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No.314 - 人体に380兆のウイルス [科学]

No.307-308「人体の9割は細菌」で、ヒトは体内や皮膚に棲む微生物と共存していることを書きました。これら微生物には、もちろんヒトに有害な事象を引き起こすものもありますが、ヒトの役に立ったり、ヒトの免疫機構を調整しているものもある。人体は微生物と共存することを前提に成り立っています

No.307-308での "微生物" は、題名にあるように主に細菌でした。しかし忘れてはいけない微生物のジャンルはウイルスです。そして人体はウイルスとも共存しています。人体に共存する微生物の総体(=微生物そう)をマイクロバイオーム(Microbiome。厳密にはヒトマイクロバイオーム)と言いますが、ウイルスの総体(=ウイルスそう)をバイローム(Virome。ヒトバイローム)と言います。言葉がややこしいのですが、マイクロバイオームの一部としてバイロームがあると考えてよいでしょう。

ウイルスというと、病気を引き起こす "ヒトの敵" というイメージが強いわけです。新型コロナウイルスがまさにそうだし、No.302「ワクチン接種の推奨中止で4000人が死亡」でとりあげたのは、子宮頸癌を引き起こすヒトパピローマウイルス(HPV)とそのワクチンの話でした(HPV は他の癌の原因にもなりうる)。大きな社会問題にもなった肝炎を引き起こすウイルスがあるし、エイズもウイルスの感染で発症する病気です。もちろんインフルエンザもウイルスが原因です。

しかしウイルスの中にはヒトに "好ましい" 影響を与えるものもあります。その好例が、No.229「糖尿病の発症をウイルスが抑止する」で紹介したある種のウイルスで、膵臓がこのウイルスに感染していると、遺伝性の自己免疫疾患である1型糖尿病の発症が抑止されるのでした。

日経サイエンス 2021-7.jpg
日経サイエンス
2021年7月号
人体と共存する細菌に "善玉菌" と "悪玉菌" があるように、ウイルスにも "善玉ウイルス" と "悪玉ウイルス" があることが想定されます。では、ヒトの "ウイルス叢" = "バイローム" の全体像はどうなっているのか。その探求が、この10年ほどの間に進んできました。ただ、この種の研究はまだ始まったばかりであり、本格的なバイロームの解明はこれからと言えます。

そのバイローム研究の最新状況を紹介した雑誌記事があったので、No.307-308「人体の9割は細菌」の続きとして紹介したいと思います。記事の題は「あなたの中にいる380兆のウイルス」で、日経サイエンス 2021年7月号に掲載されたものです。著者はカリフォルニア大学サンディエゴ校の病理学者、 デヴィッド・プライド(David Pride)准教授です。これは Scientific American 誌 2020年12月号の「The Viruses Inside You」を翻訳したものです。


ウイルスは人体の一部


新型コロナウイルス(ウイルス名:SARS-Cov-2)の影響もあり「ウイルスは病気をもたらすもの」という認識が一般的でしょう。しかし病気でなくても、普段からヒトの体内には何兆個ものウイルスが存在しています。このことは研究者の共通認識になってきました。


実は多くのウイルスが肺や血液、神経の細胞内や、多数の腸内細菌の内部に隠れており、人の体内に静かに潜んでいることが明らかになっている。

現時点で生物学者たちは 380兆個のウイルスがあなたの体の表面や内部で生息していると見積もっている。

デヴィッド・プライド
「あなたの中にいる380兆のウイルス」
日経サイエンス 2021年7月号

ヒトの細胞の総数は、最新の研究では約37兆個といわれています(赤血球を除くと約11兆個)。ヒトと共存している細菌は、数からいうと腸内細菌がほとんど(9割以上)で、ざっと100兆個といわれています。その細菌より多数のウイルスが体内にいることとになります。ウイルスの大きさが細菌の大きさの100~1000分の1であることを考えると、これは驚くに当たらないでしょう。これらの細菌やウイルスの数は、今後の研究の進展に従って増加することが考えられます。


