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No.51 - 華氏451度(1)焚書 [本]

No.28「マヤ文明の抹殺」において、16世紀に中央アメリカにやってきたスペイン人たちがマヤの文書をことごとく焼却した経緯を紹介したのですが、そこで、ブラッドベリの名作『華氏451度』を連想させる、と書きました。今回はその連想した本の感想を書きます。米国の作家、レイ・ブラッドベリ(1920 - )の『華氏451度』(宇野利泰・訳。早川書房)です。


華氏451度(Fahrenheit 451 : Ray Bradbury 1953)


まず、この小説のあらすじです。後でも触れますが、1953年に出版された小説ということが大きなポイントです。

以下に物語のストーリーが明らかにされています


華氏451度-1.jpg
レイ・ブラッドベリ
『華氏451度』
宇野 利泰 訳
(ハヤカワ文庫SF, 2008)


未来のある国の話です。どこの国なのか、最初は分からないのですが、途中からアメリカの地名がいろいろ出てきて、舞台が未来のアメリカであることが分かります。

その時代、本の所持と本を読むことが禁止されています。本の所持が見つかると、焚書官と呼ばれる公務員が発見現場に急行し、本を焼きます。小説の題名の華氏451度は摂氏233度に相当し、紙の発火温度を示します。

焚書官と訳されていますが、原文ではファイアーマン(fireman)です。言うまでもなく消防士のことですが、この時代には建物が完全耐火建築になり、消防士(ファイアーマン)は不要になりました。消防士は焚書官(ファイアーマン)となり、かつての消防ホースを石油を放射するノズルに持ち換えて集めた本に噴射し、火焔放射器で焼き尽くすのを任務としています。本の所持については密告が奨励されていて、相互監視社会が実現しています。

小説の主人公のガイ・モンターグはファイアーマンです。年は30歳過ぎで、妻のミルドレッドと2人暮らしです。夫婦に子供はなく、2人の関係は冷えています。

この時代、家の壁がテレビになっていて、数々の娯楽が提供されています。モンターグの家にも「テレビ室」があり、そこは部屋の3面が「テレビ壁」になっています。ミルドレッドはもっぱらテレビに没入する生活を送っていて、もう1面の壁もテレビ壁にしたいと考えています。また人々には「海の貝」と呼ばれる超小型ラジオが提供されています。これは耳の穴に装着できるもので、音楽や娯楽やニュースが流されます。

小説は、主人公のモンターグの任務の光景から始まります。冒頭は次のようです。

 火の色は愉しかった。
 ものが燃えつき、黒い色に変わっていくのを見るのは、格別の楽しみだった。真鍮の筒さきをにぎり、大蛇のように巨大なホースで、石油と呼ぶ毒液を撒きちらすあいだ、かれの頭のうちには、血液が音をたて、その両手は、交響楽団のすばらしい指揮者のそれのように、よろこびに打ちふるえ、あらゆるものを燃えあがらせ、やがては石炭ガラに似た、歴史の廃墟に変えさせるのだった。

モンターグはファイアーマンとしての任務を果たしていくのですが、2人の女性との出会いをきっかけに、彼の中で何かが変わり始めました。

一人は、モンターグの家の隣に引っ越してきた17歳の少女、クラリス・マックルランです。モンターグは家の周辺や公園でたびたびクラリスと顔を合わせます。クラリスは変わった子です。月を眺め、鳥を観察し、芝生のタンポポを見つめ、木の実を拾い、蝶を集め、夜明けに草の葉に露がたまることを知っています。人間観察が得意で、モンターグの職業を知って「あんた幸福なの?」と聞きます。

もう一人はある老女です。その老女が本を所有しいるという密告があり、ファイアーマンたちは老女の家を急襲しました。そして本を集めて家もろとも焼き払おとしたとき、老女は自ら石油に火をつけてその中で自殺してしまいます。モンターグは、その老女にとっては本が命と同じ程度に大切であったことを知りました。

モンターグは本への興味を押さえられなくなります。いったい本には何が書いてあるのか・・・・・・。一生かけて一冊の本を書いた人もいる、と聞いたことがある。本とはそれほどの価値があるものか・・・・・・と。

