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No.324 - 役割語というバーチャル日本語 [文化]

このブログの第1回目は、


でした。宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』には、ドイツの作家・プロイスラーの小説『クラバート』に影響を受けた部分があるという話から始まって、『クラバート』のあらすじを紹介し、『千と千尋の神隠し』との関係を探ったものです。

その発端の『千と千尋の神隠し』ですが、最近の新聞に登場人物の言葉使いについての興味深い話題が載っていました。今回は是非ともそれを紹介したいと思います。

なお、以下に掲げる引用において下線は原文にはありません。また段落を増やしたところがあります。


役割語


キーワードは、大阪大学教授で日本語学者の金水きんすいさとし氏が提唱した概念である "役割語" です。役割語とは何か、朝日新聞の記事から引用します。


「千と千尋」セリフが作る世界観
  キャラ印象づける「役割語」

「そうじゃ、わしが知っておるんじゃ」
「そうですわよ、わたくしが存じておりますわ」

こんな話し言葉を聴くと、私たちは自然に、おじいさんとお嬢様の姿を思い浮かべる。特定の人物像と結びついた特徴ある言葉遣いを、大阪大学大学院文学研究科の金水敏教授(65)は「役割語」と名付けた。役割語からアニメの世界を読み解くことで、見えてくるものとは。


金水さんは3年前から、「ジブリアニメのキャラクターと言語」と題した講義を始め、毎回200人以上の学生が受講している。講義では、「風の谷のナウシカ」や「魔女の宅急便」など、宮崎駿監督が手がけた6つのジブリアニメと使い、セリフを分析する。「ジブリでは、役割語が特にうまくストーリーを引き立てている」と金水さん。どういうことなのか、「千と千尋の神隠し」を例に、解説してもらった。

朝日新聞(2021.9.23)

小説、漫画、アニメ、戯曲(演劇)、童話、外国人の発言の翻訳などにおいては、

特定の人物像と結びついた特徴ある言葉遣い

が使われることが多いわけです。これが役割語で、金水教授が提唱して研究されてきた概念です。金水教授は『千と千尋の神隠し』を例に、次のように説明しています。


作品は、10歳の少女・千尋が不思議な神々の世界に迷い込み、湯屋で働きながら成長していくストーリーだ。湯屋の経営主の魔女・湯婆婆は、「~ かね」「~ おくれ」などの「おばあさん語」を多用する。千尋を助ける少年で、川の神様・ハクは、「そなた」といった「神様語」を話すことで、時間を超越した存在感を出しているという。

金水さんが注目するのが、湯屋で働く少女・リンの言葉だ。リンは千尋の先輩で、「いつか湯屋を出たい」という強い意志を持っているキャラクター。「メシだよ」「~ かよ」など、男性語を話す。金水さんは、「強い少女像を際だたせるために、あえてジェンダー観をずらした役割語が使われている」と指摘する。

一方、主人公の千尋の言葉は、「特徴がないことが特徴」だという。ヒーローやヒロインは、視聴者が自分自身と重ね合わせ、共感できるようにするために、標準語を話すことが多いという。金水さんは「特徴的なキャラクターが役割語によって印象づけられている。同時に私たちは無意識に千尋の目線に引き込まれ、作品の世界を旅している感覚になっている」と話す。

「同上」

金水教授は、湯婆婆が「おばあさん語」を使うと言っています。新聞記事にはありませんが、その一例をあげます。千尋が初めて湯婆婆の "執務室" で湯婆婆と対峙する場面です。

千と千尋の神隠し:湯婆婆.jpg


【千尋】
「ここで働かせてください!」

【湯婆婆】
「まだそれを言うのかい

【千尋】
「ここで働きたいんです!」

【湯婆婆】
「だまれ。なんであたしがおまえを雇わなきゃならないんだい。見るからにグズで、甘ったれで、泣き虫で、頭の悪い小娘に、仕事なんかあるもんかね。お断りだね。これ以上ごくつぶしを増やして、どうしろって言うんだい。それとも、一番つらい、きつい仕事を死ぬまでやらせてやろうか」


「男性語」を使うリンの言葉遣いの一例は次です。湯屋で働くことになった千尋を、先輩であるリンが部屋に案内する場面です。

千と千尋の神隠し:リン.jpg


【リン】
「こいよ。おまえうまくやったなあ」

【千尋】
「えっ」

【リン】
おまえとろいからさ、心配してたん。油断するな。分かんないことはおれに聞け、

【千尋】
「うん」

【リン】
「ふん? どうした?」

【千尋】
「足がふらふらする」

【リン】
「ここがおれたちの部屋だよ。食って寝りゃあ、元気になる


せりふだけを読むと千尋は男性と会話しているかようですが、リンは女性です。この言葉遣いについて金水教授は「強い少女像を際だたせるために、あえてジェンダー観をずらした役割語が使われている」と分析しているのでした。


お茶の水博士の「知っておる」


金水さんの役割語という概念の発端は、手塚治虫の「鉄腕アトム」に出てくるお茶の水博士の言葉遣いだったと言います。


金水さんが「役割語」の研究を本格的に始めたのは、20年ほど前。大阪大学で助教授として、「いる」「おる」「ある」などの「存在表現」の研究をしていた際、手塚治虫の「鉄腕アトム」のお茶の水博士が「わしはアトムの親がわりになっとるわい!」など、「おる」の表現を使っていることに気づいた。

