No.380 - 似鳥美術館 [アート]
過去の記事で、13の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。ちなみに最後の「松下」は、松下幸之助のことではなく、霧島市出身の医師、松下兼知氏です。
今回は、その "個人コレクション美術館" シリーズの14番目として、北海道・小樽市にある似鳥美術館のことを書きます。
小樽
似鳥美術館について語る場合、まず、小樽という都市の歴史から入るのが適切でしょう。小樽は、明治になってからニシン漁の拠点として発展を遂げました。多いときには年間1億トンの水揚げというからすごいものです。これらのニシンは小樽港から全国に運ばれました。当時のニシンの大部分は、乾燥させて粉にして農作物の肥料になったのです。
小樽は北海道開拓使が置かれた札幌と近い距離にあります。明治政府は小樽港を北海道開拓の玄関口として整備しました。北海道最初の鉄道が敷設されたのも札幌・小樽間で、小樽は北海道の物流の拠点として繁栄しました。その物流の重要品目は、北海道内陸部で採掘された石炭でしたが、小樽港から全国に積み出され、明治以降の日本の近代化に大いに寄与しました。
こういったことから、明治から大正、昭和(戦前)にかけての小樽は、北海道随一の産業都市として繁栄し、富が蓄積されました。もちろん、ニシン漁や石炭産業は戦後になって衰退していったのですが、小樽には当時の栄華を偲ばせる歴史的建造物が今でも残っています。小樽のシンボルは小樽運河とその周りの倉庫群ですが、これらはまさに歴史的建造物です。
小樽市は85件の「指定歴史的建造物」を指定し、保全費用の一部助成などを行っています。公開されているリストを見ると、建設時の用途は銀行、倉庫、邸宅、店舗、事務所、市庁舎(現在も市庁舎)、旅館、料亭、教会、寺院、神社などで、ほとんどは現在でも利用・再利用されています。これら、日本の近代化の歴史がフリーズして存在するような建造物群が、小樽の独特の都市景観を作っています。
小樽芸術村
2016年にニトリ・ホールディングスは、指定歴史的建造物をリノベーションして「小樽芸術村」を開設しました。現在は次の4つの施設で構成され、いずれも歩いてすぐの距離にあります。
ちなみに「美術館として建設されたのではない建物を美術館に転用」した例が、パリの著名美術館です。ルーブル美術館(宮殿)、オルセー美術館(駅舎)、オランジェリー美術館(温室)、ピカソ美術館(邸宅)、マルモッタン・モネ美術館(邸宅)など、多数あります。当初から美術館として建てられたのは、パリ市立近代美術館とポンピドー・センターぐらいしか思い当たりません。
またイタリアでは、フィレンツェのウフィツィ美術館(行政機関)、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(邸宅。No.217)などが "転用された美術館" です。
つまり、歴史的建造物を活用・再利用して美術館にするのは、ヨーロッパの "美術大国" ではよくある話なのです。また、これらの美術館の多くは、建物が本来の目的で建設・使用された時期と、そこに中心的に収集されている美術品の創作時期が重なっていることに注意すべきでしょう(ルーブル=古典、オルセー=印象派とその前後、など)。
似鳥美術館をはじめとする「小樽芸術村」も歴史的建造物のリノベーションであり、その中心的な収集品の創作時期は、小樽が栄華を誇った時期(19世紀末~20世紀前半)と重なります。美術館のあり方の "王道" と言えそうです。
なお小樽芸術村はその公益性が認められ、2020年からは公益財団法人・似鳥文化財団が運営しています。
似鳥美術館
似鳥美術館は、1923年(大正12年)に竣工した北海道拓殖銀行小樽支店の建物をリノベーションし、ニトリ・ホールディングスの代表取締役・会長、似鳥昭雄氏の個人コレクションをもとに、2017年秋に開館しました。ちなみに似鳥氏は小樽出身ではありませんが、北海道の出身であり、北海道で起業された方です。
似鳥美術館に収集されている主な美術品の作家と生没年を年代順にリストしてみると、まず油絵(洋画)では、
などです。明治に入ってから日本の洋画を牽引してきた画家がそろっていて、まさに小樽の発展と繁栄の歴史と重なります。また日本画では、
などの作品を所蔵しています。このリストを見ると、山下清より下を除き、いずれも小樽の産業都市としての繁栄期(19世紀末~20世紀前半)に活躍した画家です。なお日本画では、江戸期の画家である伊藤若冲(1716-1800)と谷文晁(1763-1841)の作品も所蔵しています。若冲の作品は「雪柳雄鶏図」で、これは北海道にある唯一の若冲作品だそうです。
似鳥美術館には、彫刻・立体作品も収集されています。
なとです。さらにヨーロッパの画家・彫刻家では、
などの作品があります。
以上にあげた作家の作品から、この美術館の "顔" とも言える2つの作品、
藤田嗣治「カフェにて」
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
を以下に紹介します。この2作品と似鳥美術館の建物に共通するキーワードは「1920年代」です。日本では大正末期から昭和初期、世界では第1次世界大戦が終了してから世界恐慌が始まるまでの時期です。
藤田嗣治「カフェにて」
藤田嗣治の「カフェにて」(ないしは「カフェ」)と題する作品は、油絵だけでも4作品あり、これらはすべて同じ画題と構図の "連作" です。そこでまず、藤田嗣治の生涯と、この連作が描かれた経緯を整理しておきます。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)に東京で生まれました。子供のころから絵を描き始め、東京美術学校(現、東京藝大)を卒業しましたが、画壇から認められることはありませんでした。
1913年(大正2年)、26歳のときに藤田はパリに渡ります。それ以降、1920年代にかけて、乳白色の下地を使った独自の画風を確立し、パリで著名な画家となりました。藤田の代表作と言われる作品の多くはこの時代に描かれています。
1931年から、藤田は中南米へ旅に出ます。各地の人々をモデルに絵を描き、個展を開催しました。ブラジル、アルゼンチンから、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコへと渡り、アメリカ西海岸を経て、2年後の1933年に日本に帰国しました。
帰国した日本でも創作を続けます。壁画の大作「秋田の行事」(1937)はこの時期の作品です。また、陸軍報道部の要請で戦争記録画を描きました(「アッツ島玉砕」1943、など)。
戦後の1949年(昭和24年)、美術家の戦争責任問題が起こったのを契機に藤田は日本を去る決意をし、10ヶ月間ニューヨークに滞在したあと、フランスに落ち着きます。そして、1955年にフランス国籍を取得して帰化ました。1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなります。晩年はフランスのランスに礼拝堂を建設し、その完成から2年後に亡くなりました(1968年、81歳)。
「カフェにて」の第1作は、フランスに永住する直前、ニューヨークに滞在したときに描き、個展で発表したものです(1949年)。藤田はこの絵を自分で作った額縁に入れてフランスに持参し、パリ国立近代美術館(現、ポンピドー・センター)に寄贈しました。
藤田嗣治の研究者で、美術評論家の村上哲氏は、この絵について次のように書いています(原文に段落はありません)。
窓越しに見えるカフェの屋号は「ラ・プティト・マドレーヌ」(LA PETITE MADELEINE)ですが、村上氏によるとこれはプルーストの「失われた時を求めて」の第1篇「スワン家の方へ」に出てくる文言です。つまり、紅茶に浸した「一片の小さなマドレーヌ」(La Petite Madeleine)から幼少期の記憶がよみがえるという有名なエピソードに由来します。この言葉とエピソードは1920年代のパリの文化界に流布し、藤田もその頃に描いたカフェが登場する作品に用いたそうです。それを4半世紀後の本作品に流用した。
ただ、ここで再び「ラ・プティト・マドレーヌ」を登場させたのは、1930年代に藤田と行動を共にしたマドレーヌ・ルクーの追憶の意味ではないかと、村上氏は推測しています。マドレーヌ・ルクーは藤田の4人目のパートナーで、1931年からの中南米旅行に同行し、日本にも一緒にやってきましたが、1936年に急死し、日本に葬られました。本作品に描かれた女性の容貌は、残されたマドレーヌの写真と酷似しているそうです。であれば、藤田はマドレーヌに対する呵責と追憶の念からニューヨークで本作品を描き、それをマドレーヌの故郷であるフランスに持って行って寄贈したとの推測が成り立ちます。
それ以降、藤田はパリで同一構図の「カフェにて」を、油絵だけでも3作描きました。第2作と第3作は、窓越しのカフェに屋号はなく単に CAFE ですが、第4作では屋号が復活します。それが次の作品です。
この作品では窓越しに見えるカフェの屋号が「LA PETITE CLAIRE:ラ・ペティト・クレール」となっています。この屋号は、藤田の5番目の妻でパリに一緒に移り住んだ君代の洗礼名「Marie-Ange Claire:マリー=アンジュ クレール」を暗示しています。つまり LA PETITE CLAIRE は "愛しい君代" とも読める。かつ、この作品だけは他の3作と違って L.Foujita と署名されています(L はレオナール)。つまり洗礼を受けた1959年以降の作品であり、これが最後の「カフェにて」ということになります。藤田は少なくとも10年以上に渡って同じが画題と構図の「カフェにて」を描いたわけです。
以上を踏まえて似鳥美術館の「カフェにて」を見ると、窓越しのカフェに屋号はなく、署名は Foujita です。ということは4連作のうちの第2作か第3作ということでしょう。
「カフェにて」を見て感じるのは、描かれた経緯やそこに込められた画家の思いとは別に、皮のソファや大理石のテーブル、インクの染みがついた手紙などの質感表現が素晴らしいことです。藤田嗣治の画家としての確かな技量を感じます。
「カフェにて」の4つの連作が描かれたのは、1949年~1960年頃ですが、描かれている情景は19世紀末の香りが残る1920年代のパリです。つまり小樽が繁栄を誇っていた時代のパリのカフェです。
似鳥美術館には、藤田嗣治の代名詞ともいえる「乳白色の下塗り」を使った1920年代の作品も所蔵されています(「婦人と犬」1927)。似鳥美術館で2つの作品を見比べながら、日本人の画家として初めてパリ画壇での名声(= 世界での名声)を獲得した藤田嗣治の生涯に思いを馳せるのもよいでしょう。
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
岸田劉生は1891年(明治24年)に東京で生まれ、1929年に38歳という若さで亡くなりました。藤田嗣治より5歳年下ですが、ほぼ同時代人です。
画題にある "リーチ" とは、イギリス人の陶芸家、バーナード・リーチ(1887-1979)のことで、彼も同時代人です。リーチはイギリス領・香港に生まれ、幼少期に日本に住んだこともありました。美術家をこころざし、イギリスの美術学校で版画(エッチング)を学んだ人です。
リーチはたびたび日本を訪れ、日本での居も構えました。この過程で陶芸に惹かれ、作陶を学んで、陶芸家として知られるようになります。岸田劉生は1911年、東京での版画の展覧会でリーチと出会い、以降、劉生とリーチは交友関係が続いたようです。劉生はリーチにエッチングの手ほどきを受け、自ら作品も作っています。
1917年、26歳の劉生は結核の転地療養のために神奈川県藤沢市鵠沼に移住し、以降、関東大震災(1923年、大正12年)により鵠沼を離れるまでの6年半を過ごしました。この時期に制作が始められたのが、娘の麗子を描いた一連の「麗子像」です。と同時に、鵠沼時代には静物画にも取り組みました。その最後期(1921年・大正10年)に描かれたのが本作品です。
リーチ作の陶器の茶碗と湯呑、10個の果物が描かれています。劉生の日記によると、1つは梨で(右端)、緑色と黄色で描かれているのが半分色づいたミカン(2個)、その他はリンゴです(7個)。
この時期の日本の洋画ではめずらしいような、写実に徹した作品です。その、写実の技法で表現された静物の質感と存在感が際立っています。そして、一つ一つの静物の個性が表現されている。
まず、バーナード・リーチ作の茶碗と湯呑ですが、これは陶芸家が形を決め、絵付けをし、窯で焼くので、一つ一つが個性をもつのは当然です。しかし本作品では果物もそれぞれが個性を主張しています。
右端の梨は一番大きく、表面もなめらかで、つるんとして、堂々とある感じです。それに対して2つのミカンは熟する前で、半分か半分以上が緑の状態です。リンゴは赤と黄が複雑に混じって描かれていますが、この色使いは見たままではなく、表面の微妙な感じを誇張して描いたのでしょう。ミカンやリンゴはすべて違っています。現代のお店で購入するミカンやリンゴは、形が整っていて、大きさも色も均一の果物ですが、それとは全く違う様相です。
果物の一つ一つに違いがあり、どっしりとした重量感でテーブルの上に存在している。個性的なモノの存在そのものが美である、と画家は主張しているようです。その主張が、手作りの陶器を取り囲むように果物を並べることで鮮やかに浮かび上がる。果物が、右端の梨を先頭に隊列を組んで2つの陶器を守っているようにも見えます。
さらにこの絵の上半分は、直線を境にした明度の違う2つの灰色で単純に塗り分けられています。この背景は、現実のどこかの部屋の光景とは思えず、画家が作り出した抽象表現でしょう。その抽象表現の中に、非常に具象的な茶碗と湯呑と果物がドサッと置かれている、そのことが静物の存在感を倍加させているのだと思います。
これは、岸田劉生の静物画の代表作であると同時に、似鳥美術館のコレクション全体を代表する作品です。それは芸術としての出来映えに加えて、展示されている空間(= 北海道拓殖銀行小樽支店)が完成した1923年とほぼ同時期である1921年に描かれたからです。当時の日本は欧米に追いつこうと近代化に邁進していました。岸田劉生も、西洋から "輸入された" 油絵で独自の表現を模索し、短い生涯の中で画風やテーマを次々と変えていった。その過程における静物画の傑作が本作品です。
似鳥美術館の建物の中で展示作品を鑑賞すると「時代の空気を呼吸する」ことになります。その意味で美術館に最もマッチするのが、この岸田劉生の静物画でしょう。
ステンドグラスのギャラリー
似鳥美術館の1階のエントランスを入ったところに、ルイス・ティファニーが製作したステンドグラスのギャラリーがあります。ルイスは、ティファニーの創設者、チャールズ・ティファニーの息子で、ガラス工芸で活躍しました。
似鳥美術館の絵画・彫刻は、旧北海道拓殖銀行小樽支店の2階から4階に展示してあるのですが、そこへはステンドグラスのギャラリーを通り抜けて行くようになっています。数々の美術品が並ぶ "非日常" の空間へといざなうのがステンドグラスの部屋という、この展示構成が良いと思います。
No. 95 | バーンズ・コレクション | 米:フィラデルフィア | |||
No.155 | コートールド・コレクション | 英:ロンドン | |||
No.157 | ノートン・サイモン美術館 | 米:カリフォルニア | |||
No.158 | クレラー・ミュラー美術館 | オランダ:オッテルロー | |||
No.167 | ティッセン・ボルネミッサ美術館 | スペイン:マドリード | |||
No.192 | グルベンキアン美術館 | ポルトガル:リスボン | |||
No.202 | ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 | オランダ:ロッテルダム | |||
No.216 | フィリップス・コレクション | 米:ワシントンDC | |||
No.217 | ポルディ・ペッツォーリ美術館 | イタリア:ミラノ | |||
No.242 | ホキ美術館 | 千葉市 | |||
No.263 | イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 | 米:ボストン | |||
No.279 | 笠間日動美術館 | 茨城県・笠間市 | |||
No.303 | 松下美術館 | 鹿児島県・霧島市 |
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。ちなみに最後の「松下」は、松下幸之助のことではなく、霧島市出身の医師、松下兼知氏です。
今回は、その "個人コレクション美術館" シリーズの14番目として、北海道・小樽市にある似鳥美術館のことを書きます。
小樽
似鳥美術館について語る場合、まず、小樽という都市の歴史から入るのが適切でしょう。小樽は、明治になってからニシン漁の拠点として発展を遂げました。多いときには年間1億トンの水揚げというからすごいものです。これらのニシンは小樽港から全国に運ばれました。当時のニシンの大部分は、乾燥させて粉にして農作物の肥料になったのです。
小樽は北海道開拓使が置かれた札幌と近い距離にあります。明治政府は小樽港を北海道開拓の玄関口として整備しました。北海道最初の鉄道が敷設されたのも札幌・小樽間で、小樽は北海道の物流の拠点として繁栄しました。その物流の重要品目は、北海道内陸部で採掘された石炭でしたが、小樽港から全国に積み出され、明治以降の日本の近代化に大いに寄与しました。
こういったことから、明治から大正、昭和(戦前)にかけての小樽は、北海道随一の産業都市として繁栄し、富が蓄積されました。もちろん、ニシン漁や石炭産業は戦後になって衰退していったのですが、小樽には当時の栄華を偲ばせる歴史的建造物が今でも残っています。小樽のシンボルは小樽運河とその周りの倉庫群ですが、これらはまさに歴史的建造物です。
小樽市は85件の「指定歴史的建造物」を指定し、保全費用の一部助成などを行っています。公開されているリストを見ると、建設時の用途は銀行、倉庫、邸宅、店舗、事務所、市庁舎(現在も市庁舎)、旅館、料亭、教会、寺院、神社などで、ほとんどは現在でも利用・再利用されています。これら、日本の近代化の歴史がフリーズして存在するような建造物群が、小樽の独特の都市景観を作っています。
小樽芸術村
2016年にニトリ・ホールディングスは、指定歴史的建造物をリノベーションして「小樽芸術村」を開設しました。現在は次の4つの施設で構成され、いずれも歩いてすぐの距離にあります。
似鳥美術館(旧・北海道拓殖銀行小樽支店) 日本の作家による洋画、日本画、彫刻、および西欧の絵画が展示されています。 | |
ステンドグラス美術館(旧・高橋倉庫) 主としてイギリスの教会を飾っていたステンドグラス約100点を、教会の解体を契機に移設したものです。近接してミュージアム・ショップ(旧・荒田商会)があります。 | |
西洋美術館(旧・浪華倉庫) 西洋のアールヌーボー、アールデコのガラス製品や、磁器、家具・調度品などが展示されています。 | |
旧・三井銀行小樽支店 2022年に国の重要文化財に指定された建物です。建築そのものを "芸術" として鑑賞できるようになっています。 |
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ちなみに「美術館として建設されたのではない建物を美術館に転用」した例が、パリの著名美術館です。ルーブル美術館(宮殿)、オルセー美術館(駅舎)、オランジェリー美術館(温室)、ピカソ美術館(邸宅)、マルモッタン・モネ美術館(邸宅)など、多数あります。当初から美術館として建てられたのは、パリ市立近代美術館とポンピドー・センターぐらいしか思い当たりません。
またイタリアでは、フィレンツェのウフィツィ美術館(行政機関)、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(邸宅。No.217)などが "転用された美術館" です。
つまり、歴史的建造物を活用・再利用して美術館にするのは、ヨーロッパの "美術大国" ではよくある話なのです。また、これらの美術館の多くは、建物が本来の目的で建設・使用された時期と、そこに中心的に収集されている美術品の創作時期が重なっていることに注意すべきでしょう(ルーブル=古典、オルセー=印象派とその前後、など)。
似鳥美術館をはじめとする「小樽芸術村」も歴史的建造物のリノベーションであり、その中心的な収集品の創作時期は、小樽が栄華を誇った時期(19世紀末~20世紀前半)と重なります。美術館のあり方の "王道" と言えそうです。
なお小樽芸術村はその公益性が認められ、2020年からは公益財団法人・似鳥文化財団が運営しています。
似鳥美術館
似鳥美術館は、1923年(大正12年)に竣工した北海道拓殖銀行小樽支店の建物をリノベーションし、ニトリ・ホールディングスの代表取締役・会長、似鳥昭雄氏の個人コレクションをもとに、2017年秋に開館しました。ちなみに似鳥氏は小樽出身ではありませんが、北海道の出身であり、北海道で起業された方です。
似鳥美術館に収集されている主な美術品の作家と生没年を年代順にリストしてみると、まず油絵(洋画)では、
黒田清輝 | (1866-1924) |
岡田三郎助 | (1869-1939) |
藤田嗣治 | (1886-1968) |
小出楢重 | (1887-1931) |
梅原龍三郎 | (1888-1986) |
安井曾太郎 | (1888-1955) |
岸田劉生 | (1891-1929) |
中川一政 | (1893-1991) |
児島善三郎 | (1893-1962) |
林武 | (1896-1975) |
佐伯祐三 | (1898-1928) |
荻須高徳 | (1901-1986) |
小磯良平 | (1903-1988) |
などです。明治に入ってから日本の洋画を牽引してきた画家がそろっていて、まさに小樽の発展と繁栄の歴史と重なります。また日本画では、
富岡鉄斎 | (1836-1924) |
横山大観 | (1868-1958) |
下山観山 | (1873-1930) |
川合玉堂 | (1873-1957) |
上村松園 | (1875-1949) |
鏑木清方 | (1878-1972) |
小林古径 | (1883-1957) |
川端龍子 | (1885-1966) |
村上華岳 | (1888-1939) |
伊東深水 | (1898-1972) |
棟方志功 | (1903-1975) |
片岡球子 | (1905-2008) |
東山魁夷 | (1908-1999) |
杉山寧 | (1909-1993) |
山下清 | (1922-1971) |
加山又造 | (1927-2004) |
平山郁夫 | (1930-2009) |
千住博 | (1958-) |
などの作品を所蔵しています。このリストを見ると、山下清より下を除き、いずれも小樽の産業都市としての繁栄期(19世紀末~20世紀前半)に活躍した画家です。なお日本画では、江戸期の画家である伊藤若冲(1716-1800)と谷文晁(1763-1841)の作品も所蔵しています。若冲の作品は「雪柳雄鶏図」で、これは北海道にある唯一の若冲作品だそうです。
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伊藤若冲「雪柳雄鶏図」 |
似鳥美術館 |
伊藤若冲の初期作品。「雪が積もる木の枝を背景にした鳥」という構図は、後の『動植綵絵』の「雪中錦鶏図」を予見しているようである。No.371「自閉スペクトラムと伊藤若冲」の「補記2」を参照。 |
似鳥美術館には、彫刻・立体作品も収集されています。
高村光雲 | (1852-1934) |
高村光太郎 | (1883-1956) |
平櫛田中 | (1872-1979) |
岡本太郎 | (1911-1996) |
佐藤忠良 | (1912-2011) |
なとです。さらにヨーロッパの画家・彫刻家では、
ロダン | (1840-1917) |
ルノワール | (1841-1919) |
ヴラマンク | (1876-1958) |
ユトリロ | (1883-1955) |
シャガール | (1887-1985) |
ビュッフェ | (1928-1999) |
などの作品があります。
以上にあげた作家の作品から、この美術館の "顔" とも言える2つの作品、
藤田嗣治「カフェにて」
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
を以下に紹介します。この2作品と似鳥美術館の建物に共通するキーワードは「1920年代」です。日本では大正末期から昭和初期、世界では第1次世界大戦が終了してから世界恐慌が始まるまでの時期です。
藤田嗣治「カフェにて」
藤田嗣治の「カフェにて」(ないしは「カフェ」)と題する作品は、油絵だけでも4作品あり、これらはすべて同じ画題と構図の "連作" です。そこでまず、藤田嗣治の生涯と、この連作が描かれた経緯を整理しておきます。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)に東京で生まれました。子供のころから絵を描き始め、東京美術学校(現、東京藝大)を卒業しましたが、画壇から認められることはありませんでした。
1913年(大正2年)、26歳のときに藤田はパリに渡ります。それ以降、1920年代にかけて、乳白色の下地を使った独自の画風を確立し、パリで著名な画家となりました。藤田の代表作と言われる作品の多くはこの時代に描かれています。
1931年から、藤田は中南米へ旅に出ます。各地の人々をモデルに絵を描き、個展を開催しました。ブラジル、アルゼンチンから、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコへと渡り、アメリカ西海岸を経て、2年後の1933年に日本に帰国しました。
帰国した日本でも創作を続けます。壁画の大作「秋田の行事」(1937)はこの時期の作品です。また、陸軍報道部の要請で戦争記録画を描きました(「アッツ島玉砕」1943、など)。
戦後の1949年(昭和24年)、美術家の戦争責任問題が起こったのを契機に藤田は日本を去る決意をし、10ヶ月間ニューヨークに滞在したあと、フランスに落ち着きます。そして、1955年にフランス国籍を取得して帰化ました。1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなります。晩年はフランスのランスに礼拝堂を建設し、その完成から2年後に亡くなりました(1968年、81歳)。
「カフェにて」の第1作は、フランスに永住する直前、ニューヨークに滞在したときに描き、個展で発表したものです(1949年)。藤田はこの絵を自分で作った額縁に入れてフランスに持参し、パリ国立近代美術館(現、ポンピドー・センター)に寄贈しました。
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藤田嗣治 「カフェにて」 |
ポンピドー・センター |
連作の第1作で、1949年に描かれ、パリ国立近代美術館に寄贈された。2018年に東京都美術館で開催された「没後50年 藤田嗣治展」ではメイン・ビジュアルとなった。署名は Foujita となっている。 |
藤田嗣治の研究者で、美術評論家の村上哲氏は、この絵について次のように書いています(原文に段落はありません)。
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窓越しに見えるカフェの屋号は「ラ・プティト・マドレーヌ」(LA PETITE MADELEINE)ですが、村上氏によるとこれはプルーストの「失われた時を求めて」の第1篇「スワン家の方へ」に出てくる文言です。つまり、紅茶に浸した「一片の小さなマドレーヌ」(La Petite Madeleine)から幼少期の記憶がよみがえるという有名なエピソードに由来します。この言葉とエピソードは1920年代のパリの文化界に流布し、藤田もその頃に描いたカフェが登場する作品に用いたそうです。それを4半世紀後の本作品に流用した。
ただ、ここで再び「ラ・プティト・マドレーヌ」を登場させたのは、1930年代に藤田と行動を共にしたマドレーヌ・ルクーの追憶の意味ではないかと、村上氏は推測しています。マドレーヌ・ルクーは藤田の4人目のパートナーで、1931年からの中南米旅行に同行し、日本にも一緒にやってきましたが、1936年に急死し、日本に葬られました。本作品に描かれた女性の容貌は、残されたマドレーヌの写真と酷似しているそうです。であれば、藤田はマドレーヌに対する呵責と追憶の念からニューヨークで本作品を描き、それをマドレーヌの故郷であるフランスに持って行って寄贈したとの推測が成り立ちます。
それ以降、藤田はパリで同一構図の「カフェにて」を、油絵だけでも3作描きました。第2作と第3作は、窓越しのカフェに屋号はなく単に CAFE ですが、第4作では屋号が復活します。それが次の作品です。
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藤田嗣治 「カフェにて」 |
(個人蔵) |
連作の最後の作品で、署名は L.Foujita となっている。洗礼後に描かれた最後の「カフェにて」と推測できる。 |
この作品では窓越しに見えるカフェの屋号が「LA PETITE CLAIRE:ラ・ペティト・クレール」となっています。この屋号は、藤田の5番目の妻でパリに一緒に移り住んだ君代の洗礼名「Marie-Ange Claire:マリー=アンジュ クレール」を暗示しています。つまり LA PETITE CLAIRE は "愛しい君代" とも読める。かつ、この作品だけは他の3作と違って L.Foujita と署名されています(L はレオナール)。つまり洗礼を受けた1959年以降の作品であり、これが最後の「カフェにて」ということになります。藤田は少なくとも10年以上に渡って同じが画題と構図の「カフェにて」を描いたわけです。
以上を踏まえて似鳥美術館の「カフェにて」を見ると、窓越しのカフェに屋号はなく、署名は Foujita です。ということは4連作のうちの第2作か第3作ということでしょう。
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藤田嗣治 「カフェにて」 |
似鳥美術館 |
この絵が描かれた時期は確定できず、似鳥美術館では1949年~1963年としている。 |
「カフェにて」を見て感じるのは、描かれた経緯やそこに込められた画家の思いとは別に、皮のソファや大理石のテーブル、インクの染みがついた手紙などの質感表現が素晴らしいことです。藤田嗣治の画家としての確かな技量を感じます。
「カフェにて」の4つの連作が描かれたのは、1949年~1960年頃ですが、描かれている情景は19世紀末の香りが残る1920年代のパリです。つまり小樽が繁栄を誇っていた時代のパリのカフェです。
似鳥美術館には、藤田嗣治の代名詞ともいえる「乳白色の下塗り」を使った1920年代の作品も所蔵されています(「婦人と犬」1927)。似鳥美術館で2つの作品を見比べながら、日本人の画家として初めてパリ画壇での名声(= 世界での名声)を獲得した藤田嗣治の生涯に思いを馳せるのもよいでしょう。
岸田劉生「静物 - リーチの茶碗と果物」
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岸田劉生 「静物 - リーチの茶碗と果物」(1921) |
似鳥美術館 |
右上から縦に文字が書かれていて、1921年3月14日と読める。この絵が完成した日付けである。 |
岸田劉生は1891年(明治24年)に東京で生まれ、1929年に38歳という若さで亡くなりました。藤田嗣治より5歳年下ですが、ほぼ同時代人です。
画題にある "リーチ" とは、イギリス人の陶芸家、バーナード・リーチ(1887-1979)のことで、彼も同時代人です。リーチはイギリス領・香港に生まれ、幼少期に日本に住んだこともありました。美術家をこころざし、イギリスの美術学校で版画(エッチング)を学んだ人です。
リーチはたびたび日本を訪れ、日本での居も構えました。この過程で陶芸に惹かれ、作陶を学んで、陶芸家として知られるようになります。岸田劉生は1911年、東京での版画の展覧会でリーチと出会い、以降、劉生とリーチは交友関係が続いたようです。劉生はリーチにエッチングの手ほどきを受け、自ら作品も作っています。
1917年、26歳の劉生は結核の転地療養のために神奈川県藤沢市鵠沼に移住し、以降、関東大震災(1923年、大正12年)により鵠沼を離れるまでの6年半を過ごしました。この時期に制作が始められたのが、娘の麗子を描いた一連の「麗子像」です。と同時に、鵠沼時代には静物画にも取り組みました。その最後期(1921年・大正10年)に描かれたのが本作品です。
リーチ作の陶器の茶碗と湯呑、10個の果物が描かれています。劉生の日記によると、1つは梨で(右端)、緑色と黄色で描かれているのが半分色づいたミカン(2個)、その他はリンゴです(7個)。
この時期の日本の洋画ではめずらしいような、写実に徹した作品です。その、写実の技法で表現された静物の質感と存在感が際立っています。そして、一つ一つの静物の個性が表現されている。
まず、バーナード・リーチ作の茶碗と湯呑ですが、これは陶芸家が形を決め、絵付けをし、窯で焼くので、一つ一つが個性をもつのは当然です。しかし本作品では果物もそれぞれが個性を主張しています。
右端の梨は一番大きく、表面もなめらかで、つるんとして、堂々とある感じです。それに対して2つのミカンは熟する前で、半分か半分以上が緑の状態です。リンゴは赤と黄が複雑に混じって描かれていますが、この色使いは見たままではなく、表面の微妙な感じを誇張して描いたのでしょう。ミカンやリンゴはすべて違っています。現代のお店で購入するミカンやリンゴは、形が整っていて、大きさも色も均一の果物ですが、それとは全く違う様相です。
果物の一つ一つに違いがあり、どっしりとした重量感でテーブルの上に存在している。個性的なモノの存在そのものが美である、と画家は主張しているようです。その主張が、手作りの陶器を取り囲むように果物を並べることで鮮やかに浮かび上がる。果物が、右端の梨を先頭に隊列を組んで2つの陶器を守っているようにも見えます。
さらにこの絵の上半分は、直線を境にした明度の違う2つの灰色で単純に塗り分けられています。この背景は、現実のどこかの部屋の光景とは思えず、画家が作り出した抽象表現でしょう。その抽象表現の中に、非常に具象的な茶碗と湯呑と果物がドサッと置かれている、そのことが静物の存在感を倍加させているのだと思います。
これは、岸田劉生の静物画の代表作であると同時に、似鳥美術館のコレクション全体を代表する作品です。それは芸術としての出来映えに加えて、展示されている空間(= 北海道拓殖銀行小樽支店)が完成した1923年とほぼ同時期である1921年に描かれたからです。当時の日本は欧米に追いつこうと近代化に邁進していました。岸田劉生も、西洋から "輸入された" 油絵で独自の表現を模索し、短い生涯の中で画風やテーマを次々と変えていった。その過程における静物画の傑作が本作品です。
似鳥美術館の建物の中で展示作品を鑑賞すると「時代の空気を呼吸する」ことになります。その意味で美術館に最もマッチするのが、この岸田劉生の静物画でしょう。
ステンドグラスのギャラリー
似鳥美術館の1階のエントランスを入ったところに、ルイス・ティファニーが製作したステンドグラスのギャラリーがあります。ルイスは、ティファニーの創設者、チャールズ・ティファニーの息子で、ガラス工芸で活躍しました。
似鳥美術館の絵画・彫刻は、旧北海道拓殖銀行小樽支店の2階から4階に展示してあるのですが、そこへはステンドグラスのギャラリーを通り抜けて行くようになっています。数々の美術品が並ぶ "非日常" の空間へといざなうのがステンドグラスの部屋という、この展示構成が良いと思います。
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ルイス・C・ティファニー ステンドグラス・ギャラリーは、2018年11月22日にオープンしたが、それを告知するチラシ。GRAND OPEN の文字より下が、似鳥美術館1階のエントランスから見たステンドグラス・ギャラリーの画像である。ここを通り抜けて絵画や彫刻の展示エリアに入っていく。 |
2024-11-25 14:24
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No.373 - 伊藤若冲「動植綵絵」の相似形 [アート]
No.371「自閉スぺクトラムと伊藤若冲」の続きです。No.371 は、精神科医の華園力氏の論文を紹介したものでした。華園先生は各種資料から、伊藤若冲を AS者(AS は Autism Spectrum = 自閉スペクトラム)であると "診断" し、臨床医としての経験も踏まえて、AS者によく見られる視覚表現の特徴が若冲の絵にも現れていると指摘されたのでした。その特徴とは、
の4つで、詳細は No.371 で紹介した通りです。その No.371 には書かなかったのですが、華園先生の論文「自閉スペクトラムの認知特性と視覚芸術」(日本視覚学会誌 VISION Vol.30-4, 2018)には気になる記述があります。それは、必ずしもAS者が備えているわけではないが、AS者に随伴することが多い能力があるとの指摘です。その能力とは、
です。「共感覚」というのは、文字や数字、音、形に色を感じたりする例で、ある刺激を感覚で受け取ったときに、同時にジャンルの異なる感覚が生じる現象を言います。
「カメラアイ」は、見たものをまるでカメラで写したように記憶できる「視覚映像記憶」のことです。たとえばある都市の写真を見て、その後、記憶だけを頼りに都市風景を詳細に描き起こした線画を完成させる、といった例です。
「法則性の直感的洞察力」とは、自然界に存在する規則性、法則性、パターンを直感的に見出す能力です。華園先生は例として、ゴッホの『星月夜』(ニューヨーク近代美術館)という有名な絵をあげています。この絵に見られる空の渦の表現は、自然界に発生する乱流のパターンを正確に捉えていることが数理物理学的解析で判明しているそうです。ちなみにゴッホは、各種の研究によりAS特性の強い人であったと考えられています。

以降、話題にしようと思うのは、AS者に随伴することが多い3つの能力の中の「法則性の直感的洞察力」です。最近、テレビのあるドキュメンタリー番組を見ていたら、このことが出てきました。
フロンティア:あなたの中に眠る天才脳
2024年6月18日に NHK BS で「フロンティア:あなたの中に眠る天才脳」というドキュメンタリー番組が放送されました。番組のテーマは "サヴァン症候群" です。サヴァン(Savant)とは "博学" という意味で、サヴァン症候群とは「生まれながらにして天才的な能力を発揮する人」を指します。その才能とは、美術・音楽などの芸術、記憶、数学、空間認知などです。番組では実際にサヴァン症候群の人に取材した映像を流していました。
などです。カメラ・アイの少年はイギリス人でしたが、番組スタッフに見せられた新宿西口の高層ビル群の写真(遠方に富士山が見える)を見ただけで、1時間かけてそれを鉛筆の線画で詳しく再現していました。
サヴァン症候群の人を MRI で検査した研究によるとと、脳の左半球(言語、論理的思考の領域)よりも右半球(芸術、視覚・聴覚の記憶の領域)が大きいことが分かりました。また、約半数の人が自閉スペクトラム症(ASD : Autism Spectrum Disorder)だとのことです。
番組ではさらに "後天性サヴァン症候群" の人を紹介していました(後天性=獲得性)。後天性サヴァン症候群とは、生まれて以降はごく普通の人だったが、ある日突然、特別な才能が芽生えた人です。その「突然」には共通の要因があり、脳の左半球(特に左半球の前の方)だけに損傷を受けたという要因です。損傷とは、何らかの外力によるか、ないしは脳梗塞によるものです。
デレク・アマートというアメリカ人の男性は、プールに飛び込んだ時の頭部損傷の事故を契機に、突如、作曲とピアノの才能が目覚めました。今では著名なアーティストと共演し、グラミー賞にも出席しています。
そして、別のアメリカ人の後天性サヴァン症候群が華園先生の論文とつながりがあります。その人はジェイソン・パジェットという人で、彼はカラオケ・バーの帰り道で強盗に棍棒で襲われ、頭に打撃を受け、意識を失って倒れました。その後どうなったかを番組から引用します。
自然界には、一見不規則に見えるが、実はある規則性が隠れているものがあります。その規則性は「フラクタル構造」になっていることが多い。パジェットはそれを見抜く能力を得たのです(フラクタルについては、No.244「ポロック作品に潜むフラクタル」参照)。
彼は自分に見える規則性を人に伝えるために、絵(=規則性を表した線画)を描き始めました。そして、ある人のアドバイスによって大学に入り直し、数学を勉強しました。その結果、見ているものを数式で表せるようになったとのことです。
パジェットの能力とは「自然界に存在する規則性、法則性、パターンを直感的に見出す能力」といえます。これはまさに華園先生が「AS者に随伴することが多い能力」としてあげているものの1つなのです。
パジェットは後天性サヴァン症候群です。そしてなぜ特別な才能が芽生えたかというと、脳の左半球の損傷によって右半球の活動が活発になったからというのが、番組での研究者の解説でした。だとすると、生まれながらに脳の右半球が優位な(先天性の)サヴァン症候群の人にも「自然界に存在する規則性を直感的に見出す能力」を持つ人がいると推測できます。そしてサヴァン症候群の約半数の人は自閉スペクトラム症なのです。
ここで、話は伊藤若冲に飛びます。実は、伊藤若冲の「動植綵絵」には数々の規則性=相似形があるという研究を発表されている方がいます。
「梅花小禽図」(動植綵絵)
別冊太陽:日本のこころ 227「若冲百図」(小林忠 監修。平凡社 2015)という本があります。これは、辻惟雄氏と並んで若冲研究の第一人者である小林忠氏(岡田美術館館長)が若冲の100作品を選んで解説をつけ、11名の執筆者が文章を寄せた本です。
この本に、医師の赤須孝之氏(宮内庁病院)が「若冲は日本のレオナルドである」という文を寄せています。赤須孝之氏は23年間、国立がんセンターで多数の大腸がん患者の執刀をされた大腸がんの専門家です。華園先生に続いて赤須先生も医者ですが、医者には若冲が好きな美術愛好家が多いのでしょうか。
それはともかく、赤須先生は「動植綵絵」を詳しく調べた結果、「夥しい数の相似形が描き込まれていることがわかった」とし、それを「梅花小禽図」(下図)を例にとって説明されています。
「梅花小禽図」について、赤須先生はまず次のように書かれています。以下の引用では段落を増やしたところがあります。
以下、上の文章に出てくる「変わった格好をしている鳥」に関する3つの図を以下に掲げます。
小鳥同士が相似形なのはあたりまえですが、「小鳥」と「梅の枝と花を繋いだ形」が相似形と見なせるのがポイントです。このような相似形が「梅花小禽図」だけなら偶然とも考えられます。しかし赤須氏は「相似形兼隠し絵が 80 以上発見された」としていて、このことを詳しく解説した本も出版されているようです。ということは、偶然ではなく意図して描かれたものでしょう。
若冲がこのような "相似形隠し絵" を仕掛けた理由は何でしょうか。おそらく若冲は梅の木々を観察するうちに、複雑にからまった梅の枝に小鳥の外形と類似したものがあることに気づき、その気づきをもとにこの絵を描いたと考えられます。
「梅花小禽図」の下の方を拡大したのが次の図です。
ここには水が描かれているので、川か湖の情景です。そうすると、円弧状に黒く描かれているのは岸ということになります。抽象的な表現なので、岩なのか土なのかは判然としませんが、とにかく "岸" であることに間違いないでしょう。この岸について、赤須氏は次のように書いています。
フラクタルとは、部分が全体と相似になっている「自己相似形」を言います。「梅花小禽図」の "岸" は自己相似形になっていて、それについての赤須氏の解説は次の通りです。
表されているのが川の岸辺の岩だとすると、岩の形は自己相似形のよい例です。若冲は自然を観察するうちに自己相似形に気づき、その気づきからこの絵を描いたと考えられます。以上のような「動植綵絵」の検討を踏まえて、赤須氏は次のように結論づけています。
「南天雄鶏図」(動植綵絵)
実は「動植綵絵」に相似形が隠されていることを指摘したのは、赤須氏が最初ではありません。美術家の森村泰昌氏が 2008年に出版された「異能の画家 伊藤若冲」(狩野博幸、森村泰昌ほか、新潮社)で、「南天雄鶏図」を引き合いに出してそのことを示しています。
森村氏は、上図の①から⑤の形の対応関係があることを指摘しています。それぞれ、
という対応です(③の鶏の耳は、鶏の "頬" のあたりの白い小さな円形)。これらは形だけでなく、色も似ています。
これらの対応は「鶏」と、それをとりまく「南天・小鳥・地面」の間の対応関係であることが注目点です。このことを踏まえて森村氏は、次のように言っています。
伊藤若冲の独自の観察眼
No.371「自閉スぺクトラムと伊藤若冲」と、No.373「伊藤若冲「動植綵絵」の相似形」を通してまとめると、次のようになるでしょう。
最後の点はあくまで仮説ですが、No.371 と No.373(本記事)を通して得られる推論です。若冲作品を一言でまとめると「すべてが平等である絵」(No.371)としましたが、次の森村氏の発言も当たっていると感じました。
本文中に森村泰昌氏が「異能の画家 伊藤若冲」に寄せた文を引用しましたが、この文で森村氏は『動植綵絵』の「池辺群虫図」を引き合いに出して次のように述べています。
精神科医の華園氏は若冲の絵の特徴の一つを「細部への焦点化」としました。それは自閉スペクトラムの特性を持った人の視覚表現にしばしば見られる特徴だと ・・・・・・。ここに引用した森村氏の「小さなスケール」は、まさに「細部への焦点化」と同じことを言っていると思います。表現の相違は、精神科医と美術家の違いなのでしょう。
細部への焦点化 | |
多重視点 | |
表情認知の難しさ | |
反復繰り返し表現 |
の4つで、詳細は No.371 で紹介した通りです。その No.371 には書かなかったのですが、華園先生の論文「自閉スペクトラムの認知特性と視覚芸術」(日本視覚学会誌 VISION Vol.30-4, 2018)には気になる記述があります。それは、必ずしもAS者が備えているわけではないが、AS者に随伴することが多い能力があるとの指摘です。その能力とは、
共感覚 | |
カメラアイ | |
法則性の直感的洞察力 |
です。「共感覚」というのは、文字や数字、音、形に色を感じたりする例で、ある刺激を感覚で受け取ったときに、同時にジャンルの異なる感覚が生じる現象を言います。
「カメラアイ」は、見たものをまるでカメラで写したように記憶できる「視覚映像記憶」のことです。たとえばある都市の写真を見て、その後、記憶だけを頼りに都市風景を詳細に描き起こした線画を完成させる、といった例です。
「法則性の直感的洞察力」とは、自然界に存在する規則性、法則性、パターンを直感的に見出す能力です。華園先生は例として、ゴッホの『星月夜』(ニューヨーク近代美術館)という有名な絵をあげています。この絵に見られる空の渦の表現は、自然界に発生する乱流のパターンを正確に捉えていることが数理物理学的解析で判明しているそうです。ちなみにゴッホは、各種の研究によりAS特性の強い人であったと考えられています。

