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No.285 - ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲 第1番 [音楽]

No.281~No.283 の記事でショスタコーヴィチの3作品を取り上げました。


ですが、今回はその継続としてショスタコーヴィチの別の作品をとりあげます。ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77(1948)です。

実は No.9~No.11で、20世紀に書かれた3曲のヴァイオリン協奏曲について書きました。作曲された年の順に、シベリウス(1903/1905。No.11)、バーバー(1939。No.10)、コルンゴルト(1945。No.9)です。

しかし思うのですが、20世紀のヴァイオリン協奏曲ではショスタコーヴィチの1番が最高傑作でしょう。それどころか、これは個人的な感想ですが、この曲がヴァイオリン協奏曲のベストです。ベートーベン(1806)、メンデルスゾーン(1844)、ブラームス(1878)、チャイコフスキー(1878)の作品が「4大ヴァイオリン協奏曲」などと言われ、またチャイコフスキーを除いて「3大ヴァイオリン協奏曲」との呼び方もあります。しかしこれらは「19世紀のヴァイオリン協奏曲」であり、20世紀まで含めればショスタコーヴィチが一番だと(個人的には)思うのです。

というわけで以下、譜例とともにショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲 第1番を振り返ってみたいと思います。

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ショスタコーヴィチとヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフ、ショスタコーヴィチの息子のマキシム(指揮者)。1973年にリリースされたLPレコードのジャケットがオリジナルである。ショスタコーヴィチはヴァイオリン協奏曲 第1番をオイストラフに献呈した。初演をしたのもオイストラフである。


2つの背景


まず曲の内容に入る前に、この曲を語る上で重要な「政治との確執」と「DSCH音型」について記しておきます。

 政治との確執 

No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」で書いたように、

スターリンはショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を気に入らず、すぐさま共産党の機関誌・プラウダは批判を展開した。

という "事件"(1936)がありました。この結果『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は上演不可能になります。このオペラが再演されたのは改訂版の『カテリーナ・イズマイロヴァ』であり、四半世紀後の1963年のことです。

実はヴァイオリン協奏曲 第1番にも類似の経緯があります。この曲は1948年3月に完成しましたが、時を同じくして1948年2月から「ジダーノフ批判」が始まります。これはソヴィエト共産党の中央委員会書記だったアンドレイ・ジダーノフ(1896-1948)が主導したもので、前衛芸術に対する批判と統制を行ったものでした。音楽ではショスタコーヴィチも批判の標的の一人です。このため、ショスタコーヴィチはヴァイオリン協奏曲第1番の初演を保留しました。初演されたのは、ジダーノフ批判がほぼ収まった1955年10月です。曲の完成から7年半後の初演ということになります。オイストラフの独奏、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団でした。

ちなみに、ジダーノフは第2次世界大戦中のレニングラード攻防戦で、ドイツ軍に包囲されたレニングラードの防衛の総指揮をとった人物です。ショスタコーヴィチの交響曲 第7番のレニングラード初演にも関係があります(No.281 参照)。

『マクベス夫人』と違って、ヴァイオリン協奏曲 第1番が政府から直接批判されたわけではありません。しかし、ショスタコーヴィチは初演をしない方がよいと判断したわけです。現代の我々がヴァイオリン協奏曲 第1番を聴いても、曲の作りとしてはノーマルだし、民族舞踊の要素もあるし、しかも作品として傑作です。初演したところで政府に批判されるいわれはないと思うのですが、当時のソ連の芸術家が置かれていた環境は我々の想像を越えているのですね。

ショスタコーヴィチが初演を取り下げた理由をあえて推測してみると、特に第1楽章にみられる "半音を多用した旋律の進行" だと思います(後述)。なかには、12音が全部現れるパッセージがあったりもする。もちろん、ヴァイオリン協奏曲 第1番は無調性音楽ではありません。れっきとした調性音楽ですが、その範囲で新しい音階(というか旋律の進行の "ありよう")や和声が試されている部分がある。それは芸術家として立派な態度だと思います。

ともかく、このヴァイオリン協奏曲 第1番も『マクベス夫人』のように、「芸術や音楽を一定の型に押し込めようとする独裁政治の圧力」と「新たな作品の創造にかける芸術家の情熱」の間の軋轢や確執に巻き込まれた曲だったわけです。

 DSCH音型 

ヴァイオリン協奏曲 第1番には、ショスタコーヴィチの「音楽的署名」ともいうべき「DSCH音型」が出てきます。ショスタコーヴィチの名前を、ロシア語・英語・ドイツ語・日本語で記述すると、

ロシア語  Дмитрий Шостакович
英語  Dmitri Shostakovich
ドイツ語  Dmitri Schostakowitsch
日本語  ドミトリ・ショスタコーヴィチ

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です。名前のロシア語イニシャル「ДШ」のドイツ語表記は「DSch」であり、この4文字をドイツ語の音名として読んだのが「DSCH音型」です。ドイツ音名では "ミ♭" が "Es" ですが、これは "S" と同じ発音です。またドイツ音名で "H" は "シ" の音です(英語音名と違い、ドイツ音名で "B" は "シ♭")。ということで、"DSCH" の音型が "レ・ミ♭・ド・シ" を表すことになる。逆にいうと "レ・ミ♭・ド・シ" という音の並びがあるとすると、そこに隠された "音楽暗号"は、

"レ・ミ♭・ド・シ"
 → D・Es・C・H → DSCH → DSch
 → Dmitri Schostakowitsch

となります。ドイツ音名を元に暗号を作る際には「ABCDEFGHS」の9文字が使えるわけで、英語音名の「ABCDEFG」よりは自由度があり、ここをうまく利用するわけです。

ちなみに、こういった音楽暗号を最初に用いたのがバッハで、『フーガの技法』に "BACH音型" が出てくることで有名です。また、これを大々的にやったのがシューマンで、自分のイニシャルはもとより、元恋人や奥さん(クララ)、架空の女性名までの音楽暗号を楽曲に忍び込ませています。

そのショスタコーヴィチの音楽的署名であるDSCH音型は、交響曲 第10番(1953)の第3・第4楽章や、弦楽4重奏曲 第8番(1960。冒頭から全曲に渡って現れる)など、作品に繰り返し何度も出てきますが、最も早いDSCH音型の使用例がヴァイオリン協奏曲 第1番(1948)なのです。それは第2楽章に出てきますが、楽章の最後になって現れ、それより前は "DSCH音型の変化形" で現れます。また第3楽章のカデンツァでもDSCH音型が回想されます。このあたりは後述します。



ヴァイオリン協奏曲 第1番は4つの楽章から成り、それぞれに "題名" がついています。演奏時間は合計40分程度です。

 第1楽章 : ノクターン
 第2楽章 : スケルツォ
 第3楽章 : パッサカリア
 第4楽章 : ブルレスケ

第3楽章のパッサカリアの後には長大なカデンツァがあり、休むことなくそのまま第4楽章に突入します。


第1楽章:ノクターン


第1楽章には「ノクターン:夜想曲」という名が付けられています。夜想曲(ノクターン、ノクチュルヌ、ノットゥルノ)という名前のついた曲は、普通は独立した楽曲です。ショパンのピアノ曲(21曲。1831頃~1845頃)が有名だし、フォーレもピアノで夜想曲を書いています(13曲。1870頃~1921)。ドビュッシーの「夜想曲」(1899)は管弦楽作品、ドヴォルサークの「ノットゥルノ」(1883)は弦楽合奏ですが(=弦楽4重奏曲 第4番 第2楽章の編曲)、独立曲であることには変わりません。

つまりショスタコーヴィチのように、楽曲の一部の楽章に「ノクターン」と名付けるのはめずらしいのですが、そのめずらしい中にも大変有名な曲があります。ボロディンの弦楽4重奏曲 第2番(1881)の第3楽章は有名な旋律で始まりますが、この楽章が「ノットゥルノ」と題されています。ショスタコーヴィチはロシアの作曲家としての先輩に習い、自分はヴァイオリン協奏曲でと考えたのかもしれません。さらに、マーラーの交響曲 第7番(1904)の第2・第4楽章も「夜曲(Nachtmusik)」との名前があり、関係があるのかもしれません。

そのノクターンですが、特に形式上の決まりはありません。静かで、夢想的で、甘美で、瞑想しているような気分の曲が多い。このショスタコーヴィチの第1楽章もまさにそういう気分に満ちています。

第1楽章は、第1部(提示)、第2部(展開)、第3部(再現)の3つの部分に分けると考えやすいでしょう。提示・展開・再現という「ソナタ形式」の用語を使いましたが、もちろん厳密な形式ではなく、自由に構成された楽章です。4分の4拍子でModeratoの指示があります。

 第1部(提示) 

曲はチェロとコントラバスが奏でる 譜例168 で始まります。この楽想を「主題1A」としておきます。第1主題 とも言えるでしょう。「主題1A」は連続する「符点4分音符+8分音符」の組み合わせが特徴で、このリズムが第1楽章全般に現れます。以下の「数字-数字」は譜例の小節番号です。

譜例168 (1-5:主題1A)
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5小節目から、独奏ヴァイオリンが 譜例169 で入ってきます。「主題1A」の変奏ですが、音が引き延ばされ、変形したものになっています。

譜例169 (5-9)
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その次の 譜例170 になると、はっきりと「主題1A」になります。ここはヴァイオリンの G線で演奏され、冒頭のチェロ(譜例168)の1オクターブ上になります。

譜例170 (10-13:主題1A)
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さらにその次の14小節では、独奏ヴァイオリンが4つの8分音符を含む旋律を奏でます(譜例171)。これを「主題1B」としておきますが、もちろん「主題1A」の変化形です。この「主題1B」の形も第1楽章の全域に現れます。

譜例171 (14-17:主題1B)
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最初に で始まった第1楽章が一気に強まり、この楽章の最初の ƒ になるのが 譜例172 です。この部分は「主題1A」と「主題1B」からできています。

譜例172 (22-25)
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ディミネンドがかかって静かになったあと、クレッシェンドが始まり、譜例173 で2度目の ƒ になります。

譜例173 (38-43)
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51小節の2拍目から新たな主題が出てきます(譜例174)。「主題1C」としましたが、第2主題 と呼んでもよいでしょう。この「主題1C」の後にも「主題1B」が続き、2つが融合して進んでいきます。

譜例174 (51-54:主題1C)
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独奏ヴァイオリンが再び「主題1C」を静かに演奏するところになると、第1部が終わります。ここまで独奏ヴァイオリンは休むことなく弾き続けてきました。

 第2部(展開) 

79小節から第2部(展開部に相当)に入ります。その最初が 譜例175 で、独奏ヴァイオリンは弱音器を付けて演奏されます。ここは「主題1B」の変奏です。80小節の最初は「シ♭」で、84小節の3拍目の裏にも「シ♭」があります。この2つの「シ♭」の間には12音が全部揃っています。5小節の中に12音が揃うというのは、意図的にそうなっているのでしょう。12音技法ではありませんが、ショスタコーヴィチの新しい試みです。

譜例175 (79-85)
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84小節のシ♭までをドイツ音名(赤色)で書くと(重複は黒色)、"B-G-Ges-Es-D-H-G-Ges-Es-C-Ces-As-G-Es-C-Ces-As-F-E-D-C-H-A-H-C-D-Des-B" となり、"C-Des-D-Es-E-F-Ges-G-As-A-B-H(Ces)" の12音が揃っている。

93小節からは、独奏ヴァイオリンが1弦の「ド」の音を引き伸ばすなか、チェレスタとハープが 譜例176 を演奏します。これと似た部分が交響曲 第5番の第3楽章、Largo にありました。なお 譜例176 は、ここ以前に第1部の終わりの部分でバス・クラリネットの低音で演奏されました。

譜例176 (93-97)
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独奏ヴァイオリンが1弦の高い方の「ド」の音を保持したまま、リテヌートがかかり、ア・テンポで3連符を多用した新たな展開になります(譜例177)。ここは「主題1C」との関連性を感じるところです。99小節の最初の「ド」は前の小節から続く音ですが、ここから103小節の最後の「シ♭」までの5小節の間に12音が全部出てきます譜例175 とそっくりですが、展開されている主題が違います。このあたりはショスタコーヴィチの工夫を感じるところです。なお 譜例177 の音の運びは、第1楽章 第3部のコーダの部分で再現されます。

譜例177 (99-103)
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103小節のシ♭までをドイツ音名(赤色)で書くと(重複は黒色)、"C-H-C-A-H-G-A-H-Gis-A-Fis-Gis-F-G-E-Cis-C-A-As-F-E-Es-C-A-As-F-E-Es-C-A-As-F-E-Es-D-H-Es-D-H-Es-D-H-G-As-B" となり、"C-Cis-D-Es-E-F-Fis-G-Gis(As)-A-B-H" の12音が揃っている。

再びリテヌートがかかり、ア・テンポとなるところで、ファゴットが4分の3拍子に変化させた「主題1A」を演奏します(譜例178)。

譜例178 (108-111:主題1A)
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これを契機に、弱音器をはずした独奏ヴァイオリンが3連符と重音を多用して音楽を盛り上げていきます。その頂点で演奏されるのが「主題1C」です(譜例179)。譜例174 のときと同じように「主題1B」が続き、第2部のクライマックスになります。第2部はフォルテのまま、次の第3部に入ります。

譜例179 (120-123:主題1C)
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 第3部(再現) 

チューバに導かれて独奏ヴァイオリンが「主題1A」(の変化形)を演奏し、第3部(再現部に相当)になります(譜例180)。ここは 譜例170 と同じように G線で演奏されます。このあとにはコントラバスとバス・クラリネットが、第1楽章の独奏ヴァイオリンの出だしの部分(譜例169)を模倣します。

譜例180 (131-137)
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独奏ヴァイオリンによる「主題1C」の再現が続きます(譜例181)。譜例174譜例179 のときと同じように、「主題1B」が伴っています。

譜例181 (142-145)
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リテヌートがかかったあと、ア・テンポとなる164小節からが第1楽章の終結部です(譜例182)。この部分は「主題1C」の変奏で、第2部の 譜例177(12音が揃っているところ)の再現ともなっています。

譜例182 (164-167)
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第1楽章は、独奏ヴァイオリンが1弦の4倍音の「ミ」の音をハーモニクスで伸ばすなか、チェレスタとハープが第2部の 譜例176 を演奏して終わります。



第1楽章は Moderato のゆったりとした楽章ですが、その特徴は独奏ヴァイオリンの旋律が♭や♯、特に♭で揺れ動くことです。次の音は「ソ」かと(無意識に)思っていると「ソ♭」が演奏され、聴いていると、かすかな違和感というか独特のムードを感じ、その感じが持続するなかでまた次の半音下がった音が出てくる、それが連続していきます。これを仮に旋律の「半音進行」と呼ぶとすると、第1楽章は半音進行に満ちています。

そのため、第2部の 譜例175譜例177 のように、12音全部が出てくる旋律の展開があっても違和感はありません。ごく自然に聞こえます。いや、自然などころか、このあたりがまさに聴く人を "のめり込ませる" というか、"しびれる" ところになっています。ショスタコーヴィチはここで新しい音楽のありようを追求したのだと思います。

さらに、半音進行と関係しますが「いつとどまるともしれない独奏ヴァイオリンの進行」も特徴でしょう。たとえば第1部は、第2部に移るまで独奏ヴァイオリンが71小節を弾きっぱなしです。聴いていると無限に続くのではないかとも感じてしまう。ハマるとやみつきになるような雰囲気です。

全体として「静かで、夢想的で、甘美で、瞑想しているような気分」の曲です。思索にふけっている人間の意識の流れを映した感じもあります。


第2楽章:スケルツォ


複合3部形式

第2楽章は「スケルツォ」と題されていて、終結部がついた3部形式になっています。つまり「A B A′ C」の形で、中間部のBは普通「トリオ」と呼ばれます。Cが終結部(コーダ)です。以下、次のように記述します。

◆第1部  = A
◆第2部  = B
◆第3部  = A′
◆終結部  = C

さらに、第1部、第2部、終結部はそれぞれ2つに分かれています。つまり「終結部付きの複合3部形式」です。ここでは、2つに分かれているそれぞれを「前半」「後半」と呼びます。

DSCH音型

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DSCH
最初に書いたように、第2楽章にはDSCH音型が出てきます。但し、完全なDSCH音型は終結部で初めて出現し、それ以前には「変形されたDSCH音型」が出てきます。DSCH音型は、音程で言うと「短2度↑ ・ 短3度↓ ・ 短2度↓」ですが(↑↓は上昇下降の意味)、それが少々違った形で現れます。

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DSCB
まず第1部の後半に現れるのは「短2度↑ ・ 短3度↓ ・ 長2度↓」の形で、これはDSCH音型と違ってピアノの白鍵だけで弾けます(「ミ・ファ・レ・ド」ないしは「シ・ド・ラ・ソ」)。DSCH音型の開始音である「レ」(D)から始めると「レ・ミ♭・ド・シ♭」(ドイツ音名でD・Es・C・B = D・S・C・B)になるので、これを「DSCB音型」と書くことにします。

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DECisH
さらに第3部で現れるのは「長2度↑ ・ 短3度↓ ・ 長2度↓」の形で、これもピアノの白鍵だけで弾けますが(「ド・レ・シ・ラ」ないしは「ファ・ソ・ミ・レ」)、レ(D)から始めると「レ・ミ・ド♯・シ」(D・E・Cis・H)となり、これを「DECisH音型」と呼ぶことにします。

DSCB音型からDECisH音型になり、第2楽章の最後である終結部の後半で "正式のDSCH音型"(=ショスタコーヴィチの音楽的署名)になるというのが、この動機の展開です。実際に聴いていると、この3つの音型は大変に似通ってきこえます。

 第1部:A 

前半

冒頭からフルートとバス・クラリネットがスケルツォのメインの主題である「主題2A」(譜例183)を Allegro で演奏します。変ロ短調の8分の3拍子です。その裏で、独奏ヴァイオリンが「主題2B」(譜例183)を演奏します。これは第2部(トリオ)前半の主要主題となるものですが、この時点では独奏ヴァイオリンが木管の伴奏に回ります。

譜例183 (1-8:主題2A)
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譜例184 (1-8:主題2B)
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木管による「主題2A」の提示がひと通り終わると、独奏ヴァイオリンが序奏を経て、33小節から「主題2A」を演奏します(譜例185)。その後、この主題が展開されていきます。

譜例185 (33-40:主題2A)
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99小節になると独奏ヴァイオリンが「主題2B」をはっきりとした形で演奏し(譜例186)、そのあと「主題2A」が続きます。このあたりにはフォルテシモの指示があり、前半のヤマ場です。

譜例186 (99-106:主題2B)
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後半

135小節になると、それまでの変ロ短調(♭5つ)から、嬰ト短調(♯5つ)になり、第1部の後半に入ります。後半の最初は、木管で演奏される「DSCB音型」です(譜例187)。実際の音はDSCBより半音高い「Dis→E→Cis→H」です。DSCH音型とその変化形(DSCB, DECisH)をまとめて「主題2C」とします。

譜例187 (135-142:主題2C - DSCB音型)
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その後「主題2C」は独奏ヴァイオリンでも繰り返されます。162小節の 譜例188 と、177小節の 譜例189 です。曲は疾走感を保ったまま、第2部のトリオへと突入します。

譜例188 (162-169:主題2C - DSCB音型)
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譜例189 (177-183:主題2C - DSCB音型)
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 第2部:B(トリオ) 

前半

普通、スケルツォの中間部のトリオというと、速度を落とした穏やかな感じにして前後との対比を明確にしますが、ショスタコーヴィチは全く逆です。トリオには Poco piu mosso の指示があり、第1部よりさらに速くなります。また、それまでの8分の3拍子から突如、4分の2拍子に変わり、調性は第1部の前半と同じ変ロ短調(♭5つ)に戻ります。

最初は独奏ヴァイオリンの「主題2B」(譜例190)です。「主題2B」は第1部の前半にも出てきましたが(譜例184譜例186)ここで完全な形で提示されます。このような進行でスケルツォ全体の統一性がはかられています。

譜例190 (198-205:主題2B)
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後半

トリオの後半は同じ4分の2拍子ですが、ホ短調に変わります。ここでは新しい「主題2D」(譜例191)が木管と木琴で提示されます。これは民族舞踊を思わせる旋律です。この「主題2D」は第2楽章の終結部や、後の第3楽章のカデンツァでも回想され、曲全体の統一感を生みます。独奏ヴァイオリンがこの主題を展開して曲が進んでいきます。

譜例191 (255-262:主題2D)
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独奏ヴァイオリンとファゴットの掛け合いのところになると、第2部(トリオ)も終わりです。

 第3部:A′(第1部の再現) 

第1部の 変ロ短調、8分の3拍子、Allegro に戻り、独奏ヴァイオリンが「主題2A」を再現します(譜例192)。

譜例192 (328-335:主題2A)
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ここからは独奏ヴァイオリンと木管の掛け合いが始まります。そこにヴィオラなどの弦楽器も加わり、独奏とオーケストラが "協奏" が続きます。「主題2B」が聞こえ、管楽器には「主題2C -DECisH音型」が現れます。369小節まできて独奏ヴァイオリンが 譜例193 を演奏しますが、これはトリオの後半の「主題2D」にもとづきます。

譜例193 (369-376:主題2D)
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独奏ヴァイオリンと木管の掛け合いが続きますが、427小節に出てくるオーボエの「主題2C」を 譜例194 に示しました。第1部の後半の「主題2C」は「DSCB音型」でしたが、第3部では「DECisH音型」になっています。ここでの実際の音は「F→G→E→D」です。

譜例194 (427-434:主題2C - DECisH音型)
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「主題2C」(DECisH音型)は、449小節からの独奏ヴァイオリンにも現れます。実際の音は「Ces→Des→B→As」です。

譜例195 (449-456:主題2C - DECisH音型)
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独奏ヴァイオリンによる「主題2A」の展開とオーケストラとの協奏は続き、激しい動きやグリッサンドがあったあと、曲はさらに速度を早めて終結部へと進みます。

 終結部:C 

前半

終結部は4分の2拍子、ト短調で、トリオの後半の「主題2D」で始まります(譜例196)。

譜例196 (546-549:主題2D)
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後半

さらに進むと8分の3拍子に変わり、独奏ヴァイオリンが「DSCH音型」を強烈に演奏します(譜例197)。実際の音は「As→A→Ges→F」です。ここに至って、ショスタコーヴィチの「音楽的署名」が完成したことになります。なお、「DSCH音型」は第3楽章のカデンツァで回想されます。譜例197 のあと、独奏ヴァイオリンが激しい動きを繰り返すなかで、第2楽章は終了します。

譜例197 (567-574:主題2C - DSCH音型)
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第2楽章は、第1楽章の気分とは全く違った "高速スケルツォ" です。スケルツォは日本語で「諧謔曲」と言うそうですが、諧謔とは "冗談" の意味です。その通り、独奏ヴァイオリンの動きには冗談のような、"おどけた" 感じや "ひょうきんな" 動きがいろいろとあります。こういった曲はショスタコーヴィチが最も得意とするものの一つです。

最後の最後で "DCSH = ドミトリ・ショスタコーヴィチ" が高らかに演奏されます。しかも変遷を重ねてたどり着いた "DCSH" です。この意味は「ショスタコーヴィチはここにあり」ということでしょう。まさにそれがピッタリの音楽だと思います。


第3楽章:パッサカリア


パッサカリアは古くからある3拍子のゆるやかな舞曲です。第3楽章ではまず「パッサカリアの主題」がチェロとコントラバスで提示され、その後に「9つの変奏」が続きます。9つの変奏は、基本的には低音部が主題を演奏し、独奏ヴァイオリンが対旋律を演奏する形ですが、一部、独奏ヴァイオリンが主題を演奏することもあります。

主題と各変奏は、それぞれ17小節から成ります。但し第8変奏は18小節、カデンツァへの橋渡しとなる第9変奏は11小節です。

 主題:1-17 

まずチェロとコントラバス、ティンパニが 譜例198 の「主題3A」を提示します。これがパッサカリアの主題です。それと同時にホルンが 譜例199 の副主題(主題3B)で続き、この2つのパートの掛け合いで主題の提示が進みます。副主題にもティンパニが加わり、荘厳な雰囲気を作り出します。

譜例198 (1-8:主題3A - パッサカリアの主題)
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譜例199 (1-8:主題3B - 副主題)
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このパッサカリアの主題(主題3A)は第4楽章にも出てきます(譜例221譜例224)。

 第1変奏:18-34 

第1変奏において主題はファゴットとチューバが演奏します。それに乗っかってイングリッシュ・ホルンとクラリネット、ファゴットが、コラール風の 譜例200 を奏でます。

譜例200 (18-27)
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 第2変奏:35-51 

主題はチェロとコントラバスに移ります。35小節のアウフタクトから独奏ヴァイオリンが入ってきて対旋律を演奏します(譜例201)。この旋律は最初は「ド」と「レ♭」の半音の間を揺れ動きますが、次第に変イ長調の性格を帯び、変イ音のオクターブの跳躍でそれが明確になります。

譜例201 (34-43)
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 第3変奏:52-68 

第2変奏に続いて主題はチェロとコントラバスにあります。対旋律の独奏ヴァイオリンも第2変奏から連続しています。以降、第6変奏のクライマックスまで、独奏ヴァイオリンは途切れることなく続けて演奏されます。

譜例202 は、第3変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律ですが、同時にイングリッシュ・ホルンとファゴットが第2変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律を演奏します。この、チェロとコントラバスの主題の上に乗った2種の対旋律の動きは、パッサカリアの第1の聴きどころでしょう。

譜例202 (52-57)
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 第4変奏:69-85 

主題はホルンに移ります。譜例203 は独奏ヴァイオリンの対旋律ですが、同時にチェロとコントラバスが第3変奏の独奏ヴァイオリンの対旋律を演奏します。つまり第3変奏と同じ手法です。そしてクレッシェンドがかかって第5変奏へと続きます。第3・第4変奏において、2つのパートの掛け合いで次第に音楽を盛り上げていく手法は見事です。

譜例203 (69-74)
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 第5変奏:86-102 

主題はホルン、チューバ、チェロ、コントラバスです。その上で独奏ヴァイオリンが演奏する対旋律が 譜例204 です。3小節目からの3連符が連続するところでは、非常に明晰な変イ長調の音階を上昇していきます。パッサカリアの第2の聴きどころでしょう。この高揚の行き着く先は、クライマックスの第6変奏です。

譜例204 (86-95)
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 第6変奏:103-119 

第5変奏までは低音部が主題、独奏ヴァイオリンが対旋律という組み立てでしたが、クライマックスの第6変奏に至ってそれが逆転します。第6変奏では、この楽章で初めて独奏ヴァイオリンが主題を演奏し(譜例205)、チェロとコントラバスが対旋律に回ります(譜例206)。

譜例205 (103-110:主題3A)
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譜例206 (103-110)
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 第7変奏:120-136 

第7変奏は第2変奏の再現で、主題はファゴットとチューバです。メゾピアノ・モルト・エスプレシーボの指示がある独奏ヴァイオリンの対旋律(譜例207)は、第2変奏のオクターブ下で、すべて G線で演奏されます。第5変奏から第6変奏にかけての高揚は第7変奏で鎮まり、緊張が緩和されます。

譜例207 (120-128)
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 第8変奏:137-154 

曲は静かになり、チェロとコントラバスがピッツィカートで主題を演奏します。独奏ヴァイオリンが演奏する 譜例208 は副主題(譜例199)の再現です。

譜例208 (137-142:主題3B - 副主題)
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 第9変奏:155-165 

第9変奏は次のカデンツァへの橋渡しとなる部分です。独奏ヴァイオリンだけが主題の変奏を弾きます(譜例209)。ずっと聞こえるティンパニのトレモロは、曲が新しいステージへと進むことを予感させます。

譜例209 (155-160:主題3A)
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 カデンツァ:166-284 

パッサカリアのあとのカデンツァは119小節に及ぶ長大なもので、これだけで1つの楽章と呼んでもいほどです。パッサカリアの「主題3B」(副主題)で始まります(譜例210)。

譜例210 (166-170:主題3B)
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この主題を出発点として曲は発展していき、重音やハーモニクスも使いながらシンフォニックに進行していきます。途中からアッチェルランドがかかってスピードを速め、「さらに速く」の 譜例211 になります。ここの曲想(このリズムを「主題3C」とします)は、後の第4楽章でも何回か出現します(譜例215 など)。

譜例211 (237-240:主題3C)
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このすぐ後で 第2楽章の終結部に出てきたDSCH音型が回想されます(譜例212)。実際の音は、242小節の2拍目から「Cis→D→H→B」 です。最後の B の音が3連符の一部なので分かりにくいのですが、DSCH音型そのものです。合計2回出てきます。

譜例212 (242-243:主題2C - DSCH音型)
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さらに曲が進行し、第2楽章の第2部(トリオ)の後半の「主題2D」(譜例191)が出てくるころになると、カデンツァも終わりに近づきます(譜例213)。

譜例213 (263-265:主題2D)
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この「主題2D」を合図に曲の速度は一段と速まり、重音のグリッサンドが4つ弾かれて、そのまま第4楽章に突入します。


第4楽章:ブルレスケ


ブルレスケとは「道化」を意味し、滑稽でおどけた性格の曲を言います。「道化曲」との日本語訳もあるようです。

楽曲の一部の楽章に "ブルレスケ" の名前があることで思い出すのがマーラーの交響曲 第9番(1909)で、第3楽章に「ロンド・ブルレスケ」の題がついています。ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲の第4楽章もロンド形式なので、マーラーを意識したのかもしれません。ちなみに最初の方に書いたように、第1楽章の「夜想曲」も、マーラーの交響曲 第7番(1904)の第2・第4楽章(夜曲)と関係があるのかもと思います。

それはともかく、ショスタコーヴィチの "ブルレスケ" で感じるのは「祭り」の雰囲気です。祭りで人々が激しい動きの踊りを楽しみ、そこに道化が乱入してくる。そういう感じがします。

カデンツァから続く第4楽章は、ティンパニの導入部で始まります。この協奏曲は、ティンパニが要所要所で効果的に使われているのが印象的です。すぐに木管と木琴がこの楽章の主要主題である「主題4A」を演奏します(譜例214)。これがロンド主題で、この主題(の変奏)は以降たびたび現れることになります。

譜例214 (4-12:主題4A - ロンド主題)
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オーケストラがロンド主題を展開したあと、独奏ヴァイオリンがおどけた感じで入ってきて、クラリネットと競演します。そのあとに独奏ヴァイオリンがロンド主題を演奏します(譜例215)。譜例215 の5小節目以降は、カデンツァの「主題3C」(譜例211)と同じ曲想です。つまり 譜例215 は「主題4A」+「主題3C」になっています。「主題3C」は以降の第4楽章に何回か現れます。

譜例215 (45-53:主題4A + 主題3C)
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さらに独奏ヴァイオリンは G線でロンド主題を弾きます(譜例216)。これは第4楽章の最初の 譜例214 とほぼ同じです。

譜例216 (64-71:主題4A - ロンド主題)
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独奏ヴァイオリンの展開が続いたあと、今度は新しい「主題4B」が出てきます(譜例217)。シンコペーションがかかったリズムは、民族舞踊のテーマという感じを強く受けます。

譜例217 (90-97:主題4B)
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この「主題4B」が展開されたあと、独奏ヴァイオリンにロンド主題が回帰しますが、今度は 譜例218 のように変奏された形です。このあとには独奏ヴァイオリンが「主題3C」を、4弦全部のピッツィカートで演奏するところがあります。

譜例218 (134-141:主題4A - ロンド主題)
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さらに独奏ヴァイオリンによる展開が続きますが、一段落したところで管楽器が新たな「主題4C」を演奏します(譜例219)。この主題も「主題4B」と同じく民族舞踊の感じがします。これは弦のパートに引き継がれ、しばらく管楽器と弦楽器の掛け合いが続きますが、遅れて独奏ヴァイオリンも「主題4C」を模倣して入ってきます(譜例220)。

譜例219 (176-182:主題4C)
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譜例220 (215-221:主題4C)
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そうこうしているうちに曲は4分の2拍子から4分の3拍子に変わってしまい、突然という感じでクラリネット・木琴とホルンが第3楽章「パッサカリア」の「主題3A」を演奏します。ホルン(譜例221)はクラリネット・木琴の1小節遅れで、ここはカノンになっています。

譜例221 (240-247:主題3A - パッサカリアの主題)
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独奏ヴァイオリンの激しい動きが続いたあとにロンド主題が回帰しますが、今度は3拍子になっています(譜例222)。

譜例222 (257-262:主題4A - ロンド主題)
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3拍子による独奏ヴァイオリンの展開が続いたあと、再び4分の2拍子に戻ってコーダに突入します。Presto の指定があるコーダの最初が 譜例223 です。曲想がここでガラッと変わり、曲の最後が近いことが予感されます。

譜例223 (299-306)
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これ以降、オーケストラと独奏ヴァイオリンは最後までまっしぐらに進みますが、途中、独奏ヴァイオリンが「主題3C」を弾いた直後、譜例221 と同じようにホルンがパッサカリアの主題を鳴らします(譜例224)。

譜例224 (338-344:主題3A - パッサカリアの主題)
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もちろん、それとは関係なくオーケストラと独奏ヴァイオリンは突き進み、「祭り」が最高潮に達して第4楽章が終わります。


曲全体を通して


ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲 第1番の全曲を聴いて思うのは "対比の妙" です。まず第1楽章・第2楽章の「静かで瞑想的」と、第2楽章・第4楽章の「疾走するお祭り騒ぎ」の対比です。

その「静かで瞑想的」な第1楽章と第3楽章は性格が違い、これも対比されています。第1楽章の「夜想曲」は、半音進行を多用した20世紀の作品ならではのものです。一方の第3楽章の「パッサカリア」ですが、パッサカリアと聞いてまず思い浮かぶのはバッハの「パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582」です。ショスタコーヴィチのパッサカリアはバッハへのオマージュでしょう。調性は♭4つのへ短調、ないしは変イ長調をずっと維持し、目立った半音進行はありません。そこで繰り広げられる対位法音楽は、西洋音楽の伝統の再現を強く意識しているはずです。

さらにこの曲は、ヴァイオリンという楽器が持つ幅広い表現力を引き出しています。クラシック音楽では「ヴァイオリン」ですが、同じ楽器を(同等の楽器を)民族音楽に使うと「フィドル」です。第2楽章(スケルツォ=諧謔=冗談)と第4楽章(ブルレスケ=道化)は、祝祭の音楽に使うフィドルを想起させます。たとえばロシアにも影響が大きいロマ音楽のフィドルの使い方です。これはショスタコーヴィチが影響されたという意味ではなく、そこまでヴァイオリンの多彩な表現を駆使しているということです。

この記事の最初の方に「数あるヴァイオリン協奏曲の中ではこれがベスト」と書いた理由の一つは、"伝統的" と "斬新さ" が共存し、また "芸術" と "祝祭" が調和的に一体化しているからでした。


演奏


最後に、この曲の極め付きの演奏(LIVE録画映像)を紹介します。日・場所・演奏者は次の通りです。

◆日・場所:
 2000年11月26日(日)
 サントリー・ホール(東京)
 「サントリー・ホール30周年記念演奏会」
◆オーケストラ:
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
◆指揮:
 マリス・ヤンソンス
◆ヴァイオリン独奏:
 ヒラリー・ハーン

https://www.youtube.com/watch?v=8HZVQyD9rsY
(2020年5月16日現在のurl)

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2000年11月26日のサントリー・ホールでの演奏会を紹介したベルリン・フィルのサイト、"Berliner Philharmoniker Digital Concert Hall" より画像を引用。ちなみに、ヒラリー・ハーンの誕生日は1979年11月27日なので、彼女の20歳最後の日の演奏である。




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No.283 - ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 [音楽]

前回の No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」の続きです。以下の "番組" とは、音楽サスペンス紀行「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)のことです(No.281 参照)。


プラウダ批判


1936年1月26日、スターリンはモスクワのボリショイ劇場でオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を観ましたが、第3幕が終わったところで席を立ちました。翌々日の1月28日、共産党機関誌「プラウダ」は『マクベス夫人』を批判する記事を掲載しました。いわゆる「プラウダ批判」です。

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画面の左下の記事がいわゆる「プラウダ批判」。「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)より。

私はロシア語を読めないので英訳にあたってみると、記事の見出しは "Muddle instead of Music" です。"Chaos insted of Music" との訳もあるようです。日本語に直訳すると「音楽ではなく混乱」ぐらいでしょう。番組にあったように "支離滅裂" というのもあると思います。

いったい『マクベス夫人』の何が批判されたのでしょうか。番組において、サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長のラリサ・ミレル氏は次のように語っていました(No.281 で引用)。


【ラリサ・ミレル】(サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長)

スターリンが聴いたこのオペラは、かなり革新的なものでした。「大衆が理解できない」とスターリンは批判したんです。彼にとって音楽とはシンプルで分かりやすく、大衆的なものでなくてはならなかったからです。政治と音楽は渾然一体でした。人々を一つの「型」に押し込めようとしたんです。

音楽サスペンス紀行
ショスタコーヴィチ
死の街を照らしたレニングラード交響曲
(NHK BS プレミアム。2020年1月16日)

この引用の下線のところが批判の要約ですが、もう少し詳しく言うとどういうことなのか。「プラウダ批判」の英訳版から、その前半を試訳してみると次の通りです。


「プラウダ批判」試訳



28 January 1936, Pravda
Muddle instead of Music

With the general cultural development of our country there grew also the necessity for good music. At no time and in no other place has the composer had a more appreciative audience. The people expect good songs, but also good instrumental works, and good operas.

1936年1月28日、プラウダ
音楽でなくて混乱

我が国の文化の一層の発展のため、良い音楽の必要性が高まっている。作曲家にとってこれほど鑑賞眼のある聴衆がいた時代や国は他にない。人々は良い歌を期待すると同時に、良い器楽曲やオペラを要望している。

Certain theatres are presenting to the new culturally mature Soviet public Shostakovich's opera Lady MacBeth as an innovation and achievement. Musical criticism, always ready to serve, has praised the opera to the skies, and given it resounding glory. The young composer, instead of hearing serious criticism, which could have helped him in his future work, hears only enthusiastic compliments.

現在、いくつかの劇場はショスタコーヴィチのオペラ『マクベス夫人』を革新的な業績として、新しい教養あふれるソヴィエトの聴衆に向けて公演している。用意周到な音楽批評家はこのオペラを高く賞賛し、彼らが与えた栄誉は鳴り響いている。オペラの若い作曲家は熱狂的なお世辞ばかりを聞き、将来の作品の助けになるかもしれない批判を聞こうとはしない。

From the first minute, the listener is shocked by deliberate dissonance, by a confused stream of sound. Snatches of melody, the beginnings of a musical phrase, are drowned, emerge again, and disappear in a grinding and squealing roar. To follow this "music" is most difficult; to remember it, impossible.

聴衆は最初の1分から、意図的な不協和音や、混迷した音の流れにショックを受ける。音楽フレーズの始まりの断片的なメロディーは、浮き沈みするうちに、きしんだ金切り音の唸りの中に消えてしまう。この "音楽" をたどるのは極めて難しく、記憶するのは不可能である。

Thus it goes, practically throughout the entire opera. The singing on the stage is replaced by shrieks. If the composer chances to come upon the path of a clear and simple melody, he throws himself back into a wilderness of musical chaos - in places becoming cacaphony. The expression which the listener expects is supplanted by wild rhythm. Passion is here supposed to be expressed by noise.

このようにしてオペラのほとんどすべてが進んでいく。舞台での歌唱は、金切り声に変わってしまう。作曲家は、明快で簡潔なメロディーの道に遭遇したとしても、すぐにきびすを返し、不協和音の地に似つかわしい音楽的カオスの荒野へと向かう。聴衆が期待する表現は、野蛮なリズムに取って替わられる。ここでは情熱を騒音で表現しようとしているようだ。

All this is not due to lack of talent, or lack of ability to depict strong and simple emotions in music. Here is music turned deliberately inside out in order that nothing will be reminiscent of classical opera, or have anything in common with symphonic music or with simple and popular musical language accessible to all.

これらすべては音楽の才能の欠如でもなければ、音楽で強くシンプルに感情を表現する能力の欠如でもない。ここでは音楽が意図的に裏返えしにされ、伝統的なオペラを連想するものが無いように、また、シンフォニックな音楽との共通性や、誰もが理解できる簡素でポピュラーな音楽の言葉との共通性が無いようにしてある。

This music is built on the basis of rejecting opera - the same basis on which "Leftist" Art rejects in the theatre simplicity, realism, clarity of image, and the unaffected spoken word - which carries into the theatre and into music the most negative features of "Meyerholdism" infinitely multiplied. Here we have "leftist" confusion instead of natural human music. The power of good music to infect the masses has been sacrificed to a petty-bourgeois, "formalist" attempt to create originality through cheap clowning. It is a game of clever ingenuity that may end very badly.

この音楽はオペラを拒否する前提で作られている。それは演劇における革新派の芸術が、簡潔さ、リアリズム、明晰なイメージ、素朴な発話を拒否するのと根が同じである。それはメイエルホリド主義の最も否定的な面を演劇と音楽に持ち込み、無限に増殖させた。ここに我々は自然で人間的な音楽ではなく、革新派の混乱を見る。大衆に感染する良い音楽の力が、小ブルジョア的で、独自性を安っぽい道化で作ろうとする形式主義者への捧げ物になった。これは如才ない巧妙なゲームであるが、最悪の結末になるかもしれない。

《メイエルホリド主義》:メイエルホリドは演劇革新運動を起こしたロシアの演出家で俳優。ショスタコーヴィチとも交流があった。スターリンの大粛清の犠牲になり、銃殺された。

《革新派》:英語はleftist。直訳すると左翼であるが、社会主義国家の中の文化的左翼のことなので、革新派とした。

《形式主義》:内容より形式を重視する文学や演劇、音楽を指す言葉だが、当時のソ連では大衆に奉仕しない音楽を糾弾する言葉として使われた。

The danger of this trend to Soviet music is clear. Leftist distortion in opera stems from the same source as Leftist distortion in painting, poetry, teaching, and science. Petty-bourgeois "innovations" lead to a break with real art, real science and real literature.

このような傾向がソヴィエトの音楽にもたらす危険性は明らかである。革新派によるオペラの歪曲は、絵画、詩、教育、科学における革新派の歪曲と同根である。小ブルジョア的な "革新" が、真の芸術、真の科学、真の文学を毀損するに至っている。

■■■ 以下、略 ■■■

【英語訳の出典】
https://sutalkmusic.files.wordpress.com/2012/11/muddle-instead-of-music.pdf
(2020.4.18 現在のurl)


『マクベス夫人』の何を批判したのか


試訳は、ロシア語 → 英語 → 日本語の重訳なので、原文からは意味にズレがあるかもしれません。また英訳自体に意味のとりにくい部分もあるので、訳として不自然なところがあります。しかし大筋では「プラウダ批判」が何を言っているのかが理解できます。

訳出したのは「プラウダ批判」の前半だけですが、この前半で「言いたいこと」は尽きています。読むとすごい文章です。『マクベス夫人』を徹底的にこき下ろしているし、それどころか「粛清するぞ」という脅しととれるような発言もある。

分かるのは、『マクベス夫人』を批判するといっても、それは『マクベス夫人』の音楽を批判していることです。実は、訳出しなかった後半には「カテリーナをブルジョア社会の犠牲者のように描いているが、レスコフの原作はそうではない」とか(これは正しい。No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」参照)、ダブルベットを舞台に置くような演出に対して「下品だ」というような批判があります。しかしこのような台本や演出に関することは全体からするとわずかであり、ほとんどがショスタコーヴィチの音楽に対する批判です。

その音楽について「プラウダ批判」が言いたいことを、私なりに少々の補足を加えてまとめると、ソ連におけるオペラ音楽のあるべき姿は、

・ 明快で簡潔なメロディーがあり、聴衆は音楽をたどれるし、記憶できる。
・ 人間の感情が朗々とした歌唱で表現されている。
・ シンフォニックな音楽や伝統的なオペラとの共通性もある。
・ ポピュラー音楽の愛好者も理解可能である。
・ 全般的に言うと「自然で人間的な音楽」である。

ということでしょう。要するに「分かりやすく平明な音楽」ということです。しかし『マクベス夫人』の音楽は、あるべき姿とは正反対で、つまり、

・ 不協和音や野蛮なリズムに満ちている。
・ 歌唱は金切り声で、軋んだオーケストラの唸りは騒音のようだ。
・ メロディーは断片的で、混迷した音の流れの中に埋没する。
・ 音楽をたどるのは困難であり、記憶するのは到底不可能だ。

ということだと思います。プラウダの記事の筆者は、ショスタコーヴィチに才能がないからそうなったと言っているのではありません。この音楽は才能のある作曲家が意図的に作ったものだと言っている。つまり『マクベス夫人』は1930年代の音楽としては前衛的であり、番組でのサンクトペテルブルク音楽院・学術研究課長の言葉を借りれば「かなり革新的な音楽」なのです。そこが批判のポイントです。



しかし「プラウダ批判」に反論(?)すると、まず "騒音" とか "金切り音" とかは、この音楽を否定するための罵声に近いものであって、ショスタコーヴィチの音楽を聴くとそんなことは全くありません。

それどころか、ショスタコーヴィチの音楽スタイルは『マクベス夫人』という "ドラマ" と良くマッチしています。このオペラは主人公のカテリーナがどこまでも転落していく物語であり、"救いのない物語" です。そこで描かれるのは、"愛の暗黒面" や "ゆがんだ愛" であり、暴力的な行為であり、連続犯罪とそれによる死です。この普通ではない、異常とも言えるドラマの進行とそこでの人間感情の表現には、ショスタコーヴィチの「かなり革新的な音楽」がピッタリなのです。

例をあげると、プラウダ批判は「最初の1分から、意図的な不協和音や、混迷した音の流れにショックを受ける」としています。最初の1分に現れるのはカテリーナの歌唱ですが、島田雅彦氏はこの部分を「冒頭のカテリーナのアリアは、ワーグナーの影響を強く受けたショスタコーヴィチによって『トリスタンとイゾルデ』風のやるせない和音で彩られる」と書いています(No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」参照)。さすがに作家は的確な日本語を繰り出すと思うのですが、「冒頭のトリスタン風の不協和音 = カテリーナやるせなさ」なのです。

「プラウダ批判」に "野蛮なリズム" とありますが、これは当たっています。だけど、このオペラにはレイプ・シーンを始めとして "野蛮な" シーンがいろいろあります。それは物理的な暴力だけでなく、たとえば第1幕で舅のボリスが「結婚して4年になるのにまだ子ができない」とカテリーナをネチネチと責めるような "精神的な野蛮さ" もある。そういった状況での音楽は "野蛮なリズム" がピッタリなのです。

絵画の比喩で言うと、このブログで引用した絵にピカソの『泣く女』と『ゲルニカ』がありました(いずれも No.46「ピカソは天才か」で画像を引用)。この両方の絵とも人間(や動物)の姿を要素に分解し、それをデフォルメし、再構成・再配置していて、具象とはかけ離れた絵画です。これは、激しく慟哭する人やそれを目の当たりにした人の感情、無差別爆撃にさらされた住民の恐怖やそれを知った人の怒りを表現するにはピッタリの手法です。この2作が傑作である大きな理由は、絵画のテーマと絵画手法がマッチしていることだと思います。

絵画とオペラは芸術のジャンルが違うので一概なことは言えませんが、『マクベス夫人』もこのピカソの絵の例と似ていると思います。ドラマの内容と使われた音楽手法が不可分に一体化しているのです。

しかし、そんなことはプラウダ紙(=ソ連の共産党独裁政権の機関誌)にとっては関係ないのですね。「プラウダ批判」は『マクベス夫人』の批判であると同時に、ショスタコーヴィチの初期作品にみられる "前衛的・実験的傾向" の批判であり、また、当時のソ連の芸術(音楽、演劇、文学)における革新派を攻撃したものだからです。それは一読すれば明瞭です。



ここで改めて「プラウダ批判」が主張する「音楽のあるべき姿」を考えてみたいと思います。前提として当時のソ連の政治状況は全く考慮しないものとします。つまり、共産党独裁政権、スターリン体制、音楽(芸術)は共産主義社会の建設に貢献すべきという指針などの、当時のソ連の芸術と政治の関係を一切抜きにし、純粋に音楽についての議論とします。とすると、プラウダが言っている「オペラの音楽のあるべき姿」つまり、

・ 明快で簡潔なメロディーがあり、聴衆は音楽をたどれるし、記憶できる。
・ 人間の感情が朗々とした歌唱で表現されている。
・ シンフォニックな音楽や伝統的なオペラとの共通性もある。
・ ポピュラー音楽の愛好者も理解可能である。
・ 全般的に言うと「自然で人間的な音楽」である。

などは、それはそれで的ハズレではないと思うのです。少なくとも一理も二理もある。これはオペラの音楽のみならず、いわゆる "芸術音楽" 全般に言えます。音楽は人間の感覚に直接訴えるものであり、自然で人間的なものであるべきだ。要はそういうことです。

ショスタコーヴィチはこの「プラウダ批判」に答える形で交響曲第5番(1937)を作曲し、それはソ連政府のみならず聴衆からも支持され、また現在も世界中で演奏されていて、幾多の交響曲の中でも屈指の名曲となっています。それはとりもなおさず「プラウダ批判」が的ハズレではないことを意味しています。その交響曲第5番はどういう音楽なのでしょうか。


交響曲第5番


ショスタコーヴィチは「プラウダ批判」に答える形で交響曲第5番(1937)を発表したのですが、番組では次のように解説されていました。


批判の嵐と粛清の波。親類や友人たちが次々と逮捕されていた。そしてショスタコーヴィチもついに尋問に呼び出される。生き延びるためにできることは限られていた。

尋問のあと、新たに発表した交響曲第5番は、持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品となった。この曲は政府からも評価され、粛清の危険を脱した彼は、息をひそめるように作曲活動を続けたという。

ショスタコーヴィチ:
死の街を照らしたレニングラード交響曲
(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)

確かに交響曲第5番は、分かりやすく平明な曲です。全体は4楽章で、ソナタ形式のオープニング(第1楽章)に始まり、スケルツォ(第2楽章)、緩徐楽章(第3楽章)、フィナーレ(第4楽章)と続く構成は、19世紀の交響曲の最盛期の構成そのものです。

記憶に残りやすい主題や旋律が全曲に散りばめられているのも特徴です。特に4つの楽章それぞれの冒頭の主題が印象的で、楽章の最初から聴衆を引き込むようにできている。全体に繰り返しが多く、聴衆としては音楽の構成をたどりやすい。

また印象的という以上に、音楽の歴史や先人を踏まえていると思われるところが多々あります。全体的にマーラーの交響曲との類似性を感じるし、ビゼーのオペラ『カルメン』からの引用らしきところもある。この第5番は「19世紀末に作曲されたといってもおかしくない曲」です。

さらに全曲の開始の部分、つまり第1楽章の冒頭のリズムは、ベートーベンの交響曲第9番の冒頭を踏まえているのではないでしょうか。ないしは、ブルックナーの交響曲第8番の冒頭のリズムです(譜例167)。そもそもブルックナーはベートーベンを意識したと考えられます。つまりショスタコーヴィチの交響曲第5番は、「第9」と似たリズムで交響曲を開始することで先人(ベートーベン)を踏まえたと同時に、ベートーベンの「第9」と似たリズムで交響曲を開始するということそれ自体が先人(ブルックナー)を踏まえているのだと思います。

譜例167: ベートーベン/ブルックナー/ショスタコーヴィチ
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ベートーベンの「交響曲第9番」、ブルックナーの「交響曲第8番」、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」の冒頭数小節。2つのパートだけを抜き出した。ブルックナーとショスタコーヴィチはベートーベンを踏まえていると同時に、ショスタコーヴィチはブルックナーも踏まえていると考えられる。またショスタコーヴィチはカノンで始めているが、カノンはベートーベンの時代よりも古い音楽形式である。

しかし、そういった中にも "ショスタコーヴィチらしさ" が全開です。特にショスタコーヴィチ独特の個性を感じる天性のリズム感です。比喩で言うと「体操やアイススケートで妙技を連続して見る感じ」、または「警句やウィットに満ちた小説家の文章を読む感じ」です。

まとめると、交響曲第5番はまさに「持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品」です。絵画の比喩で言うと、今までキュビズムの絵を描いていた画家が、急に印象派のような作品を製作した。もちろんこれは作品の良し悪しとは全く関係がありません。この交響曲第5番は音楽としては傑作です。そのポイントを一つだけあげるとすると、第3楽章の "壮絶な美しさ" です。この音楽は、交響曲という範疇で最も美しい楽章の一つでしょう。プラウダ批判が言う「音楽のあるべき姿 = 分かりやすく平明」という範囲で、これだけの傑作を書けるというショスタコーヴィチの才能はすごいと思います。


第5番は作曲家の本意ではない


しかし作曲の経緯をみると、交響曲第5番は「無理いされて作った音楽、やむを得ずに作った音楽、極端に言うと粛清で投獄されたり銃殺されないために作った音楽」です。それまでにショスタコーヴィチが作ってきた音楽(たとえば『マクベス夫人』)とは明らかに異質です。これは「作曲家が本来やりたかった音楽ではない」と考えるのが妥当でしょう。



全く唐突に話が飛びますが、司馬遼太郎の本に織田信長に仕えた坪内という姓の料理の名人の話が出てきます(名前は伝わっていません)。坪内は信長の御賄頭おんまかないがしら、つまりコック長でした。以下、本から引用します。


坪内は、織田家につかえる前には三好氏のコック長であった。三好氏は戦国末期に京を占領していた大名だから、坪内がそのコック長である以上、その腕の確かさはむろんのこと、室町風のうるさい儀典料理にも通じていておそらく当時日本一という定評ががったはずである。信長が三好氏を追ったとき、このコック長は捕虜になって岐阜に送られた。

岐阜で四、五年、「放し囚人めしゆうど」として暮らしたと「続武者物語」などにはあるから捕虜とはいえ、多少の自由はあったのであろう。ただ、包丁は持っていない。それを惜しいとおもったのは織田家の御賄頭の市原五右衛門で、坪内ほどの名人にものをつくらせぬということはありますまい、ぜひ上様の御膳はかれの包丁にてつかまつればいかがでございましょう、と献策した。

信長は、物の味にさほどの関心のあった男ではなさそうで、坪内をそれほど珍重する気はなかったらしい。

ひとまず、承知した。ただし、
── 膳はつくらせる。しかしまずければ殺す。
というのが、信長の条件であった。

坪内は夕餉ゆうがれい(引用注:夕食のこと。ゆうげと読むのが普通)をつくった。

試食し、信長は激怒した。このように薄味の水くさいものが食えるか、というのである。

坪内はおどろかず、いまひとたびの機会をあたえてもらいたい、翌朝の餉をつくらせてもらいたい、それにてもなお上様のお舌にあわぬとあれば自分は切腹なりともなんなりともする、といった。その言葉が信長にとどけられた。信長はゆるした。

その翌朝の朝餉で信長は満足した。「信長公 御感 ナナメナラズシテ 坪内ヲ御家人ニ召シ出サル旨 オホセ出サル」。

「あたりまえのことさ」
と、坪内はあとで料理人仲間にいったらしい。最初につくった膳は京風の味だから信長公のお舌にあわなかったのさ、二度目の味はあれは田舎味だ、塩梅を辛ごしらえでやったのだ、「故ニ御意ニ入リ候ト言フ。信長公ニ恥辱を与ヘ参ラセシト笑ヒケルト也」。


まさに "面従腹背" を地でいく話です。表面的にはうやうやしく従うように見せかけながら、裏では "アッカンベー" をしている。しかしこの話がすごいのは単なる面従腹背ではないところです。つまり、

◆ 料理人・坪内は、自らの命を賭けて夕食を京風味にし、朝食は田舎味にした。

◆ 彼はこの賭に勝ち、御家人の地位を得ると同時に、歴史書に残る "恥" を信長にかかせた。

というところです。自分の "生殺与奪権" を握っている信長が激怒することを承知の上で、あえて京風の味付けの料理を出すというところに、天下一の料理人の凄みがある。

歴史書にはないようですが、御家人に取り立てられた坪内はその後どうしたのでしょうか。もし信長が満足する味の料理を作り続けたのだとしたら、技量は確かに日本一かもしれないが、プライドが勝ちすぎていて料理人としては修行が足りないと思います。

もし坪内が真に "料理という芸術" を理解した料理人なら、信長の怒りを買わない範囲で、徐々に信長を「京風の味」に慣らしていくと思います。当時の優秀な戦国武将をみても、天下一の武人が文化人でもある例はいろいろあります。「田舎味に慣れた武将をもとりこにする京料理の奥の深さ」を発揮してこそ、料理という芸術がわかった料理人のはずです。



ショスタコーヴィチとは全く関係がありませんが、思い出したので司馬遼太郎の本から引用しました。この話がショスタコーヴィチの創作過程と似ていると思ったからです。

ショスタコーヴィチは『マクベス夫人』に至るまで、革新的な(前衛的で実験的な)音楽を作っていました。それを評価する評論家や音楽家仲間も多かったようですが、反対する人たちもいた。そしてショスタコーヴィチは、政府の意向が革新的とは正反対の「分かりやすく平明な音楽」であることは十分に承知していたはずです。芸術は政治と合致するものでなければならないというのが共産党独裁政権の考えです。しかしショスタコーヴィチは "確信犯的に" 前衛的な音楽を作った。

その状況下での「プラウダ批判」という "脅迫文" です。これによってショスタコーヴィチは音楽家生命を絶たれかねないと同時に、命さえ危うくなった。

そこでショスタコーヴィチは交響曲第5番を作り、これには共産党指導部も大満足し、またソ連の聴衆も喝采を浴びせたというのが経緯です。



しかし、ショスタコーヴィチの本領はこれ以降にあります。交響曲第5番(1937)以降、ショスタコーヴィチは "政府に迎合する作品" もいろいろ発表しましたが、そればかりではありません。第2次世界大戦のさなかに交響曲 第7番(1941)を発表したショスタコーヴィチは、続いて交響曲 第8番(1943)を発表します。これはスターリングラード攻防戦の犠牲者への追悼の曲で、暗く、悲劇的なものです。当時はソ連軍が大反攻に転じていたころであり、もっと明るい作品はできないのかとの非難を浴びました。

さらに第2次世界大戦がソ連の勝利で終わり、戦勝を記念して発表した交響曲 第9番(1945)は、第7番、第8番とは全く違う軽妙洒脱な作品であり、ベートーベンの第9のような壮大な作品を望んでいた政府関係者の意向とはかけ離れたものでした。これによってショスタコーヴィチは政府から、いわゆる「ジダーノフ批判」を受け、苦境に立たされることになります。

スターリンの死(1953)とスターリン批判(1956)の後も、政府にとっての "問題作" を作ります。その典型が、交響曲第13番「バービ・ヤール」(1962)です。この交響曲は、ユダヤ人虐殺にからむ反体制的な内容の詩による合唱をもっています。

さらに「プラウダ批判」(1936)でやり玉にあがった『マクベス夫人』です。ショスタコーヴィチは『マクベス夫人』の台本とオーケストレーションの一部を変更し、間奏曲を追加した改訂版のオペラ『カテリーナ・イズマイロヴァ』を作ります。そして1963年に上演許可をとってモスクワで上演します。なぜショスタコーヴィチは四半世紀もたって『マクベス夫人』の実質的な再演にこだわったのでしょうか。考えられる理由としては、

◆ ショスタコーヴィチとして思い入れのある作品であり、オペラとしての自信作だった。

◆ スターリン体制下で批判を受けて上演禁止になり、創作の方向を転換せざるを得なくなった "因縁の" 作品である。是非とも再演してけじめをつけたかった。

などでしょう。しかし、より大きな理由はソヴィエトの体制批判ではないでしょうか。前回の No.282「ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人」に書いたように、このオペラは19世紀後半の帝政ロシア時代の作家、レスコフの同名の小説を原作としています。

◆ 原作は19世紀後半、帝政ロシアの現実の閉塞感と悲劇的な雰囲気を感じる小説であり、

◆ その閉塞感や悲劇的な雰囲気をソヴィエトの政治体制になぞらえた

と考えるのが妥当でしょう。No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番」で引用したように、ショスタコーヴィチの同時代人の回想録に、

