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No.240 - 破壊兵器としての数学 [社会]

No.237「フランスのAI立国宣言」で紹介した新井教授の新聞コラムに出てきましたが、マクロン大統領がパリで主催した「AI についての意見交換会」(2018年3月)に招かれた一人が、アメリカの数学者であるキャシー・オニールでした。彼女は、

Weapons of Math Destruction - How Big Data Increases Inequality and Threatens Democracy」(2016)

破壊兵器としての数学 - ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義をおびやかすか

という本を書いたことで有名です。Weapons of Mass Destruction(大量破壊兵器。WMDと略される)に Math(Mathematics. 数学)を引っかけた題名です(上の訳は新井教授のコラムのもの)。この本は日本語に訳され、2018年7月に出版されました。

キャシー・オニール 著(久保尚子訳)
「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」
(インターシフト 2018.7.10)

です(以下「本書」)。一言で言うと、ビッグデータを数式で処理した何らかの "結果" が社会に有害な影響を与えることに警鐘を鳴らした本で、まさに現代社会にピッタリだと言えるでしょう。今回はこの本の内容をざっと紹介したいと思います。なお、原題にある Weapons of Math Destruction は、そのまま直訳すると「数学破壊兵器」で、本書でも(題名以外は)そう訳してあります。


本書で扱っているテーマ


本書をこれから買おうと思っている方のために、2つの留意点を書いておきます。

 AIについての本ではない 

Weapons of Math Destruction.jpg
キャシー・オニール
(久保尚子訳)
「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」
(インターシフト)
まず注意すべきは、本書は題名とは違ってAIについての本ではないということです。原題が暗示するように "数学"(Math)が社会に与える影響、特に悪影響(ダークサイド。暗黒面)についての本です。もちろん AI も数学の一部なのですが、直接的にAIはほとんど出てきません。日本語の題名に原題には無い "AI" を入れたのは、本が売れやすいようにということだと思います。最近の各種メディアでは「なんでもかんでも AI というタイトルをつける」傾向にありますが、その風潮に乗っかった日本語題名と言えるでしょう。

数学が社会に与える影響と書きましたが、もっと詳しく言うと「数学モデル(数理モデル)が社会に与える影響」です。この数学モデルは人間が考え出したものであり、単純な数式のこともあれば、複雑な(数学的)アルゴリズムのこともあります。AIはその極めて複雑な部類です。この数学モデルにはデータ(ないしはビッグデータ)が入力されます。そして計算の結果として、

  評価、判断、分類、予測、グループ分け、ランキング(ランク付け、順位付け)、スコアリング(スコア付け、点数付け)、指数、指標

などが出力されます。その多くは個人に関するものですが、組織体(大学、高校、企業、自治体、国、・・・・・)について評価のこともあり、また「犯罪発生場所の予測」といった場所・地区に関する数値であったりもします。

最も単純な数学モデルの例は、本書でも出てくる BMI(Body Mass Index。ボディマス指数)でしょう。人の身長と体重を入力とし、"数学モデル" によって「肥満度の評価指標値」を出し、同時に人を「肥満・普通・痩せ」に分類します。この場合の "数学モデル" は、体重(kg)を身長(m)の2乗で割るという単純な数式です。

もちろん数学モデルの利用は近代科学が始まったときからの歴史があります。むしろ数学モデルを使うことで近代科学が生まれたと言えるでしょう。現代でも身近なところでは、気象の予測には膨大な計算を必要とする数学モデル(=物理モデルをもとにした数学モデル)が使われています。もちろん自然科学だけなく社会科学にも使われます。

この数学モデルが社会に悪影響を与えるとき、キャシー・オニールはそれを「数学破壊兵器 = WMD」と呼んでいるわけです。悪影響とは、たとえば差別を助長するとか、貧困を加速するとか、公正ではない競争を促進するとか、平等の原則を阻害するとかであり、その具体的な例は本書に出てきます。

 アメリカの事例 

2つめに留意すべきは、本書に取り上げられているのはアメリカでの事例だということです。日本では考えられないような実例がいろいろ出てきます。それらを単純に日本に当てはめることはできない。

しかし我々としてはアメリカでの数学破壊兵器の実態を反面教師とし、そこから学ぶことができます。かつ、本書に出てくるアメリカの巨大IT企業(フェイスブック、グーグル、アマゾンなど)は日本でもビジネス展開をしているわけで、我々も常時利用しています。もちろん、これらのIT企業が数学破壊兵器を使っていると言っているのではなく、その危険性があると指摘しているわけです。こういった知識を得ることも有用でしょう。


キャシー・オニールの経歴


Cath ONeil.jpg
キャシー・オニール
Cathy O'Neil
(site:www.barnesandnoble.com)
本書の内容を理解するためには、著者のキャシー・オニールの経歴に注目する必要があります。彼女は小さい時から数学マニア("オタク" が適当でしょう)だったようで、14歳のときには「数学キャンプ」に参加したとあります(そんなキャンプがある)。数学は現実世界から身を隠す「隠れ家」でもあったと、彼女は述懐しています。そしてハーバード大学で数学の博士号(代数的整数論)をとり、コロンビア大学で終身在職権付きの教授になりました。そしてその教授職を辞して、大手ヘッジファンド、D.E.ショーに転職し、クオンツとして働きました。クオンツとは数学的手法で分析や予測を行う、金融工学の専門家(データ・サイエンティスト)です。通常のヘッジファンドのクオンツはトレーダーの下働きですが、D.E.ショーではクオンツが最高位だったとあります。ちなみに D.E.ショー は金融工学(フィンテック)の先駆けとも言えるヘッジファンドで、アマゾンを創立する以前のジェフ・ベゾス氏が働いていたことでも知られています。

まさにキャシー・オニールは学者としてエリートであり、ヘッジファンドに転職というのも華麗な経歴です。ところが転職して1年あまりの2008年秋、世界経済は崩壊に直面しました(= リーマン・ショック)。彼女は次のように書いています。


かつて私を保護してくれた数学は、現実世界の問題と深く絡んでいるだけではなかった。数学が問題を大きくしてしまうことも多いという事実を、この経済崩壊はまざまざと見せつけてくれた。住宅危機、大手金融機関の倒産、失業率の上昇 ── いずれも、魔法の公式を巧みに操る数学者によって助長された。それだけではない。私が心から愛した数学は、壮大な力をもつがゆえに、テクノロジーを結びついてカオスや災難を何倍にも増幅させた。いまや誰もが欠陥があったと認めるようなシステムに、高い効率性と規模拡大性を与えたのも数学だった。

キャシー・オニール著
「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」
(久保尚子訳。インターシフト。2018.7.10)

本書の根幹にあるキャシー・オニールの "思い" とは、愛する数学が社会に災いをもたらすことへの危機感(ないしは "数学をもて遊ぶ人たち" への怒り)と、短期間とはいえ "災いをもたらす側で数学者として働いた" という自責の念、の2つでしょう。本書の第2章では「内幕」と題して2008年の前後の金融業界・ヘッジファンドの内情が生々しく語られています。

彼女はヘッジファンドを離職し、現在は企業が使うアルゴリズムを監査する会社(彼女自身が立ち上げたもの)のトップを努めています。もちろん彼女は数学モデルやアルゴリズム(AIもその一種)を否定しているのではありません。「盲信するな」と警告しているわけです。

そのようなスタンスは本書でも明らかです。本書には「明白な数学破壊兵器の例」もありますが、「数学破壊兵器になりかねないもの」や「有益なツールだが、使い方によっては数学破壊兵器になるもの」、「将来、数学破壊兵器へと発展しかねないリスクがあるもの」の例などが出てきます。幅広い見地から "数学の有害利用" を指摘しアラームをあげることによって、それを正そうとする本と言えるでしょう。



以下に本書にある多数の事例から3つの例だけを紹介します。教育と犯罪に関するものです。


教師評価システム


本書で最初にあげられている数学破壊兵器の例が、教師の評価スコアを算出するツールです。


2007年、新たにワシントンDC市長になったエイドリアン・フェンティは、学力水準の低い市内の学校の状況改善を決意し、身を粉にして働いた。当時、第9学年を終了して卒業まで漕ぎつける高校生は2人に1人、第8学年で数学の成績が学年水準に達している生徒はわずか 8% というあり様だった。フェンティは、新たにワシントンDC学区の教育総長という役職を設置して強い権限をもたせ、教育改革論者のミシェル・リーを起用した。学生の成績が十分でないのは教師の教え方が悪いからだ、という理論に立ち、2009年、リーは業績の低い教師を一掃する計画を実行に移した。

(中略)

リーは、IMPACTと呼ばれる教師評価ツールを考案し、2009~10年の学年度末に、評価スコアが学区内の下位 2% に入る教師を全員解雇した。翌年にはさらに、下位5% に相当する 206名が解雇された。

「本書」

ワシントンDCの教師だったサラ・ウィソッキーの例が出てきます。彼女はマクファーランド中学で第5学年(日本式に言うと中学1年)の受け持ちでした。彼女は子供たちに対するきめ細かい配慮で保護者からも高く評価されていました。ところが2009~10年の学年度末に、IMPACTによる評価の結果、下位5% に相当するとされ、他の205名とともに解雇されてしまったのです。

この原因は、2009~10年の学年度からIMPACTに新たに組み込まれた「付加価値モデル」で、彼女のこのスコアが著しく低かったのです。「付加価値モデル」は、教師が数学と英語を教える能力を評価しようとするもので、生徒の学力がどれほど向上したかで判定されます。この評価はIMPACTの評価の半分を占めていました。残りの半分は学校の経営陣からの評価や保護者からの評価などです。

サラ・ウィソッキーは自分の評価が不当だと思い、調べ始めました。「付加価値モデル」はワシントンDC学区と契約を結んだプリンストンの「政策数理研究所(Mathematical Policy Research)」が開発したモデルで、生徒の学習進捗度を測定した上で、学力の向上・低下についての教師の貢献度を評価しようとするものです。これは当然のことながら、多数の要因が関わる極めて複雑なものになります。サラ・ウィソッキーは自分の評価が低かった理由の説明を求めましたが、結局、誰からも説明を聞くことができませんでした。IMPACTを運用するワシントンDC学区の役員でさえ説明できないという「完全なブラックボックス」だったのです。

キャシー・オニールはこの「付加価値モデル」について2つ指摘しています。まずこの数学モデルを作ったときのサンプル数が少なすぎることです。わずか25~30名の生徒の学習進捗度調査がもとになっているといいます。学力の向上についての教師の貢献度というような複雑なテーマなら「無作為に抽出した生徒、数千~数百万のサンプル」が必要と書いています。必要数とともに "無作為抽出" がキーポイントです。

さらに、数学モデルで必須の "フィードバック" がないことが問題です。フィードバックの例としてアマゾンの商品のレコメンデーションを考えてみると、レコメンデーションのアルゴリズム(=数学モデル)が良いか悪いかは、レコメンドした商品を顧客がクリックしてくれるかどうかで測定できます。この測定をもとに、レコメンデーションのアルゴリズムがたえず調整されています。

ところが「付加価値モデル」にはフィートバックがありません。数学モデルが良いか悪いか、それを学習して修正する機会がありません。特に、教師を解雇してしまったらそれで終わりです。あとの追跡もできない。キャシー・オニールは次のように書いています。


数学破壊兵器の多くは、ワシントンDC学区の付加価値モデルも含めて、フィードバックがないまま有害な分析を続けている。自分勝手に「事実」を規定し、その事実を利用して、自分の出した結果を正当化する。このようなたぐいのモデルは自己永続的であり、極めて破壊的だ。そして、そのようなモデルが世間にはあふれている。

「本書」

サラ・ウィソッキーの話には続きがあります。彼女はマクファーランド中学の5年生(日本式に言うと中学1年)を受けもっていますが、入学してくる生徒の大半はバーナード小学校の出身でした。


マクファーランド中学で過ごした最後の年が始まる前、彼女は、自分がこれから受け持つことになる生徒について、前年度末の小学校の学力テストの点数が驚くほど良いことに気づき、喜んでいたのだ。サラが受け持つ生徒の大半は、バーナード小学校の出身だった。バーナード小学校では、学生の29%が「上級レベルの読む力」と評価されていた。これは、この学区の平均の5倍に相当する。

ところが、実際に授業を始めてみると、生徒の多くは簡単な文を読むにも苦労していた。ずいぶん後になって、ワシントン・ポスト紙やUSAトゥデイ紙の記者が明らかにしたところによると、この学区内の41校で、標準学力テストの回答用紙に答えを消した跡が大量に見つかり、その41校のなかにバーナード小学校も含まれていた。高い率で答えが修正されていたということは、不正行為が行われた可能性が高い。学校によっては、70%の教室で不正が疑われた。

「本書」

教師は生徒の学力テストの成績が悪ければ自分の職が危うくなることを知っています。逆に成績が良ければ最高 8000ドルの特別手当が支給される。ましてや、リーマンショック後の労働市場が大打撃を受けていた時期です。小学校の教師が生徒の回答を修正したのではないかと疑われるのです。

サラ・ウィソッキーはこのことを知って、自分が解雇されたことに合点がいきました。しかしワシントンDC学区の責任者は聞く耳をもちません。「回答用紙の消し跡は "示唆的" であって、彼女の受け持ったクラスの数値に誤りがあった可能性はある。しかし決定的証拠ではない。彼女に対する処遇は公正だった」というのが責任者の言い分でした。

