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No.336 - ヒトはなぜ「がん」になるのか [科学]

No.330「ウイルスでがんを治療する」に引き続いて、がんの話を書きます。今回は治療ではなく、そもそもがんがなぜできるのかという根本問題を詳説した本を紹介します。キャット・アーニー著 "ヒトはなぜ「がん」になるのか"(矢野真千子・訳。河出書房新社 2021。以下 "本書")です。

世の中にはがんに関する本が溢れていますが、なぜヒトはがんになるのか、がんはヒトにとってどういう意味を持つのかという根本のところを最新の医学の知識をベースにちゃんと書いた本は少ないと思います。本書はその数少ない例の一つであり、紹介する理由です。

著者のキャット・アーニー(Kat Arney)は英国のサイエンス・ライターで、ケンブリッジ大学で発生遺伝学の博士号を取得した人です。また、英国のがん研究基金「キャンサー・リサーチ・UK」の "科学コミュニケーション・チーム" で12年勤務した経験があります。最新の医学知識を分かりやすく一般向けに書くにはうってつけの人と言えるでしょう。

この本をとりあげる理由はもう一つあって、矢野真千子氏の日本語訳が素晴らしいことです。以前に、アランナ・コリン著「あなたの体は9割が細菌」を紹介したことがありましたが(No.307-308「人体の9割は細菌」)、この本も矢野氏の翻訳で、訳文が大変に優れていました。もちろん原書が論理的で明快な文章だからでしょうが、それにしても矢野氏の翻訳家としての力量(リズムがよい明晰な日本語を書く力)と科学知識(医学知識)の豊富さは明らかです。以下で本書の重要と思われる所を長めに引用しますが、それを読むと分かると思います。

なお引用は、原則として漢数字を算用数字に直し、段落を追加したところがあります。また下線や太字は引用をする上でつけたもので原文にはありません。


がんを進化の視点で見る


本書の内容をごく簡単に要約すると「がんは生物進化の縮図であり、その視点でがん医療のあり方を見直そう」というものです。このことは本書の「はじめに」で明確に書いてあります。


科学者たちはがんの進行を、自然界の生物進化の縮図として見るようになってきた。生物が突然変異で新しい形質を得たあと、その形質が自然選択で選ばれれば生き延び拡散するのと同じように、がん細胞も新しい変異を拾ったあと、自然選択で選ばれれば増殖して拡散する。ダーウィンが描いた進化系統樹のように、がん細胞も枝分かれしながら進化する。ここで私たちは、がんについてのもう一つの不都合な真実、治療自体ががんの悪性化に手を貸すという真実を知ることになる。

がんが育つとき私たちの体の中で働いているのは、地球上の生物進化を駆り立ててきたのと同じプロセスだ。がんの進化における自然選択の選択圧は、本来なら命を救うはずの治療薬という形でやってくることもある。薬は、その薬の効く(薬に反応する)細胞を死滅させ、薬の効かない(薬に耐性のある)細胞を栄えさせる。つまり、薬はがんを弱体化させるどころか増強させる。そうやって強力になったがんは再発という形で現れるが、そのときにはもう、何をどうしても止められなくなっている。進行したがんに現行の治療法が無力なのは不思議でも何でもない。

ともかく私たちは、がんの発生、予防、治療についての考え方を、進化の現実に即したものにアップデートする必要がある。がんは、変異のリストで語られるような静的な存在ではなく、刻一刻と進化し様相を変える動的な存在だ

キャット・アーニー
"ヒトはなぜ「がん」になるのか"
矢野真千子・訳 河出書房新社(2021)
p.12 - p.13

重要なキーワードは進化(evolution)と自然選択(natural selection)ですが、これは進化生物学の用語であり、普通の医学用語ではありません。これが、がんという病気やその治療とどう関係するのか、それを詳しく書いたのが本書だと言えるでしょう。以下、本書の "さわり" を順に紹介します。


がんは現代病ではない


がんという病気について「現代における環境汚染や現代人の食生活、生活習慣が引き起こしたもの」という説を唱える人がいます。「がんは現代病」というわけです、著者はまず、この言説に真っ向から反論しています。それは科学的なエビデンスとは違うというわけです。


がんのリスクを高める要素に現代のライフスタイルや習慣があるのは事実だ。と同時に、それは自然の中にもある。ウイルスや細菌、カビがそれにあたるし、植物から出る化学物質もそうだ(有機栽培の作物も毒を出す)。

放射性物質のラドンは世界各地で、とくに火山性の岩石が多いところで地面から漏れ出ている。アメリカ南西部で1000年前ごろ暮らしていた住民の遺骸に異常に多くのがんが見つかったが、それはおそらく放射性物質であるラドンのせいだ。

日光は、がんを誘発する紫外線を毎日私たちに浴びせている。料理や暖をとるために火をおこせば、そこから発がん物質を含んだ煙が出る。火おこしは人類が出現したころから日夜営んできた行為だ。

そして、小児がんのほとんどは、胎内での発生過程が乱れたときに起こる。どれも断じて「人為的で現代的な要素」なんかではない。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.20

昔の人もがんになりました。その証拠を収集している研究者がいて、古代人や先史時代の人骨やミイラのがんの兆候を集めた「古代遺骸がん研究データベース」が作られています。一般に、人骨やミイラからがんを発見するのは難しい作業です。異常なこぶや隆起が見つかったとしても、悪性の腫瘍だとは断定できないからです。しかし骨に明らかな痕跡を残すがんもある。本書には、絶滅人類の骨の化石から骨肉腫や脳腫瘍の痕跡が見つかった事例が出てきます。