「おる」は西日本の方言に多く見られるが、博士の言葉は方言ではない。実際に博士の立場にいる人が「知っておる」などと話すわけでもない。「今までにない概念で説明が必要だ」と研究を進めると、江戸時代までさかのぼった。

当時、京都で学問を学んだ医者や学者は言葉遣いに保守的で、上方風の話し方をしていた。それが誇張されて戯作げさくや歌舞伎に描かれ、現在にまで受け継がれていったのだと分析した。たとえば、明治初期の戯作者・仮名垣魯文ろぶんの「安愚楽鍋」のなかの「藪医生の不養生」には、「診察しておる処え親類共から ・・・・・・」という記述がある。

博士のほかにも「そうよ」「~だわ」などの女性語、「~なのさ」などの男性語など、必ずしも現実とは一致しないのに、特定のキャラクターと結びつく表現に気づいた。こうした言葉を、2000年の論文で「役割語」と名付けた。

朝日新聞(2021.9.23)

ここに至って、宮崎駿監督がアニメで「役割語」を多用する背景が分かります。「役割語」は漫画の "神様" である手塚治虫が使っている。だから当然使う。しかもそれは江戸時代にルーツをもつ長い文化的伝統があり、手塚治虫以前の漫画家も多々使ってきた。そういうことだと思います。


ステレオタイプとしての役割語


我々は日常生活の中で、人間を性別、職業、年齢、人種などで分類しがちですが、その分類(=カテゴリー)に属する人間が共通して持っていると信じられている特徴を "ステレオタイプ" と言います。役割語はこのステレオタイプの概念と密接に関係しています。


その人物「らしさ」に当てはめた表現であり、現実とも異なる場合が多い役割語は、言語上のステレオタイプだ。特に性差が強調されるたため、翻訳業界では最近、役割語の用い方が議論になっているという。映画、小説、演劇などのフィクションのほか、外国人のインタビューの翻訳でも多用される。

海外の人名になじみのないことから、小説などでは人物像をつかみやすくするために「~ だわ」「~ なのよ」といった女性語が強調されてきた。そういった慣習は、女性俳優のインタビューの翻訳でも続いてきたが、「英語では標準的な表現なのに、女性語に翻訳するのはおかしいのではないか」という意見が、読者や通訳者から上がっているという。金水さんは「時代に合わない役割語に違和感に気づいている人は多い。次第になくなる役割語がある一方、新しい役割語が生まれる可能性もある」と話す。

「同上」

上の引用に、

役割語は)外国人のインタビューの翻訳でも多用される

とあります。役割語の理解を深めるために「外国人のインタビューの翻訳」の想定例を一つ作ってみます。アメリカのある地方の伝統的なハロウィーン事情を取材した日本のTV番組があったとします。自宅の台所でクッキーを焼いている女性にカメラ・インタビューをし、その女性の発言を翻訳し、女性アナウンサーが "吹き替え"をするとします。その翻訳は次のようになるはずです。

こうやって毎年クッキーを自分で焼いて、ハロウィーンの日にやってくる子どもたちにあげるの。子どもたちの喜ぶ顔を見るのが楽しみなのよ。この地区の住人の親睦にも役だっていると思うわ

女性アナウンサーはこのような「女性語の語尾」で、思い入れたっぷりに(少々の "演技" を交えながら)アナウンスするでしょう。アメリカ人女性を日本の女性アナウンサーが吹き替えるのは自然です。しかし言葉遣いに関しては、インタビューされた人が英語で女性語を使っているはずがないのです。

お菓子を作るのが趣味の男性もいるので、クッキーを焼いているのが男性だとします。それを翻訳して日本の男性アナウンサーが吹き替えると、

こうやって毎年クッキーを自分で焼いて、ハロウィーンの日にやってくる子どもたちにあげるんだ。子どもたちの喜ぶ顔を見るのが楽しみなのさ。この地区の住人の親睦にも役だっていると思うよ

この程度の "事実や意見ををすらすら述べる英語"では形容詞や間投詞はなく、また外国TV局のインタビューなのでスラングもなく、従って女性だろうと男性だろうとほぼ同じ英語のはずです。しかし日本語では、男性なら上のような男性語の語尾で翻訳される。

こういった翻訳は日本のリアル社会で使われる言葉とは必ずしも一致しません。たとえば、上の女性の翻訳で使った「なのよ」「あげるの」という語尾ですが、リアル社会では男性も使います。特に東京中心の地方です。ちなみに私は男性ですが、明らかに使っています。しかし創作物では女性が使う。例外はいろいろあるでしょうが、この語尾は "役割語としての女性語" と言ってよいと思います。つまり、女性「らしさ」の強調ための言葉です。

以上のように、日本語の創作物においては、リアル会話とは必ずしも一致しない「女性語」「男性語」という役割語があります。役割語は、リアル社会で話される日常語とは別次元の「ヴァーチャル日本語」です。これが上の引用で「役割語は言語上のステレオタイプ」と言っている意味です。つまり

・ 女性語を使う人 → 女性
・ 女性 → 女性語を使う → 女性らしい

という概念が創作物の中で形作られ、それが暗黙に根付いています。それは手っ取り早くキャラクターを造形するのに役立つかもしれないが、時代の要請にマッチしないステレオタイプとなることもある。上の引用はそう言っているのでした。



