No.157 - ノートン・サイモン美術館 [アート]
今までの記事で、個人コレクションをもとにした美術館について書きました。
の2つです。今回はその "シリーズ" の続きとして、アメリカのカリフォルニアにあるノートン・サイモン美術館のことを書きたいと思います。
電車で行ける
ノートン・サイモン美術館はロサンゼルス近郊のパサデナにありますが、ポイントの一つはロサンゼルスのダウンタウンから電車で行けることです。
ロサンゼルスの観光スポットと言うと、クルマがないと行けないところ、ないしは大層不便なところ(バスの乗り継ぎなど)もあるのですが(ディズニーランド、ナッツベリーファームなど)、ノートン・サイモン美術館に関しては2003年にメトロの「ゴールドライン」が開通し、電車で行けるようになりました。ダウンタウンのユニオン駅から乗って「メモリアル・パーク」という駅で下車します。
パサデナ・オールドタウン
メモリアル・パーク駅からノートン・サイモン美術館までは約1.2~3kmの距離ですが、是非、歩いていきましょう。というのも途中に "パサデナ・オールドタウン地区" があるからです。
パサデナは高級住宅街ですが、その中のオールドタウン地区は、昔からのレンガ造りの建物を生かした街づくりがされています。ここには各種のショップやアート・スポット、レストラン、カフェが立ち並び、大変おしゃれな感じのエリアです。そもそもパサデナ・オールドタウンがロサンゼルスの観光・ショッピングスポットの一つになっていて、美術に興味のない人でも楽しめます。
私は過去3回、ノートン・サイモン美術館に行ったことがありますが、はじめの2回はクルマで、3回目は当時開通していたメトロで行きました。パサデナ・オールドタウンを散策し、ランチを食べ(KABUKI という寿司・和食レストラン)、それから美術館に行ったことを覚えています。
ノートン・サイモン美術館は、実業家であったノートン・サイモン(1907-1993)のコレクションを元に開設されたものです。その意味ではバーンズ・コレクションやコートールド・コレクションと似ています。その多くの所蔵作品のごく一部を以下に紹介します。
スルバラン
実は次のスルバランの静物画が、個人的にはノートン・サイモン美術館の "一押し" の作品です。
スルバランは17世紀のスペインの画家で、ベラスケスとほぼ同時代人です。ほとんどの作品は宗教画ですが、この絵は静物画です。ちなみにこの絵は『レモン、籠のオレンジ、茶碗』と呼ばれるのが普通です。プラド美術館に同じスルバランの『茶碗、アンフォラ、壷』という作品があります。
このプラド美術館の絵がスペイン静物画(ボデゴン。厨房画)の最高傑作という評価らしいのですが、個人的にはノートン・サイモン美術館の絵のほうが上だと感じます。アメリカの美術館にあるのが "不利" に働いているのではないでしょうか。
ノートン・サイモン美術館の『レモンとオレンジとバラの静物』は、ひょとしたら何らかの祭壇の静物を描いたものかもしれません。また、描かれているレモン、オレンジ、バラ、カップのそれぞれは、宗教的な何かの象徴かもしれない。ほとんど宗教画しか描かなかった作者を考えると、その可能性はあると思います。しかし我々としては、これを "純粋な静物画" として見たいわけです。
静物画として考えると、果物と食器を中心にした絵は他にもいっぱいあります。果物では柑橘類や葡萄、苺などが多く、食器では素焼、陶器、金属、ガラスなどが描かれます。画家が目指すのはまず、光で照らされた静物の「質感」の表現で、その描写技術を追求するわけです。このような静物画は、17世紀~18世紀のオランダ絵画にヤマのようにあるし、現代でもいろいろと描かれています。
しかし問題は「リアルな質感表現」以上のものを絵から感じられるかどうかです。この手の静物画は実際に現物を見て、その場で何かビビッと感じるものが「あるか・ないか」、それで評価をするしかない。それは極めて個人的なものだし、画像ではわからないところが多々あります。この絵を実際に見たときの「感じ」を言葉で表現するのは難しいのですが、何とか箇条書きにすると、
となるでしょうか。レモンと籠のオレンジとバラとカップがシンプルに横一列に並んでいるだけで、構図に作為が全くない(ように見えてしまう)のも影響しているのだと思います。本当は計算し尽くされた構図なのだろうけれど・・・・・・。描かれたレモンとオレンジのサイズが重要なのかも知れません。とにかくこの絵を見たときは率直に素晴らしいと感じました。
静物画を見て「あっ、いいな」を思ったのは、このスルバランの絵が初めてではありません。ミラノのドゥオーモの近くに「アンブロジアーナ絵画館」がありますが、そこにカラヴァッジョの「果物籠」という傑作があります。この絵も初めて見たときには感動しましたが、真横から果物籠を描くという構図のシンプルさは、スルバランに通じるものがあるような気がします。
カニャッチ
今までの記事で宗教画をとりあげたことはほとんどなかったのですが、以前に唯一書いたマグダラのマリア( No.118「マグダラのマリア」)にちなんで、ノートン・サイモン美術館にある宗教画を取り上げます。
何だか "騒々しい" 画面構成ですが、描かれている光景からしてキリスト教の題材と推測できます。画面の中央の床の女性はマグダラのマリアです。彼女のアトリビュート(持物)である香油の瓶が描かれています。マリアは肌を露出したり、また半裸の姿で描かれることも多い。
No.118「マグダラのマリア」に書いたように、一般に言われている「マグダラのマリア」のイメージは、聖書にある数カ所の女性の記述をパッチワークのように合体し、またその後の伝説も加味して作り上げられたものです。その中に、マグダラのマリアには姉のマルタがいて、マルタはキリストの昇天後に財産を使徒たちに寄付したが、マリアは自分の財産と美貌をもとに享楽的な生活にふけっていた、しかしその後マリアは改悛して神に帰依した、という聖書解釈(というより創作物語)があります。
そのマリアを、右側の姉のマルタが諫めている場面です。マリアはそれに従って豪華な衣装を脱ぎ捨て、宝石を床に投げやった。左の上には悪魔が描かれていて、おそらくマリアを誘惑しようとしているのでしょう。中央の天使は、そうはさせまいと必死に悪魔を追い払っています。右の上には、この家の侍女と思える女性二人が描かれている、そういう構図です。
ただしマリアの手をよく見ると、まだ宝石をつかんでいます。"回心しきれていない" マリアを描いているようであり、つまり心の葛藤を描いたのでしょう。ちなみにこの絵は普通「マグダラのマリアの回心」と呼ばれています。