第7番はファシズムはもちろん、私たち自身の社会システム、すなわち全体主義体制、すべてを描いている」

という作曲家の発言がありました。純粋器楽でそうなのだから、台本があり、ストーリーがあり、ドラマが演じられるオペラに "体制批判" が隠されていることは十分に考えられると思います。時系列にみると『バービ・ヤール』(1962)の次が『カテリーナ・イズマイロヴァ』(1963)というのも暗示的です。


ショスタコーヴィチがアメリカ人なら


「歴史に if はない」という言葉がありますが、「歴史の if」を想定することは、現実に起こった出来事の意味を考えるときに有用です。それは音楽史でもそうです。

ショスタコーヴィチがもしアメリカに生まれていたら、という if を考えてみると、ショスタコーヴィチは自分の内心から湧き出てくる芸術的感性をもとに自由に作品を作れたはずです。また「他の何ものにも似ていない独自性」を追求するという、芸術家の本性を発揮したことでしょう。その結果、新しい音楽手法を次々と生み出し、音楽評論家からは賞賛され、20世紀の音楽史において、今以上に燦然と輝く存在になったと思います。

しかしそうであれば、交響曲第5番のような作品は生まれなかったのではないでしょうか。

ショスタコーヴィチは、彼にとっては不運な国の不運な時代に生まれたのですが、全く皮肉なことにソ連の共産党独裁政権からの圧力が、広く受け入れられるショスタコーヴィチの名曲を生み出したと思います。少なくとも交響曲第5番はそうです。

このことは交響曲第7番と似ています。第7番は「レニングラードを完全包囲するドイツ軍の圧力」の下で書かれた始めた音楽です。ないしは「ロシア民族の勝利の称える曲を作るようにとの政府の圧力」の下で完成した音楽です。この2つとも芸術家が普通に作品を作るという状況では全くありません。そこで要請されたのは「分かりやすく平明な音楽で、できるだけ多くの市民・大衆が理解できること」です。そうだからこそ、第7番ができた。ここが第5番と似通っています。

ショスタコーヴィチは、当時のソ連の政治体制という、芸術家にとっては最悪の社会環境で生きたロシア人だったからこそ名曲を生み出すことになった。そう思います。



前々回から今回までの3つの記事は、NHKのTV番組・音楽サスペンス紀行「ショスタコーヴィチ:死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム、2020年1月16日)の内容の紹介から始まったものでした。とりあげたショスタコーヴィチの作品は、


でした。この3作品の成立過程をみると、ショスタコーヴィチの苦悩や戦いがよく理解できます。それはとりも直さず、芸術家と社会の関係はどうあるべきかという問いであり、それが極端な形で現れたのだと思いました。




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No.282 - ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人 [音楽]

前回の No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番」の続きです。前回は、ショスタコーヴィチの交響曲第7番に関するドキュメンタリー番組、

音楽サスペンス紀行
ショスタコーヴィチ
死の街を照らしたレニングラード交響曲
NHK BS プレミアム
2020年1月16日

の内容から、交響曲第7番に関するところを紹介し、所感を書きました。この番組の最初の方、第7番の作曲に至るまでのショスタコーヴィチの経歴の紹介で、

スターリンはショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を気に入らず、すぐさま共産党の機関誌・プラウダは批判を展開した。ショスタコーヴィチはそれに答える形で『交響曲第5番』を書いた

という主旨の説明がありました。この件は20世紀音楽史では有名な事件なのですが、ショスタコーヴィチと政治の関係に関わる重要な話だと思うので、以降はそれについて書きます。

『交響曲第5番』(初演:1937。30歳)はショスタコーヴィチ(1906-1975)の最も有名な曲でしょう。聴いた人は多数いるはずです。しかし『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(初演:1934。27歳)を劇場やDVD/BDで観た人は、交響曲第5番に比べれば少数だと思います。そこでまず、これがどういうオペラかを書きます。その内容と音楽がプラウダ紙の批判と密接にからんでいるからです。


ムツェンスク郡のマクベス夫人


『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(以下『マクベス夫人』とも記述)がどういうオペラか、ここでは是非とも作家の島田雅彦氏の解説で見ていきましょう。島田氏はオペラを「命をかけるべき最高の遊戯」と言ってはばからない人で、オペラの台本まで書いています(『忠臣蔵』と『Jr. バタフライ』)。その島田氏の著書である「オペラ・シンドローム」(NHKブックス 2009)から引用します。この本はNHK教育で2008年6月~7月に放映された「知るを楽しむ この人この世界:オペラ偏愛主義」の番組テキストに大幅に加筆したものです。

『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、ロシアの作家、ニコライ・レスコフ(1831-1895)が、その作家生活の初期(1864)に書いた同名の小説が原作です。帝政ロシア時代の小説をソ連時代のショスタコーヴィチがオペラ化したわけで、まずこのことに留意しておきましょう。1934年にレニングラード(現、サンクトペテルブルク)で初演されました。

以下、島田雅彦氏によるこのオペラの紹介です。この紹介の部分は「残酷で救いのない物語」とのタイトルがあります。島田氏は作家らしく、まずオペラの冒頭で歌われるアリアのキーワードを取り上げます。

以下の引用では漢数字を算用数字に改めたところがあります。段落を増やしたところもあります。下線は原文にはありません。


「残酷で救いのない物語」

ロシア語には「タスカー」という言葉があります。直訳すると「もの悲しい」とか「滅入る」といった意味で、死にたくなるところまではいかない暗い気分、要はメランコリーです。てついた空気の、1年のうちの3分の2が曇っているような土地に根づいている感情なのでしょう。

ロシアの人々はそれを否定するでもなく、「タスカー」を歌に歌ったりする。憂いの感情と戯れているのです。そうしなきゃやってられないよ、ということなのでしょう。鬱々とした気分をうまく飼い馴らし、「タスカー」を死なないための知恵に高めている。

憂いを心に秘めている段階ではわだかまりでしかない。けれど、それを発語したり、人に聞いてもらうことで悩みや苦しみを実体化することができる。そうすれば、吐き出すのも容易になる。自分の悩みや苦しみを語ったり、書いたり、歌ったりすることは精神分析と同じ効果があるのです。

島田雅彦
「オペラ・シンドローム」
(NHKブックス 2009)

物語の舞台であるムツェンスクは、モスクワの南西、約300kmにある町です。この田舎町の裕福な商家が舞台です。


地方の裕福なイズマイロフ家に嫁いだカテリーナ。商売にしか関心がなく、外出がちの夫ジノーヴィと、多くの使用人、そして好色のまなざしとともにカテリーナを観察しつづける意地の悪いしゅうとボリスとの暮らしは、憂鬱で退屈極まりないものです。「スクーカ(退屈だわ)、タスカー(気が滅入るわ)」と歌い出される冒頭のカテリーナのアリアは、ワーグナーの影響を強く受けたショスタコーヴィチによって『トリスタンとイゾルデ』風のやるせない和音で彩られますが、描写される内容といえば、なにも楽しいことのない主婦の心に溜まった愚痴です。

一転して、庭先では使用人たちが騒いでいます。新米の下男セルゲイが女中にちょっかいをだし、まわりがはやし立てている。打楽器を多用した迫力満点の扇情的な音楽が響くなか、カテリーナが登場し、セルゲイをたしなめる。セルゲイは、どうやら前に雇われていた家でも女問題でクビになった、流れ者の不良です。セルゲイはカテリーナの顔を一目見て「こいつは欲求不満」と嗅ぎとったのかもしれない。またカテリーナも、セルゲイを「あ、いい男」と感じたのかもしれません。

島田雅彦「同上」

ムツェンスク郡のマクベス夫人1.jpg
2006年、アムステルダムにおけるネーデルランド・オペラの公演をライヴ収録したDVD。エカテリーナ:エヴァ=マリア・ウェストブロック、セルゲイ:クリストファー・ヴェントリス、マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、マルティン・クシェイ演出。

このパッケージの画像は、第1幕第2場でセルゲイがカテリーナにレスリングをしようと持ちかけ、押し倒したところ。

ここまでが第1幕の第1場(イズマイロフ家の居間)と第2場(イズマイロフ家の庭先)です。次が、第1幕第3場のカテリーナの寝室の場面です。


いずれにせよ、その夜、セルゲイが一人寝のカテリーナの部屋を訪れ、「何か本でも借りようかと思って」という。字が読めるのかよ、とツッコミを入れたくなるような男が本を借りに来る本当の目的は一つです。押し問答をするうち、セルゲイはなかば強引にカテリーナをものにします。このシーンの曲想は話題になりました。物語の題材が反政府的、道徳破壊的であることは想像できても、音楽自体が物議をかもすことは非常に珍しい。

私は、ハリー・クプファーの演出のものを観ましたが、ソプラノ歌手の下着をとり、セルゲイ役も下着を脱いでいく場面が、打楽器が扇情的に盛り上げていくその音楽と、フラッシュを多用した照明の効果もあいまって、きわめてリアルに描かれていました。しかも、行為が終わったあとの白けた感じを、まだ20代だったショスタコーヴィチが、トロンボーンの響きによって見事に表現しているのも聴きどころです。

この作品は初演後に大きな話題を読んで人気演目になったのですが、スターリンの逆鱗げきりんに触れ、20年以上にわたって上演禁止になります。20世紀オペラのなかで上演不可能になった作品はもう一つ ── シェーンベルクの『モーセとアロン』がありますが、こちらは内容、音楽ともに難解すぎたことが原因です。しかし『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、とりわけこのシーンの露骨すぎる描写がその理由の最たるものでした。時間的にはそう長くないこのシーンの話題性ばかりが一人歩きし、「ポルノフォニー」というあだ名がつけられたりもしたのです。

島田雅彦「同上」

1936年1月26日、モスクワのボリショイ劇場でこのオペラを観たスターリンは、オペラの終幕を待たずに席を立ちました。そして2日後の1月28日のプラウダ紙に、ショスタコーヴィチを批判する社説が掲載されました。いわゆる「プラウダ批判」です。その引き金になったのは、スターリンが第1幕第3場のレイプ・シーンに激怒したからだと(一般には)言われています。

オペラは第2幕へと進行します。同じイズマイロフ家の庭先とカテリーナの寝室です。


さて、物語に戻りますと、もはやカテリーナはセルゲイにぞっこんです。カテリーナを監視する舅はめざとく二人の関係を見抜きます。セルゲイを捕まえて鞭打ちするボリスに、恨み骨髄のカテリーナ。鞭打ちに疲れたボリスがキノコ入りのカーシャという蕎麦そばの実を使った家庭料理を所望したところで、カテリーナは毒を盛ります。最初の殺しが舅殺しなのです。レスコフの原作のエピグラフには「毒をくらわば皿まで」とあります。

邪魔者がいなくなったセルゲイとカテリーナは、再び愛欲におぼれますが、そこへ夫のジノーヴィが帰宅し、不倫の現場が露見します。すると、これはもう仕方ないとばかりにジノーヴィも殺害。間髪を容れずに、連続殺人が決行されたのです。

島田雅彦「同上」

ムツェンスク郡のマクベス夫人2.jpg
カテリーナはセルゲイとともに、夫のジノーヴィを殺害する。そしてセルゲイにキスしてと言い、彼を抱きしめ、これであなたは私の夫と言う。ネーデルランド・オペラより。

第3幕は、イズマイロフ家の納屋の前(結婚式の宴会場になる)と警察署です。


第三幕では、カテリーナとセルゲイの結婚パーディが行われます。演出によっては、華やかな結婚式のシーンと結婚式に招待されなかった警察の退屈な様が、同時二元中継的に演じられることもよくあります。ここで事件が起きる。酔っぱらった使用人のひとりが、地下室でジノーヴィの死体を発見し、警官を呼びに行ってしまうのです。式場に警官たちばなだれ込み、二人は逮捕されます。

島田雅彦「同上」

ムツェンスク郡のマクベス夫人3.jpg
カテリーナとセルゲイの結婚式の祝宴が中庭で開かれているが、そこに警官たちがなだれ込み、2人は逮捕される。ネーデルランド・オペラより。

この作品には第4幕があります。第4幕はそれまでと違いシベリアに向かう街道で、橋の近くにある徒刑囚の宿営地です。


この作品が陰惨なのは、三幕で終わらないことです。第四幕がある。場面は変わり、流刑地シベリアに流刑される徒刑囚のなかにふたりの姿があります。寒く閑散とした原野を歩いていく。ここで流れるショスタコーヴィチの音楽は、その暗さにおいて、交響曲第十番かこれかというほどです。ちなみに、シベリア流刑とは、いわゆる収監ではありません。原野に小屋を建て、普通に生活する。そこには塀も柵もない。脱走したら死ぬからです。シベリアが「天然の牢獄」と呼ばれるゆえんです。

だからすべてを失ったカテリーナも、セルゲイが一緒だということに、唯一の希望を見出している。しかし、セルゲイという男は骨の随まで淫蕩であり、流刑先までの途中、カテリーナより若い女囚ソニェートカと懇意になります。ここからのディテールは残酷です。

カテリーナが素っ気ない態度のセルゲイに「どうしたの?」と問うと、「足が冷たくてやってられねぇんだよ」との答え。そこで、自分がはいている靴下をあげると「すまねぇな」と受け取るのだけれども、その靴下はセルゲイがソニェートカを口説くためのプレゼントになってしまう。当然、ソニェートカが自分の靴下をはいている見たカテリーナは逆上し、まわりの囚人に囃されながら取っ組み合いの喧嘩となる。そしてついには、ソニェートカに抱きつき、ふたりして凍てつく川に飛び込むのです。

役人たちはあきれ顔で「痴話喧嘩か。それも仕方ない。さあ出発だ」と声をかける。演出によっては、セルゲイが「二人とも死んだか、でも、女はいくらでもいるさ」という顔をし、水死者を一瞥いちべつする。そして、もの悲しい歌を歌いながら、徒刑囚たちは船に乗り流刑地へと向かっていく ───。物語の、どうしようもない救いのなさは、ヴェルディの『運命の力』といい勝負です。

島田雅彦「同上」

まさに「ディテールが残酷で、どうしようもなく救いのないオペラ」です。ちなみに最後のシーンの台本は、カテリーナがソニェートカを橋の欄干から川へ突き落とし、自分も川に飛び込む、そして徒刑囚たちは流刑地へと行進していく、というものです。島田氏が書いている「船に乗り流刑地へと向かっていく」というのは、そういう演出もあるということでしょう。


モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』


島田氏の『マクベス夫人』についての説明がユニークなのは、オペラの実質的な創始者であるモンテヴェルディ(1567-1643)の作品と関連づけているところです。それは『ポッペアの戴冠』(1642)というオペラです。ショスタコーヴィチの約300年前に作られたオペラのルーツとも言うべき作品と『マクベス夫人』がどう関係するのか。


ここであえて、時代をぐっとさかのぼり、オペラ草創期の立役者、モンテヴェルディが1642年に作った『ポッペアの戴冠』という作品を思い起こしたいのです。この、古代ローマの暴君ネロにまつわる物語もテーマ的に『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と重なるところがあるからです。

島田雅彦「同上」

以下、島田氏による『ポッペアの戴冠』のあらすじを引用しますが、登場人物だけを抜き出すと以下のようになります。時代は古代はローマ帝国です。

◆ 皇帝ネロ
◆ ネロの妃・オッターヴィア
◆ ネロの侍女・ドルジッラ
◆ ネロの家庭教師・セネカ
◆ ネロに仕える軍人・オットーネ
◆ オットーネの妻・ポッペア
◆ 愛の神


ざっとあらすじを述べましょう。プロローグとして、幸福の神と美徳の神と愛の神が現れ、人間にとって一番大切なものは何かを議論します。愛の神が「それは愛であることをこれから説明してみせます」といい、人事に介入する。答えは「愛」でよいとしても、その展開はなかなか予想外です。

幕があくとそこは、主人公のポッペアの屋敷です。彼女には、暴君ネロに仕える軍人のオットーネという夫がいますが、その夫に隠れてネロと密通している。現場にいる(ネロの)衛兵たちは「奥さんがかわいそう」と、ネロの妃オッターヴィアの心を案じている。ネロは去り際、ポッペアに「妻と別れ、きみを皇后にする」といいます。

場面は変わり、皇帝の宮殿です。皇后オッターヴィアの乳母は「夫の不倫に復讐するために浮気はいかが」と勧めますが、彼女は「私は貞節を守る」と伝える。オッターヴィアの純真な心に動かされた乳母は、ネロの家庭教師であるセネカに皇帝をいさめるように願い出ます。セネカは、運命の神から「ネロはもうじき死ぬ」と神託されるが、おのが信義に従い、皇帝に浮気をやめるように諫める。そんな彼を煙たく思ったネロとポッペアは、セネカに自決を求めます。

一方、オットーネは、腹いせのように皇帝の侍女ドルジッラと関係を持ちますが、妻を殺すという決断もできず、ぐずぐずと優柔不断に過ごしている。皇后オッターヴィアは利害が一致するオットーネに、妻を殺すように命じます。仕方なくドルジッラの服を借りて妻のもとに接近するオットーネ。

そのとき、人類にとっていちばん大事なのは愛だと説く神が、眠っているポッペアに「逃げよ」と忠告し、彼女は危機を脱します。愛こそ正義と考え、夫と離縁してでもネロと寄り添うことを決意するポッペアには、愛の神が味方し、その後の行動を後押しするのです。

着ていた服のせいで、ポッペア殺害未遂の下手人としてドルジッラが捕らえられますが、オットーネは真実をすべて告白し、その結果、ネロによってドルジッラ、皇后オッターヴィアとともに追放されます。皇帝に妻を寝取られたあげく、やることなすことが不首尾に終わるオットーネは、気の毒なキャラクターです。復讐に暴君ネロの妃を寝取ってやればよかったのにと思いますが、そんなアドバイスは意味がありません。そして、邪魔者をすべて追放したネロは、ポッペアを正式に妃にする。華々しく戴冠式が開催され、二人の歓喜の二重唱のなか、幕が下りる ───。

島田雅彦「同上」

一言でいうと、全く不条理な物語です。不倫をしたオッペアとネロが結ばれ、2人にとってのハッピーエンドで終わる。しかし、セネカが自害させられるという歴史的事実を除いたとしても、"善人" であるはずの妃・オッターヴィア、侍女・ドルジッラ、軍人・オットーネは追放されてしまう。しかも不倫を成就させるのが "愛の神" である ・・・・・・。


以上のようにストーリーだけを追うと、正義はどこにあるのかと憤りたくなるし、道徳的に許せない気持ちでいっぱいになるところです。しかし改めて、この作品が近代オペラの元祖であることを思い出していただきたいのです。

つまり、この時代においてはオペラが大衆社会への啓蒙をほどこすメディアには、まだなっていない。その後のオペラは、しばしば検閲下におかれ、道徳や信仰や救済を作品主題とすることが多くなりますが、モンテヴェルディの時代には不道徳な内容であれ、なんの問題もなかったのです。社会の道徳的規範から、完全に自由でいられた。別の言い方をすれば、古代の原則は、近代社会における道徳観念とは無縁なのです。実際、古代ギリシャ神話の神々ほど、不道徳な存在はありません。善悪の彼岸にいるものこそ、神と呼んだのです。

その神の介入を受けた者は、いくら人間社会の道徳規範からは外れていようが、すべてが許されます。私は、この『ポッペアの戴冠』を紀尾井ホールで観ることができたのですが、なるほど、オペラは善悪を超越していてもよいのだと、合点しました。

ショスタコーヴィチの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、おおよそ考えられる範囲で最も不道徳な内容をもつオペラ作品ですが、この『ポッペアの戴冠』と対比すれば、オペラ草創期の流れを忠実に汲んだものと考えることができるわけです。

島田雅彦「同上」

島田氏は「オペラでは、すべてが許される」とし、観客としてオペラを観る意味を次のように書いています。


オペラは決して、高尚な一部の人間のための娯楽などではありありません。人間が一生かけて味わう喜怒哀楽を、数時間に集約して舞台にのせてくれるのですから、そした激しい感情の起伏と接することによって、ともすれば磨耗しがちな自らの喜怒哀楽に揺さぶりをかけてやればいいのです。

島田雅彦「同上」

島田氏は

・ オペラは現代人に精神のリハビリテーションを促す儀式
・ 私がオペラを観るのをやめられないのは、自分の感情や本能をつねにギラギラさせておきたいから

と述べています。「オペラで表現される激しい感情の起伏が、観客に精神のリハビリテーションを促す。オペラではすべてが許される」との主旨を島田氏は書いているのですが、これはまさに『マクベス夫人』でも言えることなのです。


ヴェルディの "救いのないオペラ"


島田氏が『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を紹介した文章の最後に、

どうしようもない救いのなさは、ヴェルディの『運命の力』といい勝負

とありました。実は、島田氏は「オペラ・シンドローム」のなかで、ヴェルディ(1813-1901)の "救いのないオペラ" として『イル・トロヴァトーレ』と『運命の力』を取り上げています。この2つのオペラは、その救いのなさにおいて『マクベス夫人』とそっくりです。ここであらすじの紹介は省略しますが、2つのオペラとも、

・ 不幸なものがより不幸になっていき、最後は死んでしまう
・ 生き残ったものには何の救いもない
・ 結末は残酷

といった内容です。ヴェルディはなぜこのようなオペラを書いたのでしょうか。

実は『運命の力』の初演はイタリアではなく、何と、当時のロシアの首都であったペテルブルグ(ソ連時代のレニングラード)のマリインスキー劇場でした(1862年)。それはヴェルディのオペラがロシアで人気だったことに加え、当時のヴェルディをとりまくイタリアの状況を反映したものです。島田氏は次のように書いています。


当時、ハプスブルク家の支配下にあった北イタリアは検閲が非常に厳しく、ヴェルディの人生は検閲との戦いでもありました。彼は若い頃から、イタリア統一の闘士であり、その独立運動とともに生きていた。また VERDI の名前は「Vittorio Emauele Re D'Italia」(ヴィットリオ・エマヌエーレ)の略として、イタリア独立の合い言葉にもなっていたのです。だから、彼にとって、オペラは、観客に向け、強烈な政治的メッセージを発信する基地でもありました。観客はそのオペラに熱狂し、「Viva Verdi !」と叫ぶことで、イタリア独立の悲願を重ね合わせることができた。その隠れたメッセージは『運命の力』にも盛り込まれていて、個々の登場人物が辿ってきた苦難の歴史はその一端を表してもいます。

しかし、あからさまなメッセージを発信したのでは、検閲の目を免れない。レブレットの段階で、たびたび削除や改変を求められた経験から、露骨にイタリア独立運動を描くことを回避したのです。

島田雅彦「同上」

『運命の力』の初演が帝政ロシアの首都・ペテルブルグで行われたのは、検閲を筆頭とする当時のイタリアの社会情勢があったわけです。そして島田氏は『運命の力』および『イル・トロヴァトーレ』のあらすじを紹介したあとで、オペラを小説と対比させつつ、次のように書いています。


以上、『イル・トロヴァトーレ』と『運命の力』を駆け足で紹介してきましたが、なぜヴェルディが救いのないストーリーを描いたのかという謎が、ここにきてだんだんと見えてきたと思います。これらの作品には19世紀末の世界の、あらゆる不合理や不幸をオペラという器ののなかに引き受けようという彼の覚悟が見え隠れします。

小説にもまた、この世の不合理を引き受け、民衆にサバイバルの知恵を授けようという啓蒙性があった。19世紀は小説とオペラの時代であると述べたとおり、ヴェルディにいたって、ようやくオペラにも波瀾万丈のディテールや生きることの不合理が盛り込まれるようになるのです。

ヴェルディは、オペラを「大衆啓蒙装置としてのメディア」と考えていたと思います。悲劇的な結末を迎える物語によって、「いかにナンセンスであろうと、これが現実なのだ」というメッセージを確信犯的に発信する ───。もし彼が20世紀の人間であれば、映画で行っていたでしょう。

逆にいえば、支配者側は、被支配者たち従順に暮らすことを望むからこそ、大衆の日々の辛い生活を忘れさせる薬として、ハッピーエンドの物語ばかりを供給したがった。検閲とはまさにそのような働きを担っていた。対してヴェルディは、大衆に現実を思い起こさせ、向けどころのない憤懣ふんまんを支配者に向けよとメッセージを送ったのです。その不吉さ、その野蛮さ。ロッシーニとヴェルディの決定的な違いが、ここにあります。

島田雅彦「同上」

「ヴェルディの人生は検閲との戦い」というところは、ショスタコーヴィチを思い出させます。ショスタコーヴィチも「芸術家としての思い」と「ソ連共産党からの圧力」という2つの間で苦悩した作曲家だったからです。

そして『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に関していうと、これは支配者の望むであろうハッピーエンドとは真逆の物語です。スターリンがオペラの第3幕が終わった段階で席を立ったのは、ひょっとしたらこのオペラに "隠されたソ連体制批判" を感じ取ったからかもしれません。そいう疑いが出てくるのです。そこを考えるために、このオペラのリブレット(台本)の成立を振り返ってみます。


なぜ『マクベス夫人』をオペラ化したのか


『マクベス夫人』はショスタコーヴィチの2作目のオペラです。第1作目はロシアの文豪・ゴーゴリ(1809-1852)の短編小説『鼻』(1836)をミニ・オペラ化したもので、ストーリーは喜劇的・幻想的なものです。

そして第2作として選んだのが、これもロシアの作家、ニコライ・レスコフ(1831-1895)の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1864)でした。ショスタコーヴィチは友人の協力を得つつ、台本も自ら書いています。なぜ彼はこの小説をオペラ化しようと思ったのでしょうか。

この物語は主人公のカテリーナがセルゲイに惚れたことを契機にどこまでも転落していく話です。次々と殺人を犯し、シベリア送りのときにはセルゲイにも見捨てられ、生きる意味を見失って自殺してしまう。希望とか明るさ、活気、楽しさ、喜びなどの感情を全く感じられない陰惨で暗澹たるストーリーです。これはレスコフが生きた帝政ロシアの時代の社会の雰囲気を反映していると考えられます。つまり、

19世紀後半、帝政ロシアの現実の閉塞感と悲劇的な雰囲気を感じる小説

です。ちなみに『ムツェンスク郡のマクベス夫人』において主要な登場人物であるボリス、セルゲイ、カテリーナ(=エカテリーナ)は、3人ともロシア人の最も一般的な名前であることも示唆的です。このような原作を考えると、ショスタコーヴィチは、

帝政ロシアの現実の閉塞感と悲劇的な雰囲気を、ショスタコーヴィチが作曲家として世に出た当時のソ連の政治体制になぞらえた

ということも十分考えられるでしょう。島田雅彦氏はヴェルディの "救いのないオペラ" について、

悲劇的な結末を迎える物語によって「いかにナンセンスであろうと、これが現実なのだ」というメッセージを確信犯的に発信した

と書いていましたが(上に引用)、そのヴェルディと同じことをショスタコーヴィチはやったとも考えられる。



もっとダイレクトに『マクベス夫人』はスターリン批判だと言っている人がいます。ドイツ文学者の中野京子さんです。彼女は美術評論で有名ですが、大のオペラファンであり(大の映画ファンでもある)、次のように書いています。


カテリーナの転落は本人のせいよりむしろ、抑圧的なイズマイロフ家という環境が原因だったのではないか。そしてこのイズマイロフ家は、社会主義国家ソヴィエトそのものを指しているのではないか。さらには、ほしいままに権力をふるう舅ボリスは、国家最高権力者と二重写しではないのか。

「骨のかれたシベリアの道よ、血にはぐくまれ、死のうめき声に彩られた道よ」という老囚の歌も、政府に対する批判ではないのか ・・・・・・。

こうした嫌疑をかけられた『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が、スターリン下で息の根を止められたのも必然であった。


引用中の「国家最高権力者」とは、言うまでもなくスターリンのことです。また「老囚の歌」というのは第4幕の冒頭、シベリアの流刑地に連行されていく囚人の中の老人の歌唱です。島田雅彦氏はこのあたりの音楽について「ここで流れるショスタコーヴィチの音楽は、その暗さにおいて、交響曲第十番かこれかというほどです」と書いていました(上に引用)。ちなみに「橋をめぐる物語」という題名の本に『マクベス夫人』が出てくるのは、オペラの最後のシーンでカテリーナがソニェートカを橋から川へ突き落とし、自分も川に飛び込むからです。

ショスタコーヴィチが帝政ロシアの現実の悲劇的な雰囲気を、作曲家として世に出た当時のソ連の政治体制になぞらえただけでなく、中野さんが言うように国家最高権力者への批判を込めたことも十分考えられるでしょう。もちろん、それを匂わすような台詞は一切ありません。これは70年前のロシアの作家・レスコフの小説のオペラ化なのだから ・・・・・・。



その、70年前のロシアの小説のオペラ化が、なぜソ連の政治体制批判になりうるのでしょうか。実は、このオペラはレスコフの小説とは大きな違いがあります。

オペラでは第2幕でカテリーナがセルゲイと2人で夫のジノーヴィを殺してその死体を隠し、次の第3幕ではカテリーナとセルゲイの結婚式の日の話になる。この展開には違和感を感じます。ジノーヴィは外面的には失踪したわけですが、法的な失踪宣告がされて死亡したと見なされ婚姻関係が解消するまでには(従って再婚できるまでには)、たとえば今の日本だと7年かかります。帝政期のロシアがどうだったかは知りませんが、それなりの時間の経過が必要ということは容易に想像できます。つまり第2幕と第3幕の間には比較的長い時間経過があるはずなのに、その説明がなく、ストーリーが破綻しているように感じます。もっとも、こういうことをいちいち気にしていたらオペラの鑑賞はできません。これは小説ではなくオペラです。「オペラではすべてが許される」(島田雅彦)のです。

しかし、レスコフの原作小説は違います。カテリーナの夫、ジノーヴィには、実はフョードルという従兄弟いとこがあり(父親のボリスの甥で少年)、ボリスの財産相続権を持っているのです。そのフョードルは親につれられてカテリーナの商家に現れ、一緒に生活を始めます。そして、ボリスの財産を独占できなくなったと悟ったカテリーナは、セルゲイを引き込んでフョードルも殺してしまいます。この少年殺しはすぐに発覚し、それがもとでジノーヴィ殺しもあからさまになり、カテリーナとセルゲイは逮捕されて鞭打ちの刑を受け、シベリア送りになる。これがレスコフの小説です。ストーリーの破綻はありません。オペラの第3幕は、原作にはないショスタコーヴィチの創作です。

さらにもう一つ、原作小説とオペラの違いがあります。オペラでは、カテリーナの舅のボリスが第1幕の最初からカテリーナを見張り、いびって暴言を吐き、抑圧します。カテリーナはこの段階からボリスに殺意を抱く。しかし、レスコフの小説ではこういったボリス像が全くありません。ボリスがカテリーナ(息子の嫁)とセルゲイ(使用人)の密会を発見してセルゲイを鞭打ち(それは当然です)、そのためにカテリーナに毒殺されるのはオペラも小説も同じですが、小説はボリスを陰険で抑圧的な人間として描いているわけではありません。

つまり、ショスタコーヴィチは原作のレスコフの小説に2つの変更を加えました。

① カテリーナが私利私欲のためにやった少年殺しをカットする。
② 舅のボリスを陰険で抑圧的な人間として描く。

の2つです。これは物語の根幹にかかわる変更です。この変更によりオペラは、カテリーナを "犯罪者に転落する女" というより "悲劇の主人公" として描くことになった。そして「カテリーナを閉じこめて抑圧するイズマイロフ家」というイメージを作り出した。そのことがソ連の政治体制に見立てることも可能にしたのだと思います。

そしてオペラを観て感じるのは、カテリーナにシンパシー感じるようなドラマの進行であることです。抑圧的なイズマイロフ家に "閉じこめられた" カテリーナは、外面的にはどれほど異常に見えても、周囲から嘲笑されても、身の破滅をかえりみずに自分の信じる愛に突き進んでいく ・・・・・・。ショスタコーヴィチは、カテリーナをソ連の政治体制の中での音楽家としての自分に重ねたのではと思います。いや、それは不正確で、自分に重ねられるようにレスコフの小説を改変してオペラ化したのだと思います。


オペラの本質を熟知した作品


今までの話の全体をまとめると、ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』は "オペラの本質を熟知した作品" だと思います。ショスタコーヴィチがモンテヴェルディを意識したのかは分かりませんが、島田雅彦氏が指摘するように『マクベス夫人』という「おおよそ考えられる範囲で最も不道徳な内容をもつオペラ作品」が、オペラ草創期からの流れにあることは確かでしょう。つまり "道徳を完全に超越した愛の姿" です。

余談になりますが、No.220「メト・ライブのノルマ」でとりあげたベッリーニのオペラ『ノルマ』は、ガリアの被征服民族の巫女の長のノルマが、こともあろうに征服者であるローマの将軍と愛し合って子供までもうけているというストーリーでした。道徳や社会規範とは全く相容れない愛です。

加えてヴェルディです。ヴェルディの作品はロシアで大いに人気があったと言います。それは『運命の力』の世界初演が帝政ロシアの首都・ペテルブルク(=レニングラード。=サンクトペテルブルク)で行われたことに如実に現れています。ショスタコーヴィチがヴェルディの "救いのないオペラ" に影響されたことは十分に考えられると思います。またイタリア・オペラで言うと『カヴァレリア・ルスティカーナ』や『道化師』などの、人間や社会の暗部を描いたオペラ(いわゆる "ヴェリズモ")の系譜と考えることもできるでしょう。

さらに、このオペラのストーリーでは、オペラの王道といえる「愛と死」が扱われています。主要登場人物は3人で、その3人を簡潔にまとめると、

好色で陰険で強圧的なカテリーナの舅・ボリス、骨の随まで淫蕩で「女の敵、男のクズ」のセルゲイ、そして、その「女の敵」に一途いちずになり破滅への道をまっしぐらに進むカテリーナ

となるでしょう。「愛」の表現の中心はカテリーナです。自分を強姦したセルゲイに惚れ、それをどこまでも突き通す。シベリア送りの最後の場面でセルゲイに完全に裏切られたと知っても、その怒りは愛人に向けられる。いかにも極端な愛の姿ですが、これこそオペラなのです。一方、男2人(セルゲイ、ボリス)については "好色"、"淫蕩"、"性欲" といった感じで、"愛のダークサイド" や、"むき出しの性" を表現しています。男2人の、少々グロテスクでどぎつい人物像がいかにもオペラ的です。

さらに「死」については、第2幕で2つの殺人が起こり、第4幕で生きる意味がないと悟ったエカテリーナは、第3の殺人を行うと同時に自殺してしまう。そこでオペラは終わりですが、仮にその後を作るとしたら、セルゲイが女をめぐるトラブルから別の囚人に撲殺されるといった展開が似つかわしいでしょう。

また、第2幕では殺されたボリスの亡霊が出てくるし、第4幕の冒頭のシベリア送りになる老囚は、まさに "真っ暗" という感じの "死出の旅" を歌います(上に引用した中野京子さんの文章にある)。とにかくオペラ全体に「死」のイメージが充満しています。

『マクベス夫人』の「愛や性、死」はいかにも極端で、そこで演じられるのは普通の生活ではまず経験しないし、接することもないような激しい人間感情です。しかし観客にとってはそれが「精神のリハビリテーション」(島田雅彦)になる。そういう意味でも『マクベス夫人』はオペラの王道を行った作品だと言えるでしょう。



以上のようにドラマとしては19世紀までのオペラの「王道」ですが、しかし音楽は違います。このオペラの音楽はまさに20世紀音楽であり、不協和音もあれば、アリアでも半音階的進行が多用されます。

『マクベス夫人』の音楽の最大の特長は、オーケストラと舞台が完全に一体化してドラマが進んでいくことでしょう。その端的な例ですが、このオペラには暴力的なシーンがいくつかあります。第1幕第2場でイズマイロフ家の使用人たちが女使用人のアクシーニャを輪姦しようとするシーンや、有名な第1幕第3場のレイプ・シーン、第2幕第1場でボリスがセルゲイを鞭打つシーンなどです。これらのシーンでオーケストラは、激しくグロテスクなリズムの、扇情的で野蛮な音楽をせき立てるように演奏します。音楽でシーンそのものを描こうとしてるようであり、またある種の映画における音楽の使い方と似通ったものも感じます。このあたりはショスタコーヴィチの独壇場と言っていいでしょう。オーケストラを駆使する能力が際だっています。

もちろんこういった "激しい" 音楽だけでなく、第1幕第3場でカテリーナが自分の不運を嘆くアリアとか、第2幕第1場でボリスが毒殺されたあとの第2場へと続くパッサカリア風の荘厳な間奏曲(「悲劇の幕は開いた!」という感じの音楽)など、聴き所はいろいろあります。

音楽はいかにもショスタコーヴィチ的であり、ドラマはオペラの王道 ・・・・・・。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、ショスタコーヴィチが最もやりたかった作品であり、会心作だと思います。



この『マクベス夫人』が共産党機関誌・プラウダに痛烈に批判されたのです。その「プラウダ批判」と、それを受けて作曲された交響曲第5番のことは次回にします。



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No.281 - ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」 [音楽]

今回は「音楽家、ないしは芸術家と社会」というテーマです。No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で書いたことを振り返えると、次のようなことでした。

◆ ウィーンで活躍した作曲家のコルンゴルト(チェコ出身。1897-1957)は、ユダヤ人迫害を逃れるためアメリカに亡命し、ロサンジェルスに住んだ。

◆ コルンゴルトはハリウッドの映画音楽を多数作曲し、アカデミー賞の作曲賞まで受けた(1938年)。

◆ 彼はその映画音楽から主要な主題をとって「ヴァイオリン協奏曲」を書いた(1945年)。この曲はコルンゴルトの音楽のルーツであるウィーンの後期ロマン派の雰囲気を濃厚に伝えている。この曲は50年前の1895年に書かれたとしても全くおかしくない曲であった。

◆ 「ヴァイオリン協奏曲」はハイフェッツの独奏で全米各地で演奏され、聴衆からの反応は非常に良かった。

◆ しかしアメリカの音楽批評家からは「時代錯誤」、「ハリウッド協奏曲である」と酷評された。またヨーロッパからは「ハリウッドに魂を売った男」と見なされ評価されなかった。

アメリカの聴衆からは好評だったにもかかわらず、なぜ批評家から酷評されたかというと、「20世紀音楽でなく、旧態依然」と見なされたからです。

20世紀前半の音楽というと、オーストリア出身のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンが無調性音楽や12音音楽を作り出しました。またヨーロッパの各国では、ヒンデミット(独)、バルトーク(ハンガリー)、ミヨー(仏)、ストラヴィンスキー(露→仏・米)などが独自の新しい音楽を作っていました。もちろんそこには無調性音楽の影響もあった。それらに比べるとコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」は "芸術音楽" とは見なされなかったということでしょう。しかし、次の2つのこと、

◆ 芸術が「革新性」や「独自性」、「何者にも似ていない個性」をもつこと

◆ 芸術が社会に受け入れられること

は同じではありません。20世紀の作曲家は多かれ少なかれこの2つの折り合いをどうつけるか、その葛藤があったはずです。

旧ソ連の作曲家、ショスタコーヴィチ(1906-1975)においては、この「葛藤」が鮮明でした。というのも、普通、作曲家にとっての "社会" とは、音楽の聴衆である一般市民とメディア(批評家や音楽産業)ですが、旧ソ連の場合のメディアとは、すなわち共産党独裁政権だったからです。そこでは芸術が政治と不可分の関係にあった。ショスタコーヴィチにとっては、その状況下で自らが信じる芸術をどう実現するかという戦いがあったわけです。



2020年1月16日に、ショスタコーヴィチの交響曲第7番についてのドキュメンタリー番組がTV放映されました。この番組は、芸術と社会の関係について深く考えさせられるものでした。そこで番組内容を以下に紹介し、最後に所感を書きたいと思います。


レニングラード交響曲


ショスタコーヴィチの交響曲第7番に関するドキュメンタリー番組の名前は、

音楽サスペンス紀行
ショスタコーヴィチ
死の街を照らしたレニングラード交響曲
NHK BS プレミアム
2020年1月16日

です。交響曲第7番は "レニングラード" という副題で呼ばれるので、この番組タイトルがあります。実はこの番組は、2019年1月2日に放映されたものの再放送だったのですが、2019年の時は全く知りませんでした。今回は録画をしたので、その内容を以下に紹介します。ショスタコーヴィチの交響曲第7番の作曲の経緯と、その世界への広がりを扱ったドキュメンタリーです。以下の(注)は番組にはなかった補足です。

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画像は「音楽サスペンス紀行 ショスタコーヴィチ 死の街を照らしたレニングラード交響曲」(NHK BS プレミアム 2020年1月16日)から。以下同じ。


早熟の天才、ショスタコーヴィチ


ショスタコーヴィチは1906年、レニングラード(現、サンクトペテルブルク)に生まれました。1919年、13歳で地元の名門音楽校、ペテルブルク音楽院に進学します。音楽院の学長が「過去最高」と絶賛した早熟の天才でした。

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ペテルブルク音楽院に入学した当時のショスタコーヴィチ

ショスタコーヴィチはピアノを学ぶ一方、作曲にズバ抜けた能力を発揮します。彼が音楽院の卒業制作として18歳で作曲した交響曲第1番は高く評価されました。ベルリン・フィルも演奏したほどです。

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そのあとも、交響曲第2、第3番、第4番と、西ヨーロッパの影響を受けたモダンで斬新な作風がソ連の音楽会に新風を吹き込みました。

注: 第4番の交響曲(1936)は、あとで出てくる "プラウダ批判" のためにショスタコーヴィチ自身が初演を取り下げました。初演は4半世紀後の1961年です。


サッカーを愛したショスタコーヴィチ


ショスタコーヴィチがレニングラードで最も愛した場所は、サッカースタジアムであるペトロフスキー・スタジアムでした。彼はここに通いつめます。

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【ナレーション】(玉木 宏)

ふるさとのプロチームを応援し、試合のスコアブックや選手のデータなど、独自に記録していたほどだった。異常なまでの細かさに、どれほどのめり込んでいたかが伝わってくる。なぜそこまで、と理由を問われると、こう答えたという。

スタジアムでしか、自分を自由に表現できる場所はない。強制ではなく、みな、本当のうれしさから喜びの声をあげることができる」

それは、この国の政治に翻弄された芸術家の葛藤だった。

音楽サスペンス紀行
NHK BS プレミアム
(2020.1.16)


大粛清とショスタコーヴィチ


最高権力者として君臨してたスターリン(ソ連共産党書記長)が大粛清を進めたのは1930年代半ばでした。国家に刃向かったとして、政府関係者、軍人、芸術家、文化人のおよそ140万人が逮捕され、70万人近くが処刑されました。そのやいばはショスタコーヴィチにも向けられたのです。


【ナレーション】

発端は、当時大ヒットしてた彼のオペラ、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』だった。客席で観ていたスターリンが作品を気に入らす、途中で退席したのだ。共産党機関誌、プラウダはすぐさま批判を展開した。「・・・・・ 支離滅裂 ・・・・」。

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1936年1月26日、スターリンはモスクワのボリショイ劇場で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観たが、途中で席を立った。翌々日の1月28日、共産党機関誌「プラウダ」は批判記事を掲載した。いわゆる「プラウダ批判」である(上図の左下の記事)。この記事の見出しの英訳は「Muddle Instead of Music」ないしは「Chaos Insted of Music」とされるので、直訳すると「音楽ではなく、混乱」。

オペラの何がスターリンの神経を逆なでしたのか。ショスタコーヴィチの研究者はこう説明してくれた。

【ラリサ・ミレル】(サンクトペテルブルク音楽院 学術研究課長)

スターリンが聴いたこのオペラは、かなり革新的なものでした。「大衆が理解できない」とスターリンは批判したんです。彼にとって音楽とはシンプルで分かりやすく、大衆的なものでなくてはならなかったからです。政治と音楽は渾然一体でした。人々を一つの「型」に押し込めようとしたんです。

【ナレーション】

批判の嵐と粛清の波。親類や友人たちが次々と逮捕されていた。そしてショスタコーヴィチもついに尋問に呼び出される。生き延びるためにできることは限られていた。

尋問のあと、新たに発表した交響曲第5番は、持ち前の斬新さが目立たない、分かりやすく、大衆受けする作品となった。この曲は政府からも評価され、粛清の危険を脱した彼は、息をひそめるように作曲活動を続けたという。

「同上」

レニングラードにドイツ軍が迫ったは、交響曲第5番を発表した数年後でした(注:第5番の初演は1937年。独ソ戦の開始はその4年後)。


レニングラード包囲戦


1941年6月22日、ソ連と不可侵条約を結んでいたドイツが奇襲攻撃をかけ、独ソ戦が始まりました。ドイツ軍はほどなくレニングラードに迫り、レニングラード包囲戦になります。開戦2ヶ月でレニングラード市内への砲撃も始まりました。

レニングラードピスカリョフ墓地の資料館には、ヒトラーの命令書の現物が展示されています。そこには「レニングラードの街を地球上から消滅させる」とあります。この宣言はドイツのラジオで全ヨーロッパに向けて放送されました。

レニングラードがドイツ軍に包囲されたのは、その特異な地形によります。北はナチスの影響下にあるフィンランド軍の支配地域です。西はバルト海、東はラトガ湖です。南から来たドイツ軍が街を包囲したのです。

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赤がレニングラード市を示す。北はナチスの影響下にあるフィンランド軍の支配地域、西はバルト海、東はラトガ湖で、南から来たドイツ軍が街を包囲した。なお真冬にはラトガ湖が氷結するので、湖の上に輸送路を作ることは可能である。この輸送路をめぐるソ連とドイツの攻防が番組に出てきた。

疎開する市民が多いなか、ショスタコーヴィチは妻と子供2人とともにレニングラードにとどまりました。

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ショスタコーヴィチ一家。妻(ニーナ)と2人の子供(長女:ガリーナ、長男:マキシム)。長男のマキシムは後に音楽家(指揮者・ピアニスト)になった。

そしてショスタコーヴィチはレニングラードのラジオ局(ドム・ラジオ)に行き、ラジオでスピーチをしました。その音源は今でも残っています。


【ショスタコーヴィチのメッセージ】

親愛なる市民の皆さん。すぐ近くで敵との壮絶な戦いが行われているレニングラードで話しています。

私は昨日の朝、新作の第2楽章を書き終えました。完成したあかつきには、交響曲第7番になるでしょう。私たちの生活はいつもどおり続いています。我々芸術家も皆さんと共に戦っています。それがよい芸術であればあるほど、誰も破壊などできないと私は信じています。あと少しで第7番を書き上げます。親愛なる皆さん、それでは ・・・・・・。

「同上」

交響曲第7番を書き上げて市民に届ける。その目的でショスタコーヴィチは街にとどまっていました。そのかたわらショスタコーヴィチは街の消防隊に参加しています。彼は自ら街を守ろうとするほどにふるさとを愛していました。

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その、まだ書き上がってもいない交響曲第7番に目をつけたのがスターリンでした。ショスタコーヴィチがラジオでスピーチをした直後、ショスタコーヴィチは政府によってレニングラードから連れ出されてしまいます。安全な場所で第7番を完成させるようにとの指示です。場所は、モスクワの東方、レニングラードからは1300kmも離れたクイビシェフ(注:現在のサマーラ。独ソ戦当時はソ連の臨時首都の候補)という街でした。第7番をめぐって国家が動きだしたのです。


死の街、レニングラード


1941年9月8日、ドイツの爆撃機が初めてレニングラードに飛来し、食料備蓄倉庫を爆撃しました。ヒトラーはレニングラードを飢え死にさせようとしていました。

1941年10月、例年になく早い初雪が降りました。そして、その冬のレニングラードは地獄絵図となります。犬猫を食べるのはもちろん、壁紙をはがして小麦粉から作られている糊を食べる人もいました。道路には行き倒れの死体が放置され、人肉を食べて逮捕された件数は300を越えたと言います。

独ソ戦でドイツ軍は奇襲攻撃のあとに進撃を続け、1942年4月の時点では、一時、モスクワの10数キロに迫るという勢いでした、ソ連政府としてもレニングラードに援軍を送る余裕はありませんでした。


交響曲第7番の完成


1941年末、ショスタコーヴィチはクイビシェフで第7番を完成させます。彼はスコアの表紙に「レニングラードの街にささげる」と書き添えました。

1942年3月、クイビシェフで交響曲第7番の初演が行われます。プラウダは「ファシズムに対するロシア民族の戦いと勝利を描いている」と高く評価し、世界に向けて宣伝しました。ショスタコーヴィチは政府の宣伝映画に出演しましたが、そこで彼は、


【ショスタコーヴィチ】(政府のビデオ)

・・・・・・ ファシズムと戦い、その勝利を信じて、この作品をささげます。今から交響曲第7番第1楽章の一部を弾きます。


と語り、第1楽章をピアノで演奏しました。第7番の利用価値を熟知していたスターリンには、たくらみがありました。スターリンはショスタコーヴィチに対し「スターリン章 第1席」(国家最高章)を与えましたが(注:1942年1月)、それは第7番の価値を高めるためでした。


アメリカ


そのころアメリカでは、ルーズベルト大統領が戦時下を理由に史上初の3選目に入っていました(1941年1月~)。またアメリカは真珠湾攻撃(1941年12月)を契機として第2次世界大戦に参戦しました。

交響曲第7番がソ連で初演された当時、ルーズベルトには悩みがありました。アメリカはソ連に対して無償の武器援助をしていましたが、「ソ連に利用されるだけだ、サンタクロースはやめよう、見返りを求めよう」という意見が政府内部にも高まり、また世論でも高まっていたのです。


【タミー・ビドル教授】(アメリカ陸軍戦争大学)

1941年3月、ルーズベルトはレンドリース法(LEND-LEASE)を成立させました。アメリカの防衛にとって重要な国、あるいは大統領が重要だと判断した国に対し、武器など軍需物資を援助できるという法律です。ルーズベルトはヒトラーとの戦いが世界規模で、無関係でいることはできないと考えていました。そして1941年、ドイツがソ連に侵攻すると、ルーズベルトはその法律をソ連にも適用し、軍需物資の支援を行うと決断します。

「同上」

ルーズベルトの決断以来、戦闘機、戦車、トラックなど、膨大な量の武器や軍需物資がソ連に送られました。費用はすべてアメリカの負担です。スターリンにとっては願ってもないプレゼントであり、それがドイツ軍と戦うための生命線でした。

しかしアメリカ国民にとって共産主義は脅威であり、以前からソ連を敵視していました。世論調査では、ソ連への援助に賛成は35%であり、反対は54%にもなったのです。

大局的見地からソ連への援助が必要と考えていたルーズベルトは、これまで以上に慎重にことを進める必要がありました。また次の選挙に向けて世論を味方につけたいとの思いもありました。

クイビシェフで初演されたショスタコーヴィチの交響曲第7番のことはアメリカにも伝わっていました。その第7番のアメリカ初演で世論を味方につける、それがルーズベルトの考えたことでした。スターリンのもくろみは「第7番でアメリカの世論を変え、ソ連への共感を広げる」ことです。水面下でアメリカとソ連は手を結んだのです。

ソ連政府は第7番のスコアをマイクロフィルムに収め、アメリカに送ることにします。アメリカとソ連の両政府は共同で、ドイツ軍を避けならが密かにフィルムの輸送する作戦を行います。

時を同じくして、モスクワでは交響曲第7番の2回目の演奏会が開催されました。

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トスカニーニによる第7番のアメリカ初演


交響曲第7番の252ページのスコアはマイクロフィルムに収められ、ドイツ軍を避けつつ、アメリカに輸送されました。ソ連を出発したフィルムは、テヘラン → カイロ → アフリカ大陸横断 → 大西洋横断 → ブラジル → マイアミ、というルートでアメリカに輸送されました。そして1942年5月30日、アメリカ国務省に到着しました。

初演コンサートの開催を任されたのは、音楽プロモータのユージーン・ワイントロウブでした。彼はカーネギーホールのすぐそばのアム・ラス・ミュージック社でロシア音楽に関する著作権を一手に扱っていました。彼は、まるでスパイ映画のような輸送ルートを宣伝に使います。

そして第7番のアメリカ初演には3人の大指揮者が名乗りをあげ、これもメディアで格好の話題になりました。
 ・セルゲイ・クーセヴィツキー
 ・レオポルド・ストコフスキー
 ・アルトゥール・ロジンスキー
の3人です。しかし、ワイントロウブの考えは違いました。第7番で一儲けするための最高の指揮者として彼が選んだのは、アルトゥーロ・トスカニーニです。トスカニーニは、ナチスと手を組んだ祖国イタリアを嫌い、アメリカに亡命した指揮者です。反ファシズムの曲として第7番を売り出すには、これ以上ない人選でした。

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アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)。20世紀の指揮法の大きな流れを作った偉大な指揮者である。

ワイントロウブのもくろみ通り、第7番はアメリカで大ブームを巻き起こします。アメリカの「タイム」誌は、レニングラードの消防団の写真をもとにショスタコーヴィチの肖像画を描き、表紙に使いました。ナチスと戦う英雄としてショスタコーヴィチを紹介したのです。

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1942年7月20日付の Time 誌の表紙。絵の下には「消防士ショスタコーヴィチ。レニングラードに砲弾が炸裂する中で、彼は勝利の響きを聴いた」と書かれている。

1942年7月19日、マンハッタンのNBCスタジオで、ショスタコーヴィチの交響曲第7番のアメリカ初演が、トスカニーニ指揮・NBC交響楽団の演奏で行われました。これはラジオで全米生中継され、メディアの反応は爆発的でした。

ロシア人の戦争交響曲に喝采の嵐」(NYタイムズ)
今世紀最高の交響曲の一つ」(NYデイリー・ニュース)
普遍的な戦争の音楽 人種や国境を越えた戦士の言葉」(LAタイムズ)

などの見出しが紙面に踊ったのです。第7番は、その後数ヶ月の間にアメリカ全土で62回のコンサートが行われ、演奏を流したラジオ局は2000に上りました。熱狂のすざましさを、ある雑誌は、

今やショスタコーヴィチが嫌いだというものはアメリカ人にはあらず」

とまで書いています。ショスタコーヴィチと第7番は社会現象になったのです。ショスタコーヴィチの伝記を書いたアメリカ人作家のM.T.アンダーソンは次のように分析します。


【M.T.アンダーソン】

第7番は今で言うなら大ヒット映画のようなものでした。ストリップ劇場のような場末でも第7番の音楽が使われたほどです。アメリカの大衆にとっても分かりやすく、ファシズムの侵略を感じられる音楽だったと思います。ですから、勝利のイメージで終わるこの曲は、まさにアメリカ人が求めていたものでもあったんです。人々は勝利の物語を渇望していましたからね。

「同上」

そして第7番は、何と、ヨーロッパの戦地に赴くアメリカ人兵の慰問コンサートでも演奏されました。その冒頭でスピーチに立ったのはソ連大使夫人です。「ともに戦いましょう」というロシア人の言葉にアメリカ兵たちは熱狂しました。

ショスタコーヴィチの交響曲第7番のアメリカ初演は国家がしかけた物語でした。世論を味方につけたルーズベルトは、その後の4度目の大統領選挙(1944年11月)にも勝利します。そしてアメリカからソ連へのの武器・軍事物資の支援は続き、スターリンは独ソ戦に勝利します。これこそ、スターリンが利用した「音楽の力」でした。


レニングラード・ラジオ・シンフォニー


レニングラードには、地元のラジオ局である「ドム・ラジオ」所属のオーケストラ、レニングラード・ラジオ・シンフォニーがありました。このオーケストラは1931年に設立され、指揮者のカール・エリアスベルクに率いられて多くの演奏会を開いていました。レニングラード攻防戦の当時、街に残った(=疎開できずに取り残された)唯一のオーケストラでした。

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レニングラード・ラジオ・シンフォニーの指揮者、カール・エリアスベルクと、レニングラード戦争博物館に展示されている彼の愛用品。指揮棒が見える。

しかし楽団員の多くは徴兵され、また徴兵されなかった者も軍需工場での労働や塹壕堀りに駆り出されました。さらに、レニングラードの共産党指導部は音楽を中止すると決定し、オーケストラは活動休止になってしまいます。ドム・ラジオも放送休止になり、ラジオからはメトロノームの音だけが流れていました。

そのメトロノームの音が小さな奇跡を生み出します。レニングラードの総司令部のトップ、アンドレイ・ジダーノフは、ドイツ軍に完全包囲されて追い込まれていました。そしてラジオのメトロノームの音を聴いていらだった彼は「音楽でも放送しろ」と命令したのです。

注: アンドレイ・ジダーノフは戦後に共産党中央委員になり、ショスタコーヴィチを含む "前衛的な" 音楽を攻撃する「ジダーノフ批判」を展開した人物です。

エリアスベルクたちは、共産党の芸術局に呼び出されました。そしてオーケストラの再開要請を受けました。楽団員不足で再開は無理というエリアスベルクに対し、芸術局は「すぐでなくてもよいから、再開を」とのことです。

エリアスベルクたちは、レニングラード在住の音楽家を新たに集め、残った楽団員とともに大変な苦労をしてオーケストラの練習を再開しました。食料不足とエネルギー不足の中での練習は大変でしたが、1942年4月5日、久しぶりのコンサートにこぎつけます。ラジオでの音楽放送も再開しました。


交響曲第7番のレニングラード初演


モスクワでショスタコーヴィチの交響曲第7番の演奏会があったことは、ラジオ・シンフォニーの楽団員にも届いていました。ラジオ・シンフォニーの音楽監督、バープシキンはエリアスベルクに「第7番をやりたい」と相談を持ちかけます。エリアスベルクは即答をためらいました。ショスタコーヴィチの曲はどれも複雑で高度な技術が必要だったからです。

バープシキンは「スコアは何とか手に入れる」と言い、「レニングラードに捧げるとショスタコーヴィチがラジオで言ったことを皆が覚えている」と、エリアスベルクを説得します。



交響曲第7番のスコアは、1942年7月2日にソ連空軍の飛行機で運ばれてラジオ局に届きました。エリアスベルクは届いたスコアを見て、演奏は無理だと思いました。100~120人の演奏家が必要なスコアだったからです。それでもエリアスベルクは80人でやろうとしました。しかし80人には、まだ20人以上足りません。

そこでエリアスベルクたちは、徴兵された元楽団員から届いた手紙を調べました。手紙には軍事郵便番号が書かれているので、元楽団員がどの部隊にいるのか特定できるのです。そして、レニングラードの軍指令部にかけあい、元楽団員の帰還を説得しました。初めは難色を示していた軍指令部も、トップのジダーノフも賛成するはずとエリアスベルクが言うと認めてくれました。



第7番のレニングラード初演は、1942年8月9日に決まりました。これはラジオで繰り返し宣伝されました。これがラジオを傍聴していたドイツ軍に伝わります。ドイツ軍はレニングラード軍司令部のジダーノフに、初演と合わせるかのように「8月9日にレニングラードの占領攻撃を開始する」と通告してきました。

1942年8月9日、エリアスベルクたちの演奏会の日です。会場は、レニングラードで最も格式のあるコンサートホール、レニングラード・フィルハーモニアです。1500人収容の客席は、市民たちで埋め尽くされました。夜7時に幕が上がりました。

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交響曲第7番のレニングラード初演。唯一現存する写真。

第7番の演奏はラジオで生中継されただけでなく、街角のスピーカを通してレニングラード市内に流されました。またスピーカーは前線にも設置され、それは戦場のドイツ軍にも流れていきました。その音を聴いたあるドイツ兵は、戦後に次のように語ったといいます。「あの曲を聴いた時、私たちには絶対、レニングラードを倒せないと思いました」。

結局、ドイツ軍の砲弾が演奏会場に届くことはありませんでした。当日、レニングラードを防衛する兵士たちは、ありったけの砲弾を集めてドイツ軍に先制攻撃をしかけていたのです。



演奏会の終了後、エリアスベルクは一人の少女から花束を贈られました。家族で育てた花だと言います。添えられたカードには「レニングラードの音楽をお守りくださり、ありがとうございます」とあります。エリアスベルクは、食べ物も満足に得られないなかで花を育てる人がいることを知りました。少女の母親は少女に次のように言ったそうです。「たとえ何が起きても普通の生活を忘れないように」。

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レニングラード戦争博物館に展示されている少女の写真と、エリアスベルクが受け取ったカード(写真の右上)。カードの左下に 42年8月9日の文字が見える。


市民の証言


実際に演奏を聴いたタマラ・コーロレケーヴィチさん(98歳)は、番組のインタビューに次のように答えています。


【タマラ・コーロレケーヴィチ】(初演時の聴衆)

演奏された第7番は、レニングラード出身のショスタコーヴィチが私たちの街のために書いてくれた曲でした。その音楽は、包囲の恐怖で傷ついた心を癒してくれる薬のように感じました。まるで平和な日常に戻ったようでした。コンサートが終わっても、戦争中なのを忘れてしまったほどです。あの夜から私たちは強い心を持てるようになった気がします。他人にパンを分け与えるような強い心を ・・・・・・。

「同上」

レニングラード戦争博物館のオリガ・プロートゥ館長は、生前の楽団員から聴いた話を人々に伝えています。彼女は次のように語ります。


【オリガ・プロートゥ】(レニングラード戦争博物館・館長)

ある楽団員が教えてくれたのですが、活動を再開したときは皆シラミだらけ。鏡なんか見ないので顔も真っ黒。つまり、人は簡単に堕落してしまうんだって ・・・・・・。身体を洗うことだってかなりの労力が必要ですし、ましてや花を摘みにいってわざわざ花束にするなんて、そんなこと考えられないほど悲惨な状況だったんです。

しかしその楽団員は言っていました。音楽が自分たちを正気に戻してくれたんだと。演奏することは彼ら自身にとっても救いだったんです。

「同上」


レニングラード解放


交響曲第7番のレニングラード初演から1年半後の1944年1月、ソ連軍はドイツ軍に攻勢をかけ、レニングラードを完全に解放しました。この間、320万人のレニングラードの人口のうち67万人が死ぬという膨大な被害が出ましたが、残った市民は900日の包囲戦を生き抜いたのです。



演奏会から20年の時を経て、レニングラード・ラジオ・シンフォニーの面々が再び集まった写真があります。そこにはショスタコーヴィチの姿もありました。

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ショスタコーヴィチの向かって左横がエリアスベルク。


ショスタコーヴィチ:交響曲第7番の意味


以下は番組を見た感想です。この番組は音楽についてのいろんな思いを想起させるものでした。それを何点かに分けて書きます。

 レニングラード市民に音楽を届ける 

ショスタコーヴィチが交響曲第7番を書いた第1義の目的は「レニングラード市民に、市民の為に新たに書いた音楽を届ける」ことでした。それは彼がラジオのメッセージで言っていた通りであり、その目的はエリアスベルクの演奏会とその市内実況中継で十分に達成されたようです。

番組のなかで、この演奏会を直接・間接に聴いた人たちの発言にあったように、演奏会の "効果" は一言で言うと「普通の生活」ということでしょう。ドイツ軍に完全包囲されて餓死者が続出する中での「普通の生活」は、まずできません。しかし演奏会は人々に "普通" を思い起こさせた。時には演奏会に行き、場合によっては自宅の花壇から花束を造って演奏者に届ける。それが普通です。また、飢えている人を見かけたらパンをあげる、それが普通ですが、全員が飢えている中で自分よりも "ひもじい" と見える人にパンをあげるのは容易ではない。よほど強い心がないとそれはできない。しかし、その強い心は平時では普通なのです。

その「普通の心」を音楽が呼び覚ました。音楽が人々の心に与える影響は時としてものすごく強いのです。しかもその音楽は、レニングラード市始まって以来の音楽の天才がレニングラード市民の為に書いたものだった。このことは聴衆に強烈なインパクトを与えたに違いありません。

 ファシズムとの戦い 

交響曲第7番が「過酷な状況にあるレニングラード市民への贈り物」だったことは間違いないのですが、さらにこの曲は「ファシズムと戦って勝利するレニングラード」という意図で書かれたとされています。第7番が完成したときの政府の宣伝映画でショスタコーヴィチは「ファシズムと戦い、その勝利を信じて、この作品を捧げる」と言いました。もちろんそう言うしかない状況ですが、本当はどうなのか。「ファシズムと戦って勝利する」意図だと思って聴けば、それらしく聞こえることは確かですが、ショスタコーヴィチの意図は何でしょうか。

NHK交響楽団の首席指揮者で、世界的指揮者のパーヴォ・ヤルヴィは番組で次のように語っていました。


【パーヴォ・ヤルヴィ】

あらゆる面でスケールが大きく、他の作品とは全く別の存在です。一聴して受ける印象は、ある種の「重さ」です。それが徐々に勢いを増していき、耐え難いほどの音の大きさまで膨らんでいったあげく、自分の頭の上に、まるで戦車のような重たい何かが乗っかってくるように感じます。

この交響曲は、私たちの社会に「巨大な悪」が存在するという現実、そしてその悪が、人々の人間性を破壊しようとしていく様を描いているんです。

「同上」

その「巨大な悪」に人々が勝利するイメージに向かって曲は進んで行くとヤルヴィは言います。


【パーヴォ・ヤルヴィ】

表面的にはショスタコーヴィチ特有の洗練さとはかけ離れた音楽に聞こえますが、作品を深く見つめていけばいくほど、まるで魔法のようにとりこになってしまう曲です。第7番は謎に満ちていますね

「同上」

要約すると、

巨大な悪」が人々の人間性を破壊しようとしていく様と、その「巨大な悪」に向かって人々が勝利するイメージを描いた

ということでしょう。ヤルヴィは「ファシズム」とは言わずに「巨大な悪」と言っています。ヤルヴィは旧ソ連のエストニア出身です。彼の言う「巨大な悪」にはスターリン体制を含んでいるのは間違いありません。。

このことに関連して、番組では次のような話が紹介されました。第7番が完成したとき、クイビシェフでショスタコーヴィチと同じマンションに住んでいた知人の女性、フローラ・リトヴィノヴァは回想録を書いたのですが、そこには第7番の完成を祝う席で、宴が終わったあとのショスタコーヴィチとフローラの会話が記されています。


会話は自然と7番の話になりました。ショスタコーヴィチは考え込むように静かに言いました。「この音楽は、恐怖、奴隷制度、魂の束縛、それらすべてについての曲なんだ。」

やがて私を信用してくれたのか、こんな風にも言いました。「第7番はファシズムはもちろん、私たち自身の社会システム、すなわち全体主義体制、すべてを描いている

フローラ・リトヴィノヴァ
「ショスタコーヴィチ:ア・ライフ・リメンバード」
(番組より)

こういう回想録には注意が必要です。どうしても著者の主観が入り込むし、記憶違いがあるかもしれない。ショスタコーヴィチの言葉そのものではなく、著者が(善意で)解釈した結果かもしれない。もし「第7番はファシズムやソ連を含むすべての全体主義を描いた」のなら「ファシズムとの戦うための第7番」であると同時に「スターリン体制(ないしは共産主義体制)と戦うための第7番」にもなってしまいます。こんなことが外に漏れたらソ連政府の面目は丸潰れであり、ショスタコーヴィチの命は危うくなるでしょう。いくらショスタコーヴィチがフローラを信用したとしても、こんなことを他人に言うものでしょうか。

詮索しても無駄なので、とりあえず第7番は「全体主義(狭義にはファシズム、広くはスターリン体制を含む)に立ち向かう姿を描いた」ものとしましょう。しかし、作曲者の意図がどうであれ、一つの音楽をこのように受け取ることは非常に "あやうい" と思います。

事実、第7番は番組で詳述していたように、スターリンとルーズベルトによって(=ソ連政府と米国政府によって)政治的に利用され、その経緯が番組の大きな軸でした。ここで、ナチス・ドイツという「巨大な悪」との戦いに勝利するためだからいいのでは、と思うのは甘いのです。番組の中でパーヴォ・ヤルヴィは次のような的確なコメントを述べていました


【パーヴォ・ヤルヴィ】

音楽と芸術を自身の目的のために利用する方法を知っていたのが、20世紀最大の大量殺戮を行った巨大な悪、スターリンとヒトラーでした。実際、彼らは2人とも音楽をよく知っていました。賢い政治家は芸術を政治に利用することに長けています。どんな時代にあっても。

「同上」

その、もう一人の "賢い政治家" だったヒトラーは誰の音楽をどういう風に利用したのか。それは、よく知られているようにワーグナーの音楽です。

ヒトラーがワーグナー好きということもあって、ナチスはワーグナーの音楽を政治集会や宣伝映画で徹底的に使いました。それはドイツ民族(ナチスの言うゲルマン民族)の優秀性とも関連づけられ、ユダヤ人排斥にも利用された。『ローエングリン』の第3幕にドイツ国王、ハインリヒの言葉として次があります。


ドイツの剣をとってドイツの国土を守れ!
帝国の力はこうして保たれよ!

