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No.270 - 綴プロジェクトによる北斎の肉筆画 [アート]


高精度複製画による日本美術の展示会


No.85「洛中洛外図と群鶴図」で、2013年に京都府で開催された「文化財デジタル複製品展覧会 - 日本の美」を見学した話を書きました。この展覧会には、キヤノン株式会社が社会貢献活動として京都文化協会と共同で行っている「つづりプロジェクト」(正式名称:文化財未来継承プロジェクト)で作られた高精度複製画が展示されていました。その原画の多くが国宝・重要文化財です。No.85 のタイトルにしたのは展示作品の中から、狩野永徳の『上杉本・洛中洛外図屏風』(国宝)と、尾形光琳の『群鶴図屏風』でした。

綴プロジェクトの高精度複製画は、複製と言っても非常にレベルが高いものです。高精度のデジタルカメラで日本画を撮影し、高精細のインクジェット・プリンタで専用の和紙や絹本に印刷します。それだけではなく、金箔や金泥、雲母(きら)の部分は本物を使い、表装は実物そっくりに新たに作成します。もちろん、金箔・金泥・雲母・表装は、その道のプロフェッショナルの方がやるわけです。つまり単にデジタル撮影・印刷技術だけで作成しているのではありません。「キヤノンのデジタル技術 + 京都の伝統工芸」が綴プロジェクトです。その制作過程を、キヤノンのホームページの画像から掲載しておきます。

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綴プロジェクトの制作過程(1)入力
デジタル1眼レフカメラによる多分割撮影で、高精度のデジタル画像を取得する。

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綴プロジェクトの制作過程(2)色合わせ
オリジナル作品とプリント出力の結果を合わせるためのカラー・マッチング処理を行う。

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綴プロジェクトの制作過程(3)出力
12色の顔料を用いた大型インクジェットプリンタで、専用の和紙や絹本に印刷する。

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綴プロジェクトの制作過程(4)金箔
京都の伝統工芸士が、金箔・金泥、雲母(きら)を施す。

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綴プロジェクトの制作過程(5)表装
京都の伝統工芸士の表具師表装を行い、最終的に複製を仕上げる。

京都での「日本の美」展覧会を見て、「高精度複製画展示会」には次のようなメリットがあることがよく分かりました。

◆接近して鑑賞できる

我々は普通、国宝・重文クラスの屏風や襖絵を、たとえば30cm程度まで近づいて鑑賞することはできません。そういう作品は、No.85「洛中洛外図と群鶴図」で感想を書いた『上杉本・洛中洛外図屏風』のようにガラスケースの中に展示されているのが通例です(所蔵している米沢市の上杉博物館の例)。

しかし屏風や襖絵は本来、家屋の中のしつらえであって、数メートル離れて見てもよいし、近くで正座して眺めてもよく、また30cm程度まで近づいて目を凝らして鑑賞してもよいわけです。尾形光琳の『群鶴図屏風』などは、実際に近づいて斜めの位置からみると異様な迫力でした。狩野永徳の『洛中洛外図屏風』は、六曲一双に約2500人が描かれています。30cm程度まで近づいて細部を見ることにこそ意義があるわけです。もちろん短時間で細部すべてを見ることはできませんが、そういう鑑賞方法でないとこの屏風の真価の一端にさえ触れられない。

しかし高精度複製画であれば鑑賞上の制約事項がほとんどなく、近接して鑑賞するのも自由です。これは大きなメリットです。また日本画は油絵と違って絵の具や墨を厚塗りすることがないので、高精細インクジェット・プリンタでの複製であっても違和感がないところが好都合です。

◆門外不出の作品を鑑賞できる

尾形光琳の『群鶴図屏風』を所蔵しているのはアメリカのワシントンD.C.にあるフリーア美術館ですが、この美術館は所蔵全作品が門外不出です。従って、たとえば日本で「尾形光琳大回顧展」をやったとしても、そこに『群鶴図屏風』が出展されることはありません。

それでは、ワシントンD.C.まで行ったら見られるのかというと、そんなこともありません。私は1度だけフリーア美術館を訪問したことがあるのですが『群鶴図屏風』は展示されていませんでした。今回のテーマである北斎の肉筆画もなかった。フリーア美術館は「比較的小規模な東洋美術の美術館」なので、日本美術を展示するスペースには限りがあります。

もちろん展示替えはあるのでしょうが、フリーア美術館を気楽に訪問できるのはワシントンD.C.やその周辺州に居住している人か、せいぜいアメリカ東海岸に住んでいる人でしょう。所蔵品リストを見ると、フリーア美術館は "日本美術の聖地" と言えるところなのですが、その所蔵品は日本美術ファンからみると実質的に "死蔵" されていることになります。

しかし高精度複製画なら、その "死蔵美術品" を鑑賞できることになります。

この「綴プロジェクト」で作成された複製画の展覧会が、最近、東京でありました。今回はその話です。


高精細複製画で綴るフリーア美術館の北斎展


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すみだ北斎美術館
2019年6月25日~8月25日、すみだ北斎美術館で、フリーア美術館が所蔵する北斎の肉筆画、13点を高精細複製画で再現した展示会が開催されました。高精細複製画による日本画の展覧会は私にとっては6年ぶりで、しかも北斎の肉筆画です。これは絶対に行くしかないと思って、7月30日からの後期の展示会に行ってきました。

