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No.337 - がんは裏切る細胞である [科学]

前回の No.336「ヒトはなぜ "がん" になるのか」は、英国のサイエンスライター、キャット・アーニー著の同名の本を紹介したものでした。内容は、がんを「体内で起きる細胞の進化」ととらえ、その視点で新たな治療戦略の必要性を説いたものでした。

今回は引き続き同じテーマの本を紹介します。アシーナ・アクティピス著「がんは裏切る細胞である ─ 進化生物学から治療戦略へ ─」(梶山あゆみ・訳。みすず書房 2021。以下 "本書")です(原題は "The Cheating Cell")。

前回の本と本書は、2021年の出版です。つまり「進化生物学の視点でがんの生態を研究し治療戦略をつくる」という同じテーマの本が、同じ年に2冊刊行されたことになります。ただし、今回の著者は現役のがん研究者で、そこが違います。

著者のアシーナ・アクティピス(Athena Aktipis)は米国のアリゾナ州立大学助教で、同大学の "進化・医学センター" に所属しています。またカリフォルニア大学サンフランシスコ校の進化・がん研究センターの設立者の一人です。進化生物学の観点からがんを研究する中心の一人といってよいでしょう。従って、自身や仲間の研究も盛り込まれ、また、がんの生態に関する詳細な記述もあります。専門的な内容も含みますが、あくまで一般読者を対象にした本です。専門性と一般性がうまくミックスされた好著だと思いました。

以下、本書の内容の "さわり" を紹介します。以降の本書からの引用は、原則として漢数字を算用数字に直し、段落を追加したところがあります。また、下線や太字は引用をする上でつけたもので原文にはありません。


がんと進化:2つの視点


本書の最初の4つの章は、

・ 第1章 はじめに
・ 第2章 がんはなぜ進化するのか
・ 第3章 細胞同士の協力を裏切る
・ 第4章 がんは胎内から墓場まで

と題されています。この4つの章の内容をごく短く要約すると、

・ がんは、多細胞生物の体内で起こる細胞レベルの進化である。
・ 一方、生物のレベルでは、がんを抑制するしくみが進化してきた。
・ "がんの進化" とそれを "抑制するしくみ" の2つは、胎内から墓場までのあいだ、体の中で攻めぎ合っている。

となるでしょう。まず、ここまでの内容を本書からの引用を含めて紹介します。



がんを「進化のプロセス」としてとらえるとき、その "進化" には2つの視点があります。一つは「体細胞の進化 = がん」です。2つ目は、体細胞が「生物」を構成している、その「生物の進化」です。がんを考えるとき、この2つの視点で見ることが重要です。


がんという存在は、進化に関してふたつの異なる切り口から捉えることができる。まずひとつは、私たちの体の細胞のあいだでは進化が起きており(これは「体細胞進化」と呼ばれることが多い)、それががんにつながるということである。生存と繁殖に関する有利不利は細胞によって度合いが異なり、たとえば増殖するスピードや、生きる長さなどに違いがある。結局、より速く増殖してより長く生きる細胞が次世代で数を増やしていき、最終的に集団内で大多数を占める。これが自然選択であり、自然界で生物進化の原動力となってきたプロセスと何ら変わるところはない。

進化論の視点からは、なぜがんが今なお地球上に生き残っているのかも理解できる。生物は長く生きて多くの子を残すために、気の遠くなるような時間をかけてがんを抑制する(つまり体細胞進化を抑える)方法を発達させてきた。そういう仕組みがあるからこそ、そもそも多細胞生物として生存することができている。ただし、このがん抑制メカニズムは完璧ではない。進化の見地からいって、がん化のおそれのある細胞を100パーセント制御するのは不可能だからである。

なぜ生物はがんを完全に抑え込む進化をしてこなかったのか。その理由は多岐にわたり、いずれもそれ自体として興味深いものばかりである。ひとつは、子孫を残すうえで有利になる別の形質とトレードオフ(何かの利益を得ると別の何かが犠牲になるような相容れない関係)になっていること。たとえば繁殖力などがそうした形質のひとつだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.11

がんという "体細胞進化" は、ヒトを含む生物の一生のうちに起こるものですが、がんを押さえ込むしくみは生命の長い歴史の中で "進化" してきたものです。2つの時間軸は全く違います。この違いを理解しておく必要があります。


がんの進化を理解しにくい理由のひとつは、自然選択がふたつのレベルで進行していて、それぞれの起きる空間と時間軸が異なるためである。

ひとつは体内の細胞のレベルであり、生物の一生という比較的短い時間で自然選択が生じる。もうひとつは自然界の生物のレベルであり、非常に長い時間をかけて自然選択が進む。がん細胞は体内で進化する。その一方で、がんを抑制する能力の高い体(つまり細胞の裏切りをうまく見つけて排除できるメカニズムをもつ体)のほうが、生存率が高いうえに子孫を多く残すという事実もある。

同じ生物でも、細胞と体という複数の(マルチの)レベルで自然選択が働いているわけだ。これを「マルチレベル選択」という(古典的な「群選択説」を現代的に改良した考え方)。がんの不可解な側面を理解するには、マルチレベル選択の視点に立つことが欠かせない。

「がんは裏切る細胞である」
p.51

がんを「体細胞の進化」ととらえるとき、その進化は生物を死に至らせる(ことがある)わけです。このような状況を「進化」と呼んでよいのでしょうか。著者は、それも進化のうちだと、「進化的自殺」という言葉を使って次のように述べています。


とはいえ、私たちが死んだらがんの進化はどうなるのだろう。がんが最終的に自らの宿主の命を奪うのなら、それを本当に「進化」と呼んでいいのだろうか。行く先に身の破滅が待っているのなら、その生物は進化したといえるのか。もちろん答えはイエスである。恐竜が結局は絶滅したからといって、「進化しなかった」などといい張る者はいない。何かの生物が進化の袋小路にはまり込んだとしても、それまでの進化がなかったことになるわけではない。

進化の果てに滅びる生物がいるように、がん細胞の集団も体内で進化したあげくに進化の袋小路に入り込む。こうした現象全般を進化生物学では「進化的自殺」と呼ぶ。進化的自殺が起きるのは、生物の集団が進化によって獲得した何らかの形質が、最終的に種全体を絶滅へと向かわせるときだ。たとえば、資源を消費する能力が高くなりすぎて、未来の世代に何も残さないケース。あるいは、求愛のための性的装飾が凝ったものになりすぎて、集団全体が悲惨なほど捕食されやすくなる、などがそれにあたる。

「がんは裏切る細胞である」
p.21

"進化" は "変化" であって、"良くなる" ことではありません。進化の袋小路に入り込んで、結果として環境変化についていけずに絶滅するようなことも起きる。これも進化です。


多細胞ルールブック


がんとは何かを知るためには、多細胞生物の "細胞レベルでの基本的な振る舞い" を理解する必要があります。多細胞生物は、膨大な数の細胞同士が、ルールにのっとって協力することで成り立っています。このルールを著者は「多細胞ルールブック」と表現しています。そのルールブックに記されている重要点は、次の5つです。


1.無秩序に分裂してはならない

1個のまとまりある多細胞の体として発達し、適切に機能するためには、細胞は勝手な増殖や分裂を抑えなければならない。このルールがなければ、多細胞生物としての構造や機能は損なわれ、際限なく大きくなり続けてしまう。

2.集団への脅威となったら自らを破壊せよ

細胞は、多細胞の体の生存能力を脅かす場合がある。細胞が遺伝子変異を起こして無秩序に分裂するというのが、そうした例のひとつである。あるいは、たとえば胎児の手指・足指のあいだにある水かきの細胞も、そのまま残っていたら正常な発達の妨げになる。アポトーシスというかたちで自死するメカニズムがあるからこそ、邪魔者の細胞がひそかに自らを消し去ることができる。

3.資源を共有し、輸送せよ

多細胞生物の体が二、三ミリより大きくなると、拡散(濃度の高いほうから低いほうへ物質が移動すること)だけでは酸素や栄養素が内側の細胞にまで行き渡らない。資源を能動的に輸送するための何らかの仕組みが必要になる。たとえば、私たちの消化器系と循環器系は複雑な資源輸送システムである。これがあるおかげで体内の細胞は栄養を手に入れ、生き続けるのに必要なすべての仕事をこなすことができる。

4.与えられた仕事をせよ

多細胞間の協力体制を支える柱のひとつが分業である。体内の細胞は数百種類に及び、それぞれが異なる仕事をしている。肝細胞は血液を解毒し、心臓の細胞は血液を送り出し、神経細胞は電気信号を伝達する。細胞が仕事をやめたり、仕事を正しくこなせなくなったりすると、多細胞の体にとっての脅威となり得る。間違ったときに間違った遺伝子を発現させ、広範な調節システムを大混乱に陥れかねず、そうなると多細胞の体はうまく機能することができない。

5.環境の世話をせよ

私たちの体はそれ自体が一個の世界だ。細胞は組織構造をつくってその中で暮らし、老廃物を蓄積させないように集めて除去するシステムをもっている。細胞は発達の過程で、そうした内なる世界を築いていき、私たちが生きているあいだじゅうそれを維持しながら、構造を保持して老廃物を取り除き続けている。組織構造があるおかげで、細胞は(周囲の組織に侵入することなく)本来の場所にとどまりやすくなっている。また、それによって個々の細胞は遺伝子発現の状態をあるべき姿に保ち、正しいタンパク質を製造して適切に自らの仕事を実行することができている。

「がんは裏切る細胞である」
p.47 - p.48

この "多細胞ルール" のどれか、あるいは全部を破る細胞が、がん細胞です。その発端は遺伝子の変異です。一般的に遺伝子が変異した細胞は死滅することが多く、また生存・死滅にかかわらない中立的な変異も多い。しかし(たまたま)多細胞ルールを破る細胞が現れ、それがその時の体内環境によって「選択」されることが起こります。


多細胞ルールブックの根底にある遺伝子のメカニズムは、ときに壊れることがある。原因は、DNAの塩基配列が変異したり、エピジェネティクスの変化(遺伝子発現の異常など)が生じたりするためであり、それによって細胞が異常をきたし、多細胞としての約束事に従わなくなる。すると、協力のルールをきちんと守っている細胞をいいように利用し、生存と繁殖において自分だけが得をする場合がある。

ひとつ指摘しておくが、普通であればそういうことはめったに起こらない。異常のせいで細胞の生存能力は低下するうえ、仮に何らかの利益が生まれる(増殖速度が上がるなど)にしても、その異常性が標的にされて破壊されるケースが多い。体には、がん化のおそれのある細胞を見つけ出して取り除くメカニズムが備わっている。このメカニズムのおかげで、変異した細胞が利益を得るおそれがあっても排除されるのが普通だ。にもかかわらず、変異した細胞のほうが正常な細胞よりも生き残るうえで有利になることがある。

