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No.104 - リンカーンと奴隷解放宣言 [歴史]

このブログの記事で、今まで何回か歴史上の「奴隷」についての記述をしました。

  No.18「ブルーの世界」
  18世紀アメリカ(サウス・カロライナ州)において、奴隷制プランテーションで青色染料・インディゴが生産されたこと。
No.19「ベラスケスの怖い絵」
  17世紀のスペイン王室での奴隷の存在。特に「慰み者」と呼ばれた異形の人たち。
No.22「クラバートと奴隷(1)スラヴ民族」
  中世西ヨーロッパ(8~11世紀)における奴隷交易。奴隷になったのは中央ヨーロッパのスラヴ民族。
No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」
  同じく中世ヨーロッパ(12~15世紀)におけるヴェネチアの奴隷交易。奴隷になったのは黒海沿岸の人々。
No.33「日本史と奴隷狩り」
  戦国時代の戦場における「奴隷狩り」と、ポルトガル人による日本人奴隷の「海外輸出」。

の5つです。その継続で、今回は「リンカーンの奴隷解放宣言」についてです。なぜこのテーマかと言うと、最近の(と言っても半年以上前ですが)朝日新聞に奴隷解放宣言についての解説記事(2013.5.13)が掲載されたことを思い出したからです。その記事の要点も、あとで紹介します。


奴隷解放宣言


そもそも「奴隷解放宣言」は、南北戦争の途中で出されたものであり、それはリンカーン大統領率いる合衆国(=北軍)が、南部連合(=南軍)との南北戦争を戦うための「大義」を「後づけで」示したものというように理解していました。

改めて、事実関係を調べて整理すると以下のようになります。

1861年1月
  リンカーンが第16代のアメリカ合衆国大統領に就任

1861年2月
  南部11州がアメリカ合衆国から脱退し、南部連合を結成

1861年4月
  合衆国と南部連合の戦争(いわゆる南北戦争)が勃発

1863年1月
  奴隷解放宣言

1863年11月
  ゲティスバーグ演説

1864年9月
  アトランタ陥落(「風と共に去りぬ」のシーン)

1865年4月
  南北戦争終結(9日)。リンカーン、暗殺される(14日)

1865年12月
  連邦議会で合衆国憲法修正13条が可決され、合衆国全地域で奴隷制度は廃止された。

リンカーン大統領の奴隷解放宣言(1863年1月1日の大統領布告)の核心部分は以下です。


奴隷解放宣言(抜粋)

西暦1863年1月1日の時点で、その人民が合衆国に対する反逆状態にあるいずれかの州もしくは州の指定された地域において、奴隷とされているすべての者は、同日をもって、そして永遠に、自由の身となる。陸海軍当局を含む合衆国の行政府は、かかる人々の自由を認め、これを維持する。そして、かかる人々が、あるいはそのうちの誰かが、真の自由を得るために..行ういかなる活動についても、これを弾圧する行為を一切行わない。

(アメリカ大使館のホームページに掲載されている日本語訳より引用)

 奴隷解放の対象地域 

下線の部分にあるように、奴隷解放の対象となる地域は合衆国に対して反逆している地域です。宣言の中には、その地域が明記されています(表記を分かりやすくしました)。


本日1863年1月1日、本日時点でその人民が合衆国に対する反逆状態にある州および州の地域は、以下の通りであることを定め、明示する。

アーカンソー
テキサス
ルイジアナ
セントバーナード、プラクマインズ、ジェファソン、セントジョン、セントチャールズ、セントジェームズ、アセンシオン、アサンプション、テレボーン、ラフォーシュ、セントメリー、セントマーチン、ニューオーリンズ市を含むオーリンズの各教会区を除く)
ミシシッピ
アラバマ
フロリダ
ジョージア
サウスカロライナ
ノースカロライナ
バージニア
ウェストバージニアと指定された48の郡と、バークレー、アッコマック、モーハンプトン、エリザベスシティ、ヨーク、プリンセスアン、ノーフォークおよびプリマス両市を含むノーフォークの各郡を除く)。

