SSブログ

No.337 - がんは裏切る細胞である [科学]

前回の No.336「ヒトはなぜ "がん" になるのか」は、英国のサイエンスライター、キャット・アーニー著の同名の本を紹介したものでした。内容は、がんを「体内で起きる細胞の進化」ととらえ、その視点で新たな治療戦略の必要性を説いたものでした。

今回は引き続き同じテーマの本を紹介します。アシーナ・アクティピス著「がんは裏切る細胞である ─ 進化生物学から治療戦略へ ─」(梶山あゆみ・訳。みすず書房 2021。以下 "本書")です(原題は "The Cheating Cell")。

前回の本と本書は、2021年の出版です。つまり「進化生物学の視点でがんの生態を研究し治療戦略をつくる」という同じテーマの本が、同じ年に2冊刊行されたことになります。ただし、今回の著者は現役のがん研究者で、そこが違います。

著者のアシーナ・アクティピス(Athena Aktipis)は米国のアリゾナ州立大学助教で、同大学の "進化・医学センター" に所属しています。またカリフォルニア大学サンフランシスコ校の進化・がん研究センターの設立者の一人です。進化生物学の観点からがんを研究する中心の一人といってよいでしょう。従って、自身や仲間の研究も盛り込まれ、また、がんの生態に関する詳細な記述もあります。専門的な内容も含みますが、あくまで一般読者を対象にした本です。専門性と一般性がうまくミックスされた好著だと思いました。

以下、本書の内容の "さわり" を紹介します。以降の本書からの引用は、原則として漢数字を算用数字に直し、段落を追加したところがあります。また、下線や太字は引用をする上でつけたもので原文にはありません。


がんと進化:2つの視点


本書の最初の4つの章は、

・ 第1章 はじめに
・ 第2章 がんはなぜ進化するのか
・ 第3章 細胞同士の協力を裏切る
・ 第4章 がんは胎内から墓場まで

と題されています。この4つの章の内容をごく短く要約すると、

・ がんは、多細胞生物の体内で起こる細胞レベルの進化である。
・ 一方、生物のレベルでは、がんを抑制するしくみが進化してきた。
・ "がんの進化" とそれを "抑制するしくみ" の2つは、胎内から墓場までのあいだ、体の中で攻めぎ合っている。

となるでしょう。まず、ここまでの内容を本書からの引用を含めて紹介します。



がんを「進化のプロセス」としてとらえるとき、その "進化" には2つの視点があります。一つは「体細胞の進化 = がん」です。2つ目は、体細胞が「生物」を構成している、その「生物の進化」です。がんを考えるとき、この2つの視点で見ることが重要です。


がんという存在は、進化に関してふたつの異なる切り口から捉えることができる。まずひとつは、私たちの体の細胞のあいだでは進化が起きており(これは「体細胞進化」と呼ばれることが多い)、それががんにつながるということである。生存と繁殖に関する有利不利は細胞によって度合いが異なり、たとえば増殖するスピードや、生きる長さなどに違いがある。結局、より速く増殖してより長く生きる細胞が次世代で数を増やしていき、最終的に集団内で大多数を占める。これが自然選択であり、自然界で生物進化の原動力となってきたプロセスと何ら変わるところはない。

進化論の視点からは、なぜがんが今なお地球上に生き残っているのかも理解できる。生物は長く生きて多くの子を残すために、気の遠くなるような時間をかけてがんを抑制する(つまり体細胞進化を抑える)方法を発達させてきた。そういう仕組みがあるからこそ、そもそも多細胞生物として生存することができている。ただし、このがん抑制メカニズムは完璧ではない。進化の見地からいって、がん化のおそれのある細胞を100パーセント制御するのは不可能だからである。

なぜ生物はがんを完全に抑え込む進化をしてこなかったのか。その理由は多岐にわたり、いずれもそれ自体として興味深いものばかりである。ひとつは、子孫を残すうえで有利になる別の形質とトレードオフ(何かの利益を得ると別の何かが犠牲になるような相容れない関係)になっていること。たとえば繁殖力などがそうした形質のひとつだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.11

がんという "体細胞進化" は、ヒトを含む生物の一生のうちに起こるものですが、がんを押さえ込むしくみは生命の長い歴史の中で "進化" してきたものです。2つの時間軸は全く違います。この違いを理解しておく必要があります。


がんの進化を理解しにくい理由のひとつは、自然選択がふたつのレベルで進行していて、それぞれの起きる空間と時間軸が異なるためである。

ひとつは体内の細胞のレベルであり、生物の一生という比較的短い時間で自然選択が生じる。もうひとつは自然界の生物のレベルであり、非常に長い時間をかけて自然選択が進む。がん細胞は体内で進化する。その一方で、がんを抑制する能力の高い体(つまり細胞の裏切りをうまく見つけて排除できるメカニズムをもつ体)のほうが、生存率が高いうえに子孫を多く残すという事実もある。

同じ生物でも、細胞と体という複数の(マルチの)レベルで自然選択が働いているわけだ。これを「マルチレベル選択」という(古典的な「群選択説」を現代的に改良した考え方)。がんの不可解な側面を理解するには、マルチレベル選択の視点に立つことが欠かせない。

「がんは裏切る細胞である」
p.51

がんを「体細胞の進化」ととらえるとき、その進化は生物を死に至らせる(ことがある)わけです。このような状況を「進化」と呼んでよいのでしょうか。著者は、それも進化のうちだと、「進化的自殺」という言葉を使って次のように述べています。