「がんは裏切る細胞である」
p.48 - p.49

ここで述べられているように、多細胞ルールブックに反する遺伝子変異が、その細胞の生き残りと増殖にとって有利になる場合があります。たとえば、増殖の抑制が利かない、アポトーシス(=細胞の自死)が起きない、代謝異常のため資源を浪費する、といった変異です。またがんを抑制する遺伝子の変異もルール破りにつながる。

生物の集団全体でみると、多細胞ルールブックどおりに行動する《協力者細胞》の多い生物の方が、より長く生きて多くの子孫を残します。しかし局所的に見ると、自然選択が《裏切り者細胞》に有利に働くことがあるのです。


がん抑制のメカニズム


「進化」を「体細胞進化」と「生物進化」の2つのマルチレベルでとらえると、「生物進化」のレベルにおいて、生物は「がん抑制のメカニズム」を発達させてきました。著者はそれを「細胞の良心」「ご近所の目」「体内の警察隊」の3つのカテゴリーで説明しています。

 細胞の良心 

まず細胞内には、自身のがん化の兆候を認識し、しかるべき対応をとるように伝達する遺伝子の情報ネットワークが存在します。その代表が、TP53 という遺伝子(=がん抑制遺伝子)を中心とするネットワークです。


TP53などのがん抑制遺伝子と、そこに情報を送り込む情報ネットワークは、DNAの損傷や異常なタンパク質を発見するためにつくられている。また、細胞が何らかのかたちで正常な状態を逸脱し、もはや多細胞の体全体の適応度を高める役に立っていない場合も、そのことを示すシグナルを検出する。細胞内の情報が織り成す広大なネットワークにおいて、TP53は中心的な中継点ともいうべき存在であり、細胞版の中央情報局よろしく細胞の動向に目を光らせている(下図参照)。

さらには、細胞内と周辺から来るありとあらゆるシグナルをまとめ上げ、個々の細胞の運命がどうあるべきかを「決定」する。このことから、がん研究者はTP53を「ゲノムの守護者」と呼んできた。でも私は「ゲノムの《裏切り者》発見器」として捉えたい。TP53遺伝子は活性化されると、細胞の複製を止め、ただちにDNAの修復を開始させる。そして、細胞の損傷が大きすぎる場合は、アポトーシス(プログラム細胞死)のプロセスを始動させる。

「がんは裏切る細胞である」
p.56

TP53を中心とした情報ネットワーク.jpg
TP53 の遺伝子ネットワーク

がん抑制遺伝子TP53は遺伝子ネットワークの中心的な中継点であり、特定の細胞が生物の生存能力を脅かすかどうかを「判断」している。p53タンパク質を製造することにより、細胞機能の様々な側面から情報を集め、細胞の裏切り(代謝の異常,ゲノムの不安定化、不適切な移動など)の徴候が確認されたら細胞周期を停止したり、DNAを修復したり、必要であればアポトーシス(細胞の自死)を誘導したりもする。本書 p.57 の図3-3 より引用。

 ご近所の目 

次は近接した細胞同士が互いに監視しあい、周囲の細胞とは違う異常行動をする細胞を排除する仕組みです。


住民が近隣の様子に目を光らせるように、細胞も隣接する細胞のふるまいを監視している。この監視があるおかげで、細胞は自分たちの「地区」の只中で脅威が発生するのを防ぎ、周囲の細胞が多細胞の体の中で適切にふるまえるようにしている。具体的には、隣接細胞の遺伝子の発現状況を感知して、異常の起きた形跡がないかを確認しているのであり、そうした異常のひとつが細胞の裏切りである。

通常、細胞は周囲から発せられるシグナルに対してきわめて敏感だ。ニューヨークのスローン・ケタリング記念がんセンターのセンター長クレイグ・トンプソンは、この極端なまでの敏感さを次のようにたとえた ── あなたの体内の細胞という細胞が毎朝目覚めるたびに自殺を考えるが、周囲にうるさく説得されて思いとどまっているようなものだ、と。

実際、隣接する細胞間ではまさしくこれに似たようなことが起きていて、細胞同士は「生存せよ」というシグナルを絶えず交わし合っている。しかし、近くのいずれかの細胞から「気に食わない」とされたら、自死のプロセスを開始することができる。どこかの細胞が隣の細胞の急速な増殖に「気づいた」ら、その細胞は隣に向けて「生存せよ」の信号を送るのをやめたり、自死を促すシグナルを発したりする場合もある。こうした周辺監視システムも、がん細胞予備軍から全身を守る一助となっている。

「がんは裏切る細胞である」
p.58 - p.59

 体内の警察隊 

そして最後は免疫システムです。免疫はがん特有の抗原を感知し、その抗原を発現しているがん細胞を排除することができます。


細胞内部や近隣の監視メカニズムでは細胞の裏切りを抑え込めない場合、体には頼るべきもうひとつの防衛線がある。免疫系だ。免疫細胞は体内を巡回しながら全身のあらゆる領域に絶えず目を配り、異常な遺伝子発現がないかどうかを探している。それにより、細胞が正しくふるまっていないことを示す徴候(過剰増殖、過剰消費、不適切な細胞生存など)を間接的に監視している。

免疫細胞が具体的に標的にするのは「腫瘍抗原」である。腫瘍抗原とは、がん細胞が遺伝子を発現したときに生じるタンパク質のことだ。これが存在すると、細胞が不適切なふるまいをしている可能性があることに免疫細胞が「気づく」。腫瘍抗原タンパク質は、正常な細胞周期(細胞増殖においてDNA複製と細胞分裂が繰り返される周期)が乱されたり、隣接する細胞との結合が断たれたり、細胞のストレス応答が起きたりしているときにも分泌される。

免疫系は、あらゆる組織系、あらゆる器官系での細胞のふるまいに関する情報を集め、何らかの不具合を示すしるし(この腫瘍抗原の存在など)を見つけたら、その場所に免疫細胞を動員する。多細胞の体に害をなすものは何であれ、免疫細胞の捜索・破壊ミッションの対象となる。がん細胞も例外ではない。がん細胞を発見したらそれを排除する能力が免疫系にはあり、そうすることで体をがんの脅威から守っている。

「がんは裏切る細胞である」
p.59 - p.60


トレードオフ


以上のような「がん抑制メカニズム」があるにもかかわらず、なぜ、がんが発生するのでしょうか。生物レベルの進化の過程で「がんは完全に抑制できる」ようにならなかったのでしょうか。

その理由は、ヒトの(生物の)胎内から墓場まで、数々の場面で細胞が "がんのように振る舞う" 必要があるからです。つまり「がん抑制メカニズムを強くしすぎると、正常に生きていくことに支障をきたす」という "トレードオフ" の関係があるのです。


TP53遺伝子のようながん抑制メカニズムを通して、細胞の自由を抑え込む力を今より強めたらどうなるだろうか。《裏切り者》を有利にする進化のプロセスを遅らせたり、場合によっては完全に停止させたりすることも不可能ではない。

しかし、コントロールが強すぎると、私たちの健康や生存能力が損なわれるおそれがある。なぜかといえば、健康に生きることを助けてくれる重要な仕組みの多くは、細胞が「がんのように」ふるまうことを求めるからだ。急速に数を増やし、体内を動き回り、組織の中に入り込むといったふるまいがそれにあたる。

たとえばどこかに切り傷ができたとしよう。傷を治すには細胞が増殖し、移動して傷をふさがなくてはいけない。細胞のふるまいを制限しすぎたら、切り傷は治癒しなくなる。それだけではない。あとで見るように生殖能力が低下し、加齢とに組織を再生するのが不可能になるうえに、感染症にかかりやすくなるという結果にもつながる。

細胞をコントロールしすぎると不利益が生じることは、すでに胚の発達過程からはっきりと見てとれる。そもそも胚が無事に生育していけるかどうかは、細胞の増殖と移動にかかっている。そのため胎内では、細胞が無秩序に複製しないように抑制する必要がある一方で、適切な発達のためには細胞に相応の自由を与えて動き回れるようにしてやらないといけない。こうした綱渡りを考えると、たったひとりでも生きて子宮を出られることが奇跡に思えてくる。

「がんは裏切る細胞である」
p.72 - p.73

細胞が急激に増殖したり、細胞が移動したりするといった振る舞いは、胚の発達過程からはじまって生体の傷の修復まで、数々のシチュエーションで必要になります。しかしこのような振る舞いは、まさにがん細胞が得意とするものなのです。


皮膚の表面に切り傷ができた場合、傷をふさいで組織を再建するために、周囲の細胞は増殖して新しい細胞をつくることを求められる。この新しい細胞には移動する能力も必要だ。運動性細胞の最先端となり、接着し合って傷口を閉じるのである。傷を短時間で治すことができれば、正常な機能へ迅速に復することができるし、傷が細菌などに感染するリスクも下げられるので、生物にとっては利益が大きい。そのため、私たちは進化を通じて傷を速やかに治癒させられるようになった。

だが、これには代償が伴う。体が「傷を閉じろ」というシグナルを発したら、細胞はそれに呼応してすぐに増殖・移動しなくてはならないからである。増殖して移動するというのは、がん細胞が成長して体内の新しい場所にコロニーをつくるときに用いる能力と変わらない

しかもがん細胞は実際に傷が生じたわけでもないないのに、傷の治癒を促す「偽の」シグナル(炎症反応を亢進させる因子など)をつくり出す。こうなると、多細胞が正常にふるまうためのチェック機能やバランス機能の裏をかけるようになる。がんが「癒えない傷」と称されることもあるのはこのためだ。

このように、傷を治すために体がもともともっているメカニズムを、がん細胞は自分勝手な目的に悪用する場合がある。傷の治癒をもたらすシグナル伝達システムがある種のがんに利用されると、組織は絶えず炎症が持続した状態になる。

「がんは裏切る細胞である」
p.94 - p.95

がん抑制遺伝子であるTP53が過敏だと細胞の早期老化につながったり、炎症が過度に引き起こされることが分かっています。つまり、細胞を自由にさせ過ぎるとがんのリスクが高まるが、逆に細胞の自由度を抑制し過ぎれば、成長が止まったり生殖に失敗する恐れが出てくるのです。本書の第4章、「がんは胎内から墓場まで」では、こういった "トレードオフ" の例が詳細に語られています。



本書の第5章は「がんはあらゆる多細胞生物に」と題されていて、植物を含む多細胞生物全般に "がん類似の" 異常増殖が見られることが説明されています。

さらに第6章「がん細胞の知られざる生活」では、がんが体内でどのように進化し、生息し、転移するのかが、研究者の立場から詳細に述べられています。


がんをいかにコントロールするか


第7章(最終章)は「がんをいかにコントロールするか」と題されていて、今後のがん治療に必要な視点が述べられています。

「がん = 進化しつつある体内微小環境」であり、がん組織は治療(抗がん剤、放射線など)への抵抗性があるように進化します。治療により一時的に多くのがん細胞が死滅したとしても、そのあとに残った抵抗性のあるがん細胞が一挙に増大して、結果として手が着けられなくなることが多々あります。

