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No.327 - 略奪された文化財 [歴史]

No.319「アルマ=タデマが描いた古代世界」で、英国がギリシャから略奪したパルテノン神殿のフリーズの話を書きました。今回はそれに関連した話題です。


エルギン・マーブル


まず始めに No.319 のパルテノン神殿のフリーズの話を復習すると次の通りです。

◆ 1800年、イギリスの外交官、エルギン伯爵がイスタンブールに赴任した。彼はギリシャのパルテノン神殿に魅了された。当時ギリシャはオスマン・トルコ帝国領だったので、エルギン伯はスルタンに譲渡許可を得てフリーズを神殿から削り取り、フリーズ以外の諸彫刻もいっしょに英国へ送った。

◆ 数年後、帰国したエルギン伯はそれらをお披露目する。芸術品は大評判となるが、エルギン伯の評判はさんざんだった。「略奪」と非難されたのだ。非難の急先鋒は "ギリシャ愛" に燃える詩人バイロンで、伯の行為を激しく糾弾した。

◆ 非難の嵐に嫌気のさしたエルギン伯は、1816年、フリーズを含む所蔵品をイギリス政府に売却した。展示場所となった大英博物館はそれらを「エルギン・マーブル(Elgin Marble)」、即ち「エルギン伯の大理石」という名称で公開し、博物館の目玉作品として今に至る。

The Parthenon Frieze(Wikimedia).jpg
パルテノン神殿のフリーズ
- 大英博物館 -
(Wikimedia Commons)

◆ 実は、古代ギリシャ・ローマの彫像や浮彫りは驚くほど極彩色で色づけされていたことが以前から知られていた。わずかながら色が残存していたからだ。大英博物館のフリーズにも彩色の痕跡が残っていた。

◆ オランダ出身でイギリスに帰化した画家・アルマ=タデマは、大英博物館に通い詰め、フリーズの彩色の痕跡を調査し、それをもとに一つの作品を仕上げた。それが「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」(1868)である。

アルマ=タデマ 8:フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ(1868).jpg
ローレンス・アルマ=タデマ
「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」(1868)
(Pheidias and the Frieze of the Parthenon, Athens)
72.0.cm×110.5cm
(バーミンガム市立美術館)

◆ ところが1930年代、大英博物館の関係者が大理石の表面を洗浄し、彩色を落とし、白くしてしまった。彫刻は白くあるべきという、誤った美意識による。このため大理石の本来の着色は二度と再現できなくなった。「エルギン・マーブル事件」と呼ばれる大スキャンダルである。

◆ ギリシャはパルテノン神殿のフリーズを返還するようにイギリスに要求し続けているが、イギリスは拒否したままである。しかたなくギリシャはアテネのアクロポリス博物館にレプリカを展示している。

◆ アルマ=タデマの「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」は、今となってはパルテノン神殿の建設当時の姿を伝える貴重な作品になってしまった。

大英博物館が所蔵する略奪美術品・略奪文化財はエルギン・マーブルだけではありません。エジプト、メソポタミアの文化財の多くがそうです。このエジプト・メソポタミアのコレクションを築いた人物の話が、NHKのドキュメンタリー番組でありました。それを紹介します。


大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション


NHK BSプレミアムで「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」と題するドキュメンタリーのシリーズが放映されています。その2021年11月25日の放送は、

大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション

と題するものでした(2021年11月25日 21:00~21:45)。内容は、大英博物館(British Museum)のエジプト・コレクションに焦点を当て、その収集(略奪)の経緯を追ったものした。以降、番組の概要を紹介します。



大英博物館のエジプト・コレクションは総数が10万点以上で、世界最大級です。ミイラだけでも150点以上あります。このコレクションのうちの4万点を集めたのが、大英博物館の考古学者、ウォーリス・バッジ(Wallis Budge。1857-1934)でした。バッジは大英博物館の歴史上、最も多くの文化遺産を収集した人物と言われています。

彼の収集方法はもちろん違法で、嘘、賄賂、脅しなどで盗掘品を買いあさったものでした。収集品の中で最も貴重なのが "死者の書" の最高傑作といわれる「アニのパピルス」ですが、これもエジプト当局を出し抜き、無許可で英国に持ち出したものです。

1882年、英国はエジプトを占領し、保護国にします。1886年、バッジは29歳でエジプト乗り込みました。彼は 150ポンド(現在の日本円で約300万円の価値)の資金を大英博物館から託されていました。

当時のエジプトでは、1880年5月19日に公布された遺跡や遺物に関する法令で、「エジプト考古学に関わるすべての文化遺産の持ち出しを絶対に禁止する」と決められていました。文化遺産を持ち帰るヨーロッパ人が後を絶たなかったためです。バッジに面会した英国総領事のイブリン・ベアリング(Evelyn Baring)も、エジプトの文化遺産を英国に持って帰らないようバッジにクギをさし、「エジプトの占領が歴史的な遺産を盗む口実になってははらない」と告げました。

しかし、バッジは文化遺産の買い付けに走ります。持ち前の語学力を武器に情報収集を行い、また、古代エジプト文字も読めたバッジは審美眼にもたけていました。そして現地のエジプト人が盗掘した文化遺産を次々と買い漁っていきました。盗掘品と知りながら購入する行為はもちろん違法ですが、盗掘人にもメリットがありました。盗掘品をエジプト当局に見つかると、没収されるか二束三文で買い上げられます。バッジに売る方が儲かります。

バッジはエジプト当局の監視をかいくぐり、イギリス軍と交渉して文化遺産を軍用貨物として英国に送りました。軍用貨物となると誰も検査できません。バッジは英国総領事・ベアリングの指示を全く無視したわけです。この初めてのエジプト行きでバッジは1500点もの文化遺産を持ち帰りました。



