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No.342 - ヒトは自己家畜化で進化した [科学]

No.299「優しさが生き残りの条件だった」は、雑誌・日経サイエンス2020年11月号に掲載された、米・デューク大学のブライアン・ヘア(Brian Hare)とヴァネッサ・ウッズ(Vanessa Woods)による「優しくなければ生き残れない」と題した論文の紹介でした。これは、人類(=ホモ族)の中でホモ・サピエンス(=現生人類)だけが生き残って地球上で繁栄した理由を説明する "自己家畜化仮説" を紹介したものです。

"自己家畜化仮説" の有力な証拠となったのは、旧ソ連の遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフ(1917-1985)が始め、現在も続いている「キツネの家畜化実験」です。この実験のことは No.211「狐は犬になれる」に書きました。この実験がなければ "自己家畜化仮説" は生まれなかったと思われます。"自己家畜化" というと、なんだか "おどろおどろしい" 語感がありますが、進化人類学で定義された言葉です。

ところで、ブライアン・ヘアとヴァネッサ・ウッズ(以下「著者」と記述)の論文の原題は「Survival of the Friendliest」(Scientific American誌)です。直訳すると「最も友好的なものが生き残る」という意味です。これはもちろん、進化論で言われる "Survival of the Fittest"(適者生存)の "もじり" です。適者生存とは、自然環境・生存環境に最も適した生物が生き残ることで生物が変化(=進化)し、多様化してきたという、進化論の原理を表現しています。それをもじって "the friendliest=最も友好的な者" としたわけです。

その著者は論文と同じ題名の本を2020年に出版し、2022年に日本語訳が出版されました。

Brian Hare & Vanessa Woods
"Survival of the Friendliest"
・ Understanding Our Origins and Rediscovering Our Common Humanity(我々の起源を理解し、我々に共通な人間性を再発見する)

ブライアン・ヘア、ヴァネッサ・ウッズ
ヒトは <家畜化> して進化した
・ 私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか
藤原多伽夫 訳(白揚社 2022.6)

です(以下「本書」と記述)。今回はこの本の内容の一部を紹介します。もちろん、論文と基本のところの主旨は同じなのですが、単行本ならではの詳細な記述もあります。

以下の引用では原則として漢数字を算用数字に直しました。また段落を増やしたところがあります。


問題提起:ホモ・サピエンスの大変化


現生人類(=ホモ・サピエンス。以下ヒト、または人間)がアフリカで誕生したのは、およそ20万年~30万年前です。その時、すでに少なくとも4種の人類が生存していて世界に拡散していました。その中で最も古いのはホモ・エレクトスで、180万年前にはアフリカを出てユーラシア大陸に散らばっていました。ホモ・サピエンスが誕生したときに使った道具にハンドアックス(握斧あくふ)がありますが、それは150万年前にホモ・エレクトスが考案したものとほぼ同様の石器でした。

75,000年前(氷河期)の時点で考えると、当時最も繁栄していた人類はネアンデルタール人です。ネアンデルタール人の脳はヒトと同じかそれより大きく、身長はヒトと同じくらいでしたが、体重はヒトより重かった。彼らは長い槍で獲物を狩る優秀なハンターでした。


ネアンデルタール人は決して、うなり声しか上げられない原始人などではなかった。ヒトとネアンデルタール人はどちらも、発話に必要な運動筋肉の細かな動きをつかさどるFOXP2遺伝子のバリアントをもっている。ネアンデルタール人は死者を埋葬し、病人やけが人の世話をするし、自分の体に色素を塗り、貝殻や羽根、骨でできた装身具でみずからを飾る。

ネアンデルタール人のある男性は動物の皮でできた衣服を身にまとって埋葬されていた。その衣服は巧みに伸ばした皮を縫い合わせてできており、3000個近くの真珠で飾られていネアンデルタール人が洞窟に残した壁画には、架空の生き物が描かれている。

ブライアン・ヘア、ヴァネッサ・ウッズ
「ヒトは <家畜化> して進化した」
藤原多伽夫訳(白揚社2022.6)p.19

著者は「75,000年前に、どの人類がその後の不確かな気候のもとで生き残れるかについて賭けをしたなら、ネアンデルタール人が本命だっただろう」と書いています。しかし、5万年前になると状況は明らかにヒトに有利になってきました。著者はその例として、ヒトが作り出した道具を紹介しています。


ネアンデルタール人は木製の槍を手で持って突き刺すだけだったが、ヒトはそれを改良して、投射する武器を開発したのだ。それは長さ60センチほどの木製の投槍器で、長さおよそ1.8メートルの矢のような槍を投げる。槍は鋭くとがらせた石か骨を穂先に取り付けることが多く、反対側の末端にはくぼみを作り、木製の投槍器の突起にはめる。これは、愛犬家がボールを投げるときに使う「チャキット」という製品と同じ原理だ。

強肩の持ち主であっても、標準的な槍を手で投げると短い距離しか飛ばせない。しかし、投槍器を使うと、柄に蓄えられたエネルギーによって、槍を時速160キロ以上の速さで90メートル以上も飛ばすことができる。

投槍器は狩猟に革命をもたらした。人間と同じくらいの大きさの草食動物だけでなく、飛んだり、泳いだり、木に登ったりする獲物も狩ることができるようになったのだ。マンモスを捕らえるときも、足で踏みつけられたり、牙で突き刺されたりする心配がなくなった。投槍器の登場で身の守り方も一変した。襲ってくるサーベルタイガーや敵の人間に向けて安全な場所から槍を投げて、重傷を負わせることもできるようになった。

武器に使う鋭い穂先、石器を作る道具、切断用の刃、穴を開ける錐も作り出した。骨で作った銛、漁に使う網や罠、そして、鳥や小型の哺乳類を捕らえるための罠も生み出した。ネアンデルタール人は狩猟の能力は優れていたが、捕食者としては並の域を出ることはなかった。一方、新たな技術をつくり出したホモ・サピエンスは究極の捕食者となり、ほかの生き物に捕食されることは少なくなった。

「同上」p.20

ヒトはアフリカを出て、またたく間にユーラシア大陸に拡散し、さらに東南アジアの島からオーストラリア大陸に到達しました。


ヒトはアフリカを出てから、あっという間にユーラシア大陸全域に拡散した。数千年のうちに、オーストラリア大陸まで到達したとの説もある。

大海原を渡る困難な冒険に挑むためには、いつ終わるとも知れない旅に向けての計画と食料の荷造りが必要だ。さらには、想定外の損傷を修復する道具や見たこともない獲物でも捕獲できる道具を準備しなければならないし、海上で飲み水を補給するなど、旅の途中で起こりうる問題を解決する必要もある。こうした旅に挑んだ当時の船乗りは、仲間と細かくコミュニケーションをとらなければならない。このことから、ヒトはその頃にはすでに成熟した言語を使っていたと考える人類学者もいる。

ここで特に注目したいのは、船乗りたちは水平線の向こうに何かがあると推測しなければならないという点だ。ひょっとして渡り鳥の行動パターンを調べたのか、それとも、はるか遠くで自然に起きた森林火災の煙が見えたのか。仮にそうだったとしても、向かうべき土地があると想像しなければならない。

「同上」p.20-21

25,000年前までに、ヒトは数百人規模で野営地に定住し、調理用の道具やかまどを作り、骨製の細い針を使って毛皮で防寒用の衣服を作りました。また、海から何百キロも離れたところで貝殻の装飾品が見つかりますが、これは社会的ネットワークの存在を示しています。定住地の岩には生き生きとした動物の絵を描きました。

これらをまとめて著者は「行動が現代化した」と書いています。つまり当時のヒトは現代人と同じようなみかけであり、似たような行動をとっていたわけです。

5万年前以降のヒトの大変化はどのようにして起きたのでしょうか。なぜヒト(現世人類)だけに起きたのでしょうか。これが本書の問題提起です。その一番の理由を、著者はヒトが獲得した「協力的コミュニケーション」の能力だとしています。


ほかの人類が絶滅する一方で、ヒトが繁栄できたのは、ある種の並外れた認知能力があったからだ。それは「協力的コミュニケーション」と呼ばれる、特殊なタイプの友好性である。ヒトは見知らぬ人との共同作業であっても巧みにこなすことができる。これまで一度も会ったことがない人と共通の目標についてコミュニケーションをとり、力を合わせてそれを達成できるのだ。

チンパンジーもまた、多くの面でヒトのように高度な認知能力をもっている。ただ、ヒトと数多くの類似点があると言っても、チンパンジーは共通の目標の達成を助けるコミュニケーションを理解するのが得意でない。チンパンジーほど賢くても、他者の動きに合わせて行動したり、さまざまな役割を連携させたり、自分が考え出した新しい技術を他者に伝えたり、いくつかの初歩的な要求以上のコミュニケーションをとったりする能力はほとんどないのだ。

ヒトはこれらすべての能力を、歩行や会話ができる年齢になる前に発達させる。それは洗練された社会や文化を築くための入り口だ。この能力があるからこそ、ヒトは他者の気持ちを理解でき、前世代からの知識を受け継ぐことができる。その能力は、高度な言語をはじめとする、あらゆる形の文化や学習の礎だ。そうした文化をもった人がたくさんいる集団が、優れた技術を考え出した。ホモ・サピエンスは独特な共同作業に長けているおかげで、ほかの賢い人類が繁栄できなかった場所でも繁栄できたのだ。

「同上」p.23-24

著者の言う「協力的コミュニケーション」とは、他者に対する(特殊なタイプの)友好性です。この友好性が進化した要因が「自己家畜化」です。


こうした友好性は自己家畜化によって進化した。家畜化は、人間が動物を選抜して交配する人為淘汰だけで生じたわけではない。自然淘汰の結果でもある。ここで淘汰圧となったのは、異なる種や同じ種に対する友好性という性質だった。

私たちは自然淘汰で生じた家畜化を「自己家畜化」と呼んでいる。ヒトは自己家畜化によって友好的な性質という強みを獲得したからこそ、ほかの人類が絶滅するなかで繁栄することができた。

これまでのところ、私たちがこの性質の存在を確認できたのは、ヒトと、イヌ、そしてヒトに最も近縁な種であるボノボだ。本書ではこれら3つの種を結びつける発見、そして、ヒトがどのように現在のヒトになったのかを理解する助けになる発見について述べていく。

「同上」p.24-25

しかしながら、友好性を獲得すると同時にヒトは "非人間化した他者" に対する残虐性も発揮するようになりました。日本語訳の副題に「私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか」とあるのはそのことです。


しかし、人間の友好性には負の側面もある。自分の愛する集団がほかの社会集団に脅かされていると感じると、人間はその集団を自分の心のネットワークから除外し、人間扱いしない(非人間化する)ようにできるのだ。共感や思いやりは消え去ってしまう。脅威をもたらすよそ者に共感できなくなると、私たちは彼らを同じ人間だと見なせなくなり、極悪非道な行為ができるようになる。人間は地球上で最も寛容であると同時に、最も残酷な種でもある。

「同上」p.25

以上が全体の主旨ですが、以降は自己家畜化仮説を裏付けるエビデンスです。その一つは、ヒトが生来持っている「協力的コミュニケーション」で、それは "他者の考えについて考える" 能力です。


"他者の考えについて考える" 能力


ヒトの「協力的コミュニケーション」の最初の発揮として、著者は赤ちゃんの頃から始まる "指さし" 行動を取り上げています。


ヒトは生後9ヶ月頃になると、歩いたり話したりできるようになる前に、指さしを始める。もちろん、生まれてすぐであっても指さしはできるのだが、9ヶ月ぐらいになると、それが何らかの意味をもち始める。興味深いジェスチャーだ。ほかの動物は手があっても、このジェスチャーをしない。

指さしの意味を理解するには、心を読み取る高度な能力が必要だ。たいていの場合、指さしは「あそこを見れば、私の言いたいことがわかる」ということを意味する。しかし、あなたがあなたの頭を指でさすのを私が見た場合、さまざまな意味が考えられる。あなた自身のことを言っているのか? 私の頭がおかしいという意味なのか? 私が帽子を忘れたのか? 指さしは未来の何かを示すことも、過去にあって今はない何かを示すこともある。

生後9ヶ月までは、母親が指さしをすると、赤ちゃんはたいていその指を見てしまう。しかし9ヶ月を過ぎると、指から伸びる架空の線をたどるようになる。1歳4ヶ月になる頃には、指さしをする前に母親が自分を見ているか確認するようになる。母親が自分に注意を向けていないと指さしをしても通じないことがわかっているのだ。2歳までには、他者が見ているものや考えていることがわかってくる。他者の行動が偶然なのか意図したものなのかが区別できるようになる。4歳になると他者の考えを巧みに推測することが可能になり、人生で初めて嘘をつけるようになる。誰かがだまされたときに助けることもできるようになる。

「同上」p.33-34

心理学では「心の理論(Theory of Mind)」という用語が使われます。これは他者の心や意図を推察する能力のことです。指さしは「心の理論」の入り口です。


指さしは他者の心を読むこと、つまり、心理学者が言う「心の理論」への入り口だ。指さしを始めると、それ以降の人生は他者が考えていることに思いをめぐらしながら過ごすことになる。暗闇で誰かの手が自分の手に軽く触れたとき、それは何を意味するのか。部屋に入ったとき、そこにいた人が眉をひそめたのはどうしてなのか。他者の本当の考えを知ることはできないから、それは必ず推測になる。他者も同じ能力をもっているので、見せかけたり、偽装したり、嘘をついたりできる。

「心の理論」という能力があるおかげで、人間は地球上で最も高度な協力行動やコミュニケーションができる。この能力は人生で直面するほぼすべての問題を解決するうえで欠かせない。過去にさかのぼって、何百年も何千年も前に生きた人々から学ぶことができるのも、この能力のおかげだ。

「同上」p.34


イヌは "指さし" の意図を読める


「他者が行う指さしを見て、その意図を推察できる能力」は、他の動物ではどうなのでしょうか。たとえば、人間に最も近いとされるチンパンジーです。著者がマイケル(マイク)・トマセロ博士のもとで行った研究が書かれています。


チンパンジーには、他者の心を読み取る能力がいくつかある。私たちの実験で、チンパンジーは他者が見たものや知っていることがわかるだけでなく、他者が覚えていそうなことを推測できるうえ、他者の目的や意図を理解していることが明らかになった。チンパンジーはさらに、他者がいつ嘘をついたかすらわかっていた。

チンパンジーがこれらすべてのことをできるという事実から、チンパンジーにできないことがくっきりと浮かび上がってくる。チンパンジーは他者と協力し、コミュニケーションをとることはできる。しかし、その両方を同時にこなすのは苦手だ

私はマイクの指示で、2個のカップの一方に食べ物のかけらを隠した。チンパンジーは私が食べ物を隠したことを知っているが、どちらに隠したかは知らない。その後、私は食べ物を隠したカップを指さして、チンパンジーに教えようとした。だが、意外なことに、チンパンジーは何度やっても私の有益なジェスチャーを無視し、当てずっぽうの推測しかできなかった。何十回も失敗してようやく、食べ物を見つけることができた。だが、ジェスチャーを少しでも変えると、また失敗してしまう。

「同上」p.37

チンパンジーが食べ物を得るためには「人間との協調」と「人間とのコミュニケーション」が同時にできなければなりません。チンパンジーにとってはこれが難しい。

しかしイヌはできるのです。著者は自分の愛犬(名はオレオ)で実験したときのことが書かれています。


オレオを相手にした実験では、2個のカップを1メートルほど離れた地面に逆さまに置くだけだ。
「お座り」
私はカップの1つに餌のかけらを隠した。そして、餌を隠したカップを指さす。オレオは一発で餌を見つけた。その後の17回の実験でも見つけた。「オレオ」と私は言って、彼の耳をかくと、オレオは私の両脚にしがみついて全体重をかけてきた。「おまえは天才だよ」

私がチンパンジーにジェスチャーする実験で何も成果を得られなかった何ヶ月ものあいだ、オレオは裏庭にずっと座って、私がチャンスをくれるのを待っていたのだ。

「同上」p.43-44

著者はイヌが「指さしの意図を理解している」のではない可能性(たとえば餌の臭いを感知している)を調べるため、さまざまな実験を繰り返しました。もちろん自分の愛犬以外にも、イヌの一時預かり所に出向いて実験を繰り返しましたが、いずれの場合もイヌはパスしました。イヌはチンパンジーと違って、試行錯誤で指の方向に餌があることを学ぶのではないのです。


人間の赤ちゃんが特別なのは、指さしのジェスチャーで伝えようとしていることを本当に理解していることだ。これはつまり、役に立つジェスチャーであればどんなものでも理解することを意味する。

これを人間の母親と赤ちゃんで実証するために、マイクは正解のカップにブロックを入れるよう、母親に頼んだ。赤ちゃんは母親がこのジェスチャーをするのを一度も見たことがなかったが、母親が助けようとしてくれていると推測して、ブロックの入ったカップを選んだ。

私がこの同じゲームをイヌに対して行なうと、イヌたちは同じように振る舞った。人間の赤ちゃんと同じように、イヌは私が助けようとしていることを理解し、初めて見るジェスチャーであっても、助ける意図があると思ったらすべて利用したのだ。

「同上」p.47

人間の赤ちゃんとイヌに共通するこの「協力的コミュニケーション」の能力は、どのようにして発達したのでしょうか。イヌは氷河期にオオカミの先祖をヒトが家畜化したものと考えられています。この家畜化の過程で能力を獲得した(能力が進化した)と考えることができます。

実は、このことを検証するのに格好の素材があります。それは旧ソ連の遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフが始めた "キツネを家畜化する実験" です。この実験は No.211「狐は犬になれる」で紹介しましたが、もちろん本書にも詳しく書かれています。


友好的であることの力:キツネの家畜化実験


著書はドミトリ・ベリャーエフの実験の記述の前に、兄のニコライのことから始めています。兄のことは初めて知りました。


スターリンの大粛清のただなかにあった1937年に、ニコライ・ベリャーエフは遺伝学者だからという理由で秘密警察に逮捕され、裁判にもかけられずに射殺された。

スターリンはだいたいにおいて誰に対しても疑り深かったが、とりわけ遺伝学者が嫌いだった。遺伝学者は「適者生存」という考え方を世間に広めるので、共産党の方針に逆らっているように思われたからだ。スターリンは、適者生存とはそもそもアメリカの資本主義者の考えであり、力や知能に優れた者が富を蓄える一方で、労働者が貧しい暮らしをするという状況を正当化するものだと見なしていた。そんなスターリンが出した解決策は、遺伝学そのものをすべて禁止することだった。遺伝学は学校や大学のカリキュラムから除外され、教科書からはそのページが破り捨てられた。遺伝学者は国家の敵であると宣言され、強制収容所に送られるか、ニコライのように殺された。

ニコライが処刑された1年後、その弟であるドミトリ・ベリャーエフも遺伝学者になった。1948年、ドミトリはモスクワにある中央研究所の毛皮動物繁殖部の職を解かれたが、身を潜めておとなしく過ごし、1959年になると政治の中心であるモスクワから遠く離れたノボシビルスクに移った。こうして安全な距離をとれたおかげで、彼は20世紀の行動遺伝学の金字塔となる実験ができたのだ。

「同上」p.53-54

著者はベリャーエフの実験を「20世紀の行動遺伝学の金字塔」と書いていますが、まさにその通りでしょう。


ベリャーエフは野心的な目標を掲げた。動物がどのように家畜化されてきたかを推測するのではなく、動物をゼロから家畜化し、自分自身の目でその結果を確かめたいと考えたのだ。実験対象として選んだのは、イヌに近縁で家畜化されてない動物、キツネだった。キツネは手で触れられるともがいて噛んでくることがあるので、キツネを扱う人は厚さ5センチもある手袋をはめなければならなかった。とはいえ、キツネは秘密の実験をするのにうってつけだった。毛皮目的でキツネを繁殖させることはロシアの経済にとって重要だったので、疑り深い政府の役人をかわすことができたからだ。

それはエレガントな実験だった。ベリャーエフの教え子であるリュドミラ・トルートは、キツネの集団を2つのグループに分けた。両者はまったく同じ条件下に置かれていたが、彼女はある一つの基準を使って両者を分けていった。

第1グループは、人間に対する反応にもとづいて交配された。このグループでは、キツネが生後7ヶ月になると、リュドミラがキツネの前に立ってやさしく触ろうとする。そのとき近づいてくるか、怖がらなかったキツネを選び出して、同様の反応を示したほかのキツネと交配する。それぞれの世代で最も人なつこい友好的な個体を選んで交配したので、第1グループのキツネは友好的になった。

一方、第2グループは人間への反応とは関係なく交配した。つまり、2つのグループに差違が生じたならば、それは「人間に対して友好的である」という選択基準だけからもたらされたということになる。

「同上」p.54-55

ベリャーエフ(1917-1985)は人生のあいだこの実験を続け、彼の死後はリュドミラ・トルート(1933 -)が実験を引き継ぎました。



動物は家畜化すると、さまざまな形質が共通して現れることが知られています。これらは、人間の都合によってそれぞれの形質が選別されてきたと考えられてきました。

家畜化症候群.jpg
家畜化による変化と特徴
動物を家畜化することで、さざまな形質、特徴が共通して現れる。これらを「家畜化症候群」と呼ぶことがある。図は本書の p.58-59 から引用。


家畜化はしばしば、外見によって定義されてきた。身体の大きさは変わりやすい形質であり、イヌではチワワのような超小型犬から、グレート・デーンのような超大型犬までさまざまだ。

イヌは野生の近縁種より頭部が小さく、鼻づら(口吻部)が短く、犬歯が小さい傾向にある。毛の色は家畜化によって変化し、野生種がもっていた天然のカムフラージュ効果は失われる。イヌの被毛には不規則なぶち模様が現れることもあり、なかには、突然変異で額に星形のぶちが現れるイヌもいる。尻尾は上向きにカールし、ハスキーのように丸く円を描く尻尾もあれば、家畜のブタの尻尾のように数回巻いた尻尾もある。イヌの耳は垂れていることが多い。繁殖期は年に一度ではなく、年間を通して繁殖できる。

これらの形質群はイヌに固有というわけではない。どの家畜種にも、こうした形質がまとまって現れる

一見ランダムなこうした形質を結びつけているのは何なのか、あるいは、そもそもこれらの形質どうしにつながりがあるのかどうかは、わかっていなかった。人間がこのような変化を求めて意図的に交配したのだという見方もあった。

「同上」p.55-56

家畜化にともなって、一見ランダムに見えるさまざまな形質がまとまって現れます。これらを「家畜化症候群」と呼ぶことがあります。ベリャーエフは、たった一つの条件でこのような家畜化が起こると考えたのです。それは、ダーウィン以来、誰一人として思いつかなかった天才的な考えであり、それが正しいことが実験で明らかになったのです。



著者は、ベリャーエフの弟子であるリュドミラ・トルートが現在も行っているシベリアの実験場を訪問しました。その時のことが書かれています。


人なつこいキツネは美しく、かつ奇妙だった。ネコのように優美なのに、吠える声はイヌみたいだ。ボーダーコリーのように黒と白のぶち模様で、青い目をしているものもいれば、ダルメシアンのように小さな斑点をもつものもいる。なかには、ビーグルのように、赤と白と黒の模様をもつキツネもいる。

リュドミラに施設を案内してもらっていると、どのキツネも立ち上がり、尻尾を振って、くんくん鳴いたり、興奮した声を上げたりしながら、私に走り寄ってきた。リュドミラが飼育舎の一つに通じるドアを開けると、赤茶色の雌が私の腕に飛び込んできて、顔をなめ、嬉しそうに放尿した。脚は黒で、額に白い星模様がある。

友好的なキツネの個体群に最初に現れた変化の一つは、被毛の色だった。もともと黒と白のぶち模様だった被毛には、赤茶色がだんだん頻繁に現れるようになった。20世代を経ると、友好的なキツネのほとんどが簡単に見分けられるようになった。額に白い星模様がある個体も当初は数匹だけだったが、あるとき一気に増えた。

次に現れたのが、垂れ耳と巻き尾だ。友好的なキツネは歯が小さく、鼻づらが短くなる一方で、雄と雌の頭骨の形は互いに似通ってきた。これらと同じ変化は、イヌの家畜化の初期にも現れた。

変わったのは、キツネの外見だけではなかった。普通のキツネは年に1回しか繁殖しないが、多くの友好的なキツネは繁殖期が長くなったのだ。友好的なキツネのなかには、繁殖周期が年に2回、つまり1年のうち8ヶ月繁殖できるものも現れ始めた。友好的なキツネは性的に成熟するのが普通のキツネより1ヶ月早く、1度に産む子の数が増えた。

普通のキツネはオオカミと同様に、人間に馴れることのできる社会化期は非常に短く、その期間は生後16日から6週までだ。一方、友好的なキツネはイヌのように社会化期が長く、生後14日から始まって10週まで続く。

普通のキツネでは、ストレスホルモンと呼ばれるコルチコステロイドの分泌が生後2~4ヶ月のあいだに増え、生後8ヶ月でおとなの濃度に達する。だが、キツネが友好的になるほど、このコルチコステロイドの濃度が急上昇する時期が遅くなった。12世代を経ると、友好的なキツネのコルチコステロイドの濃度は半減していた。30世代を経ると、さらに半減した

そして50世代を経ると、友好的なキツネは普通のキツネに比べて、脳内のセロトニン(捕食や防御にかかわる攻撃行動の低下に関連する神経伝達物質)の濃度が5倍に増えていた

「同上」p.60-62

友好的というキツネの行動が遺伝的なものであることを示すために、ベリャーエフとリュドミラは次のような実験をしました。

・ 友好的なキツネの子を、誕生時に普通のキツネの子と取り替え、普通のキツネの子が友好的な母親の行動に影響されるかどうかを見る。
・ 友好的なキツネの受精卵を普通のキツネの子宮に移植する。
・ 普通のキツネの受精卵を、友好的なキツネの子宮に移植する。

しかし、産んだ母親も育てた母親も結果には影響しませんでした。友好的なキツネは受精したときから、普通のキツネよりも友好的だったのです。"友好的という行動が遺伝する" わけです。


キツネの指さし実験


実は、著者がキツネの飼育施設を訪問したのは見学だけが目的ではありませんでした。イヌでやったような「指さし実験」をするためだったのです。

その実験をするために「友好的な子キツネのグループ」と「普通の子キツネのグループ」を用意します。まず、生後数週間の普通の子キツネを10匹程度選び、著者の助手(ナタリー)に慣れさせます。この時期の子キツネは人間を恐れる機構が発達していないので、慣れさせることができます。そしてボウル状の容器の下に餌を隠し、その餌を見つけられるように訓練します。これが「普通の子キツネのグループ」とします。

また「友好的な子キツネのグループ」としては、生後3~4ヶ月の、友好的として選別されたばかりのキツネを選びました。


ナタリーが9週間にわたってハグと訓練をしたおかげで、普通の子ギッネのグループは、ボウル状の容器の下に隠した餌を見つけられるようになった。そろそろテストしてもいい頃だ。

ナタリーは2つある容器のうちの一つに餌を隠し、餌のあるほうの容器を指さした。普通のキツネの場合、チンパンジーやオオカミと同様に、結果は偶然をわずかに上回るものでしかなかった。たいていは当てずっぽうに選んでいた。

「同上」p.67

9週間に渡ってヒトに慣れさせる(=社会化)訓練をしたにもかかわらず、普通のキツネは指さしジェスチャーの意図を理解できなかったのです。一方、友好的なキツネはどうだったか。


次に、ナタリーが一度も会ったことがない友好的な子ギツネをテストした。ナタリーは囲いにやって来ると、子ギツネたちを外に出し、2つの容器のうちの1つに餌を隠した。

人間が協力的コミュニケーションの能力だけにもとづいてイヌを選抜してきたのなら、この友好的なキツネは、友好性という形質だけにもとづいて選抜されてきたのだから、私のジェスチャーに従えるだけの協力的コミュニケーションの能力はもっていないだろう。しかし、彼らはこの能力をもっていた。友好的なキツネはこのテストで子イヌと同じどころか、わずかに上回る成績を上げたのだ。

「同上」p.68

友好的なキツネは、"指さしに反応して餌を見つける" というゲームを一度もやったことがなかったにもかかわらず、イヌ並みの成績をあげたのです。このことは、

ヒトに対して友好的という、たった一つの基準で選別してきたキツネは、数々の家畜化症候群を発現させるとともに、協力的コミュニケーションの能力を獲得した

ということを意味します。


オオカミがやってきてイヌになった


以上を踏まえて、オオカミが家畜化されてイヌになったプロセスはどのように推測できるでしょうか。

一般に想定されているシナリオでは、農耕民がオオカミの子を何匹か捕まえて住居に持ち帰り、従順な子を繁殖させてイヌにした、というものです。しかしこのシナリオは非現実的です。というのも、遺伝子の研究からオオカミの家畜化は農耕の開始より前、遅くとも1万年前には始まっていたからです。つまりオオカミの家畜化が始まったのは氷河時代と考えられるのです。

著者が考える「オオカミがイヌになったシナリオ」は次の通りで、これが "自己家畜化" です。


氷河時代にオオカミを意図的に家畜化したと考えると、想定されるシナリオは非現実的だ。人間は最も友好的で、かつ最も攻撃的でないオオカミだけを何十世代にもわたって交配しなければならなかっただろう。だとすれば、狩猟採集生活を送る人々は、最長でも数百年にわたり、いきなり攻撃してくるかもしれない大きなオオカミといっしょに暮らし、手に入れにくい肉を毎日おとなのオオカミに分け与えていたことになる。それよりも、人間が手なづける前に家畜化の一段階、つまり自己家畜化の期間があったと考えるほうが、可能性が高いのではないか。

人間が何かしら関与したとすれば、それは大量のごみを出したことだ。現代でも、狩猟採集民は野営地の外に残った食べ物を捨てるし、排泄もする。人間の集団が定住生活に移行するにつれ、腹をすかせたオオカミが夜な夜な食べたくなるような食物が増えていった。捨てられた骨もよかったが、人間は食材を調理するし、消化が速いため、その大便は骨と同じぐらい栄養に富んでいた。人間の排泄物は、野営地に近づけるほど勇敢で落ち着いたオオカミには、たまらない食料だっただろう。

そして、そうしたオオカミは繁殖するうえで優位に立ったことだろう。いっしょに食物をあさっただろうし、子づくりしやすくもなったのではないか。友好的なオオカミと人を怖がるオオカミのあいだで遺伝子がやり取りされる機会は少なくなり、人間が意図的に選ばなくても、より友好的な新しい種が進化した可能性がある。

友好的な性質が数世代にわたって選ばれただけで、この特殊なオオカミの集団では外見に違いが出始めただろう。被毛の色、耳、尾。これらすべてが、おそらく変化し始めた。人間は食べ物をあさる奇妙な見かけのオオカミをだんだん許容するようになり、この原始的なイヌに人間のジェスチャーを読み取る独特な能力があることを、まもなく発見したのではないか。

オオカミはほかのオオカミの社会的なジェスチャーを理解し、それに応答できていただろうが、人間のジェスチャーに対しては、人間から逃げることにばかり気をとられ、注意を払う余裕はなかっただろう。だが、いったん人間への恐怖心が興味に変わると、オオカミは社会的な能力を新たな形で利用して、人間とコミュニケーションをとれるようになった。人間のジェスチャーや声に反応できる動物は、狩猟の相棒や見張り役として大いに役立っただろう。そうした動物はまた、心温まる親しい仲間としても貴重な存在になり、野営地の外から炉端へ近づくのを徐々に許されることになった。人間がイヌを家畜化したのではない。最も友好的なオオカミがみずから家畜化したのだ。

こうした友好的なオオカミは、地球上で最も繁栄した種の一つとなった。その子孫は今や何千万匹にもなり、あらゆる大陸で人間とともに暮らしている。その一方で、生き残った数少ないオオカミの集団は、残念ながら常に絶滅の危機にさらされている。

「同上」p.72-73

そして、このような家畜化がヒトにも起こった。つまり、

・ 友好的な個体が選別されていくと(=家畜化すると)、社会的能力(協力的コミュニケーションなど)が発達する。

・ 社会的能力をもつ個体がより有利で生き残りやすくなる条件があると、自然選択による家畜化、つまり自己家畜化が起きる。

・ ホモ・サピエンスは自己家畜化の過程を経て生き残り、繁栄した。

とするのが「自己家畜化仮説」です。


自己家畜化仮説の証拠はあるか


では、ホモ・サピエンスに自己家畜化のプロセスがあったという証拠はあるのでしょうか。

家畜化された動物は、ヒトに友好的になると同時に身体に特徴的な変化が現れます。ロシアの友好的なキツネでは、選抜によってホルモンに変化が生じました。こうしたホルモンがキツネの成長の仕方(身体と行動)を変えたのです。

ヒトにも外見や行動の発達を調整するホルモンがあります。その一つのテストステロンは、濃度が高いと他のホルモンとの相互作用で攻撃性が高まります。同時に、成長期にテストステロンの濃度が高いと眉弓びきゅう(眉のところの弓形の骨。眉弓骨)の突起が高くなります。

ホモ・サピエンスの頭蓋骨の化石、1421点を調査したところ、更新世後期(38000年前~1万年前)の眉弓の突起は、更新世中期(20万年前~9万年前)のものより 平均で 40% 低くなっていました。



アンドロゲンというホルモンがあります。妊娠中にこのホルモンの濃度が高いと、人差し指の長さに対する薬指の長さ(= 2D:4D 比)が長くなる傾向にあります。2D:4D 比が小さいと「男性化した」と見なせて、危険を冒す度合いや攻撃性が高まります。

研究によると、更新世中期のホモ・サピエンスの2D:4D 比は現代人より小さく、より「男性的」であったことが分かりました。またそれよりさらに男性的なのがネアンデルタール人でした。つまりホモ・サピエンスは現代人になる過程において、2D:4D 比が高まり、より女性的になったと言えます。



家畜化が身体に与える影響の一つが「脳の小型化」です。脳が小型化すれば頭蓋骨も小さくなります。ヒトの知能が最も発達したのは過去2万年です。農耕が始まる前の1万年と始まって以降の1万年を比較すると、平均で頭蓋骨容量が 5% 小さくなっていました。

家畜化された動物の脳を小さくする最大の要因は、セロトニンというホルモンです。キツネの家畜化実験でもわかるように、家畜化された動物の攻撃性が低下するにつて、体内のセロトニン濃度が増加します。このホルモンが高まると友好的な感情が高まることが知られています。



以上が、化石資料がら類推できる家畜化=友好性の発達の例ですが、著者はこれとは別に、ヒトの「協力的コミュニケーション」を発達させた要因として「白い強膜きょうまく」をあげています。強膜とは眼球の外側の白い皮膜のことで、眼球の前方で角膜とつながっています。いわゆる「しろ目」のことです。

強膜が白いのはヒトの特徴です。霊長類の中で白い強膜をもっている(=強膜を黒くする色素を失った)のは、ヒトだけです。白い強膜だと視線を感じることができ、アイコンタクトが可能で、他者の視線を追うこともでき、「協力的コミュニケーション」にピッタリなのです。


友好性が新たな攻撃性を生んだ


ヒトは自己家畜化の過程において、自分の属する集団を想定し、その集団を家族のように感じる能力を発達させました。一度も合ったことがない他者でも、その他者が仲間かどうかを見分け、同じ集団に属していると認識するこができます。著者は、こういった集団アイデンティティーの発達を促したのが、オキシトシンというホルモンだと推定しています。


オキシトシンはセロトニンおよびテストステロンの可用性と密接に関連している。これら2つは、ヒトの自己家畜化の結果として変化したと私たちが推定したホルモンだ。

セロトニンの分泌が増えると、オキシトシンが影響を受ける。セロトニン神経とその受容体の活動が、オキシトシンの効果に影響を及ぼすからだ。簡単に言ってしまうなら、セロトニンはオキシトシンの効果を高めるということである。

また、テストステロンの分泌が減少しても、オキシトシンがニューロンと結合しやすくなり、行動が変わる。ヒトが自己家畜化する過程でセロトニンの分泌が増え、テストステロンが減少すると、オキシトシンの効果が高まると予測される。このようにして、ヒトの行動に与えるオキシトシンの効果が増大したと考えれば、自分が属する集団を家族のように感じるヒトの能力がどのように進化したのかを説明できそうだ。

「同上」p.147

しかし、このことは「集団に属さないと認識した他者」への、新たな攻撃性を生むことになりました。


オキシトシンは親の行動に欠かせないように見えるので、「ハグ・ホルモン」と呼ばれることもある。だが、私は「お母さんグマのホルモン」と呼ぶのを好んでいる。赤ちゃんが生まれたときに母親の体内に放出されるホルモンが、誰かが赤ちゃんに危害を加えようとしたときに母親が感じる怒りも引き起こすからだ。

たとえば、ハムスターの母親にオキシトシンを余分に投与すると、脅威をもたらす雄を攻撃して噛みつく傾向が強まる。オキシトシンはまた、雄の攻撃性にも関与している。ラットの雄は交尾相手の雌と仲良くなると、オキシトシンの分泌が増える。そうすると、雌を大切にする行動が強まる一方で、雌を脅かすよそ者を攻撃する傾向も強まる。

社会的な絆とオキシトシンと攻撃性とのこうした関係は、哺乳類全体で見られる。ということは、ホッキョクグマの母親が最も愛情に満ちているとき、つまり自分の子といっしょにいるときは、母親が最も危険なときでもあるということだ。たとえ故意でなくても、子が誰かに脅かされれば、母親は恐ろしい生き物に豹変する。わが子を愛するあまり、子を守るためなら死んでもいいと思うようになるのだ。

ヒトが自己家畜化によって形成されていくなかで、友好性の高まりが新たな形の攻撃性をもたらした。脳の成長中に利用できるセロトニンが増えたために、行動に対するオキシトシンの影響が強まった。集団のメンバーは互いに親しくつながるようになり、その絆はあまりにも強いので、互いに家族のように感じる。発達の初期に脳の「心の理論」ネットワークの接続がわずかに変化することによって、世話行動の対象が近親者から、さまざまな社会的パートナーまで広がった。

このように他者に対して新たな関心をもつようになると、血縁関係のない集団のメンバーや、さらには自分の集団内の見知らぬ人を守るために暴力をふるうこともいとわない気持ちが芽生えた。進化によってより強く愛するようになった人が脅かされたときに、人間はより激しく暴力をふるうようになった。

「同上」p.163-164

人間は、自分の集団ではないと認識した他者を「非人間化」できます。そして非人間化した他者に対してはどんな暴力をふるうこともできる。これは今までもそうだったし、現在、その傾向がますます高まっています。

しかし、集団のアイデンティティー認識は、生物学的根拠のあるものではありません。その認識は人間が変えられる。著者は、同じ集団であると認識する一番の鍵は "接触" だと主張しています。人と人の接触がまず必要で、それが第1歩です。


本書全体を通して


本書は次の2つの論を並行して進めるという体裁をとっています。

① ヒトは自己家畜化(=友好性をもつ個体が自然選択される)の過程を経て生き残り、社会を作り、繁栄した。と同時に、他者に対する新たな攻撃性を持ってしまった。

② 現在、世界で起こっている(特にアメリカで起こっている)暴力、差別、分断を憂い、それを解決する提言を行う。

の2点です。今まで紹介したのは ① の部分です。しかし著者が本を書いた意図は ② の部分も大いにあるのです。

進化人類学の立場から ② に踏み込むことは、論を広げすぎのように感じます。しかし「友好性をもつ人間が集まったとき、最大のパフォーマンスを発揮できる」というのは全くの事実です。それが、進化人類学の視点からも裏付けられて、友好性をもつからこそヒトはヒトになったと言える。そうであれば、現在の世界の状況に対して是非とも発言したいと思ったのは理解できます。

本書の原題は、最初に書いたように、

Survival of the Friendliest

ですが、これはヒトが生き残って繁栄した理由であると同時に、現在の人類が今後地球上で "サバイバル" できる鍵である。そう著者は言いたいのだと思いました。




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No.338 - がん進化論にもとづく治療戦略 [科学]

No.336 と No.337 の続きです。No.336「ヒトはなぜ "がん" になるのか」No.337「がんは裏切る細胞である」は、

がんは体内で起きる細胞の進化である

という知見にもとづき、新たな治療方法の必要性を述べた2つの本を紹介したものでした。この2書に共通していたのは新たな方法である「適応療法」で、この療法を始めたアメリカの医師、ゲイトンビー(Robert Gatenby)の研究が紹介されていました。そのゲイトンビー本人による論文が2年前の日経サイエンスに掲載されました。

「がん進化論にもとづく治療戦略」
  J.デグレゴリ(コロラド大学)
  R.ゲートンビー(モフィットがんセンター)
日経サイエンス 2020年5月号

日経サイエンス 2020-5.jpg
日経サイエンス
2020年5月号
です。今回はこの内容を紹介します。No.336、No.337 と重複する部分が多々あるのですが、「進化論にもとづくがん治療」をそもそも言い出した研究者の発言は大いに意味があると思います。

注意点は、この論文がもともと「Scientific American 2019年8月号」に掲載されたものだということです(原題は "Darwin's Cancer Fix")。がん治療の研究は日進月歩であり、約3年前の論文ということに留意する必要があります。

とはいえ、進化論にもとづくがん治療のキモのところが端的に解説されていて、「がんとは何か」の理解が進むと思います。以下の引用では段落を増やしたところがあります。また、下線や太線は原文にはありません。


治癒困難ながん


まず論文は、前立腺がんを例に「治癒困難ながん」の説明がされています。


米国では年間に3万1000人を超える男性が、骨やリンパ節などへの転移がある前立腺がんと診断される。患者の多くは経験豊富な熟練の腫瘍医の治療を受けるだろう。前立腺がんの治療には52種類の薬が承認されており、使用できる。それでも最終的にはその 3/4 を超える患者がこの病で命を落とすことになる。

身体に広がってしまった転移がんが治癒することはまれだ。有効な治療薬があるのに患者が助からない理由はいろいろあるが、そのすべては1859年にダーウィン(Charles Darwin)が鳥やカメの種の盛衰の説明として発表したある考えに帰する。「進化」だ。

「がん進化論にもとづく治療戦略」
J.デグレゴリ(コロラド大学)
R.ゲートンビー(モフィットがんセンター)
日経サイエンス 2020年5月号

補足しますと、一般に前立腺がんは進行が遅く、かつ、PSAマーカー検査という有力な発見方法があります。ざっと言うと、転移を伴うステージ4になる前に治療をすれば、5年生存率は90%程度で、"治りやすいがん" と言えるでしょう。しかし、転移を伴うステージ4になると完全治癒は難しくなる。5年生存率は 50% を切り、上の引用にあるように 3/4 の人が命を失うことになります。

つまり著者が論文の筆頭にあげているのは「現代医学で比較的対処がしやすいがんでも、治癒が難しい、あるいは治癒できないケースがある」ということです。後の方にも何回か出てきますが、著者の問題意識は、こういったケースにどう対応するかです。あるいは、治癒不能に至らないようにどうするかです。


がんと進化


上の引用の最後でダーウィンの「進化」が出てきますが、有名なガラパゴス諸島に生息するフィンチ(小鳥の一種)を例に説明されています。


がん細胞をダーウィンのガラパゴスフィンチに例えよう。フィンチのくちばしは島々で微妙に異なっている。フィンチは種子を食べるが、種子の形やその他の特徴は島によって違う。ある島の種子に最も適したくちばしを持つ鳥は最も多くの食物を手に入れ、最も多くの子孫をもうけた。そしてその子孫もまた、同じ形のくちばしを受け継いだ。くちばしがそれほど適応していない鳥はそうはいかなかった。

この自然選択によって、くちばしの異なる様々なフィンチの種が各島で進化した。ここで重要なのは、2つの生物集団が同じ狭い空間で競争するとき、環境に適合した方が勝ち残るという点だ。

「同上」

ガラパゴス島のフィンチで起こったことと同じ力学が、体内の細胞の間で起こっているというの著者の考えです。


がん細胞も同じように進化する。正常組織ではがんでない普通の細胞がよく育つ。それは普通の細胞の方が周囲の健康な組織から受け取る生化学的な増殖因子や栄養素、物理的シグナルにうまく適合しているからだ。変異によってがん細胞が生じても、そのような環境にうまく適応していない細胞は初めは生き残れる見込みがあまりない。正常な細胞が資源競争に勝利するからだ。

しかし、周囲で炎症(がんの増殖自体が炎症を引き起こすこともある)や加齢によるダメージが増えると形勢が逆転し、がん細胞はそれまで自分たちを追いやっていた正常細胞を打ち負かすようになる。周囲の変化が最終的にがん細胞の命運を決定するのだ。

私たちはこれを「適応発がん」と呼んでおり、この説を裏付ける証拠も見いだしている。動物実験で細胞環境を変化させると、がん細胞は内部の機能に変化がなくても増殖を加速し始める。人間でも、炎症性腸疾患のような組織を傷める病気でこのようながんの加速が観察されている。

つまり、細胞の内部の変異だけに注目するよりも、その周囲の環境に目を向けた方ががんをよく理解できると思われる。炎症などによる組織の変化を抑えると、環境をより正常な状態に戻すことができ、私たちが動物実験で示したように、がんが競争力を獲得するのを防げる。

「同上」

がん細胞と正常細胞は体内で競争をしていて、がんの発生はその競争のあり方に依存しています。進化論によると個体の変異はランダムに起こりますが、その個体が生き残って子孫を残すかどうかは環境によって決まる(= 自然選択)。がんも同様です。上の引用に「細胞の内部の変異だけに注目するよりも、その周囲の環境に目を向けた方ががんをよく理解できる」とあるところがポイントです。

さらに体内では正常細胞とがん細胞が競争しているだけでなく、腫瘍の中において、抗がん剤が効く細胞(= 感受性がある細胞)と抗がん剤が効かない細胞が競争をしています。


化学療法は脅威を一掃するために大量の抗がん剤を使う。初めのうちはたいてい効いているように見える。腫瘍は縮小し、消えたりもする。しかしその後、再発し、かつてがん細胞を殺していた薬剤に抵抗力を持つようになる。作物を食い荒らす虫が殺虫剤への抵抗性を進化させるように。

著者の1人(ゲートンビー)は前立腺がん患者を対象とした臨床試験でこの焦土作戦に代わる手段を試みた。抗がん剤の投与量を腫瘍の縮小に必要十分な量にとどめ、がん細胞を完全には殺さないようにした。抗がん剤が効く(感受性のある)がん細胞をある程度維持しておくのが狙いだ。感受性細胞は望ましくない新しい特性(抗がん剤耐性)を持つがん細胞が腫瘍を乗っ取るのを防いでくれた。通常であれば13カ月で腫瘍が制御不能な増殖を始める患者グループに対し、この処方は標準用量の半分以下で平均34カ月間がんを抑えている。

「同上」

この引用に書かれているのが「適応療法」です。ここまでで著者の論文の全体が要約されています。以降は、さらに詳細な説明です。


がんの環境要因と予防


著者は、環境要因でがんが発生するプロセスを述べ、その環境要因を研究することが予防につながるという見通しを述べています。


医師やがん研究者に「加齢や喫煙、放射線被曝がどうしてがんにつながるのか」と尋ねれば、素っ気ない答えが返ってくるだろう。「変異を引き起こすから」。この考えは部分的には正しい。タバコの煙や放射線は確かにDNAに変異を引き起こすし、年齢が進めば変異は細胞に蓄積する。変異は細胞に新たな特性を付与し、細胞分裂を促す増殖信号を過剰に生じ、細胞死を抑えたり、周囲の組織に浸潤する能力を高めたりもする。

しかし、細胞の内部の変化だけに注目したこの単純な説明は、ある事実を見落としている。1つの細胞にせよ人間のような細胞の集まりにせよ、進化を促す主要因はその外、つまり細胞の周辺環境にあるという点だ。

「同上」

ダーウィンは「限られた資源をめぐる競争は、環境に最も適した形質を持つ個体の選択につながる」と唱えました。著者はがんの研究をするうちに、ダーウィンが唱えた「進化を加速する力」と「がんの発生や抗がん剤に対する患者の反応」の間に類似性があることに気づきました。


例えばがん研究では一般に、発がん性の変異は常にそれを獲得したがん細胞に有利に働くと考えられてきた。しかし私たちが仕事をしていて気づいたのは古典的な進化の原則だった。変異それ自体は生物にプラスにもマイナスにもならない。変異の影響はむしろ置かれた環境によって変わる。ダーウィンフィンチでは、くちばしの形自体に "優れた" ものが存在するのではなく、特定の条件で特定のくちばしが生存に有利になる。

同様に、遺伝子に生じた発がん性変異はがん細胞に先天的な優位性を付与するわけではなく、変異によって周囲の資源を利用しにくくなるような場合には不利にもなりえると私たちは考えた。

また、古生物学者のエルドリッジ(Niles Eldredge)とグールド(Stephen Jay Gould)の「断続平衡説」からもヒントを得た。化石記録において多くの生物種は何百万年にもわたって安定した特性を維持しているが、劇的な環境変化があったときにだけ突然、急速に進化するとエルドリッジらは指摘している。

「同上」

化石研究から分かったことは、生物は「劇的な環境変化があったときに急速に進化する」ということです。環境が安定しているときに急激に進化することはない。では、正常細胞やそれが変異したがん細胞にとっての「劇的な環境変化」は何かというと、その最たるものが「抗がん剤による治療」なのです。このことは後に出てきます。


私たちはそこからある考えを思いついた。ある組織が最初は変異した細胞に適していなくても、その組織に喫煙者の肺に見られる損傷や炎症のような変化が生じると、それが進化的変化を促し、ときに発がんにつながるのではないか。

このダイナミクスが働いている実例として私たちが最初に観察したのは、加齢に伴う骨髄の変化が白血病を引き起こすことだった。デグレゴリのコロラド大学の研究室での老齢および若齢マウスを使った研究で、現在はエモリー大学に所属するヘンリー(Curtis Henry)と現在モフィットがんセンターに所属するマルシク(Andriy Marusyk)は、マウスのいくつかの造血幹細胞に同じ発がん変異を導入した。その結果、同じ発がん変異が動物の年齢によって細胞の運命にまったく異なる影響を与えうることがわかった。この変異は老齢マウスでは導入した細胞の増殖を促進したが、若齢マウスでは促進しなかった。

そして、それを決定する要因は変異した細胞の内部ではなく周囲の正常な細胞の代謝と遺伝子の活性にあるようだった。例えば老齢マウスの骨髄の正常な幹細胞では細胞の分裂と増殖に重要な遺伝子群の活性が低下しているのだが、発がん変異を導入した細胞ではこれが回復した。しかし、これらの幹細胞を助けた変異は、マウスに悪影響をもたらした。造血幹細胞は通常、免疫系の重要な細胞を作り出すが、発がん変異を持つ細胞集団の爆発的増加は白血病につながった。

一方、若齢マウスの組織中の若い健康な幹細胞はもともと増殖能力とエネルギー消費が環境からの供給とちょうどつり合っていた。そのため発がん変異を導入した幹細胞が変異のない幹細胞よりも優位になることはなかった。変異した細胞集団は増殖しなかった。若い組織はそのままの状態ですでに腫瘍を生じにくい環境にあるのだ。

「同上」

以上のような知見をもとに、著者はがんの予防における環境要因の研究が重要なことを力説しています。


それがなぜ重要なのか。喫煙や変異を誘発する物事を避けるなどしてある程度の変異は回避できるが、生涯を通じて私たちの身体の細胞に蓄積する変異の多くは避けることができない。しかし、このように改めて組織環境に焦点を当てれば、がんを抑制する道が開ける。加齢や喫煙などで生じた組織変化を元に戻せば、変異した細胞が優位になるのを防げるだろう。それでも変異は起こるだろうが、変異した細胞が有利になる可能性はだいぶ低くなり、数が増えることはなくなる。

もちろん、老化を止めたり逆行させる若さの泉のようなものは存在しない。運動やバランスのとれた食事、禁煙などすべきことをすれば、身体の組織をよりよい状態に維持できる。それがさしあたり私たちにできる最良の戦略かもしれない。しかし、がんの増殖のカギを握る組織環境要因がわかれば、それらを変えて腫瘍を抑えることができるはずだ。

実際、私たちはマウスの実験で、老齢マウスで炎症を起こしたり組織を傷つけるタンパク質の活性を抑えると、発がん変異を持つ細胞は増殖せず、正常な細胞が優勢を維持することを示した。

「同上」

ここまでの研究は、すべてマウスで行ったものです。しかし、マウスで成功したからと言ってヒトでうまくいくとは限りません。しかも、引用にある「炎症」は人体に備わった免疫応答の一部です。炎症を押さえることでがんの予防につながるかもしれないが、たとえば感染予防の機能が低下することが当然考えられます。「私たちは慎重に進まなければならない」と著者は書いています。


がんの治療戦略:病害虫対策から学ぶ


がんは細胞の進化のプロセスであるという考え方にもとづくと、がん治療につきまとう "薬剤耐性" というやっかいな問題を回避できる可能性がでてきます。それは、農業における病害虫との戦いの歴史から学ぶことでわかります。


1世紀以上にわたって、殺虫剤メーカーは新製品を次々と発売してきたが、病害虫はいつも耐性を進化させてきた。そしてようやくメーカーは、大量の殺虫剤を畑に散布して病害虫の根絶を図ることが問題を悪化させているのに気づいた。原因は「競合解放」と呼ばれる進化的プロセスだ。

畑にいる虫の大集団では、どの個体も食物と空間をめぐって絶えず競争を続けている。そして個々の虫は、がん細胞がそうであるように、みな同じではない。実際、殺虫剤への感受性を含めほぼすべての形質は集団内で必ず個体差が見られる。大量の殺虫剤を散布(あるいは抗がん剤を大量投与)すれば、農家(あるいは腫瘍医)は大部分の虫(あるいはがん細胞)を殺せるだろう。

しかし少数の虫(あるいはがん細胞)は、そうした薬剤にやられにくい形質を持っている。そして抵抗力の非常に弱い個体(細胞)が排除されると抵抗力を持つものが増え始める。