以降、話題にしようと思うのは、AS者に随伴することが多い3つの能力の中の「法則性の直感的洞察力」です。最近、テレビのあるドキュメンタリー番組を見ていたら、このことが出てきました。
フロンティア:あなたの中に眠る天才脳
2024年6月18日に NHK BS で「フロンティア:あなたの中に眠る天才脳」というドキュメンタリー番組が放送されました。番組のテーマは "サヴァン症候群" です。サヴァン(Savant)とは "博学" という意味で、サヴァン症候群とは「生まれながらにして天才的な能力を発揮する人」を指します。その才能とは、美術・音楽などの芸術、記憶、数学、空間認知などです。番組では実際にサヴァン症候群の人に取材した映像を流していました。
カメラ・アイの少年 | |
円周率 22514桁を暗唱できた青年 | |
生まれながらに盲目だが、ショパンの幻想即興曲を40分で覚えて弾ける青年 |
などです。カメラ・アイの少年はイギリス人でしたが、番組スタッフに見せられた新宿西口の高層ビル群の写真(遠方に富士山が見える)を見ただけで、1時間かけてそれを鉛筆の線画で詳しく再現していました。
サヴァン症候群の人を MRI で検査した研究によるとと、脳の左半球(言語、論理的思考の領域)よりも右半球(芸術、視覚・聴覚の記憶の領域)が大きいことが分かりました。また、約半数の人が自閉スペクトラム症(ASD : Autism Spectrum Disorder)だとのことです。
ここで「自閉スペクトラム症(ASD)」は、この記事の冒頭に書いた「自閉スペクトラム(AS)」とは必ずしも同じではないことに注意すべきでしょう。自閉スペクトラム症は医学的診断名であり、治療の対象です。一方、自閉スペクトラムは、病気にまでは至らない、自閉スペクトラム的な認知特性の人までを含む概念です。詳細は No.371「自閉スぺクトラムと伊藤若冲」にあります。
番組ではさらに "後天性サヴァン症候群" の人を紹介していました(後天性=獲得性)。後天性サヴァン症候群とは、生まれて以降はごく普通の人だったが、ある日突然、特別な才能が芽生えた人です。その「突然」には共通の要因があり、脳の左半球(特に左半球の前の方)だけに損傷を受けたという要因です。損傷とは、何らかの外力によるか、ないしは脳梗塞によるものです。
デレク・アマートというアメリカ人の男性は、プールに飛び込んだ時の頭部損傷の事故を契機に、突如、作曲とピアノの才能が目覚めました。今では著名なアーティストと共演し、グラミー賞にも出席しています。
そして、別のアメリカ人の後天性サヴァン症候群が華園先生の論文とつながりがあります。その人はジェイソン・パジェットという人で、彼はカラオケ・バーの帰り道で強盗に棍棒で襲われ、頭に打撃を受け、意識を失って倒れました。その後どうなったかを番組から引用します。
|
自然界には、一見不規則に見えるが、実はある規則性が隠れているものがあります。その規則性は「フラクタル構造」になっていることが多い。パジェットはそれを見抜く能力を得たのです(フラクタルについては、No.244「ポロック作品に潜むフラクタル」参照)。
彼は自分に見える規則性を人に伝えるために、絵(=規則性を表した線画)を描き始めました。そして、ある人のアドバイスによって大学に入り直し、数学を勉強しました。その結果、見ているものを数式で表せるようになったとのことです。
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ジェイソン・パジェットが巻貝に潜む規則性を線画で表したもの。彼は見ただけでこのような線が頭に浮かぶようである。 |
(NHK BS の番組より) |
パジェットの能力とは「自然界に存在する規則性、法則性、パターンを直感的に見出す能力」といえます。これはまさに華園先生が「AS者に随伴することが多い能力」としてあげているものの1つなのです。
パジェットは後天性サヴァン症候群です。そしてなぜ特別な才能が芽生えたかというと、脳の左半球の損傷によって右半球の活動が活発になったからというのが、番組での研究者の解説でした。だとすると、生まれながらに脳の右半球が優位な(先天性の)サヴァン症候群の人にも「自然界に存在する規則性を直感的に見出す能力」を持つ人がいると推測できます。そしてサヴァン症候群の約半数の人は自閉スペクトラム症なのです。
ここで、話は伊藤若冲に飛びます。実は、伊藤若冲の「動植綵絵」には数々の規則性=相似形があるという研究を発表されている方がいます。
「梅花小禽図」(動植綵絵)
|
この本に、医師の赤須孝之氏(宮内庁病院)が「若冲は日本のレオナルドである」という文を寄せています。赤須孝之氏は23年間、国立がんセンターで多数の大腸がん患者の執刀をされた大腸がんの専門家です。華園先生に続いて赤須先生も医者ですが、医者には若冲が好きな美術愛好家が多いのでしょうか。
それはともかく、赤須先生は「動植綵絵」を詳しく調べた結果、「夥しい数の相似形が描き込まれていることがわかった」とし、それを「梅花小禽図」(下図)を例にとって説明されています。
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伊藤若冲「梅花小禽図」 (「動植綵絵」より) |
(皇居 三の丸尚蔵館) |
相似形1:小鳥 |
「梅花小禽図」について、赤須先生はまず次のように書かれています。以下の引用では段落を増やしたところがあります。
|
以下、上の文章に出てくる「変わった格好をしている鳥」に関する3つの図を以下に掲げます。
「変わった格好をしている鳥」の位置 | |
「変わった格好をしている鳥」の拡大図 | |
「変わった格好をしている鳥」の相似形となっている、梅の枝と花を繋いで形成される形態 |
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「変わった格好をしている鳥」の位置 |
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「変わった格好をしている鳥」の拡大図 (別冊太陽「若冲百図」より) |
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梅の枝と花を繋いで形成される形態 |
この梅の枝と花を繋いだ形は「変わった格好をしている鳥」の相似形となっている。数字は相似形の対応関係を表している。 |
(別冊太陽「若冲百図」より) |
小鳥同士が相似形なのはあたりまえですが、「小鳥」と「梅の枝と花を繋いだ形」が相似形と見なせるのがポイントです。このような相似形が「梅花小禽図」だけなら偶然とも考えられます。しかし赤須氏は「相似形兼隠し絵が 80 以上発見された」としていて、このことを詳しく解説した本も出版されているようです。ということは、偶然ではなく意図して描かれたものでしょう。
若冲がこのような "相似形隠し絵" を仕掛けた理由は何でしょうか。おそらく若冲は梅の木々を観察するうちに、複雑にからまった梅の枝に小鳥の外形と類似したものがあることに気づき、その気づきをもとにこの絵を描いたと考えられます。
相似形2:岸 |
「梅花小禽図」の下の方を拡大したのが次の図です。
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「梅花小禽図」(部分) |
ここには水が描かれているので、川か湖の情景です。そうすると、円弧状に黒く描かれているのは岸ということになります。抽象的な表現なので、岩なのか土なのかは判然としませんが、とにかく "岸" であることに間違いないでしょう。この岸について、赤須氏は次のように書いています。
|
フラクタルとは、部分が全体と相似になっている「自己相似形」を言います。「梅花小禽図」の "岸" は自己相似形になっていて、それについての赤須氏の解説は次の通りです。
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「梅花小禽図」(部分) |
岸は、大・中・小の相似形から構成されている。大① は、その縮小相似形である中② ③ ④ から成っている。中② は、その縮小相似形である小⑤ ⑥ からなり、同様に中③ は小⑦ ⑧ から、中④ は小⑨ ⑩ から成っている。 中⑪ は大① の縮小相似形であり、さらに、縮小相似形である小⑫ ⑬ ⑭ から成っている。 また、中② と小⑬ ⑭ を合わせた形は、大① と中⑪ を合わせた形の縮小形になっている。以上は、別冊太陽「若冲百図」の説明による。 |
表されているのが川の岸辺の岩だとすると、岩の形は自己相似形のよい例です。若冲は自然を観察するうちに自己相似形に気づき、その気づきからこの絵を描いたと考えられます。以上のような「動植綵絵」の検討を踏まえて、赤須氏は次のように結論づけています。
|
「南天雄鶏図」(動植綵絵)
実は「動植綵絵」に相似形が隠されていることを指摘したのは、赤須氏が最初ではありません。美術家の森村泰昌氏が 2008年に出版された「異能の画家 伊藤若冲」(狩野博幸、森村泰昌ほか、新潮社)で、「南天雄鶏図」を引き合いに出してそのことを示しています。
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伊藤若冲「南天雄鶏図」 (「動植綵絵」より) |
(皇居 三の丸尚蔵館) |
![]() |
「南天雄鶏図」 |
森村泰昌氏が指摘する相似形を示した図 |
|
鶏の目・小鳥 | |
鶏のとさか・南天 | |
鶏の耳・菊 | |
鶏に羽・南天の葉 | |
鶏の脚・南天の枝・地面の亀裂 |
という対応です(③の鶏の耳は、鶏の "頬" のあたりの白い小さな円形)。これらは形だけでなく、色も似ています。
これらの対応は「鶏」と、それをとりまく「南天・小鳥・地面」の間の対応関係であることが注目点です。このことを踏まえて森村氏は、次のように言っています。
|
伊藤若冲の独自の観察眼
No.371「自閉スぺクトラムと伊藤若冲」と、No.373「伊藤若冲「動植綵絵」の相似形」を通してまとめると、次のようになるでしょう。
自閉スペクトラムは人の認知特性の一つである(=自閉スペクトラム特性。AS特性)。それは必ずしもネガティブなものではない。AS特性をもった人がアートの最前線でイノベーティブな活躍をするケースがある。 | |||||||||
AS特性をもった人が作る視覚表現には特徴がある。それは、
| |||||||||
AS特性をもった人に多い能力として「自然界に存在する規則性を直感的に見出す能力」がある(ここまでが、精神科医、華園力氏の解説)。 | |||||||||
伊藤若冲の「動植綵絵」を分析すると、相似形を使った表現が多々含まれる。それは異質なもの同士の相似であったり、全体と部分の相似(自己相似形、フラクタル構造)のこともある(赤須孝之氏、森村泰昌氏)。 | |||||||||
AS特性をもつ伊藤若冲は自然界に存在する規則性を直感的に把握できた。この観察眼を活用して「動植綵絵」を描いたのだろう(仮説)。 |
最後の点はあくまで仮説ですが、No.371 と No.373(本記事)を通して得られる推論です。若冲作品を一言でまとめると「すべてが平等である絵」(No.371)としましたが、次の森村氏の発言も当たっていると感じました。
主役は存在しない。ディテールを見ていくと、みんな一緒。それが伊藤若冲の宇宙観(森村泰昌)
補記:スケールの小ささ |
本文中に森村泰昌氏が「異能の画家 伊藤若冲」に寄せた文を引用しましたが、この文で森村氏は『動植綵絵』の「池辺群虫図」を引き合いに出して次のように述べています。
|
|
|
|||||
雪舟の作品は、3年間の中国滞在中に描いたもので、森村泰昌氏は「渾身の作」としている。一方、若冲は一生のほとんどを京都で過ごし、旅をしてもせいぜい大阪までだった。 |
|
精神科医の華園氏は若冲の絵の特徴の一つを「細部への焦点化」としました。それは自閉スペクトラムの特性を持った人の視覚表現にしばしば見られる特徴だと ・・・・・・。ここに引用した森村氏の「小さなスケール」は、まさに「細部への焦点化」と同じことを言っていると思います。表現の相違は、精神科医と美術家の違いなのでしょう。
2024-07-28 21:04
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No.371 - 自閉スぺクトラムと伊藤若冲 [アート]
No.363「自閉スペクトラム症と生成 AI」は、自閉スペクトラム症の女性を主人公にしたフランスの警察ドラマ、「アストリッドとラファエル」に触発されて書いた記事でした。今回は自閉スペクトラムと絵画との関係について書きます。
皇居三の丸尚蔵館
皇室が国に寄贈した美術工芸品を収蔵する三の丸尚蔵館は、新施設の建設工事(第1期)が完成し、これを記念して2023年11月から2024年6月まで、所蔵作品を展示する開館記念展が開催されました。これは第1期から4期に分かれており、その第4期の展示(2024年5月21日~6月23日)に行ってきました。
第4期には 14点の美術工芸品が展示されていて、どれもすばらしいものでしたが、何と言っても目玉は、狩野永徳の『唐獅子屏風』(国宝)と伊藤若冲の『動植綵絵』(全30幅のうちの4幅。国宝)でしょう。私は『唐獅子屏風』は別の展覧会で見たことがあったのですが、『動植綵絵』は初めてでした。
伊藤若冲の『動植綵絵』
そもそも4期に渡るこの展示会は、『動植綵絵』の "全30幅のうちの12幅" が大きな "目玉作品" でした。そのうちの8幅は第1期の前期と後期にそれぞれ4幅が展示され、今回が最後の4幅です。展示されていたのは、
・老松孔雀図
・諸魚図
・蓮池遊魚図
・芙蓉双鶏図
でした。なお、No.215「伊藤若冲のプルシアン・ブルー」に書いた『群魚図《鯛》」は『諸魚図』とは別です。今回の作品は蛸が目立つので『群魚図《蛸》』と呼ばれることもありますが、皇居三の丸尚蔵館は『群魚図《鯛》』を単に『群魚図』、『群魚図《蛸》』を『諸魚図』と呼んで区別しています。
この中でやはり印象的だったのは『老松孔雀図』です。孔雀の羽を白(胡粉)で描き、裏から黄色(黄土色)を塗ることで、透けて見える部分が金色に輝くような効果を生み出しています(No.215 参照)。いわゆる裏彩色の技法ですが、白と合わさることで "気高い" とか "高貴" といった印象を醸し出していました。
『芙蓉双鶏図』の2羽の鶏の鮮やかな色彩と構図も印象に残りました。2羽の鶏は、普通あまり描かれないようなアングルです。実際に鶏はこういう格好をするに違いなく、画家の徹底した観察を思わせるものでした。
そして、・・・・・。『動植綵絵』で最も強く思ったのは、実は、その横に展示してあった酒井抱一の『花鳥十二ヶ月図』との対比で感じた若冲の絵の "密度" だったのです。
酒井抱一『花鳥十二ヶ月図』
酒井抱一の『花鳥十二ヶ月図』は、一月から十二月までの各月にちなんだ画題の花鳥画から成っています。4期の展示会では、その中から『二月 菜花に雲雀図』『三月 桜に雉子図』『十月 柿に小禽図』『十一月 芦に白鷺図』の4幅が展示されていました。
各幅には、花鳥画というジャンルそのままに、小鳥(十月の小禽は目白)と植物(花・草・果実)が描かれています。そして、主題とそれを支える事物が詳細度を変えて描かれています。鳥はリアルですが、たとえば桜や柿の幹は "たらし込み" を使って「幹のイメージ的表現」になっている。また背景は空や田畑や川を暗示する抽象的な描き方です。
さらに構図は、木の幹で画面をぶった切る "クローズアップ" 表現によって、画面外にも絵画世界が広がっている印象を与えています。余白のとりかたも画面外の世界を暗示している。まさに江戸期の日本画の一つの典型のような作品です。
酒井抱一の『花鳥十二ヶ月図』は、伊藤若冲の『動植綵絵』の左に展示されていました。そして見比べると、同じ日本画、しかも同じ花鳥画である2作品のあまりの違いが強く印象づけられました。一言で言うと『花鳥十二ヶ月図』との比較で感じる『動植綵絵』の "密度" です。
密度といっても、画面を隙間なく埋め尽くすという意味での密度ではありません。『動植綵絵』は、主題となった動物・植物の各部位が同じような詳細度合いで描かれています。また主題と、それを支える "補助的な" はずの事物も同じ詳細度合いです。筆を省略して暗示しようとする積極的な意図はなく、描くところは徹底的に描き込まれている。そういう意味での、"描き込みの密度" です。
おそらく皇居三の丸尚蔵館の学芸員の方は、『花鳥十二ヶ月図』と『動植綵絵』という2つの花鳥画・4幅を対比させることによって、それぞれの特長を際だたせようとしたのでしょう。その狙いはピッタリとはまっていました。これでこそ学芸員です。
辻惟雄
皇居三の丸尚蔵館を見学してから数日後、NHK Eテレの日曜美術館を見ていると、美術史家・辻惟雄氏の特集をやっていました(2024年6月2日)。辻先生は「奇想の系譜」(初版 1970年)を出版し、それまで忘れられていた江戸期の画家、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、長沢芦雪、曽我蕭白、歌川国芳などを "奇想の画家" というキーワードで紹介し、江戸絵画の見方に革命を起こしたことで有名です。日本美術史を書き換え、さらに、いわゆる "若冲ブーム" に火を付けた方と言ってよいでしょう。
番組では若冲について、アメリカ人のジョー・プライスという人が若冲をコレクションしているという話を辻先生が聞きつけ、辻先生はそれで若冲作品の本物に初めて触れ、そこから研究に入った経緯が語られていました。
そして近年、辻先生が若冲についてのある論文を執筆者から受け取り、返事を出されたことが紹介されていました。その返事には「自閉スペクトラムという科学の鍵を用いて、若冲の秘密の部屋を次ぎ次ぎと開けていく手腕に、目から鱗の落ちる思いだった」とあります。その論文を書かれたのは、京都市で精神科医をされている華園 力氏です。
若冲のオーソリティである辻先生に「目から鱗」と評価された論文を知らずにおくわけにはいきません。そこで以下は、ネットに公開されている「自閉スペクトラムの認知特性と視覚芸術」(日本視覚学会誌 VISION Vol.30, N0.4, 2018)にもとづき、華園先生の論を紹介します。自閉スペクトラムという認知特性がアートにもたらす影響を論じたもので、華園先生の臨床医としての経験と研究から生まれたものです。
自閉スペクトラムと視覚芸術
まず議論の前提として、花園先生の論文の主題になっている自閉スペクトラム(AS。Autism Spectrum)は、自閉スペクトラム症(ASD。Autism Spectrum Disorder)と同じではないことを明確にしておく必要があります。自閉スペクトラム症(ASD)とは、
の3条件に当てはまる状態を言います。これは、医学的診断名であり、医療(治療)の対象になります。
一方、自閉スペクトラム(AS)とは、3条件が当てはまるケースに加えて、C の条件がないケースも含みます。従って、適応不全ではなく支障なしに社会生活を送れている場合も含む。つまり「AS は ASD を含む広い概念」です。
AS は医学的診断名ではありません。また、医療の対象とはならない人を含みます。従って「人の、ある種の "認知特性" を表した言葉」と言ってもよい。論文では A や B のような認知特性を「AS特性」、また AS特性をもつ人を「AS者」という言葉で表現しています。
日曜美術館で華園先生が強調されていましたが、AS特性をもった人がアートやテクノロジーの最前線でイノベーティブな活躍をするケースがいろいろあるわけです。AS特性は、マイナス・弱点というより、個性ととらえるべきです。冒頭にあげた「アストリッドとラファエル」は、まさにそういう視点で作られたドラマでした。
論文には、AS者のアート表現についての数々の事例があげられています。これらをいろいろ読むと、AS特性は人の認知特性、発達特性の一つであり、人の個性であると強く感じます。もちろん AS特性といっても、人によって強弱があるのは言うまでもありません。そもそもスペクトラムとは、光の「スペクトル」を同じ意味で、連続体を意味します。光の波長が連続して変化して虹を作るように、AS特性も、健常者から重度の自閉スペクトラム症まで連続しています。AS特性は「多かれ少なかれ全ての人が持っている特性」とも言えるでしょう。
以上を踏まえて、華園先生が論じている「AS特性が視覚芸術に与える影響」みていきます。
AS特性が視覚芸術に与える影響
AS者が作るアートの表現様式の特徴から、華園先生が若冲作品を引き合いに出して説明されている、
・細部への焦点化
・多重視点
・表情認知の難しさ
・反復繰り返し表現
の4点を以下に紹介します。なお、以下の論文からの引用は段落を追加したところがあります。
『動植綵絵』の『南天雄鶏図』は、皇居三の丸尚蔵館・開館記念展の第1期(の前期)に展示されました。
華園先生は伊藤若冲を AS者であると考えていますが、絵だけから AS者と判断しているわけではありません。文献などにみられる若冲についての 状況証拠" も踏まえての判断です。逆に言うと、AS者でなくても「AS者のアートの表現様式の特徴をもった作品」を作ることはあり得るということでしょう。ここは重要な点だと思います。
『動植綵絵』の『蓮池遊魚図』は、皇居三の丸尚蔵館・開館記念展の第4期に展示されたので既に画像を掲載しましたが、改めて拡大した画像を掲げます。
惜しいことに、展示会でこの絵を見たあとに華園先生の論文を読んだので、こういった見方での鑑賞はしませんでした。「言われてみれば・・・」という感じです。
考えてみると、日本画では複数の視点を一つの作品に詰め込んだ作品は屏風絵などにはよくあります。絵巻物だと複数の時間まで同居している。浮世絵の風景画にも、近景・中景・遠景で視点が違う作品があります。そういう意味で『蓮池遊魚図』を(セザンヌの絵とは違って)多重視点という意識では見ないのでしょう。しかも横に展示してある『諸魚図』は、まるで魚類図鑑の1ページのような描き方です。『蓮池遊魚図』も、魚と蓮を並べた図鑑のような絵だと思ってしまのですね。
しかしこの絵は華園先生の指摘のように、蓮池の狭い空間の中に、横・斜め上・上から見た蓮の葉と花、9匹の鮎と1匹のオイカワの姿を混在させています。確かにこれは、この絵の明らかな特徴です。
AS特性の強い多くの人は、表情認知が弱いことが知られています。つまり「顔や表情は、それ以外のものが発信する情報よりも優れて目立つ」という "顕著性" があるのが普通です。しかしAS者は、顔や表情について顕著性の感じかたが弱いのです。
江戸絵画には子犬を描いた絵が多々ありますが、有名なのは円山応挙です。応挙が描いたさまざまな子犬が次です。
若冲と応挙を比較してみると共通点があります。それは「子犬のさまざまな姿態、ポーズを描こうとしている」ことです。それによって子犬の愛らしさ、可愛らしさを表現しています。
しかし大きな違いがあります。応挙は子犬の "表情" によって愛らしさを際だたせようとしています。一方、若冲は "表情" を描こうとはしていません。若冲の関心は明らかに子犬の毛色、特に地色にまだら模様の入る "ぶち犬" のパターンを描き分けることにあります。だから59匹もの子犬を画面に詰め込んだ。若冲が表情描写に関心が行っていないという華園先生の指摘は図星だと思います。
思い出してみると『動植綵絵』の中に 13羽もの鶏を1画面に描いた『群鶏図』があります。この『群鶏図』と『百犬図』とは「動物の姿態と外見のバリエーションを描ききろうとした絵」という点で非常によく似ています。
そう言えば、若冲が多数描いた鶏には「表情がない」のですね。また魚や昆虫にも表情がない。一方、哺乳類(子犬、猿が江戸絵画の主な画題)については、普通の人は「表情がある」とイメージします。それが本当に動物の "表情" なのかは別です。人は子犬や猿を見ると、無意識に人間の顔を動物に投影してしまい、擬人化する。それにより "表情" と感じる、と言う方が正確でしょう。
応挙は子犬に表情をもたせた。だから "カワイイ"。しかし若冲は違います。画家は「鶏を描くように子犬を描いた」と言えそうです。
動植綵絵の『南天雄鶏図』における多数の南天の実と鶏冠の白い点々、鶏の羽の1枚1枚は、まさに「反復繰り返し表現」です。No.215 で紹介しましたが、「無数に描かれた南天の実1つ1つ、折り重なった紅葉の1枚1枚に、微妙に異なる裏彩色がなされている」そうです(三の丸尚蔵館 太田主任研究官による。日経サイエンス 2017年10月号)。華園先生も『南天雄鶏図』について同じことを指摘されていました。若冲は絵の表で反復繰り返すだけでなく、裏からも繰り返していることになります。そもそも鶏の背景に南天を選んだのは、反復繰り返しをしたかったのかも知れません。
華園先生はその「反復繰り返し表現」の極端な例として、いわゆる "桝目描き" の『白象群獣図』を例に出しています。
伊藤若冲の "桝目描き" の作品は『白象群獣図』を含めて3つあり、残りは『樹花鳥獣図屏風』(静岡県立美術館 蔵)と『鳥獣花木図屏風』(出光美術館 蔵:旧プライス・コレクション)です。このうち『白象群獣図』は、華園先生も書かれているように初期作品であり、すべてが若冲の真筆だと考えられています。
いずれにせよ、日本美術史においては "空前絶後" の作品であることには間違いありません。
全ての事物は平等
以上をまとめると、華園先生は、
・『南天雄鶏図』(動植綵絵)
・『蓮池遊魚図』(動植綵絵)
・『百犬図』『蒲庵浄英像』
・『白象群獣図』
などの作品に見られる特徴を、
・細部への焦点化
・多重視点
・表情認知の難しさ
・反復繰り返し表現
として抽出し、これらの特徴の共通項が「自閉スペクトラムの特性がある人のアート表現」だと指摘されたのでした。もちろん、論文は若冲の分析を目的にしたものではなく、他にも数々の画家の例が登場します。たとえば次のような指摘です。
なるほど。伊藤若冲と田中一村の花鳥図は、細部への焦点化による濃密な表現という点で極めてよく似ている。これは非常に納得します。一村を称して「奄美大島のゴーギャン」などと言う人がいますが、それは「離島に移り住んで描いた」という外面だけの共通性による皮相的な見方であり、「昭和の若冲」と言う方が本質を突いているのでしょう。
そう言えばNHK Eテレの日曜美術館によると、華園先生は、アンリ・ルソーの絵も AS特性をもつ人のアート表現の特徴があると指摘されているそうです。ここで思い当たるのは、アンリ・ルソーの(空想の)熱帯風景を描いた一連の絵と、田中一村の奄美で描いた絵は良く似ていることです。
その「田中一村 展」が、東京都美術館で開催される予定です(2024年9月19日~12月1日)。「自閉スペクトラム」「伊藤若冲」「アンリ・ルソー」という視点で展覧会を見るのも面白そうです。
以上の華園先生の論文を読んで思うのですが、もし「自閉スペクトラム」という言葉を全く持ち出さないで(あるいは精神医学の知見から全く離れて)若冲作品を貫く共通項を言うなら、
と言えるのではないでしょうか。画家は、鶏頭と鶏冠と羽と南天の実と葉を同じ詳細度合いで描きます。上・横・斜めから見た蓮の花も平等に描く。子犬も、そこに人間を投影したりせずに、鶏と同じスタイルで描く。
極めつけは「桝目描き」です。全体としては象などの動物を描いているのだけれど、6000ある個々の桝目、今風に言うとピクセルは、あくまで平等です。どのピクセルが重要だとは言えません。ピクセルなのだから・・・。
伊藤若冲という人は、独特の個性的な "眼" をもった人であり(華園先生によるとそれは AS特性に由来する)、その個性が現代の我々を魅惑するのだと思いました。
伊藤若冲(1716-1800)は、京都の錦小路の青物問屋(通称 "桝源")の長男として生まれ、23歳のときに父を亡くして家業を継ぎました。桝源は、錦小路という京都随一の食料品街に店を構え、店付近の土地も所有していたようで、その当主はただの町人ではなく町衆(旦那衆)と呼ばれた裕福な商人です。若冲は40歳のときに家督を弟に譲って隠居し、以降は画業に専念しました。
伊藤若冲の日記や手紙は残っていませんが、相国寺(『動植綵絵』を寄贈した禅宗の寺院)の住職であった大典顕常が若冲と親しく、この僧が残した文が残っていて、そこから若冲の人物像をうかがい知ることができます。
その人物像を述べた2人の文章を紹介します。まず、若冲の研究で著名な美術史家の小林 忠氏は、葛飾北斎の自称である "画狂人" と対比するかたちで、若冲を "画遊人" であるとし、次のように述べています
小林氏の紹介による若冲の人物像を簡潔にまとめると、
となるでしょう。
また、美術史家の狩野博幸氏は、次のように書いています。
旦那衆であれば夕方からの寄り合いが仕事のようなもので、彼らが祇園や先斗町に落とすお金が京の繁栄につながりました。小唄や三味線は、旦那衆が普通にたしなむ遊びです。しかし若冲は、そういうことは一切受け付けなかったようです。
ちなみに、鹿苑寺は俗称・金閣寺で、臨済宗相国寺派の寺院です。鹿苑寺が大書院の障壁画を若冲にまかせたのは、狩野派や土佐派といった "ブランド" はなくても、絵師としての技量を認めたからでしょう。
狩野氏の紹介による若冲の人物像を簡潔にまとめると、
といったところでしょう。その若冲の価値を理解できる人たちが、大典顕常をはじめ当時からいた。そこが重要なところだと思います。
本文中に『動植綵絵』の「蓮池遊魚図」を "多重視点" という観点から引用しましたが、「補記1」で引用した狩野博幸氏は、別の観点から次のように書いています。
病葉で思い出しましたが、若冲は『動植綵絵』の雪のシーンを描いた作品で、溶けかけた雪を描いていますね(「雪中錦鶏図」と「芦雁図」)。こういう表現は日本美術で他に見たことがないし、世界美術史でも例がないのではと思います。
本文で触れたのですが、2024年9月19日から東京都美術館で「田中一村展」が開催され、さっそく行ってきました。その数日後の9月28日、1984年に放映された「日曜美術館」の再放送がNHK Eテレでありました。田中一村の評価の先駆けになったといわれる番組です。タイトルは、
日曜美術館(1984年)
美と風土 黒潮の画譜
~ 異端の画家・田中一村 ~
です。この番組の中で、若冲研究で著名な小林忠氏(当時、学習院大学教授。現在、岡田美術館館長。補記1参照)へのインタビューがありました。小林氏は1971年に「若冲展」(東京国立博物館)を企画・開催されていて、辻先生とともに現在の若冲ブームを作った中心人物です。その小林先生が、田中一村(1908-1977)の奄美大島時代の絵について次のように語っておられました。
この "田中一村の花鳥画評" は、そのまま伊藤若冲に当てはまるではないでしょうか。小林先生の発言は、番組のタイトルが暗示する "風土と芸術の関係" ではなく、純粋な "画家論"、ないしは "芸術論" になっているのが印象的でした。
田中一村が知られるようになったのは、三回忌(1979年)に奄美で開催された「田中一村遺作展」でした。この開催に尽力したのが、南日本新聞の記者・中野淳夫氏です。その5年後、遺作展のことを知ったNHKディレクターの松元邦暉氏が日曜美術館でとりあげ(1984年)全国的な反響を呼んだのです(ちなみに、中野氏も松元氏も美術と無縁だったようです。それほど一村の吸引力が強かったということでしょう)。
今回の「田中一村展」を監修された千葉市美術館の副館長・松尾和子氏は次のように書かれています。
これを読むと、本文中に書いた「昭和の若冲」という形容は当初からあったと理解できました。田中一村をゴーギャン(離島に移り住んで描き、生涯を終えた)、アンリ・ルソー(亜熱帯・熱帯の動植物を描いた)、ゴッホ(画壇から認められることは無かった)と並べるのは皮相的なのでしょう。やはり並べるとしたら伊藤若冲です。
今回の「田中一村展」は、7歳ごろから亡くなるまでの作品、300点以上が展示されるという大規模なものでしたが、その中から奄美大島で描かれた1点だけを引用します。
幾重にも折り重なったビロウの葉が、深々とした森の中に空間を作っています。ビロウは墨の濃淡だけで表現され、空間の中に3つの植物と蝶が配置されています。「田中一村展」の図録によると、左上はアカミズキ(赤水木)にとまるアサギマダラ(浅葱斑)、中央下はアオノクマタケラン(青野熊竹蘭=ショウガ科)、右下はコンロンカ(崑崙花)です。植物の葉も墨で描かれ、墨以外の色はわずかです。向こうの方に少し明るい場所が見えますが、これは森の外でしょうか。
描かれているものはすべてリアルで、植物の名前、蝶の名も特定できます。しかし全体としては "見たことのない空間" という印象で、小林先生の言葉を借りると "写実を超えた幻想の世界" を描いたように感じます。
その大きな理由は、一種の "コラージュ的な手法" によるのだと思います。一つ一つのモノを徹底的に観察し、それらすべてを写実的に描き、画面全体に貼り合わせて構図を作る。一番手前(右下のコンロンカ)から向こうの方(明るい所)に空間が広がっているはずなのに、すべてが同程度のリアルさです。もし人がこれと同じ実空間にいたとしても、眼には決してこのようには見えないはずです。一種の "多視点的な描き方" であり、これが "見たこともない空間" を作り出しているのでしょう。
この絵は一つの例に過ぎませんが、田中一村が奄美大島で描いた絵はこのような特徴のものが多い。そのことが、展覧会を見てよく分かりました。
皇居三の丸尚蔵館
皇室が国に寄贈した美術工芸品を収蔵する三の丸尚蔵館は、新施設の建設工事(第1期)が完成し、これを記念して2023年11月から2024年6月まで、所蔵作品を展示する開館記念展が開催されました。これは第1期から4期に分かれており、その第4期の展示(2024年5月21日~6月23日)に行ってきました。
第4期には 14点の美術工芸品が展示されていて、どれもすばらしいものでしたが、何と言っても目玉は、狩野永徳の『唐獅子屏風』(国宝)と伊藤若冲の『動植綵絵』(全30幅のうちの4幅。国宝)でしょう。私は『唐獅子屏風』は別の展覧会で見たことがあったのですが、『動植綵絵』は初めてでした。
伊藤若冲の『動植綵絵』
そもそも4期に渡るこの展示会は、『動植綵絵』の "全30幅のうちの12幅" が大きな "目玉作品" でした。そのうちの8幅は第1期の前期と後期にそれぞれ4幅が展示され、今回が最後の4幅です。展示されていたのは、
・老松孔雀図
・諸魚図
・蓮池遊魚図
・芙蓉双鶏図
でした。なお、No.215「伊藤若冲のプルシアン・ブルー」に書いた『群魚図《鯛》」は『諸魚図』とは別です。今回の作品は蛸が目立つので『群魚図《蛸》』と呼ばれることもありますが、皇居三の丸尚蔵館は『群魚図《鯛》』を単に『群魚図』、『群魚図《蛸》』を『諸魚図』と呼んで区別しています。
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伊藤若冲「動植綵絵」 |
皇居三の丸尚蔵館・開館記念展(第4期)で展示された4幅。老松孔雀図(左上)、諸魚図(右上)、蓮池遊魚図(左下)、芙蓉双鶏図(右下) |
この中でやはり印象的だったのは『老松孔雀図』です。孔雀の羽を白(胡粉)で描き、裏から黄色(黄土色)を塗ることで、透けて見える部分が金色に輝くような効果を生み出しています(No.215 参照)。いわゆる裏彩色の技法ですが、白と合わさることで "気高い" とか "高貴" といった印象を醸し出していました。
『芙蓉双鶏図』の2羽の鶏の鮮やかな色彩と構図も印象に残りました。2羽の鶏は、普通あまり描かれないようなアングルです。実際に鶏はこういう格好をするに違いなく、画家の徹底した観察を思わせるものでした。
そして、・・・・・。『動植綵絵』で最も強く思ったのは、実は、その横に展示してあった酒井抱一の『花鳥十二ヶ月図』との対比で感じた若冲の絵の "密度" だったのです。
酒井抱一『花鳥十二ヶ月図』
酒井抱一の『花鳥十二ヶ月図』は、一月から十二月までの各月にちなんだ画題の花鳥画から成っています。4期の展示会では、その中から『二月 菜花に雲雀図』『三月 桜に雉子図』『十月 柿に小禽図』『十一月 芦に白鷺図』の4幅が展示されていました。
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酒井抱一「花鳥十二ヶ月図」 |
皇居三の丸尚蔵館・開館記念展(第4期)で展示された4幅。「二月 菜花に雲雀図」(左上)、「三月 桜に雉子図」(右上)、「十月 柿に小禽図」(左下)、「十一月 芦に白鷺図」(右下) |
各幅には、花鳥画というジャンルそのままに、小鳥(十月の小禽は目白)と植物(花・草・果実)が描かれています。そして、主題とそれを支える事物が詳細度を変えて描かれています。鳥はリアルですが、たとえば桜や柿の幹は "たらし込み" を使って「幹のイメージ的表現」になっている。また背景は空や田畑や川を暗示する抽象的な描き方です。
さらに構図は、木の幹で画面をぶった切る "クローズアップ" 表現によって、画面外にも絵画世界が広がっている印象を与えています。余白のとりかたも画面外の世界を暗示している。まさに江戸期の日本画の一つの典型のような作品です。
酒井抱一の『花鳥十二ヶ月図』は、伊藤若冲の『動植綵絵』の左に展示されていました。そして見比べると、同じ日本画、しかも同じ花鳥画である2作品のあまりの違いが強く印象づけられました。一言で言うと『花鳥十二ヶ月図』との比較で感じる『動植綵絵』の "密度" です。
密度といっても、画面を隙間なく埋め尽くすという意味での密度ではありません。『動植綵絵』は、主題となった動物・植物の各部位が同じような詳細度合いで描かれています。また主題と、それを支える "補助的な" はずの事物も同じ詳細度合いです。筆を省略して暗示しようとする積極的な意図はなく、描くところは徹底的に描き込まれている。そういう意味での、"描き込みの密度" です。
おそらく皇居三の丸尚蔵館の学芸員の方は、『花鳥十二ヶ月図』と『動植綵絵』という2つの花鳥画・4幅を対比させることによって、それぞれの特長を際だたせようとしたのでしょう。その狙いはピッタリとはまっていました。これでこそ学芸員です。
辻惟雄
皇居三の丸尚蔵館を見学してから数日後、NHK Eテレの日曜美術館を見ていると、美術史家・辻惟雄氏の特集をやっていました(2024年6月2日)。辻先生は「奇想の系譜」(初版 1970年)を出版し、それまで忘れられていた江戸期の画家、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、長沢芦雪、曽我蕭白、歌川国芳などを "奇想の画家" というキーワードで紹介し、江戸絵画の見方に革命を起こしたことで有名です。日本美術史を書き換え、さらに、いわゆる "若冲ブーム" に火を付けた方と言ってよいでしょう。
番組では若冲について、アメリカ人のジョー・プライスという人が若冲をコレクションしているという話を辻先生が聞きつけ、辻先生はそれで若冲作品の本物に初めて触れ、そこから研究に入った経緯が語られていました。
そして近年、辻先生が若冲についてのある論文を執筆者から受け取り、返事を出されたことが紹介されていました。その返事には「自閉スペクトラムという科学の鍵を用いて、若冲の秘密の部屋を次ぎ次ぎと開けていく手腕に、目から鱗の落ちる思いだった」とあります。その論文を書かれたのは、京都市で精神科医をされている華園 力氏です。
若冲のオーソリティである辻先生に「目から鱗」と評価された論文を知らずにおくわけにはいきません。そこで以下は、ネットに公開されている「自閉スペクトラムの認知特性と視覚芸術」(日本視覚学会誌 VISION Vol.30, N0.4, 2018)にもとづき、華園先生の論を紹介します。自閉スペクトラムという認知特性がアートにもたらす影響を論じたもので、華園先生の臨床医としての経験と研究から生まれたものです。
自閉スペクトラムと視覚芸術
まず議論の前提として、花園先生の論文の主題になっている自閉スペクトラム(AS。Autism Spectrum)は、自閉スペクトラム症(ASD。Autism Spectrum Disorder)と同じではないことを明確にしておく必要があります。自閉スペクトラム症(ASD)とは、
対人、あるいは社会的コミュニケーションや相互交流が難しい。自動的で即座的な対人情報処理が弱い。 | |
興味関心・行動が限定されていて、反復性がある。細部・規則性・同一性にこだわる。 | |
適応不全である。すなわち社会生活上の支障をきたしている。 |
の3条件に当てはまる状態を言います。これは、医学的診断名であり、医療(治療)の対象になります。
一方、自閉スペクトラム(AS)とは、3条件が当てはまるケースに加えて、C の条件がないケースも含みます。従って、適応不全ではなく支障なしに社会生活を送れている場合も含む。つまり「AS は ASD を含む広い概念」です。
AS は医学的診断名ではありません。また、医療の対象とはならない人を含みます。従って「人の、ある種の "認知特性" を表した言葉」と言ってもよい。論文では A や B のような認知特性を「AS特性」、また AS特性をもつ人を「AS者」という言葉で表現しています。
日曜美術館で華園先生が強調されていましたが、AS特性をもった人がアートやテクノロジーの最前線でイノベーティブな活躍をするケースがいろいろあるわけです。AS特性は、マイナス・弱点というより、個性ととらえるべきです。冒頭にあげた「アストリッドとラファエル」は、まさにそういう視点で作られたドラマでした。
論文には、AS者のアート表現についての数々の事例があげられています。これらをいろいろ読むと、AS特性は人の認知特性、発達特性の一つであり、人の個性であると強く感じます。もちろん AS特性といっても、人によって強弱があるのは言うまでもありません。そもそもスペクトラムとは、光の「スペクトル」を同じ意味で、連続体を意味します。光の波長が連続して変化して虹を作るように、AS特性も、健常者から重度の自閉スペクトラム症まで連続しています。AS特性は「多かれ少なかれ全ての人が持っている特性」とも言えるでしょう。
以上を踏まえて、華園先生が論じている「AS特性が視覚芸術に与える影響」みていきます。
AS特性が視覚芸術に与える影響
AS者が作るアートの表現様式の特徴から、華園先生が若冲作品を引き合いに出して説明されている、
・細部への焦点化
・多重視点
・表情認知の難しさ
・反復繰り返し表現
の4点を以下に紹介します。なお、以下の論文からの引用は段落を追加したところがあります。
細部への焦点化 |
若冲の絵には執拗なまでの細部へのこだわりが見て取れる。「南天雄鶏図」は、若冲が相国寺に寄進した「動植綵絵」という30幅の花鳥画の一つである。若冲の絵は形態と色彩の繰り返しと呼応に細心の注意が払われていることが多いが、この絵もそれをよく表している。 羽毛にしても鶏冠の白いドットにしても、また赤い南天の実一粒一粒も、全く手を抜くことなく驚くべき集中力を持続させて描きあげている。いたるところ細部まで同じ密度で描かれ、部分と全体、主題と背景の間に優劣が見られない。南天の実は絵絹の裏側から顔料を塗り表面は染料で色付けする「裏彩色」という技法によって微妙に陰影が付けられ奥行が表現されている。南天の実は一粒ごとに明度に差があり、裏彩色の有無や顔料や染料の濃度差で表現されている。 表面からは辰砂だけで彩色されたものと赤色染料を加えたものがある。緻密な表現、細密な描写がどの部分を取っても手を抜くことなく貫かれていて、色彩・発色への執着、細部への焦点化が顕著に認められる。このような細部への過剰な焦点化は、AS者の認知特性を強く反映している。 華園 力 「自閉スペクトラムの認知特性と視覚芸術」 (日本視覚学会誌 VISION Vol.30-4, 2018) |
『動植綵絵』の『南天雄鶏図』は、皇居三の丸尚蔵館・開館記念展の第1期(の前期)に展示されました。
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伊藤若冲 動植綵絵「南天雄鶏図」 |
華園先生は伊藤若冲を AS者であると考えていますが、絵だけから AS者と判断しているわけではありません。文献などにみられる若冲についての 状況証拠" も踏まえての判断です。逆に言うと、AS者でなくても「AS者のアートの表現様式の特徴をもった作品」を作ることはあり得るということでしょう。ここは重要な点だと思います。
多重視点 |
同じく若冲の動植綵絵の中の「蓮池遊魚図」という絵では、顕著な多重視点が見て取れる。この絵は一つの固定した視点から眺望した風景ではなく、各部分がそれぞれ独立した視点から描写された多重視点で構成されている。 前景に見られるヒシやハスの葉あるいはハスの花は池辺から斜めに、または真横から眺めているように描かれている。上方に見られる一輪のハスの花は、あたかも上空から見下ろしたように描かれている。また、同方向に泳ぐアユやオイカワは、真横から水中撮影したかのように表現されている。複数の異なるパースペクティブが何のためらいもなく同一画面を構成しているのである。 (同上) |
『動植綵絵』の『蓮池遊魚図』は、皇居三の丸尚蔵館・開館記念展の第4期に展示されたので既に画像を掲載しましたが、改めて拡大した画像を掲げます。
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伊藤若冲 動植綵絵「蓮池遊魚図」 |
惜しいことに、展示会でこの絵を見たあとに華園先生の論文を読んだので、こういった見方での鑑賞はしませんでした。「言われてみれば・・・」という感じです。
考えてみると、日本画では複数の視点を一つの作品に詰め込んだ作品は屏風絵などにはよくあります。絵巻物だと複数の時間まで同居している。浮世絵の風景画にも、近景・中景・遠景で視点が違う作品があります。そういう意味で『蓮池遊魚図』を(セザンヌの絵とは違って)多重視点という意識では見ないのでしょう。しかも横に展示してある『諸魚図』は、まるで魚類図鑑の1ページのような描き方です。『蓮池遊魚図』も、魚と蓮を並べた図鑑のような絵だと思ってしまのですね。
しかしこの絵は華園先生の指摘のように、蓮池の狭い空間の中に、横・斜め上・上から見た蓮の葉と花、9匹の鮎と1匹のオイカワの姿を混在させています。確かにこれは、この絵の明らかな特徴です。
表情認知の難しさ |
AS特性の強い多くの人は、表情認知が弱いことが知られています。つまり「顔や表情は、それ以外のものが発信する情報よりも優れて目立つ」という "顕著性" があるのが普通です。しかしAS者は、顔や表情について顕著性の感じかたが弱いのです。
若冲の絵には僧侶の肖像画(頂相)を含め人物画が極めて少ない。あったとしても人の表情の描写は極めて拙く、動植物画に比べ表現力に極端な乖離がある。これはAS者に多い表情認知の弱さと関連していると思われる。 例えば、「蒲庵和尚像」は黄檗山第23代蒲庵和尚の肖像画(頂相)であるが、巧みな動植物の絵に比べてその拙さは不思議な印象すら与える。若冲の絵にはこのような頂相を含め人物画が極めて少なく、人の表情の描写は極めて拙い。さもなければ、「布袋唐子図」のように、まるで漫画やゆるキャラのような表現になる。 表情描写の乏しさは、動物の表情や目の描写にも表れている。無邪気に戯れ合っているように見える若冲の「百犬図」に登場する仔犬たちの表情は、よく見ると平板で特に目はどこを見ているのか視線は定まらず、対象を突き抜けているようで、その奥に志向性や感情の存在が読み取れない。遊び心をうかがわせる凝った犬の紋様以上の顕著性が表現されていない。 (同上) |
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伊藤若冲「蒲庵浄英像」 |
(京都・萬幅寺 蔵) |
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伊藤若冲「百犬図」
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「百犬図」という題ではあるが、子犬は 100匹ではなく 59匹である。百は多数の意味。 |
(京都国立博物館 蔵) |
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伊藤若冲「百犬図」(部分) |
子犬の目はすべて同じように描かれていて、表情が没個性的だとの印象を受ける。それとは裏腹に、毛色とぶちのパターンは極めて多様である。 |
江戸絵画には子犬を描いた絵が多々ありますが、有名なのは円山応挙です。応挙が描いたさまざまな子犬が次です。
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円山応挙が描いた、さまざまな子犬 |
金子信久「子犬の絵画史」(講談社 2022)より |
若冲と応挙を比較してみると共通点があります。それは「子犬のさまざまな姿態、ポーズを描こうとしている」ことです。それによって子犬の愛らしさ、可愛らしさを表現しています。
しかし大きな違いがあります。応挙は子犬の "表情" によって愛らしさを際だたせようとしています。一方、若冲は "表情" を描こうとはしていません。若冲の関心は明らかに子犬の毛色、特に地色にまだら模様の入る "ぶち犬" のパターンを描き分けることにあります。だから59匹もの子犬を画面に詰め込んだ。若冲が表情描写に関心が行っていないという華園先生の指摘は図星だと思います。
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そう言えば、若冲が多数描いた鶏には「表情がない」のですね。また魚や昆虫にも表情がない。一方、哺乳類(子犬、猿が江戸絵画の主な画題)については、普通の人は「表情がある」とイメージします。それが本当に動物の "表情" なのかは別です。人は子犬や猿を見ると、無意識に人間の顔を動物に投影してしまい、擬人化する。それにより "表情" と感じる、と言う方が正確でしょう。
応挙は子犬に表情をもたせた。だから "カワイイ"。しかし若冲は違います。画家は「鶏を描くように子犬を描いた」と言えそうです。
反復繰り返し表現 |
AS者は同一性を保持しようとしたり、反復繰り返し行動(restricted and repetitive behaviors:RRBs)を取ることが多い。そのような行動は、不安を軽減したり気分の安定に寄与する自己治癒的な側面を持っている。それが視覚芸術においても繰り返し表現を選択する動因となっていると考えられる。 (同上) |
動植綵絵の『南天雄鶏図』における多数の南天の実と鶏冠の白い点々、鶏の羽の1枚1枚は、まさに「反復繰り返し表現」です。No.215 で紹介しましたが、「無数に描かれた南天の実1つ1つ、折り重なった紅葉の1枚1枚に、微妙に異なる裏彩色がなされている」そうです(三の丸尚蔵館 太田主任研究官による。日経サイエンス 2017年10月号)。華園先生も『南天雄鶏図』について同じことを指摘されていました。若冲は絵の表で反復繰り返すだけでなく、裏からも繰り返していることになります。そもそも鶏の背景に南天を選んだのは、反復繰り返しをしたかったのかも知れません。
華園先生はその「反復繰り返し表現」の極端な例として、いわゆる "桝目描き" の『白象群獣図』を例に出しています。
伊藤若冲の桝目描きの初期作品「白象群獣図」は、正絵という西陣織物の下絵にヒントを得て創作されたものと言われている。 画面をおよそ10mm四方の正方形に分割し、その内部を一つ一つ塗り分けていて、この絵では約6,000個の桝目があるという。これらを一つ一つ丁寧に塗っていく、同一のパターンを飽きることなく繰り返すのは、驚くべき集中力と根気を必要とする気の遠くなるような作業である。 RRBsの強さ、特に同一性への固執は不安の強さと相関している。こういう同型の繰り返し作業、同一性を保つ行動はAS者にとっては不安を軽減する一種の自己治癒効果を持っていると考えられる。 (中略)
AS特性の強い者では、注意を持続させながら機械的繰り返し作業をしている時の方が、何もしていない時よりリラックスできていることがあることを示唆している。驚くべき持続的集中と忍耐で桝目を塗りあげている過程は、そのままリラクゼーションや癒しの行為にもなっているのではないだろうか。 ASの作家たちの作品には顕著な反復繰り返しの表現が数多く見られる。 (同上) |
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伊藤若冲「白象群獣図」 |
(個人蔵) |
伊藤若冲の "桝目描き" の作品は『白象群獣図』を含めて3つあり、残りは『樹花鳥獣図屏風』(静岡県立美術館 蔵)と『鳥獣花木図屏風』(出光美術館 蔵:旧プライス・コレクション)です。このうち『白象群獣図』は、華園先生も書かれているように初期作品であり、すべてが若冲の真筆だと考えられています。
いずれにせよ、日本美術史においては "空前絶後" の作品であることには間違いありません。
全ての事物は平等
以上をまとめると、華園先生は、
・『南天雄鶏図』(動植綵絵)
・『蓮池遊魚図』(動植綵絵)
・『百犬図』『蒲庵浄英像』
・『白象群獣図』
などの作品に見られる特徴を、
・細部への焦点化
・多重視点
・表情認知の難しさ
・反復繰り返し表現
として抽出し、これらの特徴の共通項が「自閉スペクトラムの特性がある人のアート表現」だと指摘されたのでした。もちろん、論文は若冲の分析を目的にしたものではなく、他にも数々の画家の例が登場します。たとえば次のような指摘です。
田中一村(1908 - 1977)は幼少期から南画の神童と呼ばれたが、中央画壇に認められぬまま奄美大島で絵を描き続けた。一村もその行動上の特徴からAS者と考えられるが、彼の風景・花鳥図にも細部への焦点化による濃密な表現が見られる。田中一村の描いた数少ない肖像画も、見事な風景・花鳥図に比べるといかにも稚拙で見劣りがすると言わざるを得ない。 (同上) |
なるほど。伊藤若冲と田中一村の花鳥図は、細部への焦点化による濃密な表現という点で極めてよく似ている。これは非常に納得します。一村を称して「奄美大島のゴーギャン」などと言う人がいますが、それは「離島に移り住んで描いた」という外面だけの共通性による皮相的な見方であり、「昭和の若冲」と言う方が本質を突いているのでしょう。
そう言えばNHK Eテレの日曜美術館によると、華園先生は、アンリ・ルソーの絵も AS特性をもつ人のアート表現の特徴があると指摘されているそうです。ここで思い当たるのは、アンリ・ルソーの(空想の)熱帯風景を描いた一連の絵と、田中一村の奄美で描いた絵は良く似ていることです。
その「田中一村 展」が、東京都美術館で開催される予定です(2024年9月19日~12月1日)。「自閉スペクトラム」「伊藤若冲」「アンリ・ルソー」という視点で展覧会を見るのも面白そうです。
以上の華園先生の論文を読んで思うのですが、もし「自閉スペクトラム」という言葉を全く持ち出さないで(あるいは精神医学の知見から全く離れて)若冲作品を貫く共通項を言うなら、
リアリズム絵画の範疇に留まりつつ、全ての事物は平等というコンセプトで描かれた作品
と言えるのではないでしょうか。画家は、鶏頭と鶏冠と羽と南天の実と葉を同じ詳細度合いで描きます。上・横・斜めから見た蓮の花も平等に描く。子犬も、そこに人間を投影したりせずに、鶏と同じスタイルで描く。
極めつけは「桝目描き」です。全体としては象などの動物を描いているのだけれど、6000ある個々の桝目、今風に言うとピクセルは、あくまで平等です。どのピクセルが重要だとは言えません。ピクセルなのだから・・・。
伊藤若冲という人は、独特の個性的な "眼" をもった人であり(華園先生によるとそれは AS特性に由来する)、その個性が現代の我々を魅惑するのだと思いました。
(続く)
補記1:伊藤若冲の人物像 |
伊藤若冲(1716-1800)は、京都の錦小路の青物問屋(通称 "桝源")の長男として生まれ、23歳のときに父を亡くして家業を継ぎました。桝源は、錦小路という京都随一の食料品街に店を構え、店付近の土地も所有していたようで、その当主はただの町人ではなく町衆(旦那衆)と呼ばれた裕福な商人です。若冲は40歳のときに家督を弟に譲って隠居し、以降は画業に専念しました。
伊藤若冲の日記や手紙は残っていませんが、相国寺(『動植綵絵』を寄贈した禅宗の寺院)の住職であった大典顕常が若冲と親しく、この僧が残した文が残っていて、そこから若冲の人物像をうかがい知ることができます。
その人物像を述べた2人の文章を紹介します。まず、若冲の研究で著名な美術史家の小林 忠氏は、葛飾北斎の自称である "画狂人" と対比するかたちで、若冲を "画遊人" であるとし、次のように述べています
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小林氏の紹介による若冲の人物像を簡潔にまとめると、
絵のほかには何の楽しみごともなく、日々その趣味にふけり遊んで飽きることがなかった | |
非情・有情にかかわらず成仏できるという、仏教徒としての純粋で真摯な世界観をもっていて、「動植綵絵」はその現れである |
となるでしょう。
また、美術史家の狩野博幸氏は、次のように書いています。
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旦那衆であれば夕方からの寄り合いが仕事のようなもので、彼らが祇園や先斗町に落とすお金が京の繁栄につながりました。小唄や三味線は、旦那衆が普通にたしなむ遊びです。しかし若冲は、そういうことは一切受け付けなかったようです。
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ちなみに、鹿苑寺は俗称・金閣寺で、臨済宗相国寺派の寺院です。鹿苑寺が大書院の障壁画を若冲にまかせたのは、狩野派や土佐派といった "ブランド" はなくても、絵師としての技量を認めたからでしょう。
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狩野氏の紹介による若冲の人物像を簡潔にまとめると、
旦那衆としての素養はなく(ないしはそこから距離を置き)人づきあいは苦手 | |
ただし、興味のあることには異常に熱中する |
といったところでしょう。その若冲の価値を理解できる人たちが、大典顕常をはじめ当時からいた。そこが重要なところだと思います。
補記2:「蓮池遊魚図」の "あり得ない" 描写 |
本文中に『動植綵絵』の「蓮池遊魚図」を "多重視点" という観点から引用しましたが、「補記1」で引用した狩野博幸氏は、別の観点から次のように書いています。
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伊藤若冲 動植綵絵「老松白鳳図」 |
鳳凰は空想上の霊鳥で、右下に描かれた "虫食いの桐の葉" は現実そのものである。フィションとリアルを極端に対比させた独自の世界が広がる。忘れがちであるが、『動植綵絵』の30幅は『釈迦三尊図』3幅とともに相国寺に寄進された仏画である。 |
病葉で思い出しましたが、若冲は『動植綵絵』の雪のシーンを描いた作品で、溶けかけた雪を描いていますね(「雪中錦鶏図」と「芦雁図」)。こういう表現は日本美術で他に見たことがないし、世界美術史でも例がないのではと思います。
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伊藤若冲 動植綵絵「雪中錦鶏図」 |
錦鶏(きんけい)はキジ科の美しい鳥だが、背景になっている雪景色は独特である。水分を多量に含んだ "みぞれ" のような雪が木の枝に降り、降ったその場で溶け出すように描かれている。 |
補記3:田中一村 |
本文で触れたのですが、2024年9月19日から東京都美術館で「田中一村展」が開催され、さっそく行ってきました。その数日後の9月28日、1984年に放映された「日曜美術館」の再放送がNHK Eテレでありました。田中一村の評価の先駆けになったといわれる番組です。タイトルは、
日曜美術館(1984年)
美と風土 黒潮の画譜
~ 異端の画家・田中一村 ~
です。この番組の中で、若冲研究で著名な小林忠氏(当時、学習院大学教授。現在、岡田美術館館長。補記1参照)へのインタビューがありました。小林氏は1971年に「若冲展」(東京国立博物館)を企画・開催されていて、辻先生とともに現在の若冲ブームを作った中心人物です。その小林先生が、田中一村(1908-1977)の奄美大島時代の絵について次のように語っておられました。
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この "田中一村の花鳥画評" は、そのまま伊藤若冲に当てはまるではないでしょうか。小林先生の発言は、番組のタイトルが暗示する "風土と芸術の関係" ではなく、純粋な "画家論"、ないしは "芸術論" になっているのが印象的でした。
田中一村が知られるようになったのは、三回忌(1979年)に奄美で開催された「田中一村遺作展」でした。この開催に尽力したのが、南日本新聞の記者・中野淳夫氏です。その5年後、遺作展のことを知ったNHKディレクターの松元邦暉氏が日曜美術館でとりあげ(1984年)全国的な反響を呼んだのです(ちなみに、中野氏も松元氏も美術と無縁だったようです。それほど一村の吸引力が強かったということでしょう)。
今回の「田中一村展」を監修された千葉市美術館の副館長・松尾和子氏は次のように書かれています。
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これを読むと、本文中に書いた「昭和の若冲」という形容は当初からあったと理解できました。田中一村をゴーギャン(離島に移り住んで描き、生涯を終えた)、アンリ・ルソー(亜熱帯・熱帯の動植物を描いた)、ゴッホ(画壇から認められることは無かった)と並べるのは皮相的なのでしょう。やはり並べるとしたら伊藤若冲です。
今回の「田中一村展」は、7歳ごろから亡くなるまでの作品、300点以上が展示されるという大規模なものでしたが、その中から奄美大島で描かれた1点だけを引用します。
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田中一村「枇榔樹の森」 |
(田中一村記念美術館蔵) |
幾重にも折り重なったビロウの葉が、深々とした森の中に空間を作っています。ビロウは墨の濃淡だけで表現され、空間の中に3つの植物と蝶が配置されています。「田中一村展」の図録によると、左上はアカミズキ(赤水木)にとまるアサギマダラ(浅葱斑)、中央下はアオノクマタケラン(青野熊竹蘭=ショウガ科)、右下はコンロンカ(崑崙花)です。植物の葉も墨で描かれ、墨以外の色はわずかです。向こうの方に少し明るい場所が見えますが、これは森の外でしょうか。
描かれているものはすべてリアルで、植物の名前、蝶の名も特定できます。しかし全体としては "見たことのない空間" という印象で、小林先生の言葉を借りると "写実を超えた幻想の世界" を描いたように感じます。
その大きな理由は、一種の "コラージュ的な手法" によるのだと思います。一つ一つのモノを徹底的に観察し、それらすべてを写実的に描き、画面全体に貼り合わせて構図を作る。一番手前(右下のコンロンカ)から向こうの方(明るい所)に空間が広がっているはずなのに、すべてが同程度のリアルさです。もし人がこれと同じ実空間にいたとしても、眼には決してこのようには見えないはずです。一種の "多視点的な描き方" であり、これが "見たこともない空間" を作り出しているのでしょう。
この絵は一つの例に過ぎませんが、田中一村が奄美大島で描いた絵はこのような特徴のものが多い。そのことが、展覧会を見てよく分かりました。
(2024.10.5)
2024-06-16 18:38
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No.346 - アストリッドが推理した呪われた家の秘密 [アート]
このブログでは数々の絵画について書きましたが、その最初は、No.19「ベラスケスの "怖い絵"」で取り上げた「インノケンティウス10世の肖像」で、中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある解説を引用しました。この絵はローマで実際に見たことがあり、また中野さんの解説が秀逸で、印象的だったのです。
『怖い絵』には興味深々の解説が多く、読み返すこともあるのですが、最近、あるテレビドラマを見ていて『怖い絵』にあった別の絵を思い出しました。15~16世紀のドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』です。今回はそのことを書きます。
テレビドラマとは、NHK総合で放映中の「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」です。
アストリッドとラファエル
「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」は、NHK総合 日曜日 23:00~ の枠で放映されているフランスの警察ドラマです。
アストリッドはパリの犯罪資料局に勤務する文書係の女性(俳優はサラ・モーテンセン)、ラファエルはパリ警視庁の刑事(警視)です(俳優はローラ・ドヴェール)。アストリッドは自閉スペクトラム症ですが、過去の犯罪資料に精通していて、また抜群の洞察力があります。一方のラファエルは、思い立ったらすぐに(捜査規律違反もいとわず)行動に移すタイプです。しかし正義感は人一倍強く、人間としての包容力もある女性刑事です。この全く対照的な2人がペアになって難事件を解決していくドラマです(サラ・モーテンセンの演技が素晴らしいと思います。彼女の演技だけでも番組を見る価値があります)。
呪われた家
このドラマのシリーズで「呪われた家」というストーリーが2回に分けて放映されました(前編:2022年8月14日、後編:8月21日)。このストーリーでの重要な舞台は、パリにある "呪われた家" との噂がある屋敷です。この屋敷の歴史について、アストリッドが過去の資料を調べてラファエルに説明するシーンがあります。台詞を抜き出すと以下です。以下に出てくる "リボー" とは、突然、行方不明になった屋敷の主です。

