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No.327 - 略奪された文化財 [歴史]

No.319「アルマ=タデマが描いた古代世界」で、英国がギリシャから略奪したパルテノン神殿のフリーズの話を書きました。今回はそれに関連した話題です。


エルギン・マーブル


まず始めに No.319 のパルテノン神殿のフリーズの話を復習すると次の通りです。

◆ 1800年、イギリスの外交官、エルギン伯爵がイスタンブールに赴任した。彼はギリシャのパルテノン神殿に魅了された。当時ギリシャはオスマン・トルコ帝国領だったので、エルギン伯はスルタンに譲渡許可を得てフリーズを神殿から削り取り、フリーズ以外の諸彫刻もいっしょに英国へ送った。

◆ 数年後、帰国したエルギン伯はそれらをお披露目する。芸術品は大評判となるが、エルギン伯の評判はさんざんだった。「略奪」と非難されたのだ。非難の急先鋒は "ギリシャ愛" に燃える詩人バイロンで、伯の行為を激しく糾弾した。

◆ 非難の嵐に嫌気のさしたエルギン伯は、1816年、フリーズを含む所蔵品をイギリス政府に売却した。展示場所となった大英博物館はそれらを「エルギン・マーブル(Elgin Marble)」、即ち「エルギン伯の大理石」という名称で公開し、博物館の目玉作品として今に至る。

The Parthenon Frieze(Wikimedia).jpg
パルテノン神殿のフリーズ
- 大英博物館 -
(Wikimedia Commons)

◆ 実は、古代ギリシャ・ローマの彫像や浮彫りは驚くほど極彩色で色づけされていたことが以前から知られていた。わずかながら色が残存していたからだ。大英博物館のフリーズにも彩色の痕跡が残っていた。

◆ オランダ出身でイギリスに帰化した画家・アルマ=タデマは、大英博物館に通い詰め、フリーズの彩色の痕跡を調査し、それをもとに一つの作品を仕上げた。それが「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」(1868)である。

アルマ=タデマ 8:フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ(1868).jpg
ローレンス・アルマ=タデマ
「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」(1868)
(Pheidias and the Frieze of the Parthenon, Athens)
72.0.cm×110.5cm
(バーミンガム市立美術館)

◆ ところが1930年代、大英博物館の関係者が大理石の表面を洗浄し、彩色を落とし、白くしてしまった。彫刻は白くあるべきという、誤った美意識による。このため大理石の本来の着色は二度と再現できなくなった。「エルギン・マーブル事件」と呼ばれる大スキャンダルである。

◆ ギリシャはパルテノン神殿のフリーズを返還するようにイギリスに要求し続けているが、イギリスは拒否したままである。しかたなくギリシャはアテネのアクロポリス博物館にレプリカを展示している。

◆ アルマ=タデマの「フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ」は、今となってはパルテノン神殿の建設当時の姿を伝える貴重な作品になってしまった。

大英博物館が所蔵する略奪美術品・略奪文化財はエルギン・マーブルだけではありません。エジプト、メソポタミアの文化財の多くがそうです。このエジプト・メソポタミアのコレクションを築いた人物の話が、NHKのドキュメンタリー番組でありました。それを紹介します。


大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション


NHK BSプレミアムで「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」と題するドキュメンタリーのシリーズが放映されています。その2021年11月25日の放送は、

大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション

と題するものでした(2021年11月25日 21:00~21:45)。内容は、大英博物館(British Museum)のエジプト・コレクションに焦点を当て、その収集(略奪)の経緯を追ったものした。以降、番組の概要を紹介します。



大英博物館のエジプト・コレクションは総数が10万点以上で、世界最大級です。ミイラだけでも150点以上あります。このコレクションのうちの4万点を集めたのが、大英博物館の考古学者、ウォーリス・バッジ(Wallis Budge。1857-1934)でした。バッジは大英博物館の歴史上、最も多くの文化遺産を収集した人物と言われています。

