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No.332 - クロテンの毛皮の女性 [アート]

このブログで過去にとりあげた絵の振り返りから始めます。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介した『インノケンティウス十世の肖像』で、ベラスケスがイタリア滞在中に、当時75歳のローマ教皇を描いたものです。

インノケンティウス10世の肖像.jpg
ベラスケス(1599-1660)
「インノケンティウス十世の肖像」(1650)
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)

この絵について中野京子さんは「怖い絵」の中で次のように書いていました。


ベラスケスの肖像画家としての腕前は、まさに比類がなかった。──(中略)── 彼の鋭い人間観察力が、ヴァチカンの最高権力者に対しても遺憾いかんなく発揮されたのはとうぜんで、インノケンティウス十世は神に仕える身というより、どっぷり俗世にまみれた野心家であることが暴露されている。

眼には力がある。垂れたまぶたを押し上げる右の三白眼。はっしと対象をとらえる左の黒眼。ふたつながら狡猾こうかつな光を放ち、「人間など、はなから信用などするものか」と語っている。常に計算し、値踏ねぶみし、疑い、裁く眼だ。そして決してゆるすことのない眼。

どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によってくっきり輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのし上がった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子『怖い絵』
(朝日出版社。2007)

肖像画を評価するポイントの一つは、描かれた人物の性格や内に秘めた感情など、人物の内面を表現していることです。正確に言うと、本当のところは分からないまでも、少なくとも絵を鑑賞する人にとって人物の内面を表していると強く感じられることだと思います。それは人物の表情や、それを含む風貌からくるものです。また衣装や身につけているもの、人物のたたずまいや全体の構図も大いに関係してくるでしょう。

我々は、17世紀のローマ教皇・インノケンティウス十世がどういう性格の人物であったのかを知りません。しかし、上に引用した中野さんの文章のような鑑賞もできる。もちろんこれは一つの見方であって、別の感想を持ってもいいわけです。とにかく、人物の内面をえぐり出す画家の技量とそれを感じ取る鑑賞者の感性の "せめぎ合い" が、肖像画の鑑賞の大きなポイントだと思います。

その視点で、中野京子さんが書いた別の絵の評論を紹介したいと思います。画家の王と呼ばれたベラスケスとは知名度がずいぶん違いますが、16世紀イタリアの画家・パルミジャニーノが描いた『アンテア』という作品です。


パルミジャニーノ


Parmigianino - 凸面鏡の自画像.jpg
パルミジャニーノ
「凸面鏡の自画像」
(ウィーン美術史美術館)
パルミジャニーノ(本名 ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ、1503 - 1540)は、ローマ、パルマ、ボローニャなどで活躍し、37歳で亡くなりました。有名な作品は『凸面鏡の自画像』(1523/4。ウィーン美術史美術館)です。

自画像を描いた最初はドイツの画家・デューラー(1471-1528)とされています(No.190「画家が10代で描いた絵」の補記1)。このパルミジャニーノの作品も、西欧絵画における「自画像の歴史」の初期の作品として有名なものです。凸面鏡は周辺にいくにつれゆがんで写りますが、それが的確にとらえられています。

パルミジャニーノの他の作品としては、ウフィツィ美術館にある『長い首の聖母』(1534/5)でしょう。長く引き延ばされた身体の表現が独特で、いわゆるマニエリスムの様式です。さらに今回の主題である『アンテア』も有名な絵画です。

以下、『アンテア』の画像とともに中野京子さんの解説を紹介します。引用において下線は原文にはありません。また、段落を増やしたところ、漢数字を算用数字に変更したところがあります。


アンテア


Parmigianino - Antea_2.jpg
パルミジャニーノ
「アンテア」
カポディモンテ美術館(ナポリ)


アンテア(= アンティア)とはギリシャ神話の花と花冠の女神の名。ただしここではパルミジャニーノと同時代、16世紀前半のローマに実在した源氏名げんじなアンテアという高級娼婦とされる。

とはいえ本タイトルは画家の死後に付けられたので異説もある。着衣から見て娼婦ではなく、上流階級に属する女性の肖像ではないか、はたまたトローニー(特定の人物ではなく誰でもない誰か)、ないし何らかの抽象概念 ── 愛だの嫉妬しっとだの ── をあらわす擬人像ではないか、などなど。