ところで、金水教授は役割語について一冊の本を書いています。

金水敏「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(岩波書店 2003)

です。以降はこの本(以下「本書」と記述)に沿って、朝日新聞の記事をもう一度振り返ってみます。


お茶の水博士の「博士語」


手塚治虫の「鉄腕アトム」に出てくるお茶の水博士は、つぎのようにしゃべります。

じゃと? わしはアトムの親がわりになっとるわい!」

アトムどうじゃ

人間のふりをして煙にとっつかれてみか」

このようなじゃべり方は、お茶の水博士だけでなく、作家も発表年も違う多くの漫画に認められます。これを仮に「博士語」としておきます。「博士語」を標準語と比較すると次の通りです。

  博士語標準語
断定親代わりじゃ親代わりだ
打ち消し知らん、知らぬ知らない
人間の存在おるいる
進行、状態知っておる
知っとる
知っている
知ってる

この博士語と標準語の対比は、日本の東西方言の対立とよく重なります。日本の方言をさまざまな特徴で分類していくと、多くの特徴が東西に分かれて分布します。分布の境界線は、北は富山県と新潟県の境あたりで、そこから日本アルプス(岐阜と富山の県境)を経由し、南は(言葉によって違うが)愛知県から静岡県東部に抜ける線です。この境界線で分かれる「西日本方言」と「東日本方言」の特徴を対比すると次の通りです。

  西日本方言東日本方言
断定雨じゃ、雨や雨だ
打ち消し知らん
知らへん
知らない
知らねえ
人間の存在おるいる
進行、状態降っておる
降っとる
降りよる
降っている
降ってる
形容詞連用形あこうなる くなる
一段動詞命令形起きい起きろ
サ変動詞命令形せえ、などしろ、など

この表と「博士語:標準語の対応表」をみると、博士語は西日本方言よく似ています。ただし違いもある。本書では博士語について、西日本方言との違いを次のように指摘しています。

◆ お茶の水博士は断定に「じゃ」を使うが、「だ」を使うこともかなり多い。つまりフレーバー的に時々「じゃ」を使う。

  形容詞連用形の「あこうなる」などの、いわゆるウ音便はあまり用いない。

◆ 西日本方言の中でも、断定の「雨や」、打ち消しの「知らへん」は用いない。

つまり博士語は、文法的に現代西日本方言の特徴を部分的にもっていると言えます。もちろん、お茶の水博士をはじめとする漫画に登場する博士が西日本出身のキャラクターと想定されているわけではありません。ではなぜ、漫画の博士は西日本方言を(部分的に)しゃべるのでしょうか。


老人語


役割語の謎.jpg
金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」
(岩波書店 2003)
実は、漫画の中の博士の言葉を調べていくと、博士語を使わない博士もいることに気づきます。この相違を調べると、博士語を使う博士は "老人的特徴" がはっきりした博士(頭が禿げている、白髪など)だと分かります。その反対に、髪が黒い比較的若い博士は博士語をしゃべらない。つまり、博士語は老人語の一種だったのです。

老人語には、上の博士語であげた例のほかに、「お前も働いとるしのう」というときの「のう」といった終助詞も含まれます。ちなみに「のう」も西日本方言です。こういった老人語(と、その一種としての博士語)のルーツをさかのぼると江戸時代の言語事情に行き着くというのが金水教授の研究で、それは朝日新聞の記事にあるとおりです。本書には次のように書かれています。


「老人語」の起源は18世紀後半から19世紀にかけての江戸における言語の状況にさかのぼるということがわかった。当時の江戸において、江戸の人たちの中でも、年輩の人の多くは上方風の言葉づかいをしていたのであろう。特に、医者や学者などの職業を持つ人物は、言葉使いに保守的であり、古めかしい話し方が目立ったと思われる。そのような現実の状況が誇張されて、歌舞伎や戯作などに描かれてたのである。

それ以降、現実の方は動いていって、江戸でも江戸語を話す人々が増加していった。そして明治に入ると、江戸語の文法を受けついで新しい「標準語」が形成されていく。ところが文芸作品、演劇作品の中では、伝統的に「老人」=上方風の話し方という構図がそのまま受け継がれていくのである。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」
(岩波書店 2003)

金水教授は「言葉づかいをしていたのであろう」や「目立ったと思われる」というように、断定を避けた言い方をしていますが、これは戯作や歌舞伎の文献の言葉遣いから話されていた言葉を推定しているからでしょう。

こうした経緯をもつ老人語の "文化的伝統" の現れが、『千と千尋の神隠し』の湯婆婆なのでした。



老人語について、金水教授はさらに深く分析しています。つまり創作物語の中において、


役割語としての老人語の話し手は、単に年齢が高いという属性を持っているのではなく、ストーリーの中で老人であるということに結びついた特別な役割を担っていることが普通

金水敏「同上」

です。その "特別な役割" とは何か。教授の分析によると、老人語の話し手はおおむね次の3つの類型に分けられます。

a. 主人公に知恵と教訓を授け、教え、導く助言者
b. 悪知恵と不思議な力によって主人公を陥れ、苦しめる悪の化身(例:白雪姫の女王や眠り姫の魔女)
c.  老耄ろうもうゆえの勘違いや失敗を繰り返し、主人公やその周辺の人物を混乱させ、時に和ませ、関係調整役として働く人物(例:「ちびまる子ちゃん」のともぞうじいさん)

