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No.255 - フォリー・ベルジェールのバー [アート]

No.155「コートールド・コレクション」で、エドゥアール・マネの傑作『フォリー・ベルジェールのバー』のことを書きました。この作品は、英国・ロンドンにあるコートールド・ギャラリーの代表作、つまりギャラリーの "顔"と言っていい作品です。

最近ですが、中野京子さんが『フォリー・ベルジェールのバー』の評論を含む本を出版されました。これを機会に再度、この絵をとりあげたいと思います。

A Bar at the Folies-Bergere.jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
フォリー・ベルジェールのバー」(1881-2)
(96×130cm)
コートールド・ギャラリー(ロンドン)


マネ最晩年の傑作


まず、中野京子さんの解説で本作を見ていきます。以下の引用で下線は原文にはありません。また漢数字を算用数字に直したところがあります。


『フォリー・ベルジェールのバー』は、エドゥアール・マネ最晩年の大作。画面左端にある酒瓶のラベルに、マネのサイン「Manet」と制作年「1882」が見える。この翌年、彼は51歳の若さで亡くなるのだ。

高級官僚の息子に生まれ、生涯、経済的に不自由せず、生活のため絵を売る必要もなく、生粋きっすいのパリジャン、人好きするダンディーで知られたマネだが、二十代で罹患りかんした梅毒ばいどくが進んで末期症状を迎え、壊死えしした片足を切断したものの、ついに回復できなかった。本作制作中も手足の麻痺まひや痛みに苦しみ、現地でデッサンした後はもはや外出できず、わざわざ自分のアトリエにカウンターをしつらえ、モデルをそこに立たせて描きついだ。少し絵筆を動かしてはソファで休む。その繰り返しだったという。

しかし完成作には脆弱ぜいじゃくさは感じられない。マネらしい力強い筆触と、くっきりしが黒は健在だ。構成もこれまでにない緊張感にあふれ、現実をそのまま写し取ったかに見せかけながら、実は絵画的たくらみに満ち、物語性も内包した玄人くろうと好みの絵になっている。ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』を意識したものであろう。


運命の絵2.jpg
コートールド・ギャラリーはロンドンのコヴェント・ガーデンに近い「サマセット・ハウス」という建物の一角にある美術館で、その中に英国の実業家、サミュエル・コートールド(1876-1947)のコレクションが展示されています。こじんまりしたコレクションで、印象派・ポスト印象派の絵画は、わずか2室程度にあるだけです。しかし収集された絵画の質は素晴らしく、傑作が目白押しに並んでいる部屋の光景は壮観です。その中でもひときわ目を引くのが『フォリー・ベルジェールのバー』です。中野さんの説明にあるように、この作品はマネが画家としての力を振り絞って描いた生涯最後の大作です。

上の引用の最後で、少々唐突に「ラス・メニーナスを意識したものであろう」とあるのですが、これについては後で書くことにします。


フォリー・ベルジェール


マネの本作を理解するためには、題名となっている "フォリー・ベルジェール" を知る必要があります。そもそも "フォリー・ベルジェール" とはどんな場所だったのか。中野さんの解説を聞きましょう。


ここはパリのミュージックホール、フォリー・ベルジェール。建物がベルジェール通り近くにあったことからの命名だが、おそらくそれだけはあるまい。「フォリー」(Folies)は「熱狂した、酩酊めいていした」、「ベルジェール」(Bergere)は「やわらかい安楽椅子」の意なので、暗に性的奉仕する女性を想起させるねらいもあったのではないか。

設立は1869年(現存)、さまざまな階級の人々に一夜の刺激を提供する歓楽施設として、またたく間に人気を集めた。豪華な内装、きらめくシャンデリア。演目はオペラレッタやシャンソンなどの歌や演奏、パントマイムや派手なレヴュー、サーカス風の曲芸、見せ物など、実に猥雑わいざつきわまりなかった。現代日本人がイメージする劇場と違い、全客席が舞台に向いているわけでも、全観客の意識が舞台に集中するわけでもない。ボックス席ではきちんとした食事ができたし、立ち見でもバーで買った酒を飲めた。歩き回り、じゃべりまくるもの自由で、ある種の社交場としても利用された。

中野京子「同上」

上の引用のようなフォリー・ベルジェールの状況を知ると、この絵のヒロインであるスタンドバーの売り子嬢の "意味" も理解できるようになります。

実は文豪のモーパッサン(1850-1893)は、マネと同様にフォリー・ベルジェールを熟知していました(ちなみに彼も梅毒が原因で42歳で死去)。モーパッサンはマネの死の2年後(1885)に長編小説『ベラミ』を刊行しました。野心的な貧しい若者が金持ちの女性を利用してのし上がってゆく物語です。この『ベラミ』にフォリー・ベルジェールが登場し、マネが描いたスタンドバーについても書かれています。


ホールは2層で、上階ボックス席にはもっと上流人士たちが座っていた(引用注:1階は中産階級の客が多かった)。どちらにも内部をぐるりとめぐる回廊かいろうがあり、1階の大回廊には3つのスタンドバーが設置されていた。これについてもモーパッサンの容赦ない描写があり、いわく、

  「それぞれのスタンドバーには、厚化粧のくたびれた売り子が陣取り、飲料水と春を売っている。うしろの背の高い鏡に彼女らの背中と通行人の顔が映っている
(モーパッサン『ベラミ』中村佳子訳・角川文庫)

スタンドバーの売り子嬢が提供するのは飲み物だけではない、彼女たちは娼婦とさして変わらない、そう見做みなされていたわけだ。本作におけるマネのヒロインが例外ということはあり得ないだろう。

中野京子「同上」

この絵の構図の特徴は、画面下部に描かれたスタンドバーのカウンターと、その背後の画面のほとんどを占める鏡です。これによってフォリー・ベルジェール内部を活写するというしかけになっています。


カウンターには、オレンジを盛ったガラスの器や薔薇ばらを二輪活けたグラス、富裕層向けの高級シャンパンから、低所得者用の安価なイギリス産ビール(三角のラベルに Bass の文字がかすかに見える)まで、雑多な客層にあわせて取りそろえられている。

ヒロインの腕輪のすぐ下あたりに、金色の太い鏡の額縁がオレンジの器のところまで続いている。モーパッサンが書いていた「うしろの背の高い鏡」がこれだ。つまりここから上に描かれているものはどれも鏡像だ。大理石のカウンターも酒瓶も、2階のバルコニーや、その後ろにひしめく人々も、天井から下がる巨大なシャンデリアも。

ホールは紫煙しえんにけむっている。男も女も(時に子どもまで)盛んに煙草を吸った時代なので、それらに香水やら酒、料理や汗の匂いも入り混じり、よどんだ空気は息苦しいほどだったろう。そこへ楽器の調べや歌声、ダンサーが床を踏みならすステップ音、絶えざるおしゃべり、グラスや食器の触れ合う音まで加わる混沌こんとん状態である。

中野京子「同上」


背の高い鏡


絵の構図の大きな特徴は、カンヴァスの多くを鏡像が占めていることです。そしてよく指摘されることですが、この鏡像は一見リアルに見えてそうではありません。

まず、売り子嬢の向かって左にある酒瓶の鏡像が奇妙です。カウンターと鏡はカンヴァスに平行なはずなのに、酒瓶の鏡像の位置は右に偏り過ぎています。このように映るためには、鏡がカウンターに対して斜め(=向かって左に奥行きがあり、右がせり出してきている)になっていなければなりません。また、位置だけではなく酒瓶の数が不一致だし、シャンパンとビールの位置関係が鏡像で逆転しています。

何より奇妙なのは、カンヴァスの右の方の女性の後ろ姿です。これは売り子嬢の鏡像と考えるしかないわけですが、だとすると酒瓶と同じで、鏡を斜めに設置しない限りこの位置に映ることはありえない。

その売り子嬢と話している髭を蓄えたシルクハットの紳士ですが、この紳士は左右の位置関係に加えて高さが変です。フォリー・ベルジェールのスタンドバーの床はホールの床より高いので、本来なら彼女の方が紳士を見下ろすはずですが、それが逆になっている。中野さんは「厳然たる階級の上下を示すごとく、見下ろしているのは紳士だ」と書いています。

マネは意図的な空間処理をして、アートとしての構図を目指しました。中野さんは次のようにまとめています。


ありない場所にヒロインの背中が映る ─── イルージョンなのだ。フォリー・ベルジェール自体が壮麗そうれいなイルージョンなのと同じように。

中野京子「同上」


空中ブランコ乗り


中野さんは『フォリー・ベルジェールのバー』に描かれている2人の女性のことを書いています。一人はもちろんスタンドバーの売り子嬢ですが、もう一人は空中ブランコ乗りです。このあたりが評論のコアの部分です。

まず空中ブランコ乗りですが、カンヴァスの左上に空中ブランコと青緑の靴を履いた小さな足(=女性の足)が描かれています。情報はこれだけなので、どんな女性かはわかりません。ただ、空中ブランコ乗りは当時の貧しい少女の憧れの職業だったといいます。


空中ブランコ乗りは ── オペラ座のバレリーナと同じく ── 貧しい少女の憧れだった。報酬は多く、金持ち連中の品定めの対象なので、チャンスをつかめばステップアップできる。しかし曲乗りには常に危険が伴い、怪我けがをしたら続けられない。