その後期で展示されていた作品から4点を以下に紹介します。最初は『玉川六景図』と『富士田園景図』ですが、この2作品は北斎の六曲一双の屏風絵という、滅多に見ることができないものです。しかも高精度複製画ならではの展示方法でした。

次に北斎の最晩年(87歳)の作品、『雷神図』と『波濤図』をとりあげます。90歳近くにもなってこのような大迫力の絵を描けるというのは驚きでした。


『玉川六景図』(北斎74歳)


『玉川六景図』は、歌枕(和歌に繰り返し取り上げられたテーマ)となっている全国各地の6つの玉川(=六玉川。多摩川=玉川)を取り上げ、その風景と川にちなむ人物(川の風物を読んだ歌人、川原で働く人、旅人など)を描いた六曲一双の屏風です。

フリーア美術館が所蔵する原本では、右隻に風景、左隻に人物が配置されています。しかし明治28年(1895年)に発行された雑誌「日本美術画報」に掲載された写真では、風景とそれにちなむ人物の2扇をペアにし、右隻に3つ、左隻に3つのペアが配置されています。またその写真の表装は現在のものとは違っている。フリーア(=チャールズ・フリーア。1854-1919)が『玉川六景図』を購入したのは明治の末期です。つまり、フリーアが購入する前か後のどこかの時点で表装が改装され、配置が変更されたことになります。その理由は分かっていません。

なお、フリーア美術館は Web サイトで「右隻に風景、左隻に人物」となっている画像を公開していますが、「高精細複製画で綴るフリーア美術館の北斎展」の Web サイトやカタログでは「右隻に人物、左隻に風景」となっています。おそらく北斎展の情報が正しいのでしょうが、以下ではフリーア美術館の Web サイトどおりの画像にしておきます。

玉川六景図・右隻・フリーア.jpg
葛飾北斎(1760-1849)
「玉川六景図」(右隻)
(フリーア美術館)

玉川六景図・左隻・フリーア.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(左隻)
(フリーア美術館)

今回の展示会では『玉川六景図』がオリジナルの配置で展示されていました。ごくシンプルに考えて、風景とそれにちなむ人物をペアにした配置の方が屏風としての納得性が高いわけです。配置の変更は、おそらく風景と人物の関係性が理解できなかった誰かがやったと考えられます。綴プロジェクトによる『玉川六景図』の配置が次です。

玉川六景図・右隻・綴.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(右隻)
(綴プロジェクト)

玉川六景図・左隻・綴.jpg
葛飾北斎
「玉川六景図」(左隻)
(綴プロジェクト)

このオリジナル配置による『玉川六景図』の展示は、高精度複製画による展示会のメリットを最大限に生かしたものと言えます。北斎の本物の屏風を所有している美術館がその配置を組み替えるなど、たとえそれが本来の配置であったとしても絶対に出来ないでしょう。複製画ならではの展示でした。



以下に、綴プロジェクト配置による『玉川六景図』の画像を、右から順に2扇ずつ掲載します。玉川の説明については、

朝日新聞デジタル
 「ことばマガジン・アーカイブ・観字紀行」
 「多摩」か「玉」か 六玉川へ (2011/05/27)

を参考にしました。なお、"玉" とは "美しい" という意味で(玉虫の玉)、玉川は「美しい川、清流」という意味になります。

 摂津の国 三島の玉川:右隻 第1・2扇 

玉川六景図・右隻 第1・2扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
摂津の国 三島の玉川
(右隻 第1・2扇:綴プロジェクト)

大阪府高槻市の川で、淀川の近くにあります。描かれている人物は、この川を詠んだ平安時代後期(11世紀)の歌人、相模です。

見わたせば 波のしがらみ かけてけり
卯の花咲ける 玉川の里
相模(後拾遺和歌集)

の歌のように、三島の玉川は卯の花の名所として知られていました。現在でも高槻市の花は卯の花です。北斎の風景にはその卯の花ときぬたが描かれています。砧は布を叩いて柔らかくする木製の道具なので、この付近は布の産地でもあったのでしょう。

 山城の国 井手の玉川 

玉川六景図・右隻 第3・4扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
山城の国 井手の玉川
(右隻 第3・4扇:綴プロジェクト)

京都府綴喜つづき郡井手町を流れる川で、京都府南部を貫流している木津川の支流です。山吹の名所として知られ、代表的な歌は、

駒とめて なほ水飼はん 山吹の
花の露添ふ 井手の玉川
藤原俊成(新古今和歌集)

です("水飼う" とは、馬などに水を飲ませる意味)。貴族の子供を背負った従者とともに山吹が描かれています。川の中には鯉も描かれています。

 紀伊の国 高野こうやの玉川 

玉川六景図・右隻 第5・6扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
紀伊の国 高野の玉川
(右隻 第5・6扇:綴プロジェクト)

