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No.318 - フェアリー・フェラーの神技 [アート]

このブログでは数々の絵画作品を取り上げましたが、その中に「絵画が他のジャンルの創作にインスピレーションを与えた」という例がありました。最もありそうなのが絵画から文学を作るケースで、ベラスケスの『ラス・メニーナス』から発想を得たオスカー・ワイルドの『王女の誕生日』がそうでした(No.63)。そもそも西洋絵画は宗教画、つまり "宗教物語の視覚化" から発達したので、絵画と物語の相性は良いわけです。

絵画に影響を受けた映画もありました。リドリー・スコット監督の『グラディエーター』(No.203)や『ブレードランナー』(No.288)、アルフレッド・ヒチコック監督の『サイコ』(No.301)、黒澤明監督の『夢』(No.312)などです。映画は視覚芸術でもあり、絵画との相性は物語以上に良いはずです。スコット監督や黒澤監督は絵画の素養があるぐらいです。

こういった中に「絵画からインスピレーションを得た音楽」があります。過去に触れた例では、ドビュッシーの交響詩『海』がそうです(No.156「世界で2番目に有名な絵」)。この曲は葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』に影響を受けたとされています。スコアの初版本の表紙が『神奈川沖浪裏』だし、ドビュッシーの自宅書斎には『神奈川沖浪裏』が飾ってあったぐらいなので(No.156 参照)間違いないでしょう。「北斎が波をあのように描いたのだから、自分は海を音楽で」と、作曲家が考えたとしても不思議ではありません。

この「絵画からインスピレーションを得た音楽」の別の例を取り上げたいと思います。ロックバンド、クィーンの「フェアリー・フェラーの神技」(1974)です。この曲は、19世紀のイギリスの画家、リチャード・ダッドの『お伽のきこりの入神の一撃』をもとにした曲です。題名は英語ではどちらも、

Fairy Feller's Master-Stroke

ですが、日本語訳がつけられた時期と訳者が違うために、違う名で呼ばれることになりました。fairy は妖精、feller はきこり、master-stroke は神技という意味です。ダッドの絵は樵(=妖精)が斧の一撃(= stroke)で木の実を割ろうとしている姿を描いているので、直訳すると、

・ 樵の妖精の神技
・ 樵の妖精の熟練の一撃

ほどの意味でしょう。まず、クィーンの曲の元となったリチャード・ダッドの絵からです。


お伽の樵の入神の一撃


Fairy Feller's Master Stroke - TateRevised.jpg
リチャード・ダッド(1817-86)
お伽の樵の入神の一撃」(1855-64)
[Fairy Feller's Master-Stroke]
(54cm×39.4cm)
テート・ブリテン [ロンドン]

画面が多数の "人物" で埋め尽くされていますが、彼らはすべて妖精です。その中心は画面の真ん中の下方に描かれているきこりの妖精で、彼が斧を振り上げ、地面に置かれた木の実(ヘーゼルナッツ = ハシバミの実)を割ろうとしている、その瞬間を妖精たちが待ちかまえている情景です。画面に多数描かれているヘーゼルナッツやデイジーとの比較で、妖精たちが "小さい" ことがわかります。

ある作家の文章を引用して、絵の全体を紹介することにします。実は、この絵をもとに英国の作家、マーク・チャドボーンが『フェアリー・フェラーの神技』という小説(2003年の英国幻想文学賞を受賞)を書いたのですが、その本に英国の作家、ニール・ゲイマンが序文を寄せています。その序文を引用します。漢数字を算用数字にし、段落増やしたところと、ルビを追加したところがあります。


20代のはじめにある本の書評を頼まれた。それはダイアモンドというヴィクトリア朝の医者が撮った、ロンドンにあるベツレヘム精神病院(引用注:Bethlem Royal Hospital。英語発音はベスレム)の収容患者たちの写真集だった。救いようもなくすさんだ患者たちが、揉み手をし、胡散臭そうな目でカメラを見つめながら、写真の露光にかかる時間中ぎこちなくポーズをとっている。顔は硬直しているのだが、手はぼやけてまるで鳩の翼のように見えるものが多い。狂気と苦悩の肖像。その中に一枚だけ、他と同じく精神を病んでいるのだが、具体的に何かをしている男の写真があった。

写真の中の患者は顎ひげを生やしている。彼も前にはイーゼルが置かれ、楕円形の複雑怪奇な作品に取り組んでいるところだ。カメラを見つめる表情は狡猾そうで、薄っすらと不敵な微笑を浮かべている。目が輝いている。男はしゃがんでおり、高慢な感じで、一年後に初めて彼の傑作『フェアリー・フェエラーの神技』の実物を見た時最初に気づいたのは、絵の中央に陣取り、中からこちらを見つめている白ひげの悲しげな小人こそ、年老いたリチャード・ダッドだということだった。

