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No.78 - 赤毛のアン(2)魅力 [本]


文学から文学を作るという手法


前回に続いて『赤毛のアン』(『アン』と略)の話です。松本 侑子さんは『アン』に引用されている英米文学(以下、テクストと記述)を調べて重要な指摘をしています。それは、モンゴメリが単にテクストから文言だけを抜き出して引用したのではなく、テクストに書かれている物語とその内容を十分に踏まえた上で、引用を盛り込んだ『アン』の文章を書いている、という指摘です。

典型的な例は、前回の No.77「赤毛のアン(1)」で紹介したアメリカの詩人・ロングフェローの『乙女』という詩です。モンゴメリはこの詩の内容を踏まえた上で『アン』の第31章を書いた。それは明らかです。そして、そのことのひそかな(誰も気づかないであろう)しるしとして『乙女』の一節を章の題名にもってきた。



別の例をあげると、第2章でマシュー・カスバートは孤児院からやってくるアンを駅に迎えに行きます。その第2章の冒頭はこうです。


マシュー・カスバートと栗毛馬くりげうまは、ブライトリバーへの八マイルの道のりを、とことこと気持ちよく進んでいた。それは美しい道行きだった。よく手入れされた農場を通り過ぎ、時にはバルサムの匂いもかぐわしいもみの林を抜け、また時には、野生のすももプラムがこぼれんばかりに花をつけて白くかすんでいる窪地くぼちを通った。

そこかしこにある林檎園りんごえんから吹く風にのって、空気は爽やかに香った。若々しい緑の牧草地はなだからに遠くまで広がり、地平線のあたりで真珠色と紫色にかすんでいた。一方、

  小鳥たちは歌っていた。あたかも今日が
  一年でただ一日の夏の日であるかのように

マシューは、ひとまず、この遠出をたのしんでいた。・・・・・・

第2章「マシュー・カスバートの驚き」
松本侑子・訳『赤毛のアン』(集英社文庫)
- 以下同じ -

赤毛のアン(文庫版).jpg
L.M.モンゴメリ作。松本侑子訳
「赤毛のアン」(集英社文庫。2000)
「小鳥たちは・・・」の部分は段落を分けて字下げがしてあります。原文もそうなっています。引用であることを明確にしているのです。

この引用は、美しい初夏の情景を際立たせるためと思えます。しかし単にそれだけではない。出典はアメリカの詩人・批評家のローウェルという人が書いた『サー・ローンファルの夢想』(1848)という詩の一節です。この詩は、アーサー王の円卓の騎士の一人であるサー・ローンファルが聖杯の探索に出かけた時を詠った詩です。つまりモンゴメリは「円卓の騎士が聖杯を探索する旅」に「マシューが孤児院からくるアンを迎えに行く8マイルの旅」を重ね合わせて第2章を書いている。未婚のマシューにとって子どもを家に迎えるというのは全く初めての体験であり、ブライトリバー駅までの道のりは「未知との遭遇」のための「旅」なのです。



もう一つだけ例をあげると、第21章「風変わりな香料」においてカスバート家は新任の牧師夫妻(アラン夫妻)を招いて「お茶会」を開きます。マリラはたくさんの料理を用意し、アンもケーキを作ります。


・・・・・・・・

マシューも、とにもかくにも席についていた。どんなふうに言いくるめられて、この場にかつぎ出されたかは、神とアンのみぞ知るだった。お茶会の話を聞かされたマシューは、恥ずかしがるやら怖気おじけづくやらの有様で、マリラはさじを投げてしまったが、そこはうまくアンがとりなしたおかげで、こうして今、彼は、白いえりのついた一張羅いっちょうらを着こみ、テーブルについていた。そして、そうつまらなくもなさそうに、牧師と話をしていた。アラン夫人とは口をはさまなかったが、そこまで望むのは、贅沢ぜいたくというものであろう。

すべては、結婚式の鐘のように愉しく過ぎ、いよいよ、アンのレイヤーケーキが回される番になった。何がなんだか分からなくなるくらいいろいろな料理が出たあとだったので、アラン夫人は遠慮えんりょした。しかし、アンのがっかりした顔の気づいたマリラが、にこやかに言った。

