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No.46 - ピカソは天才か [アート]

前回の No.45「ベラスケスの十字の謎」の最後で「ラス・メニーナス」に登場するニコラス・ペルトゥサト少年を下敷きにしてピカソが描いた『ピアノ』という作品を紹介しました。ピカソの作品は以前にも No.34「大坂夏の陣図屏風」で『ゲルニカ』に触れています。今回はピカソをとりあげ、『ピアノ』と『ゲルニカ』の感想までを書いてみたいと思います。


開高健のエッセイ


ピカソについて思い出す文章があります。作家・開高健が書いた「ピカソはほんまに天才か」というエッセイです。雑誌『藝術新潮』に掲載されたものですが、大事なところだけを抜き出してみます。この文章を「とっかかり」にしたいというのが主旨です(原文に段落はありません)。


西欧の画を画集でしか知らなかったときと現物を見てからとで評価が一変または激変したケースはおびただしいが、評価が全く変わらなくてしかも放射能を何ひとつとして感じさせてもらえないという例もたくさんある。その一人がピカソである。この人については「青の時代」をのぞくと、あとは全く何も感染させてもらえなかった。この人は異星人並みの天才とされてその名声は不動と思われるけれど、残念ながら小生はついに一度も体温を変えてもらうことができなかった。

批評文を読むとことごとく天文学単位のボキャブラリーを動員しての絶賛また絶賛である。それらを読むうちに何やら妙な心細さをおぼえ、誰かおなじ意見を述べるのはいないかと、ひそかにさがすうちに、とうとうハーバート・リードが、「ピカソでいいのはせいぜい青の時代までである」と一刀両断してくれているのを発見して、著名美術評論家にも正直者はいるのだナとわかり、やっと一安心できた。

「青の時代」の作品はこのモダン・アート・ミュージアムで現物を見るまでもなく、直下(じきか)・正確・鋭敏・丁重かつ精緻であって、そこに漂う若い愁傷は、いわば等身大で感受させてもらえる。しかし、それは誠実で親しみやすいマイナー・ポーエットの優れた一行であり一作であって、「天才」や「巨人」を予感させるものは何もない。だからといってその作品の価値は何もかわらない。

後年の作品を特徴づける、画面のあちらこちらに露出している仰々しさ、未処理、不消化といったもの、おそらくはそれらの化合物としてたちあらわれるおしつけがまさには、ときどきうんざりさせられる。

藝術新潮 1984.5.1「ピカソはほんまに天才か」より
中公文庫『ピカソはほんまに天才か』(1991) 所載

ピカソはほんまに天才か.jpg
開高 健
「ピカソはほんまに天才か」
(中公文庫。1991)
文中の「モダン・アート・ミュージアム」というのは、ニューヨーク近代美術館(MoMA - The Museum of Modern Art, New York)のことです。要約すると開高健の言いたいことは次のようになるでしょう。

ピカソの「青の時代」の絵には秀作が多い。
しかし後年の作品にはウンザリする。自分を「感染」させてはくれなかった。
青の時代の作品も「天才が描いた」という気はしない。 ピカソは天才だと皆が言うが、私にはそうは思えない。

絵の鑑賞は個人的なものです。開高健も同じエッセイの中で「絵は究極的には、好きか嫌いかである」と言っています。上に引用したのは、あくまで開高健という人の個人的な好みの表明です。しかし「全ては個人の好き嫌い」と言ってしまうと、絵を評する文章は成り立たなくなります。そこで「天才」というキーワードを足がかりに話を進めたいと思います。「ピカソはほんまに天才か」という文章のタイトルからして「ピカソは天才とは思えない」というのが開高健の言いたいこと(の一つ)であるようです。これは正しいのかというのがテーマです。

以降に取り上げるのは、ピカソの3つ時代の作品です。つまり、

少年時代
スペインで過ごした19歳までに描いた作品
青の時代、およびその前後
パリに出てから「青の時代」を経て「バラ色の時代」までの期間の作品
キュビズム以降
キュビズムを創造して以降の具象とは大きく乖離した作品。