がんは「本質的に体の一部」です。従ってそれを「攻撃する」とか「根絶やしにする」といった考え方はまずいのです。


がんに関しては、戦争で使うような言い回しがよく用いられる。たとえば患者はがんと「闘い」、「勝つ」か「負ける」かする。確かに戦争の比喩には大きな影響力と強い説得力があるので、がん研究に対する支援を取りつけるうえでも、人類を共通の目標に向けて団結させるうえでも効果はあるかもしれない。

その反面、誤解を招く表現だともいえる。本質的に自らの一部であるものを、完全に根絶やしにすることなどできない。そういう攻撃的なアプローチが名案に思えるのは、私たちが「滅ぼすべき敵」としてがんを捉えているからである。

だが実態はどうかといえば、多様な細胞からなる集団が、私たちから浴びせられるあらゆる治療法に呼応して進化している。それががんの本当の姿にほかならない。そういう見方をしない限り、私たちはひとつのリスクを冒すことになる。実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがあるのだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.13

「実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがある」と著者が書いているのは、「攻撃性の低い治療法の方が、結果として患者を延命させる効果が高い、ないしは治癒させる確率が高い」ことが十分に考えられるからです。医学界には「攻撃性が弱い」という理由で使われなくなった抗がん剤がいろいろありそうです。

では「がん = 進化しつつある体内微小環境」という視点にたつと、どのような治療方法が考えられるのでしょうか。そのヒントは「総合的病害虫管理」にあります。病害虫が農薬に対する耐性をつけることは常識化していますが、そのことを前提にしたのが総合的病害虫管理です。


総合的病害虫管理(IPM)は、化学農薬への抵抗性を農業病害虫に獲得させないことを目的とし、長期的な視点で病害虫を管理する手段のひとつだ。病害虫管理を効果的に行ううえでは、鍵となる考え方がある。化学農薬への抵抗性を得るために生物はコストをかけている、ということである。このため、化学農薬が存在しなければ、じつはそうした抵抗性をもつ生物のほうが不利になる

したがってIPMの取る第一の戦略は、何もしないことである。つまり、病害虫による損害が危険な閾値に達したときにのみ手を打てばいい。次なる戦略は病害虫の数を減らすこと。化学的な処置を用いてその数を閾値以下に戻し、病害虫による被害がそれほどひどくない状態にする。

IPMでは、病害虫の集団内にすでに抵抗性が存在しているという前提に立つ。そういう状況で一度に多すぎる量の農薬を使ったり、農薬を頻繁に散布しすぎたりしたらどうなるか。その処置への感受性のある病害虫はすべて駆除できても、それに抵抗力をもつものだけが残り、結果的に病害虫を長期的にコントロールするのは不可能になる。IPMはいずれこうした状況が生じ得るのを予期し、比較的低用量の農薬を使用する。それは、処置への感受性をもつ病害虫を根絶やしにするのではなく、長期的な個体数管理ができるようにするためである。

「がんは裏切る細胞である」
p.215 - p.216

ポイントは引用の最後にある「病害虫を根絶やしにするのではなく、長期的な個体数管理ができるようにする」というところです。この考え方をがん治療に応用できないか。

それを始めたのが、米国の腫瘍学者、ロバート・ゲイトンビーです。彼の治療は「適応療法」と呼ばれています。


IPMの論理にヒントを得てがんの新療法を開発したのが、フロリダ州タンパにあるモフィットがんセンターの放射線腫瘍学者ロバート・ゲイトンビーである。抵抗性を進化させないために病害虫を放っておくというIPMの戦略を知ったとき、その種のやり方をがん治療にも応用できないかとゲイトンビーは考えた。そして2008年、このアイデアをさらに深めるための一歩を踏み出した。私費を投じて、初めての前臨床研究をアリゾナ大学(当時そこで放射線学科の学科長を務めていた)で実施したのである。以来、病害虫管理の考え方をがん治療に用いる研究を続けている(現在は米国国立がん研究所をはじめとする様々な組織から助成金を得ている)。

農薬の場合がそうだったように、がん治療における最大の問題はがんが抵抗性を獲得してしまうことである。治療の最中にがん細胞が進化して治療への感受性を失い、治療が効かなくなる。化学療法に対して抵抗性が生じる問題は、これまでに試されたすべての抗がん剤で確認されている。たとえば、上皮成長因子受容体(EGFR)阻害剤や、ヒト上皮細胞増殖因子受容体2(HER-2)を標的にした療法などもそうだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.216 - p.217

本書ではゲイトンビーの「適応療法」のやり方が詳細に述べられています。


ゲイトンビーと同僚の開発した新たながん治療法は革命的なものであり、その狙いは腫瘍の一掃ではなく長期にわたる腫瘍のコントロールである。IPMの場合と同様にこの治療去が目旨すのは、腫瘍負荷(患者の体内にある腫瘍組織の総量)を限度以下に抑えつつも、治療に対するがん細胞の感受性を維持することにある。そうすれば同じ薬剤をいつまでも使い続けることができるうえに、環境(つまりこの場合は患者の体)へのダメージを拡大させることもない。

ゲイトンビーの手法は「適応療法」と呼ばれる。これは、腫瘍の状況に合わせて治療法自体を適応させる(変化させる)という意味から命名された。適応療法では、画像技術や血液検査によって腫瘍の状態を綿密にモニターする。腫瘍が成長しているのかいないのかがわかったら、その情報をもとに抗がん剤の用量を定める。どのように定めるかには何通りかのアルゴリズムがあるが、大原則は、腫瘍を安定した状態に保つとともに、患者へのダメージが大きくなりすぎないような腫瘍サイズを維持することである。管理する対象が腫瘍というだけで、本質的にはIPMと変わらない。

具体的な用量の決め方は研究によっていくらか異なるとはいえ、適応療法というプロセス自体の目指すところはひとつだ。つまり、腫瘍を安定させ、支配下に置くことである。まず最初に、腫瘍を小さくするために比較的高用量の抗がん剤を投与する(これによってがん性細胞集団の細胞数を減らすことで、その後の腫瘍内での進化のペースを遅らせる狙いがある)。

次に、腫瘍を定期的にモニターしながら、そのふるまいに応じた抗がん剤治療を行う。腫瘍のサイズに変化がなければ用量も変えない。腫瘍が成長したら用量を増やし(ただし最大耐量を超えないようにする)、大きくならなければ用量を減らす。腫瘍のサイズが所定の下限値を下回ったら、再びその一線を超えるまで投薬は停止する。あるいは、同じ用量を維持しながらも、腫瘍が当初の半分のサイズになったら投薬を中断するというやり方もある。

適応療法は、がんに対するこれまでの考え方を180度転換するものだ。破壊しようとするのではなく腫瘍が存在するのを許し、代わりにもっと手に負えるものに変える。これによりがんは急性の致死的な病から、扱いやすい慢性の病気へと変貌する。

投薬をしなかったり、低用量の投薬しか行わなかったりすれば、腫瘍内の細胞は薬剤への感受性を失わないので攻撃性が低下する。結果的に、同じ薬剤を使って治療を続けることができる。しかも、腫瘍が成長しつつあるときにしか治療の強度を上げないため、短期間で分裂する細胞が進化のうえで有利になることがない。むしろ、もっと時間をかけて増殖する細胞が選択されると考えられる。また、腫瘍内の細胞が進化する速度を遅くできる可能性も開ける。

もちろん、高用量の治療で完治させられることが明白なら(たとえば遺伝的に均一な細胞で構成されていて早期に発見された腫瘍などの場合)、適応療法が最善の選択肢とはいえないかもしれない。しかし、従来型の療法ではコントロールの難しい進行がんの場合には、適応療法が高用量療法に代わるものを与えてくれる。実際、のちに見ていくように、適応療法は後期のがんのコントロールに成果をあげてきた。

「がんは裏切る細胞である」
p.217 - p.218

引用の最後のパラグラフにあるように、「遺伝的に均一な細胞で構成されている早期に発見された腫瘍」の場合は、高用量の抗がん剤で完治できる可能性があるわけです。適用療法はあくまで腫瘍組織の精密な検査とセットで行うものです。

ゲイトンビーは数々の動物実験をしたあと、2016年に患者に対する臨床試験を始めました。


ゲイトンビーは2016年、同僚でがん専門医のジンソン・チャンと手を携え、適応療法をヒトに用いる初の臨床試験を実施した。試験に参加したのは転移性前立腺がんの患者11名であり、いずれももはやホルモン療法に反応しないことが予備試験で確認されていた。

通常、前立腺がん細胞は増殖のためにテストステロンを必要とするため、テストステロンの分泌を抑制するホルモン療法を行ってがん細胞が広がるのを防ぐ。ところが、前立腺がん細胞は往々にして自らテストステロンを産生することで、「去勢抵抗性」を獲得しやすい。アビラテロンという薬はテストステロンの合成を阻害するので、去勢抵抗性前立腺がんの治療によく処方される。

ただしそれも、がん細胞がアビラテロンへの抵抗性を進化させるまでのあいだにすぎない。治療を始めてからアビラテロンへの抵抗性が現れるまでの時間には個人差が大きい。通常の継続治療の場合、16.5か月経過した時点で患者の半数に腫瘍の進展が認められる(16.5か月というのは、去勢抵抗性前立腺がんが治療への抵抗性を得るまでの期間の中央値。このゲイトンビーの研究は対照群を含まない)。

ゲイトンビーによる適応療法の臨床試験では、腫瘍負荷を測定するのにPSA値を使用した。試験の手順は、試験開始時の50パーセント未満にまでPSA値が下がったら、アビラテロンの投与を中止するというものである。こうして、PSA値が低いときには腫瘍をそのまま放置しておき、PSA値が開始時の100パーセントを超えたときにのみ投薬を再開した。

ゲイトンビーはこのやり方により、標準治療よりはるかに長く腫瘍をコントロールし続けることができた。2017年10月(チャンとゲイトンビーの予備試験の論文掲載が受理された時期)の時点で、11人の患者のうちがんの進展が確認されたのはひとりのみ。これは驚異的な結果である。結局、応療法の臨床試験では、がんが進展するまでの期間の中央値は少なくとも27か月であり、典型的な16.5か月を大幅に上回った。それどころか、実際には27か月よりはるかに長かったと思われる(臨床試験中にがんが進展する患者の数があまりに少なかったため、本当の中央値を計算することができない)。しかも、適応療法の患者が投与されたアビラテロンの総用量は、推奨される標準治療の半分にも満たなかった。

「がんは裏切る細胞である」
p.220 - p.221

がんが「体細胞の進化」であるという視点にたつと、適応療法以外にも治療のアイデアが浮かびます。その一つが「おとり薬」です。


進化という視点に触発されたゲイトンビーのがんコントロール戦略には、がんを優位に立たせないための独創的で気の利いた発想がたくさんある。たとえば、抵抗性にはコストがかかる(薬剤に抵抗するために細胞は働いてエネルギーを消費しなくてはならない)という点を踏まえ、ゲイトンビーはひとつのアイデアを思いついた。抵抗性をもつ細胞にそのコストを費やさせながらも、それによってかならずしも利益を得られないような状況をつくってはどうか。多剤抵抗性を得ている細胞は薬剤排出ポンプをもっていることが多く、このポンプを運転するにはエネルギーを必要とする。

