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No.162 - 奴隷のしつけ方 [歴史]

今まで「古代ローマ」と「奴隷」について、いくつかの記事を書きました。「古代ローマ」については塩野七生氏の大著『ローマ人の物語』の感想を書いたのが始まりで(No.24-27)、以下の記事です。

No.24-27「ローマ人の物語」
No.112-3「ローマ人のコンクリート」
No.123「ローマ帝国の盛衰とインフラ」

また「奴隷」については No.18「ブルーの世界」で、青色染料の "あい" が、18世紀にアメリカのサウス・カロライナ州の奴隷制プランテーションで生産されたという歴史を書いたのが発端でした。

No.18「ブルーの世界」
No.22-23「クラバートと奴隷」
No.33「日本史と奴隷狩り」
No.34「大坂夏の陣図屏風」
No.104「リンカーンと奴隷解放宣言」
No.109「アンダーソンヴィル捕虜収容所」

この「古代ローマ」と「奴隷」というテーマの接点である「ローマ帝国の奴隷」について解説した本が2015年に出版されました。『奴隷のしつけ方』(ジェリー・トナー著。橘明美訳。太田出版。2015)という本です。その内容の一部を紹介し、読後感を書きたいと思います。


『奴隷のしつけ方』


5奴隷のしつけ方.jpg
ジェリー・トナー
「奴隷のしつけ方」
(橘明美訳。太田出版。2015)

『奴隷のしつけ方』の著者は、英国・ケンブリッジ大学のジェリー・トナー教授で、教授は古代ローマの社会文化史の専門家です。この本の特徴は、紀元1~2世紀のローマ帝国の架空の人物、"マルクス・シドニウス・ファルクス" が「奴隷の管理方法」を語り、それをトナー教授が解説するという形をとっていることです。"マルクス・シドニウス・ファルクス" は先祖代々、大勢の奴隷を使ってきた貴族の家系という想定であり、奴隷の扱い方に大変詳しい。そのノウハウを生々しく語るという体裁をとることによって、古代ローマの奴隷制度、ないしはローマ社会の一面がクリアに分かるようになっています。

このような本の作り方は、紀元2世紀の首都・ローマの1日を当時のローマ人の目線で実況中継風に描いた『古代ローマ人の24時間』(アルベルト・アンジェラ。河出書房新社。2010)を思い出させます。この本は、No.22「クラバートと奴隷(1)スラブ民族」No.26「ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ」で引用しました。影響されたのかもしれません。

『奴隷のしつけ方』という日本語訳の題名になっていますが、原題は、

How to Manage Your Slaves
(奴隷管理法)

です。その内容も「しつけ」だけでなく、以下のように多岐に渡っている「ハウ・ツー本」です。

第1章 奴隷の買い方
第2章 奴隷の活用法
第3章 奴隷と性
第4章 奴隷は劣った存在か
第5章 奴隷の罰し方
第6章 なぜ拷問が必要か
第7章 奴隷の楽しみ
第8章 スパルタクスを忘れるな!
第9章 奴隷の解放
第10章 解放奴隷の問題
第11章 キリスト教徒と奴隷

以下、この本の内容の一部を紹介しますが、本からの引用で(本文)としたものは "マルクス・シドニウス・ファルクス" が奴隷管理法を語っている部分、(解説)としたのは、トナー教授が "マルクスの話の解説" や "その根拠とした文献" を書いている部分です。いずれも下線は原文にはありません。


奴隷の種類


まず奴隷の種類ですが、私的奴隷(家内奴隷・農場奴隷)と公的奴隷がありました。

私的奴隷
家内奴隷(ファミリアの奴隷)
農場奴隷
公的奴隷

家長の支配下にある家族、自由人の使用人、奴隷をファミリアと言いますが、家内奴隷はそのファミリアの奴隷です。要するに「主人とその家族がやりたくないこと全般をやる」のが家内奴隷です。食事の用意とか炊事、洗濯、掃除から始まり、子供の世話、物の運搬、家屋の修理などなどです。さらに都市の貴族の間では「自己顕示欲を満たすために、不必要な数の奴隷を所有する」こともあったと言います。現代的に言うと「贅沢品」としての奴隷です。

農場奴隷は、大規模農場で農作業をする奴隷、および農場の管理人として働く奴隷です。農場の中には小規模農民が自ら耕作するものもあったし、また自由人が小作人となって農業を行う場合もありました。しかし "マルクス・シドニウス・ファルクス"のような貴族が所有する農場では奴隷を使うことが多かったし、また奴隷がどんどん増えていき、自由民の農民が減っていったことが本書に書かれています。

公的奴隷は、国家や属州に所属する奴隷であり、各種雑務を行うのはもちろんですが、会計事務などをする奴隷もいました。



奴隷は肉体労働や単純労働だけではありません。家庭教師、学者、会計事務など、専門性の高い「ホワイト・カラーの奴隷」もいました。

しかしその一方で過酷な労働を強いられる奴隷もあり、たとえば鉱山労働やガレー船の漕ぎ手など、命を削るような労働もありました。奴隷同士の殺し合い(ないしは猛獣との殺し合い)のショーをする「剣闘士」も奴隷です。さらに女奴隷であれば「売春婦」という仕事もありました。

奴隷は「主人の所有物」であり、それは現在の家電製品やクルマと同じです。主人がお金を出して購入するものであり、売り飛ばすのも自由です。従って奴隷には一切の「権利」がありません。ただし、主人の承認のもとに「私有財産」は認められていたようです(法的には主人の財産)。奴隷同士の結婚も法的には認められていませんでしたが、これも主人の承認のもとの「事実婚」がありました。


