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No.162 - 奴隷のしつけ方 [歴史]

今まで「古代ローマ」と「奴隷」について、いくつかの記事を書きました。「古代ローマ」については塩野七生氏の大著『ローマ人の物語』の感想を書いたのが始まりで(No.24-27)、以下の記事です。

No.24-27「ローマ人の物語」
No.112-3「ローマ人のコンクリート」
No.123「ローマ帝国の盛衰とインフラ」

また「奴隷」については No.18「ブルーの世界」で、青色染料の "あい" が、18世紀にアメリカのサウス・カロライナ州の奴隷制プランテーションで生産されたという歴史を書いたのが発端でした。

No.18「ブルーの世界」
No.22-23「クラバートと奴隷」
No.33「日本史と奴隷狩り」
No.34「大坂夏の陣図屏風」
No.104「リンカーンと奴隷解放宣言」
No.109「アンダーソンヴィル捕虜収容所」

この「古代ローマ」と「奴隷」というテーマの接点である「ローマ帝国の奴隷」について解説した本が2015年に出版されました。『奴隷のしつけ方』(ジェリー・トナー著。橘明美訳。太田出版。2015)という本です。その内容の一部を紹介し、読後感を書きたいと思います。


『奴隷のしつけ方』


5奴隷のしつけ方.jpg
ジェリー・トナー
「奴隷のしつけ方」
(橘明美訳。太田出版。2015)

『奴隷のしつけ方』の著者は、英国・ケンブリッジ大学のジェリー・トナー教授で、教授は古代ローマの社会文化史の専門家です。この本の特徴は、紀元1~2世紀のローマ帝国の架空の人物、"マルクス・シドニウス・ファルクス" が「奴隷の管理方法」を語り、それをトナー教授が解説するという形をとっていることです。"マルクス・シドニウス・ファルクス" は先祖代々、大勢の奴隷を使ってきた貴族の家系という想定であり、奴隷の扱い方に大変詳しい。そのノウハウを生々しく語るという体裁をとることによって、古代ローマの奴隷制度、ないしはローマ社会の一面がクリアに分かるようになっています。

このような本の作り方は、紀元2世紀の首都・ローマの1日を当時のローマ人の目線で実況中継風に描いた『古代ローマ人の24時間』(アルベルト・アンジェラ。河出書房新社。2010)を思い出させます。この本は、No.22「クラバートと奴隷(1)スラブ民族」No.26「ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ」で引用しました。影響されたのかもしれません。

『奴隷のしつけ方』という日本語訳の題名になっていますが、原題は、

How to Manage Your Slaves
(奴隷管理法)

です。その内容も「しつけ」だけでなく、以下のように多岐に渡っている「ハウ・ツー本」です。

第1章 奴隷の買い方
第2章 奴隷の活用法
第3章 奴隷と性
第4章 奴隷は劣った存在か
第5章 奴隷の罰し方
第6章 なぜ拷問が必要か
第7章 奴隷の楽しみ
第8章 スパルタクスを忘れるな!
第9章 奴隷の解放
第10章 解放奴隷の問題
第11章 キリスト教徒と奴隷

以下、この本の内容の一部を紹介しますが、本からの引用で(本文)としたものは "マルクス・シドニウス・ファルクス" が奴隷管理法を語っている部分、(解説)としたのは、トナー教授が "マルクスの話の解説" や "その根拠とした文献" を書いている部分です。いずれも下線は原文にはありません。


奴隷の種類


まず奴隷の種類ですが、私的奴隷(家内奴隷・農場奴隷)と公的奴隷がありました。

私的奴隷
家内奴隷(ファミリアの奴隷)
農場奴隷
公的奴隷

家長の支配下にある家族、自由人の使用人、奴隷をファミリアと言いますが、家内奴隷はそのファミリアの奴隷です。要するに「主人とその家族がやりたくないこと全般をやる」のが家内奴隷です。食事の用意とか炊事、洗濯、掃除から始まり、子供の世話、物の運搬、家屋の修理などなどです。さらに都市の貴族の間では「自己顕示欲を満たすために、不必要な数の奴隷を所有する」こともあったと言います。現代的に言うと「贅沢品」としての奴隷です。