このあたりが数学破壊兵器の怖いところです。数学モデルで算出されたということで、人間が聞く耳を持たなくなってしまうのです。一人の人生をひっくり返すような決定をしているにもかかわらず ・・・・・・。



教師を評価する「付加価値モデル」の別の例が出てきます。ニューヨーク州の中学の英語教師、ティム・クリフォードは勤続26年の教師ですが、ある年、ワシントンDC学区と類似の「付加価値モデル」で解雇の標的となりました。100点満点で6点という最悪の成績だったからです。幸い彼は終身雇用を保証されていたので解雇されませんでしたが、スコアの低い年が続けば教師の職に居づらくなります。

「付加価値モデル」はクリフォードに落第点をつけましたが、改善点についてのアドバイスをしたわけではありません。彼は今まで通りの教え方を続けましたが、翌年の彼の評価スコアは何と96点でした。教師の "能力" が1年で90ポイントも変動するというのは、要するにデタラメということにほかなりません。このデタラメが持ち込まれた理由について、キャシー・オニールは統計学的に分析していますが、次のところが最も重要でしょう。


クリフォードは、自分に対する評価を大きく変えた不透明な数学破壊兵器について、事実上、何の情報も与えられていなかったが、評価が大きく揺れた理由には、学生の多様性が関係しているものと推測していた。評価の低かった年について、「僕は成績優秀な学生を多く教えていましたが、特殊教育を必要とする学生も多く教えていました。貧窮する学生を担当したり、トップクラスの学生を担当したり、あるいはその両方を担当したりすると、問題が起きるのだと思います。貧窮する学生は学習上の問題を抱えているので、成績が上がりにくくなっています。また、トップクラスの学生も、元からほぼ満点なので、成績が上がる余地は限られ、スコアはあまり変化しません」と説明してくれた。

その翌年に彼が担当したクラスは、前年とは異なる構成で、大半は極端に優秀でもなく、極端に劣るわけでもなく、その中間に位置する学生だった。すると、問題教師から素晴らしく優秀な教師へと生まれ変わったような結果になった。

「本書」

クリフォードのような例は多く、ある分析では同じ科目を何年か連続して教えた教師の4人に1人で、評価スコアが40ポイント以上変動していたといいます。キャシー・オニールは次のように結論づけています。


これはつまり、評価データは実質的にランダムであり、場所を問わず通用するような教師の能力を示しているわけではないということだ。教師の評価スコアは、数学破壊兵器がデタラメに導き出した数字にすぎない。

「本書」

本書には、今も40の州とワシントンDCで「付加価値モデル」が使用されていると書かれています。

数学モデルには、それを作る側の「見解」が反映されます。どんなデータを収集するのか、何をアンケートで問いかけるのかにも、作り手の価値観や欲求・欲望が反映されます。さらにそこに、先入観や誤解、バイアス(偏見)が入り込む

教師を評価する「付加価値モデル」に関して言うと、その最大の誤解は人を教えるという教師の能力を数値で評価できるという考えそのものでしょう。


USニューズの "大学ランキング"


2つ目の例は、これも教育に関するもので、時事雑誌「USニューズ」が発表している大学ランキングです。


事の起こりは1983年。この年、経営不振に陥っていた時事雑誌『USニューズ & ワールド・レポート』は、野心的な取り組みを開始した。全米の大学1800校を評価し、ランキング化したのである。この取り組みは、うまくすれば、人生初の一大決心を迫られた大勢の若者の行く手を照らす便利なツールになったことだろう。多くの場合、そのたった1回の選択で、将来のキャリアパスも生涯の友との出会いも、人によっては生涯の伴侶との出会いまでもが決まってしまうのだから。

しかし、編集部が望んでいたのは、ただただ、大学ランキング特集が売店で大きな話題を呼ぶことだった。おそらく、その1週間の『USニューズ』の販売部数は、ライバル誌『タイム』と『ニューズウィーク』の合計に匹敵したのではないか。

「本書」

この最初のランキングは、大学総長などの意見をもとに評価点を決めました。雑誌の読者には好評でしたが、多くの大学経営陣を怒らせ、不公平だという声が殺到しました。

そこでUSニューズは、データをもとにランキングを決めようとしました。しかし大学の「教育の卓越性」を計る指標を作るなど無理です。大学が1人の学生に4年間でどれだけ影響を与えたかは定量化できないし、全米で数千万もいる学生に対する影響など計りようがありません。そのためUSニューズは、測定可能で「教育の卓越性」と関係がありそうなデータ = "代理データ" をもとにランキングを決めようとしました。代理データとは次のようなものです。★は少ないほど良い指標です。

合格率(入試の受験者数に対する合格者数の割合★)
学生の大学進学適性試験(SAT)の成績
2年生に進学した新入生の割合
6年以下で卒業できた学生の割合
教員1人当たりの学生数(★)
1クラス当たりの学生数(★)
常勤教員の比率
教員の給料
学生1人あたり大学が使った費用
存命の卒業生のうち、大学に寄付をした人の割合

大学の評価点の75%はこのような代理データ(計、14項目)をもとに、それぞれに重みをつけて算出されます。そして残りの25%は大学総長や学部長の外部評価(他大学の評価を問う質問票のスコア)で決まります。外部評価が最大の重みを与えられていますが、こうした評価は広く名が知られた有名校ほど有利になることに注意すべきです。この合計15項目を点数化し、その合計点で大学のランキングをつけるわけです。


こうしてUSニューズは、1988年に初めて、データに基づくランキングを発表した。結果は良識的だった。しかし、このランキングが全国標準へと成長していくと、悪質なフィードバックループが姿を現した。問題は、このランキングが自己を補強していくところにある。USニューズのランキングで順位が低かった大学は、評判が落ち、条件が悪化する。トップクラスの学生も、トップクラスの教授も、その大学を避けるようになる。卒業生は遠巻きにしながら抗議の声をあげ、寄付を渋るようになる。するとランキングはさらに下落する。つまり、ランキング結果が大学のその後の運命を決める。

(中略)

大学というのは、ジャンルの異なる音楽のようなもの、文化の異なる食事のようなものである。さまざまな意見があって当然であり、それぞれの立場から建設的な議論が重ねられてきた。それが今では、カレッジと総合大学の評判が息づく巨大な生態系のうえに、数字で表される単一の物差しが暗い影を落としている

大学総長たちは、この展開を心から悲しんでいることだろう。彼らの多くは、自分が大学で経験したあれやこれやを大切に思っているに違いない。それが、学問の世界で出世を目指そうと思った理由の1つにもなっているはずだ。それなのに、その世界の頂点まで登り詰めた今、彼らは二流の時事雑誌のジャーナリストが定めた15項目の評価を上げるために、膨大なエネルギーを費やしている。指導教官から高い評価を得ようと四苦八苦していた学生時代に逆戻りしたかのようだ。そう、彼らは、融通に利かないモデル ── 数学破壊兵器 ── に囚われてしまったのだ。

USニューズのランキングがほどほどの成功を収めていたのなら問題なかったのだが、実際には、強大な影響力をもつようになり、国内標準としての地位の急速に固めてしまった。以来、教育システムはがんじがらめになっている。大学経営陣も学生もランキングの言いなりにならざるをえず、自由度を失ったのだ。USニューズの大学ランキングは規模拡大性に優れており、損害の及ぶ範囲を広げながら、破壊的なフィードバックループによって終わりなき悪循環を生み出す。ほかの多くのモデルほど不透明ではないが、それでも、正真正銘の数学破壊兵器だ。

「本書」

ランキングを上げるために "捨て身の" 行動に出る大学も出てきました。ある大学は入学予定者にお金を払って大学進学適性試験(SAT)を再受験させていました(本書には書いていませんが、おそらくSATのスコアが悪かった入学予定者だと思います)。またUSニューズに嘘のデータを送る大学も出てきました(データはUSニューズからの調査票に回答する形で収集されます。回答しなかった大学についてはUSニューズが独自調査をします)。

さらに意図しない有害な状況も生まれてきました。ランキングの元になるデータの一つに合格率があります。これは低いほど(= 競争率が高いほど)良いとされる数値で、この数値を下げるためのまっとうなやり方は、大学の評判を高めて多くの入試受験者を呼び込むことです。しかしもう一つ、やり方があります。合格者数を少なくすればよいのです。

「滑り止め」の受験ということがあります。「滑り止め」にされる大学としては、合格しても入学を辞退する学生がいることが過去の経験からわかっているので、定員より一定数だけ多めに合格を出すのが普通です。これは合格率を上げることになります。そこで大学側としては「滑り止め」で受験したと推定できる学生をアルゴリズムで割り出し、その学生には合格を出さないという対応を始めました。今や「滑り止め」という概念は消えつつあり、そうなったのにはUSニューズのランキングが大きく影響しています。

これは受験生と大学の双方にとって不幸な状況です。受験生にとっては「滑り止め」が意味をなさなくなり、大学にとっては、たとえ「滑り止め」であっても入学してくれたかもしれない優秀な学生を失うことになるからです。

さらに、大学ランキングの大きな過ちは「入学金と授業料」がデータに含まれないことだと、キャシー・オニールは指摘しています。つまり「入学金と授業料は低いほど良い」という評価がされないのです。この理由を彼女は推測しています。つまり大学ランキングを作るときにUSニューズはハーバード大学、スタンフォード大学、プリンストン大学、イエール大学のような、誰しも認めるような一流大学を調べたのだろう。そのような大学では、学生のSATの点数が高く、滞りなく卒業し、卒業生の年収が高いため母校に高額の寄付をしている。一方、これらの大学は入学金と授業料が高いことでも有名だ。もし入学金と授業料が低いほど良いという評価を入れると、これらの一流大学がランキング上位に並ばない可能性も出てくる。これではランキングの信憑性を疑わせることになる ・・・・・・。

大学ランキングの数学モデルは、ハーバード大学、スタンフォード大学、プリンストン大学、イエール大学などが上位に並ぶべく設計されています。つまり、モデルを作った人の 見解 が反映されているのです。


大学ランキングが登場してから、大学の授業料は急騰している。1985~2013年のあいだに、高等教育にかかる費用は500%を越える上昇を示し、そのインフレ率は4倍に迫っている。トップ層の学生を惹きつけるために、各大学では、先のTCU(引用注:テキサス・クリスチャン大学)のように建築ブームが続きている。ガラズ張りの壁に囲まれた学生センターや贅沢な寮を建て、ジムにはフリークライミング用の壁と泡風呂を備えつける。こうしたことはすべて、学生にとって素晴らしいことだろうし、大学生活をより良いものにしてくれるのかもしれない ── だが、その費用を負担することになるのは学生たちだ。数十年かけて学費ローンを支払うことになる。

「本書」

USニューズはランキングを拡張し、医科大学や高校までに広げています。また、このランキングを上げるためのコンサルティング会社、適切な入学募集をするためのコンサルティング会社、入学見込みの高い学生を予測するシステムを販売する会社などがあり、大学ランキングは巨大なエコシステム(生態系)の様相を呈しています。



キャシー・オニールが指摘しているように大学ランキングの最大の問題点は、多様性を否定する単一の物差しということでしょう。それが広まってしまった結果、全ての大学経営陣がそれに囚われてしまい、この物差しに向けて大学経営を最適化するようになった。まさに "破壊兵器" と呼ぶにふさわしいものです。


犯罪予測モデル


アメリカの北部、中西部から大西洋岸にかけて "ラストベルト"(Rust Belt)と呼ばれる地域があります。rust はさびの意味なので、直訳すると "錆地帯" です。この地域はアメリカの製造業や重工業の中心ですが、グローバル化による工場の海外移転、製造業の競争力低下などで経済的不振に陥っています。トランプ大統領(2017年1月に就任)の誕生の原動力の一つが、ラストベルトの白人貧困層だと言われました。本書にはそのラストベルトにある都市の事例が出てきます。


ペンシルバニア州にあるレディングという小都市は、脱工業化時代を迎え、厳しい時期を過ごしている。フィラデルフィアから西に50マイル(80キロメートル)の緑の丘に位置するレディングは、鉄道、鋼鉄、石炭、織物で栄えた。しかし、ここ何十年かはこれらの産業が急激に衰え、この街は衰退している。2011年には、貧困率が国内最高の41.3%になった(翌年には、デトロイトに僅差で抜かれた)。2008年の市場崩壊後に押し寄せた不況の波が、レディングの経済を打ちのめした。税収入が急落し、警察官45名を解雇しなければならなかった ── 犯罪は一向に減らないのに。

レディングの警察署長ウィリアム・ハイムは、少ない人数でこれまでと同じレベルかそれ以上の治安維持活動を行う方法を考え出さなければならなかった。そこで2013年、カリフォルニア州サンタクルーズを拠点とするビッグデータ関連のスタートアップ企業、プレドポル社の犯罪予測システムを導入した。このシステムは、過去の犯罪データを処理し、犯罪が起きる可能性が高い場所を絶えず計算し続ける。レディングの街の警官たちは、このプログラムが出した結論を地図上の四角い区画として見ることができる。各区画は、フットボール場2個分ほどの大きさである。その区画を重点的にパトロールすれば、犯罪を抑止できる見込みが高い。そして1年後、ハイム署長は、住居侵入の件数が23%減少したと発表した。

