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No.368 - 命のビザが欲しかった理由 [歴史]

No.201「ヴァイオリン弾きとポグロム」に関連する話です。No.201 の記事は、シャガール(1887-1985)の絵画『ヴァイオリン弾き』(1912)を、中野京子さんの解説で紹介したものでした。有名なミュージカルの発想のもとになったこの絵画には、ユダヤ人迫害の記憶が刻み込まれています。シャガールは帝政ロシアのユダヤ人強制居住地区(現、ベラルーシ)に生まれた人です。

絵のキーワードは "ポグロム" でした。ポグロムとは何か。No.201 で書いたことを要約すると次のようになるでしょう。

◆ ポグロムはロシア語で、もともと「破壊」の意味だが、歴史用語としてはユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺を指す。単なるユダヤ人差別ではない。

◆ ポグロムに加わったのは都市下層民や貧農などの経済的弱者で、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝・集会堂)への放火や、店を襲っての金品強奪、暴行、レイプ、果ては惨殺に及んだ。

◆ ポグロムはロシアだけの現象ではない。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト3国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まった。特に19世紀末からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れた。

◆ 嵐が吹き荒れるにつれ、ポグロムに警官や軍人も加わるようになり、政治性を帯びて組織化した。この頂点が、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストである。

杉原千畝.jpg
故・杉浦千畝
(朝日新聞より)
その、ナチスによるホロコーストに関係した有名な話があります。当時のリトアニアの日本領事代理だった杉原千畝ちうねが、ユダヤ人に日本通過ビザ(いわゆる "命のビザ")を発行し、ドイツによるホロコーストから救ったという件です。

この "命のビザ" について、先日の朝日新聞に大変興味深い記事が掲載されました。「ユダヤ難民は誰からのがれたかったのか」を追求した、東京理科大学の菅野かんの教授の研究です。それを以下に紹介します。記事の見出しは、

 杉原千畝「命のビザ」で異説
 ユダヤ人が逃れたかったのはソ連?
  (朝日新聞 2023年11月20日 夕刊)

です。朝日新聞編集委員・永井靖二氏の署名入り記事です。

手書きのビザ.jpg
杉原氏が発給した手書きのビザ。"敦賀上陸" とある。
(朝日新聞より)


難民は何から逃れたかったのか


まず記事の出だしでは、当時の状況と命のビザの経緯が簡潔に書かれています。


リトアニアで第2次世界大戦中、外交官の故・杉原千畝(ちうね)(1900~86)が発給したいわゆる「命のビザ」で、ユダヤ人難民らは何から逃れようとしていたのか。専門家が当時の1次資料を分析したところ、「ナチスの迫害から」とする見方だけではない事情が浮かんできた。

杉原は独立国リトアニアの首都カウナスで日本領事代理を務めていた。40年7~8月、ドイツと旧ソ連による侵攻で母国を失った主にポーランド国籍のユダヤ人難民に、日本の通過ビザを発給したことで知られる。外務省の記録では、杉原がこの時期に発給したビザは計2140件とされる。

朝日新聞 2023年11月20日(夕刊)

東京理科大学の菅野かんの教授は、当時の1次資料のみを読み解き、ユダヤ難民が何から逃れたかったのかを突き止めました。


全体主義恐れる

東京理科大学教授の菅野かんの賢治さん(ユダヤ研究)は、歳月を経て出た回想録などを除き、当時の1次資料のみを考証の対象とした。

現地で難民救援にあたったユダヤ人の非政府組織「アメリカ・ユダヤ合同分配委員会」(JDC、本部ニューヨーク)が所蔵する現地の報告な約3千点の記録を読み解くとともに、当時の地元住民らが書いた日記などを集めた。

その結果、この時期に難民や支援者が抱き、語った危機感は、思想弾資産の没収など、ソビエトの全体主義に対するものだったという。ナチスの迫害への危惧を脱出の動機とした言説は見当たらなかった