多剤抵抗性という特性はむしろ弱点であり、その弱みにつけ込むことができるとゲイトンビーは考えた。どうするのかというと、細胞に「おとりの薬」を与える。毒性がまったくないか、最小限の毒性しかないような物質だ。このおとりの薬ががん細胞に薬剤排出ポンプを稼働させてエネルギーを使わせるにもかかわらず、抵抗性のない細胞と比べて生存上の利点があるわけではない。ゲイトンビーはこの種の薬を「代用薬(ersatzdroges)」と呼んでいる。「おとりの薬」より響きがいいし、意味は変わらないからである。

ゲイトンビーと同僚は、培養した抵抗性細胞の増殖率を代用薬で下げられることと、代用薬を投与したモデルマウスの細胞のほうが(抵抗性をもたない類似の細胞株より)増殖率が低いことを見出した。この戦略によって抵抗性細胞は「只働き」をさせられ(分子モーターを動かして実際には薬剤ではない物質を汲み出し)、結果的に増殖に振り向けるエネルギーが減った。

「がんは裏切る細胞である」
p.230 - p.231

この「おとり薬」は、上の引用にあるように試験管レベルの研究ですが、こういう発想がでてくるのも「体細胞の進化」という視点でがんを見ているからです。次の「腫瘍に資源を与える」も、根本の見方は同じです。


腫瘍内部が低酸素状態だというのは、腫瘍微小環境の重要な要素である。酸素濃度が低い環境では、がん細胞は浸潤と転移を起こしやすい。資源が乏しいと、すぐに移動できるがん細胞が生存と繁殖のうえで有利になるからだ。これまでの研究からは、腫瘍への資源供給を正常化するとむしろ転移を減らすことができ、低用量の抗血管新生薬(腫瘍への血流の調節を助ける)を用いると治療への反応がよくなることが示唆されている。先にも触れたように、資源の流れが正常に近づくのは、適応療法でもたらされる結果のひとつでもある。適応療法が成果をあげている背景には、この資源の正常化があるのかもしれない。

腫瘍への資源の流れを正常にすれば、腫瘍内の細胞がどんな生活史戦略を進化させるかに影響を与えられる見込みが大きい。一般に、低レベルではあるが安定した資源を利用できるときには、遅い生活史戦略を採用する個体のほうが生存と繁殖において有利になる。腫瘍への資源供給を正常化した場合も、おそらく同じことが起きるだろう。つまり、より遅いペースで増殖し、分散しにくい細胞が選択されるということである。

安定した資源を腫瘍に供給するのは、直感に反する行為に思えるかもしれない。腫瘍というのは飢えさせるべきなのではないか、と。

だが、それをすれば、内部の細胞が遺伝子の発現状態を変えて移動性を得やすくなるうえ、すぐに移動できる細胞ほど選択されるという結果も招く。これが厄介な問題を引き起こすのはいうまでもない。むしろ腫瘍に(安定した低レベルの)資源を与えてやれば、腫瘍はその場にとどまったまま成長を続けてくれる可能性がある。全体として見れば、浸潤と転移を促すよりそちらのほうがはるかに好ましい。

「がんは裏切る細胞である」
p.232 - p.233

本書に「細胞版共有地の悲劇」という話が出てきます。「共有地の悲劇」とは、共有の牧草地で各人が銘々勝手に放牧すると草が食べ尽くされて共倒れに陥るという寓話です。

がん組織が組織周辺の資源を消費し尽くしたら「共有地の悲劇」が起こり、がん細胞は全滅します(資源不足、老廃物を解毒できない、など)。がんがこれをのがれるように進化するには、

・ もっと多くの資源を得るべくシグナルを送る
・ 新天地に移動する

ですが、このように進化するとまずい事態になります。そうなるよりも、がんに資源を与える方がよい。そういう考え方です。


体本来の機能によるコントロール


進化の視点からがんのコントロールを考えるとき、適応療法以外にもう一つ重要なポイントがあります。生物が進化の過程で得た「がんを抑制するメカニズム」を使う、つまり体本来の機能を使うことです。

がん細胞は、ヒトが本来もっている「がんを抑制するメカニズム」からのがれるための仕掛けを使います。この仕掛けを無効にするような治療です。一つの方法は、がん抑制遺伝子(TP53など)が変異しているとき、その機能を回復することです。これは研究段階にあります。さらに本書では「ご近所の目 = 地区レベルの監視システム」と「体内の警察隊 = 免疫」の活用があげられています。


体本来の《裏切り者》検出システムの能力を高めるもうひとつの方法は、「地区」レベルでの監視システムをあるべき姿に戻すことだ。つまり、近所の細胞同士で監視させることである。

がん細胞は創傷治癒因子を分泌して、周辺の正常な細胞を自分の目的のために利用することが多い。その種の因子のシグナルが何を意味しているかといえば、要は増殖や細胞の移動といったふるまいを黙認せよと周囲の細胞すべてに告げている(これには、周辺細胞に裏切り検出の閾値を上げさせることも含まれる)。

がん細胞は傷を治癒するというシグナルを発することで、近隣の細胞から見咎められずにたちの悪い活動にいそしむことができる。NSAIDs(引用注:非ステロイド系の抗炎症剤のこと)で炎症を減らすとがんのリスクが低下するのは、ここに理由の一端があるのかもしれない(炎症を軽減すると、DNAの変異と小規模欠失の直接原因となり得る活性酸素の減少にもつながる)。

炎症を抑えれば、シグナル伝達がなされる環境をきれいにする効果もある。そのおかげで、周辺でがんのような異常なふるまいが起きていることに正常な細胞が正しく気づけるようになるのかもしれない。また、炎症という「ノイズ(雑音)」が消えることで、免疫細胞が「本物のシグナル(信号)」(つまりがん細胞)に集中しやすくなるとも考えられる。

「がんは裏切る細胞である」
p.237

この引用部分から類推できることは、がん細胞が出す "傷を治癒するという偽のシグナル" をブロックできれば、周囲の細胞の監視によってがん細胞を排除できる可能性があるわけです(可能性の一例ですが)。こういったタイプのがん治療は、今後の研究に負うところが多いようです。



本書からは離れますが、2021年4月8日放送の NHK BSプレミアム「ヒューマニエンス "がん" それは宿命との戦い」に、京都大学の藤田恭之やすゆき教授が出演されました。藤田教授が示された映像は、腎臓の上皮細胞(表面の細胞)にできた"がん予備軍"(異常増殖)を、周囲の細胞が協力してはじき出し、それが尿といっしょに排出されるものでした。

番組では細胞のこういった機能を「細胞競合」と呼んでいましたが、藤田教授がなぜ細胞競合を研究されているかというと、もちろん、がんの治療に役立てたいからです。



2つ目は「体内の警察隊 = 免疫」の活用で、こちらの方は既に実用化されています。


がんをコントロールする方法はまだある。免疫系の働きを再度活発にして、がんを食い止めておけるようにすることだ。すでに見てきたように、がん性細胞は様々な戦略を編み出して免疫系に見つからないようにしている。しかし、免疫系ががんに反応し続けられるようにするだけでなく、がん細胞が免疫系から隠れられないようにすることは不可能ではない。それを目指すのががん免疫療法である。

がん細胞は自らの表面にあるタンパク質を変えることで、正常な細胞であるかのようなふりをすることがある。あるいは、免疫細胞をうまく利用して自らに有利なシグナルを出させ、何も異常がないから放っておいて大丈夫だと勘違いさせる場合もある。さらには、免疫系の武器である《裏切り者》検出システムをじかに妨害するケースもある。

正常な状態であれば、私たちの免疫系はチェックとバランスのシステムを通じて脅威(がん細胞や病原性微生物など)に対処している。その一方で、脅威が去れば警戒態勢を緩めることもできる。免疫系がどうやってそれを行っているかというと、「免疫チェックポイント」と呼ばれる機能を用いている。これは、脅威が存在しないという情報を受け取ったときに免疫応答を止める機能であり、環境中に《裏切り者》がいないことに気づいたら警戒態勢を解くよう免疫系に告げるシステムといっていい。

このようにして免疫系の警戒態勢を解除できることは、私たちの健康にとってきわめて重要な意味をもつ。そういう仕組みが備わっていなければ、私たちは自己免疫や過剰な炎症に苦しむ羽目になるからだ。ところが、これががんのつけ入る隙を生むことにもつながる。がん細胞がこの免疫チェックポイント機能をあざむく因子を分泌し、免疫応答を停止させる進化を遂げるからである。

現在、がん免疫療法で最も有望視されているのはまさにがんのこの能力を妨げるものであり、「免疫チェックポイント阻害療法」と呼ばれる。この療法ではがんのつくり出す分子の働きを妨げ、免疫系を不活性化できないようにする。結果的に免疫系は本来の働きを回復し、《裏切り者》細胞を発見できるようになる。おかげで、以前は治りにくかったがん(メラノーマや肺がんなど)についても、一部の患者では治療に成功している。

「がんは裏切る細胞である」
p.237 - p.238

「免疫チェックポイント阻害療法」は、本庶ほんじょたすく先生が開発の道を開かれたものです。先生が2018年のノーベル医学生理学賞を受賞されたのは、これが画期的だと認められたからでしょう。


未来へ向けて


がんは "やっかいなルームメイト" であり、我々はこのルームメイトと一緒に暮らしていくしかありません。目標とすべきは、

がんを対処可能な慢性疾患にする

ことです。著者は本書の最後の方で次のように述べています。


ヒトががんと共に進化してきたことを理解し、それを受け入れれば、人類の健康と幸福のためによりよい未来を形づくることができる。多細胞生物が誕生したときからがんは生命の一部であり、つねに私たちと一緒に進化の道のりを歩んできた。この世に人類が登場したときから、私たちはこの《ただ乗り》のルームメイトと暮らしてきたが、そうして招かざる道連れを伴いながらも、進化の見地からすれば成功を収めてきた。

進化はじつに強い力である。この惑星の生命に多様性を与えるとともに、体内のがん細胞の多様性と回復力を生む原動力ともなってきた。がんによる負荷を減らすうえで最も有望なのは、この進化の力を私たちの手中に収めること。つまり、私たちの命を奪う存在にさせないように、また、制御不能の存在にさせないように、腫瘍の進化の道筋を方向づけてやることである。私たちは自分で気づいている以上に、その進化の方向性を左右できるかもしれない。