彼の収集方法はもちろん違法で、嘘、賄賂、脅しなどで盗掘品を買いあさったものでした。収集品の中で最も貴重なのが "死者の書" の最高傑作といわれる「アニのパピルス」ですが、これもエジプト当局を出し抜き、無許可で英国に持ち出したものです。

1882年、英国はエジプトを占領し、保護国にします。1886年、バッジは29歳でエジプト乗り込みました。彼は 150ポンド(現在の日本円で約300万円の価値)の資金を大英博物館から託されていました。

当時のエジプトでは、1880年5月19日に公布された遺跡や遺物に関する法令で、「エジプト考古学に関わるすべての文化遺産の持ち出しを絶対に禁止する」と決められていました。文化遺産を持ち帰るヨーロッパ人が後を絶たなかったためです。バッジに面会した英国総領事のイブリン・ベアリング(Evelyn Baring)も、エジプトの文化遺産を英国に持って帰らないようバッジにクギをさし、「エジプトの占領が歴史的な遺産を盗む口実になってははらない」と告げました。

しかし、バッジは文化遺産の買い付けに走ります。持ち前の語学力を武器に情報収集を行い、また、古代エジプト文字も読めたバッジは審美眼にもたけていました。そして現地のエジプト人が盗掘した文化遺産を次々と買い漁っていきました。盗掘品と知りながら購入する行為はもちろん違法ですが、盗掘人にもメリットがありました。盗掘品をエジプト当局に見つかると、没収されるか二束三文で買い上げられます。バッジに売る方が儲かります。

バッジはエジプト当局の監視をかいくぐり、イギリス軍と交渉して文化遺産を軍用貨物として英国に送りました。軍用貨物となると誰も検査できません。バッジは英国総領事・ベアリングの指示を全く無視したわけです。この初めてのエジプト行きでバッジは1500点もの文化遺産を持ち帰りました。



1887年、バッジは再びエジプトに向かいます。後に「アニのパピルス」と呼ばれる "死者の書" を手に入れるためです。番組のナレーションを紹介します。


死者の書とは、あの世で必要とされる呪文や祈祷文が書かれた巻物。ミイラとともに埋葬される。古代エジプト人は、人は死んでもあの世で復活できると考えていた。そのための永遠の肉体がミイラである。そして復活に至るまでのさまざまな困難を乗り越える道しるべとなるのが死者の書である。死者の書はミイラとともに古代エジプト人の死生観を今に伝える貴重な学術資料なのだ。中でもバッジが収集した「アニのパピルス」は、美しいさし絵があしらわれ、美術品としての価値も高く、数ある死者の書でも最上級と言われる。

発端はロンドンのバッジに届いた、エジプトの盗掘集団の一味からの手紙だった。手紙には、立派な墓からパピルスでできた巻物がいくつも見つかったと記されていた。エジプト考古局が持ち出す前に早く取りに来てほしいとのことだった。

再びエジプトに降り立ったバッジ。前回の傍若無人な振る舞いから、すでに要注意人物としてマークされていた。

まずはあの因縁の相手、英国総領事のベアリングが使いをよこし、法律で禁じられている文化遺産の国外持ち出しをやめるよう告げてきた。さらには、エジプト考古局長のウジェーヌ・グレボーから呼び出され、違法行為に関しては逮捕・監禁もありうると、厳しい口調で警告された。


しかしバッジは警告を無視します。バッジは到着の数日後、盗掘集団の案内でパピルスの巻物が発見された墓を訪れました。そこにあったのが「アニのパピルス」です。アニという人物に捧げられた死者の書で、完全な状態で残っていました。バッジはそれを墓から持ち出しました。つまり、これまでは盗掘品を買い取っていただけでしたが、ついに盗掘に手を染めたのです。


バッジは自ら足を運び、盗みに加わりました。ついに一線を超えてしまったのです。第三者から購入していただけなら、盗品とは知らなかったと言い逃れもできます。バッジは完全にモラルが崩壊してしまったのです。

歴史家:エイデン・ドッドソン
(Aiden Dodson)

