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No.50 - 絶対方位言語と里山 [文化]

前回から続く)

前回のNo.49「蝶と蛾は別の昆虫か」では、蝶と蛾を例にとって言葉が人間の世界認識に影響するということを言ったのですが、一歩進んで、言葉が人の認知能力にも影響し、さらには人の行動にまで影響するということが、学問的に究明されつつあります。あらためて整理すると、

人は言語で世界を切り取って認識している。言語は、その人の世界認識に影響を及ぼしている。さらに、人の認知能力に影響を及ぼし、また行動にも影響する。

ということなのです。この端的な例が「絶対方位言語」です。


絶対方位言語


日経サイエンス 2011-05.jpg
日経サイエンス 2011年5月号に「言語で変わる思考」という記事が掲載されていました。これは米国スタンフォード大学で認知心理学を研究しているボロディツキー助教授が書いたものです。この中に「絶対方位言語」の興味深い例があります。

人間の言葉には、方向や方角、位置関係を示す言葉がいくつかあります。まず「左」と「右」ですが、これは「相対方位」です。「私」を基準にとると、自分の視線の方向を基準にして心臓のある方向を「左」、反対側を「右」と言っているわけです。どの場所が左でどの場所が右かは、基準のとりかたによって変わります。相手を基準にする場合、混乱を避けるために「あなたから見て、向かって右」という風に丁寧に言ったりしますね。つまり「左」「右」はある基準からみた「相対方位」です。「前」や「後」も同じです。

これに対して「東・西・南・北」は(この地球上で生活している限りは)基準の取りかたには依存しません。これが「絶対方位」です。「地球の地軸を基準にしているので、地球上である限り絶対方位である」というのが正しいでしょう。

世界中には数千の言語がありますが、普通の言語は相対方位と絶対方位の両方を備えています。そして普通、相対方位は小空間で使われ、絶対方位は大きな空間スケールで使われます。しかし言語の中には、すべての空間スケールにおいて絶対方位を使う言語(=絶対方位言語)があるのです。オーストラリア大陸の北部、ニューギニアに向かって突き出た半島がヨーク岬半島ですが、そこの一部のアボリジニの人たちで話されている「クウク語」がその例です。クウク語では空間のスケールによらず、絶対方位が使われます。従って、テーブルの上を指して「カップはお皿の南東にある」といった言い方になるわけです。

日経サイエンスの記事には「絶対方位言語」という言葉は使われていません。絶対方位に基づく言語、という言い方がされているのですが、簡単のために「絶対方位言語」と呼ぶことにします。

絶対方位言語の話者は、自分が今どの(絶対)方位に向かっているのかを常にとらえています。そのため方位の認知能力が極めて高いのです。記事から引用します(太字は原文にはありません)。

オランダのナイメーヘンにあるマックス・プランク言語心理学研究所のレビンソン(Sthphen C. Levinson)とカリフォルニア大学サンディエゴ校のハビランド(John B. Haviland)が過去20年に行った画期的研究によって、絶対方位に基づく言語を話す人たちは、見知らぬ景色やなじみのない建物の内部であっても、自分の位置を把握するのが著しく上手であることが示された。同じ環境で生活しているがそうした言語を話さない人たちよりも上手であり、まさに科学者の想像を超えた能力を示した。言語による要請が、この認知能力を強め、鍛えている。

L.Boroditsky「言語で変わる思考」
(日経サイエンス 2011年5月号)

ボロディツキー助教授は、クウク語を話す村を訪れたときの様子と、スタンフォード大学での「実験」を書いています。

北オーストラリア、ヨーク岬の西の端にあるポーンプラーウという小さなアボリジニの集落で、私は5歳の女の子の横に立っていた。北を指すように頼むと、彼女は迷うことなく正確に指さす。手持ちの方位磁石を確認すると、まさしくその通りだ。