西洋の古典絵画は、聖書(とギリシャ・ローマ神話)を知らないと意味がわからない、とよく言われます。確かにそうですが、聖書を熟知しているとしても意味が分からない絵がたくさんあるのですね。特に、キリストの使徒や弟子にまつわる絵画がそうで、この絵はその典型と言えそうです。聖書においてマグダラのマリアは、キリストの磔刑・埋葬・復活というキリスト教の根幹にかかわる重要場面のすべてに登場する女性です。この絵に描かれたような "マグダラのマリア" は、聖書とは無縁です。聖書の隅々まで知っていたとしてもこの絵の意味は分からない。このあたりが、キリスト教徒ではない日本人からすると "敷居が高い" ところでしょう。カトリック教国の人たちからすると常識かも知れないけれど。
しかしこの絵は、そういう宗教画としての解釈を離れたとしても、絵としての完成度が高い。強い光が劇的場面を演出しているのですが、明暗のコントラストだけでなく、外からの穏やかな光を感じます。
その中の「青」の色使いが美しい。右上の空の青、左上のガラスを通した空の微かな青、中央の天使の布と、左下のマリアが着ていたはずの衣装の高貴な(豪華な)青、そして右下のマルタの質素で "くすんだ" 青。この五箇所の青の配置が光っています。空の青はマリアが "完全に" 改悛することを示しているのでしょう。画家の技量の冴えを感じる一枚です。
クールベ
ノルマンディー地方の海を描いた作品です。スイス国境に近い山間部、オルナン出身のクールベは、大人になってから初めて海を見て感激したそうです。そして海の光景を多く描きました。全部で170点ほどあるとされます。我々が良く知っているのは、上野の国立西洋美術館やオルセー美術館にあるような「波が海岸に激しく打ち寄せる光景」の絵ですが、この絵は違います。「海」とはいいながら、海らしきものはあまり見あたりません。
遠浅の海で、潮の干満差が大きく、引き潮の時には広い干潟が出現する、その干潟を描いたと思われます。画面の3分の2以上は空で、湾の向こうにあると思える低い山が遠くに見えます。写実絵画なのだろうけれど、後の印象派の絵のようにも見えるし、それを通り越して抽象画のような感じもある。青と白とバラ色の色使いが美しい、よい作品だと思います。
マネ
No.36「ベラスケスへのオマージュ」で次のようなことを書きました。
ノートン・サイモン美術館の『くず拾い』も、まさにベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』(No.36参照)の影響を感じる作品です。
ベラスケスの絵とマネのこの作品に共通するのは「背景をほとんど描かずに人物の全身像を描く」という手法です。かつ、職業に携わる人物の存在感を活写している。この絵もまた、マネが "ベラスケスの弟子" であることを表しているのでした。
ちなみに「くず拾い」というテーマでは、ボナールも描いていますね。No.95で書いた「バーンズ・コレクション」にボナールの「The Ragpickers」という作品があります(コレクションの Room 3 West Wall)。マネよりは40年ほど後の作品ですが、都市化が進んだパリの実状を描いたと言えるでしょう。社会における最下層の人であり、今で言うならホームレスでしょうが、そういうテーマにも斬新さを感じます。
もう一枚のマネ作品、『魚とエビのある静物』です。
No.155「コートールド・コレクション」で、マネの静物画が素晴らしいことを書きました。これはコートールド・コレクションを代表する作品と言える『フォーリーベルジェールのバー』に描かれた「カウンターの上の薔薇とミカン」のことでした。この絵以外に、マネの静物画を今まで2点とりあげています。
ノートン・サイモン美術館の『魚とエビのある静物』も優れた作品です。"テーブルの海産物" というテーマはフランドル絵画によくありますが、このように画面の中心に "ゴロッと魚が一匹横たわっている図" はめすらしいのではと思います。『アスパラガス』も『スモモ』もそうですが、画家は明らかに魚にしかない固有の質感や雰囲気の表現だけに興味を持っています。印象派の先駆者らしい筆さばきで "鮮魚" の感じをうまくとらえていると思います。
ドガ
ノートン・サイモン美術館はドガの作品が非常に充実しています。それも油絵やパステル画だけでなく、彫刻がそろっている。彫刻といっても、ほとんどは No.86「ドガとメアリー・カサット」に出てきた "マケット" というやつです。ポーズの研究のために画家が制作した小さな彫刻です。この美術館には「踊り子」や「馬」のマケットがたくさんあって、それとともに「踊り子」や「馬」を画題とする絵が展示されています。ドガの制作態度がよく分かります。
なお、No.86で紹介した原田マハ氏の『エトワール』という短編小説は『14歳の小さな踊り子』という(マケットではない)ドガの彫刻がテーマになっていましたが、その像もあります(上の画像)。
ノートン・サイモン美術館が所蔵するドガの絵画作品を一つだけあげると、次の「Waiting」というパステル画です。母親と娘の踊り子でしょうか、何かを待っています。おそらくオーディションとか、何らかの試験、ないしは単に出番を待っているのかもしれない。踊り子は、待ち時間のあいだに手で足の踝をさすっているようです。一方の母親は緊張してじっと顔を前に向けている。視線には何も入っていないはずです。
ある一瞬を切り取る、というドガの画風が現れた一枚です。俯瞰する構図をとり、女性の表情を全く描かない、という描きかたも印象的です。
ゴッホ
Mulberry とは「桑の実」のことですね。ということはこの絵は「桑の木 = 日本で言うヤマグワ」を描いたものです。
しかしこの絵から受ける印象として、黄葉になったヤマグワを描くことが目的という感じはしません。すべての形がうねっていて、現実とは遊離しています。そのように見えたというより、現実の形そのものには画家の関心がないようです。
画家が描こうとしたのは「色」そのものでしょう。ヤマグワの黄葉の美しい黄色と、土地の白っぽい黄色、空の青と、木の緑と、それから "何かの赤" です。画家はまず黄色に感動し、その周りに青・緑・赤を配して絵にした。使われている黄色も「カラスが群れ飛ぶ麦畑」のような不吉な黄色ではなく、明るく、晴れやかで、鮮やかな黄色です。
画面に描かれている橙色のものは何でしょうか。必ずしも明確ではないのですが、個人的には「ヤマグワの実 = Mulberry」と解釈することにしています。もっとも、桑の実にしては大きすぎるし、それに色が変です。桑の葉が黄色に染まるとき、まだ残っている完熟した桑の実は橙色ではなく、赤黒いというか、人の目には黒く見えるものです。しかし画家にとってそれはどうでもよい。この位置に橙色を "分かるように" 配することが重要だったのでしょう。