この状況を何とかするため考えられたのが殺虫剤の使用を抑える「総合的病害虫管理」という農業戦略だ。病害虫の根絶を目指すのではなく、病害虫を抑制して作物の被害を低減できる程度に農薬の散布量を減らすことで、競合解放が起こらないようにする。こうすることで、害虫の殺虫剤への感受性は維持される。

「同上」

実は、医学界はすでに同様の教訓を抗生物質で学んできました。抗生物質の使用と耐性菌の発生という悪循環の繰り返しを止めるには、抗生物質の過剰な使用をやめなければならない。これが教訓です。しかし同じ医学界でも、がん治療の分野ではこういった教訓が生かされていないのです。


かつて大量の殺虫剤を畑に散布していた農家のように、医師は現在もがんが進行するまで「最大耐用量(MTD)」の抗がん剤を患者に投与し続けるのが一般的だ。ほぼすべての抗がん剤は身体の正常組織にダメージを与える。そしてこうした副作用は患者にとってまったく望ましくないものであり、命にかかわることさえある。MTDは、患者を殺すか耐え難い副作用を引き起こす一歩手前の用量で薬を投与することを意味する。

同じ治療を“進行するまで”続けるのは、従来の治療の奏功の判定基準が腫瘍サイズの変化にもとづいているからだ。腫瘍が縮小すれば薬剤が効いているとみなし、腫瘍が大きくなれば治療を中止する。

ほとんどの患者や医師にとって、できるだけ多くのがん細胞を殺せるよう致死的な薬剤を最大耐用量で容赦なく投与する治療は、最良の戦略のように思える。しかし害虫や感染症の対策と同様、治癒不能ながんにおいては、この戦略は進化論的には賢明とはいえない。耐性がん細胞の増殖を実際に加速する一連の事象を引き起こすからだ

「同上」

この引用の最後に「治癒不能ながんにおいては、この戦略(= 最大耐用量を投与)は進化論的には賢明とはいえない」とあるように、著者の眼は治癒不能ながんに向けられています。そこでは現在の標準的な方法は賢明ではないのです。

ではどうするか。それは農家がやっている「総合的病害虫管理」と同様の方法であり、望ましくない集団(= 病害虫・がん)を一定レベル以下に押さえる治療戦略(= 適応療法)です。その考え方、実験、臨床試験結果が述べられています。


適応療法



進化にもとづいた戦略では、1カ月間の抗がん剤治療後に腫瘍の大きさが 50% 縮小した患者に対して抗がん剤を中止する。この方法は、過去の経験から今ある治療法(化学療法、ホルモン療法、手術、免疫療法)ではがんを治せないことがわかっている患者に対してだけ用いる。治癒が望めない以上、できるだけ長い間、腫瘍の増殖と転移を食い止めることが目標となる。

投薬を中止することで、抗がん剤に感受性のあるがん細胞を多く残す。すると腫瘍は再び増殖し、最終的に元のサイズに戻る。しかしこの再増殖期間中は抗がん剤を使わないため、腫瘍細胞の大部分は依然として耐性を持たず抗がん剤が有効となる。つまり、制御可能な感受性細胞を使って、制御不能な耐性細胞の増殖を抑制するわけだ。

この方法なら結果的に、最大耐用量で抗がん剤を連続投与する従来法よりもはるかに長い期間、腫瘍を抑制しておけるだろう。そのうえ用量をかなり減らすので、毒性がはるかに少なく、生活の質も上がる。
「同上」

ここでも著者は「過去の経験から今ある治療法ではがんを治せないことがわかっている患者に対してだけ用いる」との前提条件をつけています。適応療法と従来療法を比較した分かりやすい絵が論文に載っていました。

従来法と適応療法.jpg

この図で茶色は抗がん剤に感受性をもつ(=抗がん剤が効く)がん細胞、緑色は抗がん剤に耐性をもつがん細胞を示す。

上段の従来法では、進行がんの治療に「焦土作戦」がとられ、患者が耐えられる最大耐用量の抗がん剤で腫瘍を攻撃する。しかし、生き残ったがん細胞は抗がん剤に耐性を持っており、焦土になった中で増殖して手が付けられなくなる。

それに対して下段が適応療法で、抗がん剤の用量を減らし、資源獲得競争において感受性細胞が耐性細胞を負かすように仕向ける。これによって腫瘍が完全な耐性を進化させるのを防ぐ。


ゲートンビーの研究室は数理モデルとコンピューターシミュレーションを使ってこのアプローチの研究を2006年に始めた。数理モデルががんの治療計画で使われることはほとんどなかったが、考えられる治療方法が何通りもあったため、成功する可能性が高い方法を数理的に絞り込むという、物理学でよく用いられている手法が必要となった

このモデルから、試験する薬剤の用量が決まった。その用量をマウスの実験で試した結果、進化にもとづいた戦略で腫瘍抑制が大きく改善されうることが確認された。

結果は非常によく、私たちは臨床へ、人間のがん患者を対象とした試験へ進んだ。モフィットがんセンターの腫瘍医で前立腺がん患者を診ているチャン(Jingsong Zhang)がこの取り組みに加わった。チャンほか複数の数学者と進化生物学者の協力を得て、私たちは前立腺がん細胞の治療中の進化動態のモデルを開発した。

私たちはこのモデルを使用して抗がん剤の各投与量に対する前立腺がんの反応をシミュレートした。そしてこのシミュレーションを何度も繰り返した末、耐性細胞の数を増やすことなく最も長くがんを抑えられる一連の投与量を特定した。

次に、ほかの部位にすでに転移が起きている(身体から完全に排除できない)進行前立腺がん患者たちに臨床試験の被験者になってもらった。これまでのところ、素晴らしい結果が得られている。

参加した18人のうち11人はまだ治療が続いている。標準治療で進行前立腺がんを抑制していられる期間は平均約13カ月なのに対し、私たちの臨床試験では平均で少なくとも34カ月だ。患者の半数以上がまだ実際に治療を続けているので、もっと延びる可能性もある。さらに、この腫瘍抑制効果は標準治療に使われる用量のわずか40%で得られている。

「同上」

この引用あるように、著者は、

・ 前立腺がん細胞の治療中の進化モデルを開発し
・ モデルを使用して抗がん剤の投与量に対する前立腺がんの反応をシミュレートし
・ そのシミュレーションを繰り返して最も長くがんを抑えられる一連の投与量を特定して

適応療法を行ったわけです。きわめて綿密な作戦のもとに治療を行ったことがうかがえます。この結果、引用のように良好な結果が得られました。しかし著者は、

・ 進化にもとづく治療戦略はまだ揺籃期
・ 前立腺がんでうまくいっていったからといって、胃がんなどでも有効かどうかはわからない

と、慎重にコメントしています。また、「最良の策がなるだけ多くのがん細胞を殺すことではなく、必要最小限を殺すことだ」と患者に納得してもらうのは、たとえ治癒不能ながん患者であったとしても難しいこともあるでしょう。こういった患者の心理的な障壁の解決も課題になります。


がん抑制に向けて


がんは、どうしようもなく複雑で異様な力を持つ存在に映ります。原因がはっきりしないことが多いうえに、非常に強力で毒性の強い抗がん剤治療にも打ち勝って再発する能力を備えているからです。

実際、1世紀以上にわたり「すべての正常細胞はそのままにすべてのがん細胞を排除できる特効薬」が研究・開発されてきましたが、がんは進化を利用してこうした薬剤をかわしてきました。

しかし逆に、がんが他のすべての生命システムと同様に進化のルールに従うという理解にたてば、がんを抑制する手段がありうるのです。そして、たとえ完全治癒はしなくても、がんの進化について学んだことを活かして戦略的な治療を行えば、最良の結果を得られるでしょう。さらに、がん細胞よりも正常細胞が有利になるように体内の組織環境を整える "予防戦略" も開発できそうです。がん細胞だけでなく、私たちも進化を利用できるのです。



以上が論文の内容です。冒頭の「治癒不能な前立腺がん」の話にもあったように、著者の問題意識は「標準治療では治癒できない(= 生存率が低い)ケースにどう対応するか」に向けられています。決して標準治療を否定するとか、抗がん剤を否定するとか、そういったものではありません。

治癒不能とされるケースでも、治療のやり方を見直すことで、完全治癒はできないかもしれないが、がんを人間のコントロール配下におき、患者にとっての最良の道を見つけたい。そういう主旨だと理解できます。そのベースになっているのが「"進化" の視点で生命現象を観察する」ことなのです。

紹介した論文の原題は "Darwin's Cancer Fix" です。名詞形での表現ですが、動詞形にして直訳すると「ダーウィンががんを治療する」でしょう。「およそすべての生命現象を研究するときには進化の視点が欠かせない」という意味のことを、20世紀の著名な生命科学者が言ったと記憶しますが、この原題はそのことを示唆しているのでした。




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No.337 - がんは裏切る細胞である [科学]

前回の No.336「ヒトはなぜ "がん" になるのか」は、英国のサイエンスライター、キャット・アーニー著の同名の本を紹介したものでした。内容は、がんを「体内で起きる細胞の進化」ととらえ、その視点で新たな治療戦略の必要性を説いたものでした。

今回は引き続き同じテーマの本を紹介します。アシーナ・アクティピス著「がんは裏切る細胞である ─ 進化生物学から治療戦略へ ─」(梶山あゆみ・訳。みすず書房 2021。以下 "本書")です(原題は "The Cheating Cell")。

前回の本と本書は、2021年の出版です。つまり「進化生物学の視点でがんの生態を研究し治療戦略をつくる」という同じテーマの本が、同じ年に2冊刊行されたことになります。ただし、今回の著者は現役のがん研究者で、そこが違います。

著者のアシーナ・アクティピス(Athena Aktipis)は米国のアリゾナ州立大学助教で、同大学の "進化・医学センター" に所属しています。またカリフォルニア大学サンフランシスコ校の進化・がん研究センターの設立者の一人です。進化生物学の観点からがんを研究する中心の一人といってよいでしょう。従って、自身や仲間の研究も盛り込まれ、また、がんの生態に関する詳細な記述もあります。専門的な内容も含みますが、あくまで一般読者を対象にした本です。専門性と一般性がうまくミックスされた好著だと思いました。

以下、本書の内容の "さわり" を紹介します。以降の本書からの引用は、原則として漢数字を算用数字に直し、段落を追加したところがあります。また、下線や太字は引用をする上でつけたもので原文にはありません。


がんと進化:2つの視点


本書の最初の4つの章は、

・ 第1章 はじめに
・ 第2章 がんはなぜ進化するのか
・ 第3章 細胞同士の協力を裏切る
・ 第4章 がんは胎内から墓場まで

と題されています。この4つの章の内容をごく短く要約すると、

・ がんは、多細胞生物の体内で起こる細胞レベルの進化である。
・ 一方、生物のレベルでは、がんを抑制するしくみが進化してきた。
・ "がんの進化" とそれを "抑制するしくみ" の2つは、胎内から墓場までのあいだ、体の中で攻めぎ合っている。

となるでしょう。まず、ここまでの内容を本書からの引用を含めて紹介します。



がんを「進化のプロセス」としてとらえるとき、その "進化" には2つの視点があります。一つは「体細胞の進化 = がん」です。2つ目は、体細胞が「生物」を構成している、その「生物の進化」です。がんを考えるとき、この2つの視点で見ることが重要です。


がんという存在は、進化に関してふたつの異なる切り口から捉えることができる。まずひとつは、私たちの体の細胞のあいだでは進化が起きており(これは「体細胞進化」と呼ばれることが多い)、それががんにつながるということである。生存と繁殖に関する有利不利は細胞によって度合いが異なり、たとえば増殖するスピードや、生きる長さなどに違いがある。結局、より速く増殖してより長く生きる細胞が次世代で数を増やしていき、最終的に集団内で大多数を占める。これが自然選択であり、自然界で生物進化の原動力となってきたプロセスと何ら変わるところはない。

進化論の視点からは、なぜがんが今なお地球上に生き残っているのかも理解できる。生物は長く生きて多くの子を残すために、気の遠くなるような時間をかけてがんを抑制する(つまり体細胞進化を抑える)方法を発達させてきた。そういう仕組みがあるからこそ、そもそも多細胞生物として生存することができている。ただし、このがん抑制メカニズムは完璧ではない。進化の見地からいって、がん化のおそれのある細胞を100パーセント制御するのは不可能だからである。

なぜ生物はがんを完全に抑え込む進化をしてこなかったのか。その理由は多岐にわたり、いずれもそれ自体として興味深いものばかりである。ひとつは、子孫を残すうえで有利になる別の形質とトレードオフ(何かの利益を得ると別の何かが犠牲になるような相容れない関係)になっていること。たとえば繁殖力などがそうした形質のひとつだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.11

がんという "体細胞進化" は、ヒトを含む生物の一生のうちに起こるものですが、がんを押さえ込むしくみは生命の長い歴史の中で "進化" してきたものです。2つの時間軸は全く違います。この違いを理解しておく必要があります。


がんの進化を理解しにくい理由のひとつは、自然選択がふたつのレベルで進行していて、それぞれの起きる空間と時間軸が異なるためである。

ひとつは体内の細胞のレベルであり、生物の一生という比較的短い時間で自然選択が生じる。もうひとつは自然界の生物のレベルであり、非常に長い時間をかけて自然選択が進む。がん細胞は体内で進化する。その一方で、がんを抑制する能力の高い体(つまり細胞の裏切りをうまく見つけて排除できるメカニズムをもつ体)のほうが、生存率が高いうえに子孫を多く残すという事実もある。

同じ生物でも、細胞と体という複数の(マルチの)レベルで自然選択が働いているわけだ。これを「マルチレベル選択」という(古典的な「群選択説」を現代的に改良した考え方)。がんの不可解な側面を理解するには、マルチレベル選択の視点に立つことが欠かせない。

「がんは裏切る細胞である」
p.51

がんを「体細胞の進化」ととらえるとき、その進化は生物を死に至らせる(ことがある)わけです。このような状況を「進化」と呼んでよいのでしょうか。著者は、それも進化のうちだと、「進化的自殺」という言葉を使って次のように述べています。


とはいえ、私たちが死んだらがんの進化はどうなるのだろう。がんが最終的に自らの宿主の命を奪うのなら、それを本当に「進化」と呼んでいいのだろうか。行く先に身の破滅が待っているのなら、その生物は進化したといえるのか。もちろん答えはイエスである。恐竜が結局は絶滅したからといって、「進化しなかった」などといい張る者はいない。何かの生物が進化の袋小路にはまり込んだとしても、それまでの進化がなかったことになるわけではない。

進化の果てに滅びる生物がいるように、がん細胞の集団も体内で進化したあげくに進化の袋小路に入り込む。こうした現象全般を進化生物学では「進化的自殺」と呼ぶ。進化的自殺が起きるのは、生物の集団が進化によって獲得した何らかの形質が、最終的に種全体を絶滅へと向かわせるときだ。たとえば、資源を消費する能力が高くなりすぎて、未来の世代に何も残さないケース。あるいは、求愛のための性的装飾が凝ったものになりすぎて、集団全体が悲惨なほど捕食されやすくなる、などがそれにあたる。

「がんは裏切る細胞である」
p.21

"進化" は "変化" であって、"良くなる" ことではありません。進化の袋小路に入り込んで、結果として環境変化についていけずに絶滅するようなことも起きる。これも進化です。


多細胞ルールブック


がんとは何かを知るためには、多細胞生物の "細胞レベルでの基本的な振る舞い" を理解する必要があります。多細胞生物は、膨大な数の細胞同士が、ルールにのっとって協力することで成り立っています。このルールを著者は「多細胞ルールブック」と表現しています。そのルールブックに記されている重要点は、次の5つです。


1.無秩序に分裂してはならない

1個のまとまりある多細胞の体として発達し、適切に機能するためには、細胞は勝手な増殖や分裂を抑えなければならない。このルールがなければ、多細胞生物としての構造や機能は損なわれ、際限なく大きくなり続けてしまう。

2.集団への脅威となったら自らを破壊せよ

細胞は、多細胞の体の生存能力を脅かす場合がある。細胞が遺伝子変異を起こして無秩序に分裂するというのが、そうした例のひとつである。あるいは、たとえば胎児の手指・足指のあいだにある水かきの細胞も、そのまま残っていたら正常な発達の妨げになる。アポトーシスというかたちで自死するメカニズムがあるからこそ、邪魔者の細胞がひそかに自らを消し去ることができる。

3.資源を共有し、輸送せよ

多細胞生物の体が二、三ミリより大きくなると、拡散(濃度の高いほうから低いほうへ物質が移動すること)だけでは酸素や栄養素が内側の細胞にまで行き渡らない。資源を能動的に輸送するための何らかの仕組みが必要になる。たとえば、私たちの消化器系と循環器系は複雑な資源輸送システムである。これがあるおかげで体内の細胞は栄養を手に入れ、生き続けるのに必要なすべての仕事をこなすことができる。

4.与えられた仕事をせよ

多細胞間の協力体制を支える柱のひとつが分業である。体内の細胞は数百種類に及び、それぞれが異なる仕事をしている。肝細胞は血液を解毒し、心臓の細胞は血液を送り出し、神経細胞は電気信号を伝達する。細胞が仕事をやめたり、仕事を正しくこなせなくなったりすると、多細胞の体にとっての脅威となり得る。間違ったときに間違った遺伝子を発現させ、広範な調節システムを大混乱に陥れかねず、そうなると多細胞の体はうまく機能することができない。

5.環境の世話をせよ

私たちの体はそれ自体が一個の世界だ。細胞は組織構造をつくってその中で暮らし、老廃物を蓄積させないように集めて除去するシステムをもっている。細胞は発達の過程で、そうした内なる世界を築いていき、私たちが生きているあいだじゅうそれを維持しながら、構造を保持して老廃物を取り除き続けている。組織構造があるおかげで、細胞は(周囲の組織に侵入することなく)本来の場所にとどまりやすくなっている。また、それによって個々の細胞は遺伝子発現の状態をあるべき姿に保ち、正しいタンパク質を製造して適切に自らの仕事を実行することができている。

「がんは裏切る細胞である」
p.47 - p.48

この "多細胞ルール" のどれか、あるいは全部を破る細胞が、がん細胞です。その発端は遺伝子の変異です。一般的に遺伝子が変異した細胞は死滅することが多く、また生存・死滅にかかわらない中立的な変異も多い。しかし(たまたま)多細胞ルールを破る細胞が現れ、それがその時の体内環境によって「選択」されることが起こります。


多細胞ルールブックの根底にある遺伝子のメカニズムは、ときに壊れることがある。原因は、DNAの塩基配列が変異したり、エピジェネティクスの変化(遺伝子発現の異常など)が生じたりするためであり、それによって細胞が異常をきたし、多細胞としての約束事に従わなくなる。すると、協力のルールをきちんと守っている細胞をいいように利用し、生存と繁殖において自分だけが得をする場合がある。

ひとつ指摘しておくが、普通であればそういうことはめったに起こらない。異常のせいで細胞の生存能力は低下するうえ、仮に何らかの利益が生まれる(増殖速度が上がるなど)にしても、その異常性が標的にされて破壊されるケースが多い。体には、がん化のおそれのある細胞を見つけ出して取り除くメカニズムが備わっている。このメカニズムのおかげで、変異した細胞が利益を得るおそれがあっても排除されるのが普通だ。にもかかわらず、変異した細胞のほうが正常な細胞よりも生き残るうえで有利になることがある。

「がんは裏切る細胞である」
p.48 - p.49

ここで述べられているように、多細胞ルールブックに反する遺伝子変異が、その細胞の生き残りと増殖にとって有利になる場合があります。たとえば、増殖の抑制が利かない、アポトーシス(=細胞の自死)が起きない、代謝異常のため資源を浪費する、といった変異です。またがんを抑制する遺伝子の変異もルール破りにつながる。

生物の集団全体でみると、多細胞ルールブックどおりに行動する《協力者細胞》の多い生物の方が、より長く生きて多くの子孫を残します。しかし局所的に見ると、自然選択が《裏切り者細胞》に有利に働くことがあるのです。


がん抑制のメカニズム


「進化」を「体細胞進化」と「生物進化」の2つのマルチレベルでとらえると、「生物進化」のレベルにおいて、生物は「がん抑制のメカニズム」を発達させてきました。著者はそれを「細胞の良心」「ご近所の目」「体内の警察隊」の3つのカテゴリーで説明しています。

 細胞の良心 

まず細胞内には、自身のがん化の兆候を認識し、しかるべき対応をとるように伝達する遺伝子の情報ネットワークが存在します。その代表が、TP53 という遺伝子(=がん抑制遺伝子)を中心とするネットワークです。


TP53などのがん抑制遺伝子と、そこに情報を送り込む情報ネットワークは、DNAの損傷や異常なタンパク質を発見するためにつくられている。また、細胞が何らかのかたちで正常な状態を逸脱し、もはや多細胞の体全体の適応度を高める役に立っていない場合も、そのことを示すシグナルを検出する。細胞内の情報が織り成す広大なネットワークにおいて、TP53は中心的な中継点ともいうべき存在であり、細胞版の中央情報局よろしく細胞の動向に目を光らせている(下図参照)。

さらには、細胞内と周辺から来るありとあらゆるシグナルをまとめ上げ、個々の細胞の運命がどうあるべきかを「決定」する。このことから、がん研究者はTP53を「ゲノムの守護者」と呼んできた。でも私は「ゲノムの《裏切り者》発見器」として捉えたい。TP53遺伝子は活性化されると、細胞の複製を止め、ただちにDNAの修復を開始させる。そして、細胞の損傷が大きすぎる場合は、アポトーシス(プログラム細胞死)のプロセスを始動させる。

「がんは裏切る細胞である」
p.56

TP53を中心とした情報ネットワーク.jpg
TP53 の遺伝子ネットワーク

がん抑制遺伝子TP53は遺伝子ネットワークの中心的な中継点であり、特定の細胞が生物の生存能力を脅かすかどうかを「判断」している。p53タンパク質を製造することにより、細胞機能の様々な側面から情報を集め、細胞の裏切り(代謝の異常,ゲノムの不安定化、不適切な移動など)の徴候が確認されたら細胞周期を停止したり、DNAを修復したり、必要であればアポトーシス(細胞の自死)を誘導したりもする。本書 p.57 の図3-3 より引用。

 ご近所の目 

次は近接した細胞同士が互いに監視しあい、周囲の細胞とは違う異常行動をする細胞を排除する仕組みです。


住民が近隣の様子に目を光らせるように、細胞も隣接する細胞のふるまいを監視している。この監視があるおかげで、細胞は自分たちの「地区」の只中で脅威が発生するのを防ぎ、周囲の細胞が多細胞の体の中で適切にふるまえるようにしている。具体的には、隣接細胞の遺伝子の発現状況を感知して、異常の起きた形跡がないかを確認しているのであり、そうした異常のひとつが細胞の裏切りである。

通常、細胞は周囲から発せられるシグナルに対してきわめて敏感だ。ニューヨークのスローン・ケタリング記念がんセンターのセンター長クレイグ・トンプソンは、この極端なまでの敏感さを次のようにたとえた ── あなたの体内の細胞という細胞が毎朝目覚めるたびに自殺を考えるが、周囲にうるさく説得されて思いとどまっているようなものだ、と。

実際、隣接する細胞間ではまさしくこれに似たようなことが起きていて、細胞同士は「生存せよ」というシグナルを絶えず交わし合っている。しかし、近くのいずれかの細胞から「気に食わない」とされたら、自死のプロセスを開始することができる。どこかの細胞が隣の細胞の急速な増殖に「気づいた」ら、その細胞は隣に向けて「生存せよ」の信号を送るのをやめたり、自死を促すシグナルを発したりする場合もある。こうした周辺監視システムも、がん細胞予備軍から全身を守る一助となっている。

「がんは裏切る細胞である」
p.58 - p.59

 体内の警察隊 

そして最後は免疫システムです。免疫はがん特有の抗原を感知し、その抗原を発現しているがん細胞を排除することができます。


細胞内部や近隣の監視メカニズムでは細胞の裏切りを抑え込めない場合、体には頼るべきもうひとつの防衛線がある。免疫系だ。免疫細胞は体内を巡回しながら全身のあらゆる領域に絶えず目を配り、異常な遺伝子発現がないかどうかを探している。それにより、細胞が正しくふるまっていないことを示す徴候(過剰増殖、過剰消費、不適切な細胞生存など)を間接的に監視している。

免疫細胞が具体的に標的にするのは「腫瘍抗原」である。腫瘍抗原とは、がん細胞が遺伝子を発現したときに生じるタンパク質のことだ。これが存在すると、細胞が不適切なふるまいをしている可能性があることに免疫細胞が「気づく」。腫瘍抗原タンパク質は、正常な細胞周期(細胞増殖においてDNA複製と細胞分裂が繰り返される周期)が乱されたり、隣接する細胞との結合が断たれたり、細胞のストレス応答が起きたりしているときにも分泌される。

免疫系は、あらゆる組織系、あらゆる器官系での細胞のふるまいに関する情報を集め、何らかの不具合を示すしるし(この腫瘍抗原の存在など)を見つけたら、その場所に免疫細胞を動員する。多細胞の体に害をなすものは何であれ、免疫細胞の捜索・破壊ミッションの対象となる。がん細胞も例外ではない。がん細胞を発見したらそれを排除する能力が免疫系にはあり、そうすることで体をがんの脅威から守っている。

「がんは裏切る細胞である」
p.59 - p.60


トレードオフ


以上のような「がん抑制メカニズム」があるにもかかわらず、なぜ、がんが発生するのでしょうか。生物レベルの進化の過程で「がんは完全に抑制できる」ようにならなかったのでしょうか。

その理由は、ヒトの(生物の)胎内から墓場まで、数々の場面で細胞が "がんのように振る舞う" 必要があるからです。つまり「がん抑制メカニズムを強くしすぎると、正常に生きていくことに支障をきたす」という "トレードオフ" の関係があるのです。


TP53遺伝子のようながん抑制メカニズムを通して、細胞の自由を抑え込む力を今より強めたらどうなるだろうか。《裏切り者》を有利にする進化のプロセスを遅らせたり、場合によっては完全に停止させたりすることも不可能ではない。

しかし、コントロールが強すぎると、私たちの健康や生存能力が損なわれるおそれがある。なぜかといえば、健康に生きることを助けてくれる重要な仕組みの多くは、細胞が「がんのように」ふるまうことを求めるからだ。急速に数を増やし、体内を動き回り、組織の中に入り込むといったふるまいがそれにあたる。

たとえばどこかに切り傷ができたとしよう。傷を治すには細胞が増殖し、移動して傷をふさがなくてはいけない。細胞のふるまいを制限しすぎたら、切り傷は治癒しなくなる。それだけではない。あとで見るように生殖能力が低下し、加齢とに組織を再生するのが不可能になるうえに、感染症にかかりやすくなるという結果にもつながる。

細胞をコントロールしすぎると不利益が生じることは、すでに胚の発達過程からはっきりと見てとれる。そもそも胚が無事に生育していけるかどうかは、細胞の増殖と移動にかかっている。そのため胎内では、細胞が無秩序に複製しないように抑制する必要がある一方で、適切な発達のためには細胞に相応の自由を与えて動き回れるようにしてやらないといけない。こうした綱渡りを考えると、たったひとりでも生きて子宮を出られることが奇跡に思えてくる。

「がんは裏切る細胞である」
p.72 - p.73

細胞が急激に増殖したり、細胞が移動したりするといった振る舞いは、胚の発達過程からはじまって生体の傷の修復まで、数々のシチュエーションで必要になります。しかしこのような振る舞いは、まさにがん細胞が得意とするものなのです。


皮膚の表面に切り傷ができた場合、傷をふさいで組織を再建するために、周囲の細胞は増殖して新しい細胞をつくることを求められる。この新しい細胞には移動する能力も必要だ。運動性細胞の最先端となり、接着し合って傷口を閉じるのである。傷を短時間で治すことができれば、正常な機能へ迅速に復することができるし、傷が細菌などに感染するリスクも下げられるので、生物にとっては利益が大きい。そのため、私たちは進化を通じて傷を速やかに治癒させられるようになった。

だが、これには代償が伴う。体が「傷を閉じろ」というシグナルを発したら、細胞はそれに呼応してすぐに増殖・移動しなくてはならないからである。増殖して移動するというのは、がん細胞が成長して体内の新しい場所にコロニーをつくるときに用いる能力と変わらない

しかもがん細胞は実際に傷が生じたわけでもないないのに、傷の治癒を促す「偽の」シグナル(炎症反応を亢進させる因子など)をつくり出す。こうなると、多細胞が正常にふるまうためのチェック機能やバランス機能の裏をかけるようになる。がんが「癒えない傷」と称されることもあるのはこのためだ。

このように、傷を治すために体がもともともっているメカニズムを、がん細胞は自分勝手な目的に悪用する場合がある。傷の治癒をもたらすシグナル伝達システムがある種のがんに利用されると、組織は絶えず炎症が持続した状態になる。

「がんは裏切る細胞である」
p.94 - p.95

がん抑制遺伝子であるTP53が過敏だと細胞の早期老化につながったり、炎症が過度に引き起こされることが分かっています。つまり、細胞を自由にさせ過ぎるとがんのリスクが高まるが、逆に細胞の自由度を抑制し過ぎれば、成長が止まったり生殖に失敗する恐れが出てくるのです。本書の第4章、「がんは胎内から墓場まで」では、こういった "トレードオフ" の例が詳細に語られています。



本書の第5章は「がんはあらゆる多細胞生物に」と題されていて、植物を含む多細胞生物全般に "がん類似の" 異常増殖が見られることが説明されています。

さらに第6章「がん細胞の知られざる生活」では、がんが体内でどのように進化し、生息し、転移するのかが、研究者の立場から詳細に述べられています。


がんをいかにコントロールするか


第7章(最終章)は「がんをいかにコントロールするか」と題されていて、今後のがん治療に必要な視点が述べられています。

「がん = 進化しつつある体内微小環境」であり、がん組織は治療(抗がん剤、放射線など)への抵抗性があるように進化します。治療により一時的に多くのがん細胞が死滅したとしても、そのあとに残った抵抗性のあるがん細胞が一挙に増大して、結果として手が着けられなくなることが多々あります。

がんは「本質的に体の一部」です。従ってそれを「攻撃する」とか「根絶やしにする」といった考え方はまずいのです。


がんに関しては、戦争で使うような言い回しがよく用いられる。たとえば患者はがんと「闘い」、「勝つ」か「負ける」かする。確かに戦争の比喩には大きな影響力と強い説得力があるので、がん研究に対する支援を取りつけるうえでも、人類を共通の目標に向けて団結させるうえでも効果はあるかもしれない。

その反面、誤解を招く表現だともいえる。本質的に自らの一部であるものを、完全に根絶やしにすることなどできない。そういう攻撃的なアプローチが名案に思えるのは、私たちが「滅ぼすべき敵」としてがんを捉えているからである。

だが実態はどうかといえば、多様な細胞からなる集団が、私たちから浴びせられるあらゆる治療法に呼応して進化している。それががんの本当の姿にほかならない。そういう見方をしない限り、私たちはひとつのリスクを冒すことになる。実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがあるのだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.13

「実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがある」と著者が書いているのは、「攻撃性の低い治療法の方が、結果として患者を延命させる効果が高い、ないしは治癒させる確率が高い」ことが十分に考えられるからです。医学界には「攻撃性が弱い」という理由で使われなくなった抗がん剤がいろいろありそうです。

では「がん = 進化しつつある体内微小環境」という視点にたつと、どのような治療方法が考えられるのでしょうか。そのヒントは「総合的病害虫管理」にあります。病害虫が農薬に対する耐性をつけることは常識化していますが、そのことを前提にしたのが総合的病害虫管理です。


総合的病害虫管理(IPM)は、化学農薬への抵抗性を農業病害虫に獲得させないことを目的とし、長期的な視点で病害虫を管理する手段のひとつだ。病害虫管理を効果的に行ううえでは、鍵となる考え方がある。化学農薬への抵抗性を得るために生物はコストをかけている、ということである。このため、化学農薬が存在しなければ、じつはそうした抵抗性をもつ生物のほうが不利になる

したがってIPMの取る第一の戦略は、何もしないことである。つまり、病害虫による損害が危険な閾値に達したときにのみ手を打てばいい。次なる戦略は病害虫の数を減らすこと。化学的な処置を用いてその数を閾値以下に戻し、病害虫による被害がそれほどひどくない状態にする。

IPMでは、病害虫の集団内にすでに抵抗性が存在しているという前提に立つ。そういう状況で一度に多すぎる量の農薬を使ったり、農薬を頻繁に散布しすぎたりしたらどうなるか。その処置への感受性のある病害虫はすべて駆除できても、それに抵抗力をもつものだけが残り、結果的に病害虫を長期的にコントロールするのは不可能になる。IPMはいずれこうした状況が生じ得るのを予期し、比較的低用量の農薬を使用する。それは、処置への感受性をもつ病害虫を根絶やしにするのではなく、長期的な個体数管理ができるようにするためである。

「がんは裏切る細胞である」
p.215 - p.216

ポイントは引用の最後にある「病害虫を根絶やしにするのではなく、長期的な個体数管理ができるようにする」というところです。この考え方をがん治療に応用できないか。

それを始めたのが、米国の腫瘍学者、ロバート・ゲイトンビーです。彼の治療は「適応療法」と呼ばれています。


IPMの論理にヒントを得てがんの新療法を開発したのが、フロリダ州タンパにあるモフィットがんセンターの放射線腫瘍学者ロバート・ゲイトンビーである。抵抗性を進化させないために病害虫を放っておくというIPMの戦略を知ったとき、その種のやり方をがん治療にも応用できないかとゲイトンビーは考えた。そして2008年、このアイデアをさらに深めるための一歩を踏み出した。私費を投じて、初めての前臨床研究をアリゾナ大学(当時そこで放射線学科の学科長を務めていた)で実施したのである。以来、病害虫管理の考え方をがん治療に用いる研究を続けている(現在は米国国立がん研究所をはじめとする様々な組織から助成金を得ている)。

農薬の場合がそうだったように、がん治療における最大の問題はがんが抵抗性を獲得してしまうことである。治療の最中にがん細胞が進化して治療への感受性を失い、治療が効かなくなる。化学療法に対して抵抗性が生じる問題は、これまでに試されたすべての抗がん剤で確認されている。たとえば、上皮成長因子受容体(EGFR)阻害剤や、ヒト上皮細胞増殖因子受容体2(HER-2)を標的にした療法などもそうだ。

「がんは裏切る細胞である」
p.216 - p.217

本書ではゲイトンビーの「適応療法」のやり方が詳細に述べられています。


ゲイトンビーと同僚の開発した新たながん治療法は革命的なものであり、その狙いは腫瘍の一掃ではなく長期にわたる腫瘍のコントロールである。IPMの場合と同様にこの治療去が目旨すのは、腫瘍負荷(患者の体内にある腫瘍組織の総量)を限度以下に抑えつつも、治療に対するがん細胞の感受性を維持することにある。そうすれば同じ薬剤をいつまでも使い続けることができるうえに、環境(つまりこの場合は患者の体)へのダメージを拡大させることもない。

ゲイトンビーの手法は「適応療法」と呼ばれる。これは、腫瘍の状況に合わせて治療法自体を適応させる(変化させる)という意味から命名された。適応療法では、画像技術や血液検査によって腫瘍の状態を綿密にモニターする。腫瘍が成長しているのかいないのかがわかったら、その情報をもとに抗がん剤の用量を定める。どのように定めるかには何通りかのアルゴリズムがあるが、大原則は、腫瘍を安定した状態に保つとともに、患者へのダメージが大きくなりすぎないような腫瘍サイズを維持することである。管理する対象が腫瘍というだけで、本質的にはIPMと変わらない。

具体的な用量の決め方は研究によっていくらか異なるとはいえ、適応療法というプロセス自体の目指すところはひとつだ。つまり、腫瘍を安定させ、支配下に置くことである。まず最初に、腫瘍を小さくするために比較的高用量の抗がん剤を投与する(これによってがん性細胞集団の細胞数を減らすことで、その後の腫瘍内での進化のペースを遅らせる狙いがある)。

次に、腫瘍を定期的にモニターしながら、そのふるまいに応じた抗がん剤治療を行う。腫瘍のサイズに変化がなければ用量も変えない。腫瘍が成長したら用量を増やし(ただし最大耐量を超えないようにする)、大きくならなければ用量を減らす。腫瘍のサイズが所定の下限値を下回ったら、再びその一線を超えるまで投薬は停止する。あるいは、同じ用量を維持しながらも、腫瘍が当初の半分のサイズになったら投薬を中断するというやり方もある。

適応療法は、がんに対するこれまでの考え方を180度転換するものだ。破壊しようとするのではなく腫瘍が存在するのを許し、代わりにもっと手に負えるものに変える。これによりがんは急性の致死的な病から、扱いやすい慢性の病気へと変貌する。

投薬をしなかったり、低用量の投薬しか行わなかったりすれば、腫瘍内の細胞は薬剤への感受性を失わないので攻撃性が低下する。結果的に、同じ薬剤を使って治療を続けることができる。しかも、腫瘍が成長しつつあるときにしか治療の強度を上げないため、短期間で分裂する細胞が進化のうえで有利になることがない。むしろ、もっと時間をかけて増殖する細胞が選択されると考えられる。また、腫瘍内の細胞が進化する速度を遅くできる可能性も開ける。

もちろん、高用量の治療で完治させられることが明白なら(たとえば遺伝的に均一な細胞で構成されていて早期に発見された腫瘍などの場合)、適応療法が最善の選択肢とはいえないかもしれない。しかし、従来型の療法ではコントロールの難しい進行がんの場合には、適応療法が高用量療法に代わるものを与えてくれる。実際、のちに見ていくように、適応療法は後期のがんのコントロールに成果をあげてきた。

「がんは裏切る細胞である」
p.217 - p.218

引用の最後のパラグラフにあるように、「遺伝的に均一な細胞で構成されている早期に発見された腫瘍」の場合は、高用量の抗がん剤で完治できる可能性があるわけです。適用療法はあくまで腫瘍組織の精密な検査とセットで行うものです。

ゲイトンビーは数々の動物実験をしたあと、2016年に患者に対する臨床試験を始めました。


ゲイトンビーは2016年、同僚でがん専門医のジンソン・チャンと手を携え、適応療法をヒトに用いる初の臨床試験を実施した。試験に参加したのは転移性前立腺がんの患者11名であり、いずれももはやホルモン療法に反応しないことが予備試験で確認されていた。

通常、前立腺がん細胞は増殖のためにテストステロンを必要とするため、テストステロンの分泌を抑制するホルモン療法を行ってがん細胞が広がるのを防ぐ。ところが、前立腺がん細胞は往々にして自らテストステロンを産生することで、「去勢抵抗性」を獲得しやすい。アビラテロンという薬はテストステロンの合成を阻害するので、去勢抵抗性前立腺がんの治療によく処方される。

ただしそれも、がん細胞がアビラテロンへの抵抗性を進化させるまでのあいだにすぎない。治療を始めてからアビラテロンへの抵抗性が現れるまでの時間には個人差が大きい。通常の継続治療の場合、16.5か月経過した時点で患者の半数に腫瘍の進展が認められる(16.5か月というのは、去勢抵抗性前立腺がんが治療への抵抗性を得るまでの期間の中央値。このゲイトンビーの研究は対照群を含まない)。

ゲイトンビーによる適応療法の臨床試験では、腫瘍負荷を測定するのにPSA値を使用した。試験の手順は、試験開始時の50パーセント未満にまでPSA値が下がったら、アビラテロンの投与を中止するというものである。こうして、PSA値が低いときには腫瘍をそのまま放置しておき、PSA値が開始時の100パーセントを超えたときにのみ投薬を再開した。

ゲイトンビーはこのやり方により、標準治療よりはるかに長く腫瘍をコントロールし続けることができた。2017年10月(チャンとゲイトンビーの予備試験の論文掲載が受理された時期)の時点で、11人の患者のうちがんの進展が確認されたのはひとりのみ。これは驚異的な結果である。結局、応療法の臨床試験では、がんが進展するまでの期間の中央値は少なくとも27か月であり、典型的な16.5か月を大幅に上回った。それどころか、実際には27か月よりはるかに長かったと思われる(臨床試験中にがんが進展する患者の数があまりに少なかったため、本当の中央値を計算することができない)。しかも、適応療法の患者が投与されたアビラテロンの総用量は、推奨される標準治療の半分にも満たなかった。

「がんは裏切る細胞である」
p.220 - p.221

がんが「体細胞の進化」であるという視点にたつと、適応療法以外にも治療のアイデアが浮かびます。その一つが「おとり薬」です。


進化という視点に触発されたゲイトンビーのがんコントロール戦略には、がんを優位に立たせないための独創的で気の利いた発想がたくさんある。たとえば、抵抗性にはコストがかかる(薬剤に抵抗するために細胞は働いてエネルギーを消費しなくてはならない)という点を踏まえ、ゲイトンビーはひとつのアイデアを思いついた。抵抗性をもつ細胞にそのコストを費やさせながらも、それによってかならずしも利益を得られないような状況をつくってはどうか。多剤抵抗性を得ている細胞は薬剤排出ポンプをもっていることが多く、このポンプを運転するにはエネルギーを必要とする。

多剤抵抗性という特性はむしろ弱点であり、その弱みにつけ込むことができるとゲイトンビーは考えた。どうするのかというと、細胞に「おとりの薬」を与える。毒性がまったくないか、最小限の毒性しかないような物質だ。このおとりの薬ががん細胞に薬剤排出ポンプを稼働させてエネルギーを使わせるにもかかわらず、抵抗性のない細胞と比べて生存上の利点があるわけではない。ゲイトンビーはこの種の薬を「代用薬(ersatzdroges)」と呼んでいる。「おとりの薬」より響きがいいし、意味は変わらないからである。

ゲイトンビーと同僚は、培養した抵抗性細胞の増殖率を代用薬で下げられることと、代用薬を投与したモデルマウスの細胞のほうが(抵抗性をもたない類似の細胞株より)増殖率が低いことを見出した。この戦略によって抵抗性細胞は「只働き」をさせられ(分子モーターを動かして実際には薬剤ではない物質を汲み出し)、結果的に増殖に振り向けるエネルギーが減った。

「がんは裏切る細胞である」
p.230 - p.231

この「おとり薬」は、上の引用にあるように試験管レベルの研究ですが、こういう発想がでてくるのも「体細胞の進化」という視点でがんを見ているからです。次の「腫瘍に資源を与える」も、根本の見方は同じです。


腫瘍内部が低酸素状態だというのは、腫瘍微小環境の重要な要素である。酸素濃度が低い環境では、がん細胞は浸潤と転移を起こしやすい。資源が乏しいと、すぐに移動できるがん細胞が生存と繁殖のうえで有利になるからだ。これまでの研究からは、腫瘍への資源供給を正常化するとむしろ転移を減らすことができ、低用量の抗血管新生薬(腫瘍への血流の調節を助ける)を用いると治療への反応がよくなることが示唆されている。先にも触れたように、資源の流れが正常に近づくのは、適応療法でもたらされる結果のひとつでもある。適応療法が成果をあげている背景には、この資源の正常化があるのかもしれない。

腫瘍への資源の流れを正常にすれば、腫瘍内の細胞がどんな生活史戦略を進化させるかに影響を与えられる見込みが大きい。一般に、低レベルではあるが安定した資源を利用できるときには、遅い生活史戦略を採用する個体のほうが生存と繁殖において有利になる。腫瘍への資源供給を正常化した場合も、おそらく同じことが起きるだろう。つまり、より遅いペースで増殖し、分散しにくい細胞が選択されるということである。

安定した資源を腫瘍に供給するのは、直感に反する行為に思えるかもしれない。腫瘍というのは飢えさせるべきなのではないか、と。

だが、それをすれば、内部の細胞が遺伝子の発現状態を変えて移動性を得やすくなるうえ、すぐに移動できる細胞ほど選択されるという結果も招く。これが厄介な問題を引き起こすのはいうまでもない。むしろ腫瘍に(安定した低レベルの)資源を与えてやれば、腫瘍はその場にとどまったまま成長を続けてくれる可能性がある。全体として見れば、浸潤と転移を促すよりそちらのほうがはるかに好ましい。

「がんは裏切る細胞である」
p.232 - p.233

本書に「細胞版共有地の悲劇」という話が出てきます。「共有地の悲劇」とは、共有の牧草地で各人が銘々勝手に放牧すると草が食べ尽くされて共倒れに陥るという寓話です。

がん組織が組織周辺の資源を消費し尽くしたら「共有地の悲劇」が起こり、がん細胞は全滅します(資源不足、老廃物を解毒できない、など)。がんがこれをのがれるように進化するには、

・ もっと多くの資源を得るべくシグナルを送る
・ 新天地に移動する

ですが、このように進化するとまずい事態になります。そうなるよりも、がんに資源を与える方がよい。そういう考え方です。


体本来の機能によるコントロール


進化の視点からがんのコントロールを考えるとき、適応療法以外にもう一つ重要なポイントがあります。生物が進化の過程で得た「がんを抑制するメカニズム」を使う、つまり体本来の機能を使うことです。

がん細胞は、ヒトが本来もっている「がんを抑制するメカニズム」からのがれるための仕掛けを使います。この仕掛けを無効にするような治療です。一つの方法は、がん抑制遺伝子(TP53など)が変異しているとき、その機能を回復することです。これは研究段階にあります。さらに本書では「ご近所の目 = 地区レベルの監視システム」と「体内の警察隊 = 免疫」の活用があげられています。


体本来の《裏切り者》検出システムの能力を高めるもうひとつの方法は、「地区」レベルでの監視システムをあるべき姿に戻すことだ。つまり、近所の細胞同士で監視させることである。

がん細胞は創傷治癒因子を分泌して、周辺の正常な細胞を自分の目的のために利用することが多い。その種の因子のシグナルが何を意味しているかといえば、要は増殖や細胞の移動といったふるまいを黙認せよと周囲の細胞すべてに告げている(これには、周辺細胞に裏切り検出の閾値を上げさせることも含まれる)。

がん細胞は傷を治癒するというシグナルを発することで、近隣の細胞から見咎められずにたちの悪い活動にいそしむことができる。NSAIDs(引用注:非ステロイド系の抗炎症剤のこと)で炎症を減らすとがんのリスクが低下するのは、ここに理由の一端があるのかもしれない(炎症を軽減すると、DNAの変異と小規模欠失の直接原因となり得る活性酸素の減少にもつながる)。

炎症を抑えれば、シグナル伝達がなされる環境をきれいにする効果もある。そのおかげで、周辺でがんのような異常なふるまいが起きていることに正常な細胞が正しく気づけるようになるのかもしれない。また、炎症という「ノイズ(雑音)」が消えることで、免疫細胞が「本物のシグナル(信号)」(つまりがん細胞)に集中しやすくなるとも考えられる。

「がんは裏切る細胞である」
p.237

この引用部分から類推できることは、がん細胞が出す "傷を治癒するという偽のシグナル" をブロックできれば、周囲の細胞の監視によってがん細胞を排除できる可能性があるわけです(可能性の一例ですが)。こういったタイプのがん治療は、今後の研究に負うところが多いようです。



本書からは離れますが、2021年4月8日放送の NHK BSプレミアム「ヒューマニエンス "がん" それは宿命との戦い」に、京都大学の藤田恭之やすゆき教授が出演されました。藤田教授が示された映像は、腎臓の上皮細胞(表面の細胞)にできた"がん予備軍"(異常増殖)を、周囲の細胞が協力してはじき出し、それが尿といっしょに排出されるものでした。

番組では細胞のこういった機能を「細胞競合」と呼んでいましたが、藤田教授がなぜ細胞競合を研究されているかというと、もちろん、がんの治療に役立てたいからです。



2つ目は「体内の警察隊 = 免疫」の活用で、こちらの方は既に実用化されています。


がんをコントロールする方法はまだある。免疫系の働きを再度活発にして、がんを食い止めておけるようにすることだ。すでに見てきたように、がん性細胞は様々な戦略を編み出して免疫系に見つからないようにしている。しかし、免疫系ががんに反応し続けられるようにするだけでなく、がん細胞が免疫系から隠れられないようにすることは不可能ではない。それを目指すのががん免疫療法である。

がん細胞は自らの表面にあるタンパク質を変えることで、正常な細胞であるかのようなふりをすることがある。あるいは、免疫細胞をうまく利用して自らに有利なシグナルを出させ、何も異常がないから放っておいて大丈夫だと勘違いさせる場合もある。さらには、免疫系の武器である《裏切り者》検出システムをじかに妨害するケースもある。

正常な状態であれば、私たちの免疫系はチェックとバランスのシステムを通じて脅威(がん細胞や病原性微生物など)に対処している。その一方で、脅威が去れば警戒態勢を緩めることもできる。免疫系がどうやってそれを行っているかというと、「免疫チェックポイント」と呼ばれる機能を用いている。これは、脅威が存在しないという情報を受け取ったときに免疫応答を止める機能であり、環境中に《裏切り者》がいないことに気づいたら警戒態勢を解くよう免疫系に告げるシステムといっていい。

このようにして免疫系の警戒態勢を解除できることは、私たちの健康にとってきわめて重要な意味をもつ。そういう仕組みが備わっていなければ、私たちは自己免疫や過剰な炎症に苦しむ羽目になるからだ。ところが、これががんのつけ入る隙を生むことにもつながる。がん細胞がこの免疫チェックポイント機能をあざむく因子を分泌し、免疫応答を停止させる進化を遂げるからである。

現在、がん免疫療法で最も有望視されているのはまさにがんのこの能力を妨げるものであり、「免疫チェックポイント阻害療法」と呼ばれる。この療法ではがんのつくり出す分子の働きを妨げ、免疫系を不活性化できないようにする。結果的に免疫系は本来の働きを回復し、《裏切り者》細胞を発見できるようになる。おかげで、以前は治りにくかったがん(メラノーマや肺がんなど)についても、一部の患者では治療に成功している。

「がんは裏切る細胞である」
p.237 - p.238

「免疫チェックポイント阻害療法」は、本庶ほんじょたすく先生が開発の道を開かれたものです。先生が2018年のノーベル医学生理学賞を受賞されたのは、これが画期的だと認められたからでしょう。


未来へ向けて


がんは "やっかいなルームメイト" であり、我々はこのルームメイトと一緒に暮らしていくしかありません。目標とすべきは、

がんを対処可能な慢性疾患にする

ことです。著者は本書の最後の方で次のように述べています。


ヒトががんと共に進化してきたことを理解し、それを受け入れれば、人類の健康と幸福のためによりよい未来を形づくることができる。多細胞生物が誕生したときからがんは生命の一部であり、つねに私たちと一緒に進化の道のりを歩んできた。この世に人類が登場したときから、私たちはこの《ただ乗り》のルームメイトと暮らしてきたが、そうして招かざる道連れを伴いながらも、進化の見地からすれば成功を収めてきた。

進化はじつに強い力である。この惑星の生命に多様性を与えるとともに、体内のがん細胞の多様性と回復力を生む原動力ともなってきた。がんによる負荷を減らすうえで最も有望なのは、この進化の力を私たちの手中に収めること。つまり、私たちの命を奪う存在にさせないように、また、制御不能の存在にさせないように、腫瘍の進化の道筋を方向づけてやることである。私たちは自分で気づいている以上に、その進化の方向性を左右できるかもしれない。

「がんは裏切る細胞である」
p.245

最後に、著者が書いているギリシャ神話の神の話を紹介します。ギリシャ神話に登場する戦いの神、アレスとアテナの対照的な戦い方です。


アレス神は圧倒的な攻撃力で戦いに臨み、いかなる犠牲を払おうとも敵に最大限の損害を与えることを目指す。

「がんは裏切る細胞である」
p.15

戦いの神・アレス(アーレス)は男性神で、ローマ神話ではマルスです。一方、アテナは女性神で、古代ギリシャの中心都市、アテネ(アテナイ)の守護神です。


アテナは知恵と戦いの神だが、どんな戦い方でもいいわけではない。アテナは戦略の女神である。荒々しい力で勝利をもぎ取るのではなく、何のための戦いかを明確にしたうえで敵の弱みを把握する。そして相手の弱点を利用し、最小限の力で、しかも周辺に無用の被害が及ばないようにしながら勝利を手にする。

「がんは裏切る細胞である」
p.15

著者は子供の頃をアテネで暮らしたギリシャ系アメリカ人です。祖母はアテナという名前で、彼女の名前は祖母の名からとったものです。そのアテナの英語読みがアシーナ(Athena)です。著者は、未来に向けたがん治療のあり方を、自らの名前の由来になったギリシャ神話の神・アテナの戦い方になぞらえているのでした。




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No.336 - ヒトはなぜ「がん」になるのか [科学]

No.330「ウイルスでがんを治療する」に引き続いて、がんの話を書きます。今回は治療ではなく、そもそもがんがなぜできるのかという根本問題を詳説した本を紹介します。キャット・アーニー著 "ヒトはなぜ「がん」になるのか"(矢野真千子・訳。河出書房新社 2021。以下 "本書")です。

世の中にはがんに関する本が溢れていますが、なぜヒトはがんになるのか、がんはヒトにとってどういう意味を持つのかという根本のところを最新の医学の知識をベースにちゃんと書いた本は少ないと思います。本書はその数少ない例の一つであり、紹介する理由です。

著者のキャット・アーニー(Kat Arney)は英国のサイエンス・ライターで、ケンブリッジ大学で発生遺伝学の博士号を取得した人です。また、英国のがん研究基金「キャンサー・リサーチ・UK」の "科学コミュニケーション・チーム" で12年勤務した経験があります。最新の医学知識を分かりやすく一般向けに書くにはうってつけの人と言えるでしょう。

