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No.73 - ニュートンと錬金術 [歴史]


「大坂夏の陣図屏風」についての誤解


No.34「大坂夏の陣図屏風」で、この屏風の左隻に描かれているシーンについて以下の主旨のことを書きました。

大坂夏の陣図屏風・左隻には徳川方の武士・雑兵が、逃げまどう非戦闘員に対し暴力行為・略奪・誘拐(これらを「濫妨狼藉」という)をする姿が描かれている。

しかしこの屏風について「市民が戦争に巻き込まれた悲惨な姿を描き戦争を告発した、ないしは徳川方の悪行を告発した」というような見方は当たらない。

戦国時代の戦場において濫妨狼藉は日常的に行われていた(藤本久志『雑兵たちの戦場』。No.33「日本史と奴隷狩り」参照)。それはむしろ戦勝側の権利でさえあった。大坂夏の陣図屏風は徳川方の戦勝記念画であり、その左隻は「戦果」を描いたものと考えるのが自然である。

大坂夏の陣図屏風・左隻を「戦国のゲル二カ」と称したNHKの番組があったが、ピカソの「ゲル二カ」とは意味が全く違う。「ゲルニカ」は無差別爆撃を行った当時のファシスト軍を告発したものだが、大坂夏の陣図屏風・左隻は徳川方を告発したものではないし、豊臣家への挽歌でもない。

もし現代人が「一般市民が戦争に巻き込まれた悲惨な姿」を描いたのなら、それは「戦争を告発」したものであることは確実である。しかしそういう現代の視点で過去を見ると落とし穴にはまり、誤解してしまう。

大坂夏の陣図屏風・左隻・第3扇(部分).jpg 大坂夏の陣図屏風・左隻・第5扇(部分).jpg
大坂夏の陣図屏風・左隻。第3扇(部分。左)と第5扇(部分。右)

過去の文化・技術・人々の意識は、現代のそれとは違います。それは十分に分かっているはずだけれど、ついつい我々は暗黙に現代と同じような仮定を置いて過去の歴史を観察してしまい、誤解してしまうのです。

この「現代感覚で過去を見る落とし穴」について、一つの素材があります。No.41「ふしぎなキリスト教(1)」で書いた、アイザック・ニュートン(1642-1724)の業績です。ニュートンの「業績」は

物理学・数学
錬金術
聖書研究(聖書の「科学的」解読)

の3つだと書きました。その「錬金術」について詳しくみたいと思います。


ニュートンの錬金術研究


ニュートンの秘密の箱.jpg
小山慶太「ニュートンの秘密の箱」
小山慶太・著『ニュートンの秘密の箱』(丸善株式会社。1988)には、ニュートンの錬金術研究が書かれています。小山氏は早稲田大学教授の物理学者で、物理学を中心に科学・科学史を一般向けに解説した書物を多数著しています。この本は「ドラマティック・サイエンスへの誘い」という副題が示すとおり、ガリレオ、アインシュタイン、キュリー夫人などの「科学史の巨人」を題材に、その業績に関係した「ドラマティック」なシーンを読み物として書いたものです。その一つがニュートンというわけです。

この本の内容をもとに、ニュートンの生涯と、彼の錬金術研究が世に出るまでのいきさつを要約すると以下の通りです。

アイザック・ニュートンは、1642年、イングランド北東部のウールスソープ村で生まれた。

1661年、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学。ケプラー、ガリレオ、デカルトなどの著作に親しむ。

但し入学当時は神学、古典学、哲学などが主流であり、自然科学系の講座はなかった。最初の自然科学系講座(=ルーカス講座)が設けられたのは1663年である。従ってニュートンの自然科学系の学問の修得は独学であった。

1665年、ペストの流行のため大学は一時閉鎖され、ニュートンは郷里のウールスソープ村に1年半帰省する。この間に、万有引力の法則、運動の法則、光学、微積分、二項定理などの研究を行う。

1669年、弱冠26歳でルーカス講座の二代目の教授に就任。教授になって最初に選んだ講義のテーマは「光学」であった。このときの講義録は後に『光学』(1704)としてまとめられた。

1687年に『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)』を刊行し、古典力学の基礎を築く。

ルーカス講座教授に就任した直後から錬金術への関心を高める。錬金術の書物を買い集め、自ら実験も行う。トリニティ・カレッジの礼拝堂の庭にあった小屋を実験室にし、そこにこもる時間が多くなっていく。錬金術の研究に注力していた時期と『プリンキピア』を執筆していた時期は重なる。錬金術の研究の結果は夥しい量の手稿となって残された。

1696年、ニュートンは造幣局監事となり、ロンドンに転出した。そして赴任するときに錬金術の手稿を「箱」にしまい込んで持参した。その後ニュートンは、1702年に造幣局長官になる。また1703年からは王立協会(Royal Society。1660年設立)の会長にも就任して英国の科学者を統括する立場になり、1727年に84歳で亡くなるまでその地位にあった。

生涯独身であったニュートンは、身の回りの世話のため姪のキャサリン・バートンをロンドンに呼び寄せた。キャサリンは1717年にジョン・コンデュイットと結婚し、夫婦でニュートンと10年間同居して、ニュートンの最後を看取った。

ニュートンの「箱」は遺産としてコンデュイット家に渡った。コンデュイット家には一人娘があり、その娘がポーツマス伯爵と結婚したため「箱」はポーツマス伯爵家の所有となった。

ポーツマス伯爵家に代々伝えられたきたニュートンの「箱」は、1936年にロンドンのサザビーズで競売にかけられた。このとき、ケンブリッジ大学が生んだ著名な経済学者・ケインズは、ニュートンの手稿が散逸してしまうことを危惧し、約半分を競り落とした。ケインズは後にそれをケンブリッジ大学・キングスカレッジに遺贈した。


