No.36 - ベラスケスへのオマージュ [アート]
No.19「ベラスケスの怖い絵」で、中野京子さんの著書『怖い絵』の解説に従って『ラス・メニーナス』を取り上げました。今回はこの絵に関した話からです。
No.19 にも書いたように『ラス・メニーナス』については、ありとあらゆる評論が書かれてきました。また評論だけでなく、この絵を模写した画家も多くあり、有名なところでは、ピカソがキュビズムのタッチで模写した作品がバルセロナのピカソ美術館に所蔵されています。
しかし何といっても印象深いのは『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描かれた、サージェントの『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館蔵)です(以下「ボイト家の娘たち」と略します)。
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)は、主にパリとロンドンで活躍したアメリカ人画家です。彼は1879年にプラド美術館を訪れ『ラス・メニーナス』を模写しました。そして『ラス・メニーナス』から得たインスピレーションをもとに後日描いたのが『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』で、彼が26歳の時の作品です。ボストン美術館に行くと、サージェントの絵だけが展示してある部屋があり、その部屋を圧するようにこの絵が飾ってあります。縦横 222.5 cm という、正方形の大きな絵です。
この絵は2010年にプラド美術館へ貸し出され、プラド美術館は「招待作品」として、この絵と『ラス・メニーナス』を並べて展示しました。天下の2大美術館が揃って、この絵を『ラス・メニーナス』へのオマージュであると認めたことになります。
エドワード・ダーレー・ボイトは、サージェントの友人のアメリカ人画家です。当時、ボイトの一家はパリに住んでいて、そのパリでのボイト家の4人娘を描いたのがこの作品です。一番手前、床に座っているのが最年少のジュリアで当時4歳、左の方に立っているのがメアリーで8歳、奥の方で正面を向いているのがジェーンで12歳、横を向いてしまっているのがフローレンスで14歳です(名前と年齢はボストン美術館の公式サイトによる)。
サージェント:エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち
ボストン美術館へは2回行ったことがありますが、初めて訪れて「ボイト家の娘たち」を見た時は、この絵が『ラス・メニーナス』へのオマージュとは知りませんでした。もちろん絵を見ただけでは、そうとは気付きません。知ったのはその後です。そう言われてみれば『ラス・メニーナス』との類似性に気付くのです。「類似性」をキーに「ボイト家の娘たち」を鑑賞すると、次のようになるでしょう。
一つは絵の「主人公」です。「ボイト家の娘たち」の主人公は、床に座っている4歳のジュリアでしょう。最も光が強く当たっている描写がされています。一方の『ラス・メニーナス』はもちろんマルガリータ王女です。王女は当時5歳。2つの絵とも、4~5歳の幼女を主役にしています。
2つ目は、部屋に入ってきた誰かに登場人物たちの視線が集まった、その一瞬を描いたと感じさせる点です。「ボイト家の娘たち」を見て感じるのは、次のような情景です。友人の家を訪問したサージェントが、カメラを持って4人の娘の居る部屋に入っていく。「写真を撮ろう。そのままの位置でいいよ。カメラに向いて・・・・・・」。幼いジュリアはそのままの姿勢でカメラに目をむける。メアリーとジェーンはシャンと立って、カメラを見据える。年長のフローレンスは、今は写真など撮られたくないわ、とばかりに、サージェントの言葉を無視して横を向く・・・・・・。そんな情景の一瞬です。
もちろんサージェントの時代に(一瞬で撮影できる)カメラがあったわけではありません。しかし想像させられるのはそれと類似の状況です。たとえば、ボイト氏が初めて友人を娘たちに紹介するつもりで部屋に入っていった、というような・・・・・・。
『ラス・メニーナス』は、国王夫妻がベラスケスのアトリエに様子を見に来て、視線が国王夫妻に集まった一瞬を描いたという説がありますね。だから後方の鏡に夫妻が映っているのだというわけです(別の説もある)。この、一瞬を切り取った、その一瞬のありようが「ボイト家の娘たち」は『ラス・メニーナス』と非常によく似ています。
3つ目は「ボイト家の娘たち」の構図と人物・事物の配置がかもし出す「ミステリアスな雰囲気」です。
