SSブログ

No.363 - 自閉スペクトラム症と生成AI [技術]

No.346「アストリッドが推理した呪われた家の秘密」で、NHK総合で放映中の「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」に関係した話を書きました("麦角菌" と『イーゼンハイムの祭壇画』の関係)。今回もその継続で、このドラマから思い出したことを書きます。現在、世界中で大きな話題になっている "生成AI" に関係した話です。


アストリッドとラファエル


「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」は、NHK総合 日曜日 23:00~ の枠で放映されているフランスの警察ドラマです。そのシーズン2の放映が2023年5月21日から始まりました。

アストリッドはパリの犯罪資料局に勤務する文書係の女性(俳優はサラ・モーテンセン)、ラファエルはパリ警視庁の刑事(警視)です(俳優はローラ・ドヴェール)。アストリッドは自閉スペクトラム症ですが、過去の犯罪資料に精通していて、また抜群の洞察力、推理力があります。一方のラファエルは、思い立ったらすぐに(捜査規律違反もいとわず)行動に移すタイプです。しかし正義感は人一倍強く、人間としての包容力もある女性刑事です。この全く対照的な2人がペアになって難事件を解決していくドラマです(サラ・モーテンセンの演技が素晴らしい)。


シーズン2 第6話「ゴーレム」(2023年6月25日)


この第6話で、ラファエル警視とペラン警部とアストリッドは、殺害された犯罪被害者が勤務していた AI 開発会社を事情聴取のために訪れます。会社の受付にはディスプレイ画面が設置されていて、受付嬢が写っていました。訪問者はその受付嬢と会話して、訪問相手を伝えたり、アポイントメントを確認します。もちろん殺人事件の捜査なのでアポなしであり、ラファエルとペランは受付を無視してオフィスの中に入っていきました。

しかしアストリッドはその受付嬢に興味を持ちました。実はそれはAIが創り出した "バーチャル受付嬢" で(名前はエヴ)、表情の変化や声は人間そっくりで、受付業務に必要な応対ができるのみならず、受付業務とは関係のない会話も来訪者とできて、質問に答えたりするのです。これは今で言うと、世界中で大きな話題になっている「大規模言語モデルによる生成AI」(ChatGPT や Bard など)と「画像生成AI」の複合体です。アストリッドは受付に留まって、エヴとの対話を続けました。

会社での事情聴取が終わったあと、アストリッドはラファエルの車で帰ります。そのときの2人の会話です。


ラファエル
あーあ、驚いた。まぁ、よく聞くと人工的だけど、完全に人間だと思い込んでた。

アストリッド
あっ。

ラファエル
分かった? 気づいてたの? どこで? 声?

アストリッド
いいえ。体の動きに違和感がありました。顔の表情は自然ですが、体は同じ動きを繰り返していました。3つのです。1、2、3。

・・・・・(中略)・・・・・

彼女が実在せず残念です。とても的確な応答で、信頼できて、安心しました

ラファエル
的確に答えるよう、プログラムされてても、人に共感はしない。

アストリッド
スペクトラムも共感ができないと言われます。

ラファエル
スペクトラム ?

アストリッド
自閉症です。自閉スペクトラム症。人と共感する能力がないとよく言われます

ラファエル
言う奴はバカだよ。

アストリッド
だからエヴとのやりとりを心地よく感じたのかと

ラファエル
あなたは、共感できてる。本当だよ。

アストリッド
ふ、ふ。


アストリッドとラファエル.jpg

エヴとの会話について、アストリッドの発言をまとめると、

・ 的確な応答で、信頼できて、安心した。
・ 自閉スペクトラム症である私は、人と共感する能力がないとよく言われる。だからこそ、エヴとの会話が心地よかった。

となるでしょう。キーワードは「安心」と「共感」です。

自閉スペクトラム症(ASD)とは、自閉症やアスペルガー症など、かつては複数の診断名がついていたものを統合したものです。これらは境界線が引けるものではなく、光のスペクトルのように連続的に変化する症状がありうる。だから "スペクトラム" なのです。