後年、著名な画家ユトリロの母となり、自らも画家として名をなすシュザンヌ・ヴァラドンも、少女の頃の夢は空中ブランコ乗りだった。11歳から働きづめに働いてついに15歳で夢をかなえるが、数年後に落下してモデル業へ転じた(ロートレックが意志的で個性的な彼女を描いている)。後の展開を考えれば、ブランコから離れざるを得なくなったのも不幸とばかりは言えないが、怪我をした当初のショックはいかばかりだったか。補償も何もなかったのだ。

中野京子「同上」

The Hangover (Suzanne Valadon).jpg
アンリ・トゥールーズ = ロートレック(1864-1901)
「二日酔い(シュザンヌ・ヴァラドン)」(1887/9)
(ハーバード美術館)

ユトリロは10代でアルコール中毒になるのですが、その治療の一貫で母は息子に絵を描くことを勧めます。母は、大画家になるような絵の才能が息子にあるとは思っていなかったようです。こういった話は、シュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロの "母子物語" によく出てきます。もし、ヴァラドンが空中ブランコで怪我をしなかったらモデルになることはなく、従って画家になることもなかったと推察できる。ヴァラドンとユトリロの親子関係の発端は、空中ブランコからの落下にあるとも言えそうです。


スタンドバーの売り子嬢


さて『フォリー・ベルジェールのバー』のヒロインである、スタンドバーの売り子嬢です。中野さんは彼女の境遇と心情を想像する文章を書いているのですが、そこが評論のキモの部分です。少々長くなりますが、そのあたりの文章を引用します。


大理石のカウンターに両手を乗せ、金髪の売り子嬢はまっすぐ正面を向いている。視線は定まらない。整った顔立ちとぼってりした官能的な唇。だが表情はうつろだ。ほんの一瞬、孤独が木枯こがらしのようによぎったとでもいうように。

当時の流行色は黒なので、ドレスもチョーカーも黒。肌の白さ、明るい髪の毛、そして頬紅の赤を引き立てる。レースで縁取りしたドレスの胸元はかなり大胆にあき、その谷間を隠すように生花が飾られている。上着のボタンがまっすぐ列をなし、ヒロインの存在感を強調する。

中野京子「同上」

A Bar at the Folies-Bergere.jpg
エドゥアール・マネ
「フォリー・ベルジェールのバー」
コートールド・ギャラリー(ロンドン)

"ありえない位置" に描かれた女性の後ろ姿が売り子嬢だとすると、彼女はシルクハットの紳士と向かい合っていることになります。はたしてそれは現実なのか、それともイルージョンなのか。フォリー・ベルジェールは現実世界であると同時に、客にイルージョンを提供しています。だとするとこの作品の鏡の向こうの世界も、現実の反映と同時に、その一部は幻影なのかもしれない ・・・・・・。


空虚なひとみの売り子嬢は、実際に今、紳士と向き合っているのだろうか、それとも想像の中でそう願っているだけなのか。あるいはすでにもう紳士と何か言葉をわし、期待はずれだったのか、約束はしたが心おどるものではないのか。

そもそも彼女に肝心かんじんな能力があるのだろうか。男に夢をみさせることによって、この世を乗り切る能力が ・・・・・・。

19世紀後半のパリ。あなたは貧民街に生まれた。父が誰か、知らない。母は病弱だ。あなたはろくに教育も受けられず、母と自分自身を養うために必死にかせがねばならなかった。花売り、走り使い、傘工場の工員、洗濯女、お針子、モデル、エトセトラ、エトセトラ。女性の働き口は極端に少なく、給金はすずめの涙。歌手やバレリーナになるだけの才能もない。唯一の救いは、若さと綺麗な顔。それだけを資本に短期間にい上がらねばならない。失敗したら街角に立つ老いた娼婦という末路まつろがあるのみだ。

フォリー・ベルジェールで売り子嬢の募集があった。口をきいてくれた男に何度か嫌な思いをさせられたが、耐えてようやく仕事を手に入れた。チップが多いので、実入りは悪くない。いろんな男が近づいてくる。目をみはるほどの美貌の青年にビールを売ったが、自分と同じ貧しさとギラギラした野心の匂いをぐ。用はない。相手もこちらに用はない。

やがてあなたが空中ブランコ乗りの少女と仲良くなり、ときどき言葉を交わす。似たり寄ったりの境遇だったが、観客をかす芸ができる少女をうらやむ。しかし少女は練習中にブランコから墜落し、足を痛めて店から去っていった。

数年たち、あなたはあせりだす。早く良きパトロンを見つけなければ、若い新人に仕事を奪われてしまう。髭の紳士が話しかけてきた。好きなタイプではない。しかしそんなことを言っている場合だろうか。妥協だきょうすべきではないのか。

運命の分岐点に立つあなたの前を、ふと孤独が木枯らしのようによぎった ・・・・・・。

中野京子「同上」

中野京子さんの絵画の評論は、画家が絵に込めた(ないしは秘めた)物語を解き明かす、というタイプが多いわけです。もしくは、制作の背景や画家の心情と絵画表現との関係性を明らかにするタイプです。しかし上の引用はそうではなく、絵から受ける印象をもとに物語を想像(創作)したものです。それもまた、絵画を鑑賞する一つの方法です。その中にさりげなくモーパッサンの『ベラミ』の主人公を思わせる表現(貧しいが美貌の青年)と、シュザンヌ・ヴァラドンの10代の経験(空中ブランコからの転落)を織り込んだのが、上に引用した文章なのでした。

最大のポイントは、売り子嬢の「空虚な瞳、虚ろな表情」です。引用しませんでしたが中野さんは「目の焦点はどこにも合っていない。虚無」とも書いています。もし彼女が今現在、シルクハットの紳士と会話しているのなら「虚ろな表情」はおかしいわけです。売り子嬢としての "仕事用のみ" を浮かべているはずです。しかしそうはなっていない。ということは、カンヴァスの右側に描かれた彼女と紳士の鏡像は、彼女の幻想(ないしは期待)かもしれないし、あるいは数10分前の回想かも知れない ・・・・・・。そう思わせるところがこの作品のポイントであり、そこから中野さんのような創作物語も生まれるわけです。

人は人の表情に敏感です。ちょっとした表情の変化、目や口や頬の微細な動きが作り出す "光" や "影" を感じ取ってしまいます。それは人がこの社会で生きていくために大切な能力です。マネの筆致は「空虚な瞳、虚ろな表情」とる人に感じさせるヒロインの表情を作り上げた。それがこの絵に物語性を付与した。そういうことだと思います。

この作品には何重ものたくらみや仕掛けが込められています。その仕掛けの中で、大都市パリの "今" を描き切ったものと言えるでしょう。


ラス・メニーナス


さて、『ラス・メニーナス』(No.19「ベラスケスの怖い絵」に画像を引用)のことです。中野さんは『フォリー・ベルジェールのバー』について、

  ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』を意識したものであろう。

と、さらりと書いているのですが、なぜそういった推測が出てきたのでしょうか。また、これは妥当なのかどうか。

一見すると『ラス・メニーナス』を意識したとは見えないのですが、おそらく「たくらみのある空間構成」という点が似ていて、そういう推測になったのだと考えられます。

一般に、画家が先人にインスピレーションを得て絵を描く場合、そのありようは多様で、かつ微妙です。思い出すのが「ラス・メニーナスへのオマージュ」として描かれた、ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)の『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館。以下「ボイト家の娘たち」)です。No.36「ベラスケスへのオマージュ」で紹介した絵ですが、しくも『フォリー・ベルジェールのバー』と同じ年に描かれました。No.36 にも書いたのですが、この絵は2010年にボストン美術館からプラド美術館に貸し出され、プラド美術館は招待作品として『ラス・メニーナス』と並べて展示しました。天下の2大美術館が「ボイト家の娘たち」はベラスケスを踏まえた絵だと認めたことになります。

一見しただけでは「ボイト家の娘たち」が『ラス・メニーナス』へのオマージュ作品とはわかりません。しかしよく見ると空間構成に類似性があります。まず手前に室内の光、その奥に闇、闇の向こうに窓の光という空間構成であることです。また、4人の姉妹を年齢順に手前から奥へと、ポーズを変えて配置して空間を演出しています。これによって一つの空間に「少女の成長 = 時間の流れ」を表現したかのように見える。2つ描かれている有田焼の大きな壷の配置も独特です。こういった「企みのある空間構成」が似ています(その他、No.36 参照)。

だとすると、マネの『フォリー・ベルジェールのバー』が『ラス・メニーナス』を意識したぐらいのことは十分にありうる。それに、マネは明白にベラスケスへのオマージュだとわかる作品を描いています。それが『悲劇役者(ハムレットに扮するルビエール)』(1866。ワシントン・ナショナル・ギャラリー)で、この絵がベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』に感銘を受けて描かれたことは、No.36「ベラスケスへのオマージュ」に書きました。

さらにマネは『ラス・メニーナス』を絶賛しています。No.230-1「消えたベラスケス」で紹介した、英国の美術ジャーナリスト、ローラ・カミングの本には、『ラス・メニーナス』を見たマネについて次のように書かれています。


ここが終着点だ。これを越えるものはない。プラド美術館でこの絵を見たマネは、そういった。この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人は ── 自分も含め ── この上さらに絵を描こうとするのだろう、と。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.334
(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)

