No.201 - ヴァイオリン弾きとポグロム [アート]
前回の No.200「落穂拾いと共産党宣言」で、ミレーの代表作である『落穂拾い』の解説を中野京子・著「新 怖い絵」(角川書店 2016)から引用しました。『落穂拾い』が "怖い絵" というのは奇異な感じがしますが、作品が発表された当時の上流階級の人々にとっては怖い絵だったという話でした。
その「新 怖い絵」から、もう一つの絵画作品を引用したいと思います。マルク・シャガール(1887-1985)の『ヴァイオリン弾き』(1912)です。描かれた背景を知れば、現代の我々からしてもかなり怖い絵です。
ヴァイオリン弾き
"ヴァイオリン弾き" というモチーフをシャガールは何点か描いていますが、その中でも初期の作品です。このモチーフを一躍有名にしたのは、1960年代に大ヒットしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」でした。シャガールはミュージカルの制作に関与していませんが、宣伝にシャガールの絵が使われたのです。もちろんミュージカルの原作者はロシア系ユダヤ人で、舞台もロシアのユダヤ人コミュニティーでした。
この絵について中野京子さんは「新 怖い絵」で次のように書いています。
この絵には、見逃してはいけない細部のポイントが3つあると思います。一つは中野さんが指摘している点で、「真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっている」姿です。画面の上の方に小さく描かれているので見逃してしまいそうですが、重要な点でしょう。なぜ聖人が逃げているのか。聖人は何から逃げているのか。そもそもなぜ聖人なのか。想像が膨らみます。
二つ目のポイントは、ヴァイオリン弾きの右手と左手の指です。この両手とも通常のヴァイオリニストの指とは逆の方向から弓と指板を持っています。大道芸の曲芸演奏ならともかく、この持ち方でまともな音楽を奏でるのは無理でしょう。中野さんは「哀愁漂い不安を内包した弦の響きに違いない」と書いていますが、それどころではない、もっとひどい音が出るはずです。ヴィブラートなど絶対に無理です。この絵から感じる "音楽" は、音程がはずれた、不協和音まじりの、人間の声で言うと "うめき" のような音です。少なくとも "歌" は感じられない。そういったヴァイオリン弾きの姿です。
三つ目のポイントは、"逃げまどう聖人" よりさらに気がつきにくいものです。画面の右上と左上に数個の足跡が描かれています。足跡の方向からすると、右から左へと誰かが移動した跡であり、しかも左の方の足跡の一つだけ(片方だけ)が赤い。これはどういうことかと言うと、
と推定できるのです。中野さんは「新 怖い絵」でそのことを指摘しています。背景となったのが "ポグロム" です。
ポグロム
誤解のないように書いておきますが、ユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺(= ポグロム)はロシアだけの現象ではありません。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト三国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まりました。特に19世紀後半からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れました。ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストは、ポグロムが「政治性を帯びて組織化」し、頂点に達したものと言えるでしょう。中野さんが書いているのは "ロシアのポグロム" です。
シャガールは、1887年に帝政ロシア(現、ベラルーシ)のユダヤ人強制居住地区に生まれた人です。当時のロシアに居住していたユダヤ人は500万人を越え、これは全世界のユダヤ人の4割を越すといいます。シャガールが生まれたとき、ロシアではポグロムが始まっていました。画才に恵まれたシャガールは、23歳のとき初めてパリに出て4年間滞在しました。その時に描いたのが上の絵です。
絵の歴史的背景
『ヴァイオリン弾き』という絵をみるとき、背景にある歴史を詳しく知らなくても十分に鑑賞が可能です。予備知識というなら、シャガールはユダヤ人で、故郷をイメージして描いたぐらいで十分です。
この絵は一見してファンタジーだと分かります。白と暗色のコラージュのような組み合わせの中に、故郷に関連した、ないしは故郷から連想・夢想するアイテムがちりばめられています。そこで特徴的なのは、
などです。そこから感じるのは「不安定感」「不安感」「ちぐはぐ」「普通の生活ではないものがある感じ」「"懐かしい故郷" とは異質なものが混ざっている感じ」などでしょう。それは画家の故郷に常に潜在していたものだと考えられます。ここまでで絵の鑑賞としては十分です。
しかしここに「ポグロム」という補助線を引いてみると、この絵から受けるすべての印象がその補助線と関係してきて、全体の輪郭がはっきりするというか、新たな輪郭が浮かび上がってきます。赤い足跡も重要な意味を帯びてくる。
そもそもなぜ屋根の上でヴァオリンを弾くのか。それはある伝承からきています。古代ローマ帝国の時代、「ネロがキリスト教徒を虐殺しているとき、阿鼻叫換をよそに唯一人、屋根の上でヴァイオリンを弾くものがいた」(「新 怖い絵」より引用)という伝承です。ヴァイオリンの誕生は16世紀なので作り話だということが明白ですが、シャガールはその伝承をもとに作品化したと言います。この伝承の内容もポグロムとつながります。
ポグロムあくまで補助線であって本質ではありません。絵としての本質は、全体の構図や色使い、個々のアイテムの描写力、この絵を見るときに人が直接的に受ける印象、絵としての "強さ" などにあります。しかし、補助線が別の本質を指し示すこともある。
必ずしもそういった絵の見方をする必要はないのですが、そのような鑑賞もできるし、絵の見方は多様である。そういうことだと思いました。
その「新 怖い絵」から、もう一つの絵画作品を引用したいと思います。マルク・シャガール(1887-1985)の『ヴァイオリン弾き』(1912)です。描かれた背景を知れば、現代の我々からしてもかなり怖い絵です。
ヴァイオリン弾き
マルク・シャガール(1887-1985)
「ヴァイオリン弾き」(1912)
(アムステルダム市立美術館)