黄・青をメインに緑・橙を配して絵を描く・・・・・・。まるで美術の演習のようですが、ゴッホの手にかかるとこういう絵になってしまうわけです。画家のずば抜けた色彩感覚を感じる一枚です。
余談ですが、前に掲げたカラヴァッジョの『果物籠』という絵にも、一見して桑(ヤマグワ)と分かる植物が描かれています。桑の若い木は葉に不規則な亀裂が入ることが特徴で、こういう形の葉は、人になじみのある木ではまず桑です。『果物籠』というタイトルの絵に桑を描き込むのは日本人からすると違和感があるのですが、これは当然、西欧文化においては「桑 = 実(Mulberry)= 果物」ということでしょう。もちろん東アジア文化では「桑 = 葉 = 養蚕」です。
なお、ノートン・サイモン美術館にはゴッホが母親を描いた肖像画があります。妹から送られてきた写真をもとに描いたものです。
アンリ・ルソー
"空想の中の熱帯のジャングル" といった風情の作品です。こういったタイプの絵はルソー作品によくあります。以前の記事でとりあげた例では、No.72「楽園のカンヴァス」で引用した『夢』『蛇使いの女』、No.95「バーンズ・コレクション」の『虎に襲われる斥候』(Room 14 North Wall)『熱帯の森を散歩する女』『原始林の猿とオウム』(Room 11 North Wall)などです。
一連の絵で感じるのは「植物」や「緑」に対する画家の強いこだわりです。「植物でカンヴァスを埋め尽くすために、わざわざ見たこともない熱帯のジャングルを描いている」という感じがします。No.155「コートールド・コレクション」で引用した『税関』という絵を思い出します。パリの南門の税関を描いているはずなのに「ありえないほどの緑」が溢れている。つまり、パリの税関なら違和感が出くる、しかし異国の熱帯ならいいだろう、みたいな・・・・・・。
パリでの生活が長い画家にとって、都市化が進む大都会からどんどん失われていく「緑」に対する郷愁を絵にした、それが "ジャングル・シリーズ" であり、画家にとっての楽園だった・・・・・・。そんなことを想像したりします。
モディリアーニ
妻のジャンヌを描いた絵ですが、その形といい、目の描き方といい、モディリアーニの絵の一つの典型です。ジャンヌも非常に落ち着いていて、穏やかという感じを受けます。
ジャンヌを描いた絵は多くありますが、この絵はモディリアーニが妻のジャンヌを最もヴィーナスに引き寄せて描いた絵だと思います。ヴィーナスとは、もちろんボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」で描いた女性像です。
ピカソ
ノートン・サイモン美術館のホームページに次のような意味のことが書いてあります。
実際に美術館に行くと、このピカソの絵の解説の横にアングルの絵の写真が掲示されていました。
なるほど、と思います。ピカソの絵の後ろの方に "黄色い額縁の絵のようなもの" がかかっているのですが、実はこれは『モワテシエ夫人の肖像』における "鏡に映った横顔" なのですね。またピカソの絵では女性が本を妙な形に開いていますが、これはアングルの絵の「扇」に似せたということでしょう。ピカソは "アングルを踏まえて描いた" という証拠を絵の中に残したわけです。
ピカソの「アングルを踏まえた絵」は、この絵だけでなくいろいろあると言います。No.72で引用した原田マハ氏の『楽園のカンヴァス』に、
という意味のことが書かれていました。小説の中の人物の発言ですが、作者の(ないしは美術界の)意見が入っていると見ていいと思います。確かにアングルが人物を描いた絵には、一見リアリズムのように見えながら、よく見ると「異様に引き延ばされた人体 = 現実にはありえないデフォルメ」がよくあります。そういえば『モワテシエ夫人の肖像』も、鏡に映った夫人の顔は、光学的にはありえない配置・構図です。
その『モワテシエ夫人の肖像』ですが、アングルはこの絵の5年前にも肖像画を描いています。それは夫人の立像で、アメリカのワシントン D.C.のナショナル・ギャラリーにあります。
2つの絵から伝わってくるのは、夫人の "豊満でふくよかな感じ" であり、"ギリシャ・ローマ彫刻によくあるような彫りの深い古典的な顔立ち" です。これはピカソのいわゆる「新古典主義の時代」の絵に描かれた人物像を連想させます。特に額と鼻筋がつながっている顔立ちはピカソの人物像とそっくりだと思うのです。ピカソの「新古典主義の時代」の絵は『モワテシエ夫人の肖像』を始めとするアングル作品、特に古典的風貌の人物像に触発されたのではないでしょうか。
アングルとの関係はさておき、「本を持つ女」を見て直感的に連想する、別のピカソの絵があります。ニューヨーク近代美術館(MoMA)にある『鏡の前の少女』という作品です。非常によく似ています。それもそのはずで『鏡の前の少女』もまたマリー=テレーズを描いた絵なのです。MoMA のサイトにそう書いてあります。
この MoMA の絵は、No.150「クリスティーナの世界」で引用した原田氏の短編小説集『モダン』の表紙になりました。モダン・アートの殿堂である MoMA を舞台とし、モダン・アートをテーマにした短編集だから『モダン』という本の題名になっているわけです。その表紙にピカソの『鏡の前の少女』を採用するということは、この絵は MoMA が所有するモダン・アートの代表格ということでしょう(少なくとも原田氏の考えでは)。
だとすると、ノートン・サイモン美術館の『本をもつ女』もモダン・アートの代 表格と言っていいのではないか。そして、描かれているテーマの影響だと思うのですが、ノートン・サイモンの絵の方が MoMA の絵より "品がある" 感じがします。
黒くて太い線で画面を区切り、強い色彩を乱舞させるという "どぎつい" 絵画手法だけれど、絵の全体から受ける印象は不思議と落ち着いていて、すっきりとしています。女性の可愛らしさや色香もしっかりと出ている。それでいて、ピカソの絵に時として見かける "下品な感じ" がありません。
ノートン・サイモン美術館のホームページの解説にもあるのですが、20世紀の画家の大きな仕事は「抽象と具象のバランスをどうとるか」だったわけです。『本をもつ女』は『鏡の前の少女』と似ていると書きましたが、"抽象化の度合い" は明らかに違います。ピカソも、同じモデルを描きつつ、いろいろと試行しているのです。一歩間違えば駄作になりかねないような微妙な均衡の上にこの絵は成り立っているようで、大変にいい絵だと思います。この作品は、スルバランに次いでノートン・サイモン美術館の「二押し」の作品です。