1887年、バッジは再びエジプトに向かいます。後に「アニのパピルス」と呼ばれる "死者の書" を手に入れるためです。番組のナレーションを紹介します。


死者の書とは、あの世で必要とされる呪文や祈祷文が書かれた巻物。ミイラとともに埋葬される。古代エジプト人は、人は死んでもあの世で復活できると考えていた。そのための永遠の肉体がミイラである。そして復活に至るまでのさまざまな困難を乗り越える道しるべとなるのが死者の書である。死者の書はミイラとともに古代エジプト人の死生観を今に伝える貴重な学術資料なのだ。中でもバッジが収集した「アニのパピルス」は、美しいさし絵があしらわれ、美術品としての価値も高く、数ある死者の書でも最上級と言われる。

発端はロンドンのバッジに届いた、エジプトの盗掘集団の一味からの手紙だった。手紙には、立派な墓からパピルスでできた巻物がいくつも見つかったと記されていた。エジプト考古局が持ち出す前に早く取りに来てほしいとのことだった。

再びエジプトに降り立ったバッジ。前回の傍若無人な振る舞いから、すでに要注意人物としてマークされていた。

まずはあの因縁の相手、英国総領事のベアリングが使いをよこし、法律で禁じられている文化遺産の国外持ち出しをやめるよう告げてきた。さらには、エジプト考古局長のウジェーヌ・グレボーから呼び出され、違法行為に関しては逮捕・監禁もありうると、厳しい口調で警告された。


しかしバッジは警告を無視します。バッジは到着の数日後、盗掘集団の案内でパピルスの巻物が発見された墓を訪れました。そこにあったのが「アニのパピルス」です。アニという人物に捧げられた死者の書で、完全な状態で残っていました。バッジはそれを墓から持ち出しました。つまり、これまでは盗掘品を買い取っていただけでしたが、ついに盗掘に手を染めたのです。


バッジは自ら足を運び、盗みに加わりました。ついに一線を超えてしまったのです。第三者から購入していただけなら、盗品とは知らなかったと言い逃れもできます。バッジは完全にモラルが崩壊してしまったのです。

歴史家:エイデン・ドッドソン
(Aiden Dodson)

バッジはまたしてもイギリス軍に託しで持ち出すことに成功しました。

たった2度のエジプト行きで盗掘集団とのネットワークを築いたバッッジは、メソポタミアでも同様の手口で文化遺産を収集していきました。

バッジの行為は英国国内でも批判が噴出しました。「大英博物館のために働く無節操なコレクター」と新聞は書きました。バッジ批判の急先鋒はエジプト考古学の父といわれるフリンダーズ・ピートリーでした。彼はバッジを告発する手紙を考古学会に送ります。しかし、大英博物館の理事会メンバーの多くが政府の高官でした。政府はバッジの行為を把握し、承認していたのです。告発はスルーされました。

1894年、バッジは37歳で大英博物館のエジプト・アッシリア部長に昇進し、その後もコレクションを充実させます。そして67歳で退官するまでに、エジプト関連の文化遺産を4万点、メソポタミア関連を5万点収集しました。古代エジプトのミイラも、バッジが在職中に 63点が収集されています。

アニのパピルス.jpg
アニのパピルス
(Wikipedia)

略奪された文化財、美術品を元の国に返還するよう、機運が高まっています。2017年、フランスのマクロン大統領がアフリカのベナン共和国に文化財を返還する方針を発表しました。アメリカの聖書博物館も2021年、エジプトに5000点の文化遺産を返還しました。しかしこのような返還はまだ一握り、ごく一部に過ぎません。たとえば大英国博物館は1753年の創設以来、一切の返還要求に応じていません。



以上が「大英博物館 ─ 世界最大の泥棒コレクション」(NHK BSプレミアム 2021年11月25日)の概要です。大英博物館を訪れると、有名なロゼッタ・ストーンに目を引かれ、巨大なアッシリアの彫像、大量のエジプトのミイラに驚きます。そういった古代文明を知ることは大切な経験ですが、それと同時に英国の略奪の歴史も知っておくべきでしょう。歴史の勉強としては、それもまた重要です。


ルーブル美術館


イギリスだけでなく、フランスのルーブル美術館も略奪美術品で有名です。ここの特色は、19世紀初頭のナポレオン戦争でナポレオンが持ち帰った文化財・美術品があることです。つまり、エジプトのみならずヨーロッパ各国から略奪した美術品がある。特にイタリアです。2021年6月9日の New York Times に、

The masterpieces that Napoleon stole, and how some went back(ナポレオンが略奪した芸術作品と、その一部の返却経緯)

と題するコラム記事が掲載されました。この記事の一部を試訳とともに掲げます。


When Napoleon Bonaparte led his army across the Alps, he ordered the Italian states he had conquered to hand over works of art that were the pride of the peninsula. The Vatican was emptied of the “Laocoön”, a masterpiece of ancient Greek sculpture, and Venice was stripped of Veronese’s painting“The Wedding Feast at Cana”(1563).

【試訳】

ナポレオン・ボナパルトが軍隊を率いてアルプスを越えたとき、彼は征服したイタリアの国々に、半島の誇りである芸術作品を引き渡すように命じた。バチカン市国は古代ギリシャ彫刻の傑作である「ラオコーン」を持ち出され、ヴェネツィアはヴェロネーゼの絵画「カナの婚礼」(1563年)を剥奪された。

New York Times
2021年6月9日

ヴェロネーゼの『カナの婚礼』は、677cm × 994cm という巨大さで、ルーブル美術館の最大の絵画と言われています。この絵はもともとヴェネチアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の食堂に飾られていましたが、ナポレオン軍が剥奪しました。あまりに巨大なので、カンヴァスを水平にいくつかに切断し、それぞれをカーペットを丸めるようにしてフランスに持ち帰り、再び縫合しました。これだけでもカンヴァスの損傷があったと思われます。

ヴェロネーゼ「カナの婚礼」.jpg
ヴェロネーゼ(1528-1588)
「カナの婚礼」(1563)
ルーブル美術館


“Napoleon understood that the French kings used art and architecture to enlarge themselves and build the image of political power, and he did exactly the same”said Cynthia Saltzman, author of‘Plunder’,a history of Napoleon's Italian art theft done, said in an interview.

