No.346 - アストリッドが推理した呪われた家の秘密 [アート]
このブログでは数々の絵画について書きましたが、その最初は、No.19「ベラスケスの "怖い絵"」で取り上げた「インノケンティウス10世の肖像」で、中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある解説を引用しました。この絵はローマで実際に見たことがあり、また中野さんの解説が秀逸で、印象的だったのです。
『怖い絵』には興味深々の解説が多く、読み返すこともあるのですが、最近、あるテレビドラマを見ていて『怖い絵』にあった別の絵を思い出しました。15~16世紀のドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』です。今回はそのことを書きます。
テレビドラマとは、NHK総合で放映中の「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」です。
アストリッドとラファエル
「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」は、NHK総合 日曜日 23:00~ の枠で放映されているフランスの警察ドラマです。
アストリッドはパリの犯罪資料局に勤務する文書係の女性(俳優はサラ・モーテンセン)、ラファエルはパリ警視庁の刑事(警視)です(俳優はローラ・ドヴェール)。アストリッドは自閉スペクトラム症ですが、過去の犯罪資料に精通していて、また抜群の洞察力があります。一方のラファエルは、思い立ったらすぐに(捜査規律違反もいとわず)行動に移すタイプです。しかし正義感は人一倍強く、人間としての包容力もある女性刑事です。この全く対照的な2人がペアになって難事件を解決していくドラマです(サラ・モーテンセンの演技が素晴らしいと思います。彼女の演技だけでも番組を見る価値があります)。
呪われた家
このドラマのシリーズで「呪われた家」というストーリーが2回に分けて放映されました(前編:2022年8月14日、後編:8月21日)。このストーリーでの重要な舞台は、パリにある "呪われた家" との噂がある屋敷です。この屋敷の歴史について、アストリッドが過去の資料を調べてラファエルに説明するシーンがあります。台詞を抜き出すと以下です。以下に出てくる "リボー" とは、突然、行方不明になった屋敷の主です。

呪われた家の秘密
実は、"呪われた家" には隠されていた地下室がありました。ラファエルが封印を破って地下室に最初に入ったとき、ラファエルは幻影を見ます。
その後、ラファエルとアストリッドが地下室を詳しく調ているときです。アストリッドは地下室の隅に放置されたままの袋を見つけました。
"呪われた家" を出たアストリッドは、あることが閃いたようで、「犯罪資料局に戻らなければ。今すぐに」と言います。ラファエルも同行しました。
キーワードは麦角菌です。その麦角菌と関係する有名な絵画がフランスにあります。
麦角菌
LSD(Lysergic acid diethylamid)は強い幻覚作用をもち、日本をはじめ各国で麻薬として禁止されている薬物です。ラファエルが「リゼルギン酸ジエチルアミド」とアストリッドから聞いてすぐ LSD だと分かったのは、それが刑事の必須知識である禁止薬物だからです。
LSDは人工的に合成されますが、もともと麦角菌に含まれる「麦角アルカロイド」の研究から生まれたものでした。麦角アルカロイドの中のリゼルギン酸から LSD が生成されることもあります。
アルカロイドとは、主に植物や菌が生成する有機化合物の総称ですが、麦角アルカロイドの人への影響は幻覚だけでありません。Wikipedia から引用すると、次のとおりです。
麦角アルカロイドが人にもたらすさまざまな症状を「麦角中毒」といいます。そして「麦角中毒」は、アストリッドが指摘した1951年のポン・サン・テスプリ(Pont-Saint-Esprit。南フランスの小さな町)での事件(実際にあった事件です)より遙か昔から、ヨーロッパでしばしば起こっていました。そして中世ヨーロッパでは、麦角中毒のことを人々は「聖アントニウス病」ないしは「聖アントニウスの火」と呼んでいました。
その「聖アントニウス病」と密接に関係した絵が、ドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』(1515年頃)です。イエスの磔刑を描いていますが、イエスを最も酷い姿で描いた絵として有名です。
イーゼンハイムの祭壇画
中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある『イーゼンハイムの祭壇画』の解説を紹介します。