すべての生き物はがんになる


さらにヒトでだけでなく、ほとんどすべての生き物ががんになります。ここで、がんの定義が問題になります。ヒトの場合、基底膜(臓器を包んでいる薄い保護膜)を突き破るような細胞増殖をがんと定義しますが、ほとんどの生物にはその基底膜がありません。

しかし「異常な細胞増殖」は、菌類、藻類、植物をはじめ、魚類、両生類からほ乳類にいたる広範囲な動物に見られます。恐竜の骨の化石から異常が見つかったこともありました。すべての生き物ががんになりうる。この認識が重要です。

ただし、がんになりにくい動物がいることが知られています。動物は体細胞の数が多いほど(= 体が大きいほど)がんになるリスクが増しますが、アフリカ象やシロナガス鯨はヒトと比較して遙かにがんになりにくいことが分かっています。これは「がん抑制遺伝子」を大量に持っているからです。


多細胞生物における反逆者


すべての生き物はがんになる(なりうる)。この "すべて" とは実は多細胞生物のことです。ここからが本書の最も重要な話になります。多細胞生物にはそれぞれの細胞が従うべきルールがあります。


多細胞生物のライフスタイルは、細胞の分裂と機能が厳格にコントロールされていなければ成り立たない。細菌のような単細胞生物なら進化目標はただ一つ、増殖して遺伝子を次世代に手渡すことだけだ。単細胞生物は死んだらそこで進化の行き止まりになるから、生き続けることと複製し続けることさえ頑張ればいい。

多細胞生物の細胞の場合、勝手な複製は許されない。複製していいのは、赤ん坊から成人になるまでの発生期と成長期、または身体を定期メンテナンスしたり応急処置したりするときだけだ。多細胞生物の細胞は、決められていない仕事をするのも許されない。脳にある神経細胞は、すい臓にある島細胞のようにインスリンを生産したいと思ってもできないし、外界とのバリアをつくる皮膚細胞が血液細胞のように全身を旅したいと思ってもできない。そのままにしておけば問題になる故障した細胞や損傷した細胞は、自死するか免疫系に駆逐されるようあらかじめ決められている。

多細胞生物になれば、個々の細胞は生物全体の利益になるようふるまう義務が生じる。ところががん細胞はルールを無視し、好き勝手に増殖し、周囲の組織に侵入し、あちこちに移り住み、最終的には宿主もろとも死ぬ。がんがどこから来たのかを理解するには、まず多細胞生物の生き方のルールを知り、そのルールが破られたとき何が起こるのかを知る必要がある。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.48 - p.49

多細胞生物の細胞群が遵守しいるルールを破る細胞が出てきます。いわば「反逆者」ですが、これががん細胞です。


細胞の従うべき金科玉条はつぎの5つだ。増殖しすぎない、決められた仕事を遂行する、必要以上に資源を浪費しない、汚したら自分で始末する、死ぬときが来たら死ぬ。

この5つのルールがあれば、人間社会だろうがどんな社会だろうが、円滑に維持される。逆に、個々のメンバーが自分勝手にふるまうと問題が生じる。

がん細胞はこれらのルールすべてに逆らう。最初は一度に一つのルールを破る程度だが、定着して全身に広がるころには一斉にすべてのルールを破っている。無制限に増殖し、本来の仕事をせず、酸素と栄養素をむさぼり食い、周囲を酸性に毒し、断固として死なない。

多細胞生物は、細胞社会の仕組みを10億年以上かけて進化させてきた。それぞれのメンバーが共通の利益に向けて特化した役割をこなし、個々の細胞のニーズより種としての繁栄をめざす。この厳格な階層型組織は、祖先の単細胞生物が楽しんでいたような自由で気楽な生き方を許さない。細胞分裂は厳しく制限される。複雑で相互に絡み合う分子経路や遺伝子経路を通じて、いつ、どこで分裂するか細かく指示される。ルール破りは厳禁だ。損傷した細胞や服従しない細胞のための余地はない。トラブルを起こしたら、全体の善のために自殺するよう促される。年老いた細胞には安らかに眠ってもらう。冷酷に見えるかもしれないが、この厳格さが私たちの健康と生命を守っている。

とはいえ、ヒトの社会でも動物の社会でも細胞の社会でも、ルールを破る個人や個体はかならず出てくる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.53 - p.54

多細胞生物は生命を維持して子孫を残すために、「反逆者」を抑制する仕組みをもっています。それでも「反逆者」は生じる。そして「反逆者」が優勢になるような状態が起きるとがんになり、これが進展すると生命体の全体が崩壊に導かれるのです。


多細胞生物が健全であるためには、メンバーに不正行為を許してはならない。細胞数が多いほど、また寿命が長いほど、統制はむずかしい。多細胞生物が進化する過程では、裏切者を出さないよう多大な投資がされてきた。身体サイズが大きければ細胞社会のメンバーは多くなり、裏切りが発生する確率も高まるため、より強力な抑制システムが必要となる

個々の細胞にとって、大きな多細胞共同体の一員になれば自律性を失って自分の行く末を自分で決めることはできなくなるが、そのかわり自分の遺伝子を継承するという究極の目的を大きな組織に委ねることができる。それでもルール破りの誘惑はいつもあり、隙を見つけては勝手に増殖を始める者が出てくる。