個人的には、ノートン・サイモン美術館の「一押し」がスルバラン、「二押し」がこのピカソなのですが、二つとも(たまたま)スペイン人の作品です。そして、スルバランはプラド美術館の静物よりも訴えてくるものがあり、ピカソは MoMA のマリー=テレーズよりも素晴らしい・・・・・・。というのが言い過ぎなら、プラド美術館とMoMAと同等の作品がノートン・サイモン美術館にある・・・・・・。この美術館のレベルの高さを象徴しています。
ノートン・サイモン美術館
ノートン・サイモン美術館が所蔵している欧米の絵画は、上にあげた以外にも、ルネサンス以前の宗教画の数々から始まり、有名な画家では、
などの作品があります(絵を紹介した画家を除く)。またこの美術館は広重の浮世絵を大量に所蔵していて、さらに北斎もあります。私が3回目に行ったときには、広重の『富士三十六景』や『名所江戸百景』からの数枚が展示してありました。
この美術館は、全体的に質が高く「中庸でノーマルなコレクション」という感じです。No.95 で紹介した「バーンズ・コレクション」と比較すると、それが鮮明です。バーンズ・コレクションは、ルノワールが 181点あるとか、セザンヌやマティスも大量にあるとか、23ある展示室にはアメリカ絵画が少なくとも2点あるとか、コレクターの「強いこだわり」が随所にあるのですが、ノートン・サイモン美術館にはそれはありません。美術好きの実業家が大金持ちになり、有名画家の良い絵を素直に集めたという感じがします。西洋の絵画の歴史もよく分かる、そういった美術館です。
ノートン・サイモン美術館は、中庭と敷地内の庭が広くて美しいことも特徴です。しゃれたティー・ハウスもあります。また始めに述べたように、近くにはパサデナ・オールドタウンがあります。そういった周辺まで含めて、ロサンゼルスで1日を過ごすにはよい場所だと思います。
本文中でノートン・サイモン美術館の "二押し" の作品が、ピカソの『本を持つ女』だとしましたが、この絵は「アングルを踏まえたマリー・テレーズの肖像」です。ノートン・サイモン美術館では絵の解説の横にアングル作品の写真が掲示されていました(2012年時点)。その写真と説明(英文と試訳)を以下に掲載しておきます。
この解説の最後の方でピカソとアングルの類似性があげられていますが、その中で「優美で感覚的な線(graceful, sensuous lines)」と書かれているのが印象的です。
そして、このことは "本をもつ女" に関してだけではないのかも知れません。つまり「ピカソはアングルから学んだ」とはよく言われることですが、それはアングルの絵によくある「様式化」だけでなく、「優美で感覚的な線」も学んだのかと思います。
バーンズ・コレクション | |||
コートールド・コレクション |
の2つです。今回はその "シリーズ" の続きとして、アメリカのカリフォルニアにあるノートン・サイモン美術館のことを書きたいと思います。
電車で行ける
ノートン・サイモン美術館はロサンゼルス近郊のパサデナにありますが、ポイントの一つはロサンゼルスのダウンタウンから電車で行けることです。
ロサンゼルスの観光スポットと言うと、クルマがないと行けないところ、ないしは大層不便なところ(バスの乗り継ぎなど)もあるのですが(ディズニーランド、ナッツベリーファームなど)、ノートン・サイモン美術館に関しては2003年にメトロの「ゴールドライン」が開通し、電車で行けるようになりました。ダウンタウンのユニオン駅から乗って「メモリアル・パーク」という駅で下車します。
パサデナ・オールドタウン
メモリアル・パーク駅からノートン・サイモン美術館までは約1.2~3kmの距離ですが、是非、歩いていきましょう。というのも途中に "パサデナ・オールドタウン地区" があるからです。
パサデナは高級住宅街ですが、その中のオールドタウン地区は、昔からのレンガ造りの建物を生かした街づくりがされています。ここには各種のショップやアート・スポット、レストラン、カフェが立ち並び、大変おしゃれな感じのエリアです。そもそもパサデナ・オールドタウンがロサンゼルスの観光・ショッピングスポットの一つになっていて、美術に興味のない人でも楽しめます。
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パサデナ・オールドタウンの界隈
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私は過去3回、ノートン・サイモン美術館に行ったことがありますが、はじめの2回はクルマで、3回目は当時開通していたメトロで行きました。パサデナ・オールドタウンを散策し、ランチを食べ(KABUKI という寿司・和食レストラン)、それから美術館に行ったことを覚えています。
ノートン・サイモン美術館は、実業家であったノートン・サイモン(1907-1993)のコレクションを元に開設されたものです。その意味ではバーンズ・コレクションやコートールド・コレクションと似ています。その多くの所蔵作品のごく一部を以下に紹介します。
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ノートン・サイモン美術館
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スルバラン
実は次のスルバランの静物画が、個人的にはノートン・サイモン美術館の "一押し" の作品です。
以下に掲げる画像と英語の題名は、美術館のホームページに掲載されているものです。題名の直訳をつけました。 |
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フランシスコ・デ・スルバラン
Francisco de Zurbaran(1598-1664) Still Life with Lemons, Oranges and a Rose(1633)
「レモンとオレンジとバラの静物」
( 62cm×110cm ) |
スルバランは17世紀のスペインの画家で、ベラスケスとほぼ同時代人です。ほとんどの作品は宗教画ですが、この絵は静物画です。ちなみにこの絵は『レモン、籠のオレンジ、茶碗』と呼ばれるのが普通です。プラド美術館に同じスルバランの『茶碗、アンフォラ、壷』という作品があります。
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スルバラン
「茶碗、アンフォラ、壷」
プラド美術館
( site:www.museodelprado.es ) |
このプラド美術館の絵がスペイン静物画(ボデゴン。厨房画)の最高傑作という評価らしいのですが、個人的にはノートン・サイモン美術館の絵のほうが上だと感じます。アメリカの美術館にあるのが "不利" に働いているのではないでしょうか。