上に引用にあるように、聖アントニウス病が麦角中毒だと分かるのは17世紀終わりです。ということは、それ以前の中世、たとえば『イーゼンハイムの祭壇画』が描かれた16世紀では、そんなことは誰も知らない。当時、聖アントニウス病を治すには、転地療養や旅(巡礼)が良いとされたようですが、それは食事が変わって、いつも食べている「麦角菌入りのライ麦パン」を食べなくなったからなのでしょう。
では、麦角中毒がなぜ「聖アントニウス病」と呼ばれたのか。そして、イーゼンハイム(現在のストラスブール近郊の町)の修道院にあった『イーゼンハイムの祭壇画』が、なぜ「聖アントニウス病」と関係するのか。中野さんの解説が続きます。
このあと中野さんは、当時、聖アントニウス病にかかった村人が、同じ症状の人をさそって、5人でイーゼンハイムへ巡礼に出かける旅路を、村人目線で、想像で書いています。同行の人は次々と行き倒れ、イーゼンハイムに近づいたときには、村人一人になっていました。
要するに『イーゼンハイムの祭壇画』は、たとえば、当時、聖アントニウス病に罹患し、イーゼンハイムの修道院にやっとの思いでたどり着いた巡礼者の気持ちを想像してみないと、その価値の一端すら分からないと言っているのですね。
このあとは、祭壇画の詳細な解説です。登場人物はイエス、聖母マリア、イエスの弟子の聖ヨハネ、マグダラのマリア、洗礼者聖ヨハネ、聖セバスティアヌス、聖アントニウスなどです。
コルマールのウンターリンデン美術館
「イーゼンハイムの祭壇画」は現在、解体された状態で、フランスのアルザス地方の都市、コルマールにあるウンターリンデン美術館にあります。
コルマールは一度だけ行ったことがありますが、その時はツアー旅行だったので、美術館のところまで来たときには閉館時間を過ぎていました。残念でしたが、ツアー旅行なので仕方ありません。なお、コルマールは、ジブリ映画『ハウルの動く城』のモデルになったとも言われる美しい街です。ウンターリンデン美術館とは関係なく、十分に訪問する価値がある街です。
『怖い絵』には興味深々の解説が多く、読み返すこともあるのですが、最近、あるテレビドラマを見ていて『怖い絵』にあった別の絵を思い出しました。15~16世紀のドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』です。今回はそのことを書きます。
テレビドラマとは、NHK総合で放映中の「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」です。
アストリッドとラファエル
「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」は、NHK総合 日曜日 23:00~ の枠で放映されているフランスの警察ドラマです。
アストリッドはパリの犯罪資料局に勤務する文書係の女性(俳優はサラ・モーテンセン)、ラファエルはパリ警視庁の刑事(警視)です(俳優はローラ・ドヴェール)。アストリッドは自閉スペクトラム症ですが、過去の犯罪資料に精通していて、また抜群の洞察力があります。一方のラファエルは、思い立ったらすぐに(捜査規律違反もいとわず)行動に移すタイプです。しかし正義感は人一倍強く、人間としての包容力もある女性刑事です。この全く対照的な2人がペアになって難事件を解決していくドラマです(サラ・モーテンセンの演技が素晴らしいと思います。彼女の演技だけでも番組を見る価値があります)。
呪われた家
このドラマのシリーズで「呪われた家」というストーリーが2回に分けて放映されました(前編:2022年8月14日、後編:8月21日)。このストーリーでの重要な舞台は、パリにある "呪われた家" との噂がある屋敷です。この屋敷の歴史について、アストリッドが過去の資料を調べてラファエルに説明するシーンがあります。台詞を抜き出すと以下です。以下に出てくる "リボー" とは、突然、行方不明になった屋敷の主です。
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呪われた家の秘密
実は、"呪われた家" には隠されていた地下室がありました。ラファエルが封印を破って地下室に最初に入ったとき、ラファエルは幻影を見ます。
その後、ラファエルとアストリッドが地下室を詳しく調ているときです。アストリッドは地下室の隅に放置されたままの袋を見つけました。
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"呪われた家" を出たアストリッドは、あることが閃いたようで、「犯罪資料局に戻らなければ。今すぐに」と言います。ラファエルも同行しました。
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キーワードは麦角菌です。その麦角菌と関係する有名な絵画がフランスにあります。
麦角菌