ただし、裏切り行為はそれまで保たれていた社会のバランスを崩す。十分長く生きて繁殖するという生物としての長期的な目標より、自分だけ得をしたいという裏切者たちの短期的な欲望が勝って悪性腫瘍がどんどん育つと、最悪の場合は宿主もろともの死が待っている。裏切者の出現は不可避だが、社会が許容できる裏切者の数には限りがある。みなが裏切りをするようになれば、多細胞生物の社会はあっというまに『マッドマックス』のようなディストピアの世界となる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.54 - p.55

本書には、がん細胞で活性化している遺伝子は生命体にとって最も古い遺伝子だという、興味深い話が出てきます。その一つの例は、オーストラリアのメルボルンにあるピーター・マッカラムがん研究所のアンナ・トリゴスという研究者の発見です。


トリゴスは、がん細胞の中で最も活性化している遺伝子が最も古い時代の遺伝子であることを見出した。最も古い時代の遺伝子とは、細胞増殖や DNA修復といった基本機能を担う遺伝子で、最初期の単細胞生物のころから存在している。

一方、がん細胞の中でまったく活性化していない遺伝子は最近になって出現した遺伝子だった。それは哺乳類にしか見られないか多細胞動物にのみ存在しているような「若い」遺伝子で、特殊な器官の作成や細胞間コミュニケーションなど、より複雑な仕事を担っている。

そして彼女は、これまでに調べたがん細胞がどれも等しく「単細胞時代からの遺伝子が活発になり、多細胞時代以降の遺伝子が休眠している」ことを見出した。がん細胞が細胞社会で定められていた仕事を放棄して、利己的に自由にふるまっているということだ。これはがん細胞がアメーバのような生物に先祖返りしたわけではない。新たに獲得した変異により、多細胞時代以降にできたシステムを休止させるよう進化したのである

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.61 - p.62

がんは「先祖返り」ではなく「進化」である ・・・・・・。「進化」という言葉に "よりよいものに変わる" という意味を感じている人にとっては大いに違和感がある表現でしょうが、本書全体を読めばその意味がよくわかります。

ちなみに、今までの引用(p.48 - p.64)は本書の第2章からですが、第2章は「がんは生きるための代償である」と題されています.。この題が本書の趣旨を明瞭に表しています。

その第2章には「裏切り者」「反逆者」「誘惑」「ディストピア」などの「がんを擬人化した比喩」があります。サイエンスの本でこういった比喩は一般の読者に分かりやすくするために使われますが、その一方で誤解を招きかねません。なぜなら、比喩の対象となったものがあたかも人間のように意思をもっているとイメージされ、合目的的に振る舞っているような間違った印象を与えるからです。しかし著者は言っていますが、がんの場合はこういった比喩が本質をピッタリと表しているのです。


遺伝子の変異ががんの要因


多細胞生物における「反逆者の細胞」が生まれる理由は、遺伝子に起こる変異です。これはさまざまな原因で起こります。

まず、細胞が増殖するときの遺伝子(DNA)の複製エラーです。これは必然的に一定の確率で起こります。

また「発がん物質」と総称されるものを吸収したり、それに接触したりすることも遺伝子変異の要因になります。発がん物質には自然界に存在するものもあれば(すす、煙など)、人工の化学物質もあります(ベンツピレンなど)。喫煙をすると煙に含まれる発がん物質が肺がんのリスクを高めることはよく知られています。

紫外線や放射線被爆も遺伝子変異の原因になります。皮膚がんがまさにそうだし、放射線被曝と白血病(= 血液のがん)の関係も知られています。

さらに、ある種のウイルスは遺伝子変異を起こします。有名なのは HPV(ヒトパピローマウイルス)で、子宮頸がんの要因になります(従って、がん予防ワクチンが成り立つ)。

また遺伝性のがんがあります。これはがんを引き起こす遺伝子変異を親から子・孫へと受け継ぐ場合です。つまり、がんを発症しやすい家系があります。

もちろん遺伝子変異が起きたからといって、すぐがんになるわけではありません。変異は基本的にランダムに起きるので、生命維持にとってプラスにもマイナスにも働かない変異(= 中立変異)も多い。さらに、細胞には変異した隣の細胞を体から排除する仕組みをもっています。

しかし細胞増殖を促す遺伝子が変異したとき、がんになるリスクを抱え込んだことになります。また、遺伝子に中には異常な細胞増殖を押さえる働きをするものがあり(=がん抑制遺伝子)、その遺伝子が変異によって機能を失うとがんのリスクが発生します。細胞増殖のアクセルが踏みっぱなしでブレーキが壊れた状態は、がんが発生する典型的なパターンです。


遺伝子の変異だけではがんにならない


遺伝子が変異しただけではがんになりません。実は、私たちは幼少期から遺伝子の変異を体内に蓄積しています。


私たちはどのくらい心配すればいいのだろう ? ある程度歳をとれば、だれでも原因不明のしこりやこぶの2や3はできているものだ。40代の女性の少なくとも3人に1人は胸に小さな腫瘍を抱えているが、その年代で乳がんと診断されるのは100人に1人しかおらず、残りの多くは正式にがんと診断されることなく一生を終える。

前立腺がんも状況は同じで、このがんで死ぬ人より、このがんを抱えたまま死ぬ人のほうがはるかに多い

50歳から70歳の人ならほぼ全員、甲状腺に小さながんができているが、甲状腺がんと診断されるのは1000人に1人だ。全体的にならすと、私たちの半分かそれよりやや少ないくらいの人が、生涯のどこかの時点でがんと診断される。