後日スタンフォード大学に戻って、私は講堂に集まった学者たち(さまざまな科学賞などの受賞者だ)に同じことを頼んだ。なかにはその講堂にかれこれ40年以上も足を運んできた人もいる。目を閉じて(ズルができないように)、北を指すように頼むと、多くの人が「そんなのはごめんだ」と拒んだ。彼らは答えを知らないのだ。指さしてくれた人たちは、しばらく考えてから、それぞれまるでばらばらな方角を示した。ハーバード大学とプリンストン大学、モスクワ、ロンドン、北京でこの実験を繰り返したが、結果はいつも同じだった。

ある文化圏の5歳児が、他の文化圏の著名な科学者がなかなかできない何かをいとも簡単にやってのける。これは認知能力としては大きな違いだ。

Pormpuraaw.jpg
(C) Google
さらにボロディツキー助教授は、クウク語の話者にある実験をします。まず「時間的経過を示す一連の写真」を用意します。たとえば「年老いていく男」「成長していくワニ」「食べられて減っていくバナナ」などの一連の写真のカードです。これらのカードを、時間的経過をバラバラにしてクウク語の話者に渡し、正しい時間的順序になるように地面に並べるように頼んだのです。

我々日本人もそうですが、普通のアメリカ人は「左から右へ」とカードを並べます。ただしヘブライ語を話す人は「右から左へ」と並べる傾向があるそうです。これはヘブライ語が右から左へと書く言語だからです。とにかく、並びとしては「相対方位」で並べるのが普通です。前方から手前とか、そういう風にあまりしないのは、人間の手が左右についているからでしょう。

ところが、クウク語の話者は違います。

しかしクウク語の話者はふつう、カードを左から右あるいは右から左に配置することはなかった。東から西へ並べたのだ。つまり、南を向いて座っているときにはカードを左から右に、北を向いているときにはカードを右から左に、東を向いているときにはカードを前方遠くから手前に、といった具合だ。実験にあたって、どちらの方角を向いているかを当人に知らせたことは一度もない。クウク語を話す人たちは言われずともそれをすでに知っていて、その空間方位を自発的に用いて時間的表現を組み立てていた。

本文には書いていませんが、この実験から推測すると、クウク語の話者が南東を向いて座っているときには、カードを左前方から右手前へと斜めに並べることになります。おそらくそうなのでしょう。

クウク語の話者は、時間の経過を東から西へという空間配置でとらえていることになります。これはもちろん太陽の動きを意識しているのだと思います。絶対方位言語の話者は、時間経過を空間配置に置き換えるときも絶対方位なのです。

以上を要約すると

絶対方位言語の話者は、空間の絶対方位(東西南北)の認知能力に優れている。
時間経緯は絶対方位と関連付けられていて、それは具体的行動にも現れる。

ということだと思います。これは、言葉が人の認知能力や行動にも影響することを実証する一つの事例なのです。

我々は普通、知らない土地や建物の中では、注意しているつもりでも方角が分からなくなることをよく経験します。何度も行ったはずのデパ地下でも、帰るつもりで出口と反対の方向へ向かっていたりする。それと比較してクウク語を話す人たちは、まるで地磁気センサーとジャイロセンサーを組み込んだスマートフォンのようなことが出来るわけです。大変な能力だと思います。

言語で変わる思考.jpg

しかし、クウク語のような絶対方位言語は、世界的にみると「少数言語」です。もっと話者が多い言語ではどうなのか。日経サイエンスの同じ記事に「英語」と「日本語・スペイン語」の対比が書かれています。


英語と、日本語・スペイン語の相違


著者の説明です。英語の話者は「誰かが何かをしている」という形で物事を表現する傾向があります。たとえ偶発的事故であっても「ジョンが花瓶を壊した」といった「他動的構文」を好みます。

対照的に日本語やスペイン語の話者は、偶発事象を述べる際には、行為の主体に言及することはあまりありません。スペイン語では「Se rompio el floreo」であり、日本語に直訳すると「花瓶が壊れた」あるいは「花瓶はそれ自体を壊した」となります。ボロディツキー助教授のグループは、次のような巧妙な実験で、言語の違いが記憶に与える影響を見い出します。