(アメリカ大使館 HP)

この宣言に記載されていない地域、つまり「奴隷解放の対象とはならない地域」を考えてみると、宣言の意味が一層明確になります。

まず、州の名前を数えてみると10しかありません。あれっ、南北戦争における「南部」は11州のはずなのに、と思ってしまいますが、ないのはテネシーです。テネシー州は1863年1月の時点で、すでに合衆国主導の政府と軍隊ができており、反乱地域ではないので奴隷解放の対象とはならないのです。

またルイジアナ州のニューオリンズ、その他や、ヴァージニア州のウェスト・ヴァージニア地方などは、奴隷解放の例外地区です。このうちウェスト・ヴァージニアはヴァージニア州から分離し、独立州として合衆国に加盟するプロセスが進んでいました。そもそもウェスト・ヴァージニアは南部連合には入らなかったのです。現在のウェスト・ヴァージニア州です。

さらに、当然と言えば当然ですが、南部連合に加盟せずに合衆国に留まった「奴隷州」(奴隷制を認めている州)も奴隷解放の対象ではありません。ミズーリ、ケンタッキー、メリーランド、デラウェアの4州です。

 大統領の権限? 

考えてみると「奴隷解放宣言」という大統領布告は奇妙です。奴隷は所有者がお金を払って手に入れた財産なので、それを大統領が「解放する」というのは、明らかに個人の財産権の侵害です。

もちろん「財産権より人権が優先する」という決定はあるわけですが、こういう基本的な市民の権利を定めるのは憲法です。アメリカは三権分立の法治国家なので、憲法を改正できるのは議会(連邦議会)であり、大統領ではありません。事実、南北戦争が終わったあとの連邦議会で合衆国憲法修正13条が可決され、合衆国全地域で奴隷制度が廃止されたわけです。

では、なぜリンカーン大統領は「奴隷解放宣言」を出せたのか。その理由は「奴隷解放宣言」そのものに書いてあります。


これにより今、私、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは、合衆国の権威ならびに政府に対する武力による反逆が実際に起きたときの合衆国陸海軍の最高司令官として私に与えられた権限に基づいて、またかかる反逆を制圧するための適切かつ必要な戦争手段の1つとして、・・・(中略)。

前述の権限に基づき、また前述の目的のために、かかる指定された州および州の地域内で奴隷とされている者はすべて自由の身であり、今後も自由であることを、そして陸海軍当局を含む合衆国行政府が、かかる人々の自由を認め、これを維持することを私は命令し、宣言する。

(アメリカ大使館 HP)

奴隷解放宣言の根拠になっているのは

  政府に対する武力による反逆が実際に起きたときの、合衆国陸海軍の最高司令官としての大統領に与えられた権限

であり、言わば「戦争時における大統領の非常大権」です。従って、合衆国政府に反逆していない地域の奴隷解放はできません。リンカーンは法治国家としてのアメリカを尊重しているのです。

Emancipation_Proclamation.jpg
奴隷解放の対象となった州・地域(赤色)と、奴隷解放の対象とはならなかった州・地域(青色)。黒線より南が南部連合である。黒線に接して南の青色の州がテネシー州。黒線より北の青色の州(奴隷州)は、西からミズーリ、ケンタッキー、ウェスト・ヴァージニア、メリーランド、デラウェアである。地図はWikipediaより引用した。


南部を制圧するための「奴隷解放宣言」


ではなぜリンカーン大統領は「合衆国に対する反乱地域における奴隷を解放する布告」を出したのでしょうか。朝日新聞の解説記事(2013.5.13)にもあるのですが、最近の研究では、奴隷解放宣言の目的は