実は、モンターグは本を持っていました。この1年ほどの間、仕事で本を焼却する時にそっと1冊づつ持って帰り、家に隠していたのです。自殺した老女の本からも1冊持って帰りました。合計20冊程度です。モンターグはそれを堂々と妻の前で取り出し、読み始めようとします。妻のミルドレッドは驚いて、自分たちの生活がだいなしになる、やめるようにと言いますが、モンターグの意志は堅く、逆に妻にも読むように勧めます。

モンターグは今後の行動について、誰かに相談する必要があると考えました。思い当たったのは、以前に公園で話をし、電話番号を交換したフェイバーという名の大学教授です。彼なら本に好意的だと推測したのです。モンターグは本を1冊もって老教授を訪問します。教授はモンターグの立場に立って、なぜ本が大切なのか、これからどう行動すべきかを教えました。

ある日、モンターグが署(fire station)で勤務していると、密告を告げるサインが鳴りました。署長のビーティやモンターグを含む焚書官たちが現場に急行したのですが、その現場はモンターグ本人の家でした。妻のミルドレッドが密告したのです。署長のビーティはモンターグに向かってバカなことをしたものだ、処罰すると言い、本と家を焼き払おうとします。しかしその場でモンターグは、署長を火焔放射器で殺害してしまいます。

全警察から追われる身となったモンターグは、街を逃げ回ります。そして河にたどり着き、河を泳いで郊外に逃げ延びました。そこで野宿をしている5人の老人のグループに出会います。老人たちは、ポータブル受信機でモンターグの逃亡を良く知っていました。そして彼を暖かく迎えます。

実はこの老人たちは元大学教授や元聖職者で、他にもいる仲間と連携し、禁止されている本を暗記し、それを後世に伝えているのでした。仲間全体はかなりの数のようです。各人はどの本を暗記・暗誦するかの担当が決まっています。モンターグはこの人たちと行動をともにすることにしました。



小説はこの後に最後の展開があるのですが、割愛したいと思います。未来へのかすかな希望も示されます。以下に、この小説についてのコメントを何点かあげます。まず『華氏451度』についての2つの誤解からです。


『華氏451度』の誤解1:情報統制が徹底した全体主義社会


小説『華氏451度』に触れた文章で何回か目にしたのは、この小説が民主主義とは対極にある「独裁者による情報統制と検閲が徹底した全体主義社会」を描いたように評したものです。

現代も独裁国家でありますよね。独裁者・政府に都合のよい情報だけが流通し、それに反対したり異論をとなえたりすることは許されず、批判するとすぐに逮捕される、というような国が・・・・・・。そういう国では、反政府・反独裁者の書物は検閲され、没収され、焼却されます。独裁権力が有害で「禁書」と宣告した書物も破棄されます。

ナチス・ドイツの「焚書」を思い出します。ナチスによって「非ドイツ的」と宣告された本、つまり社会主義関係の本やユダヤ人作家の本、ブレヒト、レマルク、ハイネなどが燃やされました。また、ナチスから2000年以上前には、秦の始皇帝の「焚書坑儒」がありました。皇帝を頂点とする中央集権制を徹底させるために、それに反する思想(封建制など)である諸子百家の書物や、秦以外の歴史書が焼却されたわけです。さらにその600年後のローマ帝国では、キリスト教の国教化とともに図書館が閉鎖され「異教の本」が散逸しました(No.27「ローマ人の物語(4)」参照)。

しかし「本を燃やす」ということをもってナチスや秦の焚書をイメージすると『華氏451度』を誤解してしまうのですね。『華氏451度』は独裁者による情報統制と検閲が徹底した全体主義社会を描いた小説ではありません。全く違います。『華氏451度』は「本が禁止された社会」を描いた小説なのです。そこで描写されている「焚書」も、歴史上のナチスや秦の焚書とは意味が違います。「本を禁止する」という意味での「焚書」なのです。特定の思想や主張の本が禁止されているとか、特定の歴史書以外が全部禁止されているとか、そういうことはこの小説には一切出てこないのです。

No.28「マヤ文明の抹殺」においてブラッドベリの名作『華氏451度』を連想させると書いたのも、内容の如何にかかわらず、すべてのマヤ文書が焼却されてしまったからでした。