「がんは裏切る細胞である」
p.245

最後に、著者が書いているギリシャ神話の神の話を紹介します。ギリシャ神話に登場する戦いの神、アレスとアテナの対照的な戦い方です。


アレス神は圧倒的な攻撃力で戦いに臨み、いかなる犠牲を払おうとも敵に最大限の損害を与えることを目指す。

「がんは裏切る細胞である」
p.15

戦いの神・アレス(アーレス)は男性神で、ローマ神話ではマルスです。一方、アテナは女性神で、古代ギリシャの中心都市、アテネ(アテナイ)の守護神です。


アテナは知恵と戦いの神だが、どんな戦い方でもいいわけではない。アテナは戦略の女神である。荒々しい力で勝利をもぎ取るのではなく、何のための戦いかを明確にしたうえで敵の弱みを把握する。そして相手の弱点を利用し、最小限の力で、しかも周辺に無用の被害が及ばないようにしながら勝利を手にする。

「がんは裏切る細胞である」
p.15

著者は子供の頃をアテネで暮らしたギリシャ系アメリカ人です。祖母はアテナという名前で、彼女の名前は祖母の名からとったものです。そのアテナの英語読みがアシーナ(Athena)です。著者は、未来に向けたがん治療のあり方を、自らの名前の由来になったギリシャ神話の神・アテナの戦い方になぞらえているのでした。




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No.336 - ヒトはなぜ「がん」になるのか [科学]

No.330「ウイルスでがんを治療する」に引き続いて、がんの話を書きます。今回は治療ではなく、そもそもがんがなぜできるのかという根本問題を詳説した本を紹介します。キャット・アーニー著 "ヒトはなぜ「がん」になるのか"(矢野真千子・訳。河出書房新社 2021。以下 "本書")です。

世の中にはがんに関する本が溢れていますが、なぜヒトはがんになるのか、がんはヒトにとってどういう意味を持つのかという根本のところを最新の医学の知識をベースにちゃんと書いた本は少ないと思います。本書はその数少ない例の一つであり、紹介する理由です。

著者のキャット・アーニー(Kat Arney)は英国のサイエンス・ライターで、ケンブリッジ大学で発生遺伝学の博士号を取得した人です。また、英国のがん研究基金「キャンサー・リサーチ・UK」の "科学コミュニケーション・チーム" で12年勤務した経験があります。最新の医学知識を分かりやすく一般向けに書くにはうってつけの人と言えるでしょう。

この本をとりあげる理由はもう一つあって、矢野真千子氏の日本語訳が素晴らしいことです。以前に、アランナ・コリン著「あなたの体は9割が細菌」を紹介したことがありましたが(No.307-308「人体の9割は細菌」)、この本も矢野氏の翻訳で、訳文が大変に優れていました。もちろん原書が論理的で明快な文章だからでしょうが、それにしても矢野氏の翻訳家としての力量(リズムがよい明晰な日本語を書く力)と科学知識(医学知識)の豊富さは明らかです。以下で本書の重要と思われる所を長めに引用しますが、それを読むと分かると思います。

なお引用は、原則として漢数字を算用数字に直し、段落を追加したところがあります。また下線や太字は引用をする上でつけたもので原文にはありません。


がんを進化の視点で見る


本書の内容をごく簡単に要約すると「がんは生物進化の縮図であり、その視点でがん医療のあり方を見直そう」というものです。このことは本書の「はじめに」で明確に書いてあります。


科学者たちはがんの進行を、自然界の生物進化の縮図として見るようになってきた。生物が突然変異で新しい形質を得たあと、その形質が自然選択で選ばれれば生き延び拡散するのと同じように、がん細胞も新しい変異を拾ったあと、自然選択で選ばれれば増殖して拡散する。ダーウィンが描いた進化系統樹のように、がん細胞も枝分かれしながら進化する。ここで私たちは、がんについてのもう一つの不都合な真実、治療自体ががんの悪性化に手を貸すという真実を知ることになる。

がんが育つとき私たちの体の中で働いているのは、地球上の生物進化を駆り立ててきたのと同じプロセスだ。がんの進化における自然選択の選択圧は、本来なら命を救うはずの治療薬という形でやってくることもある。薬は、その薬の効く(薬に反応する)細胞を死滅させ、薬の効かない(薬に耐性のある)細胞を栄えさせる。つまり、薬はがんを弱体化させるどころか増強させる。そうやって強力になったがんは再発という形で現れるが、そのときにはもう、何をどうしても止められなくなっている。進行したがんに現行の治療法が無力なのは不思議でも何でもない。

ともかく私たちは、がんの発生、予防、治療についての考え方を、進化の現実に即したものにアップデートする必要がある。がんは、変異のリストで語られるような静的な存在ではなく、刻一刻と進化し様相を変える動的な存在だ

キャット・アーニー
"ヒトはなぜ「がん」になるのか"
矢野真千子・訳 河出書房新社(2021)
p.12 - p.13

重要なキーワードは進化(evolution)と自然選択(natural selection)ですが、これは進化生物学の用語であり、普通の医学用語ではありません。これが、がんという病気やその治療とどう関係するのか、それを詳しく書いたのが本書だと言えるでしょう。以下、本書の "さわり" を順に紹介します。


がんは現代病ではない


がんという病気について「現代における環境汚染や現代人の食生活、生活習慣が引き起こしたもの」という説を唱える人がいます。「がんは現代病」というわけです、著者はまず、この言説に真っ向から反論しています。それは科学的なエビデンスとは違うというわけです。


がんのリスクを高める要素に現代のライフスタイルや習慣があるのは事実だ。と同時に、それは自然の中にもある。ウイルスや細菌、カビがそれにあたるし、植物から出る化学物質もそうだ(有機栽培の作物も毒を出す)。

放射性物質のラドンは世界各地で、とくに火山性の岩石が多いところで地面から漏れ出ている。アメリカ南西部で1000年前ごろ暮らしていた住民の遺骸に異常に多くのがんが見つかったが、それはおそらく放射性物質であるラドンのせいだ。

日光は、がんを誘発する紫外線を毎日私たちに浴びせている。料理や暖をとるために火をおこせば、そこから発がん物質を含んだ煙が出る。火おこしは人類が出現したころから日夜営んできた行為だ。

そして、小児がんのほとんどは、胎内での発生過程が乱れたときに起こる。どれも断じて「人為的で現代的な要素」なんかではない。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.20

昔の人もがんになりました。その証拠を収集している研究者がいて、古代人や先史時代の人骨やミイラのがんの兆候を集めた「古代遺骸がん研究データベース」が作られています。一般に、人骨やミイラからがんを発見するのは難しい作業です。異常なこぶや隆起が見つかったとしても、悪性の腫瘍だとは断定できないからです。しかし骨に明らかな痕跡を残すがんもある。本書には、絶滅人類の骨の化石から骨肉腫や脳腫瘍の痕跡が見つかった事例が出てきます。


すべての生き物はがんになる


さらにヒトでだけでなく、ほとんどすべての生き物ががんになります。ここで、がんの定義が問題になります。ヒトの場合、基底膜(臓器を包んでいる薄い保護膜)を突き破るような細胞増殖をがんと定義しますが、ほとんどの生物にはその基底膜がありません。

しかし「異常な細胞増殖」は、菌類、藻類、植物をはじめ、魚類、両生類からほ乳類にいたる広範囲な動物に見られます。恐竜の骨の化石から異常が見つかったこともありました。すべての生き物ががんになりうる。この認識が重要です。

ただし、がんになりにくい動物がいることが知られています。動物は体細胞の数が多いほど(= 体が大きいほど)がんになるリスクが増しますが、アフリカ象やシロナガス鯨はヒトと比較して遙かにがんになりにくいことが分かっています。これは「がん抑制遺伝子」を大量に持っているからです。


多細胞生物における反逆者


すべての生き物はがんになる(なりうる)。この "すべて" とは実は多細胞生物のことです。ここからが本書の最も重要な話になります。多細胞生物にはそれぞれの細胞が従うべきルールがあります。


多細胞生物のライフスタイルは、細胞の分裂と機能が厳格にコントロールされていなければ成り立たない。細菌のような単細胞生物なら進化目標はただ一つ、増殖して遺伝子を次世代に手渡すことだけだ。単細胞生物は死んだらそこで進化の行き止まりになるから、生き続けることと複製し続けることさえ頑張ればいい。

多細胞生物の細胞の場合、勝手な複製は許されない。複製していいのは、赤ん坊から成人になるまでの発生期と成長期、または身体を定期メンテナンスしたり応急処置したりするときだけだ。多細胞生物の細胞は、決められていない仕事をするのも許されない。脳にある神経細胞は、すい臓にある島細胞のようにインスリンを生産したいと思ってもできないし、外界とのバリアをつくる皮膚細胞が血液細胞のように全身を旅したいと思ってもできない。そのままにしておけば問題になる故障した細胞や損傷した細胞は、自死するか免疫系に駆逐されるようあらかじめ決められている。

多細胞生物になれば、個々の細胞は生物全体の利益になるようふるまう義務が生じる。ところががん細胞はルールを無視し、好き勝手に増殖し、周囲の組織に侵入し、あちこちに移り住み、最終的には宿主もろとも死ぬ。がんがどこから来たのかを理解するには、まず多細胞生物の生き方のルールを知り、そのルールが破られたとき何が起こるのかを知る必要がある。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.48 - p.49

多細胞生物の細胞群が遵守しいるルールを破る細胞が出てきます。いわば「反逆者」ですが、これががん細胞です。


細胞の従うべき金科玉条はつぎの5つだ。増殖しすぎない、決められた仕事を遂行する、必要以上に資源を浪費しない、汚したら自分で始末する、死ぬときが来たら死ぬ。

この5つのルールがあれば、人間社会だろうがどんな社会だろうが、円滑に維持される。逆に、個々のメンバーが自分勝手にふるまうと問題が生じる。

がん細胞はこれらのルールすべてに逆らう。最初は一度に一つのルールを破る程度だが、定着して全身に広がるころには一斉にすべてのルールを破っている。無制限に増殖し、本来の仕事をせず、酸素と栄養素をむさぼり食い、周囲を酸性に毒し、断固として死なない。

多細胞生物は、細胞社会の仕組みを10億年以上かけて進化させてきた。それぞれのメンバーが共通の利益に向けて特化した役割をこなし、個々の細胞のニーズより種としての繁栄をめざす。この厳格な階層型組織は、祖先の単細胞生物が楽しんでいたような自由で気楽な生き方を許さない。細胞分裂は厳しく制限される。複雑で相互に絡み合う分子経路や遺伝子経路を通じて、いつ、どこで分裂するか細かく指示される。ルール破りは厳禁だ。損傷した細胞や服従しない細胞のための余地はない。トラブルを起こしたら、全体の善のために自殺するよう促される。年老いた細胞には安らかに眠ってもらう。冷酷に見えるかもしれないが、この厳格さが私たちの健康と生命を守っている。

とはいえ、ヒトの社会でも動物の社会でも細胞の社会でも、ルールを破る個人や個体はかならず出てくる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.53 - p.54

多細胞生物は生命を維持して子孫を残すために、「反逆者」を抑制する仕組みをもっています。それでも「反逆者」は生じる。そして「反逆者」が優勢になるような状態が起きるとがんになり、これが進展すると生命体の全体が崩壊に導かれるのです。