He stormed about 600 paintings and sculptures from Italy alone, she remarked, adding that he‘wanted to commit himself to these ingenious works’and justify their looting by calling on‘the aims of the Enlightenment’.

【試訳】

「ナポレオンは、フランス歴代の王が芸術と建築を使って自らを誇示し、政治力のイメージを作り上げたことを理解していました。彼はまったく同じことをしたのです」と、ナポレオンによるイタリアの美術品盗難の歴史である「略奪」の著者であるシンシア・サルツマンはインタビューで語った。

サルツマンは、ナポレオンはイタリアだけで約600点の絵画と彫刻を略奪したことを述べた上で、彼は「これらの独創的な作品に献身したい」と思い、「啓蒙の目的」だと広く知らしめることで略奪を正当化したと付け加えた。

New York Times

しかしナポレオンは結局のところ "敗北" し、戦後処理の中で略奪美術品も返却されます。「ラオコーン」もその一つです。しかし返却されたのは全部ではありませんでした。


About half of the Italian paintings Napoleon took were returned, Saltzman said. The other half stayed in France, including ‘The Wedding Feast at Cana’.

【試訳】

「ナポレオンが奪ったイタリアの絵画の約半分は返還されました」とサルツマンは言う。「残り半分は『カナの婚礼』を含めてフランスに留め置かれました」と。

New York Times


Why were the others not returned ? Many were scattered in museums across the country, and French officials resisted giving them back. Each former occupied state had to submit a separate request to return their artwork, which made the process even more complicated, Saltzman said.

【試訳】

なぜ他の作品は戻らなかったのか? 「その多くは全国の美術館に散らばっていて、フランス当局は返却に抵抗しました。かつて占領されていたイタリアの各国は、作品の返却のためには個別の要求を提出する必要があり、プロセスがかなり複雑になりました」とサルツマンは述べている。

New York Times

ナポレオンの強奪美術品がルーブル美術館でだけでなくフランス各地に分散されたのは、返還交渉を難しくするためと言われています。


Although many were returned, the Napoleonic looting left a bitter aftertaste that continues to this day. Italians still refer to “i furti napoleonici” (“the Napoleonic thefts”).

【試訳】

多くが返還されたものの、ナポレオンの略奪は今日まで続く苦い後味を残している。イタリア人は今でも「i furti napoleonici」(「ナポレオンの盗難」)と呼んでいる。

New York Times

話は変わりますが、以前、イタリア対フランスのサッカーのナショナルチームの試合があり、イタリアが勝った時の様子を特派員がレポートしたテレビ番組を見たことがあります。何の試合かは忘れました。ワールドカップのヨーロッパ予選だったか、ヨーロッパ国別選手権だったか、とにかく重要な試合です。これにイタリアが勝ったときの北イタリアの都市(ミラノだったと思います)の街の様子が放映されました。街頭に繰り出した人々が口々に叫んでいたのは、

「 フランスには勝った。次はモナ・リザを取り戻すぞ!」

というものです。良く知られているように、ダ・ヴィンチは最後の庇護者であるフランスのフランソワ1世のもとで亡くなったので、手元にあったモナ・リザがフランスに残されました。ダ・ヴィンチの遺品の "正式の" 相続権者が誰かという問題はあると思いますが、少なくともモナ・リザはフランスが強奪したものではありません。

しかし、フランスに勝ったことで熱狂し街頭に繰り出したイタリアの人々は「次はモナ・リザを取り戻すぞ!」なのですね。テレビを見たときにはその理由がわかりませんでした。しかしイタリアの美術品がフランスに強奪された歴史を知ると、あのような人々の叫びもわかるのです。



イタリアだけではありません。スペインやポルトガルに団体で旅行に行くと、現地のガイドさんが各種の文化遺産(教会、修道院、宮殿など)を案内してくれます。そこでは「ナポレオンにはひどい目にあった」という意味の解説がよくあります。

ポルトガルの世界遺産になっているある修道院に行ったとき、教会に安置されたポルトガル王族の棺があって、その大理石のレリーフがごっそりとはぎ取られているのを見たことがあります。ガイドさんによるとナポレオン軍が持っていったとのことでした。もちろん現在は行方不明です。ルーブル美術館の『カナの婚礼』とは違って、全く無名の職人の無名の作品です。こういった例がたくさんあるのだと想像できます。



略奪文化財・美術品ということで、イギリスとフランスの例を取り上げましたが、19世紀から20世紀にかけて植民地や保護領をもった国や、外国に出て行って戦争をして勝った国には、美術品強奪の歴史があります。ドイツもそうですが、日本も朝鮮半島を併合した歴史があります(1910-1945)。1965年の日韓基本条約には、韓国から日本に持ち込まれた美術品の返却が盛り込まれました。このあたりは、Wikipediaの「朝鮮半島から流出した文化財の返還問題」に詳しい解説があります。


仏の略奪美術品、ベナンに返却へ


はじめの方に紹介した「大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション」(NHK BSプレミアム。2021年11月25日 21:00~21:45)で、

2017年、フランスのマクロン大統領がアフリカのベナン共和国に文化財を返還する方針を発表

とありました。この話が具体的に進み出しました。パリのケ・ブランリ美術館が所蔵するアフリカ美術・26点の返還です。2021年10月末の新聞報道を引用します。


朝日新聞
2021年10月29日

仏の略奪美術品、ベナンに返却へ
 植民地支配の「戦利品」
 像・玉座など26点

フランスのマクロン大統領は27日、植民地だった西アフリカのベナンから129年前に戦利品として略奪した26点の美術品を来月に返還すると明らかにした。フランスの美術館は9万点ものアフリカの作品を所蔵し、半数以上は植民地時代に奪ったものとされる。マクロン氏は今後も一部を返還していく考えを示したが、背景にアフリカとの関係を改善したい思惑がある。