『華氏451度』の誤解2:活字印刷物を否定した社会


もう一つの(小さな)誤解は、『華氏451度』はすべての活字印刷物を否定した社会だという誤解です。

小説のはじめの方でミルドレッドがモンターグに、テレビ壁で放送されるドラマの台本が送られてきた、と言う場面があります。この台本はあきらかに印刷物です。また小説の中には、業界紙、雑誌、漫画、それを読めばすべての古典が分かるという「超ダイジェスト本」、焚書官が持っている「服務規程」、などの印刷物に言及されています。こういった「実務的印刷物」や「消費材としての印刷物」は、この世界においてもあります。大手を振って流通している本もあるのです。

ブラッドベリも分かっています。すべての活字印刷物を否定したのでは(現代)社会は運営できません。この社会では「消費材としての印刷物」は許容されていて、「知的財産としての書物」が否定されているのです。


『華氏451度』における「本」とは何か


「華氏451度」に名前がでてくる、禁止されている本の作者・著者
(数字は生年)

 アイスキュロス BC525
 ソポクレス BC496
 アリストパネス BC446
 プラトン BC427

 仏陀 BC463
 孔子 BC551

 旧約聖書
 新約聖書

 マルクス・アウレリウス 121
  (第16代ローマ皇帝)

[13-18世紀]
 ダンテ 1265
 マキャヴェリ 1469
 シェイクスピア 1564
 ミルトン 1608
 スウィフト 1667

[18-19世紀]
 トム・ペイン 1737
  (アメリカ独立時の政治思想家)
 トマス・ジェファースン 1743
  (アメリカ第3代大統領)
 トマス・ラヴ・ピーコック 1785
  (イギリスの小説家・詩人)
 ショーペンハウエル 1788
 バイロン 1788

[19-20世紀]
 ダーウィン 1809
 リンカーン 1809
 ソロー 1817-1862
 ホイットマン 1819
 トーマス・ハーディ 1840
 バーナード・ショー 1856
 ルイジ・ピランデルロ 1867
  (イタリアの劇作家・小説家)
 マハトマ・ガンジー 1869
 バートランド・ラッセル 1872
 アルベルト・シュヴァイツァー 1875
 アルベルト・アインシュタイン 1879
 オルテガ・イ・ガセット 1883
  (スペインの哲学者)
 ユージン・オニール 1888
  (アメリカの劇作家)
 エドナ・ミレー 1892
  (アメリカの詩人)
 フォークナー 1897
自省録.jpg
マルクス・アウレーリウス
「自省録」
(神谷美恵子訳。岩波文庫)
『華氏451度』の世界では「本」が極めて広範囲に禁止されています。ファイアーマンの署には、百万ばかりの禁止書物のリストがある、との記述もあります。では、どういうたぐいの本が禁止されているのでしょうか。ここで、小説に中に現れる「禁止されている本の著者の例(一部は本の題名)」を歴史年代順にリストしてみたのが、右の表です。

一見して分かることは、古代ギリシャ時代からブラッドベリの同時代人(フォークナーは23歳年上)まで、きわめて幅広いことです。また、有名な人物が多数ある反面、あまり世界的には知られていない作家もあります。ピランデルロ、ガセット、オニールなどです(ピランデルロ、オニールはノーベル文学賞作家)。そしてこれら作家の書いた本は、戯曲、歴史、小説、詩、批評、評論、エッセイ、哲学、政治、宗教、社会学、物理学などの書物です。要するに『華氏451度』で具体的にあげられてる本は、人類の知的財産とでも言うべき本(の作者。主として文化系)です。かつ、アメリカ人・ブラッドベリからみた「知的財産」であって、ここには紫式部もドストエフスキーも「アラビアン・ナイト」もないわけです。ブラッドベリが小説の主題としている「本」とは、このようなたぐいの本であることが分かります。

リストには「異色の」人物として、第16代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウスの名前がありますが、彼は「哲人皇帝」と言われたほどの人で「自省録」という本を書きました。ローマのカピトリーノ美術館に有名な騎馬像があります(No.25「ローマ人の物語(2)」参照)。塩野七生著「ローマ人の物語 第11巻 終わりの始まり」にはマルクス・アウレリウス帝が活写されています。

