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No.40 - 小公女 [本]

No.18「ブルーの世界」で青色染料である「藍・インディゴ」の話を書きましたが、そのとき、ある小説を連想しました。児童小説である「小公女」です。なぜ「藍」から「小公女」なのかは、後で書きます。

子供のころに「小公子」は読んことがありますが「小公女」の記憶はありません。「小公女」がどんな話かを知ったのは、以前にテレビのアニメ「小公女セーラ」を娘が熱心に見ていたからで、私もつられて見たわけです。非常によくできた話だと感心しました。

「小公女」はイギリス生まれのアメリカの作家、フランシス・ホジソン・バーネット(1849-1924)が1888年に発表した小説です。「小公子」を出版した2年後になります。要約すると次のような話です。

アニメの「小公女セーラ」は原作より登場人物が拡大されたり、原作にはないエピソードがあったりします。以下は原作をもとに書きますが、アニメ版も、あらすじのレベルでは基本的には同じです。

以下には物語のストーリーが明かされています


「小公女」(A Little Princess)のあらすじ


舞台は19世紀のイギリスです。冬のロンドンは日中だというのに薄暗く、霧が立ちこめ、ガス灯がともっています。このなかを行く辻馬車に、父と娘が乗っています。ここから物語は始まります。

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「小公女」(岩波少年文庫)
セーラは7歳の少女で、父親につれられてロンドンのミンチン女子学院に入学しました。ここはミンチン女史が経営する一種の私塾で、4歳から10代前半の女の子たちが、家から離れて学院に寄宿しながら勉強しています。セーラはたちまち人気者になり、この学院の「看板生徒」になりました。

Princess という題がついていますが、セーラは王族や貴族ではありません。彼女が王女のような気品をもっていることを言っています。

しかしセーラが11歳の誕生日に、悲報がもたらされます。父親が急死し、かつ友人の事業への投資の失敗で一文無しで他界したとのことなのです。母親はセーラが幼少の頃に亡くなっています。身よりも財産もなくなったセーラは、女子学院の屋根裏部屋に住み、学院の「小間使い」として働きはじめます。セーラの、辛い労働の日々が続きます。それでもセーラはくじけず、もともと備わった気品を失いませんでした。

しかし父の友人の事業は、実は復活して大成功し、その友人は何倍にも大きくなった財産を相続するはずのセーラを探していたのでした。その友人がたまたま学院の隣に引っ越してきたことに端を発して、真実が明らかになります。セーラは父の友人に引き取られ、再び幸せな日々に戻ります。


よくできた物語 - 「小公女」第1部


大変によくできた物語で、テレビで「小公女セーラ」を見た時には感心してしまいました。物語は便宜的に、第1部、第2部、第3部の3つに分けられるでしょう。

第1部はセーラの入学にはじまり、幸せな学院生活を送る部分です。セーラは聡明で、人に優しい少女です。話がじょうずで、他の子供たちを引きつけます。髪は黒で、目は緑がかった灰色、背は高いほうで、ほっそりとし、独特の美しさがあります。全体に「王女」のような気品がある少女なのです。

しかもセーラは裕福な家庭に育ちました。ミンチン学院には「特別寄宿生」の中でも特別な生徒として入学します。それは彼女用の
 ・寝室と居間
 ・馬車と子馬
 ・お手伝いさん
が与えられるという、破格の待遇なのです。

物語の第1部を読む(見る)うちに読者(視聴者)は、このまま終わるはずがないと思います。このまま終わってしまえば「あまりにも出来すぎた少女の話」であって、小説とは言えなくなるからです。

そして案の定というか、物語には不吉な影がさすのです。一つはミンチン先生がセーラに敵意を持つことです。ミンチン先生はフランス語が話せないことを人知れず悩んでいました。話せないことを、周りには隠していた。そしてセーラが入学後のフランス語の授業において、彼女はフランス語が話せることが分かるのです。何と彼女の母親はフランス人であり、せーラが幼少の頃に亡くなったのですが、父親はセーラの母を偲んでしょっちゅうセーラにフランス語で話しかけていたのです。授業のあとでフランス語の先生は「この子に教えることはない」とまで言います。これでミンチン先生は内心、セーラに敵意を持つのです。