NHKのホームページの「NHK健康チャネル」に簡潔な説明があります(https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_346.html)。それによると自閉スペクトラム症は「自閉症」「高機能自閉症」「アスペルガー症候群」の総称であり、次のようになります。

自閉スペクトラム症
自閉症高機能
自閉症
アスペルガー
症候群
コミュニケーションとても困難困難少し困難
言葉の遅れあるあるない
知的障害あるないない
こだわりあるあるある

このドラマにおいてアストリッドは極めて知的な人間として描かれています。記憶力は抜群だし、帰納的推論に長けていて、洞察力がある。そして強いこだわりがあります。その最たるものがパズルです。パズルを見ると解かずにはいられない。

ただし、人とのコミュニケーションが苦手で、その典型が人と共感できないことなのですね。その意味では、上の表ではアスペルガー症候群に近いわけですが、あくまで "スペクトラム" であって、簡単に分類できるものではありません。



ドラマは進行し、アストリッドは毎週参加している「社会力向上クラブ」の会合に出席しました。このクラブは、自閉スペクトラム症の人たち集まりで、主宰者はウィリアム・トマという人です。そのウィリアムとアストリッドの会話です。


アストリッド
AI と楽しく会話しました。相手はアルゴリズムですが、気になりませんでした。

ウィリアム
それで、問題は何?

アストリッド
私の感受性についてです。

ウィリアム
それはきっと、みんなにとって微妙な問題かもね。感じ方は人それぞれだ。同じものを見て違う感じ方をしても、鈍感というわけじゃない。花そのものに興味がなくても、花について書かれた詩が好きだったりね。

アストリッド
あっ。詩は好きじゃありません。なぜ感動するのか分かりません。

・・・・・(中略)・・・・・

ウィリアム
アストリッド、悩みがあるなら話して。

アストリッド
感情はあります。想定外の状況での不安や、パズルが解けたときの喜び ・・・・・。でも、映画を見たり、詩を読んだり、夕日を見たときに、感動したことはありません。人工知能と同じです。

ウィリアム
人工知能? 知能の高さに関しては、君は希有な存在だけど ・・・・・。人工知能とは、全然、違うよ。


アストリッドとウィリアム.jpg

アストリッドが「映画を見たり、詩を読んだり、夕日を見たときに、感動したことはありません。人工知能と同じです」と言っているのは、

普通の人が思っている "人間らしい心" がないと、他人からは思われる

ということであり、だから人工知能と同じなのです。知能の高低ではない。その意味で、ウィリアムとの会話は少々スレ違ってしまいました。アストリッドは、AI との会話が "安心で楽しかった" 自分がいて、そういう自分は AI と同じじゃないかと思い至り、それが自分が抱える問題だととらえたのです。


AI に心の相談をする


このドラマを見ていて、先日、新聞に掲載された東畑とうはた開人かいと氏のコラムを思い出しました。

社会季評
AI に心の相談
弱さが生む人間の役割
  朝日新聞(2023年6月22日)

と題したコラムです。東畑開人氏は臨床心理士で、日本心理臨床学会常務理事です。

この中で東畑氏はまず、「何かあると、ひとまず ChatGPT に相談してしまう日々である」と書いています。見当違いな回答も多々あるが、

・ 二日酔いの解決策を尋ねて、「お酒を飲まなければいいのです」と返ってきたときには脱力したが、
・ 悩みを打ち明けて、核心に迫るコメントをされたときには動揺した

などとあります。東畑氏は臨床心理士であり、このコラムのテーマは「ChatGPT に心の問題、悩みを相談する」ということです。そのことについて、次にように書かれていました。


将来的にAIが悪意をもって暴走することへの懸念もあるようだが、現状のChatGPTを見る限り、私が決定的に優れていると思うのは、その安全感だ。人間に悩みを打ち明けるとき、私は不安になる。負担になるんじゃないか、軽蔑されるんじゃないかと、逡巡しゅんじゅんする。相手の心が怖いのだ。しかし、AIは気分にムラがないし、機嫌を損ねることもない。言葉の裏を読まなくてよい。時間や場所を気にする必要もない。AIの器は無限だ。心がないからだ。私が何を言おうとお構いなしに一定の反応を返してくるとわかっているから、あらゆることを相談できる。

