SSブログ

No.205 - ミレーの蕎麦とジャガイモ [アート]


落穂拾い


No.200「落穂拾いと共産党宣言」の続きです。画家・ミレー(1814-1875)が描いた傑作『落穂拾い』ですが、No.200で書いたその社会的背景や当時の評判をまとめると以下のようになります。

落穂を拾っている3人は最下層の農民であり、地主の許可なく農地に入り、刈り取りの際にこぼれた小麦の穂を拾っている。地主はその行為を黙認しており、そういった「喜捨きしゃの精神」は聖書の教えとも合致していた。

この絵は当時から大いに人気を博し、数々の複製画が出回った。

しかしパリの上流階級からは社会秩序を乱すものとして反発を招いた。「貧困の三美神」という評や「秩序をおびやかす凶暴な野獣」との論評もあった。詩人のボードレールは描かれた農婦を "小賤民パリアたち" と蔑称している。

その理由は当時の社会情勢にあった。「共産党宣言」にみられるように労働者の権利の主張が高まり、社会の変革や改革、革命をめざす動きがあった。ミレーのこの絵は、そういった動きにくみするものと見なされた。この絵は当時の上流階級からすると「怖い絵」だった。

落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

ミレーは社会運動に参加したわけではないし、労働者や農民の権利や社会の改革についての発言をしたことはないはずです。画家はシンプルにバルビゾン周辺の「農村の実態」を描いた。

しかし描かれたのが「最下層の農民」ということが気にかかります。ミレーの真意はどうだったのか。この絵だけを見ても分からないので、他のミレーの傑作から考えてみたいと思います。誰もが認めるミレーの名画・傑作は、制作年順に、

『種まく人』(1850)
 山梨県立美術館・ボストン美術館
『落穂拾い』(1857)
 オルセー美術館
『晩鐘』(1857/59)
 オルセー美術館
『羊飼いの少女』(1864)
 オルセー美術館

でしょう。これには多くの人が合意すると思います。このうち『羊飼いの少女』は "牧畜" の情景です。以下では『落穂拾い』と同じ "農業" を描いている『種まく人』(1850)と『晩鐘』(1857/59)をとりあげます。


『種まく人』


『種まく人』は岩波書店のロゴにもなっている日本人にはなじみの絵で、山梨県立美術館とボストン美術館がほぼ同じ構図の絵を所蔵していることで有名です。またミレー崇拝者だったゴッホがこの絵をもとに「ゴッホ流・種まく人」を何枚か描いたこともよく知られています(No.158「クレラー・ミュラー美術館」参照)。

種まく人.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
種まく人」(1850)
(ボストン美術館)

この絵の特徴は農夫が傾斜地で種をまいていることです。農夫や農業を描いた絵は西洋・日本を問わずいろいろありますが、傾斜地での農業を描いたのはめずらしいのではないでしょうか。

バルビゾンに行ってみると分かりますが、あたり一帯は起伏が全く無い平原です。近くに森はあるが(フォンテンブローの森)傾斜地はありません。この絵について、山梨県立美術館でミレー担当の学芸員だった井出洋一郎氏は次のように書いています。


農夫の踏みしめる大地は明らかに傾斜しており、移住したバルビゾン村の平原ではない。故郷であるノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地である。そこで当時栽培されたのが、ミレー晩年の四季図にも出てくる、フランスで「サラセンの麦」または「黒麦」と呼ばれる「蕎麦そば」であった。今でもガレットやクッキーの素材に使うが、当時は寒冷地でも土地が痩せていてもなんとか育つ、飢饉に強い雑穀として栽培されていたものである。燕麦えんばくよりはましだが、当然口のおごったパリジャンたちの食べるものではない。


井出さんによると「種まく人」を題材としたミレーの絵は、山梨とボストンの絵を含めて5点あります。井出さんはこれらの絵を比較検討し、描かれているのがミレーの故郷である「ノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地」と結論づけています。No.97「ミレー最後の絵」で引用したのですが、倉敷市の大原美術館が所蔵するミレーのパステル画に『グレヴィルの断崖』(1871)があります。グレヴィルはグリュシーを含む地方名で、晩年にミレーが故郷を訪れて描いた作品です。ちょうどこのような断崖に続く内陸部が「種まく人」の舞台なのでしょう。

