No.60 - 電子書籍と本の情報化 [技術]
No.59「電子書籍と再販制度の精神」に引き続き、電子書籍についてです。今回は電子書籍の本質とは何か、そこから何が言えるかを書いてみたいと思います。現在市販されている電子書籍・リーダー(ソニー・リーダー、アマゾン・キンドル、など)を見ると「電子書籍は従来の紙の代わりに電子機器を用いた書籍である」と考えてしまいます。しかし本質はそうではないと思います。
電子書籍は「本の情報化」
端的に言うと電子書籍は本を「情報化」したものです。紙というハードウェアに書かれている書籍の内容、その情報だけをハードウェアとは分離し、独立させたものです。
特定の時間に特定の場所にあるのがハードウェアです。しかし情報はハードウェアとは遊離した抽象的な存在です。時間と場所に依存しないのが情報であり、時間を越えて存在するし、場所を越えることも容易です。
パソコンにダウンロードした電子書籍はハードディスクなりメモリなりに書き込まれますが、書き込まれているというその状態は「情報の仮の姿」であって、情報の本質ではありません。それはCDが「音楽情報の仮の姿」であるのと全く同じです。CDはプラスチックの微細な凹凸構造で情報を表現していますが、その構造は情報の表現形態の1つの例に過ぎません。ハードウェアとしての別の表現形態もいっぱいある。
この「特定のハードウェアとは遊離している情報」が、書籍を大きく変えるでしょう。それが電子書籍のもたらす革命の根幹です。No.55「ウォークマン(2)ソニーへの期待」で、CDは音楽の情報化であることに触れ、
と書きました。この言い方は、そっくりそのまま電子書籍に当てはめることができます。つまり、
というわけです。では何が起こるのか、それを考えてみるのが以下の目的です。まず考える前提として「情報」の重要な性格を何点かあげてみたいと思います。
「情報」の非常に重要な特徴は「不変」ということです。この世界で、ほとんど唯一の変わらないものが情報だと言えるでしょう。
ハードウェアは変化します。CDは一見変化しないように見えますが、数10年の時の経過を過ぎるとプラスチックが変質・変形していって情報が読み取れなくなるでしょう。むろん外部からの力が加わると破壊されます。人間を含む生命が変化するのはあたりまえですが、ハードウェアも短期・長期に変化します。不変なハードウェアというものはありません。
しかしハードウェアから遊離した「情報」という抽象的な存在は不変です。CDが読み取れなくなるなら、そこに刻印された情報を別の媒体に移し変えればよい。ハードウェアとしての形態は全く違っても「情報としては同じ」です。そういう意味で不変なのです。情報以外で「不変なもの」は、この世の中であまり思いつきません。宇宙で普遍的に成り立つ物理法則はその例でしょうか。
情報が不変であるということは、持続的・永久的にその情報の保存ができ、それに人間がアクセスすることが可能だということです。劣化することなく、持続的にアクセス可能である・・・・・・。これは情報の大きな特徴です。
情報の不変性は人間の心理に大きな影響を与えるはずです。書籍には「新刊」「旧刊」「古書」があり、これらは出版された年が新しいか古いかを言っています。しかし我々が本の新旧について暗黙に抱いている見方は、単に出版年の新旧だけでなく、紙というハードウェアが経年変化や汚れで劣化していく、その劣化度合いです。新=劣化なし、旧=劣化ありと暗黙に考えている。
電子書籍は劣化せず、古くなりません。10年前に出版された電子書籍で10年前の経済情勢を書いたものがあったとします。それは「古い」という概念は当てはまりません。「10年前に、その著者が、その当時の経済情勢を、そのように見ていた」という事実は変わらないし、その事実を表現した情報は不変です。ある人が電子書籍が進展すると「すべてが現在に属すると見えるようになるだろう」と言っていました。その通りだと思います。
特定のハードウェアから遊離した「情報」は、それが存在する場所、その情報を人間に提示する場所には依存しません。通信技術を使った情報の移動や交換がリアルタイムに低コストで出来ることが情報の大きな特徴です。
電子書籍でいうと「その場ですぐに買える」ことになります。アマゾン+宅配便は非常に便利なものですが、即時の魅力には勝てないでしょう。
情報は、時間に依存せず不変であることに加えて、場所にも依存しないことが重要な性質です。
「ハードウェアから遊離した、抽象的で、不変で、かつ場所に依存しない情報」から導かれることは、「情報は所有できない」ということです。情報を刻印したハードウェアは所有できますが、情報は所有できません。
電子書籍をスマートフォンや電子書籍リーダーにダウンロードして読むとき、暗黙に紙書籍のアナロジーが働いて「電子書籍を所有した」ように見えますが、決してそんなことはありません。ダウンロードするのはその方が(今は)利便性が高いからです。もしクラウド上の電子書籍をストリーミングで読む方が利便性が高ければ、そうなります。複数種類のハードウェア、たとえばスマートフォンとタブレットで同じ本を読み継ぐ場合には、電子書籍はクラウド上にあった方が便利なのは明白でしょう。どちらの利便性が高いかは、ネットワークの速度などのテクノロジーの進歩にも依存します。
情報は所有できないので、情報の一種である電子書籍も所有できません。従って電子書籍の購入とは、その電子書籍の「読書権」という権利を購入することになります。電子書籍という「情報へのアクセス権」、ないしは電子書籍という「情報の使用権」を購入すると言ってもいいでしょう。
紙書籍の場合、本というハードウェアを購入することは、その本の「所有権」を得ることでした。従って購入した本をどうするかは所有者の自由です。書棚に飾ってもいいし、ブックオフに持ち込んでもいいし、資源ゴミ(リサイクル)に出してもいいし、人にあげてもいいし、ヤフオクに出してもよい。
電子書籍の場合、読者は「読書権」を持つに過ぎません。できることは読書だけです。その「読書権」を勝手に他人に売り渡すことはできない。「販売権」を持っていないからです。電子書籍を他人に売ってよいという「販売権」を許諾できるのは電子書籍の出版元だけです。売ればいくらを出版元に支払うというような契約ですね。どのような条件で販売を許諾するかは出版サイドの裁量になります。販売権を持っていないかぎり「販売」はできないのです。
では「公共の電子書籍図書館」はどうなるのかという疑問が出てきますが、電子書籍の出版社が「貸出し可能な読書権、つまり図書館ライセンスとでも言うべきもの」を公共図書館に売るということに最終的になるはずです。図書館では、購入したライセンスの数だけの読書権を、同時に、一定の期間、市民に貸し出せます。たとえば「2週間だけ有効な読書権」です。
電子書籍は出版・販売する側にとって、不法コピーが横行するのではとか、定価販売を強制できないため売上げが下がるのではとか、懸念材料はいろいろあると思いますが、「電子書籍は紙書籍に比べて、非常に大きな権利や裁量幅を出版・販売サイドが保持できる」というのも事実だと思います。そこに目をつけて、大きなビジネスチャンスだと出版業界あげての電子書籍ブームが起こってもよいと思うのですが、そうなっていないのは不思議です。
一方、出版・販売サイドがビジネスとしての利益を確保するためには「読書権をもつ人だけが読書できるようにするためのメカニズム」を構築する必要があります。これは現代のIT技術を使えば何ら問題はないのですが、課題は標準化と読者の利便性でしょう。
