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No.137 - グスタフ・マーラーの音楽(2) [音楽]

前回から続く)

前回に続き『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾・村上春樹)から、マーラーの音楽が語られている部分を紹介します。前回の終わりの方にも取り上げた「音楽の形式」に関係したものです。



形式を意識的に崩した音楽


「形式を意識的に崩した音楽」というマーラーの特徴に関して、小澤征爾・村上春樹両氏が語り合う場面があります。交響曲 第1番『巨人』の第3楽章を聞きながらの会話です。第3楽章はコントラバスのソロが演奏する「葬送のマーチ」で始まります(譜例71)。

譜例71.jpg

前回(No.136)でも話題になったように、ここは「重々しく、しかし引きずらないように」という指示が楽譜にあります(譜例71のドイツ語)。村上さんはそういう音をどのように作るのかを小澤さんに質問します。


村上春樹
最初にコントラバスのソロが出てきますが、そういう音の設定みたいなものも指揮者が出すわけですか? それはちょっと重すぎるとか、もう少しあっさりやってくれとか。

小澤征爾
まあ、そうですね。ただね、そのへんはもうコントラバス奏者の音色とか、持ち味で決まってしまう部分が多いんです。指揮者がそんなに口を出せるところじゃない。しかしね、コントラバスのソロそのものが特殊なのに、楽章の冒頭にそんなのが来るなんてね。マーラーって、よっぽど変わった人ですよ

(p.241)

音楽の始めに「コントラバスのソロ」をもってくるという前代未聞のやり方をし、同時に「重々しく、しかし引きずらないように」という "いかにも難しそうな指示" を楽譜に書き込む作曲家は、確かに「変わった人」でしょう。と同時に、ここでは常識的な音楽のスタイル感がくつがえされています。


村上春樹
コントラバスの人にしてみれば、このソロの部分は一世一代というか、すごい緊張するでしょうね。

小澤征爾
そりゃ、大変なものです。それからね、どこのオーケストラのコントラバスのオーディションも、必ずこの曲を演奏させます。これがうまく弾けるか弾けないか、それがすなわち、そのオーケストラに入れるか入れないかの瀬戸際になるわけです。

村上春樹
なるほど。

(p.242)

「不思議な雰囲気をもった重々しい葬送のマーチ(重々しいが決して深刻ではない)」(p.226)が終わると、突然、ユダヤの俗謡的な音楽が登場します(譜例72、譜例73)。

譜例72.jpg

譜例73.jpg


村上春樹
いつも思うんですが、この変わり方、破天荒というか、普通じゃないですよね。

小澤征爾
ほんとにそうだね。葬送の音楽のあとで、こんなジューイッシュのメロディーが出し抜けに出てくる。組み合わせとしてはもう、とんでもないです。

(p.226)


村上春樹
でも急にこんな音楽を聴かされて、当時のウィーンの人はきっとびっくりしたでしょうね。

小澤征爾
そりゃあ、みんなびっくりしただろうね。それからね、技術的なことを言うと、たとえばこのユダヤ風音楽のところで、コルレーニョっていって、ヴァイオリンの弓をね、あれは馬のしっぽでできてるんだけど、そこじゃなくて、木のところで叩くんです。弾くんじゃなくて叩く。そうすると音がね、すごく下司っぽくなるわけです。

(p.227)

しばらくすると葬送のマーチが復帰しますが、すぐそのあとに美しく叙情的な旋律(譜例74)が登場します。これは『さすらう若人の歌』に収められた歌曲のメロディーです。

譜例74.jpg


村上春樹
ここで再び、がらっと音楽の雰囲気が変わってしまう。

小澤征爾
そうです。これは要するにパストラル、天国の歌ですね。

村上春樹
しかし唐突というか、何の脈絡もないというか、これがここに出てくるという必然性みたいなのはないですよね。

小澤征爾
ぜんぜんない。ほら、このハープ、ギターのつもりなんです。

村上春樹
ああ、そうなんだ。

小澤征爾
演奏している人はみんな、その前にやっていたことはがらっと忘れて、気持ちをぱっと切り替えて、この旋律に浸りきって、それになりきって弾かなくちゃいけないんです。

(p.228)

パストラルの音楽は、再び葬送のマーチへと転換します。


小澤征爾
ほら、ここのところ、この変わり方がね、また難しいんです。銅鑼が入って、三本のフルートがセットアップして、それから最初のもの悲しい、単純な葬送の旋律が復帰します。