バッジはまたしてもイギリス軍に託しで持ち出すことに成功しました。

たった2度のエジプト行きで盗掘集団とのネットワークを築いたバッッジは、メソポタミアでも同様の手口で文化遺産を収集していきました。

バッジの行為は英国国内でも批判が噴出しました。「大英博物館のために働く無節操なコレクター」と新聞は書きました。バッジ批判の急先鋒はエジプト考古学の父といわれるフリンダーズ・ピートリーでした。彼はバッジを告発する手紙を考古学会に送ります。しかし、大英博物館の理事会メンバーの多くが政府の高官でした。政府はバッジの行為を把握し、承認していたのです。告発はスルーされました。

1894年、バッジは37歳で大英博物館のエジプト・アッシリア部長に昇進し、その後もコレクションを充実させます。そして67歳で退官するまでに、エジプト関連の文化遺産を4万点、メソポタミア関連を5万点収集しました。古代エジプトのミイラも、バッジが在職中に 63点が収集されています。

アニのパピルス.jpg
アニのパピルス
(Wikipedia)

略奪された文化財、美術品を元の国に返還するよう、機運が高まっています。2017年、フランスのマクロン大統領がアフリカのベナン共和国に文化財を返還する方針を発表しました。アメリカの聖書博物館も2021年、エジプトに5000点の文化遺産を返還しました。しかしこのような返還はまだ一握り、ごく一部に過ぎません。たとえば大英国博物館は1753年の創設以来、一切の返還要求に応じていません。



以上が「大英博物館 ─ 世界最大の泥棒コレクション」(NHK BSプレミアム 2021年11月25日)の概要です。大英博物館を訪れると、有名なロゼッタ・ストーンに目を引かれ、巨大なアッシリアの彫像、大量のエジプトのミイラに驚きます。そういった古代文明を知ることは大切な経験ですが、それと同時に英国の略奪の歴史も知っておくべきでしょう。歴史の勉強としては、それもまた重要です。


ルーブル美術館


イギリスだけでなく、フランスのルーブル美術館も略奪美術品で有名です。ここの特色は、19世紀初頭のナポレオン戦争でナポレオンが持ち帰った文化財・美術品があることです。つまり、エジプトのみならずヨーロッパ各国から略奪した美術品がある。特にイタリアです。2021年6月9日の New York Times に、

The masterpieces that Napoleon stole, and how some went back(ナポレオンが略奪した芸術作品と、その一部の返却経緯)

と題するコラム記事が掲載されました。この記事の一部を試訳とともに掲げます。


When Napoleon Bonaparte led his army across the Alps, he ordered the Italian states he had conquered to hand over works of art that were the pride of the peninsula. The Vatican was emptied of the “Laocoön”, a masterpiece of ancient Greek sculpture, and Venice was stripped of Veronese’s painting“The Wedding Feast at Cana”(1563).

【試訳】

ナポレオン・ボナパルトが軍隊を率いてアルプスを越えたとき、彼は征服したイタリアの国々に、半島の誇りである芸術作品を引き渡すように命じた。バチカン市国は古代ギリシャ彫刻の傑作である「ラオコーン」を持ち出され、ヴェネツィアはヴェロネーゼの絵画「カナの婚礼」(1563年)を剥奪された。

New York Times
2021年6月9日

ヴェロネーゼの『カナの婚礼』は、677cm × 994cm という巨大さで、ルーブル美術館の最大の絵画と言われています。この絵はもともとヴェネチアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の食堂に飾られていましたが、ナポレオン軍が剥奪しました。あまりに巨大なので、カンヴァスを水平にいくつかに切断し、それぞれをカーペットを丸めるようにしてフランスに持ち帰り、再び縫合しました。これだけでもカンヴァスの損傷があったと思われます。

ヴェロネーゼ「カナの婚礼」.jpg
ヴェロネーゼ(1528-1588)
「カナの婚礼」(1563)
ルーブル美術館


“Napoleon understood that the French kings used art and architecture to enlarge themselves and build the image of political power, and he did exactly the same”said Cynthia Saltzman, author of‘Plunder’,a history of Napoleon's Italian art theft done, said in an interview.