この類型からすると、博士語はまさに a. の役割を表すものと言えるでしょう。老人語の話し手は物語の中で特定の役割を与えられた人物である ・・・・・・。これが老人語の(ひいては役割語の)根幹です。そして金水教授は神話学者、ジェセフ・キャンベルの「ヒーローの旅」との関連を指摘しています。

キャンベルは世界各国の神話を分析し、ヒーロー(男性・女性を含む)が出会う "一定の役割をもった人物" と、その "人物との出会いを含む出来事" の時間的配置に一定の類型があることを見い出しました。これが「ヒーローの旅」で、次のようなものです。〈〉が一定の役割をもった人物、「」が出来事です。

◆ 「普通の生活」をしていた〈ヒーロー〉が、ある日、異界の〈使者〉から「冒険への呼び出し」を受ける。

◆ 〈ヒーロー〉はいったんこの「呼び出しを拒絶」するが、老人の〈助言者〉に導かれ、励まされ、力を授かり、旅立つ。

◆ 〈ヒーロー〉は「最初の関門」にさしかかり、〈関門の番人〉に「試練」を与えられる。その過程で〈味方〉と〈敵〉が明らかになる。

◆ 〈敵〉は〈ヒーロー〉を呪い、苦しめようとする〈影〉の部下であったり、〈影〉そのものであったりする。

◆ 〈トリックスター〉は、いたずらや失敗で〈ヒーロー〉たちを混乱させ、笑わせ、変化の必要性に気づかせる。

◆ 〈変容する者〉は〈ヒーロー〉にとって異性の誘惑者で、〈ヒーロー〉は彼/彼女の心を読み取ることができず、疑惑に悩まされる。

◆ やがて〈ヒーロー〉は「深奥の洞窟への進入」を試み、「苦難」をくぐり抜け、宝の「剣(報酬)をつかみ取る」。

◆ 〈ヒーロー〉は「帰還への道」をたどるが、その途中で死に直面し、そして「再生」を果たす。その後「神秘の妙薬を携えて帰還」する。

この「ヒーローの旅」という物語の構造は、映画、演劇、小説などで、冒険活劇、SF、ミステリー、ラブロマンスなどのジャンルを問わずに活用されてきました。逆に言うと、人気を博した物語は「ヒーローの旅」の構造を全面的、ないしは部分的に持っています。端的な例は「スター・ウォーズ」です。

そして金水教授の指摘は、「ヒーローの旅」の "一定の役割をもった人物" と "日本の物語における老人語の話し手の類型" が、次のような対応関係にあることです。

a. → 〈助言者〉
b. → 〈影〉
c. → 〈トリックスター〉

『千と千尋の神隠し』に即していうと、「ヒーローの旅」における〈影〉=「b. 悪知恵と不思議な力によって主人公を陥れ、苦しめる悪の化身」= 湯婆婆、ということでしょう。湯婆婆を "悪の化身" とは言い過ぎでしょうが、物語の類型におけるポジションとしてはそういうことです。

言うまでもなく「ヒーローの旅」という物語の構造は(日本を含む)世界共通のものです。従って、外国の物語で「ヒーローの旅」の構造をもち、そこに年配の〈助言者〉か〈影〉か〈トリックスター〉が出てきたときは、日本語では老人語で翻訳されることになります。本書では「ハリーポッター」のダンブルドアが〈助言者〉の典型としてあげられています。次はダンブルドアのハリーに対する発言です。


「君の母上は、君を守るために死んだ。ヴォルデモートに理解できないことがあるとすれば、それは愛じゃ。君の母上の愛情が、その愛の印を君に残していくほど強いものだったことに、彼は気づかなかった。傷跡のことではない。目に見える印ではない ・・・・・・ それほどまでに深く愛を注いだということが、たとえ愛したその人がいなくなっても、永久に愛されたものを守る力になるのじゃ。それが君の肌に残っておる。クィレルのように憎しみ、欲望、野望に満ちた者、ヴォルデモートと魂を分け合うような者は、それがために君に触れることができじゃ。かくもすばらしいものによって刻印された君のような者に触れるのは、苦痛でしかなかったのじゃ

J.K.ローリング
松岡祐子・訳
「ハリー・ポッターと賢者の石」
第17章 "二つの顔を持つ男" 440ページ
(静山社 1999)

ハリー・ポッター:Dumbledore.jpg
映画版「ハリー・ポッターと賢者の石」(2001)に登場するアルバス・ダンブルドア。演じたのはリチャード・ハリスである。なお、リチャード・ハリスは次作の「ハリー・ポッターと秘密の部屋」(2002)でもダンブルドアを演じたが、それが遺作となった。

このように日本語訳のハリー・ポッターにおいて、魔法学校の校長・ダンブルドアは老人語で訳されています。



ちなみに、本書にはありませんが、上に引用したダンブルドアの発言は、原書では以下です。


‘Your mother died to save you. If there is one thing Voldemort cannot understand, it is love. He didn't realize that love as powerful as your mother's for you leaves its own mark. Not a scar, no visible sign ... to have been loved so deeply, even though the person who loved us is gone, will give us some protection for ever. It is in your very skin. Quirrell, full of hatred, greed and ambition, sharing his soul with Voldemort, could not touch you for this reason. It was agony to touch a person marked by something so good.’