この本をとりあげる理由はもう一つあって、矢野真千子氏の日本語訳が素晴らしいことです。以前に、アランナ・コリン著「あなたの体は9割が細菌」を紹介したことがありましたが(No.307-308「人体の9割は細菌」)、この本も矢野氏の翻訳で、訳文が大変に優れていました。もちろん原書が論理的で明快な文章だからでしょうが、それにしても矢野氏の翻訳家としての力量(リズムがよい明晰な日本語を書く力)と科学知識(医学知識)の豊富さは明らかです。以下で本書の重要と思われる所を長めに引用しますが、それを読むと分かると思います。

なお引用は、原則として漢数字を算用数字に直し、段落を追加したところがあります。また下線や太字は引用をする上でつけたもので原文にはありません。


がんを進化の視点で見る


本書の内容をごく簡単に要約すると「がんは生物進化の縮図であり、その視点でがん医療のあり方を見直そう」というものです。このことは本書の「はじめに」で明確に書いてあります。


科学者たちはがんの進行を、自然界の生物進化の縮図として見るようになってきた。生物が突然変異で新しい形質を得たあと、その形質が自然選択で選ばれれば生き延び拡散するのと同じように、がん細胞も新しい変異を拾ったあと、自然選択で選ばれれば増殖して拡散する。ダーウィンが描いた進化系統樹のように、がん細胞も枝分かれしながら進化する。ここで私たちは、がんについてのもう一つの不都合な真実、治療自体ががんの悪性化に手を貸すという真実を知ることになる。

がんが育つとき私たちの体の中で働いているのは、地球上の生物進化を駆り立ててきたのと同じプロセスだ。がんの進化における自然選択の選択圧は、本来なら命を救うはずの治療薬という形でやってくることもある。薬は、その薬の効く(薬に反応する)細胞を死滅させ、薬の効かない(薬に耐性のある)細胞を栄えさせる。つまり、薬はがんを弱体化させるどころか増強させる。そうやって強力になったがんは再発という形で現れるが、そのときにはもう、何をどうしても止められなくなっている。進行したがんに現行の治療法が無力なのは不思議でも何でもない。

ともかく私たちは、がんの発生、予防、治療についての考え方を、進化の現実に即したものにアップデートする必要がある。がんは、変異のリストで語られるような静的な存在ではなく、刻一刻と進化し様相を変える動的な存在だ

キャット・アーニー
"ヒトはなぜ「がん」になるのか"
矢野真千子・訳 河出書房新社(2021)
p.12 - p.13

重要なキーワードは進化(evolution)と自然選択(natural selection)ですが、これは進化生物学の用語であり、普通の医学用語ではありません。これが、がんという病気やその治療とどう関係するのか、それを詳しく書いたのが本書だと言えるでしょう。以下、本書の "さわり" を順に紹介します。


がんは現代病ではない


がんという病気について「現代における環境汚染や現代人の食生活、生活習慣が引き起こしたもの」という説を唱える人がいます。「がんは現代病」というわけです、著者はまず、この言説に真っ向から反論しています。それは科学的なエビデンスとは違うというわけです。


がんのリスクを高める要素に現代のライフスタイルや習慣があるのは事実だ。と同時に、それは自然の中にもある。ウイルスや細菌、カビがそれにあたるし、植物から出る化学物質もそうだ(有機栽培の作物も毒を出す)。

放射性物質のラドンは世界各地で、とくに火山性の岩石が多いところで地面から漏れ出ている。アメリカ南西部で1000年前ごろ暮らしていた住民の遺骸に異常に多くのがんが見つかったが、それはおそらく放射性物質であるラドンのせいだ。

日光は、がんを誘発する紫外線を毎日私たちに浴びせている。料理や暖をとるために火をおこせば、そこから発がん物質を含んだ煙が出る。火おこしは人類が出現したころから日夜営んできた行為だ。

そして、小児がんのほとんどは、胎内での発生過程が乱れたときに起こる。どれも断じて「人為的で現代的な要素」なんかではない。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.20

昔の人もがんになりました。その証拠を収集している研究者がいて、古代人や先史時代の人骨やミイラのがんの兆候を集めた「古代遺骸がん研究データベース」が作られています。一般に、人骨やミイラからがんを発見するのは難しい作業です。異常なこぶや隆起が見つかったとしても、悪性の腫瘍だとは断定できないからです。しかし骨に明らかな痕跡を残すがんもある。本書には、絶滅人類の骨の化石から骨肉腫や脳腫瘍の痕跡が見つかった事例が出てきます。


すべての生き物はがんになる


さらにヒトでだけでなく、ほとんどすべての生き物ががんになります。ここで、がんの定義が問題になります。ヒトの場合、基底膜(臓器を包んでいる薄い保護膜)を突き破るような細胞増殖をがんと定義しますが、ほとんどの生物にはその基底膜がありません。

しかし「異常な細胞増殖」は、菌類、藻類、植物をはじめ、魚類、両生類からほ乳類にいたる広範囲な動物に見られます。恐竜の骨の化石から異常が見つかったこともありました。すべての生き物ががんになりうる。この認識が重要です。

ただし、がんになりにくい動物がいることが知られています。動物は体細胞の数が多いほど(= 体が大きいほど)がんになるリスクが増しますが、アフリカ象やシロナガス鯨はヒトと比較して遙かにがんになりにくいことが分かっています。これは「がん抑制遺伝子」を大量に持っているからです。


多細胞生物における反逆者


すべての生き物はがんになる(なりうる)。この "すべて" とは実は多細胞生物のことです。ここからが本書の最も重要な話になります。多細胞生物にはそれぞれの細胞が従うべきルールがあります。


多細胞生物のライフスタイルは、細胞の分裂と機能が厳格にコントロールされていなければ成り立たない。細菌のような単細胞生物なら進化目標はただ一つ、増殖して遺伝子を次世代に手渡すことだけだ。単細胞生物は死んだらそこで進化の行き止まりになるから、生き続けることと複製し続けることさえ頑張ればいい。

多細胞生物の細胞の場合、勝手な複製は許されない。複製していいのは、赤ん坊から成人になるまでの発生期と成長期、または身体を定期メンテナンスしたり応急処置したりするときだけだ。多細胞生物の細胞は、決められていない仕事をするのも許されない。脳にある神経細胞は、すい臓にある島細胞のようにインスリンを生産したいと思ってもできないし、外界とのバリアをつくる皮膚細胞が血液細胞のように全身を旅したいと思ってもできない。そのままにしておけば問題になる故障した細胞や損傷した細胞は、自死するか免疫系に駆逐されるようあらかじめ決められている。

多細胞生物になれば、個々の細胞は生物全体の利益になるようふるまう義務が生じる。ところががん細胞はルールを無視し、好き勝手に増殖し、周囲の組織に侵入し、あちこちに移り住み、最終的には宿主もろとも死ぬ。がんがどこから来たのかを理解するには、まず多細胞生物の生き方のルールを知り、そのルールが破られたとき何が起こるのかを知る必要がある。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.48 - p.49

多細胞生物の細胞群が遵守しいるルールを破る細胞が出てきます。いわば「反逆者」ですが、これががん細胞です。


細胞の従うべき金科玉条はつぎの5つだ。増殖しすぎない、決められた仕事を遂行する、必要以上に資源を浪費しない、汚したら自分で始末する、死ぬときが来たら死ぬ。

この5つのルールがあれば、人間社会だろうがどんな社会だろうが、円滑に維持される。逆に、個々のメンバーが自分勝手にふるまうと問題が生じる。

がん細胞はこれらのルールすべてに逆らう。最初は一度に一つのルールを破る程度だが、定着して全身に広がるころには一斉にすべてのルールを破っている。無制限に増殖し、本来の仕事をせず、酸素と栄養素をむさぼり食い、周囲を酸性に毒し、断固として死なない。

多細胞生物は、細胞社会の仕組みを10億年以上かけて進化させてきた。それぞれのメンバーが共通の利益に向けて特化した役割をこなし、個々の細胞のニーズより種としての繁栄をめざす。この厳格な階層型組織は、祖先の単細胞生物が楽しんでいたような自由で気楽な生き方を許さない。細胞分裂は厳しく制限される。複雑で相互に絡み合う分子経路や遺伝子経路を通じて、いつ、どこで分裂するか細かく指示される。ルール破りは厳禁だ。損傷した細胞や服従しない細胞のための余地はない。トラブルを起こしたら、全体の善のために自殺するよう促される。年老いた細胞には安らかに眠ってもらう。冷酷に見えるかもしれないが、この厳格さが私たちの健康と生命を守っている。

とはいえ、ヒトの社会でも動物の社会でも細胞の社会でも、ルールを破る個人や個体はかならず出てくる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.53 - p.54

多細胞生物は生命を維持して子孫を残すために、「反逆者」を抑制する仕組みをもっています。それでも「反逆者」は生じる。そして「反逆者」が優勢になるような状態が起きるとがんになり、これが進展すると生命体の全体が崩壊に導かれるのです。


多細胞生物が健全であるためには、メンバーに不正行為を許してはならない。細胞数が多いほど、また寿命が長いほど、統制はむずかしい。多細胞生物が進化する過程では、裏切者を出さないよう多大な投資がされてきた。身体サイズが大きければ細胞社会のメンバーは多くなり、裏切りが発生する確率も高まるため、より強力な抑制システムが必要となる

個々の細胞にとって、大きな多細胞共同体の一員になれば自律性を失って自分の行く末を自分で決めることはできなくなるが、そのかわり自分の遺伝子を継承するという究極の目的を大きな組織に委ねることができる。それでもルール破りの誘惑はいつもあり、隙を見つけては勝手に増殖を始める者が出てくる。

ただし、裏切り行為はそれまで保たれていた社会のバランスを崩す。十分長く生きて繁殖するという生物としての長期的な目標より、自分だけ得をしたいという裏切者たちの短期的な欲望が勝って悪性腫瘍がどんどん育つと、最悪の場合は宿主もろともの死が待っている。裏切者の出現は不可避だが、社会が許容できる裏切者の数には限りがある。みなが裏切りをするようになれば、多細胞生物の社会はあっというまに『マッドマックス』のようなディストピアの世界となる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.54 - p.55

本書には、がん細胞で活性化している遺伝子は生命体にとって最も古い遺伝子だという、興味深い話が出てきます。その一つの例は、オーストラリアのメルボルンにあるピーター・マッカラムがん研究所のアンナ・トリゴスという研究者の発見です。


トリゴスは、がん細胞の中で最も活性化している遺伝子が最も古い時代の遺伝子であることを見出した。最も古い時代の遺伝子とは、細胞増殖や DNA修復といった基本機能を担う遺伝子で、最初期の単細胞生物のころから存在している。

一方、がん細胞の中でまったく活性化していない遺伝子は最近になって出現した遺伝子だった。それは哺乳類にしか見られないか多細胞動物にのみ存在しているような「若い」遺伝子で、特殊な器官の作成や細胞間コミュニケーションなど、より複雑な仕事を担っている。

そして彼女は、これまでに調べたがん細胞がどれも等しく「単細胞時代からの遺伝子が活発になり、多細胞時代以降の遺伝子が休眠している」ことを見出した。がん細胞が細胞社会で定められていた仕事を放棄して、利己的に自由にふるまっているということだ。これはがん細胞がアメーバのような生物に先祖返りしたわけではない。新たに獲得した変異により、多細胞時代以降にできたシステムを休止させるよう進化したのである

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.61 - p.62

がんは「先祖返り」ではなく「進化」である ・・・・・・。「進化」という言葉に "よりよいものに変わる" という意味を感じている人にとっては大いに違和感がある表現でしょうが、本書全体を読めばその意味がよくわかります。

ちなみに、今までの引用(p.48 - p.64)は本書の第2章からですが、第2章は「がんは生きるための代償である」と題されています.。この題が本書の趣旨を明瞭に表しています。

その第2章には「裏切り者」「反逆者」「誘惑」「ディストピア」などの「がんを擬人化した比喩」があります。サイエンスの本でこういった比喩は一般の読者に分かりやすくするために使われますが、その一方で誤解を招きかねません。なぜなら、比喩の対象となったものがあたかも人間のように意思をもっているとイメージされ、合目的的に振る舞っているような間違った印象を与えるからです。しかし著者は言っていますが、がんの場合はこういった比喩が本質をピッタリと表しているのです。


遺伝子の変異ががんの要因


多細胞生物における「反逆者の細胞」が生まれる理由は、遺伝子に起こる変異です。これはさまざまな原因で起こります。

まず、細胞が増殖するときの遺伝子(DNA)の複製エラーです。これは必然的に一定の確率で起こります。

また「発がん物質」と総称されるものを吸収したり、それに接触したりすることも遺伝子変異の要因になります。発がん物質には自然界に存在するものもあれば(すす、煙など)、人工の化学物質もあります(ベンツピレンなど)。喫煙をすると煙に含まれる発がん物質が肺がんのリスクを高めることはよく知られています。

紫外線や放射線被爆も遺伝子変異の原因になります。皮膚がんがまさにそうだし、放射線被曝と白血病(= 血液のがん)の関係も知られています。

さらに、ある種のウイルスは遺伝子変異を起こします。有名なのは HPV(ヒトパピローマウイルス)で、子宮頸がんの要因になります(従って、がん予防ワクチンが成り立つ)。

また遺伝性のがんがあります。これはがんを引き起こす遺伝子変異を親から子・孫へと受け継ぐ場合です。つまり、がんを発症しやすい家系があります。

もちろん遺伝子変異が起きたからといって、すぐがんになるわけではありません。変異は基本的にランダムに起きるので、生命維持にとってプラスにもマイナスにも働かない変異(= 中立変異)も多い。さらに、細胞には変異した隣の細胞を体から排除する仕組みをもっています。

しかし細胞増殖を促す遺伝子が変異したとき、がんになるリスクを抱え込んだことになります。また、遺伝子に中には異常な細胞増殖を押さえる働きをするものがあり(=がん抑制遺伝子)、その遺伝子が変異によって機能を失うとがんのリスクが発生します。細胞増殖のアクセルが踏みっぱなしでブレーキが壊れた状態は、がんが発生する典型的なパターンです。


遺伝子の変異だけではがんにならない


遺伝子が変異しただけではがんになりません。実は、私たちは幼少期から遺伝子の変異を体内に蓄積しています。


私たちはどのくらい心配すればいいのだろう ? ある程度歳をとれば、だれでも原因不明のしこりやこぶの2や3はできているものだ。40代の女性の少なくとも3人に1人は胸に小さな腫瘍を抱えているが、その年代で乳がんと診断されるのは100人に1人しかおらず、残りの多くは正式にがんと診断されることなく一生を終える。

前立腺がんも状況は同じで、このがんで死ぬ人より、このがんを抱えたまま死ぬ人のほうがはるかに多い

50歳から70歳の人ならほぼ全員、甲状腺に小さながんができているが、甲状腺がんと診断されるのは1000人に1人だ。全体的にならすと、私たちの半分かそれよりやや少ないくらいの人が、生涯のどこかの時点でがんと診断される。

がんの発生率は、がんの種類別によってばらつきがある。たとえば、小腸と大腸はどちらも消化管で生理的な条件はほぼ同じだが、小腸がんの発生率は低く、大腸がんのそれは30倍も高い。

また、重要なドライバー遺伝子に変異が一定数たまるとがんになるとは言うものの、それに必要な蓄積回数もがんの種別で異なる。肝臓がんは約4回、子宮がんや大腸がんは10回だが、精巣がんや甲状腺がんはたった1回だ。

こういう話をすると、必要な変異回数の少ないがんほど若いころ出現しそうな気がするが、小児がん以外の大半のがんは、種類にかかわらず60歳以前に発生することはあまりない。私たちの正常な組織は中年期に達するころ、すでに変異のパッチワークになっているにもかかわらず、50代まではまあまあ抑えられているのである。

60歳以降に変異が生じるペースが上がるわけでもない。意外かもしれないが、変異の発生ピークは人生の初期だ。DNAの複製エラーは細胞が増殖するたびにちょこちょこ起きるものだが、幹細胞に起きるエラーはとりわけ危険だ。身体を生涯維持する役目を担っている幹細胞は増殖力がひじょうに高いからだ。増殖力の高さがとくに求められるのは発生期から成長期である。卵細胞が成体になるまでに必要な増殖回数は、その後の人生を維持するのに必要な日々の増殖回数とは比較にならないくらい多い。私たちの細胞は最初の9か月で一個から数兆個にまで増え、その後も少しずつ増えていき、「成人」という完成形になる。じつのところ、あなたが70歳の時点で保有する変異の半分は、18歳の誕生日までに得てしまっている

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.118 - p.119

引用に「ドライバー遺伝子」という言葉が出てきます。一般的には「がん遺伝子」と言われますが、これは誤解されやすい言い方です。がんを発生させる "専用の" がん遺伝子があるわけではありません。がん遺伝子の多くは生命の維持や子孫を残すプロセスに必須の遺伝子です。それが変異するとがんのリスクが生じる。

ドライバー遺伝子とは「その遺伝子が変異することでがんの直接の原因(の一つ)になる遺伝子」です。このドライバー遺伝子に生じる変異が「ドライバー変異」です。本書では「ドライバー遺伝子」「ドライバー変異」という言葉が多用されています。

さらに上の引用に「幹細胞に起きるエラーはとりわけ危険だ」とありあります。「幹細胞」とは、分裂する能力があると同時に、分裂してできた娘細胞が別種の細胞になる能力をもった細胞です。有名なのは受精後の胚の ES 細胞ですが、各臓器系についてそれを作り出す幹細胞があります。たとえば血球やリンパ球のすべては骨髄の造血幹細胞から作られます(No.69「自己と非自己の科学(1)」参照)。この幹細胞を人工的に作り出したのが、山中教授の iPS 細胞(induced Pluripotent Stem cells = 人工多能性幹細胞)です。

幹細胞に関していうと、受精後の胚に生じる乱れが原因で発生するがんが小児がんです。従って小児がんの発生メカニズムは他のがんとは根本的に違います。



遺伝子変異が蓄積しただけではがんになりません。しかし生物の進化と同じで、環境が変わったとき、それが原因で変異した遺伝子をもつ細胞が優勢になります。これががんです。この体内環境の変化の第一は加齢です。


日々の細胞のメンテナンス作業は年齢とともに、とくに生殖年齢のピークを過ぎたあとは、雑になっていく。たとえば、若いときの肌の細胞はしっかり結合している。がん化しそうな不良細胞が出てきても、広がる余地を与えず、最終的には追い出してしまう。だが、歳をとると細胞の結合がゆるむ。不良細胞はその隙に入りこみ、やがてがん化し、拡大する。また、タバコの煙や紫外線のような発がん物質は、DNAに損傷を与えるだけでなく、細胞の結合組織となるコラーゲン分子を傷つけるので、不良細胞がのさばる余地をさらに与えてしまう。

老化によるゆっくりとした衰えは、遺伝子の収納状態やスイッチの作動にも影響する。若い細胞はDNAを、ヒストンというボール状のタンパク質のまわりにコイルのように巻きつけて、きっちり収納している。ヒストンには、遺伝子の活性・不活性をコントロールするためのエピジェネティック修飾と呼ばれる各種の分子タグがついている。老いた細胞では、この整然とした仕組みがうまく働かなくなる。DNAのコイルがほどけ、修飾が乱されると、遺伝子は間違ったタイミングや場所でスイッチをオンまたはオフにするようになる。老化はゲノム全体で同時多発的に進む。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.124

もう一つの重要な環境変化は、加齢とも大いに関係しますが、持続的な炎症です。


慢性炎症の原因は、持続感染、有害物質への長期曝露、自己免疫疾患などだが、もう一つ避けがたい最大の原因が加齢だ。歳をとるにつれて、私たちの組織の慢性炎症のレベルはじわじわと上がる。これは、細胞内で働く生化学プロセスから受ける経年劣化、体内に少しずつたまる有害物質、人生でそれまでに経験した感染や苦痛、全般的な体の衰えなどによる必然的な結果だ。性ホルモンの減少も関係しているかもしれない。エストロゲンやテストステロンには炎症を抑える役目があるからだ。お察しのとおり、喫煙も、肺に炎症性傷害を与えたり体の抗炎症反応を弱めたりする。過剰な体脂肪もリスク因子だ。体脂肪は、何もせずただ体についているだけのぜい肉ではない。脂肪を貯蔵する細胞は、慢性炎症を悪化させるさまざまな活性物質をつくり出す。

もう一つ慢性炎症の要因として、研究はあまり進んでいないが有力視されているものに、ストレスがある。私たちはストレスでがんになると聞くと、さもありなんと考えがちだが、実際のところ、近親者の死別や離婚といった強いストレスのかかる人生節目の出来事ががんの発生率を高めるという関連性はほとんど見出されていない。

しかし、生活苦や不安定な居住環境といった長期のストレスとの関連性はありそうだ。社会経済的な弱者ほど、がんを含むあらゆる病気で早く死ぬ傾向があることは、健康格差の問題としてよく知られている。社会的弱者が早く死ぬのは肥満、喫煙、飲酒、偏った食生活といったお決まりの容疑者のせいにされがちだが、これらの要素だけですべてを語ることはできない。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.126


進化の「るつぼ」としてのがん


では実際にがんが発生したとき、がん組織に中の遺伝子変異はどうなっているのでしょうか。そこでは、それぞれ違った変異をもつ細胞集団があちこちに散在していることが分かってきました。

2012年の論文に載った、キャンサー・リサーチ・UKのチャールズ・スワントン教授の研究があります。彼は DNA配列決定の技術を駆使し、がん組織の中の遺伝子マップを作り始めました。

以下の引用に「標的療法」という言葉がありますが、これはがんの要因となっている特定のドライバー遺伝子の働きを無効にするような治療(化学療法など)という意味です。


配列決定技術の精度が上がってくるにつれて、ものごとは複雑さを増してきた。2006年、研究者らは標的療法後に耐性がついてしまった EGFR 変異をもつ細胞を探していた。すると、標的療法を受ける前の肺腫瘍の一部に、その変異細胞がすでに存在していたことに気がついた(EGFR はがんドライバー遺伝子の一つである)。数年後、血中を漂う白血病細胞はどれも同じに見えて、じつはDNA配列の異なる細胞の集まりだったという発見もあった。

2010年にはまた別の発見があった。すい臓にあった最初の腫瘍(原発腫瘍)から転移した腫瘍(2次性腫瘍)が、転移の過程で原発腫瘍にあった変異とは別の新たな変異を大量に拾っていることがわかったのだ。そして2011年、中国の研究チームが、ひとかたまりの大きな肝臓腫瘍を薄くスライスしてそれぞれの切片を分析したところ、隣り合う切片どうしでさえ、そこに含まれるドライバー遺伝子の変異が違うことを見出した。同年、ニューヨークの科学者らが、乳房腫瘍の小片を100個の細胞に分けてそれぞれにDNA配列決定をしたところ、その100個の細胞は大きく3つのグループに分かれ、それぞれが遺伝的強みと弱みを別々の組み合わせで有していることがわかった。

もやもやしていた絵の輪郭が、だんだんはっきりしてきた。腫瘍というのはどれも、同じがん細胞でできているのではなく、遺伝子的に少しずつ違うがん細胞集団(クローン)の寄せ集めであり、その一部が転移しやすい変異をもつクローンだったり、治療に抵抗しやすい変異をもつクローンだったりする、ということだ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.154 - p.155

がん細胞集団(クローン)という表現がありますが、クローンとは「同じ1個の祖先細胞に由来し、同一の遺伝子変異をもつ細胞の集団」のことです。

この引用にあるように、腫瘍組織における遺伝子変異は「変異のパッチワーク状態」であり、しかも変異は "積み重なり"、かつ "枝分かれ" しつつ起きています。つまり「遺伝子変異の系統樹」が描けることが分かってきました。ここに至って、ダーウィンの「進化論」との類似性が明らかになってきました。


チャールズ・ダーウィンは新種の出現(種の起源)を、生物が選択圧に直面して適応と変化を迫られたことによる必然的な帰結だ、と論じた。チャールズ・スワントンの研究は、人体内のがんも同じであることを示した。がんは自然界の縮図であり、多種多様な変異をもつがん細胞クローンが多数集まってできた大家族だ。そこからは日々、枝分かれした小家族が生まれる。転移した腫瘍は、旅立った小家族がその後に独自の変異を重ねた「遠い親戚」だ。近縁のクローンも遠縁のクローンも、すべては一つの創始者細胞から始まり、途中で新しい変異を拾いながら枝分かれしてきた。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.158 - p.159

我々は「進化」を誤解しがちです。進化生物学でいう進化(evolution)とは、生物が別の種に分かれること(だけ)を意味します。その要因は、遺伝子の突然変異と環境変化の圧力による選択(自然選択)です。進化は「変化」であって「より良くなる」という意味は含みません。

さらに我々はどうしても「直線的な進化」を考えがちです。チンパンジーが猿人になり、ホモ族(ヒト族)になり、そのホモ族も原人からネアンデルタール人になって、ホモ・サピエンスに進歩してきた、というような ・・・・・・。しかし実態は、霊長類が分化してきたというのが正しい。

がんもそれと同じです。がんの本質は「枝分かれ進化」であり、適応と進化を繰り返す可変的なシステムなのです。実際、がん組織において「自然選択 = 環境による選択」が起こっているという証拠が集まってきました。


科学者らはもう一つ残念なことを発見した。標的療法への耐性を得られる変異は往々にして、ごく初期の段階ですでに存在しているのだ。骨髄腫(白血球のがん)の患者を詳細に調べた研究によると、骨髄の中で増殖したがん細胞は、最初期の段階から存在した小さな細胞集団に由来するものだったという。その細胞集団は、医者が投入したあらゆる治療をのらりくらりとかわしながら成長し、ついにはすべてを乗っ取ってしまったという。

2016年の別の論文からは、自然選択が作用している現実が容赦なく示された。研究者らは、30名を超える髄芽腫(小脳にできる脳腫瘍)の患者から治療前と治療後に採取したサンプルで、遺伝子組成を比較した。そして、治療後に再び増殖した耐性がん細胞は原発腫瘍にすでに存在していたこと、ただしそのときはひじょうに小さな集団だったことを見出した。

放射線療法で大量のがん細胞が殺されると、最初は小集団だった耐性細胞がそのあとを埋めるように急速に拡大した。治療前には危険だと思われていた(重要なドライバー変異をもつ)いくつかの細胞集団が、治療後には消えていたのである。これがギャング映画なら、大物連中が殺し合いをして全員いなくなったあと、こそこそしていたチンピラがのし上がってボスの座につくようなものだ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.164

がん細胞からすると、最大の環境変化はがん治療がもたらす環境変化です。つまり、がんの進化において、特に放射線療法と化学療法は、自然選択を加速させます。それらの治療に耐性をもつ遺伝子変異をもつがん細胞だけが生き残り、それ以外は死滅する。そして耐性がん細胞がまたたく間に増殖してしまうのです。

著者はがん組織を "進化の「るつぼ」" と形容しています。そしてこれは、生物の歴史を考えると不思議でも何でもないと書いています。


反逆者のがん細胞が多細胞社会から排斥されて単細胞的な暮らしに戻った細胞だとすると、こんどはその反逆者たちがチームを組んで、新たな多細胞社会を立ち上げようとしているようにも見える。それは生命進化史において過去にやってきたことなのだから、「進化のるつぼ」となったがんの中で同じことが起きていたとしてもおかしくない。

がんの分子的詳細を掘り下げれば掘り下げるほど、つぎつぎに奇妙なことが見つかる。ただ私には、それほど驚くことではないようにも思える。「進化」なら当然のことばかりだからだ。生命の歴史をざっと眺めればわかるように、進化は途方もない多様性をつくり出してきた。単細胞生物が多細胞生物になる進化は何度も起きた。セックスの発明も数回、起きた。生物種は増殖し、移住し、適応し、多様化する。増殖するものは増殖し続ける。変異するものは変異し続ける。生き物はただひたすらに、生き続ける。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.221 - p.222


がんの適応療法


がんが「進化のるつぼ」との認識にたつと、がん治療の新しい考え方が見えてきます。その一つが「適応療法」です。米国フロリダ州のモフィットがんセンターのロバート・ゲイトンビーの研究が紹介されています。


ゲイトンビーは、100年以上前から農家を悩ませていた害虫、コナガがすべての農薬に耐性をつけてしまったという記事を読んだとき、これはがんをめぐる状況と同じだと気がついた。がんも治療薬に耐性がつくよう進化したら、もう拡大は止められない。

ゲイトンビーが現行のがん治療で何より疑問に思うのは、薬が「最大耐用量」で処方されることだ。これは患者にとって耐えられないほどの副作用が出る直前の用量を投与し、一度にできるだけ多くのがん細胞を殺そうという考え方だ。薬の臨床試験の初期では、志願した被験者に、投与する薬の用量を少しずつ上げていき、重篤な副作用が出た瞬間にやめる、ということを試す。このテストで薬の最大耐用量が決まる。だが、遅かれ早かれ耐性がつくことを思えば、最大耐用量を投与するという方法はわずかな余命延長に対して害が大きすぎる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.276 - p.277

農薬に耐性をもつ雑草や害虫が出現することは常識になっています。抗生物質に耐性をもつ病原菌(= 耐性菌)が出現するのも同じです。上の引用に出てくるコナガは、キャベツなどのアブラナ科の食物に寄生する小さな蛾です。コナガは農薬に耐性をつけてしまいますが、農家はこの問題に対して次のように取り組んできました。


コナガが農薬に耐性をつけてしまう問題に対し、農家は数十年前から「総合的害虫管理」という方法をとってきた。がんが遺伝子的に多様な細胞集団でできていて、その一部が治療薬に耐性をつけるのと同じように、害虫の群れにも遺伝子的に多様な集団が交ざり合っている。農薬に屈しやすい集団もあれば、農薬に耐性をもつ集団もある。ここで重要なのは、虫に農薬への耐性をつけさせるような遺伝子変異は、食料の奪い合いや繁殖競争においてたいてい不利になることだ。そのため、農薬に耐性をもつ集団は、ふつうの状況下では農薬に屈しやすい集団より優勢になることはなく、小さな集団のまま推移する

そうした群れに大量の農薬を浴びせると、農薬に屈しやすい集団は全滅し、農薬に耐性をもつ集団だけが生き残ってライバルのいなくなった生息地で好きなだけ繁殖する。一方、農薬の量を少なくすれば、農薬に屈しやすい集団がそれなりに残って、耐性をもつ集団が増えすぎないよう抑制してくれる

農家は、害虫を一匹残らず殺すのをやめ、手なずける道を考えた。畑の状況を定期的にモニターし、作物がある程度食い荒らされることは容認する。限度を超えて食い荒らされるようになったときだけ農薬を使うことにしたのだ。現在では、雑草その他、望ましくない生物種をコントロールするときも似たような方法が使われているが、考え方はみな同じだ。根絶ではなく抑制をめざし、薬剤を与える場合は少量にして巻き添え被害を少なくする。この方法はまわりまわって、将来的に懸念されている超耐性株が出現する機会を減らすことにもつながる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.277 - p.278

適応療法とは、上の引用における "総合的害虫管理" と同様に、いわば「がんを手なずける」治療です。


ゲイトンビーは、腫瘍内にはいつも耐性細胞がいる、という前提からスタートすることにした。その耐性細胞は、増殖スピードが遅いので増えすぎることはなく目立たない。しかし、薬に反応するがん細胞が全滅すればそのあとを埋めるように勢力を広げるだろう。この場合、薬を最大耐用量にするのではなく逆に低用量にして、薬に反応するがん細胞の量をある程度保ち、そのがん細胞に耐性細胞を抑制させたほうがいい。もし、薬に反応するがん細胞が増えすぎたら、薬を増やして以前と同じバランスに戻す。ゲイトンビーはこの方法を「適応療法」と呼ぶ。敵がゲームに使っている適応進化プロセスで、敵にみずから失点させるよう誘う方法だ。

適応療法の基本戦略はこうだ。がん細胞にとって、薬に耐性をつけることは治療中こそ役に立つが、治療していないときには何の得にもならない。得にならないどころか、薬に耐性をつけたことが生物学的に重荷になる。たとえば薬を追い出すのに使う分子ポンプにエネルギーの3分の1を投じることになれば、そのぶん増殖に使えるエネルギーは減る。

耐性細胞が、薬への対処に専念する薬依存症になってしまうことさえある。たとえば、特定の標的薬に耐えるためにわざわざ生化学経路を変えてまで適応した細胞は、その標的薬がなくなれば生命維持さえおぼつかなくなる。治療をしていない通常の状況下では、耐性細胞はこうしたコストが重くのしかかり、増殖が遅れる。ゲイトンビーは薬剤耐性を、大きく頑丈な雨傘のようなものだと言う。雨が降っているときは便利だが、そうでないときは邪魔になり、あなたの行動の足かせとなる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.278 - p.279

適応療法とは、がんとの共存を目指すものと言えるでしょう。そして患者の生存期間をできるだけ延ばすことが目的です。もちろんこの戦略を実行するには、がん組織中のがん細胞の数の精密な測定と治療による変化予測が必須です。上記の引用にあるゲイントビーは数式モデルを使って予測をしたようです。



さらに「がんは進化のるつぼ」という認識にたつと、患者のがんを絶滅させる新たな戦略が見えてきます。これは地球上で過去に起こった "種の絶滅" に学んだものです。

種の絶滅というと、我々がすぐに思い浮かべるのは恐竜の絶滅です。6500万年~6600万年前、今のメキシコのユカタン半島付近に大隕石が衝突し、地球環境が激変し、恐竜が絶滅した(そして生き残った恐竜が鳥に進化した)という件です。

しかしこのような「一撃で起こる劇的な絶滅」はわずかです。ほとんどの種の絶滅は「数回の連続した打撃」によって起こる。この例として、絶滅の経緯が分かっているヒースヘンの絶滅が紹介されています。

ヒースヘンは、和名をニューイングランド・ソウゲンライチョウと言い、その名の通りライチョウに似た大型の鳥です。この鳥は北米大陸にヨーロッパ人が来たときには東海岸のあちこちにいました。ところが植民地の拡大と入植者による乱獲で、一つの島の50羽までに激減しました。その後の人々の努力で、島での生息数は2000羽までに回復しました。しかし、その繁殖地で火災が起こり、次には異常低温の冬が連続し、最終的には感染症の流行によって1932年に絶滅してしまいました。

ポイントは、ヒースヘンが数回の打撃で絶滅に至ったことと、一つの島に閉じこめられて50羽に激減するという「地理的ボトルネック」と「遺伝子のボトルネック」を経験したことです。こうなると遺伝子の多様性は失われ、感染症で全滅するようなことが起きる。かつ、一つの島で全滅してしまえばそれで種は終わりです。

この「種の絶滅モデル」を、がんの治療に応用できないでしょうか。実は、小児の急性リンパ性白血病の治療は、まさにこのような考え方だったのです。


ゲイトンビーとブラウン(引用注:ゲイントビーと共同研究をした進化生物学者)は論文で、同じような考え方がすでに小児の急性リンパ性白血病の治療法に使われていることを指摘した。その治療法は、死ぬのが確実だった病気を10人のうち9人を治せる病気に変えたが、いま話したような「種の絶滅」モデルから編み出されたものではない。医者らが試行錯誤しながら長年かけて見つけ出したものであり、それが偶然にも、ヒースヘンを絶滅に追いやったのと同じ方法だったのだ。

まず、集中的な化学療法による「第1の打撃」で大量にがん細胞を殺す。すると少数のがん細胞が生き残る。つぎに、別の作用機序の薬で「第2の打撃」を与え、最初の薬に耐性のある細胞を殺す。その後、第3、第4の打撃を与える。

ゲイトンビーらは、このモデルを使えば長年の試行錯誤をすっとばして、がんの絶滅を誘導する計画を立てることができるのではないかと説いている。自然界の種の絶滅と同じように、腫瘍内にあるがん細胞集団の個体数と遺伝子多様性をまず減らし、そこで生き残った小さい集団をつぎつぎと追いつめる。

残念ながら、現行のがん治療はそうなっていない。たとえば進行前立腺がんの場合、アビラテロンのようなホルモン阻害剤を最大耐用量で長期にわたって投与する。どのくらい長期かというと、腫瘍が縮小するまではもちろんのこと、それが再び拡大するまで、つまりアビラテロン耐性のがん細胞が出現して数を増やすまでだ。この段階で医者はやっと別の化学療法に切り替え、そのループをもういちどくり返す。

しかし、絶滅させることをめざすなら、がん細胞が耐性をつけて再び増えるまで待つのは無意味だ。がん細胞の数と多様性が減っているときに叩いたほうがいい。2番目の薬を使うのに最適のタイミングは、アビラテロンによる「第1の打撃」を与えた直後だ。そのとき生き残っているがん細胞は、アビラテロンを追い出すのに多大なエネルギーを使って消耗しているため、「第2の打撃」で息の根を止められる可能性が高い。この方法は直感的に理解しにくいため、「最初の薬が効いているのに、なぜ薬を変えるのか ?」と思う医者や患者は少なくない。だが、がんを根絶させるには従来の方法よりずっと効果的だ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.292 - p.293

こういった考え方は、がんを「進化のるつぼ」と認識することから生まれてきたものです。がん治療に新しい方法を持ち込むものと言えるしょう。


生きることと、がんになることは表裏一体


著者が最後に強調しているのは、生物に関するすべての研究は進化の視点なしには意味をなさないということです。がん研究も例外ではありません。


生物学のすべてが進化の視点なしに意味をなさないのと同じく、がんのすべても進化の視点なしには意味をなさない。このシンプルかつ厳然たる事実を認めないことが、進行転移がんの予後がほとんど改善しない理由だ。この病気の根底にある進化の性質に本気で向き合わないかぎり、今後も改善しないだろう。進化のプロセスなしに、地球の生命史は形づくられてこなかった。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.309

本書の最後に「がん研究・がん治療の最終ゴール」として目指すべきことが書かれています。以下の引用にある「ルカ」とは LUCA(Last Universal Common Ancestor = 最後の共通祖先)です。つまり地球上のすべての生命体の先祖をさかのぼると、生命の発生の起源となった1つの共通祖先に行き着くはずで、その最初に行き着いた共通祖先を言っています。


私はこの本を書くにあたり、50人以上もの研究者の話を聞き、数えきれないほどの書籍と論文を読んだ。その過程で、私たちがめざすものを最もよく表している言葉はこれだ、というのを見つけた。それは、ウェルカム・サンガー研究所の遺伝学者でがん研究の第一人者であるピーター・キャンベルが私に語ってくれた言葉だ。

私たちの最終ゴールって、何なのでしょう ? 十分長く生きてから、がんより先に死ぬことだと思いませんか ?」

現実の生活は夢でもおとぎ話でもない。だれもみな、いつかは死ぬ。私たちが望むのは不死ではない。いつかお迎えが来るときまで心身を平穏に保ちたい、それより前にがんに殺されたくはない、それが私たちの望みだ。それにもし、がんの診断後に20年も30年も生きる人が増えてくれば、薬の影響を穏やかにすることや、心理面でのサポートをすることに、よりいっそう重点が移っていくだろう。

人類の死亡率は100パーセントだが、「生命」そのものは生き続ける。細胞は増殖を止めない。全生物の共通祖先「ルカ」から始まった進化系統樹は伸び続ける。生きることと、がんになることは表裏一体だ

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.313 - p.314


感想


言うまでもありませんが、以上に紹介したのは本書のごく一部です。著者が最後に「この本を書くにあたり、50人以上もの研究者の話を聞き、数えきれないほどの書籍と論文を読んだ」と書いているとおり、サイエンス・ライター、なしは医学ジャーナリストとしての丹念な取材と調査にもとづく記述が本書の価値です。

主題となっている「がんはヒトの体内で起こる進化のプロセスである」という認識は、"なるほど" と納得性が高いと思いました。がんの標準治療である化学療法と放射線療法を見直すべきだという著者の主張は、「進化」の視点でがんを見ると当然そうなるでしょう。「がんを撲滅する」のではなく「がんを人のコントロール配下に置く」ことを目標にするわけです。

と同時に、本書には書いてありませんが、がんの免疫療法やウイルス療法の重要性も分かったと思いました。免疫療法とは、例えば本庶 佑ほんじょたすく先生(2018年ノーベル医学生理学賞)が開発の道を開いた "免疫チェックポイント阻害薬" による治療であり、ヒトが本来もつ免疫機能でがん細胞を攻撃するものです。またウイルス療法は、藤堂 具紀とうどうともき先生の "デリタクト注"(= 薬剤名。2021年に日本で承認)が代表的です(No.330「ウイルスでがんを治療する」)。

免疫機能もウイルスも、生命の歴史の中で進化ないしは共存してきたものです。従って、がんの撲滅はできないかもしれないが、そのコントロールに役立つでしょう。少なくとも、化学療法によって耐性がん細胞を出現させ、結果として手がつけられなくなるようなことは無いと思います。



「進化」という言葉を用いずに本書の内容を1文で要約すると、次の3つのどれかになるでしょう。

・ がんは多細胞生物の宿命である。
・ がんは生きるための代償である。
・ 生きることと、がんになることは表裏一体である。

どれも正しいと思いますが、「宿命」や「代償」という言葉には価値判断が入っています。その意味では、著者が最後に書いている「表裏一体」が最も適切な言葉だと思いました。




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No.330 - ウイルスでがんを治療する [科学]

No.314「人体に380兆のウイルス」の最後の方に、東京大学医科学研究所の藤堂とうどう具紀ともき教授が開発した "ウイルスによるがん治療薬" が承認される見通しになったとのメディア記事を紹介しました(2021年6月11日に承認)。今回はその治療薬の話を詳しく紹介します。

承認の対象となったがんは、脳腫瘍の一種である悪性神経膠腫こうしゅで、条件・期限付き承認です。期限は7年で、7年後にそれまでの治療結果をもとに再度、承認の申請の必要があります。またすべての悪性神経膠腫の患者さんに使えるのではなく制限がかかっています(後述)。とはいえ、これは画期的な治療薬です。つまり、

◆ ウイルス療法の治療薬が日本で初めて承認された。

◆ 脳腫瘍を対象にしたウイルス療法薬が世界で初めて承認された。

◆ 開発から製造までの全工程を日本で行った国産ウイルス療法薬である。

という3つの点で画期的です。この治療薬の開発名は G47Δデルタで、WHOが決めた一般名称は「テセルバツレブ」、製品名は「デリタクト注」です("注" は注射薬の意味。製造する製薬会社は第一三共株式会社)。

ウイルス療法薬とは「がん細胞にのみ感染するウイルスを投与し、そのウイルスが次々とがん細胞に感染し破壊することでがんを治療する」というものです。どうしてそんなこと出来るのか、また、この薬による治療の承認対象となった脳腫瘍とはどんなものかについて以下にまとめます。

藤堂教授は 2021年末に『がん治療革命 ウイルスでがんを治す』(文春新書 2021.12.20。以下「本書」)という本を出されました。この治療薬の開発の歴史からはじまって、がんを治療するメカニズム、臨床試験の結果、承認に至るプロセスなどがまとめられています。その一部を紹介します。


脳腫瘍


私事になりますが、私と同期入社の M さんは脳腫瘍により 30代で亡くなりました。入院されてから数ヶ月だったと思います。アッという間という感じでした。働き盛りというか、これから真の働き盛りを迎えるその前に、奥様と子供を残して "突如として" 命を奪われた。残酷なものだと思いました。私が G47Δ に強く興味をもったのは、この記憶があったからです。



私たちの頭蓋骨の内側には "髄膜" があり(硬膜・クモ膜・軟膜の3層構造)、その内側に脳組織があります。脳腫瘍とは頭蓋骨の内側にできる腫瘍(=がん)の総称です。

脳腫瘍は医学的に細分すると100種類以上ありますが、大きくは「原発性か転移性か」と「良性か悪性か」に分類できます。「原発性」は脳組織そのものから生じた腫瘍であり、「転移性」は体の他の部位の腫瘍が脳に転移したものです。本書でとりあげているのは原発性の脳腫瘍です。原発性脳腫瘍は年間で1万人あたり約1人が発症し、お年寄りから子供まで幅広い年齢層にわたります。

原発性脳腫瘍には「良性」と「悪性」があり 6割が良性、4割が悪性です。この区別は腫瘍ができる部位の違いです。良性脳腫瘍は脳組織の外側にできた腫瘍で、たとえば髄膜にできる髄膜腫です。良性脳腫瘍は脳組織を損傷することなく切除することが可能です。従って大半は外科手術で治ります。5年生存率は、腫瘍の種類によって違いますが、97%~99% といった高い数字です。

一方、悪性脳腫瘍は、がん細胞が脳組織の中に染み込むように散らばっている腫瘍で(専門的には "浸潤しんじゅん")、手術で完全に取り除くことは困難です。他の臓器の腫瘍のように「なるべく広く切除しておこう」なんてことは、脳ではできない。脳の深部の腫瘍になると後遺症を出さずに摘出するのは困難です。

悪性脳腫瘍で最も多いのは「グリオーマ(=神経膠腫こうしゅ)」で、「グリア細胞」にできる腫瘍です。グリア細胞は脳神経細胞を取り囲むように存在し、神経をささえています。"グリア" とはギリシャ語でにかわの意味で、日本語では「神経こう細胞」です。

悪性脳腫瘍はその "悪性度"(がん細胞の増殖の早さなど)によってグレード2~4に分類されますが(グレード1 は良性)、グリオーマと診断されてからの余命は、グレード2で7~8年、グレード3 で約3年、グレード4 で約1年です。グリオーマは、現代の医療ではほぼ 100% 治らないがんなのです。

このグリオーマの治療を対象として、2021年6月に承認されたウイルス治療薬が G47Δ です。これはヘルペスウイルスを改変して作られました。


ヘルペスウイルス


ヒトに感染して病気を引き起こすヘルペスウイルスは 8種類ありますが、主なものは次の3つです。

① 単純ヘルペスウイルス 1型(HSV-1)
口唇ヘルペス、ヘルペス性歯肉口内炎、ヘルペス性角膜炎などを引き起こします。

② 単純ヘルペスウイルス 2型(HSV-2)
主に性器ヘルペスの原因となるウイルス。

③ 水痘・帯状疱疹ウイルス(HSV-3)
水ぼうそう(水痘)の原因となるウイルス。水ぼうそうが治ったあとも神経細胞に潜伏し、加齢や免疫力の低下で暴れ出して帯状疱疹を起こします。

G47Δ に使われるのは ① の「単純ヘルペスウイルス 1型(HSV-1)」で、口唇ヘルペス(口唇に湿疹ができる)を起こします。このウイルスは人との直接的な接触によって感染しますが、初めて感染したときには大抵の人は症状が出ず、ウイルスは神経細胞の中にもぐり込んでしまいます。これを「潜伏感染」と言います。そして、何らかの原因で体の抵抗力が落ちているときに症状を引き起こす。症状は10日から2週間程度で治まります。症状を軽くする薬もあります。

潜伏感染している HSV-1 を退治することは、現代医学ではできません。感染したらずっとその人にひそみ続けます。そのため、日本の成人の約8割がこのウイルスに対する抗体を持っています。つまり感染しているわけです。20代から30代では約半数、60代以降ではほとんどの人が感染しているというデータもあります。つまり HSV-1 は「非常にありふれた身近なウイルス」なのです。



このウイルスはありふれた存在であるため、よく研究されていて、ウイルスの遺伝子(80以上ある)とその機能が解明されています。そのためウイルスの遺伝子を改変してがん治療に使うのに適しています。HSV-1 は人間がコントロールしやすい。これが重要な点です。

また万一、改変したウイルスを人に投与して病気を発症したとしても、ヘルペスウイルスに対する抗ウイルス薬があるので、投与を中断して治療が可能です。

さらに HSV-1 は、ほぼあらゆる種類のヒトの細胞に感染します。これもウイルスをがん治療に使うときに好都合です。


がん細胞を殺すメカニズム


G47Δ は単純ヘルペスウイルス 1型(HSV-1)の次の3つの遺伝子を改変し、遺伝子が働かないようにしたものです。

遺伝子1:γ34.5

この遺伝子の働きを止めると、口唇ヘルペスなどの病気を起こさなくなります。

またこの遺伝子は、感染した細胞の自滅を防ぐ機能を持っています。ヒトの正常な細胞は、ウイルスに感染すると細胞内のタンパク質合成を停止させ、ウイルスとともに自滅します。これによってウイルス感染の広がりを防いでいます。HSV-1 のこの遺伝子は、その自滅を阻止します。従ってこの遺伝子の働きを止めると、ヒトの細胞の自滅機能が有効なままであり、ウイルスの感染は拡大しません。

その一方で、がん細胞は自滅する機能に異常があり(だから増殖し続ける)、この遺伝子の働きを止めた HSV-1 であってもウイルスは増殖が可能です。つまり「正常細胞では細胞の自滅により増殖できないが、がん細胞では増殖できる」ことになります。その結果として HSV-1 はがん細胞を次々と破壊していきます。

遺伝子2:ICP6

HSV-1 は内部に DNA を持つ "DNAウイルス" で、細胞に入り込むとそのDNAを複製して増殖します。このとき、DNAを合成する酵素が必要になりますが、ICP6はその酵素を作り出す遺伝子です。

骨髄細胞や腸管の表面細胞などの増殖を繰り返している細胞を除いて、正常な細胞の中には DNA合成酵素が(ほとんど)ありません。そのため HSV-1 は ICP6遺伝子によって合成酵素を作り出して増殖するわけです。従って、ICP6の働きを止めた HSV-1 は正常細胞の中では増殖できなくなります

一方、分裂を繰り返してどんどん増えているがん細胞には DNA合成酵素がたくさんあります。従って ICP6の働きを止めた HSV-1 であっても、がん細胞の中では増殖できます。つまり「正常細胞では増殖できないが、がん細胞では増殖できる」ことになります。

遺伝子3:α47

免疫(獲得免疫)の基本的なしくみは、細胞内にあるタンパク質の断片(ペプチド)が細胞表面に提示されることから始まります。このとき、ウイルスに感染した細胞は自己由来のペプチドに加えて、ウイルスのタンパク質由来のペプチドが提示される。この "非自己の提示 = 抗原提示" を免疫細胞である T細胞が特異的に認識して免疫が発動します。ヘルパーT細胞が認識すると B細胞を活性化して抗体の生産が始まり、キラーT細胞が認識するとウイルスに感染した細胞を直接破壊します(No.69「自己と非自己の科学(1)」参照)。

HSV-1 の α47 という遺伝子は、細胞表面にウイルスのタンパク質が提示されないようにする作用があります。これにより HSV-1 はヒトの免疫系の監視を逃れて感染を拡大できるのです。

一方、がん細胞は、あの手この手を使ってヒトの免疫システムから逃れ、増え続けています。そのがん細胞に α47 の働きを止めた HSV-1 が感染すると、HSV-1 由来のタンパク質(の断片=ペプチド)が、がん細胞の表面に提示される。これがヒトの免疫細胞に認識され、がん細胞に対する抗体ができます。つまり、HSV-1の増殖によってがん細胞が破壊されることに加えて、ヒトの免疫システムによってがんを縮小でき、より一層の治療効果が期待できます。



以上の、3つの遺伝子が働かないように操作した HSV-1 は、がん細胞のみで増殖し、がん細胞を破壊します。増殖してできた HSV-1 がほかのがん細胞に次々と感染して破壊していきます。また、免疫細胞もがん細胞を認識できるようになり、抗体でがん細胞を死滅させる。これが G47Δ によるがん治療の原理です。

がんのウイルス療法.jpg
癌のウイルス治療のイメージ
(朝日新聞デジタル 2021.5.24 より)


第2相臨床試験


G47Δ の有効性を確認する第2相臨床試験は、2015年5月から2020年4月まで行われました。その結果が本書に書かれています。臨床試験の対象は膠芽腫こうがしゅの患者さんで、標準治療(手術・放射線・抗がん剤)治療を行ったあとに膠芽腫が再発した患者さんです。膠芽腫はグリオーマ(神経膠腫)の一種ですが、進行が早く、悪性度が最も高いものです(=グレード4)。30人を対象に治療を行う計画で臨床試験が始まりました。

この第2相臨床試験では、13人目の患者さんが治療を始めてから1年が経過した時点で、治療開始後1年以上生存した患者さんが 92.3%(13例中の12例)に達しました。標準治療の場合、再発した膠芽腫の患者さんが1年以上生存する率は 14% です。このため、G47Δ の第2相臨床試験は「有効中止」となりました。これは "有効性が明らかになったので中止してよい" というものです。極めてめずらしいことです。

有効中止になったため、第2相臨床試験に参加した患者さんは19人になりました。この19人の患者さんのうち治療後1年以上生存したのは16人、治療後に生存した期間の中央値は20.2ヶ月でした。そして19人のうち2021年11月時点で3人の方が生存しています。

第2相臨床試験が有効中止になり、かつ G47Δ が「希少疾病用再生医療等製品」に指定されたため、第3相臨床試験は省略されることになりました。そして2021年6月の承認となったわけです。


G47Δ の意義


G47Δ ががん細胞を殺すメカニズムで分かることは、この治療薬は悪性脳腫瘍のためだけのものではなく、白血病のような血液がん以外のがん(=固形がん)すべてに有効なことです。実際、前立腺がんや悪性胸膜中皮腫(一つの原因がアスベストの吸引)の臨床試験が始まっています。

デリタクト注.jpg
デリタクト注
(第一三共製薬)
現代医学では治療が困難とされるがんがあります。悪性脳腫瘍のほかに、悪性中皮腫、多発性肝細胞がん、膵がん、胆管がん、膀胱がんなどです。これらに対し G47Δ は特に有効な治療薬となるはずです。

また、G47Δ の発展形として HSV-1 の遺伝子の中に「がん治療に効果のある遺伝子」と組み込むことが考えられます。ヒトの免疫系を刺激する遺伝子などです。

たとえば、インターロイキン12(IL-12)を生成する遺伝子を HSV-1 に組み込むと、がん細胞に感染したときに IL-12 がどんどん出されるようになる。分泌された IL-12 はヒトの免疫細胞を刺激し、強い抗がん免疫作用が引き起こされます。これはマウスですでに実験済みで、成果があがっています。