LSD(Lysergic acid diethylamid)は強い幻覚作用をもち、日本をはじめ各国で麻薬として禁止されている薬物です。ラファエルが「リゼルギン酸ジエチルアミド」とアストリッドから聞いてすぐ LSD だと分かったのは、それが刑事の必須知識である禁止薬物だからです。
LSDは人工的に合成されますが、もともと麦角菌に含まれる「麦角アルカロイド」の研究から生まれたものでした。麦角アルカロイドの中のリゼルギン酸から LSD が生成されることもあります。
アルカロイドとは、主に植物や菌が生成する有機化合物の総称ですが、麦角アルカロイドの人への影響は幻覚だけでありません。Wikipedia から引用すると、次のとおりです。
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麦角アルカロイドが人にもたらすさまざまな症状を「麦角中毒」といいます。そして「麦角中毒」は、アストリッドが指摘した1951年のポン・サン・テスプリ(Pont-Saint-Esprit。南フランスの小さな町)での事件(実際にあった事件です)より遙か昔から、ヨーロッパでしばしば起こっていました。そして中世ヨーロッパでは、麦角中毒のことを人々は「聖アントニウス病」ないしは「聖アントニウスの火」と呼んでいました。
その「聖アントニウス病」と密接に関係した絵が、ドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』(1515年頃)です。イエスの磔刑を描いていますが、イエスを最も酷い姿で描いた絵として有名です。
イーゼンハイムの祭壇画
中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある『イーゼンハイムの祭壇画』の解説を紹介します。
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マティアス・グリューネヴァルト(1470/75 - 1528) 「イーゼンハイムの祭壇画 第1面」(1515年頃) |
ウンターリンデン美術館(仏) |
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では、麦角中毒がなぜ「聖アントニウス病」と呼ばれたのか。そして、イーゼンハイム(現在のストラスブール近郊の町)の修道院にあった『イーゼンハイムの祭壇画』が、なぜ「聖アントニウス病」と関係するのか。中野さんの解説が続きます。
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このあと中野さんは、当時、聖アントニウス病にかかった村人が、同じ症状の人をさそって、5人でイーゼンハイムへ巡礼に出かける旅路を、村人目線で、想像で書いています。同行の人は次々と行き倒れ、イーゼンハイムに近づいたときには、村人一人になっていました。
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要するに『イーゼンハイムの祭壇画』は、たとえば、当時、聖アントニウス病に罹患し、イーゼンハイムの修道院にやっとの思いでたどり着いた巡礼者の気持ちを想像してみないと、その価値の一端すら分からないと言っているのですね。
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このあとは、祭壇画の詳細な解説です。登場人物はイエス、聖母マリア、イエスの弟子の聖ヨハネ、マグダラのマリア、洗礼者聖ヨハネ、聖セバスティアヌス、聖アントニウスなどです。
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マティアス・グリューネヴァルト 「イーゼンハイムの祭壇画 第1面」 |
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マティアス・グリューネヴァルト 「イーゼンハイムの祭壇画 第2面」 |
ウンターリンデン美術館(仏) |
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コルマールのウンターリンデン美術館
「イーゼンハイムの祭壇画」は現在、解体された状態で、フランスのアルザス地方の都市、コルマールにあるウンターリンデン美術館にあります。
コルマールは一度だけ行ったことがありますが、その時はツアー旅行だったので、美術館のところまで来たときには閉館時間を過ぎていました。残念でしたが、ツアー旅行なので仕方ありません。なお、コルマールは、ジブリ映画『ハウルの動く城』のモデルになったとも言われる美しい街です。ウンターリンデン美術館とは関係なく、十分に訪問する価値がある街です。
2022-09-24 07:30
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No.345 - "恐怖" による生態系の復活 [科学]