ソ連とドイツは1939年8月に不可侵条約を結んでいた。ソ連は40年6月、リトアニアに進駐。8月3日にリトアニアはソ連に併合された。

杉原がビザを発給したのは、この時期だった。同じ頃、ドイツはユダヤ人に隔離や国外追放が主体の施策をとり、ソ連などでも反ユダヤ主義は強かった。そのため、カウナスのヘブライ語教師が「体のみを殺すドイツ人の到来の方が、魂まで殺すロシア人の到来よりも、まだしも好ましい」と、意思表示をしたという記録も残っていた。

独ソ戦が始まったのは41年6月2日。アウシュビッツ収容所で毒ガスが初めて使われたのは同年9月で、杉原のビザ発給から1年以上後だった。

(同上)

あらためて歴史的経緯を時系列にまとめると、次のようになります。

1939年8月 独ソ不可侵条約が締結
1939年9月 ドイツがポーランドに侵攻(=第2次世界大戦が勃発)。ソ連も侵攻し、10月、ポーランドは独ソ両国によって分割された。
1940年6月 ソ連がリトアニアに進駐
1940年7-8月 杉原がリトアニアでユダヤ人に計2140件のビザを発給
1940年8月 ソ連がリトアニアを併合
1941年6月 独ソ戦開戦
1941年9月 アウシュビッツ収容所で毒ガスが初めて使われた

この経緯のポイントは次の3つでしょう。

◆ 杉原氏が命のビザを発給したのは、ソ連がリトアニアに進駐して併合する、まさにその時期にあたる。

◆ 独ソ戦が始まったのは、命のビザより10ヶ月あとである(もちろん独ソ戦が始まった以上、リトアニアにドイツ軍が押し寄せてくることは想定できる)。

◆ アウシュビッツ(ポーランド)で毒ガスによるホロコーストが始まったのは、命のビザより1年後である。

ユダヤ難民がなぜ命のビザを欲しがったのか。それは記事にあるように「ソ連から逃れるため」というのが正解でしょう。もちろん、ドイツの "ユダヤ人狩り" は難民も知っていたはずです。しかし、当時は独ソ不可侵条約が結ばれていて、その一方の当事者であるソ連にリトアニアは占領されていました。当時、ドイツの脅威が直接的にリトアニアに及んだわけではありません。シンプルに考えても、リトアニアのユダヤ難民が恐れたのはドイツではなくソ連だった。

加えてロシア・ソ連では、シャガールの絵に象徴されるように、19世紀以来、ポグロムの嵐が吹き荒れていました。ユダヤ人がリトアニアを占領したソ連から逃れたかったのは当然でしょう。


通説の経緯


しかし日本では「ナチスの迫害から逃れるため」というのが通説になっています。この通説ができた経緯が記事に紹介されています。


評価変わらず

従来の通説とは異なる研究成果だが、菅野さんは「杉原が困窮した難民らにビザを発給した事跡は、変わるものではない」としている。

杉原千畝記念館(岐阜県八百津町)館長の山田和実さんも「様々な苦難のもとで困窮していたユダヤ人難民らに、自らの良心に従ってビザを発給した杉原の行為に対する評価は、変わらないと思う」と話している。

菅野さんは通説ができる過程についても、近著「『命のヴィザ』の考古学」(2023年9月出版)で追った。

日本を通過したユダヤ人難民について、1960年7月1日付の朝日新聞朝刊は「ドイツを追われ日本に来た」としていた。8月7日発行の週刊読売も「ナチスに追われ」たと書いていた。菅野さんはその年の5月、ユダヤ人を強制収容所へ送る実務責任者だっアドルフ・アイヒマンが、アルゼンチンで逮捕されたことと関連があると推測する。

