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No.11 - ヒラリー・ハーンのシベリウス [音楽]


セルフ・ライナーノート


No.11-1 HilaryHahn.jpgNo.10 に続いてヒラリー・ハーンさんの演奏を取り上げます。シベリウス(1865-1957)のヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47(1904)です。

彼女はこのコンチェルトのCDのセルフ・ライナーノートで次のように書いています。ちょっと長いのですが、この曲の本質と演奏の難しさを言い当てていると思うので、そのまま引用します。冒頭にシェーンベルクの名前が出てくるのは、このCDのもう一つの協奏曲だからです。引用はシベリウスに関係した部分だけです。


どんなことでも、第一印象というのはなかなか抜けないものです。そして音楽においては、人生の場合と同様、誤解のもとになりかねません。私はそれをまずジャン・シベリウスの協奏曲で、そして次にアノルト・シェーンベルクの協奏曲で体験しました。まず、シベリウスのほうからお話しましょう。

シベリウスの協奏曲にかんする私の最初の思い出は、とても変わっています。子供のとき、野球場ではじめてこの曲をテープレコーダで聞いたのです。ボルティモア・オリオールズの試合の最中に。なぜそんなことをしたのか、よく覚えていません。ヴァイオリンのレパートリーを広げたいと思っていたからか、協奏曲の演奏を夢見ていたからでしょうか。いずれにせよ、シベリウスの協奏曲を1回聞いただけで夢中になったという人が多いのに、私はまず面食らってしまったのです。私の未熟な耳には、音楽が奇妙な両極端の間をめちゃくちゃに揺れているように聞こえたのです。その構成にもとまどいました。1つの形が立ち上がりかけると、とたんにその流れがとぎれて無関係な動機が飛び出してくる。野球場の雰囲気や、真夏のむし暑さが影響していたのかもしれません。でも、もっと落ち着いた場所でべつの録音を聞き直しても、シベリウスはよくわからにない、という印象は変わりませんでした。

その何年かあと、16歳になったとき、私が師事していたヤッシャ・ブロツキー先生から、シベリウスを勉強する時期がきたと言われました。あのときの練習室はいまもはっきりと目に浮かびます・・・・・・床には真っ赤な東洋の絨毯、私のとなりには冷たく光る戸棚、金属性の譜面立ての上には、私の子供時代の住所が書かれた楽譜、あの部屋で協奏曲が一変したのです。ヴァイオリン・パートの思いがけない繊細さが見え始めました。構成の快いシンメトリーが浮かび上がりました。何ヶ月か練習し、何度か予備コンサートで演奏したあと、私はシベリウスの協奏曲をオーケストラとの長期ヨーロッパ・ツアーに持っていきました。そして数年間折にふれ演奏したあと・・・・・・自分がいつもそうするように・・・・・・しばらくこの曲から遠ざかりました。

(訳:木村 博江)

この文章のポイントは2つです。第1は子供の頃、ボルティモア・オリオールズの試合の最中にこの曲を聞いたところです。彼女はこう書いています。「・・・・・・私の未熟な耳には、音楽が奇妙な両極端の間をめちゃくちゃに揺れているように聞こえたのです。その構成にもとまどいました。1つの形が立ち上がりかけると、とたんにその流れがとぎれて無関係な動機が飛び出してくる。・・・・・・」。

私はほとんど確信して言えるのですが、ヒラリーの耳が未熟であったわけでは決してないと思います。未熟というのは彼女の謙遜です。それは全く逆であって、子供にしては特別に鋭い耳をもっていたからこそ「音楽が奇妙な両極端の間をめちゃくちゃに揺れているように聞こえた」のです。なぜそう確信できるのかというと、プロのヴァイオリニストでさえ、その演奏の多くが「両極端の間をめちゃくちゃに揺れている」ように感じる演奏、「無関係な動機が飛び出してくる」ように聞こえる演奏だからです。本当はこの曲は、決してそんなことはないと思うのですが・・・・・・。

No.11-2 Curtis.jpg
カーティス音楽院
第2のポイントは16歳になった彼女が、フィラデルフィアのカーティス音楽院(のはずです。No.10 参照。写真)の一室でこの曲を練習し「協奏曲が一変した」と語っているところです。これはどう解釈できるかと言うと、16歳になった彼女はすでにシベリウスの譜面から音楽を読みとる力を身につけていて、かつこの技術的にも難しいコンチェルトを完璧に弾きこなせた、ということだと思います。だから「両極端の間をめちゃくちゃに揺れている」ような演奏にはならなかったのです。


