24日


2022年2月24日、ロシアはウクライナ侵略を開始しました。この過程で我々は、従来あまり知らなかった情報にいろいろと接したわけですが、その中にこの侵略の張本人であるプーチン大統領のことがありました。この人は 1952年生まれといいますから、ビリ・ジョエルとほぼ同世代です。そしてレニングラード出身です。

彼は三男で、2人の兄はプーチンが生まれる前に亡くなっています。そして2人目の兄はレニングラード包囲戦の間に死亡しているのですね。両親はレニングラード包囲戦を生き延びたわけです。レニングラードでは100万人規模の市民の死者で出たと言われています(公式発表は70万人程度)。ほとんどが餓死だったそうです。

考えてみると、この世代の日本人は親から太平洋戦争中はどうだったかを繰り返し聞かされたはずです。それと同じで、レニングラード包囲戦を生き延びた夫婦は、戦後に生まれた息子に戦争はどうだったか、ドイツ軍にどうやって勝利したかを何度も聞かせたと想像します。

そのプーチン大統領は、レニングラード包囲戦(1941~1944)から80年後にウクライナ侵略戦争を開始しました。核兵器による脅しとともに ・・・・・・。これは世界の安全保障の枠組みを根本的に変えつつあり、1991年のソ連崩壊で終わったはずだった冷戦時代に再び世界を逆戻りさせそうな状況です。

それはビリー・ジョエルが「レニングラード」で願った世界とは真逆の方向でしょう。そしてビリーの友人となったレニングラード出身のサーカスの道化、ヴィクトルの思いとも正反対のはずです。

数々の情報に接すると、この現在進行形のウクライナ侵略は、プーチン大統領個人の資質もあるのだろうけれど、ロシア帝国以来、ソヴィエト連邦を経てずっと独裁国家であり続けているロシアの政治体制の病理を見た思いがします。




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No.334 - 中島みゆきの詩(19)店の名はライフ [音楽]

No.328「中島みゆきの詩(18)LADY JANE」で書いたように、《LADY JANE》(アルバム「組曲」2015) という曲は下北沢に実在するジャズ・バーがモデルでした。これで思い出すのが、No.328 にも書いたのですが、《店の名はライフ》(1977)です。2つの楽曲には 38年の時間差があるのですが「実在の店がモデル」で「屋号がタイトル」いう点でよく似ています。今回はその《店の名はライフ》の詩について書きます。

なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。


店の名はライフ


「店の名はライフ」は、3作目のオリジナル・アルバム「あ・り・が・と・う」(1977)に収められている作品で、次のような詩です。


店の名はライフ

店の名はライフ 自転車屋のとなり
どんなに酔っても たどりつける
店の名はライフ 自転車屋のとなり
どんなに酔っても たどりつける
最終電車を 逃したと言っては
たむろする 一文無したち
店の名はライフ 自転車屋のとなり
どんなに酔っても たどりつける

店の名はライフ おかみさんと娘
母娘で よく似て 見事な胸
店の名はライフ おかみさんと娘
母娘で よく似て 見事な胸
娘のおかげで 今日も新しいアルバイト
辛過ぎるカレー みようみまね
店の名はライフ おかみさんと娘
母娘で よく似て 見事な胸

店の名はライフ 三階は屋根裏
あやしげな運命論の 行きどまり
店の名はライフ 三階は屋根裏
あやしげな運命論の 行きどまり
二階では徹夜でつづく恋愛論
抜け道は左 安梯子
店の名はライフ 三階は屋根裏
あやしげな運命論の 行きどまり

店の名はライフ いまや純喫茶
頭のきれそな 二枚目マスター
店の名はライフ いまや純喫茶
頭のきれそな 二枚目マスター
壁の階段は ぬり込めてしまった
真直ぐな足のむすめ 銀のお盆を抱えて
「いらっしゃいませ」 ・・・・・・

店の名はライフ 自転車屋のとなり
どんなに酔っても たどりつける
店の名はライフ 自転車屋のとなり
どんなに酔っても たどりつける

A1977「あ・り・が・と・う」

ありがとう.jpg
中島みゆき
あ・り・が・と・う」(1977)
① 遍路 ② 店の名はライフ ③ まつりばやし ④ 女なんてものに ⑤ 朝焼け ⑥ ホームにて ⑦ 勝手にしやがれ ⑧ サーチライト ⑨ 時は流れて

この詩は、各種メディアで紹介されているように、また中島さん自身がコンサートなどで語っているように、実際にあった店がモデルになっています。当時、ふじ女子大学の学生だった中島さんが訪れていた、北海道大学の正門前の喫茶店「ライフ」です。

詩にあるように「ライフ」は自転車屋の隣にありました。また喫茶店は2階で営業していたようで「二階では徹夜でつづく恋愛論」とあるのはそのためです。また3階があって、終電を逃した客が宿泊できるようになっていた。「三階は屋根裏 あやしげな運命論の行きどまり」となっているのはその理由です。

北大正門前ということで、ほとんどの客は学生だったはずです。その彼等・彼女等が、けんけんがくがくで恋愛論や運命論を交わしている ・・・・・・。そういった店がモデルになっています。

その意味でこの詩は中島さん自身の体験・経験・実感がストレートに扱われています。こういったたぐいの詩は中島作品の中では比較的少数です。その意味では貴重な作品といえるでしょう。



その「体験・経験・実感」ということで一つ着目したいのは、詩の中の、

おかみさんと娘 母娘でよく似て 見事な胸

という表現です。実際に「ライフ」のママと娘がそうだったのでしょう。この言い方を聞いて直感的に思い当たるのが、《店の名はライフ》の14年後に書かれた《た・わ・わ》(アルバム「歌でしか言えない」1991)です。


た・わ・わ

モンローウォークにつられてつい振り返る
男心はみんな彼女のマリオネット
胸は熟したフルーツさ眩暈を誘う
みんな寝不足なのさ彼女の夢で
醒めてもうつつ幻づくめ
悩ましい膝組みかえながら

・・・・・・・・
A1991「歌でしか言えない」

男心をわしづかみにする "彼女" に "あいつ" をとられそうになっている女性の心情を語った詩ですが、その「男心をわしづかみ」の一番のポイントは、詩の題が示すように "たわわな胸" なのですね。

中島さんはどこかのインタビューかラジオで「豊かな胸ではないのが自分のコンプレックス」という意味の発言をしていたと思います。これを聞いて思ったのは ・・・・・・。

中島さんは、作詩、作曲、歌唱のどれをとっても超一流で、小説も書き、舞台作品の作・演出・主演・プロデュースまでやっています。アーティストとして、多方面の "天賦の才" を与えられた人だと思います。努力だけではとてもここまでできない。しかも、かなりの美形です。にもかかわらず、さらに "豊かな胸が欲しい" というのは厚かまし過ぎる ・・・・・・ と思ったわけです。

しかし、こういった自分のフィジカル面での不満やコンプレックスや欲望は、メンタルな面とは切り離した形で、多かれ少なかれ誰にでもありそうです。身長から始まって、顔かたちなどいろいろある。それは人間であればやむを得ないのでしょう。

"胸" は普通、"心情" とか "思い" とか "心" とか、そういうメンタルな意味合いで使われます。中島作品に現れる "胸" もほとんどがそうです。"胸" をフィジカルな意味に使ったのは《店の名はライフ》と《た・わ・わ》の2つだけだと思います。

《店の名はライフ》では、店のママと娘さんを形容するときに「働き者のおかみさん」とか「気立てのよいママ」とか「やさしい娘」とか、そういう意味合いの表現ではなく、「母娘でよく似て 見事な胸」が唯一の描写になっています。そういうところにも、この詩が中島さんの経験と実感が投影されていると思います。


時の流れ


もう一つ、《店の名はライフ》の詩で注目したいのは、店の変遷が描かれていることです。「おかみさん(母)」と「娘」が、"カレーも出す喫茶店" をやっていた。その後、店の経営が替わり、二枚目のマスターとウェイトレスの "カレーは出さない純喫茶" になった。直接そとに出られる梯子も無くなった。自転車屋の隣という場所は変わらないけれど ・・・・・・。そういった時の流れが描かれていることが特徴です。

ここで思いつくのは、《店の名はライフ》が収録されているアルバム「あ・り・が・と・う」には "時の流れ" に関係した詩が多いことです。つまり

・ 過去と現在の対比
・ 過去の思い出や記憶
・ 現在に進入してくる過去
・ 時間の経過による移り変わり

といった内容です。「あ・り・が・と・う」に収録されたのは9曲で、

① 遍路
② 店の名はライフ
③ まつりばやし
④ 女なんてものに
⑤ 朝焼け
⑥ ホームにて
⑦ 勝手にしやがれ
⑧ サーチライト
⑨ 時は流れて

ですが、このうち《店の名はライフ》を含む6曲は時の流れをテーマに(ないしは詩の背景と)しています。詩のごく一部を抜き出してみます。



遍路

はじめて私に スミレの花束くれた人は
サナトリウムに消えて
それきり戻っては来なかった
  ・
  ・
  ・
手にさげた鈴の音は
帰ろうと言う 急ごうと言う
うなずく私は 帰り道も
とうになくしたのを知っている

・・・・・・・・

まつりばやし

肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
まつりばやしが 今年も近づいてくる
丁度 去年の いま頃 二人で 二階の
窓にもたれて まつりばやしを見ていたね

・・・・・・・・

朝焼け

・・・・・・・・

眠れない夜が明ける頃
心もすさんで
もうあの人など ふしあわせになれと思う
昔読んだ本の中に こんな日を見かけた
ああ あの人は いま頃は
例の ひとと 二人

・・・・・・・・

ホームにて

この詩は、No.185「中島みゆきの詩(10)ホームにて」で全文を引用しました。中島作品を代表する曲の一つで、名曲です。

時は流れて

・・・・・・・・

あんたには もう 逢えないと思ったから
あたしはすっかり やけを起こして
いくつもの恋を 渡り歩いた
その度に 心は 惨めになったけれど
そして あたしは 変わってしまった
  ・
  ・
  ・
時は流れて 時は流れて
そして あたしは 変わってしまった
時は流れて 時は流れて
そしてあたしは
あんたに 逢えない



最初と最後の曲がこのアルバムの性格を物語っています。《遍路》とは "霊場となっている寺院・仏閣を、時間をかけて順に巡る" ことで、その言葉が象徴的に使われている。最後の《時は流れて》は、まさにそのものズバリです。

そういった位置づけに《店の名はライフ》もあります。そして、中島さんがわざわざこの詩を書いたのは、まさしく店の名前が "ライフ" だからではないでしょうか。


それが "ライフ" だから


中島作品には "言葉" に敏感に反応し、言葉からインスピレーションを得たものが数々あります。《店の名はライフ》もそうだと思います。

"ライフ" に相当する日本語を3つに絞ってあげると、「命」「生活」「生涯」といったところでしょう。要するに "生きている" ということです。今を生きている(=命)、時間経過を考慮した生きる(=生活)、長期間の視点での生きる(=生涯)の3つです。

《店の名はライフ》で描かれるのは、恋愛論や運命論をぶつけ合う客たちの "今" であり、店をきりもりするおかみさんと娘の "生活" であり、店の "半生" といったら大袈裟ですが、二枚目マスターへと変わった店の変遷です。つまり店の "life" が描かれています。一つの "生命体" のようであり、店にも "ライフ" がある。

まさに、この店の屋号が "ライフ" だから、この詩が作られた。少なくとも詩作の動機の一つになった。そう思いました。




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No.333 - コンクリートが巨大帝国を生んだ [歴史]

今まで古代ローマについて何回かの記事を書いたなかで、ローマの重要インフラとなった各種の建造物(公衆浴場、水道、闘技場、神殿 ・・・・・・)を造ったコンクリート技術について書いたことがありました。


の2回です。実は、NHKの番組「世界遺産 時を刻む」で、古代ローマのコンクリート技術が特集されたことがありました(2012年)。この再放送が最近あり、録画することができました。番組タイトルは、


世界遺産 時を刻む
土木 ~ コンクリートが巨大帝国を生んだ ~
NHK BSP 2022年3月2日 18:00~19:00


です。番組では現代に残る古代ローマの遺跡をとりあげ、そこでのコンクリートの使い方を詳細に解説していました。やはり画像を見ると良く理解できます。

そこで番組を録画したのを機に、その主要画像とナレーションをここに掲載したいと思います。番組の全部ではありませんが、ローマン・コンクリートに関する部分が全部採録してあります。


古代ローマのコンクリート


【ナレーション】
(NHKアナウンサー:武内陶子)

永遠の都、ローマ。立ち並ぶ巨大な建築は、ローマ帝国の栄光と力を今に示しています。その街並みを作ったのが、高度な土木技術です。

古代の最も優れた土木技術と言われるローマの水道。地下水道をささえているのはコンクリートです。円形闘技場、コロッセオ。5万人の観客が入る巨大娯楽施設でした。コロッセオもまた、そのほとんどがコンクリートで造られています。実は、古代ローマの街を形成する建造物のほとんどがコンクリートで出来ているのです。


円形闘技場:コロッセオ


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円形闘技場:コロッセオ

【ナレーション】

考古学者のジュリアーナ・ガッリさん。25年間、古代ローマ建築を研究するうちに、ローマ独特のコンクリートの重要性を知りました。

【ジュリアーナ・ガッリ】

(コロッセオを指して)この建物は、石積みの柱以外はコンクリートです。表面は大理石が覆っていました。(柱の部分を指して)この部分が石積みの柱です。あの穴には大理石の板を固定する金具が刺してありました。柱と柱の間に灰色の部分が見えます。アーチは全部コンクリート製なんです。あそこは壁の煉瓦が剥がれてコンクリートがむき出しになっていますね。柱以外はコンクリートで出来ていることがよく分かります。コンクリートは観客席まで続いています。

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コロッセオの説明をする考古学者のジュリアーナ・ガッリさん

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コロッセオの柱は石で出来ている。表面を覆っていた大理石の板を固定するための穴が見える。

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柱と柱の間にあるアーチはコンクリート製である。

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壁の煉瓦が剥がれて、柱の間のコンクリートがむき出しになっている。このコンクリートは観客席まで続いている。

【ナレーション】

ローマ帝国の栄華を支えたと言われるコンクリート。この万能の建材は古代ローマコンクリートと呼ばれ、身近な産物から生まれました。

【ジュリアーナ・ガッリ】

あるものが発見されたことで、古代ローマ人はコンクリートを使いこなせたのです。コンクリートを作り出したのはこの「魔法の砂」でした。

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ジュリアーナ・ガッリさんが手に、持った「魔法の砂」を見せている。

【ナレーション】

ここはローマ近郊の採掘所。ジュリアーナさんが持っていた魔法の砂が掘り出されています。ポッツォラーナと呼ばれます。

【ジュリアーナ・ガッリ】

ポッツォラーナは、もともとナポリの近くにあるポッツォーリ地方の火山灰のことでした。ヴェスビオ火山の灰です。その後、イタリアの火山灰全体を指すようになりました。堆積して固まった火山灰を細かく砕いたのがこのポッツォラーナです。

【ナレーション】

魔法の砂、ポッツォラーナとは、火山の噴火で生まれる火山灰です。火山国のイタリア、特に中南部には、数多くの火山が連なっています。

火山灰を建造物に最初に利用したのはエトルリア人でした。紀元前9世紀頃からイタリア半島に住んでいたエトルリア人。彼らは火山灰に水や石灰を混ぜてコンクリートのもとになるセメントを作り出しました。紀元前4世紀頃から、古代ローマはエトルリア人を制圧。その技術を自分たちのものにします。

では、火山灰をどのように古代コンクリートに生まれ変わるのでしょうか。2つの容器に石灰が入れてあります。そこに水を加えるとゆっくりと固まっていきます。右の容器に火山灰、ポッツォラーナを加えてみましょう。

【ジュリアーナ・ガッリ】

5時間後、石灰と水を混ぜた方はまだどろどろです。しかしそこにポッツォラーナを加えた方は固まってきました。これがセメントです。セメントにいろいろな石材と混ぜるとコンクリートが出来ます。こうして古代ローマ人は万能の建材、コンクリートを手に入れたのです。

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石灰 + 水 + ポッツォラーナを混ぜた右の容器は、5時間後に固まってきている。左の石灰 + 水の容器は、まだドロドロの状態である。

【ナレーション】

火山灰の中では噴火で熱せられた酸化ケイ素が急速に冷やされガラス化し、化学反応しやすくなっています。石灰と水にこの酸化ケイ素を加えると、強い結合力を持つセメントになります。このセメントに砂や石を混ぜて強度を高めたのがコンクリートでした。火山の力が酸化ケイ素を化学反応しやすい形に変え、コンクリートの原料を大量にもたらしたのです。



紀元前3世紀頃、古代ローマ人はコンクリートを城壁の建設に使い始めました。セメントに砂や石を混ぜる割合などを工夫して強固なコンクリートを作り出し、エトルリア人から受け継いだ技術を発展させます。

その技術を生かしたのが歴代の皇帝でした。皇帝にとって、国民の支持を得て政権の安定を図ることが何より必要でした。そのために人口が集中するローマに市民のための公共施設をコンクリートで次々に造ったのです。


ヴィルゴ水道


【ナレーション】

観光客で賑わうトレビの泉。後ろ向きにコインを投げ入れると再びローマを訪れることができるという人気スポットです。

泉に水を運んでくるのは、古代ローマの地下水道です。建設したのは初代皇帝、アウグストゥスでした。紀元前27年に即位したアウグストゥスは、公共施設の整備に力を入れます。その一つが水道でした。

地下遺跡をめぐる同好会のメンバー、ダビデ(・コムネール)さんです。古代ローマの技術を調べてきたダビデさんに、地下水道を案内してもらいます。

水道を管理する建物から地下に入ります。水面が見えてきました。地下20メートルです。全長20キロ。地下部分が2キロあるこのヴィルゴ水道。今もきれいな水が流れています。

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ヴィルゴ水道の内部。現在もきれいな水が流れている。

【ダビデ・コムネール】

これは現役で使われている唯一の古代ローマの水道です。皇帝、アウウグストゥスが共同浴場のために作りました。水道の終点は泉にして市民の目を楽しませたのです。

天井も壁も床もすべてコンクリート製です。すでにローマ人が自在にコンクリートを使いこなしていたことが分かりますね。

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ダビデ・コムネールさんがヴィルゴ水道の説明をしている。水道の天井、壁、床面はすべてコンクリート製である。

【ナレーション】

厚さ30センチのコンクリートにしっかりを支えられた地下空間です。コンクリートは作業がしにくいこうした現場に適していました。石材ほど運搬に人手がかからず、短時間で固まるからです。コンクリートは防水性にも優れています。床面に使うことで水漏れを防ぐことができました。

【ダビデ・コムネール】

ほとんで分かりませんが、ヴィルゴ水道は1キロに対し34センチほどの傾斜がつけてあります。これによって水は20キロ離れた水源からローマ市内まで流れてくることが出来るのです。微妙な傾斜をつけるのにコンクリートはうってつけでした。ローマ皇帝は戦争に勝つだけでは権威を保てません。人心を掌握するために市民生活を豊かにするこうした施設を次々に作る必要があったのです

【ナレーション】

2世紀までにローマに11本の水道が作られ、150万人の生活をまかなっていたと言います。コンクリート技術が大都市に豊かな水の安定供給を実現しました。


再びコロッセオ


【ナレーション】

第9代皇帝、ウェスパシアヌスです。彼が紀元79年に建設を始めたのが円形闘技場、コロッセオでした。皇帝ネロが暗殺されたあとの内乱を制したウェスパシアヌス。暴君と言われたネロが作った人工池を埋め立て、巨大な娯楽施設を建設することで支持を得ようとします。ここで行われた剣闘士の戦いは市民を興奮させました。

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コロッセオ

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(上)剣闘士の闘技会のモザイク画。倒れている剣闘士の名前のそばに φ の文字があるが、これは死を意味する。(下)闘獣士の野獣狩りのショーの様子で、動物はヒョウである。闘技会の前座として行われた。No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」参照。

およそ8割がコンクリートというコロッセオ。舞台を支える地下構造はすべてコンクリートです。観客席もコンクリートを流し込んで作られています。

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コロッセオの地下構造。舞台を支える地下構造はすべてコンクリート製である。

【ジュリアーナ・ガッリ】

こんな巨大な建物が8年で完成しました。コンクリートは形が自由に作れて材料の運搬が簡単でした。また値段の安さが威力を発揮したのです。

【ナレーション】

コロッセオの建設をになったのは、戦争の捕虜や奴隷でした。訓練されていない労働者でもコンクリートは扱えました。石造りに求められるような熟練技術者の数はごく少数で済みました。これもコンクリートの大きなメリットです。


トラヤヌスの記念柱


【ナレーション】

第13代皇帝、トラヤヌスは、コンクリートを存分に活用して領土を拡大します。

ローマ市内に立つ石柱。トラヤヌスが、今のルーマニアに位置するダキアとの戦いに勝利した記念碑です。戦闘風景が描かれた柱には大土木工事の様子も見られます。兵士たちが運ぶ大量の煉瓦。コンクリートを流し込む枠に使われたと言われます。

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トラヤヌスの記念柱と、煉瓦を運ぶ兵士のフリーズ。

建設されたのはドナウ河にかかる巨大な橋でした。ルーマニアを望むドナウ河の岸辺に橋脚が残っています。コンクリート製です。材料の火山灰はイタリアから運んだと言います。橋は2年で完成。早く固まり、短時間で建造物を作り出すコンクリートは軍事目的に適していました。橋を渡ったローマ軍は一気にダキアを攻略します。

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ドナウ河畔に残る橋脚と、完成した橋の想像図。

トラヤヌスは領土を拡大する戦争を推進。彼が皇帝の座にあったときに、ローマ帝国の領土は最大となります。東西 5000キロ、南北 3500キロという広大な地域を支配することになったのです。



石で造られた、エジプトのピラミッド、ギリシャのパルテノン神殿の紹介。それぞれ高度な土木・建設技術であるが、コンクリートのような素材は使われていない。



【ナレーション】(俳優:向井理)

ふたたびローマです。コンクリート技術によって築かれた永遠の都。その象徴といえるのがパンテオン神殿です。ローマの神々を祭る巨大な空間。円形ドームは当時のコンクリート技術の極みと言われます。自ら設計に携わったといわれるのが、第14代皇帝、ハドリアヌスです。五賢帝の一人、ローマ帝国に最大の国土と安定をもたらした皇帝です。


ティボリのハドリアヌス帝別荘


【ナレーション】(武内)

