SSブログ

No.76 - タイトルの「誤訳」 [文化]

Letters to Juliet.jpg
No.53「ジュリエットからの手紙」において、この映画(2010年。米国)の原題である

  Letters to Juliet

の日本公開タイトルを

  ジュリエットからの手紙

とすることの違和感を書きました。Letters to Juliet という原題は、世界中からイタリア・ヴェローナの「ジュリエットの家」に年に何千通と届くレター、つまり女性が恋の悩みを打ち明けたレターを指しています。映画のストーリーになっているクレアが書いた手紙はその中の一通です。しかし「ジュリエットからの手紙」という日本語タイトルでは、クレアの手紙に対するソフィーの返信のことになってしまいます。この返信が映画で重要な位置にあることは確かなのですが、原作者がタイトルに込めた意味を無視してまで、反対の意味のタイトルをつける意味があるのかどうか・・・・・・と思ったわけです。

大学入試の英文和訳で「Letters to Juliet」を「ジュリエットからの手紙」と訳せば減点されるし、そもそもそういう学力の人は入試に失敗するでしょう。しかし、日本語タイトルをつけた映画配給会社の担当者の英語力が劣っているわけはないはずです。何らかの意図があってタイトルをつけている。その意図はおそらく

  興行成績を上げるために有利なタイトルは何か

という判断基準だと推測されます。「ジュリエットからの手紙」というタイトルが「興行成績のために有利」かどうかは知りませんが、あえて「誤訳」をするのはそう考えるしかないと思います。


日本語タイトルのパターン


考えてみると、外国の映画、文学、書籍、音楽、演劇、TVドラマなどが日本語に訳されたり、日本で公開・発売されるとき、そのタイトルの付け方にはいくつかのパターンがあるように思います。

 カタカナ表記型 

外国語の原題をそのままカタカナで表記するものです。固有名詞がタイトルになっている場合は、当然これが多いですね。『ジェーン・エア』(1847年、英国。シャーロット・ブロンテの小説)、『タイタニック』(1997年。米映画)などです。

「訳しにくいものは、あえて訳さない」というのもあります。英語を考えてみても、言葉の文化的・社会的背景が日本語と全く違うので、短い日本語で的確に置き換えるのが困難なことがある。フィッツジェラルドの名作『The Great Gatsby』は、以前は『華麗なるギャツビー』とされたこともありましたが、今は『グレート・ギャツビー』が多いですね。村上春樹さんもそう訳しています。Great という単語のとらえ方の問題です。

アーティスト』(2011年。仏映画。アカデミー賞・作品賞などを受賞)に見られるように、カタカナ表記が日本語としてそのまま通じるものもあります。またポピュラー音楽のようにカタカナ表記が広く定着しているジャンルもあります。

 オリジナル重視型 

一般的に作品のタイトル(オリジナルのタイトル。原題)は、作家、作詞家、映画プロデューサ、脚本家などが考え抜いてつけるのが普通です。作品はできているのにタイトルが決まらない、というような話もよく聞きます。

オリジナル重視型というのは、原題の意味や、作家がタイトルに込めた思いをできるだけ尊重しつつ、それを日本語で表現して日本語タイトルをつけるタイプです。

もちろんシンプルに直訳して問題がなく、原題の意味も十分に表しているケースもあります。つまり「直訳型」です。しかし言語の相違を吸収するためにある程度の「意訳」が必要なケースもあります。そのことも含めた「オリジナル重視型」です。

 マーケティング重視型 

原題はとりあえず無視し「作品を日本でヒットさせるために有利なタイトルは何か」という視点、ないしは日本の鑑賞者・購入者に分かりやすいタイトルは何かという視点で、日本語タイトルを「自由に」つけるやり方です。「ジュリエットからの手紙」は原題の修正なので、その「ささやかな」例ですが、原題とは全く違う題をつける例も多々あります。つまり「オリジナル無視型」です。

