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No.222 - ワシントン・ナショナル・ギャラリー [アート]

バーンズ・コレクションからはじまって、個人コレクションを発端とする美術館について書きました。

No. 95バーンズ・コレクションフィラデルフィア
No.155コートールド・コレクションロンドン
No.157ノートン・サイモン美術館カリフォルニア
No.158クレラー・ミュラー美術館オッテルロー(蘭)
No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館マドリード
No.192グルベンキアン美術館リスボン
No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館ロッテルダム(蘭)
No.216フィリップス・コレクションワシントンDC
No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館ミラノ

の9つの美術館です。今回はその方向を少し転換して、アメリカのワシントン・ナショナル・ギャラリーについて書きます(正式名称:National Gallery of Art。略称:NGA。以下 NGA とすることがあります)。

  なお上記の "個人コレクション美術館" 以外にも、バーンズ・コレクションから歩いて行けるフィラデルフィア美術館(No.96No.97)について書きました。またプラド美術館の数点の絵画についても書いています(No.133No.160No.161)。

なぜワシントン・ナショナル・ギャラリーかと言うと、過去にこのブログでこの美術館の絵をかなり紹介したからです。意図的にそうしたのではなく、話の成り行き上、そうなりました。そこで、過去に取り上げた絵を振り返りつつ、取り上げなかった絵も含めてこの美術館の絵画作品を紹介しようというのが今回の主旨です。

それに、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは "個人コレクション美術館" が発端です。つまりこの美術館は、銀行家・実業家で財務長官まで勤めたアンドリュー・メロン(1855-1937)が建設・運営基金と個人コレクションを国家に寄贈し、それにもとに設立された美術館です(1941年開館)。アメリカ富裕層の財力のものすごさを感じます。ちなみにここは創立以来、入場料が無料です。「アメリカを文化国家に」という主旨で設立されたからですが、現在、国を代表するような美術館・博物館で入場無料というのは大英博物館、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとここぐらいのものではないでしょうか。

いうまでもなくアメリカ随一の「国立美術館」であり、その規模や作品数は膨大です。「国立」なのでアートの年代も13世紀から20世紀まで多岐に渡っている。その意味で、フィラデルフィア美術館と同じく "巨大美術館を紹介するのは難しい" わけですが、今回は、

  一人または複数の人物を描いた絵。人物がテーマの中心になっている絵画作品

に絞ります。また、さきほど書いたように過去にこのブログでとりあげた絵を再掲するとともに、必見と思われる絵を追加する形をとります。さらにアメリカ人画家をなるべく掲載することとします。以下は画家の生誕年順で、同一画家の作品は制作年順です。

The-National-Gallery-of-Art-in-Washington-DC.jpg
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
(National Gallery of Art. NGA)
西館の南側正面(ワシントン D.C.)


ボッティチェリ(1446-1510)


Portrait of a Youth.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
青年の肖像」(1482/1485)
(44cm×46cm)

No.160「モナ・リザと騎士の肖像」で引用した作品です。青年が右手を胸に置いて人指し指と中指を広げていますが、同じポーズの絵がプラド美術館にあります。それはエル・グレコの『胸に手を置く騎士』で、プラド美術館の代表作の一つとされている作品です。

マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像.jpg
ブロンズィーノ
マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像」(1551)
(ウフィツィ美術館)
このような手の形はルネサンス期のイタリア絵画で女性の姿によくあります。ブロンズィーノの『マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像』がその典型です。ボッティチェリ自身の『ビーナスの誕生』(ウフィツィ美術館)もそうで、これらは手を美しく見せるためと言われています。しかし男性の肖像画ではあまり見たことがなく、エル・グレコからこのNGAのボッティチェリを思い出したわけです。

この絵は現地で初めて知ったのですが、巨大美術館であるワシントン・ナショナル・ギャラリーの中でも印象的で、すぐに写真を撮ったのを覚えています。なぜ印象的だったかは分かりませんが、ひょっとしたらそれは「指を広げて胸に置いた右手」だったのかも知れません。


ダ・ヴィンチ(1452-1519)


Ginevra de' Benci.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ジネヴラ・デ・ベンチ」(1474頃)
(38cm×37cm)

ヨーロッパ以外にある唯一のダ・ヴィンチ作品がこの絵です。もちろんアメリカではここだけです。モデルはフィレンツェの銀行家の娘で、彼女が16歳の時の作品です。レオナルドはこの絵を22歳から描き始めました。NGAのサイトには「4分の3正面視の肖像の初期の作品の一つ」で「肖像画で風景を背景としたのはレオナルドの新しい試み」とあります。この2つともフランドル絵画では既に行われていたわけで、レオナルドは新しい画法を取り入れるのに積極的だったようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの女性肖像画は『モナ・リザ』『貴婦人の肖像』(ルーブル美術館)『テンを抱く貴婦人』(ポーランドのクラコフのチャルトリスキ美術館)と本作の4点しかありません。「モナ・リザ」を別格として、他の3作品に共通するのはモデルを冷静に眺めて現実を描くというか、「モデルとは距離をおいた観察と描写」を感じる絵であることです。モデルがかしこそうに見える点も共通しています。このジネヴラ・デ・ベンチの肖像もそうです。白い肌や金髪の巻き毛が精緻に描かれていて、知的で、芯が強そうで、何となく神経質で、しかし病弱そうなモデルの雰囲気がよく出ています。

貴婦人の肖像.jpg 白貂を抱く貴婦人.jpg
貴婦人の肖像
(ルーブル美術館)
白貂を抱く貴婦人
(チャルトリスキ美術館)


エル・グレコ(1541-1614)


Laocoon.jpg
エル・グレコ
ラオコーン」(1610/14)
(138cm×173cm)

この作品はエル・グレコの絶筆とされている作品で、かつ画家が生涯で描いた唯一の神話画です。中野京子さんの文章を引用します。


グレコは73歳まで生きたが、晩年には早くも人気が下降しはじめている。強烈な恍惚の画面が、次第に時勢と合わなくなったせいもあるし、個性的すぎることが、逆に飽きられたのかもしれない。

それを感じて、新たな試みに挑戦したのだろうか、宗教画家から神話画家への転換を図ろうとしたのだろうか? それともひょっとして、ギリシャ人たる自分が一枚もギリシャ神話を描かないのはどうなのかと、はたと思いついただけなのか?

グレコ絶筆と考えられているのが、最初で最後の神話画『ラオコーン』だ。これはトロイア戦争の有名な一挿話「トロイアの木馬」を主題にしている(画面中央後景に小さく木馬が見える)。ギシリャ側の奸計かんけいを見破ったトロイアの神官ラオコーンが、城内へ木馬を入れないようにと進言し、それに怒った女神アテナ(=ミネルヴァ)が海蛇を放って、ラオコーンとその二人の息子を殺すというシーンだ。

グレコは背景をトレドの町に置き換えた。そして相変わらず引き伸ばされた蒼白い人体、画面をおおう不可思議感。主題を神話に変えてもグレコのグレコらしさは、あっぱれ、微塵みじんも揺らがないのだった。

グレコは死後徐々に忘れられたいった。二世紀を経た1819年、マドリッドのプラド美術館が開館したとき、グレコは一枚も飾られなかった(現在からは想像もつかない)。

グレコ再発見者は、驚くなかれ、20世紀の表現主義の画家たちだ。ピカソも、自分の「青の時代」の人物描写がグレコの影響であることを認めている。「あのギリシャ人」の感性がいかに新しかったか、いや、新しすぎたかのあかしだ。


ラオコーン(石像).jpg
「ラオコーン像」
(バチカン美術館)
直感的に連想するのは、バチカン美術館にある有名な『ラオコーンの大理石像』です。この有名な像は1506年にローマで発掘されましたが、ギリシャ出身のエル・グレコはスペインに来る前にイタリアに滞在し、ローマにも行っています(1570年)。つまりローマでラオコーンの大理石像を見た記憶で描かれたという可能性があるわけです。ちなみに次項のルーベンスはイタリア時代にローマでラオコーンの大理石像を見ていて、そのスケッチが残されています。ローマに滞在した画家なら、ラオコーンを見るというのは自然だと考えられます。

とは言うものの、バチカンの像と違って不思議な絵です。ラオコーンと2人の息子、海ヘビ、トロイアに擬したトレドの街、木馬(=トロイアにとっては破滅の木馬)までは分かりますが、右端の3人の人物はいったい何でしょうか。まるで空中を浮揚しているようです。この解釈には議論がいろいろとあるようで、NGAの公式サイトには「たぶん、海ヘビを放ったギリシャの神々」という解釈が書いてあります

しかしこの3人はトロイア市民ということも考えられるでしょう。破滅の瀬戸際にある国家、国家を救おうとして死にゆく親子、それとは無関係に浮揚している市民、の3つを対比させることで時代の終焉を表したのかもと思います。


ルーベンス(1577-1640)


フランドル出身のルーベンスは 1600年~1608年の8年間(23歳~31歳)イタリアに滞在し、イタリア各地を回りながら古典やルネサンスの絵画に触れ、絵の研鑽と制作に励みました。次の絵はルーベンスがジェノヴァで描いたものです。

Marchesa Brigida Spinola Doria.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス
侯爵夫人 ブリジーダ・スピノラ・ドーリア」(1606)
(153cm×99cm)

ジェノヴァの名門貴族、スピノラ家から、これも名門貴族のドーリア家に嫁いだブリジーダという女性の肖像画です。眼をひくのは銀色に輝くサテンのドレスと特大のラフ(襞襟)で、その中で堂々と正面を見据える女性の表情が印象的です。貿易や金融業で繁栄を誇ったジェノヴァの上流階級の財力と権威が想像できます。ルーベンスの筆致はドレスからラフから髪飾りまで、大変に精緻であり、画力のすごさが分かります。若きルーベンス、20代後半の傑作です。

少々わかりにくいのは背景です。室内ではなく建物の外側の感じで、ドレープがかかった赤い布が垂れている。ワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式サイトによると、実はこの絵のオリジナルはもっと大きく、ブリジーダは邸宅のテラスに立つ姿で、左の方には風景が描かれていた、それが19世紀のある時点で現在のサイズに切断されてしまったとあります。

なるほど ・・・・・・。ブリジーダは22歳で、結婚したばかりともありました。左の方に描かれていたのは "ジェノヴァ風景" のはずで、だとすると「ジェノヴァを支配する名門貴族の若き花嫁」という絵なのでしょう。


ヴァン・ダイク(1599-1641)


Marchesa Elena Grimaldi Cattaneo.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク
伯爵夫人 エレナ・グリマルディ・カッタネオ」(1623)
(243cm×139cm)

イギリス、チャールズ1世の宮廷画家だったヴァン・ダイクの作品で、No.115「日曜日の午後に無いもの」で引用した絵です。

フランドル出身のヴァン・ダイクは1620年に英国に渡りますが、師匠のルーベンスと同じように、1621年から1627年までの6年間(22歳~28歳)はイタリアに滞在し、ジェノヴァを拠点に絵の勉強と制作に励みました。この絵はジェノヴァのカッタネオ伯爵の夫人、エレナ・グリマルディを描いたものです。ずいぶん "いかつい" 感じで "勝ち気な" 雰囲気の女性ですが、それは本人をよく表しているのでしょう。

ワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式サイトによると、ヴァン・ダイクはジェノヴァでルーベンスの「侯爵夫人 ブリジーダ・スピノラ・ドーリア」を見たことがあって、そこからインスピレーションを得たとあります。これで納得できます。上に書いたようにルーベンスのオリジナル作品において「ブリジーダは邸宅のテラスに立つ姿で、左の方には風景が描かれていた」のですが、それがヴァン・ダイクの「伯爵夫人 エレナ・グリマルディ・カッタネオ」に引き継がれたのでしょう。

ルーベンスと違って、いちばん眼を引くのは "パラソル" です。17世紀のパラソルは木製の大がかりなもので、女性が自分で持てるような代物ではとてもなく、このように召使いがかざして歩くものでした。

もう一つのポイントはパラソルを持っている召使いで、これはアフリカから連れてこられた奴隷だと推定できます。当時のイタリアの海岸都市、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサ、アマルフィなどは地中海交易で繁栄し、その重要な交易品の一つが奴隷でした。またイタリアの貴族や裕福な家庭では奴隷を使っていました。No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」で紹介しましたが、塩野七生著「海の都の物語」には「イタリアの都市ではエキゾチックな黒人奴隷がもてはやされ、回教国では白人奴隷が好まれた」という意味の記述がありました。この絵の伯爵夫人は、エキゾチックな黒人奴隷の従者にパラソルを持たせることで権力と富を誇示している感じがします。

ちなみにワシントン・ナショナル・ギャラリーにはパラソルがテーマになっているもう一枚の絵があります。それは "超有名絵画" であるモネの『パラソルの女』です(後で引用)。この二つを対比して見るとおもしろいでしょう。

ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク
ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン」(1633)
(219cm×135cm)

No.161「プラド美術館の怖い絵」で引用した絵で、英国国王チャールズ1世のきさきであるヘンリエッタを描いたものです。このブログでは17世紀のスペイン宮廷で「特異な身体的形状をもった人」を雇う(ないしは住まわせる)習慣があったことを書きました(No.19「ベラスケスの怖い絵」No.45「ベラスケスの十字の謎」No.161「プラド美術館の怖い絵」)。しかしその "習慣" は何もスペインだけではなく、ヨーロッパの宮廷に広くあった。その一例として引用したのがこの絵でした。


フェルメール(1632-1675)


寡作で有名なフェルメールの絵がそもそも何点現存しているかですが、フェルメールについての数々の著作がある朽木くちきゆり子氏の本によると(「フェルメール全点踏破の旅」集英社新書 2006)、次の通りです(以下の "ランク・・・" は今回便宜上つけたものです)。

◆ランクA : 32点
専門家にフェルメールの真作であると認めてられている作品。
このうちの1点、『合奏』は、1990年にボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館から盗まれて、現在も行方不明。

◆ランクB : 2点
真作だとする専門家が多いが、そうではないとする専門家もいる作品。
赤い帽子の女』(NGA)と『ダイアナとニンフたち』(デン・ハーグのマウリッツハイス美術館)

◆ランクC : 2点
多くの専門家は真作ではないとするが、真作だと主張する専門家もいる作品。
フルートを持つ女』(NGA)と『聖プラクセディス』(個人蔵。国立西洋美術館に寄託)。

◆新発見作 : 1点
新発見の『ヴァージナルの前に座る女
それまで贋作の疑いがあるとされていたが、10年がかりの鑑定の結果、2003年になって真作と鑑定され、サザビースのオークション(2004年)で32億円で落札された。落札者は不明。ロンドンのナショナル・ギャラリーにある同名の作品とは別作品。25×22cmという小さな作品で、2008年に日本で開催されたフェルメール展で展示された。
しかし専門家全員が真作と納得しているわけではない( = ランクB)。

一般的には美術界の多数意見に従って(A + B + 新発見 = B)の合計35点をフェルメール作品としています。このうち美術館所蔵の作品は34点(盗難中を除くと33点)ですが、2点以上を所蔵している美術館をあげると次の通りです。

 ◆5点:(米)メトロポリタン美術館
 ◆4点:(蘭)アムステルダム国立美術館
 ◆3点:(蘭)マウリッツハイス美術館
 ◆3点:(米)フリック・コレクション
 ◆3点:(米)ワシントン・ナショナル・ギャラリー
 ◆2点:(英)ロンドン・ナショナル・ギャラリー
 ◆2点:(仏)ルーブル美術館
 ◆2点:(独)ベルリン絵画館
 ◆2点:(独)ドレスデン アルテ・マイスター絵画館

別にフェルメールをたくさん持っていることが美術館の価値を決めるわけではないのですが、アメリカの3つの美術館だけで11点、全作品の約3分の1を保有しています(盗まれた1点を加えると12点)。ダ・ヴィンチがアメリカに1点しかないのとは大違いで、フェルメールが19世紀後半以降に "再発見" されたことを如実に物語っています。これらのうち、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(NGA)にある3点は、

  『手紙を書く女』 (A)
  『天秤を持つ女』 (A)
  『赤い帽子の女』 (B)

であり、さらに NGA にはもう一枚、

  『フルートを持つ女』 (C)

があります。つまりNGAはランクA,B,Cが全部揃っているという珍しい美術館です。NGAは『フルートを持つ女』については「Attributed to Johanness Vermeer」として展示しています。「伝・フェルメール」という感じでしょうか。もちろん『赤い帽子の女』についてNGAは断固真作だと主張しています。以下はランクAの2点です。

A Lady Writing.jpg
ヨハネス・フェルメール
手紙を書く女」(1665頃)
(45cm×40cm)

この絵のような「白テンの毛皮のついたレモン色のガウン」の女性をフェルメールは6点描いていますが、その中の1枚です。少し微笑んだ女性を、自然体で大変おだやかな雰囲気に描いています。机の上の小物の描き方も光っています。ちなみに「白テンの毛皮のついたレモン色のガウン」の他の5枚は、メトロポリタン、フリック・コレクション、アムステルダム、ベルリン、ロンドンのケンウッド・ハウスにあります。

Woman Holding a Balance.jpg
ヨハネス・フェルメール
天秤を持つ女」(1664頃)
(40cm×36cm)

各種の解説にありますが、この絵の画中画は「最後の審判」です。このブログでは、フランスのボーヌにあるファン・デル・ウェイデンの『最後の審判』を引用しました(No.116「ブルゴーニュ訪問記」参照)。その絵でも分かるのですが一般的に「最後の審判」の描き方は、上の方に再臨したキリスト、その下に秤をもった大天使ミカエル、その横(ないしは下)にミカエルによって天国と地獄に振り分けられた人間という構図です。

この絵はその大天使が女性によって隠されていて、その代わりに女性が天秤を持っている。天秤の皿の上には何も乗っていない(=何も描かれていない)ことが判明していて、女性が天秤のバランスをとっている(?)姿になります。机の上の真珠や金貨も意味ありげです。数々の解釈がなされてきたようですが、決定版はないようです。素人目には「女性が何か重大な決断をしようとしている、ないしは決断をすべきか迷っている」と見えますが、そうとも限らない。結局、絵を見る人にゆだねられているといっていいでしょう。


フラゴナール(1732-1806)


Young Girl Reading.jpg
ジャン・オノレ・フラゴナール
読書する娘」(1769頃)
(81cm×65cm)

この絵もワシントン・ナショナル・ギャラリーの有名絵画です。フラゴナールというと "ロココ" の画家であり、宮廷や貴族の恋愛模様を描いた、いわゆる "ロココ趣味" の絵で有名です。しかしこの絵はそれとは違って家庭内での "知的な" 情景であり、享楽的な恋愛模様とは対極にある画題です。

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」でルネサンス期のイタリアの横顔肖像画を4点とりあげました。しかしこのフラゴナールの横顔作品は、特定の人物の肖像画ではないでしょう。「女性の横顔の美」と「読書という行為」がうまく融合した作品になっています。

注目すべきは描き方で、なんとなく "印象派っぽい筆致" です。印象派は絵画史における革新だったわけですが、一般的にいってアートにおける革新は、全く新しいものが突然変異のように生まれるのではなく、それ以前の時代に萌芽があるわけです。印象派に関していうと、イギリスのターナーの絵はそういう感じがします。この『読書する娘』もそういった一枚だと思います。


ゴヤ(1746-1828)


Senora Sabasa Garcia.jpg
フランシスコ・デ・ゴヤ
セニョーラ・サバサ・ガルシア」(1806/11)
(71cm×58cm)

No.90「ゴヤの肖像画:サバサ・ガルシア」で引用した絵です。この絵の感想は No.90 に詳しく書いたので、ここでは省略します。ひとつだけ繰り返すと、この絵は「ワシントンのモナ・リザ」でしょう。年齢はずいぶん違いそうですが、この絵のモデルも既婚者です。明らかにモナ・リザを意識したポーズだし、表情の "微妙な複雑さ" がモナ・リザ的です。


アングル(1780-1867)


Madame Moitessier.jpg
ドミニク・アングル
モワテシエ夫人の肖像」(1851)
(147cm×100cm)

No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用した絵です。アングルは、この絵(立像)の他に『モワテシエ夫人の肖像(座像)』を描いています(ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある)。そして No.157 で書いたように、ピカソは『モワテシエ夫人の肖像(座像)』を下敷きにしてマリー = テレーズを描いたのでした。それが『本をもつ女』という絵です。『本をもつ女』はピカソが "アングルから影響を受けた" と自ら宣言しているような絵です。

Classical Head.jpg
そしてNGAの『モワテシエ夫人の肖像(立像)』ですが、この絵から伝わってくるのは夫人の大変に豊満な感じであり、また額から鼻筋がそのまま伸びている彫りの深い顔立ちです。この風貌から直感的に連想するのが、ピカソの "新古典主義の時代" に登場する人物像です。NGAが所有するピカソの作品(「Classical Head」1922)をあげておきます。このような顔立ちはギシリャ・ローマ彫刻によくあるし、ルネサンス期の彫像にもあります(たとえばミケランジェロのダビデ像)。しかしアングルのこの絵もピカソに影響を与えた一つだったのではないかと思います。


マネ(1832-1883)


The Tragic Actor.jpg
エドゥアール・マネ
悲劇役者」(1866)
ハムレットに扮するルビエール
(187cm×108cm)

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で引用した絵です。その主旨は、マネがプラド美術館でベラスケスを見て感動し、そのベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』を踏まえて描いたのがこの作品ということでした。

Masked Ball at the Opera.jpg
エドゥアール・マネ
オペラ座の仮面舞踏会」(1873)
(59cm×73cm)

『悲劇役者』は「黒」を強調した絵でしたが、この絵も強烈に印象づけられるのは黒服の「黒」です。NGAには別に『死せる闘牛士』というマネの絵がありますが、その絵も黒服が眼につきます。一連の「黒」はマネがスペインを旅行したときの影響だと考えられます。

NGAのサイトの解説によると、右から2番目でこちらを向いているブロンドの髪の紳士は画家自身だそうです。また、上の方に足が描かれていますが、これは『フォリー・ベルジェールのバー』(1881/82)を連想させます(No.155「コートールド・コレクション」参照)。

The Railway.jpg
エドゥアール・マネ
鉄道」(1873)
(93cm×112cm)

この絵はマネの有名作品です。サン = ラザール駅を描いたこの絵は、1898年にアメリカのハブマイヤー夫妻がパリの画商のデュラン = リュエルから購入したものです。夫人のルイジーン・ハブマイヤーはメアリー・カサットの友人です。No.86「ドガとメアリー・カサット」に書きましたが、ルイジーンがメアリーの勧めで購入したドガのパステル画が「アメリカ人が初めて購入した印象派絵画」でした。

フィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』という本があります。著者はサザビーズの印象派・近代絵画部門のシニア・ディレクターを勤めた人で、印象派の受容の歴史を "画商" や "オークション" の視点から描いた興味深い本です。この本に、ルイジーン・ハブマイヤーがこの絵を購入した当時のことを回想した発言がのっています。以下に引用してみます。


ルイジーン・ハブマイヤーの回想

なぜ、この絵をほしいと思ったかですって? 子どもの顔がどうしたって見えないような絵を描いたマネを、なぜ許せたかと? かろうじて見えるだけの鉄道の線路や蒸気機関車のエンジンに、なぜお金を払うのかとお聞きになるのね? 子どもはぜんぜん可愛くないし、母親もまったく醜いし ・・・・・・ 仔犬すらも魅力的でないと、おっしゃるんでしょう。そんな絵に、なぜ私たちがこれほどのお金を払うのか、お知りになりたいのね。それだけのお金があれば、ゴージャスなアカデミック絵画も、イギリスの堂々たる肖像画も、あるいは素晴らしいオリエント趣味の絵も買えるでしょうから。

私の答えは、それがアート、アート、アートだから、ということよ。そこにあなたを魅了する力があるの、私たちを魅了すると同じように。作品があなたに語りかける声に耳をすまさなくてはいけないわ。マネが感じている感動にあなたも応えなくては。その感動が彼の心臓を揺さぶり、頭をいっぱいにして、そして彼の感情を揺り動かし、ヴィジョンをとぎすまさせ、カンヴァスに筆をおかさせているのよ。それがアート、アート、アートなのだと、申し上げておきましょうね。

・・・・・・・・・・・・

子どもの両肩にかかるドレスの輪郭線を描いたこの曲線。こんな素晴らしい線をほかにどんな絵で見られるでしょう。それに彼女の金色の髪の上に次第に降り注ぎ、愛らしい首に陰影をつけている光の素晴らしさも。頭の傾き、腕の動き、そしてむっちりした小さな手が鉄柵を押さえつけている様子。画面全体の大気や光が二人の姿を包みこみ、遠くの光景との距離感を生み出しているのをご覧なさいな。そして最後に、どうぞこの色彩を見て! これほど美しく調和に満ちたものを、あなたはご覧になったことがあるかしら?


一見すると奇妙な絵です。"屋外" で "現代" を描くという意味では印象派の絵と似ています。しかし肝心の鉄道はほとんど描かれず、子どもは向こう向き、誰かに気づいて読書を中断したような女性は母親でしょうが、親子はバラバラです。都会における家族、と考えていろいろと画家の意図を推測できると思いますが、そういう "深読み" にあまり意味はないのですね。どういう絵の見方をすべきか、それを語ったのが印象派と同時代のコレクター、ハブマイヤー夫人です。この回想に尽きていると思います。

マネの代表作である『草上の昼食』や『オランピア』はオルセー美術館の至宝ですが、発表当時は大スキャンダルになりました。否定するにしろ肯定するにしろ、大きな話題となった。しかしこの『鉄道』にはスキャンダラスなところは何もありません。結局、この絵をつまらないと思って見過ごすのか、それとも(ルイジーン・ハブマイヤーのように)感動するのかが、時代の分かれ目だったのでしょう。

ちなみに『草上の昼食』(1863)『オランピア』(1863)『鉄道』(1873)の3作品はいずれもヴィクトリーヌ・ムーランがモデルですが、マネが彼女をモデルに描いた最後の作品が『鉄道』です。

なお、人物を描いたものではありませんが、No.93「生物が主題の絵」で、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵しているマネの2枚の犬の絵、『タマ、日本犬』と『キング・チャールズ・スパニエル犬』を引用しました。ここで改めて「鉄道」を見てみると、座っている女性は子犬を抱いています。"屋外" で "現代" を描いたのがこの絵ですが、その "現代" とは、鉄道の他にもう一つ "ペット" なのですね。つまり19世紀後半にもなると一般市民がペットを飼うという習慣が出てきた。マネが犬の絵を描いたのも、そういう流れの中で考えるべきでしょう。


ホイッスラー(1834-1903)


The White Girl.jpg
ジェームズ・ホイッスラー
白衣の少女」(1862)
白のシンフォニー No.1
(213cm×108cm)

ホイッスラーはアメリカのマサチューセッツ州に生まれ、21歳のときにパリに居を構え、その後ロンドンに拠点を設けて活躍した画家です。この絵の「白のシンフォニー No.1」という副題ですが、「白のシンフォニー」は全部で3作あり、No.2 はテート・ブリテン、No.3 はバーミンガム大学付属美術館にあります。

この絵はその題名どおり画面の大部分を占める服の「白」が目立つ作品です。ドレス、手にしている百合の花、後ろのカーテン、敷物にさまざまな色調の白が使われています。まさに「白のシンフォニー」です。このように白に白を重ねる色の使い方はあまり見たことがなく、大変に斬新な手法です。この『白のシンフォニー No.1』は発表当時、大きなスキャンダルになったようです。2014年-15年に日本で開催された「ホイッスラー展」の図録には次のようにありました。


最初の作品である《白のシンフォニー No.1》は、ホイッスラーの愛人であったジョー・ヒファーナンが一輪の百合の花を持ち、白いカーテンの前に白いドレスをまとって立っている全身肖像画である。厚塗りのパレットにはクールベの影響が現れているが、白の上に白を塗り重ねた色彩のアレンジメントともいえるこの作品は、「ジョーがラファエル前派の究極の付帯物である白百合を握り、英国の最もアヴァンギャルド的な作品である」と評されたように、ホイッスラーはある種のシンボリズムを表現しようとした。

ロイヤル・アカデミー展とサロンに落選したものの、翌年1863年の落選展で展示され、エドゥアール・マネの《草上の昼食》と話題を二分し、大きな反響とスキャンダルを巻き起こした。白地の背景に同色である白い衣服を着た女性を描いたというその表現が批判されただけでなく、ヴィクトリア朝の英国において、女性がこのように髪の毛を結わずにいるのは、寝室のみにおいてであり、純潔の象徴である白百合の花を手に持ち、ゆるやかな白いドレスを着たこのような姿を、人々は処女喪失を意味すると容易に理解することができた

小野文子(信州大学 准教授)
「ホイッスラー展(2014-15)」図録

マネの『草上の昼食』がスキャンダラスというのは理解できますが、この『白のシンフォニー No.1』がスキャンダルだとは、現代人はちょっと想像できません。今から150年前のパリ・ロンドンの画壇では絵のテーマに対して数々の制約があり、それを打ち破ろうとする画家がいたということでしょう。それが上の評言に出てくるクールベであり、マネであり、そしてホイッスラーだった。この絵のモデルとなったジョー(ジョアンナ)・ヒファーナンはクールベの『世界の起源』(オルセー美術館)のモデルとも言われる人で、それも象徴的です。

比較のために同じモデルを描いた『白のシンフォニー No.2』を引用しておきます。この絵はホイッスラーによくあるジャポニズムの影響下にある作品で、磁器の壷、朱色の椀、団扇といった典型的な日本的アイテムが配置されています。描かれている花はアザリア(ツツジ)で、この花も東アジア原産です。ちなみにワシントン D.C.のフリーア美術館にはホイッスラーがデザインしたピーコック・ルーム(孔雀の間)があり、『磁器の国の姫君』というジャポニズム作品が展示されています。

The Little White Girl.jpg
ホイッスラー
白衣の少女」(1864)
白のシンフォニー No.2
テート・ブリテン


ホーマー(1836-1910)


Autumn.jpg
ウィンスロー・ホーマー
」(1877)
(97cm×59cm)

ホーマーはボストン生まれで、アメリカの身近な自然や生活を描くのを得意とした画家です。

頬を紅潮させた女性が紅葉した木の枝を持ち、ちょっと挑戦的な視線で画家の方を向いています。何となく、この人の "勝ち気" な性格を思わせます。つまり、この絵をパッと見ると特定の人物の肖像画だと感じる。しかし題名は「秋」です。

背景は何らかの傾斜地、ないしは山道でしょうか。スカートの裾を持ちペチコートをのぞかせている姿は、今しがた坂を降りてきたように見えます。そして一面に描かれた紅葉がこの絵の特色です。背景は明確ではなく、あえて特定の景色にしなかった感じがします。秋のイメージを具現化したのでしょう。だとすると女性も、紅葉した木の枝を携えて "秋" から抜け出してきた「秋の化身」のようにも感じられる。よく西欧絵画に季節を擬人化して描いた絵がありますが、この絵もその流れにある一枚かもしれません。

なお、今回は人物画に焦点を当てたのですが、ワシントン・ナショナル・ギャラリーには、ホーマー最晩年の『右と左』(1909)という重要作品があります。ハンターに撃たれる瞬間の鴨を描いた絵ですが、ジャポニズムの影響も感じる傑作です。


セザンヌ(1839-1906)


Boy in a Red Waistcoat.jpg
ポール・セザンヌ
赤いチョッキの少年」(1888/90)
(90cm×72cm)

マネの『鉄道』のところで引用したフィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』によると、この絵は NGA の設立者であるアンドリュー・メロンの息子、ポール・メロンが、1958年、ロンドンのサザビーズの競売で、当時の絵画の最高価格である22万ポンドで落札した作品とあります

赤いチョッキの少年』は、セザンヌの絵によくある連作(4点)です。1点は前向きに座っている姿で、バーンズ・コレクションのメインルーム(Room1)の North Wall にあります(No.95「バーンズ・コレクション」参照。分かりにくいですが)。1点は座って肘をついている姿で、チューリッヒのビュールレ・コレクションにあります(赤いチョッキでは最も有名)。また横向きに座っている絵がニューヨーク近代美術館(MoMA)にあります。

このNGAの絵をみても分かるのですが、さまざまな色が使われ、形が組み合わされています。色の実験、形の実験をしているようで、まさにセザンヌがモダン・アートを先導した画家だと分かります。

Harlequin.jpg
ポール・セザンヌ
アルルカン」(1888/90)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
(101cm×65cm)

No.114「道化とピエロ」で、ドランとピカソのアルルカン(ないしはピエロ)の絵を紹介したときに "セザンヌも描いている" と書きましたが、その絵がこれです。これは、箱根のポーラ美術館にある『アルルカン』とほぼ同じ構図です。実は『アルルカン』は計4点の連作で、1点は「ピエロとアルルカンの絵」(プーシキン美術館にある《マルディ・グラ》)、3点が「アルルカンだけの絵」で、そのうちの1枚がポーラ美術館、1枚がNGAというわけです(もう1枚は個人蔵)。

Mardi-Gras(Pushkin).jpg
ポール・セザンヌ
マルディ・グラ」(1888/90)
(プーシキン美術館)

Harlequin(Pola).jpg
ポール・セザンヌ
アルルカン」(1888/90)
(ポーラ美術館)
(62cm×47cm)

ポーラ美術館に敬意を表して、ポーラ美術館のサイトにある『アルルカン』の解説を引用します。もちろん「ポーラ版アルルカン」についての解説ですが「NGA版アルルカン」についても当てはまると思います。


(ポーラ美術館版・アルルカンの解説)

セザンヌは1880年代から1890年代初頭、風景や静物の主題を探究した後、「赤いチョッキの少年」や「カード遊びをする人々」、「アルルカン」といった人物画の連作を制作する。彼は空間における人体の形態表現に取り組んだ。

本作品は《マルディ・グラ》(1888年、国立プーシキン美術館、モスクワ)を含む「アルルカン」を描いた4点のうちの1点である。謝肉祭の最終日でカーニヴァルが行なわれる謝肉の火曜日を意味するこの《マルディ・グラ》には、16世紀にイタリアからフランスに伝わった即興喜劇コメディア・デラルテの登場人物アルルカンとピエロに扮した二人の若者が描かれている。アルルカンに扮しているのはセザンヌの息子ポールであり、ピエロに扮しているのは靴屋の息子でポールの友人ルイ・ギョームである。後年ポールは、1888年にパリのヴァル=ド=グラース通りのアトリエでモデルを務めたと語っている。

本作品では、アルルカンに扮したポールの姿だけが描かれている。灰色を基調とし、緑、青、紫、褐色が混ぜられた壁面と赤味がかった床は、赤と黒の菱形模様の衣装を着て帽子をかぶり、左手にバトンを持つ彼の姿を際立たせている。《マルディ・グラ》では二人の顔は描き込まれているが、本作品ではポールの表情は、まるで仮面のように単純化されている。彼は右足を一歩前に踏み出しているが、この頭部と足が画面からはみ出すほどに前進する動きは、静的な画面全体の構成を乱している。

(ポーラ美術館のWeb siteより)

『赤いチョッキの少年』と『アルルカン』のほかにNGAが所蔵するセザンヌの人物画に、画家の父を描いた有名な作品がありますが省略します。


モネ(1840-1926)


Woman with a Parasol.jpg
クロード・モネ
パラソルの女」(1875)
(100cm×81cm)

No.115「日曜日の午後に無いもの」で引用した絵で、モネの妻・カミーユと息子のジャンを戸外で描いた作品です。印象派の代表作の一つであり、まさに "印象派がギッシリと詰まった" 作品でしょう。逆光の感じの出し方、雲の描き方などは秀逸です。

この絵の一つのポイントは、NGAが所蔵するヴァン・ダイクの『伯爵夫人 エレナ・グリマルディ・カッタネオ』の肖像画と同じく、"パラソル" です。この2つの絵には250年の時の経過があります。産業革命を経たフランスではパラソルが庶民でも手に入るようになり、パラソルを持って公園や戸外を散策するのが当時のパリの女性の最先端の風俗だった。そういう妻を(おそらく)幾分誇らしげに描いたのがこの絵でしょう。なお、パラソルがトレンドだったことは、この絵の10年後に描かれたスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を見ると理解できます(No.115「日曜日の午後に無いもの」参照)。


ルノワール(1841-1919)


The Dancer.jpg
オーギュスト・ルノワール
踊り子」(1874)
(143cm×95cm)

この絵もルノワール作品では有名な絵です。一つ思うのは「ドガの踊り子」とのあまりの相違です。同じ踊り子をモチーフにしながら、そこから引き出されたものが全く違う。絵画のおもしろさでしょう。


カサット(1844-1926)


メアリー・カサットの作品については、今まで4回に渡って書きました(No.86No.87No.125No.187)。従って紹介した作品も多いのですが、そのうち4点が NGA の作品です。まずそれを順に振り返りたいと思います。

Mary Cassatt - Little Girl in a Blue Armchair (Renewal).jpg
メアリー・カサット
青い肘掛け椅子の少女」(1878)
(90cm×130cm)

この絵については No.87「メアリー・カサットの少女」、および No.125「カサットの少女再び」で詳細な感想を書いたので省略します。ドガの手が入っているとされる絵で、そのあたりの事情も No.125 に書きました。No.125ではこの絵の革新性についても書いたのですが、NGAの公式ガイドブックには、この絵を評して、

  少女がいなければ、ほとんど抽象画

とあります。なるほど、その通りだと思います。

Girl Arranging Her Hair.jpg
メアリー・カサット
髪を整える女」(1886)
(75cm×63cm)

No.86「ドガとメアリー・カサット」の「補記」で引用した絵です。カサットが「ドガを見返してやろう」と発奮して描いた、という主旨でした。

The Boating Party.jpg
メアリー・カサット
舟遊び」(1893/94)
(90cm×117cm)

No.86「ドガとメアリー・カサット」No.87「メアリー・カサットの少女」で引用しました。舟の縁、帆、身体などの各種の線が渦巻きのようになって最後は子どもの顔に収斂していく構図です。ベタに塗ったような描き方は浮世絵の影響を感じます。カサットがいかに浮世絵に魅せられたかを No.187「メアリー・カサット展」に書きました。

Children Playing on the Beach.jpg
メアリー・カサット
浜辺で遊ぶ子供たち」(1884)
(97cm×74cm)

No.187「メアリー・カサット展」で引用した絵です。『青い肘掛け椅子の少女』と同じで水平線を極端に上にとり、斜め上から俯瞰した構図はいかにもカサット的です。また子どもが見せる愛らしさの一瞬をとらえているのもカサットならではでしょう。

今までこのブログで取り上げた絵だけを再掲するだけでは能がないので、NGAにあるもう一枚の作品を引用しておきます。この絵も "子どもが見せるある表情" が的確にとらえられています。大きめの麦藁帽子をかぶせられた女の子が「お母さん、わたし、こんなのかぶるの? いやだな」と言っているような感じです。

Child in a Straw Hat.jpg
メアリー・カサット
麦藁帽子の子ども」(1886頃)
(65cm×49cm)


ゴッホ(1853-1890)


Self-Portrait.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「自画像」(1889)
(58cm×45cm)

ゴッホが描いた36枚の自画像のうち最後の自画像といわれる絵で、サン・レミの病院での作品です。この作品はやはり "色" です。フォービズムに始まる20世紀絵画を先導した感じです。


サージェント(1856-1925)


Miss Mathilde Townsend.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
ミス・マチルド・タウンゼント」(1907)
(153cm×102cm)

この絵のモデルは、アメリカの「エリー&ピッツバーグ鉄道」の社長の娘で、父親の退職後に一家は1892年ワシントンDCに移り、彼女はそこで社交界の花形になったそうです(1999年に日本で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」の図録による)。描かれた1907年というとフォービズムやキュビズムの絵画が描かれているころです。その時代にこういった「社交界絵画」には批判もあったようで、サージェントはこの絵を最後に肖像画をやめて風景画に専念したとあります。つまりサージェント最後の肖像画です。

しかし絵の価値は「何を描くか」ではなく「どう描いたか」です。「社交界絵画」だから "悪い" とか "時代遅れ" という批判はあたりません。この絵はスピード感が溢れる筆遣いにもかかわらず、「美人で、華やかで、ゴージャスで、いかにも幸せそうな富豪の娘」という感じが大変よく出ています。


ピカソ(1881-1973)


ワシントン・ナショナル・ギャラリーにはピカソの「青の時代」の油彩画が3点あります。以下にその3点を掲げますが、最初の2点はNo.216「フィリップス・コレクション」で引用しました。フィリップス・コレクションが所蔵しているピカソの『青い部屋』(=「青の時代」の始まりの作品)との対比のためでした。

Le Gourmet.jpg
パブロ・ピカソ
グルメ」(1901)
(93cm×68cm)

Tragedy.jpg
パブロ・ピカソ
悲劇」(1903)
(105cm×69cm)

Lady with a Fan.jpg
パブロ・ピカソ
扇子を持つ女性」(1905)
(100cm×81cm)

我々は普通、ピカソの「青の時代」というと、絵のテーマとして「社会的弱者、ないしは社会の底辺で生きる人たち」か「悲しみ、不安、苦しみ、哀愁、孤独などの感情表現」、あるはその両方だと考えるわけです。しかし最初の『グルメ』はそうではありません。これは「青の時代」の初期作品であり、"食いしん坊" の女の子を描いていて、ユーモアを感じます。

次の『悲劇』は、いかにも「青の時代」の絵です。何らかの悲劇におそわれた漁師の家族でしょうか。子供が父親を思いやって手を差し伸べているのが印象的です。エル・グレコの「ラオコーン」のところに「ピカソはエル・グレコに影響された」という話が出てきましたが、それも分かるような "引き伸ばされた" 人物表現です。

3番目の『扇子を持つ女性』は「青の時代」の最後期の作品です。ここまでくると『悲劇』のような表現・テーマとはまた違います。この女性の姿で連想するのは何かの宗教に関連した像、仏像とかインドや古代エジプトの神の像です。あるいは何かの儀式か舞踊だとも思える。女性は無表情で、動きを止めて静止していると感じます。その手は『悲劇』の少年の両手と大変よく似ている。そういった全体の造形を追求した絵なのでしょう。この3作品を見ると「青の時代」にも多様な表現があることがわかります。



さらにNGAには「青の時代」の次の「バラ色の時代」の代表作があります。それが「サルタンバンクの家族」という大作です。

Family of Saltimbanques.jpg
パブロ・ピカソ
サルタンバンクの家族」(1905)
(213cm×230cm)

サルタンバンクとは特定に一座の属さない旅芸人です。この絵は No.114「道化とピエロ」で引用した『曲芸師と若いアルルカン』バーンズ・コレクション Room19 East Wall にある絵)によく似ています。両方とも家族を描いていて(バーンズ作品の方は兄と弟)、アクロバット(=曲芸師。赤い服)とアルルカン(菱形のパッチワークのような装束)が登場している。両方とも背景が戸外です(バーンズ作品の場合は街)。

この絵全体に静寂感が漂っています。少し曖昧に描かれた荒涼とした土地は、家族が世の中で孤独であることを暗示しているようです。6人は互いに眼を合わすことはなく、それぞれ独立しています。しかしアルルカン(ピカソ自身だと言われる)が妹の手を握っていて、家族の間の信頼や気遣いが暗示されている(バーンズ作品もそうです)。ピカソはこの時代以降、道化、ピエロ、サルタンバンクといったモチーフを折りに触れて描くわけですが、この作品は既にそれらの全てを包括しているかのようです。最初の時点で出された最終回答、そんな感じがします。


モディリアーニ(1884-1920)


Woman with Red Hair.jpg
アメディオ・モディリアーニ
赤毛の女」(1917)
(92cm×61cm)

Woman with Red Hair(Barnes).jpg
モディリアーニ
赤毛の女
(バーンズ・コレクション)
ワシントン・ナショナル・ギャラリーの絵とよく似ているが、こちらの方はイブニング・ドレス姿である。
ワシントン・ナショナル・ギャラリーにはモディリアーニの作品が揃っています。『スーティンの肖像』、『キスリング夫人の肖像』、『赤ん坊を抱いたジプシーの女』などが有名ですが、ここでとりあげたのは『赤毛の女』です。この絵と非常に似た絵がフィラデルフィアのバーンズ・コレクションにあります。題名も同じ『赤毛の女』です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 10 West Wall にある)。おそらく同じモデルを描いたのだと思われます。椅子の背に片腕をかけてリラックスしている姿がそっくりです。上の絵もそうですが、モデルになった赤毛の女性の可愛らしさと、ちょっぴりなまめかしい(ないしはコケティッシュな)感じがよく出ていると思います。

さらに「椅子の背に片腕をかけてリラックスしている姿」で思い出すのは、バーンズ・コレクションの『白い服の婦人』です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 22 South Wall にある)。また、ノートン・サイモン美術館にある『画家の妻、ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』も似たポーズです(No.157「ノートン・サイモン美術館」参照)。いずれの絵も頭から胴にかけての逆S字形の曲線と腕の線のバランスがいい。デッサンで線を引く天才、モディリアーニの特質がよく現れていると思います。




その他、このブログで過去に引用した作品として、絵画ではありませんがドガの『14歳の小さな踊り子』のオリジナル塑像があります。この作品は No.86「ドガとメアリー・カサット」でとりあげました。また No.86 ではドガの「障害競馬 - 落馬した騎手」にも触れました(カサットが初めて見たドガの絵とされる)。

今回は人物がテーマになっている絵だけに絞ったのですが、今まで現れなかったアーティストの重要作品(人物がテーマではない絵)を2つあげておきます。一つはジョアン・ミロの『農場』(1921-22)で、画家としての初期、まだミロが無名のときの作品です。この絵は文豪のアーネスト・ヘミングウェイが友人に借金までして購入したことで有名です。ヘミングウェイは、スペイン内戦を舞台にした「誰がために鐘は鳴る」を書いたほどスペインに深く関わった作家です。

アメリカ人画家、アンドリュー・ワイエスについては No.150「クリスティーナの世界」No.151「松ぼっくり男爵」No.152「ワイエス・ブルー」の3回に渡って書きましたが、『海からの風』(1947)というワイエスの代表作の一つがNGAにあります。



ワシントン・ナショナル・ギャラリーは西館(最初に建設された本館)と東館(新館)に分かれていて、東館にはモダンアートが収集されています(ピカソはここにある)。そういった作品も含め、美術好きなら是非訪れてみたい美術館です。特に近代絵画のコレクションです。たとえば、2011年に日本で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」のキャッチ・コピーは「これを見ずに、印象派は語れない」でしたが、決して大げさではありません。

さらにワシントンにはフィリップス・コレクションがあり(No.216「フィリップス・コレクション」参照)、ホイッスラーのピーコック・ルームがある、東洋美術のフリーア美術館もあります(No.85「洛中洛外図と群鶴図」参照)。ほかにも美術館、博物館が多い。東京がそうであるように、アメリカの首都ワシントンも "アートの都市" と言っていいと思います。




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No.217 - ポルディ・ペッツォーリ美術館 [アート]

前回の No.216「フィリップス・コレクション」は、"コレクターの私邸に個人コレクションを展示した美術館" でしたが、そのような美術館のことをさらに書きます。前回も名前をあげた、ミラノにある「ポルディ・ペッツォーリ美術館」です。


ミラノ中心部の「私邸美術館」


ポルディ・ペッツォーリ美術館は、ミラノの貴族で美術収集家であったポルディ・ペッツォーリのコレクションを、その私邸に展示したものです。この私邸は美術品とともに、19世紀末にミラノ市に寄贈されました。

ミラノ中心部.jpg
JALのサイトにあるミラノの中心部、東西約2kmの範囲の地図。主な美術館・博物館の位置が示されている。
(site : www.jal.co.jp)

ポルディ・ペッツォーリ美術館.jpg
ポルディ・ペッツォーリ美術館
美術館はミラノ市の中心部にある。この写真で人が集まっているあたりにエントランスがある。
(site : www.grantouritalia.it)


ポルディ・ペッツォーリ美術館-2.jpg
(site : www.amicimuseo-esagono.it)

場所はミラノという "歴史ある都市のど真ん中" で、そこがワシントン D.C. のフィリップス・コレクションと違うところです。フィリップス・コレクションは設立後に建て増しがされていて、2棟が連結された建物になっていますが、ミラノ中心部ではそれもできないでしょう。私邸としては大邸宅ですが、ミラノ、ないしはイタリアの他の著名美術館に比べるとこじんまりしています。

ここに収集されているのは18世紀以前の絵画をはじめ、彫刻、家具・調度品、ガラス製品、陶磁器などの工芸品、タペストリーなどです。訪問者としては目当ての絵を見に行くというのではなく、イタリア貴族の館の雰囲気が濃厚に漂うなかで各種ジャンルの収集品を順々に味わう、というのが正しい態度でしょう。

しかしこの美術館にはルネサンス期の絵画の傑作が2点あります。その2点だけを見に行ったとしても、観光の時間をいた "モト" は十分にとれるでしょう。貸し出し中ではないという前提ですが・・・・・・。以下はその2点の絵画作品の話です。


ボッティチェリ:書物の聖母


書物の聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)
聖母子(書物の聖母)」(1480/81)
58cm×40cm
ポルディ・ペッツォーリ美術館

聖母マリアが幼な子キリストに祈祷書の読み方を教えている図です。幼な子は受難を予告する "茨の冠" と "3本の釘" を手にしています。小さな絵ですが、ラピスラズリの美しい青とボッティチェリ独特の優美な曲線が大変に印象的です。

ボッティチェリはたくさんの聖母子像を描いていますが、その中から傑作を3つだけあげるとすると、この『書物の聖母』と、フィレンツェのウフィツィ美術館にある『マニフィカートの聖母』『柘榴ざくろの聖母』でしょう。これがベスト・スリーだということは多くの人が納得するのではないでしょうか。ウフィツィの2作品はいずれも丸型で、その画像は以下です。

マニフィカートの聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
聖母子(マニフィカートの聖母)」(1483/85)
直径118cm
ウフィツィ美術館

柘榴の聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
聖母子(柘榴の聖母)」(1487頃)
直径143cm
ウフィツィ美術館

ちなみに「マニフィカート」とは「頌歌しょうか」という意味で、祈祷書を開いたところが「マリア頌歌」なのでその名があります。また「柘榴」はキリストの受難ないしは復活の象徴です。

ウフィツィの2作品と比較しつつ『書物の聖母』をみると、『マニフィカートの聖母』と大変よく似ています。書物を開いているところとマリアとキリストの位置関係です。ただ『書物の聖母』のマリアの姿は、我が子をいつくしむのに加えて、憂いを含んだような神秘的な雰囲気がある。3作品では最も "聖母" に近い感じでしょうか。『マニフィカートの聖母』『柘榴の聖母』と、制作年が下るにつれてマリアの姿も "人間的に" なっていく感じです。『柘榴の聖母』となると、我が子の運命を予感してしまったような "うつろな" 表情です。

この3作品を比べてみても、ポルディ・ペッツォーリの『書物の聖母』は "珠玉の作品" と呼ぶにふさわしいものです。


ポッライオーロ:若い貴婦人の肖像


ポルディ・ペッツォーリ美術館にはルネサンス期の絵画の傑作が2点あると書きましたが、もう1点が、ピエロ・デル・ポッライオーロの作品です。

Piero del Pollaiuolo - Profile Portrait of Young Woman.jpg
ピエロ・デルポッライオーロ(1443-1496)
若い貴婦人の肖像」(1470頃)
46cm×33cm
ポルディ・ペッツォーリ美術館

ピエロ・デル・ポッライオーロ(1443-1496。生年の1443年はポルディ・ペッツォーリ美術館での表示)はフィレンツェ出身の画家です。兄のアントニオも画家で、よく兄弟で仕事をしました。

当時はこういった "横顔の肖像画(=プロフィール)" が一般的だったようで、男性の絵もたくさんあります。『書物の聖母』を描いたボッティチェリも、当時のフィレンツェで絶世の美女と言われたシモネッタ・ヴェスプッチの横顔を描いていて、そのうちの1枚は日本の丸紅株式会社が所有していることで有名です(= 日本にある唯一のボッティチェリ)。

  なお、横顔は "Profile" で、横顔を描いた肖像画を "Profile Portrait" と言いますが、日本語で "プロフィール" と言うと別の意味になるので、以降、横顔肖像画と書きます。

ポッライオーロの絵に戻りますと、これは肖像なので『書物の聖母』以上に小さな絵です。髪の毛、真珠のアクセサリ、衣装が精緻に描かれていますが、それ以上にこの絵は "女性の横顔の美しさ" をダイレクトに表現しています。ある種の理想化があるのかもしれませんが、だとしても一度見たら忘れられない印象を残す絵です。



この美術館は、数々の美術品を、それが本来あるべき場所で見学できる美術館です。ここに飾られた18世紀以前の品々は、まさにポルディ・ペッツォーリ邸のようなところを飾るために制作されたからです。「本来あるべき場所で美術品を見学する」を念頭においてここを訪問するのがいいと思います。


