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No.77 - 赤毛のアン(1)文学 [本]


赤毛のアン


No.61「電子書籍と本の進化」で、注釈が重要な本の例として『赤毛のアン』(ルーシー・モード・モンゴメリ著。1908)を取り上げました。この本が英米文学や聖書からの引用に満ちているからです。

また No.76「タイトルの誤訳」でも『赤毛のアン』のオリジナルの題名が「グリーン・ゲイブルズのアン」であることに加えて、文学からの引用について書きました。この本は「大人のための本でもある」という主旨です。

今回はこの小説の魅力を書いてみたいと思います。とっかかりは、この本に盛り込まれた英米文学からの引用です。前にも書きましたが、英米文学や聖書からの引用を全く意識しなくても『赤毛のアン』を読むには支障がないし、十分に魅力的で面白い小説です。しかし実は過去の文学からの引用が『赤毛のアン』の隠された魅力のもとになっていると思うのです。

以降、原則として題名を『アン』と略記します。


松本侑子ゆうこ・訳『赤毛のアン』


赤毛のアン.jpg
L.M.モンゴメリ作。松本侑子訳
「赤毛のアン」(集英社。1993)
この本が英米文学や聖書からの引用、パロディに満ちていることを知ったのは、松本侑子・訳『赤毛のアン』(1993年。集英社)を読んでからでした。この訳には巻末に187個もの注釈がつけられていて、その多くが引用注です。

松本さんはこの本を文庫化するときに訳文を見直し、新たに判明した引用を含めて注釈を充実させました。松本侑子・訳『赤毛のアン』(2000年。集英社文庫)には、約300の注釈がつけられています。

さらに松本さんは、引用された英米文学とモンゴメリの引用意図を解説した『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』(2001年。集英社)を出版しました。題には「シェイクスピア」とありますが、シェイクスピアを含む英米文学からの引用(聖書を除く)を解説したものです。

ちなみに、松本さんの本の「訳者あとがき」に次のような話が書かれています。


「赤毛のアン」が1908年に発表されたとき、当時73歳だったマーク・トウェイ ンは「アリス以来の愉快きわまる存在だ」という賛辞をモンゴメリに書き送っ た。

松本侑子・訳『赤毛のアン』
訳者あとがき(集英社。 1993)

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)は、言葉遊びとパロディに満ち溢れていて、この本を注釈なしで読んでも面白さは半減してしまいます。さすがですね、文豪、マーク・トウェインは。『アン』に文学からの引用とパロディが数々あることにすぐに気付いたのでしょう。

赤毛のアン(文庫版).jpg 赤毛のアンに隠されたシェイクスピア.jpg
L.M.モンゴメリ作。松本侑子訳
「赤毛のアン」(集英社文庫。2000)
松本侑子「赤毛のアンに隠され
たシェイクスピア」(集英社。2001)

以降は松本さんの3つの本の内容に従って、まず『アン』に含まれる引用の例を紹介したいと思います。引用の数は多数です。その中から数個をピックアップします。


英米文学からの引用の例(1)


小説の最初の方で、アンは孤児院からグリーン・ゲイブルズのカスバート家にやってきますが、実はカスバート家は「男の子を」という要望を出していたのに、手違いでアンが来てしまったのです。アンは孤児院に返されることになり、マリラ・カスバートはアンを馬車に乗せて出発します。その道すがら、アンが自分の生い立ちをマリラに語りる場面です。アンは死んだ両親のことも話します。

以下、引用中のアンダーラインは原文にはありません。)

「・・・・・。ウォルターとバーサ。すてきな名前でしょう? 両親がきれいな名前でよかったわ。もし、ジェデダイアなんていうお父さんだったら、生涯の重荷になったでしょうね」