ニール・ゲイマン
マーク・チャドボーン作
「フェアリー・フェラーの神技」序文

(木村京子訳)
バベルプレス 2004

リチャード・ダッドは、25歳のときに欧州・中東旅行に出かけ(1842)、その旅の途中で精神を病み、帰国してから妄想にかられて父親を刺殺、フランスに逃亡し、居合わせた観光客を殺害しようとして逮捕されました。正常な状態ではないと判断されてイギリスに戻されたダッドは、王立ベスレム病院の精神病棟に収容されました(27歳)。20年後にブロードムア刑務所の病院に転院しましたが、68歳で結核で亡くなるまで、病院で生涯を過ごした画家です。

Richard Dadd.jpg
リチャード・ダッド
「自画像」(1841)
欧州・中東旅行で精神を病む前の、エッチングによる自画像である。「夢人館 8 リチャード・ダッド」(岩崎美術社 1993)より。

上の引用で作家のニール・ゲイマンは、自身の「ベスレム病院患者写真集」の書評を書いたときの経験と、テート・ギャラリーで『お伽の樵の入神の一撃』を初めて見た印象を重ね合わせて、「絵に描かれている禿頭の白髭の小人がダッド自身だ」としています。ダッドがこの絵を描いたのは40歳代(転院の直前まで)なので、もしそうだとすると、将来の自分の姿を予測して絵に描き込んだことになります。このゲイマンの見立てについては、後でもう一度ふれます。


テート・ギャラリーのラファエル前派コーナーを訪れる人々には、それぞれ自分なりの理由があり、深遠でドラマチックな何かが彼らの琴線に触れる。ウォーターハウスやミレーやバーン・ジョーンズはそれぞれ独特な魔力を持つ。見物人はこれらの絵の間を歩き回るうちに、人生が豊かで価値あるものになっていく。

一方、ダッドは罠だ。彼の作品に魂を奪われる者をおとしいれる。その絵に夢中になり、そこに描かれた妖精や小鬼や男女に頭を悩ませ、その小ささ、その形、その奇怪さを理解しようとし、文字通り何時間も絵の前に立ち尽くしかねない。

(同上)

この絵の大きさは、わずか 54cm×39.4cm です。画像で見ると、びっしりと妖精の一群が描き込まれていて、とてもそんな大きさには見えないのですが、縦のサイズは 54cm しかないのです。


複製を見てからあえて実物を見るために訪れた者は、まずその小ささに驚くだろう。想像したより小さい ─── あり得ないほどの小ささだ。つまり、あまりにも多くのものが詰め込まれている。初めて実物を見た後に購入したテート・ギャラリー公認の複製『フェアリー・フェラーの神技』は実物の2倍近い大きさだった。

そして実物は複製とは違う。額装された実物には魔力がある。その色、その細部は、どんな写真も、ポスターも、絵葉書も、決して再現できないだろう。

(同上)

著者は、テート・ギャラリーを訪れたなら是非この絵をじっくりと見て欲しいと言います。そして、じっくりと見るとあることに気づくはずだと ・・・・・・。


すると、何時間も見つめた後でもう一つのことに気づく。あまりに重大かつ奇妙なことで、なぜすぐに気づかなかったのか、またなぜ他の誰も指摘しなかったのか理解できないほど明白な事実だ。

絵は未完成なのだ。

下の方の大部分は色の選択が不可解でしかも褪せているが、それは薄茶色に下塗りしたキャンバスに輪郭だけが描かれているせいだ。フェラーの足元のすぐ下から広がる黄褐色の芝生は、ダッドが ── 製作に何年もかけたあげく ── 時間切れとなったために黄褐色なのだ。

(同上)

そして著者は、リチャード・ダッドの画家としての生涯とこの絵の位置づけについて、次のように締めくくっています。


精神を病む以前、父親を殺害する以前、不幸なフランス旅行以前(皇帝殺害の目的でパリへ向かう列車の中で、乗り合わせた乗客を襲って逮捕された)、ダッドの絵は実に可憐で、完璧にまともだった。チョコレートの箱に描かれたイラストのように印象に残らない、シェークスピアの場面から寄せ集められた妖精たち。何の特徴も魔力もなかった。後世にまで残るようなものは何もない。真実に迫るようなものは何もない。

そして彼は病んだ。それもちょっとやそっとではなく、実に見事に。悪魔やエジプトの神々に憑かれて父親を殺してしまうという狂気だ。彼は余生を監禁下で過ごしたが ── 最初はベツレヘムで、その後はブロードムアの第1級囚人として ── 間もなく絵を描き始め、作品の見返りに恩恵を受けるようになった。もはやチョコレートの箱の妖精ではなかった。彼の描く妖精の一団や、聖書の場面や、囚人仲間(実在あるいは想像上の)には強烈な力が加わり、それゆえに作品は価値あるものになっている。それはまさに怖いほどの強烈さと一途さで描かれた。

彼は余生を鉄格子の向こうで危険な患者たちと共に監禁されて過ごし、自らも同様に危険な患者だったわけだが、あたかも異界からもたらされたかのようなメッセージを我々に残した。

(同上)