私たちは英語とスペイン語、日本語の話者に、2人の男が故意または偶然のいずれかで風船を割り、卵を割り、飲み物をこぼすビデオを見せた後、予告なしの記憶テストをした。

目撃したそれぞれの出来事について、警察での面通しのように2枚の顔写真のうちどちらの男が実行したかを指定させる。一方、別のグループには、その出来事を自分の言葉で述べてもらう。

記憶の成績を調べた結果、まさに言語のパターンから予測されるような違いが目撃記憶に生じていた。3つの言語の話者はみな、故意の出来事を「彼は風船を割った」のように動作主体を明示する形で述べ、誰がその意図的行為をしたかをよく覚えていた

しかし偶発事故に関しては興味深い違いが生じた。スペイン語と日本語の話者は英語を話す人に比べ、動作主体を明示して述べることが少なく、これに対応して、誰がそれをしたかに関する記憶が英語の話者に比べて弱かった。これは彼らの記憶力が悪いためではない。意図的行為(この場合は彼らの言語でも動作主体に当然ながら言及する)の主体については、英語の話者と同様によく覚えていたのだから。

この実験が示唆するのは、記憶はその人の言語に影響されるということですね。記憶はビデオ録画とは違うのです。その光景が言語的文脈に置き換えられて記憶される。言葉の構造が認知能力に影響するという証明になっています。

こういった数々の実験を通して、ボロディツキー助教授は次のように結論づけています。

人間の知性を特徴づける性質はその適応性、つまり変化する目的と環境にあわさせて世界に関する概念を再編成していく能力だ。この柔軟さの結果として、世界中に非常に多様な言語が生まれた。それぞれの言語は独自の認知手段を提供し、その文化の中で数千年にわたって開発されてきた知識と世界観を内包している。

そして言語はそれぞれが認識とカテゴリー分けの仕方、世界に意味を認める仕方を含んでおり、それらは私たちの先祖によって開発され研ぎ澄まされてきたかけがえのないガイドブックだ。



ボロディツキー助教授が「絶対方位言語」や「他動的構文」のフィールド・ワークや実験で明らかにしてきたのは、

人は言語で世界を切り取って認識している。言語は、その人の世界認識に影響を及ぼしているし、さらには人の認知能力に影響を及ぼし、また行動にも影響する。

とまとめることが出来ると思います。これは認知心理学の学者の間では広く認められつつあるようです。さきほどの引用中にも「言語は世界に意味を認める仕方を含んでいる、かけがえのないガイドブック」と述べられています。

しかし思うのですが、記事で例として取り上げられている言葉、つまり

左右、東西南北(=相対方位と絶対方位)
ジョンが花瓶を壊した(=他動的構文)

などは、言語の中でも「基礎的語彙」や「基礎的構文」です。ボロディツキー助教授は学者なので、言葉を通して人間の認識の本質、さらには知性の本質に迫ろうとしています。その目的のためには、言語の基礎的要素を例にとるのが必須なのでしょう。

しかし、もうちょっと広く考えてみると、人間社会や自然の特定の断面を表す言葉や社会的な意味合いの言葉では、「言語は世界の認識手段であり、人の認知能力に影響し、行動にも影響する」のはよくあるし、あたりまえのことだと思うのです。この社会的語彙の一つの例として、日本語の「里山」という言葉を考えてみます。


里山


「里山」は比較的最近の言葉です。1960-70年代に使われ始め、80年代に広まり、90年代にスタンダードな日本語として認知されるようになった。『広辞苑 第4版』およびそれ以前にこの言葉はありません。広辞苑における「里山」の定義は次のようです。

『広辞苑 第4版』(1991.11.15)
里山の項なし
『広辞苑 第5版』(1998.11.11)
人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林
『広辞苑 第6版』(2008.01.11)
人里近くにあって、その土地に住んでいる人のくらしと密接に結びついている山・森林

里山という言葉自体は江戸時代からあったようで、明治から昭和の時代の東北地方の山村でも使われていました(有岡利幸『里山2』法政大学出版局 2004 による)。しかし一般用語として全国的に広まったのは『広辞苑』にみるように比較的最近です。そして、この言葉を広め、里山の大切さを認知させた功労者は、森林生態学者で京都大学名誉教授の故・四手井綱英氏です。