農場奴隷は、大規模農場で農作業をする奴隷、および農場の管理人として働く奴隷です。農場の中には小規模農民が自ら耕作するものもあったし、また自由人が小作人となって農業を行う場合もありました。しかし "マルクス・シドニウス・ファルクス"のような貴族が所有する農場では奴隷を使うことが多かったし、また奴隷がどんどん増えていき、自由民の農民が減っていったことが本書に書かれています。

公的奴隷は、国家や属州に所属する奴隷であり、各種雑務を行うのはもちろんですが、会計事務などをする奴隷もいました。



奴隷は肉体労働や単純労働だけではありません。家庭教師、学者、会計事務など、専門性の高い「ホワイト・カラーの奴隷」もいました。

しかしその一方で過酷な労働を強いられる奴隷もあり、たとえば鉱山労働やガレー船の漕ぎ手など、命を削るような労働もありました。奴隷同士の殺し合い(ないしは猛獣との殺し合い)のショーをする「剣闘士」も奴隷です。さらに女奴隷であれば「売春婦」という仕事もありました。

奴隷は「主人の所有物」であり、それは現在の家電製品やクルマと同じです。主人がお金を出して購入するものであり、売り飛ばすのも自由です。従って奴隷には一切の「権利」がありません。ただし、主人の承認のもとに「私有財産」は認められていたようです(法的には主人の財産)。奴隷同士の結婚も法的には認められていませんでしたが、これも主人の承認のもとの「事実婚」がありました。


奴隷の数


その奴隷はどれほどの数だったのでしょうか。現存する資料は少なく、あくまで推測だとトナー教授は断っていますが、次のような記述があります。


ローマは奴隷であふれている。イタリア半島の居住者の三、四人に一人は奴隷だと聞いたことがある。帝国全体を見れば、わが国の総人口は優に6000万人、あるいは7000万にも達するだろうが、その八人に一人程度が奴隷ではないだろうか。しかも奴隷は農村地帯だけにいるわけではない。首都ローマにも奴隷があふれ、あらゆる活動を担っている。この都の人口は100万人ほどになるようだが、少なくともその三分の一は奴隷だと言われている。

(本文)

以前の記事で、塩野七生氏の本に書かれている奴隷の数を書きました。


古代ローマの奴隷の数ですが、塩野七生「ローマ人の物語 3 勝者の混迷」には、紀元前1世紀のローマ国家において、イタリア半島に住む、60歳以上の老人に女子供もふくんだ自由民の総数は600万人~700万人、それに対し奴隷は200万人から300万人、とあります。自由民を650万人、奴隷を250万人とすると、人口は900万人であり、奴隷の人口に対する比率は30%程度ということになります。


塩野氏も文献を詳しく調査して書いているはずです。トナー教授も言っているように "あくまで推測" なのですが、イタリア半島において(ないしは首都・ローマにおいて)人口の30%程度(ないしは1/3程度)が奴隷だったと考えていいと思います。なお塩野氏が書いているのは紀元前1世紀、トナー教授の本は紀元1~2世紀ですが、この間、イタリア半島に限っていうとローマ帝国の領土はほぼ同じです。

人口の30%が奴隷ということからすると、当たり前かもしれませんが、全ての自由人が奴隷をもっていたわけではないことに注意すべきでしょう。


奴隷の発生源


奴隷はどのようにして発生するのか。それはまず戦争の捕虜です。


わたしもかつてペルシャとの国境地帯で、ある小さい町の攻略作戦に参加したことがある。そういう場合はまず、命は助けるから素直に町を明け渡すよう説得する。だが住民たちが応じなかったので、われわれは猛然と襲いかかり、破城鎚で城壁を破って町になだれ込んだ。そして逃げ道をふさぐと、見つけた住民を男だろうが女だろうが子供だろうが片っ端から殺していった。