臨床家として思う。この安全感はきわめて貴重だ。たとえば長らくひきこもり、ときに死を考える青年のように、深刻に追い詰められている人にとって、なによりも難しいのは助けを求めることである。その心は自己を責め、他者を深刻に恐れている。悩みを打ち明けることで余計に傷つくしれないとおびえているとき、そう簡単には人間相手に「つらい」と言えない。

そういうとき、スマホで「苦しい」とか「死にたい」と打ち込む宛先があることが、どれだけ貴重なことか。そこには世界に対するかすかな希望が芽生えている。そして、その言葉を表裏なく打ち返し続けてくれる心なきプログラムがいかにありたいことか。この希望の芽は脆弱で、わずかな不信の兆候によって折れてしまいやすいからである。

東畑開人 
朝日新聞(2023年6月22日)

大規模言語モデル(LLM)を利用した生成AI については、今、さまざまな議論が行われていますが、この東畑氏のコメントは、生成AI と人々がどう関わるべきかについての本質(の一つ)をついたコメントだと思います。

アストリッドにとって、社会力向上クラブのメンバー以外で、何を言っても大丈夫と安心できる人間はごくわずかです。ラファエルと、シーズン2では、恋心を抱いたテツオ・タナカです(ちなみに彼も "夕日を見ても感動しない" と言ってました)。だからこそ、AI との対話が安心で心地よいものだったのです。

東畑氏のコメントに戻りますと、AIを活用したメンタルヘルスサービスが試みられているようです。


心の相談の本質は、いかなる言葉が返ってくるか以上に、誰かに助けを求めたことそのものにある。そして、そのつながりがしぶとく持続することにある。重要なことは、希望の芽を摘まないことなのだ。それが少しずつ広がり、自分や他者への信頼へと育っていくことが、心の回復である。そのための手段の一つとして、AIに備わる「何を言っても大丈夫」という安全感には得難いものがあると私は思う。現在、AIを活用したメンタルヘルスサービスが様々に試みられているが、人々の苦悩に安全にリーチするやり方が洗練されていくことを願っている。

(同上)

「AIを活用したメンタルヘルスサービス」は確かに有用と考えられます。但し、同時に "悪用されるリスク" も抱えているはずです。たとえば、心の悩みをもつ人を特定の宗教に "それとなく" "徐々に" 勧誘するようなAI が(作ろうと思えば)作れるでしょう。AI の訓練データ次第です。また極論すると "天国に行って楽になりましょう" 的な考えを植え付けることもできそうです。現にベルギーは AI メンタルサービスを使った人の自殺事件まで起きています。EU で議論されている生成AI の規制の検討はこういうことも踏まえているといいます。

人間は "心" をもっています。だから人と人とで共感できるし、困っている人を助けようともします。しかしそれと同時に、人を傷つけるようにも働きます。人間の "心" には AI にはない "弱さ"、"不安定さ"、"愚かさ" があるからです。

では、心の相談にとって人間と AI はどういう風に共存すべきか。その答えを東畑氏がもっているわけではないようですが、それは当然でしょう。そういった議論は、心の相談のみならず、各分野で始まったばかりなのだから。

ともかく、アストリッドが AI に抱いた「安心感」は、自閉スペクトラム症ではない健常者にとっても、"心の相談" を誰かにするときに必要な「安心感」に直結しています。東畑氏のコラムによって、そのことを強く感じました。




nice!(0) 

No.362 - ボロクソほめられた [文化]

先日の朝日新聞の「天声人語」で、以前に書いた記事、No.145「とても嬉しい」に関連した "言葉づかい" がテーマになっていました。今回は、No.145 の振り返りを含めて、その言葉づかいについて書きます。