Millet - グレヴィルの断崖.jpg
ミレーグレヴィルの断崖」(1871)
(大原美術館)

この絵のもう一つのポイントは、農夫がまいている種が小麦ではなくて蕎麦だという点です。小麦よりランクが落ちるが、寒冷で痩せた土地でも育つ蕎麦を農夫はまいているのです。

パリのモンパルナス駅のそばのホテルに何回か宿泊したことがありますが、モンパルナス一帯にはブルターニュ料理を出す店が多いのですね。モンパルナス駅がブルターニュ地方と鉄道で直結しているからでしょう。ガレットを出す店が並んでいる通りもあったと記憶しています。ガレットやクレープはちょうどよいランチなので何度か行きました。ガレットは蕎麦で作るのが "正式" です。ブルターニュは、ミレーが生まれたノルマンディーのすぐ南側の大西洋沿岸地方です。つまり、ミレーの故郷 → 厳しい自然 → 蕎麦 → ガレット → モンパルナスという "つながり" があるわけです。

そして井出さんは、ミレーがこの絵を描いた真意を次のように推測しています。


ミレーがなぜこの絵をパリのサロンに出したかは、1848年の二月革命のきっかけが、パリにではなく、周囲の農村での飢饉による農民暴動にあったことを考えれば、私にもわかるような気がするし、画家はこう語っているように思える。

「あなたたちと違って、私はこんなつましく貧しいものを食べて育ってきたのだ」

「それでもおなじように大切にまき、育て、収穫することが人間の宿命であり、それが尊いことなのだ」

《種まく人》からミレーのつぶやきを聞くなら、私はこれに尽きると思っている。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

『種まく人』の背景には2つの流れがあるようです。一つは、

農村での飢饉が暴動へ発展
  ↓
パリでの二月革命(1848)
  ↓
『種まく人』(1850)

という当時のフランスの社会情勢です。『種まく人』は二月革命とは無関係ですが、社会情勢との関係で絵を捉える人もいたはずです。2つめは、

ミレーの故郷=ノルマンディー
  ↓
起伏が多く、痩せた土地
  ↓
蕎麦の栽培
  ↓
『種まく人』= 蕎麦の種をまく人

という背景です。そして、二月革命の記憶も生々しい時に『種まく人』をサロンで見たパリの上流階級の人たちは、その数年後のサロンで再び『落穂拾い』を目にした。冒頭に書いた『落穂拾い』への反発の理由が分かるのでした。


『晩鐘』


晩鐘.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
晩鐘」(1857)
(オルセー美術館)

もう一つの傑作『晩鐘』です。この絵は『種まく人』から7年後、『落穂拾い』とほぼ同時期に描かれました。まずこの絵についての中野京子さんの解説を引用します。


『晩鐘』の原題は『アンジェラスのかね』と言う。

ここはパリから南に五十キロほど下った、小さな村バルビゾン。遠くに見えるシャイイ教会が日に三度、朝昼晩とアンジェラスの鐘のを響かせ、人々に時をげるとともに、祈りをうながす。夕闇迫る今この時は、一日の終わり、つまり過酷かこくな戸外労働の終わりを意味し、若い夫婦は首をれて祈ったあと家路につくのであろう。画面右上の、ねぐらに帰るからすたちと同じように。

背景の明るさとは対照的に、ふたりの立つ前景は暗い。陽のあたる背景には積みわら名残なごりが見られ、豊かな麦畑であることが示され、影の濃い前景の土地はせ、夫婦のわずかな収穫はジャガイモである。ミレーのもう一つの傑作『落穂おちぼ拾い』と同じく、「富む背景、貧窮ひんきゅうの前景」が示されている。ジャガイモはパンを食べられない貧民の主食だった。だから手押し車にせた袋には商品用のそれ、足元の手籠てかごには自分たち用のそれと、分けて入れてある。

