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No.269 - アンドロクレスとライオン [歴史]

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で古代ローマの円形闘技場で行われた剣闘士の闘技会のことを書いたのですが、その時に思い出した話がありました。今回は No.203 の補足としてその話を書きます。

まず No.203 の復習ですが、紀元2世紀ごろのローマ帝国の闘技会はふつう午後に行われ、午前中にはその "前座" が開催されました。1日のスケジュールは次のようです。

◆ 野獣狩り(午前)
ライオン、ヒョウ、クマ、鹿、ガゼル、ダチョウなどを闘獣士が狩る(殺す)ショー。猛獣の中には小さいときから人間を襲うように訓練されたものあり、そういう猛獣と闘獣士は互角に戦った。

◆ 公開処刑(午前)
死刑判決を受けた罪人の公開処刑。処刑の方法はショーとしての演出があった。罪人が猛獣に喰い殺される "猛獣刑" もあった。

◆ 闘技会(午後)
剣闘士同士の試合(殺し合い)。剣闘士には、武器と防具、戦い方によって、魚剣闘士、投網剣闘士、追撃剣闘士などの様々な種類があった。

No.203 では、アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(河出書房新社 2010)を引用してそれぞれの様子を紹介しました。この本は最新のローマ研究にもとづき、紀元115年のトラヤヌス帝の時代の首都ローマの1日を実況中継風に描いたものです。その中の野獣狩り・公開処刑のところで思い出した話がありました。「アンドロクレスとライオン」という話です。それを以下に書きます。


アンドロクレスとライオンの話


「アンドロクレスとライオン」は、手短かに要約すると次のような話です。


アンドロクレスとライオン

逃亡奴隷のアンドロクレスが闘技場でライオンの餌食になりかけたとき、ライオンは彼を認識し、抱擁を交わして再会を喜び合った。

不審に思った皇帝が事情を尋ねると、奴隷はかつてそのライオンの足の棘を抜いてやったことがあるという。ライオンはその恩を忘れずに彼を助けたのである。

この話に感銘を受けた皇帝はアンドロクレスをゆるし、ライオンともども自由の身にした。


アッティカの夜.jpg
アウルス・ゲッリウス
「アッティカの夜 1」
大西 英文 訳
京都大学学術出版会
これは、いわゆる「動物の恩返し」ですね。この手の話は日本の民話や昔話にもいろいろあります。「鶴の恩返し」が有名ですが「キツネの恩返し」という話もありました。おそらく世界中にこのタイプの説話があるのでしょう。

「動物の恩返し寓話」として「アンドロクレスとライオン」を考えると、その教訓は「ライオンでさえ人から親切にしてもらったことを忘れないのだから、人は他人から受けた恩を忘れてはいけない」ということでしょう。ないしは「どんな相手に対しても良いことをすれば、それは何らかの利得となって返ってくる」でしょう。

この話の原典は、紀元2世紀の古代ローマの文法学者で著述家、アウルス・ゲッリウスが著した『アッティカの夜』(アッティカ夜話)の一節です。そして原典では寓話やフィクションではなく、実話として書かれているのです。そこで、以下にその原典を引用してみます。


アンドロクレスとライオン(『アッティカの夜』より)


『アッティカの夜』はゲッリウスがギリシャ滞在中に執筆を始めた書物で、彼が読んだり聞いたりした数々の事項が列記されています。内容も文法、哲学、歴史、逸話とさまざまです。ちなみに "アッティカ" とはギリシャのアテネ周辺を指す地名です。この本の第5巻 14節が「アンドロクレスとライオン」の話です。話は次のように始まります。

なお、以下に引用する日本語訳の人名はラテン語読みで "アンドロクルス" となっています。また、段落を増やしたところや漢数字を算用数字にしたところ、ルビを追加したところがあります。


14、プレイストニケスの異名をもつ博学者アピオンが、ローマで見た、と記している、ライオンと人が、古い交情を思いだし、再び互いを認め合ったという話

プレイストニケスと呼ばれたアピオンは、文学に通暁し、ギリシアの文物の該博な知識を有する人であった。彼には、知る人ぞ知ると言われる書があり、そこには、エジプトで見聞できる、ありとあらゆると言ってもよい、不思議の話が収められている。