「人は名前よりも、行いが肝心ですよ」 マリラは、ためになる教訓も垂れるべきだと、ここぞとばかりに言った。

「そうかしら」アンは思いにふけった顔をした。「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇があざみとか座禅草スカンク・キヤベツという名前だったら、あんないい香りはしないはずよ。・・・・・」

第5章「アンの生い立ち」
松本侑子・訳『赤毛のアン』(集英社文庫)
- 以下同じ -

アンは「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香る」という文言を「本で読んだ」と言っています。ではその本とは何でしょうか。もちろん小説の中には書かれていません。

これはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』なのです。キャピュレット家のジュリエットは、恋におちたロミオが、敵同士として憎みあってきたモンタギュー家だと知って嘆き悲しみます。そしてキャピュレット家のバルコニーでロミオへの想いを語ります。それを実はロミオが聞いているという、ドラマの最初の方のヤマ場というか劇的な場面です。ジュリエットのせりふは「おお、ロミオ、ロミオ。どうしてあなたはロミオ?」で始まるのですが(この部分は非常に有名)、アンが引用した文言はその後に出てきます。


・・・・・・・・

ジュリエット
おお、ロミオ、ロミオ! どうしてあなたはロミオ?
お父様と縁を切り、ロミオという名をおすてになって。
それがだめなら、私を愛すると誓言して、
そうすれば私もキャピュレットの名をすてます。

ロミオ》(傍白)
もっと聞いていようか、いま話かけようか。

ジュリエット
私の敵といっても、それはあなたのお名前だけ、
モンタギューの名をすてても、あなたはあなた。
モンタギューってなに? 手でも足でもない、
腕でも顔でもない、人間のからだのなかの
どの部分でもない、だから別のお名前に。
名前ってなに? バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま
だからロミオというお名前をやめたところで
あの非のうちどころのないお姿は、呼び名はなくても
そのままのはず。ロミオ、その名をおすてになって、
あなたとかかわりのないその名をすてたかわりに、
この私を受けとって。

・・・・・・・・

シェイクスピアロミオとジュリエット
第2幕 第2場より
(小田島 雄志・訳。白水社。1985)

引用の部分を原文で対比してみると、

 シェイクスピア 

That which we call a rose by any other name would smell as sweet

 モンゴメリ 

I read in a book once that a rose by any other name would smell a sweet

です。アンはドラマチックな悲劇が大好きで、ロマンチックなシーンも大好きです。『ロミオとジュリエット』という悲劇の中のジュリエットのこの告白は、いかにもアンが好みそうです。

この引用部分はアメリカのマクミラン社の「引用句辞典」にも載っている有名な句のようです(従ってアンが読んだ本がこの句を引用した本だという可能性はある)。文学好きな人の中にはアンが言っている本が『ロミオとジュリエット』だと分かる人もいるでしょう。だがそういう人ばかりではなく、特に少年少女ではそうでしょう。『アン』を読む多くの人はアンの言っている本とは何か、そのかすかな疑問を残しつつ読み進むと思います。

この部分は、出典は分からないまでも引用だと分かるように書いてあります。また『アン』の中には「引用符でくくってある表現」や「段落を分け、字下げをしてある表現」があり、引用したことを明確にしている部分が多々あるのです。


英米文学からの引用の例(2)


では次のような表現はどうでしょうか。

第23章「アン、名誉をかけた事件で憂き目にあう」で、アンは屋根から落ちて足首を骨折してしまいます。そして7週間のあいだ、自宅で療養します。10月、アンはようやく学校に戻れるようになります。第24章「ステイシー先生と教え子たちの演芸会」の冒頭は、親友のダイアナと通学できるようになったアンの様子から始まります。