横顔の美、ベスト作品


ここからはポルディ・ペッツォーリ美術館とは直接関係のない余談です。ピエロ・デル・ポッライオーロの "横顔肖像画" をあげたので、同様の女性の肖像で素晴らしいと思う作品を3点あげます。ポルディ・ペッツォーリの作品にこの3点を加えた計4点が、横顔肖像画(女性)の最高傑作だと思います。

Antonio del Pollaiuolo - Profile Portrait of a Young Lady.jpg
アントニオ・デルポッライオーロ(1429/33-1498)
若い女性の肖像」(1465頃)
ベルリン絵画館

ピエロ・デル・ポッライオーロの兄の作品で、ベルリンにあります。全体の感じがポルディ・ペッツォーリの絵とよく似ています。兄弟合作かもしれません。ただ、この絵の女性の方が一層おだやかで柔和な感じがします。女性の性格まで見通して描かれたかのようです。

ベアトリーチェ・デステの肖像.jpg
ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス(1455-1508)
ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

ポルディ・ペッツォーリ美術館と同じミラノに、アンブロジアーナ絵画館があります。ここはミラノ観光の中心、ドォーモの前の広場の近くです。ここには、カラバッジョの『果物籠』(必見。No.157「ノートン・サイモン美術館」に画像を掲載)、ダ・ヴィンチの『楽士の肖像』、ボッティチェリの『天蓋の聖母』、ラファエロの『アテネの学堂の下絵』(完成作はバチカン教皇庁のラファエロの間)などがありますが、上に掲げた『ベアトリーチェ・デステの肖像』も必見です。ドォーモまで行ったからには、横顔肖像画(女性)のベスト4の一つを見逃す手はありません。

ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディスはミラノの画家で、ミラノ時代のダ・ヴィンチと一緒に仕事をしたことがあるようです。この絵もダ・ヴィンチの手が入っているのではと言われています。ベアトリーチェ・デステ(1475-1497)はミラノ公、ルドヴィーゴ・スフォルツァの妃です。描かれた年からすると15歳~16歳ころの肖像ということになりますが、その頃に婚約・結婚したといいます。少女っぽさが少し残る中で、気品に溢れている姿です。

なお、ベアトリーチェ・デステの姉のイザベラを描いたレオナルド・ダ・ヴィンンチの素描をルーブル美術館が所蔵しています。この素描は右向きの横顔です。素描なので普段は展示されることがなく、実物を見たことはないのですが、日本語版 Wikipedia にその画像が公開されています。

最後はマドリードにある絵で、ティッセン・ボルネミッサ美術館の "顔" となっているギルランダイヨの作品です。この絵については、No.167「ティッセン・ボルネミッサ美術館」に感想を書いたので、ここでは省略します。

ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像.jpg
ドメニコ・ギルランダイヨ(1448-1494)
ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)



これら4つの横顔肖像画(プロフィール・ポートレート)を見て気づくことが3つあります。まず、すべて左向きの顔だということです。もちろんすべての横顔肖像画が左向きではなく、右向きの肖像もあります(たとえば丸紅が所有しているボッティチェリ)。しかし数としては圧倒的に左向きが多いように思います。このブログの過去の例だと、アンドリュー・ワイエスの『ガニング・ロックス』も左向きです(No.151「松ぼっくり男爵」にポスター画像を掲載)。

これは何か理由があるのでしょうか。コインの王様の肖像にならったのか(コインの肖像も両方あるはず)、それとも多くの画家は右利きなので左向きの方が描きやすいのか。是非その理由を知りたいものです。



4つの横顔肖像画で気づくことの2つ目は、横顔であるにもかかわらず描かれた人の性格や内面をよく捉えていると感じることです。もちろん本当の性格がどうだったか、それは不明です。ポッライオーロ兄弟の2作品は誰を描いたのかさえわかりません。しかしこれらの肖像は、本当かどうかは分からないが、人の性格や内面をよく捉えていると鑑賞者が感じてしまう絵なのです。これが肖像画の傑作と言われる作品のポイントでしょう。

その典型のような絵が、No.19「ベラスケスの怖い絵」でとりあげたベラスケスの『インノケンティウス十世の肖像』です。中野京子さんはここに描かれたローマ教皇について、


どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によって、くっきりと輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのしあがった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子「怖い絵」(朝日出版社 2007)
No.19「ベラスケスの怖い絵」での引用を再掲

と書いています。絵を見る人にそう感じさせる肖像画なのです。もちろん上に掲げた4つの横顔肖像画を見て "人物の内面" を感じる程度はさまざまです。しかし程度の差はあれ、鑑賞者に印象づける人物の内面・性格・パーソナリティが肖像画の価値を決める。そういう風に思います。



4つの女性の横顔肖像画を見て感じる3番目は、女性の美しさの1つのポイント、そして大きなポイントが "横顔の美しさ" だろうということです。15世紀のイタリアの画家は(そして当時のイタリア人は)それがわかっていた。それは今でも正しいと思うのです。現代日本でもありますよね。横顔のきれいな女優さんと言われる人が・・・・・・。

ここからは完全な余談になりますが、直感的に思い出すのが、まだ記憶に新しい大塚製薬のカロリーメイトのCM・広告で、満島ひかりさんが出演したものです(2012年度秋冬~)。このCMは徹底的に満島さんの横顔にこだわっています。動画では中島みゆきさんの「ファイト!」を歌う横顔のショットだったり(コピーは "どどけ、熱量")、静止画像の広告も横顔です。秀逸なのは本物のチーターと満島さんの「横顔のツーショット」です。

満島ひかりとチーター.jpg

この画像を見て確信するのですが、CM制作者はネコ科猛獣の横顔の美しさをよく分かっていたのだと思います。美しさの意味は人間とは全く違いますが・・・・・・。チーターを満島さんの引き立て役にしたのでありません。満島さんとチーターを勝負させた、ないしは互いに互いを引き立てるようにしたのです。このCMの制作者が "満島さんの横顔" をあるときに "発見" し、是非ともCMにしたいと思った、その熱意が伝わってきます。

もちろんこの広告以外にも横顔に焦点をあてたポスターや広告はたくさんあるのですが、21世紀の日本だから写真であり、動画であり、TV-CFです。しかしそんなものが全くない15世紀のイタリアでは、才能のある画家が描く肖像画しかなかった。4つの横顔肖像画に共通しているのは、いずれも高貴な女性か裕福な女性だということです。でないと高価な肖像画が描かれないからです。そういう人たちは結婚も「お見合い」であり、いわゆる「お見合い写真」のように肖像画が使われたという話を読んだことがあります。そういう極めて大切な絵に横顔を描く・・・・・・・。

4つの横顔肖像画と満島さんを並べてみて、人間の感性は時代と国を越えて類似している部分が多々あると思いました。

続く


 補記 

本文中に「横顔の肖像画」を4つ掲げましたが、No.254「横顔の肖像画」でさらに数枚の肖像画を紹介しました。

(2019.3.15)



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No.216 - フィリップス・コレクション [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで7回にわたって書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム

の7つです。今回はその継続で、アメリカのワシントン D.C.にあるフィリップス・コレクションを取り上げます。


フィリップス・コレクション


フィリップス・コレクションが所蔵する絵について、今まで2回とりあげました。まず No.154「ドラクロワが描いたパガニーニ」では、ドラクロワの『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』という作品について、中野京子さんの解説を中心に紹介しました。

ヴァイオリンを奏でるパガニーニ.jpg
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)
ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』(1831)
フィリップス・コレクション
(site : www.phillipscollection.org)

この絵は「大アーティストが描いた大アーティスト」であり、パガニーニの音楽の本質までとらえているという話でした。さらにその次の No.155「コートールド・コレクション」ではセザンヌの『サント=ヴィクトワール山』を取り上げています。

Mont Sainte-Victoire.jpg
ポール・セザンヌ(1839-1906)
サント=ヴィクトワール山」(1886/87)
La Montagne Sainte-Victoire(1886/7)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

これはコートールド・コレクションにある『サント=ヴィクトワール山』との比較対照のためです。両方の絵とも近景に松の木があるのが特徴で(コートールドの絵は1本の松)、松の枝の形と山の稜線がピッタリ一致することを含めて浮世絵の影響(= 北斎の富嶽三十六景)を感じるという話でした。



今回はこれらの絵を所蔵しているフィリップス・コレクションについて、ほかにどんな絵があるのか、そのごく一部ですが紹介したいと思います。フィリップス・コレクションは鉄鋼業で財をなしたフィリップス家の次男、ダンカン・フィリップス(1886-1966)が1921年に開設した美術館で、ダンカンの邸宅がそのまま美術館になっています。開館当初は237点の絵画作品でしたが、その後増え続け、現在所蔵しているアートは約3000点だそうです。

Phillips_Collection.jpg
フィリップス・コレクション
2つの建物が連結されて美術館になっている。入り口は奥の方の建物にある。


ルノワール


この美術館の "顔" となっている絵が、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』(1880/81)です。フィリップス・コレクションと言えばこの絵、ということになっています。

Luncheon of the Boating Party - Renoir.jpg
ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
舟遊びをする人々の昼食」(1880/81)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

パリの西の郊外、シャトゥーの町のセーヌ川に浮かぶ島は "印象派の島"(アンプレッショニスト島)と言われ、数々の印象派の画家が訪れたところです。ルノワールはここのレストラン「メゾン・ラ・フルネーズ」の常連客でした。ここのテラス席ので光景を描いた作品です。画面に登場する14人はすべてルノワールの友人や知人で、全員の名前が特定されています。一人だけあげると、画面右下に座っている男性は画家であり印象派の後援者でもあったカイユボットです。

この絵は "屋外の光の中での人物群" を描いたという意味で、この5年前に描かれた『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』に似ていますが、郊外に出かけて舟遊びに興じるという当時最先端の "レクレーション" を描いていて、より印象派っぽい感じがします。二つの対角線を基本とする構図が心地よく、背景の草木と人物群とテーブルの上の食器を異なる筆致で描き分けているのも特徴的です。ルノワールを代表作を1枚だけあげるとすると、時代の先端の雰囲気を伝えているという意味でこの絵をあげるのもアリだと思います。


フィリップス・コレクションの名画


 悔悛する聖ペテロ 

まず宗教画ですが、フィリップス・コレクションには『悔悛する聖ペテロ』と題した絵が2点あります。2つとも超有名アーティストの作品で、エル・グレコとゴヤです。2枚の絵の対比が鮮明なのでここで取り上げます。

エル・グレコ:悔悛する聖ペテロ.jpg
エル・グレコ(1541-1614)
悔悛する聖ペテロ」(1600/1605)
The Repentant St.Peter
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ゴヤ:悔悛する聖ペテロ.jpg
フランシス・ゴヤ(1746-1828)
悔悛する聖ペテロ」(1820/1824)
The Repentant St.Peter
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

今までこのブログで取り上げたキリスト教関係の宗教画はマグダラのマリアに関するものでした(No.118「マグダラのマリア」No.157「ノートン・サイモン美術館」のカニャッチの絵)。いずれも "悔い改めた罪ある女(娼婦)" というテーマですが、それは聖書とは無縁の "創作物語" を図像化したものでした。

しかし上の2作品は違って、聖書にもとづく絵であり、聖書を知っていれば理解できます。ペテロが「イエスを知らない」と否認したことを悔いる場面です。2つともペテロの代表的なアトリビュートである鍵を持っています。エル・グレコの聖ペテロは、ほぼ同じポーズの作品が6点ほどあるといいます。その作品はキリストの図像化によくあるような人物の風貌であり、いかにも使徒・聖人という感じに溢れています。エル・グレコなりの細身の顔の表現を割り引いたとしても、このような感じが一般的な使徒・聖人像でしょう。

一方のゴヤの方は「腕っぷしの強い漁師のおじさん」という仕上がりです(ペテロは漁師)。ゴヤはスペインの宮廷画家なので使徒の作例を熟知しているはずですが、この絵はあえて一般的な聖ペテロ像の真逆を行った感じがします。しかしキリストの徒であることを否認した "前科" があるという意味では、それにふさわしい人間っぽさがあるとも言える。フィリップス・コレクションの公式サイトによると「ゴヤは使徒の絵をほとんど描かなかったが、彼はこの絵をスペインを離れてフランスのボルドーに旅立つ(つまり移住する)直前に描いたと推定できる」とのことです。画家の何らかの思いがもっているのでしょう。

 シャルダン 

A Bowl of Plums.jpg
ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)
プラムを盛ったボウル」(1728頃)
A Bowl of Plums
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

18世紀フランスの画家、シャルダンの静物画です。シャルダンの静物画と言えばルーブル美術館にある "エイ" を描いた作品が有名ですが、このフィリップス・コレクションの絵も傑作です。

同時代のオランダの静物画と比べると、シャルダンは「本物と見まごうばかりに描こう」とはしていません。プラム、ボウル、ピッチャーの存在感や造形美の表現を追求し、モノの本質、モノが我々に与える特有の印象の源泉に迫ろうとしている感じです。

フィリップス・コレクションの公式サイトによると、創立者のダンカン・フィリップスはシャルダンをモダンアート = 印象派とセザンヌの先駆者と見なしていた、とあります。その視点でみると、この絵はマネの静物の先駆であり、セザンヌの静物に連なる系譜にあると言えるでしょう。ダンカン・フィリップスのアートを見る目の確かさが窺える作品です。

  なお、マネの静物画を、No. 3「ドイツ料理万歳」(アスパラガスの絵)、No.111「肖像画切り裂き事件」(プラムの絵)、No.157「ノートン・サイモン美術館」(魚の絵)で引用しました。

 マネ 

Spanish Ballet - Manet.jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
スペイン・バレエ」(1862)
Spanish Ballet
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

1862年にパリで公演したスペイン舞踊団「カンプルビー座」を描いた作品です。公演に感動したマネは休演日に一座を自分のアトリエに招いてデッサンをし、この絵を完成させたといいます。No.36「ベラスケスへのオマージュ」に、マネが33歳の時に(この絵の3年後)スペインに旅行してベラスケスに感激したことを書きましたが、スペインへの憧れは以前から強かったことを感じさせます。

画面には女性2人、男性6人の合計8人が描かれていますが、描き方の程度の差が鮮明で、左奥の2人はほとんど描かれていない状態です。対して最もはっきりと存在感があるのは椅子に腰掛けている女性で、プリマ・バレリーナというのでしょうか。背景は無いに等しく、白灰色と暗茶色の2色に塗り分けられているだけです。その中で白と黒との強烈なコントラストが、スペイン舞踊の熱気を伝えています。

 ゴッホ 

The Road Menders - Gogh.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
道路工たち」(1889)
The Road Menders
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

道路の補修工事をする人たちを描いたサン・レミ時代の作品で、場所はサン・レミの街路です。この絵の黄色系の色の使い方と筆致は、No.157「ノートン・サイモン美術館」でとりあげた同時期の『桑の木』(1889)に良く似ています。もちろん『道路工たち』の木は街路樹なので桑ではありません。日本だと黄葉する街路樹と言えばまず銀杏イチョウですが、フランスなのでプラタナスかマロニエ(トチノキ)か何かでしょう。それにしては幹の樹形が少々違いますが(特に奥の方の木)、もちろん実物どおりに描くわけではなく、ゴッホはこのように感じたということだと思います。

黄葉した樹木と落ち葉で、あたりは黄色の染まっています。『桑の木』もそうですが、画家は "一面の真っ黄色" に触発されてたように思います。道路工事をする人は、あくまで脇役のように見えます。

 ボナール 

The Palm - Bonnard.jpg
ピエール・ボナール(1867-1947)
棕櫚の木」(1926)
The Palm
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

フィリップス・コレクションの創設者のダンカン・フィリップスは、1920年代に当時のアメリカでは無名だったボナールに着目しました。そのボナール・コレクションはアメリカ随一と言います。

南フランスのル・カネ(カンヌの隣)にあった自分の別荘からの眺めを描いた作品です。遠景の海(カンヌの入り江でしょう)と中景の家並みは光の中に輝き、対照的に近景の棕櫚や木々は日陰になっています。それに従って中央下の女性も逆光になっていて、ちょっぴり幻想的な雰囲気を醸し出しています。

 モディリアーニ 

Elena Povolozky - Modgiliani.jpg
アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)
エレーナ・パヴォロスキー」(1917)
Elena Pavolozky
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

エレーナはランス出身で、画家を目指してパリにやってきて、ロシア移民で画廊を経営しているパヴォロスキーと結婚したという経歴の女性です。モディリアーニの友人であり、金銭的な援助もしたといいます。この絵はまさにモディリアーニ的肖像画の典型で、ファンには見逃せない作品でしょう。

 ピカソ 

The Blue Room - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
青い部屋」(1901)
The Blue Room
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

このピカソの『青い部屋』は、『舟遊びをする人々の昼食』とともにフィリップス・コレクションの必見の作品です。と言うのも、これはピカソの "青の時代(1901-1904)" のごく初期の作品で、自殺した親友(カサヘマス)のアトリエで描いたとされる絵であり、この絵から青の時代が始まったとも言えるからです。我々は普通、ピカソの "青の時代" の作品と言うと、

社会的弱者、ないしは社会の底辺で生きる人たち
悲しみ、不安、苦しみ、哀愁などの感情

のどちらか、あるいは両方が絵の主題になっていると考えます。フィリップス・コレクションと同じワシントン D.C.のナショナル・ギャラリーに、その典型のような作品があります。「悲劇」という作品です(「海辺の貧しい家族」と呼ばれる)。

Tragedy - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ
悲劇」(1903)
The Tragedy
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

日本で言うとポーラ美術館の『海辺の母子像 - 1902』がそのタイプの作品であり、このブログで取り上げた例だと『苦行者 - 1903』(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room18 North Wallにある)や『シュミーズの少女 - 1903』(No.163「ピカソは天才か(続)」)がそうです。

しかしフィリップス・コレクションの『青い部屋』は少々違っています。つまり「社会的弱者」や「悲しみ、不安、苦しみ、哀愁などの感情」がテーマになっていません。部屋の中で女性が入浴している(日本的感覚からすると行水をしている)姿ですが、これはドガかロートレックが描くモチーフです。後ろの壁の右の方に描かれているのはロートレックのポスターだといいます。入浴しているのが娼婦だとすると「社会の底辺で生きる人」でしょうが、それは絵からは分かりません。何気ない都会の部屋の風景です。ただし部屋が青く、青を多用した絵なのです。

思い出す絵があります。「悲劇」を所有しているワシントン・ナショナル・ギャラリーにはもう一枚の "青の時代" の傑作があります。『グルメ』と題した作品で、これも "青の時代" の初期のものです。

Le gourmet - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ
グルメ」(1901)
Le Gourmet
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

「食いしん坊の子供」という別名があるようですが、この絵の日本語タイトルをつけるなら "Le Gourmet" を意訳して「食いしん坊」がピッタリでしょう。何となくユーモアを感じるモチーフです。また青だけでなく暖色も使っている。

話が飛びますが、フィラデルフィアのバーンズ・コレクションに『グルメ』とよく似た絵があります。ほぼ同じ時期に描かれた『肘掛け椅子に座る子供』という絵です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room19 East Wallにある絵)。

肘掛け椅子に座る子供.jpg
パブロ・ピカソ
肘掛け椅子に座る子供」(1901)
Child Seated in an Armchair
バーンズ・コレクション

この絵からうけるのは「肘掛け椅子に座って得意げな子ども」という印象です。『グルメ』と一脈通じるものを感じます。



話をもとに戻しますが、日本からフィリップス・コレクションを訪れる人は、必ずワシントン・ナショナル・ギャラリーへも行くはずです。その時には是非 "青の時代" の3作品を見比べましょう(展示してあったらですが)。その幅広さが分かると思います。なお、ワシントン・ナショナル・ギャラリーには『サルタンバンクの家族』(1905)という "バラ色の時代" の代表作もあります。

 ホッパー 

Sunday - Hopper.jpg
エドワード・ホッパー(1882-1967)
日曜日」(1926)
Sunday
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

一見してホッパーと分かる作品で、強い光が生み出すコントラストが際だっています。普段は人が行き交う都会の歩道が、日曜日の朝(だと思います)には人気がなく、全く違った様相を見せる・・・・・・。分かる感じがします。そこに葉巻をくゆらす男をポツンと配置することで、画家はアメリカの文明社会の "別の面" をすくいい取りたかったのだろうと思います。


アメリカン・モダンアート


フィリップス・コレクションの特色は、20世紀アメリカのモダン・アートが非常に充実していることです。というよりここは、MoMA(ニューヨーク近代美術館。1929年開館)より先にできたモダン・アートの殿堂という性格をもっているのです。その中から、創立者のダンカン・フィリップスと同世代の5人のアーティストを取り上げてみます。

 マーク・ロスコ 

Mark Rothko Room.jpg
ロスコ・ルーム
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

フィリップス・コレクションには、マーク・ロスコ(1903-1970)の作品だけが展示してある「ロスコ・ルーム」があり、これが美術館の大きな "ウリ" になっています。「ロスコの作品のみで出来上がった空間」は日本の川村美術館にもありますが、川村美術館のサイトの説明によるとそのような空間は世界に4つしかありません。

テート・ギャラリー(英:ロンドン)
川村美術館(千葉県佐倉市)
フィリップス・コレクション(米:ワシントン D.C.)
ロスコ・チャペル(米:ヒューストン)

の4つです。ロスコはこのような展示方法を強く望んだと言います。その意味で、日本のモダンアート愛好家は、是非ともまず佐倉に行くべきでしょう。

 ジョージア・オキーフ 

Red Hills - OKeeffe.jpg
ジョージア・オキーフ(1887-1986)
レッド・ヒル、ジョージ湖」(1927)
Red Hills, Lake George
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ジョージア・オキーフは夫と死別したあと、ニューメキシコ州の荒野に移り住んだことで有名です。それもあって、この絵はニューメキシコの風景を描いたものと一瞬思いますが、違います。ジョージ湖はニューヨーク州の北部にある湖で、オキーフは避暑によく訪れたといいます。

ジョージ湖の対岸の、夕日に染まる山並みを描いたものでしょう。まるで太陽の光が山々を透過してこちらに届いているように見えます。手の掌を太陽にかざしたような・・・・・・。山をこのように描いた画家はいないのではと思います。オキーフの独特の感性に惹かれる絵です。

 ジョン・マリン 

Quoddy Head - Marin.jpg
ジョン・マリン(1870-1953)
コディ・ヘッド、メイン州海岸」(1933)
Quoddy Head, Maine Coast
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ジョン・マリンは、ニューヨークの摩天楼や橋などの題材が多い画家・版画家ですが、この水彩画は、都会とは対象的なメイン州の岬を描いています。水彩画の名手と言われたマリンらしい作品です。

 アーサー・ダヴ 

Morning Sun - Dove.jpg
アーサー・ダヴ(1880-1946)
朝日」(1935)
Morning Sun
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

アーサー・ダヴは、ヨーロッパ画壇を含めても最も早く抽象画に取り組んだ画家と言われています。とくにアメリカの土地と自然に想を得たカラフルで有機的なフォルムの作品が多い。この絵はアーサー・ダヴの作品にしてはめずらしく具象的です。

 マージョリー・フィリップス 

最後にフィリップス・コレクションで印象に残った作品を一つ。マージョリー・フィリップスの「夜の野球」です。

Night Baseball - Marjorie Phillips.jpg
マージョリー・フィリップス(1894-1985)
夜の野球」(1951)
Night Baseball
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

マージョリー・フィリップスはダンカン・フィリップスの妻であり、画家です。フィリップス・コレクションの共同設立者と言えます。

この絵は野球のナイトゲームを題材にしたという点で、妙に記憶に残る絵です。他にこういうテーマの絵がないからでしょう。考えてみると野球のナイト・ゲームは、強烈な人工の光、それに照らされた緑の芝生、その上に散らばる白いユニフォーム、色とりどりの観客席、青黒い空など、"絵になる" 要素がいろいろあると言えます。そこをうまくとらえています。


生活空間に美術品を展示する


最初にも書きましたが、この美術館はコレクターの屋敷をそのまま美術館にしたものです。そこが、同じ個人コレクションでも冒頭にあげた6つの美術館とは違います。写真のように煉瓦造りの瀟洒しょうしゃな建物がそのまま美術館になっている。このような "私邸美術館" は、著名な美術館ではめずらしいのではと思います。ニューヨークのフリック・コレクションも私邸ですが(フェルメールが3枚もある)、石造りの威風堂々とした建物であり、生活空間という感じはしません。No.19「ベラスケスの怖い絵」で、ベラスケスの「インノケンティウス十世の肖像」を取り上げましたが、この絵があるローマのドーリア・パンフィーリ美術館も私邸です。ただこの "私邸" は "ドーリア・パンフィーリ宮殿" であり、その一部が "美術館" になっている。フリック・コレクション以上に生活空間という感じはしません。

その意味でフィリップス・コレクションは、ボストン美術館の近くにあるイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館や、ミラノのポルディ・ペッツオーリ美術館に近いものです。しかしフィリップス・コレクションの方が作品の年代やバリエーションも多様で、特に近代絵画やモダン・アートが充実しています。

生活の場と感じられる場所が、美術鑑賞には最適である ・・・・・・。これは創立者のダンカン・フィリップスの信念だったようです。それはこの美術館の名称である "フィリップス・コレクション" にも現れています。冒頭にあげた "個人コレクションを出発点とする美術館" で、正式名称が "コレクション" なのはバーンズ・コレクションとここだけです(コートールドの正式名称は "コートールド・ギャラリー")。バーンズの場合はアルバート・バーンズが集めたコレクションだけを展示しているのだから名前通りですが、フィリプス・コレクションはダンカン・フィリップスのコレクションだけではありません。しかしここは「邸宅にコレクションを展示する場所」だと主張している。その "こだわり" が名称になっていると思います。

邸宅にコレクションを展示して公開するのはいかにも富豪(近代以前なら貴族)という感じがするのですが、それは「都市型公共美術館」に対するアンチテーゼなのでしょう。訪問者からすると「美術品が本来あった場所で鑑賞できる」ことになります。

  余談ですが「都市型公共美術館に対するアンチテーゼ」として、フィリップス・コレクションとは全く違うやり方をとっているのが、箱根のポーラ美術館です。この美術館は森の中に建てられていて「自然とアートの調和を楽しむ」というのがコンセプトになっています。

ともかく、フィリップス・コレクションを訪れた人は、暖炉があり長椅子がありといった家庭的雰囲気が横溢する空間の中で、さまざまな年代のアートを鑑賞することになります。フィリップス・コレクションの最大の特色はこの点でしょう。

続く


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No.215 - 伊藤若冲のプルシアン・ブルー [アート]

No.18「ブルーの世界」で青色顔料(ないしは青色染料)のことを書いたのですが、その中に世界初の合成顔料である "プルシアン・ブルー" がありました。この顔料は江戸時代後期に日本に輸入され、葛飾北斎をはじめとする数々の浮世絵に使われました。それまでの浮世絵の青は植物顔料である藍(または露草)でしたが、プルシアン・ブルーの強烈で深い青が浮世絵の新手法を生み出したのです。絵の上部にグラディエーション付きの青の帯を入れる「一文字ぼかし」や、輪郭線を黒ではなく濃紺で刷るといった手法です(No.18)。プルシアン・ブルーが浮世絵に革新をもたらしました。

そして日本の画家で最初にプルシアン・ブルーを用いたのが伊藤若冲だったことも No.18「ブルーの世界」で触れました。その若冲が使ったプルシアン・ブルーを科学的に分析した結果が最近の雑誌(日経サイエンス)にあったので、それを紹介したいと思います。


伊藤若冲『動植綵絵』


宮内庁・三の丸尚蔵館が所蔵する全30幅の『動植綵絵』は、伊藤若冲の最高傑作の一つです。この絵を全面修復したときに科学分析が行われ、プルシアン・ブルーが使われていることが判明しました。その経緯を「日経サイエンス」から引用します。以下の引用で下線は原文にはありません。


伊藤若冲の代表作『動植綵絵』は、1999年度から6年間にわたり、大規模な修理が行われた。絹に描かれた絵から裏打ちの和紙をすべてはがし、新たに表装しなおす「解体修理」だ。作品を裏からも見ることができるまたとない機会にもなり、画面表裏からの様々な作品調査が平行して進められた。

調査の結果で最も驚きをもって受け止められたのは、作品の1つに、当時西欧から日本に伝えられたばかりの人工顔料、プルシアンブルーが用いられたいたことだ。明和3年(1766年)に描かれたとみられる「群魚図」の中のルリハタの絵である(引用注:「蛸」と「鯛」がある群魚図のうちの「鯛」)。

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月号)

群魚図(鯛).jpg
伊藤若冲『動植綵絵』より
「群魚図(鯛)」(1766)
(宮内庁 三の丸尚蔵館 所蔵)
「動植綵絵」の「群魚図」には「蛸」と「鯛」があるが、この絵は「鯛」の方である。絵の左下の隅に黒ずんだ濃紺色で描かれているのがルリハタである。黒ずんでいる理由は後述。

ルリハタ.jpg
ルリハタ
ハタ科の魚だが、鮮やかな青色の(瑠璃色の)体色と黄色の線が目立つ。"瑠璃" とはもともと仏教用語であり、鉱物としてはラピスラズリを意味する。ラピスラズリはウルトラマリン・ブルーとして西欧絵画の青に使われた。No.18「ブルーの世界」参照。

若冲の「群魚図」の分析に使われたのは「蛍光X線分析」という手法です。絵の表面に直径約2mmの微弱なX線をスポット照射します。そうするとそこにある元素が励起され、元の状態に戻るときに2次的なX線(=蛍光X線)を出します。元素が出す蛍光X線のエネルギーは元素ごとに決まっているので、どんな元素が存在するかが分かります。


『動植綵絵』全30幅の919ポイントに照射したところ、ルリハタの濃紺色の部分に鉄の存在を示すピークが現れた(下図)。鉄を含む青色であればプルシアンブルーの可能性が高い。当時、日本で青色の彩色に使われていたのは主に、藍銅鉱という鉱石を粉末にした群青か、植物からとった藍だ。いずれも鉄を含まない。

(同上)

蛍光X線スペクトル.jpg
ルリハタの蛍光X線スペクトル
鉄のピークがみられる。一般的な青色顔料である群青(藍銅鉱)や藍に鉄分は含まれない。Ca(カルシウム)のピークは下地に塗った胡粉を示している(胡粉は貝殻を砕いて作る)。
(日経サイエンス 2017.10 より)

分析を担当した早川康弘氏(東京文化財研究保存修復センター = 東文研)は、当初このデータを見落としていたといいます。というのも、プルシアン・ブルーが絵の具として頻繁に使われるようになったのは江戸時代末期の19世紀になってからであり、若冲が使っていたとは思われなかったからです。


日本に初めてプルシアンブルーが輸入されたの延享4年(1747年)である。このときは全量がオランダに返送され、日本で消費されたのは宝暦2年(1752年)からだ。1760年代までに輸入された量は全体で2.5ポンド(約1.3kg)で、極めて稀少な品だったとみられる。

絵画に用いたのはそれまで、平賀源内が1770年代前半に油彩「西洋夫人図」のドレスの胸元の模様を描いたのが最も早い例だとみられていた。本草学者で蘭学者、大名たちとも親交のあったマルチタレントの源内がいちはやく西洋の絵の具を入手し、西洋の技法で描いた絵に用いたというのは想像しやすい。だが西洋の素材や技法とあまり縁のない若冲が、その5年以上も前に使っていたというのは意外感がある。

(同上)

では、プルシアン・ブルーだと断定するにはどうするのか。江戸時代に輸入されて現在も残っているプルシアン・ブルーがあります。それと比較分析をします。


早川氏らは、ルリハタの絵を別の方法で調べてみることにした。絵の表面に白色光を照射し、反射光のスペクトルを測定する分光分析だ。古典的な手法だが、プルシアンブルーの同定にはよく用いられる。比較対照として、19世紀に鍋島藩で購入された「紅毛群青」を用いた。こちらはX線回折によってプルシアンブルーの結晶構造が確認されている。

結果は明快だった。400~850nm の広い波長域で反射率があまりかわらないプルシアンブルーに特徴的なスペクトルが得られ、鍋島藩の試料とも一致した。若冲は確かに、プルシアンブルーを使ってルリハタを描いたのだ。この結果は2009年、東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において公表された。

(同上)

可視分光スペクトル.jpg
ルリハタの可視分光スペクトル
400~850nm の広い波長域で反射率があまり変わらない。プルシアン・ブルーに特徴的な可視光スペクトルである。
(日経サイエンス 2017.10 より)







プルシアン・ブルー
この色はRGB値が "192f60"(16進数)であるが、あくまで一例である。実際に顔料・染料として使う方法によって色は変化する。


プルシアン・ブルーの合成


プルシアン・ブルーは世界初の合成顔料です。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、その発見は18世紀初頭のベルリンでした。当時ベルリンはプロイセン領だったので「プロイセンの青=プルシアン・ブルー」と呼ばれたのです。江戸時代の日本では「ベロ藍」ですが、ベロとはベルリンの意味です。その発見は全くの偶然でした。


「群魚図」から遡ること60年前の1706年ごろ、ベルリンの錬金術師ディッペル(Johann C. Dippel)の工房の一角で、染料・顔料の製造業者ディースバッハ(Johann J. Diesbach)が、カイガラムシから抽出した赤い色素、コチニールからレーキ顔料を作ろうとしていた。

(引用注) コチニールはカイガラムシから作る赤色の色素で、かつては絵の具のクリムゾンやカーマインに使われた。レーキ顔料とは、水溶性の顔料を何らかの方法で不溶性にしたもの。不溶性にすることをレーキ化と言う。

作業にはアルカリが必要だったが、たまたま切らしていたため、ディッペルから拝借した。ディースバッハがそのアルカリと硫酸鉄をコチニールに加えたところ、鮮やかなブルーが現れた

2人はさぞ驚いたに違いない。どのような反応が起きたのかはわからなかったが、予想外の青色が生じた原因がディッペルから借りたアルカリにあったことは推測できた。ディッペルは錬金術師であるだけでなく、神学者でかつ医者でもあった。動物の角や骨、血液などにアルカリを加えて乾留した「ディッペル油」を作り、薬品原料として売っていた。乾留後はアルカリを水に溶かして回収し、再び乾留に用いた。ディースバッハに渡したのは、すでに何度か乾留に使ったアルカリの炭酸カリウム溶液だった。

(同上)

動物の角や骨や血液などから作った油というのは、いかにも錬金術師が作りそうな "あやしげな" ものですが、まさにそこがこの発見物語のポイントです。ディースバッハが作ろうとしていた赤色染料・コチニールは、青色=プルシアン・ブルーの出現には関係ありません。「動物由来の成分が溶け込んだ炭酸カリウム液」と「硫酸鉄」が鍵です。日経サイエンスの記事によるとプルシアン・ブルーが生成した過程は次のようです。

ディッペルが動物の角や骨、血液などに炭酸カリウム液を加えて加熱したとき、骨や血液に含まれる炭素(C)と窒素(N)からシアン化物イオン(CN-)が生成し、それが炭酸カリウムと反応してシアン化カリウム(いわゆる青酸カリ)がきた。

シアン化カリウムが血液や鉄製の反応容器の含まれる鉄分(Fe)と反応して黄血塩(フェロシアン化カリウム。その名の通り黄色)ができた。

黄血塩に硫酸鉄が加わってプルシアン・ブルーができた。

日経サイエンス2017年10月号には、上記の過程をそのままに再現した実験が載っていて、見事にプルシアン・ブルーができています。それを使って画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵も掲載されています。

プルシアン・ブルーで描いたルリハタ.jpg
日経サイエンスにはプルシアン・ブルーを発見当時の製法で再現した実験が載っている。用いた動物原料は豚のレバーである。この絵は実験で作ったプルシアン・ブルーを用いて画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵。紙の上に描かれている。
(日経サイエンス 2017.10)

プルシアン・ブルーの結晶構造.jpg
プルシアン・ブルーの結晶構造
2価の鉄(Fe2+。黄色の丸)と3価の鉄(Fe3+。赤色の丸)が交互に結晶を作っている。
(日経サイエンス 2017.10 より)

プルシアン・ブルーの結晶の特徴は、2価の鉄(Fe2+)と3価の鉄(Fe3+)が交互に結晶を作っていることです。このように酸化度が違う金属が混在している結晶では、電子はその金属に集まります。かつ、電子は2価の鉄と3価の鉄を間を容易に移動できる。移動するときに強い光の吸収が起き、普通の物質より鮮やかな色になります。プルシアン・ブルーの場合は橙色が吸収されて青く見えます。この青は非常に "強い青" です。


プルシアンブルーの色の強さは、天然顔料のウルトラマリンの10倍以上といわれる。画家の浅野信二氏は「少し混ぜただけで全体がこの色になる。古楽器の演奏にエレキギターを持ち込むような影響力」だと語る。安定で退色しにくく、天然由来の顔料と違って確実に同じ色を作れるのも利点だ。

(同上)

しかし "強い色" は欠点にもなります。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、19世紀のフランス画壇ではプルシアン・ブルーは危険な色とされ、扱いには注意が必要だったようです。No.18に書いたことを再掲します。


プルシアン・ブルーは印象派の画家が好んで使った色です。印象派は「影にも色があることを発見した」とよく言われますが、ルノアールの有名な「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876。オルセー美術館) には、その影や衣服の表現にプルシアン・ブルーが使われています。またゴッホもこの色を好みました。アルル時代の傑作である「星降る夜」(1888。オルセー美術館)にもプルシアン・ブルーが使われています。時代が進んで、ピカソ・20歳台のいわゆる「青の時代」の諸作品は、プルシアン・ブルーを他の色とまぜて多様な青を作り出しています。この時期のピカソは深い青を特に好んだようです。

しかし、プルシアン・ブルーは次第に使われなくなり、あとで開発されたコバルト・ブルーなどの合成青色顔料にとって代わられました。それは「プルシアン・ブルーは使い方が難しい」色だったからです。パリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長は、次のようにインタビューに答えています。

  とにかく、プルシアン・ブルーは使いこなすのが難しい色です。たとえば1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。その美しさにもかかわらず、使い方がとても難しい色なのです。

ルノワールもこの色の難しさに気づいて、画家仲間に注意書きのメモを残したと言います。油絵は浮世絵と違って色と色を混ぜ、かつ重ね塗りをします。プルシアン・ブルーは油絵にとっては「危険な色」なのです。しかし巨匠たちはその危険な色に挑み、名画を生み出しました。危険を承知で挑む強烈な魅力がこの顔料にあったということでしょう。



プルシアン・ブルーの歴史


日経サイエンスの記事に戻って、プルシアン・ブルーの歴史をまとめると、以下のようになります。

(1706年)ベルリンでディッペル(錬金術師)とディースバッハ(染料・顔料業者)がプルシアン・ブルーを偶然に合成。

2人はプルシアン・ブルーの製造を開始。製法は秘匿した。1712年頃には「需要に応えきれない」との手紙が残っている。

(1724年)英国の学者がドイツから入手したプルシアン・ブルーの製法を学術誌に発表。プルシアン・ブルーの科学的研究が始まる。

(1747年)日本に初めてプルシアン・ブルーが輸入された。この時は全量が返送されたので、実質的な最初の輸入は1752年。

(1766年)伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使用。

(1770年代前半)平賀源内が油彩画「西洋夫人図」にプルシアン・ブルーを使用。

(19世紀~)プルシアン・ブルーが浮世絵に多数使用される。たとえば葛飾北斎の『富嶽三十六景』であり、その制作・出版は1823年頃~1835年頃。

(19世紀~)印象派の画家が好んで使用。ピカソも「青の時代」の絵に多用。

(2009年)東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において、伊藤若冲がプルシアン・ブルーを使ったことが公表された。


1回きりのプルシアン・ブルー


ただし、伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使った理由は謎が残ると、日経サイエンスの記事は言います。


ひとつ疑問が残っている、なぜ伊藤若冲はこのルリハタに、プルシアンブルーを使ったのだろうか? しかも絵の具の上から墨を筋状に重ね塗りしており、もとの色があまりわからない。「この色なら、若冲のパレットにあるほかの絵の具で簡単に作れる」と東文研の早川氏は首をかしげる。貴重品だったプルシアンブルーをわざわざ使う理由が見当たらない。プルシアンブルーは若冲のほかの作品では見つかっていない。1回限りの実験だったのか。私たちが知らない理由があったのか。その点は謎のままだ。

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月号)

記事に「1回限りの実験か」と書いてありますが、実験ではないでしょう。『動植綵絵』は若冲の禅の師である大典顕常だいてんけんじょうがいる京都・相国寺に寄贈した絵です。若冲にとって "渾身の作" だろうし、事実、その出来映えは最高傑作と呼ぶにふさわしい。いいかげんな気持ちでプルシアン・ブルーを用いたはずがないと思います。当時は貴重で高価な絵の具です。初めて使う絵の具ということは、何度も下絵を書いて発色の具合を調べたはずです。そして『動植綵絵』に用いたと考えられる。

若冲がプルシアン・ブルーを用いたのは1回きりです。なぜかを推測すると、これは "自分には向かない絵の具" だと思ったからではないでしょうか。引用した画家の浅野信二氏やパリの絵の具専門店の店長の発言にあるように、プルシアン・ブルーは極めて "強い絵の具" であり、もっと言うと "危険な絵の具" です。上に引用したパリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長の発言をもう一度思い出すと、

1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。」

でした。近接して塗った絵の具を "食ってしまうほどの強力な青色" なのです。

一方、若冲の『動植綵絵』はどうでしょうか。この絵には「裏彩色うらざいしき」の技法が駆使されていることが分かっています。再び「日経サイエンス」から引用します。


共同で調査に当たった宮内庁三の丸尚蔵館の太田彩・主任研究官は、若冲を「色に執着した画家」と評する。例えば絹の裏面に色を置くと、表から絹目を通して見ることでやわらかい色になる。「裏彩色」と呼ばれる技法で、表から色を重ねるとさらに複雑な表情が生まれる。調査によって、若冲が『動植綵絵』に緻密な裏彩色を施していることが明らかになった。無数に描かれた南天の実1つ1つ、折り重なった紅葉の1枚1枚に、微妙に異なる裏彩色がなされていたのだ。

「若冲は、自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」と太田氏はいう。絵の具は質の良いものをふんだんに使い、どう使うとどのような色が生まれるのかを詳細に研究していた

(同上)

最も有名な裏彩色の技法は『動植綵絵』の「老松白鳳図」ですね。絹地の表から白、裏から黄を塗ることで、鳳凰の羽が金色に見えるという驚きの効果を生み出しています。その裏彩色は「老松白鳳図」だけではないのです。裏打ちしてある和紙を全部はがす解体修理をしてみると、南天の実、紅葉の葉にまで裏彩色が使われていた。この事実を考えると、若冲は『動植綵絵』以外の絵でも裏彩色を多用しているはずです。

そこでプルシアン・ブルーです。推測すると、プルシアン・ブルーは「裏彩色の技法が利かない絵の具」なのではないでしょうか。あまりに強い色であり、他の色を食ってしまうために・・・・・・。だとすると、裏彩色を駆使して「自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」若冲にとっては "使いにくい色" ということになります。実は若冲は、プルシアン・ブルーの性質(=難しさ)を良く理解していたのではないか。画家仲間に注意書きのメモを残したルノワールのように。

さらに推測を重ねると、若冲が「群魚図」のルリハタにあえて「1回きりのプルシアン・ブルー」を使った理由は、この絵に「秘密を仕掛けた」のではと思います。裏彩色もそうですが、若冲の絵には "秘密" がよくあります。肉眼では判別しがたいような細かい点々を描き込むとか、絵の具を4回も塗り重ねる(日本画で!!)といったような・・・・・・。

渾身の作に、オランダから輸入されたばかりの高価で貴重な絵の具を "そっと" 使う。それはルリハタの美しい瑠璃色を描くにはピッタリでしょう。しかも上から墨を重ねて分からないようする。それによって「群魚図」のプルシアン・ブルーを "封印" し、そしてプルシアン・ブルーの使用そのものも封印してしまう。「1回きりの秘密を仕掛けた」という解釈が最も妥当だと思います。そしてその秘密は、描かれてから243年後に現代科学の分析手法で解き明かされたわけです。


プルシアン・ブルーの現在


顔料としてのプルシアン・ブルーは、その後に開発された合成顔料であるコバルト・ブルーやセルリアン・ブルー(No.4「プラダを着た悪魔」でアンディが着ていたセーターの色)などに押されて使われなくなりました。しかしプルシアン・ブルーは顔料とは別の用途で発展します。


プルシアンブルーには色のほかにもユニークな性質が2つあり、幅広い分野で機能性材料として利用されている。

1つは鉄イオンの酸化・還元によって色が変わることだ。この性質を利用した有名な例が、図面などによく使われる青写真だ。また電気で色が変わるエレクトロクロミック材料として、電子カーテン電子ペーパーにも応用されている。(中略)

もう1つは、ジャングルジム状の結晶構造の中に様々な陽イオンや分子を出し入れできることだ。放射性セシウムの吸着剤になるほか、リチウムイオン電池やカリウムイオン電池の正極材料としても期待されており、開発が進んでいる。

(同上)

プルシアン・ブルーが放射性セシウムの吸着剤やカリウムイオン電池の正極材料になることは、No.18「ブルーの世界」の「補記」に書きました。電子カーテンは透明から不透明に多段階に変化する "ガラス" で、ボーイング 787 の窓がそうです。787に乗ると窓の下にボタンが二つあって窓の透明度を変えられます。787 の窓の材料は非公開なのでプルシアン・ブルーが使われているかどうかは分かりませんが、こういう使い方も可能な機能性材料がプルシアン・ブルーです。プルシアン・ブルーが強い青を発色して顔料になるのは、あくまで一つの機能に過ぎないのです。



18世紀初頭のベルリンで、顔料・染料業者と錬金術師が全くの偶然で合成したプルシアン・ブルーを、フランス画壇の著名画家たちが使い、若冲や北斎も使い、浮世絵に革新を起こし、さらには東日本大震災からの復興に陰で役立ち(放射性セシウムの吸着剤)、今後は次世代電池に使うべく研究されている・・・・・・。

プルシアン・ブルーは今で言う "化学" で作り出されたものですが、その化学が作り出した "機能性材料の奥深さ" がよく理解できた記事でした。




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No.205 - ミレーの蕎麦とジャガイモ [アート]


落穂拾い


No.200「落穂拾いと共産党宣言」の続きです。画家・ミレー(1814-1875)が描いた傑作『落穂拾い』ですが、No.200で書いたその社会的背景や当時の評判をまとめると以下のようになります。

落穂を拾っている3人は最下層の農民であり、地主の許可なく農地に入り、刈り取りの際にこぼれた小麦の穂を拾っている。地主はその行為を黙認しており、そういった「喜捨きしゃの精神」は聖書の教えとも合致していた。

この絵は当時から大いに人気を博し、数々の複製画が出回った。

しかしパリの上流階級からは社会秩序を乱すものとして反発を招いた。「貧困の三美神」という評や「秩序をおびやかす凶暴な野獣」との論評もあった。詩人のボードレールは描かれた農婦を "小賤民パリアたち" と蔑称している。

その理由は当時の社会情勢にあった。「共産党宣言」にみられるように労働者の権利の主張が高まり、社会の変革や改革、革命をめざす動きがあった。ミレーのこの絵は、そういった動きにくみするものと見なされた。この絵は当時の上流階級からすると「怖い絵」だった。

落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

ミレーは社会運動に参加したわけではないし、労働者や農民の権利や社会の改革についての発言をしたことはないはずです。画家はシンプルにバルビゾン周辺の「農村の実態」を描いた。

しかし描かれたのが「最下層の農民」ということが気にかかります。ミレーの真意はどうだったのか。この絵だけを見ても分からないので、他のミレーの傑作から考えてみたいと思います。誰もが認めるミレーの名画・傑作は、制作年順に、

『種まく人』(1850)
 山梨県立美術館・ボストン美術館
『落穂拾い』(1857)
 オルセー美術館
『晩鐘』(1857/59)
 オルセー美術館
『羊飼いの少女』(1864)
 オルセー美術館

でしょう。これには多くの人が合意すると思います。このうち『羊飼いの少女』は "牧畜" の情景です。以下では『落穂拾い』と同じ "農業" を描いている『種まく人』(1850)と『晩鐘』(1857/59)をとりあげます。


『種まく人』


『種まく人』は岩波書店のロゴにもなっている日本人にはなじみの絵で、山梨県立美術館とボストン美術館がほぼ同じ構図の絵を所蔵していることで有名です。またミレー崇拝者だったゴッホがこの絵をもとに「ゴッホ流・種まく人」を何枚か描いたこともよく知られています(No.158「クレラー・ミュラー美術館」参照)。

種まく人.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
種まく人」(1850)
(ボストン美術館)

この絵の特徴は農夫が傾斜地で種をまいていることです。農夫や農業を描いた絵は西洋・日本を問わずいろいろありますが、傾斜地での農業を描いたのはめずらしいのではないでしょうか。

バルビゾンに行ってみると分かりますが、あたり一帯は起伏が全く無い平原です。近くに森はあるが(フォンテンブローの森)傾斜地はありません。この絵について、山梨県立美術館でミレー担当の学芸員だった井出洋一郎氏は次のように書いています。


農夫の踏みしめる大地は明らかに傾斜しており、移住したバルビゾン村の平原ではない。故郷であるノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地である。そこで当時栽培されたのが、ミレー晩年の四季図にも出てくる、フランスで「サラセンの麦」または「黒麦」と呼ばれる「蕎麦そば」であった。今でもガレットやクッキーの素材に使うが、当時は寒冷地でも土地が痩せていてもなんとか育つ、飢饉に強い雑穀として栽培されていたものである。燕麦えんばくよりはましだが、当然口のおごったパリジャンたちの食べるものではない。


井出さんによると「種まく人」を題材としたミレーの絵は、山梨とボストンの絵を含めて5点あります。井出さんはこれらの絵を比較検討し、描かれているのがミレーの故郷である「ノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地」と結論づけています。No.97「ミレー最後の絵」で引用したのですが、倉敷市の大原美術館が所蔵するミレーのパステル画に『グレヴィルの断崖』(1871)があります。グレヴィルはグリュシーを含む地方名で、晩年にミレーが故郷を訪れて描いた作品です。ちょうどこのような断崖に続く内陸部が「種まく人」の舞台なのでしょう。

Millet - グレヴィルの断崖.jpg
ミレーグレヴィルの断崖」(1871)
(大原美術館)

この絵のもう一つのポイントは、農夫がまいている種が小麦ではなくて蕎麦だという点です。小麦よりランクが落ちるが、寒冷で痩せた土地でも育つ蕎麦を農夫はまいているのです。

パリのモンパルナス駅のそばのホテルに何回か宿泊したことがありますが、モンパルナス一帯にはブルターニュ料理を出す店が多いのですね。モンパルナス駅がブルターニュ地方と鉄道で直結しているからでしょう。ガレットを出す店が並んでいる通りもあったと記憶しています。ガレットやクレープはちょうどよいランチなので何度か行きました。ガレットは蕎麦で作るのが "正式" です。ブルターニュは、ミレーが生まれたノルマンディーのすぐ南側の大西洋沿岸地方です。つまり、ミレーの故郷 → 厳しい自然 → 蕎麦 → ガレット → モンパルナスという "つながり" があるわけです。

そして井出さんは、ミレーがこの絵を描いた真意を次のように推測しています。


ミレーがなぜこの絵をパリのサロンに出したかは、1848年の二月革命のきっかけが、パリにではなく、周囲の農村での飢饉による農民暴動にあったことを考えれば、私にもわかるような気がするし、画家はこう語っているように思える。

「あなたたちと違って、私はこんなつましく貧しいものを食べて育ってきたのだ」

「それでもおなじように大切にまき、育て、収穫することが人間の宿命であり、それが尊いことなのだ」

《種まく人》からミレーのつぶやきを聞くなら、私はこれに尽きると思っている。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

『種まく人』の背景には2つの流れがあるようです。一つは、

農村での飢饉が暴動へ発展
  ↓
パリでの二月革命(1848)
  ↓
『種まく人』(1850)

という当時のフランスの社会情勢です。『種まく人』は二月革命とは無関係ですが、社会情勢との関係で絵を捉える人もいたはずです。2つめは、

ミレーの故郷=ノルマンディー
  ↓
起伏が多く、痩せた土地
  ↓
蕎麦の栽培
  ↓
『種まく人』= 蕎麦の種をまく人

という背景です。そして、二月革命の記憶も生々しい時に『種まく人』をサロンで見たパリの上流階級の人たちは、その数年後のサロンで再び『落穂拾い』を目にした。冒頭に書いた『落穂拾い』への反発の理由が分かるのでした。