リチャード・ダッドは、20歳で王立芸術院(Royal Academy of Arts)に入学しますが、仲間を集めて「ザ・クリーク(The Clique)」という画家グループを結成しました。これは「王立芸術院の伝統が時代の要求に即していない、芸術は大衆によって判断されるべき」と主張するものでした(Wikipedia による)。その後、彼が欧州・中東旅行に出かけたのは、ある英国の著名弁護士の旅行の同伴画家として白羽の矢が立ったからでした。その意味でリチャード・ダッドは気鋭の若手画家だったわけです。

しかし、ダッドの代表作とされる作品のほとんどは王立ベスレム病院で描かれ、その中でも「お伽の樵の入神の一撃」は傑作とされるものです。もしダッドが精神を病まなければ忘れ去られた画家になったでしょう。そうするとテート・ギャラリーに作品が展示されることもなく、フレディ・マーキュリーが感銘をうけて楽曲を作ることもなく、従って我々がリチャード・ダッドという画家を知ることも無かったに違いありません。


クィーン『フェアリー・フェラーの神技』


クィーンの『フェアリー・フェラーの神技』は、2作目のアルバム "クィーン Ⅱ"(1974)に収められた曲です。ドラムスとハープシコードとピアノが規則正しく音を刻んで始まるこの曲は、3分に満たない長さですが、ダッドの絵の世界の全体がダイレクトに歌われてます。歌詞は次のようです。


The Fairy Feller's Master-Stroke(1974)

Lyrics by Freddie Mercury

He's a fairy feller

The fairy folk have gathered
Round the new moon shine
To see the feller crack a nut
At nights noon time
To swing his axe he swears,
As it climbs he dares
To deliver...
The master-stroke

Ploughman, "Waggoner Will", and types
Politician with senatorial pipe -
He's a dilly-dally-o

Pedagogue squinting, wears a frown
And a satyr peers under lady's gown, dirty fellow
What a dirty laddio

Tatterdemalion and a junketer
There's a thief and a dragonfly trumpeter -
He's my hero

Fairy dandy tickling the fancy
Of his lady friend
The nymph in yellow
"Can we see the Master-Stroke"
What a quaere fellow

Soldier, sailor, tinker, tailor, ploughboy
Waiting to hear the sound
And the arch-magician presides
He is the leader

Oberon and Titania
Watched by a harridan
Mab is the Queen
And there's a good apothecary-man
Come to say hello

Fairy dandy tickling the fancy
Of his lady friend
The nymph in yellow
What a quaere fellow

The ostler stares with hands on his knees
Come on Mr. Feller,
Crack it open if you please



【試訳】

フェアリー・フェラーの神技

詞:フレディ・マーキュリー

彼はきこりの妖精

新月が輝く真夜中
木の実を割る姿を見ようと
妖精たちが集まった
樵は斧を振り上げ
高く掲げて誓う
熟練の一撃を披露することを

農夫や、御者のウィルのような連中
政治家は貴族のパイプをくわえている
やつはぐずぐずしている

教師は横目でしかめっつら
サテュロスは女性のドレスの下から覗く
いやらしいやつ
何て下劣なんだ

ボロを着た者、この宴を楽しむ者
泥棒も、トンボのトランペット吹きもいる
あいつは俺のヒーロー

洒落男の妖精は恋人といちゃつき
その黄色の服のニンフは言う
"神技の一撃を見せて"
何て変なやつらだ

兵士、水夫、鋳かけ屋、仕立屋に農夫
みんな、あの音を待っている
大魔術師が陣取り
すべてを取り仕切る

オベロンとティターニアは
口うるさい老婆に見張られている
マブは女王
そして有能な薬剤師が
挨拶に来る

洒落男の妖精は恋人といちゃつき
ニンフは黄色の服
何て変なやつらだ

馬丁は膝に両手をつき、見つめる
さあ、樵さん
木の実を割って見せてよ


クイーンII.jpg
クィーン
「QUEEN II」(1974)
歌詞を見てすぐ分かることは、ダッドの絵がどういう情景で何が描かれているか、それを説明したような歌詞だということです。実は、リチャード・ダッドは自作の「Fairy Feller's Master-Stroke」を解説した長い詩を残していて、現在はネットで公開されています。フレディー・マーキュリーはその内容を知って曲を作ったのが明らかです。歌詞には、satyr、dandy、nymph、politician、soldier、sailor、tinker、tailor、ploughboy、apothecary、thief、ostler、tatterdemalion、junketer、harridan、arch magician、Oberon、Mab、といった絵の登場キャラクターが出てきますが、今あげたものはすべてダッドの "自作解説詩" に出てきます。この中には tatterdemalion(ボロを着た者)などの、普通はまず使わない単語(ないしは古語)が出てきますが、それはダッドの "自作解説詩" にあるからなのです。

従って、クィーンの歌詞の内容を把握するためには、ダッドの絵に何が描かれているかを知る必要があります。それを次節に書きます。



ちなみに、歌詞には意味不明の単語が2つあります。一つは「Politician with senatorial pipe」の "senatorial" です。これは「上院の」とか「上院議員の」とか「上院議員にふさわしい」という意味ですが、英国の上院は貴族院(House of Lords)なので、上の試訳ではとりあえず "貴族の" としておきました。しかし "貴族のパイプ" では意味不明です。"senatorial pipe" はダッドの自作解説詩に出てきますが、おそらく19世紀にはその意味するところが明瞭だったのでしょう。ダッドの絵にはその「パイプをくわえた政治家」が出てきます(後述)。