その惨状を見て震え上がった住民は中心部の旧市街に逃げ込み、そこから代表を送って命乞いをした。最初からこちらの寛大な申し出を受けておけばよかったものを、何と愚かな者たちだろうか。結局その代表との話し合いで、2000セステルティウス相当の金を支払うことができるものは解放することになり、1万4000人がこれに該当した。残りの1万3000人ほどは奴隷となり、その他の戦利品と合わせて売られる運命となった。

(本文)

2番目は、女奴隷から生まれた子供(=家内出生奴隷)です。戦争捕虜か奴隷の子供、この二つが奴隷の発生源でした。しかし、それ以外の奴隷もあった。つまり、

貧しい者が借金の返済に困って自らを売る
親が子供たちを食べさせていくために、子供の一人を売る
捨て子
人買いにさらわれたり、海賊に襲われて奴隷になる

などです。


奴隷の購入


奴隷はどこで購入するかというと、奴隷商人が経営する「奴隷販売店」です。いつの世にもあることですが、奴隷商人は奴隷の欠陥を隠して高く売りつけようとします。そのため「奴隷売買の規則」がありました。


奴隷売買に関する規則は「高等按察官告示」によって定められている。この告示の主たる目的は、奴隷を買う客にとって必要な情報のすべてが事前に開示されるようにすることである。たとえば疾病その他の瑕疵がないか、だらだらする癖がないか、どこかで問題を起こして訴訟沙汰になっていないかなど。

なかでも大事なのは出身地で、売り手は奴隷一人ひとりがどこから連れてこられたのかを明らかにしなければならないが、買い手もこれには十分注意を払う必要がある。どこから来たかでいい奴隷になるかどうかが決まるといってもいいほどで、評判のいい部族もあれば、悪い部族もあるからだ。たとえば身の回りの世話をさせる奴隷を探しているのなら、若いブリトン人はやめた方がいい。荒っぽくて行儀が悪いので役に立たない。その逆が若いエジプト人で、従者として傍に置くにはもってこいだ。

(本文)

身の回りの世話をさせる奴隷に、若いブリトン人はやめた方がいい、荒っぽくて行儀が悪い」というくだりは、イギリス人であるトナー教授の "ジョーク" かと一瞬思えますが、何らかの文献によっているのでしょう。

その他の購入のノウハウとして、ローマ市民だった者を奴隷として買うな(使う方も居心地が悪い)とか、同じ出身地・部族の奴隷を集めるな(仲間同士で "つるむ" から)とか、家内出生奴隷は従順でいいが、それなりに育成のコストがかかることを覚悟せよとか、さなざまなことが書かれています。

奴隷の値段については、だいたい1000セステルティウスという推測です。一家四人が1年間、食べていける食費が500セステルティウスとのことなので、奴隷はそれなりの値段だったわけです。

  『古代ローマ人の24時間』(アルベルト・アンジェラ)では、紀元2世紀の1セステルティウスが現代の約2ユーロの価値と推定してありました。とすると、1000セステルティウスは今のレートで約25万円ですが、貨幣価値は現代も古代ローマも変動します。ローマ帝国の初期で「数十万円」というぐらいの理解でいいでしょう。

これらは普通の奴隷であって、値段の上はキリがありません。本書には、文法学者、俳優、会計管理人、美少年などが高価で取引された例が出てきます。


奴隷の管理


"マルクス・シドニウス・ファルクス" は奴隷の管理のノウハウをこと細かに書いています。よい行為をしたときには誉めたり、ちょっとした小物を与えたりという「モチベーション・アップ」が重要だとしています。また奴隷の間での役割分担の明確化が重要で、これがないと責任が曖昧になり、奴隷は怠けるとしてあります。このあたりはいつの時代も同じと言えるでしょう。

特に力が入っているのが「農場管理人」の人選です。これは「奴隷を管理する奴隷」なので重要です。「管理人の心得」が30箇条も列記してあり、主人たるもの常に管理人に言い聞かせ、目を光らせておくことが大切です。


