『小澤征爾さんと、音楽について話をする』
前回の
No.135「音楽の意外な効用(2)村上春樹」では、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社。2011)という本から、村上春樹氏が「文章の書き方を音楽から学んだ」と語っている部分を紹介しました。今回はこの本から別の話題をとりあげたいと思います。
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』は、村上春樹さんが小澤征爾さんに長時間のインタビューをした内容(2010年11月~2011年7月の期間に数回)にもとづいていて、語られている話題は多岐に渡っています。小澤さんが師事したカラヤンやバーンスタインのこと、欧米の交響楽団やサイトウ・キネンの内輪話、ベートーベンやブラームスのレコードを聞きながらの指揮や演奏の "キモ" の解説、小澤さん主宰の「スイス国際音楽アカデミー」の様子などです。
しかし何と言ってもこの本の最大の "読みどころ" は、グスタフ・マーラーの音楽について二人が語り合った部分でしょう(個人的感想ですが)。本のうちの 84 ページが「グスタフ・マーラーの音楽をめぐって」と題した章になっています。360 ページほどの本なので、4分の1近くが「マーラー論」ということになります。そして、ここで展開されている「マーラー論」は納得性が高く「その通り!」と思うことが多々あったので、何点かのポイントを以下に紹介したいと思います。以下、引用中の下線・太字は原文にはありません。
マーラーの復興
小澤征爾さんがはじめてマーラーに接したのは、アメリカのマサチューセッツ州・タングルウッドで夏期に開かれる音楽学校の学生の時だった、とあります。同室の学生がマーラーの交響曲 第1番と第5番のスコアを勉強しているのを見たのが最初だったと・・・・・・。小澤さんは大きなショックを受けました。
(小澤征爾)
それがもう、すごいショックだったですよ。そういう音楽が存在したことすら、自分がそれまで知らなかったということが、まずショックだった。僕らがタングルウッドでチャイコフスキーとかドビュッシーとか、そういう音楽をやっているあいだに、こんなに必死になってマーラーを勉強しているやつがいたんだと思うと、真っ青になって、あわててスコアを取り寄せないわけにはいかなかった。だからそのあと、僕も一番、二番、五番あたりを死にものぐるいて読み込みましたよ。
(p.205)
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そして、楽譜で初めて接したマーラーをどう思ったのかが書かれています。ここは村上さんが「仰天した」と言っているところです。
(小澤征爾)
オーケストラというものをこれほどまでにうまく使える人がいたんだ、というのがいちばんの驚きだったですね。マーラーってもう、極端なまでにそいういう使い方がうまいですから。だからオーケストラにしてみれば、これくらいチャレンジングな曲ってないんです。
(p.206)
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「それまで一度も聴いたことがないマーラーの音楽を、楽譜で読んで強い感銘を受けたという話には仰天させられた」と、村上さんは本書に書いています。
小澤さんがマーラーの生演奏を初めて聴いたのは、レナード・バーンスタインのアシスタントとしてニューヨークにいた時だといいます。それまでは聴いたことがなかったわけです。小澤さんがアシスタントだったのは1960年代初頭(1960-63)なので、20歳代後半ということになります(1935年生まれ)。桐朋学園の
音楽科を卒業しプロの指揮者としての活動を開始した人が、20歳台後半までマーラーの音楽を聴いたことがなかった。しかも初めてマーラーに接したのは楽譜だった・・・・・・。現在では全く考えられない話ですが、50年前にはそうだったわけです。
マーラーが亡くなったのは1911年です。しかしその後「ナチが政権をとった1933年から戦争が終わる1945年まで、12年の長きに渡ってマーラーの音楽が文字通り抹殺されてしまった歴史」(p.249)があるのですね。それが演奏されなくなった大きな要因でしょう。
マーラーの音楽の復興に大きく貢献したのが、レナード・バーンスタインです。彼は1960年代にニューヨーク・フィルの演奏会で執拗にマーラーの交響曲をとりあげ、全曲を録音しました。また、かつてマーラーの本拠地だったウィーンに出向き、それまでマーラーには "冷たかった"(村上さんの表現)ウィーン・フィルで演奏したわけです。
