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No.252 - Yes・Noと、はい・いいえ [文化]


言葉で認識し、言葉で思考する


このブログで今まで日本語と英語(ないしは外国語)の対比について何回か書いてきました。今回もそのテーマなのですが、本題に入る前に以前に書いたことを振り返ってみたいと思います。なぜ日本語と英語を対比させるのかです。

人間は言葉で外界を認識し、言葉で考え、言葉で感情や意見を述べています。我々にとってその言葉は日本語なので、日本語の特徴とか特質によって外界の認識が影響を受け、思考の方法にも影響が及ぶことが容易に想像できます。

それは単に影響するというレベルに留まらず、日本語によって外界の認識が制限され、思考方法も暗黙の制約を受けると思います。どんな言語でもそうだと思うので仕方がないのですが、我々としては言葉による束縛からのがれて、なるべく制限や制約なしに認識し、思い込みを排して自由に考えたいし、発想したい。

それには暗黙に我々を "支配" している日本語の特徴とか特質や "くせ" を知っておく必要があります。知るためには日本語だけを考えていてはだめで、日本語以外のもの = 外国語と対比する必要があります。日本人にとって(私にとって)一番身近な外国語は英語なので、必然的に英語と対比することになります。

英語(ないしは外国語)との対比ということで過去のブログを振り返ってみますと、まず語彙レベルの話がありました。

 蝶と蛾 

No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」で書いたのですが、日本語(と英語)では蝶と蛾を区別しますが、ドイツ語では区別をせずに "シュメッタリンク"(=鱗翅類)と呼びます。フランス語でも "パピヨン"(=鱗翅類)です。そして「日本で蝶は好きだけれど蛾は嫌いという人が多いのは、蝶と蛾を言葉で区別するからではないか」と書きました。同じことをドイツ語で言うと「シュメッタリンクは好きだけれど、シュメッタリンクは嫌い」になり、それは非文(言葉として意味を成さない文)になります。人は、言葉として意味をなさない内容を考えることは難しいのです。

 食感を表す語彙 

No.108「UMAMIのちから」で書いたのは、料理や食材の「味」や「香り」を表現する日本語は少ないが「食感(触感)」を表す語彙は非常に発達していることでした。そのほとんどは擬態語です。たとえば「ほくほく」は「熱を加えることで柔らかくなった食材が口の中で崩れる感じ」であり、特定の食材(根菜類など)にしか使いません。さらに「ほかほか」という言い方もあって、それは「ほくほく」とは僅かに違った意味合いに使われる。こういったスペシャル・ユースの語彙がたくさんあります。我々は料理や食材を味わった感じを表現するときに、知らず知らずのうちに食感(歯ごたえ、舌触り、喉ごし ・・・・・・)に偏った表現になっています。

 雪国実験 

No.139「"雪国" が描いた風景」では、言語学者・池上嘉彦よしひこ氏の秀逸な実験がテーマでした。川端康成の『雪国』の冒頭の文章を、日本語話者には日本語で、英語話者には英語で読んでもらいます。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。[川端康成]

The train came out of the long tunnel into the snow country. [サイデンステッカー訳]

そして、どういう情景をイメージしたか、それを絵に描いてもらいます。すると日本語話者は(図1)のような情景を描き、英語話者は(図2)のような情景を描きました。

雪国 - 図1.jpg
(図1)日本語話者が描いた情景

雪国 - 図2.jpg
(図2)英語話者が描いた情景

これはかなりショッキングな事実です。同じ意味と思われる文章を読んでも頭に描くイメージが違う。日本語話者は誰から指示されたわけもでもないのに(図1)のように受けとってしまうのですね。それが世界共通ではないことを知って愕然とする。

サイデンステッカー訳には川端康成の文章にはない train という subject(主語)が現れています(英語ではそう訳すしかない)。だから(図2)のような絵になるのだろうと思う人がいるかもしれません。しかしそれは違うのではないか。たとえば、日本語話者にサイデンステッカー訳を直訳した次の文章を読んでもらい、絵を描いてもらったらどうか。

列車は長いトンネルを抜けて雪国へと入った。

日本語話者の多数は、なおかつ(図1)を描くのではないでしょうか。この "雪国実験" が示しているのは視点の違いです。つまり(図1)は「地上の視点」であり(図2)は「俯瞰する視点」です。どちらが正しいということはありません。しかし言葉が暗黙に視点を規定することは、自由な発想をするためには考えておいた方がよいと思います。