奴隷と性


さきほどあげたように、奴隷同士の結婚は法的には認められていません。しかし主人の承認のもとに奴隷同士が「事実婚」の関係になることはありました。こうしてできた子供が「家内出生奴隷」です。

さらに、主人が女奴隷と性交渉をもつことも多々あったようです。こうして生まれた子供も奴隷になります。一般に主人の正式の子供は、幼児の時には乳母となる女奴隷が世話をしますが、それ以降は奴隷の世話係がつきます。


少し大きくなってからの子供の世話係は、私なら自分が女奴隷に生ませた奴隷に任せたいところだ。子供たちにとっての世話係はもっとも親しい奴隷となり、しかもそれが長く続くことになるのだから。

(本文)

哲人皇帝、マルクス・アウレリウスは、美しい二人の奴隷を所有していたが、それを寝室にはべらせないことを自慢していたそうです。それが自慢になるほど、奴隷に性的なサービスをさせることが一般的だったということになります。トナー教授は次のように書いています。


奴隷が性的虐待を受けていたことについては数多くの証拠が残っています。主人が強い立場にあり、しかも奴隷には法的権利がなかったので、驚くようなことではありません。「哲人皇帝」の異名をとったマルクス・アウレリウスが二人の美しい奴隷の誘惑に負けなかったという話も、裏を返せばほとんどの奴隷所有者がそうではなかったという証拠です。また主人が少年ないし青年の奴隷と関係をもっても、不名誉と見なされることはありませんでした。なぜなら奴隷は全員、性別・年齢を問わず、主人のためのものだったからです。これが現代なら、ほとんどの主人が小児性愛者ということになるでしょう。

(解説)


奴隷に対する懲罰と拷問


奴隷が犯罪を犯した場合は、もちろん公の裁きを受けます。重罪の場合は猛獣刑(闘技場で猛獣の餌食にされる)もありました。

しかし家内奴隷が主人の意に反したことをやったり、不始末をしでかしたり、罪を犯したりしたときには、主人が懲罰を与えるのが普通でした。このとき、カッとなって奴隷の脚を折ったり、二階から付き落としたりするのは厳に慎むべきだと、"マルクス・シドニウス・ファルクス" は力説しています。奴隷も貴重な財産なのです。

一般的な懲罰は「鞭打ち」です。"マルクス・シドニウス・ファルクス" は、その場合、請負人に依頼すると言っています。


わたしの場合、奴隷に体罰を与えるときは請負人に頼んでいる。地元の評議会がそういうサービスを提供していて、一定の料金で鞭打ちを代行してくれる。料金も手ごろで、たしか一打ち四セステルティウス程度だったと思うが、その値段で何から何までやってくれるのだ。彼らはまず台を設置し、厳粛な面もちで監禁されている部屋から奴隷を連れてきてその台に上がらせ、縛る(そのための縄まで用意してきている)。こんなふうに仰々しくするのは、ほかの奴隷たちへの見せしめとするためだ。

(本文)

奴隷の逃亡にはもっと厳しい罰が待っています。逃亡奴隷を捕まえるプロがいました。ただし料金が高い。"マルクス・シドニウス・ファルクス" が勧めるのは、懸賞金をかけ、奴隷の特徴を書いた張り紙をローマ市内に出すことです。

捕えられた逃亡奴隷は、額に烙印を押されたり、首輪をつけられたりしました。そのような奴隷は、後に解放されて自由人になったとしても("解放" は後述)ローマ市民権は得られないという決まりがありました。

奴隷としての重罪は主人が殺された場合です。主人が何らかの犯罪者に殺害された場合、その主人を助けようとしなかった「同じ屋根の下の奴隷」は全員死刑になるのが普通でした。奴隷の最大の責務は主人を守ることであり、かつ連帯責任というわけです。