No.126-127「捕食者なき世界」の続きです。No.126-127は、生態系における捕食者の重要性を、ウィリアム・ソウルゼンバーグ著「捕食者なき世界」(文春文庫 2014)に沿って紹介したものでした。
生態系において捕食者(例えば肉食獣)が、乱獲などの何らかの原因で不在になると、被捕食者(例えば草食動物)が増え過ぎ、そのことによって植物相が減少する。最悪の場合は草食動物もかえって数が減って生態系の荒廃が起こり得る。このようなことが、豊富な実例とともに示されていました。
生態系における「捕食・被捕食」の関係は、動植物の種が複雑に絡み合うネットワークを形成していて、そのネットワークには「不在になると他の種に連鎖的な影響を及ぼす種」(= キーストーン種。キーストーンは "要石" の意味)があります。食物連鎖の頂点に位置する肉食獣は代表的なキーストーン種なのでした。
ところで、最近の NHK BS1 のドキュメンタリーで、人的要因によって激変してしまった生態系を、捕食者の再導入によって元に戻そうとするプロジェクトが放映されました。その番組は、
です。今回はこの番組の概要を紹介します。日本語題名に「"恐怖" でよみがえる」とあり、また原題の意味は「自然の要素としての "恐怖"」です。つまり "恐怖" が重要なテーマになっています。これは、
という意味です。このことは以降の概要で詳しく出てきます。プロジェクトの主役 = 捕食者は、アフリカに住むイヌに似た肉食獣の "リカオン" です。
ゴロンゴーザ国立公園とその荒廃
東アフリカのモザンビークにあるゴロンゴーザ国立公園は、アフリカの国立公園の中でも特に豊かな自然に恵まれている公園です。
モザンビークでは独立後、1970年代から15年以上ものあいだ、政府軍と反政府勢力の激しい内戦が続きました。この内戦による犠牲者は 100万人にのぼるとされています。
この内戦のあいだ、ゴロンゴーザ国立公園は反政府勢力の格好の隠れ家になり、戦場にもなったので、荒廃してしまいました。戦乱と密猟によって大型の哺乳類の数が激減してしまったのです。20年前の調査では、大型の哺乳類の数が内戦前に比べて 1/10 以下に減少していました。たとえば、
といった悲惨な状況です。ゴロンゴーザ国立公園の復活は不可能だと思われました。
しかし希望がありました。それは豊かな自然環境です。ゴロンゴーザ国立公園は、サバンナ、林、氾濫原、湖、川、熱帯雨林などがモザイク状に入り組んでいます。この自然環境がそのまま残っていたのです。
ゴロンゴーザ再生プロジェクト
世界各地からも専門家が集まって官民共同の「ゴロンゴーザ再生プロジェクト」が結成されました。このプロジェクトによって、大きく数を減らした動物の一部は他の地域から持ち込まれました。こうした努力の結果、動物の生息数は回復しつつあります。特に、草食動物の生息数は内戦前に近づきつつあります。
素晴らしいことのよう思えますが、専門家の判断によると健全な生態系の回復ではありません。動物によって増え方に偏りがあり、以前のような多様性が失われたのです。たとえば、一部の動物だけが急速に数を増やしています。中でも、ウォーターバックの数が爆発的に増えました。生息総数は6万頭に迫る勢いで、これは内戦前の10倍以上です。
「多種多様な生き物がそれぞれに適した場所で生息し、全体として安定した生態系を作っている」という、本来あるべき姿ではないのです。なぜ動物の数が偏るのでしょうか。この問題の解決策を探るべく、ゴロンゴーザ再生プロジェクトでは生態系の地道な調査をはじめました。
ブッシュバックの奇妙な行動
生態系の調査で判明したことの一つに、アンテロープ(=レイヨウ)の一種で、本来警戒心が強いブッシュバックの奇妙な行動があります。ブッシュバックはその名のとおり、本来なら茂みに隠れて暮らします。しかし林を離れて、開けた氾濫原に行動範囲を広げていました。より栄養がある食べ物を求めて氾濫原に踏み出したと考えられました。
草食動物がどの種類の草を食べているのか、糞を採取して調べること可能です。3年間で3000以上ものブッシュバックの糞が集められ、アメリカのプリンストン大学に送られました。含まれる植物のDNA分析の結果、氾濫原のブッシュバックは林の中の個体より栄養価の高い草を食べていることが分かりました。その結果、氾濫原に踏み出したブッシュバックは体が大きくなり、子どももたくさん作れるのです。
草食動物の食性変化
プロジェクトではさらに、ゴロンゴーザ国立の主な草食動物が何を食べているかを分析し、ケニアの似たような国立公園と比較しました。ケニアの草食動物は、種によって食べるものがはっきり分かれていました。一方、ゴロンゴーザでは複数の種が同じ物を食べていました。
動物たちがあらゆる場所に進出し好きなものを食べるようになった結果、食性における "種の境界線" が崩壊していたのです。こうなると過度の争いが起き、生態系が崩れてきます。