の3つです。ピカソは膨大な数の作品をさまざまな画風で描いたので、もちろん3種に分類できるということではありません。キュビズムを開始した以降も「具象的な作品」を多く描いていて、たとえばブリジストン美術館の『腕を組んで座るサルタンバンク』(1923)のような作品もあるし、新古典主義と呼ばれる作品群、また版画や彫刻まで、多様な傾向とジャンルの作品があるのはよく知られている通りです。


少年時代:バルセロナのピカソ美術館


「ピカソは天才とは思えない」との意見なのですが、この開高健の見方に反して、ピカソはやはり天才だと思います。それは少年時代のピカソの絵を見れば(おそらく誰しも)納得できます。

そもそも「天才」とは「天性の才能。生れつき備わったすぐれた才能。また、そういう才能をもっている人。」(広辞苑)です。芸術の世界で言うと、技術の習得や鍛錬、努力と経験の積み重ねだけではとうてい到達できないと感じる作品に出会ったとき、そしてそれを作った作家の天賦の才能を強く感じるときに、そのアーティストを「天才」と呼ぶわけです。

端的な例は、少年や少女がすばらしい作品を創造する場合です。努力して「高み」に到達する時間も経験も蓄積もないはずなのに、大人のプロフェッショナルを凌駕する作品を作る子供がいる。

音楽の世界での典型がモーツァルトです。モーツァルトの最初の交響曲は8歳で作曲されています。映画「アマデウス」の冒頭に使われた交響曲 第25番 ト短調 は、モーツァルトの管弦楽曲の中でも屈指の名曲ですが、17歳の作品です。ディヴェルティメント ニ長調 K136 は良く知られた曲ですが、これはもう「完璧な音楽」としか言いようがない。この曲はモーツァルトが16歳の時のなのですね。

画家における「モーツァルト的な」ポジションが、少年ピカソと言えるでしょう。少年時代にピカソはスペインの3つの都市に住んでいます。

スペイン南部のマラガに生まれる(1981年10月25日)
スペインの北東、ラ・コルーニアに転居(1991年9月 : 9歳)
バルセロナに移る(1995年9月 : 13歳)

ラ・コルーニア時代とバルセロナ時代のピカソのデッサンや絵画は、バルセロナのピカソ美術館にあります。作家の堀田善衛はスペインに長く住んだ人ですが、彼がピカソ美術館を訪問して書いた文章があります。ラ・コルーニア時代のピカソの作品を評したものです。


この頃の勉強デッサン、石膏像の模写などのすべてはこの美術館にあるが、もはや完璧である。私は特に手の指や足の指を描くことが実にうまいと思う。大抵の画家は、たとえばゴヤでも、指を描くことを嫌い、ゴヤの如きは他人のポケットに手を入れて指をかくしている肖像までを描いている。

もうこの頃すでに、油彩もはじめていて、風景、人物、静物画、室内図、鳥、牛、闘牛、何でもござれであり、彼が十五歳のとき、父の美術教師が、自分で絵を描くことはやめてしまい、絵の具もすべて息子の少年パブロにやってしまったというのも無理からぬことと思われる。

堀田善衛「若き日のピカソ」
『ピカソ美術館めぐり』(新潮社 1984)より

ゴヤには気の毒ですが、堀田善衛は大作「ゴヤ」を書くほどゴヤに精通しているので、引き合いに出されるのはやむをえないでしょう。ゴヤが下手というわけではありません。以下にラ・コルーニア時代、バルセロナ時代の作品を3つ掲げておきます。『子供たちの巣』と『ベレー帽の男』はラ・コルーニア時代、『画家の母の肖像』はバルセロナ時代の作品です。

子供たちの巣.jpg
パブロ・ピカソ「子供たちの巣」
木炭・絵コンテ(13歳)
(バルセロナ・ピカソ美術館)
堀田善衛氏の評:
またデッサンのうまさにかけては、これはもう言うがこともなく、「子供たちの巣」と題された彫刻のデッサンなどは、奇妙な老人の見守るなかでも十数人の天使を扱っており、十三か十四の子供にできることではない。(「若き日のピカソ」より)