ある少女の手紙


本書に藤堂教授の患者さんだった少女が教授に宛てた手紙のことが出てきます。このあたりは本書の中で最も "思いのこもった" 文章です。少々長くなりますが引用してみます。下線は原文にはありません。また、漢数字を算用数字に変更しました。原文の段落は空行にしてあります。


私の研究室の壁に、一枚の手紙が貼ってあります。

「藤堂先生へ。今までありがとうございました。入院したときは、ふあんもたくさんあったけど最近では、お散歩で三四郎池などに行けるようになりました。退院してからも通院なのでまた、よろしくお願いします」

大きくしっかりとした文字で書かれた短いメッセージの横には、池で楽しそうに泳ぎ回る水鳥が描き添えられています。東大医学部附属病院のある本郷キャンパスの名所、三四郎池で泳ぐ鴨の姿です。

手紙を書いてくれた D さんは、私の患者さんです。

けれど、もうこの世にはいません。悪性のグリオーマに命を奪われてしまったのです。亡くなったとき、D さんは小学校5年生でした。

目のクリッとした、かわいい女の子でした。けなげに病気と闘っていた彼女の面影を偲びながら、生前に写真をもらっておけばよかったと悔やんでいます。

亡くなったあとで、そういうお願いをするのは、親御さんをよけい心しませる気がして、なかなかできません。

D さんのグリオーマは最も悪性度の高いグレードⅣで脳幹にできていました。脳幹にできるグリオーマは大脳にできる一般のグリオーマよりもさらに余命が短いのです。

第2章でも述べましたが、脳幹には運動神経路や姿勢反射中枢など大事なものがたくさん詰まっているので、ここにダメージを受けると、さまざまな症状が出ます。D さんの場合は、体がふらふらしてまっすぐに立っていられないというのが、最初の症状でした。

手術を行ないましたが、脳幹を取ることはできないため、手術のあとに放射線と抗がん剤を強めに用いて治療を続けました。しかし、通常よりは延命できたものの、手術から9ヵ月後、ついに力尽きたのでした。

脳腫瘍の手術の最中には、腫瘍の組織を少し取り、良性か悪性かを迅速に病理診断するのが普通です。簡便な方法なので精緻な診断はできませんが、手術前の診断と手術中の病理診断の結果がともに悪性なら、ほぼ間違いなく悪性脳腫瘍です。

そういう場合、私は、手術のあとの患者さんがまだ麻酔から覚めずに眠っているときを選んで、家族に病状を説明します。端的にいえば、「手術はうまくいきました。でも、患者さんは助かりません」という説明です。これは医者としてつらいものです。D さんのように子供の患者さんの場合は、なおさらです。

家族なら誰でも、「手術は成功したのに必ず死ぬとは、いったいどういうことなんでしょうか ・・・・・・」と、戸惑います。そして、悪性脳腫瘍の平均余命は約1年であることなどを詳しく話すと絶句し、がっくりと肩を落として病室から出ていくのです。

それからあとの家族は、大変な思いをします。

脳腫瘍の末期になると意識レベルが低下し、最後は何もわからなくなってしまうので、患者さん自身は、それほどつらくありません。「がんの末期は痛くてつらい」という一般的なイメージとは異なるのが、悪性脳腫瘍の特殊なところです。

しかし家族は、患者さんの意識状態が悪くなるにつれて、食事やトイレの介助などに追われるようになります。それでも家族が頑張り通せるのは、皮肉なことに、患者さんの余命が短くて、介護生活がいつまでも続かないからです。

日本では 2006年から、グリオーマの治療薬として「テモゾロミド(商品名テモダール)」が使われていますが、「画期的治療薬」と謳われるこの楽でさえ、それによって延びる命は、統計的にはわずか2~3ヵ月にすぎないのです。

こういうことを何度も何度も家族に説明するのですが、悪性脳腫瘍患者のほとんどは、再発するまでまるで何事もなかったかのように元気でいることが多いため、家族は、「本人はこんなにピンピンしている。手術直後に先生は死ぬと言っていたけれど、あれは何かの間違いだったのではないか」と、思うようになります。

そのたびに私は、「今はいいけれど、この先、必ず悪くなります。とにかく、今の時点でできるベストのことをやっていきましょう」と、落胆させるようなことばかり言い続けなければなりません。

けれど、こうしたコミュニケーションのなかで家族は絶望感を乗り越えていき、「できるだけの手を尽くした」という、悟りにも似た境地に至るようになるのです。

その意味で、悪性脳腫瘍の専門医というのは、医者でありながら半分は牧師のような存在だという気がしています。

D さんのご両親も、「ベストを尽くした」という思いだったのでしょう。亡くなったあと、病理解剖することを承諾してくださいました。

これはなかなかできないことです。病理解剖は医療の進歩に役立つことだと理屈ではわかっていても、「病気でさんざん苦しんだわが子の体に、これ以上メスを入れられるのは、親としてしのびない」と思うのが人情です。

それなのに D さんのご両親は、「きっと娘も望んでいたに違いありません」とまで言ってくださったのでした。

D さんとご両親の尊い気持ちをずっと忘れないようにと、私は彼女の手紙を研究室に掲げました。できることなら完治して、「先生、ありがとう。こんなに元気になりました」と、研究室を訪ねてきてほしかった。

けれど、悪性脳腫瘍の患者さんから、生きて「ありがとう」と言われることはありません。そういう状態が、脳外科の歴史が始まって以来、ずっと続いているのです。

藤堂とうどう 具紀ともき 
『がん治療革命』
p.172 - p.176 
(文春新書 2021)

藤堂教授の "何とかしたい" という思いが伝わってくる文章です。しかしその思いとは裏腹に、仮に D さんが現時点で脳腫瘍を発症したとしても G47Δ による治療はできないのです。それが次です。


少女のウイルス治療はできない


藤堂教授がその手紙を研究室に掲げている D さんは、グリオーマでも最も悪性度の高いグレードⅣで、脳幹にできていました。この「脳幹にできたグリオーマ」の治療は、現状では G47Δ による治療ができません。G47Δ の承認条件からはずれるからです。そのあたりの事情が次です。


ウイルス療法を希望する悪性神経膠腫の患者さんすべてが、「デリタクト注」を使えるようにしたい。言うまでもなく、私たちはそう考えていました。

しかし、承認の当否を決める最後の審査で、脳幹の悪性神経膠腫は適応対象外となってしまいました。「脳幹に針を刺すなんてとんでもない。手技が確立していない」という意見が、医薬品医療機器総合機構の専門協議で「専門委員」から出されたからです。

62ページでも述べたように、脳幹には触ってもいけないとされていたのは昔の医学です。私は患者さんの病理診断をするとき、定位脳手術で脳幹に針を刺して生検組織を取っています。脳外科医でそれをやったことのある人にとっては、脳幹に「デリタクト注」を投与するのは、それほど大変なことではありません。

年間約2100例にのぼる小児がんのうち、脳腫瘍は白血病(38%)に次ぐ第2位の罹患率(16%)です。なかでも、脳幹の悪性神経膠腫は子供に多く、この章の冒頭で紹介した D さんも、そのために小学校5年生のとき命を奪われました。

G47Δ は、D さんのような患者さんからのニーズが高いので、なんとしてでも脳幹の悪性神経膠腫に使えるようにしようと、厚生労働省と意見交換をかなりしましたが、最終的に脳幹は除外されてしまいました。

そのため、子供の患者さんの多くが、この薬を使えなくなってしまったのです。ニーズがそこにあり、標準治療では9ヵ月ほどで亡くなってしまうのに ───。

厚生労働省とのやりとりで、私は「脳幹の悪性神経膠腫を除外するようなことをしたら、あとで混乱を招きますよ」と何度も説得を試みました。実際に今、脳腫瘍の子供を持つ多くの親が、対象にならないことにショックを受け、混乱しています。

脳幹への「デリタクト注」の投与は、脳幹の悪性神経膠腫をそのまま放置するリスクに比べれば、投与する手技的なリスクの方が圧倒的に低いことになります。現場を知る者としては、もし仮に脳幹に針を刺すことにリスクがあったとしても、「うちの子にウイルス療法を受けさせて」と、親御さんは言うと思うのです。そうしなければ、我が子の病気はどんどん悪くなっていき、9ヵ月ほどで亡くなってしまうのですから。

けれど、現段階ではそれは許されず、今後の新たなデータを待つしかありません。

藤堂 具紀 
『がん治療革命』
p.219 - p.220 

この「脳幹の脳腫瘍の治療」の承認の件を含め、G47Δ にはまだまだ乗り越えなければならない課題があります。"ウイルス治療を希望する悪性脳腫瘍の患者さん全てに G47Δ を届ける" という藤堂教授の目標の実現には、まだ長い道のりが必要です。



本書には「第6章 日本への提言」と題する章があって、日本の治療薬の開発に関する数々の提言が書かれています。G47Δ は日本で初めてのウイルス治療薬という画期的な薬だからこそ、その製品化(承認)までのプロセスを一度経験すると日本の新薬開発体制の数々の問題点(ないしは日本で画期的な新薬の開発が困難な理由)がクリアに見えてくる。そういうことだと思いました。



 補記 

2022年5月31日の日本経済新聞に、ウイルス使ったがん治療の現状をリポートした記事が掲載されました。藤堂教授の研究のほか、ウイルス療法の研究の現状がコンパクトにまとめられています。ここに記事を引用しておきます。


ウイルス使ったがん治療
 脳腫瘍など、患部に注入で効果

日本経済新聞
2022年5月31日

ウイルスを使ってがん細胞を退治する「ウイルス療法」という新たな治療技術が日本でも登場した。第1弾として第一三共が、悪性度の高い脳腫瘍向けに2021年11月から治療薬の販売を始めた。骨腫瘍向けに鹿児島大学が臨床試験(治験)を開始したほか、鳥取大学や東京大学などでもウイルス療法薬の開発が進む。既存の手法では治療が難しいがんの患者にとって、待望の薬となりそうだ。

「こんな治療法がもっと早く登場していたら……」。7年前に夫を脳腫瘍で亡くした大阪府の70代の女性は、国内で登場したがん治療ウイルス技術について、感想をもらす。夫は放射線治療後に脳腫瘍を再発したが、手術もできず、当時は有効な治療薬もなかったという。「脳腫瘍の患者とその家族にとって希望の光がみえた」と話す。

がん治療向けウイルス療法は、一般的に治療用に遺伝子を改変したウイルスを注射でがん細胞に直接投与する。ウイルスはがん細胞の中だけで増殖し、がん細胞を破壊する。ウイルスはがん細胞を破壊後に周辺に広がり、広範囲のがん細胞を除去できる。正常な細胞の中でウイルスは増殖しないように設計しており、安全性は高い。

欧米では15年に悪性度の高い皮膚がん向けに承認されているが、日本では承認されていなかった。

今回、国内承認の第1号となった第一三共の「デリタクト(テセルパツレブ)」は、東京大学医科学研究所の藤堂具紀教授が研究してきた成果を医薬品に応用した製品。脳腫瘍のひとつ、神経膠腫(グリオーマ)のなかでも悪性度が高い患者に対する治療薬だ。

悪性度の高いグリオーマ(グレード4)は、大脳にできて周囲の脳にしみこむように広がる。手術では完全に取り去ることが難しく、手術後も時間の経過とともにがん細胞が増えて再発する可能性が高い。放射線治療と化学療法で増殖を抑えることもできるが、予後は12~15カ月とされる。再発後は治療の選択肢がほとんどないのが現状だ。

デリタクトの治験に参加した13人に対して治療後1年たった時点で有効性を調べたところ、1年後も生存している患者の割合は92.3%だった。治験途中でも有効性が証明されたため、治験を中止する「有効中止」となった。藤堂教授は「治療法がなかった悪性脳腫瘍の患者にとって新たな選択肢」と話す。

がんのウイルス療法の特徴は、最も手ごわいがんに対して効果がある点だ。手術で取り切れず、抗がん剤や放射線も効きにくく、免疫も働きにくい部位にできる脳腫瘍や骨腫瘍など向けに開発されている。

しかもその効果が長期間持続するのも利点だ。ウイルスによって、体内の免疫が刺激されると考えられている。近年の研究では抗がん剤や他の免疫療法との併用で治療効果が高まるという報告もあり、米国や中国をはじめ世界で140以上の治験が進んでいる。

ただ世界的にみてまだ治療薬となっているものは少ない。欧米で15年に悪性皮膚がんの治療薬「イムリジック」が承認されて以降、今回のデリタクトで2つ目だ。新規の治療用ウイルスの開発を進めている鹿児島大学の小戝(こさい)健一郎教授は「ウイルスを設計するには高度な技術と複雑な工程が必要だ」と話す。

例えば攻撃性が高い一方、体内であまり増えず、副作用が強いウイルスであれば治療には使いにくい。また複数の候補から有効性が見込まれるウイルス候補を見つけることができても、大量生産するのが難しければ、医薬品として普及させるのは難しい。

小戝教授らの研究チームは日本医療研究開発機構(AMED)の助成を受け、ウイルスを効率よく改変し、迅速に生産できる基盤技術の開発に世界に先駆けて成功している。16年から始めた初期段階の治験では、悪性度の高い骨軟部腫瘍の患者で安全性と有効性を示す結果を確認。中には2年以上効果が維持されていた患者がいたという。

研究チームは、21年から鹿児島大学病院、久留米大学病院、国立がん研究センター中央病院の全国3施設による多施設治験を始めた。今後2年間で全国から20人程度の悪性骨腫瘍の患者に参加してもらい、安全性と有効性を確かめる。希少がんに対する新たな治療薬として薬事申請を目指す。

もっとも、現時点ではがん治療ウイルスも万能ではない。難治性のがんや再発したがんの増殖を抑えこみ、生存期間を延ばす効果がある一方、一定の割合で効果がみられない患者もいる。そのため安全性が高く、より有効性が高い次世代の治療ウイルスの開発が世界中で急ピッチで進む。

国内ではアステラス製薬と鳥取大学が初期治験を進めるほか、東京大学や信州大学などが臨床開発を進めており、アカデミア発の創薬に期待が高まる。ただ藤堂教授は「日本は基礎研究力や技術があるが、臨床開発の環境が欧米に劣っている。薬価を含めた創薬環境の改善が急務だ」と訴える。画期的な新薬をがん患者に届けるための政策的な後押しも必要だ。
(先端医療エディター 高田倫志)


(2022.5.31)



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No.329 - 高校数学で理解するレジ行列の数理 [科学]

No.149「我々は直感に裏切られる」で、数字に関して我々の直感が事実に反する例や、正しい直感が働かない例を書きました。その中の "誕生日のパラドックス"(= 23人のクラスで誕生日が同じ人がいる確率は 50% を超える)については、No.325「高校数学で理解する誕生日のパラドックス」でその数学的背景を書きました。今回もそういった直感が外れる例で、スーパーのレジや各種窓口の「待ち行列」を取り上げます。

No.325 以外にも「高校数学で理解する」とのタイトルの記事がいくつかあります。


です。これらの記事は、高等学校までの数学だけを予備知識として、現代の IT 社会の重要なインフラとなっている公開鍵暗号を解説したものでした。高校までに習わない公式や用語を使うときには、その公式の証明(ないしは用語の説明)を記しています。今回もその方針でやります。


レジ行列の観察


ある比較的小規模のスーパー・マーケットを例にとります(仮想の例です)。この店の店長は店舗運営の改善に熱心です。店長は「ある曜日のある時間帯」のレジを何回も観察して、次のような結果を得ました。


◆ この時間帯には2台のレジを稼働させていて、1台のレジに並ぶ客は1時間当たり平均して24人である(2台とも。2台の合計では48人)。

◆ 客の到着はランダムである。それぞれのレジの客の到着間隔の平均は2分30秒だが(=60分/24人)、たて続けに客が到着することもある一方で、10数分以上、到着間隔があくこともある。

◆ レジ係の会計(バーコードのスキャン、お金のやりとり)に要する時間は、平均して1分である。つまり、立て続けに会計をしたとしたら、レジ係は一人で1時間あたり60人の客をこなせる

◆ 会計時間もランダムである。ペットボトル1個だけの客もいれば、カゴ3つにいっぱいの買い物をする客もいる。

◆ レジ係が客を待っている時間(=アキ時間)があり、それは過半数の時間である。

◆ 会計待ちの行列ができることもあるが、並ぶのは最大で3~4人程度である。


レジ係一人当たり、1時間で平均24人の客がきます。一方、レジ係りは1時間で平均60人の客をこなせる。レジ係りには余裕があり、過半はアキ時間(客を待っている時間)です。そこで店長は次のように考えました。


◆ この時間帯のレジ係りは半分の1人にしよう。それで十分にこなせるはずだ。

◆ 顧客の待ち行列は長くなるかもしれないが、せいぜい2倍程度だろう。


はたしてこの店長の考えは正しいのでしょうか。これを数学で解析するのが今回の目的です。問題として明示されている観察量は、24 と 60 ぐらいしかなく、あとは "ランダム" という言葉ですが、数学を使ってこれだけの情報から店長の判断の妥当性を検証します。


ランダムな事象・連続量


1つのレジについて1時間当たり24人の客が "ランダムに" 到着します。またレジでの会計時間もランダムに決まる。ランダム、ないしは偶然に発生する事象(イベント)が主題であり、これは確率の問題です。まず、以降に出てくる「確率変数」と「確率(確率測度)」を、サイコロの例で説明します。確率変数 X とは、

起こりうる事象に値を割り当てるとき、その値をとる変数

で、値はふつう整数や実数です。確率変数は大文字で書きます。X がサイコロの目の数を表す確率変数の場合、

X = 1 2 3 4 5 6

の6つの整数値をとる変数です。また、X に特定の条件をつけた事象が起こる確率(数学的には "確率測度"、Probability Measure)を

P ( X の条件 )

で表します。一般的には P ( 事象 ) で、その事象が起こる確率を表します。確率なので 0 P 1 であり

P (必ず起こる事象) = 1 P (決して起こらない事象) = 0

です。Xがサイコロの目の確率変数の場合、

PX=16 = 1 PX=1 = 1 6 PX3 = 1 2 PX=7 = 0

です。サイコロの目の数は飛び飛びの値をとるので「離散型の確率」です。高校数学に出てくる確率は主に離散型の確率です。

一方、レジ行列の場合、到着時刻や到着間隔(= 1人の客が到着してから次の客が到着するまでの時間)、会計に要する時間は無限の可能性のある連続値です。つまり「連続型の確率」であり、これをどう扱うかが以下の主要なテーマです。


レジ行列のモデル


レジ行列を次のようにモデル化します。レジに数人の客が並んでいて、先頭の客は会計(バーコードののスキャン、代金の支払い・精算)の最中とします。会計を待って並んでいる客と会計中の客を含めて「行列」と呼びます。

この行列には2種類の「イベント」が発生します。新しい客が最後尾に並ぶ「到着」と、会計が終了して客が行列から離れる「退出」です。

行列には単位時間(たとえば1時間)当たり平均で λ(ラムダ)人が到着します。ただし、到着はランダムです。また、レジ係は単位時間あたり平均で μ(ミュー)人分の会計をこなします。つまり単位時間あたり μ人が列から退出します。ただし、会計にかかる時間もまたランダムです。まとめると、

到着:λ人(単位時間あたり)
退出:μ人(単位時間あたり)

です。ここで λμ より大きければ、レジ行列は長くなるばかりで、スーパーは機能しません。従って以降は、

λ < μ

とします。
レジ行列のモデル.jpg
レジ行列のモデル


客の到着確率


まず、微少時間 Δt の間に客が1人到着する確率を検討します。1時間に平均5人の客が到着する場合で考えます(λ=5 の場合)。また、1時間を9秒で区切った400の微少時間 Δt= 0.0025(h) を考えます。そうすると平均的に、

400のうちの5つの微少時間では客が到着
400のうちの395の微少時間では客が到着しない

と言えるでしょう。つまり、

微少時間に客が到着する確率は 5 400 = λ Δt  
微少時間に客が到着しない確率は 1 - λΔt

です。ただし、これでは考えに抜けがあります。9秒間に客が2人以上到着するかもしれないからで、それは大いにありうることです。しかしこれは微少時間 Δt を 9秒としたからです。そこで、微少時間をどんどん小さくし「高々、客が1人到着するか、1人退出するかであるような微少時間」を考えます。つまり Δt の定義を、

微少時間 Δt では、イベント(到着か退出)が1つだけ起こるか、ないしはイベントが起こらないのどちらかである

とします。そうすると、

微少時間に1人の客が到着する確率は λΔt
従って、微少時間に客が到着しない確率は 1 - λΔt
全ての微少時間は同等であり、同じ確率で到着が起こる(=ランダム)

となります。これが「単位時間に λ人の客がランダムに到着する」ということの数学的表現です。λμ に変えると、レジでの会計が終わって客がレジ列から退出する確率も全く同様になります。そこで、この表現を使って客の到着間隔の確率を求めます。


到着間隔の確率密度関数


1人の客が到着してから次の客が到着するまでの時間が「到着間隔」です。この到着間隔を表す確率変数 X とします。到着間隔は 0 以上なので、以下では X>0 とします(一般的には確率変数は - < X < です)。単位時間に λ人の客がランダムに行列に到着するとき、到着間隔の確率 P はどう表現できるでしょうか。

サイコロと違って X は連続変数です。従って、たとえば PX=0.2 、つまり到着間隔が(ぴったり)12分である確率は定義できません。到着間隔には無限の可能性があるからです。しいて言うなら PX=0.2=0 とするしかありません。連続型の確率の特徴です。

しかし、X が一定の範囲である確率は求まります。たとえば到着間隔が12分から15分の間である確率、 P 0.2 X 0.25 は計算することができる。一般に、 a < b とし、

Pa X b = a b f x dx

であるような関数 f x があるとき、その関数を「確率密度関数」と言います。Xが全ての値をとるときの確率は 1 なので、確率密度関数 f x は、

0 f x = 1

の条件を満たします( X 0 で考えています)。そこで、レジ行列の到着間隔の確率密度関数 f x がどうなるかです。到着間隔が t t+Δt である確率は、確率密度関数の定義により、

t t+Δt f x dx = f t Δt  (A式)

です。Δt は微少時間なので、右辺は積分を掛け算で置き換えました。一方、別の視点で考えると、到着間隔が tt+Δt である確率は、

0t の間に到着が起こらず、かつ t t+Δt の間に到着が起こる確率

です。"間隔" という言葉を使わずに "到着" だけで表現するとそうなります。0t の間に到着が起こる確率(= 到着間隔が 0t である確率)は、確率密度関数の定義により、

0 t f x dx

なので、0t の間に到着が起こらない確率は、

1 - 0 t f x dx

です。また、微少時間 Δt の間に到着が起こる確率は先ほどの考察から、

λ Δt

です。従って 0t の間に到着が起こらず、かつ t t+dt の間に到着が起こる確率は、

1 - 0 t f x dx λ Δt  (B式)

と書けます。(A式)(B式)は等しいはずなので次の等式が成立します。

f t Δt = 1 - 0 t f x dx λ Δt f t = 1 - 0 t f x dx λ

この両辺を t で微分すると、

f' t = -λf t

となります。この微分方程式の解は C を定数として、

f t = C e -λt

ですが、確率密度関数には、

0 f t dt = 1

の条件があったので、この条件で C を決めると C = λ となります。最終的に、

f t = λ e -λt

が「到着間隔の確率密度関数」です。会計が終わって列から離れる間隔(= 退出間隔)も、λμ に変えるだけで全く同じように求まります。以上をまとめると、

到着間隔の確率密度関数
  f t = λ e -λt  
退出間隔の確率密度関数
  f t = μ e -μt

となります。これは「指数分布」と呼ばれている確率分布です。

確率密度関数.jpg
到着間隔の確率密度関数
λ= 24(/h)。 横軸の単位は時間(h)。0.05 が3分。

この指数分布の平均値(確率の言葉では期待値)を実際に求めてみると、

0 tftdt = 0 λt e -λt dt = -te-λt 0 + 0 e -λt dt =0 + - 1 λ e-λt 0 = 1 λ

となって、1時間に λ人の客が到着するときの到着間隔の平均は、確かに 1 λ となっていることが分かります。 λ = 24 (1時間に平均24人の客が到着)の場合は、到着間隔の平均は 2分30秒 ということです。なお、上の計算では部分積分と、 xe-x 0 x を使いました。

到着間隔の確率密度関数は、ある時間について到着間隔がその時間付近である "確からしさ" を表しています。従って上のグラフから、

客が来るときには、たて続けに来る
しかし間隔が長くあくこともある
その平均として単位時間に λ 人の客が来る

などが読み取れます。これは直感的に我々が経験していることと合致します。レジの運営としては、客がなるべく均等な到着間隔で来てくれた方が効率的ですが、しかしそうはならない。それが "ランダム" ということです。


到着間隔の累積分布関数


確率変数を X、確率密度関数 f x とします。問題にしている到着間隔は 0 以上なので、 X 0 とします(一般的には - < X < です)。累積分布関数 F x とは

F x = P 0 X x = 0 x f t dt

で定義される「確率密度を累積した値」です。確率密度は正の値で、∞まで積分すると 1 になるので、累積分布関数は 0 F x 1 単調増加関数です。X を到着間隔を表す確率変数とすると確率密度関数は指数分布になりますが、この累積分布関数を求めると、

F t = P X t = 0 t λ e -λx dx = 1 - e -λt

となります。 λ = 24 の場合(平均到着間隔が 2分30秒の場合)に F t 0.5 となる時間 T 5 を計算してみると、

T 5 = 0.029

となります。0.029(h) は1分43秒です。これは、

到着間隔の平均は2分30秒だが、1分43秒以内に 0.5 の確率で次の客が到着する

ことを意味します。しかも指数分布の形に見るように到着間隔が短い方が確率が高い。これがランダムに到着する場合の姿です。

累積分布関数.jpg
到着間隔の累積分布関数
λ= 24(/h)。 横軸の単位は時間(h)。0.05 が3分。縦軸が F(t) の値である。到着間隔の平均(2分30秒)は 0.05 のすぐ左のところだが、そこでの F(t) の値は 0.63 程度になる。


シミュレーション


到着間隔と退出間隔の確率密度関数が求まったので、これを用いてパソコンでシミュレーションをしてみます。そのためには「確率密度関数に従う乱数」を発生させなければなりません。

パソコンのプログラミング言語には「一様分布の乱数」を発生させる関数があるので(random / rand などの名称)、これを「到着間隔や退出間隔の確率密度をもつ乱数」に変換することを考えます。

まず「一様分布」ですが、確率変数 U 0 U 1 )が一様分布とは、確率密度が一定値のものです。つまり、

確率密度関数
  f x = 1  
累積分布関数
  F x = P U x = x

となる分布です(下図)。

一様分布.jpg
一様分布
確率密度関数(左)と累積分布関数(右)

今、分析したい確率変数 X の確率密度関数を f x 、その累積分布関数を F x 0 F x 1 )とします。そして F x の逆関数、 F-1 x を作り、

Y = F-1 U

とおくと、この Y は「確率密度関数 f x をもつ確率変数」となります。その理由は以下の通りです。Y の累積分布関数、 P Y x は、

P Y x = P F-1 U x

と書けますが、Fは単調増加関数なので、右辺の F-1 U x の条件は、

F F-1 U F x

としても同じことです。すなわち、

U F x

と表せます。従って、

P Y x = P U F x

となりますが、Uは一様分布の確率変数なので

P U F x = F x

であり(上の一様分布の説明)、この結果、

P Y x = F x

が得られます。これは「確率変数 Y の累積分布関数は F x 」という意味であり、従って Y の確率密度関数が f x であることが分かりました。この方法で特定の確率密度をもつ乱数を発生させる手法を「逆関数法」と呼びます。



到着間隔の累積分布関数は、

F t = 1 - e -λx

でした。この式を t について解くと、

t = - 1 λ log 1 - F t

です。従って F t の逆関数、 F-1 t

F-1 t = - 1 λ log 1 - t

です。このことから u を一様分布の乱数として、

到着間隔の確率密度を持つ乱数 =
  - 1 λ log 1 - u

と計算できます。同様に、

退出間隔の確率密度を持つ乱数 =
  - 1 μ log 1 - u

です。この2式を使ってシミュレーションを実行できます。


シミュレーション:例1(1時間)


パソコンを使って、客がいない状態から1時間のシミュレーションしてみます。 λ = 24 μ = 60 とします。その結果の一例が次の表です。これは、

時刻(開始からの経過時間)
発生イベント(到着が退出か)
イベント後の行列人数
次のイベントまでの時間

を表にしたものです。このシミュレーションは開始から1時間が経過した直後のイベント(="到着"。時刻 61分02秒)で止めてあります。この間に22人の到着があり、21人が退出しました。22人目が到着する直前の行列の人数は 0 です。行列の最大人数は 4人(37′19″からの 45″間)になりました。

時刻イベント 列 時間
0′00″---05′40″
5′40″到着10′11″
5′51″退出02′11″
8′02″到着11′03″
9′05″退出07′29″
16′35″到着10′44″
17′18″退出00′33″
17′51″到着13′00″
20′51″退出01′54″
22′45″到着10′02″
22′48″到着20′13″
23′01″退出10′30″
23′31″退出05′32″
29′03″到着12′27″
31′30″退出00′13″
31′42″到着10′33″
32′16″退出03′18″
35′34″到着11′03″
36′37″到着20′19″
36′55″到着30′24″
37′19″到着40′45″
38′04″退出30′02″
38′06″退出20′38″
38′45″退出11′00″
39′45″到着20′46″
40′31″退出10′02″
40′34″退出00′10″
40′44″到着10′32″
41′15″退出00′39″
41′55″到着10′04″
41′58″退出04′28″
46′26″到着10′43″
47′10″到着20′08″
47′18″退出11′14″
48′31″到着20′29″
49′00″到着30′53″
49′53″退出21′32″
51′25″退出10′16″
51′41″退出02′57″
54′38″到着10′10″
54′48″到着20′53″
55′41″退出10′14″
55′54″退出05′08″
61′02″到着1---


この表の「イベント後の行列人数」と「次のイベントまでの時間」から「行列が n人( n 0 )の時間合計」を求められます。それを計算したのが次の表です。

 行列が0人の時間合計  40′11″ 
 行列が1人の時間合計  13′49″ 
 行列が2人の時間合計  4′58″ 
 行列が3人の時間合計  1′19″ 
 行列が4人の時間合計  0′45″ 
 合計  61′02″ 

さらに、

p n t t 時間のシミュレーションを行ったとき、行列人数が n人である時間の割合

と定義し、上の表のそれぞれの時間合計を全体のシミュレーション時間( 61′02″)で割ると、次の表が得られます。

  p 0 1 :行列が0人の時間割合  0.658 
  p 1 1 :行列が1人の時間割合  0.226 
  p 2 1 :行列が2人の時間割合  0.082 
  p 3 1 :行列が3人の時間割合  0.022 
  p 4 1 :行列が4人の時間割合  0.012 

このテーブルから「行列の平均人数 = L t t=1 を求めてみると、

L 1 = n=0 4 n p n 1 = 0.503

となりました。これはあくまで1時間分のシミュレーションに過ぎません。使用した乱数も、到着と退出のイベントでそれぞれ20数個程度であり、発生させた乱数は指数分布の極めて荒い近似だと推測されます。

しかし、 p n t t を増やしていき、それにもとづいて L t を計算していくと、近似はどんどん正確になっていくはずです。それが次のシミュレーションです。


シミュレーション:例2(長時間)


シミュレーションの時間を増やして200時間分の計算を実行し、行列の平均長がどうなるかを、途中経過とともに観察します。シミュレーション時間、t を増やしたときの行列の最大人数を m とすると、行列の平均長、 L t

L t = n=0 m n p n t

で計算できます。このシミュレーションを実行して L t をプロットしたのが次のグラフ( 0 t 200 )です。もちろん、あくまで一例です。

行列の平均長さ(200h).jpg
シミュレーション例(行列の平均長)
200時間分のシミュレーションを行い、行列の平均長の途中経過をプロットした例。このシミュレーションでは最初の5時間までに行列が伸びる要因が重なった。計算開始後のグラフの形はシミュレーションのたびに変化するが、どれも 0.66 付近の値に落ち着いて行く。

グラフから分かるように、行列の平均長は一定値(0.66程度)に近づいていきます。これはパソコンで発生させた乱数が一様分布乱数に近づき、従って逆関数法で作った関数が指数分布に近づくからです。また初期状態(シミュレーションでは行列の人数はゼロとした)の影響がなくなることもあるでしょう。

このように時間に依存しない状態が「定常状態」であり、これが行列の平均的な姿です。


レジ行列の微分方程式


今まではパソコンによるシミュレーションでしたが、これを数学的に厳密に解くことができます。

p n t を「時刻 t において行列が n人である確率」とします。そして、時刻 t+Δt p n t がどう変化するかを考えます。まず p 0 t+Δt ですが、起こり得るケースは、

p 0 t+Δt
p 0 t から到着が起こらず p 0 t+Δt になる
p 1 t から退出が起こって p 0 t+Δt になる

の2つのケースです。ここで、

Δt の時間で到着が起こる確率は λΔt  
Δt の時間で退出が起こる確率は μΔt

なので、次の式が成り立ちます。

p 0 t+Δt = p 0 t 1-λΔt + p 1 t μ Δt   p 0 t+Δt - p0 t Δt = μ p 1 t - λ p 0 t

Δt 0 の極限をとると、次の微分方程式が得られます。

d p0 t dt = μ p1 t - λ p0 t

次に p1 t+Δt ですが、これには3つのケースがあります。つまり、

p1 t+Δt
p0 t から到着が起こって p1 t+Δt になる
p2 t から退出が起こって p1 t+Δt になる
p1 t から到着も退出も起こらずに p1 t+Δt になる

の3つです。微少時間 Δt の間に起こるイベントは、起こったとしても一つだけであり、到着と退出が同時に起こることはないというのがそもそもの仮定でした。つまり Δt の時間内に起こる事象は、

到着が起こる
退出が起こる
イベントは起こらない

のどれかであり、この3つは排他的です。従って Δt の間に

到着または退出が起こる確率
 = λΔt + μΔt

となります。排他的だから単純加算でよいわけです。従って、

到着も退出も起こらない確率
 = 1 - λΔt - μΔt

です。以上の考察から p1 t+Δt は次のように表現できます。

p1 t+Δt = p0 tλΔt + p2 tμΔt + p1 t 1 - λΔt - μΔt

p1 t+Δt - p1 t Δt = λ p0 t + μ p2 t - λ+μ p1 t

d p1 t dt = λ p0 t + μ p2 t - λ+μ p1 t

従って、一般の pn t n 2 では、

d pn-1 t dt = λ pn-2 t + μ pn t - λ+μ pn-1 t

と表現できます。以上をまとめると、

{ d p0 t dt =μ p1 t - λ p0 t d pn-1 t dt =λ pn-2 t + μ pn t - λ+μ pn-1 t

の2つの微分方程式によって、レジ行列の挙動が決まることが分かりました。



ここで、シミュレーションで確認したような "定常状態" での確率を求めます。定常状態では確率は時間的に変化しないので、上の2つの微分方程式の左辺はゼロになります。t をなくして式を整理すると、

{ μ p1 = λ p0 μ pn = λ+μ pn-1 - λ pn-2

ですが、ここで、

ρ = λ μ

と定義します。 ρ は「稼働率」を呼ばれる数値です。レジ行列のモデルで仮定したように λ < μ なので、

ρ < 1

です。この ρ を使って式を書き直すと、

p1 = ρp0 (1式)
pn = 1 + ρ pn-1 - ρ pn-2 (2式)

となります。ここで(2式)を次のように変形します。

pn - pn-1 = ρpn-1 - pn-2

これは数列 pn - pn-1 が、初項 p1 - p0 、公比 ρ の等比数列であることを示しています。(1式)より p1 = ρp0 なので、初項 p1 - p0 p0 ρ - 1 と表現できます。従ってこの等比数列の一般項は、

pn - pn-1 = p0 ρ - 1 ρ n-1 (3式)

です。この式から pn の形を求めます。以降の計算では高校数学で習う「等比数列の和の公式」を使います。つまり、


初項 a、公比 r の等比数列の第 1項から第 n項までの和は  a 1-rn 1-r  


という公式です。(3式)の両辺の n=1 ⋯ n の和をとると、

pn - p0 = p0 ρ - 1 1-ρn 1-ρ = p0 ρn - p0

pn = p0 ρn  (4式)

が得られます。ここで pn は確率なので、その総和をとると 1 になるはずです。(4式)の両辺の n=1 ⋯ n の和をとると、

k=0 n pk = p0 k=0 n ρk = p0 1- ρ n+1 1-ρ

となります。ここで n とすると、 ρ < 1 なので、

1 = p0 1-ρ  
p0 = 1 - ρ  (5式)

となります。(5式)(4式)に代入すると、

pn = 1 - ρ ρn  (6式)

が得られました。これが定常状態で列に n人が並ぶ確率です。ちなみに(5式)において p0 は、定常状態で「列に 0人が並ぶ確率」であり、つまり、

レジ係りが客待ちの状態である確率 1 - ρ

ということに他なりません。 ρ が(レジ係の)稼働率であるゆえんです。


行列の平均長


(6式)で行列の人数ごとの確率が求まったので、行列の平均長を計算することができます。つまり、

n pn 0 n

の総合計が行列の平均長( = L )です。

L = n=0 npn = n=0 n1-ρρn

ここで Sn を、

Sn = k=0 n kpk = 1-ρ k=0 n kρk

と定義すると、

ρSn = 1-ρk=0 n kρk+1

です。従って、

Sn-ρSn = 1-ρ k=0 n k ρk - k=0 n k ρk+1 = 1-ρ k=1 n k ρk - k=1 n+1 k-1 ρk = 1-ρ k=1 n ρk - nρn+1 1-ρ Sn = 1-ρ ρ 1-ρn 1-ρ - n ρn+1 Sn = ρ 1-ρn 1-ρ - nρn+1

と計算できます。ゆえに、行列の平均長 L は、

L = lim n Sn = ρ 1-ρ

となります。


平均待ち時間


次に、客が行列に到着してから会計が始まるまでの時間、「平均待ち時間(=W)」を計算してみます。これは、

 平均待ち時間 =
列に到着したときに、既に列に並んでいる人全員の会計が終る平均時間

であり、ということは、

 平均待ち時間 =
レジ行列の平均長さ)×(1人の平均会計時間)

です。平均の会計時間は 1 μ なので、

W = 1 μ ρ 1-ρ

となります。以上でレジ行列の数学的な解析ができました。


スーパーのレジ行列の分析


今までの数学的分析をまとめると、

客の平均到着数
  λ (単位時間当たり)
レジ係の平均会計数
  μ (単位時間当たり)
稼働率
  ρ = λ μ

のとき、レジ行列の平均長 L と平均待ち時間 W は、

L = ρ 1-ρ W = 1 μ ρ 1-ρ

で求めることができます。



最初に提示したスーパーのレジ係りの人数に戻ります。レジ係り一人あたり1時間あたりの平均の会計処理数は、 μ = 60 です(1人の客につき1分で処理)。現状(変更前)はレジ係り2人でそれぞれ24人の客を1時間あたりこなしているが、レジ係を1人にしたらどうなるかが問題でした。それを計算すると次のようになります。

 変更前(レジ係2人) 

μ = 60 λ = 24 ρ = 0.4 L = 0.67 W = 40

 変更後(レジ係1人) 

μ = 60 λ = 48 ρ = 0.8 L = 4.0 W = 4

つまりレジ係を半分に変更すると、変更前と比べて平均の行列長さ(L)も平均待ち時間(W)も6倍になります。店長の "せいぜい2倍程度だろう" という直感は、全くの "外れ" であることが分かります。

LW も、稼働率 ρ が 1 に近づくと急激に上昇します。その様子をグラフにしたのが次です。

平均行列長.jpg
稼働率と行列の平均長の関係
稼働率 ρ (横軸)が 1 に近づくと、行列の平均長 L(縦軸)は急激に増える。

現象の本質が "ランダム" である場合、往々にして我々の直感がはずれます。上の例で変更後の稼働率が 0.8 ということは、レジ係りの時間の 20% は客待ち時間だというとです。それでも、客の視点からすると会計待ちの時間が大幅に延びる。このような問題では平均で考えると落とし穴にはまります。



以上のスーパーのレジの分析は「待ち行列理論」の初歩のそのまた第1歩です。世の中には「窓口」がいろいろあって、そこに並んで何らかの「サービス」を受けることが多々あります。「窓口」は、人が対応しない自販機でも ATM でも同じです。もっと一般化すると、サービス提供主体があり、サービスを受けようとする主体が複数あると "待ち行列" の問題が発生します。コールセンターに電話すると「ただいま込み合っております。そのまましばらくお待ちください」という自動応答が返ってくることがありますが、同じことです。

またコンピュータシステムにおいては、多数の処理要求に対して複数のサーバーが対応するケースが多々あります。Webによるチケットの予約システムなどはその典型でしょう。もっと広く考えると、現代のインターネットは世界中に何10億というサーバー資源(アプリケーション・サーバ、ファイル・サーバ、ルーター、・・・・・・)があり、そのサービスを受けようとする何億人かの "客" で構成されている巨大ネットワーク・システムだと言えるでしょう。その各所で、実は微少な「待ち行列」が発生しています。

そういった、世の中に多数ある "システム"(人間系・コンピュータ系)を設計する根幹のところに「待ち行列理論」があるのでした。




nice!(0) 

No.326 - 統計データの落とし穴 [科学]

個人や社会における意志決定においては「確かな数値データにもとづく判断」が重要なことは言うまでもありません。しかしデータの質が悪かったり判断に誤りが忍び込むことで、正しい議論や決定や行動ができないことが往々にしてあります。「誤ったデータ、誤った解釈」というわけです。このブログでは何回か記事を書きました。分類してまとめると次の通りです。

 社会調査における欺瞞 

No.81「2人に1人が買春」
No.83「社会調査のウソ(1)」
No.84「社会調査のウソ(2)」

アンケートやデータ収集による社会調査には、データの信頼度が無かったり、解釈が誤っている事例が多々あります。一例として、回収率が低いアンケート(たとえば30%以下)は全く信用できません。

 "食" に関する誤り 

No. 92「コーヒーは健康に悪い?」
No.290「科学が暴く "食べてはいけない" の嘘」

"食" に関する言説には、根拠となる確かなデータ(=エビデンス)がないものが多い。「・・・・・・ が健康に良い」と「・・・・・・ は健康に悪い」の2つのパターンがありますが、その「健康に悪い」に誤りが多いことを指摘したのが、No.92、No.290 でした。

 相関関係は因果関係ではない 

No.223「因果関係を見極める」

データの解釈に関する典型的な誤りは「相関関係」を「因果関係」と誤解するものです。これは No.83、No.84 でもありました。No.223 はその誤りの実例とともに、因果関係(= 原因と結果がリンクする関係)を正しくとらえるデータ収集と分析の手法の説明でした。

 評価指標とスコア 

No.240「破壊兵器としての数学」
No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」
No.250「データ階層社会の到来」

各種の数値データを数学モデルや AI技術によって分析し、人や組織の評価指標やスコアを作成し、それにもとづいてランキングをしたり分類したりする動きが世界で急速に広まっています。これには、一方的なモノの味方を強要する危うさや、人々の平等や自由を損なう側面があり、このことは十分に認識しておく必要があります。

 思考をまどわすデータ 

No.296「まどわされない思考」

No.296 は、我々の思考やモノの考え方を惑わす様々な要因を述べたものでしたが(その一例は "陰謀論")、要因の一つがデータの誤った解釈でした。



今回は以上のような「誤ったデータ、誤った解釈」の続きで、2021年に出版された本(の一部)を紹介したいと思います。

ピーター・シュライバー 著
土屋 隆裕 監訳 佐藤 聡 訳
「統計データの落とし穴」
── その数字は真実を語るのか? ──
(ニュートンプレス 2021.8.10)

です。原題は "Bad Data" で、その名の通り真実を語るにはふさわしくない「悪いデータ、バッド・データ」を様々な視点から述べたものです。

統計データの落とし穴.jpg


統計データの落とし穴


著者のピーター・シュライバーは、カナダのカルガリー市の都市計画官で、つまり都市計画の専門家です。訳書に記載された紹介によると「評価指標に起因する過りを見いだすことに力をそそぎ、さまざまな測定行為とそこから得られる教訓の間に、より有意義な関係性を築こうとしている」そうです。本書は10章からなっていて、その概要は次のとおりです。



第1章 特別試験対策
評価指標に対する過度な崇拝が有害な事象を生み出すことがある(学校の共通試験の例)。

第2章 努力と成果
インプット、アウトプット、アウトカム(成果)を間違って測定すると、努力しても身を結ばないことがある。

第3章 不確実な未来
評価指標が、短期的な活動と長期的な活動の優先順位を歪めることがある。

第4章 分母と分子
我々は往々にして、分母(~ あたり)を無視したり、誤用したりする傾向にある。

第5章 木を見て森を見ず
複雑な全体の一部だけを測定して判断することの危険性。

第6章 リンゴとオレンジ
異なる性格のものを単一の測定値でまとめるという欺瞞が横行している。

第7章 数えられるものすべてが大事なわけではない
多くの組織で測定が自己目的化し、組織本来の目的が数字ゲームの中で失われている。

第8章 大事なものがすべて数えられるわけではない
評価指標が人々を動機付け、変化を促すことはあるが、評価指標が不適切に使われると意欲をそいで逆の結果をもたらす。

第9章 評価と選択
単純性・客観性・確実性・信頼性への願望が評価指標を使う目的だが、その願望が評価指標の本来の目的を損なうことがある。

第10章 終わりではなく始まり
評価指標を見直すことで、効果的に方針転換ができた学習塾の実例。



以上のように、本書全体を貫くキーワードは「評価指標」であり、このブログの過去の記事では「評価指標とスコア」(No.240「破壊兵器としての数学」No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」No.250「データ階層社会の到来」)のジャンルに属するものと言えるでしょう。以上の中から、今回は第4章「分母と分子」と、第5章「木を見て森を見ず」の中から数個の話題を紹介したいと思います。


都市の交通渋滞


著者のシュライバーは都市計画の専門家ですが、都市の交通渋滞は都市計画と密接に関係する問題です。その "交通渋滞の評価指標" の部分を紹介します。車通勤が前提となっている北米の都市の例であり、日本にそのままマッチするわけではありませんが、評価指標の誤った使い方の例として見ればよいと思います。


バンククーバーは、カナダどころか、おそらく北米で最悪の交通渋滞をかかえている。2016年3月上旬、そうしたニュースがバンクーバーの各地元メディアの見出しを飾った。Huffington Post の見出しは「バンクーバー、国内最悪の交通渋滞」だった。翌年も状況は変わらなかった。2017年、CTVは、バンクーバーの交通事情が 100都市中いかにしてよいほうから71番目となったかを示す記事を掲載した。2018年も同様だった。「バンクーバー、世界渋滞ランキングで上位から脱出」というのは、2018年2月6日付けの CityNews の見出しだ。もう十分だろう。

毎年同じ話が繰り返された。2013年、通勤に30分をかけるバンクーバ都市部の平均的な市民は、渋滞のせいで1年に93時間を無駄にした。バンクーバーのラッシュ時の平均通勤所要時間は、流れのよいときに比べて36%延びるといわれていた。バンクーバーは明らかに北米で「最悪」の交通渋滞を抱えていたのである。

ピーター・シュライバー
「統計データの落とし穴」
(ニュートンプレス 2021)

「ラッシュ時の平均通勤所要時間は、流れのよいときに比べて36%延びる」とあります。これが交通渋滞を調査する専門会社のデータにもとづくものです。こういったデータはバンクーバーのみならず、北米の各都市に関してメディアで公表され、解決策の議論がさんざんに行われてきました。しかし著者はこれに異論を唱えています。


何が起きているかを本当に理解している者はほとんどいない。バンクーバーは、過去数十年で市民の平均通勤所用時間を減らすことに成功した少ない北米の主要都市である。バンクーバーでは、市中心部の成長を促し、職住近接を可能とし、便利で効率的な交通システムに投資することで、平均通勤所用時間の短縮に成功したのだ。それなのに報道は、バンクーバーが北米で最も渋滞のひどい都市だと主張し続ける。平均通勤所用時間を減らした都市が、どうして北米大陸で交通渋滞が最悪の都市だとみなされているのだろうか?

「同上」

調査会社が発表する交通渋滞の評価指標は「所要時間指標(TTI)」で、これはラッシュアワー(通勤ピーク時間帯)と、渋滞なしの時の所要時間の比率です。渋滞なしの時の所要時間が 20分で、ラッシュアワーのときの所要時間が 40分だとすると、TTI = 2.0 ということになります。調査会社はこれをカーナビ搭載車からのデータなどで計算します。しかし、この TTI という評価指標が問題なのです。オレゴン州のポートランドの例です。


オレゴン州のポートランドもバンクーバー同様、TTIの観点からは悪く見える。ポートランドのTTIは、1982年から2007年にかけて1.07から1.29に悪化した(通勤所要時間に占める渋滞時間の割合が7%から29%に増えたことになる)。しかし、この期間のポートランドの平均通勤所要時間は、優れた都市計画と交通政策のおけげで、1日あたり54分から43分に減少していた。平均通勤距離が32kmから26kmに減ったのが主な理由だ(職場近くに住む人が増え、平均通勤距離が短くなった)。

「同上」

なぜこうなるのか。著者はバンクーバーに住むモニカとリチャードという2人の(仮想の)人物で説明しています。まず前提として、

◆ モニカもリチャードも、都市の中心部にある同じ会社に勤務しており、車で通勤をしている。

◆ モニカの家は、会社から車で10分のところにある。

◆ リチャードの家は会社から40分の郊外にある。彼は通勤途中でモニカの家のそばを通り(そこまで30分かかる)、それ以降はモニカと同じルートで会社に行く(10分)。

渋滞が全くないとすると、通勤時間は モニカ=10分、リチャード=40分です。これがラッシュアワー時に次のようになったとします。

◆ ラッシュアワー時のモニカの通勤時間は20分になる。

◆ ラッシュアワー時のリチャードの通勤時間は60分になる。つまりモニカの家まで 40分、そこから会社まで20分である。

これから TTI を計算すると、

モニカ = 2.0
リチャード = 1.5

となります。TTI を評価指標とし、TTIが小さい方が良いとすると、モニカよりリチャードが良いという結果になります。しかしこれは変です。つまり、通勤時間が長いほどTTIが良いという結果になるからです。しかも、渋滞による遅延時間(損失時間)は、モニカが 10分に対して リチャードは 20分です。TTI が少ない方が損失時間が多いという結果になる。

都市の TTI は、モニカとリチャードのような個人の TTI の総合です。つまりラッシュアワー時の所要時間の総体と、渋滞なしの時の所要時間の総体の比率です。しかしこれでは、

◆ 都市計画が優れていて、職住近接が可能である都市ほど TTI が増える(悪い)。

◆ ほとんどの人が郊外に住んで車通勤をしている都市の TTI は小さい(良い)。

ことになります。TTI という評価指標は、まさに "バッド・データ" なのです。そうなる原因は "分母" にあります。TTI の計算式の分母は「渋滞がない場合の所要時間」です。つまり所要時間が長ければ長いほど TTI値は良くなるのです。

著者は「渋滞のよりよい評価方法は、単純に各都市の平均通勤時間を示すことだろう」と言っています。こうなると渋滞だけでなく通勤時間の大小にも影響されます。つまり渋滞が少なく、通勤時間の短い住民が多いほど有利になる。しかし都市計画の視点では、これが妥当なのでしょう。


ニューヨークは歩行者にとって危険か?