捕食者の不足
根本原因は2つの不足でした。「捕食者」と「恐怖」です。ゴロンゴーザにおける捕食者は、ライオン、ハイエナ、ヒョウ、チータ、リカオンでしたが、内戦が続いた結果、わずかなライオンを除いて姿を消しました。この結果、草食動物が "恐怖心"、つまり「他の動物の餌食になることを恐れる気持ち」を忘れたのです。
本来、動物は捕食者の存在を意識し、襲われたときに不利になるような環境や地形を避けて行動範囲を決めています。
このことを昆虫で明らかにした実験があります。森の中の草地に2種のネットを設置し、1種のネットにはバッタだけ、もう1種のネットにはバッタとその天敵の蜘蛛をいれます。そうすると、蜘蛛がいるネットのバッタは天敵から身を隠すのに適した植物を食べるので、体が小さくなりました。一方、蜘蛛がいないネットのバッタは、栄養が豊富な植物を食べるので体が大きくなり、繁殖数を増やしました。つまり「捕食されにくい行動」と「子孫を多く残す行動」のトレードオフ関係がみられたのです。
プロジェクトでは、ゴロンゴーザの生態系の荒廃を回復させるため、捕食者の再導入が計画されました。実は25年前、米国のイエローストーン国立公園ににオオカミが再導入され、成果をあげていました(No.126-127「捕食者なき世界」参照)。
しかしゴロンゴーザの動物は、もう何世代も捕食者のいない環境が続いています。果たして、今でも捕食者を恐れる行動をとるのでしょうか。
そこでまず、氾濫原のブッシュバックがヒョウの声に反応するかどうかの実験が行われました。ヒョウの声を録音し、氾濫原にスピーカーを設置して、何日かはただの雑音を流し、別の日にヒョウの声を流しました。すると、ヒョウの声でブッシュバックの行動が一変し、生息域を変えてヒョウの声を避けるようになったのです。
声だけで変化を起こせるのなら、本物の捕食者はもっと大きな変化を起こせるはずです。これで捕食者の再導入が決まりました。捕食者として選ばれたのはリカオンです。
リカオンの再導入
リカオンは体にまだら模様があり、格好はイヌに似ています。しかし約150万年前にオオカミから枝分かれしてアフリカ大陸で独自の進化をとげた動物で、イヌやオオカミとは全く別の動物です。その生息数はアフリカ全土で7000頭以下に減少していて、絶滅の危機にあります。リカオンがゴロンゴーザ国立公園で最後に確認されたのは30年以上も前でした。
ゴロンゴーザ国立公園から800キロ離れた南アフリカの動物保護区から、14頭のリカオンが運ばれました。遺伝的な多様性を重視して、これらのリカオンは異なる群から選ばれた14頭です。
14頭のリカオンは、まず、ゴロンゴーザ国立公園に作られた囲いの中で共に過ごしました。この過程で群としての一体感が醸成され、リーダーのリカオンも決まっていきました。そして8週間後、囲いの扉が開けられ、公園に放たれました。
リカオンには発信器がつけられ、行動をつぶさに追跡できます。またブッシュバックにも多くの発信器がつけらています。リカオンとブッシュバックの糞の分析すると何を食べたかが分かる。つまり、リカオンの再導入による生態系の変化が詳細に分析できるのです。その意味で、この再導入は生態学における歴史的な実験です。また、順調にいけば、絶滅危惧種であるリカオンの繁殖につながる可能性もあります。
ゴロンゴーザ国立公園でのリカオン
プロジェクトの努力で、ライオンの生息数は150頭にまで回復していました。ゴロンゴーザにおけるライオンの狩りの基本は「待ち伏せ」です。ライオンは林と氾濫原の間の背の高い草が茂るところに単独で潜み、そこを通る動物を狙うのです。
一方、リカオンの狩りは集団による狩りです。氾濫原のような開けた場所で草食動物を狙います。かつ、リカオンはライオンを避けます。ライオンに殺されることもあるからです。生態系の回復のためには、異なったテリトリーで獲物をねらう複数の捕食者が必要です。
リカオンの群は、平均で1日2頭以上のアンテロープ(ブッシュバックなど)をしとめます。ゴロンゴーザの今の状況では、食べ物に全く困らないはずです。
ゴロンゴーザの14頭のリカオンを追跡する過程で、繁殖が確認できました。まず、11頭の子どもが生まれました。その次には8頭の子どもが生まれました。さらに群の一部が独立して別の群ができ、その別の群でも8頭の子どもが生まれました。ゴロンゴーザのリカオンは、総計40頭以上の2つの群になり、存在感を増しました。
さらに、ライオンがあまり狙わない動物をしとめていることも分かってきました。そのため、動物の警戒心が強くなり、動物の行動が変わりました。
リカオンの糞を分析すると、狩りの獲物の半分以上はブッシュバックだとわかりました。ブッシュバックはいずれ氾濫原から撤退し、今よりも栄養状態が劣るようになると想定できます。プロジェクトの成果は数年経たないと確定できませんが、希望がもてるスタートです。
