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No.39 - リチウムイオン電池とノーベル賞 [技術]


旭化成・フェロー 吉野 彰氏


No.38「ガラパゴスの価値」において、携帯電話をはじめとするモバイル機器が、日本のリチウムイオン電池産業の発展を促進したことを書きました。現在でもリチウムイオン電池(完成品)の世界シェアの5割近く、電池用部材の6割近くは日本企業です。

吉野彰.jpg
旭化成・フェロー
吉野彰氏

[site : 旭化成]
充電して繰り返し使える、リチウムイオン2次電池(以下、単にリチウムイオン電池と書きます)を世界で初めて創り出したのは、現・旭化成フェローの吉野 彰氏です。リチウムイオン電池は「日本発」の電池なのです。2011年6月から7月にかけての日経産業新聞の「仕事人秘録」という連載コラムに、吉野さん自身が「電池が変える未来」というタイトルで、リチウムイオン電池の開発秘話を語っておられました(13回連載)。非常に興味深い内容だったので、紹介したいと思います。


研究職としての出発


吉野さんは京都大学の石油化学科で量子有機化学を専攻し、大学院まで進んだ後、1972年に旭化成に入社します。そして神奈川県の川崎製造所(現、旭化成ケミカルズ)に配属され、研究職として出発しました。

20歳代における吉野さんの研究は、失敗の連続だったようです。まず最初に取り組んだのが「ガラスと結合するプラスチック」です。当時、旭化成は住宅事業である「ヘーべルハウス」を立ち上げたばかりであり、付加価値の高い建材の開発を目指したのです。しかし2年の研究の後、このプロジェクトは失敗に終わりました。

2番目に取り組んだのが、住宅用断熱材として使える「燃えない発泡体」です。これも2年ほど研究しましたが思ったような成果は出ず、失敗に終わりました。3番目は太陽光などの可視光線を吸収できる「光触媒」です。これは3年間ねばったようですが、失敗でした。

吉野さんは以上の失敗の経緯を回想し、以下のように述べています。

今になって思うと、研究開発で失敗はあたりまえのことだ」
短期間で利益をあげることを経営目標にしている企業だったら耐えられないだろう」
私が20代だったころの研究は失敗の連続だったが、そのつど将来に生かせる経験を身に付けることができた。会社は長期的な視点で人材育成をしていたのだと思う」

吉野さんが言いたいのは、企業における長期視野にたった研究の重要性ですね。連載コラムの基調にあるテーマは、この長期視野の研究の大切さです。


チャンス到来


ポリアセチレン.jpg
導電性高分子
ポリアセチレン

(金属のような光沢がある)
[site : 夢・化学-21
   www.kagaku21.net ]
1981年に、吉野さんにとっての大きなチャンスが巡ってきます。旭化成で、導電性高分子化合物・ポリアセチレンを使った新素材を開発するプロジェクトが始まり、吉野さんもそれに携わることになったのです。そのとき吉野さんは33歳、すでに研究部門の係長になっていました。「やっと当たりくじをひけた。そう直感した」と、吉野さんは書いています。そして、この直感は正しかったのです。ポリアセチレンは、筑波大学の白川名誉教授(現)が1977年に発見した物質で、白川教授はその後、2000年にノーベル化学賞に輝いたことは、周知の事実です。

吉野さんはポリアセチレンの性質を分析し、電池の素材に向いているのではないか、と推論しました。つまり、充電することによって繰り返し使える「2次電池」の素材として最も有望だと考えたのです。


非水系2次電池の開発


おりしも1980年代に入り、ビデオカメラなどの電子機器のポータブル化が進もうとしていました。当時はモバイル機器という言い方はあまりなく「ポータブル機器」だったのですね。とにかく普通の人が「持ち運べる」程度に小型化することに意義があったのです。そして電子機器のポータブル化と小型化には、高電圧を発生でき、繰り返し充電して使える2次電池が必須でした。以下は吉野さんの解説です。

高電圧を発生するには水を電解液に使う乾電池や鉛電池だと限界がある。水の代わりに有機溶媒を使う非水系電池にする必要がある。81年当時、非水系で既に存在していたのは金属リチウム電池。ただし弱点があった。金属リチウムは1次電池、つまり「使い捨て」なのだ。充電できる非水系電池は存在していなかった。

金属リチウムは敏感に化学反応するため、充電を繰り返す2次電池に使うと、発火事故のリスクが大きくなるのです。2次電池にとって最も必要な要件、それは安全性です。

そこで「導電性ポリアセチレン」の利用です。研究を進めると、ポリアセチレンは無水状態に置くと極めて安定する物資であることが分かってきました。当時の金属リチウム電池の正極材は二硫化チタンが一般的で、負極材として金属リチウムを使うというものでした。電池の性能を左右するのは負極材です。吉野さんは負極材として、金属リチウムの代わりにポリアセチレンを使おうと考えたのです。