TTI でみられるように、評価指標をみるときには分母に注意する必要があります。著書は次に「ニューヨークは歩行者にとって危険か?」というテーマで書いています。


ニューヨーク市は、歩行者にとって危険な場所のように思われる。ビッグアップルという愛称で知られるこの町では、平均して3日に1人、歩行者が死亡する。アメリカ運輸省道路交通安全局によれば、2012年、ニューヨーク市はアメリカの人口50万人以上の都市で歩行者の志望者数が最も多かった。その年、127人の歩行者が死亡したニューヨークは、ロサンゼルス(99人)、シカゴ(47人)、サンフランシスコ(14人)や、車への依存度が高いヒューストン(46人)、フェニックス(39人)を上回った。

しかも、ニューヨークが各都市のなかで最悪だったのは、死亡した歩行者の総数だけではない。交通事故による死者全体のうち、歩行者の占める割合が最も高いのだ。交通事故死全体を見ると、ニューヨークの歩行者はほかの都市の歩行者より、衝突事故の犠牲になる可能性が遙かに高い。すべての交通事故死に歩行者が占める割合は、全米平均が 14% なのに対し、ニューヨークでは 47% だ。

「同上」

以上のデータをもって「ニューヨークは歩行者にとって最も危険」だとは言えないことは、すぐに分かります。つまり人口が違うからです。ニューヨークは人口が多い。従って歩行者の死亡事故数も多くなります。人口10万人あたりの歩行者の死亡者数を計算してみると、ニューヨークは全米平均とほぼ同じです。

しかし「人口10万人あたり」を分母にしても、真実は見えないのです。それは、歩行者の数が違うからです。


ニューヨークの人口10万人あたりの歩行者の死亡者数は全米平均とだいたい同じだが、この都市にはアメリカのほとんどの都市よりはるかに多くの歩行者(と自転車)が存在するのだ。実際、その数は信じられないほど多い。

約10% の人が徒歩で通勤するニューヨークは、徒歩通勤者の占める割合がアメリカで最も高い都市の一つである(ニューヨークより高いのは 14% のボストンと 11% のワシントン D.C. だけだ)。公共交通機関の利用者数(ほとんどの公共交通機関の移動は歩行で始まり歩行で終わる)を加えれば、ニューヨークの歩行者や公共交通機関の利用者の割合は 65% で首位に躍り出る(ボストンは 49%、ワシントン D.C. は 48%)。

「同上」

本書によると「徒歩通勤 100万回あたり車に引かれて死亡する歩行者数」は、

ニューヨーク 1.5人
ロサンゼルス 5.2人

です。著者は「ニューヨークは歩行者にとってアメリカで最も安全な場所の一つ」と書いています。


病気の広がりを示す指標


今までの2つは "分母" の問題でしたが、今度は "分子" の問題です。人口に対する疾病の影響度合いを示すのに3つの指標があります。有病率、罹患率、死亡率の3つです。いずれも一定の人口を "分母" とするもので、たとえば "人口 10万人あたり" です(以下の説明ではそうしました)。特定の病気A について、3つの指標の意味は次の通りです。

有病率

ある時点で、病気A にかかっている人の割合(人口10万人あたりの数)。治癒するまでに長期間かかる病気、ないしは治らない病気では有意義な指標です。

罹患率

ある一定期間で、病気A にかかった人の割合(人口10万人あたりの数)。たとえばインフルエンザは特効薬があるので、発病から1週間程度で治癒するのが普通です。従って「有病率」より、ある一定期間(1年とすることが多い)でインフルエンザにかかった人の数 = 罹患率が実態を正しく伝えます。

死亡率

ある一定期間で、病気A で死亡した人の割合(人口10万人あたりの数)。これは致死率とは違います。致死率は「病気A にかかった人が死亡する割合」です。たとえば「エボラ出血熱の致死率は 80%~90%」というように使います。「エボラ出血熱の死亡率は 80%~90%」という言い方は間違いです。

この3つの指標はいずれも「少ない方が良い」指標です。しかし著者は、ある指標の減少が別の指標の増大につながることがあることを指摘しています。


たとえば、マラリア患者を延命する治療法が発見されたとする。そうした改善は、罹患率が一定であれば有病率を高める可能性がある。マラリアにかかった患者がすぐに死亡しないということは、長生きするということだ。長生きすれば、どの年にもマラリア患者として計上される人が増える。したがって病気の有病率は増加する。有病率は、実際には病気の影響が減っているのに、気の滅入る話を伝えるのだ。

逆に、罹患するとすぐ死亡してしまう病気の場合、有病率は減少する。病気を抱えて何年も生き永らえる人はめったにいない。病気にかかっている人が減ったからではなく、人々が早く死亡するために有病率が減る場合もあるわけだ。ある病気にかかっている人の数が以前より減ったことを祝う記事は、実はよい知らせではない可能性がある。患者の多くが死にかけているかもしれないのだ。

「同上」


フード・マイルズ


ここからは、第5章「木を見て森を見ず」で取り上げられたテーマです。フード・マイルズ(Food Miles)は、日本ではフード・マイレージ(Food Mileage)と呼ばれているものです。これは食料の生産地と消費地の距離であり、フード・マイルズがなるべく小さいものを食べよう、簡単に言うと "地産地消" をしようという運動のことを言います。


地元の食材を食べるという近年のトレンドは、アンジェラ・パクストンの『フードマイルズ・レポート:食料の長距離輸送の危険性』という1994年の論文に端を発している。この論文は、食品が私たちの食卓に並ぶまでにどのように運ばれるかを初めて考察したものの一つだ。このレポートでは、現代の食料システムについて、当時から今日まで多くの人々を驚かせるような側面が浮き彫りにされている。

そこでは、食料システムに関する多くの懸念が議論されているが、その中心は、レポートの題からわかるように、食品が食卓にのぼるまでに移動する距離の影響である。2011年に再版された論文では、論文の主旨が的確に要約されている。「市民は、食料が意味もなく地球を横断し、貴重なエネルギーを消費し、汚染を引き起こし、不公平な貿易を導き、田舎から仕事を奪うことを望んでいない」

「同上」

食文化にとって移動距離以上に重要な問題があります。土壌浸食や公正な労働条件と賃金、化学肥料への依存度、農薬による環境汚染などです。フード・マイルズという概念は食料の輸送に焦点をあて、エネルギー消費や環境汚染を問題にします。地産地消の運動には何の問題もありませんが、そこに "距離" という数値を持ち込むことは正しいのでしょうか。それが持続可能性の指標になるのでしょうか。著者は花の例で説明しています。


一例として、バレンタインデーのためにイギリス人が恋人のために買う花の二つの原産国を比較してみよう。オランダとケニアだ。より環境に優しいのは明らかにオランダの方だと思われる。オランダからイギリスに花を運ぶには、イギリス海峡を船で渡るだけのごく短い移動しか必要ない。ケニヤからの移動は短くもなく、エネルギー効率もよくない。花は飛行機で空輸されるからだ。

ところが、1万2000本の花を育て、輸送することで排出される二酸化炭素の総量を詳細に計算すると(計算方法は後述する)、オランダの花が3万5000kg(花1本あたり3kg弱)の二酸化炭素を排出するのに対し、ケニアの花はたった 6000kg(花1本あたり0.5kg)の二酸化炭素しか排出しないことがわかる。予想と大きく異なるのはどうしてだろう?

「同上」

エネルギー効率のよい船便で短距離を運ぶ方が、エネルギー効率の悪い飛行機で長距離を運ぶより二酸化炭素の排出量が少ないはずです。にもかかわらす、環境負荷はケニヤの花の方が少ない。


ケニアの花はなぜ、必要なエネルギーがオランダの花より大幅に少ないのだろうか。なぜ、ナイロビからロンドンに空輸するために排出される大量の二酸化炭素を相殺できるのだろう? その理由は、花を育てるのに、オランダ人が温室に頼っているのに対して、ケニヤ人は日光に頼っているからである。

「同上」

食料システムのエネルギー消費の全体は、

・ 原材料の生産(肥料、種、水、農薬など)
・ 食料生産(ガソリン、灯油、電気など)
・ 輸送
・ 消費(調理、他の原材料)
・ 破棄(リサイクル、焼却、そのための輸送)

に必要なエネルギーの合算です。フード・マイルズがこの中の "輸送" に焦点を当てていますが、輸送は全体の一部なのです。


アメリカの場合、輸送で排出される二酸化炭素は食料関連全体の約4% だ。エネルギー消費と排出量の大部分は、全プロセスのうちの生産段階で発生しており、全体の 83% に達する。

「同上」

さらに、輸送を問題にするときには、エネルギー消費が輸送手段によって全く違うことに注意が必要です。輸送による二酸化炭素排出量(トン・キロメートルあたり)は、

外航コンテナ船 10~15g
鉄道 19~41g
トラック 51~91g
飛行機 673~867g

です。特に、外航コンテナ船 =船による長距離輸送は環境効率が非常に良い。たとえば、ヨーロッパからワインを日本に輸送するとき、船便(これが普通)と航空便("新酒" をウリにする一部のワイン)では二酸化炭素排出量が50倍以上違います。


ガラス瓶とペットボトル


コカコーラは従来、有名なガラス瓶のボトルかスチールの缶で販売されていましたが、1960年代末からプラスチック・ボトルの研究を始めました。この研究は当時「資源・環境プロファイル分析(REPA)」と呼ばれたもので、飲料容器を生産するためのインプット(エネルギー、原材料、水、輸送エネルギー)とアウトプット(大気排出物、輸送時の廃液、固形廃棄物、水性廃棄物)全般にわたって、包括的に必要な資源と環境への影響を検討するものでした。この研究はその後、米国の環境保護庁(EPA)に引き継がれ、EPAは次の結論に達しました。


EPAの研究の結論は、全体像を見た場合、プラスチック性飲料容器は多くの人が考えていたような悪者ではないというものだった。コカ・コーラも同じ結論に達した。研究完了直後、コカ・コーラは最初の飲料用ペットボトルを世界に向けて投入した。

最近の研究でも同様の結論が得られている。ペットボトルはガラス瓶のように再利用できないかもしれないが、ガラス瓶は生産に大量のエネルギーを必要とするので、再利用できるという長所が相殺されてしまうのだ。

このチームの研究で際だっていたのは、コカ・コーラの瓶1本のインパクトに関する包括的な全体像を解明しようとした点である。飲料容器がどのように破棄され、飲料容器の生産にどれだけのエネルギーが投入されたかに注目しただけではない。瓶を構成する原材料そのものをつくるのに、どれだけのエネルギーが投入されたかにも焦点を当てた。瓶がどのように処分されたかも調べた。瓶の原材料すべてについて、採取、輸送、生産に関わるエネルギーを解明したのである。取り残されたものは何一つなかった。

「同上」

コカコーラとEPAが行った研究は、現在 LCA(ライフサイクル・アセスメント)と呼ばれている分析手法です。LCAでは「瓶を作るガラスの単位重量を作るためにどれだけのエネルギーが必要か」というような "原単位" が調査にもとづいて設定されていて、比較的容易にライフサイクルのエネルギー使用量が計算できるようになっています。



飲料の容器については、カフェで使うコーヒーカップのことが本書にありました。つまり、

・使い捨ての紙カップ
・陶磁器のマグカップ

のどちらが環境に優しいかという比較です。本書によると、

50回以上洗浄して使うと、陶磁器のマグカップの方が環境に優しくなる。ただし洗浄には食洗機を使うのが条件である(使用水量が少ないから)。マグカップを手で洗うと、再利用できるという利点はなくなってしまう

そうです。この文脈における「環境に優しい」の定義が明確ではありませんが、二酸化炭素排出量のことだとすると、水道水には「浄水場で水道水を作る」「水道管のネットワークを維持する」「下水処理をする」の各段階でポンプをはじめとするエネルギーが必要です。これと紙カップ・マグカップを製作・破棄するエネルギーのバランスの問題を言っています。


数値データの落とし穴


我々は数値データを見せられると "わかった気" になります。また評価指標を提示されると、比較ができるため余計にわかった気になる。しかしそこに落とし穴があります。本書はその落とし穴、著者の言葉でいうと "バッド・データ" をさまざまな視点から指摘し、かつ、落とし穴にはまらないためのアドバイスを記しています。

AI が火付け役となって、"データ・サイエンス" が企業や大学で大きく取り上げられています。しかし、いくら精緻な手法でデータの分析をしても、バッド・データを分析したり、目的にはそぐわない指標だったりでは意味がありません。手法より以前の「データを扱うリテラシー」が重要です。そのことを本書は教えているのでした。




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No.325 - 高校数学で理解する誕生日のパラドックス [科学]

「高校数学で理解する・・・」というタイトルで、今まで5つの記事書きました。


ですが、いずれも現代のインターネット社会における情報通信の基礎となっている "公開鍵暗号" の数理を、高校レベルの数学だけを前提知識として述べたものでした。

今回はその「高校数学で理解する・・・」の続きですが、公開鍵暗号よりは断然軽い話題で、No.149「我々は直感に裏切られる」でとりあげた「誕生日のパラドックス」をもう一度、考察します。No.149 では「バースデー・パラドックス」と書いたもので、よく知られた話です。


誕生日のパラドックス


誕生日のパラドックスとは、


誕生日のパラドックス 
 
23人のクラスで誕生日が同じ人がいる確率は 0.5 を越える


というものです。一瞬、えっ! と思ってしまいますが、数学的には全く正しい。普通、パラドックスと言うと「絶対に不可能なことが可能なように思えてしまう」ないしは、「あり得ないことがあり得るように見えてしまう」ことを言いますが、この誕生日のパラドックスはそれとは違う「疑似パラドックス」です。つまり、

疑似パラドックス
= 直感に反するが、数学的には矛盾がなく正しい命題

です。以下、1年を365日に固定して考えることにし、

B 365 23
= 23人のクラスで誕生日が同じ人がいる確率

B__ 365 23
= 23人のクラスで誕生日が同じ人がいない確率

の記号を使うと、

B 365 23 = 1 - B__ 365 23

なので、 B__ 365 23 を計算すればよいことになります。「23人のクラスの、誕生日のすべての組み合わせ( = X )」は、365種類のものから重複を許して23個を並べる順列、いわゆる「重複順列」で、

X = 365 23

です。一方、「23人のクラスの、誕生日がすべて違う組み合わせ( = Y )」は、出席番号1番の人は 365通り、2番の人は 364通り、3番の人は363通りで、以下、出席番号23番の人は 343通り(= 365 - 23 + 1)です。これを全部掛け合わせたのが Y ですが、これは365通りのものから23個を選んで並べる順列であり、「順列・組み合わせ」の記号を用いると、

Y = P 23 365

です。XY の値を実際に計算してみると、両方とも59桁の数字になり、

X = 856516793,5315032123 6814267844,3951526893 5462236404,4189453125

Y = 422008193,0209235987 2395663074,9089572537 4976070077,6448000000

です。従って、 Y X を計算すると、

B__ 365 23 = P 23 365 365 23 = Y X = 0.49270277

となります。つまり、

B 365 23 = 1 - B__ 365 23 = 0.50729723

となって、誕生日が同じ人がいる確率は確かに 0.5 を超えます。ちなみに「誕生日が同じ人がいる確率が 0.9 を超えるクラスの人数」を探ってみると、

B 365 40 = 0.89123180 B 365 41 = 0.90315161

なので、その答は 41人ということになります。誕生日は365通りです。41人というと、その約9分の1です。9分の1の人数を集めるとほぼ確実に誕生日が同じ人がいるというのは、23人と並んでかなり意外ではないでしょうか。このあたりの状況をグラフにしたのが下図です。

バースデー・パラドックス.jpg
誕生日のパラドックス
横軸はクラスの人数で、縦軸は少なくとも1組の誕生日が同じ生徒がいる確率。23人クラスで確率は 0.5 を超える。30人クラスで 0.7 を超え、41人クラスで 0.9 を超える。


カジノ・ゲーム


誕生日のパラドックスを応用した、次のような "カジノ・ゲーム" を想定しても、"直感との乖離" が明らかになると思います。あなたはカジノで掛け金を積んでディーラーと対決します。


① ディーラーは、ジョーカーを含む53枚のトランプのカードをよくシャッフルし、裏にしてテーブルの上に広げます。

② あなた(客)はどれでもいいから1枚を選び、そのカードを表にします。

③ ディーラーは、表になった1枚のカードを覚えておくため、別のトランプの1組から同じカードを選び、テーブルの隅に表にして置きます。

④ あなたは選んだカードを、裏になっているカードの任意の場所に裏にして返します。

⑤ ①のシャッフルから④までの手順を、最初の1回を含めて合計10回繰り返します。

⑥ 10回カードを引いて同じカードを1枚も引かなかったら、あなたの勝ちになり、掛け金は2倍になって帰ってきます。1度でも同じカードを引いてしまったらその時点であなたの負けで、掛け金は没収されます。

⑦ このゲームは1回きりで終わるのではありません。あらかじめあなたが指定した回数だけ(たとえば10回)繰り返します。もちろん、ゲーム全体を通して不正は一切ありません。
 

カードゲーム.jpg

このゲームは、あなた(客)にとって有利でしょうか、それとも不利でしょうか。あなたが勝つ確率はどれぐらいでしょうか。

あなたは(おそらく)次のように考えると思います。2回目に「引いてはいけないカード」は1枚しかない。これは自分が圧倒的に有利である。また3回目も2枚だけを引かなければよい。つまり有利だ。最後の10回目を考えると「引いてはいけない」カードが9枚あるが「引いてもいいカード」は44枚もある。確かに9枚のどれかを引いてしまうこともあるだろうが、まだ随分自分が有利のはずである。もちろん、1回のチャレンジだったら負けることもあるだろうが、10回もやれば自分がかなり有利なはずだ ・・・・・・。

しかし、事実は違います。誕生日のパラドックスにより、この賭は客が不利です。客が引いた10枚の全部が違うカードである確率は、さきほどの記号を使うと、

B__ 53 10

です。この値を計算してみると、

B__ 53 10 = P 10 53 53 10 = 7075833,2701056000 17488747,0365513049 = 0.40459349

となり、客が勝つ確率は 40% しかありません。ディーラーは客の1.5倍の確率で勝つのです。この賭は引く枚数が少ないほど客が有利になるのは当然なので、枚数を変えて計算してみると、

B__ 53 9 = 0.48735125 B__ 53 8 = 0.57399147

となって、引く枚数が9枚でもまだ客が不利です。8枚になって初めて客が有利になることが分かります。誕生日のパラドックスの言葉を使うと「53枚のカードから1枚引いて戻す操作を9回繰り返すと、一致するカードを引く確率が 0.5を超える」となります。

ちなみに、「41人クラスでは同じ誕生日のペアがいる確率が 0.9 を超える」ことに相当する値、「53枚のカードから1枚引いて戻す操作を繰り返すとき、一致するカードを引く確率が 0.9 を超える回数」を計算すると、

B__ 53 15 = 0.11175468 B__ 53 16 = 0.08012600

なので、その答えは 16回となります。16という数字はカードの総数の3分の1以下ですが、それだけ引くとほぼ確実に同じカードを引いてしまうわけです。

8枚で客が有利、9枚で客が不利というこの結果は直感と合っているでしょうか。「23人のクラスには同じ誕生日の人が 0.5 以上の確率でいる」よりは意外性がありませんが、それでもまだ直感に合わない感じがします。


サイコロ・ゲーム


カードはジョーカーも含めて53枚あります。この 53 という数字をもっと減らしたらどうなるでしょうか。次のような「サイコロ・ゲーム」を考えてみます。


あらかじめ決められた回数だけサイコロを振って、同じ目が出なければあなたの勝ちとします。サイコロを振る回数が、
 ・2回
 ・3回
 ・4回
のとき、それぞれあなたは有利でしょうか。それとも不利でしょうか。

サイコロ.jpg

2回だと有利なことはすぐに分かります。4回だと、運よく3回まで同じ目が出なかったとして、4回目に出すべき目は3種であり、つまり半分の確率で3回目までとは違う目が出ます。ただし2回目、3回目で同じ目が出ることがあるので、それを勘案するとトータルとしては不利です。4回だと不利というのも直感と合っているでしょう。

では、3回ならどうか。直感では「微妙だが、有利」ではないでしょうか。実際に計算してみると

B__ 6 3 = 5 9

となり、確かに(わずかに)有利なことが分かります。



以上をまとめると、モノのパターンの数が

6 の場合(サイコロ) → 直感どおり
53 の場合(トランプ) → 直感からずれる
365 の場合(誕生日) → 直感と合わない、意外

となると思います。この理由を数学的に探っていきます。


誕生日関数を近似する


はじめの方で、

B 365 23
= 23人のクラスで誕生日が同じ人がいる確率

B__ 365 23
= 23人のクラスで誕生日が同じ人がいない確率

と定義しましたが、これを一般化して

B n k
= n 通りのパターンがあるものを k 個集めたとき、一致するペアがある確率

B__ n k
= n 通りのパターンがあるものを k 個集めたとき、一致するペアがない確率

とします。この B n k を「誕生日関数」と呼ぶことにします。変数が2個の関数です。そうすると、

B n k = 1 - B__ n k B__ n k = Pkn n k

となります。この B__ n k nk の簡便な多項式で近似することを考えます。 B__ n k を展開すると、

(展開式)
B__ n k = n n-1 n-2  ⋯ n-k+1 n k = 1- 1 n 1- 2 n  ⋯ 1- k-1 n

となります。ここで、x の絶対値が 1 よりかなり小さく 0 に近いとき、

e x 1 + x

と近似できることを利用します。 f x = e x とおくと

f 0 = 1 f' 0 = 1

なので、 1+x x=0 における e x の接線の方程式になっています。この近似の精度をいくつかの値で試算してみると、

e 0.2 1.2 = 1.01783 e 0.1 1.1 = 1.00407 e 0.05 1.05 = 1.00121 e 0.02 1.02 = 1.00019 e 0.01 1.01 = 1.00005

となり、x 0.2 程度でも誤差は 2 % 弱で、x が小さくなると誤差は急速に小さくなります。ちなみにこの近似は ex のマクローリン展開、

ex = 1 + x + x2 2! + x3 3! +  ⋯

の第2項までに相当します。マクローリン展開は高校数学では出てこないと思いますが、意味するところは明快です。この、

1 + x e x

とする近似で B__ n k を表現したものを "第1近似" と呼ぶことにし、それを B__ app1 n k で表すと、 B__ n k の展開式から、

B__ app1 n k = e - 1 n e - 2 n  ⋯ e - k-1 n = e - kk-1 2n

となります。従って、

B app1 n k = 1 - e - kk-1 2n

となって、誕生日関数の近似式ができました。


誕生日の定理


以上の計算結果を踏まえて、誕生日のパラドックスに関する命題を導きます。つまり、

n通りのパターンがあるものを何個以上集めたら、一致するペアがある確率が0.5を超えるか

という問いの答がどうなるかという命題です。この答の数を P5 とすると、誕生日の場合( n=365 P5 = 23 です。 B app1 n k を使って、

0.5 < 1 - e - P5P5-1 2n

の不等式を解くと P5 が求まりますが、 P5 を簡便な式で求めるため、 B__ n k の "第2近似" を、

B__ app2 n k = e - k2 2n

とします。つまり、 B__ app1 n k kk-1 k2 で置き換えたものです。 この "第2近似" の誤差は、

B__ 53 9 = 0.48735125 B__ app2 53 9 = 0.46572917 (誤差:4.4%)

B__ 365 23 = 0.49270277 B__ app2 365 23 = 0.48449048 (誤差:1.7%)

程度です。この第2近似を使うと、 P5 を求める不等式は、

0.5 < 1 - e - P5 2 2n

となります。これを解くと、

P5 > 2log2 n

となります。定数の計算をすると、おおよそですが、

P5 > 1.177n

となります。つまり次の「誕生日の定理」が成り立ちます。


誕生日の定理 
 
n 通りのパターンがあるものを 約 1.177n 個集めると、一致するペアが存在する確率が 50% を越える


近似計算をしているので、 1.177 のところは 1.18 でもよいでしょう。試しに、誕生日のパラドックスとカジノ・ゲームを例に誕生日の定理を使ってみると、

1.177365 = 22.49 1.17753 = 8.57

となり、それぞれ 23 と 9 で一致するペアが存在する確率が 50% を超えることがわかります。これは前にやった正確計算と合致しています。ちなみに

n通りのパターンがあるものを何個以上集めたら、一致するペアがある確率が0.9を超えるか

という問いの答えを P9 とすると

0.9 < 1 - e - P9 2 2n

となります。これを解くと、

P9 > 2 log 10 n

となり、定数の計算をすると、おおよそ、

P9 > 2.146 n

となります。 2.146 1.177 の約 1.8 倍です。従って、次の「誕生日の定理(補足)」が成り立ちます。


誕生日の定理(補足) 
 
n 通りのパターンがあるものを約 2.146n 個集めると、一致するペアが存在する確率が 90% を越える。

「一致するペアが存在する確率が 50% を越える個数」の約1.8倍の個数を集めると、確率は 90% を超えて、ほぼ確実に一致するペアが存在する。


誕生日のパラドックスとカジノ・ゲームで計算してみると、

2.146 365 = 40.99 2.146 53 = 15.62

となり、それぞれ 41 と 16 で一致するペアが存在する確率が 90% を超えることがわかります。これは前にやった正確計算と合致しています。



このように、n通りのパターンがあるものを何個集めたら一致するペアがある確率が一定数を超えるか、という質問の答えは、n に比例するのではなく nの平方根に比例します。n が大きくなっても nの平方根はさほど大きくならない。このあたりに誕生日のパラドックスの原因がありそうです。


5色のサイコロ


誕生日よりもっとパターンの多い例で考えてみます。


5つのサイコロがあり、それぞれ白、赤、青、緑、黒に色分けされています。

この5色のサイコロを同時に振ったとき、出る目のパターンは、 65 = 7776 通りです。

では、5色のサイコロを同時に振ることを何回繰り返したら、全く同じパターンが現れるでしょうか。


5色のサイコロ.jpg
白、赤、青、緑、黒の5つのサイコロを同時に振ると、出る目のパターンは 7776 通りになる。

答を誕生日の定理を使って計算してみると

1.177 7776 = 103.79 2.146 7776 = 189.24

となります。つまり、

・ 5色のサイコロを104回振ると、同じパターンが現れる確率が50%を超える。

・ 5色のサイコロを190回振ると、その確率は90%を超え、ほぼ確実に同じパターンが現れる。

というわけです。出る目のパターンは 7776通りもあります。それでも、100回そこそこで同じパターンが現れる確率が50%を越すことが分かります。なお厳密計算をすると、確率 50% と 90% を超えるのはそれぞれ 105回と 189回です。


誕生日のパラドックス


5色のサイコロのように、パターンの数が多いほど同一パターンが現れるに必要な個数は、パターンの数に比べて小さくなります。しかし "数が多いほど" と言っても、その多さが直感的に理解できないとパラドックスとは感じられないはずです。

その意味で、誕生日のパターンが 365 というのは、そこそこ多い数で、しかも誰もがその多さの程度を直感的に理解できる数です。そこに誕生日のパラドックスの意味があるのでした。




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No.323 - 食物アレルギーの意外な予防法 [科学]

過去に何回か書いた免疫関連疾患の話の続きです。まず以前の記事の振り返りですが、No.119/120「不在という伝染病」No.225「手を洗いすぎてはいけない」をざっくりと一言で要約すると、

人間は微生物が豊富な環境でこそ健康的な生活を送れる

となるでしょう。健康の反対、不健康の代表的なものが免疫関連疾患(自己免疫病とアレルギー)でした。そして、現代社会においては「微生物が豊富な環境」が無くなってきたからこそ(ますます無くなりつつあるので)"不健康" が増えるというのが大まかな要約です。次に、微生物の中でも腸内細菌に注目したのが No.307/308「人体の9割は細菌」でした。一言で要約すると、

腸内細菌の変調が21世紀病を引き起こす要因になる

となります。21世紀病とは、19世紀末から20世紀にかけて増え始め、20世紀後半に激増し、21世紀にはすっかり定着してしまったやまいです。免疫関連疾患、(BMIが30超のような)肥満、自閉症がその代表的なものでした。

以上は最新の生理学・医学の知識をベースにした本を紹介したものでしたが、もちろん展開されていた論の中には仮説もあり、今後検証が必要な事項もあります。



ところで、これらの共通事項は「免疫関連疾患」です。つまり人間に備わっている免疫の機構が関連している疾患です。免疫とは、

自己と非自己を区別し、非自己を排除したり、特定の非自己と共存する(ないしは特定の非自己を自己に取り込む)ためのしくみ

です(No.69/70「自己と非自己の科学」No.122「自己と非自己の科学:自然免疫」)。これが変調をきたすと、免疫系が自己を非自己と見なして攻撃したり(=自己免疫病)、排除しなくてもよいはずの非自己を排除しようとして炎症を起こしたり(=アレルギー)と、さまざまな症状が現れることになります。

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日経サイエンス
2020年4月号
今回はその中から、アレルギーに関する最近の知見を紹介します。アレルギーを引き起こす "非自己"(=アレルゲン、抗原)にもいろいろあって、特定の植物の花粉(=花粉症)だったり、特定の化学物質(=シックハウス症候群など)、その他、ホコリやダニ、さらには紫外線だったりしますが、以降はよくみられる「食物アレルギー」の話です。食物アレルギーも特定の食物が引き起こします。

まず、「日経サイエンス」の2020年4月号に掲載された「食物アレルギー 意外な予防法」と題する解説記事を紹介します。著者は C.ウォリスというアメリカのサイエンス・ライターで、オリジナルの記事は「If You Give a Baby a Peanut」(Scientific American 誌、2019.8)です。直訳すると「赤ちゃんにピーナッツを与えるとしたら」です。


米国小児科学会の方針転換


この解説ではまず、米国小児科学会が2019年4月発表した方針転換が、この12年間の経緯とともに述べられています。


食生活アドバイスほど気紛れでコロコロ変わるものはあまりない。権威ある医学機関による助言ですら、変わることがある。

12年前、我が子がピーナッツや鶏卵などの一般的な食物アレルギーを発症するのを心配している親に対する標準的な助言は、子供が2~3歳になるまでそれらの食物を徹底的に避けることだった。だが、この方法が役立たないことが示されたため、米国小児学会(AAP)は2008年に方針を取り下げた。

そして2019年4月の報告書で、少なくともピーナッツに関しては助言を完全に逆転させた。ピーナッツアレルギーのリスクが高い子供(ひどい湿疹や鶏卵アレルギーがある子)には、4~6ヶ月齢の段階から "幼児用" のピーナッツ食品を計画的に食べさせることを推奨した。中度以下の湿疹がある子供には6ヶ月齢くらいから与える。

日経サイエンス(2020年4月号)

米国小児学会は2000年に幼児の食事からピーナッツや鶏卵を除去することを推奨しました。しかしこれはアレルギーを増やすことになりました。小児アレルギーの有病率が1997年の0.6%から2008年には2.1%と、3倍以上に高まったのです。2008年の推奨撤回はこのような状況も踏まえています。

そして「ピーナッツアレルギーのリスクが高い子供には、4~6ヶ月齢の段階から "幼児用" のピーナッツ食品を計画的に食べさせることを推奨」というのが、2019年の米国小児科学会の(以前と比べると180°の)方針転換ですが、これは以下の引用のように、大規模な試験の結果を反映したものです。


これらは気紛れな変更ではない。国レベルの専門家委員会の助言と合致し、大規模なランダム化試験の結果を反映したものだ。

2015年に発表された LEAP という試験の結果は、4~11ヶ月齢の高リスク幼児にピーナッツを食べさせると、そうした早期曝露を経験しなかった幼児に比べ、5歳時点でピーナッツアレルギーとなる割合が81%少なくなることを見いだした。

また2016年に発表された EAT という別の調査研究では、母乳で育てられている健康な幼児にピーナッツタンパク質と鶏卵、4種類のアレルギー性食物を 3~6ヶ月齢から与え始める処置を注意深く続けると、5歳時点でも食物アレルギーの有病率が対照群に比べ67%低くなった。効果はピーナッツで最も顕著で、5歳時点でもピーナッツアレルギーの有病率がゼロになった(対照群では2.5%)。鶏卵アレルギーも低下したが、米国小児学会としては鶏卵に関するさらなるデータの蓄積を待っているところだと、マウントサイナイ医科大学の小児科学・アレルギー・免疫学の教授で昨年4月の報告書の執筆に加わったシチェラー(Scott Sicherer)はいう。「十分なエビデンスなしに何かを推奨することはしたくない。」

日経サイエンス(2020年4月号)

現時点おいて、米国小児学会はピーナツに関してだけ、アレルギーのリスクのある幼児に計画的に食べさせることを推奨していますが、他の食品についても(研究待ちですが)同様であることが推測できます。

人はどのようにして、またなぜ食物アレルギーになるのか、さらに近年なぜ患者が増えているのかは、大きな研究テーマです。これに関して、二重抗原曝露仮説が有力視されています。


アレルギーの発症とそれに湿疹が果たす役割に関し、「二重抗原曝露仮説」が有力視されている。LEAP と EAT の両方で研究論文の上席著者となったロンドン大学キングスカレッジ教授のラック(Gideon Lack)が提唱したもので、食物を経口摂取して腸の免疫系が抗原にさらされることで食物に対する免疫寛容が発達すると考える。幼児が湿疹で傷ついた皮膚から入ってきた食品分子にさらされた場合には、逆にアレルギー反応が煽られる。

マウスを使った研究はこの説を強く支持しているが、人間についてはまだ状況証拠しかない。ラックは、ピーナッツやピーナッツバターがよく食されている国々でピーナッツアレルギーが多く、マスタードアレルギーはマスタードが好きなフランスに、そばアレルギーは蕎麦好きな日本に多いと指摘する。「親がこれらの食物を食べた後に赤ちゃんに触れたりキスしたりして皮膚を通してアレルゲン分子が入り込むのだろう」とみる。

衛生を重視する現代の生活様式が関係している可能性もあるという。「乳児のお風呂や幼児のシャワーは毎日で、1日に複数回ということもある。これでは皮膚バリアーが破壊されかねない」。市販の皮膚保護クリームを塗ると食物アレルギーを防げるかどうかを調べる研究が進行中だ。

日経サイエンス(2020年4月号)

さらに記事では、食物アレルギーが特定の食品で起こる理由が推定されています。


食物アレルギーの90%は8つの食品による。牛乳、鶏卵、魚、貝、木の実、ピーナツ、小麦、大豆だ。これらの食品は消化や加熱、酸性度の変化に対して異様なほど安定したタンパク質を含んでおり、免疫応答を引き起こしやすいからだとする見方がある。

日経サイエンス(2020年4月号)


免疫寛容 ─── 「免疫の意味論」から


米国小児学会の2019年4月の方針転換のキーワードは「免疫寛容」です。つまり、経口摂取された食物に対しては免疫応答(=免疫系が抗原、この場合は「抗原となる食物」を排除しようとすること)が起こらずに "寛容" になる。このことは、マウスによる実験ではかなり以前から分かっていました。この「免疫寛容」を分かりやすく説明した記述を引用します。No.69/70「自己と非自己の科学」で紹介した、故・多田富雄先生の著書「免疫の意味論」からです。


あれだけの雑食をしていながら、食物中に含まれる抗原に対する抗体は、一般にはほとんど人間の血液中を流れていない。一部の人間は食品に対するアレルギーを起こすが、それはごく限られた食品に対してである。

それでは食品中のタンパク質などは完全に消化されてしまって、抗原の形では体の内部には入ってゆかないのだろうか。そんなことはない。たとえば牛乳を1リットル飲むと、抗体と反応できる程度の大きさのウシのアルブミン蛋白が、かなりの濃度で血液の中に入るのである。もし経口的でなく、注射でもしたら、間違いなくアナフィラキーショックを起こす量である。

それでは経口的に入ってきた抗原は何をしているのであろうか。いまマウスに、ニワトリの卵白からとったアルブミンを1000分の1ミリグラムくらい適当な条件で注射すると、アレルギーを起こす IgE 抗体が生産される。ところが、前もって卵白のアルブミンを経口的に飲ませておくと、抗体が作られなくなってしまうのである。たかだか数ミリグラムのアルブミンを前もって飲ませるだけで、同じアルブミンに対して体は免疫反応を起こさなくなる。マウスにとっては異物であったニワトリの卵白を、この卵白を経口的に摂取したマウスは異物と認めなくなるのである。こういうふうに、特定の物質に対して特異的に免疫反応を起こさなくなる現象を、免疫学的に「寛容トレランス」になったという。

消化管は、常に流れてくる外界の異物を排除するための拒絶反応を起こすのではなくて、それに「寛容トレランス」になるための積極的な働きかけをしているらしい。おびただしい種類の外界の異物が消化管という生命のチューブを流れ落ちるのを、拒否するのではなく内部に受け入れ、それと共存するための仕組み、それがこの「寛容」である。

「寛容」がどのようにして成立するかは、免疫学の最大の問題のひとつである。現在では、消化管を経由した抗原が、消化管付属のリンパ組織内で、免疫を制御する T細胞(サプレッサーT細胞)を刺激してこの細胞を増やすためであろうと考えられている。「寛容トレランス」になった動物の T細胞を、他の動物に注射してやると、注射されたこの動物も「寛容」になってしまう。こういう「寛容」の伝染は、T細胞のよる抑制によってのみ説明できる。経口的にアレルゲンやアレルゲンや自己抗体を食べさせて、アレルギーや自己免疫を治療しようという試みも、すでに始まっている。

多田富雄「免疫の意味論」
青土社(1993)

この引用で「サプレッサー T細胞」という言葉が出てきます。"免疫を制御する(=免疫応答を抑制する)T細胞" の意味ですが、この本が書かれた当時(1993年)では "そういうT細胞があるはずだ" と推定されているだけでした。なぜ「あるはず」なのかと言うと、まさに引用の最後で多田先生が断言されているように、T細胞による免疫寛容の伝染という現象は T細胞に免疫抑制効果があることによってのみ説明できるからです。

そして、この本が出版されてから2年後の1995年、大阪大学の坂口志文しもん教授が「制御性 T細胞」を発見し、"免疫反応を抑制する役割を持った T細胞" があることが実証されました。従って、引用にある「サプレッサー T細胞」を「制御性 T細胞」と読み替えれば、多田先生の文章は現代でもそのまま通用します。

つまり、免疫寛容の原理は1993年当時から免疫学の一般的な知識であったわけです。そもそも、マウスが経口摂取した食物に寛容になるという実験が最初に行われたのは1970年代前半だと言います。1993年当時はそれは定説だった。ただし当時は「寛容がどのようにして成立するかは、免疫学の最大の問題のひとつである」と引用にある通りでした。現代ではその仕組みは詳しく解明されています。

まとめると、免疫寛容の原理が定説化してから(おそらく1980年代)30年以上後の2019年に、米国小児学会は方針を転換をし、少なくともピーナッツに関しては高リスクの幼児に経口摂取を勧めることになったわけです。大変に長い時間がかかるものですが、これは動物実験(マウス)と人間は違うということでしょう。人間に対して免疫寛容を誘導することが副作用を生まないのか、誘導するとしたらどういう手順を踏むのがよいのか、その効果はどれほどか、それらを確かめるには慎重な検討が必要であり、時間がかかるということだと思います。日経サイエンスに大規模実験のことが書かれていましたが、ここに至るまでには数人規模の実験の繰り返しがあったのだろうと思います。


経皮感作仮説と皮膚のバリアー


日経サイエンスの記事にあったように、ロンドン大学のラック教授が提唱して有力視されている「二重抗原曝露仮説」とは、

◆ 食物を経口摂取して腸の免疫系が抗原にさらされることで、食物に対する免疫寛容が発達する

◆ 皮膚から入ってきた食品分子にさらされた場合には、逆にアレルギー反応が煽られる

でした。記事では「マウスを使った実験ではこの説を強く支持しているが、人間については状況証拠の段階」とありました。ただ、米国小児学会の方針転換は「二重抗原曝露仮説」の前半の部分 = 免疫寛容についの説が正しいと認めたということでしょう。

となると問題は「二重抗原曝露仮説」の後半の部分で、これは「経皮感作仮説」と呼ばれています。つまり、アレルゲンとなる食物のタンパク質分子が皮膚から直接体内に入り込むことでアレルギーが発症するという説です。これをマウスでなく人間について証明するのはハードルが高いでしょう。「アレルギーを発症させる」実験はできないからです。正しいとしても、アレルギーの原因はほかにもあります。たとえば腸内細菌の変調で制御性 T細胞による免疫抑制機能が低下するなどです(No.307)。また経皮感作と他の要因の複合的なものであることも十分考えられます。

とはいえ、アレルゲンとなる食物の経皮感作を無くす生活スタイルが重要なことは想像できます。ここで気になるのは、ラック教授が指摘している「衛生を重視する現代の生活様式が関係している可能性」です。ラック教授は、

乳児のお風呂や幼児のシャワーは毎日で、1日に複数回ということもある。これでは皮膚バリアーが破壊されかねない

と述べているのでした。ここでのキーワードは「皮膚バリアー」です。皮膚バリアーとは何か、この分かりやすい説明を、No.225「手を洗いすぎてはいけない」で引用した故・藤田紘一郎博士の著作から引用します(藤田博士は2021年5月に逝去されました)。


人間の皮膚には、表皮ブドウ球菌をはじめとする約10種類以上の「皮膚常在菌ひふじょうざいきん」という細菌がいて、私たちの皮膚を守ってくれています。

彼らは私たちの健康において、非常に重要な役割を担っています。皮膚常在菌は皮膚から出る脂肪をエサにして、脂肪酸の皮脂膜ひしまくをつくり出してくれているのです。この皮脂膜は、弱酸性です。病原体のほとんどは、酸性の場所で生きることができません。つまり、常在菌がつくり出す弱酸性の脂肪酸は、病原体が付着するのを防ぐバリアとして働いているのです。

皮膚を覆う弱酸性のバリアは、感染症から体を守る第一のとりでです。これがしっかり築かれていれば、病原体が手指に付着することを、それだけで防げるのです。

では石けんで手洗いをするとどうなるのでしょうか。

石けんを使うと、一回の手洗いで、皮膚常在菌の約90パーセントが洗い流されると報告されています。ただし、1割ほどの常在菌が残っていれば、彼らが再び増殖し、12時間後にはもとの状態に戻ることもわかっています。したがって、1日1回、お風呂に入って体をふつうに洗う、という程度であれば、弱酸性のバリアを失わずにすみます。

しかし、昔ながらの固形石けんでさえ、常在菌の約9割を洗い流してしまう力があるのです。薬用石けんやハンドソープ、ボディソープなどに宣伝されているほどの殺菌効果が本当にあるのだとしたら、そうしたもので前述の手洗い法のように(引用注:感染症予防で推奨されている12ステップの手洗い。最後はアルコール消毒)細部まで2回も洗い、アルコール消毒などしてしまえば、さらに多くの常在菌が排除されることになります。

しかもそれを数時間ごとに行ってしまうと、どうなるかわかりますか。わずかながら残されている常在菌が復活する時間さえ奪ってしまうことになるのです。

皮膚常在菌の数がいちじるしく減ってしまうと、皮膚は中性になります。脂肪酸のバリアがつくれないからです。脂肪酸のバリアがない皮膚は、要塞ようさいを失ったお城のようなものです。外敵がわんさと襲ってきても、守るすべを失えば、城は炎上します。

脂肪酸を失って中性になった皮膚には、外からの病原体が手に付着しやすくなります。こうなると、手指から口に病原体が運ばれやすくなります。

洗いすぎると皮膚は感染症を引き起こしやすい、「キタナイ」状態になってしまう、というのはこういうことだったのです。

藤田紘一郎
「手を洗いすぎてはいけない」
(光文社新書 2017)

藤田先生の著作は主として病原菌との関係についてなので「皮膚の皮脂膜が感染症を防ぐ」という主旨ですが、重要なことは脂肪酸の皮脂膜が皮膚のバリアの第1のものであることです。それは第2のバリアである「角質」と密に関係しています。


私たちの皮膚は、新旧の細胞がたえず入れ替わっていることで、正常な状態を保っています。新しい細胞は皮膚の最奥で生まれ、古い細胞はどんどん押し上げられ、最後はあかとなって自然とはがれ落ちるようにできています。その垢にある一歩手前の細胞が角質です。

角質は細胞としては死んでいますが、決して無用のものではありません。角質細胞は密に手を組んで幾重のも層をつくり、ほこりやダニなどのなどアレルギーを起こす原因物質(アレルゲン)や、病原体などが皮膚の深部へ入り込むのを防いでくれているのです。つまり、皮膚の丈夫さは、角質層がきちんと形成されていることも大事なポイントです。

その角質層は脂肪酸の皮脂膜で覆われていることで正常な状態を保つことができます。角質層がバラバラにならないよう、皮脂膜が細胞同士をつなぎとめているからです。

ところが皮膚を洗いすぎると皮脂膜がはがれ落ちます。すると、角質層にすき間が生じ、皮膚を組織している細胞がバラバラになっていきます。こうなると、皮膚に潤いを与えている水分の多くが蒸発して、カサカサしてきます。この状態が乾燥肌です。

そんな状態の皮膚を、さらに石けんなどを使って洗えば、乾燥肌が進行して炎症を起こすようになります。こうなると、肌がかゆくてしたなくなります。この状態を「乾燥性皮膚炎」と呼びます。また、ほこりやダニなどのアレルゲンが皮膚内に入り込み、強いかゆみや肌荒れを起こす「アトピー性皮膚炎」の原因にもなります

皮膚常在菌のつくっる皮脂膜は、天然の保湿成分です。皮膚にとって、皮脂膜ほど肌によい "保湿剤" はありません。こんなに大事なことも知らず、多くの人は、常在菌の築いてくれた皮脂膜を手洗いで落とし、人工的に作られた高価な保湿剤を使っているのです。

藤田紘一郎
「手を洗いすぎてはいけない」

皮膚のバリアが崩れると「ほこりやダニなどのアレルゲンが皮膚内に入り込みアトピー性皮膚炎の原因になる」との説明がありますが、同じ原理で

皮膚のバリアが崩れると、食物アレルギーを起こすタンパク質(=アレルゲン)が皮膚内に入り込み、それがアレルギーを引き起こす

というのが、食物アレルギーの経皮感作仮説なのです。


皮膚のバリアを守る


日経サイエンスの記事で、食物アレルギーを起こすタンパク質は特定のものであり、

食物アレルギーの90%は、牛乳、鶏卵、魚、貝、木の実、ピーナツ、小麦、大豆の8つの食品による

としていました。考えてみると、これは非常に不思議です。というのも、これらは太古の昔から人間になじみのある食料だからです。たとえば小麦は1万年以上前に農耕の起源となった作物です。またそれ以前より木の実(特に加熱調理せずに食べられるクルミ、カシューナッツ、アーモンド、ピスタチオなどのナッツ類)は人類の食料源だった。日本の縄文時代では魚が重要な食料源でした。牛乳は牧畜が始まって以降ですが、それでも8000年とか、そういった歴史があります。世界で地域差はあるでしょうが、どれも人類の重要な食料源となってきた食物です。つまり昔から人間の生活環境とともにあったものです。

なぜそれが原因物質となって、20世紀後半、特に近年に食物アレルギーが増えてきたのか。それはやはり生活スタイルの変化に問題があるのでしょう。その変化の一つが、ラック教授や藤田博士が懸念する(過度の)清潔志向です。それは、病原菌やアレルゲンから人体を守ってくれている「皮膚バリア」を破壊しかねない。

「二重抗原曝露仮説」は、進化の過程で得られたヒトの体の仕組みの巧妙さを表すと同時に、その進化の大前提となったきた生活環境を人為的に変化させると、体の仕組みとの齟齬をきたすことを示しているのでした。




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No.320 - 健康維持には運動が必須 [科学]

科学雑誌「日経サイエンス」の記事を紹介した、No.272「ヒトは運動をするように進化した」と、No.286「運動が記憶力を改善する」の続きで、"ヒトが健康を維持するためには運動が必須" というテーマです。

ふつう "運動" というと、ジムに通ってエクササイズをしたり、筋トレをしたり、またランニングやサイクリング、ウォーキングなどの「意識的に体や筋肉を動かすこと」を思い浮かべます。しかしここで言う運動とは、徒歩通勤も、都会の営業担当の人が電車と徒歩で顧客回りをするのも運動です。もちろん農業や建設労働など、かなりの "運動" が必要な職業もあります。運動というより「身体活動のすべて」と言った方がよいと思います。

まず No.272No.286 の復習をしますと、No.272「ヒトは運動をするように進化した」は進化人類学の視点からの解説で、狩猟・採集の生活を送ってきたヒトは「運動に適合した体に進化してきた」という話でした。これは大型類人猿と比較するとよく分かります。要約すると次の通りです。

◆ 大型類人猿は日中の8~10時間を休憩とグルーミング、食事にあて、一晩に9~10時間の睡眠をとる。チンパンジーとボノボは1日に約3km歩くが、ゴリラとオランウータンの1日あたりの移動距離はもっと少ない。

◆ つまり、大型類人猿は習慣的に身体活動度が低く、人間の基準からすると「怠け者」である。

◆ それにもかかわらず大型類人猿は、たとえ飼育下であっても驚くほど健康である。糖尿病になることはまれで、加齢によって血圧が上がることもない。動脈硬化もなく、結果として心臓病にはならず、冠動脈閉塞による心臓発作も起こさない。肥満とは無縁で、飼育下であってもゴリラとオランウータンの平均体脂肪率は14~23%、チンパンジーに至っては10%未満で、オリンピック選手並みである。

人間がゴリラやオランウータン、チンパンジーなみの生活を続けたとしたら、いわゆる生活習慣病になります。それは、健康に悪いとされている生活スタイルの典型です。人間の仲間である霊長類ヒト科(ヒト、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータン)の中では、ヒトだけが特別なのです。

ヒトは200万年にわたる "狩猟採集" というライフ・スタイルで生き残り、高い身体活動レベル(現代人の基準では、歩行換算で1日1万歩程度。もちろん個人差はある)に適合するように進化しました。逆に言うと、身体活動によって健康が維持できる体になったわけです。具体的には、運動は健康維持に次のような好影響があることが分かってきました。

◆ 運動は神経新生と脳の成長を促す神経栄養分子の放出を引き起こす。また、記憶力を改善し、加齢による認知機能の低下を防ぐ

◆ 持久力を要する運動は、心血管疾患の重大なリスク因子である慢性炎症を抑える。また、ステロイドホルモンであるテストステロンとエストロゲン、プロゲステロンの安静時レベルを下げ、これが要因となって生殖器系のがんの発生率を下げる

◆ 運動は2型糖尿病の直接原因であるインスリン抵抗性を低下させることが知られており、ブドウ糖を脂肪に変換する代わりに筋グリコーゲンとして貯蔵するのを助ける。

◆ 定期的な運動は免疫系の機能を改善して感染を防ぐ効果があり、この効果は年齢とともに高まる。

最初の項目に「記憶力を改善し、加齢による認知機能の低下を防ぐ」とありますが、この運動の脳に対する好影響を解説したのが No.286「運動が記憶力を改善する」でした。我々は「筋肉に負荷をかけると筋肉が増強される」のは当然と考えます。この類推で言うと「脳に負荷をかけると脳が増強される」はずです。私たちは、歩いたり走ったりするのは体が自動的に動いているように考えがちです。しかしそれが誤解です。むしろ、運動は身体的活動であるのと同じくらい認知的活動なのです。マウスによる実験で、運動によって脳の海馬(=記憶の司令塔)の神経細胞が増大することが分かりました。では、人間ではどうなのか。No.286 で紹介したのは次の実験例でした。

◆ イリノイ大学での試験では、12ヶ月の有酸素運動が高齢者のBDNF(脳由来神経栄養因子)のレベルの上昇と海馬の拡大、記憶力の改善につながった。

◆ 英国の中高年7000人以上を対象とした研究では、適度あるいは激しい身体活動に従事する時間が長い人の海馬が大きいことがわかった。運動が海馬とその認知機能にとって有益であることは明らかである。

BDNF(Brain-Derived Neurotropic Factor。脳由来神経栄養因子)は神経細胞の成長を促すタンパク質で、学習・記憶・判断などの高度な脳機能を担当する部位に作用します。神経栄養因子は何種類かありますが、その中では最も強力なものです。BDNFはは脳以外にも、網膜、腎臓、唾液腺、前立腺、歯の関連細胞などでも作られ、それらの機能の回復や向上を促すことも知られています。



「日経サイエンス」2014年7月号.jpg
日経サイエンス
2014年7月号
以上、要約を紹介した No.272「ヒトは運動をするように進化した」と、No.286「運動が記憶力を改善する」は、科学雑誌「日経サイエンス」の 2019年4月号 と 2020年5月号に掲載された論文の紹介でした。

日経サイエンスにはこの他にも健康維持と運動の関係を示した論文があります。今回はそれを紹介します。2014年7月号に掲載された「運動で病気が防げるわけ」と題するものです(原題:Why Exercise Works Magic ─ Scientific American 誌)。著者は、チャーチ教授(ルイジアナ州立大学)とハーバード大学のマンソン教授とバサック研究員です。以下、主な内容を紹介します。


運動で病気が防げる


まずこの論文では冒頭に次のように書かれています。


運動すべきであることは誰もが知っている。だが、健康を維持・増進するためにできる最も重要な取り組みが肉体的運動であることを認識している人はほとんどいない

「運動で病気が防げるわけ」
T. チャーチ(ルイジアナ州立大学教授)
J. マンソン(ハーバード大学教授)
S. バサック(ハーバード大学研究員)
「日経サイエンス」2014年7月号

健康維持のために重要ことはいろいろあります。バランスがとれた食事がそうだし(特に野菜の摂取)、適度な睡眠をとる規則正しい生活もそうでしょう。精神面の健康ではストレスをため込まない工夫も重要です。しかし健康維持のために最重要なのが運動である ・・・・・・。本論文ではこの認識にたって、2010年代に新たに判明した運動の効能について書かれています。まず、運動の脳に対する影響ですが、本論文では次のように説明されています。


運動によって脳内に生じる化学的な変化が調べられてきた。集中力や思考力、判断力を高めるような変化だ。60代と70代の被験者120人を対象にした科学的に厳密な実験(ランダム化比較試験)の結果、海馬という脳領域のサイズが運動によって大きくなることが2011年に示された。

この研究チームは海馬のうち運動による影響を受けた部分が、人に見近な環境を記憶させる領域であることに注目した。また、その領域は新しい神経細胞が生まれる数少ない脳領域の1つでもある(少なくともラットでは)。これらの新生ニューロンは似た出来事や物体を区別するのを助けていると考えられている。

さらに動物実験よって、新生ニューロンの成長を引き起こす脳由来神経栄養因子(BDNF)という化学物質の濃度が運動によって高まることが示された。

日経サイエンス(2014年7月号)

運動が脳や記憶に与える影響の詳しい解説は、No.286「運動が記憶力を改善する」にある通りです。これは2011年頃から明らかになったようで、人間相手の研究には MRI の発展と普及が大いに貢献しているのでしょう。

以降は、運動が体に与える変化として「運動とコレステロール」「運動とインスリン」の部分を紹介します。


運動とコレステロール


コレステロールは細胞膜の構成物質であり、細胞内でのさまざまな化学反応にもかかわっていて、生命維持にとって必須の物質(脂質の一種)です。体内(主に肝臓)で作られたコレステロールは血液で輸送されますが、水に溶けにくいため、親水性であるリポタンパク質(Lipoprotein)との複合体を構成して血液中を運ばれます。リポタンパク質は、血液中ではコレステロールを供給する役割と、回収する役割の両方を担います。

リポタンパク質には、低密度の LDL(Low Density Lipoprotein)と、高密度の HDL(High Density Lipoprotein)があります。LDL は肝臓で生成されたコレステロールを体内に供給する役割を担い、HDL は逆にコレステロールを回収します。このうち、LDL は酸化されやすく、血管内に動脈硬化巣としてたまりやすい性質があります。このため「LDL・コレステロール複合体」を俗に「悪玉コレステロール」、「HDL・コレステロール複合体」を「善玉コレステロール」と呼んでいます。もちろん「悪玉」と言われる LDL も人体にとって必須の存在です。要は LDL と HDL が基準値内にバランス良く保たれていることが重要です。

日常的に運動をしていると、①血圧が下がる ②HDLコレステロールの血中濃度が上がる、③LDLコレステロールの血中濃度が下がる、という3つの作用によって心血管疾患のリスクが下がる、というのが従来からの理解でした。しかし近年になって重要なことが分かってきました。日経サイエンスから引用します。