『晩鐘』


晩鐘.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
晩鐘」(1857)
(オルセー美術館)

もう一つの傑作『晩鐘』です。この絵は『種まく人』から7年後、『落穂拾い』とほぼ同時期に描かれました。まずこの絵についての中野京子さんの解説を引用します。


『晩鐘』の原題は『アンジェラスのかね』と言う。

ここはパリから南に五十キロほど下った、小さな村バルビゾン。遠くに見えるシャイイ教会が日に三度、朝昼晩とアンジェラスの鐘のを響かせ、人々に時をげるとともに、祈りをうながす。夕闇迫る今この時は、一日の終わり、つまり過酷かこくな戸外労働の終わりを意味し、若い夫婦は首をれて祈ったあと家路につくのであろう。画面右上の、ねぐらに帰るからすたちと同じように。

背景の明るさとは対照的に、ふたりの立つ前景は暗い。陽のあたる背景には積みわら名残なごりが見られ、豊かな麦畑であることが示され、影の濃い前景の土地はせ、夫婦のわずかな収穫はジャガイモである。ミレーのもう一つの傑作『落穂おちぼ拾い』と同じく、「富む背景、貧窮ひんきゅうの前景」が示されている。ジャガイモはパンを食べられない貧民の主食だった。だから手押し車にせた袋には商品用のそれ、足元の手籠てかごには自分たち用のそれと、分けて入れてある。

両手を合わせた妻と帽子を持つ夫の祈りのつぶやき、みわたる鐘の音、そして遠く烏の鳴き声と、農村の夕暮れに満ちるさまざまな音さえも聞こえてくるよう画面だ。ふたりの人間が向き合って立っているだけの単純な構図の中に、農民の人生(ひいてはその運命)、日々の労働(ひいてはその崇高さ)、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさが、みごとにとらえられている。


ちなみに「アンジェラスの鐘」(アンジェラスはラテン語で天使の意味)は「お告げの鐘」とも呼ばれ、朝昼晩の三回、「アンジェラスの祈り = お告げの祈り」を唱えるように促す鐘です。「お告げの祈り」は聖母マリアの受胎告知を記念した祈りで、"Angelus Domini"(主の御使い)という文句で始まるために「アンジェラスの祈り」と呼ばれています。

この絵には「教会」と「祈り」が描かれていて、ミレーの絵にしては珍しく宗教色の強いものです。それは描かれた経緯に関係していて、この絵はアメリカ人の注文によって描かれました。注文主はボストン生まれの作家で美術コレクター、後にボストン美術館の理事にもなったトマス・アップルトン(1812-1884)という人物です。アップルトンは1857年にバルビゾン村のミレーを訪れて注文を出します。


1857年の初め、アップルトンはバルビゾンのミレーを訪ね、この《晩鐘》を注文する。その際にアップルトンとミレーの間で、この絵のコンセプト、あるいは構図について、何らかの相談があったと思われる。というのも、この絵は鐘の音と祈りをテーマにしており、ミレーの絵の中では宗教的雰囲気が濃い。しかし、キリスト像もマリア像も十字架もこの絵にはなく、カトリックの宗教画の形式を放棄した構図なのである。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

言うまでもなくミレーは敬虔なカトリック教徒です。ミレーはなぜ宗教色を排したのでしょうか。それは注文主のアップルトンに関係していると、井出さんは言います。


調べてみて納得がいったのは、アップルトンは故郷ボストンのフェデラル・ストリート教会の熱心な信者であり、ここはアメリカにおけるユニテリアン(非三位一体派)の拠点だったのである。ユニテリアンは、キリストが神の子であっても神ではないとし、プロテスタントの中で最もリベラルな派閥である。極端に言えば、もはや宗派の区別は問題でなく、祈りが神に通じればよし。この性格を取り入れるなら、《晩鐘》はまさにユニバーサルな宗教性を持ち、世界で愛される名画の資格も同時に得ることになる。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

熱心なカトリック教徒(= ミレー)と、プロテスタントの中でも最もリベラルなユニテリアン教徒(= 絵の注文主)の出会いで生まれた "宗教画"、それが『晩鐘』だという見立てです。しかしどういう理由わけかアップルトンは完成した絵の引き取りに来なかった。ミレーは絵を売却し、紆余曲折の結果、絵は最終的にオルセー美術館に落ち着きました。

この絵が日本人の "宗教的心情" にも訴えるような "ユニバーサルな宗教性" を持っているというのは、確かにそうだと思います。



しかし、もう一つの重要なポイントがあります。それは二人が収穫している農作物がジャガイモだという点です。中野さんも書いているようにジャガイモは貧民の食べ物だったのです。井出さんは次のように書いています。


19世紀のフランス農民は、小麦が収れない地域では、蕎麦(黒麦)や燕麦を主食としていたが、それでも食べられない場合にはじゃがいもで代用した。すなわち、じゃがいもを主食としているフランスの農民の貧しい現実を、南北戦争以前にじゃがいもを主食としていたアメリカ開拓民になぞらえて描いたものではないか。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

ゴッホの絵に『ジャガイモを食べる人々』という有名な絵があります。「いかにも貧しい農民」という絵であり「ジャガイモ = 貧しさ」だとよく分かります。対して『晩鐘』は、一見したところ貧しいという感じは受けないけれど、実態はゴッホの絵と同じなのです。

ジャガイモの原産地は南米のアンデス山脈で、16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰ったものです。初めはヨーロッパに相当する作物がなかったため受け入れられませんでしたが、寒冷な気候に強いという特質が理解され、西ヨーロッパはいうに及ばす、東ヨーロッパ、ロシア、シベリア、中国、そして日本(特に北海道)にまで広まった。そのジャガイモに、フランス貧しい農民も救われたわけです。


ダリの "『晩鐘』論"


この絵で思い出すは No.97「ミレー最後の絵」に書いた、サルバトーレ・ダリ(1904-1989)の『晩鐘』についての発言です。ダリの生家には『晩鐘』のレプリカが飾られていて、彼は子どものころからこの絵を目にしていました。「ミレー《晩鐘》の悲劇的神話」という論文断片集で、ダリは『晩鐘』について述べています。中野京子さんの本から引用します。


ダリは、女の足もとに置かれた手籠を不自然と感じる(そう言われればそんな気がしないでもない)。最初は籠ではなく、小さな ─── おそらく彼らの子どもを入れた ─── ひつぎを描いたのではないか。つまりこれは一日の終わりを感謝する祈りではなく、亡き子を土にめた後、母は祈り、父は泣いている情景だった。ところが誰かに忠告されたか、ミレー本人の気が変わったかして、最終的にこのような形に変更したのではないか、と。

確かにアンジェラス(=エンジェル)の祈りには、「聖母マリアさま、罪あるわたしたちのため、今も、臨終りんじゅうの時も、どうぞお守りください」との言葉がある。またミレー自身、友人への手紙にこう書いている。かつて信心深い祖母から、アンジェラスの鐘が聞こえるたび仕事を中断させられ、「死者たちのために祈りなさい」と言われた、それを思いだしながらこの絵を描いたのだ、と。

中野京子『怖い絵 2』
朝日出版社(2008)

もちろん中野さんは "ダリ説" を信じているのではありません。また山梨県立美術館の学芸員だった井出さんは実際にこの絵のエックス線写真を見たそうですが、

  ダリがひつぎとしたものはミレーがジャガイモの籠の位置を修正して書き直した結果、下書きがだぶったもので、ミレーの絵によくある深読みにすぎない

と、学芸員らしく断言しています(「農民画家ミレーの真実」から引用)。なぜダリがこのような "妄想" を抱いたのか。それは中野さんが示唆しているように「臨終の時も」というアンジェラスの祈りに出てくる文句に要因があるのかもしれません。

しかし思うのですが、ダリの "妄想" をかき立てた別の理由があって、それはまさにこの絵に描かれているのがジャガイモだからではないでしょうか。さきほど書いたようにジャガイモはアンデス山脈の高地が原産地であり、スペイン人が16世紀にヨーロッパに持ち帰ったものです。しかしすぐにヨーロッパに広まったわけではありません。伊藤章治氏の「ジャガイモの世界史」には次のように書かれています。


ジャガイモのヨーロッパでの普及は、迷信の壁に大きくはばまれた。

ジャガイモがもたらされるまで、ヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかった。前例のないものを口に入れることは抵抗が伴う。そこに迷信や偏見が生まれる背景があったといえよう。

現在のジャガイモは形も色もスマートで美しくなったが、ヨーロッパに移入された当時のジャガイモは、形がゴツゴツで不規則なうえ、色も悪かったという事情がこれに加わる。そんな形や色から、病気を連想、ハンセン病、クル病、肺炎、赤痢、ショウコウ熱などの原因がジャガイモだというまったく根拠のない言説が生まれ、広がっていった。さらには「催淫さいいん作用がある」ともいわれ、敬遠された。このためフランスの一部地方では、ジャガイモの栽培禁止を議会決議している。それほど抵抗や偏見は根強かった

さらにキリスト教文化圏では「ジャガイモは聖書に出てこない食物。これを食すれば神の罰が下る」との文化的偏見も加わる。

そんな迷信や偏見をはねのけ、ヨーロッパにジャガイモが広がったのはひとえに、打ち続く飢饉と戦争のゆえだ。背に腹は代えられない。飢えをまえに民衆は、次第に迷信や偏見を乗り越えていくのである。


ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。スペイン人が持ち帰ったジャガイモはこのようだったと考えられる。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。

ダリは20世紀のスペイン人です。その時代のスペインにジャガイモに対する迷信や偏見はもうないでしょう。しかし昔の記憶がそれとなくダリに影響したとも考えられる。祖母がよく語っていたのは、昔はジャガイモを食べると神の罰が下ると言ったものだ、みたいな・・・・・。

ポイントはヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかったという点です。ちなみにサツマイモもアメリカ原産であり、16世紀以前は、ジャガイモもサツマイモもヨーロッパにはありません。そこに偏見と迷信が生まれる要因があった。

「昔の記憶がそれとなくダリに影響した」というのは違うかもしれません(違うと思います)。しかしよくよく考えてみると、現代においても、

  地上からは全く見えない地下に埋まっている農作物を、土を掘り起こして収穫し、それを人間が食べるというのはジャガイモ(とサツマイモ)しかない

のです。「しかない」というのは言い過ぎですが、ごく一般的な農作物としてはそうでしょう。そしてダリはここに反応しているのではと思うのです。つまりダリは、

  土に鍬を入れて穴を堀り、かつては生命体だった "もの" を埋めて、その上に土をかぶせるという行為、つまりジャガイモを掘るのとは逆の行為を『晩鐘』に描かれている手籠から連想した

のではないでしょうか。普通の人間だと、あるいは普通のアーティストだとこういう連想はあり得ないと思います。しかしサルバトーレ・ダリは普通の感覚をもったアーティストではない(ということが、彼の作品を見るとよくわかる)のです。ジャガイモに触発された "妄想" ということもあるのではないか。



ダリの "『晩鐘』論" はさて置きます。しかしダリは別にしても、この絵にかれる人は多いと思います。その魅力どこにあるのかと言うと、中野京子さんが言うように「日々の労働の崇高さ、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさ」であり、また井出洋一郎さんが指摘している「ユニバーサルな宗教性」でしょう。日本人にも十分理解できる宗教的感覚・・・・・・。その通りだと思います。

しかしもう一つのポイントはジャガイモです。それが、鑑賞する人に何かしらの印象を(暗黙に)残すのだと思います。その印象の内容と強さは、人によって違うかもしれないけれど・・・・・・。


『種まく人』と『晩鐘』と『落穂拾い』


『種まく人』『晩鐘』、そして『落穂拾い』というミレーの傑作農民画の3点を、農作物の観点からまとめると次のようになります。

作品 農作物
種まく人 蕎麦
晩鐘 ジャガイモ
落穂拾い 収穫されなかった小麦

この3作品はすべて、単なる農民画でありません。「明るい農村」とは真逆の世界、つまり、

貧しい農民
小麦が穫れないような厳しい環境で生きている農民

を描いたものなのです。これにはミレーの "思い" が示されていると考えるのが妥当でしょう。ミレーは意図的に、必死に生きている下層農民を描いた。それは当時のパリの「ブルジョアジーに対する毒を含んだ贈り物」(= 井出さんの『種まく人』についてのコメント)であっただろうし、またそれが絵を見る人に強い印象を与えるのだろうと思います。

補足すると、この3つの絵には農作物以外にも共通点があります。まず、暗い前景と明るい後景という描き方が同じです。さらに時刻が夕暮れ時です。「落穂拾い」と「晩鐘」は夕暮れ時がピッタリですが、「種まく人」はなぜ夕刻なのか。それは鳥に種を食べられないようにするためなのですね。昼間耕して夕暮れに種をまく。後景に小さく描かれた鳥の群れは巣に帰る姿です。



『種まく人』『晩鐘』『落穂拾い』の3作品が名画である最大の理由は、それぞれのテーマを具現化したミレーの画力であり、我々はそれをじっくり鑑賞すればいいと思います。しかし同時にこの3作は、描かれた農作物やシチュエーションを通じて「絵は時代の産物」という側面をよく表しています。そこもまた見所なのでした。

続く


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No.202 - ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで6回書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン

の6つです。いずれも19・20世紀の実業家の個人コレクションが美術館設立の発端となっています。今回はその続きで、オランダのロッテルダムにある「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」をとりあげます。


美術館のロケーション


オランダの美術館で No.158 で書いたクレラー・ミュラー美術館は、ゴッホの作品が好きな人にとっては是非とも訪れたい美術館ですが、この美術館はオッテルローという郊外の町の国立公園の中にあります。アムステルダムから公共交通機関を使うとすると、列車(直通、または乗り継ぎ)とバス2系統の乗り継ぎで行く必要があります。

それに対してボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館はロッテルダムという大都市の中心部にあり、アムステルダムからは列車1本で行けます。また途中のデン・ハーグにはマウリッツハイス美術館があるので、この2美術館をアムステルダムからの日帰りで訪問することも十分に可能です。

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館はロッテルダム駅から歩いて行けます。地下鉄なら駅一つですが、運河ぞいを散策しながら行くのがいいでしょう。駅から南方向へゆっくりと歩いて20分程度です。ちなみにロッテルダムはライン河の河口に近い港湾都市で、オランダ第2の大都市です。ここからヨーロッパ内陸の都市へ水路で行けるので、貿易や水運で大いに発展しました。

ロッテルダム.jpg
(青矢印はクレラー・ミュラー美術館 - Google Map)


ボイマンスとファン・ベーニンゲン


ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館(Museum Boijmans Van Beuningen)はオランダで最も古い美術館の一つで、中世ヨーロッパから20世紀のモダンアートまでの幅広いコレクションがあります。もともと、弁護士のフランス・ボイマンス(1767-1847)が1841年に自身のコレクションをロッテルダム市に寄贈したのが始まりでした。その1世紀後、1958年に大実業家のダニエル・ファン・ベーニンゲン(1877-1955)がコレクションを市に寄贈し、これによって "ボイマンス・ファン・ベーニンゲン" という美術館の名称になりました。以下、この美術館の絵画作品を何点か紹介します。

BVB.jpg


ブリューゲル : バベルの塔(第2バージョン)


The Tower of Babel(Boijmans).jpg
ピーテル・ブリューゲル(1525/30-1569)
「バベルの塔」(1568頃)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この美術館の "目玉" 作品は何と言ってもブリューゲルの『バベルの塔』です。ウィーンの美術史美術館にブリューゲルの作品が展示されている部屋があり、そこに第1作目の『バベルの塔』がありますが、ブリューゲルが描いた2作目がこの作品です。ウィーン作品よりも塔の建設が進んだ段階のようです。

The Tower of Babel(Wien).jpg
ピーテル・ブリューゲル
「バベルの塔」(1563頃)
(ウィーン美術史美術館)

ロッテルダムの2作目を実際に見ると、ものすごく小さな作品です。特にウィーンの作品を先に見ているとその感じが強い。ウィーン作品は約114cm×155cmの大きさですが、ロッテルダム作品は約60cm×75cmであり、大きさでウィーンの半分、面積にすると4分の1しかありません("小バベル" と呼ばれている)。しかしそこに描かれた人の数は膨大で、約1400人といいます。これは60cm×75cmの大きさの「巨大なミニチュア画」といえるでしょう。

もちろん、美術館の展示で細部まで鑑賞するのは不可能です。鑑賞のためには近接してルーペで見る必要がありますが、ブリューゲルの傑作にそんなことはできません。ただし「現代のルーペ」があります。つまりハイビジョンや4Kの画像を撮影できるので、それを大画面で細部を順に拡大して見ることが可能なはずです。是非、美術館の常設展示としてそういったビデオ展示をやってほしいと思いました。

この絵は画家が自らの技量を示すために限界に挑戦したものと考えられます。ウィーン作品の半分の大きさにしたのもチャレンジ精神の発揮でしょう。しかし単に技量を示すためだけではない感じもします。「バベルの塔」を見て思うのは、画家の膨大で気の遠くなるような緻密な作業の積み重ねです。それは天に届く塔を作ろうとした聖書の中の人々営みの総体に重なって見えます。つまり「絵のモチーフ」と「絵の描き方」が非常にマッチしている。

ここまで書いて、No.150「クリスティーナの世界」で引用したアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』を思い出しました。あの絵はテンペラ技法を使い、草の1本1本まで緻密に描き込まれています。絵を一瞥して感じるのは、制作につぎ込まれた膨大な画家の作業量です。それは、小児麻痺のクリスティーナが草原をはいつくばって自宅の小屋に少しづつ少しづつ向かう姿と重なります。またクリスティーナの人生における彼女の多大な努力の積み重ねを想像させる。

バベルの塔に戻りますと、この絵は "描き方" と "描かれたモチーフの意味内容" がピッタリとはまっています。そのあたりに絵の価値というか、見る人が暗黙に感じる魅力があるのだと思います。

この絵は日本で開催される "ブリューゲル「バベルの塔」展" で公開されます(東京都美術館 2017.4.18 ~ 7.2。大阪・国立国際美術館 2017.7.18 ~ 10.15)。展覧会のウェブサイトには次のように書かれていました。


今回の展覧会では新しい試みとして(中略)東京藝術大学COI拠点の特別協力により芸術と科学技術を融合させ、原寸を約300%拡大したブリューゲル「バベルの塔」の複製画を制作・展示します。また同拠点は「バベルの塔」の3DCG動画も制作し、多様なメディアを駆使してこの傑作の魅力に迫ります。

ブリューゲル「バベルの塔」展
公式ホームぺージより

「約300%に拡大した複製展示」は、ビデオ画像による詳細表示とともに是非やってほしいと思っていたものでした。このような展示によって初めて、この絵の真価がわかるのだろうと思います。


ファブリティウス : 自画像


ファブリティウスの絵は、以前にマウリッツハイス美術館の『ごしきひわ』という作品を引用しました(No.93「生物が主題の絵」。小品だが傑作です)。レンブラントの最高の弟子と言われるファブリティウスは、デルフトの弾薬庫の大爆発事故に巻き込まれ、32歳の若さで亡くなりました。そのときにアトリエも破壊されたので、現存する作品は10点程度といいます。その中の貴重な作品がこの自画像です。

Self-Portrait.jpg
カレル・ファブリティウス(1622-54)
「自画像」(1645頃)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この絵に描かれているファブリティウス本人は、一見すると "画家" という感じがしません(個人的印象ですが)。といって「画家らしい風貌とは何ですか」と問われると答えに困るのですが、この肖像から受ける "ワイルドな感じ" は、我々が一般的に思っている画家のイメージとは少しズレています。現代で言うと、激しい運動をともなうスポーツの選手、たとえばサッカー選手のような感じです(ヘアスタイルは別として)。

厚い唇は強い意志を感じさせます。野心を秘めた若手画家という風にも見える。つまり、画家のトップに君臨してやろうという意志を込めている感じです。レンブラントの最高の弟子といわれるだけあって、そういう野心をいだいてもおかしくないだけの技量があります。『ごしきひわ』を見ればその技量が直感できるのですが、この絵もそうです。注文を受けて描く肖像画とは全く違い、生身の人間をリアルに描いた感じが強い。17世紀の作品ですが、ゴヤを先取りしたような、近代絵画的な絵です。ちなみにファブリティウスは、おなじデルフトの画家・フェルメールより10歳年上です。

No.19「ベラスケスの怖い絵」で書いたように、人は顔を見ただけでその人の内面を推定・想像することを無意識にやっています。そういった想像をよりかき立てる絵が、肖像画としては良い絵なのでしょう。その意味で優れた絵だと思います。


クールベ : 果樹があるオルナンの山の風景


Mountainous landscape with fruit trees in Ornans.jpg
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)
「果樹があるオルナンの山の風景」(1873)
(Mountaineous landscape with fruit trees in Ornans)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この絵からゴッホのポプラ並木までの4作品は印象派と関係しています。まずこのクールべの絵ですが、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館には類似の風景を描いた絵が2作品あり、そのうちの1つです。オルナンはクールべの故郷です。

以前にクールベの故郷にちなんだ絵として『フラジェの樫の木』(1864)『雪の中を駆ける鹿』(1856/57)を引用しました(No.93「生物が主題の絵」)。この両方ともいかにも "写実派" クールベらしい作品でした。しかしこのオルナンの山岳風景はちょっと違っていて、印象派の作風に似た感じがします。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館のウェブサイトの解説には「クールベは写実派として出発したが、後期には印象派に近づいた」という主旨の解説がありました。


モネ : ヴァランジュヴィルの漁師小屋


La maison du pecheur Varengeville.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
「ヴァランジュヴィルの漁師小屋」(1882)
(La maison du pecheur, Varengeville)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ヴァランジュヴィルはノルマンディーの英仏海峡に面した海岸地方で、避暑地として有名です。この絵を見て思い出すのはボストン美術館にある漁師小屋の作品で、ボストンに数々あるの印象派の名画の中でも最も記憶に残る絵の一つです。小屋がポツンと一つあるというモチーフが印象に残るのだと思います。

Fisherman's Cottage on the Cliffs at Varengeville.jpg
クロード・モネ
「ヴァランジュヴィルの漁師小屋」(1882)
(ボストン美術館)
ということから類推できるように、モネの漁師小屋の絵は連作です。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の解説によると、モネは少なくとも8枚の漁師小屋の絵を描いたそうです。

本作品はいわゆる対角線構図であり、左上から右下の直線で画面が2分されています。さらに「高い位置から風景を俯瞰し、水平線を画面の上の方にとる構図」は、日本の版画の影響でしょう。美術館の解説にもそう書いてありました。


ゴーギャン : 休息する牛


Vaches au repos.jpg
ポール・ゴーギャン(1848-1903)
「休息する牛」(1885)
(Vaches au repos)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

よく知られているようにゴーギャンはビジネスマン(株仲買人)から職業画家に転身した人ですが、その転身したあとの初期の作品で、ノルマンディーの風景です。

絵の構図はモネの絵と同じく対角線構図で、2つの対角線に沿って牛や木々、池が配置されています。構図の安定感は抜群といえるでしょう。筆使いは当時のトレンドの印象派そのものという感じですが、色使いに後のゴーギャンを感じさせるものがあります。


ゴッホ : ニューネンのポプラ並木


Poplars near Nuenen.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
「ニューネンのポプラ並木」(1885)
(Poplars near Neunen)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ゴッホのオランダ時代の絵です。その時期のゴッホの絵というと "コテコテの暗い絵" が多いのですが、この並木道の絵はそうでもありません。明け方でしょうか、空が明るく輝きはじめています。木々の葉にも明るい色が配されている。美術館の解説によると、ゴッホはパリへ移る時にこの絵を持って行き、パリで手を入れたそうです。当時のトレンドであった印象派の影響を受けた絵といえるでしょう。


ゴッホ : アルマンド・ルーランの肖像


Portrait of Armand Roulin.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
「アルマンド・ルーランの肖像」(1888)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ゴッホのアルル時代の絵です。ゴッホは郵便配達人のルーランとその家族の絵を何枚か描きました。このブログでも No.95「バーンズ・コレクション」(ルーラン)、No.158「クレラー・ミュラー美術館」(ルーランと妻)で引用しました。MoMAにもあったと思います。この絵はそのルーランの息子を描いた作品です。

アルマンド・ルーランは当時17歳ですが、この絵を見ると髭をたくわえる伝統がある一家のようです。肖像画にはめずらしく、沈んで憂鬱そうな表情で、青春のそういう瞬間をとらえた絵なのだと思います。


ピカソ : カフェのテラスに座る女


Femme assise a la terrasse d'un cafe.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
「カフェのテラスに座る女」(1901)
(Femme assise a la terasse d'un cafe)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ピカソはパリに出てきた20歳頃に、大都会の "ナイトライフ" に関係した作品をいろいろ描いています。No.163「ピカソは天才か(続)」で引用した『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』も、夜のダンスホールの少々 "怪しい" 光景でした。この絵もド派手な身なりの女性を描いていて、一見して "その筋の女性" を想像させます。

形は非常に曖昧です。崩れてきていて、カンヴァスに溶解していくような感じです。その中で色彩だけが自己主張しています。色がもつ効果を示したかったのかもしれません。


シニャック : ロッテルダム港


Le port de Rotterdam.jpg
ポール・シニャック(1863-1935)
「ロッテルダム港」(1907)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館があるロッテルダムの波止場を描いた作品です。いわゆる "点描" の作風ですが、シニャック流の、筆致が分かる大きめの "点" で描かれていて、画面に独特の躍動感があります。全体的にシックな色調ですが、それは蒸気船に代表される近代文明と産業がテーマだからでしょう。波止場のにぎわい、ざわめき、波のきらめき、船やボートや煙の動きが伝わってきます。


カンディンスキー : The Lyrical


The Lyrical.jpg
ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)
「The Lyrical」(1911)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

美術館が示している英語題名は "The Lyrical" というものです。直訳は難しいですが、意訳すると "熱狂" としてもよいと思います。カンディンスキーが抽象絵画を始めた初期の作品です。

疾走する競争馬と騎手が描かれていて、その周りに赤・青・茶・緑が配置されています。抽象に踏み込んだ絵なので解釈は個人の自由ですが(もし解釈したいのならですが)、たとえばこの4色は人馬をとりまく群衆・池・大地・芝生という感じでしょうか。自由に描かれた馬と騎手の線が心地よい一枚です。




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No.201 - ヴァイオリン弾きとポグロム [アート]

前回の No.200「落穂拾いと共産党宣言」で、ミレーの代表作である『落穂拾い』の解説を中野京子・著「新 怖い絵」(角川書店 2016)から引用しました。『落穂拾い』が "怖い絵" というのは奇異な感じがしますが、作品が発表された当時の上流階級の人々にとっては怖い絵だったという話でした。

その「新 怖い絵」から、もう一つの絵画作品を引用したいと思います。マルク・シャガール(1887-1985)の『ヴァイオリン弾き』(1912)です。描かれた背景を知れば、現代の我々からしてもかなり怖い絵です。


ヴァイオリン弾き


Le Violoniste.jpg
マルク・シャガール(1887-1985)
ヴァイオリン弾き」(1912)
(アムステルダム市立美術館)

"ヴァイオリン弾き" というモチーフをシャガールは何点か描いていますが、その中でも初期の作品です。このモチーフを一躍有名にしたのは、1960年代に大ヒットしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」でした。シャガールはミュージカルの制作に関与していませんが、宣伝にシャガールの絵が使われたのです。もちろんミュージカルの原作者はロシア系ユダヤ人で、舞台もロシアのユダヤ人コミュニティーでした。

この絵について中野京子さんは「新 怖い絵」で次のように書いています。


緑色の顔の男がまっすぐこちらを見据え、三角屋根の上に片足を載せリズムをきざみつつ、ヴァイオリンをかなでる。ロシアの小村。木造りの素朴な家が点在し、屋根にも広場にも雪が積もる。煙突からは巻いたコイルのような煙が吐き出され、手前の木には鳥がつどう。画面左上に小さく、右端に大きく、教会が見える。幻想の画家シャガールらしい不思議な魅惑の世界。

ヴァイオリン弾きのコート及び背景を分割する白と暗色の組み合わせが、実に効果的だ。画面からは音楽までも流れだす。けれどそれは陽気なばかりのメロディではない。哀愁漂い、不安を内包した弦の響きに違いない。なぜなら真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっているからだ。ヴァイオリン弾きを見上げる三人の人物も不安そうだ。


この絵には、見逃してはいけない細部のポイントが3つあると思います。一つは中野さんが指摘している点で、「真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっている」姿です。画面の上の方に小さく描かれているので見逃してしまいそうですが、重要な点でしょう。なぜ聖人が逃げているのか。聖人は何から逃げているのか。そもそもなぜ聖人なのか。想像が膨らみます。

二つ目のポイントは、ヴァイオリン弾きの右手と左手の指です。この両手とも通常のヴァイオリニストの指とは逆の方向から弓と指板しばんを持っています。大道芸の曲芸演奏ならともかく、この持ち方でまともな音楽を奏でるのは無理でしょう。中野さんは「哀愁漂い不安を内包した弦の響きに違いない」と書いていますが、それどころではない、もっとひどい音が出るはずです。ヴィブラートなど絶対に無理です。この絵から感じる "音楽" は、音程がはずれた、不協和音まじりの、人間の声で言うと "うめき" のような音です。少なくとも "歌" は感じられない。そういったヴァイオリン弾きの姿です。

三つ目のポイントは、"逃げまどう聖人" よりさらに気がつきにくいものです。画面の右上と左上に数個の足跡が描かれています。足跡の方向からすると、右から左へと誰かが移動した跡であり、しかも左の方の足跡の一つだけ(片方だけ)が赤い。これはどういうことかと言うと、

  誰かが右手からユダヤ人の住居に押し入り、そこで鮮血が床に流れるような行為をし、その鮮血を片足で踏んで家から出て、左の方向に去った

と推定できるのです。中野さんは「新 怖い絵」でそのことを指摘しています。背景となったのが "ポグロム" です。


ポグロム



世紀末からロシア革命に至る期間、激しく大規模なポグロムがロシアに何度も何度も荒れ狂った。ポグロムはロシア語ではもともと「破壊」の意だが、歴史用語としてはユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺を指す。

ポグロムに加わり、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝・集会堂)への放火や店を襲っての金品強奪ごうだつ、老人にも女・子どもにも見境なしの暴行、レイプ、果ては惨殺に及んだのは、都市下層民や貧農、コサックなど経済的弱者が大半と言われる。だが各地で頻発ひんぱつするにつれ、ポグロムは政治性を帯びて組織化した。警官や軍人も加わったのだ。

(同上)

誤解のないように書いておきますが、ユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺(= ポグロム)はロシアだけの現象ではありません。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト三国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まりました。特に19世紀後半からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れました。ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストは、ポグロムが「政治性を帯びて組織化」し、頂点に達したものと言えるでしょう。中野さんが書いているのは "ロシアのポグロム" です。

シャガールは、1887年に帝政ロシア(現、ベラルーシ)のユダヤ人強制居住地区に生まれた人です。当時のロシアに居住していたユダヤ人は500万人を越え、これは全世界のユダヤ人の4割を越すといいます。シャガールが生まれたとき、ロシアではポグロムが始まっていました。画才に恵まれたシャガールは、23歳のとき初めてパリに出て4年間滞在しました。その時に描いたのが上の絵です。


ミュージカル(引用注:屋根の上のヴァイオリン弾き)における表現はソフトで、村民が全員追放されるだけだったが、現実のポグロムでは死者が数万人も出ている(数十万人という研究もあるが、正確な数字は把握されていない)。カメラの時代になっていたから、自分が殺した相手といっしょに記念写真を撮るというようなおぞましい記録まで残っている。シャガールは直接ポグロムを経験していないが、小さなころから重苦しい不安は日常だったし、キエフでなまなましい体験をした芸術家仲間から具体的な話を聞いたこともある。昨日まで挨拶を交わしていた近所の住人が、突然棍棒こんぼうだの鋤鍬すきくわだのを振り上げて襲ってくる恐怖は、いつ現実のものとなってもおかしくなかったのだ。

シャガールは絵の中にそれを描き込んでいる。もう一度『ヴァイオリン弾き』の画面に目をらしてほしい。白い雪の上にはいくつも靴跡がある。それは右からユダヤ人の家を目指して進み、左の家から出てくるが、その出てきた靴跡の一つは、何と、鮮血を踏んだごとく真っ赤ではないか !

(同上)


絵の歴史的背景


『ヴァイオリン弾き』という絵をみるとき、背景にある歴史を詳しく知らなくても十分に鑑賞が可能です。予備知識というなら、シャガールはユダヤ人で、故郷をイメージして描いたぐらいで十分です。

この絵は一見してファンタジーだと分かります。白と暗色のコラージュのような組み合わせの中に、故郷に関連した、ないしは故郷から連想・夢想するアイテムがちりばめられています。そこで特徴的なのは、

片足を屋根に乗せてヴァイオリンを弾くという、まったく釣り合いのとれない感じ
まともな音が出せそうにない、ヴァイオリン弾きの指の使い方
巨人として描かれたヴァイオリン弾きを不可解そうに見上げる3人の人物
何かから逃げているような聖人の姿

などです。そこから感じるのは「不安定感」「不安感」「ちぐはぐ」「普通の生活ではないものがある感じ」「"懐かしい故郷" とは異質なものが混ざっている感じ」などでしょう。それは画家の故郷に常に潜在していたものだと考えられます。ここまでで絵の鑑賞としては十分です。

しかしここに「ポグロム」という補助線を引いてみると、この絵から受けるすべての印象がその補助線と関係してきて、全体の輪郭がはっきりするというか、新たな輪郭が浮かび上がってきます。赤い足跡も重要な意味を帯びてくる。

そもそもなぜ屋根の上でヴァオリンを弾くのか。それはある伝承からきています。古代ローマ帝国の時代、「ネロがキリスト教徒を虐殺しているとき、阿鼻叫換あびきょうかんをよそにただ一人、屋根の上でヴァイオリンを弾くものがいた」(「新 怖い絵」より引用)という伝承です。ヴァイオリンの誕生は16世紀なので作り話だということが明白ですが、シャガールはその伝承をもとに作品化したと言います。この伝承の内容もポグロムとつながります。

ポグロムあくまで補助線であって本質ではありません。絵としての本質は、全体の構図や色使い、個々のアイテムの描写力、この絵を見るときに人が直接的に受ける印象、絵としての "強さ" などにあります。しかし、補助線が別の本質を指し示すこともある。

必ずしもそういった絵の見方をする必要はないのですが、そのような鑑賞もできるし、絵の見方は多様である。そういうことだと思いました。




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No.200 - 落穂拾いと共産党宣言 [アート]

No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」で、フィラデルフィア美術館が所蔵するミレーの絶筆『鳥の巣狩りBird's-Nesters)』のことを書きました。その継続で、今回はミレーの "最高傑作" である『落穂拾い』(オルセー美術館)を話題にしたいと思います。実は『落穂拾い』と『鳥の巣狩り』には共通点があると思っていて、そのことについても触れます。

  ちなみに、このブログで以前にとりあげたミレーの絵は『鳥の巣狩り』『晩鐘』『死ときこり』(以上、No.97)、『冬』『虹』(No.192「グルベンキアン美術館」)ですが、それぞれミレーの違った側面を表している秀作だと思います。

まず例によって、中野京子さんの解説によって『落穂拾い』がどういう絵かを順に見ていきたいと思います。


貧しい農民と旧約聖書


落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

この絵に描かれた光景と構図について、中野京子さんは著書「新 怖い絵」で次のように解説しています。


大地は画面の七割を占め、厚みを帯びて広がっている。『晩鐘ばんしょう』と同じく、明暗のコントラストが鮮やかだ。夕暮れのやさしいを浴びた豊穣ほうじょうな後景と、影の濃い貧困たる前景。麦藁むぎわらが天まで届けとばかりに積み上がった後景と、やっとの思いで集めた数束が画面右端に見えるだけの前景。干し草のかぐわしい匂いが漂う後景と、じめじめした土の臭いを感じさせる前景。おおぜいの人間が収穫に沸くにぎやかな後景と、三人一組であるかのような女性が腰を折って黙々と落穂を拾う前景・・・・・・。


『落穂拾い』の構図は、前景と後景の対比で成り立っています。中野さんの文章を整理してみると、

後景
明暗の対比の「明」
夕暮れのやさしい陽を浴びて豊穣
麦藁が天まで届けとばかりに積み上がる
干し草のかぐわしい匂いが漂う
大勢の人間が収穫に沸き、賑やか

前景
明暗の対比の「暗」
影が濃く貧困としている
やっとの思いで集めた数束が画面の右端に見える
じめじめした土の臭いを感じさせる
三人の女性が腰を折って黙々と落穂を拾う

となります。そしてもちろん絵の主役は "じめじめした土の臭いを感じる中で腰を折って黙々と落穂を拾う" 前景の三人です。


だがこのヒロインたちの、どっしりした存在感はどうだ。彼女らは今ここにまぎれもなく生きている。単調で厳しい労働に耐え抜く太い腰。あかぎれした無骨な手を持つ彼女らは、バルビゾンの農婦だった時代をはるかに超え、古典古代の力強い彫像のように永遠の命を与えられてここにいる。

ミレーのさりげない上手うまさが光る。画面構成はもちろんのこと、人物の動きと配置も完璧だ。はいいつくばるように前進する二人が奏でるリフレイン。もう一人は、おそらく少し休んで伸びをしていたのだろう。再び目を地面に落とし、かがみ込むところだ。全体に色彩の乏しい中、かぶりものの赤と青が印象的だ(聖母マリアが身にまとう赤と青を思い出させる)。

(同上)

中野さんは、落穂を拾う三人の「どっしりした存在感」と書いていますが、確かにその通りです。西洋絵画における "モデリング" というのでしょうか、骨太の立体感が伝わってきます。絵の中に彫刻作品があるような、造形の確かさがあります。実際に見た通りに描くと、こうはならないでしょう。絵画でしか成しえない世界を作ったという感じがします。それに加えて完璧な構図と色使いのうまさがあり(赤と青が利いている)、この絵が絵画史上の名画中の名画とされていることも分かります。

ミレーによって "永遠の命を与えられた" 三人の女性、表情は定かではないが存在感抜群の三人の女性は、いったいどういう人たちだったのでしょうか。これはよく知られています。中野さんは次のように書いています。


それにしても三人はなぜ後景の皆といっしょに働いていないのだろう? 村八分にでもあっているのか?

まあ、それに近いかもしれない。広大なこの麦畑は彼女たちには何の関わりもない。雇われてさえいない。刈り取りが終わった畑に勝手に入り、おこぼれにあずかっているだけなのだ。迷惑がられていた可能性もある。入るな、拾うなと言われれば従うしかない。こうして拾っていられるのは、地主側の黙認による。それも昼の刈り入れ後から日没までのわずかな時間のみなので大急ぎだった。

(同上)

さらに "落穂拾い" が聖書で言及されていることも、よく知られていると思います。


落穂拾いについては、旧約聖書の『レビ記』や『申命しんめい記』に記述がある。いわく、畑から穀物を刈り取るとき、刈り尽くしてはならないし、落穂を拾い集めてはならない。それらは貧しいもの、孤児、寡婦かふのために残しておきなさい、と。

こうした「喜捨きしゃの精神」、反転するなら「貧者の権利」は、近年になってもまだ続いていた。ただし貧しい地方、たとえばミレーの育った寒冷で土地のせたノルマンディー地方には見られない慣習だった。だから彼は、農村の最下層たる寡婦(あるいは夫が病に倒れた女性)が落穂を拾う姿に胸を打たれたのだろう。

(同上)

ミレーは敬虔なクリスチャンであり、有名な『種まく人』も聖書に由来があります。まず、そういった信仰がベースにあり、そこに懸命に生きる人間の "けなげさ" が加わり、さらに絵としての構図や描写の素晴らしさが重なって、この絵は当時から大いに人気を博しました。数々の複製画が出回ったと言います。



以上のように「最下層の農民」と「キリスト教」が、この絵の二つの背景です。しかしこういった見方とは別に、この絵が発表された当時は全く別の観点から見る人たちがいたのです。


共産党宣言


『落穂拾い』は人々の共感を呼んだと同時に、ミレーと同時代の一部の人たちに強い反感をもたらしました。


だがミレーと同時代人の中には、この絵を「怖い」と思う人々がいた。本気で怖がり、それゆえにみ嫌う人々が・・・・・・。

当時ヨーロッパ中が揺れていたからだ。

「ヨーロッパに幽霊が出る ── 共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる」

あまりに有名な『共産党宣言』(マルクス エンゲルス、岩波文庫)の冒頭である。締めくくりの言葉、「万国のプロレタリア団結せよ!」もまた、人口に膾炙かいしゃした。

この書物は『落穂拾い』が発表される9年前の1848年に刊行され、次第に広く深く影響を与えつつあった。上流階級は、「下層の労働者」が分をわきまえぬ欲望を抱き、団結し、生まれついての、しかも必然的永久的であらねばならぬ「身分」の境界を越え、自分たちの神聖な領域へ割り込む気ではないかと心配し、おびえ、憤慨ふんがいした。彼らは少しでもそんな芽を感じると、文学であれ美術であれすばやく反応し、たたつぶそうとした。

(同上)

実は "落穂拾い" の主題は多くの画家によって取り上げられてきました。聖書に言及があるので当然とも言えるでしょう。その典型例がジュール・ブルトン(1827-1906)の『落穂拾いの女たちの招集』(1859)で、ミレーの『落穂拾い』(1857)と同時期に発表された作品です。

落穂拾いの女たちの招集.jpg
ジュール・ブルトン(1827-1906)
「落穂拾いの女たちの招集」(1859)
(オルセー美術館)

官展で1等をとったこの絵は、聖書の世界をあくまで美的に表現していて、ミレーが描いた現実の農民の姿とは全く違います。登場する女性は若々しく健康的で(非現実的)、前列の2人は裸足であり(これも非現実的)、拾い集めた麦も穂がたっぷりとついています(とても落穂とは思えない)。


ミレーだとこうはゆかない。保守派が猛然とみつく道理で、『落穂拾い』が発表されるや、「三人の女性には大それた意図がある。貧困の三美神のようにポーズをとっている」だの、「秩序をおびやかす凶暴な野獣」などと評された。詩人ボードレールのミレー嫌いも徹底していた。曰く、「取り入れをしていようと、種をいていようと、牝牛めうしに草をませていようと、動物たちの毛を刈っていようと、彼らはいつもこう言っているように見えます、『この世の富を奪われた哀れな者たち、だがそのわれわれが、この世を豊穣ほうじょうならしめているのだぞ!』(中略)彼らの単調な醜さの中に、これらの小賤民パリアたちは皆、哲学的でメランコリックでラファエルロ的な思い上がりをもっています。」(阿部良雄訳「一八五九年のサロン」/『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫)。

肉体労働に従事する者は「醜い小賤民」で、詩を書く自分は貴族的というわけであろう。となるとそんなやから下克上げこくじょうされたらたまったものではない。持てる者の不安と恐怖が、ミレー作品の本質を見誤らせてしまった。

(同上)


絵を見る視点


中野京子さんが「新 怖い絵」という本に『落穂拾い』をとりあげたのは、この絵が発表された当時、ある種の人たちにとっては本当に "怖い絵" だったからでした。その背景になったのは、産業革命以降の資本主義の発達と貧富の差の拡大です。そこから社会主義運動が起こってきた。それは労働者の権利の主張という範囲を越えて、階級社会の否定、ないしは革命を目指す運動にもつながってくる。特にフランスの富裕層は、70年前に大革命が起きて王制や教会が打倒されたことを想起したでしょう。ミレーに階級社会を否定する意図が無かったようですが、意図があると見なされる社会的な素地があったわけです。

現代人である我々が『落穂拾い』を見るとき、キリスト教や聖書の背景を考えないとしても、

  貧しい中で黙々と働く農婦への共感を覚え、労働の尊さに想いを馳せる

のが普通でしょう。ところが19世紀半ばのフランスでは、必ずしもそうではなかったのですね。つまり、ボードレールに代表される『落穂拾い』への非難、ないしは反感が示しているのは、

現代人の感覚だけで過去を判断してはいけない。一面的な(ないしは誤った)見方をしてしまうことがある。
絵画は描かれた時代を映すものでもある。
絵画は、見る視点のとり方によって、その解釈がガラッと変わることがある。

ということだと思いました。


『落穂拾い』と『鳥の巣狩り』


鳥の巣狩り.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
鳥の巣狩り」(1874)
(フィラデルフィア美術館)

ところで、冒頭に書いた『鳥の巣狩り』のことです。この絵に初めてフィラデルフィア美術館で出会ったとき、パッと見て何を描いているのか分かりませんでした。題名も "Bird's-Nesters" となっていて、ちょっと不可解な題です(nesters という語の意味が分かりにくい)。しばらく絵をじっと見ていると理解が進んできました。登場人物は4人で、夜の光景です。おそらく2組の夫婦なのでしょう。2人の男が明かりをかざして、画面を覆う鳥を棍棒で叩き落としています。2人の妻は、地面にいつくばるようにして叩き落とされた鳥(実際は野鳩)を拾っているところです。

現代なら、立てた棒の間にネットを張って鳥を追いこむのでしょうが(=かすみ網。日本では禁止)、棍棒で鳥を撲殺するというのは随分 "原始的な" 方法です。夜に突如として強い光を当てられると鳥はパニックになって飛び去れない。そこをうまく突いた狩猟方法のようです。

  ちなみに、この絵を所蔵しているフィラデルフィア美術館は題名を『Bird's-Nesters = 鳥の巣狩り』としています。この題名通りに鳥の巣を狩るとしたら、その目的は鳥の卵か雛をとることです。しかしこの絵は "鳥そのものを狩る" 光景です。なぜ Bird Hunting(鳥狩り)か Bird Hunters(鳥狩り人)ではないのか。その理由の推測を No.97「ミレー最後の絵」に書きました。

この『鳥の巣狩り』という絵は『落穂拾い』を連想させるところがあります。それは絵の中の2人の農婦です。

  地面に屈み込んでいる(あるいは這いつくばっている)2人の農婦が、
小麦の穂、あるいは
瀕死の野鳩(ないしは死んだ野鳩)
を拾っている光景

という点で連想が働くのです。絵の中の雰囲気はまるで違います。『落穂拾い』では、静かな夕暮れ時に2人の農婦がリズミカルに小麦の穂を拾っています。静寂の中、足音と小麦を掴むわずかな音だけが響くという光景です。一方の『鳥の巣狩り』は、野鳩の大群の啼き声と羽ばたき音が充満するなか、地面でまだバタバタと羽を動かしている瀕死の鳩を拾う光景です。地に落ちた野鳩の阿鼻叫喚あびきょうかんの中での作業です。

しかし地面に屈み込んで(あるいは "這いつくばって")何かを拾うことでは、2つの絵は共通しています。中野京子さんは『落穂拾い』を評して「這いつくばるように前進する二人が奏でるリフレイン」と書いていますが、『鳥の巣狩り』の2人の方がもっと "這いつくばって" いる。もちろん "リフレイン" どころではない光景だけれど。

落穂拾い(部分).jpg
落穂拾い」(部分)

鳥の巣狩り(部分).jpg
鳥の巣狩り」(部分)

No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」に書いたように『鳥の巣狩り』はミレーの絶筆です。描いた時点でミレーは死期を悟っていました。病床にあった彼は最後の最後まで手を入れ続けたといいます。なぜ彼がこの絵を描いたのか、その推測を No.97 に書きました。ミレーはノルマンディー地方の農家に生まれ、バルビゾンで農民を描いて成功した画家です。その人生の総決算が『鳥の巣狩り』だというような想像でした。

そして付け加えるなら、ミレーはこの絵を描くときに『落穂拾い』が念頭にあったのではないでしょうか。ミレーの代表作は『落穂拾い』『晩鐘』『種まく人』『羊飼いの少女』であり、当時からそう見なされていました。画家自身も自らの代表作と意識していたはずです。これらのうち一つをあげるとすると、やはり『落穂拾い』だと思います。ミレーは『落穂拾い』で地面に手を延ばしている2人を、人生最後の作品である『鳥の巣狩り』に再び登場させたのではないでしょうか。全く違うモノに手を延ばす2人として・・・・・・。



ミレーやコローを代表格とするバルビゾンの画家は、当時のパリで大いに人気を博したようです。都市化が進んだパリ市民には「自然へのあこがれ」があり、また「農村の牧歌的風景」や「農民の素朴さ」が求められたからでしょう。それはあくまで都会人の視点での農村・農民です。近・現代の日本でも、そういう "古きよき農村風景" を描いた絵はいろいろありました。

しかしミレーはそう単純ではなかった。あくまで農民の側に立って、農村の真実を描いたわけです。そこには、農民たちの喜び、神への感謝と祈り、労働の辛さと過酷さ、さらには "報われることがない人生に対する悲しみ" までが表現されているようです。だからこそ、見る人が見れば社会を告発している "怖い絵" にも思えたのでしょう。

そしてミレーという画家の人気の源泉、人の心を打つ理由は、まさにその点にあるのだと思います。

続く


 補記:乳しぼりの女 

『落穂拾い』における後景と前景のコントラスト、"明" と "暗" の対比に関連して思い出す絵があります。ブリジストン美術館が所蔵する『乳しぼりの女』です。ブリジストン美術館のWebサイトの解説によると、この絵はミレーが故郷のノルマンディー地方・グリュシーを訪れたときのスケッチをもとに制作したものです。

乳しぼりの女.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
「乳しぼりの女」(1854-60)
(ブリジストン美術館)

この絵では、明るい後景は画面の3分の1程度しかなく、牛と農婦を描いた薄暗い前景が大半を占めています。『落穂拾い』の3人と同じく農婦の顔や表情は全く描かれず、薄暗い中で乳絞りにいそしむ様子だけが画面の中央にシンプルに提示されている。そのかがんでいる農婦の姿は何となく『落穂拾い』を連想させます。絵としての構図の妙や農婦の存在感の表現は『落穂拾い』の方がグレードが数段上でしょうが、こういったシンプルな絵にこそ本質が現れることもあります。明るい "のどかな" 農村風景と、そこで日々行われている普通の農民の労働を対比的に描くことで、画家は農民への強いシンパシーを表したのだと思います。

続く


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No.199 - 円山応挙の朝顔 [アート]

円山応挙展ポスター.jpg
No.193「鈴木其一:朝顔の小宇宙」で、メトロポリタン美術館が所蔵する鈴木其一(1795-1858)の『朝顔図屏風』のことを書きました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手 展」で展示された作品です。

実はこのすぐあとに、もう一枚の "朝顔" を鑑賞する機会がありました。円山応挙(1733-1795)が描いた絵です。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』展(2016年11月3日~12月18日)に、その朝顔が展示されていました。今回はこの展覧会のことを書きます。

この展覧会は応挙の画業を網羅していて、多数の作品が展示されていました。国宝・重要文化財もあります。その中から朝顔を含む4作品に絞り、最後に全体の感想を書きたいと思います。


朝顔図


朝顔図.jpg
円山応挙 「朝顔図」
天明四年(1784)51歳
(相国寺蔵)

並んで展示されていた『薔薇ばら文鳥図』と二幅一対の掛け軸で、この二幅は元々 "衝立て" の両面だったと言います。朝顔の銀地に対して、薔薇文鳥は金地でした。

この絵は、画面右下のほぼ4分の1に朝顔を密集させ、それによって銀地の余白を引き立てています。朝顔の蔓は左方向横と左斜め上に延び、銀地を心地よく分割しています。花と葉の集団は画面の右端でスパッと切断されていて、さらに右への朝顔の広がりが感じられます。"完璧な構図" といったところでしょう。

"完璧な構図" と書きましたが、これは日本的な美意識だと思います。つまり、不均衡で非対称な美と、何かがあることを想像させる余白の美です。また、モチーフのカットアウトによってズームインしたような印象を与え、それによって画面の外への広がり感を出す構図のとり方です。江戸期の美術の一つの典型がここにあるような感じがしました。

それと同時に、この作品は琳派を思わせます。つまり「全面の銀の箔押し中に草花を描く」というところです。広い余白で草花を強調し、同時に銀地も映えるようにする・・・・・・。この絵の優美で、落ち着いて、洒落た感じは、江戸琳派の祖、酒井抱一(1761-1829)の絵といってもおかしくはないと思いました。

円山応挙は「写生」の画家と言われていて、それはその通りですが、今回の展覧会のテーマは「写生を超えて」となっていました。つまり「写生」を基調にしつつ、応挙が試みた様々な画風というか、スタイルの絵が展示されていました。酒井抱一を先取りするような『朝顔図』も、まさに "超えた" 絵の一枚だと思います。


白狐びゃっこ


白狐図.jpg
円山応挙 「白狐図」
安永八年(1779)46歳
(個人蔵)

