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No.333 - コンクリートが巨大帝国を生んだ [歴史]

今まで古代ローマについて何回かの記事を書いたなかで、ローマの重要インフラとなった各種の建造物(公衆浴場、水道、闘技場、神殿 ・・・・・・)を造ったコンクリート技術について書いたことがありました。


の2回です。実は、NHKの番組「世界遺産 時を刻む」で、古代ローマのコンクリート技術が特集されたことがありました(2012年)。この再放送が最近あり、録画することができました。番組タイトルは、


世界遺産 時を刻む
土木 ~ コンクリートが巨大帝国を生んだ ~
NHK BSP 2022年3月2日 18:00~19:00


です。番組では現代に残る古代ローマの遺跡をとりあげ、そこでのコンクリートの使い方を詳細に解説していました。やはり画像を見ると良く理解できます。

そこで番組を録画したのを機に、その主要画像とナレーションをここに掲載したいと思います。番組の全部ではありませんが、ローマン・コンクリートに関する部分が全部採録してあります。


古代ローマのコンクリート


【ナレーション】
(NHKアナウンサー:武内陶子)

永遠の都、ローマ。立ち並ぶ巨大な建築は、ローマ帝国の栄光と力を今に示しています。その街並みを作ったのが、高度な土木技術です。

古代の最も優れた土木技術と言われるローマの水道。地下水道をささえているのはコンクリートです。円形闘技場、コロッセオ。5万人の観客が入る巨大娯楽施設でした。コロッセオもまた、そのほとんどがコンクリートで造られています。実は、古代ローマの街を形成する建造物のほとんどがコンクリートで出来ているのです。


円形闘技場:コロッセオ


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円形闘技場:コロッセオ

【ナレーション】

考古学者のジュリアーナ・ガッリさん。25年間、古代ローマ建築を研究するうちに、ローマ独特のコンクリートの重要性を知りました。

【ジュリアーナ・ガッリ】

(コロッセオを指して)この建物は、石積みの柱以外はコンクリートです。表面は大理石が覆っていました。(柱の部分を指して)この部分が石積みの柱です。あの穴には大理石の板を固定する金具が刺してありました。柱と柱の間に灰色の部分が見えます。アーチは全部コンクリート製なんです。あそこは壁の煉瓦が剥がれてコンクリートがむき出しになっていますね。柱以外はコンクリートで出来ていることがよく分かります。コンクリートは観客席まで続いています。

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コロッセオの説明をする考古学者のジュリアーナ・ガッリさん

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コロッセオの柱は石で出来ている。表面を覆っていた大理石の板を固定するための穴が見える。

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柱と柱の間にあるアーチはコンクリート製である。

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壁の煉瓦が剥がれて、柱の間のコンクリートがむき出しになっている。このコンクリートは観客席まで続いている。

【ナレーション】

ローマ帝国の栄華を支えたと言われるコンクリート。この万能の建材は古代ローマコンクリートと呼ばれ、身近な産物から生まれました。

【ジュリアーナ・ガッリ】

あるものが発見されたことで、古代ローマ人はコンクリートを使いこなせたのです。コンクリートを作り出したのはこの「魔法の砂」でした。

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ジュリアーナ・ガッリさんが手に、持った「魔法の砂」を見せている。

【ナレーション】

ここはローマ近郊の採掘所。ジュリアーナさんが持っていた魔法の砂が掘り出されています。ポッツォラーナと呼ばれます。

【ジュリアーナ・ガッリ】

ポッツォラーナは、もともとナポリの近くにあるポッツォーリ地方の火山灰のことでした。ヴェスビオ火山の灰です。その後、イタリアの火山灰全体を指すようになりました。堆積して固まった火山灰を細かく砕いたのがこのポッツォラーナです。