呪われた家の秘密
実は、"呪われた家" には隠されていた地下室がありました。ラファエルが封印を破って地下室に最初に入ったとき、ラファエルは幻影を見ます。
その後、ラファエルとアストリッドが地下室を詳しく調ているときです。アストリッドは地下室の隅に放置されたままの袋を見つけました。
"呪われた家" を出たアストリッドは、あることが閃いたようで、「犯罪資料局に戻らなければ。今すぐに」と言います。ラファエルも同行しました。
キーワードは麦角菌です。その麦角菌と関係する有名な絵画がフランスにあります。
麦角菌
LSD(Lysergic acid diethylamid)は強い幻覚作用をもち、日本をはじめ各国で麻薬として禁止されている薬物です。ラファエルが「リゼルギン酸ジエチルアミド」とアストリッドから聞いてすぐ LSD だと分かったのは、それが刑事の必須知識である禁止薬物だからです。
LSDは人工的に合成されますが、もともと麦角菌に含まれる「麦角アルカロイド」の研究から生まれたものでした。麦角アルカロイドの中のリゼルギン酸から LSD が生成されることもあります。
アルカロイドとは、主に植物や菌が生成する有機化合物の総称ですが、麦角アルカロイドの人への影響は幻覚だけでありません。Wikipedia から引用すると、次のとおりです。
麦角アルカロイドが人にもたらすさまざまな症状を「麦角中毒」といいます。そして「麦角中毒」は、アストリッドが指摘した1951年のポン・サン・テスプリ(Pont-Saint-Esprit。南フランスの小さな町)での事件(実際にあった事件です)より遙か昔から、ヨーロッパでしばしば起こっていました。そして中世ヨーロッパでは、麦角中毒のことを人々は「聖アントニウス病」ないしは「聖アントニウスの火」と呼んでいました。
その「聖アントニウス病」と密接に関係した絵が、ドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』(1515年頃)です。イエスの磔刑を描いていますが、イエスを最も酷い姿で描いた絵として有名です。
イーゼンハイムの祭壇画
中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある『イーゼンハイムの祭壇画』の解説を紹介します。
上に引用にあるように、聖アントニウス病が麦角中毒だと分かるのは17世紀終わりです。ということは、それ以前の中世、たとえば『イーゼンハイムの祭壇画』が描かれた16世紀では、そんなことは誰も知らない。当時、聖アントニウス病を治すには、転地療養や旅(巡礼)が良いとされたようですが、それは食事が変わって、いつも食べている「麦角菌入りのライ麦パン」を食べなくなったからなのでしょう。
では、麦角中毒がなぜ「聖アントニウス病」と呼ばれたのか。そして、イーゼンハイム(現在のストラスブール近郊の町)の修道院にあった『イーゼンハイムの祭壇画』が、なぜ「聖アントニウス病」と関係するのか。中野さんの解説が続きます。
このあと中野さんは、当時、聖アントニウス病にかかった村人が、同じ症状の人をさそって、5人でイーゼンハイムへ巡礼に出かける旅路を、村人目線で、想像で書いています。同行の人は次々と行き倒れ、イーゼンハイムに近づいたときには、村人一人になっていました。
要するに『イーゼンハイムの祭壇画』は、たとえば、当時、聖アントニウス病に罹患し、イーゼンハイムの修道院にやっとの思いでたどり着いた巡礼者の気持ちを想像してみないと、その価値の一端すら分からないと言っているのですね。
このあとは、祭壇画の詳細な解説です。登場人物はイエス、聖母マリア、イエスの弟子の聖ヨハネ、マグダラのマリア、洗礼者聖ヨハネ、聖セバスティアヌス、聖アントニウスなどです。
コルマールのウンターリンデン美術館
「イーゼンハイムの祭壇画」は現在、解体された状態で、フランスのアルザス地方の都市、コルマールにあるウンターリンデン美術館にあります。
コルマールは一度だけ行ったことがありますが、その時はツアー旅行だったので、美術館のところまで来たときには閉館時間を過ぎていました。残念でしたが、ツアー旅行なので仕方ありません。なお、コルマールは、ジブリ映画『ハウルの動く城』のモデルになったとも言われる美しい街です。ウンターリンデン美術館とは関係なく、十分に訪問する価値がある街です。
『怖い絵』には興味深々の解説が多く、読み返すこともあるのですが、最近、あるテレビドラマを見ていて『怖い絵』にあった別の絵を思い出しました。15~16世紀のドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』です。今回はそのことを書きます。
テレビドラマとは、NHK総合で放映中の「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」です。
アストリッドとラファエル
「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」は、NHK総合 日曜日 23:00~ の枠で放映されているフランスの警察ドラマです。
アストリッドはパリの犯罪資料局に勤務する文書係の女性(俳優はサラ・モーテンセン)、ラファエルはパリ警視庁の刑事(警視)です(俳優はローラ・ドヴェール)。アストリッドは自閉スペクトラム症ですが、過去の犯罪資料に精通していて、また抜群の洞察力があります。一方のラファエルは、思い立ったらすぐに(捜査規律違反もいとわず)行動に移すタイプです。しかし正義感は人一倍強く、人間としての包容力もある女性刑事です。この全く対照的な2人がペアになって難事件を解決していくドラマです(サラ・モーテンセンの演技が素晴らしいと思います。彼女の演技だけでも番組を見る価値があります)。
呪われた家
このドラマのシリーズで「呪われた家」というストーリーが2回に分けて放映されました(前編:2022年8月14日、後編:8月21日)。このストーリーでの重要な舞台は、パリにある "呪われた家" との噂がある屋敷です。この屋敷の歴史について、アストリッドが過去の資料を調べてラファエルに説明するシーンがあります。台詞を抜き出すと以下です。以下に出てくる "リボー" とは、突然、行方不明になった屋敷の主です。
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呪われた家の秘密
実は、"呪われた家" には隠されていた地下室がありました。ラファエルが封印を破って地下室に最初に入ったとき、ラファエルは幻影を見ます。
その後、ラファエルとアストリッドが地下室を詳しく調ているときです。アストリッドは地下室の隅に放置されたままの袋を見つけました。
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"呪われた家" を出たアストリッドは、あることが閃いたようで、「犯罪資料局に戻らなければ。今すぐに」と言います。ラファエルも同行しました。
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キーワードは麦角菌です。その麦角菌と関係する有名な絵画がフランスにあります。
麦角菌
LSD(Lysergic acid diethylamid)は強い幻覚作用をもち、日本をはじめ各国で麻薬として禁止されている薬物です。ラファエルが「リゼルギン酸ジエチルアミド」とアストリッドから聞いてすぐ LSD だと分かったのは、それが刑事の必須知識である禁止薬物だからです。
LSDは人工的に合成されますが、もともと麦角菌に含まれる「麦角アルカロイド」の研究から生まれたものでした。麦角アルカロイドの中のリゼルギン酸から LSD が生成されることもあります。
アルカロイドとは、主に植物や菌が生成する有機化合物の総称ですが、麦角アルカロイドの人への影響は幻覚だけでありません。Wikipedia から引用すると、次のとおりです。
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麦角アルカロイドが人にもたらすさまざまな症状を「麦角中毒」といいます。そして「麦角中毒」は、アストリッドが指摘した1951年のポン・サン・テスプリ(Pont-Saint-Esprit。南フランスの小さな町)での事件(実際にあった事件です)より遙か昔から、ヨーロッパでしばしば起こっていました。そして中世ヨーロッパでは、麦角中毒のことを人々は「聖アントニウス病」ないしは「聖アントニウスの火」と呼んでいました。
その「聖アントニウス病」と密接に関係した絵が、ドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』(1515年頃)です。イエスの磔刑を描いていますが、イエスを最も酷い姿で描いた絵として有名です。
イーゼンハイムの祭壇画
中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある『イーゼンハイムの祭壇画』の解説を紹介します。
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マティアス・グリューネヴァルト(1470/75 - 1528) 「イーゼンハイムの祭壇画 第1面」(1515年頃) |
ウンターリンデン美術館(仏) |
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では、麦角中毒がなぜ「聖アントニウス病」と呼ばれたのか。そして、イーゼンハイム(現在のストラスブール近郊の町)の修道院にあった『イーゼンハイムの祭壇画』が、なぜ「聖アントニウス病」と関係するのか。中野さんの解説が続きます。
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このあと中野さんは、当時、聖アントニウス病にかかった村人が、同じ症状の人をさそって、5人でイーゼンハイムへ巡礼に出かける旅路を、村人目線で、想像で書いています。同行の人は次々と行き倒れ、イーゼンハイムに近づいたときには、村人一人になっていました。
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要するに『イーゼンハイムの祭壇画』は、たとえば、当時、聖アントニウス病に罹患し、イーゼンハイムの修道院にやっとの思いでたどり着いた巡礼者の気持ちを想像してみないと、その価値の一端すら分からないと言っているのですね。
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このあとは、祭壇画の詳細な解説です。登場人物はイエス、聖母マリア、イエスの弟子の聖ヨハネ、マグダラのマリア、洗礼者聖ヨハネ、聖セバスティアヌス、聖アントニウスなどです。
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マティアス・グリューネヴァルト 「イーゼンハイムの祭壇画 第1面」 |
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マティアス・グリューネヴァルト 「イーゼンハイムの祭壇画 第2面」 |
ウンターリンデン美術館(仏) |
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コルマールのウンターリンデン美術館
「イーゼンハイムの祭壇画」は現在、解体された状態で、フランスのアルザス地方の都市、コルマールにあるウンターリンデン美術館にあります。
コルマールは一度だけ行ったことがありますが、その時はツアー旅行だったので、美術館のところまで来たときには閉館時間を過ぎていました。残念でしたが、ツアー旅行なので仕方ありません。なお、コルマールは、ジブリ映画『ハウルの動く城』のモデルになったとも言われる美しい街です。ウンターリンデン美術館とは関係なく、十分に訪問する価値がある街です。
2022-09-24 07:30
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No.343 - マルタとマリア [アート]
No.341「ベラスケス:卵を料理する老婆」は、スコットランド国立美術館が所蔵するベラスケスの「卵を料理する老婆」(2022年に初来日。東京都美術館)の感想を書いたものでした。ベラスケスが10代で描いた作品ですが(19歳頃)、リアリズムの描法も全体構図も完璧で、かつ、後のベラスケス作品に見られる「人間の尊厳を描く」という、画家の最良の特質が早くも現れている作品でした。
この「卵を料理する老婆」で思い出した作品があるので、今回はそのことを書きます。ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する「マルタとマリアの家のキリスト」です。この絵もベラスケスが10代の作品で、また、2020年に日本で開催された「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」で展示されました。
新約聖書のマルタとマリア
まず絵の題についてです。「マルタとマリアの家のキリスト」は新約聖書に出てくる話で、聖書から引用すると次のようです。原文にあるルビは最小限に省略にしました。
このエピソードには不可解なところがあります。以前の記事(No.41)でとりあげましたが、社会学者の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対談本「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書 2011)には次のように出てきます。
この箇所に違和感を持った人は多いらしく、大澤氏によると、中世の大神学者・エックハルトもそうで、強引な解釈をしているようです。普通のキリスト教徒が読んでも不可解に思えるのは間違いありません。
この大澤氏の問いかけに対して、橋爪氏は次のように答えています。これは橋爪氏の独自解釈というわけではなく、一般的なようです。
これもちょっと強引な、ないしは一面的な解釈で、上の引用に続く部分を読むと、大澤氏も納得していないようです。なぜ強引かというと「イエスを本当に歓迎しているんだったら、マリアの役割とマルタの役割が両方必要だと理解できる」というのはマリアに対しても言えるからです。だとしたら、「いいほうをとった」マリアの方に、マルタに対する「気遣い」があってもよいはずです。一言、マルタに言葉をかけるとか ・・・・・・。両方の役割が必要だと理解していなかったという点では、マリアもマルタも同じなのです。
もちろん、「世俗的仕事」と「信仰」のどちらかを取れと二者択一で言われたなら「信仰」とすべきなのでしょう。イエスは「無くてはならぬものは多くはない。いや、ひとつだけである」と言っています。信仰に生きることの重要性です。ただ、二者択一でない "解決策" もあるはずで、たとえばマルタとマリアの2人で接待の準備をし、そのあと2人でイエスの言葉を聴くこともできる。別に現代人ではなくても、そう考えるはずです。
というわけで、違和感が残るというか、不可解さが拭えないのは当然で、従って、この話をもとに絵画を制作する場合もさまざまな立場がありうることが想定されます。
ここからが本題です。ベラスケスはどう図像化したのか。
ベラスケス:マルタとマリアの家のキリスト
まずこの絵の特徴は「二重空間」の絵だということです。手前の "空間" には厨房で働く娘と老婆がいます。老婆は明らかに「卵を料理する老婆」と同じモデルです。娘は何となく泣きそうな感じで、老婆は後ろの "空間" を指さして娘に何かを言っています。
一方、後ろの "空間" にはキリストとマルタとマリアが描かれています。マリアは座ってキリストの言葉を聴いています。立っているのがマルタでしょうが、彼女がどういう態度を示しているのか、絵を見ただけでは判然としません。この後ろの "空間" については、
という3つの解釈があるそうです。ただ "鏡" という解釈には無理があると思われます。というのも、このような大きな鏡、しかも四角い平面鏡は、キリストの時代にも、この絵が描かれた17世紀にも稀少、ないしはまずないからです。平面鏡のためには平面ガラスが必要ですが、作るためには高度な技術が必要です。それは、ベラスケスの「ラス・メニーナス」に描かれたスペイン宮殿の鏡も "小ぶりで丸みを帯びている" ことからも分かります。仮に四角い平面鏡があったとしても、国王の宮殿ならともかく、庶民の厨房に掛けるようなものではないでしょう。
隣の別の部屋という解釈はどうでしょうか。後ろの "空間" が別の部屋ということは、厨房に四角い "窓" があいていて、そこから向こうの部屋が見えるということになります。このような作りの厨房は考えにくいと思います。
ということで、後ろの "空間" は絵とするのが妥当でしょう。この絵が描かれた17世紀には、新約聖書の「マルタとマリア」の解釈として「世俗的な生」と「信仰の生」の両方が大切だと考えられていたようです。ということは、厨房を手伝わないマリアの態度に不平をもらしたマルタはよくない、厨房の仕事も大切だという "戒め" として絵が掛けてあると解釈できます。
娘はなんだか涙目で、不満そうな顔をしています。ニンニクを金属製器具ですりつぶしているようですが、老婆に厨房での仕事について何らかの厳しい注意、ないしは叱責ををされた。それで不満そうな涙目になった。それを見た老婆は「マルタとマリア」の絵を指さして、不満をもつのはよくない、調理は大切で立派な仕事だと諭している、そういう光景に見えます。
とは言うものの、後ろの "空間" が「鏡」か「別の部屋」か「絵」かは、画家にとってはどうでもよいのでしょう。つまり、後ろの "空間" はこの絵が「マルタとマリアの家のキリスト」を描いたと言うための "口実" であって、画家の本当の狙いは「厨房を描く」ことだったと考えられるのです。特に、前景にある「金属製の器具」「4匹の魚」「2つの卵」、その他、器具の前にあるニンニクなどです。これらのリアリズムに徹した描写が、この絵の最大のポイントと思えます。魚の部分図を以下に掲げます。
絵の最大の狙いが静物の描写にあることは、この魚を描いた部分を見るだけでも一目瞭然だと思います。そして画家の第2の狙いをあげるとすると、庶民の労働を描くことでしょう。
さまざまな解釈を生む絵がありますが、絵そのものが画家の意図を雄弁に語っているケースがあります。この絵もそうだと思います。
余談ですが、このベラスケスの作品から、ある浮世絵を思い出しました。歌川国貞の「江戸百景の内 三廻」です(No.295「タンギー爺さんの画中画」の「補記」に画像を掲載)。題名だけを見ると風景画です。しかし、隅田川河畔の三廻神社が描かれているのは画面の左上の小さな四角(浮世絵の用語では "こま")の中だけで、本当の画題は中央に大きく描かれている女性、つまり美人画である、という浮世絵(いわゆる "こま絵")です。
この状況はベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト」にそっくりです。世の東西に関わらず、似たような発想の絵があるものです。
フェルメール
ベラスケスを離れて、同じ新約聖書のシーンを描いた作品を振り返ってみます。その有名作品として、「卵を料理する老婆」と同じくスコットランド国立美術館が所蔵するフェルメールの「マルタとマリアの家のキリスト」があります。この絵も 2018年のフェルメール展で展示されました(上野の森美術館)。
フェルメールが20代前半の初期の作品です。フェルメールは画家としての初期に宗教画を描き、その後は宗教画を離れて風俗画(と風景画)を描くようになったことで知られています。
この絵はベラスケスと違って、聖書に登場する3者だけを描いています。左に描かれているのがマリアで、キリストの話に聞き入っています。中央に描かれているのはマルタで、キリストにパンを差し出しています。聖書通りだとマルタはここでキリストに不平を言い、キリストはマリアを指さしつつマルタを諭しているはずです。
しかしそうだとしても、マルタの不平の表現は抑制されています。それよりも、パンを差し出す、つまりキリストを接待している表現の方を強く感じる。また、マルタは三角形の安定した構図の中心に描かれています。光の当て方も含めて、彼女が構図の焦点のように感じられます。
この絵は、聖書のストーリーを忠実に再現したと説明されれば、そう見えないことはない。しかし聖書とは裏腹に、マリアはキリストの話に聴き入り、マルタは厨房で仕事をしたあと(ないしは仕事の途中で)キリストを接待するという "調和的な状況" が描かれているとも見える。つまり「活動的なマルタ」と「瞑想的なマリア」が人間の両面を表し、かつ、構図の焦点であるマルタの重要性 = 世俗的な労働の大切さが強調されているようです。
おそらくこれは画家の(ないしは当時のオランダ社会の)聖書解釈を反映しているのだと思います。
ウテワール
そのフェルメールの絵より約70年前に描かれた「マルタとマリア」を主題にした絵があります。同じオランダの画家、ウテワールの「台所のメイド」です。
この絵については、東京都美術館の学芸員、高城靖之氏が日本経済新聞に解説を書いていました。それを引用します。
この絵で奥の部屋に描かれているマルタ、マリア、キリストは、まさに聖書の記述に従っています。というのも、マルタがマリアの態度に怒っているそぶりだからです。彼女は鍋を持ったまま、キリストとマリアのところに出てきて怒っている。
しかしベラスケスと同じで、この絵の主題はマルタとマリアの家のメイドを主人公にした前景の厨房です。そこには「静物」として、鳥、串、魚、肉、野菜、チーズ、パン、ワインの注がれたグラス、陶器、金属食器といった、質感の異なるさまざまなものがあり、高城氏が書いているように「質感や色彩を巧みに描き分けている画家の描写力」が見事です。その "静物の質感表現" こそ、この絵の第1のポイントでしょう。
そして第2のポイントは、鳥を串に刺しているメイド(高城氏の文章では女中)の表現です。腕と指を見ても分かるように、彼女はいかにもたくましく、働き者で、厨房での仕事を次々とこなし、家の食卓を一手に引き受けているような感じです。しかも調理に喜びをもって取り組んでいるように見える。労働は尊い、というメッセージ性を感じます。
以上の「マルタとマリア」の3作品に共通するのは、
と言えるでしょう。一見して "不可解" な新約聖書のエピソードを画題にすることで、宗教画の変貌がわかる3作品だと思います。
この「卵を料理する老婆」で思い出した作品があるので、今回はそのことを書きます。ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する「マルタとマリアの家のキリスト」です。この絵もベラスケスが10代の作品で、また、2020年に日本で開催された「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」で展示されました。
新約聖書のマルタとマリア
まず絵の題についてです。「マルタとマリアの家のキリスト」は新約聖書に出てくる話で、聖書から引用すると次のようです。原文にあるルビは最小限に省略にしました。
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このエピソードには不可解なところがあります。以前の記事(No.41)でとりあげましたが、社会学者の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対談本「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書 2011)には次のように出てきます。
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この箇所に違和感を持った人は多いらしく、大澤氏によると、中世の大神学者・エックハルトもそうで、強引な解釈をしているようです。普通のキリスト教徒が読んでも不可解に思えるのは間違いありません。
この大澤氏の問いかけに対して、橋爪氏は次のように答えています。これは橋爪氏の独自解釈というわけではなく、一般的なようです。
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これもちょっと強引な、ないしは一面的な解釈で、上の引用に続く部分を読むと、大澤氏も納得していないようです。なぜ強引かというと「イエスを本当に歓迎しているんだったら、マリアの役割とマルタの役割が両方必要だと理解できる」というのはマリアに対しても言えるからです。だとしたら、「いいほうをとった」マリアの方に、マルタに対する「気遣い」があってもよいはずです。一言、マルタに言葉をかけるとか ・・・・・・。両方の役割が必要だと理解していなかったという点では、マリアもマルタも同じなのです。
もちろん、「世俗的仕事」と「信仰」のどちらかを取れと二者択一で言われたなら「信仰」とすべきなのでしょう。イエスは「無くてはならぬものは多くはない。いや、ひとつだけである」と言っています。信仰に生きることの重要性です。ただ、二者択一でない "解決策" もあるはずで、たとえばマルタとマリアの2人で接待の準備をし、そのあと2人でイエスの言葉を聴くこともできる。別に現代人ではなくても、そう考えるはずです。
というわけで、違和感が残るというか、不可解さが拭えないのは当然で、従って、この話をもとに絵画を制作する場合もさまざまな立場がありうることが想定されます。
ここからが本題です。ベラスケスはどう図像化したのか。
ベラスケス:マルタとマリアの家のキリスト
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デイエゴ・ベラスケス(1599-1660) 「マルタとマリアの家のキリスト」(1618頃) |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー |
まずこの絵の特徴は「二重空間」の絵だということです。手前の "空間" には厨房で働く娘と老婆がいます。老婆は明らかに「卵を料理する老婆」と同じモデルです。娘は何となく泣きそうな感じで、老婆は後ろの "空間" を指さして娘に何かを言っています。
一方、後ろの "空間" にはキリストとマルタとマリアが描かれています。マリアは座ってキリストの言葉を聴いています。立っているのがマルタでしょうが、彼女がどういう態度を示しているのか、絵を見ただけでは判然としません。この後ろの "空間" については、
隣の別の部屋 | |
壁に掛けられた鏡 | |
絵 |
という3つの解釈があるそうです。ただ "鏡" という解釈には無理があると思われます。というのも、このような大きな鏡、しかも四角い平面鏡は、キリストの時代にも、この絵が描かれた17世紀にも稀少、ないしはまずないからです。平面鏡のためには平面ガラスが必要ですが、作るためには高度な技術が必要です。それは、ベラスケスの「ラス・メニーナス」に描かれたスペイン宮殿の鏡も "小ぶりで丸みを帯びている" ことからも分かります。仮に四角い平面鏡があったとしても、国王の宮殿ならともかく、庶民の厨房に掛けるようなものではないでしょう。
隣の別の部屋という解釈はどうでしょうか。後ろの "空間" が別の部屋ということは、厨房に四角い "窓" があいていて、そこから向こうの部屋が見えるということになります。このような作りの厨房は考えにくいと思います。
ということで、後ろの "空間" は絵とするのが妥当でしょう。この絵が描かれた17世紀には、新約聖書の「マルタとマリア」の解釈として「世俗的な生」と「信仰の生」の両方が大切だと考えられていたようです。ということは、厨房を手伝わないマリアの態度に不平をもらしたマルタはよくない、厨房の仕事も大切だという "戒め" として絵が掛けてあると解釈できます。
娘はなんだか涙目で、不満そうな顔をしています。ニンニクを金属製器具ですりつぶしているようですが、老婆に厨房での仕事について何らかの厳しい注意、ないしは叱責ををされた。それで不満そうな涙目になった。それを見た老婆は「マルタとマリア」の絵を指さして、不満をもつのはよくない、調理は大切で立派な仕事だと諭している、そういう光景に見えます。
とは言うものの、後ろの "空間" が「鏡」か「別の部屋」か「絵」かは、画家にとってはどうでもよいのでしょう。つまり、後ろの "空間" はこの絵が「マルタとマリアの家のキリスト」を描いたと言うための "口実" であって、画家の本当の狙いは「厨房を描く」ことだったと考えられるのです。特に、前景にある「金属製の器具」「4匹の魚」「2つの卵」、その他、器具の前にあるニンニクなどです。これらのリアリズムに徹した描写が、この絵の最大のポイントと思えます。魚の部分図を以下に掲げます。
![]() |
絵の最大の狙いが静物の描写にあることは、この魚を描いた部分を見るだけでも一目瞭然だと思います。そして画家の第2の狙いをあげるとすると、庶民の労働を描くことでしょう。
さまざまな解釈を生む絵がありますが、絵そのものが画家の意図を雄弁に語っているケースがあります。この絵もそうだと思います。
余談ですが、このベラスケスの作品から、ある浮世絵を思い出しました。歌川国貞の「江戸百景の内 三廻」です(No.295「タンギー爺さんの画中画」の「補記」に画像を掲載)。題名だけを見ると風景画です。しかし、隅田川河畔の三廻神社が描かれているのは画面の左上の小さな四角(浮世絵の用語では "こま")の中だけで、本当の画題は中央に大きく描かれている女性、つまり美人画である、という浮世絵(いわゆる "こま絵")です。
この状況はベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト」にそっくりです。世の東西に関わらず、似たような発想の絵があるものです。
フェルメール
ベラスケスを離れて、同じ新約聖書のシーンを描いた作品を振り返ってみます。その有名作品として、「卵を料理する老婆」と同じくスコットランド国立美術館が所蔵するフェルメールの「マルタとマリアの家のキリスト」があります。この絵も 2018年のフェルメール展で展示されました(上野の森美術館)。
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ヨハネス・フェルメール(1632-1675) 「マルタとマリアの家のキリスト」(1654/55) |
スコットランド国立美術館 |
フェルメールが20代前半の初期の作品です。フェルメールは画家としての初期に宗教画を描き、その後は宗教画を離れて風俗画(と風景画)を描くようになったことで知られています。
この絵はベラスケスと違って、聖書に登場する3者だけを描いています。左に描かれているのがマリアで、キリストの話に聞き入っています。中央に描かれているのはマルタで、キリストにパンを差し出しています。聖書通りだとマルタはここでキリストに不平を言い、キリストはマリアを指さしつつマルタを諭しているはずです。
しかしそうだとしても、マルタの不平の表現は抑制されています。それよりも、パンを差し出す、つまりキリストを接待している表現の方を強く感じる。また、マルタは三角形の安定した構図の中心に描かれています。光の当て方も含めて、彼女が構図の焦点のように感じられます。
この絵は、聖書のストーリーを忠実に再現したと説明されれば、そう見えないことはない。しかし聖書とは裏腹に、マリアはキリストの話に聴き入り、マルタは厨房で仕事をしたあと(ないしは仕事の途中で)キリストを接待するという "調和的な状況" が描かれているとも見える。つまり「活動的なマルタ」と「瞑想的なマリア」が人間の両面を表し、かつ、構図の焦点であるマルタの重要性 = 世俗的な労働の大切さが強調されているようです。
おそらくこれは画家の(ないしは当時のオランダ社会の)聖書解釈を反映しているのだと思います。
ウテワール
そのフェルメールの絵より約70年前に描かれた「マルタとマリア」を主題にした絵があります。同じオランダの画家、ウテワールの「台所のメイド」です。
![]() |
ヨアヒム・ウテワール(1566-1638) 「台所のメイド」(1620/25) |
ユトレヒト中央美術館(オランダ) |
この絵については、東京都美術館の学芸員、高城靖之氏が日本経済新聞に解説を書いていました。それを引用します。
|
この絵で奥の部屋に描かれているマルタ、マリア、キリストは、まさに聖書の記述に従っています。というのも、マルタがマリアの態度に怒っているそぶりだからです。彼女は鍋を持ったまま、キリストとマリアのところに出てきて怒っている。
しかしベラスケスと同じで、この絵の主題はマルタとマリアの家のメイドを主人公にした前景の厨房です。そこには「静物」として、鳥、串、魚、肉、野菜、チーズ、パン、ワインの注がれたグラス、陶器、金属食器といった、質感の異なるさまざまなものがあり、高城氏が書いているように「質感や色彩を巧みに描き分けている画家の描写力」が見事です。その "静物の質感表現" こそ、この絵の第1のポイントでしょう。
そして第2のポイントは、鳥を串に刺しているメイド(高城氏の文章では女中)の表現です。腕と指を見ても分かるように、彼女はいかにもたくましく、働き者で、厨房での仕事を次々とこなし、家の食卓を一手に引き受けているような感じです。しかも調理に喜びをもって取り組んでいるように見える。労働は尊い、というメッセージ性を感じます。
以上の「マルタとマリア」の3作品に共通するのは、
労働は大切という考え(3作品) | |
聖書を "引き合いに" して厨房を描く。特に、静物の質感を油絵の技術を駆使して描き分ける(ウテワールとベラスケス) |
と言えるでしょう。一見して "不可解" な新約聖書のエピソードを画題にすることで、宗教画の変貌がわかる3作品だと思います。
2022-08-13 11:22
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No.341 - ベラスケス:卵を料理する老婆 [アート]
今まで何回か書いたベラスケスについての記事の続きです。2022年4月22日 ~ 7月3日まで、東京都美術館で「スコットランド国立美術館展」が開催され、ベラスケスの「卵を料理する老婆」が展示されました。初来日です。今回はこの絵について書きます。
卵を料理する老婆
この絵は、No.230「消えたベラスケス(1)」で紹介しました。No.230 は、英国の美術評論家、ローラ・カミングの著書「消えたベラスケス」の内容を紹介したものです。この中で著者は、8歳のときに両親に連れられて行ったエディンバラのスコットランド国立美術館で見たのがこの絵だった、と書いていました。彼女の父親は画家です。画家はこの絵を8歳になった娘に見せた。8歳であればこの絵の素晴らしさが理解できると信じたのでしょう。案の定、これはローラ・カミングにとっての特別な体験だったようで、ここから彼女の "ベラスケス愛" が始まった。そして後年、「消えたベラスケス」のような本を書くに至った。そいういうことだと思います。
No.230 に続いて、「卵を料理する老婆」について書かれたローラ・カミングの文章再度引用します。
老婆が作っている卵料理は「ウエボ・フリート」(Huevo frito。スペイン風目玉焼き)です。「ウエボ」が "卵"、「フリート」は "揚げた" という意味で、現代のスペインでも作ります。ニンニクを入れたオリーブオイルを鍋にたっぷり入れ、卵を割って、上からスプーンでオリーブオイルをかけながら揚げるように焼きます。この絵の真鍮の容器と道具はニンニクを磨り潰すためのものでしょう。「目玉焼き」よりは「目玉揚げ」「揚げ卵」と言った方が実態に即しているでしょう。
驚くべき精緻さで描かれた物たちの中でも、ひときわ目立つのがこのウエボ・フリートの卵です。液体から半液体、半固体、固体へと変化する様子がとらえられています。絵には数々の "静物" が描かれていますが、鍋の中で固まりつつある卵は、その "静物" の一つです。しかしそれは、変化しつつある "動的実体" です。まるで時間の経過を画面に捉えたようです。一般に絵画では人物やモノ、自然の「動き」を描くことで時間経過を捉えるのはよくありますが、この絵は動かないものの動き =「物体が変質するという動き」が描かれている。そこがポイントです。
そのウエボ・フリートを作っている老婆は、3個目の卵を鍋に入れようとしています。少年はガラス瓶を持っていますが、おそらくオリーブオイルが入っているのでしょう。それをこれから老婆のスプーンの注ごうとしている(ないしは指示があれば注ごうと待ち構えている)ようです。この調理の動作が2つめの「動き」です。それに加えて、絵には数々のアイテムが描かれています。つまり、
などで、それぞれの質感が完璧に描き分けられています。もちろん、質感表現と言うなら最初にあげた「固まりつつある卵」がその筆頭です。モノの質感表現に挑んだ絵画は過去から現在までヤマほどありますが、「熱によって変質しつあるタンパク質の表現」をやってのけた絵画は(そしてそれに成功した絵画は)、これが唯一ではないでしょうか。
一方、構図をみると、この絵の構造線は、
の2つです。数々の事物と人物が描かれているものの、この2つの構造線によって安定感のある画面構成になっています。また、左からの光によるコントラストの強い明暗の使い方はカラヴァッジョを思わせます。
人間の尊厳を描く
「卵を料理する老婆」を特徴づけるのは、まずそれぞれの事物のリアルな描写であり、次に、構図と光の使い方ですが、されにこれらを越えて「人間を描く」という視点で見ても傑作です。この点について、朝日新聞に的確な紹介があったので引用します。
松沢記者(文化くらし報道部)の文章を要約すると、この絵から感じられるのは、
の2つということでしょう。人間の存在や尊厳をありのままにとらえた絵、というのは、まさにその通りだと思います。
画家が10代で描いた絵
この絵は画家が10代の時に描いた作品です。ローラ・カミングの本には18歳とありますが、19歳という説もあります。しかし10代であることには違いない。そして、ベラスケスの10代の絵にはもう1つの傑作があります。No.230 で画像を引用した、
です。この絵にはモデルとして「卵を料理する老婆」と同じ少年が登場します。
No.190「画家が10代で描いた絵」で、日本の美術館の絵を中心に10代の作品を取り上げましたが、「作品として完成している」「完璧なリアリズム」「人間の尊厳を描く」という3点で、このベラスケスの2作品に勝るものはないでしょう。ピカソもかなわない感じがします。
No.230 にあったように、これらの作品は画家が自分の技量を誇示するために描いたものと推定されます。じっさい「セビーリャの水売り」は、ベラスケスがマドリードを訪問する際に持参しています(No.230)。つまり「売り込み」です。しかし、たとえ目的がそうだったにせよ、鑑賞者の心をうつ作品になる。技量はもちろんだが、それだけではないと感じさせる一枚になる。アートとは不思議なものだと思います。
なお、ベラスケスに関する過去の記事は以下のとおりです。
卵を料理する老婆
![]() |
ディエゴ・ベラスケス 「卵を料理する老婆」(1618) |
(100.5cm × 119.5cm) スコットランド国立美術館 |
この絵は、No.230「消えたベラスケス(1)」で紹介しました。No.230 は、英国の美術評論家、ローラ・カミングの著書「消えたベラスケス」の内容を紹介したものです。この中で著者は、8歳のときに両親に連れられて行ったエディンバラのスコットランド国立美術館で見たのがこの絵だった、と書いていました。彼女の父親は画家です。画家はこの絵を8歳になった娘に見せた。8歳であればこの絵の素晴らしさが理解できると信じたのでしょう。案の定、これはローラ・カミングにとっての特別な体験だったようで、ここから彼女の "ベラスケス愛" が始まった。そして後年、「消えたベラスケス」のような本を書くに至った。そいういうことだと思います。
No.230 に続いて、「卵を料理する老婆」について書かれたローラ・カミングの文章再度引用します。
|
老婆が作っている卵料理は「ウエボ・フリート」(Huevo frito。スペイン風目玉焼き)です。「ウエボ」が "卵"、「フリート」は "揚げた" という意味で、現代のスペインでも作ります。ニンニクを入れたオリーブオイルを鍋にたっぷり入れ、卵を割って、上からスプーンでオリーブオイルをかけながら揚げるように焼きます。この絵の真鍮の容器と道具はニンニクを磨り潰すためのものでしょう。「目玉焼き」よりは「目玉揚げ」「揚げ卵」と言った方が実態に即しているでしょう。
|
そのウエボ・フリートを作っている老婆は、3個目の卵を鍋に入れようとしています。少年はガラス瓶を持っていますが、おそらくオリーブオイルが入っているのでしょう。それをこれから老婆のスプーンの注ごうとしている(ないしは指示があれば注ごうと待ち構えている)ようです。この調理の動作が2つめの「動き」です。それに加えて、絵には数々のアイテムが描かれています。つまり、
ニンニク | |
タマネギ | |
茶色の鍋 | |
陶器のコンロ(わずかに火が見える) | |
白い鉢と壷 | |
銀のナイフ | |
真鍮の容器と器具 | |
鉄の容器 | |
メロン | |
ガラス容器 | |
籠 |
などで、それぞれの質感が完璧に描き分けられています。もちろん、質感表現と言うなら最初にあげた「固まりつつある卵」がその筆頭です。モノの質感表現に挑んだ絵画は過去から現在までヤマほどありますが、「熱によって変質しつあるタンパク質の表現」をやってのけた絵画は(そしてそれに成功した絵画は)、これが唯一ではないでしょうか。
一方、構図をみると、この絵の構造線は、
老婆の体の中心を通る縦の線 | |
左上からスロープ状に曲線を描いて右下に至る放物線 |
の2つです。数々の事物と人物が描かれているものの、この2つの構造線によって安定感のある画面構成になっています。また、左からの光によるコントラストの強い明暗の使い方はカラヴァッジョを思わせます。
人間の尊厳を描く
「卵を料理する老婆」を特徴づけるのは、まずそれぞれの事物のリアルな描写であり、次に、構図と光の使い方ですが、されにこれらを越えて「人間を描く」という視点で見ても傑作です。この点について、朝日新聞に的確な紹介があったので引用します。
![]() |
ディエゴ・ベラスケス 「卵を料理する老婆」(1618) |
|
松沢記者(文化くらし報道部)の文章を要約すると、この絵から感じられるのは、
油で熱せられた卵が固まりつつある瞬間の描写や、数々の食材や日用品の質感の違いを描き分ける、完璧なリアリズム | |
単なるリアリズムを超え、人間の存在や尊厳をありのままにとらえる技量 |
の2つということでしょう。人間の存在や尊厳をありのままにとらえた絵、というのは、まさにその通りだと思います。
画家が10代で描いた絵
この絵は画家が10代の時に描いた作品です。ローラ・カミングの本には18歳とありますが、19歳という説もあります。しかし10代であることには違いない。そして、ベラスケスの10代の絵にはもう1つの傑作があります。No.230 で画像を引用した、
セビーリャの水売り」 | |
ウェリントン・コレクション:英国) |
です。この絵にはモデルとして「卵を料理する老婆」と同じ少年が登場します。
No.190「画家が10代で描いた絵」で、日本の美術館の絵を中心に10代の作品を取り上げましたが、「作品として完成している」「完璧なリアリズム」「人間の尊厳を描く」という3点で、このベラスケスの2作品に勝るものはないでしょう。ピカソもかなわない感じがします。
No.230 にあったように、これらの作品は画家が自分の技量を誇示するために描いたものと推定されます。じっさい「セビーリャの水売り」は、ベラスケスがマドリードを訪問する際に持参しています(No.230)。つまり「売り込み」です。しかし、たとえ目的がそうだったにせよ、鑑賞者の心をうつ作品になる。技量はもちろんだが、それだけではないと感じさせる一枚になる。アートとは不思議なものだと思います。
2022-07-16 07:58
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No.339 - 千葉市美術館のジャポニズム展 [アート]
No.224 に引き続いてジャポニズムの話題です。No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」は、2017年に国立西洋美術館で開催された展覧会(= "北斎とジャポニズム" 2017年10月21日~2018年1月28日)の話でしたが、先日、千葉市美術館で「ジャポニズム ── 世界を魅了した浮世絵」と題する企画展が開かれました(2022年1月12日~3月6日)。見学してきたので、それについて書きます。
以下、引用などで『図録』としてあるのは、この展覧会のカタログです。
ジャポニズムを通して浮世絵を見る
『図録』の最初に、この展覧会の主旨を書いた文章が載っていました。それを引用します(段落を増やしたところがあります。また下線や太字は原文にはありません)。
「日本文化とはなにか」という問いに答えるためには、日本文化を熟知していたとしても不足です。「日本文化でないもの」を知らないといけない。同様に「浮世絵とは何か」という質問に答えるためには、文化的伝統の全く違う絵を熟知している必要がある。その例として、19世紀後半に浮世絵に初めて接した欧米の画家がある。彼らの目に浮世絵がどう映ったかを感じることで、浮世絵の特徴や魅力を再認識しよう、というわけです。
我々は浮世絵をあまりに見慣れてしまっているので、何が特徴なのか、価値はどこにあるのかが分からなくなっています。そう断言するのは言い過ぎかもしれないが、分からなくなっている危惧がある。その "慣れきった" 感覚や感性をリフレッシュさせたい。そういう企画だと理解しました。この展覧会の英語タイトルは、
で、直訳すると「ジャポニズムを通してみた浮世絵」です。これが企画の主旨を一言で表しているのでした。さらに上の引用の少しあとで、田辺氏は次のように書いています。
江戸時代の浮世絵は明治初期に大量に海外へ流出しました。二束三文で売られたものも多いようです。輸出品の緩衝材として使われたというような話もありました。上の引用にある渡邊庄三郎の推測によると、浮世絵の 99% は海外にあるわけです(散逸も含めて)。この流出が何を意味するかと言うと、
ということだと思います。この企画展はそういうことも感じさせるものでした。
展覧会の構成
本展覧会は次の8つの切り口で構成されていました(『図録』の解説に沿って記述)。
の8つです。このうち ① は葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が西欧の画家に与えたインパクトです。このブログでも No.156「世界で2番目に有名な絵」で(絵画にとどまらない)影響の例をあげました。もちろん、北斎に続く日本の絵師に与えた影響も大きかったわけです。本展では大波を描いた北斎の別の作品もありました。
「千絵の海」は、各地の漁をテーマとし、自然と人間の営みを描いた10図からなるシリーズです。この絵は大波に翻弄されながらも漁をする漁師を描いている点で「神奈川沖浪裏」との共通部分がありますが、空を全く描かない構図や泡立つような波頭の表現に、北斎の工夫というか、"革新を目指す姿勢" が現れています。
③ の「空飛ぶ浮世絵師」とは不思議な言い方ですが、要するに、
です。「鳥の目」で描いた作品と言ってもよいでしょう。これが浮世絵の特徴だと言われると、なるほどと納得できます。その例を2作品、引用します。
「大はしあたけの夕立」はゴッホが模写したことで有名です。一見して分かるように「雨を画題にし、雨を線で描く」という浮世絵の特徴を表していて、これは本展の「⑦ 四季に寄り添う ─ 雨と雪」のテーマにもなっていました。それもあって、我々はこの絵の「雨の表現」に注目しがちです。
しかし作品のもう一つの特色は、上空から橋(= 新大橋)と川(= 隅田川)を描くという「俯瞰の構図」なのですね。これもなるほどという感じがしました。
考えてみると、日本美術には俯瞰構図の伝統があります。源氏物語絵巻のような「吹抜屋台」(= 天井を描かずに室内を上からの構図で描く技法)や、多数描かれた「洛中洛外図屏風」がそうだし、雪舟の国宝「天橋立図」などは、現代人でさえ(ヘリコプターにでも乗らない限り)見ることができない構図で描かれています。そのため、浮世絵の絵師の俯瞰構図も我々にとっては違和感がありません。北斎の富嶽三十六景の(いわゆる)「赤富士」も、特に "俯瞰構図だ" ということを気に止めることは皆無です。
一方、西欧の風景画を振り返ってみると「鳥の目」で描かれたような風景画は思い当たらないのです。つまり、浮世絵の構図はジャポニズムの画家にとっては目新しいものだった。
本展覧会では、アンリ・リヴィエールの習作(セーヌ河とエッフェル塔)がありました。しかし、浮世絵の絵師とは少々違います。『図録』の解説にも、ジャポニズムの画家の俯瞰構図は「画家自身が何か高い建物にいるとの想定を感じさせ、現実感のある描写の範囲に収めようとしているように見える点は、日本の絵師との違いを感じさせる」とありました。
そのほかの、
などのテーマは、国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニズム展」(No.224)と共通のものです。「母と子の日常」では、喜多川歌麿「行水」とメアリー・カサットの母と子のデッサンが対比されていましたが、No.187「メアリー・カサット展」に、歌麿とカサットの版画「湯浴み」を並べて引用しました。
以降は、浮世絵の展示における「従来あまりなかった切り口」という意味で、「⑤黒という色彩」を中心に紹介します。
黒という色彩
田辺副館長は『図録』の解説で次のように書いています。
その黒を "利き色" につかった鈴木春信の2作品と、それと対比されていたヴァロットンとロートレックの作品を引用します。
鈴木春信の作品は、夜の漆黒の闇を表現する黒が強烈で、梅・振り袖・欄干の赤系の色の対比が目を引く作品です。
ヴァロットンの作品は木版画です。夜に外出するという、何らかのストーリーがありそうな場面ですが、最小限のシンプルな線と "白黒画像の対比の美" を感じる作品になっています。
春信の作品は、雪の中の恋仲の男女を描いた有名な作品です。雪の白を基調とした画面の中に、男女の着物の黒と白の対比が際だっています。
ロートレックの作品は、「ディヴァン・ジャポネ」(=日本の長椅子の意味)という店名のカフェ・コンセール(ショーを見せる飲食店、ないしは音楽酒場)の開店ポスター(リトグラフ)です。舞台と楽団をバックに、中央にドンと描かれた実在のダンサー、ジャンヌ・アヴリルの量感が黒で表現されています。
こうしてみると「色彩としての黒」が浮世絵の特色であることが理解できます。そして、この文化的伝統を引き継いだ後世の日本画家も当然ながら「黒」を効果的に使います。すぐに思い出すのは、長年のあいだ所在不明で近年発見された、鏑木清方(1875-1949)の「築地明石町」(1927)です。本展とは関係ありませんが画像を引用しておきます。
マネ「エミール・ゾラの肖像」
いったん本展覧会を離れます。「黒という色彩」と「ジャポニズム」の2つの接点で思い出す絵があります。エドゥアール・マネの「エミール・ゾラの肖像」です(No.295「タンギー爺さんの画中画」に画像を掲載)。
画題になっているエミール・ゾラの衣装が黒です。そして、この絵の画中画の一つが歌川国明の「大鳴門灘右エ門」ですが、まさに鏑木清方の「築地明石町」のように「黒い羽織を着た人物(=力士)」が描かれているのですね。この黒の使い方は浮世絵の典型と言ってよいでしょう。
この「エミール・ゾラの肖像」について、昭和音楽大学の宮崎教授が日本経済新聞に次のように書いていました。
この引用にあるように、マネは「黒という色彩」の卓越した使い手です。「ベルト・モリゾの肖像」(オルセー美術館)とか「死せる闘牛士」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)といった、黒が大変印象的な作品があります。
その黒の使い方を誰かから学んだとしたら、一つはマネが尊敬するベラスケスでしょう(No.36「ベラスケスへのオマージュ」参照)。「エミール・ゾラの肖像」にもベラスケスの絵が画中画として描かれていました。
もうひとつは、オランダの画家、フランス・ハルスです。マネはオランダ旅行をしたあとに "ハルス風" の絵を描いてます(No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」参照)。確かゴッホは手紙の中で「ハルスは10種類の黒を使い分けている」という主旨のことを書いていたと思います("10種類"というのはウロ覚えです)。
そしてさらに「色彩としての黒」を学んだとしたら、それが浮世絵なのでしょう。「大鳴門灘右エ門」に描かれた黒い羽織は、我々にとってそういう色使いがあたりまえであるため、言われてみないと気付かないのです。
そして宮崎教授が上の引用で指摘している「ゾラの黒いジャケットが右後ろの相撲絵の黒い羽織と向き合っている」というのはまさに図星であって、そういう風に構図が意図されているのだと思いました。マネが親友・ゾラの後方に「大鳴門灘右エ門」を描き込んだのは、単なる浮世絵へのオマージュではなく、さらに深い意味があると理解できました。
喜多川歌麿の「両国橋納涼」
話を本展覧会に戻します。「② 水の都・江戸 ─ 橋と船」のテーマで展示されていた浮世絵の一つが、喜多川歌麿の「両国橋納涼」でした。一度、見たいと思っていた作品でしたが、初めて実物を目にすることができました。
「大判錦絵6枚続き」という、超豪華な大画面です。「大判錦絵3枚続き」はよく見ますが、それを上下に組み合わせた "滅多に見かけない" 構成の浮世絵です。
描かれているのは浮世絵の定番の画題である橋、船、女性ですが、それらがギッシリと詰め込まれていて、まさに "テンコ盛り" 状態です。遠方に小さく別の橋まで描かれていますが、これは両国橋より南側の新大橋でしょう(広重の「大はしあたけの夕立」の橋)。
ここで注目したいのは、上半分の「大判錦絵3枚続き」です。そもそも "続絵" は一枚にしても鑑賞できるものです。この絵もそうなるように、各枚には女性が3人づつ描かれています(その他、子どもや町人もいる)。そして ・・・・・・(これ以降の話は本展覧会とは関係ありません)
この「一枚に女性3人を描いた3枚続き」という構図が、ジャポニズムの観点から、ある作品を連想させます。アンリ・マティスの「三姉妹」(バーンズ・コレクション所蔵)です(No.95「バーンズ・コレクション」の Room 19 West Wall 参照)。このことは、No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」にも書きました。
「縦長のカンヴァスに3人の女性を描き、それが3連作になっている」作品です。単に「3人の女性を描いた絵」なら、ギリシャ神話を題材とする西洋絵画の定番モティーフ、"三美神" を意識したとも考えられるでしょう。実際にそういう絵が他の画家にあります。しかしこの作品は "三美神の3連作" です。こういった作例は、こと西洋絵画においては、後にも先にもこのマティス作品しかないと思います。
マティスが「両国橋納涼」を見たことがあるのかどうかは分かりません。ただ、喜多川歌麿は「1枚に女性3人を描いた3枚続き」という作品を他にも描いているし、ほかの絵師の浮世絵にもあります。マティスはそういった浮世絵のどれかが念頭ににあって、バーンズ・コレクション所蔵の作品を描いたのではないでしょうか。
ともかく、喜多川歌麿の「両国橋納涼」を鑑賞できたというのことは、私にとって思い出深いものになりました。
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ジャポニズム 世界を魅了した浮世絵 (ちらし) |
以下、引用などで『図録』としてあるのは、この展覧会のカタログです。
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ジャポニズム 世界を魅了した浮世絵 (図録) |
ジャポニズムを通して浮世絵を見る
『図録』の最初に、この展覧会の主旨を書いた文章が載っていました。それを引用します(段落を増やしたところがあります。また下線や太字は原文にはありません)。
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「日本文化とはなにか」という問いに答えるためには、日本文化を熟知していたとしても不足です。「日本文化でないもの」を知らないといけない。同様に「浮世絵とは何か」という質問に答えるためには、文化的伝統の全く違う絵を熟知している必要がある。その例として、19世紀後半に浮世絵に初めて接した欧米の画家がある。彼らの目に浮世絵がどう映ったかを感じることで、浮世絵の特徴や魅力を再認識しよう、というわけです。
我々は浮世絵をあまりに見慣れてしまっているので、何が特徴なのか、価値はどこにあるのかが分からなくなっています。そう断言するのは言い過ぎかもしれないが、分からなくなっている危惧がある。その "慣れきった" 感覚や感性をリフレッシュさせたい。そういう企画だと理解しました。この展覧会の英語タイトルは、
Ukiyoe wiewed through Japonisme
で、直訳すると「ジャポニズムを通してみた浮世絵」です。これが企画の主旨を一言で表しているのでした。さらに上の引用の少しあとで、田辺氏は次のように書いています。
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江戸時代の浮世絵は明治初期に大量に海外へ流出しました。二束三文で売られたものも多いようです。輸出品の緩衝材として使われたというような話もありました。上の引用にある渡邊庄三郎の推測によると、浮世絵の 99% は海外にあるわけです(散逸も含めて)。この流出が何を意味するかと言うと、
あまりに見慣れたものは、価値がどこにあるのかが分からない以前に、そもそも価値があることすら分からない
ということだと思います。この企画展はそういうことも感じさせるものでした。
展覧会の構成
本展覧会は次の8つの切り口で構成されていました(『図録』の解説に沿って記述)。
大浪のインパクト | |
水の都・江戸 ─ 橋と船 | |
空飛ぶ浮世絵師 ─ 俯瞰の構図 | |
形・色・主題の抽象化 | |
黒という色彩 | |
木と花越しの景色 | |
四季に寄り添う ─ 雨と雪 | |
母と子の日常 |
の8つです。このうち ① は葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が西欧の画家に与えたインパクトです。このブログでも No.156「世界で2番目に有名な絵」で(絵画にとどまらない)影響の例をあげました。もちろん、北斎に続く日本の絵師に与えた影響も大きかったわけです。本展では大波を描いた北斎の別の作品もありました。
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葛飾北斎 「千絵の海 総州銚子」 |
(千葉市美術館蔵) |
「千絵の海」は、各地の漁をテーマとし、自然と人間の営みを描いた10図からなるシリーズです。この絵は大波に翻弄されながらも漁をする漁師を描いている点で「神奈川沖浪裏」との共通部分がありますが、空を全く描かない構図や泡立つような波頭の表現に、北斎の工夫というか、"革新を目指す姿勢" が現れています。
③ の「空飛ぶ浮世絵師」とは不思議な言い方ですが、要するに、
現実に見ることはできない "上空の視点" から、風景や事物を俯瞰した構図で描いた絵
です。「鳥の目」で描いた作品と言ってもよいでしょう。これが浮世絵の特徴だと言われると、なるほどと納得できます。その例を2作品、引用します。
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歌川広重 「名所江戸百景 両国花火」 |
(山口県立萩美術館・ 浦上記念館) |
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歌川広重 「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」 |
(ホノルル美術館) |
「大はしあたけの夕立」はゴッホが模写したことで有名です。一見して分かるように「雨を画題にし、雨を線で描く」という浮世絵の特徴を表していて、これは本展の「⑦ 四季に寄り添う ─ 雨と雪」のテーマにもなっていました。それもあって、我々はこの絵の「雨の表現」に注目しがちです。
しかし作品のもう一つの特色は、上空から橋(= 新大橋)と川(= 隅田川)を描くという「俯瞰の構図」なのですね。これもなるほどという感じがしました。
考えてみると、日本美術には俯瞰構図の伝統があります。源氏物語絵巻のような「吹抜屋台」(= 天井を描かずに室内を上からの構図で描く技法)や、多数描かれた「洛中洛外図屏風」がそうだし、雪舟の国宝「天橋立図」などは、現代人でさえ(ヘリコプターにでも乗らない限り)見ることができない構図で描かれています。そのため、浮世絵の絵師の俯瞰構図も我々にとっては違和感がありません。北斎の富嶽三十六景の(いわゆる)「赤富士」も、特に "俯瞰構図だ" ということを気に止めることは皆無です。
一方、西欧の風景画を振り返ってみると「鳥の目」で描かれたような風景画は思い当たらないのです。つまり、浮世絵の構図はジャポニズムの画家にとっては目新しいものだった。
本展覧会では、アンリ・リヴィエールの習作(セーヌ河とエッフェル塔)がありました。しかし、浮世絵の絵師とは少々違います。『図録』の解説にも、ジャポニズムの画家の俯瞰構図は「画家自身が何か高い建物にいるとの想定を感じさせ、現実感のある描写の範囲に収めようとしているように見える点は、日本の絵師との違いを感じさせる」とありました。
そのほかの、
雨 | |
並木ごしの風景 | |
橋 | |
母と子の日常 |
などのテーマは、国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニズム展」(No.224)と共通のものです。「母と子の日常」では、喜多川歌麿「行水」とメアリー・カサットの母と子のデッサンが対比されていましたが、No.187「メアリー・カサット展」に、歌麿とカサットの版画「湯浴み」を並べて引用しました。
以降は、浮世絵の展示における「従来あまりなかった切り口」という意味で、「⑤黒という色彩」を中心に紹介します。
黒という色彩
田辺副館長は『図録』の解説で次のように書いています。
|
その黒を "利き色" につかった鈴木春信の2作品と、それと対比されていたヴァロットンとロートレックの作品を引用します。
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鈴木春信 「夜の梅」 |
メトロポリタン美術館 |
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フェリックス・ヴァロットン 「外出」 |
プーシキン美術館 |
鈴木春信の作品は、夜の漆黒の闇を表現する黒が強烈で、梅・振り袖・欄干の赤系の色の対比が目を引く作品です。
ヴァロットンの作品は木版画です。夜に外出するという、何らかのストーリーがありそうな場面ですが、最小限のシンプルな線と "白黒画像の対比の美" を感じる作品になっています。
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鈴木春信 「雪中相合傘」 |
メトロポリタン美術館 |
![]() |
アンリ・ロートレック 「ディヴァン・ジャポネ」 |
ジマーリ美術館 |
春信の作品は、雪の中の恋仲の男女を描いた有名な作品です。雪の白を基調とした画面の中に、男女の着物の黒と白の対比が際だっています。
ロートレックの作品は、「ディヴァン・ジャポネ」(=日本の長椅子の意味)という店名のカフェ・コンセール(ショーを見せる飲食店、ないしは音楽酒場)の開店ポスター(リトグラフ)です。舞台と楽団をバックに、中央にドンと描かれた実在のダンサー、ジャンヌ・アヴリルの量感が黒で表現されています。
こうしてみると「色彩としての黒」が浮世絵の特色であることが理解できます。そして、この文化的伝統を引き継いだ後世の日本画家も当然ながら「黒」を効果的に使います。すぐに思い出すのは、長年のあいだ所在不明で近年発見された、鏑木清方(1875-1949)の「築地明石町」(1927)です。本展とは関係ありませんが画像を引用しておきます。
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鏑木清方 「築地明石町」 |
東京国立近代美術館 |
マネ「エミール・ゾラの肖像」
いったん本展覧会を離れます。「黒という色彩」と「ジャポニズム」の2つの接点で思い出す絵があります。エドゥアール・マネの「エミール・ゾラの肖像」です(No.295「タンギー爺さんの画中画」に画像を掲載)。
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エドゥアール・マネ 「エミール・ゾラの肖像」(1868) |
オルセー美術館 |
画題になっているエミール・ゾラの衣装が黒です。そして、この絵の画中画の一つが歌川国明の「大鳴門灘右エ門」ですが、まさに鏑木清方の「築地明石町」のように「黒い羽織を着た人物(=力士)」が描かれているのですね。この黒の使い方は浮世絵の典型と言ってよいでしょう。
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初代 歌川国明 「大鳴門灘右エ門」(1860) |
この「エミール・ゾラの肖像」について、昭和音楽大学の宮崎教授が日本経済新聞に次のように書いていました。
|
この引用にあるように、マネは「黒という色彩」の卓越した使い手です。「ベルト・モリゾの肖像」(オルセー美術館)とか「死せる闘牛士」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)といった、黒が大変印象的な作品があります。
その黒の使い方を誰かから学んだとしたら、一つはマネが尊敬するベラスケスでしょう(No.36「ベラスケスへのオマージュ」参照)。「エミール・ゾラの肖像」にもベラスケスの絵が画中画として描かれていました。
もうひとつは、オランダの画家、フランス・ハルスです。マネはオランダ旅行をしたあとに "ハルス風" の絵を描いてます(No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」参照)。確かゴッホは手紙の中で「ハルスは10種類の黒を使い分けている」という主旨のことを書いていたと思います("10種類"というのはウロ覚えです)。
そしてさらに「色彩としての黒」を学んだとしたら、それが浮世絵なのでしょう。「大鳴門灘右エ門」に描かれた黒い羽織は、我々にとってそういう色使いがあたりまえであるため、言われてみないと気付かないのです。
そして宮崎教授が上の引用で指摘している「ゾラの黒いジャケットが右後ろの相撲絵の黒い羽織と向き合っている」というのはまさに図星であって、そういう風に構図が意図されているのだと思いました。マネが親友・ゾラの後方に「大鳴門灘右エ門」を描き込んだのは、単なる浮世絵へのオマージュではなく、さらに深い意味があると理解できました。
喜多川歌麿の「両国橋納涼」
話を本展覧会に戻します。「② 水の都・江戸 ─ 橋と船」のテーマで展示されていた浮世絵の一つが、喜多川歌麿の「両国橋納涼」でした。一度、見たいと思っていた作品でしたが、初めて実物を目にすることができました。
![]() |
喜多川歌麿 「両国橋納涼」 |
メトロポリタン美術館 |
「大判錦絵6枚続き」という、超豪華な大画面です。「大判錦絵3枚続き」はよく見ますが、それを上下に組み合わせた "滅多に見かけない" 構成の浮世絵です。
描かれているのは浮世絵の定番の画題である橋、船、女性ですが、それらがギッシリと詰め込まれていて、まさに "テンコ盛り" 状態です。遠方に小さく別の橋まで描かれていますが、これは両国橋より南側の新大橋でしょう(広重の「大はしあたけの夕立」の橋)。
ここで注目したいのは、上半分の「大判錦絵3枚続き」です。そもそも "続絵" は一枚にしても鑑賞できるものです。この絵もそうなるように、各枚には女性が3人づつ描かれています(その他、子どもや町人もいる)。そして ・・・・・・(これ以降の話は本展覧会とは関係ありません)
この「一枚に女性3人を描いた3枚続き」という構図が、ジャポニズムの観点から、ある作品を連想させます。アンリ・マティスの「三姉妹」(バーンズ・コレクション所蔵)です(No.95「バーンズ・コレクション」の Room 19 West Wall 参照)。このことは、No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」にも書きました。
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アンリ・マティス 「三姉妹(3連作)」(1917) |
バーンズ・コレクション (Room 19 West Wall) |
「縦長のカンヴァスに3人の女性を描き、それが3連作になっている」作品です。単に「3人の女性を描いた絵」なら、ギリシャ神話を題材とする西洋絵画の定番モティーフ、"三美神" を意識したとも考えられるでしょう。実際にそういう絵が他の画家にあります。しかしこの作品は "三美神の3連作" です。こういった作例は、こと西洋絵画においては、後にも先にもこのマティス作品しかないと思います。
マティスが「両国橋納涼」を見たことがあるのかどうかは分かりません。ただ、喜多川歌麿は「1枚に女性3人を描いた3枚続き」という作品を他にも描いているし、ほかの絵師の浮世絵にもあります。マティスはそういった浮世絵のどれかが念頭ににあって、バーンズ・コレクション所蔵の作品を描いたのではないでしょうか。
ともかく、喜多川歌麿の「両国橋納涼」を鑑賞できたというのことは、私にとって思い出深いものになりました。
2022-06-18 11:13
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No.332 - クロテンの毛皮の女性 [アート]
このブログで過去にとりあげた絵の振り返りから始めます。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介した『インノケンティウス十世の肖像』で、ベラスケスがイタリア滞在中に、当時75歳のローマ教皇を描いたものです。
この絵について中野京子さんは「怖い絵」の中で次のように書いていました。
肖像画を評価するポイントの一つは、描かれた人物の性格や内に秘めた感情など、人物の内面を表現していることです。正確に言うと、本当のところは分からないまでも、少なくとも絵を鑑賞する人にとって人物の内面を表していると強く感じられることだと思います。それは人物の表情や、それを含む風貌からくるものです。また衣装や身につけているもの、人物のたたずまいや全体の構図も大いに関係してくるでしょう。
我々は、17世紀のローマ教皇・インノケンティウス十世がどういう性格の人物であったのかを知りません。しかし、上に引用した中野さんの文章のような鑑賞もできる。もちろんこれは一つの見方であって、別の感想を持ってもいいわけです。とにかく、人物の内面をえぐり出す画家の技量とそれを感じ取る鑑賞者の感性の "せめぎ合い" が、肖像画の鑑賞の大きなポイントだと思います。
その視点で、中野京子さんが書いた別の絵の評論を紹介したいと思います。画家の王と呼ばれたベラスケスとは知名度がずいぶん違いますが、16世紀イタリアの画家・パルミジャニーノが描いた『アンテア』という作品です。
パルミジャニーノ
パルミジャニーノ(本名 ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ、1503 - 1540)は、ローマ、パルマ、ボローニャなどで活躍し、37歳で亡くなりました。有名な作品は『凸面鏡の自画像』(1523/4。ウィーン美術史美術館)です。
自画像を描いた最初はドイツの画家・デューラー(1471-1528)とされています(No.190「画家が10代で描いた絵」の補記1)。このパルミジャニーノの作品も、西欧絵画における「自画像の歴史」の初期の作品として有名なものです。凸面鏡は周辺にいくにつれ歪んで写りますが、それが的確にとらえられています。
パルミジャニーノの他の作品としては、ウフィツィ美術館にある『長い首の聖母』(1534/5)でしょう。長く引き延ばされた身体の表現が独特で、いわゆるマニエリスムの様式です。さらに今回の主題である『アンテア』も有名な絵画です。
以下、『アンテア』の画像とともに中野京子さんの解説を紹介します。引用において下線は原文にはありません。また、段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に変更したところがあります。
アンテア
フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』は特定の人物を描いたものではない(= トローニー)とされることが多いのですが、もちろんモデルがあるという意見もあります(映画作品が典型)。中野さんは後者の見解で、その理由は「画家がモデルから強烈な印象を受けながら描いているのが伝わる」からです。つまり絵から受ける印象によっているわけで、絵の見方としてはまっとうと言うべきでしょう。
では、パルミジャニーノの『アンテア』からはどういう印象を受けるのか。それが次です。
このアンテアという女性は、何だか "思い詰めた" 表情で、見る人の方に迫ってくる感じがして、切迫感があります。それを倍加させているのが、彼女の身体の様子と身につけている品々です。
右手だけに嵌めた手袋が "狩猟用" だということは知識がないと分からないのですが、それを知らないまでも、この手袋は我々が知っている "婦人用手袋" とは違った、"白く美しい手" には似つかわしくない手袋であるのは確かでしょう。そして極めつけは、彼女がその手袋で鎖を握りしめているクロテンの毛皮です。
彼女の両手のあたりの拡大図を以下に掲げます。「小指にルビーをきらめかせてネックレスをまさぐる白い美しい左手」と、「狩猟用手袋をはめて毛皮の鎖を握る右手」、そして「剥製になったクロテンの獰猛な頭部の様子」が見て取れます。
2つの "鎖" が印象的です。左手が示す "鎖"(=ネックレース)は「私」、右手にかけた "鎖"(= クロテンの手綱)は「貴方」(= 男)なのでしょう。「わざわざ肉食性の小動物を配しているのは、彼女の本性への仄めかし以外の何ものでもない」と中野さんが書いているのは、まさにその通りだと思います。
引用した中野さんの文章は、あくまで個人的な感想であり、別の見方や感想があってもよいわけです。しかしこの肖像は、描かれたモデルの、
の3つの "総合" で「ただならぬ気配、異様なまでの緊迫感」(中野京子)を描き出しているのは確かでしょう。その点において、肖像画の一つの典型と言えると思います。
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ベラスケス(1599-1660) 「インノケンティウス十世の肖像」(1650) |
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ) |
この絵について中野京子さんは「怖い絵」の中で次のように書いていました。
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肖像画を評価するポイントの一つは、描かれた人物の性格や内に秘めた感情など、人物の内面を表現していることです。正確に言うと、本当のところは分からないまでも、少なくとも絵を鑑賞する人にとって人物の内面を表していると強く感じられることだと思います。それは人物の表情や、それを含む風貌からくるものです。また衣装や身につけているもの、人物のたたずまいや全体の構図も大いに関係してくるでしょう。
我々は、17世紀のローマ教皇・インノケンティウス十世がどういう性格の人物であったのかを知りません。しかし、上に引用した中野さんの文章のような鑑賞もできる。もちろんこれは一つの見方であって、別の感想を持ってもいいわけです。とにかく、人物の内面をえぐり出す画家の技量とそれを感じ取る鑑賞者の感性の "せめぎ合い" が、肖像画の鑑賞の大きなポイントだと思います。
その視点で、中野京子さんが書いた別の絵の評論を紹介したいと思います。画家の王と呼ばれたベラスケスとは知名度がずいぶん違いますが、16世紀イタリアの画家・パルミジャニーノが描いた『アンテア』という作品です。
パルミジャニーノ
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自画像を描いた最初はドイツの画家・デューラー(1471-1528)とされています(No.190「画家が10代で描いた絵」の補記1)。このパルミジャニーノの作品も、西欧絵画における「自画像の歴史」の初期の作品として有名なものです。凸面鏡は周辺にいくにつれ歪んで写りますが、それが的確にとらえられています。
パルミジャニーノの他の作品としては、ウフィツィ美術館にある『長い首の聖母』(1534/5)でしょう。長く引き延ばされた身体の表現が独特で、いわゆるマニエリスムの様式です。さらに今回の主題である『アンテア』も有名な絵画です。
以下、『アンテア』の画像とともに中野京子さんの解説を紹介します。引用において下線は原文にはありません。また、段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に変更したところがあります。
アンテア
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パルミジャニーノ 「アンテア」 |
カポディモンテ美術館(ナポリ) |
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フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』は特定の人物を描いたものではない(= トローニー)とされることが多いのですが、もちろんモデルがあるという意見もあります(映画作品が典型)。中野さんは後者の見解で、その理由は「画家がモデルから強烈な印象を受けながら描いているのが伝わる」からです。つまり絵から受ける印象によっているわけで、絵の見方としてはまっとうと言うべきでしょう。
では、パルミジャニーノの『アンテア』からはどういう印象を受けるのか。それが次です。
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このアンテアという女性は、何だか "思い詰めた" 表情で、見る人の方に迫ってくる感じがして、切迫感があります。それを倍加させているのが、彼女の身体の様子と身につけている品々です。
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右手だけに嵌めた手袋が "狩猟用" だということは知識がないと分からないのですが、それを知らないまでも、この手袋は我々が知っている "婦人用手袋" とは違った、"白く美しい手" には似つかわしくない手袋であるのは確かでしょう。そして極めつけは、彼女がその手袋で鎖を握りしめているクロテンの毛皮です。
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彼女の両手のあたりの拡大図を以下に掲げます。「小指にルビーをきらめかせてネックレスをまさぐる白い美しい左手」と、「狩猟用手袋をはめて毛皮の鎖を握る右手」、そして「剥製になったクロテンの獰猛な頭部の様子」が見て取れます。
![]() |
パルミジャニーノ 「アンテア」(部分) |
2つの "鎖" が印象的です。左手が示す "鎖"(=ネックレース)は「私」、右手にかけた "鎖"(= クロテンの手綱)は「貴方」(= 男)なのでしょう。「わざわざ肉食性の小動物を配しているのは、彼女の本性への仄めかし以外の何ものでもない」と中野さんが書いているのは、まさにその通りだと思います。
引用した中野さんの文章は、あくまで個人的な感想であり、別の見方や感想があってもよいわけです。しかしこの肖像は、描かれたモデルの、
表情 | |
態度 | |
身につけているもの |
の3つの "総合" で「ただならぬ気配、異様なまでの緊迫感」(中野京子)を描き出しているのは確かでしょう。その点において、肖像画の一つの典型と言えると思います。
2022-03-05 08:20
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No.331 - カーネーション、リリー、リリー、ローズ [アート]
No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、画家・サージェント(1856-1925)の『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館所蔵)のことを書きました。ベラスケスの『ラス・メニーナス』への "オマージュ" として描かれたこの作品は、2010年にプラド美術館に貸し出され、『ラス・メニーナス』と並べて展示されました。
この絵の鑑賞のポイントの一つは、画面に2つ描かれた大きな有田焼の染め付けの花瓶です。これはボイト家に実際にあったもので、その後、ボストン美術館に寄贈されました。この有田焼は当時の欧米における日本趣味(広くは東洋趣味)を物語っています。
そして、同じサージェントの作品で直感的に思い出す "日本趣味" の絵が、画面に提灯と百合の花をちりばめた『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。テート・ブリテン所蔵)です。No.35 では補足として画像だけを載せましたが、今回はこの絵のことを詳しく紹介します。というのも、最近この絵の評論を2つ読んだからで、その評論を中心に紹介します。
カーネーション、リリー、リリー、ローズ
まず、このブログで今まで多数とりあげた中野京子さんの評論から紹介します。この絵の第1のポイントは、夕暮れの時の一瞬を描いたというところです(以降の引用で下線は原文にはありません。また段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に直したところがあります)。
夕暮れを表現する言葉は多彩です。薄暮、宵、という言い方もあります。いずれも日没前後の時間ですが、特に日没後の短い時間を指すことが多い。日没の後には西の空に夕焼けの赤みが残り、次にはその赤みが無くなって空は群青になり、次にはその青みも消えて黒くなる。サージェントのこの絵は、その空が黒くなる手前の時間、西の空が橙色か、それを過ぎた深い青の時間を描いていると感じさせます。
この絵は「花々の乱れ咲く庭園の中に少女が2人」というのが基本的なテーマですが、本当にこれがリアルな光景なのか、実は幻影ではないかという感じが、ふとします。「この世ならぬ雰囲気を醸し出す」と中野さんが書いている通りです。その大きな理由は薄暮の時の「自然光と人工光の混じりあい」なのでしょう。さらにもう一つは、画面を埋め尽くす庭園の花々と草が、まるで壁紙に描かれたように見えることでしょう。これはリアルな光景なのか、と暗黙に思ってしまうわけです。
サージェントはアメリカ人ですが、この絵を仕上げた当時は英国に住んでいました。そしてカンヴァスを野外に持ち出し、薄暮の僅かな時間を狙って少しづつ仕上げていったと言います。そのため花々は枯れてしまい、そうすると制作を中断し、新しい花が育つまで待った。完成までに長い時間がかかったようです。
この絵のもとになったのは当時の英国の "はやり唄" であり、花の女神フローラを唄ったものというのは象徴的です。ルネサンス期以降の西洋絵画に、ギリシャ神話の女神・フローラがいて、その周辺に花がちりばめられている絵がいろいろあります。ボッティチェリの『春』(ウフィツィ美術館)に描かれたフローラはその典型でしょう。サージェントのこの絵に現実感が希薄なのは、そいういうことと関係しているのかもしれません。
そして目に付くのが提灯です。なぜ英国の庭園に提灯があるのか。それは当時のヨーロッパの、ある種のブームに関係しています。
その提灯ですが、もともと中国由来で、室町時代に日本に伝わりました。中国の提灯は、今でもそうですが、構造材が縦に通っています。一方、日本の提灯は "蛇腹" になっていて、ぺたんと折り畳める。この構造は日本の発明です。サージェントの絵に描かれているのはこの日本方式の提灯です。
文章の最後で中野さんは "妖精" という言葉を出しています。No.318「フェアリー・フェラーの神技」に書いたように、英国は "妖精大国" です。妖精の民話が大量にあるし、著名文学にも登場します(シェイクスピア、ピーターパン ・・・・・・)。そして "妖精画" が絵画の大ジャンルであり、妖精画を専門に描く "妖精画家" がいた。英国在住の画家・サージェントはそういった事情を良く知っていたはずです。
画家は、白いドレスを着て提灯を灯す2人の少女を妖精に見立てているのではないでしょうか。「この世ならぬ雰囲気」はそういうところからも来ていると感じます。
ところで、この絵には提灯以外に日本関連のアイテムが描かれています。それがヤマユリです。最近の日本経済新聞の日曜版(The STYLE。2022年1月30日)に、窪田直子記者(東京編集局文化部)がそのことを書いていました。それを次に紹介します。
花の東西交流
窪田記者の記事は、
と題するものです。19世紀当時、ヨーロッパの "植物ハンター(プラントハンター)" と呼ばれる人たちが、世界の植物を自国に持ち帰った。もちろん日本の植物もその中にあった。そういった交流の証としてサージェントの絵を取り上げているのです。記事はまず『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』の解説から始まります。
この絵の発想のきっかけになったのは、画家がテムズ河畔でたまたま目にした提灯です。サージェントはロンドン近郊の友人宅に滞在しながら、この絵を描きました。
そしてサージェントのこの絵には、親交が深かったモネと同様、ジェポニズムの時代の空気が色濃く出ています。その典型が提灯ですが、もう一つの重要なアイテムがヤマユリです。
プラントハンター
江戸時代後期、日本の植物をヨーロッパに持ち帰ったのがシーボルトでした。ドイツ出身のシーボルトは医者で、長崎の出島ではオランダ商館医のポジションにつきますが、同時に彼は植物学者でもあり、多数の日本の植物をヨーロッパに送りました。これをきっかけに日本のユリがヨーロッパで大人気を博します。
この引用にあるように、当時のヨーロッパで一般的なユリは "マドンナ・リリー" で、古来から聖母マリアのシンボルでした。受胎告知の場面で大天使・ガブリエルが持っている花もこれです。マドンナ・リリーの別名が "Garden White Lily" で、和名のニワシロユリはこの直訳です(庭白百合)。日本のテッポウユリに似ていますが、テッポウユリよりも小型です。
しかし『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』で、少女の後ろの目立つ位置に描かれているのはヤマユリです。そしてヤマユリが本格的にヨーロッパに輸出されるのは明治以降です。それは引用にあるように、輸送が難しかったからです。
我々は学校の日本史の教科書で、明治時代に日本の貿易をささえていた(= 外貨獲得の要だった)のが生糸だと習うわけです。それは全くその通りですが、実はユリ根も大切な輸出品だったのです。生糸と同じく、そのほとんどが横浜港から輸出されました。その結果(ヨーロッパにはない)日本の大型のユリが大人気を博し、サージェントの絵につながった。
以上の背景を踏まえた上で、サージェントの『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』を再度見てみます。
この絵の主題は「夕暮れ時の一瞬に見られる光と色彩の交響詩」です。これをカンヴァスに定着させることに画家は心血を注いだ。モデルは白いドレスの妖精のような2人の姉妹で、背景はイングリッシュ・ガーデンです。
そしてこの絵を当時の英国人の目から見ると、英国ではあまり見かけないアイテムが2種類描かれています。一つは提灯で、もう一つはヤマユリです。それがエキゾチックな雰囲気を醸し出す。この2つを配置することで、昼と夜の境界領域である薄暮の時間の幻想的な雰囲気が倍加される。
これら全てが見る人を魅了してしまう傑作、それが『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』なのでした。
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ジョン・シンガー・サージェント (1856 - 1925) 「エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち」(1882) |
(222.5m × 222.5m) ボストン美術館 |
この絵の鑑賞のポイントの一つは、画面に2つ描かれた大きな有田焼の染め付けの花瓶です。これはボイト家に実際にあったもので、その後、ボストン美術館に寄贈されました。この有田焼は当時の欧米における日本趣味(広くは東洋趣味)を物語っています。
そして、同じサージェントの作品で直感的に思い出す "日本趣味" の絵が、画面に提灯と百合の花をちりばめた『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。テート・ブリテン所蔵)です。No.35 では補足として画像だけを載せましたが、今回はこの絵のことを詳しく紹介します。というのも、最近この絵の評論を2つ読んだからで、その評論を中心に紹介します。
カーネーション、リリー、リリー、ローズ
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ジョン・シンガー・サージェント (1856 - 1925) 「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」(1885-6) |
(174cm × 154cm) テート・ブリテン |
まず、このブログで今まで多数とりあげた中野京子さんの評論から紹介します。この絵の第1のポイントは、夕暮れの時の一瞬を描いたというところです(以降の引用で下線は原文にはありません。また段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に直したところがあります)。
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夕暮れを表現する言葉は多彩です。薄暮、宵、という言い方もあります。いずれも日没前後の時間ですが、特に日没後の短い時間を指すことが多い。日没の後には西の空に夕焼けの赤みが残り、次にはその赤みが無くなって空は群青になり、次にはその青みも消えて黒くなる。サージェントのこの絵は、その空が黒くなる手前の時間、西の空が橙色か、それを過ぎた深い青の時間を描いていると感じさせます。
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サージェントはアメリカ人ですが、この絵を仕上げた当時は英国に住んでいました。そしてカンヴァスを野外に持ち出し、薄暮の僅かな時間を狙って少しづつ仕上げていったと言います。そのため花々は枯れてしまい、そうすると制作を中断し、新しい花が育つまで待った。完成までに長い時間がかかったようです。
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この絵のもとになったのは当時の英国の "はやり唄" であり、花の女神フローラを唄ったものというのは象徴的です。ルネサンス期以降の西洋絵画に、ギリシャ神話の女神・フローラがいて、その周辺に花がちりばめられている絵がいろいろあります。ボッティチェリの『春』(ウフィツィ美術館)に描かれたフローラはその典型でしょう。サージェントのこの絵に現実感が希薄なのは、そいういうことと関係しているのかもしれません。
そして目に付くのが提灯です。なぜ英国の庭園に提灯があるのか。それは当時のヨーロッパの、ある種のブームに関係しています。
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その提灯ですが、もともと中国由来で、室町時代に日本に伝わりました。中国の提灯は、今でもそうですが、構造材が縦に通っています。一方、日本の提灯は "蛇腹" になっていて、ぺたんと折り畳める。この構造は日本の発明です。サージェントの絵に描かれているのはこの日本方式の提灯です。
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文章の最後で中野さんは "妖精" という言葉を出しています。No.318「フェアリー・フェラーの神技」に書いたように、英国は "妖精大国" です。妖精の民話が大量にあるし、著名文学にも登場します(シェイクスピア、ピーターパン ・・・・・・)。そして "妖精画" が絵画の大ジャンルであり、妖精画を専門に描く "妖精画家" がいた。英国在住の画家・サージェントはそういった事情を良く知っていたはずです。
画家は、白いドレスを着て提灯を灯す2人の少女を妖精に見立てているのではないでしょうか。「この世ならぬ雰囲気」はそういうところからも来ていると感じます。
ところで、この絵には提灯以外に日本関連のアイテムが描かれています。それがヤマユリです。最近の日本経済新聞の日曜版(The STYLE。2022年1月30日)に、窪田直子記者(東京編集局文化部)がそのことを書いていました。それを次に紹介します。
花の東西交流
窪田記者の記事は、
19世紀 園芸の東西交流(1)
植物ハンター、世界をめぐる
植物ハンター、世界をめぐる
と題するものです。19世紀当時、ヨーロッパの "植物ハンター(プラントハンター)" と呼ばれる人たちが、世界の植物を自国に持ち帰った。もちろん日本の植物もその中にあった。そういった交流の証としてサージェントの絵を取り上げているのです。記事はまず『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』の解説から始まります。
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この絵の発想のきっかけになったのは、画家がテムズ河畔でたまたま目にした提灯です。サージェントはロンドン近郊の友人宅に滞在しながら、この絵を描きました。
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そしてサージェントのこの絵には、親交が深かったモネと同様、ジェポニズムの時代の空気が色濃く出ています。その典型が提灯ですが、もう一つの重要なアイテムがヤマユリです。
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プラントハンター
江戸時代後期、日本の植物をヨーロッパに持ち帰ったのがシーボルトでした。ドイツ出身のシーボルトは医者で、長崎の出島ではオランダ商館医のポジションにつきますが、同時に彼は植物学者でもあり、多数の日本の植物をヨーロッパに送りました。これをきっかけに日本のユリがヨーロッパで大人気を博します。
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しかし『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』で、少女の後ろの目立つ位置に描かれているのはヤマユリです。そしてヤマユリが本格的にヨーロッパに輸出されるのは明治以降です。それは引用にあるように、輸送が難しかったからです。
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ヤマユリ |
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サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」に描かれているヤマユリ。絵の中央上方の拡大図。 |
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ユリ根の出荷作業 |
横浜のボーマー商会の商品カタログの挿絵。女性のそばにユリ根と赤土の泥団子が描かれている。日本経済新聞(2022.1.30)より。 ちなみに、上の引用に「ヤマユリは神奈川県を中心に山採りされた球根が出荷された」との主旨があるが、現在の神奈川県の "県の花" はヤマユリである。 |
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横浜植木商会 |
横浜植木商会の大正時代の鳥瞰図。ユリ根を含む作物の輸出が一つの産業だった。ユリ根は、当初は山採りされていたが、大規模栽培して輸出されるようになり、日本の外貨獲得に貢献した。日本経済新聞(2022.1.30)より。 |
我々は学校の日本史の教科書で、明治時代に日本の貿易をささえていた(= 外貨獲得の要だった)のが生糸だと習うわけです。それは全くその通りですが、実はユリ根も大切な輸出品だったのです。生糸と同じく、そのほとんどが横浜港から輸出されました。その結果(ヨーロッパにはない)日本の大型のユリが大人気を博し、サージェントの絵につながった。
補足しますと、現代では園芸用のユリ球根の8割はオランダからの輸入です。なぜかというと、オランダはチューリップなどで培った球根の品種改良技術が優れているからだそうです(日本経済新聞。2013.5.14 による)。
以上の背景を踏まえた上で、サージェントの『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』を再度見てみます。
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ジョン・シンガー・サージェント 「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」 |
テート・ブリテン |
この絵の主題は「夕暮れ時の一瞬に見られる光と色彩の交響詩」です。これをカンヴァスに定着させることに画家は心血を注いだ。モデルは白いドレスの妖精のような2人の姉妹で、背景はイングリッシュ・ガーデンです。
そしてこの絵を当時の英国人の目から見ると、英国ではあまり見かけないアイテムが2種類描かれています。一つは提灯で、もう一つはヤマユリです。それがエキゾチックな雰囲気を醸し出す。この2つを配置することで、昼と夜の境界領域である薄暮の時間の幻想的な雰囲気が倍加される。
これら全てが見る人を魅了してしまう傑作、それが『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』なのでした。
2022-02-19 13:08
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No.322 - 静物画の名手 [アート]
No.93「生物が主題の絵」では "生物画" と称して、動物・植物が生きている姿を描いた西洋絵画をみました。「生きている姿を描く」のは日本画では一大ジャンルを形成していますが、西洋絵画の著名画家の作品では少ないと思ったからです。もちろん、西洋絵画で大ジャンルとなっているのは「静物画」であり、今回はその話です。
静物画はフランス語で "nature morte"(=死んだ自然)、英語で "still life"(=動かない生命)であり、「花瓶の花束」とか「テーブルの上の果物や道具類」などが典型的なテーマです。瓶や壷などの無生物だけが主題になることもあります。
まず、18世紀より以前に描かれた絵で "これは素晴らしい" と思った静物画は(実物を見た範囲で)2つあります。No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用した、カラヴァッジョとスルバランの作品です。
この2作品の感想は No.157 に書きました。古典絵画なので写実に徹した作品ですが、よく見かけそうな静物を描いているにもかかわらず、じっと見ていると、それらが何かの象徴のように感じられます。
静物画は現代に至るまで絵の主要テーマの一つですが、19世紀以降の絵で特に感銘を受けたのが、西洋絵画に革新をもたらした画家、エドゥアール・マネ(Edouard Manet,1832-1883)の作品です。そのことは以前、コートールド・コレクションにある『フォーリー・ベルジェールのバー』のところで書きました(No.155)。有名なこの作品はマネの最晩年の大作で、現実と幻想が "ないまぜ" になっている感じの絵ですが(No.255「フォリー・ベルジェールのバー」)、売り子嬢の前のカウンターに置かれた静物の表現が実に的確かつリアルで、少なくともそこは確かな現実と思える表現になっています。
『フォーリー・ベルジェールのバー』は静物画ではありませんが、この絵だけからしてもマネが静物を描く力量は相当のものだと思えます。そこで今回は、マネの代表的な静物画を "特集" し、代表作の画像を掲載したいと思います。
筆触で描く
特定の色の絵の具を含ませた筆をカンヴァスの上で走らせた "跡" を「筆触」(brushstroke)と呼ぶことにします。油彩画の場合、絵の具が濃厚で粘着力があるため,筆の跡を画面に残すことができます。もちろん水彩でも日本画でも筆の跡を残すことは可能ですが、油絵の方がより "多彩な残し方" ができる。筆の太さや形、速さ、強さ、方向、曲がり具合、リズムなどがカンヴァスに明瞭に残って、これによって対象の動きとか、絵を描いたときの気分まで表現できます。筆触に画家の個性が現れると言えるでしょう。
マネの静物画は、この筆触をそのまま残した絵が多いわけです。マネが画家として出発した時代、筆触や筆の跡が残っている絵は画壇で「未完成」と見なされるのが普通でした。マネも、サロンに出品した作品などは筆の跡をできるだけ残さないようにしています。一部には残っていることがありますが(たとえば『オランピア』の花束)、絵の大部分はそうではなく、筆の跡は押さえられています。
ところが静物画はサロン出品作が一つもありません。静物画において画家は「やりたいことをやった」と考えられます。つまり、意図的に塗りの "荒さ" を残した描き方をしている。マネのそういった描き方は他のジャンルの絵にも多々ありますが、静物画を見ると "筆触で作品を作る" という感じがよく分かります。
もちろん、そういう描き方をした絵は19世紀以降にはいっぱいあるので現代人である我々からすると、ことさら新しいとは思えないわけです。しかしマネの時代は19世紀の後半だということを思い出す必要があります。そして明らかに分かることは、マネが「筆触を使いこなす達人であり、名人である」ことです。
というようなことを踏まえつつ、マネの静物画の代表的なものを制作された年の順に画像を掲載します。
ボストン美術館の解説によると、籠に盛られているのは桃(peach)とスモモ(plum)です。我々も知っているように、桃の表面はベルベットのような繊毛で覆われています。またスモモ(やブドウ)の表面にはブルーム(bloom。日本語では果粉)と呼ばれる "白い粉のようなもの" がついていることがよくあります(農薬と間違う人がいるが、果実由来で無害)。この桃とスモモの感じが、一筆の筆触の連続で表現されています。ナイフの煌めきの表現も的確です。
1864-5年、マネは芍薬をテーマにした作品を集中的に描きました。この花が好きだったようで、自ら育てていたと、メトロポリタン美術館の絵の解説(次の3つ目の作品)にありました。日本では女性の美しい立ち振る舞いや容姿を花にたとえて「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」との言い方がありますが、芍薬はすらりと伸びた茎の先端に純白の華麗な花をつける姿が印象的です。
上に引用した画像はその芍薬の花だけですが、実際の花の写真を次に引用しました。マネの絵は花びらを1枚1枚描くということとは全くしていませんが、"純白で華麗" な花の感じをよく表していると思います。
この絵の魚は鯉(carp)と言われることがありますが、絵を見る限りこれは鯉ではないでしょう。そもそも鯉(=川魚)を食べる習慣は、欧州大陸では内陸部のドイツ東方やポーランドのはずです。この魚はフランス料理の定番のズズキではないでしょうか。それはともかく、赤い魚は顔の形からいってホウボウです。それとウナギと牡蠣とレモン(とナイフと鍋)が描かれています。
この絵は、全体として対角線を利かした構図になっています。魚とホウボウは、描くには難しいアングルに配置されていて、海産物がテーマの静物画としては凝っています。
こういったテーマの静物画は、17世紀のオランダで多数描かれました。おそらく画家はそれを踏まえつつ、現代風の静物画として再生したのだと思われます。古典絵画のモチーフを踏襲して、それを現代風に描くのはマネの得意とするところでした。
No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用した絵です。中央の魚は、おそらくシカゴ美術館の絵と同じで、もう1匹は、ノートンサイモン美術館の解説では "ニードルフィッシュ"(和名:ダツ)とのことです。
パンは小麦粉に塩と水を加えて発酵させて作りますが、ブリオッシュは水の代わりに牛乳を使い、またバターや卵も加えます。菓子に近く、"菓子パン" と呼ばれることもあります。この絵を所蔵しているメトロポリタン美術館の公式サイトでは、次のように解説しています。
この解説に使われている「touchstone(試金石)」とは、金の品質を計るために用いられる主に黒色の石英質の鉱石全般を言い、転じて、物事の価値や人の力量を見きわめる試験になるようなもの、という意味です。なるほど、「静物画でその画家の力量が分かる」というのは、いかにもマネらしいと思います。
その、マネがインスパイアされたシャルダンのブリオッシュの絵が次です。これを見ると、マネの作品は明らかに「シャルダンを踏まえた絵」と言えるでしょう。マネは先人の画家のスタイルやモチーフを吸収するのに貪欲な画家でした。このブログで紹介しただけでも、ベラスケスへのオマージュのような絵だとか(No.36)、17世紀のオランダの画家、フランス・ハルスのような絵があったりしましました(No.97)。そして静物画においては自国の偉大な先輩画家、シャルダンを尊敬していたということでしょう。
なおシャルダンの「プラムを盛ったボウル」という作品を No.216「フィリップス・コレクション」で引用しました。
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No.3「ドイツ料理万歳!」でこの絵を引用しました。ホワイトアスパラの旬は、ヨーロッパでは5月から6月で、一度だけ食べたことがあります。日本でも生産量が増えているそうですが、近くのスーパーでは売っていません。早く容易に入手できるようになって欲しいものです。
この絵は日本にきたことがあり、2011年に青森県立美術館で開催されたヴァルラフ・リヒャルツ美術館展で展示されました。
No.111「肖像画切り裂き事件」で、マネとドガが互いに自作の絵を贈り合った、そのときマネがドガに贈った絵はスモモの絵、としました。そのスモモの絵は今は所在不明ですが、10年後にマネが再度描いたスモモがこの絵です。上の方に引用したボストン美術館の「果物の籠」にもスモモがありました。
この絵は、2013年2月9日~5月26日に三菱一号館美術館で開催されたクラーク・コレクション展で展示されました。この展覧会は、全73点の出品のうち59点が初来日作品でした。展覧会がテレビで紹介されたときに、高橋明也館長(当時)がこの作品を「今回の展覧会で一推しの作品」を語っておられたのが記憶に残っています。
クラーク美術館によると、花瓶の花はモスローズ(苔バラ)です。蕾や花びらや茎に苔を思わせる繊毛がある品種です。
マネが最晩年に描いた「花瓶の花」のテーマの一連の絵の中では、この絵が最も有名でしょう。傑作だと思います。
私事ですが、我が家のトイレにはこの絵の複製が飾ってあります。トイレなので「なるべく明るく華やいだ雰囲気に」との思いで、"色みが残っているドライフラワー" と "花瓶の花の絵" を飾ることにしています。花の絵は何回か変更しましたが、結局、この絵に落ち着きました。1日に何回かこの絵を見ていることになりますが、全く飽きがきません。
この絵は日本に来たことがあり、2019年4月~6月に渋谷の Bunkamura で開催された「バレル・コレクション展」で展示されました。
色と筆触で世界を再創造する
マネの一連の静物画を見ていると「色と筆触で世界(= 静物たち)を再創造した絵」という感じを受けます。モノから受ける印象や感じ、質感などを、リアルに描くということではなく、筆触の連続・組み合わせで再構成している。画家なりの、新たな創造という印象です。そこが絵画の革新者というのにふさわしい。
絵とは何なのか。その問いには様々な答え方があると思いますが、その一つの回答がマネの静物画にあると思います。
静物画はフランス語で "nature morte"(=死んだ自然)、英語で "still life"(=動かない生命)であり、「花瓶の花束」とか「テーブルの上の果物や道具類」などが典型的なテーマです。瓶や壷などの無生物だけが主題になることもあります。
まず、18世紀より以前に描かれた絵で "これは素晴らしい" と思った静物画は(実物を見た範囲で)2つあります。No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用した、カラヴァッジョとスルバランの作品です。
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ミケランジェロ・メリージ・ダ・
カラヴァッジョ(1571-1610) 「果物籠」(1595/96)
(46cm × 64cm)
アンブロジアーナ絵画館(ミラノ) |
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フランシスコ・デ・スルバラン(1598-1664)
「レモンとオレンジとバラの静物」(1633)
(62cm × 110cm)
ノートン・サイモン美術館 (米国・カリフォルニア州) |
この2作品の感想は No.157 に書きました。古典絵画なので写実に徹した作品ですが、よく見かけそうな静物を描いているにもかかわらず、じっと見ていると、それらが何かの象徴のように感じられます。
静物画は現代に至るまで絵の主要テーマの一つですが、19世紀以降の絵で特に感銘を受けたのが、西洋絵画に革新をもたらした画家、エドゥアール・マネ(Edouard Manet,1832-1883)の作品です。そのことは以前、コートールド・コレクションにある『フォーリー・ベルジェールのバー』のところで書きました(No.155)。有名なこの作品はマネの最晩年の大作で、現実と幻想が "ないまぜ" になっている感じの絵ですが(No.255「フォリー・ベルジェールのバー」)、売り子嬢の前のカウンターに置かれた静物の表現が実に的確かつリアルで、少なくともそこは確かな現実と思える表現になっています。
『フォーリー・ベルジェールのバー』は静物画ではありませんが、この絵だけからしてもマネが静物を描く力量は相当のものだと思えます。そこで今回は、マネの代表的な静物画を "特集" し、代表作の画像を掲載したいと思います。
筆触で描く
特定の色の絵の具を含ませた筆をカンヴァスの上で走らせた "跡" を「筆触」(brushstroke)と呼ぶことにします。油彩画の場合、絵の具が濃厚で粘着力があるため,筆の跡を画面に残すことができます。もちろん水彩でも日本画でも筆の跡を残すことは可能ですが、油絵の方がより "多彩な残し方" ができる。筆の太さや形、速さ、強さ、方向、曲がり具合、リズムなどがカンヴァスに明瞭に残って、これによって対象の動きとか、絵を描いたときの気分まで表現できます。筆触に画家の個性が現れると言えるでしょう。
マネの静物画は、この筆触をそのまま残した絵が多いわけです。マネが画家として出発した時代、筆触や筆の跡が残っている絵は画壇で「未完成」と見なされるのが普通でした。マネも、サロンに出品した作品などは筆の跡をできるだけ残さないようにしています。一部には残っていることがありますが(たとえば『オランピア』の花束)、絵の大部分はそうではなく、筆の跡は押さえられています。
ところが静物画はサロン出品作が一つもありません。静物画において画家は「やりたいことをやった」と考えられます。つまり、意図的に塗りの "荒さ" を残した描き方をしている。マネのそういった描き方は他のジャンルの絵にも多々ありますが、静物画を見ると "筆触で作品を作る" という感じがよく分かります。
もちろん、そういう描き方をした絵は19世紀以降にはいっぱいあるので現代人である我々からすると、ことさら新しいとは思えないわけです。しかしマネの時代は19世紀の後半だということを思い出す必要があります。そして明らかに分かることは、マネが「筆触を使いこなす達人であり、名人である」ことです。
というようなことを踏まえつつ、マネの静物画の代表的なものを制作された年の順に画像を掲載します。
以下の画像の「英語題名」「制作年」「カンヴァスのサイズ」は、原則として所蔵美術館の公式サイトにあるものです。ただし「1870年頃」(例)とサイトに掲載されているものは「1870年」としました。また「1870-1871年」も「1870年」としました。公式サイトにない作品は WikiArt / WikiCommons の記載に従いました。日本語題名は一般的になっているものはそれに従い、そうでないのは英語題名の直訳をつけました。
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エドゥアール・マネ Oysters(1862) 牡蠣 |
(39.2cm × 46.8cm) ワシントン・ナショナル・ギャラリー |
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エドゥアール・マネ Basket of Fruits(1864) 果物の籠 |
(37.8cm × 44.4cm) ボストン美術館 |
ボストン美術館の解説によると、籠に盛られているのは桃(peach)とスモモ(plum)です。我々も知っているように、桃の表面はベルベットのような繊毛で覆われています。またスモモ(やブドウ)の表面にはブルーム(bloom。日本語では果粉)と呼ばれる "白い粉のようなもの" がついていることがよくあります(農薬と間違う人がいるが、果実由来で無害)。この桃とスモモの感じが、一筆の筆触の連続で表現されています。ナイフの煌めきの表現も的確です。
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エドゥアール・マネ Still Life: Fruits on a Table(1864) 静物:テーブルの果物 |
(45cm × 73.5cm) オルセー美術館 |
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エドゥアール・マネ Two Pears(1864) 2つの梨 |
(28.5cm × 32.4cm) 個人蔵 |
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エドゥアール・マネ Branch of White Peonies and Secateurs(1864) 白いシャクヤクの枝と剪定ばさみ |
(31cm × 46.5cm) オルセー美術館 |
1864-5年、マネは芍薬をテーマにした作品を集中的に描きました。この花が好きだったようで、自ら育てていたと、メトロポリタン美術館の絵の解説(次の3つ目の作品)にありました。日本では女性の美しい立ち振る舞いや容姿を花にたとえて「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」との言い方がありますが、芍薬はすらりと伸びた茎の先端に純白の華麗な花をつける姿が印象的です。
上に引用した画像はその芍薬の花だけですが、実際の花の写真を次に引用しました。マネの絵は花びらを1枚1枚描くということとは全くしていませんが、"純白で華麗" な花の感じをよく表していると思います。
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芍薬(シャクヤク) |
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エドゥアール・マネ Peony stem and shears(1864) シャクヤクの花軸と剪定バサミ |
(57cm × 46cm) オルセー美術館 |
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エドゥアール・マネ Vase of Peonies on a Small Pedestal(1864) 台座に載せたシャクヤクの花瓶 |
(93cm × 70cm) オルセー美術館 |
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エドゥアール・マネ Peonies(1864) シャクヤク |
(59.4cm × 35.2cm) メトロポリタン美術館 |
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エドゥアール・マネ Fish(Still Life)(1864) 魚(静物) |
(73.5cm × 92.4cm) シカゴ美術館 |
この絵の魚は鯉(carp)と言われることがありますが、絵を見る限りこれは鯉ではないでしょう。そもそも鯉(=川魚)を食べる習慣は、欧州大陸では内陸部のドイツ東方やポーランドのはずです。この魚はフランス料理の定番のズズキではないでしょうか。それはともかく、赤い魚は顔の形からいってホウボウです。それとウナギと牡蠣とレモン(とナイフと鍋)が描かれています。
この絵は、全体として対角線を利かした構図になっています。魚とホウボウは、描くには難しいアングルに配置されていて、海産物がテーマの静物画としては凝っています。
こういったテーマの静物画は、17世紀のオランダで多数描かれました。おそらく画家はそれを踏まえつつ、現代風の静物画として再生したのだと思われます。古典絵画のモチーフを踏襲して、それを現代風に描くのはマネの得意とするところでした。
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エドゥアール・マネ Still Life with Fish and Shrimp(1864) 魚とエビのある静物 |
(44.8cm × 73cm) ノートン・サイモン美術館 |
No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用した絵です。中央の魚は、おそらくシカゴ美術館の絵と同じで、もう1匹は、ノートンサイモン美術館の解説では "ニードルフィッシュ"(和名:ダツ)とのことです。
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エドゥアール・マネ Still life with melon and peaches(1866) メロンと桃のある静物 |
(68.3cm × 91cm) ワシントン・ナショナル・ギャラリー |
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エドゥアール・マネ The Salmon(1868) 鮭 |
(72cm × 92cm) シェルバーン美術館(米・ヴァーモント州) Shelburne Museum |
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エドゥアール・マネ A brioche(1870) ブリオッシュ |
(65.1cm × 81cm) メトロポリタン美術館 |
パンは小麦粉に塩と水を加えて発酵させて作りますが、ブリオッシュは水の代わりに牛乳を使い、またバターや卵も加えます。菓子に近く、"菓子パン" と呼ばれることもあります。この絵を所蔵しているメトロポリタン美術館の公式サイトでは、次のように解説しています。
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この解説に使われている「touchstone(試金石)」とは、金の品質を計るために用いられる主に黒色の石英質の鉱石全般を言い、転じて、物事の価値や人の力量を見きわめる試験になるようなもの、という意味です。なるほど、「静物画でその画家の力量が分かる」というのは、いかにもマネらしいと思います。
その、マネがインスパイアされたシャルダンのブリオッシュの絵が次です。これを見ると、マネの作品は明らかに「シャルダンを踏まえた絵」と言えるでしょう。マネは先人の画家のスタイルやモチーフを吸収するのに貪欲な画家でした。このブログで紹介しただけでも、ベラスケスへのオマージュのような絵だとか(No.36)、17世紀のオランダの画家、フランス・ハルスのような絵があったりしましました(No.97)。そして静物画においては自国の偉大な先輩画家、シャルダンを尊敬していたということでしょう。
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ジャン・シメオン・シャルダン (1699-1779) ブリオッシュ(1763) |
47cm × 57cm ルーブル美術館 |
なおシャルダンの「プラムを盛ったボウル」という作品を No.216「フィリップス・コレクション」で引用しました。
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エドゥアール・マネ Bouquet of violets(1872) 菫の花束 |
(27cm × 22cm) 個人蔵 |
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エドゥアール・マネ Bundle of Asparagus(1880) アスパラガスの束 |
(46cm × 55cm) ヴァルラフ・リヒャルツ美術館(ケルン) Wallraf-Richartz Museum |
No.3「ドイツ料理万歳!」でこの絵を引用しました。ホワイトアスパラの旬は、ヨーロッパでは5月から6月で、一度だけ食べたことがあります。日本でも生産量が増えているそうですが、近くのスーパーでは売っていません。早く容易に入手できるようになって欲しいものです。
この絵は日本にきたことがあり、2011年に青森県立美術館で開催されたヴァルラフ・リヒャルツ美術館展で展示されました。
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エドゥアール・マネ Asparagus(1880) アスパラガス |
(16cm × 21cm) オルセー美術館 |
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エドゥアール・マネ The Ham(1880) ハム |
(32.4cm × 41.2cm) ケルヴィングローヴ美術館(英・グラスゴー) Kelvingrove Art Gallery and Museum |
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エドゥアール・マネ The Lemon(1880) レモン |
(14cm × 22cm) オルセー美術館 |
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エドゥアール・マネ Plums(1880) スモモ |
(19.2cm × 25cm) ヒューストン美術館 |
No.111「肖像画切り裂き事件」で、マネとドガが互いに自作の絵を贈り合った、そのときマネがドガに贈った絵はスモモの絵、としました。そのスモモの絵は今は所在不明ですが、10年後にマネが再度描いたスモモがこの絵です。上の方に引用したボストン美術館の「果物の籠」にもスモモがありました。
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エドゥアール・マネ The Melon(1880) メロン |
(46.7cm × 56.5cm) ワシントン・ナショナル・ギャラリー |
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エドゥアール・マネ Pears(1880) 梨 |
(19.1cm × 24.1cm) ワシントン・ナショナル・ギャラリー |
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エドゥアール・マネ Still Life with White Peonies and Other Flowers(1880) シャクヤクと花の静物 |
(35.5cm × 26.5cm) ボイマンス・ファン・べーニンゲン美術館 (オランダ・ロッテルダム) |
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エドゥアール・マネ Flowers in a Crystal Vase(1882) ガラスの花瓶の花 |
(32.7cm × 24.5cm) ワシントン・ナショナル・ギャラリー |
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エドゥアール・マネ Moss Roses in a Vase(1882) 花瓶のモスローズ |
(55.9cm × 34.6cm) クラーク美術館 (米・マサチューセッツ州) |
この絵は、2013年2月9日~5月26日に三菱一号館美術館で開催されたクラーク・コレクション展で展示されました。この展覧会は、全73点の出品のうち59点が初来日作品でした。展覧会がテレビで紹介されたときに、高橋明也館長(当時)がこの作品を「今回の展覧会で一推しの作品」を語っておられたのが記憶に残っています。
クラーク美術館によると、花瓶の花はモスローズ(苔バラ)です。蕾や花びらや茎に苔を思わせる繊毛がある品種です。
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エドゥアール・マネ Bouquet of flowers(1882) 花束 |
(56.5cm × 44.5cm) 村内美術館(八王子) |
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エドゥアール・マネ Pinks and Clematis in a Crystal Vase(1882) ガラスの花瓶のカーネーションとクレマチス |
(56cm × 35.5cm) オルセー美術館 |
マネが最晩年に描いた「花瓶の花」のテーマの一連の絵の中では、この絵が最も有名でしょう。傑作だと思います。
私事ですが、我が家のトイレにはこの絵の複製が飾ってあります。トイレなので「なるべく明るく華やいだ雰囲気に」との思いで、"色みが残っているドライフラワー" と "花瓶の花の絵" を飾ることにしています。花の絵は何回か変更しましたが、結局、この絵に落ち着きました。1日に何回かこの絵を見ていることになりますが、全く飽きがきません。
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エドゥアール・マネ Roses in a Champagne Glass(1882) シャンパングラスの薔薇 |
(32.4cm × 24.8cm) バレル・コレクション(英・グラスゴー) |
この絵は日本に来たことがあり、2019年4月~6月に渋谷の Bunkamura で開催された「バレル・コレクション展」で展示されました。
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エドゥアール・マネ Lilac in a glass(1882) ガラス瓶のライラック |
(54cm × 42cm) ベルリン国立美術館 |
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エドゥアール・マネ White Lilacs in a Crystal Vase(1882) ガラスの花瓶の白いライラック |
(56.2cm × 34.9cm) ネルソン・アトキンズ美術館 (米国・ミズーリ州) Nelson Atkins Museum |
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エドゥアール・マネ Vase of White Lilacs and Roses(1883) 白いライラックとバラの花瓶 |
(55.88cm × 46.04cm) ダラス美術館(米・テキサス州) |
色と筆触で世界を再創造する
マネの一連の静物画を見ていると「色と筆触で世界(= 静物たち)を再創造した絵」という感じを受けます。モノから受ける印象や感じ、質感などを、リアルに描くということではなく、筆触の連続・組み合わせで再構成している。画家なりの、新たな創造という印象です。そこが絵画の革新者というのにふさわしい。
絵とは何なのか。その問いには様々な答え方があると思いますが、その一つの回答がマネの静物画にあると思います。
2021-10-16 13:21
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No.319 - アルマ=タデマが描いた古代世界 [アート]
前回の No.318「フェアリー・フェラーの神技」は、19世紀英国のリチャード・ダッドの絵画をもとに、ロックバンド、クィーンが同名の楽曲を作った話でした。今回は、絵画が他のジャンルの創作に影響した話の続きとして映画のことを書きます。リドリー・スコット監督の『グラディエーター』(2000)に影響を与えた絵画のことです。
実は、No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、フランスの画家・ジェロームが古代ローマの剣闘士を描いた『差し下ろされた親指』(1904)が『グラディエーター』の誕生に一役買った話を書きました。そのあたりを復習すると次のようです。
20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は ・・・・・・。
ちなみに cinemareview.com の記事によると『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサは、スコット監督に脚本を見せる前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそもプロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だそうです。
この経緯をみると、ジェロームの『差し下ろされた親指』にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるようです。リドリー・スコット監督もその魔力にハマった ・・・・・・。
ところで、映画『グラディエーター』の発端(の一つ)がジェロームの『差し下ろされた親指』だとすると、この映画の美術と衣装に大いに影響を与えた別の絵があります。19世紀英国のローレンス・アルマ=タデマが古代ローマを描いた一連の絵画です。今回はその話ですが、古代ローマだけでなくエジプトやギリシャも含む古代地中海世界をテーマとする絵画をとりあげます。
『グラディエーター』とアルマ=タデマ
ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836-1912)はオランダに生まれ、イギリスに帰化した画家です。もともと "Alma" はミドル・ネームですが、英国に渡ってからは "Alma-Tadema" と名乗るようになりました。画家として目立つようにという配慮のようです。彼は新婚旅行でポンペイの遺跡を訪れて衝撃をうけ、以降、古代地中海世界をモチーフに絵の制作をするようになりました。その特徴は、文献、考古学資料、博物館所蔵品、遺跡などを調査し、その知見をもとに古代世界を再現しようとしたことです。
2017年、オランダ(出身地)、ウィーン、ロンドンの3カ所で100年ぶりの「アルマ=タデマ大回顧展」が開催されました。ロンドンでは、レイトン・ハウス博物館で2017年7-10月に「Alma-Tadema : At Home in Antiquity」の展覧会タイトルでの開催でした。"at home" とは、"家で" とか "くつろいで" という意味ですが、少々意訳すると「アルマ=タデマ:古代世界の日常」ぐらいの意味でしょう。なお、レイトンとはアルマ=タデマと同時代の英国の画家で、その邸宅が博物館になっています。
この「アルマ=タデマ大回顧展」のことが、レイトン・ハウス博物館の公式ホームページに掲載されています(https://www.rbkc.gov.uk/subsites/museums/leightonhousemuseum/almatademaathome.aspx。2021年8月20日 現在)。そこには次のようにあります。
『グラディエーター』は、第73回アカデミー賞(2001年)の衣装デザイン賞を獲得しました(他に、作品賞、主演男優賞:ラッセル・クロウ、録音賞、視覚効果賞)。レイトン・ハウス博物館のアルマ=タデマ回顧展を紹介した YouTube 動画、"Alma-Tadema: At Home in Antiquity at Leighton House Museum" の中で、衣装を担当したイェーツ氏が次のように語っています。
『グラディエーター』のみならず、最初の引用に『十戒』(1956)とあったように、『ベン・ハー』(1959)や『クォ・ヴァディス』(1951)を含め、アルマ=タデマに影響されたハリウッドの「古代地中海世界が舞台のスペクタクル映画」は数々あるようです。
もちろん、「アルマ=タデマこそ、ハリウッドにインスピレーションを与えた画家だ」というわけではありません。古代世界を描いた画家は、ほかならぬ『グラディエーター』の発端となったジェロームを始めとして多数あります。アルマ=タデマはそのような画家の一人、という解釈が正しい。
とは言え、アルマ=タデマの特質は、学究的とも言える調査・研究のもとに古代世界を描いたことです。彼はイギリス王立建築学会から表彰されました(Wikipediaによる)。それほど古代建造物の再現は正確だった。また上のレイトン・ハウス博物館関係の引用でも「柱、モザイク、道具、衣装、刺繍、装飾品」に言及しているように、細部も正確かつリアルでした。だからこそ、リドリー・スコット監督を始め、多くの映画人を強く引きつけたのでしょう。
以下、アルマ=タデマの作品を9点ほど引用します。画像は「サー・ローレンス・アルマ=タデマ」(ラッセル・アッシュ解説、谷田博幸訳。リブロポート 1993)から引用しました。また絵の説明もこの本を参考にした箇所があります。以下で「本書」と書く場合はこの本を示します。
モーゼの発見
旧約聖書の「出エジプト記」の一場面です。エジプトで奴隷の身であったイスラエルの民が増え過ぎることを恐れたファラオは、新生児の男児を殺すように命じた。それを逃れるため、モーゼはパピルスのかごに乗せられてナイル河に流された。たまたまナイル河で水浴をしていた王女が彼を拾い、王宮に連れ帰って育てた ・・・・・・ という、予言者・モーゼの出生譚の一場面です。このテーマの西欧絵画には珍しく、王女がモーゼを連れ帰るところが描かれています。
王女の周りの調度品は大英博物館の所蔵品を参考に描かれ、画面左端の彫像の台座にある象形文字・ヒエログリフもファラオを讃える正確な文字形だと言います(本書)。ナイルの向こう岸の遠景にはピラミッドが見えます。また、画面の下の方には青い花が描かれていますが、これはデルフィニウムです。
往年のセシル・B・デミル監督はアルマ=タデマの愛好者だったと、レイトン・ハウス美術館の解説にありましたが、「出エジプト記」をテーマにした映画『十戒』(1956制作)には、このアルマ=タデマの絵とそっくりのシーンが出てきます。
大理石と花
この絵で目をひくのは、画面の大半を占める大理石です。古代建築で、建物から突き出た半円形の構造を "エクセドラ" と言いますが、その大理石のエクセドラの "ベンチ" に女性が座っています。アルマ=タデマは「大理石の画家」と呼ばれたほどで、その描写力は際立っていました。それがよく現れています。
建物は崖の上にあるのでしょう。向こうに青い海と空が広がっています。この青色もアルマ=タデマの絵によく出てきます。さらには、花が描かれています。この絵の花は "ハナズオウ(花蘇芳)" だと言います(本書)。『モーゼの発見』にはデルフィニウムが描かれていましたが、このような花の使い方もアルマ=タデマの絵に頻繁に現れます。
女性は海を眺めています。恋人が乗った船が(帰って)来るのを待っているのでしょうか。「期待」というタイトルからすると、その船を待ち望んでいる姿でしょう。
上に引用した『モーゼの発見』は旧約聖書の一場面でした。しかしこのような "歴史的場面" をテーマにした絵画は、アルマ=タデマの作品では少ないわけです。多くは『期待』のような "日常のなにげない情景" です。その特徴をよく表している作品です。
ローマの公衆浴場
以降に、古代ローマの公衆浴場(テルマエ)を描いた4作品を引用します。
カラカラ帝はローマ帝国の22代皇帝(在位 209-217)です。カラカラ浴場は3つの大浴場をもち、1600人が収容できる大規模なものでした。現在のローマ市内に遺構が残っています。その、遺跡として残っているカラカラ浴場の写真と、元々の平面図を次に掲げます。No.113「ローマ人のコンクリート(2)光と影」で引用したものです。現在、残っているのは一部ですが、平面図から当時の威容が想像できます。浴場部分だけで200m×100mもあります。
公衆浴場には基本となる3種の部屋があり、カルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)です。フリギダリウムには冷水のプールが設置されていて、火照った体を冷やしました。この絵は脱衣室から冷水プールの方向を見た図です。手前の脱衣室の女性は、プールから上がって奴隷に服を着せてもらっているのでしょう。
フリギダリウムの冷水プールから脱衣室の方向を見た構図で、視点は「フリギダリウム(冷浴室)」とはちょうど反対です。この絵はポンペイで発見された遺構をもとに描かれました(本書)。
テピダリウムは床下暖房の原理で暖める微温浴室です。描かれた女性は右手にストリジルを持っています。ストリジルは曲がった金属製の "肌かき器" で、香油を体に塗り、汚れとともにこすり落とすための器具です。また左手にはダチョウの羽を持っています。
もちろんこの絵の目的(ないしは発注者の注文)は、女性のヌードを描くことでしょう。しかし単なるヌードではありません。女性の表情は "恍惚とした" 感じで、それと合わせて見ると、ストリジルもダチョウの羽も男性器を暗示しているようです。客観的に見ると極めて挑発的な絵です。これと比べると、スキャンダルになったマネの『オランピア』などは随分 "おだやかな" 絵です。しかしアルマ=タデマのこの絵はあくまで「古代ローマの風俗」です。だから許されたのでしょう。
大理石、鳥の羽、毛皮の質感表現が見事です。左端にアルマ=タデマの絵によくある花が登場していますが、この花は夾竹桃だそうです(本書)。
ヘリオガバルスの薔薇
ヘリオガバルスは、カラカラ帝のあとの第23代ローマ皇帝で、14歳で少年皇帝として即位し、18歳で暗殺された人物です(在位:218-222)。暴君という評判で、特にその異常な性についての逸話が数々残っています。
ヘリオガバルスの逸話の一つに「大量のバラの花を天蓋の上に置き、それを一挙に落として、下にいる客人を窒息させようとした」との話があります。もっとも「ローマ皇帝群像」という信憑性の乏しい後世の書物の記述であり、真偽のほどは全く不明です。その、大量のバラの花が落ちた瞬間を描いたのがこの絵です。画面の中央上の方で寝そべってこの光景を見ているのがヘリオガバルス帝です。画面の左右の中心に描かれ、かつ背景とのコントラストが最も際立っているので、この絵のフォーカルポイント(焦点)、すなわちヘリオガバルスだと分かります。
そういったテーマからすると、この絵は『モーゼの発見』と同じように「歴史上の瞬間」を描いたものであり、古代世界の風俗画ではないし、日常の風景でもありません。とは言え、画家の関心は、
ことだったのが明白でしょう。アルマ=タデマは "花" をたびたび描いています。ヘリオガバルスの逸話を知ったとき、これは絶好の素材だと思ったのでしょう。大量のバラが画面を埋め尽くす絵を "古代ローマの歴史画" として描けるのだから ・・・・・・。
問題は大量のバラの花をどういった構図で描くかです。秋田麻早子著「絵をみる技術」(No.284 で紹介)によると、この絵は黄金分割を使っていると言います。No.284「絵を見る技術」で書いた「黄金分割・黄金長方形」のことを再掲すると次の通りです。
線分ABをG点で分割するとき、AG:GB = GB:AB となるGがABの黄金分割です。AG=1, GB=ϕ とおいて計算すると、ϕは無理数で、約1.618程度の数になります。「1:ϕ」が黄金比です。ϕの逆数は ϕ-1(約0.618)に等しくなります。
辺の比が「1:ϕ」の黄金比の長方形を「黄金長方形」と言います。また、1/ϕ = ϕ-1 なので、辺の比が「1:ϕ-1」の長方形も黄金長方形です。
黄金長方形には特別な性質があります(下図)。黄金長方形のラバットメントライン(黄色の線)は、黄金長方形を「正方形と小さい黄金長方形に黄金分割」します。またラバットメントラインの端点と黄金長方形の角を結ぶと直交パターンになります(青と赤の線)。大きな黄金長方形と小さな黄金長方形は相似なので、2つ線は直交するわけです。
『ヘリオガバルスの薔薇』のカンヴァスの縦横比は、計算してみると 1.618 であり、ピッタリと黄金比になっています。明らかに画家はそれを意識したカンヴァスを使っています。ということは、構図にも応用されているはずです。
黄金長方形は、ラバットメントライン(=長方形の中にピッタリ収まる正方形を作る線)で正方形と小さな黄金長方形に分割できます。ということは、その小さな黄金長方形の中に、さらに小さな黄金長方形を描けるわけで、これを繰り返すことができます。これが構図に生かされているというのが「絵をみる技術」における秋田氏の指摘で、それを次の図に掲げます。確かに人物とバラの花と建物の配置に黄金長方形の構図が生かされています。
パルテノン神殿のフリーズ
舞台は古代ギリシャのアテネです。アクロポリスの丘に建設中のパルテノン神殿に足場が組まれていて、その足場の高い所に複数の人物がいます。画面右下の明るい部分に、下へと降りる梯子が見えます。
題名のフェイディアスとは、パルテノン神殿建設の総責任者だった建築家・彫刻家です。またフリーズは、建物に帯状に水平にめぐらされた壁で、多くは彫刻が施されました。この絵では、中央に描かれているのがフェイディアスで、右手にパルテノン神殿の設計図を持ち、招待客に自作のフリーズを披露しています。右手前の男性は、アテネに最盛期をもたらした政治家・ペリクレスで、その右は彼の愛妾だったヘタイラ(古代ギリシャの高級娼婦)のアスパシアです。また画面の左端はペリクレスの遠戚にあたる美貌の青年、アルキビアデスです。アルキビアデスはソクラテスの愛人とも言われていたので、その右の親密そうな人物はソクラテスかも知れません。この絵に描かれたフリーズには、2つの重要ポイントがあります。
の2つです。このあたりを、中野京子さんの解説でみましょう。
まず、パルテノン神殿のフリーズが、現在はロンドンの大英国博物館に展示されている経緯です。
アルマ=タデマは、大英博物館にあるフリーズを調査・研究して「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」を完成させました。
アルマ=タデマは大英博物館のフリーズに色の痕跡が残っていることを知って、是非ともオリジナルを再現した絵を描きたいと思ったのでしょう。では、どのようなシチュエーションにするか。フリーズだけを描くのでは "学術資料" になってしまうし、完成後のパルテノン神殿を外から見上げた構図にすると、フリーズは小さくしか見えない。そこで「建設途中のパルテノン神殿の足場の上でフリーズの "内覧会" が開かれる」というシーンにした。このアイデアは秀逸だったと思います。
アルマ=タデマはフリーズの彩色の痕跡を調べてこの絵を描いたのですが、現在、同じことをしようとしても不可能です。なぜなら、大英博物館のフリーズはその後洗浄されて白くされ、オリジナルの色の痕跡が無くなってしまったからです。
日本の仏像も、もともと金箔で光輝くか、極彩色に色付け(四天王など)されていました。その彩色が部分的に残っている像もあり、オリジナル像の復元プロジェクトがあったり、3次元スキャナーで立体像を作って色づけをする研究(=デジタル復元)もされています。
しかしパルテノン神殿のフリーズに関しては、そういった研究は今となっては不可能です。これはひどい文化財破壊です。「自分たちの考えと合わない文化財を破壊する」行為は、近年でも中東でありましたが(仏教遺跡の破壊)、大英博物館の行為も、それと同じとは言わないまでも文化財の損傷であり、考え方がつながっていると思います。しかも、他国から(暴力を使ったわけではないが)"強奪した" 文化財です。
その意味で、アルマ=タデマの「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」は貴重な作品です。彼が古代ギリシャ・ローマに強い関心があり、学究的な態度で古代世界を復元しようとした、その姿勢が貴重な絵画を残すことになりました。
見晴らしのよい場所
古代ローマ風の衣装をまとい、花を飾った3人の女性が大理石のバルコニーに立っています。画面の奥の方を向いた動物のブロンズ像(おそらく猫科の動物で、ライオンだとすると若い雄か雌)にも花輪がかかっています。そして一番左の女性が見下ろす先は遙か下の海面で、2隻の船が見えます。船は人力でオールをこぐ(=奴隷がこぐ)「ガレー船」で、この絵の場面は古代の地中海のどこかであることが分かります。青い海は画面の上部で空と一体化しています。上の方で引用した『期待』と同じように、大理石、女性、花、青い海と空という、アルマ=タデマの得意のモチーフです。
この絵で目立つのは、その遠近法です。手前から動物像がある奥行き方向に向かう線遠近法と、ガレー船を小さく描いて表現した下方向の遠近法です。この "2重遠近法" による、高所恐怖症の人にとっては目眩が起きそうな構図がこの絵の特徴です。まさに「見晴らしの良過ぎる場所」の光景です。
しかし「見晴らしのよい場所」という日本語訳の題名だけでは、この絵の意味は分かりません。画家がつけた題名は「A Coign of Vantage」で、これはシェイクスピアの『マクベス』からの引用なのです。"coign" とは「壁などが外側に突き出たところ(=外角、突角)」で、"vantage" とは「見晴らしの良い場所、有利な地点」という意味です。壁が突き出たところでは見晴らしが利き、すなわち有利な地点になります。
魔女の予言を受けてスコットランド王・ダンカンを暗殺する意志を固めたマクベスは、ダンカン王と友人のバンクォーを自分の城に招きます。そして2人が城の前に到着したときのバンクォーのせりふに「coign of vantage」が出てきます。
"coign of vantage" は、岩燕の巣作りに役立つ(=有利な)城の壁の突き出たところ、という意味で使ってあります。マクベスはこの時点でダンカン王の暗殺を決意していて、バンクォーはマクベスの野心を知っている。このことを踏まえると "coign of vantage" には「暗殺に有利な場所」という裏の意味が隠されていると考えられます。
改めて「A Coign of Vantage」が「マクベス」第1幕 第6場からの引用だという前提でアルマ=タデマの絵を見ると、
ととれる情景です。そして「マクベス」第1幕 第6場ということは、船にはダンカン王とバンクォーが乗っていると想定できます。だとすると、描かれた3人の女性は「マクベス」の第1幕の森のシーンでマクベスとバンクォーを待ち伏せ、マクベスがスコットランド王になると予言した(=そそのかした)3人の魔女ということになります。この絵の魔女たちは「さあ、これから王殺しが始まる、これは見物だ」と思っている ・・・・・・。「見晴らしのよい場所」に描かれた3人が魔女だという解釈は、中野京子さんの「名画の謎 対決篇」(文藝春秋 2015)で知りました。
この3人の美女の姿は、普通に演じられる(または、描かれる)「マクベス」の魔女とは対極の姿です。ただし、「マクベス」第1幕の冒頭で3人の魔女は逆説的なせりふを言います。"Fair is foul, and foul is fair." と ・・・・・・。上に引用した石井先生の訳では "晴れは曇り、曇りは晴れ" ですが、fair を "きれい"、foul を "穢い" ととると、"きれいは穢い、穢いはきれい" です。絵の3人の美女を魔女と解釈するのは全く問題がないことになります。
まとめると、アルマ=タデマの「見晴らしのよい場所」は、古代地中海世界の風景・風俗に、シェイクスピアの「マクベス」を重ね合わせた絵ということになります。その "重ね合わせ" は題名だけで暗示されている。そういった小洒落た絵なのでした。
アルマ=タデマは、19世紀では大変に人気の画家だったそうです。その作品の中から9点を引用しましたが、そのうち6点は個人蔵です。参考にした画集「サー・ローレンス・アルマ=タデマ」(ラッセル・アッシュ解説)には代表作の40作品が掲載されていますが、そのうち21点は個人蔵です。ということは、20世紀の美術界からはあまり評価されなかったということでしょう。
確かにアルマ=タデマの絵画は、革新性があるわけではないし、人間に対する洞察も感じられません。描き方も、ものすごくうまいことは確かですが、古典的です。20世紀の美術界の主流からすると「芸術家としての、画家独特の個性が感じられない」のでしょう。
しかし、古代世界の探求を重ね、想像では描かず研究成果をもとに描き、しかも日常のシーンをまるで "覗き見しているかのごとく" 描くというアルマ=タデマの手法は、それはそれで画家としての立派な独自性だと思います。その独自性に感じ入る個人コレクターは多かったし、またハリウッドの映画人を引き付けるものがあった ・・・・・・。
絵画は他の芸術と違って、テーマや描き方、手法のヴァリエーションが極めて多様であり、そこにこそ魅力の源泉があるのだと思います。
実は、No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、フランスの画家・ジェロームが古代ローマの剣闘士を描いた『差し下ろされた親指』(1904)が『グラディエーター』の誕生に一役買った話を書きました。そのあたりを復習すると次のようです。
20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は ・・・・・・。
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ジャン = レオン・ジェローム (1824-1904) 「差し下ろされた親指」(1904) |
フェニックス美術館(米・アリゾナ州) |
ちなみに cinemareview.com の記事によると『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサは、スコット監督に脚本を見せる前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそもプロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だそうです。
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この経緯をみると、ジェロームの『差し下ろされた親指』にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるようです。リドリー・スコット監督もその魔力にハマった ・・・・・・。
ところで、映画『グラディエーター』の発端(の一つ)がジェロームの『差し下ろされた親指』だとすると、この映画の美術と衣装に大いに影響を与えた別の絵があります。19世紀英国のローレンス・アルマ=タデマが古代ローマを描いた一連の絵画です。今回はその話ですが、古代ローマだけでなくエジプトやギリシャも含む古代地中海世界をテーマとする絵画をとりあげます。
『グラディエーター』とアルマ=タデマ
ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836-1912)はオランダに生まれ、イギリスに帰化した画家です。もともと "Alma" はミドル・ネームですが、英国に渡ってからは "Alma-Tadema" と名乗るようになりました。画家として目立つようにという配慮のようです。彼は新婚旅行でポンペイの遺跡を訪れて衝撃をうけ、以降、古代地中海世界をモチーフに絵の制作をするようになりました。その特徴は、文献、考古学資料、博物館所蔵品、遺跡などを調査し、その知見をもとに古代世界を再現しようとしたことです。
2017年、オランダ(出身地)、ウィーン、ロンドンの3カ所で100年ぶりの「アルマ=タデマ大回顧展」が開催されました。ロンドンでは、レイトン・ハウス博物館で2017年7-10月に「Alma-Tadema : At Home in Antiquity」の展覧会タイトルでの開催でした。"at home" とは、"家で" とか "くつろいで" という意味ですが、少々意訳すると「アルマ=タデマ:古代世界の日常」ぐらいの意味でしょう。なお、レイトンとはアルマ=タデマと同時代の英国の画家で、その邸宅が博物館になっています。
この「アルマ=タデマ大回顧展」のことが、レイトン・ハウス博物館の公式ホームページに掲載されています(https://www.rbkc.gov.uk/subsites/museums/leightonhousemuseum/almatademaathome.aspx。2021年8月20日 現在)。そこには次のようにあります。
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『グラディエーター』は、第73回アカデミー賞(2001年)の衣装デザイン賞を獲得しました(他に、作品賞、主演男優賞:ラッセル・クロウ、録音賞、視覚効果賞)。レイトン・ハウス博物館のアルマ=タデマ回顧展を紹介した YouTube 動画、"Alma-Tadema: At Home in Antiquity at Leighton House Museum" の中で、衣装を担当したイェーツ氏が次のように語っています。
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『グラディエーター』のみならず、最初の引用に『十戒』(1956)とあったように、『ベン・ハー』(1959)や『クォ・ヴァディス』(1951)を含め、アルマ=タデマに影響されたハリウッドの「古代地中海世界が舞台のスペクタクル映画」は数々あるようです。
もちろん、「アルマ=タデマこそ、ハリウッドにインスピレーションを与えた画家だ」というわけではありません。古代世界を描いた画家は、ほかならぬ『グラディエーター』の発端となったジェロームを始めとして多数あります。アルマ=タデマはそのような画家の一人、という解釈が正しい。
とは言え、アルマ=タデマの特質は、学究的とも言える調査・研究のもとに古代世界を描いたことです。彼はイギリス王立建築学会から表彰されました(Wikipediaによる)。それほど古代建造物の再現は正確だった。また上のレイトン・ハウス博物館関係の引用でも「柱、モザイク、道具、衣装、刺繍、装飾品」に言及しているように、細部も正確かつリアルでした。だからこそ、リドリー・スコット監督を始め、多くの映画人を強く引きつけたのでしょう。
以下、アルマ=タデマの作品を9点ほど引用します。画像は「サー・ローレンス・アルマ=タデマ」(ラッセル・アッシュ解説、谷田博幸訳。リブロポート 1993)から引用しました。また絵の説明もこの本を参考にした箇所があります。以下で「本書」と書く場合はこの本を示します。
モーゼの発見
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ローレンス・アルマ=タデマ 「モーゼの発見」(1904) |
(The Finding of Moses) 137.5cm×213.4cm (個人蔵) |
旧約聖書の「出エジプト記」の一場面です。エジプトで奴隷の身であったイスラエルの民が増え過ぎることを恐れたファラオは、新生児の男児を殺すように命じた。それを逃れるため、モーゼはパピルスのかごに乗せられてナイル河に流された。たまたまナイル河で水浴をしていた王女が彼を拾い、王宮に連れ帰って育てた ・・・・・・ という、予言者・モーゼの出生譚の一場面です。このテーマの西欧絵画には珍しく、王女がモーゼを連れ帰るところが描かれています。
王女の周りの調度品は大英博物館の所蔵品を参考に描かれ、画面左端の彫像の台座にある象形文字・ヒエログリフもファラオを讃える正確な文字形だと言います(本書)。ナイルの向こう岸の遠景にはピラミッドが見えます。また、画面の下の方には青い花が描かれていますが、これはデルフィニウムです。
往年のセシル・B・デミル監督はアルマ=タデマの愛好者だったと、レイトン・ハウス美術館の解説にありましたが、「出エジプト記」をテーマにした映画『十戒』(1956制作)には、このアルマ=タデマの絵とそっくりのシーンが出てきます。
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「十戒」(1956)の1シーン。セシル・B・デミル監督はアルマ=タデマの愛好者で、映画『十戒』の制作スタッフたちにアルマ=タデマの複製画を見せたと言われている(上に引用した、レイトン・ハウス博物館のWebサイトによる)。 |
大理石と花
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ローレンス・アルマ=タデマ 「期待」(1885) |
(Expectations) 22.2cm×45.1cm (個人蔵) |
この絵で目をひくのは、画面の大半を占める大理石です。古代建築で、建物から突き出た半円形の構造を "エクセドラ" と言いますが、その大理石のエクセドラの "ベンチ" に女性が座っています。アルマ=タデマは「大理石の画家」と呼ばれたほどで、その描写力は際立っていました。それがよく現れています。
建物は崖の上にあるのでしょう。向こうに青い海と空が広がっています。この青色もアルマ=タデマの絵によく出てきます。さらには、花が描かれています。この絵の花は "ハナズオウ(花蘇芳)" だと言います(本書)。『モーゼの発見』にはデルフィニウムが描かれていましたが、このような花の使い方もアルマ=タデマの絵に頻繁に現れます。
女性は海を眺めています。恋人が乗った船が(帰って)来るのを待っているのでしょうか。「期待」というタイトルからすると、その船を待ち望んでいる姿でしょう。
上に引用した『モーゼの発見』は旧約聖書の一場面でした。しかしこのような "歴史的場面" をテーマにした絵画は、アルマ=タデマの作品では少ないわけです。多くは『期待』のような "日常のなにげない情景" です。その特徴をよく表している作品です。
ローマの公衆浴場
以降に、古代ローマの公衆浴場(テルマエ)を描いた4作品を引用します。
カラカラ浴場 |
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ローレンス・アルマ=タデマ 「カラカラ帝の浴場」(1899) |
(The Baths of Caracalla) 152.4cm×95.3cm (個人蔵) |
カラカラ帝はローマ帝国の22代皇帝(在位 209-217)です。カラカラ浴場は3つの大浴場をもち、1600人が収容できる大規模なものでした。現在のローマ市内に遺構が残っています。その、遺跡として残っているカラカラ浴場の写真と、元々の平面図を次に掲げます。No.113「ローマ人のコンクリート(2)光と影」で引用したものです。現在、残っているのは一部ですが、平面図から当時の威容が想像できます。浴場部分だけで200m×100mもあります。
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カラカラ浴場遺跡
(site : www.archeorm.arti.beniculturali.it)
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カラカラ浴場平面図
大浴場全体 : 337m×328m、浴場部分 : 220m×114m の規模がある。塩野七生「ローマ人の物語 第10巻 すべての道はローマに通ず」より
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フリギダリウム |
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ローレンス・アルマ=タデマ 「フリギダリウム(冷浴室)」(1890) |
(The Frigidarium) 45.1.cm×59.7cm (個人蔵) |
公衆浴場には基本となる3種の部屋があり、カルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)です。フリギダリウムには冷水のプールが設置されていて、火照った体を冷やしました。この絵は脱衣室から冷水プールの方向を見た図です。手前の脱衣室の女性は、プールから上がって奴隷に服を着せてもらっているのでしょう。
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ローレンス・アルマ=タデマ 「お気に入りの習慣」(1909) |
(A Favourite Custom) 66.0.cm×45.1cm (テート・ギャラリー) |
フリギダリウムの冷水プールから脱衣室の方向を見た構図で、視点は「フリギダリウム(冷浴室)」とはちょうど反対です。この絵はポンペイで発見された遺構をもとに描かれました(本書)。
テピダリウム |
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ローレンス・アルマ=タデマ 「テピダリウム(微温浴室)にて」(1881) |
(In the Tepidarium) 24.1.cm×33.0cm (レディ・リーヴァー美術館 - Port Sunlight, UK) |
テピダリウムは床下暖房の原理で暖める微温浴室です。描かれた女性は右手にストリジルを持っています。ストリジルは曲がった金属製の "肌かき器" で、香油を体に塗り、汚れとともにこすり落とすための器具です。また左手にはダチョウの羽を持っています。
もちろんこの絵の目的(ないしは発注者の注文)は、女性のヌードを描くことでしょう。しかし単なるヌードではありません。女性の表情は "恍惚とした" 感じで、それと合わせて見ると、ストリジルもダチョウの羽も男性器を暗示しているようです。客観的に見ると極めて挑発的な絵です。これと比べると、スキャンダルになったマネの『オランピア』などは随分 "おだやかな" 絵です。しかしアルマ=タデマのこの絵はあくまで「古代ローマの風俗」です。だから許されたのでしょう。
大理石、鳥の羽、毛皮の質感表現が見事です。左端にアルマ=タデマの絵によくある花が登場していますが、この花は夾竹桃だそうです(本書)。
ヘリオガバルスの薔薇
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ローレンス・アルマ=タデマ 「ヘリオガバルスの薔薇」(1888) |
(The Roses of Heliogabalus) 132.1.cm×213.7cm (個人蔵) |
ヘリオガバルスは、カラカラ帝のあとの第23代ローマ皇帝で、14歳で少年皇帝として即位し、18歳で暗殺された人物です(在位:218-222)。暴君という評判で、特にその異常な性についての逸話が数々残っています。
ヘリオガバルスの逸話の一つに「大量のバラの花を天蓋の上に置き、それを一挙に落として、下にいる客人を窒息させようとした」との話があります。もっとも「ローマ皇帝群像」という信憑性の乏しい後世の書物の記述であり、真偽のほどは全く不明です。その、大量のバラの花が落ちた瞬間を描いたのがこの絵です。画面の中央上の方で寝そべってこの光景を見ているのがヘリオガバルス帝です。画面の左右の中心に描かれ、かつ背景とのコントラストが最も際立っているので、この絵のフォーカルポイント(焦点)、すなわちヘリオガバルスだと分かります。
そういったテーマからすると、この絵は『モーゼの発見』と同じように「歴史上の瞬間」を描いたものであり、古代世界の風俗画ではないし、日常の風景でもありません。とは言え、画家の関心は、
大量のバラの花が画面の半分を覆い尽くす絵を描く
ことだったのが明白でしょう。アルマ=タデマは "花" をたびたび描いています。ヘリオガバルスの逸話を知ったとき、これは絶好の素材だと思ったのでしょう。大量のバラが画面を埋め尽くす絵を "古代ローマの歴史画" として描けるのだから ・・・・・・。
問題は大量のバラの花をどういった構図で描くかです。秋田麻早子著「絵をみる技術」(No.284 で紹介)によると、この絵は黄金分割を使っていると言います。No.284「絵を見る技術」で書いた「黄金分割・黄金長方形」のことを再掲すると次の通りです。
線分ABをG点で分割するとき、AG:GB = GB:AB となるGがABの黄金分割です。AG=1, GB=ϕ とおいて計算すると、ϕは無理数で、約1.618程度の数になります。「1:ϕ」が黄金比です。ϕの逆数は ϕ-1(約0.618)に等しくなります。
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辺の比が「1:ϕ」の黄金比の長方形を「黄金長方形」と言います。また、1/ϕ = ϕ-1 なので、辺の比が「1:ϕ-1」の長方形も黄金長方形です。
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黄金長方形には特別な性質があります(下図)。黄金長方形のラバットメントライン(黄色の線)は、黄金長方形を「正方形と小さい黄金長方形に黄金分割」します。またラバットメントラインの端点と黄金長方形の角を結ぶと直交パターンになります(青と赤の線)。大きな黄金長方形と小さな黄金長方形は相似なので、2つ線は直交するわけです。
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『ヘリオガバルスの薔薇』のカンヴァスの縦横比は、計算してみると 1.618 であり、ピッタリと黄金比になっています。明らかに画家はそれを意識したカンヴァスを使っています。ということは、構図にも応用されているはずです。
黄金長方形は、ラバットメントライン(=長方形の中にピッタリ収まる正方形を作る線)で正方形と小さな黄金長方形に分割できます。ということは、その小さな黄金長方形の中に、さらに小さな黄金長方形を描けるわけで、これを繰り返すことができます。これが構図に生かされているというのが「絵をみる技術」における秋田氏の指摘で、それを次の図に掲げます。確かに人物とバラの花と建物の配置に黄金長方形の構図が生かされています。
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2本のラバットメントラインを引き、両側にできる黄金長方形をさらに分割するように線を描いていった図。この線が構図に生かされている。カンヴァスの縦横比は、ほぼ正確な黄金比(= 1.618)であり、この図における斜線は直交している。秋田麻早子著「絵をみる技術」より。 |
パルテノン神殿のフリーズ
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ローレンス・アルマ=タデマ 「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」(1868) |
(Pheidias and the Frieze of the Parthenon, Athens) 72.0.cm×110.5cm (バーミンガム市立美術館) |
舞台は古代ギリシャのアテネです。アクロポリスの丘に建設中のパルテノン神殿に足場が組まれていて、その足場の高い所に複数の人物がいます。画面右下の明るい部分に、下へと降りる梯子が見えます。
題名のフェイディアスとは、パルテノン神殿建設の総責任者だった建築家・彫刻家です。またフリーズは、建物に帯状に水平にめぐらされた壁で、多くは彫刻が施されました。この絵では、中央に描かれているのがフェイディアスで、右手にパルテノン神殿の設計図を持ち、招待客に自作のフリーズを披露しています。右手前の男性は、アテネに最盛期をもたらした政治家・ペリクレスで、その右は彼の愛妾だったヘタイラ(古代ギリシャの高級娼婦)のアスパシアです。また画面の左端はペリクレスの遠戚にあたる美貌の青年、アルキビアデスです。アルキビアデスはソクラテスの愛人とも言われていたので、その右の親密そうな人物はソクラテスかも知れません。この絵に描かれたフリーズには、2つの重要ポイントがあります。
パルテノン神殿のフリーズは、現在はギリシャには無く、ロンドンの大英博物館にある(アテネのアクロポリス博物館にあるのはレプリカ)。 | |
フリーズが彩色されている。 |
の2つです。このあたりを、中野京子さんの解説でみましょう。
エルギン・マーブル |
まず、パルテノン神殿のフリーズが、現在はロンドンの大英国博物館に展示されている経緯です。
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アルマ=タデマによるフリーズの再現 |
アルマ=タデマは、大英博物館にあるフリーズを調査・研究して「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」を完成させました。
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アルマ=タデマは大英博物館のフリーズに色の痕跡が残っていることを知って、是非ともオリジナルを再現した絵を描きたいと思ったのでしょう。では、どのようなシチュエーションにするか。フリーズだけを描くのでは "学術資料" になってしまうし、完成後のパルテノン神殿を外から見上げた構図にすると、フリーズは小さくしか見えない。そこで「建設途中のパルテノン神殿の足場の上でフリーズの "内覧会" が開かれる」というシーンにした。このアイデアは秀逸だったと思います。
エルギン・マーブル事件 |
アルマ=タデマはフリーズの彩色の痕跡を調べてこの絵を描いたのですが、現在、同じことをしようとしても不可能です。なぜなら、大英博物館のフリーズはその後洗浄されて白くされ、オリジナルの色の痕跡が無くなってしまったからです。
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日本の仏像も、もともと金箔で光輝くか、極彩色に色付け(四天王など)されていました。その彩色が部分的に残っている像もあり、オリジナル像の復元プロジェクトがあったり、3次元スキャナーで立体像を作って色づけをする研究(=デジタル復元)もされています。
しかしパルテノン神殿のフリーズに関しては、そういった研究は今となっては不可能です。これはひどい文化財破壊です。「自分たちの考えと合わない文化財を破壊する」行為は、近年でも中東でありましたが(仏教遺跡の破壊)、大英博物館の行為も、それと同じとは言わないまでも文化財の損傷であり、考え方がつながっていると思います。しかも、他国から(暴力を使ったわけではないが)"強奪した" 文化財です。
その意味で、アルマ=タデマの「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」は貴重な作品です。彼が古代ギリシャ・ローマに強い関心があり、学究的な態度で古代世界を復元しようとした、その姿勢が貴重な絵画を残すことになりました。
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パルテノン神殿のフリーズ - 大英博物館 - |
(Wikimedia Commons) |
見晴らしのよい場所
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ローレンス・アルマ=タデマ 「見晴らしのよい場所」(1895) |
(A Coign of Vantage) 64.0cm×44.5cm (個人蔵) |
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この絵で目立つのは、その遠近法です。手前から動物像がある奥行き方向に向かう線遠近法と、ガレー船を小さく描いて表現した下方向の遠近法です。この "2重遠近法" による、高所恐怖症の人にとっては目眩が起きそうな構図がこの絵の特徴です。まさに「見晴らしの良過ぎる場所」の光景です。
しかし「見晴らしのよい場所」という日本語訳の題名だけでは、この絵の意味は分かりません。画家がつけた題名は「A Coign of Vantage」で、これはシェイクスピアの『マクベス』からの引用なのです。"coign" とは「壁などが外側に突き出たところ(=外角、突角)」で、"vantage" とは「見晴らしの良い場所、有利な地点」という意味です。壁が突き出たところでは見晴らしが利き、すなわち有利な地点になります。
魔女の予言を受けてスコットランド王・ダンカンを暗殺する意志を固めたマクベスは、ダンカン王と友人のバンクォーを自分の城に招きます。そして2人が城の前に到着したときのバンクォーのせりふに「coign of vantage」が出てきます。
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"coign of vantage" は、岩燕の巣作りに役立つ(=有利な)城の壁の突き出たところ、という意味で使ってあります。マクベスはこの時点でダンカン王の暗殺を決意していて、バンクォーはマクベスの野心を知っている。このことを踏まえると "coign of vantage" には「暗殺に有利な場所」という裏の意味が隠されていると考えられます。
改めて「A Coign of Vantage」が「マクベス」第1幕 第6場からの引用だという前提でアルマ=タデマの絵を見ると、
大理石の建造物の外角(そこは死角なしに270度を見渡せる)に3人の女性がいて | |
この建造物のそばの海岸に2隻の船が到着する様子を眺めている |
ととれる情景です。そして「マクベス」第1幕 第6場ということは、船にはダンカン王とバンクォーが乗っていると想定できます。だとすると、描かれた3人の女性は「マクベス」の第1幕の森のシーンでマクベスとバンクォーを待ち伏せ、マクベスがスコットランド王になると予言した(=そそのかした)3人の魔女ということになります。この絵の魔女たちは「さあ、これから王殺しが始まる、これは見物だ」と思っている ・・・・・・。「見晴らしのよい場所」に描かれた3人が魔女だという解釈は、中野京子さんの「名画の謎 対決篇」(文藝春秋 2015)で知りました。
この3人の美女の姿は、普通に演じられる(または、描かれる)「マクベス」の魔女とは対極の姿です。ただし、「マクベス」第1幕の冒頭で3人の魔女は逆説的なせりふを言います。"Fair is foul, and foul is fair." と ・・・・・・。上に引用した石井先生の訳では "晴れは曇り、曇りは晴れ" ですが、fair を "きれい"、foul を "穢い" ととると、"きれいは穢い、穢いはきれい" です。絵の3人の美女を魔女と解釈するのは全く問題がないことになります。
まとめると、アルマ=タデマの「見晴らしのよい場所」は、古代地中海世界の風景・風俗に、シェイクスピアの「マクベス」を重ね合わせた絵ということになります。その "重ね合わせ" は題名だけで暗示されている。そういった小洒落た絵なのでした。
アルマ=タデマは、19世紀では大変に人気の画家だったそうです。その作品の中から9点を引用しましたが、そのうち6点は個人蔵です。参考にした画集「サー・ローレンス・アルマ=タデマ」(ラッセル・アッシュ解説)には代表作の40作品が掲載されていますが、そのうち21点は個人蔵です。ということは、20世紀の美術界からはあまり評価されなかったということでしょう。
確かにアルマ=タデマの絵画は、革新性があるわけではないし、人間に対する洞察も感じられません。描き方も、ものすごくうまいことは確かですが、古典的です。20世紀の美術界の主流からすると「芸術家としての、画家独特の個性が感じられない」のでしょう。
しかし、古代世界の探求を重ね、想像では描かず研究成果をもとに描き、しかも日常のシーンをまるで "覗き見しているかのごとく" 描くというアルマ=タデマの手法は、それはそれで画家としての立派な独自性だと思います。その独自性に感じ入る個人コレクターは多かったし、またハリウッドの映画人を引き付けるものがあった ・・・・・・。
絵画は他の芸術と違って、テーマや描き方、手法のヴァリエーションが極めて多様であり、そこにこそ魅力の源泉があるのだと思います。
2021-09-04 14:18
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No.318 - フェアリー・フェラーの神技 [アート]
このブログでは数々の絵画作品を取り上げましたが、その中に「絵画が他のジャンルの創作にインスピレーションを与えた」という例がありました。最もありそうなのが絵画から文学を作るケースで、ベラスケスの『ラス・メニーナス』から発想を得たオスカー・ワイルドの『王女の誕生日』がそうでした(No.63)。そもそも西洋絵画は宗教画、つまり "宗教物語の視覚化" から発達したので、絵画と物語の相性は良いわけです。
絵画に影響を受けた映画もありました。リドリー・スコット監督の『グラディエーター』(No.203)や『ブレードランナー』(No.288)、アルフレッド・ヒチコック監督の『サイコ』(No.301)、黒澤明監督の『夢』(No.312)などです。映画は視覚芸術でもあり、絵画との相性は物語以上に良いはずです。スコット監督や黒澤監督は絵画の素養があるぐらいです。
こういった中に「絵画からインスピレーションを得た音楽」があります。過去に触れた例では、ドビュッシーの交響詩『海』です(No.156「世界で2番目に有名な絵」)。この曲は葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』に影響を受けたと言われています。スコアの初版本の表紙が『神奈川沖浪裏』だし、ドビュッシーの自宅書斎には『神奈川沖浪裏』が飾ってあったぐらいなので(No.156 参照)大いにありうるでしょう。もちろん根拠はないでしょうが、「北斎が波をあのように描いたのだから、自分は海を音楽で」と作曲家が考えたとしても不思議ではありません。
この「絵画からインスピレーションを得た音楽」の別の例を取り上げたいと思います。ロックバンド、クィーンの「フェアリー・フェラーの神技」(1974)です。この曲は、19世紀のイギリスの画家、リチャード・ダッドの『お伽の樵の入神の一撃』をもとにした曲です。題名は英語ではどちらも、
ですが、日本語訳がつけられた時期と訳者が違うために、違う名で呼ばれることになりました。fairy は妖精、feller は樵、master-stroke は神技という意味です。ダッドの絵は樵(=妖精)が斧の一撃(= stroke)で木の実を割ろうとしている姿を描いているので、直訳すると、
ほどの意味でしょう。まず、クィーンの曲の元となったリチャード・ダッドの絵からです。
お伽の樵の入神の一撃
画面が多数の "人物" で埋め尽くされていますが、彼らはすべて妖精です。その中心は画面の真ん中の下方に描かれている樵の妖精で、彼が斧を振り上げ、地面に置かれた木の実(ヘーゼルナッツ = ハシバミの実)を割ろうとしている、その瞬間を妖精たちが待ちかまえている情景です。画面に多数描かれているヘーゼルナッツやデイジーとの比較で、妖精たちが "小さい" ことがわかります。
ある作家の文章を引用して、絵の全体を紹介することにします。実は、この絵をもとに英国の作家、マーク・チャドボーンが『フェアリー・フェラーの神技』という小説(2003年の英国幻想文学賞を受賞)を書いたのですが、その本に英国の作家、ニール・ゲイマンが序文を寄せています。その序文を引用します。漢数字を算用数字にし、段落増やしたところと、ルビを追加したところがあります。
リチャード・ダッドは、25歳のときに欧州・中東旅行に出かけ(1842)、その旅の途中で精神を病み、帰国してから妄想にかられて父親を刺殺、フランスに逃亡し、居合わせた観光客を殺害しようとして逮捕されました。正常な状態ではないと判断されてイギリスに戻されたダッドは、王立ベスレム病院の精神病棟に収容されました(27歳)。20年後にブロードムア刑務所の病院に転院しましたが、68歳で結核で亡くなるまで、病院で生涯を過ごした画家です。
上の引用で作家のニール・ゲイマンは、自身の「ベスレム病院患者写真集」の書評を書いたときの経験と、テート・ギャラリーで『お伽の樵の入神の一撃』を初めて見た印象を重ね合わせて、「絵に描かれている禿頭の白髭の小人がダッド自身だ」としています。ダッドがこの絵を描いたのは40歳代(転院の直前まで)なので、もしそうだとすると、将来の自分の姿を予測して絵に描き込んだことになります。このゲイマンの見立てについては、後でもう一度ふれます。
この絵の大きさは、わずか 54cm×39.4cm です。画像で見ると、びっしりと妖精の一群が描き込まれていて、とてもそんな大きさには見えないのですが、縦のサイズは 54cm しかないのです。
著者は、テート・ギャラリーを訪れたなら是非この絵をじっくりと見て欲しいと言います。そして、じっくりと見るとあることに気づくはずだと ・・・・・・。
そして著者は、リチャード・ダッドの画家としての生涯とこの絵の位置づけについて、次のように締めくくっています。
リチャード・ダッドは、20歳で王立芸術院(Royal Academy of Arts)に入学しますが、仲間を集めて「ザ・クリーク(The Clique)」という画家グループを結成しました。これは「王立芸術院の伝統が時代の要求に即していない、芸術は大衆によって判断されるべき」と主張するものでした(Wikipedia による)。その後、彼が欧州・中東旅行に出かけたのは、ある英国の著名弁護士の旅行の同伴画家として白羽の矢が立ったからでした。その意味でリチャード・ダッドは気鋭の若手画家だったわけです。
しかし、ダッドの代表作とされる作品のほとんどは王立ベスレム病院で描かれ、その中でも「お伽の樵の入神の一撃」は傑作とされるものです。もしダッドが精神を病まなければ忘れ去られた画家になったでしょう。そうするとテート・ギャラリーに作品が展示されることもなく、フレディ・マーキュリーが感銘をうけて楽曲を作ることもなく、従って我々がリチャード・ダッドという画家を知ることも無かったに違いありません。
クィーン『フェアリー・フェラーの神技』
クィーンの『フェアリー・フェラーの神技』は、2作目のアルバム "クィーン Ⅱ"(1974)に収められた曲です。ドラムスとハープシコードとピアノが規則正しく音を刻んで始まるこの曲は、3分に満たない長さですが、ダッドの絵の世界の全体がダイレクトに歌われてます。歌詞は次のようです。
歌詞を見てすぐ分かることは、ダッドの絵がどういう情景で何が描かれているか、それを説明したような歌詞だということです。実は、リチャード・ダッドは自作の「Fairy Feller's Master-Stroke」を解説した長い詩を残していて、現在はネットで公開されています。フレディー・マーキュリーはその内容を知って曲を作ったのが明らかです。歌詞には、satyr、dandy、nymph、politician、soldier、sailor、tinker、tailor、ploughboy、apothecary、thief、ostler、tatterdemalion、junketer、harridan、arch magician、Oberon、Mab、といった絵の登場キャラクターが出てきますが、今あげたものはすべてダッドの "自作解説詩" に出てきます。この中には tatterdemalion(ボロを着た者)などの、普通はまず使わない単語(ないしは古語)が出てきますが、それはダッドの "自作解説詩" にあるからなのです。
従って、クィーンの歌詞の内容を把握するためには、ダッドの絵に何が描かれているかを知る必要があります。それを次節に書きます。
ちなみに、歌詞には意味不明の単語が2つあります。一つは「Politician with senatorial pipe」の "senatorial" です。これは「上院の」とか「上院議員の」とか「上院議員にふさわしい」という意味ですが、英国の上院は貴族院(House of Lords)なので、上の試訳ではとりあえず "貴族の" としておきました。しかし "貴族のパイプ" では意味不明です。"senatorial pipe" はダッドの自作解説詩に出てきますが、おそらく19世紀にはその意味するところが明瞭だったのでしょう。ダッドの絵にはその「パイプをくわえた政治家」が出てきます(後述)。
もう一つは、2回出てくる "What a quaere fellow" の "quaere" で、これはダッドの自作解説詩に出てくる語ではなく、フレディー独自の表現です。しかし "quaere" という語を辞書で引いてもラテン語とあって、意味がとれません。この語について、ユニバーサル・ミュージックの海外音楽情報サイト、udiscovermusic.jp には次のような解説があります。
「一部の人々が想像するような」というのは、quaere = queer と考え、queer は「不思議な、奇妙な」という意味に加えて性的マイノリティも指すので、「あからさまな意味 = ゲイ」ということでしょう。しかし、上の引用にあるように「奇妙なやつら」「ヘンなやつら」が妥当であり、歌詞全体を眺めればそれが正しい受け取り方です。フレディの歌詞には時として造語が出てくるので、これもそうでしょう。試訳では「何て変なやつらだ」としておきました。
何が描かれているか
クィーンの歌詞の意味を探るため、ダッドの絵に何が描かれているのかを見ていきます。
まず、この絵の発想の原点はシェイクスピアにあります。クィーンの歌詞に「マブは女王」とありますが、これはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に出てきます。第1幕 第4場のロミオたちが仮面舞踏会に行く場面、ロミオの "昨晩、夢をみた" から始まる夢談義の中で、マキューシオがロミオに言う台詞がそれです。以下にその部分を引用しますが、原文にはない段落を追加しました。
妖精の女王・マブは車に乗って夜毎現れ、夢を見させる。車の車体はヘーゼルナッツの殻で出来ている ・・・・・・。『ロミオとジュリエット』のこの部分から発想し、マブの女王のための "車体材料" を樵の妖精が作ろうとしていて、そのイベントに妖精たちが集まった光景を描いたのがダッドの絵です。
さらにクィーンの歌詞に「オベロンとティターニア」とあります。言うまでもなく、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に出てくる妖精の王と妖精の女王です。これはダッドの絵にも描き込まれていて、そうすることで "シェイクスピアを踏まえた" ことを明確にしているのです。
しかし "シェイクスピアを踏まえた" のは、この絵のほんの発端に過ぎません。ほとんどの事物は画家独自のイマジネーションで描かれています。そのところを順に見ていきます。
以下の解説は、電子図書館 JSTOR(ジェイストア=Journal Storageの略。www.jstor.org)に掲載されている絵の説明に従いました。この説明もダッドの "自作解説詩" を踏まえたもので、以下に見出しとしてあげた「キャラクターを表す語」はすべて "自作解説詩" に現れるものです。
樵の妖精は帽子をかぶり、茶色の革製のコートとズボンを身につけ、両手で斧を振り上げて、地面に立てたヘーゼルナッツに一撃をくわえようとしています。向こう向きなので表情はうかがい知れません。下の2つ目の図に、彼が割ろうとしているヘーゼルナッツの拡大図と、実物の写真をあげました。