白狐は日本古来の信仰である「稲荷神」であり、人々に幸福をもたらす "善狐" です。日本に生息している狐に "白狐" はいないと思うのでですが、動物の常で、稀に白い個体が出現することはあるのでしょう。なお、No.126「捕食者なき世界(1)」で書いた "ホッキョクギツネ" は冬毛が真っ白で、まさに白狐です。

この絵のポイントは、白狐を "白く描いていない" ことです。つまり絹地に何も描かないことで白狐を表現している(=塗り残し)。墨で描いた毛は体の外周から少し内側にあり、そのことで毛並みの "ふわふわ感" や "ソフトな感じ" を出しています。その感じが、全く何も描かれていない体の中の方にもつながっていると想像させます。絵画技法がピタッと決まった絵という感じです。

円山応挙は、有名な国宝『雪松図屏風』(今回の展覧会で前期に展示)の雪の表現で "描かないことで描く" 手法をとりました。それ以外にも、雪を同一の技法で描いた作品が展示されていました。たとえば『雪中水禽図』です。雪のフワフワした、軽い感じがよく出ていると思いました。

雪中水禽図.jpg
円山応挙 「雪中水禽図」
安永六年(1777)44歳
(個人蔵)

余談ですが、近代の画家で "描かないことで描く" 達人は川合玉堂だと思います。玉堂が雪景色を描いた作品を引用しておきます。「塗り残し」で動的な表現(=風)まで踏み込んでいるのが素晴らしいところです。

川合玉堂・吹雪.jpg
川合玉堂「吹雪」
大正15年(1926)

川合玉堂は岐阜出身ですが、京都に出て「円山・四条派」を学んだ人です。川合玉堂もまた円山応挙の弟子なのでしょう。

この技法が使えるのは玉堂作品にもあるように "雪" が一般的だと思いますが、それ以外では動物が考えられます。白い鳥(白鳥やシラサギなど)や白ウサギが思い浮かびますが、応挙が選んだのは神獣である狐でした。 "描かないことで描く" 手法が、ボーッと浮かび上がるような、現実の動物ではないような感じを出していて、そこが印象的でした。


藤花図屏風


重要文化財である『藤花図屏風』は、今回の展覧会で是非とも見たかった絵です。『朝顔図』と違って、こちらは総金地です。その中に、日本の和歌や絵画の伝統的なモチーフである "藤" が描かれています。

藤花図屏風.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」
安永五年(1776)43歳
(根津美術館蔵)

藤花図屏風・左隻.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 左隻

藤花図屏風・右隻.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 右隻

この屏風では、藤の幹・枝・蔓を描くのに、いわゆる「付け立て」の技法が使われています。筆や刷毛の全体に薄い墨を含ませ、先の方に濃い墨をつける。その状態で "一気呵成いっきかせいに" 一筆で描く。墨の濃淡やムラがあちこちに出現し、それによって幹・枝・蔓が表現されています。

もちろん事前にデッサンを重ねて、全体の構図を精密に決めてから描くのでしょうが、描く行為はそのものは一瞬です。やり直しはききません。いくら名手の応挙といえども、意図した以外の濃淡やムラも出るはずで、そういった偶然性も内包していると言えるでしょう。ここだけをとると、写生や写実とはほど遠い "前衛手法" という感じがします。まさに展覧会のテーマである「写生を超えた」表現です。

その一方で、藤の花と葉は時間をかけて丁寧にリアルに描いています。葉をバックに、空から降ってくるような花は華麗で美しい。その「リアルな美しさ」と「一気呵成」が違和感なく同居しているのが『藤花図屏風』です。異質なものを同居させて一つの屏風を仕立てた応挙の技量は、ちょっと感動的です。

「付け立て」に戻りますと、西欧の近代絵画に「筆触を残す描き方 = ブラッシュワーク」があることが思い出されます。つまり印象派の画家の描き方です。しかし応挙のブラッシュワークは濃淡のコントロールがあって大変に高度です。「付け立て」は日本画によくある手法ですが、その最良の例が応挙のこの絵でしょう。なお上で引用した川合玉堂ですが、玉堂の作品には「付け立てを使った藤の絵」があります。 明白に ”自分は応挙に習った” と宣言しているのです。

この『藤花図屏風』から連想したのは、印象派の絵というより、No.46「ピカソは天才か」で引用した『カナルス夫人の肖像』(バルセロナのピカソ美術館)でした。この絵においてピカソは肖像そのものを極めてリアルに描いています。しかしモデルがまとっているショールは、筆跡を生かした非常に素早いタッチです。薄いショールに最適な描き方だったのでしょう。つまり「リアルに描く緻密な筆」と「躍動する素早い筆」が同居しています。

ピカソと円山応挙は何の関係もありませんが、2枚の絵だけを見ると "一脈通じるもの" を感じます。文化的・歴史的背景や描かれたモチーフや絵画技法は全く違うのですが、絵であることは変わりません。描き方に類似のコンセプトがあったとしてもおかしくはない。こういうところに想いを馳せるのも、絵画を鑑賞する楽しみの一つだと想います。

藤花図屏風・左隻(部分).jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 左隻・部分

藤花図屏風・右隻(部分).jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 右隻・部分


瀑布亀図


瀑布亀図.jpg
円山応挙 「瀑布亀図」
寛政六年(1794)61歳
(個人蔵)

円山応挙が亡くなる前年に描いた絵です。この作品も異質な表現の対比が目を引きます。2匹の亀は写実的に描かれています。よく見ると簡易化しているところもありますが、受ける印象は親子亀をリアルに描いたという感じです。

一方、滝は直線をいくつか描いただけで表現されています。亀が乗っている岩も、"たらし込み" というのでしょうか、墨が滲んだ感じで、ぼんやりと描かれているだけです。滝壺は描くことさえなく、わずかな水しぶきだけで暗示されている。これらの表現は非常に抽象的です。特に滝が真っ直ぐな線だけというのが極端な抽象化で、現実とはほど遠い。これは「"勢い" の視覚表現」なのでしょう。単純な形が持つイメージの喚起力を引き出そうとしたようです。

『藤花図屏風』のような大作ではないけれど、"写実的" と "抽象的" を同居させた対比の妙という点では似通っています。晩年の応挙が描画力を自在に駆使して描いた洒落た絵、と感じました。


スタイルを超越する


今回の『円山応挙 -「写生」を超えて』という展覧会でよく理解できたのは、応挙にはさまざまな "画風" というか、描き方のスタイルがあることです。朝顔図の "琳派風" だけでなく、大和絵や南画を連想させる作品があり、絵巻物があり、また遠近法を使った眼鏡めがね絵(西洋渡来の "覗き眼鏡" 用の絵。応挙が京に出てきて最初の仕事)までありました。多数あった動植物の写生は素晴らしく、そういった写生が基本であることは間違いなのですが、全体を見渡すとスタイルはいろいろです。応挙は一つの画風に収斂しゅうれんする画家ではないのです。

葛飾北斎もそうですが、応挙はスタイルを超越した画家であり、その意味において江戸絵画の巨人、そういう感想を持ちました。




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No.193 - 鈴木其一:朝顔の小宇宙 [アート]

No.85「洛中洛外図と群鶴図」で尾形光琳の『群鶴図屏風』(フリーア美術館所蔵。米:ワシントンDC)を鑑賞した感想を書きました。本物ではなく、キヤノン株式会社が制作した実物大の複製です。複製といっても最新のデジタル印刷技術を駆使した極めて精巧なもので、大迫力の群鶴図を間近に見て(複製だから可能)感銘を受けました。

鈴木其一展.jpg
「鶴が群れている様子を描いた屏風」は、光琳だけでなく江戸期に数々の作例があります。その "真打ち" とでも言うべき画家の作品、光琳の流れをくむ江戸琳派の鈴木其一きいつの『群鶴図屏風』を鑑賞する機会が、つい最近ありました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展です。今回はこの展覧会から数点の作品をとりあげて感想を書きます。

展覧会には鈴木其一(1795-1858)の多数の作品が展示されていたので、その中から選ぶのは難しいのですが、まず光琳と同じ画題の『群鶴図屏風』、そして今回の "超目玉" と言うべき『朝顔図屏風』、さらにあまり知られていない(私も初めて知った)作品を取り上げたいと思います。


鈴木其一『群鶴図屏風』


群鶴図屏風・其一.jpg
鈴木其一群鶴図屏風
ファインバーグ・コレクション
(各隻、165cm×175cm)

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鈴木其一「群鶴図屏風・左隻」

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鈴木其一「群鶴図屏風・右隻」

この屏風を、No.85「洛中洛外図と群鶴図」で紹介した尾形光琳の「群鶴図屏風」(下に画像を掲載)と比較すると以下のようです。

光琳の「群鶴図」は、かなり様式性が強いものです。水辺は抽象化されていて、川なのか池や沼なのかはちょっと分かりません。鶴の描き方もそうです。「デザインとして鶴を描いている」感じがあり、その形はスッキリしていて、あか抜けています。

そして、じっと見ていると、鶴は鶴であって鶴でないように見えてきます。鶴の一群は "何か" を象徴しているかのようです。二つの勢力が対峙している様子が描かれている、つまり「何か非常に存在感がある群れが対峙している、そのシチュエーションそのものを描いた」ような感じがします。



そして鈴木其一の「群鶴図」です。二曲一双ということもあって鶴の数は少ないのですが(光琳:19羽、其一:7羽)、水辺を抽象化して描いたのは光琳と同じです。その水辺の描き方はそっくりであり「光琳を踏まえている」と宣言しているかのようです。

しかし光琳と違うのは "鳥そのものを描いた" と感じさせることです。鶴の姿態の変化などを見ると、鶴の生態をさまざまな角度から描写している感じです。羽の具体的な様子が描き込まれているし、羽毛の表現もあります。

鈴木其一は別の「群鶴図屏風」(プライス・コレクション所蔵)を描いていて、それは光琳の「群鶴図屏風」の模写になっています。それにひきかえ、このファインバーグ・コレクションの屏風は、光琳からは離れた個性的な「群鶴図屏風」になっていると思いました。

群鶴図屏風・光琳.jpg
尾形光琳群鶴図屏風
フリーア美術館(ワシントンDC)
(各隻、166cm×371cm)

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尾形光琳「群鶴図屏風・左隻」

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尾形光琳「群鶴図屏風・右隻」



展覧会には其一のさまざまな作品があったのですが、その中でも其一の画業の集大成というべきが、次の『朝顔図屏風』です。


鈴木其一『朝顔図屏風』


メトロポリタン美術館が誇る日本美術コレクションでは、尾形光琳の『八橋図屏風』とともに、この『朝顔図屏風』が最高のクラスの作品でしょう。日本にあれば当然、国宝になるはずです。

私はメトロポリタン美術館に2度行ったことがあるのですが、いずれも『朝顔図屏風』は展示されていませんでした。季節感を配慮して夏によく展示されるということなのですが、8月中旬に行った時にも展示はなかった。作品保護のためでしょうが、こういった屏風はそれなりの展示スペースが必要なので、広大なメトロポリタン美術館といえども常設展示は困難なのかも知れません。その意味で、あこがれていた作品にやっと出会えた気分であり、今回の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展は貴重な機会でした。

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鈴木其一朝顔図屏風
メトロポリタン美術館
(各隻、178cm×380cm)

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鈴木其一「朝顔図屏風・左隻」

朝顔図屏風(右隻).jpg
鈴木其一「朝顔図屏風・右隻」

『朝顔図屏風』の実物を見てまず思うのは、非常に大きな屏風だということです。各隻は 178cm×380cm の大きさです。比較してみると、尾形光琳の『燕子花かきつばた図屏風』(根津美術館)は 151cm×339cm (各隻)なので、それよりも一回り大きい。面積比にすると 1.3倍です。その大きさの中に多数の朝顔が、うねるように、ほとんど画面いっぱいに描かれています。

『朝顔図屏風』は光琳の『燕子花かきつばた図屏風』を連想させます。花だけをモチーフにしていることと、色使いがほぼ同じという点で大変よく似ているのです。其一は描くにあたって光琳を強く意識したことは間違いないでしょう。具体的に『燕子花図』と比較してみます。

光琳の『燕子花かきつばた図』の描き方は写実的です。一本一本の燕子花かきつばたもそうだし、群生している姿もリアルにみえる。咲いている姿そのままを描き、そこから背景を取り去ったと、まずそう感じます。構図はエレガントでシャレています。リズミカルな花の連続が気持ちよく、画面の端で群生を切り取る構図が上下左右へのさらなる広がりを感じさせます。

さらにじっと見ていると『群鶴図屏風』と同じで、燕子花かきつばたは何かの象徴のように思えます。金地に燕子花だけという極限までに単純な造形がそう思わせるのでしょう。たとえば、それぞれの燕子花は "人" の象徴であり、何らかの "行列" を描いたというような・・・・・・。何の行列かは、いろんなことが考えられるでしょう。



鈴木其一の『朝顔図屏風』も、朝顔の花と葉とツルはリアルに描かれています。その特徴は、一個一個の花の表情が全部違えてあり、それがリズムとなって屏風全体を覆っていることです。また、青色岩絵具を使った花の描き方には暖かみや柔らかさがあり、花弁には微妙な色の変化がつけてあります。

以前のNHK「日曜美術館」(2013年)で放映されたメトポリタン美術館の科学分析の結果を思い出しました。其一は『朝顔図屏風』の花弁の青を描く時に、岩絵具(群青)に混ぜるニカワの量を通常より減らしているそうです。その結果、絵の表面に岩絵具の粒子が露出し、それによって光が乱反射してビロードのような花のタッチになった・・・・・・。そういった内容でした。其一は独自の工夫をこの絵に盛り込んでいます。

そして『朝顔図屏風』が光琳の『燕子花図』と違うところ、其一のこの絵の独自性の最大のポイントは、

  『朝顔図屏風』は、全体としては現実を描いたものではないと、一見して分かるところ

です。まず、この屏風のように朝顔が生育するためには、背景として何か "格子状の竹垣のようなもの" を想定しなければなりません。しかしそういった格子は現実には見たことがありません。たとえ格子があったとしても、朝顔はこの様に渦巻くようには生育しません。あくまで下から上へと、重力に逆らって伸びるのが朝顔です。この絵は朝顔の生態を無視して描かれています。

鈴木其一は『朝顔図屏風』で何を表現したかったのでしょうか。考えられるのは、朝顔の "みずみずしさ" とともに、植物が持っている生命力です。六曲一双の小宇宙の中に蔓延する植物を描き、その生命力をダイレクトに表現した・・・・・・。それはありうると思います。

さらに考えられるのは、光琳の『燕子花かきつばた図』と同じで、何かの象徴かもしれないということです。この六曲一双の屏風を少し遠ざかって眺めると、そういう思いにかられます。つまり、朝顔の集団によって別のものを表そうとしているのでは、という感じです。

左隻には "何らかの勢力" が渦巻いています。そして右隻にも "何らかの別の勢力" がある。その二つの勢力が拮抗している、そういった印象です。京都・建仁寺の天井画では二匹の龍が絡み合っていますが、そういった絵を連想します。あるいは、葛飾北斎が信州小布施の祭屋台に描いた二面の怒濤図(男波と女波)を思い出してもいいと思います。

しかし「左隻と右隻が向かい合って、二つの勢力が拮抗している、ないしは対峙している」ということで思い出すのは、俵屋宗達以来の琳派の伝統である『風神雷神図』です。全くの個人的な想像なのですが、この『朝顔図屏風』は『風神雷神図』のもつダイナミズムを、風神・雷神とは全くの対極にある "朝顔" という、小さくて、はかなげで、清楚で、しかし生命力の溢れた存在で表現しようとしたのではないか・・・・・・、ふとそう思いました。

鈴木其一の『朝顔図屏風』は、其一の画業の集大成だと言われています。生涯のそういう時期に描かれたわけです。その集大成において其一は、朝顔という日常よく見かける花を用いて六曲一双の中に小宇宙を作り上げた。宗達や光琳以来の光琳の伝統を踏まえつつ、あくまで独自の世界、この絵しかないという世界を築いた。そいういう風に感じました。

燕子花図屏風.jpg
尾形光琳燕子花図屏風
根津美術館
(各隻、151cm×339cm)

燕子花図屏風(左隻).jpg
尾形光琳「燕子花図屏風・左隻」

燕子花図屏風(右隻).jpg
尾形光琳「燕子花図屏風・右隻」


鈴木其一『花菖蒲に蛾図』


『朝顔図屏風』という傑作のあとに何を取り上げようかと迷ったのですが、1点だけ『花菖蒲に蛾図』ということにします。これもメトロポリタン美術館所蔵の作品です。

花菖蒲に蛾図.jpg
鈴木其一
花菖蒲に蛾図
メトロポリタン美術館
(101cm×33cm)

今回の展覧会に多数展示されていた鈴木其一の作品の中には、花、草、昆虫、小動物を描いた作品がいろいろとありました。この『花菖蒲に蛾図』もそうした絵の中の一枚ですが、注目したいのは "蛾" が描かれていることです。

蛾を描いた絵というと、真っ先に思い出すのは速水御舟の『炎舞』(山種美術館。重要文化財。No.49)です。夜、焚き火の明かりに誘われた数匹の蛾が、互いに絡みあうように炎の上を舞う・・・・・・。この絵は我々が蛾に抱くイメージとピッタリ重なっています。蛾は基本的に夜行性だし、何となく "妖しい" イメージがある。それと合っています。

しかし其一の蛾は違います。夜とか夜行性をイメージさせるものは何もなく、明らかに昼間の "健康的な" 光景です。昼間に蛾がこのように花菖蒲に飛んでくることは普通ありえず、これは現実の光景ではありません。何か夢でも見ているような画題になっています。『朝顔図屏風』について "一見して現実を写したのではないことが分かる" と書きましたが、『花菖蒲に蛾図』もそれとよく似ています。

もし花菖蒲に飛んできているのが蝶だとすると、それは普通の絵です。今回の展覧会にも芍薬しゃくやくに黒アゲハ蝶がとまっている絵がありました。しかしこの絵では蛾が配置されていて、それがちょっと変わっているというか、独特です。

ここで "蛾" のイメージを考えてみると、昆虫愛好家は別として、我々の普通の感覚は「蝶は好きだが蛾は好きではない」というものです。蝶をる人の方が、蛾を愛でる人より圧倒的に多いはずです。但し、そういった現代の感覚を単純に江戸期に当てはめるのは注意すべきです。江戸時代が現代と同じだとは限りらないからです。そこは要注意です。

其一はなぜここに蛾を描いたのでしょうか。その理由は、描かれている蛾そのものにあるような気がします。この絵に描かれている蛾はオオミズアオ(大水青)です。大きさが10cm程度の、比較的大型の蛾で、その画像例を次に引用します。

オオミズアオ.jpg
オオミズアオ(大水青)

早朝に竹垣にとまっているオオミズアオを見たことがあります。今でもその場所が記憶に残っていますが、その理由は、朝の散歩で意外な蛾に出会ってギョッとしたことと、薄い緑白色というのでしょうか、独特の色をした大きな蛾の存在感に圧倒されたからだと思います。調べてみるとオオミズアオは蛾の中でも最も美しいもののひとつで、昆虫愛好家・蛾愛好家のファンも多いようです。オオミズアオは英語で Luna Moth というそうです。Luna とは月のことで、つまり青白い月光をイメージした名前であり、なるほどと思います。以上を踏まえると、鈴木其一は現実の光景とは無関係に「美しい花」と「美しい昆虫」を一つの絵に同居させた、そういうことでしょう。

そこで思い出すのが、No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」で書いたフランスとドイツの事情です。フランス語にもドイツ語にも、一般的な言葉として蝶と蛾を区別する言葉はなく、普通使われるのは鱗翅類全体を表す単語であり(=仏:パピヨン、独:シュメッタリンク)、それは蝶も蛾も分け隔てなく指すのでした。No.49では、ドイツ人であるフリードリッヒ・シュナックが書いた「蝶の生活」の序文から、著者が蛾をこよなく愛する言葉を引用しました。再掲すると次のような文章です。


ささげる言葉

この地上のずべての鱗翅類にこの書をささげる。そのすべてがここに登場するわけではないけれども。昼の蝶と夜の蛾にこの書をささげる。たそがれのスズメガに、心を浮き立たせるように庭園や草原の花の蜜が香り、草木の茂みから薫り高い芳香がしたたるたそがれどきに活動するスズメガ類にこの書をささげる。ヤママユ類やシャクガ類に、ヤガ類やヒトリガ類にこの書をささげたい。みんな愛すべきものたちだ。

フリードリッヒ・シュナック
『蝶の生活』
(岡田朝雄訳。岩波文庫。1993)

トビイロスズメ.jpg
トビイロスズメ
シュナックがあげているスズメガの一種である。「理科教材データベース・昆虫図鑑」より。
この引用にあげられてる鱗翅類の名前はすべて蛾です。ちなみに『蝶の生活』という題名は、原文のドイツ語を正確に訳すと『鱗翅類の生活』となるのでした。

シュナックが愛情を捧げる蛾として真っ先にあげているのはスズメガですが、スズメガとオオミズアオを比較してみると、普通の人の感覚ではオオミズアオの方が美しいと感じるのではないでしょうか。もちろん人の感覚はそれぞれだし、見た目以上に蛾の習性も大切なのだろうと思います。

とにかく、シュナックの文章からも思うことがあります。つまり、文化的背景を抜きにすると、蝶も蛾も「美しいものは美しい」ということです。あたりまえだけれど・・・・・・。鈴木其一もそういった感性をもった人だったのではと想像しました。

鈴木其一の『花菖蒲に蛾図』に戻ると、花菖蒲もオオミズアオも「美しいものは美しい」わけです。蝶ではなく蛾が描かれている、と議論すること自体がおかしいのでしょう。この絵は画家の確かな観察眼、審美眼と、約束ごとや決まりにとらわれない姿勢を示しているように思いました。



以上あげた鈴木其一の3点は、いずれもアメリカの美術館や個人コレクションの所蔵作品です。こういった展示会がないと、まず作品を見るのが難しいわけです。その意味で今回の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展は大変に貴重な機会でした。




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No.192 - グルベンキアン美術館 [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで5回にわたって書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード

の5つです。今回はその "個人コレクション・シリーズ" の続きで、ポルトガルの首都、リスボンにある「グルベンキアン美術館」をとりあげます。今までの5つの美術館はいずれも、19世紀から20世紀にかけて事業で成功した欧米の富豪が収集した美術品を展示していて、コレクターの名前が美術館の名称になっていました。グルベンキアン美術館もそうです。


カールスト・グルベンキアン


カールスト・グルベンキアン(1869-1955)は、イスタンブール出身のアルメニア人です。石油王と呼ばれた人で、石油の売買で膨大な財を成しました。そして美術品のコレクターでもあった。晩年、グルベンキアンはポルトガルに移住し、遺言によって遺産と美術品がポルトガルに寄贈されました。それを元にグルベンキアン財団が設立され、財団は美術館だけでなく、オーケストラやバレエ団の運営、各種の芸術・文化活動を行っています。

以上の美術館設立の経緯は、何となく No.167 で紹介したティッセン・ボルネミッサ美術館に似ています。マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館には、ドイツの鉄鋼王、ティッセン家のティッセン・ボルネミッサ伯爵がスペイン(=5度目の妻の祖国)に売却した美術品が展示されています。「コレクターの出身国ではない国にある個人コレクション」という点が似ているのです。

スペインとポルトガルは、大航海時代に始まる "栄光の時代" に繁栄を誇りますが(その遺産がプラド美術館)、産業革命以降の資本主義の時代にはイギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国の後塵を拝しました。それでも大量の第一級の美術品が "タナボタ" 的にもたらされる・・・・・・。そういう巡り合わせの国なのかと思ってしまいます。


グルベンキアン美術館


グルベンキアン美術館は、リスボンの中心部から少し離れた北の方向にあります。メトロで言うとブルー・ラインのサン・セバスティアン駅かプラザ・デ・エスパーニャ駅が最寄駅になります。

Lisbon.jpg

ゆったりとしたグルベンキアン財団の敷地の中に、数個の建物が配置されています(次の図)。その中の "Founder's Collection" となっている建物にカールスト・グルベンキアンが収集した美術品が展示されています(グルベンキアン美術館)。

Gulbenkian - Layout.jpg
この図は上が南方向(リスボン中心部の方向)である。敷地の中には3つの建物がある。左下がFounder's Collection棟で、それとつながっているのがグルベンキアン財団のビルである。上の方のModern Collection棟には現代ポルトガルのアーティストの作品がある。

Gulbenkian - Museum.jpg
Founder's Collection棟のエントランス



"Founder's Collection" として展示されている美術・工芸品は極めて幅広いものです。年代・地域で言うと、古代エジプト、メソポタミア、ギリシャ・ローマ、ヨーロッパ、東アジア、アルメニアなどであり、美術・工芸品のジャンルも、絵画、彫刻、家具、銀器、装飾品、タペストリー、絨毯、タイル、陶磁器など多岐に渡っています。またカールスト・グルベンキアンはルネ・ラリックと親交があり、ラリックのガラス工芸作品が展示されています。これらの中から絵画作品を何点か紹介します。


美術館の顔


まず取り上げるべきは「美術館の顔」とも言うべき女性の肖像画で、ドメニコ・ギルランダイヨの「若い女性の肖像」です。以下、絵の英語題名はグルベンキアン美術館のもので、その日本語試訳を付けました。

Portrait of a Young Woman.jpg
ドメニコ・ギルランダイヨ(1449-1494)
Portrait of a Young Woman(1490)
(若い女性の肖像)
グルベンキアン美術館

思い起こすと、マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館の「顔」となっている絵も、ギルランダイヨの女性の肖像画でした。この点もグルベンキアンがティッセン・ボルネミッサと似ているところです。

ティッセン・ボルネミッサのギルランダイヨの絵は真横からの横顔(= Profile)でしたが、グルベンキアンの絵は典型的な "4分の3正面視(= Three Quarter View)" の絵です。しかも女性の視線は真横方向に注がれていて、まさに今、その方向に目をやった瞬間をとらえたような感じがあります。ほんのりと赤い、ふくよかな頬と、キリッと引き締まった小さな赤い唇が印象的で、何となくこのモデルとなった女性の意志の強さを感じます(個人的印象ですが)。いい絵だと思います。


近代絵画


 ターナー 

以下、グルベンキアン美術館の展示方法に従って、年代順に近代絵画を何点か紹介します。ターナーの絵は2点ありますが、その中の1点が次です。

Quillebeuf - Mouth of the Seine.jpg
ジョセフ・M・W・ターナー(1775-1851)
Quillebeuf, Mouth of the Seine(1833)
(キュバッフ、セーヌの河口)
グルベンキアン美術館

セーヌの河口の町、キュバッフ=シュル=セーヌを描いたた絵です。ターナーの絵にしばしばある、水面と空が一体になったような描き方で、その中に河口の町が小さく配置されています。人間の営みに比べた自然の大きさを表現しているように見えました。ちなみに、もう一枚あるターナーの絵は「輸送船の難破(ミノタウルス号の難破)」です。Wikipedia(日本語版・英語版)にターナーの代表作の一つとして掲載されています(2016.11現在)。

 ドガ 

Self-portrait (Degas Saluant).jpg
エドガー・ドガ(1834-1917)
Self-portrait or 'Degas Saluant'(1863)
(自画像、または "挨拶するドガ")
グルベンキアン美術館

ドガは自画像を何枚か描いていますが、最も有名なのは No.86「ドガとメアリー・カサット」で引用したオルセー美術館の自画像でしょう。しかしこのグルベンキアンの自画像もオルセーに匹敵する出来映えです。ちなみに Wikipedia の「ドガ」の項で引用されている自画像は、日本語版・英語版ではオルセーのものですが、フランス語版 Wikipedia ではこのグルベンキアンの自画像になっています(2016.11現在)。

 マネ 

Boy Blowing Bubbles.jpg
エドアルド・マネ(1832-1883)
Boy Blowing Bubbles(1867)
(シャボン玉を吹く少年)
グルベンキアン美術館

グルベンキアンの絵画では、このマネの絵が "最も記憶に残る絵" かもしれません。男の子が一人でシャボン玉を吹いているというモチーフがユニークだからです。他にあるかもしれませんが、記憶にはこの絵しかありません。例によって背景を描かず、真剣に大きなシャボン玉を作ろうとしている男の子の姿だけを捉えています。

 ミレー 

Winter.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
Winter(1868)
(冬)
グルベンキアン美術館

The Rainbow.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
The Rainbow(1872/73)
(虹)
グルベンキアン美術館

この2枚のパステル画は、ミレーがパステルという画材をを使いこなした絵、という感じがします。「冬」は、殆ど単色と思える暗い色調の中に、雪に覆われた畑とポツンと配置された積み藁が凍えつくような空気感を表現しています。ミレーは冬のバルビゾンを好んだようです。


ミレーは冬の風景が好きで、誰も描かない雪のバルビゾンを喜んで写生した。冬の間、画家仲間たちはパリで過ごし、村にはミレーしか残らなかったが、冬を越した者でしか春の訪れは理解できない、とミレー自身も語っている。

井出洋一郎
「農民画家」ミレーの真実
(NHK出版新書 2014)

一方の「虹」の方は、雨があがり、画面後方から太陽がさし込み出したその一瞬の光景で、全体に暗い色使いの中で、日光に照らされた緑の表現が美しい絵です。この絵で直観的に思い出すのはオルセー美術館の「春」という油絵作品で、構図がほぼ同じです。「虹」もまた春の光景ということでしょう。

Millet - Le Printemps.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
春 (1868/73)
(オルセー美術館)

ちなみに、黒澤明監督の『夢』(1990)には、ミレーの『春』を踏まえたとされるシーンが出て来ます(第1話の「日照り雨」)。しかし『虹』の方がより『夢』の映像に近いと感じます。黒澤監督はもともと画家です。ひょっとしたら『虹』を知っていたのかも知れません。

黒澤明「夢」.jpg

 ルノワール 

Portrait of Madame Claude Monet.jpg
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
Portrait of Madame Claude Monet(1872/74)
(モネ夫人の肖像)
グルベンキアン美術館

パリジェンヌ.jpg
ルノワール
「パリジェンヌ」
若い頃のルノワールの絵の典型という感じで、青を中心に白を配した色使いが大変に美しい。シンプルで落ち着いて鮮やかな配色が、描かれたモネ夫人・カミーユを引き立てています。

この絵でちょっと思い出すのは、同じルノワールの「パリジェンヌ」(1874。ウェールズ国立美術館所蔵)という作品です。同時期に描かれた絵ですが、両方とも鮮やかな青のドレスです。このような青は、当時一般化し出した合成染料によるものに違いありません。青や紫の布が安価に手に入るようになったからこそ、こういうファッションが可能になった。まさに19世紀後半のパリの流行や市民生活を描いた絵なのでしょう。

ちなみに、ルノワールは他にもモネ夫人の肖像を描いています。アメリカ・マサチューセッツ州にあるクラーク美術館が所蔵する「読書をするモネ夫人」です。この絵によってモネが自宅の壁に団扇を飾っていたことがわかります。

Renoir - Madame Monet Reading.jpg
ルノワール
Portrait of Madame Monet(1874頃)
(Madame Claude Monet Reading:読書をするモネ夫人)
クラーク美術館

 モネ 

The Break-Up of the Ice.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
The Break-Up of the Ice(1880)
(解氷)
グルベンキアン美術館

セーヌ河が結氷したあと、気温が上がり、氷が割れて流れ出す・・・・・・。その光景をモネは何枚か描いていますが(オルセーの絵が有名)、その中の1枚です。こういう光景は現代だと、たとえばロシアのアムール河を描いたという感じです。当時でもセーヌ河はめったに結氷しなかったと言いますが、それでも大寒波が来るとこのような光景になる。「19世紀のセーヌ河は結氷したのだ」と改めて認識させられます。

モネの "解氷" の絵については、原田マハさんの評論があるので紹介します。モネはセーヌ河畔のヴェトゥイユに住んでいるとき(1878-81。38歳-41歳)に、最愛の妻であるカミーユを亡くします(1879)。モネは絵を描く意欲を失ってしまいました。


そんなとき、冬の大寒波がパリとその近郊を襲い、めったに凍らないセーヌ河が氷結します。滔々とうとうと流れるセーヌ川。そのセーヌ川さえも凍ってしまった。ここからは私の想像ですが、モネは自分の状況をセーヌに重ねて、「ついにセーヌも凍った。そして自分の心も凍りついてしまった」と思ったのではないでしょうか。

ところが、春も近づいたある朝、目覚めたら、セーヌ川の氷が解け、水面が動きはじめたのです。その瞬間に、モネは気づいたのかもしれません。「この世界は一刻たりとも止まっていない。同じ風景を見ているようでも、時間が流れている限り、それは一瞬しかない。その移りゆく世界を、自分はカンヴァスの中にとどめたい」と。

「この世界の一瞬を、生涯かけて追い求めよう」という決意。

ヴェトゥイユでの1880年の冬の経験は、モネにとって大きなターニング・ポイントになったのではないでしょうか。モネがその冬ヴェトゥイユにいて、セーヌ川の氷解を見たのは奇跡です。その瞬間がモネに訪れなかったら、私たちはモネの作品を、いまこのような形で見ることができなかったかもしれません。

このセーヌ川の氷結という出来事の中に、私はモネの連作の萌芽を感じます。

原田マハ
『モネのあしあと』
(幻冬舎文庫 2016)

モネの連作には「クルーズの峡谷」「積み藁」「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」などがありますが、その先駆けとなったのがセーヌの "解氷" の絵だ、というのが原田さんの見立てです。ちなみに、引用した文章はオルセー美術館の "解氷" の絵を念頭に書かれたものですが、グルベンキアンの絵の評論としてもそのまま通用するものです。

ちなみにモネは "解氷" を10数枚描いていると思いますが、それらは数個のグループに分けることができ、各グループの絵は同じ場所から同じ構図で描いています。ただし描いた日が違う。グルベンキアン美術館の "解氷" と同じ構図の絵は、リール宮殿美術館(Palais des Beaux-Arts de Lille:フランス)と、ダニーデン市立美術館(Dunedin Public Art Gallery:ニュージーランド)にあります。

La Debacle(Musee des Beaux-Arts, Lille).jpg
リール宮殿美術館

La Debacle(Dunedin Public Art Gallery).jpg
ダニーデン市立美術館

最初に描かれたグルベンキアン美術館の絵では、セーヌ河の多くが氷に覆われています。その次のリール宮殿美術館の絵は氷がだいぶ溶けてボートが航行している。最後のダニーデン市立美術館になると氷はあまりない。つまり「定点観測」で風景と光の変化を描いています。これって、時刻によるモチーフの変化を描いた "積み藁" や "ルーアン大聖堂" と極めて似ていると思うのですね。まさにモネの連作の先駆けが "解氷" だと思います。

 カサット 

The Stocking.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
The Stocking(1887)
(ストッキング)
グルベンキアン美術館

このブログで何回かメアリー・カサットについて書きました。No.86「ドガとメアリー・カサット」No.87「メアリー・カサットの少女」No.125「カサットの少女再び」No.187「メアリー・カサット展」ですが、その中には「母と子」や「子ども」のモチーフが多数ありました。この絵は、パッと見てカサットだと分かる作品(パステル画)です。

ストッキングを履かせてもらう子どもの自然な仕草がとらえられています。左手は何をしているのでしょうか。描かれた女性は家政婦で、子どもは母親の方を指しているのかもしれません。ストッキングを履くのをいやがっている感じもします。

 サージェント 

Lady and Child Asleep in a Punt under the Willows.jpg
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)
Lady and Child Asleep in a Punt under the Willows(1887)
(柳の下のパントで眠る母と子)
グルベンキアン美術館

パント(Punt)とは、イギリスでよく見かける平底の小舟です。Puntで川を漕いて回る遊びを Punting(パンティング)と言ったりします。テムズ河、ないしはその支流の光景だと思います。サージェントの絵は、No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、

『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(ボストン美術館)
『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(テート・ギャラリー)

を引用しました。いずれもサージェントの代表作と言うべき作品です。No.96「フィラデルフィア美術館」の『A Waterfall(滝)』という作品もありました。

グルベンキアンのこの作品は、サージェントの代表作とは雰囲気が違います。垂れ下がった柳、画面の端で切り取られた小舟、その上の女性、川面を見下ろす構図、カンヴァス全体に筆触を残す描き方・・・・・・、これらは "正統的" な印象派のモチーフや構図、描法そのものです。モネの絵だといっても通用するのではないでしょうか。この絵はサージェントが最も印象派の手法に寄り添って描いた作品でしょう。その意味で記憶に残る作品です。


The Church of Santa Maria della Salute - Venice.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
The Church of Santa Maria della Salute, Venice(1904/1909)
(サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会 - ヴェネチア)
グルベンキアン美術館

この水彩画は、前作とは違ったサージェントらしい作品です。おそらく朝の光景でしょう。サルーテ教会と水路をはさんて北側(サン・マルコ広場のある側)から南を見た構図のようであり、画面の左方向、つまり東方向から光があたっています。ヴェネチアの朝の空気感と水彩画の淡くてやわらかな感触がマッチした、すがすがしい作品です。



画像の引用は以上で終わりますが、その他の主な画家では、ファン・デル・ウェイデン、カルパッチョ、ルーベンス、レンブラント、ハルス、ルイスダール、ヴァン・ダイク、フラゴナール、コロー、ファンタン=ラトゥール、ゲインズバラ、ブーディン、テオドール・ルソー、ドービニー、ボルディーニ、タウロヴなどの作品があります。

ちなみに Google Street View で内部が閲覧できる美術館というと、メトロポリタン美術館などの "超メジャー館" が思い浮かびますが、意外にもグルベンキアン美術館は Google Street View で閲覧可能です(2016.11 現在)。あくまで "小じんまりした" 美術館なので、Street View で見るにはちょうどいいと思います。

Gulbenkian - Street View.jpg
Google Street View で内部が閲覧できる美術館はメトロポリタン、MoMA、大英博物館、テート・モダン、オルセー、ウフィツィ、ウィーン美術史美術館などであるが、意外にもグルベンキアン美術館(と財団の庭園)は閲覧できる(上の画像)。マネの「シャボン玉を吹く少年」の右の絵はモネの静物画である(画像はグルベンキアン美術館のホームページで公開されている)。


グルベンキアンの北斎


下の写真は、グルベンキアン美術館のショップで見かけたカードの棚です。現代作家の作品に混じって、真ん中にあるのは葛飾北斎です。

Gulbenkian - Postcard.jpg
グルベンキアン美術館のショップにあったカードの棚。真ん中にあるのは葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」の中の1枚である。

この作品は、北斎の「諸国名橋奇覧」の11枚の連作の一つで、『上野こうずけ佐野舟橋の古図』です。"佐野の舟橋" というと、万葉集に歌われた歌枕であり、はかない恋を象徴しました。枕草子の「橋」の段にも出てきます。北斎の時代、佐野(今の栃木県)に舟橋はもう無かったようです。しかし舟橋そのものは日本にあり、北斎は過去を想像して描いたようです。「古図」としてあるのはその意味です。

グルベンキアン美術館はこの作品を所蔵しています。欧米の美術館で北斎の作品を見かけることはよくあるのですが、このポルトガルの首都でもそうであり、欧米における北斎の "メジャー感" が認識できます。

佐野の舟橋.jpg
葛飾北斎(1760-1849)
上野こうずけ佐野舟橋の古図
(かうつけ佐野ふなはしの古づ)
「諸国名橋奇覧」より


美術館から少し歩くと・・・・・・


ここからは余談です。グルベンキアン美術館からリスボン中心部の方向(南方向)に5分程度歩くと、エル・コルテ・イングレスというデパートがあります(上に掲げた地図参照)。スペイン各地にあるデパートですが、リスボンにも進出しています。

ここの地下1階はスーパーになっていて、また高級食料品(というか、スーパーよりワンランク上の食品や菓子)を売る店が併設されています(この店があることがポイントです)。ポルトガルの土産物を買うには最適のスポットだと思います。もしグルベンキアン美術館を訪れたなら、近くのエル・コルテ・イングレスに立ち寄られることをお勧めします。

El Corte Ingres.jpg
リスボンのデパート、エル・コルテ・イングレス。グルベンキアン美術館の方向から見た画像(Google Street View)。




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No.190 - 画家が10代で描いた絵 [アート]

No.46「ピカソは天才か」で、バルセロナのピカソ美術館が所蔵するピカソの10代の絵をとりあげ、それを評した作家の堀田善衛氏の言葉を紹介しました。

実は、ピカソの10代の絵は日本にもあって、美術館が所蔵しています。愛知県岡崎市に「おかざき世界こども美術博物館」があり、ここでは子どもたちがアートに親しめる数々のイベントが開催されているとともに、日本を含む世界の有名画家が10代で描いた絵が収集されています。この中にピカソの10代の絵もあるのです。

私は以前からこの美術館に一度行ってみたいと思っていましたが、そのためだけに岡崎市まで行くのも気が進まないし、何か愛知県(東部)を訪問する機会があればその時にと思っていました。

ところがです。今年(2016年)のお盆前後の夏期休暇に京都へ行く機会があったのですが、たまたま京都で「おかざき世界こども美術博物館」の作品展が開催されていることを知りました。会場はJR京都駅の伊勢丹の7階にある「えき」というギャラリーで、展示会のタイトルは「世界の巨匠たちが子どもだった頃」(2016.8.11 ~ 9.11)です。これは絶好の機会だと思って行ってきました。

世界の巨匠たちが子どもだったころ.jpg


ピカソのデッサン


今回の展覧会の "目玉作品" がピカソの14歳ごろの2つの絵で、いずれも鉛筆・木炭で描かれた石膏像のデッサンです。展覧会の図録によると、ピカソの石膏像のデッサンは30点ほどしか残されていないそうで、つまり大変貴重なものです。振り返ると、No.46「ピカソは天才か」ではバルセロナにある別のデッサンと堀田善衛氏の評言を紹介しました。

この2点は、2000年に「おかざき世界こども美術博物館」がスペインの個人収集家から買い取りました。つまり岡崎で世界初公開された絵であり、それを京都で鑑賞できたというわけです。

ピカソ:女性の石膏像.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
女性頭部石膏像のデッサン
紙、鉛筆
(1894-95 頃。13-14歳)

ピカソ:男性の石膏像.jpg
パブロ・ピカソ
男性頭部石膏像のデッサン
紙、鉛筆と木炭
(1895。14歳)

この2つのデッサンは、比べて見るところに価値がありそうです。石膏の女性像と男性像ですが、「静」と「動」の対比というのでしょうか。女性像の顔や髪は大変なめらかで、静かな雰囲気が出ています。特に、目尻から頬をつたって口元に至る造形と陰影の美しさは格別です。伏し目で静かにたたずんでいる女性。そういった感じが出ています。

比較して男性像の方は、顔が少しゴツゴツした感じです。髪もボリューム感がずいぶんあって "波打っている" ようです。荒々しいというと言い過ぎでしょうが、それに近い感じを全体から受けます。大きく描かれた影が強烈な光を想像させ、石膏像はその光に "立ち向かっている" というイメージです。

この2枚は、単に石膏像をリアルにデッサンしたという以上に、対象の本質に迫ろうとするピカソ少年の意図を感じます。13-14歳でこのような描き方ができたピカソは、やはり希有な画家だと思いました。



展示されていたピカソ以外の絵は、ヨーロッパの画家でいうと、モネ、ムンク、ロートレック、デュフィ、クレー、ビュッフェ、カシニョール、シーレなどでした。

また、日本人画家の10代の絵も多数展示されていました。日本画と洋画の両方です。以下はその中から何点か紹介します。


水彩画・2点


日本人画家の絵は多数あったので迷うのですが、まず水彩画を2点、岸田劉生と佐分 真さぶり まことの絵を取り上げます。

岸田劉生:秋.jpg
岸田劉生(1891-1929)

紙、水彩
(1907。16歳)

この岸田劉生の水彩の一番のポイントは、まず画面下半分の「道、土手、川」を大きく右に湾曲させた構図でしょう。「道、土手、川」の曲がり具合いが少しずつ違っていて、絵にリズムを生んでいます。画面の上半分に描かれた樹と家屋はどっしりと落ち着いていて、この上半分と下半分の対比が構図のもう一つのポイントです。全体の描き方は細やかで写実的です。

風景画はこういう風に描くのだという、お手本のような絵です。16歳のときの絵ですが、すでに "できあがっている" という感じがします。劉生は38歳という若さで亡くなったのですが、もっと長生きすれば「麗子像」のように強烈なインパクトを与える作品をいろいろと生み出したはずと思いました。16歳にしてこれなのだから。

佐分真:裏庭.jpg
佐分 真(1898-1936)
風景(裏庭)
紙、水彩
(1912。14歳)

佐分真は、岸田劉生と同じく38歳で亡くなった画家です。この絵も劉生と同じく構図がいいと思いました。庭の縁と屋根の線が画面の中心に向かっていて、それによって遠近感を出しています。画面の上に描かれた木の枝と、下の方の木の陰もうまく配置されている。

全体は淡い中間色ですが、各種の色がちりばめられています。のどかな昼下がりの裏庭の感じが、その空気感とともに伝わってきます。画家になってからの佐分真の絵は、明暗を利かせた、重厚で厚塗りの油絵が多いのですが、それとはうって変わった "爽やかな" 絵です。14歳で描いたのだから、あたりまえかも知れません。



その他、日本の洋画家では、坂本繁二郎、青木繁、安井曾太郎、小出楢重、古賀春江、村山隗多、東郷青児、関根正二、山下清などが展示されていました。


日本画


日本画もいろいろありました。鏑木清方、奥村土牛、山口華陽、平山郁夫、田渕俊夫などです。この中からひとつを取り上げると、伊東深水の「髪」と題した作品が次です。

伊東深水:髪.jpg
伊東深水(1898-1972)

絹本着彩
(1913。15歳)

伊東深水:髪(部分).jpg

伊東深水は佐分真と同年の生まれで、この「髪」は佐分の水彩画と同時期に描かれました。伊東深水は美人画で有名ですが、15歳で描いたこの絵をみると、すでに画家として成り立っている感じです。絹本けんぽんを横長に使い、女性の横顔をとらえて髪を表現するという描き方が斬新です。一目みて忘れられない印象を受けました。


高村咲子の日本画


高村咲子さくこは、高村光太郎の6歳上の姉です。この展覧会では、高村咲子が9歳から14歳で描いた5点が展示されていました。今回はじめて、光太郎に "画家" の姉がいたことを知りました。

高村咲子が "画家" として知られていないのは、わずか15歳で亡くなったからです。光太郎が10歳の時です。せめて関根正二のように20歳頃まで生きたとしたら「夭折の画家」と言われたのかもしれませんが、咲子は「夭折の画家」にもなれなかった。

しかし咲子の技量は、子どもにしては卓越しています。下に掲げた「鶴」と「猿」は、今でいうと小学生の高学年の絵ですが、とてもその年頃の子どもが描いたとは思えません。

今回の展覧会のタイトルは「世界の巨匠たちが子どもだった頃」でした。多くの画家の10代の絵が展示されていたのですが、高村咲子だけは「画家が子どもだった頃の絵」ではなく「子どもで人生を終えた "画家" の絵」というのが印象に残りました。

高村咲子:鶴.jpg
高村咲子(1877-1892)

絹本墨彩
(1888。11歳)

高村咲子:猿.jpg
高村咲子
絹本墨彩
(1889。12歳)


絵画の原点


展覧会全体の感想です。有名画家の絵がいろいろあったので、画家として名をなした以降の作品を思い浮かべながらの鑑賞もできました。

芸術家としての画家は個性を追求します。自分にしかない画風というのでしょうか、描くモチーフや描き方について、その人にしかないという独自性を追求するわけです。絵をみて「あの画家の作品だ」とか「見たことのある画風の絵だ」と思わせる "何か" です。

しかしこの展覧会の絵は、そういった画風を確立する以前に描かれたものです。そこに感じるのは、描く対象を見きわめようとする少年・少女の真剣な姿勢です。そこは多くの絵で共通している。絵画の原点がよく分かった展覧会だったと思いました。



 補記1:デューラーの自画像 

本文で紹介した「おかざき世界こども美術博物館」の所蔵作品を離れて "画家が10代に描いた絵" を思い出すと、有名作品があります。ドイツの画家、アルプレヒト・デューラーが13歳のときに描いた自画像です。紙に銀のメタルポイント(銀筆)で描かれています。

Albrecht Durer - Self Portrait at 13.jpg
アルプレヒト・デューラー(1471-1528)
自画像」(1484。13歳)

残されているデューラーの最も古い絵である。描き直しは一切ない。右上には「これは1484年に鏡を使って描いた子供のときの私の肖像である」と書かれている。
(アルベルティーナ美術館:ウィーン)

デューラーは油彩で3枚の自画像を描いていますが、そもそも世界で最初に自画像を描いた画家はデューラーだとされています。そうすると、この素描は "世界初の自画像" ということになります。その絵画史上 "画期的" な作品が 13歳の少年の絵というのは驚きです。



 補記2:ラファエロの自画像 

デューラーの10代の自画像を掲げたので、その10数年後に描かれたラファエロ(1483-1520)の10代の自画像を引用します。この素描はオックスフォード大学・アシュモレアン博物館(Ashmolean Museum of Art and Archeology)が所蔵していますが、博物館のサイトをみると、描かれたのは1498-1499年となっています。ということは、デューラーの自画像より14・5年後で、ラファエロが15歳か16歳のときということになります。

アシュモレアン博物館のサイトは題名として「Portrait of an unknown youth, possibly a self-portrait」としています。断定できるエビデンスはないが「おそらく自画像」ということだと思います。それをちゃんと題名にしているわけですが、一般的には「自画像」で通っています。ラファエロは美男子で有名で、この素描の美少年はいかにも自画像という感じがします。

ラファエロ「自画像」.jpg
ラファエロ・サンティ(1483-1520)
自画像」(1498/99。15-16歳)
(アシュモレアン博物館:オックスフォード)



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No.187 - メアリー・カサット展 [アート]

今回は、横浜美術館で開催されたメアリー・カサット展の感想を書きます。横浜での会期は 2016年6月25日 ~ 9月11日でしたが、京都国立近代美術館でも開催されます(2016年9月27日 ~ 2016年12月4日)。

メアリー・カサットの生涯や作品については、今まで3つの記事でとりあげました。

No.86 ドガとメアリー・カサット
No.87 メアリー・カサットの「少女」
No.125 カサットの「少女」再び

の3つです。また次の2つの記事ですが、

No.93 生物が主題の絵
No.111 肖像画切り裂き事件

No.93では、カサットの愛犬を抱いた女性の肖像画を引用し、またNo.111では、ドガが描いた「メアリー・カサットの肖像」と、その絵に対する彼女の発言を紹介しました。これら一連の記事の継続になります。

メアリー・カサット展ポスター.jpg
メアリー・カサット展
横浜美術館
(2016年6月25日~9月11日)
絵は「眠たい子どもを沐浴させる母親」(1880。36歳。ロサンジェルス美術館蔵)


浮世絵版画の影響


Mary Cassatt - Photo.jpg
1867年(23歳)に撮影されたメアリー・カサットの写真。彼女がパリに到着した、その翌年である。手にしているのは扇子のようである。フィリップ・クック「印象派はこうして世界を征服した」(白水社。2009)より。
今回の展覧会の大きな特徴は、画家・版画家であるメアリー・カサット(1844-1926)の "版画家" の部分を念入りに紹介してあったことです。カサットの回顧展なら当然かもしれませんが、今まで版画をまとまって見る機会はなかったので、大変に有意義な展覧会でした。

彼女が版画を制作し始めたのは日本の浮世絵の影響ですが、その浮世絵の影響はまずドガ(1834-1917)との交流から始まりました。カサットがドガに最初に出会ったのは1877年(33歳)です。その時点でドガ(43歳)は、モネやマネやといった初期印象派の仲間でも熱心な日本美術愛好家でした。横浜美術館の主席学芸員の沼田英子氏は、メアリー・カサット展の図録の解説「メアリー・カサットと日本美術」で、次のような主旨の解説しています。

 ・・・・・・・・

カサットの『桟敷席にて』にみられるような、人物をクローズアップして遠景との関係を際立たせる手法は、ドガが広重などの浮世絵から想を得て、オペラのオーケストラやカフェ・コンセールの場面に用いたものと類似しています。

オーケストラ席の楽師たち.jpg 桟敷席にて.jpg
エドガー・ドガ
「オーケストラ席の楽師たち」
(1870/72)
シュテーデル美術館
(フランクフルト)
メアリー・カサット
「桟敷席にて」(1878)
ボストン美術館
この絵はロンドンのコートールド美術館にあるルノワールを絵を踏まえて描かれたと想像するのだが、どうだろうか。