J.K.Rowling
「HARRY POTTER and the philosopher's stone」
Chapter 17 'The Man with Two Faces'
(Bloomsbury Publishing 1997)

「ハリー・ポッター」は若年層も対象とするファンタジーであり、非常に分かりやすい "標準の" 英語です。念のために、ハリーの発話がどう訳されているかを見てみます。上のダンブルドアの発言の後の方で、出典にあるルビは省略しました。


「ううん、そうじゃないさ」

ハリーが考えをまとめながら答えた。

「ダンブルドアって、おかしな人なんだ。たぶん、僕にチャンスを与えたいって気持ちがあったんだと思う。あの人はここで何が起きているか、ほとんどすべて知っているんだと思う。僕たちがやろうとしていたことを、相当知っていたんじゃないのかな。僕たちを止めないで、むしろ僕たちの役に立つよう必要なことだけを教えてくれたんだ。鏡の仕組みがわかるように仕向けてくれたのも偶然じゃなかったんだ。僕にそのつもりがあるのなら、ヴォルデモートと対決する権利があるって、あの人はそう考えていたような気がする ・・・・・・」

J.K.ローリング
松岡祐子・訳
「ハリー・ポッターと賢者の石」
第17章 "二つの顔を持つ男" 445ページ

原書のこの部分の英語は次の通りです。


‘No, it isn't,’ said Harry thoughtfully. ‘He's a funny man, Dumbledore. I think he sort of wanted to give me a chance. I think he knows more or less everything that goes on here, you know. I reckon he had a pretty good idea we were going to try, and instead of stopping us, he just taught us enough to help. I don't think it was an accident he let me find out how the Mirror worked. It's almost like he thought I had the right to face Voldemort if I could ...’

J.K.Rowling
「HARRY POTTER and the philosopher's stone」
Chapter 17 'The Man with Two Faces'

この引用で分かるように、ハリーの英語とダンブルドアの英語は "同質" です。文法的にも同じだし、特徴ある単語を使うわけでもない。同質だけど、ダンブルドアと違ってハリーの日本語訳はストレートな標準語です。"僕" にみられるような男性語がありますが、それはリアルな会話でも男性が使うので役割語ではありません。

それと比較して、日本語訳されたダンブルドアは「じゃ」「のう」「おる」などの西日本方言の特徴を部分的に使うのです。しかも、現実に日本の老人が使う言葉ではありません。断定に「じゃ」を使う地域が日本にありまりすが、老人が「じゃ」を使う地域なら老若男女を問わず「じゃ」を使います。高齢者になったら「じゃ」を使い出すなんてことはあり得ない。

完全な蛇足ですが、私の配偶者(女性)は広島出身で、高校まで広島で育ち、関西の大学に入学しました。すると、周りの男子学生(ほとんどが関西出身)から「じゃろ の ◎◎ ちゃん」(◎◎ は彼女の名前)とのあだ名を付けられたそうです。関西の男子学生にとって、20歳前の若い女性が「じゃろ」を連発するのは印象的だったに違いありません(= "カワイーイ!")。もちろん彼女の両親も「じゃろ」を使っていました。ちなみに断定の「じゃ」には、地域によって「じゃろ」「じゃん」「じゃけん」などの変化形があります。

「ハリー・ポッター」のダンブルドアは、物語の中では〈助言者〉のポジションの高齢者です。だから日本語訳では西日本方言の特徴を部分的にもつ老人語が割り当てられる。役割語の典型といえるでしょう。

そして、我々はそのことに疑問をもつことはありません。読んでも、何の違和感も抱かない。その理由は、そういう風に "教育されてきた" からです。もちろん学校で習ったわけではありません。絵本、童話、マンガ、アニメなど、子どもが接するメディアにおいて、キャラクターを際だたせる言葉としての役割語が多用されていて、そのことによって「暗黙の教育」を受けてきたわけです。

子どもが接するメディアにおいて役割語が多用されるという事実は、ステレオタイプで人物を描くという役割語の性格を表しています。そのため、大人向けの小説やリアルなTVドラマ、映画などで役割語(たとえば老人語や博士語)が使われることはあまりありません。役割語を多用すると、人物描写が重要な文学や脚本としての価値が薄くなるからです。

我々は日本語を学ぶと同時に、リアルな会話では使わない「ヴァーチャル日本語」を学んできたと言えるでしょう。



本書に戻ります。「ハリー・ポッター」の日本語訳では、老人語を話すダンブルドアとは対照的に、ハリーは標準語で訳されていました。このことは、標準語が一般的な日本語だからという以上の意味があるようです。


では、読み手・聞き手が自分を同一化する〈ヒーロー〉は、どのような言葉を話すのか。それは、典型的には〈標準語〉である。むろん、例外はいくらでも見つかるが、その場合は十分な背景の説明と人物描写を重ねることでそれが可能になるのであり、そうでなければ、非〈標準語〉話者に我々は容易に自己同一化をすることができない。逆に、〈標準語〉話者ならば、我々は無条件に自己同一化する準備ができている。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