二度めの十月がめぐりきて、アンは、ようやく学校に戻れるようになった。あたり一面、赤と金に色づいて輝くような十月。夜が明けると、柔らかな陽ざしをあびて、淡いもやが谷間に立ちこめる。朝もやは、紫水晶の色、真珠の色、銀色、薔薇ばら色、そして青灰色スモーク・ブルーと、まるで秋の妖精が、太陽にのみほさせようと谷間に注ぎこんだ美酒のようだった。朝露あさつゆが一面におりた野原は、銀で織った布のようにきらきらする。落葉樹にかこまれた窪地くぼちは、かさこそする枯葉にうずもれ、かけ抜けるとぱりぱりと音がする。そしてかばの道は、黄色くなった葉の天蓋てんがいにおおわれ、道にそって羊歯しだが、茶色くからびていた。少女たちの胸を弾ませるぴりっとするかんばしさが秋の空気には漂っていて、二人は、かたつむりとは似ても似つかぬ軽快な足どりで、いそいそと学校へかけていった。小さな茶色の机にむかい、またダイアナと並んですわるのは、なんとうれしいだろう。

・・・・・・・・

第24章「ステイシー先生と教え子たちの演芸会」

Anne of Green Gables - Puffin Books 1994.jpg
(Puffin Books 1994)
『アン』の魅力の一つはプリンス・エドワード島の美しい四季の描写なのですが、この第24章の冒頭もそうです。久しぶりに学校に通えるようになったアンのうきうきした気持ちが、美しい秋の自然描写と重ねあわされています。読者はこのような文章を読んで、次に何が起こるのか(タイトルからすると演芸会のようです)期待しながらページをめくるわけです。

しかし引用した文章には、よく読むと引っかかるところがあります。それは学校に向かうアンとダイアナの様子を「かたつむりとは似ても似つかぬ軽快な足どりで」と形容していることです。これはちょっと変です。

普通、こういう時の描写に動物を持ち出すなら、たとえば「野ウサギのような軽快な足どりで」というようにするはずです。しかしモンゴメリはわざわざ軽快とは正反対の「かたつむり」を持ち出し、それと「似ても似つかぬ」とすることでアンとダイアナがいそいそと学校に向かう姿を表現している。

これはシェイクスピアのお気に召すままにある表現のパロディなのです。『お気に召すまま』の中で、弟に追放された前公爵(老公爵)の家臣であるジェークイズのせりふにでてきます。ジェークイズは世間を冷ややかに見る皮肉屋で厭世家です。


・・・・・・・・

老公爵
どうだ、不幸なのわれわれだけでない、
この広大な世界という舞台の上では、われわれが
いま演じている場よりもはるかに悲惨な芝居が
演じられているのだ。

ジェークイズ
この世界はすべてこれ一つの舞台、
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる、
年齢によって七幕に分かれているのだ。まず第一幕は
赤ん坊、乳母に抱かれて泣いたりもどしたり。
次は泣き虫小学生、カバンぶら下げ、輝く朝日を
顔に受け、歩く姿はカタツムリ、いやいやながらの

学校通い。さてその次は恋する若者、鉄をも溶かす
炉のように溜息ついて、悲しみこめて吐き出すは
恋人の顔立ちたたえる歌。・・・・・・・

・・・・・・・・

シェイクスピアお気に召すまま
第2幕 第7場より
(小田島 雄志・訳。白水社。1986)

引用の部分を原文で対比してみると

 シェイクスピア 

creeping like snail unwillingly to school

 モンゴメリ 

tripping, unlike snails, swiftly and willingly to school

です。モンゴメリはアンとダイアナが朝日の中を学校へ通う描写を考えたときに、直感的にシェイクスピアの「輝く朝日を顔に受け」が頭に浮かんだのです。そして、シェイクスピアの「creeping like snail unwillingly」を拝借して「tripping unlike snails willingly」とシャレた。引用句辞典に載っているわけでもなく、さして有名でもない語句やシーンが頭に浮かぶ・・・・・・。モンゴメリはシェイクスピアをそうとう読み込んでいる証拠だと考えられます。

この部分は、引用だとかパロディだとか分かるようには書いてありません。そしてこの箇所だけでなく『アン』の中には、引用だとは分からないが、よく読めばこれは引用なのではと思える箇所が実に多いのです。