最近、運動がLDLに及ぼす影響で重要なのは血中濃度の低下よりも、この分子の性質の変化であることが示された。

厳密には LDL はコレステロールと同義ではない。LDL はコレステロールという荷物を乗せて血流中を運行する宅配便トラックのようなものだ(脂肪でできたコレステロールは水を主成分とする血液には溶けないため、水に溶ける物質、この場合は LDL に包まれて運ばれる)。また宅配便がミニバンや大型トラックで配達されるように、LDL のサイズも様々だ。

過去数年で、小さなLDL分子が特に危険であることを示す研究結果が次々と発表されている。例えば小さなLDL分子は電子を失いやすく、そうなると血管内のあちこちを跳ね回って他の分子や細胞を傷つける(おんぼろのライトバンをイカれたドライバーが運転しているような状況だ)。これに対し大きなLDL分子はずっと安定しており、何物にもぶつかることなく血液中をスムーズに流れていく(整備された大型トラックを熟練ドライバーが運転している状況)。

現在までに、運動によって危険な小型 LDL 分子が減る一方、安全にな大型 LDL 分子が増えることがわかっている。リポタンパク質リパーゼという酵素の働きが脂肪組織と筋組織で活発になり、LDL 分子の比率を変えるようだ。だから、血中コレステロール値が同じ人でも運動量が違えば、心臓病のリスクは異なる

カウチポテト族の血液はおそらく小さなLDL分子が多く、大きな分子はあったとしてもわずかで、活動的な人の血液は大きな分子が大半だろう。よってコレステロール値が同じであっても。カウチポテト族は運動量の多い人に比べて心臓発作を起こすリスクが数倍高いのだと考えられる。

日経サイエンス(2014年7月号)

我々は健康診断の結果の数値が基準内にあるかを見て、安心したりドキッとしたりしますが、こと LDL コレステロールに関しては、単に数値で示された以上の健康ファクター(またはその逆の健康リスク)があることがわかります。


運動と血糖値


上に書いた、No.272「ヒトは運動をするように進化した」の要約の中に、

運動は2型糖尿病の直接原因であるインスリン抵抗性を低下させることが知られている。

との主旨がありました。「日経サイエンス」2014年7月号ではこの理由が詳しく説明されています。以下の通りです。


定期的な運動は、(コレステロール以外の)もう1つの重要な血液成分であるブドウ糖にも好影響を及ぼす。寝ている時も起きているときも、肝臓と膵臓、骨格筋(首や胴、手足を動かす筋肉)は一致協力して、体の各部が必要とするブドウ糖を確実に得られるように働いている。運動すると当然ながら骨格筋への負荷が増え、エネルギー源としてより多くのブドウ糖を必要とするようになる。長期的には、運動によって骨格筋の筋繊維がブドウ糖をより効率的に利用できるようになり、筋力が増す。

肝臓は燃料の追加要求に即応してブドウ糖分子を血液に送り込み、膵臓はインスリンを放出する。インスリンはホルモンの一種で、筋肉細胞に対して血液からどんどんブドウ糖を取り込むように指令する。

日経サイエンス(2014年7月号)

血糖値は 70~140(mg/100cc)程度に保たれています(数値は論文のもの)。脳の主要なエネルギーはブドウ糖であるため、血糖値が70以下になると意識障害が始まり、さらには昏睡から死に至りかねません。また血糖値が多すぎると糖毒性によって血管や神経が損傷し、糖尿病になります(このあたりの詳細は No.226「血糖と糖質制限」参照)。なお、140以下というのは食事後2時間の値であり、空腹時では126以下です。

この血糖値をコントロールする上で、運動の役割が重要なのです。そのところを引用します。


運動が日常的な習慣になるにつれ筋肉はインスリンに敏感に反応するようになる。この結果、膵臓が懸命に働かなくても血糖値を抑えられるようになる。かつて高濃度のインスリンで得ていたのと同じ効果を低濃度のインスリンで得られるようになるのだ。

これは特に2型糖尿病の患者にとっては大きな助けになる。2型糖尿病の場合、主に体がインスリンに反応しにくい(インスリン抵抗性を示す)ために、血糖値を正常範囲に保てなくなっているからだ。

またインスリンは新しい細胞の増殖を促す作用もある。このためインスリン値が高いと、特に乳がんと大腸がんのリスクが高まる。

日経サイエンス(2014年7月号)

「運動は、血液中のブドウ糖(血糖)を筋肉にすみやかに取り込む訓練をしているようなもの」なのですね。従って体はインスリンに対する反応が良くなり(=インスリン抵抗性が低下し)、糖尿病のリスクが少なくなる。



健康に過ごすためには運動が重要ということは、ずいぶん昔から言われてきました。しかし2000年代以降、なぜ運動が必要なのか、その生理学上のメカニズムが次々と明らかにされてきました。「運動が健康維持に必須の理由」を人体の成り立ちに沿って理解することは、運動を続けてそれを習慣とする上での大きなモチベーションになると思います。




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No.317 - プラセボ効果とノセボ効果 [科学]

No.302「ワクチン接種の推奨中止で4000人が死亡」に続いて、ワクチンや治療薬の副反応・副作用の話を続けます。No.302 で書いたことを要約すると以下でした。

◆ ヒトパピローマウイルス(HPV, Human papilloma virus。papilloma = 乳頭腫)が引き起こす子宮頸癌で、世界で毎年およそ 27万人が死亡していた。

◆ HPV感染を予防する「HPVワクチン」が開発され、日本ではグラクソ・スミスクラインが2009年12月から「サーバリックス」を、またMSD(米国の製薬大手、メルクの日本法人)が2011年8月から「ガーダシル」の販売を始めた。このワクチンは、日本では2013年4月に "定期接種化" された(=ある年齢がくれば公費で接種が受けられる)。

◆ ところが定期接種化から2ヶ月後の2013年6月14日、厚生労働省は HPVワクチンの「積極的な接種勧奨の一時停止」を発表した。接種後に、けいれんする、歩けない、慢性の痛みがある、記憶力が落ちたといった、様々な症状を訴える人が相次いだからだった。

◆ この "一時停止" は今も続いている(2020年末現在)。一方、HPVワクチンは承認されたままであり、公費による接種を受けることができる(=定期接種の対象)。

◆ 厚生労働省は専門家を集め、子宮頸がんワクチンの安全性について様々な角度から検討した。そして2013年12月に、ワクチン接種後の症状は「身体表現性障害」の可能性が高いという見解を発表した。身体表現性障害は、身体的な異常はないのに痛みや恐怖、不安、プレッシャーなどをきっかけに生じる身体の症状のことである。

◆ しかし「積極的な接種勧奨の一時停止」の結果、70パーセントだった接種率が2017年には1パーセント以下までに下がった。このように接種率が激減した国は日本しかない。

◆ その間、2016年に、ワクチン接種によって被害を受けたとして、国と製薬会社2社を相手に、賠償を求める世界初の集団訴訟が起こされた。

◆ 販売開始後の臨床試験が進むにつれ、HPVワクチンの効果を証明するデータがそろってきた。スウェーデンのカロリンスカ研究所は2020年10月、10~30歳の女性が接種すると子宮頸がんの発症リスクが63%減るとの研究成果を発表した。10~16歳で接種した人に限ると、発症リスクは88%減っていた

◆ ワクチンの副反応についても研究が進み、接種しても発症リスクは変わらないとの報告が相次いでいる。名古屋市立大学の2018年の報告では、名古屋市の約3万人の女性を対象に接種の有無ごとの発症リスクを比較し、痛みや意図しない体の動きなどの接種後に報告された24の症状について、接種で発症リスクが上がることはなかったとした。また、2020年9月にはデンマークの研究チームが、慢性的な痛みが続く「複合性局所疼痛とうつう症候群」などと接種との因果関係はないと報告した。

◆ 大阪大学の研究チームは2020年10月、接種率が激減した2000~03年度生まれの女性では、将来、避けられたはずの子宮頸がんの患者が計1万7千人、死者が計4千人発生するとの予測をまとめた。

この経緯のキーワードは、ワクチンの副反応(治療薬では副作用)です。おりしも現在、新型コロナウイルスのワクチンの副反応がメディアなどで報告され、話題になっています。「副反応が心配だから接種は様子見」という人もいるようです。

この副反応を理解し、正しく認識する上で是非とも知っておきたいのが「プラゼボ効果とノセボ効果」です。今回その話を書きます。プラセボとはにせの薬、偽薬ぎやくのことです。これは新しい治療薬やワクチンの効果を実証するのに無くてはならないものです。そして「プラセボ効果」と「ノセボ効果」の意味は、


プラセボ効果
プラセボを投与された人に、症状の改善など好ましい効果が現れること

ノセボ効果
プラセボを投与された人に、望まない有害事象が引き起こされること


です。ワクチンの副反応に関係するのはノセボ効果ですが、プラセボ効果とノセボ効果は「表と裏」の関係にあるので、両方を知ることがヒトの身体の理解につながります。そこで以下ではこの2つについて、最近のテレビとメディアの記事から紹介します。まずプラセボ効果です。


プラゼボ効果(NHKの番組より)


2021年6月23日のNHK総合「ガッテン!」は「最新科学で迫る! 不思議☆発見 "おまじない" の世界」とのタイトルでしたが、その中で医学界におけるプラセボ効果の実例の紹介と、専門家へのインタビューがありました。まず、現役の4名の看護師さんへのインタビューです。その発言を採録しますが、必要に応じて( )で意味を補いました。

現役の看護師さんへのインタビュー


長い間寝てなきゃいけなくて、動いたりできない患者さんに、不安とか痛みとか出てきたときに、"落ちつくような薬をください" って言われて、(医師の指示で)生理食塩水を投与(=注射)させてもらって、入ったって分かると "ありがとう" みたいな ・・・・・・。そうすると寝て(透析の)時間を終えられるっていう(ことがありました)」【人工透析の患者さんの実体験】

ナースコールで呼ばれたときに "痛み止めが欲しい" って言うけど、あまりにも頻回すぎて、先生と相談して乳糖の粉末を代わりに "先生の処方を出してもらったので、これでちょっと様子を見ましょうか" みたいな ・・・・・・。"ちゃんと先生に確認したものですよ"、"ちょっと強めのを持ってきました"。そうすると、一時はナースコールがなくなって、本人もおだやかになっていました」【全身に痛みがある難病患者さんの実体験】

ちゃんとドクターの指示で(偽薬を)薬剤部が作って、1包化してくれて、それを普通に渡します。"何時以降"、"不眠訴え時" みたいに指示を書いてくれて」

できることはやってあげたい」

痛い、痛いと言われて、患者さんが痛いって言ってるんだからどうにかしてあげたい」

ちょっとでもやわらげたいっていう、それだけですよね。痛いとか、かゆいとか、苦痛なことがちょっとでも和らげばいい。不快を少しでもなくせれば」


番組では352人の看護師へのアンケート結果の紹介がありました。それによると、86% の看護師の方が偽薬を使ったことがあるとのことです。この回答や上のインタビューでもわかるように、偽薬の使用はれっきとした医療行為です。つまり、効き目の強い鎮痛剤の場合、たとえば8時間の間隔をあけて投与することとの指示があったとします。しかし、その8時間の途中で痛みを訴えられたらどうするか。本物の薬だと投薬過剰になり、場合によっては命の危険もありうる。そこで偽薬を投与するわけです。

もちろん偽薬が効かない場合も多くあります。しかし効果が出ることもある。そして、効果があるのなら使いたい。

我々はふつう「体に痛みの原因があり、それが神経で脳に伝わって痛む」と考えます。鎮痛剤は「痛みの原因を無くすか、神経の伝達を遮断するから効く」と考えます。しかしプラセボ効果の実例は、そのようなことだけではないことを示しています。

カナダとアメリカの事例

番組ではカナダとアメリカの事例が、患者本人へのインタビュー映像を交えて紹介されていました。


カナダで暮らすポール・パターソンさん。およそ20年前、ある病気の診断をうけました。

医師を訪ねると、一目見るなり、あなたはパーキンソン病ですと告げられたんです」

パーキンソン病は脳に異常がおきて(運動機能など)さまざまな症状に悩まされる病気です。パターソンさんは手足の震えや筋肉のこわばりのため、歩くこともままならなくなりました。

ある日、パターソンさんはプラセボ効果に関する実験に参加することになりました。被験者には、本物の薬か偽の薬かのどちらかを投与します。そのうちあなたにどちらを渡すかは明らかにしません、と告げ、カプセルを渡します。しかし実際に配られるのはすべて偽の薬です。本物かもと思ったときにプラセボ効果がどう現れるかを確かめる実験だったんです。

パターソンさんにも偽の薬が渡されました。なので、もちろん効果がでるはずはありません。しかし予期せぬ出来事がおこったんです。

新しい薬を渡されました。飲んで30分ほどすると、突然効果を感じたんです」

何とパターソンさんの症状はみるみるうちに改善。1人で歩けるまでになったんです。パターソンさんは自分が飲んだのが本当の薬だと信じ込んでいたと言います。

驚きました。薬なしであんなことができるはずないんです。私は本物の薬が効いてくるときの感覚を知っています。それと同じ感覚を偽の薬で作り出せるなんで不思議でした」



アメリカに住む、ボニー・アンダーソンさん。ある日、ふとしたことがから大怪我を負ってしましました。

キッチンの床ですべって、すってんころりと転んでしまったんです。そのまま動けませんでした。背骨が折れてしまったようで、本当に耐えられない痛みだったんです」

診断の結果は脊椎の骨折。全治数ヶ月という重傷でした。アンダーソンさんは骨折した箇所にセメントを注入する手術を受けることに。

しかしアンダーソンさんも偽の手術を受けることになりました。セメントを注入する治療法に本当に効果があるのかを確かめるための臨床試験でした。手術室に入ると背中に局所麻酔を打たれます。しかしセメント注射はされず、指で体を押されただけで終了。局所麻酔なので意識はありましたが、(偽の手術だと)気づくことはなかったんです。自分では本当に手術を受けたと思いこんでいたアンダーソンさんにも奇跡のようなできごとが・・・・・。

効果は絶大でした。楽に動き回れるようになったんです。1週間でゴルフまでできてしまったんです」

何と指で背中を押しただけだのに、痛みが消え去ったと言うんです。



もちろんこの2人に起こったことは一時的な効果。その後、一般的な治療を受けたと言います。


プラセボは本物の薬の効果を確かめるために用いられるものです。つまり、効果がないことが前提の偽薬です。それでもこういった事例が起こる。ただし、これらは少ない例です。番組でも、

パターソンさんやアンダーソンさんのような例はほんの一部だということに注意ください

と断っていました。プラセボは薬ではないので、医薬品の認可をうけずに販売できます。番組ではプラセボが食品として一般販売されていることを紹介していました。いかにも薬の錠剤らしい外観とパッケージです。こういった "見た目" が大切なことも理解できます。

専門家へのインタビュー

さらに番組では、代替医療に詳しい島根大学医学部付属病院臨床研究センターの大野さとし教授へのインタビューがありました。まず、大野教授がどういう研究をしているのかという自己紹介がありました。


ちまたには、例えばヨガとか、あるいはアロマセラピー、音楽療法など、いろんな体によいとされるものがあるかと思うんですけど、これが本当に効果があるのか、臨床試験で検証したりとか、科学的根拠があるのかないのか、臨床試験をしても全部効くという訳ではないので、効かないという事実があるのであれば、それを分かりやすく患者さんや医療従事者にお伝えする、そんな仕事をしています。


代替医療は通常医療の補完として行われるものですが、それらの中には効果がなかったり、あるいは民間で行われるものの中には逆に有害だったりするものもあるはずです。大野教授はそういった "医療" の効果を、臨床試験を含めて確認する研究をされているようです。さらにインタビューでは、プラセボについて次のように発言されていました。ここが本論です。


食品として販売されているプラセボを、プラセボと分かった上で使っても効果が得られるという話があったかと思いますが、実際の臨床試験の研究においても、プラセボということを患者さんに伝えた上でも、一定の効果が得られるということが証明されつつあります。

一人一人の患者さんを対象にしたときに、上手に利用していくってことを考えていただけたらなと思います。

あくまで、症状が改善することはあるが、おおもとになる病気そのものが治るわけではなくて、病気にともなう様々な症状や困りごと改善するという風にとらえていただけたらと思います。ただ自己判断で、本当であればお薬が必要な場面なのに偽薬にたよってしまうことだけは避けていただきたいと思います。

あと、すべてがいいことばかりではなくて、今日番組の中ではプラセボ効果っていい効果ということでお話がされていましたが、ある方によく効いたというプラセボでも、ほかの方にも同じようになるかというと、必ずしもそういう訳ではない。プラセボも万能薬ではありません。

効果がないとされるプラセボを飲んだ場合でも、臨床試験をやっていると副作用が出てきたり(=ノセボ効果)なんていうことがあったりもします。

こういったプラセボ効果を悪用して商売をしている、場合によっては高額な商品を売りつけているケースがあります。人間の心理として値段が高い方が効果もあるんじゃないか、と思う方って多くいらっしゃると思います。こういうところにつけこむ形で商売をしていることが世の中にはあります。そういう注意点もあることを知っておいていただけたらと思います。

島根大学医学部付属病院
臨床研究センター教授
大野さとし

「プラセボ効果を悪用して商売をしている、場合によっては高額な商品を売りつけているケースがあります」と発言されていますが、世の中には、機能性食品や健康家電を含めて「健康によいと宣伝されている食品、サプリメント、器具」が溢れています。しかも「良かったというユーザの声」が喧伝される。その声がプラセボ効果なのか、そうでなく本当に商品がもたらす効果なのかを見極める必要があります。その意味でもプラセボ効果を知ることは重要でしょう。



さらに番組では、世界のプラセボ研究をリードする、米国・ダートマス大学のトール・ウェイガー教授が次のように話していました。


プラセボ効果は何か良いことが起こるという期待感を持ったときに引き起こされると考えられています。つまり脳がこれから良いことが起こると期待することで、ストレスや不安が軽減され、それによって痛みを解消することができると考えられるのです。

米国・ダートマス大学教授
トール・ウェイガー

ウェイカー教授の言う "期待感" があると、脳の側座核を含む痛みに関係した部分が活発になり、強い鎮痛作用があるオピオイドが分泌される。これがプラセボ効果の(一つの)説明です。番組では MRI を使った画像でこのことを解説していました。



ところで、偽薬は "期待感" によって「好ましい」効果を生むだけでなく、"マイナスの期待感" によって「好ましくない」効果をもたらすことがあります。それが、島根大学の大野教授のインタビューにもあった、ノセボ効果です。


ノセボ効果(ファイザー社の新型コロナワクチン)


ノセボ効果については、2021年1月23日の「Nikkei STYLE(Web版)」の "ヘルスUP" に、新型コロナワクチンを例にとって説明してありました。まさにタイムリーな記事です。重要な部分を引用します。


プラセボを接種した人に有害事象が現れるのはなぜ ?

米ファイザー社の新型コロナワクチンの臨床試験では、プラセボ群には生理食塩水が注射されました。生理食塩水の正体は、人間の体液と同じ浸透圧の0.9%食塩水ですので、注射針を刺して注入すること以外に健康被害はもたらさないと考えられます。にもかかわらず、プラセボを投与された人たちのうち、最大で3人に1人は、疲労感や頭痛を訴えました

こうした現象は、ノセボ効果(nocebo effect)と呼ばれています。簡単に言えば、ワクチンの接種が疲労感や頭痛などの副反応を引き起こすかもしれない、と不安に思っていると、プラセボを接種されたにもかかわらず疲労感や頭痛を感じる、というのがノセボ効果です。

ノセボ効果の反対は、プラセボ効果(placebo effect)です。こちらは、有効成分を含まないプラセボであるのに、効果を信じ、期待することで、実際に症状が改善する現象を言います。

いずれも、薬やワクチン、医療者への信頼や期待、あるいはそれらへの不信や不安といった心理が大きく影響するために現れる現象だと考えられています。

Nikkei STYLE(Web版)"ヘルスUP"
2021年1月23日
日本経済新聞社

この記事に「プラセボを投与された人たちのうち、最大で3人に1人は、疲労感や頭痛を訴えました」とあります。FDA(アメリカ食品医薬品局)は「ワクチンを投与する医療従事者のためのファクト・シート」と題する文書を公開していて、この中にファイザー社が行ったコロナワクチンの治験結果があります。次の URL からダウンロードできます(2021.7 末現在)。

Pfizer-BioNTech COVID-19 Vaccine
"FACT SHEET FOR HEALTHCARE PROVIDERS ADMINISTERING VACCINE"
https://www.fda.gov/media/144413/download

この文書から、接種後の有害事象(副反応)とまとめた表を引用します。表は「局所反応」と「全身反応」に別れています。いずれも1回目の接種(Dose 1)と2回目の接種(Dose 2)のあと7日以内に起こった有害事象について、治験参加者をモニターしてまとめたものです。表において、N はモニターした人の総数、n は副反応が見られた人の数で、その n が表になっています。カッコ内は N に対するパーセンテージです。1回目、2回目ともワクチンを接種した人とプラセボ(=生理食塩水)を接種した人の副反応が対比されています。表1は「局所反応」で、項目は次の通りです。

Redness
:発赤(注射部位が赤くなる)
Swelling
:腫れ
Pain at the injection site
:注射部位の痛み

表1:接種後7日間の局所反応
(治験者:18歳~55歳)
TABLE-1.jpg
米国FDAが公開している "FACT SHEET FOR HEALTHCARE PROVIDERS ADMINISTERING VACCINE"(Revised 25 June 2021)より引用。引用元の表には注釈がついているが割愛した(次の表2も同じ)。

次の表2は「全身反応」の集計で、項目は次の通りです。

Fever:発熱
Fatigue:疲労感
Headache:頭痛
Chills:悪寒
Vomiting:嘔吐
Diarrhea:下痢
New or worsened muscle pain
 :筋肉痛(悪化を含む)
New or worsened joint pain
 :関節痛(悪化を含む)
Use of antipyretic or pain medication
 :解熱剤か鎮痛剤の使用

表2:接種後7日間の全身反応
(治験者:18歳~55歳)
TABLE-2.jpg
米国FDAが公開している "FACT SHEET FOR HEALTHCARE PROVIDERS ADMINISTERING VACCINE"(Revised 25 June 2021)より引用。

この表を見ると次の3つのことが理解できます。

ワクチン接種では1回目より2回目の方が副反応が多い

これは人間の免疫(獲得免疫)についての知見と合致します。1回目でコロナウイルス(正確にはメッセンジャーRNAが作り出すコロナウイルスのスパイク・タンパク質)に対する抗体が体内にでき、それが記憶されます。2回目では、免疫記憶をもとに異物のタンパク質に対する総攻撃が速やかに始まる。従って2回目の方が副反応が強いわけです。

そもそも副反応は「免疫がついたことの証拠」であって、喜ばしいことです。つまりワクチンが正しく作用していることを示しています。ただし、副反応がないからといって免疫がつかなかったということではありません。人間の免疫の作用は人によって多様です。

プラセボの接種でも副反応が起こる

表を見ると、生理食塩水を注射してもワクチンで起こるものと同じ副反応が起きることがわかります。もちろん、その頻度は一般的にはワクチンより少ない。しかし1回目投与(Dose 1)の疲労感(Fatigue)や頭痛(Headache)のように、ほぼ3分の1の治験者に副反応が起きることもあります。Nikkei STYLE の記事はこのことを言っています。

また、中には下痢(Diarrhea)のように、ワクチンと同程度の副反応が見られることもあります。

プラセボによる副反応は2回目の方が下がる

プラセボによる1回目と2回目の副反応の頻度は、ワクチンの場合とは全く逆です。これはもちろん生理食塩水が人間の免疫機能とは無関係だからであり、かつ、2回目の方が不安感が少なく安心感が強くなるからだと推察されます。



いずれにせよ、ノセボ効果については、

新型コロナウイルスのワクチンの治験で、生理食塩水を注射した人の3割に疲労感と頭痛の副反応が見られた

という事実を覚えておくべきでしょう。プラセボ効果は「プラスの期待」、ノセボ効果は「マイナスの期待」によって起こります。"期待" という言葉はふつう良いことについて使うので、適当な言葉ではないでしょう。Nikkei STYLE では「予測」という表現が使ってありました。


プラセボ効果もノセボ効果も患者自身の予測が大きく関係

では、プラセボ効果とノセボ効果を経験しやすいのはどのような人なのでしょうか。米国の研究者たちが、このテーマに関係する論文を検討した研究によると、プラセボ効果は、その薬が効くことを期待する患者の気持ちに、ノセボ効果は副作用や副反応を心配する患者の気持ちに由来する、とのことです。

これまでに行われた研究では、鎮痛薬や精神障害に対する治療薬の場合は、プラセボ群にも治療群と同じ程度の効果(プラセボ効果)が見られやすいこと、同時に、治療群と同じ有害事象を経験(ノセボ効果)するプラセボ群の患者も少なくないことが示されていました。

著者らによると、プラセボ効果とノセボ効果には、患者自身の予測が関係します。予測は、自分が以前に経験した薬の効果や害、医師からの説明(何の薬か、どんな効果または害が起こりうるか)、自分以外の患者に関する情報(同じ薬を使用した人が経験した効果や害について見聞きする、あるいはインターネットを通じて知る情報)に基づいて行われます。

著者らは、ノセボ効果について、「気にかかる情報、間違った思い込み、悲観的な予測、好ましくない過去の経験、流布される否定的なメッセージなどが、有害事象の増加に関係し、さらには治療効果を減じる可能性がある」と述べています。

ワクチンの接種後に生じる有害事象には本人の心の持ちようも大きく影響する、ということを念頭に置いて、リラックスして接種に臨めば、結果は違ってくるかもしれません。

(同上)

新型コロナウイルスのワクチンの副反応について、マスコミでさまざまな報道がされていますが、「そもそも副反応は免疫を獲得した証拠、ないしは、獲得しつつある証拠であり、喜ばしいもの」という論調は少ないようです。さらに、上に引用した Nikkei STYLE の記事のように「副反応は偽薬でも起こる」ことをちゃんと報道しているマスコミはほとんどないと思います。その意味で日本経済新聞の報道は非常に適切だと思いました。


医療に求められるもの


人は時として「プラセボ効果」や「ノセボ効果」を示します。このことを前提に医療従事者や医療政策を決定する人たちは行動すべきことが分かります。現に、プラセボ効果については NHKの「ガッテン!」であったように、ドクターも看護師もプラセボ効果を理解した上で、少しでも患者さんの苦しみを軽減しようと対応しています。

ノセボ効果についても同様の対応が必要でしょう。ワクチン接種後に起こる有害事象(副反応)については、「ワクチンとの因果関係はない」かもしれないが「接種との因果関係はある」かもしれないからです。No.302「ワクチン接種の推奨中止で4000人が死亡」の補記で紹介しましたが、愛知医科大学の牛田教授(疼痛医学)は次のように語っておられました。


HPVワクチンでは、非常にまれですが、接種後に痛みを含めた「多様な症状」が現れました。強い記憶に残るような痛みや脱力などが接種で伴うと、その人にとっては大きなマイナスのできごとになる可能性は否定できません。

こうしたマイナスのできごとが、その人の一生にかかわるものにならないよう、医療者が寄り添うことが大切だと思います。

愛知医科大学教授・牛田亨弘たかひろ
朝日新聞 2021.6.16

これは HPV ワクチンについての発言ですが、すべてのワクチンについて言えることだと思いました。




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No.316 - 高校数学で理解する楕円曲線暗号の数理(2) [科学]

前回のNo.315より続く)


16. 楕円曲線上の点


有限体 Fp の元 xy のぺア xy の集合を Fp 2 と記述します。集合 Fp 2 の元で楕円曲線上の "点" はどれだけあるでしょうか。まず、楕円曲線の式を満たす Fp 2 の元がどのように計算できるかを調べます。

 平方数と平方根 

楕円曲線の式を、

{ y2=z z=x3+ax+b

と書くとき、zz0)が Fp での平方数なら、y の解が2つ求まります。ここで、次の命題が成立します。

16.1  平方数である条件

z0 ではない Fp の元とする。

zp-12=1

であるとき(かつ、そのときに限り)z は平方数である(= オイラーの規準)。


Fp で考えているので「平方数」と書きましたが、整数の世界では「平方剰余」です。つまり、x2=amodn となるような x が存在する a が平方剰余です。16.1 の証明ですが、Fp から 0 を除いた乗法群 Fp で考えます。12.1(No.313)により、zFp の生成元(の一つ)を g として、

z=gk

と表現できます。つまり、命題の条件は、

gkp-12=1

です。このとき k は偶数のはずです。なぜなら、もし k が奇数だとすると、kp-12p-1 で割り切れないので、

kp-12= sp-1+t 1t<p-1

と表現できます。すると、

gkp-12 =gsp-1+t =gp-1s·gt=gt

となり、gt=11t<p-1 になりますが、これは g が生成元であることと矛盾します。従って k は偶数です。そうすると k=2m とおいて、

z=gm2

となり、z は平方数になります。



z は平方数だとわかったとき、実際に Fpy(= z の平方根)を求める手段が必要になります。整数であれば平方数の平方根を求めるのは容易ですが、Fp ではそうはいきません。特に、楕円曲線暗号で使われる p は10進数で数10桁以上の巨大素数なので、総当たりで求めたり、解の存在範囲を限定していって求めるわけにはいかないのです。ただ、もし p3mod4 なら求めるのは容易で、

y=zp+14

が解の一つとなります(もう一つの解は -y で、つまり p-y)。確認してみると、

y2 =zp+142=zp+12 =zp-12·z=z

となって、確かに y が解であることがわかります。しかし、p1mod4 なら、このような簡便な式では求まりません。この場合は「トネリ - シャンクスのアルゴリズム」で解を求めます(Tonelli は19世紀イタリア、Shanks は20世紀米国の数学者)。なお、このアルゴリズムは説明が長くなるので割愛します。



いま、Fp において z0 から p-1 まで振ったときの y2=z の解の総数を求めてみます。z を、Fp の生成元 g を使って、

z= { 0 gk k=12 ⋯ p-1

と表すと、

・ z=0 のとき、解は1個
・ k が偶数のとき、解は2個
・ k が奇数のとき、解は無し

となり、Fp 2 における解、zy の総数は p となります。では、Fp 2 における楕円曲線上の点、xy の総数はどうなるでしょうか。xFp の全ての元に渡るとき、zFp で均等にバラつくとは限りません。しかし xy の総数は「だいたい p に近い値」だと考えられます。

つまり、群 Eabp の元で、零元 O 以外の Fp 2 に属するものは、だいたい p 個あると考えられる。群 Eabp の元の数を #E と書くと、#E は 零元 O を含んで p+1 に近い値だと考えられます。

Eabp の元の数を評価する式があります。「ハッセの定理」です(Helmut Hasse は20世紀ドイツの数学者)。この定理にによると、

p+1-2p#Ep+1+2p

であり、想定どおり #Ep+1 の周辺であることが分かります。#E を具体的に求めるアルゴリズムは、1985年にオランダ出身の数学者、レネ・ショーフ( Rene Schoof。英語読みでスクーフとも書かれる)が開発しました。その「ショーフのアルゴリズム」は、数学用語で言うと最初の「決定論的多項式時間アルゴリズム」です。平たく言うと「計算結果が100%正しいと数学的に保証される(=決定論的)計算可能な(=多項式時間)アルゴリズム」です。「ショーフのアルゴリズム」の具体的内容は、ここでは割愛します。


17. 位数


楕円曲線暗号を構成する上で必要になるのが、有限群における「位数」の概念です。以下の位数の話はすべての有限群に共通するので、群の演算を乗法的に書くことにします(掛け算、冪乗、単位元 e、などの記法を使います)。No.315 でやったように、演算を加法と考えても全く同じことになります。

元の数が有限個の群 G を「有限群」といい、その元の個数を「群位数(group order)」と呼びます。群位数を |G| と表します。群の演算則だけから次のことが言えます。

単位元 e でない群 G の元を a とします。a の冪乗 an1nn を増やしていくと、ある時点で an=e となります。その理由ですが、

a1a2 ⋯ a|G|

という |G| 個の元を考えてみます。もし |G| 個が全て相異なると、どれかが e のはずです。全てが相異なる元ではないとき、

aj=ai1i<j|G|

となったとすると、両辺に a の逆元を i 回掛けて、

aj-i=e

が得られます。1j-i<|G| なので、この範囲に e があります。そこで、つぎのように元 a位数を定義できます。

17.1  位数の定義

有限群 G の任意の元 a について、

ad=e

となる最小のda の "位数(order)" と言う。


さらに、元の位数については次の命題が成り立ちます。

17.2  位数と群位数

有限群 G の任意の元 a の位数を d とすると、d は群位数 |G| の約数である。


これはラグランジュの定理と呼ばれるものです。この定理が成り立つ理由は次の通りです。有限群 G の任意の元を a とし、集合 A を、

A=a1a2 ⋯ ad=e

とします。集合 A の元は全て相異なります。なぜなら、もし、

aj=ai1i<jd

となったとすると、両辺に a の逆元を i 回掛けて、

aj-i=e

となり、dad=e となる最小の数であるという位数の定義に反するからです。さらに、集合 A の任意の元の逆元は集合 A に含まれます。つまり、ad=e なので aj1j<d に対して ad-j1d-j<d が逆元です(ということは集合 A もまた群であり、これを G の部分群と言います)。

集合 AG の全ての元を尽くしているなら 17.2 は成立します。そこで、集合 A に含まれない G の元があったとし、それを b1 とします。集合 A の全ての元に左から b1 を掛けて、集合 B1 を作ります。つまり、

B1=b1a1b1a2 ⋯ b1ad

です。集合 A の元は全て相異なるので、集合 B1 の元も全て相異なります。さらに、集合 B1 の元で集合 A の元と同じものはありません。なぜなら、もし、

b1ai=aj 1i<jd

だとすると、ai の逆元、ad-iを右から掛けて、

b1ad=ad-i+j b1=ad-i+j=aj-i

となりますが、1j-i<d なので、これは b1 が集合 A の元であることを意味していて仮定に反します。つまり、集合 B1 の元で集合 A の元と同じものはありません。

集合 AB1G の元の全てを尽くしているなら、2d=|G| となって 17.2 は証明できたことになります。そうではない場合、集合 AB1 に含まれない G の元の一つを b2 として、集合 B2 を、

B2=b2a1b2a2 ⋯ b2ad

と定義します。そうすると先ほど同じように、集合 B2 の元は全て相異なり、かつ、集合 A との重複はありません。さらに、集合 B2 の元は集合 B1 の元とも重複しません。なぜなら、もし、

b2ai=b1aj 1i<jd

だとすると、ai の逆元、ad-iを右から掛けて、

b2=b1ad-i+j=b1aj-i

となりますが、1j-i<d なので、b2 が 集合 B1 の元という意味になり仮定に反します。つまり、集合 B2の元は集合 B1 の元と重複しません。

以上の操作は G の元が残っている限り B3B4 ⋯  と続けられます。そしてある時点で 残っている G の元がちょうど切りのよいところで無くなるはずです。Bn-1 まで作ったときに G の元の全てを尽くしたとしたら、nd=|G| です。これで 17.2 が証明できました。17.2 から直ちに次の2つが結論づけられます。

17.3  

有限群 G の任意の元 a について、

a|G|=e

である。


これは、群位数 |G| が 元 a の位数の倍数なのでそうなります。p を素数とし、Gp 未満の自然数からなる乗法群 Fp だとすると、|G|=p-1 なので、フェルマの小定理( 3.1 )そのものです。

また、n 未満の自然数で n と互いに素なものの集合を G とすると、Gmodn の乗算に関して閉じた集合になり、逆元も定義できるので(2.3 参照)、群となります(= 既約剰余類群)。オイラー関数を用いると |G|=φn と表せて、オイラーの定理( 7.1 )になります。

つまり 17.3 は、フェルマの小定理の一般化であると同時に、フェルマの小定理を一般化したオイラーの定理をさらに一般化したものと言えるでしょう。

17.4  群位数が素数の群

有限群 G の群位数 |G| が素数だとすると、

単位元 e を除く G の全ての元の位数は |G|

である。


素数の約数は 1 と素数自身しかないので、単位元以外の元の位数は群位数に等しくなります。従って、群位数が素数の群では任意の元 a の冪乗が群全体に "バラける" ことになります。


楕円曲線暗号の構成:スカラー倍と離散対数


ここから具体的な楕円曲線暗号のしくみに入ります。楕円曲線上の Fp 2 の点と零元 O が作る加法群を Eabp とし、その群位数を #E と書きます。楕円曲線暗号では Eabp における「スカラー倍」の演算を利用します。

楕円曲線上の Fp 2 の点の一つを B=BxBy とし、dB の位数、n1nd とします。Bn 倍(=スカラー倍)を nB と書き、

nB= B+B+ ⋯ +B n

と定義します。そして、

nB=A

と書くことにすると、A を求める計算は、Eabp の2倍式と加法式を使って可能です。例として 133B の場合だと、133=27+22+1 なので、

133B=27B+22B+B

となります。つまり、Eabp の2倍式を7回使って、

21B,   22B,    ⋯ ,   26B,   27B

と順次計算し、加法式を2回使うと A が求まります。これは n がたとえ巨大数であっても可能です。2256 は10進数で約80桁(256ビット)の巨大数ですが、それでも256回程度の2倍算と最大で256回程度の加算をすれば A が求まります。このあたりは 4.2 の「冪剰余の計算アルゴリズム」と同じです。もちろん冪剰余と違って、2倍算も加算も単純な掛け算ではありません。Eabp の群演算は、定義式どおりの少々ややこしい式です。しかし計算が可能なことは確かです。

スカラー倍の計算は可能ですが、その逆、つまり AB を知って n 求めるのは困難になります。この n を求める問題を、加法群 Eabp における「離散対数問題」と呼びます。離散対数問題を解くのが不可能になるのは、B の位数 d が10進数で数10桁以上といった巨大数の場合です。その場合、Ad 種のバリエーションをとるので、n を求めるのは不可能になります。

位数 d が巨大数である B を求める方法の一つは、p を巨大な素数とし、群位数 #E も素数であるような Eabp を選ぶことです。そうすると 17.4 により、零元 O 以外の Eabp の全ての元の位数 d#E になり、その #Ep+1 の近辺にあるので、B をどのように選ぼうとも位数 d は巨大数になります。

#E が素数である Eabp では、任意の元 AB について、nB=A となる n が唯一存在することになります。このことを、

logBA=n

と書くと、B は実数における通常の対数の "底(base)" に相当します。BEabp の元 = Fp 2 の元なので、B を「ベースポイント(base point)」と呼びます。このペースポイントを含め、楕円曲線暗号では、

・ Eabp
・ #E
・ B=BxBy
・ dB の位数)

が公開されます。そして暗号化通信では、d より小さい数 k をランダムに選び

・ 公開鍵 : kB 
・ 秘密鍵 : k

とします。公開鍵だけを知っても秘密鍵は計算できない。これが楕円曲線暗号の原理です。



スカラー倍のイメージをつかむため、p がごく小さい数の場合で実験してみます。計算してみると、p=29,  a=-1=28,  b=1 のとき #E=37 となって、群位数が素数になります。y2=x3-x+1 の解の一つは 01 なので、これをベースポイント B としてスカラー倍を順次計算してみると次の通りとなります。

 B=(01 )   2B=(2210 )   3B=(2713 )   4B=(924 )   5B=(1418 )   6B=(1125 )   7B=(2320 )   8B=(128 )   9B=(268 )   10B=(223 )   11B=(324 )   12B=(11 )   13B=(2828 )   14B=(518 )   15B=(175 )   16B=(2517 )   17B=(2021 )   18B=(1018 )   19B=(1011 )   20B=(208 )   21B=(2512 )   22B=(1724 )   23B=(511 )   24B=(281 )   25B=(128 )   26B=(35 )   27B=(26 )   28B=(2621 )   29B=(1221 )   30B=(239 )   31B=(114 )   32B=(1411 )   33B=(95 )   34B=(2716 )   35B=(2219 )   36B=(028 )   37B=(O    

群位数が素数なので B の位数は 37 となり、群位数と一致します。この計算を Fp 2 の平面に表示すると次の通りです。B36B は赤丸、2B35B は黒丸です。矢印は加算を示し、赤矢印は B+B35B+B の加算です。

スカラー倍.jpg
図18:E-1129(零元を除く) #E=37,  B=01,  d=37 

スカラー倍を繰り返すごとに "楕円曲線" 上の合計36点を通り、それが乱雑に変化することが分かります。



振り返ってみると、RSA暗号(No.311)の安全性は巨大数の因数分解の困難性に依存しているのでした。またディフィー・ヘルマンの鍵交換(No.313)は、乗法群 Fp における離散対数問題を解くことの困難性に依存しています。これらに使われる演算はいずれも整数の乗除算です。それに対して楕円曲線暗号に使われるのは、整数の乗除算よりは遙かに複雑な、楕円曲線上の加法群における「加算」です。ここに楕円曲線暗号の解読しにくさの要因があります。



実用的な楕円曲線暗号で公開するパラメータをどうやって作るか、その一例をあげます。


① 素数の大きさを決め(たとえば10進数で50~100桁程度)、素数判定法によってその大きさの素数 p を求める。

② p より小さい数、ab をランダムに決め、加法群 Eabp の群位数 #E を計算する。

③ #E が素数なら次へ。素数でなければ ② に戻る。

④ p より小さい数、Bx をランダムに選び、Bx が平方数ならその平方根 By を求めてベースポイント B=BxBy とする。


#E が素数なので、B の位数 d#E に等しくなります。なお、#E がたまたま p と一致すると離散対数問題が解けることが分かっているので、③ でそのようなケースを排除しておきます。

この決め方では、群位数 #E の計算と素数判定を繰り返すことになり、多大な計算時間がかかることは想像に難くありません。しかしパラメータは1度計算すれば暗号通信の仕様として公開し、皆がそれを使えばいいわけです。最初の1回だけの計算時間より、その後の通信の安全性の方が重要です。

楕円曲線暗号のパラメータの一例を次に掲げます。secp160r1 という名称で公開されているパラメータです。群位数 #E は素数です。

secp160r1
 
p= 1461501637330902918203684 832716283019653785059327 =2160-231-1 a= 1461501637330902918203684 832716283019653785059324 =p-3 b= 1632357913061681105466049 19403271579530548345413 #E= 1461501637330902918203687 197606826779884643492439 Bx= 4258262317238883504465415 92701409065913635568770 By= 2035201141629041078739914 57957346892027982641970 d= 1461501637330902918203687 197606826779884643492439 =#E


楕円曲線暗号版ディフィー・ヘルマンの鍵交換(ECDH)


ディフィー・ヘルマンの鍵共有(No.313)を、楕円曲線暗号を使って実現できます(ECDH と略称される)。鍵共有のプロセスは次のように進みます。しかるべき「公開鍵センター」が、皆が使う公開鍵として、

・ Eabp
・ #E
・ B=BxBy
・ dB の位数)

をオープンにして(暗号通信の仕様書として公開して)おきます。以下のスカラー倍演算はすべて Fp で行います。AliceBob が秘密鍵を共有したい場合、

暗号文による通信の開始にあたって、Alice0<kA<d である乱数 kA を発生させ、kABAlice の公開鍵として(盗聴されている通信路を介して) Bob に送付

します。乱数 kAAlice の秘密鍵として秘匿します。次に同様に、

Bob0<kB<d である乱数 kB を発生させ、kBBBob の公開鍵として(盗聴されている通信路を介して) Alice に送付

します。もちろん kB は秘匿します。そして、

AliceKA=kAkBB を共有の秘密鍵

BobKB=kBkAB を共有の秘密鍵

とします。この作り方から KA=KB=K となるので、秘密鍵 Kを共有できたことになり、以降はこれを使って暗号化通信(公開鍵ではない、高速な暗号化通信)を行います。使った秘密鍵は通信が終わったら捨てます。

原理は、オリジナルのディフィー・ヘルマンの鍵交換(DH)と全く同じです。ただ、オリジナルが Fp での離散対数問題を利用していたのに対し、ECDH は Eabp での離散対数問題を利用した暗号であることが違います。


18. 結合則が成り立つことの検証と証明


前回の No.315 で、"結合則が成り立つ" ことの証明を後回しにしたので、ここに書きます。楕円曲線上の3点について、

P1+P2+P3=P1+P2+P3

となるのが結合則ですが、加法は数式で示されています。そこで数式を使って簡単な例で確かめてみます。

図Mb:a=-1,b=1.jpg
図15:楕円曲線の例2
y2=x3-x+1

楕円曲線として、No.315 の図15でとりあげた、

 y2=x3-x+1

を例とし、この楕円曲線上に2つの固定点と1つの任意点を取って計算してみます。使う記号は次の通りです。

P1=01 P2=pqq2=p3-p+1 P3=11 P4=P1+P2 P5=P4+P3=P1+P2+P3 P6=P2+P3 P7=P1+P6=P1+P2+P3
 
P5=P7 が示せれば結合則が成り立っています。以下、No.315 の加法式(第2形)、

P0=P1+P2 { x0=λ2-x1-x2 y0=λx1-x0-y1 λ=x12+x1x2+x22-1y1+y2

を使って計算を進めると次のようになります。

P4=x4y4=P1+P2 =01+pq λ4=p2-1q+1 x4=λ42-p y4=-λ4x4-1 =λ4p-λ43-1 P5=x5y5 =P4+P3=P3+P4 =11+x4y4 λ5=x42+x4λ4p-λ43=p-λ42-1λ4 x5=λ52-x4-1 =λ52-λ42+p-1 =-p2+2q+3p+12
途中、x5 の計算で q2p2-p+1 で置き換えました。さらに、λ4=p2-1q+1 を使って λ5 の式から λ4 を消去すると、
 λ5=-p2+2q+3p+1q+1
となります。これを用いて y5 を計算すると、

y5=λ51-x5-1 =p2x5-1-pq+1-2qx5+q-3x5+2p+1q+1 =-2p4-p3q+7+p23q+5+pq+7-11q+1p+13q+1

となり、P5=x5y5 が求まりました。

P6=x6y6 =P2+P3=P3+P2 =11+pq λ6=p2+pq+1 x6=λ62-p-1 y6=λ61-x6-1 =λ6p+2-λ62-1 P7=x7y7=P1+P6 =01+x6y6 λ7=x62-1y6+1=λ62-p-12-1λ6p+2-λ62 x7=λ72-x6 =λ72-λ62+p+1 =p2λ62-p+1 =-p2+2q+3p+12

ここで λ6=p2+pq+1 を使って λ7 の式から λ6 を消去すると、
 λ7=-2p2+p-q-1p+1q+1
となります。この λ7 を使って y7 を計算すると、

y7=-λ7x7-1 =p2λ7-1-2p-2q+3λ7-1p+12 =-2p4-p3q+7+p23q+5+pq+7-11q+1p+13q+1
 
楕円曲線論入門.jpg
J.H.シルヴァーマン、J.テイト
「楕円曲線論入門」
となり、P7=x7y7 が求まりました。以上の計算で、P5P7 は同じ点であることが分かり、この例では結合則が検証できました。

もちろんこれで結合則が証明できたわけではありません。しかし上の検証から分かるように、加法式によって結合則を証明するには計算が膨大になると推測できます。そこで以下は、シルヴァーマン、テイト著「楕円曲線論入門」にある証明を紹介します。

結合則が成り立つのは、楕円曲線上の加法を「3次曲線と直線の交点」で決めていることに理由があります。「楕円曲線論入門」に、結合則が成り立つことを示した次の図があります。加法群の零元 O を楕円曲線上にとった場合の図です。

図K:結合則の検証.jpg
図11:結合則
「楕円曲線論入門」より引用

楕円曲線上に点 PQR をとったとき、

P+Q+R=P+Q+R

となるのが結合則ですが、

P+Q+R =P+QRO P+Q+R =PQ+RO

です。ここで の記号は、AB と書くと AB を結ぶ直線が楕円曲線と交わる点(で AB 以外の点)の意味です。O は零元でした。従って、結合則を証明するためには、

P+QR=PQ+R

が証明できればよいことになります。言葉で書くと、


P+QR を通る直線が楕円曲線と交わる点を T1 とし、PQ+R を通る直線が楕円曲線と交わる点を T2 とすると、 T1T2 は同じ点である


となります。上の図はそれを表しています。以下の証明では同じことですが、次を示します。

18.1  結合則

P+QR を結ぶ直線と、Q+RP を結ぶ直線の交点を T とすると、楕円曲線は T を通る。


これは楕円曲線上の2点、P+QRPQ+R が等しい(= 図11)ことと同じなので、以降は 18.1 が成り立つことを示します。そのためにまず、次の命題 18.2 を証明します。この証明の筋道は「楕円曲線論入門」に書かれているものです。

18.2  3つの3次曲線の交差

2つの3次曲線、C1C2 が相異なる9点、P1,  P2 ⋯ ,  P9 を通るとする。

別の3次曲線 D が 9点のうちの8点、P1,  P2 ⋯ ,  P8 を通るとき、DP9 も通る。


これは「ケーレー・バカラック(Cayley-Bacharach)の定理」と呼ばれるものです(Cayleyは英国、Bacharachはドイツの数学者。いずれも19世紀)。この定理は、

d1次曲線と d2次曲線が d1d2個の異なる交点で交わるとき、別の d1+d2-3次曲線が交点のうちの d1d2-1個を通ると、その別の曲線は残りの1点も通る

というもので、その3次元曲線の場合が 18.2 です。ここで言う3次曲線とは次の一般形で表される "3次曲線のすべて" であり、楕円曲線もその一部です。

[3次曲線の一般形]
ax3+bx2y+cxy2+dy3+ex2+fxy+gy2+hx+iy+j=0

10個の係数(=パラメータ)、ab ⋯ ij を決めると3次曲線が一つ決まります。もちろん、各係数を定数倍した曲線は同じ曲線です。つまり、この形の3次曲線の係数は実質的に "9次元" と言えます。3次曲線なので abcd のうち少なくとも一つは 0 でないものがあります。その係数で全体を割れば、係数の数は9個になることからもわかります。つまり「相異なる8点を通る3次曲線」は無数にあります。

そこで、相異なる8点を通る3次曲線が一般的にどういう式で表現できるかを考えます。相異なる8点の座標を、

P1=x1y1 P2=x2y2 P8=x8y8

とします。まず、3次曲線が P1 を通るということは、10個のパラメータは次の制約条件を満足しなければなりません。

x13a+x12y1b+x1y12c+y13d+x12e+x1y1f+y12g+x1h+y1i+j=0

これは 10個の変数 aj についての線型方程式(1次方程式)なので、係数を変数の前に記述しました。同様にして、3次曲線が P2 から P8 を通ることから7個の制約条件が得られます。これらをまとめると、

{ x13a+x12y1b+ ⋯ +y1i+j=0 x23a+x22y2b+ ⋯ +y2i+j=0   ⋮ x83a+x82y8b+ ⋯ +y8i+j=0  

の、合計8つの制約条件が得られます。8個の点を通る3次曲線の10個のパラメータは、この8つの制約条件(連立1次方程式)を満たさなければなりません。ということは、10-8=2 で、これらのパラメータは、制約条件のない自由な2つのパラメータで表現できることになります。

たとえば ab を "2つのパラメータ" に選ぶと、残りの cj は、αna+βnbn=c ⋯ j という「ab の1次式」で表現できます(αnβn は連立1次方程式の係数で決まる値)。しかしこれでは a=0 かつ b=0 のときに、すべてのパラメータが 0 という自明な解しか得られません。x3 の項と x2y の項がない3次曲線はいくらでもありうるので、自明ではない解の中に a=0b=0 となるものは当然あるはずです。つまり、αna+βnb の形は連立1次方程式の解の全部は表していません。

では、上記の連立1次方程式の「自明ではない解すべてを表す一般解」はどういう形でしょうか。それには8つの方程式を満たす独立な数値の組(=連立1次方程式の解)を2組用意します。つまり無数にある解の中から2つをピックアップし、それをベクトル表現で、

V1=a1b1 ⋯ j1 V2=a2b2 ⋯ j2

とします。"独立" とはこの場合、2つの数値群が異なった3次曲線を表現しているということです。そして、同時に 0 にはならない新たな2つのパラメータを導入します。それを λ1,  λ2 とすると、

λ1V1+ λ2V2

が連立1次方程式の一般解(不定解)になります。自由な2つのパラメータの1次式で表現されていて、8つの方程式を満たすことが明らかだからです。この一般解をもとに3次曲線の方程式を表現します。そこで、

f1= a1x3+b1x2y+ ⋯   ⋯ +h1x+i1y+j1

f2= a2x3+b2x2y+ ⋯   ⋯ +h2x+i2y+j2

の2つの関数を考えると、f1=0 の3次曲線と f1=0 の3次曲線は、共に8点を通ります。従って、

λ1f1+ λ2f2=0

8点を通り、2つの自由なパラメータで表現された3次曲線群です。従って、これが P1,  P2 ⋯ ,  P8 を通るすべての3次曲線を表す一般形です。



以上を踏まえて命題 18.2 を検討します。命題を再掲すると、


2つの3次曲線、C1C2 が相異なる9点、P1,  P2 ⋯ ,  P9 を通るとする。

別の3次曲線 D が 9点のうちの8点、P1,  P2 ⋯ ,  P8 を通るとき、DP9 も通る。


でした。この前半の2つの3次曲線の関数式を

C1 : F1=0 C2 : F2=0

とします。F1=0F2=0 も9点、P1,  P2 ⋯ ,  P9 を通る3次曲線です。従って F1=0F2=0P1,  P2 ⋯ ,  P88点を通る2つの3次曲線でもある。ということは、P1,  P2 ⋯ ,  P8 の8点を通るすべての3次曲線は、

