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No.2 - 「千と千尋の神隠し」と「クラバート」(2) [本]

前回より続く)

労働の場


「クラバート」はどういう物語でしょうか。

これは一言で言うと「大人になる物語」です。1人の少年が水車場という「労働の場」に入り、そこで学び、生きるすべを獲得し、大人になります。水車場は一般の社会における組織やコミュニティの象徴と考えて良いでしょう。その大人になるプロセスのキーワードは「魔法」と「自立」です。

Krabat2.jpg
クラバート(下)
(偕成社文庫 4060)
まずクラバートが「労働の場」に入る契機に注目したいと思います。それは親ないしは保護者から言われたわけではないし、そこで働き口があることをクラバートが調べたわけでもありません。「夢のおつげ」がきっかけなのです。クラバートは「そこがどういう場所なのか」「その場所が自分にどういう影響を与えるのか」「利益があるのか、悪影響しかないのか」などを全く知らないで「労働の場」に飛び込みます。

水車場では親方の厳格な支配のもと、あらきじめ決まっている厳格なルール、しきたり、規律があって、クラバートはそれに従うしかありません。クラバートは自分を律し、自分をそこに適合させることにまず全力を傾けます。水車場での「ルール、規則、決まり」は、なぜそうなっているのか不明なものも多いわけです。そもそも労働の目的や意味がはっきりしません。麦を粉にすること自体の価値は理解できますが(それは農業に付帯する必須作業です)、誰のためにその労働をしているのか、大親分とは誰なのか、物語の最後まで必ずしもはっきりしないのです。

こういった労働の場を象徴するのが、親方が職人たちに伝授する「魔法」です。


魔法


魔法はクラバートや職人に強力な力を与えるものです。この力の効果は絶大です。汗を流して作業をするかわりに魔法を使うこともできるのですから。

と同時に、魔法はクラバートを制約します。親方は魔法の力で弟子の逃亡を阻止し、懲罰を与え、恐怖で弟子を支配しているのです。

魔法についての大変に印象的なシーンが物語に出てきます。クラバートと仲間は、泥炭の採掘場に牛を引いて泥炭を取りに行きますが、途中で沼地の上に板を渡さないと通れない箇所に来ます。そこで、魔法に上達している職人の1人が、板を渡すのを魔法で一瞬のうちにやってしまいます。この魔法を見てクラバートは圧倒されます。以下はその部分の引用です。

クラバードは叫んだ。「自分たちの手でしなくてはならないことが、何でも魔法でできるのに、いったいぜんたいどうしてまた働く必要があるのか」。「たしかに、そうだ」とトンダは言った。「しかし、そんな生活にはすぐにうんざりしてしまうということも考えてみたまえ。人は働かなければけっきょくはだめになり、おそかれ早かれ、破滅するしかないのだ。」
(上巻、130ページ)

唐突なようですが、日本国憲法第27条が規定するように、労働は「権利」であると同時に「義務」です。「労働」は「しなくて済むものなら、しなくてよい」わけでは決してありません。「労働」が人間社会を成立させている根幹であり、と同時に、トンダが言うように人間性を担保しているファクターでなのです。

人は社会をつくって生きる動物ですが、その社会は「相互扶助」「助け合い」「ギブ・アンド・テイク」で成り立っています。人は「利己行動」だけでは生きていけません。「利他行動」こそが、人が人たるゆえんであり、人間社会を成立させているものです。そして人間社会で普遍的に行われている利他行動が労働です。労働は何らかの形で利他行動につながっている。報酬のある無しにかかわらず "労働が人間性の原点にある" のです。水車場が単なる異境(魔法の学校)ではない「労働の場」である意味がそこにあります。


自立


クラバートは単に水車場の規則に従っているだけではありません。クラバードは自ら意志をもち、考え、職人たちと友情をはぐくみ、親方の意向とは別に行動し、危険をおかして少女と心を通わします。そのために親方から懲罰もうけます。もちろん最大の「自立」は、最後の場面で自らの命をかけて親方と対決するところです。そのクラバートの「自立」を、水車場からクラバートを助け出すというかたちで完成させたのが少女です。ないしは少女がクラバートを思いやる心です。この、物語のエンディングである「目隠しをされた少女が、12人の職人の中からクラバートを差し示すことによって、クラバードは水車場から出る」という場面が意味するものは何でしょうか。