テート・ギャラリーは "TateShots" と題する美術館の解説動画を YouTube で多数公開しています。その中の "Richard Dadd, The Artist and the Asylum"(2012.2.9。"リチャード・ダッド、芸術家と収容所")でこの絵が取り上げられていて、美術史家のニコラス・トローマンス(Nicholas Tromans)が次のように解説していました。
"looks ... like Richard Dadd" というのは、樵の後ろ姿の様子がリチャード・ダッドに似ているということでしょう。
樵の妖精の右側です。妖精宿の馬丁(馬の世話人)が膝に両手をつき、一心不乱に樵を見つめています。ヘーゼルナッツの殻が割れる瞬間を見逃すまいとしているようです。

馬丁の後ろに、少々分かりにくいのですが修道士がいます。頭頂部を剃り、髪をリング状に残した "トンスラ" の髪型をしています。腕を組んでいる姿です。

修道士の右と上に、農夫(右)と荷馬車の御者のウィル(上)がいます。ウィルは今夜のイベントには無関心なようです。

これは、画面の右端にいる2人の男の妖精を指します。羽がついた立派な帽子をかぶり、中世風の昔の服を着ています。一人は楽器を弾いています。

樵の左に、緑のドレスを着た女と赤い帽子の男の小人がいます。男は祈祷師です。右手を差し出していますが、木の実が割れるかどうかの賭を仕切っています。

画面の左端の男女の妖精は恋人同士です。男は皮革業者(tanner)、女は乳搾り(dairymaid)で、男は女に寄りかかっています。

左端の少し上に2人のメイドがいます。左側のメイドは左手に箒を持ち、右手にスズメガ(hawkmoth)をとまらせています。妖精は小さいので、蛾は肘まである大きさです。一方、右側のメイドは右手に鏡を持っていますが、その右下の地面を見ると、サテュルスがスカートの下から覗いています(拡大図)。サテュルスはギリシャ神話の半人半獣神で、好色とされています。


メイドの右側に、禿頭で白髭の教師がいます。彼はかがむように座っていて、手を膝にあてています。

上に引用したように、ニール・ゲイマンはこの老人がダッドの(将来の)自画像に違いない、としています。数少ない正面を向いた妖精ですが(だだし横目で樵を見ている)、何となく不安げな感じで、教師という名ではあるが、人を導くキャラクターのようには見えません。しかし、この絵の中では最も現実感があるキャラクターに見えます。自画像説もありうるかも、と思います。
教師の後ろに、洒落男の妖精とニンフがいます。洒落男はニンフに言い寄っています。

さらにその右側に、赤い服をきた政治家がいます。彼はパイプをくわえています。ダッドの自作解説詩ではこのパイプを "senatorial pipe" としています。直訳すると "上院議員のパイプ" です。拡大図を見ると、ちょっと変わった形のパイプのようです。


政治家の右に、立派な靴を履いた "いなか者" がいます。彼はサテュルスのような頭部です。Clodhopper とは泥道でも大丈夫な丈夫な靴で(clod = 土の塊)、そういう靴を履いている人をも指します。

洒落男とニンフの上に、聞き耳を立てている2人の妖精が小さく描かれています。エルフ(elf)はゲルマン神話・北欧神話に起源をもつ妖精です。

政治家の上に大魔術師がいます。白い髭で、3層の金の王冠をかぶり、左手を横に伸ばしています。彼がこの場を仕切っていて、樵が一撃を加える合図を送ろうとしています。

大魔術師の3層の王冠の左と右にマブの女王の一行が描かれています。左はマブの女王の部分で、拡大図の車輪の上に女王の顔が見えます。全体の詳細は小さすぎて判別し難いのですが、このあたりは『ロミオとジュリエット』の記述を踏まえていると考えられます。大魔術師の王冠の右側には、スペイン風の衣装の踊り子たちが描かれています。



大魔術師のすぐ上に「真夏の夜の夢」の妖精の王と王妃、オベロンとティターニアがいます。ともに王冠をかぶり、正装しています。三角帽をかぶった赤い服の老女が見張っています。

全体画面の左上にトランペット吹きがいます。2人(下図の中央付近)と、トンボ(下図の右上)のトランペット吹きです。トンボはバッタとも似た格好をしています。トンボの下には中国風の帽子の妖精が小さく描かれています。

なお、クィーンの歌詞に「Tatterdemalion and a junketer」とあります(試訳:ボロを着た者、この宴を楽しむ者)。ダッドの "自作解説詩" では、これはトランペットを吹いている2人(上図中央付近)のことだとしています。言葉の意味は、
ですが、上の画像を見てもボロを着ているようには見えないし、トランペットに夢中でヘーゼルナッツを一撃で割るイベントを楽しんでいるようでもありません。これは画家・ダッドの反語なのかもしれません。
画面の上端のトランペット吹きの右側に何人かの妖精がいますが、これはマザーグースを踏まえています。
という、いわゆる "数え唄" です。ただし、ダッドの絵では登場キャラクターが少し違い、左から右へ順に、①兵士(soldier)②水夫(sailor)③鋳掛屋(tinker)④仕立屋(tailor)⑤農夫(ploughboy)⑥薬剤師(apothecary)⑦泥棒(thief)、の7人です。

ここで、クィーンの歌詞にもある "apothecary"(薬剤師、薬屋)が登場するのが少々唐突な感じがします。画面の右上(走っている泥棒の左上)で大きな乳鉢と乳棒で薬を調合しているのがそうです(下図)。ダッドの絵を所蔵しているテート・ブリテンの公式サイトの解説を見ると「リチャード・ダッドの父親は薬剤師で、絵の中の薬剤師は父親の肖像」だとしています。ということは、この7つのキャラクターの部分は画家の "子供時代の思い出" なのでしょう。

ちなみにリチャード・ダッドの父親については、専門家の次のような記述があります。
パトリシア・オルダリッジは「ベスレム病院記録保管官、兼 博物館長」で、リチャード・ダッド研究の第一人者です。この文章を読むと、リチャード・ダッドの父親は "有能な(good)薬剤師" であるとともに "人柄のよい(good)名士" だったようです。クィーンの歌詞に "good apothecary-man" とあるのはその通りです。
妖精以外に目を向けてみると、特に目立つのはあちこちにちりばめられたデイジー(ひな菊)と、樵の足元に散らばるヘーゼルナッツです。樵はこのヘーゼルナッツを順に斧で割るつもりなのでしょう。牧草らしきものもあちこちに描かれています。


画面の左下に明るい茶色の部分がありますが、ここはカンバスに下塗りだけがされていて、未完です。主にヘーゼルナッツのデッサンがされています。

さらに重要な未完部分があります。樵の斧です。完成作だと、この両刃の斧は金属色に塗られるはずですが、そうはなっていない。塗り残されています。おそらく画家は、最後の最後に斧を完成させるつもりだったのでしょう。

Fairy Feller's Master-Stroke
「Fairy Feller's Master-Stroke」の細部を順に眺めてみて思うのは、実に様々なキャラクターが描き込まれていることです。妖精の一群とは言いながら人に近いものもあれば、異形の者もいます。極端にはトンボ(+バッタ ?)の妖精(?)までいる。ヘーゼルナッツやデイジーとの比較で妖精が全体的に "小さめ" なのは分かるが、そのサイズ感はさまざまです。極大がトンボで、マブの女王の一行は判別しづらい小ささです。
いかにも "妖精らしい" 羽をつけたものもいるが、そうでないものも多い。服装も中世風から近代風までまちまちで、身分は農民・馬丁から王・王妃までに渡っています。シェイクスピアが原点なのだろうけど、ギリシャ神話や民間伝承、童謡までが入り込んでいて、スペイン風もあれば中国風もあります。さらに画家の父親(薬剤師)の肖像と自画像(=仮説)まである。
さらに多様なのが、「樵がヘーゼルナッツの実を一撃で割る」という深夜のこのイベントに集まった妖精たちの "態度" です。その瞬間を見逃すまいとじっと見つめるものもいれば(馬丁)、単に見学しているものもいる。無関心であったり、別行動の妖精もいます(覗き見や楽器演奏)。
以上のような多彩さこそが、画家が意図したことなのでしょう。つまり "世界は見たそのままのモノだけで出来ているのではない" のであり、"想像力がなければ見逃してしまう様々なモノに満ちている" というメッセージです。
そして、あらためて全体を俯瞰して思うのは、その "種々雑多感" です。"ごった煮" というか "秩序のなさ"、"乱雑さ" が際だっています。多様性を通り越した、混沌とした世界が描かれている。それが "見たそのままではない世界" なのでしょう。
その混沌の中に一つだけ混沌とは真逆のことが描かれています。樵がヘーゼルナッツの殻を斧の一撃で割るという、この絵のタイトルになっている行為です。これは成功するか、失敗するか、二つに一つです。そして成功すれば(ないしは、神技の樵なら間違いなく成功して)ヘーゼルナッツは生まれ変わり、マブの女王の車の材料(と妖精たちの食料)になる。その瞬間は、この絵の数秒後に訪れるはずです。1かゼロかの答えが明らかになる、明快で明瞭な世界です。曖昧なことは何もありません。
画家は「Fairy Feller's Master-Stroke」という絵で、世界のありようを表現したのだろうと思います。想像力がなければ見逃してしまうモノに溢れている世界、その世界における「混沌」の中の「明快」、あるいは「明快」を包み込んでしまう「混沌」です。
そして、後ろ向きになっている唯一のキャラクターが "樵" です。この樵は、テート・ギャラリーの動画解説にあったように画家自身の肖像かもしれないが、後ろ向きであるため絵を見る人が自分自身を投影できます。しかも斧は未完です。混沌とした世界に、どういう一撃を下すのか。その一撃で何を得るのか。それはこの絵を鑑賞する人にかかっています。そのことを暗黙に感じて、人はこの絵に引き込まれる。それがこの絵に仕組まれた「罠」(=作家のニール・ゲイマンの表現)だと思います。
絵画から音楽を作る
フレディ・マーキュリーがこのダッドの絵を見て感銘をうけて作った曲が「フェアリー・フェラーの神技」です。その歌詞を再度、引用します。
始めと終わりで、この絵の "全体状況" が歌われます。最初の方に「新月が輝く真夜中」とあります。新月(new moon)と言うと日本語では月が見えない状態ですが、英語の new moon は新月のあとの三日月程度までも指すようなので、そういった月が輝いている夜でしょう。ダッドの絵には明らかに影が描かれていて、何らかの月明かりがあります。その深夜に、樵が神技を披露するイベントを見ようと妖精たちが集まった ・・・・・・。そして歌詞の最後の部分では、樵の右側でじっと見守っている馬丁が登場し、"さあ、割ってください" となります。
しかし曲の中心は、始めと終わりの間の "妖精たち" を歌った部分です。そこにはダッドの絵に描かれている妖精が、全部ではないが数多くランダムに登場します。その合間に「いやらしいやつ」とか「僕のヒーロー」とか「何て変なやつ」といった、"感想" が挟み込まれる。ストーリーはなく、ダッドの絵をそのまま持ち込んだような「混沌」とした歌詞です。
そして全体に言えることは、この曲はダッドの絵をそのままダイレクトにロック音楽にしたものだということです。そしてこのような曲を作りたいと思うほどに、フレディはテート・ギャラリーのダッドの絵を見て感じ入るものがあった。
フレディは絵の何に感銘を受けたのでしょうか。その、あまりにも混沌とした世界でしょうか。特にダッドの絵を全く知らないで曲を聴くと、脈絡なく単語が出てくる錯綜した(良く言えば幻想的な)歌詞だと思えるでしょう。内容は全く違いますが、この曲の1年後に作られた "Bohemian Rhapsody(1975)" の "混沌とした歌詞" が思い起こされます。
ないしは、「混沌とした世界」である一方、樵の一撃という「はっきりとして明快な回答」が同居しているという、この絵の中心的なコンセプトなのでしょうか。
あるいは、全く別の観点で、妄想に取り憑かれ精神を病んでいるにもかかわらず、なおかつ精神病院でこのような "世界を俯瞰する芸術作品" を描ける画家の(人間の)創造力の偉大さなのでしょうか。
フレディが感銘を受けた理由は分かりませんが、意外と最後の点が当たっているのかもしれません。
このブログ記事の冒頭で、絵画からインスピレーションを得て(ないしは絵画をネタに)創作された音楽として、ドビュッシーの『海』をあげました。こういった "クロスオーバー" は意外とあって、有名なムソルグスキーの『展覧会の絵』がそうだし、ラフマニノフの『死の島』は、ベックリンの同名の絵に触発されたものです。ボッティチェリの『春』『ヴィーナスの誕生』『東方三博士の礼拝』をネタに作られたレスピーギの『ボッティチェリの3枚の絵』という作品もありました。リストのピアノ作品にもいくつかの "絵画ネタ" があります。
というように、クラシック音楽の世界ではこのタイプの音楽が意外とあるのですが、クィーンの『フェアリー・フェラーの神技』はロック音楽です。しかも絵の世界観を直接的に曲にしている。そこに、この曲の独特のポジションがあるのでした。
補足すると、ダッドの絵とクィーンの楽曲は「妖精」をめぐって展開しますが、英国は「妖精大国」なのですね。アーサー王の伝説から始まって、シェイクスピア、ピーターパン、指環物語、そしてハリーポッターまで、妖精が活躍します。そして「妖精画」という空想画が英国絵画史の大ジャンルであり、数々の「妖精画家」がいました。リチャード・ダッドが妖精を描いた作品は一部に過ぎませんが、伝統に吸い寄せられるかのように、代表作とされる絵が「妖精画」となった。そのダッドの絵に惹かれた英国のロックバンド、クィーンが楽曲を発表しても、それはごく自然だという感じがします。そういった英国の文化的伝統を感じるのが、2つの『フェアリー・フェラーの神技』なのでした。
絵画に影響を受けた映画もありました。リドリー・スコット監督の『グラディエーター』(No.203)や『ブレードランナー』(No.288)、アルフレッド・ヒチコック監督の『サイコ』(No.301)、黒澤明監督の『夢』(No.312)などです。映画は視覚芸術でもあり、絵画との相性は物語以上に良いはずです。スコット監督や黒澤監督は絵画の素養があるぐらいです。
こういった中に「絵画からインスピレーションを得た音楽」があります。過去に触れた例では、ドビュッシーの交響詩『海』です(No.156「世界で2番目に有名な絵」)。この曲は葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』に影響を受けたと言われています。スコアの初版本の表紙が『神奈川沖浪裏』だし、ドビュッシーの自宅書斎には『神奈川沖浪裏』が飾ってあったぐらいなので(No.156 参照)大いにありうるでしょう。もちろん根拠はないでしょうが、「北斎が波をあのように描いたのだから、自分は海を音楽で」と作曲家が考えたとしても不思議ではありません。
この「絵画からインスピレーションを得た音楽」の別の例を取り上げたいと思います。ロックバンド、クィーンの「フェアリー・フェラーの神技」(1974)です。この曲は、19世紀のイギリスの画家、リチャード・ダッドの『お伽の樵の入神の一撃』をもとにした曲です。題名は英語ではどちらも、
Fairy Feller's Master-Stroke
ですが、日本語訳がつけられた時期と訳者が違うために、違う名で呼ばれることになりました。fairy は妖精、feller は樵、master-stroke は神技という意味です。ダッドの絵は樵(=妖精)が斧の一撃(= stroke)で木の実を割ろうとしている姿を描いているので、直訳すると、
樵の妖精の神技 | |
樵の妖精の熟練の一撃 |
ほどの意味でしょう。まず、クィーンの曲の元となったリチャード・ダッドの絵からです。
お伽の樵の入神の一撃
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リチャード・ダッド(1817-86) 「お伽の樵の入神の一撃」(1855-64) [Fairy Feller's Master-Stroke] |
(54cm×39.4cm) テート・ブリテン [ロンドン] |
画面が多数の "人物" で埋め尽くされていますが、彼らはすべて妖精です。その中心は画面の真ん中の下方に描かれている樵の妖精で、彼が斧を振り上げ、地面に置かれた木の実(ヘーゼルナッツ = ハシバミの実)を割ろうとしている、その瞬間を妖精たちが待ちかまえている情景です。画面に多数描かれているヘーゼルナッツやデイジーとの比較で、妖精たちが "小さい" ことがわかります。
ある作家の文章を引用して、絵の全体を紹介することにします。実は、この絵をもとに英国の作家、マーク・チャドボーンが『フェアリー・フェラーの神技』という小説(2003年の英国幻想文学賞を受賞)を書いたのですが、その本に英国の作家、ニール・ゲイマンが序文を寄せています。その序文を引用します。漢数字を算用数字にし、段落増やしたところと、ルビを追加したところがあります。
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リチャード・ダッドは、25歳のときに欧州・中東旅行に出かけ(1842)、その旅の途中で精神を病み、帰国してから妄想にかられて父親を刺殺、フランスに逃亡し、居合わせた観光客を殺害しようとして逮捕されました。正常な状態ではないと判断されてイギリスに戻されたダッドは、王立ベスレム病院の精神病棟に収容されました(27歳)。20年後にブロードムア刑務所の病院に転院しましたが、68歳で結核で亡くなるまで、病院で生涯を過ごした画家です。
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リチャード・ダッド 「自画像」(1841) |
欧州・中東旅行で精神を病む前の、エッチングによる自画像である。「夢人館 8 リチャード・ダッド」(岩崎美術社 1993)より。 |
上の引用で作家のニール・ゲイマンは、自身の「ベスレム病院患者写真集」の書評を書いたときの経験と、テート・ギャラリーで『お伽の樵の入神の一撃』を初めて見た印象を重ね合わせて、「絵に描かれている禿頭の白髭の小人がダッド自身だ」としています。ダッドがこの絵を描いたのは40歳代(転院の直前まで)なので、もしそうだとすると、将来の自分の姿を予測して絵に描き込んだことになります。このゲイマンの見立てについては、後でもう一度ふれます。
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この絵の大きさは、わずか 54cm×39.4cm です。画像で見ると、びっしりと妖精の一群が描き込まれていて、とてもそんな大きさには見えないのですが、縦のサイズは 54cm しかないのです。
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著者は、テート・ギャラリーを訪れたなら是非この絵をじっくりと見て欲しいと言います。そして、じっくりと見るとあることに気づくはずだと ・・・・・・。
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そして著者は、リチャード・ダッドの画家としての生涯とこの絵の位置づけについて、次のように締めくくっています。
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リチャード・ダッドは、20歳で王立芸術院(Royal Academy of Arts)に入学しますが、仲間を集めて「ザ・クリーク(The Clique)」という画家グループを結成しました。これは「王立芸術院の伝統が時代の要求に即していない、芸術は大衆によって判断されるべき」と主張するものでした(Wikipedia による)。その後、彼が欧州・中東旅行に出かけたのは、ある英国の著名弁護士の旅行の同伴画家として白羽の矢が立ったからでした。その意味でリチャード・ダッドは気鋭の若手画家だったわけです。
しかし、ダッドの代表作とされる作品のほとんどは王立ベスレム病院で描かれ、その中でも「お伽の樵の入神の一撃」は傑作とされるものです。もしダッドが精神を病まなければ忘れ去られた画家になったでしょう。そうするとテート・ギャラリーに作品が展示されることもなく、フレディ・マーキュリーが感銘をうけて楽曲を作ることもなく、従って我々がリチャード・ダッドという画家を知ることも無かったに違いありません。
クィーン『フェアリー・フェラーの神技』
クィーンの『フェアリー・フェラーの神技』は、2作目のアルバム "クィーン Ⅱ"(1974)に収められた曲です。ドラムスとハープシコードとピアノが規則正しく音を刻んで始まるこの曲は、3分に満たない長さですが、ダッドの絵の世界の全体がダイレクトに歌われてます。歌詞は次のようです。
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従って、クィーンの歌詞の内容を把握するためには、ダッドの絵に何が描かれているかを知る必要があります。それを次節に書きます。
ちなみに、歌詞には意味不明の単語が2つあります。一つは「Politician with senatorial pipe」の "senatorial" です。これは「上院の」とか「上院議員の」とか「上院議員にふさわしい」という意味ですが、英国の上院は貴族院(House of Lords)なので、上の試訳ではとりあえず "貴族の" としておきました。しかし "貴族のパイプ" では意味不明です。"senatorial pipe" はダッドの自作解説詩に出てきますが、おそらく19世紀にはその意味するところが明瞭だったのでしょう。ダッドの絵にはその「パイプをくわえた政治家」が出てきます(後述)。
もう一つは、2回出てくる "What a quaere fellow" の "quaere" で、これはダッドの自作解説詩に出てくる語ではなく、フレディー独自の表現です。しかし "quaere" という語を辞書で引いてもラテン語とあって、意味がとれません。この語について、ユニバーサル・ミュージックの海外音楽情報サイト、udiscovermusic.jp には次のような解説があります。
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「一部の人々が想像するような」というのは、quaere = queer と考え、queer は「不思議な、奇妙な」という意味に加えて性的マイノリティも指すので、「あからさまな意味 = ゲイ」ということでしょう。しかし、上の引用にあるように「奇妙なやつら」「ヘンなやつら」が妥当であり、歌詞全体を眺めればそれが正しい受け取り方です。フレディの歌詞には時として造語が出てくるので、これもそうでしょう。試訳では「何て変なやつらだ」としておきました。
何が描かれているか
クィーンの歌詞の意味を探るため、ダッドの絵に何が描かれているのかを見ていきます。
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リチャード・ダッド(1817-86) 「お伽の樵の入神の一撃」(1855-64) [Fairy Feller's Master-Stroke] |
(54cm×39.4cm) テート・ブリテン [ロンドン] |
まず、この絵の発想の原点はシェイクスピアにあります。クィーンの歌詞に「マブは女王」とありますが、これはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に出てきます。第1幕 第4場のロミオたちが仮面舞踏会に行く場面、ロミオの "昨晩、夢をみた" から始まる夢談義の中で、マキューシオがロミオに言う台詞がそれです。以下にその部分を引用しますが、原文にはない段落を追加しました。
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妖精の女王・マブは車に乗って夜毎現れ、夢を見させる。車の車体はヘーゼルナッツの殻で出来ている ・・・・・・。『ロミオとジュリエット』のこの部分から発想し、マブの女王のための "車体材料" を樵の妖精が作ろうとしていて、そのイベントに妖精たちが集まった光景を描いたのがダッドの絵です。
さらにクィーンの歌詞に「オベロンとティターニア」とあります。言うまでもなく、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に出てくる妖精の王と妖精の女王です。これはダッドの絵にも描き込まれていて、そうすることで "シェイクスピアを踏まえた" ことを明確にしているのです。
しかし "シェイクスピアを踏まえた" のは、この絵のほんの発端に過ぎません。ほとんどの事物は画家独自のイマジネーションで描かれています。そのところを順に見ていきます。
以下の解説は、電子図書館 JSTOR(ジェイストア=Journal Storageの略。www.jstor.org)に掲載されている絵の説明に従いました。この説明もダッドの "自作解説詩" を踏まえたもので、以下に見出しとしてあげた「キャラクターを表す語」はすべて "自作解説詩" に現れるものです。
樵の妖精(Fairy Feller) |
樵の妖精は帽子をかぶり、茶色の革製のコートとズボンを身につけ、両手で斧を振り上げて、地面に立てたヘーゼルナッツに一撃をくわえようとしています。向こう向きなので表情はうかがい知れません。下の2つ目の図に、彼が割ろうとしているヘーゼルナッツの拡大図と、実物の写真をあげました。


テート・ギャラリーは "TateShots" と題する美術館の解説動画を YouTube で多数公開しています。その中の "Richard Dadd, The Artist and the Asylum"(2012.2.9。"リチャード・ダッド、芸術家と収容所")でこの絵が取り上げられていて、美術史家のニコラス・トローマンス(Nicholas Tromans)が次のように解説していました。
The main figure is the Feller himself who looks a little bit perhaps like Richard Dadd, raising an axe with which he is about to split this hazelnut to make a new carriage for the queen of the fairies, Queen Mab
【試訳】 この絵の中心人物は樵その人です。彼は少々リチャード・ダッドに似ているようにも見えます。斧を振り上げ、妖精の女王、クィーン・マブの新しい車を作るため、今まさにヘーゼルナッツを割ろうとしています。
【試訳】 この絵の中心人物は樵その人です。彼は少々リチャード・ダッドに似ているようにも見えます。斧を振り上げ、妖精の女王、クィーン・マブの新しい車を作るため、今まさにヘーゼルナッツを割ろうとしています。
Nicolas Tromans (Art Historian)
"looks ... like Richard Dadd" というのは、樵の後ろ姿の様子がリチャード・ダッドに似ているということでしょう。
馬丁(Ostler) |
樵の妖精の右側です。妖精宿の馬丁(馬の世話人)が膝に両手をつき、一心不乱に樵を見つめています。ヘーゼルナッツの殻が割れる瞬間を見逃すまいとしているようです。

修道士(Monk) |
馬丁の後ろに、少々分かりにくいのですが修道士がいます。頭頂部を剃り、髪をリング状に残した "トンスラ" の髪型をしています。腕を組んでいる姿です。

農夫と御者のウィル(Ploughman, Waggoner Will) |
修道士の右と上に、農夫(右)と荷馬車の御者のウィル(上)がいます。ウィルは今夜のイベントには無関心なようです。

遊び人(Men-about-Town) |
これは、画面の右端にいる2人の男の妖精を指します。羽がついた立派な帽子をかぶり、中世風の昔の服を着ています。一人は楽器を弾いています。

男女の小人(Female and Male Dwarf) |
樵の左に、緑のドレスを着た女と赤い帽子の男の小人がいます。男は祈祷師です。右手を差し出していますが、木の実が割れるかどうかの賭を仕切っています。

田舎の恋人たち(Rustic Lovers) |
画面の左端の男女の妖精は恋人同士です。男は皮革業者(tanner)、女は乳搾り(dairymaid)で、男は女に寄りかかっています。

2人のメイド(Two Ladies' Maids) |
左端の少し上に2人のメイドがいます。左側のメイドは左手に箒を持ち、右手にスズメガ(hawkmoth)をとまらせています。妖精は小さいので、蛾は肘まである大きさです。一方、右側のメイドは右手に鏡を持っていますが、その右下の地面を見ると、サテュルスがスカートの下から覗いています(拡大図)。サテュルスはギリシャ神話の半人半獣神で、好色とされています。


教師(Pedagogue) |
メイドの右側に、禿頭で白髭の教師がいます。彼はかがむように座っていて、手を膝にあてています。

上に引用したように、ニール・ゲイマンはこの老人がダッドの(将来の)自画像に違いない、としています。数少ない正面を向いた妖精ですが(だだし横目で樵を見ている)、何となく不安げな感じで、教師という名ではあるが、人を導くキャラクターのようには見えません。しかし、この絵の中では最も現実感があるキャラクターに見えます。自画像説もありうるかも、と思います。
洒落男とニンフ(Dandy and Nymph) |
教師の後ろに、洒落男の妖精とニンフがいます。洒落男はニンフに言い寄っています。

政治家(Politician) |
さらにその右側に、赤い服をきた政治家がいます。彼はパイプをくわえています。ダッドの自作解説詩ではこのパイプを "senatorial pipe" としています。直訳すると "上院議員のパイプ" です。拡大図を見ると、ちょっと変わった形のパイプのようです。


いなか者(Clodhopper) |
政治家の右に、立派な靴を履いた "いなか者" がいます。彼はサテュルスのような頭部です。Clodhopper とは泥道でも大丈夫な丈夫な靴で(clod = 土の塊)、そういう靴を履いている人をも指します。

2人のエルフ(Two Elves) |
洒落男とニンフの上に、聞き耳を立てている2人の妖精が小さく描かれています。エルフ(elf)はゲルマン神話・北欧神話に起源をもつ妖精です。

大魔術師(Arch Magician) |
政治家の上に大魔術師がいます。白い髭で、3層の金の王冠をかぶり、左手を横に伸ばしています。彼がこの場を仕切っていて、樵が一撃を加える合図を送ろうとしています。

マブの女王と踊り子(Queen Mab and Dancers) |
大魔術師の3層の王冠の左と右にマブの女王の一行が描かれています。左はマブの女王の部分で、拡大図の車輪の上に女王の顔が見えます。全体の詳細は小さすぎて判別し難いのですが、このあたりは『ロミオとジュリエット』の記述を踏まえていると考えられます。大魔術師の王冠の右側には、スペイン風の衣装の踊り子たちが描かれています。



オベロンとティターニア(Oberon and Titania) |
大魔術師のすぐ上に「真夏の夜の夢」の妖精の王と王妃、オベロンとティターニアがいます。ともに王冠をかぶり、正装しています。三角帽をかぶった赤い服の老女が見張っています。

トランペット吹き(Trumpeters) |
全体画面の左上にトランペット吹きがいます。2人(下図の中央付近)と、トンボ(下図の右上)のトランペット吹きです。トンボはバッタとも似た格好をしています。トンボの下には中国風の帽子の妖精が小さく描かれています。

なお、クィーンの歌詞に「Tatterdemalion and a junketer」とあります(試訳:ボロを着た者、この宴を楽しむ者)。ダッドの "自作解説詩" では、これはトランペットを吹いている2人(上図中央付近)のことだとしています。言葉の意味は、
person in tattered clothing。ボロボロの(裂けた)服を着た者 | |
person who goes on junkets, feasts, and excursions for pleasure。物見遊山や宴会、遠出で楽しむ者 |
ですが、上の画像を見てもボロを着ているようには見えないし、トランペットに夢中でヘーゼルナッツを一撃で割るイベントを楽しんでいるようでもありません。これは画家・ダッドの反語なのかもしれません。
兵士、水夫、鋳掛屋、仕立屋(Soldier, Sailor, Tinker, Tailor) |
画面の上端のトランペット吹きの右側に何人かの妖精がいますが、これはマザーグースを踏まえています。
Tinker, Tailor,
Soldier, Sailor,
Rich Man, Poor Man,
Beggar Man, Thief.
Soldier, Sailor,
Rich Man, Poor Man,
Beggar Man, Thief.
という、いわゆる "数え唄" です。ただし、ダッドの絵では登場キャラクターが少し違い、左から右へ順に、①兵士(soldier)②水夫(sailor)③鋳掛屋(tinker)④仕立屋(tailor)⑤農夫(ploughboy)⑥薬剤師(apothecary)⑦泥棒(thief)、の7人です。

ここで、クィーンの歌詞にもある "apothecary"(薬剤師、薬屋)が登場するのが少々唐突な感じがします。画面の右上(走っている泥棒の左上)で大きな乳鉢と乳棒で薬を調合しているのがそうです(下図)。ダッドの絵を所蔵しているテート・ブリテンの公式サイトの解説を見ると「リチャード・ダッドの父親は薬剤師で、絵の中の薬剤師は父親の肖像」だとしています。ということは、この7つのキャラクターの部分は画家の "子供時代の思い出" なのでしょう。

ちなみにリチャード・ダッドの父親については、専門家の次のような記述があります。
|
パトリシア・オルダリッジは「ベスレム病院記録保管官、兼 博物館長」で、リチャード・ダッド研究の第一人者です。この文章を読むと、リチャード・ダッドの父親は "有能な(good)薬剤師" であるとともに "人柄のよい(good)名士" だったようです。クィーンの歌詞に "good apothecary-man" とあるのはその通りです。
デイジーとヘーゼルナッツ(Daisies and Hazelnuts) |
妖精以外に目を向けてみると、特に目立つのはあちこちにちりばめられたデイジー(ひな菊)と、樵の足元に散らばるヘーゼルナッツです。樵はこのヘーゼルナッツを順に斧で割るつもりなのでしょう。牧草らしきものもあちこちに描かれています。


未完 |
画面の左下に明るい茶色の部分がありますが、ここはカンバスに下塗りだけがされていて、未完です。主にヘーゼルナッツのデッサンがされています。

さらに重要な未完部分があります。樵の斧です。完成作だと、この両刃の斧は金属色に塗られるはずですが、そうはなっていない。塗り残されています。おそらく画家は、最後の最後に斧を完成させるつもりだったのでしょう。