和歌山県高野町の川で、高野山の奥院の弘法大師廟の近くの清流です。霊峰である柳山から湧き流れている神聖な川で、禊の場となっています。高野の玉川を詠んだ歌にちなんで、旅人や僧侶が玉川を眺める姿がよく描かれますが、北斎は樵と滝で表現しています。

忘れても 汲みやしつらん 旅人の
高野の奥の 玉川の水
弘法大師(風雅和歌集)

 近江の国 野路のじの玉川 

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葛飾北斎「玉川六景図」
近江の国 野路の玉川
(左隻 第1・2扇:綴プロジェクト)

滋賀県草津市野路にあった川ですが現在はなく、かつて玉川があった旨を記した碑が整備されています。この川は「萩の玉川」とも言わる萩の名所でした。描かれた人物はこの川を詠んだ平安時代後期の歌人、源俊頼としよりです。

あすも来む 野路の玉川 萩こえて
色なる波に 月やどりけり
源俊頼(千載和歌集)

「萩の花の色が映って色づいたかに見える川面の波に、月が映っている」という光景を詠んだ歌です。北斎は「源俊頼・月・川面を覆う萩・玉川」の4つをストレートに描いています。

 武蔵の国 調布の玉川 

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葛飾北斎「玉川六景図」
武蔵の国 調布の玉川
(左隻 第3・4扇:綴プロジェクト)

東京都調布市付近を流れる玉川(多摩川)です。古来、この付近は布の産地でした。そもそも調布とは、租税の一種である "調"("租庸調" の "調")として納める布の意味です。万葉集の東歌にも、

多摩川に さらす手作り さらさらに
なにぞこの児の ここだかなしき
作者不詳(万葉集)

という歌があります(古語で "かなしき" はいとおしいの意味)。この歌のように、調布付近の多摩川は布さらしの名所として知られていました。北斎の作品では、河原に布を並べて干している風景と、きぬたを打つ女性が描かれています。

 陸奥の国 野田の玉川 

玉川六景図・左隻 第5・6扇.jpg
葛飾北斎「玉川六景図」
陸奥の国 野田の玉川
(左隻 第5・6扇:綴プロジェクト)

宮城県多賀城市の玉川です。芭蕉の「奥の細道」にも出てきます。この川を詠んだ能因法師(11世紀)の歌にちなんで、旅の僧侶と千鳥が描かれています。

ゆふされば 潮風越して みちのくの
野田の玉川 ちどりなくなり
能因法師(新古今和歌集)


『富士田園景図』(北斎70歳頃)


富士田園景図・右隻.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻)
(フリーア美術館)

富士田園景図・左隻.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻)
(フリーア美術館)

富士山を望む田園の風景を描いた六曲一双の屏風です。描かれているのは庶民の暮しぶりで、茅葺かやぶきの屋根を葺き替える人やきぬたを打つ人、石臼を回す人(以上、右隻)、張り手で張った布に刷毛で染色する(ないしは糊付けする)人、獅子舞とそれに見入る人(左隻)などが描かれています。さらには、旅人や商人らしき人たちが道を行き交ってっています。富士山を望む街道沿いの田園風景といった風情です。

『富嶽三十六景』と同時期の作品ですが、すみだ北斎美術館の展示では、この絵とあわせて『富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二』が展示されていました。確かに『富士田園景図』の右隻と『駿州片倉茶園』は良く似ています。家があり、木があり、蛇行する道の向こうに富士山があり、その中で庶民や農民の生活が展開されるところがそっくりです。

富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二.jpg
葛飾 北斎
「富嶽三十六景 駿州片倉茶園の不二」

このように今回の展覧会では、綴プロジェクトによる北斎の肉筆画と併せて、構図やモチーフが類似している北斎の浮世絵版画や北斎漫画のカットが展示されていて、北斎の画業をわかりやすく示していました。

さらに、この『富士田園景図』だけは特別な展示がしてありました。つまり会場に台座を作り、その上に畳を敷き詰め、そこに『富士田園景図』を展示するというやりかたです。見学者は靴を脱ぎ、畳の上に座って『富士田園景図』を鑑賞します。これは「高精度複製画」ならではの展示方法で、本物をこのように展示するのは無理というものでしょう。この "畳の上展示" の様子を掲載したブログがあったので、それを以下に引用します。この画像は前期の『十二か月花鳥図』ですが、後期では『富士田園景図』がこの展示方法でした。

北斎の屏風絵・畳の上展示.jpg
「十二か月花鳥図」(前期)の展示。畳の上に座って鑑賞できるようになっている。「富士田園景図」(後期)も同じ展示であった。Tak(たけ)さんのブログ「青い日記帳」より画像を引用。

富士田園景図・右隻・部分1.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

富士田園景図・右隻・部分2.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

富士田園景図・右隻・部分3.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(右隻・部分)

富士田園景図・左隻・部分1.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)

富士田園景図・左隻・部分2.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)

富士田園景図・左隻・部分3.jpg
葛飾北斎
「富士田園景図」(左隻・部分)


雷神図(北斎 87歳)


雷神図(表装なし).jpg
葛飾北斎
「雷神図」
(フリーア美術館)