病気を引き起こすウイルスもいるが、多くは単にあなたと共存しているだけだ。例えばペンシルベニア大学の研究者たちは2019年後半、気道でレドンドウイルスに分類される19種類のウイルスを発見した。いくつかは歯周病や肺疾患に関連していたが、他のウイルスはむしろ呼吸器疾患を抑えているようだった。

以前は、私たちの人体は "自分の" 細胞でできていて、それがときどき微生物の進入を受けるだけだと考えられてきた。しかし科学的知識が急速に拡大したことで、実は私たちは細胞と細菌、菌類、そして最も多数派を占めるウイルスが同居する1つの生物集団、つまり「超個体」であることが明らかになっている。

「同上」

これらのウイルスは、皮膚表面を含む体内のあらゆる場所に生息しており、脳の脊髄からも発見されています。


安価なゲノム配列解読手法によって人間の口腔と腸で大量のウイルスが発見されたのは12年前のことだが、2013年頃までには皮膚の表面や気道、そして血液や尿中にもウイルスの存在が明らかになった。

最近では、さらに驚異的な場所でウイルスが見つかっている。2019年9月、私はゴース(Chandrabah Ghose)らとともに、さまざまな病気のための検査を受けていた成人たちの脳脊髄液中で発見したウイルスと詳しく報告した。それらのウイルスはいくつかの異なった科に属しており、既知の病気に関連づけられているものはなかった。また、私たちは血漿と間接液、母乳の中にも同じウイルスを発見した。

それまでヘルペスウイルスなどごく少数の感染症ウイルスが脳脊髄液中に潜入しうることは知られていたが、何も病気を引き起こさないウイルスがまるで偶然そこに居合わせたかのように見つかったことは驚きだった。微生物のいない環境であるはずの中枢神経系に、そこそこ多様なウイルス集団が存在しているのだ。

「同上」

No.307-308「人体の9割は細菌」で書いたように、細菌のマイクロバイオームは赤ちゃんが生まれるその時点から形成されます。また母乳にも細菌が含まれていて、それが赤ちゃんに伝わる。このような状況はウイルスのバイロームでも同じのようです。


私たちのバイロームは生まれたときから蓄積が始まるようだ。生後間もない乳児の腸にも非常に多様なウイルスが存在することが明らかになっている。おそらくそれらは母親に由来し、一部は母乳から摂取されると考えられる。

出生後数週から数ヶ月たつうちに、これらのウイルスの一部は数が減る。他方で、別のウイルスが空気や水、食物、他の人々から乳児の体内に入ってくる。これらのウイルスは数と多様性を増していき、細胞に感染してそこで長年にわたり存在し続ける。

「同上」

細菌と同じように、人のバイロームは、その人の「個人情報」になります。しかもこの個人情報は、人から人へと伝播しやすいという性質があります。新型コロナウイルスやインフルエンザウイルスの呼吸器系に感染するウイルスは、咳などの飛沫でも容易に伝播するのです。


同居している人たちは、自身のバイローム中のウイルスの約25%を共有しているようだ。ウイルスは、せきなどの典型的な伝播手段でうつされるだけでなく、人と人の軽い接触、流し台やトイレや机の共同使用、そして食物を分け合うことによっても、同居メンバー間で伝播しうる。

私たちが調べた人数は少ないものの、恋人どうしや夫婦といったロマンチックな関係がない同居人どうしでも、ロマンチックな関係にあるひと同士と同じくらいの割合のウイルスを共有していることをデータは示している。親密な接触はほとんど違いを生まないように思われる。同じ空間に住んでいるだけで十分だ。

「同上」

要するに、同居人の間でのウイルスの伝播(バイロームの共有)は、性関係(=ロマンチックな関係)のあるなしには影響されないわけです。


細菌に感染するファージ


ウイルスは自前の増殖機能がないため、細胞に感染することで増えて広がっていきます。実は、ヒトの体内にいるウイルスの多くは、ヒトの細胞ではなく、体内に生息する細菌に感染するウイルスです。このタイプのウイルスをバクテリオファージ(略してファージ)と呼びます。