とはいえ、私たちが死んだらがんの進化はどうなるのだろう。がんが最終的に自らの宿主の命を奪うのなら、それを本当に「進化」と呼んでいいのだろうか。行く先に身の破滅が待っているのなら、その生物は進化したといえるのか。もちろん答えはイエスである。恐竜が結局は絶滅したからといって、「進化しなかった」などといい張る者はいない。何かの生物が進化の袋小路にはまり込んだとしても、それまでの進化がなかったことになるわけではない。

進化の果てに滅びる生物がいるように、がん細胞の集団も体内で進化したあげくに進化の袋小路に入り込む。こうした現象全般を進化生物学では「進化的自殺」と呼ぶ。進化的自殺が起きるのは、生物の集団が進化によって獲得した何らかの形質が、最終的に種全体を絶滅へと向かわせるときだ。たとえば、資源を消費する能力が高くなりすぎて、未来の世代に何も残さないケース。あるいは、求愛のための性的装飾が凝ったものになりすぎて、集団全体が悲惨なほど捕食されやすくなる、などがそれにあたる。

「がんは裏切る細胞である」
p.21

"進化" は "変化" であって、"良くなる" ことではありません。進化の袋小路に入り込んで、結果として環境変化についていけずに絶滅するようなことも起きる。これも進化です。


多細胞ルールブック


がんとは何かを知るためには、多細胞生物の "細胞レベルでの基本的な振る舞い" を理解する必要があります。多細胞生物は、膨大な数の細胞同士が、ルールにのっとって協力することで成り立っています。このルールを著者は「多細胞ルールブック」と表現しています。そのルールブックに記されている重要点は、次の5つです。


1.無秩序に分裂してはならない

1個のまとまりある多細胞の体として発達し、適切に機能するためには、細胞は勝手な増殖や分裂を抑えなければならない。このルールがなければ、多細胞生物としての構造や機能は損なわれ、際限なく大きくなり続けてしまう。

2.集団への脅威となったら自らを破壊せよ

細胞は、多細胞の体の生存能力を脅かす場合がある。細胞が遺伝子変異を起こして無秩序に分裂するというのが、そうした例のひとつである。あるいは、たとえば胎児の手指・足指のあいだにある水かきの細胞も、そのまま残っていたら正常な発達の妨げになる。アポトーシスというかたちで自死するメカニズムがあるからこそ、邪魔者の細胞がひそかに自らを消し去ることができる。

3.資源を共有し、輸送せよ

多細胞生物の体が二、三ミリより大きくなると、拡散(濃度の高いほうから低いほうへ物質が移動すること)だけでは酸素や栄養素が内側の細胞にまで行き渡らない。資源を能動的に輸送するための何らかの仕組みが必要になる。たとえば、私たちの消化器系と循環器系は複雑な資源輸送システムである。これがあるおかげで体内の細胞は栄養を手に入れ、生き続けるのに必要なすべての仕事をこなすことができる。

4.与えられた仕事をせよ

多細胞間の協力体制を支える柱のひとつが分業である。体内の細胞は数百種類に及び、それぞれが異なる仕事をしている。肝細胞は血液を解毒し、心臓の細胞は血液を送り出し、神経細胞は電気信号を伝達する。細胞が仕事をやめたり、仕事を正しくこなせなくなったりすると、多細胞の体にとっての脅威となり得る。間違ったときに間違った遺伝子を発現させ、広範な調節システムを大混乱に陥れかねず、そうなると多細胞の体はうまく機能することができない。

5.環境の世話をせよ

私たちの体はそれ自体が一個の世界だ。細胞は組織構造をつくってその中で暮らし、老廃物を蓄積させないように集めて除去するシステムをもっている。細胞は発達の過程で、そうした内なる世界を築いていき、私たちが生きているあいだじゅうそれを維持しながら、構造を保持して老廃物を取り除き続けている。組織構造があるおかげで、細胞は(周囲の組織に侵入することなく)本来の場所にとどまりやすくなっている。また、それによって個々の細胞は遺伝子発現の状態をあるべき姿に保ち、正しいタンパク質を製造して適切に自らの仕事を実行することができている。

「がんは裏切る細胞である」
p.47 - p.48

この "多細胞ルール" のどれか、あるいは全部を破る細胞が、がん細胞です。その発端は遺伝子の変異です。一般的に遺伝子が変異した細胞は死滅することが多く、また生存・死滅にかかわらない中立的な変異も多い。しかし(たまたま)多細胞ルールを破る細胞が現れ、それがその時の体内環境によって「選択」されることが起こります。


多細胞ルールブックの根底にある遺伝子のメカニズムは、ときに壊れることがある。原因は、DNAの塩基配列が変異したり、エピジェネティクスの変化(遺伝子発現の異常など)が生じたりするためであり、それによって細胞が異常をきたし、多細胞としての約束事に従わなくなる。すると、協力のルールをきちんと守っている細胞をいいように利用し、生存と繁殖において自分だけが得をする場合がある。

ひとつ指摘しておくが、普通であればそういうことはめったに起こらない。異常のせいで細胞の生存能力は低下するうえ、仮に何らかの利益が生まれる(増殖速度が上がるなど)にしても、その異常性が標的にされて破壊されるケースが多い。体には、がん化のおそれのある細胞を見つけ出して取り除くメカニズムが備わっている。このメカニズムのおかげで、変異した細胞が利益を得るおそれがあっても排除されるのが普通だ。にもかかわらず、変異した細胞のほうが正常な細胞よりも生き残るうえで有利になることがある。

「がんは裏切る細胞である」
p.48 - p.49

ここで述べられているように、多細胞ルールブックに反する遺伝子変異が、その細胞の生き残りと増殖にとって有利になる場合があります。たとえば、増殖の抑制が利かない、アポトーシス(=細胞の自死)が起きない、代謝異常のため資源を浪費する、といった変異です。またがんを抑制する遺伝子の変異もルール破りにつながる。