浜辺で遊ぶ子供たち.jpg
メアリー・カサット
「浜辺で遊ぶ子どもたち」(1884)
ワシントン・ナショナル・
ギャラリー
また『海辺で遊ぶ子供たち』のように場面を俯瞰的にとらえ、地面や床面を "地" のようにして人物を浮き上がらせる構図は、ドガがバレエのレッスン場面でよく用いているものです。ドガはそれを浮世絵の室内表現から着想したと考えられています。─── そう言えばカサットの『青い肘掛け椅子の少女』も室内を俯瞰的な構図で描いていました(No.87「メアリー・カサットの少女」No.125「カサットの少女再び」参照)。

ドガは1886年の印象派展に沐浴する裸婦のパステル画を出品してセンセーションを起こしました。西洋画の伝統での裸婦は、神話の女神として描かれていたからです。しかし浮世絵では、半裸の女性が行水をする場面や髪をくしけずる場面はよく描かれていた画題です。ドガはこれを取り入れ、普通の女性が沐浴する一瞬を覗き見たような視点で描きました。そしてカサットも、タオルで体を拭くセミヌードの女性や、髪を整える女性の姿を描いています。

さらにドガは、西洋銅版画の技法を使って絵画的な版画を作る試みを始めていましたが、カサットもドガにさそわれ、ドガの版画の道具とプレス機を借りて版画を制作しました。

 ・・・・・・

以上のように、カサットはまずドガを通して浮世絵版画の影響を受けたのですが、版画家・カサットの誕生にとって決定的だったのは、1890年にパリで開かれた日本版画展でした。


版画家:メアリー・カサット


1890年4月25日から5月22日まで、パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)で「日本版画展」が開催されました。カサットが46歳になる直前のころです。


カサットは、この「日本版画展」に感激し、少なくとも二回は会場に足を運んでいる。一回目は開催初日にドガと一緒に出かけている。その4日後にはベルト・モリゾに次のように書き送っている。

「もしよろしかったら、こちらで私たちと食事をしませんか。その後で、ボザールで開催中の日本版画展を一緒に見に行きましょう。あなたはこの展覧会を絶対に見逃してはいけません。色彩版画を作りたいのなら、これ以上美しいものなど想像できないでしょう。それは私の夢にも現れ、色彩銅版画のことしか考えられません」

カサットがいかにこの展覧会に夢中になったかがわかるだろう。モリゾは、1988年頃から多色刷りリトグラフに関心を寄せており、この喜びを共有できる仲間だったのである。モリゾはマラルメに宛てた手紙の中で、

「水曜日にカサットさんのところで食事をし、ボザールのすばらしい日本美術を見に行きます」

と書いている。ふたりは、5月7日に一緒に展覧会を見に行ったと考えられる。これらのエピソードは、カサットがこの展覧会でいかに浮世絵版画に夢中になったかを伝えているが、それは、この後の作品にも影響を与えることになる。

沼田英子(横浜美術館・主席学芸員)
「メアリー・カサットと日本美術」
メアリー・カサット展・図録 所載
(改行を付加しました)

日本版画展.jpg
日本版画展のポスター
(1890。パリ・国立美術学校)
カサットは少なくとも2回「日本版画展」を見に行った、1回はドガと一緒に(4月25日)、1回はベルト・モリゾと一緒に(5月7日)というわけです。会期は5月22日までなので、さらに行ったことも十分に考えられるでしょう。

彼女はこの「日本版画展」を見た後、すぐに多色版画の制作に取りかかり、1891年に25部限定の10点組の銅版画を完成させました。いずれもパリの女性の日常生活のシーンをとらえたものです。近代版画の傑作ともいうべき作品ですが、メアリー・カサット展ではこの10点の版画が全部展示されていました。今回の展覧会の "目玉展示" と言っていいと思います。

  ちなみにこの展覧会では、銅版画の各種の技法を実物とともに解説した展示がありましたが、よい企画だと思います。その銅版画技法の中から、カサットの版画作品に使われている「ドライポイント」「エッチング」「ソフトグランド・エッチング」「アクアチント」の制作工程を、この記事の最後に掲載しておきます。

その、10点組の多色銅版画ですが、以前の記事で紹介した作品を含めて3点だけをあげます。

The fitting.jpg
メアリー・カサット
「仮縫い」(1890/91)
アメリカ議会図書館
(site : www.loc.gov)

No.87「メアリー・カサットの少女」でも紹介した『仮縫い』という作品です。No.87ではタイトルを『着付け』としましたが、英語題名は『The Fitting』なので『仮縫い』がより適当でしょう。用いられた技法はドライポイントとアクアチントです。ドライポイントで銅版に直接線を描き、アクアチントで作った版で色をつけるという技法です(この記事の末尾の銅版画の説明参照)。

この版画の女性の姿態、ポーズで直感的に思い出すのは、喜多川歌麿や鈴木春信の浮世絵作品です。歌麿の作例を次にあげます。カサットは、こういったタイプの浮世絵を踏まえて制作したのだと思います。

歌麿・青楼十二時 子の国.jpg
喜多川歌麿
青楼十二時せいろうじゅうにときの刻
川崎・砂子の里資料館
(大浮世絵展・2014 図録より)

次の『沐浴する女性』は、No.86「ドガとメアリー・カサット」の「補記」で紹介したように、ドガが「女性にこれほどみごとな素描ができるとは、認めるわけにはいかない」と評したものです。この作品もドライポイントとアクアチントで制作されています。No.86では『化粧』としましたが、英語題名は「Woman bathing = 沐浴する女性」です。

Woman bathing.jpg
メアリー・カサット
「沐浴する女性」(1890/91)
アメリカ議会図書館

次の『ランプ』は、ソフトグランド・エッチングとドライポイント、アクアチントが使われています。まず紙に下絵を描き、ソフトグランド・エッチングで輪郭線をなぞって版を作る(この記事の末尾の銅版画の説明参照)。細部はドライポイントで直接描き、さらにアクアチントの版で色を付けるという作り方です。

The lump.jpg
メアリー・カサット
「ランプ」(1890/91)
アメリカ議会図書館

いずれの作品でも目立つのは線の美しさです。版画なので陰影は(ほとんど)なく、線だけで女性の仕草の美しさやふくよかさを表現しています。ドガが感嘆するのも分かります。


デッサンの技量


もちろん版画家・カサットの作品は、浮世絵版画の影響で作られたものだけではありません。伝統的な西洋銅版画の技法、デッサン、絵のモチーフで作られたものも多いわけです。その例が「メアリー・カサット展」の出口付近に展示されていたドライポイントの12作品です。その中の一つが次の版画です。

ソファに腰かけるレーヌとマーゴ.jpg
メアリー・カサット
「ソファに腰掛けるレーヌとマーゴ」
(1902。58歳)
アメリカ議会図書館

こういった版画作品は "モノトーンの小品" なので、油絵の大作が並んだ中に展示されると見過ごすことが多いと思うのですが、この12作品は必見です。とにかく、カサットのデッサンの技量が優れていることが直感できます。ドライポイントは、銅版の表面をニードルで直接に線刻する技法です。もちろん紙に鉛筆などで素描を何枚か描き、構想を固めたところで銅版にとりかかるのでしょうが、線刻のやり直しはできません。的確な線の集まりで対象をとらえるメアリー・カサットの技量に感心しました。



デッサンの技量に関係すると思うのですが、油絵や版画にかかわらず、カサット作品には「難しいアングルから顔を描いた」ものがいろいろあることに気づきました。実は『バルコニーにて』という油絵作品の音声ガイドで、そう指摘していたのです。

On th Balcony.jpg
メアリー・カサット
「バルコニーにて」(1873。29歳)
フィラデルフィア美術館

「難しいアングル」とは、顔を上方から見下ろしたり、下方から見上げたり、また斜め後ろ方向から捉えたりといったアングルです。上に引用した『ランプ』や『ソファに腰掛けるレーヌとマーゴ』のマーゴ(少女)がまさにそうで、普通の絵画・版画作品にはあまりないような方向から女性の顔をとらえています。この記事の最初に掲げた展覧会のポスターになっている『眠たい子どもを沐浴させる母親』の母親もそうでした。

『バルコニーにて』は、カサットがパリに定住する前、スペイン滞在中に描いた作品です。つまり彼女は若い時からそういう "チャレンジ" をしていたようで、また自分の素描の技術に自信があったのでしょう。

なお『バルコニーにて』は、ゴヤの『バルコニーのマハたち』を連想させます。そのゴヤの絵を踏まえて、マネは『バルコニー』を描きました(ベルト・モリゾが描かれている有名な作品)。カサットも絵画の伝統をしっかりと勉強した画家だということが分かります。


母と子


メアリー・カサットというと "母と子" を描いた一連の作品で有名です。上に引用した銅版画『ソファに腰掛けるレーヌとマーゴ』も、そのテーマです。では、なぜ母と子のモチーフなのか。それは、西洋絵画の伝統(=聖母子像)の影響だと思っていました。もちろん「母と子」は最も根源的な人間関係であり、また画家・カサットを常に支援してくれた母親との関係も影響しているのでしょう。

しかし、女性、子ども、母と子などのモチーフは、当時の女性画家に暗黙に "許された" 画題でした。カサットの友人であるベルト・モリゾの画題もそうです。このことについて、横浜美術館の主席学芸員の沼田氏は、次のように解説していました。


若い頃に因襲的サロン絵画に抵抗して前衛的なグループに身を投じたカサットが、なぜ女性画家の画題とされていた「母子」を積極的に描いたのだろうか。

ひとつには、19世紀後半のフランスで起こった子どもの人権を見直す動きが指摘される。子どもの人権保護の観点から、若年労働の禁止や学校の整備に加え、乳児を母親自身で育てることが推奨されるようになっていた。当時、パリで出生した子どもの約半数が里子に出され、多くのブルジョア階級では家庭内で乳母が育てていた。親は子どもの様子に無関心で乳幼児の死亡率も高かったといわれる。

それに対して、この頃から母親が母乳で育て、子どもの健康のために、衛生、入浴、運動、睡眠をとりしきることが推奨されるようになったのである。社会的意識が高く女性参政権運動にも協力したカサットが、この問題を考えていたという可能性は大きい。

沼田英子
「メアリー・カサットと日本美術」
メアリー・カサット展・図録 所載

我々は「母親が子どもを(母乳で)育てるのはあたりまえ」と思ってしまうのですが、それは現代人の感覚なのです。その感覚で19世紀のパリを(ヨーロッパを)想像してはいけない。カサットの「母と子」の絵には、二人がいかにも親密な状況にある一瞬を捉えた絵が多いのですが、それは当時としては "社会的な意味のある絵画" だったのでしょう。



そして、今回のメアリー・カサット展でもう一つ示してあったのは「母と子」というテーマについての浮世絵版画の影響です。日常生活における母と子のなにげない情景、母の愛情溢れるしぐさという画題は、実は浮世絵にしばしばあるのですね。そのテーマの歌麿の作例と、カサットの「10点組の多色銅版画」からの一枚を引用します。なるほど、そういう面もあるのかと思いました。

歌麿・行水.jpg
喜多川歌麿「行水」
メトロポリタン美術館

The bath(The tub).jpg
メアリー・カサット
「湯浴み(たらい)」(1890/91。46歳)
アメリカ議会図書館



母子関係が大切だという当時の社会の動きや、浮世絵版画からの影響があるのでしょうが、やはりカサットは西洋絵画の伝統=聖母子を意識して描いたと思ったのが、次の油絵による作品です。

The Family.jpg
メアリー・カサット
「家族」(1893。49歳)
クライスラー美術館
(ヴァージニア)

美しき女庭師.jpg
ラファエロ
「美しき女庭師」
(ルーブル美術館)
この絵を見て直感的に思うのは、西洋絵画の伝統的なモチーフである「聖母子と洗礼者ヨハネ」との類似性です。もちろん、その画題で最も有名なのはルーブル美術館にあるラファエロの作品です(いわゆる "美しき女庭師")。パリ在住のカサットは何回となく見たはずです。「家族」という絵は、このルーブルのラファエロを踏まえて描かれているのではないでしょうか。

カサット作品を見ると、どっしりした三角形の左右対称的な構図です。ドガやカサットは、浮世絵版画から学んだとされる "左右非対称で、モチーフを画面の縁で切断するような構図" の絵をいろいろ描いていますが、それとは全くの対極にある伝統的な描き方です。ただし伝統的だけではありません。多視点描法というと大げさですが、この絵には二つの視点が混在しています。母と男の子と後の風景は、少し上から見下ろす視点です。一方、女の子は真横からの視点で描かれている。女の子は「母と男の子」とは少し違った存在であることを暗示しているようです。こういうところも「聖母子と洗礼者ヨハネ」を想起させる。

メアリー・カサット展の解説で、女の子が差し出しているカーネーションは受難の象徴とありました。確かにそうなのでしょうが、もっと納得性の高い解釈は、このカーネーションが洗礼者ヨハネのアトリビュート(持物じぶつ)である「十字架の形をした杖」を踏まえているということです。この絵で唯一のストレートな直線がそう感じさせます。この絵が古典と現代をミックスさせ、それを貫く "永遠なるもの" を表現しようとしたことは明白だと思います。

ちなみに『家族』は、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵している『舟遊び』(No.87「メアリー・カサットの少女」で画像を引用)を連想させます。『家族』が "聖母子と洗礼者ヨハネ" を踏まえているとしたら、『舟遊び』は "聖家族" を思い起こさせるからです。



"版画家" と "母子像の画家" の接点とも言うべき「版画の母子像」もありました。『池のほとりで』という作品です。

By the Pond.jpg
メアリー・カサット
「池の畔で」(1896。52歳)
フィラデルフィア美術館

この版画も「現代版の聖母子像」といったおもむきがあります。独自の意志を感じるような子どもの表情も聖母子を連想させる。その子を母親が慈しみをこめて見つめています。

構図は斬新で、かなりのクローズアップで描かれています。『池の畔で』というタイトルなので、池の畔にたたずむ(ないしはベンチに腰掛けている)母子です。二人のクローズアップと、背景の池と木々を対比させる構図が印象的です。

ドライポイントとアクアチントで制作された版画です。母と子はドライポイントの線で陰影と立体を感じさせるように描いてあります。また背景の池と木々も、平面的ではあるものの、それなりに立体感を感じさせる表現です。

この作品は「10点組み多色版画」にみられる "線と平面で構成された浮世絵的な銅版画" とはまた違った、"西洋絵画的な銅版画" だと言えるでしょう。メアリー・カサットが作りあげた「独自の世界」であり、いい作品だと思いました。



メアリー・カサットは白内障のため視力が衰え、1910年代になるとパステル画がほとんどになり、1915年頃には絵画制作を断念したようです。版画や油絵を制作したのは1900年代までなのですが、その最後期の油絵で「母と子」を描いた作品が今回展示されていました。その作品を引用しておきます。

ボートに乗る母と子.jpg
メアリー・カサット
「ボートに乗る母と子」(1908。64歳)
アディソン美術館
(マサチューセッツ)

ボートを断ち切る構図や俯瞰的に水面を見る描き方は浮世絵の絵師が得意とした構図で、明らかにその影響だと思います。国立西洋美術館にモネの『舟遊び』という有名な絵がありますが、同じ発想です。

しかしカサットのこの絵の特徴は、右上から左端の中央、右下から左端の中央へと視線を誘導する、横向き三角形の伝統的な構図です。俯瞰的な構図にマッチするように、母親の顔を斜め上方から描いているのもカサット的です。水面に映った少女の足を描くという試みも光っている。少女の足もとに視線を誘導する構図になっています。そして何よりも、彼女が追求してきた「母と子」のテーマです。画家・メアリー・カサットの集大成とでも言うべき優れた作品だと思いました。



なお、今回の展示会にはありませんでしたが、極めて類似した画題で「人数を倍にした」絵をパリのプティ・パレ美術館が所蔵しているので、次に引用しておきます。この絵も、西洋画の伝統と浮世絵から学んだ構図をベースに母と子のテーマを描いた作品です。

Two mothers and their children in a boat.jpg
メアリー・カサット
「ボートに乗る2人の母と子」
(1910。66歳)
(Two mothers and their children in a boat)

プティ・パレ美術館(パリ)



Mary Cassatt(in Grasse - 1914)a.jpg
メアリー・カサット
1914年撮影。70歳。
(メアリー・カサット展の図録より)


シャトー・ド・ボーフレーヌ


ここからは補足です。メアリー・カサットは1894年(50歳)に、パリの北北西、約70kmにあるル・メニル・テリビュ村の "シャトー・ド・ボーフレーヌ" という館を購入し、毎夏はここで過ごすようになりました。上に引用した『ソファに腰掛けるレーヌとマーゴ』の二人のモデルはこの村の住人です。また『池の畔で』も館付近の光景です。彼女は1926年にボーフレーヌで亡くなり(82歳)、村の共同墓地に葬られました。現在、ル・メニル・テリビュには「メアリー・カサット通り」があり、カサットは村民の記憶に受け継がれています。

このル・メニル・テリビュ村のシャトー・ド・ボーフレーヌまで旅した記事が、NHKの日曜美術館のサイトに掲載されています。現地に行かないと分からない情報がいろいろと書かれていて、メアリー・カサットのことを知りたい人にとって必見のサイトです。

ル・メニル=テリビュ.jpg
ル・メニル・テリビュの位置(赤印)
- Google MAP -

以下、シャトー・ド・ボーフレーヌの現在の写真(2014年時点)を掲載しておきます。引用元は「American Girls Art Club in Paris」というブログ・サイトです。

ボーフレーヌ1.jpg
館の正面(北側)

ボーフレーヌ2.jpg
館の南側

ボーフレーヌ3.jpg
室内から南側の庭を望む

ボーフレーヌ4.jpg
敷地にある水車小屋。NHK・日曜美術館のサイトによると、カサットはこの小屋を版画の工房として使っていた。

ボーフレーヌ5.jpg
館の敷地は広大な庭園になっていて、小川が引き込まれ、池もあり、水辺には柳の木もある。モネがここに移り住んでいたとしたら、風景画を量産したに違いない。そう言えばカサットは印象派の絵とともに浮世絵を100点ほど館に飾っていたが、その面でもモネのジヴェルニーの館と似ている。

ボーフレーヌ6.jpg

カサット家墓所1.jpg

カサット家墓所2.jpg
ル・メニル・テリビュ村の共同墓地にカサット家の墓がある。メアリーの上の墓碑名は、若くしてドイツで死んだ弟、ロバートの名前である。

なお、カサットがシャトー・ド・ボーフレーヌに飾っていたセザンヌの「ラム酒の瓶がある静物」(ポーラ美術館蔵)という絵の話を、No.125「カサットの"少女"再び」の「補記」に書きました。


カサットが用いた銅版画技法


二つ目の補足です。メアリー・カサットが「10組の色刷り銅版画」で用いた銅版画の技法をまとめておきます。図は女子美術大学・版画研究室のホームページから引用しました。

 ドライポイント 


ドライポイントは銅板に直接、ニードルで線を刻んで版を作ります。線を刻むときに銅の "めくれ" が生じ、その状態によってインクのたまり具合が違ってきて、線にさまざまな表情が生まれます。


DrypointPic01.jpg
鋼鉄製のニードルで銅版面を引っ掻く。①ニードルを引く方向に倒して描画、②ニードルを立てて描画、③ニードルを寝かせて描画、などの方法があり、それぞれ特徴のある "めくれ" ができる。

DrypointPic02.jpg
スクレイパーを使い、不要なめくれを取る。

DrypointPic03.jpg
インクを詰める。

DrypointPic04.jpg
プレス機で紙にインクを刷り取る。


 エッチング 


エッチング、ソフトグランド・エッチング、アクアチントは、いずれも腐蝕液(硝酸や塩化第二鉄の溶液)で銅版を腐蝕させて版を作る技法です。エッチングはその中でも基本的な技法で、アスファルト・松脂・蝋などの防蝕剤で銅板をコーティングし、そこに描画します。


EtchingPic01.jpg
銅板の裏面に防蝕剤を塗る。

EtchingPic02.jpg
銅板の表面を防蝕剤(グランド)で覆う。グランドはアスファルト、松脂、蝋などを溶剤で溶かしたものである。エッチングで用いるグランドは、溶剤が揮発すると固まる「ハードグランド」である。

EtchingPic03.jpg
ニードルで描画する。

EtchingPic04.jpg
腐蝕液につけて、腐蝕させる。

EtchingPic05.jpg
溶剤でグランドをとる。

EtchingPic06.jpg
インクを詰める。

EtchingPic07.jpg
紙にインクを刷り取る。


 ソフトグランド・エッチング 


ソフトグランドとは、防蝕剤を油脂で練ってペースト状にしたものです。エッチングに使う防蝕剤(=ハードグランド)は銅版に塗ると固化しますが、ソフトグランドは柔らかいままで、容易にはがせます。この性質を利用したエッチングがソフトグランド・エッチングです。エッチングより少しにじんだような線になります。


SoftgroundPic01.jpg
版の裏を防蝕し、版面にソフトグランドを塗る。

SoftgroundPic02.jpg
表面がざらざらした紙をあて、鉛筆などで描画する。紙に描いておいた下絵をなぞってもよい。

SoftgroundPic03.jpg
紙をとるとソフトグランドが紙に付着してはがれる。また、表面に凹凸がある素材を直接あててソフトグランドを取ってもよい。

SoftgroundPic04.jpg
腐蝕液につけて腐蝕させる。

SoftgroundPic05.jpg
インクを詰める。

SoftgroundPic06.jpg
紙にインクを刷り取る。


 アクアチント 


アクアチントは銅板画で面を描く技法です。松脂の粉の振り方、加熱や腐蝕の時間によって、インクの濃淡の違うさまざまなテイストの面を作り出せます。


AquatintPic01.jpg
版の裏を防蝕し、版面の腐蝕させない部分(インクをのせない部分)を黒ニスなどで防蝕する。

AquatintPic02.jpg
松脂まつやにの粉末を散布する。

AquatintPic03.jpg
版の下から加熱して松脂を溶かし、版面に定着させる。

AquatintPic04.jpg
腐蝕液につけて、短時間腐蝕させる。

AquatintPic05.jpg
色の薄い部分には黒ニスを塗り、これ以上の腐蝕を止める。

AquatintPic06.jpg
再度、腐蝕液につけて腐蝕させる。

AquatintPic07.jpg
黒ニスと松脂を溶剤で取り去る。

AquatintPic08.jpg
インクを詰める。

AquatintPic09.jpg
紙にインクを刷り取る。

アクアチント.jpg
アクアチント- 武蔵野美術大学のサイトより
(site : zokeifile.musabi.ac.jp)




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No.186 - もう一つのムーラン・ド・ラ・ギャレット [アート]


ポンピドゥー・センター傑作展


2016年6月11日から9月22日の予定で「ポンピドゥー・センター傑作展」が東京都美術館で開催されています。今回はこの展示会の感想を書きます。この展示会には、以下の4つほどの "普通の展示会にあまりない特徴" がありました。

 1年・1作家・1作品 

まず大きな特徴は「1年・1作家・1作品」という方針で、1906年から1977年に制作された71作家の71作品を制作年順に展示したことです。展示会の英語名称は、

Masterpieces from the Centre Pompidou : Timeline 1906-1977

とありました。つまり Timeline = 時系列という展示方法です。制作年順の展示なので、当然、アートのジャンルや流派はゴッチャになります。

デュフィ「旗で飾られた通り」.jpg
デュフィ
「旗で飾られた通り」(1906)

しかし、だからこそ20世紀アートの同時平行的なさまざまな流れが体感できました。Timeline 1906-1977 だと72作品になるはずですが、71作品なのは1945年(第2次世界大戦の終了年)だけ展示が無いからです。

ちなみに、最後の1977年はポンピドゥー・センターの開館の年です。では、なぜ1906年から始まっているのでしょうか。なぜ1901年(20世紀最初の年)ではないのか。おそらくその理由は、1906年のデュフィの作品 = フランス国旗を大きく描いた作品を最初にもって来たかったからだと思いました。"世界のアートの中心地は20世紀においてもフランス(パリ)である" と明示したかったのだと想像します。

 幅広いジャンル 

ここに展示されているのは絵画だけではありません。彫刻、写真、建築(ポンピドー・センターの設計模型)と、幅広い。レディ・メイド作品(= マルセル・デュシャン)や、梱包(= クリスト)、ガスマスクを並べた作品まであります。絵画も抽象絵画からスーパー・リアリズムまである。現代アートの "何でもあり感" がよく出ていた展示会でした。

 言葉とアートの結合 

ポンピドゥー・センター傑作展ポスター.jpg
「ポンピドゥー・センター傑作展」のポスター。絵はピカソの「ミューズ」
作品とともに、それぞれアーティストの芸術に関する短い言葉が添えられています。1年・1作家・1作品・1言葉というわけですが、この言葉を選ぶにもかなりの調査と検討が必要だったと思われます。マイナーなアーティストだと言葉を探すのにも苦労するだろうし、また、展示作品に全くそぐわない言葉も選びにくいからです。

さらに、"言行録" がたくさん残っているメジャーなアーティストだと、最も展示作品にマッチした言葉を選ぶ検討をしたと思います。たとえば、ピカソの「ミューズ」に添えられていた言葉は「私は、他の人たちが自伝を書くように絵を描く」というものでした。この言葉どおりに「ミューズ」が自伝だとすると「描かれている2人の女性は誰だ」ということになり、一人はマリー=テレーズだろうが、もう一人は "正妻" のオルガかもしれない ・・・・・・ みたいなことになってくるわけです。

言葉を "味わい"、作品を "鑑賞する" という、この展示方法は確かに新鮮でした。一人のアーティストにフォーカスした展示会での「言葉」はよくありますが、このようにすべての作品にアーティストの言葉を付けたのはめずらしいのではないでしょうか。

 展示場デザインというアート 

会場のデザインもユニークです。デザインしたのは建築家の田根剛たねつよしさんです。東京都美術館の地階から2階までの3フロアを使った展示場ですが、その様子を以下に示します。

ポンピドゥーセンター傑作展・展示場・レイアウト.jpg
「ポンピドゥー・センター傑作展」の展示場の画像とレイアウト。3フロアで赤・青・白のトリコロールを使い分け、展示パネルのデザインもフロアごとに変えてある。画像は www.museum.or.jp、www.asahi.com より引用。レイアウト図は、会場で配布された出品作品リストより引用した。

3フロアで赤・青・白のフランス国旗色を使い分け、展示パネルのデザインも変えてあります。これは「展示場デザイン」というアートであり、実は72番目の作品なのでした。色までトリコロールというのはちょっと "やりすぎ" の感がありますが、それだけフランス関係者の "肝入り" だということでしょう。



実際に展示されていた作品ですが、以前にこのブログでとりあげた作品と関係の強い2作品だけを紹介します。たまたまですが、展示の一番最初のパートである 1906-1909 の中の2作品です。


1907年 ジョルジュ・ブラック


レック湾.jpg
ジョルジュ・ブラック(1882-1963)
『レック湾』(1907)
(ポンピドゥー・センター)

No.167「ティッセン・ボルネミッサ美術館」で、ジョルジュ・ブラックの『海の風景、エスタック』(1906)という作品を紹介しましたが、それとほぼ同時期の作品です。レック湾はマルセイユの東の近郊、サン・シル・シュル・メールにあります。つまり、マルセイユの漁村を描いた『海の風景、エスタック』とほぼ同一の画題です。

海の風景、エスタック.jpg
ジョルジュ・ブラック
「海の風景、エスタック」(1906)
(ティッセン・ボルネミッサ美術館)

この2作品は、近景=土地と木、中景=海、遠景=山と空、という構図がよく似ています。No.167で『海の風景、エスタック』は、マティスの『生きる喜び』(バーンズ・コレクション所蔵)と似ていてその影響を感じるとしたのですが、その意味ではこの絵もマティスに似ていると言えるでしょう。もっともそう言ってしまうと、フォービズムっぽい絵は全部マティスに似ていることになってしまって意味がないかもしれません。

原色に近い強い色彩も使われていますが、そうでない色もある。しっかりとした造形の中の自由に発想した色使いが素敵な感じで、いい作品だと思います。



絵とともに掲げられていたジョルジュ・ブラックの言葉は、

  当初の構想が消え去ったとき、絵画は初めて完成する

というものでした。ちょっと分かりにくい言い方ですが、まじめな解釈もできそうです。つまり、

  画家は絵を描こうとするとき、まず形や色の構想をたてる。しかしいったん描き始めると、描いた部分に触発されて構想が変化する。その繰り返しで次々とカンヴァスが埋められていき、描き終わった時には当初の構想は消え去っている。そういった "創発的な" プロセスが絵を描くという行為だ

と言いたいのでしょう。『レック湾』についての発言ではないはずですが、そういう視点でみるとこの『レック湾』の色使いは、描いているうちに色が色を呼び寄せて、当初の構想とは違った "色彩のハーモニー" に仕上がったのかもしれません。


1908年 オーギュスト・シャボー


オーギュスト・シャボーは、ジョルジュ・ブラックと同年生まれのフランスの画家です。この画家の名前と絵は、ポンピドゥー・センター傑作展で初めて知りました。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット(シャボー).jpg
オーギュスト・シャボー(1882-1955)
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1908/9)
(ポンピドゥー・センター)

モンマルトルのダンスホール、ムーラン・ド・ラ・ギャレットと言えば、オルセー美術館のルノワールの絵(1876)が超有名で、いわゆる印象派の代表作の一つになっています。この絵はポンピドゥー・センター傑作展より一足先に始まった国立新美術館のルノワール展(2016年4月27日~8月22日)で展示されました。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ルノワール).jpg
ルノワール
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876)
(オルセー美術館)

さらに、ピカソも『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を描いています(1900)。グッゲンハイム美術館にあるその絵は、No.46「ピカソは天才か」と、No.163「ピカソは天才か(続)」で取り上げました。特にNo.163では中野京子さんの解説に従って、ピカソの時代のこのダンスホールが夜は "レズビアンの溜まり場" としても有名だったことを紹介しました。

Picasso - Le Moulin de la Galette2.jpg
ピカソ
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1900)
(グッゲンハイム美術館)

このブログでは取り上げませんでしたが、ゴッホやロートレック、そしてユトリロも『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を描いています。次のゴッホとユトリロの絵は風車をポイントにした風景画であり、ロートレックの絵は人物に焦点が当たっている絵です。ゴッホの絵には人物が配されていますが、ユトリロの絵には人気ひとけがないのも、いかにも画家の個性が出ている。ルノワール、ピカソ、ゴッホ、ロートレック、ユトリロのそれぞれの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は、"五者五様" と言えるでしょう。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ゴッホ).jpg ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ロートレック).jpg
ゴッホ
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1886)
(ベルリン新国立美術館:Wikipedia)
ロートレック
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1891)
(ポーラ美術館)

ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ユトリロ).jpg
ユトリロ
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1910)
(ポーラ美術館)

そして "もうひとつのムーラン・ド・ラ・ギャレット" が、今回のオーギュスト・シャボーの絵です。この絵は "夜の外観" を描いたという点で、以前の5人の絵とはまた違います。目立つのは光の黄色で描かれた店の名前とBAL(=ダンスホール)という文字、店の内部からの光です。暗い青で描かれた風車があり、黒っぽい人物や馬車が店の前に配置されている。ところどころに、星や反射光を表す橙や青の点がちりばめられています。

ピカソより8年ほど後の絵ですが、この時点でもムーラン・ド・ラ・ギャレットが "レズビアンの溜まり場" だったのかどうかは知りません。ただ、店の前に馬車が2台とめてあるのをみると、やはり富裕層がナイトライフを楽しむ場だったことが想像できます。

絵で目立つのが黄色です。特に店の中から漏れ出てくる強烈な光が印象的です。おそらくピカソが描いた時期より電灯が高性能になり普及したのでしょう。また「夜景の中の黄色の光」ということでは、ゴッホの『夜のカフェテラス』を連想しました。



絵とともに掲げられていたオーギュスト・シャボーの言葉は、

  芸術作品が成立する根底に欲求や喜びがあるなら、そこにはまた人々の生活との接触、つまり人間的な触れ合いがある

でした。別に解釈の必要がない文章ですが、オーギュスト・シャボーはパリの市民生活を題材にした絵をいろいろ描いたと言います。この絵もそういった絵の中の1枚でしょう。20世紀初頭の大都市・パリの繁栄も感じさせる絵です。


編集の威力


最初に書いたように、この展示会は「1年・1作家・1作品・1言葉・制作年順展示」という方針で構成されているのですが、この展示会を立案したキュレーターの方の実力というか、その企画力に大いに感心しました。

そもそも「1年・1作家・1作品」という制約を前提としつつ、20世紀アートを(なるべく)概観できるようにするためには、パズルを解くような検討が必要だったはずです。ポンピドゥー・センターには膨大なコレクションがあるとはいえ、いろいろとシミュレーションを繰り返したと思います。制約の中で企画展として成立させるための検討です。たとえば展示会に入場してすぐ、最初の展示パネルに掲げてあるのは1900年代に描かれた4枚の絵であり、順に、

1906年 デュフィ
1907年 ブラック
1908年 シャボー
1909年 ヴラマンク

です。展示場に入ると、まずこの4作品だけが目に入るようになっていますが(展示場の LBF のレイアウト参照)、これらはいずれもフォービズムの範疇に入る絵です。マティスに導かれたフォービズムがモダンアート(20世紀アート)の幕開けだ、と言っているようなキュレーターの意図を感じました。

もっとも、こういう制約条件で絵を選ぶ以上、ポンピドゥー・センターのコレクションの縮図というわけにはいきません。たまたま選ばれた作品もあるでしょう。また、どのようにしようとピカソはたった1点しか出せないし、ブラックのフォービズムの絵を出した以上、最も有名なキュビズムの絵は選ばれない。

しかし71人のアーティストを展示することのメリットは、中には(日本では)ほとんど知られていないアーティストの作品も展示されるということです。ちなみに、2016年8月11日の朝日新聞(夕刊)に、東京都美術館でこの展覧会をみた1300人にベストワンを選んでもらったアンケートの結果が出ていました。

1位 146票 アンリ・マティス 大きな赤い室内 1948年
2位 84票 パブロ・ピカソ ミューズ 1935年
3位 82票 マルク・シャガール ワイングラスを掲げる二人の肖像 1917年
4位 62票 ヴァシリー・カンディンスキー 30 1937年
5位 52票 セラフィーヌ・ルイ 楽園の樹 1929年
6位 45票 ヤコブ・アガム ダブル・メタモルフォーゼⅢ 1969年
7位 44票 ラウル・デュフィ 旗で飾られた通り 1906年
7位 44票 ロベール・ドローネー エッフェル塔 1926年
9位 40票 マリー・ローランサン イル=ド=フランス 1940年
9位 40票 ベルナール・ビュッフェ 室内 1950年

マティスがダントツの1位(上に掲げた 1F の画像の一番手前の絵)というのは納得だし、著名アーティストが大半とも言えます。しかし、セラフィーヌ・ルイ(5位)やヤコブ・アガム(6位)は、あまり知られていないのではないでしょうか。セラフィーヌ・ルイは30代で聖母のお告げにより絵を独学で描き始めたという女性です。ヤコブ・アガムはキネティック・アートで有名なイスラエル出身の彫刻家です。ちなみに、この個人のベストワン・1点だけの投票で、71作品全部に票が入ったそうです。アンケート上位の10作品の制作時期も、60年以上に渡っています。展覧会を企画したキュレーターの狙いは成功したということでしょう。その「知らないアーティストの作品」の例が(私にとっては)上にあげたオーギュスト・シャボーでした。



キュレーターは作品を創り出しません。アートについての膨大な知識をもとに、作品を選択し、配置し、構成するわけです。これは広い意味での「編集」の一つの形態です。新聞、雑誌、各種の情報誌、図鑑、短編集、企画展、インターネットのまとめサイトなどでは、編集者のスキルや力量が非常に大切です。「編集」という仕事は、個々の作品を創り出すのとは別の意味の「創造」である・・・・・・。「ポンピドゥー・センター傑作展」を見てそう思いました。その意味では、73番目の "作品" はこの企画展そのものということでしょう。




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No.167 - ティッセン・ボルネミッサ美術館 [アート]

個人コレクションを元にした美術館について、今まで4回書きました。

No. 95 バーンズ・コレクション
No.155 コートールド・コレクション
No.157 ノートン・サイモン美術館
No.158 クレラー・ミュラー美術館

の4つで、いずれもコレクターの名前がついています。今回はその "個人コレクション・シリーズ" の続きで、スペインのマドリードにあるティッセン・ボルネミッサ美術館です。


マドリードの美術館


マドリードには3つの有名美術館があります。

プラド美術館
ソフィア王妃芸術センター
ティッセン・ボルネミッサ美術館

ですが、この3つの美術館はそれぞれの所蔵作品に特色があります。プラド美術館は古典絵画(18世紀かそれ以前)とスペインの近代絵画(19世紀)が充実していてます。ソフィア王妃芸術センターは、20世紀のモダンアートが中心です(『ゲルニカ』がある)。

それに比較してティッセン・ボルネミッサ美術館は、古典からモダンアートまで幅広い作品が揃っています。特に、他の2つにはない19世紀の(スペイン以外の)印象派・後期印象派の絵、および18世紀以前のオランダ絵画が充実している。その意味で、3館をあわせると西洋絵画の幅広い美術史がカバーできます。

ティッセン・ボルネミッサ美術館1.jpg
ティッセン・ボルネミッサ美術館2.jpg
ティッセン・ボルネミッサ美術館
(白い建物は増築された部分)


ティッセン・ボルネミッサ美術館の設立経緯


ティッセン・ボルネミッサという名称は、スペイン語にはそぐわない感じの、ちょっと変わった名前です。それもそのはずで、ティッセンはドイツの、ボルネミッサはハンガリーの姓名です。なぜドイツでハンガリーなのか、それがなぜスペインの首都の美術館なのか、その理由は美術館が作られた経緯にあります。以下のようです。

ティッセン・ボルネミッサ美術館は、ドイツのティッセン家の親子2代、ハインリヒ、およびハンス・ハインリヒのコレクションを展示した美術館である。

ドイツの鉱山財閥、ティッセン社(現在のティッセン・クルップ)はアウグスト・ティッセンが創業したが、その三男がハインリヒ・ティッセン(1875-1947)である。

ハインリヒは31歳のときに、男爵位をもつハンガリーの貴族、ボルネミッサ家の令嬢であるマルギトと結婚した。と同時に、マルギトの父には息子がいなかったためその養子となり、ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサ男爵となった。

ハインリヒはティッセン家の一員として鉱山経営を含む各種事業を行ったが、そのかたわら美術品の蒐集を行った。50歳代後半にはスイスのルガーノに移住し、その地に美術品を保管した。

ハインリヒとマルギトの次男がハンス・ハインリヒ(1921-2002)である。ハンス・ハインリヒも事業経営のかたわら美術品を多数蒐集した。また父親が残した美術品を受け継ぐとともに、その管理も行った。ハンス・ハインリヒはスイスに帰化した。

ハンス・ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサは生涯に5度の結婚した。その5度目の結婚相手が、1961年のミス・スペイン、カルメン・セルベーラ(1943~)であった(1985年に結婚)。

ハンス・ハインリヒは1992年に、所有する美術品をスペイン政府に売却することを決め、スペイン政府はこれを3億3800万ドルで買い取った。同時に彼は、少なからぬ絵画を妻のカルメンに相続させた。スペイン政府が買い取った美術品をもとに開設されたのがティッセン=ボルネミッサ美術館である。

カルメン自身も、相続する以前から美術品蒐集を行っていた。ハンス・ハインリヒは2002年に死去したが、その後に美術館は増築され(2004)、カルメンのコレクションも増築部分に展示されて現在に至っている。カルメンは今も美術館の副理事長である。

この経緯をみると、そのスケール感が凄いですね。ドイツの鉱山王(財力)、ハンガリー貴族(男爵という家柄)、ミス・スペイン(美)の3拍子が揃っていて、3カ国をまたにかけるという "きらびやかさ" です(スイスを入れると4カ国)。これに比べるとバーンズ・コレクションなどは、何となく "小じんまりした" 感じがしてきます。もちろん所蔵作品の優劣とは全く関係ないですが・・・・・・。

ハンス・ハインリヒは64歳で結婚した5度目の妻の母国に親子2代の美術品を売却し、スペイン政府は対価として3億3800万ドルを支払ったわけです。ここが一番のハイライトでしょう。3億3800万ドルというと、今の日本円で約400億円ぐらいになります。これだけのお金をポンと出したスペイン政府の度量も相当なものとみえる。

しかし、です。実際にティッセン・ボルネミッサ美術館を訪れてみると400億円は "破格の安値" と思えるのですね。今なら数億円で取引されそうな絵がいっぱいあるし、数10億円する感じの絵も少なからずあるからです。

経緯に書いたように、この美術館には、ハンス・ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサのコレクションをスペイン政府が買い取った美術品と、カルメン・ティッセン=ボルネミッサのコレクションがあります。気になるのはこのカルメン・コレクションで、カルメンさんが亡くなったときにどうなるかです。遺産分配や相続税の問題で絵が散逸するリスクを避けるためには、スペイン政府に寄贈する(ないしは夫のように売却する)のが妥当だと思われますが、果たしてカルメンさんの意向やいかに・・・・・・、というようなことが、スペインの美術愛好家の間では話題になるそうです。

Thyssen-Bornemisza.jpg
ハンス・ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵と妻のカルメン(1990)
(site : www.theguardian.com)


所蔵作品


本題の所蔵作品についてです。この美術館は14世紀から20世紀までの7世紀に渡る美術品があります。その意味では、マドリードの3つの美術館の中では一番「西洋美術史を網羅した美術館」です。さらに、個人コレクションではあるが多数の作品があるので、その "概要" を書くことは難しい。画家の名前を列挙しても意味がなさそうなので、ピンポイントで言うと、まずこの美術館の「顔」になっている女性の肖像画です。

ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像.jpg
ドメニコ・ギルランダイヨ(1448-1494)
「ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像」(1489-90)
(ティッセン・ボルネミッサ美術館)

画家のギルランダイヨは15世紀フィレンツェの、初期ルネサンス期の画家です。このような "完全な横顔の肖像画" が当時流行したらしく、男性の肖像画も含めて多くの画家が描いています。その、数ある "横顔肖像画" の中でもピカイチの絵がこれでしょう。

この作品に比較しうるのは、ベルリン絵画館にあるポッライオーロ(1429/33-1498)の『若い女性の肖像』だと思います。両方ともモデルの表情の表現を極力押さえています。さらにギルランダイヨの絵の女性は、背筋をきっと伸ばし、凛として左を見つめる姿で、溢れるような "気品" を感じます。いずれにせよ、女性の横顔の美しさを的確に表現した画家の技量は大したものだと思います。

若い女性の肖像.jpg
アントニオ・デル・ポッライオーロ
「若い女性の肖像」
(ベルリン絵画館)
弟の画家、ピエロ・デル・ポッライオーロによる非常に似た横顔の絵がミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館にあるが、それも傑作。



以降は、以前の記事に書いた画家に関係した絵を3点だけ紹介します。それと同時に、関連のある別の美術館の絵も併記します。

No.158「クレラー・ミュラー美術館」で書いたゴッホですが、No.158に引用した『糸杉のある道』は、ゴッホがサン・レミの病院に入院中の1890年の5月に描かれた "星月夜" の絵でした。この5月にゴッホはパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズに移ります。そして同じ5月に描いたのが次の作品です。オーヴェル近郊のヴェスノ村を描いています。

オーヴェルのレ・ヴェスノ.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「オーヴェルのレ・ヴェスノ」(1890.5)
(ティッセン・ボルネミッサ美術館)

緑を中心に黄色を散らした色使いで、一つだけの赤い屋根が絵を引き締めるアクセントになっています。一見、どうということのない農村風景ですが、よくみると変なところもある。

右の真ん中より下の方に青い "波形" のものが描かれていますが、これは何でしょうか。畑の中に描かれた小さめの緑の "波形" は草だと思いますが、右のものは草ではありません。木の手前を横切るように描かれていて、しかも青い。農業用の何かの布でしょうか。とにかく、見る者としては直感が働かずに分かりにくい。ひょっとしたら画家は「この位置にこういう形と色を置きたかった」のかも、と思います。リアリズムという思い込みが分かりにくくしているのかも知れない。それと、何となく画家の心の不安定さを暗示しているような気もします。ゴッホの生涯を知っているからそう考えてしまうのだろうけど・・・・・・。

この絵で直感的に思い出すのは、ひろしま美術館が所蔵する『ドービニーの庭』(1890.7)です。これはゴッホの絶筆かとも言われています。個人の庭園(画家のドービニーの邸宅)なので農村風景とは描かれているものが違いますが、両方の絵とも緑を基調とした美しい色使いが印象的です。

ドービニーの庭.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「ドービニーの庭」(1890.7)
(ひろしま美術館)



そのゴッホですが、No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」で、ゴッホがサン・レミの病院で描いた『雨』という作品を引用しました。広重の浮世絵のように雨を線で表現しているのですが、そのとき、エドガー・ドガが同じように雨を線で描いた競馬の絵をあげました(英国のグラスゴーにある絵)。

ドガは競馬をテーマにした絵をいろいろ描いていますが、ティッセン・ボルネミッサ美術館にも競馬の絵があります。カルメン・コレクションにある『風景の中の競馬』というパステル画です。

風景の中の競馬.jpg
エドガー・ドガ(1834-1917)
「風景の中の競馬」(1894)
(ティッセン・ボルネミッサ美術館)

クロスカントリー・レースというのでしょうか、野原を駆け巡る競馬のようです。ティッセン・ボルネミッサ美術館のカタログには「この色彩はコーギャンの影響かもしれない。1893年にドガはゴーギャンの《月と大地》を購入している」という主旨の記述があります。もちろん断言しているのではないのですが、そう言われてみると、色使いは "ゴーギャンっぽい" 気もします。しかしこの作品の一番の特徴は、夕日に映える山を背景に8人のジョッキーと馬を野原に配置した "心地よい構図" でしょう。

Jockeys in the Rain.jpg
エドガー・ドガ
「雨の中の騎手」(1880/81)
(Kelvingrove Art Gallery and Museum)



ドガと同じく、カルメン・コレクションにあるジョルジュ・ブラックの『海の風景、エスタック』という作品です。マルセイユ湾の漁村、エスタックを描いています。

海の風景、エスタック.jpg
ジョルジュ・ブラック(1882-1963)
「海の風景、エスタック」(1906)
(ティッセン・ボルネミッサ美術館)

この絵を見て直感的に思うのは、バーンズ・コレクションにあるアンリ・マティスの『生きる喜び』(1905-6)との類似性です(No.95「バーンズ・コレクション」参照)。遠景に海があり、近景の左右に木々が画面を取り囲むように配置されている構図が似ています。現実とは遊離した、明るくて色とりどりの色彩も "マティスっぽい" 感じです。ブラックはピカソとともにキュビズムを作り上げた画家ですが、これはそれ以前のフォービズムの時代の作品です。

Barnes13 - 生きる喜び.jpg
アンリ・マティス
「生きる喜び」(1905/6)
(バーンズ・コレクション)


マドリードの3つの美術館


ティッセン・ボルネミッサ美術館を含むマドリードの3つの美術館は近接しています。ティッセン・ボルネミッサ美術館はプラド美術館の目と鼻の先だし、ピカソの『ゲルニカ』があるソフィア王妃芸術センターはプラド美術館から歩いて行けます。その意味でマドリードは、パリやニューヨークやロンドンと同じく、"美術館めぐり" をするなら最適の都市の一つでしょう。

MadridMap.jpg
マドリード中心部
左上のソル(太陽の門)から右下のアトーチャ駅までのマドリード中心部。3つの美術館(赤丸)は 1km 内外の範囲にある。
(Google Map)




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No.163 - ピカソは天才か(続) [アート]

今回は、No.46「ピカソは天才か」の続きというか、補足です。No.46 では、ピカソがなぜ天才と言えるのかを書いた人の文章を引用しましたが、その中で中野京子さんがピカソの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1900)を評した文章を引用しました。最近、中野さんは『名画の謎 対決篇』(文藝春秋 2015)という著書でこの絵を詳しく解説していたので、それを No.46 の補足として紹介したいと思います。

『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』というと、オルセー美術館にあるルノワールの絵(1876)年が大変に有名ですが、24年後にピカソも全く同じ場所を描きました。


ルノワールがムーラン・ド・ラ・ギャレットを描いて24年後の1900年、スペインから若い画家がパリへやってきた。パリでの成功イコール世界制覇を意味したので、各国からうじゃうじゃ集まってきた画家の卵のひとりである。だがスペイン生まれの小柄な19歳は、卵というには達者すぎる腕前だった。

パリ到着の二ヶ月後、彼はムーラン・ド・ラ・ギャレットへ何度か通い、あっという間に一枚の絵を描きあげる。もとより早描きだった。美術学校入学試験の制作でも、期限が一ヶ月というのにたった一日で描き終えたほどだ。自分が天才だと知っていた。小さなころからラファエロのように描けたと豪語していた。パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・ホアン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソという長すぎる名前の若者は、傲慢ごうまんでもあった。


Picasso - Le Moulin de la Galette2.jpg
パブロ・ピカソ
ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1900)
(ソロモン・R・グッゲンハイム美術館)

この絵はルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」と全く同じ場所で、同じようにカップルがダンスに興じる光景を描いたものです。しかし、ルノワールの絵は昼、ピカソの絵は夜です。そのためか、何となく "ムンク作品" を思わせる描き方になっている。この時期、ピカソは似たような画風の作品を何枚か描いています。パリに出たピカソがまず作り上げた「画風」と言えるでしょう。中野さんの解説を続けます。


同じダンスホール。だがルノワール作品が昼の顔だとすれば、ピカソのは夜の顔。同じ顔とも思えない。昼のにぎやかなざわめきに比べ、夜の店内からただよってくるのは、ひそやかなささやきとむせかえる香水の香りだ。昼に踊っている健康的な客たちと違い、夜の客の不健全さは語るまでもない。にじむような筆致で描かれた、闇を背景にあやしくうごめく女たちは、どこかしらムンク作品を彷彿ほうふつとさせ、退廃の気配が色濃い。

これは戸外の陽光と店内の人工灯の差だけではなく、人生の陽の部分だけを見たがるルノワールと、恐るべき眼通力で人の裏の裏まで見透みすかし、「人間の本性は苦悩だ」と言いきったピカソとの、つまた、女の桃色の肌は愛しても妻を大切にしたルノワールと、さまざまなタイプさまざまな階級の女性たちをとりこにしては残酷に捨てていったピカソとの、あまりにかけ離れた感性の差にもよるのだろう。

中野京子『同上書』

ルノワールとピカソの差は、昼と夜の差というだけでなく、24年の時を経てムーラン・ド・ラ・ギャレットというダンスホールが "変質した" ことがあると言います。つまり、ルノワールの時代以前は比較的安価に庶民にダンスという娯楽を提供する場だった。しかしルノワールの時代以降、店はプロのダンサーによるフレンチ・カンカンを提供するようになり、従って料金も上がった。そうなると金持ちの "観客" が増え、金持ちが増えると客を装った娼婦も増えた・・・・・・。ルノワールの絵は、ムーラン・ド・ラ・ギャレットが "健全" だった時代の最後の輝きなのです。


ピカソが現れた時、ルノワールの絵の名残なごりは店のどこにも残っていなかった。貧しいけれど精一杯着飾り、輝くような笑顔で音楽とダンスに身をまかせていた娘たちは消え、女性を物色しにきた上流階級の男たちと、その男たちから巻き上げた金で贅沢な毛皮を着込んだ女たちが、深海でゆったりと泳いでいる。

それだけではない。ここには新たな人種も描きこまれている。画面左手前のテーブルに座る赤いコートの若い女性は、隣のほっそりした年上女性にあごをつかまれ、頬にキスされ驚いている。誘惑の瞬間だ。画面中央にはうっとりと踊る女同士のカップルもいる。そのすぐ左側には踊る女性を品定めするような女性も見える。

そうなのだ。いつしかムーラン・ド・ラ・ギャレットは、レズビアンのまり場として有名になっていた。わざわざアメリカからも、その趣味の女性たちが訪れ賑わった。時はめぐり、昼の顔は完全に真夜中の顔となり果てた。

それにしてもピカソは19歳で、しかもちょちょいのちょいというように描きあげたのだった。アンファン・テリブル。

中野京子『同上書』

現代なら、LGBT(の "L")と言うのでしょうか。その様子をあからさまに描いた絵というのは、そう多くはないのではと思います。ロートレックが描いた "ベッドの2人の女性の絵" がありますが、それはあくまで娼館という特別の場所でのシチュエーションです(浮世絵の類似の絵も遊郭です)。そいう意味でこのピカソの絵は貴重な作品だと思います。

No.46「ピカソは天才か」でも紹介したように、中野さんはピカソの "天才のあかし" として、この絵をあげています。上の引用の最後で、コクトーの小説の題名、「恐るべき子供たち = アンファン・テリブル」を引用しているのがその意味ですね。確かにそうだと思います。「ラファエロのように描けた」少年画家が、ラファエロとは全く違う絵画手法で、誰も描かなかったテーマを、パリに出てきてからわずか3ヶ月で描いてしまったのだから、天賦の才があったとでも言うしかないでしょう。