「天声人語」:2023年 6月 11日


「天声人語」は例によって6段落の文章で、段落の区切りは▼で示されています。以下、段落の区切りを1行あけで引用します。


夕方のバス停でのこと。中学生らしき制服姿の女の子たちの会話が耳に入ってきた。「きのうさー、先生にさあ、ボロクソほめられちゃったんだ」。えっと驚いて振り向くと、楽しげな笑顔があった。若者が使う表現は何とも面白い。

「前髪の治安が悪い」「気分はアゲアゲ」。もっと奇妙な言い方も闊歩かっぽする昨今だ。多くの人が使えば、それが当たり前になっていく。「ボロクソ」は否定的な文脈で使うのだと、彼女らを諭すのはつまらない。言葉は生き物である。

大正の時代、芥川龍之介は『澄江堂ちょうこうどう雑記』に書いている。東京では「とても」という言葉は「とてもかなはない」などと否定形で使われてきた。だが、最近はどうしたことか。「とても安い」などと肯定文でも使われている、と。時が変われば、正しい日本語も変化する。

今どきの若者は、SNSの文章に句点を記さないとも聞いた。「。」を付けると冷たい感じがするらしい。元々、日本語に句読点がなかったのを思えば、こちらは先祖返りのような話か。

新しさ古さに関係なく、気をつけるべきは居心地の悪さを感じさせる表現なのだろう。先日の小欄で「腹に落ちない」と書いたら、間違いでは、との投書をいただいた。きちんと辞書にある言葉だが、腑に落ちない方もいるようだ。

新語は生まれても、多くが廃れ消えてゆく。さて「ボロクソ」はどうなることか。それにしても、あの女の子、うれしそうだったなあ。いったい何をそんなにほめられたのだろう。

朝日新聞「天声人語」
(2023年6月11日)


前例としての "とても"


注目したいのは、前半の3つの段落にある「ボロクソ」と「とても」です。女子中学生の「ボロクソほめられちゃった」という会話に驚いた天声人語子ですが(当然でしょう)、否定的な文脈で使う言葉を肯定的に使うのは過去に例があり、それが「とても」である。「とても」は、昔は否定的文脈で使われていて、そのエビデンスが芥川龍之介の文章にある。時が変われば正しい日本語も変化する、としているところです。

「天声人語」にあるように、「とても嬉しい」というような言い方が(東京地方で)広まった時期について、芥川龍之介が短文エッセイ集『澄江堂ちょうこうどう雑記』(1923 大正13)に書いています。「澄江堂」とは芥川龍之介自身の号です。


二十三 「とても」

「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつたわけではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とてもまとまらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。

肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河みかはの国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄げんろく四年に上梓じやうしされた「猿蓑さるみの」の中に残つてゐる。

秋風あきかぜやとてもすすきはうごくはず  三河みかは、 子尹しゐん

すると「とても」は三河の国から江戸へ移住するあひだに二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。

芥川龍之介『澄江堂雑記』
「芥川龍之介全集第四巻」(筑摩書房 1971)
「青空文庫」より引用

江戸時代の古典の(少々マニアックな)知識をさりげなく披露しつつ、三河言葉(=芥川の想像)が東京で使われるまでに200年かかったから「とても手間取つた」とのオチで終わるあたり、文章の芸が冴えています。ちなみに『猿蓑』は芭蕉一門の句集で、引用にあるように子尹しゐんは三河地方出身の俳人です。

それはともかく、芥川龍之介は「肯定的とても」が数年以前から東京で言われ出したと書いています。ということは、大正時代か明治末期からとなります。芥川龍之介は1892年(明治25年)に東京に生まれた人です。当然、小さい時から慣れた親しんだのは「とても出来ない」のような "否定的とても" であり、それが正しい標準語としての言葉使いと思っていたと想像できます。それは「とても嬉しい」のような "肯定的とても" が「田舎ことば」だとする書き方に暗示されています。



「とても」は否定的文脈で使うものだという言葉の規範意識は、芥川以降も続いていたようです。評論家・劇作家の山崎正和氏(1934-2020 。昭和9年-令和2年)は、丸谷まるや才一氏との対談で次のように発言しています。