私たちの体内にいるウイルスの多くは私たち自身の細胞を標的としているのではない。代わりに、私たちのマイクロバイオームを構成している細菌を探す。これら細菌に感染するウイルスは「バクテリオファージ」と呼ばれる(略して「ファージ」といわれることが多い)。細菌の細胞内に進入したファージは細菌が持っている装置を使って自身のコピーを作り、たいていは細胞を破裂させて飛び出し、他の細菌に観戦する。この仮定で宿主の細菌は破壊される。

ファージは自然界のほほ全ての場所に存在している。じっくりと観察すれば、土壌中にも、海水から家庭の水道水にいたるあらゆる水の中にも、酸性の鉱山や北極、温泉などの過酷な環境中にも見つけることができるだろう。空中にも浮かんでいる。これらのウイルスがしぶとく存在し続けるのは、これら全ての場所に生息している細菌を獲物にしているからだ。私たち人間は狩りをする1つの場所にすぎない。

2017年、サンディエゴ州立大学(カリフォルニア州)に所属していたグェン(Sophie Nguyen)とバー(Jeremy Barr)は、多くのファージが粘膜を通過して体内の最終目的地に到達するこを示した。試験管内の実験で、ファージは腸や肺、肝臓、腎臓、さらには脳の表面を覆う膜を通り抜けた。もっとも、それらのウイルスがたまたま中枢神経系などの場所に入ったとしても、そこには宿主となる細菌がほとんどいないため、自己複製する方法がなく最終的には死滅してしまうだろう。

「同上」

ファージは細菌と共存しているとも言えます。ということは、ヒトと共存する細菌の中にヒトに有益な作用をもたらすものがあるように、ファージの中にも細菌を "助ける" ものがあってもおかしくありません。


増殖したファージが細菌の遺伝子を自身のゲノムに取り込んで一緒に持ち出すことがある。この荷物は、ファージが次に感染した細菌にとって有益になる場合がある。例えば私が唾液中に見つけたファージは、細菌が人体の免疫系の攻撃から逃れるのを助ける遺伝子を運んでいた。なかには細菌が抗生物質に抵抗するのを助ける遺伝子を運ぶファージまでいる

「同上」

抗生物質は細菌に作用するだけで、ウイルスは影響を受けません。従って「細菌が抗生物質に抵抗するのを助ける遺伝子」をファージが運ぶとしたら、ファージの生存環境を確保し、ファージ自身の生存を促進するという "目的" しかないわけです。


人体細胞に感染するウイルス


もちろん細菌に感染するファージだけでなく、ヒトの細胞に直接感染するウイルスもあります。


私たちのバイロームの中の多くのウイルスは細菌に感染するが、人体組織の細胞に直接感染するウイルスもわずかながらある。この手のウイルスが少数派だと考えられるのは、体細胞への感染が免疫系によって抑制されるからだ。

スタンフォード大学にいたド・ヴラマンク(Iwijn De Vlaminck)は、免疫系の働きが著しく弱っているとき(例えば、臓器移植を受けて、拒絶反応を防ぐために免疫抑制剤を服用している場合など)、特定のウイルスの数が劇的に増加することを明らかにした。こうしたケースでは、病気を引き起こすことが知られているウイルスとそうでないウイルスの両方の増加が見られる。この観察結果は、通常私たちの免疫系はバイロームを抑制しているが、免疫が阻害されるとウイルスは容易に増殖できることを示している。

「同上」

普段は何もせずに感染しているウイルスが、ヒトの免疫機能の低下などにより急に病原性を発揮することがあります。このような状況を「日和見感染」といいます。また、何らかのウイルスが感染してヒトの免疫系がそれと戦っているときに、別の細菌やウイルスに感染することがあります。これを「共感染」と呼びます。

新型コロナ感染症でも重症者に共感染がみられます。黄色ブドウ球菌や肺炎レンサ球菌などによる "細菌性続発性肺炎" や "菌血症"(血液中に細菌が増える症状)です。また、インフルエンザウイルスやアデノウイルスなどの "ウイルス性共感染" も観察されています。さらに、既にバイローム中にいるエプスタイン・バーウイルス(EBウイルス)やサイトメガロウイルスが活性化される可能性もあります。ヒトの免疫系が新型コロナウイルスと戦っているその体内は、これらの細菌やウイルスが大増殖しやすい状態になっているわけです。