正極材の探索


私は電池の研究に詳しいわけではないのですが、リチウム電池の金属リチウムをやめて導電性ポリアセチレンを使うというのは、かなりの逆転の発想ではないでしょうか。この発想の柔軟性がキーだったような気がします。もちろん、正極材が二硫化チタンで負極材がポリアセチレンという組み合わせでは、電池になりません。リチウムがないからです。吉野さんは、正極材として使えるリチウム含有物質の探索をはじめます。負極材のポリアセチレンと組み合わせられる、というのが条件です。

しかし、この正極材がなかなか見つからず、暗礁に乗り上げるのです。そして、研究を始めて1年以上が過ぎた1982年の暮れ、ある偶然が突破口になります。

このまま年を越すのかと気分が重かった年末のある日、午前中に職場の大掃除があり、午後はやることがなくなった。取り寄せたまま手つかずだった海外の研究文献を何となく読み始めたら、思いがけない論文と出会った。

当時、英国のオックスフォード大学で研究していた米国のジョン・グッドイナフ教授が、80年に発表した論文で、「コバルト酸リチウム」というリチウムイオン含有金属酸化物が2次電池の正極になると書かれている。

しかも従来の材料より高い電圧を作れるという。続いて「組み合わるべき適切な負極がない」といった内容が記されていた。

吉野さんは負極としてポリアセチレンと組み合わせたらどうか、と考えます。そして翌1983年1月、正極がコバルト酸リチウム、負極がポリアセチレンという電池を試作し、充電も放電もうまくいくことが確認できたのです。「旭化成に入社して10年。待ちに待った研究の大成功だった。」わけです。ここに「リチウムイオン2次電池」の原型が誕生しました。

日経産業新聞の「仕事人秘録」では触れていないのですが、リチウムイオン電池の開発には、もう一人の日本人が重要な貢献をしています。東芝リサーチコンサルティングのフェローの水島公一氏です。水島氏は1970年代末にオックスフォード大学に滞在し、グッドイナフ教授のもとでリチウムイオン電池の正極材の探索をしました。そして見つけたのがコバルト酸リチウムだったのです。

リチウムイオン電池の開発史では、まずグッドイナフ教授・水島氏が正極材としてのコバルト酸リチウムを発見し、次に吉野さんが負極材にポリアセチレンを使って成功させたわけです。

もし吉野さんが長年のリチウムイオン電池研究者だったとしたら、負極材にポリアセチレンを使うことを思い立ったとき、即座にクッドイナフ論文を思い出し、コバルト酸リチウムと組み合わせればとうかと考えたのではないでしょうか。しかしそうではなかった。コバルト酸リチウムを「発見」したのは、年末の大掃除の偶然だったのです。吉野さんはこのことを率直に語っています。

吉野さんが1981年にリチウムイオン電池の研究を始めたとき、世界の研究者はコバルト酸リチウムを正極とする電池の開発に、ひそかにしのぎを削っていたのではないでしょうか。しかし最初に成功したのはリチウムイオン電池研究に「遅れて」参加し、導電性ポリアセチレンの用途開発という全く意外な方向からアプローチした吉野さんだった。ブレークスルーの、一つの典型的なパターンだと思います。


負極材の探索


「仕事人秘録」の内容に戻ります。「リチウムイオン2次電池」はできたのですが、しかしそれは「原型」に過ぎず、製品化には大きな問題があったのです。それは負極に使ったポリアセチレンの問題です。ポリアセチレンは高温で保存すると劣化しやすいことが分かってきました。さらに、比重が小さくて軽いので、かさばるのです。軽量化には向くのですが、小型化を実現するには比重の小ささが致命的であることが分かってきました。

そこで吉野さんはポリアセチレンをあきらめ、別の負極材を探すことにします。目をつけたのが、ポリアセチレンと分子構造の特徴が似ているカーボン(炭素)材料です。カーボンは電気を通す性質があり、期待できます。しかし当時入手できた各種のカーボン材料を試してみても、うまくいきません。

この状況をブレークスルーしたのは、旭化成自身の別の研究でした。1984年に旭化成は、当時注目され始めていた炭素繊維の研究を始めていました。そこで研究されていた気相成長法炭素繊維(VGCF)が、吉野さんの目にとまったのです。試作をしてみると、このVGCFは負極として抜群の性能を示しました。翌1985年、正極材としてコバルト酸リチウム、負極材が炭素繊維(VGCF)というリチウムイオン電池が完成したのです。研究を始めて4年が経っていました。このコバルト酸リチウムとカーボン材料というリチウムイオン電池の基本構成は、旭化成が特許を取得し、現在、世界中で作られているリチウムイオン電池の多くが採用しています。