「電子書籍は所有できない」「電子書籍の購入は、読む権利の購入である」ということの意味は、航空機や新幹線の電子チケットをみればよく理解できます。電子チケットはチケットを情報化したものです。
航空会社から電子チケットを購入したということは「指定された航空機に搭乗する権利を、本人が購入した」ということです。物理的なチケットはどこにもありません。その人が購入したという「情報」が航空会社の(どこかの)コンピュータに記録されているだけです。搭乗するには本人認証ができれば十分であり、本人確認の手段は何でもいいわけです。パスポートでも、ICカード付きのマイレージカードでもよい。クルマの免許証でもよい(そういう航空会社はないと思いますが)。電子チケットをパソコンで印刷して持っていき、バーコードを搭乗口で読み込ませたとしても、その印刷した紙が「チケット」では決してない。バーコードを読み込ませるというやり方で「電子チケットを購入した本人であることの証明」をしているわけです。
本人認証さえできれば良いのだから、生体認証(指紋とか静脈とか)でも可能です。手のひら静脈パターンを航空会社やJRに登録しておき、搭乗口・改札口で手のひらをかざして搭乗・乗車するというのは、技術的には全く可能です(そこまでする意味があるかはともかく)。
これを電子書籍に置き換えてみると、たとえば将来の「電子書籍カフェ」が想像できるでしょう。そこでは電子書籍を読むのに最も適した端末(大きめの画面の電子ペーパーを使った端末など)があり、本人認証をして(ID/Passwordや、何らかのICカードなど)、自分の購入した(読む権利のある)電子書籍を読む。もちろん読みかけの本の読みかけのページから読む・・・・・・。電子書籍は読む場所とハードウェアを選ばないのです。
電子チケットは航空会社・鉄道会社のビジネスを変えました。たとえばJR東海の東海道新幹線の電子チケットを例にとると、JR東海にとっての効果は
などです。
利用者にとっても、
というメリットがあります。ちなみに、乗車当日にICカードを忘れたとしても、駅で本人認証ができれば乗車できるということが原理的には十分可能です。例えば本人の個人情報(住所、生年月日、電話番号)と乗車区間を申告するなどです。
モノ(= チケット)への依存から脱却して情報化すること(= 電子チケット)は大きな変化です。これと同じことが電子書籍でも起こるはずです。何が起こるか、類推は容易でしょう。
情報を人間に提示するハードウェア、装置、機械、デバイスは特定のものに限られるわけではありません。情報は、それを表示するデバイスとは独立しています。紙書籍が「綴じられた紙の束」というハードウェアに限定されているのとは大きな違いです。
電子書籍を読む装置としては、
◆電子書籍リーダー(専用装置)
◆スマートフォン
◆タブレット
◆パソコン
◆ヘッド・マウント・ディスプレイ
◆紙
など多様なものが考えられます。最後に書いたように、もちろん紙も、なおかつ有力な情報表示ハードウェアです。電子書籍は要望に応じて紙にする(本にする)ことも容易です(On Demand Publishing)。
情報を提示(表示)する装置の多様性から導かれる一つの重要なポイントは「ユニバーサル・リーディング」が可能になることです。
ユニバーサル・デザインという言い方がありますね。人間が生活に使用する各種の器具や住宅を、高齢者や障害のある人、社会的弱者にも扱いやすいデザインにすることを主に指します。これと類似の意味で「さまざまな状況にある人が容易に読書できるようにする」ことを「ユニバーサル・リーディング」と言うことにします。
電子書籍を前提に視力の弱い人にも読みやすい工夫ができます(文字拡大など)。また病室で寝たきりの人もヘッド・マウント・ディスプレイで容易に読書ができるでしょう。それよりも「病室ベッド用の読書装置」が開発されるかもしれません。ユニバーサル・リーディングのさまざまな可能性は大きいと思います。
情報の定義上、情報の蓄積も特定のハードウェアに依存しません。現在でも電子書籍の蓄積・保存は紙にくらべて圧倒的に低コストです。今後の技術進歩でますます費用は下がるでしょう。
利用者がまず感じる情報化の直接のメリットは、この蓄積のコストがかからないということです。電子書籍は「軽い」し「かさばらない」し「捨てなくてよい」。そもそも情報は所有できないので捨てるという概念がなくなります。また出版サイドから言うと、在庫・保存コストが激減することで品切れ・絶版がなくなります。旧刊書の価値が向上し、そこに光があたるでしょう。
今はあまり言いませんが「マルチメディア」という言い方がありました。文章、写真、音声、動画を融合させた情報の表現形態です。このマルチメディアは情報化の本質です。デジタル情報はすべてのものをオンとオフのビットで表現します。ビットで表現するということにおいてはメディア間の垣根はないのです。
紙の書籍では、文字が主体で図(さし絵、写真、図、表など)がサブのものを本と呼び、図が主のものを図鑑と読んでいますが、その境目は無くなっていくでしょう。また、電子書籍とWebページとの境目も無くなっていくと考えられます。どこまでが書籍でどこまでがWebページか、定義できないし区別もつかなくなる。いいか悪いかは別として「書籍のWebコンテンツ化」が進むと思います。
情報化=デジタル情報化にともない、コンピュータの処理によって電子書籍にさまざまな付加価値をつけることができます。
最大の付加価値は検索です。デジタル化した本は内容検索(全文検索)が可能になります。インターネットに公開されているさまざまな情報は検索エンジンで全文検索が可能ですが、実は最も検索したい情報は本の内容なのです。学者の論文はインターネット上で公開され、それが検索できることによって学問の進歩が成り立っています。本の内容が検索できることは、これ以上に人類に役立つと思います。
もう一つだけ例をあげると「音声読み上げ」です。すでに実用化されていますが、その精度は年々進歩しています。新刊書がすべて電子書籍化されると、新刊書の文字部分の音声化は自動的に行えることになります。ユニバーサル・リーディングという観点からも、社会に与えるインパクトは大きいと思います。
以上のような「本の情報化」は読者が本に接する概念を大きく変えることになると思います。この例として、個人の電子書籍の書棚がどういうものになるかを想像してみます。「個人電子書棚」は最終的には次のようになると思います。
パソコンで「個人電子書棚」を閲覧するとします(パソコンでなくても、スマホでもタブレットでも同じです)。「個人電子書棚」を開くと次のような本が順にこの順番で一覧できます。
購入した本
① 今読んでいる本
② 購入済で、まだ読んでいない本
③ 最近購入し、読んだ本
④ 購入した本(①②③以外)
購入していない本
⑤ 購入予定の本
⑥ それ以外の本
①から④は「個人が読書権をもつ本」です。数は人によりますが、普通は数10冊~数1000冊といったところでしょう。もちろん①の「今読んでいる本」はどこまで読んだかが記憶されていて、読書用ハードウェアを変えても読み継ぐこことができます。
⑤⑥は「個人が読書権を持たない本」で、本の一部だけを制約条件付きで読むことができます(=電子立ち読み。次項)。気に入れば、⑤の購入予定の本にリストする、ないしはその場で購入して②になる。⑤⑥の冊数は数10万冊で、ジャンルごとや、出版年代ごとに分類されるでしょう。数10万冊を分かりやすく表示することは容易ではありませんが、個人の好み(好きな作家や関心があるテーマなど)を取り入れて表示方法をパーソナライズすれば可能だと思います。もちろん検索機能が重要です。電子書籍化していない紙書籍を併せて表示することもできます。
