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No.284 - 絵を見る技術 [アート]

このブログでは今までに絵画について、本から多数の引用をしてきました。まず『怖い絵』を始めとする中野京子さんの一連の著書です。中野さんの著作全体に流れている主張は、

1枚の絵の "背景"、つまり画家が描くに至った経緯や画家の個人史、制作された時代の状況などを知ると、より興味深く鑑賞できる

ということでしょう。絵画は「パッとみて感じればよい、というだけではない」という観点です。

また、絵画の鑑賞は視覚によるわけですが、その視覚は脳が行う情報処理の結果です。次の3つの記事、


は「視覚心理学と絵画」というテーマでした。No.243, No.256 は心理学者の三浦佳世・九州大学名誉教授の本、ないしは新聞コラムによります。脳の情報処理には錯視にみられるような独特の "クセ" があり、画家は意識的・無意識的にそのクセを利用して絵を描いています。つまり、

視覚心理学が明らかにした人間の脳の働きを知っておくと、より興味深く絵画を鑑賞できる

のです。もちろん絵画の鑑賞においては、その絵をパッと見て「いいな」とか「好きだ」とかを "感じる" のが出発点であり、それが最も重要なことは言うまでもありません。前提知識がなくても鑑賞は全く可能です。しかし前提知識があると鑑賞の面白味が増すということなのです。

ところで、前提知識を問題にするなら「絵の背景」や「視覚心理学」もありますが、「線・形・色などの造形的要素を配置する一般的な原理や方法」こそ、知っておいた方がよい最も基本的な知識のはずです。

2019年に出版された秋田麻早まさ子著『絵を見る技術 ── 名画の構造を読み解く』(朝日出版社 2019)は、まさにそういった知識をまとめたものです。分かりやすくコンパクトに整理された良い本だと思ったので、以下にその内容の一部というか、"さわり" を紹介します。著者の秋田氏はテキサス大学で美術史を専攻し、現在はフリーの美術史研究家として「絵の見方」についてのセミナーを開催している方です。

以下『絵を見る技術』を "本書" と書くことがあります。また本からの引用において、下線は原文にはありません。


フォーカルポイント


『絵を見る技術』でまず最初に説明されているのが "フォーカルポイント" です。フォーカルポイントとは「焦点」という意味で、絵の中で最も重要な箇所を言います。絵の主役であり、画家が一番見て欲しいところです。秋田氏は絵の見方として、


どうしてその部分が「絵の主役」なのか? その理由を考えながら見ると、絵の目立つところだけをみて終わってしまう、ということがなくなり、絵の全体を楽しむことができるようになります。

秋田麻早子
『絵を見る技術』
(朝日出版社 2019)

と書いています。フォーカルポイントの特徴は、

① 画面にそれ一つしかない
② 顔などの見慣れたもの
③ そこだけ色が違う
④ 他と比べて一番大きい
⑤ 画面のド真ん中にある
⑥ コントラスト(明暗差)が目立つところ

などです。このようにフォーカルポイントは(②を除いて)周囲との関係、絵全体の中での関係性で決まります。我々が絵を見るとき、パッと見て一番目立つところがフォーカルポイントであることが多いわけです。しかしその一番目立つところだけに注目するのではなく、それがなぜフォーカルポイントなのかを(①~⑥などを踏まえて)考えることが絵の全体を見ることにつながる。上の引用はそのことを言っています。



さらに、フォーカルポイントの別の示し方があります。西欧の宗教画ではキリストによく後光が描かれますが、その後光は集中する線で表される。これは線を一点に集めることで重要さを表せることを示しています。

人間の目は線状のものを追う性質があります。これを利用して視線を誘導する線のことを "リーディングライン" と呼びます。リーディングラインは、はっきりとした線とは限りません。"線状に見えるもの" や、"線を示唆するもの" もリーディングラインの働きをします。また人は似たようなものが並んでいると "線状のものとしてつなげて認識" するので、それもリーディングラインになります。さらに、"グラディエーションや筆遣い" でも線状の向きを示すことができます。

加えて、絵の中の人物の "身振りや手振り" によっても方向を示すことができる。また人は、絵の中の人物がある方向を見ているとき、その人物の視線方向を追ってしまいます。つまり、画面に直接的には描かれていない "視線" もリーディングラインになります。

以上のような各種のリーディングラインを一カ所に集めることで、重要な箇所であるフォーカルポイントを作れるわけです。



各種の手法でフォーカルポイントを強調した代表例が、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』です。

ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)
最後の晩餐」(1495/98)
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ)

キリストが描かれている絵画なので、フォーカルポイントはもちろんキリストです。そのフォーカルポイントを『最後の晩餐』では次のような手段で強調しています。

① キリストをど真ん中に描く。
② 一点透視図法の消失点がキリストの頭にあるので、リーディングラインがキリストに集まる。
③ 背景の窓の外を明るくすることによって、キリストのコントラストを際だたせる。
④ 弟子の手振り・身振りのリーディングラインでキリストを示す。
⑤ 弟子の視線の方向でキリストを示す。

秋田氏は「ダメ押しの波状攻撃でフォーカルポイントを明確にしている」と述べています。



『絵を見る技術』をいったん離れて、以前にこのブログで引用した絵のフォーカルポイントをみたいと思います。ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵するメアリー・カサットの『舟遊び』という作品です(No.87「メアリー・カサットの少女」で引用)。

カサット「舟遊び」.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
舟遊び」(1893/94)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

この絵はメアリー・カサットの弟の一家を描いたものですが、フォーカルポイントは明らかに子どもです。その理由は、

① 子どもがど真ん中(画面の中心線上)に描かれている。
② 人物では子どもだけに日光があたっている(明暗差)。
③ リーディングラインが放射状に子どもに集中している。

の3点です。No.87 で、この絵は西欧キリスト教絵画の古典的画題である「聖家族」(幼子キリスト、聖母マリア、父ヨセフ)を踏まえているのではないかとしましたが、その理由はこの絵が "やけに子どもを強調している" からで、特に「リーディングラインが放射状に子どもに集中している」ところです。メアリー・カサットは「聖母子と洗礼者ヨハネ」を踏まえたと考えられる『家族』(1893)という絵も描いているので(No.187「メアリー・カサット展」に画像を引用)、『舟遊び』が「聖家族」を意識したのも十分ありうるのと思います。

カサット「舟遊び」説明.jpg
「舟遊び」のリーディングラインは、放射状に子どもに集中している。また子どもの顔は画面の中央に描かれ、顔に光が当たっている。



『絵を見る技術』に戻ります。フォーカルポイントは一つとは限りません。フォーカルポイントが2つあって、それらが対等な絵、あるいは主と従の関係にある絵もあります。

また1つや2つのフォーカルポイントを作る「集中型」ではなく、あえて意図的にフォーカルポイントを数個に分散させる「分散型」の絵もあります。さらにはフォーカルポイントを作らない絵もあり、この究極がジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングだと秋田氏は指摘しています。本書にはありませんが、そのポロックの作品は No.244「ポロック作品に潜むフラクタル」に書いたように、部分が全体と同じ構造を持つ自己相似形(フラクタル)になっているのでした。すべての部分がフォーカルポイントだとも言えるでしょう。


視線誘導による経路生成


リーディングラインはフォーカルポイントを作る手段の一つですが、もう一つの重要な役目は、絵を鑑賞する人の視線を誘導する経路を作ることです。絵画には「こういう流れで絵を見て欲しい」と画家が意図した経路があります。その経路をリーディングラインで作ります。

 周回型の経路 

もっとも一般的な経路は「周回型」の経路です。円形や "の" の字型のリーディングラインで画面を周回するように視線を誘導し、画面全体を見てもらうという方法です。画面全体を周回できばよいので、3角や4角、8の字型(ないしは ∞ 型)でも可能です。そして経路のどこかにフォーカルポイントを置きます。

 ジグザク型の経路とストッパー 

画面を上下(ないしは左右)にジグザグに進む経路もあります。この経路の場合には "視線の折り返し点" が発生しますが、そこに描かれる造形物を秋田氏は "ストッパー" と呼んでいます。アムステルダムのゴッホ美術館が所蔵するゴッホの『収穫』(1888)がその典型例です。

ゴッホ「収穫」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
収穫」(1888)
ゴッホ美術館(アムステルダム)

この絵のフォーカルポイントは、一応、画面の真ん中に描かれている手押し車と考えられますが、そんなに目立つものではありません。手押し車より大きい積み藁が左にあるし、右の方には手押し車よりコントラストが目立つ建物がある。つまりこの絵は「フォーカルポイント分散型」の絵だと言えます。

ということは、画面全体に視線を誘導する経路が欲しいわけで、それがジグザグ型のリーディングラインです。そしてリーディングラインの端、視線の押し返し点にはストッパーがうまく配置されています。

ゴッホ「収穫」説明.jpg

この絵で分かるように、ジグザグ型の経路は風景画に最適です。ちなみに、畑を描いたゴッホの絵で下から上へのジグザクの経路をもつ作品は他にもありますが、経路が途絶えていたり、ストッパーがなかったりします。この絵が有名で名画とされているのは、画面全体を覆う経路が慎重に考えられているからでしょう。

 放射型の経路 

画面のある1点から放射状に広がるリーディングラインを作ることでも、画面全体を覆うことができます。この例が有名なミレーの『落穂拾い』だと、秋田氏は指摘しています。

ミレー「落穂拾い」.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
オルセー美術館


きっと誰でも目にしたことがある『落穂ひろい』は、どの登場人物もこちらを見ていないし、際だった要素はないのに、不思議と惹きつけられる、まとまりの良い絵です。どうしてでしょうか? その秘密は視線の経路にあります。

どうして惹きつけられるかというと、地平線の一点を中心にして、すべての線が傘状に広がっている求心性の高い絵だからです。どこから見始めても、その一点に引き戻されるような感覚があり、また、一つ屋根の下にあるような収まりのよさを感じます。

「同上」

ミレー「落穂拾い」説明.jpg

この絵で、放射状に作られたリーディングラインが集中する所にあるのは積み藁ですが、それがフォーカルポイントではありません。この絵のフォーカルポイントはパッと見てわかる手前の3人の女性であり、リーディングラインは視線を誘導する経路を作っているのです。

秋田氏の説明に付け加えると、No.200「落穂拾いと共産党宣言」で書いたように、この絵の上の方の明るい部分は農地を所有している農民の刈り入れ作業です。一方、手前の少し暗く描かれた3人の女性は、農地に無断で入って刈り取りから漏れた小麦(=落穂)を拾っています。上の方が農民の世界、下の方は最下層の貧農の世界です。

ということは、この絵の傘状の経路に込めた画家の意図は、手前の一人の女性をみて上の明るい世界を見る、別の手前の女性を見て明るい世界を見るというように、落穂を拾う貧農女性と農民が収穫にいそしむ農村を対比的に見て欲しいということでしょう。「人間の目は線状のものを追う性質があり、これを利用して視線を誘導する線がリーディングライン」という原理を考えると、そう推察できます。

この絵が素晴らしい理由はいろいろあり、特に全く顔が見えない3人の女性のモデリングというか、立体感、ボリューム感、存在感は格別なものがあります。それは絵画でしか成し得ない表現でしょう。加えて、画面全体を覆う傘状の視線誘導経路があり、見る人は無意識にしろそれを感じてこの絵に惹かれる。「名画には理由がある」ことがよく理解できるのでした。


バランス


"フォーカルポイント" と "経路" に続いて『絵を見る技術』で説明されているのは、絵画の "バランス" です。バランスとは何か、本書では次のように説明されています。


どんな人でも、絵と見れば、思い切った大胆なバランスだな、とか、安定しているな、とか感じています。でも、どこでバランスの良し悪しを判断しているのかは説明できないもの。

これが彫刻なら、バランスを確かめるのは簡単。立たせてみて、立つかどうかです。倒れたら、バランスが悪いと分かります。でも絵の場合は平面なので目で確認するしかありません。

名画は必ず、線的にも量的にもバランスが取れています。

「同上」

この引用の最後にある「線のバランス」と「量のバランス」が本書で説明されています。

 構造線のバランス 

線のバランスは、具体的に言うと「構造線のバランス」のことです。構造線とは、絵の「軸になる線」「柱となる線」です。塑像の彫刻なら最初に芯を作り、粘土をその回りに付けていって作品に仕上げます。その芯が構造線に相当します。しかし絵画は塑像のような描き方をするわけではないので、構造線は実際に絵を見る人が "感じる" しかありません。構造線はリーディングラインとは違い、線そのものが絵に現れているとは限りません。塑像の芯のように、完成した作品からは見えないことも多い。しかし「絵の軸である、柱である」と感じられる線が構造線です。基本の構造線はシンプルに3つで、

 ①縦
 ②横
 ③斜め

です。縦の構造線は「そのまま立っている感じ」、横の構造線は「寝ている動きのない感じ」、斜めの構造線は「起きあがりそう、もしくは倒れそうという動き」を感じさせます。

縦の構造線と斜めの構造線は、それだけでは不安定な感じをうけるので、別の角度のサブの構造線で "支える" 必要があります。そうすることでバランスがとれた絵だと感じます。線を線で支えるやり方を「リニア・スキーム」と呼びます。『絵を見る技術』ではこの代表例として、上村松園の『序の舞』(東京芸術大学美術館所蔵)と『娘深雪みゆき』(足立美術館所蔵)が引用されていました。『娘深雪』の右下にさりげなく描かれている文箱ふばこは、斜めのサブの構造線を作ってメインの構造線を支えるという重要な働きをしています。ちなみに、この絵のサブの構造線はメインの構造線とほぼ直角に交わっています。

上村松園「序の舞」.jpg
上村松園(1875-1949)
序の舞」(1936)
東京芸術大学美術館

上村松園「序の舞」説明.jpg

上村松園「娘深雪」.jpg
上村松園
娘深雪」(1914)
足立美術館

上村松園「娘深雪」説明.jpg


上村松園の2作品を例としてあるのは、この2作品が極めてシンプルに「線のバランス」を体現しているからでしょう。特に『序の舞』の垂直と水平という分かりやすい構造線は、簡素だけど印象に残るものです。



『絵を見る技術』にはありませんが、『序の舞』の線のバランスで思い出す絵があります。ドレスデン古典絵画館が所蔵するスイスの画家、リオタールの『チョコレートを運ぶ娘』です。

リオタール「チョコレートを運ぶ娘」.jpg
ジャン = エティエンヌ・リオタール
(1702-1789)
チョコレートを運ぶ娘」(1744/45)
ドレスデン古典絵画館

ドレスデン古典絵画館というと、ラファエロ(システィーナの聖母)やフェルメール(窓辺で手紙を読む女)などの名画が並んでいますが、この絵も妙に印象に残ります。その理由は『序の舞』と同じで、"一目瞭然のシンプルな構造線が持つ力強さ" なのでしょう。『序の舞』と『チョコレートを運ぶ娘』を同一の視点で論じられるというところが、絵画の面白さだと思います。余談ですが、リオタールの絵が成り立つ理由は「チョコレートは貴重だった」ということでしょう。



『絵を見る技術』に戻ります。メインの構造線が横線の場合は安定していますが、それだけだと視線が横にスッと抜けてしまって、かえってバランスを欠きます。この場合、縦方向のサブの線を配置すると視線を縦横に動かす楽しみが出てきます。『絵を見る技術』では横の構造線の例をエドワード・ホッパーの『日曜日の早朝』を例に説明されていますが、ここではバーンズ・コレクション(No.95)が所蔵するアンリ・ルソーの作品を引用しておきます。この絵はバーンズ・コレクションのメイン・ルームの West Wall にありますが、この壁全体が「絵の見方の解説」のような展示になっています。

ルソー「木の幹がある運河と風景」.jpg
アンリ・ルソー(1844-1910)
木の幹がある運河と風景」(1900)
バーンズ・コレクション
バーンズ・コレクションがWebサイトに掲載している題名は「The Canal and Landscape with Tree Trunks」であり、それを直訳した。Tree Trunks とあるが、切られた丸太も描かれている。モノの大きさの関係が変だが、ルソー作品ではよくある。

なお、構造線は縦・横・斜め以外に、放物線、円(円弧)、S字などがあることが『絵を見る技術』に述べられています。上記の「バーンズ・コレクションのメイン・ルームの West Wall」にあるセザンヌの2作品(静物画と "レダと白鳥"の絵)は放物線の例です。

 量のバランス 

私たちは絵画の中のそれぞれの作画要素に「見かけ上の重さ」を感じています。感じる要因の一つは現実の重さからの類推です。たとえば素材が羽や藁だと軽く、鉄や石だと重い。また大きいものは重く、小さいものは軽いと受け止めています。それだけでなく、絵画においては「目立つものほど重い」とも感じています。

この「見かけ上の重さ」を画面全体で均衡させ、左右のどちらかに偏りすぎないようにするのが「量のバランス」です。最も古典的な方法は、フォーカルポイントとなる主役を中心付近に置き、2つの脇役を左右に配置するものです。いわば "釈迦三尊形式" とも呼べるもので、このやりかたでバランスをとるのが「フォーマル・バランス」です。

しかし、主役を画面のど真ん中に置いてバランスをとるのは難しい。なぜなら、主役の右方と左方に描かれるものが違うからで、主役を中心にして「見かけ上の重さ」を調節して量のバランスをとるのが難しいのです。

その「主役ど真ん中」でバランスをとる名人がラファエロだと秋田氏は言っています。その典型例が、ドレスデン古典絵画館が所蔵するラファエロの有名作品『システィーナの聖母』です。この絵では、ちょうど中央に聖母子、左に聖シクストゥス、右に聖バルバラ、下に2人の可愛らしい天使が描かれています。典型的なフォーマル・バランスの絵です。

ラファエロ「システィーナの聖母」.jpg
ラファエロ・サンティ(1483-1520)
システィーナの聖母」(1513/14)
ドレスデン古典絵画館


この絵は、聖母子を真ん中に、両脇にそれぞれ聖シクストゥス、聖バルバラを置いた左右対称の構図になっています。こんな風に主役が脇役を左右に従えると、とてもバランス良く感じられます。

ここで仮に、両隣の聖人を天秤にかけてみたらどうなるかを想像してみましょう。きっと釣り合うのではないでしょうか。人間は、絵の中の各要素に「見かけ上の重さ」を感じていると言いましたが、さらに言うと、その重さが画面の中で、ちょうど天秤にかけたかのように、支軸の左右で釣り合っているかどうかを感じ取っているのです。バランスが良いとか悪いとかは、この均衡きんこうを達成しているかどうかを指して言っていたのです。

『システィーナの聖母』の場合、真ん中に聖母がいます。吊り下げている軸のところにいるのとおなじ。そうすると、両方のお皿に同じ重さがないと、バランスが崩れるということです。主役を真ん中に置いたら、必然的に両側に同じ重さを必要とするものなのです。

左右対称と言っても、左右全く同じではなく、左右で少しずつ変化が見られます。例えば、左側で聖シクストゥスが長い袖をらしている分だけ右側では聖母のヴェールが大きくはために、聖バルバラの横にカーテンが下がっているので釣り合います。

「同上」

ちなみに『システィーナの聖母』の「線のバランス」を見ると、構造線は聖母から天使の間に至る垂直線であり、それを支えるリニア・スキームは聖母から聖シクストゥスへの斜めの線と、聖母から聖バルバラへの斜めの線ということになります。

またこの絵の経路は、聖バルバラから反時計回りのリーディングラインで下の2人の天使に至っています。天使と聖バルバラが途切れているように見えますが、絵をよく見ると聖バルバラと2人の天使はアイコンタクトをとっている。登場人物の視線はリーディングラインになるという原則に従って、この絵の経路は周回していることになります。従って、聖バルバラから時計回りに周回していると言ってもよいわけです。

この有名な絵の2人の天使は大変に愛らしく、この部分だけがポスターになったりします。その愛らしさの大きな要因は、普通の宗教画の子どもをモデルにした天使像にはあまりない「上の方を見ている目線」です。しかしその目線にはちゃんと意味があって、右上を向いている(=聖バルバラを見ている)のがポイントなのでした。なぜここに、ちょっと唐突な感じの天使がいるのか、それには理由があったのです。また、あえてこの部分だけアイコンタクトで経路を作ったのが、ラファエロの粋なところでしょう。

ラファエロ「システィーナの聖母」の天使.jpg



『システィーナの聖母』はフォーカルポイントが中央にありましたが、フォーカルポイントを端の方、例えば右端に寄せた絵を描きたい場合はどうするのか。その場合はフォーカルポイントの要素と釣り合うような「バランサー」を左端に寄せた位置に配置するのがよくある手法で、これで量のバランスをとります。この例として『絵を見る技術』で引用してあったのが、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵するメアリー・カサットの『青い肘掛け椅子の少女』です。この絵は No.86, No.87, No.125 で引用しました。

カサット「青い肘掛け椅子の少女」.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
青い肘掛け椅子の少女」(1878)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

この絵の少女はエドガー・ドガの友人の娘、犬はカサットの愛犬のベルギー産グリフォン犬ですが、寝ている犬が極端に左端に描かれています。こう描くことによって少女との量のバランスをとっているのです。

本書には書いてありませんが、この「犬が極端に左」ということで改めてこの絵を見てみると、少女が寝そべっている肘掛け椅子はほぼ全容が描かれているのに対し、犬が寝ている肘掛け椅子は半分にぶった切られています。ということは、見る人は画面のさらに左までに椅子全体が広がっていると想像する。この想像まで含めた椅子と犬が、少女と少女の椅子とバランスしている。そうも考えられると思いました。

画面の外を想像させる例として『絵を見る技術』では、画面を一端飛び出し、再び画面に入ってくる経路の絵が引用されていました。菱田春草の『黒き猫図』(1910)です。秋田氏は「視線誘導は画面の中だけで起きるとは限らない」と書いていましたが、だとしたら「量のバランスは画面の中だけで起こるとは限らない」とするのが妥当でしょう。



以上がバランスの話の "さわり" ですが、秋田氏は結論として、ちょっとした "どんでん返し" のようなことを書いています。しかしこれは絵画の本質に迫る話なので次に引用しておきます。


最後に身も蓋もない話をすると、どうして絵のバランスを取らないといけないのかは、あまり分かっていないんです。はっきりしているのは、名画が必ずバランスを取っているということだけ。

もちろん、バランスが不安定だと見ていて不安になるからとか、そんなことは言われています。ですが私にはルドルフ・アルンハイムの言葉のほうがしっくりきます。彼は絵画のバランス問題に取り組んだ美術に造詣ぞうけいの深い心理学者で、先の説明では不十分とし、以下のような主旨のことを述べています ─── 世の中でバランスが取れている状態というのは、部分的、もしくは一瞬しかなく、世界はつねに有為転変ういてんぺんしている。そして芸術というのは、そういう中で、バランスが取れた、一瞬の理想的な瞬間を絵の中に組織化しようとする試み。絵は単にバランスをとることが目的なのではなく、その方法は無限にあり、どうバランスを取っているかという点に意味が込めてある、と。

「同上」

「バランスが取れた、一瞬の理想的な瞬間を組織化しようとする試み」というのは、絵画だけではなさそうです。たとえば写真がそうでしょう。絵画と違って写真の被写体はあくまで "現実の何か" ですが、その現実は場所・時刻・見る方向で有為転変している。その中のバランスがとれた一瞬を切り取るのが写真家である。そう言えると思います。さらに彫刻などの視覚芸術や、建築の視覚に関係したデザインも同じだと思いました。





絵画で我々の目に最も直接的に飛び込んでくる要素は「色」ですが、その色について『絵を見る技術』では多方面からの議論されています。ここでは2つの点だけを紹介します。

 アース・カラーから極彩色へ 

『絵を見る技術』には、ベラスケスなどの17世紀の画家が使っていた絵の具とその材料が書いてあります。

    鉛白、カルサイト(方解石)
    チャコールブラック(木炭)、ボーンブラック(骨炭)
    ブラウンオーカー(土)、アンバー(土)、レッドオーカー(土)
    レッドオーキ(セイヨウアカネから抽出したマダーなどの染料由来)、ヴァーミリオン(水銀朱)
    リード・ティン・イエロー(鉛錫黄)、イエローオーカー(土)
    アズライト(藍銅鉱)、スマルト(色ガラス)、ウルトラマリン(ラピスラズリ)
    マラカイト(孔雀石)、ヴェルディグリ(緑青)、グリーンアース(土)

一見して分かることは、土由来の色(アース・カラー)が多いことです。これと炭由来の黒の絵の具を使えば、安価に油絵が製作できることになります。ベラスケスの時代の古典絵画に暗い色調のくすんだ絵が多いのも、絵の具の制約という面が大きいのです。

これらの色の中で特に高価だったのが青です。青の絵の具に使える天然素材はごくわずかです。ウルトラマリンは同じ重さの金と同じくらいの価格だったし、アズライトも高価です(スマルトは耐久性に問題があった)。

従って青い色を使うのは「高価な絵の具を使って豪華に見せたい」という意図がありました。聖母マリアやキリストの衣装に青を使うのは理由があるのです。No.18「ブルーの世界」で、国立西洋美術館に常設展示されているドルチの『悲しみの聖母』(1655頃)を引用しましたが、ウルトラマリンの青の色が素晴らしく、高貴だという印象を強く受けます。

このウルトラマリンを駆使したのがフェルメールでした。No.18 では『牛乳を注ぐ女』(1660頃)を引用しましたが、『真珠の耳飾りの少女』(1665頃)のターバンの青も有名です。これらの絵は良く知られていますが、『絵を見る技術』ではちょっと意外なフェルメール作品が引用されていて、意外な説明がありました。英国王室が所蔵する『音楽の稽古』という作品です。

フェルメール「音楽の稽古」.jpg
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
音楽の稽古」(1660年代前半)
英国王室所蔵


まず気づくのが、右よりにある青い椅子でしょう。もちろん、そこにも使っています。左の壁とか、床の青みがかった黒石部分。ぜんぶ天然のウルトラマリンを使っています。

まだあります。なんと天井の茶色い部分、少し青みがありますが、この茶色にウルトラマリンを使っているんです。つまり、青っぽいところ全てにウルトラマリンを使っていたのです。

金よりも高い絵の具を、天井の茶色に混ぜて使ったなんて! フェルメールが人を引きつけるのは、こういう、ちょっと尋常じゃないところがあるからかもしれません。

「同上」

これは少々驚きです。隠し味ならぬ "隠し絵の具" にウルトラマリン ・・・・・・。フェルメールは居酒屋兼宿屋の主人だったはずですが、パトロンに恵まれていたということでしょう。惜しげもなくウルトラマリンを使う(使えた)画家がフェルメールであり、ウルトラマリンを「フェルメール・ブルー」と言う理由が理解できました。



高価な感じということでは、金色きんいろも高価に見えます。ただし金箔を貼ったり金泥・金砂子を遣うのではなく「金のように輝く黄色」という意味での金色です。青にその金色を加えた「青+金」が生み出す高級感の魔力は現在までも続いていて、秋田氏はプレミアム・モルツの缶がその例だと言っています。なるほど ・・・・・・。ここでプレミアム・モルツを持ち出すということは、秋田氏はビール好きなのでしょう。

高級なイメージを与える色は、青のほかに「赤、白、黒」があります。これらの絵の具は青ほど高価ではないのですが、なぜ高級感が出るのかと言うと、これらの色で布をきれいに染めるのが難しかったからです。絵の登場人物が赤・白・黒の衣装を着ていたら、当時の人たちは高級だと一目で分かった。この例として秋田氏は、No.19「ベラスケスの怖い絵」で引用した、ベラスケスの『インノケンティウス十世の肖像』(1650)をあげています。教皇が身につけている赤と白はその地位の象徴なのです。



以上ことを考えると、18世紀初頭に開発された世界最初の人工顔料であるプルシアン・ブルーはまさに画期的でした(No.18「ブルーの世界」No.215「伊藤若冲のプルシアン・ブルー」参照)。そして青については、その後セルリアン・ブルーやコバルト・ブルーなどの人工顔料が開発され、ウルトラマリンも合成できるようになった。もちろん他の色の人工顔料も開発され、画家はチューブから絵の具を出すだけで極彩色の絵を描けるようになったわけです。

我々はそうした状況に慣れっこになっているのですが、どんな色でも同じ値段で自由に使えるという現代の感覚で古典絵画を見てはダメなのですね。昔の画家は極めて少ない色数で絵を描いていて、その工夫も見所の一つだということが理解できました。

 セザンヌの色使い 

お互いに引き立て合う2色の色を「補色」と言います。これは理論によって差はありますが、最も伝統的で、かつ多くの画家が採用したのが「青・だいだい」「赤・緑」「黄・紫」の組み合わせです。ドラクロワやモネ、ゴッホなども使っていますが、『絵を見る技術』ではセザンヌの絵の解説がしてありました。フィラデルフィア美術館が所蔵する『大水浴図』(1898/1905)です(No.96「フィラデルフィア美術館」)。

セザンヌ「大水浴図」.jpg
ポール・セザンヌ(1839-1906)
大水浴図」(1898/1905)
フィラデルフィア美術館


青、緑、オレンジを使った絵ですが、上半分は青が支配的でオレンジがサブ、下半分はオレンジが支配的で青がサブに回るという配置になっています。セザンヌは、こんな風に、ある場所で使った色を別の場所にも忍ばせることで統一感を出します。

オレンジ色が全体を三角形に囲い込むことで、さらに統一感が高まっています。その上に、緑がアクセント的に置かれています。

セザンヌの絵は、一見すると下手っぽく見えるのですが、こういう計算を分析的にとらえると、全く見飽きないし、すごいんだと分かります。

「同上」

秋田氏は「セザンヌの風景画の多くは、青・緑・オレンジを使い、最も明るい色にオレンジをあて、暗い色に青をあてている。この特徴がセザンヌっぽさの一因」という主旨のことを書いています。なるほどと思います。

『絵を見る技術』からは離れますが、この「セザンヌっぽさ」で思い出すことがあります。セザンヌの友人でもあったルノワールの晩年の裸婦像には「青・緑・オレンジ」という色使いの絵がいろいろあることです。この時期のルノワールとセザンヌを対比させた展示が、バーンズ・コレクションの Room 8 South Wall にありました。


構図


画面のどの部分にどういった作画要素を配置するか、そのプランが構図です。画家はさまざまな構図を考えますか、それらの基本となるものがあります。『絵を見る技術』ではこれを構図の「マスター・パターン」と呼んでいます。

マスター・パターンの出発点は、長方形のカンヴァスの真ん中に引いた十字の線と対角線です。この線上に作画要素を配置したり、線にそって要素を描いたり、また線が囲む領域に要素を配置したりします。

これを拡張したのが「等分割パターン」です。画面の縦(ないしは横、あるいはその両方)を 1/2, 1/3, 1/4, 1/5 などに等分割し、分割してできた小領域に斜線を引く。そういった線や領域を活用して配置を決めます。

『絵画を見る技術』では等分割パターンとして、上に引用した上村松園やラファエロのほかに、フリードリヒの『氷海』(1823/24)、ドラローシュの『レディ・ジェーン・グレイの処刑』(1833)、ヴァロットンの『ボール』(1899)、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『ダイヤのエースを持ついかさま師』(1635)などで説明してありました。それらの紹介は省略し、以下では等分割以外の画面分割パターンを紹介します。


構図 その1:ラバットメント


長方形の短辺を90°回転させて長辺に一致させ、回転した短辺の端から対向する長辺に向かって垂線を引くと、短辺を1辺の長さとする正方形ができます。この垂線を「ラバットメント・ライン」、この垂線による長方形の分割を「ラバットメント・パターン」と呼びます。言い換えると「長方形の中に短辺を1辺とする正方形を、短辺に寄せて作る」ということです。短辺への寄せ方は2通りあるので、1つの長方形でラバットメント・ラインは2本存在します。なお、ラバットメント(rabatment)とは回転という意味です

ラバットメント・ライン.jpg
ラバットメント・ライン

このラバットメント・ライン(ないしはパターン)を利用して構図を決めることができます。つまり、

◆ ラバットメント・ラインに重要なものを配置する
◆ ラバットメント・ラインで画面を分割し、その分割画面をもとに作画要素の配置決める
◆ ラバットメント・ラインに構図上の重要な意味を持たせる

などの方法です。ラバットメント・ラインは長方形の短辺と正方形を作るので、安定観のあるリズムの生むのだと思います。ラバットメント・ラインの使用例を何点かあげます。

 ゴッホの『ひまわり』 

「花瓶に十数本のひまわりがある絵」をゴッホは何点か描いていて、現在、美術館で見られる絵は5点です。ロンドン、アムステルダム、ミュンヘン、フィラデルフィア、東京の美術館にあります(No.156「世界で2番目に有名な絵」参照)。『絵を見る技術』では "ロンドン版ひまわり" の例が掲げられていますが、ここでは最後に描かれた "フィラデルフィア版ひまわり" を引用しておきます。5点の "ひまわり" は、いずれもテーブルの端の水平線がラバットメント・ラインのごく近くにありますが、この "フィラデルフィア版ひまわり" ではほとんど同一の線になっています。

ゴッホ「ひまわり(フィラデルフィア版)」説明.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
ひまわり」(1889)
フィラデルフィア美術館

 ゴッホの『星月夜』 

MoMAが所蔵する『星月夜』もゴッホの代表作ですが、フォーカルポイントである糸杉の中心がピタッとラバットメント・ラインに乗っていて、このラインが構造線になっています。

ゴッホ「星月夜」説明.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
星月夜」(1889)
ニューヨーク近代美術館

 ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』 

ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』はルーブル美術館の有名絵画ですが、構図にラバットメント・ラインが使われています。画面の中央上端から2つのラバットメント・ラインの端点に斜線を引くと、その斜線が、三色旗の持ち手と女神の腕の角度を作っています。

ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」説明.jpg
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)
民衆を導く自由の女神」(1830)
ルーブル美術館

秋田氏によると、画家のダビッドはよくラバットメント・ラインを使い、弟子のアングルや、そのまた弟子のドラクロワやドラローシュもよくラバットメント・ラインを使うそうです。「一見画風が違って見えても、弟子は師匠の構図法に大きな影響を受けているものです」と、秋田氏は述べています。

 ゴッホの『糸杉のある道』 

ラバットメント・ラインは「主役をまん中に置かないという選択をするとき、微妙にセンター・ラインをはずすための基準線として使える」と、秋田氏は指摘しています。『絵を見る技術』では、このことをワトーの『ピエロ』(ルーブル美術館)で説明しているのですが、以下はゴッホつながりで、クレラー・ミュラー美術館所蔵の『糸杉のある道』(No.158「クレラー・ミュラー美術館」で引用)で "微妙にセンター・ラインをはずす方法" を図示します。この絵はゴッホのサン・レミ時代の最後に描かれた絵です。星と月が描かれているので "もう一枚の「星月夜」" と言えるでしょう。『糸杉と星の見える道』という言い方もあります。

ゴッホ「糸杉のある道」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
糸杉のある道」(1890)
クレラー・ミュラー美術館

この絵の構造線は、フォーカルポイントとなっている糸杉の中心を通る垂直線で、絵の中心付近にありますが、中心よりは少し右です。また垂直の構造線を支えているのが地平線の横のラインですが、その地平線も中心から少し下に描かれています。この2つの構造線はどうやって決まっているのでしょうか。それはラバットメント・ラインに基づいています。

ゴッホ「糸杉のある道」説明.jpg

この絵にラバットメント・ラインを2本引き(黄)、ラインの端点と画面の角を結ぶ2本の線を引きます(赤)。この2本の線と、画面の右上から左下を結ぶ対角線(青)の交点は2つ出来ますが、1つの交点を通る垂直線を描き(白)、もう1つの交点を通る水平線(白)を描くと、それがこの絵の2つの構造線になります。かつ糸杉の根元がラバットメント・ラインと一致します。

ゴッホ「糸杉」説明.jpg
ゴッホ
糸杉」(1889)
メトロポリタン美術館
なお、メトロポリタン美術館にある『糸杉』は、『糸杉のある道』とは対照的にサン・レミの病院に入院した直後に描かれた絵ですが、垂直の構造線(フォーカルポイントになっている手前の糸杉の中心)は同じ構図をとっています。

構造線を真ん中付近に置きたい、しかしど真ん中は避けて微妙にずらしたいというとき、微妙にずれてはいるが "安定感のあるずれ方" がこの構図だと思います。我々はゴッホというと「独特の感性のままに描いた炎の画家」みたいなイメージでとらえがちなのだけれど、画家である以上、構図はきっちりと計画するわけです。あたりまえかも知れませんが ・・・・・・。『ひまわり』『星月夜』『糸杉のある道』の3作品はそのことをよく示しているのでした。


構図 その2:直交パターン


『絵を見る技術』に戻ります。長方形に対角線を引き、それに直交する線を描きます。長方形の一つの辺を直径とする半円と対角線の交点を求めることで直交する線が描けます(下図左)。これを構図の基本とするのを『絵を見る技術』では「直交パターン」と呼んでいます。この2直線の交点を「長方形の眼」と呼びます。一つの長方形は合計4つの眼を持ちます(下図右)。

直交パターン1.jpg

クレラー・ミュラー美術館が所蔵するゴッホの『夜のカフェテラス』は、直交パターンを構図に生かした例です。

ゴッホ「夜のカフェテラス」説明.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
夜のカフェテラス」(1888)
クレラー・ミュラー美術館

この絵はフォーカルポイントが長方形の眼にあり、また透視図法の消失点もその近くにあります。これによってカフェテラスの奥に吸い込まれていくような感覚を生んでいます。

長方形の眼は長方形の2つのかどとの3点で直角三角形を作れて、しかもその直角三角形は2種類できます。脳神経科学的に言うと、人間の目は暗黙に直角を見ようとする「直角好き」です(No.238「我々は脳に裏切られる」参照)。カンヴァスに直角が明示されているわけではありませんが、人間は何となくそれを感じる。直交パターンの心地よさというか "リズム" は、そこからくるのではと思いました。



さらに秋田氏は、直交パターンを利用して長方形の内部に渦巻き状に長方形を作り、もとの長方形を入れ子式に分割できることを述べています(下図)。

直交パターン2.jpg

この分割パターンを利用して描かれているのが、プラド美術館にあるベラスケスの『ラス・メニーナス』です。この絵では長方形の眼のところにフェリペ4世夫妻が映り込んだ鏡があり、『夜のカフェテラス』と同じように、そこに向かって吸い込まれるような感覚があります。また「入れ子式の分割パターン」が絵の構図に生かされているのがよく分かります。

ベラスケス「ラス・メニーナス」.jpg
ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)
ラス・メニーナス」(1656)
プラド美術館

ベラスケス「ラス・メニーナス」説明.jpg


構図 その3:黄金比・黄金分割


黄金比や黄金分割という言葉は多くの人が聞いたことがあると思います。絵画でもいろいろ使われていると考えるかもしれません。しかし秋田氏は「説明に困る」と書いています。


「黄金比」という言葉は聞いたことがある人も多いでしょう。絵画に黄金比が使われているかどうか? 気になる人が多いテーマですが、これが絶妙に説明に困る問題なのです。

結論から言うと、今まで「黄金比が使われている!」と言われてきたものは、ほとんどが決定打に欠け、そうと言われればそう見える、心霊写真のようなところがあります。黄金比が使われているという主張の多くは、測り方が恣意的すぎるのです。これは黄金比が芸術に使われていない、という意味ではありません。ただ、もう少し造詣的な必然性であるとか、技術面からの議論、文献の後押しが必要ではないかと思います。

「同上」

その「心霊写真のようなもの」が多いなかで、秋田氏は意図的に黄金比を使ったと考えられる3作品をあげています。レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』(1472頃)、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』(1483頃)、ローレンス・アルマ=タデマの『ヘリオガバルスの薔薇』(1888)です。この中から『受胎告知』を以下に紹介します。まずその前提として、黄金比・黄金分割とは何かです。



線分ABをG点で分割するとき、AG:GB = GB:AB となるGがABの黄金分割です。AG=1, GB=ϕ とおいて計算すると、ϕは無理数で、約1.618程度の数になります。「1:ϕ」が黄金比です。ϕの逆数は ϕ-1(約0.618)に等しくなります。

黄金比1.jpg

辺の比が「1:ϕ」の黄金比の長方形を「黄金長方形」と言います。また、1/ϕ = ϕ-1 なので、辺の比が「1:ϕ-1」の長方形も黄金長方形です。

黄金比2.jpg

黄金長方形には特別な性質があります(下図)。黄金長方形のラバットメントライン(黄色の線)は、黄金長方形を「正方形と小さい黄金長方形に黄金分割」します。またラバットメントラインの端点と黄金長方形の角を結ぶと直交パターンになります(青と赤の線)。大きな黄金長方形と小さな黄金長方形は相似なので、2つ線は直交するわけです。

黄金比3.jpg

一辺の長さ 1 の正方形の両サイドに黄金長方形をくっつけた横長の長方形を考えると、この長方形の長辺の長さは √5 になります。これは「√5長方形」と呼ばれるものです。

黄金比4.jpg



実は、ウフィツィ美術館が所蔵するレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』のカンヴァスは √5長方形です。このカンヴァスの縦横の長さは 98cm × 217cm で、縦横比は 2.214 となり √5(≒ 2.236)と極めて近い値なのです。こんな特別な形の横長カンヴァスは何らかの意図がないと選ぶはずがないのです。

もちろん西欧絵画全般を見ると、カンヴァスを使った絵で横が縦の2倍を超える絵はあります。このブログで引用した絵で言うと、ピカソの『ゲルニカ』(349.3cm×776.6 cm。縦横比:2.223。画像:No.46)がそうだし、ローザ・ボヌールの『馬市』(244.5cm×506.7cm。縦横比;2.072。画像:No.266)も2倍を超えています。しかし、キリスト教絵画で多数描かれた『受胎告知』のテーマでダ・ヴィンチの『受胎告知』ほど横長のカンヴァスはないのではと思います。

ちなみに、『ゲルニカ』は『受胎告知』よりさらに「√5長方形」に近い縦横比です。ピカソはそれを意識したのでしょう。

次図は『絵を見る技術』に掲載されている画像を再掲したものです。合わせて秋田氏の解説も引用します。

ダ・ヴィンチ「受胎告知」2.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)
受胎告知」(1472頃)
ウフィツィ美術館

ダ・ヴィンチ「受胎告知」説明.jpg


図の白い線を見てください。これが黄金長方形と正方形の分割線で、右のマリアと左の大天使ガブリエルは、図のように黄金長方形の対角線で規定されています。

次に図の青い点線を見てください。これは上下左右を黄金比 ϕ で分割するラインです。背景の水平線がこのライン付近を走っています。強調されたこの水平線によって、まるで何かエネルギーのようなものが、大天使ガブリエルからマリアめがけて噴き出しているように見えませんか。二人の手もこのラインに乗っています。

ガブリエル側に水平線が目立つ一方、マリア側は垂直線が目立ちます。マリア側にある壁は、ガブリエルから来る水平線を手前で受け止める役割があります。その縦線も ϕ ラインあたりにあるのです。黄金分割が効果的に使われた例と言えるのではないでしょうか。

「同上」

この解説を読んで思ったことです。レオナルド・ダ・ヴィンチと言うと、芸術家、特に画家として技量が飛び抜けているのですが、その一方で工学や解剖学などをどん欲に探求したことが知れられています。つまり「画家ではあるが、理系人間」というイメージが強い。そのダ・ヴィンチが、数学的根拠にもとづく黄金比を使って描いたというは、いかにも雰囲気が出ていると思います。
 


以上、『絵を見る技術』を紹介しましたが、取り上げたのはこの本のごく一部です。他にも多くの話題がありますが、それは本書を読んでいただくしかありません。一つだけ追加で紹介すると、秋田氏はミュシャの『ダンス』(1898)という作品について、「反復する円を多用する構図を使ってダンスの動きを表現している」と説明し、次のように続けています。


ミュシャの絵は、解剖学的に正しく、自然に描かれているのに、その上に怖いくらいの幾何学的正確さも備えています。【中略】

ミュシャを模倣する人が多いわりに、似たものが作れないのは、この幾何学的統一と正確なデッサンが両立できないからでしょう。

「同上」

この文章は、ミュシャそっくりの絵を描けない理由の説明であると同時に、模倣できない割にはミュシャ作品が20世紀のポップアートやサブカルチャーに多大な影響を与えた、その理由を言い当てていると思いました。



以上、私なりにまとめると『絵を見る技術』で解説されている "技術" は、どの絵にも共通で、かつ基本的な「絵を描く技術 = 絵を見る技術」です。菱田春草や上村松園が引用してあることからも分かるように、それは日本画にも共通です。

もちろん、こういった技術をわざと無視した絵もあって、特に近代以降に多い。しかしそういう絵を見るとき、「一般的なやり方を、どう意図的に無視しているか」を理解するためには「一般的なやり方」を知らないといけないわけです。

考えてみると、日本画には『絵を見る技術』と相反する絵がいろいろあります。リーディングラインが画面から飛び出して戻ってこない絵とか、量のバランスを全く無視した絵などです。思うに、19世紀の欧州画壇のジャポニズムの要因の一つは、そういった絵にヨーロッパの画家が感じた "新鮮さ" だったのではないでしょうか。

「何かをこわした」ことを理解するためには、もともとの「何か」を知っている必要があり、知らないと壊したことさえ分からない。そう思います。


『絵を見る技術』の結論


最後に『絵を見る技術』の最終章に書かれている話です。最終章ではティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』(1538。ウフィツィ美術館)と、ルーベンスの『十字架降架』(1612/14。アントワープのノートルダム大聖堂)を例に、総合的な分析がされています。

そして『十字架降架』を詳しく分析したあと秋田氏は「よくできている、すごい絵」としつつも、「正直に言うと、この絵は好きとまでは言えない」との主旨を書いています。つまり、

好き嫌いを感じることと、造形が成功しているかどうかを理解することは別

なのです。そして秋田氏は好きなルーベンス作品の例として『クララ・セレーナの肖像』をあげています。この絵はリヒテンシュタイン侯爵家が所蔵していて、日本でも何回か展示さたことがあるので実物を見た人もいると思います。

ルーベンス「クララ・セレーナの肖像」.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス
(1577-1640)
クララ・セレーナの肖像」(1616頃)
リヒテンシュタイン侯爵家所蔵


ルーベンスの壮大なテーマをおおらかに描いたものは、素晴らしいのは分かるけど、少しコッテリに感じてしまいます。

ですからルーベンスの作品でも、娘の肖像画などは私も大好きです。ルーベンスの活力みなぎる肉体表現は大がかりな歴史画や祭壇画で発揮されていますが、その技量を、身近な小さな存在を描くのに注ぎこむという、才能の無駄遣いともいえるギャップに魅力を感じます。そして、この絵の生命力みなぎる少女が夭折ようせつしたと知ると、この絵がとどめた一瞬が、どれほどもろはかないものだったかと気づくのです。

こんなふうに、「自分の好き・嫌い」と「作品の客観的な特徴」が分けられるようになると、楽しみ方の幅がぐっと広がると思います。

「同上」

こういう文章を読むと何だかホッとします。つまり秋田氏は『絵を見る技術』という著書の最後の最後で、

・ ルーベンスの『クララ・セレーナの肖像』が大好き、とし
・ 夭折した娘の肖像であるという、絵を見ただけでは分からない事実を念頭に自らの思いを書いている

わけです。つまり、さんざん説明してきた "絵を見る技術" とは全く違う絵の見方も大いにアリということを、秋田氏自身が語っている。「生命力漲る少女が夭折したと知ると、この絵がとどめた一瞬が、どれほど脆く儚いものだったかと気づく」というような "思い入れたっぷりの文章" になるのは、要するにそういうことです。

そして、上の引用の最後の文章が『絵を見る技術』という本の結論なのでした。




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No.280 - 円山応挙:国宝・雪松図屏風 [アート]

No.275「円山応挙:保津川図屏風」の続きで、応挙の唯一の国宝である『雪松図屏風』(三井記念美術館・所蔵)について書きます。私は今までこの作品を見たことがありませんでした。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』(2016年11月3日~12月18日。No.199「円山応挙の朝顔」参照)でも前期に展示されましたが、私が行ったのは後期だったので見逃してしまいました。

国宝雪松図と明治天皇への献茶.jpg
『雪松図屏風』は、三井記念美術館の年末年始の展覧会で公開されるのが恒例です。今度こそはと思って、2020年の1月に日本橋へ行ってきました。「国宝 雪松図と明治天皇への献茶」(2019.12.14 - 2020.1.30。三井記念美術館)という展覧会です。雪松図と茶道具がセットになった展覧会ですが、その理由は、明治20年(1887年)に三井家が京都御所で明治天皇に献茶を行ったときに『雪松図屏風』が使われたからです。

この屏風は今までTVやデジタル画像で何回も見ましたが、そういったデジタル画像ではわからない点、実際に見て初めてわかる点があることがよく理解できました。ないしは、実際に見ると "なるほど" と強く感じる点です。それを4つの切り口から以下に書きます。

雪松図屏風.jpg
円山応挙(1733-1796)
「雪松図屏風」

雪松図屏風(右隻).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」右隻

雪松図屏風(左隻).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」左隻


松の葉が描き分けられている


『雪松図屏風』は右隻に1本、左隻に2本の、合計3本の松が描かれています。詳細に見ると、これらの松の "葉" の描き方が右隻と左隻で違います。右隻の松葉は墨の黒が濃く、長さは長い。一方、左隻の松葉は右隻と比較すると墨が薄く、長さは短く描かれています。

各種の解説にありますが、この松はクロマツ(黒松。=雄松。右隻)とアカマツ(赤松。=雌松。左隻)です。このような一対の雄松・雌松は長寿の象徴で、縁起がよいとされています。正月の門松がまさにそうで、左(向かって右)にクロマツ、右(向かって左)にアカマツを配するのが正式です。

戸外で見るクロマツ・アカマツは、幹の木肌を見るとその区別が一目瞭然です。クロマツは黒灰色、アカマツは赤褐色の木肌をしています。しかし墨で描かれたこの応挙の屏風では、色の違いが分かりません。あとは葉の違いですが、我々は普通、2種類の松の葉を見比べることなどないので、『雪松図屏風』がクロマツ・アカマツだとは、ざっと眺めているだけでは気づかないのです。

そのクロマツ・アカマツの違いですが、植物図鑑によるとアカマツの方が葉が短いとあります。そして『雪松図屏風』を子細に見ると、違いが描き分けられています。そこは納得できました。

しかし『雪松図屏風』を実際に見た感じでは、松の葉の濃淡の方が印象的でした。ここから受ける感じは、右隻のクロマツは老木で、左隻のアカマツは若木だということです。若木の方が鮮やかな緑色にふさわしく、墨で描くとしたらより薄い色になるでしょう。

以上のような松の葉の描き方の微妙な違いは、実際の屏風を見てわかるのでした。


塗り残し


これは有名なことですが、『雪松図屏風』の雪は "塗り残し" で描かれています。つまり紙の表面をそのまま見せることで、六曲一双の雪の全部を表現している。ここまでくると超絶技巧と言っていと思いますが、これは単に技巧を誇示したものではないと感じます。この雪の描き方(=描かない "描き方")から受ける印象は、水分が少ない、降ったばかりの雪で、ふわっとした柔らかい感じの雪、という感じです。

No.199「円山応挙の朝顔」に、同じように塗り残しで雪を表現した『雪中水禽図』を引用しました。柔らかい綿のような感じの雪です。同じ No.199 には雪ではありませんが、白い狐(=神獣)を描いた『白狐図』も引用しました。薄暗がりの中にボーッと浮かび上がるような、独特の感じを出しています。狐の白い毛に『雪中水禽図』の雪と似たものを感じました。

『雪松図屏風』の「柔らかい、綿のような雪」の感じは、塗り残しでしか表現できないのではないでしょうか。というのが言い過ぎなら、塗り残しで最もうまく表現できる雪です。応挙はそれを狙った。そう思いました。

ちなみに『雪松図屏風』に使われている紙は、紙継ぎのない超特大の1枚紙だそうです。この屏風のために(おそらく三井家が)特注したものでしょう。雪松図は "塗り残し" が六曲一双のほとんどに渡って使われています。従って1枚紙でないと、紙の表面がそのまま見えている雪のどこかに継ぎ目があからさまになってしまう。それを避けたのだと思いました。

雪松図屏風(右隻・第5扇).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」
右隻・第5扇(部分)

雪松図屏風(左隻・第3扇).jpg
円山応挙
「雪松図屏風」
左隻・第3扇(部分)


3次元表現


『雪松図屏風』は松の幹や枝と3本の木の配置で、応挙の3次元的な写実表現を味わうことができます。

まず、松の幹と枝が丸みを帯びて見えます。雪で覆われていない木肌の部分は墨で描かれていますが、その墨の黒がまるで影のように見える。影を描いた日本画は江戸後期の絵にありますが、普通は影を描くことはありません。応挙もその伝統に従ってはいますが、影のように見えることを意図して描いたと感じました。これによって松の幹や太い枝のボリューム感が表現されています。狩野派の松とは全く違う写実性があります。

また3本の松の配置は、左隻の2本の松が右隻の松より遠くにある感じがします。特に左隻の左側の松は明らかに奥にある。全体の3本の松は右から左へ行くに従って、だんだんと "小ぶりに" なっています。遠くのものは小さく見えるという原理によって、空間的な奥行きを感じるのだと思います。

さらに、描かれた松の枝は横に延びたり、前にせり出したり、後ろに後退したりと、いろいろだと感じます。特に実際に立てて展示されている屏風を見ると、屏風の折り目の前に出た部分に描かれている松の枝が、後ろから前に延びてきているように見えます(下図)。あくまで相対的な前後関係ですが、こういう効果も狙って構図が決められているのだと思いました。

雪松図屏風(3次元).jpg
屏風は立てて置かれるので、折り目のところで前に出た部分と、奥に後退した部分ができる。この図の丸で囲んだところの枝は、前に出ているように感じられる。


金泥と金砂子の効果


この屏風には全体的に金泥が塗られ、六曲一双の中央に近い部分には薄い金泥が塗られています。この薄い部分が日の光のようです。明け方に朝日が差し込んだか、ないしは霧が立ちこめる中、その霧が晴れてきて陽光が差し込む。そんな感じです。

そして全体の下の部分、地面に積もった雪を表す薄い金泥には、その上に金砂子(金箔を粉状にしたもの)が散らされています。陽光が差し込んで地上の雪がきらめく感じがよく出ています。

この金砂子の効果は解説書によく書かれていますが、実際に屏風を見て、なるほどと実感できました。

雪松図屏風(右隻・第3・4扇)部分.jpg
「雪松図屏風」右隻の第3・第4扇の部分図。下の方に砂子が散らしてある。金箔と同様、この視覚効果は実際に見て初めてわかる。




全体のまとめですが、『雪松図屏風』の前に立つと "その場にいるよう臨場感" を感じます。その臨場感の中で、"厳粛な雰囲気" と "すがすがしく、晴れやかな感じ" を受けます。それはまさに、我々が実際に「雪が降ったあとの庭に陽光が差し込む光景」を見たときの感覚を思い起こさせるものでした。




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No.279 - 笠間日動美術館 [アート]

今まで、バーンズ・コレクションからはじまって11の "個人コレクション美術館" について書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム
  No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC
  No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ
  No.242ホキ美術館千葉市
  No.263イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館米:ボストン

の11の美術館です。これらはいずれも19世紀から20世紀にかけての実業家か富裕層の美術愛好家が、自分が得た財産をもとに蒐集したコレクションが発端になっていました。美術館の名前にはコレクターの名が冠されています。もちろんコレクターが亡くなったあとは、コレクションを継承した親族やNPO財団、国や市が美術館として発展させ、所蔵品を充実させてきたケースが多々あります。

今回はその "個人コレクション美術館" の12番目として「笠間日動美術館」のことを書きます。この美術館は今までの11の美術館と違い、画商が創設した美術館です。


笠間日動美術館


笠間日動美術館は茨城県笠間市にあり、東京・銀座に本社がある日動画廊の創業者、長谷川じん(1897-1975)・林子りんこ(1896-1985)夫妻が1972年に創設しました。現在は息子の長谷川 徳七と智恵子夫妻が運営しています。美術館のある笠間市は長谷川仁の出身地です。

ちなみに "日動" という名称は、長谷川 仁が日本動産火災保険(現・東京海上日動火災保険)の本社ビルに間借りして画廊を開いたことによります。

コレクションの中心は、フランス絵画を中心とする西洋絵画、20世紀のアメリカ絵画、日本の洋画、彫刻です。

この美術館は「画商が開設した美術館」ですが、こういった例は世界的にも珍しいのではないでしょうか。パリのオランジュリー美術館には画商のポール・ギヨームのコレクションが多数ありますが、これはフランス政府に寄贈されたコレクションをここに展示したものです。

言うまでもなく画商はアーティストとコレクターや美術愛好家の間を仲介する職業であり、画商が買った美術品は売るのがあたりまえです。もちろん著名アーティストだけでなく、まだ世の中に知られていないアーティストを発掘し、その作品をメジャーにして美術界に貢献するといった使命もあるでしょう。しかし「美術品を売る商売」であることには変わりがない。

その「画商のコレクション」とはどういうものかを考えると、アーティストから購入したがどうしても売りたくなかった作品か、ないしは諸般の事情で買い手がつかずに売れなかった作品でしょう。さらには、画商は幅広いアーティストやコレクターとの親交があるはずで、この人間関係をベースに集めた(ないしは集まった)作品もあるでしょう。これらの点は「画商のコレクション」ならではの特性です。

いずれにせよ、笠間日動美術館には他の個人コレクション美術館にはない独自性があると想定されます。以下、この美術を4つのポイントで紹介します。

笠間日動美術館(企画展示館).jpg
笠間日動美術館の企画展示館。美術館のエントランスはこの建物にある。


フランス絵画


笠間日動美術館は主要な3つの建物がありますが、そのうちの一つは「フランス館」と名付けられています(あとの2つは企画展示館とパレット館。そのほかに野外彫刻庭園がある)。つまりフランス人やフランスに渡って活躍した人の絵画・彫刻が、この美術館の "売り" になっています。

笠間日動美術館(パンフレット).jpg
右の図は笠間日動美術館のパンフレットの表紙(2019年現在)ですが、絵はルノワール(『泉のそばの少女』1887)とゴッホ(『サン=レミの道』1889/90)です。ルノワールの絵の右にはアーティストの名前が書いてあって、

・ドガ
・モネ
・セザンヌ
・スーラ
・カンディンスキー
・ボナール
・マティス
・クレー
・ピカソ
・シャガール
・ミロ
・レジェ
・ジャコメッティ
・フジタ
・ウォーホル

とあります。こういったパンフレットの表紙には「誰もが知っていそうなアーティストの名前」を載せるはずで、数ある所蔵品からこの選択になったと思いますが、少なくともこの美術館がアッピールしたい点、その最大のポイントが理解できます。その所蔵品から、出身がフランス以外の画家の3作品を下に掲げます。

 ゴッホ 

ゴッホ「サン=レミの道」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
サン=レミの道」(1889/90)
(笠間日動美術館)

ゴッホのサン・レミ時代の絵です。道があって、両側には木立と藪があり、女性が一人歩いていて、道の向こうには家屋があるという風景です。形が崩れているというか溶解していくようで、荒すぎる筆のタッチが目立ちます。ただし使われている色彩が美しい。そこがこの絵のポイントでしょう。