もう一つの「影」は学院の生徒であるラヴィニアです。ラヴィニアはきれいな子ですが、少々性格に難があって、いじわるなところがある。小さい子供には横柄で、年のいった子供の中ではつんと気取る。そしてセーラが来るまでは自分が学院の総大将だと思っていたのです。そのポジションをセーラに奪われた。それはセーラの優しさや人気によるものなのですが、ラヴィニアはセーラを強くねたむのです。

こういった不吉の兆候から読者は、「幸福なセーラ」がこのままでは終わるはずがない、という予感を持ちます。何かとんでもないことが起こるに違いないと・・・・・・。


よくできた物語 - 「小公女」第2部


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小間使いとして働くことになったセーラと、ミンチン先生。この挿画は1891年にアメリカで出版された「小公女」のもの(岩波少年文庫より)
読者の「期待」どおり、その「とんでもないこと」が起こって第2部になります。父親が破産して死んでしまうのです。セーラは学院の屋根裏部屋に住み込み、小間使いとして働き始めます。なぜ学校から追い出されなかったのか。それは身よりがなくなったとたんに追い出したのでは学院の評判を落とすと、体面を気にするミンチン先生が考えたからです。「何一つ不自由のない裕福な生徒」から「学院の小間使いという児童労働者」へ・・・・・・。この劇的な変化が「小公女」のストーリーのコアになっています。

小間使いというのは、要するに先生や生徒、学院の料理番などの使用人から言いつけられた仕事を何でもこなす役割です。学院には既に、ベッキーという少女が小間使いとして屋根裏部屋に住み込んでいたのですが、セーラはそこに同居します。

小間使いの労働は厳しいものがあります。たとえば重い石炭箱をさげて教室にはいり、暖炉の灰を掃きだし、石炭をくべる。教室の床の掃除をし、窓ガラスも磨く。生徒の靴も磨く。料理番の手伝いで外へ買い物にも行く。びしょ濡れになりながら、雨の中を遠い所までお使いに行ったりもしました。お使いに行き、目当てのものが見つけられなかったということで、料理番から食事を抜かれたこともある。セーラの服は次第に「つるつるてん」になっていき、町で乞食と間違われてお金を恵んでもらったことさえありました。

セーラに敵意をもっていたミンチン先生、そしてセーラをねたんでいたラヴィニアは、ここぞとばかりにセーラに辛くあたり、無理難題をふっかけ、要するに「いじめる」わけです。ラヴィニアはみすぼらしい格好になったセーラを見て仲間の生徒と一緒に大笑いするし、ミンチン先生もセーラを叱って食事を抜いたりする。現代の日本ならこの女子学院は「いじめ」で新聞沙汰になるだろうし、それ以前に児童相談所に通報されてミンチン先生は逮捕されるでしょう。しかし物語の舞台は現代の日本やイギリスではないのです。

セーラはこの状況にくじけることなく仕事をこなし、人前では涙を見せず、彼女が本来持っていた「気品」を失いません。これがまたミンチン先生やラヴィニアをいらだたせる。もしセーラが泣きじゃくって「もう許してください、ミンチン先生、ラヴィニア様」とでも言うのなら「いじめ」をやめようという気にもなります。しかしセーラは全く正反対なのです。それがおもしろくない。ますますセーラを困らせようとするわけです。

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乞食の少女にパンをあげるセーラ(岩波少年文庫より)
セーラは気品を失わないと同時に、人に対する優しさも失いません。町にお使いに出た時に4ペンス銀貨を拾ったことがありました。おなかを空かしていた彼女はそれでパンを4個買い、おまけとして2個もらうのですが、たまたまいた乞食の少女に5個をあげてしまいます。自分よりよほど「ひもじい」ように見えたからです。

「小公女」という児童文学は、こういったエピソードが続く第2部が大半を占めています。まさにここがハイライトなのですね。この第2部におけるセーラを一言で表せそうな、ぴったりではないかもしれないけれど非常に近い日本語があります。「けなげ」です。