「まあアラン夫人、一切れ、召し上がってください。奥様のためにと、アンが腕によりをかけたんですよ。」

・・・・・・・・

第21章「風変わりな香料」

この章は「お茶会」を開く経緯やその準備、会が終わったあとの記述に費やされていて、アンの作ったケーキが出るまでの「お茶会」そのものの様子は「すべては、結婚式の鐘のように愉しく過ぎ」しかありません。ここで「結婚式の鐘」を持ち出すのは少々違和感があるのですが、これは英国の詩人・バイロンの詩の引用なのです。

バイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』第3巻の中に、ある舞踏会を詠った以下の一節があります。この中からの引用です。


第21連

夕べには酒宴の音が響き、
ベルギーの首都は国中の
佳人と騎士を集めていた。灯りは
美しい女と勇敢な男の上に輝いた。
幸せに満ちた千の胸が動悸した。
官能的な楽の音が高まると
優しい瞳が愛を伝え、瞳がそれに答えた。
すべては婚礼の鐘のように楽しげだった
が、耳をすませ! とむらいの鐘のような低い響きを!

バイロン『チャイルド・ハロルドの巡礼』第3巻
(東中稜代・訳)
松本侑子『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』より引用

これは1815年6月15日に、当時のフランス軍の支配下にあったブリュッセルで開催された舞踏会の様子です。そして「婚礼の鐘」の直後のセンテンスにある「弔いの鐘のような低い響き」とは、ワーテルローの戦いの火蓋が切って落とされた、その砲火の響きです。ヨーロッパ史で有名なワーテルローの戦いは、フランス軍(ナポレオン軍)が、イギリス・オランダ・プロイセン軍に大敗する結果となりました。

そして『アン』においても、すべては愉しく過ぎたお茶会は、最後に出されたアンが作ったケーキによって失敗に終わるのです。



赤毛のアンに隠されたシェイクスピア.jpg
松本侑子「赤毛のアンに
隠されたシェイクスピア」
(集英社。2001)
小川と河の出会うところにたたずむ乙女(前回)、聖杯を探す円卓の騎士、ワーテルローの戦い前夜の舞踏会と、引用されたテクストの内容を取り上げましたが、要するにモンゴメリは『アン』を書くにあたって「文学から文学を作る」という手法を使っています。「乙女」の詩はまだしも、円卓の騎士やワーテルロー前夜の舞踏会は『アン』の物語と何の関係もありません。しかし作者は『アン』の要所要所で自分が親しんだテクストを思い出し(あるいは読み返し)、テクストの内容を踏まえた上で『アン』の文章を書いている。この手法が『アン』という物語に表現の幅と深みをもたらし、また独特の雰囲気を作り出しているのだと思います。

文学から文学を作るのは「最もオーソドックスな文学の作り方」であり、その手法はいろいろあります。引用はその一つです。そもそもモンゴメリが多数引用しているシェイクスピアのほとんどの戯曲には、先人が書いたタネ本や詩、歴史書があるわけですね。それをもとにシェイクスピアは数々の名作を書いた。

過去から蓄積された文学の層がベースにあり、その上に作家の独自性で個性を光らせる。文学作品の本来のありかただと思います。


『アン』の魅力(1)文学から文学を作る


以上を踏まえて『アン』という小説の魅力を整理してみたいと思います。まず「文学から文学を作る」というモンゴメリのやり方が『アン』という小説の潜在的な、隠れた魅力になっているのだと思います。

アンは「ある本で読んだけれど」と前置きして、本からの引用を言ったりします。読者はその本が何か分からないけれど、アンは知っている。また引用符や段落分けで「引用だとわかるようになっている箇所」があります。作者は元の小説や詩を知っているけれど、読者は知らない