ゴッホがサン・レミの病院にいたのは1989年の5月から1900年の5月までの1年間です。このブログでも、その間の作品を何点か取り上げました。最も初期と最も後期の作品が『サン・ポール病院の庭:1889.5』と『糸杉のある道:1890.5』(いずれも No.158「クレラー・ミュラー美術館」)でした。また、その間に描いた作品として『雨:1889』(No.97「ミレー最後の絵」)、『桑の木:1889』(No.157「ノートン・サイモン美術館」)、『道路工たち:1889』(No.216「フィリップス・コレクション」)がありました。

これらの絵を見ると、画法がさまざまです。もちろん「ゴッホの絵」という個性は共通ですが、描き方がいろいろと "振れて" いる。笠間日動美術館のゴッホは、その中でも一つの "典型" と言えるものかと思います。

 ピカソ 

ピカソ「女の顔」.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
女の顔」(1901)
(笠間日動美術館)

Femme assise a la terrasse d'un cafe.jpg
パブロ・ピカソ
「カフェのテラスに座る女」
(ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館)
ピカソは1900年にパリに出て以降、いわゆる "青の時代"(1901-1904)にはいるまでに、パリの風俗に関係した絵を描いています。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1900。No.163「ピカソは天才か・続」で引用)は、その最初期の作品でした。

この『女の顔』という作品で直感的に連想するのが、オランダのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館が所蔵する『カフェのテラスに座る女』(1901。No.202「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」で引用)です。

2枚の絵とも、描かれた女性は羽かざりのある大きな帽子を着用し、豪華な衣装を着ています。ポスト・印象派風の筆致が使われ、何よりも様々な色彩が駆使されています。

しかし笠間日動美術館の絵は女性の肖像であり、ボイマンスの絵とはそこが違います。何となく意志の強そうな、人生経験豊かな女性という感じがして、そういった女性の内面に迫ろうとした絵かと思いました。

 エルンスト 

エルンスト「夢創りの達人」.jpg
マックス・エルンスト(1891-1976)
夢創りの達人」(1959)
(笠間日動美術館)

マックス・エルンストはドイツ出身ですが、1922年にパリに移り、戦後はフランスの市民権を得てパリで亡くなりました。シュルレアリズムの代表的な画家です。

この絵は青と無彩色の混沌とした世界の中に、奇っ怪な鳥のようなもの、魚のようなもの、その他、正体不明の怪物たちが重なり合っています。左上方の怪物はタツノオトシゴを連想してしまいました。「夢創りの達人」(英語題名は Illustrious Dream Maker)という題に従うと、これは夢の中の世界ということになります。達人とは画家自身のことでしょう。

ヒエロニムス・ボスの作品に怪物たちがうごめいている絵がありますが、それを連想してしました。ただ、ボスの絵はそれなりの秩序感があります。しかしこの絵は形が曖昧で、怪物の存在感も薄く、全く混沌としています。夢というより、画家が折に触れて抱く幻想のイメージを絵画にしたと感じました。



パンフレットの表紙に名前のある画家や上に引用した画家以外では、マルケ、ルドン、ルオー、モランディ、マッソン、サム・フランシスなどの作品があります。また彫刻では、ザツキン、ムーア、マリーニ、コールダー、デビュッフェなどの作品があります。


金山平三・佐竹徳 記念室


笠間日動美術館のパレット館の3階に「金山平三・佐竹徳 記念室」があります。金山 平三かなやまへいぞう(神戸出身。1883-1964)と佐竹 徳さたけとく(大阪出身。1897-1998)は、いずれも日本の風土や四季を描いた洋画家です。私は笠間日動美術館に行くまで佐竹 徳の名前は知りませんでした。佐竹は20代で金山 平三と出会って以来、金山が没するまでの40年以上に渡って交流を続けたそうです。金山 平三を敬愛した画家が佐竹 徳でした。

笠間日動美術館の金山 平三の絵は、山形県大石田(銀山温泉の入り口の町)の開業医だった金子 阿岐夫氏(2013年逝去)の旧コレクションです。金山 平三は大石田に画室をもっていました。一方、佐竹徳の絵は、長女の佐竹 美知子氏(2014年逝去)の旧コレクションです。美知子氏は父親の画業を残すため、地方に埋もれた作品の発見や、市場の佐竹作品の購入に努められました。

この「金子コレクション」と「佐竹コレクション」をもとに、2015年に開設されたのが「金山平三・佐竹徳 記念室」です。2人の画家ともに伝統的な油絵技法を使い、主として自然をリアリズムの筆致で描いています。また戸外にイーゼルを持ち出して制作する "戸外派" でした。以下、金山 平三の2作品、佐竹 徳の1作品を掲載します。

金山平三「雪深し」.jpg
金山 平三(1897-1998)
雪深し」(1945-56)
(笠間日動美術館)

金山 平三は自然の風景を得意とした画家ですが、なかでも雪景色が得意で「雪の金山」と言われた人です。この作品も画面の多くを占める雪の白さが印象的です。全体に落ち着いた、シックな色が使われていて、この配色はいかにも日本的だと思います。加えて、構図が完璧です。対角線を基本とし、交点の付近に垂直に立つ木立が配置されている。この構図の安定感が色彩表現とあいまって、雪景色の静かで凛として落ち着いた雰囲気を表現しています。

金山平三「甘鯛」.jpg
金山 平三
甘鯛」(1945/56)
(笠間日動美術館)

金山 平三にしてはめずらしいテーマの静物画です。説明によると、この絵は金山が北陸の漁村に滞在したとき、吹雪で戸外での制作ができず、漁村であがった甘鯛を描いたものとのことです。

こういった "単純な" 素材をリアリズムの筆致で描くのは画家の技量が出るところです。「横たわる魚」と「技量」ということで、マネの『魚とエビのある静物』(No.157「ノートン・サイモン美術館」)を思い出してしまいました。金山の甘鯛の "テカリ" や "ヌメリ" のある質感は、画家の観察眼と油絵技術の確かさを証明しています。

甘鯛は、福井・京都では "ぐじ" と呼ばれていて、京料理では高級食材です。皮は堅いが、身に独特の甘味があります。この作品は実際に見ると「いかにもおいしそう」と感じる絵ですが、それも金山 平三の技量のなせることでしょう。

佐竹徳「牛窓」.jpg
佐竹 徳(1897-1998)
牛窓」(1978)
(笠間日動美術館)

牛窓うしまどは岡山県の瀬戸内海沿岸の地名で(現、瀬戸内市)、佐竹 徳は1963年からこの地に画室を構えました。この絵はピサロへのオマージュとして描かれたようです。『牛窓』の展示のそばに、佐竹徳がピサロについて語った言葉がありました(読点と段落を増やしたところがあります)。


大原美術館に収められているピサロの《林檎採り》という作品を東京から大阪まで見に行きました。そして僕はしつこく、しがみつくように見ました。それから僕の絵が変わったのです。画面が点描で見事に埋め尽くされている絵ですが、それだけを真似してみようと思いました。

しかし幾ら絵具を重ねてみても、点描があんなに綺麗につかないのです。これはただごとではないと思いました ・・・・・・ それ以来、僕の頭の中からピサロが抜けません。

笠間日動美術館の
解説パネルより

ピサロ「林檎採り」.jpg
カミーユ・ピサロ
「林檎採り」
(大原美術館)
その、ピサロの『林檎採り』(大原美術館)が右の画像です。大原美術館は昭和初期(1930年)という時期に、倉敷紡績の大原 孫三郎が画家の児島 虎次郎をアドバイザとして設立した美術館です。その目的は「海外に行けない日本の画家に西洋絵画の実物を見せることによって、日本の美術の発展に寄与する」ことだったそうです。その設立者の "思い" は、少なくとも佐竹 徳には通じたようです。

佐竹 徳の『牛窓』ですが、遠景の瀬戸内海と島々(最遠景は小豆島 ?)をバックに、画面のほとんどが木で埋め尽くされています。おそらくオリーブの木でしょう。ただ、この絵の光は逆光です。正午の前後に南を見た風景だと思います。その逆光のもとでの木立の美しさを描くのがこの絵の主眼だと感じました。点描で描かれた、緑系の落ち着いた色彩が美しい作品です。


鴨居玲の部屋


笠間日動美術館のエントランスは企画展示館にありますが、ここの1階に、2015年に開設された「鴨居玲の部屋」があります。鴨居玲(1928-1985)の最初の個展は1968年、40歳のときですが、それは日動画廊で開かれました。美術館の解説パネルを引用します。


当館では、コレクションの柱のひとつして、自画像の画家と称される鴨居玲の作品の収集に力を注いでまいりました。これまで「勲章」や「サイコロ」、「私の村の酔っ払い」などの代表作を含め、39点の作品を収蔵しておりましたが、没後30年を迎え、その画業を永遠に顕彰するため作品、資料等を収集し「鴨居玲の部屋」を開設しました。

この部屋では、没後アトリエに残されていた未完の自画像やデッサン帳、キリストの「最後の晩餐」の構想のため晩年に手に入れた大型のテーブルをはじめ、大切に使っていた英国製のアンティーク家具、身の回りに置いていた愛用品など、初公開の品々を展示しています。作品完成に至るまでの過程や画家の心の軌跡をたどり、鴨居玲の魅力をあらためて感じていただければ幸いです。

2015年7月1日

鴨居 玲「勲章」.jpg
鴨居 玲(1928-1985)
勲章」(1985)
(笠間日動美術館)



笠間日動美術館で「特別室」が設けられているのは、今まで書いた金山 平三、佐竹 徳、鴨居 玲の3画家ですが、もちろん他の日本の洋画家の作品も数所蔵しています。主な画家の名前をあげると、高橋 由一、五姓田 義松、藤島 武二、岡田 三郎助、岸田 劉生、安井 曾太郎、梅原 龍三郎、熊谷 守一、村山 槐多、佐伯 祐三、萬 鉄五郎、林 武、東郷 青児、岡 鹿之助、中川 一政、向井 潤吉、宮本 三郎、などです。


パレットの展示


他の美術館にはない笠間日動美術館の特長は、パレット館の1階に画家から譲り受けたパレットが多数展示されていることです。多くは日本の画家ですが、中にはピカソもダリもあります。

こうして並べて見学すると、パレットは百人百様であることがわかります。形がさまざまであるのに加えて、山のように絵の具を盛り上げたものもあれば、薄い絵の具もある。画家自身が小さな絵を描いているパレットが多いのですが、その絵も画家の特長を表す個性的なものです。

もちろんパレットは鑑賞を目的としたものではありませんが、画家がどういう絵の具を使っていたかがわかるので、たとえば美術品の鑑定には貴重な資料となるそうです。我々は鑑定とは関係ありませんが、もし好きな画家のパレットを見つけたら、画家の絵を思い浮かべながらパレットを眺めてみるのも一興でしょう。



最初に書いたように、笠間日動美術館は「画商が開設した美術館」であり、他にはない独自性があります(パレットの展示がその典型)。実際に訪れてみるとそれが実感できるのでした。




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No.277 - 視覚心理学と絵画 [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」No.256「絵画の中の光と影」で、九州大学名誉教授の三浦佳世氏が書かれた「視覚心理学が明かす名画の秘密」(岩波書店 2018)と「絵画の中の光と影 十選」(日本経済新聞。2019年3月。10回連載のエッセイ)の "さわり" を紹介しました。今回はその「視覚心理学と絵画」というテーマの補足です。

2013年にアメリカの「Scientific American誌 特別版」として発行された、

Scientific American Mind 187 Illusions
マルティネス = コンデ(Susana Martinez-Conde)、マクニック(Stephen Macknik)著

という本があります。著者の2人はアメリカのバロー神経学研究所に所属する神経科学者で、本の日本語訳は、

脳が生み出すイルージョン ── 神経科学が解き明かす錯視の世界」(別冊日経サイエンス 198)

です(以下「本書」と記述)。本書は20のトピックごとの章に分かれていて、その中に合計187の錯視・錯覚・イルージョンが紹介されています。ここから絵画に関係したものの一部を紹介したいと思います。

なおタイトルに「視覚心理学」と書きましたが、もっと一般的には「知覚心理学」です。さらに医学・生理学からのアプローチでは「神経生理学」であり、広くは「神経科学」でしょう。どの用語でもいいと思うのですが、三浦佳世氏の著書からの継続で「視覚心理学」としました。


視覚は脳の情報処理


まず具体的な絵画に入る前に、人間の視覚の本質の話です。人間の視覚は「脳が行う情報処理の結果」だと言えるでしょう。本書にも、はじめの方に次のように書いてあります。


私たちが経験しているすべてが、実は自分の想像力が生み出した虚構である ── これは神経科学の事実だ。自分の感覚は正確で現実そのままだと感じられるものの、それらが外界の物理的実在を再現しているとは限らない。



脳はどのように現実感を生み出しているのか。それを理解するために神経科学者が使う最も重要な手段の一つが錯覚だ。画家も研究者も、昔から錯覚を利用して視覚系の奥深い働きに関する知見を得てきた。画家は科学者がニューロンの特性を研究するよりもずっと前に、平らなキャンバスが3次元であり絵筆で描かれたものが本物の静物であると脳を欺いて思い込ませる一連の技法を考案ずみだった。

マルティネス = コンデ、マクニック
「脳が生み出すイルージョン ── 神経科学が解き明かす錯視の世界」(別冊日経サイエンス198)

脳が生み出すイルージョン.jpg
脳が生み出すイルージョン(別冊日経サイエンス198)
我々はどうしても「眼」と「カメラ」のアナロジーで考えてしまいます。水晶体がレンズの役割をにない、網膜がフィルム(ないしは半導体センサー)に相当していて、そこに像が結ばれ、その像がすなわち視覚だと ・・・・・・。

しかしそのあとがあります。脳は網膜の像をもとに様々な処理を加えて視覚という認識ができあがる。カメラの画像でも、デジタル画像であればアプリでさまざまな加工が可能です。たとえば顔を若く見せたり、小顔にしたり、肌を綺麗にしたりといったことができる。人間の「眼球」は確かに「カメラ」かもしれないが、「視覚」は「カメラ + 画像加工アプリ」に相当するのです。

その、脳が網膜の画像をどのように "加工して" 視覚を生み出すのか、その結果が現実の物理的実体とずれているのが錯視です。以下に絵画に関係した錯視を2つあげます。


脳が生み出す輝度と色


 エーデルソン錯視 

まず、No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」でも取りあげた "エーデルソン錯視" です。この錯視において A のマス目と B のマス目は違った明るさ(=輝度)に見えますが、実は全く同じ明るさです。2つのマス目の間に無理矢理ブリッジを作ると、同じ明るさであることがわかります。

Adelson illusion.png
Adelson illusion_proof.png
エーデルソン錯視
マサチューセッツ工科大学の視覚研究者、エーデルソン(Edward H. Adelson)が作成した錯視。A と B は同じ輝度であるが、そうは絶対に見えない(上の図)。Wikipediaより。

なぜこの錯視が生まれるのでしょうか。まず、A は白っぽいマス目に囲まれていて、B は黒っぽいマス目に囲まれています。人間の脳は周囲が白いと対象をより黒く、周囲が黒いと対象をより白く認識するのです。

さらに大きな理由は B は「影の中にある」と認識できることです。人間の脳は、影の中にあるものについては本来の輝度を復元しようとして輝度を上乗せして認識するのです。

無理矢理ブリッジを作った図を見て同じ輝度だとわかったとしても、エーデルソン錯視を再び眺めると同じ輝度だとは絶対に感じられません。白と黒としか見えない。これは知識ではコントロールできない脳の視覚系の情報処理であり、極めて強固な情報処理だということがわかります。

 ロット・パーベス錯視 

エーデルソン錯視は物体の明るさ(輝度)に関するものですが、同様の錯視は色についても起こります。その例を次にあげます。名称にした「ロット・パーベス錯視」は一般的ではないし本書にも載っていませんが、発見者(錯視の作成者)の名前をとって便宜上そう呼ぶことにします。

ロット・パーベス錯視(説明).jpg
ロット・パーベス錯視
ロンドン大学のロット(R. Beau Lotto)とデューク大学のパーベス(Dale Purves)が作成した錯視。矢印で示した2つのタイルは全く同じ色である。本書より。

この図において矢印を付けた、上面の茶色に見える正方形と側面のオレンジ色に見える正方形は、実は全く同じ色です。しかし人間の眼には、同系統の色には違いないが全く異なった色に見えます。これもエーデルソン錯視と同じで、周りの色の状況と影の中かそうでないかの違いで起こります。



エーデルソン錯視とロット・パーベス錯視でわかることは、物体の輝度や色は周囲との関係によって知覚され、その場の状況や前後関係で変わって認識されるということです。それはちょうど、文章における単語の意味が文脈によって変わることに似ています。話言葉だと「話し方」によっても同じ単語の意味が変わる。

優秀な画家はこのような視覚における脳の働きを(意識的に、または無意識に)熟知していて、色の配置を決め、影の表現をしています。


脳が生み出す遠近感


脳は遠くにあるものと近くのものをどうやって認識しているのでしょうか。実際に眼で現実の風景を見る場合は両眼視ができるので、視差から距離の判別が可能です。では、2次元の絵画や写真の「奥行き」はどうやって感じるのか。

絵画で有名なのは遠近法(線遠近法)です。実世界で平行なもの(平行だと想定できるもの)が画面上で次第に狭まっていくと、狭まる方向が「遠い」「深い」と認識できます。

また、遠くのものは小さく、近くのものは大きく見えるという原理もあります。常識的に考えて同程度の大きさのものが2つあり、その大きさが違うと遠近感が出ます。さらに、遠くのものがぼやけて見え、近くのものがはっきり見えることで遠近感を感じることもあります。絵画では空気遠近法(大気遠近法)と呼ばれます。

もちろんそれ以前に、遠くの物体が近くの物体の陰になって見えないという「遮蔽」も、当然ですが遠近感を生み出します。

 斜塔の錯視 

以上のように脳はさまざまな方法で遠近感を知覚していますが、これらの中で、平行線による遠近法に関連してで起こる脳の錯覚が「斜塔の錯視」です。

ピサの斜塔.jpg
ピサの斜塔
(本書より)

この画像はイタリアの有名な「ピサの斜塔」で、下から斜塔を見上げて撮影したものです。従って画像の上の方がより遠くにあると認識されます。斜塔の2つの側面は実世界では平行ですが、写真では遠くになるにつれて狭く見える。これはストレートな遠近法による奥行きの知覚です。

しかしこの写真を2枚左右に並べると、右の写真の斜塔がより右に傾いて見えます。明らかに錯視です。なぜそうなるのかと言うと、左右の斜塔が画面上で平行だからです。斜塔の右側の線も左側の線も、同一の写真なのだから2枚で平行なのはあたりまえです。一方で脳は、写真の上の方が遠くにあると認識している。ということは、遠くになるほど2つ斜塔は広がっていないと画面上で平行にならない。このため、右の斜塔が左の斜塔よりも右の方に傾いて見えるわけです。

斜塔の錯視.jpg
斜塔の錯視
全く写真を2枚左右に並べると、右の写真の斜塔がより右に傾いて見える。本書より。

この錯視は「ピサの斜塔」の写真を用いて初めて発表されたので「斜塔の錯視」と呼ばれていますが、斜塔でなくても起こります。次の画像は線路の写真での例です。線路によって人間の眼は左上に向かって遠くになっていると強く認識します。そのため、左の写真の線路と右の写真の線路は斜めの角度が違って見えます。右の写真の線路の傾きがよりゆるく見える。

斜塔の錯視(線路).jpg
斜塔の錯視
(線路の写真での例)
2枚の写真の線路は同じ傾きであるが、そうだとは絶対に見えない。本書より。

この線路の写真は、地面上の2本の平行線が左右にありますが、平行線は上下にあっても斜塔の錯視が起こります。本書にはありませんが、次の図は No.112No.123 に画像を掲載した古代ローマの水道橋、ポン・デュ・ガール(フランス)です。遠近感がはっきりした写真を上下に並べると、水道橋の傾きが違って見えます。

ポン・デュ・ガール.jpg
ポン・デュ・ガール.jpg
斜塔の錯視
(ポン・デュ・ガールの例)

斜塔の錯視は「遠近感がない」と認識できる絵や写真では起こりません。次の絵は本書に掲げられているものですが、2人の女の子は同一の角度で傾いています。

斜塔の錯視が起こらない例.jpg
奥行き感がないイラスト画
女の子の「赤い服らしきもの」は左上に向かって狭まっているが、曲線が含まれていて平行線ではない。また、狭まった先にあるのは顔であり、これでは奥行きは感じない。従って2枚を並べても「斜塔の錯視」は起こらない。本書より。

斜塔の錯視でわかるのは、2次元平面(絵画、写真、イラストなど)の遠近感は、平行線による遠近法の効果が強烈であることです。実世界において平行と想定できる2つの線が次第に狭くなっていくと奥行きを強く感じる。もちろん画家は、これを最大限に活用して3次元空間を絵の中に閉じこめてきたわけです。それは消失点が1つの「1点透視」による遠近法でなくてもかまわない。No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」に "1点に収斂しない透視図法" の例として、フェルメール『ミルクを注ぐ女』とデ・キリコ『街の神秘と憂鬱』を引用しました。



以上、視覚は脳の情報処理であることを例とともにあげましたが、以降は本書に示されている「視覚と絵画」に関係したトピックを4つだけ紹介します。


輝度の秘密:モネ


下の画像はモネの『印象・日の出』(1872。パリのマルモッタン美術館蔵)です。ルアーブルの港の風景を描いたこの絵は、印象派の名前の由来になった絵で、誰もが知っている超有名絵画です。この絵画にはある秘密があります。


描かれているのはモネが窓から見たルアーブルの入り江だが、彼自身が後に述べているように、それは見たままの風景ではなく、タイトルにもあるように彼の "印象" だ。

実際、この作品は現実を正確には表していない。この絵の太陽は実物と同様に周囲の空よりもずっと明るく見えるが、それは錯覚だ。モネはこの太陽と空を、輝度(明るさ)は同じだが色合いの異なる絵の具を用いて表現している。

ハーバード大学の神経生物学者リビングストン(Margaret S. Livingstone)は、背景と同じ明るさで描かれているという輝度の同一性によって、この絵の太陽があたかも現れたり消えたりするように見え、生き物のような神秘性が生じているのだと提唱している。色合いを除いた白黒バージョン(下)を見ると、この太陽が背景の雲と物理的には同じ輝度であることがわかる。

「本書」

印象・日の出(グレイスケールとの対比).jpg
モネ「印象・日の出」
カラー画像とグレイスケール画像を対比させたもの。グレイスケール画像では太陽とその海面への反映が判別しづらくなる。本書より。

引用で「太陽があたかも現れたり消えたりするように見える」とあります。もちろん絵の全体を眺めているときは「現れたり消えたりする」ことはないでしょう。しかし、この絵の左下にあるモネのサインのあたりを中心視でじっと見つめると、周辺視している太陽が消えてしまうように感じないでしょうか。

一般的に言って「輝度が同じものは、やや判別しにくい」(本書)のです。この絵は「日の出」というタイトルどおり太陽がアクセントになっています。しかし "全体に漂うボーッとして混沌とした雰囲気" を作り出している一つの要因が「太陽と朝の空が同じ輝度」ということでしょう。


ピカソの色拡散


"色拡散" とは聞き慣れない言葉ですが、色が本来あるべき形をはみ出し、滲み出して、周りに拡散している状況を言っています。次のピカソの絵について、本書では次のように解説されています。


ピカソによるこの絵は、色を線の内側にきっちりととどめておく必要はないことを示している。たとえまばらな線で形がかろうじて描かれているだけでも、私たちの脳は正しい形にちゃんと色を割り当てる。

「本書」

Mother and Child.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
母と子」(1922)
(ボルチモア美術館)

この絵は「形」がいろいろと省略されていると同時に、子どもの足が典型ですが、形が単純化されています。しかし省略や単純化をしても、我々の視覚は本来あるべき線を補い、本来の形を想像して受け取ります。絵画ではよくあることです。

それに加えてこの絵の特徴は、形に付随しているはずの色が、形から滲み出し、はみ出し、あたりにボーッと広がっている(拡散している)ことです。こうなっても我々の視覚は全く違和感を感じません。解説にあるように、形にちゃんと色を割り当てて見ているのです。

これは水彩画によくある手法ですが、ピカソのこの絵は油絵です。油絵ではあるが、水彩のような淡い色調が使ってある。それが "色拡散" で違和感を感じない原因の一つになっているのでしょう。

しかしこの絵は単に「水彩の技法で描いた油絵」ではありません。"色拡散" で描くことによって「母が子を優しく包み込んでいる感じ」や「母と子が融合して一体化している感じ」がよく出ています。画家が表現したかった精神性と使った絵画手法が不可分にマッチしているところが、この作品の価値だと思います。


顔を認識する脳の働き


イタリア出身でウィーンで活躍したジュゼッペ・アルチンボルドは、果物、野菜、動植物などを寄せ集めた肖像画を描いたことで有名です。


イタリアの画家アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo, 1527~1593)によるこの静物画(左)は彼の好物であるミネストローネスープの材料を描いた作品だ。上下をひっくりかえすと(右)、一盛りの野菜は男の奇妙な顔となり、ボウルが山高帽となる。

この絵はいくつかの興味深い疑問を提起する。まず私たちはこれがら野菜の集まりにすぎないと知っているのに、なぜ顔を見て取るのだろうか? それは私たちの脳が、わずかなデータに基づいて顔の造作と表情を検知し、認識し、見分けるようにできているからだ。この能力は他人と関係を結ぶのに必須であり、雑なつくりの仮面から自動車のフロントエンドまで、あらゆるものに私たちが人の顔を表情を認める理由でもある。

次の疑問は、なぜ絵をさかさまにしたときに顔がはっきり見えるのかだ。その答えは、顔の認識を素早くやすやすと処理している脳のメカニズムが、上下正しい顔を処理するように最適化されているため、さかさまだと認識がずっと難しくなるからだ。

「本書」

庭師(対比).jpg
ジュゼッペ・アルチンボルド(1527~1593)
庭師
(クレモナ市立 アラ・ポンツォーネ美術館)

この絵は「ボウルの野菜、あるいは庭師」と呼ばれることもある。クレモナの美術館では「野菜」の見え方で壁に展示し、その下に鏡を置いて「庭師」が分かるようにしてある。

人間の眼は顔の認識に特に敏感で、顔ではないものにも顔を見つけようとします。よく "人面魚" などの「動物の模様が顔に見える」のが話題になったりします。いわゆる "心霊写真" もそうだし、月や火星のクレーターの写真が顔に見えることもある。「私たちの脳が、わずかなデータに基づいて顔の造作と表情を検知し、認識し、見分けるようにできている」と引用にありますが、まさにその通りで、それこそが人間の社会生活にとって必須の能力だからでしょう。


モナリザの微笑みの秘密


モナ・リザ.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)
モナ・リザ」(11503-1519頃)
(ルーブル美術館)

本書には "世界で一番有名な絵" である、ルーブル美術館の『モナ・リザ』についての解説もありました。モナ・リザの「謎の微笑」についての神経科学からの説明です。微笑んでいるのか、いないのか、そのはざまにあるような微妙な表情ですが、次のように解説してあります。


モナリザの魅惑的な微笑は、おそらく古今東西で最も有名な芸術の謎だ。ハーバード大学医学部の神経生物学者リビングストン(Margaret S. Livingstone)は、モナリザの微笑が現れたり消えたりして見えるのは、視野の中央と周辺の情報を知覚するのに脳が用いている処理が異なるためであることを示した。

モナリザの唇を直視すると、その微笑がとてもかすかであって、実質的にほとんど存在していないことに気づく。次に、口もとに注意を払いながら、彼女の目や髪を見てみよう。微笑は先ほどよりもはっきりと広がる。モナリザの顔を見つめる際の私たちの目の動きによって、微笑が浮かんだり消えたりするように知覚され、モナリザの微笑に命が生まれている。

視野の中心部と周辺部で知覚に及ぼす影響が異なるのは、視野中央部のニューロンが視野のごく狭い範囲について解像度の高い映像を見ているからだ。視野周辺部のニューロンはこれとは逆に、より広い範囲を見ているので解像度は低い。

「本書」

要約すると、

モナリザの口もとを中心視でみると微笑ほほえみはかすかだが、周辺視で見ると明らかに微笑んでいるように見える

ということでしょう。本書には参考のために次の図が提示してあります。これは周辺視を疑似する目的でモナ・リザを画像処理でぼかしたものです。右が視野の周辺での見え方で、左が視野の端の方での見え方に相当します。視野の端に行くにつれて、我々はより微笑んでいるように感じている。これが「謎の微笑」を生み出しているという分析でした。

視野の周辺で見たモナリザ.jpg
モナリザをぼかした画像
右の画像は視野の周辺で見たモナリザを模擬した画像。左の画像は視野の端で見たモナリザを模擬している。視野の周辺から端に行くにつれてモナリザはより微笑んでいるように見える。本書より。

モナリザが "世界で一番有名な絵" になった理由は、まさに「謎めいた表情」だと思います。その「謎」に人々は引き込まれる。この「謎」を作り出している絵画技法が、スフマートというのでしょうか、絵の具の薄い層を幾重ともなく塗り重ねて、全く境目がない色と輝度の変化を作り出したことでしょう。ダ・ヴィンチの天才が神経科学の面からも裏付けられたということだと思います。




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No.275 - 円山応挙:保津川図屏風 [アート]

円山応挙から近代京都画壇へ.jpg
No.199「円山応挙の朝顔」で、東京の根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』という展覧会(2016年11月3日~12月18日)に出展された応挙の作品を何点かとりあげました。今回はその続きで、2019年夏に開催された応挙作品を含む展覧会の話を書きます。東京藝術大学美術館で開催された「円山応挙から近代京都画壇へ(東京展)」(2019年8月3日~9月29日)です。

今回は展示されていた応挙作品の中からピンポイントで『保津川図屏風』(重要文化財。後期展示)をとりあげ、併せて順路の最後に展示してあった川合玉堂の作品のことを書きます。まず、この展覧会の概要です。


円山応挙から近代京都画壇へ


この展覧会の内容については、主催者が発行したパンフレット(上の画像)に次のように記されていました。


18世紀、様々な流派が百花繚乱のごとく咲き乱れる京都で、円山応挙は写生画で一世を風靡し円山派を確立しました。また、与謝蕪村に学び応挙にも師事した呉春によって四条派が興り、写生画に瀟洒な情趣を加味して新たな一派が誕生します。この二派は円山・四条派としてその後の京都の主流となり、近代に至るまで京都画壇に大きな影響を及ぼしました。

本展は、応挙、呉春を起点として、長沢芦雪、渡辺南岳、岸駒がんく岸竹堂きしちくどう幸野楳嶺こうのばいれい塩川文麟しおかわぶんりん、竹内栖鳳、山元春挙、上村松園ら近世から近代へと引き継がれた画家たちの系譜を一挙にたどります。また、自然、人物、動物といったテーマを設定することによって、その表現の特徴を丁寧に追います。

日本美術史のなかで重要な位置を占める円山・四条派の系譜が、いかに近代日本画に継承されたのか。これまでにない最大規模でその全貌に迫る、圧巻の展覧会です。

「円山応挙から近代京都画壇へ」
パンフレット 

要するに「応挙に始まる円山・四条派の系譜を近代日本画までたどる展覧会」です。主催者が自ら "圧巻の展覧会" と誇らしげに書くのも珍しいと思いますが、確かにその文句に偽りはありませんでした。よい企画だったと思います。



この展覧会には、兵庫県・香住にある大乗寺(応挙寺という俗称がある)の襖絵の一部が公開されていました。それは特注のガラス・ケースの中に入れられていて、部屋の一部のように展示してあり、見学者はかなり接近して見ることができました。

私は大乗寺に行ったことがありますが、その時は襖絵の収蔵庫はまだなく、寺の客室に本物の襖絵がありました。従って見学は各部屋の外の廊下から中を眺めるというスタイルだった。全部が重要文化財の襖絵なので、それはやむをえないと思います。

しかし襖絵や屏風は本来、部屋のしつらえや間仕切りであり、そこに描かれた絵画は、座った目線で近接して鑑賞したり、また少し離れて眺めたりと自由にできるものです。その意味では、今回の展示方法は接近して細部を観察することも、また離れて全体を鑑賞することも自由で、工夫した展示方法だと思いました。

大乗寺屏風絵の展示.jpg
大乗寺の襖絵の展示
「円山応挙から近代京都画壇へ」より

以降、まず円山応挙の『保津川図屏風』のことを書きます。これは応挙の絶筆です。私は初めて実物を見ました。


保津川


まず題名の「保津川」ですが、これは京都市の嵐山の渡月橋の下を流れている桂川のことです。この川は、京都市の北西の亀岡盆地(=亀岡市)を通って嵐山に流れ込むという経路をとりますが、習慣的に3つの名前で呼ばれています。大堰おおい川、保津川、桂川の3つです。亀岡盆地の部分は主に大堰川と呼ばれ(大井という地名がある。大井=大堰)、亀岡盆地の南部の保津地区あたりから保津川と呼ばれる。そして山あいを縫って流れて、嵐山付近に至ると桂川と呼ばれるようになり、そのまま淀川に合流します。桂川が行政上の正式名です。

保津と嵐山の間は、川の両岸に山が迫り、川幅は狭く、急流ないしは激流になり、巨岩がごろごろしている間を流れていきます。この山峡(=保津峡)を舟で下るのが「保津川下り」で、現在では外国人にも人気の観光スポットになっています。

保津川下り.jpg
保津川下り
途中に現れる主な奇岩には「カエル岩」や「びょうぶ岩」などの名がついている。この写真は「小鮎の滝」と呼ばれる有名なスポットで、保津川で唯一「滝」の名がつけられている。ただし、垂直近くに落ちる通常の意味での「滝」というよりは「急流のスロープ」である。ここで舟は2メートル近くを急降下する。
(site : souda-kyoto.jp)

ところで円山応挙(1733~1795。江戸中期から後期)は、現在の亀岡市曽我部そがべ穴太あなお地区の農家に生まれ、10代に京都に出て絵師になった人です。つまり彼にとって保津川は幼いときから知っていた川です。さきほども書いたように、桂川を保津川と呼ぶのは亀岡と京都の間の部分(保津川下りの部分)です。円山応挙が生涯最後のテーマに保津川を選んだのは、自身の出自(亀岡)と絵師としての成功(京都)の2つを見据えてのことに違いありません。


千總(ちそう)


千總.jpg
千總本店
(京都・烏丸三条)
『保津川図屏風』を保有しているのは、京友禅の老舗「株式会社 千總(ちそう)」で、この会社に代々受け継がれてきたものです。千總のホームページを見ると創業は1555年(=室町時代)とのことで、464年前ということになります。『保津川図屏風』という国宝級の名画を友禅の老舗が保有しているというところが京都の "奥深さ" でしょう。

ただし、千總ちそうは応挙が生まれる178年も前に創業されているわけで、応挙が京に出てきて絵師として大成し、1000人もの弟子を抱えるようになり、そして亡くなるまでの約50年のあいだ、この店は応挙を見守ってきたことになります。国宝級の応挙の名画を保有しているのも自然なことなのでしょう。なお、展覧会には千總が保有する別の応挙作品(『写生図巻』=重要文化財)も展示されていました。


八曲一双の屏風


保津川図屏風.jpg
円山応挙(1733~1795)
保津川図屏風」(1795)
千總蔵

保津川図屏風・右隻.jpg
「保津川図屏風」右隻

保津川図屏風・左隻.jpg
「保津川図屏風」左隻

『保津川図屏風』を初めて見てまず印象付けられたのは、その大きさです。八曲一双の屏風で、各隻はそれぞれ5メートルほどの幅があります。そもそも "八曲一双" というスタイルがあまり見ないというか、特殊なわけです。この特大サイズのワイドスクリーン画面に描かれた渓流風景の迫力が、この屏風の第一の特色です。

さらに渓流の描き方です。右隻の水は右上から現れ、左下に流れます。一方、左隻の水は左上から右下に流れている。水量は圧倒的に豊富です。右隻・左隻の間に立って屏風を眺めると、まるで川の中の岩の上に立って自分に迫ってくる流れを見ているような気持ちになります。

唐突に話が飛びますが、NHKはドローンを使って日本アルプスを撮影した番組を何回か放映しました。2019年には、黒部川の源流をさかのぼって撮影した映像を放送していました。渓流の流れの上にドローンを飛ばし、上流へと進んで撮った動画は迫力満点でした。『保津川図屏風』を見たとき、そのドローン映像を思い出しました。それほど臨場感に溢れた表現だと感じたのです。

この屏風は、右隻の右上と左隻の左上から水が流れ出してくる表現になっていて、特に右隻の右上は滝のように見えます。実際の(現代の)保津川に、このような規模で滝となって水が流れ込む場所は無いはずです。応挙の時代にはあったのかも知れませんが、これは岩の間を流れる急流の表現と考えてよいと思います(上に掲載した保津川下りの画像参照)。ただ、この "滝" によって、水が鑑賞者の方に押し寄せてくるような迫力が生まれています。絵画としての構図を熟慮した結果だと思いました。

その水流を取り巻いているのは、ごつごつした岩、松、そして "もや" です。これらがリアルに立体的に配置されている。さすがに日本の最初の写実画家と言われる応挙のことだけはあると思いました。


鈴木其一を連想させる


この『保津川図屏風』の実物を見て、直感的に鈴木其一の『夏秋渓流図屏風』(根津美術館。六曲一双)を連想しました。当然ですが、応挙(1733~1795)より其一(1795~1858)の方が後の時代の人で、其一の生年が応挙の没年と同じです。従って『夏秋渓流図屏風』を見て『保津川図屏風』を思い出すのが "正しい" のでしょうが、本物を初めて見たのは『保津川図屏風』があとだったので、そう感じたわけです。『夏秋渓流図屏風』が描かれたのは天保(1831-1845)の頃と言われているので『保津川図屏風』の約40年程度あとに描かれたことになります。

夏秋渓流図屏風.jpg
鈴木其一(1795~1858)
夏秋渓流図屏風
根津美術館蔵

夏秋渓流図屏風・右隻.jpg
「夏秋渓流図屏風」右隻

夏秋渓流図屏風・左隻.jpg
「夏秋渓流図屏風」左隻

『夏秋渓流図屏風』は、渓流の描き方が『保津川図屏風』とそっくりです。水は右上から左下へ(右隻)、左上から右下へ(左隻)と流れています。背景は森か林の中の感じです。実際にこのような風景に出会うことはあまりないと思いますが、たとえば奥入瀬渓流の散策道だと似た雰囲気の場所はあるかも知れません。屏風の真ん中に立って鑑賞すると、渓流が向こうからこちらに押し寄せてくるように見えます。この感じが『保津川図屏風』の印象とそっくりです。

もう一つ類似点があります。上に掲載した画像では分かりにくいのですが、『夏秋渓流図屏風』には蝉が描かれています(右隻の第3扇の木の上の方)。実は『保津川図屏風』にも生物が描かれています。これも画像では分かりにくいのですが、左隻の第6扇・第7扇に計5匹の鮎が渓流をさかのぼっています。水と岩と木と植物が描かれていると思って、よくよく見ると小動物が描かれているという、その "仕掛け" も似ているのです。

鈴木其一は『保津川図屏風』を見たのでしょうか。伝記によると、其一は天保4年(1833年)に京都を訪れていて、その際の日記もあるようです(Wikipediaによる)。真相はわかりませんが、其一は応挙に影響されて『夏秋渓流図屏風』を描いたと考える方が、より深い鑑賞ができると思いました。


『保津川図屏風』の特別な置き方


『保津川図屏風』の話に戻ります。この作品は以前、TV番組「美の巨人たち」(TV東京 2012.1.28)で取り上げられました。この中で "『保津川図屏風』の特別な置き方" が紹介されていました。番組では、千總の美術品倉庫から屏風を取り出し、その「特別な置き方」を実演していました。それが次の画像です。

保津川図屏風の特別な置き方(1).jpg
「保津川図屏風」の特別な置き方
「美の巨人たち」(2012.1.28)より

つまり、鑑賞者の右側に右隻を置き、左隻を左側に置くという並べ方です。番組では美術史家の安村敏信氏が次のように説明していました。


「左右、両脇に並べて見ると、見る人はその保津川の流れと一緒にずーっと下へくだっていく、そういう臨場感があるんです。」

安村敏信
板橋区立美術館・館長(当時)
TV東京「美の巨人たち」
(2012.1.28)

二つの屏風に挟まれて鑑賞する ・・・・・・。おそらくこれは、屏風とともに千總に代々伝わってきた置き方なのでしょう。次の画像は安村氏の言う "臨場感" を、番組でビジュアルに示したものです。

保津川図屏風の特別な置き方(2).jpg
「特別な置き方」による臨場感
「美の巨人たち」(2012.1.28)より

さらに番組では、折って室内に立てるという屏風の特性にマッチする描き方がしてあると説明していました。


平置きでは間延びしたように見える川の流れ。凹凸を付けて折られることで構図が締まり、リズムが生まれ、見違えるような流れに変わるのです。

TV東京「美の巨人たち」
(2012.1.28)

保津川図屏風の折ることを前提にした描き方(右隻).jpg
屏風を折った状態と平置きとの比較(右隻)
「美の巨人たち」(2012.1.28)より

上に書いたように、今回、東京藝術大学美術館で初めて『保津川図屏風』を見た最初の印象は、八曲一双というその大きさでした。高さはそれほどでもないが、横に長い。この仕立てには、応挙の意図が隠されているようです。つまり、折った状態で「平置きの六曲一双」程度になるようにし(上の画像がまさにそうです)、折り目の凹凸を意識して渓流と岩と松を描く。そして、それを左右に平行に置くことによって、大迫力の臨場感を演出する ・・・・・・・。これは3次元空間を強く意識したアートなのです。まさに世界のどこにもない、一双の屏風ならではの空間表現です。

「美の巨人たち」(2012.1.28)でも紹介されていましたが、応挙が10代で京の町に出てきて初めての仕事は「眼鏡めがね絵」の制作だったそうです。これは西洋渡来の「覗き眼鏡」を通して見る絵で、バリバリの遠近法の絵です。その遠近法が「覗き眼鏡」によって非常にリアルに感じられる。その応挙作の眼鏡絵の実物が、2016年の『円山応挙 -「写生」を超えて』展(根津美術館。No.199)に展示されていました。

円山応挙の絵師としての出発点に遠近法を使った「眼鏡絵」があり、最後の最後に『保津川図屏風』がある。応挙の作品にも多様な表現がありますが、一つの軸は「写実+3次元」である。そう思いました。


川合玉堂:鵜飼


「円山応挙から近代京都画壇へ(東京展)」の順路の最後に、この展覧会の会場となった東京藝術大学が所蔵する川合玉堂の『鵜飼』が展示されていました。

鵜飼.jpg
川合玉堂(1873-1957)
鵜飼」(1931)
(東京藝術大学所蔵)

岐阜出身の川合玉堂は鵜飼をテーマにした作品を多数描いていますが、その中でも(私が知っている範囲では)この東京芸大所蔵の作品が最高傑作でしょう。何よりも、画面の中央に大きな岩をドカッと配置し、その両側を流れる川に鵜飼舟を合計3隻(岩の向こうに2隻)配置した構図が素晴らしい。

鵜飼の絵というと、どうしても「鵜を用いて魚を取る」という人間の営みに焦点が当たります。特に、現代の我々が知っている鵜飼は長良川などで行われる "観光鵜飼" です。ゆったりとした川の流れの中で「鵜をあやつって漁をする人間の技」を見て感心するわけです。

しかしこの玉堂の絵は、そのようなイメージとは対極にあります。まず、川の中の大きな岩にぶつかる水の流れという自然がある。その自然に対峙して、魚を取ろうとする人間の行為がある。その二つが攻めぎ合っていて、画面は緊迫感に溢れています。

あたりまえですが、鵜飼は本来はショーではありません。漁撈の手法の一つです。川と魚という自然を相手に戦いを挑む人間の営みです。成功するときもあれば、不首尾に終わることもある。そのギリギリのところを描いている感じをこの絵から受けました。躍動する鵜の表現や、篝火に照らされた水の表現(手前の舟の舳先あたり)も含めて、素晴らしいと思いました。



この展覧会は「応挙に始まる円山・四条派が継承された系譜を近代日本画までたどる展覧会」です。しかし不思議だったのは、川合玉堂の名前が展覧会のパンフレットにも、館内の各種展示パネルにも全く無かったことです。ただ『鵜飼』が最後にポツリと展示されていた。これは何故でしょうか。川合玉堂は円山・四条派の系譜に位置づけて説明するのが当然と思えるし、最後に東京芸大所蔵の『鵜飼』という傑作をもってくるぐらいなのに ・・・・・・。

今回の展示会で、やはり玉堂は応挙と似ていると思ったことがあります。それは、展示されていた応挙の『写生図巻』(千總 所蔵)です。鳥や動物、草花、昆虫が、博物学的なリアルさで写生されています。これと、奥多摩の玉堂美術館に展示されている『写生簿』(玉堂が10代に描いた鳥や草花の写生帳)が非常に似ていると思ったのです。二人とも「徹底して見る」ことと「自在に筆をあやつる」ことが出来ています。もちろん、10代の玉堂が応挙の『写生図巻』を知っていたのではないと思いますが、絵に取り組む姿勢の根幹の部分に共通したものを感じました。

さらに今回の展示会を離れると、玉堂は画家になってから "応挙を踏まえた" と思われる作品を描いています。岐阜県美術館が所蔵する『藤』で、これは明らかに根津美術館にある応挙の『藤棚図屏風』(No.199に画像を掲載)に習っています。絡みあった蔓は一気に描かれ、藤の花はリアルに精緻に描かれている。応挙の屏風にはない雀を三羽描いたのは、屏風絵と違ってこの一幅だけで絵として完結させるためでしょう。

川合玉堂「藤」.jpg
川合玉堂
」(1929)
(岐阜県美術館)

さらに思い出す点をあげると、応挙には "塗り残し" で雪を表現した作品がありますが、玉堂にもあります。No.199「円山応挙の朝顔」で、雪を塗り残しで表現した二人の作品を引用しました(応挙の「雪中水禽図」と、玉堂の「吹雪」)。三井記念美術館の国宝『雪松図屏風』があまりに有名なため、この技法は応挙の専売特許と思ってしまいますが、玉堂も駆使しているのです。応挙との類似性を感じるところです。

展覧会のパンフレットに上村松園の名前があり、展示もありましたが、川合玉堂は松園とほぼ同時代を生きた人です。円山応挙に始まる日本美術の流れの中に位置づけて欲しかったと思いました。




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No.270 - 綴プロジェクトによる北斎の肉筆画 [アート]


高精度複製画による日本美術の展示会


No.85「洛中洛外図と群鶴図」で、2013年に京都府で開催された「文化財デジタル複製品展覧会 - 日本の美」を見学した話を書きました。この展覧会には、キヤノン株式会社が社会貢献活動として京都文化協会と共同で行っている「つづりプロジェクト」(正式名称:文化財未来継承プロジェクト)で作られた高精度複製画が展示されていました。その原画の多くが国宝・重要文化財です。No.85 のタイトルにしたのは展示作品の中から、狩野永徳の『上杉本・洛中洛外図屏風』(国宝)と、尾形光琳の『群鶴図屏風』でした。

綴プロジェクトの高精度複製画は、複製と言っても非常にレベルが高いものです。高精度のデジタルカメラで日本画を撮影し、高精細のインクジェット・プリンタで専用の和紙や絹本に印刷します。それだけではなく、金箔や金泥、雲母(きら)の部分は本物を使い、表装は実物そっくりに新たに作成します。もちろん、金箔・金泥・雲母・表装は、その道のプロフェッショナルの方がやるわけです。つまり単にデジタル撮影・印刷技術だけで作成しているのではありません。「キヤノンのデジタル技術 + 京都の伝統工芸」が綴プロジェクトです。その制作過程を、キヤノンのホームページの画像から掲載しておきます。

綴プロジェクト(1)入力.jpg
綴プロジェクトの制作過程(1)入力
デジタル1眼レフカメラによる多分割撮影で、高精度のデジタル画像を取得する。

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綴プロジェクトの制作過程(2)色合わせ
オリジナル作品とプリント出力の結果を合わせるためのカラー・マッチング処理を行う。

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綴プロジェクトの制作過程(3)出力
12色の顔料を用いた大型インクジェットプリンタで、専用の和紙や絹本に印刷する。

綴プロジェクト(4)金箔.jpg
綴プロジェクトの制作過程(4)金箔
京都の伝統工芸士が、金箔・金泥、雲母(きら)を施す。

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綴プロジェクトの制作過程(5)表装
京都の伝統工芸士の表具師表装を行い、最終的に複製を仕上げる。

京都での「日本の美」展覧会を見て、「高精度複製画展示会」には次のようなメリットがあることがよく分かりました。

◆接近して鑑賞できる

我々は普通、国宝・重文クラスの屏風や襖絵を、たとえば30cm程度まで近づいて鑑賞することはできません。そういう作品は、No.85「洛中洛外図と群鶴図」で感想を書いた『上杉本・洛中洛外図屏風』のようにガラスケースの中に展示されているのが通例です(所蔵している米沢市の上杉博物館の例)。

しかし屏風や襖絵は本来、家屋の中のしつらえであって、数メートル離れて見てもよいし、近くで正座して眺めてもよく、また30cm程度まで近づいて目を凝らして鑑賞してもよいわけです。尾形光琳の『群鶴図屏風』などは、実際に近づいて斜めの位置からみると異様な迫力でした。狩野永徳の『洛中洛外図屏風』は、六曲一双に約2500人が描かれています。30cm程度まで近づいて細部を見ることにこそ意義があるわけです。もちろん短時間で細部すべてを見ることはできませんが、そういう鑑賞方法でないとこの屏風の真価の一端にさえ触れられない。

しかし高精度複製画であれば鑑賞上の制約事項がほとんどなく、近接して鑑賞するのも自由です。これは大きなメリットです。また日本画は油絵と違って絵の具や墨を厚塗りすることがないので、高精細インクジェット・プリンタでの複製であっても違和感がないところが好都合です。

◆門外不出の作品を鑑賞できる

尾形光琳の『群鶴図屏風』を所蔵しているのはアメリカのワシントンD.C.にあるフリーア美術館ですが、この美術館は所蔵全作品が門外不出です。従って、たとえば日本で「尾形光琳大回顧展」をやったとしても、そこに『群鶴図屏風』が出展されることはありません。

それでは、ワシントンD.C.まで行ったら見られるのかというと、そんなこともありません。私は1度だけフリーア美術館を訪問したことがあるのですが『群鶴図屏風』は展示されていませんでした。今回のテーマである北斎の肉筆画もなかった。フリーア美術館は「比較的小規模な東洋美術の美術館」なので、日本美術を展示するスペースには限りがあります。

もちろん展示替えはあるのでしょうが、フリーア美術館を気楽に訪問できるのはワシントンD.C.やその周辺州に居住している人か、せいぜいアメリカ東海岸に住んでいる人でしょう。所蔵品リストを見ると、フリーア美術館は "日本美術の聖地" と言えるところなのですが、その所蔵品は日本美術ファンからみると実質的に "死蔵" されていることになります。

しかし高精度複製画なら、その "死蔵美術品" を鑑賞できることになります。

この「綴プロジェクト」で作成された複製画の展覧会が、最近、東京でありました。今回はその話です。


高精細複製画で綴るフリーア美術館の北斎展


すみだ北斎美術館.jpg
すみだ北斎美術館
2019年6月25日~8月25日、すみだ北斎美術館で、フリーア美術館が所蔵する北斎の肉筆画、13点を高精細複製画で再現した展示会が開催されました。高精細複製画による日本画の展覧会は私にとっては6年ぶりで、しかも北斎の肉筆画です。これは絶対に行くしかないと思って、7月30日からの後期の展示会に行ってきました。

その後期で展示されていた作品から4点を以下に紹介します。最初は『玉川六景図』と『富士田園景図』ですが、この2作品は北斎の六曲一双の屏風絵という、滅多に見ることができないものです。しかも高精度複製画ならではの展示方法でした。

次に北斎の最晩年(87歳)の作品、『雷神図』と『波濤図』をとりあげます。90歳近くにもなってこのような大迫力の絵を描けるというのは驚きでした。


『玉川六景図』(北斎74歳)


『玉川六景図』は、歌枕(和歌に繰り返し取り上げられたテーマ)となっている全国各地の6つの玉川(=六玉川。多摩川=玉川)を取り上げ、その風景と川にちなむ人物(川の風物を読んだ歌人、川原で働く人、旅人など)を描いた六曲一双の屏風です。

フリーア美術館が所蔵する原本では、右隻に風景、左隻に人物が配置されています。しかし明治28年(1895年)に発行された雑誌「日本美術画報」に掲載された写真では、風景とそれにちなむ人物の2扇をペアにし、右隻に3つ、左隻に3つのペアが配置されています。またその写真の表装は現在のものとは違っている。フリーア(=チャールズ・フリーア。1854-1919)が『玉川六景図』を購入したのは明治の末期です。つまり、フリーアが購入する前か後のどこかの時点で表装が改装され、配置が変更されたことになります。その理由は分かっていません。

なお、フリーア美術館は Web サイトで「右隻に風景、左隻に人物」となっている画像を公開していますが、「高精細複製画で綴るフリーア美術館の北斎展」の Web サイトやカタログでは「右隻に人物、左隻に風景」となっています。おそらく北斎展の情報が正しいのでしょうが、以下ではフリーア美術館の Web サイトどおりの画像にしておきます。

玉川六景図・右隻・フリーア.jpg
葛飾北斎(1760-1849)
「玉川六景図」(右隻)
(フリーア美術館)

玉川六景図・左隻・フリーア.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(左隻)
(フリーア美術館)

今回の展示会では『玉川六景図』がオリジナルの配置で展示されていました。ごくシンプルに考えて、風景とそれにちなむ人物をペアにした配置の方が屏風としての納得性が高いわけです。配置の変更は、おそらく風景と人物の関係性が理解できなかった誰かがやったと考えられます。綴プロジェクトによる『玉川六景図』の配置が次です。

玉川六景図・右隻・綴.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(右隻)
(綴プロジェクト)

玉川六景図・左隻・綴.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(左隻)
(綴プロジェクト)

このオリジナル配置による『玉川六景図』の展示は、高精度複製画による展示会のメリットを最大限に生かしたものと言えます。北斎の本物の屏風を所有している美術館がその配置を組み替えるなど、たとえそれが本来の配置であったとしても絶対に出来ないでしょう。複製画ならではの展示でした。



以下に、綴プロジェクト配置による『玉川六景図』の画像を、右から順に2扇ずつ掲載します。玉川の説明については、

朝日新聞デジタル
 「ことばマガジン・アーカイブ・観字紀行」
 「多摩」か「玉」か 六玉川へ (2011/05/27)

を参考にしました。なお、"玉" とは "美しい" という意味で(玉虫の玉)、玉川は「美しい川、清流」という意味になります。

 摂津の国 三島の玉川:右隻 第1・2扇 

玉川六景図・右隻 第1・2扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
摂津の国 三島の玉川
(右隻 第1・2扇:綴プロジェクト)

大阪府高槻市の川で、淀川の近くにあります。描かれている人物は、この川を詠んだ平安時代後期(11世紀)の歌人、相模です。

見わたせば 波のしがらみ かけてけり
卯の花咲ける 玉川の里
相模(後拾遺和歌集)

の歌のように、三島の玉川は卯の花の名所として知られていました。現在でも高槻市の花は卯の花です。北斎の風景にはその卯の花ときぬたが描かれています。砧は布を叩いて柔らかくする木製の道具なので、この付近は布の産地でもあったのでしょう。

 山城の国 井手の玉川 

玉川六景図・右隻 第3・4扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
山城の国 井手の玉川
(右隻 第3・4扇:綴プロジェクト)

京都府綴喜つづき郡井手町を流れる川で、京都府南部を貫流している木津川の支流です。山吹の名所として知られ、代表的な歌は、

駒とめて なほ水飼はん 山吹の
花の露添ふ 井手の玉川
藤原俊成(新古今和歌集)

です("水飼う" とは、馬などに水を飲ませる意味)。貴族の子供を背負った従者とともに山吹が描かれています。川の中には鯉も描かれています。

 紀伊の国 高野こうやの玉川 

玉川六景図・右隻 第5・6扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
紀伊の国 高野の玉川
(右隻 第5・6扇:綴プロジェクト)

和歌山県高野町の川で、高野山の奥院の弘法大師廟の近くの清流です。霊峰である柳山から湧き流れている神聖な川で、禊の場となっています。高野の玉川を詠んだ歌にちなんで、旅人や僧侶が玉川を眺める姿がよく描かれますが、北斎は樵と滝で表現しています。

忘れても 汲みやしつらん 旅人の
高野の奥の 玉川の水
弘法大師(風雅和歌集)

 近江の国 野路のじの玉川 

玉川六景図・左隻 第1・2扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
近江の国 野路の玉川
(左隻 第1・2扇:綴プロジェクト)

滋賀県草津市野路にあった川ですが現在はなく、かつて玉川があった旨を記した碑が整備されています。この川は「萩の玉川」とも言わる萩の名所でした。描かれた人物はこの川を詠んだ平安時代後期の歌人、源俊頼としよりです。

あすも来む 野路の玉川 萩こえて
色なる波に 月やどりけり
源俊頼(千載和歌集)

「萩の花の色が映って色づいたかに見える川面の波に、月が映っている」という光景を詠んだ歌です。北斎は「源俊頼・月・川面を覆う萩・玉川」の4つをストレートに描いています。

 武蔵の国 調布の玉川 

玉川六景図・左隻 第3・4扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
武蔵の国 調布の玉川
(左隻 第3・4扇:綴プロジェクト)

東京都調布市付近を流れる玉川(多摩川)です。古来、この付近は布の産地でした。そもそも調布とは、租税の一種である "調"("租庸調" の "調")として納める布の意味です。万葉集の東歌にも、

多摩川に さらす手作り さらさらに
なにぞこの児の ここだかなしき
作者不詳(万葉集)

という歌があります(古語で "かなしき" はいとおしいの意味)。この歌のように、調布付近の多摩川は布さらしの名所として知られていました。北斎の作品では、河原に布を並べて干している風景と、きぬたを打つ女性が描かれています。

 陸奥の国 野田の玉川 

玉川六景図・左隻 第5・6扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
陸奥の国 野田の玉川
(左隻 第5・6扇:綴プロジェクト)

宮城県多賀城市の玉川です。芭蕉の「奥の細道」にも出てきます。この川を詠んだ能因法師(11世紀)の歌にちなんで、旅の僧侶と千鳥が描かれています。

ゆふされば 潮風越して みちのくの
野田の玉川 ちどりなくなり
能因法師(新古今和歌集)


『富士田園景図』(北斎70歳頃)


富士田園景図・右隻.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻)
(フリーア美術館)

富士田園景図・左隻.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻)
(フリーア美術館)

富士山を望む田園の風景を描いた六曲一双の屏風です。描かれているのは庶民の暮しぶりで、茅葺かやぶきの屋根を葺き替える人やきぬたを打つ人、石臼を回す人(以上、右隻)、張り手で張った布に刷毛で染色する(ないしは糊付けする)人、獅子舞とそれに見入る人(左隻)などが描かれています。さらには、旅人や商人らしき人たちが道を行き交ってっています。富士山を望む街道沿いの田園風景といった風情です。