リヒャルト・ワグナー
『ローエングリン』第3幕
(高辻友義訳。新書館 1985)

『ローエングリン』はドイツの西のはずれ、ブラバント公爵領の話であり、ハンガリー軍を迎え撃つ軍団の組織化を訴えるために国王が公爵領に来るのが背景となっているオペラです。従って上に引用したような発言になるのですが、ナチスはそいういうところも巧みに利用しました。

確かにワーグナーは "ユダヤ人嫌い" だったようですが、反ユダヤの考えはキリスト教が西洋に定着した頃から根強くありました。ナチスによる "ユダヤ人狩り" も、ドイツおよびドイツ占領下の国々(オーストリア、フランス、オランダなど)の一般市民の自発的な協力のもとに行われました。ヨーロッパ人としてワーグナーが特別だったわけではありません。しかもワーグナーの作品の中に反ユダヤのメッセージがあるわけではないのです。

しかし、ナチスの政治利用によってワーグナーの音楽はイスラエルでは長年にわたってタブーとなりました。ワーグナーの音楽を「ドイツ民族の優秀性を示す音楽だから、そう聞きなさい」と命令されて聴けば、そう思えるわけです。音楽は人間の感情に直接的に働きかけるので、そうなってしまう。音楽の怖いところです。

結局のところ、スターリンとルーズベルトにとっての第7番と、ヒトラーにとってのワーグナーは、同じことの表と裏です。

番組で紹介されたように、第7番は第二次世界大戦中に、ヨーロッパ戦線に出征するアメリカ兵の慰問コンサートでも演奏されました。しかし戦後、冷戦の時代になると、第7番は「ソ連のプロパガンダである愚作」という評価にもなった。同じ曲が「ファシズムと戦う曲」から「プロパガンダの愚作」になってしまう。これが、音楽を政治利用すること、もっと広く一般化すると「音楽の力」を信じることの "あやうさ" だと思います。

 ショスタコーヴィチとしては異質 

もう一度、第7番を別の視点から振り返ってみます。確実に言えることは、これは異常な状況下で作られた音楽だと言うことです。自分のふるさとであり現に居住している街が敵の軍隊に完全包囲され、明日どうなるかもわからないとう状況は、人間が一生に一度あるかないか、ほとんどの人はそういう経験をしない状況です。その異常な状況下で "やむにやまれず(ないしは、いてもたってもいられず)作った音楽"、レニングラード市民に届けるという明確な目的のもとに作った音楽が第7番だった。

このことが第7番を、ショスタコーヴィチにしては異質な音楽にしていると思います。番組では、第7番の演奏はヤルヴィ指揮のNHK交響楽団で、ほんの "さわり" しかありませんでしたが、私自身はこの音楽を高校生の時から聞いています。第7番の音楽の特色を一言で言うと、

誰にでも分かりやすい音楽手法で書かれている

ということです。まず、明確で親しみやすく、耳に残りやすい主題がいろいろあります。第1楽章の冒頭の主題(レニングラードを表すものでしょう)や、第1楽章の途中から執拗に繰り返され、次第に轟音となっていく行進曲風の主題(敵の軍隊を表すものでしょう)がその典型です。他にもいろいろある。

和声は19世紀末音楽という感じであり、20世紀音楽という感じはしません。ショスタコーヴィチ特有の斬新さや革新性はあまりない。上に引用したように、パーヴォ・ヤルヴィは「ショスタコーヴィチ特有の洗練さとはかけ離れた音楽」と言っていますが、その通りです。

その理由は、この音楽が「レニングラード市民に届ける」という目的だからと推察します。レニングラード市民といってもいろいろのはずです。音楽の好みから言っても、ショスタコーヴィチが好きな人もいればべートーベンが好きな人もいるだろうし、そういったたぐいの音楽は聞かず、いわゆるポピュラー・ミュージックしか聞かない人もいるはずです。「市民に届ける」ためにはできるだけ分かりやすい音楽にする必要がある、そういうことだと思います。

加えてこの曲は、ショスタコーヴィチにしては "冗長" という感じがします。第1楽章と第4楽章だけを聞いていると、レニングラードの街とそこに迫り来る敵軍隊、市民の苦しみ・悲しみ・祈りと、それを突き抜けて勝利へという感じがしなくもないが、では第2楽章・第3楽章はどうなのか。演奏には1時間10分程度もかかりますが、果たしてそこまで必要なのか。

"冗長" が悪いと言っているのではありません。このブログで書いた例で言うと、村上春樹さんは、シューベルトのピアノソナタの中では「第17番二長調」が最も好きだと語っていました(No.236「村上春樹のシューベルト論」)。この曲はシューマンが「天国的に冗長」と評した曲です。また交響曲で言うと、マーラーには "冗長な" 交響曲がいろいろあります。しかし私が最も好きなマーラーの交響曲は、一般には冗長と言われている曲です。

しかし、普通のショスタコーヴィチの音楽は、もっときびきびしていて、筋肉質で、構造的にもコンパクトなものです。それと比べると冗長である、そういうことです。

全体をまとめると、第7番はショスタコーヴィチにしては異質な音楽です。作曲家の持っている個性が希薄です。もっと言うと第7番は、あえて作曲家本来の芸術性を殺して作った音楽でしょう。

第7番はショスタコーヴィチが(レニングラードが置かれた状況下で)是非ともやりたかった音楽だったけれど、ショスタコーヴィチがやりたかった芸術ではないと思います。だからこそスターリンが気に入ったし、プラウダは絶賛したし、ヨーロッパに出征するアメリカ兵まで熱狂した。


"音楽の力" という落とし穴


以下の「音楽」とは、言葉がない器楽だけの曲で、別の芸術の付随曲(映画、バレエ、劇などのための音楽)でないものとします。

本来、音楽をどう受け取るか、聴いて何を思うかは聴く人に任されているはずです。もちろん音楽を聴いて多くの人が同様の感情を持つことがあります。つまり、

癒される、悲しみ、楽しい、うきうき、快活、悲哀、静かだ、激しい、高揚感、美しい、洗練された

などの感情、ないしは音楽を聴いて受ける感じです。作曲家はそういう感情を喚起する意図で曲を作る場合も多いでしょう。しかし、こういった感情を超えたレベルの "物語" をどう描くかは、音楽を聴いた人それぞれの個別の問題のはずです。第7番を、

押し寄せるファシズム・全体主義の圧力に屈することなく、勝利へと向かう音楽

と考えるのは、まずいわけではありませんが、それはあくまで一つの物語です。これをもっと一般化して、

・ 継続的で次第に高まっていく圧力があり
・ そのもとで味わう不安や悲しみ、苦しみがあり
・ それを突破して解決に至る、ないしは解決への希望を得る

という風にとらえると、それは「病気を克服する物語」でもいいし「困難な仕事に立ち向かう物語」でもよいはずです。しかしそれもまた一つの物語に過ぎません。



私はショスタコーヴィチの第7番を高校生の頃から聴いていますが、その頃からどうしてもドイツ軍(またはファシズム)と戦う曲だとは思えなかった。それは今でも続いています。

上に引用した指揮者のヤルヴィの言葉に「巨大な悪」を描いたとありましたが、同時に「第7番は謎」ともありました。なぜ「謎」なのかを推察すると「ファシズムと戦う曲」という先入感があるから謎めいて感じるのだと思います。ヤルヴィは旧ソ連のエストニア出身なので、どうしてもバイアスがかかってしまうのでしょう。

思うのですが、第7番はショスタコーヴィチが、自分のふるさとであり愛する街であるレニングラードの全体像を描いたのではないでしょうか。もちろんその全体像の中では「ドイツ軍に完全包囲されたレニングラードと、敵との戦い」が大きな比重を占めています。しかしそれだけではない。レニングラードの町並みや自然、人々の普通の生活、そこでの市民同士の交歓など、ショスタコーヴィチが愛している多くのものが表現されていると感じます。



番組では「音楽の力」が何回か使われていました。「音楽の力で ・・・・・・ する」という表現です。しかし「音楽の力」によって一定の物語を作り出せると信じることはすべきでないと思います。第7番についての、

◆ すべての全体主義を告発する傑作
◆ ソ連のプロパガンダであり、壮大な愚作

という2つの極端に違う評価は、「音楽の力」を信じることによる必然の帰結です。

ちょっと唐突ですが、ミュージシャンの坂本龍一さんは、東日本大震災の被災3県の子供たちで作る「東北ユースオーケストラ」を組織し(2014年)、その音楽監督を努めています。先日の新聞に、新聞記者が坂本さんにインタビューした記事があり、そこに「音楽の力」が出てきました。引用してみます。


復興を祈る公演などを通じて、「音楽の力」で社会に影響を与えてきたのでは、と質問しようと話を向けると、強い拒否反応が返ってきた。「音楽の力」は「僕、一番嫌いな言葉なんですよ」と言う。

「もちろん、僕も、ニューヨークが同時多発テロで緊張状態にあった時、音楽に癒されたことはあります。だけど『この音楽には、絶対的に癒しの力がある』みたいな物理的なものではない。音楽を使ってとか、音楽にメッセージを込めてとか、音楽の社会利用、政治利用が僕は本当に嫌いです」



日本社会ではとりわけ近年、メディアなどが「音楽の力」という言葉を万能薬のように使う傾向がある。「災害後にそういう言葉、よく聞かれますよね。テレビで目にすると大変不愉快。音楽に限らずスポーツもそう。プレーする側、例えば、子どもたちが『勇気を与えたい』とか言うじゃない? そんな恥ずべきことを、少年たちが言っている。大人が言うからまねをしているわけで。僕は悲しい」

音楽の感動というのは「基本的に個人個人の誤解」だとも語る。「感動するかしないかは、勝手なこと。あるときにある音楽と出会って気持ちが和んでも、同じ曲を別の時に聞いて気持ちが動かないことはある。音楽に何か力があるのではない。音楽を作る側がそういう力を及ぼしてやろうと思って作るのは、言語道断でおこがましい」

坂本龍一氏へのインタビュー
朝日新聞(河村能宏記者)
(2020.2.2)

坂本さんは「音楽は好きだからやる、それを聞いてくれる人や一緒にやってくれる人がいると楽しい、それに尽きる」という意味の発言もしていました。

坂本さんのこの考えは、極めてまっとうだと思います。ショスタコーヴィチの交響曲第7番を描いたNHK BSの番組は、よい意味でも(=レニングラード市民を鼓舞する)、また悪い意味でも(=ソ連とアメリカによる政治利用)「音楽の力」をテーマにしようとしたのでしょうが、そもそもそういうレベルの議論がおかしい。番組の中で交響曲第7番のレニングラード初演を実際に聞いた人が「普通の生活、普通の心を取り戻せた」という主旨の発言をしていましたが、まさにそれこそ交響曲第7番の演奏会の効果だったし、音楽が果たす役割だったと思いました。


『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と『交響曲第5番』


ところで話は変わるのですが、「芸術と社会の関係」について第7番と同じように(いや、それ以上に)気になったショスタコーヴィチの作品があります。番組に出てきたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と『交響曲第5番』です。

番組の最初の方のショスタコーヴィチの経歴の紹介の中で「スターリンはマクベス夫人を気に入らす、すぐさまプラウダ紙は批判を展開した。ショスタコーヴィチはそれに答える形で交響曲第5番を書いた」とありました。そのことですが、長くなるので次回に書きます。



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No.262 - ヴュイユマンのカンティレーヌ [音楽]

今回は "音楽のデジャヴュ(既視感)" についての個人的な体験の話です。題名にあげた「ヴュイユマンのカンティレーヌ」はそのデジャヴュを引き起こした曲なのですが、その曲については後で説明します。デジャヴュとは何か。Wikipedia には次のような主旨の説明がしてあります。

実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したように感じる現象。フランス語由来の言葉。デジャヴ、デジャブなどとも呼ばれる。

日本語では普通「既視感」ですが、聴覚、触覚などの視覚以外による体験も含みます。「既知感」との言い方もあります。今回は音楽(=聴覚)の話なので、以降は "デジャヴュ" で通します。


サン・サーンスのクラリネット・ソナタ


"音楽のデジャヴュ" については以前に書いたことがあります。No.91「サン・サーンスの室内楽」で、サン・サーンス最晩年の作品、「クラリネット・ソナタ」について、次の主旨のことを書きました。

◆ サン・サーンスのクラリネット・ソナタを初めて聴いたとき、この曲の冒頭の旋律は以前にどこかで聴いたことがあると思った。

◆ それは、フランス映画かイタリア映画の映画音楽だろうと強く感じた。

◆ しかし調べてみても、サン・サーンスのクラリネット・ソナタが映画に使われたという事実は見つからなかった。どうも違うようだ。

◆ いろいろと考えてみて、この "音楽のデジャヴュ" を引き起こしたのは『ニュー・シネマ・パラダイス』の「愛のテーマ」ではないかと考えた。「愛のテーマ」の最初はクラリネットで始まる。

「クラリネット・ソナタ」第1楽章の冒頭のメロディーと、『ニュー・シネマ・パラダイス』の「愛のテーマ」のメロディーが似ているというわけではありせん。テンポも違います。しかし、クラリネット特有の "哀愁を帯びて" "何か訴えかけるような" 感じが "音楽のデジャヴュ" につながったのではないかと考えたのです。


カフェ・ベローチェのBGM


その "音楽のデジャヴュ" について、最近の別の経験を書きます。No.236「村上春樹のシューベルト論」の「補記2」(2018.11.28)に、カフェ・ベローチェのA店の BGM でシューベルトの「ピアノソナタ 第17番 二長調」の第2楽章が流れてきたという話を書きました。No.236 の主題は村上春樹さんの「二長調 ピアノソナタ論」であり、それもあってこの曲は何回も聴いていたので、すぐにわかりました。

しかし、他のカフェでもそうですが、カフェ・ベローチェの BGM で流れる曲は "知らない曲" のほうが多いわけです。中には "誰もが知っている曲" もありますが(サン・サーンスつながりで言うと、たとえば『白鳥』)、そういう曲は比較的少数です。BGMは "店の雰囲気づくり" が主眼なので、多くの人にとって "特に意識せずに聞き流せる" のが BGM の役割でしょう。もちろんその中に "誰もが知っている曲" を少し配置することで BGM の「存在感」が増すわけです。しかしそういった曲はあくまで少数であり、我々は大多数の知らない曲を聴き流しています。

カフェ・ベローチェの BGM は、詳しいことは知りませんが、数日とか十数日という単位で繰り返し放送されています。そして聴き流している知らないはずの曲の中に、ときどき妙に印象に残る曲があるのです。先日もA店の BGM で、あるピアノ曲が印象に残りました。数日たってまたその曲が出てくると印象が強まり、メロディーを覚えてしまいました。その時思ったのですが、この曲は必ずどこかで聴いたことがあり、それはシューマンのピアノ曲ではないか、と強く感じたのです。

シューマンのピアノ曲の多くは、個人所有の iPod Touch に入っています。そこで、順にそれらしいものを調べていったのですが、どうも該当する曲がありません。もちろん、シューマンの全部のピアノ曲が iPod Touch にあるわけではないので、結論は出ません。

No.236「補記2」にも書きましたが、カフェ・ベローチェは USEN と契約して BGM を流しています。USEN は幅広いジャンルの多数のチャネルを配給していて、USENのホームページではチャネルを指定すると今流れている曲が特定できるようになっています。問題の「印象に残るピアノ曲」が流れてきたときにホームページをいろいろ検索しましたが、どうも該当する曲がないようなのです。

そこでカフェ・ベローチェの運営会社に直接問い合わせてみることしました。


シャノアール


カフェ・ベローチェを運営しているのはシャノアールという会社です。そこでシャノアールの「お客様相談室」にメールで以下のような主旨の問い合わせをしてみました。

カフェ・ベローチェの A 店で XX月 YY日の午前に流れたBGMの曲名を知りたい。USENと契約されているようだが、チャネル番号がわかれば教えてほしい。

この問い合わせに対して比較的速くレスポンスが返ってきました。その内容を要約すると以下の2点です。

① カフェ・ベローチェのBGMは、専用にUSENに作成してもらっている。一般のチャネルではない。

② 曲が流れた詳しい時刻を教えてもらえれば、調査しましょう。

答えの ① については "なるほど" という感じです。カフェ・ベローチェのような大手カフェ・チェーンで重要なのは、提供する商品、店の内装、スタッフの教育、各種販促による顧客とのコネクション作りなどと思いますが、BGMも店づくりの重要な要素なのですね。それは店の雰囲気作りのポイントの一つです。おそらくシャノアールは USEN と綿密に打ち合わせて BGM の方針を決めているのでしょう。USEN が「専用BGMビジネス」をしていることを初めて知りましたが、これは私が知らなかっただけで "BGM業界" では常識なのだと思います。とにかく ① は納得できる回答でした。

少々意外だったのは ② です。「調査してみましょう」という申し出が、えらく親切だと思ったのです。そういった問い合わせをする人は滅多にいないからだとも考えられますが ・・・・・・。そこで早速、つぎのようなメールを送りました。

題名を知りたい曲は、カフェ・ベローチェの A 店で XX月 YY日の hh時 mm分に流れたピアノ曲です。調査をよろしくお願いします。

というメールです。すると数日後に「調査結果」が返ってきました。私が指定した時刻、およびその前後に流れた合計4曲のリストで、曲名と演奏者とBGMの開始時刻が書かれています。このリストをもとにネットで調べたところ、すぐに分かりました。私にとって "音楽のデジャヴュ" を引き起こしたピアノ曲はシューマンではなく、次でした。

作曲者  :  ルイ・ビュイユマン
曲名  :  「3つの易しい小品」より、第2曲「カンティレーヌ」
演奏  :  フィリップ・コレ、エドゥアルド・エセルジャン
(4手のための連弾曲)

すぐにシャノアールにお礼のメールを出したのは言うまでもありません。これではっきりしたことが2つあります。

① これは知らなかった曲である。作曲家(ビュイユマン)も曲名(カンティレーヌ)も知らない。

② どこかでこの曲を聴いたとしたら、それは無意識に聴いたカフェ・ベローチェの BGM だと強く推測できる。

の2点です。


ビュイユマンのカンティレーヌ


調べてみると、ルイ・ビュイユマン(1879~1929)はフランスの作曲家・音楽評論家です。よく知られた作曲家でいうと、モーリス・ラヴェル(1875~1937)とほぼ同時代人ということになります。Wikipedia の情報によると、ブルターニュ地方の中核都市のナントで生まれ、フォーレに作曲を習い、オペレッタやバレエ音楽、室内楽、ピアノ曲、歌曲と、幅広いジャンルの作品を残したようです。特にブルターニュ地方のケルト系民族、ブルトン人の伝統を取り入れた音楽に特色があるということです。

ちなみに「3つの易しい小品」(Trio Bluttes Faciles)はピアノ連弾曲で、次のような構成です。

・第1曲 間奏曲(Intermezzo)
・第2曲 カンティレーヌ(Cantilene)
・第3曲 ワルツ(Valse)

この第2曲の「カンティレーヌ」が問題のBGMでした。題名の "カンティレーヌ" はもともイタリア語で、"カント=歌" という語が入っているように「歌のような旋律をもった器楽曲」の意味です。固有名詞ではなく、Intermezzo や Valse と同じような一般名称です。

実はこの「カンティレーヌ」の楽譜は、IMSLP(International Music Score Library Project)のサイトに掲載されています。そのピアノ譜から主旋律だけを抜き出したものが、次の譜例165です。カフェの BGM で "聞き流している" 曲が印象に残ったということは、その曲のメインの旋律が記憶されたわけなので、主旋律だけの譜にしました。その音声データも併せて掲載します。

譜例165: ビュイユマンのカンティレーヌ(主旋律)
Vuillemin - Cantilene.jpg


全体のピアノ譜を見ると、「3つの易しい小品」という題名が示すように演奏は容易なようです。ちょうど「子供ピアノ教室」の発表会で小中学生の生徒と先生が連弾をするのに良いような感じがします。その意味で、BGM 以外でそれと知らずに聴いた可能性が無いわけではありません。しかし「子供ピアノ教室の発表会」に行った経験は2~3回しかなく、その可能性は極めて薄いでしょう。あくまでカフェ・ベローチェの BGM で何回か聴き流しているうちに、それが無意識にうちに脳にこびりついてしまって "音楽のデジャヴュ" を引き起こしたと考えられます。


2つの疑問


以上のようなことが分かってくると、2つの疑問が沸いてきました。

① BGMに使われる "多数の知らない曲" の中で「カンティレーヌ」だけがデジャヴュを引き起こしたのは何故なのか。

② 「カンティレーヌ」の旋律を聴いてシューマンの曲だと思ったのは何故なのか。

の2つの疑問です。① については、いまだもって謎です。ビュイユマンの「カンティレーヌ」は「クラシック音楽:ピアノ曲」のジャンルですが、USENのホームページでこのジャンルの曲を調べてみると、全く知らない作曲家の、全く知らない曲がいろいろと並んでいます(もちろんショパンやシューベルトなどの著名作曲家の作品もある)。いったいどうやってそういう曲を "発掘" するのだろうと不思議に思えるほどで、"BGMビジネスの奥深さ" を感じることにもなります。そういった多数の曲の中で、なぜ「カンティレーヌ」だけがデジャヴュを起こしたのかが大いに疑問です。

② のシューマンについては次のように考えました。つまり、シューマンのピアノ曲の中に、何らかの意味で「カンティレーヌ」と似ている曲があるのではないか。メロディーとか、雰囲気とか、曲のテンポ感とか、そういった点です。和声進行かもしれません。そういういった "何か" が似ている曲があるのではと思ったのです。


デジャヴュを引き起こした曲


その視点で、改めてシューマンのピアノ曲を調べていくと、どうもこの曲ではないかと思ったものがありました。それは有名な曲で、『謝肉祭 作品9』の第20曲(終曲)の「フィリシテ人と闘うダヴィット同盟の行進」です。その出だしの8小節(繰り返して16小節)のピアノ譜が譜例166です。『謝肉祭』はじっくり何回も聴いた曲なので、完全なスコアを掲載します。

譜例166: 『謝肉祭』終曲
Schumann - Marche_des_Davidsbundler.jpg

この「フィリシテ人と闘うダヴィット同盟の行進」と「カンティレーヌ」はかなり違います。まず「カンティレーヌ」は8分の6拍子の2拍子系リズムですが、「フィリシテ人と闘うダヴィット同盟の行進」は、行進という題名にもかかわらず4分の3拍子です。また「カンティレーヌ」は "可愛らしい" という雰囲気の曲であるのに対し、「ダヴィッド同盟」の方はいかにも『謝肉祭』の "締め" に相応ふさわしい "堂々として壮麗な" 曲です。

しかし"可愛らしい" と "堂々として壮麗な" という雰囲気の違いは、だからといって似ていないとは限りません。たとえば「カンティレーヌ」のメロディーを編曲し "堂々として壮麗な曲" に仕立てるのは十分可能だし、逆もまたしかりです。

次のように思っています。『謝肉祭』は何度も聴いた曲なので、それは頭の中に染み着いていた。「カンティレーヌ」をBGMで何回か聞き流しているうちに、何らか類似性を発見する脳の作用で『謝肉祭』へのリンクができ、それが「どこかで聴いたことがある」「それはシューマンだ」というデジャヴュを引き起こした ・・・・・・。そして、多数ある BGM の曲の中で「カンティレーヌ」が印象に残った理由(= 疑問点 ①)が、まさにこのことではないかと思うのです。

「ダヴィット同盟」と「カンティレーヌ」の何が似ているのか説明して下さいと言われると困るのですが、とにかくそういう風に脳が働いたのではと思っています。



音楽を離れて少々飛躍しますが、「全く関係のないはずの2つのものの間に何らかの意味での類似性を見いだすという、無意識下での脳の働き」が、"ひらめき" を起こす一つの要素ではないでしょうか。解決すべき課題や問題をずっと考えていて、あるときふっとアイデアが浮かぶということがあります。頭の中に蓄積されている過去の経験の中から、いま考えている課題と何らかの意味で "同型" の問題へのリンクができ、それがアイデアを生み出す ・・・・・・。もちろんアイデアが発現する理由はこれだけではないと思いますが、経験に照らしてみても、そういう感じがします。もっとも「カンティレーヌ」と「ダヴィット同盟」の関係(それが正しいとして)は、別にメリットもないわけですが。


音楽の謎


No.62「音楽の不思議」に書いたのですが、我々の身の回りには音楽があふれていて、小さいときから何らかの音楽に親しんで成長してきたのだけれど、音楽には今だに "謎めいた" ところが多々あります。No.62 で書いた「頭の中に染み込んで記憶している旋律は、長い時間がたっても忘れない」のもその一つです。

別の "謎" を書きますと、ある時ふと気がつくと頭の中でメロディーを無意識に思い浮かべている、ということがあるわけです。もちろん昨日見た映画の主題歌とか、先日のコンサートの曲とか、そいういう「時間的に近接した音楽体験」のメロディーが浮かぶということはよくあります。時には知らず知らずに "鼻歌" になっていることもある。

しかしそういう音楽体験とは関係なく、全くランダムに頭の中でメロディーを無意識に思い浮かべていることがあります。先日も、気がつくとあるメロディーを頭で反復していて、「えっ! これはビートルズの "P.S. I Love You" じゃないの」と気がついて、自分でもびっくりしたことがあります。曲が作られたのは1960年代初頭だし、初めてこの曲を聴いたのがいつで、最後に聴いたのがいつかも分かりません。すべては記憶の彼方にあります。しかしその記憶の底から、何らかの拍子にメロディーが引き出されてくる。

こういった体験は何度もあります。そういったメロディーは全くランダムに想起されるように見えます。子どものころにはやった歌もあるし、数年前の曲もある。ジャンルもいろいろです。夢の中で忘れていたはずの昔の記憶が再現されることがありますが、それと似ています。

とにかく、音楽には "謎めいたところ" があります。それは人間の脳の働きの奥深いところと密接に関係しているようであり、それが音楽に引きつけられる大きな要因ではないか。"音楽のデジャヴュ" のことも含めて、そう感じます。




nice!(1) 

No.261 - "ニーベルングの指環" 入門(5)複合 [EX.162-193] [音楽]

2019.6.21
前回より続く

これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。

今回の(5)が最終回で、EX.162 ~ EX.193 の 32種 のライトモティーフです。まず、今まで取り上げなかった副次的なモティーフの中から、人物や自然の活動に関係したものなどが解説されます。

そして「"ニーベルングの指環" 入門」の締めくくりとして、複数のモティーフを組み合わせてドラマを進行させる "複合モティーフ" が解説されます。


ショルティ「神々の黄昏」.jpg
リヒャルト・ワーグナー
神々の黄昏
ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(新リマスター版CD 1997。録音 1964)


CD2-Track12


There're one or two motives which lie outside the main families, representing simple characters rather than symbols. One of these is the motive attached to Hunding which we heard right at the start. Another is the brass motive associated with the Giants in Rheingold which is appropriately heavy and forceful.

主要なモティーフのファミリーとは別に、シンボルではなく単にキャラクターを表す1つないしは2つのモティーフがあります。一つは《フンディング》に付けられたもので、この解説の最初に聴いたものです。もう1つは『ラインの黄金』において《巨人族》を表す金管のモティーフです。巨人らしく、重々しく力強いものです。

 EX.162: 《巨人族》 

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This motive of the Giants takes on a more sinister form of the timpani in Act 2 of Siegfried to represent Fafner, the Giant who has survived and turned himself into a Dragon.

《巨人族》のモティーフは『ジークフリート』の第2幕でティンパニによるもっと不吉な形になり、ファフナーを表します。ファフナーは生き残った巨人で、大蛇に姿を変えています。

訳注:  EX.163 は『ジークフリート』第2幕のオーケストラ前奏の冒頭。このあとに EX.55 《大蛇としてのファフナー》が続く。

 EX.163: 《大蛇に変身した巨人、ファフナー》 

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It might be wondered, perhaps, why some characters seem to have no personal motive at all. There is a Siegfried motive, for example, and a Brunnhilde motive. But the commentators list no Alberich motive. Alberich is, of course, efficiently represented by the symbolic motives attached to him, those of the Ring, the Power of the Ring, Resentment, Murder and so on.

But in fact he does have a personal motive of his own. When Alberich enters in Scene 1 of Rheingold, we hear some uneasy music in the depths of the orchestra, portraying his awkward attempt to clamber up out of Nibelheim into the waters of the Rhine.

おそらく、個人を表すモティーフが全くないように見える登場人物があることが不思議に思えるかもしれません。たとえば《ジークフリート》のモティーフがあり、《ブリュンヒルデ》のモティーフもあります。しかしアルベリヒのモティーフを取り上げた解説者はありません。もちろんアルベリヒは、彼と結びつくシンボルのモティーフで十分に表現されています。《指環》、《指環の力》、《怨念》、《殺害》などなどです。

しかし実際は、アルベリヒは個人のモティーフをしっかりともっています。『ラインの黄金』の第1場で彼が登場するとき、我々はオーケストラの奥底に何か不安な音楽を聴きます。それは、ニーベルハイムからよじ登ってラインの水中に至るアルベリヒのぎこちない動きを描写しています。

 EX.164: 《アルベリヒ》 

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Those furious little descending figures on the cellos are in fact Alberich's personal motive. We can hear more clearly from a special illustration played by the cellos alone, a little more slowly.

これらのチェロによる短い怒り狂うような下降音形が、実は《アルベリヒ》個人のモティーフです。特別の例示でそれをもっと明瞭に聴けます。チェロだけで少し遅く演奏してみましょう。

 EX.165: 《アルベリヒ》 チェロ 

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This personal motive of Alberich's forms part of the general transformation of the music of Scene 1 of Rheingold into that of Scene 3, which we noticed earlier. When Alberich enters in the Nibelheim scene, this furious descending motive of his accompanies the blows he inflicts on Mime. Once more, the music reveals that the thwarting of his desire for the Rhinemaidens has been transformed into a sadistic lust to get his own back on everybody.

このアルベリヒの個人モティーフは、以前に述べた『ラインの黄金』の第1場から第3場への全般的な音楽の転換の一部となります。アルベリヒがニーベルハイムのシーンに登場すると、この彼の怒り狂った下降するモティーフは、彼がミーメに一撃を与えるときの伴奏になります。アルベリヒのラインの乙女に対する願いが拒絶されたことが、あらゆる者に怒りをぶちまけるサディスティックな欲望に転換したことを、再び音楽で示しているのです。

訳注:  『ラインの黄金』の第1場から第3場への音楽の転換については、EX.34《指環の力》や、EX.95《逃亡》からの数個のモティーフの解説を参照。

 EX.166: 《アルベリヒ》 ニーベルハイムのシーン 

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Mime too has his personal motive, even several of them. The most important is a whining one, the kind of insidious transformation of the furious descending one of Alberich. He introduces this vocally when he sings what Siegfried calls his 'Starling Song' about how he brought the boy up as a baby.

ミーメもまた個人のモティーフを持っていて、それも数個あります。最も重要なのは "泣き言" のモティーフで、これ怒り狂って下降する《アルベリヒ》のモティーフの、言わば潜在的な変形です。ミーメはこれを歌で導入します。ジークフリートが《養育の歌》と呼ぶもので、赤ん坊からどのように少年まで育て上げたかの歌です(訳注:『ジークフリート』第1幕 第1場)。

 EX.167: 《ミーメの養育の歌》 

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Incidentally, this whining motive of Mime and the furious motive of Alberich of which it is a transformation, are both distorted minor versions of the bold descending major motive of Siegfried's Mission which is, of course, directly opposed to the machinations of the two dwarfs.

ところで、このミーメの "泣き言" のモティーフとその元になったアルベリヒの怒り狂うモティーフは両方とも、力強く長調で下降する《ジークフリートの使命》のモティーフを短調のゆがめた形にしたものです。もちろん《使命》は、2人の小人こびとの陰謀とはちょうど正反対のものです(訳注:EX.141《ジークフリートの使命》参照)。

 EX.168: 《ジークフリートの使命》 

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CD2-Track13


These motives of Alberich and Mime are only two of the many subsidiary motives in The Ring. These are too numerous for every single one to be enumerated, but some of them claim our attention.

Sometimes, and especially in Gotterdammerung, subsidiary motives are introduced and then developed in such a subtle way that they have no simple primary meaning but gather meaning as they proceed. One example of many is the motive representing the Dawn in Act 2 of Gotterdammerung, when Hagen wakes up after his nocturnal communion with his father Alberich. As first introduced by the bass clarinette, this motive's arpeggio shape proclaims it an offshoot of the Nature family.

これらのアルベリヒとミーメのモティーフは、『指環』における数多くの副次的なモティーフの中の2つに過ぎません。副次的なモティーフはあまりに多いので一つ一つ数え上げることはできませんが、中には私たちの注意を引くものがあります。

特に『神々の黄昏』においてですが、副次的なモティーフが巧妙に導入され、初めはあまり意味がないが段々と意味を持つということが時々あります。この一つの例が『神々の黄昏』の第2幕で《日の出》を表現するモティーフです。ハーゲンが父のアルベリヒと夢の中で会話をしたあとに目覚めた時、そのモティーフは現れます。最初にバス・クラリネットで導入されるとき、このモティーフはアルペジオの形をしており、《自然》のファミリーから生まれたことを示しています。

訳注:  以降の EX.169, EX.170, EX.171は『神々の黄昏』第2幕 第2場。

 EX.169: 《日の出》 

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Soon, however, this Dawn motive is developed forcibly by the horns, and its main figure eventually assumes a rather brutal character much more in keeping with the personality of Hagen than with the simple natural phenomenon of Dawn. The day that is dawning is going to be Hargen's day.

しかしすぐにこの《日の出》モティーフはホルンによって力強く展開され、その主要な形が次第に凶暴な性格を帯びてきます。つまり単なる日の出という自然現象ではなく、ハーゲンの性格を帯びてくるのです。日の出で明けるその日は、ハーゲンにとっての良き日です。

 EX.170: 《日の出》 ハーゲンの日 

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Later this motive forms the coral song of the vassels as they sing Hagen's praises and declare themselves ready to stand by him. By now, it clearly is Hargen's Day.

その後、このモティーフは家臣たちの合唱になります。彼らがハーゲンを称え、ハーゲンに忠誠を誓う歌です。ここでこのモティーフは明確に "ハーゲンの日" となります。

 EX.171: 《家臣たちの歌》 

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CD2-Track14


Quite a number of the subsidiary motives are not so much recurrent themes representing symbols as recurrent figurations portraying movement and activity. There's one group in particular which is a kind of family representing various aspects of Nature in Motion. The starting point is a swift rising and falling major key figuration on the violins in Scene 1 of Rheingold. It's repeated over and over to portray the waters of the Rhine, rippling around the swimming Rhinemaidens.

副次的なモティーフの多くは、シンボルを表現するために繰り返される旋律というよりは、動きや行動を描写して繰り返される音形です。その中でも特に "自然の活動" のさまざまな側面を表すファミリーと言える一つのグループがあります。その出発点は『ラインの黄金』の第1場でヴァイオリンが演奏する、上昇して下降する速いテンポの長調の音形です。これは何度も繰り返されることにより、ラインの乙女が泳ぐ周りで波立つライン河の水を描写します。

 EX.172: 《波の動き》 ライン版 

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We can identify the shape of this motive more clearly if we have it played by the violins alone and a little more slowly. It's a swift surge upwards followed by a longer and not quite so swift descent, like the flow and ebb of a wave.

このモティーフをヴァイオリンだけで少し遅めに演奏すると、その形がはっきりと分かるでしょう。それは素速く上昇して寄せ、その後で引き潮の波のように速さを押さえて下降します。

 EX.173: 《波の動き》 ライン版 

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In Scene 2 of Rheingold when Loge refers to the universal burgeoning of Nature, the orchestra transforms this flowing and ebbing wave motion shape into a much slower undulation, more appropriate to the earth.

『ラインの黄金』の第2場でローゲが世界における自然の生成を語るとき、オーケストラはこの寄せては返す波の形をもっとゆるやな "うねる形" にし、大地を表現するのに適した姿にします。

 EX.174: 《波の動き》 確定形 

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This is the definitive form of the motive of Nature in Motion, the form in which it will usually recur. We hear it when Siegfried is in the forest feeling Nature all around him, and when Wotan addresses Erda as the wise woman who knows all the secrets of Nature. And it transforms itself to generate other motives, portraying different aspects of Nature in Motion.

A notable case is its swift minor key transformation as the motive of the Storm which opens Walkure. The actual notes of the motive, as we heard earlier, are derived from the Spear motive. But the molodic and rhythmic pattern in which they're deployed is that of the Wave Motion motive, surging swiftly upwards on the cellos and basses and less swiftly down again.

これが《自然の活動》のモティーフの確定形で、この形でよく再現します。それはジークフリートが森で、まわりのすべてに自然を感じるときに聞こえてきます。またヴォータンがエルダに、自然の秘密を何でも知っている賢い女性だと話しかけるときにも聴かれます。そしてこの形自身が、自然の活動の違った側面を描写する別のモティーフを生み出します。

特筆すべき一つは、このモティーフのテンポの速い短調の変形が『ワルキューレ』の開始を告げる《嵐》のモティーフであることです。以前に聴いたように、《嵐》の実際の音符は《槍》のモティーフから派生したものでした(訳注:EX.70 参照)。しかしそこに込められた旋律とリズムのパターンは《波の動き》と同じです。つまりチェロとコントラバスが素速く上昇し、テンポを落として再び下降します。

 EX.175: 《嵐》 

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The final transformation of the motive of Nature in Motion occurs in the last Act of Gotterdammerung. Here, it changes back into something like its original watery form on the violins to portray the Rhine rippling around Rhinemaidens again.

《自然の活動》の最後の変形は『神々の黄昏』の最終幕に出てきます(訳注:第3幕 第1場)。ここではヴァイオリンによる元々の水の表現に近い形に立ち帰り、再びラインの乙女の周りで波立つライン河を描写します。

 EX.176: 《波の動き》神々の黄昏 

LM191 - EX176.jpg


CD2-Track15


Besides this family of motives representing Nature in Motion, there are a considerable number portraying various physical activities. But it will be obvious by now that to account for every last subsidiary motive in The Ring and to indicate its position in the general scheme of things would be an almost endless task. And so, we may end by examining one or two instances of the way in which Wagner builds up his motives into larger wholes. And we may consider first three examples of what might be called 'Composite Motives'.

The first is a combination of elements from two motives which could hardly be in greater contrast with each other, those of Valhalla and Loge. It occurs in Scene 3 of Rheingold when Loge is pretending to be impressed by Alberich's ambitions to rule the world instead of Wotan. Let's remind ourselves first of the main segment of Valhalla motive and notice how it precedes by repeating a short phrase over and over.

以上の《自然の活動》を表現するモティーフのファミリーのほかにも、さまざまな自然の活動を描写する相当数の副次的モティーフがあります。しかし今までで明らかなように、『指環』の副次的モティーフを一つ残らず数えあげて全体の体系の中に位置づけようとしたら、ほとんど終わりのない仕事になるでしょう。そこで私たちは、ワーグナーが複数のモティーフから大きな統一体を構成する方法の1つか2つの例を調べるだけにとどめておきます。まず最初に、"複合モティーフ" と呼べる3つの例を考察してみましょう。

最初の例は2つのモティーフからの要素を結合したもので、互いにこれ以上のコントラストはないに違いないものです。つまり《ヴァルハラ》と《ローゲ》のモティーフです。それは『ラインの黄金』の第3場に出てきます。ローゲが、ヴォータンの代わりに世界を支配しようとするアルベリヒの野望に感銘を受けたふりをする場面です。まず最初に《ヴァルハラ》のモティーフの主セグメントを思い出してみましょう。短いフレーズが何度も繰り返されて進行することに注意して下さい。

 EX.177: 《ヴァルハラ》 

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And now, let's hear one of the many segments of Loge's motive, one at first enters when he's making fun of Alberich in Scene 3 of Rheingold.

今度は《ローゲ》のモティーフの多数のセグメントのうちの一つを聴いてみましょう。『ラインの黄金』の第3場でローゲがアルベリヒをからかう時に最初に出てくるものです。

 EX.178: 《アルベリヒをあざけるローゲ》 

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By combining, at top speed, the repeated figure of the Valhalla motive with this segment of Loge's motive, Wagner evolves the flippant composite motive which acompanies Loge's mockery of Alberich's ambitions.

《ヴァルハラ》のモティーフの繰り返しの音形と《ローゲ》のモティーフのこのセグメントを非常に速いテンポで結合することで、ワーグナーはアルベリヒの野望をあざけるローゲの伴奏になる、軽薄な感じの複合モティーフを作り出します。

 EX.179: 《ヴァルハラ - ローゲ》 複合モティーフ 

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Our second example of a composite motive is connected with Siegfried. It combines the motives of the Sword and Siegfried's Horn, at top speed, to represent Siegfried's indomitable vitality. Here first, the Sword motive again.

複合モティーフの第2の例はジークフリートに結びついたものです。それは《剣》と《ジークフリートの角笛》のモティーフを非常に速いテンポで結合したもので、ジークフリートの不屈の生命力を表します。ここでまず《剣》のモティーフを再度聴きましょう。

 『ジークフリート』における《剣》: EX.21 

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And here's the motive of Siegfried's Horn-Call.

そして次が《ジークフリートの角笛》のモティーフです。

 《ジークフリートの角笛》: EX.137 

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And now, here's the composite motive, combining the two, as Siegfried plays it on his horn and awakens the sleeping dragon, Fafner.

そして次が、2つを結合した複合モティーフです。ジークフリートが角笛で吹き、眠っている大蛇、ファフナーを起こすときのものです。

訳注:  EX.180 は『ジークフリート』第2幕 第2場の EX.120 《ジークフリート》の直後。ここから、ジークフリートが剣でファフナーを倒すシーンになる。

 EX.180: 《剣 + 角笛》 複合モティーフ 

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CD2-Track16


Our final example of a composite motive is a longer and more subtle one connected with Wotan which first apperars in Act 2 of Walkure. It's generally known as the Need of the Gods and it represents Wotan's search for a way out of his frustration. Tormented both by Erda's warning about the end of the Gods and by the thwarting of his will by his wife Fricka, he wonders how he can find a free hero who will achieve what he is prevented from achieving by his responsibility to the law.

As he reflects on this problem, we hear a composite motive of the Need of the Gods which is a speeded up combination of the single motives of Erda, the Twilight of the Gods and Wotan's Frustration. Here first is the motive of Erda followed by the motive of the Twilight of the Gods, a juxtaposition which ocurs as we've heard during Wotan's first encounter with Erda in Scene 4 of Rheingold.

複合モティーフの最後のものはヴォータンに関連した長くて巧妙なもので、『ワルキューレ』の第2幕で現れます。一般には《神々の危機》として知られるものですが、ヴォータンが挫折から抜け出す道を探していることを表現します。ヴォータンは、神々の終末についてのエルダの警告と、妻のフリッカによって意図がくじかれたことの両方に苦しんでいます。そして、掟に従う責任から達成を妨げられたことを可能にしてくれる "自由な英雄" をいかに見つけようかと思案しています。

彼がこの問題を思案しているとき、《神々の危機》の複合モティーフが出てきます。それは《エルダ》《神々の黄昏》《ヴォータンの挫折感》という単独のモティーフをテンポを速めて結合したものです。まずここで《エルダ》のモティーフと、それに続く《神々の黄昏》のモティーフを聴きましょう。『ラインの黄金』の第4場でヴォータンが初めてエルダに会ったときに我々が聴いたように、並んで現れます。

 《エルダ》 / 《神々の黄昏》: EX.10 

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And here's the motive of Wotan's Frustration again.

そして次に《ヴォータンの挫折感》のモティーフを再び聴いてみましょう。

 《ヴォータンの挫折感》: EX.73 

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And now, here's the combination of those two ideas, speeded up, the composite motive of the Need of the Gods, as it enters in the bass and is developed at length.

そして、以上の2つの楽想をテンポを速めて結合した《神々の危機》の複合モティーフが次です。それは低音部に現れ、十分に展開されます。

訳注:  EX.181は『ワルキューレ』第2幕 第2場のヴォータンの歌唱、「神に逆らって私のために戦うという、友にして敵ともいうべき男を、どうやって私は見い出せるのであろうか」のところ。複合モティーフを強調するため歌唱はカットしてある。

 EX.181: 《神々の危機》 複合モティーフ 

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These are three of the several composite motives which continue as motives in their own right. But there're many cases where single motives are brought into conjunction once or twice for a special purpose. And we may consider the most mastery of these. First, here's a part of the motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold again, their cry of "Rhinegold !".

以上は幾つかある複合モティーフのうちの3つの例で、これらはモティーフとしての独自の意味を持ち続けます。しかし、一つのモティーフ群が特別の目的のために1度か2度だけ組み合されるケースも多くあります。その最も巧妙な例を見てみましょう。まず次は《ラインの乙女の黄金の喜び》のモティーフの一部で、"ラインの黄金!" という叫びの部分です。

 《ラインの黄金》: EX.35 

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And here's the second segment of the Valhalla motive again, or rather the part of it which consists of alternating chords.

そして次が《ヴァルハラ》のモティーフの第2セグメント、つまり交替する和音の部分です。

訳注:  デリック・クックは "the second segment of the Valhalla motive" と言っているが、"the third segment" が正しい。次の譜例も "VALHALLA (THIRD SEGMENT)" となっている。EX.57 EX.60 にあるように《ヴァルハラ》のモティーフは4つのセグメントに分かれていて、和音が交替する部分は第3セグメントである。

 《ヴァルハラ》 第3セグメント: EX.58 

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These two motives are brought into conjunction in Act 1 of Gotterdammerung. It happens when Waltraute comes to Brunnhilde to tell her of Wotan's wish that the Ring should be returned to the Rhinemaidens and that Valhalla shall be destroyed. When Waltraute sings the words "That would redeem the God and the World", the horns refer very slowly and quietly to the Rhinemaidens' cry of Rhinegold, and the brass follow this with the alternating chords of the Valhalla motive.

この2つのモティーフは『神々の黄昏』の第1幕で結びつけられます(訳注:第3場)。それはヴァルトラウテがブリュンヒルデのところに来て、ヴォータンの望みは指環をラインの乙女に返し、ヴァルハラを破壊することだと告げるときに現れます。ヴァルトラウテが「それが世界と神を救うだろう」と歌うとき、ホルンは非常にゆっくりと静かに《ラインの黄金》というラインの乙女の叫びを参照します。そして金管楽器が《ヴァルハラ》のモティーフの交替する和音で続きます。

 EX.182: 《ラインの黄金 + ヴァルハラ》 複合モティーフ 

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CD2-Track17


In the Final Scene of Gotterdammerung, when Brunnhilde decides to carry out Wotan's wish, this combination of motives is heard again, but now with further motives added. The first of these is the bass theme of the Need of the Gods which we heard a little earlier. Here it is again.

『神々の黄昏』の最終場面においてブリュンヒルデがヴォータンの望みを遂行しようと決めたとき、このモティーフの組み合わせが再び現れます。しかし今度はさらに複数のモティーフが付加されます。その最初は低音部の《神々の危機》の旋律です。少し前に聴きましたが、もう一度聴いてみましょう。

 《神々の危機》: EX.181 

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And here's the final cadence of the Valhalla motive again, the phrase that sets the seal of nobility on the motive.

そして次が《ヴァルハラ》のモティーフの最後の終止形です。このフレーズはモティーフに高貴さの印を与えます。

訳注:  "the final cadence" は "the final segment" と同じ意味。《ヴァルハラ》のモティーフの最終セグメントは他のモティーフにくっついて終止形を作る性質があるので cadence( = 終止形)となっている。EX.61 参照。

 《ヴァルハラ》 最後の終止形: EX.60 

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Now we can turn to the Final Scene of Gotterdammerung where Brunnhilde apostrophizes Wotan assuring him that she will now carry out his wish and adding the solemn words "Rest, Rest, Thou God". Accompanying these words in the orchestra, we hear the same quiet reference to the Rhinemaidens' cry of Rhinegold, followed by the alternating chords of the Valhalla motive that we heard in Act 1 when Waltraute told Brunnhilde of Wotan's wish.

But now, these are followed by a slowed down reference to the motive of the Need of the Gods, itself as we know a combination of the motives of Erda, the Twilight of the Gods and Wotan's Frustration, and lastly, the final cadence of the Valhalla motive setting its seal of nobility on the whole. Here's the entire passage.

さて『神々の黄昏』の最終場面に戻りましょう。ブリュンヒルデは、そこには居ないヴォータンに呼びかけ、ヴォータンの望みを遂行することを確約します。そしておごそかに "憩え、憩え、神よ" と付け加えます。この台詞のオーケストラ伴奏で聴けるのは、前と同じラインの乙女の《ラインの黄金》という叫びへの参照であり、次に《ヴァルハラ》のモティーフの交替する和音です。それは第1幕でヴァルトラウテがブリュンヒルデにヴォータンの希望を告げたときに聴いたものでした。

しかし今度は、これらに《神々の危機》のモティーフへの参照がテンポを落として続きます。その《神々の危機》は、《エルダ》と《神々の黄昏》と《ヴォータンの挫折感》の複合体でした。そして最後に《ヴァルハラ》のモティーフの最後の終止形が続き、全体に高貴な印を加えます。全部のパッセージを聴いてみましょう。

 EX.183: 《憩え、憩え、神よ》 

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And so, Wagner compresses the essence of six different motives into a single brief passage to look back over the Wotan's whole stormy existence and to indicate that it is now, at last, being brought to a pieceful and noble conclusion.

このようにしてワーグナーは、6つの違ったモティーフのエッセンスを一つの短いパッセージに集約し、そのことでヴォータンという波乱に満ちた存在のすべてを振り返ります。と同時に、今ついに、平和で気高い結末に向かいつつあることを示しているのです。


CD2-Track18


Even more masterly is the way that Wagner weaves his motives together on a large symphonic scale, and we may consider two final examples of this type. The first is the Prelude to Act 3 of Siegfried which prepares the way for the great scene between Wotan and Erda. This is build up as symphonic development of nine different motives. The first of these is one that we have not yet heard, a subsidiary one portraying the activity of Riding, originally attached to the Valkyries, but by this time associated with Wotan in his role of the Wanderer. Here it is, as it first enters to introduce the Ride of the Valkyries.

ワーグナーのもっと熟練した技は、複数のモティーフを一緒にして大きな交響的スケールに仕立てる、そのやり方です。最後にこのタイプの例を2つ見てみましょう。最初は『ジークフリート』第3幕への前奏曲で、ヴォータンとエルダの素晴らしい場面に繋がっていくものです。これは9つのモティーフの交響的展開で築き上げられています。最初は、我々がまだ聴いていない副次的なモティーフで、《騎行》の動作を描写するものです。これは元々ワルキューレに結びついたものですが、ここでは "さすらい人" の役割になるヴォータンに関係づけられます。次に《ワルキューレの騎行》が最初に導入されるときの《騎行》を聴いてみましょう。

 EX.184: 《騎行》 

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This Riding motive, in more continuous form, is the whole texture and rhythmic basis of the Prelude to Act 3 of Siegfried. Now, let's recall the dark motive of Erda.

この《騎行》のモティーフは、もっと連続的な形になって『ジークフリート』の第3幕への前奏曲全体の風合いとリズムの基礎となります。その次に、《エルダ》の暗いモティーフを思い出してみましょう。

 《エルダ》: EX.8 

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The Prelude to Act 3 of Siegfried begins with two speeded up statements of Erda's motive in the bass against the pulsating rhythm of the Riding motive.

『ジークフリート』第3幕への前奏曲は、低音部に示されるテンポを速めた2つの《エルダ》のモティーフと、それに対比される《騎行》の鼓動するモティーフで始まります。

 EX.185: 《エルダ》 / 《騎行》のモティーフ 

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Earlier as we know, Erda's motive has been combined with the motives of the Twilight of the Gods and Wotan's Frustration to form a composite motive of the Need of the Gods. And so, in the Prelude to Act 3 of Siegfried which represents Wotan riding to meet Erda in need of counsel, the statements of Erda's motive with which it opens, naturally merge into a statement of the motive of the Need of the Gods.