さら古代ローマでは法的手続きの一環として、奴隷に対する拷問が行われていました。それは奴隷が裁判の証人になった場合です。というのも、奴隷は道徳的に劣った存在であり、拷問しないと真実を言わない、と見なされていたからです。


奴隷の解放


古代ローマには「奴隷の解放」という公式の制度があり、これが古代ギリシャの奴隷制度と大きく違うところでした。

奴隷の解放は、主人の遺言によるものと、主人が生前に解放する場合があります。そのとき "解放税(奴隷の価値の5%)" を納める必要がありました。また無制限に解放はできず、所有する奴隷の数で解放できる割合(たとえば、大半の奴隷所有者が該当する10人以下の奴隷所有の場合は半数まで)が決まっていました。もちろん主人としては自分に忠節であった奴隷を解放するわけです。主人が愛情を持った女奴隷の場合、正式の妻として迎えるために解放することもあったようです。

奴隷の解放は主として都市部の現象だったと、トナー教授は書いています。農場の管理人が解放された例はあるが、その下の農夫として働く奴隷が解放されることはほとんどなかったと推定されるそうです。主人と顔を合わせるわけでもなく、解放するメリットもなかったからです。

解放され自由人になったとしても、数年は元主人のもとで働くのが普通でした。しかし多くの奴隷は解放を切望していました。「自由人になった解放奴隷の多くは、それまでできなかったことを成し遂げようと必死に働きました」と、トナー教授は書いています。



以上は本書に書かれている内容の一部ですが、通読するとローマ帝国時代の奴隷制度がどういうものであったか、よく理解できました。以下は、本書を読んだ感想です。


感想 : ローマの発展と奴隷


この本はローマの政治史や軍事史はまったく扱っていません。あくまで「奴隷」という社会の最下層の人たちを貴族がどう見ていて、どう扱ったか(扱うべきか)という視点の本です。しかしそれでいて(それだからこそ)ローマの発展と凋落の理由がうっすらと見えてくるような気がしました。

ローマの発展の理由の一つに「ローマ的奴隷制度」があったこと間違いないと思います。周りの国と戦争をし、領土を拡大していくと、同時に奴隷も供給されます。現代に置き換えると、家電製品やクルマや農業機械を手に入るようなものです。貴族や富裕層はその奴隷(=最低限の衣食住を与えられて無給で労働する人)を買い、農場を運営する。一切の家事・労働から解放された裕福なローマ市民は、政治や戦争に専念できます。これが富の集中をもたらし、富裕層はますます富裕になる。こういった富の蓄積が文化や芸術を生み、また各種のインフラストラクチャが整備されました(No.112, No.113, No.123)。

戦争捕虜の奴隷はもともと自由民だったわけで、誇りも自負もあるはずです。それが奴隷の身分になっている。しかしローマには「解放」という公式の制度があり、主人に一所懸命仕えれば、自由民になることが期待できる。解放されたとしたら、奴隷生活を取り戻すべく自由民として必死に働く。このローマの柔軟さが社会の活力を生むことになったでしょう。人間は「希望」がある限り、非常につらいことにも耐えられるものです。

しかし、領土の拡大がなくなり、戦争捕虜=奴隷の供給が止まったら、この社会は変質していくと考えられます。農業生産を増やすにしても、領土拡大ではなく生産性を上げるしかないわけですが、本書にも書いてあるように、奴隷には生産性をあげるモチベーションがありません。「最近の農業はほとんと奴隷になった。嘆かわしい」との主旨の記述がありました。かといって、農業経験がない自由民に農業をやれといっても出来ない(やりたくない)でしょう。

奴隷の発生源も、家内出生奴隷や捨て子がメジャーになります。つまり「生まれた時からの奴隷」であり、解放へのモチベーションが戦争捕虜とはだいぶ違うのでなないでしょうか。

「身の回りをさせる奴隷なら、ブリトン人よりもエジプト人」と本書にあります。まえに引用した『古代ローマ人の24時間』(アルベルト・アンジェラ)では、首都・ローマには帝国の各地から連れてこられた奴隷であふれている様子が活写されていました。この状況はある種の軋轢を生むでしょうが(極端には奴隷の反乱)、社会の活力になったことは間違いないと思います。しかし、帝国が最大版図で固定化すると、この状況が大きく変質していくでしょう。