がんの発生率は、がんの種類別によってばらつきがある。たとえば、小腸と大腸はどちらも消化管で生理的な条件はほぼ同じだが、小腸がんの発生率は低く、大腸がんのそれは30倍も高い。

また、重要なドライバー遺伝子に変異が一定数たまるとがんになるとは言うものの、それに必要な蓄積回数もがんの種別で異なる。肝臓がんは約4回、子宮がんや大腸がんは10回だが、精巣がんや甲状腺がんはたった1回だ。

こういう話をすると、必要な変異回数の少ないがんほど若いころ出現しそうな気がするが、小児がん以外の大半のがんは、種類にかかわらず60歳以前に発生することはあまりない。私たちの正常な組織は中年期に達するころ、すでに変異のパッチワークになっているにもかかわらず、50代まではまあまあ抑えられているのである。

60歳以降に変異が生じるペースが上がるわけでもない。意外かもしれないが、変異の発生ピークは人生の初期だ。DNAの複製エラーは細胞が増殖するたびにちょこちょこ起きるものだが、幹細胞に起きるエラーはとりわけ危険だ。身体を生涯維持する役目を担っている幹細胞は増殖力がひじょうに高いからだ。増殖力の高さがとくに求められるのは発生期から成長期である。卵細胞が成体になるまでに必要な増殖回数は、その後の人生を維持するのに必要な日々の増殖回数とは比較にならないくらい多い。私たちの細胞は最初の9か月で一個から数兆個にまで増え、その後も少しずつ増えていき、「成人」という完成形になる。じつのところ、あなたが70歳の時点で保有する変異の半分は、18歳の誕生日までに得てしまっている

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.118 - p.119

引用に「ドライバー遺伝子」という言葉が出てきます。一般的には「がん遺伝子」と言われますが、これは誤解されやすい言い方です。がんを発生させる "専用の" がん遺伝子があるわけではありません。がん遺伝子の多くは生命の維持や子孫を残すプロセスに必須の遺伝子です。それが変異するとがんのリスクが生じる。

ドライバー遺伝子とは「その遺伝子が変異することでがんの直接の原因(の一つ)になる遺伝子」です。このドライバー遺伝子に生じる変異が「ドライバー変異」です。本書では「ドライバー遺伝子」「ドライバー変異」という言葉が多用されています。

さらに上の引用に「幹細胞に起きるエラーはとりわけ危険だ」とありあります。「幹細胞」とは、分裂する能力があると同時に、分裂してできた娘細胞が別種の細胞になる能力をもった細胞です。有名なのは受精後の胚の ES 細胞ですが、各臓器系についてそれを作り出す幹細胞があります。たとえば血球やリンパ球のすべては骨髄の造血幹細胞から作られます(No.69「自己と非自己の科学(1)」参照)。この幹細胞を人工的に作り出したのが、山中教授の iPS 細胞(induced Pluripotent Stem cells = 人工多能性幹細胞)です。

幹細胞に関していうと、受精後の胚に生じる乱れが原因で発生するがんが小児がんです。従って小児がんの発生メカニズムは他のがんとは根本的に違います。



遺伝子変異が蓄積しただけではがんになりません。しかし生物の進化と同じで、環境が変わったとき、それが原因で変異した遺伝子をもつ細胞が優勢になります。これががんです。この体内環境の変化の第一は加齢です。


日々の細胞のメンテナンス作業は年齢とともに、とくに生殖年齢のピークを過ぎたあとは、雑になっていく。たとえば、若いときの肌の細胞はしっかり結合している。がん化しそうな不良細胞が出てきても、広がる余地を与えず、最終的には追い出してしまう。だが、歳をとると細胞の結合がゆるむ。不良細胞はその隙に入りこみ、やがてがん化し、拡大する。また、タバコの煙や紫外線のような発がん物質は、DNAに損傷を与えるだけでなく、細胞の結合組織となるコラーゲン分子を傷つけるので、不良細胞がのさばる余地をさらに与えてしまう。

老化によるゆっくりとした衰えは、遺伝子の収納状態やスイッチの作動にも影響する。若い細胞はDNAを、ヒストンというボール状のタンパク質のまわりにコイルのように巻きつけて、きっちり収納している。ヒストンには、遺伝子の活性・不活性をコントロールするためのエピジェネティック修飾と呼ばれる各種の分子タグがついている。老いた細胞では、この整然とした仕組みがうまく働かなくなる。DNAのコイルがほどけ、修飾が乱されると、遺伝子は間違ったタイミングや場所でスイッチをオンまたはオフにするようになる。老化はゲノム全体で同時多発的に進む。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.124

もう一つの重要な環境変化は、加齢とも大いに関係しますが、持続的な炎症です。


慢性炎症の原因は、持続感染、有害物質への長期曝露、自己免疫疾患などだが、もう一つ避けがたい最大の原因が加齢だ。歳をとるにつれて、私たちの組織の慢性炎症のレベルはじわじわと上がる。これは、細胞内で働く生化学プロセスから受ける経年劣化、体内に少しずつたまる有害物質、人生でそれまでに経験した感染や苦痛、全般的な体の衰えなどによる必然的な結果だ。性ホルモンの減少も関係しているかもしれない。エストロゲンやテストステロンには炎症を抑える役目があるからだ。お察しのとおり、喫煙も、肺に炎症性傷害を与えたり体の抗炎症反応を弱めたりする。過剰な体脂肪もリスク因子だ。体脂肪は、何もせずただ体についているだけのぜい肉ではない。脂肪を貯蔵する細胞は、慢性炎症を悪化させるさまざまな活性物質をつくり出す。