さらに、プロジェクトのメンバーにとって嬉しい知らせがありました。ゴロンゴーザ国立公園では10年以上目撃されていなかったヒョウが目撃されたのです。それだけ、ゴロンゴーザには自然が残っていたということです。ヒョウは自力で復活を果たすかもしれません。
14頭のリカオンが放たれてから1年後、さらに15頭が到着しました。これはリカオンの遺伝的な偏りを防ぎ、ゴロンゴーザにさらなる "恐怖" をもたらすためです。将来的には他の捕食者の導入も検討されています。
感想
ゴロンゴーザ再生プロジェクトに関わる生態学者、動物学者の地道な努力の積み重ねが印象的でした。たとえば、本文に引用した「ゴロンゴーザとケニアにおける草食動物(5種)の食性の違い」ですが、各種の草食動物の糞を多数に集め、植物のサンプルも大量に集め、それらをDNA分析して、食性の違いを明らかにしています。大変な作業です。こういうことを地道に、かつ定期的にやることが、ゴロンゴーザ再生プロジェクト(リカオンの再導入はその一つ)の成果を、エビデンスとともに示せるということでしょう。
いったん崩れた生態系を元に戻すのは、おいそれとできるものではなく、時間とコストがかかります。しかしそれにチャレンジする学者がいる。そのことが実感できたドキュメンタリーでした。
生態系において捕食者(例えば肉食獣)が、乱獲などの何らかの原因で不在になると、被捕食者(例えば草食動物)が増え過ぎ、そのことによって植物相が減少する。最悪の場合は草食動物もかえって数が減って生態系の荒廃が起こり得る。このようなことが、豊富な実例とともに示されていました。
生態系における「捕食・被捕食」の関係は、動植物の種が複雑に絡み合うネットワークを形成していて、そのネットワークには「不在になると他の種に連鎖的な影響を及ぼす種」(= キーストーン種。キーストーンは "要石" の意味)があります。食物連鎖の頂点に位置する肉食獣は代表的なキーストーン種なのでした。
ところで、最近の NHK BS1 のドキュメンタリーで、人的要因によって激変してしまった生態系を、捕食者の再導入によって元に戻そうとするプロジェクトが放映されました。その番組は、
NHK BS1 BS世界のドキュメンタリー
2022年8月9日 15:00~15:45) | |
"恐怖" でよみがえる野生の王国」 | |
Nature's Fear Factor) 制作:Tangled Bank Studios(米国 2020) |
です。今回はこの番組の概要を紹介します。日本語題名に「"恐怖" でよみがえる」とあり、また原題の意味は「自然の要素としての "恐怖"」です。つまり "恐怖" が重要なテーマになっています。これは、
捕食者は、単に被捕食者を殺して食べるだけでなく、被捕食者に常に "恐怖" を与えており、そのことによって被捕食者の行動は制限され、これが生態系維持の重要な要素になっている」 |
という意味です。このことは以降の概要で詳しく出てきます。プロジェクトの主役 = 捕食者は、アフリカに住むイヌに似た肉食獣の "リカオン" です。
ゴロンゴーザ国立公園とその荒廃
東アフリカのモザンビークにあるゴロンゴーザ国立公園は、アフリカの国立公園の中でも特に豊かな自然に恵まれている公園です。
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ゴロンゴーザ国立公園 |
サバンナ、林、氾濫原、湖、川、熱帯雨林などが複雑に入り組んだ自然生態系を成している。番組より。 |
モザンビークでは独立後、1970年代から15年以上ものあいだ、政府軍と反政府勢力の激しい内戦が続きました。この内戦による犠牲者は 100万人にのぼるとされています。
この内戦のあいだ、ゴロンゴーザ国立公園は反政府勢力の格好の隠れ家になり、戦場にもなったので、荒廃してしまいました。戦乱と密猟によって大型の哺乳類の数が激減してしまったのです。20年前の調査では、大型の哺乳類の数が内戦前に比べて 1/10 以下に減少していました。たとえば、
: 2500 → 250 | |
: 3500 → 100未満 | |
: 200 → 10 | |
: 3500 → 0 | |
: 6500 → 0 | |
: 14000 → 0 |
といった悲惨な状況です。ゴロンゴーザ国立公園の復活は不可能だと思われました。
しかし希望がありました。それは豊かな自然環境です。ゴロンゴーザ国立公園は、サバンナ、林、氾濫原、湖、川、熱帯雨林などがモザイク状に入り組んでいます。この自然環境がそのまま残っていたのです。
ゴロンゴーザ再生プロジェクト
世界各地からも専門家が集まって官民共同の「ゴロンゴーザ再生プロジェクト」が結成されました。このプロジェクトによって、大きく数を減らした動物の一部は他の地域から持ち込まれました。こうした努力の結果、動物の生息数は回復しつつあります。特に、草食動物の生息数は内戦前に近づきつつあります。