既に我々が知っているように《エルダ》のモティーフは、《神々の黄昏》のモティーフと《ヴォータンの挫折感》のモティーフとに結びついて《神々の危機》の複合モティーフになったのでした。『ジークフリート』第3幕への前奏曲は、エルダに相談をしに会いに行くヴォータンの騎行を表現していますが、《エルダ》のモティーフで開始されたあとは、自然に《神々の危機》のモティーフの提示へと繋がっていきます。

 EX.186: 《エルダ》 / 《神々の危機》 

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At this point, the music goes on to remind us of Wotan's dominating will with fiece development of the Spear motive by the brass.

この時点で音楽は、ヴォータンの支配の意志を思い起こさせるように進行します。つまり《槍》のモティーフが金管楽器によって荒々しく展開されるのです。

 EX.187: 《エルダ》 / 《槍》 

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And now, Wagner begins a lengthy development of a particular combination of two motives which has not been heard since Wotan's first meeting with Erda in Scene 4 of Rheingold. This is the combination of Erda's own motive with that of the Twilight of the Gods, which we'll hear again now.

そして次にワーグナーは、特別に結合する2つのモティーフの長い展開を始めます。それはヴォータンがエルダに初めて会った『ラインの黄金』の第4場以降は現れなかったもので、《エルダ》自身のモティーフと《神々の黄昏》のモティーフの組み合わせです。もう一度、それを聴いてみましょう。

 《エルダ》 / 《神々の黄昏》: EX.10 

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This slow and quiet combination of motives is developed swiftly and loudly in the Prelude to Act 3 of Siegfried.

このゆるやかで静かなモティーフの組み合わせが、『ジークフリート』第3幕への前奏曲ではテンポを速め、高らかに展開されます。

 EX.188: 《エルダ》 / 《神々の黄昏》 

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What is fascinating here is that this fast development of the combination of the two motives is built on the slow moving harmonic basis of another motive, that of the Wanderer which is a role played by Wotan in Siegfried. Let's remind ourselves of the Wanderer motive.

ここで魅力的なのは、2つのモティーフの組み合わせの速い展開が、ゆっくりとした別のモティーフの和声進行の上に築かれていることです。その別のモティーフとは《さすらい人》で、これは『ジークフリート』でヴォータンが演じたものでした。《さすらい人》のモティーフを思い出してみましょう。

 《さすらい人》: EX.157 

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CD2-Track19


Now, if we return to the passage in the Prelude to Act 3 of Siegfried which we just heard, we find that behind the swift development of the combined motives of Erda and the Twilight of the Gods, the brass are playing, very broadly, the chord progressions which is the motive of the Wanderer.

ここでさっき聴いた『ジークフリート』第3幕への前奏曲のパッセージに戻ります。《エルダ》と《神々の黄昏》の組み合わせの速い展開の背後には、金管楽器が堂々とした和音の連なりを演奏していることに気づきます。それが《さすらい人》のモティーフの和音です。

 EX.189: 《エルダ》 / 《神々の黄昏》 / 《さすらい人》 

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For the climax of this far ranging development and the whole Prelude, Wagner uses a motive, which overshadows all the others in a sense, since the symbol it represents threatens everything else with destruction. This is the motive of the Power of the Ring which we recall now.

この遠大な展開と前奏曲全体のクライマックスのために、ワーグナーは1つのモティーフを持ち出します。それはある意味で、他のモティーフを見劣りさせるかのようです。なぜなら、そのモティーフが表現するものがすべてを破壊の危機にさらすからです。それは《指環の力》のモティーフです。それを思い出してみましょう。

 《指環の力》: EX.34 

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That's only the first half of the motive and that's all Wagner uses of it for the climax of the Prelude to Act 3 of Siegfried. It's quite sufficient.

これは《指環の力》のモティーフの前半に過ぎません。しかし『ジークフリート』第3幕への前奏曲のクライマックスでワーグナーが用いたのはこの前半だけです。それで全く十分なのです。

 EX.190: 《指環の力》 / 《エルダ》 

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Those descending chords are powerful version of the motive of the Magic Sleep, the sleep into which Brunnhilde has been plunged, the sleep from which Erda will soon be awakening. Here's the Magic Sleep motive again as a reminder.

ここでの下降する和音は《魔の眠り》のモティーフをパワフルにしたものです。《魔の眠り》は、ブリュンヒルデが閉じこめられた眠りであり、また、エルダがそこから目覚めようとしている眠りです。その《魔の眠り》のモティーフをリマインドのために再び聴いてみましょう。

 《魔の眠り》: EX.156 

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Now if we listen again to the climax of the Prelude to Act 3 of Siegfried, we hear the loud desending chords quieten down and become a simple restatement of the Magic Sleep motive.

そして『ジークフリート』第3幕への前奏曲のクライマックスをもう一度聴いてみると、大きな音で下降する和音が静かになったあとに《魔の眠り》をシンプルに再提示しているのがわかります。

 EX.191: 《魔の眠り》 

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CD2-Track20


This masterly way of weaving several motives together into a large scale symphonic development is a constant feature of The Ring and nowhere is it used with greater mastery than in the closing pages of the work. During the final orchestral culmination, the music is woven from a combination of four motives.

First, the woodwind introduces the flowing motive of the Rhinemaidens who are swimming on the surface of the Rhine, holding aloft the Ring in triumph. At the same time, the strings are playing the rippling motive of the Rhine itself. Next, the brass weave in the majestic main segments of the motive of Valhalla, as the great castle begins to glow in the distance, preparatory to going up in flames. Then, when the motive of the Rhinemaidens and the Rhine return, they're surmounted by the soaring motive of Redemption, high up on the flutes and violins.

いくつかのモティーフを組み合わせて大きなスケールの交響的展開に仕立てる巧妙な技は『指環』で始終みられる特徴です。しかしこの作品の最終ページほど、その技が高度に使われたところはありません。最後にオーケストラが最高潮に達する時、音楽は4つのモティーフの組み合わせで織りなされます。

まず木管楽器が、ラインの川面かわもを泳ぐ《ラインの乙女》の流れるようなモティーフを導入します。乙女たちは誇らしげに指環を握りしめ、高く掲げています。同時に弦楽器は波だつ《ライン河》のモティーフそのものを演奏します。次に金管楽器は、遠くで巨大な城が炎に包まれる前に輝き始めるとき、《ヴァルハラ》のモティーフの壮麗な主セグメントを合奏します。そして《ラインの乙女》と《ライン河》のモティーフが戻ってきたとき、その上には高音のフルートとヴァイオリンによる《救済》のモティーフが舞い上がるように響きます。

 EX.192: 《ラインの乙女》/《ライン》/《ヴァルハラ》/《救済》 

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At the very end of the work, the music reaches its ultimate climax with a combination of the motives of Valhalla on the brass and the Power of the Gods in the bass, as both are consumed in the flames. Then, the motive of the dead Siegfried bursts in for the last time as a glorious memory, but it gives way to a last statement of the motive of the Twilight of the Gods which is now accomplished, and all the motives disappear except one. This is the motive of Redemption which remains alone at the end, to set upon the whole vast stormy world of the drama its final seal of benediction.

そして作品の最終段階において音楽は、金管の《ヴァルハラ》と低音部の《神々の力》の2つのモティーフの組み合わせによる究極のクライマックスに到達します。この2つが炎で焼き尽くされるからです。そして突如として、亡き《ジークフリート》のモティーフが最後の輝かしい追憶のように現れます。しかし《ジークフリート》は《神々の黄昏》の最後の提示に道を譲ります。"神々の黄昏" が今、完遂されたのです。そしてこれらすべてのモティーフが消え去ったあと、一つのモティーフが残ります。それが《救済》のモティーフです。これは一つだけで最後まで残り、このドラマの巨大で激動の世界全体に祝福の印をつけるのです。

 EX.193: 《ヴァルハラ》/《神々の力》/《ジークフリート》/《神々の黄昏》/《救済》 

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対訳 完
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終わりに


以上で、デリック・クックによる『指環』のライトモティーフの解説は終わりです。音楽学者らしい大変に精緻な解説で、『指環』を知っている人にとっても教えられたり、また新たな発見があったのではないでしょうか。

ここで、序論のところでデリック・クックが述べている解説の方針を振り返ってみましょう(= CD1-Track01。No.257「ニーベルングの指環" 入門(1)序論・自然」参照)。そのポイントは、

◆  一つの基本モティーフから出発し、そこから作られるファミリーを『指環』全体を通して追跡する。

◆  真に重要なモティーフを識別し、それが直接的に示しているドラマのシンボルを指摘する。

という2点です。まず第1のポイントは、デリック・クックが基本的なモティーフの変形(transformation)の過程を追い、それが作り出すファミリーを明らかにしているところです。音楽的に全く独立したモティーフは、何らかのファミリーと意味的に関連があるときにだけ解説されます。逆に、変形の結果としてファミリーに属するモティーフは、1回しか現れないもの、つまり本来の意味でのライトモティーフでないものも解説されています。この「変形の追跡」が解説の主軸になっています。

もちろん中には違和感を覚える部分とか、納得できないこともあるでしょう。たとえば、No.14「ニーベルンクの指環(1)」に書いたことですが、

《呪い》のモティーフ(EX.50。短調。初出は『ラインの黄金』第4場)と、《ジークフリート》のモティーフ(EX.120。長調。初出は『ワルキューレ』第3幕 第1場)は大変良く似ている。《ジークフリート》を "縮小変形" して短調にしたのが《呪い》だと考えられる(またはその逆)。"呪い" の内容は「指環を持つものは死ぬ」ということなので、これはその後のドラマの展開を予告する重要な "変形" である

と思うのですが、しかしそういった指摘はありません。デリック・クックによると《呪い》は《指環》のモティーフの4音の下降音形を上昇音形に反転したものであり、《ジークフリート》は《エルダ》のモティーフの最後の3音から発展したものとなります(=ファミリーが違う)。音楽理論的にはそれが正しいのかも知れませんが、オペラを鑑賞するときの "耳で聴く感じ" とはちょっとズレています。

とはいえ、デリック・クックの多くの指摘は納得性が高く、また教えられることが多いわけです。たとえばこの解説の白眉(の一つ)とも言えるところですが、

愛を表す《フライア》のモティーフの後半(= 第2セグメント)は、従来から《逃亡》と名付けられているが、それは間違っている。これはあくまで愛を表す《フライア》のモティーフの第2セグメントであり、『指環』全体を見渡すとそれは "愛のモティーフ" として機能している。かつ、この第2セグメントの起源はフライア登場以前のアルベリヒの歌唱にある

と指摘している点です。アルベリヒまで持ち出しているのが意外なところです。もちろん別の解釈としては、モティーフの意味を多義的にとらえて「《フライア》の第2セグメントは愛のモティーフであるが、それが初めて登場した経緯から《逃亡》を意味することもある」との考え方もあるでしょう。ただ確実に言えることは、デリック・クックが『指環』を広範囲に眺め、本質を突いた指摘をしようとしていることです。

たとえば《フライア》に関していうと、《フライア》の第2セグメントの "長調で、速く、縮められた形"(EX.104)が『ワルキューレ』の第1幕 第3場の終了部に現れ、さらにそれが変形されて『ジークフリート』第3幕 第3場の《愛の決心》(EX.105)になる、としているところです。この2つの場は『指環』における男女2組のカップルの愛の表現が最高潮に達する場面です。《フライア》のモティーフの4部作をまたがる長い変遷は、たとえばそういう風に仕組まれているということなのです。

とにかく、デリック・クックが "4部作を広範囲に眺めた本質的な指摘" をしようとしたことは、他のモティーフやファミリーの解説も含めて明らかでしょう。



第2のポイントは「重要なモティーフを識別し、それが直接的に示しているドラマのシンボルを指摘」している点です。この "直接的" というところがポイントです。モティーフはその使われ方によって裏の意味があったり、その後の進行を予告したり、多義的であったりということがあります。たとえば『指環』の最後の最後にたった1つだけで残る《救済》のモティーフです。No.15「ニーベルンクの指環(2)」に書きましたが、

《救済》のモティーフは、それが初めて現れる状況から(=『ワルキューレ』第3幕 第1場)"次世代への継承" をも意味すると考えられる。つまり『指環』の最終場面は、それで終わりということではなく、また新たな時代が始まるという暗示である

というような "解釈" ができるでしょう。こういったたぐいの解釈については、デリック・クックはあまり踏み込んで説明していません。少しはありますが、多くはない。あくまでモティーフを識別した上で、それが直接的に示しているドラマのシンボルや感情だけを指摘するという態度に徹しています。

従って、個々の場面でドラマの進行から考えてモティーフがどういう意味をもつのか、その解釈の多くは『指環』の鑑賞者に任されていると言えるでしょう。デリック・クックの解説のタイトルは "Introduction" です。当然ですが、イントロダクションの次には真の意味での作品の鑑賞が待っています。デリック・クックの解説はあくまで『指環』の迷宮を探索するための "とっかかり" です。

付け加えると、この解説のタイトルを「"ニーベルングの指環" のライトモティーフ」ではなく「"ニーベルングの指環" 入門」としたのは、この作品を鑑賞する糸口として最適なのが、ストーリーや登場人物を知ることよりもライトモティーフの種類と構造を知ることだという意味を込めたもの推察されます。その狙いは成功していると思いました。

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No.260 - "ニーベルングの指環" 入門(4)英雄・神秘 [EX.115-161] [音楽]

2019.6.07
前回より続く

これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。

第4回は、EX.115 ~ EX.161 の 47種 のライトモティーフです。ここでは『指環』に登場する "英雄" たちに関するモティーフをとりあげます。《剣》のモティーフとそこから派生するファミリーもその一部です。そのあとに "魔法と神秘" に関係したモティーフが解説されます。


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リヒャルト・ワーグナー
ジークフリート
ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(新リマスター版CD 1997。録音 1962)


CD2-Track03


The characters, in whose lives love plays such an important part, Siegmund and Sieglinde, Siegfried and Brunnhilde, are heroic figures, fighting to establish the claims of love in the loveless world of the Ring and the Spear. And these figures, taken together, form another of the central symbols of the drama, the symbol of heroic humanity. They are all offspring of Erda by Wotan in one way or another. Brunnhilde is literally so, and the Volsungs, though born to Wotan by a mortal woman, are begotten by him out of the inspiration of his first encounter with Erda in Scene 4 the Rheingold.

And the basic motive, or basic phrase, which generates the family of motives associated with these heroic characters is the last three notes' segment of the motive of Erda herself. Erda's motive is in the minor key and so are the heroic motives derived from it. But they are all powerful brass motives and so the minor key here is an expression not so much of pure tragedy as of tragic heroism.

These motives all begin where Erda's climbing motive leaves off, as it were. They take the last three notes of it as a starting point. We'll hear first another special illustration, Erda's motive played by the cellos with a solo horn emphasizing the last three notes.

生涯において "愛" がとりわけ重要な意味をもつ登場人物、つまりジークムント、ジークリンデ、ジークフリート、ブリュンヒルデは英雄的な存在です。彼らは "指環" と "槍" という "愛なき世界" の中で、愛への主張を確立しようと戦っています。そしてこれらの登場人物はまとめて "英雄的な人間性" という、もう一つのドラマの中心的シンボルを作ります。彼らは皆、何らかの意味でヴォータンとエルダの子孫であり、ブリュンヒルデは文字通りそうです。ヴェルズング族はヴォータンと人間の女性の子孫ですが、それは『ラインの黄金』の第4場におけるエルダとの最初の出会いでヴォータンが得た霊感から生まれたのでした。

そして、これらの英雄的な人物に関連するモティーフのファミリーを作り出す基本モティーフ、ないしは基本フレーズは、《エルダ》のモティーフの最後の3つの音のセグメントです。《エルダ》のモティーフは短調で、そこから派生する英雄的なモティーフも短調です。しかしそれらは全て力強い金管楽器のモティーフであり、ここでの短調は単なる悲劇の表現ではなく、悲劇的なヒロイズムを表しています。

これらのモティーフはすべて《エルダ》のモティーフの上昇音形が終わるところから始まると言えるでしょう。つまり《エルダ》のモティーフの最後の3音が出発点になります。まず特別の例示で《エルダ》のモティーフを聴いてみましょう。チェロで演奏し、ソロのホルンが加わって最後の3音を強調します。

 EX.115: 《エルダ》 

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The leaping motive of the Valkyries, associated particularly with Brunnhilde springs boldly out of the last three notes Erda's motive.

《ワルキューレ》の跳躍するモティーフは特にブリュンヒルデに関連づけられますが、これはエルダのモティーフの最後の3音から力強く出てきたものです(訳注:『ワルキューレ』第3幕への前奏曲)。

 EX.116: 《ワルキューレ》 

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The second heroic motive, generated by the final segment of Erda's motive, is the one associated with the Volsung Race and more paticularlly with Siegmund. It enters in Act 1 of Walkure when Siegmund has finished describing his unhappy fate. Here's the special illustration of Erda's motive again.

《エルダ》のモティーフの最後のセグメントから作られる英雄的なモティーフの2番目は《ヴェルズング族》に結び付くもので、特にジークムントに関係します。これは『ワルキューレ』の第1幕でジークムントが自分の不幸な運命を語り終えたときに出てきます。もう一度《エルダ》のモティーフを特別の例示で聴いてみましょう。

 《エルダ》: EX.115 

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And here's the motive of the Volsung Race which rises slowly out of the last segment of Erda's motive.

そして次が《ヴェルズング族》のモティーフです。《エルダ》のモティーフの最後のセグメントからゆっくりと立ち上がります(訳注:『ワルキューレ』第1幕 第2場)。

 EX.117: 《ヴェルズング族》 主セグメント 

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Incidentally, it should be noted that this motive of the Volsung Race has another segment expressing a sense of infinite sorrow rather than dark tragedy. It's sung by Siegmund to introduce the main part of the motive which we've just heard.

ちなみに《ヴェルズング族》のモティーフには別のセグメントがあることに触れておくべきでしょう。それは暗い悲劇というより深い悲しみを表すもので、ジークムントが歌い、今聴いた《ヴェルズング族》の主要部分へと繋がっていきます。

 EX.118: 《ヴェルズング族》 第1セグメント 

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The final segment of Erda's motive generates another heroic motive associated with the Volsungs. This is the dark one introduced in Act 2 of Walkure, when Brunnhilde warns Siegmund of his impending death. It's later attached to Siegfried as doomed hero in Gotterdammerung. Here's the special illustration of Erda's motive again.

《エルダ》のモティーフの最後のセグメントから生成されるモティーフには、ヴェルズング族と結びつく別の英雄的なモティーフがあります。これは『ワルキューレ』の第2幕で導入される暗いモティーフで、ブリュンヒルデがジークフリートに死が差し迫っていることを警告するときに使われます。それは後の『神々の黄昏』において、破滅する英雄としてのジークフリートも表します。《エルダ》のモティーフの特別の例示を再度聴きましょう。

 《エルダ》: EX.115 

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And here's the motive of the Annunciation of Death, as it recurs on the orchestra near the end of Gotterdammerung when Brunnhilde calls for a funeral lamentation worthy of the dead Siegfried. It too rises slowly out of the final segment of Erda's motive.

そして次が《死の布告》のモティーフで、『神々の黄昏』の最終場面近くでオーケストラに再現するものです。そのときブリュンヒルデは、死んだジークフリートに相応ふさわしい葬儀の哀悼を呼びかけます。これもまた《エルダ》のモティーフの最後のセグメントからゆっくりと立ち上がります。

訳注:  EX.119は『神々の黄昏』第3幕 第3場。解説にあるように《死の布告》が最初に出るのは『ワルキューレ』第2幕 第4場。

 EX.119: 《死の布告》 

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The culminating heroic motive generated by the last segment of Erda's motive is the indomitable one of Siegfried. Here's the special illustration of Erda's motive once more.

《エルダ》のモティーフの最後のセグメントから作られる英雄的なモティーフの頂点にあるのが、不屈のジークフリートを表すものです。《エルダ》のモティーフの特別の例示をもう一度聴きましょう。

 《エルダ》: EX.115 

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And here's Siegfried motive, like the Valkyries motive, it rises boldly out of the last segment of Erda's motive.

そして次が《ジークフリート》のモティーフで、《ワルキューレ》のモティーフと同じように《エルダ》のモティーフの最後のセグメントから力強く立ち上がります。

訳注:  EX.120 は『ジークフリート』第2幕 第2場で、ジークフリートと森の小鳥の "交流" のあと、ホルンの長いソロの中に出てくるもの。このモティーフが最初に出るのは『ワルキューレ』第3幕 第1場でのブリュンヒルデの歌唱。

 EX.120: 《ジークフリート》 

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CD2-Track04


One further motive belongs to this heroic family, perhaps surprisingly, this is the motive of Gunther in Gotterdammerung. Gunther does not belong to the offspring of Wotan and Erda in any sense, yet he too is a hero who in his own way tries to establish the claims of love, an attempt which takes a warped form, only because of his weakness which makes him a pawn in the evil plot of his half brother, Hagen. His motive belongs unmistakably, if less than magnificently, to the same heroic family as those associated with the Valkyries and the Volsungs.

このような英雄的なモティーフのファミリーに属するもう一つのモティーフは、たぶん驚かれるでしょうが『神々の黄昏』における《グンター》のモティーフです。グンターは、いかなる意味においてもヴォータンとエルダの子孫ではありません。しかし彼もまた一人の英雄であり、彼なりの方法で愛への要求を確立しようと努めています。しかしこの試みは彼の弱さのためにゆがんだ形にしかなりません。この弱さのために、異父兄弟であるハーゲンの邪悪な計画にかかって手先になってしまうのです。彼のモティーフは堂々としたものではありませんが、間違いなくワルキューレやヴェルズング族に関係した英雄的なモティーフのファミリーに属しています。

訳注:  EX.121 は『神々の黄昏』第1幕 第1場の冒頭、グンターの歌唱のところ。

 EX.121: 《グンター》 

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So much for the heroic characters of the drama.

The two central male ones are Siegmund and Siegfried, and the dynamic symbol of their heroism is the Sword created by Wotan which each of them makes his own. And just as the motive is associated with the heroes themselves stem from the motive of Erda which is a form of the Nature motive, so the motive representing the Sword springs from the Nature motive itself. Indeed, we heard earlier that it's a member of the Nature family, being almost identical with the original arpeggio form of the Nature motive.

ドラマの英雄的な登場人物についてはここまでです。

男性の中心的な登場人物はジークムントとジークフリートの2人であり、そのヒロイズムの動的なシンボルは、ヴォータンが作り2人が自分のものとした "剣" です。そして、彼ら英雄自身に結びついたモティーフが《自然》の変形である《エルダ》のモティーフから生成されたように、《剣》を表すモティーフの起源も《自然》のモティーフそのものにあります。実際、すでに聴いたように《剣》は《自然》のファミリーの一員であり、《自然》の原形であるアルペジオの形とほとんど同じでした。

訳注:  EX.20 《自然の原形》、および EX.21 《剣》参照。


CD2-Track05


The Sword motive recurs many times in the drama, but now we must consider it as another of the basic motives which generates a whole family of motives associated with heroism in action. It first enters on the trumpet in Scene 4 of Rheingold when Wotan conceives the idea of the Sword and of the hero who shall wield it. And we may notice that the musical interval on which it revolves is a downward leaping octave.

《剣》のモティーフはドラマでたびたび現れますが、ここにおいて《剣》は、行動的なヒロイズムに結びつく一連のモティーフのファミリーを作り出す基本モティーフだと考えるべきです。《剣》が最初に現れるのは『ラインの黄金』の第4場でヴォータンが剣のアイデアを思いつき、それを扱うべき英雄を考えるときで、トランペットで演奏されます。それは下向きに跳躍するオクターヴの音程に基づくことに気づくでしょう。

 EX.122: 《剣》 

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This is merely the first segment of the Sword motive. And the much fiercer is the second one, following immediately, and this too is based on the interval of a downward leaping octave. It's sung by Wotan as he explains the purpose of the Sword to secure Valhalla against any attack by enemies, and like the first segment, it recurs later in the drama. Siegmund sings it in Act 1 of Walkure when he remembers that his father Walse, who is of course Wotan, had promised him a Sword in his hour of need.

Here first is the second segment of the Sword motive with its downward leaping octave as sung by Wotan in Scene 4 of Rheingold to indicate the Purpose of the Sword.

これは《剣》のモティーフの第1セグメントだけです。そしてすぐに続く第2セグメントはもっと激しいもので、これも下向きに跳躍するオクターヴの音程に基づきます。それは、剣の目的がヴァルハラを敵の攻撃から守ることだとヴォータンが説明する時の歌唱で使われます。そして第1セグメントと同じくドラマの後の方で再現し、『ワルキューレ』の第1幕のジークムントの歌で使われます。父親のヴェルゼ、つまりヴォータンが、危急の時のための剣を贈ると約束した記憶を語るときです。

まず最初に『ラインの黄金』の第4場で《剣の目的》を語るヴォータンの歌を聴いてみましょう。これは《剣》のモティーフの第2セグメントで、下向きに跳躍するオクターヴがあります。

 EX.123: 《剣の目的》 

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And here's the same segment of the Sword motive as sung more quickly by Siegmund in Act 1 of Walkure.

そして次が《剣》のモティーフの同じセグメントで、『ワルキューレ』の第1幕でジークムントがより速いテンポで歌います。

訳注:  以降の EX.124, EX.125, EX.126 は第1幕 第3場。

 EX.124: 《剣の目的》 ジークムント 

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When Siegmund goes on to apostrophize his father, asking him where the Sword is, his voice isolates the downward leaping octave, common to both segments of Sword motive, and it becomes a motive in its own right.

ジークムントが剣の場所を尋ねるため、そこには居ない父に呼びかけをするとき、彼の声は《剣》の2つのセグメントの共通項である下向きに跳躍するオクターヴだけを分離して歌い、それは別のモティーフになります。

 EX.125: 《ヴェルゼ》 

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Near the end of Act 1 of Walkure, when Siegmund draws the Sword from the Tree and names it Nothung, or Need, the new motive of the simple downward leaping octave attaches itself to the name.

『ワルキューレ』の第1幕の終わり近くでジークムントが樹から剣を引き抜き、それをノートゥング、つまり "危急の時" と名付けるとき、単純に下向きに跳躍するオクターヴがノートゥングという名前と結びつきます。

訳注:  ノートゥングの説明にある "Need" は "必要" ではなく、もっと激しい "難局"、"困窮"、"危機" という意味と解釈できる。「英雄が難局に陥ったときに必要なものがノートゥング」という意味で、ここでは "Need" を "危急の時" とした。EX.123《剣の目的》の "hour of need" の訳も参照。なお、デリック・クックは《The Need of the Gods - 神々の危機》(EX.181)という複合モティーフを取り上げている(後述)。

 EX.126: 《ノートゥング》 

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This Nothung motive, associated with the heroes' need for the Sword, recurs in another form in Act 1 of Siegfried. Siegfried sings it when he reforges the Sword and renames it Nothung.

この《ノートゥング》のモティーフは英雄の剣への欲求に関連づけられ、違った形で『ジークフリート』の第1幕で再現します。ジークフリートが剣を鍛え直し、ノートゥングと再命名するときにき歌います(訳注:第1幕 第3場)。

 EX.127: 《ノートゥング》 ジークフリートによる 

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This downard leaping octave, stemming from the Sword motive, is used to generate another heroic motive in Act 1 of Gotterdammerung. This is the terse motive of Honor which enters on the orchestra when Siegfried draws the Sword to lay it between himself and Brunnhilde to keep faith with Gunther.

この《剣》から生成された下向きに跳躍するオクターヴは、『神々の黄昏』の第1幕で別の英雄的なモティーフを生み出すのに使われます。それは《名誉》という簡潔なモティーフで、ジークフリートが剣を抜き、彼とブリュンヒルデの間に置いてグンターとの信義を守ろうとするとき、オーケストラに入ってきます。

訳注:  EX.128は第3場の最終場面。《名誉》が初めて出てくるのは第2場の EX.52 《贖罪の誓い》のところ。

 EX.128: 《名誉》 

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Another important phrase of the Sword motive is the latter half of its second segment referring to the preservation of Valhalla through the Sword. The important interval here is a downward leap of a fifth followed by two steps upward. Let Wotan remind us of this phrase.

《剣》のモティーフの他の重要なフレーズは第2セグメントの後半の部分で、これは剣でヴァルハラを守ることに関係します。ここでの重要な音程は下向きに跳躍する5度と、それに続く2ステップの上昇です。ヴォータンの歌唱でそのところを再確認しましょう。

訳注:  デリック・クックの説明がややこしいが、《剣》には2つのセグメントがあり、その第2セグメントが《剣の目的》のモティーフと考えているため上のような説明になる。EX.123《剣の目的》参照。

 EX.129: 《剣の目的》 後半 

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This phrase is also taken up by Siegmund in Act 1 of Walkure. He sings it twice over as he grasps the Sword to draw it from the Tree, still remembering his father's promise.

このフレーズもまた『ワルキューレ』の第1幕においてジークムントによって取り上げられます。彼は父との約束を思い出し、剣を握って樹から引き抜こうとするときに2度、このモティーフを歌います。

訳注:  EX.130は『ワルキューレ』第1幕 第3場の最終場面。なお、この第3場は EX.124《剣の目的》ジークムント版で始まる。

 EX.130: 《剣の目的》後半、ジークムント 

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CD2-Track06


Ironically, this phrase, with its downward leap of a fifth followed by two steps upwards, generates a number of motives associated with the various characters and events which stand in the way of Wotan's plans to ensure the safety of Valhalla. In the first place, it forms the basis of the orchestral motive attached to Fricka in Act 2 of Walkure when she argues Wotan into abandoning Siegmund and the Sword and also the purpose for which both were conceived.

皮肉なことに、下向きに跳躍する5度とそれに続く2ステップの上昇というこのフレーズは、ヴァルハラの安全を確保しようとするヴォータンの計画の前に立ちはだかる、さまざまな人物や事件に関連したモティーフのいくつかを生み出します。まず第1に、『ワルキューレ』の第2幕においてフリッカと結びつくオーケストラのモティーフの基礎を形づくります。フリッカがヴォータンを論駁し、ヴォータンがジークムントと剣、およびそれらに与えようとした目的を放棄する時です(訳注:第2幕 第1場)。

 EX.131: 『ワルキューレ』の 《フリッカ》 

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In Act 1 of Gotterdammerung, the same phrase with its downward leap of a fifth, generates further new motive associated with the Gibichungs, who stand in the way of the new possessor of the Sword, Siegfried. The first is the motive of Friendship, the illusory friendship between Siegfried and Gunther.

さらに『神々の黄昏』の第1幕において下向きの5度の跳躍をもつ同じフレーズが、剣の新しい持ち主であるジークフリートに立ちはだかるギビフング族に関連した新しいモティーフを作り出します。その最初は《友情》で、これはジークフリートとグンターのまぼろしの友情を表します(訳注:第1幕 第2場)。

 EX.132: 《友情》 

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Behind the illusory friendship between Siegfried and Gunther stands Hagen and his own personal motive isolates the downward leap of a fifth in its sinister diminished form. It usually enters in the bass as here in Hagen's 'Watch Song'.

この幻の友情の背後には《ハーゲン》がいますが、彼個人を表すモティーフは下向きの5度の跳躍だけを取り出し、不吉な減5度にしたものです。それは普通、次のハーゲンの "見張りの歌" のように低音部に入ってきます。

訳注:  EX.133 は『神々の黄昏』第1幕 第2場の最終場面。EX.47 の《指環の力》も同じシーン。

 EX.133: 《ハーゲン》 

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Hagen's plan is to use the friendship between Siegfried and Gunther to seduce Siegfried away from Brunnhilde into a marriage with Gutrune. And the motive associated with this Seduction is a freer transformation of the original phrase with the downward leap, altered from a fifth to a seventh, but with the two steps upwards restored. Hagen introduces it vocally when he refers to the "Magic Potion" which is to be the agent of seduction.

ハーゲンの計画は、ジークフリートとグンターの友情を利用し、ジークフリートを誘惑してブリュンヒルデから遠ざけ、グートルーネとの結婚に持ち込むことです。そして次の《誘惑》のモティーフは、元々の下向きの跳躍の自由な変形です。音程は5度から7度に変えられていますが、2ステップの上昇は残っています。これはハーゲンが誘惑の仕掛けとなる "魔法の酒" について語るときの歌に登場します(訳注:『神々の黄昏』第1幕 第1場)。

 EX.134: 《誘惑》 

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The half unwitting instrument of the seduction, Gutrune, has her own personal motive. And this practically returns to the original form of the phrase, for this downward leap of a fifth followed by two steps upward, but now with much sweeter harmonies.

誘惑について半ば無自覚のグートルーネは、彼女自身のモティーフをもっています。これは事実上、下向きの5度の跳躍と2ステップの上昇という元々の形に戻っていますが、和声はもっと甘美です。

訳注:  EX.135 は再び『神々の黄昏』第1幕 第2場。ジークフリートに紹介されたグートルーネが広間から去っていくところ。

 EX.135: 《グートルーネ》 

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CD2-Track07


Closely associated with Gutrune's motive is the Horn-Call of the Gibichungs which punctuates Hagen's rallying calls to vassals in Act 2 of Gotterdammerung.

《グートルーネ》のモティーフと密接な関係にあるのが《ギビフング族の角笛》のモティーフです。『神々の黄昏』の第2幕においてハーゲンが家臣に集会で呼びかけるとき、その呼応として使われます(訳注:第2幕 第3場)。

 EX.136: 《ギビフングの角笛》 

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A further motive belonging to this family is that of Siegfried's Horn. This is a direct antithesis of the Gibichung's Horn-Call which we've just heard. It begins with an upward leap of a fifth instead of a downward one.

さらに、このモティーフのファミリーに属するのが《ジークフリートの角笛》です。これは、今聴いた《ギビフングの角笛》の直接的な対照物です。下向きの跳躍の代わりに上向きの5度の跳躍で始まります。

 EX.137: 《ジークフリートの角笛》 

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In the Prelude to Gotterdammerung, this original fast version of the Horn motive takes on the more majestic form, representing Siegfried's new stature as the active hero inspired by the love of Brunnhilde.

『神々の黄昏』の序幕では、このテンポの速い《角笛》のモティーフの原形がもっと壮大な形になり、ジークフリートの新しい姿を表現します。ブリュンヒルデの愛によって鼓舞された行動的な英雄としての姿です。

 EX.138: 《ジークフリートの角笛》 第2形 

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During the great scene in Act 2 of Gotterdammerung, in which Siegfried and Brunnhilde both swear on Hagen's spear, there's a tremendous conflict between the upward and downward leaping fifths. The result is the motive known as the Swearing of the Oath.

ジークフリートとブリュンヒルデがハーゲンの槍のもとで誓う『神々の黄昏』第2幕の荘厳なシーンでは、上昇と下降の5度が激しくぶつかります。その結果、《誓約の宣誓》として知られるモティーフになります。

訳注:  "The Swearing of the Oath" となっているモティーフは《槍の誓約》とも呼ばれる。『神々の黄昏』第2幕 第4場でのジークフリートの歌唱のところに出てくる。

 EX.139: 《誓約の宣誓》 

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One other motive belonging to this family should be mentioned is that of the World's Inheritance, which enters in Act 3 of Siegfried. This motive, in which the salient interval is a downward leaping sixth followed by several steps of upwards, bursts in on the orchestra to round off Wotan's statement to Erda that he intends to Siegfried and Brunhilde inherit the world.

このファミリーに属するもう一つのモティーフに触れておくべきでしょう。それは『ジークフリート』の第3幕で出てくる《世界の遺産》のモティーフです。このモティーフの顕著な特徴は、下降する6度の跳躍とそれに続く数ステップの上昇です。ジークフリートとブリュンヒルデに世界を継がせるという意図をヴォータンがエルダに語るとき、オーケストラに急に入ってきます(訳注:第3幕 第1場)。

 EX.140: 《世界の遺産》 

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CD2-Track08


Here we come to the end of the family of heroic motives generated by the motive of the Sword with its downward leaping octave and fifth.

But the symbol of heroism, like the symbol of love, has other independent motives attached to it. One of the most important of these is that of Siegfried's Mission which consists of a descending phrase of four notes, repeated in falling sequence. It follows him on the orchestra as he dashes away into the forest in Act 1 of Siegfried, on discovering, to his delight, that he can be free of Mime who has no claim on him at all.

これで英雄的なモティーフのファミリーは終わります。これらは《剣》のモティーフから生成したもので、下向きのオクターヴや5度の跳躍をもっていました。

しかし愛のシンボルと同じように、ヒロイズムのシンボルもそれに結びつく独立したモティーフを持っています。その中で最も重要なのが《ジークフリートの使命》で、下降する4つの音から成り、それが順に下降する形で繰り返されます。それは『ジークフリート』の第1幕でジークフリートが森に突き進むときのオーケストラに出てきます。ジークフリートは、彼に対して何の権利もないミーメから解放される喜びを見出します(訳注:第1幕 第1場 終了近く)。

 EX.141: 《ジークフリートの使命》 第1形 

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This motive of Siegfried's Mission achieves its definitive broad form in the Prelude to Gotterdammerung. He himself sings it in his duet with Brunnhilde when he declares that he is no longer Siegfried but Brunnhilde's arm.

この《ジークフリートの使命》のモティーフは『神々の黄昏』の序幕で堂々とした確定形に到達します。ジークフリート自身がブリュンヒルデとの2重唱でそれを歌います。もはやジークフリートではなく、ブリュンヒルデの腕だと宣言する時です。

 EX.142: 《ジークフリートの使命》 確定形 

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Another form of this motive, with the falling phrases in rising sequence is introduced by Wotan in Act 2 of Siegfried. He sings it when he assures Alberich that Siegfried is an entirely free agent who must stand or fall by his own powers.

徐々に上昇していく下降フレーズを持った別の形のモティーフを『ジークフリート』の第2幕でヴォータンが導入します(訳注:第2幕 第1場)。ジークフリートは完全に自由の身であり、立つにしろ倒れるにしろ自らの力によるべきことを、ヴォータンがアルベリヒに確約するときに歌われます。

 EX.143: 《ジークフリートの使命》 ヴォータン形 

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In this form, the motive of Siegfried's Mission forms the basis of the Blood Brotherhood duet in Act 1 of Gotterdammerung. It enters when they sing of their freedom in swearing the oath, and the effect is one of the dramatic irony, since they're both acting as mere pawns in Hagen's plot.

この形の《ジークフリートの使命》のモティーフは『神々の黄昏』の第1幕における《兄弟の血の誓い》の2重唱の基礎となります。これは2人が誓約の自由を歌うときに出てきますが、その効果はドラマとしてのアイロニーです。なぜなら、2人ともハーゲンの陰謀のもとで単なる駒として動いているからです。

訳注:  EX.144 とその次の EX.145 は、第1幕 第2場の「兄弟の血の誓い」の場面。EX.145 《兄弟の血の誓い》、EX.144 《ジークフリートの使命》、EX.52 《贖罪の誓い》、EX.128 《名誉》 がこの順で登場する。

 EX.144: 《ジークフリートの使命》 アイロニー 

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The relationship of this passage to the motive of Siegfried's Mission makes clear that the descending main theme of the Blood Brotherhood duet itself is generated by that motive.

このパッセージと《ジークフリートの使命》の関係から明らかなのは、《兄弟の血の誓い》の下降する主旋律が《ジークフリートの使命》から生成していることです。

 EX.145: 《兄弟の血の誓い》 

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This main theme of the Blood Brotherhood duet itself occurs with great dramatic irony in Act 2 of Gotterdammerung. It enters powerfully on the horns when Gunther, finding himself inextricably involved in Hagen's plot to kill Siegfried, remembers the oath of Blood Brotherhood he swore with him.

《兄弟の血の誓い》の2重唱の主旋律は、『神々の黄昏』の第2幕でドラマとしての大きなアイロニーとして出現します。グンターはジークフリートを殺害しようとするハーゲンの計画にのがれようなく巻き込まれていることを悟りますが、そのときジークフリートと交わした "兄弟の血の誓い" を思い出します。その場面でこのモティーフがホルンに強く現れます。

訳注:  EX.146 は『神々の黄昏』第2幕 第5場。EX.75 《ヴォータンの挫折感(ハーゲン形)》と同じ場面。

 EX.146: 《兄弟の血の誓い》 アイロニー 

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This completes the large number of motives associated with the symbol of heroism in connection with Wotan, Siegmund and Siegfried.

これでヒロイズムというシンボルに関係した、ヴォータン、ジークムント、ジークフリートと結びつく多数のモティーフを終わります。


CD2-Track09


Complementary to this symbol is that of the inspiration given to heroes by women which is represented by the main female characters of the drama, Fricka, Sieglinde and Brunnhilde, each of whom has a motive of this kind. As with the symbol of love, the symbol of woman's inspiring power begins on the subdued level in the power ridden world of Rheingold. The basic motive is the one introduced by Fricka in Scene 2. She sings it when she holds out to Wotan the lure of a comfortable life of Domestic Bliss in Valhalla as a satisfying ideal in itself without any need of further striving. The basis of the motive is two falling intervals, a seventh and a fifth.

以上のシンボルを補足するものとして、女性が "英雄を鼓舞する力" を表すシンボルがあります。つまりドラマの主要な女性キャラクターであるフリッカ、ジークリンデ、そしてブリュンヒルデで表現されるもので、それぞれこの種のモティーフをもっています。愛のシンボルと同じように、"女性の鼓舞する力" のシンボルは『ラインの黄金』という力が支配する世界において控えめに入ってきます。その基本モティーフは、第2場でフリッカが導入します。彼女がヴァルハラ城での家庭的な喜びに満ちた快適な生活の魅力をヴォータンに力説するとき、それを歌います。その生活は、それ以上の努力がいらないという理想を満たすものです。モティーフの基本は5度と7度で下降する2つの音程です。

 EX.147:《家庭の喜び》 

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Little more is heard of this motive. But in Act 3 of Walkure, where the struggle between love and power reaches its height, it's suddenly transformed and lifted onto the heroic plane. Sieglinde, when she learns that she is to bear Siegfried, the hero of the future, sings the ecstatic motive of Redemption. This is also characterized by two falling intervals, both being falling sevenths.

このモティーフはしばらくは出てきません。しかし『ワルキューレ』の第3幕において愛と力の葛藤が最高潮に達するとき、このモティーフは突如変形して英雄的なレベルに引き上げられます(訳注:第1場)。ジークリンデが将来の英雄であるジークフリートを身ごもっていることを知るとき、彼女は《救済》という陶酔的なモティーフを歌います。このモティーフの特徴も2つの下降音程で、ここでは2つとも7度です。

 EX.148:《救済》 

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The third motive associated with the inspiring power of woman is Brunnhilde's personal motive in Gotterdammerung, when she has been transformed from a Valkyrie into a Mortal Woman and Siegfried's wife. Again, we notice the falling seventh.

女性の鼓舞する力の3番目は『神々の黄昏』においてブリュンヒルデ個人を表すもので、彼女がワルキューレから《人間の女》に変身しジークフリートの妻になったときのモティーフです。再び、下降する7度に気づきます。

訳注:  EX.149 は、EX138《ジークフリートの角笛》第2形と同じく『神々の黄昏』の序幕の途中のオーケストラ間奏曲に出てくる。普通、単に《ブリュンヒルデ》のモティーフと言うと EX.149 を指すが、このモティーフは『神々の黄昏』にしか現れないので、デリック・クック流の "こだわった" 命名がある。

 EX.149:《人間の女としてのブリュンヒルデ》 

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This ends the family of motives associated with the inspiring power of woman. Although few, they are extremely powerful.

これで、女性の鼓舞する力に関連したモティーフのファミリーは終わりです。数は少ないものの、大変に強力なモティーフです。


CD2-Track10


One last central symbol remains to be considered, the sense of the mysterious and inscrutable that surrounds human life. The central character here is Loge, the central symbol is Magic Fire. And his flickering chromatic motive is the basic one which generates the rest of this family. It enters on orchestra in Scene 2 of Rheingold when he himself makes his long awaited entry, much to Wotan's relief.

中心的なシンボルで最後に考慮が必要なのは、人間の生活をとりまく神秘的で不可思議な感覚です。ここでの中心的なキャラクターはローゲで、中心的シンボルは "魔の炎" です。そして、ローゲの点滅するような半音階のモティーフが基本モティーフとなって、このファミリーの他のモティーフを作り出します。《ローゲ》のモティーフは『ラインの黄金』の第2場でオーケストラに出てきます。待ちに待ったローゲが登場し、ヴォータンが安堵する場面です。

 EX.150: 《ローゲ》 

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Loge's motive consists of several segments. The most important one is that associated with the Magic Fire which we can hear clearly from a special illustration, the segment played by the orchestra alone.

《ローゲ》のモティーフは数個のセグメントから成っています。最も重要なのは《魔の炎》に関連したセグメントで、それは特別の例示ではっきりと聴けます。このセグメントをオーケストラだけで演奏してみましょう。

 EX.151: 《魔の炎》 

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This is the segment of Loge's motive which dominates the Final Scene of Walkure where Wotan calls on Loge to surround the sleeping Brunnhilde with a wall of Magic Fire.
《ローゲ》のモティーフのこのセグメントが『ワルキューレ』の最終場面を支配します。そこではヴォータンがローゲを呼びつけ、眠るブリュンヒルデを魔の炎で囲むように命じます。

 EX.152: 《魔の炎》 ワルキューレ最終場面 

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In the meantime, this segment of Loge's motive has already generated a new motive of Magic that of the Tarnhelm introduced by muted horns in Scene 3 of Rheingold. This is based on the harmonic progression of the Magic Fire segment of Loge's motive, slowed down, in the minor, and without its flickering figuration.

その前に既に、この《ローゲ》のモティーフのセグメントは魔法に関係した新たなモティーフを生み出しています。それは『ラインの黄金』の第3場で弱音器付きのホルンで導入される《隠れ兜》のモティーフです。これは《ローゲ》の《魔の炎》のセグメントの和声進行が基礎になっていて、それをゆっくりとした短調にして点滅するような音符の形を取り除いたものです。

 EX.153: 《隠れ兜》 

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The Tarnhelm motive itself becomes the starting point of another new motive of Magic in Gotterdammerung. In Act 1, when Hagen explains the powers of the Magic Potion to Gutrune, we hear the Tarnhelm motive in the background with two statements of the sensuous segment of Freia's motive in the foreground. And after the second statement of Freia's motive, the Tarnhelm motive straight away transforms itself into the elusive new motive of the Potion.

その《隠れ兜》のモティーフ自体が『神々の黄昏』において魔法に関係した別の新しいモティーフの起点となります。第1幕でハーゲンがグートルーネに "魔法の酒" の威力を説明するとき、《フライア》のモティーフの官能的なセグメントが2度提示されますが、その背後に《隠れ兜》のモティーフを聴くことができます。そして《フライア》のモティーフの2度目の提示のあとで《隠れ兜》のモティーフはすぐに、つかみどころのない新しいモティーフ、《魔法の酒》に変形します。

訳注:  EX.154は『神々の黄昏』第1幕 第1場。EX.134 《誘惑》の直後。

 EX.154: 《魔法の酒》 

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The other important segment of Loge's motive is a series of first inversion chords running up and down the chromatic scale. The version that generates other motive is the descending one.

《ローゲ》のモティーフの重要なセグメントのもう一つは、半音階を上昇して下降する一連の "第1転回和音" です。他のモティーフを生み出すのはその下降する部分です。

 EX.155: 《ローゲ》 半音階セグメント 

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This segment also slows down and loses its flickering figurations to produce the motive of the Magic Sleep which descends on Brunnhilde in the Final Scene of Walkure.

このセグメントもまたテンポを落とし点滅するような形を失って、《魔の眠り》のモティーフを生み出します。それは『ワルキューレ』の最終場面でブリュンヒルデに降臨します。

 EX.156: 《魔の眠り》 

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This same segment of Loge's motive is more freely transformed to generate the mysterious motive associated with Wotan in his role as the Wanderer in Siegfried. It first appears on the orchestra when he enters Mime's hut in Act 1.

《ローゲ》のモティーフのこの同じセグメントはもっと自由な変形を加えられ、『ジークフリート』でヴォータンが演じる《さすらい人》に結びつく神秘的なモティーフを生み出します。それは、第1幕においてヴォータンがミーメの小屋を訪れるとき、オーケストラに初めて現れます(訳注:第1場)。

 EX.157: 《さすらい人》 

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CD2-Track11


One further motive connected with Magic and Mystery is not directly derived from Loge's motive, but is related to its general chromatic character. It's one of the shortest, yet one of the most important in The Ring, a chromatic progression of two chords only, which is associated with the inscrutable workings of Fate. It first enters on tubas when Brunnhilde comes to Siegmund in Act 2 of Walkure to warn him that he is to die.

魔法と神秘に結びつくもう一つのモティーフは《ローゲ》のモティーフから直接的に導かれるものではありません。しかし、全体的な半音階の特徴が《ローゲ》に関係しています。それは『指環』の中では最も短いモティーフの一つですが、最も重要なものの一つで、《運命》の不気味な働きに関連した2つの和音だけの半音階的進行です。それは『ワルキューレ』の第2幕において、ブリュンヒルデがジークムントのところに来て死が迫っていることを警告するときに、チューバに初めて現れます。

訳注:  EX.158は『ワルキューレ』第2幕 第4場。同じ場で EX.119《死の布告》も初めて現れる。

 EX.158: 《運命》 

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This motive of of two chords suggests the workings of Fate by moving mysteriously from one key to another with each repetition. But the very end of Walkure, Fate is suspended, as it were, while Brunnhilde sleeps, and so the Fate motive, in spite of the repetitons, is held fixed in the key in which the Opera ends.

この2つの和音のモティーフは繰り返しごとに2つの調性の間を神秘的に動き、それによって運命の働きを暗示します。しかし『ワルキューレ』の最終場面においてブリュンヒルデが眠りにつくと《運命》はいわば中断され、繰り返しは残っているものの、調性が楽劇の終わりまで固定されたままになります。

 EX.159: 《運命》 ワルキューレ最終場面 

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When Brunnhilde is awoken in Act 3 of Siegfried, almost her first words are "Long was my sleep", and she sings this suspended version of the Fate motive which we've just heard. Then, she sings "I am awake", the Fate motive returns to its original form, moving into a new key, to suggest that, from this point onwards, Fate is at work again.

『ジークフリート』の第3幕においてブリュンヒルデが目覚めたとき、最初の言葉は「眠りは長かった」です。そして彼女は、私たちが今聴いたばかりの《運命》のモティーフの固定された形を歌います。そして次に彼女が「目覚めました」と歌うとき、《運命》のモティーフは新しい調性に移って元々の形に戻ります。これ以降、再び運命が働き出すことを暗示しているのです。

 EX.160: 《運命》 ブリュンヒルデ 

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This passage makes clear that the bright motive of two chords to which Brunnhilde actually awakes is itself generated by the Fate motive suggesting the working of Fate towards a more happy end, at least for the time being.

このパッセージで明らかなことは、ブリュンヒルデが実際に目覚めたときの明るい2つの和音のモティーフ自体が《運命》のモティーフから生成されていることです。そして少なくともしばらくの間は、運命の働きがより幸せな結果に向かうことを暗示しています。

 EX.161: 《ブリュンヒルデの目覚め》 

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This brings to an end the family of motives associated with the symbol of Magic and Mystery.

これで、魔法と神秘に関係したモティーフのファミリーは終わりです。


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No.259 - "ニーベルングの指環" 入門(3)愛 [EX.80-114] [音楽]

2019.5.24
前回より続く

これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。

第3回は EX.80 ~ EX.114 の 35種のライトモティーフです。第2回の権力のモティーフ("指環" や "槍")とは正反対の関係にある "愛" に関連したモティーフ全般を扱います。


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リヒャルト・ワーグナー
ワルキューレ
ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(新リマスター版CD 1997。録音 1965)


CD1-Track15


Love is another of the central symbols of the drama, standing in direct opposition to the two central symbols of power, the Ring and the Spear. In the first place, it stands naturally in opposition to the Ring because the crucial condition attached to the making of the Ring is the Renunciation of Love. And this condition has its own motive, a tragic one in the minor key. It enters in Scene 1 of Rheingold. It's sung by the Rhinemaiden, Woglinde, when she tells Alberich that only the man who is prepared to renounce love can make the Ring from the Gold.

"愛" はドラマのもう一つの中心的なシンボルであり、それは "力" の中心的シンボルの2つ、"指環" と "槍" のちょうど正反対の位置にあります。そもそも "愛" が "指環" の対極にあるのは当然でしょう。なぜなら、指環を作る際の絶対の条件が《愛の断念》だからです。この条件は、それ自身を表す悲劇的な短調のモティーフを持っています。これは『ラインの黄金』の第1場で導入され、ラインの乙女のヴォークリンデによって歌われます。彼女がアルベリヒに、愛を断念する用意がある者だけが黄金から指環を作れる、と告げる場面です。

 EX.80: 《愛の断念》 

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This motive of the Renunciation of Love recurs at various points in the drama, most surprisingly perhaps, in Act 1 of Walkure. Siegmund sings it as he draws the Sword from the Tree, the decisive action which proclaims his identity as the brother of Sieglinde and her true lover.

《愛の断念》のモティーフはドラマの数々の時点で再現します。驚くことに『ワルキューレ』の第1幕でもジークムントが剣を樹から抜く時に歌います。彼はこの決断の行動で、ジークリンデの兄であると同時に真の恋人である自覚を宣言するのです(訳注:第1幕 第3場の最終場面)。

 EX.81: 《愛の断念》 ジークムント形 

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Siegmund's words refer to the need for which he has drawn the Sword, the deepest need of holiest love. From the total symbolic point to view, the whole drama, The Ring has begun in the world without love, and this is symbolized by the Renunciation motive. The claims of love only begin to assert themselves in Act 1 of Walkure, and they're only established in Act 3 in the Compassionate Love of Brunnhilde represented by the motive we heard a little earlier.

Wotan himself, in his own way, has renounced love as decisively as Alberich by offering Freia, the Goddess of Love, as a wage to the Giants for building Valhalla. And so the Renunciation motive is also associated with him, though in a different form. This stems from the second of the two phrases in the original motive. And the agent of transformation is Fricka in Scene 2 of Rheingold, when she tells Wotan that his bartering away of Freia shows his contempt for love. Here's the second phrase of the Renunciation motive as sung originally by Woglinde.

ジークムントは剣を抜く理由になった崇高な愛への深い欲求を語ります。象徴性の視点からドラマ全体を見ると『指環』は "愛なき世界" で始まり、《断念》のモティーフがそれを象徴します。愛への要求は『ワルキューレ』の第1幕でようやく主張され、第3幕の《ブリュンヒルデの哀れみの愛》で確立されます。そのモティーフは少し前に聴きました(訳注:EX.79)。

ヴォータンもアルベリヒと同様、彼なりのやり方で完全に愛を断念しました。つまり、ヴァルハラを建てた労賃として愛の女神であるフライアを巨人たちに差し出したからです。従って《断念》のモティーフは、少し違った形ですがヴォータンとも結びつきます。これは元々のモティーフの2つあるセグメントの2番目から生じます。そのモティーフの変形を担当するのが『ラインの黄金』第2場でのフリッカです。そのときフリッカは、ヴォータンがフライアを交換で手放したのは愛への侮辱だとヴォータンに言います。次が、ヴォークリンデが歌う元々の《断念》のモティーフの第2セグメントです。

 EX.82: 《愛の断念》 第2セグメント 

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When Fricka accuses Wotan of despising love, the orchestra plays the first phrase of the Renunciation motive, but her utterance ends by hinting harmonically at this second one.

フリッカがヴォータンの愛への侮辱を責めるとき、オーケストラは《断念》のモティーフの第1セグメントを演奏します。しかし彼女の歌唱はこの第2セグメントの和声を暗示して終わります。

 EX.83: 《愛の断念》 第2形への移行 

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CD1-Track16


Later in the same Scene, Loge acts as a final agent of transformation when he says that, in all the world, he's been unable to find anything valuable enough to serve as a substitute wage for the Giants instead of the Goddess of Love, Freia. Here, he adapts the phrase of Fricka, which we've just heard, into the second form of the Renunciation motive which is to be associated with Wotan, and later with other characters.

同じ『ラインの黄金』第2場の後の方で、ローゲが《断念》の最後の変形を担当します。世界中を探したが、巨人たちへの報酬として愛の女神フライアの代わりなる価値あるものは見つけられなかったと彼が言う場面です。ここでローゲは先ほど聴いたフリッカのフレーズを《断念》のモティーフの第2形へと改変します。これはヴォータンに関連づけられ、後には他の登場人物とも結びつきます。

 EX.84: 《愛の断念》 第2形 

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This second form of the Renunciation motive often recurs as a mournful cadence expressing futility. One of the many examples is to be found in Act 2 of Walkure when Wotan, having realized his own lovelessness, describes himself as the unhappiest of men. Here's the whole passage, leading up to the use of the Renunciation motive as a cadence.

この《断念》のモティーフの第2形は、しばしば無益な行為を表現する "嘆きの終止形" として再現します。その多数の例の中の一つは、『ワルキューレ』の第2幕でヴォータンが愛の欠如を自覚し、最も不幸な男だと自身を表現するときに認められます。ここで《断念》のモティーフを終止形として使うに至る全体のパッセージを聴いてみましょう(第2幕 第2場。EX.76 の直後)。

 EX.85: 《愛の断念》 ヴォータンによる第2形 

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But the Renunciation motive in both its forms only represents love in a negative light, it stands for the general lovelessness prevailing in the power ridden world of the drama.

The basic love motive, positive, dynamic motive of love in action, in opposition to absolute power, is the one associated with the central symbol of love in the drama, the Goddess of Love herself, Freia. Her motive first enters on the orchestra in Scene 2 of Rheingold when she runs on persued by the Giants. Fricka describes her approach and Freia enters her motive introduced by the violins.

しかし《断念》のモティーフの2つの形とも "愛" の否定的側面だけを表しており、"力" が支配する世界に蔓延する愛の欠如を表現しています。

その絶対的な "力" に対抗し、肯定的で、実際の愛のように動的な基本モティーフがあります。それは、このドラマの中心的な愛のシンボル、愛の女神・フライア自身に関連づけられたモティーフです。フライアのモティーフは最初に『ラインの黄金』の第2場でオーケストラに現れます。そのとき彼女は巨人たちの追跡から逃れてきます。フリッカが彼女の接近を告げ、フライアが登場するときに、彼女のモティーフがヴァイオリンに導入されます。

 EX.86: 《フライア》 

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We can hear Freia's swift motive more clearly from another special illustration, the violin part played on its own, a little more slowly.

《フライア》のテンポの速いモティーフは、特別の例示でもっと明確に聴けます。ヴァイオリンのパートだけを少しゆっくりと演奏してみましょう。

 EX.87: 《フライア》 ヴァイオリン・パート 

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CD1-Track17


Freia's motive has two independent segments and we may begin by considering the first, the rising one.

《フライア》のモティーフは独立した2つのセグメントを持っています。まず、最初の上昇するセグメントから考察してみましょう。

 EX.88: 《フライア》 第1セグメント 

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This first segment of Freia's motive is swift here and in the minor to portray Freia's agitation as she flees from the Giants. But it soon establishes its definitive slow major form. This stands out clearly for the first time when it introduces Loge's 'Hymn to Love', a little further along in the same Scene.

この《フライア》のモティーフの第1セグメントは速いテンポの短調で、巨人たちから逃走するフライアの切迫感を描いています。しかしまもなく、ゆっくりとした長調の確定形になります。これは同じ場の少し後でローゲが "愛の賛歌" を歌うとき、初めてはっきりと目立つ形で現れます(訳注:第2場の EX.84 の直後)。

 EX.89: 《フライア》 第1セグメント - 確定形 

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This definitive sinuous form of the first segment of Freia's motive recurs on its own throughout The Ring in association with the sensuous aspect of love between man and woman. For example, in Act 1 of Walkure, after Siegmund's first fully impassioned utterance to Sieglinde, it ascends sweetly on the violins.

このしなやかな《フライア》の第1セグメントの確定形は『指環』全体で再現します。それは男女の愛の官能的な側面に関連づけられます。例えば『ワルキューレ』の第1幕でジークムントがジークリンデに最初の情熱的な言葉を口にするとき、このモティーフがヴァイオリンで甘美に上昇します(訳注:第1幕 第3場)。

 EX.90: 《フライア》 第1セグメント - ジークムントとジークリンデ 

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No new motives are generated from this first segment of Freia's motive. It remains itself throughout The Ring. The whole family of motives representing the various aspect of love is generated by the second segment of her motive which we'll recall now.