「本書」

レディングにおける犯罪予測システムの導入は、やむにやまれぬ決断だったと言えるでしょう。しかし今や、このようなシステムの導入が大都市も含め全米に広まってきました。

プレドポル社はカリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)のジェフリー・ブランティンガム教授が創立した会社です。プレドポル社の犯罪予測システムには、人種や犯罪歴などの個人データはいっさい含まれていません。システムが照準を合わせるのは「区画」です。過去にどのような犯罪がどの区画でどの時刻に起こったというデータが基礎です。具体的な詳細は明らかにされていせんが、システムには区画の数々の特性データが入力されるのでしょう。ATMやコンビニなどの犯罪が起こりやすいポイントの存在も重要データのはずです。また、犯罪が起きる周期的なパターンにも注目していると言います。

この犯罪予測システムを使ったとしても、犯罪の実行前に警官が人々を逮捕・拘束するようなことはありません。あくまで犯罪の発生確率を区画ごとに予測するものであり、警官にその区画のパトロールを促すものです。そのような区画に警官が長く留まれば住居侵入や車上窃盗を阻止でき、地域住民のためになります。その意味で公平性は保たれていると考えられ、警察活動の効率性の観点から優れたシステムと考えられます。しかしキャシー・オニールはこの犯罪予測システムが「有害」になる危険性を次のように指摘しています。


しかし、ほとんどの犯罪は住居進入や重窃盗ほど重大な犯罪ではない。実はそのことが、深刻な問題を生んでいる。警察は、プレドポルのシステムの導入時に、1つの選択を迫られる。いわゆる重罪のみに特化する設定を選ぶこともできるのだ。重罪というのは、殺人罪、放火罪、暴行罪などの暴力的犯罪であり、これらの犯罪は、必ず警察に通報がくる。一方で、対象犯罪を非暴力的な犯罪にまで広げて設定することもできる。路上で生活する浮浪者、執拗な物乞い、少量の薬物の販売・使用などが該当する。このような、社会規範に反する迷惑行為の多くは、警官が現場で目撃しなければ、通報されることはない。

迷惑犯罪は、貧しい地区ならたいていの場所で見られる、地域特有の犯罪であり、地域によっては反社会的行動(ASB)と呼ばれている。残念ながら、このような軽犯罪までモデルに組み入れてしまうと、分析結果が歪む恐れがある。迷惑犯罪データが多発すれば、その区画に配備される警官の数は増える。すると、その区画で逮捕される人数はさらに増える。住居侵入や殺人、強姦を阻止するのが本来の目的だとしても、そちらはすぐに成果が出るわけではない。パトロールとはそういうものだ。巡回中に、16歳未満とおぼしき少年たちが鞄から瓶を取り出して煽るように飲むのを見かけたら、警官はその子たちを呼び止めるだろう。その程度の犯罪データまでモデルに次々に追加してしまうと、警官はその区画ばかりを巡回することになる。

こうして有害なフィードバックが生まれる。警察が巡回すればするほど、新たなデータが発生し、その場所を重点的に巡回することが正当化される。すると、「犠牲者なき犯罪」で有罪となった大勢の人で刑務所はあふれかえる。そのほとんどは貧しい地区の住人であり、黒人とヒスパニック系が大半を占める。そのため、モデルで人種を区別していなくても、結果は偏ることになる。人種ごとの住み分けがはっきりしている都市では、区画データは人種の代理データとして高い精度で機能する。区画を特定すれば人種を特定したのとほぼ同等の意味をもつのだ。

「本書」

自己成就じょうじゅ予言という言葉があります。たとえ根拠のない予言であっても、人々がその予言を信じて行動することで予言が現実のものとなることを言います。ある銀行が危ないという予言がされると人々が預金をおろす行動に出て、本当にその銀行が倒産するようなことを言います。

迷惑犯罪を組み込んだ犯罪予測システムも自己成就予言に似ています。もちろん予測には数学モデルにもとづく根拠があるのでしょうが、「予測することによって予測が確実になっていく」のは大変よく似ている。考えてみると、前の項に紹介したUSニューズの大学ランキングも自己成就予言の要素があります。ランキング下位の大学は、そのことによって「教育の卓越性」が失われていき(大学経営陣が対策を打たないと)、それがランキングをさらに下げる。

キャシー・オニールは「どのような犯罪に注目するかを選択しているのは警察である」と書いています。もちろん重犯罪を除く、軽犯罪・迷惑犯罪についてです。犯罪予測モデルを数学破壊兵器にしないためには、モデルから軽犯罪を除外することが必要なのです。


個人を分類し、スコアリングする


本書に取り上げられたトピックから、「教師評価モデル」「大学ランキング」「犯罪予測モデル」の3つを紹介しましたが、本書には他にも多数の事例が出てきます。この中でも特に印象的なのは「個人を分類しスコアリングする」技術や数学モデルです。

そのもとになるのは、ビッグデータとして収集される個人の「行動データ」です。これにはネットでの検索履歴、商品の購買履歴、Webサイトの閲覧、SNSなどでの情報発信、モバイル機器の位置情報などです。これらを数学モデルで分析し、個人が分類され、あるいは個人にスコアがつけられる。行動データから性別や年齢はもちろんのこと、年収、性格まで推定できると言います。(やろうと思えば)位置情報から住所や勤務地を容易に推定できます。

ターゲティング広告はそのような行動データに基づいています。その個人が興味を惹きそうな広告を個人ごとに提示する。これは日本でも一般的ですが、これが有害になることがあります。つまり意図的に貧困層の人、困り果てている人、無知な人を狙って大量のターゲティング広告をうち、詐欺まがいの商品やサービスを購入させて "収奪" することができる(略奪型広告と書いてあります)。いわゆる「弱みにつけこむ」というやつです。



個人の信用度をスコアリングする、信用スコア(クレジット・スコア)に関する問題も提起されています。アメリカではFICOと呼ばれるクレジット・スコアが広まっています。これは個人のクレジットカード、住宅ローン、携帯電話料金などの支払い履歴から計算されるスコアです。このスコアは支払い履歴のみから計算され、計算方法が公開されています。また個人が自分のスコアに疑問や不審をもったとき、そのデータの公開を請求できます。さらに企業がスコアをマーケティングに利用することは法律で禁じられています。これらは信用格付け会社が法律で規制されているからです(日本でもクレジット業界の与信審査では同様のスコアがある)。

その一方、法律の規制を受けない個人スコアが広まっていて、本書ではこれを "eスコア" と呼んでいます。それは個人のありとあらゆる行動履歴や郵便番号などから数学モデルで算出されるもので、法の規制を受けません。これが企業活動に使われる。こういった "eスコア" は有害だと、キャシー・オニールは指摘しています。象徴的には、治安の悪いとされる地区からアクセスして中古車を調べていた人物は "eスコア" が低くなり、ローンの金利が高くなるといった例です。



個人の健康度を計ろうとする動きも非常に気になるところです。すでに保険会社では独自の健康スコアを策定し、スコアに応じて健康保険料を変えるところが現れています。キャシー・オニールはこういった動きが一般的に広まることを懸念しています。


私が感じている不安は、さらに踏み込んだものだ。企業が従業員の健康に関するデータを大量に抱え込むようになれば、企業が健康スコアなるものを考案し、それを仕事上の候補者の選別に利用するのを誰も止められなくなる。歩数にせよ睡眠パターンにせよ、収集された代理データの大部分は、法律による保護を受けないため、理論上は完全に合法になる。しかも、合理的だ。これまで見てきたとおり、企業は日常的にクレジットスコアや適性検査に基づいて求職者を不採用にしている。恐ろしいことだが当然の流れとして、次は健康スコアに基づく選別が行われるだろう。

「本書」

血圧、血糖値、中性脂肪値、胴囲、コレステロール値など、健康を計る基礎値には事欠かないので、これらをもとに「健康スコア」が作られる可能性は高いわけです。その、すでに広まっているスコアの一つの例として、BMI(Body Mass Index。ボディマス指数)があります。


BMIは、2世紀も前にベルギー人数学者 ランベール=アドルフ=ジャック・ケトレーによって考案された公式に基づいて計算される。だたし、ケトレーは医療や人体についてほどんど何も知らない素人で、単に、大規模集団の肥満度を簡単に測定できる公式が欲しかったにすぎない。彼は、「平均的な男性」というものを想定して公式を組み上げた。

「本書」

BMIは「体重(kg)を身長(m)の2乗で割る」という数式で計算されます。そして日本では 25 以上が「肥満」、18.5以下が「痩せ」とされる。しかしこれは肥満度をおおまかに知るための粗い代理数値です。「平均的な男性」を基準にしているので、たとえば女性は太りすぎと判断されやすくなります。また筋肉は脂肪より重いので、体脂肪率の少ない筋肉隆々のアスリートのBMIは高くなります。

エンゼルスの大谷翔平選手の身長は193cm、体重は92kgですが、シーズンオフには97kg程度のこともあるようです。体重を92kg~97kgとすると、大谷選手のBMIは24.7~26.0となり、「もう少しで肥満 ~ 肥満」ということになります(日本基準)。これはどう考えてもおかしいわけです(もちろん大谷選手のことは本書にはありません)。

「健康スコア」によって人々が健康問題に向き合えるように後押しするのは、決して悪いことではありません。重要なのはそれが「提案」なのか「命令・強制」なのかです。企業や組織が健康スコアによって何らかの強制や差別をするようになると(キャシー・オニールはそれを懸念している)、それは個人の自由の侵害になるのです。


民主主義を脅かす危険性


Weapons of Math Destruction(Original).jpg
Cathy O'Neil
「Weapons of Math Destruction」
本書の原題は「破壊兵器としての数学 - ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義をおびやかすか」です。この「民主主義を脅かすか」の部分が本書の最終章に書かれています。それは、選挙に数学破壊兵器が持ち込まれるリスクです。

2010年のアメリカの中間選挙において、フェイスブックは「投票しました(I voted)」というボタンを設け、投票した人がボタンをクリックすると、友達ネットワークのニュースフィードを通してそれが拡散するようにしました。この結果、投票率が2%上昇したとフェイスブックは分析しています。

また2012年の大統領選挙(オバマ大統領が再選された)では、その3ヶ月前からフェイスブックのユーザ200万人(政治に関わる人)を対象に実験が行われました。ニュースフィードに流すニュースを選ぶアルゴリズムに手を加え、200万人に対しては政治のニュースを意図的に多く流すようにしたのです。後日、アンケートで投票行動を調べた結果、投票率は64%から67%に上昇したと推定しています。

わずか2%~3%の差ですが、これはSNSの巨大な影響力を示しています。投票率が上がることは、社会通念上は良いことです。フェイスブックの行為も善意からかもしれません。しかし投票率によって選挙の当落が左右される(ことがある)のは常識です。特に、投票率が特定の候補者や政党に影響することがある(日本でも雨天で投票率が悪いと特定の政党が有利だという話があります)。フェイスブックは膨大な個人情報を握っているわけで、例えば特定の地域の投票率が上がるように「投票しました(I voted)」を拡散させることは技術的に十分可能でしょう。フェイスブックがそういうことをやっているというのではなく、そういうリスクがあるということです。

Googleのような検索エンジンも、検索結果の上位に何をもってくるかは Googleが決めています。特定の候補、ないしは政党に有利(ないしいは不利)になる情報を上位にもってくることがアルゴリズムの工夫によって可能であり、ここにもリスクがあります。

さらにターゲッティング広告が既に一般化していることを考えると、ネットを選挙運動使うことにも危険性があります。個人の行動履歴から、その個人がどういう政治課題に関心があるかをプロファイリングできます(自然保護、治安強化、女性の地位向上 ・・・・・・)。すると候補者は、その課題解決を前面に押し出したメールを個人に配信することができる。別の関心事項をもつ個人には別の内容のメールを送る ・・・・・・。結局、候補者が当選後にどの公約を前面に押し出すのか、誰にも予想できません。本書はマイクロ・ターゲティングと言っていますが、ネット広告で既に行われているのだから「候補者を売り込む」のが目的の選挙でも可能です。数学モデルはこういったことを可能にし、それは民主主義をゆがめていくことになるのです。

もちろん、新聞やテレビも選挙の報道をします。候補者の政見を乗せるし、特定の政党を支持する社説を掲載する新聞もある。しかしそれらはオープンであり、どういう報道がされているかを誰もが眼にでき、検証できます。つまり透明性が確保されている。しかしネット上のマイクロ・ターゲティングは、誰が誰にどういう種類の情報やメッセージを流しているかは全く分かりません。つまり不透明です。

本書の最終章は「第10章 政治 - 民主主義の土台を壊す」と題されています。そういうリスクがあることは十分に認識しておくべきだと思います。


EUのGDPRの意味


以降は、本書を読んで思ったことです。No.237「フランスのAI立国宣言」で書いたように、2018年3月末、マクロン大統領は、

  人権と民主主義に貢献するAI
人間性のためのAI

を前面に押し出したAI国家戦略を発表しました。これはまさに本書の主張と軌を一にするものです。フランスがキャシー・オニールを招待したのは当然だったようです(もちろんフランスの戦略は、そのことによって自国を有利にしようとするものです)。