「けなげ」は、非常に特別の状況にしか使わない日本語表現です。それは

弱小の者が
逆境にもかかわらず
忍耐強く、くじけないで
勤勉に働き、自己の立場を全うしている

姿を表現する言葉です。この「弱小・逆境・忍耐・勤勉の4点セット」のどれが欠けても「けなげ」とは言わない。この4点の程度は強くても弱くてももよいのですが、とにかく4点そろっていることが重要です。おそらく英語に相当する単語はないでしょう。こんなスペシャル・ケースを表わす単語があるぐらいだから、日本人は「けなげ」な姿を見るのが好きだし、愛着を感じる。近年(と言ってもだいぶ前ですが)、最も「けなげ」だった女の子は、言うまでもなく「おしん」ですね。そして「おしん」と同様、アニメ世界名作劇場「小公女セーラ」は大ヒットしました。

しかし「けなげ」なセーラの姿を見るうちに、読者は当然思うのですね。「このままで終わるはずがない」と。このまま終わってしまったら、小説として成立しない。


よくできた物語 - 「小公女」第3部


物語も終わりに近づいて、驚きの事実が判明し第3部になります。セーラが実は大金持ちだったことが、全くの偶然がきっかけとなって分かるのです。

そもそもセーラはインド生まれです。セーラの父親はラルフ・クルーといい、インドに渡って友人のキャリスフォードと一緒にダイヤモンド鉱山の開発をはじめ、それに財産をつぎ込んでいました。当時、インド在住のイギリス人の子供は、長距離旅行ができる年齢になるとロンドンに帰って学校に入るという習慣だったようで、セーラ・クルーもそうしたわけです。

そしてダイヤモンド鉱山の開発は失敗し、ラルフ・クルーは財産を失い、彼自身もマラリアで死んでしまいました。しかし、失敗したと思われた鉱山開発は復活・成功し、友人のキャリスフォードは莫大な財産を築いた。そしてラルフ・クルーが当然得るべき資産を返すため、相続人である娘のセーラを探してロンドンに帰って来ていたのです。

そのキャリスフォード氏が、何と偶然ミンチン女子学院の隣に越して来て住んでいたというのが「小公女」のストーリーであり、お隣の縁でセーラのことが判明するのです。第2部の途中で「インドの紳士」が隣に越してくるのですが、その紳士が亡くなった父の友人だったわけです。

こんなストーリーがありだろうかと思ってしまいますが、ありなのですね。つまり、第1部の「お嬢様」から第2部の「小間使い」へという、あまりに劇的な展開があるため、第3部の「全くの偶然に端を発した、驚愕の事実の判明」にも違和感を感じません。当然そうなるだろう、やっぱり、という感じです。読者にとってこれは想定内の展開なのです。

セーラはキャリスフォード氏に引き取られます。また、何かとセーラに親切にしてくれた小間使いのベッキーもセーラが引き取って、二人で幸せに暮らし始めた、というところで物語は終わります。


共産党宣言


ちょっと唐突ですが「小公女」の物語から、マルクス/エンゲルスの「共産党宣言」(1848)を連想してしまいました。労働者の団結とブルジョアジーの打倒を訴えた共産党宣言は、第1章の冒頭の「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」から始まって、共産主義革命が歴史の必然だと言っています。もちろんそのような歴史認識は変だし、コミュニスト政権の樹立が歴史の必然でもないわけです。しかし一つ言えることは「共産党宣言」のような文書が書かれるに至った根底には、産業革命以降に急速に肥大化した資本主義社会への批判があることです。その批判の大きな要因は、イギリスを含む当時のヨーロッパ社会の「ものすごい貧富の差」です。それは「貧富の差」というレベルを遥かに超えていて、たとえば、小間使いのセーラよりもっとひどい「児童虐待労働」があったわけですね。イギリスの炭鉱などでは・・・・・・。教科書にも出ていました。コミュニズムがヨーロッパにある程度浸透し、一定の勢力を得るに至った理由はそれでしょう。「持てるものと持たざるものの極端な格差」です。内田たつる氏の文章でそのあたりの事情を振り返ると以下です。


資本主義下のプロレタリアの収奪を厳しく告発したカール・マルクスが強く心を痛めたことのひとつはイギリスにおける児童の就労状況でした。十歳くらいの子供が朝早くから深夜まで、年長者の保護も学校教育も受けられず、体力も技能もない最低賃金の労働者として酷使されている状況を見て、マルクスは、被抑圧者が収奪されている社会の不合理に強い怒りを感じ、革命を志したのです。十九世紀まのでのヨーロッパでは、子供を学校に行かせずに補助的な労働者として酷使するということが、下層階級では当然のように行われていました。