  南北戦争における講和の芽を排除し、南部を完全に制圧するまで戦争を戦い抜き、そのことによって合衆国を再統一するため

です。

「奴隷解放」は南部連合が「絶対にのめない」条件です。講和のテーブルにはつけなくなる。「もう最後の最後まで戦うしかない」と、南部連合は思ったでしょう。また合衆国内部に芽生えてきた「講和をすべき」という意見を断ち切ることができます。「南北戦争の目的は奴隷解放です。それに反対してあなたは講和を主張するのですか」と言われたとしたら、「自由州」(奴隷制度がない州)が多い合衆国の議員は反論出来ないでしょう。

さらに奴隷解放宣言の副次効果で、ヨーロッパの「人権国家」は南部連合を支持しにくくなります。この時点でヨーロッパに奴隷制度はありません。たとえば、かつての「植民地・アメリカ」の宗主国であるイギリスは、とっくの昔の1772年に奴隷を禁止しています。南部連合を「国」として承認するなどできないでしょう。

そのかつての宗主国・イギリスは、歴史的経緯によりアメリカ南部地域と非常に深い関係を持っていました。その一例ですが、No.40「小公女」で、この小説の作者の生い立ちを書きました。

「小公女」の作者のフランシス・バーネットは英国・マンチェスターの家具の卸問屋に生まれた(1849)。

当時のマンチェスターは英国の綿織物産業の中心地だった。

ところが南北戦争が始まると(1861)アメリカ南部からの綿花の輸入がストップしてしまい、マンチェスターの町は大不況に陥った。

  ちなみに、リンカーン大統領はアメリカ南部の東海岸を海上封鎖しました。これは南部連合の「体力」を徐々に低下させるとともに、イギリスの綿織物産業にとっても大打撃になったわけです。

この結果、フランシス一家の生活も苦しくなり、家族は親族をたよってアメリカのテネシー州に移住した(1865)。

というのが、バーネットの生い立ちです。

イギリスの綿織物産業にとって、アメリカ南部の大規模プランテーションの奴隷労働で栽培される綿花が「生命線」だったことをうかがわせます。議会制民主主義国家である英国の政府は、当然、アメリカ南部連合を「応援」したくなると思います。しかし「奴隷解放宣言」が出た以上、それは「人権国家」としてできない相談になる。

さらに副次効果として、南部連合の奴隷たちが戦線を離脱したり、合衆国側に投降したりということも期待できます。奴隷解放宣言には次のような「あからさまな」文言があります。括弧内は引用注です。


さらに、(今、自由であると宣言した人々のうち)適切な健康状態にある者は、要塞、陣地、駐屯地、その他の場所を守備するために、あるいは種類を問わず軍隊の船舶に乗り組むために、合衆国軍隊に受け入れられることを宣言し、周知させる。

(アメリカ大使館 HP)

なるほど。「適切な健康状態にある者は」というところがミソですね。要するに、北軍との戦闘で負傷したような南軍の奴隷は受け入れないということでしょう。

まさに「奴隷解放宣言」は一石二鳥というか、三鳥も、四鳥もの効果がある(効果を狙った)宣言だったわけです。この宣言はリンカーン大統領の「南部を完全に制圧するまで戦争を戦い、そのことによって合衆国を再統一する」という強い意志に基づいています。北部にとっても、また南部にとっても「退路を断ち切った」宣言になっている。「賭け」かもしれないが、合衆国の再統一のためにはこれが最適である。そしてリンカーンはそれをやり抜いた。リンカーンがアメリカ史上、最も偉大な大統領と言われることも納得できます。

Lincoln Memorial 1.jpg
リンカーン記念館の外観
Lincoln Memorial 2.jpg
内部のリンカーン像

リンカーン記念館(Lincoln Memorial)はワシントン D.C.にあり、リンカーン像の高さは約6メートルある。ここを訪れると、リンカーンが「アメリカで最も偉大な大統領」とみなされていることがよく分かる。