そこまで絶賛する絵なのだから、画家人生の最後に『ラス・メニーナス』を意識した絵を描くことは十分考えられると思います。『悲劇役者』ならスペイン訪問(1865)のすぐあとに描けた(1866)。しかし『ラス・メニーナス』を踏まえた絵など、そう簡単に描けるものではない。マネはいろいろと構想を練り、やっと16年後に『フォリー・ベルジェールのバー』に辿たどりついた ・・・・・・ というような想像をしてもよいと思います。

そして『ラス・メニーナス』と『フォリー・ベルジェールのバー』の類似性を言うなら、やはり「鏡」です。『ラス・メニーナス』のキー・アイテムの一つは国王夫妻が映っている鏡です。ということは、鑑賞者の位置には国王夫妻がいることになります。そのアナロジーから言うと『フォリー・ベルジェールのバー』の鑑賞者の位置にはシルクハットの紳士がいることになる。いや、そんなことはありえない、あまりに位置関係が違い過ぎる。とすると、紳士の鏡像は幻影なのか ・・・・・・。

鏡を、19世紀の時点で最大限に効果的に使った絵、それが『フォリー・ベルジェールのバー』だと言えるでしょう。


鏡の中の世界


その鏡ですが、『ラス・メニーナス』の鏡は数十センチ程度の小さなものです。これは17世紀の絵であって、当時は完全に平面の大きな板ガラスを製造するのが困難でした。ところが19世紀のマネの時代になると、技術進歩によってヒトの背丈より高いような鏡が作れるようになった。

現代の我々は、人間の背丈より高い大きな鏡を見ても何とも思いません。そういう鏡をよく見かけるからです(私の家にもある)。しかし19世紀の時点で大きな鏡を目のあたりにした普通の市民は感激したのではないでしょうか。鏡の向こうにもうひとつの世界が展開しているようにリアルに思えるのだから。

鏡で思い出すことがあります。マネと同じ年に生まれた英国の学者で作家のルイス・キャロル(1832-1898)は、1865年に『不思議の国のアリス』を出版しました。これが大変に好評だったため、キャロルは続編の『鏡の国のアリス』(1871)を出版しました。『フォリー・ベルジェールのバー』が描かれる10年前です。この本の原題は『Through the Looking Glass - 鏡を通り抜けて』で、アリスが「鏡の向こうはどんな世界だろう」と空想するところから始まるファンタジーです。原書には、まさにアリスが鏡をすり抜ける挿し絵があります。『不思議の国のアリス』ではウサギの穴が異世界への入り口でしたが、今度は「姿見」が別世界への入り口なのです。

ThroughTheLookingGlass.jpg
鏡の国のアリス」より
Through the Looking Glass
初版本にジョン・テニエルが描いた挿し絵

キャロルにとっても、大きな鏡や姿見によって "こちらの世界" と "あちらの世界" が同居するようにリアルに感じられるのが、インスピレーションの源泉となったのではないでしょうか。『鏡の国のアリス』のストーリーのキー・コンセプトは、"逆転"、"あべこべ" です。鏡の向こうの世界は、現実(=真実)を映し出すものであると同時に、左右が反転した幻影の世界、イルージョンなのです。

おそらくマネもフォリー・ベルジェールのスタンドバーの後ろにしつらえられた鏡に引きつけられるものがあったのだと思います。プラド美術館で見た『ラス・メニーナス』の記憶が戻ってきたのかもしれない。

『フォリー・ベルジェールのバー』は、近代文明の産物(鏡)と大都会の歓楽街(店)、その都会で必死に生きる女性という "現代" を描き切った傑作でしょう。もちろんそこに『ラス・メニーナス』に迫ってみたいという画家としての "野心" があったのかも知れません。


英国・BBCの調査


『フォリー・ベルジェールのバー』の評論は、中野京子さんの「運命の絵」シリーズの2作目(副題:もう逃れられない)に掲載されたものですが、1作目の「運命の絵」(文藝春秋。2017.3.10)に興味深い話がのっていました。ちょっと引用してみます。


面白い調査がある。

2005年に英BBCラジオが行った聴取者アンケート、「イギリス国内の美術館でることができる最も偉大な絵画は何か」に、12万人もが回答。結果は日本人にとって(いや、たぶん世界中でも)意外なものだ。

1位 『戦艦テレメール号』
ターナー(英)
2位 『干草車』
コンスタブル(英)
3位 『フォリー・ベルジェールのバー』
マネ(仏)
4位 『アルノルフィーニ夫妻の肖像』
ファン・エイク(フランドル)
5位 『クラーク夫妻と猫のパーシー』
ホックニー(英)
6位 『ひまわり』
ゴッホ(蘭)
7位 『スケートに興じるウォーカー師』
レイバーン(英)
8位 『イギリスの見納みおさめ』
ブラウン(英)
9位 『キリストの洗礼』
デラ・フランチェスカ(伊)
10位 『放蕩児一代記』
ホガーズ(英)

投票者の年齢性別は不明だが、ちょっとこれはないのでは ・・・・・・ と思う作品がいくつか混じっている。画家10人中、6人がイギリス人(スコットランドを含む。また一人はアメリカで活躍)というのも身贔屓みびいきすぎる。「最も偉大な絵画」ではなく、単に「お気に入りの絵」とすべきではなかったか。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー1館だけでも、ティツィアーノ、ルーベンス、ボッティチェリ、ブロンツィーンノ、ホルバインなど傑作ぞろいなのに見向きもしない。それなら我が国にゆずってほしい、とイタリア人が言いそうだ。イギリス人は視覚芸術がわかっていない、とフランス人が言いそうだ。

ただこのランキングには「文学の国」イギリスらしさが如実にょじつにあらわれており、肖像画や風景画にさえ物語性を求める傾向がうかがえる


運命の絵1.jpg
表紙の絵はシェフールの「パオロとフランチェスカ」
6人もランキング入りしたイギリス人画家の作品の中で、唯一、納得性が高いのは、1位のターナーの『戦艦テレメール号』でしょう。役目を終えた戦艦が解体のためにテムズ川を曳航されていく、夕陽を背景に、哀愁を帯びて ・・・・・・ という絵です。しかしその他の絵はあまり知らないし、名前さえ知らない画家がある。コンスタブルの『干草車』はどこかでた記憶があるのですが、忘れてしまいました(調べてみると、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)。

「自国の画家びいき」になってしまったのはやむを得ないのでしょう。逆のことを考えてみたらわかります。日本で NHK が同様の調査をしたとして、エル・グレコ(大原美術館)、ゴッホ(損保ジャパン日本興亜美術館)などに加え、長谷川等伯、円山応挙、伊藤若冲、葛飾北斎、横山大観、東山魁夷の傑作がランクインしたとしても(これは例です)、一般のイギリス人に理解できる日本の画家は北斎ぐらいに違いないからです。

「自国の画家びいき」はやむを得ない。それを認めたとして、だったらジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』(テート・ブリテン)が入っていないのは、いったいどういう訳なのでしょうか。「文学の国」イギリスでは絵画に物語性が求めらるとしたら、『オフィーリア』はイギリス人の誰もが知っている物語がテーマなのに ・・・・・・。やはり不思議なリストです。



不思議なリストではあるが、注目すべきは "外国画家" の作品です。ランクインした4作品のトップがマネの『フォリー・ベルジェールのバー』なのですね(しかも3位)。それも『アルノルフィーニ夫妻の肖像』や『ひまわり』といった "強豪"、その他の中野さんがあげている画家やピカソ(たとえばテート・ギャラリーの『泣く女』)などの "強豪" を押さえてのトップです。

その理由はというと、中野京子さんがあげたキーワードである "物語性" ではないでしょうか。『フォリー・ベルジェールのバー』以外の "外国画家" の作品もそうです。ファン・エイクの絵は、種々の解説にあるように明らかに物語性があります(またしても "鏡" が登場。No.93「生物が主題の絵」に画像を掲載)。デラ・フランチェスカの絵のような宗教画(や神話画)は、その背後に "物語" がべっとりと付着していることは言うまでもありません。ゴッホの『ひまわり』は、それ自体には物語性がありませんが、一般の鑑賞者は、あまりにも有名になってしまったゴッホの生涯、特にパリ→南仏→パリ近郊という約3年間の "ゴッホ物語" を意識するわけです(そう言えば、耳切り事件の直後の包帯をした自画像がコートールドにある)。

そういった中での『フォリー・ベルジェールのバー』です。この絵の前に立つと、まず "普通とはちょっと違う絵" だと直感できます。そして、売り子嬢や、カンヴァスに配置されたさまざまなアイテムを順にていくと、次第に "物語" を意識するようになる。

この絵が傑作たるゆえんは「現代を描き切ったこと」に加え、そこに込められた「物語性」である。そういうことだと思います。




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No.254 - 横顔の肖像画 [アート]

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」の続きです。No.217 ではルネサンス期の女性の横顔の肖像画で傑作だと思う作品を(実際に見たことのある絵で)あげました。次の4つです。

A: ピエロ・デル・ポッライオーロ
  若い貴婦人の肖像」(1470頃)
 ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ)

B: アントニオ・デル・ポッライオーロ
  若い女性の肖像」(1465頃)
 ベルリン絵画館

C: ドメニコ・ギルランダイヨ
  ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
 ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)

D: ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス
  ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