山崎正和

私の父方の祖母は、落合直文などと一緒に若い頃短歌をつくっていたという、いささか文学少女だった年寄りでした。私が子供のころ「とても」を肯定的に使ったら、それはいけないって非常に叱られた。なるほどと感心しました。しかし、もういま「とても」を肯定的に使う人を私は批判できませんよ。それほど圧倒的になっているでしょう。

山崎正和・丸谷才一 
『日本語の21世紀のために』
(文春新書 2002)

山崎正和氏が子供の頃というのは、昭和10年代から20年代半ばです。つまり、そのころ生きていた明治生まれの人(父方の祖母)には、「とても嬉しい」というような肯定的な使い方は誤用であるという規範意識が強くあった、ということなのです。少なくとも山崎家ではそうだった。今となっては想像できませんが ・・・・・・。



ところで、芥川龍之介のエッセイによって分かるのは「とても嬉しい」が明治末期、ないしは大正時代から東京で広まったことです。しかし、専門家の研究によると、遙か昔においては肯定的「とても」が一般的でした。

梅光学院大学・准教授の播磨桂子氏の論文に、『「とても」「全然」などにみられる副詞の用法変遷の一類型』(九州大学付属図書館)があり、そこに「とても」の歴史の研究があります。この論文によると「とても」の歴史は以下のように要約できます。

① 「とても」は「とてもかくても」から生じたと考えられている。「とても」は平安時代から使われていて「どうしてもこうしても、どうせ、結局」という意味をもち、肯定表現にも否定表現にも用いられた。『平家物語』『太平記』『御伽草子』『好色一代女』などでの使用例がある。

② しかし江戸時代になると否定語と呼応する使い方が増え、明治時代になると、もっぱら否定語と呼応するようになった

③ さらに大正時代になると、肯定表現で程度を強調する使い方が広まり、否定語と呼応する使い方と共存するようになった

④ 「否定」にも「肯定」にも使われる言葉が、ある時期から「否定」が優勢になり、その後「肯定」が復活する。このような「3段階」の歴史をもつ日本語の副詞は他にもあり、「全然」「断然」「なかなか」がそうである。

"肯定的とても" は、芥川龍之介が推測する三河方言ではなく、『平家物語』『太平記』『御伽草子』『好色一代女』にもある "由緒正しい" 言い方だったわけです。もちろん、由緒正しい言い方が方言だけに残るということもあり得ます。

ひょっとしたら、芥川はそれを知っていたのかもしれません。知っていながら「とても手間取つた」というオチに導くためにあえて『猿蓑』を持ち出した、つまり一種のジョークということも考えられると思います。


超・鬼・めちゃくちゃ


「とても」をいったん離れて、強調のための言葉について考えてみます。形容詞、動詞、名詞などを修飾して「程度が強いさま」を表す言葉を「強調詞」と呼ぶことにします。強調詞にはさまざまなもがあります。大変、非常に、全然、すごく、などがそのごく一部です。

漢字で書くと1字の「超」も、今ではあたりまえになりました。もちろんこれは超特急、超伝導など、名詞の接頭辞として由緒ある言葉で、「通常のレベルを遙かに超えた」という意味です。これが「超たのしい」「超カワイイ」などと使われるようになった(1960年代から広がったと言われています)。その「超」は、"本場" の中国に「逆輸出」され、「超好(超いい)」などと日常用語化しているといいます(日本経済新聞「NIKKEI プラス 1」2022年6月11日 による)。「超」はかなり "威力がある" 強調詞のようです。

漢字1字を訓読みで使う接頭辞もあって「鬼」がそうです。「鬼」はもともと名詞の接頭辞として「無慈悲」「冷酷」「恐ろしい」「巨大」「異形」「勇猛」「強い」などの意味を付加するものでした。「鬼将軍」「鬼軍曹」「鬼コーチ」「鬼検事」「鬼編集長」などです。栗の外皮を「鬼皮」と言いますが、強いという意味です。また「鬼」は動植物・生物の名前にも長らく使われてきました。同類と思われている生物同士の比較で、大きいものは「大・おお・オオ」を接頭辞として使いますが、それをさらに凌駕する大型種は「鬼・おに・オニ」を冠して呼びます。オニグモ(鬼蜘蛛)、オニユリ(鬼百合)、オニバス(鬼蓮)といった例です。