4人の娘は、やけに左に偏って配置されていて、かつ手前から奥に向かって配置されています。二人は直立不動のような格好で正面を向いていますが、それとは全く対照的に一人は横を向いてしまっている。そして、ふっと自然な感じの視線を合わせた女の子が前の方に座っています。いったいこの4人の関係やいかに・・・・・・と詮索したくなる、思わせぶりな構図です。
そして印象的なのが、2つの染付けの大きな花瓶です。ボストン美術館の公式サイトによると、これは日本の有田焼です。右の方は半分しか描かれていません。しかしこの大きな花瓶の、静かに場を圧する存在感は相当なものです。
そして、右側の花瓶の横に描き込まれた赤いものは何でしょうか。何かのスクリーンのようなものだと思いますが、何のためのものなのか不明です。このスクリーン(のようなもの)は、『ラス・メニーナス』の絵の中に登場する大きなキャンバスに対応させたものでしょう。左右が反転していますが、構図がキャンバスに似ています。ひょっとしたらサージェントは、この絵を『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描いたことの証(あかし)として、意図的に描き加えたのかもしれません。
とにかく、こういった構図と人物・事物の配置がかもし出す「ミステリアスな雰囲気」が『ラス・メニーナス』に非常に似ています。
4つ目は、非常に広い「幅」や「奥行き」がある空間を感じさせる絵だということです。「ボイト家の娘たち」は、人物の配置と光の効果で「広大な空間」を作り出した絵だと思います。
まず、4人娘をことさら画面の左側に偏って配置しています。そうすることで4人のさらに左にも、この絵の右半分と同等の空間があると想像させます。右端の半分に切れた花瓶も、さらにその右へと部屋が広がっていることを明確にしている。これは日本画にもよくある手法です。
またサージェントの絵では、娘たちを前から奥に順に配置していて、奥に行くに従って娘の受ける光はだんだんと薄暗くなっていきます。そのさらに奥は暗闇に近くなり、窓の明かりがかすかに見える。光によって空間の奥行きが演出されています。
光による空間演出という意味では、フェルメールに何点かありますね。左の窓から差し込む淡い光が、個人が使用する、比較的狭い、こじんまりした、暖かみのある空間(部屋)を作り出す。
サージェントは光の演出だけでなく、人物の配置と構図で「空間を描いた」作品を作った。そう思います。その点ではまさにベラスケスの『ラス・メニーナス』と相似形です。また、この2つの作品は日本語で言う「奥」を描くことに成功した作品です。「奥」は日本語の独特表現なのかどうか確信はありませんが、少なくとも英語に「奥」を直訳できる単語はないはずです。西欧の絵画では、遠近法で「遠く」を描いた作品はいっぱいありますが、「奥」を描いた作品はあまりなく、その意味ではこの2作品は際だっていると思います。
さらにサージェントの作品について言うと、前から奥に行くに従って、姉妹の年齢は高くなっていきます。床に座っているのは幼児のジュリア。後ろで横を向いているのは10歳年上の姉のフローレンス。その間を真正面を向いたメアリーとジェーンがつないでいる。横を向いてしまったフローレンスは、あたかも子どもから脱して大人に向かっていくかのようです。じっと見ていると、手前から奥に向かって時間が流れていくように見える。サージェントはこの構図で、時の経過までもキャンバスに閉じ込めようしたと見えます。
5つ目は「広い空間の演出」と関係しますが、多様性がある光(と影)の表現です。特にサージェントの絵では、子供用エプロンの目に染み入るような「白」と、有田焼の磁器の釉薬を通した白色が印象的です。磁器の反射光の表現も鮮烈です。
この作品は「白による多様な光の表現が最も印象的な絵画作品」と言えるでしょう。白で光の効果を演出してみせよう、それに挑戦してみよう、白だけで十分なことを証明してみせよう・・・・・・。26歳の若いサージェントの、そういった意気込みというか、野心が伝わってくるような作品です。
最後に、この2つの絵だけの特徴ではないのですが、きわめて粗いタッチ、ラフな筆さばきが効果的に使われていることも共通しています。
「ボイト家の娘たち」の一番手前のジュリアは、よく見ると人形を持っています。この人形の服の表現は、まさに「書きなぐった」という言葉にふさわしい。実際、ほとんど一瞬で描かれたのでしょう。ベラスケスの絵もそうです。マルガリータ王女やその左の侍女の、袖のあたりは「書きなぐりによる迫真表現」です。よくよく見ると驚いてしまう。
こういった表現は『ラス・メニーナス』だけでなく、ベラスケスのほかの絵にも多々ありますが、サージェントもそうです。またサージェントだけでなく、印象派の時代の画家がベラスケスから学んだ重要な絵画技法だと思います。