村上春樹
長調と短調があっという間に切り替わるんですね。

小澤征爾
そうですね。このちっちゃなクラリネットを聴いてください。ここにあるのは単純な音楽なんだけど、単純な組み合わせでも、ちょっとしたことで、まるで変わっちゃうんですよ。たーららら、ウィッ、と、ウィッ、と ・・・・・・ という風に(深い森の奥で鳥が予言をするような不思議な音色が、メロディーにどことなく妖しい風合いを与える)。こういうのも、その前まではちょっと考えられないことだったわけです。でもこうやって吹けと楽譜にちゃんと書いてあります。

村上春樹
ずいふん細かいところまで指示があるんですね。

(p.231-232)

小澤さんの「たーららら、ウィッ、と、ウィッ、と」は、復帰した葬送のマーチに重ねられるクラリネットでしょう(譜例75の後半、keckの指示の2小節あとのところ。keckは「大胆に、威勢よく」というような意味)。普通のクラリネットより小さめのE♭管(Es管)なので「このちっちゃなクラリネット」という表現になったのだと思います。このモチーフで出すべき「表情」を小澤さんは歌ってみせているのですが、それを村上流に言語化すると「深い森の奥で鳥が予言をするような不思議な音色が、メロディーにどことなく妖しい風合いを与える」となるわけですね。なるほどという感じです。

譜例75.jpg
「さすらう若人の歌」の旋律による「パストラル」が終わったあとに葬送のマーチが回帰する部分。フルートとクラリネット(E♭管)のパートを抜き出した。小澤さんの「たーららら、ウィッ、と、ウィッ、と」というのは、譜例75におけるクラリネットの末尾2小節を指していると考えられる。


ドイツ正統派音楽とは異質


マーラーの音楽にはドイツ正統派音楽とは異質な面が多々あります。「正統派の後継者」であるリヒャルト・シュトラウスの音楽とマーラーの音楽を比較した小澤さんの発言があります。マーラーもリヒャルト・シュトラウスもオーケストラを駆使する名手であり、楽器の性格を熟知しています。


村上春樹
二人のオーケストレーションは、ごく簡単に言って、どいういうところが違うんでしょう?

小澤征爾
いちばんの違いは、マーラーのオーケストレーションは、なんていえばいいのかな、ナマっぽいことですね。

村上春樹
ナマっぽいといいますと?

小澤征爾
オーケストラからナマのものを引き出しているということです。シュトラウスの場合はね、隅から隅まで全部楽譜に書いてあるんです。何も考えずにそのまま演奏しろ、それでちゃんと音楽になるから、みたいなところがあります。実際にそのまま演奏すると、ちゃんと音楽になってしまうんです。マーラーはそうじゃなくて、もっとナマです。シュトラウスに『メタモルフォーゼン』という弦楽だけの曲があるんだけど、これなんかもう弦だけのアンサンブルの精緻さの極限をいっています。既成のフォームをとことん追求している。マーラーなんかそういう方向は考えもしないでしょう。

村上春樹
シュトラウスのオーケストレーションの方が、技巧的な部分が多いということですね。たしかに『ツァラトゥストラ』なんかを聴いていると、壁にかかった壮大な一幅の絵を鑑賞している気分になりますね。

小澤征爾
そうでしょう。ところがマーラーだと、音が浮き出て迫ってくるんです。乱暴な言い方をすれば、音をどんどんナマで、原色で使っています。楽器ひとつひとつの個性・特性を、ある場合には挑発的に引き出していきます。それに比べると、シュトラウスは音を融合させてから使っています。こんな風に簡単に断定しちゃうと、いけないのかもしれないけど。

(p.232-233)

小澤さんは、マーラーのオーケストレーションを、

音がナマである
音が原色で使われている
音が浮き出るようだ
楽器の個性を挑発的に引き出す

というように表現しています。音楽家としての感覚的な言語表現なので、我々も感覚的に理解するしかないと思います。しかし、このあたりは前回に紹介した、

複数の異質な要素が同時平行的に進行する
個々の要素は、他の要素とは無関係に独立して演奏すべきである
演奏方法について、細かく楽譜で指示されている
そういった細部の集合として、全体が浮かび上がる