生物の集団全体でみると、多細胞ルールブックどおりに行動する《協力者細胞》の多い生物の方が、より長く生きて多くの子孫を残します。しかし局所的に見ると、自然選択が《裏切り者細胞》に有利に働くことがあるのです。


がん抑制のメカニズム


「進化」を「体細胞進化」と「生物進化」の2つのマルチレベルでとらえると、「生物進化」のレベルにおいて、生物は「がん抑制のメカニズム」を発達させてきました。著者はそれを「細胞の良心」「ご近所の目」「体内の警察隊」の3つのカテゴリーで説明しています。

 細胞の良心 

まず細胞内には、自身のがん化の兆候を認識し、しかるべき対応をとるように伝達する遺伝子の情報ネットワークが存在します。その代表が、TP53 という遺伝子(=がん抑制遺伝子)を中心とするネットワークです。


TP53などのがん抑制遺伝子と、そこに情報を送り込む情報ネットワークは、DNAの損傷や異常なタンパク質を発見するためにつくられている。また、細胞が何らかのかたちで正常な状態を逸脱し、もはや多細胞の体全体の適応度を高める役に立っていない場合も、そのことを示すシグナルを検出する。細胞内の情報が織り成す広大なネットワークにおいて、TP53は中心的な中継点ともいうべき存在であり、細胞版の中央情報局よろしく細胞の動向に目を光らせている(下図参照)。

さらには、細胞内と周辺から来るありとあらゆるシグナルをまとめ上げ、個々の細胞の運命がどうあるべきかを「決定」する。このことから、がん研究者はTP53を「ゲノムの守護者」と呼んできた。でも私は「ゲノムの《裏切り者》発見器」として捉えたい。TP53遺伝子は活性化されると、細胞の複製を止め、ただちにDNAの修復を開始させる。そして、細胞の損傷が大きすぎる場合は、アポトーシス(プログラム細胞死)のプロセスを始動させる。

「がんは裏切る細胞である」
p.56

TP53を中心とした情報ネットワーク.jpg
TP53 の遺伝子ネットワーク

がん抑制遺伝子TP53は遺伝子ネットワークの中心的な中継点であり、特定の細胞が生物の生存能力を脅かすかどうかを「判断」している。p53タンパク質を製造することにより、細胞機能の様々な側面から情報を集め、細胞の裏切り(代謝の異常,ゲノムの不安定化、不適切な移動など)の徴候が確認されたら細胞周期を停止したり、DNAを修復したり、必要であればアポトーシス(細胞の自死)を誘導したりもする。本書 p.57 の図3-3 より引用。

 ご近所の目 

次は近接した細胞同士が互いに監視しあい、周囲の細胞とは違う異常行動をする細胞を排除する仕組みです。


住民が近隣の様子に目を光らせるように、細胞も隣接する細胞のふるまいを監視している。この監視があるおかげで、細胞は自分たちの「地区」の只中で脅威が発生するのを防ぎ、周囲の細胞が多細胞の体の中で適切にふるまえるようにしている。具体的には、隣接細胞の遺伝子の発現状況を感知して、異常の起きた形跡がないかを確認しているのであり、そうした異常のひとつが細胞の裏切りである。

通常、細胞は周囲から発せられるシグナルに対してきわめて敏感だ。ニューヨークのスローン・ケタリング記念がんセンターのセンター長クレイグ・トンプソンは、この極端なまでの敏感さを次のようにたとえた ── あなたの体内の細胞という細胞が毎朝目覚めるたびに自殺を考えるが、周囲にうるさく説得されて思いとどまっているようなものだ、と。

実際、隣接する細胞間ではまさしくこれに似たようなことが起きていて、細胞同士は「生存せよ」というシグナルを絶えず交わし合っている。しかし、近くのいずれかの細胞から「気に食わない」とされたら、自死のプロセスを開始することができる。どこかの細胞が隣の細胞の急速な増殖に「気づいた」ら、その細胞は隣に向けて「生存せよ」の信号を送るのをやめたり、自死を促すシグナルを発したりする場合もある。こうした周辺監視システムも、がん細胞予備軍から全身を守る一助となっている。

「がんは裏切る細胞である」
p.58 - p.59

 体内の警察隊 

そして最後は免疫システムです。免疫はがん特有の抗原を感知し、その抗原を発現しているがん細胞を排除することができます。


細胞内部や近隣の監視メカニズムでは細胞の裏切りを抑え込めない場合、体には頼るべきもうひとつの防衛線がある。免疫系だ。免疫細胞は体内を巡回しながら全身のあらゆる領域に絶えず目を配り、異常な遺伝子発現がないかどうかを探している。それにより、細胞が正しくふるまっていないことを示す徴候(過剰増殖、過剰消費、不適切な細胞生存など)を間接的に監視している。

免疫細胞が具体的に標的にするのは「腫瘍抗原」である。腫瘍抗原とは、がん細胞が遺伝子を発現したときに生じるタンパク質のことだ。これが存在すると、細胞が不適切なふるまいをしている可能性があることに免疫細胞が「気づく」。腫瘍抗原タンパク質は、正常な細胞周期(細胞増殖においてDNA複製と細胞分裂が繰り返される周期)が乱されたり、隣接する細胞との結合が断たれたり、細胞のストレス応答が起きたりしているときにも分泌される。

免疫系は、あらゆる組織系、あらゆる器官系での細胞のふるまいに関する情報を集め、何らかの不具合を示すしるし(この腫瘍抗原の存在など)を見つけたら、その場所に免疫細胞を動員する。多細胞の体に害をなすものは何であれ、免疫細胞の捜索・破壊ミッションの対象となる。がん細胞も例外ではない。がん細胞を発見したらそれを排除する能力が免疫系にはあり、そうすることで体をがんの脅威から守っている。