なお『華氏451度』の日本語訳では、マルクス・アウレリウス(英語表記:Marcus Aurelius)を、英語読みそのままに「マーカス・オーレリアス」としてありますが、これでは日本の読者にとっては誰のことなのか分かりません。ローマ皇帝という注釈もない。英語読みがよく知られているシーザー(=カエサル)ならともかく、日本で一般的なラテン語読みにすべきでしょう。『華氏451度』にあげられている「本の著者」の中で2回以上名前が出てくる数少ない人物の一人です。

物理学者のアインシュタインも「異色」ですが、一人ぐらいは科学者を入れておきたかったということではと思います。「ブラッドベリ」の名前がありませんが、さすがに気が引けたのかも知れません。

ブラッドベリの言う「本」がどういうたぐいのものか、それを象徴する場面が『華氏451度』の中にあります。隣人が本を所持しているという密告をうけて、ファイアーマンたちが老女の家を急襲する場面です。

かれらは正面のドアをおしやぶって、老女をひとりつかまえた。しかし、その老女たるや、走り出すようすもなければ、逃げだそうとする気持ちもないらしい。ただ、そこにつっ立ったまま、左右にからだをゆするばかりだ。眼はなにを見るまでもなく、前方の壁に、ピタッとむけられているだけ。だれかから、おそろしい一撃を、頭にくらったようなかっこうである。口のなかで、舌をうごかしている。記憶をよびもどそうとする眼つきをみせていたが、やがて、それを思いだしたものか、舌のうごきがことばになった。
「おとこらしく、ふるまいましょう、リドリー教授。きょうこの日、神さまのおめぐみによって、イギリスの地に、聖なるろうそくをともすことになります。二度と、火のきえることのないそうろくを!」

あらすじに書いたように、老女は自ら石油に火をつけて自殺するのですが、署に戻る車の中でモンターグは老女の最期の言葉が気になります。「リドリー教授・・・・・・」というのは一体何のことなのか。

それに対して署長のビーティが答えます。

「ラティマーという男がいっていることばさ。ニコラス・リドリーという男が、オックスフォードで、生きながら火刑になったそうだ。異端の罪で、1555年の10月16日のことと聞いている」

華氏451度-2.jpg
『華氏451度』より
(小説の1シーンを表現している)

『華氏451度』の読者は、この老女の言葉と署長の解説が、いったいどういうことなのか分からないのではないでしょうか。「オックスフォード」「火刑」「異端」? 私も本を読んだときは分かりませんでした。次のようなことなのです。

16世紀の英国史です。ヘンリー8世は英国史の重要人物であり、数々のエピソード(血なまぐさいものも含めて)には事欠かない国王です。ヘンリー8世の「功績」一つは、カトリック教会から分離した英国国教会の設立です。おりしもヨーロッパ大陸ではプロテスタント運動が盛んで(フランスの状況は、No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」を参照)それは英国にも波及していました。

ところがヘンリー8世の2代あとのメアリー1世(ヘンリー8世の娘)になると「揺り戻し」が起こるのです。彼女は敬虔なカトリック教徒です。そしてプロテスタントの弾圧に乗り出し、延べ300人以上を処刑しました。このためメアリー1世は、ブラッディ・メアリー(Bloody Mary。血まみれのメアリー)という通称がついています。

このとき処刑されたプロテスタントに、ヒュー・ラティマー(Hugh Latimer)とニコラス・リドリー(Nicholas Ridley)という聖職者がいたのです。2人はオックスフォードで同時に処刑されました。『華氏451度』で老女が発した言葉は、ヒュー・ラティマーの最期の言葉と言われているものです。これはジョン・フォックス(John Foxe)という同時代人が書いた「殉教者列伝」(The Book of Martyrs)に出てきます。

要するに『華氏451度』に出てくる老女は、16世紀の英国史に精通していた、というのが小説としての設定なのです。もちろん、本を家もろとも焼き払われる中で老女が自殺することと、16世紀のプロテスタントの火刑=殉教が重ね合わされています。信念のためには、死をも厭わないというわけです。署長のビーティはわざわざ「異端の罪で」と言っていますね。反体制側からみると「殉教」ですが、体制側からすると「異端」です。ブラッドベリは慎重に言葉を選んでいます。『華氏451度』で作者が主題にしたい本の世界の《知》は、こういうレベル《知》(この場合は英国の歴史)だということの象徴でしょう。