いま出てきた "EBウイルス" と "サイトメガロウイルス" は、ヘルペスウイルスの一種です。ヘルペスウイルスは約100種のウイルスの総称で、そのうちの9種がヒトに感染します。日本人でも半数以上の人が感染しています。このウイルスはヒトの神経節に "潜伏感染" し、そうなると増殖も何もしないので免疫系に攻撃されることがありません。しかし何らかのトリガーで活性化し、帯状疱疹や水痘(水ぼうそう)、口唇ヘルペスなどを引き起こします。

ヘルペスウイルスはそれ以外にも数々の病気とかかわっているのではと疑われています。その一つがアルツハイマー病です。


アルツハイマー病で死亡した人々から提供された脳組織を調べた2018年の研究では、高レベルのヘルペスウイルスの存在が明らかになった。

2020年5月にはタフツ大学とマサチューセッツ工科大学の研究者たちが実験室で脳を模した培養組織を作成し、そこに単純ヘルペスウイルス1型を感染させた。すると、アルツハイマー病患者の脳に蓄積するものとそっくりなアミロイド斑様構造物が大量にできた。このように古くから知られているウイルスにも意外な役割が見つかる可能性があるのは驚くべきことだ。

「同上」

この引用にある「2018年の研究」を報じたニュース記事が次です。


アルツハイマー発症
ヘルペスウイルス2種関係か

日本経済新聞(デジタル版)
2018年6月22日

【ワシントン=共同】アルツハイマー病の発症に、2種類のヒトヘルペスウイルスへの感染が関係する可能性があるとの研究成果を、米国のチームが21日付科学誌ニューロン電子版に発表した。患者の脳組織からウイルスの痕跡を大量に発見したことなどが根拠。

問題となる「6型A」「7型」のウイルスは非常に身近で、米国では多くの人が幼児期までにいずれかに感染するという。チームは「どうやって感染から発症に至るのかなど、不明な点が多い」としている。

いずれも血液から見つかるウイルスで、7型は突発的な発疹の原因となることが知られている。6型Aについてはよく分かっていないという。

チームはアルツハイマー病患者と、患者ではなかった800人超から提供された脳について、500種以上のウイルスへの感染を調べた。患者の脳では2種類のヘルペスウイルスに関係する遺伝物質RNAが多く見つかり、ウイルスが脳細胞の遺伝子にも影響を及ぼしていたことも分かった。

これらのウイルスは、アルツハイマー病以外の原因による認知症の人の脳からも見つかったが、2種類とも多くみられたのはアルツハイマー病患者の脳だけだった。



ファージを医療に応用する


ウイルスを医療に役立てようとする研究が進められています。というのも、ファージは細菌に入り込み、細菌の機構を利用して増殖し、細菌を破壊して飛び出すからです。ファージを利用して病気の原因菌を排除しようとするのは自然な流れでしょう。その焦点は、抗生物質が効かない耐性菌の対策です。雑誌記事から2つ引用します。


ロックフェラー大学の研究者たちは、抗生物質が効かない病原菌であるメチシリン耐性ブドウ球菌(引用注:MRSAのこと)を殺す酵素をあるウイルスから精製した。この結果は非常に有望で、米食品医薬品局(FDA)はこの酵素を「画期的治療薬」に指定し、現在、最終段階の臨床試験(第3相試験)が行われている。

デヴィッド・プライド
「あなたの中にいる380兆のウイルス」
日経サイエンス 2021年7月号


いくつかのファージが実験的な治療ですでに使用されている。カリフォルニア大学のサンディエゴ校のスクーリー(Robert Schooley)が率いた2016年の画期的な試みが一例だ。同大教授のパターソン(Tom Patterson)は悪名高い薬剤耐性菌、アシネトバクター・バウマニのせいで多臓器不全に陥っていた。しかし医師たちは、下水および環境由来のファージを使用したパターソンを治療することに成功した。