事業化へ


しかし、リチウムイオン電池を事業化するには、まだ問題があったのです。それは、気相成長法炭素繊維(VGCF)の生産が必要量に追いつかず、サンプル品の提供さえままならないという問題です。そこで吉野さんはVGCFと性質が似ているカーボン素材で、大量生産が可能なものを探索し、ある特殊なコークスに行き着きます。このコークスを使って、最終的なリチウムイオン電池の事業化が始まったのです。

リチウムイオン電池
4大部材の世界シェア(2010年)
正極材
[約1900億円]
日亜化学工業  15%
ユミコア(ベルギー)  12%
L&F新素材(韓国)  10%
その他  63%
セパレータ
[約800億円]
旭化成  37%
東レ東燃機能膜  22%
セルガード(米)  15%
SKエナジー(韓国)  9%
その他  17%
電解液
[約500億円]
宇部興産  24%
三菱化学  17%
パナックス(韓国)  13%
その他  46%
負極材
[約300億円]
日立化成工業  35%
BTR(中国)  24%
JFEケミカル  14%
その他  27%
4部材総合
[約3500億円]
日本メーカ  56%
中国メーカ  23%
韓国メーカ  14%
その他  7%
(日経産業新聞 2011.6.3)
事業化に当たって旭化成は、1992年に東芝と合弁会社を作りました。旭化成は「素材メーカ」なのでそういう判断になったのです。しかし、この会社の運営はうまくいきませんでした。合弁なので機動的な設備投資判断に問題があったと、吉野さんは述懐しています。電池ビジネスでは、大規模な設備投資を迅速に行える企業が勝ち残るのです。リチウムイオン電池の生産は、三洋電機やソニー、のちには韓国のメーカがメジャーになっていきます。旭化成は2000年に東芝との合弁から手を引いて電池ビジネスから撤退しました。そして、素材会社としての特色を生かし、電池用部材メーカとして生き残る道を選びます。

リチウムイオン電池の4大部材は、正極材、負極材、電解液、セパレータです。このうちセパレータ(絶縁材)は、電池内での正極と負極の接触を遮断し、かつリチウムイオンだけは通すという部材です。旭化成はこのセパレータで世界シェアの37%をもっています(2010年)。2011年6月3日の日本経済新聞にリチウムイオン電池の4大部材のシェア上位の会社が載っていました。参考までに引用しておきます。

さらに旭化成にとってセパレータのシェア以上に重要なのは、リチウムイオン電池の基本特許という大きな財産が残ったことでしょう。

ここまでが「仕事人秘録」の内容です。


白川教授による導電性ポリアセチレンの発見


白川英樹.jpg
白川 英樹・
筑波大学名誉教授

[site : 日本科学未来館]
吉野さんをリチウムイオン電池の発明に導いた、導電性ポリアセチレンとはどういうものでしょうか。

有機材料である高分子は、電気を流さないのが普通です。そのため電気製品の中では絶縁材としてよく使われています。しかし1970年代に、白川英樹・筑波大学名誉教授は、それまで粉末でしか存在しなかったポリアセチレンをフィルム状に合成することに成功し、かつ、微量のヨウ素などを加えると金属にも匹敵する電気伝導性を示すことを発見しました。これが導電性高分子の最初の発見であり、1977年のことです。

その後、導電性高分子の研究は進み、産業界への応用として電解コンデンサや、携帯機器のボタン電池に使用され始めました。


ノーベル化学賞


白川教授はこの功績で、発見から23年後の2000年にノーベル化学賞を授与されました。受賞者は白川教授を含めて3人で、他の2人は、米国ペンシルヴァニア大学での共同研究者であるマクダイアミッド教授とヒーガー教授です。

このノーベル化学賞の受賞について、強く覚えていることがあります。ノーベル化学賞の連絡があったのは2000年10月10日です。その直後、おそらく11日に日本経済新聞社は白川教授を囲む座談会を開催し、その様子を2000年10月12日付の日経新聞に掲載しました。強く覚えている、というのは、座談会における白川教授の次の発言です。

米国のワークショップで初めてポリアセチレンの導電性高分子を発表した時、IBMの人がやってきて「これは何に使えるのか」と質問された。私自身は電気が流れる高分子が作れるかどうかに興味があっただけで、問われてもどう答えていいかわからなかった。
2000年10月12日 日本経済新聞