さらに思い出したのは2018年5月25日より施行された「EU 一般データ保護規則 - GDPR(General Data Protection Regulation)」です。これは欧州経済域(EEA。EU加盟28ヶ国+ノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタイン)に居住する市民の個人データ、およびEEAを本拠として収集された個人データの管理と移転に関する規則で、個人データをEEA域外に移転することが原則禁止されます。さらに「データ主体に認められる8つの権利」が明文化されています。データ主体とは個人データを提供する(個人データを収集される)一般市民です。

8つの権利でも特に重要なのは「削除権」で、データ主体は自分に関する個人データを削除するよう、データ管理者に要求できます。いわゆる「忘れられる権利」です。

さらにデータ主体は「プロファイリングを含む自動処理によって個人についての決定がなされない権利」を持ちます。プロファイリングとは「個人データを自動処理することによって、個人のある側面、特に仕事の実績、経済状況、健康、嗜好、関心、行動、所在、移動などを分析・予測する」ことです。また「個人についての決定」とは法的な決定、ないしはそれと同等に個人にとって重要な決定です。本書には「教師評価システム」によって解雇された事例がありましたが(1番目に紹介した事例)、もしGDPRがアメリカにあったとしたらこのような解雇は無効になるに違いありません。

GDPRを本書の視点から見ると「数学破壊兵器の野放図な増殖を食い止めるための規制」というのが、その(一つの)意味でしょう。また、個人データを独占しているアメリカの巨大IT企業の活動を制限する意図が透けて見えます。

キャシー・オニールの本「破壊兵器としての数学 - ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義をおびやかすか」と、フランスの「AI立国宣言」、EUのGDPR(一般データ保護規則)の3つは、一つの水脈でつながっていると思いました。




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No.239 - ヨークの首なしグラディエーター [歴史]

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、古代ローマの剣闘士の話を書きました。ジャン = レオン・ジェローム(1824-1904)が剣闘士の闘技会の様子を描いた有名な絵画「差し下ろされた親指」も紹介しましたが、今回はその剣闘士の話の続きです。

2004年8月、英国のイングランドの北部の町、ヨーク(York)で古代ローマ時代の墓地が発掘されました。この発掘の様子と、埋葬されていた遺体の分析が最近のテレビ番組で放映されました。

地球大紀行 WILD NATURE

ヨークの首なしグラディエーター
2000年前に死んだ80人の謎を解く

(BS朝日 2018年7月6日 21:00~21:55)

です。これは英国の Blink Films プロダクションが制作したドキュメンタリー、"The Headless Gladiators in York(2017)" を日本語訳で放送したものですが、古代ローマの剣闘士に関する大変に興味深い内容だったので、その放送内容をここに掲載しておきたいと思います。なお、グラディエーター(=剣闘士)は英語であり、ラテン語ではグラディアトルです。

Gladiator-01.jpg
ヨークの首なしグラディエーター
2000年前に死んだ80人の謎を解く
(BS朝日「地球大紀行」より。画像はヨーク市街)

UK-Map.jpg
(site : annamap.com)


出演者


このドキュメンタリー番組は、ナレーションとともに8人の考古学者・人類学者が解説をする形をとっています。出演したのは次の人たちです。

◆カート・ハンターマン(Kurt Hunter-Mann)
考古学者で「ヨーク考古学トラスト(York Archaelogy Trust)」の遺跡発掘の専門家。今回の古代ローマ墓地の発掘チームでリーダーを勤めた。

◆マーリン・ホルスト(Malin Holst)
英国の骨考古学(Oestearchaelogy。人の骨の分析による考古学)の専門家。ヨーク大学講師。

◆シャーロット・ロバーツ博士(Charlotte Roberts)
英国・ダラム(Durham)大学の考古学者。生物考古学(Bioearchaelogy。人・動物・植物など生物の分析による考古学)が専門。なお番組ではダーハム大学とありましたが、Durhamの h は発音しないので、ダラム(ないしはダーラム)が正解。ダラムはヨークの北、イングランド北部の大学町。

◆ジャネット・モンゴメリー博士(Janet Montgomery)
ダラム大学の考古学者(生物考古学)。骨の同位体分析を担当。

◆ティム・トムソン教授(Tim Thompson)
英国・ティーズサイド大学の人類学者。ティーズサイド大学はイングランド北部の町、ミドルズブラ(Middlesbrough)にある。

◆ダリウス・アーヤ博士(Darius Arya)
米・ローマ文化協会のディレクター。

◆ケビン・ディカス博士(Kevin Dicus)
米・オレゴン大学の考古学者。

◆リチャード・ジョーンズ
歴史学者。



以下に、番組の全スクリプトを掲載します。注 : ・・・・・・ と書いたのは番組にはないコメントです。「プロローグ」などのタイトルも付け加えたものです。番組の中で日本語訳がおかしい(ないしは曖昧な)部分がありましたが、それもコメントしました。【ナレーション】の部分は日本語訳のナレーションで、学者の解説の部分は日本語字幕付きの英語で放送されました。


プロローグ


【ナレーション】
古代考古学史上、最も凄惨な出土品がイギリスの都市・ヨークで発見されました。それは80体以上の男性の首を切られた白骨死体。

【カート・ハンターマン】
発掘を始めると何か奇妙だと感じたんです。

【マーリン・ホルスト】
遺体の6割以上が一撃で首を切り落とされていました。

【ナレーション】
彼らは残酷な死に方をしましたが、そこは常識を覆す墓だったのです。凶暴で生涯を鎖で拘束されていましたが、何と、宝物と一緒に埋められていたのです。男たちに刻まれた残虐な傷跡。

【シャーロット・ロバーツ博士】
(注:骨を見ながら)この人物は度重なる攻撃を受けています。

【ナレーション】
この傷だらけの男たちはいったい何者なのでしょう。10年の調査を経て、専門家チームはその謎をついに解き明かしたのです。

【ダリウス・アーヤ博士】
彼らは生きる伝説でした。

【ナレーション】
遺跡に秘められた過去。金で、石で、そして血でしるされた歴史。古代の謎を解き明かし、歴史の偉大なる秘宝の数々をお見せしましょう。

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ヨークのギルドホールに安置された白骨遺体。合計80体以上の古代ローマ時代の遺体が発掘された。
(BS朝日「地球大紀行」より)


イギリス、ヨークでの大発見


【ナレーション】
歴史ある町、ヨーク。西暦1000年までの過去を知ることは考古学者の夢。この町はイギリス2000年の歴史を今に伝えています。2004年8月、旧市街からほど近くにある小さな区画(注:ドリフフィールド・テラス。Driffield Terras)で発掘調査が行われました。単なる発掘調査のはずでしたが、とんでもない発見があったのです。

【発掘調査員の声】
ここに骨、そして頭蓋骨、まるい形状をしているだろう。この角にも骨があるぞ。

【ナレーション】
さらに深く掘ると、たくさんの白骨死体が完全な姿で出てきたのです。衝撃の事実とともに ・・・・・・。何と、遺体の多くは意図的に首を切り落とされていたのです。これが調査団長のカート・ハンターマンと大きな謎の出会いでした。

【カート・ハンターマン】
発掘を始めてすぐに奇妙だと思いました。首を切り落とされた白骨の遺体があまりにもたくさんあったからです。

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発掘現場で作業を行う調査団のリーダー、カート・ハンターマン(右側)
(BS朝日「地球大紀行」より)

【ナレーション】
発掘調査が始まって数日後には、発見された遺体の数は2桁にのぼり、どんどん増え続けました。

【カート・ハンターマン】
発掘作業終了時には 80体以上もの遺体を堀り出しました。そのうち4分の1が首を切り落とされていたのです。

  注:プロローグのところで骨考古学者のマーリン・ホルストは、6割以上が首を切り落とされていたと発言しています。上記のハンターマンの "4分の1" と不一致ですが、これはおそらく、発掘現場では4分の1が首なし遺体だったが(頭蓋骨が首とは別のところにあったなど)、骨を詳しく分析すると6割が首を切り落とされてた、ということだと思います。ハンターマンがネットに公開している論文をみても「6割が斬首されていた」が正しいようです。

【ナレーション】
考古学者40年のカートのキャリアの中でも、類のない発見だったのです。

【カート・ハンターマン】
ローマ時代の首なし遺体の墓を初めて見ました。しかも狭い面積にたくさんの遺体が埋まっていたなんて。

【ナレーション】
首なしの遺体はいったい何者なのか。謎を解明する第1のヒントは遺跡に隠されていました。過去の発掘調査で、この周辺は昔、大きな墓地だったことがわかっていました。出土品から、ここがヨークに存在する最大規模の墓地で、都市が建設された2世紀終盤ごろにさかのぼることもわかりました。ローマ時代のことです。

【カート・ハンターマン】
周辺にも古代ローマ時代の墓があるので、我々も同様の墓を発見するかもと思っていました。

【ナレーション】
首なし遺体と一緒に発見された陶器により、古代ローマ人の墓地だと裏付けられました。しかし、他のローマ時代の墓とは様相が異なっていたのです。

【カート・ハンターマン】
とても奇妙でした。

【ナレーション】
遺体の多くは首を切り落とされていただけでなく、その頭は両足の間に丁寧に置かれていたのです。

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発掘遺体の1例。頭蓋骨が首から切断され、両足の間に置かれている。
(BS朝日「地球大紀行」より)

【カート・ハンターマン】
首を切り落とされていた事だけでも奇妙なのに、この変わった遺体の安置方法を見て、古代ローマ人は一体何を考えていたのかと首をかしげました。

【ナレーション】
考古学者たちを困惑させたのは、ひとつの墓地に埋葬されていた首なし遺体の数です。処刑された犯罪者だという見方もできますが、通常、ローマ時代の犯罪者はうつ伏せで埋葬されます。しかしこの墓では仰向けで埋められていました。この奇妙な墓には、いったいどのような意味があるのでしょうか。

謎解きの次のヒントはローマ帝国時代のヨークの役割を知ることでした。かつてエボラクムと呼ばれたこの都市には、2人のローマ皇帝が滞在していたことがわかりました。皇帝が宮廷を構え、軍事的にも重要な拠点だったのです。

【ケビン・ディカス博士】
皇帝の行く先には帝国の行政機関も全て移動します。そしてヨークはローマ帝国 属州の中心地になりました。

【ナレーション】
ローマ帝国のイギリス侵略は紀元43年に始まり、その後30年間にわたり侵攻を続けたのです。しかし北方の部族の抵抗はすさまじいものでした。

【ケビン・ディカス博士】
部族の抵抗にローマ軍は驚愕しました。森や沼地の中にひそみ、奇襲をかけ、攻撃を終えると姿をくらますというゲリラ戦法が彼らの得意技だったのです。鍛え抜かれ統率された軍隊が未開地の部族に完敗してしまうこともあったのです。

【ナレーション】
当初、墓地がローマ軍の侵攻と同時代のものであったことから、首なしの死体はローマ軍と部族の戦死者だと考えられていました。なぜなら、ほぼすべての白骨死体は男性で、戦闘に適した年齢にあったからです。

【マーリン・ホルスト】
ローマ時代の墓では男性の遺体の数が女性よりやや多い程度ですが、ドリフフィールド・テラスに埋められていたのは全員が成人男性だったのです。しかも45歳以上はいないという特異な例でした。つまりこれらは比較的若く、健康で、特別な存在だったのかもしれません。

  注:マーリン・ホルストは "almost soley man adults" と発言しているので「ほぼ全てが成人男性」が正しい理解です。カート・ハンターマンがネットに公開している論文をみると、発掘された白骨遺体は 82体 で、そのうちの1体は女性だったようです。

【ナレーション】
彼らは健康な若い男たちで、人生の盛りに亡くなったようです。しかし無視できない疑問が一つありました。彼らがもし殺された兵士だとしたら、遺体は都市ではなく戦場に埋葬されるはずです。その一方で遺体には、まるで殺戮された兵士のように、すざましい戦闘を経験した痕跡がありました。首を切り落とされただけではなく、骨の多くに骨折が治った痕があったのです。そこで興味深い新説が浮上しました。戦いの中で鍛え抜かれ虐殺された男たちは古代ローマを象徴するだった。それはグラディエーターです。

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白骨遺体を調査するヨーク大学のマーリン・ホルスト(骨考古学)。
(BS朝日「地球大紀行」より)


剣闘士(グラディエーター)


【ナレーション】
ヨークに眠っていたおぞましい遺物。何10体もの男性の白骨。考古学者のカート・ハンターマンと調査団は、古代ローマの墓地で難解な謎に直面していました。男たちは戦闘経験者でしたが、兵士ではなかったのです。首を切り落とされた彼らは何者だったのでしょう。考古学者たちは驚くべき新説をたてました。それはこの墓がグラディエーター、つまり剣闘士のものではないかという説です。もしそれが本当なら、イギリスにおける古代ローマ人の歴史を塗り替えることになります。

【ケビン・ディカス博士】
イタリアのローマですら、グラディエーターの墓の発見はすごいことなんです。イギリスでグラディエーターの大規模な墓が発見されたら、とても驚くでしょう。

  注:番組の字幕は「とても驚くでしょう」となっていましたが、ディカス博士は "would be truely remarkable" と言っているので「(剣闘士の墓だとしたら)本当に驚くべきことです」ぐらいが妥当。

【ナレーション】
墓から遺体を掘り出した調査団は、グラディエター説を裏付ける証拠を探し始めました。すると彼らは、まぎれもなく壮絶な戦闘を経験した者たちであることが明らかになったのです。