発展の要因が、あるターニング・ポイントを越えると発展の阻害要因になる。そういう風に思いました。


感想 : 歴史に学ぶ意義


本書を読んで感じることの2番目は「人間のやることは昔も今も変わらない」ということです。それはまず第一に、世界というレベルでみると、現代でも奴隷状態に置かれている人が多くいることです。トナー教授は次のように書いています。


マルクスのように奴隷制を容認し、それを正当化する人は今はもういません。けれども、わたしたちがどれほど進歩したかを喜ぶ前に、よく考えてみてください。今や世界のどこの国でも奴隷制は違法ですが、それにもかかわらず、奴隷状態に置かれている人々がたくさんいます。フリー・ザ・スレイブス(Free the Slaves)というNGOの推計によれば、暴力で脅されて労働を強要され、給料ももらえず、逃げる希望さえもない人々が2700万人いるそうです。現代社会には古代ローマのどの時代よりも多くの奴隷がいるのです。

(解説)

これが世界の実態でしょう。奴隷は決して過去の話ではありません。前に引用したトナー教授の推定に従ってローマ帝国全体の奴隷の数を仮に800~900万人とすると、現代社会にはローマ帝国の3倍の奴隷がいることになります(推定)。

さらに、奴隷ではないが身近な問題として、極めて低い賃金で働き続けなければならない「貧困層」の存在があります。そして、現代の社会は「貧困層」の存在を必要としていて、それを作り出すメカニズムが働いていると思います。

分かりやすいのは移民です。アメリカ西海岸のホテルに泊まったりすると、そこでベッド・メイキングしている人たちは、ヒスパニック系の人が非常に多い。英語が話せなかったりします。"生粋の"アメリカ人は、そういう仕事につかないわけです。ドイツでも、たとえばゴミ収集などはドイツ人はしないと言います。

日本では移民を厳しく制限していることもあって、アメリカやドイツの状況とは違います。しかし貧困に苦しむ人は多い。この前もテレビで、あるシングル・マザーの人を取材していました。高校生の娘が一人いますが、パートで晩まで働きづめで、月収はよくて20万円だそうです。大都会の生活ではギリギリです。それに解雇されるリスクがある。この方の母親もシングルマザーで、本人は経済的理由から大学進学は断念したとのことでした。娘が心配と語っていましたが、それはそうでしょう。親子3代にわたって貧困が連鎖する可能性があるのだから。

これはあくまで一つの例ですが、冷静になって考えてみると、今の社会は「大都会で、年収200万円程度の(あるいはそれ以下の)、働き盛りの年代の人」を必要としているということでしょう。そして、そういう層を作り出すメカニズムがある。その最たるものは「やりたいようにやろう。好きなことを自由にして生きよう。他人に命令されずに生きよう」という、マスコミのキャンペーンです。ここに大きな落とし穴が仕掛けられている。そして、貧困層の人たちにもモチベーチョンをもって働いてもらう「管理方法」があります。さらに、貧困から抜け出す道も(必ずそうなるというわけではないが)ちゃんと開けている。

もちろん奴隷ではありません。人権があり、職業選択の自由があり、健康な生活を送る権利も有している。しかしこの資本主義社会の中では、古代ローマの奴隷と似たような役割を果たしていると感じます。

『奴隷のしつけ方』という本は、社会における貧困層の人たちを、どうやって動機付け、どうやって働かせるか、という "指南書" として読むと、現代もほとんど変わらない、歴史に学ぶ意義はこの例だけからしてもある、そう感じました。「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」という金言がありますが、その通りです。愚者は「自分」の経験に学んでしまうのですが(そして、成功体験に学んでしまって失敗したりするのですが)、賢者は「人間」の歴史に学ぶのです。

続く


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