里山(神奈川県秦野市).jpg
神奈川県秦野市の公式ホームページにある里山風景。日本全国どこにでもある光景である。秦野市は里山・里地の保全に力をいれているが、もちろんこのような自治体は全国に多数ある。
日本人は古くから里山の恩恵を受けてきました。つまり木を薪にして利用し、木炭を作り、生活用品を作り、また山の竹も広く活用します。山菜、キノコ、薬草も採ります。広葉樹の落ち葉は、集めて肥料にします。燃やした木材や落ち葉の灰も肥料になります。里山は、適度な間伐と下草の除去を行うことによって日光が地面に届くようになり、植物や昆虫が豊富になり、生物の多様性が保たれます。里山は人間の手の入った自然です。

哺乳類も里山に生息するものが多いわけです。タヌキ、サル、キツネ、ウサギ、イノシシ、シカなどの中大型動物や、モグラ、コウモリ、ムササビ、リスなど小動物です。動物は人里離れた山奥を好むと見られがちですが、意外に里山に多く生息しているのです。里山はまた、土砂崩落の防止や水資源の保持などの環境保全にも役だっています。なお、里山とその周辺の谷津(やつ。谷戸・やと、とも言う)、集落、農地、河川などを含めて「里地」と言うことがあります。

あたりまえですが「里山」という言葉が一般的になる前から里山はあり、人間との深い関係を保ってきました。しかし「里山」という言葉とそれに付帯した概念が広まることによって、広く人々の関心が集まるようになった。「里山は大切だ」「里山の自然を守ろう」というように・・・・・・。

鎌倉中央公園.jpg
鎌倉市の鎌倉中央公園。里山や農地を含む一帯が、一つの都市公園として保存されている。
里山は近辺に住む人を超えて、都会人の関心も集めています。里山ボランティア、森林ボランティアが組織され、森や雑木林の手入れ、保全活動がされています。里山の自然観察会やバードウォッチングの会もあります。森林浴という言葉とその効用についての知識も広まってきました。数々の書籍や写真集も出版されています。写真家・今村光彦氏の写真集は有名です。NHKは今村氏の協力も得て、長期に渡って里山の自然と人間のかかわりをハイビジョンカメラで撮影し、NHKスペシャルで放映しました。これは2009年に劇場版映画「里山」として公開されています。このTV番組も映画も、国内外の数々の賞を受賞しました。また、里山の保護に力を入れている自治体も多く、自然保全地域の指定も多々あります。里山を含む一帯の「里地」を都市公園として保存した例もあり、神奈川県で言うと、茅ヶ崎里山公園や座間谷戸山公園、鎌倉中央公園がそうです。

この里山という言葉が広まっていった時期は、高度成長期の都市化によって、都市郊外の自然破壊が進んだ時期と重なります。その時期から芽生えてきた自然保護意識に、里山という言葉がピッタリとはまった。いくら四手井教授が言葉を広めようとしても、人々の琴線に触れないと広まらないはずです。里山は、経済成長の一方で忘れていた日本人の心のふるさと、というようなイメージもあるのでしょう。そして「心ふるさと」に止まらず「日本の誇り」といった意識も出てきた。sushi や tsunami、haiku、bonsai、kaizen など、国際用語になった日本語は数多くあります。これらはいずれも日本固有ないしは日本に特徴的な事物、自然、風俗、文化、企業経営理念であり、いわば「わかりやすい」ものです。しかし最近、もっと複雑な説明を要する言葉が外国人にも受け入られています。たとえば2004年度のノーベル平和賞を受賞したケニアの故ワンガリ・マータイさんは、日本語の mottainai が Reduce、Reuse、Recycle を一言で表し、かつ地球環境への Respect という意味もあると言っていますね(その通りです)。だとすると satoyama も「今後、国際用語としたい日本語」ではないでしょうか。里山のようなカルチャーをもった地域は世界中にあると思うのです。