当然、ハリー・ポッターは日本語の標準語で翻訳されるし、千尋の言葉は「特徴がないことが特徴」となるわけです。

この "標準語" の対立概念は "非標準語" = 方言ですが、本書では「田舎ことば」という役割語が説明されています。それが次です。


田舎ことば


劇作家・木下順二(1914-2006)の代表作に『夕鶴』があります。昔話の「鶴の恩返し」に題材をとった物語で、登場人物は、

つう : 鶴の化身
ひょう  を助けた農民
うんず、そうど  ひょうの悪友

です。この劇において、与ひょう、運ず、惣どの3人は、次のような「田舎ことば」を話します。


[与ひょう]
もうあれでおしまいとつうがいうもん。

[運ず]
そげなおめえ。また儲けさしてやるに。

[与ひょう]
うふん ・・・・・・ おら つうがいとしゅうてなら

[惣ど]
いとしかろが? でどんどんと布を織らせて金を溜める

木下順二「夕鶴」より

この引用にある「だ」は東日本方言の特徴ですが、「いとしゅうて」と打ち消しの「ん」は西日本方言の特徴です。また「そげな」は九州でよく聞かれる言い方です。つまりこの3人の会話は、どこの方言ということもない、いかにも田舎くさい言葉に聞こえる表現をまぜて作った「ニセ方言」なのです。

一方、つうのせりふは次のように完璧な標準語(の女性語)というべき表現になっています。


[つう]
与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの? あんたはだんだん変わっていく。何だかわからないけれど、あたしとは別な世界の人になって行ってしまう、あの、あたしには言葉も分からない人たち、いつかあたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの? あんたは。どうすればいいの? あたしは一体どうすればいいの?

木下順二「夕鶴」より

実は、劇作家の木下順二は、3人の男たちが使う「ニセ方言」を意図的に使っているのです。次のように発言しています。


つまり、結果からいえば、いろんな地方のことばの中からおもしろい効果的なことばを拾って来てそれらを組み合わせまぜ合わせたということになりますが、最初は自然にそうであったものがだんだん意識的になり、そしてこのせりふの書き方を少々立体的に使ってみたのが『夕鶴』(1949年)ということになりましょうか。

三人の男たちが使うこの種類のことばとつう●●という女性のことば(これを自分では "純粋日本語" と呼んでいるのですが)とによって、彼らと彼女の持つ世界の共通性と違いとを、そしてやがて二つの世界の断絶を表現してみようとしたわけです。

木下順二「戯曲の日本語」より

金水教授は次のように分析しています。


ここで、木下順二は、〈田舎ことば〉と〈標準語〉の効果を、作品の構造に重ね合わせて、非常に端的に語っている。この作品の受容者(戯曲の読み手、あるいは劇の観客)は、誰に感情移入するであろうか。それは、「つう」である。

つまり木下順二が〈標準語〉を "純粋日本語" と呼んだのは、受容者である日本人が一切の抵抗なく、その言葉に自分の心理を重ね合わせることができるからである。その結果として、「つう」はヒロインの資格を手に入れる。

これに対し、三人の男たちの言葉は、受容者の感情移入を妨げ、したがって彼らは周辺的、あるいは背景的役割しか担えないのだ。男たちの言葉が感情移入を阻害するのは、東西各地の方言がまぜこぜになっているせいばかりではない(それも効果のうちであろうが)。男たちの言葉が仮に純粋な東関東方言であったり、九州方言であったりしても、基本的な効果はさして変わらないだろう。しかもその効果は、受容者が日常的しゃべる方言とも一切関係がない。

受容者が日本で育った日本語話者であるなら、使用する方言にかかわらず、まず〈標準語〉話者に感情移入し、非〈標準語〉話者は周辺的ないし背景的に扱われる。逆に言えば、作者は登場人物に〈田舎ことば〉を使用させることによって、それを話す人物を周辺的・背景的人物と位置づけるのである。そのためには、東日本型か、西日本型かというような差異はさして問題にならない。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

この〈田舎ことば〉は、外国文学の翻訳にも使われます。その例は物語に白人と黒人が登場する場合で、金水教授は『風と共に去りぬ』をあげています。


物語に白人が登場する場合、白人には〈標準語〉が割り当てられるのが普通である。次に示すのは、大久保康雄訳の『風と共に去りぬ』から黒人の侍女ディルシーとスカーレット・オハラの対話である。

ありがとうディルシー。母さんが帰ったら、相談してみるわ」
ありがとうごぜえます、お嬢さま。では、お休みなせえまし」

マーガレット・ミッチェル
大久保泰男・訳
「風と共に去りぬ」

ここでも次のような図式が成り立っている。

白人    教養あるもの・支配するもの・読者の自己同一化の対象 =〈標準語

黒人    教養のないもの・支配されるもの・読者の自己同一化から除外されるもの =〈田舎ことば

むろん、描写を重ね、人物像を書き込めば、〈田舎ことば〉であっても自己同一化の対象となることはできる。しかし、読者が最初に読んだときの反応は決して変えることはできないであろう。このような言葉の投影は、日本人の〈田舎ことば〉に対するまなざしと、黒人に対するまなざしが重なり合うことによって成立しているのである。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

ちなみに「ハリー・ポッター」と違って「風と共に去りぬ」の場合、スカーレットは標準英語を話すのに対して、ディルシーは黒人英語というか、南北戦争当時の黒人奴隷が話す英語です。マーガレット・ミッチェルはそこを "ちゃんと" 書いているのです。たとえば、上に引用した会話の原文は次の通りです。