レナード・バーンスタインは小澤さんの先生にあたる人です。小澤さんの指揮者としてのキャリアの初期にバーンスタインのそういう活動があり、それを彼は間近に見ていた。マーラーの音楽は小澤さんにとって特別のものであることが想像できます。本書で小澤さんが語っている「マーラー論」は、そのことを抜きにしては考えられないと思います。
小澤さんが「1960年代以前はマーラーを取り上げる指揮者はあまりいなかった、取り上げていたのはマーラーの弟子のワルターぐらいで、そのワルターのレコードも聴いたことがない」と語るところで、すかさず村上春樹さんが次のように発言しています。
(村上春樹)
このあいだメンゲルベルクがコンセルトヘボウと、39年にやっているマーラーを聴いてみたんですが・・・・・・。
(小澤征爾)
へえ、そんなのがあるんだ。
(村上春樹)
四番ですが、でも聴くとさすがに古色蒼然としているというか・・・・・・。ブルーノ・ワルターが亡命する直前に、1938年にウィーンでやった九番も聴いたけど、ワルターもメンゲルベルクもとにかく音が古いというのが印象です。録音が古いというでけではなくて、音色そのものが。どちらもマーラーの直弟子だし、歴史的な立派な演奏なのかもしれないけど、今聴くとちょっとしんどいです。それから時代が移って、ワルターがステレオ録音でマーラーを新しく吹き込んで、マーラー復興の土台を作っておいて、そこにバーンスタインによる熱いリヴァイヴァルがあるわけですね。
(p.194)
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マーラーの演奏史・録音史が概観されています。ワルターとメンゲルベルクの1930年代の録音というとモノラル録音・SPレコードの時代ですが、最近はCDによる復刻版も出ているようなので、村上さんはそれを聞いたのだと想像します。小澤さんとの対談の準備とも考えられますが、そうであるにせよ、1930年代の録音を聞いみようとする村上さんのレコード・マニアぶりがよく分かる一節です。
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(ウィーン国立歌劇場)
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細部を掘り下げ、全体を浮かび上がらせる
ここからはマーラーの音楽そのものについてです。まずその特色は、
音楽が非常に複雑に聞こえることです。
(村上春樹)
まったく関係のないモチーフとか、場合によっては正反対の方向性をもったモチーフとかが、同時進行的に出てきますよね。ほとんど対等に。
(小澤征爾)
それがごく近いところで接近して進行したりする。それでややこしく聞こえるんです。勉強していてもときどき頭がこんがらがってくるんですよ。
(村上春樹)
聴いていても、聴きながら曲のストラクチャー全体をきちんと見定めようとすると、かなり難しいことになります。
(p.212)
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小澤さんによると、音楽の個々の要素は比較的単純であり、わけの分からないものではない。気持ちが入りさえすれば理解できる。ただ、それが幾つも重なるので、こんがらかって複雑に聞こえるといいます。
(小澤征爾)
単純なメロディーを三つくらい、まったく関係なしに、同時進行的に入れちゃうんです。ひとつの部分だけを取り出せば、それ自体は割合に単純なものです。気持ちを入れてしまえば、けっこう簡単にできます。ということはつまり、ある部分を演奏する人はもっぱらその部分だけを、一生懸命やればいいわけです。別の部分を演奏する人は、それとは関係なく自分のところをまた一生懸命やる。そしてそれを同時にあわせると、結果としてああいう音が出てくる。要するにそういうことなんです。
(p.212)
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マーラーの演奏では、その複雑さを構成している細部が重要です。1960年代以降の「マーラー復興」における演奏では「
細部を突っ込んでいけば全体が浮かび上がる」というアプローチが重要視されるようになり、これにはバーンスタインの功績が大だったといいます。