本の情報化が進むと「購入した本か、購入していない本かの違いは、そんなにはない」ようになります。違いは、書籍全体を読む「読書権」があるかないかです。であれば、購入した本と購入可能な本を同一の枠組みで「個人電子図書館」に表示し、たとえば「購入した本との親和性が高い、まだ購入していない本」を優先的に表示するのが個人にとっての利便性が高まります。作者やジャンルやテーマなどによる親和性です。
こういった購入・未購入の本をシームレスに表示する「個人電子図書館サービス」を作れるのは、電子書籍を販売するオンライン・ブックストアです。しかも流通している電子書籍を網羅でき、かつ電子化されていない紙書籍の閲覧や購入もできるストアです。こういったストアをいかに作るか、ストアの競争と合従連衡が進むでしょう。
電子書籍のビジネスモデル
今まで書いた本の情報化の意味を踏まえると、電子書籍では従来の紙書籍になかった新たなビジネス形態が出てくると予想されます。それを何点かあげてみたいと思います。以降は「現在の電子書籍業界がこうなっている」ということではありません。現在進行中のものもありますが、情報化の帰結としてこういう姿になるだろうということを多分に含んでいます。
「電子立ち読み」については、No.59「電子書籍と再販制度の精神」に書きました。日本書籍出版協会は、本の定価販売の必要性を説明するホームページで次のように主張しています。
さすがに「立ち読みをして買ってください」とは書いてませんが、本は手にとって見てから買うものであり、そのために全国津々浦々の書店に本を行き渡らせるには定価販売が必要だという論理でした。
No.59「電子書籍と再販制度の精神」の電子立ち読みのところを再掲すると、以下です。
「電子立ち読み」は公平性があると言えます。紙書籍だと本屋さんで「立ち読みで1冊読破する」こともできますが(本屋さんには嫌がられるでしょうが)「電子立ち読み」ではそれを防ぐこともできます。
電子書籍の前半は無料、後半だけが有料という販売の仕方も大いにありうると思います。返金保証のミステリーというのがありますね。後半が袋とじになっていて、袋を開封しない限り返金に応じるという本です。電子書籍ではこの売り方が簡単にできることになります。
これはミステリーに限ったことではありません。紙の書籍は目次をみて「あたり」をつけ、本文を何カ所か拾い読みすることで読みたい本かどうかを判別します。しかし中にはハズレがある。ハズレというのは、購入して読み出してはみたもののつまらない本です。文章がひどくて読むに耐えないということもある。私はこういう本は途中で読むのをやめて捨てることにしています。お金を払ってしまったのは惜しいが、時間の無駄のほうがもっと惜しい。
前半、ないしは1/3だけは無料(電子立ち読みが可能)という販売方法に期待したいと思います。お金を惜しんでいるのではなく、限られた時間で有益な読書をしたいからなのです。
情報は所有できません。電子書籍の所有権を買うことはできず、買うのは読書権です。そうなると、前にも書いたように、読む権利をもっている本とそうでない本の「差はあまりない」のです。ここから類推できることは、音楽のように「定額制の契約」が出てくるだろうということです。もちろん人気作家の新刊書などは別ですが、ある一定範囲の本は「月額 xxx 円で読み放題」とい料金体系です。
プロのライターでもない、仕事をもっている人が1ヶ月に読める本(読む本)は限られています。読み放題といっても何10冊も読めるわけではない。定額制も十分にありうるビジネス形態だと思います。
電子書籍の大きな可能性は、絶版や品切れになっている本の再販が活性化するだろうということです。
文学史上で傑作を書いた作家でも、意外に絶版になってる「あまり知られていない本」があったりします。紙書籍に比べて電子書籍の再販のコストは低いわけです。年間10冊しか売れなくても、10年売れれば利益が出る。そういう本を1000冊そろえればビジネスとして成り立つ、というような判断も出てくるでしょう。
電子書籍では、第1版に追加や修正を加えた第2版・第3版の出版が容易になります。改版の目的の一つは誤記・誤植や校正もれ、事実関係の誤りの修正です。著者としては意図しない誤りを発見した場合、なんとか修正したいと思うものです。こういうたぐいの修正版は、第1版を買った人には無料で配布されるでしょう。
しかし誤記・誤植以上に、時間の経緯とともに改版していった方がよい本があります。たとえば、
・科学の最前線を解説した本
・家庭の医学、のような本。
・旅行ガイド
などで、「記載すべき情報が日進月歩」というコンテンツです。もちろんこういったコンテンツはWebページで無料で見られるものもたくさんあるのですが、書籍の重要な点は「専門家が保証した信頼できる情報である」ことです。さらに改版に際しては、電子書籍なら「追加されたところ、修正されたところを色を変える」ことも容易です。また第1版の購入者には改版を安く売ることも可能になります。
日進月歩の情報の更新とは別に、ミステリーのジャンルで「全く別の結末の新版」を出すことも出来るでしょう。どんでん返しで終わったストーリーが、第2版では数年後にさらなるどんでん返しが起こる、といったことも可能だと思います。始めからそのように計画して本を書かないといけませんが。
岩波ブックレットというシリーズがあります。テーマを絞った特定の社会問題の解説などが主で、50-60ページほどの冊子です。価格は500円で、既に800冊以上が発行されています。ブックレットというのは「小さな本」という意味ですが「本というには短いが、雑誌記事というには長すぎる」コンテンツはあるものです。
もちろん文芸作品でもありうる。短編小説の本を買うと、活字が大きめで行間があいていて、要するに情報としてはスカスカでなんだか損をしたような気分になる本があります。紙の書籍にはそれに見合った情報量というものがどうしてもあり、それより少ないものは違和感が出てくる。
ブックレットを出すには電子書籍が最適のメディアだと思います。
音楽の世界では、以前はCDの「シングル」か「アルバム」という単位での購入でしたが、音楽が情報化されるとアルバムにしか収録されいない曲も「1曲単位の購入」が可能になりました。いわゆる「切り売り」ですが、これをマイクロ・コンテンツと呼ぶことがあります。コンテンツの単位が小さくなるという意味です。本の世界でもマイクロ・コンテンツに向いたものがあります。
などです。
もちろんこれらの中には「統一されたコンセプトのもとに書かれた短編を収めたもの」もありますが、そうでないものも多い。雑誌に書いた「雑文」を集め、さも全体が統一されているかのような目次と構成を編集者がひねりだし、一冊の「本にまとめた」ものがあります。内容もエッセイと書評と追悼文の混ぜ合わせだったりする。こういう本は「抱き合わせ販売」だと思うのですね。抱き合わせる必然性のないものを抱き合わせている。こうなる理由は、紙の本はある一定の分量がないと本と見なされないからです。電子書籍はそういった制約を取り払います。
文芸書以外にもマイクロ・コンテンツに適した本がいろろあります。
などです。
ブックレットとマイクロ・コンテンツの考察から導かれることは
ということだと思います。このリーズナブルな分量を満たさないものがブックレットとマイクロ・コンテンツでした。しかし逆も言える。リーズナブルな分量を越える「長編」があります。10巻、数10巻という分量の本で、しかも連続したストーリー展開をもった本です。こういった分量の長編は、実は電子書籍に向いていると思います。電子書籍の技術を駆使すると、前の巻への参照が容易だし、混乱して訳が分からなくなる多数の登場人物の解説を常時参照できる。また第1巻から購入している読者は安く購入できるといった販売方法も可能です。
