No.368 - 命のビザが欲しかった理由 [歴史]
No.201「ヴァイオリン弾きとポグロム」に関連する話です。No.201 の記事は、シャガール(1887-1985)の絵画『ヴァイオリン弾き』(1912)を、中野京子さんの解説で紹介したものでした。有名なミュージカルの発想のもとになったこの絵画には、ユダヤ人迫害の記憶が刻み込まれています。シャガールは帝政ロシアのユダヤ人強制居住地区(現、ベラルーシ)に生まれた人です。
絵のキーワードは "ポグロム" でした。ポグロムとは何か。No.201 で書いたことを要約すると次のようになるでしょう。
その、ナチスによるホロコーストに関係した有名な話があります。当時のリトアニアの日本領事代理だった杉原千畝が、ユダヤ人に日本通過ビザ(いわゆる "命のビザ")を発行し、ドイツによるホロコーストから救ったという件です。
この "命のビザ" について、先日の朝日新聞に大変興味深い記事が掲載されました。「ユダヤ難民は誰から逃れたかったのか」を追求した、東京理科大学の菅野教授の研究です。それを以下に紹介します。記事の見出しは、
杉原千畝「命のビザ」で異説
ユダヤ人が逃れたかったのはソ連?
(朝日新聞 2023年11月20日 夕刊)
です。朝日新聞編集委員・永井靖二氏の署名入り記事です。
難民は何から逃れたかったのか
まず記事の出だしでは、当時の状況と命のビザの経緯が簡潔に書かれています。
東京理科大学の菅野教授は、当時の1次資料のみを読み解き、ユダヤ難民が何から逃れたかったのかを突き止めました。
あらためて歴史的経緯を時系列にまとめると、次のようになります。
この経緯のポイントは次の3つでしょう。
ユダヤ難民がなぜ命のビザを欲しがったのか。それは記事にあるように「ソ連から逃れるため」というのが正解でしょう。もちろん、ドイツの "ユダヤ人狩り" は難民も知っていたはずです。しかし、当時は独ソ不可侵条約が結ばれていて、その一方の当事者であるソ連にリトアニアは占領されていました。当時、ドイツの脅威が直接的にリトアニアに及んだわけではありません。シンプルに考えても、リトアニアのユダヤ難民が恐れたのはドイツではなくソ連だった。
加えてロシア・ソ連では、シャガールの絵に象徴されるように、19世紀以来、ポグロムの嵐が吹き荒れていました。ユダヤ人がリトアニアを占領したソ連から逃れたかったのは当然でしょう。
通説の経緯
しかし日本では「ナチスの迫害から逃れるため」というのが通説になっています。この通説ができた経緯が記事に紹介されています。
記事にある杉原氏の覚え書きによると、ビザを発給したのはポーランド難民で、その一部がユダヤ人ということになります。では「ユダヤ人でないポーランド難民」は何から逃れたかったのかというと、それはソ連からということになります。
しかし日本では当初から、ユダヤ難民は「ナチス・ドイツに追われ」たことになっていました。記事にも、
とあります。杉原氏自身でさえ、ユダヤ人難民は「ナチスに捕まってガスの部屋へ放り込まれる」からビザを欲したのだと、1988年に語っているわけです。「ナチスの迫害から逃れるため」という通説ができるのは当然です。もちろん、時間がたつと記憶が曖昧になるのは誰しもあるわけです。
これは、1960年の新聞報道を含め、ナチス・ドイツによるユダヤ人ホロコーストが、如何に世界の人々にショックと強烈な印象を与えたかという証だと思います。そして重要な点は、ユダヤ人難民がソ連から逃れたかったにしろ、杉原氏の行為に対する評価は変わらないということです。
複合的な視点で見る必要性
ナチス・ドイツによるユダヤ人ホロコーストという惨劇を知ってしまうと、それに強く影響された視点でものごとを考えがちです。しかし、複合的な視点はどのようなことでも重要です。記事の中で内田樹氏が発言していました。
この内田氏の指摘は鋭いと思います。
杉原氏は外交官であり、日本の国益のために働くのが使命です。明治以降の日本政府がユダヤ人に融和的だっというのは、数々の証拠があります。外交官である杉原氏はそれを知っていたのでしょう。その "融和的" な姿勢の発端は、日露戦争におけるユダヤ人資本家からの戦費調達であり、その背景にはロシアにおけるポグロムがある。ユダヤ人資本家は、ロシアと戦おうとする日本を応援したわけです。
という「複合的な視点」が重要でしょう。一面的に歴史をみることはまずいし、「歴史から学ぶ」ことにもならないのです。
絵のキーワードは "ポグロム" でした。ポグロムとは何か。No.201 で書いたことを要約すると次のようになるでしょう。
ポグロムはロシア語で、もともと「破壊」の意味だが、歴史用語としてはユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺を指す。単なるユダヤ人差別ではない。 | |
ポグロムに加わったのは都市下層民や貧農などの経済的弱者で、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝・集会堂)への放火や、店を襲っての金品強奪、暴行、レイプ、果ては惨殺に及んだ。 | |
ポグロムはロシアだけの現象ではない。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト3国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まった。特に19世紀末からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れた。 | |
嵐が吹き荒れるにつれ、ポグロムに警官や軍人も加わるようになり、政治性を帯びて組織化した。この頂点が、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストである。 |
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この "命のビザ" について、先日の朝日新聞に大変興味深い記事が掲載されました。「ユダヤ難民は誰から逃れたかったのか」を追求した、東京理科大学の菅野教授の研究です。それを以下に紹介します。記事の見出しは、
杉原千畝「命のビザ」で異説
ユダヤ人が逃れたかったのはソ連?