内田たつる『街場のアメリカ論』
(NTT出版。2005)

エンゲルスは父親の経営していたマンチェスターの紡績工場で働いた経験があります。彼が書いた『イギリスにおける労働者階級の状態 - 19世紀のロンドンとマンチェスター』は、彼自身が加担していた "非人間的な労働環境" と "労働者を収奪する仕組み" への嫌悪感に溢れています。鉱山労働の部分のごく一部を引用します(算用数字にして段落を増やしました)。


だいたい同様の方法で採掘されている炭坑と鉄鉱山では、4、5、7歳の子供が働いている。しかしたいていの者は8歳以上である。子供は採掘された鉱石を切羽から馬車道や本立坑まで運搬したり、鉱山のさまざまな採掘場を仕切っている出入り口を、労働者や鉱石が通るときに開け閉めするのにつかわれる。

このとびら番にはたいてい幼児がつかわれるが、彼らはこのようにして毎日12時間も暗闇のなかに一人ぼっちで、狭くて、たいていじめじめした坑道にすわっていなければならない。そして愚鈍にし、動物化させるような退屈な無為から身を守るのに必要なほどの仕事も、自分自身ではしない。

それにたいして、石炭と鉄鉱石の輸送は相当な重労働である。というのは、このような鉱石は車輪のついていないかなり大きな箱にいれて、坑道のでこぼこした路面を運んでいかなければならないからである。ときにはじめじめした粘土の上や水のなかを通って、ときには急勾配をのぼって、ときにはあまりにも狭いために労働者がよつんばいになって進まなければならないような坑道を通って、運んでいかなければならないからである。だからこのような肉体を酷使する労働には、年長の少年と成熟した少女が採用される。

フリートリヒ・エンゲルス
『イギリスにおける労働者階級の状態』(下)
一條和生・杉山忠平訳
岩波文庫(1990)

「小公女」においてセーラは2つの状態をとります。

学院の特別寄宿生として、衣食住に何一つ不自由なく、のびのびと勉強し、人間として成長していく少女
学院の小間使いとして、労働にあけくれ、人にこき使われ、未来への希望も見えず日々を過ごす少女

の2つです。の状態は、まともに人間としては扱われず、人としての尊厳さえ破壊されかねない状況です。それでもセーラは「尊厳」を保ったわけですが・・・・・・。とにかくでは「天国と地獄」なのです。

の差はイギリス社会における貴族と平民の差ではありません。小説の題名は Princess ですが、セーラは王族や貴族ではなく「平民」です。「小公女」は「王女と乞食」という身分差の話ではない。AとBの2つの極端な状態変化は、お金を持っているか、お金を持っていないかの違いなのです。そしてかは固定されたものではなく、セーラのように変動しうる。もちろん彼女の場合は極端ですが・・・・・・。

「小公女」は当時のイギリス社会の格差を象徴的に暗示していると考えられます。これはもちろんイギリスだけでなく、ヨーロッパ先進諸国の、そしてもっと広くは日本を含む初期・工業化・資本主義社会の抱える問題だったわけです。資本主義は、野放しにしておくと雪だるま式に格差が拡大していくメカニズムを内包しています。そこは政府が介入して手を打たないと社会の瓦解を招きかねない。20世紀になって各国政府は「社会主義的政策」を導入するわけですが、19世紀はその前の段階です。

「小公女」は「共産党宣言」が書かれるまでに至った19世紀の社会背景を象徴的に表していると思いました。


インドの犠牲


「小公女」はまた、19世紀のイギリスの繁栄がインドの犠牲の上に成り立っていることを、それとなく暗示しています。

セーラが貧乏になるのも、また最後に裕福になるのも、インドにおけるダイヤモンド鉱山開発の成否にかかっている、というのが小説の設定です。現在、世界のダイヤモンド生産国としては南アフリカが有名ですが(産出量で1位はロシア)、ここのダイヤモンド鉱山が発見されたのは19世後半であり、本格的に鉱山が開発されたのは20世紀です。19世紀まではダイヤモンドといえばインドだった。「小公女」にしきりと出てくる「ダイヤモンド鉱山」というキーワードは、インドの富がイギリスに移転したということの象徴だと考えられます。