奴隷の数


その奴隷はどれほどの数だったのでしょうか。現存する資料は少なく、あくまで推測だとトナー教授は断っていますが、次のような記述があります。


ローマは奴隷であふれている。イタリア半島の居住者の三、四人に一人は奴隷だと聞いたことがある。帝国全体を見れば、わが国の総人口は優に6000万人、あるいは7000万にも達するだろうが、その八人に一人程度が奴隷ではないだろうか。しかも奴隷は農村地帯だけにいるわけではない。首都ローマにも奴隷があふれ、あらゆる活動を担っている。この都の人口は100万人ほどになるようだが、少なくともその三分の一は奴隷だと言われている。

(本文)

以前の記事で、塩野七生氏の本に書かれている奴隷の数を書きました。


古代ローマの奴隷の数ですが、塩野七生「ローマ人の物語 3 勝者の混迷」には、紀元前1世紀のローマ国家において、イタリア半島に住む、60歳以上の老人に女子供もふくんだ自由民の総数は600万人~700万人、それに対し奴隷は200万人から300万人、とあります。自由民を650万人、奴隷を250万人とすると、人口は900万人であり、奴隷の人口に対する比率は30%程度ということになります。


塩野氏も文献を詳しく調査して書いているはずです。トナー教授も言っているように "あくまで推測" なのですが、イタリア半島において(ないしは首都・ローマにおいて)人口の30%程度(ないしは1/3程度)が奴隷だったと考えていいと思います。なお塩野氏が書いているのは紀元前1世紀、トナー教授の本は紀元1~2世紀ですが、この間、イタリア半島に限っていうとローマ帝国の領土はほぼ同じです。

人口の30%が奴隷ということからすると、当たり前かもしれませんが、全ての自由人が奴隷をもっていたわけではないことに注意すべきでしょう。


奴隷の発生源


奴隷はどのようにして発生するのか。それはまず戦争の捕虜です。


わたしもかつてペルシャとの国境地帯で、ある小さい町の攻略作戦に参加したことがある。そういう場合はまず、命は助けるから素直に町を明け渡すよう説得する。だが住民たちが応じなかったので、われわれは猛然と襲いかかり、破城鎚で城壁を破って町になだれ込んだ。そして逃げ道をふさぐと、見つけた住民を男だろうが女だろうが子供だろうが片っ端から殺していった。

その惨状を見て震え上がった住民は中心部の旧市街に逃げ込み、そこから代表を送って命乞いをした。最初からこちらの寛大な申し出を受けておけばよかったものを、何と愚かな者たちだろうか。結局その代表との話し合いで、2000セステルティウス相当の金を支払うことができるものは解放することになり、1万4000人がこれに該当した。残りの1万3000人ほどは奴隷となり、その他の戦利品と合わせて売られる運命となった。

(本文)

2番目は、女奴隷から生まれた子供(=家内出生奴隷)です。戦争捕虜か奴隷の子供、この二つが奴隷の発生源でした。しかし、それ以外の奴隷もあった。つまり、

貧しい者が借金の返済に困って自らを売る
親が子供たちを食べさせていくために、子供の一人を売る
捨て子
人買いにさらわれたり、海賊に襲われて奴隷になる

などです。


奴隷の購入


奴隷はどこで購入するかというと、奴隷商人が経営する「奴隷販売店」です。いつの世にもあることですが、奴隷商人は奴隷の欠陥を隠して高く売りつけようとします。そのため「奴隷売買の規則」がありました。


奴隷売買に関する規則は「高等按察官告示」によって定められている。この告示の主たる目的は、奴隷を買う客にとって必要な情報のすべてが事前に開示されるようにすることである。たとえば疾病その他の瑕疵がないか、だらだらする癖がないか、どこかで問題を起こして訴訟沙汰になっていないかなど。

なかでも大事なのは出身地で、売り手は奴隷一人ひとりがどこから連れてこられたのかを明らかにしなければならないが、買い手もこれには十分注意を払う必要がある。どこから来たかでいい奴隷になるかどうかが決まるといってもいいほどで、評判のいい部族もあれば、悪い部族もあるからだ。たとえば身の回りの世話をさせる奴隷を探しているのなら、若いブリトン人はやめた方がいい。荒っぽくて行儀が悪いので役に立たない。その逆が若いエジプト人で、従者として傍に置くにはもってこいだ。

(本文)

身の回りの世話をさせる奴隷に、若いブリトン人はやめた方がいい、荒っぽくて行儀が悪い」というくだりは、イギリス人であるトナー教授の "ジョーク" かと一瞬思えますが、何らかの文献によっているのでしょう。

その他の購入のノウハウとして、ローマ市民だった者を奴隷として買うな(使う方も居心地が悪い)とか、同じ出身地・部族の奴隷を集めるな(仲間同士で "つるむ" から)とか、家内出生奴隷は従順でいいが、それなりに育成のコストがかかることを覚悟せよとか、さなざまなことが書かれています。

奴隷の値段については、だいたい1000セステルティウスという推測です。一家四人が1年間、食べていける食費が500セステルティウスとのことなので、奴隷はそれなりの値段だったわけです。

  『古代ローマ人の24時間』(アルベルト・アンジェラ)では、紀元2世紀の1セステルティウスが現代の約2ユーロの価値と推定してありました。とすると、1000セステルティウスは今のレートで約25万円ですが、貨幣価値は現代も古代ローマも変動します。ローマ帝国の初期で「数十万円」というぐらいの理解でいいでしょう。