電気が流れる高分子が作れるかどうかに興味があっただけ
何に使えるのか、問われてもどう答えていいかわからなかった

これは、白川教授の本心だったと思います。と同時に、白川教授の人柄を表していると思いました。ノーベル化学賞の受賞は、導電性高分子・ポリアセチレンの発見から23年が経過しています。その間、限定的ですが用途開発が進み、また有機ELや太陽電池などへの応用が研究されていました。この状況を発見者である白川教授はつぶさに知っていたはずです。2000年の座談会では「・・・・・・などの幅広い応用が考えられたので、私は導電性高分子を研究したのです」という発言をしてもよいわけです。しかし白川教授はそんな答えはしない。「興味があっただけ」なのです。白川教授の、率直で飾らない人柄が現れていると思いました。

考えさせられるのは、基礎研究は何のためにやるのかということです。基礎研究をやっている科学者は「それは何の役にたつのですか」という質問を、耳にタコができるほど受けていると思います。その都度「・・・・・・などの応用が考えられます」というように答える。「何に使えるのか分かりません」では質問者は納得しないし、特に現代では研究費の獲得もできないでしょう。真っ先に「事業仕訳け」にあいそうです。

しかし基礎研究を行う本当の理由は「興味があるから」だと思うのです。「・・・・・・などの応用が考えられます」というように答える研究者も、そうでないと人は納得してくれないから答えているだけであって、本心は「興味があるから」ではないでしょうか。好奇心から研究をする。これが基礎研究の本質だと思います。白川さんの座談会での発言は、そのことをダイレクトに表現していました。そして白川さんの好奇心から生まれた導電性ポリアセチレンが、今度は吉野さんの好奇心を刺激することになったのです。


リチウムイオン電池へと導いたポリアセチレン


旭化成の吉野さんのリチウムイオン電池の開発経緯、およびその前の導電性ポリアセチレンの発見をまとめると、以下のようになるでしょう。

白川教授は「電気が流れる高分子が作れるかどうかに興味があった」から研究を重ね、導電性ポリアセチレンを発見した(1977)。
吉野さんは、導電性ポリアセチレンを使って何か新しい素材を作ろうと考え、検討の結果、電池の材料として使うことを考えた(1981)。
導電性ポリアセチレンを負極に使ったリチウムイオン電池の「原型」が作れられた(1983)。
しかしポリアセチレンは製品化に問題があり、結局、カーボン素材を負極に使ったリチウムイオン電池が完成した(1985)。

導電性ポリアセチレンが、吉野さんをリチウムイオン電池の発明に導いたことは確実です。しかし最終的にできあがったリチウムイオン電池に、ポリアセチレンは影も形もないのです。

さらに印象的なのは、ポリアセチレンを使った新素材を開発するプロジェクトを始めたとき、まだ何に使うか決める前から「やっと当たりくじをひけた、そう直感した」と、吉野さんが書いていることです。もちろん、この時点でリチウムイオン電池を作ろうなどとは、思ってもいなかったのです。

ポリアセチレンは、吉野さんの研究職としてのチャレンジの途中に現れ、進むべき道を示し、そして途中でいなくなったわけです。吉野さんはその後、ポリアセチレンの力を借りずに独力でゴールに到達した。ヒーローが目的達成のために旅を続ける「神話」や「冒険譚」が世界各国に伝承されていますが、それらによく現れる「導師」の役割を、ポリアセチレンは演じたことになります。

率直に言いますと、白川教授のノーベル化学賞の受賞を聞いたとき、なぜノーベル賞に値するのか、もうひとつ理解できませんでした。その時点において、産業界における導電性高分子の実用化は限定されたものだったからです。しかし吉野さんのリチウムイオン電池の開発ストーリーを読んで、白川教授の受賞が納得できました。ノーベル賞を選考するスウェーデン王立科学アカデミーの「目利き度」というのでしょうか、さすがですね。あたりまえですが・・・・・・。


発明・発見の「強さ」


要するに「導電性ポリアセチレン」は、強い発見なのだと思います。何に使えるのかは明確ではないけれど、何かに使えそうだとの思いを研究者にいだかせる。目的がはっきりした新素材は、実用化は容易かもしれないが、研究者の思考を束縛するはずです。「導電性ポリアセチレン」はそうではなく、価値を明確には言えないけれど、何か強いオーラを発している、そういう意味での「強さ」があるのですね。そのオーラが、吉野さんをリチウムイオン電池の発明に導いた。

基礎研究の分野において、そういう意味での「強い」発明・発見につながる研究をいかに継続していくか。これは国の科学技術政策ともからむ大きな問題であり、現在の日本につきつけられた課題だと思います。


