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No.74 - 現代感覚で過去を見る落とし穴 [歴史]

前回のNo.73「ニュートンと錬金術」で書いたように「大坂夏の陣図屏風・左隻」と「ニュートンの錬金術研究」の教訓は、

現代人が「あたりまえ」か「常識」と思うことが、過去ではそうではない

という至極当然のことであり、往々にして我々はそのことを忘れがちだということです。

過去の人間の意識や文化、技術は現代とは相違する(ことが多い)。
(暗黙に)現代人の感覚で過去を眺めて判断してはいけない

という視点で考えると、いろいろのことが思い浮かびます。それを2点だけ書いてみたいと思います。一つは古代文明の巨大遺跡に関するものです。


古代文明の巨大遺跡


ナスカの地上絵.jpg
(site : ペルー政府観光局)
ペルーに「ナスカの地上絵」と呼ばれる有名な世界遺産があります。そもそも、地上からは全体像が分からない「絵」を、いったい何のために作ったのか。

「絵」が作られた当時に空を飛ぶ何らかの装置があったとか、宇宙人へのメッセージだとかの説がありました。ほとんどオカルトに近いような空想ですが、このような説が出てくる背景を推測してみると、次のようだと思います。

現代人なら、自分たちでは全体像を把握できない絵を、多大な労力をかけて作ったりはしない(これは正しい)。
ペルーの「ナスカの地上絵」の時代(B.C.2世紀~A.D.6世紀)の人も、現代人と同じ考えだろうと(無意識の内に)思ってしまう。
従って、何らかの手段で地上絵の全体像を見る手段が当時にあったのだろう、と推測する。

というわけです。

間違ってるのはですね。正しくは「昔の人は、自分たちでは全体像を把握できない絵を、多大な労力をかけて、喜んで作ることもありうる」でしょう。それは神に対する感謝のためでもいいし、太陽神への恭順のしるしであってもよい(これらはあくまで例です)。べつに不思議はないと思います。人間の思考様式を現代を基準に考えてはいけないのです。



ピラミッドの謎」というのも、何だか怪しい議論だと思います。つまり、エジプトの巨大ピラミッドは何のために建造されたのかという「謎」です。たとえばギザの大ピラミッド(クフ王のピラミッド。B.C.2500頃)は「クフ王の墓」と言われていますが、いやそうではないという説がある。天体の観測装置からはじまって、幾多の説があります。

しかし単純に「王の墳墓」では、なぜまずいのでしょうか。天体の観測装置というような説を唱える人は、おそらく「たった一人の王のために、何十年もかけて(一説には何百年もかけて)、何十万人もを動員して、巨大な墓を作る」という行為が納得できないのでしょう。それは「現代人なら、絶対にそんなことはしない」からです。

しかし4500年前の古代エジプトの人々の考えは現代人とは全く異なるはずです。人々は喜んで王のための墓作りに邁進したかもしれない。奴隷が強制されて作ったわけではなく、庶民がつらい労働に耐え、意欲的に取り組んだかも知れない。もちろん建設の背景には、ナイル河沿岸の農業を中心とする古代エジプトの巨大な経済力があることは容易に推測できます。それが、建設を可能にした一番の理由です。しかし建設の目的が「一人の王の墓のため」であっても何ら不思議はないと思うのです。

ピラミッド.jpg
(site : エジプト大使館・観光局)


海上交通が人々を結び、交易を促す


「現代人の感覚で過去を眺めてはいけない」の2つ目は、交通の発達に関することです。現代人が暗黙に考えるイメージは

  海は人の交流を困難にし、陸は容易にする

という感じではないでしょうか。陸・海・空の交通手段を考えると、容易さの面では

  空 > 陸 > 海

の順だと暗黙に考えている。このうち、空路は20世紀になってからのものであることは誰もが知っています。従って昔からある交通手段だけをとると

  陸 > 海

だと(暗黙に)考えています。

しかし、鉄道もクルマもなく道路も整備されていない時代には、海上交通の方がコスト、移動・運送の労力、所用時間の面で圧倒的に有利だったはずです。特に長距離の移動はそうです。その例を2つあげます。

 松山から横浜へ 

司馬遼太郎の『坂の上の雲』において、主人公(の一人)の秋山真之は明治16年に松山の中学を中退して上京します。その上京の交通手段は船であり、彼は松山の三津浜港から出航します。


船は、新八幡丸という。神戸までの運賃は一円二十銭であった。神戸から横浜までの運賃は四円である。「下等」とよばれる一般船室はぶた小屋のようで、船旅はくるしく、三日もするとかならず船室から病人が出た。

東京についてもっともめすらしかったのは鉄道馬車であった。レールの上を馬車が走るのである。レールは新橋から日本橋まで敷かれており、ただの路上とはちがい、馬車は「天馬くうをゆくがごとく」かるがると走ってゆく。

この文明開化のシンボルのような交通機関が開設されたのは明治十五年六月だから、真之らはその評判のまっさい中にそれをみたわけであった。

司馬遼太郎『坂の上の雲』
(1978。文春文庫)

坂の上の雲.jpg
あたりまえですが「鉄道馬車」がない時代は、少なくとも一般庶民は「船」が長距離移動の唯一の選択肢であるわけです。それがたとえ豚小屋であったとしても、です。秋山真之も、松山→神戸→横浜と船で上京しました。そして馬車とは全く違って陸上を「かるがると走ってゆく」鉄道を見て驚愕したわけです。

江戸時代に参勤交代で街道を行くのは大名の話です。多大な出費が必要であり、それが幕府の狙いでもあった。近畿以西の大名は、船をチャーターして、家来と使用人とともに江戸に直行すれば随分と経費削減になったはずだと思いますが、それは許されないのです。