さらに『華氏451度』の中で唯一、文学作品の直接の引用が出てくる箇所があります。モンターグがミルドレッドに、文学とはこういうものと教えるために詩を朗読します。「ドーヴァーの岸辺」という詩です。作者の名は書かれていませんが、これは19世紀イギリスの詩人で文明批評家のマシュー・アーノルド(Matthew Arnold 1822-1888)の作品です(原題は "Dover Beach" )。ブラッドベリの愛好する「本」を表しているではと思います。

余談ですが、No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」で書いたアメリカの作曲家、サミュエル・バーバーは、この詩をもとにバリトン独唱と弦楽4重奏による「 Dover Beach 作品3 」という曲を作っています。


『華氏451度』が描くアンチ・ユートピア


『華氏451度』は、アンチ・ユートピア(反ユートピア。ディストピア)を描いてみせた小説です。「本の禁止」をベースとするこの世界は以下のようなものです。

国民の娯楽と情報源は、各家庭にある「テレビ壁」と、皆に配られている超小型ラジオ「海の貝」です。「海の貝」は耳の孔に装着するものです。モンターグの妻のミルドレッドは装着していることが多いので「読唇術がうまくなった」との記述があるくらいです。

この小説か発表されたのは1953年です。アメリカでテレビ放送が始まったのは1940年で、あたりまえですが1953年では小型の白黒のブラウン管テレビしかありません(NHKのTV放送開始がちょうど1953年です)。ラジオ放送が始まってからはだいぶたちますが、現在の高性能小型イヤフォンはもちろんない。1953年の時点において、現在の大型液晶テレビを居間で見て、ステレオイヤフォンを長時間つけているライフスタイルを予見したかのようなこの小説の記述には驚きます。

クラリスという少女は、この世界になじめない人間です。彼女がモンターグに語る言葉から、この世界の実態が見えてきます。何点か引用してみます(太字は原文にはありません)。

まずこの時代は、ジェット・カーと呼ばれる非常に速く走るクルマが一般的になっています。
[クラリス]
この都会の郊外に、200フィートの長さのある広告板があるわ。あれだって、最初は20フィートしかなかったのよ。でも、あんまり車がはやく走るんで、あの長さにしなければならなくなったんですって。

クラリスは、今はもう学校に行っていません。学校に失望しているのです。
(学校は)テレビのクラスが1時間、バスケット・ボールか野球かランニングが1時間、歴史か絵画のクラスが1時間、そのほか、スポーツとか、いろいろあるんだけど、あたしたち、質問することがないのよ。ほとんどの生徒がしないわ。教師たちは生徒にむかってしゃべるだけ。あたしたちは4時間以上も、そこにすわっているだけ。なにしろ、教師はフィルムですもの。
1日の授業がおわるころには、あたしたち、くたくたになってしまうわ。なにをする気力もなくなっているのよ。ベドに直行するか、遊園地へでも出かけて、みんなをはらはらさせてみるか、でなければ、窓割り遊技場で、窓ガラスをたたき割ったり、自動車破壊場で、車へ大きな鋼鉄ボールをぶつけるか、そんなことでもしなければ、気持ちを落ちつかせることもできないくらいよ。
去年一年で、あたしの友だちのうち、6人も射ち殺されたわ。そして、10人は自動車事故で死んでいるの。
だれのしゃべっていることも、ぜんぜん変わりがないの。みんな、おなじことばかりだわ。カフェにはいったにしても、そなえつけてある冗談ボックスをつかうと、おなじ冗談がとび出すでしょう。壁面ミュージカルにスイッチを入れれば、色つきの形が上下左右にうごきまわるけど、それ、色がついているというだけで、抽象模様のほか、なにもないんだわ。あんた、美術館に行ったことがあって? あそこも抽象画ばかりならんでいるわね。

クラリスが語る『華氏451度』の世界を、いくつかのキーワードで表現してみると「機械化」「パターン化」「スピード化」「簡略化」「没個性」「衝動的」という感じでしょう。
(以下、次回に続く)


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