日本が世界に誇れる文芸作品を一つだけあげるとすると『源氏物語』で決まりだと思いますが、紫式部が1000年前に書いたこの小説は、現代人からすると「リーズナブルな分量を越える長編」なのですね。電子書籍は「日本の伝統」の復活に役立つと思います。
電子書籍のもたらす大きな革新は、従来の「自費出版」のハードルがぐっと下がることでしょう。従来とは違うという意味を込めて「セルフ・パブリッシング」と呼びます。
これはアマゾン(英語版など)で既に実現されています。Amazon Digital Text Platform というサービスで、人手を介することなく本のアップロードとアマゾンのオンライン書店への陳列ができるものです。個人が有償でISBN(International Standard Book Number)を取得すると、それを入力することもできます。これはセルフ・パブリッシングが出版社の電子書籍と見分けがつかないことを意味しています。
セルフ・パブリッシングでは「粗悪電子書籍」が広まるといことを言う人がいます。確かにその危険性は大いにあります。しかしセルフ・パブリッシングが広まると「粗悪電子書籍を防止するような仕組み」も広まってくるでしょう。もちろんその第1はクチコミ情報、レビュー情報の公開ですが、意欲のあるアマチュア・ライターのために、積極的に電子書籍の質を上げるしくみもいろいろ考えられます。
まず、用字・用語の統一、誤字・脱字の修正、文として意味が通じない(通じにくい)部分の修正といったレベルのものです。このような修正は、著者の意向により専門の「セルフ・パブリッシング校正業者」に「校正委託」することが考えられます。「XXX会社・校正済み」ということで購入者に安心感を与えるわけです。
書いてあることが事実かどうかという「事実確認」の問題もあります。たとえば、前回のNo.59「電子書籍と再販制度の精神」で「電子書籍の8割は漫画」と書きました。そのあとで出典を明記したのですが(=日本経済新聞)、出典を明記しないで書くこともできます。ただし記憶にたどって書くと「電子書籍の9割以上は漫画」と書いてしまって、事実に(軽く)反する記述になるかもしれない。これを「電子書籍の大部分は漫画」と書けば問題はなくなります。
記載事実の正確性は出版物にとって重要です。No.53「ジュリエットからの手紙」の主人公のソフィーは雑誌・ニューヨーカーの事実調査員(fact checker)でした。ニューヨーカーのような雑誌は事実関係を非常に大切にしていて、それが雑誌の命となっています。もちろんソフィーのような調査をするには多大な費用がかかるので、セルフ・パブリッシングの著者がそこまでを第3者に委託するわけにはいかないのですが、記載事実の妥当性のチェックもいろんなレベルが考えられます。こういったチェックを含む「編集委託」もありうると思います。
さらにセルフ・パブリッシングの問題点は、他人の権利侵害になりうる記述です。特に名誉毀損や著作権の侵害です。紙の書籍の場合、訴えられるのは出版社と著者ですが、セルフ・パブリッシングの場合は出版社はないので、著者だけで対応する必要があります。こういった「法的な問題になりうる記述を避ける」ことも「編集委託」で解決できるものが多いと思います。第3者の意見を聞くか聞かないかは著者の判断と自己責任でやればいいわけです。また著作権については「それとは知らずに侵害してしまうケース」もあるでしょう。そのリスクをカバーするための「セルフ・パブリッシング保険」もありうると思います。
セルフ・パブリッシングにおける「校正委託」や「編集委託」は、機能としては従来から出版社がやっていたことであり、これらの重要性は変わらないと思います。従って出版社が中心となって著者と相談しながら編集を進める従来型の出版が無くなるわけではありません。クルマのメイテナンスと似ています。クルマを購入したディーラーに点検・車検・消耗品の交換・補修などのすべてを任せる人もいれば、それぞれで最適な(たとえば費用が安い)業者をみつけて依頼する(あるものは自分でやる)人もいます。どちらもそれなりのメリットがあるわけです。
「従来型出版」に加えて「セルフ・パブリッシング」が可能になると、著者サイドからみた出版のチャンスや多様性が増します。「セルフ・パブリッシング」は玉石混交になるでしょうが「石」はいずれ淘汰されます。社会全体でみると「玉」の発掘効果の方が大きいと思います。
日本をささえる情報インフラ
電子書籍で今後起こりうることを何点か予測しましたが、これらは出版のチャンスと多様性を増し、また本が入手できないとか入手しにくいということを最小化し、また知られていない隠れた本に光を当てたり、新たな書き手の発掘に役立ちます。
No.59「電子書籍と再販制度の精神」で「本は教育や文化の基礎であり、日本をささえる情報インフラである」という日本書籍出版協会の主張を紹介しましたが、その通りだと思います。その情報インフラとしての本の役割をいっそう高めるのが電子書籍だと思います。
上の文章の中で
との主旨を書きました。それを象徴する新聞記事を紹介します。
「東洋文庫」は、アジアの古典の宝庫というか「非西洋の知的財産の宝庫」ですね。平凡社という出版社を象徴する文庫です。私は熱心な読者ではないけれど(4冊持っています)この文庫が日本語の出版物の中でも非常に重要な位置にあることぐらいは分かります。このことだけをみても、電子書籍がもたらすインパクトの大きさが理解できます。
補記1の記事にあったブックライブ社が新しいビジネスを始めるとの報道がありました。
20人からの要望のある希少本・絶版本がどれだけの潜在需要があると判断するのか、このあたりがビジネスのポイントでしょう。20人は「是非ともその本を入手したい人」です。潜在需要を掘り起こすように動いてくれる可能性も大いにある。この人たちとどう連携するかもポイントだと思います。
「電子書籍版・個人全集」という形で、絶版本を再出版する動きも出てきました。
電子書籍は「本の情報化」
端的に言うと電子書籍は本を「情報化」したものです。紙というハードウェアに書かれている書籍の内容、その情報だけをハードウェアとは分離し、独立させたものです。
SONY Reader PRS-G1 |
パソコンにダウンロードした電子書籍はハードディスクなりメモリなりに書き込まれますが、書き込まれているというその状態は「情報の仮の姿」であって、情報の本質ではありません。それはCDが「音楽情報の仮の姿」であるのと全く同じです。CDはプラスチックの微細な凹凸構造で情報を表現していますが、その構造は情報の表現形態の1つの例に過ぎません。ハードウェアとしての別の表現形態もいっぱいある。
この「特定のハードウェアとは遊離している情報」が、書籍を大きく変えるでしょう。それが電子書籍のもたらす革命の根幹です。No.55「ウォークマン(2)ソニーへの期待」で、CDは音楽の情報化であることに触れ、
音楽を情報化したということは、一般的に「情報化」の帰結として起こることは遅かれ早かれ全部起こるのであり、事実そうなっていった。 |
と書きました。この言い方は、そっくりそのまま電子書籍に当てはめることができます。つまり、
電子書籍は「本の情報化」であり、本を情報化したということは、一般的に「情報化」の帰結として起こることは遅かれ早かれ全部起こる。 |
というわけです。では何が起こるのか、それを考えてみるのが以下の目的です。まず考える前提として「情報」の重要な性格を何点かあげてみたいと思います。