『富嶽三十六景』と同時期の作品ですが、すみだ北斎美術館の展示では、この絵とあわせて『富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二』が展示されていました。確かに『富士田園景図』の右隻と『駿州片倉茶園』は良く似ています。家があり、木があり、蛇行する道の向こうに富士山があり、その中で庶民や農民の生活が展開されるところがそっくりです。

富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二.jpg
葛飾 北斎
「富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二」

このように今回の展覧会では、綴プロジェクトによる北斎の肉筆画と併せて、構図やモチーフが類似している北斎の浮世絵版画や北斎漫画のカットが展示されていて、北斎の画業をわかりやすく示していました。

さらに、この『富士田園景図』だけは特別な展示がしてありました。つまり会場に台座を作り、その上に畳を敷き詰め、そこに『富士田園景図』を展示するというやりかたです。見学者は靴を脱ぎ、畳の上に座って『富士田園景図』を鑑賞します。これは「高精度複製画」ならではの展示方法で、本物をこのように展示するのは無理というものでしょう。この "畳の上展示" の様子を掲載したブログがあったので、それを以下に引用します。この画像は前期の『十二か月花鳥図』ですが、後期では『富士田園景図』がこの展示方法でした。

北斎の屏風絵・畳の上展示.jpg
「十二か月花鳥図」(前期)の展示。畳の上に座って鑑賞できるようになっている。「富士田園景図」(後期)も同じ展示であった。Tak(たけ)さんのブログ「青い日記帳」より画像を引用。

富士田園景図・右隻・部分1.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

富士田園景図・右隻・部分2.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

富士田園景図・右隻・部分3.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

富士田園景図・左隻・部分1.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)

富士田園景図・左隻・部分2.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)

富士田園景図・左隻・部分3.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)


雷神図(北斎 87歳)


雷神図(表装なし).jpg
葛飾北斎
「雷神図」
(フリーア美術館)

落款から、北斎が数え年88歳の1847年(弘化4年)、最晩年の作であることがわかります。背中の太鼓を打ち鳴らす雷神の頭上からは、2本の赤い閃光が走っています。たらし込みの技法で描かれた渦巻く暗雲には、墨の飛沫が散らしてあります。この飛沫は嵐の予兆の雨なのか、それとも雷神の神通力のようなものかも知れません。

雷神は古来より日本人になじみが深く、特に絵画では俵屋宗達の『風神雷神図屏風』にはじまる淋派の一連の作品が有名です。その宗達の雷神は、どちらかと言うと "ユーモラス" と表現してもいいほど親しみを感じさせるものです。

しかし北斎のこの作品は宗達とは違って、明らかに "畏怖の対象としての雷神" を描いています。雷は、落雷とそれに伴う火災によって人間界に災いをもたらします。その恐ろしいものが恐ろしい姿として描かれている。

キヤノンの綴プロジェクトのホームページによると、この絵はフリーアがアーネスト・フェノロサから購入しました。そのフェノロサはこの絵について

これまでに見た日本美術の『雷神』を題材とした作品の中で、最も優れた作である」

と言ったそうです。なるほど ・・・・・・。フェノロサにとって宗達的な雷神には違和感があったのかもしません。

この肉筆画は、題材、構図、筆の運び、技法のどれをとっても "覇気" がみなぎり、米寿を迎えた老画家の作とはとても思えない作品です。


波濤図(北斎 87歳)


波濤図.jpg
葛飾北斎
「波濤図」
(フリーア美術館)

雷神図と同じく、北斎 87歳の最晩年の作品です。この作品は

① 激しくうねって押し寄せる荒波
② 屹立している岸壁
③ 遙か先にある集落

の3つの要素で構成されています。①荒波と②岸壁は、互いに激しく攻めぎ合っている感じであり、遠景の集落はその "戦い" とは全く無関係な静けさです。岸壁が荒波から集落を守っているようにも見える。動と静の対比というところでしょうか。

荒波の鉤爪かぎづめ状の波頭の表現は、明らかに『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』と通じるものを感じます(No.156「世界で2番目に有名な絵」に画像を掲載)。また動と静の対比も『神奈川沖浪裏』と似ている。ただ肉筆画と版画の違いがあって、一番明らかなのは波の周りの水しぶきの表現です。『神奈川沖浪裏』の水しぶきは、あたりまえですが版木で印刷したものですが、『波濤図』では白い顔料の飛沫を散らした表現になっています。ちょうど『雷神図』の墨を散らしたところと似ています。

フリーアが美術館に寄贈した作品に浮世絵版画はありません。浮世絵版画は、絵師と彫師と摺師の分業で作成されるものであり、その点をフリーアが嫌ったものと言われます。肉筆画は画家の筆の勢いや運びをダイレクトに伝えます。その意味で、この展覧会は貴重でした。


北斎の肉筆画と綴プロジェクト


初めにも書いたようにフリーア美術館は「日本美術の聖地」ですが、所蔵品のすべてが門外不出です。また、フリーアがこの美術館に寄贈した作品は肉筆絵画と彫刻(仏像)で、江戸期日本美術の一大ジャンルである浮世絵版画はありません。その結果、ここの北斎はすべて肉筆画であり、「世界最大級の北斎肉筆画コレクション」なのです。まとめると、今回の美術展は、

① 門外不出の美術館の作品(=フリーア美術館)
② 北斎の肉筆画(=世界最大級のコレクション)
③ 肉筆画の高精度複製(=綴プロジェクト)

という3つの要素が交わるところで成立したものです。キヤノン株式会社は「綴プロジェクト」に技術と人材とお金をつぎ込んでいると思うのですが、「門外不出の北斎の肉筆画展」を開催できるまでに至ったキヤノン株式会社の社会貢献活動に感謝したいと思います。




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No.266 - ローザ・ボヌール [アート]

No.93「生物が主題の絵」の続きです。ここで言う "生物" とは、生きている動物、鳥、樹木、植物、魚、昆虫などの総称です。日本画では定番の絵の主題ですが、No.93 で取り上げたのは西欧絵画における静物画ならぬ "生物画" でした。

その中でフランスの画家、ローザ・ボヌールが描いた「馬の市場の絵」と「牛による耕作の絵」を引用しました。この2作品はいずれも19世紀フランスの日常風景や風俗を描いていますが、実際に見ると画家の第一の目的は馬と牛を描くことだと直感できる絵です。

Rosa Bonheur - The Horse Fair.jpg
ローザ・ボヌール(1822-1899)
馬市」(1853)
(244.5cm × 506.7cm)
メトロポリタン美術館

Rosa Bonheur - Labourage nivernais.jpg
ローザ・ボヌール
ニヴェルネー地方の耕作」(1849)
(133.0cm × 260.0cm)
オルセー美術館

日本人がニューヨークやパリに観光に行くとき、メトロポリタン美術館とオルセー美術館を訪れる方は多いのではないでしょうか。ローザ・ボヌールのこの2枚の絵は大きな絵なので、記憶に残っているかどうかは別にして、両美術館に行った多くの人が目にしていると思います(展示替えがないという前提ですが)。メトロポリタン美術館は巨大すぎて観光客が半日~1日程度で全部をまわるは不可能ですが、『馬市』は "人気コーナー" であるヨーロッパ近代絵画の展示室群の中にあり、しかも幅が5メートルという巨大な絵なので、多くの人が目にしているはずです。

多くの人が目にしているはずなのに話題になるのがほとんどないのがこの2作品だと思います。メトロポリタン美術館とオルセー美術館には有名アーティストの著名作品がキラ星のごとくあるので、それもやむを得ないのかもしれません。

しかしこの2作品は "生命力" をダイレクトに描いたと感じさせる点で非常に優れています。ちょうど伊藤若冲のにわとりの絵のようにです。対象となった "生物" は全く違いますが ・・・・・・。一般的に言って、日本画の動植物の傑作絵画を評価する人は多いのに(たとえば若冲)、西欧絵画の動物の絵を評価する人は少ないのではと思います。これは(現代の)西欧画壇の評価をそのまま日本に持ち込んでいるだけではないでしょうか。我々日本人としては、また別の見方があってもよいはずです。

今まで何回か文章を引用した中野京子さんは、2019年に出版された本でローザ・ボヌールの生涯とともに『馬市』の解説を書いていました。これを機会にその解説の一部を紹介したいと思います。以下の引用では漢数字を算用数字にしました。下線は原文にはありません。また、段落を増やしたところがあります。


馬市


Rosa Bonheur - The Horse Fair.jpg


遠くにサルペトリエール病院付属礼拝堂の丸屋根が見える。ここはオピタル大通りのパリ定期馬市。時は19世紀半ば、まだ自動車普及前とあって、馬のり市場は活気にあふれている。

幅 5メートルの大画面を、白、黒、茶、ぶちと、さまざまな毛色の馬たちがダイナミックに駆け抜けてゆく。サラブレッドではなく、ノルマンディ産ペルシュロン種。大きくたくましい胴体と太く頑丈な脚を餅、荷馬や軍馬として使われる。右端に集まった馬喰ばくろうたち(仲買人や鑑定人)へのお披露目ひろめだ。


サルペトリエール病院もオピタル通りも、パリ13区にあります。セーヌ側の南側、ノートルダム寺院からみると南東方向で、そこで19世紀の当時に定期的に開かれていた馬の市を描いた絵です。

Percheron.jpg
現代のペルシュロン種。「馬市」とは150年の時代差があり、その間に品種改良が進んでいるはずである。
(Wikipedia)
この絵の一つのポイントは、描かれている馬がペルシュロンであることでしょう。脚が太く短く、胴も太い。大きな個体では1トン程度、サラブレッドの倍の重さになると言います。非常に力が強く、馬車馬、荷馬、軍馬などに使われます。北海道の "ばんえい競馬" でも活躍するのがペルシュロンです。ばんえい競馬の動画を見たことのある人は多いと思いますが、それを想像すればペルシュロンのイメージが浮かぶでしょう。

馬を描いた西洋絵画はたくさんありますが、多くはサラブレッドを中心とする競走馬で、いかにも脚が早そうなスラッとした体型です。No.93「生物が主題の絵」に引用したスタッブスの絵(ロンドン・ナショナルギャラリー)やポッテルの絵(ルーブル美術館)の馬がそうでした。エドガー・ドガは多数の馬の絵を描いていますが、競馬場か郊外の野原での競馬風景がほとんどです。サラブレッドの "形" や "ポーズ" や "動き" の美しさがドガを引きつけたのでしょう。

もちろん "動物画家" のボヌールもそういうサラブレッド的な馬を多く描いています。しかしこの絵は違って、"ずんぐりむっくり" のペシュロンという「労働馬」を描いています。まずここが注目点です。


数頭の白馬の尻尾がひもでくるくる巻かれ、めすとわかる。尾骨びこつ(尻尾の半ばまで骨がある)先端部から毛を折り返して結び、さらにまた折り返して中を通して結ぶので、なにやら中途半端な編み上げヘアに見えなくもないが、もちろんお洒落のためではない。妊娠の有無うむを調べる際、肛門こうもんから腕を入れなけらばならず、長い尻尾を振り回されては困るから一時的に縛ってあるのだ。

体型や毛並み、目の表情や一瞬の動き、全てが透徹とうてつした観察力によって捉えられ、それぞれ個性豊かに描き分けられている。眉間みけんに白い菱形ひしがた模様の馬、落ち武者のざんばら髪のごときたてがみを持つ馬、軽やかに、また隣と歩調を合わせて走る馬。中央左よりの黒馬は、いきなり後ろ脚で立ち上がり、前脚で空中をって荒々しい野生を噴出させる。からわらの白馬まで、つられたのか目をき、長い首を左右に激しく振る。

土煙、掛け声、いななき、ひづめの音、鼻息、汗、におい ・・・・・・ なんという臨場感、なんという躍動美。単なる写実を越えた真実がここにはある

中野京子「同上」

白馬の尻尾が紐で巻かれている(=牝馬)理由が書かれていますが、それを含めてこの絵には、馬市の様子が極めてリアルに描かれています。しかし単にリアルというのではなく、上の引用の最後にあるように、まさに現場に立ち会っているという "臨場感" と、馬たちのヴィヴィッドな "躍動感" を表現しえたことが、この絵の最大のポイントでしょう。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part1.jpg
「馬市」の中央右の部分図。2頭の牝の白馬が尻尾を紐で巻かれている。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part2.jpg
中央左の部分図。黒馬が後ろ脚で立ち上がり、右側の白馬もそれにつられたのか立ち上がって眼を剥き、首を左右に振っている。


発表後たちまち国際的評価を得、画家に確固たる名声をもたらしたのも当然だろう。画面の真ん中、混沌こんとんを束ねるかのごとき静かなたたずまいで馬をぎよし、控えめながら誇らしげにこちらを見つめている青いスモック姿こそ、画家その人だと言われている。黒い帽子のひさしで目元は影になっているが、ふっくらした女らしい唇は微笑みを浮かべているようだ。

画家は女性だった。

迫力あるこの絵を初めて目にする人の、いったい何人がそれに気づくだろう ?

中野京子「同上」

ローザ・ボヌールは目立たないように男装をし、馬市に何度も通ってスケッチを繰り返してこの絵を完成させたと言われています。もちろん、この絵の中の自画像のように乗馬姿で馬の中に入ったわけではないでしょうが、画家が作品の中に自画像をそっと忍ばせるのはよくあることです。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part3.jpg
眼を剥く白馬の右に描かれた人物が画家本人だとされている。顔は影になっていて表情がわかりにくいが、口元は確かに微笑んでいるようにも見える。

そのボヌールの自画像は上半身しか描かれていません。そういう構図にしてあります。それには理由があると中野さんは書いています。


ボヌールは乗馬の際、女性座り(両足を片側に寄せる)ではなく、男と同じようにまたががった。 【中略】 ただし『馬市』では、はしたないと酷評されるのを避け、上半身しか見えないように巧みな配置で描いている。

中野京子「同上」

馬に跨がって乗るためにはズボンを着用しているはずです。なぜローザ・ボヌールが "女性座り" をせず、ズボンをはいて跨がったのか。それは彼女の生涯と関係しています。中野さんはその生涯を解説していました。


画家:ローザ・ボヌール



ローザ・ボヌールは1822年、南仏ボルドーで生まれた。2年後、この地にはスペインから78歳のゴヤが亡命してくる。巨匠と幼女が短期間であれ同じ空気を吸っていたことに時代を感じる。ナポレオンはすでにぼつしていたが、彼が強化した男尊女卑のさまざま規定はまだ生きていたし、芸術創造において女性は劣っているとの考えも根強かった。

ボヌールの父は絵の教師で、4人の子を持つ貧しい一家はやがてパリに引っ越す。父は娘の画才に気づいて手ほどきしたが(当時、女性は美術学校へ入れなかった)、それは単に自分の画塾を手伝わせるのが目的だった。母は死去し、父は再婚。自作が父より売れるようになったボヌールは自立を目指すも、家父長的権威をふりかざす父との戦いは熾烈しれつで、19歳で何とか半自立にこぎつけた。昼だけ自分のアトリエで仕事をし、夜は帰宅、売った絵のお金の大部分を父に渡す、というものだ。それでも彼女の喜びは大きかった。アトリエ食事の世話など家事いっさいは、以前から近所づきあいのあった二歳下のナタリーとその母がやってくれた。

意志が強く、早くから自分の道を見定めていたボヌールだが、その彼女でさえ、父親とたもとを分かつことができたのは 27歳、しかもそれは父がコレラで急死したからだった。ようやくにして実家を離れた彼女は、ナタリーとその母との三人暮らしを始める。ナタリーとはおそらく恋人関係だったのだろう。彼女が亡くなるまで、40年も仲良く暮らした(知り合ってからは通算半世紀にわたる)。

中野京子「同上」

「ボヌールの父は絵の教師」とありますが、19世紀以前の著名な女性の職業画家のほとんどは、父親が画家か、絵の先生です。No.118「マグダラのマリア」に作品の画像を掲載した17世紀イタリアの画家、アルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1652)がそうだし、18~19世紀フランスの有名な画家、エリザベート・ヴィジェ = ルブラン(1755-1842)も父親は画家でした。父親に絵の手ほどきを受けなければ、女性が絵画を修得できる機会などほとんど無かったということでしょう。そういえば、葛飾応為(1800-1866。No.256「絵画の中の光と影」に作品の画像を掲載)の父親も画家なのでした。


新たな家族を得たボヌールは、心置きなく好きなテーマに邁進まいしんできるようになった。動物だ。子どものころから大の動物好きだった彼女は、リス、ウサギ、アヒルなどを飼い、大型の家畜は本や博物館、牧場などで観察を続けていた。しかしリアルさを追求するには、動物の体の内部構造を知らねばならない。解剖学的知識を得たい。学校で学べないなら、実地で身につけよう。食肉処理場へ通おう。

ここから彼女の男装がはじまる。



短髪、青いスモック、ビロードのズボンが、ボヌールのお気に入りのスタイルとなる。小柄だったので若い頃は少年のように見えたらしい。荒くれ者の多かった職場の労働者らは、最初こそ彼女をからかったり嫌がらせをしたというが、次第にスケッチの見事さに感銘かんめいを受ける者も出てきて、仕事ははかどってゆく。

中野京子「同上」

「青いスモックがお気に入りの姿」というところが、「馬市」に描かれた青いスモックの人物を自画像とするゆえんでしょう。当時のボヌールをよく知る人たちは「馬市」を見て、ボルールだと直感したのではないでしょうか。

中野さんは "食肉処理場" と書いていますが、これはもちろん屠殺場のことです。レオナルド・ダ・ヴィンチは人体の解剖学的知識を得るために死体の解剖を行って数々のデッサンを残したわけですが、動物を描きたいボヌールは解剖学的知識を得るために屠殺場に通ったわけです。

ここで思うのは、ボヌールの代表作である『馬市』と『ニヴェルネー地方の耕作』(オルセー美術館。冒頭に引用)において、馬と牛がテーマになっていることです。その馬も牛も屠殺場で解剖学的知識を得られる動物です。牛肉を食べる文化はヒンドゥー教圏以外で世界的ですが、馬肉を食べない文化は多く、アメリカ、イギリス、ドイツなどはそうです。逆にヨーロッパで馬肉を食べる文化の中心がフランスです。フランスでは馬の解剖学的知識も屠殺場で得られると想像できます。

ひょっとしたら『馬市』の馬の描写の迫真性の理由の一つは、ボヌールが屠殺場で得た「馬の解剖学的知識」が絵の微妙なタッチに(それとは分からずに)生きているからではと想像しました。

このようなボヌールの画家としての活動には困難がありました。当時のフランス社会は男社会であり、女性が男装をするのさえ厳しい規制があったと、中野さんは以下のように書いています。


19世紀フランスの "男装規制"



当時のフランスでは、女性の男装(とりわけズボン)は禁じられていた。これは1800年に発布された警察令をもとに、1804年のナポレオン法典で明文化された法律で、違反者には罰金や禁固刑が科せられた。例外は健康上の理由などの特殊な場合のみで、警察に申請して「異性装許可証」を取得する必要があった。1850年代の取得女性はわずか12人というから、ハードルは高い。

現代人にとっては、何ゆえそこまでズボンにこだわるのかとあきれるが、フランス革命時に女性市民が政治に大きく関与したことを苦々にがにがしく思っていたのも一因をされる。ナポレオン法典には、妻は夫に絶対服従と明記されているばかりか、妻の収入は夫の財産であり、離婚も中絶も避妊も禁止なのだから、女がズボンを穿くことが男の権利簒奪さんだつ見做みなされて何の不思議があろう。

そうした逆風の中、ボヌールは比較的すんなり許可証をもらえた。サロン(官展)での入賞経験もある優れた画家が、職業上の必要にかられて男の職場たる危険な馬市などへ出入りする ─── やむなき理由と認められたのだ。ただし、劇場などの公共の場での男装は相変わらず不可、また許可証は半年という期限付きなので、死ぬまで幾度も幾度も更新し直さねばならなかった。

中野京子「同上」

ボヌールが生きたフランス社会はこのような状況だったわけです。あくまでフランスの事情であり、ドイツや英国では女性がズボンを着用するに許可証が必要などということはありません。そのフランス社会の中で彼女は、画家としての成功を勝ち取っていきます。ボヌール(1822年生)より1世代あとになると、女性画家が "輩出"してきます(数は少ないですが)。ベルト・モリゾ(1841年生)、メアリー・カサット(1844年生)、エヴァ・ゴンザレス(1849年生)などです。このあたりが転換期だったのでしょう。


『馬市』は完成までに1年半かかった。先述したように、この大作で彼女の名は国際的になった。特にイギリスとアメリカ(『馬市』は現在ニューヨークのメトロポリタン美術館蔵)で人気を博し、注文が殺到して富裕層の仲間入りもした。

38歳のとき、フォンテーヌブローの禁猟区域の一角にある城付きの土地を購入し、念願の動物王国を作っている。小さなものだと、犬、猫、イタチ、リス、ウミガメ、トカゲ、カワウソなど。大きなものだと、各種の馬、ヤク、サル、カモシカ、イノシシ、鹿、ヤギ、牛、羊など。野獣だとライオンまで。

次第にほとんどの時間を男装で過ごすようになり、酒を飲み、煙草を吸い、時に男の女装と間違えられ、ナタリーと同棲し続けたが、スキャンダルにはならなかった。動物画家であり、動物との特殊な暮らしも知れ渡っていたので、「男装は必要に迫られてのもの、奇矯ききょうな性癖(レズビアン)ではないい」と世間は納得していたようだ。それでも「フォンテーヌブローのディアナ」というあだ名は付けられた。ディアナは言わずと知れた月と狩猟の女神。処女神にして男嫌い。周りには女性しかはべらせなかったことで知られる。

中野京子「同上」

ローザ・ボヌールは43歳でレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを、72歳でレジオンドヌール勲章のオフィシエを授与されるという栄誉に輝きました。シュヴァリエのときは、ナポレオン3世妃のウジェニーがわざわざボヌールの城までやってきて手渡し、オフィシエでは時のカルノー大統領が城を訪れて叙勲したそうです。女性アーティストで最初にシュヴァリエを授与されたのがボヌールであり、女性で最初にレジオンドヌール勲章・オフィシエを授与されたのがボヌールでした。

ちなみに女性画家では、メアリー・カサットも1904年(60歳)でレジオンドヌール勲章・シュヴァリエを授与されています(No.86「ドガとメアリー・カサット」参照)。なお、レジオンドヌール勲章には等級があり、
・ 1等:グランクロワ(大十字)
・ 2等:グラントフィシエ(大将校)
・ 3等:コマンドール(司令官)
・ 4等:オフィシエ(将校)
・ 5等:シュヴァリエ(騎士)
です。フランス人だけでなく、政治、ビジネス、芸術などでフランスに関係の深い外国人にも授与されます。上の等級を得るためには下の等級を持っていることが必要ですが、外国人の場合はその限りではありません(たとえば板東玉三郎はコマンドール、北野武はオフィシエ)。

19世紀の当時のフランスは完全な男社会で、美術界もそうでした。画家の教師も購買者も批評家も、ほとんどが男性です。数少ない女性画家は常に過小評価される傾向にあり、そのような中で「ボヌールは例外中の例外」だったと中野さんは書いています。そして次のように結んでいます。


困難な時代にあって、生きたいように生き、十全に報われた77年の稀有けうな生涯だった。

中野京子「同上」


ニヴェルネー地方の耕作


No.93「生物が主題の絵」でも引用したローザ・ボヌールのもう一つの代表作、『ニヴェルネー地方の耕作』を見てみます。この絵はオルセー美術館にあり(確か1階)、『馬市』ほどではないが、それでも幅2.6メートルという大きな絵です。オルセーに行った人の多くが目にしている絵だと思います。

Rosa Bonheur - Labourage nivernais.jpg

この絵は一見「農村風景」を描いたように見えるかもしれません。19世紀フランス絵画には「都会の喧噪に疲れた近代人があこがれる、自然に囲まれた、のどかな農村の風景」的な絵がよくあります。しかしこの絵は違います。この絵の前に立つとすぐにわかるのは、これが "牛を描くことを目的にした絵" だということです。単に農村風景を描くのではなく、しかもミレー(1814-1875)のように農民に関心が行くのではなく、動物に焦点が当たっている。

この絵については、大阪府立大学の村田京子教授の研究報告「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」(2013)の中に評論があるので、それを引用したいと思います。この研究報告はネットに公開されています。


フランス政府から作品の注文を受けたローザ・ボヌールは、1848年9月にナタリー(引用注:ボヌールの身の回りの世話をしていたナタリー・ミカ)と一緒に、ニエーヴル地方の父の友人の彫刻家ジュスタン・マチューの屋敷に滞在し、絵画の制作にとりかかる。その完成作が翌年のサロンに出品した《ニヴェルネー地方の耕作》であった。

この作品は縦 1.34m、横 2.60m の大きなキャンヴァスに描かれた大作で、秋の青空の下、畑に初めて鍬を入れる作業の場面が描かれている。鎖でつながれたモルヴァン牛の群と、その後ろに続く牛の群が3人の牛飼いに導かれて、大地を力強く踏みしめている。この絵によって、優れた動物画家としてのボヌールの評価が確立する。

村田京子
「男装の動物画家ローザ・ボヌール:
その生涯と作品」
(大阪府立大学 学術情報リポジトリ 2013.3)

Charolais Bull.jpg
現代のシャロレー牛。主に肉牛である。ニエーヴル地方が原産地とされている。
(Wikipedia)
ローザ・ボヌールは26歳の時にフランス政府から絵の注文を受けたことになります。いかに若いときからフランス画壇に認められていたかのあかしです。しかも女性画家です。「ボヌールは例外中の例外」とした中野さんの言が思い出されます。

固有名詞について補足しますと、ニエーヴルはパリから見て南東方向、ブルゴーニュ地方の県で、ワイン産地で有名なコート・ドール県(ディジョンやボーヌがある県)の西側になります。ニヴェルネーはこのあたりの以前の地名です。ニエーヴルとコート・ドールの間にはモルヴァン山地(現在は自然公園になっている)が広がっています。

村田教授が書いている「モルヴァン牛」ですが、Googleで "モルヴァン牛" の完全一致検索をしても村田教授の論文が出てくるだけです。つまりネットに公開されている日本語ドキュメントでは村田教授しか使っていない。とすると、これは「モルヴァン地方の牛」という意味であり、品種としては「シャロレー牛」でしょう。シャロレー牛はブルゴーニュの名物料理、ブブ・ブルギニヨン(牛肉の赤ワイン煮込み)で有名なように現在は肉牛ですが、もともとは役牛・農耕牛でした(Wikipediaによる)。

描かれたのは6頭立てで引く鍬のようです。横並びの2頭の牛の角が2頭の間の棒と結ばれ、前後の棒が鎖で結ばれて最後尾の鍬を引っ張っています。後方にはさらに一団が続いている。牛は、喉の下に垂れた "肉垂にくすい" や "よだれ" までがリアルに描かれ、前へ前へと鍬を引っ張っていくエネルギーに満ちた姿です。


ローザ・ボヌールは、解剖学的な視点から動物の筋肉組織を詳細に描き、エネルギッシュな牛の動きを捉えたばかりか、畑の畝の光の反映など、一見、写真と見間違うほど正確に描き出している。実際、彼女は晩年にナダールの影響で写真に興味を持ち、自ら写真を撮っただけでなく、動物の写真を多く収集し、絵画制作の基礎資料とした。ただし彼女は、主観性を排し極度に写実的に描くハイパーリアリズムの先駆けというわけではない。動物には「魂」があると信じていたボヌールは、動物の眼を「魂の鏡」とみなして次のように述べている。

私が特別な関心をもって観察していたのは、彼ら(動物たち)の視線の表現であった。生きているあらゆる被造物にとって、眼は魂の鏡ではないだろうか。自らの考えを表現する他の手段を自然から与えられなかった存在の意思や感情が、まさにそこに明瞭に現れるのではないだろうか。

このようにローザ・ボヌールは、視線を通して動物の「魂」を絵筆の力で表そうとした。したがって、彼女の描く動物画のどれをとっても動物の眼が印象的である。《ニヴェルネー地方の耕作》においても、複数の牛の個性がそれぞれ、表情豊かな眼に凝縮されている。

村田京子「同上」

今までそういう視点で見たことはなかったのですが、「ローザ・ボヌールは視線を通して動物の魂を絵筆の力で表そうとした」と村田教授が書いているのは、なるほどと思います。『ニヴェルネー地方の耕作』で言うと、特に2列目の牛の眼です。

Rosa Bonheur - Ploughing in Nevers - Part 1.jpg
「ニヴェルネ地方の耕作」の部分図。2列目の2頭の牛。牛の間には前後を繋ぐ鎖が見える。

こちが側の牛の、大きくカッと見開いてこちらを見ているような眼が、ボヌールの言うように "動物の魂の表現" だとしたら、そこに込められたものは何でしょうか。労働の苦しみなのか、または解放への期待なのか。そういう風に擬人化するのは良くないのかもしれませんが、何か訴えているような眼です。その向こう側の牛はまた違う表情を見せています。



この "動物の眼" という視点で『馬市』を振り返ってみると、カンヴァスの中央付近、後ろ脚で高く立っている黒馬の右に白馬が描かれています。画家本人の左の「眼を剥いている」白馬です。この白馬の眼が注目ポイントで、これは一瞬の驚きの表情でしょう(上に引用した部分図を再掲)。

Rosa Bonheur - Horse Fair - Part3.jpg

絵を鑑賞する場合、どういう視点で見るかによって絵の印象が変わってくることがよくあります。ローザ・ボヌールが「私が特別な関心をもって観察していたのは、動物たちの視線の表現であった」と語ったということを知ると、「動物の眼の表現」という視点で絵を見るようになります。メトロポリタン美術館とオルセー美術館を再び訪問する機会があったら、その視点でボヌール作品を見たいと思います。

余談になりますが、動物の眼で思い出すのが、ベラスケスの『鹿の頭部』(プラド美術館所蔵。No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で引用)です。"野獣としての鹿" を描いたと感じさせる絵ですが、見る人がそう思うのは、"野生の魂を映し出すように描かれた眼" なのでしょう。


「ローザ・ボヌールの生涯」より


『ニヴェルネー地方の耕作』の解説は、大阪府立大学の村田京子教授の「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」(大阪府立大学 学術情報リポジトリ 2013.3。ネットで公開されている)から引用したものでした。

この研究報告ではボヌールの生涯が詳細に記述され、作品との関係が解説されています。特に父親(絵の教師)との確執や女性画家としての自立の過程が詳しく述べられています。ローザ・ボヌールの生涯を知るには最適のドキュメントでしょう。全体は40ページに渡るものですが、その中から数個の文章を補足として引用します。まず、1834年~36年あたり(ローザが12歳~14歳頃)の様子を記した文章です。


父親のレーモンは娘の絵に対する情熱に早くから気づいていたが、女性の仕事としてお針子に娘を仕立て上げようとした。しかし、娘の頑固な抵抗にあい、伝統的な女子教育を施すことを断念した彼は、ロザリー(引用注:ローザのこと)に絵を教えることになる。

当時、女性は正規の美術学校に入ることが許されておらず(女性が入学を許可されるのは1897年)、彼女は父の元で絵の修行をする傍ら、ルーヴル美術館に通いつめ、絵や彫刻の模写をする。その模写が売れてお金になると、父も娘の画才を認め、「マリー・アントワネットの肖像画家」として有名なエリザベト・ヴィジェ = ルブランを越えるよう娘を激励する。

村田京子「同上」

ローザ・ボヌールは10代半ばで、模写とはいえ絵が売れはじめたようです。早くから絵の才能を発揮したということです。また(フランスでは)女性が正規の美術学校に入学が許可されるのは1897年、というのもポイントです。

上の引用にロザリーと書かれているように、ローザは本名ではありません。彼女の本名はロザリー = マリー・ボヌールです。事実、1841年のサロンに初めて出品したときには(19歳)「ロザリー・ボヌール」を使っています。ところがその後「ローザ・ボヌール」を使うようになります。その経緯は以下のようです。


1841年と43年のサロンのカタログには「ロザリー・ボヌール」の名前で、42年のカタログでは「ロザリー・R・ボヌール」の名前で出ていたが、父親のレーモンは今後、自分の名前「レーモン」のサインをすうように彼女に命じる。ロザリーはそれを拒否し母親のソフィの記憶を永遠に留めるために(引用注:母親はロザリーが11歳のときに死去)、母が幼い彼女につけてくれた愛称「ローザ(Rosa)」をそれ以降使うことにする。

しかし、レーモンが娘にとった行動は稀な例ではない。ジャーメイン・グリア(引用注:オーストラリアの作家・ジャーナリスト。1939~)が指摘しているように、19世紀末までは女性が絵を学ぶ正規の美術学校がなかったため、職業画家になった女性のうちほとんどが、父親や夫が画家という家系に属していた。

こうした画家の家系で息子が自分より優れた才能を見せた時には、ラファエロの父親のように自分よりレベルの高い師匠につくよう勧めることはあっても、娘の場合はそうではなかった。父親は娘に彼のスタイルが描くこと、すなわち彼の絵を模倣することを強制し、その絵に彼の名前でサインをさせた。

その顕著な例が、ティントレットの娘マリエッタである。彼女は父に認められるほど優れた才能を発揮したが、結局、ティントレットの共同制作者として彼の絵と区別できない絵しか描いていない。そのため、現在ティントレットの絵とされる作品の中に彼女の絵、そして彼女の存在自体が埋もれてしまった。

したがって、父の命令を拒否したローザ・ボヌールの方が、むしろ例外であった。また、先にみたように、彼女が父のアトリエから独立して自分のアトリエを持ち、ミカ夫人と娘のナタリーが家事を引き受けることで、絵の制作に集中できたのも「才能ある未婚の女性年鑑でほとんど類のない」環境に恵まれたと言える。

村田京子「同上」

1836年(ローザ、14歳)のころ、カバーやケースの製造業者、ルイ = フレデリック・ミカが娘の肖像をローザの父のレーモンに依頼したのが縁で、ボヌール家とミカ家は家族ぐるみの付き合いをすることになります。1841年(ローザ、19歳)ごろになると、ローザの絵は良く売れて、ボヌール一家の生活費のほとんどをローザが賄うまでになっていました。ローザは父の大反対を押し切って、自宅から離れた専用のアトリエを持ちます。絵で稼いだお金は父に渡すという条件です。この専用アトリエを手配したのがミカ夫妻で、ミカ夫人と娘のナタリーが家事を引き受けることになったわけです。

この1841年にローザは初めてサロンに自作を出品しますが、この頃について次のような記述があります。


当時を振り返って彼女は次のように言っている。「私は私の小さなアトリエで、筋肉解剖学、骨学、生理学という3つの観点からあらゆる種類の動物を次々に研究した。それは、後に芸術への愛に駆られて屠殺場をたびたび訪れるようになった時に行った、解剖の予行演習となった」。

村田京子「同上」

上の引用のローザの言葉は、ローザの最晩年を共にしたアメリカの肖像画家、アンナ・クランプクが書いた伝記からとられたものです。中野京子さんが『馬市』を紹介した文章の中に、ローザは解剖学的知識を得るため食肉処理場(=屠殺場)へ通ったとありましたが、単に見学するだけでなく屠殺場で解剖までしたことになります。

調べてみると、当時のパリには幾つかの屠殺場がありました。もともと無人地区にあった屠殺場も人口集中により街中になったわけです。ローザが通ったのはミロメニル通り(現在ではパリのど真ん中)の "ルール屠殺場" だそうです。男ばかりの職場である屠殺場に入り、見学・スケッチをするだけでなく、解剖までする。動物のありのままを描き尽くそうとするボヌールの執念を感じるエピソードです。



最後に、ローザ・ボヌールの肖像画を引用しておきます。これは、ボヌールの伝記を書いたアメリカの肖像画家、アンナ・クランプクの作品で、ボヌールの最晩年、76歳の時です。めずらしくスカート姿のボヌールが描かれていますが、胸にレジオンドヌール勲章・オフィシエの徽章をつけているので、これは "女性として正装をした姿" ということでしょう。

Anna Klumpke - Portrait of Rosa Bonheur.jpg
アンナ・クランプク(1856-1942)
ローザ・ボヌールの肖像」(1898)
(メトロポリタン美術館)

アメリカの肖像画家、アンナ・クランプクは、ボヌールに手紙を出して肖像画を描く了承をとりつける。そして1898年にボヌールの住居であるフォンテーヌブローの近くのビー城(Chateau de By)に滞在し、この肖像画を描いた。この制作の過程で2人は大変親密になった。ボヌールはクランプクに「死ぬまで一緒に暮らして欲しい」と頼み、クランプクはそれを了承して生活を共にする。ボヌールはクランプクに自らの生涯を語り、クランプクがメモをする日々が続いた。

1899年、ボヌールはパリの公証人役場でクランプクを遺産の包括受遺者に指定し、ビー城をクランプクに生前贈与する。ボヌールの意図はビー城と作品の保存であった。ボヌールは元気に制作を続けていたが、その年の5月に肺炎で急死する。最後はクランプクの腕に抱かれての死去であった(享年 77歳)。

ボヌールの死後、クランプクはボヌールの親族との争いも含めて、作品の保存や散逸防止に尽力した。また、1908年にはボヌールの伝記を完成させた。さらにボヌールの生誕100年にあたる1922年には回顧展を開催した。これらを含んで、クランプクがボヌールを記念するために行った数々の功績に対し、フランス政府は1924年にレジオンドヌール勲章・シュヴァリエを授与し、さらに1936年にはレジオンドヌール勲章・オフィシエに昇格させた。

クランプクは1942年に本国のアメリカで死去したが、その相続人はビー城とボヌールのアトリエを保存し、1982年からはローザ・ボヌール美術館として一般公開されている。

── 村田京子「男装の動物画家ローザ・ボヌール:その生涯と作品」より要約




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No.264 - ベラスケス:アラクネの寓話 [アート]

前回の No.263「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」で、この美術館の至宝、ティツィアーノ作『エウロペの略奪』について中野京子さんが次のように書いていることを紹介しました。


本作は、後代の著名な王侯御用達画家ふたりに取り上げられた。ひとりはルーベンスで、外交官としてスペインを訪れた機会にこれを丁寧に模写している。ティツィアーノに心酔していただけであり、自らの筆致を極力抑えて写しに徹した、すばらしい作品に仕上がった。

もうひとつはベラスケス。フェリペ2世の孫にあたるフェリペ4世の宮廷画家だった彼は、『たち』の中で、アラクネが織り上げたタペストリーの主題として、このエウロペをいわば画中画の形で描き出した。


ルーベンスによる『エウロパの略奪』の模写は No.263 に引用したので、今回はもう一つの『織り女たち』を取り上げます。前回と同じく中野京子さんの解説から始めます。


ベラスケス『織り女たち』


The Spinners or the Fable of Arachne.jpg
ディエゴ・ベラスケス
アラクネの寓話織り女たち)」(1657頃)
(220cm × 289cm)
プラド美術館


本作は、通称『たち』、正式には『マドリード、サンタ・イザベル綴織つづれおり工場』と呼ばれてきた。王立タペストリー工場内部を描いたもので、前景にいるのは糸紡いとつむぎする女性たち、後景は買い物にやってきた高貴な女性たち、一番奥の壁に飾られているのは、売り物のタペストリーとされたのだ。いつごろからそれが定説になったかは不明だが、たぶん一時売却されたこと(1700年の王宮財産目録には記載されていない)、王宮を転々としたことなどが理由だろう。

いずれにせよ、プラド美術館蔵となった19世紀前半からは、工場で働く織り女たちという解釈に誰も異議をはさまず、ベラスケスの筆さばきの超絶技巧ばかりがたたえられた。光の実在感、糸車のスピード感などが、とりわけ印象派の画家たちを熱狂させた(何が描かれているかわからなくとも、どのように描かれているかだけで感動できる時代の幕開けのような気が ・・・・・・)。

こうしてベラスケスの死後 3世紀ちかくたつ、1948年、ひとりのスペイン人研究者が、1664年の財産目録に『アラクネの訓話』という項目を見つけた。見つけただけでなく、それをこの作品と結びつけた。そこから『織り女たち』は魅力的な変貌へんぼうげる。


「ベラスケスの筆さばきの超絶技巧」とありますが、糸を巻き取っている右手前の女性の "左手指先の表現" も付け加えていいでしょう。糸車と同じく "動体描写" というのでしょうか、あえてぼやっとしか描かれていません。

超絶技巧はその通りですが、よく見るとこの絵は変です。後景の "舞台" のようなところに鉄兜をかぶった女性がいます。王立タペストリー工場ならこんな鉄兜の女性はいないはずです。しかも女性は右手を振り上げている。何のポーズでしょうか。またその女性の手前にはチェロのような楽器が描かれ、さらにその手前の左、"舞台" の下あたりには梯子はしごが立て掛けてある。チェロも梯子もタペストリー工場には相応ふさわしくないアイテムです。

スペインの研究者の発見の通り、実はこの絵はギリシャ神話における「女神・パラスとアラクネの物語」を描いているのです。その物語を以下に引用します。まず、パラスのことからです。


女神・パラス


女神・パラスと書きましたが、パラスは女神・アテネのことで、ローマ神話ではミネルヴァです。そのアテネは、知恵・学問・工芸・医療の神であると同時に、戦いの神です。なぜ "学芸の神" が "戦いの神" なのかが分かりにくいのですが、女神・アテネはアテナイを含む数都市のまもり神です。都市を護るためには戦わなければならない、そういう理屈です。そのアテナの別名がパラスで、パラス・アテナという形で "添え名" としても使われます。その由来の一説を中野京子さんが別の本に書いていました。


パラスは女性名。一説によれば、槍の師匠パラスと闘技練習中、アテナは誤って彼女を殺してしまい、それをやんでパラスをえ名にするようになったと言う。つまりアテナと聞けば知恵や文化を含むイメージだが、パラス・アテナだと戦いに特化した印象を与える。


グスタフ・クリムトが武具で身を固めた迫力満点の女神の姿を描いていますが、その絵の題名は『パラス・アテナ』です。


オウィディウス「変身物語」


そこで「パラスとアラクネの物語」です。古代ローマの詩人、オウィディウス(B.C.43 - A.D.18)「変身物語」はギリシャ神話の "原典" の一つですが、アラクネの物語が語られています。その話の始めの方に次のような記述があります。以下の「女神」とはもちろんパラス = ミネルヴァです。原文に下線はありません。


女神は、リュディアの女アラクネを破滅におとしいれることを考えていたのだ。アラクネが、かねがね、はた織り上手じょうずのほまれにかけては自分に一歩も譲ろうとはしないのを耳にしていたからだ。



ひとは、彼女に技術をさずけたのはミネルウァ女神だとさとるだろう。けれども、アラクネ自身はそれを否定し、かくもりっぱな師匠の名にいきどおりをおぼえて、こういう。「女神さまも、わたしとわざをきそわれたらよいのだ、わたしが負けたら、わたしをお好きなようになさるがいい!」


オウィディウス「変身物語」.jpg
オウィディウスは古代ローマ人なので、神の名前はローマ式です。またこの岩波文庫はラテン語からの訳で、固有名詞はラテン語表記になっています。ミネルウァ = ミネルヴァ(英語)です。

話を続けますと、パラスは老婆に変身してアラクネのもとを訪れます。そして「年の功ということもある。わたしの忠告を無にしてはならないよ。世にはた織りの高名を求めるのもよい。が、女神には一歩を譲らなければ!」と忠告します。パラスはアラクネを破滅させるつもりだったと物語の最初にあるのですが、この忠告は "改心の最後のチャンス" を与えたということでしょう。しかしアラクネは聞き入れません。


アラクネは、彼女をにらみすえると、手にしていた糸を放し、振りあげかけた手をとどめかねながら、怒りの色を顔にあらわにして、こう女神に答えた。「よくもいらしたのね。そんなにももうろく●●●●して、老いさらばえていながら! 長生きしすぎるのも、どうかと思うわ。嫁か、娘さんはいないの? そんなお説教は、その人たちにするがいいわ! わたしに忠告ですってね。それなら、いくらでも自分で出来るの。お説教が役に立ったなんて、思わないで! わたしの考えには、変わりがないのだから。でも、女神さまは、どうしてご自分で来ないの? わざ比べを避けるのは、なぜなの?」

そこで女神は、「もうおいでになっているのだよ!」といいながら、老婆の姿をぬぎ捨てて、女神の姿を現した。

オウィディウス「変身物語」

こうしてパラスとアラクネの、運命の "機織り競技" が開始されます。パラスが織った柄は、ユピテル(=ゼウス)を中心にアクロポリスの丘にいる12の神々であり、パラスがネプトゥーヌス(= ポセイドン)との争いに勝って、自分の名前が都市名(つまり、アテナイ)になったシーンを描きました。そして四隅には念を押すように、神に反抗して罰をうけた者たちの姿を織り込みました。それに対してアラクネは何を織ったのか。「変身物語」の記述が以下です。


いっぽう、アラクネが織っているのは、まず、雄牛姿のユピテルにあざむかれたエウロペの図だ。雄牛も、海も、まるでほんものとおもえるぐらいだ。エウロペ自身は、うしろに残した陸地を見やりながら、仲間たちに呼びかけている風情ふぜいだ。寄せる波に濡れないように、おずおずと足を引っこめている。

つぎに、アステリエ。彼女は、身をくねらせたわしにつかまえられている。それから、レダ。これは、白鳥の翼のしたに臥している。

アラクネは、織り進む。ユピテルが、こんどは獣神サテユロスに身をやつして、美しいアンティオペアに双生児を身ごもらせたこと、アンピトリオンになりすまして、その妻アルクメネを欺いたこと、黄金の雨となってダナエを、火炎となってアイギナを、羊飼いとなってムネモシュネを、まだらの蛇となってプロセルピナをだましたこと ─── そんな場面が加えられていく。

オウィディウス「変身物語」

まるで "ゼウスの悪行一覧" のような織り柄で、神(ゼウス)がいかに人間を騙したかを織り込んでいます。しかし「変身物語」の記述はこれだけでは終わりません。さらに、ネプトゥーヌス(= ポセイドン)、アポロン、バッコス、サトゥルヌスの "不良行為" が織り込まれたとあります。この織り柄にパラス(ミネルウァ女神)は怒ります。


ミネルウァ女神も、「悪意」の神も、この作品に難癖なんくせをつけることはできなかったろう。男まさりの、金髪の女神には、その出来ばえがしゃくにさわった。神々の非行を描いたこの織物を引きちぎると、手にしていたキュトロス産の黄楊つげで、三度、四度と、アラクネのひたいを打った。かわいそうなアラクネは、こらえきれないで、ひと思いに首をくくった。

哀れを催したミネルウァは、ぶらさがっている彼女を抱き上げて、こういった。「腹黒い娘さん、生きてだけはおいで! でも、ぶらさがったままでいるのよ! 先のことも、安心してはならないね。おまえさんの一族には、末ながく、同じ懲罰を残しておくのだから」

オウィディウス「変身物語」

パラスはアラクネに魔法の草の汁をふりかけ、蜘蛛の姿に変えます。そこで話は終わります。

補足しますと、上の引用で "" となっているのは、"" という漢字をあてることが多く、織機で横糸を交互に通すための木製の道具です。左右同型の舟形をしていて、中央にある横棒に横糸を結びつけて使います。

これは不思議な物語です。神と争っても人間に勝ち目はなく破滅が待っているだけなのに、アラクネはパラスへの挑発を繰り返します。

◆ 地元のリュディアでアラクネは、自分の機織りの腕はパラスより上で、パラスと勝負したいと言いふらした。

◆ 訪れた老婆に蔑むような言葉を投げつけ、なぜパラスは自分と直接勝負しないのかと挑発した。

◆ パラスとの機織り競争になったとき、ゼウスを中心とする "神々の非行" の柄を織り込んだ。

などです。パラスは老婆に変身してアラクネをさとすことで改心の "最後のチャンス" を与えるわけですが、アラクネは完全に無視してしまいます。こうなると、その後のストーリーで明らかなように、"機織り競技" で勝とうが負けようがアラクネには破滅が待っているだけです。

しかし考えてみると、これは「動物起源譚」の一種なのですね。アラクネは "蜘蛛の擬人化" です。古代の人は蜘蛛が精緻な巣を作ることを観察して驚いたのでしょう。何も古代人だけではありません。現代の我々が見ても、蜘蛛が巣を作る過程とそれが獲物を捕らえる "しかけ" を知るとビックリです。古代ギリシャ人がそんな蜘蛛の起源として "学芸の神をも凌駕する機織りの名手" を仮定する ・・・・・・。いかにもありうる起源譚だと思います。それが「不思議な物語」になったのだと想定できます。

もちろん、起源譚という以前に「寓話」として考えると「傲慢は身の破滅を招く」というのが、誰もが考えるシンプルな教訓でしょう。これに類するギリシャ神話は、ほかにも「アポロンに音楽競技を挑んだマルシュアス」がありました。「傲慢は身の破滅」的な話はイソップ寓話にもあるし、日本の民話にもあります。世界共通の寓話のパターンでしょう。・・・・・・ とは言うものの、アラクネの物語をよく読むと次の2点が分かります。

◆ 結局、機織りの技量はパラスよりアラクネの方が上で、それがさらにパラスの怒りをかったと読み取れる。

◆ アラクネは自ら死を選んだ。

の2点です。この2点が、よくある「傲慢は身の破滅的な寓話」と違うところです。これを考えると、アラクネは命を賭けて自らの機織り技術が最高のものであることを証明したとの解釈も可能なのです。


アラクネの寓話


本題のベラスケスの『アラクネの寓話』です。少々長いですが、中野さんによるこの絵の解説を以下に引用します。

The Spinners or the Fable of Arachne.jpg


単なる仕事場の風景とばかり思われていた『織り女たち』が、アラクネの物語ではないかと示唆しさされた途端、みるみる画面が精彩をびはじめる。だまし絵を見つめているうち、隠されたものの存在が浮かび上がるのと似ている。

前景、左から2人目、白いヴェールで髪をおおい、糸車を廻しているのが、人間に化けたミネルヴァだとわかる。ただひとり若くない女性であり、背後には梯子はしご ── 天と地を結ぶ ── が立てかけられているからだ。

女神と表裏の関係ということを表すため、右から2人目の女性は後ろ向きに座っている。すなわちアラクネだ。一心に糸をあやつる手の表情が美しい。顔が見えないので想像力がふくらむ。

見物人はいない。カーテンを開けたり、糸玉を拾ったり、布を用意する娘たちは、みな質素な身なりで腕まくりし、日々の厳しい労働をうかがわせる。糸埃いとぼこりの舞う、貧しい、雑然たる仕事場で、神と人間の死闘が無言でくりひろげられている。

一方、後景は舞台さながらだ。前景より床が2段も高く、非現実感が強調される。この演劇的な要素のおかげで一種の異化効果が生まれ、前景の糸巻き仕事が、どこかいつもの日常とは違った様相を呈してくる。『ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)』にも通じる、ベラスケスらしい手の込んだ仕掛けだ。

舞台では着飾った3人の女性に囲まれ、兜をかぶった鎧姿の人物が、何事か言い渡すかのように、右腕を大きく振りあげたところだ。ミネルヴァ以外にはありえない。ご丁寧に、そがには大きなチェロ。彼女が音楽の守護神でもある証拠として置かれている。となると、3人の脇役は、ミネルヴァと関係の深いムーサたち(芸術に霊感を与える女神)であろう。そして舞台正面に立つのがアラクネ ── 前景の彼女と衣装が違うが ── ということになる。仕草は、ミネルヴァの怒りに呼応する。

本来、このシーンには緊迫感きんぱくかんがなければならないのだが、右端のムーサが我々鑑賞者の方へ目を向けているため、いっそう素人しろうと芝居がかって見える。画面全体がたくらみに満ち、奇妙な感覚を与えるようになっている。まるで神話自体は虚構きょこうだが、織物競争は現実だとでもいうような。

後景の、壁にかかったタペストリーは、絵画好きなら一目で気づく、ティツィアーノ作『エウロペの略奪』である。ゼウスが牡牛おうりけて美女エウロパを略奪する神話画で、アラクネが織ったとされる完成品のテーマの一つがこれだった(この後ミネルヴァに引き裂かれるわけだが)。

中野 京子『名画の謎 ギリシャ神話篇』

中野さんは後景の "舞台" の様子を「素人芝居」と書いていますが、ピッタリの言葉だと思います。前景だけをとると「パラスとアラクネ」を描いた神話画、後景はその「パラスとアラクネ」を舞台で演じるアマチュア演劇グループという感じなのです。一つ世界に別の世界が "入れ子" になっていて、その2つの世界の雰囲気がかなり違うという構図です。

引用の最後の方に「アラクネが織ったテーマの一つがエウロペの略奪」とあり、この記述は正確なのですが、オウィディウスの「変身物語」のパラスとアラクネの物語で、最初に詳しく記述されている織物のテーマは「エウロペの略奪」です(上の方の「変身物語」の引用参照)。それに、No.263「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」で書いたように、ティツィアーノ作『エウロペの略奪』はベラスケスの時代にはスペイン王宮にあったわけです。タペストリーの絵柄は是非とも『エウロペの略奪』でなくてはならない。

古典を知っている教養人なら「アラクネ」→「エウロペ」の連想はすぐに働いたに違いないのです。いや、話は逆かも知れません。ベラスケスはスペイン王宮にあった「エウロペ」を見て「アラクネ」への連想が働いた。その方があり得たでしょう。

No.263 で触れたように、ティツィアーノはオウィディウスの「変身物語」に基づく7枚の連作絵画 "ポエジア" をスペイン王家からの注文で描き、その中の1枚が『エウロペの略奪』でした。当時の宮廷人は "ポエジア" に何が描かれているのかがすぐに分かったはずだし、ティツィアーノも「すぐに分かる」ことを想定して描いたはずです。「変身物語」は王侯・貴族や宮廷人の "一般教養" であったに違いないのです。

しかし、ここで話が広がります。実は「エウロペ」と「アラクネ」を結びつけた絵を、ベラスケス以前にルーベンスが描いているのです。それは、ベラスケスが仕えたスペイン王・フェリペ4世の注文によるものでした。


ルーベンス


2012年7月7日のTV東京の「美の巨人たち」で『アラクネの寓話』が取り上げられました。そこで展開されたのは『アラクネの寓話』にはルーベンスが隠されているという説です。

No.230「消えたベラスケス(1)」の『ヴィラ・メディチの庭園』の項に書いたのですが、1628年から29年にかけてフランドルの画家・ルーベンスがスペイン宮廷を訪れて8ヶ月間滞在し、30枚もの絵画を制作しました。そのルーベンスはベラスケスに「ローマに行き、芸術の都をその目で確かめてくるように」とアドバイスしました。No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」のルーベンスの項に書いたように、ルーベンスは1608年から8年間もイタリアに滞在し(23歳~31歳)、数々の美術品を見て廻り、絵の制作と研鑽に励みました。ルーベンスは自分の画家としての原点がイタリアにあると自覚していたに違いありません。それがベラスケスへのアドバイスになった。

スペイン王宮を訪れたとき、ルーベンスはヨーロッパ随一の大画家で(51歳頃)、ベラスケスは若手の宮廷画家です(29歳頃)。ベラスケスはこの大先輩と芸術上の交流をしたはずです。事実、ベラスケスの第1回目のイタリア滞在は、ルーベンスがスペイン宮廷を去ってからわずか2ヶ月後からで(No.230 参照)、ベラスケスは尊敬する先輩の "アドバイス" を即刻実行に移したことがわかります。

そのルーベンスがスペイン王宮滞在中に制作した絵画の中の一点が、ティツィアーノの『エウロパの略奪』の模写です(No.263「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」に、ティツィアーノ作品とともに画像を掲載)。宮廷画家のベラスケスはこの模写の制作過程も見ていたに違いありません。見ていないとか、知らなかったと考える方が不自然です。

本題の『アラクネの寓話』ですが、ルーベンスはスペイン滞在の数年後にベラスケスの主人であるフェリペ4世の注文を受けて『パラスとアラクネ』を描きました。次の絵です。

Rubens - Pallas and Arachne.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)
パラスとアラクネ」(1636/37)
(27cm × 38cm)
ヴァージニア美術館(米)

この絵を所蔵しているヴァージニア美術館の説明によると、この作品は、フェリペ4世が "狩猟の塔(トーレ・デ・ラ・パラーダ)" を増改築した際に(1636~38頃)ルーベンスに発注した神話画の中の1枚であり、その油彩による下絵です。また研究によると、ルーベンスが受注した "狩猟の塔" の内部装飾画は数10点にのぼり、ルーベンスが下絵をすべて描き、ルーベンスの工房ないしは協力者の画家が制作したようです。これは当時の一般的な制作方法でした。その中の1枚である「パラスとアラクネ」の完成作は現在所在不明ですが、下絵が現存しているというわけです。

当然のことながら、宮廷画家であったベラスケスも "狩猟の塔" の内部装飾画を制作しています。No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で引用した『鹿の頭部』もその中の1枚でした。ベラスケスは、ルーベンス(とその工房)作の『パラスとアラクネ』を知っていたと考えられます。この、ルーベンス作『パラスとアラクネ』を見て分かることが2つあります。1つは、オウィディウスの「変身物語」に、

(パラスは)手にしていたキュトロス産の黄楊つげで、三度、四度と、アラクネのひたいを打った。

とある、その(=)で額を打つ直前を描いていることです。つまり「パラスとアラクネの物語」における最も決定的な瞬間を描いた絵です。劇的瞬間をとらえるルーベンスらしい筆だと言えるでしょう。パラスの鉄兜姿も、アラクネの額をで打つという "暴力行為" の場面にふさわしいものです。

2つ目は、後方にあるアラクネの織ったタペストリーの柄には牛と女性が描かれていて、明らかに『エウロペの略奪』だと分かることです。ただしティツィアーノ作『エウロペの略奪』の模写ではありません。女性が牛に跨がる格好で乗っているからです。

ベラスケスはこのルーベンスの絵を踏まえ、かつ、タペストリーの柄をルーベンスが模写したティツィアーノ作『エウロペの略奪』にすることで『アラクネの寓話』を描いたというのが「美の巨人たち」で展開されていた説でした。それはルーベンスに対する尊敬の念からであり、さらにはその先人のティツィアーノへの敬愛の念からです。ベラスケスはイタリアに2度も滞在しているし、そもそも当時のスペイン王宮には『エウロペの略奪』を始めとするティツィアーノ作品がいろいろあったわけです。

ではなぜ「ルーベンスの絵を踏まえた」と断言できるのでしょうか。オウィディウス「変身物語」はよく知られた古典であり、教養人ならアラクネとエウロペを結びつけるのは容易なはずです。ベラスケスはルーベンスとは無関係に『アラクネの寓話』を発想したとも十分に考えられる。

しかしここで、ベラスケスがルーベンスを踏まえて『アラクネの寓話』を描いたと考えられる強力な証拠があります。それが『ラス・メニーナス』です。


ラス・メニーナス


『ラス・メニーナス』については、今まで数々の評論がされてきました。このブログでも、


で『ラス・メニーナス』を取り上げましたが、そのテーマは「描かれた人物」「描き方や筆さばき」「空間構成や構図」などでした。それは幾多の評論の一般的な傾向だと思います。しかし、後方の壁にかかっている大きな絵(=画中画)に言及されるのは比較的少ないと思います。