といったマーラーの音楽の特色と表裏一体なのだと思いました。

確かにリヒャルト・シュトラウスの曲を聴くと、全体の計画があり、それが細部に分解・分担され、個々の楽器は全体との関連で役割を保ち、音と音とが組み合わされて融合し、結果として壮麗な建造物が構築されるという感じを持ちます。まさにベートーヴェン、ブラームスの後継です。マーラーはそういう方向とは対極にあるわけです。

小澤さんの言葉で、芸術としてのジャンルは違うけれど、アンリ・マティスの絵を連想しました。「ナマ」「原色」「浮き出る」「挑発的」などの形容詞は、それが「音」のことではなく「色」のことだとすると、マティスの絵そのものだと思ったのです。マティスの絵は「浮き出るような原色をナマで挑発的に使い」ながら、全体としては独特の調和感を出しているのではないでしょうか。

マーラー(ウィーン国立歌劇場 2).jpg
(ウィーン国立歌劇場)


カラヤンのマーラー


小澤征爾さんの指揮者としての「師匠」はヘルベルト・フォン・カラヤンです。本書の中でも小澤さんは必ず「カラヤン先生」と呼んでいます。そのカラヤンがドイツ正統派音楽の正統的継承者であることは間違いないでしょう。カラヤンはマーラーの音楽をどのように演奏したのか。交響曲 第9番についての小澤さんの発言があります。


小澤征爾
カラヤン先生の九番はすばらしい。ずいぶん晩年になってからやったんだけど、見事だったな。フィナーレがとくによかった。これはカラヤン先生に合った曲なんだなと、そのときに思いました。

村上春樹
あの曲は、オーケストラの音が美しく緻密じゃないと、どうしようもないですね。

小澤征爾
とくにフィナーレがね、あれとブルックナーの九番のフィナーレはほんとうに難しいです。静かに消え入るように終わるところが。

村上春樹
あの曲は長い単位で音楽を作っていかないと、内容をすくいきれないですよね。この前にお話したディレクションみたいなことでいえば。

小澤征爾
そうそう。息の長さがないオーケストラではできないですね。

(p.210)

村上さんの発言の中の「ディレクション」とは何でしょうか。実は、本書の中で小澤さんはこの言葉を詳しく解説しています。


小澤征爾
カラヤン先生とバーンスタインの比較みたいになっちゃうんだけど、ディレクションという言葉がありますよね。方向性です。つまり。音楽の方向性。それがカラヤン先生の場合は生まれつき具わっているんです。長いフレーズを作っていく能力。そしてそういうことを僕たちにも教えてくれたわけ。長いフレーズの作り方を。それに比べてレニーの場合は天才肌というか、天性でフレーズを作る能力はあるんだけど、自分の意志で、意図的にそういうのをこしらえていくというところはない。カラヤン先生の場合はひとつの意志として、まっすぐ意欲をもってやっていくんです。ベートーヴェンの場合なんかね。あるいはブラームスの場合。だからブラームスなんかやると、そういう意欲はカラヤン先生の場合、もう圧倒的に強いです。ある場合は細かいアンサンブルなんか犠牲にしても、そっちの方を優先します。そして僕たちみたいな弟子にも、それと同じことを要求したんです。

村上春樹
アンサンブルを犠牲にしても・・・・・・。

小澤征爾
要するに細かいところが多少合わなくてもしょうがないということです。太い、長い一本の線が何より大切なんです。それがつまりディレクションということ。いわゆる方向なんだけど、音楽の場合はそこに「繋がり」という要素が入ってきます。細かいディレクションもあれば、長いディレクションもあります。

(p.40-41)

ひとつの意志として長いフレーズを作り、太い一本の線として繋げていく能力・・・・・・。小澤さんがヘルベルト・フォン・カラヤンから学んだ大きなものが「ディレクション」だったようです。本書にはカラヤンの具体的な指導も書かれています。カラヤンはシベリウスの交響曲 第5番が好きで(4回も録音している)、この曲を使って弟子に教えるのがうまかったと小澤さんは言っています。


小澤征爾
長いフレーズを作るのが指揮者の役目だと、よく言われました。スコアの裏を読みなさい、と。小節をひとつひとつ細かく読むのではなく、もっと長い単位で音楽を読め。僕らはね、四小節フレーズとか、八小節フレーズとか、そういうのを読むのには慣れています。ところが彼の場合は、十六小節とか、もっとすごいときには三十二小節とか、そいう長い単位になってくる。そこまでフレーズを読めと言われます。そんなことスコアには書いてないんだ。でもそれを読むのが指揮者の役目なんだと。作曲家は常にそれを頭に描いて楽譜を書いているんだから、そこまでしっかり読みとりなさいと。それが彼の持論なんです。