これらは普通の奴隷であって、値段の上はキリがありません。本書には、文法学者、俳優、会計管理人、美少年などが高価で取引された例が出てきます。


奴隷の管理


"マルクス・シドニウス・ファルクス" は奴隷の管理のノウハウをこと細かに書いています。よい行為をしたときには誉めたり、ちょっとした小物を与えたりという「モチベーション・アップ」が重要だとしています。また奴隷の間での役割分担の明確化が重要で、これがないと責任が曖昧になり、奴隷は怠けるとしてあります。このあたりはいつの時代も同じと言えるでしょう。

特に力が入っているのが「農場管理人」の人選です。これは「奴隷を管理する奴隷」なので重要です。「管理人の心得」が30箇条も列記してあり、主人たるもの常に管理人に言い聞かせ、目を光らせておくことが大切です。


奴隷と性


さきほどあげたように、奴隷同士の結婚は法的には認められていません。しかし主人の承認のもとに奴隷同士が「事実婚」の関係になることはありました。こうしてできた子供が「家内出生奴隷」です。

さらに、主人が女奴隷と性交渉をもつことも多々あったようです。こうして生まれた子供も奴隷になります。一般に主人の正式の子供は、幼児の時には乳母となる女奴隷が世話をしますが、それ以降は奴隷の世話係がつきます。


少し大きくなってからの子供の世話係は、私なら自分が女奴隷に生ませた奴隷に任せたいところだ。子供たちにとっての世話係はもっとも親しい奴隷となり、しかもそれが長く続くことになるのだから。

(本文)

哲人皇帝、マルクス・アウレリウスは、美しい二人の奴隷を所有していたが、それを寝室にはべらせないことを自慢していたそうです。それが自慢になるほど、奴隷に性的なサービスをさせることが一般的だったということになります。トナー教授は次のように書いています。


奴隷が性的虐待を受けていたことについては数多くの証拠が残っています。主人が強い立場にあり、しかも奴隷には法的権利がなかったので、驚くようなことではありません。「哲人皇帝」の異名をとったマルクス・アウレリウスが二人の美しい奴隷の誘惑に負けなかったという話も、裏を返せばほとんどの奴隷所有者がそうではなかったという証拠です。また主人が少年ないし青年の奴隷と関係をもっても、不名誉と見なされることはありませんでした。なぜなら奴隷は全員、性別・年齢を問わず、主人のためのものだったからです。これが現代なら、ほとんどの主人が小児性愛者ということになるでしょう。

(解説)


奴隷に対する懲罰と拷問


奴隷が犯罪を犯した場合は、もちろん公の裁きを受けます。重罪の場合は猛獣刑(闘技場で猛獣の餌食にされる)もありました。

しかし家内奴隷が主人の意に反したことをやったり、不始末をしでかしたり、罪を犯したりしたときには、主人が懲罰を与えるのが普通でした。このとき、カッとなって奴隷の脚を折ったり、二階から付き落としたりするのは厳に慎むべきだと、"マルクス・シドニウス・ファルクス" は力説しています。奴隷も貴重な財産なのです。

一般的な懲罰は「鞭打ち」です。"マルクス・シドニウス・ファルクス" は、その場合、請負人に依頼すると言っています。


わたしの場合、奴隷に体罰を与えるときは請負人に頼んでいる。地元の評議会がそういうサービスを提供していて、一定の料金で鞭打ちを代行してくれる。料金も手ごろで、たしか一打ち四セステルティウス程度だったと思うが、その値段で何から何までやってくれるのだ。彼らはまず台を設置し、厳粛な面もちで監禁されている部屋から奴隷を連れてきてその台に上がらせ、縛る(そのための縄まで用意してきている)。こんなふうに仰々しくするのは、ほかの奴隷たちへの見せしめとするためだ。

(本文)

奴隷の逃亡にはもっと厳しい罰が待っています。逃亡奴隷を捕まえるプロがいました。ただし料金が高い。"マルクス・シドニウス・ファルクス" が勧めるのは、懸賞金をかけ、奴隷の特徴を書いた張り紙をローマ市内に出すことです。

捕えられた逃亡奴隷は、額に烙印を押されたり、首輪をつけられたりしました。そのような奴隷は、後に解放されて自由人になったとしても("解放" は後述)ローマ市民権は得られないという決まりがありました。

奴隷としての重罪は主人が殺された場合です。主人が何らかの犯罪者に殺害された場合、その主人を助けようとしなかった「同じ屋根の下の奴隷」は全員死刑になるのが普通でした。奴隷の最大の責務は主人を守ることであり、かつ連帯責任というわけです。

さら古代ローマでは法的手続きの一環として、奴隷に対する拷問が行われていました。それは奴隷が裁判の証人になった場合です。というのも、奴隷は道徳的に劣った存在であり、拷問しないと真実を言わない、と見なされていたからです。


奴隷の解放


古代ローマには「奴隷の解放」という公式の制度があり、これが古代ギリシャの奴隷制度と大きく違うところでした。

奴隷の解放は、主人の遺言によるものと、主人が生前に解放する場合があります。そのとき "解放税(奴隷の価値の5%)" を納める必要がありました。また無制限に解放はできず、所有する奴隷の数で解放できる割合(たとえば、大半の奴隷所有者が該当する10人以下の奴隷所有の場合は半数まで)が決まっていました。もちろん主人としては自分に忠節であった奴隷を解放するわけです。主人が愛情を持った女奴隷の場合、正式の妻として迎えるために解放することもあったようです。

奴隷の解放は主として都市部の現象だったと、トナー教授は書いています。農場の管理人が解放された例はあるが、その下の農夫として働く奴隷が解放されることはほとんどなかったと推定されるそうです。主人と顔を合わせるわけでもなく、解放するメリットもなかったからです。