もっとも、彼が聞いたり読んだりしたと語っているものに限っては、悪い癖の、博識を誇示しようとする熱意のあまり、話が饒舌にすぎるが ── 実際、アピオンは、学識を誇示することでは、極端な自己宣伝家なのである ──、しかし、『エジプト誌』第五巻に記している次の話は、聞いたり読んだりしたものではなく、自ら、都ローマで、自分の目で見た、と確言している話である。

アウルス・ゲッリウス
『アッティカの夜 1』第5巻 14節
訳:大西 英文(神戸市外大名誉教授)
京都大学学術出版会(2016.1.30)

ここまでが "前置き" です。ここに出てくるアピオンという人物は、紀元1世紀のアレクサンドリア(エジプト)に在住のギリシャ人で、文法学者・ホメロス研究家でした。そのアピオンの著書『エジプト誌』は散逸して現存しません。しかし、ゲッリウスがそこから引用した文が現存している。『アッティカの夜』にはこういった例が多々あり、そういう意味で貴重な本なのです。

余談ですが、"アレクサンドリア"、"書物の散逸" と聞いて連想する話があります。No.27「ローマ人の物語(4)帝国の末路」で塩野七生さんの本から引用したように、ローマ帝国では4世紀のキリスト教の国教化にともなって図書館が閉鎖され、書物が散逸しました。図書館の蔵書が "異教の本" だったからです。この図書館の一つが有名なアレクサンドリアの図書館でした。アピオンの著書『エジプト誌』の散逸が図書館の閉鎖と関係あるかは知りませんが、とにかくローマ帝国の末期には文化の破壊と断絶が起こり、残った書物もあるが、失われたものも多い。そういうことかと理解しました。

ゲッリウスが伝える「アンドロクレスとライオン」の話は、闘技場でアンドロクレスとライオンが再会する前半と、過去にアンドロクレスがライオンを助けた話の後半に分かれています。その前半が以下です。


アンドロクレスとライオン(前半)



彼はこう語る。「大円形競技場キクルス・マクシムスで、実に大規模な野獣狩りの見世物が民衆に供されていた。たまたまローマに滞在していた私も、その見世物の観客の一人であった。そこには、凶暴な野獣が多数いて、野獣の大きさは群を抜き、その姿形や狂暴さは、どれも尋常ではなかった。

しかし、他の何にもまさって、ライオンの巨大さは驚異の的で、中でも一頭のライオンはのライオンすべてを凌駕していた。その一頭のライオンは、身体の動きや巨大さ、辺りに響き渡る恐ろしい咆哮ほうこう、盛り上がった筋肉、首回りになびたてがみで、観衆皆の心と目を一身に釘付けにしていた。

獣との闘いに連れ出された他の多くの剣闘士らにまじって、さる執政官格元老員議員の、一人の奴隷が闘いに引き出されてきた。奴隷の名はアンドロクルスと言った。くだんのライオンは、遠くからこの奴隷を目にすると、突然、まるで驚いたかのように立ち止まり、それから、ゆっくりと、穏やかに、あたかも何かに気づいたとでも言わんばかりのていで、その男に近づいていった。それから、じゃれつく犬同然、媚びるように、そっと尻尾を振りながら、男の身体に身をすり寄せ、すでに恐怖で肝を潰している、その男のすねや手を舌で優しくぺろぺろと舐め始めたのである。

人間のアンドロクルスは、これほど狂暴な獣が、そうして媚びるような仕草をしているあいだに、魂消たまげていた心の落ち着きを取り戻すと、様子を見ようと、おもむろにライオンに目をやった。その時、見れば、まるで再び互いを認め合ったといった風情で、人間とライオンが、嬉しそうに [再会を] 祝い合っていると思われたことであろう」。

「同上」


アンドロクレスとライオン(後半)


ライオンがアンドロクレスを認識し、近づいて身をすり寄せたのは、過去にアンドロクレスがそのライオンを助けたからでした。後半はその話です。冒頭に「ガイウス・カエサル」という名が出てきますが、Wikipedia によると、これはおそらく第3代ローマ帝国皇帝・カリグラ(在位37年~41年)だろう、とのことです。


これほど驚くべき出来事に、人々は興奮して大喚声を上げ、アンドロクルスはガイウス・カエサルに呼び出されて、狂暴極まりないライオンが、なぜ彼一人だけを容赦したのか、訳を尋ねられた、とアピオンは言う。その時、アンドロクルスは驚嘆すべき不思議な話を、こう語った。