落款から、北斎が数え年88歳の1847年(弘化4年)、最晩年の作であることがわかります。背中の太鼓を打ち鳴らす雷神の頭上からは、2本の赤い閃光が走っています。たらし込みの技法で描かれた渦巻く暗雲には、墨の飛沫が散らしてあります。この飛沫は嵐の予兆の雨なのか、それとも雷神の神通力のようなものかも知れません。

雷神は古来より日本人になじみが深く、特に絵画では俵屋宗達の『風神雷神図屏風』にはじまる淋派の一連の作品が有名です。その宗達の雷神は、どちらかと言うと "ユーモラス" と表現してもいいほど親しみを感じさせるものです。

しかし北斎のこの作品は宗達とは違って、明らかに "畏怖の対象としての雷神" を描いています。雷は、落雷とそれに伴う火災によって人間界に災いをもたらします。その恐ろしいものが恐ろしい姿として描かれている。

キヤノンの綴プロジェクトのホームページによると、この絵はフリーアがアーネスト・フェノロサから購入しました。そのフェノロサはこの絵について

これまでに見た日本美術の『雷神』を題材とした作品の中で、最も優れた作である」

と言ったそうです。なるほど ・・・・・・。フェノロサにとって宗達的な雷神には違和感があったのかもしません。

この肉筆画は、題材、構図、筆の運び、技法のどれをとっても "覇気" がみなぎり、米寿を迎えた老画家の作とはとても思えない作品です。


波濤図(北斎 87歳)


波濤図.jpg
葛飾北斎
「波濤図」
(フリーア美術館)

雷神図と同じく、北斎 87歳の最晩年の作品です。この作品は

① 激しくうねって押し寄せる荒波
② 屹立している岸壁
③ 遙か先にある集落

の3つの要素で構成されています。①荒波と②岸壁は、互いに激しく攻めぎ合っている感じであり、遠景の集落はその "戦い" とは全く無関係な静けさです。岸壁が荒波から集落を守っているようにも見える。動と静の対比というところでしょうか。

荒波の鉤爪かぎづめ状の波頭の表現は、明らかに『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』と通じるものを感じます(No.156「世界で2番目に有名な絵」に画像を掲載)。また動と静の対比も『神奈川沖浪裏』と似ている。ただ肉筆画と版画の違いがあって、一番明らかなのは波の周りの水しぶきの表現です。『神奈川沖浪裏』の水しぶきは、あたりまえですが版木で印刷したものですが、『波濤図』では白い顔料の飛沫を散らした表現になっています。ちょうど『雷神図』の墨を散らしたところと似ています。

フリーアが美術館に寄贈した作品に浮世絵版画はありません。浮世絵版画は、絵師と彫師と摺師の分業で作成されるものであり、その点をフリーアが嫌ったものと言われます。肉筆画は画家の筆の勢いや運びをダイレクトに伝えます。その意味で、この展覧会は貴重でした。


北斎の肉筆画と綴プロジェクト


初めにも書いたようにフリーア美術館は「日本美術の聖地」ですが、所蔵品のすべてが門外不出です。また、フリーアがこの美術館に寄贈した作品は肉筆絵画と彫刻(仏像)で、江戸期日本美術の一大ジャンルである浮世絵版画はありません。その結果、ここの北斎はすべて肉筆画であり、「世界最大級の北斎肉筆画コレクション」なのです。まとめると、今回の美術展は、

① 門外不出の美術館の作品(=フリーア美術館)
② 北斎の肉筆画(=世界最大級のコレクション)
③ 肉筆画の高精度複製(=綴プロジェクト)

という3つの要素が交わるところで成立したものです。キヤノン株式会社は「綴プロジェクト」に技術と人材とお金をつぎ込んでいると思うのですが、「門外不出の北斎の肉筆画展」を開催できるまでに至ったキヤノン株式会社の社会貢献活動に感謝したいと思います。




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No.269 - アンドロクレスとライオン [歴史]

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で古代ローマの円形闘技場で行われた剣闘士の闘技会のことを書いたのですが、その時に思い出した話がありました。今回は No.203 の補足としてその話を書きます。

まず No.203 の復習ですが、紀元2世紀ごろのローマ帝国の闘技会はふつう午後に行われ、午前中にはその "前座" が開催されました。1日のスケジュールは次のようです。

◆ 野獣狩り(午前)
ライオン、ヒョウ、クマ、鹿、ガゼル、ダチョウなどを闘獣士が狩る(殺す)ショー。猛獣の中には小さいときから人間を襲うように訓練されたものあり、そういう猛獣と闘獣士は互角に戦った。

◆ 公開処刑(午前)
死刑判決を受けた罪人の公開処刑。処刑の方法はショーとしての演出があった。罪人が猛獣に喰い殺される "猛獣刑" もあった。

◆ 闘技会(午後)
剣闘士同士の試合(殺し合い)。剣闘士には、武器と防具、戦い方によって、魚剣闘士、投網剣闘士、追撃剣闘士などの様々な種類があった。

No.203 では、アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(河出書房新社 2010)を引用してそれぞれの様子を紹介しました。この本は最新のローマ研究にもとづき、紀元115年のトラヤヌス帝の時代の首都ローマの1日を実況中継風に描いたものです。その中の野獣狩り・公開処刑のところで思い出した話がありました。「アンドロクレスとライオン」という話です。それを以下に書きます。