今回返還されるのは、フランスが1892年、当時のダホメ王国を侵略した際に、戦利品として持ち去った王を象徴する像や王宮の扉、玉座などが対象だ。アフリカやアジアをはじめ世界各地の「原始美術」を展示するパリのケ・ブランリ美術館に所蔵され、月末まで特別展示されている。

マクロン氏は27日に同館で作品を鑑賞した後、「作品がかつて去った大地に戻り、アフリカの若者が自国の遺産に再び触れられるようになる」と演説した。

ベナンは以前から美術品の返却を求め、マクロン氏は2017年に西アフリカのブルキナファソを訪問した際、フランスにあるアフリカの文化財返却に踏み切る考えを表明。国の財産を譲渡できるようにするための法整備を進めてきた。

27日にケ・ブランリ美術館を訪れたバンサン・シブさん(70)は1970年代後半、綿花栽培のボランティアとしてベナンに滞在。「王宮跡を訪ねたことがあったが、がらんどうだった。返還すべき作品だ。アフリカの若者は、こうした優れた作品が自国にあったと知らないまま育ってしまっていたのだから」と語った。

アフリカと関係改善狙う

マクロン氏の狙いは、アフリカとの関係改善にある。文化財の返却を対等な関係の象徴と位置づけることで、反仏感情を取り除きたい考えだ。アフリカ系移民を多く抱える国内にとって大事な問題でもある。

マクロン氏は27日、「我々の視点を脱中心化し、フランス、アフリカ双方の互いの見方を変える」必要があると語り、アフリカの立場に立つ意義を訴えた。

ただ、国内の美術館にはこうした収奪品が推計4万6千点以上所蔵されている。マクロン氏は「すべての作品を手放すわけではない」とも語り、返すべきものの選び方や方法を近く法律で定める考えを示した。


Africa-Benin.jpg
ベナン

ダホメ王国1.jpg
ダホメ王国(現・ベナン)の王様などをかたどった木像

ダホメ王国2.jpg
玉座

ダホメ王国3.jpg
王宮からフランスに持ち帰られ、展示されている扉
いずれも2021年10月27日、パリのケ・ブランリ美術館、疋田多揚 撮影

こういった文化財は "民族の誇り" であり、民族の歴史を知り、民族のアイデンティティーの確立に重要でしょう。それは国家としての一体感を醸成するのに役立ちます。しかし記事にあるように現・ベナンの若者は、こういった文化遺産を全く知らずに育ってしまったわけです。文化財の略奪は単にモノの所在が移動しただけではありません。民族を破壊する行為である。そう感じます。さらに記事では、略奪美術品の一般状況についての解説がありました。


欧州の美術館や博物館は過去の他国支配と少なからず結びついており、ナポレオンは支配下のイタリアから絵画や彫刻を収奪。絵画の半数はルーブルなど仏の美術館に残るとされる。エジプトは、大英博物館が所蔵する象形文字の石碑ロゼッタストーンの返還を求めているが、応じていない。

ベルリン工科大学のベネディクト・サボワ教授(美術史)は「アフリカの国々は、(独立を遂げた)1960年代からずっと旧宗主国に返還を求めてきたが、ことごとく拒まれてきただけに、今回の返却は大きな意味がある」と評価する。

そのうえで「フランスの美術館の起源には、戦争の暴力や植民地支配といった権力の非対称性がつきまとっている。美術館は、数々の傑作のこうした背景についての説明を意図的に避けており、本当の情報を知らされていない来館者は(理解を妨げられた)被害者でもある」と指摘した。(パリ=疋田多揚、ローマ=大室一也)


最後の一文が痛烈ですね(ちなみにサボワ教授はフランス人です)。我々は "本当のことを知らされていない被害者" にならないようにしたいものです。


ピカソ


ところで記事にあったように、マクロン大統領はパリのケ・ブランリ美術館に所蔵されている美術品、26点をベナン(旧・ダホメ王国)に返却することを表明しました。このケ・ブランリ美術館とは、セーヌ河のほとりにある美術館で(2006年開館)、アフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカの固有文化の文化遺産、美術品が展示されています。

ここの収蔵品の多くは1937年設立の人類博物館の所蔵品であり、その人類博物館の前身は1882年に設立されたトロカデロ民族誌博物館です。そして1907年頃、そのトロカデロ民族誌博物館を訪れたアーティストがいます。ピカソです。

ピカソの作品を年代順に分類すると、1907年~1909年は「アフリカ彫刻の時代」と呼ばれていて、アフリカ固有文化の彫刻の影響が顕著です。有名な例で『アヴィニョンの女たち』の右2人の女性の表現です。

Les Demoiselles d'Avignon.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
「アヴィニョンの女たち」(1907)
ニューヨーク近代美術館

ピカソだけでなく、マティスやモディリアーニにもアフリカ彫刻の影響が見られます。次の画像はバーンズ・コレクション(No.95 参照)の "Room 22 South Wall" ですが、ピカソとモディリアーニとアフリカ彫刻が展示されています。アルバート・バーンズ博士(1872-1951)はピカソやモディリアーニと同時代人です。20世紀初頭のパリのアーティストたちがアフリカ彫刻からインスピレーションを得たことを実感していたのでしょう。

Barnes Collection Room 22 South Wall.jpg
バーンズ・コレクション
Room 22 South Wall
アフリカの彫刻とモディリアーニとピカソが展示されている。モディリアーニは「白い服の婦人」と「横向きに座るジャンヌ・エビュテルヌ」、その内側にピカソがあって「女の頭部」と「男の頭部」である(下図)。アフリカの彫刻(仮面、立像)とこれらの類似性を示している。

Pablo Picasso - Barnes.jpg
ピカソの「女の頭部」(左)と「男の頭部」(右)
(バーンズ・コレクション)

Portrait Mask(Bearded Man).jpg
Female Figure1.jpg
展示されている彫刻のうちの2つの仮面と、2つの立像。
(バーンズ・コレクション)