リンカーンの真意


「奴隷解放宣言の目的はアメリカの再統合だった。そもそも南北戦争の目的が再統合」というわけですが、そのことはリンカーン自身が語っています。朝日新聞 2013.5.13 号に「人種差別主義者だった? リンカーン」という見出しの解説記事(編集委員が執筆)が掲載されました。そこから引用します(記事に下線はありません)。


リンカーン自身、知人にあてた手紙(1862年)で、「この戦争における私の至上目的は連邦を救うことにあります。奴隷制を救うことにも、それを滅ぼすことにもありません。もし奴隷は一人も自由にせずに連邦を救うことができるのなら、そうするでしょう」と書いている。

朝日新聞(2013.5.13)

1862年は南北戦争まっただ中で、奴隷解放宣言を出す前です。そこに注目すべきだと思います(補記参照)。

「もし奴隷は一人も自由にせずに連邦を救うことができるのなら、そうするでしょう」というリンカーンの言葉の解釈ですが、「奴隷解放宣言」という「戦争時における大統領の非常大権を使った布告」は自分の本意ではないという意味だと私は解釈しています。

リンカーンが奴隷制廃止論者であったことは間違いありません。奴隷制廃止を掲げて大統領に当選したのだし、それに反発する南部11州が合衆国から離脱して南部連合を作ったわけです。

しかし、奴隷制廃止論者も多様なはずです。「最もラディカルな奴隷制廃止論者」は

人間は皆平等だ
今すぐ奴隷制を廃止せよ
奴隷は即時解放せよ

と主張するでしょう。しかし「最も穏健な奴隷制廃止論者」は、

まず、これ以上奴隷制が広がるのを阻止し(たとえば、アメリカ西部の正式の州ではない準州)
次に、奴隷制廃止を議会で検討可能な州の州法を変え(たとえば南部連合に参加しなかった奴隷州、ミズーリ、ケンタッキー、メリーランド、デラウェアなど)
奴隷制廃止に強硬に反対する州に対しては、時間をかけて粘り強く説得していく。

という風に考えるでしょう。

リンカーンは「穏健な奴隷制廃止論者」に近い考え方なのではと想像します。このあたりはもう少しアメリカ史を調べてみたいところです。


「人種差別主義者」リンカーン


朝日新聞の解説記事が指摘しているもう一つのポイントはリンカーンの「人種差別」です。


リンカーンは黒人と白人は異なる存在と考えていたようだ。民主党候補との論争の演説(1858年)でも「私は現在もこれまでも白人と黒人に社会的・政治的平等をもたらすことを好んだことはありません」「私はここにいる誰とも同じように、白人に与えられている優等な地位を保持することを好んでいるのです」などと述べている。

朝日新聞(2013.5.13)

要するに、リンカーンの考えでは、

  「奴隷解放 = 人種の平等」ではない

ということです(補記参照)。朝日新聞も指摘しているのですが、これは当時としては極めて一般的な考えでした。そして奴隷制度が廃止された以降のアメリカは、このリンカーンの言葉通りに進んでいったのです。この流れを大きく変えたターニング・ポイントが、1964年の「公民権法」の成立というわけです。

朝日新聞の解説記事は、

リンカーンが人種差別の考え方をもっていたこと(上記)。
奴隷解放で形の上では平等になっため、逆に黒人に対する圧迫が強くなったこと。
南北戦争の死者は、第2次世界対戦での米軍の死者を上回る62万人であり、都市の徹底破壊や殲滅せんめつ戦が行われるなど近代戦の幕開けとなったこと。

をあわせ、「リンカーンこそ、現代に至る、アメリカの光と影を培った大統領と言えるのではないか」とまとめられています。


現代の感覚で過去を見てはならない


朝日新聞 2013.5.13付けの解説記事の見出しは

  人種差別主義者だった? リンカーン

ですが、これは「いただけない」見出しです。クエスチョンマーク(?)が付いてはいますが、ここで「人種差別主義者」という言葉を(特に、見出しに)使うのは不適切だと思います。