【ナレーション】

魔法の砂、ポッツォラーナとは、火山の噴火で生まれる火山灰です。火山国のイタリア、特に中南部には、数多くの火山が連なっています。

火山灰を建造物に最初に利用したのはエトルリア人でした。紀元前9世紀頃からイタリア半島に住んでいたエトルリア人。彼らは火山灰に水や石灰を混ぜてコンクリートのもとになるセメントを作り出しました。紀元前4世紀頃から、古代ローマはエトルリア人を制圧。その技術を自分たちのものにします。

では、火山灰をどのように古代コンクリートに生まれ変わるのでしょうか。2つの容器に石灰が入れてあります。そこに水を加えるとゆっくりと固まっていきます。右の容器に火山灰、ポッツォラーナを加えてみましょう。

【ジュリアーナ・ガッリ】

5時間後、石灰と水を混ぜた方はまだどろどろです。しかしそこにポッツォラーナを加えた方は固まってきました。これがセメントです。セメントにいろいろな石材と混ぜるとコンクリートが出来ます。こうして古代ローマ人は万能の建材、コンクリートを手に入れたのです。

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石灰 + 水 + ポッツォラーナを混ぜた右の容器は、5時間後に固まってきている。左の石灰 + 水の容器は、まだドロドロの状態である。

【ナレーション】

火山灰の中では噴火で熱せられた酸化ケイ素が急速に冷やされガラス化し、化学反応しやすくなっています。石灰と水にこの酸化ケイ素を加えると、強い結合力を持つセメントになります。このセメントに砂や石を混ぜて強度を高めたのがコンクリートでした。火山の力が酸化ケイ素を化学反応しやすい形に変え、コンクリートの原料を大量にもたらしたのです。



紀元前3世紀頃、古代ローマ人はコンクリートを城壁の建設に使い始めました。セメントに砂や石を混ぜる割合などを工夫して強固なコンクリートを作り出し、エトルリア人から受け継いだ技術を発展させます。

その技術を生かしたのが歴代の皇帝でした。皇帝にとって、国民の支持を得て政権の安定を図ることが何より必要でした。そのために人口が集中するローマに市民のための公共施設をコンクリートで次々に造ったのです。


ヴィルゴ水道


【ナレーション】

観光客で賑わうトレビの泉。後ろ向きにコインを投げ入れると再びローマを訪れることができるという人気スポットです。

泉に水を運んでくるのは、古代ローマの地下水道です。建設したのは初代皇帝、アウグストゥスでした。紀元前27年に即位したアウグストゥスは、公共施設の整備に力を入れます。その一つが水道でした。

地下遺跡をめぐる同好会のメンバー、ダビデ(・コムネール)さんです。古代ローマの技術を調べてきたダビデさんに、地下水道を案内してもらいます。

水道を管理する建物から地下に入ります。水面が見えてきました。地下20メートルです。全長20キロ。地下部分が2キロあるこのヴィルゴ水道。今もきれいな水が流れています。

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ヴィルゴ水道の内部。現在もきれいな水が流れている。

【ダビデ・コムネール】

これは現役で使われている唯一の古代ローマの水道です。皇帝、アウウグストゥスが共同浴場のために作りました。水道の終点は泉にして市民の目を楽しませたのです。

天井も壁も床もすべてコンクリート製です。すでにローマ人が自在にコンクリートを使いこなしていたことが分かりますね。

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ダビデ・コムネールさんがヴィルゴ水道の説明をしている。水道の天井、壁、床面はすべてコンクリート製である。

【ナレーション】

厚さ30センチのコンクリートにしっかりを支えられた地下空間です。コンクリートは作業がしにくいこうした現場に適していました。石材ほど運搬に人手がかからず、短時間で固まるからです。コンクリートは防水性にも優れています。床面に使うことで水漏れを防ぐことができました。