ピカソ作品と旧・ダホメ王国の文化財が直接の関係を持っているというわけではありません。ただ当時は、アフリカの文化財が "略奪" や "正規の購入" も含めて大量にパリに運ばれ、美術館に展示されていた。この環境がピカソの一連の作品(を始めとする芸術作品)を生み出したわけです。我々はピカソの「アフリカ彫刻の時代」の作品を鑑賞するとき、なぜこのような作品が生まれたのかの歴史を思い出すべきなのだと思います。




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No.326 - 統計データの落とし穴 [科学]

個人や社会における意志決定においては「確かな数値データにもとづく判断」が重要なことは言うまでもありません。しかしデータの質が悪かったり判断に誤りが忍び込むことで、正しい議論や決定や行動ができないことが往々にしてあります。「誤ったデータ、誤った解釈」というわけです。このブログでは何回か記事を書きました。分類してまとめると次の通りです。

 社会調査における欺瞞 

No.81「2人に1人が買春」
No.83「社会調査のウソ(1)」
No.84「社会調査のウソ(2)」

アンケートやデータ収集による社会調査には、データの信頼度が無かったり、解釈が誤っている事例が多々あります。一例として、回収率が低いアンケート(たとえば30%以下)は全く信用できません。

 "食" に関する誤り 

No. 92「コーヒーは健康に悪い?」
No.290「科学が暴く "食べてはいけない" の嘘」

"食" に関する言説には、根拠となる確かなデータ(=エビデンス)がないものが多い。「・・・・・・ が健康に良い」と「・・・・・・ は健康に悪い」の2つのパターンがありますが、その「健康に悪い」に誤りが多いことを指摘したのが、No.92、No.290 でした。

 相関関係は因果関係ではない 

No.223「因果関係を見極める」

データの解釈に関する典型的な誤りは「相関関係」を「因果関係」と誤解するものです。これは No.83、No.84 でもありました。No.223 はその誤りの実例とともに、因果関係(= 原因と結果がリンクする関係)を正しくとらえるデータ収集と分析の手法の説明でした。

 評価指標とスコア 

No.240「破壊兵器としての数学」
No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」
No.250「データ階層社会の到来」

各種の数値データを数学モデルや AI技術によって分析し、人や組織の評価指標やスコアを作成し、それにもとづいてランキングをしたり分類したりする動きが世界で急速に広まっています。これには、一方的なモノの味方を強要する危うさや、人々の平等や自由を損なう側面があり、このことは十分に認識しておく必要があります。

 思考をまどわすデータ 

No.296「まどわされない思考」

No.296 は、我々の思考やモノの考え方を惑わす様々な要因を述べたものでしたが(その一例は "陰謀論")、要因の一つがデータの誤った解釈でした。



今回は以上のような「誤ったデータ、誤った解釈」の続きで、2021年に出版された本(の一部)を紹介したいと思います。

ピーター・シュライバー 著
土屋 隆裕 監訳 佐藤 聡 訳
「統計データの落とし穴」
── その数字は真実を語るのか? ──
(ニュートンプレス 2021.8.10)

です。原題は "Bad Data" で、その名の通り真実を語るにはふさわしくない「悪いデータ、バッド・データ」を様々な視点から述べたものです。

統計データの落とし穴.jpg


統計データの落とし穴


著者のピーター・シュライバーは、カナダのカルガリー市の都市計画官で、つまり都市計画の専門家です。訳書に記載された紹介によると「評価指標に起因する過りを見いだすことに力をそそぎ、さまざまな測定行為とそこから得られる教訓の間に、より有意義な関係性を築こうとしている」そうです。本書は10章からなっていて、その概要は次のとおりです。



第1章 特別試験対策
評価指標に対する過度な崇拝が有害な事象を生み出すことがある(学校の共通試験の例)。

第2章 努力と成果
インプット、アウトプット、アウトカム(成果)を間違って測定すると、努力しても身を結ばないことがある。

第3章 不確実な未来
評価指標が、短期的な活動と長期的な活動の優先順位を歪めることがある。

第4章 分母と分子
我々は往々にして、分母(~ あたり)を無視したり、誤用したりする傾向にある。

第5章 木を見て森を見ず
複雑な全体の一部だけを測定して判断することの危険性。

第6章 リンゴとオレンジ
異なる性格のものを単一の測定値でまとめるという欺瞞が横行している。

第7章 数えられるものすべてが大事なわけではない
多くの組織で測定が自己目的化し、組織本来の目的が数字ゲームの中で失われている。

第8章 大事なものがすべて数えられるわけではない
評価指標が人々を動機付け、変化を促すことはあるが、評価指標が不適切に使われると意欲をそいで逆の結果をもたらす。

第9章 評価と選択
単純性・客観性・確実性・信頼性への願望が評価指標を使う目的だが、その願望が評価指標の本来の目的を損なうことがある。

第10章 終わりではなく始まり
評価指標を見直すことで、効果的に方針転換ができた学習塾の実例。



以上のように、本書全体を貫くキーワードは「評価指標」であり、このブログの過去の記事では「評価指標とスコア」(No.240「破壊兵器としての数学」No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」No.250「データ階層社会の到来」)のジャンルに属するものと言えるでしょう。以上の中から、今回は第4章「分母と分子」と、第5章「木を見て森を見ず」の中から数個の話題を紹介したいと思います。


都市の交通渋滞


著者のシュライバーは都市計画の専門家ですが、都市の交通渋滞は都市計画と密接に関係する問題です。その "交通渋滞の評価指標" の部分を紹介します。車通勤が前提となっている北米の都市の例であり、日本にそのままマッチするわけではありませんが、評価指標の誤った使い方の例として見ればよいと思います。