F= λ1F1+ λ2F2=0

で表されます。従って、命題の後半に出てくる別の3次曲線 DP1,  P2 ⋯ ,  P8 の8点を通るとすると、DF=λ1F1+λ2F2=0 で表現できます。

ここでよく考えてみると、3次曲線 F=0 は9点目の P9 を通るのでした。従って DP9 を通ります。これで 18.2 が成り立つことが証明できました。以上を振り返ってまとめると次のようになります。


・ 8つの点を通る3次曲線は無数に存在する。
・ 8つの点を通る2つの3次曲線が、2つとも9つ目の(特別な)点 P を通るとしたら、8点を通るすべての3次曲線は P を通る。


18.2 を踏まえて、楕円曲線の加法群で結合則が成り立つことを証明します。ポイントは「相異なる3つの直線を "3次曲線" として扱う」ことです。この扱いがなぜ可能かと言うと、3つの直線を、

f1=a1x+b1y+c1=0 f2=a2x+b2y+c2=0 f3=a3x+b3y+c3=0

としたとき、

FL=f1·f2·f3=0 で表される2次元平面上の点の集合は3つの直線を表しているが、3次曲線の一般形である

からです。もちろん、FL=0 の3次曲線の一般形は、係数 ab ⋯ ij に特別の関係があります。だからこそ3つの直線を表現しているわけです(数学用語で言うと "退化した" 3次曲線)。しかし特別の関係があるとしても 18.2 を証明した議論の筋道には全く影響しません。このことを踏まえて結合則を証明すべき図11を再掲します。

図K:結合則の検証.jpg
図11:結合則
「楕円曲線論入門」より引用

証明すべきことは 18.1 の、


P+QR を結ぶ直線と、Q+RP を結ぶ直線の交点を T とすると、楕円曲線は T を通る。


でした。図11で、

C1 : 点線の3直線から成る3次曲線
C2 : 実線の3直線から成る3次曲線

とすると、C1(点線) と C2(実線)は次の9つの点を通ります。

P1O
P2P
P3Q
P4R
P5PQ
P6QR
P7P+Q
P8Q+R
TP+QR を結ぶ直線と、Q+RP を結ぶ直線の交点

9つの点を通るのはそういう風に作図したからです。一方、楕円曲線は T 以外の P1P8 の8点を通ります。8点は楕円曲線上の点として作ったからです。T だけは違って、楕円曲線上の点として作ったのではなく2直線の交点です。しかし 18.2 によって楕円曲線は T も通る。これで、楕円曲線上の有理点が作る加法群で結合則が成り立つことの証明が完成しました。



零元を無限遠点にとる加法群ではどうなるでしょうか。この場合は「射影平面での3次曲線」を考える必要があります。射影平面での3次曲線の一般形は、

[射影平面における3次曲線の一般形]
AX3+BX2Y+CXY2+DY3+EX2Z+FXYZ+GY2Z+HXZ2+IYZ2+JZ3=0

ですが、証明の筋道は xy平面と全く同じです。というのも、証明のコアのところは「10変数の連立1次方程式(方程式数が8)の不定解が、一般形でどう表現できるか」であり、曲線方程式の未知数が xy の2つであっても XYZ の3つであっても証明の論理に影響がないからです。

というわけで、楕円曲線暗号で実際に使われる「無限遠点を零元にした加法群」においても結合則が成り立つのでした。


19. パスカルの定理


最後に余談ですが、18.2(ケーレー・バカラックの定理)から証明できる別の定理があります。「パスカルの定理」です。これはパスカルが16歳のときに発表した「円錐曲線試論」にあります。最も一般的な形で言うと次の通りです。

19.1  パスカルの定理

円錐曲線上に異なる6点、P1P6 をとる。

直線 P1P2P4P5 の交点を Q1
直線 P2P3P5P6 の交点を Q2
直線 P3P4P6P1 の交点を Q3

とすると、Q1,  Q2,  Q3 は同一直線上にある。


これは美しい定理です。どんな円錐曲線かを言っていないし(円、楕円、放物線、双曲線)、円錐曲線上の6点の位置も、その順序も何も言ってない。それにもかかわらず「同一直線上にある」という、シンプルで強い断定が結論にくる ・・・・・・。個人的経験を言うと、高校生時代にこの定理を知ってその "不思議さ" が印象的だったことを覚えています。

この定理の例を図19と図20、図21に示します。Q1P7Q2P8Q3T と書きました。円錐曲線が円か楕円であり、6点を円・楕円の周上に順に(= 一周するように)とった場合には、パスカルの定理は、

円・楕円に内接する6角形の対辺が作る2直線の交点3つは同一直線上にある

と簡潔に表現できます(図19)。図20の楕円上の点の位置は図19と同じですが、名前付けが違います。しかし3点が同一線上に並ぶのは同じです。このように6点は楕円上のどの位置にどの順序で配置してもよいわけです。

図O:パスカルの定理(1).jpg
図19 パスカルの定理(1)

図P:パスカルの定理(2).jpg
図20 パスカルの定理(2)

図Q:パスカルの定理(3).jpg
図21 パスカルの定理(3)

定理の証明は次の通りです。3次曲線、C1,  C2,  D を、

C1赤色の3次曲線
C2青色の3次曲線
DP7P8 を(T とは関係なく)結んだ直線と円錐曲線が作る、黒色の3次曲線

とします。C1C2 は 、P1P8T を通ります。そういう風に作図したからです。一方、DP1P8 を通ります。そうすると 18.2 より DT も通ります。DP7P8 を通るように作図しましたが、T を通るようには作図していません。それでも T を通る。

その T は、D の円錐曲線部分にはありません。なぜなら、T は直線 P3P4 上に(ないしは直線 P6P1 上に)ありますが、円錐曲線と直線の交点は高々2つであり、P3,  P4 が(ないしは P6,  P1 が)すでに円錐曲線上にあるからです。従って TD の直線部分にあるしかない。これで証明が終わりました。

パスカルの定理のよくある証明は、円の場合に補助円を用いて証明し、それを "斜めから見たら" 楕円でも成り立つ、とするものです。しかしこの定理は、すべての円錐曲線(=2次曲線の一般形、ax2+bxy+cy2+dx+ey+f=0 で表される曲線)で成り立つことが上の証明から分かります。

ちなみに、パスカルの定理は「円錐曲線」を「2直線」に置き換えても、交点ができるように点を配置すれば成り立ちます(パップスの定理と呼ばれる。パップスは4世紀のアレキサンドリアの数学者)。

図R:パップスの定理.jpg
図22 パップスの定理

軸を含む平面で円錐を2分割すると(平行でない)2直線になり、それは(退化した)円錐曲線とも言えますが、たとえ平行な2直線であっても2次曲線の一般形で表現できるので定理は成り立ちます。



楕円曲線暗号は「楕円曲線上の有理点による加法群」の上に作られた暗号ですが、

楕円曲線上の有理点で加法群を構成できることと、パスカルの定理が成り立つことには、意外にも共通の数学的理由がある

のでした。




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No.315 - 高校数学で理解する楕円曲線暗号の数理(1) [科学]

このブログでは、インターネットをはじめとする情報通信インフラで使われている「公開鍵暗号」について、今まで3回にわたって書きました。


の3つです。今回はその継続として、公開鍵暗号の一種で広く使われている「楕円曲線暗号」について、その数学的な背景を書きます。楕円曲線暗号は、1985年に米国 IBM の Victor Miller と米国 Washington 大学の Neal Koblitz によって独立に提案されました。暗号に限らず科学技術の世界では、同時期に同じアイディアが独立に考案されるというケースが見られます。

例によって高校レベルの数学知識だけを前提にし、証明なしに用いる定理や命題はないものとします。ただし、No.310、No.311、No.313 の内容やそこで証明した定理は既知とします。特にその中の、


です。なお、楕円曲線(Elliptic Curve)は、2次曲線である楕円(Ellipse)とは関係ありません。楕円の弧長を積分で求める時に出てくる数式なのでその名があるだけです。暗号の名を楕円暗号とするむきもありますが、誤解されるでしょう。楕円曲線暗号(Elliptic Curve Cryptography)が正しい言い方です。


15. 楕円曲線(Elliptic Curve)とは


楕円曲線とは、次の式で表される平面3次曲線です。

y2=x3+ax+b

係数の ab は有理数とします。楕円曲線の式の「標準形」と呼ばれるものは何種類かありますが、上式はその最も簡単な形です。楕円曲線暗号ではこの形を使うので、以降、楕円曲線といえばこの形で表される3次曲線とします。Wikipedia に非常にわかりやすい「楕円曲線のカタログ」が載っているのでそれを引用します。

b=-1 b=-0 b=-1 b=-2
a=-2 図A:楕円曲線のカタログ.jpg
a=-1
a=0
a=1
図1:楕円曲線のカタログ
Wikipediaより。楕円曲線には曲線の "成分" が1つのものと2つのものがある。なお、この図で a=b=0 だけは楕円曲線ではない。後述。

図でわかるように楕円曲線は成分(= ひとつながりの曲線)が1つのものと2つのもの(その1つは閉じた曲線)があります。この違いは何でしょうか。また、図の中にある a=0b=0 の曲線は、実は楕円曲線ではありません。このあたりの説明は以降の通りです。楕円曲線の x の式を、

x3+ax+b=fx

と書きます。y=fx のグラフは少なくとも1回、x軸を横切るので、fx=0 の3次方程式は少なくとも1つの実数解を持ちます。この3次方程式が3つの異なる実数解を持つ条件を調べます。関数 fx が極値をとるとしたら、そのときの x は方程式、

f'x=0

の解です。この解を x1x2 とすると、

x1=--a3 x2=--a3

です。x がこの値をとるときの2つの極値がゼロでなく符号が逆であれば、fx=0 は3つの異なる実数解をもちます。つまりその条件は、

fx1·fx2<0

です。x1x2 を入れて計算してみると、この条件は、

4a3+27b2<0

となります。不等号の向きが逆なら実数解は1つだけです。この不等号の左辺は「3次方程式の判別式」の符号を逆にしたものです。3次方程式の判別式 D は、いま扱っている楕円曲線の式の場合、

D=-4a3+27b2

です。従って、

・ D>0 のとき、fx=0 は3つの実数解をもち、楕円曲線で y=0 となる点は3つある。このとき楕円曲線の成分は2つになる(図2)。

・ D<0 のとき、fx=0 の実数解は1つであり、楕円曲線で y=0 の点も1つである。このとき楕円曲線の成分は1つになる(図3)。

となります。この2つのケースで楕円曲線をを図示すると、図2(a=-2b=1)、図3(a=-2b=2)のようになります。

図B:成分が2つの楕円曲線.png
図2:成分が2つの楕円曲線
y2=x3-2x+1

図C:成分が1つの楕円曲線.jpg
図3:成分が1つの楕円曲線
y2=x3-2x+2

ここで D=0 のときにどうなるかを調べてみます。不定方程式、

4a3+27b2=0

の整数解を求めるために、a=-3k20k と置くと、

a=-3k2 b=±2k2

が解です。k=01 とすると、

ab= 00,   -32,   -3-2

が解のうちの3組です。まず、ab=00 のとき曲線の式は、

y2=x3

となり、図4のように「尖点」をもつ曲線となります(Wikipedia の "楕円曲線のカタログ" にあったものです)。尖点では微係数が定まらず、曲線の接線が引けません。

図D:尖点をもつ3次曲線.jpg
図4:尖点をもつ3次曲線
y2=x3

ab=-32 のときの曲線の式は、

y2 =x3-3x+2 y2 =x+2x-12

となり、図5のように「結節点」をもつ自己交差曲線となります。結節点において接線は引けますが、2種類あって一意に定まりません。

図E:結節点をもつ3次曲線.jpg
図5:結節点をもつ3次曲線
y2=x3-3x+2

ab=-3-2 のときの曲線の式は、

y2 =x3-3x-2 y2 =x-2x+12

となり、図6のように -10 に「孤立点」が発生します。この孤立点でも接線は引けません。

図F:孤立点をもつ3次曲線.jpg
図6:孤立点をもつ3次曲線
y2=x3-3x-2

尖点、結節点、孤立点を曲線の「特異点」と言い、特異点をもつ3次曲線を特異3次曲線と言います。そして特異3次曲線は y2=x3+ax+b の形であっても楕円曲線とは言いません。つまり、楕円曲線の正確な定義は次の通りです。

15.1  楕円曲線の定義

次の式で表される平面曲線を楕円曲線と言う。

y2=x3+ax+b 4a3+27b20


この定義による楕円曲線は "なめらか" であり、曲線上の全ての点で唯一の接線が引けます。以降、この楕円曲線の性質を調べていきます。



楕円曲線暗号は「楕円曲線上の点の加法群」で構成する暗号です。そこでまず、No.313 でも触れた「群(group)」とは何かを復習します。


群の定義


群(G で表します)とは、何らかの2項演算 "" が定義された集合です。演算が定義されているとは、集合 G の任意の2つの元(同じ元であってもよい)、ab を演算した結果の abG の元であることを意味します。この2項演算は次の3つの条件を満たす必要があります。この「条件を満たす2項演算が定義された集合」が群 G です。

(単位元) ae=ea=a となる元 e が存在
(逆元) ab=ba=e となる b が、任意の a について存在
(結合則) abc=abc


演算 "" を乗算と考えるとき、G を乗法群といいます。乗法群では2項演算を a×ba·bab などと書きます。単位元は 1 と書くこともあります。また、逆元 ba-1 です。同一の n 個の元 a に対して演算 "" を n-1 回行った結果は an で「累乗(あるいは冪乗)」と呼びます。

演算 "" を加算と考えるとき、G を加法群といいます。加法群では2項演算を a+b と書きます。加法群の単位元を零元と呼び、0 と書くことがあります。また逆元 b-a です。同一の n 個の元 a に対して演算 を行った結果は naで「スカラー倍」と呼びます。

乗法群か加法群かは多分に "言葉の綾" の面があり、どちらがイメージしやすいかによります。但し、加法群と言った場合は暗黙に可換則、ab=ba が成り立つ群を言います。可換則が成り立つ群を、ノルウェーの数学者 Abel の名前をとって「アーベル群」と呼びます。もちろん「乗法」や「加法」のイメージとは結びつきにくい群もたくさんあります。


楕円曲線上の有理点


楕円曲線上の有理点からなる加法群を構成することができます。有理点とは、楕円曲線上の点、x0y0 で、x0y0 も有理数の点です。一般に、楕円曲線が有理点を持つかどうかを有限回の手続きで決定する方法は知られていません。しかし、1個か2個の有理点があれば、次のような手続きで次々と有理点を見つけることができます。以下の記述では PQR などを有理点とし、

・ PQ を結ぶ直線がふたたび楕円曲線と交わる点を PQ(図7の左)

・ P 点における接線が楕円曲線と交わる点を PP(図7の右)

と定義します。ここでの "" は乗算の記号ではなく「"" の前後に書かれた楕円曲線上の点ではない、もう一つの直線と楕円曲線の交点」の意味です。

図G:楕円曲線上の有理点.jpg
図7:楕円曲線上の有理点
J.H.シルヴァーマン、J.テイト著「楕円曲線論入門」(シュプリンガー・フェアラーク東京 1995)より引用

楕円曲線論入門.jpg
J.H.シルヴァーマン、J.テイト
「楕円曲線論入門」
(シュプリンガー・
フェアラーク東京 1995)
図7で、PQPP も有理点です。なぜなら、係数が有理数の3次曲線と直線の交点を求める式は3次方程式になりますが、3次方程式の2つの異なる根が有理数なら(左図の PQ)、もうひとつの根 PQ も有理数だからです。もう1つが有理数でないと(=無理数や複素数)、3次曲線の係数が有理数という前提に反します。同じように3次方程式の重根(右図の P)が有理数だと、もう一つの根も有理数です。

つまり、楕円曲線上に1つ、ないしは2つの有理点があったとしたら、上記の操作で有理点を増やしていけます(但し有理点が無限個なのか有限個なのかは楕円曲線によります)。そこで有理点の存在を前提として以下の議論を進めます。

なお、楕円曲線暗号で使う加法群は「有限体上の楕円曲線における加法群」であり、有理点を見つけるアルゴリズムがあります(後述)。もちろん有理点の数は有限個です。


楕円曲線上の有理点が作る加法群


楕円曲線上の有理点を "群" にするためには、そこに何らかの演算を定義する必要がありますが、その定義を次のようにします。加法群なので演算を + と書きます。

 群演算 

・ 任意の有理点を零元(= O )とする。

・ PQ を楕円曲線上の有理点とするとき、点 PQO を結ぶ直線が再び楕円曲線と交わる点を P+Q とする。つまり、

P+Q=PQO

とする。

図H:楕円曲線上の群演算.jpg
図8:楕円曲線上の群演算
シルヴァーマン、テイト「楕円曲線論入門」より引用。零元の記号には、英大文字 O の筆記体が使ってある。以下同様

 零元 

この演算における零元 O が、群の零元の条件を満たしているかどうかを検証すると、

P+O=POO=P

となって、零元の条件を満たしていることがわかります(図9)。もちろん、O+P=P です。

図I:零元であることの検証.jpg
図9:O が零元であることの検証
「楕円曲線論入門」より引用

 逆元 

逆元は次のように定義します。零元 O における接線が楕円曲線と交わる点を S とします。まず、

S=OO

です。そして 点 QS を結ぶ直線が再び楕円曲線を交わる点を、Q の逆元(= -Q)とします。つまり、

-Q=QS

です。このように定義すると

Q+-Q =Q-QO =SO =O

となり、群の逆元の条件を満たすことがわかります(図10)。SO を結ぶ直線は O で2回交差するので、SO=O です。

図J:点の逆元.jpg
図10:点の逆元
「楕円曲線論入門」より引用

 結合則 

群を構成するためには、以上の群演算の定義が結合則を満たしていななければなりません。楕円曲線上に点 PQR をとったとき、

P+Q+R=P+Q+R

となるのが結合則ですが、

P+Q+R =P+QRO P+Q+R =PQ+RO

なので、

P+QR=PQ+R

が示せればよいことになります。「楕円曲線論入門」にはこのことを示した図が載っています(図11)。

図K:結合則の検証.jpg
図11:結合則の検証
「楕円曲線論入門」より引用

P+QR の点と PQ+R の点が、楕円曲線上で同一の点になることの証明は少々複雑なので「18. 結合則が成り立つことの検証と証明」にまわします。



以上のように楕円曲線上の有理点は、直線との交点を使って加法と逆元をうまく定義することで "群" になることがわかりました。ここで注意すべきは、零元は楕円曲線上の任意の有理点でよいことです。これを利用し「零元=無限遠点」としたのが、実用的に使われる楕円曲線上の加法群です。


無限遠点を零元とする加法群


以下では「対称点」という言葉を使いますが、

P=xpyp とするとき、点 xp-ypP の対称点と呼ぶ

ことにします。楕円曲線は x軸について対称なので、点 Px軸で "折り返した" 点が P の対称点です。y=0 となる点が楕円曲線上に1つ、または3つありますが、その点の対称点は同じ点です。

次に「y軸方向の無限遠点」を導入し、「楕円曲線上の有理点と無限遠点を合わせた集合」に群を定義します。ここからは無限遠点を O と書きます。

無限遠点は図に表せないのでイメージしにくいのですが、y軸方向の無限遠に O があると考えます。y 軸の正方向でも負の方向でもかまいません。

楕円曲線上の点 PP=xpyp とし、xp をどんどん大きくすると、楕円曲線の式では x3 の項が支配的になるので、yp2=xp3 と近似できます。つまり yp=±xp32 となり、xp が大きいと ypy軸の遙か上方(と下方)になります。この極限が無限遠点 O と考えます。さらに、

楕円曲線上の任意の点 P を通る y軸に平行な直線を引くと、その直線は P の対称点で楕円曲線と交差すると同時に、無限遠点 O でも交差する

と考えます。この y軸方向の無限遠点 O を零元とする群を構成します。

 群演算 

まず、群演算の加法ですが、

P+Q=PQ の対称点

と定義します(図12)。

図L:加法則.jpg
図12:加法則
「楕円曲線論入門」より引用

こうすると、PQP+Q を結ぶ直線は y軸と平行になり、それは無限遠点 O で楕円曲線と交差します。つまり、

P+Q=PQO

です。この定義は 零元を楕円曲線上の点にとった図8と合致します。この加法の定義で O が群の零元の要件を満たしているかを検証すると、

P+O=POO=P

となって要件を満たしていることがわかります。POP の対称点ですが、P の対称点と O を結ぶ直線が楕円曲線と交差する点は P なので上式が成立します。これは楕円曲線上に O をとった図9と同じです。さらに逆元ですが、Q が楕円曲線上にあったとき、

Q の対称点が Q の逆元(-Q と表記)

と定義します(図13)。

図M:逆元.jpg
図13:逆元
「楕円曲線論入門」より引用

こうすると、

Q+-Q =Q-QO =OO

となりますが、OO=O(=無限遠点の対称点は無限遠点)との自然な定義を行うと、

Q+-Q=O

となって逆元の要件を満たします。結合則についても零元を楕円曲線上にとった場合(図11)と同じ様に成立します。「18. 結合則が成り立つことの検証と証明」でそのこと書きます。

 射影平面 

無限遠点は図で表現できず、何だか "怪しげな" 感じがしますが、数学的に厳密に定義できます。それには射影平面を使います。

平面 xy に対し、3つの数 XYZ で表される "平面" を射影平面と言います。3つの数がありますが3次元空間ではありません。ただし 000 の点は除きます。また、

λ0とするとき
XYZλXλYλZ は同じものである(同値である)

と定義します。xy平面から射影平面の対応は、

xy  xy1

とし、その逆の対応は、

Z0 のとき
XYZ  XZYZ

です。この対応からわかるように、射影平面には xy平面にない点が含まれています(Z=0 の点)。

射影平面での楕円曲線の式は、xy平面の楕円曲線の式で、x=XZ,  y=YZ とおき、全体に Z3 をかけて同次化(=変数項の合計次数をそろえる)します。その結果、

Y2Z=X3+aXZ2+bZ3

の同次方程式が、射影平面での楕円曲線になります。ためしに、図2の楕円曲線(a=-2b=1)と y軸との交点を計算してみると、xy平面では、

{ y2=x3-2x+1 x=0

の連立方程式を解いて、0±1 となります。一方、射影平面では、x=0X=0 なので、

{ Y2Z=X3-2XZ2+Z3 X=0

が、楕円曲線と直線の交点を求める連立式になります。この解は、αβ0 ではない数として、0α±α0β0 です。射影平面の同値関係を利用すると、

0±11 010

が楕円曲線と直線の交点になり、交点は3つあることになります。ここで xy平面の交点には現れなかった 010y軸方向の無限遠点です。これを一般化すると次のようになります。つまり、楕円曲線と y軸に平行な直線の式を、

{ y2=x3+ax+b x=c

とすると、これに対応する射影平面の式は、

{ Y2Z=X3+aXZ2+bZ3 X=cZ

です。010 はこの2式を必ず満たします。つまり全ての楕円曲線は 010 を通り、全ての y軸に平行な直線は 010 を通る。従って、楕円曲線とy軸に平行な直線は(y軸方向の)無限遠点で交わることになります。

楕円曲線の計算には現れませんが、無限遠点にもいろいろあって、100x軸方向の無限遠点、αβ0 は任意方向の無限遠点です(αβ0 ではない数)。

xy平面の2直線は、平行なときには交点がありませんが、射影平面の2直線は必ず1点で交わります。また射影平面の楕円曲線の1点を通る直線は、楕円曲線と必ず3点で交わります(直線が楕円曲線の接線の場合は、接点での交差数を2と数えます)。このように、交差を統一的に扱えるのが射影平面の特徴の一つです。

以上のような数学的裏付けのもとに導入したのが無限遠点です。これを xy平面では、

・ y軸方向の無限遠のところに無限遠点 O がある
・ 楕円曲線は O を通る
・ y軸に平行な直線は O で楕円曲線と交わる

とイメージしてよいわけです。


加法式・2倍式


楕円曲線上の加法を計算式で表します。楕円曲線上の3点を次のように定義します。

P1+P2=P3 P1=x1y1 P2=x2y2 P3=x3y3

とします。P1P2 を結ぶ直線を y=λx+μ とすると、連立方程式、

{ y2=x3+ax+b y=λx+μ

の解が P1P2x3-y3 です。この2つの式から y を消去すると、

x3+ax+b-λx+μ2=0

が得られますが、この式は、

x-x1 x-x2 x-x3=0

と同一のはずです。そこで x2 の係数を比較すると、

-λ2=-x1-x2-x3

が得られます。つまり、

x3=λ2-x1-x2

となります。この x3 を直線の式に入れると、

-y3=λx3+μ

ですが、y1=λx1+μ なので μ を消去すると、

y3=-y1+λx1-x3

となります。これが基本の加法式です。これを P1P2 の配置パターンごとにまとめると、次の通りです。

 x1x2 のとき 

{ x3=λ2-x1-x2 y3=λx1-x3-y1 λ=y2-y1x2-x1

 x1=x2y1=y20 のとき 

この場合は P1P2 を通る直線は P1 における楕円曲線の接線となり、直線の傾き λ は上の式のままでは計算できません。そこで y2=x3+ax+bx で微分すると

2ydydx=3x2+a

なので、

λ=3x12+a2y1

となります。x2x1 に置き換えてまとめると、

{ x3=λ2-2x1 y3=λx1-x3-y1 λ=3x12+a2y1

P1+P1 の計算式です。これは P1"2倍"(一般にはスカラー倍)であり、2P1 と書きます。

 x1=x2y1y2 のとき、あるいは y1=y2=0 のとき 

この場合、P2=-P1 なので、定義により

P1+P2=O

です。



なお、P1P2 は、楕円曲線の定義式、

y12=x13+ax1+b y22=x23+ax2+b

を満たしますが、この左辺と右辺のそれぞれを引き算すると、

y1+y2y1-y2= x1-x2 x12+x1x2+x22 +ax1-x2

y1-y2x1-x2=x12+x1x2+x22+ay1+y2 =λ

となって λ の別の表現が得られますが、これは x1=x2 でも使えます。従って「加法式(第2形)」を次のようにも表現できます。

 y1+y20 のとき 

{ x3=λ2-x1-x2 y3=λx1-x3-y1 λ=x12+x1x2+x22+ay1+y2

 y1+y2=0 のとき 

P1+P2=O


楕円曲線の具体例


楕円曲線とその有理点、加法則の適用例として、整数係数の3つの楕円曲線を調べてみます。以後の記述では、P=xy とするとき、nP-P-nP の記述を使いますが、それぞれの定義は、

nP=P+P+ ⋯+Pn -P=x-y -nP=-P+-P+ ⋯+-Pn

です。また、nP=xnyn とすると、加法の定義から -nP=xn-yn です。

 y2=x3+1 

図Ma:a=0,b=1.jpg
図14:楕円曲線の例1
y2=x3+1

この楕円曲線上の有理点は、次の5つの整点(= 座標値が整数の点)です。

P1=23 P2=01 P3=-10 P4=0-1 P5=2-3

ここで、群の演算式を使って nP1 を計算してみると、

2P1=01=P2 3P1=-10=P3 4P1=0-1=P4 5P1=2-3=P5 6P1=O

となります。P1 は 6倍する(= 6個加算する)と O(=零元)になる。このことを「P1位数(order)が 6 である」と言います。また、

3P2 =32P1 =6P1 =O

なので、P2 の位数は 3 です。同様にして、P3P5 の位数はそれぞれ 2,  3,  6 になります。

楕円曲線 y2=x3+1 の有理点は P1P5 の点しかありません。また位数が有限値なので、これらは有限位数の点です。これらの点と 零元 O を合わせて群を構成します。

しかし楕円曲線上の有理点が有限位数をもつとは限りません。それが次の例です。

 y2=x3-x+1 

図Mb:a=-1,b=1.jpg
図15:楕円曲線の例2
y2=x3-x+1

方程式 y2=x3-x+1 の整数解を調べると、手計算で -1±1,  0±1,  1±1,  3±5,  5±11 の10個の解が容易に見つかります。今、P1=11 とし、nP1 を順に計算してみると、次のようになります。

1P1=11 2P1=-11 3P1=0-1 4P1=3-5 5P1=511 6P1=1478 7P1=-119-1727 8P1=1925-103125 9P1=56-419 10P1=15912118611331 =3·531121861113 1.314051.39820 11P1=-25536179816859 =-3·5·1719223·347193 -0.706371.16358 12P1=-223784-2465521952 =-22324·72-5·493126·73 -0.28444-1.12313 13P1=56652809-399083148877 =5·11·103532-43·9281533 2.01673-2.68062 14P1=2623926014231459132651 =19·138132·172423145932·172 10.0880431.89919 15P1=2346449729882445311089567 =23·7·419223211·59·135972232 0.471830.79574

途中で 56-419 という、手計算では分からない整点が現れました。計算してみると、

563-56+1=175561 =4192

となって、確かにこれが楕円曲線上の点であることが分かります。15P1 までの結果を掲げましたが、この計算は O(= 零元)で終わることがなく、無限に続きます。つまり、P1=11無限位数の点です。

さらに、同様の計算を-P1=1-1 から始めると、y 座標の符号が逆転した点列、-nP1 が得られます。そして実は、

楕円曲線 y2=x3-x+1有理点の全ては、
mP1mは正負の整数)
の形で表現できる

ことが分かっています。0P1=O と定義すれば、楕円曲線で定義された加法群の元は mP1m は整数)の形で表現できるとも言えます。この性質を有限生成と言い、P1生成元(generator)と呼びます。一般には、生成元は複数個あります。つまり楕円曲線上の有理点は r 個の有理点 Qi を使って、

m1Q1+ m2Q2+ ⋯+ mrQr

の形で表現できます。この r を楕円曲線の階数(rank)と言います。なお、有限個の有理点しかもたない 図14 のような楕円曲線の階数は 0 とします。

楕円曲線 y2=x3-x+1 の階数は 1 です。そして今までの結果から、階数が 1 の楕円曲線の有理点と零点 O は、加法に関して整数(= 正の自然数と負の自然数と 0)と全く同じ構造をもつことが分かります。ただ、楕円曲線の有理点の加法は普通の整数の加法よりよほど複雑な演算です。これが楕円曲線暗号を作るときの基礎となっています。

 y2=x3-4x+1 

図Mc:a=-4,b=1.jpg
図16:楕円曲線の例3
y2=x3-4x+1

この楕円曲線の階数は 2 です。従って生成元は2つで、

P1=01 P2=34

です。曲線上には無限個の有理点がありますが、すべてはこの2つの生成元から「有限生成」されます。無限個の有理点のうち、生成元を含めて 22個が整点ですが(y座標の正負を無視すると 11個)、もちろんそれらの整点も生成元で表現できます。実際に計算してみると以下の通りです。

P1+P2=-21 2P1=47 2P1-P2=114-1217 2P1+P2=2-1 2P1+2P2=20-89 3P1+P2=-1-2 4P1+P2=10-31 4P1+2P2=1241 8P1+3P2=1274-45473

もちろん、計算していくと上記の整点だけでなく有理点が次々と生成され、それが無限に続きます。上の計算で P1P2 の符号を逆転させると y 座標の符号が逆の整点が得られます。たとえば、

-2P1-P2=21 -2P1+P2=1141217

です。以上を含めてこの楕円曲線の整点は、

-2±1 -1±2 0±1 2±1 3±4 4±7 10±31 12±41 20±89 114±1217 1274±45473

となります。最大の整点は 1274±45473 ですが、実際に計算してみると、

12743-4·1274+1 =2067793729 =372·12292 =454732

となって、楕円曲線上の点であることが確認できます。この最大の整点を2つの生成元に分けて、それぞれを計算してみると、

8P1=59965740625681464259138209494913671 =22·32·5·79·421772·1132455419·101941173·1133 3P2=1304032209-47063372103823 =7·13·1433472-22·353·33331473

となりますが、この2つの有理点を楕円曲線の加法式で 8P1+3P2 とすると整数(整点)が現れるのも不思議な感じがします。



以上の「楕円曲線の有理点から成る加法群」を踏まえ、これ以降は楕円曲線暗号で使われる「有限体上の楕円曲線による加法群」に移ります。


有限体上の楕円曲線による加法群


以降に出てくる有限体 Fp と 乗法群 Fp については、No.313「高校数学で理解する公開鍵暗号の数理:10. 有限体と乗法群」 で定義したものです。

楕円曲線暗号に使われる楕円曲線は、有限体 Fp で定義された "曲線" で、次の式を満たすものです。

y2=x3+ax+b 4a3+27b20

xyab は全て Fp の元です。「この式を満たす全ての xy と 零点 O の集合」に対して演算を定義して群を構成します。演算を加法と考えて + と書きます。この "曲線" 上の3点を、

P1+P2=P3 P1=x1y1 P2=x2y2 P3=x3y3

とするとき、群の演算式は次のように定義されます。

 x1x2 のとき 

{ x3=λ2-x1-x2 y3=λx1-x3-y1 λ=y2-y1x2-x1

 x1=x2y1=y20 のとき 

{ x3=λ2-2x1 y3=λx1-x3-y1 λ=3x12+a2y1

 x1=x2y1y2 のとき、あるいは y1=y2=0 のとき 

P1+P2=O

つまり、実数平面の有理点と無限遠点(=零元)で構成された群の演算式と全く同じです。もちろん加減乗除は Fp で行います。これが群になる理由は、有理数体(有理数全体の集合)も有限体 Fp も「体」であり、加減乗除は全く同一形式で記述できるからです。ただ、有理数体と違って Fp の元の数は有限個であり、群の元の数も有限個(=有限群)です。以降、Fp 上の楕円曲線、y2=x3+ax+b による有限群を Eabp と表記します。

Fp 上の楕円曲線は、もはや "曲線" の形をしていませんが、これを可視化した図が Wikipedia にあるので、引用します。

図N:有限体上の楕円曲線(p=89,a=-1,b=0).jpg
図17:有限体上の楕円曲線 E-1089 
F89,  y2=x3-x 
赤丸が "楕円曲線上の点" を表し、計79個ある。零元(無限遠点)と合わせて、群の元の総数は 80 である。
(Wikipedia より)



以上が「有限体上の楕円曲線が作る加法群」で、楕円曲線暗号はこの加法群で構成されます。その話を次回にします。



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No.314 - 人体に380兆のウイルス [科学]

No.307-308「人体の9割は細菌」で、ヒトは体内や皮膚に棲む微生物と共存していることを書きました。これら微生物には、もちろんヒトに有害な事象を引き起こすものもありますが、ヒトの役に立ったり、ヒトの免疫機構を調整しているものもある。人体は微生物と共存することを前提に成り立っています

No.307-308での "微生物" は、題名にあるように主に細菌でした。しかし忘れてはいけない微生物のジャンルはウイルスです。そして人体はウイルスとも共存しています。人体に共存する微生物の総体(=微生物そう)をマイクロバイオーム(Microbiome。厳密にはヒトマイクロバイオーム)と言いますが、ウイルスの総体(=ウイルスそう)をバイローム(Virome。ヒトバイローム)と言います。言葉がややこしいのですが、マイクロバイオームの一部としてバイロームがあると考えてよいでしょう。

ウイルスというと、病気を引き起こす "ヒトの敵" というイメージが強いわけです。新型コロナウイルスがまさにそうだし、No.302「ワクチン接種の推奨中止で4000人が死亡」でとりあげたのは、子宮頸癌を引き起こすヒトパピローマウイルス(HPV)とそのワクチンの話でした(HPV は他の癌の原因にもなりうる)。大きな社会問題にもなった肝炎を引き起こすウイルスがあるし、エイズもウイルスの感染で発症する病気です。もちろんインフルエンザもウイルスが原因です。

しかしウイルスの中にはヒトに "好ましい" 影響を与えるものもあります。その好例が、No.229「糖尿病の発症をウイルスが抑止する」で紹介したある種のウイルスで、膵臓がこのウイルスに感染していると、遺伝性の自己免疫疾患である1型糖尿病の発症が抑止されるのでした。

日経サイエンス 2021-7.jpg
日経サイエンス
2021年7月号
人体と共存する細菌に "善玉菌" と "悪玉菌" があるように、ウイルスにも "善玉ウイルス" と "悪玉ウイルス" があることが想定されます。では、ヒトの "ウイルス叢" = "バイローム" の全体像はどうなっているのか。その探求が、この10年ほどの間に進んできました。ただ、この種の研究はまだ始まったばかりであり、本格的なバイロームの解明はこれからと言えます。

そのバイローム研究の最新状況を紹介した雑誌記事があったので、No.307-308「人体の9割は細菌」の続きとして紹介したいと思います。記事の題は「あなたの中にいる380兆のウイルス」で、日経サイエンス 2021年7月号に掲載されたものです。著者はカリフォルニア大学サンディエゴ校の病理学者、 デヴィッド・プライド(David Pride)准教授です。これは Scientific American 誌 2020年12月号の「The Viruses Inside You」を翻訳したものです。


ウイルスは人体の一部


新型コロナウイルス(ウイルス名:SARS-Cov-2)の影響もあり「ウイルスは病気をもたらすもの」という認識が一般的でしょう。しかし病気でなくても、普段からヒトの体内には何兆個ものウイルスが存在しています。このことは研究者の共通認識になってきました。


実は多くのウイルスが肺や血液、神経の細胞内や、多数の腸内細菌の内部に隠れており、人の体内に静かに潜んでいることが明らかになっている。

現時点で生物学者たちは 380兆個のウイルスがあなたの体の表面や内部で生息していると見積もっている。

デヴィッド・プライド
「あなたの中にいる380兆のウイルス」
日経サイエンス 2021年7月号

ヒトの細胞の総数は、最新の研究では約37兆個といわれています(赤血球を除くと約11兆個)。ヒトと共存している細菌は、数からいうと腸内細菌がほとんど(9割以上)で、ざっと100兆個といわれています。その細菌より多数のウイルスが体内にいることとになります。ウイルスの大きさが細菌の大きさの100~1000分の1であることを考えると、これは驚くに当たらないでしょう。これらの細菌やウイルスの数は、今後の研究の進展に従って増加することが考えられます。


病気を引き起こすウイルスもいるが、多くは単にあなたと共存しているだけだ。例えばペンシルベニア大学の研究者たちは2019年後半、気道でレドンドウイルスに分類される19種類のウイルスを発見した。いくつかは歯周病や肺疾患に関連していたが、他のウイルスはむしろ呼吸器疾患を抑えているようだった。

以前は、私たちの人体は "自分の" 細胞でできていて、それがときどき微生物の進入を受けるだけだと考えられてきた。しかし科学的知識が急速に拡大したことで、実は私たちは細胞と細菌、菌類、そして最も多数派を占めるウイルスが同居する1つの生物集団、つまり「超個体」であることが明らかになっている。

「同上」

これらのウイルスは、皮膚表面を含む体内のあらゆる場所に生息しており、脳の脊髄からも発見されています。


安価なゲノム配列解読手法によって人間の口腔と腸で大量のウイルスが発見されたのは12年前のことだが、2013年頃までには皮膚の表面や気道、そして血液や尿中にもウイルスの存在が明らかになった。

最近では、さらに驚異的な場所でウイルスが見つかっている。2019年9月、私はゴース(Chandrabah Ghose)らとともに、さまざまな病気のための検査を受けていた成人たちの脳脊髄液中で発見したウイルスと詳しく報告した。それらのウイルスはいくつかの異なった科に属しており、既知の病気に関連づけられているものはなかった。また、私たちは血漿と間接液、母乳の中にも同じウイルスを発見した。

それまでヘルペスウイルスなどごく少数の感染症ウイルスが脳脊髄液中に潜入しうることは知られていたが、何も病気を引き起こさないウイルスがまるで偶然そこに居合わせたかのように見つかったことは驚きだった。微生物のいない環境であるはずの中枢神経系に、そこそこ多様なウイルス集団が存在しているのだ。

「同上」

No.307-308「人体の9割は細菌」で書いたように、細菌のマイクロバイオームは赤ちゃんが生まれるその時点から形成されます。また母乳にも細菌が含まれていて、それが赤ちゃんに伝わる。このような状況はウイルスのバイロームでも同じのようです。


私たちのバイロームは生まれたときから蓄積が始まるようだ。生後間もない乳児の腸にも非常に多様なウイルスが存在することが明らかになっている。おそらくそれらは母親に由来し、一部は母乳から摂取されると考えられる。

出生後数週から数ヶ月たつうちに、これらのウイルスの一部は数が減る。他方で、別のウイルスが空気や水、食物、他の人々から乳児の体内に入ってくる。これらのウイルスは数と多様性を増していき、細胞に感染してそこで長年にわたり存在し続ける。

「同上」

細菌と同じように、人のバイロームは、その人の「個人情報」になります。しかもこの個人情報は、人から人へと伝播しやすいという性質があります。新型コロナウイルスやインフルエンザウイルスの呼吸器系に感染するウイルスは、咳などの飛沫でも容易に伝播するのです。


同居している人たちは、自身のバイローム中のウイルスの約25%を共有しているようだ。ウイルスは、せきなどの典型的な伝播手段でうつされるだけでなく、人と人の軽い接触、流し台やトイレや机の共同使用、そして食物を分け合うことによっても、同居メンバー間で伝播しうる。

私たちが調べた人数は少ないものの、恋人どうしや夫婦といったロマンチックな関係がない同居人どうしでも、ロマンチックな関係にあるひと同士と同じくらいの割合のウイルスを共有していることをデータは示している。親密な接触はほとんど違いを生まないように思われる。同じ空間に住んでいるだけで十分だ。

「同上」

要するに、同居人の間でのウイルスの伝播(バイロームの共有)は、性関係(=ロマンチックな関係)のあるなしには影響されないわけです。


細菌に感染するファージ


ウイルスは自前の増殖機能がないため、細胞に感染することで増えて広がっていきます。実は、ヒトの体内にいるウイルスの多くは、ヒトの細胞ではなく、体内に生息する細菌に感染するウイルスです。このタイプのウイルスをバクテリオファージ(略してファージ)と呼びます。


私たちの体内にいるウイルスの多くは私たち自身の細胞を標的としているのではない。代わりに、私たちのマイクロバイオームを構成している細菌を探す。これら細菌に感染するウイルスは「バクテリオファージ」と呼ばれる(略して「ファージ」といわれることが多い)。細菌の細胞内に進入したファージは細菌が持っている装置を使って自身のコピーを作り、たいていは細胞を破裂させて飛び出し、他の細菌に観戦する。この仮定で宿主の細菌は破壊される。

ファージは自然界のほほ全ての場所に存在している。じっくりと観察すれば、土壌中にも、海水から家庭の水道水にいたるあらゆる水の中にも、酸性の鉱山や北極、温泉などの過酷な環境中にも見つけることができるだろう。空中にも浮かんでいる。これらのウイルスがしぶとく存在し続けるのは、これら全ての場所に生息している細菌を獲物にしているからだ。私たち人間は狩りをする1つの場所にすぎない。

2017年、サンディエゴ州立大学(カリフォルニア州)に所属していたグェン(Sophie Nguyen)とバー(Jeremy Barr)は、多くのファージが粘膜を通過して体内の最終目的地に到達するこを示した。試験管内の実験で、ファージは腸や肺、肝臓、腎臓、さらには脳の表面を覆う膜を通り抜けた。もっとも、それらのウイルスがたまたま中枢神経系などの場所に入ったとしても、そこには宿主となる細菌がほとんどいないため、自己複製する方法がなく最終的には死滅してしまうだろう。

「同上」

ファージは細菌と共存しているとも言えます。ということは、ヒトと共存する細菌の中にヒトに有益な作用をもたらすものがあるように、ファージの中にも細菌を "助ける" ものがあってもおかしくありません。


増殖したファージが細菌の遺伝子を自身のゲノムに取り込んで一緒に持ち出すことがある。この荷物は、ファージが次に感染した細菌にとって有益になる場合がある。例えば私が唾液中に見つけたファージは、細菌が人体の免疫系の攻撃から逃れるのを助ける遺伝子を運んでいた。なかには細菌が抗生物質に抵抗するのを助ける遺伝子を運ぶファージまでいる

「同上」

抗生物質は細菌に作用するだけで、ウイルスは影響を受けません。従って「細菌が抗生物質に抵抗するのを助ける遺伝子」をファージが運ぶとしたら、ファージの生存環境を確保し、ファージ自身の生存を促進するという "目的" しかないわけです。


人体細胞に感染するウイルス


もちろん細菌に感染するファージだけでなく、ヒトの細胞に直接感染するウイルスもあります。


私たちのバイロームの中の多くのウイルスは細菌に感染するが、人体組織の細胞に直接感染するウイルスもわずかながらある。この手のウイルスが少数派だと考えられるのは、体細胞への感染が免疫系によって抑制されるからだ。

スタンフォード大学にいたド・ヴラマンク(Iwijn De Vlaminck)は、免疫系の働きが著しく弱っているとき(例えば、臓器移植を受けて、拒絶反応を防ぐために免疫抑制剤を服用している場合など)、特定のウイルスの数が劇的に増加することを明らかにした。こうしたケースでは、病気を引き起こすことが知られているウイルスとそうでないウイルスの両方の増加が見られる。この観察結果は、通常私たちの免疫系はバイロームを抑制しているが、免疫が阻害されるとウイルスは容易に増殖できることを示している。

「同上」

普段は何もせずに感染しているウイルスが、ヒトの免疫機能の低下などにより急に病原性を発揮することがあります。このような状況を「日和見感染」といいます。また、何らかのウイルスが感染してヒトの免疫系がそれと戦っているときに、別の細菌やウイルスに感染することがあります。これを「共感染」と呼びます。

新型コロナ感染症でも重症者に共感染がみられます。黄色ブドウ球菌や肺炎レンサ球菌などによる "細菌性続発性肺炎" や "菌血症"(血液中に細菌が増える症状)です。また、インフルエンザウイルスやアデノウイルスなどの "ウイルス性共感染" も観察されています。さらに、既にバイローム中にいるエプスタイン・バーウイルス(EBウイルス)やサイトメガロウイルスが活性化される可能性もあります。ヒトの免疫系が新型コロナウイルスと戦っているその体内は、これらの細菌やウイルスが大増殖しやすい状態になっているわけです。

いま出てきた "EBウイルス" と "サイトメガロウイルス" は、ヘルペスウイルスの一種です。ヘルペスウイルスは約100種のウイルスの総称で、そのうちの9種がヒトに感染します。日本人でも半数以上の人が感染しています。このウイルスはヒトの神経節に "潜伏感染" し、そうなると増殖も何もしないので免疫系に攻撃されることがありません。しかし何らかのトリガーで活性化し、帯状疱疹や水痘(水ぼうそう)、口唇ヘルペスなどを引き起こします。

ヘルペスウイルスはそれ以外にも数々の病気とかかわっているのではと疑われています。その一つがアルツハイマー病です。


アルツハイマー病で死亡した人々から提供された脳組織を調べた2018年の研究では、高レベルのヘルペスウイルスの存在が明らかになった。

2020年5月にはタフツ大学とマサチューセッツ工科大学の研究者たちが実験室で脳を模した培養組織を作成し、そこに単純ヘルペスウイルス1型を感染させた。すると、アルツハイマー病患者の脳に蓄積するものとそっくりなアミロイド斑様構造物が大量にできた。このように古くから知られているウイルスにも意外な役割が見つかる可能性があるのは驚くべきことだ。

「同上」

この引用にある「2018年の研究」を報じたニュース記事が次です。


アルツハイマー発症
ヘルペスウイルス2種関係か

日本経済新聞(デジタル版)
2018年6月22日

【ワシントン=共同】アルツハイマー病の発症に、2種類のヒトヘルペスウイルスへの感染が関係する可能性があるとの研究成果を、米国のチームが21日付科学誌ニューロン電子版に発表した。患者の脳組織からウイルスの痕跡を大量に発見したことなどが根拠。

問題となる「6型A」「7型」のウイルスは非常に身近で、米国では多くの人が幼児期までにいずれかに感染するという。チームは「どうやって感染から発症に至るのかなど、不明な点が多い」としている。

いずれも血液から見つかるウイルスで、7型は突発的な発疹の原因となることが知られている。6型Aについてはよく分かっていないという。

チームはアルツハイマー病患者と、患者ではなかった800人超から提供された脳について、500種以上のウイルスへの感染を調べた。患者の脳では2種類のヘルペスウイルスに関係する遺伝物質RNAが多く見つかり、ウイルスが脳細胞の遺伝子にも影響を及ぼしていたことも分かった。

これらのウイルスは、アルツハイマー病以外の原因による認知症の人の脳からも見つかったが、2種類とも多くみられたのはアルツハイマー病患者の脳だけだった。



ファージを医療に応用する


ウイルスを医療に役立てようとする研究が進められています。というのも、ファージは細菌に入り込み、細菌の機構を利用して増殖し、細菌を破壊して飛び出すからです。ファージを利用して病気の原因菌を排除しようとするのは自然な流れでしょう。その焦点は、抗生物質が効かない耐性菌の対策です。雑誌記事から2つ引用します。


ロックフェラー大学の研究者たちは、抗生物質が効かない病原菌であるメチシリン耐性ブドウ球菌(引用注:MRSAのこと)を殺す酵素をあるウイルスから精製した。この結果は非常に有望で、米食品医薬品局(FDA)はこの酵素を「画期的治療薬」に指定し、現在、最終段階の臨床試験(第3相試験)が行われている。

デヴィッド・プライド
「あなたの中にいる380兆のウイルス」
日経サイエンス 2021年7月号


いくつかのファージが実験的な治療ですでに使用されている。カリフォルニア大学のサンディエゴ校のスクーリー(Robert Schooley)が率いた2016年の画期的な試みが一例だ。同大教授のパターソン(Tom Patterson)は悪名高い薬剤耐性菌、アシネトバクター・バウマニのせいで多臓器不全に陥っていた。しかし医師たちは、下水および環境由来のファージを使用したパターソンを治療することに成功した。

( 日経サイエンス編集部・注:この治療例は「パターソン症例」と呼ばれ、米国初のファージ療法成功例として知られている)

「同上」

ファージ医療は耐性菌対策の "切り札" だと、著者は書いてます。薬(抗生物質)が効かない病原菌を排除するためには、細菌に感染するファージを利用するのが切り札になるわけです。


バイロームとヒトの健康


ヒトのマイクロバイオーム(細菌)が健康と密接な関係があるように、バイロームもそうであることが十分考えられます。マウスによる実験では細菌の変化とウイルスの変化が同時に起こることが観察されています。ヒトにおいても、歯周病と炎症性腸疾患を発症とバイロームの変化が同時におこる場合があることがわかっています。

今後、ヒトの健康に影響を与えるカテゴリーのウイルスを "操作" して、疾患から我々の体を守る新たな方法がみつかることが期待されています。



以上が、日経サイエンス 2021年7月号に掲載された「あなたの中にいる380兆のウイルス」の概要です。ここから以降は、この記事に関連した最近の日本での話題をとりあげます。


ウイルスを医療に応用する


日経サイエンスの記事には、細菌に感染するファージを利用して病気の原因菌を人体から排除する "ファージ医療" のことが書かれていました。

ということは、人体から排除したいヒトの細胞を破壊するには、人体細胞に感染するウイルスを使えばよい、ということになります。人体から排除したいヒトの細胞とは、つまり癌細胞です。

癌治療にウイルスを使う研究は世界で行われてきましたが、2021年6月10日に東京大学医科学研究所の藤堂とうどう具紀ともき教授は、ウイルスを使った治療薬が承認される見通しになったと発表しました。日本製としては初の承認です。


改変ウイルスで脳腫瘍治療
東大と第一三共が実用化

時事通信社(JIJI.COM)
2021年06月10日

ヘルペスウイルスのがん治療用改変に取り組む東京大医科学研究所の藤堂具紀教授は10日、脳腫瘍の一種「悪性神経膠腫こうしゅ」の治療用として、厚生労働省から条件付きで製造販売が承認される見通しになったと発表した(引用注:11日に厚生労働省から承認が発表された)。第一三共が共同開発して昨年12月に申請し、先月の薬事・食品衛生審議会部会で認められていた。

製品名は「デリタクト注」(一般名テセルパツレブ)で、7年以内に使用患者全員を対象として安全性と有効性を再確認する。脳腫瘍では世界初のウイルス療法製品になるという。

元来は口唇ヘルペスを引き起こす「単純ヘルペスウイルス1型」だが、がん細胞だけに感染、増殖して死滅させるよう、3種類の遺伝子を改変してある。患者の抗がん免疫を強める作用もある。

藤堂教授らは悪性神経膠腫の中で最も悪性度が高く、手術後に放射線や抗がん剤による治療を行っても生存期間が短い「膠芽腫こうがしゅ」を対象として、2009年から臨床研究、15年から臨床試験(治験)を実施。安全性を確認し、1年後の生存率が大幅に向上する効果があった。

この改変ウイルスは他のがんにも有効とみられ、前立腺がんなどを対象とする臨床試験も行っている。


この発表の20日ほど前の朝日新聞デジタルには、癌のウイルス治療の歴史や背景を含めた解説がありました。以下です。


ウイルスでがん破壊、治療薬承認へ
脳腫瘍の一種に効果

朝日新聞デジタル
2021年5月24日

悪性度の高い脳腫瘍しゅように対する国産初のがんウイルス治療薬が承認されることになった。新型コロナウイルスの影響でこの1年ですっかり悪役になった「ウイルス」だが、ウイルスの遺伝子を改変して「味方」にすれば、がん治療に利用できる。次世代のがん治療法として世界的に注目されている。

がん治療にウイルスを使う研究は、20世紀初めに始まったとされる。1971年には、英の有名医学誌ランセットに、「悪性リンパ腫になった男子が、麻疹ウイルスにかかった後にがんが消えた」という論文が掲載された。ウイルスをどう改良すれば、この報告を再現できるのか、本格的な研究が始まった。

がん細胞とウイルスは「体内の免疫をかいくぐって、どんどん増えたい」という性質が一致している。ウイルスにとって、がん細胞の中は「何もしなくても勝手に増やしてくれる」という最高の環境だ。お互いの特徴をいかした治療が、がんウイルス療法と言える。