ベレー帽の男.jpg 画家の母の肖像.jpg
パブロ・ピカソ「ベレー帽の男」
油絵(13歳)
(バルセロナ・ピカソ美術館)
パブロ・ピカソ「画家の母の肖像」
パステル(14-5歳)
(バルセロナ・ピカソ美術館)
ベレー帽はスペイン北東部のバスク地方の「民族衣装」である。そこからラ・コルーニアにやってきた男であろうか。絵による人間観察を試みたような作品である。 母親、マリア・ロペス・ピカソの肖像である。目を閉じて半分眠ったようにしている母の姿が的確に捉えられている。パステル画が、いっそう少年ピカソのデッサンの力量を際だたせている。

日本の画家、外国の画家を含めて子供時代に上手な絵を描く人は多々あるのですが、ピカソはずば抜けていると思います。絵として完成しているのです。

それは描くという技術面だけではありません。バルセロナのピカソ美術館で最も有名で良く知られている絵は「科学と慈愛」(1897年。15-6歳)です。死にゆく女性を医者(科学)と子供を抱いた修道女(慈愛)が見守っている姿を描いているのですが、「死」というテーマに真正面から取り組んだ作品も少年の絵としては異例でしょう。このテーマは父親に与えられたものと言われていますが、一枚の絵として描き切る画力はずば抜けていると思います。


青の時代、およびその前後(1900-1905)


1900年、ピカソはパリに出ます。そして1901年頃から1904年頃まで「青の時代」と呼ばれる作品群を描きました。プルシアン・ブルー独特の深い青(No.18「ブルーの世界」参照)を多用したこれらの作品を好きな人は多いはずです。「ピカソは天才か?」と言っている開高健も「青の時代」の絵を讃美する文章を書いています。以前、NHKの日曜美術館で作家の五木寛之さんが「青の時代」の絵に対する「思い入れ」を熱く語っていたのを思い出します。

青の時代の絵を絶賛する人は多いので、その前後の時期のピカソの絵を2つ掲げておきます。一つはピカソがパリにやってきたころに描いたムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』(1900)という作品です。

Picasso - Le Moulin de la Galette.jpg Renoir - Le Moulin de la Galette.jpg
パブロ・ピカソ
「ムーラン・ド・ラ・ ギャレットの 舞踏場」 (1900)
(グッゲンハイム美術館。ニューヨーク)
オーギュスト・ルノアール
「ムーラン・ド・ラ・ ギャレットの 舞踏会」 (1876)
(オルセー美術館)

中野京子さんは、ルノアールの有名な絵『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』と対比しつつ、同じ場所を描いたピカソの絵を次のように評しています。「本作」とはルノアールの絵のことです。


印象派で「近代」を読む.jpgところで本作から二十数年後、ピカソも同じダンス場を取り上げました。タイトルも『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』。しかし見てのとおり、とても同じ場所とは思えません。ルノワールの健全さを嘲笑うかのように、ピカソはこれでもかと隠微な雰囲気を盛り上げます。昼と夜との違いというより、このカフェ自体が次第に売春婦たちのたまり場へと変貌していったという事実があります。だとしても、この、ムンクのような妖しさ。これほどの退廃ムードをピカソは十九歳で、しかもスペインからパリに出てきてまだたった二ヶ月というのに、やすやすと描きあげた。真の天才というのは、実に何とも恐るべきものです。

中野京子『印象派で「近代」を読む』
(NHK出版新書 2011)

もう一枚は、青の時代のあとの「バラ色の時代」と呼ばれる時期の作品、『カナルス夫人の肖像』です。

カナルス夫人の肖像.jpg
パブロ・ピカソ
「カナルス夫人の肖像」(1905)
(バルセロナ・ピカソ美術館)