技術者としての才能にも長けていた皇帝、ハドリアヌス。その手腕を十分に発揮した建造物がローマ近郊にあります。世界遺産、ティボリのハドリアヌス帝別荘です。皇帝自ら設計した別荘は15年かけて造られ、紀元133年に完成しました。東京ドーム26個分という広大さ。3000人近くが住み、一つの町と呼べるほどの規模でした。30あまりの建物から主なものを見てみると、皇帝の宴会場、池を巡る遊歩道、皇帝の執務室、皇帝の住まい、そして住民のための大浴場。

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ローマ近郊のティボリのハドリアヌス帝別荘

大浴場はすべてコンクリートで出来ていました。ここは風呂あがりにマッサージを受け、談笑を交わす大広間です。日の出とともに働き、午後からは公共浴場でゆったりと過ごす。それが古代ローマ人の生活習慣でした。

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ハドリアヌス帝別荘の大浴場と大広間

こちらは使用人のための集合住宅。煉瓦の内側はコンクリートです。大きな建物を速く簡単に造れるコンクリートは、集合住宅にうってつけでした。

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使用人のための集合住宅。外壁の煉瓦の内側はコンクリートである。

考古学者・ジュリアーナさんに皇帝が住んでいた区画を案内してもらいます。ハドリアヌスが最も気に入っていたという建物です。

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「海の劇場」と呼ばれるハドリアヌス帝の住居跡

皇帝の住まいです。水に囲まれた舞台のような形から「海の劇場」と名付けられています。ここもハドリアヌス自身が設計したといわれます。プライベートな空間を囲む水路。設計には水も巧みに取り入れられています

【ジュリアーナ・ガッリ】

すばらしいですね。ここが皇帝が生活していた場所です。中庭もありました。その横は最もプライベートな場所、寝室です。ベッドが置かれていました。皇帝のベッドです。ほら、煉瓦が崩れてコンクリートが見えてます。灰色の部分がセメント。その中に大ぶりの石が混ぜてありますね。

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皇帝の寝室の壁。煉瓦が崩れてコンクリートが見えている。

ハドリアヌスは孤独を愛したので、広い別荘で人と交わらずに過ごそうとしました。特に自分を外界から隔てるために水路は重要でした。

【ナレーション】

この建物、最大の特徴は完全な円形をしていることです。木枠にコンクリートを流し込んで基礎を造りました。外壁、水路、住まいの敷地は、3つの同心円でデザインされています。規模の大きさや豪華さを競い合った当時のローマ帝国の建物と違って、円形のデザインからは独創的で洒落たセンスが伝わってきます。

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「海の劇場」の上空からの画像と、復元想像図。

コンクリートを使えば、思い通りの造形が簡単にできます。皇帝がイメージした完全な円形の住居を石で造り出すのは大仕事ですね。でもコンクリートなら、設計者の発想を自由に表現することができるのです。

コンクリートだから可能になったさまざまな造りが、建物のここかしこに見られます。

【ジュリアーナ・ガッリ】

こちらは小さなスペースを利用したトイレ。煉瓦の壁の中はコンクリートです。ここには大理石の便座が渡されていて、水を流す管を置いたコンクリートのへこみが残っています。

【ナレーション】

住まいにふんだんに用いたコンクリート。ローマ帝国を支える土木技術への、皇帝の愛着が伝わってきます。



ハドリアヌスが広大はローマ帝国の各地を視察したことの解説。ローマ帝国は領土にした各地に土木技術を使った建造物を造った。



視察で知った帝国の現状を統治にどう生かしていくのか。ハドリアヌスは別荘で考え抜きました。政策決定で重要な意味を持ったのがこの場所です。それは皇帝の執務室。

【ジュリアーナ・ガッリ】

壁に7人の哲学者の像があったので「哲学者の間」と呼ばれています。像の前の玉座に座り、皇帝は仕事をしました。彼はローマよりこの別荘に居ることを好んだので、ここは政治にも大きな役割を果たした場所でした。

【ナレーション】

執務室で国政に集中するハドリアヌス。疲れを癒したのがこのドームと言われます。ドームには華麗なフレスコ画が描かれていました。壁の窪みには神々の彫像が並んでいました。装飾の素晴らしさだけでなく、このドームにはローマ帝国の土木技術の粋が詰まっています。コンクリートならではの特徴を生かした建築方法です。

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ドームとその復元想像図

【ジュリアーナ・ガッリ】

これはさまざまな分野で働く人々の技術の結晶です。木材を組み合わせて木枠を造る人、コンクリートを混ぜて木枠に流し込む人、コンクリートの原料を輸送する人、そうした専門家の能力と組織力が十分に発揮されたと言えます。

【ナレーション】

どんな技術が用いられているのか、見ていきましょう。まず、基礎の部分に煉瓦を積み上げ枠を作ります。そこに石を混ぜたセメントを流し込みます。これで全体の重みを支えるコンクリート基盤ができます。次は木で足場を作り、ドーム形の精密な木枠を組んでいきます。外側にも木枠を組み、内と外の間にコンクリートを入れます。上に行くに従って、混ぜる石の重さを軽くしていきます。頂上部分に混ぜるのは軽石です。コンクリートの厚さも上の方ほど薄くして、極力、重量を減らします。こうして、正確な曲線と一定の強度のあるドームを造ることができたのです。

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ドームの建築方法と、現代のドームの正面画像


パンテオン神殿


【ナレーション】

別荘で使われた技術を、ハドリアヌスがさらに極めた建造物があります。パンテオン神殿です。

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パンテオン神殿

世界の建築史上、傑作の一つとされるパンテオン。直径43メートルのドームは完成から1000年以上、世界最大の規模を誇っていました。

【ジュリアーナ・ガッリ】

このコンクリートドームは、古代ローマの土木技術の頂点と言えます。斬新な設計を追求した皇帝の強い意志と、それを実現した人々の高い技術力が感じられます。

【ナレーション】

ここには鉄筋は使われていません。鉄筋なしでこの大きさのドームと造ることは、現代の技術をもってしても至難の技です。

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パンテオン神殿のドーム。コンクリートだけでこの構造が造られている。

ドームの厚さは最大で6メートル。上にいくにつれて薄くなり、頂上では 1.5メートルになります。厚さを調整することで全体を軽くしているのです。4角に窪んだ装飾は建物を軽くするとともに、段をつけることで壁を補強したと言われます。コンクリートで正確な円が造り出されたドーム。そこには、広大な帝国を治めるハドリアムスの決意がこめられていました。

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ドームの4角に窪んだ装飾

天井から床までの高さは、横幅と同じ43メートルです。そのため、ドームの丸みに合わせた球体がすっぽりと入ります。歴代ローマ皇帝は、地中海を中心とした帝国の領土を球体と考えていました。これは、初代皇帝アウグストゥスがエジプトのクレオパトラを打ち破った時の記念銀貨。勝利の女神が世界を表す球体の上に立っています。ハドリアヌスは、パンテオンの中に世界全体を包み入れることでその権威を示したのだと言われます。

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初代皇帝アウグストゥスがエジプトのクレオパトラを打ち破った時の記念銀貨。。勝利の女神が世界を表す球体の上に立っている。



万里の長城、マチュピチュの紹介。また、ハドリアヌスが紀元130年にエジプトのテーベや王家の谷の近くにあるメムノンの巨像を訪れたことの説明。


再びティボリのハドリアヌス帝別荘


【ナレーション】

ハドリアヌスがエジプトの旅の思い出を別荘に再現した水路です。ナイル河の支流、カノープスを模していると言われます。水路の端にあるコンクリートドームからこの情景を楽しみました。岸辺にはナイルで目撃したワニの彫刻も置かれています。ここで皇帝はしばしば大宴会を主催しました。

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ティボリのハドリアヌス帝別荘の水路

【ジュリアーナ・ガッリ】

ここにはコンクリートで造られた寝台のようなものがあり、貴族たちは奴隷の給仕で宴会をしていました。宴会のとき、彼らはこのように横になり、ふんだんに提供される貴重な肉や果物を楽しみました。皇帝は安全の為に、あの上に居たんです。

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皇帝の玉座から見た水路(カノープス)。手前にコンクリートで造られた寝台のようなものがあり、貴族たちは奴隷の給仕で宴会をした。

【ナレーション】

皇帝の玉座から見たカノープスです。宴会では楽士が音楽を奏で、曲芸師が芸を披露しました。皇帝はどんな料理で人々をもてなしたのか。古代ローマ料理の研究家、ジュリア(・パッサレリ)さんにメニューを再現してもらいました。



古代ローマ料理の再現映像。食材は、東南アジアの胡椒、スペインのオリーブオイル、イスラエルのナツメヤシ、ウツボ、川エビ、クジャク(インド原産・ローマで養殖)、ウニとバジル(ソース用)など。



【ナレーション】

60歳に近づいたハドリアヌスは健康を害し、ほとんどの時間を別荘で過ごしたといわれます。41歳で皇帝の位について以来、広大な帝国を廻り続けた日々。別荘にいればその思い出が目の前によみがえります。

紀元138年、ハドリアヌスは生涯を閉じます。62歳でした。ローマ帝国に安定した反映をもたらした皇帝。彼の死とともに、帝国も次第に黄昏を迎えていきます。

帝政末期、財政難と社会の混乱が続き、土木技術も衰えていきました。そして帝国の滅亡とともに、ヨーロッパではコンクリート技術が姿を消します。

【ジュリアーナ・ガッリ】

コンクリートはローマ帝国の象徴でした。国の技術力、組織力、管理力が総合された土木技術だったのです。だから、火山灰がたくさんあっても、帝国が滅亡するとコンクリートも滅亡してしまったんです。

【ナレーション】

ローマだからこそ生まれ、ローマの滅亡とともに消えていった土木技術。しかし古代のコンクリートは、その成果である建造物に生き続け、ローマの栄光を今に伝えています。

【ナレーション】(向井)

コンクリート無くしてローマは無く、ローマ無くしてコンクリートは無かった。その事実を今に語り続けるのが、ハドリアヌスが最も愛した海の劇場です。晩年、皇帝は、一日の多くをここで一人で過ごしたといいます。彼がコンクリート技術の粋を集めた完全な円形。直径は43メートルあります。この数字、ハドリアヌスのもう一つの傑作と一致しています。パンテオン神殿の円形ドームの直径です。広大な領土がすっぽり入るような形に仕上げられたドーム。ハドリアヌスはローマの栄光が永遠に続くと思っていたのでしょうか。

そしてもし、ハドリアヌスが現代のメガロポリスの数々を目にしたら、こう言うのではないでしょうか。「ここにもローマがある」と。




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No.332 - クロテンの毛皮の女性 [アート]

このブログで過去にとりあげた絵の振り返りから始めます。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介した『インノケンティウス十世の肖像』で、ベラスケスがイタリア滞在中に、当時75歳のローマ教皇を描いたものです。

インノケンティウス10世の肖像.jpg
ベラスケス(1599-1660)
「インノケンティウス十世の肖像」(1650)
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)

この絵について中野京子さんは「怖い絵」の中で次のように書いていました。


ベラスケスの肖像画家としての腕前は、まさに比類がなかった。──(中略)── 彼の鋭い人間観察力が、ヴァチカンの最高権力者に対しても遺憾いかんなく発揮されたのはとうぜんで、インノケンティウス十世は神に仕える身というより、どっぷり俗世にまみれた野心家であることが暴露されている。

眼には力がある。垂れたまぶたを押し上げる右の三白眼。はっしと対象をとらえる左の黒眼。ふたつながら狡猾こうかつな光を放ち、「人間など、はなから信用などするものか」と語っている。常に計算し、値踏ねぶみし、疑い、裁く眼だ。そして決してゆるすことのない眼。

どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によってくっきり輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのし上がった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子『怖い絵』
(朝日出版社。2007)

肖像画を評価するポイントの一つは、描かれた人物の性格や内に秘めた感情など、人物の内面を表現していることです。正確に言うと、本当のところは分からないまでも、少なくとも絵を鑑賞する人にとって人物の内面を表していると強く感じられることだと思います。それは人物の表情や、それを含む風貌からくるものです。また衣装や身につけているもの、人物のたたずまいや全体の構図も大いに関係してくるでしょう。

我々は、17世紀のローマ教皇・インノケンティウス十世がどういう性格の人物であったのかを知りません。しかし、上に引用した中野さんの文章のような鑑賞もできる。もちろんこれは一つの見方であって、別の感想を持ってもいいわけです。とにかく、人物の内面をえぐり出す画家の技量とそれを感じ取る鑑賞者の感性の "せめぎ合い" が、肖像画の鑑賞の大きなポイントだと思います。

その視点で、中野京子さんが書いた別の絵の評論を紹介したいと思います。画家の王と呼ばれたベラスケスとは知名度がずいぶん違いますが、16世紀イタリアの画家・パルミジャニーノが描いた『アンテア』という作品です。


パルミジャニーノ


Parmigianino - 凸面鏡の自画像.jpg
パルミジャニーノ
「凸面鏡の自画像」
(ウィーン美術史美術館)
パルミジャニーノ(本名 ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ、1503 - 1540)は、ローマ、パルマ、ボローニャなどで活躍し、37歳で亡くなりました。有名な作品は『凸面鏡の自画像』(1523/4。ウィーン美術史美術館)です。

自画像を描いた最初はドイツの画家・デューラー(1471-1528)とされています(No.190「画家が10代で描いた絵」の補記1)。このパルミジャニーノの作品も、西欧絵画における「自画像の歴史」の初期の作品として有名なものです。凸面鏡は周辺にいくにつれゆがんで写りますが、それが的確にとらえられています。

パルミジャニーノの他の作品としては、ウフィツィ美術館にある『長い首の聖母』(1534/5)でしょう。長く引き延ばされた身体の表現が独特で、いわゆるマニエリスムの様式です。さらに今回の主題である『アンテア』も有名な絵画です。

以下、『アンテア』の画像とともに中野京子さんの解説を紹介します。引用において下線は原文にはありません。また、段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に変更したところがあります。


アンテア


Parmigianino - Antea_2.jpg
パルミジャニーノ
「アンテア」
カポディモンテ美術館(ナポリ)


アンテア(= アンティア)とはギリシャ神話の花と花冠の女神の名。ただしここではパルミジャニーノと同時代、16世紀前半のローマに実在した源氏名げんじなアンテアという高級娼婦とされる。

とはいえ本タイトルは画家の死後に付けられたので異説もある。着衣から見て娼婦ではなく、上流階級に属する女性の肖像ではないか、はたまたトローニー(特定の人物ではなく誰でもない誰か)、ないし何らかの抽象概念 ── 愛だの嫉妬しっとだの ── をあらわす擬人像ではないか、などなど。

私見だが、彼女がトローニーとは思えない。フェルメールの青いターバンの少女(= 真珠の耳飾りの少女)と同じで、画家がモデルから強烈な印象を受けながら描いているのが伝わるからだ。アンテアであれ、他の名を持つ高貴な女性であれ、彼女は五百年前にまぎれもなくこの世に、画家の目の前に、この姿で、実在していたに違いない。


フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』は特定の人物を描いたものではない(= トローニー)とされることが多いのですが、もちろんモデルがあるという意見もあります(映画作品が典型)。中野さんは後者の見解で、その理由は「画家がモデルから強烈な印象を受けながら描いているのが伝わる」からです。つまり絵から受ける印象によっているわけで、絵の見方としてはまっとうと言うべきでしょう。

では、パルミジャニーノの『アンテア』からはどういう印象を受けるのか。それが次です。


それにしても何と厄介やっかいそうな美女であろう。心持ち前のめりになって近づいてくる。何のために ?

とうてい男には解決できそうもない難題を突き付けるためにだ。彼女の言い分を聞いてやるだけで、すでにして面倒事に巻き込まれたと同じ。かといって無下に断るわけにもいかない。あまりに魅力的すぎて ・・・・・・。

大きな思いつめたやや上目づかいで強い光を放つ眼が、訴えかけてくる。何を言うのだろう、想像もできない。形の良い薄い唇が今にも語りはじめる。君子、危うきに近寄らず。頭の中でアラームが鳴る。背をむけて、さっさと逃げたほうがいい。しかし足が動かない ・・・・・・。

中野京子「同上」

このアンテアという女性は、何だか "思い詰めた" 表情で、見る人の方に迫ってくる感じがして、切迫感があります。それを倍加させているのが、彼女の身体の様子と身につけている品々です。


アンテアはわずかに身体をひねっている。右肩や右腕を前へせり出しているのも、見る側に迫ってくるイメージだ。右手にだけ手袋をめている。それも分厚く無骨な狩猟用手袋で、優美な衣装や宝飾品とはそぐわない。左手は白い美しい素手。小指にルビーをきらめかせ、神経質そうに大ぶりのネックレスをまさぐる。

中野京子「同上」

右手だけにめた手袋が "狩猟用" だということは知識がないと分からないのですが、それを知らないまでも、この手袋は我々が知っている "婦人用手袋" とは違った、"白く美しい手" には似つかわしくない手袋であるのは確かでしょう。そして極めつけは、彼女がその手袋で鎖を握りしめているクロテンの毛皮です。


驚くのは、右肩に掛けたクロテンの毛皮であろう。つややかな毛並みのテンは(シベリア産の最高級品ロシアンセーブルかもしれない)、彼女の肩から流れるように胸元を走り、右手に至る。テンの筋肉質の前脚、小さいながら獰猛どうもうな顔、きだした鋭い白い歯は、生きていた時そのままに剥製はくせい化してある。

テンの鼻づらには金鎖が付いていて、彼女はそれを手に巻きつけている(テンの歯は手袋に噛みついているように見える)。当時はこうした使い方が流行していた。つまり生きたペットと見間違えられるような毛皮を、ファッションの一部にあしらったのだ。しかしもちろんここにわざわざ肉食性の小動物を配しているのは、彼女の本性へのほのめかし以外の何ものでもない。

中野京子「同上」

彼女の両手のあたりの拡大図を以下に掲げます。「小指にルビーをきらめかせてネックレスをまさぐる白い美しい左手」と、「狩猟用手袋をはめて毛皮の鎖を握る右手」、そして「剥製になったクロテンの獰猛な頭部の様子」が見て取れます。

Parmigianino - Antea_Detail_1.jpg
パルミジャニーノ
「アンテア」(部分)

2つの "鎖" が印象的です。左手が示す "鎖"(=ネックレース)は「私」、右手にかけた "鎖"(= クロテンの手綱たづな)は「貴方あなた」(= 男)なのでしょう。「わざわざ肉食性の小動物を配しているのは、彼女の本性へのほのめかし以外の何ものでもない」と中野さんが書いているのは、まさにその通りだと思います。



引用した中野さんの文章は、あくまで個人的な感想であり、別の見方や感想があってもよいわけです。しかしこの肖像は、描かれたモデルの、

・ 表情
・ 態度
・ 身につけているもの

の3つの "総合" で「ただならぬ気配、異様なまでの緊迫感」(中野京子)を描き出しているのは確かでしょう。その点において、肖像画の一つの典型と言えると思います。




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No.331 - カーネーション、リリー、リリー、ローズ [アート]

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、画家・サージェント(1856-1925)の『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館所蔵)のことを書きました。ベラスケスの『ラス・メニーナス』への "オマージュ" として描かれたこの作品は、2010年にプラド美術館に貸し出され、『ラス・メニーナス』と並べて展示されました。

Daughters_of_Edward_Darley_Boit - 2.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
(1856 - 1925)
「エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち」(1882)
(222.5m × 222.5m)
ボストン美術館

この絵の鑑賞のポイントの一つは、画面に2つ描かれた大きな有田焼の染め付けの花瓶です。これはボイト家に実際にあったもので、その後、ボストン美術館に寄贈されました。この有田焼は当時の欧米における日本趣味(広くは東洋趣味)を物語っています。

そして、同じサージェントの作品で直感的に思い出す "日本趣味" の絵が、画面に提灯と百合の花をちりばめた『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。テート・ブリテン所蔵)です。No.35 では補足として画像だけを載せましたが、今回はこの絵のことを詳しく紹介します。というのも、最近この絵の評論を2つ読んだからで、その評論を中心に紹介します。


カーネーション、リリー、リリー、ローズ


Sargent - Carnation, Lily, Lily, Rose.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
(1856 - 1925)
カーネーション、リリー、リリー、ローズ」(1885-6)
(174cm × 154cm)
テート・ブリテン

まず、このブログで今まで多数とりあげた中野京子さんの評論から紹介します。この絵の第1のポイントは、夕暮れの時の一瞬を描いたというところです(以降の引用で下線は原文にはありません。また段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に直したところがあります)。


「夕暮れ」を表現する言葉は多彩だ。英語とドイツ語では「二つの光」と言い、昼と夜の明暗が交差することを示す。フランス語では「犬と狼の間」と呼ぶことがある。薄闇の中を近づいてくる相手が安全か危険か見定めがたい、という不安の心情だ。日本語の「黄昏たそがれ」も語源は「そ、彼(= あれは誰か)」からきている。果たして見えているのは、味方か敵か。そういえば、「逢魔おうまが時」という呼び方もあり、となれば、人か魔か、近づくまではわからない。わかった時にはもう遅い。

── 異界と重なりあうこの入相いりあいの時は、しかし誰もが知るとおり、怖いが美しい。いや、怖いまでに美しい。多くの画家同様サージェントもまた、黄昏時のつかの間の幻想をキャンバスにとどめたいと意欲を燃やし、本作を完成させた。


夕暮れを表現する言葉は多彩です。薄暮、宵、という言い方もあります。いずれも日没前後の時間ですが、特に日没後の短い時間を指すことが多い。日没の後には西の空に夕焼けの赤みが残り、次にはその赤みが無くなって空は群青になり、次にはその青みも消えて黒くなる。サージェントのこの絵は、その空が黒くなる手前の時間、西の空が橙色か、それを過ぎた深い青の時間を描いていると感じさせます。


花々の乱れ咲く庭園で、白いドレスの少女二人が無心に提灯ちょうちんるす。自然光と人工光という異質な明かりが混じりあいながら顔を、金髪を、指先を、ドレスを、そして花や葉を照らし、この世ならぬ雰囲気を醸し出すとともに、どこか懐かしい甘い記憶に訴えかけてくる。

「同上」

この絵は「花々の乱れ咲く庭園の中に少女が2人」というのが基本的なテーマですが、本当にこれがリアルな光景なのか、実は幻影ではないかという感じが、ふとします。「この世ならぬ雰囲気を醸し出す」と中野さんが書いている通りです。その大きな理由は薄暮の時の「自然光と人工光の混じりあい」なのでしょう。さらにもう一つは、画面を埋め尽くす庭園の花々と草が、まるで壁紙に描かれたように見えることでしょう。これはリアルな光景なのか、と暗黙に思ってしまうわけです。

サージェントはアメリカ人ですが、この絵を仕上げた当時は英国に住んでいました。そしてカンヴァスを野外に持ち出し、薄暮の僅かな時間を狙って少しづつ仕上げていったと言います。そのため花々は枯れてしまい、そうすると制作を中断し、新しい花が育つまで待った。完成までに長い時間がかかったようです。