半世紀前のことになりますが、坂本九さんの『上を向いて歩こう』がアメリカで『SUKIYAKI』として発売され、全米ヒットチャートの1位になりました(1963年)。外国作品の日本語化とは逆のケースですが、これなどはマーケティング重視型の極端なケースでしょう。しかしこの例のように「作品の内容とも無関係な題」をつけるのはまれです。多くは作品の内容をある程度反映しつつ、題は自由につけることが多いようです。

作品が売れる市場(=マーケット)を重視するといっても、日本語タイトルをつける人がマーケットをどう見ているか、その見方が「ひとりよがり」だと感じられるケースも多くあります。

以下、英語の原題がついている英米作品を中心に具体的な例を考えてみたいと思います。


映画のタイトル


映画のタイトルは

カタカナ表記型
オリジナル重視型(直訳型を含む)
マーケティング重視型(オリジナル無視型を含む)

の3つが入り乱れている感じです。まず、このブログで取り上げた映画のタイトルを振り返ってみましょう。

 Babette's Feast 

1987年のデンマーク映画ですが、英語題名が『Babette's Feast』です。これなどは直訳型で『バベットの晩餐会』(No.12-13「バベットの晩餐会」)として何ら問題のないケースです。

 The Devil Wears Prada 

2006年の米国作品ですが、このタイトルになるとちょっと問題が出てきます。No. 4「プラダを着た悪魔」で書いたように、原題をシンプルに訳すると

  悪魔(The Devil)はプラダを着ている

ということです。wears という present tense は「一般的な習性」でしょう。英語の教科書にはそう書いてあります。主語(=定冠詞の悪魔)の習性が「プラダを着る」です。意訳すると

  悪魔は虚飾に身を包む

という感じでしょうか。ファッション界をテーマにしたこの映画は「たかがファッション、されどファッション」という感じです。必須の虚飾、というような・・・・・・。

この映画の日本公開タイトルは『プラダを着た悪魔』(No.4、参照)です。そうするとこの映画の主人公であるファッション誌の鬼編集長(メリル・ストリープ)個人を指すイメージになってしまう。何となく「浅い」感じのタイトルです。

Babette's Feast.jpg The Devi Wears Prada.jpg

ところで、さきほどの『バベットの晩餐会』には原作があります。デンマークの作家、イサク・ディーネセンが書いた小説で、日本語に訳されて文庫にもなっています。このイサク・ディーネセンの別の作品を原作とする映画があります。『プラダを着た悪魔』と同じく、メリル・ストリープが主演した映画です。

 Out of Africa 

Out of Africa (1985).jpg
この映画(1985。米国)の原作は、イサク・ディーネセンの同名の小説「Out of Africa」(1937)です。イサク・ディーネセンはアフリカに渡って夫と一緒に農場を経営した経験があり、その経験に基づく自伝的作品です。小説でも映画でもカレンという主人公の女性が出てきますが、それは作家自身です(イサク・ディーネセンは本名のカレン・ブリクセン名義でも作品を発表しています)。作品のタイトルは「アフリカを離れて」「アフリカを後にして」という感じでしょうか。小説の日本語訳は「アフリカの日々」となっていますが、作者はアフリカ時代を回想して書いているので「許される範囲の意訳」と言えると思います。

ところが、この映画の日本語タイトルは『愛と哀しみの果て』です。いったいどうなっているのでしょうね。アカデミー賞を7つもとり、作品賞も監督賞もとった作品のタイトルが『愛と哀しみの果て』では「ブチ壊し」という感じです。監督や主演俳優にも失礼でしょう。おそらくこれは「マーケティング重視型」のタイトルであって、この方が興行成績が上がるだろうとつけられたと思います。こんなタイトルの方がウケるだろうと・・・・・・。ずいぶんと映画の観客のレベルを低く見ているタイトルです。

原作の小説も映画もタイトルは「Out of Africa」です。小説の日本語タイトルに従って映画も「アフリカの日々」とするぐらいが妥当でしょう。

この例のように、映画のタイトルには「マーケティング重視型」で、原題とは無関係のものが多々あります。その最たるものが『俺たちに明日はない』(1967。米国)ですね。原題は「Bonnie and Clyde」で、アメリカ史上に名を残す「ボニーとクライド事件」に取材しているわけです。日本語タイトルが『ボニーとクライド』ではなぜまずいのでしょうね。1930年代の大恐慌時代の暗い世相を背景に、2人の若者が起こした区悪事件です。それをストレートにリアルに描くことによって、人間の愚かさや哀しみを浮かび上がらせている。