【マーリン・ホルスト】
この人物は生存中にかなりの外傷を負ったことが骨折痕からわかります。肋骨にも外傷によると思われる骨折痕があり、そして右膝の裏には刀傷、すねには炎症性の損傷があって、ここも一撃されたようです。

【ナレーション】
この男は墓地で発見された中でもひどい傷跡がある一人です。骨折の多くは直っており、彼らが数年にわたって危険な戦闘に耐えてきたことがうかがわれます。そして白骨死体の多くに共通する致命傷があります。それは斬首です。

【マーリン・ホルスト】
6割以上が一撃で首を切り落とされていました。(注:骨を見せながら)これは首の脊椎と頸椎けいついと呼ばれる部分です。この骨に頭が載っていて、その一つ下にあるのが頭を左右に動かす部分です。これを見ると頸椎のこの部分が完全に削ぎ落とされています。そしてこれが脊椎の部分全体を切断した痕です。

【ナレーション】
まっすぐに切断された骨を見ると、男たちが刀剣や斧などの鋭利な武器によって斬首されたことがわかります。

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鋭利な刃物の一撃でスパッと切断された頸椎をマーリン・ホルストが示している。
(BS朝日「地球大紀行」より)

【マーリン・ホルスト】
首を切り落とした最後の一撃は、かなり強烈だったと思います。切り口がここから(注:マーリン・ホルストが手で自分の首の後ろを示す)あごの横まで到達しているのです。衝撃によりあごは粉々になり、たくさんの破片となって飛び散っています。

【ナレーション】
中には、頭を切り落とされるまでに何度も切りつけられた者もいます。

【シャーロット・ロバーツ博士】
この人は、数回首を切りつけられたと思われます。一撃でスパッと頭が切り落とされずに何回も刀を振るわれたのでしょう。一度目がうまくいかなかったか、あるいは確実に首を切り落とすために念を入れたのかもしれません。

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白骨遺体を調査するダラム大学のシャーロット・ロバーツ博士(生体考古学)。
(BS朝日「地球大紀行」より)

【ナレーション】
遺体は斬首されるまで、壮絶な戦闘を強いられていたことを物語っています。さらに遺体にはグラディエーターだったことを裏付ける、ある手がかりが隠されていたのです。それは骨ではなく、歯に残されていました。


歯の分析から判明した出身地


【ナレーション】
ジャネット・モンゴメリー博士は生物考古学者で、専門は遺体の分析です。この2000年前の歯を調べた結果、男たちの出身地を突き止めたのです。彼らの素性を解明するためには貴重な情報で、それは同位体分析という技術(注:最後の「補記1」参照)が鍵となりました。

【ジャネット・モンゴメリー博士】
同位体分析とは古代人の歯に残されている生存時の情報を引き出す技術です。彼らがどんなものを食べていたのか、住んでいた場所、環境、気候なども判別できます。さらに地元出身者であったか、それとも他所からやってきたのかを立証することもできるのです。

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同位体分析を行うダラム大学のジャネット・モンゴメリー博士(生体考古学)。遺体の歯から出身地を推定した。同位体分析の手法については最後の「補記1」を参照。
(BS朝日「地球大紀行」より)

【ナレーション】
歯のエナメル質を同位体分析した結果、ここは国際的な墓地だったことがわかりました。発見された遺体の中でヨーク出身のものは少数で、多くはイギリス出身ですらなかったのです。

【ジャネット・モンゴメリー博士】
寒い地域から温暖な地域まで様々な土地の出身者がいました。当時のイギリスの食習慣にはない植物を食べていたことも分かっています。彼らは他の土地から来た集団だったのです。

【ナレーション】
分析によると男たちはヨークで死亡しましたが、もともとはローマ帝国の各地からやってきたことがわかりました。そしてある男は驚くほど遠方の出身者でした。

【ジャネット・モンゴメリー博士】
同位体のデータによると、この男は南方の温暖で乾燥した地域の出身であることがわかりました。その遺伝的祖先は中近東です。

【ナレーション】
何とこの男は母国のある中近東から4800キロも離れたヨークで死亡したのです。

多くの証拠が集まりました。この墓は帝国中から寄せ集められた、鍛え抜かれし戦闘経験者のものだったのです。彼らはまさにグラディエーターそのものでした。

【ダリウス・アーヤ博士】
グラディエーターとは何者だったのでしょう ? その多くは犯罪者や戦争捕虜でした。軍隊経験があり、健康状態が良好で訓練を重ねれば立派なグラディエーターになれる者たちです。

【ナレーション】
ハンターマンにはもう一つ、極め付きの証拠がありました。彼らの墓地はイギリスにある他のローマ時代のものとは様相が異なっていたかもしれません。しかし、3200キロ離れたトルコにある墓地にそっくりだったのです。


エフェソス


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エフェソスの円形闘技場。トルコ西部のエフェソスは、古代ギリシャ時代から古代ローマにかけて繁栄した都市。数々の遺跡が残っており、世界遺産に登録されている。
(BS朝日「地球大紀行」より)

【ナレーション】
ここはエフェソス。古代ローマ帝国に属する州の中心地で、25,000人を収容する円形闘技場がありました。1993年、ここからわずか数メートルのところで墓地が発見されました。ヨーク同様、ここで発見された遺体は戦闘経験のある男たちで、残酷な方法で処刑されていました。しかしエフェソスの男たちが何者であるかはすぐに判明しました。墓石に彼らが剣闘士、グラディエーターであったことがしるされていたのです。そしてハンターマンはこの2つの墓地の類似点に驚愕しました。

【カート・ハンターマン】
ヨークの白骨遺体はエフェソスのものと良く似ています。私はグラディエーター説を支持しますが、それは生活様式や埋葬場所に説得力があるからです。私からみると全てが闘技場で闘っていたある特定の男達だけに当てはまるのです。

【ダリウス・アーヤ博士】
ヨークでの発見は、剣闘士にまつわる環境がもう1つ存在していた可能性を開いたのです。

  注:「剣闘士にまつわる環境がもう1つ存在していた可能性」とは、意味のとりにくい字幕です。アーヤ博士の発言は "open up the possibility we found an another similiar situation of gladiators" で、明らかにエフェソスの剣闘士の墓をふまえています。「剣闘士について(エフェソスとは)別の、類似の場所を発見した可能性」が正確な意味でしょう。

【ナレーション】
ヨークでのグラディエーターの墓と思われる遺跡の大発見は、考古学者たちに一世一代のチャンスをもたらしました。それは古代ローマ文明の闇を解き明かすこと。グラディエーターの試合、闘技会。娯楽のために人が殺される、残虐非道な競技です。

闘技会の多くは古代ローマを象徴する建物、コロセウムで開催されました。西暦80年に落成し5万人を収容するこの円形闘技場は、歴史上最も残酷な競技を興業するためのものだったのです。

【ダリウス・アーヤ博士】
グラディエーターは強靱な人間たちでした。闘技場で死と直面しつつ、一般の観衆のために闘ったのです。彼らは生きる伝説でした。

【ナレーション】
コロセウムでは70万人以上のグラディエーターが闘い、死んだと推定されています。

【ダリウス・アーヤ博士】
現代ではグラディエーターのような見世物はありません。少なくとも合法的には。観客は流血沙汰を期待して行くわけですからね。誰かが腹を切られ、腕を切り落とされ、もしくは頭を切り落とされる。信じられないほどおぞましいものだったのです。

【ナレーション】
2000年もの時を経て、考古学者たちは過去最大規模のグラディエーターの墓を発掘したのかもしれません。しかもローマではなく、1,600キロも離れたイギリス、歴史ある町、ヨークで ・・・・・・。発掘された80体以上の白骨遺体は、古代ローマ帝国の様々な地域からやってきた男たちでした。彼らは壮絶な人生を送り、最終的には首を落とされましたが、埋葬される際には敬意が払われていたようです。これらの証拠は、彼らが古代ローマのグラディエーターだったことを物語っています。

【ダリウス・アーヤ博士】
ヨークで発見した証拠を調べ、科学分析を進めるにつれて、パズルのピースがはまっていきます。男たちががっしりした体格だったこと、年齢、その他どんどん説得力が増していきます。


食生活


【ナレーション】
現代ではグラディエーターは古代ローマのスーパースター、エリートだと見なされているかもしれません。しかし遺体の歯を分析するにつれて、彼らの過酷な生活を明らかにする驚きの新事実が判明したのです。

【シャーロット・ロバーツ博士】
エナメル質に異常が見られる歯がたくさんありました。この犬歯がよい例です。歯に横線が入っています。横線は歯の成長期にこの人物がストレスを受けていたことを示しています。この人は幸せな幼少期を過ごせず、こうした異常なことが人生で起こっていたのでしょう。

【ナレーション】
墓で発見された多くの男たちの歯にはこうした線が見受けられましたが、それは乳児栄養失調のあかしです。しかし彼らは成人してから高タンパクの食事をとっていたことが歯に現れています。

【ジャネット・モンゴメリー博士】
彼らは野菜と肉の両方を食べていただけでなく、少量ですが魚も口にしていた可能性があります。

【ナレーション】
古代ローマ時代のヨークで肉と魚を食べていたということは、恵まれた食生活だったのでしょう。

【ダリウス・アーヤ博士】
彼らは食事を与えられ、良い栄養状態でした。そして強く、丈夫な体になっていきました。一体何があったのでしょう ?

【ナレーション】
歯の証拠から推測すると、ローマ帝国中から貧しい男たちが集められ、闘うための肉体づくりをさせられていたと考えられます。

【ケビン・ディカス博士】
彼らは最下層の身分でしたが、剣闘士の興行師 "ラニスタ" に素質を認められ、身請けされました。そして資金を回収するため訓練を施し、食事と住む場所を与えたのです。

【ナレーション】
男たちはグラディエーターの養成所で高タンパクの食事を与えられました。デビューまでに筋肉をつけて体を大きくするためです。

【ケビン・ディカス博士】
彼らの体格はかなり良かったはすです。帝国一、筋肉隆々で運動能力が高く、その肉体は世間から注目を浴びていたはずです。


副葬品と埋葬場所


【ナレーション】
彼らの墓の副葬品から、貧困層の身分であったグラディエーターたちが一目置かれていたことがわかります。

【カート・ハンターマン】
古代ローマ時代では、墓に副葬品を入れるのが一般的でした。故人が死後の世界で幸せになるための品物が入れられます。

【ナレーション】
ヨークの白骨遺体とともに発見したのは、数々の酒の器や大量に供えられた食べ物でした。さらに彼らの地位の高さを示す副葬品は、多くの銀貨でした。銀貨には様々なローマ皇帝の肖像が描かれていて、この埋葬方法はローマ帝国がイギリスを支配しているあいだ、ずっと行われていたことが明らかになったのです。つまり、グラディエーターたちは4世紀にわたりヨークで活躍していたことになります。

【カート・ハンターマン】
墓からは1世紀から4世紀までの銀貨数種類が出土しています。こちらはコンスタンティヌス2世のもので、紀元330年ごろになります。つまり古代ローマの終わりまで続いていたということです。

【ナレーション】
しかし、男たちが尊敬されていたことを示す一番の証拠は、墓の位置でした。帝国全体の習慣で墓の場所は社会的地位を表していたのです。墓地の発掘にあたっていた考古学者たちは、グラディエーターたち全ての墓が最も名誉ある場所にあったと確証を得たのです。

【カート・ハンターマン】
この墓地(注:Driffield Terras)は古代ローマ時代の大きな街道沿いにあります。当時、通行人に死者を思い出させるこの場所に埋葬されることは大変意味のあることでした。さらに小高い丘になっていることも、この場所の重要性を高めています。この場所は帝国有数の埋葬場所だったのです。

【ナレーション】
特別に鍛え抜かれた若い男たちの集団。死に際しては一般大衆からもその勇姿が称えられました。しかしその一方で、白骨からはある衝撃的な事実が判明しました。この優秀な戦士たちは、生前に奴隷よりは少しはましな扱いを受けていましたが、時には闘技場での生死を左右する恐ろしいハンデを背負わされていたのです。


足かせ


【ナレーション】
ローマ時代、グラディエーターは大きなビジネスでした。毎試合ごとの勝負で、巨額の金が動いていました。有望な新人を確保するために、奴隷売買が横行していたのです。闘技場デビューをさせるため、グラディエーターの育成にはたくさんの金がつぎ込まれました。男たちはただの奴隷よりりは少しはましな扱いを受けていたのです。

【ケビン・ディカス博士】
グラディエーターたちは訓練を受けながら、充実した食事や医療を施されていました。しかしその一方で彼らに自由はなく小部屋に閉じこめられていました。決められたスケジュール通りに過ごすことが強制され、まるで刑務所のようでした。

【リチャード・ジョーンズ】
奇妙な生活ですが、強い肉体をつくる上での待遇には恵まれていました。しかし、その待遇は一時的なものです。

【ナレーション】
(注:白骨遺体の画像が写し出される。次図)彼らが自分の運命ですら選択できなかったことを示す証拠があります。専門家は当初、足かせをはめられた状態で埋葬されていたと考えていました。

Gladiator-10.jpg
足かせをはめられて発見された遺体。白骨遺体の中では最も大きな体格だった。
(BS朝日「地球大紀行」より)