Fairy Feller's Master-Stroke
「Fairy Feller's Master-Stroke」の細部を順に眺めてみて思うのは、実に様々なキャラクターが描き込まれていることです。妖精の一群とは言いながら人に近いものもあれば、異形の者もいます。極端にはトンボ(+バッタ ?)の妖精(?)までいる。ヘーゼルナッツやデイジーとの比較で妖精が全体的に "小さめ" なのは分かるが、そのサイズ感はさまざまです。極大がトンボで、マブの女王の一行は判別しづらい小ささです。
いかにも "妖精らしい" 羽をつけたものもいるが、そうでないものも多い。服装も中世風から近代風までまちまちで、身分は農民・馬丁から王・王妃までに渡っています。シェイクスピアが原点なのだろうけど、ギリシャ神話や民間伝承、童謡までが入り込んでいて、スペイン風もあれば中国風もあります。さらに画家の父親(薬剤師)の肖像と自画像(=仮説)まである。
さらに多様なのが、「樵がヘーゼルナッツの実を一撃で割る」という深夜のこのイベントに集まった妖精たちの "態度" です。その瞬間を見逃すまいとじっと見つめるものもいれば(馬丁)、単に見学しているものもいる。無関心であったり、別行動の妖精もいます(覗き見や楽器演奏)。
以上のような多彩さこそが、画家が意図したことなのでしょう。つまり "世界は見たそのままのモノだけで出来ているのではない" のであり、"想像力がなければ見逃してしまう様々なモノに満ちている" というメッセージです。
そして、あらためて全体を俯瞰して思うのは、その "種々雑多感" です。"ごった煮" というか "秩序のなさ"、"乱雑さ" が際だっています。多様性を通り越した、混沌とした世界が描かれている。それが "見たそのままではない世界" なのでしょう。
その混沌の中に一つだけ混沌とは真逆のことが描かれています。樵がヘーゼルナッツの殻を斧の一撃で割るという、この絵のタイトルになっている行為です。これは成功するか、失敗するか、二つに一つです。そして成功すれば(ないしは、神技の樵なら間違いなく成功して)ヘーゼルナッツは生まれ変わり、マブの女王の車の材料(と妖精たちの食料)になる。その瞬間は、この絵の数秒後に訪れるはずです。1かゼロかの答えが明らかになる、明快で明瞭な世界です。曖昧なことは何もありません。
画家は「Fairy Feller's Master-Stroke」という絵で、世界のありようを表現したのだろうと思います。想像力がなければ見逃してしまうモノに溢れている世界、その世界における「混沌」の中の「明快」、あるいは「明快」を包み込んでしまう「混沌」です。
そして、後ろ向きになっている唯一のキャラクターが "樵" です。この樵は、テート・ギャラリーの動画解説にあったように画家自身の肖像かもしれないが、後ろ向きであるため絵を見る人が自分自身を投影できます。しかも斧は未完です。混沌とした世界に、どういう一撃を下すのか。その一撃で何を得るのか。それはこの絵を鑑賞する人にかかっています。そのことを暗黙に感じて、人はこの絵に引き込まれる。それがこの絵に仕組まれた「罠」(=作家のニール・ゲイマンの表現)だと思います。
絵画から音楽を作る
フレディ・マーキュリーがこのダッドの絵を見て感銘をうけて作った曲が「フェアリー・フェラーの神技」です。その歌詞を再度、引用します。
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始めと終わりで、この絵の "全体状況" が歌われます。最初の方に「新月が輝く真夜中」とあります。新月(new moon)と言うと日本語では月が見えない状態ですが、英語の new moon は新月のあとの三日月程度までも指すようなので、そういった月が輝いている夜でしょう。ダッドの絵には明らかに影が描かれていて、何らかの月明かりがあります。その深夜に、樵が神技を披露するイベントを見ようと妖精たちが集まった ・・・・・・。そして歌詞の最後の部分では、樵の右側でじっと見守っている馬丁が登場し、"さあ、割ってください" となります。
しかし曲の中心は、始めと終わりの間の "妖精たち" を歌った部分です。そこにはダッドの絵に描かれている妖精が、全部ではないが数多くランダムに登場します。その合間に「いやらしいやつ」とか「僕のヒーロー」とか「何て変なやつ」といった、"感想" が挟み込まれる。ストーリーはなく、ダッドの絵をそのまま持ち込んだような「混沌」とした歌詞です。
そして全体に言えることは、この曲はダッドの絵をそのままダイレクトにロック音楽にしたものだということです。そしてこのような曲を作りたいと思うほどに、フレディはテート・ギャラリーのダッドの絵を見て感じ入るものがあった。
フレディは絵の何に感銘を受けたのでしょうか。その、あまりにも混沌とした世界でしょうか。特にダッドの絵を全く知らないで曲を聴くと、脈絡なく単語が出てくる錯綜した(良く言えば幻想的な)歌詞だと思えるでしょう。内容は全く違いますが、この曲の1年後に作られた "Bohemian Rhapsody(1975)" の "混沌とした歌詞" が思い起こされます。
ないしは、「混沌とした世界」である一方、樵の一撃という「はっきりとして明快な回答」が同居しているという、この絵の中心的なコンセプトなのでしょうか。
あるいは、全く別の観点で、妄想に取り憑かれ精神を病んでいるにもかかわらず、なおかつ精神病院でこのような "世界を俯瞰する芸術作品" を描ける画家の(人間の)創造力の偉大さなのでしょうか。
フレディが感銘を受けた理由は分かりませんが、意外と最後の点が当たっているのかもしれません。
このブログ記事の冒頭で、絵画からインスピレーションを得て(ないしは絵画をネタに)創作された音楽として、ドビュッシーの『海』をあげました。こういった "クロスオーバー" は意外とあって、有名なムソルグスキーの『展覧会の絵』がそうだし、ラフマニノフの『死の島』は、ベックリンの同名の絵に触発されたものです。ボッティチェリの『春』『ヴィーナスの誕生』『東方三博士の礼拝』をネタに作られたレスピーギの『ボッティチェリの3枚の絵』という作品もありました。リストのピアノ作品にもいくつかの "絵画ネタ" があります。
というように、クラシック音楽の世界ではこのタイプの音楽が意外とあるのですが、クィーンの『フェアリー・フェラーの神技』はロック音楽です。しかも絵の世界観を直接的に曲にしている。そこに、この曲の独特のポジションがあるのでした。
補足すると、ダッドの絵とクィーンの楽曲は「妖精」をめぐって展開しますが、英国は「妖精大国」なのですね。アーサー王の伝説から始まって、シェイクスピア、ピーターパン、指環物語、そしてハリーポッターまで、妖精が活躍します。そして「妖精画」という空想画が英国絵画史の大ジャンルであり、数々の「妖精画家」がいました。リチャード・ダッドが妖精を描いた作品は一部に過ぎませんが、伝統に吸い寄せられるかのように、代表作とされる絵が「妖精画」となった。そのダッドの絵に惹かれた英国のロックバンド、クィーンが楽曲を発表しても、それはごく自然だという感じがします。そういった英国の文化的伝統を感じるのが、2つの『フェアリー・フェラーの神技』なのでした。
2021-08-21 09:45
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No.312 - ダブル・レインボー [アート]
先日、新聞を読んでいたらダブル・レインボー(二重の虹。二重虹)のことが出ていました。そして、以前にこのブログで引用した絵画を思い出しました。今回はそのことを書きます。
二重の虹
まず、ダブル・レインボーについて書かれた朝日新聞の記事を引用します。以降の引用において下線は原文にはありません。
ダブル・レインボーは私も2~3度、見たことがあります。最近では2年ほど前です。早朝、海岸の遊歩道を朝日を背に西に向かって歩いているときに、くっきりと見えました。雨上がりの、湿気のある空気がたちこめている雰囲気だったと記憶しています。
引用した記事には、ダブル・レインボーが見える条件として「豊富な水滴」「強い太陽光」とあります。確かにそうだと思いますが、私の感じではもう一つ条件があって、それは「暗い背景」だと思います。外側の副虹は内側の主虹に比べて輝度が随分低いわけです。記事にあるように、太陽光が水滴で2回反射するからです。従って、ダブル・レインボーの背景の空(や風景)は、できるだけ暗い方が虹が見えやすい。
私の経験した海岸の遊歩道でも、東の空は雲もなく明るいのに、虹が見える西の空は薄灰色の雲が立ちこめていました。黒雲だともっとはっきりと見えたのでしょう。普通の虹でも背景が重要だと思いますが、輝度が低いダブル・レインボー(の外側の虹)では一層重要である、そう思います。
ともかく、ダブル・レインボーは珍しい現象です。記事の見出しである「5分間の奇跡」の "奇跡" というのは少々言い過ぎだと思いますが、日常生活では滅多にお目にかかれない気象現象なのは確かでしょう。以下にダブル・レインボーが見える原理を示した図を引用しておきます。
このダブル・レインボーで思い出す芸術作品が、パリのオルセー美術館が所蔵しているミレーの『春』という作品です。
ジャン = フランソワ・ミレー
左上に虹が描かれています。うっかりすると見過ごしそうですが、この虹はダブル・レインボーです。
近景は畑でしょうか。小道があって木立があります。遠方には林が見える。画面の下や左の方は暗いが、近景の半分から向こうの林にまで光が当たっています。雨上がりの光景なのでしょう。遠方の空には、雨を降らせたと思われる黒雲が立ちこめ、空は暗い。その黒雲を背景に、かすかに副虹が見えるダブル・レインボーがかかっています。黒雲の薄暗さが虹を引き立てていて、この雰囲気はダブル・レインボーを実際に見た経験とも合っています。虹の位置関係からすると、背後から強い光があたっているはずです。それは夕日を思わせます。
この絵の題名は『春』なので、春の情景なのでしょう。だけど、何となく幻想的な雰囲気です。手前から遠方に「暗・明・暗」と変化していて、暗と明の世界の同居というか、2つの世界の狭間の光景のような感じがあります。
そして ・・・・・・。
よく見ると、奥の木立のそばに人物が描かれています。さらにもっとよく見ると、空には白い鳥が飛んでいる。これについて三菱一号館美術館の上席学芸員、安井裕雄氏が日本経済新聞にコラムを書いていました。
この絵には、うっかりすると見過ごしてしまいそうなアイテムが3つ描かれています。① ダブル・レインボー、② 人物、③ 鳥、の3つです。そして三菱一号館美術館 上席学芸員の安井氏によると、人物はミレーの腕の中で息を引き取ったテオドール・ルソーであり、鳥は天へと召されていくルソーの魂の象徴だというのです。テオドール・ルソーの没年は1867年です(55歳)。つまりこの絵はミレーが、亡くなったルソーの思い出を込めて描いたということになります。
とすると、これは少々複雑な絵です。バルビゾンのミレー家の裏の畑という現実の光景がベースなのだろうけれど、そこに幻想の光景が重ね合わされている。この複雑性が見る人の想像力を刺激するのでしょう。その刺激を受けた一人が黒澤明監督です。
黒澤 明
ミレーの『春』に触発された映画の一シーンがあります。黒澤明監督(1910-1998)の『夢』(1990)の一場面です。『夢』は8話からなるオムニバス映画で、その第1話が『日照り雨』です。その1シーンがこの映画のポスターになりました。
近景は美しい花畑で、遠くには暗い山と空、その間をつなぐようにかかる虹、そこに向かうように少年が立っています。このシーンがミレーの『春』へのオマージュです。その『日照り雨』は、次のような話です。
これを教訓話として考えると「人間は自然を乱すことなく、人間は自然界の掟に従って生きなければならない」ということでしょう。しかしそういう風に考えるよりも、これは黒澤監督の夢の実写化です。"不気味さ・怖さ" と "美しさ" が入り交じった幻想の世界と考えておけばよいのだと思います。
そこで、もう一度、ミレーの『春』をみると、手前は暗いがその向こうから林までに光が当たっています。まるでそのあたりがスポットライトに照らされているようです。これは虹の見える条件(=背後からの強い光)とはちょっと違う感じがする。
黒澤監督は、ミレーの『春』は現実の光景ではない、幻想の光景だと感じたのではないかと思います。『夢』は、黒澤監督が見た夢を映像化したものです。当然、現実そのものではないファンタジーの世界です。それがミレーの『春』とシンクロした。黒澤監督はもともと画家志望です。自作を展覧会に出品したこともあります。映画監督になってからも、絵コンテを自ら大量に描いたことで有名です。ミレーの絵が好きだったのかどうかは知りませんが、絵画から何かを感じることには長けていたと考えられます。
話を、ダブル・レインボーに戻します。しかしなぜ『春』に、滅多に見ることがないダブルレインボーが "微かに" 描かれているのでしょうか。黒澤明監督は "一重の普通の虹" で映像化しています。『春』も普通の虹でよいはずです。ここに描かれたダブル・レインボーも幻想の光景なのでしょうか。
しかし、これは現実の光景からヒントを得たのだと考えられます。つまり画家は、バルビゾンの自宅の裏庭から畑ごしにダブルレインボーを見たのだと推察します。というの、も『春』と構図がほぼ同じの『虹』という絵が残っているからです。
パステルで描かれたダブル・レインボー
その『春』とほぼ同じ構図のパステル画が、ポルトガルの首都・リスボンのグルベンキアン美術館にあります。No.192「グルベンキアン美術館」で引用しましたが、ここに再掲します。
この絵の題名は『虹』です。その題名どおり、ダブル・レインボーがくっきりと描かれている。これは実際に画家が自宅の裏の畑の方向を見た光景がもとになっていると考えられます。ミレーは、奇跡とは言わないまでも、滅多に出現しないダブル・レインボーを自宅から見て感じ入るところがあった。
このパステル画は、油彩画の『春』とほぼ同じ構図です。ただ、違いもあります。まず、奥の木立へと続く小道が描かれていません。また、空を飛ぶ白い鳥もいない。ただし、奥の木立のそばに小さく人物が描かれているところは共通しています。
ダブル・レインボーないしはもっと一般的に虹が、フランスでどういう象徴性で考えられているのかは知りません。しかし常識的に考えて悪い意味ではないと想像します。意味があるとしたら「幸運」とか「吉兆」でしょう。しかも滅多に見られないダブル・レインボーとなると、その象徴性が倍加されるはずです。
ミレーは珍しいダブル・レインボーを自宅の裏の畑から見て、亡くなったテオドール・ルソーの魂に重ね合わせたのではないでしょうか。だから奥の木立のそばにそっと人物(=ルソー)を描き込んだ。
画家が同じ構図のパステル画と油絵を制作するという場合、パステル画が先行すると考えるのが普通でしょう。パステル画を制作し、それをもとに油絵バージョンを描く。ミレーの『虹』と『春』の2作の場合もそうだったのではと想像します。
そして油絵にするとき、画家は2つのアイテムを追加した。一つは白い3羽の鳥で、これは天国に召されたルソーの魂です。そしてもう一つは、手前から人物のそばの木立へと続く小道です。この道はミレーとルソーの "絆" を象徴しているのではと思います。と同時に、ダブル・レインボーを画題の中心ではなく、構図の中に盛り込まれた1つの要素の位置づけにした。
オルセー美術館の公式サイトによると、この『春』は、テオドール・ルソーのパトロンだったフレデリック・アルトマンという人の依頼で制作された「四季、4部作」の一枚です(完成は1873年)。そして、『夏』『秋』『冬(未完)』の3作は "ミレーらしい" 農民の農作業が画題ですが、『春』だけは違っていて(一見すると)風景画です。しかしその「一見すると風景画」に秘密がある。
"春" は自然と生命が息を吹き返す時期であり、四季の始まりです。亡くなったテオドール・ルソーの思い出として描くには、"春" がピッタリだったのだと思います。
本文の冒頭に引用した朝日新聞のダブル・レインボーの写真は2021年4月8日のものでしたが、それから1ヶ月もたたない2021年5月2日の日本経済新聞(NIKKEI The STYLE)に虹の写真が掲載されました。「虹が立つ草原を行く」と題されたもので、タンザニアのセレンゲティ国立公園で撮影されたものです。草原を行く「ヌーの群れ」と「虹」のツーショット写真です。
この写真をよく見ると、実はうっすらと副虹が写っているのですね。ほんの微かですが ・・・・・・。つまり、ダブル・レインボーの写真ということになります。日経の読者の方も、気がつかなかった人が多いのではないでしょうか。
この写真でよく分かるのは「ダブル・レインボーは程度問題」ということです。くっきりと見える場合もあれば(=滅多にない)、全く見えないこともあり(=ほとんどの場合)、その間には無限の段階がある。我々も虹を見たとき、実は外側にある、ほんの微かな副虹を見逃していることがあるのではないでしょうか。そう感じさせるセレンゲティ国立公園の写真でした。
二重の虹
まず、ダブル・レインボーについて書かれた朝日新聞の記事を引用します。以降の引用において下線は原文にはありません。
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ダブル・レインボーは私も2~3度、見たことがあります。最近では2年ほど前です。早朝、海岸の遊歩道を朝日を背に西に向かって歩いているときに、くっきりと見えました。雨上がりの、湿気のある空気がたちこめている雰囲気だったと記憶しています。
引用した記事には、ダブル・レインボーが見える条件として「豊富な水滴」「強い太陽光」とあります。確かにそうだと思いますが、私の感じではもう一つ条件があって、それは「暗い背景」だと思います。外側の副虹は内側の主虹に比べて輝度が随分低いわけです。記事にあるように、太陽光が水滴で2回反射するからです。従って、ダブル・レインボーの背景の空(や風景)は、できるだけ暗い方が虹が見えやすい。
私の経験した海岸の遊歩道でも、東の空は雲もなく明るいのに、虹が見える西の空は薄灰色の雲が立ちこめていました。黒雲だともっとはっきりと見えたのでしょう。普通の虹でも背景が重要だと思いますが、輝度が低いダブル・レインボー(の外側の虹)では一層重要である、そう思います。
ともかく、ダブル・レインボーは珍しい現象です。記事の見出しである「5分間の奇跡」の "奇跡" というのは少々言い過ぎだと思いますが、日常生活では滅多にお目にかかれない気象現象なのは確かでしょう。以下にダブル・レインボーが見える原理を示した図を引用しておきます。
![]() |
ダブル・レインボーが見える原理 |
光の反射によってできる光線の角度は、主虹(1回反射)が約42度、2回反射した副虹は約51度で、副虹の方が角度が大きい。従って副虹が外側に見える。気象庁の荒木健太郎博士の Twitter より引用した。ちなみに荒木博士は新海誠監督の「天気の子」の気象監修をされた方である(No.271)。 |
このダブル・レインボーで思い出す芸術作品が、パリのオルセー美術館が所蔵しているミレーの『春』という作品です。
ジャン = フランソワ・ミレー
![]() |
ジャン = フランソワ・ミレー (1814-1875) 「春」(1868-73) |
オルセー美術館 (フランス、パリ) |
左上に虹が描かれています。うっかりすると見過ごしそうですが、この虹はダブル・レインボーです。
近景は畑でしょうか。小道があって木立があります。遠方には林が見える。画面の下や左の方は暗いが、近景の半分から向こうの林にまで光が当たっています。雨上がりの光景なのでしょう。遠方の空には、雨を降らせたと思われる黒雲が立ちこめ、空は暗い。その黒雲を背景に、かすかに副虹が見えるダブル・レインボーがかかっています。黒雲の薄暗さが虹を引き立てていて、この雰囲気はダブル・レインボーを実際に見た経験とも合っています。虹の位置関係からすると、背後から強い光があたっているはずです。それは夕日を思わせます。
この絵の題名は『春』なので、春の情景なのでしょう。だけど、何となく幻想的な雰囲気です。手前から遠方に「暗・明・暗」と変化していて、暗と明の世界の同居というか、2つの世界の狭間の光景のような感じがあります。
そして ・・・・・・。
よく見ると、奥の木立のそばに人物が描かれています。さらにもっとよく見ると、空には白い鳥が飛んでいる。これについて三菱一号館美術館の上席学芸員、安井裕雄氏が日本経済新聞にコラムを書いていました。
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この絵には、うっかりすると見過ごしてしまいそうなアイテムが3つ描かれています。① ダブル・レインボー、② 人物、③ 鳥、の3つです。そして三菱一号館美術館 上席学芸員の安井氏によると、人物はミレーの腕の中で息を引き取ったテオドール・ルソーであり、鳥は天へと召されていくルソーの魂の象徴だというのです。テオドール・ルソーの没年は1867年です(55歳)。つまりこの絵はミレーが、亡くなったルソーの思い出を込めて描いたということになります。
とすると、これは少々複雑な絵です。バルビゾンのミレー家の裏の畑という現実の光景がベースなのだろうけれど、そこに幻想の光景が重ね合わされている。この複雑性が見る人の想像力を刺激するのでしょう。その刺激を受けた一人が黒澤明監督です。
黒澤 明
ミレーの『春』に触発された映画の一シーンがあります。黒澤明監督(1910-1998)の『夢』(1990)の一場面です。『夢』は8話からなるオムニバス映画で、その第1話が『日照り雨』です。その1シーンがこの映画のポスターになりました。
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黒澤明監督作品 「夢」(1990) |
近景は美しい花畑で、遠くには暗い山と空、その間をつなぐようにかかる虹、そこに向かうように少年が立っています。このシーンがミレーの『春』へのオマージュです。その『日照り雨』は、次のような話です。
立派な門構えの家から少年が遊びに出ようとしたとき、太陽は出ているのに急に雨が降り出した。少年は母親から「こんな日照り雨の日には狐の嫁入りがある。狐はそれを見られるのが嫌だから、見てしまうと恐ろしいことが起こりますよ」と警告される。
余計に好奇心に駆られた少年は森に分け入り、狐の嫁入りを見てしまう。そして家に帰ったとき、門には母親が恐い顔をして立っていて、少年に短刀を差し出した ・・・・・・。
余計に好奇心に駆られた少年は森に分け入り、狐の嫁入りを見てしまう。そして家に帰ったとき、門には母親が恐い顔をして立っていて、少年に短刀を差し出した ・・・・・・。
これを教訓話として考えると「人間は自然を乱すことなく、人間は自然界の掟に従って生きなければならない」ということでしょう。しかしそういう風に考えるよりも、これは黒澤監督の夢の実写化です。"不気味さ・怖さ" と "美しさ" が入り交じった幻想の世界と考えておけばよいのだと思います。
そこで、もう一度、ミレーの『春』をみると、手前は暗いがその向こうから林までに光が当たっています。まるでそのあたりがスポットライトに照らされているようです。これは虹の見える条件(=背後からの強い光)とはちょっと違う感じがする。
黒澤監督は、ミレーの『春』は現実の光景ではない、幻想の光景だと感じたのではないかと思います。『夢』は、黒澤監督が見た夢を映像化したものです。当然、現実そのものではないファンタジーの世界です。それがミレーの『春』とシンクロした。黒澤監督はもともと画家志望です。自作を展覧会に出品したこともあります。映画監督になってからも、絵コンテを自ら大量に描いたことで有名です。ミレーの絵が好きだったのかどうかは知りませんが、絵画から何かを感じることには長けていたと考えられます。
余談ですが、絵画からインスピレーションを得た映画として、以前にリドリー・スコット監督の2作品を紹介しました。ジェロームの絵画『差し下おろされた親指』からヒントを得た映画『グラディエーター』(No.203)と、ホッパーの『ナイトホークス』に影響された『ブレードランナー』(No.288)です。黒澤監督とスコット監督は似ていて、2人とも画家としての素養があり、また自ら映画の絵コンテを作成しました。
話を、ダブル・レインボーに戻します。しかしなぜ『春』に、滅多に見ることがないダブルレインボーが "微かに" 描かれているのでしょうか。黒澤明監督は "一重の普通の虹" で映像化しています。『春』も普通の虹でよいはずです。ここに描かれたダブル・レインボーも幻想の光景なのでしょうか。
しかし、これは現実の光景からヒントを得たのだと考えられます。つまり画家は、バルビゾンの自宅の裏庭から畑ごしにダブルレインボーを見たのだと推察します。というの、も『春』と構図がほぼ同じの『虹』という絵が残っているからです。
パステルで描かれたダブル・レインボー
その『春』とほぼ同じ構図のパステル画が、ポルトガルの首都・リスボンのグルベンキアン美術館にあります。No.192「グルベンキアン美術館」で引用しましたが、ここに再掲します。
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ジャン = フランソワ・ミレー 「虹」(1872/73) |
グルベンキアン美術館 (ポルトガル、リスボン) |
この絵の題名は『虹』です。その題名どおり、ダブル・レインボーがくっきりと描かれている。これは実際に画家が自宅の裏の畑の方向を見た光景がもとになっていると考えられます。ミレーは、奇跡とは言わないまでも、滅多に出現しないダブル・レインボーを自宅から見て感じ入るところがあった。
このパステル画は、油彩画の『春』とほぼ同じ構図です。ただ、違いもあります。まず、奥の木立へと続く小道が描かれていません。また、空を飛ぶ白い鳥もいない。ただし、奥の木立のそばに小さく人物が描かれているところは共通しています。
ダブル・レインボーないしはもっと一般的に虹が、フランスでどういう象徴性で考えられているのかは知りません。しかし常識的に考えて悪い意味ではないと想像します。意味があるとしたら「幸運」とか「吉兆」でしょう。しかも滅多に見られないダブル・レインボーとなると、その象徴性が倍加されるはずです。
ミレーは珍しいダブル・レインボーを自宅の裏の畑から見て、亡くなったテオドール・ルソーの魂に重ね合わせたのではないでしょうか。だから奥の木立のそばにそっと人物(=ルソー)を描き込んだ。
画家が同じ構図のパステル画と油絵を制作するという場合、パステル画が先行すると考えるのが普通でしょう。パステル画を制作し、それをもとに油絵バージョンを描く。ミレーの『虹』と『春』の2作の場合もそうだったのではと想像します。
そして油絵にするとき、画家は2つのアイテムを追加した。一つは白い3羽の鳥で、これは天国に召されたルソーの魂です。そしてもう一つは、手前から人物のそばの木立へと続く小道です。この道はミレーとルソーの "絆" を象徴しているのではと思います。と同時に、ダブル・レインボーを画題の中心ではなく、構図の中に盛り込まれた1つの要素の位置づけにした。
オルセー美術館の公式サイトによると、この『春』は、テオドール・ルソーのパトロンだったフレデリック・アルトマンという人の依頼で制作された「四季、4部作」の一枚です(完成は1873年)。そして、『夏』『秋』『冬(未完)』の3作は "ミレーらしい" 農民の農作業が画題ですが、『春』だけは違っていて(一見すると)風景画です。しかしその「一見すると風景画」に秘密がある。
"春" は自然と生命が息を吹き返す時期であり、四季の始まりです。亡くなったテオドール・ルソーの思い出として描くには、"春" がピッタリだったのだと思います。
 補記:セレンゲティの虹  |
本文の冒頭に引用した朝日新聞のダブル・レインボーの写真は2021年4月8日のものでしたが、それから1ヶ月もたたない2021年5月2日の日本経済新聞(NIKKEI The STYLE)に虹の写真が掲載されました。「虹が立つ草原を行く」と題されたもので、タンザニアのセレンゲティ国立公園で撮影されたものです。草原を行く「ヌーの群れ」と「虹」のツーショット写真です。
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「虹がたつ草原を行く タンザニア」 |
(日本経済新聞 2021.5.2) |
この写真をよく見ると、実はうっすらと副虹が写っているのですね。ほんの微かですが ・・・・・・。つまり、ダブル・レインボーの写真ということになります。日経の読者の方も、気がつかなかった人が多いのではないでしょうか。
この写真でよく分かるのは「ダブル・レインボーは程度問題」ということです。くっきりと見える場合もあれば(=滅多にない)、全く見えないこともあり(=ほとんどの場合)、その間には無限の段階がある。我々も虹を見たとき、実は外側にある、ほんの微かな副虹を見逃していることがあるのではないでしょうか。そう感じさせるセレンゲティ国立公園の写真でした。
2021-05-29 11:43
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No.309 - 川合玉堂:荒波・早乙女・石楠花 [アート]
東京・広尾の山種美術館で「開館55周年記念特別展 川合玉堂 ── 山﨑種二が愛した日本画の巨匠」と題した展覧会が、2021年2月6日~4月4日の会期で開催されたので、行ってきました。
山種美術館の創立者の山﨑種二(1893-1983)は川合玉堂(1873-1957)と懇意で、この美術館は71点もの玉堂作品を所蔵しています。そういうわけで、広尾に移転(2009年)からも何回かの川合玉堂展が開催されましたが(2013年、2017年など)、今回は所蔵作品の展示でした。
このブログでは、過去に川合玉堂の作品を何点か引用しました。制作年順にあげると次のとおりです。
これらはいずれも補足的なトピックとしての玉堂作品でしたが、今回はメインテーマにします。とは言え、展示されていた作品は多数あり、この場で取り上げるにはセレクトする必要があります。今回は "玉堂作品としてはちょっと異質" という観点から、『荒海』『早乙女』『石楠花』の3作品のことを書きます。
荒海
この絵については、2021年3月2日の朝日新聞に紹介記事がありました。執筆は朝日新聞・文化くらし報道部の西田健作記者です。的確な内容だと思ったので、まずそれを引用します。
この文章を要約すると、以下のようになるでしょう。
玉堂は "何でも描ける画家" だと思うのですが、その中でも典型的な "玉堂スタイル" の絵というと「日本らしい、季節感あふれる自然や風景があり、その中に人物が点景として配置されている絵」です。その自然は山河であることが多く、また田園地帯のこともある。
しかしこの絵に人物はなく、さらに風景は海です。そこが "ちょっと異質" です。もちろんこれは、文部省戦時特別美術展に出品するという制約下で描かれたからです。特別美術展でこの絵を観た人は、おそらく全員が「岩 = 日本」と考えたはずです。
しかし、そうであっても "玉堂らしさ全開の絵" という印象を受けるのは、引用した記事にある通りです。朝日新聞の西田記者は同じ記事で、この絵の「見どころ」として次の3点をあげていました。
全体は黒(墨)と白(胡粉)の水墨画のような感じですが、淡い群青が使ってあります。群青=海、胡粉=波しぶきであり、その全体が各種の線で表現されています。ジグザク状の線で視線を誘導するダイナミックな構図と相まって、白い波しぶきが鑑賞者に迫ってくるような印象を受けます。海の群青が近くになるほど薄まって白一色になっていくのも、その印象を強めている。
この絵で玉堂は "海の波の5態" を描いたように見えます。遠景から近景までを順に書くと次のとおりです。
さきほど「鑑賞者に迫ってくるような」と書きましたが、このような荒海の水の5態を描き分けることで、数秒~十数秒程度の時間の経緯までが画面に凝縮されているかのようです。川合玉堂の透徹した眼、観察眼を感じさせる素晴らしい作品だと思います。
この『荒海』とほぼ同じ時期に、玉堂は全く違った画題と雰囲気をもつ絵を描いています。それが次の絵で、『荒海』と対比して鑑賞すると興味深い作品です。
早乙女
『荒海』が描かれて以降の玉堂の軌跡をたどると次のようです。
1944年(昭和19年。71歳)
1945年(昭和20年。72歳)
『早乙女』は、古里村白丸で描かれた絵です。この絵について、2013年6月30日のNHKの日曜美術館では「自宅が焼失して意気消沈した時期に描かれた」という意味の説明がありました。田植えの時期は地域によるとは思いますが、関東では5月から6月といったところです。まさにその時期の光景と考えてよいでしょう。
山を少し上ったところから水田を見下ろしたような構図です。画面のほどんどを水田が占め、右上には水路が流れていて舟が浮かんでいます。極めて単純化された画面の中で、5人の早乙女が田植えに勤しんでいる。その表情は楽しそうにも見えます。色数の少ない画面の中で、鮮やかな緑の"たらし込み" で描かれたあぜ道が印象的です。
戦時下の厳しい時期です。東京も大空襲で焼け野原になった年です。それでもこの絵の人々は、従来と変わらず田植えをしている。まさに、そこを描きたかったのだと思います。稲作は長期に渡る一連のプロセスで成立します。田起こし → 代掻き → 田植え → 雑草取り → 稲刈り → 脱穀 → 精米 と、半年以上にわたる作業が続きます。その他にも、あぜ道や水路の維持などが必要で、この絵はバックにあるそういった生活サイクルを暗示しています。
川合玉堂は(現)東京藝大の教授になり(1915年。大正4年。42歳)、文化勲章を受け(1940年。昭和15年。67歳)、皇后陛下の絵の指導までした人です。日本の画壇では、いわば "功成り名を遂げた" 日本画の大家です。その人が、72歳で自宅を完全に失ってしまった。さぞかし茫然とし、落胆したでしょう。
しかし疎開先の奥多摩の農民は、変わることなく日々の作業に勤しんでいる。玉堂は奥多摩で毎日、スケッチブックを持って散歩に出かけ、山道を歩き、野山や植物のスケッチを繰り返したと言います。そして帰ってきて画室で絵を描く。
この絵は "玉堂スタイル" からするとちょっと異質です。"玉堂スタイル" の多くの絵は、山河や農村、田園地帯の風景があり、そこで働く人々が点景として描かれています。田植えを描いた絵として静岡県立美術館が所蔵する『田植図』がありますが、この絵のような構図が典型でしょう。人物は風景の一部になっている。
しかし『早乙女』は働く人々がクローズアップされていて、田植えという「人の営み」が中心的な画題です。「人の営み」というと、玉堂が多数描いた『鵜飼』の絵を思い出しますが、それは故郷の岐阜の光景です。それに対し『早乙女』には、日本のどこにでもある「普通の人の普通の営み」が描かれている。
玉堂は『早乙女』の制作以降も、1957年(昭和32年)に83歳で亡くなるまで御岳に住んで描き続け、その創作意欲が衰えることありませんでした。玉堂は『早乙女』に描かれた農民の姿、毎年のサイクルでつつましく生きる人々の姿に、自らの画家としてのあるべき姿を重ね合わせたのだと思います。
石楠花
この絵が実際に経験した情景だとすると、山道を歩いていて、ふと石楠花が目に付く。それを凝視してから眼をそらすと、遠くに残雪をいだいた険しい連峰が見える。そういった光景でしょう。
この絵の特徴は、花卉図と山水図を合体させたような描き方にあります。題名にあるように近景に描かれた石楠花がメインのモチーフなのだろうけれど、中景の崖と木々から遠景の連峰までがちゃんと描き込まれています。このような構図は玉堂作品としては "ちょっと異質" だと思います。
この構図で直感的に思い浮かべるのが歌川広重です。広重の風景画には「近景の事物を大写しにし、そこから遠方を望む」という構図が多々あります。有名な作品で言うと「名所江戸百景」の『深川洲崎十万坪』(近景に鷹、遠景に深川の雪景色と筑波山を配した有名な絵)や、『亀戸梅屋敷』(ゴッホが模写した作品。近景に梅の古木が画面いっぱいにあり、その向こうに梅園が見える)があります。
この "広重好みの構図" をさらに絞り込んで「近景に花、遠景に山」という作品を選ぶと、例えば「名所江戸百景」の『隅田川 水神の森 真崎』です。この絵は近景に八重桜を配し、その向こうに水神の森から隅田川とその対岸の真崎地区を描き、遠景には筑波山という構図です。これによって遠近感が際だちます。八重桜は極端にクローズアップされ、幹、枝、花の全てがカットアウトされている。いかにも広重らしい描き方です。
これと玉堂の『石楠花』は、構図のコンセプトがそっくりです。もちろん玉堂が広重に影響されたかどうかは分かりません。しかし玉堂は過去からの日本の絵の伝統を熟知している画家です。無意識にせよ江戸後期の風景画を踏まえたということがありうるのではないか。我々は19世紀後半のフランス絵画を見て「これは浮世絵の影響だ」とか、よく言います(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)。だとしたら、ほかでもない日本の画家の絵を見て浮世絵の影響を感じるのは当然ではないかと思うのです。
当たり前ですが『石楠花』は広重と違ってリアルです。まるで山道を歩いていて、ふと立ち止まって見たシーンのようです。しかし考えてみると、人間の眼にこの絵のような光景は見えません。実際に現場に立ったとしたら、我々の眼は石楠花と連峰に交互にピントを合わせて見るしかない。このように近景と遠景の差を極端にとり、その両方をリアルに同一平面に描くのは、絵画ならではの表現です。展覧会にある幾多の玉堂の絵の中で、この絵の前に立つとその「絵画ならでは」にハッとさせられる。そう感じました。
山種美術館の創立者の山﨑種二(1893-1983)は川合玉堂(1873-1957)と懇意で、この美術館は71点もの玉堂作品を所蔵しています。そういうわけで、広尾に移転(2009年)からも何回かの川合玉堂展が開催されましたが(2013年、2017年など)、今回は所蔵作品の展示でした。
このブログでは、過去に川合玉堂の作品を何点か引用しました。制作年順にあげると次のとおりです。
『冬嶺孤鹿』(1898。25歳)
『吹雪』(1926。53歳)
『藤』(1929。56歳)
『鵜飼』(1931。58歳。東京藝術大学所蔵)
『吹雪』(1926。53歳)
『藤』(1929。56歳)
『鵜飼』(1931。58歳。東京藝術大学所蔵)
これらはいずれも補足的なトピックとしての玉堂作品でしたが、今回はメインテーマにします。とは言え、展示されていた作品は多数あり、この場で取り上げるにはセレクトする必要があります。今回は "玉堂作品としてはちょっと異質" という観点から、『荒海』『早乙女』『石楠花』の3作品のことを書きます。
荒海
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川合玉堂(1873-1957) 「荒海」(1944) |
85.8cm × 117.6cm (山種美術館) |
この絵については、2021年3月2日の朝日新聞に紹介記事がありました。執筆は朝日新聞・文化くらし報道部の西田健作記者です。的確な内容だと思ったので、まずそれを引用します。
美の履歴書 686 |
この文章を要約すると、以下のようになるでしょう。
この絵は1944年(昭和19年)の文部省戦時特別美術展に出品された。この美術展には「戦意の高揚に資する」という出品の条件がついていた。 | |
この絵も、難局(=荒波)に立ち向かい、微動だにしない日本(=磯の岩場)という象徴性があるのだろう。 | |
しかし玉堂は画題の制約条件に従いつつも、描きたいものを描いた。それは荒海の波そのものである。 | |
玉堂は実際の海を徹底的に観察して描いた。波は日本画の特徴である "線を駆使した表現" で描かれていて、そこには画家の "気合" が注入されているようだ。 |
玉堂は "何でも描ける画家" だと思うのですが、その中でも典型的な "玉堂スタイル" の絵というと「日本らしい、季節感あふれる自然や風景があり、その中に人物が点景として配置されている絵」です。その自然は山河であることが多く、また田園地帯のこともある。
しかしこの絵に人物はなく、さらに風景は海です。そこが "ちょっと異質" です。もちろんこれは、文部省戦時特別美術展に出品するという制約下で描かれたからです。特別美術展でこの絵を観た人は、おそらく全員が「岩 = 日本」と考えたはずです。
しかし、そうであっても "玉堂らしさ全開の絵" という印象を受けるのは、引用した記事にある通りです。朝日新聞の西田記者は同じ記事で、この絵の「見どころ」として次の3点をあげていました。
遠くの海ほど群青の色が濃くなっている。 | |
胡粉を使った手前のしぶきには薄墨で輪郭線が描かれている。 | |
波がぶつかる瞬間と、波が引いて水が流れ落ちる瞬間が同時に描かれているようにも見える。 |
全体は黒(墨)と白(胡粉)の水墨画のような感じですが、淡い群青が使ってあります。群青=海、胡粉=波しぶきであり、その全体が各種の線で表現されています。ジグザク状の線で視線を誘導するダイナミックな構図と相まって、白い波しぶきが鑑賞者に迫ってくるような印象を受けます。海の群青が近くになるほど薄まって白一色になっていくのも、その印象を強めている。
この絵で玉堂は "海の波の5態" を描いたように見えます。遠景から近景までを順に書くと次のとおりです。
海の波の一般的なかたちである遠方の波。静かな海だとほとんど波が立たないこともあるが、描かれているのは荒れた海であり、波も大きい。 | |
その波が陸地の浅瀬に近づくと、波頭が立ち上がる。 | |
波が磯の岩場にぶつかり、砕けて飛び散る。その水しぶきは離れて見ると霧のようにも見える。 | |
岩場からは、ぶつかった波の "残骸" がしたたり落ちる。 | |
さらに波頭は岩場を越えてくるが、それが引くときには寄せる波とぶつかって激しい水沫が立ち上がる。それは③の "霧" ではなく、あくまで "水のしぶき" として見える。 |
さきほど「鑑賞者に迫ってくるような」と書きましたが、このような荒海の水の5態を描き分けることで、数秒~十数秒程度の時間の経緯までが画面に凝縮されているかのようです。川合玉堂の透徹した眼、観察眼を感じさせる素晴らしい作品だと思います。
この『荒海』とほぼ同じ時期に、玉堂は全く違った画題と雰囲気をもつ絵を描いています。それが次の絵で、『荒海』と対比して鑑賞すると興味深い作品です。
早乙女
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川合玉堂 「早乙女」(1945) |
53.6cm × 87.1cm (山種美術館) |
『荒海』が描かれて以降の玉堂の軌跡をたどると次のようです。
1944年(昭和19年。71歳)
東京都下西多摩郡三田村御岳(現、青梅市御岳)に疎開。 | |
文部省戦時特別美術展に『荒海』を出品。 | |
下西多摩郡古里村白丸(現、奥多摩町白丸)に転居。 |
1945年(昭和20年。72歳)
東京都牛込区(現、新宿区)若宮町にあった自宅が空襲で焼失。 | |
敗戦。 | |
御岳に戻る。ここが終の住処となる。 |
『早乙女』は、古里村白丸で描かれた絵です。この絵について、2013年6月30日のNHKの日曜美術館では「自宅が焼失して意気消沈した時期に描かれた」という意味の説明がありました。田植えの時期は地域によるとは思いますが、関東では5月から6月といったところです。まさにその時期の光景と考えてよいでしょう。
山を少し上ったところから水田を見下ろしたような構図です。画面のほどんどを水田が占め、右上には水路が流れていて舟が浮かんでいます。極めて単純化された画面の中で、5人の早乙女が田植えに勤しんでいる。その表情は楽しそうにも見えます。色数の少ない画面の中で、鮮やかな緑の"たらし込み" で描かれたあぜ道が印象的です。
戦時下の厳しい時期です。東京も大空襲で焼け野原になった年です。それでもこの絵の人々は、従来と変わらず田植えをしている。まさに、そこを描きたかったのだと思います。稲作は長期に渡る一連のプロセスで成立します。田起こし → 代掻き → 田植え → 雑草取り → 稲刈り → 脱穀 → 精米 と、半年以上にわたる作業が続きます。その他にも、あぜ道や水路の維持などが必要で、この絵はバックにあるそういった生活サイクルを暗示しています。
川合玉堂は(現)東京藝大の教授になり(1915年。大正4年。42歳)、文化勲章を受け(1940年。昭和15年。67歳)、皇后陛下の絵の指導までした人です。日本の画壇では、いわば "功成り名を遂げた" 日本画の大家です。その人が、72歳で自宅を完全に失ってしまった。さぞかし茫然とし、落胆したでしょう。
しかし疎開先の奥多摩の農民は、変わることなく日々の作業に勤しんでいる。玉堂は奥多摩で毎日、スケッチブックを持って散歩に出かけ、山道を歩き、野山や植物のスケッチを繰り返したと言います。そして帰ってきて画室で絵を描く。
|
しかし『早乙女』は働く人々がクローズアップされていて、田植えという「人の営み」が中心的な画題です。「人の営み」というと、玉堂が多数描いた『鵜飼』の絵を思い出しますが、それは故郷の岐阜の光景です。それに対し『早乙女』には、日本のどこにでもある「普通の人の普通の営み」が描かれている。
玉堂は『早乙女』の制作以降も、1957年(昭和32年)に83歳で亡くなるまで御岳に住んで描き続け、その創作意欲が衰えることありませんでした。玉堂は『早乙女』に描かれた農民の姿、毎年のサイクルでつつましく生きる人々の姿に、自らの画家としてのあるべき姿を重ね合わせたのだと思います。
石楠花
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川合玉堂 「石楠花」(1930) |
72.0cm × 101.5cm (山種美術館) |
この絵が実際に経験した情景だとすると、山道を歩いていて、ふと石楠花が目に付く。それを凝視してから眼をそらすと、遠くに残雪をいだいた険しい連峰が見える。そういった光景でしょう。
この絵の特徴は、花卉図と山水図を合体させたような描き方にあります。題名にあるように近景に描かれた石楠花がメインのモチーフなのだろうけれど、中景の崖と木々から遠景の連峰までがちゃんと描き込まれています。このような構図は玉堂作品としては "ちょっと異質" だと思います。
この構図で直感的に思い浮かべるのが歌川広重です。広重の風景画には「近景の事物を大写しにし、そこから遠方を望む」という構図が多々あります。有名な作品で言うと「名所江戸百景」の『深川洲崎十万坪』(近景に鷹、遠景に深川の雪景色と筑波山を配した有名な絵)や、『亀戸梅屋敷』(ゴッホが模写した作品。近景に梅の古木が画面いっぱいにあり、その向こうに梅園が見える)があります。
|
これと玉堂の『石楠花』は、構図のコンセプトがそっくりです。もちろん玉堂が広重に影響されたかどうかは分かりません。しかし玉堂は過去からの日本の絵の伝統を熟知している画家です。無意識にせよ江戸後期の風景画を踏まえたということがありうるのではないか。我々は19世紀後半のフランス絵画を見て「これは浮世絵の影響だ」とか、よく言います(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)。だとしたら、ほかでもない日本の画家の絵を見て浮世絵の影響を感じるのは当然ではないかと思うのです。
当たり前ですが『石楠花』は広重と違ってリアルです。まるで山道を歩いていて、ふと立ち止まって見たシーンのようです。しかし考えてみると、人間の眼にこの絵のような光景は見えません。実際に現場に立ったとしたら、我々の眼は石楠花と連峰に交互にピントを合わせて見るしかない。このように近景と遠景の差を極端にとり、その両方をリアルに同一平面に描くのは、絵画ならではの表現です。展覧会にある幾多の玉堂の絵の中で、この絵の前に立つとその「絵画ならでは」にハッとさせられる。そう感じました。
2021-04-17 11:07
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No.305 - フリック・コレクション [アート]
過去の記事で、13の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名を冠した美術館です。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、ニューヨークにあるフリック・コレクションのことを書きます。
ニューヨーク
ニューヨークはパリと並ぶ美術館の集積都市です。海外の美術館めぐりをしたい人にとって、パリの次に行くべき都市はニューヨークでしょう。そのニューヨークの美術館めぐりをする人が、まず間違いなく訪れるのがメトロポリタン美術館とニューヨーク近代美術館(正式名称:The Museum of Modern Art : MoMA)だと思います。この2つの美術館を訪れることで、古今東西の多数の美術品やアートにふれることができます。
この2つの大美術館は、マンハッタンの5th アベニュー(南北の通り)に近接していますが(メトロポリタンは面している)、2つのちょうど中間点付近にあるのがフリック・コレクションです。フリックコレクションも 5th アベニューに面していて、MoMAやメトロポリタンから歩いて行こうと思えば可能な距離です(直線距離1キロ程度)。

邸宅美術館
フリック・コレクションは、鉄鋼業などに携わった実業家、ヘンリー・クレイ・フリック(1849-1919)の個人コレクションを自宅に展示したものです。つまり、ワシントン D.C.のフィリップス・コレクション(No.216)やミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(No.217)、ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館(No.263)と同様の「邸宅美術館」です。ただし"邸宅" といっても石造りの大規模かつ豪勢な建物であり、普通に想像する住居というイメージではありません。ここを訪問したなら、まず建築そのものや内部の装飾、調度品を鑑賞し、それと併せて美術品を見るというのが正しい態度でしょう。
コレクションを収集したヘンリー・フリックは1919年に亡くなりましたが、その後も親族よって拡張が続けられ、1935年から美術館として一般公開が始まりました。所蔵する絵画の約 1/3 はヘンリー・フリックの没後に購入されたものですが、著名作品のほどんどはヘンリー・フリック自身が購入したものです。
2010年、美術館は開館75周年を記念して紹介動画を作成しました。ナレーションは英語ですが、美術館の内部も撮影されていて、その様子がよく分かります。YouTube で見ることができます。
Introduction to The Frick Collection
https://www.youtube.com/watch?v=LEyC8g94MZE
この美術館は内部の撮影は禁止であり、かつ所蔵美術品は門外不出です。従って、現物を見るためにはここに行くしかないのですが、逆に言うと、お目当ての作品があったとして、それが貸し出しなどで不在ということはありません。フィラデルフィアのバーンズ・コレクションと同じで、これはメリットだと考えることもできるでしょう。
このコレクションは、ヨーロッパの19世紀以前の、特に "古典絵画" が主体です。絵画について、主な所蔵品の画家をあげると、
なとです。以降は、これらの所蔵絵画から上に画像を引用した2作品を紹介したいと思います。一つは宗教画で、ベッリーニの『荒野の聖フランチェスコ』、もう一つは3枚もある(!)フェルメールの中の1枚、『士官と笑う娘』です。まず『荒野の聖フランチェスコ』からです。
聖フランチェスコ
聖フランチェスコはカトリック教会における聖人の一人で、12~13世紀のイタリアの人です。数多の聖人の中でも最も人気が高く、よく知られた人でしょう。いや、世界のほとんど人がこの名前を知っているはずです。
というのも、アメリカのカリフォルニア州のサンフランシスコ(San Francisco)は、スペイン語で「聖フランチェスコ」の意味だからです。つまりフランチェスコはイタリア語ですが、スペイン語・ポルトガル語ではフランシスコです。なお、英語ではフランシス、フランス語ではフランソワ、ドイツ語ではフランツであり、現代の欧米人の男性名としてもよくあります。
2013年に即位したアルセンチン出身のローマ教皇・フランシスコの名前も、もちろん聖フランチェスコにちなんでいます。意外にもフランチェスコを名乗った教皇は初めてです。あまりにも有名な聖人の名前なので、それまでの教皇が名乗らなかったのかもしれません。聖フランチェスコは貧しい人々に寄り添う人だったので、教皇としてはそこが名前の意図なのでしょう。
なお、イタリア語の原音に近いのは「フランチェスコ」ですが、日本のカトリック教会では伝統的に「フランシスコ」と呼ぶ習わしです。日本と関係が深い聖フランシスコ・ザビエル(スペイン人、バスク出身)と関係しているのかもしれません。
聖フランチェスコの生涯
聖フランチェスコの生涯と、フリック・コレクションが所蔵する『荒野の聖フランチェスコ』については、中野京子さんの解説があるので、それを引用しましょう。
「小さき兄弟の会」(のちのフランシスコ会)をヴァチカンが公認したは異例だったと言います。当時の「放浪説教師」のほとんどは元司祭であり、説教に人気があったとしても "ヴァチカン批判勢力" で、カトリック教会とは無縁だとされていました。しかしフランチェスコは違いました。
聖フランチェスコはまた、数々の奇蹟のエピソードとともに語り継がれています。
聖フランチェスコは生前から神聖視され、現代までに美術作品、伝記、小説、映画と多岐にわたって取り上げられました。その聖フランチェスコを描いた絵画から2点を引用しておきます。
フランツ・リストが作曲したピアノ曲「伝説」の第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」は、上のフレスコ画に描かれた言い伝えにもとづいています。次の絵は、聖フランチェスコを多数描いたエル・グレコの作品です。
ベッリーニ:荒野の聖フランチェスコ
本題のフリック・コレクション所蔵のベッリーニ『荒野の聖フランチェスコ』です。絵の画像と中野さんの解説を引用します。
確かにこの絵には「神々しい光」はありません。ただし、左の方から何となく神秘的な光が聖フランチェスコとその周辺に当たっています。左上のオリーブの木の葉の描き方も、その光を示しているようです。また、聖フランチェスコのみならず、岩や植物、動物、空が細密にリアルに描かれています。聖フランチェスコの思想の中に「自然も兄弟」という考え方があったようですが、それを表しているのかもしれません。
ちなみに「トンスラ」というヘアスタイルは、上に引用したジョットとエル・グレコの作品でクリアに分かります。
おそらくこの絵は「すべての細部に意味がある」のでしょう。中野さんの解説はその一部だと想像されます。カトリックのフランチェスコ会の人ならば、この絵の説明を何10分とできるのでしょう。
キリスト教絵画が西欧の絵画の発展の原動力になったことは間違いないありません。それは文字の読めない人にキリスト教を教える重要なツールでもあった。西欧絵画を理解するためには、その背景にある宗教画を知っておいた方がよいわけです。
しかし非キリスト教である我々にとって、宗教画の理解はハードルが高いものです。よく、聖書(とギリシャ・ローマ神話)を知らないと西欧絵画は理解できないと言いますが、たとえ聖書を知っていたとしても分からない絵がいっぱいあります。典型的なのが「マグダラのマリア」関係の絵で、キリストと極めて近い人物であるにもかかわらず、往々にして聖書とは無関係なストーリーが図像化されます(No.118「マグダラのマリア」参照)。No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用したカニャッチの絵など、欧米に流布している "マグダラのマリア物語" を知らないと意味不明でしょう。カトリック教徒なら常識かも知れないけれど ・・・・・・。
さらなるハードルは「聖人」についての絵画です。これが意外に多い。キリストと同時代の聖人はともかく、古代ローマから中世に至る数々の聖人の図像化は、その聖人の事跡を全く知らないのでは意味がとれません。ちょうど『荒野の聖フランチェスコ』のようにです。
逆に言うと『荒野の聖フランチェスコ』が描かれた時代、一般の人で文字が読める人は少数だったことを思うと、この絵は聖フランチェスコの事跡(の一部)を説明するための絵と考えることができます。我々としても『荒野の聖フランチェスコ』という絵を知るなかで、「アッシジの聖フランチェスコ」を知り、西洋史の一端を理解すればいいのだと思います。
たとえば聖フランチェスコの思想は、小鳥や狼のみならず、あらゆる動植物も含めて、父なる神のもとの兄弟であるという考え(=万物兄弟の思想)だったようです。「小鳥に説教」も、奇蹟のエピソードというよりは万物兄弟の思想の現れなのでしょう。そういったことから、1980年に当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世はフランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定したといいます(Wikipediaによる)。つまり聖フランチェスコの(=フランシスコ会の)思想は、少々意外なことに我々が思う西洋の「神→人間→動物」という階層の考え方と違います。このような「学び」が、絵をきっかけにしてありうるのかなと思いました。
フェルメール:士官と笑う娘
寡作で有名なフェルメールの真筆とされる絵はわずか35点です(35の数え方は No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照。もちろん異説がある)。ほとんどは欧米の美術館に収蔵されていますが、複数のフェルメール作品をもつ美術館は次のとおりです。
別に「フェルメール作品の所有数が美術館のグレードを示す」わけではないのですが、このリストを見て分かることが2つあります、一つは「アメリカの美術館が健闘している」ことです。フェルメールの "母国" であるオランダの2つの美術館を別格として、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとルーブル美術館がアメリカの3つの美術館の後塵を拝している。これは、フェルメールが19世紀後半から評価されはじめ、その時期にアメリカの資本主義の発展が重なって富が集積するようになり、アメリカの富豪コレクターがフェルメールを買ったということでしょう。ボストンのガードナー夫人もその一人でした(絵は盗まれてしまいましたが ・・・・・・。No.263「イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館」参照)。
このリストから分かる2つ目ですが、「フリック・コレクションは個人コレクションであるにもかかわらずフェルメールの真筆を3作品も持っている」ことです。メトロポリタンやワシントン・ナショナル・ギャラリーにはアメリカの富豪美術コレクターが寄贈した作品がヤマのようにあって、美術館自体が "個人コレクションの複合体" という面があります。しかしフリック・コレクションは一人のコレクションなのです。そこは特筆すべきでしょう。そのフリック・コレクションにあるフェルメールは、
◆士官と笑う娘
◆中断されたレッスン
◆婦人と召使い
の3点ですが、この中の『士官と笑う娘』を取り上げます。『兵士と笑う娘』という日本語表記もありますが、フリック・コレクションの英語表記は "Officer" なので「士官」とします。
士官と娘と地図
この絵については、フランスの科学雑誌「Pour la Science」の副編集長、ロイク・マンジャンが書いた『科学でアートを見てみたら』(原書房 2019)に興味深い記述があったので、それに沿って紹介したいと思います。まず、この絵が描かれた当時のオランダの状況です。
フェルメールの絵によくある「左の窓から差し込む柔らかな光に包まれた室内」の情景です。手前に描かれた男性の表情はほとんで分かりません。ただ「赤い制服」「つば付きの大きな帽子(=高級なビーバー・ハット)」「黒い弾帯(ガンベルト)」といういでたちから、この男性は単なる兵士ではなく、それなりの地位の士官であることがわかります。この士官を大きく手前に描くことで、室内の奥行き感が強調されています。上の引用にあるように、士官は女性と "親密な会話" をしているのでしょう。
その会話相手の女性は笑顔を浮かべ、堂々と士官と会話をしています。口説かれて困っているとか、とまどっているとか、そいういう気配はなく、男と会話を楽しんでいる。何となく、しっかりしていて自立した女性という雰囲気であり、この雰囲気はフェメールが描いた女性像の中でも際だっているのではないでしょうか。
さらにこの絵にはもうひとつ、重要そうなアイテムが描かれています。後の壁にかかっている "意味ありげな" 地図です。
解説にあるように、この地図は通常の地図ではありません。上が北ではなく、ネーデルラントにとっての海の方向、つまり西です。これは引用にあるように「ネーデルラント連邦共和国が外海である北海を向いているのは、世界を征服した海洋民族にとって当然のこと」なのかもしれません。さらにもう一つ、陸が青く、海が茶色に塗られているのも通常の地図とは違います。
「平和の回復によって軍人の社会的立場が一変したことを暗示」とは抽象的な言い方ですが、分かりやすく言うと「軍人は戦争をするのではなく、女性を口説くようになった」ということでしょう。フリック・コレクションの公式カタログ(日本語版)には、この地図について次の主旨の説明がありました。
すべては推測ですが、こういった "謎" も、フェルメール作品が人々を引きつける要因になっているのでしょう。
ビーバー・ハット
「科学でアートを見てみたら」には、士官がかぶっている帽子に関する話がありました。絵の鑑賞とは直接関係がありませんが、興味深い話なので余談として引用します。
ビーバーは水中(=川)を活動する哺乳類なので、下毛は短い毛が密集していて防水性にも優れています。そのため、かつてのヨーロッパでは高級帽子の素材として有名だったようです。シルクハットは、現在は毛ばだてたシルクで作りますが、昔はビーバーの下毛で作られていました。
上の引用の中に『不思議の国のアリス』が出てきます。言葉遊びでキャラクターを作り出すのが得意なルイス・キャロルは、「帽子屋のように狂っている(as mad as a hatter)」という英語の慣用句から "Mad Hatter = 気狂い帽子屋" というキャラクターを作り出しました。そして慣用句においてなぜ hatter が mad なのかというと、一つの推測がビーバー・フェルトの加工をする人の「職業病」とも言える水銀中毒なのですね。マーチン・ガードナーの「The Annoted Alice」にも同じ推測が書かれていました。
ビーバーの下毛が帽子に最適だったために、ビーバーの乱獲を招いたわけです。ビーバーの生息域はヨーロッパと北米ですが、ヨーロッパのビーバーは19世紀に絶滅状態になりました。これはまずいということで近縁種の北米のビーバーを輸入して、現在では生息数がそれなりに増えつつあるそうです。
毛皮をとるために水生哺乳類が乱獲され、絶滅ないしは絶滅危惧種になるというのは、ラッコがそうです(No.126「捕食者なき世界(1)」参照)。人間のやることは昔から変わらないようです。
フェルメールの "テイスト"
話を『士官と笑う娘』に戻します。この絵が一つの典型なのですが、フェルメールの絵の題材は「何気ない日常の室内風景」が多いわけです。しかも男性と女性が談笑している(男が女を口説いている)この絵のように、いかにもありそうなシーンを描いている絵が多い。しかしそれでいて絵全体からは、
といった印象を受けます。つまり「チープな感じとは対極の印象」を受ける。フェルメールの絵からは、何やら教訓めいたしかけを感じることもあります。この絵もそうで、社会的地位の高い男に安易に気を許してはいけないという教訓絵かもしれない。しかし "チープな感じ" はしません。
この不思議な "感じ、"味わい"、"テイスト" はフェルメール独特のものであり、それは画面の構図、明暗のつけかた、光の描き方、顔料の使い方などのすべてからくるものなのでしょう。そこがフェルメールの人気の秘密だと思います。フリック・コレクションの『士官と笑う娘』もそれを体現しているのでした。
No. 95 | バーンズ・コレクション | 米:フィラデルフィア | |||
No.155 | コートールド・コレクション | 英:ロンドン | |||
No.157 | ノートン・サイモン美術館 | 米:カリフォルニア | |||
No.158 | クレラー・ミュラー美術館 | オランダ:オッテルロー | |||
No.167 | ティッセン・ボルネミッサ美術館 | スペイン:マドリード | |||
No.192 | グルベンキアン美術館 | ポルトガル:リスボン | |||
No.202 | ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 | オランダ:ロッテルダム | |||
No.216 | フィリップス・コレクション | 米:ワシントンDC | |||
No.217 | ポルディ・ペッツォーリ美術館 | イタリア:ミラノ | |||
No.242 | ホキ美術館 | 千葉市 | |||
No.263 | イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 | 米:ボストン | |||
No.279 | 笠間日動美術館 | 茨城県笠間市 | |||
No.303 | 松下美術館 | 鹿児島県霧島市 |
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名を冠した美術館です。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、ニューヨークにあるフリック・コレクションのことを書きます。
ニューヨーク
ニューヨークはパリと並ぶ美術館の集積都市です。海外の美術館めぐりをしたい人にとって、パリの次に行くべき都市はニューヨークでしょう。そのニューヨークの美術館めぐりをする人が、まず間違いなく訪れるのがメトロポリタン美術館とニューヨーク近代美術館(正式名称:The Museum of Modern Art : MoMA)だと思います。この2つの美術館を訪れることで、古今東西の多数の美術品やアートにふれることができます。
この2つの大美術館は、マンハッタンの5th アベニュー(南北の通り)に近接していますが(メトロポリタンは面している)、2つのちょうど中間点付近にあるのがフリック・コレクションです。フリックコレクションも 5th アベニューに面していて、MoMAやメトロポリタンから歩いて行こうと思えば可能な距離です(直線距離1キロ程度)。
なお、5th アベニュー沿いにはグッゲンハイム美術館やノイエ・ギャラリー(クリムトの『アデーレ・ブロッホバウアーの肖像』がある。No.164「黄金のアデーレ」参照)もあり、この通りは "美術館通り" と言っていでしょう。