(小澤征爾)
レニー(引用注:レナード・バーンスタイン)の功績はものすごく大きいと思いますよ。彼は自分自身が作曲家でもあるから、『ここの部分はただこういう風にやってくれ。ほかのところは考えるな』と、そういう指示を演奏家に出すことができたんです。You do yourself という言い方でね。なにしろ自分のパートに専念しろと。そうやって演奏すると結果的に、聴いている方が『なるほど』と納得するものになってきます。
(p.213)
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(小澤征爾)
明らかにマーラーはそういう風に楽譜を書いていますよね。つまりね、AとBというモチーフを同時にやる場合、こっちが主でこっちが従という区別は昔はちゃんとあったんです。でもマーラーの場合は全く同格でそれをやります。だからそこにあるAという音楽を弾く人はそのAという音楽を渾身の力を込めて弾かなくてはならないし、Bという音楽を弾く人はそのBという音楽を渾身の力を込めて弾かなくてはならない。気持ちも入れて、音色も入れて、全部しっかりやる。それを同時進行的にまとめていくのが指揮者の役目です。そういうことがマーラーの音楽にとっては必要になってきます。楽譜にはそう書いてあるんです。実際に。
(p.214)
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演奏者は自分のパートを気持ちを込めて渾身の力で弾かねばならないと小澤さんは言ってるのですが、その演奏はプロにとっても難しい部分が多々あるようです。バーンスタインがマーラーに取り組んでいる頃のニューヨーク・フィルの楽団員の様子があります。
(小澤征爾)
オーケストラは必死になって弾いていましたよ。なにしろマーラーの演奏って難しいから、みんなもう本当に勉強してやっていた。そのときはね、マーラーのシンフォニーを年に三つくらいやっていたんです。それを楽団員が必死になってさらっているのを僕は見ていました。まずコンサートでやって、そのすぐあとにマンハッタン・センターに行ってレコーディングするわけです。
(p.204)
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演奏技術も進歩するので、半世紀前のニューヨーク・フィルよりも現代のオーケストラの技術の方が上でしょう。しかし現代でもマーラーの演奏は難しいという話を聞きます。本書の中でも小澤さんは「演奏家にしてみれば、こんなことできっこないよ、というくらいの部分もあるみたい」(p.236)と語っています。「弦楽器にしたって、これがもう技術的に限度だ、みたいなことをさせられる」(p.255)という発言もある。
半世紀前には全然メジャーでなかったマーラーをニューヨーク・フィルの「楽団員が必死になってさらっている」という小澤さんの回想は、いかにもそうだろうと思わせるものがあります。
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レナード・バーンスタイン
ニューヨーク・フィルハーモニック
「マーラー交響曲全集」
1960年(第4番)から1967年(第6番)に至る、1960年代に録音されたバーンスタイン最初のマーラー交響曲全集である(旧全集)。第8番だけがロンドン交響楽団との共演。
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楽譜の指示の細かさ
マーラーの音楽の特色の一つは「楽譜に書き込まれた指示の細かさ」だと言います。これは聴いているだけでは分からないので、プロの音楽家ならではの感想です。指示は音楽の表情から始まって演奏方法にまで及んでいます。
(村上春樹)
マーラーの一番のフィナーレで、七人のホルン奏者が全員立ち上がりますよね。ああいうのも楽譜にちゃんと指示があるわけですか。
(小澤征爾)
そうです。全員で楽器をもって立ち上がれって、楽譜に書いてあります。
(村上春樹)
あれって、音響的に何か効果があるんですかね?
(小澤征爾)
うーん(と考える)、まあ、楽器の位置が高くなって、音の違いがいくらかあるんじゃないでしょうかね。
(p.234)
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(村上春樹)
そういえば、二番の最終楽章にもホルンを持ち上げるとか、そんな指示はありませんでしたっけ?