しかし、ダイヤモンドは貴族や富裕層だけのものです。もっと一般庶民に関係した「インドの富」がいろいろとある。ここで思い出すのが、No.18「ブルーの世界」で書いた、青色染料である「藍」(インディゴ)です。

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インド藍 [Wikipedia]
インディゴ(Indigo)は、その名前のとおり、古代からインドが主要産地でした。インディゴを作る植物は「インド藍」です。青色染料であるインディゴは古代ローマ時代から西欧に輸出され、それは中世を経て近代まで続きました。このインド藍をイギリスの植民地(アメリカ、サウス・カロライナ)で奴隷労働によって生産したのが、イライザ・ルーカス・ピンクニーだったわけです。しかし、イギリスはアメリカという植民地を失います。No.18「ブルーの世界」でも引用した、その後の経緯は次の通りです。

アメリカの独立によって北米の藍作植民地を失ったイギリスが、ただちにインドに奴隷制藍作プランテーションをつくりあげ、ベンガル地方の人々を新たに奴隷化した・・・・・・・・・
「近代世界と奴隷制」(池本・布留川・下山。1995)

もともとインドの特産品だった「藍・インディゴ」は、イギリスのインド支配を通して、インドの人々に奴隷労働をもたらしたことになります。この文章の冒頭に、No.18「ブルーの世界」の藍・インディゴから「小公女」を連想したと書きましたが、それは「インドつながり」でした。

そしてイギリスの植民地だったアメリカのサウス・カロライナで、藍・インディゴ以上に大々的に奴隷によって栽培され、現在でもアメリカ南部一帯が有力な産地となっている作物があります。綿です。そして綿もインド原産の植物なのです。


綿(木綿・コットン)


No.26「ローマ人の物語(3)」でも引用したヘロドトスの『歴史』に次のような記述があります。

インドでは野生の木が羊毛の実を結び、この羊毛は外見も質も羊からとった毛に優る。インド人はこの木の実で作った衣類を用いているのである。

ヘロドトス『歴史』第3巻 106節
松平千秋訳・岩波文庫『歴史(上)』より引用

Cotton Bal.jpg
Cotton Field.jpg
site : www.cotton.org (全米綿花評議会)
古代ギリシャ人にとって、インドでは木にできる羊毛から衣服が作られるのが非常に珍しいことだったのです。古代ギリシャ・ローマの時代から、綿花と綿織物はインドの特産品でした。それは言葉にも残っています。キャラコという木綿の布があります。細かい織り目の、白い光沢がある布です。このキャラコはインドの綿織物の輸出港であるカリカットが語源になっています。また日本で更紗(さらさ)という布があります。木綿の布に赤や青の文様が染色されているものですが、これはインド更紗がルーツです。古来インドでは、更紗の赤は茜、青はインディゴで染色されました。古代から17世紀まで、綿花・綿織物と言えばインドだった。

しかし18世紀になって、綿花と綿織物の生産環境は激変します。ヨーロッパを中心とするインド産の綿花・綿織物の需要増大に対応して、イギリスは極めて効率のよい綿花生産の方法に乗り出します。アフリカから奴隷をイギリス領アメリカへ運び、そこの大規模プランテーションにおいて奴隷労働で綿花を栽培し、それをイギリスへ輸入するという方法です。

もう一つの激変がイギリスの産業革命です。産業革命は歴史の教科書で習ったとおり、綿工業の機械化から始まりました。紡績機(綿花から糸を紡ぐ機械)と織機(布を織る機械)が発達し、木綿の布が安価に大量に生産できるようになったわけです。このイギリスで機械生産された綿製品は海外に輸出され、もちろんそれはアフリカでは奴隷と交換されたのですが、当然、インドにも大量になだれ込みました。その結果として、インドの綿織物産業は壊滅的な打撃を受けたのです。

独立国であればこういう場合、輸入される綿織物に高い関税をかけて国内産業を保護し、その間に産業の機械化を進めて、徐々に関税を引き下げていく、というような政策をとるわけです。しかし「関税自主権」がないとこんなこともできない。インドの人々は自国の有力産業が失われていくのを、なすすべなく見守るしかなかったわけですね。こういうことが各種の産業で起こると、国はどんどん貧しくなっていきます。19世紀のイギリス、ヴィクトリア女王(在位:1837-1901)の時代の繁栄の裏には、綿工業だけをとってみても「インドの犠牲」があったのは確実です。