もう一つは、2回出てくる "What a quaere fellow" の "quaere" で、これはダッドの自作解説詩に出てくる語ではなく、フレディー独自の表現です。しかし "quaere" という語を辞書で引いてもラテン語とあって、意味がとれません。この語について、ユニバーサル・ミュージックの海外音楽情報サイト、udiscovermusic.jp には次のような解説があります。


歌詞中の“奇妙な奴(quaere fellow)”という言い回しは、一部の人々が想像するようなあからさまな意味というより、やはり文学的な引用で、ブレンダン・ビーアンの戯曲『奇妙な奴(原題:The Quare Fellow)』のタイトルを謎めいたスペルで表したものである。

クイーン『Queen II』制作秘話
by Max Bell
(udiscovermusic.jp)

「一部の人々が想像するような」というのは、quaere = queer と考え、queer は「不思議な、奇妙な」という意味に加えて性的マイノリティも指すので、「あからさまな意味 = ゲイ」ということでしょう。しかし、上の引用にあるように「奇妙なやつら」「ヘンなやつら」が妥当であり、歌詞全体を眺めればそれが正しい受け取り方です。フレディの歌詞には時として造語が出てくるので、これもそうでしょう。試訳では「何て変なやつらだ」としておきました。


何が描かれているか


クィーンの歌詞の意味を探るため、ダッドの絵に何が描かれているのかを見ていきます。

Fairy Feller's Master Stroke - TateRevised.jpg
リチャード・ダッド(1817-86)
お伽の樵の入神の一撃」(1855-64)
[Fairy Feller's Master-Stroke]
(54cm×39.4cm)
テート・ブリテン [ロンドン]

まず、この絵の発想の原点はシェイクスピアにあります。クィーンの歌詞に「マブは女王」とありますが、これはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に出てきます。第1幕 第4場のロミオたちが仮面舞踏会に行く場面、ロミオの "昨晩、夢をみた" から始まる夢談義の中で、マキューシオがロミオに言う台詞せりふがそれです。以下にその部分を引用しますが、原文にはない段落を追加しました。


【マキューシオ】
ああ、じゃ、おまえ、マブの女王と一緒に寝たな。妖精たちが夢を生むのを助ける産婆役だ。町役人の人差し指に光る瑪瑙めのうのように小さな姿でやってきて、芥子粒けしつぶほどの小さな動物の群れに車を引かせ、眠っている人間どもの鼻先かすめて通って行く。

まわる車輪のスポークは、足長蜘蛛ぐもの足。広がるほろは、バッタの羽だ。馬をつなは、蜘蛛の細糸、首輪は、しっとり月の光、むちの棒は蟋蟀こおろぎの骨、鞭の縄は細い糸。御者ぎょしゃは灰色の服を着た小さなぶよだが、だらしない女の指先からくという丸いうじの半分の大きさもない。

車体はヘーゼルナッツの殻。作った大工は、昔から妖精の馬車造りを引き受けてきた栗鼠りす甲虫かぶとむしだ。

かくも豪華ないでたちで、夜毎に走るマブの女王。恋人の頭をかすめりゃ、愛の夢。・・・(以下略)

シェイクスピア
『ロミオとジュリエット』
第1幕 第4場
河合祥一郎 訳
(角川文庫 2005)

妖精の女王・マブは車に乗って夜毎現れ、夢を見させる。車の車体はヘーゼルナッツの殻で出来ている ・・・・・・。『ロミオとジュリエット』のこの部分から発想し、マブの女王のための "車体材料" を樵の妖精が作ろうとしていて、そのイベントに妖精たちが集まった光景を描いたのがダッドの絵です。

さらにクィーンの歌詞に「オベロンとティターニア」とあります。言うまでもなく、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に出てくる妖精の王と妖精の女王です。これはダッドの絵にも描き込まれていて、そうすることで "シェイクスピアを踏まえた" ことを明確にしているのです。

しかし "シェイクスピアを踏まえた" のは、この絵のほんの発端に過ぎません。ほとんどの事物は画家独自のイマジネーションで描かれています。そのところを順に見ていきます。

以下の解説は、電子図書館 JSTOR(ジェイストア=Journal Storageの略。www.jstor.org)に掲載されている絵の説明に従いました。この説明もダッドの "自作解説詩" を踏まえたもので、以下に見出しとしてあげた「キャラクターを表す語」はすべて "自作解説詩" に現れるものです。

 樵の妖精(Fairy Feller) 

樵の妖精は帽子をかぶり、茶色の革製のコートとズボンを身につけ、両手で斧を振り上げて、地面に立てたヘーゼルナッツに一撃をくわえようとしています。向こう向きなので表情はうかがい知れません。下の2つ目の図に、彼が割ろうとしているヘーゼルナッツの拡大図と、実物の写真をあげました。