アンやモンゴメリは知っているけれど、私は知らない。これは読者にとっての「謎」として残ることになります。

さらに『アン』の文章には、引用とは分からないが、ちょっと異質だな、引っかかるな、と思える箇所が随所にあるのです。前回の No.77「赤毛のアン(1)」で紹介した「かたつむりとは似ても似つかぬ軽快な足どりで」のたぐいです。読者はもちろんこれがシェイクスピアのパロディだとは分からない。しかしここでなぜ「かたつむり」が出てくるのか、かすかな「謎」です。

もちろん読者はそんなことをいちいち気にかけることなく読み進みます。しかし次々と現れる「かすかな謎」は、読者に潜在意識として残ると思います。『アン』には謎めいたところがあるという無意識の思いが残る。これが『アン』という物語を魅力的にし、読者を「引き込む」要素になっているのだと思います。

登場人物の心理や物語の進行などのすべてが理路整然と解明できるより、ところどころに「謎」や「不思議さ」や「不可解さ」がある。そういった小説のほうが魅力的なのです。それは実社会や自然界に人間が説明できないことが多々あるのと相似型です。

Prince Edward Island -2.jpg
(カナダ:Prince Edward Island のホームページより)


『アン』の魅力(2)美しい自然と四季の描写


『アン』の潜在的な魅力となっている文学作品からの引用を離れて、ここからは『アン』の直接的な魅力についてです。

『アン』の大きな魅力は、プリンス・エドワード島の美しい自然と四季の描写でしょう。前回の No.77「赤毛のアン(1)」で紹介したように、シェイクスピアの「お気に召すまま」が引用されている第24章「ステイシー先生と教え子たちの演芸会」の冒頭は、島の秋の情景描写で始まりました。そのちょうど1年前の秋は、第16章「お茶会、悲劇に終わる」の冒頭にあります。


グリーン・ゲイブルズの十月は美しかった。秋の陽ざしを浴びて野原がひなたぼっこをしている間に、窪地くぼち白樺しらかばは、日光のような金色に染まり、果樹園の裏手のかえではみごとな深紅しんくに変わり、そして小道の山桜は、濃い赤と青銅色ブロンズあやをなす美しい色合いを帯びていった。

・・・・・・・・

第16章「お茶会、悲劇に終わる」

日本人は四季の変化を愛でる国民だということが言われていて、それはその通りだと思いますが、根本のところにあるのは日本が四季の変化に富む自然風土の中にあることです。風土が人間の意識を作る。そしてプリンス・エドワード島も四季の変化の土地なのです。

上の引用でモンゴメリは秋の紅葉(カエデ、山桜)の美しさを描写しています。日本では一般に桜は「花」が注目されます。『アン』でも桜の花の描写はいろいろあって、たとえばアンがはじめてグリーン・ゲイブルズに来て一夜を過ごし、翌朝まず目にするのは窓辺の満開の桜です(第4章「グリーン・ゲイブルズの朝」)。しかし、上の引用の中でモンゴメリが描いた山桜の葉の紅葉濃い赤と青銅色の綾をなす美しい色合い)は普通、日本人があまり注目しない点でしょう。そう言えばカエデも紅葉だけでなく、春にカエデの樹々が真っ赤な芽をふくという描写があります(第20章の冒頭)。このあたりがモンゴメリの細やかなところです。

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ソメイヨシノ
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ヤマザクラ
これは写真ではなく作者が描いた絵である。プリンス・エドワード島の山桜が日本の桜のどれに近いかは分からないが、モンゴメリの描写した「濃い赤と青銅色の綾をなす美しい色合い」はこのような感じだと想像できる。


『アン』の魅力(3)アンの個性


『アン』の最大の魅力はアンの個性です。つまり、アンという少女そのものの魅力です。それは読者の誰しもが感じることでしょう。

まずアンは大変なおしゃべりで、マリラがあきれるぐらいの饒舌家です。自分の思いをしゃべらせたら止まらなくなる。

彼女は本が好きで、特に泣かせるストーリーや詩が大好きです。本からの知識という意味では博識で、暗記している詩もあります。詩の暗誦も得意です。暗誦が得意だからでしょうか、時に文語調でしゃべったりします。大げさな言い方や芝居がかった言葉使いが得意で「私の人生は終わったわ」「我が生涯最大の悲劇的失望」「私の生涯は悲しみの黒雲でおおわれるでしょう」などの言い方をします。「私の人生の(生涯の)・・・」というのはアンの口癖に近い。