No.19-6 LasMeninas.jpg
ベラスケス
ラス・メニーナス」(1656)
プラド美術館

暗くて分かりづらいのですが、研究によると後方の壁の大きな絵のうち、左の方がルーベンスの『パラスとアラクネ』です。

Pallas and Arachne in Las Meninas.jpg
「ラス・メニーナス」の画中画
後方の壁にある大きな絵の左の方。ルーベンスの「パラスとアラクネ」の、パラスが振り上げた右腕がうっすらとわかる。

『ラス・メニーナス』が描かれたのは1656年であり、『アラクネの寓話』は1657年頃に描かれたとされています。つまり『ラス・メニーナス』を描いた時点でベラスケスはルーベンスの『パラスとアラクネ』を意識していたことになります。このような事情を考えると、

ベラスケスは『ラス・メニーナス』で『アラクネの寓話』を予告した。あるいは、『アラクネの寓話』は『ラス・メニーナス』の続編である。

との見方が成り立つし、さらにもっと踏み込んで、

『ラス・メニーナス』と『アラクネの寓話』はワンセットの作品である。

とも考えられるわけです。『アラクネの寓話』の制作時期については不明な点もあるので、この最後の言い方が正しいのでしょう。そして、2つの作品の接点になるのがルーベンスの『パラスとアラクネ』です。



ちなみに、マルコ・カルミナーティ著「ベラスケス ラス・メニーナス」(佐藤 幸広 訳。西村書店 2016)をみると、後方の壁の大きな絵の左側がルーベンスの『パラスとアラクネ』としてあるのに加えて、右側の絵はヤーコブ・ヨルダーンスの『アポロンとパン』だと書いてあります。ヨルダーンスはルーベンスとおなじフランドルの画家で、ルーベンスより16歳年下です。

Jordaens - Apollo as Victor over Pan.jpg
ヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)
アポロンとパン」(1636/38)
(180cm × 270cm)
プラド美術館

この右側の絵のテーマもまたギリシャ神話です。"主役" のアポロンはゼウスの息子で、オリンポス12神の一人です。牧畜と予言の神であり、また竪琴の名手で、音楽と文芸の神でもある。そのアポロンと半人半獣の牧神パンが、山の神・トモロスを審判役に音楽競技をする話です。アポロンは竪琴を奏し、パンは笛を吹きます。その結果、トモロスはアポロンの勝ちとしました。しかしその場に居合わせたパンの崇拝者であるプリギアのミダス王は異議を唱えます。それに怒ったアポロンは "堕落した耳" だということで、ミダス王の耳をロバの耳に変えてしまいます。「王様の耳はロバの耳」という話の発端です(ロバの耳になった理由には別バージョンの神話もある)。

ヨルダーンスの絵の登場人物は4人で、左からアポロン、トモロス、パン、ミダス王です。トモロスは勝者のアポロンに月桂樹の冠を授けようとしていて、そのアポロンが異議を唱えたミダス王の耳をロバの耳に変えた瞬間を描いています。ちなみにこの絵もフェリペ4世が増改築した "狩猟の塔" の装飾画でした。

以上のことから、『ラス・メニーナス』の後方壁の2つの画中画には明らかな共通点があることになります。つまり2つの絵とも、

技能の神が、その技能の名手である他の誰か(人間、半人半獣)と競技をする

というテーマなのです。ベラスケスは意図的に "そういうテーマの絵" を選んで画中画にしたと考えられます。そして、左側の絵には尊敬するルーベンスを配した ・・・・・・。というような背景からすると『ラス・メニーナス』と『アラクネの寓話』はワンセットの作品と考えるのが自然でしょう。


『アラクネの寓話』のテーマ


以上の背景を踏まえて『アラクネの寓話』のテーマを推測すると、どうなるでしょうか。テーマの一つは明らかに「ティツィアーノ → ルーベンス → ベラスケス」という芸術の系譜です。この3人は出身国が違い、また時代も相違していますが、芸術で繋がっている。ベラスケスは偉大な先人2人への敬意と連帯を『アラクネの寓話』で表したのだと考えられます。

もう一つのテーマは、アラクネの物語そのものが示唆するように「神の領域へも挑戦しようとする芸術家の本性」でしょう。それは『ラス・メニーナス』と『アラクネの寓話』をワンセットの作品だと考えると鮮明です。『ラス・メニーナス』で描かれた場所はスペイン王宮の中のベラスケスのアトリエであり、画家の自画像があり、王女と国王夫妻(鏡の中)がいて、宮廷の使用人たちがいる。この絵の主題は「宮廷画家としてのベラスケス」でしょう。絵の中のベラスケスは絵の観客をはっきりと見据えています。

それに対して『アラクネの寓話』は「芸術を突き詰めるベラスケス」です。後景はルーベンスを踏まえていて、機織り競争直後のシーンを描いています。しかし前景はパラスとアラクネの "運命の死闘" であり、ここにこそ絵の主題があります。つまり、身の破滅をかえりみずに最高のタペストリーを織ったアラクネのように、ベラスケスはここに技量のすいを盛り込んだ。そのことは前景の細部を順に見ていくとわかります。そして後景でこの絵が『アラクネの寓話』だと明らかにして、絵のテーマを示唆した。

この絵で最も強い光が当たっているのは、前景の右手の女性と後景の中央の人物 、つまり2人のアラクネです。後景のアラクネはまるで劇の主役のようにハイライトが当たっていて、絵のテーマを示しているようです。その "主役" のアラクネの右の方、一人だけ正面を見ている人物がいます。パラス(=アテネ)の周辺に配置されたこの女性はムーサ(英語ではミューズ)の一人に違いありません。ミューズは芸術の霊感をもたらす女神であり、この絵においては "芸術の擬人化"、ないしは "芸術そのもの" でしょう。このミューズは「この絵の意味が分かりますか ?」と、絵の鑑賞者に問いかけているように見えます。そして、その問いかけの答えは「芸術家の魂」なのだと思います。


関連する5枚の絵


ここで、今までの話に登場した、

ティツィアーノ  『エウロペの略奪』
ルーベンス  『エウロペの略奪(模写)』
ルーベンス  『パラスとアラクネ(下絵)』
ベラスケス  『ラス・メニーナス』
ベラスケス  『アラクネの寓話』

の5作品を、上から下へ、左から右へと年代が進むように配置し、その関係を矢印で表すと次のようになるでしょう。5枚の絵を結びつけているのが(= 5枚の絵すべてに関係するのが)、ギリシャ神話の「アラクネの物語」です。

5作品.jpg

「美の巨人たち」のナレーションでは、『アラクネの寓話』を画家の最高傑作だとする人もいるとのことでした。確かにそうかもしれません。絵画技法、テーマ、たくらみに満ちた構成、制作時期から考えて、この絵がベラスケスの到達点だという評価は正当だと思います。




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No.263 - イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館 [アート]

今までに10回書いた「個人美術館」の続きです。正確に言うと、コレクターの個人名を冠した「個人コレクション美術館」で、今回はアメリカのボストンにある「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」です。


イザベラ・ステュワート・ガードナーと美術館の設立


イザベラ・ステュワート・ガードナー(1840-1924)は、ニューヨークの裕福な実業家の娘として生まれ、20歳のときにボストンのジョン・ガードナーと結婚しました。彼女は富豪であり、"クイーン" と呼ばれたボストン社交界の名士でした。1991年(51歳)の時に父親が死んで遺産を相続したのを契機に、本格的に美術品の蒐集を始めました(ステュワートは旧姓)。そして夫の死後、蒐集したコレクションを飾るために建てた個人美術館が、1903年にオープンしたイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館です。彼女は4階の住居スペースで余生を送ったそうです。

Isabella Stewart Gardner Museum - Original Building.jpg

Isabella Stewart Gardner Museum - Courtyard.jpg
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の外観(上図)と中庭(下図)。現在は建物の横に新館が建てられているが、美術品はすべてガードナー夫人が1903年に建てた上図の美術館の内部にある。また、美しい中庭とそこから見る建物の景観も鑑賞のポイントである。上図の外観写真では、左下の方にサージェントの「エル・ハレオ」(後述)の図像が掲げられている。

美術館は、ボストン美術館の西、歩いてすぐのところにあります。15世紀ヴェネチアの大邸宅を模して建築されており、いわゆる「邸宅美術館」です。その意味では、ワシントン D.C.のフィリップス・コレクション(No.216)や、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(No.217)と同じですが、美術館用に建てた大邸宅というところが違います。とは言え、内部はいかにも貴族の邸宅という雰囲気であり、その環境の中で美術品を鑑賞できます。建物は中庭(Court)を囲むように建てられていて、その中庭とそこからの建物の景観も鑑賞のポイントです。

ちなみに、イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館のチーフ・キュレーター、Hillard Goldfarb が書いた美術館の紹介本 "The Isabella Stewart Gardner Museum"(1995)によると、イザベラは10代後半にパリに留学していたときに両親とイタリアに旅行し、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館を訪れたそうです。そして友人に「もし私が自由にできるお金を相続したなら、あのような家を建て、美しい絵や美術品を収集し、人々に来てもらって楽しんでほしい」と語ったそうです。イザベラは50歳を過ぎて、その通りのことを実行したことになります。美術館の内部の雰囲気はポルディ・ペッツォーリと大変よく似ていますが、それには理由があるのです。

蒐集された美術品のコアはイタリア美術ですが、ヨーロッパ、東洋、日本、イスラム、エジプト美術にも及び、絵画だけでなく彫刻、陶磁器、家具調度品、タペストリーなども展示されています。



ちなみに、ガードナー夫人は岡倉天心(1863-1913)の友人であり、ボストンにおける天心の擁護者でした。岡倉天心は1904年(明治37年)にボストン美術館の東洋・日本部に迎えられ、明治末期の10年程度(1904~1911年頃)は日本とボストンを往復する生活を送りました。天心がガードナー夫人に初めて面会したのは、美術館の開館直後になる 1904年です。美術評論家の瀬木慎一氏は次のように書いています。


ガードナー夫人の天心に対する庇護は、絶大なものがあり、単に、一人の学者に対するものにとどまらず、個人生活にまで及んでいる。たとえば1910年から翌年にかけての1年ちかくのボストン滞在の折りには、天心は、異郷での孤独な生活の慰めにと、一匹の雪白のアンゴラ猫を貰っている。

瀬木慎一 「イザベラ・ステュワート・ガードナー
:イタリアに傾倒したボストンの女王」
「日本の名随筆 別巻34 蒐集」所載
(作品社 1993)

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イザベラ・ガードナー(後列右)と岡倉天心(前列左端)が写っている写真。マサチューセッツ州選出の下院議員、ピアット・アンドリュー(後列左)の邸宅で撮られたもの。美術館のチーフ・キュレーター、Hillard Goldfarb が書いた "The Isabella Stewart Gardner Museum"(1995)より引用。



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サージェントが描いたイザベラ・ステュワート・ガードナーの肖像(1888年。部分)。
この美術館を語るときにフェルメールは欠かせないでしょう。1990年3月、美術界を揺るがす盗難事件が起こりました。この美術館が所有するフェルメールの『合奏』、レンブラントの『ガラリアの海の嵐』など13点の絵画が盗まれたのです。この事件は現在でも未解決で、FBIが捜査中です。

ガードナー夫人はそのフェルメールの『合奏』を1892年にパリのオークションで購入しました。今でこそフェルメールは超有名ですが、一時は完全に忘れ去られた画家でした。その再評価が始まったのは19世紀の後半です。ガードナー夫人はコレクター人生の最初期に、やっと評価され始めたフェルメールを買ったことになります。コレクターとしての彼女の慧眼が分かります。



以降、この美術館の "顔" となっているティツィアーノとサージェントの絵画を取り上げます。ティツィアーノ作品は、美術館が現在所有している最も貴重な作品です(フェルメールが無いという前提で)。またサージェントの作品は公式サイトに "美術館のアイコン(icon = 象徴する図像)" と書いてあります。


ティツィアーノ『エウロペの略奪』


Titian - Rape of Europa.jpg
ティツィアーノ・ヴェチェリオ(1488頃-1576)
エウロペの略奪」(1562)
(178cm × 205cm)
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館

この絵については中野京子さんの解説があるので、それを引用します(引用中の下線は原文にはありません。一部、段落を増やしたところがあります)。まずギリシャ神話における「エウロペの略奪」の物語の解説です。ギリシャ神話における主神・ゼウスは、目をつけた女性を自分のものにするときに必ず何かの姿に変身して現れるという紹介のあと、中野さんは次のように続けています。


フェニキア(現レバノン)の王女エウロペを見初みそめたゼウスは、さっそく彼女がお供のものたちと海辺で遊んでいるところに現れる。さて何に変身していたか ?

答えは牡牛。

そんなものに化けたって女性の心をつかめるわけがなかろう、と言いたいところだけど、古代の牡牛崇拝に見られるように、この動物のシンボル性はあなどれない。「強い生命力」と「男性的な力」の体現が牡牛なのだ。ただしその野性的なエネルギーは女性に恐怖をも与えるため、ゼウスは一計を案じ、優しげな目をした美しい真っ白な牡牛となって、人畜無害を装った。

まあ、なんて綺麗きれいな牛でしょう、角に花輪を飾ってあげましょう、馬のかわりに乗ってみましょう、とすっかり油断したエウロペが背に乗ると、そやつはのっしのっしと波打ち際まで進み、そこから突如スピードを出して海に飛び込むなり、猛然と泳ぎだした。エウロペが悲鳴をあげ、浜辺で皆が騒いだときにはもう遅い。ゼウスの美女誘拐は成功していた。海を渡り、クレタ島まで連れてゆき、そこで子どもを3人も生ませるのだった。

実はこれはヨーロッパ起源たん。エウロペを連れたゼウス牛はクレタ島まで延々遠回りし、その巡った地域をヨーロッパと呼ぶようになったのだ。その証拠には、エウロペはギリシャ語でΕΥΡΩΠΗ、すなわち europa、ヨーロッパ(europe)の語源である。


ティツィアーノの『エウロペの略奪』ですが、この絵は16世紀スペインのフェリペ2世がイタリアのヴェネチアのティツィアーノに発注した絵で、制作年は1559~1562年です(美術館では1562年としている)。スペインの無敵艦隊が英国に破れるのは1588年(=アルマダの海戦)であり、つまりこの絵が描かれた時期はスペイン帝国の絶頂期です。


エウロペの物語は多くの画家の創作意欲を刺激し、連綿として描かれ続けてきたが、最高峰はティツィアーノ作品であろう。これはスペインを「陽の沈まぬ国」にしたハプスブルク家のフェリペ2世が、自らの私室を飾るために発注した連作『ポエジア』の1点。

連作はどれもフェリペの好みを反映し、神話中の官能的裸体像が扱われている。そこに従来の表現とは異なった、ティツィアーノ独自の工夫が施されているのが特徴だ(芸術家も注文主によって、リキの入れ方が違う)。

(同上)

「ポエジア」は "詩想画" という訳があり、ティツィアーノがフェリペ2世の発注によって7点の連作として描きました。いずれも古代ローマのオウィディウスの『変身物語』からテーマを採った神話画です。ちなみに「ポエジア」の連作7点のうち、現在プラド美術館にあるのは2点だけで、4点はイギリスにあり、残りの1点がアメリカにあるこの絵です。スペインの国力の盛衰を反映しているようです。


ほとんどの先行作品でエウロペは牛にまたがるか、いわゆる女性乗り(横座り)した姿で描かれてきたのに、本作では牛の背中に仰向あおむけ状態で、太股ふとももをむき出しにして、足裏まで見せるというあられもなさ。エロティシズム満開である。しかも真っ赤な布(ドレスの一部?)を片手で大きく振る様子は、岸辺の人たちに助けを求めるというより、彼女自身の歓喜が炎のようにひるがえっているようだ。夕焼けの赤とも呼応する。周りをむっちりしたクピド、即ち愛の天使たちが囲んでいるのも、これが一種の恋のエピソードだと告げるためだ

ゼウスが思いを寄せただけでなく、エウロペもまた驚愕きょうがくのうちに、主神に選ばれた誇らしさと喜びに打ち震えているということだろう。いかにも王侯が満足しそうな解釈ではある。

それかあらぬか本作は、後代の著名な王侯御用達画家ふたりに取り上げられた。ひとりはルーベンスで、外交官としてスペインを訪れた機会にこれを丁寧に模写している。ティツィアーノに心酔していただけであり、自らの筆致を極力抑えて写しに徹した、すばらしい作品に仕上がった。

もうひとつはベラスケス。フェリペ2世の孫にあたるフェリペ4世の宮廷画家だった彼は、『たち』の中で、アラクネが織り上げたタペストリーの主題として、このエウロペをいわば画中画の形で描き出した。

(同上)

ルーベンスによるこの絵の模写は、ルーベンスの死後、フェリペ4世がフランドルから購入し、現在はプラド美術館にあります。

Rubens - Rape of Europe.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)
エウロペの略奪(模写)」(1628/29)
(183cm × 202cm)
プラド美術館

Rape of Europa - Display.jpg
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の「エウロペの略奪」の展示。
つまりフェリペ4世の時代にはティツィアーノの『エウロペの略奪』とルーベンスによる模写が同じ王宮にあったことなります。ところが、後のスペイン王家はティツィアーノを手放し、その後は持ち主の変遷を重ねたあと、最終的にボストンのガードナー夫人が手に入れた。近代以前において権力の集中した絶対王政の存在は芸術の発展に大きな貢献をしたわけですが、国が繁栄し、かつ芸術に造詣の深い君主が続かない限り貢献は無理とのことかと思います。


サージェント『エル・ハレオ』


John Singer Sargent - El Jaleo.jpg
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)
エル・ハレオ」(1879/82)
(232cm × 348cm)
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館

サージェントは1879年(23歳)にスペインに旅行しました。その時の体験をもとにしたのがこの絵です。20歳台半ばの作品ということになります。

絵の題名になっている "ハレオ" は、フラメンコにおける "掛け声" のことです。スペイン語では "騒ぎ" というような意味ですが、フラメンコでは "ハレオ" で通っています。フラメンコの音楽の構成要素は、歌、ギター、手拍子、掛け声(ハレオ)の4つです。その掛け声にもいろいろあり、有名なのは "オレ!" でしょう。その掛け声がかかった瞬間を描いた絵、そういう風に考えられます。

El Jaleo - Display.jpg
イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の「エル・ハレオ」。スパニッシュ・クロイスター(スペイン風回廊)と呼ばれる部屋に展示されている。
ただしガードナー美術館の公式サイトの説明によると、題名のハレオは "ハレオ・デ・ヘレス(Jaleo de Jerez)" という踊りの名称をも意味するとあります。ということは、サージェントがスペイン旅行で特に印象に残った踊りの光景ということでしょう。

232cm × 348cm という大きな絵ですが、ほとんどモノクロームのような色使いです。その中で右奥の女性の赤い衣装が強いアクセントになっています。

造形で目を引くのはフラメンコ特有のダンサーのポーズと、彼女のショールです。普通ではないように大きく広がったショールは、動きのスピード感を表現しているのでしょう。

さらに影です。光源は、フットライトというのでしょうか、床の上にあり、ちょうどダンサーの手前にある感じです。下方からの光で描かれた絵はめずらしく、No.256「絵画の中の光と影」でとりあげたエドガー・ドガ「手袋をした歌手」がそうでした。『エル・ハレオ』も下方からの光が独特の効果を作り出しています。特に、ダンサーの影が彼女を包み込むように、異様に大きく描かれています。下からのライトで後方上にできる影だけでなく、ダンサーの周りを黒いものが取り巻いている。これは単にダンサーに付随する影というより、何か "別もの" という雰囲気です。ダンサーが憑依している "舞踏の精霊" が彼女と一緒に踊っているような感じがします。

フラメンコ特有のダンサーの動きと、歌・ギター・手拍子・掛け声が作り出す「現実ではない異世界」を描いた絵、という印象を強く受ける絵です。



この絵に関連した話ですが、サージェントは1879年のスペイン旅行でプラド美術館に立ち寄り、ベラスケスの『ラス・メニーナス』を模写しました。そして後日、『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描いた絵が『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882)です(No.36「ベラスケスへのオマージュ」参照)。222.5cmの正方形のカンヴァスに描かれた大作で、現在、ボストン美術館にあります。

ということは、サージェントの20歳代のスペイン旅行の "成果" と言える2つの大作、『エル・ハレオ』と『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』が、ボストンの地で目と鼻の先にあることになります。この2つの大作はテーマが違うし、絵の雰囲気も全く違います。しかし、両方ともインスピレーションの源泉がスペインにある。ボストンで美術鑑賞をする機会があったら、その視点でサージェントの2作品を見比べるのも良いでしょう。



最後にイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館のフロアプランを掲載しておきます。出典は、Hillard Goldfarb "The Isabella Stewart Gardner Museum"(1995)です。

ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ラファエロの名を冠した部屋があるように、イタリア美術がコレクションの中心です(ボッティチェリもある)。『エウロペの略奪』は3階の Titian Room にあります。また2階の Dutch Room にはオランダ絵画が集められています(フェルメールはここにあった)。

『エル・ハレオ』は1階の Spanish Cloister です。同じ1階の Yellow Room や Blue Room には近代絵画(マネやマティス、サージェントなど)もあります。Macknight Room には、アメリカの画家、Dodge Macknight の水彩画が集められています。

Isabella Stewart Gardner Museum.jpg
Isabella Stewart Gardner Museum



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No.256 - 絵画の中の光と影 [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で、三浦佳世氏の同名の本(岩波書店 2018)の "さわり" を紹介しました。その三浦氏が、2019年3月の日本経済新聞の最終面で「絵画の中の光と影 十選」と題するエッセイを連載されていました。日経の本紙なので読まれた方も多いと思いますが、「視覚心理学が明かす名画の秘密」の続編というか、補足のような内容だったので、是非、ここでその一部を紹介したいと思います。


左上からの光


「視覚心理学が明かす名画の秘密」であったように、フェルメールの室内画のほぼすべては左上からの光で描かれています。それは何もフェルメールだけでなく、西洋画の多くが左上からの光、それも30度から60度の光で描かれているのです。その理由について No.243 であげたのは次の点でした。

画家の多くは右利きのため、窓を左にしてイーゼルを立てる。描く手元が暗くならないためである。

そもそも人間にとっては左上からの光が自然である。影による凹凸判断も、真上からの光より左上30度から60度からの光のときが一番鋭敏である。

三浦氏の「絵画の中の光と影 十選」には、この前者の理由である「画家は窓を左にしてイーゼルを立てる」ことが、フェルメール自身の絵の引用で説明されていました。ウィーン美術史美術館にある『画家のアトリエ(絵画芸術)』という作品です。

フェルメール「絵画芸術」.jpg
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
画家のアトリエ」(1632-1675)
(ウィーン美術史美術館)

なるほど、これはそのものズバリの絵です。この絵において画家はマールスティック(腕鎮わんちん)の上に右手を乗せ、左上からの光でモデルの女性を描いています。現代ならともかく、照明が発達していない時代では描くときの採光が大きな問題だったと推察されます。そして、三浦氏は次のようにも書いています。


もっとも、画中の人物は右側からの光のもとで、牛乳を注ぎ、真珠をかざし、手紙を書いているのだ。右利きなら不自由なことだろう。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.4)

この文章を読んでハッとしました。No.243 にも掲載したフェルメールの「手紙を書く女と召使い」という絵を思い出したからです。

手紙を書く女と召使い.jpg
フェルメール
手紙を書く女と召使い」(1670/71)
(アイルランド国立美術館)

2度も盗難にあったという有名な絵ですが、前々からこの絵にはある種の違和感というか、"ぎこちなさ" を薄々感じていました。この感じは何なんだろうと思っていたのですが、この絵は実は "不自然" なのです。女性がわざわざ手元を暗くして手紙を書いているからです。普通なら、座る向きを全く逆にして(ないしは窓に向かう位置で)手紙を書くでしょう。その方が明らかに書きやすい。三浦氏の文章で初めて、薄々感じていた "ぎこちなさ" の理由が分かりました。


教室の採光


「視覚心理学が明かす名画の秘密」に、学校の教室は左側に窓があり右側に廊下がある、これは多数を占める右利きの子供の手元が影にならないようにするためだろう、という話が書いてありました。この話について「絵画の中の光と影 十選」では次のようにありました。


日本でも、右利きの子供の手元が影にならないように、明治時代に『学校建築図説明及設計大要』が定められて以来、教室には左から光が入るようになっている。私たちも左上からの光に慣れているのだ。そのためフェルメールの光の方向は自然に感じられる。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.4)

「視覚心理学が明かす名画の秘密」には書いてなかったのですが、「教室の左からの採光」は明治時代からの政府方針で決まったいたのですね。これは初めて知りました。


右上からの光:レンブラント


左上からの光が自然だとすると、右上からの光は "自然ではない" ということになります。この "自然ではない光" を「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、カラヴァッジョの『マタイの召命』と、キリコの『街の神秘と憂鬱』を例にとって説明してありました(No.243)。今回の「絵画の中の光と影 十選」で示されたのはレンブラントです。

レンブラント「ベルシャザルの酒宴」.jpg
レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)
ベルシャザルの酒宴」(1636-38)
(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)


この絵は旧約聖書の一場面を描いたものだそうだ。ベルシャザル王がエルサレムから略奪した器で酒を飲んでいると、虚空に右手が現れ、文字を描いた。不安にかられた王が捕囚の賢者ダニエルに意味を問うと、王の統治は長くないことが告げられ、その夜、彼は殺されたという。

フェルメールが穏やかな日々を左上からの光で描いたのに対し、レンブラントは穏やかならざる劇的な場面を右上からの光で描いた。

もっとも、キリスト教では左より右に価値が置かれ、神の右手がその働きを表すとされるので、画面右上に神の右手を描いたのだと解釈することもできる。しかし、そうだとしても、尋常ならざる強い光に慌てふためく人々の姿は、見慣れない右からの光に無意識に驚く私たちと重なるのかもしれない。そうだとすれば、右からの光はこの場面にぴったりだ。

光と影の画家レンブラントは効果的な構図を熟知していたに違いない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.5)

右上からの光が "尋常ならざる光" を表すとしたら、まさにこの絵はぴったりだと言えます。


右上からの光:応為


日本においても江戸後期になると西洋絵画の影響を受け、光と影の表現を用いる画家が出てきました。次の絵は北斎の三女の応為が描いた吉原の夜の光景です。明るい遊郭の遊女と、対比的に描かれる戸外の男たちの暗い背中、行灯あんどんの光も含めて、光と影が交錯する構図が大変に印象的です。

葛飾応為「吉原格子先図」.jpg
葛飾応為(1800頃-1866頃)
吉原格子先の図」(1818-48)
(太田記念美術館)


江戸後期に活躍した応為は西洋美術に触れ、陰影表現に心動かされたのだろう。格子や人が地面に落とす投映影と、人々の体を立体的に表す付着影を描き分け、平面的な浮世絵とは一風異なる画風を確立している。

西洋の絵画理論に、絵は左下から右上へと読まれるというものがある。そうなると光源を左上に設定するのが、全体を見渡す視点としては効果的だ。一方、日本では絵巻物でも漫画でも右から左へ進むように描かれる。仮にそれらに光源を設定するなら、右上の方が自然だろう。応為も無意識のうちに光源を右に設定し、左に伸びる影を描いたのではないか。

今や私たちの日常生活でも横書きを左から右に読む機会が増えている。そうなると、応為の描いた左に伸びる影は非現実的な印象を与えるかもしれない。遊郭という非日常的な世界を描くにはぴったりの光と影の構図ということになる。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.18)

三浦氏の「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、左へ伸びる影が非現実的な印象を与える例として、キリコの『街の神秘と憂鬱』があげてありました(No.243)。応為とキリコの絵は、文化的背景もテーマも描き方も全く違う絵だけれども「影の描き方と、それが人間の感情に与える効果については似ているところがある」ということでしょう。


下からの光:ドガ


左上からの光が「自然」、右上からの光が「非自然」とすると、下からの光は「まずない」ということになります。しかし、その下からの光で描いた作品があります。

ドガ「手袋をした歌手」.jpg
エドガー・ドガ(1834-1917)
手袋をした歌手」(1878)
(フォッグ美術館)


19世紀の初頭、パリの劇場は社交場でもあった。そのため、観客席もシャンデリアで明るく照らされていたそうだ。だが、ドガがこの絵を描いた頃には、客席を暗くし、舞台を下から照らす演出が現れたという。

この絵の不自然な陰影は、舞台下から光が当たっていることを、一瞬にして私たちに分からせる。だが、視覚判断からすると、これは例外的なケースなのだ。

私たちは陰影の位置をもとに凹凸を判断している。上方から光が当たると、膨らんだ部分は上部が光り、下部に影ができる。このため、脳は上が明るく、下部が暗いものは凸、逆に、上部が暗く、下部が明るいものは凹だと判断する。太陽にせよ、人工照明にせよ、日常光の多くは上方からくるので、この推論でたいていの場合、問題ない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.14)

三浦氏が言っている「通常の上からの光による凹凸判断」が分かるのが次の図です。上の図は一つだけ凹のものがあると即断できます。一方、下の図は一つだけ凸のものがあると私たちは即断します。その下の図は、上の図の上下を反対にしただけです。我々の脳は上から光がくると暗黙に想定しているのです。地球上で生活している限りそれは自然です。

陰影による凹凸判断.jpg


ところが、この推論の前提を簡単にくつがえすケースがある。顔である。顔に限っては、上部が暗く、下部が明るい場合でも、鼻や頬が凹んでいるとは判断せず、下から光が当たっていると、仮説の方をひっくりかえすのだ。例外的とはそういう意味である。

特異な陰影をほどこし、背景を大胆に省略したドガのこの絵は臨場感にあふれ、とてもリアルだ。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.14)

人間が顔を認識するメカニズムは特別で、それは赤ちゃんのころから刷り込まれたものがあるということでしょう。

この絵ように下からの光で描かれた絵は、ほかには思い当たりません。しいて言うと、画面の下の方に置かれた蝋燭やランプだけを光源として人物を描いた場合、構図によっては人物の顔が下からの光で描かれることになります(たとえば、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品など)。しかしこれは鑑賞者に光源が分かります。この絵のように「光源が不明だけれど下からの光だと瞬時に判断できる」というのではない。

その意味でこの絵は、既成概念を破って数々の実験的な構図で描いたドガの面目躍如という感じがします。


投映影と付着影:マグリット


葛飾応為が「投映影」と「付着影」を描き分けたとありましたが、本家本元のヨーロッパでは、この2種類の影そのものをテーマにした絵があります。ルネ・マグリットの作品です。

マグリット「ユークリッドの散歩道」.jpg
ルネ・マグリット(1898-1967)
ユークリッドの散歩道」(1955)
(ミネアポリス美術館)


絵の中央には、影の方向が逆の、2つの円錐えんすいが描かれている。円錐だけを取り出してみると、大きさも形も同一で、鏡像のようだ。だが、私たちはこれらを塔と道として認識する。このとき私たちは塔(立体)の付着影と、道(遠近)の投映影を区別していることになる。脳は円錐の周りの情報を統合して、最もありそうな見方を示すのだ。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.11)

この絵をさらに複雑にしているのは、イーゼルが窓の前にあり、どこまでが景色で、どこまでが絵なのか分からないことです。もちろん、景色も絵もすべてはマグリットが描いた2次元のカンヴァスの中にある。三浦氏は次のように書いています。


目の網膜という平面に映った像から3次元世界を知覚している私たちの日常もこれと似ている。見ている光景は、脳が選んだ見方の1つにすぎない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.11)


色の恒常性:モネの特別な目


「視覚心理学が明かす名画の秘密」には "色の恒常性" ということが書かれていました(No.243)。つまり物体に光が当たると影ができ、色が変化する。しかし、我々の眼はもともとの色を推測して見てしまう。これが "色の恒常性" です。

19世紀、その "色の恒常性" を無視して戸外の風景を描く画家が現れてきました。印象派の画家です。「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、ルノワールの『ブランコ』とモネの『ルーアン大聖堂』が例としてあげられていました。そのモネの『ルーアン大聖堂』が「絵画の中の光と影 十選」の最終回で解説されていました。

モネ「ルーアン大聖堂」(ポーラ美術館).jpg
クロード・モネ(1840-1926)
ルーアン大聖堂」(1892)
(ポーラ美術館)


モネはルーアン大聖堂を、さまざまな時刻や天候のもとで描き、33枚もの連作を残した。1枚として同じものはない。

日本にあるこの作品では、上部が夕日で赤く染まり、下部が前の建物の影が映り込んで灰色になっている。だがルーアンでこの建物を見た私たちは、晴れていようが曇っていようが、白い建物にしか見えないはずだ。視覚の性質で、影や陰りは無視するようになっているからだ。モネは特別な目と脳によって建物を異なる色で描き分けた。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.19)

このモネの絵は「絵画の中の光と影 十選」の最終回です。上に引用に続けて三浦氏はシリーズ全体のまとめとして次のように書いています。


優れた絵画は視覚の秘密を明らかにする。秘密に触れると私たちの見方も広がっていく。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.19)

絵画を見るひとつの視点として「視覚心理学」があり、そのことで絵画鑑賞の "幅" が広がるわけです。

画家は "見ることのプロ" です。その "見ること" とは、網膜の映像を解釈する人間の脳の働きです。その意味で、画家は「人間の脳の働きを究明するプロ」とも言えるでしょう。三浦氏の前著とあわせて、そのことがよく理解できるエッセイでした。




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No.255 - フォリー・ベルジェールのバー [アート]

No.155「コートールド・コレクション」で、エドゥアール・マネの傑作『フォリー・ベルジェールのバー』のことを書きました。この作品は、英国・ロンドンにあるコートールド・ギャラリーの代表作、つまりギャラリーの "顔"と言っていい作品です。

最近ですが、中野京子さんが『フォリー・ベルジェールのバー』の評論を含む本を出版されました。これを機会に再度、この絵をとりあげたいと思います。

A Bar at the Folies-Bergere.jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
フォリー・ベルジェールのバー」(1881-2)
(96×130cm)
コートールド・ギャラリー(ロンドン)


マネ最晩年の傑作


まず、中野京子さんの解説で本作を見ていきます。以下の引用で下線は原文にはありません。また漢数字を算用数字に直したところがあります。


『フォリー・ベルジェールのバー』は、エドゥアール・マネ最晩年の大作。画面左端にある酒瓶のラベルに、マネのサイン「Manet」と制作年「1882」が見える。この翌年、彼は51歳の若さで亡くなるのだ。

高級官僚の息子に生まれ、生涯、経済的に不自由せず、生活のため絵を売る必要もなく、生粋きっすいのパリジャン、人好きするダンディーで知られたマネだが、二十代で罹患りかんした梅毒ばいどくが進んで末期症状を迎え、壊死えしした片足を切断したものの、ついに回復できなかった。本作制作中も手足の麻痺まひや痛みに苦しみ、現地でデッサンした後はもはや外出できず、わざわざ自分のアトリエにカウンターをしつらえ、モデルをそこに立たせて描きついだ。少し絵筆を動かしてはソファで休む。その繰り返しだったという。

しかし完成作には脆弱ぜいじゃくさは感じられない。マネらしい力強い筆触と、くっきりしが黒は健在だ。構成もこれまでにない緊張感にあふれ、現実をそのまま写し取ったかに見せかけながら、実は絵画的たくらみに満ち、物語性も内包した玄人くろうと好みの絵になっている。ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』を意識したものであろう。


運命の絵2.jpg
コートールド・ギャラリーはロンドンのコヴェント・ガーデンに近い「サマセット・ハウス」という建物の一角にある美術館で、その中に英国の実業家、サミュエル・コートールド(1876-1947)のコレクションが展示されています。こじんまりしたコレクションで、印象派・ポスト印象派の絵画は、わずか2室程度にあるだけです。しかし収集された絵画の質は素晴らしく、傑作が目白押しに並んでいる部屋の光景は壮観です。その中でもひときわ目を引くのが『フォリー・ベルジェールのバー』です。中野さんの説明にあるように、この作品はマネが画家としての力を振り絞って描いた生涯最後の大作です。

上の引用の最後で、少々唐突に「ラス・メニーナスを意識したものであろう」とあるのですが、これについては後で書くことにします。


フォリー・ベルジェール


マネの本作を理解するためには、題名となっている "フォリー・ベルジェール" を知る必要があります。そもそも "フォリー・ベルジェール" とはどんな場所だったのか。中野さんの解説を聞きましょう。


ここはパリのミュージックホール、フォリー・ベルジェール。建物がベルジェール通り近くにあったことからの命名だが、おそらくそれだけはあるまい。「フォリー」(Folies)は「熱狂した、酩酊めいていした」、「ベルジェール」(Bergere)は「やわらかい安楽椅子」の意なので、暗に性的奉仕する女性を想起させるねらいもあったのではないか。

設立は1869年(現存)、さまざまな階級の人々に一夜の刺激を提供する歓楽施設として、またたく間に人気を集めた。豪華な内装、きらめくシャンデリア。演目はオペラレッタやシャンソンなどの歌や演奏、パントマイムや派手なレヴュー、サーカス風の曲芸、見せ物など、実に猥雑わいざつきわまりなかった。現代日本人がイメージする劇場と違い、全客席が舞台に向いているわけでも、全観客の意識が舞台に集中するわけでもない。ボックス席ではきちんとした食事ができたし、立ち見でもバーで買った酒を飲めた。歩き回り、じゃべりまくるもの自由で、ある種の社交場としても利用された。

中野京子「同上」

上の引用のようなフォリー・ベルジェールの状況を知ると、この絵のヒロインであるスタンドバーの売り子嬢の "意味" も理解できるようになります。

実は文豪のモーパッサン(1850-1893)は、マネと同様にフォリー・ベルジェールを熟知していました(ちなみに彼も梅毒が原因で42歳で死去)。モーパッサンはマネの死の2年後(1885)に長編小説『ベラミ』を刊行しました。野心的な貧しい若者が金持ちの女性を利用してのし上がってゆく物語です。この『ベラミ』にフォリー・ベルジェールが登場し、マネが描いたスタンドバーについても書かれています。


ホールは2層で、上階ボックス席にはもっと上流人士たちが座っていた(引用注:1階は中産階級の客が多かった)。どちらにも内部をぐるりとめぐる回廊かいろうがあり、1階の大回廊には3つのスタンドバーが設置されていた。これについてもモーパッサンの容赦ない描写があり、いわく、

  「それぞれのスタンドバーには、厚化粧のくたびれた売り子が陣取り、飲料水と春を売っている。うしろの背の高い鏡に彼女らの背中と通行人の顔が映っている
(モーパッサン『ベラミ』中村佳子訳・角川文庫)

スタンドバーの売り子嬢が提供するのは飲み物だけではない、彼女たちは娼婦とさして変わらない、そう見做みなされていたわけだ。本作におけるマネのヒロインが例外ということはあり得ないだろう。

中野京子「同上」

この絵の構図の特徴は、画面下部に描かれたスタンドバーのカウンターと、その背後の画面のほとんどを占める鏡です。これによってフォリー・ベルジェール内部を活写するというしかけになっています。


カウンターには、オレンジを盛ったガラスの器や薔薇ばらを二輪活けたグラス、富裕層向けの高級シャンパンから、低所得者用の安価なイギリス産ビール(三角のラベルに Bass の文字がかすかに見える)まで、雑多な客層にあわせて取りそろえられている。

ヒロインの腕輪のすぐ下あたりに、金色の太い鏡の額縁がオレンジの器のところまで続いている。モーパッサンが書いていた「うしろの背の高い鏡」がこれだ。つまりここから上に描かれているものはどれも鏡像だ。大理石のカウンターも酒瓶も、2階のバルコニーや、その後ろにひしめく人々も、天井から下がる巨大なシャンデリアも。

ホールは紫煙しえんにけむっている。男も女も(時に子どもまで)盛んに煙草を吸った時代なので、それらに香水やら酒、料理や汗の匂いも入り混じり、よどんだ空気は息苦しいほどだったろう。そこへ楽器の調べや歌声、ダンサーが床を踏みならすステップ音、絶えざるおしゃべり、グラスや食器の触れ合う音まで加わる混沌こんとん状態である。

中野京子「同上」


背の高い鏡


絵の構図の大きな特徴は、カンヴァスの多くを鏡像が占めていることです。そしてよく指摘されることですが、この鏡像は一見リアルに見えてそうではありません。

まず、売り子嬢の向かって左にある酒瓶の鏡像が奇妙です。カウンターと鏡はカンヴァスに平行なはずなのに、酒瓶の鏡像の位置は右に偏り過ぎています。このように映るためには、鏡がカウンターに対して斜め(=向かって左に奥行きがあり、右がせり出してきている)になっていなければなりません。また、位置だけではなく酒瓶の数が不一致だし、シャンパンとビールの位置関係が鏡像で逆転しています。

何より奇妙なのは、カンヴァスの右の方の女性の後ろ姿です。これは売り子嬢の鏡像と考えるしかないわけですが、だとすると酒瓶と同じで、鏡を斜めに設置しない限りこの位置に映ることはありえない。

その売り子嬢と話している髭を蓄えたシルクハットの紳士ですが、この紳士は左右の位置関係に加えて高さが変です。フォリー・ベルジェールのスタンドバーの床はホールの床より高いので、本来なら彼女の方が紳士を見下ろすはずですが、それが逆になっている。中野さんは「厳然たる階級の上下を示すごとく、見下ろしているのは紳士だ」と書いています。

マネは意図的な空間処理をして、アートとしての構図を目指しました。中野さんは次のようにまとめています。


ありない場所にヒロインの背中が映る ─── イルージョンなのだ。フォリー・ベルジェール自体が壮麗そうれいなイルージョンなのと同じように。

中野京子「同上」


空中ブランコ乗り


中野さんは『フォリー・ベルジェールのバー』に描かれている2人の女性のことを書いています。一人はもちろんスタンドバーの売り子嬢ですが、もう一人は空中ブランコ乗りです。このあたりが評論のコアの部分です。

まず空中ブランコ乗りですが、カンヴァスの左上に空中ブランコと青緑の靴を履いた小さな足(=女性の足)が描かれています。情報はこれだけなので、どんな女性かはわかりません。ただ、空中ブランコ乗りは当時の貧しい少女の憧れの職業だったといいます。


空中ブランコ乗りは ── オペラ座のバレリーナと同じく ── 貧しい少女の憧れだった。報酬は多く、金持ち連中の品定めの対象なので、チャンスをつかめばステップアップできる。しかし曲乗りには常に危険が伴い、怪我けがをしたら続けられない。

後年、著名な画家ユトリロの母となり、自らも画家として名をなすシュザンヌ・ヴァラドンも、少女の頃の夢は空中ブランコ乗りだった。11歳から働きづめに働いてついに15歳で夢をかなえるが、数年後に落下してモデル業へ転じた(ロートレックが意志的で個性的な彼女を描いている)。後の展開を考えれば、ブランコから離れざるを得なくなったのも不幸とばかりは言えないが、怪我をした当初のショックはいかばかりだったか。補償も何もなかったのだ。

中野京子「同上」

The Hangover (Suzanne Valadon).jpg
アンリ・トゥールーズ = ロートレック(1864-1901)
「二日酔い(シュザンヌ・ヴァラドン)」(1887/9)
(ハーバード美術館)

ユトリロは10代でアルコール中毒になるのですが、その治療の一貫で母は息子に絵を描くことを勧めます。母は、大画家になるような絵の才能が息子にあるとは思っていなかったようです。こういった話は、シュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロの "母子物語" によく出てきます。もし、ヴァラドンが空中ブランコで怪我をしなかったらモデルになることはなく、従って画家になることもなかったと推察できる。ヴァラドンとユトリロの親子関係の発端は、空中ブランコからの落下にあるとも言えそうです。


スタンドバーの売り子嬢


さて『フォリー・ベルジェールのバー』のヒロインである、スタンドバーの売り子嬢です。中野さんは彼女の境遇と心情を想像する文章を書いているのですが、そこが評論のキモの部分です。少々長くなりますが、そのあたりの文章を引用します。


大理石のカウンターに両手を乗せ、金髪の売り子嬢はまっすぐ正面を向いている。視線は定まらない。整った顔立ちとぼってりした官能的な唇。だが表情はうつろだ。ほんの一瞬、孤独が木枯こがらしのようによぎったとでもいうように。

当時の流行色は黒なので、ドレスもチョーカーも黒。肌の白さ、明るい髪の毛、そして頬紅の赤を引き立てる。レースで縁取りしたドレスの胸元はかなり大胆にあき、その谷間を隠すように生花が飾られている。上着のボタンがまっすぐ列をなし、ヒロインの存在感を強調する。

中野京子「同上」

A Bar at the Folies-Bergere.jpg
エドゥアール・マネ
「フォリー・ベルジェールのバー」
コートールド・ギャラリー(ロンドン)

"ありえない位置" に描かれた女性の後ろ姿が売り子嬢だとすると、彼女はシルクハットの紳士と向かい合っていることになります。はたしてそれは現実なのか、それともイルージョンなのか。フォリー・ベルジェールは現実世界であると同時に、客にイルージョンを提供しています。だとするとこの作品の鏡の向こうの世界も、現実の反映と同時に、その一部は幻影なのかもしれない ・・・・・・。


空虚なひとみの売り子嬢は、実際に今、紳士と向き合っているのだろうか、それとも想像の中でそう願っているだけなのか。あるいはすでにもう紳士と何か言葉をわし、期待はずれだったのか、約束はしたが心おどるものではないのか。

そもそも彼女に肝心かんじんな能力があるのだろうか。男に夢をみさせることによって、この世を乗り切る能力が ・・・・・・。

19世紀後半のパリ。あなたは貧民街に生まれた。父が誰か、知らない。母は病弱だ。あなたはろくに教育も受けられず、母と自分自身を養うために必死にかせがねばならなかった。花売り、走り使い、傘工場の工員、洗濯女、お針子、モデル、エトセトラ、エトセトラ。女性の働き口は極端に少なく、給金はすずめの涙。歌手やバレリーナになるだけの才能もない。唯一の救いは、若さと綺麗な顔。それだけを資本に短期間にい上がらねばならない。失敗したら街角に立つ老いた娼婦という末路まつろがあるのみだ。

フォリー・ベルジェールで売り子嬢の募集があった。口をきいてくれた男に何度か嫌な思いをさせられたが、耐えてようやく仕事を手に入れた。チップが多いので、実入りは悪くない。いろんな男が近づいてくる。目をみはるほどの美貌の青年にビールを売ったが、自分と同じ貧しさとギラギラした野心の匂いをぐ。用はない。相手もこちらに用はない。

やがてあなたが空中ブランコ乗りの少女と仲良くなり、ときどき言葉を交わす。似たり寄ったりの境遇だったが、観客をかす芸ができる少女をうらやむ。しかし少女は練習中にブランコから墜落し、足を痛めて店から去っていった。

数年たち、あなたはあせりだす。早く良きパトロンを見つけなければ、若い新人に仕事を奪われてしまう。髭の紳士が話しかけてきた。好きなタイプではない。しかしそんなことを言っている場合だろうか。妥協だきょうすべきではないのか。

運命の分岐点に立つあなたの前を、ふと孤独が木枯らしのようによぎった ・・・・・・。

中野京子「同上」

中野京子さんの絵画の評論は、画家が絵に込めた(ないしは秘めた)物語を解き明かす、というタイプが多いわけです。もしくは、制作の背景や画家の心情と絵画表現との関係性を明らかにするタイプです。しかし上の引用はそうではなく、絵から受ける印象をもとに物語を想像(創作)したものです。それもまた、絵画を鑑賞する一つの方法です。その中にさりげなくモーパッサンの『ベラミ』の主人公を思わせる表現(貧しいが美貌の青年)と、シュザンヌ・ヴァラドンの10代の経験(空中ブランコからの転落)を織り込んだのが、上に引用した文章なのでした。

最大のポイントは、売り子嬢の「空虚な瞳、虚ろな表情」です。引用しませんでしたが中野さんは「目の焦点はどこにも合っていない。虚無」とも書いています。もし彼女が今現在、シルクハットの紳士と会話しているのなら「虚ろな表情」はおかしいわけです。売り子嬢としての "仕事用のみ" を浮かべているはずです。しかしそうはなっていない。ということは、カンヴァスの右側に描かれた彼女と紳士の鏡像は、彼女の幻想(ないしは期待)かもしれないし、あるいは数10分前の回想かも知れない ・・・・・・。そう思わせるところがこの作品のポイントであり、そこから中野さんのような創作物語も生まれるわけです。

人は人の表情に敏感です。ちょっとした表情の変化、目や口や頬の微細な動きが作り出す "光" や "影" を感じ取ってしまいます。それは人がこの社会で生きていくために大切な能力です。マネの筆致は「空虚な瞳、虚ろな表情」とる人に感じさせるヒロインの表情を作り上げた。それがこの絵に物語性を付与した。そういうことだと思います。

この作品には何重ものたくらみや仕掛けが込められています。その仕掛けの中で、大都市パリの "今" を描き切ったものと言えるでしょう。


ラス・メニーナス


さて、『ラス・メニーナス』(No.19「ベラスケスの怖い絵」に画像を引用)のことです。中野さんは『フォリー・ベルジェールのバー』について、

  ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』を意識したものであろう。

と、さらりと書いているのですが、なぜそういった推測が出てきたのでしょうか。また、これは妥当なのかどうか。

一見すると『ラス・メニーナス』を意識したとは見えないのですが、おそらく「たくらみのある空間構成」という点が似ていて、そういう推測になったのだと考えられます。

一般に、画家が先人にインスピレーションを得て絵を描く場合、そのありようは多様で、かつ微妙です。思い出すのが「ラス・メニーナスへのオマージュ」として描かれた、ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)の『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館。以下「ボイト家の娘たち」)です。No.36「ベラスケスへのオマージュ」で紹介した絵ですが、しくも『フォリー・ベルジェールのバー』と同じ年に描かれました。No.36 にも書いたのですが、この絵は2010年にボストン美術館からプラド美術館に貸し出され、プラド美術館は招待作品として『ラス・メニーナス』と並べて展示しました。天下の2大美術館が「ボイト家の娘たち」はベラスケスを踏まえた絵だと認めたことになります。

一見しただけでは「ボイト家の娘たち」が『ラス・メニーナス』へのオマージュ作品とはわかりません。しかしよく見ると空間構成に類似性があります。まず手前に室内の光、その奥に闇、闇の向こうに窓の光という空間構成であることです。また、4人の姉妹を年齢順に手前から奥へと、ポーズを変えて配置して空間を演出しています。これによって一つの空間に「少女の成長 = 時間の流れ」を表現したかのように見える。2つ描かれている有田焼の大きな壷の配置も独特です。こういった「企みのある空間構成」が似ています(その他、No.36 参照)。

だとすると、マネの『フォリー・ベルジェールのバー』が『ラス・メニーナス』を意識したぐらいのことは十分にありうる。それに、マネは明白にベラスケスへのオマージュだとわかる作品を描いています。それが『悲劇役者(ハムレットに扮するルビエール)』(1866。ワシントン・ナショナル・ギャラリー)で、この絵がベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』に感銘を受けて描かれたことは、No.36「ベラスケスへのオマージュ」に書きました。

さらにマネは『ラス・メニーナス』を絶賛しています。No.230-1「消えたベラスケス」で紹介した、英国の美術ジャーナリスト、ローラ・カミングの本には、『ラス・メニーナス』を見たマネについて次のように書かれています。


ここが終着点だ。これを越えるものはない。プラド美術館でこの絵を見たマネは、そういった。この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人は ── 自分も含め ── この上さらに絵を描こうとするのだろう、と。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.334
(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)

そこまで絶賛する絵なのだから、画家人生の最後に『ラス・メニーナス』を意識した絵を描くことは十分考えられると思います。『悲劇役者』ならスペイン訪問(1865)のすぐあとに描けた(1866)。しかし『ラス・メニーナス』を踏まえた絵など、そう簡単に描けるものではない。マネはいろいろと構想を練り、やっと16年後に『フォリー・ベルジェールのバー』に辿たどりついた ・・・・・・ というような想像をしてもよいと思います。

そして『ラス・メニーナス』と『フォリー・ベルジェールのバー』の類似性を言うなら、やはり「鏡」です。『ラス・メニーナス』のキー・アイテムの一つは国王夫妻が映っている鏡です。ということは、鑑賞者の位置には国王夫妻がいることになります。そのアナロジーから言うと『フォリー・ベルジェールのバー』の鑑賞者の位置にはシルクハットの紳士がいることになる。いや、そんなことはありえない、あまりに位置関係が違い過ぎる。とすると、紳士の鏡像は幻影なのか ・・・・・・。

鏡を、19世紀の時点で最大限に効果的に使った絵、それが『フォリー・ベルジェールのバー』だと言えるでしょう。


鏡の中の世界


その鏡ですが、『ラス・メニーナス』の鏡は数十センチ程度の小さなものです。これは17世紀の絵であって、当時は完全に平面の大きな板ガラスを製造するのが困難でした。ところが19世紀のマネの時代になると、技術進歩によってヒトの背丈より高いような鏡が作れるようになった。

現代の我々は、人間の背丈より高い大きな鏡を見ても何とも思いません。そういう鏡をよく見かけるからです(私の家にもある)。しかし19世紀の時点で大きな鏡を目のあたりにした普通の市民は感激したのではないでしょうか。鏡の向こうにもうひとつの世界が展開しているようにリアルに思えるのだから。

鏡で思い出すことがあります。マネと同じ年に生まれた英国の学者で作家のルイス・キャロル(1832-1898)は、1865年に『不思議の国のアリス』を出版しました。これが大変に好評だったため、キャロルは続編の『鏡の国のアリス』(1871)を出版しました。『フォリー・ベルジェールのバー』が描かれる10年前です。この本の原題は『Through the Looking Glass - 鏡を通り抜けて』で、アリスが「鏡の向こうはどんな世界だろう」と空想するところから始まるファンタジーです。原書には、まさにアリスが鏡をすり抜ける挿し絵があります。『不思議の国のアリス』ではウサギの穴が異世界への入り口でしたが、今度は「姿見」が別世界への入り口なのです。

ThroughTheLookingGlass.jpg
鏡の国のアリス」より
Through the Looking Glass
初版本にジョン・テニエルが描いた挿し絵

キャロルにとっても、大きな鏡や姿見によって "こちらの世界" と "あちらの世界" が同居するようにリアルに感じられるのが、インスピレーションの源泉となったのではないでしょうか。『鏡の国のアリス』のストーリーのキー・コンセプトは、"逆転"、"あべこべ" です。鏡の向こうの世界は、現実(=真実)を映し出すものであると同時に、左右が反転した幻影の世界、イルージョンなのです。

おそらくマネもフォリー・ベルジェールのスタンドバーの後ろにしつえられた鏡に引きつけられるものがあったのだと思います。プラド美術館で見た『ラス・メニーナス』の記憶が戻ってきたのかもしれない。

『フォリー・ベルジェールのバー』は、近代文明の産物(鏡)と大都会の歓楽街(店)、その都会で必死に生きる女性という "現代" を描き切った傑作でしょう。もちろんそこに『ラス・メニーナス』に迫ってみたいという画家としての "野心" があったのかも知れません。


英国・BBCの調査


『フォリー・ベルジェールのバー』の評論は、中野京子さんの「運命の絵」シリーズの2作目(副題:もう逃れられない)に掲載されたものですが、1作目の「運命の絵」(文藝春秋。2017.3.10)に興味深い話がのっていました。ちょっと引用してみます。


面白い調査がある。

2005年に英BBCラジオが行った聴取者アンケート、「イギリス国内の美術館でることができる最も偉大な絵画は何か」に、12万人もが回答。結果は日本人にとって(いや、たぶん世界中でも)意外なものだ。

1位 『戦艦テレメール号』
ターナー(英)
2位 『干草車』
コンスタブル(英)
3位 『フォリー・ベルジェールのバー』
マネ(仏)
4位 『アルノルフィーニ夫妻の肖像』
ファン・エイク(フランドル)
5位 『クラーク夫妻と猫のパーシー』
ホックニー(英)
6位 『ひまわり』
ゴッホ(蘭)
7位 『スケートに興じるウォーカー師』
レイバーン(英)
8位 『イギリスの見納みおさめ』
ブラウン(英)
9位 『キリストの洗礼』
デラ・フランチェスカ(伊)
10位 『放蕩児一代記』
ホガーズ(英)

投票者の年齢性別は不明だが、ちょっとこれはないのでは ・・・・・・ と思う作品がいくつか混じっている。画家10人中、6人がイギリス人(スコットランドを含む。また一人はアメリカで活躍)というのも身贔屓みびいきすぎる。「最も偉大な絵画」ではなく、単に「お気に入りの絵」とすべきではなかったか。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー1館だけでも、ティツィアーノ、ルーベンス、ボッティチェリ、ブロンツィーンノ、ホルバインなど傑作ぞろいなのに見向きもしない。それなら我が国にゆずってほしい、とイタリア人が言いそうだ。イギリス人は視覚芸術がわかっていない、とフランス人が言いそうだ。

ただこのランキングには「文学の国」イギリスらしさが如実にょじつにあらわれており、肖像画や風景画にさえ物語性を求める傾向がうかがえる


運命の絵1.jpg
表紙の絵はシェフールの「パオロとフランチェスカ」
6人もランキング入りしたイギリス人画家の作品の中で、唯一、納得性が高いのは、1位のターナーの『戦艦テレメール号』でしょう。役目を終えた戦艦が解体のためにテムズ川を曳航されていく、夕陽を背景に、哀愁を帯びて ・・・・・・ という絵です。しかしその他の絵はあまり知らないし、名前さえ知らない画家がある。コンスタブルの『干草車』はどこかでた記憶があるのですが、忘れてしまいました(調べてみると、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)。

「自国の画家びいき」になってしまったのはやむを得ないのでしょう。逆のことを考えてみたらわかります。日本で NHK が同様の調査をしたとして、エル・グレコ(大原美術館)、ゴッホ(損保ジャパン日本興亜美術館)などに加え、長谷川等伯、円山応挙、伊藤若冲、葛飾北斎、横山大観、東山魁夷の傑作がランクインしたとしても(これは例です)、一般のイギリス人に理解できるのは北斎ぐらいに違いないからです。

「自国の画家びいき」はやむを得ない。それを認めたとして、だったらジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』(テート・ブリテン)が入っていないのは、いったいどういう訳なのでしょうか。「文学の国」イギリスでは絵画に物語性が求めらるとしたら、『オフィーリア』はイギリス人の誰もが知っている物語がテーマなのに ・・・・・・。やはり不思議なリストです。



不思議なリストではあるが、注目すべきは "外国画家" の作品です。ランクインした4作品のトップがマネの『フォリー・ベルジェールのバー』なのですね(しかも3位)。それも『アルノルフィーニ夫妻の肖像』や『ひまわり』といった "強豪"、その他の中野さんがあげている画家やピカソ(たとえばテート・ギャラリーの『泣く女』)などの "強豪" を押さえてのトップです。