日本語タイトルをつけた人は、その方が映画の内容をよく表すと思ったのかもしれませんが「ひとりよがり」というしかありません。ミステリー映画の結末を題名にもってくるような醜悪さだと思います。

最近の映画を取り上げてみます。

 Hugo 

HOGO 2011.jpg
この映画(2011年。米国)の日本語タイトルは『ヒューゴの不思議な発明』ですが、この場合はちょっと微妙です。日本語タイトルは、原題の『Hugo』に「不思議な発明」という余計なものがついているように見えますが、実はこの映画には原作の小説があって、その原作が「ユゴーの不思議な発明」だからです。

マーティン・スコセッシ監督の撮ったこの映画は、1930年代のパリを舞台に、親から受け継いだ機械人形を大切にするヒューゴ少年の冒険が描かれています。3D、CGの最新テクノロジーが使われ、アクションもある。何よりもこの映画は、老若男女すべての人が楽しめるものになっている。そして大切なことは、登場人物のメリエスを通して20世紀初頭のフランスの映画黎明期を回想していることです。

我々は忘れがちですが、もともと映画は「見せ物」として始まったわけですね。メリエスは映画そのものを作った一人です。「月世界旅行」(1902)という彼の作った映画も途中に出てきます。そしてメリエスは同時にマジシャンであり、機械人形コレクターでもあった。当時の最新テクノロジーを使った「動く写真」は、人々の間で驚天動地のものだったのでしょう。それは「絵や文字を書く機械じかけの人形」が「驚きの見せ物」だったのと同じです。よく映画黎明期の話にあります。列車が向かってくるシーンを撮った映画に観客が身をのけぞるという話が・・・・・・。それは現代の3D映画に観客が手を伸ばす姿と重なります。『Hugo』にあえて3Dを用いたのは理由があるのです。

映画監督は、ヒューゴ少年の冒険物語を素材に「これこそが映画だ」という作品を作った。もっと言うと、愛してやまない映画へのオマージュを作った。それは確かだと思います。これは「映画についての映画」なのです。しかし日本語のタイトルだけを見ると「機械人形の話」が中心だと錯覚してしまう。そこが残念なところです。

ヒューゴ」という「カタカナ表記型」のシンプルなタイトルではマーケティング的に弱いと考えて原作小説の題を採用したのでしょうが、映画はわざわざ『Hugo』とシンプルにしているわけです。もっと原題を尊重すべきだと思います。



映画には「カタカナ表記型」も多いわけです。固有名詞のタイトル以外にも『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年。米国映画)とか『スラムドッグ・ミリオネア』(2008年。英国映画)などです。

カタカナ表記は原題(外国語)そのままの題であり、分かりやすいか分かりにくいかは別にして、日本公開用のタイトルとしての特に問題点はないように思えます。しかし「カタカナ表記型」が別の種類の問題を引き起こすこともあります。

 Saving Private Ryan 

Saving Private Ryan (1998).jpg
スティーヴン・スピルバーグが監督した1998年のアメリカ映画です。第2時世界大戦のノルマンディー上陸作戦を舞台に、ライアン二等兵の救出作戦を描いています。選ばれた8人の精鋭兵士が救出に向かうという、「七人の侍」の影響を感じさせる作品です(スピルバーグ監督は黒沢監督崇拝者と言われています)。

Private とは、アメリカ陸軍における最も下の階級である一等兵・二等兵の総称です。この二つは階級章で区別されます。ライアンの場合、映画の状況から二等兵だったようで、各種の解説でも二等兵となっています。従って原題を日本語で表すと「ライアン二等兵の救出」ということになります。この二等兵(= Private という最下級の兵卒)というところがポイントですね。ストーリーは4人兄弟の3人までが戦死した家族があり、人道的見地から軍の上層部が残った一人の救出命令を出す、というものです。完全なフィクションですが、この映画が暗に言っていることは「(事情があれば)二等兵でさえ救出する人道国家アメリカ、人権国家アメリカ」ということでしょう。その価値判断・事実判断は別にして、Private が映画としてのキーワードであることは確かです。