現代人がリンカーンのような発言をしたとしたら、明らかにその人は「人種差別主義者」ですが、150年前のリンカーンの時代は、それがごく普通の考え方だったわけです。現代人の視点と用語で過去を語るのはよくない。

No.73「ニュートンと錬金術」で、アイザック・ニュートンの「業績」を、

物理学・数学
錬金術
聖書研究(聖書の「科学的」解読)

の3つだと書きましたが、②と③があるからといって①の分野での業績、つまり近代科学を作り上げたニュートンの偉大さが減るわけではありません。ニュートンを「最後の魔術師」などと言うのは適当でないのです。②③は当時としてはまじめな「科学的研究」だった。

リンカーンの「現代人が言ったとしたら人種差別になる発言」もそれと同じです。それは、朝日新聞の言うようなリンカーンの「影」ではありえない。現代感覚で過去の人物を「評価」したり「断罪」してはならないと思います。
続く



 補記 

朝日新聞が引用している「知人にあてた手紙(1862年)」というのは、当時の、ニューヨーク・トリビューン紙の創立者で編集長のホーレス・グリーリに宛てた書簡です。これは紙面で公表されました。書簡の日付は1862年8月22日で、南北戦争の真っ最中です。この時すでに「奴隷解放宣言」の草稿がリンカーンの机の中に入っていました。リンカーンはこの草稿をもとに1862年9月22日に「奴隷解放予備宣言」(100日後にこういう布告を出すよ、という宣言)を出したのです。

この書簡はリンカーンの書簡の中でも最も有名なものの一つのようです。その全文と、核心部分の日本語訳を掲げておきます。


Executive Mansion,
Washington, August 22, 1862.

Hon. Horace Greeley:

Dear Sir.

I have just read yours of the 19th. addressed to myself through the New-York Tribune. If there be in it any statements, or assumptions of fact, which I may know to be erroneous, I do not, now and here, controvert them. If there be in it any inferences which I may believe to be falsely drawn, I do not now and here, argue against them. If there be perceptable in it an impatient and dictatorial tone, I waive it in deference to an old friend, whose heart I have always supposed to be right.

As to the policy I "seem to be pursuing" as you say, I have not meant to leave any one in doubt.

I would save the Union. I would save it the shortest way under the Constitution. The sooner the national authority can be restored; the nearer the Union will be "the Union as it was." If there be those who would not save the Union, unless they could at the same time save slavery, I do not agree with them. If there be those who would not save the Union unless they could at the same time destroy slavery, I do not agree with them. My paramount object in this struggle is to save the Union, and is not either to save or to destroy slavery. If I could save the Union without freeing any slave I would do it, and if I could save it by freeing all the slaves I would do it; and if I could save it by freeing some and leaving others alone I would also do that. What I do about slavery, and the colored race, I do because I believe it helps to save the Union; and what I forbear, I forbear because I do not believe it would help to save the Union. I shall do less whenever I shall believe what I am doing hurts the cause, and I shall do more whenever I shall believe doing more will help the cause. I shall try to correct errors when shown to be errors; and I shall adopt new views so fast as they shall appear to be true views.

I have here stated my purpose according to my view of official duty; and I intend no modification of my oft-expressed personal wish that all men every where could be free.

Yours,
A. Lincoln.

Collected Works of Abraham Lincoln Volume 5
To Horace Greeley
http://quod.lib.umich.edu/l/lincoln/

(下線部分の日本語訳)

この戦争での私の至高の目的は連邦を救うことにあり、奴隷制を救ったりあるいは破壊したりすることにはありません。もし私が、一人の奴隷も解放することなく連邦を救うことができるならば、私はそうするでしょう。またもし、すべての奴隷を解放することによって連邦を救うことができるならば、私はそうするでしょう。さらに、ある奴隷を解放し他の奴隷を放置しておくことによって連邦を救うことができるならば、私はそうするでしょう。私が奴隷制と有色人種について行動するのは、それがこの連邦を救うのに役立つという理由からです。また私が行動をさし控えるのは、それが連邦を救うのに役立つとは信じられないという理由からです。