それは、キリストによる救済、ないしは「少女」ということで、聖母・マリアによる救済を象徴していると感じられます。「愛によって人は救済される」というわけです。そもそも水車場は「キリストと12人の弟子」の陰画になっています(親方と12人の職人)。「クラバート」という物語全体も、キリスト教の祭が要所要所に挟み込まれ、展開していきます。少女の名前がいっさい記述されていないことも、少女=聖なる存在、を暗示しています。

しかしキリスト教を離れて、もっと一般的な人間社会の原理としてこの物語のエンディングを解釈することもできるでしょう。つまりクラバードの「自立」は、少女が水車場からクラバートを助け出すという形で完成する、という点が示唆していることです。

言うまでもなく人間は人間同士のネットワークの中で生きています。そして人間の価値の多くはネットワークの中での関係性にあります。「自立」もそうであって「あの人は自立している人だ」と周りの人間から思われ、信頼され、従って相談を受けたり、自然と他人がその人に従ってくれることが「自立」です。それは本人だけの努力や力量だけでは決して完成しません。自立を成し遂げる要点は、他者からの信頼を得て、他者からの援助を引き出せることです。そのためのポイントは他者に対する思いやりと礼儀正しさでしょう。クラバートがまさにそうです。少女に対する態度などは特にそうです。クラバートが少女に脱出のための援助を依頼したきっかけはユーローから水車場の秘密を聞き出したことでしたが、ユーローもクラバードを信頼したからこそ、教えたのでしょう。


「千と千尋の神隠し」


「魔法に象徴される労働の場に少年(少女)が入り、生きるすべを知り、そこから脱出することによって自立が完成する」のを「クラバート型の物語」と呼ぶとすると「千と千尋の神隠し」(2001年公開)はまさに「クラバート型の物語」です。「千と千尋の神隠し」を、「不思議の国のアリス」や「オズの魔法使い」、「浦島太郎」などの、いわゆる「異境訪問説話」の一種とみなす考えがありますが、決して単なる異境訪問説話ではありません。それは「クラバート型の物語」です。

Chihiro.JPG千尋=クラバート、湯屋=水車場、湯婆婆=親方=魔法使い、という対比は、はっきりしています。もちろん「千と千尋の神隠し」に出てくるキャラクターは、ずいぶん豊富で多様で複雑だし、魔法使いが双子で一方の銭婆は「沼の底」の家に住んでいるというような設定は独特です。しかし物語の基本的骨格がとてもクラバートとよく似ています。それを強く感じさせるのが、物語のエンディングの部分です。

湯屋の世界から元の世界に帰りたい千尋に、湯婆婆は「変身動物判別テスト」を出します。つまり豚の群れを前に「この中からお前のお父さんとお母さんをみつけな。チャンスは1回だ。ピタリと当てられたら、お前達は自由だよ」と湯婆婆は千尋に問います。この設問に千尋は正解し、もとの世界に戻ります。クラバートの先輩のヤンコーは「変身動物判別テスト」に失敗して死にますが、千尋はヤンコーのかたきをとったわけです。「クラバート」を読んで非常に印象に残るのが、この「変身動物判別テスト」です。それはユーローがクラバートに語る話にしか出てこないのだけど、印象は強い。水車場からの脱出、という物語のクライマックスに直結する事項だからでしょう。これは全くの想像ですが、おそらく宮崎さんもそうで「変身動物判別テスト」を最後にもってくる物語を作ったのではないでしょうか。