「私の主人が、執政官格最高指揮権をもって、属州アフリカを統治していた時、そこに同行していた私は、理不尽にも、主人に毎日鞭打たれることに耐えきれず、やむなく逃亡し、その地の総督である主人から、できるだけ身の安全な隠れを求めて、人気ひとけない平原や砂漠に逃げ込み、食べ物がなければ、どうにかして命を絶とうという考えでおりました。

その時、激しく燃えさかるが頭上にかかる真昼頃、人里遠く離れ、隠れ処に格好の、とある洞穴ほらあなを、私は見つけ、そこに入って、身を潜めました。それからほどなくして、その同じ洞穴に、このライオンが近づいてきたのです。足の一本はびっこを引き、血が流れて、傷の痛みと苦しみを訴えるようなうめきと唸り声を発しておりました」。

洞穴に近づいてくるライオンが最初に目に入った時には、確かに、恐怖し、心は怯えた、と彼は語っている。

「しかし、ライオンが、状況か明らかなように、自分のものである、その住処すみかに入ってきたあと、距離を置いて、身を潜めている私に気付くと、穏やかに、人なつっこい様子で近づいてきて、足を上げ、それを私の方に差し出して、まるで助けを求めているかのようなそぶりを見せたのです。

そこで、私は、足裏に刺さっていた大きな、木のとげを抜いてやり、傷深くにたまった膿を絞り出して、もはや大きな恐れを抱くこともなく、丁寧に傷口の血をすっかり拭ってやったのです。すると、私のその尽力と治療で傷の痛みが和らいだのか、ライオンは傷ついた足を私の手の上に置いたまま、横たわって、眠りにつきました。

その日以来、丸三年のあいだ、私とライオンは、その同じ洞穴で、同じ食べ物を共にして暮らしたのです。といいますのも、狩りをして獣を仕留めると、脂ののった獲物の四肢を洞穴の私の所にまで、ライオンが運んでくれたからです。その肉を、私は、火とおこすべがなかったものですから、真昼の日差しで焼いて、食べたものでした。

しかし、そんな、獣のような暮らしがもう嫌になり、ある日、ライオンが狩りに出かけていったおりに、私は洞穴をあとにして、ほぼ三日間、道を辿っていく内に、兵士らに見つかり、捕らえられて、アフリカからローマの主人のもとに連れ戻されたのです。

主人は、ただちに、私を極刑で罰しようと、野獣の相手になるように手配したという次第です。私には分かります。このライオンも、私と離ればなれになったあと、捕らえられたものでしょうが、今、私に、あの時の親切と治療の恩返しをしてくれているのだ、と」。

「同上」

アンドロクレスが語るライオンを助けた話は以上ですが、その後アンドクレスとライオンがどうなったかで、全体の話が終わります。


アピオンが伝える、アンドロクルスの語った言葉は以上のようなものである。アピオンに拠れば、この話は、すべて記録され、記録された書板しょばんは国民の間に周知されて、その結果、国民全員の嘆願によって、アンドロクルスは [奴隷身分から] 解放され、罰を免除された上に、国民投票によって件のライオンを与えられたという。

「その後」とアピオンは続ける。「アンドロクルスと、細い紐に繋がれたライオンは、ローマのの都中を、店から店へと連れだって歩き回り、アンドロクルスにはかねが贈られ、ライオンには花吹雪が浴びせかけられて、出会った人々が、至るところで、口々に、こう語る姿が見かけられた、『これが人間の賓客ひんきゃくのライオンだ。この人がライオンの医者だ』と」。

「同上」

Androcles (Jean-LeonGerome).jpg
ジャン = レオン・ジェローム(1824-1904)
アンドロクレス」(1902頃)

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、ローマの闘技会を描いたジェロームの絵を引用したが(「差し下ろされた親指」と「皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち」)、そのジェロームはアンドロクレスの絵も描いている。晩年の78歳頃の作品で、No.203 の2作(30~40歳台)と比べると筆致の衰えを感じるが、ゲッリウスの「アッティカの夜」の場面を忠実に表現している。画像は Wikimedia Commons より引用した。
(アルゼンチン国立美術館)


イソップ/バーナード・ショー/ハリウッド映画


この「アンドロクレスとライオン」の話は、後世にイソップ寓話集に取り入れられました。イソップ寓話集を編纂したペリーによる、ペリー・インデックス:563の「羊飼いとライオン」です。