『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』についてはここまでで、別の絵画作品をとりあげます。この文章は No.46「ピカソは天才か」の "補足" ですが、No.46 にはピカソの "青の時代" の絵を掲げなかったので、以下に追記します。


青の時代(1901-1904頃)


ピカソのいわゆる「青の時代」の絵は日本にも数点あります(たとえばポーラ美術館の『海辺の母子像』1902)。ここでは、ロンドンにある絵を掲げておきます。

Picasso - Girl in a chemise.jpg
パブロ・ピカソ
シュミーズの少女」(1903)
(テート・ギャラリー)

思うのですが、画家は「自分独自のスタイル」をいかに確立するかが "命" と言えるでしょう。"職人としての画家" の時代はともかく、画家が芸術家として認知された以降、ないしは自らを芸術家と意識した以降は特にそうだと思います。初めての絵を見て「あっ! XXXX の絵だ」(XXXX は画家の名前)と分かる画家は実に多い。それは日本の画家でも西洋の画家でも同じです。画家の名前がすぐに出てこなくても、見たことのある画家の絵だと直感できる。

"スタイル"とは、絵の「描き方・画風」か、絵にする「モチーフ」か、あるいはその両方です。ここに独自性を出せるかどうか、先人にはない自分だけの個性を表現できるかどうかに画家の生命いのちがかかっている。有名な画家は数多いし、高値で取引される絵も多いわけですが、人々が何を評価しているかというと、その根幹のところは「スタイル」だと思います。高名な画家の絵で、独自のスタイルを確立する前の若い頃の作品に高値がついたりもしますが、それはいわば美術史的価値・伝記的価値に値がついたのであって、絵画の本質とは離れています。

もちろん "スタイル" は、一つでなくてもいいわけです。一人の画家に複数の "スタイル" があってもいい。その "スタイル" を模索し、確立することに画家は命を削るわけです。作品を貫く "スタイル" があまり感じられないけど高名な画家というのは、あまり思いつきません。速水御舟はそうかも知れませんが、ただ、御舟の場合は模索の途中で夭折したためと考えられます。



ピカソの話に戻ります。ピカソは少年時代から「ラファエロのように描けた」と豪語していたのは有名な逸話です。しかし「ラファエロのように描く」だけでは芸術家とは言えません。それは早熟だった、と言っているに過ぎない。「ラファエロ」というのはイコール、西洋絵画のお手本という意味です。

しかし『シュミーズの少女』が描かれた時代の絵 = 青の時代の絵は違います。少年時代に「ラファエロのように描いた」画家が20歳代前半で描いた青の時代の絵には、他の画家にはない独特の "スタイル" があります。

プルシアン・ブルーの深い青を多用した色使い
独特の描線で描かれた人物
"憂い" や "悲しみ"、"不安"、"孤独" などを感じるが、それを突き抜けた人間の "純粋さ" や、さらには "崇高さ" も感じる表現

などです。これは『シュミーズの少女』という絵だけでなく「青の時代」に共通しています。明らかに独自の "スタイル" が出来上がっている。このブログで「青の時代」の絵の画像を唯一掲載した、バーンズ・コレクションの『苦行者』という絵にも共通します(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room18 North Wall にある)。

ピカソは「青の時代」の作品について、エル・グレコの人物描写の影響を受けたと語ったそうです。しかしだからといってピカソの独創性にとってのマイナス・ポイントにはなりません。すべての芸術は過去の先人の作品の蓄積を踏まえた上で、芸術家としての独自性を発揮するものだからです。ピカソがスペイン画壇の偉大な先輩の影響を受けて「青の時代」の作品群を創り出したとしたら、それは十分に納得できることです。

そしてここからが本題で、題名の「ピカソは天才か」というテーマに関することです。ピカソは「青の時代」に確立した "スタイル" を全く捨て去ってしまったのですね。No.46「ピカソは天才か」にも書きましたが、「青の時代」の絵を絶賛する人は多いわけです。ピカソ作品に否定的な作家の開高健氏でさえ「青の時代」の作品を大いに評価していたことを No.46 に書きました。もし仮に「青の時代」のスタイルをもっと続けていたなら、ないしは続けないまでも、折りにふれて「青の時代」のスタイルで作品を描いていたなら、もっとたくさんの傑作絵画が生まれたと思うのは私だけではないと思います。それをピカソは捨て去った。

「青の時代」の絵(たとえば『シュミーズの少女』)を見ていると、なんとなく画家が次のようにつぶやいているように思えるのです。

  画家の皆さんは独自のスタイルを作り出そうと躍起になっていらっしゃるようですが、別に難しいことではありませんよ。たとえばこの絵はどうです? こういう風に少女を(人間を)描いた画家は、かつて無かったでしょう。私は最近このようなスタイルで描いていますが、もうすぐ別の画風に転じるつもりです ── ピカソ

全くの考え過ぎでしょう。ピカソは友人の自殺に衝撃を受けて「青の時代」に入ったと、美術史では解説されています。ピカソも苦しんだ末に「青の時代」の傑作群を作り出したのだと思います。全くの考え過ぎだとは思いますが、しかしそういう風に想像したくなる。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』と『シュミーズの少女』を比べると画風が全く違いますが、その時間間隔は2~3年です。ピカソの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』の評論で中野京子さんは、

  それにしてもピカソは19歳で、しかもちょちょいのちょいというように描きあげたのだった。アンファン・テリブル。

と書いていますが、それに習って言うと、

  ピカソは20歳代前半で、ちょちょいのちょいというように一連の "青い絵" を描きあげ、しかもそれを捨てたのだった。

と想像してしまうのですね。そして、ここにこそ天才画家の天才たるゆえんがあると思います。創造し、しかも捨て去ったところに。



 補記 

ピカソは画家として生涯、変化し続けた人ですが、葛飾北斎との類似性が指摘されています。二人の美術の専門家、美術評論家の故・瀬木 慎一氏と、浦上蒼穹堂(東洋古美術専門店)の主人・浦上 満氏の発言を引用しておきます。瀬木氏は生前のピカソ本人に面会した人です。また浦上氏は世界一の『北斎漫画』コレクターです。


ピカソは日本の画家の中では北斎を尊敬していました。北斎は年とってから自分のことを「画狂老人」と言っていた、あれを非常に気に入って「俺はヨーロッパの画狂老人だ」と言ったくらいです。

瀬木慎一
NHK 日曜美術館(2010.5.23)
「ピカソを捨てた花の女」より

ちなみに、番組タイトルの「ピカソを捨てた花の女」とは、画家のフランソワーズ・ジローのことです。


北斎はとにかく変化へんげの画家なんです。こういう画家は西洋に一人しかいません。それはピカソ。ピカソは明らかに北斎を意識していますよ。自分で北斎の雅号にならった『西洋画狂人』と名乗っていたといわれます。近年わかったことですが、ピカソは春画も集めていて、彼のキュビズムは春画からきているという説もあるんです。

浦上満
雑誌『東京人』
(No.378 2016.12)

変化へんげの画家」というのは確かにそうです。北斎もピカソもさまざまなスタイルで描いていて、画風というようなものを完全に超越しています。

浦上氏が言うように、ピカソは浮世絵の春画を収集していました。2009-10年、バルセロナのピカソ美術館で「秘められたイメージ:ピカソと日本のエロティック版画」という企画展が開かれ、ピカソと春画の関係に焦点を当てた展示がされました(バルセロナ・ピカソ美術館の公式ホームページ参照)。「彼のキュビズムは春画からきているという説もある」というのは、この展示会でも示された仮説です(春画における人体の部分的なデフォルメのことを言っている)。

Woman and Octopus.jpg

北斎の春画に『海女と蛸』という有名な作品があります。こういう絵を描く北斎の想像力(というか "妄想力")のすごさに驚きますが、この北斎の絵からインスピレーションを得たピカソの作品もバルセロナで展示されました。女性とともに描かれたのは、蛸ではなくイカになっています。実はこのピカソの "春画" は、本文で引用した『シュミーズの少女』と同じ年に描かれたのですね(1903年)。つまり年代だけをみると "青の時代の作品" ということになります。『シュミーズの少女』のような絵を描くと同時に "春画" を描くというのも、北斎(ないしは当時の浮世絵師)を連想させます。

北斎とピカソががもう一つ似ているのは、ものすごい多作だということです。北斎の作品数は "数え切れない" というのが正解で、ざっくり言うと "数万点" でしょう。ピカソもそれぐらいはある。「変化」と「多作」の画家、描き続けることに人生をかけた画家が、北斎とピカソです。

マティスはフォービズム仲間の "後輩" であるアルベール・マルケを「我らが北斎」と呼びました。マルケはフォービズムにしては穏やかな色使いで風景を中心に描いた画家で、マティスの言は「富嶽三十六景」などにみる北斎の風景画家としての側面を言っているのか、あるいはマルケが卓越したデッサン力の持ち主でそれを北斎になぞらえたのしょう。しかし北斎の画業のが極めて多岐に渡ることを考えると、「ピカソ=ヨーロッパの画狂老人」の方が北斎の本質をついています。

とにかく、ピカソが北斎を強く意識していたことは確かなようです。

(2017.1.14)



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No.161 - プラド美術館の「怖い絵」 [アート]

前回はプラド美術館の二つの絵(モナリザの模写作品、エル・グレコの『胸に手をおいた騎士』)についてでした。その続きで、プラド美術館にある別の絵について書きます。No.19「ベラスケスの怖い絵」の続きという意味もあります。


現地に行かないと分からない


旅行の楽しみの一つは、さまざまなシチュエーションにおける「発見」です。これだけ各種の情報が容易に手に入る時代でも、現地に行かないと分からないことがいろいろあります。「食事」や「ショッピング」は旅の楽しみの大きな要素ですが、さまざまな「発見」も旅行の楽しさを作っているポイントでしょう。

プラド美術館.jpg
プラド美術館
(Wikipedia)
プラド美術館にも、現地に行ってみて初めて知ることがありますが、その一つは「ヌードを描いた絵が非常に少ない」ということです(些細ささいですが)。これは同じように古典絵画(18世紀かそれ以前に描かれた絵画)をメインのレパートリーとするルーブル美術館やロンドンのナショナル・ギャラリーと違うところです。ルーブルにはギリシャ・ローマ神話を題材に、女性神を裸体・半裸体で描いた絵がたくさんあるのに、プラド美術館にはそれがあまりありません。ティツィアーノやルーベンスなど、無いことはないが非常に少ない。これは「プラド美術館の特徴」と言ってよいと思います。

そんなことはないはずだ、"あの絵" があるではないか、と思われるかも知れません。その通りです。誰もが知っているヌードの超有名絵画があります。ゴヤの『裸のマハ』と『着衣のマハ』の2部作です。しかしこの絵はプラド美術館においては例外的なのです。


『マハ』2部作


着衣のマハ.jpg
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)
着衣のマハ」(1797/1800)
(プラド美術館)

裸のマハ.jpg
裸のマハ」(1800/1805)
(プラド美術館)

ゴヤのこの2部作については、さまざまな憶測やエピソードが語られてきました。絵の発注主は誰かとか、ゴヤはなぜこの依頼を受けたのかとか、また重要なのは「モデルは誰か」です。『着衣』の方が後から注文されたので、発注主は屋敷にまず『裸』を飾り、その上に『着衣』を飾ってカムフラージュした・・・・・・うんぬん。

しかし、この絵にまつわるさまざまなエピソードなかで重要なのは、

  『裸のマハ』を描いたために、ゴヤはあやうく異端審問所に呼び出されるところだった

という件です。これからも分かることは「スペインはヌードについては非寛容の国だった」ということです。プラド美術館に神話を主題にしたヌードの絵が少ないのもなんとなく納得できます。ちなみに、ゴヤの大先輩にあたるベラスケスの『鏡のヴィーナス』(1647/51。ロンドン・ナショナル・ギャラリー)はヴィーナスの裸体の後姿を描いていますが、これはイタリア滞在中に描かれた絵です。この絵も「マハ2部作」を所有していた同じ人物が所蔵していた "個人蔵 "(Private Collection)の絵でした。

しかしプラド美術館には、ゴヤのほかにもう一つ非常に印象に残る「裸体画」があります。その絵は、

ゴヤの「マハ」のように、同じポーズで「着衣」と「裸体」を描いた2部作で、

ゴヤの先輩筋にあたる、スペインの宮廷画家の作であり、

しかも、秘密裡に描いたゴヤとは違って、国王の指示によって描かれた絵

です。それは、成人女性ではなく少女を描いた2部作で、『マハ』と同じように、プラド美術館では同じ部屋に展示してあります。No.45「ベラスケスの十字の謎」でも少し触れた絵ですが、タイトルにあげたように、ちょっと「怖い絵」です。


『少女』2部作


エウヘニア・マルティネス・バリェーホ(着衣).jpg
ファン・カレーニョ・デ・ミランダ(1614-1685)
エウヘニア・マルティネス・バリェーホ」(1680頃)
(着衣の奇怪少女)
プラド美術館

エウヘニア・マルティネス・バリェーホ(裸体).jpg
エウヘニア・マルティネス・バリェーホ」(1680頃)
(裸体の奇怪少女)
プラド美術館

ファン・カレーニョ・デ・ミランダはベラスケスより15歳年下の宮廷画家で、つまりベラスケスの後輩ということになります。題名であるエウヘニア・マルティネス・バリェーホが、モデルとなった少女の名前です。

上に掲げた絵の題名は、プラド美術館の公式カタログ(日本語)より採りました。「奇怪少女」とはちょっと変な日本語ですが、オリジナルの題を推測してみると、No.45「ベラスケスの十字の謎」でこの絵を引用したときにつけた英語のタイトルは、

着衣)
Eugenia Martinez Vallejo
"The Monster",dressed

裸体)
"The Monster",nude,or Bacchus

でした。これは No.45 をアップした2012年1月1日時点でのプラド美術館の英語のホームページの記述です(現在は変更されている)。ここで言う Monster(スペイン語のホームページでは Monstrua)がキーワードですね。これは「怪物」とか「奇形」という意味です。それを日本語カタログでは「奇怪少女」と訳したのだと推測できます。プラド美術館の公式カタログには次のように説明してあります。


カレーニョは本作ではベラスケスの流れを汲むスペイン肖像画らしい題材を選択し、特殊な身体的または精神的障害をもった人物をモデルとしている。これはスペインの宮中では特に好まれたテーマであり、この作品も国王カルロス2世がその専属画家であったカレーニョに制作を命じたものである。

(プラド美術館カタログ)

「ベラスケスの流れを汲むスペイン肖像画らしい題材」とは、No.19「ベラスケスの怖い絵」にあげたように、ベラスケスが「特殊な身体的または精神的障害をもった人物」の肖像を10枚程度描いたことを指しています。スペイン宮廷は組織的にそのような人物を探しだし「慰み者」として宮中に住まわせていました。小説「ベラスケスの十字の謎」(No.45)は、そのようにしてイタリアから連れてこられた(お金で買ってこられた)小人症の少年を主人公にしているのでした。

「スペインの宮中では特に好まれたテーマ」とあります。我々がふつう眼にするのはベラスケスやカレーニョ・デ・ミランダといった有名画家の作品だけなのですが、実は「特殊な身体的または精神的障害をもった人物の肖像」はそれ以外にもたくさんあることが推測できます。プラド美術館のカタログによる、カレーニョ・デ・ミランダの絵の解説の続きです。


この女児は六歳の時点ですでに約70kgの体重があり、宮廷に召しだされた際には大変な話題となった人物である。一作目で彼女は銀ボタンのついた豪華なブロケードのドレス姿で描かれており、その描写には非常に繊細で温かいヴェネチア派のタッチが駆使されているが、これはモデルの不機嫌で疑い深そうな表情を和らげるための工夫である。

二作目は裸体で描かれており、身につけているのはわずかに葡萄の葉と冠だけである。あるいはワインの神バッカスを象徴しているのかも知れない。

(プラド美術館カタログ)

引用に出てくる "ブロケード" とは、多彩な文様を "浮かし織り" にした織物を言います。

解説には書いていなのですが、なぜ2作品も描かれたのでしょうか。「豪華なドレス」の作だけでもよいはずなのに・・・・・・。おそらくこれは、少女が何かの宮廷のイベントの際に、裸にされてバッカスの格好をさせられたからだと考えられます(推測ですが)。

少女は6歳の時に体重が70kgだったとあります。いわゆる肥満児を通り越して "超肥満児" です。現代になら無いことはないと思いますが、時代は17世紀のスペインです。庶民の子供が単なる栄養過多で超肥満児になるとは考えにくい。おそらくこの子は何らかの体の異常があって、このような体になったのでしょう。当時としては、非常にめずらしかった。だから宮中に差し出され「大変な話題」になった。おそらく両親にはお金が渡ったのでしょう。



この2枚の絵、特に「裸」の方は、ちょっと「愕然とする」絵です。現代なら児童ポルノ禁止法で逮捕される現場に立ち会ったような感覚を受けます。当時のスペインの宮廷の雰囲気が強烈に匂ってくる絵であり、中野京子さん流に言うと「怖い絵」です(No.19参照)。しかしそういった「現代人の感覚」だけで単純に過去を見てはならないはずです。


ヘンテス・デ・プラセール(楽しみを与える人々)


プラド美術館の公式カタログ(日本語)には、次のような記述があります。


近代ヨーロッパにおけるほとんどの宮廷や貴族の邸宅には「ヘンテス・デ・プラセール(楽しみを与える人々)」と呼ばれる職制があった。彼らは道化や、短身、狂人、奇形などの人々で、スペインにおいてはカトリック両王の時代から18世紀初頭まで王族や貴族のそばに仕えた。特異な身体的特徴を持ち、滑稽な姿の彼らは、貴族たちの優雅で完璧な姿を強調するための比較物として利用されていた。また、彼らが貴族たちを楽しませるための役割を担ったと同時に、貴族たちは彼らを庇護することによって恵まれない者たちに対する寛大さをアピールしたのである。

(プラド美術館カタログ)

補足しますと「カトリック両王」とは、レコンキスタの末にスペイン王国を成立させたアラゴン王・フェルディナンド2世(1452-1516)と、カスティーリャ女王・イザベル1世(1451-1504)を指します。

また「ヘンテス・デ・プラセール」はスペイン語の「gentes de placer」で、gentes は "人々" の意味、placer は "楽しみ" です。プラド美術館の英語のホームぺージには「people who provided amusement」と解説してあります。「楽しみを与える人々」ですね。簡潔に「慰み者」と訳してもいいと思います。

プラド美術館の解説のポイントは、下線をつけたニヶ所だと思います。まず「近代ヨーロッパにおけるほとんどの宮廷や貴族の邸宅には "楽しみを与える人々" の職制があった」とされているところです。つまりスペインだけのものではない。

二つ目は「貴族たちは彼らを庇護することによって恵まれない者たちに対する寛大さをアピールした」というところです。宮廷や貴族の館に住まわすことによって、現代風に言うと「社会的弱者に対する福祉」という面がないわけではない。もちろん言葉通り、道化をさせて楽しんだり(裸にしてバッカスの格好をさせる!)、解説にもあるように優越感に浸るのが主目的だったのだろうけど・・・・・・。

現代人の我々がどう思おうと、「慰み者」は宮廷や貴族の間で(スペインだけでなく)普通にあった。このことは踏まえておくべきだと思います。

ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)
「ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン」(1633)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

イングランド国王・チャールズ1世の宮廷画家でったアンソニー・ヴァン・ダイクが、チャールズ1世の妃であるヘンリエッタ・マリアを描いた作品。肩に猿を乗せたジェフリー・ハドソンが傍らに描かれている。「特異な身体的形状をもった人」を宮廷に住まわすのがスペインだけではなかったことが分かる。


画家は何を描いたのか


カレーニョ・デ・ミランダが描いた『エウヘニア・マルティネス・バリェーホ』の絵に戻ります。この絵は一見「怖い絵」のように(現代人からすると)思えますが、実はそうとも言えないわけです。プラド美術館の解説によると、この絵はカルロス2世の命で描かれました。カルロス2世はカレーニョ・デ・ミランダが仕えたスペイン国王です。国王の命令で宮廷画家が絵を描くのはあたりまえです。そのあたりまえのことの結果として、宮廷に連れてこられた少女の2枚の絵がある。

しかし画家が意図したかどうかは別にして、この2枚の絵で表現されているものを端的に言うと、少女の「怒り」です。身体的異常(おそらく)で超肥満であるがために宮廷に連れてこられ、「道化」「慰み者」にされる。裸にまでされる。着衣の絵も、この少女には全く不釣り合いな豪華すぎる衣装を着せることによって、そのギャップ感を貴族たちは楽しんだと想像されます。こんな "特別な" サイズの豪華な衣装は特注するしかないわけです。王侯・貴族の子どもの "お下がり" ではありえない。まさに「楽しみを与える者」です。そういった宮廷人、貴族に対する言いようのない「怒り」が、おのずと現れてしまっていると思うのですね。もちろんこの絵を描いた画家も、彼女が怒りを向けている相手です。

この絵から連想するのは、ベラスケスの『セバスティアン・デ・モーラ』です。No.19「ベラスケスの怖い絵」で引用した、中野京子さんの『セバスティアン・デ・モーラ』の評論を、ここでもう一度引用します。


こぶしを握りしめ、短い足を人形のようにポンと投げ出して座るこの慰み者は、明らかに「何者か」であって、道化という言葉から連想するユーモラスなところは微塵もない。彼は、自分が他の人々に優越感を与えるために飼われていることを知っており、知的な眼に抑制した怒りのエネルギーをたたえ、あたかも目に見えない何かに挑むかのように、真っ直ぐこちらを睨みつけてくる。彼の精神と肉体の、魂と現実の、大きすぎ残酷すぎる乖離が、見る者にひりひりした痛みさえ感じさせる。

中野京子
『怖い絵 2』
(朝日出版社。2008)

この文章は、そのままカレーニョ・デ・ミランダの『エウヘニア・マルティネス・バリェーホ』の評論としても当てはまりそうです。セバスティアン・デ・モーラは短身ではあるが大人おとなであり、その大人をベラスケスが描いた絵の評論が上の引用です。では、大人ではない「少女」も、中野さんが書いたように考えるものでしょうか? 程度の差はあれ、考えると思いますね。人間なのだから。

そして直感的に感じるのは、カレーニョ・デ・ミランダという人の「画力」です。ベラスケスは "画家の王" と言われていますが、カレーニョ・デ・ミランダも、どこにでもいそうな宮廷画家ではなさそうです。真実(の一端)を明るみに出す "画家の筆の力" を感じます。

ここで思い出すのが、カレーニョ・デ・ミランダが自分の主人であるカルロス2世を描いたプラド美術館の絵です。その絵を『怖い絵 2』にある中野京子さんの評論で紹介します。これは "真に怖い絵" です。


カレーニョ・デ・ミランダの怖い絵


カルロス2世は、ベラスケスが仕えたフェリペ4世の子です。フェリペ4世には跡継ぎに恵まれず、次々と生まれた8人の子は女の子ひとりを残して死んでしまいました。それどころか、王妃も分娩がもとで亡くなったのです。焦った王は、ヨーロッパ中に適当な再婚相手がいないと見るや、妹の娘 = 姪と結婚しました。4代続けての血族婚ということになります。

その2度目の王妃との間にできた4人の子も次々と死に、残るはマルガリータ王女一人となりました。ベラスケスの『ラス・メニーナス』の中心に描かれたのがマルガリータ王女です。万事休す、女王をたてるしかない、と思ったとき、思いがけず待望の男の子が生まれました。マルガリータ王女が10歳の時で、それがカルロス2世です。

以上は中野さんの『怖い絵 2』からの要約です。ここからは本から直接、引用しますが、数ある中野さんの絵画についての評論の中でも屈指の名文です。男の子を得たフェリペ4世の喜びは長くは続かなかったのです。男の子は「呪われた子」との噂が立つような子だった。

カルロス2世.jpg
カレーニョ・デ・ミランダ(1614-1685)
カルロス 2世」(1675頃)
プラド美術館

父親(引用注:フェリペ4世)は激しく落胆した。三つになってもまだ乳を飲み、立つことすらできず、心身ともに脆弱ぜいじゃくで知能も低く、見た目もひどく悪い我が子を恥じ、なるべく人の目に触れぬよう配慮し、どうしても人前に出すときにはベールをかぶせたことすらあった。そしてひたすら呪いを解こうと、子どもの周りには乳母うばの他におおぜいの医者、占星術師、祈祷師きとうしはべらせた。祈祷の効果はずいぶんあったと言えるだろう。今にも死ぬかと思われながらその都度つどどうにか持ち直し、誰ひとり想像もしていなかった、三十九歳まで生きのびることができたのだから。

中野京子『怖い絵 2』
(朝日出版社。2008)

フェリペ4世は六十歳で死去し、自動的に4歳のカルロス2世が即位します。そのカルロス2世は10歳になっても読み書きすらできなかったといいます。カレーニョ・デ・ミランダが描いたカルロス2世の肖像画の解説です。


十三、四歳のカルロス二世を描いたこの肖像画には、明らかに先代のベラスケス様式が見てとれる。ただしベラスケスは対象をことさら粉飾しはしなかったが、カレーニョの方には宮廷風の慇懃いんぎんな理想化がある。とりわけ本作がそうだという証拠には、他の画家たち(この時期、宮廷画家は十五人もいた)によるいくつもの肖像やスケッチ、また同時代人がカルロス二世の外見について書いた文献が挙げられる。宮廷肖像画の宿命として、二、三割アップは目をつぶる範囲内であろうが、どうやらこの絵はそれをはるかに超えたものだったらしい。

とはいえ、少年王がハプスブルク家代々の特徴を受け継いでいることは、控えめながらも表現されている。父も祖父も曾祖父も高祖父も持っていた、突き出た下あごと分厚い下唇(マリー・アントワネットの受け口にもかすかに継承されている)がそれだ。その上カルロス二世は細い弓なりの顔、長くれた鼻、全くみ合わない歯(終始、よだれを流していたという)、ほとんど太陽光を浴びなかったせいで病的にあお白い肌 ── たとえ唇に紅をさしても、幽鬼の如く暗がりにぼうっと白く浮かび上がるその姿に、言いしれぬ戦慄せんりつを覚えない者はいないだろう。髪だけが若々しい美しさに波打っている。

ここはマドリッドにある王宮内「鏡の間」。灼熱の戸外とは無縁に、ひんやり薄暗い。金縁の赤い緞帳どんちょうが舞台美術よろしくたくしあげられた中に、すばらしく仕立ての良い黒ビロードの衣装に身を包んだ若きスペイン国王が立つ。胸には金羊毛きんようもう騎士団の勲章をぶら下げ、胸には剣を差し、左手には帽子、右手には王たることを示す勅令の紙片をもって、こちらへ眼を投げかけてくる。黒いだけの、無感情無感動の魚の眼を。

中野京子『同上書』

引用が長くなりましたが、文章には "勢い" というものがあるので、変なところでカットしてしまうと "伝わらない" ことがあります。ともかく「幽鬼の如く暗がりにぼうっと白く浮かび上がる姿」であり、「髪だけが若々しい美しさに波打つ」のとは対象的な、「黒いだけの無感情無感動の魚の眼」に戦慄を覚えた筆者の思いが伝わってきます。

血族結婚を何代も繰り返した結果で生まれた少年王の姿、第一級の宮廷画家が美化を重ねても隠せない異様な姿、それがこの絵の "怖い" ところです。そして、中野さんがあげるこの絵のさらに "怖い" ところ、それは少年王の「影」です。


少年は成長が遅く、年齢よりずっと小柄な上に片足を引きずって歩いていたというが、画家はそんな現実をおおい隠し、威厳ある中にもリラックスしたポーズを描いている。脚も安定して健康だ。ところが ・・・・・・ この影はどうだろう? テーブル下のライオン像が形作る自然な影に比べ、カルロス二世の足もとからすうっと伸びて存在を主張するこの影は、どことなく薄気味悪い。カーブの仕方、極端な先細りが連想させるからかもしれない、悪魔が持つという獣の脚を ──

中野京子『同上書』

この少年に何の罪もないことは明白ですが、それでいてこの一見してわかる病的な姿、悲惨な姿は、見る人を愕然とさせます。この絵に比べると、さきほどの肥満の少女、エウヘニア・マルティネス・バリェーホの方が格段に人間的だという感じがします。



この絵の少年王、カルロス2世の専属の画家であったカレーニョ・デ・ミランダのことです。中野さんは、少年王の絵に関して「カレーニョ・デ・ミランダの隠蔽いんぺい工作は、成功したとは言いがたい」と書いています。確かにそうですが、なぜ成功しなかったのでしょうか。

それは美化に美化を重ねても隠し通せないほど、カルロス2世が "ひどかった" からだとも考えられます。この絵ができあがったとき、実物よりずいぶん "いい" ことで少年王や周囲は満足したと考えられる。

しかし別のことも考えられます。それはカレーニョ・デ・ミランダという人が優れた画家だったということです。肖像画家のキモのところは、モデルの真実の姿を、その内面まで含めてえぐり出せる技量でしょう。宮廷画家であればモデルを美化するのはやむをえない。しかし優れた画家であればあるほど、美化では隠せない部分がおのずと現れてしまう。最初に掲げた『マハ2部作』を描いたゴヤも、そういったタイプの絵を描いています。『エウヘニア・マルティネス・バリェーホ』の絵のところで、画家の「画力」を感じると書いたのは、このカルロス2世の絵が念頭にあったからでした。

画家、芸術家、アーティストも、その時代の環境、時代背景に沿って生きるしかないわけです。カレーニョ・デ・ミランダが描いた「少女」と「少年王」の "怖い絵 " は、はからずもその時代の雰囲気の一面を如実に表現した作品となり、そのことによって、芸術がもつ重要な意味を示していると思います。




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No.160 - モナ・リザと騎士の肖像 [アート]

No.156「世界で2番目に有名な絵」の続きです。No.156 では、葛飾北斎の『神奈川沖浪裏なみうら』が "世界で2番目に有名な絵" としたのすが、もちろん "世界で1番有名な絵" は『モナ・リザ』です。そして『モナ・リザ』は "一見どこにでもありそうな女性の肖像画" にもかかわらず、なぜ "世界で1番有名な絵" にまでなったのか、No.156 ではその理由を推測しました。

こだわるようですが、その理由について別の角度から考えてみたいと思います。今回は「モナ・リザの模写」とされる絵との対比からです。


プラド美術館の "モナ・リザ"


プラド美術館に『モナ・リザの模写』(作者不詳)が展示されています。普通、プラドのような超一流の美術館が、第一級の名画に混じって「模写作品」を展示することはあまりないと思います。"世界で1番有名な絵" の模写だからと言えそうですが、『モナ・リザ』の模写と称する絵は世の中にたくさんあります。しかも、プラド美術館の模写は著名画家のものではありません。「ラファエロが模写した」のなら展示して当然かも知れないが、この絵の作者は "不詳" です。

モナ・リザの模写.jpg
ダ・ヴィンチの工房
モナ・リザの複製」(1503-1516頃)
プラド美術館
(Wikimedia)

プラド美術館の説明によると、この絵は

数ある『モナ・リザ』の模写の中では、最も古いものであり、
ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』を描く姿を見ていた直弟子が『モナ・リザ』とほぼ同時期に模写した

とのことなのです。プラド美術館の公式カタログには、この絵はオリジナルの「ルーブルのモナ・リザ」と同時並行的に描かれたとあります。なぜそう言えるのかと言うと、

  「ルーブルのモナ・リザ」には上塗りで隠された変更点や訂正箇所が存在するが、その大部分は「プラドのモナ・リザ」と共通している

からだそうです。つまり「プラドのモナ・リザ」を描いたダ・ヴィンチの直弟子は、ダ・ヴィンチが上塗りで訂正すると自分もその通りに訂正した。つまり同時並行的に描いた、とプラド美術館は言っている。どの部分がその上塗りに相当するのかという説明は(カタログには)ないのですが、プラド美術館は詳しい絵の調査をしてそう断言しているのでしょう。

だとすると、この絵は『モナ・リザ』の完成直後の姿を伝える貴重な絵ということになります。だから展示に値する。プラド美術館はこの絵を『モナ・リザの複製』と説明しています。現代なら写真技術で複製やレプリカを作るわけですが、それに相当する "ルネサンス期の複製" だというわけです。



そこで、この絵を比較対照作品として「ルーブルのモナリザが何故名画なのか」を考えたいと思います。

モナ・リザ.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ
(1452-1519)
モナ・リザ」(1503-1519頃)
ルーブル美術館
(Wikimedia)


微笑みの秘密


二つの絵を比較すると、両方とも微笑ほほえんでいることは確かですが、「プラドのモナ・リザ」の方は微笑み方がシンプルで、分かりやすい感じがします。現代で言うと、カメラを向られた女性が、カメラ目線で少し微笑んで見せたような感じがする。

しかし「ルーブルのモナ・リザ」は、単純に微笑んでいるだけではない感じがします。微笑み以外の要素は何かと聞かれたら、それは明白には答えられないけれど、何か "奥深い" 感じの表情です。特に、目もとに微笑み以外の要素が混在している感じがします。その奥深さのようなものによって、この婦人が "普通の人の生活感とは違ったレベル" にある感じがし、"高貴" とか、"聖なる" とかの印象にもつながる。

「プラドのモナ・リザ」と比べてみてよく分かるのですね。「ルーブルのモナ・リザ」は単純ではありません。見る人は表面に現れている以上のものを漠然と感じてしまい、それがかすかな「謎」となって意識に残る。この「謎」がこの絵の印象として残り、記憶に刻み込まれ、また見たいと思わせ、そういうことが重なって「世界で一番有名な絵」にまで登り詰めたのではないか。そういう風に思います。



「プラドのモナ・リザ」と「ルーブルのモナ・リザ」は何故違うのでしょうか。それはまず画家の技量の差でしょう。これが大きいことは間違いないと思います。

しかしそれだけではないような気もします。『モナ・リザ』が描かれた経緯にも関係しているのではないか。ダ・ヴィンチはフランソワ1世に招かれてフランスに居住することになりますが、『モナ・リザ』を持参し、手を入れ続けたと言われていますね。しかもこの絵は、いわゆる "スフマート" の技法で描かれています。ごく薄い絵の具を積層し、色の変化点が全く判別できないほど "ぼかす" 技法です。スフマートの技法で手を入れ続けることで『モナ・リザ』は今の形になった。

ひょっとしたら『モナ・リザ』がダ・ヴィンチの工房で "一応の" 完成をみたときの姿は「プラドのモナリザ」に極めて近いものだったのではないでしょうか。それ以降もダ・ヴィンチは手を入れ続けた。フランスに行っても手を入れた。そうして長期間かけて今の姿になったことが『モナ・リザ』の「複雑さ」や「奥深さ」や「謎」を生み出すことになった・・・・・・。そういう風に想像します。



「ルーブルのモナ・リザ」は、その人物の表情に「謎」を感じさせる肖像画だけれど、「プラドのモナリザ」にはそれがありません。そこに違いがあるようです。

しかしプラド美術館つながりで言うと、プラドにも「謎」や「奥深さ」を感じさせる肖像画があります。それはプラド美術館の代表作の一つとされるエル・グレコ作の肖像画です。『モナ・リザ』と違って男性の肖像画ですが、プラド美術館において『モナ・リザ』と真に比較しうるのはこの絵だと思います。以降は、その絵について書きます。


エル・グレコ『胸に手を置く騎士』


胸に手を置いた騎士の肖像.jpg
エル・グレコ(1541-1614)
「胸に手を置く騎士」(1580頃)
プラド美術館
( site:www.museodelprado.es )

エル・グレコと同時代、16世紀後半に生きたスペインの騎士(あるいは紳士)の肖像画です。誰を描いたのかは特定されていません。この絵には4つのポイントがあると思います。まず、

剣を鞘から抜き、体の前で直立させている

ことです。剣は一部しか描かれていませんが、左手を添えて直立させていると考えるのが妥当です。この姿からは「騎士」としての "誇り" や "自信"、あるいは "誓い" の表現を感じます。そして2番目のポイントはこの紳士の左肩です。

左肩が、ちょっと異様なぐらい "変形" している

のです。人間だれしも左右がアンバランスですが、この紳士の両肩は度を越しています。絵から受ける印象は、右肩(向かって左)が "正常" であり、左肩は "異常" というものです。ある説によると、この「左肩の異常」は戦闘による負傷によるとのことです。もちろん戦闘というのは憶測でしょうが、何らかの怪我に起因すると推測できます。

さらに3番目のポイントは、この絵で一番目につく(プラド美術館が絵のタイトルにもした)胸に置かれた右手です。この手は普通とは違います。つまり、

右手を胸に置いているが、その指の開き方がちょっと変わっている

わけです。この右手は何を意味するのでしょうか。プラド美術館の公式カタログには次のように書かれています。


エレガントに胸に置かれた手は何を意味するのか、後悔の念か、強い信念か、鞘から抜かれた剣とともに固い誓いを意味するものか、畏敬の念を示すのか、あるいは礼節表現か。

(プラド美術館のカタログ)

つまりプラド美術館としても、この右手の意味は決めかねているわけです。もしこれが当時のカトリックにおける何らかの宗教的意味があるポーズなら、もしくは16世紀のスペインの騎士団における何らかのサインなら、プラド美術館は間違いなくそう書いたでしょう。宗教史研究家、スペイン史研究家は、プラド美術館やその周辺にたくさんいるはずだからです。ということは「カトリック、ないしは騎士の伝統からくるポーズではない」と推測できます。

付け加えますと、プラド美術館はこの手を「エレガント」と書いていますが、確かにそうです。細長くて、華奢きゃしゃでさえある。「戦闘で左肩を負傷した騎士」から想像できる「ごつごつした手」ではありません。ちなみに、この "手の描き方" はダ・ヴィンチより上手で、画家の技量を感じます。

手と同じぐらいに意味深長なのは、4つめのポイントである、この男性の表情です。この紳士は、

厳粛でまじめな表情、しかし同時に "おだやかさ" も感じる表情で、さらに視線をわずかに正面からそらしている

のです。視線については画像からは分かりにくいのですが、プラド美術館に行ってこの絵を見るとよく分かります。この絵の前に立つと、紳士の視線は鑑賞者を見ているようではあるが、わずかにズレている。真正面を見ているようで見ていないというか、鑑賞者を見ると同時にその背後の何かを見ているような視線です。

よく日本の屏風画や襖絵にありますよね。「鑑賞者がどの位置から見ても、自分が見つめられているように感じる絵」が・・・・・・。龍の絵などによくあるパターンで、いわゆる「八方にらみ」の絵です。このエル・グレコの絵は、それとは正反対です。「正面に立って見ても、自分だけを見つめているのではないと感じる絵」なのです。



青年の肖像.jpg
ボッティチェリ
「青年の肖像」(1482/85)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
余談ですが、このエル・グレコの絵と手の置き方がそっくりの男性肖像画がワシントン・ナショナル・ギャラリーにあります。ボッティチェリ(1445-1510)の『青年の肖像』というテンペラ画です。そのボッティチェリでは、ウフィツィ美術館にある有名な『ヴィーナスの誕生』も、ヴィーナスは右手の人差し指と中指の間を開いて胸に手を当てています。

時代を下ると、フィレンツェの画家、ブロンズィーノ(1503-1572)の女性肖像画には、右手の人差し指と中指の間を開くスタイルがいろいろあります(たとえば、ウフィツィの『マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像』)。これらの絵のポーズは「手を美しく描くため」だと言われています。エル・グレコも、手を美しく描くためだったのかも知れません。

エル・グレコはギリシャ(クレタ島)出身でスペインで活躍した画家ですが、スペインにくる前にイタリアに10年ほど滞在し、絵の研鑽をしています(1567-1577頃)。ヴェネチア、ローマに在住し、イタリア各地を放浪してからスペインに渡ったと言われています。ボッティチェリもブロンズィーノも "フィレンツェ画壇" の巨匠ですが、ひょっとしたらエル・グレコはイタリアの絵に影響されたのかもしれません。もちろん、全くの偶然かもしれませんが・・・・・・。


手と視線


エル・グレコの絵に戻ります。この絵は人物の衣装が黒一色のシンプルなものであるため、まず、胸に置かれた右手に強い印象を受けます。次に、男性の表情とわずかにズレた視線です。これから何かが読みとれるでしょうか。プラド美術館の公式カタログがあげているのは「後悔」「信念」「誓い」「畏敬」「礼節」ですが、私の感じはそのすべてと違います。

この絵からどういったことを感じたかを以下に書いてみますが、これ個人的な印象であり、全く違う感じ方もあるでしょう。あくまで私的印象です。

この絵の前に鑑賞者として立って、絵の紳士の視線をから感じるのは、この紳士が鑑賞者(自分)より "上位にある" というイメージです。"上位"の意味は曖昧ですが、たとえば生徒に対する教師であり、部下に対する上司、信徒に対する聖職者、子に対する親という関係、もっと一般的には "精神的な上位者" ということです。

また胸に置かれた右手は「私にまかせなさい」というような意味に思えます。もとより仕草しぐさが持つ意味は、文化的あるいは宗教的背景によって違います。胸に手を置くという "しぐさ" が持つ意味も、世界各国によって違ったり、また伝統による独特の意味があったりするかも知れません。しかし、ほかならぬプラド美術館がこの右手のもつ意味を決めかねているわけです。であるなら、我々としては一鑑賞者として自由に解釈してもよいはずです。

この表情・視線と手から、この騎士が鑑賞者に以下のように語りかけているように感じます。

  私は人生でまざまな経験したし、騎士としての苦難も乗り越えてきた。あなたの悩みを聞かせて欲しい。きっと有益な助言をしてあげる。私にまかせなさい。

エル・グレコがこの紳士をモデルに絵を描いたとき、紳士が上のように思っていたとは考えにくいのですが、これは "絵と対峙した鑑賞者" として受ける印象です。そしてさっき書いたように、あくまで個人的な印象です。

しかし、なぜそのような個人的印象を持ったのか、その理由の源泉のところを考えてみると、この『胸に手を置く騎士』という絵がもつある種の「謎」だと思います。表情は単純ではないし、視線も完全な正面ではない。指を "変に" 開いた手の意味も不明だし、両肩は異様にアンバランスです。このような「謎」が鑑賞者の自由な「想い」を触発するのだと感じます。



プラド美術館には、ベラスケスの『ラス・メニーナス』、ゴヤの『着衣のマハ・裸のマハ』をはじめとし、有名絵画、傑作絵画が目白押しです。その中でも、このエル・グレコ『胸に手を置く騎士』は代表作の一つとされています。

この絵に "センセーショナル" な面はありません。有名な宗教的場面でもなく、歴史上の重要場面でもない。国王とか著名人物がモデルでもありません。誰だかわからない紳士の肖像です。古典絵画に大量にある「男の肖像」の中の一枚に過ぎません。誰を描いたのかも分からない。それでいてプラドの代表作の一つとされているのは、この絵が持つ魅力、特に「謎」によるのでしょう。これは『モナ・リザ』の魅力、『モナ・リザ』が世界で一番有名な絵までになった理由と極めて似ていると思うのですね。

この絵は「プラドのモナ・リザ」だと思います。「XXXのモナ・リザ」と称される絵はたくさんありますが、そのすべては、当然のことながら女性の肖像です。男性の肖像を「プラドのモナ・リザ」と言うのは変なのですが、絵がもつ本質的な魅力において、この絵は『モナ・リザ』と似通っています。最初にあげた「モナ・リザの模写(複製)」よりも "モナ・リザらしい" 名画だと思います。




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No.158 - クレラー・ミュラー美術館 [アート]

前回もそうでしたが、"個人コレクション"を元にした美術館について、今まで3回書きました。

No.95 バーンズ・コレクション
No.155 コートールド・コレクション
No.157 ノートン・サイモン美術館

の3つです。その "個人コレクション・シリーズ" の継続で、今回はオランダのオッテルローにある「クレラー・ミュラー美術館」について書きます。


ロケーション


クレラー・ミュラー美術館のロケーションは、以前の3つの美術館とは "真逆まぎゃく" と言っていいてしょう。その "特徴" は

アムステルダムから「行きにくい」所にある
国立公園の中にある

の二つです。

クレラー・ミュラー美術館は、オランダの「デ・ホーフェ・フェルウェ国立公園」の中にあるのですが、アムステルダムから行くには、列車でエーデ・ワーゲニンゲン駅まで行き、そこからバスでオッテルローに向かい、さらにバスを乗り継いで国立公園の入り口まで行く必要があります。

Otterlo.jpg
(Google Map)

冒頭に掲げた3つの美術館が都市の中心部にごく近く、メトロかバス1本(ないしは近距離タクシー)で行けるのとは大違いです。オランダの著名美術館と比較しても、アムステルダム国立美術館とゴッホ美術館はトラムの発達した市内にあるし、マウリッツハイス美術館は首都のデン・ハーグの駅から徒歩圏内、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館も大都会のロッテルダムの駅から歩いて行けます。フランス・ハルス美術館はハーレム(アムステルダムの近く)の駅を降りると、旧市街の街並みを見ながらの散歩圏内です。

それらに比較すると、クレラー・ミュラー美術館はずいぶん辺鄙へんぴなところにある。そもそも「オッテルロー」「エーデ・ワーゲニンゲン」「デ・ホーフェ・フェルウェ」というような地名・固有名詞は、クレラー・ミュラー美術館に行こうとしない限り、普通の日本人にとっては聞いたこともない名前でしょう。

私がクレラー・ミュラー美術館に行ったときは、アムステルダムのホテルのコンシェルジュに行き方を紙に書いてもらい、その通りにしました。そういう要望はよくあるらしくコンシェルジュは手慣れた感じだったし、バスの運転手も親切で、間違いなく行けたのですが、何だか不安だったのは確かです。国立公園の入り口でバスを降ろされたのは、公園に入るにも入園料がいるからです。入り口から美術館は公園内を歩いて行きました。記憶によると、帰りは美術館の前からバスに乗ったと思います(帰りに入園料は不要だから)。また帰りは列車を乗り継いでアムステルダムに帰ったように覚えています。直通列車を待つより早かったのだと思います。

  なお、バスのルートは変更されることがあると思うので、現在も「バス乗り継ぎ」が必要かどうかは分かりません。

国立公園の中にあるということは、関東で言うと箱根の「彫刻の森美術館」の規模を大きくした感じで、美術鑑賞に「極めて適した環境」だと言えます。しかし問題は、箱根とは違って美術館の周りに観光スポットはなく、レストランやショップもないことです。もちろん美術館内にはカフェもミュージアム・ショップもあるのですが、前回のノートン・サイモン美術館などとは大きく環境が違います。バーンズ・コレクションのように "美術館のはしご" もできない。国立公園は総面積 5500ha というオランダ最大の広さで、それはそれで素晴らしいところなのですが、まさかオランダまで来て "自然公園の中のサイクリング" もないでしょう。風車やチューリップ畑があるわけではないし・・・・・・。

従って、アムステルダムに宿泊してクレラー・ミュラー美術館を訪れるということは、まる一日をかけて、たった一つの美術館のアートを鑑賞するということになります。そこで当然、海外旅行の貴重な1日をつぶす価値のある場所なのかが問題になります。

その答えはイエスです。1日をつぶす価値はあります、もしあなたがゴッホの絵画作品が大好きだとしたら・・・・・・。以下はその説明です。

KMM-01.jpg

KMM-02.jpg

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クレラー・ミュラー美術館


ゴッホ作品のコレクション


クレラー・ミュラー美術館は、実業家のアントン・クレラー(1862-1941)と、その妻のヘレーネ・ミュラー(1869-1939)のコレクションを政府に寄贈することで、1938年に開館したものです。この美術館はその後、現代アートや彫刻の収集にも力をいれ、館のまわりには美しい彫刻庭園があります(箱根の彫刻の森美術館のモデルと言われる)。天気がよければ、この彫刻庭園をゆっくりと散策するのがいいでしょう。

この美術館は何よりもゴッホ(1853.3.30 - 1890.7.29)のコレクションで有名です。アムステルダムのゴッホ美術館とあわせて、ここは「第2ゴッホ美術館」と言ってもよいぐらいです。アムステルダムに行ってオッテルローに行かないのでは "ゴッホ・ファン" とは言えない

ここには270点のゴッホ作品があるといいます(水彩・デッサンを含む)。その油絵作品から代表的なものを以下に掲げます。誰でも知っている絵が多いのでコメントは最小限にします。


青い夜 : 夜のカフェテラス


夜のカフェテラス.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「夜のカフェテラス」(1888.9)
クレラー・ミュラー美術館
( Wikimedia )

この作品の大きな特徴は、歌川広重や歌川国芳の浮世絵に見られるように夜の空を青く描いたことです。もちろん青と補色の関係にある強烈な黄色の対比がきいています。画面のほぼ中心に消失点がある "典型的な遠近法" の構図は、見る人の視線を青い夜空へと引き込んで行きます。

No.18「ブルーの世界」で書いたように、青は人を引きつける強い力をもっています。No.152「ワイエス・ブルー」で書いたアンドリュー・ワイエスは、褐色系との対比で青を効果的に使うのがうまかった。そういう青と黄色の対比の典型的な絵画がこの作品だと言えるでしょう。

これは、いわゆる印象派の絵の描き方とはだいぶ違います。絵を描く根幹のコンセプトが違っている。絵画における "色" の意味について、後の画家に大きな影響を与えたに違いないと思わせる絵です。


陽光の中の青と黄 : アルルのはね橋


アルルのはね橋.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「アルルのはね橋」(1888.3)
クレラー・ミュラー美術館
( Wikimedia )

ゴッホがアルルにきた直後、故国オランダの "原風景" とも言える「はね橋」に出会って描いた作品です。この絵は浮世絵の影響を指摘されますね。はね橋のところは、あえて輪郭線を描いて色を塗っています。輪郭線を描かないといけない "必然性" はないはずです。

浮世絵の影響は確かにそうだと思いますが、それよりもこの絵の最大のポイントは『夜のカフェテラス』と同じように、青と黄色の対比です。はね橋の "橋脚" の陰になった部分にまで明るい青を使っている。「影にも色がある」というのはその通りですが、実際の風景ではこのようには絶対に見えないでしょう。印象派までの画家にあった "暗黙の制約" を破り、別の世界に一歩踏み出した感じがする絵です。


夕日の中の風景 : 「柳」と「種まく人」


夕日の中の風景を描いた2作品、『日没の柳』と『夕陽と種まく人』です。普通、夕日というと赤っぽく見えるものですが、ゴッホの夕日はあくまで黄色い。そこに青を配置するのが画家の色彩感覚です。

柳の絵は葉が落ちた秋の風景、種まく人は早春というかこれから生命が芽生えるという季節です。「種まく人」は聖書にもとづいていますが、もちろんゴッホはミレーの絵を踏まえて描いています。踏まえてはいるものの、その表現方法や色彩の個性が突出しています。

日没の柳.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「日没の柳」(1888.秋)
クレラー・ミュラー美術館
( Wikimedia )

種まく人.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「夕陽と種まく人」(1888.6)
クレラー・ミュラー美術館
( Wikimedia )


3つ目の "星月夜" : 糸杉のある道


糸杉のある道.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「糸杉のある道」(1890.5)
クレラー・ミュラー美術館
( Wikimedia )

ゴッホがオーヴェル・シュル・オワーズで書いたゴーギャン宛の手紙(未完)にこの絵が出てきます。その部分を引用します。


ゴーギャンへの手紙(未完): 1890年6月18日頃

ぼくは向こうで(引用注:サン・レミのこと)最後にやった糸杉と星の絵をいまも持っている。── 夜の空には輝きのない月がかかり、この三日月は地面に落とされた不透明な影の間からやっと姿をあらわしている ── いわば誇張された光輝をもつ一つの星、ピンクと緑の甘美な光輝をもつ星が雲のとんでゆくウルトラマリンの空にかかっている。

下方には高いヨシタケの並んだ街道があり、その後方には青い低いアルピーヌの山脈がつらなり、窓にオレンジの灯りがともった古い旅宿が一軒と非常に高い一本の糸杉が真直まつすぐ、黒々と立っている。

街道には白い一頭の馬に挽かれた車が一台と帰りのおくれた二人の散歩者がいる。いってみれば非常に浪漫的だが、またぼくはプロヴァンス的なものだと思う。

ファン・ゴッホ書簡全集 5
宇佐見英治訳
みすず書房 1970,1984改版

ローヌ川の星降る夜.jpg
「ローヌ川の星月夜」
オルセー美術館

星月夜.jpg
「星月夜」
ニューヨーク近代美術館

手紙にあるように、サン・レミの療養病院(サン・ポール病院)を去る直前に描いた絵です。星や月を強調して描いた青い夜空の絵は、オルセー美術館の「ローヌ川の星月夜」(アルル、1888年9月)とニューヨーク近代美術館(MoMA)の「星月夜」(サン・レミ、1889年6月)が有名ですが、このクレラー・ミュラーの絵も重要作品です。