( 日経サイエンス編集部・注:この治療例は「パターソン症例」と呼ばれ、米国初のファージ療法成功例として知られている)

「同上」

ファージ医療は耐性菌対策の "切り札" だと、著者は書いてます。薬(抗生物質)が効かない病原菌を排除するためには、細菌に感染するファージを利用するのが切り札になるわけです。


バイロームとヒトの健康


ヒトのマイクロバイオーム(細菌)が健康と密接な関係があるように、バイロームもそうであることが十分考えられます。マウスによる実験では細菌の変化とウイルスの変化が同時に起こることが観察されています。ヒトにおいても、歯周病と炎症性腸疾患を発症とバイロームの変化が同時におこる場合があることがわかっています。

今後、ヒトの健康に影響を与えるカテゴリーのウイルスを "操作" して、疾患から我々の体を守る新たな方法がみつかることが期待されています。



以上が、日経サイエンス 2021年7月号に掲載された「あなたの中にいる380兆のウイルス」の概要です。ここから以降は、この記事に関連した最近の日本での話題をとりあげます。


ウイルスを医療に応用する


日経サイエンスの記事には、細菌に感染するファージを利用して病気の原因菌を人体から排除する "ファージ医療" のことが書かれていました。

ということは、人体から排除したいヒトの細胞を破壊するには、人体細胞に感染するウイルスを使えばよい、ということになります。人体から排除したいヒトの細胞とは、つまり癌細胞です。

癌治療にウイルスを使う研究は世界で行われてきましたが、2021年6月10日に東京大学医科学研究所の藤堂とうどう具紀ともき教授は、ウイルスを使った治療薬が承認される見通しになったと発表しました。日本製としては初の承認です。


改変ウイルスで脳腫瘍治療
東大と第一三共が実用化

時事通信社(JIJI.COM)
2021年06月10日

ヘルペスウイルスのがん治療用改変に取り組む東京大医科学研究所の藤堂具紀教授は10日、脳腫瘍の一種「悪性神経膠腫こうしゅ」の治療用として、厚生労働省から条件付きで製造販売が承認される見通しになったと発表した(引用注:11日に厚生労働省から承認が発表された)。第一三共が共同開発して昨年12月に申請し、先月の薬事・食品衛生審議会部会で認められていた。

製品名は「デリタクト注」(一般名テセルパツレブ)で、7年以内に使用患者全員を対象として安全性と有効性を再確認する。脳腫瘍では世界初のウイルス療法製品になるという。

元来は口唇ヘルペスを引き起こす「単純ヘルペスウイルス1型」だが、がん細胞だけに感染、増殖して死滅させるよう、3種類の遺伝子を改変してある。患者の抗がん免疫を強める作用もある。

藤堂教授らは悪性神経膠腫の中で最も悪性度が高く、手術後に放射線や抗がん剤による治療を行っても生存期間が短い「膠芽腫こうがしゅ」を対象として、2009年から臨床研究、15年から臨床試験(治験)を実施。安全性を確認し、1年後の生存率が大幅に向上する効果があった。

この改変ウイルスは他のがんにも有効とみられ、前立腺がんなどを対象とする臨床試験も行っている。


この発表の20日ほど前の朝日新聞デジタルには、癌のウイルス治療の歴史や背景を含めた解説がありました。以下です。


ウイルスでがん破壊、治療薬承認へ
脳腫瘍の一種に効果

朝日新聞デジタル
2021年5月24日

悪性度の高い脳腫瘍しゅように対する国産初のがんウイルス治療薬が承認されることになった。新型コロナウイルスの影響でこの1年ですっかり悪役になった「ウイルス」だが、ウイルスの遺伝子を改変して「味方」にすれば、がん治療に利用できる。次世代のがん治療法として世界的に注目されている。

がん治療にウイルスを使う研究は、20世紀初めに始まったとされる。1971年には、英の有名医学誌ランセットに、「悪性リンパ腫になった男子が、麻疹ウイルスにかかった後にがんが消えた」という論文が掲載された。ウイルスをどう改良すれば、この報告を再現できるのか、本格的な研究が始まった。