タイトルの『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』は、当時のポピュラーソングの歌詞から取られたという。花の女神フローラの花冠はカーネーションと百合ゆり薔薇ばらで編まれている、とリフレインする印象的なフレーズだったらしい。

「同上」

この絵のもとになったのは当時の英国の "はやり唄" であり、花の女神フローラを唄ったものというのは象徴的です。ルネサンス期以降の西洋絵画に、ギリシャ神話の女神・フローラがいて、その周辺に花がちりばめられている絵がいろいろあります。ボッティチェリの『春』(ウフィツィ美術館)に描かれたフローラはその典型でしょう。サージェントのこの絵に現実感が希薄なのは、そいういうことと関係しているのかもしれません。

そして目に付くのが提灯です。なぜ英国の庭園に提灯があるのか。それは当時のヨーロッパの、ある種のブームに関係しています。


さて、画面には日本の提灯が、丸いもの、筒形のもの、いくつも登場している。サージェントは本作に取り組む少し前、テムズ川下りをしていた時に、岸辺の木々の枝に吊られた不思議な紙製の明かりを見て、魅了みりょうされたのだった。そこから愛らしいこの絵画が生まれたと思えば日本人として感慨深いし、19世紀にもう提灯がヨーロッパへ輸出されていたことにも驚く。

本作からさかのぼること、およそ20年、ロンドン万博が開催されており(1862年)、このとき日本は国家としての正式出展はしなかったのだが、初代駐日総領事だったイギリス人ラザフォード・オールコックが、個人コレクションを展示した。象牙ぞうげ、漆器、七宝、刀剣、甲冑かっちゅう、浮世絵、錦絵にしきえはむろんのこと、オールコック自身が珍奇と感じた日用品もそこに混じっていた。蓑笠みのがさ藁草履わらぞうり、提灯など。

同時期に派遣された江戸幕府の遣欧使節団(福沢諭吉も参加)は、庶民の使う雑具まで万博に並べられるのは国辱こくじょくと思ったようだが、ヨーロッパ人にとってはどれもエキゾティックと好意的に受け取られた。

「同上」

その提灯ですが、もともと中国由来で、室町時代に日本に伝わりました。中国の提灯は、今でもそうですが、構造材が縦に通っています。一方、日本の提灯は "蛇腹" になっていて、ぺたんと折り畳める。この構造は日本の発明です。サージェントの絵に描かれているのはこの日本方式の提灯です。


とりわけ提灯だ。

内部にロウソクをともして和紙や絹で風防し、手に提げて持つ懐中電灯の昔版である。中国伝来だが、中国の提灯は折りたたむことができない。和製提灯の折りたたみ機能の斬新ざんしんさは、日本人の創意工夫から生まれたもの。

その形態にロマンティックでやわらかな光の効果が相俟あいまって、欧米では一時大流行したのだった。サージェントが見たように岸辺を彩ったり、レストランの戸外テーブルの周りに灯された。その下で、女性たちはさぞかし妖艶ようえんさを増したであろう。彼女らが魔女に変わるかどうかは知らないが、黄昏時に提灯を持つ少女が妖精に変わったのは間違いない。

「同上」

文章の最後で中野さんは "妖精" という言葉を出しています。No.318「フェアリー・フェラーの神技」に書いたように、英国は "妖精大国" です。妖精の民話が大量にあるし、著名文学にも登場します(シェイクスピア、ピーターパン ・・・・・・)。そして "妖精画" が絵画の大ジャンルであり、妖精画を専門に描く "妖精画家" がいた。英国在住の画家・サージェントはそういった事情を良く知っていたはずです。

画家は、白いドレスを着て提灯を灯す2人の少女を妖精に見立てているのではないでしょうか。「この世ならぬ雰囲気」はそういうところからも来ていると感じます。



ところで、この絵には提灯以外に日本関連のアイテムが描かれています。それがヤマユリです。最近の日本経済新聞の日曜版(The STYLE。2022年1月30日)に、窪田直子記者(東京編集局文化部)がそのことを書いていました。それを次に紹介します。


花の東西交流


窪田記者の記事は、

19世紀 園芸の東西交流(1)
植物ハンター、世界をめぐる

と題するものです。19世紀当時、ヨーロッパの "植物ハンター(プラントハンター)" と呼ばれる人たちが、世界の植物を自国に持ち帰った。もちろん日本の植物もその中にあった。そういった交流のあかしとしてサージェントの絵を取り上げているのです。記事はまず『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』の解説から始まります。


「サージェントのあのユリの絵、どこにありますか」。来館者によくそう尋ねられると言ってテート・ブリテンの学芸員は笑った。10年ほど前に取材でロンドンを訪れたときのことだ。「カーネーション、ユリ、バラ」がとらえる日没まぎわの幻想的な光景は、それほど見る者を魅了してやまない。

まず、構図が変わっている。中央の白いサマードレスの少女は、画家の友人の娘のドリー、11歳。彼女が中心人物のようにも思われるが、視線はすぐにその横に立つ 7歳の妹、ポリーへと移る。きまざまな花や紙の提灯ちょうちんが壁紙の模様のように散らされて、どこに焦点をあててよいのか、分からない。

窪田直子
日本経済新聞・Nikkei The STYLE
(2022年1月30日)

この絵の発想のきっかけになったのは、画家がテムズ河畔でたまたま目にした提灯です。サージェントはロンドン近郊の友人宅に滞在しながら、この絵を描きました。


制作にあてたのは日没前のわずか10分ほどだ。友人らと芝生でテニスをしながらイメージ通りの光を待ち、辺りが薄紫に染まるやカンバスの前に立って、小鳥のように動き回りながらタッチを重ねたという。秋になって植物が枯れると、未完成の絵を残していったんロンドンに帰京。翌年までに50個ほどのユリの球根を友人宅に送り、植木鉢で育てるように依頼している。

「再現不能に思える花々やランプの色、草むらの輝く緑。絵の具ではとても彩度が足らない。しかも光の効果が続くのは10分間だ」この絵を仕上げる難しさを手紙につづっている。

絵の細部をあらためて見てみよう。2本の長いユリの茎に糸をわたし、つるした提灯に、少女たちが光をともす。息をつめた真剣な面持ちのポリーの指先がほんのり赤くらされている。姉妹の純白のドレスは、オレンジ色の提灯とトワイライトの光を映し出すカンバスだ。ユリの白、バラのピンク、カーネーションの赤と黄色も、実に丁寧に色調を描き分けている。画面の中央左のユリは提灯に照らされピンクがかっている。右下方のバラの群れには、陰りゆく日の光が感じられるだろう。ドリーのドレスの前後に咲くカーネーションは、光をあびているものは明るく、陰の花は赤黒い。そう、この絵は刻々と移りゆく光のパージェント、光と色彩の交響詩なのである

「同上」

そしてサージェントのこの絵には、親交が深かったモネと同様、ジェポニズムの時代の空気が色濃く出ています。その典型が提灯ですが、もう一つの重要なアイテムがヤマユリです。


カンバスを国外に持ちだしての制作、自然光による時間の表現といえば、印象派の画家モネを思い起こすかもしれない。サージェントはモネと親交が深く、印象派の動向にも詳しかった。モネは浮世絵を所有、着物や扇を絵のモチーフにするなどジャポニスムに影響を受けたことでも知られる。サージェントの絵にも、そんな時代が映り込む。東洋風の提灯だけではない。少女たちの背後で華麗に咲き匂う大きなヤマユリ。19世紀後半、日本からもたらされたこの花は、センセーションを巻き起こしていた

「同上」


プラントハンター


江戸時代後期、日本の植物をヨーロッパに持ち帰ったのがシーボルトでした。ドイツ出身のシーボルトは医者で、長崎の出島ではオランダ商館医のポジションにつきますが、同時に彼は植物学者でもあり、多数の日本の植物をヨーロッパに送りました。これをきっかけに日本のユリがヨーロッパで大人気を博します。


ユリは聖母のシンボルとしてキリスト教の宗教にたびたび登場する。中世までの古い絵に接かれるのは古来ヨーロッパにあるニワシロユリ。花びらの長さが5センチにも満たない小型の花だ。ユリは宗教的な意味を含む特別な花である。一方、葬儀にも用いられることから観賞用には好まれなかったという。

その状況を一変させるのが、シーボルトが欧州にもたらした日本の花。二ワシロユリの1.5倍ほどの大きさになるテッポウユリや、紅色の花弁が華麗に広がるカノコユリである。これらは "マドンナ・リリー" がかすむほどの人気を集め、その球根は同じ重さの銀と取引されるほどだった。

江戸時代後期に長崎の出島に滞在したドイツの医師・植物学者のシーボルトは2度にわたり600種類以上の植物を欧州に向けて送った。ところがそのリストにヤマユリの名がない。当時の技術でその球根を運ぶのは至産の業だったのだという。シーボルトが137種の植物を積み込んだハウトマン号は1829年、オランダのライデン植物園に到着。しかし、熱帯を2度通過する過酷な船旅で57種が枯れていた。同年、今度は485種の植物とともにジャワ号で日本を出帆。目的地までたどり着いたのは260種にすぎない。生きたままの植物を届けることがどれほど困難だったかがわかる。

「同上」

Madonna Lily.jpg
マドンナ・リリー
(庭白百合、ニワシロユリ)
この引用にあるように、当時のヨーロッパで一般的なユリは "マドンナ・リリー" で、古来から聖母マリアのシンボルでした。受胎告知の場面で大天使・ガブリエルが持っている花もこれです。マドンナ・リリーの別名が "Garden White Lily" で、和名のニワシロユリはこの直訳です(庭白百合)。日本のテッポウユリに似ていますが、テッポウユリよりも小型です。

しかし『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』で、少女の後ろの目立つ位置に描かれているのはヤマユリです。そしてヤマユリが本格的にヨーロッパに輸出されるのは明治以降です。それは引用にあるように、輸送が難しかったからです。

ヤマユリ.jpg
ヤマユリ

ヤマユリ(c).jpg
サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」に描かれているヤマユリ。絵の中央上方の拡大図。


日本の植物、なかでも花の球根の買易が盛んになるのは明治の開国後、プラントハンターと呼ばれる人々の活躍によるところが大きい。ヤマユリにいち早く目をつけ、「日本から導入すべき最も注目に値する美しい植物」としたのも、英国の園芸者「ヴィーチ商会」の一族出身のジョン・グールド・ヴィーチだ。中国産植物の採集で知られるスコットランド出身のロバート・フォーチュンも、ヤマユリの球根をヴィーチ商会のライバル社に送っている。

お雇い外国人のルイス・ボーマーが横浜に設立した「ボーマー商会」もユリ根の輸出で大成功を収めた。ヤマユリは中部地方から関東地方に多く自生。神奈川県を中心に山採りされた球根が出荷された。「ユリ根の出荷作業」は、同商会の商品カタログに掲載された挿絵である(引用注:下に引用した図)。作業中の女性の前に並ぶ、おはぎのようなものは、細かく砕いて水で練った赤土の泥団子。ユリ根をこれで包んで船に乗せた。「腐敗を防いで運ぶカギは混度の管理。球根を水ゴケで巻くなど、さまざまな工夫を凝らしたようです。菌などの少ない土を使うことも極めて重要でした」。総合園芸企業「横浜植木」の伊藤智司社長が教えてくれた。

「同上」

ユリ根の出荷作業.jpg
ユリ根の出荷作業
横浜のボーマー商会の商品カタログの挿絵。女性のそばにユリ根と赤土の泥団子が描かれている。日本経済新聞(2022.1.30)より。

ちなみに、上の引用に「ヤマユリは神奈川県を中心に山採りされた球根が出荷された」との主旨があるが、現在の神奈川県の "県の花" はヤマユリである。


同社の前身、横浜植木商会はボーマー協会で主任番頭を務めた鈴木卯兵衛が90年に設立。JR横浜駅から車で15分はどの住宅街にある創業の地でいまも営業を続ける。大正時代の鳥瞰図を見せてもらって驚いた。一面の畑。敷地内には種子部、発送部、荷造場、検疫室、燻蒸室、20もの温室、球根室などが並んでいた。ユリを含む作物の輸出はすでに一つの産業だったのだ

「カーネーション、ユリ、ユリ、バラ」の舞台である英国にヤマユリが届いたのは62年のことらしい。王立園芸協会のフラワーショーに出品されて「非常な大きさ、花数の多さ、力強い香り、優雅で品位のある外観」が人々を魅了。やがて米国、インド、シベリアなどからもさまざまな品種が導入されてユリ栽培がブームになった(春山行夫著「花の文化史」)。世界を駆けめぐる植物愛好家の夢と情熱を、サージェントも感じ取っていたにちがいない。

「同上」

横浜植木.jpg
横浜植木商会
横浜植木商会の大正時代の鳥瞰図。ユリ根を含む作物の輸出が一つの産業だった。ユリ根は、当初は山採りされていたが、大規模栽培して輸出されるようになり、日本の外貨獲得に貢献した。日本経済新聞(2022.1.30)より。

我々は学校の日本史の教科書で、明治時代に日本の貿易をささえていた(= 外貨獲得のかなめだった)のが生糸だと習うわけです。それは全くその通りですが、実はユリ根も大切な輸出品だったのです。生糸と同じく、そのほとんどが横浜港から輸出されました。その結果(ヨーロッパにはない)日本の大型のユリが大人気を博し、サージェントの絵につながった。

補足しますと、現代では園芸用のユリ球根の8割はオランダからの輸入です。なぜかというと、オランダはチューリップなどで培った球根の品種改良技術が優れているからだそうです(日本経済新聞。2013.5.14 による)。

以上の背景を踏まえた上で、サージェントの『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』を再度見てみます。

Sargent - Carnation, Lily, Lily, Rose.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
カーネーション、リリー、リリー、ローズ
テート・ブリテン

この絵の主題は「夕暮れ時の一瞬に見られる光と色彩の交響詩」です。これをカンヴァスに定着させることに画家は心血を注いだ。モデルは白いドレスの妖精のような2人の姉妹で、背景はイングリッシュ・ガーデンです。

そしてこの絵を当時の英国人の目から見ると、英国ではあまり見かけないアイテムが2種類描かれています。一つは提灯で、もう一つはヤマユリです。それがエキゾチックな雰囲気をかもし出す。この2つを配置することで、昼と夜の境界領域である薄暮の時間の幻想的な雰囲気が倍加される。

これら全てが見る人を魅了してしまう傑作、それが『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』なのでした。




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No.330 - ウイルスでがんを治療する [科学]

No.314「人体に380兆のウイルス」の最後の方に、東京大学医科学研究所の藤堂とうどう具紀ともき教授が開発した "ウイルスによるがん治療薬" が承認される見通しになったとのメディア記事を紹介しました(2021年6月11日に承認)。今回はその治療薬の話を詳しく紹介します。

承認の対象となったがんは、脳腫瘍の一種である悪性神経膠腫こうしゅで、条件・期限付き承認です。期限は7年で、7年後にそれまでの治療結果をもとに再度、承認の申請の必要があります。またすべての悪性神経膠腫の患者さんに使えるのではなく制限がかかっています(後述)。とはいえ、これは画期的な治療薬です。つまり、

◆ ウイルス療法の治療薬が日本で初めて承認された。

◆ 脳腫瘍を対象にしたウイルス療法薬が世界で初めて承認された。

◆ 開発から製造までの全工程を日本で行った国産ウイルス療法薬である。

という3つの点で画期的です。この治療薬の開発名は G47Δデルタで、WHOが決めた一般名称は「テセルバツレブ」、製品名は「デリタクト注」です("注" は注射薬の意味。製造する製薬会社は第一三共株式会社)。

ウイルス療法薬とは「がん細胞にのみ感染するウイルスを投与し、そのウイルスが次々とがん細胞に感染し破壊することでがんを治療する」というものです。どうしてそんなこと出来るのか、また、この薬による治療の承認対象となった脳腫瘍とはどんなものかについて以下にまとめます。

藤堂教授は 2021年末に『がん治療革命 ウイルスでがんを治す』(文春新書 2021.12.20。以下「本書」)という本を出されました。この治療薬の開発の歴史からはじまって、がんを治療するメカニズム、臨床試験の結果、承認に至るプロセスなどがまとめられています。その一部を紹介します。


脳腫瘍


私事になりますが、私と同期入社の M さんは脳腫瘍により 30代で亡くなりました。入院されてから数ヶ月だったと思います。アッという間という感じでした。働き盛りというか、これから真の働き盛りを迎えるその前に、奥様と子供を残して "突如として" 命を奪われた。残酷なものだと思いました。私が G47Δ に強く興味をもったのは、この記憶があったからです。



私たちの頭蓋骨の内側には "髄膜" があり(硬膜・クモ膜・軟膜の3層構造)、その内側に脳組織があります。脳腫瘍とは頭蓋骨の内側にできる腫瘍(=がん)の総称です。

脳腫瘍は医学的に細分すると100種類以上ありますが、大きくは「原発性か転移性か」と「良性か悪性か」に分類できます。「原発性」は脳組織そのものから生じた腫瘍であり、「転移性」は体の他の部位の腫瘍が脳に転移したものです。本書でとりあげているのは原発性の脳腫瘍です。原発性脳腫瘍は年間で1万人あたり約1人が発症し、お年寄りから子供まで幅広い年齢層にわたります。

原発性脳腫瘍には「良性」と「悪性」があり 6割が良性、4割が悪性です。この区別は腫瘍ができる部位の違いです。良性脳腫瘍は脳組織の外側にできた腫瘍で、たとえば髄膜にできる髄膜腫です。良性脳腫瘍は脳組織を損傷することなく切除することが可能です。従って大半は外科手術で治ります。5年生存率は、腫瘍の種類によって違いますが、97%~99% といった高い数字です。

一方、悪性脳腫瘍は、がん細胞が脳組織の中に染み込むように散らばっている腫瘍で(専門的には "浸潤しんじゅん")、手術で完全に取り除くことは困難です。他の臓器の腫瘍のように「なるべく広く切除しておこう」なんてことは、脳ではできない。脳の深部の腫瘍になると後遺症を出さずに摘出するのは困難です。

悪性脳腫瘍で最も多いのは「グリオーマ(=神経膠腫こうしゅ)」で、「グリア細胞」にできる腫瘍です。グリア細胞は脳神経細胞を取り囲むように存在し、神経をささえています。"グリア" とはギリシャ語でにかわの意味で、日本語では「神経こう細胞」です。

悪性脳腫瘍はその "悪性度"(がん細胞の増殖の早さなど)によってグレード2~4に分類されますが(グレード1 は良性)、グリオーマと診断されてからの余命は、グレード2で7~8年、グレード3 で約3年、グレード4 で約1年です。グリオーマは、現代の医療ではほぼ 100% 治らないがんなのです。

このグリオーマの治療を対象として、2021年6月に承認されたウイルス治療薬が G47Δ です。これはヘルペスウイルスを改変して作られました。


ヘルペスウイルス


ヒトに感染して病気を引き起こすヘルペスウイルスは 8種類ありますが、主なものは次の3つです。

① 単純ヘルペスウイルス 1型(HSV-1)
口唇ヘルペス、ヘルペス性歯肉口内炎、ヘルペス性角膜炎などを引き起こします。

② 単純ヘルペスウイルス 2型(HSV-2)
主に性器ヘルペスの原因となるウイルス。

③ 水痘・帯状疱疹ウイルス(HSV-3)
水ぼうそう(水痘)の原因となるウイルス。水ぼうそうが治ったあとも神経細胞に潜伏し、加齢や免疫力の低下で暴れ出して帯状疱疹を起こします。

G47Δ に使われるのは ① の「単純ヘルペスウイルス 1型(HSV-1)」で、口唇ヘルペス(口唇に湿疹ができる)を起こします。このウイルスは人との直接的な接触によって感染しますが、初めて感染したときには大抵の人は症状が出ず、ウイルスは神経細胞の中にもぐり込んでしまいます。これを「潜伏感染」と言います。そして、何らかの原因で体の抵抗力が落ちているときに症状を引き起こす。症状は10日から2週間程度で治まります。症状を軽くする薬もあります。

潜伏感染している HSV-1 を退治することは、現代医学ではできません。感染したらずっとその人にひそみ続けます。そのため、日本の成人の約8割がこのウイルスに対する抗体を持っています。つまり感染しているわけです。20代から30代では約半数、60代以降ではほとんどの人が感染しているというデータもあります。つまり HSV-1 は「非常にありふれた身近なウイルス」なのです。



このウイルスはありふれた存在であるため、よく研究されていて、ウイルスの遺伝子(80以上ある)とその機能が解明されています。そのためウイルスの遺伝子を改変してがん治療に使うのに適しています。HSV-1 は人間がコントロールしやすい。これが重要な点です。

また万一、改変したウイルスを人に投与して病気を発症したとしても、ヘルペスウイルスに対する抗ウイルス薬があるので、投与を中断して治療が可能です。

さらに HSV-1 は、ほぼあらゆる種類のヒトの細胞に感染します。これもウイルスをがん治療に使うときに好都合です。


がん細胞を殺すメカニズム


G47Δ は単純ヘルペスウイルス 1型(HSV-1)の次の3つの遺伝子を改変し、遺伝子が働かないようにしたものです。

遺伝子1:γ34.5

この遺伝子の働きを止めると、口唇ヘルペスなどの病気を起こさなくなります。

またこの遺伝子は、感染した細胞の自滅を防ぐ機能を持っています。ヒトの正常な細胞は、ウイルスに感染すると細胞内のタンパク質合成を停止させ、ウイルスとともに自滅します。これによってウイルス感染の広がりを防いでいます。HSV-1 のこの遺伝子は、その自滅を阻止します。従ってこの遺伝子の働きを止めると、ヒトの細胞の自滅機能が有効なままであり、ウイルスの感染は拡大しません。

その一方で、がん細胞は自滅する機能に異常があり(だから増殖し続ける)、この遺伝子の働きを止めた HSV-1 であってもウイルスは増殖が可能です。つまり「正常細胞では細胞の自滅により増殖できないが、がん細胞では増殖できる」ことになります。その結果として HSV-1 はがん細胞を次々と破壊していきます。

遺伝子2:ICP6

HSV-1 は内部に DNA を持つ "DNAウイルス" で、細胞に入り込むとそのDNAを複製して増殖します。このとき、DNAを合成する酵素が必要になりますが、ICP6はその酵素を作り出す遺伝子です。

骨髄細胞や腸管の表面細胞などの増殖を繰り返している細胞を除いて、正常な細胞の中には DNA合成酵素が(ほとんど)ありません。そのため HSV-1 は ICP6遺伝子によって合成酵素を作り出して増殖するわけです。従って、ICP6の働きを止めた HSV-1 は正常細胞の中では増殖できなくなります