その理由はというと、中野京子さんがあげたキーワードである "物語性" ではないでしょうか。『フォリー・ベルジェールのバー』以外の "外国画家" の作品もそうです。ファン・エイクの絵は、種々の解説にあるように明らかに物語性があります(またしても "鏡" が登場。No.93「生物が主題の絵」に画像を掲載)。デラ・フランチェスカの絵のような宗教画(や神話画)は、その背後に "物語" がべっとりと付着していることは言うまでもありません。ゴッホの『ひまわり』は、それ自体には物語性がありませんが、一般の鑑賞者は、あまりにも有名になってしまったゴッホの生涯、特にパリ→南仏→パリ近郊という約3年間の "ゴッホ物語" を意識するわけです(そう言えば、耳切り事件の直後の包帯をした自画像がコートールドにある)。

そういった中での『フォリー・ベルジェールのバー』です。この絵の前に立つと、まず "普通とはちょっと違う絵" だと直感できます。そして、売り子嬢や、カンヴァスに配置されたさまざまなアイテムを順にていくと、次第に "物語" を意識するようになる。

この絵が傑作たるゆえんは「現代を描き切ったこと」に加え、そこに込められた「物語性」である。そういうことだと思います。




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No.254 - 横顔の肖像画 [アート]

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」の続きです。No.217 ではルネサンス期の女性の横顔の肖像画で傑作だと思う作品を(実際に見たことのある絵で)あげました。次の4つです。

A: ピエロ・デル・ポッライオーロ
  若い貴婦人の肖像」(1470頃)
 ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ)

B: アントニオ・デル・ポッライオーロ
  若い女性の肖像」(1465頃)
 ベルリン絵画館

C: ドメニコ・ギルランダイヨ
  ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
 ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)

D: ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス
  ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

Profile.jpg

A と C はそれぞれ、ポルディ・ペッツォーリ美術館とティッセン・ボルネミッサ美術館の "顔" となっている作品です。そもそも横顔の4枚を引用したのは、ポルディ・ペッツォーリ美術館の "顔" が「A:若い貴婦人の肖像」だからでした。その A と B の作者は兄弟です。また D は、ミラノ時代のダ・ヴィンチの手が入っているのではないかとも言われている絵です。

これらはすべて「左向き」の横顔肖像画で、一般的に横顔を描く場合は左向きが圧倒的に多いわけです。もちろん「右向き」の肖像もあります。有名な例が、丸紅株式会社が所有しているボッティチェリの『美しきシモネッタ』です。これは日本にある唯一のボッティチェリですが、いつでも見れるわけではないのが残念です。

というように「右向き」もありますが、数としては「左向き」が遙かに多い。その「左向き」が多い理由ですが、No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で心理学者の三浦佳世氏の解説を紹介しました。左向きが多いのは、

顔の左側の方が右脳の支配によって豊かな表情を示す

画家が右利きの場合、右上から左下に筆を描きおろす方が簡単

西洋の絵では一般に光源を左上に設定するため、左向きの顔は光に照らされて明るく輝く

の3つで説明できると言います。そして、3番目の「西洋の絵では一般に光源を左上に設定する」理由は、

アトリエで画家は左側に窓があるようにイーゼルを立てることが多い。多くの画家は右利きだから

人間は左上からの光に最も鋭敏に反応する生理的性質がある

です。前者は、特に照明が発達していない近代以前ではそうでしょう。後者の「左上からの光に最も鋭敏に反応する」というのは心理学者らしい説明です。人間は左上からの光に照らされた状況で認知能力が最も良く働くようにできているそうです(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」参照)。



A,B,C,D はいずれも15世紀後半のイタリア人画家による作品です。ルネサンス期のイタリアで横顔の肖像が多数描かれたからですが、しかし近代になってからも横顔の肖像は描かれていて、その中には有名な作品もあります。今回はそういった中から何点かを取り上げたいと思います。


ホイッスラー


画家の母の肖像.jpg
ジェームス・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)
画家の母の肖像」(1871)
(オルセー美術館)

この絵はオルセー美術館にあるので、実際に見たことがある人も多いと思います。ホイッスラーの代表作(の一つ)とされている作品です。

この絵のように「全身の座像を真横から描く」肖像画は、あまりない構図だと思います。著名な画家の有名作品では、ちょっと思い当たりません。近いのは、フラゴナールの『読書する娘』(1769頃。No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)や、次のカサットの作品かと思います。ただしこれらは全身像ではありません。その意味でホイッスラー絵は西洋美術史でも際だっているのではないでしょうか。

この絵の当初の題名は「灰色と黒のアレンジメント 第1番」だったそうです。黒、灰色、茶色系で統一された、モノトーンっぽい色使いが印象的です。直感的に思い出すのは同じホイッスラーの「白のシンフォニー No.1:白衣の少女」です(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」)。こちらの方は、さまざまな種類の "白" で画面が構成されています。シンフォニーが音楽用語ということからすると、アレンジメントも「音楽用語としてのアレンジメント = 編曲」だと考えられます。

ホイッスラーの母親は敬虔なクリスチャンだったようです。この絵の全体に漂うのは「静かで」「落ち着いていて」「抑制が利いていて」「謙虚で」「質素で」「礼儀正しく」「穏和な」感じです。おそらく母親は神への信仰とともにまじめに働き、子を育て、コミュニティーの一員としての役割や義務を全うしてきたのでしょう。ホイッスラーの母親の経歴は全く知りませんが、そういうことを感じさせる絵です。

その感じを倍加させているのが「構図」と「色使い」です。構図について付け加えると、背景になっているカーテン・床・壁・額縁・椅子の足の直線群と「左向き全身座像」の曲線群が対比され、調和しています。この構図のとりかたと黒・灰・茶の色使いで、画家は母親の真の姿を、その生涯を含めて表現しようとした。と同時に、この絵には画家の母親に対する敬愛の念がにじみ出ているようです。いい絵だと思います。


カサット


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メアリー・カサット(1844-1926)
秋 - リディアの肖像」(1880)
(プティ・パレ美術館)

パリで活躍したアメリカ人画家、メアリー・カサットのことは、
 No.86「ドガとメアリー・カサット」
 No.87「メアリー・カサットの少女」
 No.125「カサットの少女再び」
 No.187「メアリー・カサット展」
の4回に渡って書きました。今回もカサットの作品を引用します。

描かれているのはメアリーの8歳上の姉、リディア・カサットです。この絵が描かれる3年前(1877年。メアリーがドガに初めて会った年)、メアリーの両親とリディアはアメリカを離れてパリに移り住み、メアリーと同居を始めました。メアリーは姉をモデルにかなりの作品を描いていて、このブログではリディアがドガの姪と馬車に乗っている絵を引用したことがあります(No.97「ミレー最後の絵:続フィラデルフィア美術館」)。またルーブル美術館におけるメアリーとリディアを描写したドガの版画もありました(No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」)。そのリディアはブライト病という腎臓疾患にかかっていて、1882年に亡くなります。ちなみにメアリーは父親も母親もパリで看取りました(それぞれ1891年と1895年)。

この絵はリディアが、おそらくパリの公園のベンチに座っている姿の描写だと考えられます。リアルに描かれたリディアの表情は、病気のせいか非常に固いものです。ただ、その周りには秋を感じさせるさまざまな色彩がちりばめられていて、リディアの服のあたりはまるで抽象画のようです。その対比が印象的な作品です。


クリムトの2作品


横顔を見せる少女.jpg
グスタフ・クリムト(1862-1918)
横顔を見せる少女」(1880頃)
(東京富士美術館)

制作年をみてもわかるように、クリムトが18歳の頃に描いた作品です。また 24cm × 17cm という小さな絵です。日本にある作品で、八王子の東京富士美術館が所蔵していています。

今まで引用した若い女性の絵とはうってかわって、大変に暗い色調です。黒と茶色系と少しの暗緑色しか使われていない。少女の表情は左の方にある何かを凝視している感じです。何かに挑もうとしているような、鋭い視線を投げかけています。

その中で強く印象付けられるのは、ハイライトがかかった薄青色の瞳と、赤いルージュをひいた唇と、首飾りの白いきらめきです。この3つのポイントが特に目立つ。東京富士美術館の解説では「後のクリムトの絵画を特徴づける装飾性の萌芽を感じることができる貴重な作品」とありました。この絵自体に装飾性はないので「装飾性の萌芽を感じることができる」とした美術館の意図はわかりませんが、瞳・唇・首飾りだけを浮かび上がらせるようにした描き方が "萌芽" ということかもしれません。



ヘレーネ・クリムトの肖像.jpg
グスタフ・クリムト
ヘレーネ・クリムトの肖像」(1898)
(ベルン美術館)

クリムトが36歳ごろの作品です。「横顔を見せる少女」とはうってかわった感じの絵で、愛らしい少女を描いています。

ヘレーネ・クリムトはクリムトの弟・エルンストの娘で、つまりクリムトの姪です。伝記によるとエルンストは1891年に結婚、同年にヘレーネが生まれますが、翌1892年にエルンストは急死してしまいます。クリムトは残された母娘を預かる身となり、ヘレーネの法律上の保護者になります。つまりヘレーネはクリムトにとって "娘同然の" 存在だったことになります。本作はヘレーネが6歳のときの作品です。

クリムトの絵というと、その特徴は装飾性です。神話などの空想の世界をを題材にした絵はもちろん、リアルな筆致で描いた肖像にも周りに花を配置したり、装飾模様や形と色のパターンを描き込んだりする(No.164「黄金のアデーレ」)。風景画も傑作が多数ありますが、いかにも装飾的です。

それに対して「ヘレーネ・クリムトの肖像」にはクリムトらしい装飾性が全くありません。リアルに描かれた少女は横顔だけですが、あくまで愛らしく、素早い筆で描かれた衣服の描写との対比が心地よい。

この絵は、画家が "自分の子供" を描いたと考えればよいのだと思います。一般に画家の子供がモデルという絵をときどき見かけますが、その画家の画風とは違っていて "アレッ" と思うことがあります。つまり画家の本来の姿の一端を覗いたような感じを受けることがある。この絵もそういった一枚だと思います。

付け加えるとこの絵の特徴は「上半身だけを描き、顔だけでなく体も真左を向いた絵」ということです。そこが「横顔を見せる少女」(やホイッスラー、カサットの絵)と違います。この特徴は、初めに引用したルネサンス期の肖像画と同じです。ひょっとしたらクリムトは、愛らしい姪を描くときに400年前のイタリアの肖像画を踏まえたのかも知れません。

この絵は、2019年4月23日から日本で開催される「クリムト展 ── ウィーンと日本」で展示されるようです(東京都美術館、豊田市美術館)。是非、鑑賞にいきたいと思います。

【補記:2019.4.28】 2019年4月23日から東京都美術館で開催されているクリムト展で「ヘレーネ・クリムトの肖像」が展示されているので行ってきました。初めて実物を見ましたが、想像していた以上に明るく、全体がバラ色に輝いているような印象でした。背景も含めて、ところどころの "赤み" がよく利いています。大変に写実的で丁寧に描かれたヘレーネの頭部(髪・顔)と、荒々しくスピード感溢れる筆致で描かれた衣装の対比が実際に見ると強烈で、グスタフ・クリムトが極めて確かな画力をもったアーティストであることがよくわかりました。


ワイエス


Gunning Rocks.jpg
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)
ガニング・ロックス」(1966)
(福島県立美術館)

ワイエスの絵は今まで、
 No.150「クリスティーナの世界」
 No.151「松ぼっくり男爵」
 No.152「ワイエス・ブルー」
の3回書きました。また、この絵を使ったワイエス展のポスターを No.151 で引用したことがあります。日本の福島県立美術館が所蔵している絵です。

題名となっている『ガニング・ロックス(Gunning Rocks)』とは何かですが、これはモデルの男性の名ではありません。ワイエスはペンシルヴァニア州のチャッズフォード(フィラデルフィア近郊)の生家と、メイン州の海岸地方であるクッシングの別荘を行き来していました。ガニング・ロックスとはクッシングにも近い、沖合いの小島の名前です。gunning とは "銃で撃つ" という意味なので、切り立った岩が突き出ているような風景を想像します。

描かれている男性はフィンランド移民とネイティヴ・アメリカンの血を等分に受け継いだウォルター・アンダーソンという人で、ワイエスは彼とよく小舟で海に漕ぎ出したそうです。

なぜ肖像画の題名を小島の名前にするのでしょうか。ワイエスの絵には、謎めいた題名が付けられていて、それが意味をもっていることがあります。福島県立美術館が所蔵する『松ぼっくり男爵』がその典型です(No.151「松ぼっくり男爵」参照)。おそらくワイエスとしては、この知人男性の今までの生涯、性格や人となり、日々の生き方を、海の中にポツンと存在する小島にたとえたのではないでしょうか。荒波にもまれても微動だにせず、厳然として屹立している小島にこの男性を重ねた ・・・・・・。あくまで想像ですが、そういう風に思います。

もう一つのこの絵のポイントは "民族" です。クッシングの近くにはフィンランド移民のコミュニティーがあったようで、そこの人たちをモデルにワイエスは絵を書いています。また『クリスティーナの世界』にも出てくるオルソン姉弟はスウェーデン移民の子です。『松ぼっくり男爵』のテーマであったカーナー夫妻はドイツ移民だし、その他、アフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカンの肖像や風俗を描いています。多様性こそアメリカの特質、というのはワイエスの信念だったようです。その一端が現れたのがこの絵だと思います。

さらに付け加えると、今まで引用してきた絵(=油絵)と違ってこの絵はドライブラッシュの技法を駆使した水彩で描かれています。ワイエスの作品は我々が暗黙に抱いている水彩のイメージを覆すものが多い。この絵もそうです。


横顔を描く


これらの肖像画を見て感じることがあります。No.217 にも書いたのですが、まず画家が表現しようとしたものは横顔の美しさ(特に女性)でしょう。また男女を含めて横顔にその人物の性格なり特徴が現れるということがあり、そこを描こうとした作品もありそうです。

しかし横顔は風貌の一部です。人物全体をとらえたという感じはしません。鑑賞者としては「正面から見た顔の輪郭」や、肖像画では一般的な「4分の3正面視のときの表情」を想像することになります。その「想像させる」ところが横顔肖像画の一つのポイントだと思います。

さらに振り返ってみると、傑作と言われる肖像画は描かれた人物の内面や性格を映し出した作品が多いわけです。少なくとも鑑賞者が人物の内面を感じてしまう絵が、名作と言われる肖像画です。この観点からすると、横顔だけの絵は画家にとって不利です。「目は口ほどに物をいい」と言うように、人は目線や目つきによってその時の人物の感情とか内面を推測するからです。しかし画家にとって不利だとはいいながら、引用した横顔肖像画は人物表現としても成功している。

横顔のモデルは画家(=鑑賞者)と視線を合わせることがありません。鑑賞者に何かを働きかけるとか、何かを訴えるような感じはしない。心理的に手前へ動き出す気配はなく、動きが止まったように感じます。人物は静かに絵の中にたたずんでいて、しかし、堂々とそこに存在している。この "感じ" が横顔の肖像画を見るポイントなのだと思います。




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No.251 - マリー・テレーズ [アート]

このブログではアートのジャンルで数々のピカソの絵を取り上げましたが、今回はその継続で、マリー・テレーズを描いた作品です。今までマリー・テレーズをモデルにした作品として、

◆『マヤに授乳するマリー・テレーズ
  No.46「ピカソは天才か」

◆『本を持つ女
  No.157「ノートン・サイモン美術館」

の2つを取り上げました。ピカソは彼女をモデルとして多数の作品をさまざまな描き方で制作していますが、今回はその中でも最高傑作かと思える絵で、『夢』(1932)という作品です。以下、例によって中野京子さんの解説でこの絵を見ていくことにします。中野さんは『夢』の解説でピカソとマリー・テレーズの出会いから彼女の死までを語っているので、それを順にたどることにします。

  以下の引用では漢数字を算用数字に改めました。また段落を増減したところがあります。下線は原文にはありません。

Picasso - Le Reve.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
」(1932)
(個人蔵)


マリー・テレーズとの出会い



1927年のパリ。45歳のパブロ・ピカソは街で金髪の少女を見かける。溌剌はつらつたる健康美にあふれた彼女にすぐ声をかけていわく、

「マドモアゼル、あなたは興味深い顔をしておられる。肖像画を描かせてください。私はピカソです」

ずんぐりした小男ながらカリスマ的魅力を放ち、すでに国際的な大画家でもあったピカソにしかできない芸当だ。

あいにくこの少女、17歳のマリー・テレーズ・ワルテルは、ピカソの名を知らず、絵画に興味は無かった。それでも彼についてゆき、モデルになり、愛人になり、妻とは離婚するとの約束を信じて子供も生む。


この出会いのエピソードは有名な話です。ピカソは街頭で30歳近く年下の少女を(結果として)ナンパしたわけですが、理由は "興味深い顔" なのです。そのマリー・テレーズの写真が次です。これは中野京子さんの本にものっている写真です。

Marie-therese-walter.jpg
マリー・テレーズ・ワルテル(1909-1977)


ピカソのミューズ



ピカソの派手な女性関係は伝説的だ。若く美しい女性からインスピレーションを受け、創造のエネルギーに転換してきた。その代わり飽きるのも速い。次から次へと恋の対象は変わってゆく。結婚は2回。愛人は無数。

ロシアの将軍の娘でバレリーナだった最初の妻は、ピカソを上流階級へと導いてくれた。写真家ドラ・マールのひりひりした感性は、ピカソを激しく刺激して傑作《泣く女》を描かせた。企業家の娘でソルボンヌ大学の学生だったフランソワーズ・ジローは、その知性と冷静さでピカソを魅了した。

中野京子「同上」

ここに出てくる3人の女性はピカソの生涯でも有名で、最初の妻のオルガ・コクラヴァはパリのピカソ美術館に有名な肖像画があります。ドラ・マールは『ゲルニカ』の制作過程を撮影したことで知られています。フランソワーズ・ジローはソルボンヌ大学の法科の出身というエリートで、父親の大反対を押し切って画家になった人です。しかし、マリー・テレーズは3人とは違いました。


そうした個性的な女性たちと比べると、マリー・テレーズは平凡だった。貧しい家に生まれ、学も才もない。にもかかわらず、彼女はかなり長くピカソのミューズであり続けた。

後年、フランソワーズ・ジローがマリー・テレーズと会ったときの印象を書いている。ギリシャ人のような輪郭りんかくの、独特な顔立ちをしており、他の誰よりもピカソに造形的な霊感を与えた理由もわかる、と

インテリの勝ち誇った表現がいやらしく感じられる。出身知性においても自分のほうが上だと言いたいようだ。マリー・テレーズがかつてピカソの愛を独占したのは、顔がエキゾチックだったからにすぎない。心や魂や才や学ではなく、肉体の「造形的」な要素が彼をきつけただけだ。

今やピカソはそんな表面的なことから離れ、本当に価値ある女性、すなわち自分に夢中で、この愛は不変である ── フランソワーズはそう言いたいのだ(たぶん)。

中野京子「同上」

中野さんによるフランソワーズ・ジローの内心の "推測" が正しいかどうかはさておき、上の下線のところ、つまり、

  (マリー・テレーズは) ギリシャ人のような輪郭りんかくの、独特な顔立ちをしており、他の誰よりもピカソに造形的な霊感を与えた理由もわかる

という発言は、その通りだと思いました。「ギリシャ人のような輪郭の、独特な顔立ち」は、上に引用したマリー・テレーズの写真を見ても感じられます。それが「ピカソに造形的な霊感を与えた」のも、全く確かに違いないと思いました。それには理由があって『本を持つ女』というピカソの作品を思い出したからです。



ここでちょっと中野さんの解説を離れて、ピカソがマリー・テレーズを描いた『本を持つ女』を振り返ってみます。この作品は No.157「ノートン・サイモン美術館」で書いたのですが、フランソワーズ・ジローの「マリー・テレーズがピカソに造形的な霊感を与えた」という発言を裏付けていると思うので、重複しますが再度取り上げます。


ピカソを引きつけた "造形的要素"


ノートン・サイモン美術館は米国・ロサンジェルス近郊のパサデナにある美術館ですが、ここにピカソの『本を持つ女』があります。

本をもつ女.jpg
パブロ・ピカソ
Woman with a Book(1932)
本を持つ女
ノートン・サイモン美術館

ノートン・サイモン美術館の公式ホームページには、次の意味のことが書いてあります。

  この絵はピカソがアングルの『モワテシエ夫人の肖像』を踏まえ、マリー・テレーズを描いたものである。

そのアングルの『モワテシエ夫人の肖像』は、現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している次の絵です。ノートン・サイモン美術館に行ったときには、この絵の写真が『本を持つ女』の傍に参考として掲示してありました。

モワテシエ夫人の肖像.jpg
ドミニク・アングル
「モワテシエ夫人の肖像」(1856)
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

本を持つ女 = マリー・テレーズのポーズはアングルの絵とそっくりです。モワテシエ夫人が持つ扇が、ピカソの絵では本に置き換えられています。本のページが "雑に" 開かれていますが、これはモワテシエ夫人が持つ "扇" をイメージしているのですね。マリー・テレーズの右上には、右向きの横顔の絵らしきものがありますが、これはアングルの「鏡に写るモワテシエ夫人の横顔」に相当します。こういう風に横顔が写ることは位置関係上ありえないのですが、絵画表現としてはしばしばあることです。

ピカソはアングルから影響を受けたとはよく言われることです。もちろん画家が先人からの影響を受けるのは当然であり、ピカソはエル・グレコから影響を受けたと自ら語っていたはずです(青の時代に典型的にみられる "引き伸ばされた身体")。ピカソは『本を持つ女』で、アングルを踏まえた絵だということを明白にしつつ、マリー・テレーズを描いた

ではなぜ『モワテシエ夫人の肖像』なのでしょうか。ロンドン・ナショナル・ギャラリーの『モワテシエ夫人の肖像』は座像ですが、その5年前に完成した夫人の立像が、ワシントン・ナショナル・ギャラリーにあります。モワテシエ夫人を真っ正面から描いた絵です。

Madame Moitessier.jpg
ドミニク・アングル
「モワテシエ夫人の肖像」(1851)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

フランソワーズ・ジローがマリー・テレーズを評した「ギリシャ人のような輪郭の独特な顔立ち」という発言でなるほどと思ったのですが、上に写真を引用したマリー・テレーズの顔立ちと、2枚のモワテシエ夫人の顔立ちには明らかな共通点があると思うのですね。つまり、鼻が高く、鼻筋がとおり、鼻筋が額へと一体化していくような彫りの深い顔立ちです(いわゆる "ギリシャ鼻")。これは古代ギリシャ彫刻によくあります。たとえば "ミロのヴィーナス" を思い浮かべるとよいと思います。

ということからすると「マリー・テレーズの顔立ちが、他の誰よりもピカソに造形的な霊感を与えた」というフランスワーズの発言はまさに図星でしょう。同様に、ピカソはアングルの『モワテシエ夫人の肖像』にビビッとくるものがあったはずです。ちなみにピカソの「新古典主義の時代」といわれる時期(1918~1925頃。マリー・テレーズと会うよりは前)には、マリー・テレーズ的(ないしはモワテシエ夫人的)な顔立ちの人物を登場させた絵を多数描いています。

白い帽子の女.jpg
パブロ・ピカソ
白い帽子の女」(1921)
オランジュリー美術館

1920年代の前半、ピカソはこのような顔立ちの女性を多数描いている。この絵についてオランジュリー美術館の公式サイトには「妻のオルガを思わせる」とあるが、それよりもこの女性の鼻筋の感じが印象的である。

以上の観点からすると『本を持つ女』はピカソ作品の中でも重要な作品ということになります。「アングル」「ギリシャ的な顔」「マリー・テレーズ」という、ピカソ芸術にとって大変重要な3つの要素が交わるところで成立した絵なのだから。

Portrait of Narie-Therese 1935.jpg
パブロ・ピカソ
マリー・テレーズの肖像」(1935)
紙に鉛筆
(Gagosian Gallery. New York)

写実的に描かれたマリー・テレーズのポートレート。ピカソに霊感を与えたという顔立ちがよくわかる。マリーの写真は何枚か残っているが、それと比較してもこの絵は(いくぶんの美化はあるものの)特徴をよくとらえている。金髪のショート・ヘアを表現する濃淡の鉛筆の線が的確で、さすがと言うしかない。額のまわりの金髪の表現などは適当に描いているように見えるが、決して誰にでも出来るものではない。中野さんは『夢』の評論の中で「ピカソなら線一本でも買いたいという人間が世界中にいた。今もいる」と書いているが、決して大袈裟な表現ではないと納得できる。


女の肖像(マリー・テレーズ・ワルテル).jpg
パブロ・ピカソ
マリー・テレーズの肖像」(1937)
(吉野石膏株式会社蔵)

リアリズムから全く離れた描き方だが、マリー・テレーズの肖像ということがよくわかる。



「マリー・テレーズの顔立ちが、他の誰よりもピカソに造形的な霊感を与えた」のは確かだとして、しかし、ピカソにとってのマリー・テレーズはそれだけではないというのが中野さんの論です。以降、中野さんの解説に戻ります。


マリー・テレーズへの愛



フランソワーズの自惚うぬぼれは二重の意味で間違っていた。

一つには、ピカソにとってフランソワーズもワン・オブ・ゼムだったこと。彼は巧妙に彼女をあざむき、別の若い女性との再婚に踏み切っている。もう一つには、マリー・テレーズを描いた数多くの絵が証明しているように、彼女への思いが ── 永久不変というわけにはゆかなかったにせよ ── 造形的興味に留まらず、まぎれもない深い愛からきていたことだ。

それはフランソワーズをモデルにした、ピカソにしては類型的でやや面白みに欠ける作品群と比べて一目瞭然いちもくりょうぜんである。彼女のような知に勝った女性は精神の愛を肉体の愛の上に置くのだろうが、しかし恋愛には上も下もない。

肉体でつながる愛、性愛が、薄っぺらだと誰に言えようか。マリー・テレーズのエロスは、いっときピカソを圧倒したのだ。フランソワーズの知性が、いっときピカソを圧倒したように。

どちらに対しても、だがピカソはそのさなかにあっては真剣だった。

中野京子「同上」

「マリー・テレーズを描いた数多くの絵が証明しているように、ピカソには彼女への深い愛があった」という主旨を中野さんは書いていますが、その通りだと思います。『夢』や『本を持つ女』を見て感じるのは、モデルの女性を "いとおしい存在" という目で描いていることです。モデルが明確なピカソの絵で、そういう風に感じるのはマリー・テレーズが最も多いと思います(あとはドラ・マールを描いた一部の絵)。



なかなか『夢』の評論にたどりつきませんが、ここまでが『夢』を理解するために必要な前置きです。


陶酔的な『夢』


Picasso - Le Reve.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
」(1932)
(個人蔵)

ここからが中野さんの『夢』の評論です。少々長くなりますが、文章の勢いを殺さないために、そのまま引用します。


マリー・テレーズを描いた代表作が、《夢》。彼女は女盛りの22歳だ。

まろやかな曲線、優しい色彩、とろけるような官能に満ち、ピカソ彼女からある種の(身勝手かもしれないが)やすらぎを得ていたことがわかる。マリー自身もピカソの前で安心しきって無防備にまどろむ。

ピカソはとにかく絵が上手い。少年時代にはもう「ラファエロのように」描けたと豪語しており、実際そのとおりだった。アカデミズムが要求するテクニックを完璧に我が物としていたから、そのままゆけばアカデミーのトップにも君臨できたろう。

だがそんなことに興味はなかった。

彼は常に絵画の新しい領域を開拓し、自在に目まぐるしく大胆に画法を変えてゆく。どう変えようと絵は売れた。生前に売れなかった絵はない。ピカソなら線一本でも買いたいという人間が世界中にいた。今もいる。

《夢》の線をみれば納得であろう。伸びやかで軽やかな線は、単純に描けそうに見えて、その実、ピカソならではの緻密ちみつな計算の上に名人芸が披瀝ひれきされている。

色彩の配分も完璧で、赤の隣の差し色に水色(首筋)を選ぶことは普通ならありえない。グリーンの壁、格子縞こうしじまに花をあしらった茶系のタペストリー、真っ赤な椅子とネックレス、強い色に囲まれたマリー・テレーズの、肌の白さと柔らかさが引き立つ。

肉体ばかりか心も、突つかれたら相手に合わせてやんわりへこむ、かぐわしいマシュマロのようだ。どこもかしこも彼女は甘い。

顔はキュビズムの手法で描かれている。ハート型の顔面が黒く太い直線で分割されることで、下半分は横顔にも見える。マリーにキスするピカソだとの説もあるが、額から真っ直ぐ長いギリシャ鼻と金髪からして、これもマリーであろう。横顔と正面が赤い唇で合体している。うっとりと美しく。

だがここにも直接的な性愛描写がある。半円の乳房の横に目を凝らしてほしい。白っぽいために目立たないが、屹立きつりつする男性器が描き込まれている。そこから腕にかけて黄色の二本の線が漏斗ろうと状を呈し、女性器を仄めかす。

中野京子「同上」

中野京子さんは文章が上手な人ですが、この『夢』を評した文章は特にうまいと思います。当然のことながら自分が惚れ込んだ絵についての文章がえることが多く、おそらくこの絵もそうなのでしょう。

最後の方で男性器と女性器について触れられています。普通の美術評論では、2つに分割された顔の上の方が男性器を表しているとされています。もしくは、マリー・テレーズの向かって右の肩から首と顔の形が男性器の暗喩とする見方もある。また、マリー・テレーズの両手の形が女性器を表すというのが一般的な見方です。その見方からすると、この絵はピカソが自分の性愛感情をまどろんでいるマリー・テレーズに投影した絵、となるでしょう。

しかし中野さんの見方では、男性器の表現は露わになっている乳房の横(=向かって左)です。小さなデジタル画像ではそれは分からないのですが、乳房の左の方が特に白っぽく描かれています。上のデジタル画像では乳房の左の方の上下に伸びる線が屹立した男性器ということになります。また女性器はそのさらに左の方の黄色い2本の線でほのめかされているとの見方です。

この見方によると性愛描写はあくまで "仄めかし" の程度で、それよりもこの絵の素晴らしさは、安心し切ってまどろむマリー・テレーズの姿であり、彼女の白く柔らかな肌であり、それを的確な描線と強い色彩配置で作品にしたピカソの力量だ、ということになるでしょう。中野さんの文章は、このような完璧な絵を描いたピカソへの賛美と、マリー・テレーズへのシンパシーに溢れています。そのシンパシーは、ピカソとマリー・テレーズとの出会い以降を綴った文章でも明らかです。



中野さんの『夢』についての評論は、次のように結ばれています。


本作はオークションに出される度に値が高騰し、2013年にはついに1億5500万ドル(およそ170億円)で落札らくさつされた。人気の程が知れよう。

さて、現実のマリーだが、本作の4年後に妊娠。離婚するから生めと言われ、女児を産む。

しかし声をかけられてから10年近くも日陰の身を押しつけてきた男が、約束を守るはずがない。ピカソは別の愛人のもとへ去り、哀れな妻子には涙金があてがわれる。マリーはピカソの死後、自殺した。

中野京子「同上」

この最後の文章を含めて、中野さんはピカソについて辛辣な表現を何回か使っています。つまり、

巧妙に彼女(=フランソワーズ)を欺き
約束を守るはずがない
哀れな妻子には涙金

というような言い方です。確かに「多数の傑作を生み出した偉大な芸術家」という面を取り払って男女関係を軸にピカソをみると、"男のクズ" ということになるでしょう。特に女性から見ると ・・・・・・。中野さんも "許せない男" という気持ちが心のどこかにあるに違いなく、それが辛辣表現になったのだと思います。しかしそうだとしても『夢』は素晴らしい。

そして、ピカソは少なくとも『夢』を描いた時期にはマリー・テレーズに対して深い愛情を抱いていた。それは一枚の絵だけを見るだけで一目瞭然であって、間違いない。深い愛情がないとこんな絵は描けない。そう、中野京子さんは言っているのでした。

絵画とは不思議なもので、絵を見ただけで画家がモデルを愛していたのかどうかがわかる。それが真実かどうかは別にして、少なくとも鑑賞者はそう強く感じることができる。そう感じさせる一つの要因は『夢』の場合、ピカソが用いた絵画手法(スタイル)にもあるのでしょう。この作品は、「画家がモデルを見つめる目」「絵画のスタイル」「画家の力量」の3つが融合した傑作だと思いました。




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No.248 - フェルメール:牛乳を注ぐ女 [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」は、九州大学名誉教授で心理学者(視覚心理学)の三浦佳世氏が書いた同名の著書(岩波書店 2018)の紹介でした。この本の中で三浦氏は、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』を例にあげ、

  この絵には線遠近法の消失点が2つあるが、違和感を感じない。人の眼は "遠近法の違反" については寛容

リアリズム絵画入門.jpg
という主旨の説明をしていました。この説明で思い出したのが、現代日本の画家、野田弘志氏が書いた『牛乳を注ぐ女』についての詳しい解説です(「リアリズム絵画入門」芸術新聞社 2010)。ここには "遠近法の違反" だけでなく、写実絵画として優れている点が詳細に語られています。今回は是非ともその文章を紹介したいと思います。

フェルメールの『牛乳を注ぐ女』はアムステルダム国立美術館が所蔵する絵で、2007年に日本で公開され、また、現在開催中のフェルメール展(東京展。上野の森美術館 2018.10.5~2019.2.3)でも展示されています。実物を見た人は多いと思います。

野田弘志氏(1936~)は現代日本の写実絵画を牽引してきた画家で、No.242「ホキ美術館」で『蒼天』という作品を紹介しました。野田先生の文章は写実画家としての立場からのものですが、『牛乳を注ぐ女』はまさに写実絵画の傑作なので、本質に切り込んだ解説になっています。なお、以下の引用での下線は原文にはありません。また段落を増やしたところがあります。

フェルメール「牛乳を注ぐ女」.jpg
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
牛乳を注ぐ女」(1658頃)
45.5cm×41cm
(アムステルダム国立美術館)


空間の密度を描ききる



この作品に、フェルメールはたくさんの驚くべきことを描き込んでいます。まず第一に感心することは、イタリア人ならバカにしたに違いない、女性が牛乳を注ぐというごくありきたりの情景を、徹底的に真面目に描いている上に、これまで神話画や宗教画でも描かれたことのない、神々しいまでの空間の重量感を描ききっていることです。

人は人として、パンはパンとして描かれるのではなく、現実の人やパンや籠よりもはるかに重く、フェルメールはそのひとつずつに、感覚、構成力、描写力、集中力、持続力、精神力のすべてを注ぎ込んでじっくりと描き上げました。描かれたすべての物が永遠の存在に高められています。だから食べておいしいパンではなく、飲んでおいしい牛乳でもなく、弾力のある肌の魅力的な女性でもありません。でもすべてが真実として生きています。

野田弘志
『リアリズム絵画入門』
(芸術新聞社。2010)

「イタリア人ならバカにしたに違いない」とありますが、フェルメール(1632-1675)が生きた時代のイタリア(=絵画の先進国)では、依然として神話やキリスト教をテーマとする絵画や貴族・富裕層の肖像が主流であり、『牛乳を注ぐ女』のような "日常の卑近な情景" が絵になるなどとは誰も考えなかったことを言っています。


うっかり描き忘れた?


この絵は、細部を見ていくと質感表現の的確さに驚くのですが、ただ一カ所、変なところがあります。


手前から見ていくと、布の掛かったテーブルに籠、パン、壷、女性、壁とすべて手でたどり感触を確かめられそうなほどの質感をもっています。絵の具はキャンバスにしっかり食いついてあるべき位置に寸分の狂いもなく在って、物そのものになりきっています。

ただ、一カ所、うっかり描き忘れたように見える部分があります。それは右腕とミルクの入った壷との隙間の部分なのですが、この手落ちは、他の部分がいかにしっかり描かれているかを際立たせることになりました。

「同上」

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(部分).jpg
右腕と壷の隙間の部分は「うっかり描き忘れた」ように見える。

確かに、右腕と壷の隙間は「うっかり描き忘れた」ように見えます。この部分は後ろの壁が見えるはずで、従って右腕と壷の周辺に描かれている壁と親和性のある色が置かれてしかるべきです。

しかし本当に "うっかり" なのでしょうか。この絵のあらゆる細部が精緻に描き込まれていることを考えると、はたして "うっかり" なのかと考えてしまいます。

もし意図的だとするとどうでしょうか。「他の部分を際立たせるために意図的に描き残した」とは考えにくいわけです。こういう話があったと思います。人間は完璧ではなく、完全なるものは神しかない、神の領域を侵さないために意図的に不備な細部を残した画家がいた ・・・・・・。本当のところは誰にも分からないでしょう。


すべてが絶対不可欠


この「手落ち」の以外の描写は素晴らしいものがあります。そのことを野田先生は次のように続けています。


女性の後ろの輪郭に細い白線を塗り重ねて人物と壁のコントラストを強調し、人物を際立たせ、色彩の効果を強めたり、いったん女性の頭上に描いたものを取り去ったり、パンに点描風のタッチを入れたり、さまざまな工夫を重ねています。しかし、存在感、物質感、量感、ディテールをより確かなものにするために、無用な細部を切り捨てて大胆なモデリング(肉付け)を行っています。私はそのモデリングそのものにいつも惚れ惚れとさせられてしまうのですが、女性の頭部は卵型の深い奥行きをもった立体として、また密度の高いもの思う存在としての確かな手応えを持っています。黄色の上着も、それが安いセーム皮でできたごわごわした縫い目の粗い上着だからというのではなく、中の胴体とともに、目まいのするほどの永遠性を現出させています。

色彩も描写も明晰で、人物も物も画面のすべてが絶対不可欠のものとして、その位置でなければならないところに配置され、堂々とした構築を見せています。この絵からさまざまな教訓や寓意を読み解こうとする研究者もいますが、フェルメールがこの絵で探求した本筋からはずれていると思います。叙情、ロマンチシズム、懐旧といったものは何もありません

現物をまだ見ていない頃、私はこれがかなり大きな作品だと思っていましたが、実際はわずか40数センチ四方の大きさしかありません。なぜそんな錯覚が起きるかと言うと、画面空間の中に充溢した描かれた存在の密度があたかも外界へと溢れんばかりのパワーを持っているからなのでしょう。

「同上」

当時のオランダの風俗画には寓意を込めた絵が多々あります。フェルメールもそうで、このブログで紹介した例で言うと、たとえば No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」でとりあげた『天秤を持つ女』です。後ろの壁に「最後の審判」の画中画があり、女性が天秤を持っていて、しかも机の上には金貨や真珠があるという絵です。寓意がないと考える方がおかしいでしょう。『牛乳を注ぐ女』にも何らかの寓意・教訓があるのかも知れません。

だとしても、この絵には寓意・教訓という議論を突き抜けてしまうような、質感表現の確かさがあります。野田先生のように「寓意、教訓はない」「叙情、ロマンチシズム、懐旧もない」と言い切ってしまう方がスッキリするし、この絵を的確に表現していることになると思います。


奇妙な机


そこで、「視覚心理学が明かす名画の秘密」に指摘してあった "遠近法の違反" に関係した説明です。


次に、窓際に在る手前の机を見てください。これが実に変な形をしていることに気づきませんか?

机だけを見ているとわかりにくいので、まずこの絵の遠近法の構図から説明します。遠近法の考え方は、すべての事物は無限のかなたの一点に向かって数学の理論に従って小さくなっていくというものです。この点を消失点と言います。この消失点は画家の目の高さと同じ水平線上にあるのですが、この絵でそれがどこにあるかを知る手がかりは、左側の窓枠とさんにあります。奥に向かって窓枠と桟の水平のラインは、扇の骨状になって並び、それを延長していくと一つの点で交差します。これがこの絵の消失点で、女性の右手首の少し左上の壁にあります。フェルメールは作図のためにここにピンか何かを打ったあとを残しています。

もし机が普通の長方形の形をしていたら ・・・・・・ ? 机の右側面のラインは、机の下に描かれた脚の頭の部分から消失点を結ぶ線と一致することになります。するとどうなるか。机の上にあるパンも青い布も牛乳の鍋もすべて床に落下してしまうことになります(左下図)。ということはこの絵の机は台形か五角形か、ほとんど見たこともない形をしたテーブルだということになります(右下図)。

「同上」

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(奇妙な机).jpg
野田弘志「リアリズム絵画入門」より

「視覚心理学が明かす名画の秘密」で三浦佳世氏は、この絵には消失点が2つあると説明していましたが、それは机が長方形であるという前提です。そうではなく野田先生のように、消失点は1つで(=女性の右手首の少し左上)机が現実にはあり得ない奇妙な形をしているという解釈も成り立つわけです。

野田先生によると、画家は人間を描く空間を作るために椅子やオブジェをわざわざ特注することがあるそうですが、それと似ています。フェルメールはこの絵の空間を創り出すために、大変奇妙な形の机を絵の中に登場させた。その理由は何でしょうか。


フェルメールはなぜそんな手の込んだことをしたかと言うと、この絵の中に実体として感じられる空間を描き出したかったからです。それをイリュージョンとしてではなく、現実の空間として創り出すことがリアリズム絵画の鉄則です。フェルメールは誠実にそれに従って描いたはずです。

「同上」

ここの文章が少々わかりにくいところです。なぜ「実体として感じられる空間を描き出すために、大変奇妙な形の机を絵の中に作った」のでしょうか。その理由は後の文章を読んでいくとわかります。まず、「通常の長方形の机で、その机の上に物が全部乗る」ようにするにはどうすればよいか。


もう一つありうる構図は、机の奥の右角と消失点を結ぶ線を、手前の方に伸ばし、その線にそって机の右サイドがあった場合ですが、これだと机の右面が見えなくなり、机が前面でのさばりすぎてしまいます。空間も単純になり構成もよくありません。

「同上」

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(もう一つの構図).jpg
もう一つのありうる構図。この構図だと物は全部机の上に乗る。しかし見る人の視線は机でさえぎられてしまう。


フェルメールは見る人の視線を大きな空間へと誘い入れようとしています。そのとき、机の右側の側面が視線を導くためのまず手がかりとなります。もし机が普通の長方形であったなら、視線は机の手前の面でシャットアウトされてしまっていたでしょう。

机の側面をたどる私たちの目は、垂れ下がったふんわりとした布の感触を確かめ、パンを触ったあと、左に折れて牛乳を受ける鍋に行き着くこともできるし、机から離れ、女性の青い腰布の周囲をゆっくりと迂回し、数メートルの何もない室内空間に解き放たれることもできます。そして、床のアンカの上空を通って、光の満ち溢れた奥の壁に吸い込まれるようにたどり着くわけです。

ただし重要なことは、私たちの視線が図形の上を単になぞっているのではなく、堂々たる実在感と質量感を持って描かれた机の上の一つ一つの物が、私たちの目をしっかりととらえ、永遠化された存在のようにも見える女性へと導いていることです。

遠近法の数学的な原理に従えば、物は遠くにいくほど小さく不鮮明になります。「牛乳を注ぐ女」は、遠近法の原理にきちんと従っていならがら、空間は奥へ奥へと開かれていきます。いわば逆遠近法とでも言うべきなのでしょうか。その奥へ向かう広がりを創りだしているのが、この奇妙な机の右側面のラインなのです。遠近法というのは消失点に向かってすべての事物が収束していくのに、この作品では、このラインが奥に向けて扇を広げたように空間を広げていくのです。

「同上」

上の引用の中で「アンカ」とカタカナで書かれていますが、"あんか(行火)" です。一人用でポータブルの足を暖める道具が描かれている。野田先生の指摘で気づくのですが、女性の後ろ数メートルの何もない室内空間を表現するのに、この "あんか" が非常に重要なのですね。"あんか" に "上空" があることを見る人が想像するからです。


壁を描ききる


次に野田先生がポイントとしてあげているのが、後ろに描かれた壁です。この壁はフェルメールの絵の中でも独特です。


こうして、私たちの目は豊かな光を含んだ壁に至りました。この壁は、部屋だからということで、女性の後ろに描かれたというのではなく、見る人の意識が、女性の後ろを実際に通ることができる距離をもって描かれています。日本画に見られるような曖昧な背景ではなく、たたいても隣の部屋に反響しない何十センチという厚みを持っています。冷たく堅くて深い包容力を持った壁になっています。

壁をずっしりと重く描くことによって、それが鋳型いがたになって、こちら側にある室内空間が、まるで石から掘り起こしたかのように強固で微動だにしない重量感と存在感を持つようになるのです。何気ない日常の部屋の中が、重厚な実体感を持つことによって、神秘的な空間に見えてきます。牛乳を注ぐという行為そのものが、このときにしか起こり得ない厳粛な儀式のように思われてくるのです。美術史家のヨーゼフ・ガントナーがフェルメールの世界について言った「第二の聖書」という言葉を思い起こします。

壁は、単に石と漆喰しっくいの材質感を描いているだけではありません。石の表層に戯れる光の繊細なトーンを描き尽くそうとしています。窓からの光はいったん壁に広がり、増幅されてこちらに向かって透明な空間に溢れ出し、厳かな儀式に没頭する女性を背後から包み込もうとします。その一方で、窓からの直接の光が女性のしぐさに降り注ぐと、白いかぶりもの、額、左の二の腕、パン、そしてひと筋のミルクから反射される光と化して、そこにかけがえのない実在があることを明澄めいちょうに浮かび上がらせていきます。

絵のために臨時にしつらえた書き割りではなく、堆積した時間さえも封じこめるように、壁を描くことによって、この部屋の向こうにはもう一つの室内が在り、さらに外壁を抜けると町の空間につながっていく。そういう生きた現実の空間がここには在る、という意識を見る人にかきたててくれます。

「同上」

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(壁1).jpg

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(壁2).jpg
「牛乳を注ぐ女」でフェルメールが描いた壁。女性の左上の部分図(上)と、あんかの上の部分図(下)。

フェルメールが描いた35作品(カウントの方法は No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)のうち、28点は家庭の部屋に人物が配置されている室内画です。そこにはとうぜん壁が描かれていますが、大半の作品の壁には絵やタペストリーが掛かっています。絵もタペストリーもない純粋な壁はごく少数で、その1枚が『牛乳を注ぐ女』です。ほかに "何もない壁" を描いた絵は、ベルリンにある『真珠の首飾りの女』(1662/1665)です。

フェルメール「真珠の首飾りの女」.jpg
フェルメール
真珠の首飾りの女」(1662/1665)
ベルリン国立美術館

この絵を見ると、女性を引き立たせるために窓からの光で輝く壁を描いたと感じます。また、前景の机の上に濃紺のテーブルクロスがドカッと置いてある構図は『牛乳を注ぐ女』とは違います。この絵の構図は空間を構成することではなく、真珠の首飾りをもった女性を際立たせることに主眼があると感じられます。その意味で「壁」の役割は『牛乳を注ぐ女』とは違います。

フェルメール「窓辺で手紙を読む女」.jpg
フェルメール
窓辺で手紙を読む女」(1657頃)
ドレスデン古典絵画館
もう1枚 "何もない壁" を描いた作品がドレスデンにありますが、カーテンや開いた窓にさえぎられていて "壁を描いた" という感じはしません(ただし絵としては傑作)。やはり『牛乳を注ぐ女』と『真珠の首飾りの女』が、壁に重要な意味を持たせたフェルメールの2作品でしょう。

特に『牛乳を注ぐ女』の壁は、野田先生の表現によると「壁が鋳型になって、こちら側にある室内空間が石から掘り起こしたかのような重量感と存在感を持つ」ようになっています。つまり、絵の空間構成のキーポイントとなっている壁なのです。

  ちなみに『牛乳を注ぐ女』だけでなく『真珠の首飾りの女』も、現在開催中のフェルメール展(東京展。上野の森美術館 2018.10.5~2019.2.3)で展示されています。「フェルメールの壁、2作品」を見比べて鑑賞するのもよいと思います。


全体空間の中で細部が共鳴し合う


野田先生の解説に戻ります。以上を総合して野田先生は『牛乳を注ぐ女』を次のようにまとめています。


「牛乳を注ぐ女」は、描かれた物を一つ一つ列挙したとしても、実に簡単なリストに終わってしまいます。女性の着ている物も、厨房仕事のためのごく簡素なものです。絵の右三分の一はほとんど白い壁だけになっています。それが在ることによって、机の上の質素な食品や壁の道具、女性のたたずまいに豊穣な感じを与えています。可能な限り不必要なものは取り除き、構図も単純化していくという指向は重要で、それこそが絵を深く大きなものにしているのです。

絵の細部は一見、顕微鏡的に描かれているように思われるかもしれませんが、必要不可欠な描写しか行われていません。それなのに物も人物も空間も、あたかも生々しくそこに在るかのような迫真性を持っているのは、あらゆる細部が独立したものと見なされず、全体の空間の中で、ちょうどオーケストラのバイオリンの一つの音色がそうであるように、ハーモニーを奏でるために捧げられているからです。

「同上」

野田先生の『牛乳を注ぐ女』の評論は「リアリズム絵画入門」の第5章です。この本は第1部が「制作」(第1章~第5章)で、第2部が「思索」(第6章~第9章)となっています。

野田弘志1.jpg
野田弘志
ホキ美術館のホームページより
第1部「制作」の第1~4章は、「絵画は写真とどう違うのか」「制作入門篇 デッサンとは何か」「制作心構え篇 視ること・考えること」「本制作篇 油彩画で人間を描く」となっています。そして第5章が「空間を描く フェルメールの "牛乳を注ぐ女"」です。つまり第1部は "リアリズム絵画制作教室" といった風情であり、その最後のまとめとしてあるのが『牛乳を注ぐ女』の詳細な鑑賞なのです。

野田先生は『モナ・リザ』がリアリズム絵画の最高到達点だと明言されていて、それは多くの人が納得すると思います。そして『モナ・リザ』に次ぐ傑作が(ないしは傑作群の一つが)『牛乳を注ぐ女』なのでしょう。画家の関心事(の一つ)は、2次元のカンヴァスにいかにして3次元空間を創出するかということです。第5章のタイトルに「空間を描く」とあり、また5章の最初には "空間の密度を描ききった絵" とあります。この言葉が、野田先生の考えるこの絵の最大の特質だと思います。


まとめと感想


野田先生の『牛乳を注ぐ女』についての評論のポイントを要約すると、次のようになるでしょう。

奇妙な形をした机は、その右側面のラインが、見る人の視線を奥へと誘導し、奥に向けて扇を広げたような空間感覚を作りだしている。

その視線の先に描かれているパンなどのモノ、女性の姿(特に頭部や黄色いセーム皮の服)のモデリングが素晴らしい。無用な細部を大胆に切り捨てることにより、存在感、物質感、量感、ディテールを確かなものにしている。

光の繊細なトーンがきらめいている壁は、ずっしりと重く描かれていて、手前にある室内空間の広がりを創り出している。さらにはこの室内が外界や向こう隣の部屋にまでつながっていると感じさせる。

全体として必要不可欠なものだけが配置され、必要不可欠な描写しか行われていない。しかし、あらゆる細部が共鳴し合っていて、それが生々しい迫真性を生み出している。

この要約の全体を一言でまとめると、上にも書いたように "空間の密度を描ききった絵" が適切だと思います。

このブログでは、今まで多数の絵の評論を紹介してきました。筆者は、中野京子、原田マハ、ローラ・カミングの各氏ですが、美術評論家、美術ジャーナリスト、小説家の立場からの発言です。それに対し、今回の野田弘志氏の文章は、プロの画家が傑作と評判の高い絵を評したものです。そこには画家ならではの、描き方・構図・空間構成・モデリング・調和などの視点から『牛乳を注ぐ女』の素晴らしさが語られています。そこが印象的でした。

そして『牛乳を注ぐ女』は、一見したところ "見たまま" をリアリズムの手法で描いているのだけれど、実は絵画でしか成し得えない表現に満ちているわけです。野田先生が最も言いたかったことはそこなのだと思いました。



ここからは野田先生の文章を離れて『牛乳を注ぐ女』のもう一つの素晴らしさについて書きます。この絵の色使いについてです。

この絵で目を引くのは、フェルメール・ブルーとも呼ばれる、鮮やかで強烈な青です。これには高価なラピスラズリが使われていることは有名です(No.18「ブルーの世界」参照)。さらに目に付くのは女性のセーム皮の服の黄色です。この青と黄という、補色関係の2つの色の対比がよく利いています。

このブログで過去に紹介した例だと、No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の『手紙を書く女』がそうでした。服は黄色で、テーブルクロスが青い。さらに、手紙を書く女性が着ている「白テンの毛皮がついた黄色(レモン色)のガウン」の女性像をフェルメールは6点描いていますが、ニューヨークのフリック・コレクションにある『婦人と召使い』も構図と配色がワシントンの絵とそっくりです。また、アムステルダム国立美術館の『恋文』という絵も、女性の傍の召使いのスカートが青い。

「登場人物が黄色の服を着ていて、その周辺に青色のアイテムが配置されている」という絵は他にもあります。有名な『真珠の耳飾りの少女』(デン・ハーグのマウリッツハイス美術館)がまさにそうです。服が黄色でターバンが青い。さらに、小さな絵ですがルーブル美術館の『レースを編む女』もそうです。

ここまで、6つの作品をあげましたが、それらの中でも最も「青と黄の対比」が強烈に印象づけられるのは、明らかに『牛乳を注ぐ女』です。

こういった青系・黄系の色彩対比は近代の画家もよく使いました。最もうまいのがゴッホだと思いますが、20世紀の画家だとアンドリュー・ワイエスがその名手です(No.152「ワイエス・ブルー」)。そういった色の使い方とカンヴァスへの配置のしかたについても、『牛乳を注ぐ女』は先駆的に優れていると思います。



今までフェルメールの絵の実物を30点近く見ましたが、作品は「傑作」と「普通の絵」に分かれると思います。フェルメールのすべてが傑作というわけではありません。その「傑作の部類に確実に入るであろう絵」をあげるとすると、

デルフトの眺望(マウリッツハイス)
デルフトの小道(アムステルダム)
牛乳を注ぐ女(アムステルダム)
真珠の耳飾りの少女(マウリッツハイス)
真珠の首飾りの女(ベルリン)
窓辺で手紙を読む女(ドレスデン)

などでしょう。これはあくまで "厳選" したもので、他にも傑作はあります。

に共通するのは「寓意や教訓とは無縁」ということです。① ② は風景画なので寓意はないはずです。有名な は(一応のところ)肖像画です。本文で引用した ⑤ ⑥ は、寓意・教訓があるのかもしれないが(ありそうだが)、それを感じさせないリアリズムがあります。モノや人物、空間、風景の実在感を描くことに徹した絵にこそフェルメールの価値かあり、誰もマネできない画家の才能が発揮されている ・・・・・・。野田先生の文章を読んで、そういう風に思いました。



 補記 

本文中に、フェルメールの "何もない壁" の作例としてドレスデンにある『窓辺で手紙を読む女』をとりあげましたが、この作品については「(壁が) カーテンや開いた窓にさえぎられていて "壁を描いた" という感じはしません」と書きました。確かに、この作品の壁の描き方は『牛乳を注ぐ女』『真珠の首飾りの女』に比べて中途半端で、"何もない壁" にしては少々違和感があります。

実は、この壁にはもともと画中画が描かれていて、その復元作業が進行中だというのです。その報道がありました。


キューピッドが出現
修復作業中のフェルメールの絵画公開

NHK NEWS WEB
2019年5月7日 22時28分

何者かに上塗りされた部分を取り除く作業が進められているフェルメールの絵画、「窓辺で手紙を読む女」がメディアに公開され、これまで見えていなかったキューピッドが姿を見せました。

17世紀を代表するオランダの画家、フェルメールの絵画「窓辺で手紙を読む女」は、窓際で手紙を手にたたずむ女性を描いた作品です。以前から奥の壁にはキューピッドが描かれていて、上塗りされていることが分かっていましたが、最近の分析で上塗りはフェルメールの死後に何者かが行ったものであることが分かり、おととしから取り除く作業が行われています。

こうした中、7日、作業途中の作品がメディアに公開され、右上の壁にこれまで見えていなかったキューピッドが姿をあらわしました。作業は0.02ミリの厚みの絵の具を顕微鏡を使って慎重に取り除いていくというもので、1日に1平方センチから2平方センチしか進まないということです。

キューピッドは手紙がラブレターであることを示しているということで、顔や弓の一部を確認することができます。作業を行っているドイツ東部ドレスデンの美術館のシュテファン・コーヤ館長は「色彩に統一感が生まれ、よりフェルメールらしくなっている」と話しています。

復元作業は少なくともあと1年はかかる見通しですが、作業途中の作品は今月8日から来月16日まで、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館で一般に公開されます。


窓辺で手紙を読む女(修復中).jpg

ポイントは「最近の分析で壁の上塗りはフェルメールの死後に何者かが行ったものであることが分かり」というところですね。だから取り除く作業が行われているわけです。

実は『真珠の首飾りの女』も、もともとは壁に地図が描かれていたが白く塗りつぶされた。しかしこれはフェルメール自身がやったとされています。これはこれで女性を浮かびあがせる効果を演出しています。

というようなことからすると、初めから壁の重量感を描くのが目的(の一つ)だったような『牛乳を注ぐ女』は、やはり貴重な作品だと言えるでしょう。

(2019.5.8)



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No.244 - ポロック作品に潜むフラクタル [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で、三浦佳世氏の同名の著書の "さわり" を紹介したのですが、その中で、ジャクソン・ポロックのいわゆる "アクション・ペインティング"( = ドリップ・ペインティング)がフラクタル構造を持っているとありました。

日経サイエンス 2003-3.jpg
日経サイエンス
(2003年3月号)
実はこのことは 2002年の「Scientific American」誌で論文が発表されていて、その日本語訳が「日経サイエンス 2003年3月号」に掲載されました。おそらく三浦氏もこの論文を参照して「視覚心理学が明かす名画の秘密」のポロックの章を書いたのだと思います。

今回はその論文を紹介したいと思います。リチャード P. テイラー「ポロックの抽象画にひそむフラクタル」です。筆者は米・オレゴン大学の物理学の教授で、オーストラリアのニューサウスウェールズ大学の物性物理学科長だった時に、ポロックの抽象画に潜むフラクタルに気づいて謎解きを始めました。


アートかデタラメか


テイラー教授の論文はまず、ジャクソン・ポロックの代表作である『Blue Poles : No.11, 1952』の話から始まります。


ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock, 1912 ~ 1956)は米国の美術史を代表する抽象表現主義の画家だ。彼が傑作『Blue Poles : No.11, 1952』の制作に取りかかったのは、ある3月の嵐の夜だった。すきま風が吹き込む納屋のようなアトリエで、酒によってやけになっていた彼は床に大きなカンバスを広げた。木の棒を使い、古ぼけた缶に入った家庭用ペンキをカンバスにたらした。

もっとも、絵の具をたらす「ドリップペインティング」の試みは、この時が最初というわけではなかった。水平に置いたカンバスにペイントを連続的に注ぐという斬新な手法をポロックは開発した。これにより、絵筆で描いた途切れ途切れの線とは異なり、独特の連続した軌跡がカンバスに残る。

一見すると単純このうえないこの画法について、美術界の評価は真っぷたつに割れた。この素朴な画法は非凡な才能の発露だったのか、それともポロックは美術界の伝統をあざ笑うただの酔っぱらいにすぎなかったのか?