(小澤征爾)
えーとね、そうだ、うん、ありました。ベルの部分を上に向けるところね。
(村上春樹)
そういう指示はずいぶん細かいんですね。
(小澤征爾)
もうそれは詳しいです。こと細かに書き込んであります。
(村上春樹)
弓の使い方とか、そんなことまでいちいち指定されている?
(小澤征爾)
そうです。けっこうくわしく書いてある。
(p.235)
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マーラーの書いた楽譜には、こと細かに演奏方法の指示がされています。しかしそれにもかかわらず、指揮者によって音楽が大きく変わって聞こえる。それはなぜなのか。
(村上春樹)
それだけ細かい指示が楽譜に書き込まれて残っていて、選択の余地がほとんどないとすれば、マーラーの演奏が指揮者によって変わってくるというのは、いったいどういう要因で変わってくるんでしょう?
(中略)
(小澤征爾)
そういう質問をされると、オレなんかずいぶん考え込んじゃうんだけれど、えーと、そうだな、要するにね、インフォメーションが多い分、各指揮者はそのインフォメーションの組み合わせ方、扱い方で悩むんです。それらのインフォメーションのバランスをどのようにとっていくかということで。
(村上春樹)
つまり同時進行的に、こちらの楽器とあちらの楽器に対して細かい指示が与えられている、というような場合ですね?
(小澤征爾)
そうそう。そういう場合にどっちを優先させるか・・・・・・といっても、もちろんどっちも生かさなくちゃいけないんです。マーラーの場合とくに、どちらもしっかりと生かさなくちゃいけない。しかし現場にいって音を出してみて、両方は同時には生かしきれないと感じた場合、その案配をつけなくちゃならないんです。だからね、マーラーぐらい情報が多い作曲家はいないにもかかわらず、マーラーぐらい指揮者によって音が変わってくる作曲家もまたいないんです。
(p.237)
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マーラーの楽譜には、演奏方法についての具体的な指示を越えた「概念的な」指示もあります。交響曲 第1番の第3楽章の「葬送のマーチ」についての会話です。このあたりは楽譜を見ながらの対談です。
(村上春樹)
たしか葬送のマーチのところには「重々しく、しかし引きずらないように」って書いてありましたっけ?
(小澤征爾)
うん、そうだった(楽譜をみる)、たしかにそう書いてある。
(村上春樹)
それって、考えだすとけっこう難しい指示ですよね。
(小澤征爾)
たしかに難しいねえ(笑)
(p.241)
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(村上春樹)
ここにあるミット・パロディーという指示は、パロディーっぽくやれということですね。
(小澤征爾)
そうです。
(村上春樹)
これも考えだすと難しい。
(小澤征爾)
そこにパロディーの精神がなくてはならない。
(村上春樹)
しかしあり過ぎても品がなくなってくる。
(小澤征爾)
そのとおり、そのへんの匙加減ひとつで音楽が大きく違ってくるわけですね。そこが面白い。
(p.244)
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さまざまな指示を楽譜に書き込んだマーラーですが、不思議なことにテンポの指示だけはありません。
(村上春樹)
でも制約が多いわりに、マーラーはメトロノームのテンポ指定を書き残していませんよね。
(小澤征爾)
そう、書いていません。
(村上春樹)
どうしてなんだろう?