この作品において星月夜よりも重要なのは、真ん中に "ドカッ" と描かれた糸杉です。そもそもゴッホ作品には糸杉を描いたものがいろいろありますが、この絵はその典型です。西洋では、神話などから糸杉は死の象徴だと言われています。キリストの十字架の材料になったとう伝説もある。牧師の子であるゴッホが死期を悟って描いたという見方もできるでしょう。

もう一つ、サン・レミの病院を描いた絵をあげておきます。入院した直後の作品です。

サン・ポール病院の庭.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「サン・ポール病院の庭」(1889.5)
クレラー・ミュラー美術館
( site : krollermuller.nl )

ゴッホは緑を主体にした美しい作品がいろいろあるのですが、この絵はその一つです。構図は「夜のカフェテラス」とそっくりで、「カフェの黄色と夜空の青」は「木々の緑と昼間の空の青」に置き換えられています。もちろん、黄色も効果的に使われている。これは「夜のカフェテラス」を意識して昼間を描いた絵だと思われます。二つの絵を比較するとよく分かるのですが、空の色はほとんと変わらないことに注目すべきだと思います。



その他のゴッホ作品は省略しますが、追加するとアルルで描いた「郵便配達夫・ルーランの肖像」と、その妻である「オーギュスティーヌ・ルーランの肖像」も有名です。ゴッホは「ひまわり」のように、ほぼ同じ構図の作品を何枚か描くことがあり、この二つも欧米の美術館が何枚か所蔵しています。ルーランの肖像はニューヨーク近代美術館(MoMA)とバーンズ・コレクション(Room 2 North Wall)、夫人の肖像はアムステルダム市立美術館とアメリカのボストン、メトロポリタン、シカゴにあります。

ルーランの肖像.jpg オーギュスティーヌ・ルーランの肖像.jpg
「郵便配達夫・ルーランの肖像」
クレラー・ミュラー美術館
( site : krollermuller.nl )
「オーギュスティーヌ・ルーランの肖像」
クレラー・ミュラー美術館
( Wikimedia )


スーラ


シャユ踊り.jpg
ジョルジュ・スーラ
「シャユ踊り」(1890)
クレラー・ミュラー美術館
( site : seurat.krollermuller.nl )

クレラー・ミュラー美術館にあるゴッホ以外の作品を何点かあげます。まず、ジョルジュ・スーラの『シャユ踊り』という大作です。シャユ踊りとは、当時のパリで流行した男女で踊るカンカンのようです。No.95「バーンズ・コレクション」で書いたように、スーラの大作(おおむね1メートルを越えるサイズの絵)は、制作年順に並べると次の6点です。

『アニエールの水浴』
1883/4。201cm×302cm。ロンドン・ナショナル・ギャラリー
『グランド・ジャット島の日曜日』
1884/6。206cm×306cm。シカゴ美術館
No.115「日曜日の午後に無いもの」参照
『ポーズする女たち』
1886/8。200cm×250cm。バーンズ・コレクション
No.95「バーンズ・コレクション」参照
『サーカスの客寄せ』
1887/8。100cm×150cm。メトロポリタン美術館
『シャユ踊り』
1890。172cm×141cm。クレラー・ミュラー美術館
『サーカス』
1890/1。186cm×153cm。オルセー美術館
No.115「日曜日の午後に無いもの」参照

これ以外に

『化粧する女』
94cm×80cm。コートールド・コレクション
No.155「コートールド・コレクション」参照

を "準大作" として付け加えてもよいと思います。

別に絵が大きいからといって名作というわけではないのですが、点描は時間のかかる描き方です。ゴッホが2日で1枚を描いたとしたら、スーラの大作は少なくとも半年はかかるでしょう。100倍の時間です。従って、点描の大作に挑戦するということは、絵のテーマについてそれなりに "画家の想い" がこもっていると考えられます。

しかしその想いとは裏腹に、この『シャユ踊り』は有名な絵だけれど、絵として成功しているとは言えません。点描だと、踊りの激しい動きが全く感じられないのですね。ロートレックと比較すると一目瞭然です。それはオルセー美術館の『サーカス』も同じです。画家の狙いは何か。まるで写真のように、ある一瞬をフリーズさせたように切り取る試みでしょうか。動きの一瞬を静止したよう描く「対比のおもしろさ」かもしれません。

『シャユ踊り』に比べると、クレラー・ミュラー美術館が所蔵している『ポール・アン・ベッサンの日曜日』や『グラヴリーヌの水路』は、小品だけれども点描の技法を生かしきった美しい作品です。ちなみに、ポール・アン・ベッサンを描いた別の絵がオルセー美術館にあります。

ポール・アン・ベッサンの日曜日.jpg
ジョルジュ・スーラ
「ポール・アン・ベッサンの日曜日」(1888)
クレラー・ミュラー美術館
( site : seurat.krollermuller.nl )

グラヴリーヌの水路_pagina.jpg
ジョルジュ・スーラ
「グラヴリーヌの水路」(1890)
クレラー・ミュラー美術館
( site : seurat.krollermuller.nl )


ピカソ


ヴァイオリン.jpg
パブロ・ピカソ
「ヴァイオリン」(1911/2)
クレラー・ミュラー美術館
( site : krollermuller.nl )

ピカソの『ヴァイオリン』という作品です。ヴァイオリンという楽器のフォルムに含まれるいろいろな線や形を分解し、キュビスムの手法で画面に再構成しています。この作品の特色は色使いです。我々がヴァイオリンという楽器を見たときに感じる落ち着いた感じや、手作業で作られた道具に感じる暖かみが、この色使いでうまく表されています。楕円形の画面もヴァイオリンの雰囲気にマッチしている。

ピカソのキュビスム作品の中ではめずらしく "イケた" 作品だと思います。


モンドリアン


コンポジションⅡ.jpg
ピエト・モンドリアン
「コンポジション Ⅱ」(1913)
クレラー・ミュラー美術館
( site : krollermuller.nl )

クレラー・ミュラー夫妻はモンドリアンを援助していました。そのモンドリアンは、画家としての出だしは具象的な絵を描いていましたが、キュビスムに衝撃を受け、そういう傾向の作品を描くようになった(まさに『ヴァイオリン』のような傾向の絵)。それを突き詰めると、この絵のようになります。もっと突き詰めると『ブロードウェイ・ブギウギ』(1942/3)のような絵になる。

『コンポジション Ⅱ』という題名に意味はなく、何が描かれているかは分かりません。たとえ意味がある題名がついていたとしても「線と色のコンポジション」といった題だと、それはトートロジー(同義反復)であり、情報量はゼロです。

従ってこの絵は、描かれた線や色のパターンから、たとえば "心地よい" とか "躍動している" とかの何かを感じ取ればそれでよいわけです。ちょうど建築や室内の壁の装飾に似ています。何らかの幾何学的なパターンがあって、それが部屋のムードや居心地の良さを演出する、というような・・・・・・。

ちょっと発想を広げると、ピュアなイスラム教は一切の偶像を排するので、そういうイスラム建築の中に入っても、幾何学的なパターンや模様しかありません。だけど、"荘厳だ" とか "厳粛だ" といった感じを受ける。それと似ています。この作品は「いっさい偶像を排除した絵」と言えるでしょう。


"ゴッホ美術館"としてのクレラー・ミュラー


クレラー・ミュラー美術館は、新印象派の作品や20世紀のモダンアートにもよい作品があるし、周りの彫刻庭園は散策にうってつけです。しかしここはやはりゴッホ作品です。ゴッホ・ファンなら、アムステルダムのゴッホ美術館とワンセットと考えて訪れるべき場所でしょう。

しかし「お目当ての絵」は貸し出し中で、訪問時にはないかもしれません。クレラー・ミュラー美術館は貸し出しに積極的で、過去に何回か日本で開催された「ゴッホ展」には、ずいぶんとクレラー・ミュラー美術館の絵があったと記憶しています。"クレラー・ミュラー美術館の協力がないと、まともなゴッホ展は開催できない" というのが正しいのかもしれません。

しかし、お目当ての絵がないからといってガッカリするようでは真のゴッホ・ファンとは言えないでしょう。クレラー・ミュラー美術館(とゴッホ美術館)を訪れると、かなりの数のゴッホ作品に接することができるのは間違いないのだから・・・・・・。

ゴッホの著名作品・代表作は、アルル、サン・レミ、オーヴェル・シュル・オワーズで描いたものが非常に多いわけですが、ゴッホがアルルに到着してから(1888年2月20日)、オーヴェル・シュル・オワーズで亡くなる(1890年7月29日)までの期間は、わずか2年5ヶ月にすぎまぜん。この間、油絵だけでも大量の作品が生み出されています。ちなみに、月ごとの制作枚数をまとめると以下のようになります(Wikipediaの「ゴッホの作品一覧」より。4月~5月のような記載の絵は5月に入れた)。

制作場所 年月 作品数 備考
アルル 88.02  4  ++++ 20日アルル到着
.03  11  ++++++++++
+
アルルのはね橋
.04  14  ++++++++++
++++
.05  11  ++++++++++
+
.06  23  ++++++++++
++++++++++
+++
種まく人
.07  6  ++++++
.08  23  ++++++++++
++++++++++
+++
.09  15  ++++++++++
+++++
夜のカフェテラス
.10  14  ++++++++++
++++
日没の柳
.11  9  +++++++++
.12  24  ++++++++++
++++++++++
++++
ルーラン夫人
89.01  14  ++++++++++
++++
.02  1  +
.03  2  ++
.04  14  ++++++++++
++++
ルーラン
サン・レミ .05  6  ++++++ 8日よりサン・レミ
サン・ポール病院の庭
.06  16  ++++++++++
++++++
.07  5  +++++
.08  3  +++
.09  24  ++++++++++
++++++++++
++++
.10  19  ++++++++++
+++++++++
.11  17  ++++++++++
+++++++
.12  19  ++++++++++
+++++++++
90.01  4  ++++
.02  10  ++++++++++
.03  0 
.04  4  ++++
.05  26  ++++++++++
++++++++++
++++++
糸杉のある道
20日よりオーヴェル
オーヴェル・
シュル・
オワーズ
.06  42  ++++++++++
++++++++++
++++++++++
++++++++++
++
.07  24  ++++++++++
++++++++++
++++
29日没。

この表の油絵作品数は、合計404作品です。月平均は14作品になり、最も多い月は42作品、つまり2日で3枚描くというスピードです。

印象派以降の画家だからこの速さで描けるのですが、これだけの「大量生産」をすると当然、絵としての "出来上がりのレベル" は多様にならざるを得ません。傑作も数多いが、そうでない作品もあり、中にはこれはどうかと思う凡作(?)もある。それはやむを得ないと思います。

さっき書いたようにクレラー・ミュラー美術館(とゴッホ美術館)を訪れると、かなりの数のゴッホ作品に接することが出来ます。そして、よくよく考えてみると一人の画家の生涯の作品を常設展示でまとまって鑑賞できるというのは、この2つの美術館が "ダントツ" でしょう(ちょっと2館の距離が離れているけれど)。日本を含む世界各国に "XXX美術館"(XXXは画家の名前)がありますが、画家の一部の作品を展示するのとどまっているのがほとんどです。

我々としてはオッテルロー(とアムステルダム)を訪れて、傑作であれどうであれ、絵に表現された画家の感性を順に味わっていく、つまり「画家を鑑賞する」というのが正しい態度だと思います。




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No.157 - ノートン・サイモン美術館 [アート]

今までの記事で、個人コレクションをもとにした美術館について書きました。

No.95 バーンズ・コレクション
No.155 コートールド・コレクション

の2つです。今回はその "シリーズ" の続きとして、アメリカのカリフォルニアにあるノートン・サイモン美術館のことを書きたいと思います。


電車で行ける


ノートン・サイモン美術館はロサンゼルス近郊のパサデナにありますが、ポイントの一つはロサンゼルスのダウンタウンから電車で行けることです。

ロサンゼルスの観光スポットと言うと、クルマがないと行けないところ、ないしは大層不便なところ(バスの乗り継ぎなど)もあるのですが(ディズニーランド、ナッツベリーファームなど)、ノートン・サイモン美術館に関しては2003年にメトロの「ゴールドライン」が開通し、電車で行けるようになりました。ダウンタウンのユニオン駅から乗って「メモリアル・パーク」という駅で下車します。


パサデナ・オールドタウン


メモリアル・パーク駅からノートン・サイモン美術館までは約1.2~3kmの距離ですが、是非、歩いていきましょう。というのも途中に "パサデナ・オールドタウン地区" があるからです。

パサデナは高級住宅街ですが、その中のオールドタウン地区は、昔からのレンガ造りの建物を生かした街づくりがされています。ここには各種のショップやアート・スポット、レストラン、カフェが立ち並び、大変おしゃれな感じのエリアです。そもそもパサデナ・オールドタウンがロサンゼルスの観光・ショッピングスポットの一つになっていて、美術に興味のない人でも楽しめます。

Old Town Pasadena.jpg
パサデナ・オールドタウンの界隈

私は過去3回、ノートン・サイモン美術館に行ったことがありますが、はじめの2回はクルマで、3回目は当時開通していたメトロで行きました。パサデナ・オールドタウンを散策し、ランチを食べ(KABUKI という寿司・和食レストラン)、それから美術館に行ったことを覚えています。



ノートン・サイモン美術館は、実業家であったノートン・サイモン(1907-1993)のコレクションを元に開設されたものです。その意味ではバーンズ・コレクションやコートールド・コレクションと似ています。その多くの所蔵作品のごく一部を以下に紹介します。

Norton Simon Museum1.jpg
ノートン・サイモン美術館


スルバラン


実は次のスルバランの静物画が、個人的にはノートン・サイモン美術館の "一押し" の作品です。

  以下に掲げる画像と英語の題名は、美術館のホームページに掲載されているものです。題名の直訳をつけました。

Zurbaran.jpg
フランシスコ・デ・スルバラン
Francisco de Zurbaran(1598-1664)
Still Life with Lemons, Oranges and a Rose(1633)
「レモンとオレンジとバラの静物」
( 62cm×110cm )

スルバランは17世紀のスペインの画家で、ベラスケスとほぼ同時代人です。ほとんどの作品は宗教画ですが、この絵は静物画です。ちなみにこの絵は『レモン、籠のオレンジ、茶碗』と呼ばれるのが普通です。プラド美術館に同じスルバランの『茶碗、アンフォラ、壷』という作品があります。

茶瓶・アンフォーラ・壺.jpg
スルバラン
「茶碗、アンフォラ、壷」
プラド美術館
( site:www.museodelprado.es )

このプラド美術館の絵がスペイン静物画(ボデゴン。厨房画)の最高傑作という評価らしいのですが、個人的にはノートン・サイモン美術館の絵のほうが上だと感じます。アメリカの美術館にあるのが "不利" に働いているのではないでしょうか。

ノートン・サイモン美術館の『レモンとオレンジとバラの静物』は、ひょとしたら何らかの祭壇の静物を描いたものかもしれません。また、描かれているレモン、オレンジ、バラ、カップのそれぞれは、宗教的な何かの象徴かもしれない。ほとんど宗教画しか描かなかった作者を考えると、その可能性はあると思います。しかし我々としては、これを "純粋な静物画" として見たいわけです。

静物画として考えると、果物と食器を中心にした絵は他にもいっぱいあります。果物では柑橘類や葡萄、苺などが多く、食器では素焼、陶器、金属、ガラスなどが描かれます。画家が目指すのはまず、光で照らされた静物の「質感」の表現で、その描写技術を追求するわけです。このような静物画は、17世紀~18世紀のオランダ絵画にヤマのようにあるし、現代でもいろいろと描かれています。

しかし問題は「リアルな質感表現」以上のものを絵から感じられるかどうかです。この手の静物画は実際に現物を見て、その場で何かビビッと感じるものが「あるか・ないか」、それで評価をするしかない。それは極めて個人的なものだし、画像ではわからないところが多々あります。この絵を実際に見たときの「感じ」を言葉で表現するのは難しいのですが、何とか箇条書きにすると、

静粛
質素
澄んだ空気感
モノが存在をしっかりと主張している
すがすがしい

となるでしょうか。レモンと籠のオレンジとバラとカップがシンプルに横一列に並んでいるだけで、構図に作為が全くない(ように見えてしまう)のも影響しているのだと思います。本当は計算し尽くされた構図なのだろうけれど・・・・・・。描かれたレモンとオレンジのサイズが重要なのかも知れません。とにかくこの絵を見たときは率直に素晴らしいと感じました。

静物画を見て「あっ、いいな」を思ったのは、このスルバランの絵が初めてではありません。ミラノのドゥオーモの近くに「アンブロジアーナ絵画館」がありますが、そこにカラヴァッジョの「果物籠」という傑作があります。この絵も初めて見たときには感動しましたが、真横から果物籠を描くという構図のシンプルさは、スルバランに通じるものがあるような気がします。

果物籠.jpg
カラヴァッジョ
「果物籠」(1599)
アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)
( Wikimedia )


カニャッチ


今までの記事で宗教画をとりあげたことはほとんどなかったのですが、以前に唯一書いたマグダラのマリア( No.118「マグダラのマリア」)にちなんで、ノートン・サイモン美術館にある宗教画を取り上げます。

Cagnacci.jpg
グイド・カニャッチ
Guido Cagnacci(1601-1663)
Martha Rebuking Mary for her Vanity(1660)
「マリアの虚栄を責めるマルタ」
( 229cm×266cm )

何だか "騒々そうぞうしい" 画面構成ですが、描かれている光景からしてキリスト教の題材と推測できます。画面の中央の床の女性はマグダラのマリアです。彼女のアトリビュート(持物)である香油の瓶が描かれています。マリアは肌を露出したり、また半裸の姿で描かれることも多い。

No.118「マグダラのマリア」に書いたように、一般に言われている「マグダラのマリア」のイメージは、聖書にある数カ所の女性の記述をパッチワークのように合体し、またその後の伝説も加味して作り上げられたものです。その中に、マグダラのマリアには姉のマルタがいて、マルタはキリストの昇天後に財産を使徒たちに寄付したが、マリアは自分の財産と美貌をもとに享楽的な生活にふけっていた、しかしその後マリアは改悛かいしゅんして神に帰依した、という聖書解釈(というより創作物語)があります。

そのマリアを、右側の姉のマルタがいさめている場面です。マリアはそれに従って豪華な衣装を脱ぎ捨て、宝石を床に投げやった。左の上には悪魔が描かれていて、おそらくマリアを誘惑しようとしているのでしょう。中央の天使は、そうはさせまいと必死に悪魔を追い払っています。右の上には、この家の侍女と思える女性二人が描かれている、そういう構図です。

ただしマリアの手をよく見ると、まだ宝石をつかんでいます。"回心しきれていない" マリアを描いているようであり、つまり心の葛藤を描いたのでしょう。ちなみにこの絵は普通「マグダラのマリアの回心」と呼ばれています。

西洋の古典絵画は、聖書(とギリシャ・ローマ神話)を知らないと意味がわからない、とよく言われます。確かにそうですが、聖書を熟知しているとしても意味が分からない絵がたくさんあるのですね。特に、キリストの使徒や弟子にまつわる絵画がそうで、この絵はその典型と言えそうです。聖書においてマグダラのマリアは、キリストの磔刑・埋葬・復活というキリスト教の根幹にかかわる重要場面のすべてに登場する女性です。この絵に描かれたような "マグダラのマリア" は、聖書とは無縁です。聖書の隅々まで知っていたとしてもこの絵の意味は分からない。このあたりが、キリスト教徒ではない日本人からすると "敷居が高い" ところでしょう。カトリック教国の人たちからすると常識かも知れないけれど。

しかしこの絵は、そういう宗教画としての解釈を離れたとしても、絵としての完成度が高い。強い光が劇的場面を演出しているのですが、明暗のコントラストだけでなく、外からの穏やかな光を感じます。

その中の「青」の色使いが美しい。右上の空の青、左上のガラスを通した空のかすかな青、中央の天使の布と、左下のマリアが着ていたはずの衣装の高貴な(豪華な)青、そして右下のマルタの質素で "くすんだ" 青。この五箇所の青の配置が光っています。空の青はマリアが "完全に" 改悛することを示しているのでしょう。画家の技量の冴えを感じる一枚です。


クールベ


海.jpg
ギュスターヴ・クールベ
Gustave Courbet(1819-1877)
Marine(1865/66)
「海」
( 50cm×61cm )

ノルマンディー地方の海を描いた作品です。スイス国境に近い山間部、オルナン出身のクールベは、大人になってから初めて海を見て感激したそうです。そして海の光景を多く描きました。全部で170点ほどあるとされます。我々が良く知っているのは、上野の国立西洋美術館やオルセー美術館にあるような「波が海岸に激しく打ち寄せる光景」の絵ですが、この絵は違います。「海」とはいいながら、海らしきものはあまり見あたりません。

遠浅の海で、潮の干満差が大きく、引き潮の時には広い干潟が出現する、その干潟を描いたと思われます。画面の3分の2以上は空で、湾の向こうにあると思える低い山が遠くに見えます。写実絵画なのだろうけれど、後の印象派の絵のようにも見えるし、それを通り越して抽象画のような感じもある。青と白とバラ色の色使いが美しい、よい作品だと思います。


マネ


くず拾い.jpg
エドゥアール・マネ
Edouard Manet(1832-1883)
The Ragpicker(1865/70)
「くず拾い」
( 195cm×131cm )

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で次のようなことを書きました。

マネはプラド美術館を訪れ、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』に感銘を受けた。

帰国後、ベラスケスへのオマージュとして『悲劇役者』(1866。ワシントン・ナショナル・ギャラリー)を描いた。

さらに、その一環として有名な『笛を吹く少年』(1866。オルセー美術館)を描いた。

ノートン・サイモン美術館の『くず拾い』も、まさにベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』(No.36参照)の影響を感じる作品です。

ベラスケスの絵とマネのこの作品に共通するのは「背景をほとんど描かずに人物の全身像を描く」という手法です。かつ、職業に携わる人物の存在感を活写している。この絵もまた、マネが "ベラスケスの弟子" であることを表しているのでした。

ちなみに「くず拾い」というテーマでは、ボナールも描いていますね。No.95で書いた「バーンズ・コレクション」にボナールの「The Ragpickers」という作品があります(コレクションの Room 3 West Wall)。マネよりは40年ほど後の作品ですが、都市化が進んだパリの実状を描いたと言えるでしょう。社会における最下層の人であり、今で言うならホームレスでしょうが、そういうテーマにも斬新さを感じます。



もう一枚のマネ作品、『魚とエビのある静物』です。

魚とエビのある静物.JPG
エドゥアール・マネ
Edouard Manet
Still Life with Fish and Shrimp(1864)
「魚とエビのある静物」
(45cm×73cm)

No.155「コートールド・コレクション」で、マネの静物画が素晴らしいことを書きました。これはコートールド・コレクションを代表する作品と言える『フォーリーベルジェールのバー』に描かれた「カウンターの上の薔薇とミカン」のことでした。この絵以外に、マネの静物画を今まで2点とりあげています。

  「アスパラガス」(1880)
No.3「ドイツ料理万歳」

  「スモモ」(1880)
No.111「肖像画切り裂き事件」

ノートン・サイモン美術館の『魚とエビのある静物』も優れた作品です。"テーブルの海産物" というテーマはフランドル絵画によくありますが、このように画面の中心に "ゴロッと魚が一匹横たわっている図" はめすらしいのではと思います。『アスパラガス』も『スモモ』もそうですが、画家は明らかに魚にしかない固有の質感や雰囲気の表現だけに興味を持っています。印象派の先駆者らしい筆さばきで "鮮魚" の感じをうまくとらえていると思います。


ドガ


ノートン・サイモン美術館はドガの作品が非常に充実しています。それも油絵やパステル画だけでなく、彫刻がそろっている。彫刻といっても、ほとんどは No.86「ドガとメアリー・カサット」に出てきた "マケット" というやつです。ポーズの研究のために画家が制作した小さな彫刻です。この美術館には「踊り子」や「馬」のマケットがたくさんあって、それとともに「踊り子」や「馬」を画題とする絵が展示されています。ドガの制作態度がよく分かります。

ドガのマケット.jpg

なお、No.86で紹介した原田マハ氏の『エトワール』という短編小説は『14歳の小さな踊り子』という(マケットではない)ドガの彫刻がテーマになっていましたが、その像もあります(上の画像)。

ノートン・サイモン美術館が所蔵するドガの絵画作品を一つだけあげると、次の「Waiting」というパステル画です。母親と娘の踊り子でしょうか、何かを待っています。おそらくオーディションとか、何らかの試験、ないしは単に出番を待っているのかもしれない。踊り子は、待ち時間のあいだに手で足のくるぶしをさすっているようです。一方の母親は緊張してじっと顔を前に向けている。視線には何も入っていないはずです。

ある一瞬を切り取る、というドガの画風が現れた一枚です。俯瞰する構図をとり、女性の表情を全く描かない、という描きかたも印象的です。

待つ.jpg
エドガー・ドガ
Edgar Degas(1834-1917)
Waiting(1879/82)
「待つ」
( 48cm×61cm )


ゴッホ


桑の木.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
Vincent van Gogh(1853-1890)
The Mulberry Tree(1889)
「桑の木」
( 54cm×65cm )

Mulberry とは「桑の実」のことですね。ということはこの絵は「桑の木 = 日本で言うヤマグワ」を描いたものです。

しかしこの絵から受ける印象として、黄葉になったヤマグワを描くことが目的という感じはしません。すべての形がうねっていて、現実とは遊離しています。そのように見えたというより、現実の形そのものには画家の関心がないようです。

桑:ヤマグワの実.jpg
桑:ヤマグワの黄葉.jpg
ヤマグワの実のと黄葉
(site:www.tokyo-park.or.jp)
画家が描こうとしたのは「色」そのものでしょう。ヤマグワの黄葉の美しい黄色と、土地の白っぽい黄色、空の青と、木の緑と、それから "何かの赤" です。画家はまず黄色に感動し、その周りに青・緑・赤を配して絵にした。使われている黄色も「カラスが群れ飛ぶ麦畑」のような不吉な黄色ではなく、明るく、晴れやかで、鮮やかな黄色です。

画面に描かれているだいだい色のものは何でしょうか。必ずしも明確ではないのですが、個人的には「ヤマグワの実 = Mulberry」と解釈することにしています。もっとも、桑の実にしては大きすぎるし、それに色が変です。桑の葉が黄色に染まるとき、まだ残っている完熟した桑の実は橙色ではなく、赤黒いというか、人の目には黒く見えるものです。しかし画家にとってそれはどうでもよい。この位置に橙色を "分かるように" 配することが重要だったのでしょう。

黄・青をメインに緑・橙を配して絵を描く・・・・・・。まるで美術の演習のようですが、ゴッホの手にかかるとこういう絵になってしまうわけです。画家のずば抜けた色彩感覚を感じる一枚です。

余談ですが、前に掲げたカラヴァッジョの『果物籠』という絵にも、一見して桑(ヤマグワ)と分かる植物が描かれています。桑の若い木は葉に不規則な亀裂が入ることが特徴で、こういう形の葉は、人になじみのある木ではまず桑です。『果物籠』というタイトルの絵に桑を描き込むのは日本人からすると違和感があるのですが、これは当然、西欧文化においては「桑 = 実(Mulberry)= 果物」ということでしょう。もちろん東アジア文化では「桑 = 葉 = 養蚕」です。



なお、ノートン・サイモン美術館にはゴッホが母親を描いた肖像画があります。妹から送られてきた写真をもとに描いたものです。

ゴッホ「画家の母の肖像」.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
Portrait of the Artist's Mother(1888)
「画家の母の肖像」
( 41cm×32cm )


アンリ・ルソー


異国の風景.jpg
アンリ・ルソー
Henri Rousseau(1844-1910)
Exotic Landscape(1910)
「異国の風景」
( 130cm×163cm )

"空想の中の熱帯のジャングル" といった風情の作品です。こういったタイプの絵はルソー作品によくあります。以前の記事でとりあげた例では、No.72「楽園のカンヴァス」で引用した『夢』『蛇使いの女』、No.95「バーンズ・コレクション」の『虎に襲われる斥候』(Room 14 North Wall)『熱帯の森を散歩する女』『原始林の猿とオウム』(Room 11 North Wall)などです。

一連の絵で感じるのは「植物」や「緑」に対する画家の強いこだわりです。「植物でカンヴァスを埋め尽くすために、わざわざ見たこともない熱帯のジャングルを描いている」という感じがします。No.155「コートールド・コレクション」で引用した『税関』という絵を思い出します。パリの南門の税関を描いているはずなのに「ありえないほどの緑」が溢れている。つまり、パリの税関なら違和感が出くる、しかし異国の熱帯ならいいだろう、みたいな・・・・・・。

パリでの生活が長い画家にとって、都市化が進む大都会からどんどん失われていく「緑」に対する郷愁を絵にした、それが "ジャングル・シリーズ" であり、画家にとっての楽園だった・・・・・・。そんなことを想像したりします。


モディリアーニ


画家の妻の肖像.jpg
アメディオ・モディリアーニ
Amedeo Modigliani(1884-1920)
Portrait of the Artist's Wife,Jeanne Hebuterne(1918)
「画家の妻、ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」
( 101cm×66cm )

妻のジャンヌを描いた絵ですが、その形といい、目の描き方といい、モディリアーニの絵の一つの典型です。ジャンヌも非常に落ち着いていて、穏やかという感じを受けます。

ジャンヌを描いた絵は多くありますが、この絵はモディリアーニが妻のジャンヌを最もヴィーナスに引き寄せて描いた絵だと思います。ヴィーナスとは、もちろんボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」で描いた女性像です。


ピカソ


本をもつ女.jpg
パブロ・ピカソ
Pablo Picasso(1881-1973)
Woman with a Book(1932)
「本を持つ女」
( 131cm×98cm )

ノートン・サイモン美術館のホームページに次のような意味のことが書いてあります。

  この絵は、ピカソがアングルの『モワテシエ夫人の肖像』を踏まえ、マリー=テレーズを描いたものである。

実際に美術館に行くと、このピカソの絵の解説の横にアングルの絵の写真が掲示されていました。

モワテシエ夫人の肖像.jpg
ドミニク・アングル
「モワテシエ夫人の肖像」(1856)
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
( site:www.nationalgallery.org.uk )

なるほど、と思います。ピカソの絵の後ろの方に "黄色い額縁の絵のようなもの" がかかっているのですが、実はこれは『モワテシエ夫人の肖像』における "鏡に映った横顔" なのですね。またピカソの絵では女性が本を妙な形に開いていますが、これはアングルの絵の「扇」に似せたということでしょう。ピカソは "アングルを踏まえて描いた" という証拠を絵の中に残したわけです。

ピカソの「アングルを踏まえた絵」は、この絵だけでなくいろいろあると言います。No.72で引用した原田マハ氏の『楽園のカンヴァス』に、

ピカソはアングルから様式化を学んだ。
様式化があって、その究極に抽象化がある。

という意味のことが書かれていました。小説の中の人物の発言ですが、作者の(ないしは美術界の)意見が入っていると見ていいと思います。確かにアングルが人物を描いた絵には、一見リアリズムのように見えながら、よく見ると「異様に引き延ばされた人体 = 現実にはありえないデフォルメ」がよくあります。そういえば『モワテシエ夫人の肖像』も、鏡に映った夫人の顔は、光学的にはありえない配置・構図です。

その『モワテシエ夫人の肖像』ですが、アングルはこの絵の5年前にも肖像画を描いています。それは夫人の立像で、アメリカのワシントン D.C.のナショナル・ギャラリーにあります。

Madame Moitessier.jpg
ドミニク・アングル
「モワテシエ夫人の肖像」(1851)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
( site : www.nga.gov )

2つの絵から伝わってくるのは、夫人の "豊満でふくよかな感じ" であり、"ギリシャ・ローマ彫刻によくあるような彫りの深い古典的な顔立ち" です。これはピカソのいわゆる「新古典主義の時代」の絵に描かれた人物像を連想させます。特に額と鼻筋がつながっている顔立ちはピカソの人物像とそっくりだと思うのです。ピカソの「新古典主義の時代」の絵は『モワテシエ夫人の肖像』を始めとするアングル作品、特に古典的風貌の人物像に触発されたのではないでしょうか。



原田マハ「モダン」.jpg
原田マハ「モダン」
表紙の絵は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵するピカソの「鏡の前の少女」

アングルとの関係はさておき、「本を持つ女」を見て直感的に連想する、別のピカソの絵があります。ニューヨーク近代美術館(MoMA)にある『鏡の前の少女』という作品です。非常によく似ています。それもそのはずで『鏡の前の少女』もまたマリー=テレーズを描いた絵なのです。MoMA のサイトにそう書いてあります。

この MoMA の絵は、No.150「クリスティーナの世界」で引用した原田氏の短編小説集『モダン』の表紙になりました。モダン・アートの殿堂である MoMA を舞台とし、モダン・アートをテーマにした短編集だから『モダン』という本の題名になっているわけです。その表紙にピカソの『鏡の前の少女』を採用するということは、この絵は MoMA が所有するモダン・アートの代表格ということでしょう(少なくとも原田氏の考えでは)。

だとすると、ノートン・サイモン美術館の『本をもつ女』もモダン・アートの代 表格と言っていいのではないか。そして、描かれているテーマの影響だと思うのですが、ノートン・サイモンの絵の方が MoMA の絵より "品がある" 感じがします。

黒くて太い線で画面を区切り、強い色彩を乱舞させるという "どぎつい" 絵画手法だけれど、絵の全体から受ける印象は不思議と落ち着いていて、すっきりとしています。女性の可愛らしさや色香もしっかりと出ている。それでいて、ピカソの絵に時として見かける "下品な感じ" がありません。

ノートン・サイモン美術館のホームページの解説にもあるのですが、20世紀の画家の大きな仕事は「抽象と具象のバランスをどうとるか」だったわけです。『本をもつ女』は『鏡の前の少女』と似ていると書きましたが、"抽象化の度合い" は明らかに違います。ピカソも、同じモデルを描きつつ、いろいろと試行しているのです。一歩間違えば駄作になりかねないような微妙な均衡の上にこの絵は成り立っているようで、大変にいい絵だと思います。この作品は、スルバランに次いでノートン・サイモン美術館の「二押し」の作品です。

個人的には、ノートン・サイモン美術館の「一押し」がスルバラン、「二押し」がこのピカソなのですが、二つとも(たまたま)スペイン人の作品です。そして、スルバランはプラド美術館の静物よりも訴えてくるものがあり、ピカソは MoMA のマリー=テレーズよりも素晴らしい・・・・・・。というのが言い過ぎなら、プラド美術館とMoMAと同等の作品がノートン・サイモン美術館にある・・・・・・。この美術館のレベルの高さを象徴しています。


ノートン・サイモン美術館


ノートン・サイモン美術館が所蔵している欧米の絵画は、上にあげた以外にも、ルネサンス以前の宗教画の数々から始まり、有名な画家では、

  リッピ、ボッティチェリ、ラファエロ、エル・グレコ、ルーベンス、レーニ、ロラン、ルイスダール、レンブラント、ハルス、シャルダン、ゴヤ、ヴジェ=ルブラン、アングル、コロー、ドービニー、ドーミエ、ファンタン=ラトゥール、セザンヌ、モネ、ルノワール、ピサロ、ロートレック、ゴーギャン、ボナール、シャヴァンヌ、マティス、ルオー、ブラック、カンディンスキー、クレー、サム・フランシス、ウォーホール

などの作品があります(絵を紹介した画家を除く)。またこの美術館は広重の浮世絵を大量に所蔵していて、さらに北斎もあります。私が3回目に行ったときには、広重の『富士三十六景』や『名所江戸百景』からの数枚が展示してありました。

この美術館は、全体的に質が高く「中庸でノーマルなコレクション」という感じです。No.95 で紹介した「バーンズ・コレクション」と比較すると、それが鮮明です。バーンズ・コレクションは、ルノワールが 181点あるとか、セザンヌやマティスも大量にあるとか、23ある展示室にはアメリカ絵画が少なくとも2点あるとか、コレクターの「強いこだわり」が随所にあるのですが、ノートン・サイモン美術館にはそれはありません。美術好きの実業家が大金持ちになり、有名画家の良い絵を素直に集めたという感じがします。西洋の絵画の歴史もよく分かる、そういった美術館です。

  蛇足ですが、バーンズ・コレクションと違って、ここは "普通の美術館" です。展示替えや貸し出しで、上にかかげた作品も常に展示してあるとは限りません。ホームページを見ると、ドガの『Waiting』は今は展示していないようです(2015年10月17日現在)。パステル画を常時展示するのは難しいのかもしれません。

ノートン・サイモン美術館は、中庭と敷地内の庭が広くて美しいことも特徴です。しゃれたティー・ハウスもあります。また始めに述べたように、近くにはパサデナ・オールドタウンがあります。そういった周辺まで含めて、ロサンゼルスで1日を過ごすにはよい場所だと思います。

Norton Simon Museum2.jpg
ノートン・サイモン美術館の庭



 補記:本を持つ女 

本文中でノートン・サイモン美術館の "二押し" の作品が、ピカソの『本を持つ女』だとしましたが、この絵は「アングルを踏まえたマリー・テレーズの肖像」です。ノートン・サイモン美術館では絵の解説の横にアングル作品の写真が掲示されていました(2012年時点)。その写真と説明(英文と試訳)を以下に掲載しておきます。

Woman with a book - Norton Simon Museum.jpg
ノートン・サイモン美術館の「本を持つ女」の説明パネルとアングル作品の写真(2012年)。


Woman with a book, 1932
 oil on canvas

This striking portrait of a woman is one of several large, brightly colored canvases that Picasso painted in the 1930s.His primary model for the post-Cubist works was his mistress, Marie-Therese Walter. In this painting, Picasso captures a fleeting moment in which a young woman, looking up from her book, gazes off into the distance lost in thought. Utilizing both literal and abstract elements, Picasso defines the figure, her dress, armchair and mirror with heavy flowing black lines.In Woman with a book Picasso refers to Ingres' great portrait, Madame Moitessier(right). Striking similarities can be noted in the pose, in the graceful, sensuous lines and in the reflected image in the mirror behind the sitter.

【試訳】

本を持つ女(1932)
 カンヴァスに油彩

ピカソは1930年代に明るい色調の大きな油絵を数枚描いたが、この印象的な女の肖像画はその中の一枚である。キュビズム後の作品において、ピカソの一番のモデルは愛人のマリー・テレーズ・ワルテルであった。

この絵でピカソは、若い女が本から目を上げ、遠くを見やるように思いにふける一瞬を捉えている。ピカソは具象と抽象の両方の要素を用い、人物や服、肘掛け椅子、鏡を、太くて流れるような黒い線で描いた。

この "本をもつ女" はアングルの肖像画の傑作、"モワテシエ夫人" を踏まえている(右)。ポーズや、優美で感覚的な線、椅子の後ろの鏡の像に明白な類似性を見て取れる。

Norton Simon Museum(2012)

この解説の最後の方でピカソとアングルの類似性があげられていますが、その中で「優美で感覚的な線(graceful, sensuous lines)」と書かれているのが印象的です。

そして、このことは "本をもつ女" に関してだけではないのかも知れません。つまり「ピカソはアングルから学んだ」とはよく言われることですが、それはアングルの絵によくある「様式化」だけでなく、「優美で感覚的な線」も学んだのかと思います。




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No.156 - 世界で2番目に有名な絵 [アート]

前回の No.155「コートールド・コレクション」で、日本女子大学の及川教授の、

  サント・ヴィクトワール山は、セザンヌにとっての富士山

という主旨の発言を紹介しました。これはあるIT企業(JBCC)の情報誌に掲載された対談の一部です。その対談で及川教授は別の発言をしていました。大変興味をそそられたので、その部分を紹介したいと思います(下線は原文にありません)。


石黒 和義:(JBCCホールディングス社長:当時)
先週まで、スペインにおられたとうかがいました。

及川 茂:(日本女子大学教授:当時)
はい。サラマンカ大学とサラゴサ大学で講義を行ってきました。

石黒
サラマンカ大学はスペインで最も歴史のある名門大学ですね。

及川
そうです。イタリアのボローニャ大学についで古い大学の一つです。そのサラマンカ大学では、2週間の集中講義を行いました。美術史講座で「ジャポニズム」がテーマでしたので、関連深い浮世絵の全体像を知りたいと、私に白羽の矢が立ったようです。

ところで、世界で一番有名な絵はダ・ヴィンチの「モナ・リザ」といわれますが、二番目に有名な絵は何だと思いますか ?

石黒
なんだろうな。ゴッホの「ひまわり」あたりはどうですか。

及川
近いですよ(笑)。葛飾北斎の大波の絵と言われています。サラマンカでも講義に出た全員が知っていました。ところが、この絵をきちんと説明できる日本人はほとんどいない。まず正確な題名が出てこない。

石黒
あれは「The Big Wave」こと、「神奈川沖浪裏」ですね。


このくだりを読んで、なるほどと思いました。及川教授の、

  葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」は世界で2番目に有名な絵

という主旨の発言に共感するものがあったからです。この絵の世界における通称は「The Great Wave」もしくは「The Big Wave」です。なお日本語題名の「浪裏」は「波裏」と表記されることもあります。

神奈川沖浪裏.jpg
葛飾北斎
神奈川沖浪裏

海外旅行に行くと、絵のポスターや絵はがきを売っている店があります。もちろんその「ご当地(画家や題材)に関する絵」が多いわけですが、世界の有名な絵のポスターや絵はがきも売っていたりする。美術館のミュージアム・ショップにも、その美術館の絵だけでなく、一般に有名な絵のカードや複製があったりします。そういうところで「The Great Wave」は何回か見かけた記憶があるのです。

私の配偶者は、この絵の "波頭" の部分だけを取り出して巨大なオブジェにしたものにヨーロッパの街中で遭遇しました(ドレスデン。次の画像)。また私もプラド美術館のミュージアムショップで、「神奈川沖浪裏」をもとに自由に発想を膨らませて作られた子供向け絵本を見かけたことがあります。

The Big Wave - Dresden.jpg
(ドレスデン。後ろに見えるのはエルベ河)


La Gran Ola.jpg
プラド美術館の北斎
プラド美術館のミュージアム・ショップで見かけたスペイン語の絵本、「La gran ola Hokusai」。「神奈川沖浪裏」をもとに、ストーリーを膨らませて絵本に仕立てたものである。「La gran ola」はスペイン語で「大きな波」という意味で、英語の「The great wave」に相当。

街のオブジェになったり絵本になったりと、単に絵が紹介されたり複製画が売られるだけなく、絵のもつイメージが増殖しているわけで、この絵の認知度は相当高いと推測できます。



ドビュッシー.jpg
クロード・ドビュッシー
(1862-1918)
- Wikipedia -
北斎のこの版画は、19世紀後半からヨーロッパで知られていました。有名なのはドビュッシーの交響詩「海」(1905)です。その楽譜が出版されたとき、表紙に使われたのが北斎の「The Great Wave」でした。そもそもドビュッシーの作曲の契機になったのが、この絵を見たことだと言われています。また、ラヴェルが作曲したピアノ組曲「鏡」(1905)の第3曲「海原の小舟」も「The Great Wave」からインスピレーションを得て作曲されたものと言われています。

ドビュッシーに戻りますと、作曲家にとって書き上げた楽譜は、いわば「命」のはずです。アーティストが自分の命とも言うべき出版物の表紙に別のアーティストの作品(絵)をもってくるということは、その絵、ないしは絵の作者に対する "オマージュ" だと考えられます。ドビュッシーは北斎を見て、どこにでもある波をアートに仕立てたことに感じ入り「自分は音楽で」と考えたとしても、それはありうることだし、楽譜の表紙からすると "ごく自然な推測" だと思います。

ドビュッシー「海」.jpg
ドビュッシー「海」のスコア(1905)
- Wikipedia -

次の写真はドビュッシーがストラヴィンスキーと写っている写真です。音楽に変革をもたらした両巨人のツーショットですが、後ろの壁に2枚の浮世絵が飾られていて、そのうちの上の方は『神奈川沖浪裏』です。ちなみに写真を撮影したのは、これも著名作曲家のサティです。

ドッビュッシーとストラヴィンスキー.jpg
ドビュッシー(左)とストラヴィンスキー
パリのドビュッシー宅にて(1910)
(大浮世絵展・図録より。2014.1.2~ 江戸東京博物館)

そのドビュッシーと一時 "親しい仲" だったのが、2歳年下の彫刻家、カミーユ・クローデルです。彼女はロダンの弟子ですが、その彼女も北斎に影響を受けた彫刻を作っているのです。そのあたりの事情を、木々康子氏の本から引用します。


マラルメの「火曜会」でカミーユとドビュッシーが出会ったのは1887年頃である。ドビュッシーは生涯に、さまざまな女性とのスキャンダルを起こした。あのギャビーも(引用注:ドビュッシーが同棲していたお針子の女性)、正式に離婚した妻も、彼の非常さに自殺未遂騒動をおこしている。しかし、強烈な個性の二人は、天才的な芸術家同士として、互いの中に強く惹かれ合うものを見つけたのだろうか。女ながら、激しい内面を造形として刻んでいくカミーユ、その作品の魅力に、ドビュッシーは強くたれた筈である。音楽は嫌いと言っていたカミーユも、次第にドビュッシーの音楽に聴き入るようになり、伝統的な音律に捉らわれない自由な音の流れや展開に、惹かれるものがあったに違いない。

木々康子「春画と印象派」
筑摩書房(2015)

二人の中は4年ほどで終わるのですが、ドビュッシーは別れた後もカミーユを想っていたそうです。またカミーユも、有名な「ワルツ」という彫刻をドビュッシーに贈ると約束した、とあります。カミーユ・クローデルが北斎に影響を受けたとされる彫刻は、パリのロダン美術館にある『波』という作品です。

カミーユ・クローデル.jpg
カミーユ・クローデル(20歳)
(1864-1943)
- Wikipedia -

クローデル「波」.jpg
カミーユ・クローデル
「波」(1897-1903)
(ロダン美術館)


1903年にカミーユの「波」が完成し、ドビュッシーの「海 ─ 管弦楽のための三つの交響的素描」はこの年から着想され、1905年に発表された。この二つの作品は北斎の「神奈川沖浪裏かながわおきなみうら」の浮世絵に拠っているが、二人で「北斎漫画」などの浮世絵を眺めたり、一緒に北斎展を見に行ったりしていたのである。

北斎の描く、凄まじい怒濤の向こうの富士の静けさ、その浪に呑み込まれるような小さな船の危うさに、二人の天才はそれぞれの着想を得たのではないか。ドビュッシーの「海」は、光や波や、風の動きまでも捉えて展開していくものだった。響き合う音の海の中に、聞く者は体ごと包まれるような感動を与えられるが、その音楽的な独創性はなかなか理解されなかった。カモーユの「波」は、三人の女が今にも大浪に浚われていくような恐ろしさを感じて、彼女の最後の悲劇を予告するように思うのは私だけだろうか。

「同上書」



以上は北斎の影響を受けた絵・彫刻・音楽などのアート作品ですが、『神奈川沖浪裏』はさらに現代のデザインの分野にも影響しています。その一つの例ですが、ボードショーツ(サーフィン用のショートパンツ)で有名なアパレル・ブランドに Quiksilver(クイックシルバー。スペルに c はない)があります。もともとオーストラリア発のブランドですが、現在はアメリカ・カリフォルニア州のハンチントンビーチに本社があります。この Quiksilver のロゴは、北斎の『神奈川沖浪裏』を図案化したものです。ということは、このロゴには富士山がデザインされていることにもなります。

Quiksilver の創始者が『神奈川沖浪裏』に感動してロゴにしたそうですが、絵に描かれた舟をサーフボードに見立てると、いかにもサーフィンに似つかわしい。"The Great(Big)Wave" というタイトルの絵をボードショーツのブランド・ロゴにするのはまさにピッタリだと思います。

神奈川沖ということは湘南の海と考えてもよいわけです。鎌倉・藤沢・茅ヶ崎の湘南海岸でサーフィンを楽しむ日本人サーファーは、是非とも Quiksilver のボードショーツを着用して欲しい気がします。

Quiksilver.jpg
Quiksilver Surfin2.jpg
Quiksilver のロゴ(上・左)と、カリフォルニア州・ハンチントンビーチにある本社(上・右)。下は Quiksilver のロゴが入ったボードとシャツでサーフィンをするサーファー
(www.surfertoday.com)。

Mabo Royal.jpg
湘南海岸の近くにある伝説のサーフショップ、Mabo Royal(藤沢市)の北側の壁には、Quiksilverの巨大なロゴが飾り付けてある。海岸に出ると富士山が望め、あたりにはサーファーが絶えることがない。このロゴを見ると北斎が "里帰り" したような印象を受ける。
(Google Street View)



本題の「世界で2番目に有名な絵」に戻ります。冒頭に引用した及川教授の発言を読んだときに思ったのですが、「The Great Wave(神奈川沖浪裏)が世界で2番目に有名な絵」というのは、そこまでは断言出来ないのではないでしょうか。つまり「モナ・リザが世界で1番有名な絵」とは誰もが認めるでしょうが、2番目というのは果たしてどうなのか。

  世界で2番目に有名な絵の候補はいくつかあり、その中でも「The Great Wave(神奈川沖浪裏)」は有力候補

が実状に近いのではと思ったのです。ということで、以下に「世界で2番目に有名な絵の候補」をいろいろと推測してみたいと思います。


「世界で2番目に有名」とは?