杉原の名前が登場するようになったのは、朝日新聞(88年8月2日付夕刊)や中央公論(71年5月発行)などからだったという。

菅野さんは同書で、47年に外務省を退職した杉原の戦後の発言もたどった。本人がビザ発給の経緯を述べた最古の記録は、69年の覚書。ビザを発給した相手は「ポーランド難民」で、約3500人のうち「およそ500人のユダヤ人がいた、と記憶している」としていた。

88年9月になると、フジテレビのドキュメンタリーで、難民にビザを発給したのは「ナチスにひっ捕まって」「ガスの部屋へ放り込まれる」からだったと語っていたという。(編集委員・永井靖二)

(同上)

記事にある杉原氏の覚え書きによると、ビザを発給したのはポーランド難民で、その一部がユダヤ人ということになります。では「ユダヤ人でないポーランド難民」は何から逃れたかったのかというと、それはソ連からということになります。

しかし日本では当初から、ユダヤ難民は「ナチス・ドイツに追われ」たことになっていました。記事にも、

・ 日本を通過したユダヤ人難民について、1960年7月1日付の朝日新聞朝刊は「ドイツを追われ日本に来た」としていた。8月7日発行の週刊読売も「ナチスに追われ」たと書いていた。

・ 1988年9月、杉原氏はフジテレビのドキュメンタリーで、難民にビザを発給したのは「ナチスにひっ捕まって」「ガスの部屋へ放り込まれる」からだったと語った。

とあります。杉原氏自身でさえ、ユダヤ人難民は「ナチスに捕まってガスの部屋へ放り込まれる」からビザを欲したのだと、1988年に語っているわけです。「ナチスの迫害から逃れるため」という通説ができるのは当然です。もちろん、時間がたつと記憶が曖昧になるのは誰しもあるわけです。

これは、1960年の新聞報道を含め、ナチス・ドイツによるユダヤ人ホロコーストが、如何に世界の人々にショックと強烈な印象を与えたかというあかしだと思います。そして重要な点は、ユダヤ人難民がソ連から逃れたかったにしろ、杉原氏の行為に対する評価は変わらないということです。


複合的な視点で見る必要性


ナチス・ドイツによるユダヤ人ホロコーストという惨劇を知ってしまうと、それに強く影響された視点でものごとを考えがちです。しかし、複合的な視点はどのようなことでも重要です。記事の中で内田たつる氏が発言していました。


国益への配慮も

ユダヤ人問題などが専門の思想家、内田樹さんの話

日露戦争でユダヤ資本家から戦費調達で支援を受けた日本政府は、ユダヤ人に融和的な姿勢を保っていた。杉原千畝には道義心に加え国益への配慮もあったはずだ。リトアニアではソ連への恐怖の方がナチスよりも強かったし、難民らには局面ごとに多様な外力が働いていた。だが、我々は直後に起きたホロコーストという惨劇を知っているため、出来事を一本の線でとらえがちだ。当時の政策への無知もその傾向を助長したと思う。

(同上)

この内田氏の指摘は鋭いと思います。

・ 日本政府はユダヤ人に融和的な姿勢を保っていたから、杉原氏には道義心に加えて、国益への配慮もあったはずだ。

・ リトアニアではソ連への恐怖の方がナチスよりも強かったし、難民らには局面ごとに多様な外力が働いていた。

杉原氏は外交官であり、日本の国益のために働くのが使命です。明治以降の日本政府がユダヤ人に融和的だっというのは、数々の証拠があります。外交官である杉原氏はそれを知っていたのでしょう。その "融和的" な姿勢の発端は、日露戦争におけるユダヤ人資本家からの戦費調達であり、その背景にはロシアにおけるポグロムがある。ユダヤ人資本家は、ロシアと戦おうとする日本を応援したわけです。

杉原氏の「命のビザ」は、ソ連から逃れようとする「ユダヤ人を含む難民」に発給されたものであり、それは人道的配慮と日本の国益への配慮に合致するものであった

という「複合的な視点」が重要でしょう。一面的に歴史をみることはまずいし、「歴史から学ぶ」ことにもならないのです。




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