もう一つ慢性炎症の要因として、研究はあまり進んでいないが有力視されているものに、ストレスがある。私たちはストレスでがんになると聞くと、さもありなんと考えがちだが、実際のところ、近親者の死別や離婚といった強いストレスのかかる人生節目の出来事ががんの発生率を高めるという関連性はほとんど見出されていない。

しかし、生活苦や不安定な居住環境といった長期のストレスとの関連性はありそうだ。社会経済的な弱者ほど、がんを含むあらゆる病気で早く死ぬ傾向があることは、健康格差の問題としてよく知られている。社会的弱者が早く死ぬのは肥満、喫煙、飲酒、偏った食生活といったお決まりの容疑者のせいにされがちだが、これらの要素だけですべてを語ることはできない。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.126


進化の「るつぼ」としてのがん


では実際にがんが発生したとき、がん組織に中の遺伝子変異はどうなっているのでしょうか。そこでは、それぞれ違った変異をもつ細胞集団があちこちに散在していることが分かってきました。

2012年の論文に載った、キャンサー・リサーチ・UKのチャールズ・スワントン教授の研究があります。彼は DNA配列決定の技術を駆使し、がん組織の中の遺伝子マップを作り始めました。

以下の引用に「標的療法」という言葉がありますが、これはがんの要因となっている特定のドライバー遺伝子の働きを無効にするような治療(化学療法など)という意味です。


配列決定技術の精度が上がってくるにつれて、ものごとは複雑さを増してきた。2006年、研究者らは標的療法後に耐性がついてしまった EGFR 変異をもつ細胞を探していた。すると、標的療法を受ける前の肺腫瘍の一部に、その変異細胞がすでに存在していたことに気がついた(EGFR はがんドライバー遺伝子の一つである)。数年後、血中を漂う白血病細胞はどれも同じに見えて、じつはDNA配列の異なる細胞の集まりだったという発見もあった。

2010年にはまた別の発見があった。すい臓にあった最初の腫瘍(原発腫瘍)から転移した腫瘍(2次性腫瘍)が、転移の過程で原発腫瘍にあった変異とは別の新たな変異を大量に拾っていることがわかったのだ。そして2011年、中国の研究チームが、ひとかたまりの大きな肝臓腫瘍を薄くスライスしてそれぞれの切片を分析したところ、隣り合う切片どうしでさえ、そこに含まれるドライバー遺伝子の変異が違うことを見出した。同年、ニューヨークの科学者らが、乳房腫瘍の小片を100個の細胞に分けてそれぞれにDNA配列決定をしたところ、その100個の細胞は大きく3つのグループに分かれ、それぞれが遺伝的強みと弱みを別々の組み合わせで有していることがわかった。

もやもやしていた絵の輪郭が、だんだんはっきりしてきた。腫瘍というのはどれも、同じがん細胞でできているのではなく、遺伝子的に少しずつ違うがん細胞集団(クローン)の寄せ集めであり、その一部が転移しやすい変異をもつクローンだったり、治療に抵抗しやすい変異をもつクローンだったりする、ということだ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.154 - p.155

がん細胞集団(クローン)という表現がありますが、クローンとは「同じ1個の祖先細胞に由来し、同一の遺伝子変異をもつ細胞の集団」のことです。

この引用にあるように、腫瘍組織における遺伝子変異は「変異のパッチワーク状態」であり、しかも変異は "積み重なり"、かつ "枝分かれ" しつつ起きています。つまり「遺伝子変異の系統樹」が描けることが分かってきました。ここに至って、ダーウィンの「進化論」との類似性が明らかになってきました。


チャールズ・ダーウィンは新種の出現(種の起源)を、生物が選択圧に直面して適応と変化を迫られたことによる必然的な帰結だ、と論じた。チャールズ・スワントンの研究は、人体内のがんも同じであることを示した。がんは自然界の縮図であり、多種多様な変異をもつがん細胞クローンが多数集まってできた大家族だ。そこからは日々、枝分かれした小家族が生まれる。転移した腫瘍は、旅立った小家族がその後に独自の変異を重ねた「遠い親戚」だ。近縁のクローンも遠縁のクローンも、すべては一つの創始者細胞から始まり、途中で新しい変異を拾いながら枝分かれしてきた。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.158 - p.159

我々は「進化」を誤解しがちです。進化生物学でいう進化(evolution)とは、生物が別の種に分かれること(だけ)を意味します。その要因は、遺伝子の突然変異と環境変化の圧力による選択(自然選択)です。進化は「変化」であって「より良くなる」という意味は含みません。

さらに我々はどうしても「直線的な進化」を考えがちです。チンパンジーが猿人になり、ホモ族(ヒト族)になり、そのホモ族も原人からネアンデルタール人になって、ホモ・サピエンスに進歩してきた、というような ・・・・・・。しかし実態は、霊長類が分化してきたというのが正しい。

がんもそれと同じです。がんの本質は「枝分かれ進化」であり、適応と進化を繰り返す可変的なシステムなのです。実際、がん組織において「自然選択 = 環境による選択」が起こっているという証拠が集まってきました。


科学者らはもう一つ残念なことを発見した。標的療法への耐性を得られる変異は往々にして、ごく初期の段階ですでに存在しているのだ。骨髄腫(白血球のがん)の患者を詳細に調べた研究によると、骨髄の中で増殖したがん細胞は、最初期の段階から存在した小さな細胞集団に由来するものだったという。その細胞集団は、医者が投入したあらゆる治療をのらりくらりとかわしながら成長し、ついにはすべてを乗っ取ってしまったという。