He stormed about 600 paintings and sculptures from Italy alone, she remarked, adding that he‘wanted to commit himself to these ingenious works’and justify their looting by calling on‘the aims of the Enlightenment’.

【試訳】

「ナポレオンは、フランス歴代の王が芸術と建築を使って自らを誇示し、政治力のイメージを作り上げたことを理解していました。彼はまったく同じことをしたのです」と、ナポレオンによるイタリアの美術品盗難の歴史である「略奪」の著者であるシンシア・サルツマンはインタビューで語った。

サルツマンは、ナポレオンはイタリアだけで約600点の絵画と彫刻を略奪したことを述べた上で、彼は「これらの独創的な作品に献身したい」と思い、「啓蒙の目的」だと広く知らしめることで略奪を正当化したと付け加えた。

New York Times

しかしナポレオンは結局のところ "敗北" し、戦後処理の中で略奪美術品も返却されます。「ラオコーン」もその一つです。しかし返却されたのは全部ではありませんでした。


About half of the Italian paintings Napoleon took were returned, Saltzman said. The other half stayed in France, including ‘The Wedding Feast at Cana’.

【試訳】

「ナポレオンが奪ったイタリアの絵画の約半分は返還されました」とサルツマンは言う。「残り半分は『カナの婚礼』を含めてフランスに留め置かれました」と。

New York Times


Why were the others not returned ? Many were scattered in museums across the country, and French officials resisted giving them back. Each former occupied state had to submit a separate request to return their artwork, which made the process even more complicated, Saltzman said.

【試訳】

なぜ他の作品は戻らなかったのか? 「その多くは全国の美術館に散らばっていて、フランス当局は返却に抵抗しました。かつて占領されていたイタリアの各国は、作品の返却のためには個別の要求を提出する必要があり、プロセスがかなり複雑になりました」とサルツマンは述べている。

New York Times

ナポレオンの強奪美術品がルーブル美術館でだけでなくフランス各地に分散されたのは、返還交渉を難しくするためと言われています。


Although many were returned, the Napoleonic looting left a bitter aftertaste that continues to this day. Italians still refer to “i furti napoleonici” (“the Napoleonic thefts”).

【試訳】

多くが返還されたものの、ナポレオンの略奪は今日まで続く苦い後味を残している。イタリア人は今でも「i furti napoleonici」(「ナポレオンの盗難」)と呼んでいる。

New York Times

話は変わりますが、以前、イタリア対フランスのサッカーのナショナルチームの試合があり、イタリアが勝った時の様子を特派員がレポートしたテレビ番組を見たことがあります。何の試合かは忘れました。ワールドカップのヨーロッパ予選だったか、ヨーロッパ国別選手権だったか、とにかく重要な試合です。これにイタリアが勝ったときの北イタリアの都市(ミラノだったと思います)の街の様子が放映されました。街頭に繰り出した人々が口々に叫んでいたのは、

「 フランスには勝った。次はモナ・リザを取り戻すぞ!」

というものです。良く知られているように、ダ・ヴィンチは最後の庇護者であるフランスのフランソワ1世のもとで亡くなったので、手元にあったモナ・リザがフランスに残されました。ダ・ヴィンチの遺品の "正式の" 相続権者が誰かという問題はあると思いますが、少なくともモナ・リザはフランスが強奪したものではありません。

しかし、フランスに勝ったことで熱狂し街頭に繰り出したイタリアの人々は「次はモナ・リザを取り戻すぞ!」なのですね。テレビを見たときにはその理由がわかりませんでした。しかしイタリアの美術品がフランスに強奪された歴史を知ると、あのような人々の叫びもわかるのです。



イタリアだけではありません。スペインやポルトガルに団体で旅行に行くと、現地のガイドさんが各種の文化遺産(教会、修道院、宮殿など)を案内してくれます。そこでは「ナポレオンにはひどい目にあった」という意味の解説がよくあります。

ポルトガルの世界遺産になっているある修道院に行ったとき、教会に安置されたポルトガル王族の棺があって、その大理石のレリーフがごっそりとはぎ取られているのを見たことがあります。ガイドさんによるとナポレオン軍が持っていったとのことでした。もちろん現在は行方不明です。ルーブル美術館の『カナの婚礼』とは違って、全く無名の職人の無名の作品です。こういった例がたくさんあるのだと想像できます。