「がんは裏切る細胞である」
p.59 - p.60


トレードオフ


以上のような「がん抑制メカニズム」があるにもかかわらず、なぜ、がんが発生するのでしょうか。生物レベルの進化の過程で「がんは完全に抑制できる」ようにならなかったのでしょうか。

その理由は、ヒトの(生物の)胎内から墓場まで、数々の場面で細胞が "がんのように振る舞う" 必要があるからです。つまり「がん抑制メカニズムを強くしすぎると、正常に生きていくことに支障をきたす」という "トレードオフ" の関係があるのです。


TP53遺伝子のようながん抑制メカニズムを通して、細胞の自由を抑え込む力を今より強めたらどうなるだろうか。《裏切り者》を有利にする進化のプロセスを遅らせたり、場合によっては完全に停止させたりすることも不可能ではない。

しかし、コントロールが強すぎると、私たちの健康や生存能力が損なわれるおそれがある。なぜかといえば、健康に生きることを助けてくれる重要な仕組みの多くは、細胞が「がんのように」ふるまうことを求めるからだ。急速に数を増やし、体内を動き回り、組織の中に入り込むといったふるまいがそれにあたる。

たとえばどこかに切り傷ができたとしよう。傷を治すには細胞が増殖し、移動して傷をふさがなくてはいけない。細胞のふるまいを制限しすぎたら、切り傷は治癒しなくなる。それだけではない。あとで見るように生殖能力が低下し、加齢とに組織を再生するのが不可能になるうえに、感染症にかかりやすくなるという結果にもつながる。

細胞をコントロールしすぎると不利益が生じることは、すでに胚の発達過程からはっきりと見てとれる。そもそも胚が無事に生育していけるかどうかは、細胞の増殖と移動にかかっている。そのため胎内では、細胞が無秩序に複製しないように抑制する必要がある一方で、適切な発達のためには細胞に相応の自由を与えて動き回れるようにしてやらないといけない。こうした綱渡りを考えると、たったひとりでも生きて子宮を出られることが奇跡に思えてくる。

「がんは裏切る細胞である」
p.72 - p.73

細胞が急激に増殖したり、細胞が移動したりするといった振る舞いは、胚の発達過程からはじまって生体の傷の修復まで、数々のシチュエーションで必要になります。しかしこのような振る舞いは、まさにがん細胞が得意とするものなのです。


皮膚の表面に切り傷ができた場合、傷をふさいで組織を再建するために、周囲の細胞は増殖して新しい細胞をつくることを求められる。この新しい細胞には移動する能力も必要だ。運動性細胞の最先端となり、接着し合って傷口を閉じるのである。傷を短時間で治すことができれば、正常な機能へ迅速に復することができるし、傷が細菌などに感染するリスクも下げられるので、生物にとっては利益が大きい。そのため、私たちは進化を通じて傷を速やかに治癒させられるようになった。

だが、これには代償が伴う。体が「傷を閉じろ」というシグナルを発したら、細胞はそれに呼応してすぐに増殖・移動しなくてはならないからである。増殖して移動するというのは、がん細胞が成長して体内の新しい場所にコロニーをつくるときに用いる能力と変わらない

しかもがん細胞は実際に傷が生じたわけでもないないのに、傷の治癒を促す「偽の」シグナル(炎症反応を亢進させる因子など)をつくり出す。こうなると、多細胞が正常にふるまうためのチェック機能やバランス機能の裏をかけるようになる。がんが「癒えない傷」と称されることもあるのはこのためだ。

このように、傷を治すために体がもともともっているメカニズムを、がん細胞は自分勝手な目的に悪用する場合がある。傷の治癒をもたらすシグナル伝達システムがある種のがんに利用されると、組織は絶えず炎症が持続した状態になる。

「がんは裏切る細胞である」
p.94 - p.95

がん抑制遺伝子であるTP53が過敏だと細胞の早期老化につながったり、炎症が過度に引き起こされることが分かっています。つまり、細胞を自由にさせ過ぎるとがんのリスクが高まるが、逆に細胞の自由度を抑制し過ぎれば、成長が止まったり生殖に失敗する恐れが出てくるのです。本書の第4章、「がんは胎内から墓場まで」では、こういった "トレードオフ" の例が詳細に語られています。



本書の第5章は「がんはあらゆる多細胞生物に」と題されていて、植物を含む多細胞生物全般に "がん類似の" 異常増殖が見られることが説明されています。

さらに第6章「がん細胞の知られざる生活」では、がんが体内でどのように進化し、生息し、転移するのかが、研究者の立場から詳細に述べられています。


がんをいかにコントロールするか


第7章(最終章)は「がんをいかにコントロールするか」と題されていて、今後のがん治療に必要な視点が述べられています。

「がん = 進化しつつある体内微小環境」であり、がん組織は治療(抗がん剤、放射線など)への抵抗性があるように進化します。治療により一時的に多くのがん細胞が死滅したとしても、そのあとに残った抵抗性のあるがん細胞が一挙に増大して、結果として手が着けられなくなることが多々あります。

がんは「本質的に体の一部」です。従ってそれを「攻撃する」とか「根絶やしにする」といった考え方はまずいのです。


がんに関しては、戦争で使うような言い回しがよく用いられる。たとえば患者はがんと「闘い」、「勝つ」か「負ける」かする。確かに戦争の比喩には大きな影響力と強い説得力があるので、がん研究に対する支援を取りつけるうえでも、人類を共通の目標に向けて団結させるうえでも効果はあるかもしれない。