一方、分裂を繰り返してどんどん増えているがん細胞には DNA合成酵素がたくさんあります。従って ICP6の働きを止めた HSV-1 であっても、がん細胞の中では増殖できます。つまり「正常細胞では増殖できないが、がん細胞では増殖できる」ことになります。

遺伝子3:α47

免疫(獲得免疫)の基本的なしくみは、細胞内にあるタンパク質の断片(ペプチド)が細胞表面に提示されることから始まります。このとき、ウイルスに感染した細胞は自己由来のペプチドに加えて、ウイルスのタンパク質由来のペプチドが提示される。この "非自己の提示 = 抗原提示" を免疫細胞である T細胞が特異的に認識して免疫が発動します。ヘルパーT細胞が認識すると B細胞を活性化して抗体の生産が始まり、キラーT細胞が認識するとウイルスに感染した細胞を直接破壊します(No.69「自己と非自己の科学(1)」参照)。

HSV-1 の α47 という遺伝子は、細胞表面にウイルスのタンパク質が提示されないようにする作用があります。これにより HSV-1 はヒトの免疫系の監視を逃れて感染を拡大できるのです。

一方、がん細胞は、あの手この手を使ってヒトの免疫システムから逃れ、増え続けています。そのがん細胞に α47 の働きを止めた HSV-1 が感染すると、HSV-1 由来のタンパク質(の断片=ペプチド)が、がん細胞の表面に提示される。これがヒトの免疫細胞に認識され、がん細胞に対する抗体ができます。つまり、HSV-1の増殖によってがん細胞が破壊されることに加えて、ヒトの免疫システムによってがんを縮小でき、より一層の治療効果が期待できます。



以上の、3つの遺伝子が働かないように操作した HSV-1 は、がん細胞のみで増殖し、がん細胞を破壊します。増殖してできた HSV-1 がほかのがん細胞に次々と感染して破壊していきます。また、免疫細胞もがん細胞を認識できるようになり、抗体でがん細胞を死滅させる。これが G47Δ によるがん治療の原理です。

がんのウイルス療法.jpg
癌のウイルス治療のイメージ
(朝日新聞デジタル 2021.5.24 より)


第2相臨床試験


G47Δ の有効性を確認する第2相臨床試験は、2015年5月から2020年4月まで行われました。その結果が本書に書かれています。臨床試験の対象は膠芽腫こうがしゅの患者さんで、標準治療(手術・放射線・抗がん剤)治療を行ったあとに膠芽腫が再発した患者さんです。膠芽腫はグリオーマ(神経膠腫)の一種ですが、進行が早く、悪性度が最も高いものです(=グレード4)。30人を対象に治療を行う計画で臨床試験が始まりました。

この第2相臨床試験では、13人目の患者さんが治療を始めてから1年が経過した時点で、治療開始後1年以上生存した患者さんが 92.3%(13例中の12例)に達しました。標準治療の場合、再発した膠芽腫の患者さんが1年以上生存する率は 14% です。このため、G47Δ の第2相臨床試験は「有効中止」となりました。これは "有効性が明らかになったので中止してよい" というものです。極めてめずらしいことです。

有効中止になったため、第2相臨床試験に参加した患者さんは19人になりました。この19人の患者さんのうち治療後1年以上生存したのは16人、治療後に生存した期間の中央値は20.2ヶ月でした。そして19人のうち2021年11月時点で3人の方が生存しています。

第2相臨床試験が有効中止になり、かつ G47Δ が「希少疾病用再生医療等製品」に指定されたため、第3相臨床試験は省略されることになりました。そして2021年6月の承認となったわけです。


G47Δ の意義


G47Δ ががん細胞を殺すメカニズムで分かることは、この治療薬は悪性脳腫瘍のためだけのものではなく、白血病のような血液がん以外のがん(=固形がん)すべてに有効なことです。実際、前立腺がんや悪性胸膜中皮腫(一つの原因がアスベストの吸引)の臨床試験が始まっています。

デリタクト注.jpg
デリタクト注
(第一三共製薬)
現代医学では治療が困難とされるがんがあります。悪性脳腫瘍のほかに、悪性中皮腫、多発性肝細胞がん、膵がん、胆管がん、膀胱がんなどです。これらに対し G47Δ は特に有効な治療薬となるはずです。

また、G47Δ の発展形として HSV-1 の遺伝子の中に「がん治療に効果のある遺伝子」と組み込むことが考えられます。ヒトの免疫系を刺激する遺伝子などです。

たとえば、インターロイキン12(IL-12)を生成する遺伝子を HSV-1 に組み込むと、がん細胞に感染したときに IL-12 がどんどん出されるようになる。分泌された IL-12 はヒトの免疫細胞を刺激し、強い抗がん免疫作用が引き起こされます。これはマウスですでに実験済みで、成果があがっています。


ある少女の手紙


本書に藤堂教授の患者さんだった少女が教授に宛てた手紙のことが出てきます。このあたりは本書の中で最も "思いのこもった" 文章です。少々長くなりますが引用してみます。下線は原文にはありません。また、漢数字を算用数字に変更しました。原文の段落は空行にしてあります。


私の研究室の壁に、一枚の手紙が貼ってあります。

「藤堂先生へ。今までありがとうございました。入院したときは、ふあんもたくさんあったけど最近では、お散歩で三四郎池などに行けるようになりました。退院してからも通院なのでまた、よろしくお願いします」

大きくしっかりとした文字で書かれた短いメッセージの横には、池で楽しそうに泳ぎ回る水鳥が描き添えられています。東大医学部附属病院のある本郷キャンパスの名所、三四郎池で泳ぐ鴨の姿です。

手紙を書いてくれた D さんは、私の患者さんです。

けれど、もうこの世にはいません。悪性のグリオーマに命を奪われてしまったのです。亡くなったとき、D さんは小学校5年生でした。

目のクリッとした、かわいい女の子でした。けなげに病気と闘っていた彼女の面影を偲びながら、生前に写真をもらっておけばよかったと悔やんでいます。

亡くなったあとで、そういうお願いをするのは、親御さんをよけい心しませる気がして、なかなかできません。

D さんのグリオーマは最も悪性度の高いグレードⅣで脳幹にできていました。脳幹にできるグリオーマは大脳にできる一般のグリオーマよりもさらに余命が短いのです。

第2章でも述べましたが、脳幹には運動神経路や姿勢反射中枢など大事なものがたくさん詰まっているので、ここにダメージを受けると、さまざまな症状が出ます。D さんの場合は、体がふらふらしてまっすぐに立っていられないというのが、最初の症状でした。

手術を行ないましたが、脳幹を取ることはできないため、手術のあとに放射線と抗がん剤を強めに用いて治療を続けました。しかし、通常よりは延命できたものの、手術から9ヵ月後、ついに力尽きたのでした。

脳腫瘍の手術の最中には、腫瘍の組織を少し取り、良性か悪性かを迅速に病理診断するのが普通です。簡便な方法なので精緻な診断はできませんが、手術前の診断と手術中の病理診断の結果がともに悪性なら、ほぼ間違いなく悪性脳腫瘍です。

そういう場合、私は、手術のあとの患者さんがまだ麻酔から覚めずに眠っているときを選んで、家族に病状を説明します。端的にいえば、「手術はうまくいきました。でも、患者さんは助かりません」という説明です。これは医者としてつらいものです。D さんのように子供の患者さんの場合は、なおさらです。

家族なら誰でも、「手術は成功したのに必ず死ぬとは、いったいどういうことなんでしょうか ・・・・・・」と、戸惑います。そして、悪性脳腫瘍の平均余命は約1年であることなどを詳しく話すと絶句し、がっくりと肩を落として病室から出ていくのです。

それからあとの家族は、大変な思いをします。

脳腫瘍の末期になると意識レベルが低下し、最後は何もわからなくなってしまうので、患者さん自身は、それほどつらくありません。「がんの末期は痛くてつらい」という一般的なイメージとは異なるのが、悪性脳腫瘍の特殊なところです。

しかし家族は、患者さんの意識状態が悪くなるにつれて、食事やトイレの介助などに追われるようになります。それでも家族が頑張り通せるのは、皮肉なことに、患者さんの余命が短くて、介護生活がいつまでも続かないからです。

日本では 2006年から、グリオーマの治療薬として「テモゾロミド(商品名テモダール)」が使われていますが、「画期的治療薬」と謳われるこの楽でさえ、それによって延びる命は、統計的にはわずか2~3ヵ月にすぎないのです。

こういうことを何度も何度も家族に説明するのですが、悪性脳腫瘍患者のほとんどは、再発するまでまるで何事もなかったかのように元気でいることが多いため、家族は、「本人はこんなにピンピンしている。手術直後に先生は死ぬと言っていたけれど、あれは何かの間違いだったのではないか」と、思うようになります。

そのたびに私は、「今はいいけれど、この先、必ず悪くなります。とにかく、今の時点でできるベストのことをやっていきましょう」と、落胆させるようなことばかり言い続けなければなりません。

けれど、こうしたコミュニケーションのなかで家族は絶望感を乗り越えていき、「できるだけの手を尽くした」という、悟りにも似た境地に至るようになるのです。

その意味で、悪性脳腫瘍の専門医というのは、医者でありながら半分は牧師のような存在だという気がしています。

D さんのご両親も、「ベストを尽くした」という思いだったのでしょう。亡くなったあと、病理解剖することを承諾してくださいました。

これはなかなかできないことです。病理解剖は医療の進歩に役立つことだと理屈ではわかっていても、「病気でさんざん苦しんだわが子の体に、これ以上メスを入れられるのは、親としてしのびない」と思うのが人情です。

それなのに D さんのご両親は、「きっと娘も望んでいたに違いありません」とまで言ってくださったのでした。

D さんとご両親の尊い気持ちをずっと忘れないようにと、私は彼女の手紙を研究室に掲げました。できることなら完治して、「先生、ありがとう。こんなに元気になりました」と、研究室を訪ねてきてほしかった。

けれど、悪性脳腫瘍の患者さんから、生きて「ありがとう」と言われることはありません。そういう状態が、脳外科の歴史が始まって以来、ずっと続いているのです。

藤堂とうどう 具紀ともき 
『がん治療革命』
p.172 - p.176 
(文春新書 2021)

藤堂教授の "何とかしたい" という思いが伝わってくる文章です。しかしその思いとは裏腹に、仮に D さんが現時点で脳腫瘍を発症したとしても G47Δ による治療はできないのです。それが次です。


少女のウイルス治療はできない


藤堂教授がその手紙を研究室に掲げている D さんは、グリオーマでも最も悪性度の高いグレードⅣで、脳幹にできていました。この「脳幹にできたグリオーマ」の治療は、現状では G47Δ による治療ができません。G47Δ の承認条件からはずれるからです。そのあたりの事情が次です。


ウイルス療法を希望する悪性神経膠腫の患者さんすべてが、「デリタクト注」を使えるようにしたい。言うまでもなく、私たちはそう考えていました。

しかし、承認の当否を決める最後の審査で、脳幹の悪性神経膠腫は適応対象外となってしまいました。「脳幹に針を刺すなんてとんでもない。手技が確立していない」という意見が、医薬品医療機器総合機構の専門協議で「専門委員」から出されたからです。

62ページでも述べたように、脳幹には触ってもいけないとされていたのは昔の医学です。私は患者さんの病理診断をするとき、定位脳手術で脳幹に針を刺して生検組織を取っています。脳外科医でそれをやったことのある人にとっては、脳幹に「デリタクト注」を投与するのは、それほど大変なことではありません。

年間約2100例にのぼる小児がんのうち、脳腫瘍は白血病(38%)に次ぐ第2位の罹患率(16%)です。なかでも、脳幹の悪性神経膠腫は子供に多く、この章の冒頭で紹介した D さんも、そのために小学校5年生のとき命を奪われました。

G47Δ は、D さんのような患者さんからのニーズが高いので、なんとしてでも脳幹の悪性神経膠腫に使えるようにしようと、厚生労働省と意見交換をかなりしましたが、最終的に脳幹は除外されてしまいました。

そのため、子供の患者さんの多くが、この薬を使えなくなってしまったのです。ニーズがそこにあり、標準治療では9ヵ月ほどで亡くなってしまうのに ───。

厚生労働省とのやりとりで、私は「脳幹の悪性神経膠腫を除外するようなことをしたら、あとで混乱を招きますよ」と何度も説得を試みました。実際に今、脳腫瘍の子供を持つ多くの親が、対象にならないことにショックを受け、混乱しています。

脳幹への「デリタクト注」の投与は、脳幹の悪性神経膠腫をそのまま放置するリスクに比べれば、投与する手技的なリスクの方が圧倒的に低いことになります。現場を知る者としては、もし仮に脳幹に針を刺すことにリスクがあったとしても、「うちの子にウイルス療法を受けさせて」と、親御さんは言うと思うのです。そうしなければ、我が子の病気はどんどん悪くなっていき、9ヵ月ほどで亡くなってしまうのですから。

けれど、現段階ではそれは許されず、今後の新たなデータを待つしかありません。

藤堂 具紀 
『がん治療革命』
p.219 - p.220 

この「脳幹の脳腫瘍の治療」の承認の件を含め、G47Δ にはまだまだ乗り越えなければならない課題があります。"ウイルス治療を希望する悪性脳腫瘍の患者さん全てに G47Δ を届ける" という藤堂教授の目標の実現には、まだ長い道のりが必要です。



本書には「第6章 日本への提言」と題する章があって、日本の治療薬の開発に関する数々の提言が書かれています。G47Δ は日本で初めてのウイルス治療薬という画期的な薬だからこそ、その製品化(承認)までのプロセスを一度経験すると日本の新薬開発体制の数々の問題点(ないしは日本で画期的な新薬の開発が困難な理由)がクリアに見えてくる。そういうことだと思いました。



 補記 

2022年5月31日の日本経済新聞に、ウイルス使ったがん治療の現状をリポートした記事が掲載されました。藤堂教授の研究のほか、ウイルス療法の研究の現状がコンパクトにまとめられています。ここに記事を引用しておきます。


ウイルス使ったがん治療
 脳腫瘍など、患部に注入で効果

日本経済新聞
2022年5月31日

ウイルスを使ってがん細胞を退治する「ウイルス療法」という新たな治療技術が日本でも登場した。第1弾として第一三共が、悪性度の高い脳腫瘍向けに2021年11月から治療薬の販売を始めた。骨腫瘍向けに鹿児島大学が臨床試験(治験)を開始したほか、鳥取大学や東京大学などでもウイルス療法薬の開発が進む。既存の手法では治療が難しいがんの患者にとって、待望の薬となりそうだ。

「こんな治療法がもっと早く登場していたら……」。7年前に夫を脳腫瘍で亡くした大阪府の70代の女性は、国内で登場したがん治療ウイルス技術について、感想をもらす。夫は放射線治療後に脳腫瘍を再発したが、手術もできず、当時は有効な治療薬もなかったという。「脳腫瘍の患者とその家族にとって希望の光がみえた」と話す。

がん治療向けウイルス療法は、一般的に治療用に遺伝子を改変したウイルスを注射でがん細胞に直接投与する。ウイルスはがん細胞の中だけで増殖し、がん細胞を破壊する。ウイルスはがん細胞を破壊後に周辺に広がり、広範囲のがん細胞を除去できる。正常な細胞の中でウイルスは増殖しないように設計しており、安全性は高い。

欧米では15年に悪性度の高い皮膚がん向けに承認されているが、日本では承認されていなかった。

今回、国内承認の第1号となった第一三共の「デリタクト(テセルパツレブ)」は、東京大学医科学研究所の藤堂具紀教授が研究してきた成果を医薬品に応用した製品。脳腫瘍のひとつ、神経膠腫(グリオーマ)のなかでも悪性度が高い患者に対する治療薬だ。

悪性度の高いグリオーマ(グレード4)は、大脳にできて周囲の脳にしみこむように広がる。手術では完全に取り去ることが難しく、手術後も時間の経過とともにがん細胞が増えて再発する可能性が高い。放射線治療と化学療法で増殖を抑えることもできるが、予後は12~15カ月とされる。再発後は治療の選択肢がほとんどないのが現状だ。

デリタクトの治験に参加した13人に対して治療後1年たった時点で有効性を調べたところ、1年後も生存している患者の割合は92.3%だった。治験途中でも有効性が証明されたため、治験を中止する「有効中止」となった。藤堂教授は「治療法がなかった悪性脳腫瘍の患者にとって新たな選択肢」と話す。

がんのウイルス療法の特徴は、最も手ごわいがんに対して効果がある点だ。手術で取り切れず、抗がん剤や放射線も効きにくく、免疫も働きにくい部位にできる脳腫瘍や骨腫瘍など向けに開発されている。

しかもその効果が長期間持続するのも利点だ。ウイルスによって、体内の免疫が刺激されると考えられている。近年の研究では抗がん剤や他の免疫療法との併用で治療効果が高まるという報告もあり、米国や中国をはじめ世界で140以上の治験が進んでいる。

ただ世界的にみてまだ治療薬となっているものは少ない。欧米で15年に悪性皮膚がんの治療薬「イムリジック」が承認されて以降、今回のデリタクトで2つ目だ。新規の治療用ウイルスの開発を進めている鹿児島大学の小戝(こさい)健一郎教授は「ウイルスを設計するには高度な技術と複雑な工程が必要だ」と話す。

例えば攻撃性が高い一方、体内であまり増えず、副作用が強いウイルスであれば治療には使いにくい。また複数の候補から有効性が見込まれるウイルス候補を見つけることができても、大量生産するのが難しければ、医薬品として普及させるのは難しい。

小戝教授らの研究チームは日本医療研究開発機構(AMED)の助成を受け、ウイルスを効率よく改変し、迅速に生産できる基盤技術の開発に世界に先駆けて成功している。16年から始めた初期段階の治験では、悪性度の高い骨軟部腫瘍の患者で安全性と有効性を示す結果を確認。中には2年以上効果が維持されていた患者がいたという。

研究チームは、21年から鹿児島大学病院、久留米大学病院、国立がん研究センター中央病院の全国3施設による多施設治験を始めた。今後2年間で全国から20人程度の悪性骨腫瘍の患者に参加してもらい、安全性と有効性を確かめる。希少がんに対する新たな治療薬として薬事申請を目指す。

もっとも、現時点ではがん治療ウイルスも万能ではない。難治性のがんや再発したがんの増殖を抑えこみ、生存期間を延ばす効果がある一方、一定の割合で効果がみられない患者もいる。そのため安全性が高く、より有効性が高い次世代の治療ウイルスの開発が世界中で急ピッチで進む。

国内ではアステラス製薬と鳥取大学が初期治験を進めるほか、東京大学や信州大学などが臨床開発を進めており、アカデミア発の創薬に期待が高まる。ただ藤堂教授は「日本は基礎研究力や技術があるが、臨床開発の環境が欧米に劣っている。薬価を含めた創薬環境の改善が急務だ」と訴える。画期的な新薬をがん患者に届けるための政策的な後押しも必要だ。
(先端医療エディター 高田倫志)


(2022.5.31)



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No.329 - 高校数学で理解するレジ行列の数理 [科学]

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)
No.149「我々は直感に裏切られる」で、数字に関して我々の直感が事実に反する例や、正しい直感が働かない例を書きました。その中の "誕生日のパラドックス"(= 23人のクラスで誕生日が同じ人がいる確率は 50% を超える)については、No.325「高校数学で理解する誕生日のパラドックス」でその数学的背景を書きました。今回もそういった直感が外れる例で、スーパーのレジや各種窓口の「待ち行列」を取り上げます。

No.325 以外にも「高校数学で理解する」とのタイトルの記事がいくつかあります。


です。これらの記事は、高等学校までの数学だけを予備知識として、現代の IT 社会の重要なインフラとなっている公開鍵暗号を解説したものでした。高校までに習わない公式や用語を使うときには、その公式の証明(ないしは用語の説明)を記しています。今回もその方針でやります。


レジ行列の観察


ある比較的小規模のスーパー・マーケットを例にとります(仮想の例です)。この店の店長は店舗運営の改善に熱心です。店長は「ある曜日のある時間帯」のレジを何回も観察して、次のような結果を得ました。


◆ この時間帯には2台のレジを稼働させていて、1台のレジに並び始める客は1時間当たり平均して24人である(2台とも。2台の合計では48人)。

◆ 客の到着はランダムである。それぞれのレジの客の到着間隔の平均は2分30秒だが(=60分/24人)、たて続けに客が到着することもある一方で、10数分以上、到着間隔があくこともある。

◆ レジ係の会計(バーコードのスキャン、お金のやりとり)に要する時間は、平均して1分である。つまり、立て続けに会計をしたとしたら、レジ係は一人で1時間あたり60人の客をこなせる

◆ 会計時間もランダムである。ペットボトル1個だけの客もいれば、カゴ3つにいっぱいの買い物をする客もいる。

◆ レジ係が客を待っている時間(=アキ時間)があり、それは過半数の時間である。

◆ 会計待ちの行列ができることもあるが、並ぶのは最大で3~4人程度である。


レジ係一人当たり、1時間で平均24人の客がきます。一方、レジ係りは1時間で平均60人の客をこなせる。レジ係りには余裕があり、過半はアキ時間(客を待っている時間)です。そこで店長は次のように考えました。


◆ この時間帯のレジ係りは半分の1人にしよう。それで十分にこなせるはずだ。

◆ 顧客の待ち行列は長くなるかもしれないが、せいぜい2倍程度だろう。


はたしてこの店長の考えは正しいのでしょうか。これを数学で解析するのが今回の目的です。問題として明示されている観察量は、24 と 60 ぐらいしかなく、あとは "ランダム" という言葉ですが、数学を使ってこれだけの情報から店長の判断の妥当性を検証します。


ランダムな事象\(\cdot\)連続量


1つのレジについて1時間当たり24人の客が "ランダムに" 到着します。またレジでの会計時間もランダムに決まる。ランダム、ないしは偶然に発生する事象(イベント)が主題であり、これは確率の問題です。まず、以降に出てくる「確率変数」と「確率(確率測度)」を、サイコロの例で説明します。確率変数 \(X\) とは、

起こりうる事象に値を割り当てるとき、その値をとる変数

で、値はふつう整数や実数です。確率変数は大文字で書きます。\(X\) がサイコロの目の数を表す確率変数の場合、

\(X\:=\:1,\:2,\:3,\:4,\:5,\:6\)

の6つの整数値をとる変数です。また、\(X\) に特定の条件をつけた事象が起こる確率(数学的には "確率測度"、Probability Measure)を

\(P\:(X\) の条件\()\)

で表します。一般的には \(P(\)事象\()\) で、その事象が起こる確率を表します。確率なので \(0\leq P\leq1\) であり

\(P(\)必ず起こる事象\()\)\(=\:1\)
\(P(\)決して起こらない事象\()\)\(=\:0\)