【ダビデ・コムネール】

ほとんで分かりませんが、ヴィルゴ水道は1キロに対し34センチほどの傾斜がつけてあります。これによって水は20キロ離れた水源からローマ市内まで流れてくることが出来るのです。微妙な傾斜をつけるのにコンクリートはうってつけでした。ローマ皇帝は戦争に勝つだけでは権威を保てません。人心を掌握するために市民生活を豊かにするこうした施設を次々に作る必要があったのです

【ナレーション】

2世紀までにローマに11本の水道が作られ、150万人の生活をまかなっていたと言います。コンクリート技術が大都市に豊かな水の安定供給を実現しました。


再びコロッセオ


【ナレーション】

第9代皇帝、ウェスパシアヌスです。彼が紀元79年に建設を始めたのが円形闘技場、コロッセオでした。皇帝ネロが暗殺されたあとの内乱を制したウェスパシアヌス。暴君と言われたネロが作った人工池を埋め立て、巨大な娯楽施設を建設することで支持を得ようとします。ここで行われた剣闘士の戦いは市民を興奮させました。

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コロッセオ

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(上)剣闘士の闘技会のモザイク画。倒れている剣闘士の名前のそばに φ の文字があるが、これは死を意味する。(下)闘獣士の野獣狩りのショーの様子で、動物はヒョウである。闘技会の前座として行われた。No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」参照。

およそ8割がコンクリートというコロッセオ。舞台を支える地下構造はすべてコンクリートです。観客席もコンクリートを流し込んで作られています。

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コロッセオの地下構造。舞台を支える地下構造はすべてコンクリート製である。

【ジュリアーナ・ガッリ】

こんな巨大な建物が8年で完成しました。コンクリートは形が自由に作れて材料の運搬が簡単でした。また値段の安さが威力を発揮したのです。

【ナレーション】

コロッセオの建設をになったのは、戦争の捕虜や奴隷でした。訓練されていない労働者でもコンクリートは扱えました。石造りに求められるような熟練技術者の数はごく少数で済みました。これもコンクリートの大きなメリットです。


トラヤヌスの記念柱


【ナレーション】

第13代皇帝、トラヤヌスは、コンクリートを存分に活用して領土を拡大します。

ローマ市内に立つ石柱。トラヤヌスが、今のルーマニアに位置するダキアとの戦いに勝利した記念碑です。戦闘風景が描かれた柱には大土木工事の様子も見られます。兵士たちが運ぶ大量の煉瓦。コンクリートを流し込む枠に使われたと言われます。

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トラヤヌスの記念柱と、煉瓦を運ぶ兵士のフリーズ。

建設されたのはドナウ河にかかる巨大な橋でした。ルーマニアを望むドナウ河の岸辺に橋脚が残っています。コンクリート製です。材料の火山灰はイタリアから運んだと言います。橋は2年で完成。早く固まり、短時間で建造物を作り出すコンクリートは軍事目的に適していました。橋を渡ったローマ軍は一気にダキアを攻略します。

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ドナウ河畔に残る橋脚と、完成した橋の想像図。

トラヤヌスは領土を拡大する戦争を推進。彼が皇帝の座にあったときに、ローマ帝国の領土は最大となります。東西 5000キロ、南北 3500キロという広大な地域を支配することになったのです。



石で造られた、エジプトのピラミッド、ギリシャのパルテノン神殿の紹介。それぞれ高度な土木・建設技術であるが、コンクリートのような素材は使われていない。



【ナレーション】(俳優:向井理)

ふたたびローマです。コンクリート技術によって築かれた永遠の都。その象徴といえるのがパンテオン神殿です。ローマの神々を祭る巨大な空間。円形ドームは当時のコンクリート技術の極みと言われます。自ら設計に携わったといわれるのが、第14代皇帝、ハドリアヌスです。五賢帝の一人、ローマ帝国に最大の国土と安定をもたらした皇帝です。


ティボリのハドリアヌス帝別荘


【ナレーション】(武内)