解放され自由人になったとしても、数年は元主人のもとで働くのが普通でした。しかし多くの奴隷は解放を切望していました。「自由人になった解放奴隷の多くは、それまでできなかったことを成し遂げようと必死に働きました」と、トナー教授は書いています。



以上は本書に書かれている内容の一部ですが、通読するとローマ帝国時代の奴隷制度がどういうものであったか、よく理解できました。以下は、本書を読んだ感想です。


感想 : ローマの発展と奴隷


この本はローマの政治史や軍事史はまったく扱っていません。あくまで「奴隷」という社会の最下層の人たちを貴族がどう見ていて、どう扱ったか(扱うべきか)という視点の本です。しかしそれでいて(それだからこそ)ローマの発展と凋落の理由がうっすらと見えてくるような気がしました。

ローマの発展の理由の一つに「ローマ的奴隷制度」があったこと間違いないと思います。周りの国と戦争をし、領土を拡大していくと、同時に奴隷も供給されます。現代に置き換えると、家電製品やクルマや農業機械を手に入るようなものです。貴族や富裕層はその奴隷(=最低限の衣食住を与えられて無給で労働する人)を買い、農場を運営する。一切の家事・労働から解放された裕福なローマ市民は、政治や戦争に専念できます。これが富の集中をもたらし、富裕層はますます富裕になる。こういった富の蓄積が文化や芸術を生み、また各種のインフラストラクチャが整備されました(No.112, No.113, No.123)。

戦争捕虜の奴隷はもともと自由民だったわけで、誇りも自負もあるはずです。それが奴隷の身分になっている。しかしローマには「解放」という公式の制度があり、主人に一所懸命仕えれば、自由民になることが期待できる。解放されたとしたら、奴隷生活を取り戻すべく自由民として必死に働く。このローマの柔軟さが社会の活力を生むことになったでしょう。人間は「希望」がある限り、非常につらいことにも耐えられるものです。

しかし、領土の拡大がなくなり、戦争捕虜=奴隷の供給が止まったら、この社会は変質していくと考えられます。農業生産を増やすにしても、領土拡大ではなく生産性を上げるしかないわけですが、本書にも書いてあるように、奴隷には生産性をあげるモチベーションがありません。「最近の農業はほとんと奴隷になった。嘆かわしい」との主旨の記述がありました。かといって、農業経験がない自由民に農業をやれといっても出来ない(やりたくない)でしょう。

奴隷の発生源も、家内出生奴隷や捨て子がメジャーになります。つまり「生まれた時からの奴隷」であり、解放へのモチベーションが戦争捕虜とはだいぶ違うのでなないでしょうか。

「身の回りをさせる奴隷なら、ブリトン人よりもエジプト人」と本書にあります。まえに引用した『古代ローマ人の24時間』(アルベルト・アンジェラ)では、首都・ローマには帝国の各地から連れてこられた奴隷であふれている様子が活写されていました。この状況はある種の軋轢を生むでしょうが(極端には奴隷の反乱)、社会の活力になったことは間違いないと思います。しかし、帝国が最大版図で固定化すると、この状況が大きく変質していくでしょう。

発展の要因が、あるターニング・ポイントを越えると発展の阻害要因になる。そういう風に思いました。


感想 : 歴史に学ぶ意義


本書を読んで感じることの2番目は「人間のやることは昔も今も変わらない」ということです。それはまず第一に、世界というレベルでみると、現代でも奴隷状態に置かれている人が多くいることです。トナー教授は次のように書いています。


マルクスのように奴隷制を容認し、それを正当化する人は今はもういません。けれども、わたしたちがどれほど進歩したかを喜ぶ前に、よく考えてみてください。今や世界のどこの国でも奴隷制は違法ですが、それにもかかわらず、奴隷状態に置かれている人々がたくさんいます。フリー・ザ・スレイブス(Free the Slaves)というNGOの推計によれば、暴力で脅されて労働を強要され、給料ももらえず、逃げる希望さえもない人々が2700万人いるそうです。現代社会には古代ローマのどの時代よりも多くの奴隷がいるのです。

(解説)

これが世界の実態でしょう。奴隷は決して過去の話ではありません。前に引用したトナー教授の推定に従ってローマ帝国全体の奴隷の数を仮に800~900万人とすると、現代社会にはローマ帝国の3倍の奴隷がいることになります(推定)。

さらに、奴隷ではないが身近な問題として、極めて低い賃金で働き続けなければならない「貧困層」の存在があります。そして、現代の社会は「貧困層」の存在を必要としていて、それを作り出すメカニズムが働いていると思います。

分かりやすいのは移民です。アメリカ西海岸のホテルに泊まったりすると、そこでベッド・メイキングしている人たちは、ヒスパニック系の人が非常に多い。英語が話せなかったりします。"生粋の"アメリカ人は、そういう仕事につかないわけです。ドイツでも、たとえばゴミ収集などはドイツ人はしないと言います。

日本では移民を厳しく制限していることもあって、アメリカやドイツの状況とは違います。しかし貧困に苦しむ人は多い。この前もテレビで、あるシングル・マザーの人を取材していました。高校生の娘が一人いますが、パートで晩まで働きづめで、月収はよくて20万円だそうです。大都会の生活ではギリギリです。それに解雇されるリスクがある。この方の母親もシングルマザーで、本人は経済的理由から大学進学は断念したとのことでした。娘が心配と語っていましたが、それはそうでしょう。親子3代にわたって貧困が連鎖する可能性があるのだから。