アンドロクレスとライオンの話


「アンドロクレスとライオン」は、手短かに要約すると次のような話です。


アンドロクレスとライオン

逃亡奴隷のアンドロクレスが闘技場でライオンの餌食になりかけたとき、ライオンは彼を認識し、抱擁を交わして再会を喜び合った。

不審に思った皇帝が事情を尋ねると、奴隷はかつてそのライオンの足の棘を抜いてやったことがあるという。ライオンはその恩を忘れずに彼を助けたのである。

この話に感銘を受けた皇帝はアンドロクレスをゆるし、ライオンともども自由の身にした。


アッティカの夜.jpg
アウルス・ゲッリウス
「アッティカの夜 1」
大西 英文 訳
京都大学学術出版会
これは、いわゆる「動物の恩返し」ですね。この手の話は日本の民話や昔話にもいろいろあります。「鶴の恩返し」が有名ですが「キツネの恩返し」という話もありました。おそらく世界中にこのタイプの説話があるのでしょう。

「動物の恩返し寓話」として「アンドロクレスとライオン」を考えると、その教訓は「ライオンでさえ人から親切にしてもらったことを忘れないのだから、人は他人から受けた恩を忘れてはいけない」ということでしょう。ないしは「どんな相手に対しても良いことをすれば、それは何らかの利得となって返ってくる」でしょう。

この話の原典は、紀元2世紀の古代ローマの文法学者で著述家、アウルス・ゲッリウスが著した『アッティカの夜』(アッティカ夜話)の一節です。そして原典では寓話やフィクションではなく、実話として書かれているのです。そこで、以下にその原典を引用してみます。


アンドロクレスとライオン(『アッティカの夜』より)


『アッティカの夜』はゲッリウスがギリシャ滞在中に執筆を始めた書物で、彼が読んだり聞いたりした数々の事項が列記されています。内容も文法、哲学、歴史、逸話とさまざまです。ちなみに "アッティカ" とはギリシャのアテネ周辺を指す地名です。この本の第5巻 14節が「アンドロクレスとライオン」の話です。話は次のように始まります。

なお、以下に引用する日本語訳の人名はラテン語読みで "アンドロクルス" となっています。また、段落を増やしたところや漢数字を算用数字にしたところ、ルビを追加したところがあります。


14、プレイストニケスの異名をもつ博学者アピオンが、ローマで見た、と記している、ライオンと人が、古い交情を思いだし、再び互いを認め合ったという話

プレイストニケスと呼ばれたアピオンは、文学に通暁し、ギリシアの文物の該博な知識を有する人であった。彼には、知る人ぞ知ると言われる書があり、そこには、エジプトで見聞できる、ありとあらゆると言ってもよい、不思議の話が収められている。

もっとも、彼が聞いたり読んだりしたと語っているものに限っては、悪い癖の、博識を誇示しようとする熱意のあまり、話が饒舌にすぎるが ── 実際、アピオンは、学識を誇示することでは、極端な自己宣伝家なのである ──、しかし、『エジプト誌』第五巻に記している次の話は、聞いたり読んだりしたものではなく、自ら、都ローマで、自分の目で見た、と確言している話である。

アウルス・ゲッリウス
『アッティカの夜 1』第5巻 14節
訳:大西 英文(神戸市外大名誉教授)
京都大学学術出版会(2016.1.30)

ここまでが "前置き" です。ここに出てくるアピオンという人物は、紀元1世紀のアレクサンドリア(エジプト)に在住のギリシャ人で、文法学者・ホメロス研究家でした。そのアピオンの著書『エジプト誌』は散逸して現存しません。しかし、ゲッリウスがそこから引用した文が現存している。『アッティカの夜』にはこういった例が多々あり、そういう意味で貴重な本なのです。

余談ですが、"アレクサンドリア"、"書物の散逸" と聞いて連想する話があります。No.27「ローマ人の物語(4)帝国の末路」で塩野七生さんの本から引用したように、ローマ帝国では4世紀のキリスト教の国教化にともなって図書館が閉鎖され、書物が散逸しました。図書館の蔵書が "異教の本" だったからです。この図書館の一つが有名なアレクサンドリアの図書館でした。アピオンの著書『エジプト誌』の散逸が図書館の閉鎖と関係あるかは知りませんが、とにかくローマ帝国の末期には文化の破壊と断絶が起こり、残った書物もあるが、失われたものも多い。そういうことかと理解しました。

ゲッリウスが伝える「アンドロクレスとライオン」の話は、闘技場でアンドロクレスとライオンが再会する前半と、過去にアンドロクレスがライオンを助けた話の後半に分かれています。その前半が以下です。


アンドロクレスとライオン(前半)



彼はこう語る。「大円形競技場キクルス・マクシムスで、実に大規模な野獣狩りの見世物が民衆に供されていた。たまたまローマに滞在していた私も、その見世物の観客の一人であった。そこには、凶暴な野獣が多数いて、野獣の大きさは群を抜き、その姿形や狂暴さは、どれも尋常ではなかった。