サージェントの絵を見て思うのは、アーティストが先人の作品から受けるインスピレーションというのは、非常に微妙で個人的なものだということです。作品のどのポイントに霊感を感じるのか、それはアーティストの個人的な感覚に依存しています。「ボイト家の娘たち」は『ラス・メニーナス』へのオマージュである、と言われなければ分からない。しかし「言われなければ分からない」けど、先人の作品を踏まえていることは確かなのです。
そして、これは最近知ったのですが、ベラスケスのある作品からインスピレーションを得て描かれた絵で、誰もが知っている超有名絵画があるのです。エドゥアール・モネの『笛を吹く少年』です。
マネ:笛を吹く少年
2011年7月30日にテレビ東京で放映された「美の巨人たち」のテーマは、マネ(1832-1883)の『笛を吹く少年』(1866。オルセー美術館蔵)でした。マネは「印象派の父」と言われています。番組では「絵画の新時代はマネから始まった(セザンヌ)」とか、「絵画はマネをもって始まる(ゴーギャン)」といった、画家たちの敬愛の言葉が紹介されていました。
『笛を吹く少年』は、確か教科書に採用されていた(時期があった)はずです。広く日本人が最もよく知っているマネの作品はこれ、と言っていいと思います。実はこの作品は、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』(1624-32頃。プラド美術館蔵)からインスピレーションを得て描かれた、というのが番組の主眼でした。美術界では常識かもしれませんが、私は初めて知りました。
No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、宮廷画家であるベラスケスは王侯貴族の絵だけでなく、慰み者や道化師、貧しい市民、芸人、乞食の絵を描いています。『道化師パブロ・デ・バリャドリード』はその中の1枚で、プラド美術館のホームページで確認すると、No.19 で紹介した『セバスティアン・デ・モーラ』『ディエゴ・ディ・アセド』『フランシスコ・レスカーノ』と同じ部屋に飾られています。『ラス・メニーナス』は(現在は)別の部屋のようです。
マネは33歳の時に『オランピア』(1865。オルセー美術館所蔵)を描き、サロンに入選します。現代ではマネの傑作としてよく知られているこの絵ですが、当時は、娼婦を描いた作品だということで評論家から非難轟々、罵声を浴びせられます。落ち込んだマネはマドリッドに旅行し、プラド美術館でベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』に出会うのです。
番組で紹介されていたマネ自身の言葉によると「僕はこの作品に、僕自身の理想とする絵画の実現をみた」そうです。絶賛の言葉ですね。帰国後、マネはさっそく『道化師パブロ・デ・バリャドリード』へのオマージュ作品を2つ描きました。第1作が『悲劇役者(ハムレットに扮するルビエール)』(1866。ワシントン・ナショナル・ギャラリー [NGA] 蔵)であり、そして決定版が第2作の『笛を吹く少年』です。こうしてみると『悲劇役者』の方がベラスケスに非常に近いことが分かります。
普通『笛を吹く少年』は日本の浮世絵に影響されたと言われていますね。はっきりした輪郭、平面的な色使い、最小限の色数、背景が無いことなど、これらは版画である浮世絵の特徴です。美術史の研究でも『笛を吹く少年』は浮世絵に影響をうけたことが定説となっているようです。しかしもう一つ強く影響をうけた画家がいた。それがベラスケスだった。
そういえば思いあたることがあります。マネがエミール・ゾラを自分のアトリエに招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868。オルセー美術館蔵)という作品があります。この絵の右上には、画中画として絵の複製が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』であり、もう一つは、歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右ヱ門』(1860)です。マネは浮世絵の影響を受けたという予備知識があるので、我々は(特に日本人である我々は)浮世絵に目が行きます。左の方に描かれている琳派を思わせる屏風ともあわせ、ジャポニズムの雰囲気をぷんぷんと感じる。
しかし『大鳴門灘右ヱ門』の後ろには、もう一枚の複製画があるのですね。分かりにくいのですが、これはベラスケスの『バッカスの勝利』(1628-29。プラド美術館蔵)なのです。『エミール・ゾラの肖像』は、マネが浮世絵の「賛美者」であると同時に、ベラスケスの「弟子」だということを雄弁に物語っています。
日本という共通項
