So-net無料ブログ作成

No.49 - 蝶と蛾は別の昆虫か [文化]

今回は言葉についての話です。No.18「ブルーの世界」の冒頭で、日本語における「青・あお」について書きました。補足も加えて整理すると、次のようなことです。

日本語ではグリーンからブルーにかけての幅広い色を「あお」と表現してきた歴史と文化がある。特に、グリーンを「あお」という例は、青葉、青野菜、青物(市場)、青信号、青竹、青汁、青蛙、青田(買い)、青虫、青唐辛子、青海苔、青麦、青いリンゴ、など、いろいろある。

東山魁夷画伯が風景画に使った、いわゆる「ヒガシヤマ・ブルー」は、グリーンからブルーにかけての幅広い色を「ブルー」で表現している。特に、現実に緑(ないしは暗い緑)に見える風景をブルー系統の色で描いた絵があるが、それに全く違和感がないのは、日本語の「あお」という言葉の伝統による(のではないか)。

夕静寂.jpg
東山魁夷
「夕静寂」(1974)
(長野県信濃美術館)

人間は言葉で外界を認識します。外界の事物について、名前があるのかないのか、あるとしたらその詳細度合いはどうか、どういうカテゴリーで名前付けされているのかが人の認識に影響します。特に色は「連続変化量」なので名前付けは千差万別であり、外界の認識方法が端的に現れるものです。

人は言語で世界を切り取って認識している。言語は、その人の世界認識に影響を及ぼしている。

とうことをさらに考えてみよう、というのが今回のテーマです。


フランス語では蝶と蛾を区別しない


No.17-6 日本語と外国語.jpgNo.17「ニーベルングの指環(見る音楽)」において、鈴木孝夫・慶応大学名誉教授の著書『日本語と外国語』(岩波新書。1990)の内容から「虹の色の数はいくつか」という考察を紹介しました。「虹の色は7色」と、誰もが口を揃えて言うのは日本とフランスであり、世界的にみると必ずしも7色ではないという話でした。

この『日本語と外国語』に、蝶と蛾の話が載っています。我々日本人は「蝶」と「蛾」は、似ているけれど別種の昆虫だと、何となく思っています。昔、羽を閉じてとまるのが蝶で、羽を広げてとまるのが蛾だという話を聞いたことがあります。それは必ずしも正しくないのですが・・・・・・。とにかく、鱗翅類に昼間活動する蝶と夜行性の蛾の2種がある、と思っている。

ところが鈴木教授は『日本語と外国語』の中でフランス語のパピヨンについて指摘しています。フランス語のパピヨン(papillon)が蝶かというと、そうではない。パピヨンは蝶と蛾を合わせた鱗翅類全体を指す言葉なのです。鈴木教授は、蝶と蛾をごちゃ混ぜにしたカラー写真を掲載しているラルース百科事典を示し、初めてそれを見たときの「衝撃」を語っています。これは言語の違いに驚いたというより、言語学を専門とする学者でありながら(フランス人にとっては)当たり前の事に長年気がつかなかったという衝撃だと思います。

ラルース百科大事典-1.jpg ラルース百科大事典-2.jpg
フランス「ラルース百科大事典」の図版

フランス人が見ると「パピヨンの図版」
日本人が見ると「蝶と蛾が混ざっている図版」
岩波新書「日本語と外国語」(1990)より引用

フランス人が書いた蝶に関する本に、ギー・マトー著『蝶(Les Papillons)』(和田祐一訳。文庫クセジュ。白水社。1960)という本がありますが、もちろん蝶と蛾を扱っています。訳者の和田氏は次のように書いています。

フランス語では一般に日本における如く蝶と蛾をはっきり区別しない。特に区別する時は papillon diurne(蝶)と papillon nocturne(蛾)と言う。従って papillon は蝶だけを指す言葉ではなく、蛾も含まれるので、従って鱗翅目を指すわけであるが、学術用語ではないから蝶とのみ訳しておいた。

余談ですが、この『蝶』という本には鱗翅目の学術的な分類と種の数が載っています。種のおおよその数は以下の通りです。

鱗翅目 同脈亜目 400 103,200
異脈
亜目
単門類 1,300 102,800
二門類 85,900
蝶類 15,600

カイコガ.jpg
カイコガ(Wikimedia)
学術用語はさておき、この分類における「蝶類」のところ以外は日本語で言う「蛾」です。蝶類は鱗翅目全体の15%に過ぎない。つまり種の数からいうと、鱗翅目・10万種の大部分は蛾ということになります。この蛾の中に、数千年前の昔から人類に多大な貢献をして来た種がありますね。言うまでもなく「カイコガ」です。