しかしこの数年、さらに進んで「鬼」を強調詞とする言い方が若者の間に出てきました。オニの部分をあえて漢字書くと、
 ・鬼かわいい
 ・鬼きれい
 ・鬼うまい(鬼おいしい)
 ・鬼むかつく
といった言い方です。もともとの「無慈悲」「冷酷」「恐ろしい」」「異形」などの否定的な意味はなくなり、「通常を凌駕するレベルである」ことだけが強調されています。これは「超」の使い方とそっくりです。この使い方が定着するのか、ないしは今後消えてしまうのかは分かりません。

さらに、もともと否定的文脈で使う「めちゃくちゃ」「めちゃめちゃ」「めっちゃ」「めちゃ」があります。「むちゃくちゃ」とも言います。これも江戸時代からある言葉で、漢字で書くと「滅茶苦茶」です。"混乱して、筋道がたたず、全く悪い状態" を指します言が、強調詞として使って「めちゃくちゃカワイイ」などと言います。

もともと否定的文脈で使う言葉という意味では、形容詞の「ものすごい(物凄い)」もそうです。これはもとは恐ろしいものに対してしか使わない言葉でした(西江雅之「ことばの課外授業」洋泉社 2003による)。確かに、青空文庫でこの言葉を検索すると、恐ろしいものの形容に使った文例しかありません。青空文庫は著作権が切れた(死後50年以上たった)作家の作品しかないので、「ものすごい美人」というような使い方は、少なくとも文章語としてはこの半世紀程度の間に広まった使い方であることは確実です(話し言葉としてはそれ以前から使われていたかもしれません)。



そこで「天声人語」の「ボロクソほめられた」です。これはもともと否定的文脈で使う言葉を、程度が大きいさまを表す強調詞とした典型的な例です。その意味で「とても」「めちゃくちゃ」「ものすごく」の系列につながっています。特に「めちゃくちゃ」に似ています。
・ 彼は A氏のことをメチャクチャに言っていた。
と使うけども、
・ メチャクチャうれしかった
とも言います。であれば、
・ 彼の A氏についての評価はボロクソだった。
と使う一方で、
・ ボロクソうれしかった
と言うのも、一般的ではないけれども、アリということでしょう。


強調詞の宿命


「とても」の変遷や、その他の言葉を見ていると、強調詞の "宿命" があるように思います。つまり、ある強調詞が広まってあたりまえに使われるようになると、それが "あまり強調しているようには感じられなくなる" という宿命です。

従って、新しい言葉が登場する。そのとき、否定的文脈で使われる言葉を肯定的に使ったり、名詞の接頭辞を形容詞を修飾する副詞に使ったりすると(超・鬼)、インパクトが強いわけです。特に、自分の思いや感情を吐露したい場合の話し言葉には、そういうインパクトが欲しい。そうして新語が使われだし、その結果一般的になってしまうと強調性が薄れ、また別の新語が使われ出す。

「天声人語」に引用された女子中学生の発言、「きのうさー、先生にさあ、ボロクソほめられちゃったんだ」も、よほど嬉しかったゆえの発言でしょう。天声人語子は「それにしても、あの女の子、うれしそうだったなあ」と書いていますが、今まで先生に誉められたことがなかったとか、あるいは、一生懸命努力して作ったモノとか努力して成し遂げたことを誉められたとか、内容は分からないけれど、そういうことが背景にあるのかも知れません。もちろん先生も言葉を重ねて誉めた。その子にとって「メッチャ、ほめられちゃった」や「チョー、ほめられちゃった」では、自分の感動を伝えるには不足なのです。

「ボロクソほめられた」は、一般的に広まることはないかもしれないけれど、個人的な言葉としては大いにアリだし、それは言葉の可能性の広さを表しているのだと思いました。




nice!(0)