技術者としての才能にも長けていた皇帝、ハドリアヌス。その手腕を十分に発揮した建造物がローマ近郊にあります。世界遺産、ティボリのハドリアヌス帝別荘です。皇帝自ら設計した別荘は15年かけて造られ、紀元133年に完成しました。東京ドーム26個分という広大さ。3000人近くが住み、一つの町と呼べるほどの規模でした。30あまりの建物から主なものを見てみると、皇帝の宴会場、池を巡る遊歩道、皇帝の執務室、皇帝の住まい、そして住民のための大浴場。

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ローマ近郊のティボリのハドリアヌス帝別荘

大浴場はすべてコンクリートで出来ていました。ここは風呂あがりにマッサージを受け、談笑を交わす大広間です。日の出とともに働き、午後からは公共浴場でゆったりと過ごす。それが古代ローマ人の生活習慣でした。

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ハドリアヌス帝別荘の大浴場と大広間

こちらは使用人のための集合住宅。煉瓦の内側はコンクリートです。大きな建物を速く簡単に造れるコンクリートは、集合住宅にうってつけでした。

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使用人のための集合住宅。外壁の煉瓦の内側はコンクリートである。

考古学者・ジュリアーナさんに皇帝が住んでいた区画を案内してもらいます。ハドリアヌスが最も気に入っていたという建物です。

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「海の劇場」と呼ばれるハドリアヌス帝の住居跡

皇帝の住まいです。水に囲まれた舞台のような形から「海の劇場」と名付けられています。ここもハドリアヌス自身が設計したといわれます。プライベートな空間を囲む水路。設計には水も巧みに取り入れられています

【ジュリアーナ・ガッリ】

すばらしいですね。ここが皇帝が生活していた場所です。中庭もありました。その横は最もプライベートな場所、寝室です。ベッドが置かれていました。皇帝のベッドです。ほら、煉瓦が崩れてコンクリートが見えてます。灰色の部分がセメント。その中に大ぶりの石が混ぜてありますね。

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皇帝の寝室の壁。煉瓦が崩れてコンクリートが見えている。

ハドリアヌスは孤独を愛したので、広い別荘で人と交わらずに過ごそうとしました。特に自分を外界から隔てるために水路は重要でした。

【ナレーション】

この建物、最大の特徴は完全な円形をしていることです。木枠にコンクリートを流し込んで基礎を造りました。外壁、水路、住まいの敷地は、3つの同心円でデザインされています。規模の大きさや豪華さを競い合った当時のローマ帝国の建物と違って、円形のデザインからは独創的で洒落たセンスが伝わってきます。

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「海の劇場」の上空からの画像と、復元想像図。

コンクリートを使えば、思い通りの造形が簡単にできます。皇帝がイメージした完全な円形の住居を石で造り出すのは大仕事ですね。でもコンクリートなら、設計者の発想を自由に表現することができるのです。

コンクリートだから可能になったさまざまな造りが、建物のここかしこに見られます。

【ジュリアーナ・ガッリ】

こちらは小さなスペースを利用したトイレ。煉瓦の壁の中はコンクリートです。ここには大理石の便座が渡されていて、水を流す管を置いたコンクリートのへこみが残っています。

【ナレーション】

住まいにふんだんに用いたコンクリート。ローマ帝国を支える土木技術への、皇帝の愛着が伝わってきます。



ハドリアヌスが広大はローマ帝国の各地を視察したことの解説。ローマ帝国は領土にした各地に土木技術を使った建造物を造った。



視察で知った帝国の現状を統治にどう生かしていくのか。ハドリアヌスは別荘で考え抜きました。政策決定で重要な意味を持ったのがこの場所です。それは皇帝の執務室。

【ジュリアーナ・ガッリ】

壁に7人の哲学者の像があったので「哲学者の間」と呼ばれています。像の前の玉座に座り、皇帝は仕事をしました。彼はローマよりこの別荘に居ることを好んだので、ここは政治にも大きな役割を果たした場所でした。