ちなみにイソップ(アイソーポス)は紀元前6世紀ごろのギリシャ人ですが、イソップ寓話というのは、イソップ自身が作った(とされる)寓話や、ギリシャの民話、後世に作られた寓話などの集大成です。イソップ寓話集は「イソップ風の寓話を集めたもの」です。

さらに現代になると、イギリスの作家、ジョージ・バーナード・ショーが『アンドロクレスとライオン』という戯曲を創作しました。ここではアンドロクレスはギリシャ人の仕立屋で、キリスト教徒であったため宗教迫害でライオンの餌食になりかけた、というストーリーになっています。もちろん、オリジナルの話は紀元1世紀であり、キリスト教が広まる以前です。

そしてこのショーの戯曲を原作として『アンドロクレスと獅子』というハリウッド映画が1952年に制作されました。

以上のように「アンドロクレスとライオン」は延々と語りつがれてきたということになります。よくある「動物の恩返し寓話」に思えるのに、この話には文豪やハリウッドの映画人までを引き付ける魅力があるのでしょう。


実話か


「アンドクレスとライオン」に戻ります。この話は、アレクサンドリア在住のホメロス学者、アピオンがローマで実際に体験した話を『エジプト誌』に書き、それをゲッリウスが『アッティカの夜』に転載したという形になっています。あくまで実話という立場で書かれています。

しかし本当に実話なのか、疑問が多々あります。話を良く読むと、次のような "不審点" が自然と浮かびます。

◆ ゲッリウスが引用しているアピオンは著書で「この話は聞いたり読んだりしたものではなく、ローマで自分の目で見た」と書いている。伝聞ではなく、自ら体験した実話だと強調しているところが、かえって怪しい。

◆ ゲッリウスはアピオンを評して「話が饒舌にすぎ、極端な自己宣伝家」と言っている。「アンドクレスとライオン」の話も "誇大にゆがめられている" のではないか。

◆ アンドロクレスが語る「ライオンを助けた経緯」が詳細すぎる。その話を書板(木、または石)に記述してローマ市民に公開したとなっているが、そんなことが本当にあるのだろうか。アピオンは少なくとも尾鰭おひれをつけて大げさに書いたのではないか。

◆ 傷ついて住処の洞穴に戻ってきたライオンは、初めから人間(アンドロクレス)に馴れ馴れしくしている。野生動物の行動とも思えない。アンドロクレスがライオンから肉をもらいつつ、3年も洞穴で生活したというのも信じがたい。

◆ アンドロクレスがライオンと別れてから闘技場で再会するまでの経過時間が書いていないが、たとえば1年だとすると、1年間離れたあとでライオンが人間の顔を覚えているのだろうか。

というような不審点です。直感的にはこの話はフィクションと思えます。百歩譲ったとしても、闘技場で丸腰の人間を襲わなかったライオンがいて、それが話の発端になった創作ではと思います。


ライオン、"クリスティアン" の物語


とは言うものの、実話だという可能性もあるわけです。アンドロクレスはエジプトでライオンと "何らかの交流" があり、ローマの闘技場でそのライオンと再会し、ライオンはアンドロクレスを認識したという可能性です。

そして "不審点" としてあげた最後の点、つまり「かつての恩人をライオンが認識した」ということに関して、実際に現代にそのようなことがあったことを知りました。

ゲッリウス著・大西英文訳『アッティカの夜』は京都大学学術出版会の西洋古典叢書の中の1冊ですが、この西洋古典叢書の「月報 119」に和歌山県立医科大学教授の西村賀子よしこ氏が次の文章を書いています。


ライオンが人を覚えていて愛情を示すことなどあるのだろうか。

ところが、これが実際にある。しかもその光景を「自分の目で見る」ことさえできる。動画サイトの YouTube で Christian the Lion を一度ご覧いただきたい。常識的にはありえないと思われる光景を見て、最初は驚き、これは本当にドキュメンタリーかと一瞬、疑うが、事実のようだ。

ことの起こりは 1969年、生後間もない赤ちゃんライオンが有名デパートのハロッズで売られていた。ロンドン在住の2人のオーストラリア青年が不憫に思って買い求め、自宅で飼い始めた。ライオンはクリスティアンと名付けられ、1年も経つと体も大きくなって運動量も食事量も増えたため、人といっしょに都会で暮らすのが難しくなった。