経済学者・ケインズの一文


以上がアイザック・ニュートンの生涯と、その錬金術研究の手稿が経済学者・ケインズの手に渡るまでの概略です。「箱」の中身を検討したケインズは、以下のような一文をしるしました。それは1946年にケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジで行われた「ニュートン生誕300年祭」(1942年が生誕300年だが、戦争で延期)で披露されました。


ニュートンは近代に属する科学者の最初にして最大の者であり、合理主義者で、また冷ややかで混じり気のない理性に従って思考することを教えた者と見られるに至った。

私は彼をこのようには見てはいない。1696年に彼が最後にケンブリッジを去ったときに荷造りをした、そして一部散失したけれどもわれわれに伝わっているあの箱の内容をよく検討したことのある者なら誰も、そうした見方ができるとは思わない。ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師であり、最後のバビロニア人でまたシュメール人であり、1万年には少し足りない昔にわれわれの知的財産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的および知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった。

小山慶太『ニュートンの秘密の箱』

我々がニュートンを見るとき、どうしても「近代科学の父」の側面だけを見ようとします。現代の視点で300年前を振り返って見ると、ニュートンの物理学や数学の業績ばかりに光が当たって見える。もちろん科学の分野での偉大さは言を待たないのですが、もう一方で錬金術研究も事実なのです。その面も見ないとニュートンの本当の偉大さはわからない。ケインズの言いたかったことはそういうことでしょう。


現代感覚で過去を見る落とし穴


しかし上の文章で感じるのは、ケインズもまた現代人の感覚で過去を見ているということです。それはニュートンを「理性の時代」と対比する言い方で「最後の魔術師」と表現している点です。

魔術師とは「超常現象を起こす人」「超自然現象が起こったというイルージョンを与える人」を指して言う表現です。確かに現代人の科学知識からすると、錬金術の成功(純金を作るという意味での錬金術の成功)はありえません。それは「超自然現象」であり、成功した話があるとしたらファンタジー小説の中だけです。

しかしニュートンの当時は、錬金術は「まじめな」研究の一つでした。それどころか錬金術は(密かに)成功していると考えられていたようです。ニュートンがケンブリッジ大学のルーカス講座の教授だった1688年のことですが、イギリスのウィリアム3世は「錬金術で得られた金銀はロンドン塔にある造幣局に持ってくれば、いっさいの詰問はせずに市価で買い上げる」と宣言したといいます(山本茂・九州女子大学教授『つい他人に話したくなる歴史のホント 250』光文社 2002 による)。

もちろん、錬金術に成功したからといって造幣局に持って行くようなバカな錬金術師はいません。拘束されて厳しく「詰問」されることが火を見るより明らかだからです。錬金術に成功した人やそのスポンサーになった貴族などは、そんなバカなことはしない。あくまで錬金術の成功を極秘にし、作った純金を小出しに売りさばきつつ、大金持ちになるストーリーを描く・・・・・・と、誰しもこう想像するのですね。「錬金術は密かに成功している」と当時の人々が考えたとしても、それには理由があるのです。

あくまで空想ですが、ひょっとしたらニュートンが造幣局監事として赴任したのは、錬金術研究を見込まれたからかもしれません。古代から中世まで「錬金術禁止令」を出した国は多くあり、英国もその一つです。「錬金術に対抗して通貨の安定を保つためには、錬金術に長けた人材が造幣局に必要」と英国政府が考えたとしてもおかしくはありません。毒をもって毒を制する、というわけです。あるいは、そもそもニュートンが錬金術の研究を始めたのは、気鋭の学者を見込んだ英国造幣局からの極秘の依頼だった・・・・・・。空想するだけなら、いろいろ可能です。

脱線しましたが、ともかく錬金術は古代エジプトの時代から綿々とあり、化学や技術の発達を促したことは数々の歴史的事実があります。錬金術を広くとらえて

卑金属から純金を作り出す(狭義の錬金術)
金を増量する(合金など)
金メッキをする

の3つと考えると、②③は可能であり(純金だと騙せるかどうかはともかく)、それが技術の発達を促したのは理解できます。確か英語の「化学・chemistry」の語源はアラビア語の「錬金術」だったはずです。

No.18「ブルーの世界」で書いたように、ニュートンが生きた同時代のヨーロッパで、プルシアン・ブルー(顔料)を作り出したり(ベルリン。1704)、マイセンでヨーロッパ産の磁器を作り出した(1709)のは錬金術師と呼ばれた人たちでした。中国や日本からヨーロッパに輸入された白磁は、同じ重さの金より高価だったと言います。まさに形をかえた「錬金術」です。

プリンキピア.jpg
アイザック・ニュートン
『自然哲学の数学的諸原理』
(プリンキピア。1687)
「ニュートンの秘密の箱」より
ともかく、錬金術は当時としては「まともな」研究対象だった。ニュートンもその研究に手を染めた。そういうことだと思います。

そしてニュートンの偉大さは、一方で錬金術のように古代から続く伝統的な研究をやる一方で、ほとんど独学により古典力学や、そのベースとなる微積分学などの理論を打ち立て、近代科学を切り開いたことです。No.41「ふしぎなキリスト教(1)」で書いたように、ニュートンは聖書研究もやっています。伝統にどっぷりと片足をつっこみながら、もう一方の足で前人未踏の新しい領域に踏み出し革新を遂げる。ここが並の学者と全く違うことろです。

現代感覚で過去を見てニュートンの錬金術研究を無視したり、逆にニュートンを「最後の魔術師」と見ることは、ニュートンの真の偉大さを理解しそこねると思います。





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