「心のふるさと」で思い出したのですが、日本の第2の国歌(ちょっと大袈裟ですが)とでも言うべき「ふるさと」という曲があります。この冒頭の歌詞の「兎追いし、かの山」というのが、まさに里山のイメージですね。戦前の旧制高校の時代、京都の三高の寮生は吉田山で兎をとっていた、との回想録をどこかで読んだことがあります。吉田山は現在も京都大学の本部キャンパスのすぐ東隣で、京都の街のど真ん中の山です。人家に近接した山に野兎がいるのは、70年ほど前までは当たり前だったのです。そういえば、京都の街の東・西・北を取り巻く山々は、今でも里山の典型です。

そういった自然と人間との共生関係が失われてきたこと、ないしは、人々が自らそれを捨ててしまったことへの危機感が「里山」という言葉が広まった背景にあると思います。

日本における人間と自然の関係を「里山」という言葉が、一言で、スパッと言い表した。そしてその言葉が人間の意識を変え、あるいは忘れかけていた大切なものを思い出させ、ボランティア活動までを引き起こした。「里山」という言葉がなかったら今の保全活動はなかった、とまでは言いませんが、少なくとも「言葉による世界認識」がキーとなって、日本の社会に新たな「動き」を作ることに寄与したことは確かだと思います。「森林や雑木林を保護しよう」と何万回繰り返すより、保護すべき自然としての「里山」という言葉を作り出す方が効果がある。

写真に掲げた神奈川県秦野市の里山などは、日本全国どこにでもある光景です。あまりに当たり前すぎて、それを見ても何とも感じないのが普通でしょう。しかし里山という言葉を知っていると、そこにあるはずの人間と自然の相互関係が「認識」でき、当たり前すぎる風景が新たな価値を持ちます。

言葉による世界認識は、里山のように新しいモノの見方を提供します。ということは、逆に言うと言葉がモノの見方を拘束することもあるわけです。社会的な場で我々は「言葉が規定するモノの見方」に従って意見を言い、賛成し、反対していることがよくあります。それは社会を円滑に運営するための必須事項なのですが、革新や創造を妨げることにも注意したいと思います。と同時に、言葉が固定概念をブレークスルーし、新しい価値をもたらすことがあることも覚えておきたいと思います。

映像詩「里山」.jpg
里山の四季(映画「里山」の公式ホームページより)



 補記1 

ことばと思考.jpg
このブログの前半で、オーストラリア原住民のアボリジニの言語の一つである「クウク語」が「絶対方位言語」であり、クウク語の話者は絶対方位(たとえば東の方向)を認識する能力があるという研究成果を紹介しました。最近、今井むつみ著「ことばと思考」(岩波新書。2010)を読んでいたら別の例があったので、それを紹介します。

方位を認識する能力のことを専門用語で「デッド・レコニング」(dead reckoning)と呼んでいます。たとえば伝書鳩は遠く離れた場所から自分の巣に戻ってくることができます。また多くの動物は数キロ、数十キロ離れた場所から元の場所に戻ることができます。この場合、離れた場所に移動した経路で戻るのではなく、最短の経路で戻ることがきるのです。つまり元の場所(たとえば巣)の方位を認識する能力があるわけで、これがデッド・レコニング能力です。

ちなみに、デッド・レコニングとは船舶・航空機用語で「推測航法」のことです。つまり、移動体(船、航空機)からみた外的基準(天体、地形、外部からのレーダーなど)にたよらず、出発点からの移動方向、速度、時間、距離から移動体の現在位置を推定し、目的地に向かう正しい進路をとる航法です。自律航法とも言います。

この今井さんの本に絶対方位言語の話者のデッド・レコニング能力を調べた調査が紹介されています。


オランダのマックス・プランク研究所のチームはグーグ・イミディル(注:オーストラリアのアボリジニの一族)を始め、絶対座標を用いるいくつかの言語の話者のデッド・レコニング能力を実験で調べた。グーグ・イミディル族は狩猟民族で、日常的に非常に遠くまで獲物を追いに出かける生活をしている。他方、メキシコ先住民のテネパパ族は農耕民族で、自分の村周辺から遠く離れることはあまりない。このようにライフスタイルや環境が非常に異なるが、ともに絶対座標で空間関係を表現する言語の話者と、オランダ語や英語のように相対座標を主に用いる言語の話者を対象に、そのデッド・レコニング能力を比較したのである。