Profile.jpg

A と C はそれぞれ、ポルディ・ペッツォーリ美術館ティッセン・ボルネミッサ美術館の "顔" となっている作品です。そもそも横顔の4枚を引用したのは、ポルディ・ペッツォーリ美術館の "顔" が「A:若い貴婦人の肖像」だからでした。その A と B の作者は兄弟です。また D は、ミラノ時代のダ・ヴィンチの手が入っているのではないかとも言われている絵です。

これらはすべて「左向き」の横顔肖像画で、一般的に横顔を描く場合は左向きが圧倒的に多いわけです。もちろん「右向き」の肖像もあります。有名な例が、丸紅株式会社が所有しているボッティチェリの『美しきシモネッタ』です。これは日本にある唯一のボッティチェリですが、いつでも見れるわけではないのが残念です。

というように「右向き」もありますが、数としては「左向き」が遙かに多い。その「左向き」が多い理由ですが、No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で心理学者の三浦佳世氏の解説を紹介しました。左向きが多いのは、

顔の左側の方が右脳の支配によって豊かな表情を示す

画家が右利きの場合、右上から左下に筆を描きおろす方が簡単

西洋の絵では一般に光源を左上に設定するため、左向きの顔は光に照らされて明るく輝く

の3つで説明できると言います。そして、3番目の「西洋の絵では一般に光源を左上に設定する」理由は、

アトリエで画家は左側に窓があるようにイーゼルを立てることが多い。多くの画家は右利きだから

人間は左上からの光に最も鋭敏に反応する生理的性質がある

です。前者は、特に照明が発達していない近代以前ではそうでしょう。後者の「左上からの光に最も鋭敏に反応する」というのは心理学者らしい説明です。人間は左上からの光に照らされた状況で認知能力が最も良く働くようにできているそうです(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」参照)。



A,B,C,D はいずれも15世紀後半のイタリア人画家による作品です。このように、ルネサンス期のイタリアでは横顔の肖像が多数描かれました。ウフィツィ美術館にあるピエロ・デッラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』は特に有名です(左向きと右向きの一対の肖像画)。しかし近代になってからも横顔の肖像は描かれていて、その中には有名な作品もあります。今回はそういった中から何点かを取り上げたいと思います。


ホイッスラー


画家の母の肖像.jpg
ジェームス・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)
画家の母の肖像」(1871)
(オルセー美術館)

この絵はオルセー美術館にあるので、実際に見たことがある人も多いと思います。ホイッスラーの代表作(の一つ)とされている作品です。

この絵のように「全身の座像を真横から描く」肖像画は、あまりない構図だと思います。著名な画家の有名作品では、ちょっと思い当たりません。近いのは、フラゴナールの『読書する娘』(1769頃。No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)や、次のカサットの作品かと思います。ただしこれらは全身像ではありません。その意味でホイッスラー絵は西洋美術史でも際だっているのではないでしょうか。

この絵の当初の題名は「灰色と黒のアレンジメント 第1番」だったそうです。黒、灰色、茶色系で統一された、モノトーンっぽい色使いが印象的です。直感的に思い出すのは同じホイッスラーの「白のシンフォニー No.1:白衣の少女」です(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」)。こちらの方は、さまざまな種類の "白" で画面が構成されています。シンフォニーが音楽用語ということからすると、アレンジメントも「音楽用語としてのアレンジメント = 編曲」だと考えられます。

ホイッスラーの母親は敬虔なクリスチャンだったようです。この絵の全体に漂うのは「静かで」「落ち着いていて」「抑制が利いていて」「謙虚で」「質素で」「礼儀正しく」「穏和な」感じです。おそらく母親は神への信仰とともにまじめに働き、子を育て、コミュニティーの一員としての役割や義務を全うしてきたのでしょう。ホイッスラーの母親の経歴は全く知りませんが、そういうことを感じさせる絵です。

その感じを倍加させているのが「構図」と「色使い」です。構図について付け加えると、背景になっているカーテン・床・壁・額縁・椅子の足の直線群と「左向き全身座像」の曲線群が対比され、調和しています。この構図のとりかたと黒・灰・茶の色使いで、画家は母親の真の姿を、その生涯を含めて表現しようとした。と同時に、この絵には画家の母親に対する敬愛の念がにじみ出ているようです。いい絵だと思います。


マネ


春(ジャンヌ・ドマルシー).jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
春(ジャンヌ)」(1881)
(J・ポール・ゲッティ美術館)

最晩年の大作「フォリー・ベルジェールのバー」(1882。No.155「 コートールド・コレクション」に画像を掲載)と同時にサロンに出品された作品で、パリで活動していたジャンヌ・ドマルシーという女優をモデルにしています。四季4部作の1枚ですが、4部作全体は未完に終わりました。

この作品でまず目を引くのは「花」です。女性は花柄のドレスを着込み、ボンネットには薔薇とマーガレット(?)を付けています。女性の後ろは青空を背景とする若葉の緑ですが、左上の白い花でも分かるように、これは花の咲く木です。春に咲く大きめの白い花というと、これはシャクナゲ(石楠花)でしょう。

花だけでなく、ボンネットや日傘のレースの華やかさも「春」のイメージを出しています。スカーフだけがマネ独特の黒になっていて、これがアクセントとなって全体の絵を引き締めています。

全体としてこの絵は "装飾画" に近づいています。カンヴァスではなく、壁紙やタイル、陶磁器、ポスターなどを飾る絵が装飾画ですが、そういった雰囲気があります。モデルが横顔なのも、その感じにマッチしている。

ただ、この絵をジャンヌという女性の肖像として見ると、ちょっと違った感じも受けます。モデルの表情が何となく沈んだ感じだからです。「春」というタイトルの、「一面に植物や花が咲く、生命が横溢した季節を描いた絵」というイメージとはちょっとギャップがある。

同じサロンに出品された大作「フォリー・ベルジェールのバー」を思い出すと、あの絵に描かれたバーの売り子嬢の女性は、焦点が定まらない、うつろな表情をしているのでした。バーの売り子の女性というと当時のパリでは下層階級ですが、この『春』の女性は違います。いかにも上流階級らしい服装とたたずまいです。しかしその表情にはどこか共通のところがある。「フォリー・ベルジェールのバー」「春」も、大都会パリの華やかさの中にいる女性です。しかしその華やかさの中に、どこか沈んだところがある。その意味で、この絵も「大都会の今」を描いた作品と言ってよいでしょう。


カサット


Autumn - Portrait of Lydia.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
秋 - リディアの肖像」(1880)
(プティ・パレ美術館)

パリで活躍したアメリカ人画家、メアリー・カサットのことは、
 No.86「ドガとメアリー・カサット」
 No.87「メアリー・カサットの少女」
 No.125「カサットの少女再び」
 No.187「メアリー・カサット展」
の4回に渡って書きました。今回もカサットの作品を引用します。

描かれているのはメアリーの8歳上の姉、リディア・カサットです。この絵が描かれる3年前(1877年。メアリーがドガに初めて会った年)、メアリーの両親とリディアはアメリカを離れてパリに移り住み、メアリーと同居を始めました。メアリーは姉をモデルにかなりの作品を描いていて、このブログではリディアがドガの姪と馬車に乗っている絵を引用したことがあります(No.97「ミレー最後の絵:続フィラデルフィア美術館」)。またルーブル美術館におけるメアリーとリディアを描写したドガの版画もありました(No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」)。そのリディアはブライト病という腎臓疾患にかかっていて、1882年に亡くなります。ちなみにメアリーは父親も母親もパリで看取りました(それぞれ1891年と1895年)。

この絵はリディアが、おそらくパリの公園のベンチに座っている姿の描写だと考えられます。リアルに描かれたリディアの表情は、病気のせいか非常に固いものです。ただ、その周りには秋を感じさせるさまざまな色彩がちりばめられていて、リディアの服のあたりはまるで抽象画のようです。その対比が印象的な作品です。


クリムトの2作品


横顔を見せる少女.jpg
グスタフ・クリムト(1862-1918)
横顔を見せる少女」(1880頃)
(東京富士美術館・八王子市)

制作年をみてもわかるように、クリムトが18歳の頃に描いた作品です。また 24cm × 17cm という小さな絵です。日本にある作品で、八王子の東京富士美術館が所蔵していています。

今まで引用した若い女性の絵とはうってかわって、大変に暗い色調です。黒と茶色系と少しの暗緑色しか使われていない。少女の表情は左の方にある何かを凝視している感じです。何かに挑もうとしているような、鋭い視線を投げかけています。

その中で強く印象付けられるのは、ハイライトがかかった薄青色の瞳と、赤いルージュをひいた唇と、首飾りの白いきらめきです。この3つのポイントが特に目立つ。東京富士美術館の解説では「後のクリムトの絵画を特徴づける装飾性の萌芽を感じることができる貴重な作品」とありました。この絵自体に装飾性はないので「装飾性の萌芽を感じることができる」とした美術館の意図はわかりませんが、瞳・唇・首飾りだけを浮かび上がらせるようにした描き方が "萌芽" ということかもしれません。



ヘレーネ・クリムトの肖像.jpg
グスタフ・クリムト
ヘレーネ・クリムトの肖像」(1898)
(ベルン美術館)

クリムトが36歳ごろの作品です。「横顔を見せる少女」とはうってかわった感じの絵で、愛らしい少女を描いています。

ヘレーネ・クリムトはクリムトの弟・エルンストの娘で、つまりクリムトの姪です。伝記によるとエルンストは1891年に結婚、同年にヘレーネが生まれますが、翌1892年にエルンストは急死してしまいます。クリムトは残された母娘を預かる身となり、ヘレーネの法律上の保護者になります。つまりヘレーネはクリムトにとって "娘同然の" 存在だったことになります。本作はヘレーネが6歳のときの作品です。