バンククーバーは、カナダどころか、おそらく北米で最悪の交通渋滞をかかえている。2016年3月上旬、そうしたニュースがバンクーバーの各地元メディアの見出しを飾った。Huffington Post の見出しは「バンクーバー、国内最悪の交通渋滞」だった。翌年も状況は変わらなかった。2017年、CTVは、バンクーバーの交通事情が 100都市中いかにしてよいほうから71番目となったかを示す記事を掲載した。2018年も同様だった。「バンクーバー、世界渋滞ランキングで上位から脱出」というのは、2018年2月6日付けの CityNews の見出しだ。もう十分だろう。

毎年同じ話が繰り返された。2013年、通勤に30分をかけるバンクーバ都市部の平均的な市民は、渋滞のせいで1年に93時間を無駄にした。バンクーバーのラッシュ時の平均通勤所要時間は、流れのよいときに比べて36%延びるといわれていた。バンクーバーは明らかに北米で「最悪」の交通渋滞を抱えていたのである。

ピーター・シュライバー
「統計データの落とし穴」
(ニュートンプレス 2021)

「ラッシュ時の平均通勤所要時間は、流れのよいときに比べて36%延びる」とあります。これが交通渋滞を調査する専門会社のデータにもとづくものです。こういったデータはバンクーバーのみならず、北米の各都市に関してメディアで公表され、解決策の議論がさんざんに行われてきました。しかし著者はこれに異論を唱えています。


何が起きているかを本当に理解している者はほとんどいない。バンクーバーは、過去数十年で市民の平均通勤所用時間を減らすことに成功した少ない北米の主要都市である。バンクーバーでは、市中心部の成長を促し、職住近接を可能とし、便利で効率的な交通システムに投資することで、平均通勤所用時間の短縮に成功したのだ。それなのに報道は、バンクーバーが北米で最も渋滞のひどい都市だと主張し続ける。平均通勤所用時間を減らした都市が、どうして北米大陸で交通渋滞が最悪の都市だとみなされているのだろうか?

「同上」

調査会社が発表する交通渋滞の評価指標は「所要時間指標(TTI)」で、これはラッシュアワー(通勤ピーク時間帯)と、渋滞なしの時の所要時間の比率です。渋滞なしの時の所要時間が 20分で、ラッシュアワーのときの所要時間が 40分だとすると、TTI = 2.0 ということになります。調査会社はこれをカーナビ搭載車からのデータなどで計算します。しかし、この TTI という評価指標が問題なのです。オレゴン州のポートランドの例です。


オレゴン州のポートランドもバンクーバー同様、TTIの観点からは悪く見える。ポートランドのTTIは、1982年から2007年にかけて1.07から1.29に悪化した(通勤所要時間に占める渋滞時間の割合が7%から29%に増えたことになる)。しかし、この期間のポートランドの平均通勤所要時間は、優れた都市計画と交通政策のおけげで、1日あたり54分から43分に減少していた。平均通勤距離が32kmから26kmに減ったのが主な理由だ(職場近くに住む人が増え、平均通勤距離が短くなった)。

「同上」

なぜこうなるのか。著者はバンクーバーに住むモニカとリチャードという2人の(仮想の)人物で説明しています。まず前提として、

◆ モニカもリチャードも、都市の中心部にある同じ会社に勤務しており、車で通勤をしている。

◆ モニカの家は、会社から車で10分のところにある。

◆ リチャードの家は会社から40分の郊外にある。彼は通勤途中でモニカの家のそばを通り(そこまで30分かかる)、それ以降はモニカと同じルートで会社に行く(10分)。

渋滞が全くないとすると、通勤時間は モニカ=10分、リチャード=40分です。これがラッシュアワー時に次のようになったとします。

◆ ラッシュアワー時のモニカの通勤時間は20分になる。

◆ ラッシュアワー時のリチャードの通勤時間は60分になる。つまりモニカの家まで 40分、そこから会社まで20分である。

これから TTI を計算すると、

モニカ = 2.0
リチャード = 1.5

となります。TTI を評価指標とし、TTIが小さい方が良いとすると、モニカよりリチャードが良いという結果になります。しかしこれは変です。つまり、通勤時間が長いほどTTIが良いという結果になるからです。しかも、渋滞による遅延時間(損失時間)は、モニカが 10分に対して リチャードは 20分です。TTI が少ない方が損失時間が多いという結果になる。

都市の TTI は、モニカとリチャードのような個人の TTI の総合です。つまりラッシュアワー時の所要時間の総体と、渋滞なしの時の所要時間の総体の比率です。しかしこれでは、

◆ 都市計画が優れていて、職住近接が可能である都市ほど TTI が増える(悪い)。

◆ ほとんどの人が郊外に住んで車通勤をしている都市の TTI は小さい(良い)。

ことになります。TTI という評価指標は、まさに "バッド・データ" なのです。そうなる原因は "分母" にあります。TTI の計算式の分母は「渋滞がない場合の所要時間」です。つまり所要時間が長ければ長いほど TTI値は良くなるのです。

著者は「渋滞のよりよい評価方法は、単純に各都市の平均通勤時間を示すことだろう」と言っています。こうなると渋滞だけでなく通勤時間の大小にも影響されます。つまり渋滞が少なく、通勤時間の短い住民が多いほど有利になる。しかし都市計画の視点では、これが妥当なのでしょう。


ニューヨークは歩行者にとって危険か?