《フライア》のモティーフの第1セグメントから新しいモティーフは生成されません。これは『指環』全体を通してそのままの形で残ります。愛のさまざまな側面を表すモティーフのファミリー全体は、《フライア》のモティーフの第2セグメントから生成されます。第2セグメントを思い出してみましょう。

 EX.91: 《フライア》 第2セグメント 

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This second segment of Freia's motive was identified wrongly by the very first commentator on The Ring, Hans von Wolzogen. He labeled it Flight. And every commentator since has followed him unthinkingly.

The whole motive enters in conjunction with Freia, and as with many other motives, its segments apply equally to the symbol it's attached to. It was not Wagner's practice to detach segments of his motives from the symbols that are initially associated with, and give them quite different meanings.

この《フライア》のモティーフの第2セグメントは、『指環』の最初の解説者であるハンス・フォン・ヴォルツォーゲンによって間違った認識がされました。彼は《逃亡》と名づけたのです。そして後世の全ての解説者は、考えなしにそれに従いました。

しかしモティーフ全体がフライアと結びついて登場しており、他のモティーフと同様、全てのセグメントが表現しているシンボルに等しく適用されるはずです。あるモティーフが最初にシンボルに関連づけられたあとで、モティーフのセグメントを切り離して全く違った意味を与えるというのは、ワーグナーの流儀ではありません。


CD1-Track18


The label Flight might at times seem to be justified, since the segment does recur in something like its original form when various characters are in flight. For example, it portrays Siegmund and Sieglinde fleeing from Hunding in the Prelude to Act 2 of Walkure.

《逃亡》という名前は、時に正当化できるように思えるかも知れません。というのもこの第2セグメントは原形に近い形で、さまざまな登場人物が逃げているときに出てくるからです。例えば『ワルキューレ』の第2幕への前奏曲では、フンディングから逃げるジークムントとジークリンデを描写します。

 EX.92: 《逃亡》 

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However, the characters in flight here, Siegmund and Sieglinde, are symbols of love, as Freia herself is, even when fleeing from the Giants. And if we examine the second segment of Freia's motive, we find that it functions exactly like the first segment as a love motive. In conjunction with the first segment, it soon establishes a definitive slow major form. Here's the original Freia's motive, again, complete.

しかし、ここで逃亡している登場人物のジークムントとジークリンデは愛のシンボルです。それは、たとえ巨人たちから逃げているときでもフライアが愛のシンボルであるのと同じです。そして《フライア》のモティーフの第2セグメントを調べてみると、第1セグメントと全く同じように愛のモティーフとして機能していることがわかります。それはすぐに第1セグメントと結合した形で、ゆっくりとした長調の確定形になります。《フライア》のモティーフの原形を、もう一度完全な形で聴いてみましょう。

 《フライア》 ヴァイオリン・パート: EX.87 

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CD1-Track19


When Fasolt, in Scene 2 of Rheingold, explains Wotan that he looks forward to having Freia as a wife in his home, the oboe accompanies his vocal line with the whole of Freia's motive, both first and second segments, in the definitive slow major form.

『ラインの黄金』の第2場においてファゾルトがヴォータンに、フライアを妻として家に迎えるのを楽しみにしていると説明するとき、彼の歌唱にオーボエが伴奏します。それは《フライア》のモティーフの第1、第2セグメントを含む全体の形で、ゆっくりとした長調の確定形です。

 EX.93: 《完全なフライア》 確定形 

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And the second segment of Freia's motive, in exactly the same way as the first, detaches itself in its definitive slow major form and recurs as a pure love motive in association with Siegmund and Sieglinde in Act 1 of Walkure. Here's the second segment again in its original swift minor form.

そして《フライア》のモティーフの第2セグメントは第1セグメントと全く同じように、ゆっくりとした長調の確定形で分離されます。その分離したセグメントは『ワルキューレ』の第1幕でジークムントとジークリンデに関連づけられた、純粋な愛のモティーフとして再現します。第2セグメントを、原形の速い短調の形で再度聴いてみましょう。

 《フライア》 第2セグメント: EX.91 

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When Siegmund drinks the mead which Sieglinde has brought him and they stare into one another's eyes and fall in love, this second segment of Freia's motive enters in its definitive slow major form as their basic love motive.

ジークリンデが用意した蜂蜜酒をジークムントが飲むとき、2人は眼を見つめ合い、恋に落ちます。そのとき、この《フライア》のモティーフの第2セグメントがゆっくりとした長調の確定形で入ってきて、それは2人の愛の基本モティーフになります(訳注:第1幕 第1場)。

 EX.94: 《フライア》 第2セグメント - ジークムントとジークリンデ 

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This basic love motive represents the compassionate aspect of love as opposed to its sensuous aspect which is expressed by the first segment of Freia's motive. It recurs in many different forms. Two main ones are slow and in the major, as here, and swift and in the minor, as at first, to represent love being driven out and pursued, hence the mistaken label of Flight.

There are certain passages where the swift minor form of the motive might seem to imply Flight, or at least pursuit, devoid of any associations with love. But these have been misunderstood. An example is the descent of Wotan and Loge to Nibelheim between Scenes 2 and 3 of Rheingold. Here, the second segment of Freia's motive is repeated over and over very swiftly in the minor. And a suggestion is that Wotan and Loge are in flight in some abstruse sense, or at least that they're in swift pursuit of Albrecht and the Ring.

この愛の基本モティーフは、《フライア》のモティーフの第1セグメントで表現される愛の官能的な側面とは対照的に、愛の哀れみの側面を表現しています。このモティーフは様々な形で再現します。その中心的なものは2つで、一つはここにみられるゆっくりとした長調です。もう一つは短調の速いテンポのもので、それはせき立てられ、追いかけられている愛を表現します。そのため《逃亡》という間違った名前がついたのです。

確かにこのモティーフの速い短調の形が、愛と関係がなく《逃亡》を含意するように見える、または少なくとも "追跡" と見えるパッセージもあります。しかしこれも誤解されてきました。その例は『ラインの黄金の』の第2場と第3場の間でヴォータンとローゲがニーベルハイムに下っていくシーンです。ここでは《フライア》のモティーフの第2セグメントが大変テンポの速い短調の形で何度も繰り返されます。ここでの意味は、ヴォータンとローゲが何らかの深い意味での逃亡状態にあることか、あるいは少なくとも2人がアルベリヒと指環を急いで追い求めているとも見えます。

 EX.95: ニーベルハイムへの下降における《逃亡》 

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To understand the true significance of this passage, we have to realize that the origin of the second segment of Freia's motive, the basic love motive, goes back beyond Freia herself to Scene 1 of Rheingold. Here, a short embryonic form of it is introduced in association with the thwarting of Alberich passion by the Rhinemaidens. When Alberich is finally rejected by the third Rhinemaiden, Flosshilde, he introduces this embryonic form of the basic love motive rather slowly and in the minor to express his grief over the frustration of his wooing.

このパッセージの真の意味を理解するためには、愛の基本モティーフである《フライア》のモティーフの第2セグメントの起源が、『ラインの黄金』でのフライアの登場より前の第1場にあることを理解しなければなりません。つまりアルベリヒのラインの乙女に対する熱情が挫折することに関連して、愛のモティーフの短い萌芽形が出てくるのです。アルベリヒが最終的に第3のラインの乙女・フロスヒルデによって拒絶されたとき、彼は愛の基本モティーフの萌芽形を導入します。それは幾分ゆっくりとした短調で、求婚が挫折に終わった嘆きを表現しています。

 EX.96: 《フライア》 第2セグメント - アルベリヒ 

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It's this short embryonic version of the basic love motive which is developed in the descent to Nibelheim. To make this absolutely clear, let's hear Alberich's lament in Scene 1 again, picking up the music a little earlier beginning with his cries of "Woe is me" which lead to his embryonic version of the basic love motive.

ニーベルハイムへの下降のシーンで展開されるのは、この愛の基本モティーフの短い萌芽形です。このことを完全に明確にするために、第1場でのアルベリヒの嘆きを再度聴いてみましょう。少し前のアルベリヒの "ああ情けない" という叫びのところの音楽から取り上げますが、それが愛の基本モティーフの萌芽形へと導きます。

 EX.97: 《アルベリヒの嘆き》 

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The descent to Nibelheim takes this passage as its starting point. It restates Alberich's cries of "Woe is me" more quickly and then it develops his short embryonic version of the love motive furiously, in the way made possible by the definitive continuous form of it, now associated with Freia.

ニーベルハイムへの下降は、このパッセージが出発点になっています。まずアルベリヒの "ああ情けない" という叫びが素早く繰り返され、短い愛のモティーフの萌芽形へと激しく展開します。それが、フライアに関連づけられる確定形へと変わっていくことを可能にします。

 EX.98: 《フライア》 第2セグメント - ニーベルハイムへの下降 

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It's clear that when this passage begins, just after the music associated with Loge in Scene 2, Wagner employs a flashback technique which he often uses in orchestral interludes. He turns away from Wotan and Loge and their descent to Nibelheim, and picks up Alberich on his descent to Nibelheim from the Rhine after Scene 1. Alberich's thwarted desire a love has turned bitter, and is being transformed into a fierce lust of power,a familiar psychological phenomenon which is the true underlying meaning of the dependence of absolute power on the renunciation of love.

第2場のローゲが関係する音楽のすぐあとでこのパッセージが始まるとき、明らかにワーグナーはオーケストラ間奏曲でよく用いるフラッシュバックの技法を使っているです。ワーグナーは、ヴォータンとローゲと彼らのニーベルハイムへの下降はひとまず置いておき、第1場の最後でアルベリヒがライン河からニーベルハイムに下降するときの音楽を取り上げます。アルベリヒの愛への欲望の挫折は苦いものになり、それは力に対する激しい欲望へと変化しつつあります。愛を放棄するに当たって絶対的な力に頼るというのがその背景の意味であり、それはよくある心理現象だと言えるでしょう。


CD1-Track20


A little later in this interlude, the basic love motive enters in the new and more powerful form on the brass. It's still in the minor, but now it's slow and drawn out like the lament of love itself expelled from this world of naked power.
この間奏曲の少しあとで、新しい形の愛の基本モティーフがもっと力強く金管に入ってきます。それはまだ短調ですが、ゆっくりと引き伸ばされていて、むき出しの "力" の世界から追放されてしまった "愛" を嘆くようです。

 EX.99: 《フライア》 第2セグメント - ゆっくりとした短調 

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This powerful form of the basic love motive, slow and in the minor, attaches itself to Wotan in Act 2 of Walkure when he realizes his own lovelessness. He sings it at the beginning of the passage we heard earlier, the one illustrating the use of the second form of the Renunciation motive as a cadence expressing futility.

この力強く、ゆっくりとした短調の愛の基本モティーフは『ワルキューレ』の第2幕においてヴォータンに割り当てられます。彼が自分の愛の欠如を自覚するときです。彼は以前に聴いたパッセージの最初でそれを歌い、またこれは《愛の断念》のモティーフの第2形を、無益さを表す終止形として使う例になっています。

訳注:  EX.100 は第2幕 第2場で、EX.85 《愛の断念・第2形》と同じ箇所。

 EX.100: 《フライア》 第2セグメント - ゆっくりとした短調 

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This lamenting form of the basic love motive also attaches itself to Siegmund and Sieglinde in a more lyrical way. In Act 1 of Walkure when Siegmund momentarily feels that his love of Sieglinde is a forlorn hope, the definitive slow major form of the basic love motive which has been associated with their falling in love, now turns sadly to its minor form.

この愛の基本モティーフの "嘆きの形" は、もっと叙情的な形で『ワルキューレ』第1幕のジークムントとジークリンデに結びつきます。ジークリンデへの恋が絶望的なのではとジークムントが一瞬感じるとき、恋に落ちることに関連した愛の基本モティーフのゆっくりとした長調の確定形が、悲しげな短調の形に変わります(訳注:第1幕 第1場。EX.94 と同じ場面)。

 EX.101: 《フライア》 第2セグメント - ゆっくりとした短調 

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The definitive slow major form of the basic love motive later transformed itself freely to generate two new motives associated with the love of Siegfried and Brunnhilde in Act 3 of Siegfried. First, it forms the basis of the exultant theme known as the motive of Love's Greeting. They introduce this vocally when they hail the memory of Sieglinde as the mother of Siegfried.

ゆっくりとした長調の愛のモティーフの確定形は(訳注:EX.94)のちに自由な変形を遂げ、『ジークフリート』の第3幕においてジークフリートとブリュンヒルデの愛に結びつく新たな2つのモティーフを生み出します(訳注:第3幕 第3場)。まず《愛の挨拶》のモティーフとして知られる、喜びに溢れた旋律の基本を形づくります。2人がジークフリートの母のジーリンデの思い出を讃えるとき、歌唱でこのモティーフが導入されます。

 EX.102: 《愛の挨拶》 

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The relationship between this new motive of Love's Greeting and the basic love motive becomes entirely clear in a later passage when Brunhilde tells Siegfried that she was destined for him before he was born. This new motive enters on the woodwind, but Brunhilde immediately continues it in the shape of the basic love motive.

この新しいモティーフ《愛の挨拶》と愛の基本モティーフの関係は、後の歌唱で明らかになります。ブリュンヒルデがジークフリートに、彼が生まれる前から自分の運命づけられた人だったと告げるときです。この新しいモティーフが木管に入ってきますが、ブリュンヒルデはすぐに愛の基本モティーフの形で続きます。

 EX.103: 《愛の挨拶》 と 《フライア》の第2セグメント 

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CD2-Track01


The other new motive generated by the basic love motive, is the bold one known as Love's Resolution. It strikes in nearly at the end of Siegfried to sum up the supremely confident character of the love of Siegfried and Brunnhilde. This motive is again a free transformation of the of the basic love motive. Its origin is the brilliant orchestral passage at the end of Act 1 of Walkure when Siegmund and Sieglinde fall into one another's arms. The basic love motive enters here in the major but quickly. That is developed to the swift telescoped form to express the joyful passion of the two lovers.

愛の基本モティーフから作り出される他の新しいモティーフは《愛の決心》として知られる堂々としたモティーフです。それは『ジークフリート』の終わり近くで登場し、ジークフリートとブリュンヒルデの愛が最大限に強いことを総括します。このモティーフもまた、愛の基本モティーフの自由な変形です。その原形は『ワルキューレ』の第1幕の終わりにおいて、ジークムントとジークリンデがお互いの両腕で抱き合うときにオーケストラに入ってくる輝かしいパッセージです。ここに出てくる愛の基本モティーフは長調ですが、テンポは速いものです。それは2人の恋人の喜びの情熱を表現するため、速く、縮められた形で展開されます。

訳注:  EX.104 は『ワルキューレ』第1幕 第3場で EX.81 のジークムントの歌唱のあと、幕が降りる直前のオーケストラ演奏。

 EX.104: 《フライア》 第2セグメント - 速い長調 

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It's this swift telescoped form of the basic love motive that broadens out majestically on the horns at the end of Siegfried to become the motive of Love's Resolution.

この、速くて縮められた形の愛の基本モティーフが『ジークフリート』の最終場面でホルンによって壮麗に展開され、《愛の決心》のモティーフとなります。

 EX.105: 《愛の決心》 

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This ends the family of motives generated by the basic love motive. But there are several other motives associated with the symbol of love which are quite independent.

First, there's the moving motive which represents the Bond of Sympathy between the Volsungs, Siegmund, Sieglinde and later it attaches itself to their son, Siegfried. It's first heard in Act 1 of Walkure. It enters in the bass with Sieglinde's motive above it when Siegmund and Sieglinde find themselves partners in distress.

これで愛の基本モティーフから作り出されたモティーフのファミリーは終わりですが、愛のシンボルに関連した、全く独立した数個のモティーフがあります。

まず《ヴェルズング族の共感の絆》を表す感動的なモティーフで、これはジークムントとジークリンデを表し、後には彼らの息子のジークフリートに結びつきます。このモティーフは最初に『ワルキューレ』の第1幕で聴かれます。ジークムントとジークリンデが互いに悩みをもつ仲間だと悟るとき、このモティーフが低音部に入ってきます。その上には《ジークリンデ》のモティーフを伴っています。

訳注:  《ジークリンデ》のモティーフについては EX.72 《ジークムントとジークリンデ》参照。《ジークリンデ》だけの解説はない。EX.106 は『ワルキューレ』第1幕 第1場の最終場面。

 EX.106: 《ヴェルズング族の共感の絆》 

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This motive is developed in several different ways throughout the whole drama. But when it later attaches itself to Siegfried, it takes on a quick excited form to express his agitation during his love scene with Brunnhilde.

このモティーフはドラマ全体を通していくつかの違った形で展開されます。しかし後にこれがジークフリートに結びつくとき、テンポを速め、興奮した形をとります。それはブリュンヒルデとの愛の場におけるジークフリートの高揚感を表しています(訳注:『ジークフリート』第3幕 第3場)。

 EX.107: 《ヴェルズング族の共感の絆》 第2形 

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Another independent love motives associated with Siegmund and Sieglinde is the melody of Siegmund song of spring, Wintersturme.

ジークムントとジークリンデに関連づけられた別の独立したモティーフがあります。それはジークムントが歌う春の歌、《冬の嵐》の旋律です(訳注:『ワルキューレ』第1幕 第3場)。

 EX.108: 《冬の嵐》 

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One of the independent love motive is associated with Wotan's Affection for Brunnhilde. He sings it near the end of Walkure just before he plunges Brunnhilde into her magic sleep.

独立した愛のモティーフの一つは、ヴォータンのブリュンヒルデへの愛情に関係しています。『ワルキューレ』の終幕近く、ブリュンヒルデを "魔の眠り" につかせる直前にヴォータンが歌います。

訳注:  このモティーフは《告別》ないしは《ヴォータンの告別》とも呼ばれる。

 EX.109: 《ヴォータンのブリュンヒルデへの愛情》 

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CD2-Track02


There are several independent love motives attached to Siegfried and the love between him and Brunnhilde. First, there's a yearning one associated with Siegfried's longing for human love and companionship. He is to replace Wotan in Brunnhilde's affections. And this motive begins with the same three rising chromatic notes as the one we've just heard associated with Wotan's affections for her. It enters in Act 1 of Siegfried, while Siegfried describes to Mime how he has watch the wooing and mating of the birds in the forest. It's worth noting that this motive goes straight over into the basic love motive.

さらに、ジークフリートおよび彼とブリュンヒルデの愛に結びつく数個の独立したモティーフがあります。第1に、人間愛と友情を切望するジークフリートに関連づけられる《憧れ》のモティーフです。ブリュンヒルデの愛情は、ヴォータンからジークフリート移ることになります。そしてこのモティーフは、さっき聴いた《ヴォータンのブリュンヒルデへの愛情》のモティーフと全く同じように、3つの上昇する半音階で始まります。このモティーフは『ジークフリート』の第1幕において、ジークフリートが森の小鳥たちの求愛と交尾を観察したことをミーメに語るときに入ってきます(訳注:第1幕 第1場)。このモティーフが愛の基本モティーフと直接的につながっていることに注目すべきでしょう。

 EX.110: 《ジークフリートの愛への憧れ》 

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There are four further independent love motives associated with Siegfried and Brunnhilde. The first is a jubilant leaping one which enters when Brunnhilde is fully awake and is generally known as the motive of Love's Ecstasy.

ジークフリートとブリュンヒルデに関連づけられる独立した愛のモティーフがさらに4つあります。その第1はブリュンヒルデが完全に目覚めたときに登場する、喜びに飛び跳ねるようなモティーフで、これは《愛の陶酔》のモティーフとして知られています。

訳注:  以降の EX.111, EX.112, EX.113 は『ジークフリート』第3幕 第3場。

 EX.111: 《愛の陶酔》 

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Two of the other independent love motives attached to Siegfried and Brunnhilde are simply two of the themes that belong to the 'Siegfried Idyll'. The first, which is not a motive in the strict sense in that it never recurs, is the opening theme of that work which is introduced to represent Brunnhilde as the Immortal Beloved.

ジークフリートとブリュンヒルデに結びつく独立した愛のモティーフのうちの2つは、「ジークフリート牧歌」の2つの旋律と同じものです。一つは「ジークフリート牧歌」の冒頭の主題で、ブリュンヒルデを表現する《不滅の愛されし人》です。もっともこれは1回しか現れないので、厳密な意味でのモティーフだとは言えません。

 EX.112: 《不滅の愛されし人》 

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The other motive is the second theme of the 'Siegfried Idyll' which is sung by Brunnhilde to the words, 'Oh Siegfried, Treasure of the World', and has become known in consequence as the motive of the World's Treasure.

2つ目は「ジークフリート牧歌」の第2主題で、ブリュンヒルデが「おお、ジークフリート、世界の宝」と歌うときのものです。それにより《世界の宝》のモティーフとして知られています。

 EX.113: 《世界の宝》 

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This motive does recur and derived from it is the final independent love motive, the one associated with Siegfried and Brunnhilde in Gottterdammerung, and known as the motive of Heroic Love.

このモティーフは再現し、そこから独立した愛のモティーフの最後のものが派生します。《英雄的な愛》として知られるモティーフで、『神々の黄昏』においてジークフリートとブリュンヒルデに関連づけられます。

訳注:  EX.114 は『神々の黄昏』の序幕のオーケストラ間奏のあとでブリュンヒルデが登場する場面。

 EX.114: 《英雄的な愛》 

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Here, we finish with the motives associated with the central symbol of love.

これで、"愛" という中心的シンボルに関連づけられたモティーフを終わります。


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No.258 - "ニーベルングの指環" 入門(2)指環・槍 [EX.39-79] [音楽]

2019.5.10
前回より続く

これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。

第2回は EX.37EX.79 の 43種のライトモティーフの解説です。ここでは『ニーベルングの指環』において "権力" や "力" のシンボルとなる2つの基本モティーフ、《指環》と《槍》、およびそこから派生するモティーフのファミリーを扱います。


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リヒャルト・ワーグナー
ラインの黄金
ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(新リマスター版CD:1997。録音:1958)


CD1-Track07


The cause of the deterioration of the Gold from a life giving inspiration to an agent of misery and death is, of course, the Ring of absolute power which Alberich makes from the Gold and puts the such evil use. Alberich's Ring is a central symbol of the drama, one of the two central symbols of power.

And so it has its own basic motive which enters Scene 1 of Rheingold and later generates the whole family of motives. The first embryonic form of the Ring motive is the undulating vocal line of the Rhinemaiden Wellgunde in the major key when she tells Alberich that anyone who can make a Ring from the Gold will be able to dominate the world.

黄金が命を生む創造的存在から苦痛と死の使者へと堕落した原因は、もちろん絶対的な力を持つ "指環" にあります。それはアルベリヒが黄金から作って悪用したものでした。アルベリヒの指環はこのドラマの中心的シンボルであり、それは2つある "力" のシンボルの一つです。

従って指環はそれ自身の基本モティーフを持っています。それは『ラインの黄金』の第1場で導入され、後にモティーフのファミリー全体を作り出します。《指環》のモティーフの萌芽形は、ラインの乙女のヴェルグンデの波のようにうねる長調の歌です。その歌でヴェルグンデは「黄金から指環を作れるものは世界を支配できるだろう」とアルベリヒに告げます。

 EX.39: 《指環》 萌芽形 

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When Alberich reflects on Wellgunde's words, the orchestra repeats her vocal line. And then he sings the tauter version of it in the minor key as he soliloquize on the possibility of absolute power.

アルベリヒがヴェルグンデの言葉を思案しているとき、オーケストラは彼女の歌を反復します。そしてアルベリヒが絶対的な力の可能性を独白するとき、彼はもっと緊張した形を短調で歌います。

 EX.40: 《指環》 中間形 

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This is almost the definitive form of the sinister Ring motive. And it soon emerges clearly on clarinets and horns near the end of the orchestral interlude leading to the next Scene.

これは不吉な《指環》のモティーフの確定形とほとんど同じです。その確定形は、次の場へと続くオーケストラの間奏曲の最後の付近で、クラリネットとホルンに明確な形で現れます。

 EX.41: 《指環》 確定形 

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The Ring motive is a melodic form of a chord, just as the original Nature motive is. But whereas the notes of the Nature motive make up a major chord, those of a the Ring motive make up a complex chromatic dissonance in the minor key composed of superimposed thirds. We can hear this sinister harmonic basis of the Ring motive by means of a special illustration, the motive played by woodwind with all its notes sustained and kept sounding as a chord.

《指環》のモティーフは、《自然》のモティーフがそうであるように和音の旋律形です。しかし《自然》のモティーフが長調の和音であるのに対し、《指環》は短調の複雑な半音階的不協和音で、3度の音程が重ねられています。特別の例示で《指環》のモティーフの不吉な和声を聴くことができます。木管楽器でモティーフの全ての音を和音として響くように引き伸ばしてみましょう。

 EX.42: 《指環》 基本和声 

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This special illustration helps us to follow the evolution of two important motives belonging to the Ring's family. First, the motive of Scheming which is mainly associated with the efforts of the Niebelungs to get possession of the Ring. This is a kind of groping outline of the Ring's harmony. This can be heard from another special illustration. Here's the Ring motive played by the cellos' pizzicato with two bassoons holding the upper third and then fall into the lower third.

この特別の例示は、《指環》のファミリーに属する2つの重要なモティーフへの変形をたどる助けになります。第1は《思案》のモティーフで、これは主に指環を保持しようとするニーベルング族の労働に関連づけられます。このモティーフは《指環》の和声の骨格のようなものです。これを別の特別の例示で聴いてみましょう。次は《指環》のモティーフをチェロのピチカートで演奏したもので、伴奏する2本のファゴットは上の3度を保持したあと、下の3度に下がります。

 EX.43: 《指環》 骨格 

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The bassoons' outline of the Ring motive's harmony in that special illustration is the motive of Scheming as it appears definitively at the beginning of Siegfried in association with the plotting of Mime.

この例示のファゴットで示された《指環》の和声の骨格は《思案》のモティーフの確定形になります。それは『ジークフリート』の冒頭でミーメのたくらみに関連づけられます(訳注:第1幕 第1場)。

 EX.44: 《思案》 

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CD1-Track08


The other transformation of the Ring motive's sinister homony is the motive of Resentment which is introduced in Scene 4 of Rheingold to accompany Alberich's first bitter remarks when he is set free after having been robbed of the Ring by Wotan. One further special instruction will make this clear. Here's the Ring motive played by the clarinets with the central 3 notes of its harmonic basis left sounding the end of the chord.

《指環》の不吉な和声のもう一つの変形は『ラインの黄金』の第4場で導入される《怨念》のモティーフです。それはアルベリヒがヴォータンに指環を奪われたあと、解放された時に最初に言う毒舌の伴奏に出てきます。もう一つの特別の例示で、このことを明確にしましょう。次はクラリネットで演奏した《指環》のモティーフで、和声の中心の3つの音を和音として終わりまで響かせます。

 EX.45: 《指環》 減3和音 

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This diminished triad which lies at the heart of the Ring motive's sinister harmonic basis, is the starting point of the syncopated motive of Resentment.

《指環》のモティーフの根幹にあるこの不吉な響きの減3和音は、シンコペーションのモティーフである《怨念》の出発点になります。

 EX.46: 《怨念》 

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There's one further important effect of the harmonic basis of the Ring motives which should be mentioned, this is a case not of generating a new motive but of generating a new form of an already existing one. The already existing one is that of the Power of the Ring associated with Alberich in Rheingold and later. We hear it again as a reminder.

ここで《指環》のモティーフの和声の重要な効果について指摘すべき点があります。それは新しいモティーフが作られるのではなく、既存のモティーフの新しい形が作られるケースです。その既存のモティーフとは『ラインの黄金』やそれ以降のアルベリヒに関連づけられた《指環の力》です。リマインドのために《指環の力》をもう一度聴いてみましょう。

 《指環の力》: EX.34 

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When this motive attaches itself to Hagen in Gotterdammerung, it takes on a slightly different harmonic form. It now begins with a pungent dissonance.

この《指環の力》のモティーフが『神々の黄昏』でハーゲンに割り当てられると、少し違った和声をとります。今度は鋭い不協和音で始まります。

訳注:  EX.47 は『神々の黄昏』第1幕 第2場の最終場面、ハーゲンの歌唱のところ。

 EX.47: 《指環の力》 ハーゲン形 

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The dissonance which begins this form of the motive is quite simply the full harmonic basis of the Ring motive which our first special illustration will recall to us.

この形のモティーフの出だしの不協和音は、シンプルに《指環》のモティーフの和声の全部です。最初の例示で聴いたのを思い出してみましょう。

 《指環》 基本和声: EX.42 

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As can be heared, this is the exact dissonance which begins the motive of the Power of the Ring in the form associated with Hagen.

聴き取れるように、これはハーゲンと関連づけられた《指環の力》の始めの不協和音と同じです。

 《指環の力》 ハーゲン形: EX.47 

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The dissonance which begins this form of the motive permeates Gotterdammerung and generates a new motive in Act 2. It acts as starting point of savage theme known as the motive of Murder which is heared in the orchestra when Alberich incites Hagen to kill Siegfried and get back the Ring.

このモティーフの出だしの不協和音は『神々の黄昏』の各所で出現し、第2幕で新しいモティーフを生み出します(訳注:第2幕 第1場)。それは《殺害》として知られている残忍な旋律の開始部分で、オーケストラに聴き取れます。アルベリヒがハーゲンに、ジークフリートを殺して指環を取り戻せと促す場面です。

 EX.48: 《殺害》 

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So this dissonance permeates Gotterdammerung, creating an atmosphere of progressive dissolution. Wagner made the sinister harmony of the Ring motive eat its way more and more into the fabric of the score to reflect the fact that the sinister symbol of the Ring itself eats its way more and more into the fabric of the drama.

そしてこの不協和音は『神々の黄昏』に染み渡っていき、次第に崩壊していく雰囲気を作り出します。ワーグナーは《指環》の不吉なハーモニーがスコアという織物に徐々に浸透するようにしています。それは不吉のシンボルである指環がドラマという織物に浸透することを反映しているのです。


CD1-Track09


Several other motives representing various aspects of the symbol of the Ring are generated by the melody of the Ring motive. Three of these stem from its first segment of four descending notes. The most important is the motive associated with the Curse which Alberich puts on the Ring in Scene 4 of Rheingold after having been robbed of it by Wotan. Here are the first four descending notes of the Ring motive.

シンボルとしての指環のさまざまな側面を表現するモティーフのいくつかは、《指環》のモティーフの旋律から作り出されます。このうちの3つは《指環》の最初のセグメントである下降する4つの音から生じます。最も重要なのは『ラインの黄金』の第4場で、指環をヴォータンに奪われたあとにアルベリヒが指環にかける "呪い" に関連したモティーフです。次が《指環》のモティーフの最初の4つの下降音です。

 EX.49: 《指環》 最初の4音符 

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These four notes are turned upside down to form the menacing motive of the Curse. This is introduced vocally by Alberich but its definitive form is established by the trombones a little later in Scene 4 of Rheingold, immediately after the first effect of the Curse, the murder of Fasolt by Fafner.

この4つの音は上昇下降を逆転させ、威嚇するような《呪い》のモティーフを形づくります。これはアルベリヒの歌唱で導入されますが、少し後の『ラインの黄金』の第4場でトロンボーンがこのモティーフの確定形を提示します。ファゾルトがファフナーに殺されるという、"呪い" の最初の発現の直後です。

 EX.50: 《呪い》 

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The other two motives generated from the first four notes of the Ring motive are those of Hunding's Rights in Walkure and the Vow of Atonement in Gotterdammerung. Hunding, if he is ignorant of the existence of the actual Ring, is nevertheless a wielder of the kind of ruthless power it symbolizes.

And as for the Vow of Atonement which forms part of the oath of blood brotherhood sworn by Siegfried and Gunther, the significance of the Ring shaped motive here is one of tragic irony. Through the vow, Siegfried puts himself entirely in the power of Hagen who uses it as a pretext for murdering him to get possession of the Ring.

Both these motives are direct transformations of the first four notes of the Ring motive which we'll hear again now.

《指環》のモティーフの最初の4つの音から生成される他の2つのモティーフは『ワルキューレ』の《フンディングの正義》と、『神々の黄昏』の《贖罪の誓い》です。フンディングは指環の存在については無関係だとしても、指環が象徴するある種の冷酷な力を持っています。

また《贖罪の誓い》はジークフリートとグンターの "兄弟の血の誓い" の構成要素です。ここで重要なのは《指環》から作られるモティーフが "皮肉な悲劇" を示すことです。つまり "誓い" によってジークフリートは、指環を手に入れるために彼を殺そうとしているハーゲンの術中にはまってしまいます。ハーゲンは "誓い" を口実にするのです。

この2つのモティーフとも《指環》の最初の4つの音の直接的な変形です。4つの音をもう一度聴いてみましょう。

 《指環》 最初の4音符: EX.49 

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Now here is the stern motive of the Hunding's Rights which is introduced vocally by Hunding himself to the words "Sacred is my hearth, sacred to you be my home".

さて次が厳粛な《フンディングの正義》のモティーフです。これはフンディング自身の歌唱で導入され、歌詞は「私の炉は神聖だ。私の家は君にとっても神聖だ」です(訳注:『ワルキューレ』第1幕 第2場)。

 EX.51: 《フンディングの正義》 

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And here's the tragic motive of the Vow of Atonement as introduced by Gunther and Siegfried in Act 1 of Gotterdammerung.

そして次が、悲劇的な《贖罪の誓い》のモティーフです。これは『神々の黄昏』の第1幕(訳注:第2場)でグンターとジークフリートによって導入されます。

 EX.52: 《贖罪の誓い》 

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CD1-Track10


Two further motives are evolved from the other segments of the Ring motive, its last three rising notes. Both enter in Scene 3 of Rheingold. The first is that of the Hoard of treasure which apears when Alberich tells Wotan about the Hoard and how he will use it to make himself master of the world.

The second is that of the Dragon which enters when Alberich transformed himself into a huge serpent ostensibly to demonstrate the powers of the Tarnhelm but really to warn Wotan and Loge of his power to guard the Ring in the Hoard.

Both motives are built out of repetitions of the rising third which ends the Ring motive, a note higher each time. And both are given into the tubas to suggest some monstrous evil rising from the depths to engulf the world. Here's the Ring motive again as a reminder.

他に2つのモティーフが《指環》の別のセグメントから派生します。それは《指環》の最後の上昇する3音から派生するもので、2つとも『ラインの黄金』の第3場に出てきます。第1は《財宝》のモティーフです。これはアルベリヒがヴォータンに財宝のことを話し、世界を支配するためにどう使うかを語るところで出てきます。

第2は《大蛇》のモティーフで、アルベリヒ自身が大きな蛇に変身するところで現れます。その変身は、表向きは "隠れ兜" の威力を誇示するためですが、本当は財宝の中の指環を守る力が自分にあることをヴォータンとローゲに警告しているのです。

2つのモティーフとも《指環》のモティーフの最後の上昇する3度を繰り返すことで作られていて、繰り返すたびに音は高くなります。また2つともチューバに割り当てられており、怪物級の "悪" が深淵から立ち上がって世界を巻き込むかのようです。リマインドのために《指環》のモティーフを再度聴きましょう。

 《指環》: EX.41 

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The last three notes of the Ring motive, repeated over and over by the tubas, generate the motive of the Hoard. Here it is as it occurs definitively in the Prelude to Siegfried with the Servitude motive repeated above it.

《指環》の最後の3音はチューバで何度も繰り返され、《財宝》のモティーフを生み出します。次は『ジークフリート』の前奏曲で確定的に現れる《財宝》です。その上で繰り返される《苦役》のモティーフと一緒です。

訳注:  Hoard of treasure という説明があるように、モティーフ名の hoard は "秘蔵物" の意味である。ここでは財宝と等価なので《財宝》とした。普通このモティーフは《財宝》と呼ばれている。

 EX.53: 《財宝》 

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The motive of the Dragon is a rather freer development of the last three notes of the Ring motive, but again it consists of repetitions by the tubas of a phrase revolving round a third, each repetition a note higher than the one before.

《大蛇》のモティーフは《指環》の最後の3音のいくぶん自由な展開です。しかしまたもチューバによる繰り返しで、3度の周りを巡回し、繰り返すごとに音程が高くなっていきます。

 EX.54: 《大蛇》 

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This Dragon motive later takes on a slightly different form on solo tuba to represent Fafner in Act 2 of Siegfried, when he has turned himself into a Dragon to guard the Ring and the Hoard.

《大蛇》のモティーフは『ジークフリート』の第2幕において少々違った形でチューバのソロに現れ、ファフナーを表現します。指環と財宝を守るために彼自身が大蛇に変身している場面です。

訳注:  EX.55 は『ジークフリート』第2幕のオーケストラ前奏曲の冒頭。

 EX.55: 《大蛇としてのファフナー》 

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This is the last of the dark family of motive generated by the basic power motive of the Ring.

But there's one separate bright transformation of the Ring motive, the first and simplest of all. This emerges soon after the motive has found its definitive form in the orchestral interlude leading from Scene 1 of Rheingold to Scene 2. Eventually, the newly established Ring motive begins to take on a less inimical form. Its sinister harmonic basis becomes much more genial on the horns.

これが "力" を表す基本モティーフ《指環》から作られる暗いモティーフのファミリーの最後です。

しかし《指環》のモティーフの別の明るい変形が一つあります。最も単純な変形の最初のものです。これは『ラインの黄金』の第1場から第2場へのオーケストラの間奏において、《指環》の確定形(訳注:EX.41)が提示されたすぐ後に出てきます。新しく確立した《指環》のモティーフは次第に敵意のない形になっていきます。不吉な和声はホルンによって断然穏やかになります。

 EX.56: 《指環》 ヴァルハラへ変化 

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Immediately after this, at the very beginning of Scene 2, the Ring motive changes its harmonic basis a little further to simple major harmonies, and in so doing, it transforms itself into the majestic brass motive to be associated with Wotan's catsle, Valhalla.

この直後の第2場の冒頭で《指環》のモティーフは和声をさらに変え、シンプルな長調のハーモニーになります。こうすることでヴォータンの城である《ヴァルハラ》と結びついた、堂々とした金管のモティーフになります。

 EX.57: 《ヴァルハラ》 第1セグメント 

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The melodic similarity between the Valhalla motive and the Ring motive establishes the near identity of the ultimate aims of Alberich and Wotan, absolute power in each case. And the harmonic contrast between them expresses much noble character of a Wotan conception of absolute power, compared with the Alberich's.

But the phrase we've just heard is only the first segment of the Valhalla motive, though the most important one. There are other segments which are also to recur on their own. Two of these soon follow the first one, a repeated falling phrase and a series of alternating chords.

《ヴァルハラ》と《指環》のメロディーの類似性は、アルベリヒとヴォータンの究極の目的がほとんど同じであることを明確にしています。両方とも絶対的な "力" です。そして2つのモティーフの和声の対比は、ヴォータンにおける絶対的な力の概念がアルベリヒに比べて格段に高貴であることを表現しています。

いま聴いたフレーズは《ヴァルハラ》のモティーフの最も重要なものですが、第1セグメントだけに過ぎません。他に、何度もそれ自体が再現する別のセグメントがあります。このうちの2つは第1セグメントにすぐに続きます。下降するフレーズの繰り返しと、一連の交替する和音です。

 EX.58: 《ヴァルハラ》 第2・第3セグメント 

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The final segment of the Valhalla motive, which is a kind of summing up of its noble character, doesn't enter until the end of the Wotan's actual apostrophe to Valhalla itself. It appears on the trumpet at the words "Noble Splendid Fortress".

《ヴァルハラ》のモティーフの最後のセグメントは、このモティーフの高貴な性格をまとめたもので、ヴォータンがヴァルハラそのものへの呼びかけを終えたときに導入されます。これはトランペットに現れ、せりふは「気高く輝く砦」です。

 EX.59: 《ヴァルハラ》 最終セグメント 

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We can hear this final segment of the Valhalla motive more clearly by having the passage played by the orchestra alone.

このパッセージをオーケストラだけで演奏することで、《ヴァルハラ》の最終セグメントをよりはっきりと聴くことができます。

 EX.60: 《ヴァルハラ》 最終セグメント 

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This final segment of the Valhalla motive also occurs frequently on its own. It has a habit of attaching itself to the ends of other motive as a cadence. For example, when Wotan conceives the idea of the Sword in Scene 4 of Rheingold, it rounds off the trumpet's Sword motive with the effect of setting a seal of majesty on the new conception.

この《ヴァルハラ》のモティーフの最終セグメントは、それ自体でしばしば現れます。そして、他のモティーフの終わりに付加されて終止形を作る性質があります。たとえば『ラインの黄金』の第4場においてヴォータンが "剣" のアイデアを抱くとき、このモティーフはトランペットの《剣》のモティーフを整え、その新しい考えに威厳を与える効果を発揮します。

 EX.61: 《剣》 と《ヴァルハラ》の最終セグメント 

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Although the complete Valhalla motive and its various segments recur throughout the whole work, the motive does not generate a family of motives. This is because Wotan's catsle is only a static symbol of his power, not a dynamic symbol of the agency of his power, akin to Alberich's Ring.

The agency of Wotan's power is his Spear. This is the other central power symbol of the drama and it has its own basic motive which does generate a whole family of motives.

こういった《ヴァルハラ》のモティーフ全体とそのさまざまなセグメントは『指環』を通して再現しますが、モティーフのファミリーを作ることはありません。その理由は、ヴォータンの城がアルベリヒの "指環" のような "力の動的なシンボル" ではなく、"力の静的なシンボル" に過ぎないからです。

ヴォータンの力を代表するのは彼の "槍" です。これはドラマのもう一つの力の中心的なシンボルであり、基本モティーフを持ち、そこからモティーフのファミリーが生み出されます。


CD1-Track11


The basic motive associated with the Spear has always been labelled the Treaty or Bargain motive, because Wotan's power resides in the treaties sworn on the Spear and engraved on it. But these treaties which are actually the laws whereby Wotan governs the world, are really maintained by his will. And this is what the power of the Spear represents. Wotan's Spear is the symbol of his will towards controlled, lawful world domination, just as Alberich's Ring is the symbol of his will towards uncontrolled, unlawful world domination.

And so the basic power motive associated with the Spear should take the name of the symbol itself, just as the basic power motive associated with the Ring is called the Ring motive. The Spear motive which is a stern descending minor scale, first appears in Scene 2 of Rheingold. It enters quietly on the bass when Fricka reminds Wotan that he will have to fulfil his contract with the Giants and give them the promised payment for building Valhalla, the Goddess Freia.

"槍" に関連づけられた基本モティーフは、従来から《契約》とか《取引》のモティーフと呼ばれてきました。というのもヴォータンの力の源泉は、ヴォータンが "槍" に誓い、"槍" に刻み込んだ契約にあるからです。この契約はヴォータンが世界を支配するための "おきて" ですが、実際はヴォータンの意志によって支えられています。"槍" の力が表現しているのは、その意志です。ヴォータンの "槍" は秩序のある統制された世界に君臨する意志の象徴です。それはアルベリヒの "指環" が無秩序で統制のない世界に君臨する意志を象徴しているのと同様です。

従って "槍" に関連づけられた力の基本モティーフにはシンボルの名前そのものを採用すべきです。ちょうど "指環" に関連づけられた力の基本モティーフが《指環》のモティーフと呼ばれるようにです。《槍》のモティーフは厳粛に下降する短調の音階で、最初に『ラインの黄金』の第2場で現れます。フリッカはヴォータンに、巨人たちと交わした契約を履行してヴァルハラを建てる報酬の約束、つまり女神・フライアを差し出すべきことを思い起こさせますが、そのときモティーフが低音部に静かに入ってきます。

 EX.62: 《槍》 第1形 

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Later in the same Scene when Donner lifts his hammer to crush the Giants, Wotan stretches out his Spear and imposes the law by the main force of his will. And here the definitive form of the Spear motive beginning on a strong beat enters powerfully on the trombones.

そのあと同じ第2場でドンナーが巨人たちを粉砕しようとハンマーを振り上げるとき、ヴォータンは槍を振るって意志の力で "掟" を強制します。ここが《槍》のモティーフの確定形で、強いビートで始まり、トロンボーンで力強く演奏されます。

 EX.63: 《槍》 確定形 

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Before considering the family of motives generated by this main Spear motive, we should notice that it has another segment, concerned specifically with the irrevocable character of the treaties sworn on the Spear. This is introduced vocally by Fasolt when he warns Wotan that he must keep faith.

この《槍》から作られるモティーフのファミリーを考察する前に、このモティーフが別のセグメントを持っていることに注意すべきでしょう。それは "槍" にかけて誓われた契約は取り消しできない性質であることに関連します。これはファゾルトの歌唱で導入されます。彼がヴォータンに信義を守れと警告する場面です(訳注:第2場。EX63 の前)。

 EX.64: 《取り消しできない掟》 

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The first new motive generated by the descending scale of the main Spear motive, is a subsidiary one which represents Wotan's actual contract with the Giants. This is the real Treaty motive. Fasolt introduces it vocally, echoed by the cellos and basses, when he warns Wotan to fulfil the contract.

《槍》の下降音階から最初に作り出される新たなモティーフは、ヴォータンが巨人たちと交わした契約を表す副次的なモティーフです。これが本当の《契約》のモティーフです。ファゾルトがヴォータンに契約を履行するように警告するときに歌唱で導入され、チェロとコントラバスがそれに続きます(訳注:第2場。EX64 の直後)。

 EX.65: 《契約》 

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A more important transformation of the Spear motive follows immediately. This is the embryonic form of the majestic motive of the Power of the Gods which should perhaps be called the power of Wotan. When Fasolt goes on to warn Wotan that his whole power resides in the laws engraved on the Spear, the Spear motive enters in the bass, bellow a series of pulsating chords. This is the embryonic form of the motive of the Power of the Gods.

もっと重要な《槍》のモティーフの変形がすぐに続きます。これは威厳のある《神々の力》のモティーフの萌芽形で「ヴォータンの力」と呼んでもいいものです。ファゾルトがヴォータンに、彼の全ての力は槍に刻まれた契約にあるのだと警告するとき、鼓動する和音の下の低音部に《槍》のモティーフが入ってきます。ここが《神々の力》のモティーフの萌芽形です。

 EX.66: 《神々の力》 萌芽形 

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An intermediate form of this motive enters on the orchestra in Act 1 of Siegfried when Wotan tells Mime how he rules the world with the Spear which he cut from the World Ash Tree. This time, underneath the pulsating chords, the descending scale of the Spear motive alternates with its inversion, a rising scale.

『ジークフリート』の第1幕で、このモティーフの中間形がオーケストラに現れます。ヴォータンがミーメに、世界のトネリコの樹から切り出した槍でどのように世界を支配するかを説明するシーンです(訳注:第2場)。今度は鼓動する和音の下で、《槍》の下降音階がその反転形の上昇音階に変化します。

 EX.67: 《神々の力》 中間形 

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In Gotterdammerung, the rising scale detaches itself from the descending one to become the definitive form of the motive of the Power of the Gods. This enters during the Norns' scene in the Prelude, but it rises to its full strength in the Final Scene of the work, when Brunnhilde orders the funeral pyre to be built for Siegfried which will finally bring the Power of the Gods to an end.

『神々の黄昏』において、この上昇音階は下降音階から切り離され《神々の力》の確定形になります。これは序幕のノルンのシーンで現れますが、その威力がフルに発揮されるのは作品の最後のシーンです。そこではブリュンヒルデがジークフリートの葬儀の薪を積み上げるように命じ、それが最終的に神々の力の終焉をもたらします。

 EX.68: 《神々の力》 確定形 

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CD1-Track12


Along another more complex line of transformation, the Spear motive continually generates new motives throughout Walkure. These are derived from the opening 6 notes segment of the Spear motive. They are those of the Storm and of Siegmund, Wotan's son, unwitting agent, who at the beginning of Walkure is running through the storm for his life.

In each of these motives, the descending scale motion of the complete Spear motive is checked and opposed. After the first descending 6 notes segment, a rising motion contradicts it. Indeed, throughout Walkure, the repressive authority of Wotan's will is to be continually challenged by the other characters and eventually neutralized. Here, first of all, is another special illustration presenting the first descending 6 notes segment of the Spear motive.

《槍》のモティーフは、別のもっと複雑な変形の過程をだどって『ワルキューレ』の全体で新たなモティーフを継続的に生み出します。これらは《槍》の最初の6つの音のセグメントから派生したもので、《嵐》と《ジークムント》のモティーフです。ジークムントはヴォータンの息子で、ヴォータンの無意識の使者であり、『ワルキューレ』の冒頭では命を守るために嵐の中を逃げてきます。

そしてそれぞれのモティーフにおいて、完全な《槍》のモティーフの下降音階の動きは抑制され、妨げられます。最初の下降する6音のあとは、対照的な上昇する動きになるのです。実際『ワルキューレ』を通して、ヴォータンの意志が示す抑圧的な権威は他の登場人物からの挑戦を受けて次第に無力化します。ではまず最初に、特別の例示で《槍》のモティーフの冒頭の下降する6音を聴いてみましょう。

 EX.69: 《槍》 第1セグメント 

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Now here's the Storm motive. It consists of the first descending 6 notes segment of the Spear motive, played swiftly in alternation with its inversion, the same notes rising upwards.

さて《嵐》のモティーフです(訳注:『ワルキューレ』前奏曲の冒頭)。これは《槍》の最初の下降する6音のセグメントと、それに素早く替わって演奏される反転形、つまり同じ音の上昇形からできています。

 EX.70: 《嵐》 

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Out of the Storm motive emerges very similar motive of Siegmund who is to rebel against Wotan's authority. This also enters in the bass, and again, the first descending segment of Spear motive is checked and contradicted by a rising motion.

《嵐》のモティーフから、非常に似た《ジークムント》のモティーフが出てきます。ジークムントはヴォータンの権威に反逆しようとしています。このモティーフもまた低音部に導入され、《槍》のモティーフの最初の下降するセグメントは再び抑止されて上昇する動きが対比されます。

訳注:  EX.71は『ワルキューレ』前奏曲の終わりのあたりで、《嵐》が《ジークムント》のモティーフに変化するところ。

 EX.71: 《ジークムント》 

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A little later in Act 1 of Walkure, Siegmund's falling and rising motive is joined by the rising and falling one of Sieglinde. As the mood grows more tender, the upward motion, contradicting the Spear motive's descent, grows stronger.

『ワルキューレ』第1幕の少し後で《ジークムント》の下降して上昇するモティーフは、《ジークリンデ》の上昇し下降するモティーフと結びつきます。そして雰囲気が次第に優しくなるにつれ、《槍》のモティーフの下降音とは対照的な上昇する動きが強くなってきます。

訳注:  EX.72は『ワルキューレ』第1幕の冒頭、ジークリンデの最初の歌唱。

 EX.72: 《ジークムントとジークリンデ》 

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CD1-Track13


In Act 2 of Walkure, Wotan's authority is effectively thwarted by Fricka who argues him into abandoning Siegmund and the plan of which Siegmund is the unwitting agent. The gloomy motive associated with Wotan here is generally known as Discouragement. But it might be called the "frustration of Wotan's will", since it's a twisted form of the first descending 6 note segment of the Spear motive. Here's the segment again as a reminder.

『ワルキューレ』の第2幕においてヴォータンはフリッカに論駁され、その権威は失墜します。その結果ジークムントを見捨てることになり、ジークムントを無意識の使者にする計画もなくなります(訳注:第2幕 第1場)。このシーンでのヴォータンに関連づけられた陰気なモティーフは、一般的には《不機嫌》として知られています。しかしそれは "ヴォータンの意図の挫折" と呼べるでしょう。なぜなら、このモティーフは《槍》のモティーフの最初の6つの下降音のねじれた形だからです。リマインドのため《槍》の最初のセグメントを聴いてみましょう。

 《槍》 第1セグメント: EX.69 

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This segment, freely transformed, generates the motive of Wotan's Frustration. The motive begins with a little turn twisting moodily around the first note. And not only is the descending motion opposed by a rising one, but it's also hindered by being turned around on itself.

このセグメントは自由に変形され《ヴォータンの挫折感》のモティーフを生み出します。そのモティーフは、最初の音の周りに陰気によじれるターン(=回音)で始まります。そして《槍》の下降音が対照的な上昇音に妨げられるだけでなく、それ自体も揺れ動きます。

訳注:  frustration は「苛立ち」とも訳せるが、一つ前の説明でデリック・クックは "frustration of Wotan's will" と言っているので「挫折」が適当。またモティーフの名称としては "心理的側面を重視する" という観点から「挫折感」とした。

 EX.73: 《ヴォータンの挫折感》 

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Incidentally this motive, like several others, takes on a new form in Gotterdammerung. The tragic happenings in that work are felt to be at least partly the result of Wotan's change of mind after his humiliation by Siegfried. His sense of frustration which disappears in the opera Siegfried returns in Gotterdammerung, and grows more acute as we learn from Waltraute. And this is expressed by a new leaping and falling form of the motive of his Frustration. We hear it in the orchestra after the Waltraute has told Brunhilde of Wotan's indifference to everything except the idea of restoring the Gold to Rhinemaidens.

さらに言うとこのモティーフは、他の数個のモティーフと同じように『神々の黄昏』で新たな形をとります。この楽劇の悲劇的な出来事の少なくとも一つの原因は、ジークフリートから受けた屈辱によってヴォータンが心変わりしたことだと感じられます。楽劇『ジークフリート』では消えていたヴォータンの挫折感は『神々の黄昏』で戻ってきて、より鮮明になっていることがヴァルトラウテの言葉からわかります。この挫折感は、跳躍して落ちる新しいモティーフで表現され、ヴァルトラウテがブリュンヒルデにヴォータンの無関心について語る時のオーケストラに聴くことができます。ヴォータンは黄金をラインの乙女に返すこと以外には関心が無くなっているのです。

訳注:  EX.74 は『神々の黄昏』第1幕 第3場のヴァルトラウテの歌唱のところ。

 EX.74: 《ヴォータンの挫折感》 第2形 

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This motive recurs many times in Gotterdammerung, especially in conjunction with Hagen's plotting to destroy Siegfried, since this act will set in motion the series of events that is to lead to the restoration of the Gold to the Rhinemaidens.

このモティーフは『神々の黄昏』でたびたび再現し、特にジークフリートを殺害しようとするハーゲンの陰謀に関して現れます。というのも、黄金をラインの乙女に戻すことになる一連の出来事が、この陰謀に起因しているからです。

訳注:  EX.75 は『神々の黄昏』第2幕 第5場のハーゲンの歌唱のところで、ハーゲンがジークフリートの殺害に言及してグンターが驚く場面。

 EX.75: 《ヴォータンの挫折感》 ハーゲン形 

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CD1-Track14


Returning now to Act 2 of Walkure, after Fricka's exit, Wotan rages against her thwarting of his will, and here, the motive of his Frustration is inverted moving upwards instead of downwards. Moreover, it moves straight upwards without convolutions. And in doing so, it generates the furious motive of Wotan's Revolt which is thus a free inversion of the whole original Spear motive. It always merges into the motive of Curse as here on its first appearance.

『ワルキューレ』の第2幕に戻りましょう。フリッカが退場したあと、ヴォータンは彼女に意図を砕かれたことに怒り狂います。ここで《挫折感》のモティーフは下降から上昇へと反転します。しかも回音はなしでストレートに上昇し、その結果《ヴォータンの反抗》という怒りのモティーフを生み出します(訳注:第2幕 第2場)。これは元々の《槍》のモティーフを自由に反転させたものです。このモティーフは常に《呪い》のモティーフと融合しますが、その最初の現れがここです。

 EX.76: 《ヴォータンの反抗》 

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In Act 3 of Walkure, the twisted motive of Wotan's Frustration evolves gradually into the motive associated with Brunnhilde's rebellion against him, the motive of the Reproach she addresses to him. At the beginning of this scene, we hear the transformation take place. The motive of Wotan's Frustration on the bass strings is answered by a free transformation of it on the bass clarinet in which the descending motion of the original Spear motive is now opposed by a wide leap to the upper octave.

『ワルキューレ』の第3幕において《ヴォータンの挫折感》の "捻れた" モティーフは、次第にブリュンヒルデのヴォータンに対する反抗に関連するモティーフへと進化します。それはブリュンヒルデのヴォータンに対する《非難》のモティーフです。このシーンの出だしのところで変形が起こっていることが聴き取れます。低音弦の《ヴォータンの挫折感》のモティーフは、自由に変形されてバス・クラリネットにも現れ、そこでは元々の《槍》の下降する動きが1オクターブ上への大きな跳躍と対比されます。

訳注:  《ブリュンヒルデの非難》は、《ブリュンヒルデの哀願》とか《訴え》とも呼ばれるが、デリック・クックが使っている reproach という言葉に「哀願」や「訴え」のニュアンスはない。EX.77, EX.78, EX.79 は第3幕 第3場。

 EX.77: 《ヴォータンの挫折感》 / 《ブリュンヒルデの非難》 

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This bass clarinet phrase is taken up by Brunnhilde as she reroaches Wotan for condemning her disobedience, her attempt to carry out his original plan which she knew he had countermanded in spite of his deepest wishes. Her Reproach motive presents the full descending scale of the Spear motive continually opposed by leaps to the upper octave.

このバス・クラリネットのフレーズは、彼女の不従順を責めるヴォータンを非難するブリュンヒルデに移ります。彼女はヴォータンの元々の計画を遂行するよう試みましたが、ヴォータンは強い希望とは裏腹に計画を撤回したことを彼女は知っているのです。彼女の《非難》のモティーフでは《槍》の下降音階と、それに対比されるオクターブ上への跳躍が連続します。

 EX.78: 《ブリュンヒルデの非難》 

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Later on, in this Act, this motive of Brunnhilde's Reproach turns to the major to become a new motive representing the positive symbol she is opposing to the authority of Wotan's Spear, Compassionate Love. The motive enters on the orchestra as Brunnhilde tells Wotan what has made her defy his orders was the feeling of love which he himself had breathed into her and which had been awakened by her realization of Siegmund's love for Sieglinde.

この幕の後の方で《ブリュンヒルデの非難》のモティーフは長調に転換し、新たなモティーフになります。それはヴォータンの "槍" の権威に対抗する彼女のポジティブなシンボルとなる《哀れみの愛》です。このモティーフがオーケストラに入ってくるときブリュンヒルデはヴォータンに、命令に逆らったのは愛の感情だったと語ります。その愛の感情はヴォータン自身がブリュンヒルデに吹き込んだものであり、ジークムントのジークリンデに対する愛を彼女が認識したことで呼び覚まされたのでした。

 EX.79: 《ブリュンヒルデの哀れみの愛》 

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So the repressive descending minor scale of the Spear motive is finally transformed into the expansive soaring motive associated with Brunnhilde's Compassionate Love. And this is the last of the family of motive generated by the basic motives of the Spear.