両手を合わせた妻と帽子を持つ夫の祈りのつぶやき、みわたる鐘の音、そして遠く烏の鳴き声と、農村の夕暮れに満ちるさまざまな音さえも聞こえてくるよう画面だ。ふたりの人間が向き合って立っているだけの単純な構図の中に、農民の人生(ひいてはその運命)、日々の労働(ひいてはその崇高さ)、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさが、みごとにとらえられている。


ちなみに「アンジェラスの鐘」(アンジェラスはラテン語で天使の意味)は「お告げの鐘」とも呼ばれ、朝昼晩の三回、「アンジェラスの祈り = お告げの祈り」を唱えるように促す鐘です。「お告げの祈り」は聖母マリアの受胎告知を記念した祈りで、"Angelus Domini"(主の御使い)という文句で始まるために「アンジェラスの祈り」と呼ばれています。

この絵には「教会」と「祈り」が描かれていて、ミレーの絵にしては珍しく宗教色の強いものです。それは描かれた経緯に関係していて、この絵はアメリカ人の注文によって描かれました。注文主はボストン生まれの作家で美術コレクター、後にボストン美術館の理事にもなったトマス・アップルトン(1812-1884)という人物です。アップルトンは1857年にバルビゾン村のミレーを訪れて注文を出します。


1857年の初め、アップルトンはバルビゾンのミレーを訪ね、この《晩鐘》を注文する。その際にアップルトンとミレーの間で、この絵のコンセプト、あるいは構図について、何らかの相談があったと思われる。というのも、この絵は鐘の音と祈りをテーマにしており、ミレーの絵の中では宗教的雰囲気が濃い。しかし、キリスト像もマリア像も十字架もこの絵にはなく、カトリックの宗教画の形式を放棄した構図なのである。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

言うまでもなくミレーは敬虔なカトリック教徒です。ミレーはなぜ宗教色を排したのでしょうか。それは注文主のアップルトンに関係していると、井出さんは言います。


調べてみて納得がいったのは、アップルトンは故郷ボストンのフェデラル・ストリート教会の熱心な信者であり、ここはアメリカにおけるユニテリアン(非三位一体派)の拠点だったのである。ユニテリアンは、キリストが神の子であっても神ではないとし、プロテスタントの中で最もリベラルな派閥である。極端に言えば、もはや宗派の区別は問題でなく、祈りが神に通じればよし。この性格を取り入れるなら、《晩鐘》はまさにユニバーサルな宗教性を持ち、世界で愛される名画の資格も同時に得ることになる。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

熱心なカトリック教徒(= ミレー)と、プロテスタントの中でも最もリベラルなユニテリアン教徒(= 絵の注文主)の出会いで生まれた "宗教画"、それが『晩鐘』だという見立てです。しかしどういう理由わけかアップルトンは完成した絵の引き取りに来なかった。ミレーは絵を売却し、紆余曲折の結果、絵は最終的にオルセー美術館に落ち着きました。

この絵が日本人の "宗教的心情" にも訴えるような "ユニバーサルな宗教性" を持っているというのは、確かにそうだと思います。



しかし、もう一つの重要なポイントがあります。それは二人が収穫している農作物がジャガイモだという点です。中野さんも書いているようにジャガイモは貧民の食べ物だったのです。井出さんは次のように書いています。


19世紀のフランス農民は、小麦が収れない地域では、蕎麦(黒麦)や燕麦を主食としていたが、それでも食べられない場合にはじゃがいもで代用した。すなわち、じゃがいもを主食としているフランスの農民の貧しい現実を、南北戦争以前にじゃがいもを主食としていたアメリカ開拓民になぞらえて描いたものではないか。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

ゴッホの絵に『ジャガイモを食べる人々』という有名な絵があります。「いかにも貧しい農民」という絵であり「ジャガイモ = 貧しさ」だとよく分かります。対して『晩鐘』は、一見したところ貧しいという感じは受けないけれど、実態はゴッホの絵と同じなのです。