グーグ・イミディル族の協力者に対しては、車で100キロほど離れた場所に連れていき、そこから「家の方向」を指してもらった。テネパパ族の協力者に対する実験では、5キロから10キロほど離れた場所に歩いて移動し、そこにあるまどのない家の中で「家の方向」を指してもらった。

どちらの話者も、非常に正確に(誤差は5度以内)家の方向を言い当てることができた。実際、研究者たちがGPS(全地球測位システム)で正確な方向を測って確かめるのをみて、協力者たちは、機械が正確かどうかを確かめるために、彼らに方向を指してもらっていると思ったそうだ。経路について語るときに自然に用いられるジェスチャーでも、自分の向きとは無関係に、モノのある方角の方を正確に指すジェスチャーが見られた。

比較のために、オランダ人で、頻繁に盛りにキノコを探しにいく人たちを対象に、森の中を移動してもらい、同じように「家の方」を指してもらった。オランダ人の指す方向は、バラバラで、絶対座標を用いる言語話者とは比べものにならなかったということだ。

今井むつみ「ことばと思考」
(岩波新書。2010)

このような話を読んで我々は、相対方位を表す言葉(前、後、左、右、など)を欠く言語は、言語の影響によってデッド・レコニング能力が磨かれる、と考えてしまいそうです。しかしコトはそんなに単純でもないのです。

この本の別のところには、

「ヒトの4歳以下の子ども」と「動物」は、絶対的な枠組みによって空間の位置関係を把握する

ということが書かれています。要約すると以下のとおりです。

「相対枠組みが主流の言語」の子どもが「左」と「右」という言葉を学習する時期は、モノの名前などに比べてかなり遅く、これらの言葉を間違えなく使えるようになるのは、5、6歳であると言われている。

「左」「右」などの相対枠組みに依拠した言葉を学習する前の子どもの場合、空間上のモノの位置の認識は、ヒト以外の動物と同様に絶対枠組みに従っているようだ。

ヒトの子どもを含め、動物全般に普遍的に共有される認識は絶対枠組みの認識であり、相対枠組みに従った空間の位置の認識は言語によって作りだされたものであるようだ。

ちょっと意外な感じがしますね。ということは、日本語や英語の話者は「右」とか「左」とかの便利なことばを持ったがために、絶対方位を知る能力=デッド・レコニング能力が磨かれる機会を逸したし、それどころか本来備わっていた能力を退化させたという推論もできるわけです。俗に言う「方向音痴」は言葉によって作り出される・・・・・・?!。

言葉と認識の関係は非常に奥深いものであるようです。

(2013.7.20)

なお、デッドレコニング能力に関係する話ですが、哺乳類の脳の中にある「自分の現在位置を把握する仕組み」ついて、No.184「脳の中のGPS」に書きました。

(2016.8.16)



 補記2 

2013年7月に『里山資本主義』(谷浩介・NHK広島取材班・著。角川書店 2013.7.10)という本が出版されました。一言で言うと「地域に根ざした資本主義」の重要性が主張されていて、たとえば木質バイオマス発電や木材ペレット(燃料)による、林業の再生が述べれられています。

この本の内容の妥当性はさておき、注目したいのはタイトルです。この「里山資本主義」は、NHK広島放送局のディレクター・井上恭介氏の造語だと、本の後書きに書いてあります。おそらく井上氏は「自然環境と資本主義の共存共栄」というようなテーマをずっと考えていて、あるとき「里山資本主義」という言葉を思いついた、と想像します。そして、番組作りや藻谷氏との本づくりに動いた。彼を動かした原動力となった重要なものは「里山」という言葉そのものだったのではないでしょうか。

「里山」という言葉には、自然環境と人間の営みに関する多くのものが詰め込まれています。それをシンプルな言葉でパッとイメージさせられる。「里山」という言葉のもつパワーを改めて思いました。

(2013.9.13)



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