これはあくまで一つの例ですが、冷静になって考えてみると、今の社会は「大都会で、年収200万円程度の(あるいはそれ以下の)、働き盛りの年代の人」を必要としているということでしょう。そして、そういう層を作り出すメカニズムがある。その最たるものは「やりたいようにやろう。好きなことを自由にして生きよう。他人に命令されずに生きよう」という、マスコミのキャンペーンです。ここに大きな落とし穴が仕掛けられている。そして、貧困層の人たちにもモチベーチョンをもって働いてもらう「管理方法」があります。さらに、貧困から抜け出す道も(必ずそうなるというわけではないが)ちゃんと開けている。

もちろん奴隷ではありません。人権があり、職業選択の自由があり、健康な生活を送る権利も有している。しかしこの資本主義社会の中では、古代ローマの奴隷と似たような役割を果たしていると感じます。

『奴隷のしつけ方』という本は、社会における貧困層の人たちを、どうやって動機付け、どうやって働かせるか、という "指南書" として読むと、現代もほとんど変わらない、歴史に学ぶ意義はこの例だけからしてもある、そう感じました。「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」という金言がありますが、その通りです。愚者は「自分」の経験に学んでしまうのですが(そして、成功体験に学んでしまって失敗したりするのですが)、賢者は「人間」の歴史に学ぶのです。

続く


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No.161 - プラド美術館の「怖い絵」 [アート]

前回はプラド美術館の二つの絵(モナリザの模写作品、エル・グレコの『胸に手をおいた騎士』)についてでした。その続きで、プラド美術館にある別の絵について書きます。No.19「ベラスケスの怖い絵」の続きという意味もあります。


現地に行かないと分からない


旅行の楽しみの一つは、さまざまなシチュエーションにおける「発見」です。これだけ各種の情報が容易に手に入る時代でも、現地に行かないと分からないことがいろいろあります。「食事」や「ショッピング」は旅の楽しみの大きな要素ですが、さまざまな「発見」も旅行の楽しさを作っているポイントでしょう。

プラド美術館.jpg
プラド美術館
(Wikipedia)
プラド美術館にも、現地に行ってみて初めて知ることがありますが、その一つは「ヌードを描いた絵が非常に少ない」ということです(些細ささいですが)。これは同じように古典絵画(18世紀かそれ以前に描かれた絵画)をメインのレパートリーとするルーブル美術館やロンドンのナショナル・ギャラリーと違うところです。ルーブルにはギリシャ・ローマ神話を題材に、女性神を裸体・半裸体で描いた絵がたくさんあるのに、プラド美術館にはそれがあまりありません。ティツィアーノやルーベンスなど、無いことはないが非常に少ない。これは「プラド美術館の特徴」と言ってよいと思います。

そんなことはないはずだ、"あの絵" があるではないか、と思われるかも知れません。その通りです。誰もが知っているヌードの超有名絵画があります。ゴヤの『裸のマハ』と『着衣のマハ』の2部作です。しかしこの絵はプラド美術館においては例外的なのです。


『マハ』2部作


着衣のマハ.jpg
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)
着衣のマハ」(1797/1800)
(プラド美術館)

裸のマハ.jpg
裸のマハ」(1800/1805)
(プラド美術館)

ゴヤのこの2部作については、さまざまな憶測やエピソードが語られてきました。絵の発注主は誰かとか、ゴヤはなぜこの依頼を受けたのかとか、また重要なのは「モデルは誰か」です。『着衣』の方が後から注文されたので、発注主は屋敷にまず『裸』を飾り、その上に『着衣』を飾ってカムフラージュした・・・・・・うんぬん。

しかし、この絵にまつわるさまざまなエピソードなかで重要なのは、

  『裸のマハ』を描いたために、ゴヤはあやうく異端審問所に呼び出されるところだった

という件です。これからも分かることは「スペインはヌードについては非寛容の国だった」ということです。プラド美術館に神話を主題にしたヌードの絵が少ないのもなんとなく納得できます。ちなみに、ゴヤの大先輩にあたるベラスケスの『鏡のヴィーナス』(1647/51。ロンドン・ナショナル・ギャラリー)はヴィーナスの裸体の後姿を描いていますが、これはイタリア滞在中に描かれた絵です。この絵も「マハ2部作」を所有していた同じ人物が所蔵していた "個人蔵 "(Private Collection)の絵でした。

しかしプラド美術館には、ゴヤのほかにもう一つ非常に印象に残る「裸体画」があります。その絵は、

ゴヤの「マハ」のように、同じポーズで「着衣」と「裸体」を描いた2部作で、

ゴヤの先輩筋にあたる、スペインの宮廷画家の作であり、

しかも、秘密裡に描いたゴヤとは違って、国王の指示によって描かれた絵

です。それは、成人女性ではなく少女を描いた2部作で、『マハ』と同じように、プラド美術館では同じ部屋に展示してあります。No.45「ベラスケスの十字の謎」でも少し触れた絵ですが、タイトルにあげたように、ちょっと「怖い絵」です。


『少女』2部作


エウヘニア・マルティネス・バリェーホ(着衣).jpg
ファン・カレーニョ・デ・ミランダ(1614-1685)
エウヘニア・マルティネス・バリェーホ」(1680頃)
(着衣の奇怪少女)
プラド美術館

エウヘニア・マルティネス・バリェーホ(裸体).jpg
エウヘニア・マルティネス・バリェーホ」(1680頃)
(裸体の奇怪少女)
プラド美術館

ファン・カレーニョ・デ・ミランダはベラスケスより15歳年下の宮廷画家で、つまりベラスケスの後輩ということになります。題名であるエウヘニア・マルティネス・バリェーホが、モデルとなった少女の名前です。