です。\(X\)がサイコロの目の確率変数の場合、

\(P(1\leq X\leq6)\)\(=1\)
\(P(X=1)\) \(=\dfrac{1}{6}\)
\(P(X\leq3)\)\(=\dfrac{1}{2}\)
\(P(X=7)\) \(=0\)

です。サイコロの目の数は飛び飛びの値をとるので「離散型の確率」です。高校数学に出てくる確率は主に離散型の確率です。

一方、レジ行列の場合、到着時刻や到着間隔(= 1人の客が到着してから次の客が到着するまでの時間)、会計に要する時間は無限の可能性のある連続値です。つまり「連続型の確率」であり、これをどう扱うかが以下の主要なテーマです。


レジ行列のモデル


レジ行列を次のようにモデル化します。レジに数人の客が並んでいて、先頭の客は会計(バーコードののスキャン、代金の支払い\(\cdot\)精算)の最中とします。会計を待って並んでいる客と会計中の客を含めて「行列」と呼びます。

この行列には2種類の「イベント」が発生します。新しい客が最後尾に並ぶ「到着」と、会計が終了して客が行列から離れる「退出」です。

行列には単位時間(たとえば1時間)当たり平均で \(\lambda\)(ラムダ)人が到着します。ただし、到着はランダムです。また、レジ係は単位時間あたり平均で \(\mu\)(ミュー)人分の会計をこなします。つまり単位時間あたり \(\mu\)人が列から退出します。ただし、会計にかかる時間もまたランダムです。まとめると、

到着:\(\lambda\)人(単位時間あたり)
退出:\(\mu\)人(単位時間あたり)

です。ここで \(\lambda\) が \(\mu\) より大きければ、レジ行列は長くなるばかりで、スーパーは機能しません。従って以降は、

\(\lambda< \mu\)

とします。
レジ行列のモデル.jpg
レジ行列のモデル


客の到着確率


まず、微少時間 \(\Delta t\) の間に客が1人到着する確率を検討します。\(1\)時間に平均\(5\)人の客が到着する場合で考えます(\(\lambda=5\) の場合)。また、\(1\)時間を\(9\)秒で区切った\(400\)の微少時間 \(\Delta t=0.0025(h)\) を考えます。そうすると平均的に、

・ \(400\) のうちの \(5\) つの微少時間では客が到着
・ \(400\) のうちの \(395\) の微少時間では客が到着しない

と言えるでしょう。つまり、

・ 微少時間に客が到着する確率は \(5/400\:=\:\lambda\Delta t\)
・ 微少時間に客が到着しない確率は \((1\:-\:\lambda\Delta t)\)

です。ただし、これでは考えに抜けがあります。\(9\)秒間に客が\(2\)人以上到着するかもしれないからで、それは大いにありうることです。しかしこれは微少時間 \(\Delta t\) を \(9\)秒としたからです。そこで、微少時間をどんどん小さくし「高々、客が1人到着するか、1人退出するかであるような微少時間」を考えます。つまり \(\Delta t\) の定義を、

微少時間 \(\Delta t\) では、イベント(到着か退出)が1つだけ起こるか、ないしはイベントが起こらないのどちらかである

とします。そうすると、

・ 微少時間に1人の客が到着する確率は \(\lambda\Delta t\)
・ 従って、微少時間に客が到着しない確率は \((1\:-\:\lambda\Delta t)\)
・ 全ての微少時間は同等であり、同じ確率で到着が起こる(=ランダム)

となります。これが「単位時間に \(\lambda\)人の客がランダムに到着する」ということの数学的表現です。\(\lambda\) を \(\mu\) に変えると、レジでの会計が終わって客がレジ列から退出する確率も全く同様になります。そこで、この表現を使って客の到着間隔の確率を求めます。


到着間隔の確率密度関数


\(1\)人の客が到着してから次の客が到着するまでの時間が「到着間隔」です。この到着間隔を表す確率変数 \(X\) とします。到着間隔は \(0\) 以上なので、以下では \(X > 0\) とします(一般的には確率変数は \(-\infty< X < \infty\) です)。単位時間に \(\lambda\)人の客がランダムに行列に到着するとき、到着間隔の確率 \(P\) はどう表現できるでしょうか。

サイコロと違って \(X\) は連続変数です。従って、たとえば \(P(X=0.2)\) 、つまり到着間隔が(ぴったり)\(12\)分である確率は定義できません。到着間隔には無限の可能性があるからです。しいて言うなら \(P(X=0.2)=0\) とするしかありません。連続型の確率の特徴です。

しかし、\(X\) が一定の範囲である確率は求まります。たとえば到着間隔が\(12\)分から\(15\)分の間である確率、\(P(0.2\leq X\leq0.25\:)\) は計算することができる。一般に、\(a < b\) とし、

\(P(a\leq X\leq b)=\displaystyle\int_{a}^{b}f(x)dx\)

であるような関数 \(f(x)\) があるとき、その関数を「確率密度関数」と言います。\(X\) が全ての値をとるときの確率は \(1\) なので、確率密度関数 \(f(x)\) は、

\(\displaystyle\int_{0}^{\infty}f(x)=1\)

を満たします(\(X\geq0\) で考えています)。そこで、レジ行列の到着間隔の確率密度関数 \(f(x)\) がどうなるかです。到着間隔が \(t\) ~ \(t+\Delta t\) である確率は、確率密度関数の定義により、

\(\displaystyle\int_{t}^{t+\Delta t}f(x)dx=f(t)\Delta t\)   \(\bs{\mr{A}}\)式)

です。\(\Delta t\) は微少時間なので、右辺は積分を掛け算で置き換えました。一方、別の視点で考えると、到着間隔が \(t\) ~ \(t+\Delta t\) である確率は、

\(0\) ~ \(t\) の間に到着が起こらずかつ \(t\) ~ \(t+\Delta t\) の間に到着が起こる確率

です。"間隔" という言葉を使わずに "到着" だけで表現するとそうなります。\(0\) ~ \(t\) の間に到着が起こる確率(= 到着間隔が \(0\) ~ \(t\) である確率)は、確率密度関数の定義により、

\(\displaystyle\int_{0}^{t}f(x)dx\)

なので、\(0\) ~ \(t\) の間に到着が起こらない確率は、

\(1\:-\:\displaystyle\int_{0}^{t}f(x)dx\)

です。また、微少時間 \(\Delta t\) の間に到着が起こる確率は先ほどの考察から、

\(\lambda\Delta t\)

です。従って \(0\) ~ \(t\) の間に到着が起こらず、かつ \(t\) ~ \(t+dt\) の間に到着が起こる確率は、

\(\left(1-\displaystyle\int_{0}^{t}f(x)dx\right)\lambda\Delta t\)  \(\bs{\mr{B}}\)式)

と書けます。\(\bs{\mr{A}}\)式)\(\bs{\mr{B}}\)式)は等しいはずなので次の等式が成立します。

\(f(t)\Delta t\) \(=\left(1-\displaystyle\int_{0}^{t}f(x)dx\right)\lambda\Delta t\)
\(f(t)\) \(=\left(1-\displaystyle\int_{0}^{t}f(x)dx\right)\lambda\)

この両辺を \(t\) で微分すると、

\(f\,'(t)=-\lambda f(t)\)

となります。この微分方程式の解は、\(C\) を定数として、

\(f(t)=Ce^{-\lambda t}\)

ですが、確率密度関数には、

\(\displaystyle\int_{0}^{\infty}f(t)dt=1\)

条件があるので、この条件で \(C\) を決めると \(C\:=\:\lambda\) となります。最終的に、

\(f(t)=\lambda e^{-\lambda t}\)

が「到着間隔の確率密度関数」です。会計が終わって列から離れる間隔(= 退出間隔)も、\(\lambda\) を \(\mu\) に変えるだけで全く同じように求まります。以上をまとめると、

・ 到着間隔の確率密度関数
  \(f(t)=\lambda e^{-\lambda t}\)
・ 退出間隔の確率密度関数
  \(f(t)=\mu e^{-\mu t}\)

となります。これは「指数分布」と呼ばれている確率分布です。

確率密度関数.jpg
到着間隔の確率密度関数
\(\lambda=\:24(/h)\)。 横軸の単位は時間\((h)\)。\(0.05\) が\(3\)分。

この指数分布の平均値(確率の言葉では期待値)を実際に求めてみると、

\(\displaystyle\int_{0}^{\infty}tf(t)dt\)
 \(=\displaystyle\int_{0}^{\infty}\lambda te^{-\lambda t}dt\)
 \(=\left[-te^{-\lambda t}\right]_0^{\infty}+\displaystyle\int_{0}^{\infty}e^{-\lambda t}dt\)
 \(=0+\left[-\dfrac{1}{\lambda}e^{-\lambda t}\right]_0^{\infty}\)
 \(=\dfrac{1}{\lambda}\)

となって、1時間に \(\lambda\)人の客が到着するときの到着間隔の平均は、確かに \(\dfrac{1}{\lambda}\) となっていることが分かります。\(\lambda=\:24\)(\(1\)時間に平均\(24\)人の客が到着)の場合は、到着間隔の平均は \(2\)分\(30\)秒 ということです。なお上の計算では部分積分と、\(xe^{-x}\rightarrow0\:(x\rightarrow\infty)\) を使いました。

到着間隔の確率密度関数は、ある時間について到着間隔がその時間付近である "確からしさ" を表しています。従って上のグラフから、

・ 客が来るときには、たて続けに来る
・ しかし間隔が長くあくこともある
・ その平均として単位時間に \(\lambda\) 人の客が来る

などが読み取れます。これは直感的に我々が経験していることと合致します。レジの運営としては、客がなるべく均等な到着間隔で来てくれた方が効率的ですが、しかしそうはならない。それが "ランダム" ということです。


到着間隔の累積分布関数


確率変数を \(X\)、確率密度関数 \(f(x)\) とします。問題にしている到着間隔は \(0\) 以上なので、\(X\geq0\) とします(一般的には \(-\infty< X < \infty\) です)。累積分布関数 \(F(x)\) とは

\(\begin{eqnarray} &&F(x)&=P(0\leq X\leq x)\\ &&&=\displaystyle\int_{0}^{x}f(t)dt\\ \end{eqnarray}\)

で定義される「確率密度を累積した値」です。確率密度は正の値で、\(\infty\)まで積分すると \(1\) になるので、累積分布関数は \(0 < F(x) < 1\) の単調増加関数です。\(X\) を到着間隔を表す確率変数とすると確率密度関数は指数分布になりますが、この累積分布関数を求めると、

\(\begin{eqnarray} &&F(t)&=P(X\leq t)\\ &&&=\displaystyle\int_{0}^{t}\lambda e^{-\lambda x}dx\\ &&&=1-e^{-\lambda t}\\ \end{eqnarray}\)

となります。\(\lambda=24\) の場合(平均到着間隔が 2分30秒の場合)に \(F(t)\) が \(0.5\) となる時間 \(T_5\) を計算してみると、

\(T_5=0.029\)

となります。\(0.029(h)\) は1分43秒です。これは、

到着間隔の平均は2分30秒だが、1分43秒以内に \(0.5\) の確率で次の客が到着する

ことを意味します。しかも指数分布の形に見るように到着間隔が短い方が確率が高い。これがランダムに到着する場合の姿です。

累積分布関数.jpg
到着間隔の累積分布関数

\(\lambda=\:24(/h)\)。 横軸の単位は時間\((h)\)。\(0.05\) が\(3\)分。縦軸が \(F(t)\) の値である。到着間隔の平均(\(2\)分\(30\)秒)は \(0.05\) のすぐ左のところだが、そこでの \(F(t)\) の値は \(0.63\) 程度になる。


シミュレーション


到着間隔と退出間隔の確率密度関数が求まったので、これを用いてパソコンでシミュレーションをしてみます。そのためには「確率密度関数に従う乱数」を発生させなければなりません。

パソコンのプログラミング言語には「一様分布の乱数」を発生させる関数があるので(random / rand などの名称)、これを「到着間隔や退出間隔の確率密度をもつ乱数」に変換することを考えます。

まず「一様分布」ですが、確率変数 \(U\:(0\leq U\leq1)\) が一様分布とは、確率密度が一定値のものです。つまり、

・ 確率密度関数
 \(f(x)=1\)
・ 累積分布関数
 \(F(x)=\:P(U\leq x)=x\)

となる分布です(下図)。

一様分布.jpg
一様分布
確率密度関数(左)と累積分布関数(右)

今、分析したい確率変数 \(X\) の確率密度関数を \(f(x)\)、その累積分布関数を \(F(x)\:(0\leq F(x)\leq1)\) とします。そして \(F(x)\) の逆関数 \(F^{-1}(x)\) を作り、

\(Y=F^{-1}(U)\)

とおくと、この \(Y\) は「確率密度関数 \(f(x)\) をもつ確率変数」となります。その理由は以下の通りです。\(Y\) の累積分布関数、\(P(Y\leq x)\) は、

\(P(Y\leq x)=P(F^{-1}(U)\leq x)\)

と書けますが、\(F\) は単調増加関数なので、右辺の \(F^{-1}(U)\leq x\) の条件は、

\(F(F^{-1}(U))\leq F(x)\)

としても同じことです。すなわち、

\(U\leq F(x)\)

と表せます。従って、

\(P(Y\leq x)=P(U\leq F(x))\)

となりますが、\(U\) は一様分布の確率変数なので、上式の右辺は、

\(P(U\leq F(x))=F(x)\)

であり(上の一様分布の説明参照)、この結果、

\(P(Y\leq x)=F(x)\)

が得られます。この式は「確率変数 \(Y\) の累積分布関数は \(F(x)\)」という意味であり、従って \(Y\) の確率密度関数が \(f(x)\) であることが分かりました。この方法で特定の確率密度をもつ乱数を発生させる手法を「逆関数法」と呼びます。


到着間隔の累積分布関数は、

\(F(t)=1-e^{-\lambda t}\)

でした。この式を \(t\) について解くと、

\(t=-\dfrac{1}{\lambda}\mr{log}(1-F(t))\)

です。従って \(F(t)\) の逆関数、\(F^{-1}(t)\) は

\(F^{-1}(t)=-\dfrac{1}{\lambda}\mr{log}(1-t)\)

です。このことから \(u\) を一様分布の乱数として、

到着間隔の確率密度を持つ乱数 =
 \(-\dfrac{1}{\lambda}\mr{log}(1-u)\)

と計算できます。同様に、

退出間隔の確率密度を持つ乱数 =
 \(-\dfrac{1}{\mu}\mr{log}(1-u)\)

です。この2式を使ってシミュレーションを実行できます。


シミュレーション:例1(1時間)


パソコンを使って、客がいない状態から1時間のシミュレーションしてみます。\(\lambda=24\)、\(\mu=60\) とします。その結果の一例が次の表です。これは、

・ 時刻(開始からの経過時間)
・ 発生イベント(到着が退出か)
・ イベント後の行列人数
・ 次のイベントまでの時間

を表にしたものです。このシミュレーションは開始から1時間が経過した直後のイベント(="到着"。時刻 61分02秒)で止めてあります。この間に22人の到着があり、21人が退出しました。22人目が到着する直前の行列の人数は 0 です。行列の最大人数は 4人(37′19″からの 45″間)になりました。

時刻イベント 列 時間
 0′00″ ---0 5′40″ 
 5′40″ 到着1 0′11″ 
 5′51″ 退出0 2′11″ 
 8′02″ 到着1 1′03″ 
 9′05″ 退出0 7′29″ 
 16′35″ 到着1 0′44″ 
 17′18″ 退出0 0′33″ 
 17′51″ 到着1 3′00″ 
 20′51″ 退出0 1′54″ 
 22′45″ 到着1 0′02″ 
 22′48″ 到着2 0′13″ 
 23′01″ 退出1 0′30″ 
 23′31″ 退出0 5′32″ 
 29′03″ 到着1 2′27″ 
 31′30″ 退出0 0′13″ 
 31′42″ 到着1 0′33″ 
 32′16″ 退出0 3′18″ 
 35′34″ 到着1 1′03″ 
 36′37″ 到着2 0′19″ 
 36′55″ 到着3 0′24″ 
 37′19″ 到着4 0′45″ 
 38′04″ 退出3 0′02″ 
 38′06″ 退出2 0′38″ 
 38′45″ 退出1 1′00″ 
 39′45″ 到着2 0′46″ 
 40′31″ 退出1 0′02″ 
 40′34″ 退出0 0′10″ 
 40′44″ 到着1 0′32″ 
 41′15″ 退出0 0′39″ 
 41′55″ 到着1 0′04″ 
 41′58″ 退出0 4′28″ 
 46′26″ 到着1 0′43″ 
 47′10″ 到着2 0′08″ 
 47′18″ 退出1 1′14″ 
 48′31″ 到着2 0′29″ 
 49′00″ 到着3 0′53″ 
 49′53″ 退出2 1′32″ 
 51′25″ 退出1 0′16″ 
 51′41″ 退出0 2′57″ 
 54′38″ 到着1 0′10″ 
 54′48″ 到着2 0′53″ 
 55′41″ 退出1 0′14″ 
 55′54″ 退出0 5′08″ 
 61′02″ 到着1---

この表の「イベント後の行列人数」と「次のイベントまでの時間」から「行列が \(n\)人(\(n\geq0\))の時間合計」を求められます。それを計算したのが次の表です。

 行列が0人の時間合計  40′11″ 
 行列が1人の時間合計  13′49″ 
 行列が2人の時間合計  4′58″ 
 行列が3人の時間合計  1′19″ 
 行列が4人の時間合計  0′45″ 
 合計  61′02″ 

さらに、

\(p_n(t)\) : \(t\) 時間のシミュレーションを行ったとき、行列人数が \(n\)人である時間の割合

と定義し、上の表のそれぞれの時間合計を全体のシミュレーション時間( 61′02″)で割ると、次の表が得られます。

 \(p_0(1)\):行列が0人の時間割合  0.658 
 \(p_1(1)\):行列が1人の時間割合  0.226 
 \(p_2(1)\):行列が2人の時間割合  0.082 
 \(p_3(1)\):行列が3人の時間割合  0.022 
 \(p_4(1)\):行列が4人の時間割合  0.012 

このテーブルから「行列の平均人数 \(=\:L(t)\::\:t=1\) のとき 」を求めてみると、

\(L(1)=\displaystyle\sum_{n=0}^{4}np_n(1)=0.503\)

となりました。これはあくまで1時間分のシミュレーションに過ぎません。使用した乱数も、到着と退出のイベントでそれぞれ20数個程度であり、発生させた乱数は指数分布の極めて荒い近似だと推測されます。

しかし、\(p_n(t)\) の \(t\) を増やしていき、それにもとづいて \(L(t)\) を計算していくと、近似は次第に正確になっていくはずです。それが次のシミュレーションです。


シミュレーション:例2(長時間)


シミュレーションの時間を増やして \(200\) 時間分の計算を実行し、行列の平均長がどうなるかを、途中経過とともに観察します。シミュレーション時間、\(t\) を増やしたときの行列の最大人数を \(m\) とすると、行列の平均長、\(L(t)\) は、

\(L(t)=\displaystyle\sum_{n=0}^{m}np_n(t)\)

で計算できます。このシミュレーションを実行して \(L(t)\) をプロットしたのが次のグラフ(\(0\leq t\leq200\))です。もちろん、あくまで一例です。

PythonSim1.jpg
シミュレーション例(行列の平均長)

\(200\)時間分のシミュレーションを行い、行列の平均長の途中経過をプロットした例。このシミュレーションでは最初の\(5\)時間までに行列が伸びる要因が重なった。グラフの形はシミュレーションのたびに変化するが、どれも \(0.6\)~\(0.7\) 付近の値に落ち着いて行く。

グラフから分かるように、行列の平均長は一定値(\(0.6\)~\(0.7\) 程度)に近づいていきます。これはパソコンで発生させた乱数が一様分布乱数に近づき、従って逆関数法で作った関数が指数分布に近づくからです。また初期状態(シミュレーションでは行列の人数はゼロとした)の影響がなくなることもあるでしょう。

このように時間に依存しない状態が「定常状態」であり、これが行列の平均的な姿です。


シミュレーション:例3(同一シミュレーションの平均)


乱数を使ったシミュレーションでは、1回だけの計算では値がふらつき、必ずしも正確な姿が分かりません。こういう場合は、同一のシミュレーションを多数繰り返し、その平均をとるのが一般的です。

次図に、2.5 時間分のシミュレーションを 1000 回繰り返して平均をとった例をあげます。行列の平均長が 0.66~0.68 程度に収束していく様子が見て取れます。

PythonSim2.jpg
\(\bs{1000}\) 回のシミュレーションの平均

\(2.5\) 時間分のシミュレーションを \(1000\) 回繰り返して、その平均をとったグラフ。\(0.5\) 時間から1時間程度で収束値に近づく。ちなみに、このケースで最長の行列は \(9\)人であった。


レジ行列の微分方程式


今まではパソコンによるシミュレーションでしたが、これを数学的に厳密に解くことができます。

\(p_n(t)\) を「時刻 \(t\) において行列が \(n\)人である確率」とします。そして、時刻 \(t+\Delta t\) に \(p_n\:(t)\) がどう変化するかを考えます。まず \(p_0(t+\Delta t)\) ですが、起こり得るケースは、

\(p_0(t+\Delta t)\):
・ \(p_0(t)\) から到着が起こらず \(p_0(t+\Delta t)\) になる
・ \(p_1(t)\) から退出が起こって \(p_0(t+\Delta t)\) になる

の2つのケースです。ここで、

\(\Delta t\) の時間で到着が起こる確率は \(\lambda\Delta t\)
\(\Delta t\) の時間で退出が起こる確率は \(\mu\Delta t\)

なので、次の式が成り立ちます。

\(p_0(t+\Delta t)=p_0(t)(1-\lambda\Delta t)+p_1(t)\mu\Delta t\)

\(\dfrac{p_0(t+\Delta t)-p_0(t)}{\Delta t}=\mu p_1(t)-\lambda p_0(t)\)

\(\Delta t\rightarrow0\) の極限をとると、次の微分方程式が得られます。

\(\dfrac{dp_0(t)}{dt}=\mu p_1(t)-\lambda p_0(t)\)

次に \(p_1(t+\Delta t)\) ですが、これには3つのケースがあります。つまり、

\(p_1(t+\Delta t)\):
・ \(p_0(t)\) から到着が起こって \(p_1(t+\Delta t)\) になる
・ \(p_2(t)\) から退出が起こって \(p_1(t+\Delta t)\) になる
・ \(p_1(t)\) から到着も退出も起こらずに \(p_1(t+\Delta t)\) になる