この絵に描かれている女性は、当時パリに在住してたカタルーニャ出身の版画家、リカルド・カナルスと生活を共にしていたイタリア人のモデルで、名前はベルナディット・ビアンコといい、当時35歳です(バルセロナ・ピカソ美術館のカタログによる)。

イタリア的というか、ローマ的というか、ラテン系ヨーロッパ人の女性の典型的な美しさを凝縮したような感じの人です。古代ギリシャ・ローマ時代の女神の彫像のような雰囲気もある。青の時代とはうってかわった明るく落ち着いた色、薄いバラ色が、服、肌、髪飾りに使われています。それとは対照的に、真っ黒なショールが極めて粗いタッチで一気に描かれていて、女性を際だたせている。それ以前にまず、デッサンが完璧です。

このショールの描き方などは、No.36「ベラスケスへのオマージュ」で紹介したサージェントの絵と一脈通じるものがありますね。二人ともベラスケスから学んだということでしょう。

モデルになったカナルス夫人の印象は、画像だけからすると理知的な女性で、なんとなくちょっと "冷たい" 感じもします。しかし実際にバルセロナのピカソ美術館でこの絵を見ると、印象はかなり違います。暖かみがあり、情熱的で、ふくよかな女性、という感じなのです。ピカソの肌の描き方、特に暖色系の微妙なグラディエーションがそういう印象を生むのだと思います。

この絵は、一人の女性の肖像を越えた「美の象徴」ないしは「ヴィーナス」を描いているようでもあり、傑作だと思います。


キュビズム以降


「ピカソはほんまに天才か」で開高健は、

これまで何人かの日本人の画家や評論家に私的な会話の席で、「ほんとにピカソはいいと思うか、そう感じたことがあるか」とたずねたが、確信をこめた断言体で、イエスと答えかえした人は一人もいなかった。

と書いています。

ここでいう「ピカソ」とは、キュビズム以降のピカソ作品のことを言っているはずです。「ピカソ作品 = キュビズム以降の、具象とは大きく乖離した作品」という暗黙の前提がある。この、キュビズム以降の具象とは大きく乖離した作品群をどうとらえるか、ここが意見の分かれるところでしょう。

個人的な意見を言うと、キュビズム以降のピカソの絵の中には素晴らしいと思うものがあります。しかしそれは少数で、多くの絵は訴えてくるものがない。たとえば前回のNo.45「ベラスケスの十字の謎」の最後に掲げた『ピアノ』という作品です。

ピアノ.jpg
パブロ・ピカソ
ピアノ』(1957)
(バルセロナ・ピカソ美術館)
この作品をみると「人がピアノを弾いている姿」ということはわかるのですが、それ以上のことは不明でしょう。「ラス・メニーナス」を下敷きにしていると知って、右下で犬に足をかけている少年を描いたとわかります。また解説を読んで、少年の両手がピアノを弾いているように画家には感じられたのだとも分かる。しかし、だからといって何なのか、とも思います。ベラスケスへのオマージュとなりうる絵だとも思えない。オマージュというなら『カナルス夫人の肖像』の方がはるかに近い。ショールの描き方など、ベラスケスを彷彿とさせます。この『ピアノ』という絵から何かを「感じる」ことができる人はいるのでしょうか。

『ピアノ』はピカソの作品の中では「マイナーな」絵で、ピカソにとっては「余技」のようなものかもしれない。では有名な『アビニョンの女たち』はどうか。


アビニョンの女たち(1907)


アビニョンの女たち.jpg
パブロ・ピカソ
「アビニョンの女たち」(1907)
(ニューヨーク近代美術館)
ニューヨークのMoMAにあるこの作品は、世間ではキュビズムを切り開いたということで特に有名なのですが、だからといって良い作品とは思えません。たとえば、女性を描くのに意図的に稚拙な線を使う意味が分からないのです。はじめに引用した開高健のエッセイに、

後年の作品を特徴づける、画面のあちらこちらに露出している仰々しさ、未処理、不消化といったもの、おそらくはそれらの化合物としてたちあらわれるおしつけがまさには、ときどきうんざりさせられる。