クリムトの絵というと、その特徴は装飾性です。神話などの空想の世界をを題材にした絵はもちろん、リアルな筆致で描いた肖像にも周りに花を配置したり、装飾模様や形と色のパターンを描き込んだりする(No.164「黄金のアデーレ」)。風景画も傑作が多数ありますが、いかにも装飾的です。

それに対して「ヘレーネ・クリムトの肖像」にはクリムトらしい装飾性が全くありません。リアルに描かれた少女は横顔だけですが、あくまで愛らしく、素早い筆で描かれた衣服の描写との対比が心地よい。

この絵は、画家が "自分の子供" を描いたと考えればよいのだと思います。一般に画家の子供がモデルという絵をときどき見かけますが、その画家の画風とは違っていて "アレッ" と思うことがあります。つまり画家の本来の姿の一端を覗いたような感じを受けることがある。この絵もそういった一枚だと思います。

付け加えるとこの絵の特徴は「上半身だけを描き、顔だけでなく体も真左を向いた絵」ということです。そこが「横顔を見せる少女」(やホイッスラー、カサットの絵)と違います。この特徴は、初めに引用したルネサンス期の肖像画と同じです。ひょっとしたらクリムトは、愛らしい姪を描くときに400年前のイタリアの肖像画を踏まえたのかも知れません。

この絵は、2019年4月23日から日本で開催される「クリムト展 ── ウィーンと日本」で展示されるようです(東京都美術館、豊田市美術館)。是非、鑑賞にいきたいと思います。

【補記:2019.4.28】 2019年4月23日から東京都美術館で開催されているクリムト展で「ヘレーネ・クリムトの肖像」が展示されているので行ってきました。初めて実物を見ましたが、想像していた以上に明るく、全体がバラ色に輝いているような印象でした。背景も含めて、ところどころの "赤み" がよく利いています。大変に写実的で丁寧に描かれたヘレーネの頭部(髪・顔)と、荒々しくスピード感溢れる筆致で描かれた衣装の対比が実際に見ると強烈で、グスタフ・クリムトが極めて確かな画力をもったアーティストであることがよくわかりました。


ゴッホ


ゴッホ「窓辺の農婦」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
窓辺の農婦」(1885)
(大山崎山荘美術館・京都府)

ゴッホのニューネン(オランダ)時代の絵です。有名な『じゃがいもを食べる人々』とほぼ同じ頃に描かれた、32歳頃の作品です。

このニューネンの時代、ゴッホは農民の姿、農作業の姿を多数描いています。農婦の肖像も数々ある。しかしこの絵のように「窓を背景にした肖像画」は珍しいと思います。しかも横顔です。

普通、肖像画というと背景が暗い色調で(ないしは暗く塗りつぶされていて)、主題である人物に光が当たっています。しかしこの絵は全く逆です。窓からの逆光に浮かびあがる横顔 = シルエットになっています。

窓の外は比較的明るい空です。下の方は畑でしょう。そこに黒い鳥が飛んでいます。おそらくカラスでしょう。右下に大きい1羽がいますが、その他にも多数の鳥が小さく描かれています。

大きいカラスの右上に橙色が使ってあります。解釈はいろいろ可能だと思いますが、不透明なガラス窓に映る夕日ではと思います。夕暮れに近づく時間、カラスの群が巣に帰るという情景を想像します。

その背景の中の右向きの農婦の横顔です。左から光が当たっていますが、顔は暗い。眼は閉じている感じですが、表情がはっきりしません。農婦の、無骨で、寡黙で、力強い、横顔のシルエットです。横顔なので特に寡黙という印象を強く受けます。彼女は何も語りかけてこず、黙ってたたずんでいる。

あえてこのように描くことによって、画家の農民に対する親しみ、親近感を表しているのだと思います。



余談ですが、ゴッホはこの絵を描いてから約5年後に亡くなりました。つまり我々がよく知っている多数の傑作絵画はすべて、この絵のあとの5年間に描かれたものです。その奇跡のような変貌ぶりに驚かざるを得ません。


ピカソ


画家の母の肖像(ピカソ).jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
画家の母の肖像」(1896)
(ピカソ美術館・バルセロナ)

No.46「ピカソは天才か」で引用した絵です。制作年からわかるように、ピカソが14歳ないしは15歳のときの作品です。パステルで描かれています。

冒頭に書いたように横顔の肖像画は左向きが多く、それには理由があるのですが、中には右向きの横顔もあります。代表的な絵は丸紅株式会社が所蔵しているボッティチェリ(1445-1510)の『美しきシモネッタの肖像』(1480/85)ですが、このピカソの絵もいい絵だと思います。

この肖像は、今まで紹介したルネサンス期の4枚の絵と近代以降の5枚の絵(本記事)と大きく違うところがあります。つまり、女性(画家の母親)が "眼を閉じている横顔" ということです。うっすらと眼を開けているのかもしれませんが、瞼はほとんど閉じられている。おそらく、思わず眠ってしまったのでしょう。ないしは、じっと考え事をしているのかもしれません。

自分の母親の肖像を描くということは、画家としてはそれなりの考えがあるはずで、どういう姿を描くかは画家の母に対する思いが投影されると思われます。19世紀以降の著名画家で母親の肖像を描いた例は上に引用したホイッスラーのほかに、マネ(ボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館。No.263 参照)、ゴッホ(ロサンジェルス郊外のノートン・サイモン美術館。No.157 参照)、ロートレック(アルビのロートレック美術館)などが浮かびますが、それぞれ個性的です。

その中でも、このピカソ少年の絵は「眠っている(と思われる)姿で、瞳を描いていない」という独特のものです。少年は時に目にする母親のそういう姿に "いとおしさ" を感じたのでしょう。パステルの優しいタッチが、この絵の雰囲気とよく合っていると思います。


ルドン


ヴィオレット・エイマンの肖像(ルドン).jpg
オディロン・ルドン(1840 - 1916)
ヴィオレット・エイマンの肖像」(1910)
(米・クリーブランド美術館)

紙にパステルで描かれています。この絵を所蔵しているクリーブランド美術館によると、モデルはパリの美術コレクター、マルセル・カプフェレの若い姪で、委託によって描かれた肖像画です( "commissioned pastel portrait" )。

目を惹くのは、さまざまな色が使われている周囲の花で、特に、青色が目立ちます。中には葉のような形に青を使ったものもあって、幻想の中の花畑といった感じです。モデルの名前である「ヴィオレット」はスミレの意味があるので、画家はそれを意識したのでしょう。

彼女は前を向き、どちらかと言うと固い表情です。思い詰めているのか、それとも、瞼はあけているものの意識は現実には無く、夢想しているのでしょうか。周囲のカラフルな花々は彼女の意識の中の表現かもしれません。依頼されて描いた肖像画にしては、いかにもルドン流に寄せた作品という感じがします。

ただし、彼女の髪や、ハイネックのシャツのレース、薄い青緑色のワンピースの生地の表現は的確で、画家の技量を感じるところです。


ワイエス


Gunning Rocks.jpg
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)
ガニング・ロックス」(1966)
(福島県立美術館)

ワイエスの絵は今まで、
 No.150「クリスティーナの世界」
 No.151「松ぼっくり男爵」
 No.152「ワイエス・ブルー」
の3回書きました。また、この絵を使ったワイエス展のポスターを No.151 で引用したことがあります。日本の福島県立美術館が所蔵している絵です。

題名となっている『ガニング・ロックス(Gunning Rocks)』とは何かですが、これはモデルの男性の名ではありません。ワイエスはペンシルヴァニア州のチャッズフォード(フィラデルフィア近郊)の生家と、メイン州の海岸地方であるクッシングの別荘を行き来していました。ガニング・ロックスとはクッシングにも近い、沖合いの小島の名前です。gunning とは "銃で撃つ" という意味なので、切り立った岩が突き出ているような風景を想像します。

描かれている男性はフィンランド移民とネイティヴ・アメリカンの血を等分に受け継いだウォルター・アンダーソンという人で、ワイエスは彼とよく小舟で海に漕ぎ出したそうです。

なぜ肖像画の題名を小島の名前にするのでしょうか。ワイエスの絵には、謎めいた題名が付けられていて、それが意味をもっていることがあります。福島県立美術館が所蔵する『松ぼっくり男爵』がその典型です(No.151「松ぼっくり男爵」参照)。おそらくワイエスとしては、この知人男性の今までの生涯、性格や人となり、日々の生き方を、海の中にポツンと存在する小島にたとえたのではないでしょうか。荒波にもまれても微動だにせず、厳然として屹立している小島にこの男性を重ねた ・・・・・・。あくまで想像ですが、そういう風に思います。

もう一つのこの絵のポイントは "民族" です。クッシングの近くにはフィンランド移民のコミュニティーがあったようで、そこの人たちをモデルにワイエスは絵を書いています。また『クリスティーナの世界』にも出てくるオルソン姉弟はスウェーデン移民の子です。『松ぼっくり男爵』のテーマであったカーナー夫妻はドイツ移民だし、その他、アフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカンの肖像や風俗を描いています。多様性こそアメリカの特質、というのはワイエスの信念だったようです。その一端が現れたのがこの絵だと思います。