がん細胞とウイルスは「体内の免疫をかいくぐって、どんどん増えたい」という性質が一致している。ウイルスにとって、がん細胞の中は「何もしなくても勝手に増やしてくれる」という最高の環境だ。お互いの特徴をいかした治療が、がんウイルス療法と言える。

ウイルスをがん細胞の中で増やしてがん細胞を壊し、次のがん細胞に感染して同じことを繰り返させる。さらに、ウイルスが壊したがん細胞のかけらを自分の免疫が認識すれば、がん細胞に対する全身の免疫が高まる。転移する割合も減る可能性がある。

ウイルスは正常な細胞にも感染するため、がん細胞のみで増えさせるようにすることが課題だった。この点で治療に大きな進歩をもたらしたのが、遺伝子組み換え技術の発展だ。

承認が了承された「デリタクト注」は、東京大医科学研究所の藤堂具紀教授らが開発した。口唇ヘルペスの原因を起こす「単純ヘルペスⅠ型」というありふれたウイルスを改変している。

さまざまなウイルスでがん治療研究が進められているが、このヘルペスウイルスは、どの細胞にも感染し、細胞を攻撃する力が比較的強い。このウイルスを改変した薬は米国で2015年、悪性黒色腫(メラノーマ)で承認された。

今回のウイルスは、さらに遺伝子を改変し、三つの遺伝子に変異を加えている。デリタクト注は1回10億個のウイルスを注入する。ウイルスの増殖が体内で制御できなくなるおそれもあるが、藤堂さんは「遺伝子の改変を重ねるごとに、正常な細胞で増殖させることなく、がん細胞への攻撃力を高め、安全性は1千倍ずつ高まっている」と話す。

がんウイルス治療に詳しい鳥取大の中村貴史准教授(遺伝子治療学)は「世界的にこの治療でかなりの数の治験が進んでいるが、いずれも遺伝子組み換え技術によって正常な細胞でのウイルスの増殖を制御できている」と話す。

今回は脳腫瘍で了承されたが、理論上はさまざまな臓器のがんに応用可能だ。藤堂さんらは、前立腺がんなど、ほかのがんへの応用もめざして研究を進めている。

将来的に、手術や抗がん剤、放射線治療の前に、ウイルス療法でがんを小さくしたり、免疫を高めて治療効果を上げたりすることも考えられる。中村さんは「欧米では非常に激しく競争されている分野で、確立すれば治療の選択肢が増える。今回の了承は起爆剤となり、大きな革新となるだろう」と話す。(後藤一也、瀬川茂子)


がんのウイルス療法.jpg
癌のウイルス治療のイメージ
(朝日新聞デジタル 2021.5.24 より)

ヘルペスウイルスは潜伏感染をし、突如として病気を引き起こすというウイルスです。しかも日経サイエンスの記事にあったように、脳にも感染するヘルペスウイルスはアルツハイマー病の原因になるのではと疑われています。そのウイルスで癌細胞を攻撃するというのは、まさに「毒をもって毒を制する」ことの典型でしょう。

今回の承認は「悪性神経膠腫こうしゅ」の治療用ですが、前立腺がんなど、ほかの癌への応用の研究も進んでいるようです。東京大医科学研究所のホームページに詳しい説明がありますが、それを読むと、今回のヘルペスウイルス改変型ウイルスはすべての癌に効果があるとしか思えないのですね。

2020年に「癌の光免疫療法」が日本で承認され、"第5の癌療法" として注目されました(既存の4つとは、手術・化学・放射線・免疫の各療法)。ウイルス療法が "第6の癌療法" になること期待したいものです。



 補記 

本文に引用した藤堂教授の研究成果が、2021年7月5日の日本経済新聞にも掲載されました。本文と重複する部分もありますが、治験結果などの重要な情報もあるので全文を引用しておきます。下線は原文にはありません。


がん破壊ウイルスに託す
新薬承認、脳腫瘍以外へ開発競う

日本経済新聞
2021年7月5日

ウイルスを使ってがんを倒す新たな治療法が登場した。がん細胞だけで増えて死滅させる「ウイルス療法」の新薬が6月、厚生労働省に条件付きで承認された。臨床試験(治験)では1年後の生存率が8~9割と、従来の治療法の約6倍となった。開発は盛んで、他のがんにも効果があると期待されている。