ジャガイモの原産地は南米のアンデス山脈で、16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰ったものです。初めはヨーロッパに相当する作物がなかったため受け入れられませんでしたが、寒冷な気候に強いという特質が理解され、西ヨーロッパはいうに及ばす、東ヨーロッパ、ロシア、シベリア、中国、そして日本(特に北海道)にまで広まった。そのジャガイモに、フランス貧しい農民も救われたわけです。


ダリの "『晩鐘』論"


この絵で思い出すは No.97「ミレー最後の絵」に書いた、サルバトーレ・ダリ(1904-1989)の『晩鐘』についての発言です。ダリの生家には『晩鐘』のレプリカが飾られていて、彼は子どものころからこの絵を目にしていました。「ミレー《晩鐘》の悲劇的神話」という論文断片集で、ダリは『晩鐘』について述べています。中野京子さんの本から引用します。


ダリは、女の足もとに置かれた手籠を不自然と感じる(そう言われればそんな気がしないでもない)。最初は籠ではなく、小さな ─── おそらく彼らの子どもを入れた ─── ひつぎを描いたのではないか。つまりこれは一日の終わりを感謝する祈りではなく、亡き子を土にめた後、母は祈り、父は泣いている情景だった。ところが誰かに忠告されたか、ミレー本人の気が変わったかして、最終的にこのような形に変更したのではないか、と。

確かにアンジェラス(=エンジェル)の祈りには、「聖母マリアさま、罪あるわたしたちのため、今も、臨終りんじゅうの時も、どうぞお守りください」との言葉がある。またミレー自身、友人への手紙にこう書いている。かつて信心深い祖母から、アンジェラスの鐘が聞こえるたび仕事を中断させられ、「死者たちのために祈りなさい」と言われた、それを思いだしながらこの絵を描いたのだ、と。

中野京子『怖い絵 2』
朝日出版社(2008)

もちろん中野さんは "ダリ説" を信じているのではありません。また山梨県立美術館の学芸員だった井出さんは実際にこの絵のエックス線写真を見たそうですが、

  ダリがひつぎとしたものはミレーがジャガイモの籠の位置を修正して書き直した結果、下書きがだぶったもので、ミレーの絵によくある深読みにすぎない

と、学芸員らしく断言しています(「農民画家ミレーの真実」から引用)。なぜダリがこのような "妄想" を抱いたのか。それは中野さんが示唆しているように「臨終の時も」というアンジェラスの祈りに出てくる文句に要因があるのかもしれません。

しかし思うのですが、ダリの "妄想" をかき立てた別の理由があって、それはまさにこの絵に描かれているのがジャガイモだからではないでしょうか。さきほど書いたようにジャガイモはアンデス山脈の高地が原産地であり、スペイン人が16世紀にヨーロッパに持ち帰ったものです。しかしすぐにヨーロッパに広まったわけではありません。伊藤章治氏の「ジャガイモの世界史」には次のように書かれています。


ジャガイモのヨーロッパでの普及は、迷信の壁に大きくはばまれた。

ジャガイモがもたらされるまで、ヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかった。前例のないものを口に入れることは抵抗が伴う。そこに迷信や偏見が生まれる背景があったといえよう。

現在のジャガイモは形も色もスマートで美しくなったが、ヨーロッパに移入された当時のジャガイモは、形がゴツゴツで不規則なうえ、色も悪かったという事情がこれに加わる。そんな形や色から、病気を連想、ハンセン病、クル病、肺炎、赤痢、ショウコウ熱などの原因がジャガイモだというまったく根拠のない言説が生まれ、広がっていった。さらには「催淫さいいん作用がある」ともいわれ、敬遠された。このためフランスの一部地方では、ジャガイモの栽培禁止を議会決議している。それほど抵抗や偏見は根強かった

さらにキリスト教文化圏では「ジャガイモは聖書に出てこない食物。これを食すれば神の罰が下る」との文化的偏見も加わる。

そんな迷信や偏見をはねのけ、ヨーロッパにジャガイモが広がったのはひとえに、打ち続く飢饉と戦争のゆえだ。背に腹は代えられない。飢えをまえに民衆は、次第に迷信や偏見を乗り越えていくのである。


ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。スペイン人が持ち帰ったジャガイモはこのようだったと考えられる。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。

ダリは20世紀のスペイン人です。その時代のスペインにジャガイモに対する迷信や偏見はもうないでしょう。しかし昔の記憶がそれとなくダリに影響したとも考えられる。祖母がよく語っていたのは、昔はジャガイモを食べると神の罰が下ると言ったものだ、みたいな・・・・・。

ポイントはヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかったという点です。ちなみにサツマイモもアメリカ原産であり、16世紀以前は、ジャガイモもサツマイモもヨーロッパにはありません。そこに偏見と迷信が生まれる要因があった。

「昔の記憶がそれとなくダリに影響した」というのは違うかもしれません(違うと思います)。しかしよくよく考えてみると、現代においても、

  地上からは全く見えない地下に埋まっている農作物を、土を掘り起こして収穫し、それを人間が食べるというのはジャガイモ(とサツマイモ)しかない

のです。「しかない」というのは言い過ぎですが、ごく一般的な農作物としてはそうでしょう。そしてダリはここに反応しているのではと思うのです。つまりダリは、

  土に鍬を入れて穴を堀り、かつては生命体だった "もの" を埋めて、その上に土をかぶせるという行為、つまりジャガイモを掘るのとは逆の行為を『晩鐘』に描かれている手籠から連想した

のではないでしょうか。普通の人間だと、あるいは普通のアーティストだとこういう連想はあり得ないと思います。しかしサルバトーレ・ダリは普通の感覚をもったアーティストではない(ということが、彼の作品を見るとよくわかる)のです。ジャガイモに触発された "妄想" ということもあるのではないか。



ダリの "『晩鐘』論" はさて置きます。しかしダリは別にしても、この絵にかれる人は多いと思います。その魅力どこにあるのかと言うと、中野京子さんが言うように「日々の労働の崇高さ、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさ」であり、また井出洋一郎さんが指摘している「ユニバーサルな宗教性」でしょう。日本人にも十分理解できる宗教的感覚・・・・・・。その通りだと思います。

しかしもう一つのポイントはジャガイモです。それが、鑑賞する人に何かしらの印象を(暗黙に)残すのだと思います。その印象の内容と強さは、人によって違うかもしれないけれど・・・・・・。


『種まく人』と『晩鐘』と『落穂拾い』


『種まく人』『晩鐘』、そして『落穂拾い』というミレーの傑作農民画の3点を、農作物の観点からまとめると次のようになります。

作品 農作物
種まく人 蕎麦
晩鐘 ジャガイモ
落穂拾い 収穫されなかった小麦

この3作品はすべて、単なる農民画でありません。「明るい農村」とは真逆の世界、つまり、

貧しい農民
小麦が穫れないような厳しい環境で生きている農民

を描いたものなのです。これにはミレーの "思い" が示されていると考えるのが妥当でしょう。ミレーは意図的に、必死に生きている下層農民を描いた。それは当時のパリの「ブルジョアジーに対する毒を含んだ贈り物」(= 井出さんの『種まく人』についてのコメント)であっただろうし、またそれが絵を見る人に強い印象を与えるのだろうと思います。

補足すると、この3つの絵には農作物以外にも共通点があります。まず、暗い前景と明るい後景という描き方が同じです。さらに時刻が夕暮れ時です。「落穂拾い」と「晩鐘」は夕暮れ時がピッタリですが、「種まく人」はなぜ夕刻なのか。それは鳥に種を食べられないようにするためなのですね。昼間耕して夕暮れに種をまく。後景に小さく描かれた鳥の群れは巣に帰る姿です。



『種まく人』『晩鐘』『落穂拾い』の3作品が名画である最大の理由は、それぞれのテーマを具現化したミレーの画力であり、我々はそれをじっくり鑑賞すればいいと思います。しかし同時にこの3作は、描かれた農作物やシチュエーションを通じて「絵は時代の産物」という側面をよく表しています。そこもまた見所なのでした。

続く


nice!(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

トラックバック 0