さらに付け加えると、今まで引用してきた絵(=油絵)と違ってこの絵はドライブラッシュの技法を駆使した水彩で描かれています。ワイエスの作品は我々が暗黙に抱いている水彩のイメージを覆すものが多い。この絵もそういった絵です。



ワイエスの横顔の絵をもう一枚、引用します。この絵もドライブラッシュと水彩で描かれています。

Wyeth - The Critic.jpg
アンドリュー・ワイエス
批評家」(1990)
(米・ブランディワイン・リヴァー美術館)

「批評家」とは不思議な題名ですが、その意味はワイエスの自作解説を読めば分かります。元メトロポリタン美術館・館長のトーマス・ホーヴィングがワイエスに取材したものです。


姉のキャロラインである。私は彼女が絵について何か言おうとする時の見上げ方にいつも興味を抱いていた。彼女は父にとても良く似ていた。ヴァイタリティがあった。これは不幸にも、彼女が脳溢血で倒れる直前の姿で、彼女を描いた最後のころの絵の一つである。冬の最中で、私がいたのはの大きな居間だ。後ろの方に雪が見えているだろう。

「アンドリュー・ワイエス展」図録より
(1995.2.3 - 7.30。名古屋・東京・神戸)

アンドリュー・ワイエスは、3女、2男のワイエス兄弟・5人の末っ子で、キャロライン(1909 - 1994)は次女です。しかも、彼女は画家です。8歳年下の弟の絵について、何かコメント、ないしは批評をする。そのときの物腰と表情をとらえるためには横顔が最適だと画家は感じたのでしょう。場所はワイエス家の大きな居間で、キャロラインのちょうど後ろは暖炉になっています。さらにワイエスは、キャロラインについて次のように語っています。


キャロラインは非常に優れた画家でもあった。絵は力強くて素朴だった。黒人の画家ホーレス・ピピンは、彼女の絵が大いに気に入っていた。キャロラインと私とは本当に親しかったのだ。彼女が何をやっても私は驚かなかったし、彼女も私が何をしても驚かなかった。二人ともお互いにやりたい放題だった。彼女はヘルガの絵についても最初から知っていて、素晴らしいアイデアだと考えていたのだ。

「同上」

ワイエスの生家はフィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードにありますが、同じペンシルヴァニア州出身の画家、ピピンと親しかったことがこの記述で分かります。ワイエスの信条だった「多様性の国、アメリカ」を象徴しているようです。なお、ホーレス・ピピンの絵はフィラデルフィアのバーンズ・コレクションにありました(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 5 West Wall と Room 12 East Wall にある)。

この自作解説を読むと、キャロラインはワイエスの "ヘルガ・シリーズ" の一連の絵について最初から知っていたようです。ワイエスの妻のベッツィも全く知らなかったとされる作品群です。姉と弟の2人の画家が何でもフランクに言い合い、つき合える仲だったと想像できます。

この『批評家』という絵もそうで、姉を美化しようという意図は全くないようです。自作解説のとおり、姉が折りにふれて見せる表情の一瞬をとらえた絵だと思います。


横顔を描く


これらの肖像画を見て感じることがあります。No.217 にも書いたのですが、まず画家が表現しようとしたものは横顔の美しさ(特に女性)でしょう。また男女を含めて横顔にその人物の性格なり特徴が現れるということがあり、そこを描こうとした作品もありそうです。

しかし横顔は風貌の一部です。人物全体をとらえたという感じはしません。鑑賞者としては「正面から見た顔の輪郭」や、肖像画では一般的な「4分の3正面視のときの表情」を想像することになります。その「想像させる」ところが横顔肖像画の一つのポイントだと思います。

さらに振り返ってみると、傑作と言われる肖像画は描かれた人物の内面や性格を映し出した作品が多いわけです。少なくとも鑑賞者が人物の内面を感じてしまう絵が、名作と言われる肖像画です。この観点からすると、横顔だけの絵は画家にとって不利です。「目は口ほどに物をいい」と言うように、人は目線や目つきによってその時の人物の感情とか内面を推測するからです。しかし画家にとって不利だとはいいながら、引用した横顔肖像画は人物表現としても成功している。

横顔のモデルは画家(=鑑賞者)と視線を合わせることがありません。鑑賞者に何かを働きかけるとか、何かを訴えるような感じはしない。心理的に手前へ動き出す気配はなく、動きが止まったように感じます。人物は静かに絵の中にたたずんでいて、しかし、堂々とそこに存在している。この "感じ" が横顔の肖像画を見るポイントなのだと思います。



 補記1:藤島武二(1) 

藤島武二は「中国服を着た女性の横顔の肖像」を多数描いています。その中の "最高傑作" である「芳蕙ほうけい」という作品の解説が、2021年1月5日の日本経済新聞に掲載されました。作家の山内マリコ氏による連載コラム「モデルの一生 十選」の第2回目ですが、絵とともに文章を引用します。なお「蕙(けい)」という漢字は「草かんむりに惠」で、字の意味はラン科の香草です。

藤島武二「芳蕙」.jpg
藤島武二(1867-1943)
「芳蕙」(1926)
(所在不明)

モデルの一生 十選(2)

藤島武二「芳蕙」

作家 山内マリコ

責め絵の伊藤晴雨、大正美人画の竹久夢二、西洋画の巨匠・藤島武二。彼らは同じ、1人のモデルを描いた。

秋田県出身の佐々木カ子ヨ(かねよ)は、母とともに東京に出ると12歳でスカウトされる。アイドルのデビュー秘話のようだが、声をかけたのは美術学校の教員の妻。裸体をさらす美術モデルは偏見の対象で不足していた。

大正8年、夢二と出会う。自分が描く美人画から抜け出たようなカ子ヨの容姿に、夢二も驚いたそうだ。名作「黒船屋」の誕生は、プロのモデルだったカ子ヨあってのものだろう。よく知られる「お葉」という名は、愛人関係にあった夢二がつけた。そして「夢二」の名は、尊敬する藤島武二から、「二」の字をもらってつけた。

その藤島が、夢二との苛烈な恋愛から生還した22歳のカ子ヨを描いた作品が「芳蕙ほうけい」。代表作だが、回顧展に出品されたのを最後にこの50年、行方不明になっている幻の名画だ。カ子ヨはこの絵を最後にモデルを辞した。

夢二の家で実物のカ子ヨを目にした川端康成も「敗北のようにも感じられる」と残す。あらゆる画家が絵筆で挑んでも、モデルとしてのカ子ヨの才能にかなわなかったのではないか。写真に残るカ子ヨは震えがくるほど美しい。(1926年)

日本経済新聞(2021.1.5)

藤島武二の一連の「横顔の肖像画」シリーズには右向きの絵もありますが、この絵は左向きです。

モデルの女性は、題名にあるように一輪の蘭の花を持っています。これはどういう意味でしょうか。伊藤晴雨、竹久夢二、藤島武二、川端康成を魅了した(そして女性である山内マリコ氏も震えがくるほどの)佐々木カヨという女性に "命が作り出す神秘" を感じ、それを蘭の花と香りに重ね合わせたのでしょうか。

余談ですが、現代における「秋田美人の佐々木」といえば、まず佐々木希さんです。佐々木という苗字は秋田県に多いようなので(全国では13位だが秋田では3位)、これは全くの偶然でしょう。

同じ佐々木カヨをモデルとした別の作品があります。これは箱根のポーラ美術館が所蔵しています。

藤島武二「女の横顔」.jpg
藤島武二
女の横顔」(1926/7)
(ポーラ美術館)

(2021.1.6)


 補記2:藤島武二(2) 

藤島武二が制作した「中国服を着た女性の横顔の肖像」の第1号は、右向きの肖像画だったようです。『東洋振り』と題したその絵の紹介が朝日新聞にありましたので引用します。

藤島武二「東洋振り」.jpg
藤島武二
東洋振り」(1924)
(アーディゾン美術館)

美の履歴書 689

中国服着て横向くわけは
「東洋振り」藤島武二

藤島武二は1924~27年、中国服を着た横向きの女性の油彩画を次々に制作した。「東洋振り」はその最初の1枚。藤島にとって「多少画期的な出発になっている」と、後に記した作品だ。

きっかけは05年からの約4年間のヨーロッパ留学だ。イタリアの美術館で女性の横顔を描いたルネサンス期の絵画に出会った藤島は、そこに「如何いかにも閑寂な東洋的精神」を見いだした。

制作にあたり中国服を50~60着も集めたという。モデルは日本人だ。「日本の女を使って東洋的な典型美をつくってみたかった」と藤島と書き残す。横顔に美しいのがない、とこぼしつつ、適したモデルを探し当てた。

アーティゾン美術館の貝塚健・教育普及部長は「油絵の具の使い方が本当に上手だ」と話す。背景の明るいオレンジ色と、中国服の青色の対比は鮮やか。女性の髪や肌は筆跡を残さず丁寧に描き込まれ、つややかな髪やきめ細かな肌の質感が伝わるようだ。一方、中国服はあえて筆の勢いを残すなど、バランス良く組み合わせている。

藤島は「東洋とか西洋とかいう観念を撤回するのが私の年来の主張である」と記した。イタリア・ルネサンス期流行の様式で、中国服を着た日本人を、巧みな油絵で描く ───。貝塚さんは「ヨーロッパと東洋の伝統を、20世紀に日本人画家が油彩を用いてミックスする。様々な文化と歴史を融合させる、そんな意図があったのかもしれません」。(千葉恵理子)