とありますが、『アビニョンの女たち』を念頭に置いて書かれた文章ではないでしょうか。だとしたら同感です。

しかし、この絵はひょっとしたら傑作かもしれないとも思うこともあります。それは、この絵がフランスの都市・アビニョンの女ではなく、バルセロナの裏通りの女を描いたものだからです。堀田善衛の解説を引用します。


この作品は、フランス語で "Les Demoiselles d'Avignon" と呼ばれて来たせいがあって、フランスの旧法王都市であるアヴィニョンの女性を描いたもの、と解されてきたものであった。ところがこれはそうではなくて、先に私はバルセローナの古い地区が次第にさびれて行くにつれて、大聖堂の裏界隈が次第に貧しい人々の住む地区になって来たとを述べたとき、そこにパラディス(天国)通りだとかアヴィニョ(酒池肉林)通りだとかという、細く狭く、かつ暗い通りがあることを書いたのであったが、この女たちは、実はそのアヴィニョ(Avino)通りのそれであった。

カタラン語は、何でもおしまいを端折る癖があるので、アヴィニョンはアヴィニョに、アラゴンはアラゴにつづまってしまうのである。

石畳の露地に、これも石造の建物が両側から蔽いかぶさるようにして建っている通りの暗さというものは、その闇の濃厚さにおいて一種独特なものである。私はある田舎の都市の、そういう暗い通りで、手にした蝋燭の火で自分の顔を照らし出して見せている女性を見たことがある。

このアヴィニョ通りも天国通りも、繰り返すとして、現在もまた暗くてじめじめしたさびしい通りである。この絵の正式の名(Las Senoritas de la calle Avino = アヴィニョ通りの女たち)がそうであるように、その暗い通りにうごめいている女たちを、左端の顔だけはいささか黒人の血が入っているかと思われる女がカーテンを引き上げている、そのようにして暗い通りのカーテンを引きあけて、充ち溢れる光の只中に置いてみれば、彼女らのすべては絢爛たる肉体の持ち主であった。右端の女にはまだ闇の暗さはつきまとっているけれども。

バルセローナの古い地区の闇の中から切り出された、人間讃歌である。
1983年7月 バルセローナにて

堀田善衛「若き日のピカソ」
『ピカソ美術館めぐり』(新潮社 1984) より

ダイレクトには書いていませんが、要するにこの絵はバルセロナの裏通りの売春婦たちを描いているのですね。ピカソはバルセロナに住んでいました。パリに出てからもバルセロナに何回も「帰郷」しています。この絵はピカソの経験がもとになっているのでしょう。そこで(一例として)つぎのような想像が可能になります。

港町・バルセロナの「酒池肉林通り」を歩いている画家を、娼館の客引きの女性がドアの中に引き入れる。そしてカーテンをあけると、そこには娼婦たちがいる。

彼女たちは全裸に近い姿で、画家に向かって「自分を買ってくれ」と、満身の笑顔で媚びを売る。くる日もくる日も見知らぬ客や船員を客にとり、性を売り、それは女としての「商品価値」がなくなるまで続く。

このように生きていかねばならない、人間としての「悲哀」や「空虚さ」を思うと、画家は暗澹とした気持ちになり、目の前の女たちの形はくずれ、分解し、輪郭さえ定まらないように感じてくる・・・・・・。

ピカソ美術館めぐり.jpg
「ピカソ美術館めぐり」
(新潮社。1984)
『アビニョンの女たち』を特徴づけるのは(意図的に)稚拙に描かれた線と輪郭、未処理で未完成な感じ、立方体を直接画面に描き入れるような描法、そして形を分解し、省略して部分的に再構成する手法です。こういう手法を意図的に使って、人間の「悲惨」や「空虚さ」、「生身の人間ではあるが、人格とは乖離した感じ」、そして「形が分解していくように感じる画家の意識」を表そうとしたのなら、『アビニョンの女たち』は名作と言えるのかもしれないし、新しい絵画表現の創造かもしれない。