ノートン・サイモン美術館の『レモンとオレンジとバラの静物』は、ひょとしたら何らかの祭壇の静物を描いたものかもしれません。また、描かれているレモン、オレンジ、バラ、カップのそれぞれは、宗教的な何かの象徴かもしれない。ほとんど宗教画しか描かなかった作者を考えると、その可能性はあると思います。しかし我々としては、これを "純粋な静物画" として見たいわけです。
静物画として考えると、果物と食器を中心にした絵は他にもいっぱいあります。果物では柑橘類や葡萄、苺などが多く、食器では素焼、陶器、金属、ガラスなどが描かれます。画家が目指すのはまず、光で照らされた静物の「質感」の表現で、その描写技術を追求するわけです。このような静物画は、17世紀~18世紀のオランダ絵画にヤマのようにあるし、現代でもいろいろと描かれています。
しかし問題は「リアルな質感表現」以上のものを絵から感じられるかどうかです。この手の静物画は実際に現物を見て、その場で何かビビッと感じるものが「あるか・ないか」、それで評価をするしかない。それは極めて個人的なものだし、画像ではわからないところが多々あります。この絵を実際に見たときの「感じ」を言葉で表現するのは難しいのですが、何とか箇条書きにすると、
・ | 静粛 | ||
・ | 質素 | ||
・ | 澄んだ空気感 | ||
・ | モノが存在をしっかりと主張している | ||
・ | すがすがしい |
となるでしょうか。レモンと籠のオレンジとバラとカップがシンプルに横一列に並んでいるだけで、構図に作為が全くない(ように見えてしまう)のも影響しているのだと思います。本当は計算し尽くされた構図なのだろうけれど・・・・・・。描かれたレモンとオレンジのサイズが重要なのかも知れません。とにかくこの絵を見たときは率直に素晴らしいと感じました。
静物画を見て「あっ、いいな」を思ったのは、このスルバランの絵が初めてではありません。ミラノのドゥオーモの近くに「アンブロジアーナ絵画館」がありますが、そこにカラヴァッジョの「果物籠」という傑作があります。この絵も初めて見たときには感動しましたが、真横から果物籠を描くという構図のシンプルさは、スルバランに通じるものがあるような気がします。
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カラヴァッジョ
「果物籠」(1599)
アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)
( Wikimedia ) |
カニャッチ
今までの記事で宗教画をとりあげたことはほとんどなかったのですが、以前に唯一書いたマグダラのマリア( No.118「マグダラのマリア」)にちなんで、ノートン・サイモン美術館にある宗教画を取り上げます。
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グイド・カニャッチ
Guido Cagnacci(1601-1663) Martha Rebuking Mary for her Vanity(1660)
「マリアの虚栄を責めるマルタ」
( 229cm×266cm ) |
何だか "騒々しい" 画面構成ですが、描かれている光景からしてキリスト教の題材と推測できます。画面の中央の床の女性はマグダラのマリアです。彼女のアトリビュート(持物)である香油の瓶が描かれています。マリアは肌を露出したり、また半裸の姿で描かれることも多い。
No.118「マグダラのマリア」に書いたように、一般に言われている「マグダラのマリア」のイメージは、聖書にある数カ所の女性の記述をパッチワークのように合体し、またその後の伝説も加味して作り上げられたものです。その中に、マグダラのマリアには姉のマルタがいて、マルタはキリストの昇天後に財産を使徒たちに寄付したが、マリアは自分の財産と美貌をもとに享楽的な生活にふけっていた、しかしその後マリアは改悛して神に帰依した、という聖書解釈(というより創作物語)があります。
そのマリアを、右側の姉のマルタが諫めている場面です。マリアはそれに従って豪華な衣装を脱ぎ捨て、宝石を床に投げやった。左の上には悪魔が描かれていて、おそらくマリアを誘惑しようとしているのでしょう。中央の天使は、そうはさせまいと必死に悪魔を追い払っています。右の上には、この家の侍女と思える女性二人が描かれている、そういう構図です。
ただしマリアの手をよく見ると、まだ宝石をつかんでいます。"回心しきれていない" マリアを描いているようであり、つまり心の葛藤を描いたのでしょう。ちなみにこの絵は普通「マグダラのマリアの回心」と呼ばれています。
西洋の古典絵画は、聖書(とギリシャ・ローマ神話)を知らないと意味がわからない、とよく言われます。確かにそうですが、聖書を熟知しているとしても意味が分からない絵がたくさんあるのですね。特に、キリストの使徒や弟子にまつわる絵画がそうで、この絵はその典型と言えそうです。聖書においてマグダラのマリアは、キリストの磔刑・埋葬・復活というキリスト教の根幹にかかわる重要場面のすべてに登場する女性です。この絵に描かれたような "マグダラのマリア" は、聖書とは無縁です。聖書の隅々まで知っていたとしてもこの絵の意味は分からない。このあたりが、キリスト教徒ではない日本人からすると "敷居が高い" ところでしょう。カトリック教国の人たちからすると常識かも知れないけれど。
しかしこの絵は、そういう宗教画としての解釈を離れたとしても、絵としての完成度が高い。強い光が劇的場面を演出しているのですが、明暗のコントラストだけでなく、外からの穏やかな光を感じます。
その中の「青」の色使いが美しい。右上の空の青、左上のガラスを通した空の微かな青、中央の天使の布と、左下のマリアが着ていたはずの衣装の高貴な(豪華な)青、そして右下のマルタの質素で "くすんだ" 青。この五箇所の青の配置が光っています。空の青はマリアが "完全に" 改悛することを示しているのでしょう。画家の技量の冴えを感じる一枚です。
クールベ
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ギュスターヴ・クールベ
Gustave Courbet(1819-1877) Marine(1865/66)
「海」
( 50cm×61cm ) |
ノルマンディー地方の海を描いた作品です。スイス国境に近い山間部、オルナン出身のクールベは、大人になってから初めて海を見て感激したそうです。そして海の光景を多く描きました。全部で170点ほどあるとされます。我々が良く知っているのは、上野の国立西洋美術館やオルセー美術館にあるような「波が海岸に激しく打ち寄せる光景」の絵ですが、この絵は違います。「海」とはいいながら、海らしきものはあまり見あたりません。