以降の「情報化」とは暗黙に「デジタル情報化」のことを言っています。つまり情報を0と1のビットであらわす形の情報化で、デジタル・コンピュータで処理可能という前提です。 従って細かく言うと本の情報化は本の全てをカバーできるわけではなく、デジタルで表現可能な範囲の情報化です。人間の感性に係わるようなもの(たとえば質感)の情報化はできません。 |
 情報は不変  |
「情報」の非常に重要な特徴は「不変」ということです。この世界で、ほとんど唯一の変わらないものが情報だと言えるでしょう。
ハードウェアは変化します。CDは一見変化しないように見えますが、数10年の時の経過を過ぎるとプラスチックが変質・変形していって情報が読み取れなくなるでしょう。むろん外部からの力が加わると破壊されます。人間を含む生命が変化するのはあたりまえですが、ハードウェアも短期・長期に変化します。不変なハードウェアというものはありません。
しかしハードウェアから遊離した「情報」という抽象的な存在は不変です。CDが読み取れなくなるなら、そこに刻印された情報を別の媒体に移し変えればよい。ハードウェアとしての形態は全く違っても「情報としては同じ」です。そういう意味で不変なのです。情報以外で「不変なもの」は、この世の中であまり思いつきません。宇宙で普遍的に成り立つ物理法則はその例でしょうか。
情報が不変であるということは、持続的・永久的にその情報の保存ができ、それに人間がアクセスすることが可能だということです。劣化することなく、持続的にアクセス可能である・・・・・・。これは情報の大きな特徴です。
情報の不変性は人間の心理に大きな影響を与えるはずです。書籍には「新刊」「旧刊」「古書」があり、これらは出版された年が新しいか古いかを言っています。しかし我々が本の新旧について暗黙に抱いている見方は、単に出版年の新旧だけでなく、紙というハードウェアが経年変化や汚れで劣化していく、その劣化度合いです。新=劣化なし、旧=劣化ありと暗黙に考えている。
電子書籍は劣化せず、古くなりません。10年前に出版された電子書籍で10年前の経済情勢を書いたものがあったとします。それは「古い」という概念は当てはまりません。「10年前に、その著者が、その当時の経済情勢を、そのように見ていた」という事実は変わらないし、その事実を表現した情報は不変です。ある人が電子書籍が進展すると「すべてが現在に属すると見えるようになるだろう」と言っていました。その通りだと思います。
 情報は場所に依存しない  |
特定のハードウェアから遊離した「情報」は、それが存在する場所、その情報を人間に提示する場所には依存しません。通信技術を使った情報の移動や交換がリアルタイムに低コストで出来ることが情報の大きな特徴です。
電子書籍でいうと「その場ですぐに買える」ことになります。アマゾン+宅配便は非常に便利なものですが、即時の魅力には勝てないでしょう。
情報は、時間に依存せず不変であることに加えて、場所にも依存しないことが重要な性質です。
 情報は所有できない  |
「ハードウェアから遊離した、抽象的で、不変で、かつ場所に依存しない情報」から導かれることは、「情報は所有できない」ということです。情報を刻印したハードウェアは所有できますが、情報は所有できません。
電子書籍をスマートフォンや電子書籍リーダーにダウンロードして読むとき、暗黙に紙書籍のアナロジーが働いて「電子書籍を所有した」ように見えますが、決してそんなことはありません。ダウンロードするのはその方が(今は)利便性が高いからです。もしクラウド上の電子書籍をストリーミングで読む方が利便性が高ければ、そうなります。複数種類のハードウェア、たとえばスマートフォンとタブレットで同じ本を読み継ぐ場合には、電子書籍はクラウド上にあった方が便利なのは明白でしょう。どちらの利便性が高いかは、ネットワークの速度などのテクノロジーの進歩にも依存します。
 情報の購入は権利の購入  |
情報は所有できないので、情報の一種である電子書籍も所有できません。従って電子書籍の購入とは、その電子書籍の「読書権」という権利を購入することになります。電子書籍という「情報へのアクセス権」、ないしは電子書籍という「情報の使用権」を購入すると言ってもいいでしょう。
紙書籍の場合、本というハードウェアを購入することは、その本の「所有権」を得ることでした。従って購入した本をどうするかは所有者の自由です。書棚に飾ってもいいし、ブックオフに持ち込んでもいいし、資源ゴミ(リサイクル)に出してもいいし、人にあげてもいいし、ヤフオクに出してもよい。
電子書籍の場合、読者は「読書権」を持つに過ぎません。できることは読書だけです。その「読書権」を勝手に他人に売り渡すことはできない。「販売権」を持っていないからです。電子書籍を他人に売ってよいという「販売権」を許諾できるのは電子書籍の出版元だけです。売ればいくらを出版元に支払うというような契約ですね。どのような条件で販売を許諾するかは出版サイドの裁量になります。販売権を持っていないかぎり「販売」はできないのです。
では「公共の電子書籍図書館」はどうなるのかという疑問が出てきますが、電子書籍の出版社が「貸出し可能な読書権、つまり図書館ライセンスとでも言うべきもの」を公共図書館に売るということに最終的になるはずです。図書館では、購入したライセンスの数だけの読書権を、同時に、一定の期間、市民に貸し出せます。たとえば「2週間だけ有効な読書権」です。
電子書籍は出版・販売する側にとって、不法コピーが横行するのではとか、定価販売を強制できないため売上げが下がるのではとか、懸念材料はいろいろあると思いますが、「電子書籍は紙書籍に比べて、非常に大きな権利や裁量幅を出版・販売サイドが保持できる」というのも事実だと思います。そこに目をつけて、大きなビジネスチャンスだと出版業界あげての電子書籍ブームが起こってもよいと思うのですが、そうなっていないのは不思議です。
一方、出版・販売サイドがビジネスとしての利益を確保するためには「読書権をもつ人だけが読書できるようにするためのメカニズム」を構築する必要があります。これは現代のIT技術を使えば何ら問題はないのですが、課題は標準化と読者の利便性でしょう。
 電子チケット化する電子書籍  |
「電子書籍は所有できない」「電子書籍の購入は、読む権利の購入である」ということの意味は、航空機や新幹線の電子チケットをみればよく理解できます。電子チケットはチケットを情報化したものです。
航空会社から電子チケットを購入したということは「指定された航空機に搭乗する権利を、本人が購入した」ということです。物理的なチケットはどこにもありません。その人が購入したという「情報」が航空会社の(どこかの)コンピュータに記録されているだけです。搭乗するには本人認証ができれば十分であり、本人確認の手段は何でもいいわけです。パスポートでも、ICカード付きのマイレージカードでもよい。クルマの免許証でもよい(そういう航空会社はないと思いますが)。電子チケットをパソコンで印刷して持っていき、バーコードを搭乗口で読み込ませたとしても、その印刷した紙が「チケット」では決してない。バーコードを読み込ませるというやり方で「電子チケットを購入した本人であることの証明」をしているわけです。
本人認証さえできれば良いのだから、生体認証(指紋とか静脈とか)でも可能です。手のひら静脈パターンを航空会社やJRに登録しておき、搭乗口・改札口で手のひらをかざして搭乗・乗車するというのは、技術的には全く可能です(そこまでする意味があるかはともかく)。