日本発・リチウムイオン電池の今後


現在、リチウムイオン電池は車載用として脚光を浴びています。三菱自動車のi-MiEVや、日産自動車のLEAFのような電気自動車は、航続距離の関係上、リチウムイオン電池が必須です。また電力危機以降は、電力使用の平準化をするための蓄電装置としても注目されています。世界の競争も激しく、日本企業の世界シェアは、昔は90%とか、そういう時期もありましたが、2010年度は50%弱であり、韓国・台湾勢が激しく追い上げています。

リチウムイオン電池
(車載用)
日立ビークルエナジーの製品例

車載用LIBモジュール.jpg
円筒型セルのモジュール(611×318×100mm)

[site : www.hitachi-ve.co.jp ]
車載用LIBセル(円筒型).jpg
円筒型セル(400×92mm)
車載用LIBセル(角型).jpg
角型セル(120×90×18mm)

しかし吉野さんは、今後の開発競争の見通しとして、次のように述べています。

世界で電気自動車(EV)市場が拡大したら、欧米に必ずリチウムイオン電池メーカーが生まれる。今は日本と韓国が優勢だが、先端研究の蓄積や資金調達力を考えれば強敵になるだろう。大きなビジョンを持ち、国策として電池産業を強くしていくしかない。

欧米が強敵になるだろうという見通しとあわせて、何となく感じるのですが、リチウムイオン電池にはまだ大きなブレークスルーがある、と吉野さんは考えているようです。それを裏付けるかのように「電池の内側で起きている現象が完全に解明されていない」と述べています。まだまだ進歩はある、ということでしょう。

ここで吉野さんは「国策」という言葉を使っているのですが、これで連想したことがあります。「電池の内側で起きている現象を完全に解明する」ための一つの手段が、スーパーコンピュータによる分子レベルの大規模シミュレーションだと思います。こういった分子の挙動の解明は実験では限界があり、コンピュータによる解析が有力な手段のはずです。

「日本発であるリチウムイオン電池産業が、今後も世界のトップを走り続けるためにも、次世代スーパーコンピュータは世界1位でないとまずいのです」と、文部科学省の官僚は「事業仕分け」で蓮舫議員に即答すべきでした。もちろん、リチウムイオン電池の開発に限ったことではありません。新薬の開発においても、現代はスーパーコンピュータが必須の道具です。科学技術政策という「国策」を立案するのが仕事である霞ヶ関の官僚であれば、「1位でないとまずい」と断言できる程度のビジョンや構想を持っていて当然でしょう。吉野さんの連載コラムを読んで、最後に思ったことでした。



 補記1:「2位じゃダメ」という即答 

「事業仕分け」に触れたので、それについての補足です。事業仕分けにおける蓮舫さんの「2位じゃ、だめなんでしょうか」という発言に対して、次世代スーパーコンピュータ開発の当事者であり、ノーベル化学賞受賞者である理化学研究所の野依理事長が厳しく批判しました。また他の科学者や政界からも批判が相次ぎました。

しかし、この蓮舫さんの発言は極めてまっとうな発言だし、社会ではよくあるたぐいの発言だと思うのです。

企業のトップが、新規の大型投資の提案を部下の事業部長からうけるとしましょう。役員会で事業部長がプレゼンをするという想定です。プレゼンが終わったあと、トップが次のような質問をするのは極めてまっとうだと思います。

投資額が多すぎる。半分にしたらどうなのか。
その投資で業界1位をめざすと言っているが、まず当面2位か3位をめざすのが妥当ではないのか。

トップは自分の会社の全事業内容を知っているし、将来のビジョンも常に考えています。しかし特定事業に関しては明らかに事業部長の方が詳しい。技術論や業界動向論で「特定事業について」トップと事業部長が論争したら、トップが負けてしまいます。

トップが上記のような「一見、投資に対してネガティブな」質問をする理由は、何もその事業を伸ばしたくないとか、業界1位をめざすのがまずいと思っているからではありません。トップとしては、もちろん1位になって欲しい。ではなぜそのような質問をするのかというと、トップは「技術論では勝てない」事業部長に対してそういう質問をすることによって、事業部長がどう答えるかを見ているわけです。事業部長が「その投資について考え抜いていて」「成功させる意欲に溢れ」「結果については全責任をもつ」ということが答えから分かったとき、トップは GO の裁定をするわけですね。

事業の成功は、もちろん技術とか戦略とかマーケティングの優劣はあるのですが、大きなものは「責任をもって遂行する人の、最後までやり抜くという意思」です。こんなことは今更言うまでもなく、社会ではあたりまえのことです。