 他動詞構文と自動詞構文 

No.50「絶対方位言語と里山」で書いたのはスタンフォード大学のボロディツキー助教授(認知心理学)の「英語・スペイン語・日本語の対比実験」でした。

英語は他動詞構文を好む言語です。偶発的事故でも、たとえば「ジョンが花瓶を壊した」というような表現を好みます。一方、日本語では偶発的事故の場合は「花瓶が壊れた」となり、スペイン語では直訳すると「花瓶がそれ自体を壊した(=いわゆる再帰構文)」となって、行為者を明示することがありません。

そこで、次の6種のビデオ映像を用意します。映像に写っているのはそれぞれ、男Aか男Bのどちらかが、

故意に
 ①風船を割る
 ②卵を割る
 ③飲み物をこぼす

偶発的事故で
 ④風船を割る
 ⑤卵を割る
 ⑥飲み物をこぼす

のどれかです。英語話者、スペイン語話者、日本語話者の被験者に、実験の意図は示さずにビデオを見てもらいます。ビデオを見たあと、被験者に男Aと男Bの写真を見せ、6種の行為を行ったのはどの男かを答えてもらいます。そうすると、意図的行為(故意)については3つの話者とも正しく答えられました。しかし偶発的事故に関しては、スペイン語話者と日本語話者は英語話者に比べて正答率が低かったのです。言葉によって認知するのだから、記憶は言葉に影響されるわけです。

 自動詞と他動詞 

No.140-141「自動詞と他動詞」で書いたのは、日本語には基本的な動詞において「意味として対になる自動詞と他動詞のペア」が極めて豊富に揃っていることです(たとえば "変える" と "変わる")。自動詞は「自然の成り行きとしてそうなった」と状況をとらえ、他動詞は「人為的行為の結果でそうなった」と把握します。同じ状況を「自然」と考えるのか「人為」ととらえるのかは「見方の違い」「視点の違い」です。日本語話者はこの動詞のペアを使い分けてニュアンスの違いを作っています。その例を No.141 でたくさんあげました。2つだけ再掲すると、

(自)木々の葉は、すっかり落ちていた。
(他)木々は、すっかり葉を落としていた。

(自)の方は「自然現象(=季節の移り変わり)として葉が落ちた」という感じであり、(他)の方では「木々が冬支度のために意図的に葉を落とした」というニュアンスが生まれます。

スーパー・マーケットが近隣の農家からその日の朝に穫れた野菜を仕入れて販売することがあります。

(自)今朝、穫れた野菜
(他)今朝、穫った野菜

(自)で強調されるのは「極めて新鮮な大地の恵み」であり、(他)になると「新鮮な野菜を消費者に届けようとする農家の努力」というニュアンスが入ってきます。

このように「自然」と「人為」を行き来できることで日本語の表現は豊かになっているのですが、その一方で問題点もありそうです。「会議で決めた」ことについては会議参加者に責任が発生するはずですが、同じことを「会議で決まった」と表現することによって、何となく自分には責任がないような気分になってしまう。そういうことがあると思うのです。我々としては言葉に引きずられないように注意すべきだと思います。

ちなみに英語について言うと、たとえば "change" を "変わる" と "変える" の両方の意味に使う言葉の "ありよう" に、今だに(かすかな)違和感を覚えてしまいます。それだけ日本語が "染み付いて" いるということでしょう。


「Yes・No」と「はい・いいえ」


ここまでは前置き(振り返り)で、以降が本題です。タイトルに書いた「Yes・No」と「はい・いいえ」がテーマです。

さっき書いた「英語に対する違和感」は、多かれ少なかれ誰にでもあると思うのですが、英語を学びたての生徒がまず感じる違和感は、否定疑問文に対する答え方ではないでしょうか。前回の No.251「マリー・テレーズ」でピカソの作品をとりあげたので、美術館での会話を想定した例文を作ってみます。

「Don't you like Picasso ?」
「Yes. I like blue Picasso very much.」

「ピカソは好きではないのですか?」
「いいえ。青の時代は大好きです。」

英語の初学者にとって、それまで「Yes = はい」「No = いいえ」だと何の疑いもなく学んできたはずが、ここに至って覆されてしまうわけです。中学校の先生は「英語では、否定疑問文に対する答え方が日本語とは逆になります」と説明し、教科書や参考書にもそう書いてあります。生徒としては、試験で×をつけられないためのテクニックとして「否定疑問の答えは日本語と逆」と覚え、その通りにしてテストでは間違えないわけです。何となく割り切れない気持ちをいだきつつ ・・・・・・。