略奪文化財・美術品ということで、イギリスとフランスの例を取り上げましたが、19世紀から20世紀にかけて植民地や保護領をもった国や、外国に出て行って戦争をして勝った国には、美術品強奪の歴史があります。ドイツもそうですが、日本も朝鮮半島を併合した歴史があります(1910-1945)。1965年の日韓基本条約には、韓国から日本に持ち込まれた美術品の返却が盛り込まれました。このあたりは、Wikipediaの「朝鮮半島から流出した文化財の返還問題」に詳しい解説があります。


仏の略奪美術品、ベナンに返却へ


はじめの方に紹介した「大英博物館 ── 世界最大の泥棒コレクション」(NHK BSプレミアム。2021年11月25日 21:00~21:45)で、

2017年、フランスのマクロン大統領がアフリカのベナン共和国に文化財を返還する方針を発表

とありました。この話が具体的に進み出しました。パリのケ・ブランリ美術館が所蔵するアフリカ美術・26点の返還です。2021年10月末の新聞報道を引用します。


朝日新聞
2021年10月29日

仏の略奪美術品、ベナンに返却へ
 植民地支配の「戦利品」
 像・玉座など26点

フランスのマクロン大統領は27日、植民地だった西アフリカのベナンから129年前に戦利品として略奪した26点の美術品を来月に返還すると明らかにした。フランスの美術館は9万点ものアフリカの作品を所蔵し、半数以上は植民地時代に奪ったものとされる。マクロン氏は今後も一部を返還していく考えを示したが、背景にアフリカとの関係を改善したい思惑がある。

今回返還されるのは、フランスが1892年、当時のダホメ王国を侵略した際に、戦利品として持ち去った王を象徴する像や王宮の扉、玉座などが対象だ。アフリカやアジアをはじめ世界各地の「原始美術」を展示するパリのケ・ブランリ美術館に所蔵され、月末まで特別展示されている。

マクロン氏は27日に同館で作品を鑑賞した後、「作品がかつて去った大地に戻り、アフリカの若者が自国の遺産に再び触れられるようになる」と演説した。

ベナンは以前から美術品の返却を求め、マクロン氏は2017年に西アフリカのブルキナファソを訪問した際、フランスにあるアフリカの文化財返却に踏み切る考えを表明。国の財産を譲渡できるようにするための法整備を進めてきた。

27日にケ・ブランリ美術館を訪れたバンサン・シブさん(70)は1970年代後半、綿花栽培のボランティアとしてベナンに滞在。「王宮跡を訪ねたことがあったが、がらんどうだった。返還すべき作品だ。アフリカの若者は、こうした優れた作品が自国にあったと知らないまま育ってしまっていたのだから」と語った。

アフリカと関係改善狙う

マクロン氏の狙いは、アフリカとの関係改善にある。文化財の返却を対等な関係の象徴と位置づけることで、反仏感情を取り除きたい考えだ。アフリカ系移民を多く抱える国内にとって大事な問題でもある。

マクロン氏は27日、「我々の視点を脱中心化し、フランス、アフリカ双方の互いの見方を変える」必要があると語り、アフリカの立場に立つ意義を訴えた。

ただ、国内の美術館にはこうした収奪品が推計4万6千点以上所蔵されている。マクロン氏は「すべての作品を手放すわけではない」とも語り、返すべきものの選び方や方法を近く法律で定める考えを示した。


Africa-Benin.jpg
ベナン

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ダホメ王国(現・ベナン)の王様などをかたどった木像

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玉座

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王宮からフランスに持ち帰られ、展示されている扉
いずれも2021年10月27日、パリのケ・ブランリ美術館、疋田多揚 撮影

こういった文化財は "民族の誇り" であり、民族の歴史を知り、民族のアイデンティティーの確立に重要でしょう。それは国家としての一体感を醸成するのに役立ちます。しかし記事にあるように現・ベナンの若者は、こういった文化遺産を全く知らずに育ってしまったわけです。文化財の略奪は単にモノの所在が移動しただけではありません。民族を破壊する行為である。そう感じます。さらに記事では、略奪美術品の一般状況についての解説がありました。