上に掲げた絵の題名は、プラド美術館の公式カタログ(日本語)より採りました。「奇怪少女」とはちょっと変な日本語ですが、オリジナルの題を推測してみると、No.45「ベラスケスの十字の謎」でこの絵を引用したときにつけた英語のタイトルは、

着衣)
Eugenia Martinez Vallejo
"The Monster",dressed

裸体)
"The Monster",nude,or Bacchus

でした。これは No.45 をアップした2012年1月1日時点でのプラド美術館の英語のホームページの記述です(現在は変更されている)。ここで言う Monster(スペイン語のホームページでは Monstrua)がキーワードですね。これは「怪物」とか「奇形」という意味です。それを日本語カタログでは「奇怪少女」と訳したのだと推測できます。プラド美術館の公式カタログには次のように説明してあります。


カレーニョは本作ではベラスケスの流れを汲むスペイン肖像画らしい題材を選択し、特殊な身体的または精神的障害をもった人物をモデルとしている。これはスペインの宮中では特に好まれたテーマであり、この作品も国王カルロス2世がその専属画家であったカレーニョに制作を命じたものである。

(プラド美術館カタログ)

「ベラスケスの流れを汲むスペイン肖像画らしい題材」とは、No.19「ベラスケスの怖い絵」にあげたように、ベラスケスが「特殊な身体的または精神的障害をもった人物」の肖像を10枚程度描いたことを指しています。スペイン宮廷は組織的にそのような人物を探しだし「慰み者」として宮中に住まわせていました。小説「ベラスケスの十字の謎」(No.45)は、そのようにしてイタリアから連れてこられた(お金で買ってこられた)小人症の少年を主人公にしているのでした。

「スペインの宮中では特に好まれたテーマ」とあります。我々がふつう眼にするのはベラスケスやカレーニョ・デ・ミランダといった有名画家の作品だけなのですが、実は「特殊な身体的または精神的障害をもった人物の肖像」はそれ以外にもたくさんあることが推測できます。プラド美術館のカタログによる、カレーニョ・デ・ミランダの絵の解説の続きです。


この女児は六歳の時点ですでに約70kgの体重があり、宮廷に召しだされた際には大変な話題となった人物である。一作目で彼女は銀ボタンのついた豪華なブロケードのドレス姿で描かれており、その描写には非常に繊細で温かいヴェネチア派のタッチが駆使されているが、これはモデルの不機嫌で疑い深そうな表情を和らげるための工夫である。

二作目は裸体で描かれており、身につけているのはわずかに葡萄の葉と冠だけである。あるいはワインの神バッカスを象徴しているのかも知れない。

(プラド美術館カタログ)

引用に出てくる "ブロケード" とは、多彩な文様を "浮かし織り" にした織物を言います。

解説には書いていなのですが、なぜ2作品も描かれたのでしょうか。「豪華なドレス」の作だけでもよいはずなのに・・・・・・。おそらくこれは、少女が何かの宮廷のイベントの際に、裸にされてバッカスの格好をさせられたからだと考えられます(推測ですが)。

少女は6歳の時に体重が70kgだったとあります。いわゆる肥満児を通り越して "超肥満児" です。現代になら無いことはないと思いますが、時代は17世紀のスペインです。庶民の子供が単なる栄養過多で超肥満児になるとは考えにくい。おそらくこの子は何らかの体の異常があって、このような体になったのでしょう。当時としては、非常にめずらしかった。だから宮中に差し出され「大変な話題」になった。おそらく両親にはお金が渡ったのでしょう。



この2枚の絵、特に「裸」の方は、ちょっと「愕然とする」絵です。現代なら児童ポルノ禁止法で逮捕される現場に立ち会ったような感覚を受けます。当時のスペインの宮廷の雰囲気が強烈に匂ってくる絵であり、中野京子さん流に言うと「怖い絵」です(No.19参照)。しかしそういった「現代人の感覚」だけで単純に過去を見てはならないはずです。


ヘンテス・デ・プラセール(楽しみを与える人々)


プラド美術館の公式カタログ(日本語)には、次のような記述があります。


近代ヨーロッパにおけるほとんどの宮廷や貴族の邸宅には「ヘンテス・デ・プラセール(楽しみを与える人々)」と呼ばれる職制があった。彼らは道化や、短身、狂人、奇形などの人々で、スペインにおいてはカトリック両王の時代から18世紀初頭まで王族や貴族のそばに仕えた。特異な身体的特徴を持ち、滑稽な姿の彼らは、貴族たちの優雅で完璧な姿を強調するための比較物として利用されていた。また、彼らが貴族たちを楽しませるための役割を担ったと同時に、貴族たちは彼らを庇護することによって恵まれない者たちに対する寛大さをアピールしたのである。

(プラド美術館カタログ)

補足しますと「カトリック両王」とは、レコンキスタの末にスペイン王国を成立させたアラゴン王・フェルディナンド2世(1452-1516)と、カスティーリャ女王・イザベル1世(1451-1504)を指します。

また「ヘンテス・デ・プラセール」はスペイン語の「gentes de placer」で、gentes は "人々" の意味、placer は "楽しみ" です。プラド美術館の英語のホームぺージには「people who provided amusement」と解説してあります。「楽しみを与える人々」ですね。簡潔に「慰み者」と訳してもいいと思います。

プラド美術館の解説のポイントは、下線をつけたニヶ所だと思います。まず「近代ヨーロッパにおけるほとんどの宮廷や貴族の邸宅には "楽しみを与える人々" の職制があった」とされているところです。つまりスペインだけのものではない。