リチャード P. テイラー(オレゴン大学)
『ポロックの抽象画にひそむフラクタル』
(日経サイエンス 2003年3月号)

Pollock-Blue Poles No11.jpg
Jackson Pollock(1912 - 1956)
「Blue Poles : No.11, 1952」
(オーストラリア国立美術館)
ポロックの代表作で、210cm×486.8cmの作品。絵の具を何度も重ねて垂らし、複雑なパターンを描き出している。この作品の制作期間は6ヶ月に及んだ。


テイラー教授の発見


物理学者であるテイラー教授は、趣味で抽象画を描いていました。そして何と、英国のマンチェスター美術学校に入学して絵の勉強を始め、そこで偶然にもポロックの作品がもつ "ある種の規則性" に気づきました。この論文の一番おもしろいところは、この "気づき" の経緯かも知れません。


私は以前からポロック作品に興味を持ち続けていた。私自身、物理学者としての生活の傍ら、抽象画を描いていたからだ。そんなわけで、1994年に私は科学者としての仕事をひとまずやめ、絵描きに専念する決心をした。ニューサウスウェールズ大学物理学科を辞し、英国のマンチェスター美術学校に進んだ。画家になるべく、いちかばちかの挑戦に出たわけだ。

寒さの厳しい2月、美術学校は私たち学生を英国北部ヨークシャー地方の荒野に追い出し、底で見たものを1週間の滞在中に風景画に仕上げるという課題を与えた。しかし、猛烈な吹雪のために写生は不可能になり、一行は宿に足止めを食らった。そこで私たちは、自分たちに代わって自然そのものに絵を描かせようというアイデアを思いついた。

このアイデアを実行に移すため、私たちは強風で折れた木の枝を集め、巨大な構造物をこしらえた。その一部は大きな帆のような役割を果たし、周囲は渦巻く風を受けて動く。この動きが構造物の他の部分へと伝わり、そこに固定してある絵の具入りの容器を動かす。地面に広げたカンバスに絵の具がしたたり落ち、風に応じたパターンを描き出す仕組みだ。

再び嵐が近づいてきたので私たちは室内に退却し、一晩でどんな絵が出来上がるかを待つことにした。翌朝、嵐が過ぎ去り、1枚の絵が残された。驚いたことに、それがポロック作品に実によく似ていたのだ。

「同上」


カオスとフラクタル


物理学者(物性物理)であるテイラー教授は、風の力で木の枝が描き出したパターンが全くのデタラメではないことを知っていました。その背景にあるのが1960年代から発達した「カオス理論」であり、そこから派生した「フラクタル」です。


1960年代、天候などの自然現象が時とともにどう変化するかについて科学的な考察が進んだ。その結果、こうした自然現象は決してデタラメではないことがわかった。非常に微妙な秩序が背景に潜んでいるのだ。こうした性質は「カオス」と名づけられ、カオス理論という新しい科学が生まれた。

一方、1970年代になると、こうしたカオス的過程から生まれる図形に関して、新しい幾何学が生まれた。発見者のマンデルブロ(Benoit Mandelbrot)が「フラクタル」と名づけたこの図形は、普通のユークリッド図形とはまったく違う。人工的に引いた直線はギザギザのない滑らかな線だが、フラクタルな図形は細部を拡大すると似たようなパターンが繰り返し出現する。非常に複雑なパターンが集まって、図形全体を作り出しているのだ。

木の枝で作った装置が描き出した絵を見て、私はピンときた。一見すると不規則に見えるポロック作品にも微妙な秩序が隠されており、フラクタルになっているのではないか?

「同上」

フラクタル図形を特徴づけるのは "自己相似性" です。部分を拡大すると全体とよく似た図形、ないしは全体と相似形の図形が現れる。この "自己相似性" には「厳密な自己相似性」と「統計的な自己相似性」があります。

下の左の図はコンピュータで描いた木ですが、細部を拡大すると厳密に全体と相似形の図が現れます。一方、右の図は実際の木で、厳密な自己相似性ではなく、同じ統計的性質をもつパターンが繰り返し現れます。

Pollock-1.jpg
厳密な自己相似性を示す人工的に作った木(左)と、統計的な自己相似性がある実際の木(右)
(日経サイエンス 2003.3)

自己相似性をもつ図形は、厳密か統計的かにかかわらず、フラクタル次元(= D)を定義することができます。No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」にも書いたのですが、フラクタル次元 D の計算方法は次のようです(計算方法はテイラー教授の論文には書いてありません)。

前提として、長方形ないしは正方形の2次元の2値画像としてます。つまり真っ白の画面に黒でパターンが描かれているものとします。このような2次元・2値画像のフラクタル次元は "ボックス・カウンティング法" で計測できます。

長方形ないしは正方形の2次元・2値画像を1×1の正方形領域にマッピングしたとします。正方形の縦横をそれぞれ N 分割し、N×N 個の小領域(ボックス)に分けます。そしてパターンの黒がある小領域の数をカウントして、その数を P(N) とします。するとフラクタル次元 D は、N が適度に大きいとして、次のように定義できます。

  D = log P(N) / log N

もし、画像に直線が横1線に描かれているだけとしたら、P(N) = N なので、N の値にかかわらず D = 1 となります(=1次元)。直線は1次元の自己相似形です。もし画像が黒で埋め尽くされているのなら、P(N) = N * N なので D = 2(=2次元)となります。真っ黒の画像も自己相似形です。数学的には平面を埋め尽くすような曲線が定義できるのですが(=空間充填曲線。ペアノ曲線など)、そのような曲線のフラクタル次元 D は 2(=2次元平面と同じ)になります。

一般の画像では、Nの値を変えてP(N)を計測します。そして両対数グラフに [ N, P(N) ] の点をプロットすると、自己相似性がある場合は点が直線の近傍に並びます。その直線の傾きがフラクタル次元 D で、Nが適度に大きい範囲で「1以上、2未満」で定まります。自己相似性がないとプロットした点は直線の近傍に集まらず、一定の D が定まりません。

ちなみに N=2 だと、2×2の合計4つの小領域(ボックス)には全てパターンがあると(普通の画像では)考えられるので、

  P(2) = 4 (N = 2 のとき)

となり、D = 2 です。N が増えるとパターンが全く無い真っ白な小領域が出てきて、D の値は小さくなっていきます。N が極めて大きいとすると、小領域は「真っ黒」か「真っ白」の2種類で大部分を占めることになります。従って、画像の黒の部分の面積割合を α (0 < α < 1)とすると、

  P(N) = N × N × α (Nが極めて大きいとき)

となり、logα < log N なので、定義から D は "2に近い値" になります。つまり、N が大きくなるにつれて D = 2 に近づきます。

以上のように「D は 2 に始まり(N = 2)、N の増大に従って小さくなり、再び大きくなって 2 に近づく」という過程をたどります。画像がフラクタルであるということは、この過程において D の値が一定である N の区域がある(=それなりの大きさの N 範囲で D がほぼ一定)ということです。

フラクタル次元 D は、自己相似性をもつ図形の "複雑さ" の度合いです。D の値が小さいと繰り返し構造は目立たず、隙間の多い図形になります。D の値が 2 に近づくにつれ、自己相似の繰り返しが密になり、細部まで複雑に入り組んだ図形になります。


テイラー教授によるポロック作品の分析


ヨークシャー地方の荒野での発見のあと、テイラー教授はニューサウスウェールズ大学の研究室に戻り、ポロック作品の分析を始めました。


ポロックの作品はフラクタル次元の考え方で分析できるのだろうか。また、できるとしたらどんな方法で ?

それを明らかにしようと、私はニューサウスウェールズの研究室に戻り、カンバスに描かれたパターンをコンピューターを使って定量化することにした。コンピューターの正確さと計算能力なしでは、この種の分析は不可能だ。

そこでコンピューターの専門家に協力を求めた。半導体素子の分野で博士号を取るためにフラクタル解析を研究していたミコリッチ(Adam Micolich)と、画像処理に通じたジョーナス(Davis Jonas)の2人だ。

私たちはまずポロックの絵をスキャンしてコンピューターに取り込むことから始めた。次に、同じ大きさのマス目からなるメッシュをコンピューター上で合成し、画像にかぶせる。マス目が絵のパターンを含んでるかどうかをマス目ごとにチェックして分析すると、絵の特徴を統計的に算出できる。

マス目のサイズを小さくすれば、拡大して見るのと同様の効果が生じ、細部にわたる分析が可能だ。一滴の絵の具が残した小さな点から約1m 四方の領域まで、私たちは拡大率をさまざまに変えて調べた。

驚いたことに、ポロックの絵はフラクタルだった。しかも、大から小まであらゆる拡大率でフラクタルだ。大小のパターンでは大きさに1000倍もの開きがあるのに、すべてフラクタルだ。

自然界のフラクタル構造が発見される25年前に、ポロックはすでにそれをカンバスに描いていたのだ。

「同上」

画家になるという "いちかばちか" の挑戦のためにマンチェスター美術学校に進んだテイラー教授ですが、ニューサウスウェールズ大学の研究室に戻ったのは「自分には画家になるだけの才能がない」と自覚したからと想像します。いやそれとも、美術学校でポロック作品はフラクタルではないかと思い当たって、それがテイラー教授の学者魂に再び火を付けたのかもしれません。

ともかく、テイラー教授は 20点のポロック作品を分析しましたが、それらすべてがフラクタルでした。

Pollock-Autumn Rhythm.jpg
Jackson Pollock
「Autumn Rhythm」(1950)
266.7cm×525.8cm
(メトロポリタン美術館)

Pollock-2.jpg
「Autumn Rhythm」のうち、黒色で描かれたパターンの一部を拡大した画像。フラクタル解析は、絵のパターンを色別に分けて行う。
(日経サイエンス 2003.3)

Pollock-3.jpg
ボックス・カウンティング法により、パターンを含むマス目(薄い青)と含まないマス目(白)コンピューターでカウントする。マス目の大きさを変えながらデータを取り、これをもとにフラクタル次元を算出する。
(日経サイエンス 2003.3)


"ポロックもどき" のドリップ・ペインティングでは ・・・・・・


テイラー教授の論文には、ポロック作品ではないドリップ・ペインティングを分析した結果がのっています。それによると「非ポロック作品」はフラクタルではなく、一定の D の値は見い出せませんでした。ポロックの作品では、特にボックスの大きさが 1mm~10mm の範囲で D が一定になる傾向が強く、それに対して非ポロック作品ではこのような傾向がありません。

Pollock-4.jpg
右の列の3枚はポロックの「Number 32, 1950」を、下から上に順次拡大していったもの。拡大しても類似のパターンが現れる。左の列は非ポロック作品の例。拡大すると "まばらな" 部分が現れて全体とは違って見える。
(日経サイエンス 2003.3)

Pollock-5.jpg
横軸はパターンサイズ(=ボックスの大きさ)で、縦軸が D の値。ポロック作品ではボックスの大きさが 1mm~10mm の範囲で D が一定だが、非ポロック作品には一定の値をとる傾向が見られない。なお、横軸の左端は 0 になっているが、実際のボックスの大きさはゼロより大である。
(日経サイエンス 2003.3)

この事実を利用して、ポロックのドリップ・ペインティング作品の鑑定ができると、テイラー教授は書いています。教授はある絵画コレクターが持つ5点のドリップ・ペインティングを分析しました。コレクターはこれら5点はポロック作品だと思っていましたが、分析の結果フラクタルではないことがわかり、教授は「ポロック作品ではない」と推定しました。つまりフラクタル解析はポロック作品の "真贋判定" に使えるわけです。


年代とともに上昇するフラクタル次元


テイラー教授が 20点のポロック作品を分析して発見したもう一つの事実は、フラクタル次元 D が制作年代とともに上昇することです。


面白いことに、彼がドリップペインティングで描いていた10年あまりの期間を通じて、D の値はずっと上昇を続けた。1945年の作品では 1.12 だったものが、1952年では 1.7 になっている。さらに D が 1.9 に達した特異な例もあるが、この作品はポロック自身によって後に破棄された。

「同上」

論文によると、ポロック作品に多いのは D = 1.4~1.7 程度です。一方、人間が最も心地よいと感じるパターンは D = 1.3~1.5 程度だそうです(たとえば、雲のフラクタル次元は 1.3)。D が大きくなるにつれて、パターンはより複雑になり、稠密になります。ポロックはアーティストとしての感覚から、人間にとって心地よいパターンより少し複雑・稠密なものがアートとして最良と考えたのではないかと、テイラー教授は推測しています。D が 1.9 にまでなると複雑すぎる、だからその作品を破棄したというわけです。


ポロックの制作方法


なぜポロックはフタクタルのドリップ・ペインティングを描けたのか。それは彼の制作方法によるとテイラー教授は言っています。


ポロックの絵画は考え抜かれた技法によって計画的に描かれたことがはっきりわかる。ポロックはまず、カンバスのところどころに「島」のようなパターンを描くことから始めた。自然に見られるパターンにも、最初は小さな核のようなものから始まり、それが広がって合体していく例がある。ポロックの作画法にこれに通じた面があるのは興味深い。

彼は次に、より長い軌跡を描いてこれらの「島」を結びつけ、次第に「島」を覆い隠すようにして、クモの巣状の稠密なフラクタル図形を創出した。こうして「基礎層」ができた後は、これに従って作画を続けた。「島」を結びつける過程で、絵の複雑さ(D の値)は一筆ごとに上昇した。こうして素早く集中的な仕事をした後、ポロックは一息入れるのが常だった。

再びカンバスに向かうと、黒で描いた基礎層の上にさまざまな色の絵の具を重ね、2日から6ヶ月をかけて作品を仕上げていった。基礎層によって確立した複雑さを微調整していたのだろう。さらに、作画が完了した後にカンバスの周辺部をカットした。周辺部はフラクタル特性が低下しているので、これを除いて最適化したのだ。

「同上」

Pollock-6.jpg
ポロックの制作風景
「One」を制作中のポロック(1950年)。椅子で見守るのは妻のリー・クラスナーで、彼女も抽象主義の画家である。
(日経サイエンス 2003.3)

ポロックは「私の関心は自然のリズムにある」と語っていたそうです。テイラー教授が英国北部ヨークシャー地方で嵐の力を借りて "制作" した"作品" が "ポロック風" だったのは、当然そうなるところだったのでしょう。

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上から順に、水に揺らぐ海藻、ポロックの「Full Fantom Five」(1947年)、テイラー教授が嵐の力を借りて偶然に創作したポロック風の作品。
(日経サイエンス 2003.3)



ポロック作品はデタラメでは決してなく、そこには微妙な秩序が隠されている。その秩序とは自然界にしばしば見られる "フラクタル構造" で、ポロックにしか創り出せなかった ・・・・・・。このことを知るだけでも作品の見方が変わると思いました。


墨流し


ここからは余談です。ジャクソン・ポロックの作品の作り方で連想するのが、日本の古来の「墨流し」の技法です。水槽に水を張り、墨を垂らして慎重にかき混ぜ、流水模様を作る。その上に和紙を置いて模様を転写する技法です。これは布でもできるし、色の顔料を使ってカラー化も可能です。色を使うものは「色流し」という言い方もあるようです。掲載した画像は、京都友禅共同組合のページに掲載されている墨流し(色流し)による染色です。英語ではこの技法をマーブリングと言います。マーブル(marble)とは大理石のことで、流水模様が大理石に似ていることによります。

墨流し.jpg
京都友禅共同組合のサイトにある「色流し」の例。
この墨流しはアクション・ペンティングと似ているところがあります。職人が墨を垂らして人為的に模様を作りますが、そのコントロールには限界がある。ポロックは「私の関心は自然のリズムにある」と語ったそうですが、墨流しにも "自然のリズム" が含まれています。水面を微妙にかき回すことによる表面水流や、墨・顔料の分子同士や水分子との相互作用、そういうものが加味されて流水模様か形作られていく。当然、偶然の要素が入り込みます。人と自然の共同作業と言えるでしょう。

ひょっとしたら、ポロック作品と同じように、墨流しの達人が作った模様はフラクタル構造になっているのかもしれません。模様の作成は素人にもできます(紙・生地への転写は難しそうだけれど)。しかし人が見て "心地よい" と感じる流水模様は、ポロック作品がそうであるように誰にでもできるものではなく、技法にけた人でないと無理ではないか ・・・・・・。ポロック作品のフラクタル構造の記事を読んで、そんな連想をしました。




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No.243 - 視覚心理学が明かす名画の秘密 [アート]

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」で、ルネサンス期の女性の横顔肖像画(= プロフィール・ポートレート。以下、プロフィール)で傑作だと思う4作品をあげました。

ピエロ・デル・ポッライオーロ
  「若い貴婦人の肖像」(1470頃)
 ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ)

アントニオ・デル・ポッライオーロ
  「若い女性の肖像」(1465頃)
 ベルリン絵画館

ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス
  「ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

ドメニコ・ギルランダイヨ
  「ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
 ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)

視覚心理学が明かす名画の秘密.jpg
の4作品ですが、これらはすべて左向きの顔でした。そして、「プロフィールには右向きのものもあるが(たとえば丸紅が所有しているボッティチェリ)、数としては圧倒的に左向きが多いようだ、これに何か理由があるのだろうか、多くの画家は右利きなので左向きが描きやすいからなのか、その理由を知りたいものだ」という意味のことを書きました。

最近、ある本を読んでいたらプロフィールの左向き・右向きについての話がありました。三浦佳世『視覚心理学が明かす名画の秘密』(岩波書店 2018。以下、本書)です。そこで今回は、プロフィールの左向き・右向きも含め、本書からいくつかのトピックスを紹介したいと思います。

著者の三浦氏は九州大学名誉教授の心理学者で視覚心理学が専門ですが、父親は洋画家の安田謙(1911-1996)です。視覚心理学の知見をもとに名画を語る(なしは、名画を素材に視覚心理学を語る)にはうってつけの方でしょう。まず、西洋画における光の方向の話からです。


フェルメールの光


前回の No.242「ホキ美術館」で、生島 浩氏の『5:55』という作品について「明らかにフェルメールを思わせる光の使い方と空間構成」と書きました。この作品はパッと見て "フェルメールを踏まえた絵" と感じるのですが、その一番の理由は、室内に差し込む左上の方からの柔らかな光です。本書にはまず、次のフェルメール作品が引用されています。

手紙を書く女と召使い.jpg
フェルメール(1632-1675)
手紙を書く女と召使い」(1670/71)
1974年と1986年の2回に渡って盗難にあったことで有名な作品。
(アイルランド国立美術館)

確かにフェルメールの作品には「主人公が女性で、その女性だけ、または女性を含む複数の人物が室内に配置され、左側に窓があって、左上から柔らかな光が差し込んでいる」という絵が多いわけです。中には主人公が男性というのもあるし(天文学者、地理学者)、右からの光の作品もあります(例えば、ルーブルにある刺繍をする女性の絵)。しかし圧倒的に多いのは、女性が主人公で、特に "左からの光" なのです。

しかし本書によると、この "左上からの光" は何もフェルメールに限ったこことではないようです(以下の本書からの引用で下線は原文にありません。また段落を増やしたところがあります)。


画面の左側に光源を置くのは、フェルメールに限ったことではない。視覚研究者のジェニファー・サンとピエトロ・ペローナは、欧米の著名な3つの美術館に収蔵されている絵画の光源の位置を、カタログを使って調べてみた。すると、8割近くの絵が左からの光、それも左上 30~60度の光を想定して描かれていることがわかった。

三浦佳世 
『視覚心理学が明かす名画の秘密』
(岩波書店 2018)

ではなぜ、左上からの光が多いのでしょうか。本書に書かれている一つの推測は、画家はアトリエにおいて窓を左にしてイーゼルをたてることが多いからです。なぜなら多くの画家は右利きであり、窓を左にする方が筆の先に光が当たって描きやすい。三浦氏は似た話として学校の教室を持ち出しています。記憶にある学校の教室は左側が窓で、右側に廊下があり、これは多くの子が右利きなのでノートに影が落ちないような工夫なのだろうと ・・・・・・。これは、いかにも納得性の高い説明です。

陰影による凹凸判断.jpg
陰影に基づく凹凸判断
(本書より)
しかし視覚心理学からすると、もっと本質的な理由がありそうです。それがわかるのが "陰影にもとづく凹凸判断" です。右の図にある18個の凹凸には1つだけ "仲間外れ" があります。それはどれでしょうか。

瞬時にわかると思います。そしてここが大切なのですが「へこんでいるものが1つだけあると瞬時に判断」できるはずです。ところが、この絵を上下逆さにすると「膨らんでいるものが1つだけあると瞬時に判断」することになります。なぜそのような判断になるかと言うと、人は暗黙に上方向からの光を仮定しているからです。


どうやって私たち凹凸の判断をしているのだろう。まず、光は上方からやってくるという仮説を立てるようだ。その際、光源が一つだとすれば、上からの光を受けた場合、凸型だと上部は光を受けて明るくなり、下部には影ができて暗くなる。一方、凹型だとこの逆になる。つまり、人は無意識のうちに、光源を仮定し、明暗の状態を確認し、凹凸を推測しているらしい。驚くことに、こうした高度で瞬時の無意識推論は、生後6~7ヶ月にもなればできるという。

「本書」

「生後6~7ヶ月で凹凸の無意識推論ができる」ことをどうやって調べたのか、本書には書いてありませんが、かなり工夫した実験をしないとわからないはずで、是非知りたいものです。それはともかく、この「凹凸の無意識推論」には続きがあります。


先に名を挙げたサンとペローナは、複数の凹凸図形の中から「仲間はずれ」を探し出す課題(視覚探索)において、仮定される光源の位置を変えて、見つかるまでの時間を測ってみた。すると、右利きの参加者では、左上 30~60度の光に照らし出される場合に、もっとも早く「仲間はずれ」を探し出せたという。つまり人びとは真上からの光よりも、左上からの光に鋭敏だったのである。そしてこの光の方向は、フェルメールを含め、多くの西洋画家が描いたそれと一致する

「本書」

人の視覚判断は左上からの光に最も鋭敏であり、従って、左上からの光が最も自然ということになります。これが絵画に左上からの光が多い理由の推定です。


右上からの光


人にとって左上からの光が最も自然だとすると、その逆の右上からの光は「自然ではない」ということになります。そして画家はその「自然ではない」状況をうまく利用したのでないか、というのが三浦氏の推測です。その一つの例が、ローマのサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会にあるカラバッジョの『マタイの召命』です。

マタイの召命.jpg
カラバッジョ(1571-1610)
マタイの召命」(1600)
(サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会)


一心に金銭を数えている徴税人のマタイに、右上からくさび形の光が伸びている。この光をまとって現れたキリストが彼に声をかけ、名前を呼ばれたマタイが顔を上げれば、次の瞬間、彼の顔は圧倒的な光に照らし出されるだろう。マタイ改心の一瞬を予感させる構図である。

「本書」

右上からの光は "非日常の光" を暗示し、カラバッジョはそれを利用して右上からの "神の光" を描いた。そう推測できるのです。



本書にはない余談ですが、「右上からの神の光」と「改心」で思い出すのが、No.118「マグダラのマリア」で引用した2つの絵画作品、フィレンツェ・ピッティ宮が所蔵する、ティツィアーノとアルテミジア・ジェンティレスキの『悔悛するマグダラのマリア』です。

ティツィアーノの作品は有名で、「マグダラのマリア」と言えばこの絵を思い浮かべる人も多いと思います。アルテミジア・ジェンティレスキは明らかにティツィアーノを踏まえていますが、女性画家らしく裸体表現は最小限に押さえ、"決意" や "自立" といった雰囲気が伝わってくる作品に仕上がっています。またティツィアーノと違って一番強い光は胸に当たっていて、この直後に顔も強い光に照らされて改心が成就する。そのようにも見えます。これはひょっとしたらカラバッジョからインスピレーションを得たのかも知れません。

この2作品に共通するのが "右上からの神の光" です。これが "改心" というテーマを効果的にしていると考えられます。

マグダラのマリア.jpg
ティツィアーノの「悔悛するマグダラのマリア」(1533。左)と、アルテミジア・ジェンティレスキの「悔悛するマグダラのマリア」(1620頃)。いずれもフィレンツェ・ピッティ宮所蔵。



本書に戻ります。三浦氏はさらに、ジョルジュ・デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』をとりあげています。この作品は第1次世界大戦が勃発した年に描かれました。それもあってか、無邪気に遊ぶ少女の先に "影" が待ち受けているという、不安感をかもしだす絵です。

キリコ「街の神秘と憂鬱」.jpg
ジョルジュ・デ・キリコ(1888-1978)の「街の神秘と憂鬱」(1914。個人蔵)。左は透視図法の消失点が一つではないことを示した図。
(本書より)

さらにこの絵から受ける印象としては、どうも通常の風景ではなさそうだという「違和感」であり、「どこか変だな」という印象です。


キリコの代表作はいずれも違和感や不思議な印象を喚起する。この「どこか変」な印象は、一点に収斂しない透視図法にあると、美術の本などでは常に指摘されてきた。

「本書」

しかし、本当にそれが違和感や不思議な印象の理由なのだろうか、と三浦氏は疑問を呈しています。というのも、一点に収斂しない透視図法に対して人は寛容だからです。


日常生活において、人は写真のような透視図法的な景色を見ているわけではない。全体を一度で掌握できるほど視野は広くなく、左右の目に映っている映像も異なっている。絵に描かれたような、あるいは写真に再現されえているような、一点からみた光学的な世界を見てはいないのである。

このためか線遠近法に違反している絵を見ても、私たちはそのことに気づかず、寛容である。フェルメールの「ミルクを注ぐ女」の絵では、実は線遠近法に違反して、ありえない空間が描かれている。キリコの絵と同様、消失点が一つではないのだ。このため、窓枠をたどって消失点を求め、この消失点に基づいて机の形を描くと、ミルクは机のない右の床に落ちるか、あるいは画面手前に無駄に広いスペースをもつ机の構図になってしまう。

しかし、この絵には透視図法の間違いによって奇異な印象があるというう指摘は滅多に聞かれず、リアルに描かれた絵画と評されることが多い。そうであれば、キリコの絵の違和感に関して、線遠近法の違反だけで説明することは難しい。

「本書」

牛乳を注ぐ女.jpg
フェルメール(1632-1675)の「ミルクを注ぐ女」(1658)。アムステルダム国立美術館蔵。机の消失点はミルクポットの上のところにはない。
(本書より)

では、キリコの絵の「どこか変」という印象はどこからくるのか。三浦氏は「この絵は影の方向が見慣れない」と指摘しています。


彼の描いた街の不思議な景観は影の方向、つまり光源の位置にも由来しているのではないだろうか。前章で述べたように、西洋絵画の大半は光源が左上に設定されている。絵画に限らず、日常生活でも右利きであれば、左からの証明を好む。

ところが、キリコの絵では、影は常に左に伸びている。光源が右上に設定されているからだ。つまり、彼の絵は日常で親しんでいる光の方向や、西洋絵画で見てきた影の方向と逆なのである。彼の絵の違和感は、この影の方向あるいは光源の位置にも由来しているのではないだろうか。少なくとも、キリコはそのことに意識的だったに違いない。

「本書」


左向きのプロフィール


以上を踏まえて、最初に書いた左向きの横顔肖像画(=プロフィール)が多い理由は次のようになります。三浦氏は "左からの光" を含めて3つの理由をあげています。


西洋の肖像画は左向きに描かれることが多い。それは顔の左側が右脳の支配によって豊かな表情を示すことや、画家が右利きの場合、右上から左下に筆を描きおろす方が簡単なことから説明できる。また西洋の絵では一般には光源を左上に設定するため、左向きの顔は光に照らされ、明るく輝く

「本書」

そして左向きプロフィールの代表例として、No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」で引用したピエロ・デル・ポッライオーロの「若い貴婦人の肖像」が紹介されています。

Piero del Pollaiuolo - Profile Portrait of Young Woman.jpg
ピエロ・デル・ポッライオーロ
若い貴婦人の肖像
(ポルディ・ペッツォーリ美術館)

ここまでは、左向きプロフィールに関しての予想どおりの話の展開です。しかし、ちょっと意表をつかれたのはポッライオーロの絵とともに、右向きプロフィールの代表例として、No.121「結核はなぜ大流行したのか」で引用したムンクの「病める子ども」が紹介してあることでした。

病める子(MoMA).JPG
エドヴァルド・ムンク(1863-1944)
病める子ども」(1896)
(ニューヨーク近代美術館)

No.121で書いたように「病める子」は、15歳で結核で死んだ姉(そのときムンクは13歳)を思い出して描いた絵です。ムンクは20歳代以降、40年間にわたって何枚も「病める子」を描いていて、油絵だけでも6枚もあります。No.121で引用したのは油絵の最初の作品でしたが(1885/6。オスロ国立美術館蔵)、本書で引用してあるのはニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵するリトグラフ作品です。そしてこの絵について三浦氏は次のように書いています。


右向きに描かれた少女は美しくも儚げだが、目には光が射している
「本書」

なるほど ・・・・・・。カラヴァッジョの「マタイの召命」からの類推で言うと、ムンクは「神に召されようとしている姉が、神の光を受けて目に光が宿ったところ」を描いたのでしょう。ムンクにそういう意図がなかったとしても、右からの光が暗黙に「自然ではない光」を表すのが西洋絵画の伝統なので、結果としてそれに符合するように描かれた。このリトグラフに関してはそういう感じがします。何枚もある「病める子」の中には左向きの絵もあるのですが、右向きの絵が特に印象が強いように思うのはそのせいでしょう。そう言えば、最初に描かれた油絵の「病める子」(オスロ国立美術館蔵。No.121で引用)も右向きなのでした。

ポッライオーロの描く左向きの貴婦人は明るい自然な光に照らされて、いかにも健康的で、はつらつとしています。一方のムンクの描く右向きの15歳の姉は、残り少ない命の最後の輝きのような "尋常ではない神々こうごうしさ" を感じる。三浦氏は数ある「病める子」の中からピンポイントでMoMAのリトグラフを選んだはずです。この2枚の絵を対比させて提示した三浦氏の慧眼に感心しました。


酒井抱一と「クレイク・オブライエン現象」


視覚心理学で「クレイク・オブライエン現象」と呼ばれる錯視現象があります(コーンスウィート現象とも言う)。下図(上)においては左側が暗く、右側が明るく見えます。しかし実際には境目のすぐ左側の狭い領域が暗いだけで、その他の部分の明るさは左右で同じです。境目のところを隠すと(下)、そのことがわかります。

Cornsweet illusion.png

Cornsweet illusion_proof.png
クレイク・オブライエン現象
上の図において左右の明るさは違って見えるが、実際に違うのは境目の付近だけである。下図のように境目付近を黒で隠すとそのことがわかる。
(Wikipediaより)

このように物理的には狭い領域の明るさが変化しているだけなのに、広い領域にわたって明るさが変化しているように見えるのが「クレイク・オブライエン現象」です。実は、日本の画家はこの現象を巧みに利用してきました。たとえば江戸琳派の祖である酒井抱一の「寿老・春秋七草図」です。

春秋七草図(秋).jpg
酒井抱一
寿老・春秋七草図」(秋)
(山種美術館蔵)


抱一の「寿老・春秋七草図」では、左上隅の月の輪郭付近が暗く描かれ、右斜め下に向かって急に暗さが減じられている。このため、月の部分が背景よりずっと明るく見える。しかし、実際は、月の中心と月から少し離れた領域の明るさは同一で、月の輪郭付近の暗く見える部分を隠すと、月と周りの明るさは変わらないことがわかる。

この手法であれば、月の明るさと同時に、月明かりで明るく照らされた草木の微妙な色合いも表現することができる。巧みな手法である。

物理的には境目の明るさだけが変化しているのに、知覚的には広い範囲にわたって違って見える現象を、古くから日本の画家たちは知っていた。

「本書」

酒井抱一のような月の描き方は、他にもいろいろ例があります。日本の画家は、心理学者が視覚の研究で発見する以前からこの現象を知っていて、それを絵に利用していたわけです。


モネ、ルノワールと「色の恒常性」


エーデルソン錯視と呼ばれる現象があります。下図(上)でチェッカーボードの A の部分は黒で、B の部分は白だと、我々は判断します。しかし実際には A と B は同じ色です。我々の脳は A には光が当たっているから明るいと判断し、B は円柱の影になっているから暗いと判断し、この照明状況を考慮し、照明の効果を差し引いて A は黒、B は白と判断するのです。

Adelson illusion.png
Adelson illusion_proof.png
エーデルソン錯視
Aは黒っぽく Bは白っぽく見えて違う色のようだが(上)、2つの色の間に無理矢理ブリッジを作ると(下)全く同じ色であることがわかる。
(Wikipediaより)

このような脳の働きを「色の恒常性」と呼んでいます。つまり白い壁に光が当たっている部分と影の部分があるとき、我々の脳は網膜で受け取った実際の物理的な色に修正をかけ、全体が同じ白だと判断します。

ところが印象派の画家たちはこの「色の恒常性」を無視して絵を描きました。たとえば有名なモネの「ルーアンの大聖堂」の連作です。

Rouen Cathedral.jpg
クロード・モネ
ルーアンの大聖堂
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)


モネが描いたようにこのファサードを見ることは、実は、私たちの通常の視覚からすると非常に難しい。たとえば部屋のベージュの壁面が、光と影によって白と黒ほど明るさが違っていても、私たちの知覚には白っぽいベージュと黒っぽいベージュに見えることはなく、同じベージュに見える。つまり、照明や影を差し引いて、対象のもとの色や明るさが判断できるようになっている。

「本書」

モネは、通常の脳の働きである「色の恒常性」を無視して描けたのです。上のエーデルソン錯視の例で言うと A と B を同じ色で描いた。これはすごいことです。神経生理学者のセミール・セキという人は「モネは脳で描いた。だが、何という脳だろう」と言ったそうです。

このような描き方は、ルノワールもそうだと言います。たとえばオルセー美術館の『ブランコ』という作品です。


オーギュスト・ルノアールは戸外で楽しげに語らう人やブランコに乗って遊んでいる人を描いている。そこでは木漏れ日の下にいる男性の青いスーツに大木な白い斑点が描かれ、女性の白いドレスに青い影がまだらに描かれている。人の視覚では、青いスーツはどこもが青く、白いワンピースはどこもが白く見える。ルノアールもモネと同様、色や明るさの恒常性を打ち消し、光と影が織りなす模様を服の上に大胆に描き込んだのである。

「本書」

Swing-Renoir.jpg
オーギュスト・ルノワール
ブランコ
(オルセー美術館)

よく「印象派は影にも色があることを発見した」などと言われますが、視覚心理学からすると「色の恒常性を無視して描いた」となります。その方がより正確な言い方です。さらに三浦氏は、この描き方は写真の影響ではと推測しています。


印象派の画家たちは写真の登場により、写実とは異なる表現を生み出したといわれている。だが、逆かもしれない。明るい日の写真には、人の視覚では気づかない光や影が強く写り込む。ルノアールの絵のように、光の当たったジャケットは白光りし、木漏れ日の下の顔には色ムラが映り込む。

ルノアールの描いた光景はその意味で、カメラのとらえた映像が再現されている。写真が印象派の画家たちに自然の見え方を教え、また、印象派の絵が私たちに、色や明るさの恒常性を無視した見方を教えてくれた。

「本書」


ポロックの「フラクタル次元」


本書にはオレゴン大学のテイラー教授(物理学)が行った、ジャクソン・ポロックの "アクション・ペインティング"(または "ドリップ・ペインティング")についてのフラクタル解析が紹介されています。ポロックの作品には "秘密" があるのです。"アクション・ペインティング" の代表的作品は、たとえば次の「ナンバー 14」ですが、これにどんな秘密があるのか。そのキーワードは "フラクタル" です。

Pollock_Number-14.jpg
ジャクソン・ポロック
Number 14 : Gray」(1948)
(Yale University Art Gallery)


フラクタルとは部分が全体と相似をなす構造、つまり、部分の形状が全体の形状と似ていて、部分を拡大すると同じ形状が繰り返し現れる構造を示す。フラクタルには、厳密に自己相似である場合と、統計的性質が相似的な構造をもつ場合がある。自然界には後者のパターンが多く、たとえば、雲や枝分かれする樹木、リアス式海岸などもフラクタル構造をもっている。フラクタル構造をもつものは、相似形の繰り返しからなっているので、情報の処理が簡単で、この処理流暢性が美しさや快さにつながると考えられている。ただし、生理的なメカニズムは特定されていない。

白と黒に2値化した画像では「フラクタル次元」の値は1から2までの値をとる。1に近づくと単純になり、2に近づくほど要素が増えて複雑になる。このうち、人が心地よいと感じられる値は 1.3~ 1.5 近辺で、雲や海岸線など、自然界の示すフラクタル次元はたいていこの範囲に収まると言われている。

「本書」

2値画像を念頭に補足しますと、自己相似的性質をもつ画像は一定の値の「フラクタル次元」を定義できます。自己相似的性質のない画像は、そのような一定の値は定義できません。フラクタル次元が1とは1次元であり、直線が一本書かれた画像はそうです。フラクタル次元が2とは2次元、つまりすべての点が黒で埋められた画像です。

2次元画像のフラクタル次元はボックス・カウンティング法で計測できます。この方法ですが、2次元の2値画像を1×1の正方形領域にマッピングしたとします。そして正方形の縦横をそれぞれ N 分割し、N×N 個の小領域に分けます。そして画像の黒点がある小領域の数をカウントして、その数を P(N) とします。すると、フラクタル次元 D は、N が十分に大きいとして、次のように定義できます。

  D = log P(N) / log N

もし、画像に直線が横1線に描かれているだけとしたら、P(N) = N なので、D = 1 となります(1次元)。もし画像が黒点で埋め尽くされているのなら、P(N) = N * N なので D = 2(2次元)となります。数学的には平面を埋め尽くす曲線が定義できるのですが(=空間充填曲線。ペアノ曲線など)、そのような曲線のフラクタル次元は2(=2次元平面と同じ)になります。画像が自己相似性をもつと D の値は(Nが大きい範囲で)ほぼ一定になります。自己相似性がないと、こような一定の D の値は定まりません。

テイラー教授はこの方法でポロックの絵画のフラクタル次元を求め、分析しました。


テイラーはボックス・カウンティング法という手法を使って、ポロック絵画のフラクタル解析を行ってみた。すると、一見、でたらめに描いたように見えるどの絵においてもフラクタル構造が見られ、どのようなスケールで部分を切り取ってみても、全体と相似をなしたという。しかも「ナンバー 14」という作品では、フラクタル次元の値は 1.45 と、人が快く感じられる値に一致していた。数学者がフラクタルという概念を案出する20年も前のことである。ポロックはその概念をすでに画面上で表現していたのだ。

テイラーはさらに、ポロックの1945年から54年までの作品を解析してみた。すると、フラクタル次元の値は、年代が進むにつれて上昇し続けていくことがわかった。画面はひたすら複雑になっていったのである。最盛期の1948年頃の作品ではフラクタル次元の値は 1.5 近辺で自然界に見られる値に近かった。

しかし、1950年には上限に近い 1.9 という際だって高いフラクタル値の作品を制作している。ただし、彼は後にこの作品を破棄したという。画面があまりに複雑で過密過ぎると感じたのだろう。

「本書」

本書には京都大学霊長類研究所の研究者が、スーパー・チンパンジーである "アイ" に線画を書かせ、それをフラクタル解析したことが書かれています。それによるとフラクタル構造は見いだせなかったとのことです。"アイ" の絵は残念ながら "デタラメ" だったようです。しかし、ポロック風のアクション・ペインティングを描いたとしても "デタラメ" になってしまうのは、何も "アイ" だけではありません。


実際、テイラーもポロック風の作品を作って、フラクタル解析を行っている。見かけは似ているが、フラクタル構造は見いだせなかったらしい。ポロックは自由気ままに制作していたように見えて、実は大変な「計算の上に」画面を構成したいたことがわかる。事実、ポロックは早くて2日、長いと半年をけかて一つの作品を仕上げていたという。一瞬の判断と行動、しかしそのための長い熟慮もしくは思考停止、その繰り返しが優れた作品を生み出したのだろう。

「本書」

ちなみに本書によると、テイラー教授は絵を描くのが趣味で、美術学校に通ったこともあるそうです。プロの画家ではありませんが、全くの素人でもありません。しかし、美術学校に通ったことがあって絵画が趣味程度ではポロックの域にはとても到達できないのです。

ポロックの "アクション・ペインティング" は、デタラメとはほど遠く、それはある種の "心地よさ" を生み出すように計算しつくされたものである。このことを知るだけで絵の見方も変わるでしょう。


絵画を見る視点


本書には上にあげた以外にも、視覚心理学と絵画にからむさまざまな話題が取り上げられていますが、割愛したいと思います。いずれも絵画を愛好する人なら興味深い内容でしょう。

振り返ってみると、このブログでは中野京子さんの『怖い絵』シリーズから、かなりの引用をしてきました。『怖い絵』シリーズのメッセージは、

  絵画は「見て、感じればよい」というだけでなく、描かれた背景、つまり画家の個人史、制作された時代の状況、絵画史における位置づけなどを知ることで、より興味深い鑑賞ができるし、描かれた背景を知れば "絵の意味" が一変してしまうことさえある。

ということでしょう。三浦氏の「視覚心理学が明かす名画の秘密」も、それと似ています。つまり、

  心理学の知識を踏まえて名画を見ると、より興味深い鑑賞ができるし、名画とされるその理由の一端が感じられる。

とうことです。そのことがよく理解できた本でした。



 補記 

三浦佳世氏は、2019年3月の日本経済新聞の最終面で「絵画の中の光と影 十選」と題するエッセイを連載されました。これは「視覚心理学が明かす名画の秘密」の補足のような内容です。その一部を、No.256「絵画の中の光と影」で紹介しました。

(2019.4.13)


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No.242 - ホキ美術館 [アート]

「個人美術館」という言い方があります。これには2つの意味があって、

一人のアーティストの作品だけを展示する美術館

一人のコレクターが蒐集した作品だけを展示する美術館(以下、個人コレクション美術館)

の2つです。今まで、バーンズ・コレクションからはじまって9つの "個人コレクション美術館" について書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム
  No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC
  No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ

の9つの美術館です。これらはいずれもコレクターの名前を冠していました。また、フィリップス・コレクションとポルディ・ペッツォーリ美術館はコレクターの私邸がそのまま美術館となっている「私邸美術館」、ないしは「邸宅美術館」(ジャーナリストの朽木くちきゆりこ氏の表現)です。

今回はその「コレクター名を冠した個人コレクション美術館」の続きで、日本の美術館を紹介したいと思います。千葉市にあるホキ美術館です。ホキ美術館は実業家の保木将夫ほきまさお氏の個人コレクションの美術館で、写実絵画(リアリズム絵画)だけを展示するという、日本で唯一の(おそらく世界でも唯一の)美術館です。その建物は保木コレクションの展示専用に建てられたもので、3つの細長い廊下(=ギャラリー)を3層に重ねた構造の、大変ユニークな形をしています。大手設計会社である日建設計の設計です。

ここはテレビでも何回か紹介されたし、また本も出版されています。日本の美術館なので訪れた人も多いと思います。そしてここを訪れると、写実絵画の独特の魅力、写実絵画でしか味わえない魅力を改めて認識することになります。その "魅力" をいくつかの視点から書いてみたいと思います。

ホキ美術館.jpg


見たことがない風景


最初は風景画です。絵で "見たことがないモノや世界" を描くのはあたりまえであり、神話画から始まって、空想の世界を描いたり、パッチワークのような理想の風景を描いたりと、幾多の作例があります。

では、写実絵画の技法で描かれた風景画はどうなのでしょうか。一般に「写実」と言うと「見たままを忠実に描く」とか「写真のように描く」とか言われます。ホキ美術館に行っても "写真みたい!" と感嘆する声を時折り聞きます。はたしてそれは「写真のように見たままを描いた」ものなのか。

我々が戸外で風景を眺めるとき、眼はある一瞬では風景のどこかの狭い範囲を見ています。その範囲を次々と移動させて全体の風景を認識している。見ている狭い範囲の上下左右は、実はボケています。丸い眼球の構造上、どうしてもそうなります。また、ある時点でクリアに見えるのは一定距離の所だけで、その前後は不明瞭です。我々は眼のレンズ(水晶体)の厚みを変化させ、焦点距離を変えて近くを見たり遠くを見たりする。こういった上下左右・前後の視点の移動を繰り返し、脳がそれらをつなぎ合わせて全体の風景と認識しているわけです。

写真はどうかというと、人間の眼よりは遙かに広角の範囲を同時にとらえられます。周辺で画像が歪むということがありますが、こういった歪みをいかに少なくするかが、カメラ・メーカーの技術者の腕の見せ所です。しかし、撮影場所付近と遠方の両方に同時に焦点を合わせることは、ふつうできません(被写体深度による)。また、写真は人間の眼と違って単眼です。両眼視で風景を認識している人間とは見え方が違います。さらにシャッタースピードは数百分の1秒とか、そういう値です。写真は数百分の1秒の瞬間だけを切り取っています。

それ対して写実絵画の技法でリアルに描かれた風景は "人間の眼" とも違うし "写真" とも違います。なぜなら「広角の範囲の近くから遠くまで、そのすべてに焦点が合っているように精緻に描く」ことが可能だからです。それは画家が長い時間をかけて風景の細部をじっくりと見つめ、そこで得たさまざまな情報を平面のカンヴァスに定着させたものです。それは、実は人がいまだかつて実際に見たことがない風景であり、また、一定の焦点距離の単眼で瞬間を切り取る写真では不可能な表現です。

ホキ美術館が所蔵する、原雅幸まさゆき氏の『マナー・ハウス』という作品が次です。原氏は大阪出身で、スコットランドのエディンバラ在住の画家です。

マナーハウス.jpg
原 雅幸(1956 ~)
マナー・ハウス」(2012)

マナー・ハウスとは貴族の所有する牧場・農場に建てられた邸宅で、マナー(manor)とは "荘園" の意味です。雪の日の、あるマナー・ハウスの入り口を描いたものです。雪が降ったことで風景が一変したように感じられるところに、長い木の影を落として朝日が差し込んでいます。

もちろん、雪の日にイギリスのマナー・ハウスに行ったことがある人は(滅多に)いないでしょう。しかしこれと類似の光景に、我々は日本で出会っているはずです。向こうに続く道が雪で覆われ、両側には木々があり、朝日が差し込む ・・・・・・。雪の日の郊外や田園地帯に行ったことがなくても、そこに行って同様の光景に立ち会う姿は容易に想像できると思います。では、この絵の風景は実体験できるのかどうか。

この絵は近景を思い切り広角で描いています。かつ、マナー・ハウスへと続く道の奥までが遠近法で描かれている。そして道の両側の木々や遠方の樹木を含めて、すべてのものが写実の技法で細密に描写されています。ホキ美術館でこの絵を見ると、そのすべてが同時に眼に飛び込んできて風景を一望することになります。これは実世界では体験できないことです。写真でも無理でしょう。

この "体験" に驚きと感動を覚えるのですが、この効果は写実絵画だからこそ発揮できるものです。あくまで写実的に描かないとこの効果は薄れてしまう。まずこのあたりに、写実絵画の一つの魅力があります。

蒼天.jpg
野田 弘志(1936 ~)
蒼天」(2008)

日本における写実絵画を牽引してきた野田 弘志氏の作品で、北海道の有珠山の雄大な風景を描いています。2m×4m の大作です。

有珠山(しかも噴煙をあげている)をこのようなポジションで実際に見た人は少数だと思いますが、類似の光景に出会った人は多いでしょう。孤立山の裾野に立って山を眺めるとこういう感じになります。北海道で言うと羊諦山がそうだし、富士山の裾野を思い出してみてもいいと思います。

しかし実際にその場所で見ると、近景の林の木々と遠景の山を "同時に" 見ることはできないのですね。風景画だとそれら同時に同じ焦点距離で提示できます。これぐらいの距離になると写真で可能かもしれませんが、山肌と木々の細部が2m×4mのカンヴァスに緻密にクリアに描かれたさまは写真では表現できない。写実絵画ならではでしょう。

野田氏は絵のタイトルを「蒼天」と名付けています。画家が一番描きたかったのは、まさにその空だと思います。雲ひとつない、独特の色合いの、ピュアな空。そこに、地球内部から突き出てきたような有珠山の山塊が対峙しています。その山塊に "へばりついている" かのようにも見える林の木々。この3つを対比させることによって、自然の営みの巨大さをカンヴァスで表現したと感じます。じっと見ていると、山塊は林を圧倒するようにそびえ、画面の3分の2を占める空はその山塊を飲み込んでしまいそうな雰囲気です。自然の巨大さを順序づけると、

  林 < 山塊 < 蒼天

  ないしは、それを一般化して

生命 < 地球 < 宇宙

といった感じがします。林の手前の畑を人間の営みと考えて、それも生命の中に入れてもいいと思います。画家が空に雲を描かなかったのは、宇宙の一部としての空をイメージしたからでしょう。そういった関係性を、題名である「蒼天」を軸に一瞥いちべつできるようにしたのがこの絵のポイントです。

全くスケールの違うものを1枚のカンヴァスに押し込めた絵です。それを見る人に「生命・地球・宇宙」という風に(少なくとも私にとって)感じさせる理由は、まさにそれが写実絵画だからと思います。たとえば印象派風の筆致で林と山と空を描いたのでは、それは「有珠山風景」であって、全く違った意味の絵になるでしょう。あくまで「林・山塊・蒼天」のリアルな描写に徹しているからこそ、それが逆に「生命・地球・宇宙」を感じさせる。写実絵画でしか成し得ない表現だと思います。


存在の本質に迫る


「存在の本質」などと言うと哲学的な話のようですが、ここでは難しく考えずに「存在が、それを見る人に必然的に引き起こす印象や感情」ぐらいの意味にしておきます。

たとえば美術品としての焼き物があるとします。人がそれを鑑賞するのはまず形です。そして(絵付けがないとしたら)釉薬で焼き上げた表面の感じが重要です。表面には往々にして釉薬の流れた跡や焼きムラがあって、それを景色けしきと言ったりします。また、釉薬の細かいひび割れ(貫入かんにゅう)があったりする。それらのすべての「質感」や「味わい」を視覚(と触覚)で楽しむのが焼き物です。

人間に何らかの感情を呼び起こすモノ・存在の姿を、焼き物にならって「景色」と総称するとすると、景色は何も美術工芸品に限ったものではありません。無生物だけでなく動植物にも、身の回りの日用品にもそれぞれの景色があります。身の回りの品をじっと見ることは普通しないので、いちいち気に留めることはないのですが、ふとじっと眺めると、そこにある「存在」がある種の「印象」や「感情」を呼び起こす。それは「存在」が持っている景色に起因すると同時に、我々と「存在」の関わり合いの記憶からくるものです。人生においては「存在」との数々の出会いがあり、その記憶が無意識的にさまざまな感情を引き起こしている。

写実絵画の魅力は、「存在」の何が「印象や感情」を引き起こすのか、その本質は何かを視覚の面から追求していることにあります。

 静物 

パンと檸檬.jpg
五味 文彦(1953 ~)
パンと檸檬」(2010)

そのモノが持つ「景色」が人の感情を呼び起こす秘密はどこにあるのか、画家はそれを探求します。五味 文彦氏の静物画「パンと檸檬」(2010)もそうです。

こういったタイプのリアリズム静物画は、オランダ絵画を筆頭に現在まで膨大な作品が作られてきました。このブログでも以前にとりあげたことがあります。No.157「ノートン・サイモン美術館」で紹介したスルバランの「レモンとオレンジとバラの静物」(1633)です。そこでは絵の印象として、

静粛
質素
澄んだ空気感
すがすがしい
モノが存在をしっかりと主張している

と書きましたが、五味氏のこの絵はどうでしょうか。

題名になっている「パン」と「檸檬」以外に、「グラスに入った赤ワイン」と「栗」が描かれ、さらに「レース」と「質感が違う3種の金属器」が描かれています。明らかに画家は難しそうな素材を選んで、油絵による質感表現の限界に挑んでいる感じがします。グラスの向こうに映るパンなどは特にそういう感じがします。

しかしそれだけではありません。たとえばパンの描写をじっとみると「質素」だが「暖かみ」があって「豊穣さ」もあるといった感じを受ける。一つのパンが少しちぎられて中が見えているところなどは、その印象を倍加させているのでしょう。数個の檸檬がありますが、皮を剥いた姿も描かれていて、柑橘類が我々に与える印象、つまり瑞々みずみずしさ、清楚、鋭利、といった感じが絵筆で的確にとらえられていると思います。

さらにこの作品が優れていると思うのは、ある種の「空気感」が画面全体で表現されていることです。スルバランの絵のような、澄んだ、すがすがしい空気が静物を覆っているように感じる。

No.157「ノートン・サイモン美術館」のスルバランの絵のところで「この手の静物画は実際に絵をパッと見て好きかどうかが決まる」と書きましたが、その「パッと見て」というところは、実は絵全体がらうける「空気感」なのでしょう。五味 文彦氏の「パンと檸檬」でそのことが分かるのでした。

  

ホキ美術館には女性の肌を描いた作品が多々あります。写実絵画を描く画家には、肌の美しさや輝くような質感を描くことにこだわっている方がいます。画家はどうやって肌を描いているのか。島村 信之氏の文章を紹介します。


(島村 信之)

テンペラや油彩画の古典技法に、自然な肌色をつくるための描法として、まず一層目にテールベルトというくすんだグリーンを中間色にして、肉体部分の下地に塗っておく方法があります。寒色、次に暖色と交互に重ね合わせることで、色を自然な感じに落ち着かせる効果があります。

この技法を参考にグリーン系を肌の部分に少し形を追いながら濃淡をつけて一層目を描き、次に赤みにある暖色をかぶせて、徐々に肌色をつくっていく方法を試しました。絵の具が乾いたらまた自然な肌色になるように下層の色味を調整する絵の具を薄く塗り、色と形、そして質感を追いながら重ねていきます。

例えば少し赤が強いときはグリーンを少し多く含ませた色を上に重ね、もし黄色が強く感じたときはパープルを意識した色をつくって重ねていくといった具合です。補色にあたる色を薄く被せていくと自然な落ち着いた色に収まります。

このように微妙に調整しながら塗り重ねていくのですが、少なくとも4層以上は必要です。部分的にはさらに2、3層重ねます。油絵の透明度を効果的に使うことにより深みのある色彩や質感を得ることができるのです。


島村氏が書いている描き方はあくまで一つの例であり、かつ、おおまかなプロセスに過ぎません。画家は数々の工夫と試行錯誤を重ねて「肌」がもつ質感を油絵で表現することに挑戦します。

最も肌にこだわって描かれる画題は裸婦で、ホキ美術館にもたくさんの作品があります。上の文章を書いた島村氏も数々の裸婦を描いていますが、ここでは島村氏の「レッスン」という作品を紹介します。

レッスン.jpg
島村 信之(1965 ~)
レッスン」(2008)

モデルは島村氏の5歳の娘だそうです。島村氏は「子どもの飾らない仕草は魅力的」と言っていますが、確かにそうです。ヴァイオリンを一所懸命に弾こうとする子どもの姿が的確にとらえられている。この子はまだ演奏に上達していない段階で、ちょっと背筋を曲げて前屈みになっている姿がそのことを示しています。しかし全くの初心者(ヴァイオリンを習いだしたばかり)でもない。弓をもつ右手の格好を見ると、習い始めてから少なくとも数ヶ月は経っていると思います。一部しか見えないこの子の表情も含めて全体の仕草が大変に魅力的で、まさに "カワイイ" という感じです。

しかしもう一つ注目したいのは、この絵の真ん中に描かれている女の子の右腕です。柔らかさと弾力が同時にあり、内部から輝いているような5歳の女の子の腕が表現されています。実際に美術館でこの絵を見ると、ふくよかで、瑞々みずみずしくて、健康そのもので、おもわずさわってみたくなるような肌の感じを受けます。画家は娘のヴァイオリンのレッスンの姿を描くにあたって、右腕が真ん中にくる構図を選んだのでしょう。右腕を描きたかったのだと思います。

この感じは写真では無理な表現です。我々が写真を見るとき、それは印刷されたもの(ないしは画像ディスプレイに表示されたもの)です。印刷技術はいろいろありますが、インクを紙の表面だけに定着させたものであることには変わりありません。島村氏の「肌の描き方解説」にあるような、何層もの絵の具を塗り重ねたものではない。

油絵では、島村氏も書いているように、重ね塗りの工夫によって微妙な色の効果を実現できます。5歳の女の子の腕を実際に見たときに我々が感じる「腕の内側から発してくる光が作り出す美しさ」を近似できます。少なくとも画家は、その実物の美しさの秘密に迫ろうと工夫を重ねます。これは写実絵画でしかできない表現であり、写実絵画の魅力の一つです。また、美術館に行って実際に絵を間近に見ないとわからない魅力です。

 樹木 

木霊の囁き.jpg
五味文彦
木霊の囁き」(2010)

『パンと檸檬』と同じ五味文彦氏の作品です。タイトルにある「木霊」の "れい" とは "たましい" とほぼ同じ意味で、「肉体に宿っていて肉体を支配する働きをするもの」ですね。これは日本はもとより世界中にある考え方です。肉体は死んでも霊(魂)は生き続けるというコンセプトも世界中にあります。この作品の「木霊」という題は、描かれた木にそういった "霊" を感じたということでしょう。

ここで考えてみたいのは「リアリズムの手法で樹木を描くことの意味、林や森ではなく樹木そのものを描くことの意味」です。No.93「生物が主題の絵」のクールベとシーシキンの樫の絵のところで書いたのですが、ここで改めて書きます。

わかりやすいのが大木や巨木です。我々は大木や巨木に出会うと、人間の寿命よりはるかに長い時間(数百年、時には千年以上)をかけて成長し、風雪に耐えて生きながらえ、現在も成長を続けているという実感を持つことができます。木に触れたり叩いたりしてもビクともせず、そこに屹立している。その重量感と実在感に圧倒されます。さらに、最初はごく些細な芽生えであったはずのものが長い年月の間に数10トンもの巨大な存在になるという "生命の不思議さ" を感じ、そこまでになる植物の生命力に打たれることにもなります。

それが高じると "人智を超えた何か" を感じてしまい、神聖なものとしてとらえることになる。日本の古来の伝統では、大木や巨木に神が宿る(ないしは降臨する)という概念があり、注連縄しめなわ紙垂しでをつけた大木・巨木が至る所にあります。こういった感性は程度の差はあれ、森林が多い地域に発生した文化に共通です。

大木・巨木でなくても、樹木にたましいを感じることがあります。樹木が "動く" のはあくまで風や外圧の作用、落葉らくようなどであって、自らは微動だにせず立っています。しかし目には見えない早さで成長を続けている。そこに生命体に共通の "意志" ようなものを感じてしまいます。五味氏が「木霊の囁き」で描いた木は樹齢でいうと数十年でしょうが、そういった "木が人の感情に訴えるもの" に着目した絵でしょう。こういった「モノ=樹木が人に与える感情や感じの源泉」を絵にしようとするとき、まさに写実絵画の手法が生きてくると思います。



いま「日本では注連縄しめなわ紙垂しでをつけた大木・巨木が至る所にある」と書きましたが、注連縄と紙垂をつけた岩・巨石もしばしばあります。そこで思い出したのが、石を描いた絵画です。ホキ美術館の所蔵作品ではありませんが、写実絵画の一貫として次に引用します。

 岩・石 

火打ち石.jpg
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)
火打ち石」(1975)
テンペラ
(個人蔵)