多細胞生物が健全であるためには、メンバーに不正行為を許してはならない。細胞数が多いほど、また寿命が長いほど、統制はむずかしい。多細胞生物が進化する過程では、裏切者を出さないよう多大な投資がされてきた。身体サイズが大きければ細胞社会のメンバーは多くなり、裏切りが発生する確率も高まるため、より強力な抑制システムが必要となる

個々の細胞にとって、大きな多細胞共同体の一員になれば自律性を失って自分の行く末を自分で決めることはできなくなるが、そのかわり自分の遺伝子を継承するという究極の目的を大きな組織に委ねることができる。それでもルール破りの誘惑はいつもあり、隙を見つけては勝手に増殖を始める者が出てくる。

ただし、裏切り行為はそれまで保たれていた社会のバランスを崩す。十分長く生きて繁殖するという生物としての長期的な目標より、自分だけ得をしたいという裏切者たちの短期的な欲望が勝って悪性腫瘍がどんどん育つと、最悪の場合は宿主もろともの死が待っている。裏切者の出現は不可避だが、社会が許容できる裏切者の数には限りがある。みなが裏切りをするようになれば、多細胞生物の社会はあっというまに『マッドマックス』のようなディストピアの世界となる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.54 - p.55

本書には、がん細胞で活性化している遺伝子は生命体にとって最も古い遺伝子だという、興味深い話が出てきます。その一つの例は、オーストラリアのメルボルンにあるピーター・マッカラムがん研究所のアンナ・トリゴスという研究者の発見です。


トリゴスは、がん細胞の中で最も活性化している遺伝子が最も古い時代の遺伝子であることを見出した。最も古い時代の遺伝子とは、細胞増殖や DNA修復といった基本機能を担う遺伝子で、最初期の単細胞生物のころから存在している。

一方、がん細胞の中でまったく活性化していない遺伝子は最近になって出現した遺伝子だった。それは哺乳類にしか見られないか多細胞動物にのみ存在しているような「若い」遺伝子で、特殊な器官の作成や細胞間コミュニケーションなど、より複雑な仕事を担っている。

そして彼女は、これまでに調べたがん細胞がどれも等しく「単細胞時代からの遺伝子が活発になり、多細胞時代以降の遺伝子が休眠している」ことを見出した。がん細胞が細胞社会で定められていた仕事を放棄して、利己的に自由にふるまっているということだ。これはがん細胞がアメーバのような生物に先祖返りしたわけではない。新たに獲得した変異により、多細胞時代以降にできたシステムを休止させるよう進化したのである

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.61 - p.62

がんは「先祖返り」ではなく「進化」である ・・・・・・。「進化」という言葉に "よりよいものに変わる" という意味を感じている人にとっては大いに違和感がある表現でしょうが、本書全体を読めばその意味がよくわかります。

ちなみに、今までの引用(p.48 - p.64)は本書の第2章からですが、第2章は「がんは生きるための代償である」と題されています.。この題が本書の趣旨を明瞭に表しています。

その第2章には「裏切り者」「反逆者」「誘惑」「ディストピア」などの「がんを擬人化した比喩」があります。サイエンスの本でこういった比喩は一般の読者に分かりやすくするために使われますが、その一方で誤解を招きかねません。なぜなら、比喩の対象となったものがあたかも人間のように意思をもっているとイメージされ、合目的的に振る舞っているような間違った印象を与えるからです。しかし著者は言っていますが、がんの場合はこういった比喩が本質をピッタリと表しているのです。


遺伝子の変異ががんの要因


多細胞生物における「反逆者の細胞」が生まれる理由は、遺伝子に起こる変異です。これはさまざまな原因で起こります。

まず、細胞が増殖するときの遺伝子(DNA)の複製エラーです。これは必然的に一定の確率で起こります。

また「発がん物質」と総称されるものを吸収したり、それに接触したりすることも遺伝子変異の要因になります。発がん物質には自然界に存在するものもあれば(すす、煙など)、人工の化学物質もあります(ベンツピレンなど)。喫煙をすると煙に含まれる発がん物質が肺がんのリスクを高めることはよく知られています。

紫外線や放射線被爆も遺伝子変異の原因になります。皮膚がんがまさにそうだし、放射線被曝と白血病(= 血液のがん)の関係も知られています。

さらに、ある種のウイルスは遺伝子変異を起こします。有名なのは HPV(ヒトパピローマウイルス)で、子宮頸がんの要因になります(従って、がん予防ワクチンが成り立つ)。

また遺伝性のがんがあります。これはがんを引き起こす遺伝子変異を親から子・孫へと受け継ぐ場合です。つまり、がんを発症しやすい家系があります。

もちろん遺伝子変異が起きたからといって、すぐがんになるわけではありません。変異は基本的にランダムに起きるので、生命維持にとってプラスにもマイナスにも働かない変異(= 中立変異)も多い。さらに、細胞には変異した隣の細胞を体から排除する仕組みをもっています。

しかし細胞増殖を促す遺伝子が変異したとき、がんになるリスクを抱え込んだことになります。また、遺伝子に中には異常な細胞増殖を押さえる働きをするものがあり(=がん抑制遺伝子)、その遺伝子が変異によって機能を失うとがんのリスクが発生します。細胞増殖のアクセルが踏みっぱなしでブレーキが壊れた状態は、がんが発生する典型的なパターンです。


遺伝子の変異だけではがんにならない


遺伝子が変異しただけではがんになりません。実は、私たちは幼少期から遺伝子の変異を体内に蓄積しています。


私たちはどのくらい心配すればいいのだろう ? ある程度歳をとれば、だれでも原因不明のしこりやこぶの2や3はできているものだ。40代の女性の少なくとも3人に1人は胸に小さな腫瘍を抱えているが、その年代で乳がんと診断されるのは100人に1人しかおらず、残りの多くは正式にがんと診断されることなく一生を終える。

前立腺がんも状況は同じで、このがんで死ぬ人より、このがんを抱えたまま死ぬ人のほうがはるかに多い

50歳から70歳の人ならほぼ全員、甲状腺に小さながんができているが、甲状腺がんと診断されるのは1000人に1人だ。全体的にならすと、私たちの半分かそれよりやや少ないくらいの人が、生涯のどこかの時点でがんと診断される。

がんの発生率は、がんの種類別によってばらつきがある。たとえば、小腸と大腸はどちらも消化管で生理的な条件はほぼ同じだが、小腸がんの発生率は低く、大腸がんのそれは30倍も高い。

また、重要なドライバー遺伝子に変異が一定数たまるとがんになるとは言うものの、それに必要な蓄積回数もがんの種別で異なる。肝臓がんは約4回、子宮がんや大腸がんは10回だが、精巣がんや甲状腺がんはたった1回だ。

こういう話をすると、必要な変異回数の少ないがんほど若いころ出現しそうな気がするが、小児がん以外の大半のがんは、種類にかかわらず60歳以前に発生することはあまりない。私たちの正常な組織は中年期に達するころ、すでに変異のパッチワークになっているにもかかわらず、50代まではまあまあ抑えられているのである。

60歳以降に変異が生じるペースが上がるわけでもない。意外かもしれないが、変異の発生ピークは人生の初期だ。DNAの複製エラーは細胞が増殖するたびにちょこちょこ起きるものだが、幹細胞に起きるエラーはとりわけ危険だ。身体を生涯維持する役目を担っている幹細胞は増殖力がひじょうに高いからだ。増殖力の高さがとくに求められるのは発生期から成長期である。卵細胞が成体になるまでに必要な増殖回数は、その後の人生を維持するのに必要な日々の増殖回数とは比較にならないくらい多い。私たちの細胞は最初の9か月で一個から数兆個にまで増え、その後も少しずつ増えていき、「成人」という完成形になる。じつのところ、あなたが70歳の時点で保有する変異の半分は、18歳の誕生日までに得てしまっている

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.118 - p.119

引用に「ドライバー遺伝子」という言葉が出てきます。一般的には「がん遺伝子」と言われますが、これは誤解されやすい言い方です。がんを発生させる "専用の" がん遺伝子があるわけではありません。がん遺伝子の多くは生命の維持や子孫を残すプロセスに必須の遺伝子です。それが変異するとがんのリスクが生じる。

ドライバー遺伝子とは「その遺伝子が変異することでがんの直接の原因(の一つ)になる遺伝子」です。このドライバー遺伝子に生じる変異が「ドライバー変異」です。本書では「ドライバー遺伝子」「ドライバー変異」という言葉が多用されています。

さらに上の引用に「幹細胞に起きるエラーはとりわけ危険だ」とありあります。「幹細胞」とは、分裂する能力があると同時に、分裂してできた娘細胞が別種の細胞になる能力をもった細胞です。有名なのは受精後の胚の ES 細胞ですが、各臓器系についてそれを作り出す幹細胞があります。たとえば血球やリンパ球のすべては骨髄の造血幹細胞から作られます(No.69「自己と非自己の科学(1)」参照)。この幹細胞を人工的に作り出したのが、山中教授の iPS 細胞(induced Pluripotent Stem cells = 人工多能性幹細胞)です。

幹細胞に関していうと、受精後の胚に生じる乱れが原因で発生するがんが小児がんです。従って小児がんの発生メカニズムは他のがんとは根本的に違います。



遺伝子変異が蓄積しただけではがんになりません。しかし生物の進化と同じで、環境が変わったとき、それが原因で変異した遺伝子をもつ細胞が優勢になります。これががんです。この体内環境の変化の第一は加齢です。


日々の細胞のメンテナンス作業は年齢とともに、とくに生殖年齢のピークを過ぎたあとは、雑になっていく。たとえば、若いときの肌の細胞はしっかり結合している。がん化しそうな不良細胞が出てきても、広がる余地を与えず、最終的には追い出してしまう。だが、歳をとると細胞の結合がゆるむ。不良細胞はその隙に入りこみ、やがてがん化し、拡大する。また、タバコの煙や紫外線のような発がん物質は、DNAに損傷を与えるだけでなく、細胞の結合組織となるコラーゲン分子を傷つけるので、不良細胞がのさばる余地をさらに与えてしまう。

老化によるゆっくりとした衰えは、遺伝子の収納状態やスイッチの作動にも影響する。若い細胞はDNAを、ヒストンというボール状のタンパク質のまわりにコイルのように巻きつけて、きっちり収納している。ヒストンには、遺伝子の活性・不活性をコントロールするためのエピジェネティック修飾と呼ばれる各種の分子タグがついている。老いた細胞では、この整然とした仕組みがうまく働かなくなる。DNAのコイルがほどけ、修飾が乱されると、遺伝子は間違ったタイミングや場所でスイッチをオンまたはオフにするようになる。老化はゲノム全体で同時多発的に進む。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.124