二つ目は「貴族たちは彼らを庇護することによって恵まれない者たちに対する寛大さをアピールした」というところです。宮廷や貴族の館に住まわすことによって、現代風に言うと「社会的弱者に対する福祉」という面がないわけではない。もちろん言葉通り、道化をさせて楽しんだり(裸にしてバッカスの格好をさせる!)、解説にもあるように優越感に浸るのが主目的だったのだろうけど・・・・・・。

現代人の我々がどう思おうと、「慰み者」は宮廷や貴族の間で(スペインだけでなく)普通にあった。このことは踏まえておくべきだと思います。

ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)
「ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン」(1633)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

イングランド国王・チャールズ1世の宮廷画家でったアンソニー・ヴァン・ダイクが、チャールズ1世の妃であるヘンリエッタ・マリアを描いた作品。肩に猿を乗せたジェフリー・ハドソンが傍らに描かれている。「特異な身体的形状をもった人」を宮廷に住まわすのがスペインだけではなかったことが分かる。


画家は何を描いたのか


カレーニョ・デ・ミランダが描いた『エウヘニア・マルティネス・バリェーホ』の絵に戻ります。この絵は一見「怖い絵」のように(現代人からすると)思えますが、実はそうとも言えないわけです。プラド美術館の解説によると、この絵はカルロス2世の命で描かれました。カルロス2世はカレーニョ・デ・ミランダが仕えたスペイン国王です。国王の命令で宮廷画家が絵を描くのはあたりまえです。そのあたりまえのことの結果として、宮廷に連れてこられた少女の2枚の絵がある。

しかし画家が意図したかどうかは別にして、この2枚の絵で表現されているものを端的に言うと、少女の「怒り」です。身体的異常(おそらく)で超肥満であるがために宮廷に連れてこられ、「道化」「慰み者」にされる。裸にまでされる。着衣の絵も、この少女には全く不釣り合いな豪華すぎる衣装を着せることによって、そのギャップ感を貴族たちは楽しんだと想像されます。こんな "特別な" サイズの豪華な衣装は特注するしかないわけです。王侯・貴族の子どもの "お下がり" ではありえない。まさに「楽しみを与える者」です。そういった宮廷人、貴族に対する言いようのない「怒り」が、おのずと現れてしまっていると思うのですね。もちろんこの絵を描いた画家も、彼女が怒りを向けている相手です。

この絵から連想するのは、ベラスケスの『セバスティアン・デ・モーラ』です。No.19「ベラスケスの怖い絵」で引用した、中野京子さんの『セバスティアン・デ・モーラ』の評論を、ここでもう一度引用します。


こぶしを握りしめ、短い足を人形のようにポンと投げ出して座るこの慰み者は、明らかに「何者か」であって、道化という言葉から連想するユーモラスなところは微塵もない。彼は、自分が他の人々に優越感を与えるために飼われていることを知っており、知的な眼に抑制した怒りのエネルギーをたたえ、あたかも目に見えない何かに挑むかのように、真っ直ぐこちらを睨みつけてくる。彼の精神と肉体の、魂と現実の、大きすぎ残酷すぎる乖離が、見る者にひりひりした痛みさえ感じさせる。

中野京子
『怖い絵 2』
(朝日出版社。2008)

この文章は、そのままカレーニョ・デ・ミランダの『エウヘニア・マルティネス・バリェーホ』の評論としても当てはまりそうです。セバスティアン・デ・モーラは短身ではあるが大人おとなであり、その大人をベラスケスが描いた絵の評論が上の引用です。では、大人ではない「少女」も、中野さんが書いたように考えるものでしょうか? 程度の差はあれ、考えると思いますね。人間なのだから。

そして直感的に感じるのは、カレーニョ・デ・ミランダという人の「画力」です。ベラスケスは "画家の王" と言われていますが、カレーニョ・デ・ミランダも、どこにでもいそうな宮廷画家ではなさそうです。真実(の一端)を明るみに出す "画家の筆の力" を感じます。

ここで思い出すのが、カレーニョ・デ・ミランダが自分の主人であるカルロス2世を描いたプラド美術館の絵です。その絵を『怖い絵 2』にある中野京子さんの評論で紹介します。これは "真に怖い絵" です。


カレーニョ・デ・ミランダの怖い絵


カルロス2世は、ベラスケスが仕えたフェリペ4世の子です。フェリペ4世には跡継ぎに恵まれず、次々と生まれた8人の子は女の子ひとりを残して死んでしまいました。それどころか、王妃も分娩がもとで亡くなったのです。焦った王は、ヨーロッパ中に適当な再婚相手がいないと見るや、妹の娘 = 姪と結婚しました。4代続けての血族婚ということになります。

その2度目の王妃との間にできた4人の子も次々と死に、残るはマルガリータ王女一人となりました。ベラスケスの『ラス・メニーナス』の中心に描かれたのがマルガリータ王女です。万事休す、女王をたてるしかない、と思ったとき、思いがけず待望の男の子が生まれました。マルガリータ王女が10歳の時で、それがカルロス2世です。

以上は中野さんの『怖い絵 2』からの要約です。ここからは本から直接、引用しますが、数ある中野さんの絵画についての評論の中でも屈指の名文です。男の子を得たフェリペ4世の喜びは長くは続かなかったのです。男の子は「呪われた子」との噂が立つような子だった。

カルロス2世.jpg
カレーニョ・デ・ミランダ(1614-1685)
カルロス 2世」(1675頃)
プラド美術館

父親(引用注:フェリペ4世)は激しく落胆した。三つになってもまだ乳を飲み、立つことすらできず、心身ともに脆弱ぜいじゃくで知能も低く、見た目もひどく悪い我が子を恥じ、なるべく人の目に触れぬよう配慮し、どうしても人前に出すときにはベールをかぶせたことすらあった。そしてひたすら呪いを解こうと、子どもの周りには乳母うばの他におおぜいの医者、占星術師、祈祷師きとうしはべらせた。祈祷の効果はずいぶんあったと言えるだろう。今にも死ぬかと思われながらその都度つどどうにか持ち直し、誰ひとり想像もしていなかった、三十九歳まで生きのびることができたのだから。