素晴らしいことのよう思えますが、専門家の判断によると健全な生態系の回復ではありません。動物によって増え方に偏りがあり、以前のような多様性が失われたのです。たとえば、一部の動物だけが急速に数を増やしています。中でも、ウォーターバックの数が爆発的に増えました。生息総数は6万頭に迫る勢いで、これは内戦前の10倍以上です。
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ウォーターバック(雌) |
(Wikipedia) |
「多種多様な生き物がそれぞれに適した場所で生息し、全体として安定した生態系を作っている」という、本来あるべき姿ではないのです。なぜ動物の数が偏るのでしょうか。この問題の解決策を探るべく、ゴロンゴーザ再生プロジェクトでは生態系の地道な調査をはじめました。
ブッシュバックの奇妙な行動
生態系の調査で判明したことの一つに、アンテロープ(=レイヨウ)の一種で、本来警戒心が強いブッシュバックの奇妙な行動があります。ブッシュバックはその名のとおり、本来なら茂みに隠れて暮らします。しかし林を離れて、開けた氾濫原に行動範囲を広げていました。より栄養がある食べ物を求めて氾濫原に踏み出したと考えられました。
![]() |
ブッシュバック(雌) |
(Wikipedia) |
草食動物がどの種類の草を食べているのか、糞を採取して調べること可能です。3年間で3000以上ものブッシュバックの糞が集められ、アメリカのプリンストン大学に送られました。含まれる植物のDNA分析の結果、氾濫原のブッシュバックは林の中の個体より栄養価の高い草を食べていることが分かりました。その結果、氾濫原に踏み出したブッシュバックは体が大きくなり、子どももたくさん作れるのです。
草食動物の食性変化
プロジェクトではさらに、ゴロンゴーザ国立の主な草食動物が何を食べているかを分析し、ケニアの似たような国立公園と比較しました。ケニアの草食動物は、種によって食べるものがはっきり分かれていました。一方、ゴロンゴーザでは複数の種が同じ物を食べていました。
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草食動物の食性の比較 |
[ケニア(左)とゴロンゴーザ(右)] |
色の違いは草食動物の種を表し、ブッシュバック、ウォーターバック、リードバック、インパラ、オリビの5種である。点は個体で、個体が食べた草の種類によって3次元グラフにプロットし、それをある方向から2次元的に見たのが上の図である。ケニアの5種の草食動物は食性が分離しているが、ゴロンゴーザでは食性が重なっている。番組より。 |
動物たちがあらゆる場所に進出し好きなものを食べるようになった結果、食性における "種の境界線" が崩壊していたのです。こうなると過度の争いが起き、生態系が崩れてきます。
捕食者の不足
根本原因は2つの不足でした。「捕食者」と「恐怖」です。ゴロンゴーザにおける捕食者は、ライオン、ハイエナ、ヒョウ、チータ、リカオンでしたが、内戦が続いた結果、わずかなライオンを除いて姿を消しました。この結果、草食動物が "恐怖心"、つまり「他の動物の餌食になることを恐れる気持ち」を忘れたのです。
|
本来、動物は捕食者の存在を意識し、襲われたときに不利になるような環境や地形を避けて行動範囲を決めています。
このことを昆虫で明らかにした実験があります。森の中の草地に2種のネットを設置し、1種のネットにはバッタだけ、もう1種のネットにはバッタとその天敵の蜘蛛をいれます。そうすると、蜘蛛がいるネットのバッタは天敵から身を隠すのに適した植物を食べるので、体が小さくなりました。一方、蜘蛛がいないネットのバッタは、栄養が豊富な植物を食べるので体が大きくなり、繁殖数を増やしました。つまり「捕食されにくい行動」と「子孫を多く残す行動」のトレードオフ関係がみられたのです。
プロジェクトでは、ゴロンゴーザの生態系の荒廃を回復させるため、捕食者の再導入が計画されました。実は25年前、米国のイエローストーン国立公園ににオオカミが再導入され、成果をあげていました(No.126-127「捕食者なき世界」参照)。
しかしゴロンゴーザの動物は、もう何世代も捕食者のいない環境が続いています。果たして、今でも捕食者を恐れる行動をとるのでしょうか。
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氾濫原に進出したブッシュバック。番組より。 |
そこでまず、氾濫原のブッシュバックがヒョウの声に反応するかどうかの実験が行われました。ヒョウの声を録音し、氾濫原にスピーカーを設置して、何日かはただの雑音を流し、別の日にヒョウの声を流しました。すると、ヒョウの声でブッシュバックの行動が一変し、生息域を変えてヒョウの声を避けるようになったのです。