(p.121)

長いフレーズを作るのが指揮者の役目だと考えるカラヤンにとって、マーラーの9番は "うってつけの" 曲だったようです。従って「カラヤン先生の九番はすばらしい(小澤征爾)」となるのですが、その「素晴らしさ」について村上さんは次のように発言しています。


村上春樹
カラヤンの演奏する九番シンフォニーですが、あれはたしかに素晴らしい演奏だと思うんです。音がまるでしたたり落ちるみたいに美しい。でもよく聴くと、あれってなんというか、いわゆるマーラー的なマーラーでじゃないですよね。まるでシェーンベルクとかベルクといった、新ウィーン楽派の初期の作品を演奏するみたいな音色で、マーラーをやっている。つまりカラヤンは自分の得意な分野にマーラーをぐっと引き寄せて、そこで演奏しているみたいに僕には聞こえるんです。

小澤征爾
そのとおりですね。とくに最終楽章なんか、まさにそういう感じです。もう練習のときから、普段やっているとおりの注文をオーケストラに出して、普段やっているとおりの音楽を作っています。

(p.248)

上の引用にある「新ウィーン楽派の初期の作品」の代表作をシェーンベルクの『浄められた夜』だと考えると、カラヤンは『浄められた夜』のような音色で『マーラーの9番』を演奏した、となります。具体的に言うとそうなる。そして私には当然そうあるべきだと思えます。

シェーンベルク(や、リヒャルト・シュトラウス)をドイツ正統音楽の継承者だとすると、マーラーはそれとは異質な面が多々あります。しかし、音楽史の流れと同時代性からくる類似点も当然ある。特に『浄められた夜』と『交響曲 第9番』は、何だか非常に似ていると感じます。それは「これが音楽の到達点である」というような感じです。あるいは「これが "最後の輝き" だという緊迫した雰囲気」であり、「巨大なものがぎゅっと凝縮されている感じ」です。そういった2曲を「音がまるでしたたり落ちるみたいに美しく」、似たような音色で演奏されるのは当然だと思うのです。

村上さんの言う「カラヤンの得意分野」ですが、それは9番の演奏スタイルだけでなく、シンフォニーの選曲にも現れているようです。本書によると、カラヤンはマーラーのシンフォニーを何曲か録音したが、録音しなかった曲もある。それを分類すると、

  録音した4番5番6番9番大地の歌
  録音しなかった1番2番3番7番8番

だそうです。なるほど・・・・・・。

このリストは「正統派」という観点からすると分かるような気がします。カラヤンが録音しなかった曲をみると、8番はあまりに巨大なので「録音のチャンスがなかった」のかもしれません。しかしその他の曲には共通点がある感じがする。特に3番と7番に関しては、その「形式感の崩れ」から小澤さんが最も「あやしい」と発言しているシンフォニーです(前回の No.136「グスタフ・マーラーの音楽(1)」参照)。カラヤンは間違っても3番、7番を録音することはなかったのでしょう。また1番の第3楽章や2番の第5楽章の「崩れている感じ」も、まさに本書の「マーラー論」のテーマになっているところです。つまり、マーラーの真にマーラー的なディープな部分をカラヤンは受け入れなかったのではないか。「カラヤンは自分の得意な分野にマーラーをぐっと引き寄せて、そこで演奏している」という村上さんの言い方は、なるほどと思いました。引き寄せられる曲を選んだ、ということでもあるのでしょう。

カラヤン:マーラー 交響曲 第9番.jpg
グスタフ・マーラー
「交響曲 第9番」二長調(1910)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1982年のベルリン芸術週間でのライブ録音。究極の音楽の究極の演奏。


マーラーの音楽の世界性


マーラーの音楽にみられる「ドイツ正統派音楽とは異質な面」は、ウィーンという都市に関係があると小澤さんと村上さんは語っています。


小澤征爾
僕は三十年くらい前からウィーンで仕事をするようになって、ウィーンで友だちなんかもできて、それから美術館にも足を運ぶようになりました。そこでクリムトとかエゴン・シーレなんかを見て、そのときはけっこうショックを受けましたね。それ以来、僕は美術館によく行くようにしているんです。ああいうのを見ると、なんかよくわかるんです。つまり、マーラーの音楽って、伝統的なドイツ音楽から崩れてきていますよね。そういう崩れ方が実感としてよくわかる。崩れ方がとにかく生半可じゃないな、と。