その反面、誤解を招く表現だともいえる。本質的に自らの一部であるものを、完全に根絶やしにすることなどできない。そういう攻撃的なアプローチが名案に思えるのは、私たちが「滅ぼすべき敵」としてがんを捉えているからである。

だが実態はどうかといえば、多様な細胞からなる集団が、私たちから浴びせられるあらゆる治療法に呼応して進化している。それががんの本当の姿にほかならない。そういう見方をしない限り、私たちはひとつのリスクを冒すことになる。実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがあるのだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.13

「実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがある」と著者が書いているのは、「攻撃性の低い治療法の方が、結果として患者を延命させる効果が高い、ないしは治癒させる確率が高い」ことが十分に考えられるからです。医学界には「攻撃性が弱い」という理由で使われなくなった抗がん剤がいろいろありそうです。

では「がん = 進化しつつある体内微小環境」という視点にたつと、どのような治療方法が考えられるのでしょうか。そのヒントは「総合的病害虫管理」にあります。病害虫が農薬に対する耐性をつけることは常識化していますが、そのことを前提にしたのが総合的病害虫管理です。


総合的病害虫管理(IPM)は、化学農薬への抵抗性を農業病害虫に獲得させないことを目的とし、長期的な視点で病害虫を管理する手段のひとつだ。病害虫管理を効果的に行ううえでは、鍵となる考え方がある。化学農薬への抵抗性を得るために生物はコストをかけている、ということである。このため、化学農薬が存在しなければ、じつはそうした抵抗性をもつ生物のほうが不利になる

したがってIPMの取る第一の戦略は、何もしないことである。つまり、病害虫による損害が危険な閾値に達したときにのみ手を打てばいい。次なる戦略は病害虫の数を減らすこと。化学的な処置を用いてその数を閾値以下に戻し、病害虫による被害がそれほどひどくない状態にする。

IPMでは、病害虫の集団内にすでに抵抗性が存在しているという前提に立つ。そういう状況で一度に多すぎる量の農薬を使ったり、農薬を頻繁に散布しすぎたりしたらどうなるか。その処置への感受性のある病害虫はすべて駆除できても、それに抵抗力をもつものだけが残り、結果的に病害虫を長期的にコントロールするのは不可能になる。IPMはいずれこうした状況が生じ得るのを予期し、比較的低用量の農薬を使用する。それは、処置への感受性をもつ病害虫を根絶やしにするのではなく、長期的な個体数管理ができるようにするためである。

「がんは裏切る細胞である」
p.215 - p.216

ポイントは引用の最後にある「病害虫を根絶やしにするのではなく、長期的な個体数管理ができるようにする」というところです。この考え方をがん治療に応用できないか。

それを始めたのが、米国の腫瘍学者、ロバート・ゲイトンビーです。彼の治療は「適応療法」と呼ばれています。


IPMの論理にヒントを得てがんの新療法を開発したのが、フロリダ州タンパにあるモフィットがんセンターの放射線腫瘍学者ロバート・ゲイトンビーである。抵抗性を進化させないために病害虫を放っておくというIPMの戦略を知ったとき、その種のやり方をがん治療にも応用できないかとゲイトンビーは考えた。そして2008年、このアイデアをさらに深めるための一歩を踏み出した。私費を投じて、初めての前臨床研究をアリゾナ大学(当時そこで放射線学科の学科長を務めていた)で実施したのである。以来、病害虫管理の考え方をがん治療に用いる研究を続けている(現在は米国国立がん研究所をはじめとする様々な組織から助成金を得ている)。

農薬の場合がそうだったように、がん治療における最大の問題はがんが抵抗性を獲得してしまうことである。治療の最中にがん細胞が進化して治療への感受性を失い、治療が効かなくなる。化学療法に対して抵抗性が生じる問題は、これまでに試されたすべての抗がん剤で確認されている。たとえば、上皮成長因子受容体(EGFR)阻害剤や、ヒト上皮細胞増殖因子受容体2(HER-2)を標的にした療法などもそうだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.216 - p.217

本書ではゲイトンビーの「適応療法」のやり方が詳細に述べられています。


ゲイトンビーと同僚の開発した新たながん治療法は革命的なものであり、その狙いは腫瘍の一掃ではなく長期にわたる腫瘍のコントロールである。IPMの場合と同様にこの治療去が目旨すのは、腫瘍負荷(患者の体内にある腫瘍組織の総量)を限度以下に抑えつつも、治療に対するがん細胞の感受性を維持することにある。そうすれば同じ薬剤をいつまでも使い続けることができるうえに、環境(つまりこの場合は患者の体)へのダメージを拡大させることもない。

ゲイトンビーの手法は「適応療法」と呼ばれる。これは、腫瘍の状況に合わせて治療法自体を適応させる(変化させる)という意味から命名された。適応療法では、画像技術や血液検査によって腫瘍の状態を綿密にモニターする。腫瘍が成長しているのかいないのかがわかったら、その情報をもとに抗がん剤の用量を定める。どのように定めるかには何通りかのアルゴリズムがあるが、大原則は、腫瘍を安定した状態に保つとともに、患者へのダメージが大きくなりすぎないような腫瘍サイズを維持することである。管理する対象が腫瘍というだけで、本質的にはIPMと変わらない。

具体的な用量の決め方は研究によっていくらか異なるとはいえ、適応療法というプロセス自体の目指すところはひとつだ。つまり、腫瘍を安定させ、支配下に置くことである。まず最初に、腫瘍を小さくするために比較的高用量の抗がん剤を投与する(これによってがん性細胞集団の細胞数を減らすことで、その後の腫瘍内での進化のペースを遅らせる狙いがある)。