の3つです。微少時間 \(\Delta t\) の間に起こるイベントは、起こったとしても一つだけであり、到着と退出が同時に起こることはないというのがそもそもの仮定でした。つまり \(\Delta t\) の時間内に起こる事象は、

・ 到着が起こる
・ 退出が起こる
・ 到着も退出も起こらない

のどれかであり、この3つは排他的です。従って \(\Delta t\) の間に

到着または退出が起こる確率
 \(=\lambda\Delta t+\mu\Delta t\)

となります。排他的だから単純加算でよいわけです。従って、

到着も退出も起こらない確率
 \(=1-\lambda\Delta t-\mu\Delta t\)

です。以上の考察から \(p_1(t+\Delta t)\) は次のように表現できます。

\(p_1(t+\Delta t)=\)
 \(p_0(t)\lambda\Delta t+p_2(t)\mu\Delta t+p_1(t)(1-\lambda\Delta t-\mu\Delta t)\)

\(\dfrac{p_1(t+\Delta t)-p_1(t)}{\Delta t}=\)
 \(\lambda p_0(t)+\mu p_2(t)-(\lambda+\mu)p_1(t)\)

\(\dfrac{dp_1(t)}{dt}=\lambda p_0(t)+\mu p_2(t)-(\lambda+\mu)p_1(t)\)

従って、一般の \(p_n(t)\:(n\geq2)\) では、

\(\dfrac{dp_{n-1}(t)}{dt}=\lambda p_{n-2}(t)+\mu p_n(t)-(\lambda+\mu)p_{n-1}(t)\)

と表現できます。以上をまとめると、

\(\left\{ \begin{array}{l} \begin{eqnarray} &&\dfrac{dp_0(t)}{d}=\mu p_1(t)-\lambda p_0(t)&\\ &&\dfrac{dp_{n-1}(t)}{dt}=\lambda p_{n-2}(t)+\mu p_n(t)-(\lambda+\mu)p_{n-1}(t)&\\ \end{eqnarray} \end{array}\right.\)

の2つの微分方程式によって、レジ行列の挙動が決まることが分かりました。


ここで、シミュレーションで確認したような "定常状態" での確率を求めます。定常状態では確率は時間的に変化しないので、上の2つの微分方程式の左辺はゼロになります。\((t)\) をなくして式を整理すると、

\(\left\{ \begin{array}{l} \begin{eqnarray} &&\mu p_1=\lambda p_0&\\ &&\mu p_n=(\lambda+\mu)p_{n-1}-\lambda p_{n-2}&\\ \end{eqnarray} \end{array}\right.\)

ですが、ここで、

\(\rho=\dfrac{\lambda}{\mu}\)

と定義します。\(\rho\) は「稼働率」を呼ばれる数値です。レジ行列のモデルで仮定したように \(\lambda< \mu\) なので、

\(\rho< 1\)

です。この \(\rho\) を使って式を書き直すと、

\(p_1=\rho p_0\)  (1式)
\(p_n=(1+\rho)p_{n-1}-\rho p_{n-2}\)  (2式)

となります。ここで(2式)を次のように変形します。

\(p_n-p_{n-1}=\rho(p_{n-1}-p_{n-2})\)

これは数列 \((p_n-p_{n-1})\) が、初項 \((p_1-p_0\:)\) 、公比 \(\rho\) の等比数列であることを示しています。(1式)より \(p_1=\rho p_0\) なので、初項 \((p_1-p_0\:)\) は \(p_0(\rho-1)\) と表現できます。従ってこの等比数列の一般項は、

\(p_n-p_{n-1}=p_0(\rho-1)\rho^{n-1}\)  (3式)

です。この式から \(p_n\) の形を求めます。以降の計算では高校数学で習う「等比数列の和の公式」を使います。つまり、

初項 \(a\)、公比 \(r\) の等比数列の第 \(1\)項から第 \(n\)項までの和は \(a\cdot\dfrac{1-r^n}{1-r}\)

という公式です。(3式)の両辺の \(n=1\cd n\) の和をとると、

\(p_n-p_0\)\(=p_0(\rho-1)\dfrac{1-\rho^n}{1-\rho}\)
\(=\:p_0\rho^n-p_0\)

\(p_n=\:p_0\rho^n\)  (4式)

が得られます。ここで \(p_n\) は確率なので、その総和をとると \(1\) になるはずです。(4式)の両辺の \(n=1\cd n\) の和をとると、

\(\displaystyle\sum_{k=0}^{n}p_k=p_0\displaystyle\sum_{k=0}^{n}\rho^k=p_0\dfrac{1-\rho^{n+1}}{1-\rho}\)

となります。ここで \(n\rightarrow\infty\) とすると、\(\rho< 1\) なので、

\(1=\dfrac{p_0}{1-\rho}\)
\(p_0=1-\rho\)  (5式)

となります。(5式)(4式)に代入すると、

\(p_n=(1-\rho)\rho^n\)  (6式)

が得られました。(6式)が定常状態で列に \(n\)人が並ぶ確率です。ちなみに(5式)において \(p_0\) は、定常状態で「列に \(0\)人が並ぶ確率」であり、つまり、

レジ係りが客待ちの状態である確率は \(1-\rho\)

ということに他なりません。\(\rho\) が(レジ係の)稼働率であるゆえんです。


行列の平均長


(6式)で行列の人数ごとの確率が求まったので、行列の平均長を計算することができます。つまり、

\(np_n\:(0\leq n)\)

の総合計が行列の平均長(\(=L\))です。

\(L=\displaystyle\sum_{n=0}^{\infty}np_n=\displaystyle\sum_{n=0}^{\infty}n(1-\rho)\rho^n\)

ここで \(S_n\) を、

\(S_n=\displaystyle\sum_{k=0}^{n}kp_k=(1-\rho)\displaystyle\sum_{k=0}^{n}k\rho^k\)

と定義すると、

\(\rho S_n=(1-\rho)\displaystyle\sum_{k=0}^{n}k\rho^{k+1}\)

です。従って、

\(S_n-\rho S_n\)
 \(=\:(1-\rho)\left(\displaystyle\sum_{k=0}^{n}k\rho^k-\displaystyle\sum_{k=0}^{n}k\rho^{k+1}\right)\)
 \(=\:(1-\rho)\left(\displaystyle\sum_{k=1}^{n}k\rho^k-\displaystyle\sum_{k=1}^{n+1}(k-1)\rho^k\right)\)
 \(=\:(1-\rho)\left(\displaystyle\sum_{k=1}^{n}\rho^k-n\rho^{n+1}\right)\)

\((1-\rho)S_n\)
 \(=(1-\rho)\left(\rho\dfrac{1-\rho^n}{1-\rho}-n\rho^{n+1}\right)\)

\(S_n=\rho\dfrac{1-\rho^n}{1-\rho}-n\rho^{n+1}\)

と計算できます。ゆえに、行列の平均長 \(L\) は、

\(L=\displaystyle\lim_{n\rightarrow\infty}S_n=\dfrac{\rho}{1-\rho}\)

となります。


平均待ち時間


次に、客が行列に到着してから会計が始まるまでの時間、「平均待ち時間(=\(W\))」を計算してみます。これは、

 平均待ち時間 =
列に到着したときに、既に列に並んでいる人全員の会計が終る平均時間

であり、ということは、

 平均待ち時間 =
( レジ行列の平均長さ)\(\times\)(1人の平均会計時間)

です。平均会計時間は \(\dfrac{1}{\mu}\) なので、

\(W=\dfrac{1}{\mu}\cdot\dfrac{\rho}{1-\rho}\)

となります。以上でレジ行列の数学的な解析ができました。


スーパーのレジ行列の分析


今までの数学的分析をまとめると、

・ 客の平均到着数
 \(\lambda\) (単位時間当たり)
・ レジ係の平均会計数
 \(\mu\) (単位時間当たり)
・ 稼働率
 \(\rho=\dfrac{\lambda}{\mu}\)

のとき、レジ行列の平均長 \(L\) と平均待ち時間 \(W\) は、

・  \(L=\dfrac{\rho}{1-\rho}\)
・  \(W=\dfrac{1}{\mu}\cdot\dfrac{\rho}{1-\rho}\)

で求めることができます。


最初に提示したスーパーのレジ係りの人数に戻ります。レジ係り一人あたり1時間あたりの平均の会計処理数は、\(\mu=60\) です(1人の客につき1分で処理)。現状(変更前)はレジ係り2人でそれぞれ24人の客を1時間あたりこなしているが、レジ係を1人にしたらどうなるかが問題でした。それを計算すると次のようになります。

変更前(レジ係2人)
\(\mu\)\(=60\)
\(\lambda\)\(=24\)
\(\rho\)\(=0.4\)
\(L\) \(=0.67\)
\(W\) \(=40\) 秒

変更後(レジ係1人)
\(\mu\)\(=60\)
\(\lambda\)\(=48\)
\(\rho\)\(=0.8\)
\(L\) \(=4.0\)
\(W\) \(=4\) 分

つまりレジ係を半分に変更すると、変更前と比べて平均の行列長さ(\(L\))も平均待ち時間(\(W\))も6倍になります。店長の "せいぜい2倍程度だろう" という直感は、全くの "外れ" であることが分かります。

ちなみに、変更前(レジ係2人)の行列の平均長、\(L=0.67\) は、シミュレーション(例3)と一致しています。また、変更後(レジ係1人)の場合の平均長は理論上、\(L=4.0\) ですが、シミュレーションをしてみると次図ようになり、理論と一致します。

PythonSim3.jpg
変更後の行列平均長(\(\bs{1000}\) 回の平均)

\(10\) 時間分のシミュレーションを \(1000\) 回繰り返し、その平均をとったグラフ。\(4\)時間程度で収束値に近づく。ちなみに、このケースで最長の行列は \(50\)人であった。\(1000\) 回も繰り返すと、中には "長蛇の列" が発生する。

\(L\) も \(W\) も、稼働率 \(\rho\) が \(1\) に近づくと急激に上昇します。その様子をグラフにしたのが次です。

平均行列長.jpg
稼働率と行列の平均長の関係

稼働率 \(\rho\)(横軸)が \(1\) に近づくと、行列の平均長 \(L\)(縦軸)は急激に増える。

現象の本質が "ランダム" である場合、往々にして我々の直感がはずれます。上の例で変更後の稼働率が \(0.8\) ということは、レジ係りの時間の \(20\:\%\) は客待ち時間だというとです。それでも、客の視点からすると会計待ちの時間が大幅に延びる。このような問題では平均で考えると落とし穴にはまります。


以上のスーパーのレジの分析は「待ち行列理論」の初歩のそのまた第1歩です。世の中には「窓口」がいろいろあって、そこに並んで何らかの「サービス」を受けることが多々あります。「窓口」は、人が対応しない自販機でも ATM でも同じです。もっと一般化すると、サービス提供主体があり、サービスを受けようとする主体が複数あると "待ち行列" の問題が発生します。コールセンターに電話すると「ただいま込み合っております。そのまましばらくお待ちください」という自動応答が返ってくることがありますが、同じことです。

またコンピュータシステムにおいては、多数の処理要求に対して複数のサーバーが対応するケースが多々あります。Webによるチケットの予約システムなどはその典型でしょう。もっと広く考えると、現代のインターネットは世界中に何10億というサーバー資源(アプリケーション・サーバ、ファイル・サーバ、ルーター、・・・・・・)があり、そのサービスを受けようとする何億人かの "客" で構成されている巨大ネットワーク・システムだと言えるでしょう。その各所で、実は微少な「待ち行列」が発生しています。

そういった、世の中に多数ある "システム"(人間系・コンピュータ系)を設計する根幹のところに「待ち行列理論」があるのでした。




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No.328 - 中島みゆきの詩(18)LADY JANE [音楽]

No.321「燻製とローリング・ストーンズ」で、「美の壷 File550:煙の魔法 燻製」(NHK BSプレミアム。2021年9月10日)で BGM として使われたローリング・ストーンズの楽曲のことを書き、その一つの "Lady Jane" の歌詞と日本語訳を掲げました。

この "Lady Jane" で連想するのが、下北沢にあるジャズ・バー「LADY JANE」です。このジャズ・バーは、今は亡き松田優作さんが通い詰めたことで知られ(優作さんがキープしたボトルがまだあるらしい)、現在も多くのミュージシャンや演劇・映画関係者に愛されている店です。俳優の桃井かおりさん、六角精児さん、写真家の荒木経惟のぶよし(アラーキー)さんもこの店の常連だそうです。

この店の「LADY JANE」という屋号はローリング・ストーンズと関係があるのでしょうか。

店のオーナーは音楽プロデューサーの大木雄高さんという方ですが、大木さんの「音曲祝祭行」というブログにそのことが書いてあります(http://bigtory.jp/shukusai/shukusai12.html)。以下に引用します。原文の漢数字を算用数字に改めました。


1975年の年明け、「レディ・ジェーン」というジャズバーを、僕はつくった。デューク、サイドワインダー、サムシンなど、最後まで残ったジャズにまつわる店名候補を退けて、レディ・ジェーンを選んだ。この名は、3月に来日予定の“世界遺産”のロックバンド「ローリング・ストーンズ」の、66年にヒットしたバラ-ド曲だった。

「ジャズの店なのに、なんでロックの曲名を店名にしたのか?」とよく聞かれた。その当時から、クロスボーダーを主張していた、なんて言わない。僕のただの邪鬼だった。

大木雄高「音曲祝祭行」VOL.12
淑女かあばずれか?「レディ・ジェーン」

引用中に「3月に来日予定の」とありますが、この文章が書かれたのは1998年2月で「1998年3月に来日予定の」という意味です。ちなみに、今までにローリング・ストーンズが来日公演をしたのは、1990年、1995年、1998年、2003年、2006年、2014年ですが、ほとんどが3月の公演でした。引用の最後に「僕のただの邪鬼だった」とありますが、これは天邪鬼あまのじゃくのことでしょう。さらに、引用した文章のあとには、次のような表現もあります。


「レディ・ジェーン」は、故ブライアン・ジョーンズのかき鳴らすダルシマの優雅さもあって、ロレンスの世界というか、精霊的でさえある

大木雄高「同上」

ロレンスとあるのは、イギリスの作家、D.H.ロレンスのことです。またダルシマーは珍しい楽器で、No.321 に書いたように、ブライアン・ジョーンズがダルシマーを演奏する貴重な映像が YouTube に公開されています。

また、大木さんの別のブログ「東京発 20:00」には次の記述もあります(http://bigtory.jp/tokyo/tokyo_zpn19.html)。2006年に書かれた文章です。


染井吉野が狂気乱舞していた4月上旬、NHKに入りたての2人の若者男女が訪ねてきた。圧倒的に若者に支持され、又現在再開発に激震する街下北沢は新入社員として格好の社会勉強の的だったのだろう。2人共黒いスーツをいかにも着せられて溌剌と質問してくる。「この店はいつからですか? 名前の由来は? 下北沢の昔はどうだったのですか?」等々。

1975年1月、50近く上げた店名候補を消去法して、デュークやサイドワインダー等ジャズに因んだ名も最後に蹴落として「レディ・ジェーン」という屋号のジャズ・バーを下北沢にオープンした。「『ローリング・ストーンズ』は知っているだろう?」と言うと、若者は真面目に「知っています。ついこの間来ました」と張りきった。この在りながらにして伝説化した世界最長バンドは、3月によく来日する。それにしてもS席1万8千円とはよく付けたものだ。

ジャズの店なのに何故ロックの曲名から取ったのかと昔よく聞かれた。そこが店主である俺のクロスボーダー作戦その一だったのだが、今ではそれも聞かれず ?顔 をされるのが落ちだ。「結成時のストーンズのリーダーでブライアン・ジョーンズがいたんだよ」と言えば「はぁ?」としか答えが無い。

大木雄高
「東京発 20:00」2006年5月号
「ブライアン・ジョーンズ ~ ストーンズから消えた男」

「LADY JANE」としたのは「クロスボーダー作戦」だとあって、さきほどの引用の「ただの天邪鬼あまのじゃく」とは違いますが、おそらく両方とも正しいのでしょう。

ともかく、これらの文章を読んで分かることは、「LADY JANE」のオーナーである大木雄高氏はローリング・ストーンズが好きであり、なかでも故ブライアン・ジョーンズに惹かれていて、また楽曲としての "Lady Jane" を高く評価している(精霊的!)ということです。だから、ジャズ・バーであるにもかかわらず「LADY JANE」にした。



ところで、「LADY JANE」は多くのミュージシャンや演劇・映画関係者に愛されていると書きましたが、中島みゆきさんも、かつてこの店を行きつけにしている一人でした。大木さんは別のブログに「1988年、開店以来の常連客の甲斐よしひろが中島みゆきを連れて来た。その数ヶ月後に彼女は1人で来た」との主旨を書いていました。なんでも、彼女は明け方まで飲んで帰ったそうで、かなりの酒豪のようです。

その中島みゆきさんが "ジャズ・バー LADY JANE" をそのままタイトルにした作品があります。2015年発売のアルバム『組曲』に収められた「LADY JANE」です。今回はこの作品の詩のことを書きます。

なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。


LADY LANE


「LADY JANE」は2015年のアルバム『組曲』に収められた曲で、その詩を引用すると次のとおりです。


LADY JANE

LADY JANE 店を出るなら まだ
LADY JANE 暗いうちがおすすめです
日常な町角
LADY JANE どしゃ降りの夜なら
LADY JANE 古い看板が合います
色もない文字です

愛を伝えようとする二人連れが
ただジャズを聴いている
愛が底をついた二人連れも
ただ聴いている

時流につれて客は変わる
それもいいじゃないの この町は
乗り継ぎびとの町

LADY JANE 大好きな男が
LADY JANE この近くにいるの
たぶんここは知らないけど
LADY JANE

LADY JANE すねに傷ありそうな
LADY JANE マスターはいつも怒ってる
何かを怒ってる
LADY JANE 昔の映画より
LADY JANE 明日あしたの芝居のポスターが
何故なぜか古びている

座り心地が良いとは言いかねる
席はまるで船の底
常に灯りはかすんでいる
煙草のるつぼ

時流につれて町は変わる
迷い子になる程変わっちまっても
この店はあるのかな

酔いつぶれて寝ていたような片隅の
客がふいとピアノに着く
静かに遠ざかるレコードから
引き継いで弾く

時流につれて国は変わる
言葉も通じない国になっても
この店は残ってね

LADY JANE 私は一人です
LADY JANE 歩いて帰れる程度の
お酒を作ってね
LADY JANE 店を出るなら まだ
LADY JANE 暗いうちがおすすめです
日常の町角
LADY JANE


中島みゆき「組曲」.jpg
中島みゆき
組曲」(2015)

① 36時間  ② 愛と云わないラヴレター ③ ライカM4 ④ 氷中花(ひょうちゅうか)⑤ 霙の音(みぞれのおと)⑥ 空がある限り ⑦ もういちど雨が ⑧ Why & No ⑨ 休石(やすみいし) ⑩ LADY JANE

中島みゆき「組曲」裏表紙.jpg


非日常


以降、詩の内容を振り返りますが、まず冒頭の、

店を出るなら
まだ暗いうちがおすすめです
日常な町角

という言葉の流れに少々違和感を覚えます。「店を出るなら まだ暗いうちがおすすめです」は明瞭ですが、それと「日常な町角」とはどういう関係にあるのでしょうか。詩を読むだけでは明瞭ではありません。

CD のブックレットに、歌詞とともにその英訳がしるされています。それを見ると上の部分の訳は、

If you are going to leave
I suggest you do so while it's still dark
Daily life would hit you otherwise

となっています。つまり「店を出るなら まだ暗いうちがおすすめです。でないと日常(の町角)に遭遇しますよ」という意味なのですね(would という仮定法が使ってある)。つまり詩に言葉を補ったとしたら、

店を出るなら
まだ暗いうちがおすすめです
日常な町角(に出会う前に)

となるでしょう。繰り返される日常の毎日、それとは違う "非日常" を求めてジャズ・バーで過ごす。ジャズ・バーを出たとたんに「日常の町角」に出会うより、"非日常の余韻" に浸りながら帰宅したほうがよい。そう理解できると思います。





"町" という言葉が何回か出てきます。ジャズ・バーがあるこの町は「乗り継ぎびとの町」と表現されています。"乗り継ぎ" は、文字通りにとると「交通機関の乗り継ぎ」です。ちょうど、実店舗の「LADY JANE」がある下北沢が小田急線と井の頭線の乗り継ぎ駅であるようにです。

しかしここは拡大解釈して「人生の乗り継ぎ」という風にとらえることができると思います。つまり、町に住み続ける、永住するというより、数年レベルの居住者が多い町というイメージです。その理由は、職場、大学、仕事の関係などさまざまでしょう。詩に「時流につれて客は変わる」とあるのも、そのイメージとマッチしています。





その町にあるジャズ・バー「LADY JANE」は、

・ 色のあせた文字の看板

・ 座り心地が良いとは言いかねる
席はまるで船の底

・ 常に灯りはかすんでいる
煙草のるつぼ

と表現されています。いかにも老舗しにせのジャズ・バーという風情です。ここで出てくる「看板」「席」「灯り」は、おそらく店の創業以来そのままなのでしょう。


時の流れ


しかし、店の外観やしつらえは変わらなくても、変わるものがあります。それは、

時流につれて客は変わる
時流につれて町は変わる
時流につれて国は変わる

と表現されているように「客」「町」「国」で代表されるものです。「客・町・国」の何が変わるのかの具体的な言及はありません。ただ「乗り継ぎびとの町」にあるバーなので、客や町が変わるのは自然でしょう。

また「昔の映画より 明日の芝居のポスターが古びている」とあります。このジャズ・バーには映画や演劇のポスターがいろいろ貼ってあるようです。それも最新の(ないしは近日中に公開や初日の)ものだけでなく、昔の映画や演劇のポスターも(マスターのセレクションによって)貼ってある。当然そこには変遷があり、大袈裟に言うと、国の文化的状況の変化を反映している。

文化的状況というと、詩にある「言葉が通じない国」の "言葉" も変わります。この詩は「変わらないものと、変わるもの」が、基軸になっています。その中で、

この店はあるのかな
この店は残ってね

とあるように、店は変わらないで欲しいと願っている。そいういう詩です。


人間模様


その「変わらないものと変わるものの交差点」であるジャズ・バーのなかで、いくつかの人間模様が描かれます。まず、

愛を語り合うカップル

です。次に、それとは対照的な、

愛が冷えたカップル

です。ひょっとしたら同じカップルかもしれません。最初に見たときは「愛を語り合う」ようだったが、その次には「愛が冷えた」ようだったという、時間の経緯による変化なのかもしれません。さらに、