2016年の別の論文からは、自然選択が作用している現実が容赦なく示された。研究者らは、30名を超える髄芽腫(小脳にできる脳腫瘍)の患者から治療前と治療後に採取したサンプルで、遺伝子組成を比較した。そして、治療後に再び増殖した耐性がん細胞は原発腫瘍にすでに存在していたこと、ただしそのときはひじょうに小さな集団だったことを見出した。

放射線療法で大量のがん細胞が殺されると、最初は小集団だった耐性細胞がそのあとを埋めるように急速に拡大した。治療前には危険だと思われていた(重要なドライバー変異をもつ)いくつかの細胞集団が、治療後には消えていたのである。これがギャング映画なら、大物連中が殺し合いをして全員いなくなったあと、こそこそしていたチンピラがのし上がってボスの座につくようなものだ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.164

がん細胞からすると、最大の環境変化はがん治療がもたらす環境変化です。つまり、がんの進化において、特に放射線療法と化学療法は、自然選択を加速させます。それらの治療に耐性をもつ遺伝子変異をもつがん細胞だけが生き残り、それ以外は死滅する。そして耐性がん細胞がまたたく間に増殖してしまうのです。

著者はがん組織を "進化の「るつぼ」" と形容しています。そしてこれは、生物の歴史を考えると不思議でも何でもないと書いています。


反逆者のがん細胞が多細胞社会から排斥されて単細胞的な暮らしに戻った細胞だとすると、こんどはその反逆者たちがチームを組んで、新たな多細胞社会を立ち上げようとしているようにも見える。それは生命進化史において過去にやってきたことなのだから、「進化のるつぼ」となったがんの中で同じことが起きていたとしてもおかしくない。

がんの分子的詳細を掘り下げれば掘り下げるほど、つぎつぎに奇妙なことが見つかる。ただ私には、それほど驚くことではないようにも思える。「進化」なら当然のことばかりだからだ。生命の歴史をざっと眺めればわかるように、進化は途方もない多様性をつくり出してきた。単細胞生物が多細胞生物になる進化は何度も起きた。セックスの発明も数回、起きた。生物種は増殖し、移住し、適応し、多様化する。増殖するものは増殖し続ける。変異するものは変異し続ける。生き物はただひたすらに、生き続ける。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.221 - p.222


がんの適応療法


がんが「進化のるつぼ」との認識にたつと、がん治療の新しい考え方が見えてきます。その一つが「適応療法」です。米国フロリダ州のモフィットがんセンターのロバート・ゲイトンビーの研究が紹介されています。


ゲイトンビーは、100年以上前から農家を悩ませていた害虫、コナガがすべての農薬に耐性をつけてしまったという記事を読んだとき、これはがんをめぐる状況と同じだと気がついた。がんも治療薬に耐性がつくよう進化したら、もう拡大は止められない。

ゲイトンビーが現行のがん治療で何より疑問に思うのは、薬が「最大耐用量」で処方されることだ。これは患者にとって耐えられないほどの副作用が出る直前の用量を投与し、一度にできるだけ多くのがん細胞を殺そうという考え方だ。薬の臨床試験の初期では、志願した被験者に、投与する薬の用量を少しずつ上げていき、重篤な副作用が出た瞬間にやめる、ということを試す。このテストで薬の最大耐用量が決まる。だが、遅かれ早かれ耐性がつくことを思えば、最大耐用量を投与するという方法はわずかな余命延長に対して害が大きすぎる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.276 - p.277

農薬に耐性をもつ雑草や害虫が出現することは常識になっています。抗生物質に耐性をもつ病原菌(= 耐性菌)が出現するのも同じです。上の引用に出てくるコナガは、キャベツなどのアブラナ科の食物に寄生する小さな蛾です。コナガは農薬に耐性をつけてしまいますが、農家はこの問題に対して次のように取り組んできました。


コナガが農薬に耐性をつけてしまう問題に対し、農家は数十年前から「総合的害虫管理」という方法をとってきた。がんが遺伝子的に多様な細胞集団でできていて、その一部が治療薬に耐性をつけるのと同じように、害虫の群れにも遺伝子的に多様な集団が交ざり合っている。農薬に屈しやすい集団もあれば、農薬に耐性をもつ集団もある。ここで重要なのは、虫に農薬への耐性をつけさせるような遺伝子変異は、食料の奪い合いや繁殖競争においてたいてい不利になることだ。そのため、農薬に耐性をもつ集団は、ふつうの状況下では農薬に屈しやすい集団より優勢になることはなく、小さな集団のまま推移する

そうした群れに大量の農薬を浴びせると、農薬に屈しやすい集団は全滅し、農薬に耐性をもつ集団だけが生き残ってライバルのいなくなった生息地で好きなだけ繁殖する。一方、農薬の量を少なくすれば、農薬に屈しやすい集団がそれなりに残って、耐性をもつ集団が増えすぎないよう抑制してくれる

農家は、害虫を一匹残らず殺すのをやめ、手なずける道を考えた。畑の状況を定期的にモニターし、作物がある程度食い荒らされることは容認する。限度を超えて食い荒らされるようになったときだけ農薬を使うことにしたのだ。現在では、雑草その他、望ましくない生物種をコントロールするときも似たような方法が使われているが、考え方はみな同じだ。根絶ではなく抑制をめざし、薬剤を与える場合は少量にして巻き添え被害を少なくする。この方法はまわりまわって、将来的に懸念されている超耐性株が出現する機会を減らすことにもつながる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.277 - p.278