朝日新聞(2021.3.23)

(2021.3.25)


 補記3:山本耀司 

2019年5月2日のNHK BS1 スペシャルで「ヨウジ・ヤマモト ~ 時空を越える黒」というドキュメンタリー番組が放映されました。世界的になファッション・デザイナーの山本耀司氏に密着取材したもので、その後にTV番組の国際賞を受賞した番組です。

2019年の放映の時は見逃しましたが、再放送が 2021年5月30日にあったので、それを見ることができました。この中で、山本氏が次のように語っていました。


プロフィールを見ると、その人の人間像がわかる。
── 山本耀司 ──

「ヨウジ・ヤマモト ~ 時空を越える黒」より
NHK BS1 スペシャル 2019年5月2日
(再放送)2021年5月30日

もちろん、ここでの "プロフィール" は「略歴」とか「人物紹介」の意味ではなく、「横顔」や「側面像」の意味です。その "プロフィール" においては、人の眼や口の表情による感情表現は最小限に押さえられます。そうした「削ぎ落とし」の中から、その人の人間像が現れてくる ・・・・・・。山本氏はそう言いたかったのだと思います。あくまで "ファッション" ないしは "デザイン" の文脈で語られた言葉ですが、絵画にも通じると思いました。

(2021.5.31)



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No.253 - マッカーサー・パーク [音楽]

前回の No.252「Yes・Noと、はい・いいえ」で、2012年に日本で公開された映画『ヒューゴの不思議な発明』に出てくる、ある台詞せりふを覚えているという話を書きました。それは「本は好きではないの?」という問いに対するヒューゴ少年の、

  "No, I do."

という返事で、変な英語(= 中学校以来、間違いだと注意されてきた英語)だったので心に残ったわけです。ただし心に残っただけで、このせりふが映画のストーリーで重要だとか、そういうことでは全くありません。

「重要ではないが、ふとしたことで覚えている映画のせりふ」があるものです。No.98「大統領の料理人」で書いたのは、フランス大統領の専属料理人であるオルタンスが言う、

クタンシー産の牛肉は)"神戸ビーフに匹敵する"

というせりふでした。『大統領の料理人』は美食の国・フランスの威信をかけて制作された(かのように見える)映画で、その映画でフランスのエリート料理人がフランス産牛肉のおいしさを表現するのに神戸ビーフを持ち出したことで "エッ" と思ったわけです。フランスの著名シェフなら、たとえ心の中では思っていたとしても口には出さないと考えたのです。

今回は、こういった「ふとしたことで覚えている映画のせりふ」を、最近の映画から取りあげたいと思います。2018年に日本で公開されて大ヒットした(というより世界中で大ヒットした)『ボヘミアン・ラプソディー』の中のせりふです。

ボヘミアン・ラプソディ.jpg
「ボヘミアン・ラプソディー」の ”Radio Ga Ga” の場面。
(映画の予告編より)


ボヘミアン・ラプソディー(Bohemian Rhapsody)


この映画の中で、タイトルにもなった Queen の傑作、"Bohemian Rhapsody" に関するエピソードが出てきます。フレディ・マーキュリー(俳優:ラミ・マレック。2019年アカデミー賞・主演男優賞・受賞)をはじめ Queen のメンバーは、この曲をシングル・カットして売り出したい。ところが音楽会社 EMI の重役のレイ・フォスター(架空の人物。俳優はマイク・マイヤーズ)は認めようとはしません。"Bohemian Rhapsody" は約6分の楽曲で、長すぎるというわけです。シングル盤の標準は3分であり、ラジオで DJ がかけてくれないだろう6分の曲など、シングル盤には向かないというのがその言い分です。

これに対して、その場にいたフレディのマネージャーであるポール・プレンター(俳優:アラン・リーチ)が助け舟を出します。その字幕が次です。

  ”マッカーサー・パーク” は7分だが売れた。

国際線フライトの新作ビデオで見る機会があったので、このシーンを英語音声に注意して見たのですが、せりふは、

  MacArthur Park was seven minutes long. It was a hit.

でした。「売れた」つまり「ヒットした」と言っている。映画『ボヘミアン・ラプソディー』で今でもはっきりと覚えているせりふは、実はこれだけです。しいて他のせりふをあげるとすると、何回か出てきた「我々は家族」という意味の発言ですが、これは映画のストーリーで重要だから印象に残るのだと思います。せりふそのものが印象に残ったということでは、上のマッカーサー・パークのところでした。

"Bohemian Rhapsody" は1975年の楽曲(結局、シングル・カットされて発売された)ですが、『マッカーサー・パーク』は1968年にアメリカで発売された曲です。つまり、7年前の楽曲が「長い曲でも売れる」ことの引き合いに出されたわけです。そしてこのせりふが印象に残ったのは、『マッカーサー・パーク』がポップス史上に残る名曲であり、"Bohemian Rhapsody"と比較するのが "当たり" だと思ったからです。

そこでこの際、『マッカーサー・パーク』がどういう曲かを書き留めておきたいと思います。


マッカーサー・パーク(MacArthur Park)


"MacArthur Park" は1968年6月22日に全米ヒットチャート(Billboard)の2位にまでになり(イギリスでは最高4位)、映画のせりふどおりヒットしました。このヒットは当時のポップスとしては異例のことでした。

"MacArthur Park" とは、ロサンジェルスにある公園の名前です。ダウンタウンの西の方、ダウンタウンからそう遠くない所にあります。MacArthurとは、アメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)のことで、言うまでもなく第二次世界大戦の連合軍最高司令官であり、日本占領の総指揮をとった人物です。そのマッカーサー元帥の功績を称えて公園の名前にしたわけです。

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現在の MacArthur Park。50年前はどんな景色だったのだろうか。

"MacArthur Park" を作詞・作曲したのはジミー・ウェッブ(Jimmy Webb。1946 - )です。彼は 1967年にフィフス・ディメンジョンの「ビートでジャンプ」をヒットさせました(グラミー賞受賞)。また同じ年にグレン・キャンベルは、1965年にジミー・ウェッブが書いた「恋はフェニックス」をカバーしてヒットさせ、これもグラミー賞を受賞したのでした。

つまり1967年の時点でジミー・ウェッブは、既に新進気鋭の注目すべきソング・ライター(21歳)だったわけです。では、その彼が書いた "MacArthur Park" はヒットして当然なのかというと、そうとも言えません。これは、かなり "異例の" 曲なのです。


リチャード・ハリス(Richard Harris)


1968年にシングル盤で発売された "MacArthur Park" を歌ったのは、リチャード・ハリス(1930 - 2002)です。リチャード・ハリスはアイルランドの俳優であり、歌手としては無名の存在でした。だだ彼は1967年に公開されたハリウッドのミュージカル映画に出演しました。No.53「ジュリエットからの手紙」の中で紹介した「キャメロット(Camelot)」です。

このミュージカル映画は「アーサー王と円卓の騎士」に題材をとったもので、アーサー王がリチャード・ハリス、グエナヴィア王妃がヴァネッサ・レッドグレーヴ、騎士・ランスロットがフランコ・ネロ(ヴァネッサ・レッドグレーヴの現在の夫)でした。リチャード・ハリスは映画の中で、"三角関係で苦悩する王" の気持ちなどを歌っています。その歌は大変に上手で、彼自身も歌手活動をしたいと思っていたようです。その彼がなぜジミー・ウェッブと出会って "MacArthur Park" をレコーディングすることになったかは Wikipedia で紹介されています(英語版Wikipedia の "MacArthur Park" の項)。

つまり、"MacArthur Park" は全米ヒットチャートの2位までになった曲ですが、歌ったのはリチャード・ハリスという、歌手としては無名のアイルランドの俳優だったことが、異例だった一つの点です。

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"MacArthur Park" シングル盤(1968)のジャケット。リチャード・ハリス(左)とジミー・ウェッブ(右)の写真が使われている。

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"MacArthur Park" を含むリチャード・ハリスのアルバム "A Tramp Shining"(1968)。プロデュースしたのはジミー・ウェッブ。

なお、リチャード・ハリスは映画版「ハリー・ポッター」の第1作『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)と、第2作『ハリー・ポッターと秘密の部屋(2002)』で、ダンブルドア(ホグワーツ魔法学校の校長)を演じました。その「秘密の部屋」が彼の遺作になりました。



"MacArthur Park" はその後、数々の歌手によってカバーされています。有名なのがドナ・サマーで、1978年に全米ヒットチャート(Billboard)の1位になりました。


7分21秒


"MacArthur Park" がシングル盤のヒットとして異例だった2つ目は、映画「ボヘミアン・ラプソディー」でも言及があったその長さです。当時のシングル盤の楽曲は3~4分程度が普通であり、7分を越える曲は異例だった(正確には7分21秒)。

ただし、7分を越えるということで思い出す別の曲があります。"MacArthur Park" と同じ1968年にシングル盤で発売されたビートルズの「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」で、7分11秒の長さがあります。この曲は Billboard のチャートで9週連続1位になり(9月28日~11月23日)、1968年の年間ランキングでも1位になりました。

しかし、ビートルズは絶大な人気がありました。1963年(英)・1964年(米)のブレーク以来、シングル盤で発表した曲のほとんどすべてがヒットチャートの1位になり、全米チャートの1位~5位を独占したこともあったぐらいです。1968年当時も若者を中心に世界の音楽ファンを "とりこ" にしていたわけで、そういう状況での "7分11秒" です。その点が "MacArthur Park" とは違います。