従って日本での題は「オリジナル重視型」かつ「直訳型」で「ライアン二等兵の救出」とすべきです。これで何か不都合が生じるとも思えない。ところが日本語タイトルは「プライベート・ライアン」なのですね。これはマーケティング重視で、あえて訳さずにカタカナ表記をしているのだと思います(但し、原題からすると不完全なカタカナ表記です)。

しかし「プライベート」は普通、日本では「私的な」という意味で一般化しています。二等兵などと思う人はまずいないでしょう。この題は原作に沿った「カタカナ表記型」に見えて、実は原作が伝えたかった意図を無視している題名です。また、題から受けるイメージを本来とは違った方向へミスリードするものです。



直訳型でない「オリジナル重視型」の例をあげておきましょう。

 The Hours 

The Hours (2002).jpg
2002年の米国映画です。この映画では違う年代を生きる3人の女性が描かれます。1920年代の英国の作家、ヴァージニア・ウルフ(演じるのはニコール・キッドマン)、1950年代のロサンジェルスの主婦(ジュリアン・ムーア)、2000年代のニューヨークの編集者(メリル・ストリープ)です。この3人は、実はある点でつながっていることが次第に明らかになってきます。

原題は hour(時間)が複数形になっていて、定冠詞のtheがついています。ニュアンスとしては

  ひとまとまりの複数の時間

という感じでしょうか。定冠詞や複数形が日本語にはないので、シンプルに訳するのが非常に難しいと思います。

この映画の日本公開タイトルは『めぐりあう時間たち』です。「時間たち」という日本語では普通ない用法があり、「めぐりあう」で「時間たち」が関連性を持っていることを示している。日本語としてはしっくりしないのですが、少々の意訳を含んだ「オリジナル重視型」でしょう。苦労してつけた感じがします。少なくとも日本語タイトルをつけた人は「原作者が題に込めた意図を大切にしている」ことが分かります。「3つの時間」や「アワーズ」とする案もありそうですが、プロからみるとそれでは弱いのでしょう。


音楽のタイトル


いわゆるポピュラー音楽のジャンルではどうでしょうか。

英米のポピュラー音楽の題名は「カタカナ表記型」が多いわけですが、日本語タイトルがついているものもあります。しかしその日本語タイトルは「マーケティング重視型」の、原題とはかけ離れたものが多い。

ポピュラー音楽自体がいろいろなジャンルに分かれているので一言では言えないのですが、解散以来40年が経過して、なおかつ現在も聴かれているビートルズを例にみてみましょう。

 I want to hold your hand 

1963年のこの曲は、ビートルズのデビュー曲ではありませんが、ビートルズが世界的に大ブレークした、そのトリガーとなった曲です。

思いを寄せる女性、好きだと告白したい女性に向かって「君の手を握りたい」と言っている詩です。しかし、この曲の日本語題名は『抱きしめたい』となっている。

「手を握りたい」と「抱きしめたい」では受ける印象がずいぶん違います。原詩では「告白したいのにそれが出来ない」というようなニュアンスさえ感じるのですが、「抱きしめたい」という題は「積極果敢そのもの」で、印象がずいぶん違う。もちろん詩の中に「抱きしめたい」というような表現はありません。

おそらく「マーケティング重視型」で、ポップ・ミュージックとしての「パンチ」を利かせるために「抱きしめたい」としたのでしょうが、違和感がありますね。こういう風に「勝手に」改竄していいのかと・・・・・・。

 Norwegian wood 

1965年のアルバム「Rubber Soul」の中の1曲です。この曲がビートルズの名曲(の一つ)であることは多くの人が認めると思います。ちょっと詩を引用してみます。


NORWEGIAN WOOD
  by John Lennon and Paul McCartney

I once had a girl
Or should I say she once had me
She showed me her room
Isn't it good, Norwegian wood