次に、腫瘍を定期的にモニターしながら、そのふるまいに応じた抗がん剤治療を行う。腫瘍のサイズに変化がなければ用量も変えない。腫瘍が成長したら用量を増やし(ただし最大耐量を超えないようにする)、大きくならなければ用量を減らす。腫瘍のサイズが所定の下限値を下回ったら、再びその一線を超えるまで投薬は停止する。あるいは、同じ用量を維持しながらも、腫瘍が当初の半分のサイズになったら投薬を中断するというやり方もある。

適応療法は、がんに対するこれまでの考え方を180度転換するものだ。破壊しようとするのではなく腫瘍が存在するのを許し、代わりにもっと手に負えるものに変える。これによりがんは急性の致死的な病から、扱いやすい慢性の病気へと変貌する。

投薬をしなかったり、低用量の投薬しか行わなかったりすれば、腫瘍内の細胞は薬剤への感受性を失わないので攻撃性が低下する。結果的に、同じ薬剤を使って治療を続けることができる。しかも、腫瘍が成長しつつあるときにしか治療の強度を上げないため、短期間で分裂する細胞が進化のうえで有利になることがない。むしろ、もっと時間をかけて増殖する細胞が選択されると考えられる。また、腫瘍内の細胞が進化する速度を遅くできる可能性も開ける。

もちろん、高用量の治療で完治させられることが明白なら(たとえば遺伝的に均一な細胞で構成されていて早期に発見された腫瘍などの場合)、適応療法が最善の選択肢とはいえないかもしれない。しかし、従来型の療法ではコントロールの難しい進行がんの場合には、適応療法が高用量療法に代わるものを与えてくれる。実際、のちに見ていくように、適応療法は後期のがんのコントロールに成果をあげてきた。

「がんは裏切る細胞である」
p.217 - p.218

引用の最後のパラグラフにあるように、「遺伝的に均一な細胞で構成されている早期に発見された腫瘍」の場合は、高用量の抗がん剤で完治できる可能性があるわけです。適用療法はあくまで腫瘍組織の精密な検査とセットで行うものです。

ゲイトンビーは数々の動物実験をしたあと、2016年に患者に対する臨床試験を始めました。


ゲイトンビーは2016年、同僚でがん専門医のジンソン・チャンと手を携え、適応療法をヒトに用いる初の臨床試験を実施した。試験に参加したのは転移性前立腺がんの患者11名であり、いずれももはやホルモン療法に反応しないことが予備試験で確認されていた。

通常、前立腺がん細胞は増殖のためにテストステロンを必要とするため、テストステロンの分泌を抑制するホルモン療法を行ってがん細胞が広がるのを防ぐ。ところが、前立腺がん細胞は往々にして自らテストステロンを産生することで、「去勢抵抗性」を獲得しやすい。アビラテロンという薬はテストステロンの合成を阻害するので、去勢抵抗性前立腺がんの治療によく処方される。

ただしそれも、がん細胞がアビラテロンへの抵抗性を進化させるまでのあいだにすぎない。治療を始めてからアビラテロンへの抵抗性が現れるまでの時間には個人差が大きい。通常の継続治療の場合、16.5か月経過した時点で患者の半数に腫瘍の進展が認められる(16.5か月というのは、去勢抵抗性前立腺がんが治療への抵抗性を得るまでの期間の中央値。このゲイトンビーの研究は対照群を含まない)。

ゲイトンビーによる適応療法の臨床試験では、腫瘍負荷を測定するのにPSA値を使用した。試験の手順は、試験開始時の50パーセント未満にまでPSA値が下がったら、アビラテロンの投与を中止するというものである。こうして、PSA値が低いときには腫瘍をそのまま放置しておき、PSA値が開始時の100パーセントを超えたときにのみ投薬を再開した。

ゲイトンビーはこのやり方により、標準治療よりはるかに長く腫瘍をコントロールし続けることができた。2017年10月(チャンとゲイトンビーの予備試験の論文掲載が受理された時期)の時点で、11人の患者のうちがんの進展が確認されたのはひとりのみ。これは驚異的な結果である。結局、応療法の臨床試験では、がんが進展するまでの期間の中央値は少なくとも27か月であり、典型的な16.5か月を大幅に上回った。それどころか、実際には27か月よりはるかに長かったと思われる(臨床試験中にがんが進展する患者の数があまりに少なかったため、本当の中央値を計算することができない)。しかも、適応療法の患者が投与されたアビラテロンの総用量は、推奨される標準治療の半分にも満たなかった。

「がんは裏切る細胞である」
p.220 - p.221

がんが「体細胞の進化」であるという視点にたつと、適応療法以外にも治療のアイデアが浮かびます。その一つが「おとり薬」です。


進化という視点に触発されたゲイトンビーのがんコントロール戦略には、がんを優位に立たせないための独創的で気の利いた発想がたくさんある。たとえば、抵抗性にはコストがかかる(薬剤に抵抗するために細胞は働いてエネルギーを消費しなくてはならない)という点を踏まえ、ゲイトンビーはひとつのアイデアを思いついた。抵抗性をもつ細胞にそのコストを費やさせながらも、それによってかならずしも利益を得られないような状況をつくってはどうか。多剤抵抗性を得ている細胞は薬剤排出ポンプをもっていることが多く、このポンプを運転するにはエネルギーを必要とする。

多剤抵抗性という特性はむしろ弱点であり、その弱みにつけ込むことができるとゲイトンビーは考えた。どうするのかというと、細胞に「おとりの薬」を与える。毒性がまったくないか、最小限の毒性しかないような物質だ。このおとりの薬ががん細胞に薬剤排出ポンプを稼働させてエネルギーを使わせるにもかかわらず、抵抗性のない細胞と比べて生存上の利点があるわけではない。ゲイトンビーはこの種の薬を「代用薬(ersatzdroges)」と呼んでいる。「おとりの薬」より響きがいいし、意味は変わらないからである。