とにかく、我々日本人は鱗翅類に対して「蝶」と「蛾」という2つの言葉を使い分けるし、最もなじみの深い外国語である英語でも butterfly と moth を使い分けるので、なんとなく世界はそうだと無意識に思っているのですが、必ずしもそうではないのです。


ドイツ語でも蝶と蛾を区別しない


さらに『日本語と外国語』で鈴木教授は、ドイツ語でも蝶と蛾を区別しないことを述べています。ドイツ語で蝶を意味する Schmetterling(シュメッタリンク)という語は、蛾も表す言葉であり、つまりフランス語の papillon と同じように鱗翅類全体を示す言葉なのです。

そして、こういった言葉の問題をおろそかにしておくと、思わぬ「つまづき」に出会うと、鈴木教授は注意しています。その例としてあげられているのが、ゲーテの詩の訳です。本から引用します。

ドイツの大詩人ゲーテは、かつては日本の知識人にとって、忘れることのできない名作の数々を残した文学者であり、その作品はほとんど日本語に翻訳されている。彼の詩作の中に日本では『西東詩集』の名で知られる、イスラム神秘主義の思想に間接的な影響を受けて書かれたものがある。

その中でも特に stirb und werde!(死して成れ)の句を含む Selige Sehnsucht(至福への憧れ)と題した詩は、広く知られた名品である。そこでは暗闇の中に燃えさかる真実(在)の焔に魅せられ、引き寄せられた一匹の蛾(Schmettering)が、炎に焼きつくされるという、死と再生のイメージが描かれている。ここでの Schmettering を、もしうっかり蝶だと思ったら、この詩の理解は全く不可能となってしまう。しかし、これを蝶だと思った人も実際にいるのだ。次の訳をみていただきたい。

  Keine Ferne macht dich schwierig,
    隔たりも汝は物ともせず
  Kommst geflogen und gebannt,
    追われるごとく飛びきたる
  Und zuletzt, des Lichts begierig,
    ついには光をこがれしたいて
  Bist du Schmetterling verbrannt.
    蝶なる汝は焼けほろびぬ

闇夜に燃えるランプの光にさそわれて、飛んできた一匹の蛾が、焔に焼き尽くされて死ぬ情景を、このように間違って蝶とすれば、日本語としての意味、イメージは全くおかしなものになってしまう。この解釈では、原詩のもつプラトニズム的なイスラム神秘主義の《蛾→焔→死→再生》という、美しくも哀しい詩の意(こころ)が全く伝わらないと言わざるを得ない。正確なことばの知識がないと、文学の鑑賞もままならぬことを、蝶と蛾の区別は教えてくれるのである。

鈴木孝夫『日本語と外国語』
(岩波新書。1990)

鈴木教授の引用している訳は岩波文庫のものですが、『日本語と外国語』の注釈にもあるように、他の訳では正確に「蛾」と訳されているようです。

確かに鈴木教授の言う通りで、蝶ではイメージが湧かない。と言うか、なんだか変だという違和感が残ります。絵画に置き換えて考えてみると、より鮮明です。炎に蛾が誘われる情景を描いた絵に、速水御舟の『炎舞』という有名な作品があります(1925/大正14年。山種美術館所蔵。重要文化財)。速水御舟はこの絵で蛾を精緻にデッサンして描いているのですが、ここに蛾ではなくアゲハチョウやモンシロチョウが舞っていたとしたら、完全なシュルレアリズムの作品になってしまいます。絵として成立しないとは言いませんが、全く別の解釈が必要な絵になるでしょう。岩波文庫のゲーテの訳は、それと同じことが文学で起こっているわけです。

炎舞.jpg 炎舞(部分拡大).jpg
速水御舟『炎舞』・全体図と部分
(山種美術館。重要文化財)
site : 山種美術館(全体図)
site : NHK-極上美の饗宴(部分図)


『蝶の生活』の驚き


蝶の生活.jpg
シュナック『蝶の生活』
(岩波文庫 1993)
鈴木教授がゲーテを引用しているので、ゲーテと同じドイツ人が書いた別の本で蝶と蛾をみてみます。フリードリッヒ・シュナック(1888-1977)の『蝶の生活』(1928出版。岡田朝雄訳 岩波文庫 1993)という古典的作品で、原題は Das Leben der Schmetterlinge です。これは「ヨーロッパの代表的な蝶や蛾を素材に、その美しさ、生態、さらにはそれらにまつわる神話・伝説等を詩情あるれる文章で描いた博物誌」(岩波文庫の解説)です。