【ナレーション】

執務室で国政に集中するハドリアヌス。疲れを癒したのがこのドームと言われます。ドームには華麗なフレスコ画が描かれていました。壁の窪みには神々の彫像が並んでいました。装飾の素晴らしさだけでなく、このドームにはローマ帝国の土木技術の粋が詰まっています。コンクリートならではの特徴を生かした建築方法です。

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ドームとその復元想像図

【ジュリアーナ・ガッリ】

これはさまざまな分野で働く人々の技術の結晶です。木材を組み合わせて木枠を造る人、コンクリートを混ぜて木枠に流し込む人、コンクリートの原料を輸送する人、そうした専門家の能力と組織力が十分に発揮されたと言えます。

【ナレーション】

どんな技術が用いられているのか、見ていきましょう。まず、基礎の部分に煉瓦を積み上げ枠を作ります。そこに石を混ぜたセメントを流し込みます。これで全体の重みを支えるコンクリート基盤ができます。次は木で足場を作り、ドーム形の精密な木枠を組んでいきます。外側にも木枠を組み、内と外の間にコンクリートを入れます。上に行くに従って、混ぜる石の重さを軽くしていきます。頂上部分に混ぜるのは軽石です。コンクリートの厚さも上の方ほど薄くして、極力、重量を減らします。こうして、正確な曲線と一定の強度のあるドームを造ることができたのです。

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ドームの建築方法と、現代のドームの正面画像


パンテオン神殿


【ナレーション】

別荘で使われた技術を、ハドリアヌスがさらに極めた建造物があります。パンテオン神殿です。

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パンテオン神殿

世界の建築史上、傑作の一つとされるパンテオン。直径43メートルのドームは完成から1000年以上、世界最大の規模を誇っていました。

【ジュリアーナ・ガッリ】

このコンクリートドームは、古代ローマの土木技術の頂点と言えます。斬新な設計を追求した皇帝の強い意志と、それを実現した人々の高い技術力が感じられます。

【ナレーション】

ここには鉄筋は使われていません。鉄筋なしでこの大きさのドームと造ることは、現代の技術をもってしても至難の技です。

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パンテオン神殿のドーム。コンクリートだけでこの構造が造られている。

ドームの厚さは最大で6メートル。上にいくにつれて薄くなり、頂上では 1.5メートルになります。厚さを調整することで全体を軽くしているのです。4角に窪んだ装飾は建物を軽くするとともに、段をつけることで壁を補強したと言われます。コンクリートで正確な円が造り出されたドーム。そこには、広大な帝国を治めるハドリアムスの決意がこめられていました。

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ドームの4角に窪んだ装飾

天井から床までの高さは、横幅と同じ43メートルです。そのため、ドームの丸みに合わせた球体がすっぽりと入ります。歴代ローマ皇帝は、地中海を中心とした帝国の領土を球体と考えていました。これは、初代皇帝アウグストゥスがエジプトのクレオパトラを打ち破った時の記念銀貨。勝利の女神が世界を表す球体の上に立っています。ハドリアヌスは、パンテオンの中に世界全体を包み入れることでその権威を示したのだと言われます。

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初代皇帝アウグストゥスがエジプトのクレオパトラを打ち破った時の記念銀貨。。勝利の女神が世界を表す球体の上に立っている。



万里の長城、マチュピチュの紹介。また、ハドリアヌスが紀元130年にエジプトのテーベや王家の谷の近くにあるメムノンの巨像を訪れたことの説明。


再びティボリのハドリアヌス帝別荘


【ナレーション】

ハドリアヌスがエジプトの旅の思い出を別荘に再現した水路です。ナイル河の支流、カノープスを模していると言われます。水路の端にあるコンクリートドームからこの情景を楽しみました。岸辺にはナイルで目撃したワニの彫刻も置かれています。ここで皇帝はしばしば大宴会を主催しました。