TTI でみられるように、評価指標をみるときには分母に注意する必要があります。著書は次に「ニューヨークは歩行者にとって危険か?」というテーマで書いています。


ニューヨーク市は、歩行者にとって危険な場所のように思われる。ビッグアップルという愛称で知られるこの町では、平均して3日に1人、歩行者が死亡する。アメリカ運輸省道路交通安全局によれば、2012年、ニューヨーク市はアメリカの人口50万人以上の都市で歩行者の志望者数が最も多かった。その年、127人の歩行者が死亡したニューヨークは、ロサンゼルス(99人)、シカゴ(47人)、サンフランシスコ(14人)や、車への依存度が高いヒューストン(46人)、フェニックス(39人)を上回った。

しかも、ニューヨークが各都市のなかで最悪だったのは、死亡した歩行者の総数だけではない。交通事故による死者全体のうち、歩行者の占める割合が最も高いのだ。交通事故死全体を見ると、ニューヨークの歩行者はほかの都市の歩行者より、衝突事故の犠牲になる可能性が遙かに高い。すべての交通事故死に歩行者が占める割合は、全米平均が 14% なのに対し、ニューヨークでは 47% だ。

「同上」

以上のデータをもって「ニューヨークは歩行者にとって最も危険」だとは言えないことは、すぐに分かります。つまり人口が違うからです。ニューヨークは人口が多い。従って歩行者の死亡事故数も多くなります。人口10万人あたりの歩行者の死亡者数を計算してみると、ニューヨークは全米平均とほぼ同じです。

しかし「人口10万人あたり」を分母にしても、真実は見えないのです。それは、歩行者の数が違うからです。


ニューヨークの人口10万人あたりの歩行者の死亡者数は全米平均とだいたい同じだが、この都市にはアメリカのほとんどの都市よりはるかに多くの歩行者(と自転車)が存在するのだ。実際、その数は信じられないほど多い。

約10% の人が徒歩で通勤するニューヨークは、徒歩通勤者の占める割合がアメリカで最も高い都市の一つである(ニューヨークより高いのは 14% のボストンと 11% のワシントン D.C. だけだ)。公共交通機関の利用者数(ほとんどの公共交通機関の移動は歩行で始まり歩行で終わる)を加えれば、ニューヨークの歩行者や公共交通機関の利用者の割合は 65% で首位に躍り出る(ボストンは 49%、ワシントン D.C. は 48%)。

「同上」

本書によると「徒歩通勤 100万回あたり車に引かれて死亡する歩行者数」は、

ニューヨーク 1.5人
ロサンゼルス 5.2人

です。著者は「ニューヨークは歩行者にとってアメリカで最も安全な場所の一つ」と書いています。


病気の広がりを示す指標


今までの2つは "分母" の問題でしたが、今度は "分子" の問題です。人口に対する疾病の影響度合いを示すのに3つの指標があります。有病率、罹患率、死亡率の3つです。いずれも一定の人口を "分母" とするもので、たとえば "人口 10万人あたり" です(以下の説明ではそうしました)。特定の病気A について、3つの指標の意味は次の通りです。

有病率

ある時点で、病気A にかかっている人の割合(人口10万人あたりの数)。治癒するまでに長期間かかる病気、ないしは治らない病気では有意義な指標です。

罹患率

ある一定期間で、病気A にかかった人の割合(人口10万人あたりの数)。たとえばインフルエンザは特効薬があるので、発病から1週間程度で治癒するのが普通です。従って「有病率」より、ある一定期間(1年とすることが多い)でインフルエンザにかかった人の数 = 罹患率が実態を正しく伝えます。

死亡率

ある一定期間で、病気A で死亡した人の割合(人口10万人あたりの数)。これは致死率とは違います。致死率は「病気A にかかった人が死亡する割合」です。たとえば「エボラ出血熱の致死率は 80%~90%」というように使います。「エボラ出血熱の死亡率は 80%~90%」という言い方は間違いです。

この3つの指標はいずれも「少ない方が良い」指標です。しかし著者は、ある指標の減少が別の指標の増大につながることがあることを指摘しています。


たとえば、マラリア患者を延命する治療法が発見されたとする。そうした改善は、罹患率が一定であれば有病率を高める可能性がある。マラリアにかかった患者がすぐに死亡しないということは、長生きするということだ。長生きすれば、どの年にもマラリア患者として計上される人が増える。したがって病気の有病率は増加する。有病率は、実際には病気の影響が減っているのに、気の滅入る話を伝えるのだ。

逆に、罹患するとすぐ死亡してしまう病気の場合、有病率は減少する。病気を抱えて何年も生き永らえる人はめったにいない。病気にかかっている人が減ったからではなく、人々が早く死亡するために有病率が減る場合もあるわけだ。ある病気にかかっている人の数が以前より減ったことを祝う記事は、実はよい知らせではない可能性がある。患者の多くが死にかけているかもしれないのだ。

「同上」


フード・マイルズ


ここからは、第5章「木を見て森を見ず」で取り上げられたテーマです。フード・マイルズ(Food Miles)は、日本ではフード・マイレージ(Food Mileage)と呼ばれているものです。これは食料の生産地と消費地の距離であり、フード・マイルズがなるべく小さいものを食べよう、簡単に言うと "地産地消" をしようという運動のことを言います。


地元の食材を食べるという近年のトレンドは、アンジェラ・パクストンの『フードマイルズ・レポート:食料の長距離輸送の危険性』という1994年の論文に端を発している。この論文は、食品が私たちの食卓に並ぶまでにどのように運ばれるかを初めて考察したものの一つだ。このレポートでは、現代の食料システムについて、当時から今日まで多くの人々を驚かせるような側面が浮き彫りにされている。

そこでは、食料システムに関する多くの懸念が議論されているが、その中心は、レポートの題からわかるように、食品が食卓にのぼるまでに移動する距離の影響である。2011年に再版された論文では、論文の主旨が的確に要約されている。「市民は、食料が意味もなく地球を横断し、貴重なエネルギーを消費し、汚染を引き起こし、不公平な貿易を導き、田舎から仕事を奪うことを望んでいない」

「同上」

食文化にとって移動距離以上に重要な問題があります。土壌浸食や公正な労働条件と賃金、化学肥料への依存度、農薬による環境汚染などです。フード・マイルズという概念は食料の輸送に焦点をあて、エネルギー消費や環境汚染を問題にします。地産地消の運動には何の問題もありませんが、そこに "距離" という数値を持ち込むことは正しいのでしょうか。それが持続可能性の指標になるのでしょうか。著者は花の例で説明しています。


一例として、バレンタインデーのためにイギリス人が恋人のために買う花の二つの原産国を比較してみよう。オランダとケニアだ。より環境に優しいのは明らかにオランダの方だと思われる。オランダからイギリスに花を運ぶには、イギリス海峡を船で渡るだけのごく短い移動しか必要ない。ケニヤからの移動は短くもなく、エネルギー効率もよくない。花は飛行機で空輸されるからだ。

ところが、1万2000本の花を育て、輸送することで排出される二酸化炭素の総量を詳細に計算すると(計算方法は後述する)、オランダの花が3万5000kg(花1本あたり3kg弱)の二酸化炭素を排出するのに対し、ケニアの花はたった 6000kg(花1本あたり0.5kg)の二酸化炭素しか排出しないことがわかる。予想と大きく異なるのはどうしてだろう?