Prince Edward Island -5.jpg
(カナダ:Prince Edward Island のホームページより)


英米文学からの引用の例(3)


シェイクスピアから離れて、アメリカ文学からの引用です。

『アン』の第31章は「小川と河の出会うところWhere the Brook and River Meets)」と題されています。アンは既にクィーン学院を受験することが決まっていて、夏休みが過ぎ、新学期になってからは受験勉強に邁進し、冬から春へと季節が過ぎていきます。そこまでを書いた章です。

不思議なのは「小川と河の出会うところ」というタイトルです。『アン』の目次をざっと眺めてみれば一目瞭然なのですが(下表)、普通『アン』の全38章のタイトルはその章の内容を具体的に表す名前がついています。題名を見ただけで章の内容が推測できるものがほとんどだし、推測できないまでも中身を読めば題名の意味が一発で分かります(第28章「不運な百合の乙女」、第36章「栄光と夢」、第38章「道の曲がり角」など)。

ところが第31章だけは違います。この章には小川も河も出てきません。もちろん「出会うところ」も出てこない。この章を読んでも、なぜ「小川と河の出会うところ」なのか分からないのです。ということは、小川(brook)や河(river)は何かの象徴だと考えられます。第31章に含まれる何かの・・・・・・。

「赤毛のアン」全38章のタイトル

 1. レイチェル・リンド夫人の驚き 20. 豊か想像力、道を誤る
 2. マシュー・カスバートの驚き 21. 風変わりな香料
 3. マリラ・カスバートの驚き 22. アン、お茶会に招かれる
 4. グリーン・ゲイブルズの朝 23. アン、名誉をかけた事件で憂き目にあう
 5. アンの生い立ち 24. ステイシー先生と教え子たちの演芸会
 6. マリラの決心 25. マシュー、パフスリーブにこだわる
 7. アンのお祈り 26. 物語クラブの結成
 8. アンの教育、始まる 27. 虚栄心、そして苦悩
 9. レイチェル・リンド夫人、呆れかえる 28. 不運な百合の乙女
10. アンのお詫び 29. 一生忘れられない思い出
11. 日曜学校の印象 30. クィーン学院受験クラス、編成される
12. おごそかな誓いと約束 31. 小川と河が出会うところ
13. 待ち焦がれる愉しさ 32. 合格発表
14. アンの告白 33. ホテルの演芸会
15. 学校での一騒動 34. クィーン学院の女子学生
16. お茶会、悲劇に終わる 35. クィーン学院の冬
17. 新たな生き甲斐 36. 栄光と夢
18. アン、救援に行く 37. 死という命の刈りとり
19. 演芸会、悲劇、そして告白 38. 道の曲がり角

松本さんの注釈によると、第31章の題名はアメリカの詩人、ロングフェローの『乙女』という詩からとられています。


乙女
ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー

・・・・・・・・

乙女よ! はにかんだ茶色の目をして
その瞳には、翳りがやどる
まるで黄昏の空に雲がたなびくように

されど巻き毛は、陽光のように輝く
その金の髪を一つにたばねている
まるで流れゆく小川を編んだように

おぼつかない足取りで立っている
小川と河が出会うところ
女らしさと子どもらしさが流れていく

内気そうな目で見つめる
小川のすばやく流れるさまを
河が大きく広がりゆったりと流れてゆくさまを

・・・・・・・・

松本 侑子『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア
(2001年。集英社)より引用

松本さんは自身のホームぺージでこの詩の全文を公開しています(モンゴメリ・デジタル・ライブラリ)。それによると、引用の所とその直後の原文は、

 Where the brook and river meet,
 Womanhood an childhood fleet !