She ask me to stay
And she told me to sit anywhere
So I looked around
And I noticed there wasn't a chair

I sat on a rug, biding my time
Drinking her wine
We talked until two
And then she said, "It's time for bed"

She told me she worked in the morning
And started to laugh
I told her I didn't
And crawled off to sleep in the bath

And when I awoke I was alone
This bird has flown
So I lit a fire
Isn't it good, Norwegian wood


これは女性を「ナンパした」思い出を綴った詩ですね。もっとも、第2行にあるように女性からナンパされたのかもしれません。題名になっている「Norwegian wood」は、彼女が自分の部屋に「私」を招き入れたとき、

  Isn't it good, Norwegian wood

と言ったと解釈できます。これはどういう意味でしょうか ?

Rubber Soul.jpg
「Norwegian Wood」を収録したアルバム
「ラバー・ソウル - Rubber Soul」
(英国発売日:1965年12月3日)
英語の教科書で習ったことなのですが、wood とは「木材」のことです。英語では日本語の「木」を2種に区別し、野外に生えている1本・2本と数えられる木を tree と言い、材質としての木、物質としての木を wood と言います。これがもし woods なら森や林のことですが、英語は単数形・複数形に敏感な言葉です。wood はあくまで材質(いわゆる物質名詞)です。従って Norwegian wood とは「ノルウェー産の木材」であり、部屋の中にあるということから「ノルウェー産の木材で作られたもの」をさすというのが普通の解釈でしょう。ではその「もの」とは何か。

詩を読むと彼女の部屋には椅子がありません。従ってテーブルもないはずです。「敷物の上に座って、夜中の2時まで話し込んだ」とあるぐらいです。彼女用のベッドはあるでしょうね。家具もあるかもしれない。しかし詩から受ける印象は「一人暮らしの女性の非常にシンプルな部屋」という感じです。家具も最小限だと想像します。

彼女が自分の部屋に「私」を招き入れたとき、

  Isn't it good, Norwegian wood

と言った、この wood とは何かと想像すると、この部屋の壁か床がノルウェー産の木材で張られているのだと思います。おそらく壁のような感じがする(個人の印象ですが)。

  これよくない? ノルウェーの木よ

もちろん、何らかの家具であるという解釈もOKだと思います。北欧の家具は今も世界的にメジャーで、その象徴が IKEA(スウェーデン)です。

ビートルズがこの曲を出した1965年当時のイギリス人は、Norwegian wood の意味が理解できたのでしょう。ノルウェー産木材の部屋(ないしは家具)がはやったとか、ノルウェー産木材は比較的安価な輸入木材の代名詞だったとか・・・・・・。wood が「自然回帰」というような若者の感性にマッチするものだったのかも知れません(このあたりは、あくまで想像です)。

しかしこの曲が日本語になると、なぜ『ノルウェーの森』という題名になるのでしょうね。森という言葉や、それを連想させるイメージはどこにもありません。woods(森、林) ではないし、forest(森林)や tree(木、樹木)もないわけです。おそらくこれも「マーケティング重視型」の日本語タイトルであり、『ノルウェーの木』ではタイトルとしてふさわしくないと考えたのでしょう。北欧・ノルウェーの森という、なんとなくロマンチックな雰囲気を出す方がいいと思ったのかもしれません。つまり確信犯的に「誤訳」している。しかし、原作のもつ wood = 木材 というキーワードを無視してしまっていて、まったく別のイメージを受け手に与える日本語題名です。wood がキーワードだというのは、それが「シンプル」とか「ナチュラル」のイメージと結びつくからです。

余談ですが、村上春樹さんはこの曲を重要な小道具に使って、小説『ノルウェーの森』を書きました。もし曲の日本語タイトルが『ノルウェーの木』だったとしたら、小説の題は違ったものになっていたかもしれません。もちろん村上さんは『ノルウェーの森』というタイトルにひかれて小説の題にしたのではなく、詩の内容に感じるものがあったのだと想像します。女性の部屋に招かれて一緒にワインを飲みながら深夜まで話し込んだが、別にベッドを共にしたわけではない。「私」はバスルームで寝て、朝起きたときには女性の姿はなかった・・・・・・。この詩の雰囲気が『ノルウェーの森』という小説の雰囲気と何となく似ています。