トップ=蓮舫さんと考えると、蓮舫さんの質問は極めて妥当です。それを、さも「特別な」発言のように取り上げるマスコミのレベルの低さにはあきれます。しかし一番残念なのは、答える官僚が、技術の詳細はともかく「次世代スーパーコンピュータの国家としての意味を熟知し」「国としてやりとげる責任感をもっている」人物ではなかった、ということです。「国策」を立案する官僚がそれではまずいと思いました。



 補記2:スパコンと電池研究 

リチウムイオン電池を含む「次世代電池」の研究とスーパーコンピュータの関係についての新聞記事を紹介しておきます。

2012年11月19日に、産業技術総合研究所(産総研)が主催する「日本を元気にする産業技術会議」が、大阪府豊中市でシンポジウムを開催しました。テーマは「次世代電池の展望とひらかれる未来」です。このシンポジウムでは、次世代リチウムイオン電池はもとより、ナトリウムイオン電池、全固体電池、空気電池などの次世代電池について、トヨタ自動車、京都大学、産総研などの研究者が講演し、またパネル討論が開催されました。吉野彰氏(リチウムイオン電池材料評価研究センター・理事長)もパネル討論に参加されました。この紹介記事の一部です。


講演者はみな、研究開発で欧米や中国、韓国の追い上げが激しいと指摘。ただ、最先端の分析ができる大型放射光施設「Spring-8」やスーパーコンピューター「けい」を活用すれば、優位性は確保できるとの認識で一致した。

(日経産業新聞 2012.11.20)

言うまでもないことですが、リチウムイオン電池に代表されるコンパクトかつ高性能な電池は、単にスマートフォンや電気自動車・ハイブリッドカーなどのモバイル機器のためだけのものではありません。それは電力需要のピークをシフトさせ、また、出力量が一定ではない自然エネルギー発電の平準化にも必須です。まさに国のエネルギー政策の根幹にかかわると言ってもいいでしょう。その研究・開発の一翼をスーパーコンピュータが担っているという認識を、我々は共有すべきだと思いました。そしてどれだけ正確にコンピュータでシミュレーションできるかは、まさにコンピュータの計算速度に依存しているのです。



 補記3:水島公一 

2013年3月11日の朝日新聞の科学欄に「電池革命 日本が導く」と題して、リチウムイオン電池の開発の歴史が解説されていました(記者の署名記事)。この中に、水島公一氏が正極材料としてのコバルト酸リチウムを発見するまでの経緯があったので紹介します。


1978年、英オックスフォード大 無機化学研究所で小さな爆発事故が起きた。これがリチウムイオン電池を生み出すきっかけとなった。

爆発の「犯人」は水島公一さん(現、東芝リサーチ・コンサルティング)。当時は東京大助手で、ジョン・グッドイナフ教授に招かれ留学中だった。リチウムを使った充電式電池(二次電池)の正極材料を探す実験に取り組んでいた。隣の研究室の電気炉を借りて実験していたろころ、小爆発が起きた。部屋中に硫黄とリンの蒸気がもうもうと立ちこめ、大騒ぎになったという。

当時はオイルショック後間もない時代。エネルギー問題から高性能な二次電池が求められた。金属リチウムを電極に使うと高い出力電圧が得られることは分かっていた。小型軽量化もできる。しかし、充放電を繰り返すうちにリチウムが電極上で樹状に成長しショートを起こして、発火爆発をする危険性があった。

電極の素材選びがカギ

その時、注目を集めたのが層状化合物の層間にイオンや分子が入り込む「インターカレーション」という現象だ。こうした化合物を電極に使えば、リチウムは電極内でイオンとして存在するため金属リチウムを使うより安全性は高い。

水島さんは爆発事故で隣の研究室を出入り禁止になった。グッドイナフ教授の勧めもあり、研究目標を硫化物から、安全に合成できるリチウムの酸化物に変えた。これがターニングポイントだった。

東大時代に研究で酸化物を使っていた水島さんは、酸化物の物性に「土地勘」があった。数ヶ月で、正極の材料としてコバルト酸リチウムにたどりついた(中村浩彦)。

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朝日新聞 2013.3.11 (朝刊) 科学欄

このあとを受けて、吉野氏がコバルト酸リチウムとポリアセチレンを用いて世界初のリチウムイオン電池を作り出した経緯は日経産業新聞の「仕事人秘録」の紹介で書いた通りです。

リチウムイオン電池の開発の歴史をみると、数々の研究の積み重ねとともに、偶然の出来事が引き金となったブレークスルーが何度かあったことが分かります。もともと酸化物の素養があった水島氏が「爆発事件」をきっかけに方針を転換し、コバルト酸リチウムにたどり着く。その水島氏の論文は「偶然に」吉野氏の目にとまり、世界初のリチウムイオン電池が完成する・・・・・・。科学技術の発展の典型的なパターンだと思いました。