【カート・ハンターマン】
これが遺体の足にはまった状態で発見された足かせです。こんなものは初めて目にしました。まさに強運な考古学者が一生に一度だけ出会えるかもしれない稀有な物です。

【ナレーション】
これはただの足かせではありません。現代の足かせのように取り外しができるものではなかったのです。X線分析の結果、足かせはこのグラディエーターに死ぬまで装着されていたのです。

【カート・ハンターマン】
普通の足かせなら両足を鎖でつなぐための留め具があるはずですが、そのようなものは見当たりませんでした。

【ナレーション】
これらは特注の足の重りだったのです。この男に体の不自由と苦痛を与えるために作られました。分析の結果、この足かせは高温に熱した二つの鉄を足首に巻き付け、一つの輪に成形していたことがわかりました。

【カート・ハンターマン】
真っ赤に熱した鉄を人の足に巻きつけるなんて、野蛮としか言えません。

【ナレーション】
白骨の分析では、死ぬまではずせない足かせの残酷な実態が明らかになったのです。

【シャーロット・ロバーツ博士】
彼の足の骨には新しい骨形成の痕跡があり、これは炎症が起こった証です。つまり足首の部分に何らかの外傷が何度も加えられたということです。また当時はこのような炎症を治療できなかったので、彼らは赤く腫れ上がった炎症の痛みに死ぬまで耐えるしかなかったのです。

【ナレーション】
いったいなぜこの男は、これほど恐ろしい罰を受けていたのでしょう。彼は白骨遺体の中で最も大きな体格でした。重い足かせは、この巨体のグラディエーターの動きを鈍らせるものだったのでしょう。血を見て喜ぶローマの大衆に、より刺激的な試合を見せるために。

【ケビン・ディカス博士】
剣闘士に足かせなどを装着しハンデを負わせるということはたまにあったようです。例えば体の大きさが違いすぎて公平な試合にならない場合です。さらにそれがグラディエーターの個性となり、試合をより盛り上げるのです。


治療


【ナレーション】
この足かせの例は極めて珍しいですが、発見されたほとんどの遺体に、傷の治ったあとがありました。当時では贅沢なことですが、彼らには治療が施されていたようです(注:最後の「補記2」参照)。大金をかけて育てたグラディエーターを簡単には死なせないために。

【ダリウス・アーヤ博士】
グラディエーターの訓練も大変危険で、彼らは治療や傷の縫合を受けていました。白骨にその痕跡があるということは、彼らがグラディエーターであったと言えるでしょう。

【ナレーション】
骨は、彼らが重傷を負っても、また闘いに戻っていったことを証明しています。

【マーリン・ホルスト】
この頭蓋骨には鈍器による傷が16箇所あります。何らかの武器で殴られたようですが傷は深くなく致命傷ではありませんでした。しかし彼らには同様の傷が異常に多いのです。

【ナレーション】
この男は大けがを負ったうちの一人です。頭蓋骨が損傷していましたが、驚くべき事に彼は生き延びたのです。

【シャーロット・ロバーツ博士】
これほどの傷がつくということは、相当な力で殴られたはずです。この傷を受け、内出血したかもしれませんが、頭蓋骨の状態を調べるとかなり治癒しています。ということはこの人物は死んだわけはなく、その後、一定期間生存していたということになります。

【ナレーション】
治癒した傷跡は、グラディエーターが医者の治療を受けていたという見方と辻褄が合います。しかしある男はひどい致命傷を負っていました。彼はグラディエーターよりもはるかに恐ろしい相手と対戦したのです。それは野生の猛獣です。


闘獣士


【ナレーション】
古代ローマ時代のヨークで、最も名誉ある墓に埋葬された80体の白骨死体。骨には恐ろしい傷跡が残されていました。彼らは古代ローマの属州であったイギリスのグラディエーターで、流血を楽しむ大衆のために闘い、残酷な試合の中で惨殺されました。記録によると30以上の異なるタイプのグラディエーターがいて、それぞれ武器や戦法に特徴があったようです。

【リチャード・ジョーンズ】
グラディエーターにはそれぞれ得意技があり、皆それに見合った武器や道具を使っていました。試合は同じ武器を持つ者同士や、違う武器を持つ相手などを組み合わせて闘わせていました。

  注:No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、魚剣闘士(ムルミッロ)と投網とあみ剣闘士(レティアリウス)の話を書きましたが、剣闘士にはその他、いろいろの種類がありました。日本語版 Wikipedia にその解説があります。

【ナレーション】
そしてある白骨遺体には、残虐な試合を物語る恐ろしい傷痕きずあとが残っていました。この男は発見された遺体の中でも最も小柄でした。調査の結果、その骨から驚くことが判明したのです。何と彼の骨盤には猛獣によってあけられたような穴があいていたのです。

【シャーロット・ロバーツ博士】
この白骨遺体は非常に珍しいものです。私は初めて見ましたが、正直気分のいいものではありません。この右側の骨盤を見てください。2カ所の損傷、2つの穴がはっきりと確認できます。さらに左側にも穴や損傷が見受けられます。この咬み痕をつけたのはどんな動物でしょう ?

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動物に咬まれた痕が残る骨盤の一部
(site : www.yorkarchaeology.co.uk)

【ナレーション】
この男にはグラディエーターのなかでも特に残虐な試合をさせられた証拠があります。それは猛獣を相手に死ぬまで闘うことです。

【ケビン・ディカス博士】
ライオンや虎との闘いは極めて危険で、多くの者が命を落としました。

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闘獣士のモザイク画
(ローマ:ボルゲーゼ美術館)

【ナレーション】
対戦相手はライオンや虎だけではありませんでした。野生の犬や雄牛、時には熊がグラディエーターと闘いました。

ティム・トムソンは人類学の教授です。彼はこの体に致命傷を与えた動物を特定しようとしています。

【ティム・トムソン教授】
これは成人の人体骨格です。猛獣と闘った人物の傷は骨盤部分の左右両側にあります。具体的にはこの腸骨稜ちょうこつりょうと呼ばれる部分です。咬まれたあとがこことここ、そして こことここにもあります。この傷は間違いなく動物に咬まれた痕です。この人物には複数の傷痕があります。

【ナレーション】
トムソン教授は最新技術を用いて、この男を襲撃した動物を判別しようとしています。3Dスキャナーを使って骨盤の破片をつなぎ合わせ、バーチャルで骨盤を再現しました。

【ティム・トムソン教授】
スキャンを行い、粉々になっていた骨盤をデータ化します。粉々になった骨盤の破片をバーチャル空間で再構築できます。最終的には骨盤の咬まれた痕を様々な動物の歯形と照合します。実物の骨を使ってできることではありません。

【ナレーション】
復元されたバーチャルの骨盤から、この男を攻撃した猛獣を割り出すことができます。

【ティム・トムソン教授】
猫や犬のような小さな動物ではありません。かなり大型のネコ科動物のような大きさだと思います。

【ナレーション】
骨盤の歯形をヤマネコと比較するため、大人のライオンの頭蓋骨をスキャンしました。

  注:ここは日本語として変な訳になっています。"ヤマネコ" は英語で wild cat だと推定されますが、ここではヤマネコではなく「野生のネコ科動物」の意味でしょう。

【ティム・トムソン教授】
これは骨盤の一部で、骨には動物が咬んだ痕と穴があります。今からここにライオンの頭蓋骨のスキャン画像を取り込みます。ライオンの歯形と骨盤の咬まれた痕がぴったりはまりました。

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発見された破片をコンピュータ上で骨盤に復元した画像を説明する、ティーズサイド大学のティム・トムソン教授(人類学)。

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骨盤に大人のライオンの頭蓋骨を重ねた画像。ライオンの歯形と骨盤の咬まれた痕がぴったりとはまった。
(BS朝日「地球大紀行」より)

【ナレーション】
獰猛なライオンに攻撃されたこの男の末路は一つしか考えられません。さらに骨を詳しく調べたところ、傷は治らなかったことが確認されました。彼はライオンとの闘いで命を落としたのです。

【ティム・トムソン教授】
この咬み傷が致命傷になりました。そして大型肉食動物のものと一致します。

【ナレーション】
この男は闘獣士という、人ではなく野生動物を相手に闘うことを運命づけられたグラディエーターです。

【ダリウス・アーヤ博士】
闘獣士は野生の猛獣と闘うために特殊な訓練を受けたグラディエーターです。観客への娯楽として猛獣と殺し合うのです。それはとてつもなく危険な行為でした。相手は猛獣です。勝てる見込みはどれほどあったのでしょう ?

  注:「特殊な訓練を受けたグラディエーター」とアーヤ博士は言っていますが、No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で書いたように、猛獣の方も幼いころに捕らえられ、闘獣士と闘うために特別の訓練を受けました。これはローマでの話ですが、ヨークでもそうだったのではと思います。要するに「観客を熱狂させて興業的価値をあげる」わけです。


エピローグ


【ナレーション】
80体の古代ローマ人の死体が見つかった謎の墓地がグラディエーターのものであるという仮説は、多くの証拠によって裏付けられました。しかしこの白骨死体は全てグラディエーターであるならば、なぜ最後に斬首されたのでしょうか。斬首はグラディエーターの試合を締めくくる、とどめの一撃だったと考えられています。

【カート・ハンターマン】
闘技場で首を切り落とされた人々は、闘いの最後に情けをかけられたのだと思います。敗北して瀕死になった者は首を斬られたのです。

【ナレーション】
闘技場では敗者の運命は皇帝や観衆にゆだねられました。

【リチャード・ジョーンズ】
もし皇帝が闘技場で観戦していれば、彼が敗北したグラディエーターの生死を決めました。よく知られる合図はこうです。親指を立てれば助けられ、親指を下に向ければ死を意味しました。

【ナレーション】
すべてのグラディエーターが対戦相手に殺されたわけではありません。敗北し、死を宣告されたグラディエーターは、闘技場の死刑執行人の手によって殺されました。

【ダリウス・アーヤ博士】
時には、死への一撃を与える人間が闘技場に登場することもありました。劇的なラストです。

【ナレーション】
これらの白骨死体は、ヨークのグラディエーターを今に伝える興味深い証拠です。帝国じゅうから選び抜かれた男たちの骨には、危険な訓練を受けていたあかしがあり、傷痕は歴史上最も残虐な試合をさせられていた事実を伝えています。

【カート・ハンターマン】
骨に残された人間による攻撃の痕や猛獣による咬み痕と他の証拠から判断して、白骨遺体は闘技場で闘い、この名誉な場所に葬られたグラディエーターたちであると考えます。そういった意味で古代ローマ帝国のヨークは特別な場所でした。

【ダリウス・アーヤ博士】
グラディエーターの興業は、ローマから帝国中に広がりました。そしてヨークでもグラディエーターたちが闘ったことを裏付ける証拠が見つかったわけです。

【ナレーション】
死に際し、この男たちは英雄の扱いをうけましたが、その人生は生き延びるための闘いでした。惨殺された白骨死体はローマ帝国の真の残虐性を露わにしたものであり、ローマ文明の心の闇の証だったのです。

■■■■■■ 番組終了 ■■■■■■


剣闘士の墓とする根拠


以降はこの番組のまとめです。首を切断された遺体は戦死者や犯罪人という事も考えられましたが、調査チームが出した結論は剣闘士(グラディエーター)です。その根拠は以下ようになるでしょう。

通常、ローマ時代の犯罪人はうつ伏せで埋葬された。しかしこの墓では仰向けで埋められていた。犯罪人とは考えにくい。

戦闘で死んだ兵士だとしたら、遺体は都市ではなく、戦場ないしは前線基地に埋葬されたはずである。

骨には数多くの骨折痕とそれが治癒したあとがあり、彼らが数年にわたって危険な戦闘に耐えてきたことがうかがわれる。

男たちの出身地はローマ帝国の全域(最も遠くは中東)に散らばっている。イギリス出身者は少数である。

まっすぐに切断された骨を見ると、男たちが刀剣や斧などの鋭利な武器によって斬首されたことがわかる。これは敗北した剣闘士が対戦相手によって、ないしは闘技場の死刑執行人によって斬首されたという歴史事実と合致する。

男たちの副葬品から、彼らが尊敬されていたことがわかる。特に銀貨の副葬品はそれを示している。

墓地は、古代ローマ時代のヨークの大きな街道沿いにあった。これは墓地としては最もステータスの高い場所である。剣闘士が敬意をもって埋葬されたという歴史と合致する。

トルコのエフェソスで発見された剣闘士の墓とヨークの墓が酷似している。遺体は首を斬られており、遺体には戦闘経験があり、かつ敬意をもって埋葬された。

分析によると、男たちの歯には乳児栄養失調の兆候が見られたが、成人してからは高タンパクの食事をとっていた。これは剣闘士が養成所で高タンパクの食事を与えられたという歴史的事実と合致する。

最も大きな体格の男は "足かせ" をはめられていた。これは取り外し不可能で、鎖をつなぐ穴もなく、単なる奴隷の足かせではない。巨体の剣闘士の動きを鈍らせる "重り" だったと推定できる。

発見されたほとんどの遺体の骨には傷が治ったあとがあり、治療が施されていた。治療は古代ローマにおいては贅沢なことである。剣闘士だとすると辻褄が合う。

一人の白骨遺体の骨盤には猛獣によってあけられた穴があり、これが致命傷となった。この骨盤の穴は大型肉食獣の牙と一致する。この状況が考えられるのは剣闘士(闘獣士)である。