2人のヒラリー


このCDは2007年の、彼女が27歳の時の録音です。初めて弾いた16歳のときから10年間の「進歩」は分からないのですが、意外に16歳のときの演奏とあまり変わらないのかもしれません。とにかくこのCDのシベリウスは、セルフ・ライナーノートどおりの名演です。それはたとえば第3楽章の冒頭に如実に現れています。

譜例14a
No.11-3 Sibelius - Violin Concert 3rd Mov.jpg
シベリウス
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
第3楽章の冒頭

この終楽章の冒頭は、ティンパニとヴィオラ、チェロ、コントラバスが繰り返す「タッタタ・タッタタ・タッタタ」という3拍子の極めて単調なリズム(しかし、ティンパニと弦楽器群が半拍だけズレている独特のリズム。譜例14a)に乗って、独奏ヴァイオリンが40小節もの長いソロを弾きます(譜例14b)。この間には「無関係な動機が飛び出してくる」ように思える箇所がいくつもあります。この40小節を、機械的に繰り返される譜例14aに乗って、全体として一体感のある演奏をするのはプロのヴァイオリニストといえども至難の技だと思うのですが、彼女はそれに成功しています。

譜例14b
No.11-4 Sibelius - Violin Concert 3rd Mov - Violin.jpg
シベリウス「ヴァイオリン協奏曲 ニ短調」
第3楽章の第5小節目から40小節間のヴァイオリン独奏

ヴァイオリン協奏曲の中でも最も有名な部分の一つだが、プロのヴァイオリニストでさえ弾きこなすのは難しい。4オクターブの高低差があり、リズムも途中で変化する。オーケストラの単調なリズム(譜例14a)にうまく乗って、この部分を大きな一つのフレーズとして一体感をもって演奏できる人は少ない。ヒラリー・ハーンはその少ない一人である。

彼女の演奏を聞いていると、
 ヒラリーA
 ヒラリーB
という、2人のヒラリーが一人の中に同居しているようです。

ヒラリーAは指揮者です。譜面を読み、作曲家の意図を想像し、曲の構成を考え、音楽の流れを作り、フレージングを決めて、演奏家に細かい指示を出します。

ヒラリーBは演奏家であり、ヒラリーAの厳しい要求を聞き、ヴァイオリンでどう表現するかを考え、楽器を駆使して音楽を実際に作り出します。

一つだけ例をあげると、彼女の重音は非常に美しいですね。美しいと言うよりバランスが素晴らしいと言った方が良いのでしょう。上の弦(上声部)と下の弦(下声部)の一音一音のバランスを、その時の曲の表情に合わせて微妙に変えています。それはヒラリーAが2つ声部をそれぞれどのように弾くべきか、その指示を詳細に出し、ヒラリーBがそれに完璧に答えている、というように感じます。

ということで、このシベリウスのCDは他にあまりないような名演で、衝撃の演奏と言ってもよいと思います。ただ、私にとっては「衝撃」の度合いはそう大きなものではありませんでした。というのは、彼女のようなシベリウスの演奏を以前に聞いたことがある、それもナマ演奏で、という記憶が強くあったからです。衝撃も2度目になるとインパクトが小さくなる、というわけです。


東京芸術劇場での衝撃


1990年代後半の、確か1998年だったと思います。当時私は東京交響楽団の「東京芸術劇場・年間定期会員」でした。年間定期会員は「おまかせ」の演奏会に行くわけですから、知らない曲やアーティストに出会えるという楽しみがあります。

その年のある定期演奏会です。池袋の東京芸術劇場にいくと、一人の少女がヴァイオリン・コンチェルトの独奏者として登場しました。背がそんなに高くなく、舞台に登場したときの服装も「ドレス」ではなくて「少女服」という感じでした。パンフレットの記憶では15歳ぐらいだったと思います。何でもドイツに音楽留学していて、帰国して東京交響楽団のコンサートに出演したとのことでした。そして彼女が演奏したのがシベリウスだったのです。