です。

これで第31章の題名の意味が明らかになりました。小川(brook)とは「子ども」の、河(river)とは「女」の象徴なのです。原文は womanhood / childhood なので、松本さんの訳のように「女(子ども)らしさ」でもよいし、「女(子ども)であることのゆえん、特性」と考えてもよいでしょう。

第31章はアンが「子ども」と「女」の境にいること、ないしはアンが「子ども」から「女」に変わっていくことを示しています。第31章で印象的なのはアンの背丈が急速に伸びたという記述です。アンの身長はマリラを追い越してしまいます。そして松本さんは第30章と第31章の次の記述に注目しています。


その晩、家に帰ると、アンは、屋根裏部屋の古いトランクに、教科書を全部しまい、かぎをかけた。鍵は、毛布の箱にぽいと入れた。

「夏休みの間、教科書は見ないことにするわ。学期中は一生懸命に勉強したもの。幾何だって、第一巻の定理を全部暗記するほど読んだわ。定理の中の文字アルファベットを変えても、もう大丈夫よ。固苦しいことにはもう飽き飽きしたから、この夏は、思いきり奔放ほんぽうに想像の羽をのばすわよ。ああ、マリラ、心配しないで。妥当だとうな線でやめておくから。でも、とびきり愉しい夏にしたいの。だって、この夏は、少女として過ごす最後の夏かもしれないもの。リンドのおばさんが言ってたけど、今年みたいな調子で背が伸びるなら、来年は私のスカート丈を、もっと長くしなくてはならないんですって。この子はみるみる足が伸びて、目が大きくなるって言っていたわ。大人と同じような長いスカートをはくなら、それに恥じないように堂々としなくてはね。でも、そうなったら、もう妖精を信じられなくなるかもしれないわ。この夏のうちに、全霊をこめて妖精を信じるわ。・・・・・・」

第30章「クィーン学院受験クラス、編成される」

アンが変わったのは体だけではなかった。歴然とした変化が、ほかにもあった。その一つは前よりずっと口数が少なくなったことだ。おそらく、前にも増してもの思いにふけり、また、いつもながら夢想を楽しんでいるのだろうが、それなのにめっきり無口になったのだ。マリラもこれには気づいていた。

「あんたは、前の半分もしゃべらなくなったね。大げさな言葉づかいもしなくなったし、どうしたんだね?」

アンはちょっとほおを染め、はにかむように笑うと、読みさしの本を置き、夢見るように窓の外を眺めた。春の陽ざしに誘われて、窓辺のつたから、赤い芽がえいで、ふっくらとふくらんでいた。

第31章「小川と河の出会うところ」

松本さんは、ロングフェローの『乙女』の詩と、第30章の「この夏は、少女として過ごす最後の夏かもしれないもの。」というアンの発言、そして第31章の「アンが変わったのは体だけではなかった。歴然とした変化が、ほかにもあった。」という記述の三つを総合して「アンは第31章で初潮を迎えたことが暗示されているのでは」と推測しています。第31章でアンは14歳です。そしてアンには少なくとも3つの歴然とした変化があったと読めます。一つは身長が急速に伸びたことです。二つ目は口数が少なくなったことで、モンゴメリが書いた「歴然とした変化」はここまでです。それでは3つ目は・・・・・・。

これは極めて妥当な推測のように思えます。モンゴメリは第31章のタイトルだけを特別なやりかたでつけています。大多数の読者は知らないロングフェローの詩を引用し、それも第31章を象徴的に表す部分を引用している。そして小川(brook)と河(river)に意味を込めた。こうまでして題をつけるからには、この章に隠された意味があると考えるのが自然です。その隠された意味が松本さんの推測どおりだったとしても意外ではない。

『アン』は、一人の少女の11歳から16歳までの物語です。モンゴメリは、特別なやりかたでタイトルをつけた第31章で、11歳から16歳までの少女に起こる最も特別なことを書いた。いや、最も特別なことを書かなかった。ただ、章の題名だけでひそかに暗示した・・・・・・。ありうることだと思います。