ジグソーパズルのピースがはまるように、多くの証拠が剣闘士の墓であることを示唆しています。決定的とも言えるのは最後の「猛獣の牙によって骨盤に穴があくほどの致命傷を負った遺体」でしょう。

調査団長のカート・ハンターマンがネットに公表しているリポートを読むと、発見された白骨遺体は82体ですが、そのうちの1体は女性でした。そしてハンターマンは、この女性がグラディアトリクス(gladiatrix。女性剣闘士)ではないかと推測しています。

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で紹介したように、ローマの剣闘士については数々の本が書かれ、映画が作られ、絵画も制作されてきました。しかしこの番組が示した「白骨遺体の分析レポート」は、本・映画・絵とは違った意味で、2000年前の状況を非常に生々しく感じることができ、大変に印象的でした。



 補記1:同位体分析 

ここからは補足です。No.221「なぜ痩せられないのか」で、同位体分析の手法を使ってヒトの消費エネルギーを精密測定する話を書きましたが、本番組にも同位体分析が出てきました。歯のエナメル質の同位体分析で、出身地や食性がわかるというのです。なぜ可能なのか、調べてみると次のようです。いずれも安定同位体(No.221参照)を利用するようです。

  ストロンチウム(Sr)は土壌中に含まれるが、安定同位体として 84Sr 86Sr 87Sr 88Sr の4種がある(88Sr が最も多い)。この安定同位体の存在比が地質によって微妙に違い、これがその土地の生物のストロンチウム量に影響する。このことから、生物がどの地域で育ったかを推定できる。

  生物においては、窒素(普通は 14N)の安定同位体である 15N の存在比が、食物連鎖によって少しずつ高まっていくことがわかっている。これを利用して人や動物の食物(肉、魚、植物)が判別できる。

  植物の光合成回路には3種の違ったタイプがあり、それぞれ炭素(普通は 12C)の安定同位体である 13C を取り込む率が違う。これを使って人や動物が食べていた植物が大まかに判別できる。これと 15N の分析を合わせて食性が推定できる。

そして、このような同位体分析は今や世界の常識であり、考古学だけでなく、たとえば食物の原産地証明や生物の食性分析などにも利用されているようです。

以上は一般論であって番組中のモンゴメリー博士の手法の詳細はわかりませんが、類似の方法だったと推察されます。博士は遺体の歯から出身地を推定し、さらに「彼らは野菜と肉の両方を食べていただけでなく、少量ですが魚も口にしていた可能性があります」と語っていました。そこまで分析できる測定技術の進歩に感心しました。



 補記2:ガレノス 

本文中のナレーションに、

発見されたほとんどの遺体には、傷の治ったあとがありました。当時では贅沢なことですが、彼らには治療が施されていたようです。

とありました。ここで思い出すのが古代ローマの医師、ガレノスです。このブログで何回か引用した東京大学名誉教授の本村凌二氏がガノレスに関するエッセイを書かれていました。それを紹介しますと、まずガレノスの簡単なプロフィールが次です。


ガレノス

古代ローマの医師。129年ごろ、現トルコのペルガモンに富裕な建築家の息子として生まれ、各地で医学を学び、剣闘士の担当医として経験を積む。30歳を過ぎたころローマに赴き、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウスの侍医に。ヒポクラテス以来の古代医学を集大成し、ルネサンス期まで西洋医学に絶大な影響を及ぼした。200年ごろ死去。

世界史の遺風(102)
「ガレノス 医学でローマを制した国手」
東大名誉教授・本村凌二
産経ニュース 学術・アート
(2014.3.27 11:20)

題名に "国手" という言葉が使ってありますが、中国の故事の「国を治すほどの名手」という意味から転じて、名医の意味や、医者に対する敬称として使われます。

プロフィールの中に「ルネサンス期まで西洋医学に絶大な影響を及ぼした」とありますが、確か、レオナルド・ダ・ヴィンチは人体の研究のために解剖も行うかたわら、ガレノスの書物で勉強をしたはずです。

そのガレノスは、実は、剣闘士の医者だったことがあります。本村先生の文章はガレノスの生涯を詳しく記述していますが、剣闘士に関係するところの前後を引用します。


ローマ建築の粋を集めた壮麗なパンテオンを再建したハドリアヌス帝の治世下、小アジアのペルガモンでガレノスという男児が生まれた。富裕な建築家の父の支援で各地を遊学し、数年間をアレクサンドリアで勉学にはげんでいる。最初は哲学を学び、ほどなく医学を志した。そこは医学解剖が許される唯一の場所だったからだ。この地でガレノスは経験をかさね技術をみがく。

27歳のときペルガモンに帰郷し、ここで剣闘士の治療医になった。肉を切り裂く流血の競技のおかげで、ガレノスは外科医としてかけがえのない経験を積んだのである

故郷で4年間の務めをはたし、31歳のとき帝国の都ローマの土をふむ。ハドリアヌス帝の後継者であった誠実なる賢帝アントニヌスが没し、ストア派の哲人マルクス・アウレリウスが即位したところだった。

本村凌二「同上」

Galenus.jpg
ガレノス。18世紀に描かれた肖像
(Wikipedia)
「ヨーク首なしグラディエーター」では、大金をかけて育てたグラディエーターを簡単には死なせないために治療を施したとの説明がありました。ヨークで発見された遺体が剣闘士であることの根拠の一つは、傷の治療が施されていることです。まさに、剣闘士養成所の医師は重要な役割を持っていた、それが本村先生が書いているように、医師からすると外科医としての貴重な経験になったわけです。

ちなみにガレノスの故郷であり、剣闘士の医師として働いたペルガモンは、本文で出てきたエフェソスと同じ小アジア(現在のトルコ)にあります。エフェソスと違ってペルガモンには現在、円形闘技場や剣闘士の墓の跡は残っていませんが、2000年前は都市の発展とともに剣闘士の試合が盛んに行われたのでしょう。



 補記3:ライオンが人を襲う 

余談ですが、連想したので書きます。本文中でティム・トムソン教授は発掘された穴のあいた骨盤を分析し、ライオンがグラディエーター(具体的には闘獣士)に噛みついた痕跡と結論付けていました。

これで思い出すのが「ライオンは獲物を攻撃する時にお尻に噛みつく」との説です。必ずそうなのか、信憑性のほどは知りません。ただ、ライオンが人のお尻に噛みついている瞬間を描いた有名な彫刻があります。フランスのピエール・ピュジェ(1620-1694)作の「クロトンのミロン」(1671-1682頃)です。

クロトン(南イタリア、現在のクロトーネ)出身のミロンは、ギリシャでレスリング選手として活躍しました。伝説では、ミロンは腕力で木を倒そうとし平手で木を引き裂いた、木は引き裂けたものの手が木の裂け目に挟まって取れなくなってしまった、そのとき獣がミロンに襲いかかり、片腕しか使えなかったミロンは食い殺されてしまった、とされています。要するに「過信は禁物」という教訓話です。

ピュジェの彫刻は、獣をライオンとしています。ルーブル美術館のピュジェの広場(リシュリュー翼)にあります。

クロトンのミロン.jpg




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No.238 - 我々は脳に裏切られる [科学]

No.149「我々は直感に裏切られる」で、極めて大きな数を私たちは想像できず、そのために直感が働かないという話を書きました。23人のクラスで同じ誕生日の人がいる確率は 50% 以上もあるとか(= バースデー・パラドックス)、10都市を巡回する全ての経路を総当たりで調べるのは家庭用パソコンで2秒で可能だが、32都市となるとスーパーコンピュータ "京" を宇宙の年齢(135億年)だけ動かしても絶対に不可能、といった話でした(総当たりでは不可能という意味)。これらの裏に潜んでいるのは日常生活とは全くかけ離れた大きさの数であり、それが直感に反する結果を招くのです。

今回は、それとは別の直感が裏切られる例をとりあげます。視覚が騙される例、いわゆる "錯視" です。もちろん錯視は昔から心理学の重要な研究テーマであり、数々の錯視図形が作られてきました。その多くは平面図形ですが、今回とりあげるのは立体の錯視です。

明治大学の杉原厚吉こうきち教授は数理工学が専門ですが、数々の立体錯視の例を作ってきた(= 発見してきた)方です。その杉原教授が日経サイエンスの2018年8月号に「立体錯視と脳の働きの関係」についての解説を書かれていました。大変興味深い内容だったので、それを紹介したいと思います。それは「我々が視覚によってまわりの立体物をどうやって認識しているのか」というテーマと深く関わっています。そしてこのテーマは人工知能の研究の重要な領域です。


エッシャーの不可能立体


杉原教授が立体の錯視に取り組まれたのはエッシャーの作品の影響が大きいようです。エッシャーの作品を一言でいうと「不可思議な絵(版画)」です。画面を鳥やトカゲが隙間なく埋め尽していたり、蜂が次第に魚に変身していくさまだったりと、いろいろありますが、「不可能立体」による "だまし絵" もエッシャー作品の大きなジャンルになっています。


20世紀に活躍したオランダの版画家エッシャーは、多様な素材を用いたダンディーで哲学的な作品をたくさん残している。代表的な作品グループの一つが不可能立体のだまし絵を用いたものである。不可能立体とは、絵には描けるけれど物理的な実体としては不可能で、だまし絵をみた人の脳に浮かぶだけの架空の構造である。例をあげれば、階段を上り続けるといつの間にか出発点に戻ってしまう無限巡回階段を素材とした《上昇と下降》1960年、柱の前後関係が床と天井で逆転する《ベルヴェデーレ(物見の塔)》1958年、水路を上った水が滝となって水車を回し続ける《滝》1961年などが典型である。いずれの作品も、普通なら違和感をもつはずのだまし絵を、緻密な描写によってリアリティのある情景の中に溶け込ませ、命を吹き込むことに見事に成功している。

杉原 厚吉「脳を裏切る立体」
(日経サイエンス 2018年8月号)

杉原教授があげているエッシャーの《上昇と下降》、《ベルヴェデーレ(物見の塔)》、《滝》の3作品は非常に有名なので、多くの人が知っていると思います。そのうちの《ベルヴェデーレ(物見の塔)》が下図です。

LW426-MC-Escher-Belvedere-1958.jpg
エッシャー
ベルヴェデーレ(物見の塔)」1958年
(site : www.mcescher.com)

この作品の1階と2階の関係の中に不可能立体が含まれています。また左下で腰かけている男性が持っている立体も、直方体のフレームとしてはありえない構造をしています。

不可能立体とは「絵には描けるけれど物理的な実体としては不可能な立体」ですが、実は工夫をすれば物理的実体として作ることができます。ただし、従来のやりかたは「不連続のトリック」や「曲面のトリック」を使うものでした。「不連続のトリック」とは、物理的実体として不連続だが、ある視点からみるとあたかもつながっているように見えるというトリックです。また「曲面のトリック」とは、実際はぐにゃっとした立体だが、ある視点から見たときだけ平面からできた立体に見えるというトリックです。ペンローズの3角形と呼ばれる有名な不可能立体を、この2つのトリックで作成した例が次の図です。

ペンローズの3角形.jpg
ペンローズの3角形の立体化
ペンローズの3角形(a, c)を、不連続のトリック(b)と曲面のトリック(d)で立体化したもの
(日経サイエンス 2018.8)

ここからが重要な話になります。実は、エッシャーの物見の塔の不可能立体は「不連続のトリック」や「曲面のトリック」を使わなくても物理的実体として作成できることを杉原教授は発見しました。

杉原版・物見の塔.jpg
杉原版・物見の塔
(日経サイエンス 2018.8)


この《物見の塔》に描かれている床と天井で前後が逆転する柱の構造は、不連続のトリックや曲面のトリックを使わないでも立体化できる。床と天井とそれをつなぐ4本の柱だけに単純化したものを立体化した例が上左の写真である。実際、長方形の床と天井の向きが直角にひねられており、隣り合う柱の前後関係も、床と天井で逆転していることがわかる。

この立体を別の方向から撮影したのが写真右である。これからわかるように、この立体には、不連続のトリックや曲面のトリックは使われていない。それにもかかわらず前後が逆転するだまし絵が写真上左のように立体として実現されている。

どのようなトリックが使われているのであろうか。左の写真を見ると、柱は垂直に立っているという印象を持つ。しかし、実際には、写真右に示すとおり、それぞれの柱は垂直とは程遠く、それぞれ別の方向を向いている。柱が斜めに立っているから、床と天井の前後関係が逆転できているのである。

このトリックは、直角に見えるところを直角以外の角度を使っているから「非直角のトリック」と呼ぶことができよう。実は、線図形からそこに描かれている立体図形を自動抽出できるロボットの目を開発しようという研究の中で私はこのトリックを見つけたのである。

「同上」



杉原教授もあげているエッシャーの有名な作品に《上昇と下降》があります。建物の屋上を周回する階段が描かれていますが、上り続ける人はいつまでも上り続け、下る人はいつまでも下る「無限巡回階段」になっています。

LW435-MC-Escher-Ascending-and-Descending-1960.jpg
エッシャー
上昇と下降」(1960年)
(site : www.mcescher.com)