"Thank you, Dilcey, we'll see about it when Mother comes home."
"Thankee, Ma'm. I gives you a good night,"

Margaret Mitchell
「Gone with the Wind」
Part 1, Chapter 4

ディルシーの Thankee は Thank you だし、gives は 正しくは give です。従って日本語訳において、スカーレットとディルシーの発話を "違うことばで" 訳するのは合理性があると言えます。しかしその「黒人英語」を日本語の「田舎ことば」で訳する背景は、まさに金水教授の示した図式どおりでしょう。


役割語に偏見と差別が忍び込む


新聞記事の紹介のところで書いた "ステレオタイプ" をもう一度とりあげます。我々は日常生活の中で人間を性別、職業、年齢、人種などで分類しがちですが、その分類(=カテゴリー)に属する人間が共通して持っていると信じられている特徴を "ステレオタイプ" と言います。


人間に限らず、我々は日々新たな事物と出会って暮らしている。その事物をいちいちじっくり観察して対処していては、とても間に合わない。そこで、本能や文化によってあらかじめ用意されたカテゴリーに目の前の対象を当てはめ、そのカテゴリーとセットになった特徴、すなわちステレオタイプを目の前の対象も持っているはずだと仮定してかかって、行動するのである。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

カテゴリーによる認識は、我々が生活する上で必須だと言えるでしょう。役割語は "言語上のステレオタイプ" であり、"カテゴリー・ベース" の発話記述です。役割語が子ども向けの創作物にしばしば使われるのは、カテゴリー・ベースの記述で人物像を分かりやすく子どもに伝えられるからです。しかしその一方で、ステレオタイプには偏見や差別が忍び込みます。


しかし、人間が人間を分類、カテゴリー化する場合には、とたんにさまざまな問題が出てきてしまう。すなわち、人間の多様な個別性に注意を払わず、見た目や性別、国籍といった表面的な特徴で分類し、ステレオタイプに当てはめ、それに基づいて行動するときに、偏見や差別が生じる。たとえば、「女性は知的能力において男性に劣る上に感情的で、組織的行動になじまない」などというステレタイプに結びついた偏見によって、女性の就職が妨げられる、といったように。

整理しておくと、ステレオタイプとは、混沌とした外界を整理しながら把握していく人間の認知特性と結びついた現象であると言えよう。認知とはすなわち外界に関する知識の処理のことをいうのである。一方、ステレオタイプに関する知識が一定の感情(主として否定的感情)と結びつくとき、その知識と感情のセットこそが「偏見」であると言える。また、偏見が特定の行動と結びついて、偏見を持たれた人間にとって不当な結果を招くとき、その行動を「差別」と言う。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

本書には、役割語が偏見と差別に結びついた典型例として〈アルヨことば〉が分析されています。〈アルヨことば〉とは、

隊長たいへんあるよ 日本軍がきたある
   こんにちは わたちたち こんどひっこちてきたつん一家ある

のように文末述語に直接「ある」または「あるよ」がつく言い方です。本書では、この〈アルヨことば〉が、日清戦争から日中戦争に至る過程において中国人に対する偏見・差別とセットで発達し(前者の例)、それが戦後にも引き継がれた(後者の例 = Dr.スランプ)ことが明らかにされています。金水教授は本書の最後のページで次のように述べています。


役割語の知識は、日本で生活する日本人にとって必須の知識であるが、役割語の知識が本当の日本語の多様性や豊かさを覆い隠し、その可能性を貧しいものにしている一面、あるいは、役割語の使用の中に、偏見や差別が自然に忍び込んでくる一面に気づかなければならない。



ヴァーチャル日本語の仕組みを知り、時にはヴァーチャル日本語をうち破り、リアルな日本語をつかみ取ろう。それが、日本語を真に豊かで実り多いものにしていくための大事なステップとなるのである。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」


まとめ


以上が金水教授の著書「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」の "さわり" ですが、さらに要約すると次のようになるでしょう。

◆ 役割語とは、各種の創作物で使われる「特定の人物像と結びついた特徴ある言葉遣い」である。

◆ これには、老人語、男性語、女性語、上司語( "見積書を作ってくれたまえ" )、お嬢様ことば( "そうですわよ、わたくしが存じておりますわ" )、田舎ことば、異人ことば(アルヨことば、など)などがある。

◆ 役割語は必ずしも現実とは一致しない。それどころか、老人語のように現実には決して話されない言葉もある。方言をまぜこぜにした田舎ことばも、現実に話す人はいない。

◆ 役割語を使うと "手っ取り早く" 人物像を提示できる。つまり、人物像の詳細な書き込みや描写の必要がない。そのため、子ども向けの創作物に多用される。大人向けの創作物で多用されるとしたら、その創作物は "B級作品" である。

◆ 役割語は学校で習ったわけではなく、誰かに教えてもらったのでもない。しかし、日本で日本語で生活する皆が理解している。それは絵本から始まって、小さいときから役割語を刷り込まれてきたからである。

◆ 人間(および事物)をカテゴリーに分類し、カテゴリーに属する集団がある特徴を共通して持っていると信じられているとき、それをステレオタイプと言う。役割語は言語上のステレオタイプである。役割語による発話は、カテゴリー・ベースの記述である。