しかし学校のテストはともかく、現実社会で英語を使わざるを得ないシチュエーションで否定疑問文に正しく答えられる日本人は少ないのではないでしょうか。英語国に在住している人や、日常的に英語を使っている人ならともかく ・・・・・・。否定疑問文はそんなに出てくるものではないので "助かっている" のが現実だと思います。

そして次のような、ちょっと "ひねった" 設定にすると、もうこれは絶対に無理という感じがします。たとえば、日本人のあなた(男性)が、日本でアメリカ人の女性と親しい仲になったとします。彼女は日本語がほんのカタコトなので、2人の会話は英語でやっていたとします。さて、経緯があって、ある状況になり、彼女があなたに、

 「もう私を好きじゃないんでしょう?」

と言ったとします。あなたはちょっとびっくりして、「いや、好きだよ!」と即座に言いたい。その英語の会話はこうです。

 「You don't love me anymore, do you ?
 「Yes !

ここで「Yes !」 と言える人は、果たしているでしょうか。ほぼいないのではと思います。少なくとも私には無理です(= 無理だと想像されます)。絶対に「No !」と言いそうな感じがする。女性から「もう私を好きじゃないんでしょう?」などと言われてしまう状況は、ある種の "緊迫感" に満ちているはずです。そんな時に学校の教科書や英語の先生の注意は思い出せるはずがないのです。

さらにこういう状況を考えてみます。出張ないしは観光でアメリカに旅行し、レンタカーを運転する時の話です。最大の注意点は(あたりまえですが)右側通行だということです。そこで最初は「右側、右側、右側、・・・・・・」と頭の中で反復しながら慎重に運転することになります。特に交差点での左折が問題で、左側車線に入ってしまって正面衝突した日本人がいるとアメリカ人の知人におどされたあなたは、「右側車線、右側車線、・・・・・・」と反復しながら左折することになります。アメリカの道路は片側4車線などはザラなので、うっかりしやすいのです。

右側通行は誰でもわかりますが、もう少しマイナーな交通規則で日本との違いもあります。交差点で「赤信号であっても、左からのクルマに注意しつつ、右折してよい」のも違いの一つです。アメリカ全土でどうかは知りませんが、少なくともカリフォルニアではそうです。右車線の一番右側で、右折のウィンカーを点滅させて赤信号で止まったままだと、後ろにつけたクルマから "プップッ" とクラクションを鳴らされることとなります。

さて、あなたにアメリカ人の友人がいるとします。その友人がアメリカの交通規則に関して、あなたのアメリカ出張(旅行)を前にテストしてくれることになったとします。友人は次のような意味の質問を英語でします。

 「はい・いいえで答えてください。
   "赤信号で右折してはいけません"
  答えは .... ?」

この質問に英語で正しく "いいえ" と答えられるでしょうか。

 「Answer at "Yes" or "No", please.
   "You must not turn right at red light"
  The answer is .... ?」
 「Yes.

さきほどの「もう私を好きじゃないんでしょう?」と彼女に言われるような緊迫した状況ではないにせよ、ここで Yes とは答えられないのではと思います。いくらアメリカの交通規則の知識があったとしても、日本人としては厳しいのではないでしょうか。内心シメシメと思って No と答えそうな気がする。そして、アメリカ人の友人はあなたがアメリカの交通規則を知っていることがわかっていて、あなたの英語力を試す質問をしたのだと、後になって悟るわけです。


「Yes・No」は「はい・いいえ」ではない


我々が学校で「英語では、否定疑問文に対する答え方が日本語とは逆になる」と覚えたのは、テストで×にならないためにはそれでよいのかも知れないけれど、言葉の本質とは無縁です。本質的で大切なことは、

  英語の「Yes・No」は、日本語の「はい・いいえ」と意味が違う言葉である

という点でしょう。通常の疑問文に対する「Yes・No」の日本語訳は「はい・いいえ」でよいのですが、それは "たまたま" そうなるだけなのです。そう考えるしかない。この、日本語と「意味が違う」ことを「Yes・No 問題」と呼ぶことにします。