それに「ヘイ・ジュード」は、後半の約4分が「na na na, na na na na, na na na na, Hey Jude」というリフレイン、繰り返しです。しかも最後はフェイドアウトしていく。これならラジオで放送するときにリフレインの部分を早めにフェイドアウトしても違和感がありません。当時の放送は「早めのフェイドアウト」が多かったのではないでしょうか。そうしても違和感がないように曲作りがされている感じがします。

ところが "MacArthur Park" は、あとの詩と曲のところで説明しますが、「最後で最高潮になる」という作りになっています。途中でフェイドアウトしてしまったのでは、この曲をかけた(聴いた)ことにはならない。そういう意味で、この7分超のシングル盤は大変に長くて異例なのです。

なお、アルバムの収録曲であれば6分とか7分はザラで、もっと長い曲もいろいろあります。ピンク・フロイドの "Atom Heart Mother(原子心母)"(1970)は24分弱です。日本で言うと(年代は下りますが)X JAPAN の "Art of Life"(1993)は29分です。アーティストが自分の "思い" にこだわって創造性を発揮するとき、この程度の時間になることも当然あるということでしょう。





3つ目の "異例" というか、この曲の大きな特徴と言った方がいいのは詩の内容です。その詩と、試訳を以下に掲げてみます。訳というより言葉の意味を日本語で記述した程度です。なお以下の 1.~ 4.ですが、この曲は4つの部分に分かれているので、それを示すための数字です。


「MacArthur Park」
     by Jimmy Webb

1.
Spring was never waiting for us, girl
It ran one step ahead
As we followed in the dance
Between the parted pages and were pressed
In love's hot, fevered iron
Like a striped pair of pants

MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !

I recall the yellow cotton dress
Foaming like a wave
On the ground around your knees
The birds, like tender babies in your hands
And the old men playing checkers by the trees

MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !

(short instrumental)

2.
There will be another song for me
For I will sing it
There will be another dream for me
Someone will bring it

I will drink the wine while it is warm
And never let you catch me looking at the sun
And after all the loves of my life
After all the loves of my life
You'll still be the one

I will take my life into my hands
and I will use it
I will win the worship in their eyes
and I will lose it

I will have the things that I desire
And my passion flow like rivers through the sky
And after all the loves of my life
Oh, after all the loves of my life
I'll be thinking of you
And wondering why

3.
(Instrumental)

4.
MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'Cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh no !
Oh no

No
Oh no



「マッカーサー・パーク」 【試訳】

1.
春は決して僕たちを待ってくれなかったんだよ
踊りながら追いかけていた時には
一歩だけ前を走っていたのに
愛という熱がこもったアイロンでプレスした
ストライプのズボンのように
僕らは本のページの間に挟まれていた

マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no !

黄色いコットンのドレスを思い出す
波のように仕立ててあって
地面の上で君のひざを包む
か弱い赤ん坊のような鳥が君の両手に収まり
老人たちは木のそばでチェッカーに興じている

マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no !

(short instrumental)

2.
僕にはまた別の歌があるだろう
僕はそれを歌おう
僕にはまた別の夢があるだろう
誰かがそれを運んできてくれる

僕は温かいうちにワインを飲む
そして太陽を見ている僕を
君に捕まえさせはしない
それでも結局のところ僕の人生の愛は
結局のところ僕の人生の愛は
君がたった一つの存在であり続けるだろう

自分の人生を自分の手の中に収め
うまくやってみせよう
皆から尊敬の眼差しを勝ち取り
そして失うのだ

本当に望むものを手に入れよう
僕の情熱は川のよう流れて空をめぐる
それでも結局のところ僕の人生の愛は
ああ、結局のところ僕の人生の愛は
君のことを考えているだろう
それを不思議に思いながら

3.
(Instrumental)

4.
マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく
甘い緑の砂糖はすべて流れ落ちていく
誰かが雨の中にケーキを忘れていった
ケーキはもう食べられないと思う
焼くのにすごく時間がかかるし
そのレシピも二度と手にできないから
Oh no!
Oh no

No
Oh no


あたりまえですが、これは論理的な文章ではなく、詩です。人によって受け取り方は違って当然です。特にこの詩はいろんな解釈が可能な部分が多い。使われている単語は容易ですが、難解そうな言い回しが並んでいます。一つ確実なのは「恋人と別れた心情を綴った詩」だということです。これはジミー・ウェッブの実体験に基づいているそうで、マッカーサー・パーク(マッカーサー公園)は、その恋人とよくデートした場所とのことです。

さらに、別れたあとの心情、ないしは失恋の表現ということ以外に詩から読み取れるのは、次の3点です。

主人公(僕)はマッカーサー公園の情景を眺めながら、かつての恋人と過ごした時間をしのんでいる。

主人公は恋人の思い出を断ち切り、新たな自分の人生を歩みたいと強く考えている。

しかしその女性が忘れられない。想いはまだ続いていて、今後も続くのでは思う。自分でも "なぜ" と思うくらいだ。

個々の言葉の選択は別として、ほぼ ① ② ③ のような内容が展開されているのは確かでしょう。ここまではいいとして、それから先の詳細は多様な解釈ができます。それは、抽象的で何かを象徴するような言葉がちりばめられているからです。

  踊りながら春を追いかけていた
本のページに挟まれていた
雨の中の忘れられたケーキ
二度と手できないレシピ
温かいうちにワインを飲む
 ・
 ・

どう受け取るかは聴く人の自由です。難解な感じがしますが、解釈の自由があります。ポイントは3回繰り返される「マッカーサー・パークは夕闇に溶けていく ~ レシピも二度と手できないから」のパラグラフで、3回も繰り返されるのだからこの部分に含まれるイメージが重要なはずです。その重要な一つは、やはり「暗闇が迫るマッカーサー・パーク」でしょう。昼間にあったさまざまな事物が闇の中に溶けてしまったような公園の情景のイメージです。もう一つは「雨の中の忘れられたケーキ」です。食べ残したケーキが公園のベンチ(かテーブル)にポツンと忘れて置かれていて、そのケーキにかけられたアイシング(icing。糖衣。訳では "砂糖" とした)が流れ出している。これは明らかに私と彼女の象徴でしょう。このケーキは2度と作れないのだから ・・・・・・。

以上のようにいろいろ見ていくと、"MacArthur Park" は「多様な解釈ができる象徴性の高い詩」といえます。





音楽としての流れを文章で説明するのは限界があるので、YouTube などで公開されている音源を聴くのが一番です。

この曲は、最初の「春は決して僕たちを待ってくれないんだよ / 踊りながら追いかけていた時には / 一歩だけ前を走っていたのに」のところのメロディーが繰り返され、また単に繰り返すだけでなく旋律が変化し、進んでいきます(=第1部)。

Short Instrumental のあとは、更に旋律が変奏され、何となく終りが見えない感じで続いていきます(=第2部)。そして第3部の Instrumental があったあと、第4部で再び初めの旋律と歌詞が戻り、高揚してクライマックスを迎えます。最後は、Oh no という "嘆き" が数回繰り返されて終わる。

これは、たとえば Aメロ → Bメロ → サビ、とか、1番 → 2番 みたいな曲の作り方とは全く違います。全体として類似の旋律が繰り返されますが、一般に音楽ではしつこく繰り返すことによって盛り上げていく手法があって、この曲ではそれが効果を発揮しています。別れた女性や自分の人生についてあれこれと想いをめぐらしている、その「堂々巡りの意識の流れ」を音楽化したようにも思えます。メロディーラインは美しく、詩で表現されている感情の起伏もうまく受け止められている。普通のポップスの作り方とは違いますが、強い印象を与える曲です。


「ボヘミアン・ラプソディー」と「マッカーサー・パーク」


以上のように "MacArthur Park" は "異例の" 曲ですが、これは冒頭に書いた Queen の "Bohemian Rhapsody" とよく似ていると思うのです。個別にみていくと詞と曲の構成要素は全く違いますが、全体としての類似性がある。

まず 6分~7分という、シングル盤では異例の長さです。また、長いことに関係しますが、曲の作り方が複雑、かつ斬新です。"MacArthur Park" は4部から成っていますが、"Bohemian Rhapsody" も、アカペラ→バラード→オペラ→ロック→(エンディング)の4部(ないしは5部)構成が斬新でした。さらに、詩の言葉に象徴性があっていろいろの解釈が可能です。そういう類似性がある。

この2曲とも "野心的な" ソング・ライター(ジミー・ウェッブと、フレディ・マーキュリーおよびQueenメンバー)が、かねてからのアーティストとしての "想い" や "こだわり" を具現化した作品でしょう。その野心は空回りすることはなく、多くの人に受け入れられ、そして名曲として残ることになった。

映画「ボヘミアン・ラプソディー」の中の「マッカーサー・パークは7分だが売れた」というせりふには、明らかに "曲の長さ比較" 以上のものがこめられています。そういう風に意図した脚本かどうかは別にして ・・・・・・。"Bohemian Rhapsody" を擁護するのに "MacArthur Park" を引き合いに出すのはいかにもピッタリである、そう思いました。

Bohemian Rhapsody.jpg
Queen
「Bohemian Rhapsody」(1975)
John Deacon/Freddie Mercury/Brian May/Roger Taylor




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