杉原教授はこの「無限巡回階段」も物理的に作成できることを示しました。それが次の図です。

杉原版・上昇と下降.jpg
杉原版・上昇と下降
上の写真の位置から見ると「無限巡回階段」のように見えるが、実は下の写真のように "無限上昇(下降)" はしていない。

「不可能立体と不可能モーション」
国立情報学研究所セミナー
(2011.6.2)より



「杉原版・物見の塔」と「杉原版・上昇と下降」における重要なポイントは、

つながって見えるところは、物理的実体としてもつながっている。

平面に見えるところは、物理的実体としても平面である。

しかし直角に見えるところに非直角を使っている

の3点です。また、上の引用のところで杉原教授は「線図形からそこに描かれている立体図形を自動抽出できるロボットの目を開発しようという研究の中で私はこのトリックを見つけた」と書いていますが、ここも重要なポイントです。

人間の網膜に写る外界の像は平面です。人間の脳はそこから外界の立体とそれらの位置関係を推定します。それを無意識にリアルタイムに直感的に行っています。どうしてそれができるのか。目が2つあるからというのは当たりません。確かに両目の視差で奥行きが推定できますが、たとえ片目でも、かつ、全く初めての光景に出会ったとしても、立体とその位置関係が推定できます(ためしにやってみると分かる)。

ロボットやそれに相当する機械(自動運転のクルマや建機など)の "眼" も平面の画像センサーでできていて、基本的に人間の目と同じです。周りの状況に応じて動きが変化する精密なロボットを作ろうとすると(たとえば乱雑に置かれたモノを掴むロボット)、平面の画像がら立体を推定する必要がでてきます。クルマで言うとスバルのアイサイトのようなステレオカメラを使うこともできますが、コストアップになるし調整も大変です。あくまで1個のレンズとセンサーで実現したい。

このとき、人間がどうやって立体の認識をしているのかが解明されると、それをロボットに応用できる可能性が大です。杉原教授の研究と産業応用の関係はそうなります。


非直角のトリックによる立体錯視


人間は網膜に映る2次元画像から3次元をどうやって推定しているのでしょうか。下図のように、同一の網膜画像に帰着する3次元形状は無限にあります。これらの中から人間は特定のものを直感的に選択しています。「ものを見る」ということはそういうことです。

実世界を認識する目.jpg
実世界を認識する目
網膜に映る2次元画像を作れる立体は1つではなく、無限の可能性がある。脳はその中から特定のものを直感的に選択している。
(日経サイエンス 2018.8)

人間はその選択をどうやっているのか。そのことを推測できる立体錯視を杉原教授は作成しています。


ひとつの例を見てみよう(下の写真の上)。台の上に四角い柱が垂直に立ち、その4つの側面から水平に東西南北を指すように、4本の四角い横木が伸びている立体をこころの中に思い浮かべるであろう。この形を理解するのに時間はかからず、特に努力の必要はない。

この立体にはその下の写真のように赤い輪をかけることができるのだ。これを見たとたん、人間は不思議の世界に迷い込む。この硬くて平らな輪が、上下で柱の後ろ側を通っているのにもかかわらず、4本の横木の手前を通っているとしか見えない。こんなことは、4本の横木が東西南北四方へ水平に伸びていたのでは起こるはずがない。

実は、写真下に示すように、横木のうちの2本は水平ではなく、4本とも後ろ側に伸びている。だから、輪が写真のように絡まることができる。種明かしをされれば簡単に分かるが、こんなことでどうしてだまされてしまうのだろうか。

「同上」

杉原厚吉:四角柱.jpg
縦横に配置された4角柱(上)に、硬い赤の輪をかけられる(中)。実は柱の配置はみかけとは全く異なる(下)。
(日経サイエンス 2018.8)


読者は、下の写真から本当の形を理解したはずである。ここで、もう一度、いちばん上の写真に目を移してみよう。すると再び4本の横木が東西南北へ水平に伸びた立体を思い浮かべていまうのに気づくのではないだろうか。私たちの脳は、立体の本当の形を知っていることを無視して、最初に思い浮かべた別の立体をまた思い浮かべてしまう。

この事実は、私たちの脳は直角が大好きだということを示している、というのが私の仮説である。つまり、脳は、画像に映っている立体の無限の可能性の中から直角のなるべく多いものを選らんで即座に思い浮かべてしまうらしい。しかも、立体の本当の形を知ったあとでも、その知識を無視してしまう。いわば、理性とは別に脳に備わる自動回路で勝手に画像を処理して立体の奥行きを理解するのである。

「同上」

「脳は、画像に映っている立体の無限の可能性の中から直角のなるべく多いものを選らんで即座に思い浮かべてしまう」というのが、杉原教授の仮説です。この脳の作用と関係する錯視が、つぎの変身立体です。


変身立体


杉原教授は、ある特定の2方向から見ると全く違った形に見えてしまう立体を作成しました。鏡を使うとこの錯視が非常に効果的になります。下の写真の左は、そのまま見ると円柱に見え、鏡を通してみると4角柱に見えます。杉原教授はこのような立体を「変身立体」と名付けました。

変身立体.jpg
変身立体
直接見ると円柱に見えるが、鏡を通して見ると4角柱に見える(左)。実際の物体はそのどちらでもない形をしている(右)。
(日経サイエンス 2018.8)


「変身立体」は立体錯視の基本であるので、その見える原理と作成方法を詳しく説明しよう。

先ほどの「ものを見る」議論を思い起こそう。1枚の平面画像には奥行きの情報がないため、それに対応する立体には「無限の可能性」があるとした。見方を変えると、このことは、2つの方向から見るとそれぞれ望み通りに違う形に見える立体が作れる可能性があることを意味している。

左の写真に沿って説明すれば、第1の方向(たとえば直接に見る方向)から見ると円に見える立体は無限にあり、第2の方向(たとえば向こうの鏡から見る方向)から見ると四角柱に見える立体も無限にある。もし、この2群の両方に属する共通の立体があれば、実際にそれを作ることができるはずである。それを求めるのは数学を使えば可能である。

左の写真のようにできあがった「変身立体」の柱体上端に乗っている実際の曲線は、凸凹した起伏を持つ空間曲線である。円とも四角ともいえないこんな中途半端な曲線をもつ立体が、どうして方向によって円柱にも四角柱にも見えるのだろうか?

柱体の上端の曲線は、空間図形であるから1つの平面には含まれない。しかし、通常眼にする立体と同様に柱体の高さはどこも同じに作ってあるので、直角が大好きな脳は、上端の曲線で囲む面を、「軸で垂直な平面で柱体を切断しててきる断面」と奥行きを無視して解釈してしまう。

ある方向から円柱に見えるということは、上端の曲線を「平面で切った円」を斜め上から見ていると脳が解釈していることを意味する。平面で切った断面のように見えても、実は凸凹した起伏のある空間曲線は見る方向を変えれば別の見え方になる。その結果、もう1つの鏡の方向から見ると四角の断面を持った柱体、つまり四角柱に見える、と解釈される。

まとめると、①2つの方向から見て異なった形に見える空間曲線の存在 ②それを平面曲線に(誤って)解釈する脳の「直角好き」、が「変身立体」のポイントである。

「同上」

一つの視点からみると円弧に見え、別の視点から見ると2直線に見える空間曲線の作り方を示したのが次の図です。

変身立体の作り方.jpg
変身立体の作り方
水平面 H の上に円弧 A と 2直線 B がある。円弧上を動く点 P をとり、視点 E と視点 F と点 P を含む平面 S を考える。2直線 B と平面 S の交点を Q とし、直線 EP と直線FQ が交わる点を R とする。P が A の上を動くときに Q も B の上を動くが、P と Q の1対1対応がとれるように A と B を決めれば、点 R の軌跡が求める空間曲線 C となる。C を平面 H と垂直な方向に一定距離だけスイープさせれば変身立体の側面ができあがる。この図から、鏡を使って "変身" を演出するためには、鏡の上を手前に少し傾ける必要があることがわかる。
(日経サイエンス 2018.8)

杉原教授は「変身立体」は2016年の「Best Illusion of the Year Contest」で準優勝しました。その時の動画がYouTubeに公開されています。3Dプリンタの出現によって初めて製作可能になった立体と言えるでしょう。

Best Illusion of the Year Contest 2016.jpg
(YouTubeより)


立体錯視が提示する課題


立体錯視を起こす人間の脳の振る舞いは、心理学・認知科学・脳科学へ新たな研究課題を提供しているようです。杉原教授はそれを2つに分けて説明しています。


その第1は、脳がなぜ直角を好むかである。生まれながらの性質であろうか、それとも成長の過程で獲得した性質であろうか。自然には直角は少ないが、現代社会を囲む工業製品の多くは直角をたくさん含む形をしているため、直角を優先して知覚するようになったのかもしれない。これに関しては、まだ何も確かめられていない。確かめるためには、直角に囲まれないで育った人と比較しなければならないが、現代の地球上では、そのような人を見つけることは難しいだろう。

「同上」

動物実験という手はあります。つまり、動物を直角の無い環境で育てることは可能です。ただし、動物が立体錯視を起こしているかをどうやって調べるのか、その方法論が問題です。また、杉原教授もことわっているように「脳は直角を好む」というのは、現時点では仮説です。


もう1つの深刻な謎は、立体の本当の形を知った後でも、私たちは自分の知覚を修正することができず、特定の視点から立体を眺めると再び錯覚が起こってしまうことである。直角のように見えた立体を別の方向から見て、直角ではないと理解した後でも、もとの視点に戻ると、また直角に見えてしまう。ここでは、私たちの脳は知識や理性を無視して、意識の届かない脳の奥深いところで勝手に画像を処理し、直角の多い立体を思い浮かべてしまう。これは一体なぜなのであろうか。

「目で見る」ことの目的は、目の前の状況を判断し、見えたものをつかんだりよけたりという実際の行動に移すことであろう。そのためには、できるだけ短い時間で網膜の画像が持つ情報を脳で処理しなければならない。だから、この処理は自動化されているように見える。しかし、この自動回路は "過剰に安定" で、本当のことを知らされても頑固に修正を拒否する。これは進化の過程で生き残った最良選択なのであろうか。現代の状況ではそれが思わぬ落とし穴につながることもあるかもしれない。

「同上」


脳の高度な情報処理


立体錯視は脳の働きによって起こります。つまり脳が現実を裏切ることになるわけです。それはもちろん "脳を騙す" ような立体を人間が意図的に構成したからです。このことを裏返すとどうなるかと言うと、

  脳は少ない情報(2次元画像)から立体を推定するという高度な情報処理を瞬時にやっている

ということです。もちろん意図的に脳の "裏をかく" ことはできます。しかしほとんどの場合、脳の瞬時の情報処理は正しいし、我々はそれで問題なく生活しています。脳は2次元画像から物体の形を推定するだけでなく、複数の物体の位置関係を把握します。それは "あたりまえ" であり、我々が疑問をもつことがありません。しかし考えてみると、これはすごいことです。もしコンピュータに(AI技術も駆使して)やらせようとすると非常に難しい。

画像から物体を認識することだけなら実用化されています。たとえば前方衝突防止ブレーキがついたクルマでは、この機能を単眼カメラの画像だけでやっています。これは前方にあるクルマ、歩行者、バイク、自転車など、道路の上によく現れる物体の知識をもとにして画像から物体を判定しているわけです。そして道路と物体の接地部分を画像で判定し、単眼カメラの地上高と仰角から三角測量の原理で距離を計算している。つまり「事前知識をもとに画像から物体を検出し、物体までの距離を推定する」ことなら実用になっています。しかし、人間の脳がやっているような「事前知識なしに、画像だけから物体の3次元的な形状を推定する」のは、それとはレベルがかなり違います。

以上のことを考えると、人間の脳の働きは大変に高度であり、3次元形状を推定することだけをとってみても解明できていないことが分かります。No.233「AI vs.教科書が読めない子どもたち(1)」で紹介したように、国立情報学研究所の新井紀子教授は、

  人間の知性と同等ベルのAI(=真の意味でのAI)はまず無理である。なぜかというと、人間の知能の原理が解明されていないからであり、解明するにも人間の知能を科学的に観測する方法がそもそもないからだ。自分の脳がどう動いているか、何を感じていて、何を考えているかは、自分自身もモニターできない。

との主旨を書いていましたが、それが思い出されます。もちろん「実用上十分な範囲で、画像から3次元物体形状を推定する」のは、今までも研究されてきたし、今後も研究されるでしょう。立体錯視も「ロボットの目を開発しようという研究」から始まったのでした。杉原教授も、人が立体を認識するメカニズムについて「心理学・認知科学・脳科学などの成果で近い将来、答えが見つかることを期待したい」と書いています。ともかく、

エッシャーの不可能立体
立体錯視
立体形状を推定できるロボットの眼

の3つは「3次元世界と、それを覗く2次元の窓(眼)の関係」という意味で、密接に関係していることがよく理解できました。


杉原教授の公開動画


立体錯視や変身立体は動画で見るのが最適です。杉原教授が作られた「不可能モーション(立体錯視)」と「多義柱体(変身立体)」の動画が YouTube で多数公開されています。そのリンクを掲げておきます。

不可能モーション2(2009)
不可能モーション3(2010)
不可能モーション4(2012)
不可能モーション5(2013)
不可能モーション6(2014)
多義柱体1(2014)
多義柱体2(2015)
多義柱体3(2015)
多義柱体4(2016)




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