No.41 - ふしぎなキリスト教(1) [本]
キリスト教への関心
No.24 -27「ローマ人の物語」で、塩野七生・著「ローマ人の物語」の感想を書きましたが、そこでは第14巻の「キリストの勝利」での記述を中心に、ローマ帝国の崩壊を決定づけたキリスト教の国教化と、それに伴うローマ固有の宗教や文化の破壊をテーマにしました。キリスト教は西ローマ帝国の崩壊後もヨーロッパ社会のコアとなっていきます。
橋爪大三郎・大澤真幸 「ふしぎなキリスト教」 (講談社現代新書 2011) |
そのキリスト教とは何かを、非常にコンパクトに、かつ全体的に解説した本が2011年に出版されました。『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書 2011)です。 お
この本は二人の社会学者の対論です。一人は橋爪大三郎氏(東京工業大学教授)で、もう一人は大澤真幸(まさち)氏(思想月刊誌 主宰)です。ともに東京大学大学院・社会学研究科出身であり、特に橋爪さんは比較宗教学者であって、この本の主旨からすると適任の人でしょう。対論は大澤さんが「キリスト教のふしぎや疑問点」について橋爪さんに質問したり突っ込んだりし、それに橋爪さんが答えるという形になっています。大澤さんも社会学者なので、橋爪さんの意見に異論をはさむシーンもあり、読みごたえのある内容になっています。
そこで、この本の内容の紹介(一部ですが)と、感想を書いてみたいと思います。
なぜキリスト教を語るのか
『ふしぎなキリスト教』の冒頭に「なぜキリスト教を語るのか」について、この本の主旨が書かれています。それはまず「近代社会」の理解という目的です。つまり
◆ | 近代社会とは、西洋的社会がグローバル・スタンダード になっている社会であり | |
◆ | その西洋的社会とは、端的に言うとキリスト教型文明社会である |
からです。
現代は「近代社会」のさまざまな問題を乗り越える必要に迫られています。それは環境問題であり、エネルギーの問題であり、異文化の対立や抗争であるわけです。そのためには「近代の相対化」が必要であり、それは「西洋の相対化」ということに他ならない。そのためには、西洋のコアにあるキリスト教の理解が必要です。「相対化」と著者が言っているのは、一つ高い視点から、対立項も含めて客観的・俯瞰的に把握し、その意味を理解し、ポジションを明らかにするということだと思います。
ここで「キリスト教が分からないと、西洋や近代社会が分からない」ということではない、ことに注意すべきだと思います。よく知ったかぶりの人が「やっぱりキリスト教が分かってないと、西洋が理解できないよね」と言いますが、そんなことはありません。西洋を理解するには、そこで発達した資本主義や科学、思想、政治主義などを学べばいいわけです。それで十分、西洋は理解できます。
しかしそうではなく「近代や西洋を相対化し、それが抱える問題を乗り越えるためには、キリスト教の理解が必要だ」と著者は言っているわけで、これは妥当だと思います。近代を相対化し、近代=西洋社会を一つ高いレベルから客観的に俯瞰するためには、西洋社会の背後やルーツにあるキリスト教を理解する必要があるというわけです。本書は「キリスト教入門の本」ではありません。「はじめに」で断ってあるように、近代=西洋社会を理解するための本であり、そのためにキリスト教を理解しようとする本です。「西洋を作った」という視点からキリスト教を見たときに特質は何かを語った本です。そこを間違えると、本書の意味はなくなるでしょう。
キリスト教の「ふしぎ」
キリスト教には、クリスチャンでない日本人からみると、いろいろと「分かりにくい」ところがあります。ちょっとあげてみただけでも、
・ | 一神教とは何なのか |
・ | キリストという存在(神なのか、人なのか、神の子なのか) |
・ | 神と精霊とキリストの三位一体とは。そもそも精霊とは何か。三つが一つとはどういうことか。 |
・ | 旧約聖書と新約聖書という、聖典の二重構造。特にユダヤ教の聖典である旧約聖書をキリスト教が温存していること。 |
・ | 原罪の考え方。それと関係した「キリストによる贖罪」という思想 |
『ふしぎなキリスト教』には、こういったキリスト教の分かりにくいところが、かなり明快に説明されています。内容はキリスト教全般をカバーしていて多岐に渡るので、すべての感想を語ることはできません。ここでは本書の第1部、第2部、第3部の話題から、近代西洋社会との関係におけるキリスト教という点に絞って感想を書きます。
一神教の論理