しかし、他の何にもまさって、ライオンの巨大さは驚異の的で、中でも一頭のライオンはのライオンすべてを凌駕していた。その一頭のライオンは、身体の動きや巨大さ、辺りに響き渡る恐ろしい咆哮ほうこう、盛り上がった筋肉、首回りになびたてがみで、観衆皆の心と目を一身に釘付けにしていた。

獣との闘いに連れ出された他の多くの剣闘士らにまじって、さる執政官格元老員議員の、一人の奴隷が闘いに引き出されてきた。奴隷の名はアンドロクルスと言った。くだんのライオンは、遠くからこの奴隷を目にすると、突然、まるで驚いたかのように立ち止まり、それから、ゆっくりと、穏やかに、あたかも何かに気づいたとでも言わんばかりのていで、その男に近づいていった。それから、じゃれつく犬同然、媚びるように、そっと尻尾を振りながら、男の身体に身をすり寄せ、すでに恐怖で肝を潰している、その男のすねや手を舌で優しくぺろぺろと舐め始めたのである。

人間のアンドロクルスは、これほど狂暴な獣が、そうして媚びるような仕草をしているあいだに、魂消たまげていた心の落ち着きを取り戻すと、様子を見ようと、おもむろにライオンに目をやった。その時、見れば、まるで再び互いを認め合ったといった風情で、人間とライオンが、嬉しそうに [再会を] 祝い合っていると思われたことであろう」。

「同上」


アンドロクレスとライオン(後半)


ライオンがアンドロクレスを認識し、近づいて身をすり寄せたのは、過去にアンドロクレスがそのライオンを助けたからでした。後半はその話です。冒頭に「ガイウス・カエサル」という名が出てきますが、Wikipedia によると、これはおそらく第3代ローマ帝国皇帝・カリグラ(在位37年~41年)だろう、とのことです。


これほど驚くべき出来事に、人々は興奮して大喚声を上げ、アンドロクルスはガイウス・カエサルに呼び出されて、狂暴極まりないライオンが、なぜ彼一人だけを容赦したのか、訳を尋ねられた、とアピオンは言う。その時、アンドロクルスは驚嘆すべき不思議な話を、こう語った。

「私の主人が、執政官格最高指揮権をもって、属州アフリカを統治していた時、そこに同行していた私は、理不尽にも、主人に毎日鞭打たれることに耐えきれず、やむなく逃亡し、その地の総督である主人から、できるだけ身の安全な隠れを求めて、人気ひとけない平原や砂漠に逃げ込み、食べ物がなければ、どうにかして命を絶とうという考えでおりました。

その時、激しく燃えさかるが頭上にかかる真昼頃、人里遠く離れ、隠れ処に格好の、とある洞穴ほらあなを、私は見つけ、そこに入って、身を潜めました。それからほどなくして、その同じ洞穴に、このライオンが近づいてきたのです。足の一本はびっこを引き、血が流れて、傷の痛みと苦しみを訴えるようなうめきと唸り声を発しておりました」。

洞穴に近づいてくるライオンが最初に目に入った時には、確かに、恐怖し、心は怯えた、と彼は語っている。

「しかし、ライオンが、状況か明らかなように、自分のものである、その住処すみかに入ってきたあと、距離を置いて、身を潜めている私に気付くと、穏やかに、人なつっこい様子で近づいてきて、足を上げ、それを私の方に差し出して、まるで助けを求めているかのようなそぶりを見せたのです。

そこで、私は、足裏に刺さっていた大きな、木のとげを抜いてやり、傷深くにたまった膿を絞り出して、もはや大きな恐れを抱くこともなく、丁寧に傷口の血をすっかり拭ってやったのです。すると、私のその尽力と治療で傷の痛みが和らいだのか、ライオンは傷ついた足を私の手の上に置いたまま、横たわって、眠りにつきました。

その日以来、丸三年のあいだ、私とライオンは、その同じ洞穴で、同じ食べ物を共にして暮らしたのです。といいますのも、狩りをして獣を仕留めると、脂ののった獲物の四肢を洞穴の私の所にまで、ライオンが運んでくれたからです。その肉を、私は、火とおこすべがなかったものですから、真昼の日差しで焼いて、食べたものでした。

しかし、そんな、獣のような暮らしがもう嫌になり、ある日、ライオンが狩りに出かけていったおりに、私は洞穴をあとにして、ほぼ三日間、道を辿っていく内に、兵士らに見つかり、捕らえられて、アフリカからローマの主人のもとに連れ戻されたのです。

主人は、ただちに、私を極刑で罰しようと、野獣の相手になるように手配したという次第です。私には分かります。このライオンも、私と離ればなれになったあと、捕らえられたものでしょうが、今、私に、あの時の親切と治療の恩返しをしてくれているのだ、と」。