文学のタイトル


文学作品のタイトルは、さすがに「カタカナ表記型」か「オリジナル重視型(直訳型を含む)」が多く、原題を無視するような日本語タイトルは少ないわけです。

  As You Like It
お気に召すまま:シェイクスピア)
For Whom The Bell Tolls
誰がために鐘は鳴る:ヘミングウェイ)

などは日本語タイトルが難しそうですが、オリジナルに忠実にうまく訳した例だと思います。このブログで取り上げた例では

 A Little Princess 

がそうです。『少公女(No.40 参照)という日本語タイトルは原題の意味に沿っているし、シンプルで、よくはまっています。

しかし、No.20「鯨と人間(1)欧州・アメリカ・白鯨」で紹介した『白鯨』となると、ちょっと問題がある。原題は

 Moby Dick, or the Whale 

Moby Dick - Penguin 2001.JPG
(Penguin Books 2001)
ですが、単に『Moby Dick』というタイトルが一般的です。モービー・ディックはこの小説の「主人公」のマッコウクジラに人間がつけた固有名です。鯨一般というよりモービー・ディックという特定の鯨とエイハブ船長の戦いがストーリーの軸です。白鯨としたのでは「白い鯨」という意味になってしまう。そもそもモービー・ディックは体全体が白くはないのです(白色の突然変異種ではない)。白っぽいところはあるけれど・・・・・・。

ここは、鯨の明確な固有名をタイトルにもってきた作者・メルヴィルの意図を尊重して『モービー・ディック』の方がよほど良いと思います。チャールズ・ディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』を「みなし子物語」などと訳したりは(普通)しないわけです。



文学作品の日本語タイトルにも明らかに「マーケット重視型」と考えられるものもあります。

 Little Women 

Little Women - Kindle 2010.jpg
(Kindle Edition)
このアメリカの小説はどうでしょうか。これは南北戦争で父親が不在の1年の間に、12歳から16歳の4姉妹が苦労とともに成長する物語です。作者はルイーザ・オルコットで、1868年の作品です。

woman という単語は普通、成人女性を意味しますね。それに little をつけて10代の4人姉妹を表している。日本語訳はちょっと難しい感じです。Girlsなら「少女たち」という案もあるが、わざわざ woman という語を作者が使った意図が汲めません。「若い女性たち」というのも、もひとつしっくりしない。「訳しにくいものは訳さない」という考えで、ここはカタカタ表記で「リトル・ウーマン」とするのが有力な案でしょう。

しかしこの小説の日本語題名は『若草物語』です。なぜあえてこのようなタイトルにするのか、おそらくマーケット(読者=少女)を意識したのだと思いますが、「Little Women」と「若草」ではイメージが非常に違います。

 Anne of Green Gables 

この小説は、プリンスエドワード島のある家に引きとられた少女・アンの成長を描いたものです。作者はカナダの作家、ルーシー・モード・モンゴメリ(1874-1942)で、1908年の作品です。

Gable.jpg
gable
(Random House Dictionary)
題名に注目すると、gable とは何でしょうか。Longman English Dictionary には gable の説明として「the upper end of a house wall where it joins with a sloping roof and makes a shape like a triangle」とあります。「家の壁が屋根の勾配と交わる所にできる三角の形の部分」というわけです。日本語で説明するなら「切妻の破風」ということになります。日本語の「切妻」「破風」がそんなに一般的な語でないのと同じく、gable も一般的な英単語だとは思えません。これはアンが引き取られたカスバート家を慣習的に Green Gables と呼んでいるわけです。もちろん家屋や敷地、農場をふくめてのカスバート家です。つまり固有名詞に近い。だとすると日本語タイトルは『グリーン・ゲイブルズのアン』が適当です。グリーン・ゲイブルズとは何か、聞いただけでは分からないでしょうが、アメリカ人だって、少なくともこの小説の出版当時は Green Gables と聞いてもピントこなかったと思います。今では小説があまりに有名なので意味を理解している人は多いと思いますが・・・・・・。