脛に傷ありそうなマスター

です。"脛に傷" なので、次のようなイメージが浮かびます。つまりこのマスターはジャズが好きだが、以前は全く別の仕事をしていた。そのときに人生における極めて辛い状況に陥った。それを契機にジャズ・バーのマスターに転身した。たとえばですが ・・・・・・。

このマスターは「いつも何かを怒ってる」とあるように、"気難し屋" のようです。何に怒っているのかは書いてありませんが、その直後の言葉に「昔の映画より 明日の芝居のポスターが古びている」とあります。これにひっかけて類推すると「最近の映画はつまらないし、演劇のクオリティーは低くなった」と怒っているのかもしません。そしてもう一つの人間模様としては、

ピアノを弾く客

です。「寝ていたかのよう客がふいとピアノ弾き始める、遠ざかるレコードを引き継いで」とあるので、フェイドアウトするレコードから引き継いだピアノ演奏です。アマチュアのジャズバンドをやっている人かも知れないし、ひょっとしたらプロのミュージシャンかも知れません。プロだとしたら、即興のピアノ演奏とも考えられるでしょう。





そして「私(=女性)」です。私は、

・ 大好きな男がこの近くにいる。ただし、その男はこのジャス・バーを知らない。

・ 一人でジャズを聴きながら、お酒を飲む。

・ お酒の量は「歩いて帰れる程度」で、かなり多め。

・ 深夜まで飲み、夜明け前のまだ暗いうちに(=町の日常が動き出す前に)店を出る(こともある)。

といった感じでしょうか。このジャズ・バーに通う大きな理由は「大好きな男がこの近くにいる」からなのでしょう。程度はさておき、女性の側からの "片思い" を匂わせる表現です。そうでないなら、2人でこの店に来ればよいはずです。詩に出てくるカップルのように ・・・・・・。

こういった "片思い" にまつわる詩は、70年代・80年代の中島さんの作品にいろいろあったと思います。しかしこの詩では、以前の作品のように "女性心理を突き詰める" というのではなく、「私」はあくまでこのジャズ・バーの人間模様の一つに過ぎません。そういった "軽さ" がこの詩の特徴でしょう。


実在の店を主題にするという手法


以上の内容は、「LADY JANE」という実在する店を舞台にし、その店の固有名詞を出した中で展開されます。こういった詩の作り方で真っ先に思い出すのが「店の名はライフ」です。この楽曲は1977年発表のアルバム「あ・り・が・と・う」に収められたもので、「LADY JANE」とは38年の時間差があることになります。

両曲とも実在する店をテーマにすることで人間模様(あるいは世相)を描いていますが、「LADY JANE」の詩は気負いがなく "肩の力が抜けている" 感じがします。曲調も中島さんの歌い方も軽快です。

特に「LADY JANE」は店の名前だけがタイトルであり、かつその名前が16回も繰り返されるところです。つまり主題は店であり、店が主人公の詩と言ってよいでしょう。その主人公である店が、人や町などの変化(や不変なもの)を語る。

"定点観測" という言葉があります。場所を固定して観測を続けていると、多様な人が行き交うことがわかると同時に、時間の流れと変化を感じることができる。「LADY JANE」は、変わらないものと変わるものの交差点である非日常空間を描いた詩、そう言えると思います。


サード・プレイス


「LADY JANE」の詩から、"サード・プレイス" という言葉に連想がいきました。サード・プレイス(第3の場所)とは、

自宅(ファースト・プレイス)や職場(セカンド・プレイス)とは隔離された、自分にとっての居心地の良い場所

の意味です。セカンド・プレイスは "自宅以外で1日の最も長い時間を過ごす場所" で、職場以外にも学校などが含まれます。ファースト・プレイスとセカンド・プレイスを「日常空間」とすると、サード・プレイスは「非日常空間」ということになるでしょう。

サード・プレイスでは、気ままに何かをしてもよいし、何もせずに無為の時間を過ごしてもよい。目的(たとえばジャズを聴く)があってそこに行ってもよいが、目的なしに行ってもよい。"そこに居る" こと自体が目的であっていいわけです。

また、そこに集まる人はすべてが平等です。常連客が雰囲気を支配しているような店はサード・プレイスにふさわしくない。

サード・プレイスがカフェ、バー(=夜のサード・プレイス)などの店だとしたら、その店は長期に存続し続けることが重要です。自分にとっての居心地のよさは、時間のフィルターで濾過されたものが自分に染み込むことで生まれるからです。ジャズ・バー「LADY JANE」がまさにそうで、1975年にオープンなので、中島さんが楽曲にするまでに40年間続いていることになります。

「LADY JANE」の詩から、日々の生活にとっての "サード・プレイス" の必要性や重要性を思いました。




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No.327 - 略奪された文化財 [歴史]

No.319「アルマ=タデマが描いた古代世界」で、英国がギリシャから略奪したパルテノン神殿のフリーズの話を書きました。今回はそれに関連した話題です。


エルギン・マーブル


まず始めに No.319 のパルテノン神殿のフリーズの話を復習すると次の通りです。

◆ 1800年、イギリスの外交官、エルギン伯爵がイスタンブールに赴任した。彼はギリシャのパルテノン神殿に魅了された。当時ギリシャはオスマン・トルコ帝国領だったので、エルギン伯はスルタンに譲渡許可を得てフリーズを神殿から削り取り、フリーズ以外の諸彫刻もいっしょに英国へ送った。

◆ 数年後、帰国したエルギン伯はそれらをお披露目する。芸術品は大評判となるが、エルギン伯の評判はさんざんだった。「略奪」と非難されたのだ。非難の急先鋒は "ギリシャ愛" に燃える詩人バイロンで、伯の行為を激しく糾弾した。

◆ 非難の嵐に嫌気のさしたエルギン伯は、1816年、フリーズを含む所蔵品をイギリス政府に売却した。展示場所となった大英博物館はそれらを「エルギン・マーブル(Elgin Marble)」、即ち「エルギン伯の大理石」という名称で公開し、博物館の目玉作品として今に至る。

The Parthenon Frieze(Wikimedia).jpg
パルテノン神殿のフリーズ
- 大英博物館 -
(Wikimedia Commons)

◆ 実は、古代ギリシャ・ローマの彫像や浮彫りは驚くほど極彩色で色づけされていたことが以前から知られていた。わずかながら色が残存していたからだ。大英博物館のフリーズにも彩色の痕跡が残っていた。

◆ オランダ出身でイギリスに帰化した画家・アルマ=タデマは、大英博物館に通い詰め、フリーズの彩色の痕跡を調査し、それをもとに一つの作品を仕上げた。それが「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」(1868)である。

アルマ=タデマ 8:フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ(1868).jpg
ローレンス・アルマ=タデマ
「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」(1868)
(Pheidias and the Frieze of the Parthenon, Athens)
72.0.cm×110.5cm
(バーミンガム市立美術館)

◆ ところが1930年代、大英博物館の関係者が大理石の表面を洗浄し、彩色を落とし、白くしてしまった。彫刻は白くあるべきという、誤った美意識による。このため大理石の本来の着色は二度と再現できなくなった。「エルギン・マーブル事件」と呼ばれる大スキャンダルである。

◆ ギリシャはパルテノン神殿のフリーズを返還するようにイギリスに要求し続けているが、イギリスは拒否したままである。しかたなくギリシャはアテネのアクロポリス博物館にレプリカを展示している。

◆ アルマ=タデマの「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」は、今となってはパルテノン神殿の建設当時の姿を伝える貴重な作品になってしまった。

大英博物館が所蔵する略奪美術品・略奪文化財はエルギン・マーブルだけではありません。エジプト、メソポタミアの文化財の多くがそうです。このエジプト・メソポタミアのコレクションを築いた人物の話が、NHKのドキュメンタリー番組でありました。それを紹介します。


大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション


NHK BSプレミアムで「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」と題するドキュメンタリーのシリーズが放映されています。その2021年11月25日の放送は、

大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション

と題するものでした(2021年11月25日 21:00~21:45)。内容は、大英博物館(British Museum)のエジプト・コレクションに焦点を当て、その収集(略奪)の経緯を追ったものした。以降、番組の概要を紹介します。



大英博物館のエジプト・コレクションは総数が10万点以上で、世界最大級です。ミイラだけでも150点以上あります。このコレクションのうちの4万点を集めたのが、大英博物館の考古学者、ウォーリス・バッジ(Wallis Budge。1857-1934)でした。バッジは大英博物館の歴史上、最も多くの文化遺産を収集した人物と言われています。

彼の収集方法はもちろん違法で、嘘、賄賂、脅しなどで盗掘品を買いあさったものでした。収集品の中で最も貴重なのが "死者の書" の最高傑作といわれる「アニのパピルス」ですが、これもエジプト当局を出し抜き、無許可で英国に持ち出したものです。

1882年、英国はエジプトを占領し、保護国にします。1886年、バッジは29歳でエジプト乗り込みました。彼は 150ポンド(現在の日本円で約300万円の価値)の資金を大英博物館から託されていました。

当時のエジプトでは、1880年5月19日に公布された遺跡や遺物に関する法令で、「エジプト考古学に関わるすべての文化遺産の持ち出しを絶対に禁止する」と決められていました。文化遺産を持ち帰るヨーロッパ人が後を絶たなかったためです。バッジに面会した英国総領事のイブリン・ベアリング(Evelyn Baring)も、エジプトの文化遺産を英国に持って帰らないようバッジにクギをさし、「エジプトの占領が歴史的な遺産を盗む口実になってははらない」と告げました。

しかし、バッジは文化遺産の買い付けに走ります。持ち前の語学力を武器に情報収集を行い、また、古代エジプト文字も読めたバッジは審美眼にもたけていました。そして現地のエジプト人が盗掘した文化遺産を次々と買い漁っていきました。盗掘品と知りながら購入する行為はもちろん違法ですが、盗掘人にもメリットがありました。盗掘品をエジプト当局に見つかると、没収されるか二束三文で買い上げられます。バッジに売る方が儲かります。

バッジはエジプト当局の監視をかいくぐり、イギリス軍と交渉して文化遺産を軍用貨物として英国に送りました。軍用貨物となると誰も検査できません。バッジは英国総領事・ベアリングの指示を全く無視したわけです。この初めてのエジプト行きでバッジは1500点もの文化遺産を持ち帰りました。



1887年、バッジは再びエジプトに向かいます。後に「アニのパピルス」と呼ばれる "死者の書" を手に入れるためです。番組のナレーションを紹介します。


死者の書とは、あの世で必要とされる呪文や祈祷文が書かれた巻物。ミイラとともに埋葬される。古代エジプト人は、人は死んでもあの世で復活できると考えていた。そのための永遠の肉体がミイラである。そして復活に至るまでのさまざまな困難を乗り越える道しるべとなるのが死者の書である。死者の書はミイラとともに古代エジプト人の死生観を今に伝える貴重な学術資料なのだ。中でもバッジが収集した「アニのパピルス」は、美しいさし絵があしらわれ、美術品としての価値も高く、数ある死者の書でも最上級と言われる。

発端はロンドンのバッジに届いた、エジプトの盗掘集団の一味からの手紙だった。手紙には、立派な墓からパピルスでできた巻物がいくつも見つかったと記されていた。エジプト考古局が持ち出す前に早く取りに来てほしいとのことだった。

再びエジプトに降り立ったバッジ。前回の傍若無人な振る舞いから、すでに要注意人物としてマークされていた。

まずはあの因縁の相手、英国総領事のベアリングが使いをよこし、法律で禁じられている文化遺産の国外持ち出しをやめるよう告げてきた。さらには、エジプト考古局長のウジェーヌ・グレボーから呼び出され、違法行為に関しては逮捕・監禁もありうると、厳しい口調で警告された。


しかしバッジは警告を無視します。バッジは到着の数日後、盗掘集団の案内でパピルスの巻物が発見された墓を訪れました。そこにあったのが「アニのパピルス」です。アニという人物に捧げられた死者の書で、完全な状態で残っていました。バッジはそれを墓から持ち出しました。つまり、これまでは盗掘品を買い取っていただけでしたが、ついに盗掘に手を染めたのです。


バッジは自ら足を運び、盗みに加わりました。ついに一線を超えてしまったのです。第三者から購入していただけなら、盗品とは知らなかったと言い逃れもできます。バッジは完全にモラルが崩壊してしまったのです。

歴史家:エイデン・ドッドソン
(Aiden Dodson)

バッジはまたしてもイギリス軍に託しで持ち出すことに成功しました。

たった2度のエジプト行きで盗掘集団とのネットワークを築いたバッッジは、メソポタミアでも同様の手口で文化遺産を収集していきました。

バッジの行為は英国国内でも批判が噴出しました。「大英博物館のために働く無節操なコレクター」と新聞は書きました。バッジ批判の急先鋒はエジプト考古学の父といわれるフリンダーズ・ピートリーでした。彼はバッジを告発する手紙を考古学会に送ります。しかし、大英博物館の理事会メンバーの多くが政府の高官でした。政府はバッジの行為を把握し、承認していたのです。告発はスルーされました。

1894年、バッジは37歳で大英博物館のエジプト・アッシリア部長に昇進し、その後もコレクションを充実させます。そして67歳で退官するまでに、エジプト関連の文化遺産を4万点、メソポタミア関連を5万点収集しました。古代エジプトのミイラも、バッジが在職中に 63点が収集されています。

アニのパピルス.jpg
アニのパピルス
(Wikipedia)

略奪された文化財、美術品を元の国に返還するよう、機運が高まっています。2017年、フランスのマクロン大統領がアフリカのベナン共和国に文化財を返還する方針を発表しました。アメリカの聖書博物館も2021年、エジプトに5000点の文化遺産を返還しました。しかしこのような返還はまだ一握り、ごく一部に過ぎません。たとえば大英国博物館は1753年の創設以来、一切の返還要求に応じていません。



以上が「大英博物館 ─ 世界最大の泥棒コレクション」(NHK BSプレミアム 2021年11月25日)の概要です。大英博物館を訪れると、有名なロゼッタ・ストーンに目を引かれ、巨大なアッシリアの彫像、大量のエジプトのミイラに驚きます。そういった古代文明を知ることは大切な経験ですが、それと同時に英国の略奪の歴史も知っておくべきでしょう。歴史の勉強としては、それもまた重要です。


ルーブル美術館


イギリスだけでなく、フランスのルーブル美術館も略奪美術品で有名です。ここの特色は、19世紀初頭のナポレオン戦争でナポレオンが持ち帰った文化財・美術品があることです。つまり、エジプトのみならずヨーロッパ各国から略奪した美術品がある。特にイタリアです。2021年6月9日の New York Times に、

The masterpieces that Napoleon stole, and how some went back(ナポレオンが略奪した芸術作品と、その一部の返却経緯)

と題するコラム記事が掲載されました。この記事の一部を試訳とともに掲げます。


When Napoleon Bonaparte led his army across the Alps, he ordered the Italian states he had conquered to hand over works of art that were the pride of the peninsula. The Vatican was emptied of the “Laocoön”, a masterpiece of ancient Greek sculpture, and Venice was stripped of Veronese’s painting“The Wedding Feast at Cana”(1563).

【試訳】

ナポレオン・ボナパルトが軍隊を率いてアルプスを越えたとき、彼は征服したイタリアの国々に、半島の誇りである芸術作品を引き渡すように命じた。バチカン市国は古代ギリシャ彫刻の傑作である「ラオコーン」を持ち出され、ヴェネツィアはヴェロネーゼの絵画「カナの婚礼」(1563年)を剥奪された。

New York Times
2021年6月9日

ヴェロネーゼの『カナの婚礼』は、677cm × 994cm という巨大さで、ルーブル美術館の最大の絵画と言われています。この絵はもともとヴェネチアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の食堂に飾られていましたが、ナポレオン軍が剥奪しました。あまりに巨大なので、カンヴァスを水平にいくつかに切断し、それぞれをカーペットを丸めるようにしてフランスに持ち帰り、再び縫合しました。これだけでもカンヴァスの損傷があったと思われます。

ヴェロネーゼ「カナの婚礼」.jpg
ヴェロネーゼ(1528-1588)
「カナの婚礼」(1563)
ルーブル美術館


“Napoleon understood that the French kings used art and architecture to enlarge themselves and build the image of political power, and he did exactly the same”said Cynthia Saltzman, author of‘Plunder’,a history of Napoleon's Italian art theft done, said in an interview.

He stormed about 600 paintings and sculptures from Italy alone, she remarked, adding that he‘wanted to commit himself to these ingenious works’and justify their looting by calling on‘the aims of the Enlightenment’.

【試訳】

「ナポレオンは、フランス歴代の王が芸術と建築を使って自らを誇示し、政治力のイメージを作り上げたことを理解していました。彼はまったく同じことをしたのです」と、ナポレオンによるイタリアの美術品盗難の歴史である「略奪」の著者であるシンシア・サルツマンはインタビューで語った。

サルツマンは、ナポレオンはイタリアだけで約600点の絵画と彫刻を略奪したことを述べた上で、彼は「これらの独創的な作品に献身したい」と思い、「啓蒙の目的」だと広く知らしめることで略奪を正当化したと付け加えた。

New York Times

しかしナポレオンは結局のところ "敗北" し、戦後処理の中で略奪美術品も返却されます。「ラオコーン」もその一つです。しかし返却されたのは全部ではありませんでした。


About half of the Italian paintings Napoleon took were returned, Saltzman said. The other half stayed in France, including ‘The Wedding Feast at Cana’.

【試訳】

「ナポレオンが奪ったイタリアの絵画の約半分は返還されました」とサルツマンは言う。「残り半分は『カナの婚礼』を含めてフランスに留め置かれました」と。

New York Times


Why were the others not returned ? Many were scattered in museums across the country, and French officials resisted giving them back. Each former occupied state had to submit a separate request to return their artwork, which made the process even more complicated, Saltzman said.

【試訳】

なぜ他の作品は戻らなかったのか? 「その多くは全国の美術館に散らばっていて、フランス当局は返却に抵抗しました。かつて占領されていたイタリアの各国は、作品の返却のためには個別の要求を提出する必要があり、プロセスがかなり複雑になりました」とサルツマンは述べている。

New York Times

ナポレオンの強奪美術品がルーブル美術館でだけでなくフランス各地に分散されたのは、返還交渉を難しくするためと言われています。


Although many were returned, the Napoleonic looting left a bitter aftertaste that continues to this day. Italians still refer to “i furti napoleonici” (“the Napoleonic thefts”).

【試訳】

多くが返還されたものの、ナポレオンの略奪は今日まで続く苦い後味を残している。イタリア人は今でも「i furti napoleonici」(「ナポレオンの盗難」)と呼んでいる。

New York Times

話は変わりますが、以前、イタリア対フランスのサッカーのナショナルチームの試合があり、イタリアが勝った時の様子を特派員がレポートしたテレビ番組を見たことがあります。何の試合かは忘れました。ワールドカップのヨーロッパ予選だったか、ヨーロッパ国別選手権だったか、とにかく重要な試合です。これにイタリアが勝ったときの北イタリアの都市(ミラノだったと思います)の街の様子が放映されました。街頭に繰り出した人々が口々に叫んでいたのは、

「 フランスには勝った。次はモナ・リザを取り戻すぞ!」

というものです。良く知られているように、ダ・ヴィンチは最後の庇護者であるフランスのフランソワ1世のもとで亡くなったので、手元にあったモナ・リザがフランスに残されました。ダ・ヴィンチの遺品の "正式の" 相続権者が誰かという問題はあると思いますが、少なくともモナ・リザはフランスが強奪したものではありません。

しかし、フランスに勝ったことで熱狂し街頭に繰り出したイタリアの人々は「次はモナ・リザを取り戻すぞ!」なのですね。テレビを見たときにはその理由がわかりませんでした。しかしイタリアの美術品がフランスに強奪された歴史を知ると、あのような人々の叫びもわかるのです。



イタリアだけではありません。スペインやポルトガルに団体で旅行に行くと、現地のガイドさんが各種の文化遺産(教会、修道院、宮殿など)を案内してくれます。そこでは「ナポレオンにはひどい目にあった」という意味の解説がよくあります。

ポルトガルの世界遺産になっているある修道院に行ったとき、教会に安置されたポルトガル王族の棺があって、その大理石のレリーフがごっそりとはぎ取られているのを見たことがあります。ガイドさんによるとナポレオン軍が持っていったとのことでした。もちろん現在は行方不明です。ルーブル美術館の『カナの婚礼』とは違って、全く無名の職人の無名の作品です。こういった例がたくさんあるのだと想像できます。



略奪文化財・美術品ということで、イギリスとフランスの例を取り上げましたが、19世紀から20世紀にかけて植民地や保護領をもった国や、外国に出て行って戦争をして勝った国には、美術品強奪の歴史があります。ドイツもそうですが、日本も朝鮮半島を併合した歴史があります(1910-1945)。1965年の日韓基本条約には、韓国から日本に持ち込まれた美術品の返却が盛り込まれました。このあたりは、Wikipediaの「朝鮮半島から流出した文化財の返還問題」に詳しい解説があります。


仏の略奪美術品、ベナンに返却へ


はじめの方に紹介した「大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション」(NHK BSプレミアム。2021年11月25日 21:00~21:45)で、

2017年、フランスのマクロン大統領がアフリカのベナン共和国に文化財を返還する方針を発表

とありました。この話が具体的に進み出しました。パリのケ・ブランリ美術館が所蔵するアフリカ美術・26点の返還です。2021年10月末の新聞報道を引用します。


朝日新聞
2021年10月29日

仏の略奪美術品、ベナンに返却へ
 植民地支配の「戦利品」
 像・玉座など26点

フランスのマクロン大統領は27日、植民地だった西アフリカのベナンから129年前に戦利品として略奪した26点の美術品を来月に返還すると明らかにした。フランスの美術館は9万点ものアフリカの作品を所蔵し、半数以上は植民地時代に奪ったものとされる。マクロン氏は今後も一部を返還していく考えを示したが、背景にアフリカとの関係を改善したい思惑がある。

今回返還されるのは、フランスが1892年、当時のダホメ王国を侵略した際に、戦利品として持ち去った王を象徴する像や王宮の扉、玉座などが対象だ。アフリカやアジアをはじめ世界各地の「原始美術」を展示するパリのケ・ブランリ美術館に所蔵され、月末まで特別展示されている。

マクロン氏は27日に同館で作品を鑑賞した後、「作品がかつて去った大地に戻り、アフリカの若者が自国の遺産に再び触れられるようになる」と演説した。

ベナンは以前から美術品の返却を求め、マクロン氏は2017年に西アフリカのブルキナファソを訪問した際、フランスにあるアフリカの文化財返却に踏み切る考えを表明。国の財産を譲渡できるようにするための法整備を進めてきた。