日本語では「会話相手の陳述」や「その場に提示された叙述」について、それが正しい場合(= true)は「はい」、違っている場合(= false)は「いいえ」となります。つまり、相手の陳述や叙述全体を肯定するか否定するかで「はい・いいえ」が決まります。英語なら「That's right.」や「That's wrong.」が意味的に相当するでしょう(ほかに It's true. / It's not true. など)。

Yes・No はそうではありません。Yes は、「会話相手の陳述」や「その場に提示された叙述」の全体像ではなく、その中の "動詞" に反応し、その動詞を肯定します。No は逆に否定します。

ここで、動詞の「肯定・否定」と言ってしまうと、陳述全体の「肯定・否定」と紛らわしくなるので、別の言い方をすると、

  動詞(ないしは動詞+補語)で示された状態が
  存在する場合は Yes
  存在しない場合は No

という風に理解すると、be動詞の疑問文や否定疑問文まで含めてわかりやすいと思っています。

 「So, I don't have to go ?」 (疑問調で)
 「No.」

 「では、行く必要ない?」
 「はい」 (=行く必要ないよ)

行く必要性(have to go)が存在しないから No です。上の方で掲げた例文だと、ピカソが好きということが存在するから Yes、彼女への愛が存在するから Yes、赤信号で右折することが存在するから Yes です。「存在する・存在しない」というのは変な言い方ですが、そう受け取るのが一番しっくりすると思っています。上の方に掲げた「ピカソは好きじゃないの?」という例文を「存在する・存在しない」を使って解釈すると、次のようになります。

 「Don't you like Picasso ?」
 「Yes.」

 「"ピカソが好き" は存在しませんか?」
 「存在します」

ちなみに「So, I don't have to go ?」の例で、質問したのが私でアメリカ人の相手が Yes と答えたら「行く必要ないんだ」と判断してしまいそうです。実はこのようなことを、それとは気づかずに過去にやってしまったのではと、内心疑っています。ひょっとしたらビジネスのシーンでこういうことがあったのではないか。日本人との会話の経験が多い英米人なら、それなりに気をまわしてくれそうですが ・・・・・・。


視点が違う


「Yes・No」と「はい・いいえ」の違いは、会話における視点の違いだと言えそうです。最初の「ピカソは好きではありませんか?」という否定疑問文で考えると、もし「ピカソが好きか嫌いかわからないから聞いてみよう」と思うなら「ピカソは好きですか?」と質問するはずです。「嫌いなのでは?」という気持ちがあるから「ピカソは好きではありませんか?」という否定疑問文になる。

ピカソが好きだとすると、2種類の問いかけに対する日本語の答えは「はい、好きです」か「いいえ、好きです」のどちらかになります。つまり日本語では、会話相手の思惑とか、提示された質問内容によって答え方が違ってきます。会話相手との関係性によって答え方を変化させている。

それに対して英語では、ピカソが好きなら疑問文でも否定疑問文でも「Yes, I like Picasso.」です。会話相手との関係性ではなく、自分の意志や考えだけで答え方が決まります。

このことは、このブログの最初の振り返りのところで書いた "雪国実験" と関連すると思います。雪国実験であぶり出されたのは、日本語話者の「地上の視点」と英語話者の「俯瞰する視点」でした。つまり、会話相手との2者関係で答が決まる「はい・いいえ」は「地上の視点」であり、2者関係を脱して "存在する・存在しない" を答える「Yes・No」は「俯瞰する視点」だと言えるでしょう。言い換えると「主観的」と「客観的」の違いに近いかもしれません。

「雪国実験」や「Yes・No 問題」を踏まえると、日本語で考える以上、「地上の視点」や「主観的視点」の方に、モノの考え方のバイアスがかかるのではと思います。一方、英語は英語なりのバイアスがかかります。我々はものごとを考える上で、新たな発想を得るためにも、できるだけ多様なモノの見方をしてみたいわけです。そこはよく考えておくべきだと思います。



ところで「Yes・No 問題」についてですが、鮮明に記憶している映画の1シーンがあります。次にそれを書きます。


ヒューゴの不思議な発明


『ヒューゴの不思議な発明』はマーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画で、2011年に公開されました。日本での公開は2012年です(原題は "Hugo")。