解説でも言っているように、この本は題名とは違って「蝶と蛾の」博物誌です。本の内容をみると、

第1部
  蝶の博物誌 123ページ
第2部
  物語3編
(蝶2編、蛾1編)
第3部
  蛾の博物誌 148ページ

となっていて、蝶と蛾は「対等かつ公平に」扱われています。訳者の岡田朝雄氏は次のように書いています。

ドイツ語には蝶と蛾を別々に区別する言葉はない。Schmetterling という語も Falter という語も、蝶と蛾を区別しない「鱗翅類」を意味する。本書では、これらの語を場合に応じて「蝶」「蛾」「蝶と蛾」などと訳した。

この本の冒頭は以下の文章で始まります(原文に太字(下線)はありません)。


ささげる言葉

この地上のすべての鱗翅類にこの書をささげる。そのすべてがここに登場するわけではないけれども。昼の蝶と夜の蛾にこの書をささげる。たそがれのスズメガに、心を浮き立たせるように庭園や草原の花の蜜が香り、草木の茂みから薫り高い芳香がしたたるたそがれどきに活動するスズメガ類にこの書をささげる。ヤママユ類やシャクガ類に、ヤガ類やヒトリガ類にこの書をささげたい。みんな愛すべきものたちだ。

シュナック『蝶の生活』(岡田朝雄訳。岩波文庫。1993)

これは蝶が好きな日本人にとっては、ちょっと驚きの文章ではないでしょうか。まず軽い違和感は、冒頭から「鱗翅類」という学術的雰囲気の語が出てくることです(正式の分類学用語は、鱗翅目)。この理由は明白で、Schmetterling の訳だからです。Schmetterling の訳には、

鱗翅類(これが一番正確)
蝶と蛾。ないしは、蝶蛾
蝶(不正確だが、あえてこう訳してしまう)

の3つが考えられます。『蝶の生活』を訳した岡田氏は、本の題名ではをとり、冒頭の文章ではとしたわけです。本の題名を「鱗翅類の生活」や「蝶と蛾の(蝶蛾の)生活」とするのは、岩波文庫編集部も納得しないでしょう。そして本文の中では①③とともに②も使っている。もちろん個別の種についての記述では、種に応じて「蝶」ないしは「蛾」となっています。

それよりも驚きは引用中の太字(下線)の部分です。この冒頭部分に書かれている種は、すべて日本語で言う「蛾」の種類なのですね。「昼の蝶と夜の蛾にこの書をささげる」と書いたその直後で、著者が「愛情をこめて」あげている鱗翅類の具体的な5つの種名、つまり、スズメガ、ヤママユ、シャクガ、ヤガ、ヒトリガは、すべて蛾です。この5種の蛾の例を『蝶の生活』の本文の図版から引用します。

蛾 - アカオビスズメ.jpg 蛾 - クジャクヤママユ.jpg
アカオビスズメ

クジャクヤママユ

蛾 - ヘリグロキシタヤガ.jpg 蛾 - スグリシロエダシャク.jpg
スグリシロエダシャクと幼虫

蛾 - ヒトリガ.jpg
ヘリグロキシタヤガと幼虫

ヒトリガと幼虫

『蝶の生活』の冒頭に名前があげられている5種の鱗翅類
(スズメ、ヤママユ、ヤガ、エダシャク、ヒトリガ)
全て蛾の仲間である(岩波文庫「蝶の生活」1993 より引用)

もちろん『蝶の生活』の「ささげる言葉」には、引用した冒頭部分に続く文章で蝶の名前も多々出てきます。しかしそこにも蛾の名前が混じっています。ちょうど、フランスの「ラルース百科大事典」のパピヨンの図版そのままの「混在ぶり」なのです。
『蝶の生活』の序文である「ささげる言葉」に出てくる鱗翅類の名前を、出現順にリストすると以下の通りである。太字(下線)は蛾をあらわす。一見して分かるように蝶と蛾が混在している。

スズメガヤママユシャクガヤガヒトリガ、ヒメアカタテハ、クジャクチョウ、クジャクヤママユ、タイスアゲハ、ヤマキチョウ、キベリタテハ、オオアカタテハ、アゲハ、シタバガベニスズメ、モンシロチョウ、トラフタイマイ、キアゲハ、ドクロメンガタスズメノンネマイマイキョウチクトウスズメ、クモマツマチチョウ、モルフォチョウ