サージェントの『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』と、マネの『笛を吹く少年』は、2つとも「ベラスケスへのオマージュ」でした。しかし、もう一つの共通項があります。それは、少々意外なことに「日本」です。『笛を吹く少年』が浮世絵の影響下に描かれたことはもちろんなのですが、『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』に描かれているのも有田焼の花瓶なのです。
この有田焼に関してなのですが、サージェントは「たまたま」ボイト家にあった花瓶を描いただけなのでしょうか。そうとも限らないと思います。ボイト家で巨大な有田焼に出会い、それに絵心をかき立てられた、ということも十分に考えられる。たとえ「たまたま」であったとしても、ボイト氏を含むパリ在住の画家たちに「日本趣味」が浸透していたことは、モネやゴッホを引き合いに出すまでもなく明らかです。サージェントも、画面に提灯と百合の花をちりばめた「ジャポニズム」の絵を描いているのです。『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。ロンドンのテート・ギャラリー蔵)という、薄暮時の一瞬を描いた傑作です。
江戸時代の末期から明治初期という日本の激動期において、日本から輸出された美術品、日本では美術品としては認められなかった「作品」が、実は欧米のアーティストに深く影響を与えていたことが、よく理解できる2作品です。
ベラスケス『ラス・メニーナス』(プラド美術館) |
No.19 にも書いたように『ラス・メニーナス』については、ありとあらゆる評論が書かれてきました。また評論だけでなく、この絵を模写した画家も多くあり、有名なところでは、ピカソがキュビズムのタッチで模写した作品がバルセロナのピカソ美術館に所蔵されています。
しかし何といっても印象深いのは『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描かれた、サージェントの『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館蔵)です(以下「ボイト家の娘たち」と略します)。
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)は、主にパリとロンドンで活躍したアメリカ人画家です。彼は1879年にプラド美術館を訪れ『ラス・メニーナス』を模写しました。そして『ラス・メニーナス』から得たインスピレーションをもとに後日描いたのが『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』で、彼が26歳の時の作品です。ボストン美術館に行くと、サージェントの絵だけが展示してある部屋があり、その部屋を圧するようにこの絵が飾ってあります。縦横 222.5 cm という、正方形の大きな絵です。
この絵は2010年にプラド美術館へ貸し出され、プラド美術館は「招待作品」として、この絵と『ラス・メニーナス』を並べて展示しました。天下の2大美術館が揃って、この絵を『ラス・メニーナス』へのオマージュであると認めたことになります。
John Singer Sargent "The Daughters of Edward Darley Boit" (1882) Museum of Fine Arts, Boston |
エドワード・ダーレー・ボイトは、サージェントの友人のアメリカ人画家です。当時、ボイトの一家はパリに住んでいて、そのパリでのボイト家の4人娘を描いたのがこの作品です。一番手前、床に座っているのが最年少のジュリアで当時4歳、左の方に立っているのがメアリーで8歳、奥の方で正面を向いているのがジェーンで12歳、横を向いてしまっているのがフローレンスで14歳です(名前と年齢はボストン美術館の公式サイトによる)。
サージェント:エドワード・ダーレー・
Sargent : The Daughters of Edward Darley Boit
ボストン美術館へは2回行ったことがありますが、初めて訪れて「ボイト家の娘たち」を見た時は、この絵が『ラス・メニーナス』へのオマージュとは知りませんでした。もちろん絵を見ただけでは、そうとは気付きません。知ったのはその後です。そう言われてみれば『ラス・メニーナス』との類似性に気付くのです。「類似性」をキーに「ボイト家の娘たち」を鑑賞すると、次のようになるでしょう。
 主人公  |
一つは絵の「主人公」です。「ボイト家の娘たち」の主人公は、床に座っている4歳のジュリアでしょう。最も光が強く当たっている描写がされています。一方の『ラス・メニーナス』はもちろんマルガリータ王女です。王女は当時5歳。2つの絵とも、4~5歳の幼女を主役にしています。
 一瞬の定着  |