ところで、イギリスの綿織物産業と「小公女」の作者は大いに関係があるのです。フランシス・ホジソン・バーネットは1849年にイギリスのマンチェスターで生まれました。マンチェスターは19世紀イギリスの綿織物の製造拠点で、中心地です。フランシスの父親は家具の卸問屋を経営して裕福でしたが、彼女が4歳の時になくなり、母親に託された一家の暮らしは苦しくなりました。そしてフランシスが11歳のときアメリカで南北戦争が勃発し(1861年4月)、一家の暮らしはますます苦しくなります。なぜかと言うと、南北戦争でアメリカから綿花が輸入されなくなり、マンチェスターの綿織物産業が大きな打撃を受けたからです。マンチェスターの町は不況に陥り、それがフランシス一家をも直撃しました。そしてフランシスが16歳のとき、一家は親戚をたよってアメリカのテネシー州に渡ったのです。その一家の家計を助けるために彼女は小説を書きはじめ、雑誌に投稿します。この執筆活動の中から、後の「小公子」「小公女」「秘密の花園」が生まれるのです(以上は、偕成社文庫「小公女」の訳者、谷村まち子氏の解説によります)。

フランシスは、産業革命後のマンチェスターの綿織物産業の発展と不況を体験し、その後のイギリスとアメリカでの苦しい生活を経験したわけです。これが「小公女」のプロットに影響を与えたとも推測できます。


「小公女」のリアリティー


ロンドンを舞台にした「小公女」のストーリーは、裕福なお嬢様(第1部)から小間使いに(第2部)、それから再び元に(第3部)と、ちょっとありえないような展開をします。それでいて妙にリアリティーを感じるのは、当時のイギリスの社会環境である、
 ・富裕層と底辺労働者の格差
 ・インドという植民地の存在
を背景にしているからではないでしょうか。

「小公女」という小説は、現代日本を舞台にTVドラマやアニメとしてリメイクしにくい小説だと思います。そんなリメイクをしたら、全くリアリティーがないものになる可能性が高い。それでも近年、志田未来さん主演で現代日本を舞台にリメイクされたようです。そのTVドラマを見ていないので何とも言えませんが、成功したのかどうか。

「小公女」の作者であるイギリス生まれのアメリカ人・バーネットは、当時のイギリスの社会環境への問題意識をもとに小説を書いたのでしょうか。それとも単に読んでハラハラする少女向けの児童小説を書いたのでしょうか。それは分かりません。しかし確実に言えることは、「小公女」のストーリー展開とそこに出てくるエピソードはいかにも極端だけど、作者のバーネットは当時の社会環境を十分に頭に入れた上で、非常にまじめに小説を書いていることです。第2部の「小間使いのセーラ」のところなどは、大げさに言うと「人間の尊厳とは何か」というテーマを扱っているようにも見える。作者の実生活での苦労が反映されているのかもしれません。この作者の「まじめさ」が、多くの人を引きつける要因になっているのでしょう。

小説の終わりの方で(第18章)セーラは辛かった小間使いの時期を思い出して言います。原文で引用すると次のとおりです。

  I tried not to be anything else.

「私は、ほかのものにはならないようにしていたんです」というような意味ですが、いかにも英国人(米国人)の作家が書きそうな文章だという気がします。自分を見失わず、これが自分の個性だと思うことは貫き通す。そこにこそ人間の価値がある ・・・・・・。さりげない一言に、小説のテーマの一端が現れていると思います。



No.1, No.2 で取り上げた「クラバート」は、少年が大人になる過程を通して、人間の自立とは何か、社会における労働とは何か、などの普遍的なテーマを扱っていました。作者のプロイスラーはこの児童小説に「普遍性」を盛り込もうと、はじめから意図して書いたと考えられます。それに対して「少公女」のフランシス・バーネットは、そういう意図はなかったと思います。あくまで「少女向け小説」を書いた。しかし作者の意図はどうであれ、この小説はある主のリアリティーと深みを持つことになった。「クラバート」と「少公女」は、「よくできた児童小説は、児童小説の範疇を越えた普遍性をもつ」ことの良い実証例だと思います。




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