ハワード・ジン
「民衆のアメリカ史(上)」
猿谷 要 監修 富田 虎男 訳
(TBS ブリタニカ。1982)より引用

意味深長なところがある文章です。「連邦を救うのが至高の目的」であることを、奴隷を解放する・しないという例示をしつこいぐらいにして説明しています。そしてこの書簡の後に出された「奴隷解放宣言」は、例示の最後にある「ある奴隷を解放し他の奴隷を放置しておくことによって連邦を救う」という通りになったわけです。



さらに、朝日新聞が引用している「民主党候補との論争の演説(1858年)」とは、イリノイ州の上院議員選挙を民主党のスティーヴン・ダグラス候補と争った時の討論会(ディベート)です。このディベートもアメリカ史上、有名なようです。該当する部分の原文と訳を掲げておきます。


September 18, 1858

Fourth joint debate September 18, 1858. Lincoln, as reported in the Press & Tribune. Douglas, as reported in the Chicago Times.

MR. LINCOLN'S SPEECH.

Mr. Lincoln took the stand at a quarter before three, and was greeted with vociferous and protracted applause; after which, he said:

LADIES AND GENTLEMEN: It will be very difficult for an audience so large as this to hear distinctly what a speaker says, and consequently it is important that as profound silence be preserved as possible.

While I was at the hotel to-day an elderly gentleman called upon me to know whether I was really in favor of producing a perfect equality between the negroes and white people. [Great laughter.] While I had not proposed to myself on this occasion to say much on that subject, yet as the question was asked me I thought I would occupy perhaps five minutes in saying something in regard to it. I will say then that I am not, nor ever have been in favor of bringing about in any way the social and political equality of the white and black races, [applause]---that I am not nor ever have been in favor of making voters or jurors of negroes, nor of qualifying them to hold office, nor to intermarry with white people;《 and I will say in addition to this that there is a physical difference between the white and black races which I believe will for ever forbid the two races living together on terms of social and political equality.》 And inasmuch as they cannot so live, while they do remain together there must be the position of superior and inferior, and I as much as any other man am in favor of having the superior position assigned to the white race. I say upon this occasion I do not perceive that because the white man is to have the superior position the negro should be denied everything. I do not understand that because I do not want a negro woman for a slave I must necessarily want her for a wife. [Cheers and laughter.] My understanding is that I can just let her alone. I am now in my fiftieth year, and I certainly never have had a black woman for either a slave or a wife. So it seems to me quite possible for us to get along without making either slaves or wives of negroes. (以下略)

Collected Works of Abraham Lincoln Volume 3
Fourth Debate with Stephen A. Douglas at Charleston, Illinois
http://quod.lib.umich.edu/l/lincoln/

(下線部分の日本語訳)

では、つぎのことから申し上げておきたい。私はどのようなやり方であっても、白人種と黒人種の社会的、政治的平等をもたらすことに賛成ではありませんし、いまだかつて賛成したこともありません(拍手)。また黒人を有権者とか陪審員にすることにも、黒人に官職を保有する資格を与えたり、白人と人種間結婚する資格を与えることにも賛成ではありません。いまだかつて賛成したこともありません。《そして付け加えて言うと、白人種と黒人種には身体的相違があり、従って2つの人種が社会的、政治的平等のもとに生きることは永久に禁じられていると信じます。》黒人はそのように生活することができないのですから、わが国に一緒にとどまっているかぎり、優越した地位と劣等な地位がなければなりませんし、私はだれにも劣らず、白人種に割り当てられた優越した地位に立つことに賛成であります。

ハワード・ジン
「民衆のアメリカ史(上)」
猿谷 要 監修 富田 虎男 訳
(TBS ブリタニカ。1982)より引用

なお、リンカーンのスピーチにおける《 》の部分は「民衆のアメリカ史」では引用が省略されているので、試訳を追加した。

続く


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