これを電子書籍に置き換えてみると、たとえば将来の「電子書籍カフェ」が想像できるでしょう。そこでは電子書籍を読むのに最も適した端末(大きめの画面の電子ペーパーを使った端末など)があり、本人認証をして(ID/Passwordや、何らかのICカードなど)、自分の購入した(読む権利のある)電子書籍を読む。もちろん読みかけの本の読みかけのページから読む・・・・・・。電子書籍は読む場所とハードウェアを選ばないのです。
電子チケットは航空会社・鉄道会社のビジネスを変えました。たとえばJR東海の東海道新幹線の電子チケットを例にとると、JR東海にとっての効果は
◆ | 紙のチケットを売るとき、売り手が第3者(JR東日本やJR西日本など)の場合は販売手数料を支払う必要があるが(5%と言われています)、電子チケットではその必要がない。電子チケットはJR東海でしか買えないから。 | |
◆ | 電子チケットは街の金券ショップやオークションに出回らない。 |
などです。
利用者にとっても、
◆ | 紛失のリスクがなくなる。ICカードを紛失したとしても再発行できる。 |
というメリットがあります。ちなみに、乗車当日にICカードを忘れたとしても、駅で本人認証ができれば乗車できるということが原理的には十分可能です。例えば本人の個人情報(住所、生年月日、電話番号)と乗車区間を申告するなどです。
モノ(= チケット)への依存から脱却して情報化すること(= 電子チケット)は大きな変化です。これと同じことが電子書籍でも起こるはずです。何が起こるか、類推は容易でしょう。
 情報の提示は、特定のハードウェアに依存しない  |
情報を人間に提示するハードウェア、装置、機械、デバイスは特定のものに限られるわけではありません。情報は、それを表示するデバイスとは独立しています。紙書籍が「綴じられた紙の束」というハードウェアに限定されているのとは大きな違いです。
電子書籍を読む装置としては、
◆電子書籍リーダー(専用装置)
◆スマートフォン
◆タブレット
◆パソコン
◆ヘッド・マウント・ディスプレイ
◆紙
など多様なものが考えられます。最後に書いたように、もちろん紙も、なおかつ有力な情報表示ハードウェアです。電子書籍は要望に応じて紙にする(本にする)ことも容易です(On Demand Publishing)。
情報を提示(表示)する装置の多様性から導かれる一つの重要なポイントは「ユニバーサル・リーディング」が可能になることです。
ユニバーサル・デザインという言い方がありますね。人間が生活に使用する各種の器具や住宅を、高齢者や障害のある人、社会的弱者にも扱いやすいデザインにすることを主に指します。これと類似の意味で「さまざまな状況にある人が容易に読書できるようにする」ことを「ユニバーサル・リーディング」と言うことにします。
電子書籍を前提に視力の弱い人にも読みやすい工夫ができます(文字拡大など)。また病室で寝たきりの人もヘッド・マウント・ディスプレイで容易に読書ができるでしょう。それよりも「病室ベッド用の読書装置」が開発されるかもしれません。ユニバーサル・リーディングのさまざまな可能性は大きいと思います。
 情報の蓄積は低コスト  |
情報の定義上、情報の蓄積も特定のハードウェアに依存しません。現在でも電子書籍の蓄積・保存は紙にくらべて圧倒的に低コストです。今後の技術進歩でますます費用は下がるでしょう。
利用者がまず感じる情報化の直接のメリットは、この蓄積のコストがかからないということです。電子書籍は「軽い」し「かさばらない」し「捨てなくてよい」。そもそも情報は所有できないので捨てるという概念がなくなります。また出版サイドから言うと、在庫・保存コストが激減することで品切れ・絶版がなくなります。旧刊書の価値が向上し、そこに光があたるでしょう。
 情報の表現形態は融合する  |
今はあまり言いませんが「マルチメディア」という言い方がありました。文章、写真、音声、動画を融合させた情報の表現形態です。このマルチメディアは情報化の本質です。デジタル情報はすべてのものをオンとオフのビットで表現します。ビットで表現するということにおいてはメディア間の垣根はないのです。
紙の書籍では、文字が主体で図(さし絵、写真、図、表など)がサブのものを本と呼び、図が主のものを図鑑と読んでいますが、その境目は無くなっていくでしょう。また、電子書籍とWebページとの境目も無くなっていくと考えられます。どこまでが書籍でどこまでがWebページか、定義できないし区別もつかなくなる。いいか悪いかは別として「書籍のWebコンテンツ化」が進むと思います。
 情報はコンピュータ処理が可能  |
情報化=デジタル情報化にともない、コンピュータの処理によって電子書籍にさまざまな付加価値をつけることができます。
最大の付加価値は検索です。デジタル化した本は内容検索(全文検索)が可能になります。インターネットに公開されているさまざまな情報は検索エンジンで全文検索が可能ですが、実は最も検索したい情報は本の内容なのです。学者の論文はインターネット上で公開され、それが検索できることによって学問の進歩が成り立っています。本の内容が検索できることは、これ以上に人類に役立つと思います。
もう一つだけ例をあげると「音声読み上げ」です。すでに実用化されていますが、その精度は年々進歩しています。新刊書がすべて電子書籍化されると、新刊書の文字部分の音声化は自動的に行えることになります。ユニバーサル・リーディングという観点からも、社会に与えるインパクトは大きいと思います。
以上のような「本の情報化」は読者が本に接する概念を大きく変えることになると思います。この例として、個人の電子書籍の書棚がどういうものになるかを想像してみます。「個人電子書棚」は最終的には次のようになると思います。
 「個人電子書棚」のイメージ  |
パソコンで「個人電子書棚」を閲覧するとします(パソコンでなくても、スマホでもタブレットでも同じです)。「個人電子書棚」を開くと次のような本が順にこの順番で一覧できます。
購入した本
① 今読んでいる本
② 購入済で、まだ読んでいない本
③ 最近購入し、読んだ本
④ 購入した本(①②③以外)
購入していない本
⑤ 購入予定の本
⑥ それ以外の本
①から④は「個人が読書権をもつ本」です。数は人によりますが、普通は数10冊~数1000冊といったところでしょう。もちろん①の「今読んでいる本」はどこまで読んだかが記憶されていて、読書用ハードウェアを変えても読み継ぐこことができます。
⑤⑥は「個人が読書権を持たない本」で、本の一部だけを制約条件付きで読むことができます(=電子立ち読み。次項)。気に入れば、⑤の購入予定の本にリストする、ないしはその場で購入して②になる。⑤⑥の冊数は数10万冊で、ジャンルごとや、出版年代ごとに分類されるでしょう。数10万冊を分かりやすく表示することは容易ではありませんが、個人の好み(好きな作家や関心があるテーマなど)を取り入れて表示方法をパーソナライズすれば可能だと思います。もちろん検索機能が重要です。電子書籍化していない紙書籍を併せて表示することもできます。
本の情報化が進むと「購入した本か、購入していない本かの違いは、そんなにはない」ようになります。違いは、書籍全体を読む「読書権」があるかないかです。であれば、購入した本と購入可能な本を同一の枠組みで「個人電子図書館」に表示し、たとえば「購入した本との親和性が高い、まだ購入していない本」を優先的に表示するのが個人にとっての利便性が高まります。作者やジャンルやテーマなどによる親和性です。