Anne of Green Gables - Puffin Books 1994.jpg
(Puffin Books 1994)
よく見ると、この表紙には green gable が2つ描かれている。ひとつは屋根窓のところにある。
この小説の日本語タイトルは『赤毛のアン』です。なぜここに主人公の身体的特徴が出てくるのでしょうね。それも主人公が強いコンプレックスをいだいている身体的特徴です。本人にとってはどうしようもない、もって生まれた特徴を題名にしている。おそらく「マーケット重視型」の考えで、この本の読者を日本の少女と想定し、一人の赤毛の少女の物語ですよと訳者は言いたかったのだと思います。

しかしこれでは、作者のモンゴメリが題名をつけた意図が無視されています。アンの本名はアン・シャーリーですが

Anne Shirley
Anne of Green Gables

は、ほとんど同じ意味に使われている。実際、小説の中で「あなたは誰?」という質問にアンが「グリーン・ゲイブルズのアンです。I'm Anne of Green Gables.」と答える場面があります(第19章)。その意味では、小説の題は「アン・シャーリー」でもよいくらいです。

では作者がなぜ「グリーン・ゲイブルズのアン」としたかというと、一つはこの小説が少女の成長物語だからだと想像しています。作者は「少女の名前」と「少女の成長環境の名前」の両方を題名に入れた。No.1-2「千と千尋の神隠しとクラバート」でもみられるように、人は置かれた環境との相互作用で成長します。クラバートの場合は水車場、千尋の場合は湯屋というわけです。アンの場合はそれが「グリーン・ゲイブルズ」だった。

アンは「私はグリーン・ゲイブルズのアンで満足」と発言しているし、さらに小説の最終段階でアンはグリーン・ゲイブルズを守るために大学進学を断念し地元の教師になることを選択します。まさに「グリーン・ゲイブルズのアンとして生きていく」というのが結末なのです。題名(Anne of Green Gables)がこの小説の核だと思います。

しかもこの小説は、No.61「電子書籍と本の進化」で書いたように、英米文学や聖書からの引用に満ちています。古典や歴史からのパロディも多い。作者は少年少女向けに小説を書いたと同時に、その裏では大人に向けにも書いている。シェイクスピアを知らなくても十分に楽しめるが、シェイクスピアを知っていると「なるほど」と思う箇所がある。そういった小説です。作者が英米文学に精通しているということから、ひょっとしたらこの小説のタイトルは、英国のトマス・ハーディの小説『Tess of d'Ubervilles(1891。ダーバヴィル家のテス)』を念頭に置いてつけられたのではと想像したりもします。それは違うかもしれませんが、何かを「踏まえた」題名の可能性はあると思うのです。

とにかく、作者の想定する読者には大人も含まれているわけです。『赤毛のアン』という題は、そういった作者の意図を無視しています。



「マーケット重視型」の日本語タイトルで感じるのは、そういうタイトルをつける人が作品の「受け手」を勝手に想定し、
 ・多くの人にウケるようにしよう
 ・分かりやすいようにしよう
としている態度です。しかし、原作者がタイトルをつける時にも「なるべく多くの人に作品を届けたい」と思うはずだし(あたりまえです)、ことさら分かりにくいタイトルをつけようとする人も少ないと思います(意図的に謎を込めるような場合は別ですが)。原作者はその前提に立った上で、タイトルに意味を盛り込み、言いたいことを言おうとしている。それは尊重すべきだと思います。

日本語タイトルはいったん定着すると混乱を避けるために変更は難しくなります。タイトルをつける時にはよく考えるべきで、「オリジナル重視型」ないしは「カタカナ表記型」がまっとうでしょう。ウケるように、分かりやすいようにという「上から目線」や「ひとりよがり」でなはく、「受け手」を信用した方が良い。映画、文学、音楽、演劇、ドラマなどのスタートラインは「受け手の尊重」「受け手を尊敬する態度」なのです。





nice!(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

トラックバック 0