ゲイトンビーと同僚は、培養した抵抗性細胞の増殖率を代用薬で下げられることと、代用薬を投与したモデルマウスの細胞のほうが(抵抗性をもたない類似の細胞株より)増殖率が低いことを見出した。この戦略によって抵抗性細胞は「只働き」をさせられ(分子モーターを動かして実際には薬剤ではない物質を汲み出し)、結果的に増殖に振り向けるエネルギーが減った。

「がんは裏切る細胞である」
p.230 - p.231

この「おとり薬」は、上の引用にあるように試験管レベルの研究ですが、こういう発想がでてくるのも「体細胞の進化」という視点でがんを見ているからです。次の「腫瘍に資源を与える」も、根本の見方は同じです。


腫瘍内部が低酸素状態だというのは、腫瘍微小環境の重要な要素である。酸素濃度が低い環境では、がん細胞は浸潤と転移を起こしやすい。資源が乏しいと、すぐに移動できるがん細胞が生存と繁殖のうえで有利になるからだ。これまでの研究からは、腫瘍への資源供給を正常化するとむしろ転移を減らすことができ、低用量の抗血管新生薬(腫瘍への血流の調節を助ける)を用いると治療への反応がよくなることが示唆されている。先にも触れたように、資源の流れが正常に近づくのは、適応療法でもたらされる結果のひとつでもある。適応療法が成果をあげている背景には、この資源の正常化があるのかもしれない。

腫瘍への資源の流れを正常にすれば、腫瘍内の細胞がどんな生活史戦略を進化させるかに影響を与えられる見込みが大きい。一般に、低レベルではあるが安定した資源を利用できるときには、遅い生活史戦略を採用する個体のほうが生存と繁殖において有利になる。腫瘍への資源供給を正常化した場合も、おそらく同じことが起きるだろう。つまり、より遅いペースで増殖し、分散しにくい細胞が選択されるということである。

安定した資源を腫瘍に供給するのは、直感に反する行為に思えるかもしれない。腫瘍というのは飢えさせるべきなのではないか、と。

だが、それをすれば、内部の細胞が遺伝子の発現状態を変えて移動性を得やすくなるうえ、すぐに移動できる細胞ほど選択されるという結果も招く。これが厄介な問題を引き起こすのはいうまでもない。むしろ腫瘍に(安定した低レベルの)資源を与えてやれば、腫瘍はその場にとどまったまま成長を続けてくれる可能性がある。全体として見れば、浸潤と転移を促すよりそちらのほうがはるかに好ましい。

「がんは裏切る細胞である」
p.232 - p.233

本書に「細胞版共有地の悲劇」という話が出てきます。「共有地の悲劇」とは、共有の牧草地で各人が銘々勝手に放牧すると草が食べ尽くされて共倒れに陥るという寓話です。

がん組織が組織周辺の資源を消費し尽くしたら「共有地の悲劇」が起こり、がん細胞は全滅します(資源不足、老廃物を解毒できない、など)。がんがこれをのがれるように進化するには、

・ もっと多くの資源を得るべくシグナルを送る
・ 新天地に移動する

ですが、このように進化するとまずい事態になります。そうなるよりも、がんに資源を与える方がよい。そういう考え方です。


体本来の機能によるコントロール


進化の視点からがんのコントロールを考えるとき、適応療法以外にもう一つ重要なポイントがあります。生物が進化の過程で得た「がんを抑制するメカニズム」を使う、つまり体本来の機能を使うことです。

がん細胞は、ヒトが本来もっている「がんを抑制するメカニズム」からのがれるための仕掛けを使います。この仕掛けを無効にするような治療です。一つの方法は、がん抑制遺伝子(TP53など)が変異しているとき、その機能を回復することです。これは研究段階にあります。さらに本書では「ご近所の目 = 地区レベルの監視システム」と「体内の警察隊 = 免疫」の活用があげられています。


体本来の《裏切り者》検出システムの能力を高めるもうひとつの方法は、「地区」レベルでの監視システムをあるべき姿に戻すことだ。つまり、近所の細胞同士で監視させることである。

がん細胞は創傷治癒因子を分泌して、周辺の正常な細胞を自分の目的のために利用することが多い。その種の因子のシグナルが何を意味しているかといえば、要は増殖や細胞の移動といったふるまいを黙認せよと周囲の細胞すべてに告げている(これには、周辺細胞に裏切り検出の閾値を上げさせることも含まれる)。

がん細胞は傷を治癒するというシグナルを発することで、近隣の細胞から見咎められずにたちの悪い活動にいそしむことができる。NSAIDs(引用注:非ステロイド系の抗炎症剤のこと)で炎症を減らすとがんのリスクが低下するのは、ここに理由の一端があるのかもしれない(炎症を軽減すると、DNAの変異と小規模欠失の直接原因となり得る活性酸素の減少にもつながる)。

炎症を抑えれば、シグナル伝達がなされる環境をきれいにする効果もある。そのおかげで、周辺でがんのような異常なふるまいが起きていることに正常な細胞が正しく気づけるようになるのかもしれない。また、炎症という「ノイズ(雑音)」が消えることで、免疫細胞が「本物のシグナル(信号)」(つまりがん細胞)に集中しやすくなるとも考えられる。

「がんは裏切る細胞である」
p.237

この引用部分から類推できることは、がん細胞が出す "傷を治癒するという偽のシグナル" をブロックできれば、周囲の細胞の監視によってがん細胞を排除できる可能性があるわけです(可能性の一例ですが)。こういったタイプのがん治療は、今後の研究に負うところが多いようです。