ウイルスをがん細胞の中で増やしてがん細胞を壊し、次のがん細胞に感染して同じことを繰り返させる。さらに、ウイルスが壊したがん細胞のかけらを自分の免疫が認識すれば、がん細胞に対する全身の免疫が高まる。転移する割合も減る可能性がある。

ウイルスは正常な細胞にも感染するため、がん細胞のみで増えさせるようにすることが課題だった。この点で治療に大きな進歩をもたらしたのが、遺伝子組み換え技術の発展だ。

承認が了承された「デリタクト注」は、東京大医科学研究所の藤堂具紀教授らが開発した。口唇ヘルペスの原因を起こす「単純ヘルペスⅠ型」というありふれたウイルスを改変している。

さまざまなウイルスでがん治療研究が進められているが、このヘルペスウイルスは、どの細胞にも感染し、細胞を攻撃する力が比較的強い。このウイルスを改変した薬は米国で2015年、悪性黒色腫(メラノーマ)で承認された。

今回のウイルスは、さらに遺伝子を改変し、三つの遺伝子に変異を加えている。デリタクト注は1回10億個のウイルスを注入する。ウイルスの増殖が体内で制御できなくなるおそれもあるが、藤堂さんは「遺伝子の改変を重ねるごとに、正常な細胞で増殖させることなく、がん細胞への攻撃力を高め、安全性は1千倍ずつ高まっている」と話す。

がんウイルス治療に詳しい鳥取大の中村貴史准教授(遺伝子治療学)は「世界的にこの治療でかなりの数の治験が進んでいるが、いずれも遺伝子組み換え技術によって正常な細胞でのウイルスの増殖を制御できている」と話す。

今回は脳腫瘍で了承されたが、理論上はさまざまな臓器のがんに応用可能だ。藤堂さんらは、前立腺がんなど、ほかのがんへの応用もめざして研究を進めている。

将来的に、手術や抗がん剤、放射線治療の前に、ウイルス療法でがんを小さくしたり、免疫を高めて治療効果を上げたりすることも考えられる。中村さんは「欧米では非常に激しく競争されている分野で、確立すれば治療の選択肢が増える。今回の了承は起爆剤となり、大きな革新となるだろう」と話す。(後藤一也、瀬川茂子)


がんのウイルス療法.jpg
癌のウイルス治療のイメージ
(朝日新聞デジタル 2021.5.24 より)

ヘルペスウイルスは潜伏感染をし、突如として病気を引き起こすというウイルスです。しかも日経サイエンスの記事にあったように、脳にも感染するヘルペスウイルスはアルツハイマー病の原因になるのではと疑われています。そのウイルスで癌細胞を攻撃するというのは、まさに「毒をもって毒を制する」ことの典型でしょう。

今回の承認は「悪性神経膠腫こうしゅ」の治療用ですが、前立腺がんなど、ほかの癌への応用の研究も進んでいるようです。東京大医科学研究所のホームページに詳しい説明がありますが、それを読むと、今回のヘルペスウイルス改変型ウイルスはすべての癌に効果があるとしか思えないのですね。

2020年に「癌の光免疫療法」が日本で承認され、"第5の癌療法" として注目されました(既存の4つとは、手術・化学・放射線・免疫の各療法)。ウイルス療法が "第6の癌療法" になること期待したいものです。



 補記 

本文に引用した藤堂教授の研究成果が、2021年7月5日の日本経済新聞にも掲載されました。本文と重複する部分もありますが、治験結果などの重要な情報もあるので全文を引用しておきます。下線は原文にはありません。


がん破壊ウイルスに託す
新薬承認、脳腫瘍以外へ開発競う

日本経済新聞
2021年7月5日

ウイルスを使ってがんを倒す新たな治療法が登場した。がん細胞だけで増えて死滅させる「ウイルス療法」の新薬が6月、厚生労働省に条件付きで承認された。臨床試験(治験)では1年後の生存率が8~9割と、従来の治療法の約6倍となった。開発は盛んで、他のがんにも効果があると期待されている。

新薬は第一三共の「テセルパツレブ」。悪性の脳腫瘍を対象に承認された。東京大学医科学研究所教授の藤堂具紀さんらの研究成果を実用化した。2016年に国の画期的な新薬候補を優遇する「先駆け審査指定制度」に選ばれた。

今後7年で再確認

東大医科学研究所付属病院で15年から実施した医師主導治験の結果をもとに、20年12月に製造販売の承認を申請した。今後7年間、投与した患者全例のデータを集めて、有効性や安全性を再確認する条件付きで承認された。がんのウイルス療法の治療薬は国内で初めてだ。藤堂さんらは約20年以上かけて開発した。

治療では、新薬をがんに注射する。ウイルスはがん細胞に感染して増える。がん細胞を壊して拡散し、次のがん細胞に感染して次々に破壊していく。壊れたがん細胞からはがんの目印となる物質が出る。免疫細胞がそれを認識し、残るがん細胞を攻撃する。がんへの免疫がつき、転移や再発を抑える可能性が期待されている。

治験は手術や放射線、抗がん剤などの標準治療をした後に再発した脳腫瘍の一種、膠芽腫こうがしゅの患者を対象にした。最大6回まで脳にウイルスを投与した。膠芽腫は悪性度が高く、再発しやすい。生存期間は手術後15~18カ月程度、再発後の余命は3~9カ月程度といわれる。

13人を対象にした中間解析では、1年後の生存率は92.3%だった。標準治療後の生存率は約15%にとどまる。先行して実施した臨床研究を加えて19人を対象にした評価では、1年後の生存率は84.2%、治療開始後の生存期間の中央値は約20カ月だった。がんが縮小したのは1人で、18人はがんが増えず安定した状態だった。

がんがウイルスに弱いことは研究者の間では古くから知られていた。1971年の論文で、悪性リンパ腫になった少年が麻疹ウイルスに感染したところ、がんが消えたという報告があったという。

通常の細胞はウイルス感染などにあったとき、自ら死ぬ機能を備える。一方、がん細胞はこの機能が壊れていて増え続ける。自殺しないがん細胞はウイルスにとって増えやすい環境なわけだ。

ウイルスをがん治療に使おうとすると、ウイルスが正常な細胞でも増えて壊すという課題があった。藤堂さんらは遺伝子組み換えでウイルスの性質を変え、がん細胞だけで増えるようにした。

遺伝子3つを改変

もとにしたのは「単純ヘルペス1型」というウイルスだ。口唇に水疱すいほうをつくるウイルスで、成人の7~8割が感染しているといわれる。3つの遺伝子を改変し、がん細胞で増えて正常細胞では増えないようにするとともに、がんへの体内の免疫反応が高まるようにした。

細胞を壊す力が強く、どの細胞にも感染するのでさまざまながんへの応用が期待できるという。細胞から細胞に血液を介さず移るので、抗体があっても繰り返して治療効果が期待できる。

米国では2015年にヘルペスウイルスを遺伝子組み換えした悪性黒色腫の治療薬が承認された。この治療薬は2つの遺伝子を改変した。テセルパツレブは3つ改変しており、藤堂さんは「がんを攻撃する力が格段に強まり、安全性も向上した」と強調する。

がんウイルス療法には多くの製薬企業が参入している。国内勢では、オンコリスバイオファーマから導入した治療薬候補で、中外製薬が食道がんや肝細胞がんを対象に治験をしている。

鳥取大学准教授の中村貴史さんは「15年の承認をきっかけに大手製薬が参入し、がんウイルス療法の開発は活発になった。安全性は遺伝子組み換え技術で制御できるレベルになり、今はいかに効果を高めるかという段階だ。競争に勝つには新規性が必要だ」と指摘する。(藤井寛子)


日経新聞 2021-7-5.jpg
日本経済新聞 2021.7.5 より

(2021.7.7)



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No.313 - 高校数学で理解する公開鍵暗号の数理 [科学]

No.310-311「高校数学で理解するRSA暗号の数理」の続きです。公開鍵暗号の "老舗しにせ" である RSA暗号は、1978年に MIT の研究者であったリベスト(米)、シャミア(イスラエル)、エーデルマン(米)の3人によって発明されました(RSAは3人の頭文字)。3人はこの功績によって2002年のチューリング賞を受賞しました。チューリング賞は計算機科学分野の国際学会である ACM(Association of Computing Machinary)が毎年授与している賞で、この分野では最高の栄誉とされているものです。

しかし公開鍵暗号そのもののアイデアを最初に提示したのは、スタンフォード大学の研究者だったディフィー(米)とヘルマン(米)で、1976年のことでした。2人も 2015年にチューリング賞を受賞しています。この「鍵を公開する」という、画期的というか逆転の発想である公開鍵暗号の登場以降、暗号の研究は一変してしまいました。そして RSA暗号のみならず各種の公開鍵暗号が開発され、現代のインターネットの基盤になっています。たとえばインターネットのWebサーバへのアクセス(閲覧やフォーム入力など)で使われる SSL/TSL という暗号化通信(https:// のサイトで使われる)は、まさに公開鍵方式を使っています。

今回はその公開鍵暗号を "発明した" ディフィーとヘルマンに敬意を表して、彼らが発表した内容と、その数学的背景を書いてみたいと思います。タイトルは「公開鍵暗号の数理」としましたが、あくまで公開鍵暗号の原点となったアイデアの解説です。

Turing Award 2015.jpg
ACM(Association of Computing Machinary)のサイトには、歴代のチューリング賞の受賞者の紹介ページがある。2015年の受賞者はディフィーとヘルマンで、受賞理由として「公開鍵暗号の発明」と書かれている。

ディフィーとヘルマンが提出したアイデアは「公開鍵を使って秘密鍵を安全に共有する」ものでした。これは「ディフィー・ヘルマンの鍵共有」と呼ばれていて、現在でも使われています。そこでまず「秘密鍵の共有」の意義を振り返ってみたいと思います。


秘密鍵の共有


古今東西、様々な暗号化方式が開発・使用されてきましたが「秘密鍵の共有による暗号」(=共通鍵暗号)が基本です。その中でも「一回限りの乱数表」は安全(=解読されない)と証明されている暗号です。この場合、乱数表が秘密鍵に相当します。

英大文字・小文字、数字、英文に使われる特殊文字を、0 ~ 127 の数字でコード化するとします。いま、n 文字以下の平文ひらぶんをコード化して暗号文にしたいとき、「一回限りの乱数表」として必要なのは、0 ~ 127 の値をとる乱数が n 個並んだ表です。さらに、

コード化した平文 : ai
乱数表(秘密鍵) : ri
暗号文 : bi

1in 0airibi127

とするとき、「乱数 ri の値に依存して、aibi に1対1に変換する関数 f」を決めておきます。そうすると、

bi=fairi

の変換で暗号文 bi が得られます。この関数 f128×128 の コード変換テーブルでもいいし、ai+rimod128 のような四則演算でもよい。とにかく ri が違えば別の1対1変換になる関数が条件で、そうすれば逆変換で複号化が可能です。この関数を秘密にする必要はなく、オープンにしてもかまいません。この暗号が安全な理由は、

① 秘密鍵(=乱数表)の長さが平文と同じ
② 秘密鍵は1回限り(=使い終わったら捨てる)

の2点によります。もちろん乱数が "真の乱数" であることも重要です。しかし、上の2点を守るためには秘密鍵(乱数表)の長さが膨大になります。使い終わった乱数表のページを破って捨てなければならないからです。そこで実用的には、暗号文のやりとりを始める前に秘密鍵を共有しておき、暗号化はその「秘密鍵にもとづいた何らかの暗号化方式」で行うことになります。こうすると平文の長さが秘密鍵より長くなるので、絶対に安全とは言えなくなります。そこで、解読しにくい(=強度の高い)暗号化方式の必要性があり、これをめぐって様々な方式が作られてきました。

しかし問題は、最初の「秘密鍵の共有」をどうやってやるかです。結局、秘密鍵を印刷し、アタッシュケースに入れて相手に持参するというような、スパイ映画にでも出てきそうな方法しか本質的には無いわけです。どういうやり方をとるにせよ「秘密鍵の共有」には多大なコストがかかる。

No.310-311「高校数学で理解するRSA暗号の数理」で書いた公開鍵暗号の価値はそういうところにあります。つまり、RSA暗号における暗号化・複号化は巨大な数の "冪剰余" を求める計算になり、これはこれで計算機負荷が高い。そこで、まずRSA暗号を使って秘密鍵を生成・共有しておき、以降はその秘密鍵を使う高速な(= 計算機負荷の低い)暗号化・複号化方式で通信をするやり方が多くとられます。もちろんその秘密鍵は通信が一段落したら捨てて、次の通信では新たな秘密鍵を生成して共有するわけです。これは他の公開鍵暗号でも同じです。

その、"公開鍵を使って秘密鍵を共有する" ことを最初に提唱したのが「ディフィー・ヘルマンの鍵共有」でした。そしてこれが、そもそもの「公開鍵の発明」になりました。この鍵共有は、

盗聴されている通信路を使って情報をやりとりすることで、秘密鍵の共有を安全に実現する

ためのアルゴリズムです。どうしてそんなことができるのかが、以降です。


9. ディフィー・ヘルマンの鍵共有


ディフィー・ヘルマンの鍵共有は次のように進みます。まず「公開鍵センター」が "皆が使う公開鍵"として、

pg
・ pは巨大な素数
・ gは小さな整数

のペアを公開しておきます。次に、A さんと B さんが秘密鍵を共有したい場合、

A は、1<a<p-1 である乱数 a を発生させ、gamodpA の公開鍵として(盗聴されている通信路を介して) B に送付

します。乱数 aA の秘密鍵として秘匿します。次に同様に、

B は、1<b<p-1 である乱数 b を発生させ、gbmodpB の公開鍵として(盗聴されている通信路を介して) A に送付

します。もちろん b は秘匿します。そして、

AGa=gbamodp を共有の秘密鍵

BGb=gabmodp を共有の秘密鍵

とします。この作り方から Ga=Gb となるので、秘密鍵 G=gabmodp が共有できたことになり、以降はこれを使って暗号化通信を行います。大切なことは AB の秘密鍵(b)を知らないし、BA の秘密鍵(a)を知らないことです。それでも秘密鍵 G=Ga=Gb)を共有できるわけです。

ちなみに、以上のプロセスに出てくる gamodp などの "冪剰余" の計算ですが、たとえ ap が巨大数であっても効率的に計算できることを、No.311「高校数学で理解するRSA暗号の数理(2)」の「累乗の剰余を求めるアルゴリズム」で書きました。

以上の仕組みにおいて通信路が盗聴されたとしても安全なのは、A の公開鍵 ga から a を求めるのが困難なことと、同様に gb から b を求めるのが困難なことです。なぜ困難かとい言うと、一つは p が巨大な素数だからであり(10進数で数百桁か 1000桁以上)、また g が「生成元」(原始根ともいう)だからです。

以降でその「生成元」とは何か、盗聴者が公開鍵から AB の秘密鍵(ab)をなぜ計算できないのかという、ディフィー・ヘルマンの鍵共有の数学的背景を概観します。以下の説明では「高校数学程度の知識だけ」を前提としますが(= タイトルの "高校数学で理解する" の意味)、No.310-311「高校数学で理解するRSA暗号の数理」での各種説明は既知とします。特に、


の知識を前提とします。


10. 有限体(Fp)と乗法群(Fp


一般に加減乗除が定義された集合を "体(Field)" と言います。有理数、実数、複素数は "体" です。さらに No.310「高校数学で理解するRSA暗号の数理(1)」の終わりの方に書いたように、p を素数とし、p 未満の自然数と 0 を合わせた集合も "体" となり、Fp で表します。この集合は元の数が有限なので、有限体です。

Fp における演算は、加算・減算・乗算については普通の整数のように行い、その答に対してmodp の演算を行って、「答と合同である Fp の元」を求めて演算結果にします(Fp は、ここでは Z/pZ で表される "整数の剰余類の集合" と同じ意味)。

除算は逆数(=逆元)を乗算する演算で行います。Fp においては 2.3b により、0 以外の元に対して逆元(逆数)が存在します。2.3b を再掲すると次の通りです。

2.3b  逆数の存在:法が素数

p を素数とする。p 未満の自然数 a に対して、

a·b1modp

を満たす逆数 b1b<p の範囲で一意に定まる。また、異なる a に対する逆数 b は異なる。


No.310 でやったように、F13 の場合で "逆数" がどうなっているかを(= かけ算で 1 になる場合を)計算してみると、

1·11mod13 2·71mod13 3·91mod13 4·101mod13 5·81mod13 6·111mod13 7·21mod13 8·51mod13 9·31mod13 10·41mod13 11·61mod13 12·121mod13

となります。以上のことから、Fp においては加減乗除が定義できて有限体となるわけです。

ここで Fp から 0 元 を除いた「p 未満の自然数の集合」を考えると、この集合では乗算と除算が定義できます。従って、この集合は「乗法群」になり、Fp と表記します。ちなみに "群(group)" とは、何らかの二項演算 × があって、

(結合則) a×b×c=a×b×c
(単位元) a×1=1×a=a となる元 1 が存在
(逆元) a×b=b×a=1 となる b が、任意の a について存在

の3つの条件を満たす、"演算が定義された集合" です。以降の記述は、すべて乗法群 Fp での演算とします。従って = と書き、modp は記述しません。


11. 位数(order)


Fp におけるべき乗がどうなっているか、その例として F13 で計算してみます。まず、フェルマの小定理(3.1)により、F13 の元 a について、

a12=1

が成り立ちます。つまり、すべての元は 12 乗すると 1 になる。では、冪乗が 1 になるためには必ず 12 乗しなければならないのでしょうか。ためしに 5 の冪乗を(F13 で)計算してみると、

51=5 52=12 53=8 54=1 55=5 56=12 57=8 58=1 59=5 510=12 511=8 512=1

となって、541 になり、あとはそれが繰り返えされて、512 に至ってフェルマの小定理が示す 1 になることがわかります。一方、2 の冪乗は、

21=2 22=4 23=8 24=3 25=6 26=12 27=11 28=9 29=5 210=10 211=7 212=1

となり、フェルマの小定理が示す a12=1 より小さな冪乗では 1 になりません。この "冪乗に関する元の振る舞いの違い" が以降のテーマです。

 位数の定義 

"冪乗に関する元の振る舞いの違い" を表すために、Fp の各元に対して「位数(order)」を定義します。

11.1  位数の定義

Fp の元 a について、

ak=1

となる最小の ka の "位数(order)" と言う。


フェルマの小定理により ap-1=1 であることが保証されているので、すべての元について何らかの位数が定義できます。先ほどの F13 の例だと、

5 の位数は 4
2 の位数は 12

です。位数になりうる数は、最小 1a=1 の場合)、最大 p-1 の間で、次のようになります。

11.2  位数がとりうる値

dFp のある元の位数とすると、dp-1 の約数である。


なぜなら、元 a の位数が d であるとき、a の冪乗を順々に作っていくと d 乗ごとに 1 になります。一方、フェルマの小定理によって ap-1 乗は必ず 1 になるので、dp-1 の約数でないと矛盾が生じます。つまり、位数のバリエーションは p-1 の約数の個数しかありません。

このことは直感的理解が可能ですが、次の命題はステップを踏んだ証明が必要です。

 位数が d の元の個数 

11.3  

p-1 の約数の一つ d の位数をもつ Fp の元があったとすると、位数 d の元は φd 個ある。φdオイラー関数


これは、p-1 の約数 d について、d の位数をもつ Fp の元が φd 個あることを主張するものではありません。そうではなく、もし位数 d の元があったとしたら、そのような元は φd 個あると言っています。11.3 を証明するために、位数 d の元 a があったとして、その a の冪乗からなる次の数列を作ってみます。

a1a2a3ad=1

以降、これを、

ak1kd

と表記し、この d 個の数列の性質を調べます。


11.3a  

ak1kdd 個の元はすべて異なる。


1ijd として、もし

aj=ai

となったとします。両辺を ai で割ると(= ai の逆元を乗算すると)、

aj-i=1

となりますが、j-i<d なので、これは「a 冪乗が 1 になる最小の冪数が d」という位数の定義に反します。従って ak1kd はすべて異なっています。


11.3b  

ak1kdd 個の元は、すべて d 乗 すると 1 になる。


これは akd=adk=1 ということです。


11.3c  

d 乗 すると 1 になる Fp の元は、ak1kd がそのすべてである。


d 乗 すると 1 になる元は xd=1 という Fp における式を満たします。これはすなわち、有限体 Fp における d 次方程式 xd-1=0 の解です。

一般に、有限体 Fp において「n次方程式の解の数は高々 n個」という命題が成立します。数学的帰納法で考えると、まず1次方程式、a1x+a0=0 の解が1個なのは明らかなので n=k の時に命題が成り立つと仮定します。そして k+1 次多項式を、

fk+1x=ak+1xk+1+akxk+ ⋯ +a1x+a0ak+10

とし、方程式 fk+1x=0 が解 α をもったとします。すると fk+1α=0 なので、gkxk次多項式として、

fk+1x=fk+1x-fk+1α =x-αgkx

と表現できます。なぜなら 1ik+1 の範囲で、

xi-αi= x-α(xi-1+α1xi-2+ ⋯ +αi-2x+αi-1)

の因数分解が成り立つからです。帰納法の仮定により方程式 gkx=0 の解の数は高々 k個です。つまり 方程式 fk+1x=0 の解の数は高々 k+1 個であり、命題は n=k+1 でも成立して帰納法による証明ができました。従って有限体 Fp における d 次方程式 xd-1=0 の解は 高々 d 個です。

ak1kd は、

・ d 個の、すべてが相異なる元であり(11.3a
・ d 乗すれば 111.3b

でした。このような元は Fp の中に高々 d 個しかありません。従って、d 乗 すると 1 になる Fp の元は ak1kdd 個がそのすべてということになります。


11.3d  

Fp において位数 d の元があったとしたら、それは ak1kd の中に含まれている。


位数 d の元は d 乗すると 1 になります。一方、11.3c より d 乗すると 1 になる元は ak1kd がそのすべてです。つまり位数 d の元があったとしたら、それは ak1kd に含まれることになります。

これはもちろん、ak1kd のすべての元の位数が d ということではありません。各元の位数は d かもしれないが、そうでない(= 位数が d より小さい)かもしれない。ここで、ak1kd の各元の位数は次のように分類できます。


11.3e  

gcdjd1 である j1jd をとると、aj の位数は d より小さい。


gcdjd=c>1 とします。すると、2つの数 st を選んで、

j=css<j d=ctt<d

と書き表せます。ここで、ajt 乗をとると、

ajt=acst= ads=1

となり、aj の位数は t 以下であることが分かりますが、t<d だったので、aj の位数は d より小さいことになります。


11.3f  

gcdjd=1 である j1j<d をとると、aj の位数は d である。


ajk1kd がどうなるかを調べます。まず、k=d のときは、11.3b により ajk=1 です。

次に 1k<d の場合ですが、このとき jkd の倍数とはなりません。なぜなら、もし d の倍数だとすると d|jk ですが、jd は互いに素なため、1.3a により d|k となって矛盾が生じるからです。従って、ある数 st を選んで。

jk=td+s0<s<d

と表すことができます。そうすると、

ajk =atd+s ajk =adt·as ajk =as1

となります。s<d なので位数の定義により as1 にはならないのです。まとめると、

ajk1 1k<d ajk=1 k=d

となり、定義により aj の位数は d です。結局、11.3e11.3f により、次のことが分かります。


11.3g  

ak1kd の中には 位数 d の元が φd 個ある。


11.3e11.3f により、gcdjd=1 である j1j<d の場合だけ(= jd と素なときだけ)aj の位数は d であり、それ以外の aj の位数は d より小さいことが分かりました。オイラー関数の定義から、d 以下で d と素な数は φdです。つまり 11.3g が成り立ちます。



以上の 11.3d11.3g、つまり、Fp の元 a の位数を d とするとき、

11.3d
Fp において位数 d の元があったとしたら、それは ak1kd の中に含まれる。

11.3g
ak1kd の中には 位数 d の元が φd 個ある。

の2つから、

11.3
p-1 の約数の一つ d の位数をもつ Fp の元があったとすると、位数 d の元は φd 個ある。

が証明できました。



ここまでの考察を次のようにまとめることができます。

・ Fp の各元の位数は p-1 の約数である(11.2

・ 位数 d の元の個数は φd0 である(11.3)。

ここで 位数 d の元の個数を #ordd と書くことにします。#ordd=φd、もしくは #ordd=0 です。dp-1 の約数 のどれかでした。この記号を使うと次の通りとなります。

11.4  

d|p-1 #ordd=p-1
・ #ordd は位数 d の元の個数で、φd0 のとちらか。
・ d|p-1 は、p-1 を割り切る d(= p-1 の約数である d)の全部についての総和をとる意味。


Fp の元のすべてに位数が定義できます。ということは Fp の元を位数によってグループに分類できます。従って、各グループの元の個数の総和をとると、Fp の元の個数である p-1 になる。11.4 の総和の式はそのことを言っています。



そこで次に、p-1 の個々の約数 d について #orddφd0 かが問題になりますが、それは次の「オイラー関数の総和定理」から分かります。


 オイラー関数の総和定理 

11.5  オイラー関数の総和

N を任意の自然数とするとき、

d|N φd=N

が成り立つ。d|NN の約数 d すべてについての総和をとる。


この "総和定理" は、特に Fp や位数とは関係がなく、自然数一般についての定理です。この定理を証明する前提として、次の2つに注意します。まず、2つの自然数 ab の最大公約数を gcdab とすると、

agcdabbgcdab は互いに素

です。これは最大公約数の定義そのものであり、そういう風に決めたのが最大公約数でした。2番目に、N の約数の一つが a だとすると N=a·b と表せますが、当然、bN の約数の一つです。いま、Nr 個の約数をもつとします。すると、

ai1irN のすべての約数であれば、bi=Nai1irN のすべての約数であり、つまり biai を並び替えたものである

と言えます。この2つを前提に、まず N=12 の場合で考えます。いま、1 から 1212 個の整数を「12との最大公約数で分類する」ことを考えます。12 の約数 d は、12346126 つです。従って 1 から 12 の数を、 S1 S2 S3 S4 S6 S12 6 つのグループに分類します。すると各グループに含まれる整数は、

S1=15711 S2=210 S3=39 S4=48 S6=6 S12=12

となります。いま、各グループに含まれる整数の個数を #Sd で表して、各グループの個数がどうなるかを見ていきます。まず、

#S1=φ12

です。S1 に含まれるのは、12との最大公約数が 1 の整数(= 12 と素な整数)なので、オイラー関数の定義により #S1φ12=4 です。

次に、S2 に含まれる整数 210を、12 との最大公約数の 2 で割り算した 15 を考えると、これらの整数は 122 で割り算した 6 と互いに素です。これは上に書いたように最大公約数の定義そのものです。従って、

#S2=φ6

となります。同様にして、残りのグループについては、

#S3=φ4 #S4=φ3 #S6=φ2 #S12=φ1

となります。Sd12個 の整数を分類したものだったので、そこに含まれる整数の総数は 12 です。これにより、

φ12+φ6+φ4+   φ3+φ2+φ1 =12

が証明できました。これを総和の記号で書くと、

d|12 φd=12

です。



以上の説明では N=12 としましたが、12 という数に特別な意味はありません。従って、一般の N の場合にも同様に証明ができます。

Nr 個の約数をもつとし、それらを ai1ir とします。集合 S の元を 1 から N の 整数 N 個とし、これらの S の元を「N との最大公約数で r 個の部分集合に分ける」ことを考えます。つまり、S の部分集合 Si1ir を、

SiN との最大公約数が ai である S の元の集合

とします。このとき Si の任意の元を k とすると、最大公約数の定義により、

kai Nai と互いに素

になります。そもそも、そのような元 k を集めたのが Si なのでした。このことから、

Si の元の個数は、Nai と素である S の元の個数

ということになります。Si の元の個数を #Si と書くと、

#Si=φNai

になります。ここで bi を、

bi=Nai1ir

と定義すると、

#Si=φbi

となりますが、上に書いたように、この bir 個の N の約数のすべてであり、つまり ai を並び替えたものです。

ここで上式の両辺の 1 から r までの総和をとります。まず左辺の総和ですが、SiS を分類したものだったので、#Si の総和は S の元の総数である N と等しくなります。つまり左辺の総和は、

i=1 r #Si=N

です。一方、右辺の総和は、

i=1 r φbi = i=1 r φai = d|N φd

です。以上の左辺と右辺の総和が等しいことにより、11.5

d|N φd=N

が証明できました。


 位数 d の元の存在定理 

11.5 の "オイラー関数の総和定理" と 11.4 を合わせると、次の命題が証明できます。

11.6  

Fp において、p-1 の約数 d のすべてについて位数 d をもつ元が存在し、その個数は φdである。


11.4 を振り返ってみると、

d|p-1 #ordd=p-1
・ #ordd は位数 d の元の個数で、φd0

でした。しかし 11.5 のオイラー関数の総和定理で N=p-1 とおくと、

d|p-1 φd=p-1

となります。これが何を意味するかというと、

Fp においては、p-1 の約数 d のすべてについて、位数 d をもつ元の個数が 0 になることはない。位数 d をもつ元の個数は φd 個である

ということです。ある位数 d をもつ元の個数が 0 だとするとオイラーの総和定理(11.5)が成り立たなくなるからです。位数 d をもつ元の個数は φd 個しかあり得ない。つまり、#ordd=φd です。これで 11.6 の証明ができました。この 11.6 から生成元の存在が証明でき、その個数が分かります。


12. 生成元と離散対数


11.6 からすぐに、次の「生成元の存在定理」が成り立ちます。これは19世紀ドイツの大数学者、ガウスが証明したものです。

12.1  生成元の存在

Fp においては、位数が p-1 の元 gφp-1 個存在する。

gk1kp-1 はすべて相違し、総数が p-1 個である Fp の元のすべてを尽くす。この gFp の生成元(generator)と呼ぶ。


11.6 によると、p-1 の約数 d のすべてについて位数 d をもつ元が存在します。p-1 の約数の一つが p-1 なので、位数が p-1 の元が必ず存在します。これが生成元で、その個数は φp-1 です。

生成元は原始根(primitive root)とも言います。「11. 位数(order)」の最初に書いた例だと、F13 において 2 の位数は 12 であり、生成元(の一つ)なのでした。計算してみると 6711 も生成元で、F13 の生成元の個数は、合計 φ12=4 です。

とにかく、Fp任意の元(= 1 から p-1 の元)は生成元 g の冪乗で表現でるきるわけです。つまり、次が成り立ちます。

12.2  離散対数

gFp の生成元とする。Fp の任意の元 a について、

gb=a

となる元 b が一意に定まる。ba の離散対数と呼び、

logga=b

で表す。g は離散対数の "底" である。


対数は普通、実数で定義されるものですが、logga はそれと同等のことを整数で定義しています。実数は連続値ですが、整数は離散値をとります。そのため「離散対数」の呼び名があります。

実数の対数を計算する手法はいろいろありますが(初等的にはマクローリン級数など)、離散対数を計算する効率的手法は知られていません。特に、Fp において p が巨大な素数だと、実質的に計算が不可能になります。ここが、ディフィー・ヘルマンの鍵共有が成り立つ原理です。ディフィー・ヘルマンの鍵共有を、振り返ってみると次の通りです。まず、

pg
・ pは巨大な素数
・ gは小さな生成元

のペアを「皆が使う公開鍵」として公開しておきます。演算は Fp で行います。A さんと B さんが秘密鍵を共有したい場合、

A1<a<p-1 である乱数 a を発生させ、gaA の公開鍵として(盗聴されている通信路を介して) B に送付

します。乱数 aA の秘密鍵として秘匿します。次に同様に、

B1<b<p-1 である乱数 b を発生させ、gbB の公開鍵として(盗聴されている通信路を介して) A に送付

します。もちろん b は秘匿します。そして、

AGa=gba を共有の秘密鍵

BGb=gab を共有の秘密鍵

とします。この作り方から Ga=Gb となるので、秘密鍵 G=gabを共有できたことになり、以降はこれを使って暗号化通信を行います。g が生成元であるため、gagb は、

1<gagb<p-1 の範囲に "バラける"

ことになります。「g は小さな生成元」と書きましたが、生成元はたくさんあり(φp-1 個もある)、F13 の場合のように 2 が生成元となる場合が多い。その場合は g=2 として問題ありません(小さい生成元の方が実用的には冪剰余を計算しやすい。特に 2)。生成元として 2 を選んだとしても、巨大な数で冪乗をすると結果が "バラける" ことが数学的に保証されているからです。

離散対数を計算する効率的な手法は知られていないため、p が 10進数で数百桁とか1000桁以上の数だと、gagb から ab を知ることが実質的に不可能になります。これがディフィー・ヘルマンの鍵共有の原理です。


13. 生成元を使った暗号化通信


ディフィー・ヘルマンの鍵共有の原理を暗号化通信に使うこともできます(ElGamal 暗号)。まず、

pg
・ pは巨大な素数
・ gは生成元

のペアを「皆が使う公開鍵」として公開しておきます。以下の演算はすべて Fp で行います。B さんから A さんにメッセージを暗号化して送りたい場合、次のようにします。平文を P、暗号文を C とします。

A1<a<p-1 である乱数 a を発生させ、gaA の公開鍵として B に送付、ないしは公開

します。乱数 aA の秘密鍵として秘匿します。B がメッセージ P を暗号文にして A に送る場合、

B は(暗号文を送るたびに)1<k<p-1 である乱数 k を発生させ、C=gk,   P·gak を生成して A に送付

します。C を受け取ると、

Agk と自分の秘密鍵 a から gak を計算できます。これを使ってメッセージ P を復号化

します。複号化は gak の逆数(逆元)を乗算しますが、No.310 の「拡張ユークリッドの互除法」の 2.3a に書いたように、逆数の計算はたとえ gakp が巨大数であっても効率的に可能です。

この暗号では暗号文を P·gak というようにシンプルに作っているので、B はメッセージを送るたびに「1回限りの秘密鍵」である k をランダムに発生させる必要があります。B が自分の秘密鍵 b と公開鍵 gb を持っていたとしても、それとは別にする必要がある。k=b というように固定的にすると、複数の暗号文から盗聴者に容易に gab を知られてしまいます。

これは「離散対数暗号」と呼ばれているものの一つの例ですが、ディフィー・ヘルマンの鍵共有と、暗号文の伝達を同時に行うものと言えます。


14. 生成元であることの証明


「ディフィー・ヘルマンの鍵共有」や「離散対数暗号」を実現するためには、巨大な素数 p に対する Fp の生成元(のどれか)を知らなければなりません。これはどのように可能でしょうか。まず、

・ 生成元は位数が p-1 の元であり 12.1

・ 位数は p-1 の約数に限られる 11.2

ので、p-1 の素因数分解ができたとすると約数が分かり、位数の候補がリストアップできます。

一般に d が 元 a1。以降、a1 とします)の位数であることの証明は手間がかかります。ad 乗が 1 になったとしても da の位数だとは限りません。d よりも小さな数 eae=1 となるかもしれないからです。しかし、da の位数ではないことは簡単に証明できます。

ad1

を示せばよいからです。従って、aFp の生成元であることを示すためには、p-1 の約数のうち p-1 以外のすべての約数 d について、ad1 であることを示せればよい。すると消去法で、a の位数は p-1 になります。この考えに基づき、簡単のために F73 で考えると、

p-1=72=23·32

なので p-1 の約数は 172 を含めて 4×3=12 個あります。従って 721 を除いた 10 個の約数 d について

ad1

であれば、a の位数は 72 しかありえず、aF73 の生成元です。しかし実は、これでは「計算のやりすぎ」になります。この場合、

a241 a361

の2つだけが成り立てば、a の位数は 72 になります。なぜかというと、一般に次の命題が成立するからです。

14.1  

Fp において、da の位数ではないとすると、d の任意の約数 ea の位数ではない


ed の約数だとすると、ある数 k があって d=ke と表せます。このとき、

ae=1 であるなら
ad=ake=aek=1

です。このことの対偶をとると

ad1 であるなら
ae1

となり、これはつまり、

da の位数でないなら、d の任意の約数 ea の位数ではない

ことを意味します。p-1=72 の場合、72 を除く 72=23·32)の約数は、すべて 24=23·31) か 36=22·32)のどちらかの(あるいは両方の)約数になります。従って、

a241 a361

が示せれば、72 を除く 72 のすべての約数 d について、

ad1

となり、da の位数ではありません。この結果、a の位数は 72 しかあり得ず、aF73 の生成元であることになります。以上の考察を一般化すると、次の命題が成立します。


14.2  

p を素数とし、p-1 の素因数分解を、qi1ir を素因数として、

p-1= q1α1 q2α2 qrαr

と表す。ここで、

mi=p-1qi

とおくと、もし 1 から r までのすべての i について、

gmi1 1ir

が成り立つなら、gFp の生成元である。


p-1 の約数で、p-1 以外の任意の約数を d とし、

d= q1β1 q2β2 qrβr

と表します。ここで βi は、

0βiαi 1ir

です。そうすると、dp-1以外のp-1 の約数なので、

d の素因数分解の中には、βk<αk となる k1kr が少なくとも1つある

ことになります。なぜなら、もしそのような k がなければ d=p-1 だからです。そのような k について、命題 14.2 で定義した、

mk=p-1qk

に着目すると、dmk の約数になります。なぜなら、dmk の「素因数ごとの冪乗数」を比較してみると、

βiαi1irik
βkαk-1 (仮定により βk<αk だから)

であり、d のすべての素因数の冪乗数は mk の素因数の冪乗数以下です。つまり mkd で割り切れ、dmk の約数ということになります。

一方、命題 14.2 の仮定により、

gmk1

なので mkg の位数ではありません。従って、mk の約数である d14.1 により g の位数とはなりません。

dp-1 以外の任意のp-1 の約数でした。ということは、p-1 以外の p-1 の約数は g の位数ではない。つまり消去法で、g の位数は p-1 であり、gFp の生成元であることが証明されました。

 実際に生成元を求める 

Fp の元 g をとったとき、それが生成元かどうかは 14.2 によって確かめることができます。しかしここで問題は、実用的なディフィー・ヘルマンの鍵共有では p が巨大な素数であり、p-1 の素因数分解が実質的に不可能なことです。巨大数の素因数分解が困難なことは、まさにRSA暗号(No.310-311「高校数学で理解するRSA暗号の数理」)が成立する根拠でした。

そこで実際に生成元を求めるためには、p を "作為的に" 決める必要があります。まず前提となるのは、ある数 p が素数であるかどうかの判定法は種々あって(ミラー = ラビン素数判定法、など)、p が巨大数であっても判定可能なことです。この前提のもとに、簡単な方法の例を一つあげますと、次の関係にあるような3つの数 pqe を決めます。

p=eq+1
・ pq は巨大素数
・ e は小さな偶数

pq は10進数で数百桁から1000桁以上の巨大素数(= 奇数)、e はたとえば100 以下の(もっと絞れば 10 以下の)偶数です。具体的には、まず q をランダムに選んで素数判定をし、素数であれば 次に e を選んで p が素数かどうかを判定するというプロセスになります。

こうすると p-1 の素因数分解は簡単にできるので、Fp の任意の元 g が生成元かどうかは 14.2 で判定できます。具体的には g=2 から始めて 順次 g を増やしていって生成元を探索することになるでしょう。

以上は一つの例ですが、実際に実務で使う pg については g=2 であると、コンピュータによる計算上、都合がよいわけです。従って、2 が生成元になる前提で p を探索することになるでしょう。



ちなみに、現在、ディフィー・ヘルマンの鍵共有が実際に使われている例をあげておきます。インターネットを介してリモートのコンピュータ同士が安全に通信するための SSH(Secure Shell)という規格がありますが、そこで使われている公開鍵の一つ "diffie-hellman-group14-sha1"(2048ビットの素数 p と生成元 g)を次に掲げます。これはインターネットの規格文書(RFC)に記載されています(RFC3526。16進表示)。この pp=2q+1 の形の素数で、10進では617桁です( [...] はガウス記号で ... を超えない最大の整数)。

diffie-hellman-group14-sha1(2048bit)

p = 22048-21984-1+26421918π+124476
=  3231700 6071311007
3003389139 2642382824 8817941241 1402391128 4200975140
0741706634 3542226196 8941736356 9347117901 7379097041
9175460587 3209195028 8537589861 8562215321 2175412514
9017745202 7023579607 8236248884 2461894775 8764110592
8646099411 7232454266 2252219323 0540919037 6805242355
1912567971 5870117001 0580558776 5103886184 7280257976
0549035697 3256152616 7081339361 7995413364 7655916036
8317896729 0731783845 8968063967 1900977202 1941686472
2587103141 1336429319 5361934716 3653320971 7077448227
9885885653 6920864529 6636077250 2689555059 2836275112
1174096972 9980684105 5435958486 6583291642 1362182310
7899099944 8652468262 4169720359 1185250704 5361090559

=
FFFFFFFF FFFFFFFF C90FDAA2 2168C234 C4C6628B 80DC1CD1
29024E08 8A67CC74 020BBEA6 3B139B22 514A0879 8E3404DD
EF9519B3 CD3A431B 302B0A6D F25F1437 4FE1356D 6D51C245
E485B576 625E7EC6 F44C42E9 A637ED6B 0BFF5CB6 F406B7ED
EE386BFB 5A899FA5 AE9F2411 7C4B1FE6 49286651 ECE45B3D
C2007CB8 A163BF05 98DA4836 1C55D39A 69163FA8 FD24CF5F
83655D23 DCA3AD96 1C62F356 208552BB 9ED52907 7096966D
670C354E 4ABC9804 F1746C08 CA18217C 32905E46 2E36CE3B
E39E772C 180E8603 9B2783A2 EC07A28F B5C55DF0 6F4C52C9
DE2BCBF6 95581718 3995497C EA956AE5 15D22618 98FA0510
15728E5A 8AACAA68 FFFFFFFF FFFFFFFF


g = 2



ディフィー・ヘルマンの鍵共有の安全性ですが、離散対数問題を効率的に解くアルゴリズムはないと、数学的に証明されているわけではありません。ただ、RSA暗号の根拠になっている素因数分解のアルゴリズムと同じように、こういった数論の極めて基本的で、昔からある普遍的な問題は、世界の多くの数学者が関わってきています。それでも効率的に解くアルゴリズムは知られていません。ブログのタイトルを「高校数学で理解する」とましたが、そのような基礎的な数学しか使っていないからこそ暗号が成り立っている。そう言えると思います。



ディフィー・ヘルマンの鍵共有は公開鍵暗号の発端となったものですが、上にあげたように現在でも使われています(DHと略記される)。ただ、公開鍵暗号の優秀性は、「解読の困難性」と「暗号化・複号化計算の容易性」という二律背反の要求をいかに両立させるかにあります。その意味で、ディフィー・ヘルマン以降、各種の公開鍵暗号が開発されてきました。離散対数問題を使った暗号で言うと、よく使われるのは "楕円暗号(楕円曲線暗号)" です。これは「楕円曲線上の有理点がつくる "加法群" での離散対数問題」を利用した暗号です。しかし基本的な考え方はディフィー・ヘルマンの鍵共有と同じです。その意味で、公開鍵暗号の発端となった発明の意義は、今も続いているのでした。


まとめ


以上の 「ディフィー・ヘルマンの鍵共有」をまとめると、次のようになるでしょう。

◆ 公開鍵暗号の発端となった "ディフィー・ヘルマンの鍵共有" は、離散対数問題を解く困難さ(=実質的に不可能)を根拠とする暗号である。

◆ "ディフィー・ヘルマンの鍵共有" は、有限体(乗法群)やその生成元の存在など(ガウスにさかのぼる)数論の基本のところをベースにできている。

◆ RSA暗号(No.310-311)から通して振り返ってみると、そこでの前提知識は加減乗除と冪乗のルール程度であり、そこから論理を積み重ねていって公開鍵暗号の成立性が証明できる。つまり高校数学程度の知識があれば十分理解できる。

No.310-311 のRSA暗号と同じく、この最後の点がこの記事の目的なのでした。




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No.311 - 高校数学で理解するRSA暗号の数理(2) [科学]


4. RSA暗号の証明


4.1  RSA暗号

RSA暗号の公開鍵・秘密鍵の作成方法と暗号化・複号化の計算式を定理として記述すると次の通りです。

pq を相異なる素数とし、 n=pq とする。

e m = p-1 q-1 と素な数、d を、 de 1 mod m を満たす数とする。この前提で、

暗号化: P e C mod n ならば
複号化: C d P mod n である。

P :平文。 C :暗号文 )


RSA暗号において、暗号化・複号化に必要なのは公開鍵の en と 秘密鍵の d であり、それらを生成するのに使った pq は不要です。というより、pq ないしは p-1 q-1 が漏れると暗号が破られてしまうので、これらの数は鍵を生成した後は破棄(情報を安全に抹消)する必要があります。

以下に、上の「複号化の式」が成り立つことを証明します。まず合同式の累乗 1.2 を使って「暗号化の式」の両辺を d 乗すると、

C d P de mod pq  ⋯ (1)

となります。ここで、 de 1 mod p-1 q-1 なので、 de = k p-1 q-1 + 1 と表現できます。従って、

P de = P k p-1 q-1 + 1

となります。累乗を分解すると、

P de = P p-1 q-1 k · P  ⋯ (2)

です。一方、フェルマの小定理 3.1 により、

P p-1 1 mod p

となります。合同式の累乗の定理 1.2 により、この式の両辺を q-1 乗すると、

P p-1 q-1 1 mod p  ⋯ (3)

が得られます。さらに、フェルマの小定理 3.1 により、

P q-1 1 mod q

ですが、両辺を p-1 乗して、

P p-1 q-1 1 mod q  ⋯ (4)

となります。ここで、pq は互いに素なので、1.5 の合同式の定理を (3), (4) に適用すると、

P p-1 q-1 1 mod pq

を導くことができます。この式の両辺を 1.2 を使って k 乗すると、

P p-1 q-1 k 1 mod pq

であり、さらに両辺に合同式の乗算 1.1c を使って P をかけると、

P p-1 q-1 k ·P P mod pq  ⋯ (5)

となります。従って、 (1), (2), (5) を合わせると、

C d P mod pq

となり、RSA暗号の複号化の式が証明できました。

 最小公倍数 

以上の証明の過程を改めて振り返ってみると、「m p-1 の倍数であり、かつ q-1 の倍数」であれば、RSA暗号は成立することが分かります。つまり「m p-1 q-1 の公倍数」であれば成立する。そのような m は、

m = np p-1 m = nq q-1

の2通りに表現できます。すると、 de 1 mod m なので、

de = kp p-1 + 1 de = kq q-1 + 1

と2通りに表せます。ここから、

P de = P kp p-1 + 1 P de = P · P p-1 kp P de P mod p P de = P kq q-1 + 1 P de = P · P q-1 kq P de P mod q P de P mod pq C de P mod pq

となって、平文が復元できます。この考察から分かるのは、m の最小値は「 p-1 q-1 の最小公倍数」ということです。最小公倍数を LCM で表すと、

m = LCMp-1 q-1

であればRSA暗号は成立します。そして一般に、

LCMa b = a × b gcd a b

です。最大公約数・ gcd は「2. ユークリッドの互除法」を使って高速に計算できるので pq が巨大数であっても最小公倍数・ LCM は計算可能です。

 累乗の剰余を求めるアルゴリズム 

RSA暗号では、暗号化と複号化で "累乗(冪乗)の剰余"(冪剰余と呼ぶ)を求める計算が出てきます。この計算で使う公開鍵 en も秘密鍵 d も、また平文や暗号文も、実用的には10進数で300桁とか、そういった巨大な数です。

しかし巨大な数であっても、累乗の剰余計算ができるアルゴリズムがあります。その一つとして、ここでは「2分割法」で説明します。前回の「RSA暗号の例題」であげた、

C = 82133 mod143=4

の例で説明します。考え方としては「2.ユークリッドの互除法」と同じで、問題をより "小さな問題" に置き換えるというものです。つまり、133乗を求める代わりに

C1 = 8266 mod143

が求まったとしたら、 C は、

C = C1 · C1 · 82 mod143

で計算できます。さらに、その C1 は、

C2 = 8233 mod143

が求まったとしたら、

C1 = C2 · C2 mod143

で計算できます。この2分割を次々と続けていくと、82の16乗、8乗、4乗、2乗、1乗を 143 で割った剰余が求まれば良いことになります。これを逆にたどって電卓で順次計算してみると、

mod143 821 82 822 3 824 9 828 81 8216 126 8233 103 8266 27 821334

となり、答の 4 が求まりました。これをプログラム言語で記述すると次の通りです。


4.2  2分割法による冪剰余計算

P e modn を求める関数 RSA(Javascriptで記述)。

function RSA( P, e, n ) {
 if( e == 1 ) return P % n;//①
 else {
  var h=RSA(P, Math.floor(e/2), n);//②
  var c=( h * h ) % n;//③
  if( e % 2 == 0 ) return c;//④
  else return ( c * P ) % n;//⑤
 }
}


次はこのアルゴリズムの補足説明です。

① e が 1 なら P % n が答なので、それを関数値として返す。% は Javascript の剰余演算子で、P mod n と同じ意味。

② e が 1 でないときは、e を半分(約半分)にして答を求める。Math.floor() は小数点以下を切り捨てる Javascript の組み込み関数。Javascript では実数と整数の区別がないので必要。

③ その "半分の答" を2乗し、剰余を求めて仮の答 c とする。

④ e が偶数なら c が正しい答。それを関数値として返す。

⑤ e が奇数なら c にさらに P を掛け、剰余を求めて関数値として返す。

e, n, d が10進数で300桁程度の巨大数とします。 2 1000 は約300桁の数なので、"2分割法" を使うと1000回程度の剰余計算を繰り返すこと答が求まります。この程度の計算は現在のコンピュータで可能です。ただし可能といっても 1000回の繰り返しはさすがに大変なので、実用的にはこれを高速化する手法がいろいろと開発されています。

2. ユークリッドの互除法」で、公開鍵 en e と秘密鍵 d について、たとえ巨大数であっても高速に算出できることを書きました。それに加えて、暗号化・複号化で使われる「巨大数の累乗の剰余計算」も算出可能であり、RSA暗号の全体が "計算可能" であることが証明できました。


今までのまとめ


実用的な RSA暗号を構成するときに必要なのは、巨大な素数 p, q (10進数で150桁程度かそれ以上)です。こういった素数をどうやって作り出すか、また素数であることの判定をどうやってするかの計算手法については割愛します。

今までのRSA暗号についての説明全体をまとめると、以下の2点になるでしょう。

◆ RSA暗号は数論(整数論)の基礎から構成されている(合同、ユークリッドの互除法、フェルマの小定理、・・・・・)。

◆ RSA暗号における公開鍵・秘密鍵の生成式、暗号化・復号化の式は、実用的に計算可能である。

RSA暗号は現代の情報化社会にとって必須のものであり、社会インフラの重要な構成要素です。それは、数学が実用的に、かつ直接的に社会に役立っている例なのでした。

 
RSA暗号とオイラー関数・オイラーの定理 
 

RSA暗号の成立性の証明はこれまでで尽きていますが、以降はRSA暗号と関係が深い「オイラー関数」を説明し、次に「オイラーの定理」を導いて、そこからRSA暗号の原理を導出します。まずその前提としての「中国剰余定理」です。


5. 中国剰余定理


5~6世紀頃の中国で成立した算術書『孫子算経』に、

3で割ると2余り
5で割ると3余り
7で割ると2余る数は何か

という問題が書かれています。答は23ですが、これを一般化した定理を「中国剰余定理」と呼んでいます。

5.1  中国剰余定理

与えられた k 個の整数、 m1 , m2 , , mk は、どの2つをとっても互いに素とする。このとき任意に与えられた k 個の整数、 a1 , a2 , , ak についての k 個の式、

xa1 mod m1 xa2 mod m2  ⋮ xak mod mk

同時に満たすx が存在し、この解は M=m1 m2 mk を法として唯一である。


x1 x2 の2つの解があったとします。すると、 mod m1 の式から、

x1a1 mod m1 x2a1 mod m1

となり、1.1b により、

x1 - x2 0 mod m1

となります。同様に、 mod m2 の式から、

x1 - x20 mod m2

が言えます。 m1 m2 は互いに素なので、ここで 1.5 を適用すると、

x1 - x2 0 mod m1 m2

となります。以上のことは m3 から mk までの全ての式についても言えるので、1.5 を順次適用することにより、

x1 - x20 mod m1 m2 mk

となります。つまり、

x1 x2 modM

です。従って、解 x が複数あったとしても、それらは全て M を法として合同になります(= 解は M を法として唯一)。



ここで

Mi = M m i

とおくと、 gcd mi Mi = 1 なので、2.3 により、

Mi · Ni 1 mod mi

となる Ni が存在します。これを使って、

x = i=1 k ai Mi Ni

とおくと、それが解になります。なぜなら Mi の作り方から i 番目の項以外の項は mi で割り切れるので、i 番目の項単独で「 mi を法として x と合同」になります。つまり、

x ai Mi Ni mod mi

です。一方、合同の性質の 1.4 において y=1 とおくと 1.4 は、

axb modm かつ、
ax1 modm のとき、
axb modm

となります。1.4 の「xm と互いに素」という条件は、 x1 modm で満たされています。このことを適用すると、

x ai Mi Ni mod mi Mi · Ni 1 mod mi

という2つの条件から、

x ai mod mi

となります。これが全ての i について成り立つ。従って x が解であることが証明できました。また前段で証明したように全ての解は M を法として合同なので、x が唯一の解です。



中国剰余定理の意味を直感的に理解するために、 k=2 m1 =3 m2 =4 M=12 とし、x の全て解についての対応表を作ってみると次の通りになります。

xmod3mod4 000 111 222 303 410 521 602 713 820 901 1012 1123

この表をみると、 0   1   2 を繰り返し並べ( mod3 の列)、 0   1   2   3 を繰り返し並べると( mod4 の列)、34 が互いに素の関係にあるために、 0 0 3 × 4 = 12 回繰り返さないと現れないことが分かります。その間、x は12未満の全ての数をとり mod3 mod4