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ティボリのハドリアヌス帝別荘の水路

【ジュリアーナ・ガッリ】

ここにはコンクリートで造られた寝台のようなものがあり、貴族たちは奴隷の給仕で宴会をしていました。宴会のとき、彼らはこのように横になり、ふんだんに提供される貴重な肉や果物を楽しみました。皇帝は安全の為に、あの上に居たんです。

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皇帝の玉座から見た水路(カノープス)。手前にコンクリートで造られた寝台のようなものがあり、貴族たちは奴隷の給仕で宴会をした。

【ナレーション】

皇帝の玉座から見たカノープスです。宴会では楽士が音楽を奏で、曲芸師が芸を披露しました。皇帝はどんな料理で人々をもてなしたのか。古代ローマ料理の研究家、ジュリア(・パッサレリ)さんにメニューを再現してもらいました。



古代ローマ料理の再現映像。食材は、東南アジアの胡椒、スペインのオリーブオイル、イスラエルのナツメヤシ、ウツボ、川エビ、クジャク(インド原産・ローマで養殖)、ウニとバジル(ソース用)など。



【ナレーション】

60歳に近づいたハドリアヌスは健康を害し、ほとんどの時間を別荘で過ごしたといわれます。41歳で皇帝の位について以来、広大な帝国を廻り続けた日々。別荘にいればその思い出が目の前によみがえります。

紀元138年、ハドリアヌスは生涯を閉じます。62歳でした。ローマ帝国に安定した反映をもたらした皇帝。彼の死とともに、帝国も次第に黄昏を迎えていきます。

帝政末期、財政難と社会の混乱が続き、土木技術も衰えていきました。そして帝国の滅亡とともに、ヨーロッパではコンクリート技術が姿を消します。

【ジュリアーナ・ガッリ】

コンクリートはローマ帝国の象徴でした。国の技術力、組織力、管理力が総合された土木技術だったのです。だから、火山灰がたくさんあっても、帝国が滅亡するとコンクリートも滅亡してしまったんです。

【ナレーション】

ローマだからこそ生まれ、ローマの滅亡とともに消えていった土木技術。しかし古代のコンクリートは、その成果である建造物に生き続け、ローマの栄光を今に伝えています。

【ナレーション】(向井)

コンクリート無くしてローマは無く、ローマ無くしてコンクリートは無かった。その事実を今に語り続けるのが、ハドリアヌスが最も愛した海の劇場です。晩年、皇帝は、一日の多くをここで一人で過ごしたといいます。彼がコンクリート技術の粋を集めた完全な円形。直径は43メートルあります。この数字、ハドリアヌスのもう一つの傑作と一致しています。パンテオン神殿の円形ドームの直径です。広大な領土がすっぽり入るような形に仕上げられたドーム。ハドリアヌスはローマの栄光が永遠に続くと思っていたのでしょうか。

そしてもし、ハドリアヌスが現代のメガロポリスの数々を目にしたら、こう言うのではないでしょうか。「ここにもローマがある」と。




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No.332 - クロテンの毛皮の女性 [アート]

このブログで過去にとりあげた絵の振り返りから始めます。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介した『インノケンティウス十世の肖像』で、ベラスケスがイタリア滞在中に、当時75歳のローマ教皇を描いたものです。

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ベラスケス(1599-1660)
「インノケンティウス十世の肖像」(1650)
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)

この絵について中野京子さんは「怖い絵」の中で次のように書いていました。


ベラスケスの肖像画家としての腕前は、まさに比類がなかった。──(中略)── 彼の鋭い人間観察力が、ヴァチカンの最高権力者に対しても遺憾いかんなく発揮されたのはとうぜんで、インノケンティウス十世は神に仕える身というより、どっぷり俗世にまみれた野心家であることが暴露されている。

