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No.113 - ローマ人のコンクリート(2)光と影 [歴史]

前回から続く)

建造物の例


前回に書いたローマン・コンクリートを活用した建造物の例を2点だけあげます。

 パンテオン 

前回に何回か言及したローマのパンテオンはコンクリートによる建築技術の結晶です。この建築は「柱廊玄関」と「円堂」からなり、円堂の高さと直径は44mです。円堂は以下のような構造をしています。

ドーム 直径44mの半球形。上に行くほど壁厚を薄くして重量を軽減している。
高さ30m、厚さ6.2m の円筒型。窓や開口部を設けて重量を軽減している。
基礎 幅.7.3m 深さ4.5mの地下構造物。

円堂は基礎を含めて全体がローマン・コンクリートの塊であり、このような複雑な構造物はコンクリートの使用ではじめて可能になったものです。パンテオンは古代ローマ時代のものが完全な形で残っている希な建造物です。

パンテオンの断面図と平面図.jpg
パンテオン断面図と立面図
塩野七生「ローマ人の物語 第9巻 賢帝の世紀」より。直径43.3メートルの球が描きこんである。

パンテオン内部.jpg
パンテオンの内部
ドームを見上げた写真。右下の明るいところは天井の穴から差し込んだ光である。

 公衆浴場 

建築物の他の例として公衆浴場(テルマエ)をあげておきます。写真と平面図はカラカラ浴場です。現在、遺跡として残っているのは一部ですが、平面図からは当時の威容が想像できます。浴場部分だけで200m×100mもあります。

Terme-Caracalla.jpg
カラカラ浴場遺跡
(site : www.archeorm.arti.beniculturali.it)

カラカラ浴場平面図.jpg
カラカラ浴場平面図
大浴場全体 : 337m×328m、浴場部分 : 220m×114m の規模がある。「ローマ人の物語 第10巻 すべての道はローマに通ず」より

このような公衆浴場はローマ市内に多数ありました。公衆浴場と水道の配置を、塩野七生「ローマ人の物語 第10巻 すべての道はローマに通ず」から引用しておきます。

ローマ市内に入ってからの各水道.jpg
ローマ市内の水道と公衆浴場の配置
「ローマ人の物語 第10巻 すべての道はローマに通ず」より。ローマの水道で最後に建設されたアントニニアーナ水道は、カラカラ浴場に水を引き込むために作られた。


エネルギー消費型の文明


以上のように、ローマ人が高度なコンクリート技術を駆使し(それ以外の建築技術も使って)社会のインフラを次々と建設していったのは、ローマ文明の「光」の部分です。しかし当然ですが、それに伴って「影」の部分が出てきます。その「影」の部分は、志村史夫著『古代世界の超技術』には指摘されていないし、また塩野さんの本にも書いてありません。

それはまず、セメントを作るのには多量のエネルギー(燃料)が必要ということです。セメントの作り方を振り返ってみると、石灰岩を900℃程度の高温の窯に投入して生石灰を作り(焼成し)、これがセメントの原料になります。この火力を作り出すものは、古代ではまきです。つまり、セメントを作るには木が必要ということになります。ちなみに、現代のセメントを焼成する温度は1400℃を超えています。つまり900℃は最低温度であって、高温になればなるほどセメントの質が良くなる。ローマ人のことだから、おそらく900℃を超える高温の炉を使ったのではないでしょうか。それにはますます木が必要ということになる。

大型建造物を何で作ったかで、文明を分類することができると思います。セメントや鉄は、原料(石灰岩や鉄鉱石)から作り出すのにエネルギー(燃料・火力)が必要です。現代ではそのエネルギーを化石燃料(石油、石炭、天然ガス)から得ています。

一方、古代から世界で使われてきた建築材料は石や木です。木や石を切り出し、建築資材として使えるまでに加工し現場で組み上げるのには、技術と労力が必要です。しかしこの過程でエネルギー(燃料)を投入する必要はありません。

建築材料を「省エネルギー型」と「エネルギー消費型」に分類すると、次の表になるでしょう。

  ローマ人以外 ローマ人
~近代 現代
省エネル
ギー型
   
 
エネルギー
消費型
コンクリート  
   

ちなみに、建築材料としての煉瓦は、

日干し煉瓦 省エネルギー型
焼き煉瓦 エネルギー消費型

と言えるでしょう。もちろん、ローマ人が使ったのは焼き煉瓦です。

エネルギー源としての化石燃料を使えない古代において、エネルギー消費型の建築材料(=セメント)を作るには、木を切って薪を作る(ないしは、それから木炭を作る)しかありません。ここで問題になってくるのは「自然破壊」の懸念です。もちろん、樹木は再生可能であり、薪は再生可能エネルギーだといえます。しかし樹木が再生可能なのは、その土地の気候風土(特に降水量)に応じた適切な量を伐採し、植林・施肥などで再生を促進する場合に限られます。果たしてローマ人は「適切な対応」ができたのでしょうか。