村上春樹
僕もこの前ウィーンに行ったときに、美術館でクリムト展を見ましたが、ウィーンで見るとたしかにそういう実感がありますね。

小澤征爾
クリムトも美しくて緻密なんだけど、見ていてなんかこう、狂ってるじゃないですか。

村上春樹
うん、たしかに尋常じゃないですね。

(p.217-218)

マーラーの音楽は19世紀末のウィーンの爛熟と伝統的なドイツ文化の崩れを反映していますが、それだけではありません。ウィーンの「周辺文化」を取り込んでいるところに特徴がある、というのが村上さんの見立てです。


村上春樹
ぼくはこの前ウィーンに行ったとき、暇があったんで、レンタカーを借りてチェコの南の方を四、五日まわっていたんです。マーラーの生まれ故郷のカリシュトっていう小さな町のあるところ、とくにそこに行くつもりじゃなかったんだけど、たまたまそのへんを通りかかりました。で、これがもう、今でもすごい田舎なんですね。見渡す限り畑、みたいな地域で、ウィーンからそんなにすごく離れているというほどでもないのに、これくらい風土が違うのかとちょっと驚きました。そうか、マーラーってこんなところからウィーンに出てきたんだ、そこには大きな価値の転換みたいなものがあったんだろうなと思いました。当時のウィーンといえば、オーストリア=ハンガリー帝国の首都というだけじゃなく、ヨーロッパ文化の華やかな中心みたいなところで、爛熟をきわめていたわけだし、要するに、ウィーンの人から見れば、マーラーという人はずいぶん田舎ものだったんですね。

小澤征爾
ああ、なるほど。

村上春樹
おまけにユダヤ人で。でも考えてみれば、ウィーンという都市は、そういう周辺の文化を取り込むことによって、結果的に活力を得てきたことがあります。それはルービンシュタインとかルドルフ・ゼルキンの伝記を読んでもわかります。そういう風に考えてみると、マーラーの音楽に俗謡的なものが顔を見せたり、ユダヤの音楽が急に出てきたり、というのが納得できるような気がするんです。シリアスな音楽性、耽美的な旋律の中に、そういうものが乱入者のように混じり込んでいく。そういう雑多性というのは、マーラーの音楽の魅力のひとつになっていますよね。もしマーラーがウィーンで生まれ育っていたら、ああいう音楽が出来上がらなかったんじゃないかな。

小澤征爾
うん。

(p.218-219)

No.137 Czech.jpg
作曲家の生誕地
リトミシュル=スメタナ(No.5)、ブルノ=コルンゴルト(No.9)、ネラホゼヴェス=ドボルザーク(No.99)、カリシュト(カリシチェ)=マーラー(No.136-7)。
カリシュト(カリシチェ)はプラハからブルノ、ウィーンに向かう道路沿いにある。地図のリべレツは「クラバート」(No.1-2)の作者、プロイスラーの生誕地。

マーラーの生家.jpg
マーラーの生家2.jpg
カリシュト(カリシチェ)にあるマーラーの生家。現在はペンションになっている。ちなみに、「見渡す限り畑」という村上春樹さんのコメントはGoogle Street Viewでもよく分かる。
(Google Street View)


村上春樹
一番シンフォニーの三楽章を聴いてもよくわかるように、マーラーの音楽には実にいろんな要素が、ほとんど等価に、時には脈絡なく、ときには対抗的に詰め込まれていますよね。ドイツの伝統的な音楽から、ユダヤの音楽から、世紀末の爛熟性から、ボヘミアの民謡から、戯画的なものから、滑稽なサブカルチャーから、シリアスな哲学的命題から、キリスト教のドグマから、東洋の世界観まで、とにかく雑多にすし詰めにされている。どれかひとつだけを抜き出して中心に据えて、ということができませんよね。ということはつまり、何でもあり・・・・・・という言葉は悪いんですが、非ヨーロッパ系の指揮者にも、そこに自分なりの切り口で食い込んでいける余地は十分にある、ということなんでしょうか ? そういう意味でマーラーの音楽はユニヴァーサルなんじゃないか、世界市民的なんじゃないかという気もするんですが。

(p.245)