題名が「火打ち石」となっていますが、これはもちろん火打ち石ではありません。ワイエス家はアメリカ北東部・メイン州のクッシングに別荘があり、そのクッシングの海岸にある巨石を描いたのがこの絵です。なぜ「火打ち石」かというと、この石の色と形が火打ち石に似ているということでワイエス自身が題をつけたからです。

画面の半分を砂浜が占め、中央に石をドカッと描くという絵の構図とテーマが珍しいと思います。よく見ると、石の上部には鳥の白い糞がべっとりとついているし、前方の砂浜には蟹、ムール貝、魚の骨など、海洋生物の残骸があります。何万年・何億年という期間にわたって存在し続けてきた石と、その周りで繰り広げられる生命の営みがこの絵の主題でしょう。もちろん中心のテーマは、この石を見たときに人が感じる(画家が感じた)圧倒的な存在感です。それがダイレクトに写実の手法で表現されています。

そして思うのですが、画家がこの石を見たときに湧き起こった感情と、岩・巨石に注連縄と紙垂をつける日本人の心情には、どこかに共通点があるはずです。

補足しますと、この絵は個人蔵ですが2008年のワイエス展に出展され、またチケットの絵にも採用されたので、覚えている人は多いと思います。そしてデジタル画像ではわかりにくいのですが、小さく描かれているムール貝は青色です。普通、ムール貝(=イガイ科の貝の全般)は黒のイメージですが、青色のものもあります(No.126「捕食者なき世界(1)」のカリフォルニア・イガイの画像参照)。そのポツンと小さく描かれたブルーが印象的な絵です。まさに "ワイエス・ブルー"(No.152「ワイエス・ブルー」)といった感じです。



ホキ美術館の絵に戻ります。「存在の本質に迫る」というテーマで "静物" "肌" "樹木" をあげましたが、こういったタイプのリアリズム絵画は、デジタル画像や印刷物にしてしまうと写真と何ら変わらないことになってしまうのですね。従って絵の真価を味わうためには実際に絵を見るしかありません。ホキ美術館の意義はそこにもあると思います。


人の微妙な表情に引き込まれる


次の生島 浩氏の「5:55」(2010)という絵は、ホキ美術館で一番有名な絵だそうです。題名は「5時55分」の意味です。画像ではわかりにくいのですが、右上に描かれた時計が5時55分を指しています。

5時55分.jpg
生島 浩(1958 ~)
5:55」(2010)

明らかにフェルメールを思わせる光の使い方と空間構成です。生島氏によると、モデルは画家のアトリエの近所の公民館で働いていた女性だそうです。そして、この絵の評判がいいのはモデルの女性の魅力だと語っています。


(生島 浩)

色調も地味なこの絵が、思っていたより評判が悪くないようなので、ちょっと驚いてしまいました。おそらくは、この絵に対してというよりは、この絵に登場している彼女の魅力に反応しているようにも思えます。

同上

評判が良いのは見る人が彼女の魅力に反応しているから、というのは画家の謙遜でしょう。確かにその面は大きいと思いますが、この絵を魅力的にしているもっと大きな理由があって、それはモデルの女性の微妙な表情だと思います。これは明らかに画家の自信作ではないでしょうか。

絵のタイトルの由来ですが、テレビで紹介されたときの解説によると、生島氏はこの公民館勤務の女性に「6時まで」のモデルを依頼したようです。何時から制作を始めたのかは知りませんが、とにかく6時までの条件でモデルになることを依頼し、彼女は画家のアトリエに何回か通った。

モデルとしては全くの素人です。長時間、絵のモデルになるのは大変だし、苦痛でもあるでしょう。この絵の彼女の表情は「もうすぐ6時、やっと解放されるというソワソワした感じ」と「早く6時になってほしいが、まだならないという苛立いらだち」が "ないまぜ" になっている表情なのです。あと5分で6時、それが「5:55」の意味です。

独特の表情が眼に現れています。口元は穏やかだけどキリッと結ばれていて「モデルになっている感」が見て取れます。しかし少々斜め横を見ている眼の表情が、口元の表情と微妙にズレています。付け加えると、左手の指の表情もかすかに苛立っているように感じます。

人は人の表情の変化に極めて敏感です。それは人間社会でコミュニケーションを成立させ、生活していくために大変に重要だからです。よく「眼は笑っていない」などと言います。人は笑うと眼が細くなりますが、その細くなり方がわずかに足りないと感じる。だから「眼は笑っていない」。そして「この人は笑ってはいるが、内部には別の感情がある」と直感的に判断する。人間社会で生きていくためには重要なことです。

「5:55」のモデルになった女性は、単純ではない「微妙な表情」をしています。「5:55」のタイトルの由来を知らなければ、その表情の理由はなぜなのか、見る人は無意識に「謎」を感じるでしょう。そしてその謎が、見る人を引き込むことになるでしょう。また、この絵が記憶に残ることにもなるでしょう。

モデルが見せる微妙な表情ということでは、以前に紹介した絵を思い出します。ワシントン・ナショナル・ギャラリーにある、ゴヤの「サバサ・ガルシア」という作品です。No.90「ゴヤの肖像画:サバサ・ガルシア」で紹介しました。スペイン美女の肖像ですが、この絵のモデルもよく見ると「微妙な」表情をしています。それについては、No.90 に個人的感想を書きました。生島氏の「5:55」の魅力は、このゴヤの絵と非常に似ていると思うのですね。

世界美術史に残る大画家・ゴヤと、現代日本の写実画家・生島 浩氏の作品を同列に評価するのは変かもしれませんが、そいういう比較ができることこそ(比較をしてもいいことこそ)、絵画の、ひいてはアート全般の魅力です。

そして写実ということについて言うと、人が見せる微妙な表情が暗黙の魅力になっている絵画は、写実・リアリズムの技法でないと作り出せないのです。その究極の姿は、言うまでもなくルーブル美術館の「モナ・リザ」です。生島 浩氏の「5:55」は、写実絵画がもっている魅力の一つをまさに体現した絵、そう言えると思います。


画家の「文体」を味わう


ホキ美術館で、フェルメールの「デルフトの眺望」のコピー(模写)を見ました。青木 敏郎氏の作品で、青木氏はフェルメールの絵を所蔵しているマウリッツハイス美術館(オランダ、デン = ハーグ)から苦労して許可をとり、6ヶ月間通ってコピーしたそうです。

模写:デルフトの風景.jpg
青木 敏郎(1947 ~)
模写:デルフトの眺望」(1978)
(作家蔵)

この模写はマウリッツハイス美術館が購入したいと申し出たそうです。もちろん青木氏はマウリッツハイス美術館に売らなかった。また「作家蔵」となっているので、ホキ美術館にも売らなかったということになります。この模写は青木氏の「画家としての原点」なのでしょう。だから手放さずに手元に置いておく。

それはともかく、普通、写実絵画のテーマとなるのは風景や人物や静物ですが、この絵のテーマは「フェルメールのデルフトの眺望」であり、それを極めて写実的に描写したということになります。青木氏が実際にコピーをした立場から「フェルメールのデルフトの眺望」の美しさについて語っている文章を紹介します。


(青木 敏郎)

この美しさはどこからくるのでしょうか。

これを分析するのは難しいのですが、私自身の考えとしては抽象的構築性にあると思います。例えば、屋根は屋根として木は木として十分に描いてはありません。つまり説明性が薄いのです。丁寧に、しかし細密ではなく、入念な仕事がしてあります。何か色彩とフォルムを抽象化して全体に配置したような説明性を避けて、抽象的な面に置き換え、それを構成したような、まさに抽象的要素を感じさせていることです。試しにこの絵を逆さにして見ると、本当に新鮮で美しく感じられます。

写実の美しさは描写の美しさにあるのですが、描写の説明性にあるのではなく、自然のもつ調和感、リズム、秩序を表現すれば、描写ごとにこだわる必要のないことを悟りました。

同上

この絵はマウリッツハイス美術館が購入したいと申し出ただけのことはある素晴らしい出来映えです。まるで本物のフェルメールを見ているようです。

しかし、です。私はマウリッツハイス美術館に2度行ったことがありますが、その記憶から言うと、フェルメールと青木氏では絵の印象が明らかに違うのですね。何が違うのか、それを的確に書くことは難しいのですが、表現されている風景全体の "雰囲気" と言ったらいいのか、そこから感じる光の量や空気の湿度の感じです。フェルメールの絵は「雨あがりの午前中、朝の10時」といったイメージがします。一方、青木氏のコピーは「午後の3時か4時」という感じがしました。その違いは画家の感覚の違いであって、それが絵のテイストの違いとなって現れるのでしょう。



画家で一番大切なのは独自の「画風」「スタイル」を作りあげることでしょう。画風とは、描くテーマであり、また描き方(形、色、筆の運び、・・・・・・)です。古今東西の有名な画家は、その画家の絵をみてパッと画家の名前をあげられることが多いわけです。若いころはいろいろと模索したが、ある作品を契機に独自の画風を確立した、というような話も多い。もちろんスタイルは1種類でなくてもよく、ピカソのようにスタイルをめまぐるしく変え、そのどれもで傑作を残した画家もいます。

ホキ美術館に展示されている多数の写実絵画は、一見、画風やスタイルを前面に押し出していないように見えます。写実なのでテーマは限られるし、我々が容易に想像できるテーマが多い。形や色も画家独自という風には見えないし、描き方もリアルに描くという点では似ています。しかしその似たように見える中に、画家の個性がどうしようもなく現れてしまうのですね。ちょうど2枚の「デルフトの眺望」のように ・・・・・・。似たようなテーマを似たような構図で、リアリズムに徹して描いても、絵のテイストが違ってくる。そして鑑賞する人によって、画家のテイストの好き・嫌いが出てきます。それは、ホキ美術館のギャラリーを順に巡ってみるとよく分かります。

作家・小説家の作品が好きだという場合、その文体に惹かれるということがあります。小説のストーリーやテーマ以前に、なにげない言葉のつながりや区切り方、飛躍、流れ、リズムが心地よく感じて、それが好きになるということがある。文章の意味内容やそこに含まれる警句を味わう以前に、文体そのものにひたるという、そういったタイプの読書の楽しみ方があります。

上の引用で青木氏は、写実画(風景画)の美しさは自然のもつ調和感・リズム・秩序の表現にある、という主旨を書いていました。この「調和感、リズム、秩序」というところは、小説で言うと作家の「文体」に相当すると思います。もちろん画家の「文体」には、絵の具の使い方や筆の運びなどのすべてが含まれます。

写実絵画の鑑賞は、文章作品における文体を鑑賞することに相当すると思います。これは実は、大変に "高度な" 絵画の鑑賞方法なのではないか。写実絵画の魅力の一つは、一見、見たままを写真のように描いているからこそ、そこに画家の最もプリミティブな感性と、そこからにじみ出る「文体」がナマに現れる、そのことだと思います。

No.190「画家が10代で描いた絵」で、画家が10代に描いた絵を紹介しました。ピカソ、岸田劉生、佐分 真さぶり まこと、伊東深水、高村咲子さくこの作品ですが、当然ながらすべて写実絵画です。そこに感じるのは、プロの画家を目指す少年・少女が「存在」を見つめる真摯な眼差しです。まさに写実は画家の原点です。そして、その原点のところだけを突き詰めても実に広い世界がある

我々は写実絵画だけを展示したホキ美術館を訪れることによって、絵画というアートの奥深さを感じることになるのです。

続く


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No.231 - 消えたベラスケス(2) [アート]

前回から続く)

前回に引き続き、ローラ・カミング著『消えたベラスケス』(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)の紹介です。


フランシスコ・レスカーノ


この絵は No.19「ベラスケスの怖い絵」で、スペイン宮廷にいた他の低身長症の人たちの絵とともに引用しました。

Francisco Lezcano.jpg
フランシスコ・レスカーノ
(1636-38:37-39歳)
107cm × 83cm
プラド美術館


岩に腰かけたその小柄な男の絵を見るとき、私たちは視線を上に向けなければならない。絵がその人物を持ち上げている。宮廷という陰鬱な牢獄から遠く離れ、スペインの山岳地帯にいる彼は、ベラスケスの絵の中で太陽の光に包まれている。

彼の名はフランシスコ・レスカーノといい、バルタサール・カルロス王子が4、5歳のときに、遊び相手として宮廷に雇われたと伝えられる。ともに過ごした年月で、小人であるレスカーノと幼い王子の背丈がちょうど同じになった時期があったことだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.105

ボストン美術館にベラスケスが描いた『バルタサール・カルロス王子』の肖像がありますが(No.19「ベラスケスの怖い絵」に画像を掲載)、その左横に描かれているのがフランシスコ・レスカーノです(プラド美術館の公式カタログによる)。王子とほぼ同じの背丈であり、額が出っぱったレスカーノの顔の特徴がよくわかります。


レスカーノは、やさしい性格で誰からも好かれていた。深緑色の服を着た若者が彼だと言われているのは、その絵から、まさしく夢見るようなやさしさが感じられるからだ。しなやかな髪、半開きの口、画家をよく見ようと少し上に向けた顔。カンヴァスからは、心身の温もりとともに、二人の間の共感エンパシーが伝わってくる。小人の表情はやさしく、ベラスケスの筆致もまたやさしい。この肖像画は慈愛に満ちている。

レスカーノの小さな手には、何かを象徴するように、ごく小さな本が握られている。もしかすると、それはひと組のトランプかもしれない。トランプは怠惰のシンボルとされているが、レスカーノは怠けているわけではなく、気持ちのいい野外で岩にもたれ、くつろいでいる。小さな体にはやや危険な体勢かもしれないが、彼は楽々とこなし、一方の足をさりげなく岩にかけて、もう一方の足を私たちのほうに伸ばしている。

彼は自由だ。今日は休みの日で、王子の遊び相手や宮廷を楽しませる仕事から解放されている。深緑色の服やまわりの山々とは対照的に彼の顔は明るく、陽光を浴びてうっすらと微笑むその顔に絵全体の焦点が置かれている。ところが目は、片方はまぶたがかかり、もう片方には影が落ち、微妙に覆い隠されている。穏やかな目はじっと何かを ── ベラススケスを見つめ、ベラスケスもまた、友を静かに見つめ返す。彼のよどみない丁寧な筆運びには、レスカーノに対する最上級の敬意があらわれている。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.105-106

美術史家の中には彼を「知恵遅れ」と考えた人もいたようです。しかし、短い手足、突出した額や鼻は小人症の特徴であり、かつ、低身長症が知性に影響を及ぼすという医学的根拠はありません。ローラ・カミングが強調しているのは、スペインの宮廷にいた小人たちは、知性に欠けていたからではなく、知性に富んでいたからこそ雇われていたということです。No.45「ベラスケスの十字の謎」で紹介した同名の小説(スペインの作家、エリアシル・カッシーノ作)は、『ラス・メニーナス』の右端に登場するニコラス・ペルトゥサト少年を主人公にしていましたが、イタリアのミラノ近郊から連れてこられた彼が極めて知性的に描かれていたのが思い出されます。

上の引用はフランシスコ・レスカーノの絵からカミングが受ける印象を綴っているのですが、いい文章だと思います。彼女は次のように結論づけていますが、これには全く同感です。


数あるベラスケス作品の中でもとりわけ小人の絵から感じ取れるもの、それはじっと注がれる静かな視線 ── 二人のあいだで申し合わせたように交わされる、お互いへの理解だ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.107


ドン・ディエゴ・デ・アセード


次の絵は、No.19「ベラスケスの怖い絵」No.45「ベラスケスの十字の謎」で引用しました。小説「ベラスケスの十字の謎」ではディエゴ・デ・アセードが重要な役割で登場しました。

Don Diego de Acedo.jpg
ドン・ディエゴ・デ・アセード
(1636-38:37-39歳)
107cm × 82cm
プラド美術館


ドン・ディエゴ・デ・アセードは博学な廷臣で、王家の印章を管理し、王の外交にも随行した。レスカーノと同様、彼の肖像も野外で描かれた。景色は荒涼としている。絵の具が色褪せたせいもあるだろうが、重たい灰色の空の下で雪を戴く山々のシーンでもあり、ディエゴが持つ本もまた、雪が積もっているかのように、白い大きな塊として暗闇の中に浮かび上がる。

大きな本に差し入れた小さな手で、彼はずっしりと重いページを支えている。そのポーズひとつにも、ベラスケスの最大限の敬意が込められている。ディエゴはこの本を支えるように、古参の廷臣として重責を担い、彼の指は仕事をこなすと同時に、その仕事によってうまく隠されている。体が小さいからといって、廷臣として出世できないわけではない。この絵には彼の如才なさがよくあらわれている。

いきな帽子をかぶっているが、知的な顔には苦悩が見られる。内に秘めた思いやにじみ出るわずかな感情をこれほど巧みに伝える画家が、ベラスケスをおいてほかにいただろうか?

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.113-114

「古参の廷臣として重責を担い」とカミングが書いているように、ディエゴは宮廷の重要人物の一人だったようです。そもそも "ドン" というのはスペイン語で男性の貴人につける尊称です。


ベラスケスの絵では、体の大きさに関係なく誰もが平等だ。彼は小さい人を大きく、大きい人を小さく描き、どちらにも肩入れしない。王族の全身像があるように、小人の全身像もあり、ベラスケスはどちらにもびはしない。手足が短く頭が大きい小人の絵も、ぼうっと立つ顎の長いフェリペや王の弟の絵と同様にうやうやしく、うっとりと目を輝かせている。ベラスケスは王と親交が深かったが、小人たちとも友情をはぐくんだようだ。描かれた彼らの顔からは、その結びつきの深さが感じられる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.115

No.161「プラド美術館の怖い絵」で、ヴァン・ダイクがチャールズ1世の妃であるヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソンを描いた絵を引用しました(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」でも引用)。その絵のことが本書に出てきて、ベラスケスと対比されています。


小人は、ものめずらしく衝撃的な見せ物として、同時代のほかの画家の絵にも登場する。ヴァン・ダイクは、ジェフリー・ハドソンという小人を描いた。ハドソンはチャールズ1世妃ヘンリエッタ・マリアの慰み者となり、宮廷晩餐会でパイから飛び出す芸などをさせられていた。

絵の依頼を受けたヴァン・ダイクは、ハドソンの背を高く見せるために小さな犬と並べて描いたが、その後、小柄な王妃の背を高く見せるために、今度はハドソンを犬がわりに使った。

ベラスケスならば、人間をけっしてこんなふうに使いはしない。何かの道具や飾りとして彼の絵に登場する人物はひとりもいない。背が高かろうが低かろうが、彼は人を人として、個性をもつひとりの人間として描く。ベラスケスにとって、異質な人間などひとりもいないのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.115


インノケンティウス10世の肖像


1648年、ベラスケスは助手のファン・デ・パレーハを伴い、2度目のイタリア訪問をしました。その時に描いた傑作が残っています。古今東西の肖像画の最高傑作とも言える作品です。

インノケンティウス10世の肖像.jpg
インノケンティウス10世の肖像
(1650:51歳)
140cm × 120cm
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)


インノケンティウスという名は天真爛漫イノセントという意味だが、実際の性格はまったく違ったと伝えられる。この肖像画からまず読み取れるのは、インノケンティウス10世が恐ろしく明敏で、複雑極まりない政治機構の頂点に首尾よくのぼりつめるほどの策略家であり、その地位を維持する才にも長けていたことだ。この絵は力強い絵だが、単なる絵の力ではなく、教皇自身がもつ力強さなのだ。描かれた表情 ─── とりわけその瞳を見れば、それがわかる。

ローマでこの絵の前に立った人はよく、刺すような視線を感じる。ともすると心の中まで見透かされそうだ、と言う。これは、展示室のどこを歩いても視線がついてくる、といった月並みな表現ではない。そのまざなしはドリルで穴を穿うがつように鋭く、執拗で、片時も目を離さず見張っているかのようだ。その鋭い眼光が、瞳以外の部分によって迫力を増す。顔を少しこちらに向けた斜めの目線、眉毛の険しい表情、これから会う人物と関わりのある書簡を持つ手、気の短さをにじませる、苛立たしげに握りかけた指。

ベラスケスは非常に軽いタッチで瞳を描いている。黒目の部分にかすかな白い点を打っただけの、信じられないほどあっさりしたタッチなのだが、その目は尽きることのないバイタリティーを秘め、片時も視線をそらさず、見るものをひたと見据える。その強烈なまなざしは、実生活において、教皇としての威光を保つのに役だったのではないだろうか。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.207-208

ローラ・カミングはインノケンティウス10世について、この引用以外にも微に入り細に渡って語っています。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、中野京子さんはこの肖像画について次のように書いていました。


眼には力がある。垂れた瞼を押し上げる右の三白眼。ふたつながら狡猾な光を放ち、人間などはなから信用するものかと語っている。常に計算し、値踏みし、疑い、裁く眼だ。そして決してゆるすことない眼。

どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によって、くっきりと輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのし上がった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子「怖い絵」
(朝日出版社 2007)

美術評論家(ローラ・カミング)とドイツ文学者(中野京子)に共通しているのは、350年以上前のローマ教皇がどういう人物かについて熱く語っていることです。熱く語らざるを得ないのですね。ベラスケスの絵を見てしまった以上 ・・・・・・。1枚の絵だけを頼りに。

カミングの本には、インノケンティウス10世とスペインの意外なかかわりが書かれています。


インノケンティウス10世は、本名をジョバンニ・パンフィーリといい、1626年から3年間、教皇大使としてマドリッドに滞在していた。その間、数多くの教会に足を運び、王宮にも頻繁に訪れた。彼がスペインとのあいだに築いた強力なコネクションは、コンクラーベで自国の候補者を推すフランスの枢機卿団を不安にさせたほどであり、最終的のそのコンクラーベで、彼は教皇に選出されたのである。このようなわけで、画家とモデルは旧知の間柄だったのだ。

肖像画にモデルの人格があらわれるとすれば、この絵には無尽蔵のカリスマ性がにじみ出ていると言えるだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.209

ローマ教皇は "コンクラーベ" において枢機卿たちの互選で決まります。要するにジョバンニ・パンフィーリ枢機卿は、本国イタリアとスペインの枢機卿たちをがっちりと押さえて教皇になったということでしょう。「複雑極まりない政治機構の頂点に首尾よくのぼりつめるほどの策略家」(カミング)であり、「政治力でのし上がった人間」(中野京子)というのはその通りだと想像されます。

そしてベラスケスと画家とインノケンティウス10世は旧知の間柄だった。そのことがこの絵の迫真性をいっそう強くしているのだと思います。


ファン・デ・パレーハ


2度目のイタリア滞在でベラスケスは、同行させた助手のファン・デ・パレーハの肖像を描いています。

Juan de Pareja.jpg
ファン・デ・パレーハ
(1650:51歳)
81cm × 69cm
メトロポリタン美術館


二度目の旅で、ベラスケスはファン・デ・パレーハの、みごとな肖像画を描いた。パレーハはムーア人の奴隷で、1630年代からベラスケスに仕え、顔料をすりつぶして粉状にしたり、カンヴァスの用意をしたり、複製画を描いたりと、アトリエで助手をつとめていた。パレーハの肖像画に使われた顔料も、おそらく彼が自分で準備したものだったろう。パレーハ自身も才能のある画家であり、ベラスケスの原画だと間違われるほどみごとな複製画を映画いたこともあったようだ。パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」にも、ベラスケスと同様に優れた画家のひとりとして登場している。

肖像画の中のパレーハは、じつに堂々たる姿を見せている。七つの海、七つの大陸で偉業を果たしたばかりの英雄のような威厳をたたえ、オセローの格好をさせられているのも、なるほどとうなずける。彼は行動の男であり、肖像画のためにじっとしてはいるが、いつでも剣を抜けるとばかりに片手をにかけている。しかし、そう見えるだけで、実際は剣などなく、そこに置いた手も、周囲の布地よりもほんの少し存在感があるにすぎない。申しわけ程度に描かれた指はおおかた省略され、耳にいたっては、ぞんざいに赤い絵の具を置いただけだ。ベラスケスがこうした部分を曖昧にぼかしているのは、視野の周辺部分にあるものは、実際にそんなふうに見えるからだ。この絵の焦点は、顔にある。

パレーハの顔ははっきりして、りりしく、じつに表情豊かだ。そこに弱さを見るものもいるが、それは、無理やり肖像画のモデルをさせられた奴隷、主人に凝視され、あらがう力すらもてずにいる無力な男という発想から来ているのだろう。それとは逆に、冷淡で高慢、かすかに好戦的な気質を見て取る者もいる。多彩なニュアンスをもつこの絵からまず感じ取れるのは、パレーハという男がもつ人間らしい複雑性だ。どこか見覚えのあるようなその顔が、そうした感覚をいっそう深める。遠い昔の人間なのに、現代のニューヨークの街なかで見かけてもおかしくない、私たちのまわりにもいそうな感じがするのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.213-215

カミングはこの絵の表現手法にも感嘆しています。いかにもベルベットらしい毛羽立ちの表現や、生地が擦れて薄くなった部分を絵の具を薄く塗って表現していることなどですが、中でも特に白い襟です。鉛白とグレーが絶妙に配置され、近づいてみると無秩序な筆跡が、これほどまでに襟らしく見えるのはなぜなのか・・・・・・。このような感嘆の言は、本書の随所に出てきます。


フェリペ4世


ベラススケスが描いた肖像画は、フェリペ国王や王の親族、貴族、喜劇役者や道化、小人症の宮廷使用人、奴隷の助手など、身分の上下をを越えて実にさまざまです。ローラ・カミングはこれを "デモクラシー" と表現しています。国王・フェリペ4世の肖像画でさえ、それを感じさせます。

Phillip IV.jpg
フェリペ4世
(1653-56:54-57歳)
69.3cm × 56.5cm
プラド美術館


ベラスケスの絵や思想には、感傷的は部分は少しもない。彼の絵は、悲しみや憐憫の情をかきたてることもなければ、たとえばヴァン・ダイクのように、そのスタイルや華麗され見る者を萎縮させることもない。私たちは、描かれた人物と対等に見つめ合うことができる。これこそが、彼の絵ならではの "デモクラシー" だ。

それは上にも下にも向かう。ベラスケスはときに宮廷内の異端者にもっぱら同情心を示すと言われるが、それが真実でない証拠はいくらでもある。彼にとっては、どんな人間もみな平等なのだ。晩年のフェリペ王の肖像画の、痩せた老ライオンのようなその顔には、王が味わった苦悩のすべてがあらわれている。なんとも言えない悲哀が漂うその顔は、それまでベラスケスが描いたどの絵よりも生気がなく、絵の具も薄くぼやけ、人間ではなく幽霊の顔のようだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.337

この絵はフェリペ4世(1605年生)が48-51歳ころの作品ということになりますが、とても50歳前後には見えません。スペイン帝国が落日を迎えていた、それが伝わってくるような絵です。


ベラスケスが力点を置くのは、あらゆる人間の尊厳だ。フェリペ4世時代の記録を見れば、そしてまた、彼の女道楽、浪費、思慮に欠ける軍事行動、スペインの富と権力の愚かな無駄遣い、息子の婚約者との結婚、放蕩ほうとう(多くの庶子がいたが、男子はひとりもいなかったと言われる)、優柔不断さ、臆病さ、説得やおだてに乗りやすく、とりわけオリバーレス(引用注:フェリペ4世の寵臣)の思うままに操られてきたことを知れば、彼を軽蔑するのは難しくないだろう。それでもベラスケスは畏怖も嫌悪感も抱かず、むしろそんなフェリペに好奇心をかきたてられるのだった。

フェリぺの肖像画20点以上あり、まるで絵でできたコマ撮りの伝記のようだ。赤く、濡れたような、垂れ下がるほど前に突き出した下唇が目立つ若いころの顔。舌足らずの話し方をしたに違いなく、ピチャピチャという湿った音が聞こえてきそうだ。

そして君主となった中年期の壮麗さは、おそらくゴリーリャ(引用注:皿の意味。襞をつけずにリンネルを糊で皿状にした襟を指す)によって割り引かれてしまった。倹約を物語るその襟は彼に恩恵をもたらさず、疲れ切った顔が皿に載っているように見える。一国の王となって20年、赤みがかったブロンドの髪とあるかなきかの薄い眉は変わらないが、目は落ち窪み、まぶたは重く垂れ下がり、白い下瞼の内側が露出している。ベラスケスの目に、彼は過ちも死をも免れない生身の人間として映る。

1623年の夏の日に描かれた最初の肖像画と同様、今回もまた王の姿は間近にあるが、今の彼は苦悩に疲れ、みずからの罪も悲哀も知ったうえで、まだ前進しつづけている。あたかも自己の欠点を見出すことで、理解を得たいと願っているかのように。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.338

当然のことながらフェリペ4世については本書に多くの記述があるのですが、その最後に著者は次のような、誰もが納得するであろう一言を書いています。


フェリペ4世がその生涯で成し遂げた最大の偉業は、ベラスケスを雇ったことだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.340


ラス・メニーナス


『消えたベラスケス』にある絵の "解説" を紹介する最後は、やはり『ラス・メニーナス』です。実はこの絵のことは『消えたベラスケス』の冒頭に出てきます。20代後半だったローラ・カミングが父親を亡くし、悲しみに沈んでいるなかで訪れたプラド美術館で『ラス・メニーナス』と対面して癒された思いがつづられているのです。その前後から引用します。

Las Meninas.jpg
ラス・メニーナス
(1656:57歳)
318cm × 276cm
プラド美術館


展示室に入り、絵の前に立つ。すると絵の中の人々の目が瞬時に私の姿をとらえ、いっせいに見つめ返してくる。光沢のあるドレスをまとった王女、リボンをつけた二人の侍女、子供のように小柄な小姓、背の高い黒づくめの画家、誰の耳にも届かないつぶきを発する修道女、背後の明るい戸口の浮かび上がる廷臣。全員が私の存在に気づいている。誰がやってくるかわからないサプライズパーティーに招かれた客のように、彼らはその場に集い、わくわくしながら新たな客を待っている。そこへ私があらわれ、部屋へ ─── 現実世界の部屋ではなく彼らの部屋へ ─── 入っていく、なぜかそんな感じがするのだ。場面全体が期待に輝いている。彼らの世界に踏み入った瞬間、自分が彼らにとっての実在となり、彼らもまた自分にとっての実在となる、そんな感覚。プラド美術館で《ラス・メニーナス》の展示室に足を踏み入れた瞬間、真っ先に感じるのがそれなのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.8-9

プラド美術館には一度だけ行ったことがありますが、『ラス・メニーナス』はプラドの "他のどの絵とも違う" という印象を受けました。それどころか、過去に美術館で見たどの絵とも違う感じです。それは一言でいうと "臨場感" です。絵の前に立つと、まさに350年以上前のスペイン宮廷にいるのだという感じになる。おそらく絵の大きさと、等身大に描かれた人物と、奥が深く天井も高い部屋の構図がそう感じさせるのだと思います。上の引用と次の引用は、その "他のどの絵とも違う" 感じが的確に描写されています。


驚いて足を止め、絵に釘付けになり、身じろぎもせずその場に立ち尽くす。するとその瞬間、絵の中でもまた、おとなしい犬を足で軽く突いている小柄な小姓を除く全員が、ぴたりと動きを止める。彼らを囲む空気と、王女のホワイトブロンドの髪に揺れる光以外のすべてが静止するなか、思いやりに満ちたこの絵の中心で、幼い王女が子供らしい純粋な好奇心をみなぎらせ、じっとこちらを見ている。女の小人こびとは胸に手をあてて素直なやさしさを示し、侍女のひとりはひざまずき、もうひとりは膝を折っておじぎをし、ほかの使用人もこちらに視線を注ぎ、黒衣の廷臣までが戸口で足を止め、次の間へ案内しようと待っている。そして、こちらから裏面が見える巨大なカンヴァス、この絵に劣らぬ大作の陰からベラスケス自身も一歩踏みだし、つかのま顔を見せた魔術師のごとく無言で見つめている。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.9

しかしこの絵の真価、そしてベラスケスの真骨頂は次に引用する部分です。"細部と全体が不連続で、それにもかかわらず繋がっている" という不思議さです。


ところが、さらに数歩近づくと、驚くほど真実味にあふれていた絵が揺らぎ出す。王女の艶めく髪は、蜃気楼しんきろうか夏の道路に立ちのぼる陽炎かげろうのように、近づくとふっと消えてしまう。女の小人の顔は判読不可能な筆跡と化し、奥に描かれた人物は至近距離では形をなさず、トレイをもつ侍女の手も、どこまでが手でどこからがトレイなのか、もはや判然としない。絵に近づけば近づくほど本物らしさが消え、どのように像を結んでいたのかさえわからなくなってしまう。それでも、溶解寸前の状態にありながら、すべてがありありと存在感をもち、陽光などは絵の中から展示室まで漂い出てきそうだ。これほど魅惑的なビジョンを生み出す絵がほかにあるだろうか。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.9

見るということは、網膜に映った像を脳で再構成することです。錯視図形を見ればそのことがよくわかる。ベラスケスは、絵を見る人の脳にどういうビジョンが構成されるのか、それを予測して筆をとっているわけです。本書ではないのですが、別の本からマルガリータ王女の部分のクローズアップを引用します。

Las Meninas(部分).jpg
「ラス・メニーナス」の中心にいるマルガリータ王女の拡大画像。王女の顔、ホワイトブロンドの髪、ドレス・飾り、の3つが違うタッチで描き分けられている。ドレスの部分は近づくと本物らしさが消えてしまい、なぐり書きのように見える。
「ベラスケス 生涯と作品」(東京美術 2018)より

この絵には自画像というか、画家・ベラスケスとしての自画像が描かれていますが、それについては次のように語られています。


この自画像を見ても、ベラスケスについて何かがわかるわけではないと言う人がいるとしたら(実際、よくいる)、信じられない話だ。たとえば、パレットに点々を置かれた絵の具を見てほしい。そこには、ずらりと顔を並べた人物のみならず、この絵全体を描くのに必要な色がすべて揃っている。これもまた、すべては彼が生み出したものだという事実を物語っている。

では、ベラスケスは自分の指をどう描いているのだろう。先細の指は、まるで絵筆のようだ。実際の絵筆のほうはどうかと言えば、白い絵の具でさっと引いた一本の線にすぎない。どこから見ても判別不能な傷のようでありながら絵筆以外の何ものでもない。そこにはかすかにジョークの気配さえ感じられる。絵全体に生き生きとした動きを与えた繊細な筆先が、完全に消滅する。

平らな布に筆と絵の具で色をのせ、みごとに三次元を描き出せる不思議。あるいは、静止した絵で動きを、刻々と変化する世界を表現する一方で、その絵自体が流れの中に溶けていく不思議。絵画がもつパラドックスをこれほどはっきりと見せてくれる画家は、あとにも先にもいない。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.35

この絵に魅了されたピカソは、絵の構成要素をひとつひとつ分解しながら50点を越える模写の連作を描きました。その連作はバルセロナのピカソ美術館にあります。その中の1枚である『ピアノ』を No.45「ベラスケスの十字の謎」に引用しました。本書の著者のカミングによると、ピカソはそれだけの模写を描いてもこの絵を理解しきれなかったと述懐したそうです。マネの言葉があります。


ここが終着点だ。これを越えるものはない。プラド美術館でこの絵を見たマネは、そういった。この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人は ── 自分も含め ── この上さらに絵を描こうとするのだろう、と。ベラスケスは油絵の具という比較的新しい画材を使い、それでできることをすべて尽くした。彼によって、油絵は行き着くところまで行ったのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.334

芸術の一つのジャンルが勃興すると、比較的短い期間にそのジャンルの頂点に達してしまい、あとはその変化形が多様に拡散するということがあります。油絵は15世紀のフランドルで確立してからベラスケスまで約200年です。それからすでに350年程度が経過しています。「この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人はこの上さらに絵を描こうとするのだろう」というマネの言葉は、『ラス・メニーナス』と画家・ベラスケスを端的に表していると思いました。


芸術作品が人に与える力の凄さ


以上は著者によるベラスケスの絵の "解説" の一部です。最初に書いたように本書のもう一つの軸は、ジョン・スネアという19世紀の英国人の生涯です。その足跡を著者のローラ・カミングは徹底的に追っています。スネアは店も家族も失い、絵と駆け落ちするかのようにアメリカに渡って貧困のうちに死にました。なぜそのような人物の生涯を追ったのか。それは、ベラスケスの1枚の絵を "愛し過ぎるほど愛した" スネアの生涯を徹底的に調べることで、著者は自らの "ベラスケス愛" を表現しようとしたと思えます。ベラスケスを称える芸術家・美術愛好家は世の中にいっぱいいるので、そうでもしないと自分の特別な "思い" を伝えられないとでもいうように・・・・・・。そんなつもりは無かったのかもしれませんが、結果としてそうなっています。

初めに紹介した中野さんの書評にあるように、この本はいろいろの意味で「芸術作品が人の魂に、ひいては人生に与える力の凄さ」を実感させる本でした。



 補記:グレイティスト・ショーマン 

ジョン・スネアが "ベラスケス作・チャールズ皇太子の肖像" を発見した以降のことは紹介を控えるとしましたが、1点だけ書きたいと思います。スネアはその絵をロンドンのメイフェア地区のオールド・ボンド・ストリートで有料公開しました。そのあたりの本書の記述です。


1847年3月、ジョン・スネアは、オールド・ボンド・ストリート21番地の部屋を借りる。彼はちょうどいい時に、ちょうどいい場所へ、ちょうどいい絵をもたらした。イギリスではまだあまり知られていなかった天才画家による、失われた君主の失われた肖像画だ。当時、ロマンチックなヴィクトリア朝の人々の目に、チャールズ1世は "失われた君主" として映っていたようだ。

スネアの演出は細部まで行き届いていた。客は1シリングの入場料を払っい、絨毯を敷きつめた階段をのぼっていく。そして厚いカーテンをくぐると、彫刻を施した木の衝立ついたてで囲まれた小部屋のようなスペースがあり、そこで名画と対面する。日が暮れてくると、絵はガス灯で照らされた。静かな空間、美しい照明、余計なものはいっさい視界に入れない ── ベラスケスの絵なら、現代のキュレーターもまさにこのような見せ方をするだろう。スネアの狙いが人々を驚嘆させることにあったとすれば、まさしく理想的な演出であり、これに新聞各紙は素早く反応した。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.89

新聞各紙から高い評価を受けて展示会は成功裏に終わるのですが、その要因として「ちょうどいい時に、ちょうどいい場所」で絵を公開したと、著者は書いています。どういうことかと言うと、当時のロンドンのメイフェア地区ではしばしば有名絵画の有料展示会が開催されていたからです。ただし絵画だけでなく、種々の見せ物もあった。たとえば "エジプシャン・ホール" では、テオドール・ジェリコーの『メデューサ号の筏』(現、ルーブル美術館)の展示会が開かれましたが、ナポレオンが使った防弾馬車の展示会も開催されて大人気になったという具合です。


〈エジプシャン・ホール〉は時代の象徴であり、イギリスを代表する風景画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーや、権威ある水彩画画家協会も展覧会を開いた。ヴィクトリア時代にそこを訪れたある人物は、ダ・ヴィンチの聖画を間近に見たほか、1844年には、小人ツアーでヨーロッパを巡業中の「親指トム将軍」を、あんぐりと口を開けて眺めたという。興行師 P・T・バーナムがプロデュースした「世にも偉大なる小人」の見せ物は、ダ・ヴィンチ展をはるかに超える大ヒットとなった

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.89

実は「消えたベラスケス」のテーマになっているジョン・スネア(1808年頃生)と同時代人が、上の引用にある P・T・バーナムです(1810年生)。2017年のハリウッド映画「グレイティスト・ショーマン」は、その興行師 P・T・バーナムが主人公でした(日本公開は2018年)。演じたのはヒュー・ジャックマンです。バーナムは「親指トム将軍」をはじめとする "特異な身体的形状の人たち" や軽業の得意な人、その他 "オンリーワンの人" を集め、ニューヨークの "見せ物シアター" で興業しました。映画では、家庭の中に閉じこもって "存在しない" ことになっていた低身長症の男性をバーナムが引っ張り出し、親指トム将軍としてパフォーマンスをさせる姿が描かれていました。バーナムの一座は英国にツアーを行い、ヴィクトリア女王に面会しています。上の引用にあるバーナムのロンドンでの「世にも偉大なる小人の見せ物」は、その時のことを言っています。

The Greatest Showman - Hugh Jackman and Cast.jpg
映画「The Greatest Showman」(2017)のパフォーマーたちと主演のヒュー・ジャックマン。親指トム将軍を演じたのは、ニュージーランド出身のサム・ハンフリー。

そして映画「グレイティスト・ショーマン」では、ニューヨークの "見せ物シアター" が火災で焼け落ちた時、落胆しているバーナムに向かってパフォーマーたちが言うのですね。次のような主旨でした(髭の女性のせりふ)。

  母親は私達を恥じ、私達の存在を隠した。あなたはその暗がりの中から引き出してくれた。たぶん金儲けだけのためだったはず。だけどあなたは本当の家族をくれた。ここが私達の家だ。

バーナムの興業はニューヨークの批評家からはこきろされたのですが、異形の(ないしはユニークでオンリーワンの)パフォーマーたちはバーナムに感謝していた、そういうスタンスで映画が作られていました。

P_T_Barnum and General Tom Thumb(Wikimedia).jpg
P・T・バーナムと親指トム将軍(チャールズ・ストラットン)。Wikimediaより。本書にはこれと同じ写真が掲載されている。
「消えたベラスケス」には、そのバーナムと親指トム将軍の写真がわざわざ掲載されています。本書には多数の絵の図版が掲載されているのですが、唯一の人物写真がこれです。バーナムの件は本書の主旨からするとごく些細なエピソードに過ぎません。なぜ、ローラ・カミングはこの写真を掲載したのでしょうか。それは「17世紀スペイン宮廷(をはじめとする欧州の宮廷)に低身長症の人が集められていたこと」と、「P・T・バーナムが低身長症の人を集めて興業をやったこと」を重ね合わせたからに違いありません。

バーナムはパフォーマーから感謝されていました(=映画のストーリー)。では、17世紀の宮廷の低身長症の人たちはどうだったのか。ディエゴ・デ・アセードのように高位の廷臣もいれば、ジェフリー・ハドソンのように宮廷晩餐会でパイから飛び出す芸をさせられたものもいます(ディエゴ・デ・アセードの絵の解説参照)。本書でも言及しているのですが、裸にされてバッカスの格好をさせられた超肥満の女の子もいました(No.161「プラド美術館の怖い絵」参照)。要するに "いろいろ" です。そういった人たちをスペイン宮廷では「ヘンテス・デ・プラセール(=楽しみを与える人々。慰み者)と呼んでいました(No.161)。

ただ一つ言えると思うのは、そういった "異形の人たち" に宮廷は「ポジション」を与えていたということです。No.45「ベラスケスの十字の謎」で紹介した同名の小説(低身長症の少年が主人公)を読むと、当時のスペイン宮廷の異様な雰囲気が伝わってくるのですが、それはあくまで現代人感覚なのでしょう。うとまれ、通常の仕事にありつくのが難しそうな人たちに、宮廷は「場」や「役割」を与えていた、ちょうど19世紀アメリカの興行師・バーナムがやったように ・・・・・・。そう考えることもできると思いました。

そして、ベラスケスという画家は、国王から "異形の人たち" までの「あらゆる人間の尊厳」を描いた。ローラ・カミングはそう言っているのでした。




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No.230 - 消えたベラスケス(1) [アート]

今まで17世紀スペインの宮廷画家、"王の画家にして画家の王" と呼ばれるベラスケスについて5回書きました。

No.  19 - ベラスケスの「怖い絵」
No.  36 - ベラスケスへのオマージュ
No.  45 - ベラスケスの十字の謎
No.  63 - ベラスケスの衝撃:王女と「こびと」
No.133 - ベラスケスの鹿と庭園

の5つです。今回はその続きで、2018年に発売されたローラ・カミング著『消えたベラスケス』(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)を紹介します。著者は英国の美術評論家で、もとBBCの美術担当プロデューサーです。

消えたベラスケス.jpg
ローラ・カミング
「消えたベラスケス」
五十嵐加奈子訳(柏書房 2018)


消えたベラスケス


この本については中野京子さんが書評を書いていました。まずそれを引用します。日本経済新聞の読書欄からで、下線は原文にはありません。


芸術が魂に与える力を熱く

消えたベラスケス
  ローラ・カミング

著者いわく、本書は巨匠の中の巨匠ベラスケスをたたえる書である。

その言葉どおり熱い本だ。芸術作品というものは各時代の賛美者たちが熱く語り続けることで、次代へつながれてゆく。ベラスケスはスペイン宮廷の奥に隠されていた時代にはゴヤが、公共美術館に展示されてからはマネが、その超絶技巧と魅力を喧伝けんでんしてやまなかった。今またこうして美術評論家のカミングが、17世紀の寡黙な宮廷画家に迫り、すこぶるつきに面白いノンフィクションに仕上げた。

2つの流れが交錯する。1つはヴィクトリア朝時代の書店主スネアの数奇な人生。安価でベラスケスの絵を手に入れた彼が真贋しんがん論争に巻き込まれ、ついには店も家族も失い、絵と駆け落ちするかのようにアメリカに渡って貧困のうちに死ぬ。絵はその後忽然こつぜんと消える。カミングはスネアの足跡を辿り、絵が本物かどうか、今どこにあるのか、調査にのめり込む。

もう1つの流れは、ベラスケスの人生とスペイン・ハプスブルク家の黄昏たそがれだ。もちろんそれは彼の作品に色濃く反映されている。そもそもベラスケスが描き残したからこそ、無能王と呼ばれたフェリペ4世、血族結婚くり返しの果てに生まれたひ弱な王子や王女、宮廷に仕える小人症の慰み者たち、権力を振るう重臣らが、350年前、喜怒哀楽をもって確かに生きて呼吸していたことを我々は深く納得するのである。

カミングはベラスケスの天才性に感嘆し続ける。近くで見るとただの色の染みでしかないものが、遠目には見間違いようのないドレスの金糸になり、ひげになり、水滴になるのははぜか。何より、人物の本質をどうやってえぐりだせたのか。それは日記も手紙も残さず、全く自己を語らなかった画家その人と同じく大きなミステリだ。

これに関して本書唯一の物足りなさは、コンベルソ(改宗ユダヤ人)の家系だった可能性や、傑作『キリスト磔刑たっけい図』に触れていないことだろう。

とはいえ、破産しても貧窮しても絵を手放さなかったスネア、執念で追い続けるカミングを通し、芸術作品が人の魂に、ひいては人生に与える力のすごさには圧倒されずにおれない

美術愛好家、必読。

《評》 ドイツ文学者
中野京子
日本経済新聞(2018.3.10 朝刊)

下線のところにあるように、この本を読んでみると著者 ローラ・カミングのベラスケス作品に寄せる熱い思いが "ひしひしと" 伝わってきます。美術評論家がこれほど1人の画家に "入れ込んで" いいのかと思えるぐらいですが、それだけベラスケスが特別な存在だということでしょう。ベラスケスだから許される。最後の一文である「美術愛好家、必読」というのはその通りです。


ジョン・スネアとチャールズ1世の肖像


「消えたベラスケス」というノンフィクションの1つの軸は、ジョン・スネアという人物の生涯です。スネアは英国バークシャー州レディングで1808年頃に生まれました。レディング(Reading。リーディングとは発音しない)はロンドンの西、約60kmのテムズ河畔の町です。北西約40kmには大学で有名なオックスフォードがあります。

スネアは1838年に、レディングの叔父の書店を引き継ぎました。それ以降、印刷業や雑貨屋も兼ね、レディングの町では一応の名士になりました。

スネアは独学で絵を学び、有名絵画の版画を集めて絵の研究をしました。絵画のオークションにも参加しています。当時は公的美術館が未発達で、著名画家の絵は貴族の館に飾られているものでした。オークションは誰でも参加でき、下見会も何回かあるので本物の絵画に出会える貴重な機会だったのです。

発端は1845年10月、レディングの地元紙「レディング・マーキュリー」の広告です。それは、オックスフォード近郊にある全寮制学校「ベンジャミン・ケント男子アカデミー」のホールでオークションが開催されるという通知でした。この学校は閉鎖されることになり、備品、蔵書、絵画などの総数180点が売りに出されたのです。スネアは以前にケント校長の知人とともに学校を訪れたことがありました。

広告のなかでも "別格" の扱いだったのが「チャールズ1世の半身像、推定ヴァン・ダイク作」でした。ヴァン・ダイクの作らしき肖像画が売りに出され、しかもそれは清教徒革命で処刑されたあのチャールズ1世と知って、スネアは早速オーションの下見会に出かけました。

そこでスネアが見たのは確かにチャールズ1世の肖像でした。しかしそれは若い頃のチャールズで、明らかに皇太子時代のものです。フランドル出身のヴァン・ダイクが英国の宮廷画家として迎えられたのは1632年で、チャールズが王位についてから8年も後です。おかしいと思ったスネアは、これはベラスケスの作品ではないかと直感しました。

1623年に起こった2つの出来事です。この年の3月から、イングランドのチャールズ皇太子はスペインを訪問しました(訪問の目的は本書に詳述されています)。さらにこの1623年の夏、ベラスケスが自作の『セビーリャの水売り』を携え、故郷のセビーリャをたってマドリードにやってきました。前年に引き続き2回目の訪問です。

ベラスケスの絵の師匠はセビーリャのフランシスコ・パチェーコですが(ベラスケスの義父でもある)、パチェーコの知り合いに聖職者のファン・デ・フォンセカという人物がいて、彼は国王・フェリペ4世の礼拝堂付の司祭でした。ベラスケスはそのフォンセカに『セビーリャの水売り』を見せたのです。その出来映えに驚いたフォンセカは、すぐにその絵を買い取りました。そして自らの肖像画をベラスケスに描かせるとともに、スペイン宮廷の有力者に絵とベラスケスを紹介しました。

そのころ、スペイン国王フェリペ4世はチャールズ皇太子の対応に忙しかったのですが、宮廷で評判になったベラスケスに肖像画を描かせることにしました。そして1623年8月30日、当時18歳のフェリペがモデルとして初めてベラスケス(当時24歳)の前に立ちました。そして、その年のうちにベラスケスは宮廷画家にとり立てられることになります。

問題はこの間の歴史資料です。ベラスケスの生涯を記述した数少ない書物の一つに、後輩の宮廷画家、アントニオ・パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」があります。この本に、

  フェリペ4世の肖像画を制作中であったベラスケスが、そのかたわらイングランドの皇太子も描いた

との主旨の記述があるのです。さらにチャールズ皇太子のスペイン旅行の際の英国王室の経費報告書を調べると、

  皇太子は肖像画代として1100レアルを払った(1623年9月8日付)

とあります。この金額はフェリペ4世が自身の肖像画代として払った金額を遙かに超えるものです。つまり "ちゃんとした肖像画" だったことが分かります。当然、チャールズ皇太子はその絵を携えてイングランドに戻ったと考えられるのです。

オークションで "ヴァン・ダイク作「チャールズ1世像」" を安値で手に入れたスネアは、その絵の来歴を徹底的に調べ始めました・・・・・・。



それ以降のジョン・スネアの数奇な生涯について、本書はミステリのような書き方になっているので、ここで紹介するのは控えたいと思います。一言だけ付け加えると、中野京子さんが書いている "真贋論争" 以外にも "盗品疑惑" が持ちあがります。そしてその疑惑について本書の最後のところで意外な真実が明かされています。


ベラスケスの画家像に作品から迫る


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Laura Cumming
(Twitterより)
本書の1つの軸がジョン・スネアの生涯なら、それと交互に語られるもう1つの軸がベラスケスの生涯と彼の作品です。ベラスケスの宮廷画家としての職業人生については公式記録があり、同時代の人が書いた伝記もあって、かなり判明しています。しかし本人の日記や書簡の類は一切残されていないため、その画家像については不明の部分が多い。ベラスケスは自己をいっさい語っていません。絵の主題を決めたのが依頼主なのか画家なのかが不明なものも多く、作品の制作意図や背景を知ることは困難です。ローラ・カミングはベラスケスが残した作品を凝視することで、画家としての姿に迫ろうとします。

たとえば、ベラスケスの絵の特徴です。ベラスケスはスケッチを残していません。習作もほとんど描かないし、カンヴァスに下書きもしない。頭に浮かべたものをそのままカンヴァスに描いています。これだけでも驚きですが、さらにその細部が "神秘的" です。中野京子さんの書評にもありますが、本書の記述を次に引用します。


ベラスケスの絵には、神秘的な部分が多々ある。どこに点を打ち、筆を走らせ、絵の具をはじき、あるいは飛散させれば、悲しげなまなざしや、シルクのドレスに照り映える日の光を表現できるのかを、彼はどうやって知ったのだろう。冷たい水が入ったコップが結露する瞬間をどうやってとらえたのだろう。彼の筆跡はときに、ひとつひとつ指で数えられるくらいまばらで、筆の動きが手にとるようにわかる。

おもわず、点字を読みとるように筆跡を指でなぞり、これほどまでに説得力をもつ "絵の言葉" を彼がいかにして生み出したのかを読み解きたくなる。ごく小さな点を取り除くと、そこに "書かれた" 内容ががらりと変わる。そんな絵が描ける画家はほかにいない。点を一つ取り去っただけで金色のブロケード(引用注:金糸・銀糸などで浮き織りをした絹織物)は輝きを失い、睫毛まつげを1本消しただけで、モデルの表情が一変する。ピンの先で置いたようなわずかな絵の具がものを言うのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.52-53
(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)

ベラスケスの筆遣いには、彼独特のさまざまな "筆遣いの言葉" があり、その言葉を積み重ねた "物語" がベラスケスの絵です。離れて見るとその言葉は分からないが、近づくにつれて明瞭になってくる。本書でカミングはこれに類することを何度も書いています。



これ以降は、本書で紹介されているベラスケスの代表作から何点かを年代順にとりあげ、ローラ・カミングの "解説" を引用したいと思います。美術評論家がベラスケスに迫るべく "熱く語った" 言葉は重要だと思うからです。

以下の絵の制作年は本書のものを採用しました。またベラスケスの年齢は制作年からベラスケスの生年(1599年)を単純引き算したものです。但し本書に制作した年齢が明記してあるものはそれを採用しました。下線は原文にはありません。また、原文にはない段落を追加したところがあります。


卵を料理する老婆と少年


本書によるとこの絵は、著者のローラ・カミングが8歳のときに両親に連れられて行ったエディンバラのスコットランド・ナショナル・ギャラリーで見た絵です。カミングの「初ベラスケス体験」というわけです。ふつう『卵を料理する老女』と呼ばれています。

An Old Woman Cooking Eggs.jpg
卵を料理する老婆と少年
(1618:18歳)
100.5cm × 119.5cm
スコットランド・ナショナル・ギャラリー


描かれた場面は、薄暗い居酒屋。その場にあふれる物のひとつひとつにスポットライトが当てられている。赤タマネギ、卵、白い鉢と、そこに危ういバランスで置かれた銀のナイフ、光を反射する真鍮しんちゅうの容器。どれもみな非凡で、まるで祭壇にでも並んでいるかのように、神聖かつ神秘的に見える。ベラスケスはありふれたものに最上級の敬意を払い、ひとつひとつが、まばゆいばかりに美しく描写されている。左側の少年が抱えるひもで縛ったメロンまでが、この世に与えられた新たな賜物たまもののように神々しい光を放つ。

卵を料理する老女と少年は、聖書に出てくる人物でもなければ、ただのモデルでもなく、まだ18歳だったベラスケスがこの傑作を描いた地、セビーリャの庶民だ。イングマール・ベルイマン(スウェーデンの映画監督)の映画に出てくる常連役者のように、二人は別の絵にも登場する。初期に描かれたこの絵では、人物どうしの交流や対話はなく、最低限の演出しかない。老女と少年がじっと物思いにふけっているポーズをとっているのは、描いている若き天才画家と同じ役割を二人が担っているからだ。目的は物を目立たせること ─── つまり、卵やメロン、反射するガラス瓶などを光にかざし、そこに人の注目を集めることなのだ。

この絵全体が人を魅了するために描かれたのは明らかで、目的は達成されている。真っ先に目を奪うのは、驚くべき精緻さだ。きらりと光る鍋の中で、透明な流体と不透明な白い流体が混じり合う卵。液体が一瞬にして個体に変わり、目に見える形を得る。それはちょうど、絵というものが見せる不思議な幻影に似ている。これぞまさに、ベラスケスの象徴と言える絵かもしれない。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.37-38

An Old Woman Cooking Eggs(Part).jpg
ローラ・カミングの父親は画家です。画家が娘に真っ先に見せたかったのがこの絵だったのでしょう。驚くべき精緻さで描かれた物たちのなかでも、ひときわ目立つのが上の引用の下線の部分、鍋の中の卵です。液体から半液体、半固体、固体へと変化する様子がとらえられている。本書ではわざわざ、この "目玉焼き" を作っている鍋の部分図が掲げられています。カミングはこの絵を子どもの時から数え切れないくらい見たはずで、見るたびに "目玉焼き" に感心してきたのだと想像できます。

ちなみに、ローラ・カミングは書いていませんが、老婆が作っているのは「ウエボ・フリート」(Huevo frito。スペイン風目玉焼き)です。「ウエボ」が "卵"、「フリート」は "揚げた" という意味で、現代のスペインでも作ります。鍋にニンニクを入れたオリーブオイルをたっぷり入れ、卵を割って、上からスプーンでオリーブオイルをかけながら揚げるように焼きます。絵の真鍮の容器と道具はニンニクを磨り潰すためのものでしょう。


セビーリャの水売り


Waterseller of Seville.jpg
セビーリャの水売り
(1618:19歳)
106.7cm × 81cm
ウェリントン・コレクション
(Aspley House, London)

この絵は10代のベラスケスが故郷のセビーリャで描き、それを携えてマドリードに上京し、王宮の人々を驚嘆させました。ベラスケスの師匠の知人の聖職者、フォンセカがすぐに買い取った絵です。


そこに描かれるのは、働きづめの人生を送ってきた男の姿だ。顔には深いしわが刻まれ、大きな穴のあいた衣服をまとい貧しいなりをしているが、うれいを帯びた気高さがある。横にいる少年(彼はほかの絵にも登場する)は目を伏せ、うやうやしく水を受け取る。水売りが来なければ、少年は喉がからからに乾いていただろう。水なしで生きられるものはいない。触れあう二人の手が、安価だが計り知れない価値をもつものを支えている。ベラスケスは、いたって平凡な商売の場面に寓話的ぐうわてきな意味を与えた。

ひときわ透明なガラスのコップに、水に香りをつけるためのものだろうか、イチジクの実が浮いている。それらしく描くのは至難のわざだ。大きな陶器の壷は、でこぼこや焼きむらがあり、雫が垂れた跡が変色し質感も変わっている。このシーンを描いたとき、ベラスケスはまだ10代だった。

老い、つましさ、またはキリスト教的博愛の象徴として描かれた絵であろうとか、悪漢ピカレスク小説の一場面で、老人は道化者の物乞いであるとか、巨大な陶器の壷の中で寝たと言われるギリシャの哲学者ディオゲネスの肖像であるなどと、この絵には多くの解釈がなされてきたが、10代の若き画家が、格段に難しい対象を描き上げる能力を見せつけるために選んだテーマであることは確かだろう。ガラスのコップは、加熱されている卵と同じだ。卓越した技術と、この絵がもつ謎めいた陰鬱な雰囲気とがあいまって、見るものを眩惑げんわくさせると同時に当惑させる。