新薬は第一三共の「テセルパツレブ」。悪性の脳腫瘍を対象に承認された。東京大学医科学研究所教授の藤堂具紀さんらの研究成果を実用化した。2016年に国の画期的な新薬候補を優遇する「先駆け審査指定制度」に選ばれた。

今後7年で再確認

東大医科学研究所付属病院で15年から実施した医師主導治験の結果をもとに、20年12月に製造販売の承認を申請した。今後7年間、投与した患者全例のデータを集めて、有効性や安全性を再確認する条件付きで承認された。がんのウイルス療法の治療薬は国内で初めてだ。藤堂さんらは約20年以上かけて開発した。

治療では、新薬をがんに注射する。ウイルスはがん細胞に感染して増える。がん細胞を壊して拡散し、次のがん細胞に感染して次々に破壊していく。壊れたがん細胞からはがんの目印となる物質が出る。免疫細胞がそれを認識し、残るがん細胞を攻撃する。がんへの免疫がつき、転移や再発を抑える可能性が期待されている。

治験は手術や放射線、抗がん剤などの標準治療をした後に再発した脳腫瘍の一種、膠芽腫こうがしゅの患者を対象にした。最大6回まで脳にウイルスを投与した。膠芽腫は悪性度が高く、再発しやすい。生存期間は手術後15~18カ月程度、再発後の余命は3~9カ月程度といわれる。

13人を対象にした中間解析では、1年後の生存率は92.3%だった。標準治療後の生存率は約15%にとどまる。先行して実施した臨床研究を加えて19人を対象にした評価では、1年後の生存率は84.2%、治療開始後の生存期間の中央値は約20カ月だった。がんが縮小したのは1人で、18人はがんが増えず安定した状態だった。

がんがウイルスに弱いことは研究者の間では古くから知られていた。1971年の論文で、悪性リンパ腫になった少年が麻疹ウイルスに感染したところ、がんが消えたという報告があったという。

通常の細胞はウイルス感染などにあったとき、自ら死ぬ機能を備える。一方、がん細胞はこの機能が壊れていて増え続ける。自殺しないがん細胞はウイルスにとって増えやすい環境なわけだ。

ウイルスをがん治療に使おうとすると、ウイルスが正常な細胞でも増えて壊すという課題があった。藤堂さんらは遺伝子組み換えでウイルスの性質を変え、がん細胞だけで増えるようにした。

遺伝子3つを改変

もとにしたのは「単純ヘルペス1型」というウイルスだ。口唇に水疱すいほうをつくるウイルスで、成人の7~8割が感染しているといわれる。3つの遺伝子を改変し、がん細胞で増えて正常細胞では増えないようにするとともに、がんへの体内の免疫反応が高まるようにした。

細胞を壊す力が強く、どの細胞にも感染するのでさまざまながんへの応用が期待できるという。細胞から細胞に血液を介さず移るので、抗体があっても繰り返して治療効果が期待できる。

米国では2015年にヘルペスウイルスを遺伝子組み換えした悪性黒色腫の治療薬が承認された。この治療薬は2つの遺伝子を改変した。テセルパツレブは3つ改変しており、藤堂さんは「がんを攻撃する力が格段に強まり、安全性も向上した」と強調する。

がんウイルス療法には多くの製薬企業が参入している。国内勢では、オンコリスバイオファーマから導入した治療薬候補で、中外製薬が食道がんや肝細胞がんを対象に治験をしている。

鳥取大学准教授の中村貴史さんは「15年の承認をきっかけに大手製薬が参入し、がんウイルス療法の開発は活発になった。安全性は遺伝子組み換え技術で制御できるレベルになり、今はいかに効果を高めるかという段階だ。競争に勝つには新規性が必要だ」と指摘する。(藤井寛子)


日経新聞 2021-7-5.jpg
日本経済新聞 2021.7.5 より

(2021.7.7)



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