この引用の終わりの方の村上さんの質問(下線)に対して、小澤征爾さんは「日本人として切り込んでいけるところがあると思いたい」という風に答えています。「世界のマエストロ」にしても「思いたい」という答えなのですね。断定はしていません。それだけマーラーの音楽が巨大だということでしょう。またマーラーの音楽だけではなく「日本人が西洋音楽をやる意味」を小澤征爾さんは自問し続けているのだと思いました。

その自問は、小澤征爾というマエストロが(こういう言い方が適切かどうか分からないけれど)「今も発展途上」だからこそと感じます。それは本書の「まえがき」で村上さんが「小澤さんに共感する」としていた点の一つです。


村上春樹
(共感できることの)二つ目は、今でも若いころと同じハングリーな心を変わらず持ち続けていることだ。いや、これくらいでは足りない、もっと奥まで追求したい、もっと前に向かって進んでいきたい、というのが仕事をする上での、また生きる上での重要なモチーフになっている。

(p.15)


感想


ここからは『小澤征爾さんと、音楽について話をする』の中の「マーラー論」の部分を読んだ感想のまとめです。

 異質さの同居と同時進行 

二人の対談では、マーラーの音楽の顕著な特質として、

複数の異質なモチーフが、同時進行的に、対等に現れる
形式感をあえて無視する感じで、唐突に、脈絡がなく音楽が変化する

マーラーの墓.jpg
マーラーの墓はウィーン市街の北にあるグリンツィング(Grinzing)墓地にあり、市の中心部からはトラムを乗り継いで行ける。名前しか刻まれていないシンプルな墓標である。グリンツィングはホイリゲで有名。
点が取り上げられていました。一言でいうと「異質さの同居と同時進行」です。確かにシンフォニーの作り方としては、これは独特なのかもしれません。しかしだからといって「違和感がある」とか「音楽として変だ」ということは(少なくとも私にとっては)全くありません。というのも、広く芸術作品や文芸作品を見渡してみると、上記のような性格の作品はよくあるからです。

たとえば演劇、ないしは演劇の延長としてのオペラを考えてみます。仮に男女の三角関係の場面だとします。舞台には男一人、女二人の俳優(歌手)がいます。移り気で優柔不断な男と、愛されていると思って幸福感いっぱいの女と、捨てられたと思って悲痛な思いの女の3人です。観客には「全く違った感情を持つ3人が同時に舞台に存在する」ことが一目でわかるし、舞台では三者三様の思いをほとんど同時に科白せりふ(ないしは歌)で吐露したりするわけです。これに類似した場面は演劇やオペラにいっぱいあるでしょう。以前の記事を例にとると、No.8「リスト:ノルマの回想」で紹介したベッリーニのオペラ『ノルマ』には「三角関係の修羅場」の三重唱がありました。

もし仮に「3人の全く異なった人間感情」を器楽曲で表現しようとしたら「複数の異質なモチーフが、同時進行的に、対等に現れる」ことになるのではないでしょうか。マーラーの音楽がそいういう情景を描いたと言っているのではありません。「異質さの同居と同時進行」は、文芸作品や芸術にはよくあることだと言いたいだけです。

「形式感をあえて無視する感じで、唐突に、脈絡がなく音楽が変化する」ことを考えてみると、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』でその例として語られているのが交響曲 第1番の第3楽章でした。この楽章は、

葬送のマーチ
ユダヤの俗謡風の音楽
葬送のマーチ
パストラル(さすらう若人の歌から引用した美しいメロディー)
葬送のマーチ

という順序で音楽が進行します。「葬送のマーチ」とは異質な ② と ④ は「脈絡なく唐突に現れる」ようにも感じます。

しかしこれが小説だと「よくあること」だと思います。たとえば葬送の列を見守る人がいたとして、その人は亡くなった方の幼なじみだとします。そして葬送を見守るなかで、小さいころに一緒に地域の祭りに参加した情景や、野原で一緒に遊び回った記憶をふと思い出すとします。それを文章に書くとき、葬送の行進の時間的経緯の描写(=現在。悲しみの情景)の中に、思い出の描写(=過去。俗謡やパストラル。幸福な情景)を挟み込むという手法は、大いにありうるわけです。第1番の第3楽章がそういうものだと言いたいのではなく、文芸作品ではありうる構成方法だと言いたいだけです。