水売りの男はいかにも真面目そうで、威厳があり、画家からも少年からも一目置かれている。この男を貧しい道化者の物乞いと解釈した人は、本当にこの絵を見たのだろうか。

フォンセカが1627年に亡くなると、ベラスケスは彼の所有する絵の目録を作成し、《セビーリャの水売り》に最高値をつけてすぐに買い戻したという。フォンセカの未亡人にはありがたかったに違いないが、ベラスケスにとっても得るものが大きかった。若い時分に描いたかけがえのない大切な絵 ─── 彼はそれを二度と手放さず、死ぬまで手元に置いていたと伝えられる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.48-49

カミングが「横にいる少年ほかの絵にも登場する」と書いているのは、たとえば先の『卵を料理する老婆と少年』です。明らかに同じ少年を描いています。なお、訳文では水を入れた壷を "陶器" としていますが、明らかに釉薬を塗らずに焼いた陶器、つまり "素焼きの壷" なので、日本語感覚ではそう訳す方が良かったと思います(ただし、全体としてこの本の訳は優れています)。

ちなみに、2018年3月24日に放映されたTV東京の「美の巨人たち」の "今日の一枚" は『セビーリャの水売り』でしたが、この絵を所有しているロンドン、アスプリー・ハウスの主任学芸員の方が「描かれているのは高価なヴェネチアン・グラスのようで、貧しい水売りが普段使うようなものではない」と解説していました。確かに、グラスの下の方には装飾が施されています。どこにでもありそうなグラスではない。

なぜヴェネチアン・グラスを登場させたのか。それはベラスケスが水売りを気高い人物として描きたかったからだ、という解説でした。宗教的な意味(たとえば洗礼)を見いだすことも可能だと・・・・・・。

カミングが言うように威厳があり、また気高さをも感じさせる人物造形にはヴェネチアン・グラスが似合うのでしょう。ただ、もう一つの理由として高価で透明度が高いヴェネチアン・グラスになみなみと水をいだ時の質感表現に挑戦したのではと思いました(しかも無花果イチジクまで入れる)。当時の上流階級の、見る人が見ればヴェネチアン・グラスとすぐ分かったのではないでしょうか。


ヴィラ・メディチの庭園


1628年、当時の大画家ルーベンスがスペインの宮廷を訪れて滞在し、王宮にある絵の模写を含め30枚もの絵画を制作しました。そのルーベンスはベラスケスに「ローマに行き芸術の都をその目で確かめてくるように」とアドバイスしました。

ベラスケスは生涯に2度、ローマを訪れて滞在していますが、第1回目はルーベンスがスペインを去った2ヶ月後、1629年の6月末からです。帰国したのは1631年1月で、およそ1年半の滞在でした。ベラスケスはローマで "ヴィラ・メディチ" に2ヶ月滞在し、その庭園を描きました。No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で紹介したように、絵は「昼」と「夕暮れ」の2枚あります。次はその「夕暮れ」の方です。

View of the Garden of the Villa Medici.jpg
ヴィラ・メディチの庭園
(1630:31歳)
48.5cm × 43cm
プラド美術館


描かれたのは、イトスギにかこまれたのどかな一角だ。古代ギリシャ風のアーチ門は薄板でふさがれ、その上のバルコニーの縁には白い布が掛けられている。建築者だろうか、庭師だろうか、二人の人物が立ち話をしており、ひとりは薄板からぶらさがるロープの端をぼんやりと持ち、クモの糸ほどに細い銀色の線が、絵の表面を斜めに走っている。

特別な場面を描いたのでもないのに、なぜか心を奪われる ─── その矛盾が、この作品を神秘的なものにしている。生け垣の上にそびえるギリシャ神ヘルメスの像は、二人の会話に聞き耳をたてているように見え、アルコープ(引用注:壁面の一部を奥に後退させて作った空間のこと)に映る影は、なかば生きているかのようだ。巨大なイトスギはその暗い木陰に太陽の熱を包み込み、衝立ついたてのようにそそり立って外の世界を遮断する。そのあいだから、紅に染まりはじめた空がわずかに見える。この場面の中央にある薄板の間がわずかに開いていて、見ているうちにふと、その瞬間から忍び出て扉の向こうを見てみたい、絵の中に入って生きたいという気持ちになる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.201

この絵は "大作の名画" がオンパレードのプラド美術館の中にあっては見逃してしまいそうな小さな絵です(48.5cm×43cm)。また一見 "地味な" な絵なので、本当に見逃す危険性は高い。その見逃しそうな小さな絵の前に立って眺め入っている著者の姿が目に浮かぶような描写です。しかし、この絵の "解説" のポイントは、漆喰しっくいの壁の描き方を書いた次の文章です。つまり壁に塗る漆喰とカンヴァスに塗る絵の具の類似性がこの絵の "見どころ" だという指摘です。


ある部分には絵の具がたっぷりとなめらかに塗られ、別の部分では薄く塗られ、ときにはカンヴァスの布目が透けて見えるほど絵の具をこすり取り、その細かい格子模様を、漆喰から透けて見えるレンガ壁に見立てている。つまり、描かれている対象をそっくりそのまま真似ているのだ。

この絵は、かなり小ぶりだ。こちらに背を向けて立つ人たちはごく小さく、バルコニーに布をかけている使用人などは、かろうじて見える程度だ。じつにリアルなシーンであるにもかかわらず、なぜか夢のようにおぼろげに見える。小さなカンヴァスは、もちろん外へ持ち出すのに便利だ。だがベラスケスがこのサイズを選んだのには、別の理由があったのかもしれない。離れて見ると、カンヴァスの布目がレンガの模様を再現するのにぴったりの大きさなのだ。

ここにもまた、私たちの想像が及ばないベラスケスの緻密な計算が働いている。はたして彼は、はじめからわかっていたのだろうか。それとも描いているうちに思いついたのだろうか。これは、彼の作品につねにつきまとう重大な疑問点のひとつだ。どの作品がどのようにして生まれたのか、それはゆっくりと手間をかけて描かれたのか、手早く描かれたのか。また、偶然の結果なのか、意図的に生み出されたものなのか。カンヴァスの横糸と縦糸が織りなす細かい格子模様を生かしてレンガの輪郭をかたちづくるといった点は、どこか精密工学のようだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.201-202

下線をつけたところですが、この絵をそのように見ることができるのかと、本書を読んで思いました。美術評論家らしい着眼点です。さらにカミングは、この絵が "小さな革命" だったと続けています。


この作品は、絵画に小さな革命を起こした。単に、並外れた手法で描かれたというだけではない。描かれた理由も、物語性も、焦点も何もなさそうなのが新しいのだ。なんとなく眺めていて目に入った断片的な光景、その一瞬をとらえたこの絵はきわめて斬新で、当時の買い手がほしがった、ニンフや神殿で埋めつくされた古代ローマの風景画などとは、大きく異なっていたのである。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.202

全くの偶然ですが、ベラスケスがローマに滞在していたころ、フランスの2人の高名な風景画家、クロード・ロランとニコラ・プッサンもローマにいました。彼らは「理想的な架空の風景」を描く画家です。アントニオ・パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」によると、ベラスケスはロラン、プッサンと面識があり、プッサンとは共通の知人もいました。もちろん2人の風景画を知っていた。しかしベラスケスの描いた風景画は彼らのものとは全く違っていました。


メディチ家の別荘の庭園を描いたこの小さな作品について特筆すべきは、ベラスケスが実際にこの静かな庭園に出て描いたことだ。その場所、空気、ぬくもり、ローマの夏の柔らかな陽射しにいたるまで、目に入るものすべてを痛いほどの感受性でとらえ、絵の具を含ませた絵筆で記録していく。目で見たものがすぐさま手を介して絵筆に伝えられ、彼が受けた印象そのままに描かれる。この絵は、ベラスケスの作品の中でも最も印象主義的な ─── 実際の印象派が生まれるのは、まだ2世紀も先なのだが ─── 作品と言えるだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.203

2作品ある「ヴィラ・メディチの庭園」のうち、もう一つの「昼」の方は No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で紹介しました。明るい光の下での庭園風景という題材や筆触分割的な筆の使い方は、まさに印象派だと言っていいものです。

View of the Garden of the Villa Medici(Large- Part).jpg
「ヴィラ・メディチの庭園」の中央のアーチ門の両側を拡大した部分図。「カンヴァスの布目が透けて見えるほど絵の具をこすり取り、その細かい格子模様を、漆喰から透けて見えるレンガ壁に見立てている」とローラ・カミングが説明している部分。


パブロ・デ・バリャドリード


次の作品は No.36「ベラスケスへのオマージュ」でとりあげたものです。マネは1865年に『オランピア』でサロンに入選しますが、娼婦を描いたということで評論家から罵声を浴びます。傷心のマネはマドリードに旅をし、プラド美術館でベラスケスの作品に出会います。

Pablo de Valladolid.jpg
パブロ・デ・バリャドリード
(1635:36歳)
209cm × 123cm
プラド美術館


1865年のある夏の日の夕方、エドゥアール・マネは、新たに運行が始まったパリとマドリッドを結ぶ直通列車に乗った。不快な旅は1日半も続いた。マドリッドではグラン・オテル・ドゥ・パリに泊まるが、名物だというフランス料理はとても食べられたものではなく、どの皿にも手をつけずにそのまま返した。マネが闘牛場で牛の角に突かれて死んだ闘牛士を目撃した話や、エル・グレコの絵を見るためにトレドまで足を伸ばした話は有名だ。だが、コレラが大流行するさなか、辛い長旅に耐え、言葉もまったくわからないスペインへわざわざやってきたのは、何よりもベラスケスの絵を見るためだった。

プラド美術館の細長い展示室で、マネは「悲惨な旅でくたくたになっても見にくる価値がある」"画家の中の画家" の作品と出会う。だが、それだけではなかった。彼にとって "すべての絵画を越える絵" となる作品との出会いも待っていた。その絵とは、ベラスケスが描いた宮廷の喜劇役者パブロ・デ・バリャドリードの肖像画である。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.136

この絵は「道化役者」とういタイトルで呼ばれるのですが(現プラド美術館)、本書によるとマネがプラド美術館を訪れた当時、この絵には「フェリペ4世時代の有名な役者の肖像」というタイトルが付けられていました。この方が実態と合っているので、カミングは "喜劇役者" で通しています。


パブロはどこからともなく、圧倒的な姿をあらわす。光を放つ絵の表面に黒づくめの姿が不意に出現し、何もない空間に黒いシルエットがくっきりと浮かび上がる。彼をそこにつなぎとめているのは影だけだ。床はなく、みずからの確固たる存在感だけで、このひとり芝居の舞台に立っている。さっと姿をあらわすところは、まるで登場の場面のようだ。

役者は開いた両足を地につけ、持てるエネルギーを残さず体内に封じ込めようとするかのように、片手を胸のあたりに当てている。その姿を、ベラスケスが与える輪郭がしっかりと絵にとどめる。彼は不動だが、代わりに仕草が何かを物語る。ケープをつかむ手が、もう一方の手に合図を送る。するとその手は、その先に別の時と場所があるかのうように斜め下方を指す。じつに雄弁なジェスチャーだ。この絵はベラスケスの作品の中で唯一、動きが表現された肖像画でもある。饒舌じょうぜつな両手は、左手から右手へ、さらにその先の何もない空間にある思考をさす指先へと連鎖反応をもたらしながら、一緒になって掛け合い芝居を演じている。

舞台はなく、書割かきわりも、衣装も、小道具も、彼を特定の役柄や演技の枠にはめるものは何もない。パブロは自由に、ありのままの自分でいられる。この絵は彼をどんな役柄にも当てはめず、同様にどんな場所にも閉じこめていない。背後に壁はなく、建物も、設定も場面も何もなく、壁と床の境界すら消滅している。パブロが立つ空間はすでに彼の一部であり、その漠とした空間の中に、堂々たる役者の姿が浮かび上がる。右足はいつのまにか影を引きずり、その影は水面を漂う煙のごとく消えていく。パブロは一枚の絵の中で ── いや、絵の中に ── 立っている。

この絵を見たとき、マネは目を疑った。彼はマドリッドから画家仲間のアンリ・ファンタン = ラトゥールに次のように書き送った。「この絵は、これまでに描かれた絵の中で最も驚くべき作品だ。背景は消滅している。人物を包みこんでいるのは空気だ」

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.136-137

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で書いたように、マネは帰国後『パブロ・デ・バリャドリード』の影響のもとに、ハムレットに扮する知人の俳優を描いた『悲劇役者』を制作しました(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」にも掲載)。マネはパブロを "役者" と認識していたことが分かります。そして、マネ独自の発展形が有名な『笛を吹く少年』(オルセー美術館)なのでした。



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No.224 - 残念な「北斎とジャポニズム」展 [アート]

No.156「世界で2番目に有名な絵」で、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中の『神奈川沖浪裏』が "世界で2番目に有名な絵" であるとし、この絵が直接的に西洋に与えた影響の一例を掲げました。No.156 で書いたのは、

ドビュッシーの交響詩「海」。スコアの表紙に『神奈川沖浪裏』が使われているし、そもそも作曲のきっかけが北斎だと考えられる。
ドビュッシーの家の室内写真。ストラヴィンスキーとのツー・ショット写真だが、壁に『神奈川沖浪裏』が飾られている。
カミーユ・クローデルの彫刻作品『波』。
『神奈川沖浪裏』を立体作品にした、ドレスデン街角のオブジェ。
『神奈川沖浪裏』を童話に仕立てたスペインの絵本。
サーフィン用ウェアの世界的ブランドである Quiksilver のロゴマーク。『神奈川沖浪裏』が単純化されてデザインされている。

でした。もちろん『神奈川沖浪裏』を含む「富嶽三十六景」や「北斎漫画」など、北斎の多数の作品が19世紀以降の西欧アートに影響を与えたし、北斎だけでなく日本の浮世絵や工芸品がヨーロッパに輸出されて、いわゆる "ジャポニズム" の流れを生んだわけです。

No.187「メアリー・カサット展」で書いたのですが、カサットは1890年にパリで開催された「日本版画展」に感激し、自らも版画の制作を始めました。No.187 では 喜多川歌麿の『青楼十二時せいろうじゅうにときの刻』とカサットの『The Fitting(仮縫い)』の対比、同じく歌麿の『行水』とカサットの『湯浴み』の対比を掲げました。カサットはこの歌麿の作品そのものではないにしろ、類似の浮世絵からインスピレーションを得て作品のテーマと構図を決めたのは間違いないと思います。

そういったジャポニズムを紹介する展示会が最近、国立西洋美術館で開かれました。「北斎とジャポニズム」展です(2017.10.21 - 2018.1.28)。この展示会は国立西洋美術館の馬渕明子館長が監修したものです。馬渕館長はジャポニズム研究の専門家なので、いわば "渾身の展覧会" でしょう。なぜ北斎なのかというと、ジャポニズムの中でも北斎の影響がダントツに大きいからです(馬渕館長の言)。つまりこの展示会は「北斎が西洋美術・工芸に与えた影響」を中心テーマとしつつ、「北斎を代表格とする日本の美術が西洋に与えた影響」も俯瞰するものと言っていいでしょう。

北斎とジャポニズム展.jpg

展示会の内容は北斎の画業全般に渡っていて、"森羅万象を描き尽くそうとした" 北斎の制作態度がよく分かるようになっていました。またそれに対する西洋のジャポニズムの方も、日本紹介の書物から絵画、工芸、版画まで多様でした。全体として大変理解がしやすい良い展覧会だと思いました。



以下は、この展示会を見て "残念" と思ったことをいくつか書きます。展示会そのものが "残念" というわけでは全くありません。もっとこういう作品を展示してほしかったという意味の "残念" です。あたりまえですが、展示会のために作品を所蔵美術館(ないしは個人)から借りるのは相手がある話なので思い通りに行くとは限りません。それは十分承知した上での "無いものねだり" を以下にあげたいと思います。


雨を線で表現する


浮世絵には雨を線で表現したものが多々あります。すぐに思い浮かぶのは広重の「東海道五十三次」の『土山宿』や『庄野宿』、ゴッホも模写した「名所江戸百景」の『大はしあたけの夕立』などです。この浮世絵の影響を受けてヨーロッパでも雨を線で表現した絵が描かれるようになりました。「北斎とジャポニズム」展で対比されていたのは、北斎の『北斎画式』からの一枚と、ゴッホの『雨中の畑で種を蒔く人』という素描です。もちろん広重の "雨" の方が有名ですが、この展覧会は北斎とジャポニズムを対比するのが主旨なので、これはこれでよしとしましょう。

北斎画式.jpg
葛飾北斎
北斎画式」(1819)

雨中の畑で種を蒔く人.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
雨中の畑で種を蒔く人」(1890)
フォルクヴァンク美術館(独:エッセン)

"問題" はゴッホの方で、ここでゴッホを持ち出すのならフィラデルフィア美術館にある『雨』という油絵作品を展示して欲しかったと思います。No.97「続・フィラデルフィア美術館」で引用した絵です。

PMA - Gogh.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
」(1889)
フィラデルフィア美術館

ゴッホのサン・レミ時代の絵です。小麦畑に雨が降っているという、ただそれだけの絵ですが、この雨の線の "乱れよう" は画家の心情を表しているようです。北斎の版画もゴッホの素描も「雨を線で描いた作品」です。それに対してこのゴッホは「雨を線で描くことによって何かを表現しようとした絵」で、そこが違います。この絵は、巨大美術館であるフィラデルフィア美術館でも大変印象に残る絵です。それは日本人だからでしょう。

そのゴッホが浮世絵と出会う20年以上前から浮世絵を研究し、その構図やテーマを作品に取り入れていたのがドガです。今回の「北斎とジャポニズム」展でもドガの作品が数点展示されていました。そしてドガも雨を線で表現した絵を描いています。『雨の中の騎手』というパステル画です。この絵も No.97「続・フィラデルフィア美術館」で引用しました。

Jockeys in the Rain.jpg
エドガー・ドガ
雨の中の騎手」(1880/91)
ケルヴィングローブ美術館
(英:グラスゴー)

ドガは馬が登場する絵(郊外での競馬が多い)を多数残しています。また絵画制作のためだと思いますが、小型の馬の彫像(いわゆるマケット)も残しています。ちょうど「踊り子」でやった絵画制作を「馬」でやった。今回の展示会でも、北斎漫画の馬の絵とドガの「競馬場にて」(1866/68。オルセー美術館)を対比させた展示がありました。

上に引用した絵はその「馬」と「線で描かれた雨」がミックスされています。さらに右端の馬をカットアウトした構図も浮世絵の影響を感じさせます。このドガの絵も展示して欲しかった絵なのでした。


並木越しの風景


葛飾北斎の「富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」は、松並木の向こうに富士が見えるという構図で、富嶽三十六景の中でも比較的良く知られた作品です。この絵とモネの2つの絵を対比して展示してありました。

富嶽三十六景「保土ヶ谷」.jpg
葛飾北斎
富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」(1830-33)


ヴァランジュヴィルの風景.jpg
クロード・モネ
ヴァランジュヴィルの風景」(1882)
ポーラ美術館

陽を浴びるポプラ並木.jpg
クロード・モネ
陽を浴びるポプラ並木」(1891)
国立西洋美術館

モネの最初の絵の舞台であるヴァランジュヴィルとは、ノルマンディーの海岸に面した地方です。No.202「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」で「ヴァランジュヴィルの漁師小屋」という作品を引用しました。たまたま見つけたポプラの木という感じで、これは並木ではありません。

一方、次の『陽を浴びるポプラ並木』は北斎も描いた "並木" で、しかもクローズアップで描いています。これはジヴェルニー付近の川沿いのポプラ並木で、モネによくある連作の中の1枚です。この絵は確かに「富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」からインスピレーションを得て描かれたと思えるものです。

しかしモネの絵よりさらに北斎に近いと思えるのは、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにあるゴッホの『アルルの風景』です。この絵は No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」で引用しました。

アルルの風景.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
アルルの風景」(1889)
ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)

モネの『陽を浴びるポプラ並木』は、「ポプラ並木の向こうに見えるのはポプラ並木」ですが、ゴッホ作品では「ポプラ並木越しに見えるアルルの田園風景」です。そこが「並木越しに見える富士」により近いと感じます。北斎もゴッホも「もし並木がなかったとしても成立する絵」です。主題はあくまで富士であり、アルルの田園風景です。にもかかわらず、あえて松並木・ポプラ並木で主題を "ぶった切って"(部分的に)隠している。構図の発想が大変よく似ているのですね。浮世絵が大好きだったゴッホもまた、「富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」からインスピレーションを受けたのだと思います。



このゴッホの絵から連想するのが、オーストリアの画家、エゴン・シーレの『4本の木』という作品です。ウィーンのベルヴェデーレ宮殿(オーストリア・ギャラリー)にあります。

4本の木.jpg
エゴン・シーレ(1890 - 1918)
4本の木」(1917)
(オーストリア・ギャラリー)

こうなると単なる風景画ではなく、思想性を感じる絵になっています。4本の木はそれぞれ何らかの象徴で、落日も何かを象徴している、というような ・・・・・・。ジャポニズムの影響とは言い難い感じもします。

しかし気になるのは、当時のウィーンがジャポニズムの "メッカ" だったことです。本展示会にもウィーンで活躍したアーティストの作品が展示されていましたが、特にヴァルター・クレムの「橋」という作品(次項)はジャポニズムそのものです。『4本の木』もインスピレーションのもとになったのかもしれません。





橋は浮世絵にたびたび現れる画題です。「北斎とジャポニズム」展で対比してあったのは、北斎の『富嶽三十六景 深川万年橋下』とヴァルター・クレムの『橋』でした。ヴァルター・クレムとはあまり聞かない名前ですが、ドイツの画家・イラストレーターで、ウィーン分離派で活躍した人です。

富嶽三十六景「深川万年橋下」.jpg
葛飾北斎
富嶽三十六景 深川万年橋下」(1830-33)

Walther Klemm - Bridge.jpg
ヴァルター・クレム(1883-1957)
」(1909より前)
オーストリア応用美術館

確かによく似ています。19世紀末から20世紀にかけてのウィーンはジャポニズムの一つの拠点で、その代表格がクリムトです。No.164「黄金のアデーレ」にクリムトの作品を引用しました(アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 1)。クリムトは日本の着物だけでなく、甲冑や能面(!)まで所有していたそうです。そんな状況を考えると、このヴァルター・クレムの作品も納得できます。

ただし "橋" がテーマの作品としては、ジャポニズムの作品を多く手がけたホイッスラーも是非展示してほしいところでした。『ノクターン:青と金色 - オールド・バターシー・ブリッジ』です。

Whistler - Nocturne.jpg
ジェイムズ・マクニール・ホイッスラー
ノクターン:青と金色 -
オールド・バターシー・ブリッジ
」(1872-75)
テート・ブリテン

普通、このホイッスラーの絵は広重の『名所江戸百景 京橋竹がし』の影響だと言われるのですが、今回は「北斎とジャポニズム」展です。北斎の橋の絵とホイッスラーを対比するのは全くOKのはずです。ちょうど "雨を線で描いた絵" で、広重でなく北斎とゴッホを対比させたように・・・・・・。実際にロンドンにあったオールド・バターシー・ブリッジは、こんなに橋桁が高くなかったようです(ホイッスラーが描いた橋の素描が残っている)。デフォルメとクローズアップを用い、それに加えてまるで水墨画のように描いたこの絵は、まさにジャポニズムに影響を受けた作品でしょう。

名所江戸百景「京橋竹がし」.jpg
歌川広重
名所江戸百景 京橋竹がし

ちょっと脱線しますが、広重とホイッスラーの絵で思い出すのが、川瀬巴水の「東京十二題 深川上の橋」です。ホイッスラーも巴水も浮世絵を深くリスペクトしていたということでしょう。

東京十二題 深川上の橋.jpg
川瀬巴水(1883-1957)
東京十二題 深川上の橋」(1920)


春画


浮世絵の半数以上(6割?)は春画だと言われています。西欧の著名画家も春画を保有していたようで、木々康子氏の『春画と印象派』(筑摩書房)によるとロートレックは春画の大コレクターだったとあります。「北斎とジャポニズム」展にあったのは、北斎の『万福和合神』とクリムトの『横たわる恋人たち』でした。ほかにロダンの素描もありました。

万福和合神・上編.jpg
葛飾北斎
万福和合神上編(1821)


横たわる恋人たち.jpg
グスタフ・クリムト(1862-1918)
横たわる恋人たち」(1904/05)
ウィーン・ミュージアム

しかしここでは是非ともピカソを持ち出して欲しかったと思いました。たとえばバルセロナのピカソ美術館が所蔵している次の作品です。男女の性の場面を描いたものとしてナマナマしい感じで、クリムトよりも北斎の絵の "精神" を受けついでいると思います。

ピカソ「恋人たち」.jpg
パブロ・ピカソ恋人たち
バルセロナ・ピカソ美術館

「万福和合神」のような春画はたくさんあるので、ピカソがこれを見たかどうはは分かりません。しかしピカソにはダイレクトに北斎を踏まえたと考えられる作品があります。北斎の春画集「喜能会之故真通きのえのこまつ」に『蛸と海女』という有名な絵がありますが、これから発想を得たと考えられる『女と烏賊』です。この絵は No.163「ピカソは天才か(続)」で引用しました。ピカソも北斎のイマジネーションに驚いたのではないでしょうか。

蛸と海女.jpg
葛飾北斎蛸と海女


ピカソ「女とイカ」.jpg
パブロ・ピカソ女と烏賊
バルセロナ・ピカソ美術館

そもそもピカソは北斎を強く意識していたようです。No.163「ピカソは天才か(続)」 で引用した瀬木慎一氏(美術評論家)と浦上満氏(浦上蒼穹堂・主人)のコメントを再度掲げます。


ピカソは日本の画家の中では北斎を尊敬していました。北斎は年とってから自分のことを「画狂老人」と言っていた、あれを非常に気に入って「俺はヨーロッパの画狂老人だ」と言ったくらいです。

瀬木慎一
NHK 日曜美術館(2010.5.23)
「ピカソを捨てた花の女」より

北斎はとにかく変化へんげの画家なんです。こういう画家は西洋に一人しかいません。それはピカソ。ピカソは明らかに北斎を意識していますよ。自分で北斎の雅号にならった『西洋画狂人』と名乗っていたといわれます。近年わかったことですが、ピカソは春画も集めていて、彼のキュビズムは春画からきているという説もあるんです。

浦上満
雑誌『東京人』
(No.378 2016.12)

ほかでもない「北斎とジャポニズム」という企画展だからこそ、"ヨーロッパの画狂老人" を自認していたピカソを展示して欲しかったと思いました。


カサット


冒頭に書いたように、メアリー・カサット浮世絵に感動して自ら版画を制作しました。その例として No.187「メアリー・カサット展」で対比させた喜多川歌麿とカサットの作品をここに再掲します。

歌麿・青楼十二時 子の国.jpg
喜多川歌麿
青楼十二時せいろうじゅうにときの刻
川崎・砂子の里資料館
(大浮世絵展・2014 図録より)

The fitting.jpg
メアリー・カサット
仮縫い」(1890/91)
アメリカ議会図書館
(site : www.loc.gov)

歌麿・行水.jpg
喜多川歌麿行水
メトロポリタン美術館

The bath(The tub).jpg
メアリー・カサット
湯浴み(たらい)」(1890/91)
アメリカ議会図書館

歌麿の『青楼十二時せいろうじゅうにときの刻』で立っている女性のポーズは、女性を美しく描くための浮世絵の "定番" と言ってよいでしょう。また『行水』にみられるような「母と子、ないしは母と赤ん坊」というテーマも浮世絵でよく描かれました。カサットはこの歌麿作品そのものではないにしろ、類似の浮世絵からインスピレーションを得て作品のテーマと構図を決めたのは間違いないと思います。

しかし今回は「北斎とジャポニズム」展なので北斎と対比させる必要があります。出展されていたカサット作品は『青い肘掛け椅子の少女』でした(これ以外にもカサットの絵が2点ほどありました)。この絵は No.87「メアリー・カサットの "少女"」No.125「カサットの "少女" 再び」に詳しく書きました。No.125では絵を所有しているワシントン・ナショナル・ギャラリーの分析に従って、背景の一部にドガの手が入っていることにも触れました。そしてこの絵と対比されていたのが『北斎漫画』の中の "布袋" の絵でしたが、これはちょっとやりすぎというか、こじつけではないでしょうか。

Mary Cassatt - Little Girl in a Blue Armchair (Renewal).jpg
メアリー・カサット
青い肘掛け椅子の少女」(1878)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

北斎漫画・初編より(部分).jpg
「北斎漫画」より
普通、モデルを使った絵はモデルにそれなりのポーズをとらせますが、このカサットの絵は違います。育ちのよい少女(ドガの友人の娘です)であれば "普段はしない格好" というか、親に見つかると厳しく叱責されるに違いない姿です。つまり、

  少女が見せるある瞬間の姿態や表情、それをカンヴァスに定着させた

と感じさせるのがこの作品です。「少女」を「踊り子」に変えたとしたら、これはまさにドガの作品の特徴です。そして北斎漫画やその他の北斎作品にも「モデルのある瞬間の姿態や表情を定着」した絵が多数あり、そこが共通している部分です。カサットは画家としてドガと親しい関係にあったので、北斎 → ドガ → カサットという影響が推測できます。またカサットが『北斎漫画』を直接見たことも考えられる。こうした「ある瞬間の定着」が「北斎とジャポニズム」展で『青い肘掛け椅子の少女』を展示した主旨のはずですが、そこに "布袋" の絵を持ち出したので何となく嘘っぽくなってしまった、そこが残念なところでした。

余談ですが『青い肘掛け椅子の少女』の特色は少女の姿態だけはなく、肘掛け椅子の配置を含む部屋の描き方にあります。床と壁の境を極端に上にとり、少し上の方から俯瞰したアングルで、椅子を不規則に配置し、しかもすべての椅子をカンヴァスからはみ出して描く。この絵の所有しているワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式ガイドに「少女がいなければほとんど抽象画」とありましたが(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)、そう言いたくなるほど斬新な構図でです。


ドガ


この項は「残念」ではなく、私とっての新発見です。当然のことながら「北斎とジャポニズム」展にはドガの作品が数点出展されていましたが、"発見" はドガの次の版画に関してです。

ルーブルのメアリー・カサット.jpg
エドガー・ドガ
ルーヴル美術館絵画室の
メアリー・カサット
」(1879-80)
フィラデルフィア美術館

この版画はルーブル美術館でのメアリー・カサットの姿を描いたものです。立っているのがメアリー、座ってガイドブックを広げているのは姉のリディアです。No.86「ドガとメアリー・カサット」を書いたときにいろいろ調べていて、この版画に出会いました。ドガは他に「ルーブルの考古学室のメアリー・カサット」も制作しています。この「絵画室のメアリー」の後ろから見た立ち姿、美術館の中でパラソルを持っている姿は "何だか不思議な感じだな" と思っていたのですが、今回の展覧会で対比されていたのが『北斎漫画』の中の一品でした。なるほど、北斎を踏まえて制作されたのだとすると納得できました。

北斎漫画・九編より.jpg
葛飾北斎
北斎漫画」九編より


マティス


前々から気になっていたのですが、マティスと北斎の関係はどうなのでしょうか。「北斎とジャポニズム」展でマティスに関する展示はありませんでした。しかし気になる点があって、その一つはマティスが画家のアルベール・マルケを「我らが北斎」と呼んだと伝えられることです。アルベール・マルケはマティスと同じフォービズムの画家仲間(後輩)で、フォービズムにしてはどちらかと言うと"穏やかな色使い" で、風景画を得意とした人です。森羅万象を描き尽くそうとした北斎とは制作態度がかなり違います。従ってマルケの絵だけを見ても、マティスの言う北斎との関連性は分からないのですが、たとえばマルケのデッサンの力量を北斎に比したのかも知れません。

気になる二つ目は、マティスは明らかに日本美術の影響と思われる作品を描いていることです。それはフィラデルフィアのバーンズ・コレクションにある『三姉妹』という3連作です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 19 West Wall にある作品)。

Barnes10 - Room 19 - West Wall.jpg
バーンズ・コレクションの Room 19 West Wall の画像。マティスの「三姉妹」の三連作が壁一面に展示されている。

この「3人の女性を描いた3つの連作」というスタイルは「大判錦絵三枚綴り」に発想を得たものでしょう。たとえば歌麿の次の作品です。

喜多川歌麿「両国橋上下(上)」.jpg
喜多川歌麿両国橋上下(上)

バーンズ・コレクションにある『三姉妹』は「西洋絵画史上、これしかないと思える作品」です。こういう作品を制作するぐらいなら、ほかにも日本美術からインスピレーションを得た作品があるのではと思うのですね。特に北斎をヒントにした作品が ・・・・・・。

画家が他人の絵からインスピレーションを受ける場合、その内容は大変微妙です。No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、画家のサージェントがベラスケスの『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描いた『ボイト家の娘たち』という作品を紹介しましたが、一見すると一体どこが『ラス・メニーナス』なのか分からないのです。マティスにも実はそういった作品があるのではないだろうか ・・・・・・。このあたりを「北斎とジャポニズム」展で展示して欲しかったし、展示しないまでも情報発信して欲しかったと思いました。一度、ジャポニズムの専門家である馬渕館長に聞いてみたいところです。


アートとインスピレーション


馬渕館長も各種メディアで強調していたことですが、ジャポニズムは決してコピーではありません。西洋のアーティストは、北斎をはじめとする日本の美術品の中に従来西洋になかった美を発見し、ヒントを感じ、インスピレーションを得て、それを自家薬籠中のものにして作品を作った、そういうものがほとんどでした。それがまた近代日本のアートに影響を与えたわけです。それ以前に、北斎をはじめとする江戸期の画家も西洋絵画の影響を受けています。たとえば冒頭に出した『神奈川沖浪裏』にも西洋画の影響を感じるし、北斎の遠近法画法も今回の展示会にありました。

そういったダイナミックな "影響のしあい" がこの展覧会で理解できたのでした。




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No.222 - ワシントン・ナショナル・ギャラリー [アート]

バーンズ・コレクションからはじまって、個人コレクションを発端とする美術館について書きました。

No. 95バーンズ・コレクションフィラデルフィア
No.155コートールド・コレクションロンドン
No.157ノートン・サイモン美術館カリフォルニア
No.158クレラー・ミュラー美術館オッテルロー(蘭)
No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館マドリード
No.192グルベンキアン美術館リスボン
No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館ロッテルダム(蘭)
No.216フィリップス・コレクションワシントンDC
No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館ミラノ

の9つの美術館です。今回はその方向を少し転換して、アメリカのワシントン・ナショナル・ギャラリーについて書きます(正式名称:National Gallery of Art。略称:NGA。以下 NGA とすることがあります)。

  なお上記の "個人コレクション美術館" 以外にも、バーンズ・コレクションから歩いて行けるフィラデルフィア美術館(No.96No.97)について書きました。またプラド美術館の数点の絵画についても書いています(No.133No.160No.161)。

なぜワシントン・ナショナル・ギャラリーかと言うと、過去にこのブログでこの美術館の絵をかなり紹介したからです。意図的にそうしたのではなく、話の成り行き上、そうなりました。そこで、過去に取り上げた絵を振り返りつつ、取り上げなかった絵も含めてこの美術館の絵画作品を紹介しようというのが今回の主旨です。

それに、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは "個人コレクション美術館" が発端です。つまりこの美術館は、銀行家・実業家で財務長官まで勤めたアンドリュー・メロン(1855-1937)が建設・運営基金と個人コレクションを国家に寄贈し、それにもとに設立された美術館です(1941年開館)。アメリカ富裕層の財力のものすごさを感じます。ちなみにここは創立以来、入場料が無料です。「アメリカを文化国家に」という主旨で設立されたからですが、現在、国を代表するような美術館・博物館で入場無料というのは大英博物館、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとここぐらいのものではないでしょうか。

いうまでもなくアメリカ随一の「国立美術館」であり、その規模や作品数は膨大です。「国立」なのでアートの年代も13世紀から20世紀まで多岐に渡っている。その意味で、フィラデルフィア美術館と同じく "巨大美術館を紹介するのは難しい" わけですが、今回は、

  一人または複数の人物を描いた絵。人物がテーマの中心になっている絵画作品

に絞ります。また、さきほど書いたように過去にこのブログでとりあげた絵を再掲するとともに、必見と思われる絵を追加する形をとります。さらにアメリカ人画家をなるべく掲載することとします。以下は画家の生誕年順で、同一画家の作品は制作年順です。

The-National-Gallery-of-Art-in-Washington-DC.jpg
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
(National Gallery of Art. NGA)
西館の南側正面(ワシントン D.C.)


ボッティチェリ(1446-1510)


Portrait of a Youth.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
青年の肖像」(1482/1485)
(44cm×46cm)

No.160「モナ・リザと騎士の肖像」で引用した作品です。青年が右手を胸に置いて人指し指と中指を広げていますが、同じポーズの絵がプラド美術館にあります。それはエル・グレコの『胸に手を置く騎士』で、プラド美術館の代表作の一つとされている作品です。

マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像.jpg
ブロンズィーノ
マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像」(1551)
(ウフィツィ美術館)
このような手の形はルネサンス期のイタリア絵画で女性の姿によくあります。ブロンズィーノの『マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像』がその典型です。ボッティチェリ自身の『ビーナスの誕生』(ウフィツィ美術館)もそうで、これらは手を美しく見せるためと言われています。しかし男性の肖像画ではあまり見たことがなく、エル・グレコからこのNGAのボッティチェリを思い出したわけです。

この絵は現地で初めて知ったのですが、巨大美術館であるワシントン・ナショナル・ギャラリーの中でも印象的で、すぐに写真を撮ったのを覚えています。なぜ印象的だったかは分かりませんが、ひょっとしたらそれは「指を広げて胸に置いた右手」だったのかも知れません。


ダ・ヴィンチ(1452-1519)


Ginevra de' Benci.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ジネヴラ・デ・ベンチ」(1474頃)
(38cm×37cm)

ヨーロッパ以外にある唯一のダ・ヴィンチ作品がこの絵です。もちろんアメリカではここだけです。モデルはフィレンツェの銀行家の娘で、彼女が16歳の時の作品です。レオナルドはこの絵を22歳から描き始めました。NGAのサイトには「4分の3正面視の肖像の初期の作品の一つ」で「肖像画で風景を背景としたのはレオナルドの新しい試み」とあります。この2つともフランドル絵画では既に行われていたわけで、レオナルドは新しい画法を取り入れるのに積極的だったようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの女性肖像画は『モナ・リザ』『貴婦人の肖像』(ルーブル美術館)『テンを抱く貴婦人』(ポーランドのクラコフのチャルトリスキ美術館)と本作の4点しかありません。「モナ・リザ」を別格として、他の3作品に共通するのはモデルを冷静に眺めて現実を描くというか、「モデルとは距離をおいた観察と描写」を感じる絵であることです。モデルがかしこそうに見える点も共通しています。このジネヴラ・デ・ベンチの肖像もそうです。白い肌や金髪の巻き毛が精緻に描かれていて、知的で、芯が強そうで、何となく神経質で、しかし病弱そうなモデルの雰囲気がよく出ています。

貴婦人の肖像.jpg 白貂を抱く貴婦人.jpg
貴婦人の肖像
(ルーブル美術館)
白貂を抱く貴婦人
(チャルトリスキ美術館)


エル・グレコ(1541-1614)


Laocoon.jpg
エル・グレコ
ラオコーン」(1610/14)
(138cm×173cm)

この作品はエル・グレコの絶筆とされている作品で、かつ画家が生涯で描いた唯一の神話画です。中野京子さんの文章を引用します。


グレコは73歳まで生きたが、晩年には早くも人気が下降しはじめている。強烈な恍惚の画面が、次第に時勢と合わなくなったせいもあるし、個性的すぎることが、逆に飽きられたのかもしれない。

それを感じて、新たな試みに挑戦したのだろうか、宗教画家から神話画家への転換を図ろうとしたのだろうか? それともひょっとして、ギリシャ人たる自分が一枚もギリシャ神話を描かないのはどうなのかと、はたと思いついただけなのか?

グレコ絶筆と考えられているのが、最初で最後の神話画『ラオコーン』だ。これはトロイア戦争の有名な一挿話「トロイアの木馬」を主題にしている(画面中央後景に小さく木馬が見える)。ギシリャ側の奸計かんけいを見破ったトロイアの神官ラオコーンが、城内へ木馬を入れないようにと進言し、それに怒った女神アテナ(=ミネルヴァ)が海蛇を放って、ラオコーンとその二人の息子を殺すというシーンだ。

グレコは背景をトレドの町に置き換えた。そして相変わらず引き伸ばされた蒼白い人体、画面をおおう不可思議感。主題を神話に変えてもグレコのグレコらしさは、あっぱれ、微塵みじんも揺らがないのだった。

グレコは死後徐々に忘れられたいった。二世紀を経た1819年、マドリッドのプラド美術館が開館したとき、グレコは一枚も飾られなかった(現在からは想像もつかない)。

グレコ再発見者は、驚くなかれ、20世紀の表現主義の画家たちだ。ピカソも、自分の「青の時代」の人物描写がグレコの影響であることを認めている。「あのギリシャ人」の感性がいかに新しかったか、いや、新しすぎたかのあかしだ。


ラオコーン(石像).jpg
「ラオコーン像」
(バチカン美術館)
直感的に連想するのは、バチカン美術館にある有名な『ラオコーンの大理石像』です。この有名な像は1506年にローマで発掘されましたが、ギリシャ出身のエル・グレコはスペインに来る前にイタリアに滞在し、ローマにも行っています(1570年)。つまりローマでラオコーンの大理石像を見た記憶で描かれたという可能性があるわけです。ちなみに次項のルーベンスはイタリア時代にローマでラオコーンの大理石像を見ていて、そのスケッチが残されています。ローマに滞在した画家なら、ラオコーンを見るというのは自然だと考えられます。

とは言うものの、バチカンの像と違って不思議な絵です。ラオコーンと2人の息子、海ヘビ、トロイアに擬したトレドの街、木馬(=トロイアにとっては破滅の木馬)までは分かりますが、右端の3人の人物はいったい何でしょうか。まるで空中を浮揚しているようです。この解釈には議論がいろいろとあるようで、NGAの公式サイトには「たぶん、海ヘビを放ったギリシャの神々」という解釈が書いてあります

しかしこの3人はトロイア市民ということも考えられるでしょう。破滅の瀬戸際にある国家、国家を救おうとして死にゆく親子、それとは無関係に浮揚している市民、の3つを対比させることで時代の終焉を表したのかもと思います。


ルーベンス(1577-1640)


フランドル出身のルーベンスは 1600年~1608年の8年間(23歳~31歳)イタリアに滞在し、イタリア各地を回りながら古典やルネサンスの絵画に触れ、絵の研鑽と制作に励みました。次の絵はルーベンスがジェノヴァで描いたものです。

Marchesa Brigida Spinola Doria.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス
侯爵夫人 ブリジーダ・スピノラ・ドーリア」(1606)
(153cm×99cm)

ジェノヴァの名門貴族、スピノラ家から、これも名門貴族のドーリア家に嫁いだブリジーダという女性の肖像画です。眼をひくのは銀色に輝くサテンのドレスと特大のラフ(襞襟)で、その中で堂々と正面を見据える女性の表情が印象的です。貿易や金融業で繁栄を誇ったジェノヴァの上流階級の財力と権威が想像できます。ルーベンスの筆致はドレスからラフから髪飾りまで、大変に精緻であり、画力のすごさが分かります。若きルーベンス、20代後半の傑作です。

少々わかりにくいのは背景です。室内ではなく建物の外側の感じで、ドレープがかかった赤い布が垂れている。ワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式サイトによると、実はこの絵のオリジナルはもっと大きく、ブリジーダは邸宅のテラスに立つ姿で、左の方には風景が描かれていた、それが19世紀のある時点で現在のサイズに切断されてしまったとあります。

なるほど ・・・・・・。ブリジーダは22歳で、結婚したばかりともありました。左の方に描かれていたのは "ジェノヴァ風景" のはずで、だとすると「ジェノヴァを支配する名門貴族の若き花嫁」という絵なのでしょう。


ヴァン・ダイク(1599-1641)


Marchesa Elena Grimaldi Cattaneo.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク
伯爵夫人 エレナ・グリマルディ・カッタネオ」(1623)
(243cm×139cm)

イギリス、チャールズ1世の宮廷画家だったヴァン・ダイクの作品で、No.115「日曜日の午後に無いもの」で引用した絵です。

フランドル出身のヴァン・ダイクは1620年に英国に渡りますが、師匠のルーベンスと同じように、1621年から1627年までの6年間(22歳~28歳)はイタリアに滞在し、ジェノヴァを拠点に絵の勉強と制作に励みました。この絵はジェノヴァのカッタネオ伯爵の夫人、エレナ・グリマルディを描いたものです。ずいぶん "いかつい" 感じで "勝ち気な" 雰囲気の女性ですが、それは本人をよく表しているのでしょう。

ワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式サイトによると、ヴァン・ダイクはジェノヴァでルーベンスの「侯爵夫人 ブリジーダ・スピノラ・ドーリア」を見たことがあって、そこからインスピレーションを得たとあります。これで納得できます。上に書いたようにルーベンスのオリジナル作品において「ブリジーダは邸宅のテラスに立つ姿で、左の方には風景が描かれていた」のですが、それがヴァン・ダイクの「伯爵夫人 エレナ・グリマルディ・カッタネオ」に引き継がれたのでしょう。

ルーベンスと違って、いちばん眼を引くのは "パラソル" です。17世紀のパラソルは木製の大がかりなもので、女性が自分で持てるような代物ではとてもなく、このように召使いがかざして歩くものでした。

もう一つのポイントはパラソルを持っている召使いで、これはアフリカから連れてこられた奴隷だと推定できます。当時のイタリアの海岸都市、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサ、アマルフィなどは地中海交易で繁栄し、その重要な交易品の一つが奴隷でした。またイタリアの貴族や裕福な家庭では奴隷を使っていました。No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」で紹介しましたが、塩野七生著「海の都の物語」には「イタリアの都市ではエキゾチックな黒人奴隷がもてはやされ、回教国では白人奴隷が好まれた」という意味の記述がありました。この絵の伯爵夫人は、エキゾチックな黒人奴隷の従者にパラソルを持たせることで権力と富を誇示している感じがします。

ちなみにワシントン・ナショナル・ギャラリーにはパラソルがテーマになっているもう一枚の絵があります。それは "超有名絵画" であるモネの『パラソルの女』です(後で引用)。この二つを対比して見るとおもしろいでしょう。

ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク
ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン」(1633)
(219cm×135cm)

No.161「プラド美術館の怖い絵」で引用した絵で、英国国王チャールズ1世のきさきであるヘンリエッタを描いたものです。このブログでは17世紀のスペイン宮廷で「特異な身体的形状をもった人」を雇う(ないしは住まわせる)習慣があったことを書きました(No.19「ベラスケスの怖い絵」No.45「ベラスケスの十字の謎」No.161「プラド美術館の怖い絵」)。しかしその "習慣" は何もスペインだけではなく、ヨーロッパの宮廷に広くあった。その一例として引用したのがこの絵でした。


フェルメール(1632-1675)


寡作で有名なフェルメールの絵がそもそも何点現存しているかですが、フェルメールについての数々の著作がある朽木くちきゆり子氏の本によると(「フェルメール全点踏破の旅」集英社新書 2006)、次の通りです(以下の "ランク・・・" は今回便宜上つけたものです)。

◆ランクA : 32点
専門家にフェルメールの真作であると認めてられている作品。
このうちの1点、『合奏』は、1990年にボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館から盗まれて、現在も行方不明。

◆ランクB : 2点
真作だとする専門家が多いが、そうではないとする専門家もいる作品。
赤い帽子の女』(NGA)と『ダイアナとニンフたち』(デン・ハーグのマウリッツハイス美術館)

◆ランクC : 2点
多くの専門家は真作ではないとするが、真作だと主張する専門家もいる作品。
フルートを持つ女』(NGA)と『聖プラクセディス』(個人蔵。国立西洋美術館に寄託)。

◆新発見作 : 1点
新発見の『ヴァージナルの前に座る女
それまで贋作の疑いがあるとされていたが、10年がかりの鑑定の結果、2003年になって真作と鑑定され、サザビースのオークション(2004年)で32億円で落札された。落札者は不明。ロンドンのナショナル・ギャラリーにある同名の作品とは別作品。25×22cmという小さな作品で、2008年に日本で開催されたフェルメール展で展示された。
しかし専門家全員が真作と納得しているわけではない( = ランクB)。

一般的には美術界の多数意見に従って(A + B + 新発見 = B)の合計35点をフェルメール作品としています。このうち美術館所蔵の作品は34点(盗難中を除くと33点)ですが、2点以上を所蔵している美術館をあげると次の通りです。

 ◆5点:(米)メトロポリタン美術館
 ◆4点:(蘭)アムステルダム国立美術館
 ◆3点:(蘭)マウリッツハイス美術館
 ◆3点:(米)フリック・コレクション
 ◆3点:(米)ワシントン・ナショナル・ギャラリー
 ◆2点:(英)ロンドン・ナショナル・ギャラリー
 ◆2点:(仏)ルーブル美術館
 ◆2点:(独)ベルリン絵画館
 ◆2点:(独)ドレスデン絵画館

別にフェルメールをたくさん持っていることが美術館の価値を決めるわけではないのですが、アメリカの3つの美術館だけで11点、全作品の約3分の1を保有しています(盗まれた1点を加えると12点)。ダ・ヴィンチがアメリカに1点しかないのとは大違いで、フェルメールが19世紀後半以降に "再発見" されたことを如実に物語っています。これらのうち、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(NGA)にある3点は、

  『手紙を書く女』 (A)
  『天秤を持つ女』 (A)
  『赤い帽子の女』 (B)

であり、さらに NGA にはもう一枚、

  『フルートを持つ女』 (C)

があります。つまりNGAはランクA,B,Cが全部揃っているという珍しい美術館です。NGAは『フルートを持つ女』については「Attributed to Johanness Vermeer」として展示しています。「伝・フェルメール」という感じでしょうか。もちろん『赤い帽子の女』についてNGAは断固真作だと主張しています。以下はランクAの2点です。

A Lady Writing.jpg
ヨハネス・フェルメール
手紙を書く女」(1665頃)
(45cm×40cm)

この絵のような「白テンの毛皮のついたレモン色のガウン」の女性をフェルメールは6点描いていますが、その中の1枚です。少し微笑んだ女性を、自然体で大変おだやかな雰囲気に描いています。机の上の小物の描き方も光っています。ちなみに「白テンの毛皮のついたレモン色のガウン」の他の5枚は、メトロポリタン、フリック・コレクション、アムステルダム、ベルリン、ロンドンのケンウッド・ハウスにあります。

Woman Holding a Balance.jpg
ヨハネス・フェルメール
天秤を持つ女」(1664頃)
(40cm×36cm)

各種の解説にありますが、この絵の画中画は「最後の審判」です。このブログでは、フランスのボーヌにあるファン・デル・ウェイデンの『最後の審判』を引用しました(No.116「ブルゴーニュ訪問記」参照)。その絵でも分かるのですが一般的に「最後の審判」の描き方は、上の方に再臨したキリスト、その下に秤をもった大天使ミカエル、その横(ないしは下)にミカエルによって天国と地獄に振り分けられた人間という構図です。

この絵はその大天使が女性によって隠されていて、その代わりに女性が天秤を持っている。天秤の皿の上には何も乗っていない(=何も描かれていない)ことが判明していて、女性が天秤のバランスをとっている(?)姿になります。机の上の真珠や金貨も意味ありげです。数々の解釈がなされてきたようですが、決定版はないようです。素人目には「女性が何か重大な決断をしようとしている、ないしは決断をすべきか迷っている」と見えますが、そうとも限らない。結局、絵を見る人にゆだねられているといっていいでしょう。


フラゴナール(1732-1806)


Young Girl Reading.jpg
ジャン・オノレ・フラゴナール
読書する娘」(1769頃)
(81cm×65cm)

この絵もワシントン・ナショナル・ギャラリーの有名絵画です。フラゴナールというと "ロココ" の画家であり、宮廷や貴族の恋愛模様を描いた、いわゆる "ロココ趣味" の絵で有名です。しかしこの絵はそれとは違って家庭内での "知的な" 情景であり、享楽的な恋愛模様とは対極にある画題です。

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」でルネサンス期のイタリアの横顔肖像画を4点とりあげました。しかしこのフラゴナールの横顔作品は、特定の人物の肖像画ではないでしょう。「女性の横顔の美」と「読書という行為」がうまく融合した作品になっています。

注目すべきは描き方で、なんとなく "印象派っぽい筆致" です。印象派は絵画史における革新だったわけですが、一般的にいってアートにおける革新は、全く新しいものが突然変異のように生まれるのではなく、それ以前の時代に萌芽があるわけです。印象派に関していうと、イギリスのターナーの絵はそういう感じがします。この『読書する娘』もそういった一枚だと思います。


ゴヤ(1746-1828)


Senora Sabasa Garcia.jpg
フランシスコ・デ・ゴヤ
セニョーラ・サバサ・ガルシア」(1806/11)
(71cm×58cm)

No.90「ゴヤの肖像画:サバサ・ガルシア」で引用した絵です。この絵の感想は No.90 に詳しく書いたので、ここでは省略します。ひとつだけ繰り返すと、この絵は「ワシントンのモナ・リザ」でしょう。年齢はずいぶん違いそうですが、この絵のモデルも既婚者です。明らかにモナ・リザを意識したポーズだし、表情の "微妙な複雑さ" がモナ・リザ的です。


アングル(1780-1867)


Madame Moitessier.jpg
ドミニク・アングル
モワテシエ夫人の肖像」(1851)
(147cm×100cm)

No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用した絵です。アングルは、この絵(立像)の他に『モワテシエ夫人の肖像(座像)』を描いています(ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある)。そして No.157 で書いたように、ピカソは『モワテシエ夫人の肖像(座像)』を下敷きにしてマリー = テレーズを描いたのでした。それが『本をもつ女』という絵です。『本をもつ女』はピカソが "アングルから影響を受けた" と自ら宣言しているような絵です。

Classical Head.jpg
そしてNGAの『モワテシエ夫人の肖像(立像)』ですが、この絵から伝わってくるのは夫人の大変に豊満な感じであり、また額から鼻筋がそのまま伸びている彫りの深い顔立ちです。この風貌から直感的に連想するのが、ピカソの "新古典主義の時代" に登場する人物像です。NGAが所有するピカソの作品(「Classical Head」1922)をあげておきます。このような顔立ちはギシリャ・ローマ彫刻によくあるし、ルネサンス期の彫像にもあります(たとえばミケランジェロのダビデ像)。しかしアングルのこの絵もピカソに影響を与えた一つだったのではないかと思います。


マネ(1832-1883)


The Tragic Actor.jpg
エドゥアール・マネ
悲劇役者」(1866)
ハムレットに扮するルビエール
(187cm×108cm)

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で引用した絵です。その主旨は、マネがプラド美術館でベラスケスを見て感動し、そのベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』を踏まえて描いたのがこの作品ということでした。

Masked Ball at the Opera.jpg
エドゥアール・マネ
オペラ座の仮面舞踏会」(1873)
(59cm×73cm)

『悲劇役者』は「黒」を強調した絵でしたが、この絵も強烈に印象づけられるのは黒服の「黒」です。NGAには別に『死せる闘牛士』というマネの絵がありますが、その絵も黒服が眼につきます。一連の「黒」はマネがスペインを旅行したときの影響だと考えられます。

NGAのサイトの解説によると、右から2番目でこちらを向いているブロンドの髪の紳士は画家自身だそうです。また、上の方に足が描かれていますが、これは『フォリー・ベルジェールのバー』(1881/82)を連想させます(No.155「コートールド・コレクション」参照)。

The Railway.jpg
エドゥアール・マネ
鉄道」(1873)
(93cm×112cm)

この絵はマネの有名作品です。サン = ラザール駅を描いたこの絵は、1898年にアメリカのハブマイヤー夫妻がパリの画商のデュラン = リュエルから購入したものです。夫人のルイジーン・ハブマイヤーはメアリー・カサットの友人です。No.86「ドガとメアリー・カサット」に書きましたが、ルイジーンがメアリーの勧めで購入したドガのパステル画が「アメリカ人が初めて購入した印象派絵画」でした。

フィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』という本があります。著者はサザビーズの印象派・近代絵画部門のシニア・ディレクターを勤めた人で、印象派の受容の歴史を "画商" や "オークション" の視点から描いた興味深い本です。この本に、ルイジーン・ハブマイヤーがこの絵を購入した当時のことを回想した発言がのっています。以下に引用してみます。


ルイジーン・ハブマイヤーの回想

なぜ、この絵をほしいと思ったかですって? 子どもの顔がどうしたって見えないような絵を描いたマネを、なぜ許せたかと? かろうじて見えるだけの鉄道の線路や蒸気機関車のエンジンに、なぜお金を払うのかとお聞きになるのね? 子どもはぜんぜん可愛くないし、母親もまったく醜いし ・・・・・・ 仔犬すらも魅力的でないと、おっしゃるんでしょう。そんな絵に、なぜ私たちがこれほどのお金を払うのか、お知りになりたいのね。それだけのお金があれば、ゴージャスなアカデミック絵画も、イギリスの堂々たる肖像画も、あるいは素晴らしいオリエント趣味の絵も買えるでしょうから。

私の答えは、それがアート、アート、アートだから、ということよ。そこにあなたを魅了する力があるの、私たちを魅了すると同じように。作品があなたに語りかける声に耳をすまさなくてはいけないわ。マネが感じている感動にあなたも応えなくては。その感動が彼の心臓を揺さぶり、頭をいっぱいにして、そして彼の感情を揺り動かし、ヴィジョンをとぎすまさせ、カンヴァスに筆をおかさせているのよ。それがアート、アート、アートなのだと、申し上げておきましょうね。

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子どもの両肩にかかるドレスの輪郭線を描いたこの曲線。こんな素晴らしい線をほかにどんな絵で見られるでしょう。それに彼女の金色の髪の上に次第に降り注ぎ、愛らしい首に陰影をつけている光の素晴らしさも。頭の傾き、腕の動き、そしてむっちりした小さな手が鉄柵を押さえつけている様子。画面全体の大気や光が二人の姿を包みこみ、遠くの光景との距離感を生み出しているのをご覧なさいな。そして最後に、どうぞこの色彩を見て! これほど美しく調和に満ちたものを、あなたはご覧になったことがあるかしら?


一見すると奇妙な絵です。"屋外" で "現代" を描くという意味では印象派の絵と似ています。しかし肝心の鉄道はほとんど描かれず、子どもは向こう向き、誰かに気づいて読書を中断したような女性は母親でしょうが、親子はバラバラです。都会における家族、と考えていろいろと画家の意図を推測できると思いますが、そういう "深読み" にあまり意味はないのですね。どういう絵の見方をすべきか、それを語ったのが印象派と同時代のコレクター、ハブマイヤー夫人です。この回想に尽きていると思います。

マネの代表作である『草上の昼食』や『オランピア』はオルセー美術館の至宝ですが、発表当時は大スキャ