第1部は「一神教を理解する」と題されていて、ユダヤ教とキリスト教を中心に、一神教とは何かが解説されています。「近代西洋社会との関係におけるキリスト教」という視点で最も重要だと思ったのは、キリスト教の「一神教」という性格であり、その考え方や、そこから派生する思想が近代西洋社会の形成に多大な影響を与えたということです。
一神教を最も端的に象徴するのは、旧約聖書のはじめの方の「イサクの犠牲」だと思います。イサクの犠牲の話は本書では第1部ではなく「第2部 イエス・キリストとは何か」の中で、原罪と贖罪の説明に出てきますが、引用すると以下のようです。
 イサクの犠牲(創世記:22章)  |
[橋爪] |
イサクの犠牲の話で直感的に思うのは、人間を生け贄として神に捧げる、という古代の習俗の記憶ではないかということですね。
それはさておき、ここでみられる神とアブラハムの関係、つまり主の命令で実の息子を殺すという関係は、ちょっと常識を超越している感じがします。人間社会でも「親が、他者と自分の関係において、ある意図をもって、自分の実の子を殺す」ということが、全くないわけではない。もちろん激情にかられて、とか、一家心中とか、子どもの行く末を悲観してとか、保険金目当て、とかは除きます。「他者と自分の関係において」という条件です。
ちょっと飛躍しますが、連想するのは徳川家康が実の息子の信康を切腹させた件ですね。それは、織田信長に武田側との内通を疑われ、信長が要求したからです(家康は、正室の筑山殿も同時に殺害している)。この件はいろいろの説があるようですが、圧倒的な力の差がある主従関係では(当時の信長と家康。正確に言うと信長と家康は主従ではなく同盟者の関係)、こういうことが起こることは「ないわけではない」のです。しかしこの手の話は歴史上に多くはないと思うし、やはり「主の命令で息子を殺す」という関係、しかも「本当に息子を殺せるか、主がアブラハムを試した」という結末は、人間社会の話だとすると常軌を逸していることは確かだと思います。
この「イサクの犠牲」に典型的にみられる、一神教の根本的な考え方が、本書の第1部に説明されています。以下のところです。
[橋爪] |
ここで橋爪さんが God としているのは、日本語で「神」と書くと、なれなれしいニュアンスが紛れ込んでしまうからです。だから一神教の神を「God」としているわけです
この解説が一神教の重要な定義だと思います。つまり神=主人、人間=奴隷という原則、いわば「主人・奴隷原理」が一神教における神と人間の関係なのですね。この一神教の原理は有名な「カインとアベル」の話にもよく現れています。
 カインとアベル(創世記:4章)  |
[橋爪] |
橋爪さんによると「人間には神に愛される人と愛されない人がいる。それは受け入れなければならない。」と解釈するようです。
しかし、カインとアベルの話は「主人・奴隷原理」からすると当然ありうる状況です。奴隷ではなく、主人の所有物やモノの関係と考えても同じです。トマトは好きだけどキュウリは嫌いで、サラダのトマトは食べるがキュウリは残すという人がいても(またその逆でも)その理由はないわけです。単に嫌いなだけです。それが非難されるいわれもない。なぜか嫌いなのですかと人間側から神に問うことはできません。そういう問いをすること自体、一神教ではなくなります。原理上、そうなっている。
一神教は、中東地区に生まれた非常に「特別な」宗教形態です。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という、3つの宗教。一神教は基本的にこれしかありません。人類史上、こういうタイプの宗教はまれです。何万、何百万とあったはずの宗教のうちの3つ、しかもほとんど兄弟とも言える宗教しかない。そして、神が一つであるのが一神教ではありません。神が一つであると同時に「主人・奴隷原理」の宗教が一神教なのです。
不可解なたとえ話
「第2部 イエス・キリストとは何か」では、キリスト教の不思議さの根幹であるイエス・キリストについて書かれています。この弟2部で特におもしろかったのは、大澤さんが新約聖書に出てくる「たとえ話」をとりあげて「このたとえ話、不可解でしょう?」と橋爪さんに詰問し、橋爪さんが、それはキリスト教的にはこう解釈する、と答える問答でした。ここで取り上げられている「たとえ話」は、神と人間の関係を端的に表しています。それを3つ取り上げてみたいと思います。
 ブドウ園の労働者(マタイ:20章)  |
[大澤] |
普通このたとえ話をどう解釈するかというと、橋爪さんの解説では、
幼児洗礼を受けたりして子どもの頃からキリスト教徒である人と、大人になって信徒になった人、晩年に病床で「駆け込み」洗礼を受けた人の、誰が神の国にいくでしょう、というたとえであり、イエス・キリストは、どの人も同じように、神の国に招きたいのだと言っている |