FFMS01a - Fairy Feler.jpg

FFMS01d - Hazelnuts.jpg


テート・ギャラリーは "TateShots" と題する美術館の解説動画を YouTube で多数公開しています。その中の "Richard Dadd, The Artist and the Asylum"(2012.2.9。"リチャード・ダッド、芸術家と収容所")でこの絵が取り上げられていて、美術史家のニコラス・トローマンス(Nicholas Tromans)が次のように解説していました。

The main figure is the Feller himself who looks a little bit perhaps like Richard Dadd, raising an axe with which he is about to split this hazelnut to make a new carriage for the queen of the fairies, Queen Mab

【試訳】 この絵の中心人物は樵その人です。彼は少々リチャード・ダッドに似ているようにも見えます。斧を振り上げ、妖精の女王、クィーン・マブの新しい車を作るため、今まさにヘーゼルナッツを割ろうとしています。

Nicolas Tromans (Art Historian)

"looks ... like Richard Dadd" というのは、樵の後ろ姿の様子がリチャード・ダッドに似ているということでしょう。

 馬丁(Ostler) 

樵の妖精の右側です。妖精宿の馬丁ばてい(馬の世話人)が膝に両手をつき、一心不乱に樵を見つめています。ヘーゼルナッツの殻が割れる瞬間を見逃すまいとしているようです。

FFMS02 - Ostler.jpg

 修道士(Monk) 

馬丁の後ろに、少々分かりにくいのですが修道士がいます。頭頂部を剃り、髪をリング状に残した "トンスラ" の髪型をしています。腕を組んでいる姿です。

FFMS03 - Monk.jpg

 農夫と御者のウィル(Ploughman, Waggoner Will) 

修道士の右と上に、農夫(右)と荷馬車の御者のウィル(上)がいます。ウィルは今夜のイベントには無関心なようです。

FFMS04 - Ploughman Waggoner Will.jpg

 遊び人(Men-about-Town) 

これは、画面の右端にいる2人の男の妖精を指します。羽がついた立派な帽子をかぶり、中世風の昔の服を着ています。一人は楽器を弾いています。

FFMS05 - Men-about-Town.jpg

 男女の小人(Female and Male Dwarf) 

樵の左に、緑のドレスを着た女と赤い帽子の男の小人がいます。男は祈祷師です。右手を差し出していますが、木の実が割れるかどうかの賭を仕切っています。

FFMS06 - Female and Male Dwarf.jpg

 田舎の恋人たち(Rustic Lovers) 

画面の左端の男女の妖精は恋人同士です。男は皮革業者(tanner)、女は乳搾り(dairymaid)で、男は女に寄りかかっています。

FFMS07 - Rustic Lovers.jpg

 2人のメイド(Two Ladies' Maids) 

左端の少し上に2人のメイドがいます。左側のメイドは左手に箒を持ち、右手にスズメガ(hawkmoth)をとまらせています。妖精は小さいので、蛾は肘まである大きさです。一方、右側のメイドは右手に鏡を持っていますが、その右下の地面を見ると、サテュルスがスカートの下から覗いています(拡大図)。サテュルスはギリシャ神話の半人半獣神で、好色とされています。

FFMS08a - Two Ladies' Maids.jpg

FFMS08b - Satyr Peeps.jpg

 教師(Pedagogue) 

メイドの右側に、禿頭で白髭の教師がいます。彼はかがむように座っていて、手を膝にあてています。

FFMS09 - Pedagogue.jpg

上に引用したように、ニール・ゲイマンはこの老人がダッドの(将来の)自画像に違いない、としています。数少ない正面を向いた妖精ですが(だだし横目で樵を見ている)、何となく不安げな感じで、教師という名ではあるが、人を導くキャラクターのようには見えません。しかし、この絵の中では最も現実感があるキャラクターに見えます。自画像説もありうるかも、と思います。

 洒落男とニンフ(Dandy and Nymph) 

教師の後ろに、洒落男の妖精とニンフがいます。洒落男はニンフに言い寄っています。

FFMS10 - Dandy and Nymph.jpg

 政治家(Politician) 

さらにその右側に、赤い服をきた政治家がいます。彼はパイプをくわえています。ダッドの自作解説詩ではこのパイプを "senatorial pipe" としています。直訳すると "上院議員のパイプ" です。拡大図を見ると、ちょっと変わった形のパイプのようです。

FFMS11a - Politician.jpg

FFMS11b - Politician.jpg

 いなか者(Clodhopper) 

政治家の右に、立派な靴を履いた "いなか者" がいます。彼はサテュルスのような頭部です。Clodhopper とは泥道でも大丈夫な丈夫な靴で(clod = 土の塊)、そういう靴を履いている人をも指します。

FFMS12 - Clodhopper.jpg

 2人のエルフ(Two Elves) 

洒落男とニンフの上に、聞き耳を立てている2人の妖精が小さく描かれています。エルフ(elf)はゲルマン神話・北欧神話に起源をもつ妖精です。

FFMS13 - Two Elves.jpg

 大魔術師(Arch Magician) 