「同上」

アンドロクレスが語るライオンを助けた話は以上ですが、その後アンドクレスとライオンがどうなったかで、全体の話が終わります。


アピオンが伝える、アンドロクルスの語った言葉は以上のようなものである。アピオンに拠れば、この話は、すべて記録され、記録された書板しょばんは国民の間に周知されて、その結果、国民全員の嘆願によって、アンドロクルスは [奴隷身分から] 解放され、罰を免除された上に、国民投票によって件のライオンを与えられたという。

「その後」とアピオンは続ける。「アンドロクルスと、細い紐に繋がれたライオンは、ローマのの都中を、店から店へと連れだって歩き回り、アンドロクルスにはかねが贈られ、ライオンには花吹雪が浴びせかけられて、出会った人々が、至るところで、口々に、こう語る姿が見かけられた、『これが人間の賓客ひんきゃくのライオンだ。この人がライオンの医者だ』と」。

「同上」

Androcles (Jean-LeonGerome).jpg
ジャン = レオン・ジェローム(1824-1904)
アンドロクレス」(1902頃)

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、ローマの闘技会を描いたジェロームの絵を引用したが(「差し下ろされた親指」と「皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち」)、そのジェロームはアンドロクレスの絵も描いている。晩年の78歳頃の作品で、No.203 の2作(30~40歳台)と比べると筆致の衰えを感じるが、ゲッリウスの「アッティカの夜」の場面を忠実に表現している。画像は Wikimedia Commons より引用した。
(アルゼンチン国立美術館)


イソップ/バーナード・ショー/ハリウッド映画


この「アンドロクレスとライオン」の話は、後世にイソップ寓話集に取り入れられました。イソップ寓話集を編纂したペリーによる、ペリー・インデックス:563の「羊飼いとライオン」です。

ちなみにイソップ(アイソーポス)は紀元前6世紀ごろのギリシャ人ですが、イソップ寓話というのは、イソップ自身が作った(とされる)寓話や、ギリシャの民話、後世に作られた寓話などの集大成です。イソップ寓話集は「イソップ風の寓話を集めたもの」です。

さらに現代になると、イギリスの作家、ジョージ・バーナード・ショーが『アンドロクレスとライオン』という戯曲を創作しました。ここではアンドロクレスはギリシャ人の仕立屋で、キリスト教徒であったため宗教迫害でライオンの餌食になりかけた、というストーリーになっています。もちろん、オリジナルの話は紀元1世紀であり、キリスト教が広まる以前です。

そしてこのショーの戯曲を原作として『アンドロクレスと獅子』というハリウッド映画が1952年に制作されました。

以上のように「アンドロクレスとライオン」は延々と語りつがれてきたということになります。よくある「動物の恩返し寓話」に思えるのに、この話には文豪やハリウッドの映画人までを引き付ける魅力があるのでしょう。


実話か


「アンドクレスとライオン」に戻ります。この話は、アレクサンドリア在住のホメロス学者、アピオンがローマで実際に体験した話を『エジプト誌』に書き、それをゲッリウスが『アッティカの夜』に転載したという形になっています。あくまで実話という立場で書かれています。

しかし本当に実話なのか、疑問が多々あります。話を良く読むと、次のような "不審点" が自然と浮かびます。

◆ ゲッリウスが引用しているアピオンは著書で「この話は聞いたり読んだりしたものではなく、ローマで自分の目で見た」と書いている。伝聞ではなく、自ら体験した実話だと強調しているところが、かえって怪しい。

◆ ゲッリウスはアピオンを評して「話が饒舌にすぎ、極端な自己宣伝家」と言っている。「アンドクレスとライオン」の話も "誇大にゆがめられている" のではないか。

◆ アンドロクレスが語る「ライオンを助けた経緯」が詳細すぎる。その話を書板(木、または石)に記述してローマ市民に公開したとなっているが、そんなことが本当にあるのだろうか。アピオンは少なくとも尾鰭おひれをつけて大げさに書いたのではないか。

◆ 傷ついて住処の洞穴に戻ってきたライオンは、初めから人間(アンドロクレス)に馴れ馴れしくしている。野生動物の行動とも思えない。アンドロクレスがライオンから肉をもらいつつ、3年も洞穴で生活したというのも信じがたい。

◆ アンドロクレスがライオンと別れてから闘技場で再会するまでの経過時間が書いていないが、たとえば1年だとすると、1年間離れたあとでライオンが人間の顔を覚えているのだろうか。

というような不審点です。直感的にはこの話はフィクションと思えます。百歩譲ったとしても、闘技場で丸腰の人間を襲わなかったライオンがいて、それが話の発端になった創作ではと思います。


ライオン、"クリスティアン" の物語


とは言うものの、実話だという可能性もあるわけです。アンドロクレスはエジプトでライオンと "何らかの交流" があり、ローマの闘技場でそのライオンと再会し、ライオンはアンドロクレスを認識したという可能性です。

そして "不審点" としてあげた最後の点、つまり「かつての恩人をライオンが認識した」ということに関して、実際に現代にそのようなことがあったことを知りました。

ゲッリウス著・大西英文訳『アッティカの夜』は京都大学学術出版会の西洋古典叢書の中の1冊ですが、この西洋古典叢書の「月報 119」に和歌山県立医科大学教授の西村賀子よしこ氏が次の文章を書いています。