邸宅美術館
フリック・コレクションは、鉄鋼業などに携わった実業家、ヘンリー・クレイ・フリック(1849-1919)の個人コレクションを自宅に展示したものです。つまり、ワシントン D.C.のフィリップス・コレクション(No.216)やミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(No.217)、ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館(No.263)と同様の「邸宅美術館」です。ただし"邸宅" といっても石造りの大規模かつ豪勢な建物であり、普通に想像する住居というイメージではありません。ここを訪問したなら、まず建築そのものや内部の装飾、調度品を鑑賞し、それと併せて美術品を見るというのが正しい態度でしょう。
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5th Avenue.からみたフリックの邸宅 |
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フリック・コレクションのエントランスは建物の南側にあり、70th Street に面している。 |
コレクションを収集したヘンリー・フリックは1919年に亡くなりましたが、その後も親族よって拡張が続けられ、1935年から美術館として一般公開が始まりました。所蔵する絵画の約 1/3 はヘンリー・フリックの没後に購入されたものですが、著名作品のほどんどはヘンリー・フリック自身が購入したものです。
2010年、美術館は開館75周年を記念して紹介動画を作成しました。ナレーションは英語ですが、美術館の内部も撮影されていて、その様子がよく分かります。YouTube で見ることができます。
Introduction to The Frick Collection
https://www.youtube.com/watch?v=LEyC8g94MZE
この美術館は内部の撮影は禁止であり、かつ所蔵美術品は門外不出です。従って、現物を見るためにはここに行くしかないのですが、逆に言うと、お目当ての作品があったとして、それが貸し出しなどで不在ということはありません。フィラデルフィアのバーンズ・コレクションと同じで、これはメリットだと考えることもできるでしょう。
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フリック・コレクションの西ギャラリー (site : www.inexhibit.com) |
このコレクションは、ヨーロッパの19世紀以前の、特に "古典絵画" が主体です。絵画について、主な所蔵品の画家をあげると、
・ベッリーニ ・ティツィアーノ ・ブロンズィーノ ・ホルバイン ・エル・グレコ ・ヴァン・ダイク ・ベラスケス ・レンブラント ・フェルメール ・ハルス ・ゲインズバラ ・ゴヤ ・フラゴナール ・ターナー ・コンスタブル ・アングル ・マネ ・ドガ ・ルノワール ・ホイッスラー |
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ベッリーニ 「荒野の聖フランチェスコ」 ![]()
フェルメール
「士官と笑う娘」 |
なとです。以降は、これらの所蔵絵画から上に画像を引用した2作品を紹介したいと思います。一つは宗教画で、ベッリーニの『荒野の聖フランチェスコ』、もう一つは3枚もある(!)フェルメールの中の1枚、『士官と笑う娘』です。まず『荒野の聖フランチェスコ』からです。
聖フランチェスコ
聖フランチェスコはカトリック教会における聖人の一人で、12~13世紀のイタリアの人です。数多の聖人の中でも最も人気が高く、よく知られた人でしょう。いや、世界のほとんど人がこの名前を知っているはずです。
というのも、アメリカのカリフォルニア州のサンフランシスコ(San Francisco)は、スペイン語で「聖フランチェスコ」の意味だからです。つまりフランチェスコはイタリア語ですが、スペイン語・ポルトガル語ではフランシスコです。なお、英語ではフランシス、フランス語ではフランソワ、ドイツ語ではフランツであり、現代の欧米人の男性名としてもよくあります。
2013年に即位したアルセンチン出身のローマ教皇・フランシスコの名前も、もちろん聖フランチェスコにちなんでいます。意外にもフランチェスコを名乗った教皇は初めてです。あまりにも有名な聖人の名前なので、それまでの教皇が名乗らなかったのかもしれません。聖フランチェスコは貧しい人々に寄り添う人だったので、教皇としてはそこが名前の意図なのでしょう。
なお、イタリア語の原音に近いのは「フランチェスコ」ですが、日本のカトリック教会では伝統的に「フランシスコ」と呼ぶ習わしです。日本と関係が深い聖フランシスコ・ザビエル(スペイン人、バスク出身)と関係しているのかもしれません。
聖フランチェスコの生涯
聖フランチェスコの生涯と、フリック・コレクションが所蔵する『荒野の聖フランチェスコ』については、中野京子さんの解説があるので、それを引用しましょう。
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「小さき兄弟の会」(のちのフランシスコ会)をヴァチカンが公認したは異例だったと言います。当時の「放浪説教師」のほとんどは元司祭であり、説教に人気があったとしても "ヴァチカン批判勢力" で、カトリック教会とは無縁だとされていました。しかしフランチェスコは違いました。
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聖フランチェスコはまた、数々の奇蹟のエピソードとともに語り継がれています。
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聖フランチェスコは生前から神聖視され、現代までに美術作品、伝記、小説、映画と多岐にわたって取り上げられました。その聖フランチェスコを描いた絵画から2点を引用しておきます。
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ジョット(1266/7-1337) 「小鳥に説教をする聖フランチェスコ」(1305頃) |
アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の内部の壁には、聖フランチェスコの生涯を描いた28枚のフレスコ画があるが、その中の1枚。 |
フランツ・リストが作曲したピアノ曲「伝説」の第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」は、上のフレスコ画に描かれた言い伝えにもとづいています。次の絵は、聖フランチェスコを多数描いたエル・グレコの作品です。
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エル・グレコ(1541-1614) 「聖フランチェスコ」(1604/14) |
(プラド美術館) |
ラヴェルナ山中の洞窟での断食修行の様子を描いている。手に持った頭蓋骨は "死" について瞑想していることを表す。右手には聖痕が描かれている。左下で両手を組んで祈りを捧げているのは、修行を共にした修道士のレオ。レオの頭はフランシスコ会独特の「トンスラ」というヘアスタイルである(上のジョットの聖フランチェスコも同様)。 |
ベッリーニ:荒野の聖フランチェスコ
本題のフリック・コレクション所蔵のベッリーニ『荒野の聖フランチェスコ』です。絵の画像と中野さんの解説を引用します。
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ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430-1516) 『荒野の聖フランチェスコ』(1480頃) |
(フリック・コレクション) |
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確かにこの絵には「神々しい光」はありません。ただし、左の方から何となく神秘的な光が聖フランチェスコとその周辺に当たっています。左上のオリーブの木の葉の描き方も、その光を示しているようです。また、聖フランチェスコのみならず、岩や植物、動物、空が細密にリアルに描かれています。聖フランチェスコの思想の中に「自然も兄弟」という考え方があったようですが、それを表しているのかもしれません。
ちなみに「トンスラ」というヘアスタイルは、上に引用したジョットとエル・グレコの作品でクリアに分かります。
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聖フランチェスコの部分。何かにうたれたような表情である。 |
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中景に描かれたサギとロバ。サギは清貧、ロバは童貞を表す。描かれたサギは、日本のアオサギのような姿をしている。 |
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聖フランチェスコの向かって左に描かれたウサギ。ウサギは服従を表す。フランチェスコの紐には三つの結び目があり「清貧・童貞・服従」を示す。右手には聖痕が描かれている。 |
おそらくこの絵は「すべての細部に意味がある」のでしょう。中野さんの解説はその一部だと想像されます。カトリックのフランチェスコ会の人ならば、この絵の説明を何10分とできるのでしょう。
キリスト教絵画が西欧の絵画の発展の原動力になったことは間違いないありません。それは文字の読めない人にキリスト教を教える重要なツールでもあった。西欧絵画を理解するためには、その背景にある宗教画を知っておいた方がよいわけです。
しかし非キリスト教である我々にとって、宗教画の理解はハードルが高いものです。よく、聖書(とギリシャ・ローマ神話)を知らないと西欧絵画は理解できないと言いますが、たとえ聖書を知っていたとしても分からない絵がいっぱいあります。典型的なのが「マグダラのマリア」関係の絵で、キリストと極めて近い人物であるにもかかわらず、往々にして聖書とは無関係なストーリーが図像化されます(No.118「マグダラのマリア」参照)。No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用したカニャッチの絵など、欧米に流布している "マグダラのマリア物語" を知らないと意味不明でしょう。カトリック教徒なら常識かも知れないけれど ・・・・・・。
さらなるハードルは「聖人」についての絵画です。これが意外に多い。キリストと同時代の聖人はともかく、古代ローマから中世に至る数々の聖人の図像化は、その聖人の事跡を全く知らないのでは意味がとれません。ちょうど『荒野の聖フランチェスコ』のようにです。
逆に言うと『荒野の聖フランチェスコ』が描かれた時代、一般の人で文字が読める人は少数だったことを思うと、この絵は聖フランチェスコの事跡(の一部)を説明するための絵と考えることができます。我々としても『荒野の聖フランチェスコ』という絵を知るなかで、「アッシジの聖フランチェスコ」を知り、西洋史の一端を理解すればいいのだと思います。
たとえば聖フランチェスコの思想は、小鳥や狼のみならず、あらゆる動植物も含めて、父なる神のもとの兄弟であるという考え(=万物兄弟の思想)だったようです。「小鳥に説教」も、奇蹟のエピソードというよりは万物兄弟の思想の現れなのでしょう。そういったことから、1980年に当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世はフランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定したといいます(Wikipediaによる)。つまり聖フランチェスコの(=フランシスコ会の)思想は、少々意外なことに我々が思う西洋の「神→人間→動物」という階層の考え方と違います。このような「学び」が、絵をきっかけにしてありうるのかなと思いました。
フェルメール:士官と笑う娘
寡作で有名なフェルメールの真筆とされる絵はわずか35点です(35の数え方は No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照。もちろん異説がある)。ほとんどは欧米の美術館に収蔵されていますが、複数のフェルメール作品をもつ美術館は次のとおりです。
メトロポリタン美術館 | |
アムステルダム国立美術館 | |
マウリッツハイス美術館(デン・ハーグ) | |
フリック・コレクション | |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー | |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー | |
ルーブル美術館 | |
ベルリン絵画館 | |
アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン) |
別に「フェルメール作品の所有数が美術館のグレードを示す」わけではないのですが、このリストを見て分かることが2つあります、一つは「アメリカの美術館が健闘している」ことです。フェルメールの "母国" であるオランダの2つの美術館を別格として、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとルーブル美術館がアメリカの3つの美術館の後塵を拝している。これは、フェルメールが19世紀後半から評価されはじめ、その時期にアメリカの資本主義の発展が重なって富が集積するようになり、アメリカの富豪コレクターがフェルメールを買ったということでしょう。ボストンのガードナー夫人もその一人でした(絵は盗まれてしまいましたが ・・・・・・。No.263「イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館」参照)。
このリストから分かる2つ目ですが、「フリック・コレクションは個人コレクションであるにもかかわらずフェルメールの真筆を3作品も持っている」ことです。メトロポリタンやワシントン・ナショナル・ギャラリーにはアメリカの富豪美術コレクターが寄贈した作品がヤマのようにあって、美術館自体が "個人コレクションの複合体" という面があります。しかしフリック・コレクションは一人のコレクションなのです。そこは特筆すべきでしょう。そのフリック・コレクションにあるフェルメールは、
◆士官と笑う娘
◆中断されたレッスン
◆婦人と召使い
の3点ですが、この中の『士官と笑う娘』を取り上げます。『兵士と笑う娘』という日本語表記もありますが、フリック・コレクションの英語表記は "Officer" なので「士官」とします。
士官と娘と地図
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ヨハネス・フェルメール(1632-1675) 『士官と笑う娘』(1657頃) |
(フリック・コレクション) |
この絵については、フランスの科学雑誌「Pour la Science」の副編集長、ロイク・マンジャンが書いた『科学でアートを見てみたら』(原書房 2019)に興味深い記述があったので、それに沿って紹介したいと思います。まず、この絵が描かれた当時のオランダの状況です。
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フェルメールの絵によくある「左の窓から差し込む柔らかな光に包まれた室内」の情景です。手前に描かれた男性の表情はほとんで分かりません。ただ「赤い制服」「つば付きの大きな帽子(=高級なビーバー・ハット)」「黒い弾帯(ガンベルト)」といういでたちから、この男性は単なる兵士ではなく、それなりの地位の士官であることがわかります。この士官を大きく手前に描くことで、室内の奥行き感が強調されています。上の引用にあるように、士官は女性と "親密な会話" をしているのでしょう。
その会話相手の女性は笑顔を浮かべ、堂々と士官と会話をしています。口説かれて困っているとか、とまどっているとか、そいういう気配はなく、男と会話を楽しんでいる。何となく、しっかりしていて自立した女性という雰囲気であり、この雰囲気はフェメールが描いた女性像の中でも際だっているのではないでしょうか。
さらにこの絵にはもうひとつ、重要そうなアイテムが描かれています。後の壁にかかっている "意味ありげな" 地図です。
|
解説にあるように、この地図は通常の地図ではありません。上が北ではなく、ネーデルラントにとっての海の方向、つまり西です。これは引用にあるように「ネーデルラント連邦共和国が外海である北海を向いているのは、世界を征服した海洋民族にとって当然のこと」なのかもしれません。さらにもう一つ、陸が青く、海が茶色に塗られているのも通常の地図とは違います。
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「平和の回復によって軍人の社会的立場が一変したことを暗示」とは抽象的な言い方ですが、分かりやすく言うと「軍人は戦争をするのではなく、女性を口説くようになった」ということでしょう。フリック・コレクションの公式カタログ(日本語版)には、この地図について次の主旨の説明がありました。
地図は、祖国を守るという軍人の役目を表す。 | |
それと同時に、軍人の "領土的野心" をほのめかしている(のではないか)。 | |
その地図を女性の頭の上に描くことで、彼女を "征服の対象" に擬している(のかもしれない)。 |
すべては推測ですが、こういった "謎" も、フェルメール作品が人々を引きつける要因になっているのでしょう。
ビーバー・ハット
「科学でアートを見てみたら」には、士官がかぶっている帽子に関する話がありました。絵の鑑賞とは直接関係がありませんが、興味深い話なので余談として引用します。
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上の引用にもあるように、下毛とは毛皮の上毛(=刺し毛)の下に生えている短くて柔らかい毛のことで、綿毛とも言います。英語は underfur です。一般的に、動物の毛皮は上毛(刺し毛)と下毛(綿毛)の2層構造になっています。
上の引用の中に『不思議の国のアリス』が出てきます。言葉遊びでキャラクターを作り出すのが得意なルイス・キャロルは、「帽子屋のように狂っている(as mad as a hatter)」という英語の慣用句から "Mad Hatter = 気狂い帽子屋" というキャラクターを作り出しました。そして慣用句においてなぜ hatter が mad なのかというと、一つの推測がビーバー・フェルトの加工をする人の「職業病」とも言える水銀中毒なのですね。マーチン・ガードナーの「The Annoted Alice」にも同じ推測が書かれていました。
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「不思議の国のアリス」のためにテニエルが描いたさし絵。第7章で、アリスと三月ウサギと眠りネズミと帽子屋が "お茶会(A Mad Tea-Party)"を開く。この絵で帽子屋はシルクハットをかぶっているが、もとはビーバー・フェルトで作られていた。画像はマーチン・ガードナーの「The Annoted Alice」より。 |
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ビーバーの下毛が帽子に最適だったために、ビーバーの乱獲を招いたわけです。ビーバーの生息域はヨーロッパと北米ですが、ヨーロッパのビーバーは19世紀に絶滅状態になりました。これはまずいということで近縁種の北米のビーバーを輸入して、現在では生息数がそれなりに増えつつあるそうです。
毛皮をとるために水生哺乳類が乱獲され、絶滅ないしは絶滅危惧種になるというのは、ラッコがそうです(No.126「捕食者なき世界(1)」参照)。人間のやることは昔から変わらないようです。
フェルメールの "テイスト"
話を『士官と笑う娘』に戻します。この絵が一つの典型なのですが、フェルメールの絵の題材は「何気ない日常の室内風景」が多いわけです。しかも男性と女性が談笑している(男が女を口説いている)この絵のように、いかにもありそうなシーンを描いている絵が多い。しかしそれでいて絵全体からは、
柔らかな光の中で | |
厳粛で | |
静謐で | |
気品があり | |
美しく整った感じ |
といった印象を受けます。つまり「チープな感じとは対極の印象」を受ける。フェルメールの絵からは、何やら教訓めいたしかけを感じることもあります。この絵もそうで、社会的地位の高い男に安易に気を許してはいけないという教訓絵かもしれない。しかし "チープな感じ" はしません。
この不思議な "感じ、"味わい"、"テイスト" はフェルメール独特のものであり、それは画面の構図、明暗のつけかた、光の描き方、顔料の使い方などのすべてからくるものなのでしょう。そこがフェルメールの人気の秘密だと思います。フリック・コレクションの『士官と笑う娘』もそれを体現しているのでした。
2021-02-20 12:56
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No.303 - 松下美術館 [アート]
過去の記事で、12の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、鹿児島県にある松下美術館のことを書きます。
松下美術館の場所
松下美術館(鹿児島県霧島市福山町)は、鹿児島の錦江湾に面して東側にあります。鹿児島市内からみると桜島の反対側(大隅半島側)にあたります。
大隅半島にJRはないので、公共交通機関で行くとすると日豊本線の国分駅で降り(国分は京セラの最大の工場があるところ)、そこからバスに乗り換えて30分程度です。ただ、バスの回数が必ずしも多くないので、クルマ(旅行者であればレンタカーなど)が適当でしょう。南九州自動車道の国分インターから15分程度です。
ちなみに、霧島市福山町は黒酢の製造で有名なところです(=福山黒酢)。大きな壷に入れた黒酢を戸外の敷地で熟成させる「壷畑」が見られます。
設立の経緯
松下美術館は、松下幸之助やパナソニック・グループとは関係ありません。福山町出身の精神科医、松下兼知(1905-1989)が設立した美術館です。
松下兼知は長崎医科大学(現、長崎大学医学部)の助教授だった1945年に被爆しました。九死に一生を得た彼は、後遺症に苦しみながらも1949年に故郷の福山町に戻り、1950年に父親が経営していたみかん畑の中に精神科の診療所を開設しました。現在の福山病院です。そして1983年に病院のそばに開いたのが松下美術館です。
松下兼知は幼少の頃から絵が好きで、美術学校に進んで画家になるのが夢だったようです。旧制高校(鹿児島の七高)の時代には自分の描いた絵を文化祭に出品したりしていました。長崎医科大に進んだあともプロの画家に絵の指導を受けたことがあります。彼はアマチュア画家として絵を描き、それは松下美術館にも展示されています。自らの被爆体験をもとにした『長崎原爆15分後』という作品も描きました。
美術館設立の趣旨について、パンフレットに次のように記載されています。
この美術館は、福山町の小・中学生は無料で見学できます。松下兼知は自分が果たせなかった夢を次の世代に託したようです。
6館に分かれた美術館
松下美術館は上図のように6館に分かれています。1号館はエントランスで、鹿児島にゆかりのある画家(黒田清輝、和田英作、東郷青児など)の絵と、西欧の画家(ムリーリョ、コロー、クールベ、ルノワールなど)の絵が展示されています。
2号館は薩摩切子やヴェネチアン・グラスなどのガラス器が展示され、また絵画の企画展示も行われます。この2号館の展示室は地下に造られていて、核シェルターになっています。原爆を経験した松下兼知の思いがこもっているのでしょう。
3号館は古代オリエント資料館で、エジプトやギリシャ文明の出土品が展示されています。ミイラを包んでいた「マミーマスク」もあります。
4号館は日本画の展示館です。松下美術館は雪舟の山水画や棟方志巧などを所蔵しています。
5号館は民俗資料館で、南九州を中心とする各種の仮面が展示されています。信仰のための仮面(魔除けのために家に飾るなど)と、舞踊に使う仮面があります。また、6号館には、設立者である松下兼知の作品が展示されています。
以下、松下美術館が所蔵する絵画作品を何点かピックアップして紹介します。
所蔵する絵画作品
このムリーリョの肖像画は "松下美術館の顔" になっている作品です。松下美術館が入館者に配布しているパンフレットの表紙が、この肖像画です。
スペイン17世紀の画家・ムリーリョというと、宗教画が多く(プラド美術館の「無原罪の御宿り」など)、その次には風俗画でしょう(ルーブル美術館の「蚤をとる少年」は有名)。これらに加えてムリーリョは肖像画も描いたようです。この松下美術館の作品は「初めて観たムリーリョの肖像画」でした。
さらに、日本の美術館にあるムリーリョの作品は極くわずかのはずです。ネットで調べると、三重県立美術館には宗教画があるようですが(アレクサンドリアの聖カタリナ)私は観たことがありません。というわけで、松下美術館のこの作品は「初めて観た日本にあるムリーリョ」でした。
描かれた女性は、身につけた服装や装飾品から高貴な身分のようです。その印象をキーワードで表すと、「優しい」「おだやか」「落ち着いた」という感じでしょうか。ムリーリョ独特の薄い靄がかかったような表現も、その印象を強めています。
松下美術館には鹿児島出身の画家の絵が蒐集されています。鹿児島出身というと黒田清輝、藤島武二、東郷青児が有名ですが、和田英作(1874-1959)も鹿児島出身で、後半生は洋画界の重鎮でした。東京美術学校(現、東京芸術大学)の校長にまでなった人です。
和田英作は画業の人生の折に触れて富士を描いています。晩年には富士を描きたいという思いで、静岡市三保に居を構えたようです。次の絵は、朝日を受けて輝き出した富士の様子がとらえられています。
大原女とは、現在の京都市左京区大原地区から京都市内へ行商に出た女性です。商材は主に薪で、戦前までは残っていたようです。江戸時代以降、大原女は美人画の画題になりました。
この小磯良平の絵は、アトリエにモデルを招き、大原女の格好をさせて描いたと想像します。白と黒と朱という色使いと、画家の確かなデッサンの技量が印象的な作品です。
モネは何回か英国を訪問して絵を描いています。画題は「国会議事堂」「チャリング・クロス橋」「ウォータールー橋」で、それぞれ多数の連作があります。ロンドン特有の霧(およびスモッグ)が立ちこめる中に光が差す効果を、場所を変え、時間を変えて描いたようです。
この絵の画題のウォータールー橋も、約40点ほどの作品があると言います。上野の国立西洋美術館にもその中の1枚があります。空・向こう岸の街並み・橋・水面・小舟が、霧に差し込む陽光の中で渾然一体となっている光景が描かれています。
椅子に座った女性を正面から描いた作品です。これがリアルな光景だとしたら、どういう場面でしょうか。いろいろ想像できると思いますが、たとえば「外出から帰宅した女性が椅子に座って一息ついたところで、ある気がかりができて気持ちが少々沈んでいる」というような光景です。
伏し目の顔を除いて、服装や帽子、椅子、背景は平面的に近い感じで描かれています。紫色の服、白(と濃紺)の帽子、ピンクのコサージュ、金色の髪といったおだやかな色彩でまとめた画面がいいと思います。
"色彩の魔術師" と呼ばれる画家は、マティスをはじめ何人かいますが(上のボナールもそう)、デュフィもその一人です。この作品は、青と緑で埋まった落ち着いた色調の中にピンクがかった暖色が所々に配置されています。デュフィらしく、色は形の中に閉じ込められていないで、周りに広がっています。この自由闊達な感じが魅力でしょう。
次世代に託す
設立の経緯から分かるように、この美術館は、美術愛好家の医師が医院を運営しつつコレクションを続けて設立したものです。これは冒頭にあげた個人コレクション美術館とは少々違います。冒頭の12の美術館は、事業や商売で成功した人(ないしはその一族)が、その成功で得た資金をもとにコレクションした美術品を展示したスペースです。
しかし松下兼知の本業は医師であり、病院経営です。言うまでもなく医療法人は利益をあげることを第一の目的にはしていません。一般の事業やビジネスのように "当たれば" 莫大な利益が得られるというわけではない。そういう立場の人が作った美術館でありながら、実際に現地に行くと「よくこれだけのものを作ったものだ」と感心させられます。松下家はみかん畑を経営していたということなので、そこからの資産があったのかもしれません。
もっとも収蔵品の各ジャンルを見ると、比較的こじんまりとしていて、系統的に集めたという感じはあまりしません。国立や県立の美術館のようにはいかない。また冒頭にあげた欧米の富豪が建てた美術館のように大規模なコレクションでもありません。
しかしここは「本当は画家になりたかった医者が、その夢を次世代に託すため、子供たちに本物の美術品(含む、古代美術や民俗芸術)を見せるために作った場所」です。そういった設立者の考えに思いを馳せながら松下美術館を訪れて鑑賞する。それが正しい態度でしょう。我々はここで、芸術や美術が一人の人間の心に与えた影響力の強さを知ることになるのです。
No. 95 | バーンズ・コレクション | 米:フィラデルフィア | |||
No.155 | コートールド・コレクション | 英:ロンドン | |||
No.157 | ノートン・サイモン美術館 | 米:カリフォルニア | |||
No.158 | クレラー・ミュラー美術館 | オランダ:オッテルロー | |||
No.167 | ティッセン・ボルネミッサ美術館 | スペイン:マドリード | |||
No.192 | グルベンキアン美術館 | ポルトガル:リスボン | |||
No.202 | ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 | オランダ:ロッテルダム | |||
No.216 | フィリップス・コレクション | 米:ワシントンDC | |||
No.217 | ポルディ・ペッツォーリ美術館 | イタリア:ミラノ | |||
No.242 | ホキ美術館 | 千葉市 | |||
No.263 | イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 | 米:ボストン | |||
No.279 | 笠間日動美術館 | 茨城県笠間市 |
笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。今回は、その "個人コレクション美術館" 続きで、鹿児島県にある松下美術館のことを書きます。
松下美術館の場所
松下美術館(鹿児島県霧島市福山町)は、鹿児島の錦江湾に面して東側にあります。鹿児島市内からみると桜島の反対側(大隅半島側)にあたります。
大隅半島にJRはないので、公共交通機関で行くとすると日豊本線の国分駅で降り(国分は京セラの最大の工場があるところ)、そこからバスに乗り換えて30分程度です。ただ、バスの回数が必ずしも多くないので、クルマ(旅行者であればレンタカーなど)が適当でしょう。南九州自動車道の国分インターから15分程度です。
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(Google Map より) |
ちなみに、霧島市福山町は黒酢の製造で有名なところです(=福山黒酢)。大きな壷に入れた黒酢を戸外の敷地で熟成させる「壷畑」が見られます。
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福山町の坂元醸造の壷畑。桜島を望む。 |
設立の経緯
松下美術館は、松下幸之助やパナソニック・グループとは関係ありません。福山町出身の精神科医、松下兼知(1905-1989)が設立した美術館です。
松下兼知は長崎医科大学(現、長崎大学医学部)の助教授だった1945年に被爆しました。九死に一生を得た彼は、後遺症に苦しみながらも1949年に故郷の福山町に戻り、1950年に父親が経営していたみかん畑の中に精神科の診療所を開設しました。現在の福山病院です。そして1983年に病院のそばに開いたのが松下美術館です。
松下兼知は幼少の頃から絵が好きで、美術学校に進んで画家になるのが夢だったようです。旧制高校(鹿児島の七高)の時代には自分の描いた絵を文化祭に出品したりしていました。長崎医科大に進んだあともプロの画家に絵の指導を受けたことがあります。彼はアマチュア画家として絵を描き、それは松下美術館にも展示されています。自らの被爆体験をもとにした『長崎原爆15分後』という作品も描きました。
美術館設立の趣旨について、パンフレットに次のように記載されています。
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この美術館は、福山町の小・中学生は無料で見学できます。松下兼知は自分が果たせなかった夢を次の世代に託したようです。
6館に分かれた美術館
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松下美術館は斜面に建つ6つの館からなっている。この図では上が東、下が西(錦江湾の方向)である。 |
松下美術館は上図のように6館に分かれています。1号館はエントランスで、鹿児島にゆかりのある画家(黒田清輝、和田英作、東郷青児など)の絵と、西欧の画家(ムリーリョ、コロー、クールベ、ルノワールなど)の絵が展示されています。
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松下美術館(1号館) |
2号館は薩摩切子やヴェネチアン・グラスなどのガラス器が展示され、また絵画の企画展示も行われます。この2号館の展示室は地下に造られていて、核シェルターになっています。原爆を経験した松下兼知の思いがこもっているのでしょう。
3号館は古代オリエント資料館で、エジプトやギリシャ文明の出土品が展示されています。ミイラを包んでいた「マミーマスク」もあります。
4号館は日本画の展示館です。松下美術館は雪舟の山水画や棟方志巧などを所蔵しています。
5号館は民俗資料館で、南九州を中心とする各種の仮面が展示されています。信仰のための仮面(魔除けのために家に飾るなど)と、舞踊に使う仮面があります。また、6号館には、設立者である松下兼知の作品が展示されています。
以下、松下美術館が所蔵する絵画作品を何点かピックアップして紹介します。
所蔵する絵画作品
 ムリーリョ  |
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バルトロメ・ムリーリョ(1617-1682) 「婦人の肖像」 |
(松下美術館) |
このムリーリョの肖像画は "松下美術館の顔" になっている作品です。松下美術館が入館者に配布しているパンフレットの表紙が、この肖像画です。
スペイン17世紀の画家・ムリーリョというと、宗教画が多く(プラド美術館の「無原罪の御宿り」など)、その次には風俗画でしょう(ルーブル美術館の「蚤をとる少年」は有名)。これらに加えてムリーリョは肖像画も描いたようです。この松下美術館の作品は「初めて観たムリーリョの肖像画」でした。
さらに、日本の美術館にあるムリーリョの作品は極くわずかのはずです。ネットで調べると、三重県立美術館には宗教画があるようですが(アレクサンドリアの聖カタリナ)私は観たことがありません。というわけで、松下美術館のこの作品は「初めて観た日本にあるムリーリョ」でした。
描かれた女性は、身につけた服装や装飾品から高貴な身分のようです。その印象をキーワードで表すと、「優しい」「おだやか」「落ち着いた」という感じでしょうか。ムリーリョ独特の薄い靄がかかったような表現も、その印象を強めています。
 和田英作  |
松下美術館には鹿児島出身の画家の絵が蒐集されています。鹿児島出身というと黒田清輝、藤島武二、東郷青児が有名ですが、和田英作(1874-1959)も鹿児島出身で、後半生は洋画界の重鎮でした。東京美術学校(現、東京芸術大学)の校長にまでなった人です。
和田英作は画業の人生の折に触れて富士を描いています。晩年には富士を描きたいという思いで、静岡市三保に居を構えたようです。次の絵は、朝日を受けて輝き出した富士の様子がとらえられています。
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和田英作(1874-1959) 「富士(夜明け)」(1939) |
(松下美術館) |
 小磯良平  |
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小磯良平(1903-1988) 「大原女」 |
(松下美術館) |
大原女とは、現在の京都市左京区大原地区から京都市内へ行商に出た女性です。商材は主に薪で、戦前までは残っていたようです。江戸時代以降、大原女は美人画の画題になりました。
この小磯良平の絵は、アトリエにモデルを招き、大原女の格好をさせて描いたと想像します。白と黒と朱という色使いと、画家の確かなデッサンの技量が印象的な作品です。
 モネ  |
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クロード・モネ(1840-1926) 「ウォータールー橋」 |
(松下美術館) |
モネは何回か英国を訪問して絵を描いています。画題は「国会議事堂」「チャリング・クロス橋」「ウォータールー橋」で、それぞれ多数の連作があります。ロンドン特有の霧(およびスモッグ)が立ちこめる中に光が差す効果を、場所を変え、時間を変えて描いたようです。
この絵の画題のウォータールー橋も、約40点ほどの作品があると言います。上野の国立西洋美術館にもその中の1枚があります。空・向こう岸の街並み・橋・水面・小舟が、霧に差し込む陽光の中で渾然一体となっている光景が描かれています。
 ボナール  |
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ピエール・ボナール(1867-1947) 「座せる婦人」 |
(松下美術館) |
椅子に座った女性を正面から描いた作品です。これがリアルな光景だとしたら、どういう場面でしょうか。いろいろ想像できると思いますが、たとえば「外出から帰宅した女性が椅子に座って一息ついたところで、ある気がかりができて気持ちが少々沈んでいる」というような光景です。
伏し目の顔を除いて、服装や帽子、椅子、背景は平面的に近い感じで描かれています。紫色の服、白(と濃紺)の帽子、ピンクのコサージュ、金色の髪といったおだやかな色彩でまとめた画面がいいと思います。
 デュフィ  |
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ラウル・デュフィ(1877-1953) 「ノルマンディーの風景」 |
(松下美術館) |
"色彩の魔術師" と呼ばれる画家は、マティスをはじめ何人かいますが(上のボナールもそう)、デュフィもその一人です。この作品は、青と緑で埋まった落ち着いた色調の中にピンクがかった暖色が所々に配置されています。デュフィらしく、色は形の中に閉じ込められていないで、周りに広がっています。この自由闊達な感じが魅力でしょう。
次世代に託す
設立の経緯から分かるように、この美術館は、美術愛好家の医師が医院を運営しつつコレクションを続けて設立したものです。これは冒頭にあげた個人コレクション美術館とは少々違います。冒頭の12の美術館は、事業や商売で成功した人(ないしはその一族)が、その成功で得た資金をもとにコレクションした美術品を展示したスペースです。
しかし松下兼知の本業は医師であり、病院経営です。言うまでもなく医療法人は利益をあげることを第一の目的にはしていません。一般の事業やビジネスのように "当たれば" 莫大な利益が得られるというわけではない。そういう立場の人が作った美術館でありながら、実際に現地に行くと「よくこれだけのものを作ったものだ」と感心させられます。松下家はみかん畑を経営していたということなので、そこからの資産があったのかもしれません。
もっとも収蔵品の各ジャンルを見ると、比較的こじんまりとしていて、系統的に集めたという感じはあまりしません。国立や県立の美術館のようにはいかない。また冒頭にあげた欧米の富豪が建てた美術館のように大規模なコレクションでもありません。
しかしここは「本当は画家になりたかった医者が、その夢を次世代に託すため、子供たちに本物の美術品(含む、古代美術や民俗芸術)を見せるために作った場所」です。そういった設立者の考えに思いを馳せながら松下美術館を訪れて鑑賞する。それが正しい態度でしょう。我々はここで、芸術や美術が一人の人間の心に与えた影響力の強さを知ることになるのです。
(続く)
2021-01-23 08:40
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No.301 - 線路脇の家 [アート]
No.288「ナイトホークス」に続いて、アメリカの画家、エドワード・ホッパーの絵画とその影響についての話です。No.288 は、ホッパーの『ナイトホークス』(1942)が、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』(1982公開)のアート・デザインやビジュアルに影響を与えたという話でした。『ナイトホークス』の複製画を映画の美術スタッフに見せ続けたと、スコット監督自身が述懐しているのです。
その『ブレードランナー』を始め、ホッパーの絵画は多数の映画に影響を与えました。最近のアメリカ映画でいうと、2015年に制作された『キャロル』(日本公開:2016年2月)はホッパーの多数の作品から場面作りの影響を受けています(アートのブログサイト:https://www.sartle.com/blog/post/todd-haynes-channels-edward-hopper-in-the-film-carol)。トッド・へインズ監督がホッパーの大のファンのようです。そのためか、映画の日本公開に先立って出版されたパトリシア・ハイスミスの原作の表紙には、ホッパーの「オートマット」が使われています(河出文庫。2015.12)。
そういった映画への影響で昔から最も有名なのは、アルフレッド・ヒチコック監督の『サイコ』(1960年公開)でしょう。これは "サイコ・サスペンス" とでも言うべきジャンルを切り開いた映画史に残る傑作です。この映画で、モーテルを経営している主人公の男性が母親と2人で住んでいる家のモデルとなったのがホッパーの『線路脇の家』でした。この『線路脇の家』はホッパー作品の中でも最も有名なものの一つです。
ホッパーの絵は映画だけでなく文学にも影響を与えました。No.288の『ナイトホークス』もそうですが、ホッパーの絵は "背後に物語があると感じてしまう絵" が多いのです。
このホッパーの絵の "特質" を利用して編まれた短編小説集があります。ローレンス・ブロック編『短編画廊』(ハーパーコリンズ・ジャパン 2019。原題は「In Sunlight or In Shadow : stories inspired by the paintings of Edward Hopper」)です。
この本は、小説家のブロックがアメリカの16人の小説家に呼びかけて「ホッパーの絵画にインスパイアされた短編小説」を書いてもらい、それをまとめたものです。17人(ブロック自身を含む)が選んだ絵画は全部違っていて(もちろん調整もあったのでしょう)、本のページをめくるとまずホッパーの絵の画像があり、その後に小説が続き、それが17回繰り返されるという洒落た短編集になっています。
その17枚の絵を見ると、『ナイトホークス』はありますが『線路脇の家』はありません。2枚ともアメリカのメジャーな美術館が所蔵している(それぞれシカゴ美術館とニューヨーク近代美術館)大変有名な絵です。ホッパーの代表作を10枚選べと言われたら必ず入る2枚だと思います。なぜ『線路脇の家』がないのでしょうか。
それには理由があるのかも知れません。つまり、ブロックの呼びかけに応じた小説家からすると『線路脇の家』からはどうしても『サイコ』を連想してしまう。しかし『サイコ』を凌駕するストーリーを語るのは難しそうだ、やめておこう、となるのではないでしょうか。アメリカ人の小説家ならそう思うに違いないと思います。
しかし日本人の小説家である恩田陸さんは、ホッパーの『線路脇の家』から(楽々と)一つの短編小説を書き上げました。短編小説集『歩道橋シネマ』(新潮社。2019)に収録された『線路脇の家』(雑誌の初出は2015年)です。
以降は、このホッパーの絵と恩田さんの短編を "同時に紹介" したいと思います。この恩田さんの短編は「私」の一人称であり、最初のところに「私」が初めて『線路脇の家』を見たときの感想が書かれているのですが、その文章が絵の評論にもなっていて、"同時に紹介" が可能なのです。
恩田さんの文章は、No.209「リスト:ピアノソナタ ロ短調」で『蜜蜂と遠雷』の中のリストの部分だけを引用しました。それは音楽についての文章でしたが、今度は絵画です。
エドワード・ホッパー「線路脇の家」
エドワード・ホッパーの『線路脇の家』はニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。MoMAは1929年に設立者のプライベート・コレクションを基盤に開館しますが、1930年に最初の作品群を購入しました。その中の一つが『線路脇の家』でした。
以降は、この絵をふまえて恩田陸さんが書いた短編小説「線路脇の家」を紹介します。この小説の冒頭にはホッパーの絵から受ける印象が語られています。
恩田 陸「線路脇の家」(1)
恩田 陸さんの「線路脇の家」の冒頭部分から引用します。以下の引用では漢数字を算用数字にしたところがあります。また、段落の切れ目を空行で表し、段落の最初の字下げは省略しました。
恩田さんの「線路脇の家」は「私」の一人称の小説です。従ってこの冒頭部分は「私」が初めてホッパーの『線路脇の家』を見たときに感じた印象であり、その前提で読む必要があります。
上の引用の中に「何様式というのだろう。・・・・・ 19世紀の終わり、あるいは20世紀初頭に流行ったスタイルと思われる。」とありますが、この建物はイギリスのヴィクトリア朝時代の様式です。横浜の山手に洋館が立ち並ぶエリアがありますが、その中にもヴィクトリア様式の建物があります。
小説「線路脇の家」では次に、ヒチコックの『サイコ』との関係が語られます。
ここで引用した部分は、ホッパーの絵、および『線路脇の家』についての的確な評論になっていると思います。「作り物感があると同時に生々しさがある」としたところなど、全くその通りという感じがします。
補足しますと、上の引用の多くは『線路脇の絵』と『サイコ』に出てくる家との関係を語っているのですが、その中に、
とあります。ホッパー研究の第一人者であるゲイル・レヴィン(ニューヨーク市立大学教授・美術評論家)によると、往年の名画『ジャイアンツ』(Giant。1956年公開)に出てくる家は『線路脇の家』を模しているそうです(ゲイル・レヴィン「エドワード・ホッパーと映画」による)。『ジャイアンツ』は、テキサスに広大な牧場をもつ牧場主(ロック・ハドソン)のもとに東部から名門の娘(エリザベス・テイラー)が嫁いでくる。その彼女に若い牧童(ジェームス・ディーン。この映画が遺作)が密かに好意を寄せる ・・・・・・、というシチュエーションです。この映画で、広大な牧場(レアータ牧場)の中にポツンと建つ屋敷が『線路脇の家』とそっくりです。
恩田 陸「線路脇の家」(2)
ここまでの引用は「私」が『線路脇の家』を初めて見たときの印象でした。このあと、物語が動き出します。そのキーワードは "既視感" です。
『線路脇の家』を見たときの既視感は、決して『サイコ』だけのものではない。「私」はそう気づいたのですが、それが何なのかをある時、ひょっと思い出します。「私」は友人と東京の東の方で落ち合って飲む約束をしたのですが、そこへ向かうために駅のホームにいた時です。
電車からは家の中がよく見えました。もちろん家の中の人は電車から見えているとは思っていないのでしょう。そういうことはよくあります。そしてその家が「私の」記憶に残ったのは、単に人がいたからではあません。家の中の人は3人で、電車で通るたびにいつも同じ3人だったからです。
ちょっと不思議な光景です。「私」が電車でお客さんのところへ向かうのは平日の昼間です。高齢の女性はともかく、比較的若そうな男女は働いていないのでしょうか。また、大きな家なのに3人が必ず2階の同じ部屋にいるのはなぜか。
こういう不思議さが記憶に残った原因のようです。ホッパーの『線路脇の家』を見たときの既視感はヒチコックの『サイコ』だけではないと「私」は感じていたのですが、その原因がはっきりしました。しかし話はまだ続きます。
「私」は知り合いの法事に呼ばれ、東京の東の方にある初めての駅で降り、住宅街の奥にある寺までいって法事を終えました。その帰り道、知り合いといっしょに住宅街を歩いていると、いつのまにか小高い丘の麓に出ました。そしてふと見ると、そこに廃墟と化した「線路脇の家」があったのです。「私」は、しばし立ち止まって感慨にふけりました。そしてその洋館を振り返りつつ、知り合いに追いつきます。知り合いはこのあたりの住人なので洋館のことを教えてくれました ・・・・・・。
ここから結末までのストーリーを明かすのはまずいと思うので、以降は割愛します。『サイコ』とは全く違った、『サイコ』の対極にあるような話の展開になっています。この短編小説の最後は次のような記述で終わります。
恩田陸さんの小説の紹介・引用はここまでで、以降はこの小説を読んだ感想です。
鳥籠
ホッパーの『線路脇の家』を見た印象というか、イメージを言葉で表すと、
といった感じが普通かと思います。しかし恩田さんの小説では「鳥籠を連想させる」としたところがポイントでしょう。つまり、中に人が住んでいると考えたとき、その住人からするとどうだろうか。この家は、出るに出られない "鳥籠" である ・・・・・・。このイメージが『線路脇の家』という絵の印象の中心になっていて、またこのイメージで物語が結末へと進んでいきます。「鳥籠」がこの小説のキーワードになっていると思いました。
恩田さんは『サイコ』の主人公を "鳥籠に閉じこめられた鳥" になぞらえた文章を書いていました。その連想から言うと、エリザベス・テイラー演じる『ジャイアンツ』の女主人公も、東部の都会からテキサスの広大な牧場の中にポツンとある「線路脇の家」風の屋敷に嫁いできたわけです。そこはまさに彼女からすると「鳥籠」だったのではないでしょうか。
ということからすると、「線路脇の家」=「鳥籠」というイメージは恩田さんの感覚という以上に、ある種の普遍性のあるものだと思いました。
ここではないどこか
さらにこの小説で「鳥籠」と並んで重要なキーワードは「ここではないどこか」です。これは2箇所に出てきます。最初はホッパーの『線路脇の家』を見た印象を語った最初の部分、2回目は一番最後の部分です。その2つのセンテンスは次の通りです。
No.298「中島みゆきの詩(16)ここではないどこか」で書いたように「ここではないどこか」はボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中の詩に端を発する概念です(No.298 に詩を引用)。そのボードレールの詩では、この世で生きることを病院に入院して治療をうけている病人になぞらえていました。恩田さんがボードレールを意識したのかどうかは分かりませんが、出るに出られないという意味で「鳥籠」と「病院」のイメージはかぶっています。この小説に「ここではないどこか」という言い方が用いられているのは、そういう暗示かと思いました。
「線路脇の家」=「鳥籠」(= 病院)であり、具体的に言うと「社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴」しているというのが、ホッパーの絵を恩田さんなりに解釈したものです。またそれが同時に小説の構成のキモになっていると感じました。
この小説は18の短編小説からなる『歩道橋シネマ』の冒頭に置かれています(最後の小説は「歩道橋シネマ」)。つまり、作者としても自信作なのでしょう。『サイコ』とは全く違った "軽い" ストーリーだけれど、ホッパーの『線路脇の絵』から受ける印象の記述と絵の解釈が非常に的確です。そこに感心しました。
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そういった映画への影響で昔から最も有名なのは、アルフレッド・ヒチコック監督の『サイコ』(1960年公開)でしょう。これは "サイコ・サスペンス" とでも言うべきジャンルを切り開いた映画史に残る傑作です。この映画で、モーテルを経営している主人公の男性が母親と2人で住んでいる家のモデルとなったのがホッパーの『線路脇の家』でした。この『線路脇の家』はホッパー作品の中でも最も有名なものの一つです。
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ホッパーの「線路脇の家」(1925。左)と、ヒチコック監督の「サイコ」(1960)に登場する家(右)。 |
ホッパーの絵は映画だけでなく文学にも影響を与えました。No.288の『ナイトホークス』もそうですが、ホッパーの絵は "背後に物語があると感じてしまう絵" が多いのです。
このホッパーの絵の "特質" を利用して編まれた短編小説集があります。ローレンス・ブロック編『短編画廊』(ハーパーコリンズ・ジャパン 2019。原題は「In Sunlight or In Shadow : stories inspired by the paintings of Edward Hopper」)です。
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その17枚の絵を見ると、『ナイトホークス』はありますが『線路脇の家』はありません。2枚ともアメリカのメジャーな美術館が所蔵している(それぞれシカゴ美術館とニューヨーク近代美術館)大変有名な絵です。ホッパーの代表作を10枚選べと言われたら必ず入る2枚だと思います。なぜ『線路脇の家』がないのでしょうか。
それには理由があるのかも知れません。つまり、ブロックの呼びかけに応じた小説家からすると『線路脇の家』からはどうしても『サイコ』を連想してしまう。しかし『サイコ』を凌駕するストーリーを語るのは難しそうだ、やめておこう、となるのではないでしょうか。アメリカ人の小説家ならそう思うに違いないと思います。
以降は、このホッパーの絵と恩田さんの短編を "同時に紹介" したいと思います。この恩田さんの短編は「私」の一人称であり、最初のところに「私」が初めて『線路脇の家』を見たときの感想が書かれているのですが、その文章が絵の評論にもなっていて、"同時に紹介" が可能なのです。
恩田さんの文章は、No.209「リスト:ピアノソナタ ロ短調」で『蜜蜂と遠雷』の中のリストの部分だけを引用しました。それは音楽についての文章でしたが、今度は絵画です。
エドワード・ホッパー「線路脇の家」
エドワード・ホッパーの『線路脇の家』はニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。MoMAは1929年に設立者のプライベート・コレクションを基盤に開館しますが、1930年に最初の作品群を購入しました。その中の一つが『線路脇の家』でした。
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エドワード・ホッパー(1882-1967) 「線路脇の家」(1925) (ニューヨーク近代美術館:MoMA) |
MoMAのサイトより画像を引用 |
以降は、この絵をふまえて恩田陸さんが書いた短編小説「線路脇の家」を紹介します。この小説の冒頭にはホッパーの絵から受ける印象が語られています。
恩田 陸「線路脇の家」(1)
恩田 陸さんの「線路脇の家」の冒頭部分から引用します。以下の引用では漢数字を算用数字にしたところがあります。また、段落の切れ目を空行で表し、段落の最初の字下げは省略しました。
|
恩田さんの「線路脇の家」は「私」の一人称の小説です。従ってこの冒頭部分は「私」が初めてホッパーの『線路脇の家』を見たときに感じた印象であり、その前提で読む必要があります。
上の引用の中に「何様式というのだろう。・・・・・ 19世紀の終わり、あるいは20世紀初頭に流行ったスタイルと思われる。」とありますが、この建物はイギリスのヴィクトリア朝時代の様式です。横浜の山手に洋館が立ち並ぶエリアがありますが、その中にもヴィクトリア様式の建物があります。
小説「線路脇の家」では次に、ヒチコックの『サイコ』との関係が語られます。
|
ここで引用した部分は、ホッパーの絵、および『線路脇の家』についての的確な評論になっていると思います。「作り物感があると同時に生々しさがある」としたところなど、全くその通りという感じがします。
補足しますと、上の引用の多くは『線路脇の絵』と『サイコ』に出てくる家との関係を語っているのですが、その中に、
『サイコ』のみならず、この家を模した家を登場させた映画が複数あるという
とあります。ホッパー研究の第一人者であるゲイル・レヴィン(ニューヨーク市立大学教授・美術評論家)によると、往年の名画『ジャイアンツ』(Giant。1956年公開)に出てくる家は『線路脇の家』を模しているそうです(ゲイル・レヴィン「エドワード・ホッパーと映画」による)。『ジャイアンツ』は、テキサスに広大な牧場をもつ牧場主(ロック・ハドソン)のもとに東部から名門の娘(エリザベス・テイラー)が嫁いでくる。その彼女に若い牧童(ジェームス・ディーン。この映画が遺作)が密かに好意を寄せる ・・・・・・、というシチュエーションです。この映画で、広大な牧場(レアータ牧場)の中にポツンと建つ屋敷が『線路脇の家』とそっくりです。
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映画「ジャイアンツ」のロケ地におけるジョージ・スティーブンス監督とジェームス・ディーン。後ろにレアータ屋敷(Reata mansion)のセットが見える。 |
恩田 陸「線路脇の家」(2)
ここまでの引用は「私」が『線路脇の家』を初めて見たときの印象でした。このあと、物語が動き出します。そのキーワードは "既視感" です。
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『線路脇の家』を見たときの既視感は、決して『サイコ』だけのものではない。「私」はそう気づいたのですが、それが何なのかをある時、ひょっと思い出します。「私」は友人と東京の東の方で落ち合って飲む約束をしたのですが、そこへ向かうために駅のホームにいた時です。
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電車からは家の中がよく見えました。もちろん家の中の人は電車から見えているとは思っていないのでしょう。そういうことはよくあります。そしてその家が「私の」記憶に残ったのは、単に人がいたからではあません。家の中の人は3人で、電車で通るたびにいつも同じ3人だったからです。
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ちょっと不思議な光景です。「私」が電車でお客さんのところへ向かうのは平日の昼間です。高齢の女性はともかく、比較的若そうな男女は働いていないのでしょうか。また、大きな家なのに3人が必ず2階の同じ部屋にいるのはなぜか。
こういう不思議さが記憶に残った原因のようです。ホッパーの『線路脇の家』を見たときの既視感はヒチコックの『サイコ』だけではないと「私」は感じていたのですが、その原因がはっきりしました。しかし話はまだ続きます。
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「私」は知り合いの法事に呼ばれ、東京の東の方にある初めての駅で降り、住宅街の奥にある寺までいって法事を終えました。その帰り道、知り合いといっしょに住宅街を歩いていると、いつのまにか小高い丘の麓に出ました。そしてふと見ると、そこに廃墟と化した「線路脇の家」があったのです。「私」は、しばし立ち止まって感慨にふけりました。そしてその洋館を振り返りつつ、知り合いに追いつきます。知り合いはこのあたりの住人なので洋館のことを教えてくれました ・・・・・・。
ここから結末までのストーリーを明かすのはまずいと思うので、以降は割愛します。『サイコ』とは全く違った、『サイコ』の対極にあるような話の展開になっています。この短編小説の最後は次のような記述で終わります。
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恩田陸さんの小説の紹介・引用はここまでで、以降はこの小説を読んだ感想です。
鳥籠
ホッパーの『線路脇の家』を見た印象というか、イメージを言葉で表すと、
空虚 | |
放棄された | |
取り残された | |
近寄りがたい | |
ミステリアス |
といった感じが普通かと思います。しかし恩田さんの小説では「鳥籠を連想させる」としたところがポイントでしょう。つまり、中に人が住んでいると考えたとき、その住人からするとどうだろうか。この家は、出るに出られない "鳥籠" である ・・・・・・。このイメージが『線路脇の家』という絵の印象の中心になっていて、またこのイメージで物語が結末へと進んでいきます。「鳥籠」がこの小説のキーワードになっていると思いました。
恩田さんは『サイコ』の主人公を "鳥籠に閉じこめられた鳥" になぞらえた文章を書いていました。その連想から言うと、エリザベス・テイラー演じる『ジャイアンツ』の女主人公も、東部の都会からテキサスの広大な牧場の中にポツンとある「線路脇の家」風の屋敷に嫁いできたわけです。そこはまさに彼女からすると「鳥籠」だったのではないでしょうか。
ということからすると、「線路脇の家」=「鳥籠」というイメージは恩田さんの感覚という以上に、ある種の普遍性のあるものだと思いました。
ここではないどこか
さらにこの小説で「鳥籠」と並んで重要なキーワードは「ここではないどこか」です。これは2箇所に出てきます。最初はホッパーの『線路脇の家』を見た印象を語った最初の部分、2回目は一番最後の部分です。その2つのセンテンスは次の通りです。
社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴しているように思えるのである。
あのあと、彼らはどこに行ったのだろう。「ここではないどこか」に行けたのだろうか。
あのあと、彼らはどこに行ったのだろう。「ここではないどこか」に行けたのだろうか。
No.298「中島みゆきの詩(16)ここではないどこか」で書いたように「ここではないどこか」はボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中の詩に端を発する概念です(No.298 に詩を引用)。そのボードレールの詩では、この世で生きることを病院に入院して治療をうけている病人になぞらえていました。恩田さんがボードレールを意識したのかどうかは分かりませんが、出るに出られないという意味で「鳥籠」と「病院」のイメージはかぶっています。この小説に「ここではないどこか」という言い方が用いられているのは、そういう暗示かと思いました。
「線路脇の家」=「鳥籠」(= 病院)であり、具体的に言うと「社会と接点がなく、ここではないどこかへ行くことのない、無数の疎外された人々を象徴」しているというのが、ホッパーの絵を恩田さんなりに解釈したものです。またそれが同時に小説の構成のキモになっていると感じました。
この小説は18の短編小説からなる『歩道橋シネマ』の冒頭に置かれています(最後の小説は「歩道橋シネマ」)。つまり、作者としても自信作なのでしょう。『サイコ』とは全く違った "軽い" ストーリーだけれど、ホッパーの『線路脇の絵』から受ける印象の記述と絵の解釈が非常に的確です。そこに感心しました。
2020-12-26 11:29
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No.297 - チョコレートを運ぶ娘 [アート]
No.284「絵を見る技術」は、秋田麻早子 著『絵を見る技術 ── 名画の構造を読み解く』(朝日出版社 2019)の内容をかいつまんで紹介したものでした。この中の「線のバランス」のところで、縦と横だけのシンプルな構造線をもつ絵の例として、秋田氏は上村松園の『序の舞』(1936)をあげていました。扇を持つ右手の袖の表現で分かるように、"静" と "動" のはざまの一瞬をとらえた傑作(重要文化財)です。
そして、線のバランスが『序の舞』とそっくりな絵として連想したのが、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館にあるリオタールのパステル画『チョコレートを運ぶ娘』で、そのことは No284 に書きました。
この絵は、構図(縦と横のシンプルな構造線)が『序の舞』とそっくりです。ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館には一度行ったことがありますが、実は現地に行くまでこの絵を全く知りませんでした。アルテ・マイスター絵画館の必見の名画というと、
でしょう。フェルメールの『取り持ち女』(自画像を描き込んだと言われる絵)もこの絵画館にあります。また、それ以外にもファン・エイク、ルーベンス、レンブラント、ヴァン・ダイク、ホルバイン、デューラー、ベラスケス、ムリーリョ、エル・グレコ、ティツィアーノなど、西洋古典絵画史のビッグ・ネームが揃っています。
そういった名画群の中で、全く知らなかった『チョコレートを運ぶ娘』に目が止まりました。大変に印象的だったので、記念にミュージアム・ショップでこの絵のマグネットとメモ・パッドを購入し、マグネットは今でも自宅に張ってあります。
なぜ『チョコレートを運ぶ娘』が印象的だったのか。それは「一目瞭然のシンプルな構造線が作り出す強さ」だろうと、秋田氏の本を読んで思いました。もちろん、おだやかな色のパステルで精緻に描かれた "美しさ" もあると思います。これも、構図と並んでパッと見て分かる。しかし最近の新聞を読んでいて、どうもそれだけではないぞと思いました。そのことを以降に書きます。
リオタール『チョコレートを運ぶ娘』
2020年9月11日の日本経済新聞の最終面で、美術史家の幸福輝氏(国立西洋美術館学芸員)が『チョコレートを運ぶ娘』を解説されていました。構図とは全く違う視点からの解説ですが、興味深い内容だったので以下に引用します。少々意外なことに「描かれたアジア」というシリーズの最終回です。
このコラムで着目すべきは、次の4点でしょう。
このコラムに触発されて、改めて詳しくこの絵を画集で眺めてみました。それが以降です。
娘が持っているもの
娘が持っているものを拡大したのが次の図です。コラムにはカップがマイセンの磁器(おそらく)、トレーが漆器とありましたが、もう少し詳しく見ていきます。
まずチョコレート・カップとソーサーですが、これは普通の "カップ・アンド・ソーサー" ではありません。"トランブルーズ"(Trembleuse)と呼ばれるタイプのものです。
Wikipediaによると、トランブルーズは1690年代のパリが発祥で、フランス語で「震える」という意味のようです。つまり、手が震えてもチョコレートをこぼさない仕掛けがしてあるカップ・アンド・ソーサーで、ソーサーにカップを固定するための "ホールダー" が作り付けてあります。トランブルーズは現代でも製作されていて、マイセンの実例が次の画像です。
上の画像のマイセンはすべて磁器製ですが、『チョコレートを運ぶ娘』に描かれているトランブルーズはソーサーが銀製です。銀製のソーサーはアンティークとして流通しているようで、その例を次にあげます。
『チョコレートを運ぶ娘』のトランブルーズは、銀の輪のようなホールダーがソーサーに立つように作ってあります。また、ソーサーには取っ手が付いている。親指をここにかけ、ソーサーを持って飲むためのものです。
他の注目点としては、銀のソーサーの上に置かれたビスケットでしょう。またチョコレート・カップに蓋がなく、ホット・チョコレートがギリギリ一杯に注がれているのもポイントです。
ちなみに「チョコレート・カップ」は、コーヒー・カップやティー・カップとは違う、絵に描かれたような背の高いカップです。当時は、チョコレートを溶かし、香辛料や砂糖を入れ、よくかき混ぜて泡と一緒に飲むというスタイルで、それ専用のカップです。
絵の娘はチョコレート・カップとソーサーの他に、水が入ったグラスを運んでいます。このグラスは、良く見るとカットで模様がつけてあるようです。これはボヘミアのガラス器でしょう。
このグラスには、窓の形の反射が2つ描かれています。この娘は2つの窓からの光の中にいることを示しています。
日経新聞のコラムに、娘が運んでいるトレーは漆器だとありました。アートについてのウェブ・マガジン、"www.apollo.com" のこの絵の解説(2018.11.20。筆者:Tessa Murdock)には、この漆器は日本製だと書いてあります。娘が持っているものでは唯一の東洋からの輸入品ということになります(輸入品としては、他にカカオ)。この漆器が一番高価かもしれません。同じ解説には、チョコレート・カップは当然のようにマイセンの磁器と書いてありました。
この絵は、画家のリオタールはウィーン滞在中(1743~45)に描かれました。場所はウィーンの貴族の館でしょう。メイドの彼女が朝、女主人にチョコレートを運びます。女主人はベッドの上で、ソーサーを手に持ちながらチョコレートをゆっくりと飲む。そして苦さを緩和するため甘いビスケットを食べ、水を飲む。それを繰り返す ・・・・・・。そういった情景が浮かびます。
描かれているのはすべて高価なもので、マイセンの磁器、銀のトランブルーズ、ボヘミアン・グラス、そして日本製の漆器です。いかにも貴族の邸宅の光景という感じがします。
そして、この絵がとらえた瞬間を考えてみると、メイドの彼女はチョコレート・カップを慎重に、静かに運んでいるはずです。18世紀のチョコレートは貴重なものです。しかも絵のカップには蓋がなく、チョコレートがなみなみと注がれている。彼女はこぼさないよう、そろりそろりと運んでいるに違いありません。
精緻に仕上げられたパステル画
全体を見渡すと、この絵の大きなポイントは "パステル画" だということです。日本経済新聞のコラムに、
とありました。このブログでもパステル画を引用したことが何回かあります。それはドガとカサットの作品で、いかにも「粉状の脆弱感と自然な即興性」との印象を受ける絵です(No.86, No.87, No.97, No.157)。それは一般的なパステル画のイメージでしょう。
しかしこの絵は違って、細部まで精緻に仕上げられています。また明るい色で、かつ中間色が使われている。ファッションなどの世界で "パステル・カラー" という言い方をしますが、赤・青・緑などの原色ではない "中間色" という意味です。『チョコレートを運ぶ娘』はまさにパステル・カラーの絵です。この絵は「最も美しいパステル画」と評されることがあるそうですが、まさにそういう感じがします。
しかも、展示してあるのがドレスデンの "アルテ・マイスター絵画館" です。英語に直訳すると "Old Masters' Gallery" で、18世紀かそれ以前の古典絵画の展示館です。名画が並んでいますが、それらに使われている多くの色はいわゆる "アースカラー" で、岩石や土が原料の顔料です。全般的に暗い色が多い。その中で、明るいパステル・カラーのこの絵は "目立つ絵" です。全く知らなかったこの絵に目が止まったのは、そういう理由もあるのだと思いました。
"中国的" とは ?
日本経済新聞に幸福輝氏が書いたコラムは「描かれたアジア」というシリーズで、その最終回が『チョコレートを運ぶ娘』でした。その文章の最後の方に、この絵を評して「中国的」との表現がありました。だから「描かれたアジア」なのでしょう。なぜ中国的なのか、コラムのその部分を再度引用すると次の通りです。
これを読むと、「瞬間の生動感を狙ったようには見えないから中国的」と読み取れます。確かに、慎重にチョコレートを運んでいる姿からは "動き" があまり感じられません。この静的な雰囲気が中国的ということでしょう。もちろん、その他に「磁器のチョコレート・カップに漆器のトレー」というアジア由来のアイテムがあることも「描かれたアジア」なのだろうと思います。
しかし、アルテ・マイスター絵画館の公式カタログ「ドレスデンの名画:アルテ・マイスター絵画館」(2006。日本語版)には、別の説明がありました。