私見だが、彼女がトローニーとは思えない。フェルメールの青いターバンの少女(= 真珠の耳飾りの少女)と同じで、画家がモデルから強烈な印象を受けながら描いているのが伝わるからだ。アンテアであれ、他の名を持つ高貴な女性であれ、彼女は五百年前にまぎれもなくこの世に、画家の目の前に、この姿で、実在していたに違いない。


フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』は特定の人物を描いたものではない(= トローニー)とされることが多いのですが、もちろんモデルがあるという意見もあります(映画作品が典型)。中野さんは後者の見解で、その理由は「画家がモデルから強烈な印象を受けながら描いているのが伝わる」からです。つまり絵から受ける印象によっているわけで、絵の見方としてはまっとうと言うべきでしょう。

では、パルミジャニーノの『アンテア』からはどういう印象を受けるのか。それが次です。


それにしても何と厄介やっかいそうな美女であろう。心持ち前のめりになって近づいてくる。何のために ?

とうてい男には解決できそうもない難題を突き付けるためにだ。彼女の言い分を聞いてやるだけで、すでにして面倒事に巻き込まれたと同じ。かといって無下に断るわけにもいかない。あまりに魅力的すぎて ・・・・・・。

大きな思いつめたやや上目づかいで強い光を放つ眼が、訴えかけてくる。何を言うのだろう、想像もできない。形の良い薄い唇が今にも語りはじめる。君子、危うきに近寄らず。頭の中でアラームが鳴る。背をむけて、さっさと逃げたほうがいい。しかし足が動かない ・・・・・・。

中野京子「同上」

このアンテアという女性は、何だか "思い詰めた" 表情で、見る人の方に迫ってくる感じがして、切迫感があります。それを倍加させているのが、彼女の身体の様子と身につけている品々です。


アンテアはわずかに身体をひねっている。右肩や右腕を前へせり出しているのも、見る側に迫ってくるイメージだ。右手にだけ手袋をめている。それも分厚く無骨な狩猟用手袋で、優美な衣装や宝飾品とはそぐわない。左手は白い美しい素手。小指にルビーをきらめかせ、神経質そうに大ぶりのネックレスをまさぐる。

中野京子「同上」

右手だけにめた手袋が "狩猟用" だということは知識がないと分からないのですが、それを知らないまでも、この手袋は我々が知っている "婦人用手袋" とは違った、"白く美しい手" には似つかわしくない手袋であるのは確かでしょう。そして極めつけは、彼女がその手袋で鎖を握りしめているクロテンの毛皮です。


驚くのは、右肩に掛けたクロテンの毛皮であろう。つややかな毛並みのテンは(シベリア産の最高級品ロシアンセーブルかもしれない)、彼女の肩から流れるように胸元を走り、右手に至る。テンの筋肉質の前脚、小さいながら獰猛どうもうな顔、きだした鋭い白い歯は、生きていた時そのままに剥製はくせい化してある。

テンの鼻づらには金鎖が付いていて、彼女はそれを手に巻きつけている(テンの歯は手袋に噛みついているように見える)。当時はこうした使い方が流行していた。つまり生きたペットと見間違えられるような毛皮を、ファッションの一部にあしらったのだ。しかしもちろんここにわざわざ肉食性の小動物を配しているのは、彼女の本性へのほのめかし以外の何ものでもない。

中野京子「同上」

彼女の両手のあたりの拡大図を以下に掲げます。「小指にルビーをきらめかせてネックレスをまさぐる白い美しい左手」と、「狩猟用手袋をはめて毛皮の鎖を握る右手」、そして「剥製になったクロテンの獰猛な頭部の様子」が見て取れます。

Parmigianino - Antea_Detail_1.jpg
パルミジャニーノ
「アンテア」(部分)

2つの "鎖" が印象的です。左手が示す "鎖"(=ネックレース)は「私」、右手にかけた "鎖"(= クロテンの手綱たづな)は「貴方あなた」(= 男)なのでしょう。「わざわざ肉食性の小動物を配しているのは、彼女の本性へのほのめかし以外の何ものでもない」と中野さんが書いているのは、まさにその通りだと思います。



引用した中野さんの文章は、あくまで個人的な感想であり、別の見方や感想があってもよいわけです。しかしこの肖像は、描かれたモデルの、

・ 表情
・ 態度
・ 身につけているもの

の3つの "総合" で「ただならぬ気配、異様なまでの緊迫感」(中野京子)を描き出しているのは確かでしょう。その点において、肖像画の一つの典型と言えると思います。




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