このようにして、短調の抑圧的な下降音階である《槍》のモティーフは、最終的に《ブリュンヒルデの哀れみの愛》を表す、広がって高く舞い上がるようなモティーフに変形しました。これが基本モティーフ《槍》から作り出されたファミリーの最後です。


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No.257 - "ニーベルングの指環" 入門(1)序論・自然 [EX.1-38] [音楽]

2019.4.26
Last update:2019.5.10

No.14-15「ニーベルングの指環(1)(2)」で、リヒャルト・ワーグナーのオペラ(楽劇)『ニーベルングの指環』で使われているライトモティーフ(示導動機)について書きました。この長大なオペラにおいてドラマを進行させるのは、登場人物の歌唱と演技、舞台装置、オーケストラの演奏だけではなく、それに加えてライトモティーフです。つまり、ライトモティーフだけでドラマの今後の進行を予告したり、ライトモティーフだけで歌唱と演技の裏に隠された真の意味を説明するようなことが多々あります。従って『ニーベルングの指環』を真に "味わう" ためには、ライトモティーフを知ることが必須になってきます。

もちろん No.14-15 で書いたのはライトモティーフのごくごく一部です。ライトモティーフの全貌を知るにはどうすればよいか。一番参考になるのは、ショルティ指揮・ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の『ニーベルングの指環』全集(輸入盤・日本盤)に付けられた英国の音楽学者、デリック・クック(1919-1978)によるライトモティーフ解説でしょう。特に、日本盤CD(POCL9943-9956。14枚組)には日本語音声による解説CD(DCI-1043-1045。3枚組)が付録としてついていたので、この全集を入手できる人はそれを聴くのが一番です。

日本語の解説CDがついた全集を入手できない場合は、そのライトモティーフ解説だけを独立させて販売されている2枚組CD(英語版)があります。

  An Introduction to Der Ring Des Nibelungen("ニーベルングの指環" 入門)

です。これは現在でも通販などで入手できます。また、デリック・クックの英語解説の音源は、YouTube で Part1~3 の3つに分けて公開されています(2019.4.26 現在)。タイトルは、

  An Introduction to Richard Wagner's Ring Cycle Part 1, 2, 3

です。つまり、英語解説なら容易に入手、ないしは試聴することができるわけです。そこで、以下は2枚組CD(英語版)を基準に話を進めます。

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An Introduction to Der Ring Des Nibelungen

2枚組CDで、合計約140分のコンテンツである。イギリスの音楽学者、デリック・クックがライトモティーフの解説を行い、ショルティの「ニーベルングの指環全集」の音源が続く。それが221回、繰り返される。音楽の録音は1958年~1965年で、解説の録音は1967年。

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Deryck Cooke
(1919-1976)

デリック・クックはマーラーの交響曲第10番を補筆・完成させたことで有名。今日CDで発売されているマーラー第10番のほとんどはクック版である。
(site : www.bbc.co.uk)
この CD ではデリック・クックがライトモティーフの解説を行い、ウィーンフィルと歌手の演奏が続き、それが221回繰り返されます。この「解説と演奏が交互に繰り返される」という形式が、ライトモティーフを理解するのには最適です。2枚組CD で合計40トラックあり、全部を聞くとなると2時間20分ほどになります。

ライトモティーフの解説だけで2時間20分、というのも相当なものですが、『指環』を続けて演奏したとすると15時間程度にはなるので、それと比べると大したことはないとも言える。

大したことはないが、それでも2時間20分です。『指環』の迷宮構造を理解するつもりで聴き始めたとしても、この2時間20分だけでライトモティーフの迷宮にさまよい込んだ気持ちになる可能性が大です。『指環』に "のめり込む" には、そこを突破する根気としつこさが必要なのです。

とりあえず、2時間20分はよしとしましょう。しかし大きな問題は英語です。つまり、デリック・クックの英語による解説のリスニングに集中する必要があり、これは非常に疲れます。英語が得意という人を除いて、おそらく大多数の人はそうだと思います。しかもライトモティーフの迷宮をさまよいつつのリスニングであり、疲れ倍増です。解説と演奏が交互にあるので、本来なら主役であるワーグナーの音楽を聴く方により集中したいのですが、どうしてもリスニングに集中せざるを得ず、音楽は頭を休める休憩時間になってしまう。これでは本末転倒です。

さらに問題は、デリック・クックの英語による解説文がCDのブックレットに載っていないことです。つまり解説内容を(英和辞典などで)確かめる手段がありません(あまり使わないような単語もキーワードとして出てきます)。オリジナルの LP版『指環 全集』には解説書があったようなのですが、2枚組CD のような小さなパッケージにぶ厚いブックレットをつけるのは、どだい無理ということでしょう。

そこで、これから『指環』に "のめり込みたい" という殊勝な人のために、デリック・クックの英語解説の対訳(試訳)とライトモティーフの譜例(これは CD のブックレットに載っています)を掲載したいと思います。CD(ないしは英語音源)を聴くときの、あるいは CD を持ってはいるがリスニングが苦手な人の参考になると思います。いわば "デジタル版 対訳付き ブックレット" です。


訳語、記号など


まず、対訳に当たってのいくつかの訳語や記述方法を書いておきます。

 motive: モティーフ 

デリック・クックの解説では、ライトモティーフ(独:leitmotiv、英:leading motive もしくは leitmotif。leitmotive と言うこともある)のことを単に "motive" と呼んでいます。従って日本語訳も "モティーフ" としました。



もちろん、ライトモティーフを識別して名前を付けるやり方は解説者によってまちまちです。特に、デリック・クックの流儀は一般的なものと相違する面があります。またすべてのライトモティーフを解説したのでもありません。しかしそういう些細なところは抜きにして、この CD が目指している、真に重要なライトモティーフとその変遷をたどり『指環』の構成原理を知ることに集中すればよいと思います。その構成原理をたどる中から、『指環』4部作という長大な楽劇のテーマが自然と浮かび上がってきます。

 記号など 

《》はモティーフ名、『』は楽劇の名称、何も無いのは人物名などの名詞です。たとえば、

ジークフリート》 : ジークフリートのモティーフ
ジークフリート』 : 楽劇 "ジークフリート"
ジークフリート : 登場人物名

です。また、すでに使っていますが『指環』=『ニーベルングの指環』です。なおドイツ語表記におけるウムラウトは単に省略しました(Walkure, Brunnhilde, Gotterdammerung などと表記)。

 definitive form: 確定形 

『指環』の1つのライトモティーフは変形されて別の形になったり、またモティーフがその断片から次第に形づくられるといったことがあります。これらの中で、最もはっきりした形で、オペラの中で繰り返し現れる形が "definitive form" です。

いわばモティーフが完成した姿なので、"完成形" あるいは "完全形" とすることも考えられますが、ここでは "確定形" としました。完成とか完全とすると「そこで終わり」のようなイメージですが、そこからまた変遷を繰り返すといったことが多々あります。

 embryonic form: 萌芽形 

embryonic とはあまり聞かない言葉ですが、動植物の発生の初期段階の "胚" を意味する英語、embryo の形容詞形です。つまりモティーフが確定形になる前の、発生段階の形を言っています。原始形とか原形といった訳も考えられますが、embryonic のもともとの意味を尊重して "萌芽形" としました。

 tansformation: 変形 

一つのモティーフは形を変えて、隣接した意味の(あるいは正反対の意味の)モティーフになります。このことをデリック・クックは tansformation と言っています。変形、変換、変質、転換というような意味ですが、"変形" としました。音楽なので変奏としたいところですが、通常言われる変奏とは少々意味が違います。

A → B とモティーフが変形されるとき、B からみた A が original form です。「原形」「元々の形」などとしました。またこの変形の途中で中間的な形があるとき、つまり A → C → B となるとき、A → B の変形からみた C が intermediate form です。"中間形" としました。



デリック・クックは、こういった変形のプロセスを重要視してモティーフに名前をつけています。たとえば『指環』の冒頭のホルンの上昇和音は、普通は《自然の生成》、ないしは《生成》と呼ばれ、そのあとに出てくる弦楽器のうねるようなモティーフが《自然》と呼ばれています。しかしデリック・クックの表現では、前者が《自然》の原形(original form)で、後者が《自然》の確定形(definitive form)です。

 family / basic motive: ファミリー / 基本モティーフ 

変形のプロセスで作り出されたモティーフの一団が family です。訳すとしたら「族」「一族」などでしょうが、何となくそぐわないのでそのまま "ファミリー" としました。ファミリーを作り出す出発点となるモティーフが basic motive =基本モティーフです。これは確定形のこともあり、そうでないこともあります。

 segment: セグメント 

モティーフの1部分を言います。たとえば上昇し下降するモティーフがあったとき、上昇部分が第1セグメント、下降部分が第2セグメントなどと使います。"部分" とか "断片" というのもピッタリしないので、そのまま "セグメント" としました。もちろんセグメントは2つとは限りません。《ヴァルハラ》のモティーフなどは4つのセグメントから成っています。

 arppegio: アルペジオ 

和音を同時に鳴らすのではなく数個の音に分けて鳴らすのを「分散和音」、分散和音の中で上昇(ないしは下降)するものを「アルペジオ」と定義すると、デリック・クックは後者の意味で arppegio を使っているようです。そのまま「アルペジオ」としました。たとえば『指環』の冒頭の上昇するホルンの分散和音がアルペジオの例です。

 special illustration: 特別の例示 

演奏のほとんどはショルティ版『指環』の音源の一部を切り取ったものですが、中にはこの CD のために特別に演奏したものもあります。音を伸ばして和音として響かせるとか、あえてゆっくり演奏するとかの、ワーグナーのスコアどおりではない演奏です。これをデリック・クックは special illustration と言っています。ここでの illustration は「例をあげて説明する、例証する」ことの意味なので "特別の例示" とか "ここだけの例示" としました。

 EX番号 

デリック・クックはライトモティーフに通し番号をつけていて、EX.nnn と表記されます。2枚組の CD では合計193個のライトモティーフがあり、ブックレットにその楽譜が記載されています。ただし重複して出てくるものがあるので、ライトモティーフは延べ 221 回出てきます。2枚組 CD は、

  CD1 EX.1 ~  EX.103
  CD2 EX.104 ~  EX.193

という構成です。YouTubeに公開されている音源は、

  Part1 EX.1 ~  EX.78
  Part2 EX.79 ~  EX.167
  Part3 EX.168 ~  EX.193

です(2019.4.26 現在)。また以下の対訳は「"ニーベルングの指環" 入門」(1)~(5)の5回に分ける予定なので、

  (1) EX.1 ~  EX.38
  (2) EX.39 ~  EX.79
  (3) EX.80 ~  EX.114
  (4) EX.115 ~  EX.161
  (5) EX.162 ~  EX.193

となります。


以下の「"ニーベルングの指環" 入門」(1)では、序論に続いて、EX.1EX.38 のモティーフが解説されます。まず《自然》のモティーフのファミリー、次に《自然》から派生した《剣》と《黄金》のモティーフ、さらにそこから展開される一連のモティーフの説明です。いわば《自然》のモティーフの "大ファミリー" の解説です。



CD1-Track01


Of all great musical compositions, Der Ring des Niebelungen is by far the largest. A consecutive performance of its four separate parts would last for some 15 hours. To confer unity on this vast scheme, Wagner built his score out of a number of recurrent themes, each one associated with some element in the drama and developed in conjunction with that element throughout the work.

すべての偉大な音楽作品の中でも『ニーベルングの指環』は突出して大規模なものです。4部作を連続して演奏するとしたら15時間程度はかかるでしょう。この巨大な体系に統一感を与えるため、ワーグナーは何度も現れる一連の旋律を用いてスコアを構築しました。それぞれの旋律はドラマの何らかの要素と関連づけられ、要素と結びつきながら作品全体の中で発展していきます。

These themes or Leading Motives, as they've come to be called, are not mere identification tags, nor is the score a simple patchwork made up by introducing each motive at the appropriate point in the stage action. Wagner's own description of his themes was "melodic moments of feeling". And writing about his intentions beforehand, he said these melodic moments will be made by the orchestra into a kind of emotional guide throughout the labyrinthine structure of the drama. Wagner's motives have in reality a fundamentally psychological significance, and his score is a continuous symphonic development of them, reflecting the continuous psychological development of the stage action.

このような旋律を "示導動機" と呼ぶようになりましたが、この動機(モティーフ)は単なる識別用の印ではありません。また、舞台演技の適切な時点にそれぞれモティーフを割り当てて単純なパッチワークのスコアを作ったのでもありません。ワーグナー自身によると、これらの旋律は感情の旋律的な表現です。そして彼はその意図について、オーケストラによるこれらの旋律的表現がドラマの迷宮構造の情緒的なガイドになるだろう、とも書きしるしています。事実、ワーグナーのモティーフは基本的に心理的な意味を持っています。そしてスコアは、モティーフを絶えずシンフォニックに発展させて作られています。それは、舞台演技が絶えず心理的に発展することを反映しています。

In consequence, a comprehensive analysis of The Ring would be an enormous task. It would involve clarifying the psychological implications of all the motives and tracing their changing significance throughout the whole of the long and complex development. Nevertheless, understanding and enjoyment of the work can be greatly helped by simply establishing the identity of all the really important motives, and indicating what immediate dramatic symbols that stand for, which is all of this introduction is intended to do.

The motives are associated with four different types of dramatic symbol : characters, objects, events and emotions. An example of a motive representing a character is the stern fanfare which introduces Hunding in Act 1 of Die Walkure.

その結果、『指環』の全体像を分析するとなると膨大な仕事になります。そのためには、全てのモティーフの心理的な含意を明らかにし、長大で複雑な進行においてその意味がどう変わっていくかを追跡することになるでしょう。しかしながら、真に重要なモティーフだけを識別し、それが直接的に示しているドラマのシンボルを指摘するだけでも、この作品を理解し味わうための大きな助けとなります。この "手引き" が意図したすべてがそれです。

モティーフは4つの異なったタイプのドラマのシンボルと関連づけられています。人物、モノ、出来事、そして感情です。人物を表現するモティーフの例は『ワルキューレ』の第1幕において《フンディング》を表す厳粛なファンファーレです(訳注:第2場 冒頭)

 EX.1: 《フンディング》 

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An example of a motive representing an object is the genial theme associated with Freia's Golden Apples. This is introduced in Scene 2 of Das Rheingold. It's sung by Fafner as he explains the value of the Apples to Fasolt.

モノを表すモティーフの例は、フライアの《金の林檎》に関連づけられた優雅な旋律です。これは『ラインの黄金』の第2場で導入され、ファフナーがファゾルトに林檎の価値を説明するときに歌います。

 EX.2: 《金の林檎》 

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An example of a motive representing an event is the brief agitated figure on the woodwind which follows Alberich's Threat of violence against the Rhinemaidens in Scene 1 of Rheingold.

出来事を表すモティーフの例は『ラインの黄金』の第1場においてアルベリヒがラインの乙女を暴力で《威嚇》する時に木管楽器で演奏される、短い切迫した音符です。

 EX.3: 《アルベリヒの威嚇》 

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An example of a motive representing an emotion is the furious repeated figure on the orchestra which portrays Siegfried's Anger during Act 1 of Siegfried.

感情を表すモティーフの例は『ジークフリート』の第1幕においてオーケストラが激しく繰り返す音符で、《ジークフリートの怒り》を描写しています(訳注:第1場)。

 EX.4: 《ジークフリートの怒り》 

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These examples are only four of the almost innumerable motives in The Ring. But at the heart of this diversity there is a simple unity, practically all the motives arise from a few basic motives. Each of these basic motives represents one of the central symbols of the drama, and it generates a number of other motives by a process of Transformation to represent various aspects of the central symbol concerned.

And so we can thread our way through the jungle of motives in The Ring by grouping them into their different families. We can start from each basic motive in turn and trace the family of motives it generates throughout The Ring before continuing with the next basic motive.

これらの例は『指環』のほとんど数え切れないモティーフの、ほんの4つの例に過ぎません。しかしモティーフの多様性の根幹のところには、ある単純な統一性があります。つまり、実質的に全てのモティーフが数個の基本モティーフから生起していることです。基本モティーフのそれぞれはドラマの中心的シンボルの一つを表し、変形のプロセスで他の数多くのモティーフを作り出します。それによりモティーフに関連づけられた中心的シンボルのさまざまな側面を表すのです。

従って、モティーフを異なったファミリーに分類することで『指環』の "モティーフのジャングル" に分け入ることができます。そこで、一つの基本モティーフから出発し、そこから作られるファミリーを『指環』の全体を通して追跡することにします。それが終われば、次の基本モティーフというように繰り返します。


CD1-Track02


The fundamental symbol in The Ring is the World of Nature, from which everything arises, into which everything returns. And Wagner's basic motives for this ultimate source of existence is that fundamental element in music, the major chord. This chord, spread out melodically as a rising major arpeggio by the horns, forms the mysterious Nature motive which opens the whole work.

『指環』における最も基礎的なシンボルは "自然界" です。全てがそこから生まれ、全てがそこに帰っていく。そしてワーグナーは、この究極の "存在の根源" の基本モティーフとして、音楽の基本要素である長和音を当てました。この和音はホルンによる長調の上昇アルぺジオのメロディーとして広がり、神秘的な《自然》のモティーフを形作ります。これが作品全体の開始です。

 EX.5: 《自然》のモティーフ(原形) 

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This is the Original Form of the Nature motive. It soon undergoes a simple melodic transformation into a peacefully undulating string theme, and the result is what may be called the Definitive Form of the Nature motive, since this is the form in which it will recur throughout the whole work.

これが《自然》のモティーフの原形です。すぐにこれはシンプルなメロディーの変形が加えられ、穏やかにうねる弦の旋律になります。これが《自然》のモティーフの確定形と呼べるでしょう。なぜなら、この形が作品全体で再現するからです。

 EX.6: 《自然》のモティーフ(確定形) 

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The next transformation is that this definitive form of the Nature motive simply begins to move at twice the speed and in so doing it comes a new motive, the surging motive of the River Rhine.

《自然》の確定形の次の変形は、シンプルに2倍の速さへの移行で始まります。こうすることで新しいモティーフになります。波打つような《ライン河》のモティーフです。

 EX.7: 《ライン河》 

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Tracing further the family of motive generated by the basic Nature motive, we must pass on now to Scene 4 of Rheingold for the next transformation, Here the Nature motive by turning from major to minor, and from a flowing 6/8 to a slow 4/4 time, becomes the dark motive of Erda, the Earth Goddess.

《自然》の基本モティーフから生成されるファミリーをさらに追っていくと、『ラインの黄金』の第4場まで行って次の変形が出てきます。ここで《自然》のモティーフは長調から短調に変わり、また流れるような8分の6拍子からゆっくりとした4分の4拍子に変わって、大地の女神《エルダ》の暗いモティーフになります。

 EX.8: 《エルダ》 

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So far the transformations of the Nature motive have been simple ones, but the next is more radical. The motive turns upside down implying its own opposite. When Erda begins to warn Wotan of the end in store for the Gods, the orchestra accompanies her with her own motive, itself a simple transformation of the Nature motive as we have heard.

But as she comes to the point, the orchestra changes her rising motive into a falling one. The motive of life and growth becomes the motive of decay and death. Here's the whole passage. The orchestra has two statements of Erda's rising motive followed by its inversion, the falling motive of the Twilight of the Gods.

ここまでの《自然》の変形はシンプルなものでしたが、次はもっと大胆です。モティーフは上昇が下降になって反対の意味を暗示します。エルダが神々に降りかかる終末をヴォータンに警告するとき、オーケストラは彼女のモティーフを伴奏しますが、それ自身は今まで聴いた《自然》のシンプルな変形です。

しかし肝心な所にくると、オーケストラは上昇するモティーフを下降するモティーフに変えてしまいます。生命と成長のモティーフが、衰退と死のモティーフになるのです。次がそのパッセージで、オーケストラは2つを提示しています。上昇するエルダのモティーフと、それに続く反転形、下降する《神々の黄昏》のモティーフです。

 EX.9: 《エルダ》 / 《神々の黄昏》 

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The strings accompany Erda's voice very softly here, only hinting the Gods' mortality. We can hear what happens more clearly if we have the acompaniment played the orchestra alone. First the rising Erda motive and then immediately its inversion, the falling motive of the Twilight of the Gods.

ここでエルダの歌唱を伴奏する弦楽器は非常にやさしく、神々が死ぬ運命であることを暗示しています。オーケストラの伴奏だけを取り出して聴くと、何か起こっているかがもっと明確に聴き取れます。最初に上昇する《エルダ》のモティーフ、すぐに続くのがその反転形、下降する《神々の黄昏》のモティーフです。

 EX.10: 《エルダ》 / 《神々の黄昏》 

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This mysterious falling, fading motive, like so many of the others, recurs at many points in The Ring. Naturally, it permeates the final part of the work, The Twilight of the Gods or Gotterdammerung. And inevitably it introduces the final scene when Brunnhilde steps forward to perform the decisive actions that bring about the end of the Gods.

この神秘的で、下降して消えるモティーフは、他のモティーフと同様に『指環』の多くのところで再現します。当然、最後の作品である『神々の黄昏』にも出現します。そして最終場面、ブリュンヒルデが神々の終末をもたらす決定的な行動をとる場面は、必然的にこのモティーフで始まります。

 EX.11: 『神々の黄昏』の 《神々の黄昏》 

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CD1-Track03


Returning now to the Nature motive and its further transformations. After Erda on her warning in Rheingold, we have to wait until Act 1 of Siegfried for the next transformation, another simple one. This occurs when Wotan speaks to Mime of the all powerful Spear that he cut from the World's Great Ash Tree, the Tree of Life, guarded by Erda's daughters, the Norns. The orchestra acompanies his words with a new rhythmic variant of the Nature motive in the minor and in 3/4 time. Here first, the reminder is the Nature motive again.

《自然》のモティーフとその変形に戻りましょう。『ラインの黄金』においてエルダが警告を発したあと、次の変形は『ジークフリート』の第1幕まで待たねばなりません。それはもう一つのシンプルな変形で、ヴォータンがミーメに槍について話すときに出てきます。この槍は、エルダの娘であるノルンたちが守っている生命の木、世界のトネリコの樹から切り出したもので、万能の力を持っています。ヴォータンが話すとき、オーケストラは《自然》の新しい変奏、短調で4分の3拍子の変奏で伴奏します。まずリマインドのために、もう一度《自然》のモティーフです。

 《自然》のモティーフ(確定形): EX.6 

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And here's the swaying motive of the World Ash Tree as it's introduced to accompany Wotan in Act 1 of Siegfried. Listen to the orchestra.

そして『ジークフリート』の第1幕でヴォータンの伴奏に導入される揺れ動くモティーフ、《世界のトネリコの樹》が次です(訳注:第2場)。オーケストラのところを聴いてください。

 EX.12: 《世界のトネリコの樹》 

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This World Ash motive, which has a close kinship with Erda's motive, recurs in The Twilight of the Gods in conjunction with Wotan's cutting down of the Tree of Life to provide fuel to burn Valhalla. It permeates the scene of the Norns, Erda's daughters, who are bewilded by this fatal act of Wotan's.

この《世界のトネリコの樹》のモティーフは《エルダ》のモティーフと血縁関係にあり、『神々の黄昏』においては、ヴォータンがヴァルハラを焼く燃料にするために生命の樹を切り倒すことに関連して再現します。エルダの娘たちであるノルンが、ヴォータンの致命的行為に当惑するシーンに出現します。

訳注:  EX.13は『神々の黄昏』の序幕でオーケストラ前奏が終わった直後に入ってくるノルンたちの歌唱のところ。

 EX.13: 『神々の黄昏』の 《世界のトネリコの樹》 

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After the introduction of this World Ash motive in Act 1 of Siegfried, the next transformation of the Nature motive ocurs in the Second Act, where Siegfried is in the forest. Wagner takes a very slow, dark, minor version of it, akin to Erda's motive, and he superimposes on this slowly oscillating string figuration. The result is what may be called the Embryonic version of the motive of the Forest Murmurs.

『ジークフリート』第1幕で《世界のトネリコの樹》が導入されたあとで、次の《自然》のモティーフの変形は第2幕に出てきます(訳注:第2場)。ここでジークフリートは森にいます。ワーグナーは《エルダ》に似た、非常にゆっくりとした暗い短調のモティーフを採用し、そこにゆっくりと揺れ動く弦の音符を重ねています。その結果は《森の囁き》のモティーフの萌芽形と呼べるものになります。

 EX.14: 《森の囁き》 萌芽形 

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This embryonic version of the Forest Murmurs motive soon begins developing the oscillating figure freely without regard to the original Nature motive basis.

この《森の囁き》の萌芽形は、すぐに揺れ動く音形に発展します。オリジナルの《自然》を離れた自由な展開です。

 EX.15: 《森の囁き》 中間形 

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Out of this development by a process of increasing the speed of the oscillation in 6/8 time, Wagner eventually evolves the definitive shimmering major form of the Forest Murmurs motive, the one that has to be used entirely from here onward.

ワーグナーはこの展開を進め、8分の6拍子にして動きの速度を上げることで、長調のきらめくような《森の囁き》の確定形へと徐々に進化させます。これ以降は、すべてこの形が使われます。

訳注:  デリック・クックは8分の6拍子と言っているが、EX.16の譜例でも明らかなように、8分の9拍子が正しい。

 EX.16: 《森の囁き》 確定形 

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CD1-Track04


A number of further motives in the Nature family are evolved not from the definitive form of the Nature motive with which we've been concerned so far, but from its original form, the rising major arpeggio on the horns which opens The Ring and with which we started. These further motives are free transformations of the original Nature motive in that they themselves are forms of the rising major arpeggio. First, a reminder of the original Nature motive.

《自然》のファミリーに属するモティーフは、これまで見てきた《自然》の確定形から進化したものばかりではなく、《自然》の原形から進化したものもあります。つまり、この解説をスタートした『指環』の開始を告げるホルンの長調の上昇アルペジオから進化したものです。それらのモティーフは《自然》の原形の自由な変形であり、それ自体が長調の上昇アルペジオになっています。まず、リマインドのために《自然》のモティーフの原形です。

 《自然》のモティーフの原形: EX.5 

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The first free transformation of this original Nature motive is the important motive of the Gold which is introduced by the horns in Scene 1 of Rheingold.

《自然》の原形の自由な変形の最初は、《黄金》という重要なモティーフです。『ラインの黄金』の第1場でホルンによって示されます。

 EX.17: 《黄金》 

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The next free translation of the original Nature motive is the bold motive of Donner. He himself sings this as he calls up the storm in Scene 4 of Rheingold and he's echoed by the horns.

《自然》の原形の自由な変形の次は、力強い《ドンナー》のモティーフです。『ラインの黄金』の第4場においてドンナーが嵐を呼ぶときに彼自身が歌い、ホルンがそれを反復します。

 EX.18: 《ドンナー》 

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The third transformation of the original Nature motive is the rising and falling arpeggio of the theme representing the Rainbow Bridge again in Scene 4 of Rheingold, though this is hardly a motive in the strict sense since it never appears again.

《自然》の原形の自由な変形の3番目は、再び『ラインの黄金』の第4場のもので、《虹の橋》を表現する上昇して下降するアルペジオの旋律です。ただしこれは再び現れることがないので、厳密な意味でのモティーフとは言えません。

 EX.19: 《虹の橋》 

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A further transformation of the original Nature motive is the heroic trumpet motive of the Sword which is also introduced in Scene 4 of Rheingold. This major arpeggio is almost identical in shape with the arpeggio of the original Nature motive as we can hear clearly by comparing them in the same key. Here's the original Nature motive as it recurs for the only time near the beginning of Act 3 of The Twilight of the Gods.

さらに《自然》の原形の自由な変形があります。『ラインの黄金』の第4場に登場する勇ましいトランペットのモティーフ、《つるぎ》です。この長調のアルペジオは、その形が《自然》のモティーフの原形とほとんど同じです。2つを同じ調で比較して聴けるのでよくわかります。次は『神々の黄昏』の第3幕の冒頭で1回だけ再現する《自然》の原形です。

 EX.20: 『神々の黄昏』における 《自然》の原形 

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And here's the motive of the Sword as it recurs in Act 3 of Siegfried when Siegfried uses the Sword to cut away the steel breastplate from the sleeping Brunnhilde.

そして次が『ジークフリート』の第3幕で再現するときの《剣》のモティーフです(訳注:第3場)。ジークフリートが、眠っているブリュンヒルデの鋼鉄の胸当てを切断してしまうときに剣が使われます。

 EX.21: 《剣》 

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This completes the family of motives evolved from the Nature motive, either from its definitive flowing form or from its original arpeggio form.

これで、流れるような《自然》の確定形と、アルペジオの《自然》の原形から発展したモティーフのファミリーの説明を終わります。


CD1-Track05


A second much smaller family is closely associated with this, the pentatonic family of the Voices of Nature. The first vocal utterance in The Ring is the Voice of Nature that of the first Rhinemaiden, Woglinde. And her falling and rising pentatonic theme is the motive which is to be associated with the Rhinemaidens.

第2の、かなり小さなファミリーは《自然》のモティーフと密接な関係があります。5音音階の「自然の声」のファミリーです。『指環』で最初に現れる発声は「自然の声」であり、第1のラインの乙女・ヴォークリンデのものです。彼女の下降し上昇する5音音階の旋律は、ラインの乙女に関連したモティーフです。

 EX.22: 《ラインの乙女》 

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This Rhinemaidens' motive is slightly transformed and speed it up to produce the motive of the Woodbird in Act 2 of Siegfried. The Woodbird is evidently the first cousin to the Rhinemaidens.

《ラインの乙女》のモティーフは、『ジークフリート』の第2幕において少し変形され、テンポをあげて《森の小鳥》のモティーフを作り出します。《森の小鳥》は明らかに《ラインの乙女》の第1の親族です(訳注:EX.23 は第2幕 第3場)。

 EX.23: 《森の小鳥》 

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The Woodbird, unlike the Rhinemaidens, isn't represented by a single motive but by several other figures as well, each having the character that bird call. The most important of these is a phrase which is particularly associated with the woodbird's message to Siegfried about the sleeping Brunnhilde.

《森の小鳥》は《ラインの乙女》と違って単一のモティーフで表されるのではなく、数個の音形があって、それぞれが小鳥の鳴き声の特徴をもっています。その中で一番重要なのは、眠っているブリュンヒルデについてのジークフリートへのメッセージに結びついたものです。

 EX.24: 《森の小鳥》のセグメント 

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One other motive belongs to this small family, that of the Sleeping Brunnhilde in Act 3 of Walkure. Brunnhilde, in her magic sleep, may not be a Voice of Nature, but she's a latent inspiring force of Nature. And this motive of the Sleeping Brunnhilde is a rhythmic variant of the opening five notes of the motives of the Rhinemaidens and the Woodbird. Here's a reminder of the beginning of the Rhinemaidens' motive.

この小さなファミリーに属するもう一つのモティーフは、『ワルキューレ』第3幕での《眠るブリュンヒルデ》です。"魔の眠り" にあるブリュンヒルデは「自然の声」ではないかもしれませんが、彼女は潜在的に自然の鼓舞する力をもっています。そして《眠るブリュンヒルデ》のモティーフは、《ラインの乙女》と《森の小鳥》の最初の5つの音符のリズムを変奏したものです。リマインドのために《ラインの乙女》の最初の部分を聴いてみましょう。

 《ラインの乙女》のセグメント: EX.22 

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And here is a rhythmic variant of the first five notes of that motive which is the motive of the Sleeping Brunnhilde.

そして次のモティーフが、《ラインの乙女》の最初の5つの音符のリズムを変奏した《眠るブリュンヒルデ》です(訳注:ワルキューレ』第3幕 第3場)。

 EX.25: 《眠るブリュンヒルデ》 

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CD1-Track06


So much for Nature. Standing out against this background of Nature are the human actions that constitute the drama, and the intentions behind the various types of action are represented on the stage by several central symbols, Alberich's Ring, Wotan's Spear, Siegfried's Sword, and so on.

But prior to all these is the Gold, from which Alberich makes the Ring that sets the whole drama in motion. In itself, it's merely a symbol of mysterious potentialities lying dormant in Nature. And as we've heard, its motive belongs to the family of the Nature motive. But the various effects of the realization of the potentialities of the Gold are represented by a different family of motives.

And the basic motive here which generates the rest is the salient musical idea of the joyful major key trio sung by the Rhinemaidens in Scene 1 of Rheingold. The song in which they celebrate the glory of the Gold in its natural setting. This is their cry "Rhinegold! Rhinegold! Heiajaheia! Heiajaheia!".

《自然》についてはここまでです。この "自然" を背景とすることで、ドラマを構成する人物の演技が際立つことになります。そして、さまざまなタイプの演技の背後にある意図は、舞台においていくつかのシンボルで表現されます。アルベリヒの指環、ヴォータンの槍、ジークフリートの剣、などです。

しかしそれら全てに優先するのが "黄金" であり、アルベリヒはそこから "指環" を作り、それがドラマ全体に動きをもたらしたのでした。黄金それ自体は自然の中に眠る "神秘的な潜在力" のシンボルに過ぎません。そして既に聴いたように《黄金》のモティーフは《自然》のモティーフのファミリーに属しています(訳注:EX.17)。しかし黄金の潜在力が具現化することによるさまざまな効果は、別のモティーフのファミリーで表現されます。

そして他のモティーフを生み出す基本的モティーフが、『ラインの黄金』第1場でラインの乙女によって歌われる楽しげな長調の3重唱で、これは目立つ楽想をもっています。この歌では自然のままの黄金の輝きが讃えられます。これが「ラインの黄金! ラインの黄金! ハイアヤ・ハイア! ハイアヤ・ハイア!」という叫びです。

 EX.26: 《ラインの乙女の黄金の喜び》 

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Before we trace the many transformations of this motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold, we should notice that it will recur several times in something like this original form. Near the end of Rheingold, it's harmonically modified and melodically developed to form Rhinemaidens' Lament for the Gold after it has been stolen from them.

《ラインの乙女の黄金の喜び》のさまざまな変形を追いかける前に、このモティーフがほぼオリジナルの形で何回か現れることに注意しましょう。『ラインの黄金』の終わり近く、このモティーフは和声を変え、メロディーを変化させて、黄金が盗まれたことを嘆く《ラインの乙女の嘆き》になります。

 EX.27: 《ラインの乙女の嘆き》 

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In this version, the motive recurs again several times. In Act 2 of Siegfried for example, it enters on the horns when Siegfried comes out of Fafner's cave, holding the Ring and staring at it wondering what use can be to him. The horns remind us that it belongs ultimately to Rhinemaidens. We pick up the music at Alberich's final remark and exit.

この形のモティーフは何回か再現します。例えば『ジークフリート』の第2幕において、ジークフリートが指環を持ってファフナーの洞窟から出て来るとき、ホルンに現れます。ジークフリートは指環を見つめ、それをどう使おうかと思案しています。このホルンは、指環が最終的にラインの乙女に帰属することを思い起こさせます。アルベリヒの最後のせりふから退場までの音楽を取り上げてみます(訳注:第2幕 第3場。EX.23 の直前)。

 EX.28: 『ジークフリート』における 《ラインの乙女の嘆き》 

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These are simple recurrences of the basic motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold, but the two main segments of the motive continually transformed into new motives, representing the unhappy results of the realization of the Gold's potentialities. We may start with the second of these segments, the cry of "Heiajaheia!".

これらは、基本モティーフである《ラインの乙女の黄金の喜び》のシンプルな再現でした。しかし、このモティーフの2つの主要なセグメントは絶えず変形され、新しいモティーフになります。それは黄金の潜在力の不幸な実現を表します。まず第2のセグメントである「ハイアヤ・ハイア!」の叫びからみてみましょう。

 EX.29: 《ハイアヤ・ハイア》 

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In Scene 2 of Rheingold, Loge sings a dark minor version of this when he describes how the Rhinemaidens complained to him of Alberich's theft of the Gold.

『ラインの黄金』の第2場において、ローゲはこのモティーフを暗い短調の形で歌います。ラインの乙女がアルベリヒに黄金を盗まれたことを訴えた様子を、ローゲが説明するシーンです。

 EX.30: 《ハイアヤ・ハイア》 ローゲ版 

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This already begins to sound a little like the Nibelungs' motive in the next Scene. And Loge takes the transformation a step further when he repeats the music we've just heard to describe how the Nibelungs are already working on the Gold.

これは既に、次の場における《ニーベルング族》のモティーフに似た響きがします。そしてローゲが今聴いたモティーフを繰り返すとき、変形をさらに進めて、ニーベルング族が既に黄金に関した仕事をしていることを説明します。

 EX.31: 《ハイアヤ・ハイア》が 《ニーベルング族》に変化 

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Loge's embryonic version of the Nibelungs motive becomes reality in the orchestral interlude leading to the next Scene. Here the actual motive of Nibelungs emerges in the definitive form in conjunction with the sound of their hammering.

ローゲによる《ニーベルング族》の萌芽形は、次の場に続くオーケストラの間奏曲で具現化します。ここで実際に《ニーベルング族》のモティーフは確定形へと発展します。ニーベルング族のハンマーの音が一緒になっています。

 EX.32: 《ニーベルング族》 

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So the Rhinemaidens' Joy in the potentiality of the Gold has been transformed into the Nibelungs' misery in working on the Gold, musically as well as dramatically.

And the complete basic motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold is transformed in a similar way to produce another new motive. Again, Loge is the agent of this tranformation in Scene 2 of Rheingold. His dark, minor version of the Heiajaheia segment, in his account of the Rhinemaidens' complaint, is actually acompanied by the complete motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold. Here's a reminder of that motive.

このように、ラインの乙女が黄金の潜在力を喜ぶモティーフは、黄金を加工するニーベルング族の苦難へと変形しました。音楽的にも、ドラマとしてもです。

さらに同様にして《ラインの乙女の黄金の喜び》という基本モティーフは別のモティーフに変形されます。『ラインの黄金』の第2場でローゲが再びこの変形を担当します。ローゲ版《ハイアヤ・ハイア》のセグメントは、ライン乙女の訴えを反映した暗い短調ですが、実際は《ラインの乙女の黄金の喜び》のモティーフの完全な形を伴っています。次はその基本モティーフのリマインドです。

 《ラインの乙女の黄金の喜び》: EX.26 

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And here, played by the orchestra alone, is the accompaniment to Loge's account of the complaint of the Rhinemaidens.

そして次がオーケストラだけの演奏による、ラインの乙女の訴えを語るローゲの伴奏です。

 EX.33: 《ラインの乙女の黄金の喜び》 ローゲ版 

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This minor version of the Rhinemaidens' Joy in the Gold is further slowed down and transformed harmonically to produce the baleful motive of the Power of the Ring. This enters in Scene 3 and 4 of Rheingold when Alberich uses the Ring to compel Niebelungs to do his will.

この《ラインの乙女の黄金の喜び》の短調の形は、さらにゆっくりになり、和声が変形されて、不吉な《指環の力》のモティーフになります。これは『ラインの黄金』の第3場と第4場において、アルベリヒがニーベルング族に彼の意志を強要するために指環を使うときに出てきます。

 EX.34: 《指環の力》 

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Here, the Rhinemaidens' Joy in the Gold has become Alberich's sadistic pleasure in wielding all powerful Ring he has made from the Gold.

One further motive is generated by the basic motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold and this too is associated with the unhappy results of the exploitation of the Gold. Here the starting point is the first segments of the motive, the cry of "Rheingold !" which we'll hear again as a reminder.

ここに至って《ラインの乙女の黄金の喜び》のモティーフは、黄金で作られた全能の "指環" を振りかざすアルベリヒのサディスティックな喜びへと変化してしまいました。

《ラインの乙女の黄金の喜び》という基本モティーフから作り出されるもう一つのモティーフも、黄金の利己的利用の不幸な結果に関係しています。出発点は《ラインの乙女の黄金の喜び》の最初のセグメントである "ラインの黄金!" という叫びです。リマインドとして再度聴いてみましょう。

 EX.35: 《ラインの黄金》 

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A dark minor key version of this repeated phrase is associated with the Servitude of the Niebelungs in Scene 3 of Rheingold.

この繰り返されるフレーズを暗い短調にした形は『ラインの黄金』第3場でニーベルング族の《苦役》に関係づけられます。

 EX.36: 《苦役》 

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This time, the Rhinemaidens' joy in the potentiality of the Gold has become the Niebelungs' enslavement to the Ring that has been made from the Gold. Later, this Servitude motive settles down to more limping form, particularly associated with Mime in Act 1 of Siegfried.

今度は、ラインの乙女が黄金の潜在力を喜ぶモティーフが、黄金から作られた指環に隷属するニーベルング族の表現になりました。この《苦役》はのちに、もっとびっこをひくような形になり、特に『ジークフリート』の第1幕でミーメに関連づけられます(訳注:第1場)。

 EX.37: 《苦役》 ミーメ版 

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In Gotterdammerung, this Servitude motive attaches itself to Hagen who is himself enslaved to the power of the Ring through his desire to get possession of it. Here the motive takes the form of his fierce rallying call to the vassals in Act 2 of Gotterdammerung.

『神々の黄昏』において《苦役》のモティーフはハーゲンに割り当てられます。ハーゲンは指環を所有したいという欲望によって、指環の力の奴隷になっているからです。『神々の黄昏』の第2幕でハーゲンが家臣を集めて激しく呼びかけるときの形が次です(訳注:第3場)。

 EX.38: 《ハイホー》 

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Here we come to the end of the dark family of motives generated by the bright basic motive of the Rhinemaidens' Joy in the Gold.

明るい基本モティーフである《ラインの乙女の黄金の喜び》から生成された暗いモティーフのファミリーは、これで終わりです。



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No.253 - マッカーサー・パーク [音楽]

前回の No.252「Yes・Noと、はい・いいえ」で、2012年に日本で公開された映画『ヒューゴの不思議な発明』に出てくる、ある台詞せりふを覚えているという話を書きました。それは「本は好きではないの?」という問いに対するヒューゴ少年の、

  "No, I do."

という返事で、変な英語(= 中学校以来、間違いだと注意されてきた英語)だったので心に残ったわけです。ただし心に残っただけで、このせりふが映画のストーリーで重要だとか、そういうことでは全くありません。

「重要ではないが、ふとしたことで覚えている映画のせりふ」があるものです。No.98「大統領の料理人」で書いたのは、フランス大統領の専属料理人であるオルタンスが言う、

クタンシー産の牛肉は)"神戸ビーフに匹敵する"

というせりふでした。『大統領の料理人』は美食の国・フランスの威信をかけて制作された(かのように見える)映画で、その映画でフランスのエリート料理人がフランス産牛肉のおいしさを表現するのに神戸ビーフを持ち出したことで "エッ" と思ったわけです。フランスの著名シェフなら、たとえ心の中では思っていたとしても口には出さないと考えたのです。

今回は、こういった「ふとしたことで覚えている映画のせりふ」を、最近の映画から取りあげたいと思います。2018年に日本で公開されて大ヒットした(というより世界中で大ヒットした)『ボヘミアン・ラプソディー』の中のせりふです。

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「ボヘミアン・ラプソディー」の ”Radio Ga Ga” の場面。
(映画の予告編より)


ボヘミアン・ラプソディー(Bohemian Rhapsody)


この映画の中で、タイトルにもなった Queen の傑作、"Bohemian Rhapsody" に関するエピソードが出てきます。フレディ・マーキュリー(俳優:ラミ・マレック。2019年アカデミー賞・主演男優賞・受賞)をはじめ Queen のメンバーは、この曲をシングル・カットして売り出したい。ところが音楽会社 EMI の重役のレイ・フォスター(架空の人物。俳優はマイク・マイヤーズ)は認めようとはしません。"Bohemian Rhapsody" は約6分の楽曲で、長すぎるというわけです。シングル盤の標準は3分であり、ラジオで DJ がかけてくれないだろう6分の曲など、シングル盤には向かないというのがその言い分です。

これに対して、その場にいたフレディのマネージャーであるポール・プレンター(俳優:アラン・リーチ)が助け舟を出します。その字幕が次です。

  ”マッカーサー・パーク” は7分だが売れた。

国際線フライトの新作ビデオで見る機会があったので、このシーンを英語音声に注意して見たのですが、せりふは、

  MacArthur Park was seven minutes long. It was a hit.

でした。「売れた」つまり「ヒットした」と言っている。映画『ボヘミアン・ラプソディー』で今でもはっきりと覚えているせりふは、実はこれだけです。しいて他のせりふをあげるとすると、何回か出てきた「我々は家族」という意味の発言ですが、これは映画のストーリーで重要だから印象に残るのだと思います。せりふそのものが印象に残ったということでは、上のマッカーサー・パークのところでした。

"Bohemian Rhapsody" は1975年の楽曲(結局、シングル・カットされて発売された)ですが、『マッカーサー・パーク』は1968年にアメリカで発売された曲です。つまり、7年前の楽曲が「長い曲でも売れる」ことの引き合いに出されたわけです。そしてこのせりふが印象に残ったのは、『マッカーサー・パーク』がポップス史上に残る名曲であり、"Bohemian Rhapsody"と比較するのが "当たり" だと思ったからです。

そこでこの際、『マッカーサー・パーク』がどういう曲かを書き留めておきたいと思います。


マッカーサー・パーク(MacArthur Park)


"MacArthur Park" は1968年6月22日に全米ヒットチャート(Billboard)の2位にまでになり(イギリスでは最高4位)、映画のせりふどおりヒットしました。このヒットは当時のポップスとしては異例のことでした。

"MacArthur Park" とは、ロサンジェルスにある公園の名前です。ダウンタウンの西の方、ダウンタウンからそう遠くない所にあります。MacArthurとは、アメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)のことで、言うまでもなく第二次世界大戦の連合軍最高司令官であり、日本占領の総指揮をとった人物です。そのマッカーサー元帥の功績を称えて公園の名前にしたわけです。

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現在の MacArthur Park。50年前はどんな景色だったのだろうか。

"MacArthur Park" を作詞・作曲したのはジミー・ウェッブ(Jimmy Webb。1946 - )です。彼は 1967年にフィフス・ディメンジョンの「ビートでジャンプ」をヒットさせました(グラミー賞受賞)。また同じ年にグレン・キャンベルは、1965年にジミー・ウェッブが書いた「恋はフェニックス」をカバーしてヒットさせ、これもグラミー賞を受賞したのでした。

つまり1967年の時点でジミー・ウェッブは、既に新進気鋭の注目すべきソング・ライター(21歳)だったわけです。では、その彼が書いた "MacArthur Park" はヒットして当然なのかというと、そうとも言えません。これは、かなり "異例の" 曲なのです。


リチャード・ハリス(Richard Harris)


1968年にシングル盤で発売された "MacArthur Park" を歌ったのは、リチャード・ハリス(1930 - 2002)です。リチャード・ハリスはアイルランドの俳優であり、歌手としては無名の存在でした。だだ彼は1967年に公開されたハリウッドのミュージカル映画に出演しました。No.53「ジュリエットからの手紙」の中で紹介した「キャメロット(Camelot)」です。

このミュージカル映画は「アーサー王と円卓の騎士」に題材をとったもので、アーサー王がリチャード・ハリス、グエナヴィア王妃がヴァネッサ・レッドグレーヴ、騎士・ランスロットがフランコ・ネロ(ヴァネッサ・レッドグレーヴの現在の夫)でした。リチャード・ハリスは映画の中で、"三角関係で苦悩する王" の気持ちなどを歌っています。その歌は大変に上手で、彼自身も歌手活動をしたいと思っていたようです。その彼がなぜジミー・ウェッブと出会って "MacArthur Park" をレコーディングすることになったかは Wikipedia で紹介されています(英語版Wikipedia の "MacArthur Park" の項)。

つまり、"MacArthur Park" は全米ヒットチャートの2位までになった曲ですが、歌ったのはリチャード・ハリスという、歌手としては無名のアイルランドの俳優だったことが、異例だった一つの点です。

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"MacArthur Park" シングル盤(1968)のジャケット。リチャード・ハリス(左)とジミー・ウェッブ(右)の写真が使われている。

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"MacArthur Park" を含むリチャード・ハリスのアルバム "A Tramp Shining"(1968)。プロデュースしたのはジミー・ウェッブ。

なお、リチャード・ハリスは映画版「ハリー・ポッター」の第1作『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)と、第2作『ハリー・ポッターと秘密の部屋(2002)』で、ダンブルドア(ホグワーツ魔法学校の校長)を演じました。その「秘密の部屋」が彼の遺作になりました。



"MacArthur Park" はその後、数々の歌手によってカバーされています。有名なのがドナ・サマーで、1978年に全米ヒットチャート(Billboard)の1位になりました。


7分21秒


"MacArthur Park" がシングル盤のヒットとして異例だった2つ目は、映画「ボヘミアン・ラプソディー」でも言及があったその長さです。当時のシングル盤の楽曲は3~4分程度が普通であり、7分を越える曲は異例だった(正確には7分21秒)。

ただし、7分を越えるということで思い出す別の曲があります。"MacArthur Park" と同じ1968年にシングル盤で発売されたビートルズの「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」で、7分11秒の長さがあります。この曲は Billboard のチャートで9週連続1位になり(9月28日~11月23日)、1968年の年間ランキングでも1位になりました。

しかし、ビートルズは絶大な人気がありました。1963年(英)・1964年(米)のブレーク以来、シングル盤で発表した曲のほとんどすべてがヒットチャートの1位になり、全米チャートの1位~5位を独占したこともあったぐらいです。1968年当時も若者を中心に世界の音楽ファンを "とりこ" にしていたわけで、そういう状況での "7分11秒" です。その点が "MacArthur Park" とは違います。

それに「ヘイ・ジュード」は、後半の約4分が「na na na, na na na na, na na na na, Hey Jude」というリフレイン、繰り返しです。しかも最後はフェイドアウトしていく。これならラジオで放送するときにリフレインの部分を早めにフェイドアウトしても違和感がありません。当時の放送は「早めのフェイドアウト」が多かったのではないでしょうか。そうしても違和感がないように曲作りがされている感じがします。

ところが "MacArthur Park" は、あとの詩と曲のところで説明しますが、「最後で最高潮になる」という作りになっています。途中でフェイドアウトしてしまったのでは、この曲をかけた(聴いた)ことにはならない。そういう意味で、この7分超のシングル盤は大変に長くて異例なのです。

なお、アルバムの収録曲であれば6分とか7分はザラで、もっと長い曲もいろいろあります。ピンク・フロイドの "Atom Heart Mother(原子心母)"(1970)は24分弱です。日本で言うと(年代は下りますが)X JAPAN の "Art of Life"(1993)は29分です。アーティストが自分の "思い" にこだわって創造性を発揮するとき、この程度の時間になることも当然あるということでしょう。





3つ目の "異例" というか、この曲の大きな特徴と言った方がいいのは詩の内容です。その詩と、試訳を以下に掲げてみます。訳というより言葉の意味を日本語で記述した程度です。なお以下の 1.~ 4.ですが、この曲は4つの部分に分かれているので、それを示すための数字です。


「MacArthur Park」
     by Jimmy Webb

1.
Spring was never waiting for us, girl
It ran one step ahead
As we followed in the dance
Between the parted pages and were pressed
In love's hot, fevered iron
Like a striped pair of pants

MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !

I recall the yellow cotton dress
Foaming like a wave
On the ground around your knees
The birds, like tender babies in your hands
And the old men playing checkers by the trees

MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !

(short instrumental)

2.
There will be another song for me
For I will sing it
There will be another dream for me
Someone will bring it

I will drink the wine while it is warm
And never let you catch me looking at the sun
And after all the loves of my life
After all the loves of my life
You'll still be the one

I will take my life into my hands
and I will use it
I will win the worship in their eyes
and I will lose it

I will have the things that I desire
And my passion flow like rivers through the sky
And after all the loves of my life
Oh, after all the loves of my life
I'll be thinking of you
And wondering why

3.
(Instrumental)

4.
MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !
Oh no

No
Oh no



「マッカーサー・パーク」 【試訳】

1.
春は決して僕たちを待ってくれなかったんだよ
踊りながら追いかけていた時には
一歩だけ前を走っていたのに
愛という熱がこもったアイロンでプレスした
ストライプのズボンのように
僕らは本のページの間に挟まれていた

マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no !

黄色いコットンのドレスを思い出す
波のように仕立ててあって
地面の上で君のひざを包む
か弱い赤ん坊のような鳥が君の両手に収まり
老人たちは木のそばでチェッカーに興じている

マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no !

(short instrumental)

2.
僕にはまた別の歌があるだろう
僕はそれを歌おう
僕にはまた別の夢があるだろう
誰かがそれを運んできてくれる

僕は温かいうちにワインを飲む
そして太陽を見ている僕を
君に捕まえさせはしない
それでも結局のところ僕の人生の愛は
結局のところ僕の人生の愛は
君がたった一つの存在であり続けるだろう

自分の人生を自分の手の中に収め
うまくやってみせよう
皆から尊敬の眼差しを勝ち取り
そして失うのだ

本当に望むものを手に入れよう
僕の情熱は川のよう流れて空をめぐる
それでも結局のところ僕の人生の愛は
ああ、結局のところ僕の人生の愛は
君のことを考えているだろう
それを不思議に思いながら

3.
(Instrumental)

4.
マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no!
Oh no

No
Oh no


あたりまえですが、これは論理的な文章ではなく、詩です。人によって受け取り方は違って当然です。特にこの詩はいろんな解釈が可能な部分が多い。使われている単語は容易ですが、難解そうな言い回しが並んでいます。一つ確実なのは「恋人と別れた心情を綴った詩」だということです。これはジミー・ウェッブの実体験に基づいているそうで、マッカーサー・パーク(マッカーサー公園)は、その恋人とよくデートした場所とのことです。

さらに、別れたあとの心情、ないしは失恋の表現ということ以外に詩から読み取れるのは、次の3点です。

主人公(僕)はマッカーサー公園の情景を眺めながら、かつての恋人と過ごした時間をしのんでいる。

主人公は恋人の思い出を断ち切り、新たな自分の人生を歩みたいと強く考えている。

しかしその女性が忘れられない。想いはまだ続いていて、今後も続くのでは思う。自分でも "なぜ" と思うくらいだ。

個々の言葉の選択は別として、ほぼ ① ② ③ のような内容が展開されているのは確かでしょう。ここまではいいとして、それから先の詳細は多様な解釈ができます。それは、抽象的で何かを象徴するような言葉がちりばめられているからです。

  踊りながら春を追いかけていた
本のページに挟まれていた
雨の中の忘れられたケーキ
二度と手できないレシピ
温かいうちにワインを飲む
 ・
 ・

どう受け取るかは聴く人の自由です。難解な感じがしますが、解釈の自由があります。ポイントは3回繰り返される「マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく ~ レシピも二度と手できないから」のパラグラフで、3回も繰り返されるのだからこの部分に含まれるイメージが重要なはずです。その重要な一つは、やはり「暗闇が迫るマッカーサー・パーク」でしょう。昼間にあったさまざまな事物が闇の中に溶けてしまったような公園の情景のイメージです。もう一つは「雨の中の忘れられたケーキ」です。食べ残したケーキが公園のベンチ(かテーブル)にポツンと忘れて置かれていて、そのケーキにかけられたアイシング(icing。糖衣。訳では "砂糖" とした)が流れ出している。これは明らかに私と彼女の象徴でしょう。このケーキは2度と作れないのだから ・・・・・・。

以上のようにいろいろ見ていくと、"MacArthur Park" は「多様な解釈ができる象徴性の高い詩」といえます。





音楽としての流れを文章で説明するのは限界があるので、YouTube などで公開されている音源を聴くのが一番です。

この曲は、最初の「春は決して僕たちを待ってくれないんだよ / 踊りながら追いかけていた時には / 一歩だけ前を走っていたのに」のところのメロディーが繰り返され、また単に繰り返すだけでなく旋律が変化し、進んでいきます(=第1部)。

Short Instrumental のあとは、更に旋律が変奏され、何となく終りが見えない感じで続いていきます(=第2部)。そして第3部の Instrumental があったあと、第4部で再び初めの旋律と歌詞が戻り、高揚してクライマックスを迎えます。最後は、Oh no という "嘆き" が数回繰り返されて終わる。

これは、たとえば Aメロ → Bメロ → サビ、とか、1番 → 2番 みたいな曲の作り方とは全く違います。全体として類似の旋律が繰り返されますが、一般に音楽ではしつこく繰り返すことによって盛り上げていく手法があって、この曲ではそれが効果を発揮しています。別れた女性や自分の人生についてあれこれと想いをめぐらしている、その「堂々巡りの意識の流れ」を音楽化したようにも思えます。メロディーラインは美しく、詩で表現されている感情の起伏もうまく受け止められている。普通のポップスの作り方とは違いますが、強い印象を与える曲です。


「ボヘミアン・ラプソディー」と「マッカーサー・パーク」


以上のように "MacArthur Park" は "異例の" 曲ですが、これは冒頭に書いた Queen の "Bohemian Rhapsody" とよく似ていると思うのです。個別にみていくと詞と曲の構成要素は全く違いますが、全体としての類似性がある。

まず 6分~7分という、シングル盤では異例の長さです。また、長いことに関係しますが、曲の作り方が複雑、かつ斬新です。"MacArthur Park" は4部から成っていますが、"Bohemian Rhapsody" も、アカペラ→バラード→オペラ→ロック→(エンディング)の4部(ないしは5部)構成が斬新でした。さらに、詩の言葉に象徴性があっていろいろの解釈が可能です。そういう類似性がある。

この2曲とも "野心的な" ソング・ライター(ジミー・ウェッブと、フレディ・マーキュリーおよびQueenメンバー)が、かねてからのアーティストとしての "想い" や "こだわり" を具現化した作品でしょう。その野心は空回りすることはなく、多くの人に受け入れられ、そして名曲として残ることになった。

映画「ボヘミアン・ラプソディー」の中の「マッカーサー・パークは7分だが売れた」というせりふには、明らかに "曲の長さ比較" 以上のものがこめられています。そういう風に意図した脚本かどうかは別にして ・・・・・・。"Bohemian Rhapsody" を擁護するのに "MacArthur Park" を引き合いに出すのはいかにもピッタリである、そう思いました。

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Queen
「Bohemian Rhapsody」(1975)
John Deacon/Freddie Mercury/Brian May/Roger Taylor




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No.236 - 村上春樹のシューベルト論 [音楽]

前回の No.235「三角関数を学ぶ理由」で、村上春樹さんが「文章のリズムの大切さ」を述べた発言を紹介しました。これは「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社 2011。以下「本書」)からの引用でしたが、それ以前の記事でも本書の内容を紹介したことがありました。

No.135 - 音楽の意外な効用(2)村上春樹
No.136 - グスタフ・マーラーの音楽(1)
No.137 - グスタフ・マーラーの音楽(2)

の3つです。本書は、指揮者・小澤征爾さんとの3回にわたる対談を村上春樹さんがまとめたものですが、その「あとがき」で小澤さんが次のように書いていたのが大変に印象的でした。


音楽好きの友人はたくさん居るけれど、春樹さんはまあ云ってみれば、正気の範囲をはるかに超えている。クラシックもジャズもだ。

小澤征爾
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」
(新潮社 2011)の「あとがき」より

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その "正気の範囲をはるかに超えた音楽好き" である村上春樹さんが書いた音楽エッセイ集(評論集)があります。意味がなければスイングはない」(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)です。内容はジャズとクラシック音楽に関するものが多いのですが、ウディー・ガスリー、ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)、ブルース・スプリングスティーン、スガシカオもあるというように、フォークソングやロック、J ポップスまでを含む幅広いジャンルが対象になっています。特に、ブライアン・ウィルソンについての文章は秀逸でした。

これらの中で最も感心したのが、シューベルトの「ピアノソナタ第17番 二長調 D850」の評論でした。これはシューベルトについて(ないしはクラシック音楽について)書かれたエッセイのなかで最も優れたものの一つでしょう。少々昔の本ですが、今回は是非それを紹介したいと思います。以下の引用における下線は原文にはありません。


シューベルトのピアノソナタ


「意味がなければスイングはない」に収められたシューベルト論は、

  シューベルト「ピアノソナタ 第17番 二長調」D850 ── ソフトな混沌の今日性

と題されたものです。村上さんは ピアノソナタ 第17番 二長調の話に入る前にまず、シューベルトのピアノソナタ全体の話から始めます。


いったいフランツ・シューベルトはどのような目的を胸に秘めて、かなり長大な、ものによってはいくぶん意味の汲み取りにくい、そしてあまり努力が報われそうにない一群のピアノ・ソナタを書いたのだろう? どうしてそんな面倒なものを作曲することに、短い人生の貴重な時間を費やさなくてはならなかったのか? 僕はシューベルトのソナタのレコードをターンテーブルに載せながら、ときどき考え込んだものだった。そんな厄介なものを書く代わりに、もっとあっさりとした、口当たりのよいピアノ・ソナタを書いていたら、シューベルトは ─── 当時でも今でも ─── 世間により広く受け入れられたのではないか。事実、彼の書いた「楽興の時」や「即興曲」といったピアノ小品集は、長い歳月にわたって人々に愛好されてきたではないか。それに比べると、彼の残したピアノ・ソナタの大半は、雨天用運動靴並みの冷ややかな扱いしか受けてこなかった。

村上春樹
「意味がなければスイングはない」
(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)

この出だしの "問題提起" に引き込まれます。少々意外な角度からの指摘ですが、言われてみれば全くその通りです。それはモーツァルトやベートーヴェンと比較するとわかります。村上さんによると、モーツァルトがピアノ・ソナタを書いたのは生活費を稼ぐためであり、だから口当たりのいい(しかし同時に実に美しく、深い内容をもった)曲を、注文に応じてスラスラと書いた。ベートーヴェンの場合は、もちろんお金を稼ぐためでもあったが、同時に彼には近代芸術家としての野心があり、ウィーンのブルジョアに対する「階級闘争的な挑発性」を秘めていた、となります。