ヨーロッパの画法では、陰影を使って対象の3次元的造形をするのが伝統です。上に引用したコレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」がまさにその典型です。一方、中国や日本の伝統的な絵画は影を使いません。『序の舞』のように。
上の引用に「画法はヨーロッパのもの」とあるように、この絵は伝統的な画法を踏まえています。しかし影は(もちろんありますが)最小限に抑えてあります。2箇所からの明るい光を受けて、段階付けられた微妙な陰影で、浮き彫りのような効果を出しています。石や貝殻に浮き彫りをする技術を "カメオ" と言いますが、この絵はちょうど瑪瑙を素材にしたカメオのような効果を出しています。
このような "影を極力抑えた" 描き方が中国的だと、上の引用は言っています。おそらくヨーロッパ人からすると、この絵は「何か違うな、斬新だ」と感じるのでしょう。我々日本人からすると、この "中国的な" 描き方は自然で普通だと見えるのですが、その普通の絵がアルテ・マイスター絵画館の中では目立っているのです。この絵画館は西洋古典絵画の展示館です。そこでは光と影が交錯し、その強いコントラストで描かれている絵が多い。ないしは、ほとんど作画対象が暗い影の中にあり、その絵の焦点だけが明るい光に照らされて浮かび上がるような絵です。
そのような絵が多数ある中で『チョコレートを運ぶ娘』は、光と影のコントラストとは無縁であり、全体が明るく輝いています。そのことがこの絵を絵画館の中でも目立つものにしているのでしょう。
名画には理由がある
ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館の『チョコレートを運ぶ娘』について、以上の考察をまとめると次のようになるでしょう。
この絵を見て惹かれる要因の一つが、"東洋的" ということかもしれません。我々からすると全く違和感のない絵ですが、アルテ・マイスター絵画館においてはまさそこが際立っているということでしょう。
『序の舞』を引き合いに出したのは、秋田麻早子氏の著書『絵を見る技術』(No.284)からの連想でしたが、この本の結論として秋田氏は、
と書いていました。パッと見て "いいな" と思った『チョコレートを運ぶ娘』について、なぜそう思ったのかを探るために「作品の客観的な特徴」を考えてみましたが、なるほどそうすることで絵画の楽しみ方の幅が広がると実感しました。
2022年7月15日の日本経済新聞に、リオタールの「チョコレートを運ぶ娘」に関するコラムが再び掲載されました。今回は "名画の器 十選" と題したコラムで、筆者は西洋陶芸史家の大平雅巳氏です。以下に引用します。
この記事での新情報は、描かれたカップが
というところです。大平氏は西洋陶磁器史の専門家なので「ウィーン磁器工場の製品」というはその可能性が高いのでしょう。柿右衛門の梅の図と言われればそういう感じであり、ここにもまた "アジア" があるのでした。
2024年2月14日の朝日新聞の天声人語は、有田焼のチョコレート・カップが欧米に輸出されたという話題がテーマでした。それを引用します。天声人語は▼で区切られた6段落の文ですが、段落を空行で区切って引用します。
こうしてみると、「チョコレートを運ぶ娘」のチョコレート・カップが、日本から輸入された高価な有田焼であったとしても、おかしくはないわけです。もし仮にヨーロッパ産の磁器が広まる前だったらその可能性もある。当時のグローバル経済の一端がわかります。
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上村松園「序の舞」 |
「絵を見る技術」で著者の秋田氏は「縦の線とそれを支える横の線」という線のバランスをもつ絵画の例として、上村松園の「序の舞」をあげていた。 |
そして、線のバランスが『序の舞』とそっくりな絵として連想したのが、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館にあるリオタールのパステル画『チョコレートを運ぶ娘』で、そのことは No284 に書きました。
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リオタール 「チョコレートを運ぶ娘」 |
この絵は、構図(縦と横のシンプルな構造線)が『序の舞』とそっくりです。ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館には一度行ったことがありますが、実は現地に行くまでこの絵を全く知りませんでした。アルテ・マイスター絵画館の必見の名画というと、
ラファエロの『システィーナの聖母』 絵画館の "顔" となっている作品。No.284 に画像を引用。 | |
ジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』 数々の西洋絵画のルーツと言える作品。マネの『オランピア』の源流と考えられる。 | |
フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』 フェルメール作品の中でも傑作。No.295 に画像を引用。 |
でしょう。フェルメールの『取り持ち女』(自画像を描き込んだと言われる絵)もこの絵画館にあります。また、それ以外にもファン・エイク、ルーベンス、レンブラント、ヴァン・ダイク、ホルバイン、デューラー、ベラスケス、ムリーリョ、エル・グレコ、ティツィアーノなど、西洋古典絵画史のビッグ・ネームが揃っています。
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ドレスデン アルテ・マイスター絵画館 |
アルテ・マイスター絵画館は、ツヴィンガー宮殿の庭に面している。ほぼ横に一直線の建物で、展示室は40程度しかないが、古典絵画の名品が並んでいる。 |
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なぜ『チョコレートを運ぶ娘』が印象的だったのか。それは「一目瞭然のシンプルな構造線が作り出す強さ」だろうと、秋田氏の本を読んで思いました。もちろん、おだやかな色のパステルで精緻に描かれた "美しさ" もあると思います。これも、構図と並んでパッと見て分かる。しかし最近の新聞を読んでいて、どうもそれだけではないぞと思いました。そのことを以降に書きます。
リオタール『チョコレートを運ぶ娘』
2020年9月11日の日本経済新聞の最終面で、美術史家の幸福輝氏(国立西洋美術館学芸員)が『チョコレートを運ぶ娘』を解説されていました。構図とは全く違う視点からの解説ですが、興味深い内容だったので以下に引用します。少々意外なことに「描かれたアジア」というシリーズの最終回です。
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ジャン = エティエンヌ・リオタール (1702 - 1789) 「チョコレートを運ぶ娘」(1744/45) |
パステル 羊皮紙 (82.5×52.5cm) ドレスデン アルテ・マイスター絵画館 |
美の十選:描かれたアジア(10) |
このコラムで着目すべきは、次の4点でしょう。
チョコレート・カップはマイセンの磁器(だろう)。 | |
娘が持っているトレーは漆器である。 | |
リオタールはパステルの名手で、この絵は羊皮紙に描かれ、磁器を思わせる入念な仕上げが施されている。 | |
この絵は制作当時、"中国的" と評された。 |
このコラムに触発されて、改めて詳しくこの絵を画集で眺めてみました。それが以降です。
娘が持っているもの
娘が持っているものを拡大したのが次の図です。コラムにはカップがマイセンの磁器(おそらく)、トレーが漆器とありましたが、もう少し詳しく見ていきます。
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 チョコレート・カップとソーサー  |
まずチョコレート・カップとソーサーですが、これは普通の "カップ・アンド・ソーサー" ではありません。"トランブルーズ"(Trembleuse)と呼ばれるタイプのものです。
Wikipediaによると、トランブルーズは1690年代のパリが発祥で、フランス語で「震える」という意味のようです。つまり、手が震えてもチョコレートをこぼさない仕掛けがしてあるカップ・アンド・ソーサーで、ソーサーにカップを固定するための "ホールダー" が作り付けてあります。トランブルーズは現代でも製作されていて、マイセンの実例が次の画像です。
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マイセンの磁器製トランブルーズ (マイセンのサイトより) |
上の画像のマイセンはすべて磁器製ですが、『チョコレートを運ぶ娘』に描かれているトランブルーズはソーサーが銀製です。銀製のソーサーはアンティークとして流通しているようで、その例を次にあげます。
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1750年代にドイツのアウグスブルクで製作されたトランブルーズ。オークション・ハウス、ドロテウムのサイトより。 |
『チョコレートを運ぶ娘』のトランブルーズは、銀の輪のようなホールダーがソーサーに立つように作ってあります。また、ソーサーには取っ手が付いている。親指をここにかけ、ソーサーを持って飲むためのものです。
他の注目点としては、銀のソーサーの上に置かれたビスケットでしょう。またチョコレート・カップに蓋がなく、ホット・チョコレートがギリギリ一杯に注がれているのもポイントです。
ちなみに「チョコレート・カップ」は、コーヒー・カップやティー・カップとは違う、絵に描かれたような背の高いカップです。当時は、チョコレートを溶かし、香辛料や砂糖を入れ、よくかき混ぜて泡と一緒に飲むというスタイルで、それ専用のカップです。
 グラス  |
絵の娘はチョコレート・カップとソーサーの他に、水が入ったグラスを運んでいます。このグラスは、良く見るとカットで模様がつけてあるようです。これはボヘミアのガラス器でしょう。
このグラスには、窓の形の反射が2つ描かれています。この娘は2つの窓からの光の中にいることを示しています。
 トレー  |
日経新聞のコラムに、娘が運んでいるトレーは漆器だとありました。アートについてのウェブ・マガジン、"www.apollo.com" のこの絵の解説(2018.11.20。筆者:Tessa Murdock)には、この漆器は日本製だと書いてあります。娘が持っているものでは唯一の東洋からの輸入品ということになります(輸入品としては、他にカカオ)。この漆器が一番高価かもしれません。同じ解説には、チョコレート・カップは当然のようにマイセンの磁器と書いてありました。
この絵は、画家のリオタールはウィーン滞在中(1743~45)に描かれました。場所はウィーンの貴族の館でしょう。メイドの彼女が朝、女主人にチョコレートを運びます。女主人はベッドの上で、ソーサーを手に持ちながらチョコレートをゆっくりと飲む。そして苦さを緩和するため甘いビスケットを食べ、水を飲む。それを繰り返す ・・・・・・。そういった情景が浮かびます。
描かれているのはすべて高価なもので、マイセンの磁器、銀のトランブルーズ、ボヘミアン・グラス、そして日本製の漆器です。いかにも貴族の邸宅の光景という感じがします。
そして、この絵がとらえた瞬間を考えてみると、メイドの彼女はチョコレート・カップを慎重に、静かに運んでいるはずです。18世紀のチョコレートは貴重なものです。しかも絵のカップには蓋がなく、チョコレートがなみなみと注がれている。彼女はこぼさないよう、そろりそろりと運んでいるに違いありません。
精緻に仕上げられたパステル画
全体を見渡すと、この絵の大きなポイントは "パステル画" だということです。日本経済新聞のコラムに、
パステルは18世紀肖像画の主要技法で、リオタールはパステルの名手だった。粉状の脆弱感と自然な即興性が当時の趣味に合致したのか、パステルは貴族たちに好まれた。
とありました。このブログでもパステル画を引用したことが何回かあります。それはドガとカサットの作品で、いかにも「粉状の脆弱感と自然な即興性」との印象を受ける絵です(No.86, No.87, No.97, No.157)。それは一般的なパステル画のイメージでしょう。
しかしこの絵は違って、細部まで精緻に仕上げられています。また明るい色で、かつ中間色が使われている。ファッションなどの世界で "パステル・カラー" という言い方をしますが、赤・青・緑などの原色ではない "中間色" という意味です。『チョコレートを運ぶ娘』はまさにパステル・カラーの絵です。この絵は「最も美しいパステル画」と評されることがあるそうですが、まさにそういう感じがします。
しかも、展示してあるのがドレスデンの "アルテ・マイスター絵画館" です。英語に直訳すると "Old Masters' Gallery" で、18世紀かそれ以前の古典絵画の展示館です。名画が並んでいますが、それらに使われている多くの色はいわゆる "アースカラー" で、岩石や土が原料の顔料です。全般的に暗い色が多い。その中で、明るいパステル・カラーのこの絵は "目立つ絵" です。全く知らなかったこの絵に目が止まったのは、そういう理由もあるのだと思いました。
"中国的" とは ?
日本経済新聞に幸福輝氏が書いたコラムは「描かれたアジア」というシリーズで、その最終回が『チョコレートを運ぶ娘』でした。その文章の最後の方に、この絵を評して「中国的」との表現がありました。だから「描かれたアジア」なのでしょう。なぜ中国的なのか、コラムのその部分を再度引用すると次の通りです。
磁器を思わせる入念な仕上げが施された本作品は、通常のパステルとはどこか違う。ほぼプロフィールで描かれた娘の姿も、瞬間の生動感を狙ったようには見えない。制作当時、この作品は「中国的」と評されたとの記録が残っているが、そのあたりに、この画家が凝らした制作の機微が潜んでいるのかもしれない。
これを読むと、「瞬間の生動感を狙ったようには見えないから中国的」と読み取れます。確かに、慎重にチョコレートを運んでいる姿からは "動き" があまり感じられません。この静的な雰囲気が中国的ということでしょう。もちろん、その他に「磁器のチョコレート・カップに漆器のトレー」というアジア由来のアイテムがあることも「描かれたアジア」なのだろうと思います。
しかし、アルテ・マイスター絵画館の公式カタログ「ドレスデンの名画:アルテ・マイスター絵画館」(2006。日本語版)には、別の説明がありました。
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ドレスデンの名画 アルテ・マイスター絵画館 (公式カタログ) |
表紙の絵は、16世紀のイタリアのパルマで活躍したコレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」。厳粛な雰囲気とは対極にある宗教画である。光と影の効果で立体のモデリングをすると同時に、光で人物の重要度を表している。一番強い光が聖母子に当たり、その次が左の洗礼者ヨハネ(毛皮を着て杖を持っている)、最後に右の聖ゲオルギウスの順である。 |
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ヨーロッパの画法では、陰影を使って対象の3次元的造形をするのが伝統です。上に引用したコレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」がまさにその典型です。一方、中国や日本の伝統的な絵画は影を使いません。『序の舞』のように。
上の引用に「画法はヨーロッパのもの」とあるように、この絵は伝統的な画法を踏まえています。しかし影は(もちろんありますが)最小限に抑えてあります。2箇所からの明るい光を受けて、段階付けられた微妙な陰影で、浮き彫りのような効果を出しています。石や貝殻に浮き彫りをする技術を "カメオ" と言いますが、この絵はちょうど瑪瑙を素材にしたカメオのような効果を出しています。
このような "影を極力抑えた" 描き方が中国的だと、上の引用は言っています。おそらくヨーロッパ人からすると、この絵は「何か違うな、斬新だ」と感じるのでしょう。我々日本人からすると、この "中国的な" 描き方は自然で普通だと見えるのですが、その普通の絵がアルテ・マイスター絵画館の中では目立っているのです。この絵画館は西洋古典絵画の展示館です。そこでは光と影が交錯し、その強いコントラストで描かれている絵が多い。ないしは、ほとんど作画対象が暗い影の中にあり、その絵の焦点だけが明るい光に照らされて浮かび上がるような絵です。
そのような絵が多数ある中で『チョコレートを運ぶ娘』は、光と影のコントラストとは無縁であり、全体が明るく輝いています。そのことがこの絵を絵画館の中でも目立つものにしているのでしょう。
名画には理由がある
ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館の『チョコレートを運ぶ娘』について、以上の考察をまとめると次のようになるでしょう。
娘が運んでいるものはどれも高価で、いかにも貴族の館での光景である。またマイセンの磁器製チョコレート・カップと日本の漆器のトレーは、当時の上流階級の東洋趣味を反映している。 | |
全体が明るいパステル・カラーで精緻に仕上げられている。また陰影付けは最低限に抑えられている。これらの点が、アルテ・マイスター(=古典)絵画館の中でも異色の作品にしている。 | |
最初にあげた上村松園の『序の舞』との類似性という観点では、まず第一に「縦と横の、シンプルで強い構造線が作るバランス」である。この構図が大変に印象深い。 | |
さらに『序の舞』との類似性は、"静" と "動" のはざまを描いている、ないしは "静" のような "動" を描いているところである。 | |
この絵は『序の舞』との共通項があることから推測できるように、西欧人からすると "東洋的" な雰囲気を感じるのだろう。それが描かれた当時の「中国的」という評価につながった。 |
この絵を見て惹かれる要因の一つが、"東洋的" ということかもしれません。我々からすると全く違和感のない絵ですが、アルテ・マイスター絵画館においてはまさそこが際立っているということでしょう。
『序の舞』を引き合いに出したのは、秋田麻早子氏の著書『絵を見る技術』(No.284)からの連想でしたが、この本の結論として秋田氏は、
自分の好き・嫌い」と「作品の客観的な特徴」が分けられるようになると、楽しみ方の幅がぐっと広がる |
と書いていました。パッと見て "いいな" と思った『チョコレートを運ぶ娘』について、なぜそう思ったのかを探るために「作品の客観的な特徴」を考えてみましたが、なるほどそうすることで絵画の楽しみ方の幅が広がると実感しました。
補記1:描かれた磁器 |
2022年7月15日の日本経済新聞に、リオタールの「チョコレートを運ぶ娘」に関するコラムが再び掲載されました。今回は "名画の器 十選" と題したコラムで、筆者は西洋陶芸史家の大平雅巳氏です。以下に引用します。
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この記事での新情報は、描かれたカップが
柿右衛門の垣梅に似た、ウィーン磁器工場の製品(と思われる)
というところです。大平氏は西洋陶磁器史の専門家なので「ウィーン磁器工場の製品」というはその可能性が高いのでしょう。柿右衛門の梅の図と言われればそういう感じであり、ここにもまた "アジア" があるのでした。
(2022.7.15)
補記2:有田焼 チョコレート・カップの輸出 |
2024年2月14日の朝日新聞の天声人語は、有田焼のチョコレート・カップが欧米に輸出されたという話題がテーマでした。それを引用します。天声人語は▼で区切られた6段落の文ですが、段落を空行で区切って引用します。
コーヒーカップやティーカップは日常的に使っているが、チョコレートカップなる磁器があったとは知らなかった。江戸時代には鎖国中の日本から輸入して、欧州や中米の人々がチョコレートを飲んでいたという。どんなカップが、どう運ばれたのか。 大航海時代に中米から欧州へ持ち込まれたカカオは、まず飲み物として広まった。水に溶かして砂糖や香辛料などを加え、よくかき混ぜる。泡と一緒に飲む際に背が高い専用器が求められ、チョコレートカップが生まれた。 長崎大教授の野上建紀さんによると、当初は中国が最大の輸出国だったが、王朝交代に伴う混乱や貿易制限策で激減。代わりに、有田焼をはじめとする上質な日本の肥前磁器が注目された。17世紀半ばには、長崎の出島から西回りでの輸出が始まったという。 野上さんは東回りの太平洋ルートもあったのではと考えた。当時、フィリピンとメキシコをガレオン船が結んでいたからだ。20年前にマニラの遺跡で、その根拠となる有田焼の皿を初めて発見したときは「祝杯をあげた」そうだ。のちに、背の高いカップも見つかった。 中米での出土品などから、太平洋ルートで運ばれた肥前磁器の「主力商品」がこのカップだったこともわかった。アジアと新大陸を結んだ海の道は、チョコレートの道でもあった。 日本の職人たちは、味わったことのない飲み物の器をつくっていた。バレンタインデーのきょう、歴史に思いをはせながらホットチョコレートを飲もうか。 朝日新聞(2024.2.14) |
こうしてみると、「チョコレートを運ぶ娘」のチョコレート・カップが、日本から輸入された高価な有田焼であったとしても、おかしくはないわけです。もし仮にヨーロッパ産の磁器が広まる前だったらその可能性もある。当時のグローバル経済の一端がわかります。
2020-10-31 11:48
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No.295 - タンギー爺さんの画中画 [アート]
このブログでは過去にさまざまな絵画を取り上げましたが、その中に「絵の中の絵」、いわゆる "画中画" が描かれたものがありました。しかも、画中画が絵のテーマと密接な関係にあるものです。今回はそういった絵の一つであるゴッホの作品について書くのが目的ですが、その前に過去に取り上げた画中画を振り返ってみたいと思います。
フェルメール
フェルメールの作品には、室内に左上から光が差し込み、人物がいて、後ろの壁には絵がある、という構図が多くあります。その一つが No.248「フェルメール:牛乳を注ぐ女」で引用した『窓辺で手紙を読む女』(1657頃。ドレスデン アルテ・マイスター絵画館所蔵)です。この絵の後の壁には何も描かれていないのですが、実は後世の誰かが壁を塗りつぶしたことが分かっています。そして、オリジナル復元のための修復を進めると、後の壁から画中画が出現したというニュースが2019年の5月に報道されました。修復の途中ですが、明らかにキューピッドの姿が見て取れます。
ということは、描かれた女性は恋人からラヴ・レターを読んでいることになります。フェルメール作品によくあるように、絵のテーマを画中画で表している。しかし・・・。
まだ修復途中だということが気になります。画中画の全容が明らかになると、キューピッドの下に何か別のアイテムが描かれていて、トータルすると恋の破局を表しているのかも知れません。
なお、このブログで引用したフェルメールの作品では、No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の『天秤を持つ女』にも画中画が描かれています。後ろの壁の絵の画題は "最後の審判" であり、いかにも "意味ありげ" な雰囲気がひしひしと伝わってくるのでした。
ベラスケス
ベラスケスの『ラス・メニーナス』には、分かりにくいのですが、後ろの壁に2枚の大きな絵が描き込まれています。
No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」で書いたように、2枚の絵はギリシャ神話がテーマです。左の絵はルーベンスの『パラスとアラクネ』で、右の絵はヨールダンスの『アポロンとパン』です。
『パラスとアラクネ』の完成作の所在は不明ですが、ルーベンス自身が油彩で描いた下絵が現存しているので(上の引用)『ラス・メニーナス』の画中画だと特定できます。そして、この2つの絵には明らかな共通点があります。つまり、
という共通点です。アラクネは機織りでパラスに挑み、半人半獣の牧神パンは笛でアポロンと音楽競技をしたのでした。このことからして『ラス・メニーナス』の画中画は、「絵画の技量で神の領域に迫りたい」という画家の想いを表していると考えるのが妥当でしょう。
なお、ベラスケス作『アラクネの寓話』(プラド美術館)の中にも、画中画としてティツィアーノの『エウロペの略奪』(ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館所蔵)が描き込まれています。それによってこの絵の画題がギリシャ神話の "アラクネの物語" であることを暗示しているのでした(No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」)。
マネ
No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、マネがゾラを自宅に招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868)を引用しました。
この絵の右上には、画中画として3枚の複製画が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』ですが、残り2枚は、初代 歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右エ門』(1860)と、ベラスケスの『バッカスの勝利』です。なお2代目ではなく初代 歌川国明(2代目の兄)というのは、日本女子大名誉教授の及川茂氏の調査結果によります。
エミール・ゾラは、酷評されることも多かったマネの作品に好意的な批評を書きました。そのマネは浮世絵に学び、ベラスケスを絶賛しています(No.36「ベラスケスへのオマージュ」、No.231「消えたベラスケス(2)」)。『エミール・ゾラの肖像』は、自らが愛する浮世絵とベラスケスを画中画として配置することにより、ゾラに対する敬愛の念を表したものでしょう。
スーラ
フィラデルフィアのバーンズ・コレクションのメインルームには、スーラの大作『ポーズする女たち』があります(No.95「バーンズ・コレクション」)。この絵には、スーラ自身の『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(No.115「日曜日の午後に無いもの」)が画中画として描き込まれています。
この画中画の意図についてはさまざまな説や憶測が提示されていますが、決定的なものは無いようです。ただ一つ言えることは、「点描の手法で風景・風俗だけでなく、裸婦像も描けるのだと宣言した」ことでしょう。さらに一歩進んで『ポーズする女たち』が『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を凌駕する作品だと言いたかったのかもしれません。
以上のフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの作品をを見てくると、
ことがわかります。つまり画中画にはメッセージ性があります。そのメッセージ性を最も強く押し出したのが、フィンセント・ファン・ゴッホの『タンギー爺さん』だと思います。以下、このゴッホの有名な作品について書きます。
ゴッホ『タンギー爺さん』
2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」で、ゴッホの『タンギー爺さん』が特集されていました。以下、その番組内容を踏まえてこの絵について書きますが、「新・美の巨人たち」では無かった事項も含みます。
『タンギー爺さん』はパリのロダン美術館が所蔵しています。オーギュスト・ロダンその人がこの絵を購入しました。この肖像画のタンギー爺さんとは、パリで画材屋をしていたジュリアン・フランソワ・タンギーという人です。
この絵に描かれている浮世絵の画中画は、上に引用したフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの画中画とは異質です。フェルメール以下の作品は、室内ないしは画家のアトリエの光景であり、その室内やアトリエに実際にある絵として画中画が描かれています。実際にはなかったとしても、あたかもそこに絵が掲げられているかように描かれている。
しかしゴッホの『タンギー爺さん』は違います。タンギーは画材屋であり、浮世絵を扱う画商ではありません。この絵の浮世絵の背景はゴッホが肖像の後ろに恣意的に描き込んだものです。現代で言うとパソコンの壁紙、スマホの待ち受け画面、ZOOMのバーチャル背景といったところでしょう。
なぜ実際にはそこにない浮世絵を描き込んだのか、それがこの絵のポイントなのですが、まず、描かれている6枚の浮世絵のオリジナル画像を順に見ていきます。
画中画の浮世絵
ゴッホは400点以上の浮世絵を集めていた "浮世絵コレクター" でした。『タンギー爺さん』には、風景が4枚、花魁が2枚の浮世絵が描かれていますが、まず風景の4枚です。
上右の風景は、歌川広重『五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら 範頼の祠』です。広重が晩年(59歳)の作品で、有名な「東海道五十三次」とは違って縦型の版であり、「竪絵東海道」とも呼ばれるシリーズの1枚です。
石薬師は東海道53次の44番目の宿で、現在の三重県鈴鹿市です。また題名の範頼は、義経の異母兄弟の源範頼です。平氏追討に向かう源範頼が、戦勝祈願のために桜の枝を地面に刺したところ、そこから芽が出て桜の木になったという伝説があります。その後いつしか「義経桜」とも呼ばれるようになりました。この広重の絵の桜は、現在でも「石薬師の蒲桜」という名で、花を咲かせているそうです(蒲とは範頼のこと)。
これは言うまでもなく春の風景です。ゴッホは桜の周辺の色を濃く、中を薄く描いています。
上の真ん中の富士山が見える浮世絵の元絵は、石薬師と同じく広重の『富士三十六景 さがみ川』です。相模川は現在の神奈川県平塚市と茅ヶ崎市の間を流れて相模湾に注ぐ川です。富士の手前の山は丹沢山系の大山でしょうか。
元絵と比較すると、ゴッホは空の色を茜色に変えています。さらに重要なポイントは、川の芦を茶色く枯れかかった色にしていることです。これによって、この画中画は秋の風景を思わせるものになりました。
この雪景色の絵の元絵は特定されていません。現在は知られていない無名の浮世絵師の絵か、ないしは、元絵にゴッホが雪を描き加えたという説もあります。いずれにせよ、ゴッホはここに冬の光景を配置しました。
この左下の朝顔の絵は、長らく二代目歌川広重の「東都名所 三十六花撰 入谷朝顔」ではないかとされてきましたが、1999年に無名の作者の縮緬絵(ちりめん絵。フランス語でクレポン)であることが特定されました。
『タンギー爺さん』と『東京名所 以里屋』を比較してみると、ゴッホはつぼみも含めて朝顔の花の位置を忠実にコピーしていることがわかります。ファン・ゴッホ美術館は縮緬絵を次のように解説しています。
縮緬絵の「東京名所 以里屋」は、その現物が1999年にパリで発見され、山口県立萩美術館・浦上記念館が買い取って所蔵しています。ちなみに版元は「伊勢屋辰五郎」ですが、現在も台東区の「いせ辰」の屋号で江戸千代紙や風呂敷の店として続いています。その台東区・入谷の朝顔市(7月上旬)は、現在も続く夏の風物詩です。
まとめると、風景の4枚は「春夏秋冬」の日本の四季です。さらに「桜」と「富士山」という、日本を代表する画題が含まれています。元絵が不明な冬を除いた春・夏・秋は、現代の日本にも受け継がれた光景です。
左の花魁の絵は、歌川国貞の「三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」です。吉原の遊郭の一つである三浦屋は、遊女のトップを代々 "高尾太夫" という名で呼ぶ習わしでした。この絵はいわゆる役者絵で、女形の岩井粂三郎が高尾太夫を演じる姿が描かれています。
元絵は、1886年の「パリ・イリュストレ誌」の日本特集号の表紙です。この号では浮世絵が特集され、ゴッホは繰り返し読んだと言います。表紙は、渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』の反転画像です。ゴッホは反転の状態でそのまま描いています。なお、この表紙の花魁を模写した油絵作品がファン・ゴッホ美術館に残されています。
まとめると、画中画の6枚の浮世絵は「桜と富士と日本の四季のうつろい、日本女性のあで姿」ということになります。ゴッホが浮世絵の画題として最も惹かれたものだったのでしょう。
ジュリアン・タンギー
2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」では、この6枚の浮世絵には画家のメッセージが隠されていると説明されていました。それを以下に紹介します。発言しているのは、フランスの小説家・美術評論家・美術史家のパスカル・ボナフー(Pascal Bonafoux. 1949 - )です。ゴッホに関する著作もある人です。
なぜこのように言えるのか。それはこの肖像画の主人公、ジュリアン・タンギーのことを知る必要があります。
タンギーは腕利きの絵の具職人でした。モンマルトルのクローゼル街に画材屋を開いており、ゴッホはその常連客でした。ここは貧しい画家のたまり場でもあった。タンギーは食うや食わずの画家に絵の具を貸し、作品をショーウィンドーに飾りました。ゴッホもその恩恵にあずかった一人です。
実はタンギーは、画材屋を開く前は監獄にいました。発端は1870年に勃発したプロイセン・フランス間の普仏戦争です。この戦争に惨敗したフランスは、プロイセンと講和条約を結び、膨大な賠償金を支払うともにアルザス・ロレーヌを割譲しました。しかし徹底抗戦を主張した市民は1871年に自治政府、パリ・コミューンを結成します。その自治政府にタンギーも加わったのです。
1871年5月、パリ・コミューンは政府軍によって鎮圧されました(多数の市民が惨殺された。No.13「バベットの晩餐会(2)」参照)。タンギーは逮捕され、監獄送りになしました。そして出所してから画材屋をはじめたわけです。肖像を描いたゴッホはその事実を知っていました。
背景に "イコン" としての浮世絵を描いた絵がもう一枚あります。ロンドンのコートールド・ギャラリー(No.155「コートールド・コレクション」参照)が所蔵する「耳に包帯をした自画像」です。
アルルで発作的に耳を切りつけたあと、ゴッホは復活するつもりだったと推測できます。それをこの絵が表しています。その証拠に、背後に浮世絵と新しいカンヴァスとイーゼルが描かれています。「もっと描くぞ」と宣言しているようです。
ちなみに、コートールド・ギャラリーのサイトでは、この絵の画中画の元絵を佐藤虎清の「芸者(Geishas in a Landscape)」としています。
『タンギー爺さん』を描いた3年後、ゴッホはパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズで自殺しました。タンギー爺さんは、ゴッホの葬儀に参列した10数名のうちの一人でした。
『タンギー爺さん』の背景に描かれている浮世絵については数々のことが言われてきました。それらの中で「ゴッホは感謝の念を込めて、タンギーの肖像を描くと同時に6枚の浮世絵を画中画として描き込んだ」というパスカル・ボナフー氏の説明は、非常に納得性の高いものだと思いました。その意味では、ゾラの肖像の後ろに浮世絵とベラスケスを描いたマネに似ています。
ゴッホにとって、画家としての自分を導いてくれた2つの存在が、この肖像画にダイレクトに表現されている。そういうことだと思います。
本文で画中画が描かれたマネの『エミール・ゾラの肖像』のことを書きましたが、別のマネの作品を思い出したので書いておきます。ベルド・モリゾを描いた『休息』という作品です。
この作品は背後に画中画が描かれていますが、これは歌川国芳の『龍宮玉取姫之図』です。
「龍宮玉取姫之図」の画題は、讃岐の士度寺の縁起物語であり、能の「海人」にも取り入れられた伝説です。詳しいことは省略しますが、一言で言うと「海女が龍神に取られた玉を取り戻す」という話です。
問題は、ベルド・モリゾの後ろになぜ浮世絵をもってきたかです。作家で美術史家の木々康子氏(19世紀後半のパリで活躍した画商、林忠正の孫の妻にあたる)は、この絵の構図が浮世絵の "こま絵" に習ったものではないか、と推測しています(木々康子「春画と印象派」筑摩書房 2015)。こま絵の例を次に掲げます。
木々氏が言うように、浮世絵愛好家のマネとしては "こま絵" の構図を採用してこの絵を描いたのかもしれません。しかしここでなぜコマの中が(西洋画ではなく)浮世絵で、しかも「龍宮玉取姫之図」なのでしょうか。私の推測は次のどちらか、ないしは両方です。
絵を見てどう解釈するかは鑑賞者の自由です。それは、"鑑賞者の権利" であると言ってもよいでしょう。
フェルメール
フェルメールの作品には、室内に左上から光が差し込み、人物がいて、後ろの壁には絵がある、という構図が多くあります。その一つが No.248「フェルメール:牛乳を注ぐ女」で引用した『窓辺で手紙を読む女』(1657頃。ドレスデン アルテ・マイスター絵画館所蔵)です。この絵の後の壁には何も描かれていないのですが、実は後世の誰かが壁を塗りつぶしたことが分かっています。そして、オリジナル復元のための修復を進めると、後の壁から画中画が出現したというニュースが2019年の5月に報道されました。修復の途中ですが、明らかにキューピッドの姿が見て取れます。
ということは、描かれた女性は恋人からラヴ・レターを読んでいることになります。フェルメール作品によくあるように、絵のテーマを画中画で表している。しかし・・・。
まだ修復途中だということが気になります。画中画の全容が明らかになると、キューピッドの下に何か別のアイテムが描かれていて、トータルすると恋の破局を表しているのかも知れません。
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フェルメール(1632-1675) 「窓辺で手紙を読む女」(1657頃) - 修復中の画像 - |
ドレスデン アルテ・マイスター絵画館 |
なお、このブログで引用したフェルメールの作品では、No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の『天秤を持つ女』にも画中画が描かれています。後ろの壁の絵の画題は "最後の審判" であり、いかにも "意味ありげ" な雰囲気がひしひしと伝わってくるのでした。
ベラスケス
ベラスケスの『ラス・メニーナス』には、分かりにくいのですが、後ろの壁に2枚の大きな絵が描き込まれています。
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ベラスケス(1599-1660) 「ラス・メニーナス」(1656) |
プラド美術館 |
No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」で書いたように、2枚の絵はギリシャ神話がテーマです。左の絵はルーベンスの『パラスとアラクネ』で、右の絵はヨールダンスの『アポロンとパン』です。
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ルーベンス(1577-1640) 「パラスとアラクネ」(1636/37) |
ヴァージニア美術館 |
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ヨルダーンス(1593-1678) 「アポロンとパン」(1636/38) |
プラド美術館 |
『パラスとアラクネ』の完成作の所在は不明ですが、ルーベンス自身が油彩で描いた下絵が現存しているので(上の引用)『ラス・メニーナス』の画中画だと特定できます。そして、この2つの絵には明らかな共通点があります。つまり、
技能の名手(人間・半人半獣)が、その技能を司る神と競技をする
という共通点です。アラクネは機織りでパラスに挑み、半人半獣の牧神パンは笛でアポロンと音楽競技をしたのでした。このことからして『ラス・メニーナス』の画中画は、「絵画の技量で神の領域に迫りたい」という画家の想いを表していると考えるのが妥当でしょう。
なお、ベラスケス作『アラクネの寓話』(プラド美術館)の中にも、画中画としてティツィアーノの『エウロペの略奪』(ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館所蔵)が描き込まれています。それによってこの絵の画題がギリシャ神話の "アラクネの物語" であることを暗示しているのでした(No.264「ベラスケス:アラクネの寓話」)。
マネ
No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、マネがゾラを自宅に招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868)を引用しました。
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マネ(1832-1883) 「エミール・ゾラの肖像」(1868) |
オルセー美術館 |
この絵の右上には、画中画として3枚の複製画が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』ですが、残り2枚は、初代 歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右エ門』(1860)と、ベラスケスの『バッカスの勝利』です。なお2代目ではなく初代 歌川国明(2代目の兄)というのは、日本女子大名誉教授の及川茂氏の調査結果によります。
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初代 歌川国明 「大鳴門灘右エ門」(1860) |
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ベラスケス 「バッカスの勝利」(1628/29) |
プラド美術館 |
エミール・ゾラは、酷評されることも多かったマネの作品に好意的な批評を書きました。そのマネは浮世絵に学び、ベラスケスを絶賛しています(No.36「ベラスケスへのオマージュ」、No.231「消えたベラスケス(2)」)。『エミール・ゾラの肖像』は、自らが愛する浮世絵とベラスケスを画中画として配置することにより、ゾラに対する敬愛の念を表したものでしょう。
スーラ
フィラデルフィアのバーンズ・コレクションのメインルームには、スーラの大作『ポーズする女たち』があります(No.95「バーンズ・コレクション」)。この絵には、スーラ自身の『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(No.115「日曜日の午後に無いもの」)が画中画として描き込まれています。
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ジョルジュ・スーラ(1859-1891) 「ポーズする女たち」(1888) |
バーンズ・コレクション |
この画中画の意図についてはさまざまな説や憶測が提示されていますが、決定的なものは無いようです。ただ一つ言えることは、「点描の手法で風景・風俗だけでなく、裸婦像も描けるのだと宣言した」ことでしょう。さらに一歩進んで『ポーズする女たち』が『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を凌駕する作品だと言いたかったのかもしれません。
以上のフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの作品をを見てくると、
画中画には画家が込めた思いがあり、その思いは(スーラを除いては)かなり明白で、鑑賞者にも理解できる
ことがわかります。つまり画中画にはメッセージ性があります。そのメッセージ性を最も強く押し出したのが、フィンセント・ファン・ゴッホの『タンギー爺さん』だと思います。以下、このゴッホの有名な作品について書きます。
ゴッホ『タンギー爺さん』
2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」で、ゴッホの『タンギー爺さん』が特集されていました。以下、その番組内容を踏まえてこの絵について書きますが、「新・美の巨人たち」では無かった事項も含みます。
『タンギー爺さん』はパリのロダン美術館が所蔵しています。オーギュスト・ロダンその人がこの絵を購入しました。この肖像画のタンギー爺さんとは、パリで画材屋をしていたジュリアン・フランソワ・タンギーという人です。
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フィンセント・ファン・ゴッホ (1853-1890) 「タンギー爺さん」(1887) |
ロダン美術館 |
この絵に描かれている浮世絵の画中画は、上に引用したフェルメール、ベラスケス、マネ、スーラの画中画とは異質です。フェルメール以下の作品は、室内ないしは画家のアトリエの光景であり、その室内やアトリエに実際にある絵として画中画が描かれています。実際にはなかったとしても、あたかもそこに絵が掲げられているかように描かれている。
しかしゴッホの『タンギー爺さん』は違います。タンギーは画材屋であり、浮世絵を扱う画商ではありません。この絵の浮世絵の背景はゴッホが肖像の後ろに恣意的に描き込んだものです。現代で言うとパソコンの壁紙、スマホの待ち受け画面、ZOOMのバーチャル背景といったところでしょう。
なぜ実際にはそこにない浮世絵を描き込んだのか、それがこの絵のポイントなのですが、まず、描かれている6枚の浮世絵のオリジナル画像を順に見ていきます。
画中画の浮世絵
ゴッホは400点以上の浮世絵を集めていた "浮世絵コレクター" でした。『タンギー爺さん』には、風景が4枚、花魁が2枚の浮世絵が描かれていますが、まず風景の4枚です。
 風景:上の右  |
上右の風景は、歌川広重『五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら 範頼の祠』です。広重が晩年(59歳)の作品で、有名な「東海道五十三次」とは違って縦型の版であり、「竪絵東海道」とも呼ばれるシリーズの1枚です。
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歌川広重(1797-1858) 「五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら 範頼の祠」(1855) |
山口県立萩美術館・浦上記念館 |
石薬師は東海道53次の44番目の宿で、現在の三重県鈴鹿市です。また題名の範頼は、義経の異母兄弟の源範頼です。平氏追討に向かう源範頼が、戦勝祈願のために桜の枝を地面に刺したところ、そこから芽が出て桜の木になったという伝説があります。その後いつしか「義経桜」とも呼ばれるようになりました。この広重の絵の桜は、現在でも「石薬師の蒲桜」という名で、花を咲かせているそうです(蒲とは範頼のこと)。
これは言うまでもなく春の風景です。ゴッホは桜の周辺の色を濃く、中を薄く描いています。
 風景:上の中  |
上の真ん中の富士山が見える浮世絵の元絵は、石薬師と同じく広重の『富士三十六景 さがみ川』です。相模川は現在の神奈川県平塚市と茅ヶ崎市の間を流れて相模湾に注ぐ川です。富士の手前の山は丹沢山系の大山でしょうか。
元絵と比較すると、ゴッホは空の色を茜色に変えています。さらに重要なポイントは、川の芦を茶色く枯れかかった色にしていることです。これによって、この画中画は秋の風景を思わせるものになりました。
![]() |
歌川広重 「富士三十六景 さがみ川」(1858) |
山口県立萩美術館・浦上記念館 |
 風景:上の左  |
この雪景色の絵の元絵は特定されていません。現在は知られていない無名の浮世絵師の絵か、ないしは、元絵にゴッホが雪を描き加えたという説もあります。いずれにせよ、ゴッホはここに冬の光景を配置しました。
 風景:左下  |
この左下の朝顔の絵は、長らく二代目歌川広重の「東都名所 三十六花撰 入谷朝顔」ではないかとされてきましたが、1999年に無名の作者の縮緬絵(ちりめん絵。フランス語でクレポン)であることが特定されました。
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作者不詳 「東京名所 以里屋(=入谷)」 |
山口県立萩美術館・浦上記念館 |
『タンギー爺さん』と『東京名所 以里屋』を比較してみると、ゴッホはつぼみも含めて朝顔の花の位置を忠実にコピーしていることがわかります。ファン・ゴッホ美術館は縮緬絵を次のように解説しています。
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縮緬絵の「東京名所 以里屋」は、その現物が1999年にパリで発見され、山口県立萩美術館・浦上記念館が買い取って所蔵しています。ちなみに版元は「伊勢屋辰五郎」ですが、現在も台東区の「いせ辰」の屋号で江戸千代紙や風呂敷の店として続いています。その台東区・入谷の朝顔市(7月上旬)は、現在も続く夏の風物詩です。
まとめると、風景の4枚は「春夏秋冬」の日本の四季です。さらに「桜」と「富士山」という、日本を代表する画題が含まれています。元絵が不明な冬を除いた春・夏・秋は、現代の日本にも受け継がれた光景です。
 花魁・左  |
左の花魁の絵は、歌川国貞の「三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」です。吉原の遊郭の一つである三浦屋は、遊女のトップを代々 "高尾太夫" という名で呼ぶ習わしでした。この絵はいわゆる役者絵で、女形の岩井粂三郎が高尾太夫を演じる姿が描かれています。
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歌川国貞 「三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」(1861) |
山口県立萩美術館・浦上記念館 |
 花魁・右  |
元絵は、1886年の「パリ・イリュストレ誌」の日本特集号の表紙です。この号では浮世絵が特集され、ゴッホは繰り返し読んだと言います。表紙は、渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』の反転画像です。ゴッホは反転の状態でそのまま描いています。なお、この表紙の花魁を模写した油絵作品がファン・ゴッホ美術館に残されています。
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パリ・イリュストレ誌 日本特集号(1886年5月)の表紙 |
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渓斎英泉(1798-1848) 「雲龍打掛の花魁」 |
千葉市美術館 |
まとめると、画中画の6枚の浮世絵は「桜と富士と日本の四季のうつろい、日本女性のあで姿」ということになります。ゴッホが浮世絵の画題として最も惹かれたものだったのでしょう。
ジュリアン・タンギー
2016年2月3日のTV東京「新・美の巨人たち」では、この6枚の浮世絵には画家のメッセージが隠されていると説明されていました。それを以下に紹介します。発言しているのは、フランスの小説家・美術評論家・美術史家のパスカル・ボナフー(Pascal Bonafoux. 1949 - )です。ゴッホに関する著作もある人です。
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なぜこのように言えるのか。それはこの肖像画の主人公、ジュリアン・タンギーのことを知る必要があります。
タンギーは腕利きの絵の具職人でした。モンマルトルのクローゼル街に画材屋を開いており、ゴッホはその常連客でした。ここは貧しい画家のたまり場でもあった。タンギーは食うや食わずの画家に絵の具を貸し、作品をショーウィンドーに飾りました。ゴッホもその恩恵にあずかった一人です。
実はタンギーは、画材屋を開く前は監獄にいました。発端は1870年に勃発したプロイセン・フランス間の普仏戦争です。この戦争に惨敗したフランスは、プロイセンと講和条約を結び、膨大な賠償金を支払うともにアルザス・ロレーヌを割譲しました。しかし徹底抗戦を主張した市民は1871年に自治政府、パリ・コミューンを結成します。その自治政府にタンギーも加わったのです。
1871年5月、パリ・コミューンは政府軍によって鎮圧されました(多数の市民が惨殺された。No.13「バベットの晩餐会(2)」参照)。タンギーは逮捕され、監獄送りになしました。そして出所してから画材屋をはじめたわけです。肖像を描いたゴッホはその事実を知っていました。
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背景に "イコン" としての浮世絵を描いた絵がもう一枚あります。ロンドンのコートールド・ギャラリー(No.155「コートールド・コレクション」参照)が所蔵する「耳に包帯をした自画像」です。
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フィンセント・ファン・ゴッホ 「耳に包帯をした自画像」(1889) |
コートールド・ギャラリー |
アルルで発作的に耳を切りつけたあと、ゴッホは復活するつもりだったと推測できます。それをこの絵が表しています。その証拠に、背後に浮世絵と新しいカンヴァスとイーゼルが描かれています。「もっと描くぞ」と宣言しているようです。
ちなみに、コートールド・ギャラリーのサイトでは、この絵の画中画の元絵を佐藤虎清の「芸者(Geishas in a Landscape)」としています。
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佐藤虎清 「Geishas in a Landscape」 (芸者) |
コートールド・ギャラリー |
『タンギー爺さん』を描いた3年後、ゴッホはパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズで自殺しました。タンギー爺さんは、ゴッホの葬儀に参列した10数名のうちの一人でした。
『タンギー爺さん』の背景に描かれている浮世絵については数々のことが言われてきました。それらの中で「ゴッホは感謝の念を込めて、タンギーの肖像を描くと同時に6枚の浮世絵を画中画として描き込んだ」というパスカル・ボナフー氏の説明は、非常に納得性の高いものだと思いました。その意味では、ゾラの肖像の後ろに浮世絵とベラスケスを描いたマネに似ています。
ゴッホにとって、画家としての自分を導いてくれた2つの存在が、この肖像画にダイレクトに表現されている。そういうことだと思います。
 補記:マネの「休息」  |
本文で画中画が描かれたマネの『エミール・ゾラの肖像』のことを書きましたが、別のマネの作品を思い出したので書いておきます。ベルド・モリゾを描いた『休息』という作品です。
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エドゥアール・マネ 「休息」(1871) |
(ベルト・モリゾの肖像) ロードアイランド・デザイン・スクール(米) (Rhode Island School of Design) |
この作品は背後に画中画が描かれていますが、これは歌川国芳の『龍宮玉取姫之図』です。
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歌川国芳 「龍宮玉取姫之図」(1853) |
「龍宮玉取姫之図」の画題は、讃岐の士度寺の縁起物語であり、能の「海人」にも取り入れられた伝説です。詳しいことは省略しますが、一言で言うと「海女が龍神に取られた玉を取り戻す」という話です。
問題は、ベルド・モリゾの後ろになぜ浮世絵をもってきたかです。作家で美術史家の木々康子氏(19世紀後半のパリで活躍した画商、林忠正の孫の妻にあたる)は、この絵の構図が浮世絵の "こま絵" に習ったものではないか、と推測しています(木々康子「春画と印象派」筑摩書房 2015)。こま絵の例を次に掲げます。
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歌川国貞 「江戸八景の内 三廻」 |
一見すると美人画だが、絵の中の四角い "コマ" に、隅田川河畔の三囲(みめぐり)神社の風景が描かれていて、これが画題になっている。三囲神社は向島(隅田川の左岸、東側)にあり、右岸から見るとちょうど鳥居の上だけが見えた。江戸庶民はこの光景から三囲神社だとすぐに分かったという。これを利用して「江戸八景」という画題を美人画にしてしまう趣向である。 "コマ" には四角のほか、丸形や扇形など多様なものがあった。また描かれる内容も、絵の補足、絵の隠れた意味の説明、本作のような画題そのものなど多様だった。漫画のコマ割りのように多数のコマを配置したものもあり、ゴッホの「タンギー爺さん」を連想させる。 |
木々氏が言うように、浮世絵愛好家のマネとしては "こま絵" の構図を採用してこの絵を描いたのかもしれません。しかしここでなぜコマの中が(西洋画ではなく)浮世絵で、しかも「龍宮玉取姫之図」なのでしょうか。私の推測は次のどちらか、ないしは両方です。
マネは自分の弟子であるベルトの肖像を描き、そこに自分が愛する浮世絵を画中画として配置することで、ベルトが "愛すべき弟子" だというメッセージを込めた(一時、恋仲=不倫だったという説がある)。つまりエミール・ゾラの肖像の横に浮世絵とベラスケスを描き込んだのと同じ意味である。 | |
もちろん、マネが玉取姫の伝説を知っていたとは思えない。なぜこんな場面が描かれたのか、マネには全く分からなかったに違いない。しかし伝説を知らなくても、国芳の絵を見て一目瞭然なのは「一人の女性が、ドラゴンやタコや魚の一群と戦っている絵」だということである。 西洋では「男性が怪物と戦う、ないしは怪物を退治する」という絵画は、ギリシャ神話のヘラクレスやペルセウス、キリスト教の聖ゲオルギウスなど多数ある。しかし「女性が怪物と戦う絵画」は見当たらない。マネは「龍宮玉取姫之図」を、完全に男性中心である当時のフランス画壇の中の女性画家、ベルトの状況になぞらえた。 |
絵を見てどう解釈するかは鑑賞者の自由です。それは、"鑑賞者の権利" であると言ってもよいでしょう。
2020-10-03 08:16
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No.292 - ゴッホの生物の絵 [アート]
No.93「生物が主題の絵」の続きです。No.93 でとりあげたのは、西洋絵画における "生物画" でした。ここでの "生物画" の定義は次の通りです。
西洋絵画の "静物画" は、フランス語で "nature morte"(死んだ自然)、英語で "still life"(動かない生命)と言うように、「死んだ」ないしは「動かない」状態を描いたものです。そうではなく「生物が生きている環境で生きている姿を描く」のが上の "生物画" の定義のポイントです。
この定義の "生物画" は日本画では大ジャンルを作っていますが、西洋の絵では少ない。もちろん、記録が主たる目的の「植物画」や「博物画」は除いて考えます。その少ない中でも生物を中心画題にした絵はあって、特に著名画家が描いた "生物画" を並べてみると何か見えてくるものがあるのでは、との考えで書いたのが、No.93「生物が主題の絵」でした。
その No.93 でゴッホの『アイリス』を引用しましたが、No.93 でも書いたようにゴッホは多数の生物を主題にした絵を描いています。つまり『アイリス』だけでは画家の本質を伝えられないと思うので、今回はゴッホの作品だけに注目し、描かれた "生物画" のテーマごとに取り上げてみます。従って制作された年月は前後します。
果樹
ゴッホがパリからアルルに到着したのは1888年の2月ですが、その数週間後には近郊の果樹園で花が咲き始めました。その様子をゴッホは多数、描いています。ゴッホ美術館によると少なくとも14枚を描いたとのことです。
またゴッホは1年後の春にも果樹園の絵を描いていて、このブログで引用した絵だと、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにある絵(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)や、ロンドンのコートールド・ギャラリーにある絵(No.155「コートールド・コレクション」)がそうです。
1888年に描かれた果樹はモモ、スモモ、梨、アンズなどです。もちろん "果樹園風景" といった構図の絵もありますが、個々の果樹に焦点が当たっている絵もあり、上に引用したのはその中の1枚です。所蔵しているゴッホ美術館は英語題名を「白い果樹園(The White Orchard)」としていますが、解説をみると果樹はスモモ(plum)です。見上げるようなアングルで描かれています。
また解説によると、このスモモは枝が長く伸びていて、それは手入れが不十分なためとのことです。ただ、ゴッホは "古びた(timeworn)" 木を好んだとも書いてある。長い時間をかけて成長し風雪に耐えたきた樹木が画家の好みだったのでしょう。そういった古木でも、春になると一斉に白い花を咲かせる。その姿に感じるものがあったのだと思います。
アルル時代の果樹の絵をもう1作品、引用します。果樹の絵では最も有名なものでしょう。
ピンクの花をつけた桃の木を描いたものです。よく見ると桃の木は2本で、手前の木の樹高が低く、2本が重なった構図て描かれています。
カンヴァスの左下に署名とともに "Souvenir de Mauve"(マウフェの思い出)と書かれています。マウフェとは画家のアントン・マウフェ(1838-1888)で、ハーグを中心に活躍した、いわゆる "ハーグ派" の中心人物の一人です。マウフェはゴッホの従姉妹のイェットという女性と結婚したため、ゴッホとは親戚ということになります。彼は 1881年から翌年にかけて、ゴッホに絵画の基礎を教えました。「ゴッホの唯一の師」とも言われる画家です。
クレラー・ミュラー美術館の解説によると、ゴッホがこの絵を描いたその日の夕方、ゴッホは家族からの手紙でマウフェが亡くなったことを知ったそうです。ゴッホは追悼の意味を込めて「マウフェの思い出」と書き込み、この絵を妻のイェットに献呈しました。
アーモンド
青い空を背景に花が咲くアーモンドの木があり、その枝だけをクローズアップで描いたものです。この作品はゴッホがサン=レミの精神療養院で、弟・テオに息子が生まれたとの知らせを受け取り、その誕生祝いにと描いて送ったものです。この話から明確なことは、ゴッホが新しい生命の誕生を樹木の開花に重ね合わせていることです。人間と自然の "命" を同一視するような感覚を感じます。
青い空に樹木の白っぽい花が映えるという光景は、日本の花見シーズンの晴れた日にソメイヨシノが満開の様子を連想させます。樹木の開花を愛でるのが日本の文化的伝統です。それは第一に "桜" であり、奈良・平安の昔からあるのは(中国文化の影響をうけた)"梅" です。開花した梅林を訪れるのも伝統文化の一つになっている。
ゴッホの、花をつけたスモモやモモ(および他の果樹)、アーモンドの絵は、そういった日本文化との親和性を感じます。
マロニエ
この絵は「花咲く栗の木」と言われることがありますが、絵を所蔵しているゴッホ美術館の解説では、描かれているのはセイヨウトチノキ(=フランス語でマロニエ。英語で Horse Chesnut = 馬栗)です。英語名にある "chesnut = 栗" は、トチノキが栗の仲間だという誤解から付けられたようです。
この絵はゴッホのパリ時代の作品です。パリには街路樹や公園樹としてマロニエがたくさん植えられていて、春に開花します。その光景を絵にしたものでしょう。
ゴッホはこのマロニエの花を、終焉の地となったオーヴェル・シュル・オワーズでも描いています。それが次の作品です
この作品も日本では「花咲く栗の木の枝」と呼ばれていますが、描かれているのは明らかに栗ではなくマロニエです。パリに近い地に転居した画家がパリ時代を思い出したのかもしれません。
糸杉
ゴッホはサン=レミの精神療養院の時代に8点程度の「糸杉の絵」ないしは「糸杉のある風景の絵」を描いています。No.284「絵を見る技術」ではそのうちの3作品を引用しました。上に引用したメトロポリタン美術館の絵は、それらの中でも糸杉に焦点が当たっている絵です。この絵が描かれた時期に、ゴッホは弟・テオに宛てた手紙で次のように書いています。
西洋絵画に糸杉が描かれることはあります。たとえばダ・ヴィンチの『受胎告知』には後景に糸杉が描かれている(No.284「絵を見る技術」に画像を引用)。しかしゴッホが言うように「糸杉を中心的な画題として描いた絵画」はないのではと思います。
糸杉の色は黒々とした緑ですが、美しいフォルムで、凛として地面から屹立している。そのオベリスクのような姿に画家は強く惹かれたようです。特にこの絵は、焦点となっている手前の糸杉の上部がカットアウトされています。それによって糸杉特有の尖った円錐状の先端が上の方に長く伸びていることを想像させます。あえて全容を描かないという画家の構図の工夫を感じさせます。
構図上の工夫と言えば、No.284 に書いたのですが、この手前の糸杉の縦の中心線は、画面の中心より少しだけ左にずれています。この "ずれ具合" は、カンヴァスの "ラバットメント・ライン" を元に決められています。かなりのデッサンと計画性で描かれた絵という感じがします。
なお、ゴッホがサン=レミで最後に描いた糸杉の絵をクレラー・ミュラー美術館が所蔵していますが、これについてのゴッホ自身の手紙を、No.158「クレラー・ミュラー美術館」に引用しました。
木の幹
この絵について、ゴッホはテオへの手紙に次のように書いています(日付はゴッホ美術館による)。
引用の最後に「それはこんな絵だ」とあるように、手紙には2枚の絵のスケッチが添えられています。それが次の画像です。
ゴッホが手紙でこの古木をイチイ(英語で yew)と書いているので、この絵の題はふつう「Trunk of an Old Yew Tree」(古いイチイの木の幹)とされています。しかし絵を見る限りこれはイチイではありません。イチイは常緑針葉樹ですが、この絵には木のものと思われる枯れ葉がついていて、落葉広葉樹のようです。ということは、この木はヨーロッパで一般的なオーク(=落葉性の樹木。和名はヨーロッパナラ)ではないでしょうか。
オークはヨーロッパでは神聖な木とされているので、畑の中にポツンと残されていることもあるのではと想像します。フレーザーの『金枝篇』に、次のようにあります。
引用中の "メーヌ県" はロワール河の沿岸で、フランスの中西部です。アルルとは違いますが、中西部にある風習は南フランスにあってもいいのではないかと思いました。ちなみにフレーザー(イギリス人の社会人類学者)は、ゴッホの1年後に生まれた同時代人です。
ともかく「イチイ」はゴッホの勘違いの可能性が強い。そういう事情もあるのでしょう、ゴッホ美術館はこの絵の題を「Ploughed field with a tree-trunk」(木の幹のある畑)としていて、木の名前をあげていません。妥当な判断だと思います。
木の種類の詮索はさておき、絵の話です。この絵は、畝が作られ種が蒔かれた畑に一本だけ立つ古木の幹だけをクローズアップで描いています。木の全体の様子は分かりません。この描き方がこの絵の特徴です。
画家は、長い年月を生きてきた樹木の本質が、幹とその木肌に現れると感じたのでしょう。最初に引用したスモモの絵(『白い果樹園』)についてのゴッホ美術館の説明で、「ゴッホは "古びた(timeworn)" 木を好んだ」というのがありました。この古木も、そういった画家の心情が現れているようです。
桑
この絵は No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用しました。桑(日本で言うヤマグワ)は、秋になると真っ黄色に色づきます。白っぽいゴツゴツした岩の上で、青い空に映える黄葉した桑の姿に画家は感じ入ったのだと思います。桑の木から垂れ下がるオレンジ色のものが描かれていますが、おそらく桑の実でしょう。大きさのバランスが変ですが、そんなことより、この大きさで、この色で、ここに描きたかったのだと思います。
桑の実はともかく、この絵は黄葉した桑の木を、まるで黄色い炎が噴き出しているように描いています。実際の桑の木を見ても、こんな風には目に映りません。これはリアリズムとは離れた、画家が黄葉を見たときの感情をダイレクトに表現したのだと思います。
オリーブ
ゴッホはオリーブの木やオリーブ畑の絵を多数描いています。この絵は "第2ゴッホ美術館" とも言うべきクレラー・ミュラー美術館が所蔵している作品です。
曲がりくねった幹は、これらのオリーブが古木であることを感じさせます。特に太い幹の2本の木です。しかし古木といえども緑の豊かな葉が茂り、実をつけ、人々の生活に役立っている。そういった生命力を暗示させる作品です。
木の幹と根
オーヴェル・シュル・オワーズでのゴッホ作品にみられる、縦横比率1:2の画面です。この形のカンヴァスでは「一面の麦畑に群青の空、そこにカラスが群れ飛ぶ」絵が有名ですが、この絵はそういう広々とした風景ではありません。クローズアップで、木とおぼしきものの一部が描かれています。
背景は黄銅色の傾斜地か崖のようであり、そこにむき出しの木の根と細い幹が絡まっています。所々に描かれた緑の葉は、木が生きている証拠です。幹と根は絡まり、曲がりくねっていて、どこがどうなっているのか判然としません。ほとんど抽象画といっていいでしょう。
ゴッホ美術館の解説によると、背景となっているのはオーヴェル・シュル・オワーズにあったマールの採掘場です。マール(泥灰土)とは粘土と石灰の混合土で、当時のコンクリートの原料になりました。
さらに解説によると、この絵はおそらくゴッホの絶筆とあります("probably Van Gogh's very last painting")。亡くなる日の朝に描かれたと匂わす解説もありました。
泥灰土(マール)の地質というと、木の生育にとっては厳しい環境のはずです。そこでも何とかして生き延び、緑の葉を付ける。画家はこの「幹と根が絡まり曲がりくねっている姿」に、木の生命力を見たのだと思います。
アイリス
ゴッホがサン=レミの精神療養院に入院したのは1889年5月ですが、その5月に6点の絵を描いています。そのうちの2点はアイリスの絵で、ゲティ・センター所蔵の有名な『アイリス』を No.93「生物が主題の絵」に引用しました。それを再掲するとともに、カナダ国立美術館が所蔵するもう一枚のアイリスを引用します。
ゴッホは『アイリス』の絵のことを、サン=レミの精神療養院に入院した直後のテオへの手紙に書いています。
アイリスはアヤメ属の植物を指します。従って和名でいうと、アヤメ(菖蒲)、カキツバタ(杜若)、ハナショウブ(花菖蒲)、イチハツ(鳶尾、一初)などが相当するでしょう。これらの花はよく似ています。
引用した日本語訳は鳶尾となっています。ゴッホの絵から鳶尾に近いという判断かもしれませんが、日本の鳶尾と全く同じ植物がサン=レミにあるわけではないので、"アイリス" か、ないしはアヤメ属の花という意味で "アヤメ" とするのが妥当だと思います。
それはともかく、この手紙でわかることは『アイリス』はゴッホがサン=レミの精神療養院に来て真っ先に描きはじめた絵ということです。さらに、手紙に "リラの木の茂み" とありますが、そのリラ(=ライラック)の絵が次です。
ライラック
1889年5月に描かれたアイリスとライラックの絵を見て、明らかにわかることがあります。それは、この3枚の絵は「いかにも生命の輝きに溢れた植物の姿を描いている」ということです。ゴッホが入った施設には、精神を病んだ人たちが入院・居住しています。しかしその庭に咲き誇る花は、病とは全くの対極の明るさと生命力に満ちている。画家はそこを描きたかったのだと思います。
薔薇
ゴッホのアルル時代の最後期に描かれた絵で、園芸種ではない野バラを描いています。この絵は上野の国立西洋美術館の常設展示室にあります。経験上、常設展に行くと必ずあるので、展示替えはないのだと思います。
小説家の原田マハさんは、この絵をもとに『薔薇色の人生』という短篇小説を書いています。主人公は、人からゴッホ展のチケットをもらって国立西洋美術館に行くが、展覧会は既に終了していた。そのチケットで常設展なら見学できると聞いた主人公が出会うのが、このゴッホの絵です。そのあたりの文章です。
ゴッホのサン=レミ時代の最後期の絵です。国立西洋美術館の絵と同様に野バラを描いていますが、この絵には一匹の甲虫が描かれています。ゴッホ美術館の説明によると、この甲虫はキンイロハナムグリ(漢字で書くと金色花潜。コガネムシ科ハナムグリ属。英名:rose chafer)で、カナブンの仲間です。ハナムグリとは「花に潜る」の意味ですが、この虫は花の中でもバラを好み、金色に輝く緑が美しいコガネムシです。まさにバラの花に潜って蜜を吸っている、その様子が描かれています。
ひなげし
モンシロチョウと思われる蝶がヒナゲシに寄ってきた図です。この絵は先にヒナゲシとモンシロチョウを描き、あとから青い背景を塗っています。その背景は未完で、カンヴァスの地が出ているとところがあります。
「ばらと甲虫」もそうですが、この絵の構図は日本の花鳥画の影響を感じます。ただし、ヒナゲシの茎と葉にはさまざまな緑が使われていて、花の朱色もさまざまな色がある。それによって立体感と奥行き感が創り出されています。
たんぽぽ
国立西洋美術館の「ばら」と同じ時期に描かれた作品です。この絵は普通、「黄色い花の野(Field of Yellow Flowers)」と呼ばれることが多いのですが、所蔵しているヴィンタートゥール美術館は "Les pissenlits" としてウェブサイトに公開しています。フランス語でタンポポの意味です。
確かにこの黄色い花はタンポポなのでしょう。しかし国立西洋美術館の「ばら」と違って、花を描いた絵という感じはしません。黄色い可憐な花をつける「野の草むら」を描くことに主眼がありそうです。地面を見下ろす角度で、クローズアップで草花だけを画面全体に描くというこの構図が、そう感じさせます。こういった「野の草むら」を描いた絵を次にまとめて引用します。
草
この絵について、所蔵するクラレー・ミュラー美術館のサイトにある解説を引用します。この中では日本の版画への言及があります。
ゴッホは、このパリ時代の絵を皮切りに、アルル、サン・レミでも草地を描いています。そのキーワードは、"クローズアップ" と "明るい色彩" なのでした。
国立西洋美術館の「ばら」、ヴィンタートゥール美術館の「たんぽぽ」と同時期に描かれた作品です。「ばら」や「たんぽぽ」と同じように、地表を見下ろすアングルで、水平線や遠景は全くなく、地表の草だけを描いています。花は何もなく、単に草だけです。その草の葉が、各種の色と筆致で描き分けれられている。
普通は画題にまずしないような、何でもない雑草です。花が咲くのでもなく、形がユニークでもなく、どこにでも見かける雑草を描こうと画家は考えたわけです。つつましく、しぶとく生きている草に感じるものがあったのでしょう。
「草むら」と同じように、地表を見下ろすアングルで描かれています。木の幹が立ち並び、地表は草で覆い尽くされています。また木の幹にもキヅタが絡みついている。あたり一面が草の世界で、その中のところどころに太陽の光が差し込んでいます。
振り返ってみると、「地表や人物に当たる木漏れ日を白っぽいスポット状に描く」というのは、印象派の絵にしばしばあります。有名なルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(オルセー美術館)がそうだし、同じオルセーには「ブランコ」という作品もありました(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」)。モネもそういう絵を描いているし、サージェントが印象派っぽく描いた「柳の下のパントで眠る母と子」(No.192「グルベンキアン美術館」)でもまさにその効果が使われていました。
しかしゴッホの絵で、この効果を使って直射日光の中での暗がりを表現した絵というのは、大変に珍しいのではないでしょうか。
下草とキヅタの表現をよく見ると、草の葉や茎を描くつもりは全くないようです。そこにあるのは、さまざまな色彩と方向の筆触だけであり、短い筆触の積み重ねで草とキヅタを表現しています。一方、木の幹には長めの線が使ってあり、木肌のごわごわした感じがよく出ていると思います。
一つ前の「下草とキヅタのある木の幹」と同じような見下ろす構図ですが、一段とクローズアップの表現です。そのため個々の草の茎や葉や花が描かれています。その草は、芽吹き、成長し、花をつけています。生命の輝きの真っ盛りを描いているようで、今までに引用した『果樹(スモモ、アーモンド)』『アイリス』『ライラック』と共通した感じを受けます。
一方、左の大きな木の幹は、クラレー・ミュラー美術館の解説によると松です。黒い縁取りの中に様々な色が重ねられていて、リアリズムとは離れた装飾的で抽象的な描き方です。これによって年月を経た松の幹の、ごつごつした感じが伝わってきます。草の描き方との対比によって、逆に草むらの若々しさが強調されているようです。
構図をみると、この絵は思い切ったクローズアップにより画面に独特の奥行き感が生まれています。また草むらには、一見すると気づかないかもしれないリーディングライン(視線を誘導する線)がジグザグ状に仕組まれている。これらを合わせて、画面に吸い込まれそうな感じを受けます。
余談ですが、この「草むらの中の幹」と一つ前の「下草とキヅタのある木の幹」の構図は、菱田春草の重要文化財「落葉」(1909)を思い起こさせます。絵の構図とかバランスは、西欧絵画でも日本画でも共通するところがあるということだと思います。
一つ前に引用した『草むらの中の幹』と同時に描かれた作品です。ゴッホ美術館はこの絵の題名を「Meadow in the Garden of the Asylum:療養院の庭の牧草地」としています。
この絵は画面上部に、明らかに小道とわかるものが描かれています。また、上に引用したサン=レミ時代の2作品も、画面上部に木が描かれている。これによって、画面の奥行き感がぐっと増しています。
それに対して、パリ時代、アルル時代の3枚の草むらの絵は(「黄色い花の野」を含む)、画面上部にそういったアイテムがありません。つまりサン=レミ時代の3つの "草むら" は、クローズ・アップで見おろすという基本は踏まえつつ、構図に工夫が加わっています。画家の探求心を感じます。
「黄色い花の野」を含めて6枚の草むら・草地の絵を引用しましたが、ゴッホの手紙には "草の絵を描く意味" をうかがわせる記述があります。それを以下に引用します。アルルからテオに出した手紙の中の一部です(日付はゴッホ美術館による)。
麦
この絵についてゴッホは、死後に発見されたゴーガン宛ての未完の手紙に次のように書いています。
「非常に生々とした、しかし静かな背景をもった肖像を描きたいと思っている」と手紙にあるように、ゴッホはこの絵とは別に「麦の穂を背景とする女性の肖像」を2枚、描いています。そのうちの1枚はワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています(「小麦を背景に立つ若い女性」)。上の引用で「その向こうに」との訳がありますが、手紙の英訳をみると "On it," となっているので「この絵をもとに」が正しい訳でしょう。
ゴッホはこの絵で、麦畑に分け入り、クローズアップで、麦の穂と茎だけに集中して描いています。ほとんどが緑系のさまざまな色で、その中に穂先の黄色があり、少々のピンク(右下。ヒルガオ)と青(左上。ゴッホ美術館の説明ではヤグルマギク)がある。こういった色の変化の総体で「微風に揺れる麦の穂の甘美なざわめき」をとらえようとしたわけです。ほとんど抽象画と思える描き方であり、ゴッホ以前にこんな絵を描いた人はいないでしょう。手紙を読むと、色彩の変化が人間感情に与える効果を探求する意気込みが伝わってきます。
蛾
一匹の大きな蛾が、ミズバショウのような形の花にとまっています。この絵に描かれた蛾について、ゴッホは弟・テオへの手紙に書いています。サン=レミの精神療養院に入院した月の手紙で、『アイリス』や『ライラック』と同時期です(手紙の日付はゴッホ美術館による)。
ゴッホが書いている「通称 "死の頭" という蛾」は、メンガタスズメ(面形雀蛾)という蛾です。これは "髑髏蛾" とも呼ばれます。メンガタスズメの一種、ヨーロッパメンガタスズメの画像を次に引用します。
画像でもわかるように、背中に "人の顔" ないしは "髑髏" のよう模様があります。ゴッホはテオへの手紙に蛾のスケッチを添えていますが、それが次の画像です。
このスケッチには "人の顔" のようなものがありますが、描かれている蛾はメンガタスズメではなくオオクジャクヤママユ(=和名。英名:Giant Peacock Moth)です。これはヨーロッパ最大の蛾で、オオクジャク蛾とも訳されます。ファーブルの『昆虫記』には、ファーブルが自宅で羽化させたオオクジャク蛾の雌の周りに、雄の蛾が外から数十匹も進入してきて大騒ぎになるという有名な記述があります(『昆虫記』第7巻 23章)。この件を発端としてファーブルは、今で言う "フェロモン" の発見に至ったのでした。そう言えば、ファーブルの自宅があったセリニャンとゴッホがいたサン=レミは、同じプロヴァンス地方の近くです。
またこの蛾は、ヘッセの短編小説「少年の日の思い出」に出てきました(No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」の「補記1」参照。小説の蛾は中型のクジャクヤママユ)。
おそらくゴッホは "死の頭" という蛾がいることを知識として知っていて、サン=レミの精神療養院の庭で大きな蛾を見つけたとき、それが "死の顔" だと考えたのでしょう。背中のまだら模様のちょっとした乱れか何かが顔に見えてしまった。そういうことだと思います。
ちなみに、この絵に描かれている「ミズバショウのような形の花」は、同じサトイモ科のアルムでしょう。アルムだけを描いたゴッホの素描が残っています(ゴッホ美術館蔵)。ミズバショウと同じく、花と見えるのは花ではなく、仏炎苞と呼ばれる "苞"(=花のつけねにできる、葉が変化したもの)です。
カワセミ
カワセミが水辺のアシの茎に止まり、魚を狙っています。この絵を所蔵しているゴッホ美術館の説明を読むと、ゴッホはカワセミの剥製を持っていたとあります。カワセミは色が美しい鳥です。おそらくその色に惹かれて購入した(あるいは譲り受けた)のでしょう。
カワセミは日本でも一般的な鳥で、私が住んでいる市の住宅地のそばの川でも見かけたことがあります(市の鳥に指定されている)。オランダやパリでもよく見かける鳥だと想像されます。おそらくゴッホは剥製を参考に、それを水辺にのカワセミに移し替えて描いたのだと思います。野鳥を生息環境で描いた、めずらしい作品です。
ゴッホの生物の絵
以上に引用した絵は、傑作とされているものから習作や未完作までさまざまですが、共通する特徴を何点かあげると次のようになるでしょう。
生命の輝き
樹木の生命力
なにげない生物
色へのこだわり
ゴッホは多くのジャンルの画題で多数の絵を描いているので、"生物画" はごく一部に過ぎません。ただ、これだけ「各種の生物を生きている環境で描いた画家」は、西洋の画家ではあまり見あたらないでしょう。そこにゴッホという画家の特質を見ることができると思います。
生物画:
人間社会やその周辺に日常的に存在する動物・植物・生物の「生きている姿」を主題に描く絵。空想(龍、鳳凰)や伝聞(江戸時代以前の日本画の象・ライオン・獅子などの例)で描くのではない絵。生物だけ、ないしは生物を主役に描いたもので、風俗や風景が描かれていたとしてもそれは脇役である絵。
西洋絵画の "静物画" は、フランス語で "nature morte"(死んだ自然)、英語で "still life"(動かない生命)と言うように、「死んだ」ないしは「動かない」状態を描いたものです。そうではなく「生物が生きている環境で生きている姿を描く」のが上の "生物画" の定義のポイントです。
この定義の "生物画" は日本画では大ジャンルを作っていますが、西洋の絵では少ない。もちろん、記録が主たる目的の「植物画」や「博物画」は除いて考えます。その少ない中でも生物を中心画題にした絵はあって、特に著名画家が描いた "生物画" を並べてみると何か見えてくるものがあるのでは、との考えで書いたのが、No.93「生物が主題の絵」でした。
その No.93 でゴッホの『アイリス』を引用しましたが、No.93 でも書いたようにゴッホは多数の生物を主題にした絵を描いています。つまり『アイリス』だけでは画家の本質を伝えられないと思うので、今回はゴッホの作品だけに注目し、描かれた "生物画" のテーマごとに取り上げてみます。従って制作された年月は前後します。
以下に引用する絵画の制作年月と制作地は、ゴッホ美術館の公認を受けたサイト "Vincent van Gogh Gallery" に従っています。
果樹
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"The White Orchard" 「花咲くスモモの木々のある果樹園」 |
1888年4月、アルル 60.0 cm × 81.0 cm ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム) |
ゴッホがパリからアルルに到着したのは1888年の2月ですが、その数週間後には近郊の果樹園で花が咲き始めました。その様子をゴッホは多数、描いています。ゴッホ美術館によると少なくとも14枚を描いたとのことです。
またゴッホは1年後の春にも果樹園の絵を描いていて、このブログで引用した絵だと、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにある絵(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)や、ロンドンのコートールド・ギャラリーにある絵(No.155「コートールド・コレクション」)がそうです。
1888年に描かれた果樹はモモ、スモモ、梨、アンズなどです。もちろん "果樹園風景" といった構図の絵もありますが、個々の果樹に焦点が当たっている絵もあり、上に引用したのはその中の1枚です。所蔵しているゴッホ美術館は英語題名を「白い果樹園(The White Orchard)」としていますが、解説をみると果樹はスモモ(plum)です。見上げるようなアングルで描かれています。
また解説によると、このスモモは枝が長く伸びていて、それは手入れが不十分なためとのことです。ただ、ゴッホは "古びた(timeworn)" 木を好んだとも書いてある。長い時間をかけて成長し風雪に耐えたきた樹木が画家の好みだったのでしょう。そういった古木でも、春になると一斉に白い花を咲かせる。その姿に感じるものがあったのだと思います。
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スモモの花。先端が丸い花びらはウメに似ている。実もウメとよく似ている。スモモの生産量が1位の南アルプス市のJAのサイトより。 |
アルル時代の果樹の絵をもう1作品、引用します。果樹の絵では最も有名なものでしょう。
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"The Pink Peach Trees" (Souvenir de Mauve) 「花咲く桃の木」 (マウフェの思い出) |
1888年3月、アルル 73.0 cm × 60.0 cm クレラー・ミュラー美術館 |
ピンクの花をつけた桃の木を描いたものです。よく見ると桃の木は2本で、手前の木の樹高が低く、2本が重なった構図て描かれています。
カンヴァスの左下に署名とともに "Souvenir de Mauve"(マウフェの思い出)と書かれています。マウフェとは画家のアントン・マウフェ(1838-1888)で、ハーグを中心に活躍した、いわゆる "ハーグ派" の中心人物の一人です。マウフェはゴッホの従姉妹のイェットという女性と結婚したため、ゴッホとは親戚ということになります。彼は 1881年から翌年にかけて、ゴッホに絵画の基礎を教えました。「ゴッホの唯一の師」とも言われる画家です。
クレラー・ミュラー美術館の解説によると、ゴッホがこの絵を描いたその日の夕方、ゴッホは家族からの手紙でマウフェが亡くなったことを知ったそうです。ゴッホは追悼の意味を込めて「マウフェの思い出」と書き込み、この絵を妻のイェットに献呈しました。
アーモンド
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"Almond Blossom" 「花咲くアーモンドの木の枝」 |
1890年2月、サン=レミ 73.3 cm × 92.4 cm ファン・ゴッホ美術館 |
青い空を背景に花が咲くアーモンドの木があり、その枝だけをクローズアップで描いたものです。この作品はゴッホがサン=レミの精神療養院で、弟・テオに息子が生まれたとの知らせを受け取り、その誕生祝いにと描いて送ったものです。この話から明確なことは、ゴッホが新しい生命の誕生を樹木の開花に重ね合わせていることです。人間と自然の "命" を同一視するような感覚を感じます。
青い空に樹木の白っぽい花が映えるという光景は、日本の花見シーズンの晴れた日にソメイヨシノが満開の様子を連想させます。樹木の開花を愛でるのが日本の文化的伝統です。それは第一に "桜" であり、奈良・平安の昔からあるのは(中国文化の影響をうけた)"梅" です。開花した梅林を訪れるのも伝統文化の一つになっている。
ゴッホの、花をつけたスモモやモモ(および他の果樹)、アーモンドの絵は、そういった日本文化との親和性を感じます。
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アーモンドの花(Wikipediaより)。花びらの先がくぼんでいるところはサクラと似ている。ウメ、スモモ、モモ、サクラ、アーモンドは、いずれもバラ科サクラ属(スモモ属)の植物であり、花は白っぽいものからピンクのものまである。 |
マロニエ
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"Horse Chestnut Tree in Blossom" 「花咲くマロニエの木」 |
1887年5月、パリ 55.8 cm × 46.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
この絵は「花咲く栗の木」と言われることがありますが、絵を所蔵しているゴッホ美術館の解説では、描かれているのはセイヨウトチノキ(=フランス語でマロニエ。英語で Horse Chesnut = 馬栗)です。英語名にある "chesnut = 栗" は、トチノキが栗の仲間だという誤解から付けられたようです。
この絵はゴッホのパリ時代の作品です。パリには街路樹や公園樹としてマロニエがたくさん植えられていて、春に開花します。その光景を絵にしたものでしょう。
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マロニエの花と実。花は房状になっている。日本のトチノキと違って実にはトゲがある。 |
ゴッホはこのマロニエの花を、終焉の地となったオーヴェル・シュル・オワーズでも描いています。それが次の作品です
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「花咲くマロニエの枝」 |
1890年5月、オーヴェル・シュル・オワーズ 72.0 cm × 91.0 cm ビュールレ・コレクション |
この作品も日本では「花咲く栗の木の枝」と呼ばれていますが、描かれているのは明らかに栗ではなくマロニエです。パリに近い地に転居した画家がパリ時代を思い出したのかもしれません。
糸杉
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"Cypresses" 「糸杉」 |
1889年6月、サン=レミ 93.4 cm × 74.0 cm メトロポリタン美術館 |
ゴッホはサン=レミの精神療養院の時代に8点程度の「糸杉の絵」ないしは「糸杉のある風景の絵」を描いています。No.284「絵を見る技術」ではそのうちの3作品を引用しました。上に引用したメトロポリタン美術館の絵は、それらの中でも糸杉に焦点が当たっている絵です。この絵が描かれた時期に、ゴッホは弟・テオに宛てた手紙で次のように書いています。
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西洋絵画に糸杉が描かれることはあります。たとえばダ・ヴィンチの『受胎告知』には後景に糸杉が描かれている(No.284「絵を見る技術」に画像を引用)。しかしゴッホが言うように「糸杉を中心的な画題として描いた絵画」はないのではと思います。
糸杉の色は黒々とした緑ですが、美しいフォルムで、凛として地面から屹立している。そのオベリスクのような姿に画家は強く惹かれたようです。特にこの絵は、焦点となっている手前の糸杉の上部がカットアウトされています。それによって糸杉特有の尖った円錐状の先端が上の方に長く伸びていることを想像させます。あえて全容を描かないという画家の構図の工夫を感じさせます。
構図上の工夫と言えば、No.284 に書いたのですが、この手前の糸杉の縦の中心線は、画面の中心より少しだけ左にずれています。この "ずれ具合" は、カンヴァスの "ラバットメント・ライン" を元に決められています。かなりのデッサンと計画性で描かれた絵という感じがします。
なお、ゴッホがサン=レミで最後に描いた糸杉の絵をクレラー・ミュラー美術館が所蔵していますが、これについてのゴッホ自身の手紙を、No.158「クレラー・ミュラー美術館」に引用しました。
木の幹
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"Ploughed field with a tree-trunk" 「木の幹のある畑」 |
1888年10月、アルル 91.0 cm × 71.0 cm Helly Nahmad Gallery(ロンドン) |
この絵について、ゴッホはテオへの手紙に次のように書いています(日付はゴッホ美術館による)。
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引用の最後に「それはこんな絵だ」とあるように、手紙には2枚の絵のスケッチが添えられています。それが次の画像です。
1888年10月27/28日のテオへの手紙に添えられたスケッチ。右が古木で、左は「種まく人」。ゴッホはミレーの模写を含めて多数の「種まく人」を描いているが、このスケッチに相当する油絵作品は、スイスのヴィンタートゥールにある私設美術館、ヴィラ・フローラが所有している。 |
ゴッホが手紙でこの古木をイチイ(英語で yew)と書いているので、この絵の題はふつう「Trunk of an Old Yew Tree」(古いイチイの木の幹)とされています。しかし絵を見る限りこれはイチイではありません。イチイは常緑針葉樹ですが、この絵には木のものと思われる枯れ葉がついていて、落葉広葉樹のようです。ということは、この木はヨーロッパで一般的なオーク(=落葉性の樹木。和名はヨーロッパナラ)ではないでしょうか。
オークはヨーロッパでは神聖な木とされているので、畑の中にポツンと残されていることもあるのではと想像します。フレーザーの『金枝篇』に、次のようにあります。
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引用中の "メーヌ県" はロワール河の沿岸で、フランスの中西部です。アルルとは違いますが、中西部にある風習は南フランスにあってもいいのではないかと思いました。ちなみにフレーザー(イギリス人の社会人類学者)は、ゴッホの1年後に生まれた同時代人です。
ちなみに日本語にすると、常緑性のオーク = 樫、落葉性のオーク = 楢ですが、伝統的にオーク = 樫と訳されることがあります。引用した日本語訳では漢字が「櫧」でルビが「いちい」ですが、「櫧」は「イチイ」ではありません。この字の読みは「カシ」で「樫」と同じ意味です。訳者は描かれた木がイチイではないことが分かっていて「櫧」としたのかもしれません。
ともかく「イチイ」はゴッホの勘違いの可能性が強い。そういう事情もあるのでしょう、ゴッホ美術館はこの絵の題を「Ploughed field with a tree-trunk」(木の幹のある畑)としていて、木の名前をあげていません。妥当な判断だと思います。
木の種類の詮索はさておき、絵の話です。この絵は、畝が作られ種が蒔かれた畑に一本だけ立つ古木の幹だけをクローズアップで描いています。木の全体の様子は分かりません。この描き方がこの絵の特徴です。
画家は、長い年月を生きてきた樹木の本質が、幹とその木肌に現れると感じたのでしょう。最初に引用したスモモの絵(『白い果樹園』)についてのゴッホ美術館の説明で、「ゴッホは "古びた(timeworn)" 木を好んだ」というのがありました。この古木も、そういった画家の心情が現れているようです。
桑
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"Mulberry Tree" 「桑の木」 |
1889年10月、サン=レミ 54.0 cm × 65.0 cm ノートン・サイモン美術館 (米・カリフォルニア州パサデナ) |
この絵は No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用しました。桑(日本で言うヤマグワ)は、秋になると真っ黄色に色づきます。白っぽいゴツゴツした岩の上で、青い空に映える黄葉した桑の姿に画家は感じ入ったのだと思います。桑の木から垂れ下がるオレンジ色のものが描かれていますが、おそらく桑の実でしょう。大きさのバランスが変ですが、そんなことより、この大きさで、この色で、ここに描きたかったのだと思います。
桑の実はともかく、この絵は黄葉した桑の木を、まるで黄色い炎が噴き出しているように描いています。実際の桑の木を見ても、こんな風には目に映りません。これはリアリズムとは離れた、画家が黄葉を見たときの感情をダイレクトに表現したのだと思います。
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ヤマグワの黄葉と実 |
オリーブ
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”Olive Grove” 「オリーブ畑」 |
1889年6月、サン=レミ 72.0 cm × 92.0 cm クレラー・ミュラー美術館 |
ゴッホはオリーブの木やオリーブ畑の絵を多数描いています。この絵は "第2ゴッホ美術館" とも言うべきクレラー・ミュラー美術館が所蔵している作品です。
曲がりくねった幹は、これらのオリーブが古木であることを感じさせます。特に太い幹の2本の木です。しかし古木といえども緑の豊かな葉が茂り、実をつけ、人々の生活に役立っている。そういった生命力を暗示させる作品です。
木の幹と根
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"Tree Roots" 「木の幹と根」 |
1890年7月、オーヴェル・シュル・オワーズ 50.3cm × 100.1cm ファン・ゴッホ美術館 |
ゴッホ美術館のサイトの英語題名は「Tree Roots」となっているが、一般には「木の幹と根」で知られる。ゴッホ美術館の解説でも木の幹と根を描いたものとある。 |
オーヴェル・シュル・オワーズでのゴッホ作品にみられる、縦横比率1:2の画面です。この形のカンヴァスでは「一面の麦畑に群青の空、そこにカラスが群れ飛ぶ」絵が有名ですが、この絵はそういう広々とした風景ではありません。クローズアップで、木とおぼしきものの一部が描かれています。
背景は黄銅色の傾斜地か崖のようであり、そこにむき出しの木の根と細い幹が絡まっています。所々に描かれた緑の葉は、木が生きている証拠です。幹と根は絡まり、曲がりくねっていて、どこがどうなっているのか判然としません。ほとんど抽象画といっていいでしょう。
ゴッホ美術館の解説によると、背景となっているのはオーヴェル・シュル・オワーズにあったマールの採掘場です。マール(泥灰土)とは粘土と石灰の混合土で、当時のコンクリートの原料になりました。
さらに解説によると、この絵はおそらくゴッホの絶筆とあります("probably Van Gogh's very last painting")。亡くなる日の朝に描かれたと匂わす解説もありました。
泥灰土(マール)の地質というと、木の生育にとっては厳しい環境のはずです。そこでも何とかして生き延び、緑の葉を付ける。画家はこの「幹と根が絡まり曲がりくねっている姿」に、木の生命力を見たのだと思います。
アイリス
ゴッホがサン=レミの精神療養院に入院したのは1889年5月ですが、その5月に6点の絵を描いています。そのうちの2点はアイリスの絵で、ゲティ・センター所蔵の有名な『アイリス』を No.93「生物が主題の絵」に引用しました。それを再掲するとともに、カナダ国立美術館が所蔵するもう一枚のアイリスを引用します。
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"Irises" 「アイリス」 |
1889年5月、サン=レミ 71.1 cm × 93.0 cm ゲティ・センター |
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"Iris" 「アイリス」 |
1889年5月、サン=レミ 62.2 cm × 48.3 cm カナダ国立美術館 |
ゴッホは『アイリス』の絵のことを、サン=レミの精神療養院に入院した直後のテオへの手紙に書いています。
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アイリスはアヤメ属の植物を指します。従って和名でいうと、アヤメ(菖蒲)、カキツバタ(杜若)、ハナショウブ(花菖蒲)、イチハツ(鳶尾、一初)などが相当するでしょう。これらの花はよく似ています。
引用した日本語訳は鳶尾となっています。ゴッホの絵から鳶尾に近いという判断かもしれませんが、日本の鳶尾と全く同じ植物がサン=レミにあるわけではないので、"アイリス" か、ないしはアヤメ属の花という意味で "アヤメ" とするのが妥当だと思います。