「同上」

エネルギー効率のよい船便で短距離を運ぶ方が、エネルギー効率の悪い飛行機で長距離を運ぶより二酸化炭素の排出量が少ないはずです。にもかかわらす、環境負荷はケニヤの花の方が少ない。


ケニアの花はなぜ、必要なエネルギーがオランダの花より大幅に少ないのだろうか。なぜ、ナイロビからロンドンに空輸するために排出される大量の二酸化炭素を相殺できるのだろう? その理由は、花を育てるのに、オランダ人が温室に頼っているのに対して、ケニヤ人は日光に頼っているからである。

「同上」

食料システムのエネルギー消費の全体は、

・ 原材料の生産(肥料、種、水、農薬など)
・ 食料生産(ガソリン、灯油、電気など)
・ 輸送
・ 消費(調理、他の原材料)
・ 破棄(リサイクル、焼却、そのための輸送)

に必要なエネルギーの合算です。フード・マイルズがこの中の "輸送" に焦点を当てていますが、輸送は全体の一部なのです。


アメリカの場合、輸送で排出される二酸化炭素は食料関連全体の約4% だ。エネルギー消費と排出量の大部分は、全プロセスのうちの生産段階で発生しており、全体の 83% に達する。

「同上」

さらに、輸送を問題にするときには、エネルギー消費が輸送手段によって全く違うことに注意が必要です。輸送による二酸化炭素排出量(トン・キロメートルあたり)は、

外航コンテナ船 10~15g
鉄道 19~41g
トラック 51~91g
飛行機 673~867g

です。特に、外航コンテナ船 =船による長距離輸送は環境効率が非常に良い。たとえば、ヨーロッパからワインを日本に輸送するとき、船便(これが普通)と航空便("新酒" をウリにする一部のワイン)では二酸化炭素排出量が50倍以上違います。


ガラス瓶とペットボトル


コカコーラは従来、有名なガラス瓶のボトルかスチールの缶で販売されていましたが、1960年代末からプラスチック・ボトルの研究を始めました。この研究は当時「資源・環境プロファイル分析(REPA)」と呼ばれたもので、飲料容器を生産するためのインプット(エネルギー、原材料、水、輸送エネルギー)とアウトプット(大気排出物、輸送時の廃液、固形廃棄物、水性廃棄物)全般にわたって、包括的に必要な資源と環境への影響を検討するものでした。この研究はその後、米国の環境保護庁(EPA)に引き継がれ、EPAは次の結論に達しました。


EPAの研究の結論は、全体像を見た場合、プラスチック性飲料容器は多くの人が考えていたような悪者ではないというものだった。コカ・コーラも同じ結論に達した。研究完了直後、コカ・コーラは最初の飲料用ペットボトルを世界に向けて投入した。

最近の研究でも同様の結論が得られている。ペットボトルはガラス瓶のように再利用できないかもしれないが、ガラス瓶は生産に大量のエネルギーを必要とするので、再利用できるという長所が相殺されてしまうのだ。

このチームの研究で際だっていたのは、コカ・コーラの瓶1本のインパクトに関する包括的な全体像を解明しようとした点である。飲料容器がどのように破棄され、飲料容器の生産にどれだけのエネルギーが投入されたかに注目しただけではない。瓶を構成する原材料そのものをつくるのに、どれだけのエネルギーが投入されたかにも焦点を当てた。瓶がどのように処分されたかも調べた。瓶の原材料すべてについて、採取、輸送、生産に関わるエネルギーを解明したのである。取り残されたものは何一つなかった。

「同上」

コカコーラとEPAが行った研究は、現在 LCA(ライフサイクル・アセスメント)と呼ばれている分析手法です。LCAでは「瓶を作るガラスの単位重量を作るためにどれだけのエネルギーが必要か」というような "原単位" が調査にもとづいて設定されていて、比較的容易にライフサイクルのエネルギー使用量が計算できるようになっています。



飲料の容器については、カフェで使うコーヒーカップのことが本書にありました。つまり、

・使い捨ての紙カップ
・陶磁器のマグカップ

のどちらが環境に優しいかという比較です。本書によると、

50回以上洗浄して使うと、陶磁器のマグカップの方が環境に優しくなる。ただし洗浄には食洗機を使うのが条件である(使用水量が少ないから)。マグカップを手で洗うと、再利用できるという利点はなくなってしまう

そうです。この文脈における「環境に優しい」の定義が明確ではありませんが、二酸化炭素排出量のことだとすると、水道水には「浄水場で水道水を作る」「水道管のネットワークを維持する」「下水処理をする」の各段階でポンプをはじめとするエネルギーが必要です。これと紙カップ・マグカップを製作・破棄するエネルギーのバランスの問題を言っています。


数値データの落とし穴


我々は数値データを見せられると "わかった気" になります。また評価指標を提示されると、比較ができるため余計にわかった気になる。しかしそこに落とし穴があります。本書はその落とし穴、著者の言葉でいうと "バッド・データ" をさまざまな視点から指摘し、かつ、落とし穴にはまらないためのアドバイスを記しています。

AI が火付け役となって、"データ・サイエンス" が企業や大学で大きく取り上げられています。しかし、いくら精緻な手法でデータの分析をしても、バッド・データを分析したり、目的にはそぐわない指標だったりでは意味がありません。手法より以前の「データを扱うリテラシー」が重要です。そのことを本書は教えているのでした。




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