しかし通常の絵画評論としては、堀田善衛の解説の最後にあるように「人間讃歌」なのですね。それはないだろうと思います。キュビズムを切り開いたという絵画史的価値はあるのでしょうが、これが「人間讃歌」としたら駄作だと思います。画家は伝えたいことがあるのだとは思いますが、それが伝わってこない。絵と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しないのです。

『アビニョンの女たち』以降、絵の技法はきわめて多様化します。シュルレアリズムもあり、抽象絵画もある。しかし手法は何でも良いのですが、作者の一方的な思いを画面に出しただけの作品、おしつけがましい作品、絵と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しない作品を、少なくとも美術館に飾るのはやめてほしいと思います。

個人に絵を売ることを目的にして、画家が良いと思う方法で描き、良いと思った個人が購入して書斎を飾るのは何ら問題ありません。しかし美術館、とくに公的な美術館を飾る絵は、画家と鑑賞する多くの人の間で何らかのコミュニケーションが成立することが前提です。傑作かもしれないが、なぜ傑作か、その解説を聞かないとわからない作品は必要ありません。「傑作」を鑑賞するのではなく「傑作だという解説」を鑑賞する作品は不要です。美術大学の講義室ではないのだから・・・・・・。

ピカソの「キュビズム以降の絵」には、画家と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しない絵が多い。しかし中にはそうでない絵があります。その代表が『泣く女』です。


泣く女(1937)


キュビズム以降のピカソの作品で文句なしに傑作だと思うのは、これも『アビニョンの女たち』と並んで有名な『泣く女』です。キュビズムの代表的な作品と言えるでしょう。

「ピカソは天才か」というタイトルではじめたので、ピカソは天才だと主張している2人目の文章を紹介しておきましょう。『泣く女』を直接評した文章ではありませんが『泣く女』を含むピカソのキュビズム作品を評した養老孟司氏の文章です。


ピカソの絵は、一見メチャクチャに見えるかもしれません。しかし、よくよく見ていくと、やはり普通の人間ではない、天才の手によるものだ、ということがよくわかります。

ピカソの絵については、岩田誠・東京女子医大教授が興味深い分析をしています。例えばキュービズム時代の絵は空間配置がメチャクチャです。鼻が横を向いていて、顔が正面向いているというのがザラですから、メチャクチャと見られても仕方が無い。

しかしあれは一つ一つのデッサンはかなり正確に描いている。つまり、モデルである人間や物をあちこちから見て描いたものをゴチャまぜにして合体させたようなものになっています。

通常、デッサンに必要な空間配置というのは、視覚の大事な4つの機能のうちの一つです。それが壊れたままであると、その人にとった世界は、ピカソのキュービズムの絵になってしまいます。もちろん、ピカソ自身は日常生活を普通に営んでいたし、ご存知の通り、初期には非常に正統派のわかり易い絵を残しています。では彼はどうやって、キュービズムの絵を描けたのか。

それは別に、一人のモデルをあちこちから見てデッサンしたものをツギハギであとで組み合わせた、ということではありません。おそらく彼は意識的に、絵を描く際に、ノーマルな空間配置の能力を消し去ったのです。ピカソはそれを意識的に行っていた。病気になると、ある能力が消えて、ひとりでにピカソの絵みたいなものを描くケースがありますが、ピカソ自身は、健康なのに意図してああいう絵が描けた。

おそらく彼は自分の視覚野というものを非常に上手にコントロールできていた。頭の中のリンゴのイメージを自在に変えるということは普通の人はできない。

空間配置がグチャグチャな絵を頭の中で浮かべてみろと言ったって、特定の機能を落とすということはできないでしょう。当然、目から入ってくれば、ひとりでに普通の像が脳の中で形成されてしまう。そこを上手に抑制して、一ヵ所をポーンと消すと、ああいう絵になる。それを経験的にちゃんと作ることができるというのは、大変な能力です。