2つ目は、部屋に入ってきた誰かに登場人物たちの視線が集まった、その一瞬を描いたと感じさせる点です。「ボイト家の娘たち」を見て感じるのは、次のような情景です。友人の家を訪問したサージェントが、カメラを持って4人の娘の居る部屋に入っていく。「写真を撮ろう。そのままの位置でいいよ。カメラに向いて・・・・・・」。幼いジュリアはそのままの姿勢でカメラに目をむける。メアリーとジェーンはシャンと立って、カメラを見据える。年長のフローレンスは、今は写真など撮られたくないわ、とばかりに、サージェントの言葉を無視して横を向く・・・・・・。そんな情景の一瞬です。
もちろんサージェントの時代に(一瞬で撮影できる)カメラがあったわけではありません。しかし想像させられるのはそれと類似の状況です。たとえば、ボイト氏が初めて友人を娘たちに紹介するつもりで部屋に入っていった、というような・・・・・・。
『ラス・メニーナス』は、国王夫妻がベラスケスのアトリエに様子を見に来て、視線が国王夫妻に集まった一瞬を描いたという説がありますね。だから後方の鏡に夫妻が映っているのだというわけです(別の説もある)。この、一瞬を切り取った、その一瞬のありようが「ボイト家の娘たち」は『ラス・メニーナス』と非常によく似ています。
 ミステリアス  |
3つ目は「ボイト家の娘たち」の構図と人物・事物の配置がかもし出す「ミステリアスな雰囲気」です。
4人の娘は、やけに左に偏って配置されていて、かつ手前から奥に向かって配置されています。二人は直立不動のような格好で正面を向いていますが、それとは全く対照的に一人は横を向いてしまっている。そして、ふっと自然な感じの視線を合わせた女の子が前の方に座っています。いったいこの4人の関係やいかに・・・・・・と詮索したくなる、思わせぶりな構図です。
そして印象的なのが、2つの染付けの大きな花瓶です。ボストン美術館の公式サイトによると、これは日本の有田焼です。右の方は半分しか描かれていません。しかしこの大きな花瓶の、静かに場を圧する存在感は相当なものです。
ボストン美術館の公式ホーム・ページによって補足しますと、この花鳥の染付けの花瓶は、実際にボイト家の所有物でした。ボイト家は、出身地のボストンとパリを往復して生活していたのですが、花瓶は一家の移動とともに大西洋を何回も往復したそうです。つまりボイト家のシンボルとして大切にされていたのですね。そしてボイト氏が亡くなったあと、娘たちは絵とともに花瓶をボストン美術館に寄贈しました。 ボストン美術館の「ボイト家の娘たち」の部屋に行くと、この花瓶も飾ってあります。公式サイトによると、この花瓶の高さは 188cm という大きなものです。ボイト家の娘たち4人は今はもう誰もいなし、絵を描いた画家もいないのですが、花瓶だけは百数十年の時を越えて生き抜いている。ますます、その圧倒的な存在感が伝わってくるような展示です。 |
『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』の展示 [site : ボストン美術館] |
そして、右側の花瓶の横に描き込まれた赤いものは何でしょうか。何かのスクリーンのようなものだと思いますが、何のためのものなのか不明です。このスクリーン(のようなもの)は、『ラス・メニーナス』の絵の中に登場する大きなキャンバスに対応させたものでしょう。左右が反転していますが、構図がキャンバスに似ています。ひょっとしたらサージェントは、この絵を『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描いたことの証(あかし)として、意図的に描き加えたのかもしれません。
とにかく、こういった構図と人物・事物の配置がかもし出す「ミステリアスな雰囲気」が『ラス・メニーナス』に非常に似ています。
 幅と奥行きのある空間  |
4つ目は、非常に広い「幅」や「奥行き」がある空間を感じさせる絵だということです。「ボイト家の娘たち」は、人物の配置と光の効果で「広大な空間」を作り出した絵だと思います。
まず、4人娘をことさら画面の左側に偏って配置しています。そうすることで4人のさらに左にも、この絵の右半分と同等の空間があると想像させます。右端の半分に切れた花瓶も、さらにその右へと部屋が広がっていることを明確にしている。これは日本画にもよくある手法です。
またサージェントの絵では、娘たちを前から奥に順に配置していて、奥に行くに従って娘の受ける光はだんだんと薄暗くなっていきます。そのさらに奥は暗闇に近くなり、窓の明かりがかすかに見える。光によって空間の奥行きが演出されています。
光による空間演出という意味では、フェルメールに何点かありますね。左の窓から差し込む淡い光が、個人が使用する、比較的狭い、こじんまりした、暖かみのある空間(部屋)を作り出す。