本が好きなアンはロマンチストで、空想にふけるのが大好きです。自分で物語を作るのも好きで、特に悲劇のヒロインを演じたり、自分をその主人公になぞらえたりします。妖精も大好きです。

その一方で懐疑主義者の面もあり、常識にとらわれないリアリストでもある。「見た目より心」という常識的な教えに対しても「そんなこと信じられない」という思いをもっています。前回の No.77「赤毛のアン(1)」で紹介した「薔薇はどういう名前であっても甘く香る」というジュリエットのせりふについても「そんなことはない」と言っていますね。

アンはかなり興奮しやすいたちです。すぐ頭に血がのぼる。教室で赤毛をからかったギルバートに歩み寄り、彼の頭で石板を叩き割るなどはその典型でしょう。

また彼女なりのプライドも持っています。赤毛をからかわれた事件もそうですが、クラスメートに挑発されて屋根を歩き、すべり落ちて骨折してしまうのも彼女のプライドに端を発しています。

骨折事件にみられるようにアンには失敗が多い。彼女は非常にそそっかしい面があります。『アン』という物語はアンの失敗談続きです。彼女は基本的に活動的でエネルギッシュですが、それに思考が追いつかないときに失敗になる。

料理は好きではない、と自ら言っています。パッチワークも好きではない。決められた手順の繰り返しを好まないようです。

しかし彼女はひたむきで向上心が高く、努力家です。何かに打ち込む時は徹底的にやる。特に勉強です。幾何が大の苦手ですが、なんとか克服してしまう。クィーン学院ではトップの成績で大学の奨学金を手にします。

アンは率直に感情を表すタイプで、変な気取りがありません。喜んでも悲しんでも、すぐに涙を流します。しかし、あとくされがない爽やかな性格です。だけど、ちょっと風変わりなところもある。

前回の No.77「赤毛のアン(1)」で紹介した第31章「小川と河の出会うところ」を境目に、おしゃべりや、そそっかしいところは陰をひそめますが、アンの基本的な性格は変わりません。

まとめると、アンには「女の子はこうあるべきという古い価値観から逸脱している」ところがあります。さらに「自分は自分だという意志の強さ」がある。こういったアンという少女像そのものが、この本の最大の魅力でしょう。

Prince Edward Island -3.jpg
(カナダ:Prince Edward Island のホームページより)


アンとセーラの共通点


「自分は自分だという意志の強さ」について思い出すことがあります。No.40「小公女」で紹介したバーネット作『小公女』の主人公、セーラとアンの共通点です。

一見、セーラとアンの共通点は全く無いように思えます。セーラは何不自由なく育った資産家のお嬢様であり、王女のような気品とたたずまいの少女です。孤児でおしゃべりでそそっかしいアンとは全く違う。

しかし2つの点でセーラとアンは似ています。一つは2人とも空想が大好きだということです。そしてもう一つが「自分は自分だという意志の強さ」です。No.40「小公女」で紹介したように、物語の最後の方でセーラは辛かった小間使いの頃を振り返り、つぎのように言います。

  I tried not to be anything else.

私は、ほかのものにはならないようにしていたんです」というような意味ですが、実はこれと同じ主旨の発言をアンがしているのです。

第33章「ホテルでの演芸会」で、アンは島のホテルで開催されたチャリティー演芸会で詩を朗読します。観客は島の名士やホテルの滞在客のアメリカ人(ということは富裕層)です。朗読は大成功に終わるのですが、終わったあとにアンのクラスメートは語ります。ダイヤモンドをつけた服に着飾ったお金持ちたちがうらやましいと・・・・・・。これに対してアンは「でも私は、自分以外の誰にもなりたくないわ。たとえダイヤモンドには、一生、慰められることはなくても」と答えます。

アンの言った「自分以外の誰にもなりたくないわ」のところは、原文では

 I don't want to be anyone but myself.