中野京子『怖い絵 2』
(朝日出版社。2008)

フェリペ4世は六十歳で死去し、自動的に4歳のカルロス2世が即位します。そのカルロス2世は10歳になっても読み書きすらできなかったといいます。カレーニョ・デ・ミランダが描いたカルロス2世の肖像画の解説です。


十三、四歳のカルロス二世を描いたこの肖像画には、明らかに先代のベラスケス様式が見てとれる。ただしベラスケスは対象をことさら粉飾しはしなかったが、カレーニョの方には宮廷風の慇懃いんぎんな理想化がある。とりわけ本作がそうだという証拠には、他の画家たち(この時期、宮廷画家は十五人もいた)によるいくつもの肖像やスケッチ、また同時代人がカルロス二世の外見について書いた文献が挙げられる。宮廷肖像画の宿命として、二、三割アップは目をつぶる範囲内であろうが、どうやらこの絵はそれをはるかに超えたものだったらしい。

とはいえ、少年王がハプスブルク家代々の特徴を受け継いでいることは、控えめながらも表現されている。父も祖父も曾祖父も高祖父も持っていた、突き出た下あごと分厚い下唇(マリー・アントワネットの受け口にもかすかに継承されている)がそれだ。その上カルロス二世は細い弓なりの顔、長くれた鼻、全くみ合わない歯(終始、よだれを流していたという)、ほとんど太陽光を浴びなかったせいで病的にあお白い肌 ── たとえ唇に紅をさしても、幽鬼の如く暗がりにぼうっと白く浮かび上がるその姿に、言いしれぬ戦慄せんりつを覚えない者はいないだろう。髪だけが若々しい美しさに波打っている。

ここはマドリッドにある王宮内「鏡の間」。灼熱の戸外とは無縁に、ひんやり薄暗い。金縁の赤い緞帳どんちょうが舞台美術よろしくたくしあげられた中に、すばらしく仕立ての良い黒ビロードの衣装に身を包んだ若きスペイン国王が立つ。胸には金羊毛きんようもう騎士団の勲章をぶら下げ、胸には剣を差し、左手には帽子、右手には王たることを示す勅令の紙片をもって、こちらへ眼を投げかけてくる。黒いだけの、無感情無感動の魚の眼を。

中野京子『同上書』

引用が長くなりましたが、文章には "勢い" というものがあるので、変なところでカットしてしまうと "伝わらない" ことがあります。ともかく「幽鬼の如く暗がりにぼうっと白く浮かび上がる姿」であり、「髪だけが若々しい美しさに波打つ」のとは対象的な、「黒いだけの無感情無感動の魚の眼」に戦慄を覚えた筆者の思いが伝わってきます。

血族結婚を何代も繰り返した結果で生まれた少年王の姿、第一級の宮廷画家が美化を重ねても隠せない異様な姿、それがこの絵の "怖い" ところです。そして、中野さんがあげるこの絵のさらに "怖い" ところ、それは少年王の「影」です。


少年は成長が遅く、年齢よりずっと小柄な上に片足を引きずって歩いていたというが、画家はそんな現実をおおい隠し、威厳ある中にもリラックスしたポーズを描いている。脚も安定して健康だ。ところが ・・・・・・ この影はどうだろう? テーブル下のライオン像が形作る自然な影に比べ、カルロス二世の足もとからすうっと伸びて存在を主張するこの影は、どことなく薄気味悪い。カーブの仕方、極端な先細りが連想させるからかもしれない、悪魔が持つという獣の脚を ──

中野京子『同上書』

この少年に何の罪もないことは明白ですが、それでいてこの一見してわかる病的な姿、悲惨な姿は、見る人を愕然とさせます。この絵に比べると、さきほどの肥満の少女、エウヘニア・マルティネス・バリェーホの方が格段に人間的だという感じがします。



この絵の少年王、カルロス2世の専属の画家であったカレーニョ・デ・ミランダのことです。中野さんは、少年王の絵に関して「カレーニョ・デ・ミランダの隠蔽いんぺい工作は、成功したとは言いがたい」と書いています。確かにそうですが、なぜ成功しなかったのでしょうか。

それは美化に美化を重ねても隠し通せないほど、カルロス2世が "ひどかった" からだとも考えられます。この絵ができあがったとき、実物よりずいぶん "いい" ことで少年王や周囲は満足したと考えられる。

しかし別のことも考えられます。それはカレーニョ・デ・ミランダという人が優れた画家だったということです。肖像画家のキモのところは、モデルの真実の姿を、その内面まで含めてえぐり出せる技量でしょう。宮廷画家であればモデルを美化するのはやむをえない。しかし優れた画家であればあるほど、美化では隠せない部分がおのずと現れてしまう。最初に掲げた『マハ2部作』を描いたゴヤも、そういったタイプの絵を描いています。『エウヘニア・マルティネス・バリェーホ』の絵のところで、画家の「画力」を感じると書いたのは、このカルロス2世の絵が念頭にあったからでした。

画家、芸術家、アーティストも、その時代の環境、時代背景に沿って生きるしかないわけです。カレーニョ・デ・ミランダが描いた「少女」と「少年王」の "怖い絵 " は、はからずもその時代の雰囲気の一面を如実に表現した作品となり、そのことによって、芸術がもつ重要な意味を示していると思います。




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