眼には力がある。垂れたまぶたを押し上げる右の三白眼。はっしと対象をとらえる左の黒眼。ふたつながら狡猾こうかつな光を放ち、「人間など、はなから信用などするものか」と語っている。常に計算し、値踏ねぶみし、疑い、裁く眼だ。そして決してゆるすことのない眼。

どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によってくっきり輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのし上がった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子『怖い絵』
(朝日出版社。2007)

肖像画を評価するポイントの一つは、描かれた人物の性格や内に秘めた感情など、人物の内面を表現していることです。正確に言うと、本当のところは分からないまでも、少なくとも絵を鑑賞する人にとって人物の内面を表していると強く感じられることだと思います。それは人物の表情や、それを含む風貌からくるものです。また衣装や身につけているもの、人物のたたずまいや全体の構図も大いに関係してくるでしょう。

我々は、17世紀のローマ教皇・インノケンティウス十世がどういう性格の人物であったのかを知りません。しかし、上に引用した中野さんの文章のような鑑賞もできる。もちろんこれは一つの見方であって、別の感想を持ってもいいわけです。とにかく、人物の内面をえぐり出す画家の技量とそれを感じ取る鑑賞者の感性の "せめぎ合い" が、肖像画の鑑賞の大きなポイントだと思います。

その視点で、中野京子さんが書いた別の絵の評論を紹介したいと思います。画家の王と呼ばれたベラスケスとは知名度がずいぶん違いますが、16世紀イタリアの画家・パルミジャニーノが描いた『アンテア』という作品です。


パルミジャニーノ


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パルミジャニーノ
「凸面鏡の自画像」
(ウィーン美術史美術館)
パルミジャニーノ(本名 ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ、1503 - 1540)は、ローマ、パルマ、ボローニャなどで活躍し、37歳で亡くなりました。有名な作品は『凸面鏡の自画像』(1523/4。ウィーン美術史美術館)です。

自画像を描いた最初はドイツの画家・デューラー(1471-1528)とされています(No.190「画家が10代で描いた絵」の補記1)。このパルミジャニーノの作品も、西欧絵画における「自画像の歴史」の初期の作品として有名なものです。凸面鏡は周辺にいくにつれゆがんで写りますが、それが的確にとらえられています。

パルミジャニーノの他の作品としては、ウフィツィ美術館にある『長い首の聖母』(1534/5)でしょう。長く引き延ばされた身体の表現が独特で、いわゆるマニエリスムの様式です。さらに今回の主題である『アンテア』も有名な絵画です。

以下、『アンテア』の画像とともに中野京子さんの解説を紹介します。引用において下線は原文にはありません。また、段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に変更したところがあります。


アンテア


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パルミジャニーノ
「アンテア」
カポディモンテ美術館(ナポリ)


アンテア(= アンティア)とはギリシャ神話の花と花冠の女神の名。ただしここではパルミジャニーノと同時代、16世紀前半のローマに実在した源氏名げんじなアンテアという高級娼婦とされる。

とはいえ本タイトルは画家の死後に付けられたので異説もある。着衣から見て娼婦ではなく、上流階級に属する女性の肖像ではないか、はたまたトローニー(特定の人物ではなく誰でもない誰か)、ないし何らかの抽象概念 ── 愛だの嫉妬しっとだの ── をあらわす擬人像ではないか、などなど。

私見だが、彼女がトローニーとは思えない。フェルメールの青いターバンの少女(= 真珠の耳飾りの少女)と同じで、画家がモデルから強烈な印象を受けながら描いているのが伝わるからだ。アンテアであれ、他の名を持つ高貴な女性であれ、彼女は五百年前にまぎれもなくこの世に、画家の目の前に、この姿で、実在していたに違いない。


フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』は特定の人物を描いたものではない(= トローニー)とされることが多いのですが、もちろんモデルがあるという意見もあります(映画作品が典型)。中野さんは後者の見解で、その理由は「画家がモデルから強烈な印象を受けながら描いているのが伝わる」からです。つまり絵から受ける印象によっているわけで、絵の見方としてはまっとうと言うべきでしょう。

では、パルミジャニーノの『アンテア』からはどういう印象を受けるのか。それが次です。


それにしても何と厄介やっかいそうな美女であろう。心持ち前のめりになって近づいてくる。何のために ?