日本人で蝶が好きという人は多いと思います。美しさに魅せられて海外まで採集旅行に行くといった話も聞きます。そういった「蝶愛好家」は多いのですが、それと比較して「蛾愛好家」は少ない気がします(もちろん蛾愛好家はいて、ネットではそのブログが散見されます)。また研究の観点からすると、蛾の研究は農業にとって重要なので学者はそれなりの数がいると思いますが、アマチュアの「蛾研究家」は「蝶研究家」に比べて少ないはずです。さらに出版物では、「蝶の図鑑」や「蝶についての読み物」は日本でたくさん出版されていますが、シュナックの本のように「蝶と蛾を対等に扱った書物」は、そんなにはないと思います。

むしろ日本においては一般的に「蝶は好きだが、蛾は嫌い」という人がほとんどではないでしょうか。日本では蛾が不当に差別されている感じです。それに対して、ドイツ人のフリードリッヒ・シュナックは「蝶と蛾が好き」なのです。いや、これは間違いで、シュナックは「Schmetterling が好き」なのです。そして『蝶の生活』の冒頭の文章で分かるように、蛾にも並々ならぬ愛情を注いでいる。

そこで疑問です。「日本人が一般的に、蝶は好きだが蛾は嫌い」という理由はいったい何か、という疑問です。それはまさに「言葉」が原因ではないかと思っています。仮説ですが、以下のような事情だと推測できるのです。

日本語は蝶と蛾を区別する言語体系になった(明治以降の英米文化の影響だと言われています)。そのため日本人は「主として昼間に活動する鱗翅類」と「主として夜間に活動する鱗翅類」を別のカテゴリーの昆虫として認識する、そういう「世界認識」ができている。
人間にとってまず親しみやすいのは、昼間に活動し、春から夏にかけて花から花へとめぐる蝶である。美しいものも多い。そこで「蝶への親しみの感情」ができあがった。
蝶への親しみの反動として、夜に活動する鱗翅類であり「蝶とは別種の昆虫である蛾」を嫌う感情が生まれた。何となく蛾は、「表の存在」である蝶に対する「裏の存在」ないしは「陰の存在」であり、「暗い感じで、ひっそりと生きていて、あやしい存在」でもあり、闇から急に現れて人を驚かすものというイメージができあがった。
一方ドイツ(やフランス)では鱗翅類全体を表す語しかなく、鱗翅類を一つのものとして「世界認識」する。従って「Schmetterling 愛好家」の人は、昼間の Schmettering も、夕暮れ時や夜の Schmetterling も好きになるのが自然である。一方だけを嫌う理由はない。「私が好きな Schmettering は、アゲハチョウとスズメガです」というのも極く自然である。小さい頃から蝶と蛾が混在する図鑑を見慣れてきたのなら、なおさらである。
もっと一般化して言うと、「蝶は好きだが蛾は嫌い」という日本語を(たとえば)ドイツ語に直訳すると「シュメッタリンクは好きだがシュメッタリンクは嫌い」となり、これは非文(=ありえない文。その言語体系では許されない文)となる。人間は「ありえない文」どおりに行動することはできないし、「ありえない文」で表現される感情を持つことはできない。なぜなら、人間は言語で考えるのだから。

以上は、たぶん当たっているのではないかと思います。シュナックの本の冒頭にあるシャクガ類の中には蝶類と姿・形があまり変わらないものもあるのですが(引用した図版のスグリシロエダシャクなど)、蛾の一種だと知ると嫌な感じがしたりする。

結局、以上のことを一般化した視点でまとめると、どういう言葉を使うかは「世界の認識」を変えるし、それは人の気分や嗜好、関心にも影響すると思うのです。

昆虫の連想で書きますと、蝉(セミ)の代表的な種にアブラゼミとクマゼミがあります。都会にもいて、真夏になると鳴き声をよく聴きます。この2種は、外観が違うと同時に鳴き声もかなり違います。しかしアブラゼミとクマゼミという言葉がなく、単にセミという言葉だけを持っている文化があったとしたら、アブラゼミとクマゼミの鳴き声の違いは、その文化圏では聞き分けられないと思います。セミが鳴いているとしか認識できないはずです。これはもちろん聴力の問題ではありません。人間は文化=言語でセミの鳴き声を聴いている(面がある)からです。

余談ですが、日本語は「セミの分類」にこだわっていますね。ツクツクボウシもあるし、ミンミンゼミもある。「ミンミン」という擬声語はミンミンゼミの鳴き声にしか使われません。昆虫の中の、セミという種類の、その中のたった一種の鳴き声にしか使わない擬声語があるというのが、日本語のこだわりだと思います。



「蝶と蛾」を例にとって、言葉が人間の世界認識に影響するという説明をしたのですが、これからさらに一歩進んで、言葉は人の認知能力にも影響し、さらには人の行動にまで影響するようなのです。

次回に続く)


nice!(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

トラックバック 0