養老孟司『バカの壁』(新潮新書 2003)

バカの壁.jpg
養老孟司
「バカの壁」
(新潮新書。2003)
養老孟司氏も、引用文の中に出てくる岩田誠氏も医者です。つまり医学・生理学の立場からの発言です。人間の脳の働きを熟知している立場からすると、ピカソは特別の能力をもった人 = 天才だった。これはその通りなのでしょう。大脳の視覚野を意識的にコントロールすることは普通の人にはできない、ピカソは天性の能力がある、つまり天才だというわけですね。

もちろん、だからといってピカソのキュビズム作品が良いというわけではありません。養老さんも文中で「病気になると、ある能力が消えて、ひとりでにピカソの絵みたいなものを描くケースがある」と言っています。ごく普通の画力の人が病気になって「ピカソ的な絵」を描くこともあるわけです。特別の能力を持った天才が描いたから傑作だ、とは言えないのです。

それどころか、養老さんの分析から推定できることは、「ピカソのキュビズム作品は、普通の人には理解しがたいものだ」ということです。なぜなら、

脳の「空間イメージ構成力」を意識的にコントロールし、それを一時的に消して絵を描ける、特別な能力をもった人間の描いた作品

だということは、そこからロジカルに推論すると

そういった特別な能力を持たない人間は、常に空間イメージ構成力が働いてしまうから、作品が不可解に思える

はずだからです。最初に引用したように、開高健は「ピカソに何も感染させてもらえなかった」と書いていますが、「ピカソは天才だからこそ、普通の人は感染しない」のであり、「ピカソに感染する人がいたとしたら、その人は普通の能力ではない人」と言える。岩田・養老理論が正しければ、論理的にそうなるのです。

しかし、それにもかかわらず『泣く女』は名作だと思います。それは「空間イメージ構成力」どうのこうのではなく、描かれているテーマに絵画手法がピッタリとハマっているからです。ストライク・ゾーンのど真ん中に絵がいっている感じがする。

泣く女.jpg
パブロ・ピカソ
「泣く女」(1937)
(ロンドン・テートギャラリー)
『泣く女』はピカソの愛人で同棲していた、画家で写真家のドラ・マール(当時30歳。ピカソは56歳)を描いた絵と言われていますね。どういうシチュエーションで彼女が泣いているのかは分かりませんが、例えばピカソの別の愛人の女性と喧嘩をした彼女が、激しく慟哭している様子を想像します。泣き叫び、男をなじり、詰め寄り、また一人で泣く。男はその激しさにたじろぎ、どうすることもできず、茫然としている・・・・・・。単なる想像であって、その通りかは全く分かりませんが・・・・・・。

しかしどういうシチュエーションであれ、激しく泣く、慟哭するというのは非日常的な行為であり、普段は隠れている人間の別の面を露出させる行為です。近親者や親しい人が「泣く」のを見て、普段は分からないその人の全く別の一面を知った・・・・・・というような話はいっぱありますね。その泣くという行為の本質を、この絵は極めてうまくキャンバスに定着している。人間の非日常性を、絵画手法がピッタリと表現している作品だと思います。


ゲルニカ(1937)


『泣く女』と同じ年の『ゲルニカ』も、絵のテーマと絵画手法がよくマッチした傑作です。この絵のテーマになったスペイン市民戦争の時のゲルニカ無差別爆撃は、No.34「大坂夏の陣図屏風」のところで書いた通りです。人も動物も、爆弾の雨が降り注ぐ中で逃げまどい、死んでいく。爆風の直撃をうけた人の体はちぎれてあちこちに飛び散り、子どもを殺された母親は泣き叫び、地獄絵図のような光景があたり一面に展開される・・・・・・。ピカソは想像で描いているし、我々も想像するしかないのですが、この絵からうける「イメージ」どおりのことが実際に起こったことは確実でしょう。

ゲルニカ.jpg
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937) (マドリード・ソフィア王妃芸術センター)