もう一つの重要な環境変化は、加齢とも大いに関係しますが、持続的な炎症です。


慢性炎症の原因は、持続感染、有害物質への長期曝露、自己免疫疾患などだが、もう一つ避けがたい最大の原因が加齢だ。歳をとるにつれて、私たちの組織の慢性炎症のレベルはじわじわと上がる。これは、細胞内で働く生化学プロセスから受ける経年劣化、体内に少しずつたまる有害物質、人生でそれまでに経験した感染や苦痛、全般的な体の衰えなどによる必然的な結果だ。性ホルモンの減少も関係しているかもしれない。エストロゲンやテストステロンには炎症を抑える役目があるからだ。お察しのとおり、喫煙も、肺に炎症性傷害を与えたり体の抗炎症反応を弱めたりする。過剰な体脂肪もリスク因子だ。体脂肪は、何もせずただ体についているだけのぜい肉ではない。脂肪を貯蔵する細胞は、慢性炎症を悪化させるさまざまな活性物質をつくり出す。

もう一つ慢性炎症の要因として、研究はあまり進んでいないが有力視されているものに、ストレスがある。私たちはストレスでがんになると聞くと、さもありなんと考えがちだが、実際のところ、近親者の死別や離婚といった強いストレスのかかる人生節目の出来事ががんの発生率を高めるという関連性はほとんど見出されていない。

しかし、生活苦や不安定な居住環境といった長期のストレスとの関連性はありそうだ。社会経済的な弱者ほど、がんを含むあらゆる病気で早く死ぬ傾向があることは、健康格差の問題としてよく知られている。社会的弱者が早く死ぬのは肥満、喫煙、飲酒、偏った食生活といったお決まりの容疑者のせいにされがちだが、これらの要素だけですべてを語ることはできない。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.126


進化の「るつぼ」としてのがん


では実際にがんが発生したとき、がん組織に中の遺伝子変異はどうなっているのでしょうか。そこでは、それぞれ違った変異をもつ細胞集団があちこちに散在していることが分かってきました。

2012年の論文に載った、キャンサー・リサーチ・UKのチャールズ・スワントン教授の研究があります。彼は DNA配列決定の技術を駆使し、がん組織の中の遺伝子マップを作り始めました。

以下の引用に「標的療法」という言葉がありますが、これはがんの要因となっている特定のドライバー遺伝子の働きを無効にするような治療(化学療法など)という意味です。


配列決定技術の精度が上がってくるにつれて、ものごとは複雑さを増してきた。2006年、研究者らは標的療法後に耐性がついてしまった EGFR 変異をもつ細胞を探していた。すると、標的療法を受ける前の肺腫瘍の一部に、その変異細胞がすでに存在していたことに気がついた(EGFR はがんドライバー遺伝子の一つである)。数年後、血中を漂う白血病細胞はどれも同じに見えて、じつはDNA配列の異なる細胞の集まりだったという発見もあった。

2010年にはまた別の発見があった。すい臓にあった最初の腫瘍(原発腫瘍)から転移した腫瘍(2次性腫瘍)が、転移の過程で原発腫瘍にあった変異とは別の新たな変異を大量に拾っていることがわかったのだ。そして2011年、中国の研究チームが、ひとかたまりの大きな肝臓腫瘍を薄くスライスしてそれぞれの切片を分析したところ、隣り合う切片どうしでさえ、そこに含まれるドライバー遺伝子の変異が違うことを見出した。同年、ニューヨークの科学者らが、乳房腫瘍の小片を100個の細胞に分けてそれぞれにDNA配列決定をしたところ、その100個の細胞は大きく3つのグループに分かれ、それぞれが遺伝的強みと弱みを別々の組み合わせで有していることがわかった。

もやもやしていた絵の輪郭が、だんだんはっきりしてきた。腫瘍というのはどれも、同じがん細胞でできているのではなく、遺伝子的に少しずつ違うがん細胞集団(クローン)の寄せ集めであり、その一部が転移しやすい変異をもつクローンだったり、治療に抵抗しやすい変異をもつクローンだったりする、ということだ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.154 - p.155

がん細胞集団(クローン)という表現がありますが、クローンとは「同じ1個の祖先細胞に由来し、同一の遺伝子変異をもつ細胞の集団」のことです。

この引用にあるように、腫瘍組織における遺伝子変異は「変異のパッチワーク状態」であり、しかも変異は "積み重なり"、かつ "枝分かれ" しつつ起きています。つまり「遺伝子変異の系統樹」が描けることが分かってきました。ここに至って、ダーウィンの「進化論」との類似性が明らかになってきました。


チャールズ・ダーウィンは新種の出現(種の起源)を、生物が選択圧に直面して適応と変化を迫られたことによる必然的な帰結だ、と論じた。チャールズ・スワントンの研究は、人体内のがんも同じであることを示した。がんは自然界の縮図であり、多種多様な変異をもつがん細胞クローンが多数集まってできた大家族だ。そこからは日々、枝分かれした小家族が生まれる。転移した腫瘍は、旅立った小家族がその後に独自の変異を重ねた「遠い親戚」だ。近縁のクローンも遠縁のクローンも、すべては一つの創始者細胞から始まり、途中で新しい変異を拾いながら枝分かれしてきた。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.158 - p.159

我々は「進化」を誤解しがちです。進化生物学でいう進化(evolution)とは、生物が別の種に分かれること(だけ)を意味します。その要因は、遺伝子の突然変異と環境変化の圧力による選択(自然選択)です。進化は「変化」であって「より良くなる」という意味は含みません。

さらに我々はどうしても「直線的な進化」を考えがちです。チンパンジーが猿人になり、ホモ族(ヒト族)になり、そのホモ族も原人からネアンデルタール人になって、ホモ・サピエンスに進歩してきた、というような ・・・・・・。しかし実態は、霊長類が分化してきたというのが正しい。

がんもそれと同じです。がんの本質は「枝分かれ進化」であり、適応と進化を繰り返す可変的なシステムなのです。実際、がん組織において「自然選択 = 環境による選択」が起こっているという証拠が集まってきました。


科学者らはもう一つ残念なことを発見した。標的療法への耐性を得られる変異は往々にして、ごく初期の段階ですでに存在しているのだ。骨髄腫(白血球のがん)の患者を詳細に調べた研究によると、骨髄の中で増殖したがん細胞は、最初期の段階から存在した小さな細胞集団に由来するものだったという。その細胞集団は、医者が投入したあらゆる治療をのらりくらりとかわしながら成長し、ついにはすべてを乗っ取ってしまったという。

2016年の別の論文からは、自然選択が作用している現実が容赦なく示された。研究者らは、30名を超える髄芽腫(小脳にできる脳腫瘍)の患者から治療前と治療後に採取したサンプルで、遺伝子組成を比較した。そして、治療後に再び増殖した耐性がん細胞は原発腫瘍にすでに存在していたこと、ただしそのときはひじょうに小さな集団だったことを見出した。

放射線療法で大量のがん細胞が殺されると、最初は小集団だった耐性細胞がそのあとを埋めるように急速に拡大した。治療前には危険だと思われていた(重要なドライバー変異をもつ)いくつかの細胞集団が、治療後には消えていたのである。これがギャング映画なら、大物連中が殺し合いをして全員いなくなったあと、こそこそしていたチンピラがのし上がってボスの座につくようなものだ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.164

がん細胞からすると、最大の環境変化はがん治療がもたらす環境変化です。つまり、がんの進化において、特に放射線療法と化学療法は、自然選択を加速させます。それらの治療に耐性をもつ遺伝子変異をもつがん細胞だけが生き残り、それ以外は死滅する。そして耐性がん細胞がまたたく間に増殖してしまうのです。

著者はがん組織を "進化の「るつぼ」" と形容しています。そしてこれは、生物の歴史を考えると不思議でも何でもないと書いています。


反逆者のがん細胞が多細胞社会から排斥されて単細胞的な暮らしに戻った細胞だとすると、こんどはその反逆者たちがチームを組んで、新たな多細胞社会を立ち上げようとしているようにも見える。それは生命進化史において過去にやってきたことなのだから、「進化のるつぼ」となったがんの中で同じことが起きていたとしてもおかしくない。

がんの分子的詳細を掘り下げれば掘り下げるほど、つぎつぎに奇妙なことが見つかる。ただ私には、それほど驚くことではないようにも思える。「進化」なら当然のことばかりだからだ。生命の歴史をざっと眺めればわかるように、進化は途方もない多様性をつくり出してきた。単細胞生物が多細胞生物になる進化は何度も起きた。セックスの発明も数回、起きた。生物種は増殖し、移住し、適応し、多様化する。増殖するものは増殖し続ける。変異するものは変異し続ける。生き物はただひたすらに、生き続ける。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.221 - p.222


がんの適応療法


がんが「進化のるつぼ」との認識にたつと、がん治療の新しい考え方が見えてきます。その一つが「適応療法」です。米国フロリダ州のモフィットがんセンターのロバート・ゲイトンビーの研究が紹介されています。


ゲイトンビーは、100年以上前から農家を悩ませていた害虫、コナガがすべての農薬に耐性をつけてしまったという記事を読んだとき、これはがんをめぐる状況と同じだと気がついた。がんも治療薬に耐性がつくよう進化したら、もう拡大は止められない。

ゲイトンビーが現行のがん治療で何より疑問に思うのは、薬が「最大耐用量」で処方されることだ。これは患者にとって耐えられないほどの副作用が出る直前の用量を投与し、一度にできるだけ多くのがん細胞を殺そうという考え方だ。薬の臨床試験の初期では、志願した被験者に、投与する薬の用量を少しずつ上げていき、重篤な副作用が出た瞬間にやめる、ということを試す。このテストで薬の最大耐用量が決まる。だが、遅かれ早かれ耐性がつくことを思えば、最大耐用量を投与するという方法はわずかな余命延長に対して害が大きすぎる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.276 - p.277

農薬に耐性をもつ雑草や害虫が出現することは常識になっています。抗生物質に耐性をもつ病原菌(= 耐性菌)が出現するのも同じです。上の引用に出てくるコナガは、キャベツなどのアブラナ科の食物に寄生する小さな蛾です。コナガは農薬に耐性をつけてしまいますが、農家はこの問題に対して次のように取り組んできました。


コナガが農薬に耐性をつけてしまう問題に対し、農家は数十年前から「総合的害虫管理」という方法をとってきた。がんが遺伝子的に多様な細胞集団でできていて、その一部が治療薬に耐性をつけるのと同じように、害虫の群れにも遺伝子的に多様な集団が交ざり合っている。農薬に屈しやすい集団もあれば、農薬に耐性をもつ集団もある。ここで重要なのは、虫に農薬への耐性をつけさせるような遺伝子変異は、食料の奪い合いや繁殖競争においてたいてい不利になることだ。そのため、農薬に耐性をもつ集団は、ふつうの状況下では農薬に屈しやすい集団より優勢になることはなく、小さな集団のまま推移する

そうした群れに大量の農薬を浴びせると、農薬に屈しやすい集団は全滅し、農薬に耐性をもつ集団だけが生き残ってライバルのいなくなった生息地で好きなだけ繁殖する。一方、農薬の量を少なくすれば、農薬に屈しやすい集団がそれなりに残って、耐性をもつ集団が増えすぎないよう抑制してくれる