本書からは離れますが、2021年4月8日放送の NHK BSプレミアム「ヒューマニエンス "がん" それは宿命との戦い」に、京都大学の藤田恭之やすゆき教授が出演されました。藤田教授が示された映像は、腎臓の上皮細胞(表面の細胞)にできた"がん予備軍"(異常増殖)を、周囲の細胞が協力してはじき出し、それが尿といっしょに排出されるものでした。

番組では細胞のこういった機能を「細胞競合」と呼んでいましたが、藤田教授がなぜ細胞競合を研究されているかというと、もちろん、がんの治療に役立てたいからです。



2つ目は「体内の警察隊 = 免疫」の活用で、こちらの方は既に実用化されています。


がんをコントロールする方法はまだある。免疫系の働きを再度活発にして、がんを食い止めておけるようにすることだ。すでに見てきたように、がん性細胞は様々な戦略を編み出して免疫系に見つからないようにしている。しかし、免疫系ががんに反応し続けられるようにするだけでなく、がん細胞が免疫系から隠れられないようにすることは不可能ではない。それを目指すのががん免疫療法である。

がん細胞は自らの表面にあるタンパク質を変えることで、正常な細胞であるかのようなふりをすることがある。あるいは、免疫細胞をうまく利用して自らに有利なシグナルを出させ、何も異常がないから放っておいて大丈夫だと勘違いさせる場合もある。さらには、免疫系の武器である《裏切り者》検出システムをじかに妨害するケースもある。

正常な状態であれば、私たちの免疫系はチェックとバランスのシステムを通じて脅威(がん細胞や病原性微生物など)に対処している。その一方で、脅威が去れば警戒態勢を緩めることもできる。免疫系がどうやってそれを行っているかというと、「免疫チェックポイント」と呼ばれる機能を用いている。これは、脅威が存在しないという情報を受け取ったときに免疫応答を止める機能であり、環境中に《裏切り者》がいないことに気づいたら警戒態勢を解くよう免疫系に告げるシステムといっていい。

このようにして免疫系の警戒態勢を解除できることは、私たちの健康にとってきわめて重要な意味をもつ。そういう仕組みが備わっていなければ、私たちは自己免疫や過剰な炎症に苦しむ羽目になるからだ。ところが、これががんのつけ入る隙を生むことにもつながる。がん細胞がこの免疫チェックポイント機能をあざむく因子を分泌し、免疫応答を停止させる進化を遂げるからである。

現在、がん免疫療法で最も有望視されているのはまさにがんのこの能力を妨げるものであり、「免疫チェックポイント阻害療法」と呼ばれる。この療法ではがんのつくり出す分子の働きを妨げ、免疫系を不活性化できないようにする。結果的に免疫系は本来の働きを回復し、《裏切り者》細胞を発見できるようになる。おかげで、以前は治りにくかったがん(メラノーマや肺がんなど)についても、一部の患者では治療に成功している。

「がんは裏切る細胞である」
p.237 - p.238

「免疫チェックポイント阻害療法」は、本庶ほんじょたすく先生が開発の道を開かれたものです。先生が2018年のノーベル医学生理学賞を受賞されたのは、これが画期的だと認められたからでしょう。


未来へ向けて


がんは "やっかいなルームメイト" であり、我々はこのルームメイトと一緒に暮らしていくしかありません。目標とすべきは、

がんを対処可能な慢性疾患にする

ことです。著者は本書の最後の方で次のように述べています。


ヒトががんと共に進化してきたことを理解し、それを受け入れれば、人類の健康と幸福のためによりよい未来を形づくることができる。多細胞生物が誕生したときからがんは生命の一部であり、つねに私たちと一緒に進化の道のりを歩んできた。この世に人類が登場したときから、私たちはこの《ただ乗り》のルームメイトと暮らしてきたが、そうして招かざる道連れを伴いながらも、進化の見地からすれば成功を収めてきた。

進化はじつに強い力である。この惑星の生命に多様性を与えるとともに、体内のがん細胞の多様性と回復力を生む原動力ともなってきた。がんによる負荷を減らすうえで最も有望なのは、この進化の力を私たちの手中に収めること。つまり、私たちの命を奪う存在にさせないように、また、制御不能の存在にさせないように、腫瘍の進化の道筋を方向づけてやることである。私たちは自分で気づいている以上に、その進化の方向性を左右できるかもしれない。

「がんは裏切る細胞である」
p.245

最後に、著者が書いているギリシャ神話の神の話を紹介します。ギリシャ神話に登場する戦いの神、アレスとアテナの対照的な戦い方です。


アレス神は圧倒的な攻撃力で戦いに臨み、いかなる犠牲を払おうとも敵に最大限の損害を与えることを目指す。

「がんは裏切る細胞である」
p.15

戦いの神・アレス(アーレス)は男性神で、ローマ神話ではマルスです。一方、アテナは女性神で、古代ギリシャの中心都市、アテネ(アテナイ)の守護神です。


アテナは知恵と戦いの神だが、どんな戦い方でもいいわけではない。アテナは戦略の女神である。荒々しい力で勝利をもぎ取るのではなく、何のための戦いかを明確にしたうえで敵の弱みを把握する。そして相手の弱点を利用し、最小限の力で、しかも周辺に無用の被害が及ばないようにしながら勝利を手にする。

「がんは裏切る細胞である」
p.15

著者は子供の頃をアテネで暮らしたギリシャ系アメリカ人です。祖母はアテナという名前で、彼女の名前は祖母の名からとったものです。そのアテナの英語読みがアシーナ(Athena)です。著者は、未来に向けたがん治療のあり方を、自らの名前の由来になったギリシャ神話の神・アテナの戦い方になぞらえているのでした。




nice!(0)