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"ヴァイオリン弾き" というモチーフをシャガールは何点か描いていますが、その中でも初期の作品です。このモチーフを一躍有名にしたのは、1960年代に大ヒットしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」でした。シャガールはミュージカルの制作に関与していませんが、宣伝にシャガールの絵が使われたのです。もちろんミュージカルの原作者はロシア系ユダヤ人で、舞台もロシアのユダヤ人コミュニティーでした。
この絵について中野京子さんは「新 怖い絵」で次のように書いています。
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この絵には、見逃してはいけない細部のポイントが3つあると思います。一つは中野さんが指摘している点で、「真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっている」姿です。画面の上の方に小さく描かれているので見逃してしまいそうですが、重要な点でしょう。なぜ聖人が逃げているのか。聖人は何から逃げているのか。そもそもなぜ聖人なのか。想像が膨らみます。
二つ目のポイントは、ヴァイオリン弾きの右手と左手の指です。この両手とも通常のヴァイオリニストの指とは逆の方向から弓と指板を持っています。大道芸の曲芸演奏ならともかく、この持ち方でまともな音楽を奏でるのは無理でしょう。中野さんは「哀愁漂い不安を内包した弦の響きに違いない」と書いていますが、それどころではない、もっとひどい音が出るはずです。ヴィブラートなど絶対に無理です。この絵から感じる "音楽" は、音程がはずれた、不協和音まじりの、人間の声で言うと "うめき" のような音です。少なくとも "歌" は感じられない。そういったヴァイオリン弾きの姿です。
三つ目のポイントは、"逃げまどう聖人" よりさらに気がつきにくいものです。画面の右上と左上に数個の足跡が描かれています。足跡の方向からすると、右から左へと誰かが移動した跡であり、しかも左の方の足跡の一つだけ(片方だけ)が赤い。これはどういうことかと言うと、
誰かが右手からユダヤ人の住居に押し入り、そこで鮮血が床に流れるような行為をし、その鮮血を片足で踏んで家から出て、左の方向に去った |
と推定できるのです。中野さんは「新 怖い絵」でそのことを指摘しています。背景となったのが "ポグロム" です。
ポグロム
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誤解のないように書いておきますが、ユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺(= ポグロム)はロシアだけの現象ではありません。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト三国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まりました。特に19世紀後半からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れました。ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストは、ポグロムが「政治性を帯びて組織化」し、頂点に達したものと言えるでしょう。中野さんが書いているのは "ロシアのポグロム" です。
シャガールは、1887年に帝政ロシア(現、ベラルーシ)のユダヤ人強制居住地区に生まれた人です。当時のロシアに居住していたユダヤ人は500万人を越え、これは全世界のユダヤ人の4割を越すといいます。シャガールが生まれたとき、ロシアではポグロムが始まっていました。画才に恵まれたシャガールは、23歳のとき初めてパリに出て4年間滞在しました。その時に描いたのが上の絵です。
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絵の歴史的背景
『ヴァイオリン弾き』という絵をみるとき、背景にある歴史を詳しく知らなくても十分に鑑賞が可能です。予備知識というなら、シャガールはユダヤ人で、故郷をイメージして描いたぐらいで十分です。
この絵は一見してファンタジーだと分かります。白と暗色のコラージュのような組み合わせの中に、故郷に関連した、ないしは故郷から連想・夢想するアイテムがちりばめられています。そこで特徴的なのは、
・ | 片足を屋根に乗せてヴァイオリンを弾くという、まったく釣り合いのとれない感じ | ||
・ | まともな音が出せそうにない、ヴァイオリン弾きの指の使い方 | ||
・ | 巨人として描かれたヴァイオリン弾きを不可解そうに見上げる3人の人物 | ||
・ | 何かから逃げているような聖人の姿 |
などです。そこから感じるのは「不安定感」「不安感」「ちぐはぐ」「普通の生活ではないものがある感じ」「"懐かしい故郷" とは異質なものが混ざっている感じ」などでしょう。それは画家の故郷に常に潜在していたものだと考えられます。ここまでで絵の鑑賞としては十分です。
しかしここに「ポグロム」という補助線を引いてみると、この絵から受けるすべての印象がその補助線と関係してきて、全体の輪郭がはっきりするというか、新たな輪郭が浮かび上がってきます。赤い足跡も重要な意味を帯びてくる。
そもそもなぜ屋根の上でヴァオリンを弾くのか。それはある伝承からきています。古代ローマ帝国の時代、「ネロがキリスト教徒を虐殺しているとき、阿鼻叫換をよそに唯一人、屋根の上でヴァイオリンを弾くものがいた」(「新 怖い絵」より引用)という伝承です。ヴァイオリンの誕生は16世紀なので作り話だということが明白ですが、シャガールはその伝承をもとに作品化したと言います。この伝承の内容もポグロムとつながります。
ポグロムあくまで補助線であって本質ではありません。絵としての本質は、全体の構図や色使い、個々のアイテムの描写力、この絵を見るときに人が直接的に受ける印象、絵としての "強さ" などにあります。しかし、補助線が別の本質を指し示すこともある。
必ずしもそういった絵の見方をする必要はないのですが、そのような鑑賞もできるし、絵の見方は多様である。そういうことだと思いました。
2017-03-17 20:14
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