この演奏には驚いてしまいました。このコンチェルトはそれまでに何回となく聞いたはずだし、ナマ演奏も聞いたことがあります。だけど「こんな曲だとは初めて知った」という印象が強烈でした。昔の音の記憶を、今言葉で表現するのは簡単ではないのですが、とにかく音楽の流れが自然で、淀みが全くなく進行していき、全体としての一体感がものすごくある演奏だと思ったことを覚えています。「弾くのにこんなに簡単な曲だとは思わなかった」という印象も受けました。本当は非常に難しい曲なのですが、それだけ少女が弾きこなしていた、ということでしょう。

少女の名前は庄司紗矢香さんです。彼女はその後、イタリアのジェノヴァでのパガニーニ国際コンクールで優勝しました。驚きはなかったですね。優勝しても何の不思議もないと思ったのです。

音楽家が人に感銘を与える演奏をする、ということにおいて、音楽家の年齢はそれほど関係ない。これが庄司さんの演奏を初めて聞いたもう一つの感慨です。

ジャンルは違いますが、小説の世界においても高校生の少年・少女が「新人文学賞」をとったりしますね。しかも恋愛小説だったりする。もちろん15・6歳でも恋の経験はあるでしょうが、その経験はたかが知れています。人生における「男女の経験」の幅広さと感情の機微の多様さを考えると、ほとんど無いに等しい。しかしその少年なり少女には2つの大きな武器があります。一つの武器は、本を大量に読むことによって過去の人の経験をいくらでも追体験できることです。もう一つは本人の感受性という武器であって、膨大な追体験からエッセンスを抽出し、自分自身の少ない経験とも照らし合わせ、想像を膨らまし、新たな自分なりの小説世界を構築できることです。

ヴァイオリニストもそれと似ているのだと思います。演奏技術の面では、15・6歳でトップクラスに到達できることは数々の事例が証明しています。そして本人の感受性をたよりに、偉大な作曲家の数々の譜面を読み、作曲家の意図や思いを想像し、人に感銘を与える「演奏世界」を思い描いて、それを実際に作り出す・・・・・・。人前での演奏経験をそんなには積まなくてもそれができる人がいることを、庄司さんの演奏は証明していました。

前の文章でヒラリー・ハーンさんについて「16歳になった彼女はすでにシベリウスの譜面から音楽を読みとる力を身につけていて、かつこの技術的にも難しいコンチェルトを完璧に弾きこなせた」という「推測」を書きましたが、それは15歳の庄司紗矢香さんの演奏が頭にあったからです。庄司紗矢香さんがそうなら、ヒラリー・ハーンさんもそうだろうという、極めてまっとうに思える推測です。


野球場で聴くシベリウス


このシベリウスのヴァイオリン協奏曲のCDは、そんないろいろの思いを想起させたてくれた1枚です。さらに、もう一つの感想があります。それはソニーのウォークマンが作り出した「音楽を戸外に持ち出す」というライフスタイルの影響の大きさです。ヒラリー・ハーンさんが子供の頃にボルティモア・オリオールズの試合に持っていってシベリウスを聞いたのがウォークマンかどうかは分かりません。しかし、ウォークマンもしくはそれに影響されて作られた類似製品だと推測できます。野球の試合を見ながら聞くのですから。

ウォークマンでクラシック音楽を戸外で聞く・・・・・・これは特別なことだったのでしょうか。

そんなことはありません。ソニーの宣伝部での経験が長い黒木靖夫氏の本には、次のような記述があります。


日本でいち早く発売された「ウォークマン」は、音楽の専門家たちをもとりこにしました。その年(注:1979年)来日したベルリン・フィルもニューヨーク・フィルも、オーケストラの連中が先を争って買い求めたのです。品不足だったので、この人たちへの品物を確保するのは大変でした。故郷に帰ったこれらオピニオン・リーダーたちの口コミは、大きな影響を与えたのです。

黒木靖夫「ウォークマンかく戦えり」
(ちくま文庫 1990)

ウォークマンが最初に日本で発売された1979年は、ちょうどヒラリー・ハーンさんが生まれた年です。ウォークマンはその後すぐに世界で販売され、またたく間に普及しました。エレクトロニクスのエンジニアが心血を注いで画期的な製品を作り、それが世界に浸透していき、米国東海岸のメリーランド州でヴァイオリンの勉強をしながら演奏家を夢見ていた少女の行動にまで「影響」を与える・・・・・・。音楽とテクノロジーの深い関係を改めて認識したCDです。




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