こういった購入・未購入の本をシームレスに表示する「個人電子図書館サービス」を作れるのは、電子書籍を販売するオンライン・ブックストアです。しかも流通している電子書籍を網羅でき、かつ電子化されていない紙書籍の閲覧や購入もできるストアです。こういったストアをいかに作るか、ストアの競争と合従連衡が進むでしょう。
電子書籍のビジネスモデル
今まで書いた本の情報化の意味を踏まえると、電子書籍では従来の紙書籍になかった新たなビジネス形態が出てくると予想されます。それを何点かあげてみたいと思います。以降は「現在の電子書籍業界がこうなっている」ということではありません。現在進行中のものもありますが、情報化の帰結としてこういう姿になるだろうということを多分に含んでいます。
 電子立ち読み  |
「電子立ち読み」については、No.59「電子書籍と再販制度の精神」に書きました。日本書籍出版協会は、本の定価販売の必要性を説明するホームページで次のように主張しています。
出版物を読者の皆さんにお届けする最良の方法は、書店での陳列販売です。書店での立ち読み風景に見られるように、出版物は読者が手に取って見てから購入されることが多いのはご存知のとおりです。 |
さすがに「立ち読みをして買ってください」とは書いてませんが、本は手にとって見てから買うものであり、そのために全国津々浦々の書店に本を行き渡らせるには定価販売が必要だという論理でした。
No.59「電子書籍と再販制度の精神」の電子立ち読みのところを再掲すると、以下です。
立ち読みに最適なのが電子書籍です。「電子立ち読み」の仕組みを作るのは、IT技術としては容易です。表紙と目次と著者紹介のページを自由に閲覧できるようにし、本文は一定のページ数まで「電子立ち読み」できるようにする。立ち読み1回あたり30分までとか、合計2回までとかの制約をつけるのも簡単です。 |
「電子立ち読み」は公平性があると言えます。紙書籍だと本屋さんで「立ち読みで1冊読破する」こともできますが(本屋さんには嫌がられるでしょうが)「電子立ち読み」ではそれを防ぐこともできます。
 後半が有料  |
電子書籍の前半は無料、後半だけが有料という販売の仕方も大いにありうると思います。返金保証のミステリーというのがありますね。後半が袋とじになっていて、袋を開封しない限り返金に応じるという本です。電子書籍ではこの売り方が簡単にできることになります。
これはミステリーに限ったことではありません。紙の書籍は目次をみて「あたり」をつけ、本文を何カ所か拾い読みすることで読みたい本かどうかを判別します。しかし中にはハズレがある。ハズレというのは、購入して読み出してはみたもののつまらない本です。文章がひどくて読むに耐えないということもある。私はこういう本は途中で読むのをやめて捨てることにしています。お金を払ってしまったのは惜しいが、時間の無駄のほうがもっと惜しい。
前半、ないしは1/3だけは無料(電子立ち読みが可能)という販売方法に期待したいと思います。お金を惜しんでいるのではなく、限られた時間で有益な読書をしたいからなのです。
 定額制  |
情報は所有できません。電子書籍の所有権を買うことはできず、買うのは読書権です。そうなると、前にも書いたように、読む権利をもっている本とそうでない本の「差はあまりない」のです。ここから類推できることは、音楽のように「定額制の契約」が出てくるだろうということです。もちろん人気作家の新刊書などは別ですが、ある一定範囲の本は「月額 xxx 円で読み放題」とい料金体系です。
プロのライターでもない、仕事をもっている人が1ヶ月に読める本(読む本)は限られています。読み放題といっても何10冊も読めるわけではない。定額制も十分にありうるビジネス形態だと思います。
 再版ビジネス  |
電子書籍の大きな可能性は、絶版や品切れになっている本の再販が活性化するだろうということです。
文学史上で傑作を書いた作家でも、意外に絶版になってる「あまり知られていない本」があったりします。紙書籍に比べて電子書籍の再販のコストは低いわけです。年間10冊しか売れなくても、10年売れれば利益が出る。そういう本を1000冊そろえればビジネスとして成り立つ、というような判断も出てくるでしょう。
 改訂版ビジネス  |
電子書籍では、第1版に追加や修正を加えた第2版・第3版の出版が容易になります。改版の目的の一つは誤記・誤植や校正もれ、事実関係の誤りの修正です。著者としては意図しない誤りを発見した場合、なんとか修正したいと思うものです。こういうたぐいの修正版は、第1版を買った人には無料で配布されるでしょう。
しかし誤記・誤植以上に、時間の経緯とともに改版していった方がよい本があります。たとえば、
・科学の最前線を解説した本
・家庭の医学、のような本。
・旅行ガイド
などで、「記載すべき情報が日進月歩」というコンテンツです。もちろんこういったコンテンツはWebページで無料で見られるものもたくさんあるのですが、書籍の重要な点は「専門家が保証した信頼できる情報である」ことです。さらに改版に際しては、電子書籍なら「追加されたところ、修正されたところを色を変える」ことも容易です。また第1版の購入者には改版を安く売ることも可能になります。
日進月歩の情報の更新とは別に、ミステリーのジャンルで「全く別の結末の新版」を出すことも出来るでしょう。どんでん返しで終わったストーリーが、第2版では数年後にさらなるどんでん返しが起こる、といったことも可能だと思います。始めからそのように計画して本を書かないといけませんが。
 ブックレット  |
岩波ブックレットというシリーズがあります。テーマを絞った特定の社会問題の解説などが主で、50-60ページほどの冊子です。価格は500円で、既に800冊以上が発行されています。ブックレットというのは「小さな本」という意味ですが「本というには短いが、雑誌記事というには長すぎる」コンテンツはあるものです。
もちろん文芸作品でもありうる。短編小説の本を買うと、活字が大きめで行間があいていて、要するに情報としてはスカスカでなんだか損をしたような気分になる本があります。紙の書籍にはそれに見合った情報量というものがどうしてもあり、それより少ないものは違和感が出てくる。
ブックレットを出すには電子書籍が最適のメディアだと思います。
 マイクロ・コンテンツ  |
音楽の世界では、以前はCDの「シングル」か「アルバム」という単位での購入でしたが、音楽が情報化されるとアルバムにしか収録されいない曲も「1曲単位の購入」が可能になりました。いわゆる「切り売り」ですが、これをマイクロ・コンテンツと呼ぶことがあります。コンテンツの単位が小さくなるという意味です。本の世界でもマイクロ・コンテンツに向いたものがあります。
◆ | 説話集(イソップ寓話集、千夜一夜物語、日本昔ばなしなど) | |
◆ | 短編集 | |
◆ | ショートショート | |
◆ | エッセイ | |
◆ | 雑文集 |
などです。
もちろんこれらの中には「統一されたコンセプトのもとに書かれた短編を収めたもの」もありますが、そうでないものも多い。雑誌に書いた「雑文」を集め、さも全体が統一されているかのような目次と構成を編集者がひねりだし、一冊の「本にまとめた」ものがあります。内容もエッセイと書評と追悼文の混ぜ合わせだったりする。こういう本は「抱き合わせ販売」だと思うのですね。抱き合わせる必然性のないものを抱き合わせている。こうなる理由は、紙の本はある一定の分量がないと本と見なされないからです。電子書籍はそういった制約を取り払います。
文芸書以外にもマイクロ・コンテンツに適した本がいろろあります。
◆ | 料理のレシピ本 | |
◆ | 家庭用の医学書 | |
◆ | 旅行ガイドブック | |
◆ | 雑誌のバックナンバーの記事 | |