エネルギー(燃料)が必要なのは、焼き物(素焼き、陶器、磁器、瓦、タイルなど)を作る窯も同じです。しかしそれらは日用品や、建物の一部に使うものです。ローマのインフラとしての建造物(水道、橋、城壁、大型建築物・・・・・・ )に必要なセメントの量は、その規模が全く違うだろうし、必要な燃料も膨大だと想像します。エネルギー消費型文明の、一つの象徴がコンクリートだと思うのです。



古代ローマにおけるコンクリートと燃料の相互関係について書かれた本を読んだことはないのですが。煉瓦建築のことならあります。エコロジスト、ジョージ・マーシュは19世紀の人ですが、ローマの煉瓦建築の数世紀にわたる変遷を研究しました。ジョン・バーリン著『森と文明』(晶文社 1994)に、そのことが載っています。

  ちなみにジョージ・マーシュ(1801-1882)は米国の外交官でエコロジストです。1861年、リンカーン大統領は彼を初代イタリア大使に任命し、以降、亡くなるまでの21年間をイタリアで過ごしました。


昔のローマの建築では極端に薄い、焼きの十分なレンガを用い、しかも石灰のモルタルをふんだんに使ってレンガを結合させていた。ところが帝政時代になると、まさにその逆のことが起きたのである。焼きの貧弱なぶ厚いレンガとなり、しかも最小限のモルタルで結合させていたのである。マーシュはこの違いを「昔の時代の豊富で安い燃料と、のちの時代の不足するいっぽうの高価な燃料」の差によるものと見た。そこからマーシュはさらに論を発展させて、次のように結論づけた。

「木の値段がそれほどでもなかったときは、レンガをじっくりと焼いたり、大量の石灰を焼いて使うゆとりがあった。ところが、薪の値段が高くなってくると、レンガや石灰を焼く窯で消費できる燃料はますます少なくなっていった。そこで、建築の際に用いるレンガや石灰は、量が多くなれば質が悪くなり、また質が良くなれば量が足りないという悪循環におちいっていったのである。」

ジョン・パーリン『森と文明』
安田喜憲・鶴見精二訳
(晶文社 1994)

No.16-6 森と文明.jpg
この文章はコンクリート建築についてのものではありません。想像するに、橋脚や城壁、水道、浴場、神殿などの「国家の公共事業」のときには、最優先で十分な量のセメントやモルタル、煉瓦が使われたのだろうと思います。しかし上の文章は、モルタル(生石灰)や煉瓦といった建築材料が燃料に依存していることを示しています。

 ・・・・・・・・・・・

煉瓦やコンクリートによるインフラの建設と補修には、建築材料を作るために燃料が必要ですが、ローマには「日常の運用のために多量の燃料が必要なインフラ」もありました。それは公衆浴場(テルマエ)です。湯が湧き出す温泉地に行って入浴するのとは違い、都市の中での浴場の維持には水道と燃料が必要です。上に掲げた『ローマ人の物語』から引用した図でも、ローマ市内には公衆浴場が配置され、そこに水道が引かれています。さきほど引用した『森と文明』には、帝政後期の様子が書かれています。


皇帝たちはローマの人々の入浴好きなのを利用して、さらに多くの浴場を増設し、ローマ人の気をまぎらわそうとした。その結果、ローマの浴場は数にして合計900以上にもなった。一度に2000人を収容できるローマ最大の浴場も誕生した。お湯の温度はもちろん熱々でなければならなかった。そうでないと、ローマの人々は満足しないからである。ともかくも支配者の頭にあったのは人民の気をまぎらわすことであったから、どんな煩雑さも厭わずに、浴場だけにはつねに燃料が行き届くようにしていた。たとえば、アレクサンダー・セヴェルス皇帝(引用注:在位222-235。ラテン読みで、アレクサンデル・セウェルス)などは、ローマの浴場の燃料を絶やさないように、ある森の木をひとつ残らず伐ってしまっている。