ライオンが人を覚えていて愛情を示すことなどあるのだろうか。

ところが、これが実際にある。しかもその光景を「自分の目で見る」ことさえできる。動画サイトの YouTube で Christian the Lion を一度ご覧いただきたい。常識的にはありえないと思われる光景を見て、最初は驚き、これは本当にドキュメンタリーかと一瞬、疑うが、事実のようだ。

ことの起こりは 1969年、生後間もない赤ちゃんライオンが有名デパートのハロッズで売られていた。ロンドン在住の2人のオーストラリア青年が不憫に思って買い求め、自宅で飼い始めた。ライオンはクリスティアンと名付けられ、1年も経つと体も大きくなって運動量も食事量も増えたため、人といっしょに都会で暮らすのが難しくなった。

そこで彼らは、周到な計画の下に彼を野生に戻すことを選び、ケニアの野生保護活動家の援助を受けながら自然の中に放した。そして1年後の1971年、2人の若者はふたたび野生保護区を訪れた。

ライオンは最初はゆっくりと近づき、次第に足早に駆け寄り、最後は彼らに跳びついて後ろ足で立ち上がって抱擁する。ライオンが再会の喜びを体全体で表現するさまは感動をさそう。アンドロクルスとライオンの闘技場での発見的再認の場面もかくや。

西村賀子
西洋古典叢書「月報 119」(2015)
京都大学学術出版会

補足しますと「ケニアの野生保護活動家の援助を受けながら自然の中に放した」と書いてある "野生保護活動家" とは、『野生のエルザ』(ノンフィクション作品。後に映画。原題 "Born Free")を書いたジョイ・アダムゾンの夫であるジョージ・アダムソンです。彼はケニアで自然保護区の管理をしており、そこに野生復帰のリハビリをしたクリスティアンを放したわけです。アダムソン夫妻はライオンのエルザを野生に戻したことがあり、その経験も生きたのでしょう。

実際に YouTube の動画を見ると、2人の青年がクリスティアンと再会する場面は確かに感動的です。そこでのクリスティアンの振る舞いは、まるで人にじゃれつく猫のようで、こういう姿を見るとライオンも "猫科" の動物だと感じてしまいます。この「実話・クリスティアン」で分かることは

少なくとも幼少期の1年を人間に育てられたライオンは、1年間離れていても育ての親を認識できて、愛情を示す

ということです。これはアンドロクレスのライオンとはシチュエーションが少々違います。しかしライオンの認識能力を示す話であり、「アンドロクロスとライオン」の話の不審点の一つが少し緩和された気がします。一つだけですが。

Christian - Reunion.jpg
2人の青年、アンソニー・バーク(Anthony Bourke)、ジョン・レンダル(John Rendall)と再開して飛びつくクリスティアン。左はジョージ・アダムソン(George Adamson)。まだタテガミがないクリスティアンは幼獣であり、このような無邪気な行動はその特徴だという。


野獣狩りと猛獣刑


「アンドロクロスとライオン」の話が実話かどうかという議論はひとまず置いて、この話から判明することを考えてみたいと思います。この物語の根幹は、

ローマの闘技場でかつての恩人と再会したライオンが、その恩人を認識し、愛情を示した

というところにあり、これが実話かどうかが疑わしいわけです。もちろんその他、ライオンの洞穴で刺を抜いてやったというのも怪しいし、3年間の共同生活も疑わしい。しかし根幹のところはさておき、この物語の背景・バックグラウンドになっているのは次のような事項です。

① 紀元1世紀ごろにはエジプトにライオンが生息していた(現在はいない)。そのライオンを捕獲してローマに運び、猛獣狩りのショーが行われた。

② ローマの大円形競技場(フォロ・ロマーノの近く)では、ライオンを筆頭とする多数の狂暴そうな猛獣が集められ、剣闘士(闘獣士)がそれと戦う「猛獣狩り」のショーが開催された。

③ そのショーと併せて、罪人を猛獣の餌食にする「猛獣刑」も行われた。

④ 執政官の経験があり、エジプト総督を勤めた元老院議員(=ローマ帝国では高位の貴族)は、所有していた奴隷が逃亡して捕まると、その逃亡奴隷をショーの余興として猛獣刑にしようとした。

仮に「アンドロクレスとライオン」の根幹部分が創作物語だとしても、創作者はその背景となっている ① ~ ④ のような事項を出来るだけリアルに書いたはずです。常識的に考えて根幹部分は「驚くべき話、一見、眉唾ものの話」なのだから、少なくとも話の背景は紀元1世紀の誰もにとって自然なはずであり、そうでないと全体が完全に嘘っぽくなってしまいます。「真実は細部に宿る」というわけです。



最初に書いたように、No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」では、アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』によって、古代ローマの円形闘技場で行われた「野獣狩り」や「公開処刑」の様子を紹介しました。それらは最新の "ローマ研究" にもとづく著者の想像だったのですが、紀元1世紀の人物が書いた「アンドロクレスとライオン」の話と併せて考えると、闘技場の様子が極めてリアルに感じられたのでした。




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