映画となるともっと顕著です。つまり、現在の描写の中にさまざまな過去の時間を混入させる手法を使った映画はたくさんあります。むしろそれが映画の一般的な作り方かもしれない。時間的な連続性を破っているので始めは戸惑いますが、次第に全体のつながりが見えてくるというわけです。いったんそれに慣れると違和感は無くなってしまう。

こういった小説や映画の技法を考えると、マーラーの音楽が取り立てて異質だとか変だということはないと思うのです。ただ、小説や映画は言葉(や映像)があるので「異質さの同居と同時進行」があっても納得性の高い説明ができるのですが、音楽には説明がありません。音楽を聴く人は「感じる」しかなく、それが全てです。ということは、異質な要素が同時進行したり脈絡なく唐突に現れるところで、我々は何かを感じればよいと思うのです。音楽なのだから。

ベートーヴェンやブラームスの視点からすると、マーラーが音楽を構成したスタイルは異質かもしれませんが、現代を生きる我々は、小説や映画や演劇や20世紀の絵画を知っています。現代の視点からすると、マーラーの音楽は芸術としてごく自然なものだと思います。

 カラヤンが録音したマーラー 

マーラーの音楽がもつ「ドイツ正統派音楽とは異質な面」が本書に何回か出てきましたが、これは全くその通りだと思います。しかしマーラーの音楽はそれだけではありません。本書の紹介で「カラヤンが録音したマーラーと、録音しなかったマーラーがある」ことを書きました。

  録音した4番5番6番9番大地の歌
  録音しなかった1番2番3番7番8番

その「カラヤンが録音したマーラー」は、むしろドイツ正統派音楽の継承に近いと思います。たとえば5番のシンフォニーですが、これなどはごく「ノーマルな」音楽であり、数百年の西洋音楽文化の到達点(のマーラーなりの表現)という感じです。第4楽章の「アダージェット」はハープと弦楽合奏の有名な曲ですが、聴く人によってさまざまな印象を受けるにしろ、誰もが抱く共通の印象は「シンプルに、音楽として美しい」ことではないでしょうか。

マーラーの音楽は正統音楽からすると「継承面」と「異質面」の両面があり、またその二つがないまぜになっていて、そこに我々が惹かれるのだと思います。『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本は、9番を例外として、あえて「カラヤンが録音しなかったマーラーに論を絞った感」があります。「マーラー論」はこの本の一部だし、インタビュー時間と紙数の制約があるのでやむをえなかったのでしょう。

 文学者が言語化する音楽 

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本のポイントは、村上春樹さんがものすごい音楽好きで、かつレコード・マニアであることだと書きました(No.135「音楽の意外な効用(2)村上春樹」参照)。マニアといってもレコードを集めるのが目的でなく、音楽を深く聴いて思索をめぐらせる人です。インタビューの中には村上さんが音楽論をリードするような場面もあり、感心しました。

しかしもう一つのポイントは、村上さんが小説家であり、言葉を駆使するプロフェッショナルだということです。音楽を言葉で表現するのは難しいものです。小澤征爾さんは指揮者なので、そのプロとしての最良の言葉は主としてオーケストラのメンバー(=プロの演奏家)に向けられるはずです。そこではプロ同士が理解し合える言葉で十分です。またオーケストラの練習では、言葉にならなくても歌ってみせることができます。村上さんのインタビューの中にも、小澤さんが歌ってみせる場面が何度かありました。本書の「はじめに」で村上さんは次のように書いています。


村上春樹
たしかに小澤さんには「小澤語」みたいなものがあって、それを日本語の文章に換えていくのはなかなか簡単ではない。大きな身振り手振りがあり、多くの思想は歌のかたちで表出される。しかしその気持ちは「言葉の壁」を越えて ── いくぶんの「乱暴さ」を通して ── ひしひしと率直に伝わってくる。

(p.13)

この記事の最初に引用した、交響曲 第1番の第3楽章を聴きながら語り合う場面にも小澤さんの「歌」がありましたが( "たーららら、ウィッ、と、ウィッ、と" )、それを村上さんは(村上流に)言語化していました( "深い森の奥で鳥が予言をするような不思議な音色が、メロディーにどことなく妖しい風合いを与える" )。

小澤征爾という世界の大指揮者を中心にした本を作るときに、そのパートナーとして言葉をあやつるプロフェッショナルである村上春樹がいる・・・・・・。この状況が『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本の最大の魅力だと感じました。




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