政治家の上に大魔術師がいます。白い髭で、3層の金の王冠をかぶり、左手を横に伸ばしています。彼がこの場を仕切っていて、樵が一撃を加える合図を送ろうとしています。

FFMS14 - Arch Magician.jpg

 マブの女王と踊り子(Queen Mab and Dancers) 

大魔術師の3層の王冠の左と右にマブの女王の一行が描かれています。左はマブの女王の部分で、拡大図の車輪の上に女王の顔が見えます。全体の詳細は小さすぎて判別し難いのですが、このあたりは『ロミオとジュリエット』の記述を踏まえていると考えられます。大魔術師の王冠の右側には、スペイン風の衣装の踊り子たちが描かれています。

FFMS15a - Queen Mab and Dancers.jpg

FFMS15b - Queen Mab and Dancers.jpg

FFMS15c - Queen Mab and Dancers.jpg

 オベロンとティターニア(Oberon and Titania) 

大魔術師のすぐ上に「真夏の夜の夢」の妖精の王と王妃、オベロンとティターニアがいます。ともに王冠をかぶり、正装しています。三角帽をかぶった赤い服の老女が見張っています。

FFMS16 - Oberon and Titania.jpg

 トランペット吹き(Trumpeters) 

全体画面の左上にトランペット吹きがいます。2人(下図の中央付近)と、トンボ(下図の右上)のトランペット吹きです。トンボはバッタとも似た格好をしています。トンボの下には中国風の帽子の妖精が小さく描かれています。

FFMS17 - Trumpeters.jpg

なお、クィーンの歌詞に「Tatterdemalion and a junketer」とあります(試訳:ボロを着た者、この宴を楽しむ者)。ダッドの "自作解説詩" では、これはトランペットを吹いている2人(上図中央付近)のことだとしています。言葉の意味は、

tatterdemalion    person in tattered clothing。ボロボロの(裂けた)服を着た者

junketer    person who goes on junkets, feasts, and excursions for pleasure。物見遊山や宴会、遠出で楽しむ者

ですが、上の画像を見てもボロを着ているようには見えないし、トランペットに夢中でヘーゼルナッツを一撃で割るイベントを楽しんでいるようでもありません。これは画家・ダッドの反語なのかもしれません。

 兵士、水夫、鋳掛屋、仕立屋(Soldier, Sailor, Tinker, Tailor) 

画面の上端のトランペット吹きの右側に何人かの妖精がいますが、これはマザーグースを踏まえています。

Tinker, Tailor,
Soldier, Sailor,
Rich Man, Poor Man,
Beggar Man, Thief.

という、いわゆる "数え唄" です。ただし、ダッドの絵では登場キャラクターが少し違い、左から右へ順に、①兵士(soldier)②水夫(sailor)③鋳掛屋(tinker)④仕立屋(tailor)⑤農夫(ploughboy)⑥薬剤師(apothecary)⑦泥棒(thief)、の7人です。

FFMS18 - Soldier Sailor Tinker Tailor.jpg

ここで、クィーンの歌詞にもある "apothecary"(薬剤師、薬屋)が登場するのが少々唐突な感じがします。画面の右上(走っている泥棒の左上)で大きな乳鉢と乳棒で薬を調合しているのがそうです(下図)。ダッドの絵を所蔵しているテート・ブリテンの公式サイトの解説を見ると「リチャード・ダッドの父親は薬剤師で、絵の中の薬剤師は父親の肖像」だとしています。ということは、この7つのキャラクターの部分は画家の "子供時代の思い出" なのでしょう。

FFMS18b - Apothecary.jpg

ちなみにリチャード・ダッドの父親については、専門家の次のような記述があります。


リチャード・ダッドの一生は十分恵まれて始まった。彼は1817年8月1日、イギリス南東部のケント州チャタムで生まれた。父ロバート・ダッドは繁盛している薬局の薬剤師で、町の名士でもあり化学や地質学の講師としても有名だった。また親切な、進歩的意見をもつ有能の士で、親友の弁によると、全く陰険さがなく、他人に悪意のある猜疑心をもたれるような人ではなかった。この父の特別な「誇りと希望」は7人の子どもの中で3番目の男の子である第4子のリチャードだった。

パトリシア・オルダリッジ
(Patricia Allderidge)
「リチャード・ダッド 精神病棟の画家」
「夢人館 8 リチャード・ダッド」所載
(井上知行訳 岩崎美術社 1993)

パトリシア・オルダリッジは「ベスレム病院記録保管官、兼 博物館長」で、リチャード・ダッド研究の第一人者です。この文章を読むと、リチャード・ダッドの父親は "有能な(good)薬剤師" であるとともに "人柄のよい(good)名士" だったようです。クィーンの歌詞に "good apothecary-man" とあるのはその通りです。

 デイジーとヘーゼルナッツ(Daisies and Hazelnuts) 

妖精以外に目を向けてみると、特に目立つのはあちこちにちりばめられたデイジー(ひな菊)と、樵の足元に散らばるヘーゼルナッツです。樵はこのヘーゼルナッツを順に斧で割るつもりなのでしょう。牧草らしきものもあちこちに描かれています。