◆ | 図鑑 |
などです。
 長編の復活  |
ブックレットとマイクロ・コンテンツの考察から導かれることは
紙の本にはリーズナブルな長さ・分量があり、その範疇に入らないものは出版しにくい |
ということだと思います。このリーズナブルな分量を満たさないものがブックレットとマイクロ・コンテンツでした。しかし逆も言える。リーズナブルな分量を越える「長編」があります。10巻、数10巻という分量の本で、しかも連続したストーリー展開をもった本です。こういった分量の長編は、実は電子書籍に向いていると思います。電子書籍の技術を駆使すると、前の巻への参照が容易だし、混乱して訳が分からなくなる多数の登場人物の解説を常時参照できる。また第1巻から購入している読者は安く購入できるといった販売方法も可能です。
日本が世界に誇れる文芸作品を一つだけあげるとすると『源氏物語』で決まりだと思いますが、紫式部が1000年前に書いたこの小説は、現代人からすると「リーズナブルな分量を越える長編」なのですね。電子書籍は「日本の伝統」の復活に役立つと思います。
 セルフ・パブリッシング  |
電子書籍のもたらす大きな革新は、従来の「自費出版」のハードルがぐっと下がることでしょう。従来とは違うという意味を込めて「セルフ・パブリッシング」と呼びます。
これはアマゾン(英語版など)で既に実現されています。Amazon Digital Text Platform というサービスで、人手を介することなく本のアップロードとアマゾンのオンライン書店への陳列ができるものです。個人が有償でISBN(International Standard Book Number)を取得すると、それを入力することもできます。これはセルフ・パブリッシングが出版社の電子書籍と見分けがつかないことを意味しています。
セルフ・パブリッシングでは「粗悪電子書籍」が広まるといことを言う人がいます。確かにその危険性は大いにあります。しかしセルフ・パブリッシングが広まると「粗悪電子書籍を防止するような仕組み」も広まってくるでしょう。もちろんその第1はクチコミ情報、レビュー情報の公開ですが、意欲のあるアマチュア・ライターのために、積極的に電子書籍の質を上げるしくみもいろいろ考えられます。
まず、用字・用語の統一、誤字・脱字の修正、文として意味が通じない(通じにくい)部分の修正といったレベルのものです。このような修正は、著者の意向により専門の「セルフ・パブリッシング校正業者」に「校正委託」することが考えられます。「XXX会社・校正済み」ということで購入者に安心感を与えるわけです。
書いてあることが事実かどうかという「事実確認」の問題もあります。たとえば、前回のNo.59「電子書籍と再販制度の精神」で「電子書籍の8割は漫画」と書きました。そのあとで出典を明記したのですが(=日本経済新聞)、出典を明記しないで書くこともできます。ただし記憶にたどって書くと「電子書籍の9割以上は漫画」と書いてしまって、事実に(軽く)反する記述になるかもしれない。これを「電子書籍の大部分は漫画」と書けば問題はなくなります。
記載事実の正確性は出版物にとって重要です。No.53「ジュリエットからの手紙」の主人公のソフィーは雑誌・ニューヨーカーの事実調査員(fact checker)でした。ニューヨーカーのような雑誌は事実関係を非常に大切にしていて、それが雑誌の命となっています。もちろんソフィーのような調査をするには多大な費用がかかるので、セルフ・パブリッシングの著者がそこまでを第3者に委託するわけにはいかないのですが、記載事実の妥当性のチェックもいろんなレベルが考えられます。こういったチェックを含む「編集委託」もありうると思います。
さらにセルフ・パブリッシングの問題点は、他人の権利侵害になりうる記述です。特に名誉毀損や著作権の侵害です。紙の書籍の場合、訴えられるのは出版社と著者ですが、セルフ・パブリッシングの場合は出版社はないので、著者だけで対応する必要があります。こういった「法的な問題になりうる記述を避ける」ことも「編集委託」で解決できるものが多いと思います。第3者の意見を聞くか聞かないかは著者の判断と自己責任でやればいいわけです。また著作権については「それとは知らずに侵害してしまうケース」もあるでしょう。そのリスクをカバーするための「セルフ・パブリッシング保険」もありうると思います。
セルフ・パブリッシングにおける「校正委託」や「編集委託」は、機能としては従来から出版社がやっていたことであり、これらの重要性は変わらないと思います。従って出版社が中心となって著者と相談しながら編集を進める従来型の出版が無くなるわけではありません。クルマのメイテナンスと似ています。クルマを購入したディーラーに点検・車検・消耗品の交換・補修などのすべてを任せる人もいれば、それぞれで最適な(たとえば費用が安い)業者をみつけて依頼する(あるものは自分でやる)人もいます。どちらもそれなりのメリットがあるわけです。
「従来型出版」に加えて「セルフ・パブリッシング」が可能になると、著者サイドからみた出版のチャンスや多様性が増します。「セルフ・パブリッシング」は玉石混交になるでしょうが「石」はいずれ淘汰されます。社会全体でみると「玉」の発掘効果の方が大きいと思います。
日本をささえる情報インフラ
電子書籍で今後起こりうることを何点か予測しましたが、これらは出版のチャンスと多様性を増し、また本が入手できないとか入手しにくいということを最小化し、また知られていない隠れた本に光を当てたり、新たな書き手の発掘に役立ちます。
No.59「電子書籍と再販制度の精神」で「本は教育や文化の基礎であり、日本をささえる情報インフラである」という日本書籍出版協会の主張を紹介しましたが、その通りだと思います。その情報インフラとしての本の役割をいっそう高めるのが電子書籍だと思います。
(次回に続く)
 補記1  |
上の文章の中で
◆ | 電子書籍の大きな可能性は、絶版や品切れになっている本の再販が活性化することである。 | |
◆ | 紙もまた、電子書籍の有力な情報表示ハードウェアである。 |
との主旨を書きました。それを象徴する新聞記事を紹介します。
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「東洋文庫」は、アジアの古典の宝庫というか「非西洋の知的財産の宝庫」ですね。平凡社という出版社を象徴する文庫です。私は熱心な読者ではないけれど(4冊持っています)この文庫が日本語の出版物の中でも非常に重要な位置にあることぐらいは分かります。このことだけをみても、電子書籍がもたらすインパクトの大きさが理解できます。
 補記2  |
補記1の記事にあったブックライブ社が新しいビジネスを始めるとの報道がありました。
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20人からの要望のある希少本・絶版本がどれだけの潜在需要があると判断するのか、このあたりがビジネスのポイントでしょう。20人は「是非ともその本を入手したい人」です。潜在需要を掘り起こすように動いてくれる可能性も大いにある。この人たちとどう連携するかもポイントだと思います。
 補記3  |
「電子書籍版・個人全集」という形で、絶版本を再出版する動きも出てきました。
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2012-07-13 21:12
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