そこで彼らは、周到な計画の下に彼を野生に戻すことを選び、ケニアの野生保護活動家の援助を受けながら自然の中に放した。そして1年後の1971年、2人の若者はふたたび野生保護区を訪れた。

ライオンは最初はゆっくりと近づき、次第に足早に駆け寄り、最後は彼らに跳びついて後ろ足で立ち上がって抱擁する。ライオンが再会の喜びを体全体で表現するさまは感動をさそう。アンドロクルスとライオンの闘技場での発見的再認の場面もかくや。

西村賀子
西洋古典叢書「月報 119」(2015)
京都大学学術出版会

補足しますと「ケニアの野生保護活動家の援助を受けながら自然の中に放した」と書いてある "野生保護活動家" とは、『野生のエルザ』(ノンフィクション作品。後に映画。原題 "Born Free")を書いたジョイ・アダムゾンの夫であるジョージ・アダムソンです。彼はケニアで自然保護区の管理をしており、そこに野生復帰のリハビリをしたクリスティアンを放したわけです。アダムソン夫妻はライオンのエルザを野生に戻したことがあり、その経験も生きたのでしょう。

実際に YouTube の動画を見ると、2人の青年がクリスティアンと再会する場面は確かに感動的です。そこでのクリスティアンの振る舞いは、まるで人にじゃれつく猫のようで、こういう姿を見るとライオンも "猫科" の動物だと感じてしまいます。この「実話・クリスティアン」で分かることは

少なくとも幼少期の1年を人間に育てられたライオンは、1年間離れていても育ての親を認識できて、愛情を示す

ということです。これはアンドロクレスのライオンとはシチュエーションが少々違います。しかしライオンの認識能力を示す話であり、「アンドロクロスとライオン」の話の不審点の一つが少し緩和された気がします。一つだけですが。

Christian - Reunion.jpg
2人の青年、アンソニー・バーク(Anthony Bourke)、ジョン・レンダル(John Rendall)と再開して飛びつくクリスティアン。左はジョージ・アダムソン(George Adamson)。まだタテガミがないクリスティアンは幼獣であり、このような無邪気な行動はその特徴だという。


野獣狩りと猛獣刑


「アンドロクロスとライオン」の話が実話かどうかという議論はひとまず置いて、この話から判明することを考えてみたいと思います。この物語の根幹は、

ローマの闘技場でかつての恩人と再会したライオンが、その恩人を認識し、愛情を示した

というところにあり、これが実話かどうかが疑わしいわけです。もちろんその他、ライオンの洞穴で刺を抜いてやったというのも怪しいし、3年間の共同生活も疑わしい。しかし根幹のところはさておき、この物語の背景・バックグラウンドになっているのは次のような事項です。

① 紀元1世紀ごろにはエジプトにライオンが生息していた(現在はいない)。そのライオンを捕獲してローマに運び、猛獣狩りのショーが行われた。

② ローマの大円形競技場(フォロ・ロマーノの近く)では、ライオンを筆頭とする多数の狂暴そうな猛獣が集められ、剣闘士(闘獣士)がそれと戦う「猛獣狩り」のショーが開催された。

③ そのショーと併せて、罪人を猛獣の餌食にする「猛獣刑」も行われた。

④ 執政官の経験があり、エジプト総督を勤めた元老院議員(=ローマ帝国では高位の貴族)は、所有していた奴隷が逃亡して捕まると、その逃亡奴隷をショーの余興として猛獣刑にしようとした。

仮に「アンドロクレスとライオン」の根幹部分が創作物語だとしても、創作者はその背景となっている ① ~ ④ のような事項を出来るだけリアルに書いたはずです。常識的に考えて根幹部分は「驚くべき話、一見、眉唾ものの話」なのだから、少なくとも話の背景は紀元1世紀の誰もにとって自然なはずであり、そうでないと全体が完全に嘘っぽくなってしまいます。「真実は細部に宿る」というわけです。



最初に書いたように、No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」では、アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』によって、古代ローマの円形闘技場で行われた「野獣狩り」や「公開処刑」の様子を紹介しました。それらは最新の "ローマ研究" にもとづく著者の想像だったのですが、紀元1世紀の人物が書いた「アンドロクレスとライオン」の話と併せて考えると、闘技場の様子が極めてリアルに感じられたのでした。




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