FFMS19a - Daisies.jpg

FFMS19b - Hazel nuts.jpg

 未完 

画面の左下に明るい茶色の部分がありますが、ここはカンバスに下塗りだけがされていて、未完です。主にヘーゼルナッツのデッサンがされています。

FFMS19c - Unfinised.jpg

さらに重要な未完部分があります。樵の斧です。完成作だと、この両刃の斧は金属色に塗られるはずですが、そうはなっていない。塗り残されています。おそらく画家は、最後の最後に斧を完成させるつもりだったのでしょう。

FFMS19d - Unfinised.jpg


Fairy Feller's Master-Stroke


「Fairy Feller's Master-Stroke」の細部を順に眺めてみて思うのは、実に様々なキャラクターが描き込まれていることです。妖精の一群とは言いながら人に近いものもあれば、異形の者もいます。極端にはトンボ(+バッタ ?)の妖精(?)までいる。ヘーゼルナッツやデイジーとの比較で妖精が全体的に "小さめ" なのは分かるが、そのサイズ感はさまざまです。極大がトンボで、マブの女王の一行は判別しづらい小ささです。

いかにも "妖精らしい" 羽をつけたものもいるが、そうでないものも多い。服装も中世風から近代風までまちまちで、身分は農民・馬丁から王・王妃までに渡っています。シェイクスピアが原点なのだろうけど、ギリシャ神話や民間伝承、童謡までが入り込んでいて、スペイン風もあれば中国風もあります。さらに画家の父親(薬剤師)の肖像と自画像(=仮説)まである。

さらに多様なのが、「樵がヘーゼルナッツの実を一撃で割る」という深夜のこのイベントに集まった妖精たちの "態度" です。その瞬間を見逃すまいとじっと見つめるものもいれば(馬丁)、単に見学しているものもいる。無関心であったり、別行動の妖精もいます(覗き見や楽器演奏)。

以上のような多彩さこそが、画家が意図したことなのでしょう。つまり "世界は見たそのままのモノだけで出来ているのではない" のであり、"想像力がなければ見逃してしまう様々なモノに満ちている" というメッセージです。

そして、あらためて全体を俯瞰して思うのは、その "種々雑多感" です。"ごった煮" というか "秩序のなさ"、"乱雑さ" が際だっています。多様性を通り越した、混沌とした世界が描かれている。それが "見たそのままではない世界" なのでしょう。

その混沌の中に一つだけ混沌とは真逆のことが描かれています。樵がヘーゼルナッツの殻を斧の一撃で割るという、この絵のタイトルになっている行為です。これは成功するか、失敗するか、二つに一つです。そして成功すれば(ないしは、神技の樵なら間違いなく成功して)ヘーゼルナッツは生まれ変わり、マブの女王の車の材料(と妖精たちの食料)になる。その瞬間は、この絵の数秒後に訪れるはずです。1かゼロかの答えが明らかになる、明快で明瞭な世界です。曖昧なことは何もありません。

画家は「Fairy Feller's Master-Stroke」という絵で、世界のありようを表現したのだろうと思います。想像力がなければ見逃してしまうモノに溢れている世界、その世界における「混沌」の中の「明快」、あるいは「明快」を包み込んでしまう「混沌」です。

そして、後ろ向きになっている唯一のキャラクターが "樵" です。この樵は、テート・ギャラリーの動画解説にあったように画家自身の肖像かもしれないが、後ろ向きであるため絵を見る人が自分自身を投影できます。しかも斧は未完です。混沌とした世界に、どういう一撃を下すのか。その一撃で何を得るのか。それはこの絵を鑑賞する人にかかっています。そのことを暗黙に感じて、人はこの絵に引き込まれる。それがこの絵に仕組まれた「罠」(=作家のニール・ゲイマンの表現)だと思います。


絵画から音楽を作る


フレディ・マーキュリーがこのダッドの絵を見て感銘をうけて作った曲が「フェアリー・フェラーの神技」です。その歌詞を再度、引用します。


The Fairy Feller's Master-Stroke(1974)

Lyrics by Freddie Mercury

He's a fairy feller

The fairy folk have gathered
Round the new moon shine
To see the feller crack a nut
At nights noon time
To swing his axe he swears,
As it climbs he dares
To deliver...
The master-stroke

Ploughman, "Waggoner Will", and types
Politician with senatorial pipe -
He's a dilly-dally-o

Pedagogue squinting, wears a frown
And a satyr peers under lady's gown, dirty fellow
What a dirty laddio

Tatterdemalion and a junketer
There's a thief and a dragonfly trumpeter -
He's my hero

Fairy dandy tickling the fancy
Of his lady friend
The nymph in yellow
"Can we see the Master-Stroke"
What a quaere fellow

Soldier, sailor, tinker, tailor, ploughboy
Waiting to hear the sound
And the arch-magician presides
He is the leader

Oberon and Titania
Watched by a harridan
Mab is the Queen
And there's a good apothecary-man
Come to say hello

Fairy dandy tickling the fancy
Of his lady friend
The nymph in yellow
What a quaere fellow

The ostler stares with hands on his knees
Come on Mr. Feller,
Crack it open if you please