しかしシューベルトのソナタはそれとは異質で、いわば謎めいています。村上さんはその理由がわからなかった、しかしあるときその謎が解けたと続けています。


しかしシューベルトのピアノ・ソナタときたら、他人に聴かせても長すぎて退屈されるだけだし、家庭内で気楽に演奏するには音楽的に難しすぎるし、したがって楽譜として売れるとも思えないし(事実売れなかったし)、人々の精神を挑発喚起するような積極性にも欠ける。社会性なんてものはほとんど皆無である。じゃあシューベルトは、いったいどのような場所を、どのような音楽的所在地を頭に設定して、数多くのピアノ・ソナタを書いたのか? そのあたりが、僕としては長いあいだうまく理解できなかったのだ。

でもあるときシューベルトの伝記を読んでみて、ようやく謎が解けた。実に簡単な話で、シューベルトはピアノ・ソナタを書くとき、頭の中にどのような場所も設定していなかったのだ。彼はただ単純に「そういうものが書きたかったから」書いたのだ。お金のためでもないし、名誉のためでもない。頭に浮かんでくる楽想を、彼はただそのまま楽譜に写していっただけのことなのだ。もし自分の書いた音楽にみんなが退屈したとしても、とくにその価値を認めてもらえなかったとしても、その結果生活に困窮したとしても、それはシューベルトにとって二義的な問題に過ぎなかった。彼は心に溜まってくるものを、ただ自然に、個人的な柄杓ひしゃくで汲み出していただけなのだ。

そして音楽を書きたいように書きまくって31歳で彼は消え入るように死んでしまった。決して金持ちにはなれなかったし、ベートーヴェンのように世間的な尊敬も受けなかったけれど、歌曲はある程度売れていたし、彼を尊敬する少数の仲間はまわりにいたから、その日の食べ物に不足したというほどでもない。夭折ようせつしたせいで、才能が枯れ楽想が尽きて、「困ったな、どうしよう」と呻吟しんぎんするような目にもあわずにすんだ。メロディーや和音は、アルプス山系の小川の雪解け水のように、さらさらと彼の頭に浮かんできた。ある観点から見れば、それは悪くない人生であったかもしれない。ただ好きなことを好きなようにやって、「ああ忙しい。これも書かなくちゃ。あれも書かなくちゃ」と思いつつ、熱に浮かされたみたいに生きて、よくわけのわからないうちに生涯を終えちゃったわけだから。もちろんきついこともあっただろうが、何かを生みだす喜びというのは、それ自体がひとつの報いなのである。

いずれにせよ、フランツ・シューベルトの22曲のピアノ・ソナタが、こうして我々の前にある。生前に発表されたのはそのうちのたった3曲で、残りはすべて死後に発表された。

「同上」

生前に発表されたのはピアノ・ソナタは22曲のうちのたった3曲、というところが「書きたかったから書いた」という説明を裏付けています。

村上さんは「22曲のピアノ・ソナタ」と書いていますが、これはどういうカウントでしょうか。普通、第 XX 番と番号で呼ばれるのは第21番・変ロ長調が最後であり、つまり全21曲です(下の表)。しかしそれ以外に2曲あって、D567(変二長調)は第7番(変ホ長調 D568)より全音だけ調性が低くて、1楽章だけ少ない第7番の別稿です。また D769a(ホ短調)は演奏時間が約1分という本当の断片です。このどちらか(おそらくD769a)を21曲に足して、22曲ということだと思われます。

このあたりが芸の細かいところです。D567(変二長調)もD769a(ホ短調)も普通のピアニストの「シューベルト ピアノソナタ全集」には収められていない曲です。間違いなく村上さんは、この2曲ともの LP/CD を持っているのでしょう。小澤征爾さんに「正気の範囲をはるかに超えた音楽好き」と "賞賛" されるぐらいなので、その程度は当然です。

 シューベルトのピアノソナタ 

番号 調性 D番号 楽章 作曲 備考
第1番ホ長調D15731815未完
第2番ハ長調D27931815未完
第3番ホ長調D45951817
第4番イ短調D53731817
第5番変イ長調D55731817
第6番ホ短調D56621817未完
変ニ長調D56731817D568の別稿
第7番変ホ長調D56841817作品122
第8番嬰ヘ短調D57111817未完。第1楽章のみ
第9番ロ長調D57541817
第10番ハ長調D61321818未完。2つとも断片
第11番ヘ短調D62531818未完
第12番嬰ハ短調D65511819未完。提示部のみ
第13番イ長調D66431819作品120
ホ短調D769a11823断片。以前はD994
第14番イ短調D78431823作品143
第15番ハ長調D84041825第3/4楽章は断片
第16番イ短調D84541825作品42
第17番ニ長調D85041825作品53
第18番ト長調D89441826作品78「幻想」
第19番ハ短調D95841828
第20番イ長調D95941828
第21番変ロ長調D96041828

表で明らかなように、途中で放棄された未完の曲や断片だけの楽章がいろいろあり、完成作は13曲だけです。もっとも、交響曲のリストを作ったとしても「未完」が並ぶわけで、そのうちの1作品はクラシック音楽のあらゆる交響曲の中で最も有名なもののひとつです(第1・2楽章と第3楽章の断片)。シューベルトの場合「未完」が価値を落とすわけではありません。とは言え、上の表を眺めていると村上さんが言うように、心の向くままに「書きたかったから書いた」という感じが伝わってきます。


でもなにはともあれ、僕はシューベルトのピアノ・ソナタが個人的に好きだ。今のところ(というのはとくにこの五、六年のことだけれど)ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタよりもはるかに頻繁に聴いていると思う。どうしてかとあらためて質問されると簡単には答えにくいのだが、結局のところ、シューベルトのピアノ・ソナタの持つ「冗長さ」や「まとまりのなさ」や「はた迷惑さ」が、今の僕の心に馴染むからかもしれない。そこにはベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタにはない、こころの自由なばらけ●●●のようなものがある。スピーカーの前に座り、目を閉じて音楽を聴いていると、そこにある世界の内側に向かって自然に、個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を素手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くままに描いていける。そのような、いわば融通無碍ゆうずうむげな世界が、そこにはあるのだ。

「同上」

村上さんによるとベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタはそうではないと言います。そこには作曲家の人間像がそびえていて、動かしかたく、犯しがたいポジションができている。我々はその音楽の流れや造形性、宇宙観に身を任せるしかないと ・・・・・・。


しかしシューベルトの音楽はそうではない。目線がもっと低い。むずかしいこと抜きで、我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる。そこにあるのは、中毒的と言ってもいいような特殊な感覚である。

僕がそういうタイプの音楽を愛好するようになったのは、時代的な要因もあるだろうし、また年齢的な要因もあるだろう。時代的なことを言えば、我々はあらゆる芸術の領域において、ますます「ソフトな混沌こんとん」を求める傾向にあるようだ。ベートーヴェンの近代的構築性(構築的近代性)や、モーツァルトの完結的天上性(天上的完結性)は、ときとして我々を ─── それらを文句なしに素晴らしいと認めつつも ─── 息苦しくさせる。そして年齢的なことを言えば、僕は、これもあらゆる芸術の領域において、より「ゆるく、シンプルな意味で難解な」テキストを求める傾向にあるかもしれない。どちらの理由がより強く僕をシューベルトのピアノ・ソナタの世界に引きつけているのか、正確に判断はできない。しかしそのいずれにせよ、シューベルトのピアノ・ソナタが 22曲もこの世界に存在しているという事実は、このところの僕にとっては、ひとつの確実なる喜びとなっている。

「同上」

ここまでが村上さんの "シューベルトのピアノ・ソナタ総論" です。ここからがいよいよ(やっと)「ピアノソナタ 第17番 二長調 D850」の話になるのですが、村上さんの論を紹介する前に、このソナタを主要な主題・旋律とともに振り返ってみたいと思います。


ピアノソナタ 第17番 二長調 D850 を振り返る


この曲はシューベルトの後期のピアノ・ソナタに見られる4楽章の形式です。途中に繰り返しが何回かあったりして、演奏には40分程度もかかります。なお以下で 9′46″/ 8′40″などと書いたのは演奏時間ですが、それぞれ「ヴィルヘルム・ケンプ盤 / 内田光子盤」のCDの演奏時間です。譜例はピアノ譜のト音記号(右手)の部分だけにしました。

 第1楽章 Allegro vivace :9′46″/ 8′40″ 

第1楽章は威勢のよいニ長調主和音の主題、譜例152から始まります。この主題は1小節目の2分音符と8分音符の組み合わせ、およびその後ろの3連符に特徴があります。その二つの音型が絡み合い、変奏されて曲が進行していきます。

 ◆譜例152
二長調ソナタ 第1楽章 A.jpg

譜例153が副主題です。主題とは対照的なかろやかな表情で、3連符の音型と交錯しながら発展していき、第1楽章の「提示部」を形づくります。定石どおり、提示部は同じ形で繰り返されます。

 ◆譜例153
二長調ソナタ 第1楽章 B.jpg

提示部が反復されたあとに譜例152が調性を変えて(変ロ長調)出てきて、展開部に入ります。さらに曲が進んでいくと、譜例152が冒頭と同じ形でフォルテシモで出てきて再現部になります。提示部と類似の経緯をたどり、譜例153も再現します。終結部もフォルテシモの譜例152で始まり、最後は3連符の音型が続いたあと、堂々とした風情で終わります。

 第2楽章 Con moto :10′27″/ 11′56″ 

第2楽章はゆったりとしたイ長調の旋律、譜例154で始まります。繰り返えしがあったあとに変奏が続き、再び譜例154が出てきます。

 ◆譜例154
二長調ソナタ 第2楽章 A.jpg

譜例155の新たな楽想も出てきます。前へ前へと進むような能動的な旋律ですが、これが変化し発展して音楽が進んでいきます。

 ◆譜例155
二長調ソナタ 第2楽章 B.jpg

再び譜例154が装飾音とともに回帰します。冒頭よりは動きがあります。音楽が進んだあとで譜例155も再び出てきます。曲は譜例154の断片で静かに終わります。

 第3楽章 Scherzo :9′33″/ 9′10″ 

第3楽章スケルツォは、符点音符が特徴的な譜例156の主題で始まります。この符点音符と2分音符の組み合わせがスケルツォを支配します。途中で特徴的な譜例157のフレーズも出てきます。

 ◆譜例156
二長調ソナタ 第3楽章 A.jpg

 ◆譜例157
二長調ソナタ 第3楽章 B.jpg

中間部(Trio)の主題が譜例158です。譜例156とは対照的な4分音符が連続する旋律で、静かに始まります。

 ◆譜例158
二長調ソナタ 第3楽章 C.jpg

Trioが終わると再び譜例156のスケルツォが再現します。譜例157が出てきたあと曲はピアニシモになり、動きも少なくなって静かに終わります。

 第4楽章 Rondo :9′20″/ 8′35″ 

第4楽章はロンドです。ロンド主題が何回か繰り返され、そのあいだに別の旋律が挿入される形です。2小節目からの譜例159がロンド主題です。スキップするようなこの主題は3回演奏されます。

 ◆譜例159(ロンド主題)
二長調ソナタ 第4楽章 A.jpg

次に譜例160が出てきます。この16分音符の速い動きが展開されます。

 ◆譜例160
二長調ソナタ 第4楽章 B.jpg

再びロンド主題が回帰しますが、今度は譜例159の変奏形である譜例161になっています。

 ◆譜例161(ロンド主題 A)
二長調ソナタ 第4楽章 C.jpg

この音型が展開されたあと、今度は雰囲気の違った譜例162が始まります。以降、譜例162の8分音符の音型がさまざまに変化していきます。

 ◆譜例162
二長調ソナタ 第4楽章 D.jpg

最後にロンド主題が回帰するのは、さらに変奏された譜例163です。これ以降にはピアニシモの記号が書かれています。ソナタ全体のエンディングに向かうときに "ピアニシモ" というのも意外な感じですが、そういう指示なのです。16分音符の速いパッセージが続いて、楽章の最後へと導きます。

 ◆譜例163(ロンド主題 B)
二長調ソナタ 第4楽章 E.jpg

譜例164が最終楽章の終結部の10小節です。ピアニシモが続くなかで、すこし遅くの指示があり、ディミネンドがかかって、最後はロンド主題の断片で静かに終わります。ちょっとあっけない感じの幕切れですが、このニ長調ソナタは第1楽章を除いて、第2・3・4楽章が静かに終わるのが特徴です。

 ◆譜例164(終結部)
二長調ソナタ 第4楽章 F.jpg


ピアノソナタ 第17番 二長調 D850


村上春樹さんによるシューベルトの「ピアノソナタ 第17番 二長調 D850」の評論です。シューベルトのピアノソナタで最も愛好しているのがこの曲、というところから始まります。


シューベルトの数あるピアノ・ソナタの中で、僕が長いあいだ個人的にもっとも愛好している作品は、第17番 二長調 D850 である。自慢するのではないが、このソナタはとりわけ長く、けっこう退屈で、形式的にもまとまりがなく、技術的な聴かせどころもほとんど見あたらない。いくつかの構造的欠陥さえ見受けられる。早い話、ピアニストにとっては一種の嫌がらせみたいな代物になっているわけで、長いあいだ、この曲をレパートリーに入れる演奏家はほとんどいないという状況が続いた。したがって、世間で「これぞ名演・決定版」ともてはやされる演奏も輩出しなかった。クラシック音楽に詳しい何人かの知り合いに、この曲についての意見を求めると、多くの人はしばし黙り込み、眉をしかめる。「なんでわざわざ二長調なんですか? イ短調、イ長調、変ロ長調、ほかにいくらでも名曲があるのに、どうしてまた ?」

たしかに、シューベルトにはもっと優れたピアノ・ソナタがほかにいくつもある。それはまあ客観的な事実である。

「同上」

ちなみに、二長調のソナタは第17番 D850しかありません。上の引用の中の "イ短調" とは第16番 D845、"イ長調" とは第20番 D959(=イ長調大ソナタ。第13番 D664 はイ長調小ソナタ)でしょう。"変ロ長調" とは最後の第21番 D960 です。そして次なのですが、村上さんは吉田秀和氏(1913 - 2012)の文章を引用しています。


このあいだ吉田秀和氏の著書を読んでいて、たまたま二長調のソナタについての興味深い言及を見かけた。内田光子のこの曲の録音に対する評論として書かれたものである。ちょっと引用してみる。

この2曲では、私はイ短調のソナタは身近に感じる音楽として昔から好んできいてきたが、ニ長調の方はどうも苦手だった。第1楽章からして、威勢よく始まりはするものの、何かごたごたしていてつかみにくい。おもしろい楽想はいろいろあるのだが、いろいろと往ったり来たりして、結局どこに行きたいのか、と問いただしたくなる。もう一方のイ短調ソナタに比べて言うのは不適当かもしれないが、しかし、このソナタが見事にひきしまっていて、シューベルトもこんなに簡潔に書けるのにどうして二長調はこんなに長いのかと、歯がゆくなる。シューベルトの病気の一つといったらいけないかもしれないが、二長調ソナタは冗漫に長すぎる」(『今日の一枚』新潮社 2001)

僕が吉田秀和氏に対してこんなことを言うのはいささかおそれ多いのだけど、「ほんとにそうですよね、そのお気持ちはよくわかります」と思わずうなずいてしまうことになる。でもこの文章には続きがある。

こんなわけで、私はこのソナタは敬遠してこちらからわざわざきく機会を求めるようなことはしないで来た。今度CDが出て、改めてきき直した時も、イ短調の方から始め、きき終わるとそのままニ長調はきかずに止めていた。

だが、今思い切って、きいてみて、はじめて気がついた。これは恐ろしいほど、心の中からほとばし出る『精神的な力』がそのまま音楽になったような曲なのである(後略)」
「同上」

このあたりを読んで一目瞭然なのは、村上さんが吉田秀和氏を尊敬しているということです。自分が最も惹きつけられる音楽であるシューベルトのピアノソナタ、中でも一番愛好している「17番 二長調 D850」を説明するときに吉田秀和氏の文章を引用するのだから ・・・・・・。村上さんほどの音楽愛好家でかつ小説家なのだから、いくらでも自分の言葉として書けるはずですが(事実、書いてきたのだけれど)、ここであえて吉田氏を引用したと思われます。そして、次のところがこのエッセイの根幹部分です。


これを読んで、僕としてはさらに深く頷いてしまうことになる。心の中からほとばしり出る「精神的な力」がそのまま音楽になったような曲 ─── まさにそのとおりだ。このニ長調のソナタはたしかに、一般的な意味合いでの名曲ではない。構築は甘いし、全体の意味が見えにくいし、とりとめなく長すぎる。しかしそこには、そのような瑕疵かしを補ってあまりある、奥深い精神の率直なほとばしりがある。そのほとばしりが、作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで勝手に漏水し、ソナタというシステムの統合性を崩してしまっているわけだ。しかし逆説的に言えば、二長調のソナタはまさにそのような身も世もない崩れ方●●●によって、世界の「裏を叩きまくる」ような、独自の普遍性を獲得しているような気がする。結局のところ、この作品には、僕がシューベルトのピアノ・ソナタに惹きつけられる理由が、もっとも純粋なかたちで凝縮されている ─── あるいはより正確に表現するなら拡散している●●●●●●ということになるのだろうか ─── ような気がするのだ。

「同上」

味を言葉で表現するのが難しいように、音楽を聴いて受ける感覚を文章で説明したり、また、音楽を言葉で評価するのも非常に難しいものです。得てしてありきたりの表現の羅列になることが多い。しかし上の引用のところは、"パイプの漏水" や "世界の裏を叩きまくる" といった独自の表現を駆使して二長調ソナタの本質に迫ろうとしています。それが的を射ているかどうか以前に、音楽を表現する文章が生きていることに感心します。


ピアニストと二長調ソナタ


村上さんがピアノ・ソナタ 第17番 二長調に惹かれたのは、約25年前にユージン・イストミンが演奏する中古のレコードを買ってからだとあります。このエッセイが書かれたのは2004年頃で、その25年前だと1979年ごろ、村上さん(1949年 生まれ)が30歳あたりです。群像新人文学賞を受賞して小説家になったのが1979年なので、ちょうどその頃に二長調ソナタと出会ったことになります。

そのイストミンのレコード以降、村上さんはこの曲のLP/CDを買い集め、このエッセイを書くために数えてみると何と15枚もあったそうです。そのリストがエッセイに掲載されています。自分でも "びっくりした" というような書き方ですが、これはもちろん誇らしい気持ちなのでしょう。おそらく15種の二長調ソナタのLP/CDを持っていることを前々から意識していて(最も愛好する曲の一つだから当然そうでしょう)、それをエッセイにしたのだと思いました。ともかく「15種の二長調ソナタのLP/CD」というところに、小澤征爾さんが言う「正気の範囲をはるかに超えた音楽好き」がよく現れています。



エッセイでは各ピアニストの演奏について村上さんなりの感想が書き綴られているのですが、最初はノルウェーのアンスネス(1970 - )で、次がハンガリー出身のシフ(1953 - )です。そして3番目が内田光子さんで、この内田さんの演奏についての文章だけを以下に紹介します。


内田光子は、前記の二人とはまったく違った演奏を繰り広げる。というか、彼女のシューベルトは、ほかのどのようなピアニストの演奏するシューベルトとも違っている。その解釈はきわめて精緻であり、理知的であり、冷徹であり、説得的であり、自己完結的であり、そういう意味では彼女の演奏は、どこを切っても金太郎飴のように、内田光子という人間がそのまま出てくる。それは演奏家として、基本的に正しいひとつの姿勢であると僕は思う。だから結局のところ、彼女の演奏を取るか取らないかは、100パーセント個人の好みの問題になってくる。そして僕個人の好みを言わせてもらえるなら、僕は内田光子の演奏を、最終的には取らない。

「同上」

内田光子さんの演奏を賞賛するのかと思って読み進むと、自分の好みではないという風に話が逆転してきます。なぜそうなのか、その理由が書いてあります。


僕が彼女の演奏するニ長調を取らない理由はいくつかあるが、そのひとつは、彼女の採用するアーティキュレーションが、いささか作為的に聞こえてしまうところだ。ほんのちょっとした感覚のすれ違いなのだが、その違和感が、聴いているうちに「ちりも積もれば」という感じでだんだんふくらんでくる。これは小説にたとえれば、その作家の文体が気に入るか入らないかという感覚に近い。もうひとつ、彼女の演奏の枠の据え方が、曲自体の生体枠に比べていささか大きすぎるような気がする。音楽の生活圏が、無理に拡大されているような雰囲気がある。

彼女のこのニ長調ソナタの演奏はよく練られ、考え抜かれたものだし、音楽的な質も高いし、構築もしっかりしているし、音楽的表情もちゃんとあるのだけれど、そのわりに人肌の温かみが伝わってこないきらいがある。少なくとも僕はそう感じた。

もちろん僕が書いてきたこれらの批判は、裏返しにすれば、そのまま称賛になりうるものだ。だから「内田のニ長調の演奏はまことに素晴らしい」と主張する方がいても、僕はその人を相手に論争するつもりはまったくない。繰り返すようだが、彼女のこの演奏は「取るか取らないか」のどちらかなのだ。

「同上」

実はいま、内田光子さんの二長調ソナタを聴きながらこの文章を書いているのですが、村上さんにならって個人的な好みを言わせてもらうと、私は「取る」ほうです。村上さんの文章を流用してその理由を書くと、

  アーティキュレーションはよく考え抜かれており、音楽的表情が豊かで、全体によく練られた質の高い演奏である。この曲の "生体枠" を拡大し、音楽の "生活圏" を広げるまでの、しっかりとした構築性がある。

内田光子 シューベルト ピアノソナタ 17&14.jpg
という感じでしょうか。村上さんが書いているように「裏返しにすれば、そのまま称賛になりうる」わけです。ちなみに上記の「ピアノソナタ 第17番 二長調 D850 を振り返る」のところで、往年の名ピアニスト・ケンプと内田光子さんの演奏時間の比較を楽章ごとに書きました。これを見るとよく分かるのですが、内田さんは遅い楽章をより遅く、速い楽章をより速く弾いています。ここにも内田さんなりの曲の構築が現れていると思います。要するに内田さんの演奏を聴いていると二長調ソナタが名曲だと思えてくるのです。

ただし(話が横道にそれますが)内田さんのこのような演奏が "裏目" に出ることもあると思います。たとえば「第21番 変ロ長調 D960」です。第1楽章の冒頭からの "内田流アーティキュレーション" にかすかな違和感を感じてしまい、その感じがずっと続いてしまうのですね。「第21番 変ロ長調 D960」は誰が聴いても名曲だと思う(はずの)曲です。またどんなピアニストが弾いてもシューベルトは素晴らしいと思える(はずの)曲です。だからもう少しストレートに、シンプルに構えて欲しい。少なくとも最初の方では演奏家はステージの脇に控えていて、"シューベルト" を舞台の前面に押し出して欲しいと思うのです。途中から演奏家が前面に出て聴衆を "内田ワールド" に引きずり込むのはアリだろうけれど。

話を「第17番 二長調 D850」に戻します。村上春樹さんにとって、この曲が名曲に聞こえてしまうような演奏はノー・グッドなのだと思います。この曲がもつバラケた感じで、ゆるい感じで、混沌としたムードが伝わってくる演奏がいいのでしょう。つまり内田光子的構築性がじゃまになる。そういうことだと思います。



村上さんのエッセイには、他のピアニストの演奏についての評論もかなり出てくるのですが省略したいと思います。何しろこのエッセイを書くために15種のLP/CDを全部聴いたというのだからびっくりします。

なお補足ですが、村上さんの小説『海辺のカフカ』(2002)には「二長調ソナタ」が出てきます。その部分を、このブログの最後の「補記1」に引用しました。


個人的な引き出し


数々のピアニストの「二長調ソナタ」の演奏についてひとしきり述べたあと、村上さんは次のように結んでいます。


思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。そしてシューベルトの二長調ソナタは、僕にとってのそのような大事な「個人的引き出し」であり、僕はその音楽を通して、長い歳月のあいだに、ユージン・イストミンやヴァルター・クリーンや(引用注:ウィーンのピアニスト)クリフォード・カーゾン(引用注:英国のピアニスト)、そしてアンスネスといったピアニストたち ─── こう言ってはなんだけど、決して超一流のピアニストというわけではない ─── がそれぞれに紡ぎ出す優れた音楽世界に巡りあってくることができた。当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない。僕の●●体験なのだ。

そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的な記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。

「同上」

なるほど、"個人的な引き出し" というのは良い言葉だと思います。このブログで過去にとりあげた曲の範囲で言うと、私の "個人的な引き出し" に入っているのは、さしずめ、

バーバー ヴァイオリン協奏曲
リスト ノルマの回想ユグノー教徒の回想
ドボルザーク 交響曲 第3番
ツェムリンスキー 弦楽4重奏曲 第2番

ということになるのでしょう。これらが「世間の評価とは合致しない」のかどうかは分かりませんが(ドボルザークの3番を好きな人は多いはず)、まあそんな感じかなと思います。余談ですが、今書いたドボルザークの「交響曲 第3番」はシューベルトの「ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D850」と似ているところがあります。つまり、

  精神の率直なほとばしりが作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで漏水し、交響曲というシステムの統合性を崩してしまっている

感じがします。「崩してしまっている」というのは言い過ぎかもしれませんが ・・・・・・。音楽の魅力のありよう(= 精神の率直なほとばしり)が二長調ソナタとよく似ていると思います。


音楽を言語化するということ


村上春樹さんのエッセイを読んで強く思うのは、音楽を聴いて湧き起こる感情を言語化するには、もちろん聴く人の感受性も必要なのだけれど、それよりも何よりもまず言葉をあやつる力、日本語を駆使する能力が重要だということです。

それは、味や香りの言葉による表現に似ています。No.108「UMAMIのちから」に書いたように、食べ物の食感(触感)を表現する日本語の語彙は大変豊富です(擬態語が多い)。ところが我々は、食物や酒の「味」や「香り」を表現する語彙をあまり持っていません。しかし味覚のプロは違います。たとえばソムリエですが、彼らはソムリエ伝統のボキャブラリーを駆使しながら、自分なりの表現も加えて味や香りを表現します。時としてまったく意外なたとえがあったりして、それが心に残ったりする。言葉にするということが大変に重要で、言葉と感覚が結びつき、記憶され、そのことによって言葉もより豊穣になっていき、また並行して感覚も研ぎ澄まされていくわけです。

音楽を聴いて心の中に沸き立つ感覚や感情を表現するのも、それと似ています。一般的に使われる語彙は比較的少なく、すぐにありきたりの表現に陥ってしまって、結局、たいして伝わらなくなる。音楽評論家と呼ばれる人たちの文章でもそいうのがよくあります(吉田秀和氏は例外でしょう)。その中で村上さんの文章は、さすが作家だけあると思いました。つまりシューベルトのピアノ・ソナタを(ないしは、ニ長調ソナタを)、

はた迷惑さ
融通無碍
目線が低い
ソフトな混沌
ゆるく、シンプルな意味で難解
パイプから漏水
身も世もない崩れ方
世界の裏を叩きまくるような普遍性
個人的な引き出し
記憶のぬくもり

などの言葉で、村上さんなりに描き出しています。その独自性に強く引かれました。


音楽に求めるもの


この村上春樹さんのエッセイを読んだ人で、シューベルトのピアノソナタに(今まで以上に)興味を引かれた人は多いのではないでしょうか。もちろんソナタを聴いた人は多数いるはずですが、普通は有名な数曲の範囲だと思います。私もこのエッセイを読んではじめて 17番 ニ長調 D850 を "まじめに" 聴きました。

さて、その次の段階として、全集のCDを買って「シューベルトのピアノソナタの世界」にひたってみるかどうかです。断片を除くソナタの全集を出しているピアニストは、往年のケンプをはじめ、シフ、パドゥラ=スコダなど、何人かいます。シューベルトのピアノソナタの世界に "浸る" ことは十分に可能です。

果たしてそこまでやるべきかどうか。村上春樹さんは次のように書いているのでした。

  我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる。そこにあるのは、中毒的と言ってもいいような特殊な感覚である。

シューベルトのピアノソナタの「中毒的世界」に踏み込むのも、何だか怖いような気がします。自分が音楽に求めるものが変質していき、変質すると以前には戻れなくなるのでは、といった ・・・・・・。

しかし、人が「音楽に求めるもの」は多様であり、個人をとっても一つではありません。内田光子さんは「死ぬときはシューベルトを弾いていたい」と語ったそうです。モーツァルトではなくシューベルトです。死ぬときは(モーツァルトではなく)シューベルト ・・・・・・。内田さんにそう言わしめるところがシューベルトのすごいところです。特定の曲が念頭にあったのかどうかは分かりませんが、暗黙にあるのがピアノソナタのどれかである可能性もあります。また以前、ある方が書いたブログを見ていると「あらゆる音楽の中で一番好きなのはシューベルトのピアノソナタ 第21番 変ロ長調 D960」とあり、なるほどと思いました。そこで、もし次のような質問に答えるとしたらどうでしょうか。

あらゆる音楽の中で一番好きな曲を一つだけあげなさい。

死ぬときに聴いていたいと思う音楽を一つだけあげなさい。

「一つだけ」が質問のポイントです。音楽表現のさまざまな側面を順にそぎ落としていって、最後にピュアな一曲だけ残すとしたら何を残すか。もちろん音楽のジャンルは問いません。この質問に対してシューベルトのピアノソナタ(のどれか)をあげるのは、いかにもありそうで、それは納得性の高い答かもしれません。そぎ落とそうにも落とすものがあまりない音楽。だから最後まで残る可能性が高い。

さらにピアノソナタの中からピンポイントで限定すると「ピアノソナタ 第21番 変ロ長調 D960 の第2楽章 Andante Sostenuto」はどうでしょうか。柔らかな光と淡い影が交錯し、しっかりとした静謐感の中に抑制された躍動が混じるこの楽章は、ピアノソナタの中から1つだけ選ぶとすると最も相応ふさわしいと思います。内田光子さんに聞いたみたい感じがします。

人々が「音楽に求めるもの」は極めて多様ですが、その音楽に求めるものの一つの典型がシューベルトのピアノソナタに凝縮されている。そう言えそうな気がしました。



 補記1:海辺のカフカ 

本文中に書いたように、村上春樹『海辺のカフカ』(2002年)には「シューベルトのピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調」がでてきます。図書館司書の大島さんが運転する緑色のマツダ・ロードスターの車中で、"僕"(田村カフカ)が大島さんから話を聞くところです。少々長くなりますが、新潮文庫版から引用しておきます。"僕" の1人称で書かれています。

海辺のカフカ.jpg


「僕は運転しているときには、よくシューベルトのピアノ・ソナタを大きな音で聴くんだ。どうしてだと思う?」

「わからない」と僕は言う。

「フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧かんべきに演奏することは、世界でいちばんむずかしい作業のひとつだからさ。とくにこのニ長調のソナタはそうだ。とびっきりの難物なんだ。この作品のひとつかふたつの楽章だけを独立して取りあげれば、それをある程度完璧に弾けるピアニストはいる。しかし四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴いてみると、僕の知るかぎり、満足のいく演奏はひとつとしてない。これまでに様々な名ピアニストがこの曲に挑んだけれど、そのどれもが目に見える欠陥を持っている。これなら●●●●という演奏はいまだない。どうしてだと思う ?」

「わからない」と僕は言う。

「曲そのものが不完全だからだ。ロベルト・シューマンはシューベルトのピアノ音楽のよき理解者だったけど、それでもこの曲を『天国的に冗長』と評した」

「曲そのものが不完全なのに、どうして様々な名ピアニストがこの曲に挑むんですか ?」

「良い質問だ」と大島さんは言う。そして間をおく。音楽がその沈黙を満たす。「僕にも詳しい説明はできない。でもひとつだけ言えることがある。それはある種の不完全さを持った作品は、不完全であるがゆえに人間の心を強く引きつける ── 少なくともある種の●●●●人間の心を強く引きつける、ということだ。たとえば君は漱石の『坑夫』に引きつけられる。『こころ』や『三四郎』のような完成された作品にない吸引力がそこにはあるからだ。君はその作品を見つける。べつの言い方をすれば、その作品は君を見つける。シューベルトの二長調のソナタもそれと同じなんだ。そこにはその作品にしかできない心の糸の引っ張りかたがある」

「それで」と僕は言う。「最初の質問に戻るけれど、どうして大島さんはシューベルトのソナタを聴くんですか。とくに車を運転しているときに?」

「シューベルトのソナタは、とくにニ長調のソナタは、そのまますんなりと演奏したのでは芸術にならない。シューマンが指摘したように、あまりに牧歌的に長すぎるし、技術的にも単純すぎる。そんなものを素直に弾いたら、味も素っ気もないただの骨董品こつとうひんになってしまう。だからピアニストたちはそれぞれ工夫を凝らす。仕掛けをする。たとえば、ほら、こんなふうにアーティキュレーションを強調する。ルバートをかける。速弾きをする。メリハリをつける。そうしないことには間がもたないんだ。でもよほど注意深くやらなければ、そのような仕掛けは往々にして作品の品格を崩してしまう。このニ長調ソナタを弾くすべてのピアニストは、例外なくそのような二律背反の中でもがいている」

彼は音楽に耳を澄ませる。メロディーを口ずさむ。そして話を続ける。

「僕が運転をしながらよくシューベルトを聴くのはそのためだ。さっきも言ったように、それがほとんどの場合、何らかの意味で不完全な演奏だからだ。質の良い稠密ちゆうみつな不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる。これしかないというような完璧な音楽と完璧な演奏を聴きながら運転をしたら、目を閉じてそのまま死んでしまいたくなるかもしれない。でも僕はニ長調のソナタに耳を傾け、そこの人の営みの限界を聞きとることになる。ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだと知ることになる。それは僕を励ましてくれる。言っていることはわかる?」

「なんとか」

「悪いね」と大島さんは言う、「こういう話になると、僕はつい夢中になってしまうんだ」

「でも不完全さにも、いろんな種類があり、程度があるんでしょう」と僕は言う。

「もちろん」

比較的●●●というのでもいいんだけど、これまでに聴いたニ長調のソナタの中で、大島さんが一番優れていると思うのは誰の演奏ですか?」

「むずかしい質問だ」と彼は言う。

村上春樹『海辺のカフカ』
(新潮文庫版)

"僕" の難しい質問で、大島さんはシューベルト論をいったん中断し、緑のロードスターは夜の高速道路で最も見えにくいクルマだという話をします。特にトレーラーの運転席から見えにくくて危険だと ・・・・・・。その話のあとで、大島さんが答えます。


「一般的にいえば、演奏としてもっともよくまとまっているのは、たぶんブレンデルとアシュケナージだろう。でも僕は正直なところ彼らの演奏を、個人的にはあまり愛好しない。というか、それほど心を引かれないんだ。シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそいういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ」

僕はシューベルトのソナタに耳を澄ませる。

「どう、退屈な音楽だろう?」と彼は言う。

「確かに」と僕は正直に言う。

「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君のとしならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものに人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」

村上春樹「海辺のカフカ」
(新潮文庫版)

大島さんの話はあくまで小説の登場人物の言葉ですが、村上春樹さんの二長調ソナタについての(ないしは、シューベルトのソナタについての)考えを言ったものと受け取っていいでしょう。最も愛好する曲について、たとえ小説の中といえども自分の考えと違うことは書きにくいはずです。上の引用の中でキーとなるような言葉を拾い出してみると、

ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける

質の良い稠密な不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる

シューベルトというのは、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽である

この世界において、退屈でないものに人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。たいていの人はそのふたつを区別することができない

などでしょう。なるほど。たいていの人は「退屈なもの」すなわち「飽きるもの」だと思っていて、その二つが別ものだとは区別できないでいる ・・・・・・。この引用の部分だけをとっても "村上春樹ワールド" が感じられると思いました。こんな "ディープな" 音楽談義を小説に取り込んでしまうのだから。

この引用したくだりについて少々懸念があります。仮に、村上春樹の熱烈なファンで(いわゆる "ハルキスト")クラシック音楽はあまり聴かない、シューベルトは聴いたことがないという人がいたとします。その人が『海辺のカフカ』を読んで「ニ長調ソナタ」に興味を持ち、この曲を購入して聴いたとします。「シューベルトというのは、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽」・・・・・・。こういうアフォリズムを読んでしまうと興味をそそられる人がいると思うのです。

この状況を想像してみると、その村上ファンの方は聴いた結果として「シューベルトはつまらない」と思ってしまうのではないでしょうか。小説の中に「ニ長調ソナタ」を "天国的に冗長" と評したシューマンの言葉が引用されているので、それなりの "覚悟" で聴くとは思いますが、この曲はやはり "シューベルト入門" としては相応ふさわしくないと思います。

だけど、好きな人は好き。『海辺のカフカ』には、そのような「ニ長調ソナタ」を愛好する人の "屈折した" 感情がうまく書かれていると思いました。



 補記2:カフェ・ベローチェのBGM 

先日の朝、カフェ・ベローチェでコーヒーを飲んでいたら、BGMにシューベルトの「ピアノソナタ 第17番 ニ長調 D850」の第2楽章が流れてきて、思わず聴き入ってしまいました。それで思ったのですが、少なくとも「二長調ソナタ の第2楽章」はかなりの名曲ではないかと ・・・・・・。

BGMの2つあとの曲はシューマンの「子どもの情景」の第1曲("異国から")でした。はからずも「二長調ソナタ」と「子どもの情景」の対比になったのですが、シューベルトの魅力がよく分かりました。「子どもの情景」のような構築性があって美しい(かつ愛らしい)音楽ではなく、それとは対極の音楽の作り方なのに心に染み入るという魅力です。

カフェ・ベローチェは USEN と契約しているようなので、USEN のホームページで調べると「二長調ソナタ 第2楽章」の演奏はノルウェーのピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスでした。

この記事の本文で紹介した「意味がなければスイングはない」(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)の中で、村上さんは「二長調ソナタ」のLP/CDを15種類持っているとし、主要な演奏の評価を書いていました。本文では内田光子さんの部分だけを紹介したのですが、村上さんが真っ先にとりあげたのがアンスネスの演奏でした。その箇所を引用します(原文に段落はありません)。


現代の演奏からいくと、ノルウェイの気鋭のピアニスト、アンスネスの演奏がなんといっても素晴らしかった。新しい優れた録音で二長調のソナタを聴きたいという方には、迷うことなくこのCDをお勧めしたい。アンスネスは何年か前に日本に来たときにも生で聴いて、感心した記憶があるのだが、このCDにおいては(2002年録音)、彼の演奏はさらにその音楽的深度を深めている。この演奏を「シューベルト的」と呼ぶことにはいささか無理があるかもしれないが、正統的なまっすぐな演奏であることはたしかだ。

ノルウェイの出身だからというのではないけれど、第1楽章から第2楽章にかけては、まるでグリークの音楽を聴いているような、健全な「むせかえり」の感覚がある。深い森の空気を胸に吸い込んだときの、清新でクリーンな植物性の香りが、しっぽの先まで満ちているのだ。若々しく、ギャラントであり、すぐれて情感的であるが、大時代な要素は注意深く丁寧により分けられ、排除されている。

何よりも流れの筋が良い。全体の音楽のスケールは大きいが、門構えはコンパクトに抑えられている。そのへんの設定に、このピアニストの聡明さを感じないわけにはいかない。

村上春樹
「意味がなければスイングはない」
(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)

カフェ・ベローチェのBGMで「二長調ソナタ 第2楽章」を聴いて "かなりの名曲" と思ったのは、ひょっとしたら "演奏が素晴らしい" という要素が大きいのかもしれないと、この村上さんの文章を読み返してみて思いました。

アンスネス - シューベルト.jpg

(2018.11.28)



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No.228 - 中島みゆきの詩(15)ピアニシモ [音楽]

前回の No.227「中島みゆきの詩(14)世情」を書いていて思い出した詩があるので、引き続き中島作品について書きます。《世情》という詩の重要なキーワードは "シュプレヒコール" でした。実はこの "シュプレヒコール" という言葉を使った中島さんの詩がもう一つだけあります。《世情》の34年後に発表されたアルバム『常夜灯』(2012)の第2曲である《ピアニシモ》です。

《世情》のほかに "シュプレヒコール" を使ったのは《ピアニシモ》だけというのは絶対の確信があるわけではありません。ただ CD として発売された曲は全部聴いているつもりなので、これしかないと思います。中島さんは詩に使う言葉を "厳選する" のが普通です。あまり歌詩には使わないような言葉ならなおさらです。34年後に "シュプレヒコール" を再び使ったのは、そこに何らかの意味があると考えられます。その意味も含めて詩の感想を書きます。

なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。


ピアニシモ


アルバム『常夜灯』の第2曲である《ピアニシモ》は、次のような詩です。


ピアニシモ

あらん限りの大声を張りあげて
赤ん坊の私はわめいていた
大きな声を張りあげることで
大人のあいだに入れると思った

大人の人たちの声よりも
男の人たちの声よりも
機械たちや車の音よりも
ずっと大きな声を出そうとした

だって歴史たちが示している
シュプレヒコールもアジテイションもみんな
わめかなければ届くものじゃない
がならなければ振り向きもされない
なのに あの人が私にリクエスト

ピアニシモで歌ってください
ピアニシモで歌ってください
大きな声と同じ力で
ピアニシモで歌ってください

それしか言わない あの人は言わない
戸惑った私は あの人を憎んだ
屈辱のようで腹を立てていた
仕返しのように小さく歌った

言わんことじゃない ほらあんじょう
通行人は誰も振り向きもしない
けれどその代りに私には
それから初めて聴こえたものがある
今すれ違った 気弱な挨拶

ピアニシモで歌ってください
ピアニシモで歌ってください
大きな声と同じ力で
ピアニシモで歌ってください

あの人に会えるなら伝えたい
あの人はもう この町にいないから
私はピアニシモで歌っていますと
でも たまにはフォルテシモでも歌いますと

ピアニシモで歌ってください
ピアニシモで歌ってください
大きな声と同じ力で
ピアニシモで歌ってください

A2012『常夜灯

常夜灯-1.jpg

常夜灯-2.jpg
①常夜灯 ②ピアニシモ ③恩知らず ④リラの花咲く頃 ⑤倒木の敗者復活戦 ⑥あなた恋していないでしょ ⑦ベッドルーム ⑧スクランブル交差点の渡り方 ⑨オリエンタル・ヴォイス ⑩ランナーズ・ハイ ⑪風の笛 ⑫月はそこにいる

この詩は《世情》に比べると平易な言葉使いで、そのまま読んでも表現されていることがスッと分かる詩です。ただし、その中に何らかの意味が込められているようです。もちろんキーワードは "ピアニシモ" であり、その反対の言葉である "フォルテシモ" です。これは何を意味しているのか、そこがポイントです。


ピアニシモ(pp)とフォルテシモ(ff


「ピアニシモで歌う」「フォルテシモで歌う」とはどういうことでしょうか。これは音楽用語なので「非常に弱く歌う」と「非常に強く歌う」というのが第1義です。もちろんそれだけでは意味がとれません。クラシック音楽ならともかく、ポップ・ミュージックで「ピアニシモで歌う」のは、コンサートホールでも街角でも CD でも滅多にないからです。従って「ピアニシモで歌う」について、言葉通りではない何らかの解釈が必要です。「フォルテシモで歌う」の方が考えやすいので、まずその意味を考えてみると次のようになるでしょう。あくまで個人の見解です。


フォルテシモで歌う

自分の思いや考え、訴えたいことをストレートに表した詩を書き、歌う際には、その思いや訴えが聴衆の誰もに同じように伝わるように、はっきりと、強く表現する。


作者の思いや訴えがフォルテシモのように強く聞こえる歌、ないしは歌い方ということです。このように考えると「ピアニシモで歌う」はその逆になります。


ピアニシモで歌う

人の心や、人と人の関わり、人生、ないしは社会における人の生き方などを作者なりの視点や切り口で詩にし、その詩に最もふさわしい歌い方で歌う。その中から作者の「思い」や「訴え」が滲み出るようにする。従って聴き手により「思い」の伝わり方は違うし、どう受け取るかは聴き手による。しかし、それこそが「歌の力」を示すことになる。


のように解釈できます。つまり「ピアニシモ・フォルテシモ」は、歌で何かを表現するときの表現のしかたの違いだという見方です。「強い」が一本調子と、「弱い」が人の心に染み入る、の違いと言ったらいいのでしょうか。また、ピアニシモでもフォルテシモでも "強さ" を持った表現ができると考えると、フォルテシモは「引っ張っていくことの強さ」であり、ピアニシモは「そっと寄り添うことの強さ」と言えるかも知れません。もちろん他にも意味の取り方があると思います。


"気弱な挨拶" を求めて


この詩は「あの人」に言われて「ピアニシモで歌う」ようになったというストーリーです。「あの人」とは誰でしょうか。普通に考えれば歌の先生筋にあたる人か、あるいは歌い手が尊敬する人でしょう。歌手としての人生に大きな影響を与えた人です。今は近くにはいないようですが、具体的にどういう人かの手がかりが詩にはありません。それは受け取る人の想像に任せられています。

そして、この詩のハイライトは次の部分です。「ピアニシモで歌う」ことで初めて、歌い手が得たものがあるわけです。


それから初めて聴こえたものがある
今すれ違った 気弱な挨拶


この部分が詩として光っています。「今すれ違った 気弱な挨拶」という一行です。もっと限定すると「気弱な挨拶」という表現です。「気弱」と「挨拶」という二つの言葉の、ちょっと意外な組み合わせに詩人・中島みゆきの感性が現れている。非常に "雰囲気のある" 表現です。ちなみにGoogleで「気弱な挨拶」を「語順も含め完全一致」で検索すると20件しかヒットしませんが(2018.3.30 現在)、そのうち17件は《ピアニシモ》の歌詞を掲載したサイトであり、1件は《ピアニシモ》の歌詞から引用したものです。普通はまず使わない言葉ということでしょう。

すれ違いに聞こえてくる「気弱な挨拶」こそが、ピアニシモで歌う(ただし大きな声と同じ力で歌う)歌手が求めてきたものなのでした。


シュプレヒコールとアジテーション


この詩のハイライトの2つめは

  大きな声と同じ力でピアニシモで歌うが
たまにはフォルテシモでも歌う

としているところです。そして「フォルテシモでも歌う」ことの比喩としてあげられているのが、"シュプレヒコール" と "アジテーション" です。冒頭に書いたように、前回(No.227)取り上げた《世情》には "シュプレヒコール" が出てきます。中島さんは《世情》を思い出しながら《ピアニシモ》の詩を書いたに違いないのですが、ここではさらに "アジテーション" が付け加えられています。

アジテーションも政治的ニュアンスの言葉で、「人々をある行動に駆り立てようとする、強い調子の演説や文章」という意味です。ネガティブな意味では「煽動」ですが、ニュートラルな意味でも使える。前回(No.227)の《世情》で連想した学生運動で言いますと、アジテーションは「アジ」と略され、「アジ演説」「アジビラ」のように使われました。

この、シュプレヒコールとアジテーションを「歌」に置き換えて考えてみると、「強いメッセージ性をもった詩と、それを全面的に押し出した歌い方」というようになるでしょう。「たまにはフォルテシモでも歌います」という宣言はそのことを言っていると解釈できます。


歌うことについての詩


さらにこの詩の重要なポイントは、歌手ないしは歌い手が主人公というか、「歌うこと」について書かれた詩だということです。中島作品の中で、こういう詩は極めて珍しいと思います。No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」でも取り上げたのですが、「歌い手」ないしは「歌手」をテーマにした作品は、覚えている限りでは次の3つです。なお、「ミュージシャン」という詩(A1988「中島みゆき」の第5曲)がありますが、このミュージシャンは歌手とは限らないし、歌うことについての詩でもないので除外します。


歌をあなたに

何んにも言わないで この手を握ってよ
声にならない歌声が 伝わってゆくでしょう
どんなに悲しくて 涙 流れる日も
この手の中の歌声を 受け取ってほしいのよ

それが私の心 それが私の涙
なにもできない替わり 今 贈る

歌おう 謳おう 心の限り
愛をこめて あなたのために

・・・・・・
A1976『私の声が聞こえますか

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A1976『私の声が
聞こえますか』
A1981 臨月.jpg
A1981『臨月』

夜曲

街に流れる歌を聴いたら
気づいて 私の声に気づいて
夜にさざめく灯りの中で
遙かにみつめつづける瞳に気づいて

あなたにあてて 私はいつも
歌っているのよ いつまでも
悲しい歌も 愛しい歌も
みんなあなたのことを歌っているのよ

街に流れる歌を聴いたら
どこかで少しだけ私を思い出して

・・・・・・
A1981『臨月

歌姫

淋しいなんて 口に出したら
誰もみんな うとましく逃げ出してゆく
淋しくなんかないと笑えば
淋しい荷物 肩の上でなお重くなる

せめておまえの歌を 安酒で飲みほせば
遠ざかる船のデッキに立つ自分が見える

歌姫 スカートの裾を
歌姫 潮風になげて
夢も哀しみも欲望も 歌い流してくれ

・・・・・・
A1982『寒水魚
A2004『いまのきもち

A1982 寒水魚.jpg
A1982『寒水魚』
このうち《歌をあなたに》(1976)は単に "歌うことがの好きな人" かも知れないのですが、《夜曲》(1981)と《歌姫》(1982)は明らかにプロの歌手、ないしはプロに準ずる歌い手がテーマになっています。また《歌をあなたに》と《夜曲》は一種のラブソング、ないしはラブソングをよそおった曲で("あなた" が恋人とは限らないから)、"わたし" と "あなた" の関係性を歌うことに託して語っています。一方、《歌姫》は純粋に「歌うことについての詩」になっています。

この3つの詩は1976年から1982年にかけて、中島さんが24歳から30歳のときの作品です。そして《歌姫》(1982)から30年後に作られた「歌うことについての詩」が《ピアニシモ》(2012)なのです。

No.68「中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代」にも書きましたが、一般的に言って、中島さんの作品に「自分のことを表現している詩」はないと思います。しかし《歌をあなたに》《夜曲》《歌姫》そして《ピアニシモ》については、歌手としての自分を語っているのではと思うのですね。特に《歌姫》と《ピアニシモ》です。この2つは純粋に「歌うことについての詩」であり「歌うことについての歌」になっている。シンガー・ソングライターが「歌うことについての詩」を作るとき、それは自己表現、あるいは、ありたい姿の表現と考えるのが自然だと思います。


フォルテシモでも歌う


その視点で《ピアニシモ》を振り返ってみると、この詩で表現されている歌い手の基本的なスタンスは「ピアニシモで歌う」ことです。すぐに連想するのはアルバムのタイトルであり、アルバムの第1曲でもある "常夜灯" という言葉です。夜道を照らし、時折りそこを行く人の道しるべになり、人に大きな安心感を与える。ただし光そのものは闇の中にひっそりと存在する。第1曲『常夜灯』は、そのようなイメージから発想を膨らませた詩になっています。またアルバムのタイトルにするということは "常夜灯" がアルバムの基調テーマということでしょう。《ピアニシモ》にある「フォルテシモと同じ力でピアニシモで歌う」という表現は、"常夜灯" に我々が抱くイメージと強く重なります。

問題は、詩の中で「たまにはフォルテシモでも歌います」と宣言しているところです。ここで思い浮かぶのが、アルバム『常夜灯』の第5曲である《倒木の敗者復活戦》です。この詩は No.213「中島みゆきの詩(13)鶺鴒セキレイと倒木」で取り上げましたが、「東北の復活戦」では詩にならないので「倒木の敗者復活戦」としたのではないでしょうか。これは中島さんがフォルテシモで歌った曲、中島さんなりの "歌によるシュプレヒコール" であり "歌による(悪い意味ではない)アジテーション" だと思います。アジテーションとは上にも書いたように「人々をある行動に駆り立てようとする、強い調子の演説や文章」であり、人々の感情に訴えようとするものです。

そういう詩を書き、そういう歌い方をする。それは歌い手としてのあるべき姿からはずれるかもしれないが、そいうことがたまにはあってもよい。詩や歌は大変幅広く、多様なのだから ・・・・・・。《ピアニシモ》という詩は(そして歌は)そう言っているように思いました。



 補記:茨木のり子 

最近の朝日新聞の「天声人語」を読んで中島みゆきさんの《ピアニシモ》を思い出したので、それを紹介したいと思います。文章がいきなり天声人語子の祖父の話から始まるので少々面くらいますが、主旨は明快です。例によって6段落の文章で、段落は▼で示されていますが、普通の表記に変えて引用します。


[天声人語]

私の祖父は明治の人だった。幼いころ言われた。「きみが本当に正しいと思うなら、叫ばなくていい。なるべく小さい声で話しなさい」。なぜか最近よく思い出す。

いまの世が威勢のいい、大きな声にあふれているからだろうか。攻撃的なつぶやき、ののしりあい、みなが言葉を強く発する時代。「小さい声」などだれも聞かない、ダメなものに思える。亡き祖父は何を考えていたのか。

東京大学教授の阿部公彦まさひこさん(52)の著書を読んでいて、気になる文章をみつけた。「負けたり、弱かったり、だめだったりする。そんな言葉が社会の中でむしろ意味を持つこともある」とあった。

阿部さんを訪ね、祖父の言葉について聞いてみた。唐突な問いにもかかわらず、英文学者は教えてくれた。「英語では大事なことを言うときに、あえて強調ではなく、『perhaps(もしかすると)』と表現をぼかすことがある。小さい声もそうではないですか」

大切なことは強い断定調では逆に伝わりにくくなる。愛をささやくとき、親しい人を失ったとき、簡単に言えない何かを伝えるとき、私たちはむしろ弱く、あいまいに言葉を使ってきた、と阿部さんは言うのだ。

「心の底に/強い圧力をかけて/しまってある言葉/声に出せば/文字に記せば/たちまちに色せるだろう」(茨木のり子「言いたくない言葉」)。やっと口にする、消え入りそうな声だからこそ、相手に届く何かがある。もしかすると、祖父はそう言いたかったのかもしれない。

朝日新聞(2019.9.15)

まるで中島みゆき《ピアニシモ》の解説のような天声人語ですが、最後の方で詩人・茨木いばらぎのり子(1926・大正15~2006・平成18)の詩の一節が引用してあります。コラムの主旨に合う部分だけの引用ですが、全体の詩はスケールが大きいものです。


言いたくない言葉

こころの底に 強い圧力をかけて
しまってある言葉
声に出せば
文字に記せば
たちまち色褪せるだろう

それによって
私が立つところもの
それによって
私が生かしめられているところの思念

人に伝えようとすれば
あまりに平凡すぎて
けっして伝わってはゆかないだろう
その人の気圧の中でしか
生きられぬ言葉もある

一本の蝋燭のように
熾烈に燃えろ 燃えつきろ
自分勝手に
誰の眼にもふれずに

茨木のり子詩集
(思潮社:現代詩文庫20。1969)

茨木のり子詩集(岩波文庫。2014)
より引用

中島みゆきさんの《ピアニシモ》は "歌についての詩"、"歌うことについての詩" と本文で書きましたが、それはまだ浅い見方かもしれません。もっと広く、「言葉によって何かを伝えることについての洞察」かもしれない。天声人語と茨木のり子の詩を読んで、そう思いました。

(2019.9.19)



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No.227 - 中島みゆきの詩(14)世情 [音楽]

今年の正月のテレビ番組を思い出したので書きます。No.32 でも書いたテレビ朝日系列の「芸能人格付けチェック」(2018年1月1日 放映)のことで、今年久しぶりに見ました。No.32 で書いたのは、この番組の本質です。それは、

  問題出題者は、高級品・高級食材に人々が抱いている暗黙の思いこみを利用して回答者を "引っかけ" ようとする。回答者は思いこみを排し、問題にどんな "罠" が仕掛けられているのかを推測して正解にたどり着こうとする。

としました。もちろんここで言う回答者とは「番組の本質が分かっている回答者」であり、そういう回答者ばかりでないのは見ていて良く分かります。そして、久しぶりに見て改めて感じたのは、番組の "フォーマット" の良さです。つまり、

  回答者を順に Aの部屋とBの部屋に入れ、互いをモニターできるようにし、かつ視聴者は2つの部屋をモニターでき、最後は司会者が正解の部屋の扉を開けることによって正解者が驚喜するという、このテレビ番組のフォーマットが素晴らしい

のです。このフォーマットがなければ全くつまらない番組になるでしょう。これを発明した人はすごいと思います。日本のテレビ番組のフォーマットは海外に輸出した実績がありますが(料理の鉄人など)、この番組も売れるのではないでしょうか。

今年の「芸能人格付けチェック」はGACKTチームとしてYOSHIKIさんが出演していました。GACKTさんは例によって全問正解で連勝記録を伸ばしていましたが、YOSHIKIさんも全問正解でした。問題の一つのワインのテイスティングでは、YOSHIKIさんが自分の名前の入ったワインを作っていることを初めて知りました。相当なワイン通のようです。GACKTさんが5年越しで説得して番組に出演してもらったそうですが、かなりの "目利き" だと分かっていたからでしょう。単に親しいミュージシャンだからという理由でこの番組への出演を説得するはずがありません。



番組の最後には「ミニ格付けチェック」というコーナーがあって、司会の浜田雅功さんと伊東四朗さんと女性アシスタントが問題に挑戦します。ここで浜田さんが2年連続の「写す価値なし」となってしまいました。そしてこのとき流れた BGM が、中島みゆき《世情》でした。《世情》の "時の流れを止めて" というフレーズが聞こえてきたので、「これ以上 "写す価値なし" にならないで」という意味を重ねたのでしょう。

中島ファンとしては、こんなところで《世情》という名曲を使わないで欲しいと思うのですが(そして単に "言葉尻" をとらえた使い方をして欲しくないと思うのですが)、この曲はかつてTBSのドラマ「3年B組金八先生」で用いられたことがあるので(1981年)、テレビとは縁があるのでしょう。また「芸能人格付けチェック」の制作スタッフの中に中島みゆきの楽曲を熟知している人がいる感じもして、それはそれで良しとしましょう。

今回はその、中島みゆき《世情》についてです。この詩は No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」でも取り上げたのですが、詩の一部だけだったので、改めてこの詩だけにフォーカスして書くことにします。

なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。


中島みゆき 《世情》


《世情》は1978年(中島みゆき 26歳)に発売されたアルバム『愛していると云ってくれの最後の収録された曲で、次のような詩です。


世情

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
そのたび 崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中はとても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつも ついている

包帯のような 嘘を 見破ることで
学者は 世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

A1978『愛していると云ってくれ


愛していると云ってくれ.jpg
①「元気ですか」 ②怜子 ③わかれうた ④海鳴り ⑤化粧 ⑥ミルク32 ⑦あほう鳥 ⑧おまえの家 ⑨世情

曲はギターだけで始まり、小さく合唱が出てきて、それがだんだん大きくなったところで中島さんが歌い出します。上の詩が終わったあとのエンディングでは再び合唱が出てきて、「シュプレヒコール ~ 戦うため」の部分がさらに4回繰り返されるうちにフェイドアウトして楽曲が(=アルバムが)終わります。

この詩のキーワードは、4回出てくる "シュプレヒコール" です。誰が聴いてもそう思うはずです。最初と最後に出てくる合唱は、シュプレヒコールをあげながら行進するデモ隊が近づいてきて、通り過ぎていく情景が浮かびます。そして、このキーワードが学生運動を連想させます。詩の中の "学者" という言葉が大学を暗示している。シュプレヒコールは一般にデモ隊が発するものなので限定して考える必要はないのですが、ここでは学生運動を想定することにします。

このアルバムが発売されたのは1978年です。今では「学生運動」は死語に近くなっていますが、1978年当時はその10年前ほどから全国に広がった学生運動のリアルな記憶ある頃でした。そこで、アルバム発売のちょうど10年まえ、1968年に戻ってみます。


1968年からの数年間


1968年の1月です。従来から医者のインターン制度(無給の研修医制度)の改革を要求していた東京大学医学部の学生は、新制度に反対してストライキに突入しました。この中で、医学部教授が長時間拘束されるという事態になりました。3月、医学部は学生17人を退学や停学の処分にします(この中には拘束の現場にいなかった学生もいた)。これが学生たちの怒りに火をつけ、闘争が始まりました。6月、学生たちは東大のシンボルである安田講堂を占拠し立てこもります。そして東大闘争全学共闘会議(全共闘)が組織され、医学部のみならず全学の自治会がストに突入しました。