クラバートの場合と違って、千尋の正解回答は「ここにはお父さんもお母さんもいない」というものでした。このシーンはもちろん映画の冒頭での「豚になった両親」と一対になっています。この冒頭場面と千尋の回答はどのように考えたらよいのでしょうか。この映画はファンタジーなのでいろいろな解釈が可能だと思いますが、「豚になった両親」というのは、千尋が親の醜い面を見たと思った、その千尋の内面の象徴だと考えられます。当然のことですが、こどもは成長するにつれ大人の「醜い面」「不条理・不合理な面」「いいかげんさ」などが、無意識にせよ目につくようになります。その象徴が「豚になった両親」の姿です。一方「豚の群れの中に両親はいない」という最後の場面での千尋の回答は、「豚になった両親」は本当の両親の姿ではない、という千尋の人間理解を表わすと考えられます。「醜い」と見えた姿は千尋の誤解で、実は両親は社会を生きて来た、また生きていく自然な人間だ、両親は豚でなない、人間なんだ・・・というような・・・。この理解に到達できたのは、もちろん湯屋での千尋のさまざまな経験です。

千尋の物語では「自立」の重要な部分を「親からの自立」が占めていることになります。孤児であるクラバートとはそこが違います。冒頭で「豚になった両親」に驚き、エンディングで「豚の群に両親はいない」と断言する・・・宮崎さんの作った物語の環は完璧です。

「千と千尋の神隠し」がそうであるような「クラバート型の物語」は、今まで繰り返し語られ、言い伝えられてたはずです。最近も「クラバート型」のストーリーをもつハリウッド映画がありました(プラダを着た悪魔。「千と千尋の神隠し」は物語の型としてはきわめて普遍的なものではないでしょうか。この映画がベルリン国際映画祭の金熊賞(アニメ映画で初)やアカデミー長編アニメ賞をとったのが象徴的だと思います。


再び「クラバート」


もう一度「クラバート」の本に戻ると、この物語にはドイツ東部に住むヴェンド人の生活や当時のキリスト教の風習などの豊富かつ多彩な「風俗描写」があって、それが物語を魅力的にしています。しかし「当然あってしかるべきと思える風俗描写」がありません。それは「食に関する記述」です。食べ物の記述は、復活祭のクッキー、焼き肉、ぶどう酒ぐらいしかないのです。

職人のたちの労働は過酷なので「食べる」ことは何よりの楽しみのはずです。もちろん日々の食事は質素で簡素なものですが、「ハレ」の日にはご馳走を食べることもあります。例えば、復活祭の前日は職人は働く必要がないのですが、その日の記述は次のようになっています。

「この日は昼食と夕食がいっしょだった。栄養も量も特別豊富だったので、水車場の職人たちにはまるで宴会のようだった」
(上巻、68ページ)

ご馳走であるのに、何を食べたかの記述がありません。

「水車すえつけのパーティには焼き肉とぶどう酒がでた」
(下巻34ページ)

という記述もあります。どういう肉なのでしょうか。豚か牛か鳥なのか、どういう部位なのか。ありきたりのものでも、職人たちにとっては大きな喜びだったはずです。

「食」に関する記述を盛り込むなら、いくらでもやりようがあるはずです。例えばドイツ内陸部の湿地帯では(クラバートの舞台がまさにそうです)鯉の料理が名物のはずです。クリスマスなどのハレの日には鯉料理で祝う風習があるとも聞きます。復活祭の日、職人たちが沼地に鯉を取りに行き、それを料理して宴会をした、鯉の調理法はこれこれこうで・・・、というような記述があってもよいわけです。もちろんこれは全くの想定例ですが・・・。

そういった小さな「不満」があったとしても、この物語はスラブ系ヴェンド人の村を舞台に、郷土色を濃密に書き込みながら、人間が生きる型を普遍的なメッセージとして提出し得たものです。児童文学の傑作と言っていいと思います。



 補記(2013.2.21) 

2013年2月21日の新聞に、プロイスラー氏の訃報が載っていいました。


大どろぼうホッツェンプロッツ作者
オトフリート・プロイスラーさん(ドイツの児童文学者)

18日、独南部プリーン・アム・キームゼーで死去、89歳。

旧チェコスロバキア生まれ。第2次世界大戦に独軍兵士として従軍し、旧ソ連の捕虜に。戦後、独南部で小学校教師として働きながら執筆。「大どろぼうホッツェンプロッツ」「クラバート」「小さいおばけ」などは児童文学の古典とされる。出版社によると、著書は日本語を含む50カ国語以上に翻訳され、世界で五千万部以上出版された。(ベルリン)

(朝日新聞 2013.2.21)

ご冥福をお祈り申し上げます。




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