 ボストンからカリフォルニアへ 

秋山真之が上京する約35年前の1850年頃、アメリカではゴールドラッシュが起きました。アメリカの東部からもカリフォルニアへと人が移動したのです。

Cutty Sark.jpg
代表的なクリッパー船、
カティー・サーク(英国)
(1880年代の写真)
(site:www.rmg.co.uk/cuttysark/)
ある大学教授の講演を聞いたことがあります。講演のテーマと内容は忘れてしまいました。しかしその講演の中で一つだけ覚えているのは、ゴールドラッシュの時代に東海岸のボストンで作られたポスターです。それは今で言う「旅行代理店」がカリフォルニアへのツアー(ないしは移住)を勧誘するもので、その移動手段はクリッパーと呼ばれるスピード重視の帆船なのです。そのポスターには帆船の絵が描いてありました。

ボストンからアメリカ西海岸まで、帆船でどうやって行くのか。ゴールドラッシュの時代にパナマ運河はありません(パナマ運河の開通は1914年)。金の採掘で大金持ちになる夢をみる人々を乗せたクリッパーは、アメリカ東海岸を南下し、カリブ海を渡り、南アメリカ東海岸を南下します。そして大陸最南端のホーン岬を回って太平洋へ出て、再び南アメリカ西岸を北上し、メキシコ沿岸へ、そしてカリフォルニアへと向かうのです。

アメリカ大陸横断鉄道が開通したのは1869年であり、ゴールドラッシュ当時に鉄道はつながっていません。もちろん馬車でアメリカ大陸を横断することは可能ですが、何ヶ月もかかります。陸路で大陸を横断するよりも、ホーン岬経由の海路の方がコスト(期間・労力・運賃)が安いのです。

No.20「鯨と人間(1)」で書いたように、ボストンを出航してホーン岬経由で太平洋に出るルートは、まさに19世紀前半にボストン地方(ナンタケット島)で盛んになった太平洋捕鯨のルートでした。そうして太平洋に出た捕鯨船が日本近海にウジャウジャいたのだから、金鉱発見の夢を抱く人々をクリッパーでアメリカ西海岸に運ぶのは、たやすいことだったのでしょう。



造船技術と操船技術があれば(そして、近代までは木があれば)、海は人々をつなげるものである・・・・・・。海上交通が重要な傾向は、時代を遡るほど強いはずです。

明治時代以前の都であった京都は、海路(+ 淀川水系)で北海道とつながっていました。湯豆腐も千枚漬けも北海道から運ばれた昆布がないとあり得ない料理・食材です。この北海道とつながる海路とは言うまでもなく北前船のルートであり、大坂から瀬戸内海を西進し、関門海峡を経由して日本海を東進・北上し、蝦夷に至るルート(とその逆)です。もちろん京都だけでなく日本全国に(沖縄まで)昆布文化が広まったのは海上交通のおかげですね。江戸時代は街道(東海道五十三次など)ばかりが有名ですが、水上交通も非常に重要だったはずです。街道ばかりが有名なのは、浮世絵や旅行記や名所案内が街道に沿って作られたからだと推測されます。それはそうですね。船から見た様子を浮世絵にしても売れないだろうし、「豚小屋」に入れられて船酔いでうなっていたというような旅行記も読む気がしません。海の上には絵にすべきものもないし、書くべきこともないのです。

飛鳥時代の北九州に視点を置くと、北九州から朝鮮半島南岸に行くのと、大和朝廷があった河内・飛鳥地方に行くのと、どちらが容易だったかと言うと、似たようなものでしょう。瀬戸内海の方が航海は容易でしょうが、距離としては対馬海峡を渡った朝鮮の方が断然近いわけです。仮に「近畿以西の本州、九州北部、朝鮮半島南部が一つの国だった」としたとしても、人・物資・情報・文化の交流面だけから言うと、おかしくはないわけです。

南太平洋に点在する島には「ポリネシア人」と総称される人たちが居住しています。人類史ではこれらの人々は、今のインドシナ半島やジャワ島のあたりから、徐々に太平洋の島々への拡散していったようです。島から島へと船で渡っていくのはそんなに難しいことではない。島が見えていれば目的地は分かるし、見えていなくても雲の様子を観察するとどこに島があるかが判別できる。昔、南太平洋には大きな大陸があった(それが沈んで島が残った)というような説があり(ほとんど空想ですが)、その証拠として広範囲に点在する島々に類似の文化があることが理由とされました。しかし海路を行けば文化は容易に島々へと伝達するのですね。海こそが人々を結ぶのです。

No.24 - No.27で塩野七生さんの『ローマ人の物語』の感想を書きましたが、ローマ帝国がなぜ繁栄したかというと、地中海のまわりをぐるりと一つの帝国にし、地中海の制海権を完全に掌握したからだと考えられます。ローマ帝国の交通路というと「ローマ街道」だけが脚光をあびて、そのインフラ整備がいかに進んでいたかばかり強調されますが、ローマ街道以上に重要だったのは海上交通(+ 河川の交通)のはずで、港湾の整備や造船技術の育成にローマ帝国は注力したはずです。

海(ないしは大きな河川)は人々をつなぐが、陸は人々を分断しかねない、という視点で昔をながめると、見えてくることが多いと思います。日本は周囲が全部海で、海岸線は非常に長いわけです。しかしすべての海岸が良港になるわけではありません。船が接岸しやすく港を作りやすいポイントがある。そのような地点に港が作られると、日本列島から朝鮮半島、サハリン、沖縄から台湾へと海路のネットワークができあがる。日本史はこの視点で見ることが大切だと思います。

暗黙に現代の感覚で過去を見てはならないのです。





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