その後の経緯は紆余曲折があるのですが、結局大学側は翌年の1969年1月に機動隊の出動を要請し、安田講堂の封鎖は解除され、多数の逮捕者を出しました。その安田講堂の "攻防戦" はテレビで全国に大々的に生中継されました。この一連の紛争の結果、東京大学の入学試験が中止されるという前代未聞の事態になりました。1969年4月に東大に入学した人はゼロです。そして1969年から1970年にかけて、大学の改革を要求する学生たちの運動は全国的に波及しました。また1970年は1960年に締結された日米安全保障条約の改定の年であり、いわゆる「70年安保闘争」にもつながっていきました。

  余談ですが、No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」に書いたように、評論家・思想家の内田 たつる氏は1950年9月生まれなので、順当なら大学入学は1969年4月です。しかし内田さんは1970年4月に東大に入学しています。おそらく東大入試が中止されたので、あえて一浪したのでしょう。入試中止というのは現役で東大を目指していた人にはショックだったでしょうが、一浪して目指していた人にとってはもっとショックだったはずです。

1968年というと、日本大学の不正会計に端を発した日大闘争が起きた年です。また、この年には欧米でも学生運動が多発しました。フランスでベトナム戦争反対、大学運営の民主化を要求して大規模なデモとストライキが起こったのも1968年です(5月革命、ないしは5月危機)。またアメリカの学生運動で有名なコロンビア大学闘争も1968年です。ちなみに1968年にはチェコスロバキア(当時)で自由化・民主化を求める「プラハの春」が起きました(ソ連が武力介入して弾圧)。またアメリカの公民権運動の指導者だったキング牧師が暗殺されたのもこの年でした。

そもそも1960年代後半は、アメリカがベトナムに介入したベトナム戦争に反対する市民運動やデモが、アメリカのみならず日本やヨーロッパでも多発していました。もちろん学生たち(あるいは高校生たち)もそこに参加していました。

以上のような1960年代後半の学生運動を描いた映画も作られました。有名なのが、No.35「中島みゆき:時代」で書いた『いちご白書』です。この映画はまさに1968年のコロンビア大学闘争が題材となっていました。『いちご白書』の日本公開は1970年の秋です。



以上の経緯に中島みゆきさんの経歴を重ねるとどうなるでしょうか。中島さんは1952年2月23日生まれです。高校・大学の経歴を各年の4月の時点でみると、

1968年4月・16歳
高校2年(帯広柏葉はくよう高校)
1969年4月・17歳
高校3年
1970年4月・18歳
大学1年(ふじ女子大学・札幌)

ということになります。つまり高校1年の3学期に東大闘争がはじまり、高校2年のときに闘争がピークを迎えて安田講堂攻防戦のテレビ生中継があり、高校3年では学生運動が全国に波及し、東大入試がなかった1969年4月の1年後に大学に進学したことになります。『いちご白書』の日本公開は大学1年の秋です(中島さんの『時代』は『いちご白書』の主題歌に影響されたところがあるのでは、という推測を No.35「中島みゆき:時代」に書きました)。

高校生というと、社会への関心が芽生える頃です。中島さんの作品から判断すると、彼女は社会への関心が極めて強いと考えられます(No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」)。極端には "この国は危うい" という詩も書いている(「4.2.3.」という詩。1998年のアルバム「わたしの子供になりなさい」に収録)。そういう社会への関心、社会との関係性で人間を考えるというスタンスは、普通、高校生時代に芽生えるものです。彼女も帯広の高校で学生運動の報道を見聞きしながら、そういった思いを膨らませていったと推測します。

『世情』という詩は、歌手デビュー(1975年)してから3年後(1978年)に、1968年~1970年ごろを振り返って作った作品だと考えられます。


シュプレヒコールの波


しかし作品はあくまで独立したものなので、それを作者の個人史をもとに解釈するのは本来の姿ではありません。そういう解釈は中島さんが嫌う態度でしょう。学生運動のイメージに頼りすぎずに『世情』を詩として解釈するとどうなるかです。解釈のポイントは4回繰り返される、


シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため


という部分でしょう。これは詩であって、論理的な文章ではありません。省略されている言葉があるし、また中島さんの詩には二重の意味にとれる言葉が多々あります(言葉の多義性を利用した詩)。上の引用の「変わらない夢」も二重の意味にとれると思います。まず、

以前からずっと抱いていて、今後も抱くであろう "夢"(=こういう風になりたい、ありたい、との願い)

という理解があります。これが普通の受け止め方だと想います。ただ、この詩の場合は、

今の状況のままでありたい、変わらないで欲しいという夢や願い

ともとれるでしょう。つまり夢の内容が「変わらないこと」であるという解釈です。こういうニュアンスもあって、シュプレヒコールからの4行をどのように解釈するかは人によって差異が生じて当然です。その差異があるという前提で解釈を書くとすると、

「シュプレヒコールをあげる人たち」が、「別の誰か」と戦っている。

その「別の誰か」とは、時の流れが止まってほしい、このままであって欲しいという「変わらぬ夢」を見ている人たちである。

その反対に、シュプレヒコールをあげる人たちの「変わらぬ夢」とは、時の流れを進め、流れに乗って、現状とは違う新しい世界を願う人たちである。

ということでしょう。政治的なニュアンスで表現したとしたら「改革派」と「現状維持派」ということになるのでしょうが、こういう対立は何も政治に限りません。人間社会におけるさまざまな組織やグループにみられるものです。一人の個人の中にもこの二つの思いがあったりする。これはどちらが良いとか悪いとかではなく、普遍的な二項対立です。

これと関連して「変わらない」ということばが出てくる次の部分も重要だと思います。


変わらないものを 何かにたとえて
そのたび 崩れちゃ そいつのせいにする


これをさきほどの「改革派」と「現状維持派」という言葉をあえて使って解釈すると、

  改革派は現状維持派を何かにたとえて自らの主張の正当性を言い、その主張が崩れると現状維持派のせいにする

という感じでしょうか。ただしこの様に "固定的に" 考えるのはあまりよくないのかも知れません。中島さんの作品には、聴く人のその時の心情によって違うイメージを重ねてもいいような言葉使いがいろいろとあるからです。

ただ、この詩は「シュプレヒコール」に加えて「変わらない」という言葉がキーワードになっていることは確かでしょう。冒頭の1行から「変わっている」という「変わらない」の反対語が出てきます。その直後の「頑固者」は「変わらないもの」と類似の意味の言葉です。さらに、変わることの象徴である「時の流れ」、あるいは省略して「流れ」もこの詩のキーワードになっています。

そして4回繰り返される「シュプレヒコール ~ 戦うため」は、やはり「時の流れを止めようとするもの」との "戦い" へのシンパシーを表現したものだと思います。アルバムを聴くと、中島さんは一番最後の「戦うため」という言葉だけを強く、長く伸ばして歌っているのですが、その歌い方に詩を書いた意図が表されていると思います。


"世情" というタイトル


さらにこの詩には、世の中に関する次のような認識が盛り込まれています。

世の中はいつも変化している
頑固者が悲しい思いをする
世の中はとても臆病
世の中には他愛のない嘘があふれている
他愛のない嘘を指摘して思い上がる人たちがいる(= "学者" と表現されている)

「シュプレヒコール」「変わらない夢」「変わらないもの」「時の流れ」に加えて、これらすべてが "世情" という言葉でくくられています。この "世情" というタイトルに注目すべきだと思います。"世情" とは「世の中のありさま」とか「世の中の状況」とか「世間一般の人の考えや人情」といった意味です。"世情" は、何らかの価値判断をしている言葉ではなく、いわば無色透明な言葉です。26歳の新進気鋭のシンガー・ソングライターなら、ふつう曲の題名にはしないような、もっと言うとポップ・ミュージックの題名にはそぐわないような言葉です。ちょうど『時代』というタイトルの付け方に似ています。

このタイトルが示しているのは、世の中はこういうもの、という認識でしょう。これはいつの世にもありうる状況を切り取った詩だと思います。はじめに学生運動を想起させると書きましたが、そういう固定的な解釈はそぐわない。「時の流れの中に夢をみるもの」と「時の流れを止める夢を見るもの」の対立は普遍的にあるものだからです。学生運動の記憶がこの詩のきっかけだったかもしれないが(それとて本当かどうか不明です)、この詩が見据えている本質ではありません。

《世情》を他の歌手の方が歌っているのをテレビで視聴したことがあります。その方は強い感情を込め、思い入れたっぷりに、まるで「戦いに破れて挫折した人たちに対する哀悼やエール」のような歌い方をしていました。何だか違和感がありましたね。そういう歌い方をすべき詩なのだろうかと思ったわけです。もちろん "思い入れ" があってもいいのですが、全体としては "世情" についての詩、"世の中の状況" についての詩です。感情をあからさまにせず、どちらかいうと淡々と歌った方がいい。その中から "思い入れ" が滲み出てくるような歌い方 ・・・・・・。アルバムでの中島さんがまさにそうです。

『世情』のような内容の曲を他の歌手がカバーするのは危険だと思います。歌手としてのよほどの力量がないと、本来の姿からねじ曲がってしまう。

やはりポイントは、いつの時代にもいえる普遍性を表現した詩だということです。それが "世情" だと思います。


作曲家:中島みゆき


詩の内容ではないのですが、作曲の面から付け加えたいと思います。4回繰り返される(最後の合唱まで含めると8回繰り返される)、


シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため


の部分ですが、ここのメロディーが詩の内容に良くマッチしています。上昇し下降する旋律が、同じリズム(似たリズム)で8回繰り返されるのですが、これが「シュプレヒコールの波」という詩の「波」という言葉と良く合っている。波が幾度となく押し寄せるように、シュプレヒコールが何度も近づき、遠ざかっていく様子が、メロディー・ラインでうまく表現されています。また、モノローグのように始まる最初の部分との対比もよく利いています。

前にも書きましたが、中島作品の評価やコメントにおいて「作曲家・中島みゆき」が語られることは、「歌手」や「詩人」と比較すると少ないと思います。だけど彼女は、歌手、詩人と同程度に、作曲家として優れていると思います。その3つが非常に高いレベルにあり、かつ融合している。この文章を書くために久しぶりに《世情》を聴いてみて、改めてそう思いました。

続く


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No.220 - メト・ライブの「ノルマ」 [音楽]

No.8「リスト:ノルマの回想」でとりあげたリストの『ノルマの回想』(1836)は、ベッリーニ(1801-1835)のオペラ『ノルマ』に出てくる数個の旋律をもとにリストが自由に構成した曲でした。

実は今まで『ノルマ』を劇場・オペラハウスで見たことがなく、No.8 を書いた時も一度見たいものだと思ったのですが、その機会がありませんでした。ところが先日、メト・ライブビューイングで『ノルマ』が上映されることになったので、さっそく見てきました。No.8「リスト:ノルマの回想」からすると7年越しになります。以下はその感想です。


ベッリーニのオペラ『ノルマ』(1831初演)


ベッリーニのオペラ『ノルマ』のあらすじは、No.8「リスト:ノルマの回想」に書いたので、ここでは省略します。ドラマの時代背景とポイントを補足しておきますと、紀元前50年頃のガリア(現在のフランス)が舞台です。

古代の共和制ローマは紀元前58年~51年、カエサルの指揮のもとにガリアに軍隊を進め、いわゆる「ガリア戦争」を戦いました。この結果、ガリア全土がローマの属州となりました。この過程を記述したカエサルの「ガリア戦記」は世界文学史上の傑作です。その直後のガリアがこのオペラの時代です。

ガリアの住民はケルト民族で、ドルイド教を信仰しています。オペラではドルイド教の巫女みこの長がノルマ、巫女でノルマの部下にあたるのがアダルジーザ、ローマのガリア総督がポリオーネで、この3人のいわゆる "三角関係" でドラマが進行していきます。

ノルマは「神の言葉を民衆に告げるポジション」にある女性で、古代ギリシャや邪馬台国と同じく、国や部族の意志決定を左右する重要人物です。オペラ『ノルマ』では、ガリアの民のローマに対する鬱積した不満や好戦気分を背景に、ローマと戦うべきか、それとも今は服従する "ふり" をすべきか、そういった神の意向をノルマが部族にどう告げるかが一つのポイントになっています。

そのノルマが、実は "敵" の大将のポリオーネと "情を通じて" いて(古い言葉ですが)2人の子供までいるというのが2つめのポイントです。そして3つめは、ポリオーネが既にノルマにめていて、ノルマの部下のアダルジーザに愛情が向かっていることです。これで "三角関係" が成立し、"3つの人間関係" でドラマが進行していきます。俗に言う "三角関係の修羅場"(3人の鉢合わせ)もあります。

ノルマを軸にこのオペラを一言でいうと、ソプラノ(ノルマ)とテノール(ポリオーネ)が、絶対にあってはならない仲になり、最後はソプラノもテノールも死ぬという筋であり、このストーリーはオペラの王道と言えるでしょう。さらにベッリーニの曲が素晴らしく、美しい旋律が満載のオペラです。"ベルカント" という音楽用語は歌い方(=ベルカント唱法)に使われますが、もともとイタリア語の "美しい歌" という意味です。このオペラは "ベルカント・オペラ" です。


メトのオペラ『ノルマ』


メト・ライブの『ノルマ』は、2017年10月7日のメトでの公演をライブ映像化し、日本で2017年11月18日~11月24日に公開されたものです。もちろん本当の意味でのライブではありませんが、公演から1ヶ月そこそこでの映像公開であり「ほとんどライブ」と言ってよいでしょう。上映のタイムスケジュールと指揮・演出・配役は次の通りです。

「ノルマ」タイムスケジュール.jpg

メト・ライブの日本公式サイトには、この公演のキャッチ・コピーとして次のように書かれていました。


ベルカントの2大女王、ソンドラ・ラドヴァノフスキーとジョイス・ディドナートの競演は必見! 伝統的な美感あふれるデヴィット・マクヴィガーの演出で、歴史絵巻を堪能しよう。

(メト・ライブビューイングの
日本公式サイト)

なるほど・・・・・・。映像のなかのオープニングのところでメトの総裁が「しかるべきソプラノとメゾを得たことでこの公演が成立した」という意味のことを語っていました。ベルカントの2大女王が、ベルカント・オペラの最高峰で競演するわけです。つまりこの公演のポイントの二つは、スター・ソプラノ(ラドヴァノフスキー)と、スター・メゾ(ディドナート)です。そしてもう一つのポイントがキャッチ・コピーにある「伝統的な美感あふれる演出」(マクヴィカー)です。

Sondra Radvanovsky and Joyce DiDonato.jpg
第1幕 第1場。ノルマが登場する場面。ラドヴァノフスキー(ノルマ。右)とディドナート(アダルジーザ)

改めて思ったのはノルマという役の難しさです。ドラマとしても難しい役ですが(ガリアの巫女とローマ総督の愛人の二律背反)、合計4場のオペラのほとんど全てに出演しっぱなし、歌いっぱなしです。ラドヴァノフスキーは幕間のインタビューで「難しいところは」と聞かれて「Everything !」と答えていましたが、まったくその通りです。ラドヴァノフスキーは最後までしっかりと歌いきっていました。ノルマを任される歌手ならそれぐらい歌えて当たり前なのかもしれませんが、さすが "スター・ソプラノ" だと思いました。

演出にもよるのでしょうが、ラドヴァノフスキーのノルマは随分と "人間的" です。二律背反に苦悩するという "人間としての姿" が強調されています。それは第1幕・第1場でノルマが初めて登場する場面(下の画像)から顕著です。初めから結末(自分の死)を予感しているような感じもある。意図的にそういうノルマ像を作ったのだと思いました。以下、メト・ライブを見て感じたことを何点かあげます。

Norma Act1 Scene1b.jpg
第1幕 第1場。ノルマがこのオペラで最も有名なアリア、「清き女神よ」を歌う前後の場面。舞台の中心にあるのはオーク(楢)の大木で、これはドルイド教徒の聖なる樹である。


ジョイス・ディドナートが素晴らしい


この公演では、アダルジーザ役のジョイス・ディドナートも素晴らしいと思いました。考えてみるとアダルジーザはノルマ以上に難しい役です。ガリアの巫女とローマ将軍の愛人の二律背反に加えて、結果として上司(ノルマ)を裏切った女を演じる必要がある。

ディドナートの多彩な声の表情、変化に富んだ表現力、歌唱の技術で、その存在感が抜群でした。第2幕・第1場にノルマとアダルジーザの美しい2重唱がありますが、ディドナートはインタビューでその難しさについて「ほとんど同じ旋律をソプラノとメゾ・ソプラノが別の感情で歌う難しさ」だと言っていました。そのあたりも良かった。上司と部下という立場の違いに加えて、結果として "恋敵" になってしまった二人が、何とか分かり合おうとする感情が、歌い方でよく表現されていました。

改めて思ったのは、『ノルマ』は最高の技量をもった女性歌手が2人揃わないと成立しないオペラだということです。メトの支配人の言う通りです。我々がよく聞くのは、『ノルマ』は一時期上演されなかった、それはノルマ役が難し過ぎるから、それを復活させたのがマリア・カラスだったという話です。No.8「リスト:ノルマの回想」にはそのマリア・カラスが語った『ノルマ』についての "思い" を引用しました。

しかしノルマだけが素晴らしくても、このオペラはダメなのですね。歌唱力と演技力を備えたソプラノとメゾソプラノが必須である。そのことがメト・ライブを見てよく分かりました。

Joyce DiDonato.jpg
第2幕 第1場。ノルマの家。アダルジーザ役のジョイス・ディドナート


司会のスザンナ・フィリップス


今回のメト・ライブの司会はソプラノ歌手のスザンナ・フィリップスでした。司会は初めてのようでしたが、彼女はこのとき "おめでた" です(2017年10月7日のライブ収録時)。下の画像のジョイス・ディドナートへのインタビューでは、最初の挨拶でディドナートに「Hi ! Suzanna and company !」と言われていました。"company" とは "お連れさん" ぐらいの意味ですね。

そして何と彼女は、出産後の2018年2月24日にプッチーニの『ラ・ボエーム』にムゼッタ役で出演する予定であり、その映像はメト・ライブとして2018年3月31日~4月6日に公開されるというのです。大丈夫なのかと思いますが、インタビュー中で「何とか間に合う」という意味のことを言っていました。たとえば、11月に出産したとして年内は子育てに専念、1月のどこかから本番に向けて練習開始ということなのでしょう(あくまで想像ですが)。『ラ・ボエーム』ムゼッタ役は彼女がメトにデビューした役で、十八番おはこのようです。だからできるのでしょうが、スザンナ・フィリップスのバイタリティーと言うか、ポジティブさに感心しました。

メト・ライブはオペラ歌手が司会者になり、オペラ歌手や演出家、支配人、舞台担当にインタビューをしたり、またオペラの楽しみを語ったりするわけで、オペラ鑑賞する以外に普段聞けないような話があります。そこが面白いところです。

Joyce DiDonato and Susanna Phillips.jpg
第1幕と第2幕の幕間で、ジョイス・ディドナート(左)にインタビューするスザンナ・フィリップス(右)


森と家の場面転換


この公演で印象的だったのは舞台作りと場面転換です。『ノルマ』というオペラは、

第1幕・第1場 森
第1幕・第2場 ノルマの家
第2幕・第1場 ノルマの家
第2幕・第2場 森(第1幕とは別)

と進みます。第1幕・第1場で舞台の真ん中にあるのはドルイド教における神聖な樹であるオーク(楢)です(下図)。このオークはあえて根がむき出しになるようにしつらえてありました。

第1幕・第2場はノルマの家(隠れ家)です、この家はオークの根が地中にあって、そこに作られたという想定です。演出のデヴィット・マクヴィカーがインタビューでそう語っていました。オークの樹につつまれて二人の子どもを住まわせている家があるわけです。

そして第1場から第2場への転換は、幕を降ろさずに照明を暗くしただけで行われました。これは、メトの舞台が2階建てになっていて、その "2階建て" を上下させるだけで場面が転換できるからです。さらにメトでは左と右と奥に3つの舞台があり、そのどれかを水平にスライドさせて場面を転換することもできる。つまり合計5つの舞台をスピーディーに入れ替えられるわけで、いかに大がかりなオペラハウスかということがよく分かりました。これもインタビューで語られていたことで、こういう知識がつくのもメト・ライブの良さでしょう。

Norma Act1 Scene1a.jpg
第1幕・第1場の舞台。真ん中にあるのはドルイド教における神聖な樹であるオーク(楢)で、あえて根をむき出しにした造形になっている。ちなみに日本ではコナラ属の木を樫(常緑性)と楢(落葉性)に言い分けるが、舞台装置でも分かるようにオークは落葉性であり、訳は楢が適当。

Norma Act1 Scene2.jpg
第1幕・第2場の舞台。場面はノルマの家(隠れ家)。柱に相当する上下方向の木はオークの根であり、根の中の空間に作られた家という想定である。


『ノルマ』が暗示するもの


『ノルマ』というオペラはシンプルです。場面も森と家しかないし、主要な登場人物はノルマの父のオロヴェーゾを入れても4人です。ストーリーもどちらかと言うと単純です。このオペラの見所・聞き所はあくまで歌手の歌唱と心理演技、ベッリーニの音楽なのでしょう。

しかしもっと大局的に考えると、このオペラは「文明」(=ローマ)と「自然」(=ノルマを始めとするガリアの民、およびガリアの自然そのもの)の相克ととらえることができそうです。

まず、ローマ総督のポリオーネは非常に "イヤな男" として描かれます。征服者の権力をカサにきて被征服民の女性(それも神に仕える身である巫女)に手を出すのだから、イヤな男どころか "非道な男" と言ってもいい。ポリオーネ役のジョセフ・カレーヤに司会のスザンナ・フィリップスがインタビューする場面がありましたが、スザンナはジョセフ・カレーヤに「一人だけでなく、二人の女性の人生を台無しにした男ですよね」と突っ込んでいました。確かにそうです。

一方のノルマとアダルジーザは、人間としての相反する感情の軋轢に苦しみつつも、互いを理解しようとします。またノルマは最後に「裏切り者はこの自分だ」と自ら告白し、2人の子どもを父に預けて、毅然として処刑台に向かう。ポリオーネも最後には "改心" するのですが、それもノルマの "人間としての気高さ" に触れたからです。ノルマは最後に死を選ぶことによって大地に戻り、その行為でガリアの民に生き方を示した。ノルマの人間としての気高さの勝利で、このオペラは終わります。

演出のデヴィット・マクヴィカーはスコットランドのグラスゴー出身です。グラスゴーには有名なサッカー・クラブである "セルティックFC" がありますが(かつて中村俊輔がプレーした)、セルティックとは「ケルト人、ケルトの」という意味です。ウェールズ、アイルランドと同じく、スコットランドにはケルト文化の名残りが色濃く残っています。また英国からの独立運動にみられるように、独自性を主張する気風が脈々としてある。そういう地域の出身である演出家は『ノルマ』に描かれた "ケルト" を強く意識したことでしょう。それは "樹" に強くこだわった舞台装置にも現れていると思いました。

文明の物質的な圧力に抗して、自然とともに生きる人間の精神の勝利、というのが、このオペラのもっとも大局的な "見立て" だと思いました。



余談ですが『ノルマ』のエンディングを見ながらふと思い出したオペラがあります。このエンディングではノルマが(ポリオーネとともに)火の中に向かう(火刑台に向かう)のですが、これで思い出したのがリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』の最後の最後の場面、『神々の黄昏』でブリュンヒルデが愛馬グラーネとともに炎の中に飛び込むシーンです。ブリュンヒルデはそれで大地に帰り、指環はラインの乙女に戻り、時が循環し、時代が進む。

ワーグナーはベッリーニを大いに評価していたようです。ひょっとしたら『指環』のエンディングを構想するときに『ノルマ』が念頭にあったのかもしれません。フランツ・リストは『ノルマ』に感じ入って『ノルマの回想』を作曲したぐらいだから・・・・・・。




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No.219 - リスト:詩的で宗教的な調べ [音楽]

今までフランツ・リスト(1811-1886)の曲を3つとりあげました。

No.    8 - リスト:ノルマの回想
No.  44 - リスト:ユグノー教徒の回想
No.209 - リスト:ピアノソナタ ロ短調

の3作品です。No.8No.44 は、それぞれベッリーニとマイヤーベーアのオペラの旋律をもとに自由に構成した曲で、どちらかというとリストの作品ではマイナーな(?)ものです。一方、No.209 は "傑作" との評価が高い曲ですが、今回は別の傑作を取り上げます。『詩的で宗教的な調べ』です。他にも有名な作品はありますが、なぜこの曲かと言うと私が持っているこの曲の CD(イタリアのピアニスト、アンドレア・ボナッタ演奏)について書きたいからです。それは後にすることにして、まず『詩的で宗教的な調べ』について振り返ってみます。


詩的で宗教的な調べ


『詩的で宗教的な調べ』はリストが19世紀フランスの代表的詩人、アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790-1869)の同名の詩集(1830)に触発されて作曲した、全10曲からなるピアノ曲集です。1845年(34歳。初稿)から1853年(42歳。最終稿)にかけて作曲されましたが、曲集の中の「死者の追憶」の原曲は1834年(23歳)の作品であり、足かけ20年近くの歳月で完成したものです。

この曲集は、ドイツ系ロシア貴族のカロリーヌ・ザイン = ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人に献呈されたものです。No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」に書いたように、リストは20代にマリー・ダグー伯爵夫人と同棲し3人の子をもうけました。そのダグー夫人に献呈したのが『ユグノー教徒の回想』(1836)でした。夫人との関係を清算したあと、1948年(37歳)から13年間、同居生活を送ることになったのが、一人の子連れだったカロリーヌです。リストは2度も "人妻の伯爵夫人" と生活したことになります。

カロリーヌに献呈された『詩的で宗教的な調べ』の全10曲は、次のような構成になっています。以下の説明は、アンドレア・ボナッタのCDの解説を参考にした部分があります(★印)。この解説はボナッタ自身の執筆によるものです。

 第1曲 : 祈り 

オープニングにふさわしく堂々としていて、かつ厳粛で崇高な感じがする曲です。「祈り」というタイトルとあわせて感じるのは「内なる感情、魂の声の表明」ないしは「内心の思いが外に溢れ出す」といった雰囲気です。演奏時間は約8分。

 第2曲 : アヴェ・マリア 

演奏時間は約7分。穏やかで可愛いらしい感じのメロディー(譜例143 = アヴェ・マリアの旋律)が反復し、静かに思いを訴えるという風情の作品です。第1曲と同じ「祈り」の表現なのでしょうが、曲の作りかたが対称的です。なお譜例はピアノ譜の一部を抜き出したもので、以下の譜例も同様です。

 ◆譜例143
アヴェ・マリア.jpg

 第3曲 : 孤独の中の神の祝福 

『詩的で宗教的な調べ』の中でも、第7曲の『葬送』と並んで単独でよく演奏される曲で、演奏に20分近くかかります。リスト作品の中でも屈指の名曲だと言えるでしょう。この曲の詳細は次項に書きます。

 第4曲 : 死者の追憶 

1834年(23歳)に作曲された『詩的で宗教的な調べ』が原曲で、リストがラマルティーヌの詩集にインスパイアされて作った最初の曲です。瞑想するような、しばしば休符でとぎれる前半ですが、中間部で曲想が激しく動き出します。演奏時間約 15分。

 第5曲 : 主の祈り 

リスト初期の合唱曲のピアノ編曲で(★)、グレコリオ聖歌の感じがします。「第1曲 : 祈り」「第2曲 : アヴェ・マリア」とともに「祈り」がテーマになっていますが、それぞれ違う「祈り」の側面を表現しているようです。演奏時間 約3分。

 第6曲 : 目覚めた子への賛歌 

演奏時間 約6分。歌のような優しいメロディー(譜例144)が印象的です。曲の3分の2を過ぎたあたりから、符点音符の音型が続く快活な気分のところに入り、その雰囲気で終わります。

 ◆譜例144
目覚めた子への賛歌.jpg

 第7曲 : 葬送 

演奏時間 約13分。『第3曲:孤独の中の神の祝福』とならんで単独で演奏されることの多い曲です。葬送の弔いの鐘を模したと言われる序奏で始まります。譜例145は中間部の "悲しげな" 旋律です。半音だけ下げられたファ♭の音が悲しさを強調しています。この旋律をフォルテシモのオクターブの連続で演奏するところが出てきますが、このあたりは "強い哀悼" という感じがします。

 ◆譜例145
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この曲は「1849年10月」の副題をもっています。リスト研究によると、これはリストの祖国・ハンガリーのために命を落とした人たちを追悼する曲です。1848年、ハンガリーではオーストリアからの独立を目指した「自由ハンガリー政府」が設立されました(= 1848年のハンガリー革命)。この政府の首相がバッチャーニ・ラヨシュという人です(日本と同じでバッチャーニが姓)。この革命は結局オーストリアによって鎮圧され、1849年10月バッチャーニは6名の政府高官とともにオーストリアによって処刑されました。この追悼が「1849年10月」の意味です(★)

 第8曲 : パレストリーナによるミゼレーレ 

パレストリーナ(1524-1594)はイタリア後期ルネサンス期の作曲家で、教会音楽の父と言われています。ミゼレーレは慈悲という意味で、旧約聖書の「ミゼレーレ メイ、デウス」(神よ、我を憐れみたまえ)に由来します。

この第8曲はリストがシスティーナ礼拝堂で聞いた旋律にもとづくということになっていますが、パレストリーナではなく同時代の作曲家の旋律です(★)。曲は3つの部分から成っています。まずゆっくりとしたテーマで始まり、次にトリルの伴奏が現れ、さらに波のようにうねるアルベジオへと進んでいきます。演奏時間 約4分。

 第9曲 : 無題(アンダンテ・ラクリモーソ) 

演奏時間 約8分。この曲にはタイトルがつけられていません。アンダンテ・ラクリモーソという発想標語なので、普通これで呼ばれています。ラクリモーソは「涙ぐんだ」という意味で、リストがよく使った標語です。「第7曲:葬送」の中間部にもラクリモーソの指示があります。傷ついた心を表すような悲しげな曲です。リタルダンドやフェルマータで途切れ途切れに進み、テンポは揺れ続けます。

 第10曲 : 愛の賛歌 

題名どおり、愛することの喜びや素晴らしさを表現しているのでしょう。アンドレア・ボナッタのCD解説によると、この曲は『詩的で宗教的な調べ』という曲集の結論だと言います(★)。つまりこの曲集には "詩的な感情" を表現した曲と "宗教的な感情" を表現した曲がある。代表曲をあげると、

 ◆詩的な感情
  『孤独の中の神の祝福』
  『アンダンテ・ラクリモーソ』

 ◆宗教的な感情
  『アヴェ・マリア』
  『主の祈り』
  『ミゼレーレ』

などである。そして最後に『愛の賛歌』をもってきたということは、

 詩的な感情+宗教的な感情=愛

というリストの考え(=曲集の結論)を表している・・・・・・。なるほど、そういう見方ができるのかと思いました。静かに始まりますが、次第に曲は華麗さを増していきます。演奏時間 約7分。


孤独の中の神の祝福


『詩的で宗教的な調べ』の中の名曲であり、リスト作品でも屈指の傑作でしょう。ピアニストのアンドレア・ボナッタは「あらゆるピアノ作品の中で最も美しいものの一つ」と言っていますが(★)、確かにそうかもしれません。

この曲の楽譜にはラマルティーヌの詩が題辞として引用されています。その詩の大意を試訳すると以下です。


孤独の中の神の祝福(大意・試訳)

私の心を満たす平和はどこから来たのだろう?
心にあふれる信仰はどこから来たのだろう?

私は今、すべてが定かでなく、動揺し、
風の中の、疑いの波の上にいる

賢人の夢に善と真実を求め、
轟く嵐の中に心の平和を求めている

私の前を過ぎたのは数日もないが、
1世紀と世界が過ぎ去ったように感じる

それらとは巨大な深淵で隔たれて、
私の中に新しい人間が再生し、再び動き出す

ラマルティーヌ

曲は Moderato の指示がある、4分の4拍子の譜例146で始まります。この譜例はピアノ譜から "旋律" だけを抜き出したものです(以下の譜例も同様)。シャープ6つの "嬰へ長調" で、ファ#の音が主音です。譜例では省略しましたが、旋律はトリル風の分散和音でいろどられていて、このような装飾的なピアノの動きが曲の進行に沿って次々と多彩に変化していきます。

 ◆譜例146:テーマA
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譜例146を仮に「テーマA」としておきますが、これが主題です。『孤独の中の神の祝福』は「テーマA」が3回繰り返され、それぞれあとに別の副次的なテーマ(以下のB~Fの5種)が続くという構成になっています。テーマAに続いて譜例147の「テーマB」の部分になります。

 ◆譜例147:テーマB
孤独の中の神の祝福B.jpg

テーマBの展開がしばらく続いた後、再びテーマAになりますが、今度は1オクターブ上の音域です。また譜例146の旋律の後半は変化し、テーマのあとに曲が高揚して強い音が連続する箇所となり、フォルテ3つのクライマックスを迎えます。そして、その高揚感をなだめるように続くのが譜例148(テーマC)です。ここまでが第1部と言ってよいでしょう。

 ◆譜例148:テーマC
孤独の中の神の祝福C.jpg



二長調、Andante、4分の3拍子になって曲の雰囲気が一変し、譜例149の「テーマD」の部分になります。優しくそっとささやくような音型です。このテーマDが変化しつつ何度化繰り返されたあと曲は一段落し、今度は変ロ長調、4分の4拍子の譜例150(テーマE)の部分に入ります。このテーマも、変ニ長調、嬰ヘ長調と転調をしつつ何度か繰り返されて第2部が終わります。

 ◆譜例149:テーマD
孤独の中の神の祝福D.jpg
 ◆譜例150:テーマE
孤独の中の神の祝福E.jpg



Allegro Moderatoの指示で、再び嬰ヘ長調のテーマAが回帰します。ここからが第3部です。曲は第1部の2回目のテーマAとほぼ同じ経緯をたどり、フォルテ3つの最強音にまで到達します。その後にテーマCが続くのも第1部と同じです。

そのあとは "第2部の回想" に入ります。テーマE → テーマD → テーマE(最後の7小節)となって曲が終わるのですが、少々意外なのは、テーマDの前に今までなかった「テーマF」(譜例151)が Andante で出てくることです。素朴で単純な旋律ですが、大変に印象的です。従って曲の終結部は、テーマE → テーマF → テーマD → テーマE ということになります。

 ◆譜例151:テーマF
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第3部は第1部と第2部の "回想" であり、再現して終結すると思って聴いているところに全く新しいテーマが出てくるので意外性があるのですが、これは何らかの意味があるのでしょうか。詩の最後に「私の中に新しい人間が再生し、再び動き出す」とありますが、この句に対応しているのではと思います。『詩的で宗教的な調べ』は題辞に掲げられているラマルティーヌの詩をそのまま "なぞった" ものでは決して無いのですが、この部分だけは詩の一節に対応しているのではないか。そう思います。


リスト・ピアノ


イタリア人ピアニスト、アンドレア・ボナッタが『詩的で宗教的な調べ』を録音したCDについて書きます。このCDの最大の特徴はリスト時代のピアノを使って録音されていることです。

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詩的で宗教的な調べ - ボナッタ(2).jpg
フランツ・リスト
詩的で宗教的な調べ
コンソレーション
演奏:アンドレア・ボナッタ
ピアノ:Steingraeber 1873
レーベル:仏・ASTREE(1993)
録音:1986

ドイツのバイロイトにシュタイングレーバー社という、リストの時代から続くピアノ製造会社があります(1820年創業)。かつて、ここのオーナーとリストは懇意で、晩年のリストはシュタイングレーバー社のピアノを使っていました。バイロイトの本社の建物(シュタイングレーバー・ハウス)にロココ様式のホールがあり、そこには1873年製のピアノが今でも置いてあります。このホールでは各種のコンサートが開かれ、1873年製のピアノの演奏もやるようです。

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シュタイングレーバー・ハウス
バイロイトにあるシュタイングレーバーの本社。17世紀に建造された建物である。
(Wikimedia Commons)

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1873年製 シュタイングレーバー
シュタイングレーバー・ハウスのロココルームに置かれている、通称「リスト・ピアノ」または「ロココ・ピアノ」。
(site : www.steingraeber.de)

リストはここをよく訪れてこのピアノを弾き、ワーグナーと妻のコジマ(リストの娘)を前にして弾いたこともあります(★)。そのため、この1873年製シュタイングレーバーは「リスト・ピアノ」と呼ばれています。また装飾から「ロココ・ピアノ」という別名もあります。ボナッタの『詩的で宗教的な調べ』はこの「1873年製シュタイングレーバー」で録音されました。



このピアノの音の感想ですが、現代のコンサート・ピアノと比較して次のような感じがします。まず、高音がキラキラときらめくような華麗な音ではありません。高い音域に広がる倍音が少ないのでしょうか。全般につややかで "張り" のある音色ではなく、少しくすんだ感じの渋さがある硬い音色です。柔らかくて "まるみ" を帯びた音も出しにくいと聞こえます。

打鍵したあとの音の減衰も早い感じで、長い音符が連続するような単音のメロディーでは音がコマ切れになりやすい。『孤独の中の神の祝福』の出だし(= テーマA。譜例146)は、全音符がいっぱい出てくる息の長いゆっくりした "旋律" ですが、多彩な装飾音で飾られているからこそ "間が持っている" 感じがします。

他のピアニストが録音した『詩的で宗教的な調べ』と聴き比べてみても、明らかに音の表情の多様さや音の響き具合は現代のコンサート・ピアノがまさっています。1873年製ということは今から150年近く前です。ヴァイオリンは300年前の楽器が今でも世界最高峰ということになっていますが、ピアノについては明らかに「表現力と音色が豊かな楽器を作る技術」が150年の間に進歩した感じです。

このCDを聞いて強く思うのは、リストは「1873年製シュタイングレーバー」のようなピアノの音を前提に作曲したのだろう、ということです。そういうピアノをいかに "鳴らせて" 自分の理想とする音楽を作るか。それがリスト作品(の一つの意味)ではないか。

現代のピアニストが現代のピアノで弾くリストを聴くと、時に "過剰さ" が目立つわけです。過剰な技巧、過剰な装飾音、過剰な強打音 ・・・・・・。しかしその "過剰さ" は、現代ピアノとは違う「1873年製シュタイングレーバー」のようなピアノを前提に、音の幅や音楽表現の豊かさを最大限に追求した結果だったのはないかと考えられます。150年前は現代と同じではありません。そこをよく考えないと作曲家の正当な評価もできないはずです。このCDを聴いてリスト作品への見方が少し変わったのでした。


ブックオフ


ここからは余談です。実は、アンドレア・ボナッタ演奏する『詩的で宗教的な調べ』のCD(『コンソレーション』も入っている2枚組)は、かなり前に自宅近くのブックオフで買ったものです。もちろん探していたわけではありません。そもそもクラシック音楽のCDはブックオフには少ないので、買うことはめったにありません。その時も確かポップスのCDを見に行ったと思います。たまたま偶然に見つけて『詩的で宗教的な調べ』という曲名と「Piano Liszt, Eduard Steingraeber, Bayreuth, 1873」というジャケットの文字を見て、即購入したわけです。800円ぐらいだったと覚えています。ボナッタというピアニストもその時に初めて知りました。

ブックオフをあなどってはいけない。それがよく分かりました。もちろん今では、ネットでのオークションやフリマも含めての話です。そこに人それぞれにとっての "一品" が眠っている。そういうことかと思います。




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No.214 - ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲 第2番 [音楽]

No.209「リスト:ピアノソナタ ロ短調」からの連想です。No.209 において、リストのロ短調ソナタは "多楽章ソナタ"と "ソナタ形式の単一楽章" の「2重形式」だと書きました。そしてその2重形式を弦楽でやった例がツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』だとしました。今回はそのツェムリンスキーの曲をとりあげます。

ツェムリンスキーについては No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」にオペラ作品『こびと』(原作:オスカー・ワイルド)と、それにまつわるエピソードを書きました。今回は2回目ということになります。


ツェムリンスキー(1871-1942)


アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)はウィーンに生まれたオーストリアの作曲家です。指揮者としても著名だったようで、ウィーンのフォルクス・オーパーの初代指揮者になった人です。作曲家としての代表作品は各種Webサイトに公開されているので省略します。

このブログで以前とりあげた当時のウィーンの音楽人との関係だけを書いておきます。まず、No.72「楽園のカンヴァス」でシェーンベルク(1874-1951)の「室内交響曲 第1番」について書きましたが、ツェムリンスキーの妹がシェーンベルクと結婚したため、ツェムリンスキーとシェーンベルクは義理の兄弟です。また No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」で書いたように、マーラー(1860-1911)の夫人のアルマはツェムリンスキーのかつての恋人でした。No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で書いたコルンゴルト(1897-1957)はツェムリンスキーに作曲の指導を受けた一人です。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲第2番 - LaSalle(LP - DG 1978).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲 第2番」Op.15
ラサール弦楽四重奏団
Deutsche Grammophone 1978(LP)

以降、ツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』がどういう構成になっていて、どういう主題や動機が出てくるのかを順にみていきたいと思います。

括弧内の数字の表記で(1-122:122)の "1-122" は "第1小節から第122小節まで" の意味で、":122" と書く場合は "合計が122小節" あることを示します。"(122)" であれば "第122小節" の意味です。


第1楽章(1-122:122)


『弦楽4重奏曲 第2番』は演奏に40分程度かかりますが全曲に切れ目はなく、続けて演奏されます。しかし実質的には "4つの楽章を続けて演奏する曲" と見なすことができます。以下は4楽章に分けて曲の流れを追っていきます。ただし作曲家が楽章の切れ目を明示しているわけではないので、人によって少々の解釈のズレが生じるでしょう(後述)。

 主題とその展開(1-104:104) 

まず冒頭は第1ヴァイオリンの譜例81で始まります。この冒頭4小節の後半2小節を《主題》と呼ぶことにします。この《主題》は以降さまざまに変奏されながら、最後の第4楽章まで随所に現れます。特に楽章の切れ目には必ず《主題》が回帰し、次の楽章への "橋渡し" となります。また第4楽章の最後も《主題》の変奏で締めくくられます。その意味で、これは『弦楽4重奏曲 第2番』の全体を支配する動機です。

 ◆譜例81(1-4) 《主題
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ここでは、冒頭の(1-2)は「主題の前触れ」であり(3-4)が《主題》であると考えています。もちろん4小節全体を主題としてもいわけです。第1楽章を「ソナタ形式」だとすると、ソナタ形式は「主題の提示・展開・再現」という構造なので、この第1楽章の場合、2小節だけの「序奏」があり、2小節の「主題の提示」があって、第5小節目からすぐに「展開」が始まると考えられるでしょう。「再現」もちゃんとあります(後述)。

  以降の記述では原則として「主題」も「主題の変奏」も区別せずに《主題》と書くことにします。後の第2楽章の《副主題》についても同様です。

音が次第に速く強くなっていき、フォルテの譜例82に続いてフォルテシモの譜例83が現れます。

 ◆譜例82(11-12)
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 ◆譜例83(16-17)
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譜例82の動機はこのあとの第1楽章で何回か現れます。また譜例83の動機は第4楽章の再現部に現れます(後述)。譜例83のすぐあとに続くのが《主題》のリズムを少し変えた譜例84です。

 ◆譜例84(23-25) 《主題
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このあと曲は静かになり、第1ヴァイオリンが奏でる主題の変奏が続きますが、再び《主題》が復帰してきます(譜例85)。

 ◆譜例85(41-43) 《主題
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譜例85は主題の後半を取り出したものです。この動機が第1ヴァイオリンで繰り返されて譜例86へと続きます。譜例86は譜例82が変形されたものです。そのあとには符点音符のリズムがたびたび現れ、ついには4つのパートが符点音符のリズムをフォルテシモで演奏する譜例87に至ります。

 ◆譜例86(50-51) [譜例82の変奏]
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 ◆譜例87(75-76)
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符点音符のリズムが8小節続いたあとに現れるのが、同じフォルテシモの譜例88です。このあと曲は譜例82(または譜例86)の変奏を経たあとに譜例89に至ります。譜例89は譜例88を短縮した音型になっています。と同時に、譜例88と譜例89は主題の変奏形と言っていいでしょう。譜例89のあたりは第1楽章の「主題とその展開」の最後の部分です。

 ◆譜例88(83-84)
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 ◆譜例89(99-100) [譜例88の変奏]
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 主題の再現(105-122:18) 

突如として譜例90の《主題》が再現し、第1楽章の再現部に入ります。この再現部は18小節の短いものです。またその中に次の第2楽章の副主題の断片も現れます。従ってこの18小節は、第1楽章から第2楽章への "移行部分" です。また譜例90のところから第2楽章が始まると考えて、18小節は "第2楽章の序奏" だと見なすこともできるでしょう。

 ◆譜例90(105-110) 《主題
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このように楽章の転換部分、ないしは楽章の中の大きな区切りのところで《主題》が再現するのが、この弦楽4重奏曲の大きな特徴になっています。


第2楽章(123-360:238)


第2楽章はアダージョの緩徐楽章です。この楽章は「第1部」と「第2部」に分かれていて、各部の終わりに《主題》が再現します。

第2楽章で主要な動機を副主題と呼ぶことにします。ソナタ形式の用語の第1主題が《主題》、第2主題が副主題というわけです。この曲の場合、副主題は複数の副主題群を構成しています。以下ではそれを4つにわけ、副主題A,B,C,D と表記します。この4つは互いに関係しています。

 第1部(123-263:141)アダージョ 

まず第2楽章の冒頭に出てくるのが譜例91の《副主題A》です。この断片は第1楽章の「主題の再現」のところに出てきました。《副主題A》はこの曲には珍しく "息の長い" 旋律です。

 ◆譜例91(123-130) 《副主題A
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譜例91のすぐあとに5連符を含む特徴的な動機(譜例92)が出てきます。これを《副主題B》と呼ぶことにします。この音型は以降たびたび現れ、第4楽章の終結部でも重要な役割を果たします。《副主題A》と《副主題B》は「静と動の対比」と言えるでしょう。

 ◆譜例92(137-138) 《副主題B
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副主題B》は各パートで繰り返されますが、ヴィオラが《副主題A》を奏でたあと、その次に第1ヴァイオリンに現れるのが譜例93の《副主題C》です。

 ◆譜例93(156-157) 《副主題C
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副主題C》は《副主題A》と似ていて、変奏と言ってもよいでしょう。譜例93は第1ヴァイオリンのパートですが、同時に第2ヴァイオリンに《副主題B》が付随しています。

ちなみに、ラサール弦楽4重奏団が演奏したこの曲のCDの解説に、この《副主題C》はシェーンベルクの『浄められた夜(浄夜)』(1899)からの引用だとありました。確かに『浄夜』の第1部~第2部に似たような旋律が出てきます。単純な音型なので引用と断言するのは難しいはずですが、ツェムリンスキーはこの曲をシェーンベルクに献呈しているので、解説どおりなのでしょう。

そのあとに続くのが譜例94の《副主題D》です。この動機も以降さまざまに変形されて出てきます。第2楽章だけでなく、第3楽章(スケルツォ)の中間部(トリオ)も《副主題D》が主役です。

 ◆譜例94(161-163) 《副主題D
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第1ヴァイオリンが譜例95を演奏するあたりから、《副主題D》の変奏が始まります。まずチェロに譜例96が現れ、次にヴァイオリンの16分音符の早い動きに呼応してヴィオラに譜例97が現れます。ヴァイオリンの16分音符の動きは次第に高まっていき、譜例98のあたりになると第2楽章の「第1部」も最終段階です。

 ◆譜例95(180-182)
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 ◆譜例96(184-186) 《副主題D
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 ◆譜例97(201-202) 《副主題D
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 ◆譜例98(229-230)
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副主題A》の断片が現れたあとに、第1楽章冒頭の《主題》が再現し(譜例99)、第2楽章の「第1部」は終わります。まとめると「第1部」ではまず副主題群が提示され、《主題》で締めくくられました。

 ◆譜例99(254-256) 《主題
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 第2部(264-360:97)アダージョの展開部 

第2楽章の「第2部」は「アダージョの展開部」とも言えるものです。まず最初は、第1ヴァイオリンの《主題》です(譜例100)。それが発展していき、譜例101のところでチェロも《主題》を奏でます。

 ◆譜例100(264-265) 《主題
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 ◆譜例101(276-277) 《主題
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そのあとに譜例102が続きます。この動機は《副主題A》の断片と《主題》の断片をミックスしたような音型になっています。

 ◆譜例102(279-280)
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そのあと譜例103の《副主題B》が現れ、譜例104へと続きます。譜例104は譜例102を2度下げたものです。

 ◆譜例103(286) 《副主題B
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 ◆譜例104(292-293)
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さらにヴィオラと第1ヴァイオリンが印象的なリズムの譜例105を演奏します。このリズムは継続してチェロの譜例106にも引き継がれます。

 ◆譜例105(299-300)
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 ◆譜例106(307-308)
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 ◆譜例107(315)
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ヴィオラが譜例107の動機を演奏し、同時にチェロは譜例105の変化形をヴィオラより高い音域で演奏します。このあたりから「第2部」はクライマックスに向かいます。譜例105,6,7の音型がさまざまに変容し、音の跳躍もあり、3連符も多数現れて最高潮を迎えます。そして音楽は静かになっていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

譜例108の《主題》が再現して、第2楽章「第2部」の再現部となります。このあと《副主題B》《副主題C》も再現し、第2楽章全体が終わります。

 ◆譜例108(348-349) 《主題
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第1楽章から第2楽章へと移る部分と同じく、この《主題》が再現する部分(348-360:13)は、第2楽章から第3楽章への "移行部分" です。従って譜例108のところから第3楽章が始まり、第3楽章には13小節の序奏が付いていると考えてもよいと思います。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲全集 - LaSalle(CD - DG 1989).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲全集」
ラサール弦楽四重奏団
Deutsche Grammophone 1989(CD)
(録音は1977~1981)


第3楽章(361-744:384)


第3楽章はいわゆるスケルツォです。この楽章も「第1部」と「第2部」に分けて考えるのが分かりやすいと思います。第3楽章に出てくる主要な動機4つをスケルツォ動機A,B,C,D と呼ぶことにします。

 第1部(361-450:90)スケルツォ 

第3楽章はチェロの重音のピツィカートが鳴って始まります。ピツィカートは2回ですが、1回目だけがスフォルツァンドで目立ちます。

まずヴィオラに出てくるのが譜例109の《スケルツォ動機A》です。これは明らかに《主題》の最初の小節の変形です。その次に第1ヴァイオリン伸びやかな《スケルツォ動機B》を演奏します。その後、曲は《スケルツォ動機A》を中心に進んでいきます。

 ◆譜例109(364-367) 《スケルツォ動機A
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 ◆譜例110(382-386) 《スケルツォ動機B
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 第2部(451-744:294)スケルツォの展開部 

譜例111の《スケルツォ動機C》が現れるところから「第2部」に入ります。この「第2部」は、A1→B→A2の3部形式になっています。以下、その表記をします。

 第2部・A1(451-631:181) 

この「A1」の部分は譜例111の《スケルツォ動機C》(第1ヴァイオリン)と、それに続いて現れる譜例112の《スケルツォ動機D》が支配しています。

 ◆譜例111(451-452) 《スケルツォ動機C
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 ◆譜例112(459-460) 《スケルツォ動機D
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これらの《スケルツォ動機A,C,D》の音型やリズムの断片がさまざまに変奏され、「A1」を形づくっていきます。その中に、2つのヴァイオリンとヴィオラが同時に演奏する「下降のグリッサンド」がありますが、特徴的で目立つところです。

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譜例112から約100小節後の譜例113のあたりになると、第2部の「A1」も終わりに近づきます。そして譜例114の《スケルツォ動機B》が復帰したのち、曲は次第に静かになって「B(中間部)」へと移っていきます。

 ◆譜例113(574-577)
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 ◆譜例114(604-608) 《スケルツォ動機B
Zemlinsky-SQ2-604.jpg
 第2部・B(632-682:51) 

「B(中間部)」はチェロだけの音で始まります。最初に出てくるのは譜例115の《副主題D》です。

 ◆譜例115(636-640) 《副主題D
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この中間部は、《副主題D》→《スケルツォ動機A》→《副主題D》→《スケルツォ動機B》という構成です。

 第2部・A2(683-744:62) 

再び譜例116の《スケルツォ動機C》が戻ってきて3部形式の「A2」になります。「A2」は「A1」に比べて約3分の1の長さです。3連符が連続したあとには譜例117の《スケルツォ動機D》も復帰します。

 ◆譜例116(683-684) 《スケルツォ動機C
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 ◆譜例117(720-721) 《スケルツォ動機D
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スケルツォ動機C,Dは符点音符のリズムが特徴的ですが、このリズムが繰り返されてからスケルツォ動機Aが復帰し、そのあと突如として《主題》が回帰して第4楽章に突入します。


第4楽章(745-1221:477)


第4楽章は「再現部」「展開部」「終結部」の3つに分けるのが考えやすいでしょう。最初の「再現部」は、曲全体を「単一楽章のソナタ形式」と考えたときの「再現部」に相当します。

 再現部(745-823:79) 

まず第1ヴァイオリンに譜例118の《主題》が再現します。このあと、第2楽章「第1部」で提示された4つの副主題が順に再現します。まずヴィオラに譜例119の《副主題A》が現れ、その次に第1ヴァイオリンに譜例120の《副主題B》が現れます。そして譜例121の《副主題C》、譜例122の《副主題D》と続きます。

 ◆譜例118(745-747) 《主題
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 ◆譜例119(758-765) 《副主題A
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 ◆譜例120(767-768) 《副主題B
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 ◆譜例121(777-778) 《副主題C
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 ◆譜例122(783-785) 《副主題D
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曲は高揚していき、フォルテシモの譜例123になります。これは第1楽章の譜例83と同じ動機です。その後《主題》の断片が演奏されるなか、再び譜例123の動機が出てきて再現部は終わりに近づきます。

 ◆譜例123(801-802) [譜例83の変奏]
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 展開部(824-1136:313) 

Allegro molto の譜例124がフォルテシモで演奏されて、第4楽章の「展開部」に入ります。この譜例124は《副主題D》の変化形といえるでしょう。

 ◆譜例124(824-826) [副主題Dの変化形]
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第4楽章の「展開部」には、ここだけに現れる2つの特徴的な動機があります。それを《フィナーレ動機A》と《フィナーレ動機B》と呼ぶことにします。譜例125が《フィナーレ動機A》で、このリズムは展開部に入る直前にも出てきました。また譜例124の直後もこのリズムです。譜例125の次に出てくるのが《フィナーレ動機B》です(譜例126)。この2つの動機は「展開部」にたびたび現れます。

 ◆譜例125(835-836) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例126(859-861) 《フィナーレ動機B
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フィナーレ動機B》が展開されたあと、曲は静かになり、チェロが譜例127を演奏します。この音型は《副主題A》と《副主題D》の断片がミックスされたような感じです。そのあと、はっきりとチェロが《副主題A》を演奏し(譜例128)、第1ヴァイオリンへと引き継がれます(譜例129)。

 ◆譜例127(894-902) [副主題A,Dの変形]
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 ◆譜例128(912-919) 《副主題A
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 ◆譜例129(932-939) 《副主題A
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再び最初のテンポ(Allegro molto)に戻って、チェロが単独で《フィナーレ動機B》を演奏します(譜例130)。ここからは《フィナーレ動機A》と《フィナーレ動機B》がさまざまに発展して曲が進みます(譜例131,132,133)。

 ◆譜例130(949-951) 《フィナーレ動機B
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 ◆譜例131(990-991) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例132(1028-1029) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例133(1034-1036) 《フィナーレ動機B
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この展開が進むうちに《副主題A》の断片が挟みこまれてきます。そして明瞭な形で譜例134の《副主題A》が第1ヴァイオリンに出てきます。そして《フィナーレ動機B》が展開されたあと《副主題D》が出てくるあたりになると(譜例135)、第4楽章の展開部も終わりに近づきます。

 ◆譜例134(1091-1093) 《副主題A
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 ◆譜例135(1109-1112) 《副主題D
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 終結部(1137-1221:85) 

 ◆譜例136(1138-1141) 《主題
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ヴィオラに先導されて譜例136の《主題》が第1ヴァイオリンに回帰し、第4楽章の「終結部」が始まります。しばらくして Andante の譜例137が出てきます。これは《主題》の変奏ですが、gesangvoll(歌うように)という指示があります。弦楽4重奏曲 第2番は40分に及ぶ長大な曲ですが「歌」を感じるほとんど唯一の部分がここです。

 ◆譜例137(1167-1176) [主題の変奏。"歌うように" の指示]
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そのあと、ヴィオラに譜例138の《副主題B》が出てくると、各パートがこの動機を競います。その間、譜例139の《副主題C》が出てきます。そして《副主題C》と《副主題B》が融合した譜例140に至ります。曲は最終段階です。

 ◆譜例138(1177) 《副主題B
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 ◆譜例139(1192-1195) 《副主題C
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 ◆譜例140(1202-1204) 《副主題C,B
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全曲の最後において、第1ヴァイオリンはE線(第1弦)の高い方の「ラ」の音から、高い方の「レ」の音へと登り詰めます。その間、第2ヴァイオリンが《主題》を長調に変奏した譜例141を静かに奏でます。そして最後の2小節は譜例142の二長調の主和音で終わります。

 ◆譜例141(1215-1219) 《主題
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 ◆譜例142(1220-1221) [最終2小節の和音]
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最後の譜例142は4つのパートを合わせたものですが、第1ヴァイオリンだけが単音で、3つのパートは重音です。合計7つの音の和音ですが、第1ヴァイオリンのE線の高い方のレの音から、第2ヴァイオリンのD線のファ♯の音までは3オクターブに近い音の開きがあります。この形の二長調の主和音が『弦楽4重奏曲 第2番』の到達地点です。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲全集 - LaSalle(Brilliant Classics 2010).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲全集」
ラサール弦楽四重奏団(CD)
Brilliant Classics 2010


"3重形式" の弦楽4重奏曲


楽曲の形式の観点から振り返りますと、上の説明は "4楽章の弦楽4重奏曲" という視点ですが、これを "ソナタ形式の単一楽章の曲" と見なすことができます。この曲は "多楽章" と "単一楽章" の「2重形式」だと初めに書きましたが、その通りなのです。その構造を図示すると次のようになるでしょう。①~⑦ は《主題》が提示され、再現・回帰する箇所です。

4楽章の見方 単一楽章の見方
第1楽章 提示部

主題と展開

第2楽章
副主題群
(第1部)
展開部

展開
(第2部)
第3楽章
  スケルツォ1  


  スケルツォ2  
(3部形式)
第4楽章 再現部
再現
展開
終結

ポイントとなっているのは第2楽章が2つの部分に分かれていて、その第2部が《主題》から始まっていることです。ここからが "ソナタ形式の単一楽章曲" と考えたときの「展開部」に相当するわけです。

さらにこの曲の構成は別の見方もできます。上の表をみると《主題》は ① ~ ⑦ の合計7回出てきます。ちなみに ⑦ は第4楽章の終結部の《主題》を示していますが、終結部の最初(譜例136)と最後(譜例141)に現れることは説明に書いた通りです。

これはいわゆる「ロンド形式」です。つまり「ロンド主題」が何度も回帰し、そのあいだに「ロンド主題とは別の要素」が挟み込まれるという楽曲の形式です。この曲の場合《主題》が「ロンド主題」となり、その「ロンド主題」のあいだに「ロンド主題とは別の要素」である「副主題群」や「スケルツォ動機」、「フィナーレ動機」などが挟み込まれる形です。

これは意図的にそうなっているのだと思います。「多楽章」と「ソナタ形式の単一楽章」を重ね合わせるだけだと、たとえば③や⑤や⑦(終結部の開始の⑦)で《主題》を回帰させる必要はありません。それがなくても "2重形式" は成立するからです。作曲家は明らかに「何度も回帰する」ことの効果を狙っています。以上を総合するとこの曲は、

4楽章の弦楽4重奏曲
ソナタ形式の単一楽章曲
ロンド形式の単一楽章曲

の3つの形式感が重なり合った "3重形式" の曲だと言えるでしょう。これを可能にしているのは、この曲の《主題》が持つ力です。この動機を変形・変奏することによって多くの動機やモチーフが作られています。聴いていて「主題の回帰」なのか「主題の展開・発展」なのか、どちらにもとれるようなところがいろいろあります。全体として受ける印象は、

  渾然とした一体感と、明晰な形式感が同居している曲

です。この曲は40分間、ブッ続けで演奏されます。これだけ長いと聴くにしても集中力が途絶えがちになるはずです。それを最後まで "もたせて" しま