遠浅の海で、潮の干満差が大きく、引き潮の時には広い干潟が出現する、その干潟を描いたと思われます。画面の3分の2以上は空で、湾の向こうにあると思える低い山が遠くに見えます。写実絵画なのだろうけれど、後の印象派の絵のようにも見えるし、それを通り越して抽象画のような感じもある。青と白とバラ色の色使いが美しい、よい作品だと思います。
マネ
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エドゥアール・マネ
Edouard Manet(1832-1883) The Ragpicker(1865/70)
「くず拾い」
( 195cm×131cm ) |
No.36「ベラスケスへのオマージュ」で次のようなことを書きました。
◆ | マネはプラド美術館を訪れ、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』に感銘を受けた。 | ||
◆ | 帰国後、ベラスケスへのオマージュとして『悲劇役者』(1866。ワシントン・ナショナル・ギャラリー)を描いた。 | ||
◆ | さらに、その一環として有名な『笛を吹く少年』(1866。オルセー美術館)を描いた。 |
ノートン・サイモン美術館の『くず拾い』も、まさにベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』(No.36参照)の影響を感じる作品です。
ベラスケスの絵とマネのこの作品に共通するのは「背景をほとんど描かずに人物の全身像を描く」という手法です。かつ、職業に携わる人物の存在感を活写している。この絵もまた、マネが "ベラスケスの弟子" であることを表しているのでした。
ちなみに「くず拾い」というテーマでは、ボナールも描いていますね。No.95で書いた「バーンズ・コレクション」にボナールの「The Ragpickers」という作品があります(コレクションの Room 3 West Wall)。マネよりは40年ほど後の作品ですが、都市化が進んだパリの実状を描いたと言えるでしょう。社会における最下層の人であり、今で言うならホームレスでしょうが、そういうテーマにも斬新さを感じます。
もう一枚のマネ作品、『魚とエビのある静物』です。
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エドゥアール・マネ
Edouard Manet Still Life with Fish and Shrimp(1864)
「魚とエビのある静物」
(45cm×73cm) |
No.155「コートールド・コレクション」で、マネの静物画が素晴らしいことを書きました。これはコートールド・コレクションを代表する作品と言える『フォーリーベルジェールのバー』に描かれた「カウンターの上の薔薇とミカン」のことでした。この絵以外に、マネの静物画を今まで2点とりあげています。
「アスパラガス」(1880) No.3「ドイツ料理万歳」 | |||
「スモモ」(1880) No.111「肖像画切り裂き事件」 |
ノートン・サイモン美術館の『魚とエビのある静物』も優れた作品です。"テーブルの海産物" というテーマはフランドル絵画によくありますが、このように画面の中心に "ゴロッと魚が一匹横たわっている図" はめすらしいのではと思います。『アスパラガス』も『スモモ』もそうですが、画家は明らかに魚にしかない固有の質感や雰囲気の表現だけに興味を持っています。印象派の先駆者らしい筆さばきで "鮮魚" の感じをうまくとらえていると思います。
ドガ
ノートン・サイモン美術館はドガの作品が非常に充実しています。それも油絵やパステル画だけでなく、彫刻がそろっている。彫刻といっても、ほとんどは No.86「ドガとメアリー・カサット」に出てきた "マケット" というやつです。ポーズの研究のために画家が制作した小さな彫刻です。この美術館には「踊り子」や「馬」のマケットがたくさんあって、それとともに「踊り子」や「馬」を画題とする絵が展示されています。ドガの制作態度がよく分かります。
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なお、No.86で紹介した原田マハ氏の『エトワール』という短編小説は『14歳の小さな踊り子』という(マケットではない)ドガの彫刻がテーマになっていましたが、その像もあります(上の画像)。
ノートン・サイモン美術館が所蔵するドガの絵画作品を一つだけあげると、次の「Waiting」というパステル画です。母親と娘の踊り子でしょうか、何かを待っています。おそらくオーディションとか、何らかの試験、ないしは単に出番を待っているのかもしれない。踊り子は、待ち時間のあいだに手で足の踝をさすっているようです。一方の母親は緊張してじっと顔を前に向けている。視線には何も入っていないはずです。
ある一瞬を切り取る、というドガの画風が現れた一枚です。俯瞰する構図をとり、女性の表情を全く描かない、という描きかたも印象的です。
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エドガー・ドガ
Edgar Degas(1834-1917) Waiting(1879/82)
「待つ」
( 48cm×61cm ) |
ゴッホ
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フィンセント・ファン・ゴッホ
Vincent van Gogh(1853-1890) The Mulberry Tree(1889)
「桑の木」
( 54cm×65cm ) |
Mulberry とは「桑の実」のことですね。ということはこの絵は「桑の木 = 日本で言うヤマグワ」を描いたものです。
しかしこの絵から受ける印象として、黄葉になったヤマグワを描くことが目的という感じはしません。すべての形がうねっていて、現実とは遊離しています。そのように見えたというより、現実の形そのものには画家の関心がないようです。
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ヤマグワの実のと黄葉
(site:www.tokyo-park.or.jp) |
画面に描かれている橙色のものは何でしょうか。必ずしも明確ではないのですが、個人的には「ヤマグワの実 = Mulberry」と解釈することにしています。もっとも、桑の実にしては大きすぎるし、それに色が変です。桑の葉が黄色に染まるとき、まだ残っている完熟した桑の実は橙色ではなく、赤黒いというか、人の目には黒く見えるものです。しかし画家にとってそれはどうでもよい。この位置に橙色を "分かるように" 配することが重要だったのでしょう。