 補記4:ソニー 

リチウムイオン電池を最初に商品化したのはソニーです。水島氏のコバルト酸リチウムの発見(補記3)を紹介した朝日新聞の同じ記事に、ソニーのリチウムイオン電池の開発経緯が書かれていました。


世界で最初に実用化したのはソニーだった。

80年代はカセットプレーヤーが普及し始め、家庭用ビデオカメラが登場するなど、ポータブル時代が幕を開けよう としていた。繰り返し使える二次電池を重要度は増していた。

「どうせやるなら、世の中にない電池をつくれ」

盛田昭夫会長から号令がかかった。

87年に開発がスタート、当時、チームを率いた西美緒よしおさんは安全性を懸念しリチウムの使用をためらった。盛田会長の「砂糖もとりすぎれば体に悪い。適切に扱えばいい」の一言で決心したという。

開発を進め、最終的に正極にコバルト酸リチウム、負極に炭素系材料を使うタイプ絞り込んだ。リチウムイオン電池と名付け、91年に携帯電話に採用した。

92年、同社の小型ビデオカメラに採用された。ビデオカメラ1台に対し予備の電池パックが4、5個売れると見込み、新工場の製造ラインをつくった。しかし、予測は外れた。西さんは振り返る。

「電池の性能がよくて長持ちしすぎたのか、予想の半分以下しか売れなかった。製造ラインが余ってしまった」

営業部門がかけずり回った結果、アメリカのパソコン大手デルが製品に採用。「ニューヨークからロサンゼルスまでのフライト中、パソコンを使い続けられます」などと宣伝。これで一気に認知度が高まったという。

朝日新聞 2013.3.11 (朝刊) 科学欄

西氏が「安全性を懸念しリチウムの使用をためらった」というのはその通りでしょう。リチウムイオン電池の製品化・商品化の歴史は、小型化・大容量化と同時に、安全性確保のための技術開発の歴史です。モバイル機器に採用された後も、パソコンや携帯電話で発火事故がありました。最近のモバイル機器でこの種の事故は聞かないし、また電気自動車(日産のLEAFや三菱のi-MiEV)でも聞かないのは、その後の技術者たちの努力のおかげでしょう。

しかし、航空機ではボーイング787のバッテリーのトラブルが起こりました(2013年1月)。同じ原理の電池といえども、航空機用電池の実用化技術はまた違うのでしょう。安全性に関する技術開発の「戦い」は、まだまだ続きそうです。

  なお、西氏を取材した別の新聞記事を、No.110「リチウムイオン電池とモルモット精神」に掲載しました。



 補記5:スパコンと電池研究 

これは米国製のスーパーコンピュータに関する新聞記事ですが、リチウムイオン電池の研究に使うと明記してあったので紹介します。見出しの「国内で初」の意味は、2012年11月に発売された米・クレイ社のスパコン「XC30」の導入が国内初ということです。記事の前半は省略します。


米クレイ製を導入
 - スパコン 北陸先端大、国内で初

・・・・・・・・・・・・

北陸先端大は新スパコンを材料科学や医療、情報セキュリティー分野などの研究に活用する。既に、次世代のリチウムイオン電池に最適な材料を見つけるため分子レベルでの組み合わせを分析する研究などを進めている。他分野でも数学モデルをコンピュータで動かすことで効率的に結果を予測することを期待している。

同大は学生や教職員ら約1200人がスパコンに常時接続できる環境を提供し、研究開発を後押しする。

日経産業新聞 2013.4.3

なお、理化学研究所・富士通のスーパーコンピュータ「京」の演算性能は、この記事のクレイ社のスパコン「XC30」より約80倍高速です。



 補記6:スパコンの意義 

これはリチウムイオン電池の話ではありませんが、補記2にも書いた「スーパー・コンピューター(スパコン)」の重要性、つまり科学技術の発展にとってスパコンが必須であることの、一つの例を新聞記事から紹介します。がん治療のための新薬の探索の話です。


がん新薬候補の化合物

 富士通など スパコンで発見

東京大学先端科学技術研究センターと富士通、興和は7日、スーパーコンピューター「京(けい)」を使い、がんの新薬候補となる化合物を発見したと発表した。がんの増殖や転移に関わるたんぱく質にくっつき、働きを妨げる化学構造をコンピューターシミュレーション(模擬実験)で計算した。計算技術が創薬に役立つ可能性を示せたと説明している。

研究の標的としたたんぱく質はがん細胞の表面にあり、増殖などの指令を細胞内に伝える。「分子動力学シミュレーション」と呼ぶ手法でこのたんぱく質と強く結びつく化学構造を計算し、8通りの化合物を合成した。そのうち、実際にたんぱく質に作用する1種類を実験で突き止めた。