『ゲルニカ』は絵そのものの価値以上に「反ファシズム」という政治的意味、思想的価値で解釈されてきた絵です。またこの絵が制作された経緯が流布することで、非常に有名になった。もしこの絵の制作経緯が一切明らかにされず、たとえば「戦争」というような題がついていたら、ここまで有名にはならなかったと思います。

しかし「反ファシズム」のという意図で絵を制作し、またその文脈で解釈するのは、別に悪いことではありません。要は、政治的意味や思想的価値を離れて、その絵が持っている表現力や強さ、伝達力がどうかです。丸木位里・俊 夫妻の「原爆の図」という絵がありますが、「原爆の図」のリアリズムとは全く対極の表現を使い、想像力だけで「爆撃の図」を描き切ったピカソの力量はやはり天才というべきでしょう。



『ゲルニカ』と『泣く女』に共通しているのは、人間社会における「悲惨」や「悲哀」を描いていることです。もちろん「悲惨」や「悲哀」だけが「キュビズム以降の、具象とは大きく乖離した手法」の存在意義ではありません。ピカソの静物画にも、中には素晴らしい作品がある。しかしハマった、と感じる絵が少ないのも事実です。キュビズムというボールを投げるとき、そのストライク・ゾーンは大変に狭いと思います。そのゾーンにコントロールよく投げられるかが、良し悪しの分かれ目です。


マヤに授乳するマリー・テレーズ(1936)


『ゲルニカ』と『泣く女』はともに1937年に描かれた絵ですが、これとほぼ同時期、1936年に描かれた絵を最後に取り上げたいと思います。『マヤに授乳するマリー・テレーズ』という、ペンとインク、水彩で描かれた作品です。

マヤに授乳するマリー・テレーズ.jpg
パブロ・ピカソ
「マヤに授乳するマリー・テレーズ」(1936)
(個人蔵・ピカソ 子供の世界展(2000)より)

この絵はピカソの作品の中でもごく「ささいな」ものでしょう。何らかの絵画史的な意味があるわけではないし、有名でもない。画家は日常の中で、紙の上にさっとペンを走らせ、水彩を塗り、おそらく数十分で描いてしまったのではないでしょうか。

しかし、この絵のマリー・テレーズの姿には独特の存在感があります。足を組んで椅子に堂々と腰掛け、我が子に授乳し、画家をキリッと見つめています。口をハンカチのようなもので覆っていますが、なぜなのかは分かりません。風邪でもひいて赤ちゃんにうつるのを避けようとしたのでしょうか。そのため彼女の表情は分からないのですが、画家を見つめるまなざしが、心のうちを語っていると思います。淡い水彩で塗られた画面は「おだやか」「安心」「やすらぎ」といった雰囲気を作っています。その中で毅然としている母親の強い存在感。画家はこの母としてのマリー・テレーズの姿に感動してペンを走らせたのだと思います。

マリー・テレーズはこのとき26歳、ピカソより約30歳も若い女性です。ピカソの女性遍歴や女性関係の「問題点」はさておき、純粋に1枚の絵として見たとき、鑑賞者に「伝わってくる」絵だと思います。

『マヤに授乳するマリー・テレーズ』と『泣く女』は、ともに画家と同棲した20代後半の女性を描いた絵です。この2枚の絵が示しているのは、人間の多様さ表現する「絵画表現の幅広さ」です。この振幅の広さが、ピカソの天才たるゆえんなのだと思います。



 補記 

ピカソが道化を描いた2枚の絵、
曲芸師と若いアルルカン(バーンズ・コレクション)
アルルカンと女友達(プーシキン美術館)
を、No.114「道化とピエロ」に掲げました。
(2014.05.09)

『マヤに授乳するマリー・テレーズ』と同じマリー・テレーズを描いた作品、
本を持つ女(ノートン・サイモン美術館)
の画像を、No.157「ノートン・サイモン美術館」に掲げました。
(2015.10.17)

マリー・テレーズを描いた作品、

の画像を、No.251「マリー・テレーズ」に掲げました。
(2019.2.2)



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