とうてい男には解決できそうもない難題を突き付けるためにだ。彼女の言い分を聞いてやるだけで、すでにして面倒事に巻き込まれたと同じ。かといって無下に断るわけにもいかない。あまりに魅力的すぎて ・・・・・・。

大きな思いつめたやや上目づかいで強い光を放つ眼が、訴えかけてくる。何を言うのだろう、想像もできない。形の良い薄い唇が今にも語りはじめる。君子、危うきに近寄らず。頭の中でアラームが鳴る。背をむけて、さっさと逃げたほうがいい。しかし足が動かない ・・・・・・。

中野京子「同上」

このアンテアという女性は、何だか "思い詰めた" 表情で、見る人の方に迫ってくる感じがして、切迫感があります。それを倍加させているのが、彼女の身体の様子と身につけている品々です。


アンテアはわずかに身体をひねっている。右肩や右腕を前へせり出しているのも、見る側に迫ってくるイメージだ。右手にだけ手袋をめている。それも分厚く無骨な狩猟用手袋で、優美な衣装や宝飾品とはそぐわない。左手は白い美しい素手。小指にルビーをきらめかせ、神経質そうに大ぶりのネックレスをまさぐる。

中野京子「同上」

右手だけにめた手袋が "狩猟用" だということは知識がないと分からないのですが、それを知らないまでも、この手袋は我々が知っている "婦人用手袋" とは違った、"白く美しい手" には似つかわしくない手袋であるのは確かでしょう。そして極めつけは、彼女がその手袋で鎖を握りしめているクロテンの毛皮です。


驚くのは、右肩に掛けたクロテンの毛皮であろう。つややかな毛並みのテンは(シベリア産の最高級品ロシアンセーブルかもしれない)、彼女の肩から流れるように胸元を走り、右手に至る。テンの筋肉質の前脚、小さいながら獰猛どうもうな顔、きだした鋭い白い歯は、生きていた時そのままに剥製はくせい化してある。

テンの鼻づらには金鎖が付いていて、彼女はそれを手に巻きつけている(テンの歯は手袋に噛みついているように見える)。当時はこうした使い方が流行していた。つまり生きたペットと見間違えられるような毛皮を、ファッションの一部にあしらったのだ。しかしもちろんここにわざわざ肉食性の小動物を配しているのは、彼女の本性へのほのめかし以外の何ものでもない。

中野京子「同上」

彼女の両手のあたりの拡大図を以下に掲げます。「小指にルビーをきらめかせてネックレスをまさぐる白い美しい左手」と、「狩猟用手袋をはめて毛皮の鎖を握る右手」、そして「剥製になったクロテンの獰猛な頭部の様子」が見て取れます。

Parmigianino - Antea_Detail_1.jpg
パルミジャニーノ
「アンテア」(部分)

2つの "鎖" が印象的です。左手が示す "鎖"(=ネックレース)は「私」、右手にかけた "鎖"(= クロテンの手綱たづな)は「貴方あなた」(= 男)なのでしょう。「わざわざ肉食性の小動物を配しているのは、彼女の本性へのほのめかし以外の何ものでもない」と中野さんが書いているのは、まさにその通りだと思います。



引用した中野さんの文章は、あくまで個人的な感想であり、別の見方や感想があってもよいわけです。しかしこの肖像は、描かれたモデルの、

・ 表情
・ 態度
・ 身につけているもの

の3つの "総合" で「ただならぬ気配、異様なまでの緊迫感」(中野京子)を描き出しているのは確かでしょう。その点において、肖像画の一つの典型と言えると思います。




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