黄・青をメインに緑・橙を配して絵を描く・・・・・・。まるで美術の演習のようですが、ゴッホの手にかかるとこういう絵になってしまうわけです。画家のずば抜けた色彩感覚を感じる一枚です。
余談ですが、前に掲げたカラヴァッジョの『果物籠』という絵にも、一見して桑(ヤマグワ)と分かる植物が描かれています。桑の若い木は葉に不規則な亀裂が入ることが特徴で、こういう形の葉は、人になじみのある木ではまず桑です。『果物籠』というタイトルの絵に桑を描き込むのは日本人からすると違和感があるのですが、これは当然、西欧文化においては「桑 = 実(Mulberry)= 果物」ということでしょう。もちろん東アジア文化では「桑 = 葉 = 養蚕」です。
なお、ノートン・サイモン美術館にはゴッホが母親を描いた肖像画があります。妹から送られてきた写真をもとに描いたものです。
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フィンセント・ファン・ゴッホ Portrait of the Artist's Mother(1888) |
「画家の母の肖像」 ( 41cm×32cm ) |
アンリ・ルソー
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アンリ・ルソー
Henri Rousseau(1844-1910) Exotic Landscape(1910)
「異国の風景」
( 130cm×163cm ) |
"空想の中の熱帯のジャングル" といった風情の作品です。こういったタイプの絵はルソー作品によくあります。以前の記事でとりあげた例では、No.72「楽園のカンヴァス」で引用した『夢』『蛇使いの女』、No.95「バーンズ・コレクション」の『虎に襲われる斥候』(Room 14 North Wall)『熱帯の森を散歩する女』『原始林の猿とオウム』(Room 11 North Wall)などです。
一連の絵で感じるのは「植物」や「緑」に対する画家の強いこだわりです。「植物でカンヴァスを埋め尽くすために、わざわざ見たこともない熱帯のジャングルを描いている」という感じがします。No.155「コートールド・コレクション」で引用した『税関』という絵を思い出します。パリの南門の税関を描いているはずなのに「ありえないほどの緑」が溢れている。つまり、パリの税関なら違和感が出くる、しかし異国の熱帯ならいいだろう、みたいな・・・・・・。
パリでの生活が長い画家にとって、都市化が進む大都会からどんどん失われていく「緑」に対する郷愁を絵にした、それが "ジャングル・シリーズ" であり、画家にとっての楽園だった・・・・・・。そんなことを想像したりします。
モディリアーニ
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アメディオ・モディリアーニ
Amedeo Modigliani(1884-1920) Portrait of the Artist's Wife,Jeanne Hebuterne(1918)
「画家の妻、ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」
( 101cm×66cm ) |
妻のジャンヌを描いた絵ですが、その形といい、目の描き方といい、モディリアーニの絵の一つの典型です。ジャンヌも非常に落ち着いていて、穏やかという感じを受けます。
ジャンヌを描いた絵は多くありますが、この絵はモディリアーニが妻のジャンヌを最もヴィーナスに引き寄せて描いた絵だと思います。ヴィーナスとは、もちろんボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」で描いた女性像です。
ピカソ
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パブロ・ピカソ
Pablo Picasso(1881-1973) Woman with a Book(1932)
「本を持つ女」
( 131cm×98cm ) |
ノートン・サイモン美術館のホームページに次のような意味のことが書いてあります。
この絵は、ピカソがアングルの『モワテシエ夫人の肖像』を踏まえ、マリー=テレーズを描いたものである。 |
実際に美術館に行くと、このピカソの絵の解説の横にアングルの絵の写真が掲示されていました。
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ドミニク・アングル
「モワテシエ夫人の肖像」(1856) ロンドン・ナショナル・ギャラリー ( site:www.nationalgallery.org.uk ) |
なるほど、と思います。ピカソの絵の後ろの方に "黄色い額縁の絵のようなもの" がかかっているのですが、実はこれは『モワテシエ夫人の肖像』における "鏡に映った横顔" なのですね。またピカソの絵では女性が本を妙な形に開いていますが、これはアングルの絵の「扇」に似せたということでしょう。ピカソは "アングルを踏まえて描いた" という証拠を絵の中に残したわけです。
ピカソの「アングルを踏まえた絵」は、この絵だけでなくいろいろあると言います。No.72で引用した原田マハ氏の『楽園のカンヴァス』に、
・ | ピカソはアングルから様式化を学んだ。 | ||
・ | 様式化があって、その究極に抽象化がある。 |
という意味のことが書かれていました。小説の中の人物の発言ですが、作者の(ないしは美術界の)意見が入っていると見ていいと思います。確かにアングルが人物を描いた絵には、一見リアリズムのように見えながら、よく見ると「異様に引き延ばされた人体 = 現実にはありえないデフォルメ」がよくあります。そういえば『モワテシエ夫人の肖像』も、鏡に映った夫人の顔は、光学的にはありえない配置・構図です。
その『モワテシエ夫人の肖像』ですが、アングルはこの絵の5年前にも肖像画を描いています。それは夫人の立像で、アメリカのワシントン D.C.のナショナル・ギャラリーにあります。
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ドミニク・アングル
「モワテシエ夫人の肖像」(1851)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
( site : www.nga.gov ) |