(小澤征爾)
それにはいろんな説があります。これだけ細かく指示を与えたんだから、速度くらいは自ずと定まってくるだろうという考え方だった、という説もあります。あるいは速度くらいは演奏家が自分で判断しろという考え方だった、という説もあります。
(p.239)
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3番と7番はなんだか「あやしい」
マーラーの音楽の特徴の一つは「形式(フォーム)を意識的に崩した音楽」だということです。村上さんはまず、交響曲 第2番『復活』の第5楽章から質問しています。このあたりの会話は「その通り」と強く思ったので、ちょっと長くなりますが、引用します。
(村上春樹)
僕は順番がよくつかめないことが多いです。たとえば二番の第五楽章なんて、あっちいったり、こっちいったりというか、なんでこうなるんだろうと、途中で頭がぐしゃぐしゃしてきちゃうんですが。
(小澤征爾)
あれ、まったく理屈がないからね。
(村上春樹)
そうなんです。モーツァルトとかベートーヴェンとかだと、そんなことないんですが。
(小澤征爾)
そこにはちゃんとフォームがあるから。でもね、マーラーの場合、そのフォームを崩すことに意味があったんでしょうね、意識的に。だから普通のソナタ形式なら『ここでこのメロディーに戻ってほしいな』というところに、ぜんぜん違うメロディーを持ってきちゃう。そういう意味ではもちろん覚えるのは難しいんだけど、それなりに勉強していると、そういう流れに浸っちゃうと、そんなに大変な曲じゃないですよ。そのかわり時間はかかりますよ。そこに行くまでには。ベートーヴェンやらブルックナーやらよりは、ずっと時間がかかります。
(村上春樹)
マーラーを聴き始めた頃は、この人はひょっとして音楽の作り方を根本的に間違えているんじゃないかという気がしました。今でもそういう気がすることがたまにありますが。なんでこんなところで、こんな風になるんだ、と首をひねってしまう。でも時間が経つにつれて、そういうところがだんだん逆に快感になってくるんですね。最後にはカタルシスみたいなもんがちゃんとやってくるんだけど、でも途中経過はむにゃむにゃとわけがわからないということが多いです。
(小澤征爾)
とくにね、七番と三番がそうだな。このふたつはね、やっていてもね、相当集中してしっかりやらないと、途中で溺れちゃいます。一番はよし、二番もよし、四番もよし、五番もよし、六番がね、ちょっとあやしい。でもまあこれもいい。ところが七番がね、これが問題です。三番もあやしい。八番になると、あれはもう巨大だから、なんとかなる。
(村上春樹)
九番となると、わけがわからないところはもちろんあるけれど、なんかもうあれは別格みたいですね。
(p.224-225)
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『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本全体で、個人的に最も共感を覚えたのはこのくだりです。マーラーのシンフォニーでどれが一番好きかと質問されたら、私なら「3番」と即答します。あらゆるジャンルの曲で生演奏をもっとも多く聴いたのがこの曲です。その次に好きな曲はというと「7番」です。
ほかのシンフォニーが好きでないのかというと、そんなことは全くありません。9番を論議の対象外として、全部好きです。9番は村上さんがいみじくも言っているように「別格」です。我々は9番をじっと聴き、その壮絶で悲壮な美しさに打たれ、敬虔な気持ちになって、心が再生できればよい。一番好きとかそうでないとか、そういう下世話な議論の対象にすべき音楽ではありません。その9番は別格として、マーラーのシンフォニーで個人的に最も好きな2曲を小澤さんは「あやしい」と言っているわけです。「我が意を得たり」という感じです。
3番について村上さんの表現を借用すると、第5楽章までは「あっちいったり、こっちいったり」で「なんでこんなところで、こんな風になるんだ」と思うことも多々あります。「最後にカタルシスがやってくる」第6楽章も含めて、とにかく全体にダラダラと長く、演奏に1時間半近くもかかる。しかしその長いところがこの曲の魅力であり、小澤さんの言う「あやしい」ところに強く惹かれます。
7番を指して「混乱している」という評論を読んだことがありますが、ちゃんとした演奏を聴けば決してそんなことはありません。指揮者として「相当集中してしっかりやらないと、途中で溺れる」と、小澤さんは言っています。
溺れてしまった指揮者の演奏が混乱して聞こえるのだと思います。溺れない指揮者の代表は(7番に関しては)クラウディオ・アバドだと思います。
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小澤征爾
ボストン交響楽団
「マーラー交響曲全集」
1980年(第8番)から1993年(第3番)にわたって録音された全集である。
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