ジョン・パーリン『森と文明』

これらの森がその百年後に底をついてしまうと、権力者はギルドを創設し、そのギルドに60隻の船を貸与して、浴場の用の燃料の供給をいっさいまかせることにした。まえにカンパニア地方のようなローマの近隣でも木は入手できたが、通常は、主に北アフリカの森にまで手を伸ばさざるをえなくなっていたのである。テヴェレ川やエトルリア地方の海岸からローマに木を運んでいた時代とはまさに隔世の感がある。ローマ人がこれほど遠くまで燃料を求めて旅していたことからもわかるように、ローマの近辺では木が皆無に近くなり、木の供給は全面的に外国にあおがなければならなくなっていた。

ジョン・パーリン『森と文明』

エネルギー源(木)を外国に頼るのは別に悪いことではありませんが(外国といっても、ローマ帝国の属州です)、普通に考えると輸送コストの増大を招き、薪の価格に跳ね返るでしょう。それは経済の低迷を招きかねません。



「コンクリートによる建設」や「公衆浴場の運営」以外にも「エネルギー消費型」の国家事業はあります。それは金属の精錬です。以前、No.16「ニーベルングの指環(指環とは何か)」で、ローマ帝国の銀の生産地であったスペインで、で薪の枯渇のために公衆浴場の運営を制限したという話を書きました。それを再度書くと以下の通りです。

まずローマの通貨制度ですが、ローマは銀本位制であり、基軸通貨は「デナリウス銀貨」でした。


初代皇帝のアウグストゥスが制定して以来のローマ帝国の通貨は、実に300年以上にわたって銀本位制でつづいていたのである。デナリウス銀貨を基軸通貨にすえる制度であった。

塩野七生『ローマ人の物語』
第13巻:最後の努力

この銀の採掘、精錬、銀貨の鋳造の一大中心地だったのがイベリア半島(現在のスペイン)でした。それは、16-17世紀のスペイン帝国を、南米ボリビアのポトシ銀山が支えていたのと相似形です。


ローマの成長の財政的基盤は、主としてスペインの原鉱石から抽出した銀であった。銀の生産がめだって増加したのは、共和政時代後半と帝政時代の初期である。しかし、このあおりをくったのがイベリアの森であった。というのも、銀を製錬する窯が製錬の工程で消費した木は、400年間で500万本以上にのぼったからである。窯の燃料を提供するために伐採された森林面積は、1万1200平方キロメートル以上にもなる。

ジョン・パーリン『森と文明』

以降、『森と文明』の記述を要約しますと、スペインの銀鉱山の周辺では森林資源が枯渇してきます。そこでローマ帝国は燃料供給のコントロールに乗り出します。浴場経営者などの非採掘業に対し、経営上必要とする量のみの森の木を取得するように命令を出し、木材価格の高騰を防ぐため木の転売を禁止します。

しかし2世紀末に、ついに銀の生産量が減少し始めます。銀鉱石はまだ豊富にあったにもかかわらずです。そしてコンモドゥス帝(180-192)はついに銀貨における銀の含有量を30%も下げてしまったのです。すぐあとのセプティミウス・セウェルス帝(193-211)はさらに20%下げ、銀の含有量は50%を切りました。こうなると事態は急速に進展し、3世紀末には銀の含有量が2%にまで減り、貨幣価値が激減しました。4世紀初頭にはすでに、物々交換や物による支払いが制度化されたと言います。

塩野さんの『ローマ人の物語 第13巻 最後の努力』には、銀貨の銀含有量の変遷が表にしてあります(下表の「銅」と書いてあるところは「銅やその他の金属」の意味のはずです)。

時期 銀貨の重さ 銀の含有量
BC.23 3.9 g 純銀
AD 64 3.4 g 銀 93% 銅 7%
215 5.5 g 銀 50% 銅 50%
265 3.0 g 銀 5% 銅 95%

これでは通貨の信用が激減し、それはとりもなおさず国家の崩壊にもつながりかねない事態です。通貨制度は「ソフトなインフラ」の代表格です。それが金属精錬という「エネルギー消費型」の技術に頼ることによって、危機に瀕したわけです。


最重要インフラとしての「ライフライン」


ここで再度、国の「インフラストラクチャ」を考えてみたいと思います。

「インフラストラクチャ」にもさまざまなものがありますが、「自給自足を脱した文明生活」をするための最重要のインフラは、現代ではライフラインと呼ばれる「人間の生存・生活に必須のインフラ」でしょう。災害時などに言われるライフラインは「電気・ガス・水道」などですが、もうすこし広く一般化すると「交通・輸送網」「水道」「エネルギー供給網」になると考えられます。これらを現代と古代ローマで対比して考えるみると、次の表のようになるでしょう。