Prince Edward Island -1.jpg
(カナダ:Prince Edward Island のホームページより)

以上に紹介したシェイクスピアの2つの戯曲とロングフェローの詩からの引用の例は、『アン』における引用の極く一部です。松本さんの『赤毛のアンにかくされたシェイクスピア』には、シェイクスピアの8作品、それに加えて英米の作家の30作品以上からの引用が紹介されています。アーサー王伝説を踏まえた第28章「不運な百合の乙女」に至っては、章全体が英国の詩人・テニスンの『ランスロットとエレーン』のストーリー展開にそって進み、詩からの引用も多数あることが明らかにされています。

モンゴメリが引用した作家は、文学史上に名を残した人もいます。シェイクスピアをはじめ、テニスン、ディケンズ、ルイス・キャロル、ワーズワース、バイロン、ロングフェローなどです。しかしそれはむしろ少数で、多くはモンゴメリと同時代に近い作家であり、現代では英米でさえ読む人が(ほとんど)いない作家です。

このような作家の作品を引用するモンゴメリの書き方は、上に紹介したシェイクスピアからの引用でも分かるように、

引用だと分かるようにかいてある箇所
引用だとはすぐには分からないが、よく読めば引用ではないかと思える部分

の二つに分かれます。そして引用だとはすぐには分からない方が圧倒的に多い。松本さんも「引用ではないかと思われるところ」をリストアップし、丹念に文献をあたり、また本国・カナダの研究者の「発見」も総合して『アン』の注釈を書いたわけです。

だとすると、松本さんの本には指摘されていない引用がまだあると推測するのが自然です。さきほど書いたようにモンゴメリは「現代ではほとんど知られていない作家の作品」から多数を引用しているので「疑わしい」わけです。

たとえば次のような箇所はどうでしょうか。第15章の冒頭です。


「なんてすてきな日でしょう!」アンは深々と息を吸いこんだ。「今日のような美しい日に生きているなんて、それだけで嬉しいわね。まだ生まれていない人は、今日という日を逸してしまうから気の毒だわ。もちろん、その人たちも、いつかはすばらしい日にめぐりあうでしょうけど、今日という日は絶対に味わえないもの。それに、こんなにきれいな野山の道をぬけて学校へ行くなんて、なおさらすてきだわ」

・・・・・・・・

第15章「学校での一騒動」

引用はどこにもないようです。少なくとも松本さんの本には書いていない。しかしちょっと引っかかるのですね。「まだ生まれていない人は、今日という日を逸してしまうから気の毒」という言い方で、今日の日の素晴らしさを表現するアンの発言が・・・・・・。こういうモノの言い方は、11歳の子どもにはちょっとそぐわない感じがします。

確かに、アンは「大袈裟な言い方」が大好きで、たとえば「我が生涯最大の悲劇的失望(the most tragical disapointment of my life)」などと言っています。子どもの発言としてはそぐわない感じですが、英語でしゃべると単に大袈裟なだけなのでしょう。

しかし上に引用した所は大袈裟という以上に「技巧的な言い方」です。何だか演劇での俳優のせりふ、言い回しのような感じがする。これは何かの引用か、引用ではないにしても何かの文学作品を踏まえているのではないでしょうか。全くの推測ですが・・・・・・。違うかもしれません。しかし何となく「引っかかる」。

松本さんやカナダの研究者の指摘を越えて、こういった箇所がまだまだあるのが『アン』という小説です。そもそもモンゴメリが引用だと明示している箇所で出典が不明なところさえあるのです。松本さんの本には「引用出典不明」と書いてあります。

隠された引用や過去の文学作品を踏まえた表現・・・・・・。それが読者からすると何となく「引っかかる」。それらはかすかな「謎」として読む人の脳裏に残り、それがまたこの小説の魅力ともなっていると思うのです。

次回に続く)


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