適応療法とは、上の引用における "総合的害虫管理" と同様に、いわば「がんを手なずける」治療です。


ゲイトンビーは、腫瘍内にはいつも耐性細胞がいる、という前提からスタートすることにした。その耐性細胞は、増殖スピードが遅いので増えすぎることはなく目立たない。しかし、薬に反応するがん細胞が全滅すればそのあとを埋めるように勢力を広げるだろう。この場合、薬を最大耐用量にするのではなく逆に低用量にして、薬に反応するがん細胞の量をある程度保ち、そのがん細胞に耐性細胞を抑制させたほうがいい。もし、薬に反応するがん細胞が増えすぎたら、薬を増やして以前と同じバランスに戻す。ゲイトンビーはこの方法を「適応療法」と呼ぶ。敵がゲームに使っている適応進化プロセスで、敵にみずから失点させるよう誘う方法だ。

適応療法の基本戦略はこうだ。がん細胞にとって、薬に耐性をつけることは治療中こそ役に立つが、治療していないときには何の得にもならない。得にならないどころか、薬に耐性をつけたことが生物学的に重荷になる。たとえば薬を追い出すのに使う分子ポンプにエネルギーの3分の1を投じることになれば、そのぶん増殖に使えるエネルギーは減る。

耐性細胞が、薬への対処に専念する薬依存症になってしまうことさえある。たとえば、特定の標的薬に耐えるためにわざわざ生化学経路を変えてまで適応した細胞は、その標的薬がなくなれば生命維持さえおぼつかなくなる。治療をしていない通常の状況下では、耐性細胞はこうしたコストが重くのしかかり、増殖が遅れる。ゲイトンビーは薬剤耐性を、大きく頑丈な雨傘のようなものだと言う。雨が降っているときは便利だが、そうでないときは邪魔になり、あなたの行動の足かせとなる。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.278 - p.279

適応療法とは、がんとの共存を目指すものと言えるでしょう。そして患者の生存期間をできるだけ延ばすことが目的です。もちろんこの戦略を実行するには、がん組織中のがん細胞の数の精密な測定と治療による変化予測が必須です。上記の引用にあるゲイントビーは数式モデルを使って予測をしたようです。



さらに「がんは進化のるつぼ」という認識にたつと、患者のがんを絶滅させる新たな戦略が見えてきます。これは地球上で過去に起こった "種の絶滅" に学んだものです。

種の絶滅というと、我々がすぐに思い浮かべるのは恐竜の絶滅です。6500万年~6600万年前、今のメキシコのユカタン半島付近に大隕石が衝突し、地球環境が激変し、恐竜が絶滅した(そして生き残った恐竜が鳥に進化した)という件です。

しかしこのような「一撃で起こる劇的な絶滅」はわずかです。ほとんどの種の絶滅は「数回の連続した打撃」によって起こる。この例として、絶滅の経緯が分かっているヒースヘンの絶滅が紹介されています。

ヒースヘンは、和名をニューイングランド・ソウゲンライチョウと言い、その名の通りライチョウに似た大型の鳥です。この鳥は北米大陸にヨーロッパ人が来たときには東海岸のあちこちにいました。ところが植民地の拡大と入植者による乱獲で、一つの島の50羽までに激減しました。その後の人々の努力で、島での生息数は2000羽までに回復しました。しかし、その繁殖地で火災が起こり、次には異常低温の冬が連続し、最終的には感染症の流行によって1932年に絶滅してしまいました。

ポイントは、ヒースヘンが数回の打撃で絶滅に至ったことと、一つの島に閉じこめられて50羽に激減するという「地理的ボトルネック」と「遺伝子のボトルネック」を経験したことです。こうなると遺伝子の多様性は失われ、感染症で全滅するようなことが起きる。かつ、一つの島で全滅してしまえばそれで種は終わりです。

この「種の絶滅モデル」を、がんの治療に応用できないでしょうか。実は、小児の急性リンパ性白血病の治療は、まさにこのような考え方だったのです。


ゲイトンビーとブラウン(引用注:ゲイントビーと共同研究をした進化生物学者)は論文で、同じような考え方がすでに小児の急性リンパ性白血病の治療法に使われていることを指摘した。その治療法は、死ぬのが確実だった病気を10人のうち9人を治せる病気に変えたが、いま話したような「種の絶滅」モデルから編み出されたものではない。医者らが試行錯誤しながら長年かけて見つけ出したものであり、それが偶然にも、ヒースヘンを絶滅に追いやったのと同じ方法だったのだ。

まず、集中的な化学療法による「第1の打撃」で大量にがん細胞を殺す。すると少数のがん細胞が生き残る。つぎに、別の作用機序の薬で「第2の打撃」を与え、最初の薬に耐性のある細胞を殺す。その後、第3、第4の打撃を与える。

ゲイトンビーらは、このモデルを使えば長年の試行錯誤をすっとばして、がんの絶滅を誘導する計画を立てることができるのではないかと説いている。自然界の種の絶滅と同じように、腫瘍内にあるがん細胞集団の個体数と遺伝子多様性をまず減らし、そこで生き残った小さい集団をつぎつぎと追いつめる。