27日にケ・ブランリ美術館を訪れたバンサン・シブさん(70)は1970年代後半、綿花栽培のボランティアとしてベナンに滞在。「王宮跡を訪ねたことがあったが、がらんどうだった。返還すべき作品だ。アフリカの若者は、こうした優れた作品が自国にあったと知らないまま育ってしまっていたのだから」と語った。

アフリカと関係改善狙う

マクロン氏の狙いは、アフリカとの関係改善にある。文化財の返却を対等な関係の象徴と位置づけることで、反仏感情を取り除きたい考えだ。アフリカ系移民を多く抱える国内にとって大事な問題でもある。

マクロン氏は27日、「我々の視点を脱中心化し、フランス、アフリカ双方の互いの見方を変える」必要があると語り、アフリカの立場に立つ意義を訴えた。

ただ、国内の美術館にはこうした収奪品が推計4万6千点以上所蔵されている。マクロン氏は「すべての作品を手放すわけではない」とも語り、返すべきものの選び方や方法を近く法律で定める考えを示した。


Africa-Benin.jpg
ベナン

ダホメ王国1.jpg
ダホメ王国(現・ベナン)の王様などをかたどった木像

ダホメ王国2.jpg
玉座

ダホメ王国3.jpg
王宮からフランスに持ち帰られ、展示されている扉
いずれも2021年10月27日、パリのケ・ブランリ美術館、疋田多揚 撮影

こういった文化財は "民族の誇り" であり、民族の歴史を知り、民族のアイデンティティーの確立に重要でしょう。それは国家としての一体感を醸成するのに役立ちます。しかし記事にあるように現・ベナンの若者は、こういった文化遺産を全く知らずに育ってしまったわけです。文化財の略奪は単にモノの所在が移動しただけではありません。民族を破壊する行為である。そう感じます。さらに記事では、略奪美術品の一般状況についての解説がありました。


欧州の美術館や博物館は過去の他国支配と少なからず結びついており、ナポレオンは支配下のイタリアから絵画や彫刻を収奪。絵画の半数はルーブルなど仏の美術館に残るとされる。エジプトは、大英博物館が所蔵する象形文字の石碑ロゼッタストーンの返還を求めているが、応じていない。

ベルリン工科大学のベネディクト・サボワ教授(美術史)は「アフリカの国々は、(独立を遂げた)1960年代からずっと旧宗主国に返還を求めてきたが、ことごとく拒まれてきただけに、今回の返却は大きな意味がある」と評価する。

そのうえで「フランスの美術館の起源には、戦争の暴力や植民地支配といった権力の非対称性がつきまとっている。美術館は、数々の傑作のこうした背景についての説明を意図的に避けており、本当の情報を知らされていない来館者は(理解を妨げられた)被害者でもある」と指摘した。(パリ=疋田多揚、ローマ=大室一也)


最後の一文が痛烈ですね(ちなみにサボワ教授はフランス人です)。我々は "本当のことを知らされていない被害者" にならないようにしたいものです。


ピカソ


ところで記事にあったように、マクロン大統領はパリのケ・ブランリ美術館に所蔵されている美術品、26点をベナン(旧・ダホメ王国)に返却することを表明しました。このケ・ブランリ美術館とは、セーヌ河のほとりにある美術館で(2006年開館)、アフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカの固有文化の文化遺産、美術品が展示されています。

ここの収蔵品の多くは1937年設立の人類博物館の所蔵品であり、その人類博物館の前身は1882年に設立されたトロカデロ民族誌博物館です。そして1907年頃、そのトロカデロ民族誌博物館を訪れたアーティストがいます。ピカソです。

ピカソの作品を年代順に分類すると、1907年~1909年は「アフリカ彫刻の時代」と呼ばれていて、アフリカ固有文化の彫刻の影響が顕著です。有名な例で『アヴィニョンの女たち』の右2人の女性の表現です。

Les Demoiselles d'Avignon.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
「アヴィニョンの女たち」(1907)
ニューヨーク近代美術館

ピカソだけでなく、マティスやモディリアーニにもアフリカ彫刻の影響が見られます。次の画像はバーンズ・コレクション(No.95 参照)の "Room 22 South Wall" ですが、ピカソとモディリアーニとアフリカ彫刻が展示されています。アルバート・バーンズ博士(1872-1951)はピカソやモディリアーニと同時代人です。20世紀初頭のパリのアーティストたちがアフリカ彫刻からインスピレーションを得たことを実感していたのでしょう。

Barnes Collection Room 22 South Wall.jpg
バーンズ・コレクション
Room 22 South Wall
アフリカの彫刻とモディリアーニとピカソが展示されている。モディリアーニは「白い服の婦人」と「横向きに座るジャンヌ・エビュテルヌ」、その内側にピカソがあって「女の頭部」と「男の頭部」である(下図)。アフリカの彫刻(仮面、立像)とこれらの類似性を示している。

Pablo Picasso - Barnes.jpg
ピカソの「女の頭部」(左)と「男の頭部」(右)
(バーンズ・コレクション)

Portrait Mask(Bearded Man).jpg
Female Figure1.jpg
展示されている彫刻のうちの2つの仮面と、2つの立像。
(バーンズ・コレクション)

ピカソ作品と旧・ダホメ王国の文化財が直接の関係を持っているというわけではありません。ただ当時は、アフリカの文化財が "略奪" や "正規の購入" も含めて大量にパリに運ばれ、美術館に展示されていた。この環境がピカソの一連の作品(を始めとする芸術作品)を生み出したわけです。我々はピカソの「アフリカ彫刻の時代」の作品を鑑賞するとき、なぜこのような作品が生まれたのかの歴史を思い出すべきなのだと思います。




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No.326 - 統計データの落とし穴 [科学]

個人や社会における意志決定においては「確かな数値データにもとづく判断」が重要なことは言うまでもありません。しかしデータの質が悪かったり判断に誤りが忍び込むことで、正しい議論や決定や行動ができないことが往々にしてあります。「誤ったデータ、誤った解釈」というわけです。このブログでは何回か記事を書きました。分類してまとめると次の通りです。

 社会調査における欺瞞 

No.81「2人に1人が買春」
No.83「社会調査のウソ(1)」
No.84「社会調査のウソ(2)」

アンケートやデータ収集による社会調査には、データの信頼度が無かったり、解釈が誤っている事例が多々あります。一例として、回収率が低いアンケート(たとえば30%以下)は全く信用できません。

 "食" に関する誤り 

No. 92「コーヒーは健康に悪い?」
No.290「科学が暴く "食べてはいけない" の嘘」

"食" に関する言説には、根拠となる確かなデータ(=エビデンス)がないものが多い。「・・・・・・ が健康に良い」と「・・・・・・ は健康に悪い」の2つのパターンがありますが、その「健康に悪い」に誤りが多いことを指摘したのが、No.92、No.290 でした。

 相関関係は因果関係ではない 

No.223「因果関係を見極める」

データの解釈に関する典型的な誤りは「相関関係」を「因果関係」と誤解するものです。これは No.83、No.84 でもありました。No.223 はその誤りの実例とともに、因果関係(= 原因と結果がリンクする関係)を正しくとらえるデータ収集と分析の手法の説明でした。

 評価指標とスコア 

No.240「破壊兵器としての数学」
No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」
No.250「データ階層社会の到来」

各種の数値データを数学モデルや AI技術によって分析し、人や組織の評価指標やスコアを作成し、それにもとづいてランキングをしたり分類したりする動きが世界で急速に広まっています。これには、一方的なモノの味方を強要する危うさや、人々の平等や自由を損なう側面があり、このことは十分に認識しておく必要があります。

 思考をまどわすデータ 

No.296「まどわされない思考」

No.296 は、我々の思考やモノの考え方を惑わす様々な要因を述べたものでしたが(その一例は "陰謀論")、要因の一つがデータの誤った解釈でした。



今回は以上のような「誤ったデータ、誤った解釈」の続きで、2021年に出版された本(の一部)を紹介したいと思います。

ピーター・シュライバー 著
土屋 隆裕 監訳 佐藤 聡 訳
「統計データの落とし穴」
── その数字は真実を語るのか? ──
(ニュートンプレス 2021.8.10)

です。原題は "Bad Data" で、その名の通り真実を語るにはふさわしくない「悪いデータ、バッド・データ」を様々な視点から述べたものです。

統計データの落とし穴.jpg


統計データの落とし穴


著者のピーター・シュライバーは、カナダのカルガリー市の都市計画官で、つまり都市計画の専門家です。訳書に記載された紹介によると「評価指標に起因する過りを見いだすことに力をそそぎ、さまざまな測定行為とそこから得られる教訓の間に、より有意義な関係性を築こうとしている」そうです。本書は10章からなっていて、その概要は次のとおりです。



第1章 特別試験対策
評価指標に対する過度な崇拝が有害な事象を生み出すことがある(学校の共通試験の例)。

第2章 努力と成果
インプット、アウトプット、アウトカム(成果)を間違って測定すると、努力しても身を結ばないことがある。

第3章 不確実な未来
評価指標が、短期的な活動と長期的な活動の優先順位を歪めることがある。

第4章 分母と分子
我々は往々にして、分母(~ あたり)を無視したり、誤用したりする傾向にある。

第5章 木を見て森を見ず
複雑な全体の一部だけを測定して判断することの危険性。

第6章 リンゴとオレンジ
異なる性格のものを単一の測定値でまとめるという欺瞞が横行している。

第7章 数えられるものすべてが大事なわけではない
多くの組織で測定が自己目的化し、組織本来の目的が数字ゲームの中で失われている。

第8章 大事なものがすべて数えられるわけではない
評価指標が人々を動機付け、変化を促すことはあるが、評価指標が不適切に使われると意欲をそいで逆の結果をもたらす。

第9章 評価と選択
単純性・客観性・確実性・信頼性への願望が評価指標を使う目的だが、その願望が評価指標の本来の目的を損なうことがある。

第10章 終わりではなく始まり
評価指標を見直すことで、効果的に方針転換ができた学習塾の実例。



以上のように、本書全体を貫くキーワードは「評価指標」であり、このブログの過去の記事では「評価指標とスコア」(No.240「破壊兵器としての数学」No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」No.250「データ階層社会の到来」)のジャンルに属するものと言えるでしょう。以上の中から、今回は第4章「分母と分子」と、第5章「木を見て森を見ず」の中から数個の話題を紹介したいと思います。


都市の交通渋滞


著者のシュライバーは都市計画の専門家ですが、都市の交通渋滞は都市計画と密接に関係する問題です。その "交通渋滞の評価指標" の部分を紹介します。車通勤が前提となっている北米の都市の例であり、日本にそのままマッチするわけではありませんが、評価指標の誤った使い方の例として見ればよいと思います。


バンククーバーは、カナダどころか、おそらく北米で最悪の交通渋滞をかかえている。2016年3月上旬、そうしたニュースがバンクーバーの各地元メディアの見出しを飾った。Huffington Post の見出しは「バンクーバー、国内最悪の交通渋滞」だった。翌年も状況は変わらなかった。2017年、CTVは、バンクーバーの交通事情が 100都市中いかにしてよいほうから71番目となったかを示す記事を掲載した。2018年も同様だった。「バンクーバー、世界渋滞ランキングで上位から脱出」というのは、2018年2月6日付けの CityNews の見出しだ。もう十分だろう。

毎年同じ話が繰り返された。2013年、通勤に30分をかけるバンクーバ都市部の平均的な市民は、渋滞のせいで1年に93時間を無駄にした。バンクーバーのラッシュ時の平均通勤所要時間は、流れのよいときに比べて36%延びるといわれていた。バンクーバーは明らかに北米で「最悪」の交通渋滞を抱えていたのである。

ピーター・シュライバー
「統計データの落とし穴」
(ニュートンプレス 2021)

「ラッシュ時の平均通勤所要時間は、流れのよいときに比べて36%延びる」とあります。これが交通渋滞を調査する専門会社のデータにもとづくものです。こういったデータはバンクーバーのみならず、北米の各都市に関してメディアで公表され、解決策の議論がさんざんに行われてきました。しかし著者はこれに異論を唱えています。


何が起きているかを本当に理解している者はほとんどいない。バンクーバーは、過去数十年で市民の平均通勤所用時間を減らすことに成功した少ない北米の主要都市である。バンクーバーでは、市中心部の成長を促し、職住近接を可能とし、便利で効率的な交通システムに投資することで、平均通勤所用時間の短縮に成功したのだ。それなのに報道は、バンクーバーが北米で最も渋滞のひどい都市だと主張し続ける。平均通勤所用時間を減らした都市が、どうして北米大陸で交通渋滞が最悪の都市だとみなされているのだろうか?

「同上」

調査会社が発表する交通渋滞の評価指標は「所要時間指標(TTI)」で、これはラッシュアワー(通勤ピーク時間帯)と、渋滞なしの時の所要時間の比率です。渋滞なしの時の所要時間が 20分で、ラッシュアワーのときの所要時間が 40分だとすると、TTI = 2.0 ということになります。調査会社はこれをカーナビ搭載車からのデータなどで計算します。しかし、この TTI という評価指標が問題なのです。オレゴン州のポートランドの例です。


オレゴン州のポートランドもバンクーバー同様、TTIの観点からは悪く見える。ポートランドのTTIは、1982年から2007年にかけて1.07から1.29に悪化した(通勤所要時間に占める渋滞時間の割合が7%から29%に増えたことになる)。しかし、この期間のポートランドの平均通勤所要時間は、優れた都市計画と交通政策のおけげで、1日あたり54分から43分に減少していた。平均通勤距離が32kmから26kmに減ったのが主な理由だ(職場近くに住む人が増え、平均通勤距離が短くなった)。

「同上」

なぜこうなるのか。著者はバンクーバーに住むモニカとリチャードという2人の(仮想の)人物で説明しています。まず前提として、

◆ モニカもリチャードも、都市の中心部にある同じ会社に勤務しており、車で通勤をしている。

◆ モニカの家は、会社から車で10分のところにある。

◆ リチャードの家は会社から40分の郊外にある。彼は通勤途中でモニカの家のそばを通り(そこまで30分かかる)、それ以降はモニカと同じルートで会社に行く(10分)。

渋滞が全くないとすると、通勤時間は モニカ=10分、リチャード=40分です。これがラッシュアワー時に次のようになったとします。

◆ ラッシュアワー時のモニカの通勤時間は20分になる。

◆ ラッシュアワー時のリチャードの通勤時間は60分になる。つまりモニカの家まで 40分、そこから会社まで20分である。

これから TTI を計算すると、

モニカ = 2.0
リチャード = 1.5

となります。TTI を評価指標とし、TTIが小さい方が良いとすると、モニカよりリチャードが良いという結果になります。しかしこれは変です。つまり、通勤時間が長いほどTTIが良いという結果になるからです。しかも、渋滞による遅延時間(損失時間)は、モニカが 10分に対して リチャードは 20分です。TTI が少ない方が損失時間が多いという結果になる。

都市の TTI は、モニカとリチャードのような個人の TTI の総合です。つまりラッシュアワー時の所要時間の総体と、渋滞なしの時の所要時間の総体の比率です。しかしこれでは、

◆ 都市計画が優れていて、職住近接が可能である都市ほど TTI が増える(悪い)。

◆ ほとんどの人が郊外に住んで車通勤をしている都市の TTI は小さい(良い)。

ことになります。TTI という評価指標は、まさに "バッド・データ" なのです。そうなる原因は "分母" にあります。TTI の計算式の分母は「渋滞がない場合の所要時間」です。つまり所要時間が長ければ長いほど TTI値は良くなるのです。

著者は「渋滞のよりよい評価方法は、単純に各都市の平均通勤時間を示すことだろう」と言っています。こうなると渋滞だけでなく通勤時間の大小にも影響されます。つまり渋滞が少なく、通勤時間の短い住民が多いほど有利になる。しかし都市計画の視点では、これが妥当なのでしょう。


ニューヨークは歩行者にとって危険か?


TTI でみられるように、評価指標をみるときには分母に注意する必要があります。著書は次に「ニューヨークは歩行者にとって危険か?」というテーマで書いています。


ニューヨーク市は、歩行者にとって危険な場所のように思われる。ビッグアップルという愛称で知られるこの町では、平均して3日に1人、歩行者が死亡する。アメリカ運輸省道路交通安全局によれば、2012年、ニューヨーク市はアメリカの人口50万人以上の都市で歩行者の志望者数が最も多かった。その年、127人の歩行者が死亡したニューヨークは、ロサンゼルス(99人)、シカゴ(47人)、サンフランシスコ(14人)や、車への依存度が高いヒューストン(46人)、フェニックス(39人)を上回った。

しかも、ニューヨークが各都市のなかで最悪だったのは、死亡した歩行者の総数だけではない。交通事故による死者全体のうち、歩行者の占める割合が最も高いのだ。交通事故死全体を見ると、ニューヨークの歩行者はほかの都市の歩行者より、衝突事故の犠牲になる可能性が遙かに高い。すべての交通事故死に歩行者が占める割合は、全米平均が 14% なのに対し、ニューヨークでは 47% だ。

「同上」

以上のデータをもって「ニューヨークは歩行者にとって最も危険」だとは言えないことは、すぐに分かります。つまり人口が違うからです。ニューヨークは人口が多い。従って歩行者の死亡事故数も多くなります。人口10万人あたりの歩行者の死亡者数を計算してみると、ニューヨークは全米平均とほぼ同じです。

しかし「人口10万人あたり」を分母にしても、真実は見えないのです。それは、歩行者の数が違うからです。


ニューヨークの人口10万人あたりの歩行者の死亡者数は全米平均とだいたい同じだが、この都市にはアメリカのほとんどの都市よりはるかに多くの歩行者(と自転車)が存在するのだ。実際、その数は信じられないほど多い。

約10% の人が徒歩で通勤するニューヨークは、徒歩通勤者の占める割合がアメリカで最も高い都市の一つである(ニューヨークより高いのは 14% のボストンと 11% のワシントン D.C. だけだ)。公共交通機関の利用者数(ほとんどの公共交通機関の移動は歩行で始まり歩行で終わる)を加えれば、ニューヨークの歩行者や公共交通機関の利用者の割合は 65% で首位に躍り出る(ボストンは 49%、ワシントン D.C. は 48%)。

「同上」

本書によると「徒歩通勤 100万回あたり車に引かれて死亡する歩行者数」は、

ニューヨーク 1.5人
ロサンゼルス 5.2人

です。著者は「ニューヨークは歩行者にとってアメリカで最も安全な場所の一つ」と書いています。


病気の広がりを示す指標


今までの2つは "分母" の問題でしたが、今度は "分子" の問題です。人口に対する疾病の影響度合いを示すのに3つの指標があります。有病率、罹患率、死亡率の3つです。いずれも一定の人口を "分母" とするもので、たとえば "人口 10万人あたり" です(以下の説明ではそうしました)。特定の病気A について、3つの指標の意味は次の通りです。

有病率

ある時点で、病気A にかかっている人の割合(人口10万人あたりの数)。治癒するまでに長期間かかる病気、ないしは治らない病気では有意義な指標です。

罹患率

ある一定期間で、病気A にかかった人の割合(人口10万人あたりの数)。たとえばインフルエンザは特効薬があるので、発病から1週間程度で治癒するのが普通です。従って「有病率」より、ある一定期間(1年とすることが多い)でインフルエンザにかかった人の数 = 罹患率が実態を正しく伝えます。

死亡率

ある一定期間で、病気A で死亡した人の割合(人口10万人あたりの数)。これは致死率とは違います。致死率は「病気A にかかった人が死亡する割合」です。たとえば「エボラ出血熱の致死率は 80%~90%」というように使います。「エボラ出血熱の死亡率は 80%~90%」という言い方は間違いです。

この3つの指標はいずれも「少ない方が良い」指標です。しかし著者は、ある指標の減少が別の指標の増大につながることがあることを指摘しています。


たとえば、マラリア患者を延命する治療法が発見されたとする。そうした改善は、罹患率が一定であれば有病率を高める可能性がある。マラリアにかかった患者がすぐに死亡しないということは、長生きするということだ。長生きすれば、どの年にもマラリア患者として計上される人が増える。したがって病気の有病率は増加する。有病率は、実際には病気の影響が減っているのに、気の滅入る話を伝えるのだ。

逆に、罹患するとすぐ死亡してしまう病気の場合、有病率は減少する。病気を抱えて何年も生き永らえる人はめったにいない。病気にかかっている人が減ったからではなく、人々が早く死亡するために有病率が減る場合もあるわけだ。ある病気にかかっている人の数が以前より減ったことを祝う記事は、実はよい知らせではない可能性がある。患者の多くが死にかけているかもしれないのだ。

「同上」


フード・マイルズ


ここからは、第5章「木を見て森を見ず」で取り上げられたテーマです。フード・マイルズ(Food Miles)は、日本ではフード・マイレージ(Food Mileage)と呼ばれているものです。これは食料の生産地と消費地の距離であり、フード・マイルズがなるべく小さいものを食べよう、簡単に言うと "地産地消" をしようという運動のことを言います。


地元の食材を食べるという近年のトレンドは、アンジェラ・パクストンの『フードマイルズ・レポート:食料の長距離輸送の危険性』という1994年の論文に端を発している。この論文は、食品が私たちの食卓に並ぶまでにどのように運ばれるかを初めて考察したものの一つだ。このレポートでは、現代の食料システムについて、当時から今日まで多くの人々を驚かせるような側面が浮き彫りにされている。

そこでは、食料システムに関する多くの懸念が議論されているが、その中心は、レポートの題からわかるように、食品が食卓にのぼるまでに移動する距離の影響である。2011年に再版された論文では、論文の主旨が的確に要約されている。「市民は、食料が意味もなく地球を横断し、貴重なエネルギーを消費し、汚染を引き起こし、不公平な貿易を導き、田舎から仕事を奪うことを望んでいない」

「同上」

食文化にとって移動距離以上に重要な問題があります。土壌浸食や公正な労働条件と賃金、化学肥料への依存度、農薬による環境汚染などです。フード・マイルズという概念は食料の輸送に焦点をあて、エネルギー消費や環境汚染を問題にします。地産地消の運動には何の問題もありませんが、そこに "距離" という数値を持ち込むことは正しいのでしょうか。それが持続可能性の指標になるのでしょうか。著者は花の例で説明しています。


一例として、バレンタインデーのためにイギリス人が恋人のために買う花の二つの原産国を比較してみよう。オランダとケニアだ。より環境に優しいのは明らかにオランダの方だと思われる。オランダからイギリスに花を運ぶには、イギリス海峡を船で渡るだけのごく短い移動しか必要ない。ケニヤからの移動は短くもなく、エネルギー効率もよくない。花は飛行機で空輸されるからだ。

ところが、1万2000本の花を育て、輸送することで排出される二酸化炭素の総量を詳細に計算すると(計算方法は後述する)、オランダの花が3万5000kg(花1本あたり3kg弱)の二酸化炭素