HOGO 2011.jpg
舞台は1931年のパリで、主人公はヒューゴ・カブレという12歳の少年です。彼は孤児で、モンパルナス駅の駅舎を住処すみかとしています。というのも、駅の大時計の守をしている叔父と一緒に暮らしているからで、叔父の仕事を手伝ったりしています。

ヒューゴの心の支えは亡き父が遺した壊れた自動人形(=機械人形、オートマタ。日本で言う "からくり人形")と、その修復の手がかりになる手帳でした。父との思い出の自動人形の修理がヒューゴの目標なのです。彼はあるとき、駅の片隅にあるおもちゃ屋で人形の修復に使う部品をくすねようとし、主人のジョルジュに捕まってしまいます。そして重要な手帳を取り上げられてしまいました。ヒューゴは店じまいした後でジョルジュを尾行し、彼のアパルトマンにたどりつきます。そこにはジョルジュ夫妻とともに養女のイザベルが住んでいて、ヒューゴはイザベルと知り合いになります。彼女は本が大好きな女の子でした ・・・・・・。



ストーリーの紹介はこの程度でやめておきます。ポイントはジョルジュが "ジョルジュ・メリエス" という人物であることです。メリエスは、20世紀初頭の映画の黎明期における映画制作者で、数々の映画技術(ストップモーション、多重露光、微速度撮影、SFX、・・・・・・)を開発した人です。いわば、映画というものを作り上げた人物(の一人)なのです。

  ちなみに、メリエスが映画を制作したのは1896年から第1次世界大戦の始まる前(1913年)までですが、この映画の黎明期にサン・サーンスが世界初の映画音楽を作曲しています(1908年。No.91「サン・サーンスの室内楽」参照)。

映画は「ヒューゴ少年の発明・冒険物語」を予感させるように始まりますが(実際そうなのですが)、次第に映画の話になってきます。メリエス時代の本物の映画がいろいろと出てくる。修復された自動人形がどう動くかもメリエスが作った映画と関係しています。メリエスは映画制作者と同時に自動人形収集家ですが、映画と自動人形は共通点があります。つまり、それまで動かなかったもの(絵画、人形)が動くという共通点です。それが当時の人々には驚きだった。従って興行師の手腕が発揮される「見せ物」としての価値がある。もちろん、映画は「見せ物」として始まったわけです。

要するに『ヒューゴの不思議な発明』は "映画へのオマージュ" であり、スコセッシ監督の映画愛に溢れた "映画賛歌" なのです。さらに "映画についての映画" とも言えるでしょう。部分的に3Dが使われているのですが(駅のホームのシーンなど)、わざわざ3Dを使ったのは「観客に驚きを与える」という映画の本来の姿をしのんでのことでしょう。"映画についての映画" の傑作は、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年、イタリア)ですが、スコセッシ監督はそれを強く意識したと考えられます。



この映画で、私が一つだけ覚えている英語の台詞せりふがあります。それは映画のストーリーで重要なものでは全くなく、また名言でもありません。強く覚えているのは "アレッ" と思ったからです。

上に書いたように、ヒューゴはイザベルと知り合いますが、初めて名乗りあったのはジョルジュのアパルトマンの書斎でした。イザベルは "本の虫" ともいえる少女ですが、ヒューゴは本が好きなようには見えません。イザベルはヒューゴに質問します。


Isabelle :
  Don't you like books ?
Hugo :
  No... No,I do. My father and I used to read Jules Verne together.

「Hugo」(2012)

【試訳】
イザベル
  本は好きでないの?
ヒューゴ
  いや、好きだよ。お父さんと一緒によくジュール・ヴェルヌを読んだ。


アレッ、と思ったのは、ヒューゴが言う "No" です。ここは "Yes" でないといけないはずです。そういう風に言うべきだし、我々も中学の英語の授業以来 "Yes" だと教えられてきたわけです。"No,I do" というような言い方は、英語としてはおかしい。否定疑問に対する答えなのに「No = 日本語の "いいえ"」になってしまっています。

Hugo0.jpg
(Isabelle) By the way, my name is Isabelle.

このあとイザベルはヒューゴに「本を借りてあげよう」と言うが、ヒューゴが否定的なので次の会話になる。

Hugo1.jpg
(Isabelle) Don't you like books ?

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(Hugo) No... No,I do. My father and I used to read Jules Verne together.