ライフライン 現代人 ローマ人
交通・輸送網 道路(橋を含む)
公共交通機関
港湾設備
道路(橋を含む)
港湾設備
水道網 上水道
下水道
上水道
下水道
エネルギー
供給網
電気
ガス
石油製品供給網
燃料(薪)を製造・供給するしくみ

 
  補足ですが、表の中には「無くても生活できる」ものもあります。公共交通機関や下水道です。しかし現代社会で重要ということであげました。

道路がライフラインだという意識は、現代日本の本州太平洋側や四国・九州以南に住んでいる人は普段はないと思います。しかし、20-30cmの降雪があれば「道路=ライフライン」だと実感できます。日本海側の豪雪地帯の自治体は多額の予算を確保して除雪のためのインフラを整備していますが、それは道路がライフラインだからです。

上の表の「エネルギー供給網」のところ、つまり、ローマ人にとっての「燃料(薪)を製造・供給するしくみ」については、それについて書かれた書物を読んだことがないので、どういうものだったのかは知りません。しかし都市・ローマだけで最盛期には100万人が居住していたと言います。それにはエネルギー(薪、ないしは木炭)の供給システムが必須です。『森と文明』が指摘しているように、ローマ近郊に木が無くなったのなら、イタリア半島の各地、さらには属州から薪を運ぶ必要があります。それが再生可能・持続可能な形だったのか、知りたいところです。

塩野七生『ローマ人の物語 第10巻:すべての道はローマに通ず』には、「交通・輸送網」(道路・街道)と「水道網」の記述があります。まさにこの点において、ローマ人は現代人と「肩を並べている」のですね。しかしもう一つのライフラインである「エネルギー供給網」の記述はありません。このあたりを含めると「インフラストラクチャという視点からローマ文明を考察することの現代的意義」が鮮明になったと思います。



その現代に視点を移して考えてみると、現代文明は化石燃料(石油・石炭・天然ガス)に大きく依存していて、それが文明の基礎となっています。しかし「たまたま」地球に存在した化石燃料は、再生不可能な有限の資源です。あと50年とか100年とか、さまざまな説がありますが、将来、枯渇するのは必定です。しかも地球温暖化という深刻な「影」を引きずっていて、資源の枯渇以前に繁栄の限界に突き当たることも確実です。化石燃料への依存度を下げるということで原子力発電を推進したが、とんでもないリスクを内包してることが日本でも証明されてしまった。原子力発電に利用可能なウランも、再生不可能な有限の資源です。再生不可能などころか、何万年にも渡って危険物質であり続ける「核のゴミ」が出るという、極めてやっかいなしろものです。

人類史を長期の視野で眺めてみると、産業革命以降、現代までの200数十年は「たまたま地球にあった化石燃料を利用できた」ことで成立した「文明のうたげ」でしょう。その「宴」はいずれ終わります。これにどう対処し、文明を継続させるか。「宴の影の部分」にどう対処するかを含めて、現代の世界で取り組むべき最重要の課題だと思います。


失われたコンクリート技術


話を最初のコンクリートに戻します。コンクリート技術が不思議なのは、古代ローマでは高度に発達したが、その後(19世紀までは)全く失われてしまったことです。ローマ帝国の版図だった地域、およびその周辺で大規模なコンクリート建築が作られた形跡はありません(志村史夫『古代世界の超技術』による)。それは何故なのでしょうか。

シンプルに考えると、国(ローマ帝国)の滅亡で技術が失われたということでしょう。国家がなくなり、富の集中がなくなり、公共工事がなくなれば、技術者も霧散してしまって、技術の継承はできなくなる。

しかし直感的に思うのですが、コンクリート技術は、継承したくても出来なかったという側面があるのではないでしょうか。「エネルギー消費型の建築技術」は続けられなかった。だから、石を切り出し、研磨し、一つずつ積み上げるという「省エネルギー型建築」に戻った。労力はかかるし時間もかかるが、職人の技術と人力さえあれば強固な建築物が作れる。燃料がなくても・・・・・・。

古代ローマのコンクリート技術が消え去ったことは、再生不可能エネルギーにたよる限り、エネルギー消費型文明は長続きしないことの暗示だと思えました。

続く


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