残念ながら、現行のがん治療はそうなっていない。たとえば進行前立腺がんの場合、アビラテロンのようなホルモン阻害剤を最大耐用量で長期にわたって投与する。どのくらい長期かというと、腫瘍が縮小するまではもちろんのこと、それが再び拡大するまで、つまりアビラテロン耐性のがん細胞が出現して数を増やすまでだ。この段階で医者はやっと別の化学療法に切り替え、そのループをもういちどくり返す。

しかし、絶滅させることをめざすなら、がん細胞が耐性をつけて再び増えるまで待つのは無意味だ。がん細胞の数と多様性が減っているときに叩いたほうがいい。2番目の薬を使うのに最適のタイミングは、アビラテロンによる「第1の打撃」を与えた直後だ。そのとき生き残っているがん細胞は、アビラテロンを追い出すのに多大なエネルギーを使って消耗しているため、「第2の打撃」で息の根を止められる可能性が高い。この方法は直感的に理解しにくいため、「最初の薬が効いているのに、なぜ薬を変えるのか ?」と思う医者や患者は少なくない。だが、がんを根絶させるには従来の方法よりずっと効果的だ。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.292 - p.293

こういった考え方は、がんを「進化のるつぼ」と認識することから生まれてきたものです。がん治療に新しい方法を持ち込むものと言えるしょう。


生きることと、がんになることは表裏一体


著者が最後に強調しているのは、生物に関するすべての研究は進化の視点なしには意味をなさないということです。がん研究も例外ではありません。


生物学のすべてが進化の視点なしに意味をなさないのと同じく、がんのすべても進化の視点なしには意味をなさない。このシンプルかつ厳然たる事実を認めないことが、進行転移がんの予後がほとんど改善しない理由だ。この病気の根底にある進化の性質に本気で向き合わないかぎり、今後も改善しないだろう。進化のプロセスなしに、地球の生命史は形づくられてこなかった。

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.309

本書の最後に「がん研究・がん治療の最終ゴール」として目指すべきことが書かれています。以下の引用にある「ルカ」とは LUCA(Last Universal Common Ancestor = 最後の共通祖先)です。つまり地球上のすべての生命体の先祖をさかのぼると、生命の発生の起源となった1つの共通祖先に行き着くはずで、その最初に行き着いた共通祖先を言っています。


私はこの本を書くにあたり、50人以上もの研究者の話を聞き、数えきれないほどの書籍と論文を読んだ。その過程で、私たちがめざすものを最もよく表している言葉はこれだ、というのを見つけた。それは、ウェルカム・サンガー研究所の遺伝学者でがん研究の第一人者であるピーター・キャンベルが私に語ってくれた言葉だ。

私たちの最終ゴールって、何なのでしょう ? 十分長く生きてから、がんより先に死ぬことだと思いませんか ?」

現実の生活は夢でもおとぎ話でもない。だれもみな、いつかは死ぬ。私たちが望むのは不死ではない。いつかお迎えが来るときまで心身を平穏に保ちたい、それより前にがんに殺されたくはない、それが私たちの望みだ。それにもし、がんの診断後に20年も30年も生きる人が増えてくれば、薬の影響を穏やかにすることや、心理面でのサポートをすることに、よりいっそう重点が移っていくだろう。

人類の死亡率は100パーセントだが、「生命」そのものは生き続ける。細胞は増殖を止めない。全生物の共通祖先「ルカ」から始まった進化系統樹は伸び続ける。生きることと、がんになることは表裏一体だ

ヒトはなぜ「がん」になるのか
p.313 - p.314


感想


言うまでもありませんが、以上に紹介したのは本書のごく一部です。著者が最後に「この本を書くにあたり、50人以上もの研究者の話を聞き、数えきれないほどの書籍と論文を読んだ」と書いているとおり、サイエンス・ライター、なしは医学ジャーナリストとしての丹念な取材と調査にもとづく記述が本書の価値です。

主題となっている「がんはヒトの体内で起こる進化のプロセスである」という認識は、"なるほど" と納得性が高いと思いました。がんの標準治療である化学療法と放射線療法を見直すべきだという著者の主張は、「進化」の視点でがんを見ると当然そうなるでしょう。「がんを撲滅する」のではなく「がんを人のコントロール配下に置く」ことを目標にするわけです。

と同時に、本書には書いてありませんが、がんの免疫療法やウイルス療法の重要性も分かったと思いました。免疫療法とは、例えば本庶 佑ほんじょたすく先生(2018年ノーベル医学生理学賞)が開発の道を開いた "免疫チェックポイント阻害薬" による治療であり、ヒトが本来もつ免疫機能でがん細胞を攻撃するものです。またウイルス療法は、藤堂 具紀とうどうともき先生の "デリタクト注"(= 薬剤名。2021年に日本で承認)が代表的です(No.330「ウイルスでがんを治療する」)。

免疫機能もウイルスも、生命の歴史の中で進化ないしは共存してきたものです。従って、がんの撲滅はできないかもしれないが、そのコントロールに役立つでしょう。少なくとも、化学療法によって耐性がん細胞を出現させ、結果として手がつけられなくなるようなことは無いと思います。



「進化」という言葉を用いずに本書の内容を1文で要約すると、次の3つのどれかになるでしょう。

・ がんは多細胞生物の宿命である。
・ がんは生きるための代償である。
・ 生きることと、がんになることは表裏一体である。

どれも正しいと思いますが、「宿命」や「代償」という言葉には価値判断が入っています。その意味では、著者が最後に書いている「表裏一体」が最も適切な言葉だと思いました。




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