2つの絵から伝わってくるのは、夫人の "豊満でふくよかな感じ" であり、"ギリシャ・ローマ彫刻によくあるような彫りの深い古典的な顔立ち" です。これはピカソのいわゆる「新古典主義の時代」の絵に描かれた人物像を連想させます。特に額と鼻筋がつながっている顔立ちはピカソの人物像とそっくりだと思うのです。ピカソの「新古典主義の時代」の絵は『モワテシエ夫人の肖像』を始めとするアングル作品、特に古典的風貌の人物像に触発されたのではないでしょうか。
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原田マハ「モダン」
表紙の絵は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵するピカソの「鏡の前の少女」
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この MoMA の絵は、No.150「クリスティーナの世界」で引用した原田氏の短編小説集『モダン』の表紙になりました。モダン・アートの殿堂である MoMA を舞台とし、モダン・アートをテーマにした短編集だから『モダン』という本の題名になっているわけです。その表紙にピカソの『鏡の前の少女』を採用するということは、この絵は MoMA が所有するモダン・アートの代表格ということでしょう(少なくとも原田氏の考えでは)。
だとすると、ノートン・サイモン美術館の『本をもつ女』もモダン・アートの代 表格と言っていいのではないか。そして、描かれているテーマの影響だと思うのですが、ノートン・サイモンの絵の方が MoMA の絵より "品がある" 感じがします。
黒くて太い線で画面を区切り、強い色彩を乱舞させるという "どぎつい" 絵画手法だけれど、絵の全体から受ける印象は不思議と落ち着いていて、すっきりとしています。女性の可愛らしさや色香もしっかりと出ている。それでいて、ピカソの絵に時として見かける "下品な感じ" がありません。
ノートン・サイモン美術館のホームページの解説にもあるのですが、20世紀の画家の大きな仕事は「抽象と具象のバランスをどうとるか」だったわけです。『本をもつ女』は『鏡の前の少女』と似ていると書きましたが、"抽象化の度合い" は明らかに違います。ピカソも、同じモデルを描きつつ、いろいろと試行しているのです。一歩間違えば駄作になりかねないような微妙な均衡の上にこの絵は成り立っているようで、大変にいい絵だと思います。この作品は、スルバランに次いでノートン・サイモン美術館の「二押し」の作品です。
個人的には、ノートン・サイモン美術館の「一押し」がスルバラン、「二押し」がこのピカソなのですが、二つとも(たまたま)スペイン人の作品です。そして、スルバランはプラド美術館の静物よりも訴えてくるものがあり、ピカソは MoMA のマリー=テレーズよりも素晴らしい・・・・・・。というのが言い過ぎなら、プラド美術館とMoMAと同等の作品がノートン・サイモン美術館にある・・・・・・。この美術館のレベルの高さを象徴しています。
ノートン・サイモン美術館
ノートン・サイモン美術館が所蔵している欧米の絵画は、上にあげた以外にも、ルネサンス以前の宗教画の数々から始まり、有名な画家では、
リッピ、ボッティチェリ、ラファエロ、エル・グレコ、ルーベンス、レーニ、ロラン、ルイスダール、レンブラント、ハルス、シャルダン、ゴヤ、ヴジェ=ルブラン、アングル、コロー、ドービニー、ドーミエ、ファンタン=ラトゥール、セザンヌ、モネ、ルノワール、ピサロ、ロートレック、ゴーギャン、ボナール、シャヴァンヌ、マティス、ルオー、ブラック、カンディンスキー、クレー、サム・フランシス、ウォーホール |
などの作品があります(絵を紹介した画家を除く)。またこの美術館は広重の浮世絵を大量に所蔵していて、さらに北斎もあります。私が3回目に行ったときには、広重の『富士三十六景』や『名所江戸百景』からの数枚が展示してありました。
この美術館は、全体的に質が高く「中庸でノーマルなコレクション」という感じです。No.95 で紹介した「バーンズ・コレクション」と比較すると、それが鮮明です。バーンズ・コレクションは、ルノワールが 181点あるとか、セザンヌやマティスも大量にあるとか、23ある展示室にはアメリカ絵画が少なくとも2点あるとか、コレクターの「強いこだわり」が随所にあるのですが、ノートン・サイモン美術館にはそれはありません。美術好きの実業家が大金持ちになり、有名画家の良い絵を素直に集めたという感じがします。西洋の絵画の歴史もよく分かる、そういった美術館です。
蛇足ですが、バーンズ・コレクションと違って、ここは "普通の美術館" です。展示替えや貸し出しで、上にかかげた作品も常に展示してあるとは限りません。ホームページを見ると、ドガの『Waiting』は今は展示していないようです(2015年10月17日現在)。パステル画を常時展示するのは難しいのかもしれません。 |
ノートン・サイモン美術館は、中庭と敷地内の庭が広くて美しいことも特徴です。しゃれたティー・ハウスもあります。また始めに述べたように、近くにはパサデナ・オールドタウンがあります。そういった周辺まで含めて、ロサンゼルスで1日を過ごすにはよい場所だと思います。
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ノートン・サイモン美術館の庭
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 補記:本を持つ女  |
本文中でノートン・サイモン美術館の "二押し" の作品が、ピカソの『本を持つ女』だとしましたが、この絵は「アングルを踏まえたマリー・テレーズの肖像」です。ノートン・サイモン美術館では絵の解説の横にアングル作品の写真が掲示されていました(2012年時点)。その写真と説明(英文と試訳)を以下に掲載しておきます。
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ノートン・サイモン美術館の「本を持つ女」の説明パネルとアングル作品の写真(2012年)。
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この解説の最後の方でピカソとアングルの類似性があげられていますが、その中で「優美で感覚的な線(graceful, sensuous lines)」と書かれているのが印象的です。
そして、このことは "本をもつ女" に関してだけではないのかも知れません。つまり「ピカソはアングルから学んだ」とはよく言われることですが、それはアングルの絵によくある「様式化」だけでなく、「優美で感覚的な線」も学んだのかと思います。
2015-10-17 16:01
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