推測の前提として「世界で2番目に有名」という言葉の定義をする必要があります。まず「世界で」のところですが、対象は世界中の国々であり、特定の地域・文化圏ではないこととします。かつ、美術の愛好家というのではなく、普通の人、美術に関心がない人までも含みます。また子供は別にして、老若男女すべてということにします。

次に「有名な」の定義ですが、

その絵を知っている。
たとえば、写真を見せられて "知っています" と言える。
画家の名前が言える。
絵の題名が言える(俗称・通称・略称でも可)。

という3つの条件が満たされることとします。① の「知っている」だけでは「有名」というには弱い。① に加えて、② か ③ のどちらかという条件にすると候補は断然増えるでしょうが(それでもいいとは思いますが)ここでは「厳格に」① ② ③ のアンド条件だと考えます。

もちろんアンケート調査ができるわけではありません。そんな調査をするメディアもないと思います。そこで ① ② ③ を満たしやすい「付加条件」を想定して推定の助けにしたいと思います。

まず、多くの人が「① 絵を知っている」ためには、

絵のモチーフがシンプルで明確である
世界中の誰もが理解できるモチーフである
絵としては、他にない独自性があるモチーフである

ことが重要でしょう。そういう絵は「世界で有名」の定義からして有利になります。もちろんこういった条件がなくても多くの人に認知されていればよいわけですが、一般論としての "有利な条件" ということです。また「② 画家の名前が言える」ためには、

その絵に限らず、画家の名前そのものが有名であり、世界中に知られている

と断然有利です。さらに「③題名を言える」ためには、

題名(俗称)がシンプルで、モチーフと直結している

と有利になります。こうなると、各国の義務教育の教科書に出てくるような絵や画家が候補になる気もしますが、現在はメディアが発達しているので、それだけでは決まらないでしょう。


2番目に有名な絵の候補


以上の「条件」を前提に「世界で2番目に有名な絵の候補」をあげてみたいと思います。

まず対談に出てきた『ゴッホのひまわり』です。これは鋭い指摘で「世界で2番目に有名な絵の候補」に十分なると思います。花瓶の向日葵ひまわりの束をカンヴァスに "ドン" と描いた画家はあまりいないし、モチーフがシンプルで、絵としてのインパクトも強い。そもそも向日葵ひまわりという花が、突出して "インパクトの強い花" です。これが「アイリス」や「白いバラ」だと、ここまで有名にはならないのですね(メトロポリタンにゴッホの傑作があるけれど)。花そのものに "威力" があり、また世界の多くの地域で栽培されてもいる。題名の「ひまわり(Sunflowers)」も簡潔で覚えやすい。さらにゴッホは超有名な画家です。

しかし「世界で有名な絵のランキング」にとって非常に残念なのは『ゴッホのひまわり』は複数あることですね。「花瓶の向日葵ひまわりの束」という構図に限定しても、消失したものを除いて現存する作品が6点あり、そのうち美術館で見られる絵は5点あります。描かれている向日葵ひまわりの本数とともにリストすると、

  15本東京損保ジャパン日本興亜美術館
  15本ロンドンナショナル・ギャラリー
  15本アムステルダムゴッホ美術館
  12本ミュンヘンノイエ・ピナコテーク
  12本フィラデルフィアフィラデルフィア美術館

となります(そのほかに3本のひまわりの絵がある)。つまり『ゴッホのひまわり』は "作品群" なのです。どれかがダントツに有名というわけではありません。普通、写真などでよく見かけるのは15本の3作品で、日本ではもちろん東京の作品ですが、ミュンヘンとフィラデルフィアの12本も捨てがたい。つまり『ゴッホのひまわり』が「世界で2番目に有名な絵』だとすると、2番目が5つあることになります。これはちょっと "マイナス・ポイント" になるでしょう。

ひまわり(ロンドン).jpg ひまわり(アムステルダム).jpg
ロンドン

アムステルダム

ひまわり(ミュンヘン).jpg ひまわり(フィラデルフィア).jpg
ミュンヘン

フィラデルフィア

ひまわり(東京).jpg
東京

19世紀の近代絵画つながりで他の2番目候補をあげると、『ドガの踊り子』も『ゴッホのひまわり』と似たような事情にあります。写真を見せられて「知っています。ドガの踊り子です」と答えられる人は世界にものすごくいる気がします。

しかしドガが描いた踊り子の絵は、有名なものだけで複数あります。最も有名なのはオルセー美術館の絵でしょうが、前回紹介したコートールド・コレクションの絵もよく見る絵です。むしろこちらの方が踊り子らしい感じもする。オルセーの絵がよく知られているのは、コートールド・ギャラリーよりは桁違いに有名な "オルセー美術館にあるから" という気がします。『ドガの踊り子』が世界で2番目に有名だとすると、2番目が絵としては確定しない

しかも『ゴッホのひまわり』とは違って『ドガの踊り子』は構図が多様です。それこそが芸術家としての創造性の発揮であり、デッサンや習作は別にして、ドガは全く同じ構図の完成作を6枚も7枚も描くというような "アマチュアっぽい" ことはしないわけです。しかしこのことが「有名な絵ランキング」にとっては "減点" の対象になるでしょう。

踊り子(パリ).jpg 踊り子(ロンドン).jpg
パリ ロンドン


19世紀の著名画家をもっと考えてみると、印象派の巨匠、クロード・モネはどうでしょうか。『モネの睡蓮』は著名ですが、睡蓮の絵は『ゴッホのひまわり』や『ドガの踊り子』以上にたくさんあります。写真を見せられて「知っています。モネの睡蓮です」と答えられる人は多数いるでしょうが、世界で2番目に有名だとすると、2番目が絵としては全く確定しないことになります。

印象・日の出.jpg
では『睡蓮』がだめなら、パリのマルモッタン美術館に1枚しかない『印象・日の出』はどうか。この絵の "難点" は、朝もやのたちこめる港にボーッと昇った太陽というモチーフが、絵全体のインパクトとしては弱いことです。そういう、少々かすんだ朝の空気感から受ける人間心理をダイレクトにカンヴァスに定着したのが「印象派」の印象派たるゆえんであり、絵画史を塗り変えた作品なのだけれど・・・・・・。



ルノワールはどうでしょうか。ルノワールの「かわいらしい少女の絵」や「家庭的な雰囲気の中にいる複数の女性の絵」(たとえばピアノを弾く光景)には、大変に有名な絵があります。しかしそういうジャンルのルノワールの絵は複数あって、どれかがダントツに有名というわけではないと思います。パリの風俗を活写した絵としては『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』が非常に有名ですが、この絵の "難点" は、題名が(フランス人以外には)難しいことです。

その他、マネ、セザンヌ、マティスなどを考えてみても、傑作はたくさんあるけれどダントツに有名な "この1枚" が思い当たりません。「ミレーの落穂拾い」は有力な感じがしますが、淡々とした農家の日常を描いたという画題のインパクトが弱いような気がします。そういう画題を芸術にしたのが価値なのだけれど。



少しだけ時代をさかのぼってドラクロワはどうでしょうか。ルーブルに『民衆を導く自由の女神』という有名な絵があります。絵の題名として「自由の女神」ないしは「自由」でもよいとするなら、この絵は「世界で2番目に有名」の候補になる感じもします。

民衆を率いる自由の女神.jpg
しかし問題は絵のモチーフです。描かれた文化的背景を全く知らない人にとってみると、この絵は「死屍累々の男の中を、裸のお姉さんが進んでいる不思議な絵」としか見えないでしょう。この絵はフランス革命の理念(実際には1830年の7月革命)を表していて、「裸のお姉さん」は「自由」の擬人化であり、フランス語の題名を直訳すると「民衆を率いる自由」となるわけです。

しかし世界にはいろんな文化があり、こういうフランス史や西欧文化(抽象概念の擬人化)ベッタリの絵は「世界で2番目に有名」と言えるほどには広まりにくいのではないかと思います。自由の女神がフランス国旗を持っていたりするのも、グローバル視点ではマイナス・ポイントになるでしょう。

  蛇足ですが、ニューヨークの港の入口に立っている像は、Statue of Liberty = 自由の像、です。あれは女神が立っているのではなく、自由が立っているのです。


18 - 19世紀の絵画


着衣のマハ.jpg
裸のマハ.jpg
ルーブルつながりでは「ナポレオンの戴冠式」も有名ですが、この絵も「フランスの歴史ベッタリの(当時における)プロパガンダ絵画」というのがマイナス・ポイントになるし、それに、この絵の作者名を即答できる人は多くはないのではと思います(= ダヴィッド)。

ダヴィッドの同時代人に、スペインのゴヤがいます。『ゴヤの裸のマハ、着衣のマハ』の2部作はどうでしょうか。この作品の "難点" は2枚でペアということと、それをさしおいたとしても、女性の裸体を描いていることです。「世界」というレベルで考えると女性の裸体がオープンになることを嫌う、ないしはタブーになっている文化圏があります。「世界で2番目」とするには問題があるような気がします。それはドラクロワの『民衆を導く自由の女神』も同じでした。


17世紀の絵画


真珠の耳飾りの少女.jpg
時代をさかのぼって、17世紀の絵画で「世界で2番目に有名な絵」の候補を探すと、やはりフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』でしょう。女性の肖像画はいっぱいありますが、「女性の振り向きざまを視線を合わせる構図で描いた "西洋版・見返り美人" の絵」というのは極めて少ない。名のある絵ではグイド・レーニの『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』、ヴィンターハルターの『オーストリア皇后エリザベートの肖像』ぐらいでしょう。この絵の独自性と、少女の表情から受けるインパクトの強さは、有名になる素質十分といったところです。

しかし、フェルメールの人気は最近の数十年のことだと言いますね。「世界」というレベルで考えたとき、この絵の浸透度合いはどうか、少々疑問になるところです。日本でも「フェルメール、フェルメール」と大騒ぎするようになったのは、せいぜいこの20年程度でしょう。それと、題名が少々長いのが気にかかる。ただし、題名は画家がつけたわけではないので『真珠の耳飾り』でもよいし、別名である『青いターバンの少女』でもいいわけです。



17世紀の絵画ということで考えると、ベラスケス、ルーベンス、レンブラントといったビッグ・ネームがあるわけですが、作品の芸術的価値は別にしてダントツに「世界で」有名な1枚という視点だけで考えると、いずれも弱いと考えます。


ルネサンス絵画


では時代をさらにさかのぼって、イタリア・ルネサンス期の絵画はどうか。まず思いつくのは『ダ・ヴィンチの最後の晩餐』でしょう。

しかし「最後の晩餐」の難点は、1番目も2番目もダ・ヴィンチではおもしろくない(?)ということです。さらにもっと本質的には、この絵のテーマがキリスト教そのものだということです。「世界」という範囲で考えるとキリスト教と無関係な人たちも多いし、それどころかキリスト教と対立している人たちがいる。たとえばイスラム教の世界人口は15億人と言いますね。イスラム教の人たちにとってダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はよく知られた絵なのかどうか。どうも違うような気がします。もちろん大多数のイスラム教徒の人たちはキリスト教徒と仲良くしようと考えていると思いますが・・・・・・。

宗教画であることがマイナス点になるという事情は「ラファエロの聖母」や「ミケランジェロの最後の審判」も同じです。ラファエロの聖母は "似たような絵" が何枚かあり(『聖母子とヨハネ』『牧場の聖母』『大公の聖母』など)、ピンポイントで特定するのが難しいという問題点もあります。"似たような絵" をたくさん描いたからこそ「聖母の画家」なのです。

ヴィーナスの誕生.jpg
では、ルネサンス期の「キリスト教とは無関係な絵画」はどうでしょうか。その筆頭は『ボッティチェリのヴィーナスの誕生』でしょう。これは有名な絵ですが、いくつか問題点があって、まずキリスト教とは無縁だけれどもギリシャ神話という、これまた特定文化圏のモチーフであることです。さらに "女性の裸" を描いたことがこの絵の西洋絵画史上における革命なのだけれど、それを嫌う人たちが世界にはいるに違いない。ボッティチェリという画家の名前も言いにくいし、覚えにくい。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロよりは、画家の有名度においてワン・ランク下がるような気がします。


20世紀 - ピカソ


時代を逆に20世紀に向けると、超有名画家であるピカソが思い浮かびます。『ピカソのゲルニカ』はどうでしょうか。確かにこれは有名という感じがします。

ゲルニカ.jpg
しかし難点は、ゲルニカがスペインの小さな都市の名前であり、かつ絵のモチーフがスペイン内戦という20世紀の歴史に根ざしていることです。それだからこそ、この絵の意義があるのだけど・・・・・・。モチーフとしても、何が描かれているのかが一見しただけでは分かりにくい。歴史的背景を知ってよく見ると圧倒される、という絵なのです。

泣く女.jpg
「アヴィニョンの娘たち」という、これまたピカソの有名な絵もありますが、これは「絵画の革命」だから有名なのであって、果たして美術に関心がない人からみてどうなのか、大いに疑問が残るところです。

「ゲルニカ」や「アヴィニョンの娘たち」よりも、ひょとしたら世界で2番目に有名の候補になりやすいのは『ピカソの泣く女』でしょう。モチーフはシンプルだし、絵のインパクトも強い。題名も簡潔です。この絵に問題があるとしたら、絵としてのインパクトが強い分、キュビズムという絵画手法に違和感を覚える人が多いのではと想像されることです。それが絵の浸透にネックになるのではないか。


北斎の強力なライバル


以上のように順に考えてみると『葛飾北斎の神奈川沖浪裏』=『Hokusai の The Great Wave (The Big Wave)』は、世界で2番目に有名な絵の候補であるだけでなく、極めて有力な候補だと言えそうです。最初に引用した及川教授の「(世界で2番目に有名な絵は)葛飾北斎の大波の絵と言われています」という発言も、一部の美術関係者の憶測ではなく、それなりの根拠がある信憑性が高い話だと考えられるのです。

・・・・・・ と、安心するのはまだ早いことに気づきました。北斎の「強力なライバル」があることに思い立ったのです。それは『ムンクの叫び』です。

叫び.jpg
この絵はまず、何が描かれているかが一目瞭然であり、題名も絵をストレートに表していて、単純で覚えやすい。ムンク独特の表現手法が強烈で、他にはあまりなく、印象に残りやすい。画家の名前はピカソやダ・ヴィンチほどには有名でないが、それを言い出すと Hokusai も同じです。『叫び』を知って "ムンク" の名を覚えた人も多いはずだし、逆にムンクの作品はこれしか知らない人も多いと思える。このあたりは Hokusai と似ているでしょう。この絵は2番目に有名の候補になりうるし、しかもかなりの有力候補ではないでしょうか。

『ムンクの叫び』について思い当ることがあります。[げっそり] は docomo/au 共通絵文字で「げっそり」という名前がついていますが、実はこれは『ムンクの叫び』にヒントを得てデザインされたものではないでしょうか。叫んでいるのは「げっそり」と痩せた人です。だとしたら、その影響力や恐るべしということになります。北斎もうかうかしていられない。

考えてみると『The Great Wave』と『叫び』には次のような共通点があります。

モチーフと題名の分かりやすさ
何が描かれているか、一目瞭然です。題名(俗称)もシンプルで、描かれているものと直結している。

独特のデフォルメが強烈な印象を残す
あらゆる絵の中でその絵しかない、と言ってもいいほど個性的です。それはデフォルメがもたらしたものですが、その絵画手法はキュビズムとは違って現実の自然な延長線上にあります。美術に関心が無い人でも違和感がない。

特定の文化に依存しない
  「波」も「叫び」も特定文化に根ざす題材ではないし、特定地域の歴史が背景にあるわけではない。

などです。ちなみに北斎の波の装飾的表現は、別に北斎独自のものではありませんが、それはあくまで「日本人だからそう考える」わけです。日本美術史を知らない世界の多く人にとって、あの波の表現方法は「Hokusai の Wave」であり、また「Hokusai」の名はこの絵で知った、ないしは「Hokusai」の作品はこれしか知らない、という人は多いと思います。

北斎の "ライバル" ということでは『ゴッホのひまわり』『ピカソの泣く女』『フェルメールの真珠の耳飾りの少女』なども有力なことには違いありません。今まで書いたように、それぞれ難点があるけれど・・・・・・。



「世界で2番目に有名な絵」は何か、「葛飾北斎の神奈川沖浪裏」はその最有力候補ではないかという考察(?)を通して感じたことが2つあります。それを以下に書きます。これは "まじめな" 考察です。


『モナ・リザ』という特別な存在


「世界で2番目に有名な絵」をあれこれと推測して分かるのは、『モナ・リザ』(国によっては『マダム・ジョコンダ』)という絵が特別であることです。確かにこの絵は画家がメジャー、モチーフがシンプル、題名もシンプル(固有名詞だけど)、特定文化に依存しないなど、有名になるベーシックな条件が備わっています。

しかし『モナ・リザ』は、どこにでもありそうな女性の肖像画なのですね。そこに北斎やムンクのような特有のデフォルメや印象に残る強烈さがあるわけではない。我々は小さい頃から『モナ・リザ』と知っているから、一見して他の絵と区別できます。しかしそういう知識が全くないという前提で考えてみると、これが一見して他と区別できる絵だとはとても思えない

しかし人々の印象に残り、語り伝えられ、メディアでも紹介され、小説のテーマにもなり、大傑作だという評価をうけ、ルーブルのこの絵の周りは長蛇の列になる。その理由はというと、多くは「モナ・リザの表情」に起因しているのですね。これについては No.90「ゴヤの肖像画:サバサ・ガルシア」で、次のように書きました。


しかし肖像画の傑作と言われる絵には、人物の内面を感じさせるという以上に、別の観点で素晴らしい絵があります。それは、モデルとなった人が見せる微妙な表情が描かれていて、その描写力で傑作と言われる作品です。単にポジティフな表情でもないし、ネガティブというわけでもない。複雑で奥深い表情の絵です。その典型がレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』ですね。微笑んでいるが、単なる微笑ではない(と思える)。見る人は何か奥深いものを感じてしまい、それが何かは謎でもある。謎を通り越して「神秘」「崇高」というようなイメージを人に与える絵です。


「どこにでもありそうな女性の肖像画が世界で1番有名な絵である」という、この事実にこそ『モナ・リザ』の驚異があるのだと思います。結局のところ、人間は人間に一番関心があるのでしょう。それを暗示しているようです。『ムンクの叫び』が北斎の強力なライバルと書いたのも、実は「人間を描いているから」でした。


我々は「神奈川沖浪裏」を知っているか


神奈川沖浪裏.jpg
葛飾北斎
神奈川沖浪裏

「世界で2番目に有名な絵」をあれこれと推測して感じたことの2番目は、我々日本人は、たとえば外国の人に『神奈川沖浪裏』を説明できるか、ということです。まず日本人として、この絵を "本当に" 知っているかどうかが問題です。はじめの方に「有名」の定義として、

その絵を知っている。
たとえば写真を見せられて "あっ、知ってる" と言える
画家の名前が言える。
絵の題名が言える(俗称・通称でも可)。

の3条件をあげました。おそらく多くの日本人は ① ② は大丈夫だと思います。しかし ③ はどうでしょうか。及川教授の対談にあったように、題名は? と聞かれて、

神奈川沖浪裏
The Great Wave(The Big Wave)

のどちらかを答えることができる人がどれほどいるかが問題です。「大きな波」では、絵の説明にはなっているけれど「題名」ではない。『大波』という略称が日本で一般的になっているわけでもないでしょう。波間に見える富士山、と答えたとしたら、ますます題名ではない。

世界で2番目に有名な絵(の有力候補)だから、この絵を知っている人は世界中に大変たくさんいます。絵の作者名(Hokusai)を言える人も多いはずです。そして「題名は ?」と聞かれたとき、たとえば英語圏や英語を話せる人で Hokusai を知っている人なら「The Great/Big Wave」と答えるのではないでしょうか。だとしたら、

  世界中で、日本人だけがこの絵の題名(ないしは俗称)を答えられない

という公算が大だと思うのです。日本文化を象徴する絵なのだから、せめて日本人としては題名だけでも知っておきたいものです。

この絵を外国の方に説明するときには「富士山を描いた絵」ということは言った方がよいと思います。そうとは気づかない人もいるはずです。また三隻の舟には人が乗っていて、18世紀の日本では実際にこのような舟で沿岸輸送をしていたことも知っておいた方がよいと思います(こんな大波の中で輸送するかどうかは別にして)。



この絵を一言で言うと「ローカルだけどグローバル」ということかと思います。完全な日本文化の中から一人の「天才」によって生み出されてものだけど、グローバルに認知され「世界で2番目に有名な絵」になった。

しかしこの絵は完全にローカルなわけではありません。西欧から2つの点で影響を受けています。まず北斎の当時から、使われた青色が輸入合成顔料であるプルシアン・ブルーです(No.18「ブルーの世界」参照)。江戸時代の言い方では「ベロあい」ですが、この "ベロ" とはベルリンのことなのですね。発明されたのが当時のプロイセンの首都、ベルリンです。

さらにこの絵は西洋画法(特に遠近法)の影響を受けているのでしょう。厳密な遠近法ではないかもしれません。しかし構図は、明らかに円と螺旋と直線で構成されていると感じます。「幾何学的な描線で骨格の構図を決める」というところに遠近法との非常な類似性を感じます。

ローカルだけれどグローバル。それは「グローバルな絵画技術を取り入れつつ、あくまでローカルに描き、結果としてグローバルに有名になった」という意味です。そして、それを生み出した北斎という画家のすごさに改めて感嘆するのです。




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No.155 - コートールド・コレクション [アート]

前回の No.154「ドラクロワが描いたパガニーニ」で紹介した絵画『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』があるのは、アメリカのワシントン D.C.にあるフィリップス・コレクションでした。また以前に、No.95 でバーンズ・コレクション(米・フィラデルフィア)のことを書きましたが、これらはいずれも個人のコレクションを美術館として公開したものです。

個人コレクションとしては、日本でも大原美術館(大原孫三郎。倉敷市。1930 ~ )、ブリヂストン美術館(石橋正二郎。東京。1952 ~ )、足立美術館(足立全康。島根県安来市。1970 ~ )などが有名だし、海外でもノートン・サイモン(米・カリフォルニア)、クラーク(米・マサチューセッツ)、フリック(米・ニューヨーク)、クレラー・ミュラー(オランダ)、オスカー・ラインハルト(スイス)など、コレクターの名前を冠した美術館が有名です。

こういった個人コレクションで最も感銘を受けたのが、ロンドンにある「コートールド・コレクション」でした。今回はこのコレクションのことを書きたいと思います。実は以前、知人に新婚旅行でイギリスに行くという人がいて、ロンドンの「おすすめスポット」を尋ねられたことがありましたが、私は「コートールド・コレクション」と答えました。新婚旅行から帰ってから、その方に「よかった」と、たいそう感謝された記憶があります。


サミュエル・コートールド


サミュエル・コートールド(1876-1947)は、イギリスで繊維業を営んだ実業家で、フランスの印象派・後期印象派の絵画を収集しました。彼はロンドン大学付属の「コートールド美術研究所 The Courtauld Institute of Art」を設立し(資金を提供)、その研究所のギャラリー(コートールド・ギャラリー)に自らのコレクションを寄贈しました。これがコートールド・コレクションです。

コートールド・ギャラリーは、ロンドンのコヴェントガーデンに近い「サマセット・ハウス」という公共建築物の中にあります。広い中庭がある大きな建物ですが、その北側の一角の1階から3階までがギャラリーになっています。ナショナル・ギャラリーやテート・ギャラリーと違って独立した建物があるわけではなく、旅行ガイドを頼りに場所を探しても、少々わかりにくい。内部の展示スペースもこじんまりしています。展示室は基本的に2階と3階で、それぞれ数室しかありません。印象派・後期印象派の絵画は、わずか2室程度にあるだけです。しかし収集された絵画の質は素晴らしく、傑作が目白押しに並んでいる部屋の光景は壮観です。

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サマセット・ハウス(北ウィング)
コートールド・ギャラリーへのエントランスは写真の入り口の右手にある。

その絵画の何点かを以下に紹介します。コートールド・ギャラリーにはコートールドが寄贈した絵画以外にも、ルネサンス、バロック、ロココなどの絵画が収集されているのですが、以下の話はコートールドの寄贈作品に絞ります。といっても、すべての絵の紹介はできないので、画家の特質をよく表している傑作(と個人的に思うもの)の一部に絞ります。


セザンヌのサント=ヴィクトワール山


まず、セザンヌ(1839-1906)の『大きな松の木のあるサント=ヴィクトワール山(Montagne Sainte-Victoire with Large Pine)』(1887)です。

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ポール・セザンヌ(1839-1906)
大きな松の木のあるサント=ヴィクトワール山
Montagne Sainte-Victoire with Large Pine(1887)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

SaintVictoire-Bridgestone.jpg
セザンヌ
「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」
(ブリヂストン美術館)

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セザンヌ
「ガルダンヌからみたサント=ヴィクトワール山」
(横浜美術館)
セザンヌは、故郷のエクス=アン=プロヴァンスにあるサント=ヴィクトワール山を描き続けたことで有名です。油絵だけでも40点以上あるといいます。従って「セザンヌのサント=ヴィクトワール山」は各国の美術館が所蔵していて、日本にもあります。たとえばブリヂストン美術館の『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』は中景に赤い建物が配置されている作品です。横浜美術館にも『ガルダンヌからみたサント=ヴィクトワール山』という作品があります。

コートールドのこの絵も40数点の中の1枚であり、特に「めずらしい」ものではありません。しかし特にこの絵が印象深いのは、この絵を初めて見たとき、直感的に日本画(浮世絵)を感じたからです。近景に木をクローズアップで(全容を描かずに)描き、中景に田園風景、遠景に山、というこの構図が浮世絵を連想させます。

サント=ヴィクトワール山ではないですが、ゴッホが描いた風景画を以前に紹介したことがありました。No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」で引用した『アルルの風景』(ミュンヘンのノイエ・ピナコテーク所蔵)という作品です。この絵も、近景の3本のポプラの木はその全容が描かれていません。構図の視点から、ゼザンヌのコートールドの絵との親和性を感じます。

ゴッホを持ち出さなくても、そもそもコートールドには、似た構図のセザンヌの別の絵があります。フランス・アルプスの山麓の湖を描いた『アヌシー湖 - Le Lac d'Annecy』(1896)という作品です。

02 Lac d'Annecy.jpg
ポール・セザンヌ
アヌシー湖
Lac d'Annecy(1896)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

サント=ヴィクトワール山の絵に戻りますと、こういった近景に木を配した山の絵はコートールドだけではありません。実は、前回の No.154「ドラクロワが描いたパガニーニ」で紹介したフィリップス・コレクションにも、コートールドの絵とそっくりの作品があります。ただし松の木は2本になっています。セザンヌはいろいろと構図の研究したようです。

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ポール・セザンヌ
サント=ヴィクトワール山
La Montagne Sainte-Victoire(1886/7)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

浮世絵を連想させる、ということで次に思い浮かべるのは葛飾北斎(1760-1849)の『富嶽三十六景』(ないしは歌川広重の『富士三十六景』)です。セザンヌのサント=ヴィクトワール山の連作は『富嶽三十六景』に影響されたのではと感じます。

No.30「富士山と世界遺産」にも書いたのですが、そもそも特定の山を主題に絵を描くというのは、ヨーロッパの絵画ではあまり思い当たりません。山岳地帯をもつ国はイタリア、フランス、スイス、オーストリア、スペイン、ドイツ、ノルウェー、スウェーデンなどがありますが、有名画家の "山の絵" はあまり思い当たらない。唯一思い当たるのは、スイスの "国民的画家" のホドラー(1853-1918)で、ユングフラウ、アイガー、メンヒなどのアルプスの山を主題に描いています。セガンティーニ(イタリア人)やフリードリッヒ(ドイツ人)は山岳風景をたくさん描いていますが、特定の山を描いた作品は見たことがありません。

従ってセザンヌは「特定の山を主題に、しかも連作で描いた希な画家」ということになります。もちろんそれは彼の郷土愛であり、幼少期から親しんだ風景への愛着なのだろうけれど、その「山の連作」のヒントになったのは北斎というのは十分考えられると思うのです。



神奈川沖浪裏.jpg
葛飾北斎
「神奈川沖浪裏」


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葛飾北斎
「尾州不二見原」
考えてみると『富嶽三十六景』には「現実に画家が見たのではない構図」がいろいろとあります。有名な『神奈川沖浪裏』は、波の装飾的表現は別にして、富士山をバックにした大波の光景は、溺れるのを覚悟で沖に漕ぎ出さない限り見ることはできません。もっと日常的な光景では、たとえば『尾州不二見原』というこれも有名な作品です。桶職人の所作や道具はリアルで、画家は職人が大きな桶を作る姿を観察したに違いありません。しかしこの構図は実際の光景ではなく「創作」ではないでしょうか。もちろん実際に画家が見た光景だとも考えられますが、しかし富士山の "三角"と桶の "円" をピッタリと "幾何学的に配置" したのは北斎の創作だと強く感じます。

二つの作品で言えることは、個々のモチーフである「富士山」「大波」「人の乗った舟」「大樽」「樽職人」はあくまで現実のものだし、デフォルメは別にして、現実をトレースしようとしています。しかしその「組み合わせ方」に画家の創作行為が入っていて、それこそが芸術だということなのです。

そこでコートールドの『サント=ヴィクトワール山』です。ここに描かれた松の木の "枝ぶり" は、ちょうどサント=ヴィクトワールの稜線に沿うように描かれています。これは実際の光景なのでしょうか。そうとも考えられるが、より強い可能性は画家の創作だと思うのですね。まるで松の木を「自然の額縁」かのようにしてサント=ヴィクトワール山を描いたこの絵は、画家が「そうしたい」と思ったからではないかと想像します。これは、前に引用したフィリップス・コレクションの絵でも同じです。松の枝は山の稜線にしっかり沿っているし、松の木を二本配置することで「自然の額縁」の感じがよりはっきりしています。松の木はリアルだし、サント=ヴィクトワール山もリアル、しかしその配置と組み合わせ方が画家の創作行為である ・・・・・・ そいうことではないでしょうか。セザンヌにはそのような絵がいろいろあります。静物画でも、個々の事物はリアルだが、全体としては "絶対に現実にはないような(= 現実には絶対にそうは見えないような)組み合わせである" というような絵です。

葛飾北斎の『富嶽三十六景』は、手を変え品を変えた構図とモチーフの配置で富士山を描いています。セザンヌも同様に手を変え品を変えてサント=ヴィクトワール山を描いた。ブリヂストン美術館の絵は赤い建物が非常に印象的だし、横浜美術館の絵は、サント=ヴィクトワール山を "大きな丘" という感じに見えるアングルから描いています。40枚以上描くのだから、絵描きとしてはヴァリエーションを追求するわけです。その中には創作もある。構図の探求をするなら当然でしょう。このあたりも『富嶽三十六景』との親和性を感じます。別に北斎から学んだわけではないでしょうが・・・・・・。

最近知ったのですが、セザンヌは北斎から影響を受けたと発言している専門家の方がいます。比較文化学が専門の及川茂・日本女子大学教授です。2009年に発行されたあるIT企業(JBCCホールディングス)の社長との対談ですが、その発言を引用しておきます。


セザンヌは北斎の「富嶽三十六景」に取り憑かれていた。セザンヌにとっての「サント・ヴィクトワール山」は、彼にとっての富士山で、サント・ヴィクトワール山三十六景を描きたかったんだろうと思います。

及川茂・日本女子大学教授(当時)
JBグループ 情報誌「Link」vol.198(2009/05)


モネ / スーラ / ゴッホ


03 Antibes.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
アンティーブ
Antibes(1888)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

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モネ「アンティーブ岬」
(愛媛県美術館)
セザンヌの風景画をとりあげたので、3人の画家の風景画を紹介します。まずクロード・モネの『アンティーブ(Antibes)』(1888)という作品です。アンティーブはコートダジュールに面する町ですが、この絵は「木と風景」という点でセザンヌとの類似性があるので掲げました。セザンヌよりももっと強く浮世絵の影響をうかがわせる構図です。なお全く同じ構図で時刻を変えて描いた絵が愛媛県美術館にあります。

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ジョルジュ・スーラ(1859-1891)
クールブヴォアの橋
Bridge at Courbevoie(1886/7)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

コートールド・ギャラリーはスーラの絵も何点か所蔵していますが、上に掲げたのは『クールブヴォアの橋(The bridge at Courbevoie)』(1886/7)で、スーラが絵の全体に点描を使った初めての作品です。パリ近郊のセーヌ河の中州であるグランド・ジャット島の水辺の静謐な風景で、点描の特質を大変よく生かした優れた絵だと思います。実はこの絵もまた近景の木が構図上のポイントになっています。

05 Peach Trees in Blossom.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
桃の花盛り
Peach Trees in Blossom(1889)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

コートールド・コレクションのゴッホの絵で有名なのは『耳に包帯をした自画像』でしょう。ここでは、風景画つながりで『桃の花盛り(Peach Trees in Blossom)』(1889)を掲げます。アルル近郊のラ・クロー平野の絵です。前景の柵と桃の木、中景の畑と家、遠景の山並みがパノラマ的にとらえられています。春先を感じさせるおだやかな色使いが大変美しい絵です。ちなみにアムステルダムのゴッホ美術館には、よく似た構図で描かれた『ラ・クローの収穫』があります。


コートールドの3つの "富士山"


ゴッホの「桃の花盛り」をよく見ると、右の方の遠景に「冠雪している三角の山」が小さく描かれています。これについて、

  日本にあこがれたゴッホが富士山のつもりで描き込んだのかもしれない」

Fuji.jpg
とした評論を読んだことがあります。なるほど、と思いました。アルルは南フランスの地中海沿岸です。普通、真冬でも気温は零下にはならないはずです。平地に雪が降ることもあるようですが、滅多にないといいます。近郊の山といっても、アルプスやピレネーではないので、せいぜい標高1000メートル台でしょう(サント・ヴィクトワール山は1011メートル)。桃の花が満開ということは、描かれた時期は4月上旬あたりです。もしこれが画家が実際に見た光景だとしたら、南仏の真冬に低い山に雪が積もり、それが4月まで残っていることになる。アルルに居住したことがある人ならすぐに分かるはずですが、推測をすると「この冠雪した山は現実の光景ではない」可能性が大いにあるのではないでしょうか。

だとすると、浮世絵を何点も所有し、その模写までもやったゴッホが「富士山のつもりで描き込んだ」というのはありうると思います。実際に冠雪した山があったとしても、それを富士山に "見立てて" 配置したということもありうるでしょう。

その富士山つながりなのですが、コートールドにあるゴッホ作品としては "桃の花" よりも、同じ年に描かれた『耳に包帯をした自画像』の方が断然有名です。この自画像の背後には画中画としてゴッホが所有していた浮世絵が描かれているのですが、その画題はというと「芸者」と「鶴」と「富士山」です。桃の花の絵に富士山を描き込んだのでは、というのはあくまで憶測ですが、ゴッホは『耳に包帯をした自画像』にはまさしく富士山を描き込んだのです。

ちなみに、ゴッホが画中画として浮世絵を描くということは、そのこと自体に特別な意味があると考えなければなりません。有名な『タンギー爺さん』には6枚もの浮世絵が描き込まれていますが、これはとりも直さず "感謝" の意味でしょう。貧しくて売れない画家である自分を支援してくれた画材店の店主に対する感謝と、画家として多大な啓示を受けた日本の浮世絵に対する感謝です。そして、このコートールドの絵の場合は、耳切り事件を起こしたあとの再出発の決意でしょう。浮世絵を描き込むことでその"決意" を鮮明にしたのだと考えられます。

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フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
耳に包帯をした自画像
Self-Portrait with Bandaged Ear(1889)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

以上のゴッホの2枚の絵と、セザンヌのところで引用した及川教授の「サント・ヴィクトワール山はセザンヌにとっての富士山」という指摘を合わせると、

  コートールド・コレクションには、3つの "富士山" がある

ことになります。コートールド・ギャラリーを訪れたならそう思って絵を鑑賞するのも(我々日本人にとっては)楽しいでしょう。私がコートールドを紹介した知人も、夫婦でコートールドを再訪する機会があったら、是非「3つの富士山」の話をパートナーにして "知ったかぶり" をしてほしいと思います。



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フィンセント・ファン・ゴッホ
「雪のある風景」(1888.2)
グッゲンハイム美術館(NY)
(site:www.guggenheim.org)
余談になりますが、ゴッホがパリをたってアルルに到着したのは1888年の2月です。その、1888年の1月、2月のヨーロッパは例年になく雪が多く、南フランスのアルルにも "めったに降らない" 雪が降ったようです。南フランスの明るい太陽にあこがれてやって来たゴッホも、さぞかしびっくりしたのではないでしょうか。そのゴッホも『雪のある風景』(1888.2)という、雪景色のアルルを描いています。コートールド・コレクションの「桃の花盛り」の絵は、その1年後の4月の絵ということになります。


モディリアーニの裸婦



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アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)
裸婦
Female Nude(1916)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

モディリアーニは多数の裸婦像を描いていますが、コートールドにあるこの『裸婦 - Female Nude』(1916)は特別です。普通、モディリアーニの裸婦というと、明らかにプロのモデルを使った絵が多いわけです。というより、モディリアーニに限らず普通の画家はそうです。

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モディリアーニ
ベアトリス・ヘイスティングス

バーンズ財団(フィラデルフィア)の Room 19 South Wall にある。No.95「バーンズ・コレクション」参照。
ところがこの絵のモデルは「素人しろうとのモデル」だと強く感じさせます。全体から受ける印象がそうです。このモデルは、モディリアーニの恋人だったベアトリス・ヘイスティングスだという説があります。彼女はイギリス人の詩人で、モディリアーニと2年間の同棲生活をおくりました。この説が正しいとすると、まさに素人しろうとということになります。

ベアトリスだという確実な証拠はないようです。しかしモデルが誰かをさし置いたとしても、この絵の女性は「モディリアーニに強く頼まれてモデルを引き受けてしまった」という感じがします。実際にギャラリーで実物をみると、恐ろしく速く描いた、という印象が強い。タッチは素早く大胆だし、絵の下の方などは、まともには絵の具が塗られていません。30分ぐらいで描いたのではないかとさえ思えます(大袈裟ですが)。とにかく「モデルとじっくり向き合い、デッサンを重ねて、時間をかけて描いた絵」では全くないという印象が強いのです。そういうところも、プロのモデルではないという感じを強めます。

ヌード(nude)という美術用語があります。これは単なる「裸」でありません。アートの対象としての「裸体像」であり、ある種の美化や理想化(その一つとしてのデフォルメ)が行われることがよくある。しかしこの絵はちょっと違います。nude ではなく naked(裸)と強く感じさせる絵です。「見てはいけないものを見てしまったような感じ」もする。

線は確かに単純化されてはいますが、モディリアーニの絵によくある "様式化" はそれほどでもありません。線描によるデッサンの天才であったモディリアーニらしく、的確に描かれた線の美しさは格別です。肌色と緑がかった絵の具を波状に、こすり付けるようにして体を描いていて、それが生々しい感じをよく出している。全体として、女性のヴィヴィッドな美しさがよく出た傑作だと思います。


マネが描いた「鏡」


次は「コートールドといえばこの作品」「この作品と言えばコートールド」という感じの絵で、マネの『フォリー・ベルジェールのバー(A bar at the Folies-bergere)』(1881/2)です。

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エドゥアール・マネ(1832-1883)
フォリー・ベルジェールのバー
A Bar at the Folies-Bergere(1881/2)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

フォリー・ベルジェールは19世紀後半のパリにおいて、時代の先端をいく「カフェ・コンセール」(音楽カフェ)でした(今でもある)。そこでは音楽の演奏や演劇も行われ、ホールがあり、カフェがあり、バー・カウンターがあった。その都会の最先端スポットを描いた風俗画がこの作品です。

ポイントは二つあると思います。一つは「労働者としての女性」を中心に当時の風俗を描いたことです。それも、家政婦、洗濯女、娼婦などの、昔からあった "働く女性" ではなく、産業革命を経て近代的な都市が出現し、多くの人が集まり、富が蓄積し、人々に余裕ができる ・・・・・・ その結果として出現した女性バーテンダーを描いたという点です。当然のことながら、彼女の社会的地位は低いはずですが(豪華に見える服は制服)、そういった新しい女性を描いたのがこの絵の第一のポイントだと思います。

二つ目は「鏡」です。この女性の背後には大きな鏡があって、女性の後ろ姿と、女性と話している(であろう)男性客が描かれています。女性の後ろ姿と男性客の位置関係は変で、実際にこの通りの光景はありえません。しかし鏡を使った絵画において「実際にはありえない光景」というのはよくあります。この絵も画家の創作であって、芸術作品としては十分許されることでしょう。ちなみに男性客と女性バーテンダーの組み合わせは、ドガの絵に出てくる「踊り子とシルクハットの男性」を連想させます。

鏡を使った絵画としては、以前の記事でも何点か紹介しました。まずファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻の肖像』(No.93「生物が主題の絵」)であり、ファン・エイクに影響されたと言われるベラスケスの『ラス・メニーナス』(No.19「ベラスケスの怖い絵」)です。ベラスケスは、有名な『鏡のヴィーナス』という絵を残しています。

これらの絵の鏡は、せいぜい手鏡の程度大きさのものです。大きな鏡を作るには大きな平面の板ガラスを作る必要があるのですが、これが昔は困難だった。溶けたガラスをローラーで延ばし、平面に研磨するという方法だったからです。そこに錫箔を貼って鏡にした。完全な平面でないと鏡にはなりませんが、大きな平面ガラスを作るのが難しいわけです。ベルサイユ宮殿の有名な「鏡の間」も、複数の鏡を連結して作ってあります。

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Mary Cassatt
「The Fitting」
しかし、19世紀も後半になると産業革命とともに平面ガラスを作る技術が発達し、大きな鏡も安価に入手できるようになった。その例が、No.87「メアリー・カサットの少女」で紹介した、メアリー・カサットの版画作品『着付け - The Fitting』です。ここでは大きな「姿見」が登場しています。画家が狙ったのは、鏡を使って「二つの世界を画面に同居させる」ことでしょう。

マネの『フォリー・ベルジェールのバー』も同じです。シルクハットの男性と多数の客を、バーテンダーの女性の背後に配置することによって、不思議な空間を作り出しています。

シャンデリアの向こうのバルコニー席に座っている客は何をしているのでしょうか。うっかりすると見逃してしまうのですが、この絵の左上には小さく「上からぶら下がった二本の足」が描かれています。そのサイズから、男性客と観客の間にある足だと分かる。これは空中ブランコの演技を客が見ている、それが鏡に写っている、そういう絵なのですね。つまり鏡の向こうは、ホールと高い天井、舞台、曲芸師、バルコニー席、大勢の客のおしゃべり、賑やかな音楽、どよめきと歓声と拍手・・・・・・という世界です。バーのカウンターの中の狭いスペースとは違う世界が広がっているのです。



話は飛ぶのですが、イギリスのルイス・キャロルは『不思議の国のアリス』を出版したあと、好評に応えて続編の『鏡の国のアリス』(1871)を書きました。マネの絵が描かれる10年前のことです。この本の原題は「Through the Looking Glass - 鏡を通り抜けて」です。アリスが「鏡の向こうはどんな世界だろう」と空想するところから始まる冒険譚です。原書には、まさにアリスが鏡をすり抜ける瞬間の挿し絵があります。

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鏡の国のアリス」より
Through the Looking Glass
初版本にジョン・テニエルが描いた挿し絵

鏡は大昔からありました。しかし人の全身より大きいような鏡が出現し、鏡の向こうにも世界があるようにリアルに感じられるようになったからこそ、ルイス・キャロルはインスピレーションを得て『鏡の国のアリス』を書いたのだと思います。そう言えば、ベラスケスに触発されて書かれたオスカー・ワイルドの童話「王女の誕生日」(1891)もまた、全身が映るような鏡がストーリーのキー・アイテムとなっているのでした(No.63 「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」参照)。



現代人である我々は、全面が鏡になっている壁を見ても何とも思いません。そういう鏡はよくあるからです。しかし19世紀後半の人々にとって、大きな「鏡」や「姿見」によって、こちら側の世界とあちら側の世界が同居する、という光景は極めて斬新だったのではないでしょうか。昔ならヴェルサイユ宮殿に招かれないと体感できないような光景が、パリのカフェで一般人が味わえる・・・・・・。それは文明がもたらした新たな光景だったのでしょう。

19世紀後半の絵画をみると、産業革命以降の文明によって庶民に身近になった事物がいろいろと描かれています。汽車やその関連設備(駅、鉄道、鉄橋)、汽船、工場、などです。No.115「日曜日の午後に無いもの」で触れた日用品としてのパラソルもその一つでしょう。そういう文明の利器の一つとして、フォリー・ベルジェールのバーに設置された大きな鏡があった。

『フォリー・ベルジェールのバー』という作品は、画家の総決算ともいえる晩年の作であり、まさに「その時代」を描いた作品です。そして制作の発端になったのは、鏡が作り出す世界が画家に与えたある種の "感動" だと感じます。



この絵について付け加えたいのは、マネの静物の描き方ですね。以前の記事で、

  「アスパラガス」(1880)
No.3「ドイツ料理万歳」

  「スモモ」(1880)
No.111「肖像画切り裂き事件」

というマネの静物画を引用しましたが、『フォリー・ベルジェールのバー』のカウンターに置かれた薔薇とみかんの描写も秀逸です。マネの静物は天下一品だと思います。

Folies-Bergere-Orange.jpg


コートールド・コレクションの「顔」


コートールド・コレクションにはこの他にも印象派・後期印象派の画家の代表作があります。"代表作" が言い過ぎなら「画家の最良の特質をストレートに表した絵」です。そんな絵を5点あげておきます。

09 Two Dancers on a Stage.jpg
エドガー・ドガ(1834-1917)
舞台の二人の踊り子
Two Dancers on a Stage(1874)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

多数あるドガの踊り子の絵では、オルセー美術館の絵が最も有名だが、このコートールドの絵も代表作。オルセーの絵と同じく俯瞰する位置から見た絵で、二人の踊り子を極端に右上の方に配置し、しかも一人の左手を全部は描かないという構図が印象的である。カメラにたとえると、二人の踊り子を追ったが、動きが素早いのでシャッターを切り損ねて手がはみ出したかのようである。左端にも三人目の踊り子の一部が見える。そういう意図的な構図が作り出す躍動感がある。


10 La Loge.jpg
オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
桟敷席
La Loge(1874)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

ルノワールが33歳の時の作品で、第1回印象派展に出品された。ルノワールの若い頃の画風を代表する絵である。女性はじっと観劇しているが、同伴の男性は観劇には興味がなく、おそらくオペラグラスで別の桟敷席の女性客を観察しているのだろう。「別の女性客を観察」というのは、メアリー・カサットがまさにそういう絵を描いていて(ボストン美術館)、それからの連想。もっとも、舞台以外で、オペラグラスで観察する価値があるのは女性しかないとも言える。


11 Young Woman powdering Herself.jpg
ジョルジュ・スーラ(1859-1891)
化粧する若い女
Young woman powdering herself(1888/90)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

スーラが同棲していた女性を描いた作品。この女性の圧倒的に "ふくよかな" 感じが点描で表されている。


12 Nevermore.jpg
ポール・ゴーギャン(1848-1903)
ネバーモア
Nevermore(1897)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

先にモディリアーニの裸婦をあげたが、こちらの方は正真正銘の素人モデルである。モディリアーニと対比すると、描かれた場所、モデルの人種・民族、文化的背景は全く違うが、まわりの色使いや装飾模様とタヒチアンの女性のヌードがマッチした美しい作品。Nevermore(2度とない)というタイトルと、いわくありげな鳥と2人の人物がさまざまな解釈を呼んでいる。


13 Toll Gate.jpg
アンリ・ルソー(1844-1910)
税関
Toll Gate(1890)
( site : www.artandarchitecture.org.uk )

パリの税関史だったアンリ・ルソーが自分の「職場」を描いた唯一の作品。パリ市の南門の税関を描いたという。しかし、19世紀後半とはいえ、こんな田園風景がパリに広がっていたとは思えない。プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」にも入市税を徴収する税関が出てくるが、そこは当然のことながら交通の要衝であり、人々が行き交い、近くに居酒屋・旅籠があるというシチュエーションである。

この絵には空想の風景が多分にミックスされていると考えられ、「木」や「植物」に対する画家の愛着が感じられる。アンリ・ルソーの絵は空想も含めて「緑」が多く、それはバーンズ・コレクションに多数あるルソー作品をみても一目瞭然である。




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No.152 - ワイエス・ブルー [アート]

No.150「クリスティーナの世界」No.151「松ぼっくり男爵」でアンドリュー・ワイエス(1917-2009)の絵画をとりあげましたが、その継続です。今回はアンドリュー・ワイエスの "色づかい" についてです。No.18「ブルーの世界」の続きという意味もあります。

まず「クリスティーナの世界」の画題となったオルソン家の話からはじめます。


オルソン家


No.150「クリスティーナの世界」で描かれたクリスティーナ・オルソンは、1歳年下の弟・アルヴァロとともにオルソン・ハウスと呼ばれた家に住んでいました。その家はアメリカ東海岸の最北部、メイン州のクッシングにあるワイエス家の別荘の近くです。オルソン家とアンドリュー・ワイエスの出会いを、福島県立美術館・学芸員の荒木康子氏が書いています。


1939年の夏のある日、メイン州クッシングの夏の家にいたアンドリュー・ワイエスは、ジェイムズという男を訪ねることにした。まだ会ったことのない男だったが、ジェイムズの友人が、デビューしたてのワイエスの絵を一枚買ったという話を人づてに聞き、どういうわけかその日、訪ねてみようという気になったのだった。あいにく彼は外出中で、かわりに娘のベッツィがワイエスを出迎えた。ベッツィとワイエスはすぐに打ち解け、一緒にドライブに出ることになった。彼女は、いいとことがあるといって、一本道の行き止まりにある古い質素な家にワイエスを案内した。そこにはクリスティーナ・オルソンと弟のアルヴァロが住んでいた。

こうして22歳になったばかりのワイエスは、後に妻になるベッツィ、彼の多くの作品にインスピレーションを与えたオルソン家の人々に出会う。そしてその後、ほとんど毎夏のようにベッツィと共にオルソン家を訪ね、その一部屋をアトリエとして使いながら、彼らや彼らを取り巻くさまざまなものを間近で見つめ、描き続けることになる。結局クリスティーナが亡くなる1968年まで彼らとの親しい関係は続き、約30年という長い時間の堆積あとに多くの作品が残された。これらは後に、オルソン・シリーズと呼ばれるようになる。

荒木康子
「ワイエスとオルソン家の人々」

アンドリュー・ワイエス水彩素描展
(2000-2001)の図録より

アンドリュー・ワイエスにとって、妻・ベッツィとの出会いが、すなわちオルソン家との出会いだったわけです。ワイエスの "オルソン・シリーズ" の中の、オルソン・ハウスを描いたテンペラ画と水彩画をあげてみます。

  なお、以下に掲げる絵で、引用元を明示しなかったものは日本で開催された以下の3つの展覧会、
アンドリュー・ワイエス展(1995)
アンドリュー・ワイエス水彩素描展(2000-2001)
アンドリュー・ワイエス展(2008-2009)
の図録よりの引用です。また、所蔵美術館を明示していない絵は個人蔵の絵です。


Wyeth 01 さらされた場所.jpg
さらされた場所
- Weatherside -
1965(48歳)。テンペラ

Wyeth 02 オルソン・ハウス.jpg
オルソンの家
- Olson House -
1966(49歳)。水彩
(丸沼芸術の森・所蔵)

ちなみに上の絵の「Weatherside」とは「風上側」という意味ですね。建物などの "風が吹き付ける側" を言います。長い年月のあいだ風雨にさらされ、切妻の板が古びて変色した感じがリアルに表現されています。

この2枚の絵の「色づかい」に着目すると、目立つのは明度・彩度の異なるさまざまな黄色・茶色・褐色系統の色、白と灰色から黒の無彩色です。このような色づかいは上の2枚だけでなく、ワイエスの絵におびただしく現れます。これらの色に No.151 の「松ぼっくり男爵」でも使われた緑(特に、濃い緑)を加えたのが、ワイエスの典型的な色づかいだと言えるでしょう。これを「ワイエス・カラー」と呼ぶことにします。つまり、

  ワイエス・カラー
さまざまな色調の黄色/茶色/褐色系統の色
白/灰色/黒の無彩色
緑色(特に濃い緑)

です。もちろんプロの画家としては、これ以外の色を混ぜたり、重ねたり、下地に塗ったりするわけです。No.151「松ぼっくり男爵」で引用したワイエスの "自作解説" では「松の木の赤錆たような感じを出すために下地に赤を塗り、その上に緑を塗った」とありました。

そしてワイエスの絵には「ワイエス・カラー」に、それとは異質な色を組み合わせたものがいろいろあります。たとえば No.150の「クリスティーナの世界」では、クリスティーナのドレスの淡いピンク色が実に効果的に使われていました。この絵の大きな魅力はドレスのピンク色だといってもいいでしょう。

その「異質な色との組み合わせ」の一つとして、ワイエス・カラーの中に一部分だけ「青」を特徴的に使った絵があります。それは、数は多くはないけれど「ワイエス・ブルー」と呼んでいいほど強い印象を受ける「青」です。以下、そのワイエス・ブルーの絵画を何点か取り上げてみます。

 アルヴァロとクリスティーナ 

ワイエスの "オルソン・シリーズ" の絵に『アルヴァロとクリスティーナ』という、ズバリの題が付けられた絵があります。

Wyeth 03 アルヴァロとクリスティーナ.jpg
アルヴァロとクリスティーナ
- Alvaro and Christina -
1968(51歳)。水彩
(ファーンズワース美術館・所蔵)

『アルヴァロとクリスティーナ』という題ですが、この絵にはアルヴァロもクリスティーナも描かれていません。この絵についてワイエスは、メトロポリタン美術館・館長のトーマス・ホーヴィングのインタビューに答えて、次のように語っています。


私はこれをオルソン家をめぐる様々なものの肖像として考えた。クリスティーナ、そして弟のアルヴァロの二人とも、亡くなってしまったあとの夏に描いたものだ。彼らの家に行ってみた。バスケットやバケツ、犬がつけた不思議な引っかき傷のある美しい青い扉といった部屋のものが、この姉弟のことを唐突に現しているようだった。彼らは死んでしまったが、それでもなお、力強くそこにいたのである。

(アンドリュー・ワイエス)

「アンドリュー・ワイエス展 1995」図録より引用

つまり『アルヴァロとクリスティーナ』と題するこの絵は、アルヴァロとクリスティーナが亡くなってから描かれたわけです。この絵でひときわ目立つのが青いドアです。このドアが青く塗られている理由について、美術史家の岡部幹彦氏(元・福島県立美術館学芸員、元・文化庁文化財部)が「ワイエス水彩素描展」の図録に次の主旨の解説を書いていました。


クリスティーナとアルヴァロの父は、スウェーデンの船乗りであるヨハン・オラウソンといい、1890年にこの地にやってきた。そして名前を英語風にジョン・オルソンとし、1892年に地元の娘、ケイト・ホーソーンと結婚した。ケイトの父も船乗りであった。ジョンは船乗りをやめてオルソン・ハウスで農場に専心する。このジョンとケイトが、クリスティーナ(1893年生)とアルヴァロ(1894生)の両親である。つまり、クリスティーナとアルヴァロは船乗りの家系に生まれた姉弟である。

オルソン・ハウスの物置のドアや計量器、箱などの多くのものが青いペイントで塗られていた。これを塗ったのはジョン・オルソンである。その理由は「陸にあがった船乗りは、いつになっても視界に海の青を欲しがる」からだ。クリスティーナとアルヴァロにとってこの青は父親の姿、そして父と海の結びつきを示すものであり、船乗りの家系を示すものでもあった。

岡部幹彦氏の解説(要旨)
「アンドリュー・ワイエス水彩素描展」
(2000-2001)の図録より