です。これはセーラの発言にそっくりです。ひょっとしたらモンゴメリは『小公女』を踏まえているのかもしれません。『小公女』(1888)は『アン』の20年前に出版されています。ありうるかもと思います。

というのも、余談になりますが、明らかにオルコットの『若草物語』(1868)を踏まえたアンの発言があるからです。髪を染めそこなったアンがマリラに髪を短く切られる場面で

本に出てくる女の子は、熱病や気高い目的のために髪を切るというのに、私もそんな理由で髪を失うなら、半分も気にならないけど、変てこな色に染めたから切るなんて、何の慰めにもならないわ。」

第27章「虚栄心、そして苦悩」

と言っています。この「本に出てくる女の子とは若草物語の4人姉妹の次女のジョーのことですね(松本さんも指摘しています)。ジョーは父が南北戦争の戦場で病に倒れたとき、母が看病に現地に行く旅費の足しにと髪を切って売ります。

それはともかく『小公女』の作者・バーネットもモンゴメリも、人間の価値に対する似たような考えを持っているように見えます。「自分は自分だ」と言い切れることが最大の価値だという人間観。作者のそういう考えがにじみ出ているとことも『アン』の魅力なのだと思います。

Prince Edward Island -4.jpg
(カナダ:Prince Edward Island のホームページより)


「連続テレビ小説」とアン


モンゴメリが描き出したアンという少女が大変に魅力的なため、アンは小説の主人公という範囲を遙かに越えて「物語の主人公の一つの原型」というポジションになっている、というのが私の考えです。

NHKの朝の「連続テレビ小説」というシリーズがあります。いわゆる「朝ドラ」ないしは「連ドラ」です。この中に、戦前・戦後を舞台にし、以下のような女性の主人公を描いたドラマが何回かありました。

そそっかしく、失敗が多い。誤解されたりもする。
しかし明るくて、ひたむきである。
感情の起伏が大きいが、落ち込んでも回復がはやい。
全体的には、人から好かれるさわやかな性格である。
家族や郷土に対する愛情が強い。それを失わない。
努力する時には徹底的に努力する。
前向きに生きて、人生の幸福をつかみとる。

そういった女性です。これって、まさにアンなのですね。NHKの「朝ドラ」を書くまでになった脚本家は、小さいころから大の本好きで通っていたはずです。特に女性の脚本家は少女時代にまず間違いなく『アン』を読んでいるでしょう。意識するしないにかかわらず、脚本家にとってアンが「原型」となって主人公の性格が造られる。そういうケースは多いのではないでしょうか。

アンは、夏目漱石の「坊っちゃん」(1906)のように、日本人にとっての「物語の主人公の原型」になっているのだと思います。そういう小説はそんなにはない。モンゴメリの造形した「アン」の影響は大きいと思います。


電子書籍の威力


もう一度、初めに戻ります。そもそも、前回から続くこの文章の発端は No.61「電子書籍と本の進化」で注釈が重要な本の例として『赤毛のアン』を取り上げたことでした。そして、松本侑子・訳『赤毛のアン』を取り出してみて改めて思うのは電子書籍の威力です。

松本さんの引用調査は、書籍の電子化がなければ絶対に出来なかったことは確かです。もちろん電子化されている書籍は一部なので、松本さんも欧米の図書館を丹念にまわり、足でかせいで調査をしている。

しかし、たとえばシェイクスピアの全作品の全文をCD-ROM化したものがなければ判明しなかった引用もいろいろある。モンゴメリも「まさか分からないだろう」と思って引用した部分もあるのではと思います。それが判明する。加えてインターネットの発達です。有名作家の著作権が切れた書物は、自宅で居ながらにして閲覧できるようになった。これも大きい。

300個の注釈がついた『赤毛のアン』の日本語訳は、電子書籍のもたらすインパクトのごく一部の、たった一つの例に過ぎません。電子書籍(とインターネット)が人類の文化史の大きな転換点になるだろう、ということを改めて予感しました。




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