これまでの創薬研究は、薬の標的となるたんぱく質を見つけた場合、製薬会社が持つ数十万種の化合物の中から効果がありそうな候補を探していた。

コンピューターシミュレーション技術では、すでに知られた化合物の構造にとらわれず、全く新たな化合物を推定できる。

研究チームは発見した化合物に改良を加えて機能の強化を目指す。副作用がないかどうかも調べる。

日経産業新聞(2014.8.8)

この記事を要約すると、次のようなステップで新薬候補を発見したわけです。記事に出てくる「がんの増殖・転移を指令するタンパク質」を「標的タンパク質」と呼びます。

標的タンパク質の化学構造を実験、分析で突き止める。

標的タンパク質に強く結びつき、標的タンパク質を無力化する化学構造(=新薬の候補)を、スパコンで、計算で(シミュレーションで)求める。

新薬の候補(=今まで知られていなかった物質)を、化学的に合成する。

その効果を実験で確かめる。

これはもちろん高速なスパコンがあるだけは無理で、コンピューター・シミュレーションを行う優秀なソフトウェアが必要だし、また新物質を合成する技術も必要です。ただ、スパコンの計算スピードが非常に重要なことは確かです。

もしこの研究のために、大学のスパコンを半年間占有しないといけないとしたら、その研究は実質的には無理ということになります。しかし1日の占有で計算できるなら、たとえそれが日本に1台しかないスパコン(=「京」)であっても、研究は可能でしょう。また、その「京」の計算速度が今より10倍速かったとしたら、新薬候補物質は記事にある8個ではなく、たとえば20個見つかったかもしれない。そこには別の新薬候補が含まれているかもしれない・・・・・・。

以上はあくまで想定ですが、スパコンの計算速度は、国家の競争力の重要な部分であるのみならす、社会の発展(この場合はガン治療)にとっても重要であることが、上の記事からも十分に認識できます。



 補記7:ドイツの電池メーカー 

本文中で吉野さんが「欧米に必ずリチウムイオン電池メーカーが生まれる」と述べていることを紹介しましたが、それに関する新聞記事を紹介します。


「ベンツ」電池 世界視野
 ブランド力で収益事業に

【フランクフルト=加藤貴行】独ダイムラーは「メルセデス・ベンツ」ブランドの蓄電池の世界販売に乗り出すと発表した。子会社が生産する定置型のリチチウムイオン電池を、各市場での提携先を通じて拡販する。各地で普及が進む再生可能エネルギーで余った電力を一時的に蓄えておく需要が増えているのに対応。高級車で世界的に知られたブランドで電池も収益事業に育てる。

新事業参入のため子会社のメルセデス・ベンツ・エナジーを設立した。4月からまず独国内で家庭やオフィス、工場などを対象に販売を始めていたが、国外の需要も見込めるとして事業拡大に動く。既存の販路にとどまらず、エネルギーサービス会社などとも提携して拡販する見通しだ。

ダイムラーは子会社ドイチェ・アキュモーティブを通じ、独東部で自社むけの車載用電池を生産してきた。今年3月には5億ユーロ(約610億円)を投じて電池の新工場の建設も決めており、自動車以外の用途を広げる。気候に発電量が左右される太陽光や風力で余った電力を電池に蓄えることで、省エネにつなげたり災害時のバックアップにしたりできる。

日経産業新聞(2016.6.6)



 補記8:興味と好奇心 

本文中に、2000年のノーベル化学賞を受賞した白川先生が、受賞理由となった導電性ポリアセチレンの研究を始めた動機を「興味があっただけ」と語っておられたのを紹介しました。

これとほぼ同じ発言を最近聞きました。2021年のノーベル物理学賞は気象変動の地球レベルでのシミュレーション技術を確立した真鍋淑郎しゅくろう博士(プリンストン大学上席研究員)に贈られましたが、真鍋先生は研究を始めた動機を次のように語っておられました。


「初めは気候変動がこれほど問題になるとは夢にも思っていなかった。好奇心を満たす研究を続けてきただけだ」

真鍋淑郎
日本経済新(2021.10.6)

「研究を始めたころは、こんなに大きな結果を生むとは想像していなかった。好奇心が原動力になった。後に大きな影響を与える大発見は、研究を始めた時にはその貢献の重要さに誰も気付かないものだと思う」

真鍋淑郎
朝日新聞(2021.10.6 夕刊)

研究環境は時代とともに変わり、今は「興味」「好奇心」だけで(基礎)研究を続けることは難しいかもしれませんが、研究の原点は興味・好奇心であり、少なくともそれを失ってはならないのだと思います。

(2021.12.15)



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