欧州の美術館や博物館は過去の他国支配と少なからず結びついており、ナポレオンは支配下のイタリアから絵画や彫刻を収奪。絵画の半数はルーブルなど仏の美術館に残るとされる。エジプトは、大英博物館が所蔵する象形文字の石碑ロゼッタストーンの返還を求めているが、応じていない。

ベルリン工科大学のベネディクト・サボワ教授(美術史)は「アフリカの国々は、(独立を遂げた)1960年代からずっと旧宗主国に返還を求めてきたが、ことごとく拒まれてきただけに、今回の返却は大きな意味がある」と評価する。

そのうえで「フランスの美術館の起源には、戦争の暴力や植民地支配といった権力の非対称性がつきまとっている。美術館は、数々の傑作のこうした背景についての説明を意図的に避けており、本当の情報を知らされていない来館者は(理解を妨げられた)被害者でもある」と指摘した。(パリ=疋田多揚、ローマ=大室一也)


最後の一文が痛烈ですね(ちなみにサボワ教授はフランス人です)。我々は "本当のことを知らされていない被害者" にならないようにしたいものです。


ピカソ


ところで記事にあったように、マクロン大統領はパリのケ・ブランリ美術館に所蔵されている美術品、26点をベナン(旧・ダホメ王国)に返却することを表明しました。このケ・ブランリ美術館とは、セーヌ河のほとりにある美術館で(2006年開館)、アフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカの固有文化の文化遺産、美術品が展示されています。

ここの収蔵品の多くは1937年設立の人類博物館の所蔵品であり、その人類博物館の前身は1882年に設立されたトロカデロ民族誌博物館です。そして1907年頃、そのトロカデロ民族誌博物館を訪れたアーティストがいます。ピカソです。

ピカソの作品を年代順に分類すると、1907年~1909年は「アフリカ彫刻の時代」と呼ばれていて、アフリカ固有文化の彫刻の影響が顕著です。有名な例で『アヴィニョンの女たち』の右2人の女性の表現です。

Les Demoiselles d'Avignon.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
「アヴィニョンの女たち」(1907)
ニューヨーク近代美術館

ピカソだけでなく、マティスやモディリアーニにもアフリカ彫刻の影響が見られます。次の画像はバーンズ・コレクション(No.95 参照)の "Room 22 South Wall" ですが、ピカソとモディリアーニとアフリカ彫刻が展示されています。アルバート・バーンズ博士(1872-1951)はピカソやモディリアーニと同時代人です。20世紀初頭のパリのアーティストたちがアフリカ彫刻からインスピレーションを得たことを実感していたのでしょう。

Barnes Collection Room 22 South Wall.jpg
バーンズ・コレクション
Room 22 South Wall
アフリカの彫刻とモディリアーニとピカソが展示されている。モディリアーニは「白い服の婦人」と「横向きに座るジャンヌ・エビュテルヌ」、その内側にピカソがあって「女の頭部」と「男の頭部」である(下図)。アフリカの彫刻(仮面、立像)とこれらの類似性を示している。

Pablo Picasso - Barnes.jpg
ピカソの「女の頭部」(左)と「男の頭部」(右)
(バーンズ・コレクション)

Portrait Mask(Bearded Man).jpg
Female Figure1.jpg
展示されている彫刻のうちの2つの仮面と、2つの立像。
(バーンズ・コレクション)

ピカソ作品と旧・ダホメ王国の文化財が直接の関係を持っているというわけではありません。ただ当時は、アフリカの文化財が "略奪" や "正規の購入" も含めて大量にパリに運ばれ、美術館に展示されていた。この環境がピカソの一連の作品(を始めとする芸術作品)を生み出したわけです。我々はピカソの「アフリカ彫刻の時代」の作品を鑑賞するとき、なぜこのような作品が生まれたのかの歴史を思い出すべきなのだと思います。




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