それはともかく、この手紙でわかることは『アイリス』はゴッホがサン=レミの精神療養院に来て真っ先に描きはじめた絵ということです。さらに、手紙に "リラの木の茂み" とありますが、そのリラ(=ライラック)の絵が次です。
ライラック
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"Lilac Bush" 「ライラックの茂み」 |
1889年5月、サン=レミ 73.0 cm × 92.0 cm エルミタージュ美術館 |
1889年5月に描かれたアイリスとライラックの絵を見て、明らかにわかることがあります。それは、この3枚の絵は「いかにも生命の輝きに溢れた植物の姿を描いている」ということです。ゴッホが入った施設には、精神を病んだ人たちが入院・居住しています。しかしその庭に咲き誇る花は、病とは全くの対極の明るさと生命力に満ちている。画家はそこを描きたかったのだと思います。
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ライラック(リラ)の花(Wikipediaより)。日本では北海道を代表する花である。 |
薔薇
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「ばら」 |
1889年4月、アルル 33.0 cm × 41.3 cm 国立西洋美術館 |
ゴッホのアルル時代の最後期に描かれた絵で、園芸種ではない野バラを描いています。この絵は上野の国立西洋美術館の常設展示室にあります。経験上、常設展に行くと必ずあるので、展示替えはないのだと思います。
小説家の原田マハさんは、この絵をもとに『薔薇色の人生』という短篇小説を書いています。主人公は、人からゴッホ展のチケットをもらって国立西洋美術館に行くが、展覧会は既に終了していた。そのチケットで常設展なら見学できると聞いた主人公が出会うのが、このゴッホの絵です。そのあたりの文章です。
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"Roses" 「ばらと甲虫」 |
1890年4月-5月、サン=レミ 33.5 cm × 24.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
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ゴッホのサン=レミ時代の最後期の絵です。国立西洋美術館の絵と同様に野バラを描いていますが、この絵には一匹の甲虫が描かれています。ゴッホ美術館の説明によると、この甲虫はキンイロハナムグリ(漢字で書くと金色花潜。コガネムシ科ハナムグリ属。英名:rose chafer)で、カナブンの仲間です。ハナムグリとは「花に潜る」の意味ですが、この虫は花の中でもバラを好み、金色に輝く緑が美しいコガネムシです。まさにバラの花に潜って蜜を吸っている、その様子が描かれています。
ひなげし
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"Butterflies and poppies" 「ひなげしと蝶」 |
1890年4月-5月、サン=レミ 34.5 cm × 25.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
モンシロチョウと思われる蝶がヒナゲシに寄ってきた図です。この絵は先にヒナゲシとモンシロチョウを描き、あとから青い背景を塗っています。その背景は未完で、カンヴァスの地が出ているとところがあります。
「ばらと甲虫」もそうですが、この絵の構図は日本の花鳥画の影響を感じます。ただし、ヒナゲシの茎と葉にはさまざまな緑が使われていて、花の朱色もさまざまな色がある。それによって立体感と奥行き感が創り出されています。
たんぽぽ
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「黄色い花の野」(たんぽぽ) |
1889年4月、アルル 35.5 cm × 57 cm ヴィンタートゥール美術館(スイス) |
国立西洋美術館の「ばら」と同じ時期に描かれた作品です。この絵は普通、「黄色い花の野(Field of Yellow Flowers)」と呼ばれることが多いのですが、所蔵しているヴィンタートゥール美術館は "Les pissenlits" としてウェブサイトに公開しています。フランス語でタンポポの意味です。
確かにこの黄色い花はタンポポなのでしょう。しかし国立西洋美術館の「ばら」と違って、花を描いた絵という感じはしません。黄色い可憐な花をつける「野の草むら」を描くことに主眼がありそうです。地面を見下ろす角度で、クローズアップで草花だけを画面全体に描くというこの構図が、そう感じさせます。こういった「野の草むら」を描いた絵を次にまとめて引用します。
草
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"Patch of Grass" 「草地」 |
1887年4月-5月、パリ 30.8 cm × 39.7 cm クラレー・ミュラー美術館 |
この絵について、所蔵するクラレー・ミュラー美術館のサイトにある解説を引用します。この中では日本の版画への言及があります。
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ゴッホは、このパリ時代の絵を皮切りに、アルル、サン・レミでも草地を描いています。そのキーワードは、"クローズアップ" と "明るい色彩" なのでした。
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「草むら」 |
1889年4月、アルル 45.1 cm × 48.8 cm ポーラ美術館 |
国立西洋美術館の「ばら」、ヴィンタートゥール美術館の「たんぽぽ」と同時期に描かれた作品です。「ばら」や「たんぽぽ」と同じように、地表を見下ろすアングルで、水平線や遠景は全くなく、地表の草だけを描いています。花は何もなく、単に草だけです。その草の葉が、各種の色と筆致で描き分けれられている。
普通は画題にまずしないような、何でもない雑草です。花が咲くのでもなく、形がユニークでもなく、どこにでも見かける雑草を描こうと画家は考えたわけです。つつましく、しぶとく生きている草に感じるものがあったのでしょう。
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"Undergrowth" 「下草とキヅタのある木の幹」 |
1889年7月、サン=レミ 73.0 cm x 92.3 cm ファン・ゴッホ美術館 |
「草むら」と同じように、地表を見下ろすアングルで描かれています。木の幹が立ち並び、地表は草で覆い尽くされています。また木の幹にもキヅタが絡みついている。あたり一面が草の世界で、その中のところどころに太陽の光が差し込んでいます。
振り返ってみると、「地表や人物に当たる木漏れ日を白っぽいスポット状に描く」というのは、印象派の絵にしばしばあります。有名なルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(オルセー美術館)がそうだし、同じオルセーには「ブランコ」という作品もありました(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」)。モネもそういう絵を描いているし、サージェントが印象派っぽく描いた「柳の下のパントで眠る母と子」(No.192「グルベンキアン美術館」)でもまさにその効果が使われていました。
しかしゴッホの絵で、この効果を使って直射日光の中での暗がりを表現した絵というのは、大変に珍しいのではないでしょうか。
下草とキヅタの表現をよく見ると、草の葉や茎を描くつもりは全くないようです。そこにあるのは、さまざまな色彩と方向の筆触だけであり、短い筆触の積み重ねで草とキヅタを表現しています。一方、木の幹には長めの線が使ってあり、木肌のごわごわした感じがよく出ていると思います。
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"Tree trunks in the grass" 「草むらの中の幹」 |
1890年4月、サン=レミ 72,5 cm × 91,5 cm クラレー・ミュラー美術館 |
一つ前の「下草とキヅタのある木の幹」と同じような見下ろす構図ですが、一段とクローズアップの表現です。そのため個々の草の茎や葉や花が描かれています。その草は、芽吹き、成長し、花をつけています。生命の輝きの真っ盛りを描いているようで、今までに引用した『果樹(スモモ、アーモンド)』『アイリス』『ライラック』と共通した感じを受けます。
一方、左の大きな木の幹は、クラレー・ミュラー美術館の解説によると松です。黒い縁取りの中に様々な色が重ねられていて、リアリズムとは離れた装飾的で抽象的な描き方です。これによって年月を経た松の幹の、ごつごつした感じが伝わってきます。草の描き方との対比によって、逆に草むらの若々しさが強調されているようです。
構図をみると、この絵は思い切ったクローズアップにより画面に独特の奥行き感が生まれています。また草むらには、一見すると気づかないかもしれないリーディングライン(視線を誘導する線)がジグザグ状に仕組まれている。これらを合わせて、画面に吸い込まれそうな感じを受けます。
余談ですが、この「草むらの中の幹」と一つ前の「下草とキヅタのある木の幹」の構図は、菱田春草の重要文化財「落葉」(1909)を思い起こさせます。絵の構図とかバランスは、西欧絵画でも日本画でも共通するところがあるということだと思います。
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"Long Grass with Butterflies" 「蝶と長い草」 |
1890年4月、サン=レミ 64.5 cm × 80.7 cm ロンドン・ナショナル・ギャラリー |
一つ前に引用した『草むらの中の幹』と同時に描かれた作品です。ゴッホ美術館はこの絵の題名を「Meadow in the Garden of the Asylum:療養院の庭の牧草地」としています。
この絵は画面上部に、明らかに小道とわかるものが描かれています。また、上に引用したサン=レミ時代の2作品も、画面上部に木が描かれている。これによって、画面の奥行き感がぐっと増しています。
それに対して、パリ時代、アルル時代の3枚の草むらの絵は(「黄色い花の野」を含む)、画面上部にそういったアイテムがありません。つまりサン=レミ時代の3つの "草むら" は、クローズ・アップで見おろすという基本は踏まえつつ、構図に工夫が加わっています。画家の探求心を感じます。
「黄色い花の野」を含めて6枚の草むら・草地の絵を引用しましたが、ゴッホの手紙には "草の絵を描く意味" をうかがわせる記述があります。それを以下に引用します。アルルからテオに出した手紙の中の一部です(日付はゴッホ美術館による)。
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麦
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"Ears of Wheat" 「麦の穂」 |
1890年7月、オーヴェル・シュル・オワーズ 64.5 cm × 48.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
この絵についてゴッホは、死後に発見されたゴーガン宛ての未完の手紙に次のように書いています。
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「非常に生々とした、しかし静かな背景をもった肖像を描きたいと思っている」と手紙にあるように、ゴッホはこの絵とは別に「麦の穂を背景とする女性の肖像」を2枚、描いています。そのうちの1枚はワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています(「小麦を背景に立つ若い女性」)。上の引用で「その向こうに」との訳がありますが、手紙の英訳をみると "On it," となっているので「この絵をもとに」が正しい訳でしょう。
ゴッホはこの絵で、麦畑に分け入り、クローズアップで、麦の穂と茎だけに集中して描いています。ほとんどが緑系のさまざまな色で、その中に穂先の黄色があり、少々のピンク(右下。ヒルガオ)と青(左上。ゴッホ美術館の説明ではヤグルマギク)がある。こういった色の変化の総体で「微風に揺れる麦の穂の甘美なざわめき」をとらえようとしたわけです。ほとんど抽象画と思える描き方であり、ゴッホ以前にこんな絵を描いた人はいないでしょう。手紙を読むと、色彩の変化が人間感情に与える効果を探求する意気込みが伝わってきます。
蛾
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"Giant Peacock Moth" 「オオクジャクヤママユ」 |
1889年5月-6月、サン=レミ 33.5 cm × 24.5 cm ファン・ゴッホ美術館 |
一匹の大きな蛾が、ミズバショウのような形の花にとまっています。この絵に描かれた蛾について、ゴッホは弟・テオへの手紙に書いています。サン=レミの精神療養院に入院した月の手紙で、『アイリス』や『ライラック』と同時期です(手紙の日付はゴッホ美術館による)。
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ゴッホが書いている「通称 "死の頭" という蛾」は、メンガタスズメ(面形雀蛾)という蛾です。これは "髑髏蛾" とも呼ばれます。メンガタスズメの一種、ヨーロッパメンガタスズメの画像を次に引用します。
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ヨーロッパメンガタスズメの画像(Wikipedia)。羽を広げると10cm以上になる大型の蛾である。メンガタスズメは映画「羊たちの沈黙」(1991年。ジョディー・フォスター、アンソニー・ホプキンス主演)で重要な役割をはたしたが、「ジョディー・フォスターの正面視の顔と "髑髏蛾" だけ」という宣伝ポスターが強烈な印象を与えた。 |
画像でもわかるように、背中に "人の顔" ないしは "髑髏" のよう模様があります。ゴッホはテオへの手紙に蛾のスケッチを添えていますが、それが次の画像です。
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このスケッチには "人の顔" のようなものがありますが、描かれている蛾はメンガタスズメではなくオオクジャクヤママユ(=和名。英名:Giant Peacock Moth)です。これはヨーロッパ最大の蛾で、オオクジャク蛾とも訳されます。ファーブルの『昆虫記』には、ファーブルが自宅で羽化させたオオクジャク蛾の雌の周りに、雄の蛾が外から数十匹も進入してきて大騒ぎになるという有名な記述があります(『昆虫記』第7巻 23章)。この件を発端としてファーブルは、今で言う "フェロモン" の発見に至ったのでした。そう言えば、ファーブルの自宅があったセリニャンとゴッホがいたサン=レミは、同じプロヴァンス地方の近くです。
またこの蛾は、ヘッセの短編小説「少年の日の思い出」に出てきました(No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」の「補記1」参照。小説の蛾は中型のクジャクヤママユ)。
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オオクジャクヤママユの画像。羽を広げると15cm~20cmになるヨーロッパ最大の蛾である。ヘッセ「少年の日の思い出」(岡田朝雄訳。草思社 2010)の口絵より。 |
おそらくゴッホは "死の頭" という蛾がいることを知識として知っていて、サン=レミの精神療養院の庭で大きな蛾を見つけたとき、それが "死の顔" だと考えたのでしょう。背中のまだら模様のちょっとした乱れか何かが顔に見えてしまった。そういうことだと思います。
ちなみに、この絵に描かれている「ミズバショウのような形の花」は、同じサトイモ科のアルムでしょう。アルムだけを描いたゴッホの素描が残っています(ゴッホ美術館蔵)。ミズバショウと同じく、花と見えるのは花ではなく、仏炎苞と呼ばれる "苞"(=花のつけねにできる、葉が変化したもの)です。
カワセミ
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”Kingfisher by the Waterside" 「水辺のカワセミ」 |
1887年7月-8月、パリ 19.1 cm × 26.6 cm ファン・ゴッホ美術館 |
カワセミが水辺のアシの茎に止まり、魚を狙っています。この絵を所蔵しているゴッホ美術館の説明を読むと、ゴッホはカワセミの剥製を持っていたとあります。カワセミは色が美しい鳥です。おそらくその色に惹かれて購入した(あるいは譲り受けた)のでしょう。
カワセミは日本でも一般的な鳥で、私が住んでいる市の住宅地のそばの川でも見かけたことがあります(市の鳥に指定されている)。オランダやパリでもよく見かける鳥だと想像されます。おそらくゴッホは剥製を参考に、それを水辺にのカワセミに移し替えて描いたのだと思います。野鳥を生息環境で描いた、めずらしい作品です。
ゴッホの生物の絵
以上に引用した絵は、傑作とされているものから習作や未完作までさまざまですが、共通する特徴を何点かあげると次のようになるでしょう。
生命の輝き
画家は生物の姿に "命の輝き" を見ていたようです。その典型は、甥の誕生祝いに弟へ贈ったアーモンドの枝と花の絵です。また開花した果樹や、サン=レミの精神療養院に入院した直後のアイリスとライラックの絵もそうでしょう。
樹木の生命力
糸杉の絵や、畑に一本だけ立つ木の幹の絵、オリーブ畑の絵は、年月を経た木に命のたくましさ見ているのだと思います。
なにげない生物
雑草を描いた絵や、麦の穂だけを描いた絵、下草を描いた絵などは、普通の画家ならまず画題としない対象です。なにげない生物にも画家は観察の目を向けています。
色へのこだわり
画家であればあたりまえかもしれませんが、色彩に対する強いこだわりを感じます。多様な緑を使って画面を構成したり、色の対比にこだわったり、あえて現実とは乖離した色を使ったりということが随所にあります。
ゴッホは多くのジャンルの画題で多数の絵を描いているので、"生物画" はごく一部に過ぎません。ただ、これだけ「各種の生物を生きている環境で描いた画家」は、西洋の画家ではあまり見あたらないでしょう。そこにゴッホという画家の特質を見ることができると思います。
2020-08-22 07:26
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No.291 - ポーラ美術館のセザンヌ [アート]
No.150「クリスティーナの世界」で、箱根のポーラ美術館で開催されたセザンヌ展のことを書きました。今回はその展覧会に関連した短篇小説を紹介します。
セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで
まず No.150 で書いたセザンヌ展ですが、次のような経緯をたどりました。
ちなみにポーラ美術館が所蔵しているセザンヌ作品が9点というのは、日本の美術館で最多の数です。このブログでもそのうちの2点を引用したことがあります。それを次に掲げておきます。
日本最多のセザンヌを所蔵するポーラ美術館が、日本のセザンヌを一堂に集めた展覧会を開催したわけです。この開催には長期に渡る準備が必要なはずで、箱根山の噴火警戒レベルによる借用作品の展示中止は、企画した学芸員にとってはさぞかし無念だったことでしょう。
そもそも No.150「クリスティーナの世界」は、原田マハさんの短篇小説「中断された展覧会の記憶」(短篇小説集『モダン』所載。文藝春秋 2015)の内容を引用して、アンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』のことを書くのが目的でした。
その原田マハさんの短篇では、ニューヨーク近代美術館(MoMA)がワイエスの『クリスティーナの世界』を福島の美術館に貸し出し、展覧会が行われているそのさなか、東日本大震災と原発事故が勃発します。展覧会は中止になり、MoMAは『クリスティーナの世界』を即刻 "救出" することを決めます。絵の回収にあたるMoMAの学芸員と、返す側の福島の美術館の学芸員の2人の "想い" が交錯するのが小説の骨子でした。
MoMAが『クリスティーナの世界』を東日本大震災の時点で日本へ貸し出していたというのはフィクションです。しかし、この短篇は「ワイエスの絵に託して震災からの復興を祈った作品」であり(雑誌に発表されたのは2011年末です)、そこが大変印象に残りました。かつ、「借用した美術品の展示が災害によって中断される」というところから、ブログを書いたときに同時進行していた箱根山の噴火警戒レベル3を強く連想しました。そこでポーラ美術館の「セザンヌ借用作品の展示中止」のことを付け加えたわけです。
ところで、その「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」という展示会とそこに展示されたあるセザンヌ作品のことを、原田マハさんは別の小説にしています。短篇小説集「<あの絵>のまえで」(幻冬舎 2020)に収められた『檸檬』という作品です。今回はその小説のことを書きます。
原田マハ『檸檬』
短篇小説『檸檬』は主人公の女性の1人称で語られます。その「私」は小田急線の新百合ヶ丘が最寄り駅の自宅に、共働きの父母と一緒に住んでいます。この春に社会人になったばかりで、新宿の会社に勤めている。『檸檬』は3つの部分に分かれているので、ちょっと大げさですが、第1部・第2部・第3部とします。
第1部で「私」は、同期で入社した「彼女」からカフェに呼び出されます。「彼女」の目的は「私」に忠告することでした。つまり「私」の悪い噂が部内に蔓延していて "炎上" 状態だ、このままでは部内に身の置き場がなくなるよ、と ・・・・・・。
「ほとんど毎日、定時にあがって周りに仕事を押しつけている」「いつもネイルを綺麗にしているが、そんな時間があるなら残業してほしい」「毎日、手作り弁当で余裕のあるところを見せびらかしている」「袖ぐりからブラが見える脇の開いたノースリーブを着てきて部内の視線を釘付けにしたが、男子の気を引くためにやったに違いない」・・・・・・。
「私」は何も言うことができず、ようやく「・・・・・・ ありがとう」と声を絞りだしました。「彼女」は "超空気読まない"「私」に呆れていて、そそくさとカフェを後にしました。
第2部は「私」の小さい頃から高校時代までの回想です。「私」は昔から "誰かと一緒に何かをする" ということに興味がもてなかった。友達の輪に入っていけず、ぽつんとひとりだった。だけど、それが別に苦痛ではなかったのです。
そんな「私」が一番好きだったのが「お絵かき」です。マンガのキャラクターの模写からはじまり、自分でキャラクターを作るようになり、ノートの余白から始まってスケッチブックに描くようになります。そして次には自己流でアクリル画を描くようになった。絵の "先生" はもっぱらネットの動画サイトでした。中学3年になったときにはかなり上達し、ひたすら絵を描いていました。
神奈川県立高校の普通科にやっとのことで入学した「私」は、美術部に入り、そこで初めて油彩画に挑戦しました。美術部には1学年上に美大志望の「先輩」がいて、彼は神奈川県主催の絵画コンクールに何度も入選したことのある腕前でした。また下級生の面倒見もよく、「私」にも油彩画を丁寧に教えてくれました。「先輩」に会えるという思いで高校に通うのが楽しみになりました。
その高校1年生の秋です。「私」は美術部の顧問の先生に思いがけない言葉をかけられます。県主催の絵画コンクールに応募してみないかとのことです。コンクールには「先輩」だけが応募する予定で、すでに彼は部室に居残って制作を始めていました。「先輩」と2人で部室で制作できる。「私」はその思いで応募を決めました。
それ以降、「先輩」と「私」は部室で絵を描きます。「私」は応募作を静物画にしようと決め、机にテーブルクロス、皿、水差し、果物を乗せて描き始めました。「先輩」は抽象画を描いているようですが、「私」にはほとんど声を書けなくなりました。
そして制作が進んできたとき、あることがあって「先輩」が「私」に対して "仄暗い感情" を持っていることに気づくのです。そしてコンクールの締め切りが迫ったある日、決定的な "事件" が起こりました。「先輩」がそばにきて「私」の静物画のレモンの描き方をあからさまに批判したのです。そして絵筆を握っていた「私」の腕をとり、絵筆を動かしてレモンの上から大きな「×」印を描きました。
私は「先輩」の腕を振りほどき、絵筆を床に投げつけ、鞄をつかんで部屋を飛び出すと、駅まで走りました。その出来事があって以降、「私」は絵筆を握ったことがありません。
第3部は同期の彼女にカフェに呼び出された次の日です。また "望んでもいない" 朝がやってきました。特に昨日のことがあったのでなおさらです。「私」はあきらめの気持ちで新百合ヶ丘駅の新宿方面行きのホームに立っていました。そのとき、いつもと違う光景を目にします。向かいの小田原方面行きのホームに一人の女子高生が立っていたのです。制服から「私」の後輩だと分かりました。それ以上に目を引いたのは女子高生が "カンヴァスバッグ" を持っていたことです。それは「私」があのコンクール用の絵を描き出した時に持っていたものでした。明らかに彼女は後輩の美術部員のようです。さらにその女子高生はポケットからレモンを取り出してじっと眺めたのです。
「会社のことなんて、あとでどうにでもなる。今はあの子についていくべき」という内心の声に突き動かされて、「私」は反対側のホームへと渡り、女子高生の後を追いました。女子高生は小田原で電車を乗り換え、箱根湯本で箱根登山鉄道に乗り、強羅駅で降りてバスに乗り継ぎました。そして辿りついたのがポーラ美術館でした。小説を引用します。「私」の1人称です。
少女はポケットからレモンを取り出し、セザンヌの絵の前にかざしました。それで「私」は分かったのです。少女は今、絵を描いていて、セザンヌを制作の参考にしているのだということを。少女は絵と向き合い、セザンヌと対話しようとしていたのです。
その姿に打たれた「私」は、「もう一度、絵を描いてみよう。遅くなんかない、まだ間に合う」と決意したのでした。
原田マハ『檸檬』の概要の紹介はここまでです。以降は、小説の最後に出てくるセザンヌの静物画についてです。
セザンヌ『砂糖壷、梨とテーブルクロス』
ポーラ美術館が所蔵しているセザンヌ『砂糖壷、梨とテーブルクロス』は、特別展「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」(2015年4月4日 ~ 9月27日)のメイン・ヴィジュアルになった作品です。この記事の最初の方に引用した特別展のポスターもこの絵でした。
小説『檸檬』では、この絵を初めて見た「私」の感想として、次のように書かれています。
まずこの絵に何が描かれているかですが、左手に藤色の植物模様らしきテーブルクロスがあり、中央に白い砂糖壷と皿があります。そして11個の果物が右手の方まで並べられている。
右端の黄色い2個を除いた9個の果物は、奥の方の4個が形からしてリンゴです。緑を基調として赤く色づいた部分もある。
リンゴの手前の5個が、この絵の題名になっている梨(西洋梨)です。西洋梨の形をしているし、この5個には柄(=果柄)がついています。一番右のものだけが緑ですが、おそらく熟する前のものでしょう。
この9個の西洋梨とリンゴの右手、一番右下の黄色い果物が、原田マハさんの短篇小説のテーマになったレモンです。小説の女子高生は実物のレモンを手にしながらこの部分を熱心に眺めて絵の研究していたということになります。
レモンの上にある黄色い果物は何でしょうか。形はレモンとも西洋梨とも違います。黄色い果物で、この絵のように "ずんぐり" とした形はマルメロでしょう。まとめるとこの絵の果物は、リンゴ、梨、レモン、マルメロということになります。
全体を俯瞰すると、小説に「えもいわれぬ不思議な絵」とあったように、ちょっと奇妙な絵です。その一番の原因はテーブの稜線が斜めになっていて、テーブルがあたかも傾いているように見えることです。もちろん実際のテーブルが傾いているはずがなく、これは画家の工夫でしょう。この描き方によって、リンゴと西洋梨の一団が右の方に転げ落ちていくような感じを受けます。しかし右端には黄色のレモンとマルメロがあって、それが転げ落ちるのを受け止めるストッパーとなっているかのようです。つまり画面の右側を守っている。
そして画面の左側を守っているのがテーブルクロスですが、上の方が高く盛り上がっています。これが実際にテーブルの上に置かれているとしたら、どういう配置なのかは不明です。しかもテーブルクロスの後ろにはリンゴと思える12番目の果物が顔を覗かせています。明らかにテーブルの上に乗っているのではない、奇妙な位置関係です。
個々のオブジェはいかにもリアルっぽいけれど、それをもとに画家は全体の配置を再構成し、さらに色を工夫しています。一番コントラストが目立つ砂糖壷の強い白は、オブジェの全体を支配しているようで印象的です。小説『檸檬』の描写では、この絵のオブジェ群について、
となっていました。そして原田マハさんは「隅々まで輝く命が宿っている個々のオブジェ」の中でも、あえて(絵の題名にはない)右下隅のレモンに着目して小説にした。そのレモンは他の果物とは少し距離があるのですが、あくまでみずみずしい。それは「絵を描くためにポーラ美術館まで何回も通う女子高校生」の象徴であり、またこの小説の主人公である「私」が再び歩き出すことの象徴なのだと思いました。
原田マハ『<あの絵>のまえで』
『<あの絵>のまえで』(幻冬舎 2020)には6つの短篇小説が収められていて、日本の美術館が所蔵している次の6つの作品が <あの絵> になっています。
上の方に引用した本の表紙はピカソの『鳥籠』です。この絵は同じ原田マハさんの『楽園のカンヴァス』にも出てきました。主人公の娘が「大原美術館で一番好きな絵」と言って絵のポストカードを差し出す。主人公は改めて絵をよく見て、あること(=見逃してしまいそうな、この絵の秘密)に気づく ・・・・・・、というところです。その "気づき" が、『<あの絵>のまえで』では短篇小説のテーマと結びつけられています。同じ "ネタ" を再利用して今度は一つの短篇に仕立てるということは、著者はよほどこの絵が好きなのでしょう。
この本の帯のキャッチに「人生の脇道に佇む人々が、<あの絵> と出会い、再び歩き出す姿を描く」とありました。6篇の小説のうち5篇は「少々生きるのが下手な女性」が主人公で、絵と出会って新たな決意を抱く話です(『檸檬』もそうです)。
1つだけが少々違っていて、妻の1人称で語られる夫婦と一人息子の話です。個人的なことになりますが、この短篇が私の記憶を呼び起こしました。登山が好きな、かつての部下のことです。
彼は父親の影響で山が好きになり、大学時代は登山サークルに所属し、就職してからも大学時代の友人と一緒に山に登っていました。しかし彼は、ゴールデンウィークに鹿島槍ヶ岳で雪崩に巻き込まれて命を落としました。遺体が見つかったのは7月になってからです。もちろん葬儀に参列しましたが、「今回のことで会社にご迷惑をかけて申し訳ありません」とおっしゃる父上の姿に、いたたまれなかった。おそらく父上は「自分が山に引き込んだために息子は命を落とした」という強い自責の念にかられたでしょう。葬儀のときはもちろん、おそらくその後もずうっと ・・・・・・。
原田さんの小説では一枚の絵が鍵となって、登場人物にポジティブな "影響" を与えるのですが、私の部下の父親の場合はどうだったのだろう、何らかの心の平穏を得られたのだろうかと、一時の想いにふけりました。
セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで
まず No.150 で書いたセザンヌ展ですが、次のような経緯をたどりました。
ポーラ美術館で「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」と題した展覧会が、2015年4月4日~2015年9月27日の会期で開催された。 | |
この展覧会のポイントは、ポーラ美術館所蔵のセザンヌ作品9点と、日本の美術館から借り受けた12点を合わせ、計21点の日本にあるセザンヌが一堂に会することである。また合わせて、ポーラ美術館が所蔵するセザンヌの同時代、前後の時代の画家の作品も展示され、近代絵画におけるセザンヌのポジションが一望できるようになっている。 | |
ところが、開催直後の 2015年4月下旬になって、箱根山で不吉な火山性微動が観測されはじめた。 | |
借り受けたセザンヌ作品12点のうち、国立近代美術館所蔵の1点は6月7日で展示が終了した(当初からの予定どおり)。 | |
その後、火山性微動は頻発し、7月になって大湧谷周辺(ポーラ美術館の近く)の噴火警戒レベルが3に引き上げられた。 | |
これを受けてポーラ美術館は、借り受けたセザンヌ11点のうち7点の展示を中止した(2015年7月3日のアナウンス)。No.150 をアップしたのは 2015年7月18日なので、経緯はここまで。 | |
その後、7月27日になって、残りの借用作品4点の展示も中止になった。展覧会は、ポーラ美術館が所蔵する作品(セザンヌ9点と関連する画家の作品)だけで会期末まで続けられた。 |
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ポーラ美術館「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」の公式ポスター |
ちなみにポーラ美術館が所蔵しているセザンヌ作品が9点というのは、日本の美術館で最多の数です。このブログでもそのうちの2点を引用したことがあります。それを次に掲げておきます。
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「アルルカン」(1888/90) |
空間における人物の形態表現に取り組んだ作品で(=ポーラ美術館の解説)、モデルは息子のポールである。このアルルカンの絵は連作の一枚で、ワシントン・ナショナル・ギャラリーがほぼ同じ絵を所蔵している。No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」に、ポーラ美術館によるこの絵の解説を引用した。 |
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「ラム酒の瓶がある静物」(1890頃) |
ポーラ美術館の解説によると、この絵はかつてメアリー・カサットが所有していた(No.125「カサットの "少女" 再び」の「補記1」参照)。複数の視点が混在していることが明瞭にわかる作品である。ポーラ美術館は折に触れてこの絵を題材に「多視点」の解説をしている。 |
日本最多のセザンヌを所蔵するポーラ美術館が、日本のセザンヌを一堂に集めた展覧会を開催したわけです。この開催には長期に渡る準備が必要なはずで、箱根山の噴火警戒レベルによる借用作品の展示中止は、企画した学芸員にとってはさぞかし無念だったことでしょう。
そもそも No.150「クリスティーナの世界」は、原田マハさんの短篇小説「中断された展覧会の記憶」(短篇小説集『モダン』所載。文藝春秋 2015)の内容を引用して、アンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』のことを書くのが目的でした。
その原田マハさんの短篇では、ニューヨーク近代美術館(MoMA)がワイエスの『クリスティーナの世界』を福島の美術館に貸し出し、展覧会が行われているそのさなか、東日本大震災と原発事故が勃発します。展覧会は中止になり、MoMAは『クリスティーナの世界』を即刻 "救出" することを決めます。絵の回収にあたるMoMAの学芸員と、返す側の福島の美術館の学芸員の2人の "想い" が交錯するのが小説の骨子でした。
MoMAが『クリスティーナの世界』を東日本大震災の時点で日本へ貸し出していたというのはフィクションです。しかし、この短篇は「ワイエスの絵に託して震災からの復興を祈った作品」であり(雑誌に発表されたのは2011年末です)、そこが大変印象に残りました。かつ、「借用した美術品の展示が災害によって中断される」というところから、ブログを書いたときに同時進行していた箱根山の噴火警戒レベル3を強く連想しました。そこでポーラ美術館の「セザンヌ借用作品の展示中止」のことを付け加えたわけです。
ところで、その「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」という展示会とそこに展示されたあるセザンヌ作品のことを、原田マハさんは別の小説にしています。短篇小説集「<あの絵>のまえで」(幻冬舎 2020)に収められた『檸檬』という作品です。今回はその小説のことを書きます。
(以下に『檸檬』の概要が明かされています)
原田マハ『檸檬』
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第1部で「私」は、同期で入社した「彼女」からカフェに呼び出されます。「彼女」の目的は「私」に忠告することでした。つまり「私」の悪い噂が部内に蔓延していて "炎上" 状態だ、このままでは部内に身の置き場がなくなるよ、と ・・・・・・。
「ほとんど毎日、定時にあがって周りに仕事を押しつけている」「いつもネイルを綺麗にしているが、そんな時間があるなら残業してほしい」「毎日、手作り弁当で余裕のあるところを見せびらかしている」「袖ぐりからブラが見える脇の開いたノースリーブを着てきて部内の視線を釘付けにしたが、男子の気を引くためにやったに違いない」・・・・・・。
「私」は何も言うことができず、ようやく「・・・・・・ ありがとう」と声を絞りだしました。「彼女」は "超空気読まない"「私」に呆れていて、そそくさとカフェを後にしました。
要するに「私」は地味な性格で、人とのコミュニケーションをとるのが苦手です。それでいて一見 "女子力" が高そうに見える。もし「私」が活発で誰とでも話し合える性格だったら人気の新人になったかもしれません。しかし「私」はそれとは正反対です。
第2部は「私」の小さい頃から高校時代までの回想です。「私」は昔から "誰かと一緒に何かをする" ということに興味がもてなかった。友達の輪に入っていけず、ぽつんとひとりだった。だけど、それが別に苦痛ではなかったのです。
そんな「私」が一番好きだったのが「お絵かき」です。マンガのキャラクターの模写からはじまり、自分でキャラクターを作るようになり、ノートの余白から始まってスケッチブックに描くようになります。そして次には自己流でアクリル画を描くようになった。絵の "先生" はもっぱらネットの動画サイトでした。中学3年になったときにはかなり上達し、ひたすら絵を描いていました。
神奈川県立高校の普通科にやっとのことで入学した「私」は、美術部に入り、そこで初めて油彩画に挑戦しました。美術部には1学年上に美大志望の「先輩」がいて、彼は神奈川県主催の絵画コンクールに何度も入選したことのある腕前でした。また下級生の面倒見もよく、「私」にも油彩画を丁寧に教えてくれました。「先輩」に会えるという思いで高校に通うのが楽しみになりました。
その高校1年生の秋です。「私」は美術部の顧問の先生に思いがけない言葉をかけられます。県主催の絵画コンクールに応募してみないかとのことです。コンクールには「先輩」だけが応募する予定で、すでに彼は部室に居残って制作を始めていました。「先輩」と2人で部室で制作できる。「私」はその思いで応募を決めました。
それ以降、「先輩」と「私」は部室で絵を描きます。「私」は応募作を静物画にしようと決め、机にテーブルクロス、皿、水差し、果物を乗せて描き始めました。「先輩」は抽象画を描いているようですが、「私」にはほとんど声を書けなくなりました。
そして制作が進んできたとき、あることがあって「先輩」が「私」に対して "仄暗い感情" を持っていることに気づくのです。そしてコンクールの締め切りが迫ったある日、決定的な "事件" が起こりました。「先輩」がそばにきて「私」の静物画のレモンの描き方をあからさまに批判したのです。そして絵筆を握っていた「私」の腕をとり、絵筆を動かしてレモンの上から大きな「×」印を描きました。
私は「先輩」の腕を振りほどき、絵筆を床に投げつけ、鞄をつかんで部屋を飛び出すと、駅まで走りました。その出来事があって以降、「私」は絵筆を握ったことがありません。
美術部の顧問の先生が油絵初心者の「私」に絵画コンクールへの応募を勧めたのは、「私」の絵の才能を見込んでのことでしょう。そして美大志望の「先輩」は2人で絵の制作をするなかで、後輩の「私」の方が絵の才能があることを決定的に悟った。それは嫉妬心となり、やがては "どす暗い" 心になっていく。「私」はそれに気づくのが遅く、それなりの対応をすることもなく、そして決定的な事件を迎えてしまう。人とコミュニケートして適度な距離感を保つのが苦手な「私」を象徴するエピソードです。
第3部は同期の彼女にカフェに呼び出された次の日です。また "望んでもいない" 朝がやってきました。特に昨日のことがあったのでなおさらです。「私」はあきらめの気持ちで新百合ヶ丘駅の新宿方面行きのホームに立っていました。そのとき、いつもと違う光景を目にします。向かいの小田原方面行きのホームに一人の女子高生が立っていたのです。制服から「私」の後輩だと分かりました。それ以上に目を引いたのは女子高生が "カンヴァスバッグ" を持っていたことです。それは「私」があのコンクール用の絵を描き出した時に持っていたものでした。明らかに彼女は後輩の美術部員のようです。さらにその女子高生はポケットからレモンを取り出してじっと眺めたのです。
「会社のことなんて、あとでどうにでもなる。今はあの子についていくべき」という内心の声に突き動かされて、「私」は反対側のホームへと渡り、女子高生の後を追いました。女子高生は小田原で電車を乗り換え、箱根湯本で箱根登山鉄道に乗り、強羅駅で降りてバスに乗り継ぎました。そして辿りついたのがポーラ美術館でした。小説を引用します。「私」の1人称です。
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少女はポケットからレモンを取り出し、セザンヌの絵の前にかざしました。それで「私」は分かったのです。少女は今、絵を描いていて、セザンヌを制作の参考にしているのだということを。少女は絵と向き合い、セザンヌと対話しようとしていたのです。
その姿に打たれた「私」は、「もう一度、絵を描いてみよう。遅くなんかない、まだ間に合う」と決意したのでした。
原田マハ『檸檬』の概要の紹介はここまでです。以降は、小説の最後に出てくるセザンヌの静物画についてです。
セザンヌ『砂糖壷、梨とテーブルクロス』
ポーラ美術館が所蔵しているセザンヌ『砂糖壷、梨とテーブルクロス』は、特別展「セザンヌ ── 近代絵画の父になるまで」(2015年4月4日 ~ 9月27日)のメイン・ヴィジュアルになった作品です。この記事の最初の方に引用した特別展のポスターもこの絵でした。
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ポール・セザンヌ(1839--1906) 「砂糖壷、梨とテーブルクロス」(1893/4) |
ポーラ美術館 |
小説『檸檬』では、この絵を初めて見た「私」の感想として、次のように書かれています。
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まずこの絵に何が描かれているかですが、左手に藤色の植物模様らしきテーブルクロスがあり、中央に白い砂糖壷と皿があります。そして11個の果物が右手の方まで並べられている。
右端の黄色い2個を除いた9個の果物は、奥の方の4個が形からしてリンゴです。緑を基調として赤く色づいた部分もある。
リンゴの手前の5個が、この絵の題名になっている梨(西洋梨)です。西洋梨の形をしているし、この5個には柄(=果柄)がついています。一番右のものだけが緑ですが、おそらく熟する前のものでしょう。
この9個の西洋梨とリンゴの右手、一番右下の黄色い果物が、原田マハさんの短篇小説のテーマになったレモンです。小説の女子高生は実物のレモンを手にしながらこの部分を熱心に眺めて絵の研究していたということになります。
レモンの上にある黄色い果物は何でしょうか。形はレモンとも西洋梨とも違います。黄色い果物で、この絵のように "ずんぐり" とした形はマルメロでしょう。まとめるとこの絵の果物は、リンゴ、梨、レモン、マルメロということになります。
全体を俯瞰すると、小説に「えもいわれぬ不思議な絵」とあったように、ちょっと奇妙な絵です。その一番の原因はテーブの稜線が斜めになっていて、テーブルがあたかも傾いているように見えることです。もちろん実際のテーブルが傾いているはずがなく、これは画家の工夫でしょう。この描き方によって、リンゴと西洋梨の一団が右の方に転げ落ちていくような感じを受けます。しかし右端には黄色のレモンとマルメロがあって、それが転げ落ちるのを受け止めるストッパーとなっているかのようです。つまり画面の右側を守っている。
そして画面の左側を守っているのがテーブルクロスですが、上の方が高く盛り上がっています。これが実際にテーブルの上に置かれているとしたら、どういう配置なのかは不明です。しかもテーブルクロスの後ろにはリンゴと思える12番目の果物が顔を覗かせています。明らかにテーブルの上に乗っているのではない、奇妙な位置関係です。
個々のオブジェはいかにもリアルっぽいけれど、それをもとに画家は全体の配置を再構成し、さらに色を工夫しています。一番コントラストが目立つ砂糖壷の強い白は、オブジェの全体を支配しているようで印象的です。小説『檸檬』の描写では、この絵のオブジェ群について、
まるでおしゃべりをしているかのようににぎやかで、転がり落ちそうな躍動感がある。 | |
静物画なのに、ちっとも静かではないし、止まってもいない。個々のオブジェの隅々まで輝く命が宿っている。 |
となっていました。そして原田マハさんは「隅々まで輝く命が宿っている個々のオブジェ」の中でも、あえて(絵の題名にはない)右下隅のレモンに着目して小説にした。そのレモンは他の果物とは少し距離があるのですが、あくまでみずみずしい。それは「絵を描くためにポーラ美術館まで何回も通う女子高校生」の象徴であり、またこの小説の主人公である「私」が再び歩き出すことの象徴なのだと思いました。
原田マハ『<あの絵>のまえで』
『<あの絵>のまえで』(幻冬舎 2020)には6つの短篇小説が収められていて、日本の美術館が所蔵している次の6つの作品が <あの絵> になっています。
フィンセント・ファン・ゴッホ 「ドービニーの庭」 ひろしま美術館(広島市) | |
パブロ・ピカソ 「鳥籠」 大原美術館(倉敷市) | |
ポール・セザンヌ 「砂糖壷、梨とテーブルクロス」 ポーラ美術館(箱根町) | |
グスタフ・クリムト 「オイゲニア・プリマフェージの肖像」 豊田市美術館 | |
東山 魁夷 「白馬の森」 長野県信濃美術館・東山魁夷館(長野市) | |
クロード・モネ 「睡蓮」シリーズ5点 地中美術館(香川県・直島) |
上の方に引用した本の表紙はピカソの『鳥籠』です。この絵は同じ原田マハさんの『楽園のカンヴァス』にも出てきました。主人公の娘が「大原美術館で一番好きな絵」と言って絵のポストカードを差し出す。主人公は改めて絵をよく見て、あること(=見逃してしまいそうな、この絵の秘密)に気づく ・・・・・・、というところです。その "気づき" が、『<あの絵>のまえで』では短篇小説のテーマと結びつけられています。同じ "ネタ" を再利用して今度は一つの短篇に仕立てるということは、著者はよほどこの絵が好きなのでしょう。
この本の帯のキャッチに「人生の脇道に佇む人々が、<あの絵> と出会い、再び歩き出す姿を描く」とありました。6篇の小説のうち5篇は「少々生きるのが下手な女性」が主人公で、絵と出会って新たな決意を抱く話です(『檸檬』もそうです)。
1つだけが少々違っていて、妻の1人称で語られる夫婦と一人息子の話です。個人的なことになりますが、この短篇が私の記憶を呼び起こしました。登山が好きな、かつての部下のことです。
彼は父親の影響で山が好きになり、大学時代は登山サークルに所属し、就職してからも大学時代の友人と一緒に山に登っていました。しかし彼は、ゴールデンウィークに鹿島槍ヶ岳で雪崩に巻き込まれて命を落としました。遺体が見つかったのは7月になってからです。もちろん葬儀に参列しましたが、「今回のことで会社にご迷惑をかけて申し訳ありません」とおっしゃる父上の姿に、いたたまれなかった。おそらく父上は「自分が山に引き込んだために息子は命を落とした」という強い自責の念にかられたでしょう。葬儀のときはもちろん、おそらくその後もずうっと ・・・・・・。
原田さんの小説では一枚の絵が鍵となって、登場人物にポジティブな "影響" を与えるのですが、私の部下の父親の場合はどうだったのだろう、何らかの心の平穏を得られたのだろうかと、一時の想いにふけりました。
2020-08-08 10:59
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No.289 - 夜のカフェ [アート]
前回の No.288「ナイトホークス」の続きです。前回はエドワード・ホッパー(1882-1967)の代表作『ナイトホークス』(1942。シカゴ美術館所蔵)が、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』(1982公開)に影響を与えたという話でした。
この『ナイトホークス』ですが、2016年3月26日のTV東京の「美の巨人たち」でとりあげられました。その中で、美術史家でニューヨーク市立大学教授のゲイル・レヴィン(Gail Levin。1948- )の説が紹介されていました。ゲイル・レヴィンは、ホッパー作品を多数所蔵しているニューヨークのホイットニー美術館のキュレーター(ホッパー担当。1976-1984)の経験があり、ホッパーの没後初めての回顧展のキュレーターもつとめた人です。1995年にはホッパーの作品総目録も編纂しました。いわば「ホッパー研究の第1人者」です。その彼女が「Edward Hopper : An Intimate Biography」(1995。「エドワード・ホッパー:親密な伝記」)というホッパーの伝記に、
との主旨を書いているのです。今回はその話です。
夜のカフェ
ゴッホはアルルの時代に夜のカフェの様子を2枚の絵画に描いています。一つは、オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵する『夜のカフェテラス』です。この絵は大変に有名で、ゴッホの代表作の1つでしょう。画像を No.158「クレラー・ミュラー美術館」と No.284「絵を見る技術」で引用しました。
もう一枚は、少々紛らわしいのですが『夜のカフェ』と呼ばれている絵で、アメリカのイェール大学アートギャラリーが所蔵しています。同じアルルですが『夜のカフェテラス』とは別のカフェで、しかも室内を描いたものです。この絵がホッパーの『ナイトホークス』に影響を与えたというのがゲイル・レヴィンの指摘なのです。
この絵を所蔵しているイェール大学アートギャラリー(米・コネティカット州)のウェブサイトの解説を引用します(段落を追加しました)。
このイェール大学の解説にはゴッホの弟(テオ)への手紙が出てきますが、その日本語訳は次の通りです。いずれも手紙の中のこの絵に関係する部分です(日付はゴッホ美術館のサイトに公開されている手紙全文による)。
この手紙を読んで思うのは、ゴッホらしい "色彩への強いこだわり" です。ゴッホは絵のテーマを色で表現しようとしたことが良くわかります。
『夜のカフェ』と『夜のカフェテラス』
『夜のカフェ』は『夜のカフェテラス』と比べて鑑賞すべきでしょう。『夜のカフェテラス』は「夜の "カフェのテラス"」という意味です。ここには客とウェイター、通りを行く人々が描かれ、客は強い光に照らされたテラス席で楽しく談笑をしている感じです。全体として「人々が健全なナイトライフを楽しんでいる絵」です。青で塗られた空もその感じを演出しています。
一方『夜のカフェ』は、アルルの地元の人が "夜のカフェ" と呼んでいた深夜営業をするカフェで、『夜のカフェテラス』とは真逆の雰囲気です。光が充満していますが、何となく "陰気" な感じがする。天井とビリヤード台の緑、壁の赤という補色関係の色の対比で、不調和ないしは不安定な雰囲気が漂っています。
描かれている人物を見ると、白っぽい服のカフェのオーナーと、客が3組、2人連れが2組と、1人客です。客は帽子を被るか腕を組むかして "黙りこくっている" ようです。左手前に片づけていない飲みさしのグラスが乗ったテーブルがありますが、ついさっきまで別の客がいたはずです。イェール大学の解説にあるように、客の中にはこのカフェをたまり場とする浮浪者や売春婦もいるのでしょう。描かれている時計からすると、時刻は深夜0時過ぎのようです。
室内には4つのガス灯の強い光が充満していますが、不思議なのは影がビリヤード台にしかないことです。この構図だとテーブルや人物にも影ができるはずですが、それは全く省略されている。緑と赤の強烈な対比とあいまって、この「ビリヤード台だけの影」が何となく現実感を希薄にしています。
全体的に『夜のカフェ』は、『夜のカフェテラス』の "健全なナイトライフ" とは真逆の、健康的だとはとても言えない深夜のカフェの状況です。
ナイトホークス
そこで改めてホッパーの『ナイトホークス』を見ると、『夜のカフェ』との類似性に気づきます。まず「アルルのカフェ」と「ニューヨークのダイナー」という場面設定です。カフェもダイナーも(そして南欧だとバルやバールも)、昼間の時間とか夜のディナータイムでは、気の置けない者同士が談笑しながらコーヒーやお酒、軽食を楽しむ場所です。それはまさにゴッホが『夜のカフェテラス』で描いた光景です。
しかし描かれたアルルの "夜のカフェ" とニューヨークのダイナーは深夜営業をしていて、ディナータイムが終わって深夜になると様子が一変する。その様子が一変したあとのカフェとダイナーを舞台としているのが、まず2枚の絵の共通点です。
また、店には客がいるが会話をしているようには見えず、みな孤独で、それぞれの時間を過ごしている。店のオーナーないしはウェイターとおぼしき人物が1人だけいて、その人物は白っぽい服を着ています。さっきまで別の客がいたかのように、片づけられていないコップが置かれたままになっている。そういったことも似ています。
さらに「強烈な光」です。時代が半世紀以上離れているので、光の強烈さは違います。特にホッパーの絵(1942年作)は、当時実用化が始まった蛍光灯の光がダイナーに充満しています。しかし2枚の絵とも黄白色の強い光が絵の全体を支配しています。ゴッホの場合はビリヤードの影で、ホッパーの場合は影とダイナーの外に漏れる光で、その強い光が表現されています。
加えて色使いです。ゴッホは赤・緑・黄、ホッパーは赤系・青緑系・黄白色という色の組み合わせで画面を構成している。特に、補色関係にある赤と緑の "色の衝突" で不安感を作り出しているところが似ています。
ここまでは絵の外見でわかることですが、さらに外見を越えたところにも注目すべきでしょう。つまりゴッホの方は、手紙に書かれた「恐ろしい情熱」「身を持ち崩す」「気が狂う」「罪を犯す」という表現にあるように「人間の精神の暗い部分、ダークサイド」を絵で表そうとしています。一方、ホッパーの方ですが、「ナイトホークス」から感じる人間の心情を簡潔に言うと「都会の孤独」でしょう。それは衆目が一致するところだと思います。つまりこの2作品は、単なる深夜の店の情景を越えて、"人間の精神のありよう" を表現しようとしたところに類似性を感じます。
画家が、過去の画家の絵からインスパイアされて、ないしは過去の絵を "踏まえて" 作品を作ることはよくあります。このブログに書いた記事だけでも、
の例がありました。こういった動きが一つの潮流となったのが、19世紀ヨーロッパのジャポニズムです(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)。
ホッパーの『ナイトホークス』も、そういった数ある例の一つなのでしょう。ホッパーはニューヨークの美術学校を卒業した後、3度もヨーロッパに絵の勉強に行っています(No.288「ナイトホークス」)。ゴッホの絵から着想を得るのは、ホッパーにとってごく自然なことだったに違いありません。
しかし改めて『ナイトホークス』を見て感じるのは、確かにこの絵はゴッホからインスピレーションを得たのかもしれないけれど、完全にホッパーの独自世界の絵として描いていることです。
『ナイトホークス』は、何だか "ドキッと" する絵です。何かを予見しているようでもある。この絵に感じ入って、リドリー・スコット監督は『ブレードランナー』の "暗い未来" の「様子とムード」(look and mood)を作りました(No.288)。それほど感染力が強い絵を創作したホッパーの画才は素晴らしいと、改めて思いました。
ヘミングウェイ
ここからは『ナイトホークス』についての補足です。冒頭にあげたゲイル・レヴィンの「Edward Hopper : An Intimate Biography」に、ホッパーはゴッホの『夜のカフェ』から着想を得たと同時に、ヘミングウェイ(1899-1961)の短篇小説『殺し屋』(The Killers)に影響を受けたと書いてあります。『殺し屋』は1927年にアメリカの雑誌、スクリブナーズ・マガジンに発表されました。ホッパーはその雑誌を購読していて『殺し屋』に感激し、わざわざ雑誌の編集長に手紙を書いたそうです。「甘ったるい感傷的な小説が大量に溢れるなかで、アメリカの雑誌でこのような実直な(honest)作品に出会うのは爽快です(refreshing)・・・・・・(試訳。以下略)」。
ちなみに『殺し屋』はニューヨークではなくシカゴの話だと思わせるのですが、舞台は夕暮れどきの "lunchroom" です。簡易食堂と訳せばいいのでしょうか。『ナイトホークス』のダイナー(diner)は食堂車をまねた、主として通り沿いの店ですが、大まかにいって "lunchroom" も "diner" も似たようなものでしょう。
短篇小説『殺し屋』の文章は、ほとんどが会話で一部が状況説明です。心理描写はなく、無駄をそぎ落とした簡潔な文章が続きます。ホッパーはこれを "honest" と表現しているのですが、"honest" は「正直な、実直な、率直な、誠実な、偽りの無い」というような意味です。上の試訳では "実直な" としましたが、"虚飾を排した" ぐらいがいいのかもしれない。
こういったヘミングウェイの文章がハードボイルド小説のお手本になったことは有名です。そのヘミングウェイに感激したホッパーが『ナイトホークス』を描いた。『ナイトホークス』は "ハードボイルド絵画" であるとは中野京子さんの言ですが(No.288「ナイトホークス」)、まさに図星だと思いました。
この『ナイトホークス』ですが、2016年3月26日のTV東京の「美の巨人たち」でとりあげられました。その中で、美術史家でニューヨーク市立大学教授のゲイル・レヴィン(Gail Levin。1948- )の説が紹介されていました。ゲイル・レヴィンは、ホッパー作品を多数所蔵しているニューヨークのホイットニー美術館のキュレーター(ホッパー担当。1976-1984)の経験があり、ホッパーの没後初めての回顧展のキュレーターもつとめた人です。1995年にはホッパーの作品総目録も編纂しました。いわば「ホッパー研究の第1人者」です。その彼女が「Edward Hopper : An Intimate Biography」(1995。「エドワード・ホッパー:親密な伝記」)というホッパーの伝記に、
『ナイトホークス』はゴッホの『夜のカフェ』から着想を得ている。『夜のカフェ』は『ナイトホークス』が描かれた年(1942年)の1月にニューヨークで展示されていた
との主旨を書いているのです。今回はその話です。
夜のカフェ
ゴッホはアルルの時代に夜のカフェの様子を2枚の絵画に描いています。一つは、オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵する『夜のカフェテラス』です。この絵は大変に有名で、ゴッホの代表作の1つでしょう。画像を No.158「クレラー・ミュラー美術館」と No.284「絵を見る技術」で引用しました。
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フィンセント・ファン・ゴッホ
(1853-1890) 「夜のカフェテラス」(1888)
クレラー・ミュラー美術館所蔵
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もう一枚は、少々紛らわしいのですが『夜のカフェ』と呼ばれている絵で、アメリカのイェール大学アートギャラリーが所蔵しています。同じアルルですが『夜のカフェテラス』とは別のカフェで、しかも室内を描いたものです。この絵がホッパーの『ナイトホークス』に影響を与えたというのがゲイル・レヴィンの指摘なのです。
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フィンセント・ファン・ゴッホ 「夜のカフェ」(1888) |
イェール大学アートギャラリー所蔵 |
この絵を所蔵しているイェール大学アートギャラリー(米・コネティカット州)のウェブサイトの解説を引用します(段落を追加しました)。
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このイェール大学の解説にはゴッホの弟(テオ)への手紙が出てきますが、その日本語訳は次の通りです。いずれも手紙の中のこの絵に関係する部分です(日付はゴッホ美術館のサイトに公開されている手紙全文による)。
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この手紙を読んで思うのは、ゴッホらしい "色彩への強いこだわり" です。ゴッホは絵のテーマを色で表現しようとしたことが良くわかります。
『夜のカフェ』と『夜のカフェテラス』
『夜のカフェ』は『夜のカフェテラス』と比べて鑑賞すべきでしょう。『夜のカフェテラス』は「夜の "カフェのテラス"」という意味です。ここには客とウェイター、通りを行く人々が描かれ、客は強い光に照らされたテラス席で楽しく談笑をしている感じです。全体として「人々が健全なナイトライフを楽しんでいる絵」です。青で塗られた空もその感じを演出しています。
一方『夜のカフェ』は、アルルの地元の人が "夜のカフェ" と呼んでいた深夜営業をするカフェで、『夜のカフェテラス』とは真逆の雰囲気です。光が充満していますが、何となく "陰気" な感じがする。天井とビリヤード台の緑、壁の赤という補色関係の色の対比で、不調和ないしは不安定な雰囲気が漂っています。
描かれている人物を見ると、白っぽい服のカフェのオーナーと、客が3組、2人連れが2組と、1人客です。客は帽子を被るか腕を組むかして "黙りこくっている" ようです。左手前に片づけていない飲みさしのグラスが乗ったテーブルがありますが、ついさっきまで別の客がいたはずです。イェール大学の解説にあるように、客の中にはこのカフェをたまり場とする浮浪者や売春婦もいるのでしょう。描かれている時計からすると、時刻は深夜0時過ぎのようです。
室内には4つのガス灯の強い光が充満していますが、不思議なのは影がビリヤード台にしかないことです。この構図だとテーブルや人物にも影ができるはずですが、それは全く省略されている。緑と赤の強烈な対比とあいまって、この「ビリヤード台だけの影」が何となく現実感を希薄にしています。
全体的に『夜のカフェ』は、『夜のカフェテラス』の "健全なナイトライフ" とは真逆の、健康的だとはとても言えない深夜のカフェの状況です。
ナイトホークス
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エドワード・ホッパー(1882-1967) 「ナイトホークス - Nighthawks」(1942) |
シカゴ美術館 |
そこで改めてホッパーの『ナイトホークス』を見ると、『夜のカフェ』との類似性に気づきます。まず「アルルのカフェ」と「ニューヨークのダイナー」という場面設定です。カフェもダイナーも(そして南欧だとバルやバールも)、昼間の時間とか夜のディナータイムでは、気の置けない者同士が談笑しながらコーヒーやお酒、軽食を楽しむ場所です。それはまさにゴッホが『夜のカフェテラス』で描いた光景です。
しかし描かれたアルルの "夜のカフェ" とニューヨークのダイナーは深夜営業をしていて、ディナータイムが終わって深夜になると様子が一変する。その様子が一変したあとのカフェとダイナーを舞台としているのが、まず2枚の絵の共通点です。
また、店には客がいるが会話をしているようには見えず、みな孤独で、それぞれの時間を過ごしている。店のオーナーないしはウェイターとおぼしき人物が1人だけいて、その人物は白っぽい服を着ています。さっきまで別の客がいたかのように、片づけられていないコップが置かれたままになっている。そういったことも似ています。
さらに「強烈な光」です。時代が半世紀以上離れているので、光の強烈さは違います。特にホッパーの絵(1942年作)は、当時実用化が始まった蛍光灯の光がダイナーに充満しています。しかし2枚の絵とも黄白色の強い光が絵の全体を支配しています。ゴッホの場合はビリヤードの影で、ホッパーの場合は影とダイナーの外に漏れる光で、その強い光が表現されています。
加えて色使いです。ゴッホは赤・緑・黄、ホッパーは赤系・青緑系・黄白色という色の組み合わせで画面を構成している。特に、補色関係にある赤と緑の "色の衝突" で不安感を作り出しているところが似ています。
ここまでは絵の外見でわかることですが、さらに外見を越えたところにも注目すべきでしょう。つまりゴッホの方は、手紙に書かれた「恐ろしい情熱」「身を持ち崩す」「気が狂う」「罪を犯す」という表現にあるように「人間の精神の暗い部分、ダークサイド」を絵で表そうとしています。一方、ホッパーの方ですが、「ナイトホークス」から感じる人間の心情を簡潔に言うと「都会の孤独」でしょう。それは衆目が一致するところだと思います。つまりこの2作品は、単なる深夜の店の情景を越えて、"人間の精神のありよう" を表現しようとしたところに類似性を感じます。
画家が、過去の画家の絵からインスパイアされて、ないしは過去の絵を "踏まえて" 作品を作ることはよくあります。このブログに書いた記事だけでも、
ベラスケス『ラス・メニーナス』⇒⇒⇒ サージェント『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(No.36「ベラスケスへのオマージュ」) | |
ベラスケス『道化師パブロ・デ・パリャドリード』⇒⇒⇒ マネ『笛を吹く少年』(No.36) | |
アングル『モワテシエ婦人の肖像』⇒⇒⇒ ピカソ『マリー・テレーズの肖像』(No.157「ノートン・サイモン美術館」) | |
円山応挙『保津川図屏風』⇒⇒⇒ 鈴木其一『夏秋渓流図屏風』(No.275「円山応挙:保津川図屏風」) |
の例がありました。こういった動きが一つの潮流となったのが、19世紀ヨーロッパのジャポニズムです(No.224「残念な北斎とジャポニズム展」)。
ホッパーの『ナイトホークス』も、そういった数ある例の一つなのでしょう。ホッパーはニューヨークの美術学校を卒業した後、3度もヨーロッパに絵の勉強に行っています(No.288「ナイトホークス」)。ゴッホの絵から着想を得るのは、ホッパーにとってごく自然なことだったに違いありません。
しかし改めて『ナイトホークス』を見て感じるのは、確かにこの絵はゴッホからインスピレーションを得たのかもしれないけれど、完全にホッパーの独自世界の絵として描いていることです。
『ナイトホークス』は、何だか "ドキッと" する絵です。何かを予見しているようでもある。この絵に感じ入って、リドリー・スコット監督は『ブレードランナー』の "暗い未来" の「様子とムード」(look and mood)を作りました(No.288)。それほど感染力が強い絵を創作したホッパーの画才は素晴らしいと、改めて思いました。
ヘミングウェイ
ここからは『ナイトホークス』についての補足です。冒頭にあげたゲイル・レヴィンの「Edward Hopper : An Intimate Biography」に、ホッパーはゴッホの『夜のカフェ』から着想を得たと同時に、ヘミングウェイ(1899-1961)の短篇小説『殺し屋』(The Killers)に影響を受けたと書いてあります。『殺し屋』は1927年にアメリカの雑誌、スクリブナーズ・マガジンに発表されました。ホッパーはその雑誌を購読していて『殺し屋』に感激し、わざわざ雑誌の編集長に手紙を書いたそうです。「甘ったるい感傷的な小説が大量に溢れるなかで、アメリカの雑誌でこのような実直な(honest)作品に出会うのは爽快です(refreshing)・・・・・・(試訳。以下略)」。
ちなみに『殺し屋』はニューヨークではなくシカゴの話だと思わせるのですが、舞台は夕暮れどきの "lunchroom" です。簡易食堂と訳せばいいのでしょうか。『ナイトホークス』のダイナー(diner)は食堂車をまねた、主として通り沿いの店ですが、大まかにいって "lunchroom" も "diner" も似たようなものでしょう。
短篇小説『殺し屋』の文章は、ほとんどが会話で一部が状況説明です。心理描写はなく、無駄をそぎ落とした簡潔な文章が続きます。ホッパーはこれを "honest" と表現しているのですが、"honest" は「正直な、実直な、率直な、誠実な、偽りの無い」というような意味です。上の試訳では "実直な" としましたが、"虚飾を排した" ぐらいがいいのかもしれない。
こういったヘミングウェイの文章がハードボイルド小説のお手本になったことは有名です。そのヘミングウェイに感激したホッパーが『ナイトホークス』を描いた。『ナイトホークス』は "ハードボイルド絵画" であるとは中野京子さんの言ですが(No.288「ナイトホークス」)、まさに図星だと思いました。
2020-07-11 11:55
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No.288 - ナイトホークス [アート]
No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、フランスの画家・ジェロームが古代ローマの剣闘士を描いた『差し下ろされた親指』(1904)がハリウッド映画『グラディエーター』(2000)の誕生に一役買ったという話を書きました。そのあたりを復習すると次のようです。
20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は ・・・・・・。
ちなみに cinemareview.com の記事によると、『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサはスコット監督に脚本を見せる前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそも、プロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だそうです。
この経緯をみると、ジェロームの『差し下ろされた親指』にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるようです。リドリー・スコット監督もその魔力にハマった ・・・・・・。
ところで、ここからが本題ですが、リドリー・スコット監督(1937 - )は『グラディエーター』(2000年公開)よりだいぶ前に(部分的にせよ)絵画からインスパイアされた映画を作っています。それが上の引用にも出てきた『ブレードランナー』(1982年公開)です。今回はその話です。
ブレードランナー
1982年公開の『ブレードランナー(Blade Runner)』は SF作家、フィリップ・K・ディック(1928-1982)の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)を原作とする映画です。リドリー・スコットが監督し、ハリソン・フォードが主演しました。そのストーリーをかいつまんで箇条書きにすると以下のようです。
さて、この映画『ブレードランナー』と絵画の関係ですが、アメリカの画家、エドワード・ホッパーの絵画『ナイトホークス(Nighthawks)』の解説(Wikipedia)に、次のような記述があります。
ここで引用されているリドリー・スコット監督の発言の原文とその出典は以下の通りです。
「Future Noir : the Making of Blade Runner」という本は、アメリカの映画プロデューサで映画評論家・作家のポール・M・サモンが『ブレードランナー』の制作過程を洗いざらい明かし、公開後の状況や各種のトリヴィアまでを網羅した「ブレードランナー全書」とも言うべき本です。そのキーワードは、本のタイトルにもなっている "Future Noir" = "暗い未来" です。
リドリー・スコット監督は、彼が『ブレードランナー』に求めた "様子と気分(look and mood)" を例示(illustrate)するために、ホッパーの『ナイトホークス』の複製画を制作スタッフ(アート・ディレクター、デザイナー、美術スタッフなどでしょう)に見せ続けたわけです。"私の狙っている雰囲気はこの絵のとおりだ" というように ・・・・・・。そのホッパーの『ナイトホークス』が次です。
ホッパー『ナイトホークス』
まず例によって、この絵を中野京子さんの解説でみていきます。中野さんは『名画の謎:対決編』(文藝春秋 2015)で、モンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』を解説したあとに『ナイトホークス』を説明しています。まずエドワード・ホッパーの経歴です。
ホッパーの油彩画は、なにげない日常を描く中で、いかにもアメリカという文明の一面を鋭利に切り取った感じの作品が多々あります。まさにアメリカ絵画の代表ですが、その名声が死後のものだったとは意外です。その代表作が『ナイトホークス』です。
ホッパーの絵の特徴の一つを端的に言うと "物語性" です。すべての絵がそうだとは言いませんが、何らかの "物語" を感じる絵が多い。つまり中野さんが上の引用に書いているように「中折れ帽をかぶったスーツ姿の男と、若くはないが赤毛のセクシーな女」から、映画「カサブランカ」のせりふを連想するというようにです。ホッパーの絵はよく「映画のワンシーンのようだ」と言われますが、この絵がまさにそうです。
さらに、後ろ向きの表情が分からない男性も、こういう配置で描かれると何だか "いわくありげ" です。顔を意識的に上げたように見えるウェイターは、なぜ顔をあげたのでしょうか。男女の "カップル" の方から何か声が聞こえたからなのか ・・・・・・。よく見るとカウンターの手前にはコップが一つ置かれています。ということは、さっきまで別の客が居たに違いない ・・・・・・。
『ナイトホークス』はホッパーの代表作と言われるだけあって、映画のワンシーンのような "物語性" を感じるのですが、中野さんはさらに限定して、物語の中でも「ハードボイルド」だと言っています。
ハードボイルド絵画
中野京子さんはこの絵を「ハードボイルド絵画」と呼んでいます。そのハードボイルド小説・映画では、主人公の直接的な心理描写はなく、行動や会話のみの記述ですべてを描こうとします。ホッパーの絵に登場する人物も無表情、またはそれに近く描かれることが多く、表情から心理を読みとることはできません。あくまで場面設定(場所、時刻、ライティングなど)と人物の外見・態度・配置だけからテーマを浮かび上がらせようとする。『ナイトホークス』もその雰囲気が横溢する絵画です。
ハードボイルド小説・映画に欠かせなかったのが "煙草" で、『ナイトホークス』にも描かれています。つまりカップルとおぼしき男女のうち、男は煙草を手にし、女はブックマッチ(二つ折りのカバーに紙マッチを挟み込んだもの)を持っている。ダイナーの上部には看板があり、そこには葉巻が描かれていて、その下に「only 5¢」(たった5セント)、横には「PHILLIES」(=フィリーズ)とメーカー名が記されています。文藝春秋の連載から引用します。
現実世界ではない
ここからが『ナイトホークス』の核心です。中野さんは、ホッパーが描いた絵は、一見ありふれた情景を描いているように見えるが現実そのものではないと指摘しています。
『ブレードランナー』とハードボイルド
ここから『ブレードランナー』と『ナイトホークス』の関係です。まず、この2作品に共通して影響を与えたのが "ハードボイルド" というエンターテインメントのジャンルです。『ナイトホークス』とハードボイルドの関係は中野京子さんが詳述していますが、では映画『ブレードランナー』もそうなのか。
映画評論家の町山智浩氏が書いた「ブレードランナーの未来世紀」(洋泉社 2006。新潮文庫 2017)という本があります。町山氏はこの本の中で、原作(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)と『ブレードランナー』の脚本の大きな違いを述べています。
つまり『ブレードランナー』の脚本を最初に書いたハンプトン・ファンチャーは、原作にある2つの要素をカットしました。一つは "電気羊" です。核戦争で動物がほとんど死滅した世界では、人々はロボットの "電気羊" をペットとして飼うの一般的で、本物の動物は富裕層にしか飼えない。その、原作の題名にもなっている "電気羊" が脚本ではカットされています。2つ目はデッカートの妻です。原作ではデッカートには妻がいて、最後は妻に迎えられるというエンディングですが、映画脚本のデッカートは妻に逃げられた男になっている。
そして、ファンチャーは "電気羊" と "妻" を切り捨てたかわりに、ハードボイルドの要素を強調したと、町山氏は書いています。以下、町山氏の文章を引用します。
ちなみに、この映画は脚本家が途中で交代し、完成版の映画では「マーロウ調の自嘲的な独白でストーリーを進める」ようにはなっていません。ただ重要なのは、主人公のデッカートがフィリップ・マーロウに重ねられていることと、上の引用の最後に出てくる "フィルム・ノワール(film noir)" です。
フィリップ・マーロウはチャンドラーの重要な小説に出てくる私立探偵です。元々は検察の捜査官だったが上司に反抗したため免職になり私立探偵をしているという設定で、もとより権威・権力には媚びない姿勢です。安い料金(実費+25ドル/日)で仕事を引きうけ、ボロ自動車に乗り、トレンチコートにキャメルのタバコがトレードマークの「足で稼ぐ探偵」です。その一方で、弱いものには優しく、センチメンタルなところがあります。孤独を愛し、アンニュイ(物憂さ、気だるさ)の雰囲気を漂わせ、少々 "影" がある。
こういった人物造型は『ブレードランナー』のデッカートに重なります。デッカートが "未来のフィリップ・マーロウ" だと考えると納得がいく。さらに町山氏の解説です。
やはりデッカートは未来世界のフィリップ・マーロウであり、『ブレードランナー』はハードボイルド小説を映画化した「フィルム・ノアール」の後継なのです。さらに付け加えると、フィルム・ノワールが最初に作られたのは第二次世界大戦中であり、ホッパーの『ナイトホークス』(1942)もまさにその時期に描かれました。
Future Nior(暗い未来)
ここからが話の核心で、『ナイトホークス』が『ブレードランナー』に影響したという、その内容です。リドリー・スコット監督は、
と語ったのでした。キーワードは、ポール・サモンの本の題名にもなっていた「Future Nior(暗い未来)」です。Future Noir とは、フィルム・ノワール(film noir)をサイエンス・フィクション(SF)の手法で未来世界に移したものと言えるでしょう。Tech Noir や(tech は科学技術の意味)、SF(Science Fiction)Noirという言い方もあります。その代表格は『ブレードランナー』とともに、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(1984)です。
『ターミネーター』を思い返してみると、スカイネットと呼ばれる人工知能が反乱を起こし、人間に核戦争を仕掛ける。その戦争後の荒廃した地球では、人間軍と機械軍の死闘が繰り広げられている。この状況を前提としたストーリー展開が『ターミネーター』でした。
『ブレードランナー』と『ターミネーター』に共通するのは、文明と科学技術の進歩が、世界を人間にとってのディストピアに向かわせるというコンセプトです。人間は自らが創り出したものに逆襲され、窮地に陥る。『ブレードランナー』にある地球環境破壊もその一つでしょう。さらには、人間が延々と築いてきた人間性が喪失、ないしは希薄になってゆく。文明の進歩が、人間らしさを謳歌できる "明るい未来" をもたらすのではなく、それとは真逆の荒涼とした "暗い未来" を招く。そのイメージが Future Noir = 暗い未来です。
前に引用した町山氏は「60年代終わりから、ヴェトナム戦争を背景に、ハリウッドでは再びアンハッピーエンドの映画が作られた」とし、その流れに『ブレードランナー』があると書いていました。しかし、背景はそれだけではないと思います。No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」で紹介したように、評論家の内田樹氏は、米ソの冷戦時代(1960年代~80年代)には核戦争が起きるのではという "黙示録的な不安" が、潜在的・暗黙に世界を覆っていたと指摘しています。誰も口には出さなかったけれど、人々は心の奥底でそれを感じとっていた。そもそもサイエンス・フィクションというジャンルが隆盛を極めた要因はそれだと ・・・・・・。Future Noir はまさにそういった潜在意識をも背景とするものでしょう。
この Future Noir とホッパーの『ナイトホークス』(1942)がどう関係しているのでしょうか。『ナイトホークス』が描かれた1942年は真珠湾攻撃(1941)の翌年であり、アメリカは既に第二次世界大戦に参戦しています。ヨーロッパ大陸と太平洋で戦争が行われていて、アメリカの兵士が出征して戦っている。
しかし、アメリカ本土で戦闘が行われているわけではありません。このブログの過去の記事を思い起こすと、1942年はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」のアメリカ初演がニューヨークで行われた年です。アメリカの大衆は熱狂し、"共にドイツと戦っているソ連" の作曲家(=ショスタコーヴィチ)の曲を熱狂的に支持しました(No.281 参照)。そのニューヨークには摩天楼が建ち並び、街にはブギウギのリズムが流れ、映画も演劇も盛んで、まさにモンドリアンが『ブロードウェイ・ブギウギ』で描こうとした世界がそこにあった。
その喧噪がニューヨークの "表の顔" だとすると『ナイトホークス』に描かれたのは "裏の顔" です。ここで描かれた深夜のダイナーの風景から受ける(個人的な)感じは、
といったものです。シュルレアリズム絵画と書きましたが、デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」に画像を引用)に一脈通じるものを感じます。さらに『ナイトホークス』の登場人物である4人の心象を想像してみると、
20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は ・・・・・・。
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ジャン = レオン・ジェローム (1824-1904) 「差し下ろされた親指」(1904) |
フェニックス美術館(米・アリゾナ州) |
ちなみに cinemareview.com の記事によると、『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサはスコット監督に脚本を見せる前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそも、プロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だそうです。
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この経緯をみると、ジェロームの『差し下ろされた親指』にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるようです。リドリー・スコット監督もその魔力にハマった ・・・・・・。
ところで、ここからが本題ですが、リドリー・スコット監督(1937 - )は『グラディエーター』(2000年公開)よりだいぶ前に(部分的にせよ)絵画からインスパイアされた映画を作っています。それが上の引用にも出てきた『ブレードランナー』(1982年公開)です。今回はその話です。
ブレードランナー
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1982年公開の『ブレードランナー(Blade Runner)』は SF作家、フィリップ・K・ディック(1928-1982)の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)を原作とする映画です。リドリー・スコットが監督し、ハリソン・フォードが主演しました。そのストーリーをかいつまんで箇条書きにすると以下のようです。
時代は21世紀。ロサンジェルスのタイレル社が "レプリカント"と呼ばれる人造人間(=原作で言う "アンドロイド")を発明し、独占的に供給していた。レプリカントは優れた体力と知能をもっている(レプリカントはこの映画の造語)。 | |
そのころの地球は環境破壊が進み、人類の多くは宇宙の植民地に住んでいた。レプリカントは宇宙開発の最前線での奴隷的労働に従事していた。 | |
レプリカントはバイオテクノロジーで作られており、人間とは区別できない。ただ、唯一区別可能な専門の分析装置がある。被験者は、人間なら感情を大きく揺さぶられるような質問を受け、それに対する体の反応を分析装置にかけることでレプリカントか人間かが判定できる。 | |
レプリカントは製造から数年たつと感情が芽生えて、人間に反旗を翻すものが出てきた。そのため最新の「ネクサス6型」レプリカントは寿命が4年に設定されていた。しかし脱走して人間社会に紛れ込むレプリカントが後を絶たなかった。人間社会から彼らを見つけだして「解任(retire)」(=射殺)する任務を担うのが、警察の専任捜査官・ブレードランナーであった(ブレードランナー:Blade Runner は過去の小説からの借用。もともと医薬品密売業者を指す)。 | |
物語の舞台はロサンジェルス。地球に残った人類は環境破壊による酸性雨が降りしきる中、高層ビルが立ち並ぶ人口過密の大都市での生活を強いられていた。そのころ、ネクサス6型のレプリカントが宇宙植民地で反乱を起こし、23人の人間を殺害して逃走、宇宙船を奪って密かに地球に帰還し、ロサンジェルスに4人が潜伏した。 | |
捜査にあたるロサンジェルス市警は4人の「解任」が容易でないことを悟り、退職していたブレードランナーのデッカート(=ハリソン・フォード)を呼び戻して捜査に当たらせる。デッカートは情報を得るため、レプリカントの開発者であるタイレル博士に面会した。そのとき彼は、博士の秘書のレイチェル(=ショーン・ヤング)がレプリカントであることを見抜く。レイチェルは博士が姪の記憶を移植して作ったレプリカントであった。レイチェルは激しく動揺するが、デッカートはそんなレイチェルに惹かれていく。 | |
デッカートは捜査の結果、踊り子に扮していたレプリカント(ゾーラ)を発見し、追跡の上「解任」する。その現場に急行したデッカートの上司は、レイチェルがタイレ博士のもとを脱走したことを告げ、レイチェルも「解任」するようにと命じた。 | |
その後、デッカートはゾーラの復讐に燃えるレプリカント(レオン)に襲われるが、駆けつけたレイチェルが射殺して命拾いする。デッカートはレイチェルを自宅に招く。彼女が、自分も「解任」するのか問うと、デッカートは「自分はやらないが、誰かがやる」と答えた。2人は熱く抱擁するのだった。 | |
一方、潜伏レプリカントのリーダのバッティは、タイレル社の技師に近づき、彼を仲介にしてタイレル社の本社ビルの最上階に住むタイレル博士と対面した。バッティは、残り少ない自分たちの寿命を伸ばすように博士に要求する。これが彼らの地球潜入の目的であった。しかし博士は技術的に不可能であると告げ、絶望したバッティは博士と技師を殺す。 | |
タイレル博士と技師の殺害の報を聞いたデッカートは、技師の高層アパートに踏み込み、そこに潜んでいた3人目のレプリカント(プリス)を「解任」する。そこにリーダのバッティが戻ってきてデッカートと最後の対決となる。デッカートは優れた戦闘能力を持つバッティに追い立てられ、高層アパートの屋上に逃れるが、転落寸前となる。しかしバッティは自らの寿命の到来を悟り、デッカートを助けて、こと切れた。 | |
デッカートはレイチェルにも同じ運命が待っているのではと慌てて自宅に戻るが、レイチェルは生きていた。2人は互いの愛を確認すると、デッカートはレイチェルを連れだし、逃避行へと旅立った。 |
さて、この映画『ブレードランナー』と絵画の関係ですが、アメリカの画家、エドワード・ホッパーの絵画『ナイトホークス(Nighthawks)』の解説(Wikipedia)に、次のような記述があります。
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ここで引用されているリドリー・スコット監督の発言の原文とその出典は以下の通りです。
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リドリー・スコット監督は、彼が『ブレードランナー』に求めた "様子と気分(look and mood)" を例示(illustrate)するために、ホッパーの『ナイトホークス』の複製画を制作スタッフ(アート・ディレクター、デザイナー、美術スタッフなどでしょう)に見せ続けたわけです。"私の狙っている雰囲気はこの絵のとおりだ" というように ・・・・・・。そのホッパーの『ナイトホークス』が次です。
ホッパー『ナイトホークス』
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エドワード・ホッパー(1882-1967) 「ナイトホークス - Nighthawks」(1942) |
シカゴ美術館 |
まず例によって、この絵を中野京子さんの解説でみていきます。中野さんは『名画の謎:対決編』(文藝春秋 2015)で、モンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』を解説したあとに『ナイトホークス』を説明しています。まずエドワード・ホッパーの経歴です。
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ホッパーの油彩画は、なにげない日常を描く中で、いかにもアメリカという文明の一面を鋭利に切り取った感じの作品が多々あります。まさにアメリカ絵画の代表ですが、その名声が死後のものだったとは意外です。その代表作が『ナイトホークス』です。
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さらに、後ろ向きの表情が分からない男性も、こういう配置で描かれると何だか "いわくありげ" です。顔を意識的に上げたように見えるウェイターは、なぜ顔をあげたのでしょうか。男女の "カップル" の方から何か声が聞こえたからなのか ・・・・・・。よく見るとカウンターの手前にはコップが一つ置かれています。ということは、さっきまで別の客が居たに違いない ・・・・・・。
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背中だけのこの男性客は画面の中央付近に描かれている。ということは、この絵のフォーカルポイント(焦点)はこの男性なのか。ホッパーの自画像(?)という説もある。 |
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ふと顔をあげたように見えるウェイター。一見、客から声がかかったように思えるが、この絵の4人の登場人物は視線を合わせてはいない。店の外から物音がしたのだろうか。背後にあるのは当時のコーヒー・マシン。 |
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通りの向かいの店は閉店しているが、あえて白いレジスターだけが目立つように描かれている。レジスターが表すものは「お金」で、当時のニューヨークを象徴しているのかもしれない。 |
『ナイトホークス』はホッパーの代表作と言われるだけあって、映画のワンシーンのような "物語性" を感じるのですが、中野さんはさらに限定して、物語の中でも「ハードボイルド」だと言っています。
ハードボイルド絵画
中野京子さんはこの絵を「ハードボイルド絵画」と呼んでいます。そのハードボイルド小説・映画では、主人公の直接的な心理描写はなく、行動や会話のみの記述ですべてを描こうとします。ホッパーの絵に登場する人物も無表情、またはそれに近く描かれることが多く、表情から心理を読みとることはできません。あくまで場面設定(場所、時刻、ライティングなど)と人物の外見・態度・配置だけからテーマを浮かび上がらせようとする。『ナイトホークス』もその雰囲気が横溢する絵画です。
ハードボイルド小説・映画に欠かせなかったのが "煙草" で、『ナイトホークス』にも描かれています。つまりカップルとおぼしき男女のうち、男は煙草を手にし、女はブックマッチ(二つ折りのカバーに紙マッチを挟み込んだもの)を持っている。ダイナーの上部には看板があり、そこには葉巻が描かれていて、その下に「only 5¢」(たった5セント)、横には「PHILLIES」(=フィリーズ)とメーカー名が記されています。文藝春秋の連載から引用します。
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「ナイトホークス」に描かれた男女の "カップル"。男は煙草を手にし、女はブックマッチを見つめている。女の左手がさりげなく男の手に触れている。 |
現実世界ではない
ここからが『ナイトホークス』の核心です。中野さんは、ホッパーが描いた絵は、一見ありふれた情景を描いているように見えるが現実そのものではないと指摘しています。
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『ブレードランナー』とハードボイルド
ここから『ブレードランナー』と『ナイトホークス』の関係です。まず、この2作品に共通して影響を与えたのが "ハードボイルド" というエンターテインメントのジャンルです。『ナイトホークス』とハードボイルドの関係は中野京子さんが詳述していますが、では映画『ブレードランナー』もそうなのか。
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つまり『ブレードランナー』の脚本を最初に書いたハンプトン・ファンチャーは、原作にある2つの要素をカットしました。一つは "電気羊" です。核戦争で動物がほとんど死滅した世界では、人々はロボットの "電気羊" をペットとして飼うの一般的で、本物の動物は富裕層にしか飼えない。その、原作の題名にもなっている "電気羊" が脚本ではカットされています。2つ目はデッカートの妻です。原作ではデッカートには妻がいて、最後は妻に迎えられるというエンディングですが、映画脚本のデッカートは妻に逃げられた男になっている。
そして、ファンチャーは "電気羊" と "妻" を切り捨てたかわりに、ハードボイルドの要素を強調したと、町山氏は書いています。以下、町山氏の文章を引用します。
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ちなみに、この映画は脚本家が途中で交代し、完成版の映画では「マーロウ調の自嘲的な独白でストーリーを進める」ようにはなっていません。ただ重要なのは、主人公のデッカートがフィリップ・マーロウに重ねられていることと、上の引用の最後に出てくる "フィルム・ノワール(film noir)" です。
フィリップ・マーロウはチャンドラーの重要な小説に出てくる私立探偵です。元々は検察の捜査官だったが上司に反抗したため免職になり私立探偵をしているという設定で、もとより権威・権力には媚びない姿勢です。安い料金(実費+25ドル/日)で仕事を引きうけ、ボロ自動車に乗り、トレンチコートにキャメルのタバコがトレードマークの「足で稼ぐ探偵」です。その一方で、弱いものには優しく、センチメンタルなところがあります。孤独を愛し、アンニュイ(物憂さ、気だるさ)の雰囲気を漂わせ、少々 "影" がある。
こういった人物造型は『ブレードランナー』のデッカートに重なります。デッカートが "未来のフィリップ・マーロウ" だと考えると納得がいく。さらに町山氏の解説です。
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やはりデッカートは未来世界のフィリップ・マーロウであり、『ブレードランナー』はハードボイルド小説を映画化した「フィルム・ノアール」の後継なのです。さらに付け加えると、フィルム・ノワールが最初に作られたのは第二次世界大戦中であり、ホッパーの『ナイトホークス』(1942)もまさにその時期に描かれました。
Future Nior(暗い未来)
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エドワード・ホッパー 「ナイトホークス - Nighthawks」(1942) |
ここからが話の核心で、『ナイトホークス』が『ブレードランナー』に影響したという、その内容です。リドリー・スコット監督は、
わたしが追い求めている様子と気分を例証するためにプロダクション・チームの鼻先にこの絵(=ナイトホークス)の複製をいつも振り動かしていた」 |
と語ったのでした。キーワードは、ポール・サモンの本の題名にもなっていた「Future Nior(暗い未来)」です。Future Noir とは、フィルム・ノワール(film noir)をサイエンス・フィクション(SF)の手法で未来世界に移したものと言えるでしょう。Tech Noir や(tech は科学技術の意味)、SF(Science Fiction)Noirという言い方もあります。その代表格は『ブレードランナー』とともに、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(1984)です。
『ターミネーター』を思い返してみると、スカイネットと呼ばれる人工知能が反乱を起こし、人間に核戦争を仕掛ける。その戦争後の荒廃した地球では、人間軍と機械軍の死闘が繰り広げられている。この状況を前提としたストーリー展開が『ターミネーター』でした。
『ブレードランナー』と『ターミネーター』に共通するのは、文明と科学技術の進歩が、世界を人間にとってのディストピアに向かわせるというコンセプトです。人間は自らが創り出したものに逆襲され、窮地に陥る。『ブレードランナー』にある地球環境破壊もその一つでしょう。さらには、人間が延々と築いてきた人間性が喪失、ないしは希薄になってゆく。文明の進歩が、人間らしさを謳歌できる "明るい未来" をもたらすのではなく、それとは真逆の荒涼とした "暗い未来" を招く。そのイメージが Future Noir = 暗い未来です。
前に引用した町山氏は「60年代終わりから、ヴェトナム戦争を背景に、ハリウッドでは再びアンハッピーエンドの映画が作られた」とし、その流れに『ブレードランナー』があると書いていました。しかし、背景はそれだけではないと思います。No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」で紹介したように、評論家の内田樹氏は、米ソの冷戦時代(1960年代~80年代)には核戦争が起きるのではという "黙示録的な不安" が、潜在的・暗黙に世界を覆っていたと指摘しています。誰も口には出さなかったけれど、人々は心の奥底でそれを感じとっていた。そもそもサイエンス・フィクションというジャンルが隆盛を極めた要因はそれだと ・・・・・・。Future Noir はまさにそういった潜在意識をも背景とするものでしょう。
この Future Noir とホッパーの『ナイトホークス』(1942)がどう関係しているのでしょうか。『ナイトホークス』が描かれた1942年は真珠湾攻撃(1941)の翌年であり、アメリカは既に第二次世界大戦に参戦しています。ヨーロッパ大陸と太平洋で戦争が行われていて、アメリカの兵士が出征して戦っている。
しかし、アメリカ本土で戦闘が行われているわけではありません。このブログの過去の記事を思い起こすと、1942年はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」のアメリカ初演がニューヨークで行われた年です。アメリカの大衆は熱狂し、"共にドイツと戦っているソ連" の作曲家(=ショスタコーヴィチ)の曲を熱狂的に支持しました(No.281 参照)。そのニューヨークには摩天楼が建ち並び、街にはブギウギのリズムが流れ、映画も演劇も盛んで、まさにモンドリアンが『ブロードウェイ・ブギウギ』で描こうとした世界がそこにあった。
その喧噪がニューヨークの "表の顔" だとすると『ナイトホークス』に描かれたのは "裏の顔" です。ここで描かれた深夜のダイナーの風景から受ける(個人的な)感じは、
現実の風景なのだろうけれど、リアルな感じがしない。現実感が希薄で、道路の描き方に典型的にみられるように非常に "無機質な感じ" がする。 | |
シュルレアリズム絵画のような雰囲気があり、"どこにも無い街" を描いているようでもある。 |
といったものです。シュルレアリズム絵画と書きましたが、デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」に画像を引用)に一脈通じるものを感じます。さらに『ナイトホークス』の登場人物である4人の心象を想像してみると、