◆ カテゴリーによる人間や事物の認識は、我々が生活していく上で必須のものであるが、反面、そこに偏見や差別が忍び込む。我々は役割語による人物認識を見直し、暗黙に偏った見方に陥っているのではないかを反省し、豊かな言葉と認識を取り戻すべきである。


我々はヴァーチャルとリアルを区別できない


以下は役割語について、特に金水教授の著書「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」についての感想です。

最近、IT技術を使ったヴァーチャル・リアリティ(VR。Virtual Reality。仮想現実)が、ゲーム、エンターテインメント、ビジネスにおける 3D シミュレータなどで広まっています。金水教授は本書の "はしがき" のところで「現実」と「仮想現実」について次のように述べています。


重要なのは、我々にとって「ほんとの現実」(リアリティ)と「にせ物の現実(ヴァーチャル・リアリティ)は本質的に区別できない、という点です。

金水敏
「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」

我々は「現実」と「仮想現実」を本誌的に区別できない ・・・・・・。これは真実を突いています。

実生活で使う言葉や、アナウンサーが使う言葉を「リアル言語」だとすると、役割語は「ヴァーチャル言語」です。従って、役割語で作られるキャラクターの世界は「仮想現実」です。「仮想現実」だけれど、我々はそれを「現実」と区別できず、暗黙に(あくまで暗黙に)現実だと思ってしまう。

この "区別できない" ことは、どういう効果を生むでしょうか。役割語としての「男性語」と「女性語」の例で考えてみると、『千と千尋の神隠し』に登場する少女・リンは男性語を使うのでした。金水教授は「リンは "いつか湯屋を出たい" という強い意志を持っているキャラクター」であり「強い少女像を際だたせるために、あえてジェンダー観をずらした役割語が使われている」と指摘していました。

つまり我々は「男性語を使う = 強い意志をもつ存在」というキャラクター像を暗黙に受け入れていて、それに何の疑問も感じないのです。そのことを大前提として、リンのせりふが成り立っている。もちろん宮崎監督は、強い少女像を際だたせるためにリンに男性語を割り当てたのでしょう。それは、子どもを対象とするアニメのキャラクター設定としては自然だし、まっとうだと思います。

しかしアニメを含む創作物において、男性語を使う少女・リンのような存在はまれであり、男性語を使い手のほとんどは少年や男性です。つまり我々は「男性 = 強い意志をもった自立する存在」というようなイメージを、役割語が使われる仮想現実の世界で受け入れてしまっているのではないでしょうか。それと反対に、女性語を使うのは「保護すべき弱い存在」というキャラクターだと、無意識に感じているのではないか。それを役割語が補強している。

これが仮想現実の世界に閉じていればよいのですが、我々は「現実」と「仮想現実」を本誌的に区別できないのです。従って、役割語によるキャラクター像が現実においてもそうだと無意識に思ってしまう。本質的に区別できないのだから ・・・・・・。

そのような認識が現実の実態とは違うのは明白です。強い意志の女性もいれば、弱い男性もいる。しかし実態とは全く別に、役割語は「男性は男性らしく、女性は女性らしく」とか「男性は論理的で女性は感情的」とか「男性と女性は社会的役割が違う」といった考えや概念が暗黙に忍び込む素地を作っているのではないでしょうか。

そうなると、男性・女性という生物学的な差異を越えて偏見につながるだろうし、ひいては差別を生む誘因になりかねない。ここまで「男性語」と「女性語」の例で書きましたが、ほかの役割語も、その役割語で与えられたキャラクター像(仮想現実)によっては同じ効果を生むでしょう。

我々は言葉によって世界を切り取り、言葉によって世界の構造の認識しています。と同時に、我々は仮想現実と現実を本質的に区別できません。この2つが重なると、物語の中の言葉によるキャラクター像が偏見や差別を助長するという "不都合" を生むことがありうる。しかもその言葉(=役割語)は、日本人である限り幼少の頃から刷り込まれたものです。

そういった不都合を回避する第一歩は、刷り込まれていることの認識である。そう思いました。


特定の人物と結びついた言葉


ここからは全くの余談です。役割語とは「特定の人物像と結びついた特徴ある言葉遣い」ですが、「特定の人物と結びついた特徴ある言葉遣い」もあるのでは思います。

というのも、幕末から明治維新にかけての歴史ドラマで「おいどん」とか「ごわす」という言葉遣いをする人物が登場したたら、それは間違いなく西郷隆盛だと思うからです。「おいどん」は鹿児島弁の1人称(自称)ですね。だとすると、大久保利道も村田新八も、自分のことを「おいどん」と言っていいはずなのに、そうは言わない感じがします。「おいどん」という自称は、西郷隆盛という特定の人物を示す役割語となっているのではないでしょうか。

同様に、語尾に「ぜよ」を使う人物がいたとしたら、それも間違いなく坂本龍馬でしょう。これは土佐弁なので、土佐藩の中岡慎太郎や後藤象二郎も「ぜよ」を使うはずなのに、龍馬だけが「ぜよ」と言う気がします。

最近は歴史ドラマを見なくなったので、近年の役者・俳優のせりふがどうなっているのか、確定的なことはわかりません。ただ、役割語としては「特定の人物と結びついた特徴ある言葉遣い」もまたあるのではと思います。




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