(朝日新聞 2023年11月20日 夕刊)
です。朝日新聞編集委員・永井靖二氏の署名入り記事です。
杉原氏が発給した手書きのビザ。"敦賀上陸" とある。 |
(朝日新聞より) |
難民は何から逃れたかったのか
まず記事の出だしでは、当時の状況と命のビザの経緯が簡潔に書かれています。
|
東京理科大学の菅野教授は、当時の1次資料のみを読み解き、ユダヤ難民が何から逃れたかったのかを突き止めました。
|
あらためて歴史的経緯を時系列にまとめると、次のようになります。
独ソ不可侵条約が締結 | |
ドイツがポーランドに侵攻(=第2次世界大戦が勃発)。ソ連も侵攻し、10月、ポーランドは独ソ両国によって分割された。 | |
ソ連がリトアニアに進駐 | |
杉原がリトアニアでユダヤ人に計2140件のビザを発給 | |
ソ連がリトアニアを併合 | |
独ソ戦開戦 | |
アウシュビッツ収容所で毒ガスが初めて使われた |
この経緯のポイントは次の3つでしょう。
杉原氏が命のビザを発給したのは、ソ連がリトアニアに進駐して併合する、まさにその時期にあたる。 | |
独ソ戦が始まったのは、命のビザより10ヶ月あとである(もちろん独ソ戦が始まった以上、リトアニアにドイツ軍が押し寄せてくることは想定できる)。 | |
アウシュビッツ(ポーランド)で毒ガスによるホロコーストが始まったのは、命のビザより1年後である。 |
ユダヤ難民がなぜ命のビザを欲しがったのか。それは記事にあるように「ソ連から逃れるため」というのが正解でしょう。もちろん、ドイツの "ユダヤ人狩り" は難民も知っていたはずです。しかし、当時は独ソ不可侵条約が結ばれていて、その一方の当事者であるソ連にリトアニアは占領されていました。当時、ドイツの脅威が直接的にリトアニアに及んだわけではありません。シンプルに考えても、リトアニアのユダヤ難民が恐れたのはドイツではなくソ連だった。
加えてロシア・ソ連では、シャガールの絵に象徴されるように、19世紀以来、ポグロムの嵐が吹き荒れていました。ユダヤ人がリトアニアを占領したソ連から逃れたかったのは当然でしょう。
通説の経緯
しかし日本では「ナチスの迫害から逃れるため」というのが通説になっています。この通説ができた経緯が記事に紹介されています。
|
記事にある杉原氏の覚え書きによると、ビザを発給したのはポーランド難民で、その一部がユダヤ人ということになります。では「ユダヤ人でないポーランド難民」は何から逃れたかったのかというと、それはソ連からということになります。
しかし日本では当初から、ユダヤ難民は「ナチス・ドイツに追われ」たことになっていました。記事にも、
日本を通過したユダヤ人難民について、1960年7月1日付の朝日新聞朝刊は「ドイツを追われ日本に来た」としていた。8月7日発行の週刊読売も「ナチスに追われ」たと書いていた。 | |
1988年9月、杉原氏はフジテレビのドキュメンタリーで、難民にビザを発給したのは「ナチスにひっ捕まって」「ガスの部屋へ放り込まれる」からだったと語った。 |
とあります。杉原氏自身でさえ、ユダヤ人難民は「ナチスに捕まってガスの部屋へ放り込まれる」からビザを欲したのだと、1988年に語っているわけです。「ナチスの迫害から逃れるため」という通説ができるのは当然です。もちろん、時間がたつと記憶が曖昧になるのは誰しもあるわけです。
これは、1960年の新聞報道を含め、ナチス・ドイツによるユダヤ人ホロコーストが、如何に世界の人々にショックと強烈な印象を与えたかという証だと思います。そして重要な点は、ユダヤ人難民がソ連から逃れたかったにしろ、杉原氏の行為に対する評価は変わらないということです。
複合的な視点で見る必要性
ナチス・ドイツによるユダヤ人ホロコーストという惨劇を知ってしまうと、それに強く影響された視点でものごとを考えがちです。しかし、複合的な視点はどのようなことでも重要です。記事の中で内田樹氏が発言していました。
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この内田氏の指摘は鋭いと思います。
日本政府はユダヤ人に融和的な姿勢を保っていたから、杉原氏には道義心に加えて、国益への配慮もあったはずだ。 | |
リトアニアではソ連への恐怖の方がナチスよりも強かったし、難民らには局面ごとに多様な外力が働いていた。 |
杉原氏は外交官であり、日本の国益のために働くのが使命です。明治以降の日本政府がユダヤ人に融和的だっというのは、数々の証拠があります。外交官である杉原氏はそれを知っていたのでしょう。その "融和的" な姿勢の発端は、日露戦争におけるユダヤ人資本家からの戦費調達であり、その背景にはロシアにおけるポグロムがある。ユダヤ人資本家は、ロシアと戦おうとする日本を応援したわけです。
杉原氏の「命のビザ」は、ソ連から逃れようとする「ユダヤ人を含む難民」に発給されたものであり、それは人道的配慮と日本の国益への配慮に合致するものであった
という「複合的な視点」が重要でしょう。一面的に歴史をみることはまずいし、「歴史から学ぶ」ことにもならないのです。
2023-12-09 07:59
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