【試訳】

フェアリー・フェラーの神技

詞:フレディ・マーキュリー

彼はきこりの妖精

新月が輝く真夜中
木の実を割る姿を見ようと
妖精たちが集まった
樵は斧を振り上げ
高く掲げて誓う
熟練の一撃を披露することを

農夫や、御者のウィルのような連中
政治家は貴族のパイプをくわえている
やつはぐずぐずしている

教師は横目でしかめっつら
サテュロスは女性のドレスの下から覗く
いやらしいやつ
何て下劣なんだ

ボロを着た者、この宴を楽しむ者
泥棒も、トンボのトランペット吹きもいる
あいつは俺のヒーロー

洒落男の妖精は恋人といちゃつき
その黄色の服のニンフは言う
"神技の一撃を見せて"
何て変なやつらだ

兵士、水夫、鋳かけ屋、仕立屋に農夫
みんな、あの音を待っている
大魔術師が陣取り
すべてを取り仕切る

オベロンとティターニアは
口うるさい老婆に見張られている
マブは女王
そして有能な薬剤師が
挨拶に来る

洒落男の妖精は恋人といちゃつき
ニンフは黄色の服
何て変なやつらだ

馬丁は膝に両手をつき、見つめる
さあ、樵さん
木の実を割って見せてよ


始めと終わりで、この絵の "全体状況" が歌われます。最初の方に「新月が輝く真夜中」とあります。新月(new moon)と言うと日本語では月が見えない状態ですが、英語の new moon は新月のあとの三日月程度までも指すようなので、そういった月が輝いている夜でしょう。ダッドの絵には明らかに影が描かれていて、何らかの月明かりがあります。その深夜に、樵が神技を披露するイベントを見ようと妖精たちが集まった ・・・・・・。そして歌詞の最後の部分では、樵の右側でじっと見守っている馬丁が登場し、"さあ、割ってください" となります。

しかし曲の中心は、始めと終わりの間の "妖精たち" を歌った部分です。そこにはダッドの絵に描かれている妖精が、全部ではないが数多くランダムに登場します。その合間に「いやらしいやつ」とか「僕のヒーロー」とか「何て変なやつ」といった、"感想" が挟み込まれる。ストーリーはなく、ダッドの絵をそのまま持ち込んだような「混沌」とした歌詞です。

そして全体に言えることは、この曲はダッドの絵をそのままダイレクトにロック音楽にしたものだということです。そしてこのような曲を作りたいと思うほどに、フレディはテート・ギャラリーのダッドの絵を見て感じ入るものがあった。

フレディは絵の何に感銘を受けたのでしょうか。その、あまりにも混沌とした世界でしょうか。特にダッドの絵を全く知らないで曲を聴くと、脈絡なく単語が出てくる錯綜した(良く言えば幻想的な)歌詞だと思えるでしょう。内容は全く違いますが、この曲の1年後に作られた "Bohemian Rhapsody(1975)" の "混沌とした歌詞" が思い起こされます。

ないしは、「混沌とした世界」である一方、樵の一撃という「はっきりとして明快な回答」が同居しているという、この絵の中心的なコンセプトなのでしょうか。

あるいは、全く別の観点で、妄想に取り憑かれ精神を病んでいるにもかかわらず、なおかつ精神病院でこのような "世界を俯瞰する芸術作品" を描ける画家の(人間の)創造力の偉大さなのでしょうか。

フレディが感銘を受けた理由は分かりませんが、意外と最後の点が当たっているのかもしれません。



このブログ記事の冒頭で、絵画からインスピレーションを得て(ないしは絵画をネタに)創作された音楽として、ドビュッシーの『海』をあげました。こういった "クロスオーバー" は意外とあって、有名なムソルグスキーの『展覧会の絵』がそうだし、ラフマニノフの『死の島』は、ベックリンの同名の絵に触発されたものです。ボッティチェリの『春』『ヴィーナスの誕生』『東方三博士の礼拝』をネタに作られたレスピーギの『ボッティチェリの3枚の絵』という作品もありました。リストのピアノ作品にもいくつかの "絵画ネタ" があります。

というように、クラシック音楽の世界ではこのタイプの音楽が意外とあるのですが、クィーンの『フェアリー・フェラーの神技』はロック音楽です。しかも絵の世界観を直接的に曲にしている。そこに、この曲の独特のポジションがあるのでした。



補足すると、ダッドの絵とクィーンの楽曲は「妖精」をめぐって展開しますが、英国は「妖精大国」なのですね。アーサー王の伝説から始まって、シェイクスピア、ピーターパン、指環物語、そしてハリーポッターまで、妖精が活躍します。そして「妖精画」という空想画が英国絵画史の大ジャンルであり、数々の「妖精画家」がいました。リチャード・ダッドが妖精を描いた作品は一部に過ぎませんが、伝統に吸い寄せられるかのように、代表作とされる絵が「妖精画」となった。そのダッドの絵に惹かれた英国のロックバンド、クィーンが楽曲を発表しても、それはごく自然だという感じがします。そういった英国の文化的伝統を感じるのが、2つの『フェアリー・フェラーの神技』なのでした。




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