農家は、害虫を一匹残らず殺すのをやめ、手なずける道を考えた。畑の状況を定期的にモニターし、作物がある程度食い荒らされることは容認する。限度を超えて食い荒らされるようになったときだけ農薬を使うことにしたのだ。現在では、雑草その他、望ましくない生物種をコントロールするときも似たような方法が使われているが、考え方はみな同じだ。根絶ではなく抑制をめざし、薬剤を与える場合は少量にして巻き添え被害を少なくする。この方法はまわりまわって、将来的に懸念されている超耐性株が出現する機会を減らすことにもつながる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.277 - p.278

適応療法とは、上の引用における "総合的害虫管理" と同様に、いわば「がんを手なずける」治療です。


ゲイトンビーは、腫瘍内にはいつも耐性細胞がいる、という前提からスタートすることにした。その耐性細胞は、増殖スピードが遅いので増えすぎることはなく目立たない。しかし、薬に反応するがん細胞が全滅すればそのあとを埋めるように勢力を広げるだろう。この場合、薬を最大耐用量にするのではなく逆に低用量にして、薬に反応するがん細胞の量をある程度保ち、そのがん細胞に耐性細胞を抑制させたほうがいい。もし、薬に反応するがん細胞が増えすぎたら、薬を増やして以前と同じバランスに戻す。ゲイトンビーはこの方法を「適応療法」と呼ぶ。敵がゲームに使っている適応進化プロセスで、敵にみずから失点させるよう誘う方法だ。

適応療法の基本戦略はこうだ。がん細胞にとって、薬に耐性をつけることは治療中こそ役に立つが、治療していないときには何の得にもならない。得にならないどころか、薬に耐性をつけたことが生物学的に重荷になる。たとえば薬を追い出すのに使う分子ポンプにエネルギーの3分の1を投じることになれば、そのぶん増殖に使えるエネルギーは減る。

耐性細胞が、薬への対処に専念する薬依存症になってしまうことさえある。たとえば、特定の標的薬に耐えるためにわざわざ生化学経路を変えてまで適応した細胞は、その標的薬がなくなれば生命維持さえおぼつかなくなる。治療をしていない通常の状況下では、耐性細胞はこうしたコストが重くのしかかり、増殖が遅れる。ゲイトンビーは薬剤耐性を、大きく頑丈な雨傘のようなものだと言う。雨が降っているときは便利だが、そうでないときは邪魔になり、あなたの行動の足かせとなる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.278 - p.279

適応療法とは、がんとの共存を目指すものと言えるでしょう。そして患者の生存期間をできるだけ延ばすことが目的です。もちろんこの戦略を実行するには、がん組織中のがん細胞の数の精密な測定と治療による変化予測が必須です。上記の引用にあるゲイントビーは数式モデルを使って予測をしたようです。



さらに「がんは進化のるつぼ」という認識にたつと、患者のがんを絶滅させる新たな戦略が見えてきます。これは地球上で過去に起こった "種の絶滅" に学んだものです。

種の絶滅というと、我々がすぐに思い浮かべるのは恐竜の絶滅です。6500万年~6600万年前、今のメキシコのユカタン半島付近に大隕石が衝突し、地球環境が激変し、恐竜が絶滅した(そして生き残った恐竜が鳥に進化した)という件です。

しかしこのような「一撃で起こる劇的な絶滅」はわずかです。ほとんどの種の絶滅は「数回の連続した打撃」によって起こる。この例として、絶滅の経緯が分かっているヒースヘンの絶滅が紹介されています。

ヒースヘンは、和名をニューイングランド・ソウゲンライチョウと言い、その名の通りライチョウに似た大型の鳥です。この鳥は北米大陸にヨーロッパ人が来たときには東海岸のあちこちにいました。ところが植民地の拡大と入植者による乱獲で、一つの島の50羽までに激減しました。その後の人々の努力で、島での生息数は2000羽までに回復しました。しかし、その繁殖地で火災が起こり、次には異常低温の冬が連続し、最終的には感染症の流行によって1932年に絶滅してしまいました。

ポイントは、ヒースヘンが数回の打撃で絶滅に至ったことと、一つの島に閉じこめられて50羽に激減するという「地理的ボトルネック」と「遺伝子のボトルネック」を経験したことです。こうなると遺伝子の多様性は失われ、感染症で全滅するようなことが起きる。かつ、一つの島で全滅してしまえばそれで種は終わりです。

この「種の絶滅モデル」を、がんの治療に応用できないでしょうか。実は、小児の急性リンパ性白血病の治療は、まさにこのような考え方だったのです。


ゲイトンビーとブラウン(引用注:ゲイントビーと共同研究をした進化生物学者)は論文で、同じような考え方がすでに小児の急性リンパ性白血病の治療法に使われていることを指摘した。その治療法は、死ぬのが確実だった病気を10人のうち9人を治せる病気に変えたが、いま話したような「種の絶滅」モデルから編み出されたものではない。医者らが試行錯誤しながら長年かけて見つけ出したものであり、それが偶然にも、ヒースヘンを絶滅に追いやったのと同じ方法だったのだ。

まず、集中的な化学療法による「第1の打撃」で大量にがん細胞を殺す。すると少数のがん細胞が生き残る。つぎに、別の作用機序の薬で「第2の打撃」を与え、最初の薬に耐性のある細胞を殺す。その後、第3、第4の打撃を与える。

ゲイトンビーらは、このモデルを使えば長年の試行錯誤をすっとばして、がんの絶滅を誘導する計画を立てることができるのではないかと説いている。自然界の種の絶滅と同じように、腫瘍内にあるがん細胞集団の個体数と遺伝子多様性をまず減らし、そこで生き残った小さい集団をつぎつぎと追いつめる。

残念ながら、現行のがん治療はそうなっていない。たとえば進行前立腺がんの場合、アビラテロンのようなホルモン阻害剤を最大耐用量で長期にわたって投与する。どのくらい長期かというと、腫瘍が縮小するまではもちろんのこと、それが再び拡大するまで、つまりアビラテロン耐性のがん細胞が出現して数を増やすまでだ。この段階で医者はやっと別の化学療法に切り替え、そのループをもういちどくり返す。

しかし、絶滅させることをめざすなら、がん細胞が耐性をつけて再び増えるまで待つのは無意味だ。がん細胞の数と多様性が減っているときに叩いたほうがいい。2番目の薬を使うのに最適のタイミングは、アビラテロンによる「第1の打撃」を与えた直後だ。そのとき生き残っているがん細胞は、アビラテロンを追い出すのに多大なエネルギーを使って消耗しているため、「第2の打撃」で息の根を止められる可能性が高い。この方法は直感的に理解しにくいため、「最初の薬が効いているのに、なぜ薬を変えるのか ?」と思う医者や患者は少なくない。だが、がんを根絶させるには従来の方法よりずっと効果的だ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.292 - p.293

こういった考え方は、がんを「進化のるつぼ」と認識することから生まれてきたものです。がん治療に新しい方法を持ち込むものと言えるしょう。


生きることと、がんになることは表裏一体


著者が最後に強調しているのは、生物に関するすべての研究は進化の視点なしには意味をなさないということです。がん研究も例外ではありません。


生物学のすべてが進化の視点なしに意味をなさないのと同じく、がんのすべても進化の視点なしには意味をなさない。このシンプルかつ厳然たる事実を認めないことが、進行転移がんの予後がほとんど改善しない理由だ。この病気の根底にある進化の性質に本気で向き合わないかぎり、今後も改善しないだろう。進化のプロセスなしに、地球の生命史は形づくられてこなかった。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.309

本書の最後に「がん研究・がん治療の最終ゴール」として目指すべきことが書かれています。以下の引用にある「ルカ」とは LUCA(Last Universal Common Ancestor = 最後の共通祖先)です。つまり地球上のすべての生命体の先祖をさかのぼると、生命の発生の起源となった1つの共通祖先に行き着くはずで、その最初に行き着いた共通祖先を言っています。


私はこの本を書くにあたり、50人以上もの研究者の話を聞き、数えきれないほどの書籍と論文を読んだ。その過程で、私たちがめざすものを最もよく表している言葉はこれだ、というのを見つけた。それは、ウェルカム・サンガー研究所の遺伝学者でがん研究の第一人者であるピーター・キャンベルが私に語ってくれた言葉だ。

私たちの最終ゴールって、何なのでしょう ? 十分長く生きてから、がんより先に死ぬことだと思いませんか ?」

現実の生活は夢でもおとぎ話でもない。だれもみな、いつかは死ぬ。私たちが望むのは不死ではない。いつかお迎えが来るときまで心身を平穏に保ちたい、それより前にがんに殺されたくはない、それが私たちの望みだ。それにもし、がんの診断後に20年も30年も生きる人が増えてくれば、薬の影響を穏やかにすることや、心理面でのサポートをすることに、よりいっそう重点が移っていくだろう。

人類の死亡率は100パーセントだが、「生命」そのものは生き続ける。細胞は増殖を止めない。全生物の共通祖先「ルカ」から始まった進化系統樹は伸び続ける。生きることと、がんになることは表裏一体だ

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.313 - p.314


感想


言うまでもありませんが、以上に紹介したのは本書のごく一部です。著者が最後に「この本を書くにあたり、50人以上もの研究者の話を聞き、数えきれないほどの書籍と論文を読んだ」と書いているとおり、サイエンス・ライター、なしは医学ジャーナリストとしての丹念な取材と調査にもとづく記述が本書の価値です。

主題となっている「がんはヒトの体内で起こる進化のプロセスである」という認識は、"なるほど" と納得性が高いと思いました。がんの標準治療である化学療法と放射線療法を見直すべきだという著者の主張は、「進化」の視点でがんを見ると当然そうなるでしょう。「がんを撲滅する」のではなく「がんを人のコントロール配下に置く」ことを目標にするわけです。

と同時に、本書には書いてありませんが、がんの免疫療法やウイルス療法の重要性も分かったと思いました。免疫療法とは、例えば本庶 佑ほんじょたすく先生(2018年ノーベル医学生理学賞)が開発の道を開いた "免疫チェックポイント阻害薬" による治療であり、ヒトが本来もつ免疫機能でがん細胞を攻撃するものです。またウイルス療法は、藤堂 具紀とうどうともき先生の "デリタクト注"(= 薬剤名。2021年に日本で承認)が代表的です(No.330「ウイルスでがんを治療する」)。

免疫機能もウイルスも、生命の歴史の中で進化ないしは共存してきたものです。従って、がんの撲滅はできないかもしれないが、そのコントロールに役立つでしょう。少なくとも、化学療法によって耐性がん細胞を出現させ、結果として手がつけられなくなるようなことは無いと思います。



「進化」という言葉を用いずに本書の内容を1文で要約すると、次の3つのどれかになるでしょう。

・ がんは多細胞生物の宿命である。
・ がんは生きるための代償である。
・ 生きることと、がんになることは表裏一体である。

どれも正しいと思いますが、「宿命」や「代償」という言葉には価値判断が入っています。その意味では、著者が最後に書いている「表裏一体」が最も適切な言葉だと思いました。




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