声だけで変化を起こせるのなら、本物の捕食者はもっと大きな変化を起こせるはずです。これで捕食者の再導入が決まりました。捕食者として選ばれたのはリカオンです。
リカオンの再導入
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リカオン |
(Wikipedia) |
リカオンは体にまだら模様があり、格好はイヌに似ています。しかし約150万年前にオオカミから枝分かれしてアフリカ大陸で独自の進化をとげた動物で、イヌやオオカミとは全く別の動物です。その生息数はアフリカ全土で7000頭以下に減少していて、絶滅の危機にあります。リカオンがゴロンゴーザ国立公園で最後に確認されたのは30年以上も前でした。
ゴロンゴーザ国立公園から800キロ離れた南アフリカの動物保護区から、14頭のリカオンが運ばれました。遺伝的な多様性を重視して、これらのリカオンは異なる群から選ばれた14頭です。
14頭のリカオンは、まず、ゴロンゴーザ国立公園に作られた囲いの中で共に過ごしました。この過程で群としての一体感が醸成され、リーダーのリカオンも決まっていきました。そして8週間後、囲いの扉が開けられ、公園に放たれました。
リカオンには発信器がつけられ、行動をつぶさに追跡できます。またブッシュバックにも多くの発信器がつけらています。リカオンとブッシュバックの糞の分析すると何を食べたかが分かる。つまり、リカオンの再導入による生態系の変化が詳細に分析できるのです。その意味で、この再導入は生態学における歴史的な実験です。また、順調にいけば、絶滅危惧種であるリカオンの繁殖につながる可能性もあります。
ゴロンゴーザ国立公園でのリカオン
プロジェクトの努力で、ライオンの生息数は150頭にまで回復していました。ゴロンゴーザにおけるライオンの狩りの基本は「待ち伏せ」です。ライオンは林と氾濫原の間の背の高い草が茂るところに単独で潜み、そこを通る動物を狙うのです。
一方、リカオンの狩りは集団による狩りです。氾濫原のような開けた場所で草食動物を狙います。かつ、リカオンはライオンを避けます。ライオンに殺されることもあるからです。生態系の回復のためには、異なったテリトリーで獲物をねらう複数の捕食者が必要です。
リカオンの群は、平均で1日2頭以上のアンテロープ(ブッシュバックなど)をしとめます。ゴロンゴーザの今の状況では、食べ物に全く困らないはずです。
ゴロンゴーザの14頭のリカオンを追跡する過程で、繁殖が確認できました。まず、11頭の子どもが生まれました。その次には8頭の子どもが生まれました。さらに群の一部が独立して別の群ができ、その別の群でも8頭の子どもが生まれました。ゴロンゴーザのリカオンは、総計40頭以上の2つの群になり、存在感を増しました。
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ゴロンゴーザ国立公園で数を増やしたリカオン。親にまじって子どもが写っている。番組より。 |
さらに、ライオンがあまり狙わない動物をしとめていることも分かってきました。そのため、動物の警戒心が強くなり、動物の行動が変わりました。
リカオンの糞を分析すると、狩りの獲物の半分以上はブッシュバックだとわかりました。ブッシュバックはいずれ氾濫原から撤退し、今よりも栄養状態が劣るようになると想定できます。プロジェクトの成果は数年経たないと確定できませんが、希望がもてるスタートです。
さらに、プロジェクトのメンバーにとって嬉しい知らせがありました。ゴロンゴーザ国立公園では10年以上目撃されていなかったヒョウが目撃されたのです。それだけ、ゴロンゴーザには自然が残っていたということです。ヒョウは自力で復活を果たすかもしれません。
14頭のリカオンが放たれてから1年後、さらに15頭が到着しました。これはリカオンの遺伝的な偏りを防ぎ、ゴロンゴーザにさらなる "恐怖" をもたらすためです。将来的には他の捕食者の導入も検討されています。
感想
ゴロンゴーザ再生プロジェクトに関わる生態学者、動物学者の地道な努力の積み重ねが印象的でした。たとえば、本文に引用した「ゴロンゴーザとケニアにおける草食動物(5種)の食性の違い」ですが、各種の草食動物の糞を多数に集め、植物のサンプルも大量に集め、それらをDNA分析して、食性の違いを明らかにしています。大変な作業です。こういうことを地道に、かつ定期的にやることが、ゴロンゴーザ再生プロジェクト(リカオンの再導入はその一つ)の成果を、エビデンスとともに示せるということでしょう。
いったん崩れた生態系を元に戻すのは、おいそれとできるものではなく、時間とコストがかかります。しかしそれにチャレンジする学者がいる。そのことが実感できたドキュメンタリーでした。
2022-09-10 11:58
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