サージェントは光の演出だけでなく、人物の配置と構図で「空間を描いた」作品を作った。そう思います。その点ではまさにベラスケスの『ラス・メニーナス』と相似形です。また、この2つの作品は日本語で言う「奥」を描くことに成功した作品です。「奥」は日本語の独特表現なのかどうか確信はありませんが、少なくとも英語に「奥」を直訳できる単語はないはずです。西欧の絵画では、遠近法で「遠く」を描いた作品はいっぱいありますが、「奥」を描いた作品はあまりなく、その意味ではこの2作品は際だっていると思います。
さらにサージェントの作品について言うと、前から奥に行くに従って、姉妹の年齢は高くなっていきます。床に座っているのは幼児のジュリア。後ろで横を向いているのは10歳年上の姉のフローレンス。その間を真正面を向いたメアリーとジェーンがつないでいる。横を向いてしまったフローレンスは、あたかも子どもから脱して大人に向かっていくかのようです。じっと見ていると、手前から奥に向かって時間が流れていくように見える。サージェントはこの構図で、時の経過までもキャンバスに閉じ込めようしたと見えます。
 多様な光  |
5つ目は「広い空間の演出」と関係しますが、多様性がある光(と影)の表現です。特にサージェントの絵では、子供用エプロンの目に染み入るような「白」と、有田焼の磁器の釉薬を通した白色が印象的です。磁器の反射光の表現も鮮烈です。
この作品は「白による多様な光の表現が最も印象的な絵画作品」と言えるでしょう。白で光の効果を演出してみせよう、それに挑戦してみよう、白だけで十分なことを証明してみせよう・・・・・・。26歳の若いサージェントの、そういった意気込みというか、野心が伝わってくるような作品です。
 粗いタッチ  |
最後に、この2つの絵だけの特徴ではないのですが、きわめて粗いタッチ、ラフな筆さばきが効果的に使われていることも共通しています。
「ボイト家の娘たち」の一番手前のジュリアは、よく見ると人形を持っています。この人形の服の表現は、まさに「書きなぐった」という言葉にふさわしい。実際、ほとんど一瞬で描かれたのでしょう。ベラスケスの絵もそうです。マルガリータ王女やその左の侍女の、袖のあたりは「書きなぐりによる迫真表現」です。よくよく見ると驚いてしまう。
このあたりは日本画における「付立て(つけたて)」という手法を思い起こさせます。円山応挙やその一門の絵によくあります。たとえば草木を描くときに、花の部分は精緻にデッサンをし、輪郭を書き、リアルに、写実的に描く。しかし幹の部分は輪郭を描かず、筆の濃淡だけをたよりに、一気呵成に描く。この「一気呵成」の部分が付立てですね。写実的部分との対比の妙で、互いが互いを引き立てるというわけです。 |
こういった表現は『ラス・メニーナス』だけでなく、ベラスケスのほかの絵にも多々ありますが、サージェントもそうです。またサージェントだけでなく、印象派の時代の画家がベラスケスから学んだ重要な絵画技法だと思います。
サージェントの絵を見て思うのは、アーティストが先人の作品から受けるインスピレーションというのは、非常に微妙で個人的なものだということです。作品のどのポイントに霊感を感じるのか、それはアーティストの個人的な感覚に依存しています。「ボイト家の娘たち」は『ラス・メニーナス』へのオマージュである、と言われなければ分からない。しかし「言われなければ分からない」けど、先人の作品を踏まえていることは確かなのです。
そして、これは最近知ったのですが、ベラスケスのある作品からインスピレーションを得て描かれた絵で、誰もが知っている超有名絵画があるのです。エドゥアール・モネの『笛を吹く少年』です。
マネ:笛を吹く少年
2011年7月30日にテレビ東京で放映された「美の巨人たち」のテーマは、マネ(1832-1883)の『笛を吹く少年』(1866。オルセー美術館蔵)でした。マネは「印象派の父」と言われています。番組では「絵画の新時代はマネから始まった(セザンヌ)」とか、「絵画はマネをもって始まる(ゴーギャン)」といった、画家たちの敬愛の言葉が紹介されていました。
マネ『笛を吹く少年』 (1866。オルセー美術館) |
『笛を吹く少年』は、確か教科書に採用されていた(時期があった)はずです。広く日本人が最もよく知っているマネの作品はこれ、と言っていいと思います。実はこの作品は、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』(1624-32頃。プラド美術館蔵)からインスピレーションを得て描かれた、というのが番組の主眼でした。美術界では常識かもしれませんが、私は初めて知りました。