なぜ映画の脚本で "No" としたのでしょうか。推測するに、これは「子供らしい、言い間違い」ではと思います。ヒューゴは12歳です。12歳の子供なら言い間違ってもおかしくはないので、脚本がそうなった。これも推測ですが、子供は家庭内での会話で親から、"Noではないですよ。Yes です。そう言いなさい" と言葉のしつけをされて、「Don't you like books ?」に「Yes,I do.」と正しく答えられるようになるのではと思います。

思いあたるのはヒューゴが孤児だということです。父親は事故で死んでしまいました。父親と一緒に暮らしているときも母親不在状態だったはずです。でないと孤児にはなりません。そういう家庭環境も考えた脚本なのではと想像しました。



言葉の意味は、その言葉を使う文化の中で規定されます。子供は生まれてから成人するまでのあいだ、家庭や社会で成長していく中で言葉が何を意味するのかを体得していきます。ヒューゴの "No, I do." はそのことを示していると思います。

疑問文と否定疑問文に対する答え方で言うと「同じ答え方をするのが英語、違う答え方をするのが日本語」でした。これは "言葉のありよう" の2つの面です。どっちもありうるし、どちらでも一貫した言葉の体系として成立します。しかし子供は育った文化の中でどちらかの意味合いを体得していき、それが "モノの見方" を規定することになる ・・・・・・。

そのように考えてみると『ヒューゴの不思議な発明』での会話は、言葉の重要性が理解できるシーンなのでした。



 補記:IE 11 

否定疑問文について軽く思い出したことがあるので書いておきます。Windows7/10で Internet Explorer 11 を使ってページを開いたとき、次のメッセージが出ることがあります。


このページの ActiveX コントロールは、安全でない可能性があり、ページのほかの部分に影響する可能性があります。ほかの部分に影響しても問題ありませんか ?

「はい」    「いいえ」

(Internet Explorer 11 のメッセージ)

ネット上のちゃんとしたページにアクセスしてこのメッセージが出た経験はありませんが、たとえば個人の PC の中に作った HTML文書の中に Javascript があったりすると、その内容によっては上記メッセージが出ることなります。もちろん自分で作った文書だと問題ないので「はい」をクリックするわけです。

しかし、考えてみるとこのメッセージは意味的に否定疑問です。これを英語に直訳して次のようなメッセージにしたらどうでしょうか。


【直訳】

An ActiveX Control on this page might be unsafe to interact with other parts of this page. Isn't there any problem with this interation ?

「YES」    「NO」


このメッセージだと、問題ないのなら「NO」をクリックすることになります。本文中に書いた、YES = 存在、NO = 非存在、という言い方からすると、問題が存在しないから「NO」です。・・・・・・ ということから類推すると、日本の企業に勤務している英米人で、まだ日本語経験が少なく、かつ、仕事で日本語版 Windowsを使わざるをえない人は、上記の Internet Explorer 11 の日本語メッセージに戸惑うこともあるのではないでしょうか(想像ですが)。

ちなみに、英語版Windows の実際のメッセージを調べてみると、「直訳」のようなメッセージではなく、


【英語版 Windows】

An ActiveX Control on this page might be unsafe to interact with other parts of this page. Do you want to allow this interation ?

「YES」    「NO」


でした。第1センテンスは「英語版の直訳が日本語版」ですが、第2センテンスは違います。英語版は否定疑問文ではなく、allow という語が使ってあって明快です。これなら米国勤務の日本人が使っても間違えようがありません。

では、日本語版 Windows で、なぜ英語版を直訳して「この影響を容認しますか ?」としなかったのでしょうか。マイクロソフトの開発担当者に聞いてみないとわかりませんが、何となく「英語と日本語の感性の違い」が現れたように思いました。

つまり「他動詞構文を好む英語」と、この手のメッセージにおいては「他動詞構文に違和感を感じる日本語」の違いです。マイクロソフトは Windows を多数の言語で世界中に展開しています。それぞれの言語にとって自然な表現にすることに注力しているのだと考えられます。

ただし「それぞれの言語にとって自然な表現」はよいとして、メッセージが「コンピュータのことを(Windowsのことを)よく知らない人にとって自然な表現ではない」のが困ったものです。ActiveX といっても何のことか分からない人が大多数ではないでしょうか(このメッセージに限ったことではありません)。Windowsが「一般消費財」になる日は遠いと思います。




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