と考えるそうです。
この「ブドウ園方式」で人間社会を運営しようとすると破綻します。言うまでもなくこういった「賃金体系」は公平ではないし、労働者のモチベーションもなくなります。2度とこのブドウ園では働くものか、となるでしょう。経済的にもこのブドウ園の経営は行き詰まりかねない。だから「人は洗礼の時期にかかわらず、神の国に行ける」ということの比喩だ、との解釈ができたと考えられます。
しかし、このたとえ話は大澤さんも言っているように、神と人間の関係を示す比喩のはずです。つまり
・ブドウ園の経営者 = 人間
・労働者 = 人間
と考えるから不可解に見えるわけですね。これはあくまでたとえ話であって、
・ブドウ園の経営者 = 神
・労働者 = 人間
と考えればよい。そうすると「主人・奴隷原理」によって
・ブドウ園の経営者 = 主人
・労働者 = 奴隷
ということになります。主人と奴隷の関係だとすると、この話は不可解なことはない。次のような状況を考えてみます。
ブドウを栽培してワインを作っている主人がいます。最良のワインを作るために、今日1日でブドウを摘んでしまいたい。ところが家の奴隷の手が足りない。主人は近所の家に行き、今日1日、一人奴隷を貸してくれないか、奴隷の食事はちゃんと出す、と言って奴隷を借りてきます。 しかし、それでも収穫に間にあわず、その日に2度、3度と別の家を訪ね、奴隷を借ります。そうした結果、ブドウの摘み取りは無事に終了しました。夕食時になって主人は、その家の奴隷や借りてきた奴隷に向かって言います。「今日はよく働いてくれた、夕食は多めに用意した、いっぱい食べて帰ってくれ。」 |
「ブドウ園の労働者」における駄賃を「労働の対価=賃金」だと考えるから不可解になるのです。労働者=奴隷だと考えると、奴隷に賃金を支払う主人はいないわけです。駄賃は、奴隷が生きていくための必要事項(たとえば夕食)だと考えれば、おかしくはない。また、夕食ではなく、奴隷を貸してくれた家に均等に1デナーリずつ払ったとしても、決して不自然ではないと思います。
 放蕩息子の帰還(ルカ:15章)  |
新約聖書の「放蕩息子の帰還」は、非常に有名な話です。本書から引用します。
[大澤] |
レンブラント 「放蕩息子の帰還」 (エルミタージュ美術館) |
橋爪さんによると、この「放蕩息子の帰還」のたとえ話は「神が人間を配慮するやりかたは、人間社会の常識を越えていることを示すためのたとえ話」だそうです。確かに、これを人間社会の話、つまり、
・父親 = 人間
・放蕩息子 = 人間
という枠組みで考えると完全に常識を越えています。しかしこの話は、神と人間の関係を示すためのたとえ話であって、
・父親 = 神
・放蕩息子 = 人間
と考えればよい。そうすると「主人・奴隷原理」によって、
・父親 = 主人
・放蕩息子 = 奴隷
ということになります。この場合、話を分かりやすくするために、
・父親 = 羊飼い
・放蕩息子 = 牧羊犬
として「羊飼いと牧羊犬の関係」に置き換え、次のような「お話」を考えてみればよいと思います。
羊飼いが2頭の牧羊犬を使って100頭の羊を放牧していました。牧羊犬の名前は、タローとジローです。ある日、ジローが突如、行方不明になりました。残されたタローは大変です。100頭の羊をタローだけでみなければならないからです。 ジローはどうしていたかというと、野山を徘徊し、果実を食べ小動物を狩って、「労働」もせず、気ままに暮らしていました。しかし、ある年から干ばつがひどくなり、食べ物にも窮するようになります。しかたなく、ジローは元の羊飼いの家に戻ってきました。 羊飼いは、戻ってきたジローをみて「よく戻ってきてくれた、ジロー」と大歓迎しました。「明日から、またタローと一緒に羊を放牧しよう」。 |
この「お話」は、あまりに当たり前すぎます。怒ったタローがジローに噛みつくということもないでしょう。つまり神と人間の関係を示す「たとえ話」だと考えると不可解ではありません。
放蕩息子の帰還は数々の名画の題材になってきました。中でも最も有名なのが、エルミタージュ美術館にあるレンブラントの一枚です。
 マリアとマルタ(ルカ:10章)  |
放蕩息子を題材にした絵はレンブラントが有名ですが、次の「たとえ話」に関してはフェルメールが描いています。
[大澤] |
一般的な解釈では、マルタは日常的な生活を象徴し、マリアは宗教的な生活を表し、そしてマルタは日常の瑣末なことにとらわれていた、そこに問題があるとされているようです。これではすんなりとは納得できない。橋爪さんの解釈は次のようです。
[橋爪] |
フェルメール 「マルタとマリアの家のキリスト」 (スコットランド国立美術館) |