No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、宮廷画家であるベラスケスは王侯貴族の絵だけでなく、慰み者や道化師、貧しい市民、芸人、乞食の絵を描いています。『道化師パブロ・デ・バリャドリード』はその中の1枚で、プラド美術館のホームページで確認すると、No.19 で紹介した『セバスティアン・デ・モーラ』『ディエゴ・ディ・アセド』『フランシスコ・レスカーノ』と同じ部屋に飾られています。『ラス・メニーナス』は(現在は)別の部屋のようです。
ベラスケス 『道化師パブロ・デ・バリャドリード』 (1624-32頃。プラド美術館) |
マネは33歳の時に『オランピア』(1865。オルセー美術館所蔵)を描き、サロンに入選します。現代ではマネの傑作としてよく知られているこの絵ですが、当時は、娼婦を描いた作品だということで評論家から非難轟々、罵声を浴びせられます。落ち込んだマネはマドリッドに旅行し、プラド美術館でベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』に出会うのです。
マネ (1866。 NGA) |
普通『笛を吹く少年』は日本の浮世絵に影響されたと言われていますね。はっきりした輪郭、平面的な色使い、最小限の色数、背景が無いことなど、これらは版画である浮世絵の特徴です。美術史の研究でも『笛を吹く少年』は浮世絵に影響をうけたことが定説となっているようです。しかしもう一つ強く影響をうけた画家がいた。それがベラスケスだった。
そういえば思いあたることがあります。マネがエミール・ゾラを自分のアトリエに招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868。オルセー美術館蔵)という作品があります。この絵の右上には、画中画として絵の複製が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』であり、もう一つは、歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右ヱ門』(1860)です。マネは浮世絵の影響を受けたという予備知識があるので、我々は(特に日本人である我々は)浮世絵に目が行きます。左の方に描かれている琳派を思わせる屏風ともあわせ、ジャポニズムの雰囲気をぷんぷんと感じる。
しかし『大鳴門灘右ヱ門』の後ろには、もう一枚の複製画があるのですね。分かりにくいのですが、これはベラスケスの『バッカスの勝利』(1628-29。プラド美術館蔵)なのです。『エミール・ゾラの肖像』は、マネが浮世絵の「賛美者」であると同時に、ベラスケスの「弟子」だということを雄弁に物語っています。
マネ『エミール・ゾラの肖像』(1868。オルセー美術館) 右は相撲絵の部分を拡大したもの [site : NGA] |
ベラスケス『バッカスの勝利』 (1628-29。プラド美術館) |
日本という共通項
サージェントの『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』と、マネの『笛を吹く少年』は、2つとも「ベラスケスへのオマージュ」でした。しかし、もう一つの共通項があります。それは、少々意外なことに「日本」です。『笛を吹く少年』が浮世絵の影響下に描かれたことはもちろんなのですが、『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』に描かれているのも有田焼の花瓶なのです。
この有田焼に関してなのですが、サージェントは「たまたま」ボイト家にあった花瓶を描いただけなのでしょうか。そうとも限らないと思います。ボイト家で巨大な有田焼に出会い、それに絵心をかき立てられた、ということも十分に考えられる。たとえ「たまたま」であったとしても、ボイト氏を含むパリ在住の画家たちに「日本趣味」が浸透していたことは、モネやゴッホを引き合いに出すまでもなく明らかです。サージェントも、画面に提灯と百合の花をちりばめた「ジャポニズム」の絵を描いているのです。『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。ロンドンのテート・ギャラリー蔵)という、薄暮時の一瞬を描いた傑作です。
江戸時代の末期から明治初期という日本の激動期において、日本から輸出された美術品、日本では美術品としては認められなかった「作品」が、実は欧米のアーティストに深く影響を与えていたことが、よく理解できる2作品です。
John Singer Sargent "Carnation, Lily, Lily, Rose" (1885-6) Tate Gallary, London |
2011-09-08 07:28
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