この話は、やはりイエスの言うように、炊事場で働くよりイエスの言葉を聞く方が重要だということを言っているのでしょう。信仰に生きなさい、ということです。また、ここでも神と人間の関係を「たとえ話」で示していると考えられます。つまり、
・イエス = 神
・姉妹 = 人間
であり、「主人・奴隷原理」にしたがって、これが主人と奴隷の関係だと考えると大いにありうるわけです。主人・奴隷の関係に置き換えて「お話」を作ってみると、たとえばローマ帝国時代に、奴隷が2人いる家で、詩を作るのが趣味の主人がいたとしましょう。ある詩を完成させた主人は(たまたま)夕食を準備中の奴隷に朗読して聞かせます。2人とも聞き入ると夕食の準備はできないので、一人だけが朗読を聞く。その一人は「いいほうをとった」わけです。不可解ではありません。奴隷は主人に文句を言ってはいけないのです。
ちなみに、フェルメールの絵ではマルタが中央に描かれていて、構図上の主役になっています。これについて「家事にいそしむのが美徳、という当時のオランダの倫理を表している」との説があるようです。フェルメールもまた、聖書のマリアとマルタの話に違和感を持っていたのかもしれません。 |
これらの「不可解なたとえ話」で一貫して主張されているのは、神と人間の関係における一神教の原理だと思います。それを人々に教えるための話だと感じます。
西洋を作ったキリスト教:哲学・思想・科学
第3部の「いかに『西洋』をつくったか」では、キリスト教のモノの考え方や発想が西洋文化のコアとなっていることがテーマで、ここが本書の中核部分です。
要するに、キリスト教の God を信仰するということは、それを客観的にみると世界を統一的に把握する原理が存在するという確信を持つことに他ならないわけです。
聖書の矛盾したテキストを統一的に解釈する作業や、キリストの位置づけを明確にする努力から、三位一体などの教義がうまれ、キリスト教神学が発達します。これが、その後の西洋の哲学の発達につながります。人間の理性への信仰も「神の設計したこの世の構造を理解する人間の理性」への信仰です。フランス革命では「理性神」があがめられましたが、それは神の代替物です。
マルクス主義思想がキリスト教のコピーであることは、本書で何度か強調されています。キリスト教が西洋を作り、その西洋が近代を作ったというのが『ふしぎなキリスト教』の命題ですが、マルクス主義というのはまさに西洋近代社会の申し子だと思います。
科学の発達も世界を統一的に把握する原理があることの確信がベースです。この象徴的存在が、アイザック・ニュートン(1642-1724)ですね。本書には書いていないのですが、ニュートンの「業績」は
①物理学(古典力学)・数学
②錬金術
③聖書研究(聖書の「科学的」解読)
の3つです。
①の物理学では、運動方程式と万有引力の法則という、数学的に記述された極めて少数の原理から、複雑に見える惑星の運動が導出できることを証明したのが有名で、まさに近代科学の原点とも言える業績です。万有引力の法則だけならニュートン以前に何人かの先人が発見しています(フックなど)。ニュートンの偉大なところは「世界を統一的に把握する原理を発見し、定式化した」ことです。
②の錬金術は、今からするとオカルトのようにも思えますが、当時は最先端の化学だったわけですね。ニュートンは65万語に及ぶ錬金術の手稿を残したようです。錬金術は19世紀まで続きます。No.18「ブルーの世界」で書いたマイセンの磁器の(西欧における)発明も、またプルシアン・ブルーという顔料の発見も「錬金術師」と呼ばれた人たちの功績です。錬金術が化学の発達を促したことは明白です。
しかしニュートンはこれらの「科学」と同時に、③の聖書研究にも力を注いでいます。聖書には隠された意味(聖書の暗号、いわゆるバイブル・コード)が潜んでいるはずで、それを解き明かすという研究をニュートンはかなりやっています。残された手稿は130万語に及ぶそうです。こうなるともう完全なオカルトのように見えますが、現代でもバイブル・コードを研究している人はいるようなので、ニュートンの時代にはまじめな「科学」と思われていたのでしょう。
聖書研究、錬金術、物理学という、ニュートンの3つの研究分野は、科学の発達のプロセスを如実に示していると思います。ニュートンの物理学(力学)の業績も、当時としては「神が設計したこの世界の秘密を解き明かした」ということだったと思います。
以上のように、『ふしぎなキリスト教』における「西洋を作ったキリスト教」の解説は明快なのですが、ちょっと問題なのは資本主義の発達とキリスト教の関係の部分です。
(続く)
2011-11-12 08:51
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